今回は短編として二話をまとめてみました。
【字】
「え、来週小テストあるの?」
『うん、今日の授業の最後に言ってたよ』
「マジか。ただでさえ今のところ分かりにくいっていうのに」
『だからこそ小テストするんだと思う。出来ない人がどれくらいいるか確認にもなるし』
うわー、と嘆きつつスマホを持っていない左手を月の方へとかざす。普段はあまり夜空を見上げることはしないが、山に囲まれるような自然溢れる環境に来ると何故か夜空が見たくなる現象に名前はないのだろうか。いや、そうやって現実逃避するのも良いものではない。
浩介は香織からの情報提供に落ち込みながらも電話口にお休みを告げ通話終了のボタンを押す。
夏も終わり秋も深まってこようかという季節。そろそろ半袖だけでは肌寒く、羽織るための長袖が手放せなくなってきた。夜風が七分丈のズボンから露出している肌に触れる。ブルっと身震いすると腕をさすりながらドアを開け建物内へと入り自分の部屋へと歩みを進めた。
「ありがとう!」
「進学コースは授業範囲が違うから参考程度だけど、あすかから出題されそうなところをピックアップしてもらったので、そこは印付けてあるよ」
「それはすごい助かる」
香織と付き合い始めて二ヶ月が経過していた十月の頭、浩介は初めて高校生世代の日本代表候補に選出され強化合宿に参加していた。協会からの急な連絡は全くもって予想外であったため、あたふたしながら準備をし、急かされるように京都を後にしてから約一週間。付き合い始めたばかりの香織にとって、不在の期間はまさに一日千秋––––とても長い時間に感じられていた。
練習終了後の自由時間となったタイミングで電話などやり取りはしていても、やはり直接顔を見て声を交わしたい。まだ付き合い始めなのに浩介に依存しているみたいだと思ってしまう。その言葉通り浩介の手を取りながら帰還を喜んだ。
少しでも頑張っている浩介の役に立ちたい。その思いもあり、進学クラスに在籍するあすかに小テストで出題される確率の高そうな部分をピックアップしてもらい、教師に頼ることなく自身で浩介に教授できるよう自己学習も重ねた。放課後に勉強会を開催する予定ではあったが、サッカー部とは異なり吹奏楽部は通常通り部活が待っている。
香織は事前にお願いされていた授業ノートを手渡して先に自学習してもらい、分からない部分に関しては吹奏楽部の練習後に教えることにし、後ろ髪を引かれる思いで音楽室へと向かった。
浩介は手を振って見送ると図書室へと足を運ぶ。自身の勉強や部活動があるはずなのにここまで準備してもらえるなど香織には感謝の言葉しか出てこない。そしてふと思う。彼女からノートを借りるなんて初めてのことであり何かカップルっぽい。
香織の期待に応えるためにも、いざ勉強。そう思いページをめくり、浩介は目を見開いた。
「香織、今日どっか寄って行かない?」
いざ図書室へ、と意気込んだ瞬間に同じトランペットパートの同級生、笠野沙菜に声を掛けられ面食らってしまった。
彼氏と帰るからごめん。文字に起こして十文字の言葉が出てこないのは、"彼氏"というワードを使うことに気恥ずかしさがあるせいだろう。ずっと憧れていた発言なのに、その場面に直面すると中々口が動かない。
あの、その……。
どこか言いにくそうに視線を外すそれは香織よりも晴香の方が似合う仕草である。沙菜は挙動不振な様子に首を傾げるも返事を待つ。イエスかノーか二択でありそこまで悩むようなことがあるのだろうか。
「香織、今日彼氏と帰るんじゃなかったっけ?」
意外にも救世主となったのは晴香であった––––いや、顔がニヤけており救うというよりも弄りたい気持ちの方が強そうである。
「愛しの進藤が待ってるんでしょ? こんなところでモタモタしてないで早く王子様のところに行かないと」
「え、香織、今日彼氏と帰る予定だったの? 引き止めてごめん」
「あ、ううん。むしろ気を遣わせてごめんね」
「ほらほら王子様が白馬を携えて待ってるよ」
「晴香煩いよ」
怒ったー!
