ダメ教師、加美村 百花は死に神と名乗る黒衣の青年に出会った──

これは、届くことのなかった善意のおはなし。

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G R:Goodwill not arriving

色とりどりの人工の光が、高くそびえるビルとその足元を行き交う人々を照らす。

 

賑やかな駅前の広場の一角に、鮮やかな赤毛の女性がポツンと佇んでいた。

 

人々が白い息を弾ませながら友達、あるいは恋人と語らう様子を、赤毛の女性は寂しげに眺めている。

 

白のセーターと赤いタータンチェックのスカート、それにベージュのハーフコートを羽織った女性の、少しウェーブがかった長い赤髪が目を引く。

 

けれど、不思議な事に道端でナンパに勤しむ大学生すら彼女に声をかける事はなかった。

 

彼女の姿は誰の目にも映ってはいないのだ。

 

周囲と隔絶された女性のその彷徨う視線が、ある一点で止まる。

と、同時に女性の表情がほころんだ。

その路傍に咲く花の様な微笑みの先には、ひとりの少年の姿。

 

広場の隅っこに佇む彼は、少々くたびれた紺色のブレザーを着て、首には黒いマフラーを巻いていた。

 

どこか悲しげに広場を眺める少年の瞳にも、赤毛の女性──加美村 百花(かみむら ももか)の姿は映る事はなかった。

 

それでも彼に歩み寄ると、百花は少年に微笑みを向ける。

 

せめて彼の心が、少しでも軽くなるようにと・・・・・・。

 

「けれど、君の微笑みは彼には届かない」

 

いつの間にか、百花の背後には黒衣を全身に纏った若い男の姿があった。

 

「わかってる。でも、わたしは……わたしには……」

 

「こんな事しかできないから」と肩を震わせる百花を、男が優しく黒衣で包み込む。

 

優しい闇が百花の慟哭を、静かに飲み干していった。

 

闇に抱かれて、百花は思い出す。

この闇を纏う青年との出会った日を──

 

それは、とある日曜日の夜。

 

それは少し寒くて、だけどとてもありふれた夜だった。

少なくとも大抵の人々にとっては。

 

百花にとってみれば、三日も前から待ちわびた、重要で大切な夜だ。

 

三日前、夜にアパートの自室で話題作と騒がれてたドラマをなんとなく観ていると、真っ白な彼女の携帯が鳴った。

 

着信音にあわせて鼻歌を歌いつつ、携帯の着信ボタンを押す。

 

「もしも~し」

 

お気楽な百花の声が電波の波に乗って飛んでいく。

 

耳にあてた携帯から聞こえたのは、百花と違ってちょっと緊張気味の少年の声。

 

ちょっとくすぐったい、百花の大好きな声だ。

 

「日曜日に駅前広場で、夜の八時に」

 

たったこれだけを伝えて、少年は電話を切った。

 

「まったくもう、照れ屋なんだから」

 

今頃は携帯を手にホッとひと息ついているだろう年下の彼を想って、百花は笑った。

 

「ホントにもう、なんだかな~」

 

その晩の事を思い出すとついつい顔がだらしなく緩んでくる。

 

ちょっとニヤッとした不気味な表情のまま、百花は自宅を出た。

 

見上げた空は茜色。

待ち合わせの時間には、だいぶ余裕がある。

 

「百花ちゃん、ご機嫌だね?」

 

道端で散歩中のお隣のおじさんが、缶ビール片手に挨拶してきた。

 

「久し振りのデートだよん」

 

おじさんに向かって自慢気に胸を張って、百花がトコトコと駆け出した。

 

「車に気ィ付けろよ」

 

桃花の背中を見送りながら冗談めかしておじさんが笑う。

 

それが、おじさんが見た彼女の最後の姿になった。

 

 ☆ ☆ ☆

 

ひとしきり泣いて、ようやく落ち着いた百花が黒衣の若い男から離れた。

 

なおも心配そうな男に百花は「大丈夫」と伝える。

 

もしも誰かがこの光景を見ることが出来たのなら、この黒衣の男こそが彼女の恋人だと思ったかもしれない。

この男の背負った無骨な大剣を目にしなければ。

 

彼はGrim Reaper(グリムリーパー)という死に神だ。彷徨う死者、淀みを刈る者。

いまの百花とは相容れないはずの存在だった。

 

百花の瞳が、再び目の前の彼を見つめた。

 

あの日以来、彼は毎週日曜日にここに訪れていた。

あの約束の時間に。

 

「ずっと、待ってくれてるんだよね。ありがと」

 

百花の口から零れた言葉は結局、迷子になって喧騒のなかに消えていく。

 

彼だって彼女の身に起こった出来事については知っていた。

彼女がいま、どこに居るのかさえもだ。

 

けれど彼と百花のもうひとつの関係が、事態をややこしくしていた。

 

彼にとって、百花は恋人である前に教師だったのだ。

 

はじまりは半年前、放課後の教室。

 

ある生徒の思い詰めている様子を気にした百花が、本人を呼びだした。

 

それは教師としての職務だと思っていたし、なにより百花自身がそうすべきだと確信していたから。

 

日頃、生徒たちに陰ながらダメ教師と呼ばれる彼女は、汚名を返上してやろうという、やる気が溢れ出過ぎてダダ漏れ状態。

 

そんな空回り状態の百花にその生徒が打ち明けたのはとんでもない内容の悩み。

 

憧れの恋愛相談。

だけどその恋の相手が不味かった、非常に不味い。

 

だってその生徒が恋したのはよりにもよって――

 

「え?わたしなの!?」

 

当の百花本人だったのだから。

 

「ってか、わたしで良いの?」

 

教師うんぬんより、恋愛対象としてどうよ。

 

自慢じゃないが百花はとことんモテない。

外見は悪くないと自分でも思っているが、何故かモテない。

 

ナンパされた経験すらなかった。

 

なので魅力ないんだ、わたし・・・と思って生きてきました。

けれど、よーやく恋人ができそうな予感!

人生の春到来!?

