読まなくても本編には絡みませんので問題)ないです。
見どころは)ないです。
自分の生まれが恵まれていたか? という問いかけに対して私はイエスと答える。普通の家庭ではあっただろうけれど、それでも自分は俗に言うお嬢様である事は間違いなかった。
自分には才能があった。もっともその大半は実家にあった蔵書と今は亡きお爺様の教えであった。そんな努力の結晶を人は才能と言う。生まれた家系がそうであったから、と思えば確かにコレは私の努力で積み上げた物であるけれど、親族の教えがあってこそのモノだ。人が生まれ持った物、という意味では、これもまた才能であるのだろう。
自分の容姿は優れていた。少なくとも他人からそう称される程度には優れているのだろう。それこそ女生徒しかいない学園内で恋人が出来る程度には優れていた。
それこそ人らしく恋もした。けれど何か足りなかった。相手に満足していなかった訳ではない。
自分という人生は――例えるならばトロッコであった。
線路の上を走るしかない、トロッコだ。かと言って、それに満足していなかった訳ではない。自分の人生が順風満帆である事もわかっていたし、それこそ恵まれていたのだから、幸せとも言えた。
結婚相手を決められた事に対しても反感は無かった。
好き嫌い、という事で言うのならば、結婚相手の事は好きだった。凡百の一人という訳でもなく、それなりに恵まれた環境で、恵まれた人生を送ってきて、才能に恵まれた人であった。姉には悪いけれど、許嫁に土下座までして婚約を破棄された姉のお陰で自分は結婚出来た、とも言える。姉は姉で元許嫁を理由に独身を謳歌しているし、私は私で恋愛で結婚が出来ないと割り切っていたのだから、そう言うべきなのだろう。
姉が結婚していたならば……私は恋愛という物をする必要があるのだから。
結婚相手の事を愛しているか? と聞かれれば、愛していると答える。それこそお爺様の教育であり、夫を立てた生活も悪くはなかった。
私は彼の妻である。何かを求めるような熱もなく、けれど熱を偽り、欺く事は出来る。私というトロッコにとって、それは必然で、自然で、必要であった。
七草薺という私の人生は、その程度の物だった。
夫に殺されそうになるまでは。
「どういう、事ですか?」
夫に誘われてやってきた森の中で私はそう夫に問いただした。
夜の風が私を異様に凍らせて、口が、手が震える。
自分の震えた声は始めて聞いたかもしれない。目の前にいる夫――茶毛を短く刈り上げたコンラットはしっかりと私を見据えながら、背後に光も通さない森林を背負って口を開く。
「君は、現実とは違い過ぎる。だから、怖くなったんだ」
「それは! だって、アナタがここでは自由だって言ってくれたから――」
「そう。自由でいい。だから、これは俺が君の変化が怖くて……いいや、君が何を考えているか分からなくなったんだ。未知な物は怖いのは人間の宿命だろう?」
コンラットは目を伏せてそう呟いた。
私を剣の世界に――ソードアート・オンラインに誘った人が、鉄の城――アインクラッドでは自由だと言った男が、君の柵を取り除けるかもしれないと言ってくれた夫が。それを未知だと言う。それを恐怖という。
否定の声が出なかったのは見えたコンラットの瞳に恐怖と不安以外の感情が見えてしまったからだ。その瞳は、表情はありありと悦を浮かべていた。
「だから、君には死んでもらうよ。俺の為だ。普段の君であればきっと受け入れてくれるだろう」
自分の中にあった何かが崩れていく。積み上がっていた、彼の印象が壊れていく。
喉に何かが詰まったように声が出ない。否定も、肯定も、何もかもが自分には許されてないように、線路から外れる行為を咎めるように。
コンラットの背後から姿を現したのは、二人の男であった。顔を隠すように似た仮面をした男が二人、歪に開いた口元から下卑た笑みを浮かべて森の中から現れた。
緑色である筈のカーソルはオレンジ色に染まり、彼らがどういう人物であるかを私に突き付けられる。
「コンラットさん。本当に殺しても?」
「現実世界でも妻なんだろう?」
最終確認、という訳ではない。それは確かに悦を含んだ、誰かを絶望へと突き落とす為の言葉であった。
男達と入れ替わるように、森の中へと踵を返した夫が――男の声が鼓膜を揺らす。
「――ああ、殺せ」
そして、それは確かに私を絶望へと突き落とした。
変わらず下卑た嗤いを口から鳴らしながら、草を踏み潰して歩く男達。その手には直剣と斧が握られている。
震える手が動く。コンソールを辿々しく触りながら、私の剣が握られた。変哲もない、両刃の両手剣。普段は頼れる重さが今はただ重いだけに感じてしまう。
男達は私が剣を握ったのを見て、お互いに顔を見合わせて嗤う。
「へえ! 抵抗するのか!?」
「それはそれは。実に素晴らしい」
男は一足飛びに私の前へと躍り出て、斧を振り上げる。その動作は見えた。だから、私は剣を盾にするようにして寝かして掲げた。同時に、男の嗤いが見える。
「どらぁッ!」
男の怒鳴り声と共に振り下ろされた斧。剣と打つかる感触が腕を痺れさせ、私の視界一杯に銀色の破片が飛び散った。その破片はまるで架空の物である事を思い出させるようにポリゴンへと変換されて、容易く私の前から消え去った。
尻もちをついて、私は先程まで剣を握っていた手を見る。そこには何もない。在ったものは既に消えてしまった。
「さあ、お次はどうしますか? どうやって僕らを楽しませてくれます?」
直剣を握る男が口を歪ませる。
何を、どうする? どうして? 何を?
