思い付きで書いた作品。
こんな世界に迷い込みたい。特に続けるつもりはない

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月下美人

 その男は仕事も終わって一安心していた。

 仕事終わりの倦怠感を引き摺って電車に乗り込み、うつらうつらしながらもなんとか家路についた。歩くことさえもだるく面倒だったが、なんとか我慢して家の扉を開いた。

 酒を飲む気分ではなかった。寝てしまいたい。趣味の小説執筆も断念するしかない。もうじき日付が変わってしまうのだから、素早く寝なくては、翌日に支障をきたす。

 男はスーツを脱ぐと、しょぼつく目を擦り、シャワーを浴びて下着一用となると、汗ばむ体の欲求に従って水分を摂取して、クーラーをつけた。ごうごうと冷気が噴き出し始める。布団一枚をお腹にかけると、むくんだ足の不快感をほぐそうと、敷布団の下に余った布団をねじ込んで即席の足置き場にした。

 ここですぐに寝てしまってもいいし、起きていてもいい。第三の選択肢を取るのも、判断次第である。

 だが、やはり、欲求には勝てずに、瞼が落ちてしまう。

 眠りは覚醒状態からスイッチが入るように切り替わる代物ではない。言うならば沈下である。一定の深度まで沈めば睡眠となる。

 男の意識は急激に薄れていった。

 その眠りは翌日の仕事へのストレスと緊張で浅く質の悪いものだった。

 意識が薄れ、微睡に包まれる。眠りとは圧迫感である。母親が子供を抱くような、優しくも儚い圧力である。

 意識がそのままに固定されて自己を見つめる意識だけが残存した。眠りながらも、眠っていない自分を発見する。口は動かず、目も動かない。否、もしくは、既に眠ってしまっているのかもしれなかった。

 彼は不思議な睡眠もあるものだと思いつつも、なかなか寝付けないことにいらだちを感じていた。早く寝なくては。焦りが覚醒を手招きすることなど承知していたが、拭えない。

 ―――時間の感覚が消えた。

 どこかで音が鳴っているのはわかる。秒針だ。デジタル式はなんとなく好めなかったので、アナログ式のを壁にかけておいた、それの音がする。

 カチ、カチ、カチ、カチ。

 音だけが鼓膜に残り、目の裏を見つめる視線がまるでカメラのファインダーが開きっぱなしになったかのように映り続けている。

 寝ているのか、起きているのかが分からない。

 ふと気が付くと、体が動かなかった。肢体に、指に、鉛の重石が括り付けられてしまったようだ。金縛りだろうか。人生において数回は経験していたので、慌てなかった。そしてそれが科学的な現象であることも承知していた。

 ところが、不思議なことに、秒針の音が消えた。

 代わりに、畳を踏みしめる何者かの音がする。

 泥棒か? 強盗か? いずれにせよ、反応するかしないか、判断しなくてはならなかった。

 だが動けない。動けないことが焦りと緊張を呼んだ。

 ふわり。

 なにかとても甘い香りが鼻腔を満たした。言うならば桜並木の香り。木のかすかな香り。

 ―――鈴の音。

 男の意識は、とうとう急激に落ちていった。

 ただ気がかりだったのは、何者かが見下ろしてきていたような気がする点だった。

 暗転。

 

 

 

 

 「……ここは?」

 

 目を開くと、そこは異世界だった。

 男が眠っていたのは飾りげの無い天幕のついたベッドだった。模様も、こった様式も無い、まっさらな白いベッド。無臭。手に触れてみれば自宅で使用しているシーツなどとは比べ物にならない摩擦係数の低さであるが、どこかしっとりと水分を帯びているようだった。べたつかず、引っかからず、涼しげな白い生地。

 男は己の異変に気が付いた。服が変わっているのだ。安物のパンツとシャツではなく、和風な甚平を羽織っていた。こちらは薄い群青色であった。

 場所も、服も、違う。

 一体全体何が起こってしまったのだろうか。男は警戒心を隠そうともせずに天幕を手で除けて潜ると、驚くべき光景を目にしたのであった。

 満点の星空。排気ガスと都市の光放射で汚された空とは異なる、自然のままの世界。黒のキャンパスに色とりどりの宝石を撒いたような、絶景。白もあれば赤もある。一つ一つを個々として認識できないほど小さい光が寄り集まった天の川まである。

