萌黄色の髪をした少女に見紛う少年はキャスケット帽をカウンターへと置いてグラスに入れられた水で軽く舌を湿らせてから呼吸を整えた。
時間に遅れそうだから走ってきた身体は緩やかに冷めていき、荒かった呼吸はすぐに整えられていく。
その様子を見ながら、桐ケ谷直葉は恐る恐る、確認するように、口を開く。
「ホントに、本物?」
「はい。僕以外に加藤夏樹が居なければ、の話になりますけど。僕は加藤夏樹で、その手に持っている雑誌の取材も受けさせてもらいましたよ」
「本物だ……すご、夢?」
「なあ
「はぁ!? お兄ちゃんが世間様の事に興味ないのは知ってたけど、そこまでとは思わなかった……」
「そこまで言うか」
「えっと、そこまで有名じゃないと思うんですけど……」
ね? 困ったように眉尻を下げた加藤夏樹は同意を求めるように自分の事を知っている悪役レスラー顔へと向けば肩を竦められ、同じく知っている朝田詩乃へと向けば溜息でも吐き出されそうな呆れた顔で見られている。誰からも助力は求められないようだ。
「雑誌読んで! あぁ、もう! 知ってたら色紙とか準備してたのに!」
「えっと、僕としてもあんまり教えたくなかった、と言いますか……。知ってる事に驚いてるんですけど」
「夏樹さんの舞台をネットで見て、そこから全部見ました!」
「……ああ、そう言えば薺が布教する為とかで色々交渉してましたね……」
著作権や肖像権に関して色々と頭の中に浮かんだ夏樹であったけれど、やや熱っぽい息をしながらと自分を盗撮している言動以外は全て完璧な女性が思い浮かんだそれらを全て塗りつぶしていく。訴えられるべきは何も知らぬ民なのか、知りながら行動している美女なのか。
抱えた頭を冷やす為に水を一口飲み込――
「ダメよ、直葉ちゃん。この子は私のなの」
「ッ、んっく。けほ、詩乃さん!?」
吹き出しそうになった水をどうにか留めて飲み込んだ。声の主の方を見ればしたり顔で笑っているし、どういう訳か頬も熱くなってしまう。もにょもにょと言葉を吐き出そうとしても何も出ず、夏樹は諦めたようにグラスの中身を飲み干した。
直葉にしてみれば推しの役者に恋人がいるという衝撃的な事実であるが、元々シノンに恋人が居て、それがナッツであっただけであるし、更に言えばそのナッツが役者である加藤夏樹であっただけの話である。理解が追いついていないだけなので、自宅に帰ってから枕を抱えて唸る事だろう。
グラスで冷えた両手を頬に押し当てて熱を冷ましていればようやく雑誌を読み終えた、というべきか現実を受け止める事ができた面々が顔を上げる。
「ナッツ……夏樹くん。ここに性別、男性って書いてるんだけど」
恐る恐る、それはもう信じられない物を確認するように、今も嘘だと言ってほしいと思っているし、何より自分の尊厳だとか、その他女の子としての注意をナッツにしていた明日奈が口を開く。
きっとこの情報は嘘に違いない。今にも
「? はい。僕は男ですけど」
現実は無慈悲である。彼は、彼である。
雑誌で化粧をされた彼の写真を見ても、現実世界の彼の姿を見ても、SAO時代の姿を見ていても、ナッツが女性である事を疑わなかった明日奈にしてみれば衝撃的すぎる事実である。
思い出されるナッツとの日常。沢山心配事を増やした少女。自身の危険を顧みず動く妖精。キリトという存在を巡る恋愛相談。ナッツもキリトの事を狙っているのでは? などと勘ぐってしまった日々。その事を回りくどく聞けばゲラゲラと笑われた挙げ句に「絶対に無い」と言われたあの日。嗚呼! あの言葉の意味はそうであったのか!
そして何より1階層ボス前日である。確かにあの日、自身が入浴していた所に入ってきたナッツ。その容姿から女性だと勘違いしていた、勘違いしていたのだ!