 

「ほんとーにいいの!?」

 

百花の予想外の喰いつきっぷりに若干引き気味の彼。

でも、しっかりと頷いた。

 

嬉しさのあまり、立場的にはよくねーよ!ってツッコミはスルーして百花も頷く。

 

「でも、付き合うのは卒業してからね!」

 

ダメ教師、ここに極まってしまってた。

 

 ☆ ☆ ☆

 

───あの日。

久しぶりのデートの日。

 

走馬灯のように流れていく記憶をアスファルトに横たわった百花はみていた。

 

世間一般的に問題大アリな生徒との恋愛(予定)の約束をした、あの放課後の記憶を。

 

やっぱり、これはその罰なのかな・・・・・・なんてぼんやり考えてみたり。

 

不思議と痛みは感じなくて、九十度に傾いた世界でいろんな人が騒いだり、携帯電話やスマートフォンのカメラを向けてたりしている様子を、他人事みたいに眺めていた。

 

音も無く、ゆっくり過ぎてゆく時間。

少しずつ霞んでゆく視界。

 

それはまるで、カラーのサイレント映画を観ているみたいだと……。

 

薄れていく意識で、百花はそんな事をぼんやりと思った──

 

そう、思っていた。

 

それからどのくらい時間が経ったのだろう。

ふと気がつくと目の前には道路に転がる百花がいた。

 

「なんじゃこりゃー!?」

 

それを某刑事ドラマばりの派手なリアクションで指差す百花。

 

「え!?なんで、わたしがわたしの目の前で倒れてるの?」

 

ぶっ倒れた百花は血まみれで、それを指差す百花は無傷。

そして、ぶっ倒れた百花のすぐ傍には見事に凹んだ乗用車。

 

「これって、撥ねられた・・・・・・んだよね?」

 

誰に訊いたわけでもない百花の呟き。

返事は期待してないよ、だって確認だもん。

 

けれど・・・・・・。

 

「そう。ちなみに、車は時速五十キロくらいで走ってたかな」

 

余計な情報は付け加えなくてよろしい。

 

「って、誰よ!?」

 

振り返ると、そこには上半身を覆う黒いポンチョみたいな外套を纏った若い男が立っていた。

あらやだ、ちょっとイケメンかも。

 

「ど、どなた?」

 

ちょっとドキドキしながら百花は男に尋ねてみた。

 

「えーっと、笑わないで聞いて欲しいんだけど」

 

気まずそうに頭を掻きながら男は言った。

 

「死に神なんだ、俺」

 

「は?」

 

笑うよりも驚きで目を白黒させる百花。

 

「マジで?」

 

「マジで」

 

百花の確認に頷く男。

 

「で、わたしに何の御用でしょう?」

 

「あー・・・っと、それは・・・・・・」

 

「それは?」

 

歯切れの悪い男にちょっぴりイライラする百花。

男らしく、はっきりしゃっきりして欲しいもの。

 

「すまない、・・・・・・こういうことなんだ!」

 

突然、男が百花の腕を掴むと、驚く間も無く抱き寄せた。

しっかりと百花を抱く男の逞しい左腕と胸板にちょっとうっとり。

 

「ちょっと、やだ。わたし、彼氏(予定)がいるのに・・・・・・」

 

一度言ってみたかったセリフを吐きつつ、ご満悦の百花。

そんな百花の耳に聞こえてきたのは・・・・・・。

 

「ギャアァアアアア」

 

ずいぶんと野太い悲鳴だった。

 

 ☆ ☆ ☆

 

「――という状況なんだ」

 

赤灯を点け、サイレンを鳴らして街中を疾走する救急車。

 

そのなかでは、横たわった百花に救急隊員がテキパキと応急処置をしてゆく。

 

その様子を見守りながら、百花は死に神の男の説明に耳を傾けていた。

 

「要するに、いまのわたしって死んだってこと?」

 

「ま、そうだね。まだ確定はしてないけど」

 

だけど……と、男はちょっと困った様子で言った。

 

「問題は淀みが君を狙っているってことかな」

 

「わたしを?」

 

そういや、さっきの野太い悲鳴って・・・・・・。

 

「その淀みとかいうヤツの・・・・・・」

 

「まぁ、なんとか撃退できてよかったよ」

 

よかったという割りには男の表情は暗かった。

 

考えてみれば、彼の目の前の百花は死んでしまっているわけで・・・・・・。

 

なんだ、同情してくれてるって事か。

 

改めて、鴉みたく黒尽くめの男を見た。

 

見た感じ、百花よりも年下に見える外見だ。

 

だいぶ暗めの茶色をした短めの髪、顔はまあバラエティーでよく見るイケメン詐欺のフツメンクラス。

 

ポンチョみたいに上半身を覆う黒の外套に濃緑色のズボン。

抜き身のまま背負った、黒曜石のような綺麗な大剣。

 

そして、全体的に漂う善い人オーラ。

 

死に神ってイメージとかけ離れている様な、そうでもない様な・・・・・・。

 

「何か訊きたい事でも?」

 

あんまりジロジロ見ていたからか、男が訝しげに首を傾げた。

 

えーっとなんか気まずい。

こういう時はとりあえず・・・・・・。

 

「あ、わたし、加美村 百花。百花でいいよ」

 

自己紹介でもしておこう。

 

「ずいぶんといきなりな自己紹介なんだな・・・・・・」

 

「うるさい、黙れ。で、貴方は?」

 

空気読めなかった照れ隠しに、ついつい罵声を浴びせてしまった百花に男は苦笑い。

 

でもそれは迷惑だとか困った感じじゃなくて、不意に懐かしいものを見た様な、何だかそんな優しい表情だった。

 

「俺は、紫苑。高月 紫苑(たかつき しおん)」

 

「え、日本人だったの!?」

 

驚く百花に紫苑は笑って言った。

 

「つい数ヶ月前は、ね」

 

自己紹介も無事に済んで、ちょっと精神的に余裕ができた百花が紫苑の肩をつついた。

 

「ところで、わたしはこれからどうすればいいの?」

 

「君はどうしたいんだ?」

 

あれ、おかしいな。

質問したら質問が返ってきたよ?

