君の名は。 四葉アフター《完結》   作:山中 一

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エピローグ

 ずっと昔。俺は何か、とても大切な約束を誰かとしたような気がする。

 そんな思いに取り憑かれたのは、いつの頃からだろう。

 もう、ずいぶんと前から俺は誰かとの約束を思い出そうとしては、それそのものを忘却するのを繰り返している。

 そんな確信も眠っている時に不意に思い出す夢のようなもので、朝、目が覚めるとただ忘れているという疑問だけが心の片隅に残っている。

 それは夏の台風のように鮮烈で、春の太陽のように暖かい何か。過ぎ去る季節に置いてけぼりにしてしまった、輝いていた過去の残滓。

 それが結局何なのか分からないままに俺は時間の流れに身を任せている。

 今日も、いつも通りの日常を過ごすだけ。

 一日一日が不満で、何が不満なのかも分からないまま目の前の課題に向き合い続けた結果、それなりの成績で高校を卒業する事になった。

 大学に行って、ただ只管に勉強に打ち込む。国家試験を控えた六年生にとって、最終年はある意味人生最大の難関だと言っても良い。中途半端な気持ちで、過ごす事はできないのだ。

 何とか、ここまでやって来た。

 これから先も、どうにかなるだろうという楽観はある。それが俺の取り柄なのだ。だけど、それは現実と向き合い、真剣に挑んでいないからこその感覚なのだろう。俺は今まで勉強に打ち込んできたけれど、それはただ何かから目を背けたい一心での逃避ではなかったか。

 心の奥底にあるどうしようもなく不確かな不安が、ふとした拍子に鎌首を擡げる。

 俺は、今この瞬間にも大切な誰かを傷付けている。

 

 

 

 

 時々、心の中で痛いと呟く事がある。

 それは朝起きた時や、電車に揺られている時、上司やお客さんに怒られた後、昼食を摂っている時、辛い時も楽しい時も関係なく油断していると不意に湧き上がってくる衝動のような何かだ。

 体が痛むわけじゃない。心が痛むわけでもない。だけど、どこかが痛い。そう思ってしまう。

 いつの頃から、こんな癖がついたのか。振り返ってみると、たぶんそれは高校一年生の頃だろう。

 私は高校一年生の時に、一度だけ入院した事がある。

 高校一年生の夏休み、私は通り魔事件に巻き込まれた。幸い怪我はなかったけれど、お姉ちゃんにたっぷり叱られた。それから間もなく、私は糸守町を一人で訪れたらしい。理由までは覚えていないけれど、通り魔に襲われて助かったお礼を神様に言いに行ったとかそんなところだろう。そして帰りのタクシーの中で私は高熱を出して、病院に運び込まれる事になった。原因は分からないが、意識が戻らない日が続き、時に生死の境を彷徨うほどだったらしい。目が覚めた後のお父さんの狼狽ぶりは今でも鮮明に覚えている。

 退院する頃には新学期が始まっていて、私は勉強の遅れを取り戻すのに躍起にならざるを得なかった。

 ちょうど、その頃からだ。私が幻のような痛みを抱えるようになったのは。

 そうして今になっても私は何かを、誰かを待ち続けている。

 

 

 

 

 ■

 

 

 

 

 

 高校を卒業した私は都内の四年制大学の文学部に進学した。

 受験勉強は人並みに頑張りはしたけれど、よくテレビや小説で取り上げるような人生を賭けて挑む、みたいな激しさはまったくなくて、自分の実力で手が届くところを無難に選んだ。

 幸いだったのは私の成績ならば、無難に選んだ大学であってもそこそこ就職で戦える程度には名のある学校だったという事だろう。

 進学に伴って小さなアパートを借り、本格的な一人暮らしを始めたけれど、結局それまでの生活から大きく変わる事もない。もともと、一人暮らしみたいなものだったからだろう。お父さんは地方の大学で民俗学を教えるため、住居をそちらに移していたし、お祖母ちゃんは私が大学に入るのを見届けてからお母さんのところに逝った。

