恋姫†無双 「復讐剣月蝕」   作:我楽娯兵

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昼の月

 伊烏を中心に全方位、敵が取り囲み異臭を放ちながら憤慨の表情を浮かべていた。

 手に持つ剣の一つですら手入れが行き届いていない。

 見るからに盗賊、それも太平道の名を借りた性質の悪い盗賊であった。

 

「...大層殺気だっているな」

 

 伊烏は盗賊に問う。

 その問いは盗賊達の反応から白々しさすら感じられる。

 これの切っ掛けは伊烏にあると見えた。

 伊烏の起伏なくただ陰鬱な態度に怒りを放出させる盗賊達。

 

「こっちの大半を切り殺しておいて、よくそんな態度取れるな野郎」

 

「......」

 

「こちとら兄弟切られてんだ。てめえを殺しただけじゃすまねえ、てめえの護る村をぶっ壊して側に侍らせる女を犯し殺してやるッ!」

 

 人とは思えぬ表情で呪詛を吐く盗賊。

 だがそれにさえ伊烏は陰鬱で、冷徹な態度を取った。

 ――いや、違う。伊烏は盗賊以上の泥濘に嵌っていた。

 苛烈な闘争と引き換えに、凶悪な怨恨の眼差しが盗賊を射抜いた。

 

「.....村一つとは、それも一つの残酷だ」

 

「あッ?」

 

「復讐.....俺もお前か」

 

「なに言ってんだ――あぁッッ!!」

 

 伊烏の独り言に耐えかねた盗賊が襲い掛かった。

 乱雑で野放図な波状攻め。流れより見れば艮方(うしとら)(北東)より一人目が伊烏の刃圏に入る。

 趙雲の眼には伊烏の周囲を白の一線が撫でたように見えた。

 それは武を突き詰めた者のみが捉えうる――死神の一線である。

 赤い雨が噴出し、周囲を染め上げる。カラスは嘶き羽音を響かせ空を舞う。

 瞬きの間である――伊烏は抜刀していた。

 刃圏へ足を踏み入れた愚者の首筋に「見たこともない剣」が切り込んでいた。

 右腕でただ横薙ぎの斬り。

 晒すように抜き放たれたその剣は――あまりにも美しい。

 二尺四寸の剣。切先に紅化粧を施した刃毀れの一つもない。

 錆びついた剣など有無を言わさぬ潔白な白金、月のように反りを描く優美さ、刃を飾る小波のような刃紋。

 着飾ることなくそれ其の物を突き詰めた美しさが、盗賊も、趙雲でさえも魅了した。

 その剣の奇異な美しさに時が止まったようであった。

 伊烏が血振るいし、白塗りの鞘に刃を戻す。

 その納刀時の音に、盗賊達は現状を理解し始めた。

 伊烏の剣に心奪われる猶予はない、仲間が一人切られたのだ。

 ならば次に起こす事は――略奪だ。

 猿叫びを上げ、剣を振り上げ驀進する盗賊達。伊烏は今だその場を動かず、俯瞰するかのように自然体で落ち着いていた。

 

(......愚かなものよ)

 

 趙雲は木上で盗賊を嘲る。

 盗賊達は忘れていた、最初の一撃を。

 奇怪の塊である伊烏。その剣の美しさには誰もが魅了されるだろう。だが度外視するにはあまりにも危険すぎる事を伊烏はやってのけていた。

 子、乾、巽方三方向より伊烏に襲い掛かる盗賊。伊烏は柄に手を乗せる、瞬間――光は輝く。

 瞬間、子方の敵の首筋を伊烏は切っていた。飛沫を顔に受け濡らす表情は、昂ぶりも、絶望も、喜びも悲しみもく快楽も苦悶も、何一つ窺えない無表情があった。

 乾方より二人目が伊烏の刃圏へと踏み入った。

 上段より振り下ろされる直刀、伊烏はその一刀を受けた。伊烏は初めてその場を動いた。

 流れるような動きで、左足を敵の左脇を抜き踏み込む。と、同時に受けた剣を傾け敵の剣を切先へと流す。受けの支えである伊烏を失い、するりと落ちる直刀。

 体勢を崩し前のめりに倒れ込んだ盗賊。その動きは伊烏が行わせた殺しの機構の中だ。

 傾けた筈の伊烏の剣が僅かに横に向いた。巽方より三人目が迫る。

 切先が体勢を崩した盗賊の首筋を捉え、命を摘み取ると同時に刃は速度を上げる。

 左足に重心を傾けていた伊烏は、右足へと重みを移動させる。

 後方への急激な切り返し。盗賊は想像もしていなかったという表情を浮かべている。

 左肩より刃が入り右脇腹より抜けていく。鎖骨肋骨をも物ともしない切断力が発揮されていることが見て取れた。

 伊烏の剣戟に盗賊達は足を止める。

 