 

「いやいや、だからどーしたらいいのさ」

 

こちとらはじめての幽霊ですよ。

ゴーストに関してはビギナーなんだよ。

 

要するに右も左もわからない迷子状態なんだっての。

 

「そう言われてもね」

 

両手を挙げて困った顔をする紫苑。

 

お手上げのポーズだ。

 

「正直に言えば、君のようなただの幽霊に対しては何の権限もないんだよ」

 

「と、申しますと?」

 

「俺達の役割は流れから外れた淀みを生と死の循環に戻す事。だからそれ以外については管轄外ってこと」

 

「はぁ……」

 

意味がよくわからないが、特に彼が百花になにかしら強制はしないということなのだろう。

 

「じゃあさ、ちょっと行きたい場所があるんだ」

 

だから、彼女は言った。

 

彼が待っている場所、自分が行こうとしてた場所へ行きたいと。

 

その夜。

 

結局、彼は一時間もあの広場で待っていた。

 

ただ静かに、じっと。

 

彼が百花の事故を知ったのはクラスメイトからのメールだった。

 

驚いて百花の携帯に電話する彼。

 

電話が通じない事を知ってがっくりと肩を落として俯く彼。

 

その様子をココロだけになってしまった百花は泣きながらみていた。

 

隣に死に神を連れて。

 

――けれど、死に神は見てしまった。

 

俯いた彼の顔を。

 

影が被さって黒く暗く、闇に遮られた顔。

 

その顔は嗤っていた。

 

唇を歪めて、歓喜に彩られて――

 

そうして、それから二ヶ月の時間が過ぎた。

 

 ☆ ☆ ☆

 

百花を駅前の広場に残して、紫苑は彼女が運ばれた病院の病室に来ていた。

 

部屋の中央に設えたベッドに寝かされた百花は、幾つもの機械に囲まれて、そこから伸びる大小様々なチューブで繋がれている。

 

事故に遭った夜から日増しにチューブの数が増えているようにみえる。

 

それは嫌でも、彼女が無理矢理に生かされていることを証明する光景だった。

 

「ようやく戻って来おったか」

 

部屋のドアの脇に佇んでいたラベンダー色の長い髪の女が、鮮血を思わせる真っ赤な唇を歪めて吐き捨てる様に呟く。

 

美しい彫像のような肢体に下着のような、水着のような無駄に露出の激しい衣服を纏っていた。

 

ちょっと、目のやり場に困る。

ましてや、ジロリと睨まれているのなら尚更に。

 

「ロベリア、もしかして怒って……」

 

「当然であろう。こんな辛気臭い部屋に置き去りにされればの」

 

ツカツカと歩み寄ると、紫苑の胸倉を掴み上げてロベリアは一気にまくし立てた。

 

「相棒である我を放置しておいて、あんな娘につきっきりとはどういう了見だ、馬鹿者!!」

 

「いや、それは身体のほうも見張らなくちゃならないだろ?淀みが狙っているんだし」

 

額に汗を浮かべながら必死に紫苑が言い訳する。

 

「それで、何故に我がこの部屋に捨て置かれねばならん!?別に貴様が此処に残り、我が娘に同行しても問題あるまい?」

 

「いやいやいや、そっちのが問題だろ。無防備に女の人が寝てるんだぞ!」

 

ロベリアが蒼い眼をすぅっと細めた。

まるで変質者を見るような目つきだ。

 

「ほう、すると貴様は機械に繋がれた意識不明の女に欲情するのかの?」

 

「そんなマニアックな性癖は無い!!」

 

「ふん、ならば問題なかろうに」

 

言い捨てて、ロベリアが掴んでいた手を離す。

 

「それより、百花さんの身体だけど……」

 

紫苑がベッドに横たわる百花を心配そうに見つめる。

 

その様子を一瞥してロベリアは口を開いた。

蔑むような口調で言葉を吐き出した。

 

「どうやら、ここのヤブ医者に助ける気は無いようだの」

 

「そうか、じゃあ……」

 

「明日にでも、ホンモノの幽霊になるという事だの」

 

「……家族は?」

 

「反対するわけなかろう。何せ奴等から言い出したことだからの。胸糞悪い」

 

珍しく苛立つロベリアに紫苑は首を傾げた。

 

「どうしたんだ、ロベリア?いつもなら無関心なのに」

 

「確かにこの娘が死のうと生き返ろうと、我はどうでもよいのだがな……」

 

ロベリアが今度は百花の身体を一瞥した。

その視線は憐れみではなく、嘲笑が込められていた。

百花のその身の不幸を嗤う。

 

「どうせ意識が戻らぬのなら、死んだように生きねばならぬのなら、生かすのを止めよという事らしいの」

 

その上で、とロベリアは続ける。

 

「その娘の身体、使えるものは根こそぎ他の人間にくれてやるそうだ。それも当人の意思ではなく、家族とやらの意思での」

 

「臓器移植ってヤツか。でも、なんでそれで……」

 

これ程までロベリアが怒りに震えているのか。

 

「なに、貴様も事の顛末を知れば理解できるであろうよ。家族の無知ゆえの善意が、如何に馬鹿げた独善で、無意味な自己満足であるかがの」

 

苦々しい表情のまま、ロベリアは紫苑の背負う鈍色の大剣へと、溶けるように姿を消した。

 

大剣が黒く染まり、燐光を放ちはじめた。

それはまるで、弔いの灯りのように病室を黒く照らした──

 

 ☆ ☆ ☆

 

ひとりになりたいからと、百花は紫苑と別れた。

 

病院にいるはずの身体の事も気になっていたから、ついでに調べてくる様に頼んだのだ。

 

駅前の広場のベンチに座る彼の隣に百花は腰を下ろした。

 

もちろん、彼は気づいていない。

 

ココロだけになった百花は誰にも見えないし、感じないのだから。

 

半年間の思い出をひとつひとつ思い返すうちに時間が過ぎていく。

 

