時空管理局が発足以降、管理世界の歴史を揺るがした事件は何か。
そう問われれば、大きく分かれて答えは四つに分類される。
一つ目は『PT事件』。
自らの愛する娘を生き返らせるために、母である『プレシア・テスタロッサ』が主犯となった悍ましくも悲しい事件。
願望の実現を可能とする膨大な魔力を秘めたロストロギア、『ジュエルシード』を巡る戦いは、あの管理局の英雄『高町なのは』と『フェイト・テスタロッサ』が初めて表舞台に上がった事件としても知られている。
彼女たちの出会いと戦いは後に演劇や映画に取り上げられて大きな人気を誇り、多くの人々にこの事件が語り継がれている。
二つ目は『闇の書事件』。
これはロストロギアである『闇の書』が巻き起こした事件の総称である。
幾度となく再生し、死者と悲劇を生み出し続けたこの事件。今なおその傷跡が魔法世界に深く刻み込まれている。
だが『闇の書』は管理局中央や数々の次元世界を巻き込んだ『魔導士襲撃事件』において『高町なのは』や『クロノ・ハラオウン』・『リンディ・ハラオウン』の親子、そして養子となった『フェイト・ハラオウン』達の活躍にて収束。
そしてこの後、消え去った『闇の書』の最後の主であった『八神はやて』が守護騎士プログラムと共に管理局に入局。
ここに伝説の部隊である『機動六課』の主要陣が揃うことになる。
三つ目は『JS事件』。
「犯罪者でなければ歴史に名を遺す」と称された狂気の科学者、『ジェイル・スカリエッティ』が自らの生み出した戦闘機人達と共に行った最悪の事件。
地上本部を襲撃、いくつものロストギロアの使用、さらには時空管理局の最高評議会のメンバーを殺すという歴史上類を見ないほどの大事件であった。
そして、この『JS事件』と同時期に発生したもう一つの大事件により、この年はミッドチルダ及び管理世界において、知らぬものはいない暗黒の年とされている。
暗黒の年、その年を生きた者達の共通点として、一人の少女の名前は禁句とされている。
残り一つの大事件は、多くの魔法世界に衝撃を与えた。
死者は判明しているだけで八百人以上。
これは全て単独で殺害した上での数値であり、彼女が関わった事件の死者を合わせれば千をゆうに超える。
『JS事件』は一般民間人を対象として行われなかったが、この事件は管理局員や民間人を問わず、何の罪もない多くの人々が非業の死を遂げた。
それもただ殺されるのではなく、より残酷に拷問されて遊ばれて殺されていった。
また、これを防ぐために出動した管理局員達にも二百人を超える死者が出てしまった。
そのために『JS事件』が『最悪な事件』と称されるのに対し、この事件は『最恐の事件』と呼ばれている。
未だなお多くの人々が事件の主犯の名や異名を聞くだけで恐れ、憎悪する歴史上類を見ない大量殺人事件だ。
『最恐の事件』の名は、『HP事件』。
史上最悪の殺人者『ザッハドの使徒』である『ヒルダ・ぺネロテ』が、ロストロギアである『エミレオの書』を使用した大量殺人事件である。
ヒルダ・ぺネロテと管理局が最初に接触したのは、第XXX管理世界の都市XXXXに存在していた裏組織、『カエストス魔法商会』の行動によるものであったことが解っている。
組織内で殺人者としての頭角を露見させ始めたヒルダ・ぺネロテの存在を危惧した『カエストス魔法商会』は、罠に嵌めるための囮として偽りの取引の護衛を彼女に依頼。
そして自ら管理局に一情報提供者の情報と偽って、この裏取引が行われる現場の情報を提供したのであった。
しかしこの時点では『お菓子の魔女』の名は知られていたが、ヒルダ・ペネロテの名は管理局内及び管理世界では知られていなかった。
これはヒルダ・ペネロテが裏社会に潜伏しており、まだ表社会での連続殺人を実行していなかったことが理由として挙げられる。
また、彼女の殺人が『カエストス魔法商会』によって痕跡が一切消されていたことも原因であった。
故に、管理局はその裏取引への強制介入において、初めてヒルダ・ペネロテと遭遇。戦闘が行われた。
