青天の霹靂   作:ぬえぬえ

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弱雷

 リ級が男の元にやってきて、1週間程が経った。

 

 シャワーの熱湯に加え薬品まみれの水道水によって重傷を負ったリ級の怪我は、男の甲斐甲斐しい介抱のお蔭でほぼ完治と言ったところまでやってきた。元々備えている深海棲艦の生命力もあるだろうが、やはり高速修復材の効果と言えよう。それでも艤装が付いていた腕や脚は傷の治りが遅く、まだ包帯を巻いている。

 

 それでも、今では動けるまで回復したリ級。そんな彼女に、男はココで生活する上で必要なことを教えていた。

 

 真っ先に教えたのは、スプーンの名称とその役割。それを毎日、特に食事時になると彼は必ず口を酸っぱくして教え込んだ。その努力の甲斐あって、リ級がお釈迦にしたスプーンは9本で止まった。

 

 10本目が無事に帰ってきた時、彼の顔に浮かんでいた表情は歓喜と言うよりも安堵の方が近かったのは言うまでもない。

 

 

 そんなスプーンに加え、この家の設備から家具、日用品の名称と使い方なども彼は教えた。勿論、リ級が一回の説明だけで全て覚えることは無くこの一週間毎日のようにリ級の悲鳴と男の絶叫が幾重にも木霊することになった。

 

 それでも男が根気よく教えたおかげで、ぎこちなさが残りながらもリ級は家の設備や家具、日用品などを使いこなせるようになった。勿論、全てが使いこなせるわけではなく、分からないモノに限っては男を引っ張ってくる。それでも、彼女の悲鳴が聞こえなくなったのは大きな進歩と言えよう。

 

 

 そんなこんなで一週間を過ごしてきた彼らは今、お互いに向き合って座っていた。

 

 

「それじゃあ……いくぞ」

 

 白熱電球の柔らかい明かりが照らす、所々茶色に変色した畳に桐箪笥、古ぼけたちゃぶ台と言う簡素な部屋。その殺風景な部屋に、上擦った男の声が聞こえる。

 

 

 そう言う男の両手はゴム手袋をはめており、その身体には手術の際に外科医が身に纏う手術着。そんな恰好の彼は緊張で強張る表情をし、その額に汗を浮かべている。

 

 そんな彼に向かい合うリ級は正座している。腕や脚にはまだ包帯が巻かれているものの殆ど完治と言っていい姿だが、何故かその手には男と同じような手袋がはめられている。

 

 

 その顔に男と同じような真剣な表情が有り、男の言葉に応える様に頷いた。

 

 

 それを受けた男はリ級の顔から膝の上にある握り拳に視線を移し、それを取る。手を掴まれたリ級の顔が強張る。それを見ながら、男はリ級の手を持ち上げ、顔の前に持ってきた。

 

 

 もう一度、男の目がリ級の顔を見る。その視線に、リ級は掴まれた握り拳を解いた。それを受けて、男はリ級の手の平を包み込むように掴み直し、ゆっくりと顔を近づける。

 

 

 それと同時に、彼の口が開く。

 

 

 そして、あろうことかリ級の指先を開いた口(・・・・)に突っ込んだ。

 

 

 男は一瞬涙目になるも、片方の手でリ級の指を自らの舌に押し当てた。舌に当たるのを確認した男はリ級に視線を送る。対するリ級は目を閉じ、ゆっくりと口を開けた。

 

 

 それを確認した男は空いている手で指を3本立て、一拍ごとに指を折る。

 

 

 その最後の指が折られる瞬間、リ級は大きく息を吸った。

 

 

 

「アーーー!!」

 

 

 真剣な顔つきの二人で張りつめていた部屋に、獣の雄たけびのような声が響き渡る。それを発しているのはリ級。目を閉じ、こめかみに皺が寄る程必死な形相で叫ぶ。それを黙って見ていた男の口の形が僅かに変わる。

 

 

 

「イーーー!!」

 

 

 男の口の形が変わって一拍置いてリ級の口から違う声、いや文字(・・)が飛び出す。それを発するリ級の口は、傍から見たらそこまでやらなくてもと思うほど『イ』の形になっている。まるで、今の形を身体に刻み込むように。

 

 

「ウーーー!!」

 

 

 またもやリ級の口から違う文字が飛び出した。必死の形相で文字を叫ぶリ級を見ながら、男は小さく頷いた。

 

 

