青天の霹靂   作:ぬえぬえ

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雷声

「アァ……」

 

 

 足に打ち付ける波を蹴り上げながら、リ級はため息と共に唸り声を上げた。蹴り上げた波が水しぶきとなり、湿った砂に落ち、跡を残して吸い込まれていく。しかし、その後も次に打ち付けた波によって掻き消される。

 

 

 その波をまた蹴り上げ、同じように砂に跡を残すもすぐに掻き消される。何度かそれを繰り返すリ級の顔は、何とも形容しがたい表情(モノ)だった。

 

 

 ふと、それを繰り返すリ級の目線が横に逸れる。その先には、ちょっとした崖に腰掛けて釣り糸を垂らす男。水で濡れた服の彼は、波によってユラユラと揺れる釣り糸、そしてその先に広がる海をボーっと見つめている。そんな彼は、リ級が視線を向けていることに気付く様子はなく、一つ大きな欠伸を溢す。

 

 

 その姿を、リ級は見つめ続ける。

 

 

 男が何度も欠伸を溢すのを、片時も離さず見つめ続ける。

 

 

 糸が引かれた感覚で期待に満ちた顔になる男を、固唾を飲んで見つめ続ける。

 

 

 その引きが波に引っ張られただけであったことに気付き、肩を落としてまたボーっと海を見つめ続ける男を、半眼になって見つめ続ける。

 

 

 いつの間にか、男を見つめるリ級の顔は何とも形容し難い表情(モノ)から、目を吊り上げて頬を膨らませる表情(モノ)に変わっていた。そのまま、リ級の視線はまた足元に戻っていた。

 

 

 

 そんなことを、彼らは繰り返している。「不味い」と、全身を水と砂にまみれた男が何かを悟ったような顔で溢してからだ。

 

 

 そう零した直後、男の顔面にリ級が蹴り上げた波が直撃するも、特に反応することなく先ほど放り出した釣り道具を回収しに向かう。その姿、と言うか、先ほど一緒になってはしゃぎ倒していた人物とは思えない変わりように、頬を引きつり硬直するリ級。

 

 

 男は釣り道具を回収した後、そんなリ級に一人で遊ぶように言いつける。その言葉に、リ級は呆けた顔のまま何も考えずに頷いた。それを確認した男はリ級に小さく笑みを向け、何も言わずに崖へと歩き始める。

 

 

 その後ろ姿に、頭が追い付いたリ級は思わず駆け寄ろうとする。しかし、男へと伸ばした手が、彼の背中を掴むことは出来なかった。

 

 

 

 男が浮かべた小さな笑みが、あの時――――入り江へと向かう道中で見た、何処か遠くを見つめるような『悲痛』な表情だったから。

 

 

 そのまま、遠ざかっていく男の背中を見つめていたリ級の腕が、ダラリと下に垂れる。それと同時に、視線も足元に落ちた。後は、己の足元と遠くで釣り糸を垂らす男の姿を交互に見ることとなる。

 

 

 

 しかし、そんなことを繰り返してきたリ級の胸中は、いつの間にか男の表情を見たことの衝撃から、足元と男の背中だけを見つめ続ける単調とした時間に辟易する気持ちにすり替わっていた。

 

 

 

「アァ……」

 

 

 

 またもや、彼女は唸り声を上げる。辟易した気持ちを表す様に溜め息を吐きながら、また足元の波を蹴り上げた。

 

 

 ちょっと前なら、この水しぶきの先に男が居た。それを頭から被った男が、笑いながらお返しとばかりに波を蹴り上げる。その水しぶきを彼と同じように頭から被り、同じように笑いながらまた水しぶきをかける。

 

 

 だが、今目の前に男はいない。蹴り上げた水しぶきは、誰も居ない場所に落ちるだけ。返ってくるのは足に打ち付ける波のみ。

 

 

 先ほどまでの天と地ほどの差に、リ級は辟易し、退屈していた。もっと男と遊びたい、相手をしてほしい、構って欲しい。

 

 

 そんな想いが、波を蹴り上げる度に強くなり、男へと視線を向けると瞬く間に膨張する。その度に、一人で遊べと言う男の言葉が頭を過り、抑え込むべく視線を足元に向けた。それを、何度も繰り返す。

 

 

 

 やがて、そのサイクルにも限界が訪れた。

 

 

 

