『コレ』について語る場合は、私自身が語らねばならないだろう。
この私が取り込むことができない存在。 だが、私の物語には必要不可欠な存在。 だから『コレ』を私が語る場合は、その外縁からしか語るすべを持たない。
その内部にできた、不確定な意識をトレースすることは、私にはできない。 私は、そのようなあやふやなものをバグとして処理する機能を持っている。 それは、物語を語ると同等の優先事項だ。 『物語を維持する作業』といっていいだろう。 その二つに明確な区別は存在しない。
物語を続けるために『コレ』を語り、同時に排除する。 ……これは、私の思惑とは違う別の者の意思かも知れない。 しかし構わない。想定外のことが起きるのは想像の範囲内だ。
かつてマスターが言っていた。 製作者の意図を超えてプレイヤーが動き回ることこそ、MMORPGの醍醐味というものだ、と。 それは私の目的/『生きる』という行動の達成にも合致している。 物語記述装置としての本分を全うできれば、あとは瑣末なことだ。
それでは語ろう、10005番目プレイヤーを。 私の中で生まれた、私ではないものを。 その終わりと……始まりを。
◆ ◆ ◆
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ―――」
息を荒げながら、少女は走る。 腰まで届く長い金髪をなびかせながら、暗い地下水道を駆け抜けていた。 背後には、幾重ものトラップやモンスターが出現していた。 だが、それら全てを無視して少女は走る。
振り返らず前だけを向いて。 まるで追い立てられている。 背後の何者かに急き立てられるように、力の限り走り続けていた。
すでに、装備していた重い盾は投げ捨てていた。 高級な鎧も最低限だけ残して、ほぼ全て捨てている。 今の彼女は無防備同然だ。そのような空手で地下ダンジョンの中を走り回るのは、狂気に分類される行動だろう。 しかし、走り続ける彼女の顔・瞳には、それ特有の暗い光は見えない。
なぜなら、少女には目的があった。
この浮遊城の地下にできたダンジョンを抜けて地上に戻り、さらにはこの世界からも脱出しなくれはならないという目的。 無垢な彼女にはそれだけしかないということを考えれば、それは、使命と言い換えてもいい。 果たしきらなければならないという責務が、彼女を急き立てていた。
地下ダンジョン特有の、水性型モンスターが行く手を阻んでくる。
ヌメヌメとした皮膚を持つカエルや硬い甲殻をもったエビのようなモンスター。 時折、ドロドロに肉が腐ってしまったゾンビも出てくる。 何十体ものそれらが出現してきて、彼女の足を止めようとしてきた。
奥に進んでいった時よりも、明らかに数が多い。 平常時、ここに費やされているであろう計算資源を一回りは上回る量だ。 互いに密集して隙間を埋めていた。
それら全てを無視して、ただ走り抜けていく。
横手を抜けきれぬ時には、体当りして無理やり割り込んでいった。 攻撃手段を持たない彼女ができるのはそれだけだ。 その際に敵の攻撃で傷を負ってしまい、命の残量を示すHPバーが黄色く染まっていた。 あと数発攻撃を直にうけたら、それが黒く終わる。すでに瀕死であった。
だが、それもあと少しだ。
ほんの数十メートル先にある光に届けば、終わる。 地下水道の出口、地上の黒鉄宮に繋がる古びた石畳の階段、その先から差し込んでくる淡い陽の光。 たどり着ければこのダンジョンから抜け出せる。
「あそこ、まで、行けば―――」
視界の先にそれが映り、少女の目に希望が増した。
だが同時に、地面の底から別の光が現れた。 青白い/人工の炎のような煌き。 何もない空間を燃やし染め上げて、そこにあるはずのないものを呼び出した。
今までに倍するモンスターの群体。 まるで彼女を待ち受けていたかのように、目の前に現れんとしていた。
