進むべき道を切り開くことだ!
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「――待ちなよ」
私の行く手を遮るように通路の陰から現れたのは、私よりもちっこい少女のような顔立ちの美少年だった。
もうこれだけでおわかりだと思うが、先程ちょっとからかっただけで私から泣いてチビって逃げ出した負けワンコこと紫乃宮天音くんである。
そんな彼が、まるで親の仇でも見るような濁った瞳を私に向けている。
なんぞ?
「何かご用ですか、天音くん? ちょっと急いでいるので、手短にお願いしたいんですけど」
「惚けるなよ。お前が何かしたに違いないんだ。……お前、
「はい?」
突然意味のわからないことを言い出した天音くんに、私は思わず首を傾げた。
なんでって、そりゃ〜私がゆーくんより強かったからでしょうよ。
むしろそれ以外に何があるよ?
しかしどうやら彼が言いたかったのはそういうことではないようで……
「ふざけるな、お前が勝つはずないんだッ……。お前は一回戦で無様に敗けなきゃいけなかったんだ。だって……だって僕は、
急に目を血走らせた天音くん。
そしてそのまま血を吐くような勢いで彼は言葉を捲し立てていく。
「どうしてだよッ、なんでお前勝ってんだよッ。僕の《
「……ああ、そういうことですか」
先程の猫撫で声のような甘えた口調ではなく、剥き出しの感情に晒されたその言葉。
それによってようやく話が見えてきた。
彼の能力は《過剰なる女神の寵愛》といい、要は願ったことが何やかんやで叶ってしまう因果干渉系の能力なのだ。
そしてどうやら彼は呆れたことに、ゆーくんとの試合で私が惨敗することを健気にもずっと願い続けていたらしい。
「なるほど。貴方、私の試合中にずっと能力で私に妨害を入れていたんですね? 小癪なことしますねぇ」
ぶっちゃけ、全然気が付かなかった。
たぶん何かしらの影響は私に起こっていたんだろうけど、恐らくは知らぬ間に《既危感》で対処してしまっていたのだと思う。
「なぁんだ。『あらゆる願いを叶える能力』っていうから、あわよくば私の夢に利用できるんじゃないかって思っていたりしたこともあったんですけど……所詮はその程度の干渉力なんですか。まぁ、指向性が強いのならともかく垂れ流しの因果干渉系なんてそんなものですよねぇ」
「………………その、程度……? そんな……もの…………?」
呆然と呟く天音くん。
顔からは血の気が引いていき、俄かに全身が震え出す。
大きく見開かれた目は充血し、口元は開閉を繰り返して声にすらならない息を吐き続けていた。
「ふ、ふざ、けるな……《過剰なる女神の寵愛》は無敵だ……無敵のはずなんだ。だって、そうじゃなきゃ、僕は今まで何のために……」
よろよろと後退った天音くんは、やがて無表情なままにブツブツと何事かを呟き始めた。
どうやら私に能力が通じなかったのが余程堪えたらしい。
う〜ん、井の中のフロッグ、オーシャンをドントノウですわ〜。
あの程度の妨害、私にとっては大した手間もなく対処できる程度の些事に過ぎない。いや、むしろ
「ずっと……ずっと僕はこの能力のせいで諦めさせられ続けてきたんだ……! こんな力のせいでッ、僕は何一つ認められなかったんだよ! それをッ、“そんなもの”呼ばわりされて堪るかッ……!」
すると徐に、彼はその手の中に無数の剣型霊装《アズール》を顕現させた。
そして仄暗い炎のような光をその目に宿しながら、まるで幽鬼のようにゆらりと前へ進み出る。
どうやら
「いいんですか。場外での乱闘は一発で失格扱いになりますよ? ここにはカメラもあります」
「そんなの見つからなければどうってことない。今、僕は『君を痛めつけるのを見つかりたくない』と願っている。何だかんだで、この瞬間が第三者に見つかることはないよ」
「へぇ、便利なものですね」
「……随分と余裕だね。それってつまり、泣いて許しを請うても誰も助けてくれないっていうことでもあるんだよ?」