(さすがに理解したか)

 

 伊烏の技術的危険性それは。

 ――納刀時から抜刀の速度にあった。

 予備動作がまるで見当たらない。趙雲にも振っている伊烏の剣を完全な実像として捉え切れていなかった。盗賊達には気づけば抜いている状況だろう。

 あまりにも理不尽極まりない強さだ。これでは盗賊も引き際を探し始める。

 だが伊烏は逃げることを許すほど――度量は広くはなかった。

 盗賊の背を追うようにして伊烏は走り出す。

 鞘に左手を掛け、追う姿は盗賊の恐怖を掻き立てた。

 叫びを上げながら真正面より切り込んだ。だが――伊烏には届かない。

 伊烏の得物は直刀より長く、間合いの優勢は伊烏にある。

 自然体より即時抜刀――盗賊の右脇腹を深々と刃が食い込み、斜めに切り上げられる。

 伊烏は切り終わり後すぐ、振り上げた剣を担ぐ。

 左手が柄頭を握り走る速度を殺すことなく、切り上げに用いた踏み込みを前方に飛ぶようにして進んだ。

 敵の背後に隠れていたもう一人。その手には長柄武器が握られていた。

 伊烏より見て左腹を狙い振られる戟。死は目の前にある、しかし怯みはしなかった。

 担ぎ上げた剣を振り下ろし、戟の柄を削ぎ落とした。

 右足の踏み込みで死に掛けている速度(エネルギー)を、死にきる前に前方へ投げやる。

 体当たりだ。だがその動きですら理詰めの術の一端だ。

 倒れ込み馬乗りとなる瞬間、盗賊の懐より小刀をスリ抜き、所有者の首を掻き切った。

 

(体術も心得るか)

 

 それは戦場術理。あらゆる状況を想定しすべての状況を対応している。

 形稽古の究極系で達人の領域。

 戦場の流れを理解し、人の行動を伊烏の意のままに操り殺害する。

 水が低きを流れるように、絶対的な殺しの機構。雑兵であれば田に不必要な雑草と同じで摘み取られる。

 吹き上がる血潮を抜け、血に濡れる顔のまま別の盗賊へ。

 悲鳴が上がるが容赦はない。

 右に一薙ぎし喉を切り、声を断つ。縦に握った剣を左へと傾け鼻を削ぎ落とし、柄頭を鼻のあった場所に叩き付けた。肉を潰す音と骨の割れる音が同時に聞え、くぐもった悲鳴を上げた盗賊は血泡を噴いてその場に崩れ落ちた。

 伊烏の剣の柄頭は半ば血泡を噴く盗賊の顔に埋まっている。

 剣はそそり上がり、横より見れば男根が猛りとも見えた。

 だが伊烏の表情ははじめと変わりはない。一貫して無表情。

 顔にべっとりと付いた血化粧により高調を覆い隠しているのかもしれない。

 氷岩のような無表情の奥には溶岩をも越える何かが煮え滾る姿が見え隠れしている。

 清く武を極める志しとはまた違う。酷く醜く墜ちた狂気がそこにある。

 盗賊達の統制は伊烏が抜刀したときより崩れ始め、今では原動力たる復讐心も萎えていた。

 数人ほど剣を投げ逃げ出しており、伊烏に切先を向ける盗賊は片手の数がいるかどうか。

 匹夫の勇を見せたところで所詮は盗賊、損失のほうが今回は大きいだろう。

 なるたけこの戦いを見ようとするが、結果は見えた。少々暇を感じだしたとき。

 伊烏がこちらを見た。

 

「ッ!?」

 

 叫びだしそうなほど生温く絡み付くような視線。

 獣が牝を捉えたような、邪気に満ちた何かが趙雲のすべてを捉えた。

 今までの比ではない――これは本当に。

 

 

 殺される

 

 

