幻想郷に春がようやっとやってきた。訪れた春は桜と共に周囲に広がった。
人里でも人間たちが活動的になり、里はにぎやかになっていた。
そんな人里をフランは歩いている。
「いぬー」
適当に口ずさむ。
「ねこー」
けっこう注目をあびてるフラン。当人はまったく気にしていない。
「たぬきー」
というより、気づいていなかった。
「きつねー」
声をかけられ、止まった。
「お前は里中でなにしてるんだ」
「こんこんこーん?」
振り返ると、金色の狐。春のように暖かそうな九本の尻尾が揺れている。
「言葉を使え」
「こんこん」
「よし、喧嘩なら買うぞ」
よくは分からないが、狐の妖怪は沸点が低いご様子。
「またゆかりんに怒られるよ?」
「バレなければ問題はない。それに今度は勝つから無問題だ」
「ふーん。――あ、ところでお腹すかない?」
春の陽気の中、藍の高性能な脳が急速に動き始めた。
フランと接するのもこれで三度目、藍は経験で知っていた。この悪魔にペースを握られるのはまずいと。感情に任せて行動すると、必ず後悔する。そう、この頭のおかしい悪魔に力だけでなく、舌戦でも勝つためには自分も普通ではいられない。この会話の続きで、「そんなことはどうでもいい」と返せば最終的には言い負ける気がする。じゃあ逆を取って「ああそうしよう」と乗ればどうか。いや、それは相手に乗ったことになり、相手に先手を取られてしまうことになる。そう、それだ。――先手だ、先手を打つことが肝要なのだ。
藍は答えを出した。
「そこにいいうどん屋がある。そこにしよう」
ということになった。
うどん屋に入った。
「へい、らっしゃい!」
元気のいいおっさんの声が二人を迎えた。
おっさんは藍を見ると、なにか訳知り顔で言った。
「ぉっと、いつもので?」
「……ああ」
藍は苦い顔でそう答えた。知られたくないらしい。
当然フランは突っ込みにいく。
「いつものって?」
「お前は気にしなくてもいい」
案の定突っ込んできやがった、と藍が流そうとしたが、横から店主が口を開いた。
「ああ、きつねうど」
「――お前は何にする?」
しかし、こんな状況を見逃せる程、フランは良心的ではなかった。とりあえず昔に一度使った手で攻めることにした。
「フランちゃん」
お前呼ばわりを訂正しようとさせた。ちゃんと藍に伝わった。
「……何にする?」
「フランちゃん」
「…………」
握り拳を作り、ぐっと堪えた後、意を決したように藍は目を見開いた。そして、ひどく重苦しく口を開いた。
「……フランちゃん、は何にす」
「――きつねうどんで」
藍は深く、深く笑みを作った。
裏で念仏のように『落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け』と繰り返している。「あいよ!」と元気のいい店主のおっさんの声が恨めしかった。
「おっと、お二人さん、運が良かったな! ちょうど、揚げが二つしか残ってなかったんだ」
「へぇー、人気なの?」
と、席に座り、向かいの席に座った藍に聞いたフラン。
得した気分になって、少し機嫌を良くした藍は素直に答えた。
「ああ、ここのお揚げはとても美味しい。よく売り切れる程だ」
「ふーん、じゃあ良かったね」
「ああ」
すぐにうどんが来た。
「へい! お待ち!」
少し残っていた寒気からか、器からゆらゆらと湯気が上がっていた。うす茶のつゆに白いうどんがそよぎ、その中央にお揚げが自身の存在をこれでもかと主張していた。周囲を泳ぐネギが、嗅覚を刺激し、食欲をわきたてさせた。
藍は顔全体で湯気を受けながら、器の中を覗き込むようにして見た。嬉しそうなキツネ目を浮かべ、立ち上る湯気をすするかのように鼻で吸った。香りを堪能すると、箸を取りうどんを口へと運び出した。
幸せの絶頂にいるかのような藍に、なにか使命感を感じたフランは水を差した。
「そういえばなんで人里にいたの?」
ずずず。
「私か?」
ずずず。
「それはだな」
ずずず。
「紫様が空けられた結界の穴を……」
ずず、ず。
藍の動きが停止した。
青ネギとタメをはるくらいの青い表情になった。
「……っすぐに戻る」
藍は飛び出すようにして、店を出た。
器の中にはお揚げが綺麗に残っていた。好物は最後に食べるらしい。
ずずず。
(残ってた方がいいのかな?)