「……??? 誰が? 誰に?」
「……ッ」
思わず私が首を傾げると、天音くんはなぜかワナワナと震えながら閉口した。
「どこまでもふざけやがってッ!」
「ぷふふっ」
「ッ、何がおかしいんだよ! さっきの時もそうだ。ヘラヘラと笑って、人のことを見透かしたようなこと言って! お前に僕の何がわかるっていうんだよ!」
熱り立っているが、しかしその様に私はますます笑ってしまっていた。
本当に彼は面白いと思う。
「さぁ? 私は私の知っていることしか知りませんからね。でもこれくらいは知っています――貴方は自分に自信がないんですね」
殺意を顕にする彼に、私もまた一歩踏み出した。
隠しきれなくなった満面の笑みを、とうとうその表情に浮き上がらせて。
「本当は怖いんでしょう? 今まで自分の能力で何でもできてきたから本当は自分では何にもできなくて、自分の存在価値はその能力だけなんじゃないかって」
「……黙れよ」
「誰かに認めてもらいたい。でも自分で自分が信じられない。怖い。そもそも自分の力を証明することができない。だから他人を能力で蹴落とし、嘲笑い、夢を諦めさせ努力を否定することで自分の安寧を維持しようとする」
「煩い。黙れ」
「いや〜。本当、素晴らしいほどの負け犬根性です! あはははははっ、やっぱり君を見ていると愉快な気分になれます。負け犬ってサイコーですね!」
「――ッッッ、黙れって言ってんだろぉ!」
そして突如、天音くんが無数の《アズール》をこちらに投げ放ってきた。しかしそれが私に届くかと思われた瞬間、一瞬で展開した《三日月》を一旋させてその全てを弾き飛ばす。
弾き飛ばされた剣群は残らず地面や壁へと突き立ち――それだけだ。そのまま何も起こることはなく、シンと廊下は静まり返る。
その様子に天音くんは明らかな動揺を見せた。
恐らくは普段の調子ならば、何もしなくても持ち前の“運”で何かしらの攻撃が成立していたのだろうが……
「無駄ですよ。私の《既危感》は私に降りかかるあらゆる“害”を見通す。貴方の能力が誘発する
今の攻撃は私が適当に弾くだけで壁を剣が乱反射し、四方八方から刃が襲いかかる攻撃に変貌するよう因果が操作されていた。
ならば対処は簡単。
どう因果が干渉しても乱反射できない角度と速度で弾き飛ばせばいい。
「そんな……馬鹿なッ……」
「何を驚いているんですか? あっ、もしかして私の能力を事前に調べることもなく闇討ちをしてきたとか! ぷぷっ、本当に馬鹿ですねぇ君は」
「ッ、煩いんだよぉ!」
しかし驚愕の表情から一転、再び憎々しげに再びこちらを睨みつけると、今度は二刀流の形で《アズール》を展開。
素人丸出しのチャンバラ剣術でこちらに飛びかかってくる。
「うわぁぁぁあああッ!」
悲鳴のような声を上げて二振の剣を振り上げる天音くん。
普段ならばこれらの攻撃の全てがラッキーパンチに変貌するのだろう。
加えて彼が攻撃を仕掛けた途端にどこからか私の目に埃が飛んできたり、唐突に足が縺れたりと様々な因果の妨害が干渉してくるものの……
「私の《既危感》にまぐれ当たりは通用しません」
埃を首を傾げて躱し、足の縺れは歩幅を変えて対処。
その他の失敗も《既危感》による経験値を用いて全て一斉に処理していき、そして剣が振り下ろされる直前。
その無防備な顔面を私の前蹴りがぶち抜いた。
「ぶあっ⁉︎」
間抜けな悲鳴を漏らしながら、天音くんは受け身も取れず地面に転がった。
原作知識で知っている。
彼はこれまで全ての戦闘と呼べる行為を能力による偶然性で対処してきたため、本人の戦闘能力は皆無に等しいのだ。つまり才能にかまけて全く努力をしてこなかった人間なのである。
しかしその才能を上回る存在を前にすれば、彼は無能なガキでしかない。
よって彼が私に勝てるはずもない。その程度のこと、仮にも《解放軍》の人間であるならば彼にもわかりそうなものだが。
「素人剣法。能力はダダ漏れのノーコン。おまけに私との相性差も理解できない。零点です、よくそんなザマで今まで生き残ってこれましたね。イージーモードが許されるのは小学生までですよ?」
