正直、父さんには大反対された。普通に考えればそりゃそうだって話だけど、それでも俺は食い下がって、条件を変えて、何度も頼み込んで、ようやく許可を得ることができた。
母さんがいなくなった生活に慣れ始めた頃にこんなことを言い出した俺は間違いなく親不孝者だろうな。だからこれを最後のわがままにすると決めた。
そして冬を超え、東京から遠く離れたこの糸守の町で、俺は春を迎えた。
今、目の前には、俺にとって誰よりも愛おしい女の子がいる。この子に逢うために、俺は生まれてきたんだと、恥ずかしげもなく言えそうな気がした。
そんな気持ちをこらえて、俺は問いかける。
「君の名前は?」
女の子が一瞬だけ固まる。けど俺が言わんとしていることを理解して、つやのある黒髪を結わっていた組紐をほどくと、それを俺に差し出しながら、言った。
「みつは。名前は、宮水三葉」
潤んだ目で、それでもしっかりと俺の顔を見ながら、まるで祈るような声で、三葉はそう言った。
これはあの日の仕切り直し。体感的には八年前、時系列的にはあと半年後。東京を走る無数の電車の中の一つ、その一車両の中で、俺が三葉のことを知る前に訪れた出逢い。
両の手のひらにのせて差し出された組紐。それを三葉の手ごと、包み込むように握る。
「この組紐を編んだのは三葉?」
「うん」
夕陽みたいな鮮やかな赤い組紐。中ほどにかけてグラデーションでオレンジに変化し、一部に淡い青。
俺が中学二年生の時から三年間、お守りにして右手首に巻いていたあの組紐だ。
「これを俺は、三年持ち続けた」
「その後は私が持ってたよ。八年間、肌身離さずに」
そうだ。この組紐は、俺と三葉をつなげてくれた「ムスビ」。どうしようもなく離ればなれだった俺たちをつなげてくれた、運命そのもの。
だから、これからは。
「これからは二人で持っていられる。いつまでも」
「うん……うん……!」
一度は引っ込んだ涙が、またもやポロポロと三葉の瞳からこぼれ出す。
本当に泣き虫だな。普段は俺と遠慮なく言い合えるくらい気が強いのに。
まあそういうギャップも三葉の魅力っていうか、なんていうか……。
「あー、ごほん!」
わざとらしい咳払いが教室に響き渡る。
そこでハッと我に返った。
そうだ、ここは高校の教室で、今は朝のホームルームの時間だった。
三葉に逢えたことで周りが見えなくなってたけど、俺たちは今クラスメイトに見られているわけで。そんな衆目にさらされた中で、俺たちは両手を握り合い、互いに熱い視線を交わしている。
「そういうのは時間と場所を選びなさい」
担任が呆れ返ったように注意をし、クラスのあちこちから俺と三葉をはやし立てる声が上がる。
赤くなった顔を隠すために俺は口元を押さえ、三葉は前髪が垂れて顔を隠すほど俯いて、「すいません……」と小さな声をそろえた。
* *
「私、明日からどんな顔で学校に行けばいいのかわかんない……!」
放課後。帰り道のゆるやかな上り坂。その途中、肩を落としてトボトボと歩きながら三葉はそんな泣き言をもらす。そのとなりではサヤちんがさっきから三葉を慰めている。
まあ三葉がそう言いたくなる気持ちはわかる。俺だってかなり恥ずかしい思いをしたからな……。完全に自業自得だけど。
「やっぱ東京で育ったもんは違うにん。人から見られることに慣れとる」
一方テッシーこと
東京にだって人前であんなことする奴そうはいない。サプライズのプロポーズじゃあるまいし。
「それは東京の人間を勘違いしてるぞ勅使河原……」
「克彦でええって」
「わかったよ、テッシー」
