現在、八幡は実に気まずいと感じていた。
別に何かおかしな事をしたのではない。普通に仕事をしただけであり、問題らしい事など何も起こしてはいないはずである。顔を見られることは想定済みだが、元より目立つような顔ではない。濁り切った目は印象に残るかもしれないが、それでも気配が薄いということを考えれば直ぐに忘れてしまうので問題はない。
だが、それは…………まったく見知らない他人ならばだ
この数多くいる見物客の中で、まさか『知り合い』に会うとは誰が思おうか?
別にそれ自体はおかしなことではない。こういった大きなイベントは当然のように人が集中するのだから、当然知り合いだって来ていたって何らおかしなことはないのだ。
だが、それが八幡となっては別問題。何せ彼はボッチだ。基本的に人と関わる事をしない。ここ最近はやけに女子と関わることが多かったが、逆に言えば彼女達以外の知り合いはいないわけだ。それだけでも少数。その少数に鉢合う可能性などそれこそ砂漠の中から一粒の宝石を探し出すのに等しいだろう。
だから八幡はそこまで考えていないかった。
仮に出会う可能性はなくもないと考えていたが、まさかそれがこのような問題の最中にいるとは思わなかったのだ。
その上助けた相手が問題だ。会ったことがあるのが一回だけであり、その存在こそ知ってはいたが今はいつもと違う服装に髪型。だから気付けなかった。
そのまま助け、相手が何か言うのを待たずに消えるはずだった。
だが、呼ばれた……自分の名前を。それこそ自慢ではないがそうそうある名字ではないその名字を。
そして振り向きやっと助けた相手が知っている人物だと気付いた。
その相手は『雪ノ下 陽乃』。雪ノ下 雪乃の姉である。
「いや~、お姉さん驚いちゃった! 何で比企谷君がここにいるの? っていうかさっきのは何!? いきなり現れたよ! もしかして比企谷君って超能力者なの?」
いきなり目の前に現れた八幡に興奮気味の陽乃。
そんな彼女に八幡はどうするべきかと悩みつつも困る。
何せ…………。
「いや、あの、その前にその………近いんですが」
興奮気味の彼女は八幡の腕を掴んで迫るかのように密着しているからだ。
着物とはいえ豊満な胸が腕を挟み込み、密着することにより彼女から女性特有のやわらかな香りが鼻腔を擽り、眼前にある綺麗な顔が、その好奇心に溢れる瞳と艶やかな唇に目が奪われる。
こんな美女にここまで密着されたことなどない八幡である。例えそういったものなどないと思っていても、彼はまだ10代。色欲までは流石に抑えきれない。
いや、別に年相応に感じているわけではない。人並みに羞恥心はあるのだから。
だが、それはそれとしてこの現状に困っているのは事実。説明し辛く、何よりも精神衛生上よろしくない。
だから八幡はどうにかしようと思い、興奮気味の陽乃に話しかける。
「あの、あたっているんですけど…………」
「んぅ? あ、ごめんごめん」
八幡に言われ、今自分がどのようになっているのか気付いた陽乃は恥じらうこともなく、えへっといった様子で謝る。その様子から大人としての余裕と子供らしい茶目気を感じた。
八幡から離れた陽乃はそれでも興奮冷める様子はないらしい。彼女のような仮面を被る人物にしては珍しく、好奇心に瞳が輝いている。どうやら目の前に突然現れたかのように見えた八幡が気になって仕方ないようだ。
まぁ、そもそも急に現れるなんてふうに見えれば誰だって気にはなるだろう。それがたとえ最初からいたのだとしても、気付かなければそのよう見えてしまうのだから。
これ以上追及されるのは面倒だと判断し、八幡は彼女が言葉を言うよりも先に話しかけることにする。
「それで、どうしてあんなところであんな目に?」
「あぁ、そうだね。まずはそっちが先だった」
その言葉に陽乃はいけないけないと軽く反省しつつ、八幡の対面に立つ。
「さっきは助けてくれてありがとう」
そして綺麗に頭を下げる陽乃。
そんな彼女に八幡はそうじゃないという意思を伝えるためにも少し慌てつつ言葉をかける。
「いや、別にそんな大した事じゃないですから。だからそんな頭を下げなくても」
