次の猫毛布はもっと上手くやってくれるでしょう(白目)
別の人格。二重人格。多重人格。解離性同一性障害。
文字数も何もかもが違う同じ意味の言葉達が詩乃の頭を駆け巡る。それこそサブカルチャーとしての知識でしかそれらを知らない詩乃であるが、その言葉達が意味する事は漠然とであるが理解する事は出来た。
自分ではない自分。他人ではない他人。ジキルとハイド。頭のどこかで創作上のモノだと思っていた事象が目の前にある。それは、嘘だと言いたくなるような事実を孕んで、目の前に在るのだ。
声を飲み込んだ。
否定の言葉を、喉の奥へと無理やり押し込んで、歯を食い縛る。きっと嘘だと否定することは他愛のない事だ。フィクションだと鼻で笑ってみせる事はきっと簡単な事だ。なんなら別の人格を見せてみろ、と恫喝する事も容易いだろう。
そんな訳がない。たった一言吐き出せば目の前の存在など吹き飛んでしまうだろう。それは自分の中の常識が唆している。そしてその常識が同時に耳元で囁くのだ。「お前はどうだ?」と。
それこそ詩乃に付随された箇条書きの経歴はテレビの中やフィクションの中では有り触れている物だ。目の前のカノジョ――彼と同じように。
だからこそ、頭ごなしに否定することなど出来る訳がなかった。自分は既にソレを受けて入れ前に進むと決心したのに、目を逸らしそうになる。
開いた口からは声ではなく、音すらもない空気が吐き出された。
真っ直ぐに詩乃を見ていた夏樹はその瞳と詩乃から外す事もせずに、ただただ混乱している詩乃が落ち着くのを待つ。瞳の揺らぎ、呼吸、身体のどこに力が入っているか、喉の動き。僅かな動きすら見逃す事なく、夏樹は詩乃を待つ。
真実を濁せばよかった。とは考えない。それは彼も夏樹も望む所ではない。そして詩乃も恐らく望んではいないだろう。そう直感したのは、溶けてしまった彼のお陰だろうか。
沢山ある情報が詩乃の頭で纏まっていく。否定していた事実を単なる情報として処理していく。
”ナッツ”という成人男性を粉々に砕いて箒で掃き捨てる。既にそれは必要ない物だ。
そして目の前の美少女――のような少年らしき存在が”ナッツ”である、という仮定を定めておく。頭の中にいるボロ外套の男が皮肉ったらしい笑みを浮かべて両手のピースを軽く曲げて重要であると告げる。頭の中に愛銃が無い事がコレほどまでに腹立たしいと感じる事は以前以後も含めて無いだろう。
二重人格者。という情報が嘘であったならば、目の前の存在がナッツであったならば内心でほくそ笑んでいる事だろう。けれど、彼がそんな人の心を弄ぶような行為をしない事は分かっている。したとしても、二重人格者なんて三流小説家だってしないような設定はしないだろう。精々”妹”などと言うぐらいか。
仮定を並べ、一つひとつを噛み砕き、繋ぎ合わせ、推察をしていく。
本人から答えを聞けば話は早い。それこそ二三言で終わってしまうような事なのかもしれない。けれど、その事実を真実かどうか判断するのは他ならぬ自分なのだ。だからこそ、目一杯頭の中で推察を並べる。
そして、一番考えたくもない推察を最後に立てる。
目の前の天使……少年の言葉が、少年がここに来るまでに言っていた七草薺の言葉が全て真実であったならば――。
言いようのない喪失が身体を凍らせる。ナッツが死んでしまった事も、その選択を自分が迫った事も、自分は彼を生かす事も出来たかもしれないのに……!