 その後、一定間隔を置いてリ級の口から文字が飛び出す。傍から見れば、男の口に指を突っ込みながら規制を上げるという異様な光景かもしれない。しかし、リ級の口から飛び出す文字を一つ一つ見ていくと、一つの法則に従って発せられていることが分かった。

 

 

 

 それは『五十音順』。男が使う言葉(・・)の基本と言える「あいうえお」を母音として作られた50文字を覚える際に使われる順番だ。

 

 

 

「ンーーー!!」

 

 

 そんな五十音順の最後の『ん』をリ級が叫ぶ。その叫びも一定間隔を持って止まる。その後に聞こえるのは、リ級の荒い息遣い。今まで50個の文字を一定間隔を持って叫び続けたのだ、呼吸が乱れるのも仕方がない。

 

 

 そんなリ級を、男は黙って見つめ続ける。その後、部屋にはリ級の息遣いだけが響いたが、それも段々と小さくなっていく。やがてそれすらも消えた時、リ級は再び表情を引き締めて男に視線を向け、そのまま目を閉じる。

 

 

 それを受けた男の口が、再び動いた。

 

 

 

 

「ツクエ!!」

 

 

 そんな文字がリ級の口から飛び出した。いや、正確には「机」と言うちゃんとした言葉だ。しかし、その音が盛大に外れているため、ただ「つ」「く」「え」の三文字をただ羅列しただけの様に聞こえるのだ。

 

 それは外国人が違和感のある発音で口にする日本語、逆に日本人が適当なアクセントで口にする英語の様なものだろう。

 

 

「イマ!!」

 

 

 再びリ級の口から言葉とは呼べない文字の塊が飛び出す。只でさえ発音が滅茶苦茶な上、大声で叫ぶものだから本当に突拍子もない文字にしか聞こえない。しかし、それらを聞き漏らさまいと目を閉じる男。

 

 

 本当に傍から見たら何だこの光景は、と言われても仕方がない。だが、生憎ここには男とリ級以外いないのでそれを口にする者はいない。

 

 

 

 しばらくの間、部屋は奇声染みたリ級の声だけであったが、それも盛大に音の外れた「スプーン!!」を最後に途切れた。

 

 

 それと同時に、男は含んでいたリ級の指先を放した。その顔色は少し青くなっており、目の焦点が若干泳いでいる。そんな顔の男は掴んでいたリ級の手を離すと、一際大きな咳ばらいをして視線を上げた。

 

 

 その前には、真剣な眼差しを彼に向けるリ級。まるで、男の口から発せられる言葉を待っているように、その眼差しには期待に満ちていた。それを受けた男は何度か軽く咳ばらい後、手をリ級に伸ばした。

 

 

 

 

 

 

 

全問正解(・・・・)、よく出来ました」

 

 

 そう男が言うと同時に、伸ばした手でリ級の頭を撫でる。撫でられたリ級は一瞬呆けた顔になるも、それは頬を緩ませた笑顔を変わった。そんなリ級の表情を見ながら男は頭を撫でた。

 

 

「だが、発音(・・)がまだ駄目だ」

 

 その言葉と共にリ級の頭から男の手が離れる。それをリ級は若干名残惜しそうに見つめるも、すぐに表情を引き締めて男に向き合い、何故か自らの口に指を勢いよく突っ込んだ。

 

 

「……んじゃ、発音からもう一度復習するぞ。先ず――――」

 

 

 そんなリ級の姿に苦笑いを浮かべ、男は同じように口に指を突っ込んで無理矢理広げながら話を始めた。

 

 

 白熱電球が照らす中、二人がにらめっこの如く顔を変えながら文字やら言葉やら、時には人語とは到底呼べない謎の言葉を叫ぶ。

 

 

 そんな奇行と呼ばれても仕方がない二人だが、これはれっきとした『話す』練習だ。

 

 

 何故、彼らがそのような練習をしているのかは、男がこの一週間の介抱で彼女との『会話』による意思疎通の必要性を感じたことに始まる。

 

 

 一応、男とリ級の『言葉』を用いた意思疎通は出来ている。しかし、それは男からリ級への一方通行のみであり、リ級から男への意思疎通は主に表情やジャスチャーなどの身振り手振りが主である。しかし、それでは男がリ級の意思を理解するまでに時間がかかってしまう、また瞬時の対処が出来ないなどのデメリットがあった。

 

