あとは色々なマトメと次への一歩目です。たぶん。
心地よい倦怠感があった。
湯船から顔だけを出して身体を沈めた詩乃はぼんやりと明かりを見つめていた。湯気に包まれた世界。時折響く水滴の落ちる音。
湯気を吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。
自分の行動は間違っていなかった。
いいや、それこそ”人殺し”という点では間違っているのかもしれない。けれど、そんな間違った行動であっても、それは肯定されたのだ。他ならぬ、同類の言葉によって。
殺した事を忘れる事はない。それは殺した者の宿命で、背負うべきモノだ。
救った事を忘れてはいけない。それは助けた者が救われる為のモノだ。
人として間違ってしまった自分の行動。人として間違っていなかった自分の行動。
片方だけを認めた訳ではなく、両方を肯定してくれた。
それは詩乃にとって初めての事であった。それこそ救った命の事なんて知らなかったのだから、当然と言えば当然である。
正義の味方、なんてむず痒い存在になれたつもりはなかったけれど、重かった足取りが少しばかり軽くなった気もする。
肯定してくれた相手に対して涙を見せてしまった。年甲斐もなく、という程の年齢は重ねていないけれど相手と比べるとそれこそ”年甲斐もなく”だろうか。
子供の前で泣いてしまった、という感覚は詩乃には芽生えなかった。自分よりも明らかに年下であろう彼の前で泣いてしまった事、そして慰められた事に恥ずかしさを覚える事も不思議となかった。
死んだ彼が――消えてしまった彼もまた、自分が泣いていると同じように慰めてくれた。発作の時も、慣れたように安心させてくれた。その名残が、あの少女……ではなかった、少年には確かにあった。
狂気的な部分を削ぎ落として、演技としてのナッツではない。本質としての彼。それが確かにあったように思える。
湯船から出て、鏡を見れば随分とニヤけた顔が鏡に映る。それを我慢する事はない。無理に表情を弄る必要はない。
ふと、あの少年――夏樹の笑顔が思考に過る。綺麗な笑顔だった。それこそ雑誌に載るような彼と比べるなんて意味のない事なのだろうけど。
少しだけ息を吐き出して鏡に向かって笑ってみる。
見なかったことにしよう。
シャツの上に余裕のあるフリース生地のトレーナーのジッパーを上げる。まだ濡れた髪にタオルを乗せてベッドに倒れる。
疲労感はある。今日もアミュスフィアを起動する気にはならない。その原因にナッツとの
言葉にもならない声で喉を震わせながら、口元が緩むのを感じる。自然と自分が笑っていた。
彼から肯定された事が嬉しかった。所詮はそれだけの理由だった。だからと言って、GGOに入って何かをやる元気も無ければ、新しいゲームを探す気力もない。肯定された事以外が自分の中で衝撃過ぎたのだ。
自分が人を救ったという事実。全てを背負う事。新川恭二の事。キリト――桐ケ谷和人の事。七草薺の脅し。そしてナッツ――加藤夏樹の事。沢山の事実が自分に叩きつけられた。
多重人格者――二重人格者という事は驚いた。それこそ、嘘だとも思っていた。今も一割程は嘘かもしれない、と怪しんでもいる。
けれど、確かに彼の中にナッツという存在を感じてしまった。それはとても些細な事なのだ。僅かな行動で、理解してしまった。理解させようとした行動ではなく、本当に僅かな動きや仕草が原因だった。
だから、詩乃が夏樹の事を知ろうと思う事はそれほど特別な事ではなかった。例えばそれは粗探しであったり、彼の言葉が信用に足るモノだという証明をする為だ。
何気なく、携帯端末を開いて検索エンジンを起動する。入力ボックスの中に『二重人格』という四文字を入れて、虫眼鏡のアイコンをタッチした。
ベッドの上に片膝を立てて座った詩乃は髪を乾かす事も忘れて画面に注視していた。
学術的なモノではなく、一般的な解説として載せられた情報達。例えば”始まり”であったり、例えば”呼び名”であったり。
