その日の夜も八幡はいつものように働く。
月明かりすら照らせないような闇夜の中で彼は思うがままに全力を出し、対象を殺していく。手に持つ2本の刃を持って、殺すべき敵に確実な死をもたらす。
人が誰しも忌避するであろう行為をしている最中、彼の心は恐怖もなく興奮もなく、ただ静かに落ち着いていた。まるで波紋一つ浮かばない湖畔のように、その心は一切揺らぐことなく目的を果たすために動くのみ。
だが、少しだけ八幡はこの時間が好きであった。別に殺しが好きというわけでもないし、殺し合いのスリルに興奮を感じているわけでもない。彼にとってこれらはすべて『仕事』なのだ。するべき事であり必要な事。だからそういった感情など湧かない。
では何か好きなのか?
それは…………………。
八幡はこの時間の度に毎度面倒だと感じる。
何が面倒なのかと聞かれれば、それはすべてだと感じるだろう。教師に命じられ走ることが面倒なのではない。別に仲が良くもないクラスメイトと一緒に競技に参加することだって面倒とは言えない。
彼が面倒だと思うこと、それは……………。
能力をセーブすること。
同年代の人間とはそもそもの鍛え方からして違う八幡では、普通に走ろうとしただけでそれこそ陸上選手並みの速さを叩きだしてしまう。野球ボールを投げれば野球部だって驚くくらいの速度で玉を投げてしまうし、飛べば幅跳び選手だって真っ青な記録を叩きだしてしまう。
別に八幡が天才だとかいうことではない。
彼の身体は幼少期から極限まで鍛え上げられてきた産物だ。生き残るため、相手を殺すため、己が存在理由をなすため、そのために生死が犇めく戦場を歩いてきた。
必要な筋肉はすべて、不必要な筋肉など何一つない。
だからこそ、彼の肉体は年齢から逸脱して完成に近づきつつある。まだ近づきつつあるだけなので、伸び白は十分にある。今後の成長が楽しみだと課長は語るらしい。
そんな肉体で彼が本気を出せばどうなるのかなど、すぐに分かるだろう。
体育の授業の範疇を飛び越えてしまい、挙句は大会に出たって優勝を余裕で狙える能力を見せてしまう。それはまさに八幡がもっとも嫌うことになる。
すなわち、『目立ってしまう』のだ。
彼の戦闘スタイルを見て分かる通り、八幡は常に気配を消して相手を襲撃する。そのスタイルの通り、目立つことは絶対にいけない。別に日常生活では問題ないと思うのが普通だが、それが嫌いでいけない事だと思っている彼は仕事熱心なのだろう。
詰まる所、八幡はこの『体育』の授業の度に、身体を満足に動かせないことへのジレンマを感じて面倒だと感じているわけである。少しでも出せばその途端に目立ってしまうから。
だから逆に言おう。彼が仕事で好きなのは『身体を全開で動かせる』ことなのだ。
動かした所で目立つこともなく、また目立ったとしても目撃者は皆二度と目を開けることはないのだから。
そんなわけで、八幡はこの時間が好きではない。
本日の授業はテニス。八幡はクラスの人間と共に外に出ると、教師の指示に従いペアに分かれるのだが、八幡のクラスの男子は奇数。必然的に誰かあぶれる。
そしてそれが誰なのかというのは勿論クラスで孤高とすら言える八幡になるわけで、八幡は教師に向かってこう言うのだ。
「奇数なので余りました。壁打ちでもしていますので」
普通ならこの発言に教師は咎めるものなのだが、八幡はここで気配をより薄れさせる。
そのため、その言葉さえ『どうでもよい』ことに聞こえてしまい、教師は気にすることなくそれを聞き流した。
ちょっとした能力の乱用だが、別に使ってはいけないとは言われてはいないので問題ない。目立たないことが一番なのだから。
そして八幡は一人で壁打ちを始める。
テンポよくボールが壁に当たっては此方へと返ってくる様子はまさに普通。本気でやったのなら、それこそボールが壁を抉るかボール自身が破裂するかのどちらかなのだから。
そんな八幡の様子を見ている者がいることに、彼は珍しく気付かなかった。
昼休みに入り八幡は教室ではなく外の小道にある階段に座りパンを齧っていた。
この学園は臨海部に接しているため、昼を境に風向きが変わる。その風が心地よく、彼はこうして時偶この場所に来るのだ。
そんな風に休憩時間を思い思いに楽しんでいる八幡に近くから声が掛かった。
「あ、ヒッキーじゃん! なんでこんな所にいるの?」
その声がした方向を向く八幡。
その瞬間彼の目に入ったのは薄ピンク色の布地。
その答えは風によって煽られた結衣のスカートの中身だった。
それにすぐ気が付いたのか結衣の顔は一気に真っ赤になり、彼女は酷く慌てた様子で八幡に問い詰めた。
「ひ、ヒッキー、見たの!」
真っ赤な顔で問い詰められた八幡は決まった返事を返すことに。
