歩き出してしばらくすると、彼女は意外にも自分一人で歩けるようになっていった。今にも崩れ落ちそうな不安定さがなくなり、嘘のように当たり前に歩いている。ただ、未だその瞳に生気は宿らないままだ。おまけに、ギンコの服を掴んだまま離そうとしなかったが、何にせよ歩いてくれるのは助かる。日が完全に暮れる前に、人里を見つけることができた。
畑で作業をしている男性に、声をかける。
「すまないが、ちょっといいか。俺は蟲師をしている者なんだが、あんた、この人に見覚えはないか」
顔を上げた男性は、ギンコを見、そしてその回りを見て首を傾げた。
「この人ってぇのは、誰の事だい」
その言葉に、ギンコは彼女が人に認識されないほど、まだ蟲の側に近いことに気付く。人里に連れて来るには、少し早かったのかも知れない。
ギンコが答えあぐねていると、そこへ灯りを持った女性やってきた。
「あなた、もうそろそろ……あら、お客さん?」
「あぁ。どうやら蟲師らしいんだがな」
どうやら女性はこの男性と夫婦であるらしい。夕陽は山の向こうに消える間際、一際強い光を放っていたが、辺りはもう暗闇に沈みそうだった。心配して手迎えに来たのだろう。
「旅の途中でしてね。……人を探しているんだが、ここらで女性がいなくなったって話は聞きませんか」
夫婦は顔を見合せ、首を降った。
「いやぁ、この里じゃそんなこと滅多にないよ」
「そうか…」
せめて行方を探している家族でもいればと思ったが、この様子では、手掛かりすら得られなさそうだ。
「ねぇ、蟲師って言ってたわよね。良ければ、今夜はうちで休んでいったら?里に来たばかりなら、泊まる場所決まっていないんでしょう?」
どうしたものかと悩むギンコに、女性から有り難い申し出をもらう。
「それは、助かりますが」
言いながら、黙ったままの彼女に目をやる。相変わらずギンコの服を掴んだまま、会話に全く興味を示さない。夫婦には見えていないとは言え、と言うよりも、見えていないからこそ、家に連れて入っても良いのだろうか。
「実は、うちの息子がね」
「おい、やめないか」
「いいじゃない。うちの里に蟲師が来るなんて、滅多にないんだから」
そんなギンコの思案を余所に、夫婦は会話の温度を上げている。
「あのね、息子なんだけど、私たちには見えないものが見えてるって言うのよ。何度言っても言い張るのをやめないし……見てあげてくれないかしら」
反対する男性の声には耳を貸さず、女性は真っ直ぐにギンコを見据えていた。真剣な表情から、息子のことを本気で気にかけているのがわかった。
「世話になる分、見るのは構いませんよ」
「あぁ良かった!じゃあ、早く帰りましょう。あの子がお腹をすかせて待ってるわ」
ギンコの言葉にぱっと笑顔を見せた女性は、そそくさと農具を抱えだす。
「どうも押しが強くてな、申し訳ない」
男性はすまなそうに言うと、女性を手伝って農具を纏めた。それを見ながら、二人には見えない自分の連れについて、教えることはしなかった。
「……まぁ、お互い様ってことで」
夫婦に聞こえないよう、小さく呟いた。