――――そしてこの戦闘が、後に魔法世界を震撼させる『HP事件』の幕開けであった。
■ ■ ■
管理世界の廃棄された都市。
かつては栄えたであろう無人の都市群は、今や鳥の鳴き声一つとして聞こえない不気味さがあった。
並び立つビル群は整備や清掃が行われないために塗装が剥がれ落ち、ヒビが所々蜘蛛の巣のように広がっている。
日に照らされて影を生み出す都市の建物の群れ。それはさながら物言わぬ墓標のようであった。
その一角、都市の外れにあった廃棄工場。
既に工業機械は撤収され、錆と無音が支配する巨大な空間。
そこにはヒルダを始めとする複数の魔導士達の姿があった。
「つまらないなぁ……」
ヒルダの呟きに、周囲の魔導士たちの体が大きく震える。
リカルドが次にヒルダに命令した任務は、物資の取引における護衛。
物資の中身は質量兵器系統、そして違法薬物など時空管理局が神経質になって取り締まっている物々だ。
ヒルダからすれば前時代的なガラクタだが、こんな物でも欲しがる輩はいるらしい。
さらにヒルダが行った諸々の所業により、他の裏組織が徐々に『カエストス魔法商会』に対して動き始めている。
この取引に介入するなどの妨害も十分考えられるために、半ば尻拭い的な意味を込めて彼女はこの護衛を任されたのだろう。
だがそれを理解するのと納得するのでは、まったく別の話である。
ヒルダの顔は不愉快極まりないと言わんばかりに、眉は八の字、唇はへの字に結ばれていた。
ヒルダから発せられる殺気に等しい怒気に、周囲の空気は張りつめられている。
同じく護衛として派遣された、ヒルダの精神的下僕である魔導士達は自らの主の不機嫌さに居心地が悪そうに周囲を警戒していた。
下手に話しかければ、死んだ副官や現在療養中のブラウンのように、その怒りの矛先を向けられる。
まだ二人のように重症や死ぬ程度で済むなら良いが、ヒルダが遊んで殺した者たちのように、生きたまま解剖されたり、融合されて殺されたくはない。
ヒルダの部下達は被害者の面々の死に様をヒルダ自身に見せつけられているが故に、例え理不尽な暴力や言動を受けようとも、逆らう気は毛頭無い。
僅か成人に満たない少女のヒルダに、裏社会の魔導士達は魔法を使われなくとも、恐怖で支配されていた。
ドイツの社会学者であるマックス・ヴェーバーは支配の三種類型として、『伝統支配型』と『合法的支配型』の二つの他に、『カリスマ的支配型』を構想の一つとしている。
これは呪術力に対する信仰や、啓示力や英雄性に対する崇拝であるとしているものだ。
魔導師達はヒルダの持つ殺人者としての一面に恐怖を持ち、憎悪を持つことで服従しているのだ。
一件それは理解不能な信仰のように思えるが、そもそも人の理解を超えたものに対して人は太古の昔から恐れ、敬ってきた。
言わば自らの力が一切及ばないが故に信仰が生まれるのである。命の際限、病気、運など己の力ではどうしようもない問題を人は無意識のうちに恐れるのだ。
ヒルダが彼らにもたらした信仰は恐怖、彼らは安全を得るためにヒルダに力を捧げているのだ。
だが、ヒルダにとってはどうでもいい話であった。
ヒルダ以外の人間が何をどうしようが関係ない。これからも殺し続けていくだけである。
信念もなければ、願いもない。夢もなければ未来もない。
ただ「私は負けないし死なない」、それだけの話である。
理由はヒルダがメトレイヤから長く続いた問いに打ち勝った『本物』であるからだ。
ヒルヅ、ヒルド、ヒルデの姉妹の姿は無く、自分だけがこの世界で殺し続けられることがその証明であるからだ。
ザッハド様の導きによりここに来たのか、それ故のエミレオの書なのか。
解らないことは山ほどある。しかしヒルダが異境の地で、魔法が謳歌する地での行動はこれまでと変わりがない。
そろそろ我慢の限界だ。
金銭の確保は十分。
裏組織を一つ潰した際、無断持ち去った魔法の物品と金銭や宝石類で人生を三回はやり直せるだけの金は用意されている。