 それが顕著に現れたのが、リ級が初めて目を覚ました際に起きたシャワーによる惨劇。あの時、男はリ級が何に怯え、何をしようとしていたのかが分からなかった。故に、男はバケツを手に鬼のような形相で怒鳴り声を上げてしまう。それに身の危険を感じたリ級は逃げようとして、誤ってシャワーの蛇口を捻ってしまったのだ。

 

 勿論、会話が出来ていれば防げていたというわけではない。しかし、会話が出来ればリ級が取り乱した際に素早く対応することが出来る。つまり、完治するまでリ級の身の安全を、そして男自身の身の安全を確保する目的もある。

 

 

 他にも色々な理由があるが、その中でも「会話が一番楽だから」と言うモノが一番であったのは内緒の話だ。

 

 

 

 そんなわけで始まった男とリ級による『話す』練習。

 

 

 その方法は至ってシンプル。男の口にリ級が指を突っ込み、彼が言葉を発する際の舌や口の形を覚えてそれの通りに舌や口を動かして声を出すだけだ。

 

 

 言葉にすれば簡単だが、これを実際にやると案外難しい。口の形は男の口許を見れば比較的簡単に再現できるが、問題は舌の形だ。舌の形は指先の感覚だけで覚えなければならず、更にその情報だけで自分の舌で再現する必要がある。こればかりはいくら指先の神経が鋭い者でも至難の業と言えよう。

 

 それ故、リ級は指先で覚えた舌の形を再現するために自分の口に指を突っ込んだり、曖昧になった舌の形を確かめるために男の口に突っ込んだりを繰り返して何とかそれを覚えようとした。それを続けて、何とか音を発するところまで漕ぎ着けたのだ。

 

 ここで考えてみてほしい。自身で口に指を突っ込み舌に触れたり掴んだりすれば、当然身体が異変を感じて拒絶反応を示す。それが噎せたり、咳き込んだりすることだ。自分自身でもそうなるのに、他人の指が突っ込んできたらどうだろうか。

 

 

 自身の拒絶反応に気付かず、尚且つ加減(・・)が出来ない他人が、だ。

 

 

 

 それは普段着の上に手術着を纏った男とゴム手袋を付けている二人を見れば分かるだろう。

 

 

 

「ま、今日はこんなところか」

 

「ツクエ……ツ……ク……エ、ツクエ!!」

 

 一しきり発音の復習を終えた男は一息つく。その前にいるリ級は未だに口に指を突っ込んで発音練習を繰り返していた。その姿を見ながら男はふと考え込む。いや、正確にはリ級の身体を見ながらだが。

 

 

 

「……その恰好、どうにかならないか?」

 

 

「ツク……ェエ?」

 

 突然の男の問いかけにリ級は口に指を突っ込んだまま彼の方を向き直り、首を傾げた。その姿に男は苦笑いを浮かべる。と言うのも、今現在リ級は何も身に纏っていないのだ。

 

 

 1つ訂正だが、彼女の胸部と臀部は黒い下着のようなもので包まれているため全裸と言うわけではない。しかし、胸部と臀部以外は何も身に纏っていない。謂わば、下着姿なのだ。因みに寝込んでいた時に着ていた病衣は、彼女が動けるようになった時に着るのを嫌がったために今は着ていない。

 

 勿論、男がリ級の姿に欲情するなんてことはない。しかし、いくら深海棲艦と言っても姿かたちは人間に、しかも女性の姿をしていれば目のやり場に困ると言うモノ。故に、男は何とかしてリ級に服を着せようとこの一週間色々と策を講じた。

 

 

 彼が提案したのは、Tシャツにトレーナー、セーター、カーディガン、ジャンパーなど。しかし、その全てにリ級は拒絶を示した。唯一、ワイシャツに関してはただ腕を通してボタンを一切止めない状態には好感を示した。でも、ボタンが留まっていないワイシャツなどその意味を成しておらず、男は胸部と臀部を隠すためにそのボタンを留めた。

 

 因みに男は知らないが、リ級が服を着るのを拒否したのは布によって締め付けられる圧迫感だ。

 

 故に、その選択がリ級の拒否反応を引き起こし、男が持つワイシャツの中で一番高いモノのボタンが全て引きちぎられるという結果となった。それ以来、彼はボタンなどで留めるタイプの服を彼女に着せようとはしなかった。

 

 

「せめてこれ着てくれない?」

 

「ヤー」

 