 さらには、普通よりも遥かに巨大な満月がぽっかりと浮かんでいた。ただの球体の星

 冬の風のように肌に辛く当たる風でもなければ、不快な湿気を孕んだ熱帯夜の風でもない、程よく涼しい爽やかな風が巻き起こり、にわかに渦を巻くと男の髪や服を弄んだ。

 思わず目を瞑る。開くと、やはり美しき大宇宙が空一面に存在していた。

 そこで男は、その場所が丘のような地点の麓であり、頂上には大きく枝を広げた木が直立しているのを理解した。木の根元には傘が広がっており、茶屋の前にでもありそうな木製の椅子が置かれている。

 さく、さく。雑草を踏みしめ、歩く。

 コンクリートジャングルの舗装道では鳴りえない小気味いい音がする。

 

 「誰かいるのか?」

 

 椅子には、何者かが腰かけていた。

 男は怪訝な表情を浮かべると、丘を登って行った。靴まで変わっていた。下駄だ。夏祭り以来の久しい履物。

 丘の頂上までは雑草もなく、小石を敷き詰めて作った小道があったので、苦労もせずに登坂できた。

 木の根元。

 そこには、紫色の着物姿が優雅に椅子に腰かけていた。

 人物は己の肩を手で撫でつつ、顔の半分だけが見える位置まで振り返った。

 

 「はぁ、そんなところに突っ立っていないでお坐りなさいや」

 「質問をしたいのだが」

 「君の質問はようくご存じさ。なぜ、なぜって、質問攻めにしたいのでしょうけども、とにかく腰かけんことには始まらないのよ。はよう、お坐り」

 

 深みのある滑らかな声が空間を揺らす。やや言葉遣いやイントネーションがおかしい。訛っている、のだろうか。それにしては聞き覚えの無いしゃべり方だった。

 人物は男の問いかけを軽くあしらい、椅子の隣を叩く。

 男は見た。まるで浮世絵の登場人物のような和風の格好の女性を。

 暗い紫の布地に白と明るめの紫で菖蒲をあしらった着物を着こなし、腰よりも長い鴉の濡羽色の髪の毛を自然に流しており、頭には桜をモチーフにした髪飾りが付いている。暗色系の衣服に身を纏いながらも、男は、女の全身から匂い立つような力を感じた。数千年の時を過ごしてきた大木を前にした威圧感にも似た力場に背中に鳥肌が立つ。

 男は、己が拉致された理由を問いかけようと、心のどこかに警戒心を置いたまま、ゆっくりと腰を下ろした。

 女の相貌が目に映る。明瞭な光などないため、すべては星明りだ。

 細めの瞳。目じりは柔和に垂れ、発する圧力とは裏腹に女神像が醸し出す優しさがある。瞳の色は黒く、顔立ちもアジア系のようだったが、肌の白さは絹であった。美を求めて徹底的に研磨したのではと疑いをかけても不思議はないほど滑らかな肌は、少女のようなみずみずしさを湛えている。今まさに、表面張力で零れてしまいそうに。唇はふっくらと形がよく、微笑が示されていた。眉もまた笑みを作っていた。真ん中あたりで分かたれた前髪の生え際には若さが宿っている。

 男は、顎の線から、鎖骨、そして下の下まで舐め回すように観察したい欲望をぐっとこらえ、まずは問いかけをしようとした。

 聞きたいことが山ほどあったのだ。

 鼻の下を伸ばしている暇はない。

 

 「あんたが誰かは知らないが、ここはどこなんだ? 場合によっちゃ警察沙汰だ」

 「ふむう、なぜ拉致ったと聞きたいの」

 

 妙に現代な言い回しだな、と男は脳裏に一文を浮かべたが、すぐに否定した。現代も昔も何も、今は今だからである。常識の物差しで測るならば、彼女も現代人なのだから、現代的な言い回しをしても不思議はない。

腕を組み、肯定する。

 