そして、あの日の約束の時間から一時間が過ぎようとした時……。

 

「ごめん、バイトなかなか終わらなくってさぁ」

 

ベンチに座る彼にケバイ化粧の少女が駆け寄ってきた。

 

「ったく、連絡くらいしろって。ここ二ヶ月、毎週すっぽかしやがって」

 

「ソレは二股してた罰ー!」

 

「なんだよ、ひでぇな」

 

ケラケラと少女にむかって彼が笑った。

 

「あー、でもいちおうは心配してくれてんだ?」

 

「まあな、だってビビるじゃん。来ねぇって思ってたら実は事故ってましたっての!」

 

「ちょっとソレ、あのセンセイの事でしょ。マジでウケる~!」

 

彼とケバイ化粧の少女が笑う。

 

ここに来れなかった、ここに居ないはずの百花を嗤う。

 

「いきなり呼び出してさ。何を勘違いしたか相談無いかって聞いてきやがんの。うぜぇし、からかってやろうと告ったら引っかかってやがるし」

 

嘲笑混じりに彼が語る。

 

あの放課後の裏側を。

 

「うわ、マジウザイ。よく半年、頑張ったね~」

 

「まあな。でも残念だったぜ。せっかくだし、タカってやろうとおタカい飯屋を予約してたのによ」

 

「鬼畜だね、アンタ」

 

「知るかよ、あのババアがバカなだけだろ」

 

隣に唾を吐き捨てる彼。

 

そこには百花の幽霊が座っているとも知らずに。

 

「そろそろ行こ、アタシお腹すいたー」

 

「あー?じゃあアソコのバーガーな」

 

「うわっ、じゃあアンタの奢りね」

 

そうして、彼らは煌びやかな街中へ消えていった。

 

冷たいベンチに百花を置き去りにしたまま――

 

しばらくして紫苑が広場に戻ってみると、そこに百花はいなかった。

 

無人のベンチに爪で引っ掻いたような無数の傷だけを残して、百花は姿を消したのだった。

 

 ☆ ☆ ☆

 

「娘に何があったか知らんが、放っておけ」

 

それが、相棒の結論だった。

 

「第一、娘を見つけたとして貴様に何が出来る」

 

淀みではない百花に対して紫苑は何の権限も持ち合わせていない。

 

それは紫苑自身が百花に語った事だ。

 

「でもさ、嫌な予感がするんだよ」

 

それでも、と紫苑は食い下がった。

 

ロベリアが露骨に溜め息を吐く。

 

(相も変わらず、お人好しだの)

 

その元来のお人好しが災いして、死に神などに成り果てたというのに、紫苑は懲りもせずお人好しであり続けていた。

 

そのことで、ロベリアが頭を痛めている事を知りもしないで。

 

「ええい、それでなくとも目付け役にやれ仕事が遅いだの、効率が悪いだのと嫌味ったらしく小言を言われ続けておるというのに……!!」

 

百花などに関わる暇があれば、そこらを徘徊する淀みを刈るべきだとロベリアは考えている。

 

それが本来の仕事であり、役割なのだ。

 

(まったく、これだからいつも苦労ばかり背負い込むのだの)

 

死に神という役割上、どんなに身を粉にしたところで死者を救う手段は無いのだから。

 

Grim (冷厳な) Reaper(刈り手)という名がそれを表しているではないか。

 

出来ることといえば、せいぜい苦しませずに速やかに刈ってやる事くらいしかない。

 

刈り取られた彼らが堕ちる煉獄。その炎に焼かれる刻が短く済むようにと祈りながら。

 

その程度の事しか、出来ないのだ。

 

それが亡者であれば……、淀みであれば尚更だった。

 

「どのみち娘が満足に動けるのは午前中までだろうしな」

 

「なんでそんな事がわかるんだよ。っていうか、それまでにみつけないとヤバくないか!?」

 

「そうだの。害を及ぼすとすれば、その時間帯のあとであるのは間違いないか」

 

要領を得ないロベリアの言葉に紫苑の苛立ちは増していくばかりだ。

 

「仕方の無い奴だの。我も同行してやる、それで文句はなかろう」

 

乗っ取ったところで、どうせ満足に動けなくなる百花の身体を、解体されるだけの身体をこのまま護衛する意味はない。

 

結局、ロベリアは折れてやる事にした。

 

この部屋から出る理由が見つかっただけマシなのだと自らに言い聞かせて。

 

その頃、窓の外はすでに明るくなってきている。

 

天へと昇る太陽が一瞬、紺碧の空を白く灼いた。

 

今日という日を言祝ぐように。

昨日という日を葬るように、真っ白に。

 

──その頃。

 

住宅街へと続く道路。

 

歩道沿いに建つ建物の隙間に伸びる薄暗く狭い空間に、何かを啜るような音が微かに響いていた。

 

朝日に背を向ける様に屈んだ女が一心不乱に、辛うじてヒトの形を残した肉塊を貪っている。

 

それは間違いなく昨夜、駅前の広場で彼と待ち合わせていた女だった。

 

ちょうど朝帰りの少女を偶然見つけた百花が襲い、この場所に引き摺り込んだ。

 

泣き喚く少女をじっくりと時間を掛けて殺し、壊した。

そうしていま、百花は肉塊と化した少女を喰らっていた。

 

ボロボロの少女の顔を爪でズタズタに切り裂き、見開かれた瞳を指で潰し、それでもなお憎しみは消えぬと怨嗟の声をあげながら、憎悪の焔で心を焦がしながら……。

 

 ☆ ☆ ☆

 

その日の朝は彼にとってはなんの変哲も無い、ありふれた朝だった。

 

いつも通りに自宅を出発して、いつも通りの道を歩く。

 

そして、いつも会っていた女性と出くわした。

 

でもそれは、有り得ない邂逅だ。

 

だって、その女性は病院のベッドの上に居るはずなのだから。

意識不明で起き上がれるはずもないのだから。

 

「せ、先生……」

 

昨夜とは違って彼の声は怯えているかの様にか細いものだった。

 