 寂しさはいつも募っていく。時間が解決してくれるとは言うものの、ぽっかりと開いた穴を埋めるだけの何かが、私には足りていなくて、埋める方法も良く分からなかった。

 一人暮らしは慣れている。お姉ちゃんの前で、そう嘯きながら、私は夜、堪えきれずに涙を流した。

 それが大学一年生の夏前の事。

 それから先は高校の頃の友達や大学での特筆すべき新しい出会い等に支えられて、私は前を向けるようになった。穴は塞がらないけれど、その周囲に日常を積み上げて覆い隠した。見えないようにすれば、そこに穴があるなんて気付かない。そうして、傷口から目を背けて私は大学での生活を進めていった。

 総じて、大学生活は悪いものではなかった。

 塾と居酒屋でアルバイトをしてお金を稼ぐ大変さを経験したり、文学部らしく小説や古典に目を通したりするのは心地よかった。大学は自由に満ちていて、比較的自分の時間をどう過ごすのかをある程度自分で決定する事ができた。友達と遊ぶ事も勉強する事もアルバイトをする事も、私の好きなようにできた。卒業してからも付き合いのある友達と知り合ったのも、そんな日々の中での事だった。

 大学生活の中で、私はいくつかのチャレンジをした。

 まず最初に髪型を変えた。

 さすがにツインテールは幼く見えてしまう。私は比較的童顔らしいから、もっと大人っぽく見える髪型にしようと試行錯誤して、ばっさりと長かった髪を切り落としてしまった。正直、やり過ぎたと思った。ショートヘアになった私を見て、お姉ちゃんはまさかの大笑いだった。お姉ちゃんの彼氏(瀧さん)も苦笑いだった。何かムカつく。それからは、また髪を伸ばし始めた。

 二十歳の誕生日にお酒とタバコに手を出した。二十歳から法的に大人になる。お酒とタバコは大人になった人だけに認められる権利だ。

 そこで、私はお酒はほどほどならば飲めるけれど、タバコは咽るだけで良さが分からないという結論を得た。一本を吸い終わる前に火を消して、残りはゴミ箱に叩き込んだ。

 三年生のお盆に、お祖母ちゃんのお墓参りに岐阜まで行った。せっかくなのでと免許取り立ての身でレンタカーを借り、お姉ちゃんとお姉ちゃんの未来の旦那さんを乗せて高速道路をかっ飛ばした。何とか無事辿り着けたけれど、お姉ちゃんは青い顔でもう私の車には乗らないと言った。でも、お姉ちゃんも私と同レベルの運転だったので、結局は瀧さんの運転で東京に帰ってくる事になった。

 大学時代の出会いの中で敢て特筆するものがあるとすれば、とある男性との出会いだろう。

 その当時、私は中学校の国語の先生の資格を取るための授業を選んでいた。文学部は就職に役立つ資格に直結する授業は少ないので、先々の事を考えて他所の学部の授業に顔を出す人は少なからずいる。人気なのは比較的専門分野の近しい中高国語の教員免許だ。私も教師になるつもりはないけれど、とりあえず資格だけはと思っていくつかの授業を受講していたのだ。

 大学の夏休みも後半に入った三年生の九月半ば。私は夏期講習の課題を提出するために、理学部の研究室を訪れていた。

 なぜ、ここにきて理学部なのかというと、教員免許を取得するための必修授業に情報教育論というのがあって、その夏期講習を受け持った先生が理学部の人だったからだ。

 ノックをして、返事があったので扉を開けた。

「失礼します」

 研究室の中はさっぱりとしていて、文学部の研究室しかしらない私にとっては新鮮だった。雑多な書籍と古書の匂いに彩られた古典ゼミの研究室とは違って、清潔で余計なもののない白磁のように綺麗な部屋だった。