 「まぁそんなところだ」

 「暇だったのよ。だからつい拉致ってしまって」

 「は?」

 「まあまあ、落ち着きなさいな。事情はきちんとお話するつもり。一から説明して納得させるから、逃げようなんて思わないほうがお互いにお得よ」

 

 暇だから拉致してもいいなどという理屈があるとは思いもよらず。

男が唖然としていると、女がおもむろに手を掲げた。

 

 「暗くちゃあいけないわ」

 

 刹那、まるで見えない糸を引っ張ったかのように丘にたつ木になっていた実が一斉に発行し始めた。あまりの自然さ、当たり前に行われた不可思議現象に、男は木にLEDが仕込まれているのかと勘繰ったが、サクランボ大の実があるだけで、電子器具の類が見られなかった。ルシフェリン・ルシフェラーゼの反応つまり蛍のようなものもあれば、白熱電球そっくりのもの、太陽のそれ、星の輝きなど、例えるならばカーニバルの出し物から光だけを抽出して固体化して木に飾り付けたようだった。

 木が――実が発する光が幾重にも混じり、交差して、ぼんやりと周囲を照らす。星明りと月明かりそして実の光幕で視界の闇が薄れた。

 雑草の細長い葉と地面の隙間に影が落ちる。

 おれは夢を見ているのだろうか。

 男は疑いを抱いた。まるでファンタジーの世界に迷い込んだかのようだったからだ。

 男の疑惑を見透かしたか、女がころころと喉を鳴らして笑った。

 

 「いかにもファンタジーですのよ。正確には夢だけれども」

 「ああ、なんだこれは夢なのか。なら仕方がない」

 

 夢ならば拉致られても仕方がない。納得して拳をぽむと打つと、夜空に目をやった。プラネタリウムなど目も無い幻想が視界を占領した。

 男はかつて見た夢で屋上から自ら飛び降りて着地するという滑稽な場面を演じたことがあったので、理解できた。夢ならば何が起こっても不思議ではないからだ。

 だがその予想は女によって裏切られた。

 女はどこからともなく一升瓶とコップ二杯を取り出し、並々と注いで男に手渡した。

 ぷんと甘い香りが漂ったが、それは就寝前に嗅いだ匂いとは異なっていた。

 

 「夢といえば夢だけれども……正確には君の夢に我が手を加えて世界を見せているのが正解よね」

 「つまり?」

 「これは夢じゃなく、夢のなかで別の夢を見せているということ。我は暇なの。だからたまにこうやって人に夢を見せてあげてる」

 「だがこれも夢かもしれない」

 「夢の中で夢を証明する術はないわ。ともあれ、楽しまないかしらん」

 

 男はフムと唸ると、こんもりと酒の盛られた容器に目を落とした。

 

 「お飲みなさい」

 「……いただきます」

 「あ、お水もあるからお好みで割ってくださる」

 「ありがたい」

 

 夢を夢と証明する術はない。逆に言えば、現在進行形で現実世界なのかもしれないではないか。そうなると明日の仕事はどうなるのだと突っ込まずにはいられなかったが、風景と言い、女と言い、すべてが浮世離れどころか現世離れしている。夢と断言できないが、夢にしては非現実的である。夢ならば酒をいくら飲んでもいいだろう。

 男は考えることの煩わしさを振り払わんと、まず一口つけた。甘い。柑橘系ともなんともつかない酸味のある酒だった。色が透明であたかもウオツカや日本酒を思わせる見た目だが、味が大きく異なっていた。アルコールが強すぎる。女が手渡してきた水差しを傾けて薄めて飲む。

 酒を飲み始めた男をしり目に、女も飲む。ただし男とは違い水でも飲み干すような勢いで一気に空にすると、一升瓶からとくとくと注いであっという間に空にする。嚥下したことで凹凸のほぼ無い喉仏が震えた。

 美しい人だ。男はそのような感想を持った。

 見惚れた。ただし、彫像の造形美などに目を奪われるような、芸術に対するものの見方に近似していた。

 女が言った。

 

 「たーだ飲むのもつまらないから、おつまみもどうぞ」

 