 武人の誇りよりも生物の本能が勝り、迅速な逃走を肉体が決断する。

 木上より飛び降り、走り出した。

 どこへ向かうか――山村の方角ではない。

 向かった先。自身でも気づかぬ笑いが口から出ていた。

 

「っは.....はは....ははっはははははッ!!」

 

 全身を得も言われぬ歓喜の震えが襲う。もはやその笑いは人の笑い声ではなく。

 物狂いそのものであった。

 

 

 

 +  +  +

 

 

 

 鬼の棲家で主を待った。

 震えをどうにか押し殺し、「龍牙」の柄を握り潰さんばかりに力を込める。

 今までにこれだけの喜びがあっただろうか。

 多くの敵を突き殺し、血腥い道行で民を助けるという名目で果してきた。

 しかし今はその大義は存在しない。ただ自身の持ちえる武を行使したかった。

 伊烏義阿と云う男。生真面目だが陰のある男――今まで似合ったことのない武力。

 誰に頼まれるわけでもなく、ただ己の棲家に入った盗賊を斬殺する。

 そこには歓喜も悲壮もなく、大義も不義理もない。

 己の持ちえる武力を行使し殺す。感情が関与する余地はなく、人をカラスの餌としてしまう。

 莫大で巨大な――虚無。

 あれが武力の極地なのか。追い求めていた最強とはあのような姿なのか。

 違う――きっとあれは求めた先が違った。

 民を救うために握った剣が趙雲と、何かを斬る為の剣が伊烏。

 心の在り処が違うのであれば、それすらも読み解こう。さすれば趙雲の槍の冴えは増す。

 確信はある。故に山村へ逃げず、この家で待った。

 伊烏を匹夫下郎の悪漢と見立て、背後の家の中で眠る鼎を護るべき民とする。

 護るモノを持つことを最大の武器として、無の果てに墜ちた剣士と対峙するのだ。

 草叢の奥より鬼が現れた。

 蛇の柄が施された独特の一枚布。晒は僅かに赤みを佩びており、腰帯に差す魅了の剣。

 全体は水気をがあり、髪の毛は僅かに湿り水滴が滴っていた。

 血を洗い落としたのだろう、晒や衣服に染みた血は水をぶつけ洗い落としているのが窺える。

 だが伊烏の冷淡な無表情だけは今だ変わりはしなかった。

 

「帰りに時間が掛かりましたな。伊烏殿」

 

「......」

 

 無言の伊烏はそのまま家へと向かおうとするが、歩行が止まる。

 それもそのはず、趙雲の尋常ならざる敵意に武人の本能が足を止めるようにと言ったのだ。

 

「いつの日か話した手合わせの話、今ここで」

 

「......今は都合が悪い」

 

「盗賊を斬殺しておいて、何も感じず逃げるのですか」

 

「......」

 

 伊烏の気に僅かな撓みが生じる。それは動揺というものであった。

 初めてかの男の感情が揺らいだのだ。

 

「木上にて見ておりました。二十を越える盗賊をその妖剣にて切り殺す姿を」

 

「......」

 

「あなたがその時どのような表情を浮かべていたか、ご存知か」

 

「......」

 

 伊烏は何も答えなかった。

 いや答える気がないのだろう。

 覚悟を、身近な人間を屠る覚悟を腹の底で決め始めていた。

 追い討ちをかける様に趙雲は言葉を続ける。

 

「無表情で切り殺した。喜びも悲しみも、況してやその者達が雑草でもあるかの様に覚悟の色すら見せなかった」

 

「......」

 

「あなたは何を目的として剣を握った。どんな大義のために戦うのだ」

 

 伊烏は静かに答える。

 

「大義はない。剣を取り日々鍛え、そして斬るべき相手がいた。それだけだ」

 

