果てがある道の途中   作:猫毛布

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第35話

 砂漠地帯にエンジン音が鳴る。砂埃を盛大に巻き上げて走るバギーに乗るナッツとシノンに会話はない。

 時折マップを確認しているナッツを後ろから確認しているシノンはどうにか目的地があることが理解出来ているけれど、それだけだ。

 小高い岩山とその全容を隠す砂に囲まれた世界。罪人である自分が逃げるにはお似合いの世界だ、と自嘲してしまう。

 スタン弾による痺れは既に取れている。その筈なのだ。震える手を握りしめてシノンはそう鼓舞する。

 ただ純粋な恐怖に叩き潰された。死を理解し、自身の力以外を求めてしまった。弱い自分がそこには居たのだ。

 シノンの仮面が外れ、朝田詩乃という少女が顔を見せてしまった。

 怖かった。殺されるかと思った。同時にそれが正しいとすら諦めた。そして諦めきれなかった。

 

 だから、シノンは彼から答えを求めるようにボロ外套を握ってしまう。まるで幼子が母を求めるようにボロ外套を掴み、顔を伏せる。

 僅かな布ズレにチラリと背後を確認したナッツは顔を伏せているシノンを一目見てから、前方へと顔を戻した。

 

 

 

「ん、到着」

 

 ナッツがバギーを停めたのは洞窟の入り口である。

 シノンは顔を上げて、プレイヤーらしい観点の思考が過ぎる。そして同時にその思考は兵士としての思考ではない。

 

「……ここならスキャンも回避出来て、隠れられるわね」

「せやな。ここなら安全や」

 

 バギーから降りたシノンに小さく息を吐き出して、ナッツはバギーを回頭させる。鼓動の様に響くエンジン音が強くなった事でシノンは振り返り、驚きで思考を止める事もなくナッツの身体を掴んだ。

 

「ど、どこに行くの?」

「そら、アレを()()為の仕込みやけど」

「ダメ! そんな事、アナタが倒される!」

 

 倒されるなんて、思ってはいない。あのナッツが倒される所なんて想像も出来ない。けれど、それは自分の想像でしかないのだ。もしかして、万一、偶然、運悪く。

 ただ一発の弾丸がナッツを死に至らしめるかもしれない。

 そんな事、シノンが受け入れられる訳がなかった。

 ナッツは困ったように頬を掻いて、シノンの手を優しく握る。

 

「シノンは――無理せんでエエよ」

「――ッ!」

「あとはボクがヤるし、ちょっと休んどき」

 

 ゆっくりとシノンの指を解いていく。その顔は慈しみをもった優しい表情である。が、シノンはその表情の意味を知っていた。そして言葉の裏にある意味も理解した。だから解かれていく手でそのままナッツの胸ぐらを掴んでしまう。

 

「ふざけないでッ!」

 

 唾が飛びそうなほど強く放たれた言葉に対してもナッツはその表情を崩さない。だからこそ余計に苛立たしい。ナッツにとって自分が一瞬で『相棒』で無くなった事が悔しい。

 

「戦力にならないから!? 撃てなくなったから!? 怖さに負けたから!? 私は――私は! アナタやキリトみたいに強くないの! 強くなりたいのに……! どうして……」

 

 今にも泣きそうになっているシノンにナッツは困ったように頭に手を当てて小さく息を吐き出した。

 

「――もうええ?」

「え?」

「弱音は吐き終わった? ならさっさと手ェ放してくれん?」

 

 ただ冷淡にナッツはそう言葉にした。シノンは思い出した、ナッツという男はこういう男であると。自身の為に生き、自身の為に死ぬような男であると。

 だから、こうして容易く人を捨てる。

 解けた手を放されて、シノンは呆然とした。怒りなど通り越してしまった。

 

「……はは、そう、よね。ナッツはそういう人だもんね」

「……」

「――私じゃなくキリトならよかったのにね。キリトなら、アナタの手助けも出来たのに」

「……そうかもなぁ」

「ッ!」

 

 しみじみに呟いたナッツにシノンは思わず平手打ちを放った。それを頬で受け止めたナッツのフードが外れ、慈しみも軽薄な印象すらない、残酷なまでに冷淡な表情が露わになった。

 

「気ぃ済んだ? なら早く洞窟入って休んどき」

「…………」

 

 叩かれたというのに反応すらせずにナッツはシノンにそう指示を飛ばす。観念した、というよりは諦めや絶望がごちゃまぜになった感情がシノンを支配し、歯を食いしばってそれを堪える。

 踵を返したシノンが歩き出すのを確認してからナッツはやはり困ったように息を吐き出して空を見上げて、エンジンを噴かせた。

 

 

 

 

 

