少しばかり手直ししました。
誰かが言った………人は慣れる生物であると。
その言葉をそのまま捉えるというのなら、それすなわち適応力が高いという意味である。
哲学や精神論で言うのなら、その行動に際し精神的苦痛や疲労が軽減されそれらを苦に思わなくなるということだ。
だが、それでもと八幡は思う。
その言葉は絶対に嘘であると。
彼は『それ』をもう5回以上経験した。
初めてした時は本当に死ぬかと思った。何度も何度も激痛にのた打ち回り、ダメージや疲労で吐いた回数など数えるのも億劫になるくらい吐いた。最初はその日の朝に食べたものが、次からは苦く酸っぱい胃液が、それも続くと挙句は血が混じったものを吐きだした。
精神的にも肉体的にも限界で、その年齢の人間が行うには明らかに過剰なものであった。
だが、それでも何とか喰らい付き、初めはほぼ死人状態に、次からは半死にに、そしてその次からは死ぬ手前に、そう、段々と適応していった。
それだけ見れば確かに慣れていっているのだろう。
だが、精神はいつまで経っても『それ』に慣れない。
何度経験し肉体が慣れてこようが、刻み込まれた恐怖は拭えない。その恐怖に負けることはないが、だからと言って克服したわけでもない。
怖い物はどう言おうが怖いのだ。
彼がそう断言する『それ』が…………今年もやってきた。
八幡は本日、珍しく会議室にいた。
いや、大抵大がかりな仕事が来た時は会議室でブリーフィングをするのだが、ここ最近そこまで大きな仕事は来ていない。
では何故普段は使わない会議室にいるのかと言えば、今彼が手に持っているものが原因だ。
それはプリント紙を束ねた資料であり、表紙にはデフォルメされたスイカやカブトムシなど夏の風物詩が描かれている。
これを小学校にでも配れば、間違いなく夏休み前日の光景が思い浮かぶだろう。
その際に子供達は皆、夏休みに胸を高鳴らせはしゃいでいることだ。
だが、この場に居るのは子供ではなく成人を過ぎた大人。そして皆の顔に出ているのは真面目な表情に隠された悲壮感。
誰もがそれを見て忌避感を持つ。本心で逃げ出したいと誰もが思うだろう。それが絶対に不可能だということが分かっていてもだ。
何故こうも皆が悲壮感を漂わせているのか? それは彼等の手にも渡っているその資料、忌み名を『夏休みのしおり』が原因だ。
それを見ながら彼等をまとめる長足る『レイス0』こと『武蔵 幻十朗』がニヤリと笑う。
「皆もこれを見て楽しみで仕方ないようだ。うんうん、やる気があって結構だよ」
そう課長が楽しげに言うが、この場に居る誰もがその言葉に文句を叩きつけたい。
絶対に楽しみなわけがないだろと、心の底から叫びたい。
基本個性が強いメンバーが多いチームだが、この時だけは皆の心が揃っていた。
そんな不満を皆が抱える中、課長は『それ』について話を始める。
聞きたくない、でも聞かなければいけない。そんなジレンマに襲われ頭痛を感じるレイス8こと比企谷 八幡。
そんな彼に同じように考えている相棒であるレイス7は小さな声で話しかける。
「またこの季節がやってきちまったな」
彼もまた八幡と同じなのだろう。
何度も経験してきた。だが、それでも慣れることはない。それ故にその表情はうんざりとしていた。
「あぁ、そうだな。これに関しては何度やっても絶対に慣れる気がしない」
「まったくだ」
相棒の言葉に同意する八幡は、彼に苦笑しつつ資料のページを軽く捲る。
中に書かれているものはびっしりと詰まったタイムスケジュール。しかし、その中に書かれている単語そのものは寧ろ少ない。
何せ要約すれば大体二つで収まるからだ。
『休憩』『演習』
その二つだけが一日のほぼすべてを支配している。