何を思い出されているのかは夏樹にはさっぱりわからないけれど、確かに目の前にいる明日奈が怒っている事はわかる。それは自身の性別に関してである事も判明している。逃げ道など無い。逃げ道など無い故に、夏樹はチラリと眉尻を下げて仕方ないよなぁ、とでも言いたげな和人へと視線を向ける。
「キリトさんも知ってましたよ」
「え゛、おい! ナッツ!?」
「そっかぁ……和人くんも知ってたんだぁ……ふぅーん、へぇーそうなんだぁ」
「おい、ナッツ。何かしたのか?」
「……ナッツのする事ですよ? 数えきれないぐらいに」
「……確かに」
ナッツの仕出かした事を比較的身近で知っている和人からすれば明日奈がナッツに怒る事など腐る程ある。けれど性別を偽っていた事となればその数も……いや、きっと多いな。と和人は予想を諦める。
尤も、その中にあの日、アルゴにアスナの存在を知られないように立ち回ったナッツの事情などすっかりと抜けている訳であるが。それを覚えていろというのも和人に酷であろう。
「和人くんも納得しないで! あぁ、もう……なんで言ってくれなかったの……」
「……たぶん聞かれなかったからだと思いますよ」
「そうだけど、なんで他人事みたいに話すかなぁ……」
「えっと、まあ、その……それに、ユイは僕の事をわかってたみたいですし」
「はい! わたしはナッツくんの事を知ってましたよ」
「え? ユイ、いるんですか?」
見渡してみても電子の存在である筈の少女は見つかるわけもなく、和人がカウンターに置いたデバイスを指さした事でようやく夏樹はその中にいるであろう存在に気がついた。
「お久しぶりです! ナッツくん!」
「……うん。久しぶりやね。ユイ」
映像はまったくないけれど、それでも少女が笑顔を浮かべながら言っているのはよくわかる。少しだけ詰まってしまった言葉をどうにか吐き出した夏樹は力が抜けたように笑みを浮かべる。
「他に知ってた人とか」
「えっと、ギルバートさんはこっちに来てから知った筈ですし……薺は……そういえばあのゲームの時から知ってたみたいですね」
「なずな?」
「あ、ウィードです。今は僕のマネージャーというか、なんというか……まあ、そんな感じです」
珪子と里香、直葉を除く面々にウィードの美貌が映る。同時にそのネジの外れ具合を思い出してしまう。和人と詩乃に言わせればあの国家機関の一人を震え上がらせる美女であるし、夏樹への傾倒具合も……いいや、それはSAO時代からさほど変化はない。
ウィードの美貌はわからないも、直葉の中ではマネージャーと聞いて思い当たる人がいる。正確にはSNSのアカウントを知っているだけであるが、おそらく件の人物である事は間違いない。神様である。
「あの人、マネージャーにして大丈夫なのか?」
「? はい。問題とかはありませんよ?」
国家機関を震え上がらせる姿とナッツ狂いな部分の両面を知る和人が心配そうに夏樹に尋ねてみたけれど、夏樹自身は彼女の事を問題として捉えてはいない。確かにやや行き過ぎている部分もあるけれど、ソレを否定できる存在ではない事は加藤夏樹は理解している。
問題がない、という言葉に安堵の息をこっそり吐き出したのは直葉である。あのアカウントが停止すれば名も知らぬ同士が泣いていただろう。そこに自分も含まれるのも厄介であるが。
果たして現実を受け入れきれていない里香と明日奈。登場した人物がSAO世界でも現実世界でも雲の上の存在であった珪子。
そんな三人を見ながら言葉では決して言わないけれど「わかる」と心の中で理解を示す詩乃。伊達に一番最初に現実を突きつけられただけはある。
「明日奈さん、仕方ないですよ。夏樹さんは女の子の役もしてますし」
「呼び捨てで大丈夫ですよ。リーファさん? でいいんですよね?」
「ほんと? 直葉で大丈夫だよ、それじゃ、夏樹くんで」
「はい。……少女役は少ない筈なんですけど本当に全部見たんですね……」
「勿論!」
グッとガッツポーズをした直葉にむず痒い感情を覚える夏樹であるが服を僅かに引っ張られてそちらを見れば素知らぬ顔で視線すら合わせずにグラスを傾けている詩乃がいた。
その感情全てを推し量る事は出来はしなかったけれど、笑みを深めてみせる。
「しっかし、あのナッツが役者とはねぇ……」
「そんなに凄いのか?」
「ネットでも噂になってるよ? 演技力の塊とか、神童とか!」
別の界隈では不死者であったり、
「そういえば、あのゲームでも急に女神様みたいになってたな」
「ああ、俺が勇者認定された時か」