 この部屋の主はカタカタとキーボードを叩いていた手を止めて、パソコンの画面から私に視線を移した。

 もうすぐ四十に手が届こうかという年齢の割には、若々しい見た目だ。

 物静かで感情を露にするタイプではなく、誰に対しても平等に接する人なんだと一目で分かる。そういう雰囲気が全身から滲み出している人だった。

「課題の提出なら、廊下に箱を用意していたと思うけど」

 その男性講師はいつも通り静かな口調で言った。

「すみません。いくつか、質問がありまして。基本的な事で申し訳ないのですが、教えていただければと」

 私がそう言うと、男性講師――――遠野先生は苦笑した。

「えと、何か?」

「いや。珍しいなと思っただけだよ。終わった授業の事で質問に来る子は滅多にいないからね」

 まあ、そうだろうなと私も思う。

 課題を提出すれば大概の授業は終わりだ。今後付き合う分野ならばともかくとして、多くの学生にとって授業は単位が取れればそれで終わりという認識だろう。

「もし、お時間に不都合があるというのでしたら、日を改めます」

「気にしないで良い。僕のほうもそろそろ一段落しようと思っていたところだからね」

 私の質問は彼にとっては取るに足らないものでしかなく、極当たり前の基礎知識に分類されるべきものだ。そんな事も知らなかったのかと言われるのを覚悟してここを尋ねたが、遠野先生はこれといって文句を言う事もなく、私の疑問に的確に答えてくれた。

 余計な情報は一切なく、数学のように問いと答えに一貫性があった。

 それから、大学を卒業するまでの間に遠野先生とは何度か話をする機会があって少しずつ彼への理解を深めていった。

 例えば、高校時代には種子島に住んでいた事や、大学の講師はアルバイトみたいなもので本職はフリーのプログラマーだという事、とりわけ既婚であるという事には驚きを隠せなかった。確かに結婚してもおかしくない年齢ではあるけれど、彼には異姓が傍にいる気配を感じなかった。

 遠野先生は自分の内面やプライベートな部分を表には出さないタイプだった。だから、唐突に出てくる些細な情報も驚きに変わってしまう。

 冬休みが明けてすぐ、四年生が卒論の追い込みをかけている頃だった。積もらない程度の雪が降っていたその日、大学図書館に向かう途中で偶然にも遠野先生と合流する事になった。

「宮水さんは、時々どこか遠くを見ているよね」

 遠野先生が白い息を吐きながらそう言った。

「何かを探しているような、ここじゃないどこかに行きたいような、そんな雰囲気を感じるよ」

「……意外です。遠野先生がそんな詩的な表現をするとは思いませんでした」

「そう? 僕だって人並みに本くらいは読むよ」

「先生は無駄な時間を過ごすのは嫌いだってタイプだとばかり思っていました。とにかく、目の前にある仕事を終わらせる事に心血を注ぐ、みたいな。それだけあれば他はいらないっていうストイックさを感じていたんですけどね」

「そんな頃も確かにあったけどね」

 遠野先生は分かりやすく肩を竦めて見せる。

「二十代の頃は、何かに突き動かされるように仕事をしていたよ。いつも、どこかに行きたがっていた。この場所に根付きたくない、そんな衝動みたいなものがあったんだ」

「根付きたくない?」

「そう。あの時の僕はどこかに行きたかった。それがどこか分からないけど、足を止めたらダメなんだと思ってもがいていたんだ」

 だけど、どんなに速く走りたくても、いろんなしがらみが邪魔をする。重りになって纏わり付いて失速していく。そうした日々の中で限界なんてとうの昔に通り過ぎていたんだと気づいた時、退職を決めた。

 彼の語り口からは、その当時の苦しい心境を窺う事はできなかった。ただ、過去の自分を情報として私に伝えている。

 昔の遠野貴樹という男性はまるで矢のような人だったみたいだ。真っ直ぐに飛ぶ事しか知らなくて、それが自分の使命だと規定して突き進む。他の要素のすべてを置いてけぼりにして、ただ飛んでいく。だけど、矢は的を見失った。どこに飛んだら良いのか分からない矢はそれでも飛び続ける事しかできなかった。