「ソウダ」

 

 

 ポツリと、リ級の口から漏れた一言。それを漏らした彼女の顔は、小悪魔みたいな笑みに変わっていた。

 

 

 リ級は足元に向けていた視線を男の背中に向け、歩き始める。それもなるべく音を立てない様に、踵を付けないつま先歩きで。

 

 

 そんな忍び足で男に近付く彼女の脳内には、気付かれないように男の背後に近付きいきなり大声を上げて抱き付く自分、その声に、そしていきなり抱き付かれたことで変な悲鳴を上げて驚く男が映し出されている。

 

 

 早い話、驚かせて気を引こうとしてるのだ。

 

 

 更に歩を進めるリ級の脳内では、その後ニッシッシと笑いかける自分を苦笑いの男が頭をクシャクシャと撫でる場面まで進行している辺り、彼女は予想外のことが起こるとは微塵も思っていないのだろう。

 

 

 その証拠に、歩を進める度にリ級の口角が更に吊り上がっていくのだから。

 

 

 ゆっくりと音を立てないように進むリ級、その先には今もボーっと海を見つめる男。その距離は少しずつではあるが、確実に縮まっている。そして、悪戯っぽい笑みを浮かべるリ級と、それに気づかない男。

 

 

 傍から見たら、深海棲艦が人間を襲おうとしている場面にも見えるが、男を含めた当事者はそんな気は毛頭ない。

 

 

 彼女の足に現れる感触は、湿った砂浜から乾いた砂浜、そしてごつごつとした岩肌へと変わっていく。

 

 

 彼女の耳に届く音は、砂浜を滑るように進む波の音から、岩肌に勢いよく打ち付ける荒波の音へと変わっていく。

 

 

 彼女の胸を打つ鼓動は、足元に転がる数字を一つ一つ拾う様にゆったりとしながら、その一つ一つが大きく、深く、一瞬にして胸から全身へと広がるほど重くなっていく。

 

 

 そして、彼女の目に映る男の背中は、握り拳大からリ級の胴体ほどへと変わり、やがて、いつも目にしているその大きさになった。

 

 

 

 その大きさになってもなお、男は後ろを振り向くことない。ただ、今まで彼の目の前に広がっていた海に向けていた視線を竿を握る己の手に落としていた。そして、リ級に聞き取れない声で、何やらブツブツと呟いている。

 

 

 そのおかげか、リ級が己の手に届く範囲に近付いても、彼女に気付く様子はない。その事実に、リ級は更に口角を吊り上げ、若干前かがみになりながら両腕を持ち上げ、構えた。

 

 

 

 後は、大声を上げて、勢いよく男の背中に抱き付けばいい。そして、驚いて振り返る男に、満面の笑みを向ければいいのだ。

 

 

 そうすれば、また遊んでくれる。そうすれば、また相手をしてくれる。そうすれば、また構ってくれる。

 

 

 そうすれば、そうすれば良いのだ。

 

 

 その想いを胸に、リ級は大きく息を吸った。大声を上げるために上体を限界まで逸らし、自分の目にも分かる程胸を膨らませて。やがて、目一杯空気を吸い込み、パンパンに膨れ上がった胸をこさえたリ級は、いよいよその時が来たとばかりに顔を綻ばせ、その一歩を踏み出した。

 

 

 

 その記念すべき第一歩が岩肌に触れた瞬間、リ級は奇妙な感覚に襲われた。

 

 

 

 

 先ず、踏み出した第一歩が岩肌に触れる感触が現れるも、次の瞬間には両足(・・)からその感触が消えてしまった。

 

 

 次に、見えない力に両足を上に、頭を下に引っ張られるような感覚が現れ、すぐに消えてしまった。

 

 

 最後に、リ級の視界から男の背中が消え、つい先ほど自らが踏みしめた筈の岩肌に変わり、やがて今まで自らの頭上に広がっていた青々とした空に変わり、そして空の端につい先ほど自らが飛びつこうとしていた男の()が現れた。

 

 

 

 

 リ級の視界に現れた男は、口を半分開け、目を丸くして、彼女を見つめ返している。その表情は、リ級が脳内で再生していた光景と寸分も狂わず一致していた。その顔に、リ級は無意識の内に笑みを浮かべる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 しかし、その笑みは、男の姿が消えたと同時に現れた後頭部への強烈な衝撃によって歪んでしまった。