思い出すように和人とギルバートが納得する。確かにあの瞬間、ナッツという悪戯妖精の姿はなく儚さと神々しさを纏った巫女の如き存在であった。
「えっと、女性の方が喋りやすいんでしたら、成りましょうか?」
「成る?」
「えっと、僕の演技はどちらかと言えば憑依型というか、そういうのなので」
言葉を濁しながら言う夏樹に詩乃は心配そうに視線を送る。果たしてその視線に気付いたのか、それとも別の要因があったのか、夏樹は近くに居た詩乃の手を誰かに見せないように背中に隠しながら握って、一呼吸して離した。
水を一口飲んで、コホン、と一つ咳払い。瞼を閉じる。息を深く吸い込んで、緩やかに、細く、細く吐き出していく。
緩るく開いた瞼が瞳を覗かせて辺りを見渡す。
「はじめまして、でいいかしら?」
吐き出された言葉も声も女性の物で。確かに目の前にいるのは少女のように思える少年であるのに、ある筈の違和感がそこには無い。まるで最初からそうであったように思える程自然に女性が存在した。
笑い方も、僅かな挙動も、視線の向け方さえも、先ほどとは一切別の存在がそこには出現した。
「おぉ……」
「本当に女の人みたい……」
「いいえ、それは違うわ」
明日奈の言葉を女性は否定する。それは否定しなければならない言葉であった。
「私は今この時は女なの。意識も、感覚も、全てね」
「ここまでとは思わなかったな」
「ふふ。何にだって成れるわ。当然でしょう? だって私の夢だもの」
艶のある笑みを浮かべた女性に思わず和人は生唾を飲み込んでしまう。妖艶な笑みが、その視線が和人の中にある何かを擽る。
頭の中が囁いている。目の前にいる女が男である。見た目も、仕草もその在り方も女であるというのにただ単純に肉体が男というだけである。
何か別の扉を開けそうになっている和人を見て、妖艶に笑んでいた女が我慢できなくなったのか顔を背けて肩を揺らす。どうしようもなくソレは可笑しかった。なんせ自身を男である事を最初から知っている筈の兄貴分の視線が変化してしまったのだ。これが笑わずにいられるか。
瞬間、そこにいた筈の女性は消えてしまい残っているのは耐えきれずに笑っている夏樹だけになる。まるで悪戯が成功したように、けれどそれを隠すように笑いを漏らす。
「和人くん?」
「明日奈ちょっと待って、俺は悪くないんだ」
「あとでちょっとお話があります」
「はい……」
「くふ、ふひ、ヒヒ」
底冷えするような、けれど笑顔で和人へと迫った明日奈で本当に耐えきれなくなった夏樹は呼吸も辛くなるほど笑ってしまう。その笑いもどうにか抑えようとしているけれど、すでに漏れてしまっている。
いつかを思い出すそんなやり取りに和人は明日奈に怒られながら安堵してしまう。
ようやく、ようやくあの時のように笑えるようになったのだ。いつもの人たちで、あの変哲もない、仮想空間での日常が戻ってきた錯覚を覚える。
「ホント凄いわねぇ」
「えっと……リズベットさんですね」
「……ごめん、呼び捨てにしてもらっていい? ナッツの姿で敬語で敬称つけられると違和感が凄い」
「えっと、……よろしくお願いしますね、リズベット」
「うぅ……頭の中に居たあのナッツが可愛くなっていく……」
嫌味と皮肉ばかりである頭のオカシイ武器を持った悪戯妖精が小悪魔へと変化していく。更に言うならばおそらく無意識でその容姿を十全に用いた愛想を振りまいてくるし、嫌味成分なんて一切排されている。つまり、天使である。
「あのゲームでも現実と同じ姿だったんでしょ? なら元々可愛かったでしょ」
「そうだけど……そうなんだけど!」
詩乃の言葉に同意を示した里香であったけれど、悪戯妖精が天使へと昇華した落差に混乱をしてしまう。現実としてナッツが夏樹である事は理解しているが、あの鬼畜ロリが天使なショタへと成っているのは納得できない。その優しさを少しでもSAO時代に欲しかった。できるならば、本当に。
なんとなく、いいや、詩乃自身もGGOでのナッツと現実の夏樹の姿形から何まで全て違う現実を突きつけられた身である。あの性格でこの容姿であったならば、と考えて納得する。
「そうね、私が悪かったわ」
「詩乃さん?」
ジロリと睨んでみても詩乃はどこ吹く風と肩を竦めるだけである。あの不死者にされたのならば腰にあるハンドガンでも突きつけていただろうが今は
このまま抱きついてもいいだろうか? いいや、それは自身の羞恥心が許さないだろう。ALOに入ったら存分に抱きしめてやろう。
こっそりと、そう心に決めた詩乃はニマリと笑ってグラスを傾けた。