男はため息を溢した。彼が立っているのは台所、その手が握っているのはお玉、その前にはグツグツと煮える大小の鍋が二つ。
小さい鍋はみそ汁。味噌の良い香りを放ち、男の鼻をいい意味で刺激していた。
大きい鍋はお粥。磯の香りと生臭さが強く、男の鼻を悪い意味で刺激していた。
男はもう一つ、溜め息を溢した。その実、彼は辟易していたのだ。その理由は一体何であろうか。
先ず、目の前で沸々と煮る鍋からの匂い。これはここ数週間も嗅ぎ続けたことによって慣れたため、気に留めるほどでもない。故に、理由にはならない。
次に、この暑い時期に煮込みモノ、それも二品作ること。これは同居人がそれしか食べられないのだからしょうがない。故に、理由にはならない。
男はお粥が焦げぬよう注意しながら、目線だけを自らの足元に向ける。そして、再びため息を漏らした。
そこにあったのは、彼の腹――――その所にある2本の腕。その腕はこの暑い時期に不釣り合いなほど真っ黒な布に包まれており、その袖口からは到底人間とは思いないほど青白い肌の手が2つ。それは小さいながらも、男のへその辺りでガッチリと掴まれていた。
「なぁ」
男は呟くように声を出す。それと一緒に首を後ろに回し、半開きの目を自らの背中に向けた。
その先にあったのは、男の背中にぴったりとくっつき、まるでグリグリと押し付けように左右に揺れる先ほどと同じ真っ黒な布で覆われた頭のようなモノ。それが頭だと判断したのは、先ほどの真っ黒な布に包まれた腕、そして今なお男の背中にグリグリと押し付けられるモノ、そこから後ろへと延びる布の形が服の形状をしていたからだ。
そして、その布地は男が持っていたパーカーにそっくりであり、押し付けられるそれが頭をスッポリ覆うためのフードであったからだ。更には言えば、そのパーカーはつい先日同居人によって壊されたからだ。
「危ないから座ってろ」
真っ黒なパーカーに、男は何処か諦めた様な表情を浮かべながらそう言った。すると、グリグリと押し付けられていたフードが上を向き、その下から手同様青白い顔色の少女の顔が現れた。
その瞳は潤んでおり、口角は下がり――――それら全てをひっくるめた顔には、今にも泣きそうな表情が浮かんでいた。この状況が、彼の背中にぴったりと張り付きずっとぐりぐりと頭を押し付け、離れさせようとすると今にも泣きそうな顔を向けてくるこの状況がずっと続いている。
何を隠そう、この縋る様な目を向けてくる少女こと、リ級こそが男の頭を散々に悩ませ、辟易させている理由なのだ。
「だったら、せめて抱き付かないでくれ」
「……ヤー」
視線を目の前の鍋に戻しながら男が再び声をかけるも、リ級はか細い声を漏らすだけで離れる様子はない。この状況、傍から見れば少女に後ろから抱き付かれている、と言う人によってはご褒美とでも言いたくなる状況である。
だがしかし、それが四六時中続くとなればどうだろうか。事実、リ級は数日前に男と二人で入り江に出かけてからずっと男に張り付き、片時も離れまいとしている。恐らく誤って海に落ちてしまったことが相当怖かったのだろう。その時大声で泣き叫ぶ彼女の姿を見て、そして抱き締めていた、そして何よりも彼女を入り江に連れて行った張本人である男としてはあまり強く言えない立場だ。
しかし、そうはいっても限度があるだろう、とも男は思うわけで。それは文字通り、『四六時中』、『片時も離れまい』としているから。
つまり、いつ何時、どのような状況でもリ級が男の傍を離れないと言うことだ。それは部屋で過ごす時も、食事の時も、寝るときも、もちろん風呂やトイレの時も例外ではない。文字通り、何処へでもついていこうとするのだ。
そんな片時も離れようとしないリ級を全力で説得し、トイレは離れてもらえるようになったのは彼が昨今において最も誇っていることである。
「……あんまり動くなよ」
これ以上声をかけても変わらないと判断した男は疲れた様な顔でそう言い、鍋の火を止める。その言葉にリ級は彼に向けていた顔を下げ、フードを被った頭を再び背中に押し付け始めた。そのことに、男は再びため息を漏らす。
