-2014年2月11日午前9時/東京拘置所-
五十嵐裕也は東京拘置所の独房に一人入れられていた。
降伏の後、五十嵐裕也は中央“革命裁判所”において裁判が執り行われた。
この間に皇帝陛下が近衛師団にIS学園警備隊へ武器を援助するように指示した事が発覚し、国民は皇帝陛下に対して怒りが爆発して立ち上がり暴動まで発展する事態になった。
臨時政府は国民を静めるために革命を宣言、立憲君主制を廃止し共和制への移行を宣言した為に政府機関の名称を国民の好む臨時“革命”政府や中央“革命”裁判所と名称を変えた。
そして皇帝陛下と皇后、そしてその家族は捕らえられ同じ中央革命裁判所で裁判となり、五十嵐の裁判は一時中断され、皇帝陛下の裁判に証人として出廷することとなる。
そこで五十嵐は皇帝陛下の無実であること述べ、すべては自分が脅迫したせいであると証言した。
この証言の結果、または国民の多くが死刑を望まなかった結果皇帝陛下とその家族は死刑を免れ、国外追放処分となった。
その後、二ヶ月の裁判の結果中央革命裁判所の判決は反革命罪による死刑と決まり東京拘置所に収容された。
けれど臨時革命政府内での激しい政争で死刑執行が即座に行われずに数ヶ月放置された。
その間に日本と世界は大きく動いた。
日本における政争が八月に終結すると同時に日本共和国の建国が宣言され、日本は共和制の国家に生まれ変わり国防軍は共和国軍に生まれ変わった。
そして日本共和国は全世界の国家から承認され第三次世界大戦と名付けられた大戦の講和会議となったニューヨーク講和会議に出席、ニューヨーク講和条約に署名した。
同時にアメリカはニューヨーク講和会議で既存の『国際連合』の解隊が決められ、新たに『国際平和機構』が設けられた。
この『国際平和機構』はアメリカ合衆国一国が巨大な権限を持つ常任議長国となり、その下に加盟国が従う体制が作られ、加盟国の持ち寄った戦力で構成される『国際平和維持軍』が結成された。
さらにISはニューヨーク講和会議のあとに決められた『ISの平和運用条約』により、国家の量産型コアの製造とIS保有を禁止し、すべてのISは『国際平和機構』の専門機関『国際航空宇宙開発機関』に管理され研究用途での使用しか認められなくなった。
これにより、ISは『国際平和機構』の議長国アメリカが独占することになったがISは戦争に使用されることはなくなった。
そして織斑一夏達は『国際航空宇宙開発機関』のテストパイロットとなったことを知り、五十嵐は彼らがうまくやっていることを喜んだ。
ヨーロッパでは大戦によってすべての国家の国土が荒廃し、今までの国家の枠組みでは復興できないことが分かった為に既存の国家の枠組みを捨て大戦前に存在した『欧州連合』よりも強力な『欧州連邦』が完成した。
これにより欧州という地域は国家としてひとつの統合体が完成したが、これは大戦中にイスラエルを消滅させた中東のアラブ国家が一人のイスラム指導者によって革命により解体され宗派を超えたイスラム国家『イスラーム帝国』建国に対抗しての事であった。
アジアでは中華人民共和国によって占領されていた国々が中国の内戦によって解放され、独自の道を歩みはじめ、中国に併合されていた地域も分離・独立を宣言。
だが中国の解体と共に各地の軍閥と軍閥に結びついた政治勢力による長い中国統一の内戦が始まった。
これが死刑執行までの数ヶ月に起きた出来事だった。
五十嵐は思い返していると刑務官がやって来て独房を空けると一人が言った。
「五十嵐裕也死刑囚、本日刑を執行します。」
五十嵐は立ち上がると「今までお世話になりました」と刑務官に感謝を伝えた。
そして両脇を刑務官に抱えられ、刑場の前にある前室に連れて行かれた。
前室に入るとそこには香がたかれ、複数の刑務官と所長が立ち、机には教誨師の牧師が座っていた。
教誨師の前に座らされる拘置所の所長から刑執行が正式に伝えられ説教が行われる。
次に遺書の紙が用意されるがすでに書いていたので彼は断った。
そして目隠しをされ、手錠を掛けられると刑場に連れて行かれ首にロープを巻かれ両足もロープで縛られる。
この光景は特別に用意された国営放送のカメラで全世界に映像が流れた。