強く拳を握り込んで、少女から目を離して窓から早送りされているような景色を見送る。流れる景色を瞳の中に閉じ込めるように瞼を下ろして、大きく息を吸い込んで、細く、長く、ゆっくりと、吐き出していく。胸に溜まったモヤモヤや、煩い鼓動を抑えつける。
真実であったならば――真実でなかったとしても。カノジョの言葉は聞いておかなくてはならない。もしも真実であったならば、それこそ殺した相手を背負う為に、殺した相手を想う為にも聞かなくてはならない。
もう逃げ出さないと、目を逸らさないと、前に進むと決めたのだから。
信号が変わったのか、静かに走り出した景色から目を離して詩乃は改めて夏樹に向き直る。詩乃の瞳を見て、安堵したように夏樹は小さく息を吐き出した。
「多重人格についての説明は――」
「大丈夫。なんとなく、わかるわ」
「そう、ですか。なら――」
「その前にちゃんと一つ聞いてもいい?」
「はい。僕に答えられる事なら、なんでも」
了解を得た所で詩乃は息を吐き出して、少しばかり難しい顔をする。
これからの話で、きっと前提として確実に決定しておかなくてはならない事があった。それは目の前の存在がナッツであるかどうかよりも、詩乃にとってもっと必要極まりない事であった。
夏樹を凝視して、口元に手を置きながら、言葉を選んで、詩乃は疑問を口にする。
「その、本当に男の子なのよね?」
「……ふぇ?」
「クッフッフッフッフヒヒヒヒ、アハハハハハハハ!」
詩乃が真剣な顔で告げた疑問にキョトンとして変な声が出た夏樹。運転席からは耐えた様子もなく笑い声が吐き出される。
パチクリと瞼を動かした夏樹がその質問を理解したのか笑いが聞こえてくる運転席を睨む。運転席から聞こえた笑いに混じる謝罪の声に眉を寄せて唇を尖らせながら夏樹は詩乃に向き直る。
「ちゃんと男です。証明になるような物は……えっと、その、触ります?」
「え゛」
「あ、えっと、胸ですよ? ほら、膨らみもないので」
「我が君の年齢ですと膨らんでいない子もいると思いますよ」
「そうなんですか? なら、えっとじゃあ、その――」
「ちょっと待って。待ってください」
「あ、はい」
迷った末の結末がなんとなく理解出来てしまった詩乃はほんのりと顔を赤らめた夏樹を止める。たとえ詩乃の予想とは外れていたとしても、恐らく詩乃にとって良い方向には転がらないことだろう。
頭を抱えながら溜め息を吐き出してどうにか改善策を考えていれば、運転席から我慢したような笑いではなく雑誌が一冊が飛び出てきた。
「これは?」
「そこに我が君が載ってますよ」
「――は?」
受け取った雑誌をパラパラと捲り、目立つ萌黄色の髪の天使を見つける。白のコートとふわりと巻かれた萌黄色の髪。詩乃の記憶に残るあの日の天使がそのまま紙面に映っていた。
その雑誌から視線を外し、目の前にいる本人に顔を向ける。確かに、間違いなく、目の前の存在がこの紙面に雑誌に映っている本人である事は分かる。夏樹はと言えば困ったように眉をハの字に曲げて曖昧に笑っている。
コラムには写真に写る天使の詳細が書かれているのであるが、確かに性別の所にはしっかりと、誤字という訳ではなく男性と書かれている。書かれていた。
「アナタ、モデルだったの?」
「えっと、モデルさんではなくて、舞台役者をしていて、その雑誌は子役でドラマに出させてもらうのでインタビューを受けただけです」
「………………あー、なるほど、うん?」
二度目になる混乱の海へと突き落とされた詩乃はどうにか崖際を掴んで思考放棄しないように留まった。
現実は小説よりも奇なり。という言葉がこれほどまでに当て嵌まる事もそうそう無いであろう。自分もその奇の一端である事を棚に上げながら詩乃は息を吐き出してナッツであった時の言動を思い出す。
「そういえば取材って言ってたわね」
「……彼、そんな事まで言ってたんですか」
「知らなかったのね」
「彼が起きてる時、僕らは、なんと言うか、寝てると言いますか。彼の行動全てを知れる訳じゃないので……」
「ふーん……」
怪しんでいる訳ではない。疑っている訳でもない。けれども全てが真実だとも思えない。
それこそ”二重人格者という設定”であったならばという可能性を詩乃が捨てきれていない証明でもあり、言葉の矛盾を思考のどこかで探している事でもある。
「ナッツであった時の記憶は無いのね?」
「全部、という訳じゃありません。彼が、その……溶ける時に彼の経験も、えっと、統合されるので」
「……自分の事なのに随分曖昧ね」
「僕らの感覚での話なので。すみません」
「……いえ、いいわ。ごめんなさい」
かと言って攻めすぎれば、全てが真実だった時が問題になってしまう。いいや、それこそ目の前にいる彼と架空世界に居た彼がある種の別人であるのならば断ち切ればいいだけである事など、詩乃は理解している。