「な、な……」
自分の力が全く通用しない……否、発動している様子すら見えないこの状況に、どうやら彼は混乱しているらしい。
まぁ、そうか。
今までここまで能力を弾いてくるような人間とはきっと会ったこともなかったんだろうから。
そういう意味では、私の能力と彼の《過剰なる女神の寵愛》との能力は最悪にして真逆だ。
彼の『何でも願いが叶う能力』とは違い、私の“能力”は効果が凄まじく限定的な分、その内側ならば《既危感》は効力も桁違いなのだから。
こと私への“害”という領域に関してならば、《既危感》は――否、私の《死に至らぬ病》は他の因果干渉系の追随を許さない。
まぁ、元々因果の干渉などという下らない方法で、大鎌の活躍という輝かしい場を曇らせるつもりなんて毛頭ないけどね。
「さて、それで次はどうします? そろそろ君の攻撃が私には何にも通じないってことがわかってきた頃だと思いますけど。それとも、まだ何か私に面白いものを見せてくださるんですか?」
「…………」
無言のまま天音くんが俯く。
しかし何を思ったのか、唐突に「クククッ」と小さな笑みを漏らしながら徐に立ち上がる。
「あーあ。本当は君に泣いて土下座でもさせられればそれで充分だったんだけどな。『もう生意気なことは言いません。赦してください』って謝ってくれれば、僕はそれで良かったのに。――お前が悪いんだ」
顔を上げた天音くんの表情には歪んだ笑みが張り付けられていた。
可愛らしい相貌は幽鬼のように生気を失い、しかしその目だけは当初の爛々とした殺意を激しく放っている。
そして彼はますます笑みを深くしながら、こう言葉を紡いだ。
「死んじゃえ」
殺意の呪言。
天音くんが発したその言葉に因果の歯車が軋みを上げる。
彼は今、心から私の死を願ったのだろう。
その殺意に《過剰なる女神の寵愛》が反応し、彼の背後に佇む見えざる女神の腕が私へと伸びてくるのを感じた。
「死ねッ、死ね死ね、死ねぇ! お前なんか死んじゃえばいいんだ! 惨たらしく苦しんで死ね! 地獄で後悔しろクソ野郎! あはははははははッ!」
ケタケタと狂ったように天音くんが笑う。
その歪んだ笑みは殺意と憎悪に溢れており、その可愛らしい顔立ちを悪魔の形相へと変貌させていた。
そして彼の望みに応えるかのように女神の腕は私の心臓を包み込み、その動きを止めようと……
「――《
次の瞬間、チリッと私の身体から黒い火花が散った。
恐らくは廊下の暗がりに紛れ、紫乃宮くんの目では捉えられなかっただろうほどの淡い火花。
しかしその火花が散るや否や――何も起こらない。
「あはははははははははは……はは……は、…………は?」
呪言が紡がれてから五秒が経ち、やがて十秒が経過し、そして二十秒が過ぎ去ったところで天音くんの笑みが止まった。
何が起きたのか――否、何も起きないことにようやく気が付いたらしい彼は、今度こそその表情を完全に停止させる。
一向に死ぬ様子のない私を見て、引き攣ったような笑みを浮かべたまま。
そのまま動く様子のない彼に私は大股で近づいていき、その無防備な顔面に拳を叩き込んだ。
「おごぉぉおッ!?」
捻りを加えて頬に拳を叩き込まれた紫乃宮くんは、そげぶと言わんばかりの綺麗な放物線を描いて吹っ飛ぶ。
それでようやく再起動したらしい彼は、痛みすらも忘れたように、信じられないものを見るような目で私を見た。
「なッ、なんで……!? ぉ、お前……、何をした……!」
驚きのあまり碌に舌も回らないらしい。
それほどに混乱した様子の紫乃宮くんだったが、そんな彼の疑問に私が答える義理などない。
「言葉一つで人間を殺せるだなんて、デスノートも真っ青な万能性ですね。素晴らしいです、感動しました。――私には通じないですけど」
「な……な……」
余程今の攻撃が私に通じなかったのがショックだったのか、もう彼はまともに口を利くことすらできない様子だった。