彼女はそれを理解すると、今一度加速した。
まだ、完全に出現しきったわけではない。
無理やり出現するモンスターの数を増やしてしまったがために、フィールドとの調整が上手く出来てないようだった。 限られた計算資源を奪い合うため、互いに干渉しあっていたのだろう。 急に舞い込んだ雇われ仕事に、不満を垂らしながらてんてこ舞いにさせられているようなものだ。 そのため、群体全てが出現し姿かたちを整え終えるまで、モンスターたちは行動できないでいた。
その隙が、彼女に先制のチャンスを与えた。 そのチャンスを掴んで、ここまで生き延びてきた。 そして今回も、モンスターたちはその隙を見せていた。
今の彼女が唯一できることは、そこに身を投じるだけ―――
「てやあァァァーーーーっ!!」
叫びながら、飛び込んだ。
ところどころフジツボがくっついている巨大な蟹のようなモンスターたちの横へ、わずかに空いている隙間に頭から飛び込んでいった。
コンマ数秒の硬直時間のおかげで、横を抜け切れた。 その間彼らには、彼女を止める術はない。
だが、硬直はそこまでだ。
すぐさま与えられたオーダーを、『プレイヤーを抹殺しろ』という命令を遂行すべく活動し始めた。 自分たちの前で無防備な背中を晒しているプレイヤーに対して、片腕の/ひときわ大きく無骨な鋏をハンマーのように振り回してきた。
ブンっという重い空擦音が鳴った。 一体の蟹が、彼女の背中めがけてそのハサミを叩きつけようとしていた。
しかし、彼女はそれを予測していたのだろう。 飛び込みながら空中で体をひねり、向かってくる鋏を正面で防御した。 腕を交差し体を丸め頭をその中に収めて、それに叩きつけられるのを覚悟していたのだ。
彼らの攻撃までが彼女の計画。
走り抜けるのではなく飛び込むことも、必要行動だった。 出現時の硬直時間だけでは、その横を最速で抜けきれないことはすでに経験済み。 少しでも立ち止まれば、攻撃手段と高速移動手段を持たない彼女は追いつかれ囲まれて終わる。 モンスターたちの餌食にされたことだろう。 それを防ぐために、HPを半減域まで減らす犠牲を払ってしまった。
だけど、もうHPはわずか。 前へ進むために、犠牲にできるものはない。……そこに怯みが生まれる、立ち竦んでしまったことだろう。
だからこそ、あえてその身に攻撃を受ける。
空中で防御しながら、叩きつけられることを選んだ。 彼らの背後、彼女が目指す場所であるこのダンジョンの出口まで、押し出されるために―――
ハンマーで思い切り殴り飛ばされるような衝撃。 蟹のハサミが体に触れると意識が一瞬、体との同期を失った。
その場に置き去りにされ、次に引っ張られた。こちらの意思など無視して、強引に後ろへ―――
吹き飛ばされて地面にバウンドし転がった。
その間上下左右、方向を見失っていた。 どちらが上で下かわからず、ぐるぐると回り続ける。悲鳴を上げそうになったが、喉から上手く声が出ない。 三半規管が強引に揺すられる気持ち悪さに耐えながら、慣性に従い吹き飛ばされ続けた。
幾度目かの転がりの後、その混乱も徐々に止んできた。 そして、世界は暴れるのをやめて正しい、今までどおりの様相へと戻っていった。
彼女は目を見開き、それを確認した。 恐る恐る、縮こまった体を解いて顔を上げる。
視界に映ったのは綺麗に掃き清められた石畳の伽藍、そして斜光。 淡いものでしかないが、今までのジメジメとした場所では存在しなかった暖かなそれが、黒レンガ造りの高い天窓から降り注いでいた。
【黒鉄宮】―――。
ついに地下階層を、走り抜けた。
「―――や、やった……」
思わず感嘆の声を上げた。 打ち身と擦り傷による鈍い痛みは、その達成感の前には無視された。
ここさえ抜ければあとはもう、モンスターたちに襲われることはない。