自身に疑問を抱く。未練なのだろうか、それともこの少女にも見紛う少年の中に彼を見てしまったからだろうか。答えは、無い。
少しだけ感情を落ち着けるように細く息を吐き出して、詩乃は夏樹へと向く。
「それじゃあ、説明して」
「――はい」
彼が最期に言ったように、現実で、彼の事を聞かなくてはならない。GGOが出来なくなる理由も、その真実も。
「彼は……ナッツは死んだ、と言いましたが、正確には加藤夏樹に溶けている、と思ってもらう方が正しいと思います」
「……さっきも言ってたわね。溶けるって」
「はい。死んでしまっても加藤夏樹の糧になります。それは何度も繰り返してきた事なので僕も彼もわかっていた事です」
「何度も?」
「何度も、です。僕らにとって”死”とはそういう事なんです。死んでも、溶けるだけ。この役が終わるだけ。死んでも死ぬだけ、です」
夏樹の口から吐き出された、まるで言い慣れたような言葉は詩乃にとっても聞き慣れた言葉であった。
彼が言っていた言葉。ゲーム内だから、と思っていた言葉。その言葉の意味が変化していく。息が詰まり、呼吸が浅くなる。
「僕らにとって、死とはその程度の物でした」
「ちょっと待って。つまり、アナタは……その感覚で人を殺していたの?」
「いえ、人殺しに対して僕らはそれなりの倫理観は持ってます。ただ、生きている人を殺す事だけであって、その後殺した人間が行く世界……所謂天国とか、地獄とか、そういうモノは僕らと同じ感覚です」
「じゃあ彼は? ゲームの世界がリアルだと思っていたなら、ナッツはあの世界、GGOで人を容易く殺してた事になるわ」
「彼はGGOの世界をちゃんとゲームである事を割り切っていました。ただ、そこに存在している”ナッツ”という人格は生死を賭けていました。それは僕らのルールです」
一つの役を殺す。この延長で他人を殺していたならば、詩乃にとって全てが裏切られる事になっていた。それこそ、車を無理にでも止めて逃げ出したい気持ちになっていたかもしれない。
”それなりの倫理観”がどれほどのモノかは、それこそナッツの言動を思い出せばわかる事だ。
死を厭わないが、慈しむ事もなく、無関心。死銃に対して憤りをそこそこ持っていた事を考えれば、その程度の倫理観なのだろう。
「――……いいわ。続けて」
「ナッツがゲームに対して生死を懸けていたのは加藤夏樹の為でもあります」
「アナタの?」
「……はい。ナッツが居れば加藤夏樹に害を及ぼすのは目に見えていたので」
「……どうしてか聞いても?」
「ナッツという人格が出来たのは……役柄以外の人格が出来たのは初めてだったんです」
「え?」
「それまでは”役柄”という枠組みから出ず、その役を全うし、死んでいました。ナッツにもその枠組みはあったんですが……」
「ナッツは出てしまった」
「はい。本当はSAOが終わればナッツは死んでいた筈でした」
「でも彼は生きていた」
「正確には
ナッツの戦闘を思い出せばその大半が一般人において『無茶な戦闘』にカテゴライズされるだろう。高レベル帯の狩場に店売りそのままのハンドガン片手で闊歩して笑っている彼が普通になってしまった詩乃にとっても『無茶な戦闘』は沢山思い出せる。
痛みそうになる頭を抱えて詩乃は溜め息を吐き出す。理解は出来た。彼の行動を納得も出来た。けれど噛み砕くには随分と時間が掛かるだろう。それに、詩乃にとって根本的な事が未だに解決していない。
「……アナタが多重人格者である事は信じるわ」
詩乃の一言に夏樹は眉尻を下げる。決して自身の在り方を肯定された事を悲観している訳ではない。続く言葉が詩乃の表情から読み取れて、その言葉を否定して証明出来る証拠がどこにも在りはしないのだ。
「けれど、ナッツが死んだ証明は出来てない。アナタの奥底にいるかもしれない」
「……はい。そうです。その証明を僕は出来ない」
「あの夜、確かに私の前にはアナタが居て、そしてあれはナッツだった」
「…………僕が彼を演じきる事は、可能です。ただ違和感を覚えるのは詩乃さんだと思います」
それは――、と詩乃の言葉が口から出なくなる。姿形という意味でない事など漠然と理解出来た。立ち振る舞いであったり、言動であったり、それは小さな違和感なのだろう。そしてきっと自分はソレに気付いてしまう。気付く自信もある。
だからこそ、夏樹はナッツの演技をしない。容易く丸め込める方法を取らずに自身を曝け出している。
それならどうしてあの夜にナッツの演技で自分に会った? そんなものは自分を落ち着かせる為、それこそ言いくるめる為だ。
自分で答えが出てしまう。どの疑問を抱いても、覆す事が出来ない。目の前の少年がナッツでない、と否定しても、それはSAO時代――現実の姿を知っている和人が証明出来てしまう。
肯定などしたくない。ナッツが死んでいるなどと、肯定出来るものか。
