意識を取り戻したリ級の目に映ったのは、白い布のようなモノ隙間から覗く板張りの天井。
次に感じたのは全身の隅々まで広がる妙な圧迫感。何か柔らかい布のようなもので絞めつけられているような、そんな感じ。リ級はその圧迫感の原因が、目の前に見える白い布のようなモノであると判断した。
そんな彼女の鼻をくすぐるのはフワリと磯の香り。それと同時に、言い知れない心地よさが彼女の意識を遠退かせた。
その香りは、目の前にある白い布のようなモノから漂っていた。
「目、覚めたみたいだな。これ見えるか?」
不意に聞こえた男の声。同時に、白いモノの隙間から心配そうな男の顔が現れた。彼はリ級の顔を覗き込み、指を立てた手をリ級の前でゆっくりと左右に動かす。
寝ていたせいか、はたまた磯の香りを嗅いだせいか、未だに頭が回らないリ級は何も考えずにただ目の前で動かされる指を目で追う。男はリ級がちゃんと見えていることを確認すると、次にリ級の顔に手を近づけた。
普段の、そして再び意識を失う前のリ級であえば、不意に伸びてきた手に身の危険を感じて避ける、もしくは振り払うなどのことをしたのだろう。しかし、心地よさに包まれたリ級にはそれを避けようと言う思考は浮かばず、ただ伸びてくる手を見つめるだけであった。
男の手がリ級の頬に触れる。触れた瞬間、リ級は刺す様な痛みを感じた。それが表情に出ていたのか、男はすぐに手を離し、今度は頬ではなくリ級の視界に映る白いモノを摘まんだ。
未だにボーっとしているリ級を尻目に、男は詰まんだ白いモノをゆっくりと持ち上げる。同時にリ級の頬に引っ張られる感覚があるも、痛みは感じなかった。痛みを感じていない様子のリ級にホッと胸を撫で下ろした男は慎重に白いモノを持ち上げていく。
やがて、ある程度持ち上げた男は再びリ級の顔を覗き込む。今度はリ級とは視線を合わさず、白いモノの下にあった頬を見て、小さく頷いた。
「もう再生してる……」
男はそう声を漏らし、持ち上げた白いモノを慎重に下した。それらの行動を目にしたリ級は、男から視線を外して自身の身体に目を向けた。
彼女は現在、前に目を覚ました時と同じように布団に寝かされている。しかし、その身体に毛布は掛けられておらず、更に病院で患者が着る病衣を身に纏い、袖口から覗く腕や脚には白い布のようなモノ――――――包帯が隙間なく巻かれていた。
そんな中、不意に男がリ級の手に巻かれた包帯の端を摘まんでゆっくりと剥がす。その下は、人間の肌色よりも赤みがかった肌――――人間で言うところの真皮だ。その上に、青白い膜のようなモノが覆われていた。薄いながらも真皮の赤みに負けない青白い膜――――深海棲艦の肌だ。
「やっぱ、深海棲艦でも高速修復材は有効なんだな」
男はそう呟くと剥がした包帯を元通りにし、彼の後ろにあった表面に『修復』と書かれたバケツ―――――高速修復材を引き寄せる。因みに、リ級は『修復』の文字を読むことは叶わず、浴室で男が抱えていたバケツ、と言う認識であった。
彼は高速修復材から水の筋を無数に滴らせる布巾を持ち上げ、軽く絞る。ほんの少し水気が残る程度まで絞ると、彼はそれを先ほど皮膚の様子を確認した箇所に近付け、包帯の上からリ級の腕に触れた。
その瞬間、リ級は触れられた箇所がじんわりと熱を帯び、先ほどまで感じていた心地よさが全てそこに集中するのを感じた。
男は腕に沿って布巾を滑らせ、袖に手を入れて肩口まで優しく拭いた。それに沿う様に、心地よさが集まっていき、同時に真皮を膜のようなもので覆われていく感覚も。
まるで拭かれた箇所の細胞が一気に活性化し新たな皮膚が構築されていくような、深海では決して味わえない心地よさであった。
男は何度もバケツに布巾を浸しながら、リ級の身体をくまなく拭いていく。途中、胸部や脚の付け根辺りで躊躇したが、意を決した様に顔を引き締めて布巾を滑らせた。身体の隅々まで触れられているリ級は、何とも言えない心地よさで頭がフワフワしており特に抵抗することもなく男に身を委ねた。