「でも、助けてもらったんだからちゃんとお礼はしないと…ね」
年上の余裕を見せるかのように、それでいてお姉さんっぽさを醸し出しながらそう答える陽乃に八幡は少しだけ新鮮味を感じた。
そのお礼をとりあえず受け取ることにした八幡は先程の話を再び振ることに。何せそうでもしないと再び根掘り葉掘り聞かれそうだからだ。
八幡に再び問われ、陽乃は助かったことを喜びながら答えた。
「いやね、ちょっと小腹がすいたからたこ焼きでも買おうと思って歩いていたんだけど、運悪く捕まっちゃって」
「それでああなっていたわけですか」
それを聞いて納得する八幡。こういった催し物によくありがちなアクシデントに巻き込まれたということだろう。
その事を理解した八幡に今度は陽乃が気になるといった様子で話しかけてきた。
「そう言えば比企谷君は何であんなところにいたの? それにさっきあの酔っ払いに何をしたのかな?」
目の前に現れた事に関しては何とか目をそらさせることが出来たが、気になることが他にも多いようだ。
そう聞かれた八幡は好奇心旺盛な瞳に見つめられこの場にいることへの居辛さを感じつつも問題がないうように答える。
「ここにいるのはただのバイトですよ」
「バイト? もしかして私服警備員とか?」
本当はその通りなのだが、そう答えるわけもなく八幡ははっきりと否定する。
「違いますよ、俺のバイトは清掃業です。こういった催しだと良くゴミをその場で捨てる輩が多いですからね。それを片付けるのが今日の仕事ですよ」
「そうなんだ。でも、だったら何で私を助けてくれたの? 君は正義漢って感じじゃないと思うんだけど?」
何かをくすぐるような可愛らしい声でそう問いかける陽乃。
そんな様子に可愛らしさを垣間見た八幡だが、それに関しさし当たり障りがないように答えることにする。
「俺は別に何かしたわけじゃないですよ。あの酔っ払いが倒れたのはただの偶然。大方酔いがまわり過ぎたんでしょう。周りの誰かが今頃通報でもしてるはずですよ。そして助けたのも仕事の一環です。こういった催しに際し、俺のバイト先以外にも色々と仕事をしに来ているわけですが、その多くが花火大会主催側から通知されているんです。問題があった場合はその解決に努めるように、と。最悪は警察を呼ぶことになってしまいますから、それよりも先にどうにかしてくれというわけです。だからこれは善意なんかじゃないですよ」
普通に聞けばがっかりするような答え。
普通の女の子なら、ここは寧ろ女の子のために助けたんだと言ってもらいたいところである。
だが、陽乃はそうではないらしい。
「うん、もしここで私のためなんて寒いありきたりな台詞を言っていたら正直白い目で見てたところだけど、寧ろ正直なところがグットね。だ~け~ど、ちょっと正直すぎるかな~。もしもっと格好良い台詞だったらお姉さん、ときめいてたかも」
「冗談は止して下さいよ」
八幡の言葉に感心しつつもからかいを入れる陽乃。
そんな彼女に八幡は苦笑する。言われた通りでもあるし、何より目が濁り切った自分がそのような歯の浮く台詞を吐いてみろ…………即通報物だろと八幡はそう思う。
まさかそうされたら顔を真っ赤にして胸をときめかせる女性が4人もいることなど考えもしなかったし思いつきもしなかった。
八幡の答えにそれなりに納得した様子を見せる陽乃。そんな彼女を見て八幡はもう大丈夫だと判断し彼女と別れようとするのだが、その前に陽乃が八幡を呼びとめた。
「せっかく助けてくれたのにお礼をしないなんて礼儀知らずには思われたくないし、ここはお礼としてお姉さんが奢ってあげよう!」
「いや、俺バイト中なんですけど。それに助けたのも仕事ですから……」
「それでもなの。これは私が一方的に感じてるだけのお礼なんだから、比企谷君は大人しく受け入れなさい」
「そんな横暴な………」
お礼がしたいと言って聞かない陽乃はそう言って八幡に無理やり言うことを聞かせる。別に受ける必要はないし、話の筋も通らないのだから無視してもよいはずなのだが、何故か逆らえず八幡は言うことを聞いてしまう。
そして何が良いのかと問われ、何でも良いですと答えた八幡は膨れた顔をする陽乃。