そこに本来ならば『食事』や『就寝』といったものが書かれているはずなのに、そのスケジュールには人間として大切なものが欠けていた。
初めてそれを見たのなら、その者はそれを作った者の正気を疑うだろう。
だが、皆はそれを見てもそんな風に動揺することはない。
あるのは嘆きと諦めだけである。
仮にも裏の世界に於いて有名な彼等であっても、それを前に絶望するほかない。それ程に『それ』は最悪であった。
その名を改めて皆に聞こえるよう、レイス0が発表する。
「それでは、『夏期総合野戦演習』の日程について話そうか」
それは4泊5日によるとある山全域を使った実戦形式の演習である。
外は真っ暗でありながら蒸し暑く、汗が途絶えることがなく不快感が増していく。
世間ではすっかりと夏本番に入っており、学生たちは皆夏休みへと突入していた。
だからこの季節は青春の季節と言われてもおかしくはないくらい、自由で溢れている………のだが、それはあくまでも学生の話。世間における大人、すなわち社会人に於いてはそんなものは存在せず、常にあるのは仕事のみ。
だから当然、生徒達が夏休みを満喫している中でも汗水を垂らしながら彼女は働いている。
誰もいない職員室で一人、カップメン片手に書類仕事に追われる事何日か。
その苦難の末、ついに彼女はそれを手に入れた。
いや、正確に言えばそれも仕事であり教頭に無理やり押し付けられた代物だが、長時間職員室で缶詰を何日もやらされるのに比べれば天国と言っても良い程に自由である。
「あぁ~、やっと書類仕事から離れられる!」
彼女……平塚 静は自宅にて嬉しさを噛み締めながら浮かれていた。
押し付けられた仕事は地域ボランティアの一環、小学生の林間学校のサポートスタッフである。小学生のサポートというのは面倒ではあるが、それでも自由時間は多く夏を満喫するのには十分楽しめる。
それを彼女が参加するのは勿論のこと、それ以外にも学生の中から内申を餌に募集をかけた。
とはいえそれに参加の意思を見せたのは4人。まだ人数が足りない。
そこで彼女は丁度良いと思い、自身が顧問をしている『奉仕部』に参加を要請しようと考えた。夏合宿とでも言えば楽しめるだろう。
そこで奉仕部の面々に連絡を取り、雪乃、結衣、沙希の3人の参加を取りつけることに成功した。
実はそれで既に人数は達成しているのだが、それだけではない。
彼女にとって一番参加して欲しい相手がいるのだ。
彼女は珍しくなのか、自室にある大きな姿鏡の前で何着も服を翳し自分を見て悩む。
黒く露出の多いものや、大人の雰囲気あふれるシックなもの、少し冒険して若い女向けの服や自分が普段では絶対に着ないようなものなど様々だ。
「ん~~~~……悪くはないんだが、あいつはどんな服が好きなんだろうか?」
真っ白なワンピースを身に纏い軽く周ってみながら考えるのは、一人の男のこと。
それは彼女にとって特別になりつつある存在。過去に世話になって以来、ずっと意識してしまっている。
相手は自分より下手をすれば一回り近く歳が下の男、挙句は教え子である。
世間における禁忌だが、それでもその気持ちは抑えきれない。
彼女だってそれは勿論分かってはいる。
分かってはいるのだが、だからと言って消すことは出来ず、今もそれを大切に抱えたままだ。
思い出だけなら美しいものだが、考えようによってはその禁忌も禁忌ではなく合法となる。
彼女は男のことを考え顔を桜色に染めつつ、少しニヤニヤと笑う。
「卒業してしまえば合法、卒業すれば問題なし………ふへへへ」
緩みだらしない笑みを浮かべてしまう彼女。
歳の割にそういうところが可愛らしいと言えばそうなのだが、その姿は普段の教師姿からは考えられないくらい威厳が感じられない。
そのように彼女を腑抜けにさせる男に彼女は考えさせられる。