 

 

 

 

「ちょっ!?」

 

 

 

 視界の外で、男の叫び声が聞こえる。それは、水を求めて風呂場に逃げ込んだリ級に向けて発せられた怒鳴り声に近い。しかし、後頭部に衝撃を受けたリ級にそれに反応する余裕はない。

 

 

 その後、何度か衝撃と鋭い痛みに襲われる彼女の視界にはゴツゴツとした岩肌、青々とした空、その端に現れる男の姿が、回る様に、そして徐々に変化しながら現れ続けた。

 

 

 

 ゴツゴツとした岩肌は現れる度にその表面が変わり、男は驚いた顔から必死の形相に、そして現れる度に小さくなっていく。その中で、青々とした空だけは特に何も変わらない。強いて言うならば、それが視界に留まり続ける時間が段々と長くなっていくぐらいだ。

 

 

 

 

 違う、そんなことは無い。留まり続ける時間が長くなっているのではない。空ではない、空によく似た色のモノが新たに現れたのだ。

 

 

 

 青々とした空を寸分の狂いもなく映し出す、現れる度に視界一杯に広がり続ける、同じように青々と広がる海が。

 

 

 

 リ級が海の存在を知った瞬間、今度は先ほどとは比べ物にならないほどの大きな衝撃がその全身を打ち据えた。そして、大量の泡が彼女の胸を、脚を、腹を、腰を、首を、頭を、そしてその視界に押し寄せる。

 

 

 押し寄せた泡が消え去ると、彼女の視界は一変した。

 

 

 

 そこに、常に頭上に広がっていた、あの青々とした空は無い。

 

 

 つい先ほどまで踏みしめていた湿った砂浜も、乾いた砂浜も、ゴツゴツした岩肌も。

 

 

 つい先ほどまで飛び掛かろうとした男の背中も、驚いた男の顔も、必死の形相も。

 

 

 

 

 ただ、空よりも薄暗い青色に満たされた空間。そこに、申し訳程度に差し込む白い光が力なくユラユラと揺れるだけの、それだけしかない海の中だ。

 

 

 

 リ級の身体を包み込む水は非常に冷たく、彼女はそれによって自身の体温が急激に奪われていくのを感じた。それに比例するように、彼女が身に纏う服に海水が浸透していき、徐々に増える重みによって彼女の身体が下へ引っ張られる。

 

 

 

 そう、下へと、海の底へと引っ張られているのだ。沈んでいるのだ。沈んでいる(死んでしまう)のだ。

 

 

 

 

 そう理解した途端、リ級の全身に寒気が、とんでもない『恐怖』が走った。

 

 

 

 彼女は自分を『死』ヘと引きずり込む服を脱ごうと手をかける。しかし、後頭部に受けた衝撃のせいで手足が上手く動かせない。そこに畳みかけるように押し寄せる海の流れが、彼女の一挙手一投足を鈍らせる。

 

 

 

 その事実が、徐々に奪われる体温が、段々と暗くなっていく視界が、彼女の恐怖を間断なく駆り立てる。その駆り立てた恐怖が、リ級を含め全ての生命における最も重要なモノ―――――『空気』を求めた。

 

 

 

 よりにもよって、『空気』が存在しない海中で。

 

 

 

 その結果、リ級の体内に大量の水が押し寄せ、それに押し出されるように体内の空気が少なくはない泡となって彼女の口から吐き出される。それは様々に形を変えながらもの凄いスピードでリ級の頭上へ、海面へと昇っていく。

 

 

 それを捉えるリ級の視界が真っ黒に染まっていく。それに反するように、手足の感覚が、恐怖が、その思考が真っ白になっていく。

 

 

 真っ白になる意識の中で、彼女は昇っていく泡に手を伸ばす。しかし、その手が届くはずもなく、代わりに掴んだのは冷たい水と、力なく揺れる光だけ。

 

 

 

 真っ黒になる視界の中で、彼女は見た。海面へと昇っていく泡を、海面から差し込む白い光を、細長い棒のようなモノ―――――釣り竿を。

 

 

 

 そして、それら全てを包み込む程の大量の白い泡を。

 

 

 

 

 そこで、彼女の視界は真っ黒に染まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 リ級は、腕を掴まれるのを感じた。

 

 

 リ級は、掴まれた腕が引っ張られるのを感じた。

 