 その言葉には言い知れぬ悪意があった。

 消えていた筈のどす黒い醜い感情が、埋没していた心を突き破り現れた。

 顔は今までと同じ。だがその表情は今に見たことがない。

 理性的であった伊烏の目が。炯々と輝き、言葉の一つ一つが鋭利である。

 今までに見てきたものは不純物。漉し煮られ純化した今の姿が――悪鬼としての姿が伊烏なのか。

 趙雲の中で純粋な闘志は消えてなくなる。

 柄を握り直し、大きく飛び退き伊烏との距離を取った。

 もはや訊く事はない。すでに戦いは始まった。

 構える。左へと身体をずらし、槍の穂先近くに右手を置き、中ほどに左手を。

 趙雲の最も得意とする構えであり、刺突を最大限範囲へと届ける構えだ。

 伊烏の剣は正確に見立て二尺四寸一分程の長さである。槍のほうが間合いは断然有利。

 だが伊烏の剣は長柄武器の穂を柄ごと切り落としてしまう代物だ。油断はけっして出来ない。

「龍牙」の穂は二又に分かれた槍、剣を絡め取ることは出来るが、恐らくそれは出来ぬ事。

 あの速度は、抜刀の速さは脅威的過ぎる。

 確実に勝ちを得るならば槍本来の、突き殺す事が無難と見える。

 安物の槍ならば伊烏の身体に触れる前に柄を落とされるだろうが、幸い「龍牙」の柄は鉄製。容易には切れぬ。

 対する伊烏。

 腕をだらりと下げ、顎を引き静謐な瞳で趙雲を見据えていた。

 特に構えることもなく、ただ自然体でいつも通りにいる。

 それこそが伊烏の構え――東方の地で生まれた特有の術理。

 抜刀術、居合の姿である。

 息遣いは細く薄く、瞳はしっかと開いてはいるが微睡んでいる。

 昂ぶりもせず。

 荒ぶりもせず。

 静かな流れの中で、己の研ぎ澄ました剣を抜く。

 地を蹴り伊烏は走り出す。

 始まる、死闘が。

 

 ――来い受けて立つ。

 

 趙雲は裡で呟き、伊烏を待った。

 伊烏と趙雲の距離、約七間(14メートル)。かなりの開きがある。

 勝機を見計らう瞬間は数多くある。

 伊烏の抜刀が幾ら早かろうと、伊達に鍛錬を積んできた趙雲ではない。その突きは伊烏の抜刀と並ぶ自信は大いにあった。例え「龍牙」を切り落とされようと、腰に隠す短刀で伊烏の懐に飛び込み刺し違える事は出来る。

 だが死す事を眼前に捉えるほど悲観的ではない。今までに磨き上げた間の取り方は、確かに発揮される。槍の着弾点は伊烏の踏み込むその足で測定され続ける。

 確かな踏み込みをその耳で聞き、正確な突きを伊烏の鳩尾(きゅうび)へと突き刺す事が出来る。

 一刺しで決まる。耳で聞き、目で見て、ある時違和感に気づく。

 

(なんだ)

 

 おかしい。

 おかしいのだ。

 

(なんだこれは)

 

 自分自身を疑いだす。

 己の感覚器官が狂い始めていた。

 聴覚ではなく、視覚でもない、ましてや嗅覚でもない。

 狂い始めていた感覚、それは。

 ――距離感覚。

 

「ッ!!」

 

 初めて気づく。伊烏の走法がおかしいことに。

 一致しないのだ。走った歩数と居るべき位置が一致しない。

 不規則な足捌きが趙雲の鍛え上げた間合いを確実に崩していく。

 伊烏の走法は不規則にも拘らず一貫して疾走を続ける。

 背筋を伝う冷たさに、距離を取り直すと言う発想が僅かに浮かぶが――出来ない。

 

(できる筈がない)

 

 そうできないのだ。

 もし引けば、走り続ける伊烏に追い付かれ神速の抜刀にて切り斃される。

 ならば一か八か相対的な位置を測り突くか。だが予感がある。

 空突きになりえると。そうなれば結果は同じ、斬られる。

 初めて理解する。その技はすでに走り出しの時点で始まっていたことに。

 趙雲は伊烏の思い通りに踊っていただけだ。

 伊烏が趙雲の絶対圏へと接する。降参か――否。

 武門に恥はさらせない。すでに退路は立たれている、ならば。

 取れること答えは決まっている。

 

「はっあああああッッッ!!」

 

 突く事を諦め、「龍牙」を横へと振った。

 一撃では仕留めることは出来ない。だが殺される率は格段に減る筈だ。

 右より振り、右肩を叩き割り立ち上がりに時間が生じる。その勝機を逃さず、喉を突けば。

 柄による撲殺は趙雲の好むところではない。優美さは失われるが、今はそのようなこと言っている暇はなかった。円運動により自身の間合いを相手に知らせてしまうが仕方がない。

 相手を転倒させればそれ勝てる。

 勝てる。

 斃せる。

 ――――筈であった。

 

(いつだ)

 

 引き伸ばされた時間の中で自問する。

 

(いつなのだ)

 

 問いかけには一つの真理しか戻ってこない。

 

(伊烏は―――――どこへ消えたッ!!)