 そしておもむろに袖に手を突っ込むと、つまみを出した。皿ごと。

 まるで空間の奥行や体積を無視した量の大皿がヌッとあらわれるや、ゴトッと重苦しい音を立てて椅子の上に置かれる。見慣れた塩気の強いつまみ。揚げ物。お菓子。干し魚。およそ男の想像する通りのおつまみをみっちり詰め込んだ大皿が、あろうことか、袖から出てきた。男の驚きは筆舌し難い。

 男は、恋人がある夜包丁を研ぎ始めたのを垣間見てしまったかのような気持ちで、人差し指で皿を示した。

 

 「一応、尋ねる。どこから出した」

 「袖」

 「いや、そうではなくて」

 「服の下?」

 「疑問形はやめてくれないか」

 

 女は男の反応を楽しむかのようにつまみを口に放り込み、酒を呷った。見惚れるような飲みっぷりだった。

男は気を取り直すと、夢だからなと冷静さを取り戻し、堂々たる態度でつまみへと手を伸ばした。揚げ物を取り、咀嚼する。つい先ほどあげたとしか思えぬ熱と渇きそして香ばしい油分が口内に広がる。酒を一口。素晴らしき喉ゴシ。人生万歳。

 ふぅとため息を吐けば、つんと鼻を通るアルコールの匂いがした。

 女はあっという間に器を空けると、とくとくと一升瓶から次の分を注ぎ始めた。

 男は自分よりもペース配分の早い女を見つめ、口を開いた。

 

 「暇と言ったな」

 「そうよ。暇だからこうしてたまに人を呼んで飲み会するの」

 「俺のようなサラリーマンを呼んで楽しいのか。もっとこう話のタネを持ってそうな連中の夢に夢を……? いや呼べる? ……呼べるんじゃないのか」

 「むしろ、平凡な人間のほうが楽しいものよ。以前、中世の騎士さんを呼んだら悪魔呼ばわりで酷かった。どこぞの英雄さんを呼んだら俺の女になれってうるさくてお話になりゃあしないもの」

 

 そして女は、ほら我って美人じゃない? と続けると、男の器に酒を注いだ。

 男はあきれた顔で受けた。

 

 「自分で美人って言ってて虚しくないか」

 「全然? 事実よん」

 

 女は、おもむろに月を見上げると、男の名を問うた。

 

 「俺か? 名前も肩書も平凡だぞ。名は――」

 

 男の名前は日本人の名に対する概念にのっとった平凡な名前であった。シンプルな名前であり、印象に残らないかもしれない、そんな。

 逆に、男が聞き返した。

 

 「なら、えー………お姉さんの名前は」

 「……君のような男にお姉さんと呼ばれるとむず痒いね!」

 

 なぜか生き生きと女が声を張り上げた。

 男は言い直すために瞬時に口を閉ざし、また開く。

 

 「おばあ」

 「お姉さんと呼ぶこと」

 「で、お姉さんの名前は?」

 

 いい加減ヤケクソ気味に男が改めて質問をすると、女はふっくらと血の通った唇に指先を触れさせて、腕を組んだ。はたから見ていても明らかに悩んでいた。ウーンと喉を唸らせ視線を彷徨わせる。

 それから女は空で輝く銀月を指さした。

 

 「――月下。名は月下」

 「おい、今考えただろ」

 「本当よう。私の名前は月下よ月下」

 「嘘くさい」

 

 お天道様の代わりに月があるから月下という名前なのだ。

 女の主張はどうも嘘の要素を孕んでいるようで、突っ込みどころ満載であった。さっそく問いを投げるもやすやすと受け流される。

 女は受け流しは受け流しでも流し目で男を見遣ると、器の中身を吸うことで誤魔化した。

 

 「昔は名を持っていたような気もするけども、今は忘れてしまったよ。だからたった今つけてみた」

 「月下さん」

 「月下と呼んでくれるとうれしい」

 「月下」

 「は、恥ずかしい」

 