彼とは親しい関係を築いているという自負はあるが、それはあくまでも教師と生徒。一人の女と男の間柄になるには、まだまだ接触が足らない。
とはいえ普段学校生活でそのように接触するわけにいかない。だからこそ、このイベントを機に彼にアタックをかけてより親密度を増やそうと考えた。
自慢ではないが、スタイルの良さはそこいらの女よりも上だと自負している。
身体だけの女と思われたくはないが、使える物は何でも使う所存だ。
最近彼の周りに他の女子が集まり始めたこともあって余計に焦らされることもあるが、この機会に距離を縮める事が出来れば大きなアドバンテージになる。
そう考えると途端に頭の中で妄想が始まる静。
満開の星空の下、大好きな彼と二人っきりで夜空を眺めつつ身体を拠り添わせる。
夏とはいえ山の夜は冷える。だからなのか、寒くないかと心配する彼に静は寒くないと年上なりの意地を持って答える。
だが、そんな彼女に彼はそっと身に纏っていた上着をかけた。
寒くないわけがないのだから意地をはらなくても良いと笑いかけながら。
その優しさに胸をときめかせ、そしてより身体を預ける静。その顔は嬉しさから赤くなり、段々彼の顔との距離が縮まっていき…………。
「キャーーーーー、キャーーーーーーー! そんな、大胆すぎるぞ、比企谷!! で、でもお前さえ良ければ私は!」
鏡の前で妄想に身悶えするアラサ―女。
そんな図が表されていたが、本人が幸せならそれで良いのだろう。
「下着もやはり黒がよいのだろうか? いや、それはそれで少し大胆過ぎないか? もし清純なのが好きだったらやはり白だが、それだとデザインが凝ってない物しか……急いで買いに行くもの手だな」
その先を考えて尚暴走する静。
伊達に何度も友人同僚の結婚式に参加したわけではない。既に婚期のピークに達しているのだ。これを逃せばその先は………言ってはならないくらい悲惨の一言に尽きる。
だから多少でもアダルトチックな行動も辞さないという暴走中な静は彼を悩殺すべく衣服に悩むのだが、その前にすべきことをしなくてはならない。
何せその彼の参加の有無を聞いていないのだから。
「む、いかんな。すぐ暴走しがちになり下着が濡れかける。後で思いっきり発散するとして、それより先にあいつに連絡を取らないとな」
白いワンピース姿でそう言うと、静は携帯で彼………比企谷 八幡に連絡を入れる。
しかし、通話が繋がらない。
『お掛けになった電話は現在電源が切れているか、電波の届かない所にある可能性があります』
人工的な音声が流れ、それを聞いて静は顔をしかめる。
せっかくのチャンスを活かせないなんて絶対に嫌だと、そう思いながら今度は八幡の家に電話をかけた。
八幡の自宅の連絡先に関しては学校で既に掴んでいる。だから問題なくかけることに。
そしてコールすること5回、通話が繋がった。
「あ、もしもし、総武高校の平塚と申しますが、比企谷 八幡君はいらっしゃいますでしょうか?」
丁寧な言い方がより初々しく感じ、静かは桜色に染まった頬を撫でる。
まるで交際の報告を家族にするような心境じゃないかと思い、熱くなる頬を抑えた。
そして返ってくる言葉。
『あ、はい比企谷です。えっと兄なんですけど、その……ここ数日アルバイトの実地研修で出ていていないんです』
「え…………」
その言葉を聞いた途端に静は携帯を手から落とした。
彼女の目論見が潰えた瞬間である。
「あの、なんでしたらこういうのを誘おうと思ったのですが、参加しませんか? お一人で留守番というのも危ないですし、一応彼の部活の人間も来ますから」
ただし、転んでもただで起きないのか外堀から固め始めていた。
こうして八幡が参加しないかわりに小町が参加することになった。