ここは温かくて、ゆらゆらしていて、母のお腹の中にいるみたいで。
何も考えなくていい。
何もしなくていい。
漂っているだけでいい。
感情とは何だったのか、もう自分ではわからない。
だけどいつの間にか目の前にいたこの人は誰だろう。
とても久しぶりに誰かを見た気がする。
認識した気がする。
知らない人なのに、無性に触れたくて、力なく手を伸ばす。
そして確かに、その人の頬に触れた。
雨上がりの森はひどく湿気を篭らせていた。土はぬかるみ、気を抜くと一瞬で足を取られる。そんな鬱蒼とした森の中、わずかに残る獣道を通り歩く男がいた。髪は白く、片目を隠すように前髪が伸びている。洋装を身に纏い蟲煙草を吸っていた。男の名はギンコと言う。
「まいったな…」
ギンコはぽりぽりと頭をかいた。先ほど土に足を取られ、山道からはずれてしまったのだ。もう日が暮れる。回りを見渡しても民家らしきものはまるでなさそうだった。
速度を早め沈んでいく陽とは対照的に、急な坂に気を付けながら、少しでも足場の良い場所を選んでゆっくりと進む。そしてようやく、休めそうな岩陰を見つけた。今夜はここで休もうと、荷物を降ろした。
疲れきった体を横たえると、すぐにでも微睡み始めたが、ふいに力強い視線を感じた。勢いよく起き上がり、周囲を見渡す。するとそこには、鹿の姿をしたヌシがいた。
ギンコが気付いたことを確認すると、ヌシは静かに踵を帰す。そしてまたすぐにギンコへ視線を向けた。
「付いて来いってことか?」
言葉が聞こえていないように、ヌシは歩みを進める。疲れた身体に鞭を打ち、後を追いかけた。
岩陰から大分離れた場所までやってきたが、ヌシは止まる気配を見せない。
「一体どこまで…」
言いかけた言葉は、最後まで紡がれず、変わりに息をのむ。
眼前には小さな泉があった。しかし、辺りの暗闇をすべて照らすように光輝いていた。息を深く吸い込むと、芳醇な香りが鼻腔を刺激する。途端に光の正体は光酒だと確信した。
「光脈筋と繋がってるのか……?」
答えを求めるようにヌシを見るが、既にそこにヌシの姿はなく、聞こえるのは泉のせせらぎだけだった。
ギンコはゆっくりと泉に近付き、そっと手を伸ばす。水を掬うと、輝く滴がぽたぽたと手からこぼれ落ちた。
ふと、先刻よりも光が弱まっているのに気付く。みるみるうちに泉の底へと消え行く光は、しかしただ一点のみ淡く輝き続けていた。ぼんやりと、人の形のようにも見える。まさかと思い目を凝らすと、それは確かに人であり、髪の長い女性だった。唖然としたのも束の間、我に返ったギンコは泉へと飛び込んだ。泉の中心に浮かび、そして沈み行く彼女を掴み、陸へと引き揚げた。
「おい……おい!聞こえるか!」
力なく体を投げ出す彼女に声をかける。しかし、固く閉じられた目蓋は開かれないままだった。口元に自らの耳を近付ける。微かだが、息がある。生きている。
「それなら……」
ギンコは蟲下しの薬を取り出し、彼女の口に含ませた。体を起こして泉の水を流し入れて飲み込ませる。彼女の体は泉から上がっても、淡く光続けていた。身体に輝きが馴染むほど、多くの光酒が体内に入り込んでいるなら、恐らく彼女は蟲の側の存在となりかけている。ヒトへと引き戻す為に、ギンコに今できるのは蟲下しの薬を服用させることだけだった。
「…ぅ……」
ほんの小さな呻きと共に、微かに瞼が動いた。先ほどよりも大きく息をして、咳き込んだ彼女の背中を、軽く叩いて落ち着かせる。
「おい、大丈夫か」
ギンコの言葉には答えず、彼女は俯いてしばらく呼吸を整えていた。しかし整えるというよりはむしろ、久方ぶりに呼吸をして感覚を取り戻しているような、そんな不自然さで吸って吐いてを繰り返しているようにも見えた。しばらくして、ようやく彼女はゆっくりと顔をあげた。焦点の定まらない瞳で、ぼんやりとギンコを見つめている。
「大丈夫か?」
再度、同じ質問を投げ掛ける。それにも彼女は反応を示さない。ギンコが考えているよりも、長い時間光酒の中にいたのだろうか。だとしたら、少量の蟲下しでは効果が足りないのかもしれない。光脈に関することだ、専門家に任せるのが一番だろう。そこまで考えて、彼女の手が動いてることに気付く。力ないその手は、緩慢な動きをしながらも、確かな意思をもって持ち上がっていく。そして、そっとギンコの頬に触れた。すると彼女は、糸が切れたように倒れこんでしまった。
心配を余所に、すうすうと穏やかな寝息をさせている彼女を見て、思わず溜め息が出た。
「さて、どうしたもんかな……」