「何がだ?」
勿論見た。それはもうはっきりと、思春期の男なら誰しもが熱中するぐらいなものを。
だが、それを馬鹿正直に話す馬鹿が何処に居るだろうか。言ったところで双方とも傷付き気まずくなるだけだ。ならば答えは何も見なかったと言うことだろう。
八幡はいつもと変わらないように無表情を心がけながらそう答えた。
そんな八幡の様子にまんまと騙された結衣はほっとした様子で八幡の傍まで歩む。
「そ、それで、何でこんなところにいるの」
再度投げかけられた質問に対し、八幡は少しだけ頬を緩めつつ答える。
「ここに吹く風が涼しいから気にいってるんだよ。だから偶にここで飯食ってる」
「へぇ~、そうなんだ。あ、確かに気持ちいいかも」
八幡の傍で吹く風に当たり目を細める結衣。気持ち良さそうだ。
そこで今度は八幡が彼女に問いかける。
「それで、お前は何でここに? いつも通るような場所じゃないだろ」
八幡の質問に結衣は何やら楽しそうに答えた。
「それ! それがね~、ゆきのんとゲームしたらちょい負けしちゃって、罰ゲームってやつ」
「成程な。大方ジュースでも賭けたって所か」
「当たり~!」
結衣は楽しそうに笑いながら八幡の傍で座り込み、雪乃とあったやり取りを楽しそうに語りだした。
それを聞いて八幡は楽しそうだなと苦笑する。二人の仲の良さはかなり良好なようだ。
そんな風に結衣の話を聞く八幡。八幡から何かを話しかけることはないが、結衣の話している様子は見ていて飽きない。
そんな八幡の穏やかな表情を見たのか、結衣は顔を赤らめながら上目遣いに八幡を見つめた。
「そ、その…………こういう風に二人だけでゆっくりと話すのも……いいよね」
「そ、そうだな…」
結衣の様子に戸惑いつつも八幡は何とか返す。この手の雰囲気は少し苦手なのだ。
そして少し沈黙する二人。気まずいような、それでいてこの沈黙を心地よく感じるような、そんな感じがした。
そんな時にである。第三者からの声がかけられたのは。
「あれ?」
その声に反応する八幡と結衣。そして結衣は元気よくその相手に声をかけた。
「あれ、彩ちゃんだぁ! いよっす!」
「……よっす」
結衣に彩ちゃんと呼ばれたのは少し短めのショートヘアをした可愛らしい子だった。色白でいじらしく、恥じらい顔を赤らめていた。きっと誰もが見入ってしまう天然の可愛さと言うものだろう。
そんな彼女?は結衣と八幡に話しかけてきた。
「由比ヶ浜さんと比企谷君はここで何してるの?」
「え、いや、これは、その……」
結衣は何やら勘違いをしたらしく顔を真っ赤にして慌て始める。そんな結衣では説明は不可能だと判断し八幡が代わりに答えた。
「俺はここで昼飯。由比ヶ浜とはここであって少し話していただけだ」
「そうなんだ」
八幡の返事に普通に納得する彩ちゃん。
そんな彼女?に結衣は彼女の手に持っていた物を見ながら話しかけた。
「彩ちゃんは練習?」
「うん」
そう答える彩ちゃんの手にはテニスのラケットがあった。
その事から彼女がテニスの練習をしていたことが伺える。
「部活して昼練もして、確か体育も選択してたよねぇ、大変だね」
「うぅん、好きでやっていることだし」
そう答えると、今度は八幡の方に頬を興奮気味に赤らめつつ彼女?は話を振った。
「そう言えば比企谷君、テニス上手だね」
「そうなの?」
彩ちゃんの言葉に結衣は八幡にそう問いかけるが、八幡はそんなことはないと答える。あんなものは単なる手慰みだと。
そう言っても二人には謙虚にしか聞こえないらしい。彩ちゃんは八幡のフォームが綺麗だと褒めていた。
そこで八幡はそれなりに対応するのだが、結衣はあることが引っかかったので念の為に八幡に問いかけた。
「ねぇ、ヒッキー……彩ちゃんのこと、ちゃんと分かってる?」
先程から一切彩ちゃんの名前を言っていない八幡にもしかしたら知らないのかと思ったらしく、結衣は確かめるように問う。
そんな結衣に八幡は普通に答えた。
「知ってるよ。オレ等と同じ2年F組の戸塚 彩加。見た感じは女子にしか見えないが………れっきとした男だ」
「うん、ありがとう、比企谷君!」
どうやらちゃんと男として見て貰えたことが嬉しいらしくて微笑む彼女……ではなく彼、戸塚。しかし、その顔は誰が見ても女子の顔だった。
そんな戸塚に八幡は少しだけ確認のように問いかけた。
「所で戸塚、お前、もしかして授業の時の俺の姿を見てたのか?」
その質問に対し、彼は嬉しそうに答えた。
「うん、だってすごく綺麗なフォームだったからね」
「そうか」
少しばかり警戒してしまったが、理由が理由なだけに肩透かしを食らう八幡。
だが、同時に見込みがありそうだとも思った。
こうして八幡は材木座以外の男子と久々に学校で会話した。