「それで、先生が行きたかった場所には辿り着けましたか?」

「どうだろうね」

 そう言いながら、彼は笑った。

「どこかに行きたいと願う事は、どこかに根付きたいという思いの裏返しだったような気がする。親の転勤ばかりで故郷を持たなかった僕は、故郷の代わりになるものを求めていたんだ。そこにいて安心できる場所があの頃の僕は欲しかったんだろう」

 故郷がないというのはどういう事なのか、残念ながら私は正しく理解できない。

 私にとっての故郷は糸守町だけど、もうその町は存在しない。

 でも、遠野先生の言葉はそういう事じゃない。魂の置き場。離れていても当然にムスビ付いているべき場所がないという事だ。

 私にとっての糸守は今も心の中にあって、私を形成する上で重要な位置を占めている。

 遠野先生には、そういった場所がなかったのだろう。

 雪の中を少しずつ歩きながら、遠野先生は珍しく饒舌になって言葉を続けた。

「ある日突然、何の前触れもなく答えを見つけてしまう事がある。言葉にできない理解がいきなり頭の中に炸裂するんだ。その時、今まで見えていなかった事やもがいてきた事の意味が一箇所に組み上がって、そうだったんだと思える瞬間が来る」

「そんな事があるんですか?」

「ある」

 遠野先生は断言した。

「それまでの価値観すらも切り替わって生まれ変わったような気持ちになる。そんな暴力的な理解は、やっぱり探し続けた人にしか訪れないとは思うけど」

 遠野先生は手の平でふわりと雪を受け止める。体温で瞬く間に溶けていく雪に、ここではないどこかを思っている。そんな、目をした。

「例え1秒に5センチしか進めなくても、前に進んだ事には価値があるはずなんだ。進歩している実感がなくても、進んでいる事実には変わりない。なら、どこかで答えにぶつかるのは当然だ。僕は、そう信じてる」

 それは立ち止まりそうな私に対する遠野先生からの叱咤だったのかもしれない。 

 遠野先生との会話は、それが最後となった。

 その年、彼は恩師の定年退職に合わせて講師の職を辞し、自らの肩書きをフリーのプログラマーへ戻した。

 

 

 

 ■

 

 

 

 アンニュイというのはこんな気持ちを言うのだろう。

 大学を卒業した私は、区役所の戸籍係に新採用として配属になった。

 一つのところにムスビついていたい。そこで、いろんな人とムスビつきたい。そういう思いから、一番地域に密着した仕事を探した結果だった。

 そこで私はいくつもの現実を知り、時に打ちのめされた。

 新宿に借りたアパートに戻っても、一日の終わりを実感しても明日にはまた通勤しないとダメだと思うと気持ちは晴れないくらいには仕事の悩みはあった。。

 残業が苦しいわけではない。人間関係に悩んでいるわけでもない。この気持ちの源泉は自分にある。

 私はそつなく仕事がこなせる人間だと思っていた。勉強だって人並み以上にはできたし、人間関係の構築に悩んだ事もない。与えられた課題には、平均以上の結果を常に出し続けていた。だけど、それは学生だった時の話であって、社会に出たらそれはただのスタートラインとなっていた。

 根拠のない自信は、仕事を始めて比較的早い段階で打ち砕かれて、ただ必死になって仕事を覚え、効率的な業務遂行方法を模索し続けていた。

 だけど、やっぱり上手く行かない事はある。

 ミスとも呼べない小さな事も、あの時やっておけば良かったと後になって思う。それさえやっておけば、もっと上手く仕事が回ったのにとか、確認をしっかり取っていれば二度手間にならなかったのにとか、そんな事が日々積み重なってしまっている。何を自分で調べれば良いのか、何を先輩に聞けば良いのか、その判断もすぐにはできなかった。自分で進めて失敗する恐怖もあれば、人に聞いて怒られる恐怖もあった。情けなさに、ただただ落ち込んだ。