それらを鵜呑みにして、彼に当てはめる事はないけれど、それでも詩乃はそれを読み解いて、意味を理解して、彼の行動に結びつけていき、納得する。
例えば詩乃自身――シノンが発作を起こした時に慣れたように行動した事。例えば両親ではなくて、七草薺であった事。例えば何度も人格が死んだ事や死生観。
慣れていて、当然なのだ。パニックになる発作をきっとナッツは見慣れていたのだ。或いは、何度も体験をしていたのだろう。
乗り越えていた? いいや、違う。彼はソレを乗り越えてなどいなかった。だからあの時困ったような顔をしていたのだろう。ナッツだから、という言葉にも納得がいく。ナッツという人格はそういう役割も担っていたのだろう。
ならば、彼が消えてしまった今は? そもそも人格としての役割があったナッツが
夏樹はきっとソレを困った顔で「必然」と「仕方のない事」と終わらせてしまうだろう。夏樹にとっても、彼にとっても、それはそう在るべきだったのだから。
「……ふぅ」
息を吐き出して頭を切り替える。同時にまだ湿っている髪に気付いて詩乃は苦笑を浮かべてドライヤーを手に取った。
温風に髪を靡かせながら更に検索エンジンに入力する。舞台役者、と言っていた彼の名前を入れる。
出てきたのは簡単なプロフィール。劇団に入ってるらしく中々にちゃんとした物であり、言っていた通り、少し先で放映するドラマに出るらしい事も書いている。
それは、まあ、よかった。
「……なにこれ?」
それは非公式であろうSNSであった。そこには確かに今日あった彼が映っている。撮影現場であったり、黙々と台本らしき物を見ている時であったり、何かを食べてる時であったり、車の後部座席に横たわって眠ってる姿だったり、その顔であったり。
いや、ともあれ、恐らく彼が関知していないであろう瞬間が撮影されていた。確かにコレは加藤夏樹で間違いない。こんな可愛い存在が二人といてたまるか。
幾つかの画像を保存しながら詩乃はこの下手人のアイコンと名前を見る。
ぺんぺん草であった。名前が『非公式マネージャー』。
詩乃は察した。今日会った、あの美人の顔が思い浮かんだ。きっと間違いないだろう。
「何やってるの、あの人……」
おそらく誰しもが抱くであろう言葉を詩乃は当然のように吐き出した。
いや、投稿内容としては彼のマネージャーらしく宣伝なども行っているのだが、無言で挙げられる写真が盗撮めいている。というか、盗撮なのだろう。詩乃は察した。
幾つかは彼も関知している物もある。それこそメイク後の彼が上目遣いしている写真がそれにあたる。
そのまま検索に引っかかったサイトに飛びながら見ていれば加藤夏樹という存在が『演技力の凄い子供』、『地上に降り立った天使』、『俺をホモにした原因』などと色々な呼ばれ方をしている。そしてソレに追従するように『ストーカーのヤベー奴』『非公式マネージャー公式ストーカー』『何故か捕まらないショタコン』『写真を投稿してくれる神様』と不名誉極まりない呼ばれ方をしている人もいるらしい。
ドライヤーを停止させて、携帯端末を閉じる。色々と知りたかった内容と混同して知らなくてもいい事実が更に頭の中に入ってきて頭が重い。
今日はこれ以上何もないので、ゆっくりと思案しながら布団に入ろう。
厚い布団がボフッと音を鳴らして詩乃を受け止める。ドライヤーのコンセントを抜く事も億劫で、ベッドの下に放置された。
布団の中に入り込みながら近くにあるリモコンで明かりを消す。
エアコンの音と空気の流れる音。ゆっくりと呼吸をしながら、瞼を下ろしていく。
下ろしていた瞼を上げて、詩乃は溜め息を吐き出した。
チカチカとメールの受信を知らせる携帯端末に眉を寄せながら今しがた来たメールを開く。差出人の登録はされていないが、それが誰かなどすぐにわかった。
ALfheim Online の短い文字と公式サイト。そして添付された写真のタイトルが「my lord」であった。写真を開けば、そこには萌黄色の髪の少女が立っていた。剣を握り、薄い羽を背中から生やし、茶褐色のボロ外套を纏っていた。
詩乃がアミュスフィアを取ったのは言うまでもない事であろう。