各管理魔法世界の情報は把握出来たし、問題となっていた警察機関の役割を持つ管理局の情報も入手。
目標の一つはまだ未達成ではあるが、それを達成する為にわざわざリカルドの糞野郎の言う事を聞いているのは癪に触る。
今回もこんなつまらない護衛をこのヒルダちゃんに頼むとは、どんな手で殺してやろうか。
あの眉間に集まった皺を取ってやるために、顔全体を焼いてやるのも――――
「……?」
――――ちょっと、待て。
ヒルダは微かな違和感を覚えた。
殺人構想の愉悦に浸っていたヒルダの目が、冷静さを取り戻していく。
武闘派組織である『アルタイル』での戦いは、始終ヒルダの圧勝に終わった。
満足に遊べた事でヒルダはまったく気にはしていなかったが、あれは果たしてリカルドの望んだ結果であっただろうか。
ヒルダが見立て殺人によって晒した咒式とエミレオの書と、預けられた『カエストス魔法商会』の戦力。
ヒルダ自身の目からすれば余裕で欠伸が出るレベルだが、他者から見れば『アルタイル』に勝てるとは思えない無謀とも呼べるべき戦い。
いや、そもそも戦いにすらならないものであったのではないか。
さらにヒルダは状況と情報、自身を取り巻く環境を整理していく。
ヒルダ自身は暗殺と奇襲を得意とする狩人型の殺人者であった。
武人や正面からの闘争を好む戦術を選ばないが故に、戦法を構成してヒルダを長姉とするペネロテ姉妹は殺人を行ってきたのだ。
ペネロテ姉妹として、殺人者としての頭脳が、ヒルダに危機感を伝えていた。
リカルドは生温いとはいえ、この魔法世界の一角である裏組織を率いている。
それだけの計算は出来る男、ヒルダ自身が彼にまったく恭順の意を示してはいないことは理解できる頭を持っているはずだ。
それは『アルタイル』を殲滅したヒルダが、彼自身の部屋に呼び出された件で如実に表されている。
リカルドの親衛隊に囲まれ、詰問していたリカルドの目。
そこにヒルダに対する信用と信頼は欠片も無かった。
そのリカルドがあれから間もなく、このような取引の護衛をヒルダに依頼する。
取引に関しては神経質になっていたリカルドが、自らの手では押さえられないと解ったヒルダに護衛を依頼する。
それは爆発物を火に投げ入れるようなものだ。
あの計算高いリカルドが組織に入ったばかりのヒルダならともかく、『アルタイル』の殲滅の際に制御不能に陥ったヒルダを取引に介入させる事は断じてあり得ない。
今のヒルダの立場は不自然極まりない。
鴨が葱を背負ってくるどころか、鍋と野菜とミネラルウォーターまで持ってきたかのようだ。
「ちッ!」
ヒルダの鋭い舌打ちに、周囲の魔導師達は恐る恐ると言ったように彼女を見つめる。
それらを「この馬鹿共が」といわんばかりに睨み返しながら、ヒルダはぬるま湯に浸かりきった自分を律する。
こいつらを笑えないぐらいに愚かな自分を笑いたい。
死からの脱出に浮かれ、魔法世界という技術と未知の世界での殺人に浮かれてしまった自分。
その結果がこれだ。
生温い殺人と戦闘に身を置きすぎたのだ。殺人者としての魂と頭脳に脂肪が付いてしまった。
怠惰な殺人と戦闘は、己の体を蝕んでいく。
それ故にエリダナでパンハイマに敗れ、糞ドラッケン族に顔を陥没させられ、糞眼鏡に下半身を焼かれ、自らの妹であるヒルデに殺されかけた事をもう忘れたのか。
はっとするかのようにヒルダは右腕に巻かれた最新の高級時計を確認。
予定時間にはまだ早いが、それでもここまで何の連絡もないのはおかしい。
やはり今現在、ヒルダが置かれている状況は異常だ。
くそっくそっくそっ!?
思わずこの場にいる全員を皆殺しにするという、半ば八つ当たりに近い激しい殺人衝動に襲われる。
だが感情に負けては勝てるものも勝てず、殺せる者も殺せない。
ここで壁を削れば、己の命が削れることになってしまう。
落ち着け、冷静になれヒルダ。
頭を冷やすのよ私。私は他の有象無象の愚か者達とは違う本物なのよ?