「柚木さん、辞めるって」

「え?」

 控え室で昼食を摂っていると隣に座っていた同期の女の子が言った。

「柚木さんって、保健師の?」

「そ」

 私は柚木さんの顔を思い出す。彼女は一つ年上の同期で、福祉職での採用だったはずだ。話をした事はほとんどなくて仕事上の関わりもなかった。

「どうして? まだ、半年だよ」

「鬱病だって。何か、変なのに絡まれてたらしいよ」

「そうなんだ」

「私、福祉には回りたくないわ。合わない人はとことん合わないって言うからね。あー、私、次行くなら税がいいなぁ」

 税もキツイ事に変わりはないと思うけれど、上昇志向の人は税に行きたい人が多いとも聞く。なんでも行政の中心に近いからだとか何とか先輩から聞いた。まあ、彼女にそこまでの上昇志向はないみたいだけど。

 傷ついて退職を選んだ同期を思う。

 仕事を辞めるという発想は私にはとてもできそうにない。

 それはかなり勇気がいる事だと思うのだ。

 せっかく手に職をつけたのにとか、ここで辞めて次があるんだろうかとか絶対に思う。

 特別な技能も資格もない私には真面目さしかとりえがない。誰もが持っているはずのそれだけが私の武器で、それがある程度通じるこの世界にしがみ付く事でしか、私は未来が描けない。

 そんな事を思っている間にずるずると引き摺って、次の日に期待する事になる。そんな日々を続けていくんだろう。そうやって、這ってでも前に進んでいくんだと漠然と思った。

 

 

 

 仕事から帰ってくると、九時を過ぎていた。

 今日は金曜日で明日は休みだ。

 私は金曜日の夜が一番好きだ。

 土日と二日も休みがあるとささやかな幸せを噛み締められるから。

 窓から外を見ると、細かな雪がはらはらと降り始めていた。

「さっきまでは降ってなかったのに」

 どうりで冷えるわけだ。

 私はシャワーの前に、まずは電気ストーブの電源を入れた。

 手早くシャワーを浴びてから、リビングでテレビを見つつ、ドライヤーで髪を乾かす。

 年末のテレビ番組はどれも特番ばかりで私の好みに合致する番組はなかなかない。ただ垂れ流しているだけのテレビは、どうにも味気なく見えた。

 昔はどんな番組も楽しかったはずなのに、今の私はところどころ乾燥してしまっているみたいだ。

 テレビが変わったわけじゃない。きっと、私が変わってしまったのだ。

 心霊映像特集を見て「どうせCGでしょ、つまんな」とかつてあれだけ恐怖した心霊映像や心霊写真に呆れ果てる自分に気づいた時、ちょっとショックだったものだ。

 その時、スマホが震えた。

 発信元はお姉ちゃんのスマホからだ。

「どうしたの」

『四葉仕事終わった? もういい?』

「今、帰ってきたとこ」

『あ、そう。良かった』

 半年ぶりに話をするお姉ちゃんの声はどこか弾んでいる。

「何か良い事あった?」

『ん? 何? 聞きたい? えー、どうしよっかなー』

 イラッとした。

「切って良い?」

『あー、待って! 1月の4日に四葉が窓口にいるのかどうか聞きたかったの!』

「ん? そんな事聞いてどうするの?」

『瀧君と相談してね、引っ越す事にしたのよ。家賃ちょっと上がっても、広めのとこに行かないとダメだって前々から話しててね』

「二人目が産まれると今のとこじゃ狭いもんね」

『そうそう。あ、動いた! 今、動いたよ!』

「一々実況しなくていいから」

 幸せそうなお姉ちゃんの声に私は気持ちが上向くのを感じていた。この人がこんなに声を弾ませるのも、すべて瀧さんのおかげだ。良い旦那さんを見つけて、お姉ちゃんは幸せものだ。とうの瀧さんはずいぶんとお姉ちゃんの尻に敷かれているみたいだけど、それは姉さん女房を持った男の運命と思ってもらうしかないだろう。