「チッ! お゛らァ! 死んじまうぞ! 逃げろ逃げろ!」
乱暴に鼓膜を刺激する男の声が私を我に返らせて、私は背後に身体を向けて、無理やり身体を立たせて走り出す。
死んでしまう。生きていたい。逃げなくてはいけない。
どこに逃げればいい?
鬱蒼とする森を走りながら、鋭く尖る枝に身を削られながら、思考する。
どこに逃げればいい? 夫は――コンラットの所になど行けない。裏切った者の所になど行ける訳がない。
なら、私はどう生きればいい?
私は、どうすればいい?
私は、どう死ねばいい?
足が縺れて草の上に滑る。震える腕が身体を持ち上げようとして、失敗する。
何度も失敗しながら、無理やり上半身を起こしても足がもう動かない。
後ろから聞こえる草を掻き分ける音に、逃げなくては、と生きようとする。
後ろから聞こえる音に、もう無理だ、と諦めてしまう。
涙が溢れる。逃げても、生きていても、それは自分にとって無意味になってしまった。線路から外れてしまった。だから、もう、何も意味がない。
自分が生きている事も、生きていく事も、総じて意味の無い物になってしまった。
逃げる場所もない。生きる意味もなくなった。死に方すらわからなくなった。
「おや、もうお終いですか」
「ケッ、つまんネェな!」
「いつもよりはマシでしょう」
男たちの声が聞こえる。そんな事すらどうでもよかった。
何も考えられない。ただ死ぬ事だけが頭を支配していた。そう、死んでしまうのだ。
「おい誰だ、テメェ!!」
男の怒鳴り声に顔を上げる。けれど、やはり私の視界には男二人しか居ない。男達の視線は変わらず私へと――いいや、私の背後へと向けられていた。
ソレはいつの間にか在った。音も無く、気配らしい気配も無く、それは立っていた。
まるで私達に聞かせるように草が踏まれて鳴く。歩く度に揺れる裾が擦り切れたロングマント。フードに隠れた顔はハッキリと見えず、けれども身長は小さい。
「――ケルンとツキノワグルマ。この名前に聞き覚えある?」
「あ? おい、知ってっか?」
「はて……人違いではありませんか?」
関西方面の訛りで吐き出された幼さも感じさせる声。その問いに対して男二人は顔を見合わせて肩を竦める。
その態度に対して茶褐色の存在は小さく溜め息を吐き出して外套の中から緩やかに反った曲剣を抜く。
「二人とも君らに殺された人の名前や」
「ハッ、なんだ? 復讐ってやつかい? テメェ見てぇなチビが!」
「そうですよ。君のような子供が死ぬのは忍びない」
「復讐やない。ボクも二人の事は知らんし」
「じゃあなんだってんだよ」
「単なる確認や」
「そうかい! じゃあさっさと消えな!」
「せやな。目障りやし、さっさと消すわ」
茶褐色の存在はゆるりと足を動かして、男たちへと歩き出す。その行動を見ていた男たちは一拍おいて笑いだし、まるで遊びのように斧を肩に背負う。
いけない。このままでは死んでしまう。この小さな存在も、目の前で――。
斧を背負った男が茶褐色の存在と距離を詰め、斧を振りかぶる。薪を割るかのように縦に落とされた斧は地面にその刃を落とした。
「――ぁ?」
ポリゴン片を吐き出す
そんな男の声を切り取るように、滑らかに曲剣は閃いた。容易く、冷徹に、男の命を刈り取った。
剣先が滑った首元を信じられないように男は触れて、パクパクと口を動かす。声帯が切られた声が出ない訳ではない。ただ、唐突に自身を襲った絶望に頭が対応出来ていないのだ。
赤い血液の代わりに男を彩った赤いポリゴンの華が散っていく。そんな散華を見る訳でもなく茶褐色の死神は直剣を持つ男へとフードの入り口を向けた。
「っ、あああ、ああああああああ!!」