リ級が今行っている、男の背中に頭を押し付ける行為。これは男が「離れろ」と言った場合における「嫌だ」と言う意思を伝える行為、つまり『離れたくない』と言う意思表示だ。それ故、男が妥協さえすればその行為は止まり、ただ男に抱き付くのみになる。
しかし、今日はどうだろうか。男が「離れなくても良い」と言ってもそれを続けている。その意味は、やはり『離れたくない』と言う意思表示だ。それを踏まえて、いつもと異なっている点を挙げるとするならば、それは
「これ、俺が出かけて大丈夫かッ痛!?」
ポツリと、男が呟いた。その瞬間、その顔が苦痛に歪む。彼の腹に回されたリ級の腕に力が籠り、その背中に押し付けられる頭の勢いが増したのだ。
それは、男の言葉に対する『大丈夫ではない』と言う返答であろう。
男が出かける――つまり家を空けること。これは何も今日初めてのことではなく、リ級が彼の家にやって来てから何度もあったことである。
その主な理由は『買い物』。彼らが日々消費する食料や日用品は無尽蔵に家にあるわけでもなく、況してやこんな辺鄙なところに配達される訳でもない。そのため、男は数日おきにリ級を家に残してそれらを買い出しに行っているのだ。
何故、リ級を残しているのかについては、単純に動ける身体ではなかったこと。そして、買い物に行く場所には人がおり、そんなところに深海棲艦であるリ級を連れていける筈がない、と言う至極全うな理由だ。それをリ級も理解していたため、今までは大人しく留守番をしていたわけだ。無論、買い物なので一、二時間ぐらいで帰ってくることも知っていた為であるが。
しかし、此度は些かいつもと違うのだ。
まず、男が今現在作っていたお粥。これはリ級が唯一口にするモノであるが、問題はその量だ。お粥の鍋は平行して作っていた味噌汁の鍋よりも一回り大きく、かつその内の半分以上はお粥で満たされていたのだ。
何時もであれば、味噌汁の鍋と同じぐらいでその量も一食分である。しかし、今日はその量が多く、まるで一日分のお粥をまとめて作ったようにも見える。それもそのはず、男は一日分のお粥をまとめて作ったのだ。
では、何故一日分をまとめて作ったのか。それは、今日一日男が家を空けるからである。一日空けることを、リ級は聞かされているも、その理由は何故か聞かされていない。しかし、いつもの少しだらしない格好ではなく見たこともないようなしっかりした服装――――所謂礼装に近い服を着込んでいる。
端から見れば誰かに、それも目上の人に会うのでは、と思われるかもしれないが、リ級がそこまで分かる筈もない。彼女からすれば、ただいつもと違う格好でかつ長い時間離れ離れになってしまう、と言う認識だけだ。
詰まる所、リ級は『男が今日一日家を空けること』を聞かされ、男が『一日分のお粥をまとめて作っている』と言ういつもと違う点から、彼の言葉が本当であると察した。
それ故に、ささやかな抵抗として常にベッタリと男にくっついているわけだ。それは『長い時間、離れたくない』、更に踏み込むと『何処にも行って欲しくない』、と言う意思表示。そして、『絶対に離れないぞ』と言う彼女なりの堅固な決意を表しているのかもしれない。
それを何となく察している男は近くの棚からお椀を取り出してお粥をよそい、それを手に食卓へと向かう。勿論その背中にはリ級がベッタリ張り付いており、足においてはダラリとさせて男に引きずらせる有様だ。
初めはちゃんと歩けと言っていた男であるが、それも今ではリ級に腕を回す位置を上の方にさせてなるべく足を引きずらせないようにさせる程度だ。その様子は、駄々をこねる子供としかることを諦めた親子のようであった。
そんな感じで進められた準備の終わり、食卓には質素ながらも一般的な朝食が並んだ。準備を終えた男は一息つくと、片手を後ろに回し今なおグリグリと動いているリ級の頭をポンと触った。すると、リ級のその動きが止まり、彼女はゆっくりとした動作で男の背中から離れ始める。
『食事時は離れる』―――これもトイレ同様、男とリ級の間に交わされた約束だ。