 しれっと表情を変えずに頬を手のひらで包む月下に、男は白い眼を投げつけた。

 酒はすすんだ。酒のうまさが土台にあったのは言うまでもないが、男のごくごく普通の半生が月下には興味深く一冊の小説のように感じられるらしく、名の由来や、両親、勉学について、友人、祖母祖父との別れなど、とにかく何でも知りたがった。

 話が初恋の人に及んだ時に、月下は身を乗り出した。酒をカパカパ飲んでも意に介さずといった風体であったというのに、話が色恋に差し掛かるや否や頬を種に染めて、目を輝かせた。

 可愛いよりも妖艶なという表現がよく似合う彼女が上半身をもたれかけるようにして距離を詰めてくると、頭がアルコール以外の要因でクラクラとする。

 男はさりげなく身を逸らすと、酒の甘味で舌を濡らした。

 

 「それで?」

 「それだけ」

 

 キスをしようとしてできなかったこと。やり方がわからなかったこと。

 甘くアダルティな雰囲気に突入しても、二人して行動に移さなかったこと。

 結局自然消滅してしまったこと。

 恋人にもなれず。愛も伝えられず。一歩を踏み出そうとして足踏みし続けそして燃え尽きた短い夢の話。

 男が短く締めくくった。現実は夢の中のように上手くいかない。ハッピーエンドバッドエンドも無く忘れていくだけのイベントだって無数に存在するのだ。選択肢がそもそも用意されていないことなどざらである。

 月下は大げさに首を振ると器の中を一息で飲み込んだ。

 

 「よくって? オンナノコは優柔不断は嫌いなのよ。ましてやることやんなかったなんて」

 「一応聞いておくが年齢は。オンナノコって歳に見えない」

 「ほほー、女性の歳を聞くなんて。……たしか………えー300から先は数えてないのよね。そういうこと」

 「どんなだ」

 

 男は、あきれた顔で酒を啜った。甘すぎず苦すぎず、アルコール特有の鼻と喉を痛みつけるそれを。飲んだことの無い酒ではあるが、とにかく美味であった。サクサクと触感が楽しい串揚げをほうばる。

 

 「さておき、会いたくはなあい?」

 

 月下は突然話題を振った。要領を得ない言葉に男は首をかしげた。女は飄々としてつかみどころのない人物ではあるが、日本語(と言っても果たして言語という概念で意思疎通しているかさえ不明である)が通じる相手である。主語の抜けた問いかけとあっては疑問符を浮かべざるを得ない。

 月下が笑みを面に行き渡らせた。いわば、聖母のような、である。ただし聖母は聖母でも戦場に降り立った鴉のような気配を湛えていた。

 男は唇を一舐めすると、腕を組んだ。

 

 「誰と?」

 「私と」

 

 男は腰を抜かした。器を取り落とし、無駄に破損させるところであった。

 瞬きした刹那、女の姿はとうに消えていた。そこにいたのは昔、恋仲であった女性その人だったのだから。

 いまどき珍しい丸メガネ。これでもレンズは紫外線カットもできるのよとえらくまじめに語っていたのが記憶に残っていた。

 柔和な瞳。線の細い顔の線。ぱっと絹を垂らしたような、麗らかな黒い髪は後頭部纏め。

 懐かしき女性が、月下の着物を纏いてそこにいた。

 飼いならされた鯉が餌を求めるように間抜けにも口の開閉を繰り返していると、彼女は手を蝶のように使い挨拶をしたのであった。

 

 「はろー、元気にしてた?」

 「………ミヤちゃん」

 

 男の驚きと言ったら驚天動地であった。狸に化かされたという言葉がふさわしい。おまけに化けのワザは現在進行形なのである。

 夢幻の類には到底ありえないリアリティをもったヒトガタが目の前にいて、おまけにそれはかつて恋した女の子。さらに言えば、当時のままの姿などではなくて、相応に成長して女の子から一人の女性となった姿なのである。

 ―――手足が長くなったな。

 男は半ば現実逃避気味に、そのようなことを思った。

 酔いどれの肉体というフィルタを通して拝む彼女のさまは感傷を呼び起こさせた。記憶が蘇る。脳細胞のパルスが高速で交互作用しては蓄積されたデータを出力する。視界というモニターに淡い色の映像がちらつく。