焦りを覚えるのは私に狩られていく馬鹿だけで十分、かわいい私は優雅に殺していくんだ。
最後に笑うのは私、この世界の中心は私、そう物語の中心は私なの。
むしろこの危機すらそのための舞台に過ぎない。
本物である私が、『ペネロテ姉妹』ではなく『ザッハドの使徒』として雄飛の時を迎える舞台に過ぎないのだ。
ヒルダは沸騰しそうになる頭を理性で抑えつけながら、笑顔を形成して自らの下僕に振り返る。
その笑顔は女性への耐性が無ければ、赤面するほどに可愛らしく美しい。
だが先ほどから異様な空気を発していたヒルダに対して、何事かと眺めていた魔導師達は、突然のヒルダの笑顔に困惑する。
「ねぇ~、え~と、だれだっけ。ほら、そこのおじさん?」
「は、はいッ!何でしょうヒルダ様!」
ヒルダの話しかける対象に選ばれた中年の魔導士に、周囲の魔導師達は憐みの視線を送る。
だが巻き込まれてはたまらないとばかりに、他の魔導士達はすぐさま視線を逸らして警戒に戻る。
ヒルダに声をかけられた魔導士は、すぐさまヒルダに駆け寄ると跪いた。
ヒルダは可愛らしいフリルが付いた黒のポーチから手鏡を取り出す。
そしてそのまま手鏡で自らの髪型を確認して整えながら、緊張と恐怖で肩を小刻みに震わせる魔導士を横目で眺める。
「今日はどこと取引だっけ?」
「も、申し訳ありません。私は何も……ヒルダ様はご存じ無いのですか?」
こんな状況に陥っていてまだ気が付かないのかこの無能が。
思わず手に持った手鏡を握り潰しそうになりながらも、ヒルダは「えへへ」と恥ずかしそうに笑った。
「ん~急な取引だって言われたからね♪それと、『カエストス魔法商会』に連絡は繋がるかな~?」
「お待ちを」
すぐさま空中に映像を投影しようと中年の魔導師は試みる。
しかし一向に映像は繋がらず、魔導師の顔には焦りが浮かび始めた。
「も、もうしわけございません。通信の方が――――いや、これはジャミングッ!?な、何故ッ!?」
「……ふ~ん、なるほどね♪」
そう声を発するや否や、ヒルダは手鏡を床に叩き付ける。
叩き付けられた衝撃で鏡の表面が亀裂が入り、砕け散った鏡の破片が辺りに飛び散った。
そして整然と立ち上がったヒルダの顔は能面のようにあらゆる感情が抜け落ちていた。
先ほどの異常に加えて突然の激しい破砕音。
周囲の魔導士が何事かと振り返れば、そこには腰を上げてゆっくりと歩き始めたヒルダの姿が。
彼女の細い指は、魔杖風琴の円盤に伸びている。
それら一連の流れを見ていた中年の魔導士の顔には死の恐怖。
理不尽な死が自らを襲うのだと考えた男は、抵抗することすら考えられず、床に両手をついて涙と鼻水を流し始めた。
それを見た魔導士達は、また仲間の一人がヒルダの逆鱗に触れたのだと冷徹な目で状況を観察していた。
だが、彼らの予想を反してヒルダは中年の魔導士の横を通り過ぎていった。
そしてヒルダが歩く先にあったのは、今回の取引物があった。
魔法鍵がかけられた複数の一メルトル程の魔導ケースである。
冷めた目をしたヒルダの指が、かすかに魔杖風琴を鳴らす。
それにより彼女の肩に土気色の老人の顔をした『菓子屋敷のポコモコ』が召喚される。
「ヒルダ様、何を――――」
ヒルダの行動を理解できない魔導士達の一人が、彼女に声をかけたその瞬間。
『菓子屋敷のポコモコ』の咒式が発動、複数ケースの上空に四百八十キログラムルの重量を誇る通常の二十倍の横幅を持ったチョコレートの砲弾がいくつも召喚。
ヒルダの行動をようやく理解した魔導士達が止めようと動き出すも、チョコレートの砲弾は僅かな迷いもなく魔導ケースに落下していく。
着弾、そして爆音。
あまりの連続した衝撃に耐えきれず歪み、砕けてバラバラになった魔導ケース。
宙に放電される電流と湧きあがる煙から完全に破壊されたことが確認出来る。
ヒルダはそのうちの一つ、転がっていたケースの一つを振り上げた脚で蹴飛ばした。
金属が歪む音と共に、既に壊されかけていた魔法錠が完全に解除され、歪な電子音や煙と共にケースの蓋がスライドして中身が顕わになっていく。
その中身は――――