 洞窟の中、少し奥で壁に持たれたまま力尽きたように座り込むシノン。

 強くない自分。強いナッツ。弱い自分。弱くないナッツ。純然たる拒絶と落胆。身勝手だけれど、確かに利己的だった。

 嗚咽が溢れる。自分の弱さが悔しかった。ナッツの強さが羨ましかった。キリトの方がよかったと言われた事も苦しかった。

 人殺しの手は誰にも取られないとわかっていた筈なのに、少しだけ期待していた自分が居た。シノンとしての仮面に罅が入り、ボロボロと崩れていく。

 もっとあの人の頼りに成りたかった。

 もっとあの人と一緒に戦いたかった。

 あの人の隣にいられるだけでよかった。

 あの人の相棒でいたかった。

 ナッツに手を取ってほしかった。

 視界が滲み、ボロボロと水滴が地面へと染み込んでいく。それでも目を抑える事も出来ずにシノンは嗚咽を溢れさせた。

 

 死んでもよかった。五年前の自分よりも弱くなってしまった自分など生きている価値もなかった。

 このまま逃げ続けて生きる事など、死ぬように生きる事なんて無意味な事だ。

 けれど、それでも、身体は動かない。きっと弱い自分が死ぬのを怖がっているのだ。

 

 死んでも、死ぬだけ。

 そう、死んでも死ぬだけなのに、それが堪らなく怖い。

 

 疲れた。何もかも、疲れてしまった。

 泣いている事も、怖がっている事も、落胆される事も。

 疲れてしまった。

 

 シノンの耳に砂を踏むような音が響いた。僅かに上げた顔で視界を確認すれば、ボロボロのマントが洞窟の入り口で揺れていた。

 戦う? いいや、勝てない戦いだ。

 諦める? もう諦めていた結果だ。

 戦って死ぬ? 前のめりにすら、もう成れない。

 死ぬ? そう、私は死ぬ。疲れたのだ。

 

 自嘲気味に笑って、シノンは瞼を落とした。死ぬのは怖い。けれどこれ以上生きている事も、恐怖から逃げ続けることの方がもっと怖い。

 だから、死んでもよかった。

 ナッツは――きっと自分が死んでも悲しみもしないだろう。

 一歩ずつ、砂を踏みしめながら近寄ってくるのがわかる。

 わざわざ自身の向かいに立っている存在は、ドサリと腰を下ろした。瞼を上げて視線を向ければ、しっかりとダメージが入っていたのか頬に()()を咲かせた男が珍しく仏頂面で座っていた。

 

「…………」

「…………」

 

 ナッツを見たまま停止するシノン。対してナッツは中年よろしく「あ゛ー」と言いながら一仕事終えたように肩に手を当てて回していた。

 

「……なんで居るのよ」

「そら、バギーその辺に走らせて車輪跡消して来たからやけど……」

「……そう」

 

 つまり、ナッツはそもそも戻ってくるつもりだったのか? それを早とちりした?

 シノンの頭の中で先程の記憶がループする。会話ログが遺っていないVRMMOの機能を呪いたくなった。思い出した結果、彼は確かに一人で行くなんて言ってない。いや、そもそもどこかに行こうとした時も『仕込み』と言ってなかったか?

 何度か瞬きをして、シノンは自身の行動を思い出して顔を赤くしていく。

 

「その……ごめんなさい」

「何が? 叩かれた事? ああ。好き勝手ボクに言うた事?」

 

 怒っていらっしゃった。

 ニコニコしてコチラを威圧するその姿は上位者らしい姿であった。シノンはここから逃げ出したくなった。逃げ続ける人生もいいのではないだろうか、と考え始めた。

 非常に楽しそうに笑っていたナッツであるが雰囲気を弛緩させるように大きく溜め息を吐き出した。

 

「ま、勘違いさせたみたいやし、ボクも悪かったわ」

「そ、そうよね、うん」

「頬叩かれた事は絶対忘れへんけどな」

「…………」

 

 激怒していらっしゃった。

 やはり笑顔であったけれど、凄みがヤバイ事はシノンも理解出来た。どう威圧すれば怯えるか知ってるような、説教を知り尽くした威圧の仕方であった。

 引き攣った笑顔を浮かべていたシノンを見てナッツは意地悪そうに口を歪めて笑ってみせた。クツクツと人の感情を楽しむように、まるでいつかの様に笑ってみせた。

 

「ま、冗談はこのへんにして――キリトやなくてシノンの意味やったっけ?」

「え、えぇ」

「キリトは殺しても死なんから……あぁ、ちゃうな。シノンは殺されたら死ぬからや」

 