詩乃の感情を読み取って、夏樹は全てを否定しなかった。ナッツが死んだ事を証明出来ないという事もあったけれど、それ以上に詩乃の否定はしたくなかった。
小さく息を吐き出して、夏樹は話題を切り替える。
「詩乃さん。悩んでいる所すみませんが、そろそろこの車に乗せた本題を伝えます」
「……何? 次は、アナタは六つ子とか言い出すのかしら?」
「いえ、僕に兄弟はいません。……詩乃さんには自分がしたことの結果をちゃんと見てもらいます」
「結果?」
「はい。殺した者として、アナタは全てを知る権利と義務があります」
詩乃の背がゾクリと震える。
視界がぐらつき、僅かなエンジンの振動で身体が揺れそうになる。歯を食い縛る。
目の前にいる愛らしい断罪者が笑う。身体が冷えていく、心臓の音が激しくなる。
現実にいる事を理解したくて、拳を強く握りしめる。
その拳に小さな熱が置かれた。じわりと広がるそれが拳の間に滑り込んで、拳を解いていく。握られた手を辿れば変わらず愛らしく微笑む彼がいた。
「我が君、着きました」
そこは住宅街であった。日も半分程沈んで世界を赤く染め上げている。
路肩に止められた車から出ることもなく、詩乃は興味深げに辺りを見渡す。見渡せば見渡すほどに、実に普通の住宅街であった。どこにでもあるような、そんな日常が広がっていた。
「詩乃さん、向こうにいる親子が見えますか?」
「……ええ」
夏樹が指差す先に居たセミロングヘアの女性と、その女性と手を繋いでいる女の子。母であろう女性の空いた手には買い物帰りなのか何かが詰まったポリ袋を持っている。
そんな親子がコチラに向かって歩いてくる。この車に何か用がある訳ではなく、ただ帰路がそうなのであろう事は談笑しているであろう二人を見ればよくわかる。
「――大澤祥恵。隣にいるのは瑞江ちゃん四歳です」
「はぁ……」
運転席から聞こえる親子のプロフィールに詩乃はさっぱり分からず、生返事を返す。
「……町三丁目郵便局に元々勤めていました」
「――ッ」
続けられた言葉に詩乃は息を呑んだ。フラッシュバックする記憶と目の前の日常に存在する女性が交差する。あの瞬間。強盗から銃を奪う直前。カウンターの奥にいた女性職員二人の中に確かにあの女性は居た。
四年前のあの日。そう、四年前だ。
詩乃の喉の奥からか細い声が溢れる。
「信用ならない様でしたら呼び止めて確認しましょうか? なんでしたら、今まで朝田詩乃さんに一言も無かった事も謝罪するでしょうし」
「薺」
「我が君は激甘ですねぇ。少しはその甘さコッチに分けてくれても、いや、でも」
「少しだけ黙っててください」
夏樹の冷淡な言葉が薺の二の句を止めた。自分を抱きしてめて何かを堪える薺に冷たい視線すら送らずに夏樹は詩乃の手を優しく包み込む。
「これが、私のした事……?」
「はい。詩乃さんがした事の結果です」
「本当に?」
「はい。悩むな、忘れろ、とは言いません。僕らは全部抱えて前に進まなくちゃいけません。それでも、詩乃さんが助けた者もいます。その結果も詩乃さんが抱えるべきものです」
ポロポロと瞼から溢れる熱い水を拭う事なく、詩乃は車の横を通り過ぎていく母子を見送った。詩乃が背負った結果がそこには在った。知ることもなかった日常が、そこには在った。
夏樹はただ自然に、そうすべきだと思って、役柄としてではなく、詩乃に腕を回して抱きしめる。幼子にそうするように、そして
その
確かに彼はココに存在している。存在しているのだ。
けれど、同時に彼が死んでしまった事がわかってしまう。死んでしまったからこそ、ここにいる。
一番否定したかった事を自分で肯定してしまった。
この少年は彼だ。彼なのは間違いない。そして夏樹はナッツではない。けれどもナッツは夏樹なのだ。
理解した。理解出来てしまった。否定などもう出来ない。彼はもういない。けれど彼はここで生きている。
頼りなり身体を強く抱きしめて、詩乃は溢れる感情を夏樹の服に染み込ませた。
>>原作との相違
原作=命も救ったし、そっち方向で考えましょう(良心)
今作=殺してるけど、救ってる。全部自身の行動の結果なので背負って進め(強制)
>>それなりの倫理観
一般教養程度のそれ。役によりけりだけれど、加藤夏樹としての根は至って普通。
>>夏樹君の説明とイママデの解説
教育内容をざっくり言えば、役を徹底して作り込もう! で作り込みすぎた結果だと思ってくださればたぶんマシな筈。
その役を沢山繰り返して、蓄積して、じゃあソレの実践としてSAOで対他者を確認しよう! →囚われる。
SAOが終わるまでがナッツの役でした。まあ長すぎたので増長してますが……。色々な意味も含めて、”ナッツは死ねませんでした”。仕方ないね。
>>あっ……ふーん(察し)
気付いたね! SAN値を削ろう!