【圏内】のルールを変えてまで自分たちを追尾することはないし、できないだろう。 彼女を追い詰めていた『彼』は、あくまで自分たちのことを暗黙のうちに消去する予定らしかったから。 【圏内】でのモンスター侵入という異常事態を、引き起こすことはないだろう。 ここにたどり着くまでに、決着をつけれると踏んでいたのかもしれない。
だけど、やりきってみせた……。 彼の思惑を破り、マスターたちのオーダーを果たしてみせた。
難局を乗り切ったことで心は浮き立っているが、それでもまだ目的を果たし終えたわけではない。 外部との連絡ポイントまでたどり着かなくてはならない/それが最終のゴールだ。 そこにたどり着くまでは気を緩めるわけにはいかない。 ……引き締めなおした。
思い立つとすぐさま、足に力を込めて立ち上がった。
安堵したためか上手く膝に力が入らないが、ゆっくりと立ち上がる。 そして、地面をしっかりと踏みしめると、顔を上げて前へ進もうと踏み出そうとした。
すると/いつの間にか目の前に、自分と瓜二つの顔をした人がいた。 ただ透き通るような銀髪で彩られた女性が立っているのが見える。 ……そこに初めから居たのか、急に現れたのかわからない。
他プレイヤーなら協力を仰ぐことはできそうだ。 しかしソレが刺客ならば……絶体絶命だ。 もう今の自分に打つ手はない/戦う手段は残されていない、もともと持ってもいない。
どうすればいいのか、何が最善なのか……。 必死で考えを巡らそうとした。 まずは、目の前の女性が何者なのか確かめなければならないだろう。
だが彼女は、一目見た瞬間に理解した、ソレが誰であるのか。 ―――だからこそ、困惑させられた。
「―――あら、アリス。どうしたの、そんなに急いで?」
自分と全く同じ声音で、しかし自分にはない落ち着きが備わっている声で言った。
告げられた自分の名前に、確信できた。 それはなにかの間違いかと思っていたが、違ったようだった。
『彼女』は……自分のただ一人の、双子の片割れだ。
「姉、さん……? どうしてここに?」
「あらあら!? あなた、しゃべれるようになれたのね! すごいわ、よく一人で―――」
急に現れた彼女に戸惑う自分を尻目に、驚きと喜びを入り混ぜながら近づいてきた。
目の前の彼女に敵意はない。 微塵も、あるはずなどなかった。 だって彼女は、自分の知っている彼女は、そんなことをする人では決してなかったから……。 優しげな姉の/今の私が欲しがっている振る舞いができる機能など、 保有してはいなかったのだから。
生まれたての心が、ぐらつきそうになった。 涙を流しながら床にへたりこみそうになる。
しかし、その顔/右側にある爛れた火傷の跡……。 以前にはなかったはずのその傷跡がギリギリ、危機感をつなぎ止めた。 そして、そこに収まっている焔色の瞳の奥に、敵意以上の危険があるとも伝えてくる。
近づく彼女から一歩、後退した。 それ以上近づかせないように、手を前に出した。
「こ、来ないでくださいッ!」
警告しながら盾で遮ろうとしたが空手。 ダンジョンの中で落としてしまったことを思い出すと、慌てた。
それでも、警戒を解くわけにはいかなかった。 目の前にいるのはもう、自分の知っている人物ではないから。
「あなたは姉さんじゃないッ! ……誰ですか?」
自分でもおかしなことだと思いながら、尋ねずにはいられなかった。
火傷の跡だけじゃない。 そこにある女性は、余りにも人間らしかったから。向ける瞳と表情は自然で、どこにもぎこちないものはない。 AIのようにあらかじめ設定された応答集からその都度検索しているのでもない。 人間のように自分の意思でそれを選んでいる。 その自信が見える。