 そう言いながら男が近くにあったTシャツを引き寄せるも、リ級は若干嫌そうな表情でそう言いながら拒絶するように腕を組む。男が展開した着用作戦の成果(?)か、リ級が最初に喋った言葉が『嫌』と言うの「ヤー」だ。

 

 これを初めて聞いたとき、男の顔に浮かんでいたのは歓喜でも落胆でもない微妙な顔であった。

 

 

「……なら、コイツはどうだ?」

 

「ヤー」

 

 

 Tシャツを手に男はそう言って、立ち上がって傍の箪笥を開けて中を探り出した。その姿に、リ級は嫌そうな顔で拒否の言葉を零す。それが聞こえないふりをしながら、男は箪笥から目的のモノを引っ張り出した。

 

 

 それは真っ黒なパーカー。何も柄もない、黒の生地と銀色のジップが付いた。何の特徴もない、普通のパーカーだ。

 

 

「ヤー」

 

 それを目にしたリ級は口では拒否の言葉を零す。しかし、その目はパーカーに注がれており、Tシャツを見せた時の嫌そうな表情はない。その反応に、男の中で一抹の希望が生まれた。

 

 

 男は早速パーカーをリ級に着せようと近づける。それにリ級は逃げようとするもの、Tシャツほどの拒否は見えない。男はリ級の気分が変わらないうちに彼女の後ろに回り、その両腕に袖を通す。

 

 

「ァー」

 

 リ級は少し鬱陶しそうな声を上げるも、袖から腕を抜こうとはしない。男はそのまま彼女の身体にパーカーを着せる。勿論、ジップで前を留めずにだ。そして、少し離れてリ級の様子を見る。

 

 

 当のリ級は自らの身体に着せられたパーカーをマジマジと見つめる。その表情は嫌悪感と言うよりも、好奇心の方が強い。それを見て、男は再度リ級に近付いてその前でしゃがんだ。

 

 

「……これな? こう、使うんだよ」

 

 そう言って、パーカーのジップを留めてそれを引き上げた。途端、リ級の顔に嫌悪感が浮かび、パーカーの端を掴んで引き千切ろうとする。

 

 

「ちょ、まっ、ストップストップ!!」

 

 これ以上私服を駄目にされては困ると慌ててリ級の腕を掴む男。突然の男の行動に顔を強張らせるリ級であったが、それに畳みかける様に男が口を開く。

 

 

ジップ(これ)!! これで調節出来るから!! お願いだからこれ以上引きちぎるのはやめて!!」

 

 そう叫びながら、男はジップを上下にさせて調節出来ることをリ級に教える。いきなり顔を近づけてきた男の言葉に、リ級は顔を強張らせながら男が示すジップに視線を向ける。そして、確かめるようにジップを掴んで上下させた。

 

 

 途端、リ級の頬が緩む。彼女的には、自分の好みで服の圧迫感を調節できることが気に入ったのだ。

 

 

「そう、それで調節出来るから、お前の好きなようにしていいから」

 

 

 ジップをもの珍しそうに上下させるリ級を見て、取り敢えず引き千切られるのは回避したと思った男は安堵の息を漏らす。その間も、リ級は忙しなくジップを上下させる。

 

 

「……おい、あまりやり過ぎると……」

 

 遊びでジップを上下させるリ級に注意しようと顔を上げた男であったが、その目が点になる。彼の目に映ったのは、パーカーのジップを掴むリ級の呆けた顔だ。

 

 

 彼女の手は、ちょうど彼女のへその下あたりで止まっている。そして、不思議なことに彼女が上げようとしてもジップが全く動かないのだ。リ級も、何故か動かないジップを見つめながら何度か引き上げようとする。しかし、ジップがそこから動く気配はない。

 

 

 

 男は無言のまま、リ級の手を退けてジップに触れる。軽く上下に引っ張ってみるも、何かに引っかかってるような感覚があるだけで動かない。無理に動かそうとしたら、金具の下からビリッと言う不吉な音が聞こえた。

 

 

 その瞬間、男はジップを動かすことを諦めた。

 

「あぁ……これもか……」

 

 男はリ級にジップに触れないよう言い聞かせ、別の服を用意しようとした。しかし、当の本人はそのパーカーが気に入ったらしく、てこでもパーカーを脱ごうとはしなかったので、男はそれすらも諦めた。

 

 

 

 それ以来、リ級は胸元からへそまでザックリ開いた、もはやパーカーの体すらを成していないそれを脱ごうとはしなかった。

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