「それで、引越しがどうして私の窓口担当と関わるの?」

『そりゃ、どうせなら四葉に住所変更届け受け取ってもらおうと思って』

「切って良い?」

 三十路にもなって何を言っているのだこの姉は。

 お姉ちゃんに冷やかされるとかゴメン被る。

「お姉ちゃんが万が一私の前に来ても赤の他人として対応するからね。公私混同はしないから」

『もう、真面目ちゃんだな四葉は』

「公務員ですから」

『まあ、それはそれとして。四葉、あんた新年はうちに来る?』

 唐突な話題転換に私は思わず口を噤む。ワンテンポ遅れて返答した。

「ん、まあ挨拶には行かないととは思ってるよ。一日のお昼前くらいに行こうかなって」

『そう。いっその事年越しも一緒にしない? お役所もさすがに閉まってるんでしょ?』

「そこまでしなくてもいいよ。私だって年末の予定はあるし」

『え、ほんと? あ! もしかして彼氏? 四葉にもついに春が来た!? 新春だけに!』

「違います。お姉ちゃんのギャグで寒くなったから切るよ」

『別にギャグじゃないのに。うん、分かった。じゃあ、一日ね』

「うん」

『あと、四葉も社会人だし、分かってるよね?』

「うん?」

『お年玉、綾葉がとっても楽しみにしてるから』

「がめついなあ。そうやってお姉ちゃんの懐を潤わせるのはちょっと」

『がめつくないし潤うのは私の懐じゃなくて綾葉の通帳。まあ、とにかく風邪だけはひかんようにね。あ! 瀧君帰ってきたし切るわ。じゃね!』

 ぶつ、と一方的に通話が切れた。 

 ホントに何なんだこの姉は。

 勢いで突っ走っている感じがして危なっかしい事この上ない。

 時折発揮するお姉ちゃんの爆発力には、未だに圧倒される事が少なくない。

 私はお姉ちゃんにエネルギーを吸い尽くされたような気持ちになって、立ち上がった。そのまま、ガラス戸を開けてベランダに出た。雪はいつの間にか止んでいて、雲の切れ間から月が顔を出している。

 年末に予定なんか入っていない。

 ただ、今は一人の時間が欲しかった。

 誰かに弱い自分を見て欲しくなかった。

 十二月の空気が肌に突き刺さる。寒さに体が縮み上がりそうだった。吐息は白く、月の顔はそれ以上に蒼白だ。

 雲の向こうにある星空を東京で見る機会は滅多にない。

 ここの空はいつもうっすらと曇っている。雲がなくても、星の光は地上に届きにくいのだ。

 私は冷たい空気で肺を満たし、ゆっくりと吐き出した。

 幼い頃、糸守で毎日のように見上げた星空を私はもう思い出せない。

 そういえば、高校の頃だったかに綺麗な星を見た事があるような気がする。あれはいつで、どこでの事だっただろうか。

 なんだか、色々と大切なものを置き去りにしてきたような気がする。

 置き去りにしてきたものの何倍もの重りが私に絡みついている。一つ降ろしても新しい重りが絡みつく。そんないたちごっこを何年も繰り返してきた事に今更ながら気がついた。

「痛い」

 どこが痛いのか、何がこんなに痛むのか、今になってもやっぱり分からないままだった。

 歩いていれば、どこかに辿り着けるのだろうか。

 もがいていれば、この重りは取れてくれるのだろうか。

 それは、いったいいつまで続ければいいのだろうか。

 分からない。

 だけど、本当に答えが見つかるのなら、せめて見栄えの良いもがき方でその時を迎えたい。

 そうだ――――もう少しだけでいいから、美しくもがいてみよう。

 私は、雲に隠れていく月を見上げて誓った。

 

 

 

 ■

 

 

 

 この日、東京は春の麗らかな光に包まれていた。

 桜の花びらがところかまわず舞い踊っているようなそんな陽気に、自然と歩みは軽くなる。

 新年度を迎えて、窓口業務は慌しくなった。年度末と年度初めは引越し等が頻発するので、開庁時間を延ばしたり、土日にも窓口対応をしたりして忙しかったのだ。それが一応の落ち着きを見せたのが今週の半ばくらい。残業代をつけるくらいならその分を休みに振り替えろとの上司の一声で、私は早上がりをさせてもらったのだった。