「これより反革命を指導した五十嵐裕也死刑囚の刑を執行する。」
検事がカメラに向けて宣言する。
そしてボタンが押され、床が開き重力によって五十嵐の身体は2~3メートルほど落下するとロープが伸び切り首を締めつけた。
その瞬間、刑執行を目の当たりにした日本国民は反逆者の死と捉え歓声を上げた。
三十分後、医師と検事により死亡が確認すると遺体は火葬されたが国民に対する反逆者である五十嵐裕也の遺灰を引き取る寺院はなく、また彼の墓を作ることは国民の反感を買うとして遺灰は東京拘置所近くの荒川に流された。
この死刑により日本共和国の歴史において革命の終わりを象徴する出来事だと後の教科書に記された。
日本のために戦い、英雄となった彼の最期は友人達を守るために反逆者となり国民の憎悪と共に死んだ。
その後三通の遺書が回収され、ひとつは共に戦ったIS学園警備隊員に宛てた遺書であり公開された。
『私は君達と共に戦えたことを誇りに思う。私は先にあの世へ行った戦友のところへ行く。この先、厳しい社会の風当たりに晒されると思われるが常に自分を信じて進んでくれ。そして新たな日本、日本共和国の為に生きろ。』と指揮官として部下に送った言葉が書かれてあった。
二通目は織斑一夏など四名のIS学園の同級生に宛てた遺書、三通目はラウラ・ボーデヴィッヒ個人に宛てられた遺書であった。
これらは公開されることはなかった。
五十嵐裕也の死刑執行後、今までの日本の伝統を捨てた新たな日本共和国の国歌が制定され、歌詞には圧政からの解放までの物語が書かれ、その中に五十嵐裕也の名前は反逆者の一人として語り継がれた。
その後、徴用兵達は解放されたが大戦後の不況・混乱と社会からの偏見から職にありつくことが出来ず、予算に余裕のない政府は彼等をどうすることも出来なかった。
だが彼らにせめて死に場所を与えようという提案が政府内なされた。
そして元徴用兵に『国際平和維持軍日本共和国軍団』への参加が呼びかけられた。
多くの行くあてのない元徴用兵が志願し、二十万人という規模になった『国際平和維持軍日本共和国軍団』は内戦の続く中国大陸でアメリカが支援している『中華民主共和国』への援軍として参加した。
そして三十年に及ぶ激しい内戦の中で彼らは前線に立ち続け次々と戦死し、本国からは補充の元徴用兵が次々と送られた。
三十年に及ぶ内戦が終結し中国大陸が民主的な『中華民主共和国』のもとで統一した時には『国際平和維持軍日本共和国軍団』は消滅していた。
こうして多くの元徴用兵は本来の“用途”であった戦場で死を迎えられた。
彼らは死ぬ時は笑顔で、そして遺書には派遣した日本共和国政府に死に場所を用意してくれた感謝が述べられていたと言われている。
これが五十嵐裕也をはじめとする徴用兵となった少年達の最後であった。
『学園の守護者』を最後まで読んでいただきありがとうございます。
このハーメルンでの初投稿は2013年の12月6日でした。
その前は違うところで投稿していましたから大体最終話を迎えるまで三年ほど掛かってしまったこと、ここでの投稿の間に二回の大きな変更をして読者の皆様を皆様を振り回してしまったことを申し訳なく思っています。
この三年の間に私の中でいろいろと価値観が変わり、特に社会と戦争について考えさせられることがありまして物語を大きく変更しました。
最初は一番最初に書いた小説の主人公がISの世界に転生して、戦いながらも前の世界では出来なかった青春を送るというものでしたが、この『戦いながらも前の世界では出来なかった青春を送る』というのに矛盾を感じて一回目の大きな変更を行いました。
次に受験前に急いで書いた小説の内容を自分が読み返してみたら納得がいかないので変更しました。
これが私が変更に至った理由です。
ですが自分的には満足出来る内容が書けたと思いますが、皆様はどう思いますか?
それを含めて感想をお持ちしています。
最後に下手な文章と構成のこの作品を読んでいただきありがとうございます。
もし新作を書くことになったらその時はよろしくお願いします、今のところは未定ですが(今度は海かな?)。
ではさようなら、また今度。