「どうしたの?真っ青な顔をして」

 

その声は確かに彼のよく知っている百花のものだ。

 

ただし、それは酷く冷たい口調だった。

 

「なんで――」

 

零れた言葉は彼の問いなのか、百花の嘆きだったのか……。

 

突然、百花の貌が歪む。

 

開いた口には、蛇を思わせる長い真紅の舌がチロチロと蠢き、鋭く尖った牙が覗く。

 

吊り上がった眼と口角はまさに般若の形相だった。

 

華奢だった身体も歪(いびつ)に捩れ、節々が肥大化していく。

 

綺麗に手入れされていた爪は猛禽類の如く太く長く、鎌を思わせる凶悪な形へと変化した。

 

目の前で醜く、凶悪に変貌する百花を彼は唖然と眺めていた。

 

恐怖のあまり逃げ出すことはおろか、悲鳴をあげることすら出来無い彼に向かって、百花だったモノは歩みを進める。

 

腰を抜かし、アスファルトの地面にへたり込む彼の目前に異形の腕が振り下ろされた。

 

腕は彼の身体を掠める様にして道路のアスファルトを砕いた。

 

青褪めて強張った表情で、両の目から涙を溢れさせた彼がズルズルと這い蹲(つくば)りながら、百花から逃れようとする。

 

あまりに緩慢な速度で、けれども必死に。

 

ゆっくりと鼻歌交じりに、愉しげに百花はそれを追う。

 

彼に見えている事を、そして再び触れられる事に歓喜しながら。

 

憎しみに理性は溶かされ、哀しみに知性を塗りつぶされながらも百花は、やはり百花のまま彼を求めていた。

 

恋愛から復讐へとその欲求は変わってしまっていたのだけれど。

 

手のひらに無数の擦り傷を刻みながら逃げる彼。

 

それを追うのにいい加減に飽きたのか、百花が彼の脚を踏みつけた。

 

殊更にゆっくりと、じっくりと、足裏に感じる彼の体温を堪能するかのように。

 

絶叫と共に骨が砕ける音が響く。

 

醜く変貌した百花の顔が少し、微笑を浮かべたようだった――

 

「ッ……!!」

 

「待たぬか馬鹿者!」

 

潜んでいた建物の陰から飛び出そうとした紫苑をロベリアが羽交い絞めにして制止した。

 

「なんで止めるんだよ!?」

 

「ここは落ち着けと言うべきだったかの……」

 

これ見よがしに溜息を吐いたロベリアが、そのまま背後から紫苑を抱きしめた。

 

「……おい、こんなことしてる場合か」

 

不満げに紫苑が唇を尖らせた。

 

「落ち着けと言うておろうが」

 

紫苑の耳元でロベリアが囁く。

 

「いまだ、あの娘の身体は生きておる。この意味がわかるな?」

 

「まだ、淀みに至っていないっていうんだろ」

 

「ふむ、わかっておるなら良い。なぁに、じきにその時刻になる。慌てる必要はあるまい」

 

肉体が生きているのなら魂がどういった状況であれ、生者とみなさねばならない。

 

そして、生者を独断で刈ることは出来ない。

 

それは、死に神として絶対に守らねばならない、命に対してのルールだ。

 

「歯痒いな……」

 

目の前で少年が嬲り殺されていく様子を、ただ見ていることしか出来ない状況に、紫苑は唇を噛んだ。

 

既に少年の両脚はあらぬ方向へと曲がり、千切れていないのが不思議なくらいの状態だった。

 

幸か不幸か、もはや少年に意識は無い。

 

失禁し、時折全身を痙攣させる少年の無様な姿に満足したのか、百花が少年の頭へ向けて鋭い爪を突き立てんと振り下ろす。

 

「クソッ!!」

 

堪えきれずにロベリアを振りきって飛び出した紫苑が、百花に駆け寄りながら背負った鈍色の大剣に手を伸ばす。

 

「まったく、堪え性の無い奴だの」

 

ロベリアが呆れたように呟いた。

 

 ☆ ☆ ☆

 

瀕死の少年の頭部を掠めるようにして、鋭利な爪がアスファルトの地面に深く突き刺さる。

 

数瞬ののち、異形の女が首を傾げた。

 

それはこんな状態になってしまった百花がみせた人間らしい反応だ。

 

すぐ目の前には黒い外套の死に神がいた。

 

それはまるで亡者(百花)と生者(少年)を隔てる境界線のようだ。

 

死神が手にする大剣の腹から幾筋か黒い煙のようなものが立ち上っている。

 

それを目にして百花はようやく、目の前の男が大剣を振るい、振り下ろした爪を受け流したことを理解した。

 

即ち、コイツは憎むべき少年を助けた敵だった。

 

百花が激昂する。

 

「なんで!ナンで?なンデよ!?」

 

半狂乱となった百花が、死神の持つ鈍色の大剣にむかって左右の腕を打ち付ける。

 

拳を握り締めて交互に、何度も何度も。

 

「ずっト、騙シて嗤ッテた!!」

 

怨嗟と嘆きの言葉と共に、何度も。

 

「それでもッ……、君はこんなことをすべきじゃなかった……!!」

 

振り下ろされる百花の腕の衝撃と胸に刺さる言葉に耐え、咽喉の奥から搾り出すように紫苑が叫んだ。

 

しかし百花の攻撃と口撃は、さらに激しさを増してゆく。

 

「勝手ナこと言ワなイデよ、偽善者……!!」

 

百花の慟哭が響く。

 

何度も振り下ろされた腕よりも投げつけられた言葉よりも、それはより深く紫苑の心を抉った。

 

それでも、紫苑は正面から受け止める。

言葉も攻撃も──百花自身ですらどうしようもない感情も。

 

「アンタだッテ、どうセ陰で馬鹿にシて……!!」

 

「――ふざけるな!!」

 

「ひッ……」

 

紫苑の怒りに満ちた叫び声に百花が怯えたように後ずさる。

 

「だから殺すのか、そんなくだらない理由で!」

 