そんな感じで、男はリ級の身体を拭き終える。あまりの心地よさで頭がさらにボーっとしたリ級は、バケツに布巾を入れて一息つく男をじっと見つめるだけであった。男はリ級の視線に気づくと、何故か笑みを溢す。
「取り敢えず一命は取り留めて、本当に良かったよ」
男はそう言って胸を撫で下ろした。その言葉、そしてその姿にフワフワした頭のリ級はただ不思議そうな顔で首をかしげる。
と言うのも、リ級は深海棲艦、男は人間、そして彼らに率いられる艦娘。深海棲艦と人間の関係は、世界中の制海権を巡って血で血を争う攻防を繰り広げている、いわば敵同士だ。リ級が初めて目を覚ました時布団に寝かせられていた状況を『鹵獲』と認識した様に、彼らが邂逅した瞬間に真っ先に思い浮かぶのは『目の前の敵を屠る』かどうか、それに尽きる。
それなのに、リ級の目の前に居る男はどうだろうか。敵であり、更に深海棲艦に唯一対抗出来る艦娘のいない、一歩間違えればリ級によって惨殺されるリスクを抱えた状況で、彼はリ級を殺そうとしていない。むしろ、リ級が一命を取り留めたことを喜んでいる。
敵であり、人類の兵器では全く歯が立たない深海棲艦を前にして、怖気づきも、毛嫌いも、憎しみすら浮かべず、自然体でリ級と接してくる。
敵である人間が、何故か自分を助けている。その事実にリ級は疑問を抱いたのだ。
「大方表皮は治ってきているが、まだまだ危険な状態だ。基本的に安静にしていろ。あと、治りかけて痒くなると思うが、絶対に掻くなよ。勿論、包帯にも触れないように。それから……」
語り掛ける様に男が言葉を紡いでいくが、途中で何かに気付いたように口を噤み、そして苦笑いをリ級に向けてきた。
「
男はそう語り掛ける。と言うのも、男はリ級との―――――リ級のみならず、深海棲艦との意思疎通は可能であると踏んでいたからだ。
その背景には、深海棲艦を志半ばで沈んでいった人々や艦艇の積もり積もった怨念から生み出された存在、自身たちを襲うのはその怨念に駆られたためであると言う説がある。
その根拠として挙げられる、深海棲艦は沈んでいった艦艇だと言うのは、艦娘との戦闘で鹵獲された深海棲艦を解剖、調査したことにより、彼女らは駆逐艦、軽巡洋艦、重巡洋艦、戦艦、空母などの艦種が存在しており、彼女たちが持っていた主砲、副砲の艦砲類、艦爆などの艦載機が在りし日の艦艇たちに酷似していることが明らかになっている。
更に、彼女たちは人類、または艦娘との戦闘において、一定数の艦種と艦艇を揃えたいわゆる『艦隊』で行動をしており、戦闘時には状況によって艦隊の形状を変える『陣形』を使っていることが判明。そして、その『陣形』が人類に率いられた艦娘が使うモノと酷似していることから、人類はその説を推している。
次に、深海棲艦は沈んでいった人々であると言うのは、駆逐艦や軽巡洋艦に分類される艦種は人間と鉄クズを無理やり交ぜた様な奇怪な姿をしているものの、リ級の様に人間に近い姿の個体も存在していることが確認されているため。
また、深海棲艦の艦隊には必ず旗艦がおり、旗艦からの指揮を元に深海棲艦たちは人類を、そして艦娘たちと戦闘している。そこで使われる指揮系統に、何らかの言語を使っているのは艦娘からの報告で確認されている。それに加え、上の艦種――――『姫』や『鬼』と呼ばれる個体は言葉を発することが出来るのも艦娘の報告で確認されており、その指揮によって動く深海棲艦は、少なからず人類の言語を理解できるのではないか、と言う説を推しているためだ。
これらの根拠から、男はリ級と意思疎通は出来ると踏んでいた。
「……?」
しかし、男の言葉にリ級はただ首をかしげるだけであった。その様子にアレ? っと首をかしげる男。少しの間、部屋は沈黙に包まれた。
勿論、男の言葉がリ級に通じなかったわけではない。ただ、リ級の身体は高速修復材による急激な皮膚の再生に全精力を注いでおり、その他の機能が著しく低下したために思考が回らなかっただけだ。
また、リ級等の下等艦種は言語を理解できるもののそれを自らが発することは出来ない。また、駆逐艦などの下等艦種は思考よりも本能に従って行動する傾向にあるため、そこまで言語を重要視しないのだ。しかし、それでは旗艦における指揮が出来ないではないか、と思うだろうがその心配はない。
