マリオ・バルドヴィーノ提督は、鼻歌交じりでグラスにワインをそそぎ込んでいた手を止めると、顔を上げる。
「ん、地震か?」
頭上でかすかに揺れ動く、飾り気のない電灯を見ながら老提督が眉根を寄せた。
本棚に無造作に押し込まれた書類を、丁寧に分類していたトレントが手を止める。
「……いえ、違うようです」
耳を澄ませていたトレントが作業を再開し、床の一角を見ながらつぶやく。
「ふむ、そのようじゃな」
トレントの意図に気づいたバルドヴィーノも、床を見る。
はじめ感じた揺れは、彼の脚もとから部屋の右奥、階下から続く階段へと移動していた。
さっきまでかすかに感じていた揺れは地響きを伴い、徐々に大きくなる。
謎の移動する地震、その震源地は、現在三階へと続く階段の途中にいるようだった。
「うおっ!?」
かすかな叫びと、何かを突き破るような鈍い音とともに、揺れが突然止んだ。
バルドヴィーノとトレントが、顔を見合わせる。
「やったな……」
「はい」
「また、修理かい」
口髭をいじりながら、バルドヴィーノは顔をしかめる。皺だらけの老提督の顔に、さらに幾本もの深い皺が刻まれる。
しばらくすると、再び地響きがはじまった。
だが、その揺れの激しさは先ほどの比ではなく。壁にかけられた風景画が斜めに傾き。天井からはバラバラと埃が舞い落ちてくる。
「フッ」
手にしたファイルに薄く積もった埃に、トレントは息を吹きかける。
バルドヴィーノが腰掛ける事務机が動きだし、上に置かれたワイングラスとボトルが、仲良く踊り始める。
だが、情熱的なステップも長くは続かなかった。
「そろそろ、だな」
机の上から弾き飛ばされ、どれがグラスでどれがボトルか判別のつかなくなったガラス片の山を、老提督は悲しげな顔で見ながら「どっこいしょ」とつぶやき立ち上がる。
もはや、何かに掴まっていなければ立っていられないほど部屋全体が揺さぶられ、老提督は壁づたいに移動し、備え付けられた簡素な作りのキャビネットへ向かった。
ついに建物自体が異音を立て、軋みはじめる。だが、三階の廊下を一直線に向かってきた激しい地響きが、執務室の前でピタリと止まった。
「ノックはいらんぞ。用があるならそのまま入ってこい」
老提督の声に、ドアの外から明らかに逡巡する気配が伝わってきた。
いまごろ、移動する震源地は、振り上げた腕のやり場にさぞや困っていることだろう。
「階段だけでもウンザリしておるのに、このうえドアまで壊されては溜まらんわい」
キャビネットの中をゴソゴソとやりながら、バルドヴィーノは苦虫を噛みつぶしたような顔でひとりごつ。
「失礼しますッ!!」
怒号にも似た声とともに、ドアが猛烈な勢いで開け放たれた。
その衝撃にドアが悲鳴をあげ、
「まずは、一杯どうじゃ?」
バルドヴィーノはため息をつきながら、手にした新しいワインのボトルを突き出し軽く振った。
元ドアのあった場所に、第1遊撃艦隊の旗艦ルイジが、憮然とした顔で立っていた。
◆◆◆
「ほれ、まずはコレでも飲んで、少し落ち着け」
バルドヴィーノは口角を持ち上げながら、並々とつがれたワイングラスを差し出した。
ルイジは、無言のままバルドヴィーノとグラスを交互に見ていたが、やおらボトルに
手を伸ばすと、中身を一気にあおった。
手で口元を拭いながら、ルイジは飲み干したボトルを机に置く。
そして、手に残ったグラスを見つめていたバルドヴィーノに向かい、直立不動の姿勢をとる。
「……まっ、とにかく座れや」
老提督は、部屋の隅から椅子を引っ張ってくると、上に積もった埃を取り除き、ルイジにそう命じた。
話の腰を折られ、ルイジは不満そうな顔を一瞬浮かべたが、何も言わず椅子に腰掛けた。
「本日は、提督にどうしてもお話したいことがあり参りました」
「そのようなことは、本来秘書艦である私を通すのが筋ではありませんか?」
髪や服についた埃を払いながら、トレントが話に割り込んでくる。
だが、感情のこもらない秘書艦の声音は、ルイジの勘にさわったようだった。
「非常事態だ!」
トレントは、ルイジの怒声などどこ吹く風といった表情で、今度はハンカチで眼鏡を拭きはじめる。
「貴女は仮にも一つの艦隊を預かる旗艦のはず、その旗艦がこうも軽はずみに行動をとっていたら、それこそ艦隊の規律が守れないのでは?」
「その艦隊の事で、私はここに来ているのだ!」
ルイジは声を荒げ席を立つと、目の前の机に力任せに拳を叩きつける。
鈍い打撃音とともに、机が壊れ木片が飛び散った。
トレントの切れ長の目が、わずかに細まる。
「階段、ドア、そして今度は机……ルイジ、貴女はいったい、幾つこの基地の備品を壊せ
ば気がすむのですか?」
何かを押し殺すようなトレントの口調に、ルイジはようやく冷静さを取り戻す。
「ああ、構わん、構わん」
あっけらかんとした声にトレントとルイジの視線が一点に集まる。
その先には、ついには机すら失い、椅子に腰掛けたまま所在なさげに脚をブラブラさせる老提督の姿があった。
「こんなモンで、ルイジの怒りが少しでも発散できるなら、安いもんじゃよ」
カラカラと笑いながら、バルドヴィーノは手に持っていたため、破壊を免れたグラスの中身をのどに流し込む。
「提督は甘すぎます。先ほども言いましたが、これでは規律が……」
さすがに血相を変えて詰め寄るトレントを、バルドヴィーノは片手を上げて遮った。
「構わんと言ったじゃろ? どうせ、
バルドヴィーノは、そう言いながら片方の眉だけ器用に上げてみせる。
話についていけなかったルイジは、黙々と書類の整理を再開したトレントの背中を、不思議そうに眺めていた。
「さて、ようやくこれで本題に入れるというわけじゃ」
バルドヴィーノの口調が変わり、ルイジは反射的に振り返った。
「今日、お前さんがここに来た理由は、あの指令書……つまり、あの嬢ちゃんに
ついてなんじゃろう?」
ゆっくりと首を縦に振るルイジを見ながら、白髪の老提督はニンマリと微笑んだ。