言葉すら失ったか……、と思わずモロの母ちゃんみたいなことを思う私。
しかしこのまま彼の間抜け面に付き合う義理もないので、私は溜息交じりに口を開いた。
「それで、次は? まださっきのチャンバラで私に立ち向かってみますか? それともまだ技の引き出しでも? 残念ですが、私は三分間も待ってあげるほどお人好しではありません」
とはいえだ。
私もこのままバッサリと彼を殺してしまうほど鬼ではないし、そもそも最初からそんなつもりもない。
彼が勝手に突っかかってきただけで、私としては彼のことなどどうでもいいのだ。
だからここは穏便に済ませてあげようと思い、尻餅をつく紫乃宮くんに歩み寄った私は、優しく彼の肩に手を置きながら耳元で囁く。
「まぁ、私としてはまだ頑張ろうなんて主人公みたいなことを思わないで、……このまま尻尾を巻いて逃げ出してくれると愉しいなって」
「……ッッ」
ビクッ、と彼は総身を震わせる。
その目は先程までの仄暗い色を失い、まるで肥溜めで溺れた鼠のように弱々しいものとなっていた。
◆ ◆ ◆
「まぁ、私としてはまだ頑張ろうなんて主人公みたいなことを思わないで、……このまま尻尾を巻いて逃げ出してくれると愉しいなって」
祝のその言葉は、天音を心胆から震え上がらせるのに充分な冷気を纏っていた。
天音は理解した。
彼女は心の底から、天音が無様に敗走する様を眺めて悦に浸ろうとしているのだと。
最初から祝にとって天音などその程度の存在。
天音が祝のことを心から憎んで剣を取ったのとは裏腹に、彼女は天音のことを敵とすら認識していない。
その事実に天音の憎悪は一瞬で消し飛ばされ、そして顔を上げて祝と目を合わせた天音はその行為を後悔した。
――嗤っている。
口元は弧を描き、双眸は爛々と天音が震え怯える様を玩弄している。
それは人間に対するそれではなく、まるで幼い無邪気な子供が適当に捕まえた虫を解体する姿によく似ていた。
「あ……」
ひゅう、と喉の奥を冷たい息が抜けていく。
それは生まれて初めて感じた死の恐怖。
《過剰なる女神の寵愛》を踏み越え、天音の命を易々と刈り取ることができる死神との邂逅。
そんな存在を前に能力がなければ無力な少年でしかない天音は凍り付き、同時にとある感情に支配されたことで踵を返して逃げ出す余裕すら失っていた。
その感情を、人は“絶望”と呼ぶ。
死の恐怖と同時に天音は、
天音のこれまでの人生を一言で表すのならば“悲惨”以外の言葉はないだろう。
彼はこれまで、その神懸りな能力によって人生を台無しにされてきた。
親からは能力のみを目的に育てられ天音という個人が愛されたことはなく、他の人間からはその能力の強大さ故に疎まれ、僻まれ、敬遠されてきた。
彼はこれまで己の人生に絶望していた。
しかしその絶望の根底にある《過剰なる女神の寵愛》が、
そんな彼が何を思うか。
“その程度”の存在に台無しにされてきた自分自身の人生とは何だったのかという思いだ。
生きながら死んでいた、運だけで生かされていた惰性のような人生。
望まず強いられていると、絶対無敵の神様の悪意によってこんな人生を送らされているのだと彼はずっと思っていた。
しかしそんな神様の意思が、実は他の人間にとっては簡単に踏破できる程度の試練だったと彼は知ってしまった。
そうなるともう彼には、何が正しく何が間違っているのかわからなかった。
圧倒的な絶対強者を前に震え上がりながら、天音はこれまでの人生を走馬灯のように想起する。
一体自分はどこで間違えてしまったのか。
両親が能力よりも自分という個人を愛してくれているか試そうとしたことが悪かったのだろうか。
それともこんな能力を持ちながらも、人並みに誰かから愛してもらえると期待していた過去の自分が馬鹿だったのだろうか。
あるいは……こんな人生が惰性でしかないと気が付いた時に、さっさと死んでしまうべきだったのかもしれない。
「どうしたんですか? 逃げないんですか?」
不思議そうに首を傾げる祝。