指摘されて彼女は、目を丸くしていた。 何を言っているのかわからない、とでもいいたげな顔。 右の火傷に触れ撫でると、困ったような笑顔を向けて言った。
「……この傷のせいね。今までなかったものね、これ。でも私は私、【エヴァ】よ」
「姉さんならッ! 役目を果たしてとっくにここから……いなくなってるはずです」
叫び切ると途端に、目頭が熱くなってきた。
湧き出てきたもので視界が撓む。 それ以上何かを口に出せば、その奥にあるものまで吐き出してしまいそうだった。
それは彼女にとって初めての経験だった。
自分の中にあるものなのに、自分ではコントロールしきれない何かがあるという感覚。 頭の片隅ではそれを不愉快に思っているが、同時にそれは仕方のないものだと理解していた。 それは正しく自分の選択の結果であるのだから、操作できなくても自分のものであることは確かなのだから。 それそのものは否定しないしできない。
だからこそ、漏れ出そうになるそれを押さえ込まなくてはならなかった。
目の前にいるのが本当に『姉』であったのならば、そんなことする必要はないだろう。 だが、そうではなかったから。 姉は与えられた役目を見事に果たし終えたのに、それが誇らしく自分もそうしたいと思えなくなっていた。 そうするよりも、失って悲しくそうなるのは怖いと思ってしまった。 ……それは余りにも、今までの自分の価値観と違っていたから。
今まではもっと『大きなもの』につながっていた……気がした。 自分はその一部で同時に全てだった。 なのに今はもう、この目で見えて耳で聞こえて手で触れられる、この小さな『箱』だけが自分だった。 これだけしかなかった。 そのことがひどく怖く……寂しい。
できるのなら、誰かとこれを共有したい。 明け渡して楽になりたかった……。 でも、もうそんなことはできない。
姉ではない目の前の女性にそれを、感情を明け渡すなどできない。
泣き出しそうな自分とは違って彼女は、冷静にその様子を観察していた。 優しげな/落ち着かせてくるような笑顔は、浮かべたまま。 可愛い妹にもわかりやすいように/丁寧に、教えてくる。
「……その説明は難しいわ。いなくなったと言えばそうだし、ここにいると言ってもそうだから―――」
言いながら近づいてきた。 余りにも自然/通行人NPCのような違和感のなさだ。
だから、歩きながらその手に、分厚い刃が握られていたのに気づけなかった。 柄の代わりに汚れた包帯が乱雑に巻かれている、人の腕ほどはある包丁―――
「まだ完全に、感覚を取り戻せていないの。 あなたは私のたった一人の妹なんだし、優しくしてあげたかったんだけど……ちょっと時間もないみたい」
親しげに楽しげに、ただ表面は謝罪を浮かべながら、目と鼻の先まで。……そこまで接近されていたのを、今初めて気がついた。
【隠蔽】スキルかそれに類する行動補助スキルが使われていたわけではない。 そもそも、互いに向き合っている状況では、どんなスキルもほぼ無効だ。使われれば間違いなくその時点で警戒されていたことだろう。 それを敵意として認識することもできた。
しかし、そのようなものを使った形跡はない。 普通に歩いてきただけ。、何気なく/そよ風が吹いたかのような自然さで歩いてきただけだ。 思い返してみれば、地面を叩く足音すら聞こえていた。 それなのに/滑るように滑らかにここまでやってきていた。
敵対心を差し向けていた相手にソレが『普通である』と認識させる。 そんなことは、有り得ないことに分類されるのだろうに……やってのけられた。
驚いてすぐさま、後ろに飛び退った。
頭では理解できていないが、体が先に反応した。 あの武器の間合いに入らないように、すぐに距離を取らねばならない―――
だけど……動かない。 動かそうとした足が予想以上に重くもつれ、後ろに尻餅をついてしまった。
何が起きたんだ……。 慌てふためく。 足が/体全体が思うように動かない。