「良い子だ」
男の背中を離れたリ級は頬を膨らませたまま食卓に着くと、男は柔らかい笑みを浮かべてリ級の頭を撫でる。すると膨れたリ級の頬がしぼみ、その顔が少しだけ安らいだ。これも彼らにとって恒例と言うか、むしろこうすることで離れてくれるようになったと言うか。その所、男は深く考えないようにしていた。
「じゃ、いただきます」
「イ……イタ、ダキマス」
男の合掌、それに合わせてリ級もたどたどしい合掌を口にする。これでも割と流暢になった方であろう。その後に彼女が掴んだスプーンの握り方、お椀の持ち方、その前にやった正座の仕方、合掌の作法など。全てが全て、男が教えたことだ。それも何度も教え込み、何とか此処までの水域に到達させた、それは子供に様々なことを教える親のような所業である。
故に、であろうか。たどたどしいそれを見る男の表情がまるで己の子を見るかのように柔らかいのは。
「……ナニ?」
「いや、何でも……って」
男の視線に気付いたリ級は口に運んでいたスプーンを止めて、首を傾げながら彼に問いかける。それに男は軽く首を振って誤魔化すも、その目にリ級の頬にお粥が付いているのが映った。それに気づいた男は軽く噴き出すのを、リ級はただ首を傾げるだけだ。
「ここ、付いてるぞ」
そう言って男は袖口を掴み、リ級の口許に付くお粥を拭った。彼の掌は柔らかな感触と湿り気を抱えた。次に、柔らかな感触は掌だけでなく手首にも抱えた。次に、彼の腕はグイっと前に引かれた。次に、彼の耳は金属が床に落ちる音を聞いた。
いずれのこと全てをひっくるめて、尚且つ簡単に言うと、男の腕をリ級が掴んだのだ。それもリ級の口許に触れた状態で、男の力ではビクともしない程ガッチリと。
「あのぉ……聞いてる?」
リ級による奇行とも呼べるモノにようやっと頭が追い付いた男がそう声をかけるも、リ級は特に反応しない。ただ男の腕を掴み、自らの口許に押し付けているのだ。そんなリ級の顔から、男は彼女の太ももに落ちたお粥、それが掬われていた筈の床に落ちているスプーンを見る。拭った意味がなくなった、と心の中で嘆く男であったが、次に現れた新しい感覚に男の目が半開きになった。
それは風、もしくは空気の動き。それも、一定の間隔で交互に現れる空気が押し付けられる感触と、吸い寄せられる感触、その一連の行動は『呼吸』であると推定される。そして、それらを感じている男の掌はリ級の口許に押し付けられている。それらの条件から導き出せるモノを、男はリ級に問いかけた。
「……え、何、嗅いでるの?」
引きつった笑みを浮かべた男がリ級に問いかけるも、やはりリ級は反応することなく自らの顔に男の掌を押し付け続け呼吸を―――――男の匂いを嗅ぐことを続けた。男としては少女に自らの匂いを、悪く言えば体臭を
しかしその心境も、自らの匂いを嗅ぐリ級の顔が今までで最も安らいでいるのを見たことで瞬く間に消え去った。
「……安心するのか?」
再び、男が問いかけた。すると、あれだけ匂いを嗅ぐことに没頭していたリ級の顔が男の方を向き、真剣な顔で何度も頷く。その様子に男は一応の納得はしたものの、その表情は何処か諦めたようであった。
リ級にとって男の匂いが安心するのであれば、それを取り上げようと言う選択肢は存在しない。それはリ級が深海棲艦と言うまだまだ未知数の生き物であるために慎重に接しなければならないこともそうだが、一番は彼女と共に過ごした時間が長くなったからかもしれない。ともかく、その選択肢がない彼が現在考えているのは、自分の代わりとなるものだ。
「ちょっと待ってくれ」
それが思いついた男は、今なお匂いを嗅ぎ続けるリ級から自らの手を引き離そうとする。リ級は名残惜しそうな表情を浮かべるも男の言葉に従ってその手を離し、立ち上がって近くの箪笥を引っ掻き回す男の背中を見つめ続けた。暫し彼女はジーっと見つめ続けるも、『安心』出来るそれが離れたことで表情に影が射し始め、その視線は段々下がっていった。しかし、それも何者かによって彼女のフードを外されたことで上に弾かれる。