傍から見れば可愛らしく映るのであろうその挙動も、天音にとっては死神の一挙手一投足でしかない。
「ひっ」と喉を引き攣らせた天音は思わず腰を抜かし、その場で尻餅をつきながら後退る。
「なんなんだよ……一体何なんだよお前はぁ……」
気が付けばそんな言葉が天音の喉を通して漏れ出ていた。
命乞いでもなく、いっそ殺してくれという懇願でもなく、天音の口から出たのは絶望に塗れた問いだった。
「《過剰なる女神の寵愛》はずっと理不尽で、無敵で、どうしようもない天災だったんだ……なのになんでお前はそんなにあっさりと……」
口を開く度、気が付けば天音の双眸からは大粒の涙が零れ落ちていた。
「僕だって頑張った……頑張ったんだっ。
それは天音の魂の叫びだった。
自分を認められず、存在を認められず、この社会から弾かれ続けてきた哀れな少年の叫びだった。
「なのにお前はッ、僕の今までの人生を馬鹿にするみたいにあっさりと《過剰なる女神の寵愛》を乗り越えやがって! そんなこと今まで誰にも……僕にだってできなかったのに!
――何なんだよお前はッッ! なんで今頃になって……全部諦めた後になって僕の前に現れたんだ! ふざけるなよチクショウがァ!」
喉が枯れるほどに天音が叫ぶ。
《過剰なる女神の寵愛》があまりに理不尽だからこそ彼は過去の苦しみ、現在の惰性、未来の虚無感を受け入れることができていた。
しかし人間はそんなものを踏破できる存在なのだということを天音は知ってしまった。
故に彼は絶望する。
このままでは――まだ自分は頑張れるのではないか、誰かに認めてもらえるのではないかという希望に縋ることができるようになってしまう。
「僕の心に土足で踏み込んできて、何もかもメチャクチャにした……! なんでそんなことするんだよ…………酷いよぉ……こんなのないよ……」
もう天音は限界だった。
全ての言葉を吐き尽くした彼はその場で蹲り、年甲斐もなく瞳を泣き腫らす。
最初は、一輝という自分と同じような、誰にも期待されない存在が輝こうとするのが目障りなだけだった。だから自分に降りかかる理不尽を彼にも押し付け、同じく絶望の沼に引き摺り込んでやるというくらいの気持ちだったのだ。
だが彼の傍らには、天音の想像を超える修羅がいた。己の絶望を見透かし、その傷を大鎌で抉り尽くす死神がいた。
確かに天音は悪意を持って人を傷つけようとした。
これはその報いなのかもしれない。
しかしそれでも、こんな思いをする覚悟など天音にはなかったのだ。
「……頑張った?」
そんな天音に、祝は心底不思議そうに問いかける。
涙で歪む天音の視界。
その先で、祝が大鎌を担ぎながら無邪気に首を傾げる。
「天音くんは本当に頑張ったんですか?」
「…………あぁ?」
その、これまでの彼の努力を否定するかのような言葉。
そんな言葉に、天音は憎しみを込めて祝を睨む。
だがそんな視線を受けても祝は微動だにせず、まるで純粋な疑問を口にするかのように天音に問いかけた。
「じゃあ、どうして天音くんは生きているんですか?」
全く意味がわからない問い。
祝のその言葉に、天音は思わず「は?」という気の抜けた言葉しか返すことができない。
しかし祝はその反応こそ意味がわからないと言わんばかりに眉を顰め、「ですから」と言葉を紡ぐ。
「君は頑張ったんですよね? それって本当に限界を超えるまで頑張りましたか? 命をかけましたか? 魂が磨り減って廃人になるくらいまで頑張りましたか? もう身体が動かなくなるくらい頑張りましたか? 何でもやりましたか? 殺す必要があるならば親だって殺せますか? 血反吐は? 血尿は? ストレスで白髪が生えたり精神が衰弱したり夢が叶わなければ自殺して来世にかけるしかないと思うくらい頑張りましたか? プライドは捨てましたか? 常識は捨てましたか? 人間性をどこかに残したりはしていませんか? 夢や目標以外の他の全てを捨て去りましたか?」
矢継ぎ早に投げかけられる祝の言葉に、天音は目が回る思いだった。
何だ。この女は何を言っている?