仲間が死んだ事で半狂乱になりながらも男は直剣を振るった。二度三度、まるで踊るようにその剣先を回避した小さな死神の曲剣が動く。
まるで反射的に、そう決めつけられたように、迷いもなく、月を照り返した。
激しく響く鉄同士が打つかる音。
鉄が擦りあった音がほぼ同時に響き、死神は曲剣を振り抜いていた。
首に赤い傷を走らせた男は剣を手放し、何かに縋るように死神へと腕を伸ばす。
死神はソレを一瞥し、剣を振り上げた。伸ばした腕はそのままに、肘から先は求めた何かではなく地面を力なく触れた。
何も掴めなかった男がポリゴンへと散っていく。
風がそれを運ぶように吹き、死神のフードがめくれ上がる。
溢れたのは新芽のような萌黄色であった。振り返ったその顔は、妖精の如く愛らしい。その妖精という称号を否定するように背後の赤い華が空へと舞い上がった。
月光を嫌うように妖精はフードを目深に被って草を鳴らす。
腰を抜かした私が少しだけ見上げれば顔が見えてしまうぐらい小さな身長。フードの奥に見える澄みきった瞳。先程殺人をしたというのに、まるで何も感じていないような表情。
「あ、ありがとう、ございました」
「は?」
「助けて、頂いて」
「ああ、状況がそうなっただけや」
死神はその視界に映っているであろうコンソールを叩いて何かをしている。
訝しげに死神を覗いていれば、溜め息が吐き出された。
「何?」
「その、私は……どうしたら、いいんでしょうか」
「はぁ? 知らんがな、そんなん」
それは、尤もな言葉であった。けれど、それでも私はこの死神から視線を外せない。
この死神から与えられるソレを待ち望んでいる。
死神はそんな私を見て、数秒固まる。
「……なんや、アンタも死にたがりかい」
呆れたような口調ではない。事実を確かめるように私に向けられた言葉に私は反応出来なかった。
面倒そうにフードの上から頭を掻いた死神はスルリと後ろ腰から曲剣を抜き、その剣先が私へと向けられる。
「死にたいなら殺したる。死んでも死ぬだけや」
そう、まるで当然の事を口にした死神。その口調が私に告げてくる。
それは断罪ではない。
これは救済ではない。
死にたい人間をただ殺すだけの、それだけの事なのだ。
向けられた切っ先に抵抗など出来る訳がなかった。目の前の人は私が失った死に方を与えてくれるのだから。
「――はぁ。もうちょっとだけ生きとき」
焦らされるようにソレは取り上げられた。死神は身体を反転させて森の奥を見つめる。
森の中から現れたのは熊のようなMobであった。興奮したように息を荒げて、口元から唾液を垂れ流した、真紅の熊。尖った爪が自身が通った道を示すように幹を傷つける。
「戦え、とは言わんけど、邪魔なら勝手に殺されとき」
死神の小さな手を掴んで、思ったよりも強い力で立ち上げられる。
ふらつく足をどうにか地面に立たせて、前を向く。威嚇をするように喉を震わす熊に名前とHPゲージが出現する。
「ボクはナッツ。ちょっとの間やけど、よろしゅうに」
「……ウィードです」
そう、ほんの少しの間だけ。私の命を死神が――ナッツが奪う刹那までの共闘。ナッツが拾った命をナッツが捨てるまでの、戦闘。
「因みに武器は?」
「あ、その」
「……普段使ってる種類は?」
「その、両手剣を」
「両手剣か……ん」
視界にトレード画面とパーティ申請が浮かび、それを咄嗟にタッチする。
アイテム欄に入り込んだ両手剣は自分の持っていたどれよりも優れた性能で、けれども誰かに鍛えられた訳でもない物であった。
取り出したそれは片刃の剣であった。鍔もなく、まるで何かの牙をそのまま削り出したように荒い剣。布がしっかりと巻かれた柄を両手で握りしめ、前を向く。
「ほな、進もか」
「はい」
妖精の声に被せるように熊の雄叫びが響き渡り、私が死ぬまでの戦いが始まった。