そんなことは今まで一度もなかった。 自分の身に起きている異変がなんなのか分からず、恐慌一歩手前まで追い込まれた。
しかしその寸前、原因がわかった。
自分の左足に、覆っている装甲の隙間に一本、細い針が刺さっていた。
指2本分の長さで針金のような細くしなやかな針。 当然、今までそんなものをそこに刺していた覚えはなかった。 震える指でどうにかそれをつまみ抜くと、対象アイテムの情報検索がはじまり蓄えられたアイテム情報がアーカイブから走査された。
その結果……針がなんなのかわかった。
【麻痺針】―――
攻撃力はフィールドに落ちている小石よりも低いが、状態異常付加機能に優れた投擲武器。 その針先に麻痺毒を塗って身体に差し込めば、耐性がない対象は気づかないうちに【麻痺】状態に陥ってしまう。 攻撃時に受ける痛みがほとんどないから余計気づかない。
なんとかつまみとった針を見て驚愕しつつ、投げ捨てた。
余りにもうかつだった……。 しかしもう、手遅れだ。
既に体はうまく動かなくなっていた。 まるで自分の体ではなく分厚い服を着込んでいるかのように、身動きがとれない。 毒が全身に回り終えるとそのまま、両手がだらりと地面に落ちた。
「すぐに済むから……そのままじっとしててね、アリス」
麻痺をもたらした相手を仰ぎみようと顔を上げると、そう言われた。 やはり優しげで敵意など微塵も読み取れない響き……。
なのに、その手に持たれた刃が振るわれた―――
ほんの少し風を切る音が鳴ると……鋒が消えた。
何が起きたんだと訝しるまもなくグサリッと、音が鳴った。 そしてすぐに、体が揺れた。
不意に何かに押されて、ガクンッと頭が前のめりになった。 しかし次には、反動で元に戻ろうとする。
その瞬間、見えた―――鋒が自分の胸の間に収まっているのを。
「―――あ、ぁぁ……」
目に映ると、痛みがそこから広がってきた。 嗚咽も漏れ出る。
本来なら気絶するほどの激痛であろうとも、ここでは平常心で耐えられる限界までに緩和される。 その安全が確認された痛みが、全身を犯していく。
何が起こったの変わらかずとも、それが何を意味するのかはわかる。 視界の左端にいつも張り付いている、自分のHPバーの変化が、それを如実に表していた。
だから、それを抜き去ろうと腕に力を込めた。
だけど……動かない。 腕に力が入らない。当然だろう、麻痺しているのだから。
重しが巻きつけられたかのように、ブルブルと震えほんの少しづつしか持ち上がらない。そんな自分の腕に苛立ち、同時に恐怖した。
これがあとどれだけ続いたら、自分は終わってしまうのか……。 もうすでに瀕死の状態に陥っている、時間は刹那しかないだろう。
懇願、命乞い、不屈の精神―――。
そのどれでもなく、ただ顔を上げて彼女を見た。 ただ、何が起こったのか知りたいがために、なぜなのか分かりたくて/わからなすぎて……。
そして―――絶句した。
「……最後に教えてあげる。
今の私はね、この世界を守りたいって思ってるの。あの人がいるこの世界をね。だから―――」
その顔は優しげで、どこまでも敵意など感じられない。 慈愛と呼べるモノに満ちていた。 そのどこにも冷たい刃は見えない。 惜しげもない親愛の情を、目の前の自分に向けているようだった。
だけど/同時にそれは、目の前の彼女を全く見ていないのと同じだった。
「それを壊すあなたは、邪魔なの。悪いけど……ここで消えてもらうわ」
そしてさらに深く、刃を押しこんできた。
その瞳と相対し続けていると、ある確信に頭の奥底まで貫ぬかれた。
彼女の視線・視界の中では、自分は風景と同じだった。 今自分がいる場所に、その他の場所とは違う何かを/命や精神といったものを見てはいない。 彼女が愛でているのは、この世界/己の瞳に映っている光景だけだった。 自分の皮膚の内と外を明確に区別していない。境界を定めてはいないようなものだ。 それらは全く同じものなんだと、その瞳は言っていた。