しかし祝は天音の呆けた様子に構うことなく、話し続ける。
「頑張ったなんて言葉を気安く使わないでください。君はまだ生きているでしょうが。生きているのならばまだ頑張れるはずです。死ぬまで頑張った人だけが遺書か死に際で『頑張った』という言葉を使っていいんです。諦める、なんて言葉を使う人は全然頑張っていません。諦めるという言葉は死ぬという言葉と同義です。諦めているのに生きているなんていう人は、私からすればそれだけで理解不能です。なんでそんな人は生きているんですか? どうしてさっさと死なないんですか? 死ぬのがそんなに怖いんですか?」
「な、何を……」
狂気に染まった祝の目。
漆黒のその瞳の奥で渦巻く混沌とした激流に、天音は自分の呼吸が浅くなっていくのを感じていた。
祝の言っていることは殆ど理解できない。
人は弱い。彼女の言うように全てを捨ててまで何かを成し遂げられるような人間などそうはいない。
そんなことは天音にもわかる。
ならば彼女にもわからないはずはないのだ。そんなはずはないのに……
天音は理解させられた――祝は本気でそう思っている。
努力に、夢に全てを捧げている彼女は、本気でそのためならば全てを捨て去ることができる人間なのだ。家族も、プライドも、人間性も、人並みの幸福さえ夢のためならば抛ててしまう人間なのだ。
「き、君は……本気でそんなことを……?」
「私は冗談で頑張ったりしません。命をかけて、人生をかけて、全身全霊をかけて夢を追っています。君みたいに消化不良のまま惰性で生きることだけはしない。夢の達成が不可能だとわかったら死にます。……あるいは、その夢を捨てられるほどに価値のある何かを見つけたのならば話は別ですが」
「…………羨ま、しいな」
気が付けば天音はそう言っていた。
自分はそんな風にはなれない。
夢のためなら全てを捨てられるような、そんな狂った精神を持ち合わせてなどいない。
能力の非凡さに対し、天音はどこまでも凡人だった。
凡人だったからこそ苦しみ、挫折し、そして諦めてしまった。
誰かに認めてもらわなくたって死にはしないと言い訳して、今日まで生きてきてしまった。
「僕には……できないや。そんな風に頑張り続けるなんてこと。こんなに辛くて苦しい道程をそれでも歩き続けられるほど、僕は強くない。だから僕は何もかもを諦めてしまった」
「――本当に?」
「えっ?」
思わず顔を上げると、そこには“黒”があった。
鼻先が付きそうなほど近くから、あの黒い瞳が天音の目を覗き込んでいる。
鮮烈なまでに輝く漆黒の眼光が、瞳を通して天音の心を剥き出しにする。
「本当に心から諦めた人は『羨ましい』なんて言葉は使いません。それはまだどこかに未練がある人の言葉です。だったらまだ貴方は諦めてなんていないはずです。ただ道を見失っているだけで」
「……僕が、まだ諦めていない……?」
それはまさに天音にとって目から鱗だった。
自分は既に全てを諦めて、死への恐怖から死んでいないだけの人生を歩んでいるだけなのだと。
しかし祝はそれを「道を見失っただけ」と言う。それはつまり天音にとっての夢の在り処への道筋を見失っているだけで、そこへ至るための火は未だ心に灯り続けていることを指し示していた。
へたり込む天音に視線を合わせてしゃがみ込んでいた祝は、「なぁんだ」と腰を上げると《三日月》を魔力へと散らせる。