「くだらなくなんて……」

 

醜く変貌していた百花が徐々に本来の姿に戻ってゆく。

 

「君は死ぬということを体験したじゃないか。理不尽に命を奪われる哀しみを味わったんじゃないのか!?」

 

「だって…でも……」

 

人の姿に戻った百花の目からぽろぽろと涙が溢れる。

 

「もう復讐なんてやめるんだ。これ以上の復讐は、君自身をホンモノの化け物に変えてしまう!」

 

「…もう遅いよ。だって……わた――ぐあッ!?」

 

突然、百花が腹部を押さえてうつ伏せに倒れ込んだ。

 

「ぐぅっ……あ……っ!!」

 

赤く血に染まった拳を固く握り締めて必死に何かに耐えていた。

 

「これは!?」

 

慌てて百花を仰向けに抱き起こした紫苑が唖然とする。

 

百花の腹部が赤黒く濡れていたのだ。

 

状況を確認する為に紫苑が邪魔な服を取っ払うと、露わになった百花のお腹には、下腹部へと伸びる一筋の傷が口を開けていた。

 

そこから鮮血がとめどなく溢れてくる。

 

「どうことだよ。彼女はいま霊体だろ!?」

 

予想外の事態に紫苑は狼狽する。

 

彼には百花の身に何が起こったのか見当もつかないのだ。

 

「狼狽えるなと言うのだ、馬鹿者」

 

いつの間にか傍に立っていたロベリアが百花の顔を、そして傷を覗き込んだ。

 

開いた傷の内部では、何かにまさぐられる様に内臓が蠢いていた。

 

「始まってしまった様だの」

 

低い声でロベリアが呟いた。

 

「いったい何が始まったって言うんだ?」

 

「臓器の摘出……、早い話が使える部分の回収だの」

 

「な……!?」

 

ロベリアの言葉に紫苑が絶句する。

 

「言ったであろう。この娘の家族の決定は、娘の身体の使えるものは根こそぎ他人にくれてやる事なのだとな」

 

「いや、待て。それで何で彼女が苦しんでいるんだよ?」

 

「いまだに身体とのつながりが保たれている状態だからだの。それ故、身体の損傷に伴う痛みという強い感覚が、霊体にまで伝わっておるのだ。……いくら外に出ているとはいえ、身体が生きている以上は魂とのつながりが絶たれておらぬわけだからの」

 

「でも手術だというなら麻酔が……」

 

ロベリアの指先がそっと紫苑の唇に触れた。

もう何も喋るなと言う様に……。

 

「身体は既に脳死状態だったらしい。という事はヤブ医者からみれば立派な死体ということになる」

 

紫苑の腕に抱かれた百花がその姿を徐々に歪に変化させつつあった。

 

理不尽に与えられる激痛に百花は耐え切れずに淀みと化しはじめている。

 

「……」

 

「死体に麻酔など使う間抜けがいると思うか?」

 

「くッ……!!」

 

結局、はじめから百花を救う事は出来なかったのだと思い知って、紫苑が唇を噛んだ。

 

今まさに百花は、生きたまま解剖されて解体され、角膜や臓器を抜き取られているのだ。

 

それに伴う激痛は想像を絶する。

 

そのあまりに理不尽な状況への嫌悪、悲嘆、苦痛を糧にして、百花の淀み化は着実に進行している。

 

それを止める手段は──無い。

 

ようやく、あの病室でのロベリアの怒りが理解できた。

 

彼女の家族は、こうなるとは知らずに──知ろうともせずに百花を殺す選択をした。

 

経済的な面もあっただろうし、それを責めるつもりはない。

 

責めるべき事柄はもう一つの選択だ。

 

臓器移植──

 

まだ生きている百花の身体から臓器を抜き取り、赤の他人に施しをしようというその独善。

 

自らの身体を痛めることもせずに、百花に痛みを全て押し付けて、いわばいいとこ取りで善行を行ったという自己満足。

 

そして、百花を殺す選択をした自分たちの罪の意識を誤魔化す為の言い訳に、百花の身体を生け贄にした卑劣さをロベリアは怒っていたのだ。

 

そっと紫苑の肩に手を置いて、ロベリアは言う。

 

「貴様の行為は無駄では無かったろうよ。この娘は煉獄に堕ちる定めではあるが、それでもまだ……、人として逝けるのだからな」

 

慰めでも憐れみでもなく、ただ為すべき事を成せと背中を押す。

 

「……」

 

紫苑はただ黙って、再び人の姿を失いつつある百花を見詰めていた。

 

「望むやり方ではなかろうが、これ以外の方法はあるまい?」

 

ロベリアが地面に転がった鈍色の大剣を指差し、告げた。

それは完全に淀みと化す前に百花を刈るということ。

 

「幸い、今しがた身体は死んだ。いまだけが、この娘が人として逝ける最後の機会だの」

 

ロベリアが鈍色の大剣に歩み寄り、触れた。

 

大剣の刀身が磨かれた黒曜石の如く、その姿を変えていく。

 

それと同調するようにロベリアの姿が消えていった。

まるで大剣に溶けていく様に。

 

(救いたいと願ったのならば、如何な形であれ救ってみせろ。後悔なぞ、したくはなかろう?)