「謙虚は美徳っていうけど、度が過ぎると失礼だぞ~」
「いや、別に謙虚ってわけじゃないですから。奢ってもらえるのに贅沢は言うもんじゃないですし、それに腹も減ってないですし」
むくれる陽乃に八幡は何か答えようと辺りを見回してみることに。
そこで目に入ったのが如何にも美味そうにビールを煽る男の姿。別に酒が好きというわけではないが、その姿に何故か喉が渇きを訴えてきた。
だから八幡はそれを陽乃に伝える。
「そうですね………そう言えば喉が渇いてきたような気がします」
「わかった、飲み物だね!」
八幡のリクエストを聞いて陽乃が嬉しそうに笑うと、彼女は早速飲み物が売っている出店を探す。
そして見つけたらしく、その出店に向かって駆けて行った。
それを追いかけようか悩む八幡だが、予想以上に早く陽乃が帰ってきたためやめた。
そんな彼女の手にあるのは一本の瓶。その中に細かい泡と飲み口辺りにはガラスで出来た玉が入っていた。
それを見つめながら陽乃は笑顔で八幡に渡す。
「はい、ラムネ!」
「いただきます」
渡されたラムネを少しだけ見つめつつ、八幡は中のガラス玉を押し込んだ。
開封されたことによりシュワシュワと泡が弾ける音がする。それを聞きながら八幡はラムネに口を付けた。
昔ながらの味が身体にスっと入っていく。
その感覚を楽しみながらゆっくりと半分近く飲んだ。どうやら思っていた以上に喉が渇いていたらしい。
「…………久々に飲みましたけど、美味しいですね」
そう言いながら陽乃の方を向くと、何やら彼女の頬は少しだけ赤く染まっていた。
きっと屋台の灯りが当たってそう見えたのだろう。八幡はそう思った。
そして何やら悪戯をするような子供のような顔になると、八幡の顔に顔を近付ける。
「あまりにも比企谷君が美味しそうに飲むから、私も飲みたくなっちゃった」
「そ、そうですか。なら、もう一本買いに行けばいいんじゃ………」
そう答える八幡だが、陽乃は聞く気はないらしく八幡の持っていたラムネを素早く奪い取った。
「今飲みたいの。これでいいの」
そして奪い取ったラムネをゆっくりと口につける陽乃。その際にやわらかな唇が飲み口に触れて形がふにっと変わった。
それを見て八幡は実に気まずそうにする。奢ってもらったとはいえ当然金を払ったのは陽乃なのだ。陽乃が欲しいと言えば断れはしない。
そして何より気まずいのは…………。
「それ………間接キスじゃぁ………」
相手が気にしないよう小さな声で言う八幡。
八幡は気付かなかったが、それを聞いて確かに陽乃の頬は朱に染まった。
そして陽乃は全部飲み終えると、八幡に笑顔を向ける。
「ごちそうさま、比企谷君」
「別に俺が買ったわけじゃないんですから言わないで下さい。お気になさらずに」
そう言うと陽乃は八幡に話しかける。
「それじゃそろそろ行くね」
「あ、はい」
「お仕事頑張ってね~!」
そう八幡に言うと、陽乃は彼に背を向け人混みの中へと姿を消した。
その背を見送り、八幡は再び仕事に戻ることにした。
(あの時何をしたのか分からなかったけど、それでも………君が何かしたことだけは分かるよ、比企谷君)
八幡と別れた陽乃は人混みの中で八幡の事を思いながら歩いていく。
胸の中があったかいと思いながら彼女は微笑む。八幡は善意はないと言っていたが、彼女は確かに八幡の善意を感じた。いくら仕事とはいえ、彼を見ている開催側の人間はいないのだ。サボったってバレるわけではない。だというのに八幡は仕事だと言って助けてくれたのだ。それに善意がないわけがない。無視してサボっても良いのにそうしなかったのだから。
だから八幡の優しさが分かる。
それとともに陽乃は唇にそっと手を添えた。
心臓がドキドキする。その鼓動が何故か嬉しい。
(間接キス……しちゃった。初めて男子と………)
初めて異性とした思春期らしい事に彼女はドキドキする。
それとともに、こうも思った。
(最初は雪乃ちゃんが好きになるから身を引こうと思ったけど………ごめんね、雪乃ちゃん。お姉ちゃんもその競争、参加させてもらうからね)
気になる彼のことを思い浮かべながら、彼女は有料エリアへと戻って行った。