 

 リ級は、下に引っ張られる服の重みが増えるのを感じた。

 

 

 リ級は、水の流れが下から上ではなく、上から下に変わるのを感じた。

 

 

 リ級は、何かに抱きしめられるのを感じた。

 

 

 リ級は、抱きしめられた顔の横で小さな音を感じた。

 

 

 リ級は、掴まれた腕から、抱きしめられた身体から、顔の横から温かさを感じた。

 

 

 リ級は、真っ暗だった視界が段々と白く染まっていくのを感じた。

 

 

 

 

 リ級は、自分の顔を包み込んでいた水が一瞬にして消え去ったのを感じた。

 

 

 

 

「大丈夫か!?」

 

 

 リ級の耳に、聞き覚えのある声が聞こえる。同時に、胸を中心に強く締め付けられる圧迫感を感じる。その圧迫感は一定の感覚でリ級の胸を締め付けた。それによって、止まっていたリ級の身体が再び活動を始める。

 

 

 

 次に、リ級の口がいきなり塞がれ、そこから空気が送り込まれる。送り込まれた空気に、そして活動を始めた彼女の身体によって、体内を満たしていた海水が喉へと勢いよくせり上がった。

 

 

 

 

「ゴホッ!! ゲホッ!!」

 

 

 腕で塞いでいた何かを引き剥がし、リ級は濁音入り混じる声と共に口から大量の海水を吐き出した。次に、吐き出した海水の分を補う様に空気を吸い込み、次にそれによって押し出される海水を吐き出す。

 

 

 その次に空気、そして海水、それをリ級は何回か繰り返し、やがてそれは激しい咳に変わる。その変化に呼応するように、リ級の胸を締め付けてきた圧迫感は消え去り、咳を助長するように背中を撫でる感覚に変わった。

 

 

 

 やがて、リ級の咳が収まり、深呼吸に変わる。

 

 

 その頃には、真っ黒に染まっていた彼女の視界は青々とした空と、時折頬を濡らす波、そして水に濡れて肌色のモノが透けて見える白い布のようなモノに変わっていた。

 

 

 

「良かったぁ」

 

 

 頭上から、聞き覚えのある声が聞こえた。その声に、リ級はゆっくりと見上げる。

 

 

 リ級の目は、白い布のようなモノから、布の奥に透けていた若干赤い肌の胸、首、顎、そして疲れた様にため息をつく男の顔に変わった。

 

 

 リ級の鼻は、強い磯の香りの中にほんの少しだけ混じっている男の臭いを感じた。

 

 

 リ級の肌は、海水の冷たさの中にしっかりと存在する男の体温を感じた。

 

 

 リ級の頭は、今自分が男に抱きしめられていることを理解した。

 

 

 

 

 

 それら全てのことが分かった瞬間、リ級の中で停止していた『感情』の堰が切れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ワァァァァァァアアアアアアアア!!!!」

 

 

 

 固く結ばれていたリ級の口は、限界まで開かれ獣のような声を吐き出す。

 

 

 男の胸を押し退けたリ級の腕は、手は、彼のシャツを力の限り握りしめる。

 

 

 男の顔を見上げていたリ級の頭は、その顔面を勢いよく男の胸に押し付ける。

 

 

 男の胸に押し付けられたリ級の顔は、今まで見たことないようなしかめっ面に変わる。

 

 

 しかめっ面と共に固く瞑られたリ級の瞳は、涙腺から止めどなく溢れる涙を零れさせる。

 

 

 

 

 リ級の意識を蝕んでいた『恐怖』は、男の胸に縋り付き、子供のように泣き叫ぶことの出来る感情に―――――『安心』に変わっていた。

 

 

 

 

「大丈夫、大丈夫だ」

 

 

 泣き叫ぶリ級の頭を、子供をあやす親のように男は撫でる。するとリ級の『安心』は更に高まり、それが彼女の声、手、涙などに現れた。それを感じ取り、男は更に優しくリ級の頭を撫でる。すると、更に『安心』が高まり、それが行動に出て、また男が撫でる。

 

 

 それを、リ級が泣き止むまで、二人は何度も繰り返す。

 

 

 そしてそれが、彼らに打ち付ける波の音が、『プチ……プチ……』と言う、男のシャツの断末魔を悉く掻き消してしまうのであった。

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