 人より早く帰るのを申し訳ないと思いながら、逃げるように区役所を後にした。

 やっと、仕事を一通りこなせるようになってきたように思う。まだまだ、足りないところのほうが多いけど、どうにかこうにかここまで来た。

 なんだか今日は気分がいい。

 ちょっと、遠回りでもしてみようか。

 私は真っ直ぐ家には帰らずに、目的地を定める事なく歩き回った。風に散る桜を見上げながら、校門から飛び出てくる小学生の背中を見送りながら、私はスキップでもするような足の軽さで街並をすり抜ける。

 さすがに歩き疲れてきたなと思ったのは、空が橙色に染まり始めた頃だった。

 踏み切りで遮断機に行く手を阻まれて、私は足を止めたのだ。

 橙色の光が目に飛び込んでくる。

 カタワレ時だ。

 太陽に目を細め、そして風に舞い上がった桜の花びらを目で追った。

 花びらの向こう、踏み切りの反対側に同い年くらいの男の人がいるのに気が付いた。その人の右の手首に巻かれた空色のミサンガを見た瞬間に、私の中で何かがスパークした。

 かつて、遠野先生が言っていた「暴力的な理解」の何たるかを知る。今がその時だったのだ。何の前触れもなく襲い掛かってくる「そういう事だったのか」という納得が、私の頭を打ち据えた。

 私が抱える原因不明の痛みの理由。

 ぽっかりと口を広げた虚ろの正体。

 もう答えなんて見つからないんじゃないかとすら思っていたソレの解答が途中式を無視して投げ渡された。

 それこそ、隕石が落ちてきて地盤ごとそれまで積み上げてきた不安を消し去ってしまうみたいに唐突で破滅的な解答だった。

 彼と目が合った。

 彼も、私を見て目を見開いている。

 そうだろう。 

 そうに決まっている。

 分からないわけがない。だって、私達は――――、

 ごう、と突風が私の髪を攫い、また桜が舞い散った。

 私達の視界を電車が遮った。

 青いラインの車両が、長く、長く私達の間を駆け抜けている。

 大丈夫。まだ、そこにいる。しっかりと、私は彼を感じている。宙ぶらりんだった糸の先端が、やっと向こう側に繋がってくれた。いや、繋がっている事にやっと気付けたと言うほうが正しいだろう。私達は一時も離れた事なんてなかったのだから。

 長い電車が風を連れ去って、警報音が止まった。静寂が住宅街に戻り、遮断機が上がっていく。私の足は根付いたように動かない。

 その必要がない事を私は知っている。

 だって、約束したんだから。

 彼は遮断機が上がりきるのを待たずに駆け出した。

 踏み切りを渡り終えて、私の前に立った彼は一拍を置いて口開く。

「あの、俺。……君の事、かなり待たせちゃって……」

 慌てているのか、言葉を選んでいるのか、彼の言葉はずいぶんと間の抜けたものだった。だけど、私には十分過ぎた。初めて会ったのに、初めて会った気がしない。ううん、初めてじゃない。閃光のように瞼の裏側に夢の景色が広がった。

「待ちくたびれたよ、馬鹿」

 私の目から涙が溢れてくる。零れ落ちる涙は温かくて、桜の花びらのように柔らかい。こんな涙を流したのはいつ以来だろうか。

「ゴメン」

 彼も泣いていた。

 嬉しくて涙が止まらなかった。

「いいよ。約束、ちゃんと守ってくれたから」

 笑いながら泣くなんて器用な事ができる事を私は知らなかった。これまで体に幾重にも纏わり付いてきた重りのすべてが滑り落ちて、胸の穴が塞がるのを確かに感じた。この瞬間のために、今までずっと重りを背負い続けてきたのだとすら思ったくらいだ。

「久しぶり」

 そうして私達はカタワレ時の光の中で、万感の思いを込めて再会の言葉を交わした。




このssで悩んだ事は和泉君がどう死ぬのかってとこでした。


拙作にお付き合いくださいまして、本当にありがとうございました。

君の名は。の新規カット良かった。
あと、三葉と瀧が背中合わせに成長していくシーンはやっぱり好き。

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