 

今度は自らの内側から響くロベリアの声に、紫苑が頷いた。

黒く輝く大剣をしっかりと右手に握り締めて。

 

空いている左腕でそっと百花を地面に寝かせると、紫苑は立ち上がった。

 

ゆっくりと大剣を構える。

 

そして――――

 

 ☆ ☆ ☆

 

ゆっくりと百花の目蓋が開いた。

 

すぐ目の前にはあの優しい死に神の顔がある。

 

自然と、安堵の溜め息がこぼれた。

 

気が付けば、先ほどまで全身を襲っていた激痛が嘘のように消えている。

 

だけれども、全身にまるで力が入らなかった。

 

立ち上がることはもちろん、身体を起こす事すら難しい。

 

それでも、何とか動く右手を彼へと伸ばす。

 

彼女を救おうと奮闘してくれた死に神の頬を伝う涙を拭ってあげたかった。

 

けれど、それは彼女を覆う薄い光の壁によって遮られてしまう。

 

仄かな光が柱のように天へと伸びていることに、そしてその光の柱に閉じ込められている事に気づいた。

 

視線を落とせば、彼女の横たわっている地面がポロポロと崩れ落ちていくのが見える。

 

そうして、その下には朱く、紅く、燃え盛る世界が覗いていた。

 

ああ、と彼女はようやく理解した。

 

「そっか、わたしはもう死んじゃったんだね」

 

「そうだよ……。俺が、刈り取ったから」

 

俯いた死に神がそう、答えた。

 

「……そっか、本当に死に神だったんだね」

 

「信じてなかったのか?」

 

益々、死に神は俯いてしまった。

 

「だって、あんまり優しいから。ねえ、なんでわたしに優しくしてくれたの?救おうとしたくれたの?」

 

それは、この二ヶ月の間、百花が不思議に思っていた事だった。

 

「君が、なんとなく俺の幼なじみに似てたんだ。生前の俺が守れなかったその人に、とても似てたんだよ。だから、放って置けなかった」

 

「なーんだ。“わたしだから”じゃ、無かったんだ」

 

落胆する百花に向かって、か細い声で「すまない」と彼は呟いた。

 

本当に申し訳無さそうな彼に、少し意地悪が過ぎたと百花は苦笑いを浮かべた。

 

「うん、ごめんね。わたし、酷いこと言ったよね」

 

「いいんだ、謝るのは俺のほうだから」

 

「救いたいって願ったのに、助けるって決めたのに」と紫苑が後悔の滲む声で言った。

 

百花がゆっくりと首を横に振った。

 

「そんな事ないよ、わたしね。彼を襲う前に彼の彼女を、お付き合いしてる女の子を殺しちゃってたんだ」

 

自嘲しながら、百花は告白した。

己の犯した罪を、罪業を。

 

「憎くて、悔しくて、妬ましくて……。どうにもならなくて、殺しちゃったんだ」

 

だから──

 

「助けてもらえるなんて、救われるなんて──そんなの無理だよ」

 

精一杯微笑んで、百花は言った。

 

「それでも──」

 

涙や鼻水でぐちゃぐちゃだったけれど、それでも綺麗に笑って言った。

 

「──ありがとう」

 

その刹那、百花は吸い込まれるかのように地面の底へと燃え盛る紅い世界へと、堕ちて逝った──

 

 ☆ ☆ ☆

 

「それで、どうしてたったひとつの街の淀みを殲滅するのに二ヶ月も時間を浪費したのですか?」

 

街外れの小高い丘で紫苑とロベリアが並んで正座させられていた。

 

彼らの目の前には紅い衣の上に白銀の鎧を纏った女性が、仁王立ちで説教を続けている。

 

長い金髪を振り乱しながらの鬼気迫るお説教には、流石のロベリアもおとなしくしていた。

 

「いやぁ、ちょっといろいろあって……」

 

「言い訳はよろしい!」

 

紫苑の発言は女性のひと睨みであっさり封じられた。

 

(これ、不用意に事情を話すな)

 

(なんでだよ?)

 

ロベリアの小声の忠告を不思議に思った紫苑は問い返す。

 

(馬鹿者!二ヶ月も事故死した女にうつつを抜かしていたなどと知られてみろ。あと一晩は説教が延長されるぞ)

 

(いやいや、うつつを抜かしていたってなんだよ。俺は別に……)

 

(ええい、うるさいうるさい!!ともかくここは黙って嵐が過ぎ去るのを待てと言うておるのだ)

 

(うるさいってなんだよ。正直に話したほうが良いだろ)

 

(正直に話したところで、この口うるさい女が説教を止める筈がなかろう。むしろ延長されてしまうわ!ああ、まったくとんだ上司をもったものだの)

 

「口うるさい上司がどうしました?」

 

唐突にふたりの口論に割って入る声に紫苑とロベリアは頬を引きつらせた。

 

「うっ……!!」

 

「まさか、すべて聞いておったのか?」

 

ロベリアの額にうっすらと汗が滲む。

 

「ええもう、バッチリしっかりはっきりと」

 

ロベリアの問いかけに、青筋が浮きでた満面の笑顔で上司の女性は答えを返した。

 

「この地獄耳め……」

 

「勝手に言ってなさい」

 

さて、と女性の視線が紫苑を捉える。

紫苑の身体がまるでメデューサに睨まれた蛙のように、石化したかのように硬直した。

 

「何があったのか一部始終、余すことなく一切合財すべて話してもらいましょうか」

 

「あ~……。でもほら、言い訳するなって叱られたばかりだしさ」

 

「言い訳を許可します。ちゃんと聞いてあげますからどうぞ」

 

「いや、どうぞって……」

 

紫苑が苦笑いを浮かべる。

 

「えっと……」

 

どうやらお説教はまだまだ終わりそうも無かった……。

 

──やがて、世界を緋色に染めて、藍色の空を蒼に染め上げて陽が昇る。

 

その光景を一昼夜に及ぶお説教からようやく解放された紫苑が腰を下ろして、ぼんやりと眺めている。

 

あのとき、黒い燐光を纏った大剣で百花を刈った感触が残る両の拳を強く握り締めて。

 

「ッ………!」

 

みるみるうちに美しい朝焼けの光景が滲んでゆく。

 

刈った相手を想って、百花という女性の為に泣いた。

 

──ありがとう──

 

仄かな光に導かれて、煉獄へと堕ちゆく彼女が残していった言葉が蘇る。

 

その表情は、安らかに微笑んでさえいた。

 

確かに、最後の最後に彼女は救われていた。

帳尻あわせに過ぎないけれど。

それでも、結果的には救った。

 

けれど──それでも、悔いは残った。

 

あの優しい微笑みに、何をしてやれたのか、何かをしてあげられたのだろうか。

 

「順序が逆だの、阿呆」

 

いつの間にか傍らには、ロベリアが寄り添うように座っていた。

 