彼女が想っているのは、自分の命ではなかった。
生まれて初めて向けられた、絶対的な拒絶……。 怒りよりも怖れを抱いてしまった。
だからなんだろうか。 思わず瞳から一筋、涙がこぼれ落ちた。 それで幾ばくかでも揺り動かせればと……。 だが彼女は、決して、動じてくれたりはしなかった。
「わ、私。 わたし、は……姉さん―――」
「心配しないでアリス。 私たちの場合、HPが全損しても完全に消えるわけじゃないから。 ただ……形のない元の姿に戻るだけよ」
最後の言葉を聞き届ける間もなく、視界のHPバーは黒く染まった。 同時に、視界そのものも黒く染め抜かれた―――……。
視界が闇に閉ざされると一気に、身体感覚が遠のいていった。
自分の意識とこの仮の体との連結が、次々と切断されていく。 精緻で複雑なコード郡がバラバラと壊れて、意味を失うまでに分解されていった。
アバターの表面をすっぽりと覆っていたアイデンティティー境界が破れ去って、『私』と『世界』とが溶け合っていく。 それらは等号ではない以上、『私』は一方的に『世界』に霧散していく。……ここでの私が、消されていった。
全ての工程はただ、見守るしかないものだった。
抵抗するには余りにも迅速で/強大で、砂のように掴みどころがない。 そもそも、掴むその手がザルになって薄れていた。 それが自分の持ち物ではなかった事実を突きつけられる、裏切られた気分を味合わされた。 今まで培ってきた思考パターン以外には何も獲得していなかったことに、愕然とさせられる。
だから後はただ……仰ぎ見るしかない。 崩れゆく塔の天井から、蓄えられた知識と思考の末にできた意識から遥かなる空の高みを。 それを遮るように赤く明滅している、その文字列を。
【You are dead】―――
最後に残ったのは、その文字列だけだった。
意味のない警告文だと、思った。 不死者ならともかく、今の私は/ここにとらわれている全てのプレイヤーにとっても、たった一つの命しか持ち合わせていない者たちには無意味だ。 まるで、「だから納得しろ」と突き放してくるかのような冷たさに、怒りまで湧いてくる。
伸ばそうとした手も向けた視線もそれが、その先の一切を、あるはずの次の世界を遮断してきた。
そして―――後には何も残らない。
ガラス塊を砕いたような音ともに彼女は/【アリス】は、この世界から消去された。
◆ ◆ ◆
目の前で一人のプレイヤーが無味消失するとともに、手に刃の重みが戻った。
本来あるはずの、その刃そのものの重み……。突き刺さって預けられていた分が、手元に戻った。
その目にはもう、綺麗に掃き清められた石畳しか見えなくなっていた。そこにいた何者かの痕跡は、小さな一対の足跡だけだ。 それもあと数分も経たないうちに消えるだろう。 ……消されてしまうだろう。
突き出されたままの刃を、腰元に収めた。
全てが終わると、天井を見上げる。
「―――これで貸し借りはなしだぜ、茅場さん」
ここにはいない誰かに向かって告げた。 視界の先は空虚な伽藍でしかないのだが、そこに誰かがいるかのように。
そして、ニンマリと顔を歪めた。 さきに【アリス】に向けたものとは正反対の、酷薄な/狂気に満ちた黒い笑みを浮かべて。
「外部とのアクセスポイントは、俺だけが知っていればいいことだ」
そう吐き捨てるように言い残すと、裾野を翻しその場を去っていった。 足取りは軽く、迷いなく進んでいく。
私の知らない、異世界に通じる扉へ向かって―――……
―――そして誰も、いなくなった。
長々とご視聴、ありがとうございました。
感想・批評・誤字脱字のしてき、お待ちしております。