 吐き出された言葉はシノンの鼓膜を揺すり、脳髄に響く。

 固まるシノンを真っ直ぐに見つめながら、ナッツは少しだけ迷って、口を開く。

 

「死銃があの銃――黒星(ヘイシン)でプレイヤーを撃つから人が死ぬ、っていうんはたぶん間違った認識なんよ」

「どういう――」

()()()()()でもない限り、こっちから人は殺されん」

 

 食い気味にナッツはシノンにそう告げた。それは純然たる事実だ。シノンだって、その事は理解していた。

 仮想現実での殺人が現実に影響を及ぼすなどあり得ない事だ。けれど、あの亡霊はやってのける。死を与える事が出来るのだ。

 

「シノン。変な事聞くけど、ログインしてるんは自宅?」

「…………自宅だけど」

「そんな目ぇせんといてぇや。ボクも不本意なんやで? こういうプレイベートな事聞くんわ。それで、鍵はちゃんと施錠しとる?」

「ちょ、ちょっと待って! それじゃあ――」

 

 それではまるで()()()()()()()が狙われている様ではないか。

 怖気が走る。吐き気と同時に意識が浮上していく。自宅の六畳間、清掃の行き届いたフローリング風のフロアタイル、黒のライディングデスクと同色のパイプベッド。まるで俯瞰しているように脳裏に過ぎった全体像と、ベッドに横たわる自身の身体。フルダイブにより身動きも取れない、無抵抗な肉体。

 思考にボロマントが――死銃が過ぎり、自分を見下ろすように立っている。その手にはあの銃が握られ―ー。

 

「シノン」

 

 向かいにいた筈の男の声が遠くに聞こえた。喉の奥が塞がる感覚と共に、上手く呼吸が出来ず彼の名前すら呼べない。空気を求めるように喘いでも、何も感じない。

 まるで突き落とされるように、背中の奥からどこかに引っ張られ、耳鳴りが響き、世界が崩れていく。

 

 

 落ちていく自分を支えるように、誰かが手首を握った。強く、ここに存在している事を自覚させるように。

 トクリ、トクリと音が鼓膜を揺らした。一定のテンポで刻まれる音だけが世界に響いていた。

 何かが髪に触れる。自分が落ちないように、揺れる自分を抑えるようにキツい拘束感。

 

「シノン」

 

 彼の青年らしい低い声が頭の上から聞こえた。いつの間にか閉じてしまっていた瞼はようやく開く。

 開けた視界で彼を見ようと声の方向へ顔を向ける。向けて、ゆっくりと顔を下げた。

 

「? どないしたん?」

「……なんでもないわ」

 

 ナッツの視界から隠れるように顔を埋めてナッツのボロ外套を引っ張るシノン。今の顔は見せれたものではない。特にナッツには見せる訳にはいかない。

 どうやら強制ログアウトから戻ってきたらしいシノンに安心したナッツであったけれど、そのシノンが自分の懐から顔を見せてくれなくなってしまった。どうしたモノかと考えながら、シノンと位置を変わるようにして壁へと凭れて腰を下ろす。その間もボロ外套にすっぽりと顔を埋めたシノンの表情は見えていない。

 

「――死銃が二人いるって言うの?」

()()()()()な。予想でしかないけど、可能性としては高いと思うよ」

「……そう」

 

 ナッツの身体に回された腕の力が少し強くなる。そんな彼女を安心させるように、ボロ外套の上から頭を優しく叩く。

 可能性としては、高い。あの瞬間、シノンをいつでも撃てた筈なのに誰かに見せつけるように十字を切り、ゆっくりと構えた。それがサインであるのか、はたまた別の何かなのかは判別が付かない。

 《黒星》の銃弾で人を殺せるなら《L115》は必要ない。

 ただ、徹底した理詰めであっても可能性として捨てきれる事は出来なかった。

 だからこそ、あの瞬間――キリトを()()()時に死体からの作用を考えて焼夷手榴弾をキリトへと投げたのだ。何かしらの依頼であろうキリトなら安全な場所からログインしているだろうけれど、捨てきれる訳もない。

 もしも、自身の予想が外れて、仮想現実から本当に人を殺せるのであったとしても。それはシノンへ伝える意味は薄い。警戒は必要であるが、シノンにあの凶弾が届く事などもうないのだ。

 

「……ん?」

「どうしたの?」

「ああ、いや、なんでもあらへんよ」

 

 もぞりと蠢いたボロ外套に苦笑しながらナッツは言葉を濁す。

 ナッツらしくない思考である、と自分でも思ってしまう。けれどもそれが自身であると言えてもしまう。

 クツクツと笑うナッツの声を聞きながら、シノンは少しだけ訝しげに思いながらも、迷いながら口を開く。

 