「貴様が身を粉にして淀み化を食い止めたからこそ、あの娘の微笑があったのだろうよ」

 

「もっとも、それは我の助力あってこそだがの」と笑った。

いつもの、他者を見下しきった底意地の悪い笑みを浮かべて。

 

けれど相変わらず、紫苑は俯いたままだった。

 

やれやれとロベリアは嘆息した。

 

「何時までも落ち込んでおる暇は無いぞ。あの目付役、しこたま仕事を押し付けてきたからの」

 

ぐしゃぐしゃに、乱暴に紫苑の頭を撫でてロベリアは言う。

 

髪の毛が抜けるくらいの乱暴さだったが、紫苑はされるがままだ。

いつもなら、何かしらツッコミがあるはずなのに。

 

「……、今回は随分と堪えておるようだの」

 

納得したようにひとつ頷いて、ロベリアは撫でるのを止めた。

 

そうして紫苑の頭をそっと自らの胸に抱いた。

 

「いくら善行を為そうと、無意味だの。……それが我等という存在だの。我らという在り方だの。善行など施したところで報われぬ。その相手が生者だろうと、死者だろうともな」

 

それでも、とロベリアは紫苑に問いかけた。

 

「それでも、貴様はこんな戦いを未来永劫続ける気かの?なんの得も利益も無いというのに、自己満足ですら得られぬというのに……」

 

ややあって、紫苑はしっかりと頷いた。

ロベリアの胸に顔を埋めた格好で喋ることが出来なかったから、しっかりと頷いた。

 

「やれやれ、やはり仕方のない奴だの、貴様は」

 

腹立たしげに、けれども今度は優しく──ロベリアは紫苑の頭を撫で続けていた。

 

 

あれからどのくらいの月日が経ったのか、彼女にはわからなくなっていた。

 

それだけ、ここ最近はめまぐるしい日々を過ごしていた。

 

基本的な武器の扱い方、彼女のパートナーの手綱の握り方、そして役割をはたす為の基礎知識──

 

あの紅く燃え上がる世界、煉獄からスカウトという形で連れ出されたあとの多忙さといったら、ブラック企業も裸足で逃げ出すレベルだ。

 

この一週間の間だけでも、睡眠時間ゼロ、休憩時間は一日あたり僅か二時間。

 

しかも、彼女をスカウトし、そしていま教育を担当しているのは、かなりのお偉いさんらしく──

 

「ふえぇ……、もう体力の限界ですよ~」

 

「もう死んでいるでしょう、体力の限界なんてありません!」

 

──超絶スパルタだった。

 

ただいま、新人研修の最終試験としての模擬戦の真っ最中。

 

「はやく、ぐっすり眠りたいよー!!」

 

彼女がその背に跨がった、パートナーのやたらでっかい三首の狼の首輪から伸びる手綱を引いて突撃の命令を伝える。

 

三つの狼の頭がそれぞれ雄叫びを挙げて巨体が疾駆する。

 

「よく手懐けていますね。これなら──」

 

金の髪と、白銀の鎧の下に着込んだ深紅の衣の裾を翻すと、教育係の女性が大楯を構えて、真正面からその突撃を受け止める。

 

「ひえぇ~!?」

 

「キャイン!?」

 

ひとりと一頭(頭は三つだけど)が情けない悲鳴と共にぶっ倒れた。

 

まるで鉄筋コンクリートの壁にぶつかったような衝撃が彼女達を襲っていた。

 

「──及第点でしょう」

 

ぐるぐると目を回している彼女に向かって教育係の死に神は告げた。

 

翡翠色の瞳を細めて、優しげな微笑みを浮かべて、かつて煉獄でそうしてくれたように彼女へと手を差し伸べる。

 

「あ、ありがとうございます……」

 

教育係の死に神の手を取って、ふらふらと起き上がる。

 

「やっと研修終わったの?」

 

「ええ、よく頑張りましたね」

 

教育係の死に神が優しく彼女の頭を撫でる。

 

(ほへー……)

 

撫でられる彼女の表情は弛みきっていて、とろけきっていた。

 

ちょっと雰囲気が百合百合しい。

 

「さて、それでは今後しばらくは彼に付いて実戦経験を積んでください」

 

「彼──ですか?」

 

「ええ」と頭を撫で続けながら死に神は思わせぶりにウインクした。

 

「はうっ!?」

 

不覚にもハートを打ち抜かれた彼女の頬が赤く染まる。

 

生前の男運が最悪だった分、死後の女運は最高だった。

 

(もう、同性でもいいかも)

 

なんかもう、ダメなひとがそこにいた。

 

「さっそくですが、すぐにでも彼と合流してください」

 

彼女の頭から手を離して、教育係の死に神の表情は真剣なものに変わる。

 

そこにはもう彼女の教育係ではなく、上司としての死に神がいた。

 

「了解です。あ、でもその彼って誰ですか?」

 

彼女の間の抜けた質問に、まるでコントのオチのように上司の死に神はずっこけたのだった。

 

──やがて、慌ただしく準備を終えた彼女はパートナーの三首の狼に跨がった。

 

指令の記された紙にもう一度目を通して、ほうっと息を吐いた。

 

「ほんとにもう、気をつかってくれちゃって」

 

ひとりごちて、にまにまと笑顔を浮かべる。

もう、上司の死に神にメロメロだった。

 

「がう!」

 

待ちくたびれた三首の狼が催促するように吠えた。

 

「ハッ!?」

 

ビクッと我に返って彼女は慌てて手綱を引いた。

 

待ってましたとばかりに三首の狼が力強く四肢で地面を蹴った。

 

「死に神見習い、モモカ。いっきまー─────はぐっ!?」

 

思いっきり、舌を噛んで悶絶しながら百花は──死に神見習いとなったモモカは新たな一歩を踏み出した。

 

「ビックリさせてやるんだから、覚悟しときなさいよ。紫苑くん!」

 

明るく元気な声が青空に響いていた。

 

 

 

──G R:Goodwill not arriving 完──



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