男を含めた人類が勘違いしているが、深海棲艦の指揮は口頭ではなくほぼテレパシーによるモノで行われており、言語を発しなくても全ての艦種に行き渡る様になっている。なので言葉を発しなくても、また上位下位の艦種に関わらず、旗艦として指揮をとることも出来るのだ。因みに、勘違いの要因となった『姫』や『鬼』と呼ばれる艦種が言語を発するのは、艦娘に向けた戦うと言う意思表示、ボクシングのファイティングポーズに近い。
と、そんな深海棲艦事情を知らない男とボーっとしているリ級との間に訪れた沈黙は、本能的に寒気を感じたリ級が小さく身震いをしたことによって破られた。
「寒いのか?」
身震いをしたリ級に男は問いかける。未だにボーっとはしているものの、男の問いを理解したリ級は素直に頷いた。それを見た男は何故か嬉しそうに顔を綻ばせる。
「なんだ、意思疎通出来てるじゃねぇか……よし、待ってろ」
そう言って、男は慌ただしく部屋を出て行った。その姿、そして出て行った廊下へと続く入口(ドアはリ級が破壊したまま)をリ級は何も考えずにただボーっと眺めているだけであった。
少しして、男が土鍋と小さなお椀が乗ったお盆を持って帰って来た。その姿をボーっと見つめるリ級を尻目に、男はリ級の傍に腰を下ろし、お盆を置いた。その瞬間リ級は強い磯の香りを感じ、その視線は香りの元である土鍋に釘付けになる。
男はそんなリ級を見つめながら土鍋の蓋を開けた。途端にリ級が感じていた香りは更に強くなり、その視線は土鍋の中一杯に広がる真っ白なモノに注がれた。
土鍋に入っていたのはお粥。もうもうと湯気を上げることはなくどちらかと言えば少し冷めている。中のお米は水分を吸って若干ドロッとしているが、通常よりも水を多く入れているのかサラサラとしたスープ状だ。
「水道水じゃマズいと思って海水で煮込んだが、磯の臭いがキツイなぁ」
リ級とは対照的に顔をしかめた男はそう言いながら鍋からお粥をお椀によそい、そこからスプーンで掬ったお粥をリ級に差し出した。しかし、リ級は差し出されたスプーンを、ただボーっと見つめるだけであった。
「ほら、口開けて。こう、『あーん』って」
差し出したお粥を食べないリ級に、男はそう言いながら口を大きく開けるジャスチャーをする。それを見たリ級は同じように小さく口を開ける。その口に、男はスプーンを差し込んだ。
その瞬間、強い磯の香りが鼻を突き抜け、同時にお粥の暖かさがじんわりと広がった。それは口から喉へと伝い、ゆっくりと身体に染み込んでいく。今まで感じたことのない感覚に、リ級は驚くことなくそれを受け入れた。まだ頭がボーっとしているせいかもしれないが、それよりもじんわりと広がる暖かさが心地よく感じたせいかもしれない。そして、彼女は口に含まれたお粥を咀嚼した。
同時に、パキンと言う音が響く。
男はその音に一瞬呆けた顔になるも、すぐにリ級の口に突っ込んだスプーンを引き抜いた。引き抜いたスプーンを見て、男は真顔になった。
リ級の口から出てきたのはスプーンは、お粥で満ちていた先っぽの部分が無くなっていたのだ。
しかも、先があったであろう部分は歯のようなもので
当のリ級は顔を綻ばせながらお粥を咀嚼している。その光景自体はほのぼのとしているが、その空気を彼女が咀嚼するごとに響き渡る甲高い
「あー……」
その光景と音を前に、男は顔を抱える。そんな姿を尻目に、リ級はお粥(混入物有り)を飲み込むと、男に向かって親鳥に餌をもらう雛の様に口を開けた。
その姿に男は深いため息を漏らした後、頭を掻きながらリ級に指を向けた。
「お粥はいくらでも食っていい。ただ、
男の言葉に、リ級は口を開けながら頷く。その姿を受けて、男は腰を上げると新たなスプーンを取りに部屋を出て行った。しかし、男は勘違いを犯す。
それは、リ級はスプーンを
その勘違いのせいで、男の家にある10本近いスプーンが犠牲になったのは言うまでもない。