「ナッツは――ナッツも人を殺した事あるの?」

「……キリトが言うたんやな」

「ごめんなさい」

「別にエエよ。せやな。両手では数えられへんぐらいには殺してるなぁ」

 

 誇るようでもなく、罪を告白するようでもなく、自嘲するようでもなく、瞼を閉じて思い出すように言葉を吐き出してナッツは薄く瞼を上げた。

 

「今も全員覚えとるよ。顔も、言葉も、名前は――後から照合したから不安やけど、皆覚えとる」

「どうして……」

「殺したから……言うんは、卑怯やな。殺した者の責任みたいなもんや。進まれへんようなったヤツを糧にしても進んでるんよ。無理やり、足引きずっても、生きてるから進まなアカン」

「……やっぱり、ナッツは強いね」

 

 そうシノンが呟くと、ナッツは困ったように頬を掻いて、小さく息を吐き出した。

 

「強かったら、ナッツになんか、頼らんでもエエねんけどね」

「え?」

「……現実の僕は弱いって話」

「ナッツは強いじゃない」

「そうやねんけど、そうやないんよ」

「……どういう事?」

「秘密。現実に居る僕に聞くんやね」

「……ああ、そうやって女の子に会ってるのね」

「ちゃうちゃう。死銃Bの事もあるし出来れば行きたいって話やねんけど」

「なに? そこからナンパだった訳?」

「そうなら喜劇で終わってんけどなぁ」

 

 ハッハッハッと笑ってから溜め息を吐き出したナッツと同時に溜め息を吐き出したシノン。

 強い彼に救いを求めた訳ではない。それは理解している。彼は私を救えないし、救わない。ただ話を聞いてくれる、隣に居てくれる、抱きしめてくれる。それだけだ。

 

「私は――現実世界で、ほんとうに、人を殺したの。五年前、東北の小さな街で起きた郵便局で起きた強盗事件で……」

 

 ぽつりぽつりと吐き出された言葉をナッツはただ無言で聞いていた。いつかの様に突き放すでもなく、シノンは悪くないと慰める訳でもなく、ただ無言で彼女の手を握っていた。

 そして、納得した。シノンはまだ知らないのだ。巻き込まれて殺したにしても、事故であったとしても、シノンのソレは誇るべきものだという事を。殺した事実ではない、その結果をシノンはまだ知らないのだ。

 自分ほど堕ちていない少女はまだ救われるのだ。

 銃を見ると震える事。ピストルの真似事をされても意識してしまう事。シノンが――朝田詩乃が戦ってきた全てがシノンの口から吐き出される。

 抱きしめられている腕が震え、精一杯を振り絞って言葉を吐き出し続ける彼女をナッツは止める事も慰める事もしなかった。

 

「……この世界なら大丈夫だった。幾つかの銃も好きになれた。この世界で一番強くなれたら、きっと現実でも大丈夫だって、そう思えたのに」

「死銃に会って、それが崩れた」

「……うん。私が《シノン》じゃなくなっちゃう。だから――私は戦わなくちゃいけないの」

「……さいで」

「キリトやナッツみたいに強くないし。アナタみたいに死ぬのが怖くない訳じゃない。でもソレ以上に怯えたまま生きていくのが堪らなく怖いの」

 

 強く抱きつかれながら吐き出された言葉にナッツは納得して、少しだけ申し訳なさそうに口を開いた。

 

「死ぬのが怖くない訳やないよ。ボクも死ぬんは怖い」

「え?」

「なんやその反応は……。ま、死ぬのが惜しくなったんは最近やねんけど」

 

 誰かのせい、とは口に出すことはない。それにナッツが死ぬ事は決定している事も自覚もしている。

 それに死ぬのが怖くない、というのも嘘ではない。死んでも自分がどうなるかは何度か体験している事だ。何もない虚空に入り、ゆっくりと分解されていき、彼の糧になる。それが当然だと思っていたし、怖くもなかった。

 だから、死ぬのを怖がっている自分は既に彼から逸脱しているのかも知れない。けれども自分が彼であり、彼が自分である事も理解している。そして自分が偽りの存在である事も。

 

「シノンとこうやって話せるんも最期かもなぁ」

「不吉な事言わないでよ」

「おっと、そうやった」

 

 ケラケラと笑ってみせて、ナッツは微笑む。

 シノンが殺されなかったとしても、死銃に負ける事がなかったとしても。

 たぶん自分は――ナッツはここで終わってしまうだろう。

 惜しくは思う。生きたいとも思う。けれど同時に消えてしまう事に納得もしている。

 だからこそ、自分は最期までナッツであり続けるのだ。消えてしまうその瞬間まで嗤っていよう。

 

 死んでも死ぬだけなのだから。


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