「いきなり親し気やな!?まあ、ええか」
そう言うだろうと思ったよ。コイツ、いい奴だからな。早いとこサヤちんとくっついちまえよ。
「ところで瀧はどうして糸守に転校してきたんや?」
「あ?三葉に逢うためだけど」
「……それ、マジなん?」
そうだよ、と言いながら頷く。教室でのあのやり取り見たらわかるだろう。
まあ付け加えるならティアマト彗星が落下してくる今年の秋祭りの日、糸守町の町民を避難させるために、って理由もあるけど、これはさすがに今伝えられることじゃない。
たぶんまたテッシーやサヤちんの力を借りることになると思うから、その時に改めて説明しようと思う。
「瀧はいつ三葉と知り合ったんや?」
「それは、私も気になっとった」
テッシーが発した当然の疑問に、三葉を慰めていたはずのサヤちんまで乗っかってくる。
「あー、なんて言ったらいいのかな……」
バカ正直に答えるわけにはいかず、言葉に詰まった俺は首の後ろを触りながら、チラッと三葉を見た。
アイツもハラハラしながらこっちを見ていた。なんとか誤魔化すしかないか。
「昔……確か八年くらい前だったかな。あんまり詳しくは言えないんだけど、俺が糸守に来たり、三葉が東京に来たりって時期があったんだよ。その時に知り合って、別れる前に再会の約束をしてたというか……」
とっさに頭の中で組み立てた、それでも嘘じゃない経緯を説明する。2021年に生きていた俺と三葉にとっての八年前はまさしく2013年の今だし、お互いの意識が入れ替わる日々を過ごした。
……そういや今さらだけど、三葉も入れ替わりに端を発した一連の出来事は覚えてるんだよな?今の時点で俺を知ってるから俺と同じような状況だと勝手に思い込んでるけど。
もうちょっと落ち着いたらこの辺も確認しておかないとな。
「三葉とはその間連絡を取ってたりしなかったんか?」
「色々あって連絡先も、というか俺に至っては三葉の名前も知らなくてさ。かすかな記憶を頼りに探し続けてここまで辿り着いたんだよ」
「『やっと見つけた』言うとったのはそういうことだったんか」
そうそう、そういうことにしておいてくれ。言葉だけなら間違ったことは言ってないし。
サヤちんは俺の説明を聞いて「じゅ、純愛や……!」なんて言いながら感動していた。
「しかしそれで一目見てよう三葉がわかったな。八年前に逢ったきりやぜ?」
「アホ!運命の相手やからやろ!」
「運命って……」
その言い分に思わず苦笑が漏れた。サヤちんは「実際に二人とも一目で相手が誰かわかったんやから運命やにん!」と力説している。
まあ俺も三葉は運命の相手だと思ってる。でもそれを人から指摘されるのは恥ずかしいんですけど!
そんな感じでテッシーやサヤちんとの交友を深めつつ、別れ道を過ぎてようやく俺と三葉の二人きりになれた。言いたいこと、聞きたいことが山ほどあるのに、いざ顔を合わせると言葉が出てこない。
無言で歩きつつ、時たま相手を横目で確認し、目が合うと慌てて逸らす、という行動をもう三回くらいくり返している。うぶな中学生か!と自分に突っ込みたくなるけど、俺の対女性スキルなんてそりゃ中学生並みだよな、と思い直す。
五年前に糸守を訪れてから今まで、結局俺は誰かと付き合ったりしなかった。女の人と遊びに行ったりだとかそういう交流もほとんどなく、いつも司や高木と一緒にいた。デートも三葉が勝手に取り付けた奥寺先輩とのやつ一回きりだし。
……三葉はどうなんだろ。アイツ今よりさらに綺麗になってたし、やっぱ彼氏とかいたんじゃないか?