「リカルドの糞野郎、この私を嵌めやがったわね」
――――空であった。
報告にあった違法薬物もなければ、違法な質量兵器があるわけでもない。
推定するにこのケース全ての中身が、このケースの中身と同じように空だ。
中身が無いのにも関わらず、よくぞここまで厚かましいケースを用意したものだ。
だがこれこそ、ヒルダが推測してだした結論の決定的な証拠といえよう。
ようやく周囲の魔導師達も空のケースに加え、ヒルダの数々の言葉から現在の自分達が置かれている立場が把握できたらしい。
それぞれが目で意志の疎通を行いながら、バリアジャケットを展開していく。
だが、誰一人として怒りや戸惑いの発声を行う魔導師はいなかった。
ヒルダの体が怒りに震え、美しい顔は憤怒により悪鬼すらも霞むような形相へと変わっていたからだ。
「上等ね。ここまで虚仮にされたのはパンハイマとの戦闘、そして地下迷宮での戦闘以来よ」
あまりの怒気に周囲の魔導師は思わずヒルダから一歩遠ざかる。
無意識の上での行動であった。
「もう許さない。殺す、殺す、殺す。リカルドは絶対に殺す」
悦楽も、悲しみも、怒りすらも感じられない無感情の桃色の瞳。
ヒルダの内面は全てを凍り付かせ、凍死させるほどの激しい吹雪が吹き荒れていた。
「指の先からやすりでじっくりと摺り下ろしてあげる。神経も、筋組織も、骨も、血管も、みんなみんなじっくりじっくり摺り下ろす。あまりの激痛に視界は真っ赤に染まり、精神は崩壊するだろうがキヒーアの咒式でそんな逃げは許さない。四肢を摺り下ろし終わったら、涎と涙と血と糞尿に塗れた顔で、死を乞うあいつの四肢を再度キヒーアで治療。また最初からじっくりと三日三晩かけて手足を摺り下ろしてやる」
口から激しい呪詛を垂れ流す。
聞くもの全てが耳を塞ぎたくなるような精神を蝕む呪詛を。
「五月蠅い舌は抜く、咽を引き千切る。目を閉じて逃避させないように、目蓋は取り除いて目の前にあいつの身長ほどの大きな鏡を用意して四肢を摺り下ろす。普通は死ぬけれど、死なせない。絶対に絶対に死なせない。リカルドには生まれたことを、私に馬鹿な事を仕組んだことを百万回後悔させるような生き地獄を味わわせてやる」
ヒルダの巨大な悪意に魔導師達の脈拍と呼吸は大きく乱れていく。
誰もヒルダに声をかける者はいなかった。
今のヒルダに声をかける者は皆無惨に殺されるであろうことが解っていたからだ。
理解するからこそ誰もが動く事も声を発する事も叶わず、ただただ木々のようにその場に黙して立つ事しか出来なかった。
そしてヒルダは怒りに身を任すも、同時に冷徹な思考は絶え間なく回転し続けていた。
現在ヒルダが置かれている状況は危険だ。
リカルドはヒルダが戻れば殺される事を十分に解っているのであろう。
だからこそ二度と己の下にヒルダが帰還しないように、何らかの手を打っているはずだ。
ヒルダの頭の中では危機を告げる激しいアラーム音が止まらずに鳴り響いている。
三度も瀕死の状況に陥った為か、彼女の生存本能は磨かれて研ぎ済まれているのだ。
罠が仕組まれていると解った以上は、一刻も早くここから離れるべきとヒルダは即時判断を下す。
元より情の沸くはずがない他の魔導師達を犠牲にしてでも、この場から逃げ延びるべきだと考えた。
そして行動するべく自らのバリアジャケットを展開した、その時であった。
自らのデバイスのセンサーに複数の魔力反応を確認。
それに気が付いたヒルダは瞬間、その場をまるで獣のように飛び跳ねる。
さらに空中で飛翔魔法を用いて後退。
その直後、ヒルダが存在していた位置にガラスを突き破って光弾が高速で飛来。
対象が存在しない光弾はタイル状の床に命中し、輝く粒子と共に弾痕を穿つ。
ヒルダはさらに狙撃からの死角に着地すると、その場で自らの持つ魔杖風琴の鍵盤に指をかけた。
額には光に照らされた珠のような汗が浮かんでいる。
ヒルダを襲った魔法は何者かの狙撃であると理解した魔導師達が、次々とヒルダを中心とした陣形を構築するべく動き出す。
しかしそれを遮るかのように窓や脆くなった天井を打ち抜いて、魔導師達の間に魔法弾が降りそそいだ。