昔のことだ。甘く口づけて、緩く抱き合った記憶。今は無きロマンス。過ぎ去った記憶という曖昧さに脚色されてもなお、鮮明である、物語の一欠けら。

 男は、眼前の女性を前に、委縮した。怯えと言ってもいい。

 

 「ミヤちゃん……なの、か? それとも月下の作った幻覚か」

 「んー」

 

 ミヤちゃんなる女性は、目を瞑り頬に空気を溜めると、男の額に指を這わせた。ぴとり。指が額を捉える。そして自分の額にも指を置くと、喉を震わした。

 

 「どう思う? 私もびっくりしちゃってさ。着物のお姉さんが枕元に立ってるんだもん。お前の知ってるやつがいるから来ないかって誘われて……なーんてお話をしても、信じるだけの証拠にはならない。証明はできないけれど、私は私だよ。それに私からしたら、君がここにいることが夢なの」

 「確かに。ミヤちゃんからは俺が偽物……というより、夢の人物に見えると?」

 「うん、そんなところ」

 「参った。俺も証明する手段がない」

 

 二人は顔を見合わせると、さりげなく器を取り、乾杯した。

 チリン、涼しい音色。

 

 「でも俺は夢でもいいかなって思う」

 「私も。現実だったら、辛いもの」

 「乾杯」

 「乾杯」

 

 男は、相手の顔を直視できなかったので、丘から外部を見下ろした。平原、もとい草むらが永遠と続いているのだが、その光景たるや光の絨毯であった。草むらが毛皮ならば、光の粒子を霧吹きで吹きかけたように、あたり一面見渡す限りに光があった。それは蛍であり、ぼんやりと発光する蝶の群れであった。蛍が草むらを舐めるように飛んで、思い思いの場所に落ち着くと、光っては暗くなるを繰り返し、あたかも光の波のようになる。蝶が翅を開いては閉じてを繰り返せば、光はさざ波となりて草むらを彩った。草と地面の僅かな空間に生まれる陰影は、月明かりだけではなく虫明かりによってより複雑な構造を持っていた。

 そこは、まさに幻想郷であった。色とりどりの光る実のなる木の下で、虫たちが乱舞する草原を観覧しつつ、酒を飲みかわす。空には煎餅のようなお月様。星は飴玉のよう。

 だがしかし、光源が無数に主張している場においても、暗闇はなお健在である。光がなければ暗闇は生命さえ許されないのならば、光さえあれば暗闇は輝くのである。月が、星が、光があれば、ここぞとばかりに隙間や隅などに闇が息づき、呼吸している。

 白黒のコントラストが描き出すほつれの無い淡い光が、彼女の顔立ちを際立たせる。凛としていながら優しげな顔立ち。

 男は、いつしか見入っていた。彼女の顔に。

 彼女は彼女で男を見ず風景に取り込まれていた。丸眼鏡のレンズに光が反射している。

 男は酒を注いだ。彼女の器にも足してやろうと、肩を叩く。細く華奢な作りの肩である。着物から覗く首筋がやけに白く目立っていた。

 

 「ありがとう……おいしいね。なんてお酒?」

 「さぁ? 飲んだことも無い。果物系の味がするけど……」

 「ふーん。ま、いいや。おいしいから」

 

 と、あっけからんと彼女は答え、摘まみを口に放り込んだ。既に皿に盛られたツマミの分量は半分を切っていたが、一方で一升瓶の中身は減っていなかった。

 男はふと聖書の一文を思い出していた。曰く、ワインはなくならず場にいる全員に配ることができたという。どう考えても不足しているはずのワイン瓶の中身は、あろうことか分量以上のワインを蓄えていたそうな。

 首を軽く振ると、油で揚げた魚を取り、食べる。酒を飲む。絶妙のコンビネーション。

 微酔から陶酔にまで酒が回ってきた男は、後から飲み始めた彼女の様子をボーっと見つめ始めた。酒のせいか、頭蓋骨の安定が悪い。平衡感覚が温くなったためだろうか。

 彼女が、器の淵から唇を離し、緩やかに振り向いた。

 