いても不思議じゃないけど、それはそれでモヤモヤする。
「――ねえ、瀧くん」
「な、なんだ!?」
ちょっと後ろめたいことを考えていたタイミングで声をかけられて動揺する。声が上ずった。
あの時から変わってないな俺……。情けない。
「瀧くんが糸守に来たのは、本当に私に逢うため?」
「……ああ。彗星のこともあるけど、一番は三葉に逢いたかったからだ。なぜかお前と同い年になってたしな。……もしかして迷惑だったか?」
「全然、そんなことないよ!」
食い気味で否定された。それだけで俺の気持ちが温かくなる。
「そう言ってくれたのが、泣きそうになるくらいうれしくて……どうしてそこまでしてくれたのかなって……」
その言葉に、俺は足を止める。三葉もそれに気付いて止まった俺を振り返った。
そういえばまだ、三葉に伝えてなかったな。
俺と三葉の間に夕暮れの光が差し込む。ご神体があるあの場所で、カタワレ時にだけ俺と三葉の時間が混ざり合っていた時のように。
「俺、三葉に言いたかったことがあるんだ」
「言いたかったこと?」
「ああ。本当ならあのカタワレ時に言いたかったこと。それを今伝えてもいいか?」
「……うん、聞かせてほしい」
見つめ合う。それだけで鼓動は高鳴り、三葉の瞳に吸い込まれそうになる。
「三葉との時間が三年もずれてて、もう死んでるって知った時、俺はくじけそうになった。お前のことを自分が生み出した妄想だと思ってあきらめかけた」
どんどん薄れていく三葉の記憶。ついには名前さえ忘れて、大事な何かを失う痛みを誤魔化すためにそう思い込もうとした。
それをすんでのところでつなぎ止めてくれたのが組紐、そして「ムスビ」について教えてくれたあの話だった。
よりあつまって形を作り、捻じれて絡まって、時には戻って、途切れ、またつながり。
それが組紐。それが時間。それがムスビ。
「まさかそれって……」
「ああ、三葉の婆ちゃんから教えてもらった。そして折れかけた心をつなぎ止めてくれたのは三葉の組紐だった」
三葉がまた、今朝と同じように結っていた赤い組紐をほどく。
「これが?」
「そうだよ。だから俺は辿り着けたんだ。三年前のお前がいた場所に。そこで、三葉に言おうと思ったんだ」
少し多めに息を吸い込み、それに俺の想いが余らず乗るように気持ちを込めて、俺はずっと温めてきた言葉を口にする。
「お前が世界のどこにいても、俺が必ず、もう一度逢いに行くって」
だから俺はここに来たんだ。
「たきくん……瀧くん、瀧くん!」
熱に浮かされたように俺の名前を繰り返した三葉は、突然抱き着いてきた。俺はそれをしっかり受け止める。
緊張や恥ずかしさよりも、ただひたすらに愛おしさがあった。
しばらくそのまま抱き合っていると、不意に三葉が離れてこんなことを言った。
「瀧くん、右手貸して?」
そう言われたので特に何も考えずに右手を差し出す。
三葉はその右手の小指に組紐を結ぶと、次に器用に自分の左手の小指に結んだ。そして俺を見上げ、赤い顔ではにかみながら笑う。
「運命の赤い糸、なんちゃって……えへへ」
その瞬間、俺の中で何かがはじけた。
「なあ、三葉。お前昔俺のこと奥手とか何とか言ったよな?」
「うっ……あれは奥寺先輩との仲を応援しようと思った方便というか……」
「まあいいけどさ。でも、その言葉は取り消せよ」
「へ?」
三葉の返事を待たず、俺は残っていた最後の距離をつめた。
そして重なる、俺と三葉の唇。
時間にすればわずか数秒、ふれあうだけのキス。
顔を離すと、三葉はぽーっと惚けていた。それがとても愛おしくてギュッと抱きしめる。
「好きだ、三葉」
耳元で、ささやくように告白した。三葉の身体がビクンと震える。
そのまま固まったように動かなくなってしまった。
「三葉?」
その様子を不審に思って一度離れようとすると、「ダメ!」と言いながら三葉はさらにきつく俺に抱き着いてきた。
「お願いやから今は見ないで!ぜったい、見せられないくらい、赤くなってる……この顔を見られるの、恥ずかしい……!」
「……なら、このままでいいから返事をきかせて」
俺も強くつよく、三葉を抱きしめる。
もう二度と、離ればなれにならにように。俺の想いが、体を焦がすほどの熱が、しっかりと伝わるように。
一瞬の静寂。ゆるやかな風が吹いて山の木々をざわざわと揺らす。それが収まると、三葉は俺の胸に顔をうずめたまま、涙声で言った。
「……私も、好き。瀧くんのことが、大好き……です」
長く、強く待ち望んでいた、二人の時間と想いが重なる瞬間。それを噛みしめるように俺たちはカタワレ時が終わるまで、ずっと抱きしめ合っていた。
今日もまた、仕事終わりに『君の名は。』観てきました。
台風の影響で映画館ガラガラだったけど。