 

 疾走していた伊烏は視界の中より忽然と消えた。

 ありえない何所へ、何所へと行った。

 消失した伊烏を探し、左右を見て、下を見て、上を見た。

 何もそれは武芸の何たるわけでもない。ただ無知な者が周囲を見渡すのと同じ。

 動物的、生物的動作だ。

 だがそれは居た(、、)

 紺色の一枚布で出来た衣服を纏う、一匹の剣鬼が。

 誰が想像しえようか、誰が予想しえようか。

 人が、彼が、伊烏が――

 

 

 飛翔しようなどとは。

 

 

(馬鹿な)

 

 馬鹿げていた。

 人が飛ぶなど、馬鹿げている。到底成し得る業ではない。

 それが出来るのであれば、もはや人ではない。それはもはや鳥だ。

 同時に理解する。鳥を刺し殺そうとしても避けられるのが関の山であると。

 相手を間違えた――趙雲の胸にそう過ぎるものがあった。

 伸びた時間の中で、なにが起こったのかを理解しようと必死になっていた。後世はないにしろ冥土の土産には充分すぎる奇芸でる。

 伊烏は走っていた。それも独特の緩急をつけた解読不可能な走法によって。

 しかしそれは走りであり、走りであるならば勢いは必然的に付随する。

 伊烏は趙雲が槍を振るう瞬間を狙い、振ったとき――そのまま踏み込むのではなく。

 疾走の勢いを利用し跳躍したのだ。

 趙雲は伊烏がそのまま(、、、、)踏み込んでくると予想した攻撃であり、頭上へと逃げられれば当たることなどない。当然といえば当然であり、あまりにも想定外の技である。

 頭上からの攻撃、それに対応しうる受け技。

 ――そんなものある訳ないではないか。

 

(この動き)

 

 伊烏の身体が宙で前屈させた。つまるところ伊烏は趙雲の頭上で宙転しようとしていた。

 その動きは一つの機構であり、一つの流れ。

 つまり足運びから飛翔、宙転から――抜刀までがこの技の流れ。

 飛翔宙転、抜刀即殺。完全な死角である背後より斬られる。

 

(驕りが過ぎたか)

 

 後悔が先に立ち、哀れむ。

 道半ばより民草を護れず斃れる事を許せ。

 そう思ったが。

 ――――助けは民によりもたらされた。

 

「先生?」

 

 寝ぼけた声で伊烏を呼びかける声があった。

 趙雲の背には何も触れず、背後に着地する音だけがあった。

 どっと汗が吹き出し全身を濡らした。息も心拍も不規則で荒く、どう息をすればいいのかも忘れていた。自身は助かった、そう思うとふと目尻が熱くなった。

 背後を見て、助けられた者を見た。

 

「鼎。もう起きたのか」

 

 伊烏の口調は変わり、穏やかで無表情なモノに戻っていた。

 鼎は俯き震えていた。趙雲との立会いで伊烏の姿に失望したのか。それとも絶望でも。

 伊烏は悲しそうな背であったが。鼎は伊烏の思うほど細い心は持っていなかった。

 

「すっっごおおおい。先生今のどうやったのッ!!」

 

「........」

 

 苦笑いしか浮かばなかった。

 剣鬼は娘子相手にはめっきり弱いと見えた。

 伊烏の弱さ。

 己の弱さを振りかえるが、何も見つからない。

 驕りの過ぎた愚か者――今はそうとしか見れなかった。

 生を保ち、今ここでわかった。

 趙雲子龍は負けであった。

 

 

 

 +  +  +

 

 

 

「うん? おめえさんまた来たのか」

 

「いやなに。云台山に寄った帰りだよ」

 

 趙雲は云台山より下山した。

 何か憑き物が落ちたようにすっきりとした表情で行きの茶屋に立ち寄った。

 

「あれにあったのかい」

 

「ああ。驚かせてもらった」

 

「根暗な奴だったろ」

 

「ああ、根暗で強く。勝てぬ男であった」

 

 僅かに笑いが漏れた。清清しく軽くなった心は今までにない。

 

「世は広く、勝てぬものも多いのだな」

 

 悔しいが伊烏は強かった。

 剣鬼、伊烏義阿――趙雲の胸に刻まれた越えるべき高みの名であった。

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