と、同時にリ級の首に柔らかい布のようなモノが触れ、視界の両端が黒くなり、その身体は今しがた求めていた『安心する匂い』に包まれた。
「夏にマフラーだけど……どう?」
黒い影の隙間から男はリ級の顔を覗き込んだ。その手には、黒と灰色、白の三色を用いたストライプ模様のマフラーが握られている。そのマフラーはリ級の首筋からフラリと掛けられ、その両端は彼女の両肘の辺りまでの長さであり、男はその両端を掴んでゆっくりとリ級の首に巻いていく。
その間、リ級は当然『安心』する匂いに包まれたことに身体を強張らせつつも、自分の首に巻かれたマフラーに触れる。最初は、いきなり巻かれたモノが何なのかを確かめるような、恐る恐ると言った手付きであった。しかし、それもマフラーの柔らかさ、じんわりと感じる暖かさ、そしてマフラーに顔を埋めるごとに強くなる『安心』する匂いによって、いつの間にか身体の強張りは消えていた。
「大丈夫っぽいな」
マフラーに顔を埋めるリ級の顔が、先ほどの掌に顔を近づけて直接匂いを嗅いでいた時の顔になる。それを見て、男は一息ついた。彼としては自らの匂いを嗅がれている事実は変わらないものの、直接嗅がれるより
「じゃ、そろそろ行くわ」
マフラーに顔を埋めるリ級に男は立ち上がりながらそう言う。すると、リ級の顔が弾かれた様に上を向いて縋る様に彼の手を掴む。そのことに、男は驚いた顔をするもすぐに苦笑いを浮かべ、膝を折ってリ級と同じ視線になる。
「そのマフラー、お前にやる。その代わり今日一日頑張って留守番をすること、いいな?」
リ級に掴まれた手を包み、男は真っ直ぐその目を見て言い聞かせる。その言葉に、リ級は不安そうな表情で視線を落とし、小さく唸り声を上げ始めた。恐らく、頭の中で男の言葉に従うか否かを激しく議論しているのだろう。その様子をしばらく見ていた男は、何か思いついたように手を伸ばした。
「頼むよ」
男がそう言うのと同時にその手がリ級の頭に触れ、優しく撫でる。その瞬間、リ級の唸り声が止んでその身体がビクッと震えた。それに構わずワシワシと男が彼女の頭を撫で続ける。その光景がほんの少しだけ続く。
「……ワカッタ」
少しして、リ級がそう呟いた。しかし、その声色は何処か不機嫌で、その表情もバツの悪そうに頬を膨らませていた。まるで、『撫でるのはズルイ』とでも言いたげに。そんな表情を向けられた男は特に意に介さず、リ級の頭から手を離して朝食を食べ始めた。
その様子に何処か納得しかねる顔を向け続けるリ級であったが、それを男が顧みることは無かった。
やがて、朝食を済ませて出かける準備も終わった頃、玄関では靴を履く男とそれを見つめるリ級が居た。そこでも、やはり男はいつもの靴ではなく念入りに磨かれた革靴を選んでいるも、彼女がそれに気づくことはない。
「よし」
靴を履き終えた男はそう言って立ち上がり、後ろに控えているリ級を見る。対してリ級は、不貞腐れた顔で男を見つめ返した。ただし、その口元にはしっかりと男のマフラーに包まれている。それを見て、男は苦笑いを浮かべつつ、傍に立てかけていた鞄を掴んだ。
「それじゃ、家のことは頼んだぞ」
「……ハーイ」
そう言って玄関を開けて外に出る男の背中に、リ級は覇気のない声でそう言う。それに男は反応することなく、もう一度リ級に苦笑いを向けて玄関の扉を閉めた。扉の向こうから殻靴が地面を叩く音が聞こえるも、やがてそれも遠くなっていく。
その音が聞こえなくなるまで、リ級は先ほどと変わらずただ黙って男が出て行った扉を見つめていた。いや、その表情以外は。と言うのも、男が出て行く前の彼女の表情は不貞腐れていたのだが、今現在の表情はそうではないのだ。
半開きながらも目尻が下がった目、反対に軽く吊り上がる頬、同じく口角が上がって歯が所々見え隠れしている口許など。そこにあったのは、悪戯を思いついた子供のような表情だ。
『家のことは頼んだぞ』――――それは出て行く直前に男が残した言葉。その裏を返せば、『必要だと
その言葉が指す未来を、この時点で男が少しでも予想出来たであろうか。