熊の豪腕が唸りを上げて振られる。けれどもナッツは恐怖が無いのか容易く、自然に剣を振り、その腕を器用に流してみせた。
「スイッチ」
短く吐き出された言葉に反応して、私は両手剣を振るう。一撃、二撃、とダメージを与えて熊の崩れた体勢が戻りそうになった所で身を引く。それに入れ替わるように茶褐色が隣を過ぎ、私を守るように豪腕を容易く流してみせた。
「――MPK、にしては杜撰やけど」
「と、言いますと?」
「ボクらを殺す為にコイツけしかけたんやろ。調査済みやけど、な! っと」
調査済み、という言葉を証明するようにナッツは熊の攻撃を弾き飛ばし、砕けた曲剣を見送る事もなく別の曲剣を瞬時に出して熊の喉を貫いた。
ポリゴン片を一身に纏ったナッツは曲剣を振って、後ろ腰へと収める。
「犯罪ギルドよりも杜撰なんが気がかりやなぁ」
「……あ」
「何か心当たりでもあるん?」
「――はい」
「……ま、君の命や。生きてる間は勝手にし」
心当たりはあった。そしてそれは当たっていると確信している部分もある。
空っぽであった自分に何かが注がれていく。煮える何かが、溢れていく。きっと、コレに従う事は――正しい事だ。
死ぬ命なのだ。既に死んだ命なのだ。この命は目の前の小さな死神の物である。
けれど、それでも、この感情だけは私の物であるべきなのだ。
七草薺という人物の事を私は好んではいなかった。
何かの柵に常に繋がり。自由でありながらも自由ではない。かと言って自らそれを破る訳でもない。
「先程ぶりです、コンラット」
「――、ああ、生きていたのか」
「ええ、死ぬために生きています」
生きる意味すら無かったウィードにソレが与えられた。目標としては歪で、けれども当然の帰着。
私は与えられた片刃の両手剣を握り、振りかぶる。
「待て、待ってくれ。やりなお――」
「ああ、あなたの怯える顔をようやく見る事が出来ました。なるほど、確かに、その表情はとっても素敵です」
「――ッ」
投げられたチャクラムを一振りで弾き飛ばし、彼の懐へと踏み込む。
怯えた表情。瞳に映る私の笑顔。飲み込んだ息の音。
私は躊躇もせずに両手剣を振り抜いた。
「さようなら、愛しかった人。
……フフフ、ああ、アハハハ、ヒヒヒヒ、フふあアハハハはははハハハ!!」
嗤いが止まらなかった。ずっと引っかかっていた何かが千切れたように、せき止められていた何かが外れたように、止める事など出来なかった。
目の前では赤いポリゴンが散り、私の頭上にあるカーソルがオレンジ色の染まっていく。
「終わった?」
「――はい。お時間をいただきました」
「さよか」
「ええ、それで、私の命をアナタの為に使ってくれませんか? 私はこんな死ぬに都合のいい日に死ねません」
「……どういう事?」
「アナタの下に居たいんです」
「……部下もギルドもいらんねんけど」
「ええ、ですから、必要なくなれば殺して下さい」
私の提案にナッツはフードの下で口をへの字に曲げて私を見つめる。澄み切った水晶のような瞳が私を捉えて放さない。
夫と同じ日に死ねる訳がない。そんな事許される訳がない。
だから、私は全てを目の前の死神に渡そう。生も、死も、全ての権利を死神に託そう。
ゾクリと身体が震える。死ぬ事への恐怖とは別に甘美な疼きが身体を這い回る。
「……ま、ええか。ちゃんと殺したるから、それまでは生きとき」
「――ッ! はい、我が君」
「なんや、それ?」
「気に入りませんか? 殺しますか?」
「……ま、ええわ」
この死神はきっと私を有効利用してくれる。全てを使い切って私を殺してくれる。
だから、私はこの小さな死神に殺されるまで、妖精のような主に仕えよう。
私を殺してくれるまで。