素でそんなことを考えながらうどんをすするフラン。そんなフランに、聞き覚えがある音が飛び込んできた。その音は声であり、また非常に嫌そうな声であった。
「うわっ、あんたこんなところで何してんの!?」
その主は、厄介な者を発見してしまったかのような目でフランを見た。
「え? うどん食べてる」
「そんなの見れば分かるわよ。そんな事を聞いてるんじゃないの」
声の主は、脇を出した巫女服を着た巫女さんだった。霊夢である。
「あんたが何でこんなところで、そんなもん食べてるのかって聞いてるのよ」
「おいしいよ?」
「あ?」
即座に表情が怖くなった霊夢。角の幻影が見えた気がした。
そんな霊夢には同行者がいた。その同行者は霊夢をなだめようと、霊夢の肩に手を乗せて諭すように言った。
「すぐに感情に支配されるようじゃ、まだまだ修行不足よ」
「うっさいわね。大体あんたのせいで私は余計な仕事してんのよ」
しかし効果は無かった。
フランはひらめいた。
「うどん食べる?」
「だからあんたはなんでそんなもん食べてんのよ」
「誘われたから」
「あっそ、あんたに友達なんかいるのね」
「失敬な!」
コミカルに突っ込むフラン。楽し気である。
その様子に影響された同行者。
「ねぇ、霊夢? 私もお腹すいちゃったわ」
「はぁ? 知らないわよ。私はさっさと帰りたいの」
「ここの勘定、私が出すわよ?」
「――おやじ! うどん一杯ね!」
気づいたら横の席にいた霊夢にフランは目を見張った。
「で、ゆかりんはどうするの?」
フランは何気ないように聞いた。裏でにやにやしている。
「そうねぇ、どれにしようかしら」
「それ、食べたら?」
フランは自分の席の向かいにある食べかけのうどんを指した。
「えぇ? それ食べかけでしょう?」
怪訝な顔する紫にフランは笑みを濃くして言った。
「うん、藍のだよ」
「藍の?」
「そう、藍の」
二人は悪い顔をした。
紫はにこやかに、フランの対面の席にすわってうどんを食べ始めた。一口目はお揚げだった。
「おやじ! もう一杯!!」
霊夢が二杯目を所望した頃だった。
「そろそろ私は姿を隠すわね」
何かを察した紫はスキマに入ってった。
それからすぐ、
「――すまない! 遅くなった。よく分からないがなんでもなかった」
藍が帰ってきた。
「そうなの?」
「ああ、とにかく急いで帰ってきた。お揚げが冷めてしまうからな、……って」
藍は何かに気づいた。
「ん? どうかしたの?」
何事もなかったようにそう聞くフラン。
返事をせずに、固まっている藍。
「ああ、霊夢のこと? それならさっきね――」
「そ、そんなことじゃない。お揚げ、……私の、お揚げは?」
「ああ、それなら伸びちゃうといけないからって、霊夢と一緒に来てた人が代わりに食べていったよ」
震える藍。
「なん、だと――、そんな馬鹿な……」
藍はぶつぶつ何か言い始めた。
「気分屋で勝手気儘な紫様に常日頃こき使われる日々の中での、私の小さな幸せが……」
震える手を握りしめ、拳を作る藍。
「――許せん! どこの誰だかは知らんが、許せん! 見つけたらとっちめて、後悔させてやる!」
「本当に?」
「ああ、こんな卑劣なことをするような奴は、世の為にならんようなロクでもないやつに決まっている。そんな奴、私が直々に懲らしめてやる。いや、懲らしめなければならない!」
力強く演説する藍。尻尾が上に向かってにょきっと伸びてる。
「で、どいつだ? どいつが私の大切なお揚げを食ったんだ?」
「今、後ろにいるの」
フランは藍の向こうを指さした。
「よくも、私の――」
藍は威勢よく振り返った。
そして固まった。
「続きは?」
にっこり微笑む紫。はたから眺めているフランから見ると、とっても楽し気に見えた。
「え、いや、あのその……。……ゆ、紫様が、私の愛するお揚げを食べやがっ、――お食べになられたの、ですか?」
「ごめんなさいねぇ、世の為にならないロクなやつだから、つい食べちゃったの」
藍は微笑んだ。その笑みには後光が差しており、悟ったように涼やかだった。
次に会った時は優しくしようと思ったフランであった。もぐもぐ。 霊夢の元気な声。
「おやじ! おかわり!!」