 「ねぇ」

 「ん?」

 「私のこと、どう思ってる?」

 「好きだよ」

 

 男はあっさり白状した。もとい、告白した。というよりも適切なのは、確認のための言葉である。

 相手は驚きもしなかったが、目を下弦の三日月のように優しい形に変えた。

 

 「うん私も好きだよ。でも、ね」

 「………今はね」

 

 奇妙な沈黙が続いた。

 二人は気まずそうに顔を逸らして、酒を飲む。ツマミもほとんどなくなっていた。

 男の主観時間では永遠に感じられた。次の言葉がポンポンと出てきた月下とは違い、かつて愛した女性がいるとなれば、仕方も無い。夢なのか、現実なのかの確証が持てない以上、下手に言葉をぶつけることは、憚られた。

 どこかで鈴虫が鳴いている。身格好は夏のそれだというのに。涼しくも、物悲しい恋の歌が、草木を舐めるように流れる風にのって、耳に届く。

 男は、横を向いた。

 

 「―――っ」

 

 彼女の顔が一面に広がっていた。

 次の瞬間、場の空気は一変した。その顔はまるで風景が歪むかのように掻き消え、月下がいたのだから。確かに月下は美人だが、男の趣味に合致するとは言い難い。絵画の中の人物は美しいが恋など成立しないのと同じである。

 月下の顔は、近所のオバさんが意地汚い話をしている時の顔そっくりであった。

 男はむすっと唇を閉じると、酒を呷った。

 

 「んふふふふぅ………楽しい時間は過ごせたかしらん」

 「ああ、最高の時間だったよ、まったく」

 

 月下が手を打った。すると、次の瞬間には男の酒もツマミも一切合財が消滅しており、名残りさえなかった。

 まるで魔法みたいだな、男は思った。

 すると、瞬きをするうちにどんどんと強烈な眠気が襲ってきた。粘りのある、意識と意識の隙間に入り込むような、ねっとりとした眠気である。それは重力と同じく、意識という塊を下へ下へと引っ張っているのであった。

 男は自由の利かなくなった体の原因が眼前の女にあると察して、目で訊ねた。

 月下は腿を軽く払うと、着物の裾を押さえて腰を上げた。

 

 「そ、おしまい。物事にはすべて始まりと終わりがある。あなたが寝たのが始まりなら、起きるのは終わりなの。夢って、そんなものでしょう」

 「…………あっけ…………ない……な」

 「夢だもの。おやすみ……いえ、おはよう」

 

 

 

 ふと気が付くと、朝だった。

 男は夜布団に入った時とは逆の姿勢で敷布団の上に居た。つまり足が枕側である。あべこべな体勢よりも前に、つい今しがたの記憶が気になった。嫌というほどに鮮明に思い出せる光景。美しい幻燈の中に見た女性の姿。酒。

 夢というよりも、麻酔か何かをかがされて、異世界に連れていかれたようなリアリティがあった。夢というものは、夏場の氷のようなもので、跡形もなくなるのがほとんどである。だというのに、現実で体験したかのように覚えている。

 狐に化かされたというのは、このような体験を指すのだろうか? 男は、枕元のスマートフォンを取った。時間は目覚ましがなる直前だった。ぎゃんぎゃん合唱されてはうるさいので設定を弄っておく。

 上半身を起こし、顔を擦る。草原の風が肌に残留しているようだった。

 布団を横に除け、窓に寄って外を見遣る。朝方。鳥たちがやかましく縄張り争いをしている。町は既に目覚めだしていた。

 男は、乾いた口内を濡らすべく冷蔵庫からペットボトルを取ると、一口飲んだ。

 そして、畳の上にどっかり腰を下ろす。

 

 「…………夢か」

 

 あれは、夢だった。男はそう判断した。もやもやした気持ちを引き摺ったまま日々を過ごすことは精神的にも悪い。

 だけど。男は思う。

 

 「電話してみるか」

 

 こんな切っ掛けがあってもいい。

 次の休日にでも連絡が取れるかを試してみよう。

 何はともあれ、男はシャワーでも浴びようと腰を上げたのであった。さぁ、仕事だ。

 



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