「詰まらないの。マイナス方向に振り切れた負け犬なら眺めるだけの面白みもあるのに。やっぱり貴方は“原作通り”のただの詰まらない人だったんですね」
それだけ言うと、祝は天音の横を通り過ぎていってしまった。
そのまま靴音を響かせ、廊下の先へと立ち去っていってしまう。
しかし気が付けば天音は「待って!」と祝を呼び止めていた。
「僕にはもうわからないんだ! 僕は誰かに認められたくて、でも……でもどうすればこの忌まわしい力を超えて誰かに認めてもらえるのかわからない! 僕は君みたいに強くない! どうすれば君みたいに何もかもを捨てて夢に向かうことができるんだ!? お願い、教えてよ……!」
縋り付くような声音で天音は叫ぶ。
自分は弱い。
それでも夢を叶えたい。なりたい自分を目指したい。
しかしそのためには夢へと続く道筋を照らす光が――こう在りたいという象徴が必要だった。暗く険しい道程を歩こうとも、それでも「こう在るのが正しいのだ」と示す絶対的な象徴が。
そんな象徴になり得る存在が今、目の前にいる。
では、どうすれば自分もそんな存在になるための資格を得られる? どうすれば自分もその領域に辿り着ける?
「さぁ?」
しかし天音の切実な言葉に祝は足を止めることすらせず、どうでも良さそうに呟く。
「ただ、そこまで苦しんでいるのにまだ何も捨てることもできないのなら――それはもうその程度の夢だったということなんじゃないですか? 私は夢のためならば全てを捨てられますよ。その程度の“覚悟”はとっくの昔に済ませましたから」
そしてそのまま振り返ることもなく、祝は廊下の先へと姿を消した。
残されたのは遠くから響く観客たちの喧騒のみ。
しかし天音の目には、もう姿がないはずの祝の後ろ姿がしっかりと焼き付けられていた。
「……覚悟……覚悟……覚悟……覚悟覚悟覚悟覚悟覚悟覚悟覚悟覚悟覚悟覚悟覚悟覚悟……それさえあれば、僕は君みたいになれるの? 君みたいな、何もかもを捨てられる人に、……僕も、いつか……」
壁に凭れかかりながら、天音はゆっくりと立ち上がる。
彼は呆然と、しかし確信を懐きながら「覚悟」という言葉を何度も反芻した。
そして俯いていた顔を上げた彼の表情は、まるで憑き物が落ちたかのような晴れ晴れとした表情となっていた。
「そうか……そうかぁ……! 僕には“覚悟”が足りなかったんだっ、そうだったんだっ! あははははっ、なぁんだ。そうだよね、だってあの人がそう言うんだもの、間違いない」
「あはははは」と朗らかな笑みを浮かべた天音は、小躍りでもしたいかのような開放感に包まれていた。
長年の自分を苛み続けていた苦しみの原因は、《過剰なる女神の寵愛》ではなく自分にあったのだと彼は気が付いてしまった。
そしてそれを解消するために必要な“
もう、彼に怖いものなどなかった。
「あははっ、あははっ! あはははははははははは――」
まるで見た目通りの少年のような純粋な笑い声を上げながら、天音はその場を立ち去った。
もう彼は立ち止まらない。
夢というゴールを思い出し、道の存在を啓示され、道の歩き方を授けられた。
ならばあとは覚悟を胸に進むだけだ。
たとえその道がどれほど険しかろうと、彼はもう諦めることはないだろう。
天音「覚悟完了」