陣形の構築を防がれた魔法商会の魔導師達は、各々が焦りながらも防御魔法を展開しながら側にいた魔導師達と合流。
だが反撃を取れず、結果として分断されてしまった魔導師達はその場で防御魔法を唱えるか、魔法が届かない範囲への逃避以外の手段を行えない。
それを苦々しく見つめながらヒルダはこれまでの魔法攻撃を分析していく。
この魔法は突発的なものではなく、明らかに計算された攻撃だ。
最初に指揮官であるヒルダを狙撃。
それが外れたと見るや、すぐさま部下の魔導師達を攻撃することで、こちらの連携の分断を図ってきた。
集団戦闘における基本中の基本だが、その効果は見ての通りである。
踊らせられる馬鹿共は、大慌てで防御魔法を展開しながら混乱している。
念話と呼ばれる直接脳内に指示や会話を飛ばす魔法を発動、魔導師達の無様な混乱を収めるべく叱咤のを飛ばす。
だがヒルダに返ってくるのは、混乱した情けない声ばかりであった。
解ってはいたことだが、所詮は裏社会にしかいられない無能共の集まりだと改めて知った。
ヒルダは思わず騒ぎ立てる魔導師達へ向けて、脳内で激しく罵倒しながら歯を噛み締めた。
いつも嵌めて殺すこの私が、盛大に無様に嵌められた。
その揺るぎない事実がヒルダに突きつけられている。
ただ慌てるだけで自らを苛立たせる無能共へ向けて、思わずエミレオの書を使ってやろうかとも考えた。
しかし今はそのような場合では無いと、ヒルダは魔力センサーを周囲に拡大させる。
反応はこの工場を囲むように二十四、遠方に一つ。
その配置と現状から察するに、敵は訓練された部隊であることに間違いない。
ヒルダ自身が怒って気を乱したとはいえ、殺気も無くここまで展開を許すなどそうは無い事だ。
最悪だ、この状況は不味すぎる。
警察士や賞金稼ぎ、さらには咒式事務所に追われた経験のあるヒルダは、自分が置かれた状況が嫌というほどに理解できたのだ。
これまではそれを突破してきたが、ここにはかつての姉妹であるヒルドとヒルデの姿が無い。
在るのは腕も根性も無いような、自分を苛立たせる馬鹿共の姿だ。
だがリカルドは一体これほど訓練された連中をどうやって集めたというのだ。
かつて対ザッハドの使徒の為に、糞眼鏡を中心としていくつもの咒式士事務所が連携した。
しかしリカルドは裏の人間であり、糞眼鏡のように表の傭兵隊連中を雇ったり連携することは出来ない。
仮に単独の傭兵達を結集させたとしても、このような連携をすぐさま行えるわけがない。
あの問責からあまりにも時間がなさ過ぎる上に、こいつらの行動は手慣れすぎている。
他の裏組織に手を借りることは、今現在の『カエストス魔法商会』には出来ないはずだ。
ましてこれは『カエストス魔法商会』の連中の持ち駒の動きではない。
「いったいリカルドの糞野郎はどうやって、こんな完璧な奇襲を行える魔導師連中を雇いやがったのよ!?」
まるで魔法のようなリカルドの手腕に、ヒルダの口からは彼に対する恨み言が飛び出した。
同時にこれまで雨のように降りそそいでいた魔法が一斉に停止。
工場の天井、その一角が巨大な魔法反応と共に破壊。
複数の魔導師達の同時詠唱による広域魔法で破壊されたのだ。
破壊された位置から分析するに、こちらを押しつぶすようなものでは無く対象を攻撃しやすいように、障害物を取り除く意味を込めた広域魔法であろう。
そして顕わになった工場の天井から、何人もの魔導師が突入。
彼らに展開されたバリアジャケットは、全て一つに統一されている事を確認。
ヒルダは襲撃者の正体を理解して、頭の中のリカルドを十八回エミレオの書でぶち殺した。
リカルドは恥を捨てて私を潰しに来たのだと、目の前の突入者達の存在からそれがありありと解った。
「武装を解除し、ただちに投降しろッ!」
「抵抗する動きを見せ次第、魔法を発動する。既に詠唱は済んでいる、無駄な抵抗はよせ」
彼らが属するは正義の名の下に犯罪者達を断罪する最大戦力組織。
ミッドチルダを拠点としているその組織の名は――――
「時空管理局だッ!」