ワザと声を挙げて茶化すあたり全く反省していないらしい。人前に出ると緊張で声が出なくなる癖に、何でこういう時は活き活きとしているのか。
絶対に今度やり返してやる。
香織はため息を吐くと共にいつか反撃することを決意する。しかし、晴香が登場したことで無事に部室を出ることが出来ることだけは感謝しよう。
香織は二人へ挨拶をするとバッグを肩に掛け音楽室を後にした。
もちろん挨拶は大事なので、すれ違う部員にはお疲れ様、と声を掛けていく。
彼は図書室で勉強をすると言っていた。もしかしたら内容が難しくて頭を抱えているかもしれない。そうならば私が教えてあげなくては。
謎の使命感に燃えつつ、廊下を小走りで駆け抜けていく。
「ごめん、待たせたよね」
「ううん、おかげさまで勉強捗ったよ」
図書室にいる浩介を見つけ、周りに響かないよう小さく謝る。机には浩介と香織のノート、数学の教科書が並べられていた。教科書の問題に挑戦し、分からない点を香織のノートで確認し、必要な部分を自分なりノートにまとめる。
数学の成績は上位に位置するだけに、大きく躓くことはなく進んでいるようだ。良いことではあるものの、どこか落胆は隠せない。
使命が果たされることなく力の抜けた体を椅子に預け、頰を膨らませたまま机に突っ伏す。浩介は首を傾げつつも、脳の疲れを感じたため教科書を閉じた。
本が日焼けしないよう窓がないために外の様子は分からないが、きっと空もやや赤みを残すくらいになっていることだろう。
「遅くなっても良くないし、そろそろ帰ろうか」
うん。香織は頷くとグッと体を伸ばした。肩の関節がパキッと鳴った。屈伸をした時に膝が鳴るそれとは違い、あまり恥ずかしさは感じないのは何故だろう。
ノートを返そうとした浩介に、小テストの全ての範囲を終えるまで持っていて良いことを伝え、ノートを仕舞う浩介より先に図書室を後にする。普段からあまり図書室を利用していないせいか、静かな空間は息苦しさがあった。部屋を出たことで解放された肺に新鮮な空気を送り込むべく深く息を吸い込む。
肺が痛いくらいに酸素を取り込んだ頃に、荷物をまとめ終えた浩介が廊下に出てきた。
「待たせてごめんね」
「ううん、大丈夫」
つい数分前とは立場が逆転していることが可笑しくて思わず口角が上がる。きっと今なら箸が転がっても笑ってしまうことだろう。それだけ久しぶりに浩介と下校出来ることが嬉しいのだ。怪訝な表情の浩介に、何でもないと否定した。
「あ、そういえば。……いや、やっぱり何でもない」
校門を出て住宅街へと繋がる道への階段を下りて行く途中、浩介は思い出したように手を叩いた。しかし、香織の顔を見て開きかけた口を閉ざす。
何かしら用があった筈なのだ。何も言わないのは気になってしまう。
香織は視線で話すように促した。
「香織の字ってさ、」
「私の字?」
「その……、あまり綺麗じゃないなって」
もしかしたら浩介に何かを否定されるのは初めてかもしれない。大したことではないのに香織は胃が締め付けられるような感覚に陥る。確かに字は綺麗でない––––決して汚くはない、平均くらいである、本当だ––––ことは自覚していた。しかし、まさか彼氏にそのことを指摘されるとは誰が思っていようか。
「で、でも! それなら浩介はどうなの?」
「いや、別に俺の字は––––」
「良いから見せて」
「はい……」
ビクッと肩を鳴らした後、渋々とバッグからノートを取り出した。これで字が汚かったら十、いや百の言葉で言い返してやる。そう意気込んで開いた香織の目に飛び込んできた文字は予想の上を超えていた。
達筆とはいかないまでも、多くの男子にあるような雑さはなく線のしっかりとしたバランスの良い字が羅列していた。
負けた。それも男子に。
もっと男子の字は汚い筈ではないのか。以前クラスの男子のノートに書かれた字を見る機会があったが、象形文字と見間違えるほどに何が書いてあるのか分からなかった。本人が読めるから大丈夫、とは言っていたもののテストはどうしているのか気になる程度には雑であったため、浩介もそこまで酷くはなくとも汚いものだと考えていた。
「か、香織……?」
「あ、うん。浩介って字上手なんだね……」
「そんなことないよ! 俺より上手い人なんてゴマンといるから!」
「つまり私はミジンコレベルって言いたいんだね」
「いやいや、そんなこと言ってないから」
「良いの。私は一生字が汚いことで後ろ指をさされて生きるだけだから」
「どれだけ罪なことなのさ」
浩介はノートをバッグに仕舞うと香織の頰を親指と人差し指で挟み横へ引っ張る。
「あいうんお!」
「ごめん、何言ってるか分からない」
「何するの!」
浩介の手を払いジト目で頰をさすりながら若干距離を取る。これで追撃はない筈だ、とでも言わんばかりのそれはまるでちょっかいを出されて警戒する子猫のようである。浩介は思わず笑みをこぼした。
香織と会話する度に、隣で歩く度に、向かい合って座る度に……。彼女の可愛いところ、優しいところ良いところを幾多も発見していく。
ちゃんと交際する初めての彼女で、舞い上がっていることは間違いない。このままではどんどん深みに嵌っていく、そんな恐ろしささえ愛おしく思えてしまう。
「俺は、香織の字好きだよ」
「へ?」
「文字に香織らしさが出てる」
「後ろ指さされる感じが私らしいってこと?」
「そうじゃなくて、」
「そうじゃなくて?」
「可愛らしいってこと」
「か、可愛らしいって! そんなことで騙されないからね?」
騙しているつもりはないんだけどなぁ。
浩介の呟きに嘘はなく本当にただ純粋に発言しているのは香織にも伝わってくる。でも上手くあしらわれるようで悔しい気持ちもある。
「次変なこと言ったらノート貸さないからね」
「はい……」
だからこそ私がしっかり手綱を握っていよう。
香織は強く決意した。
***********************
【先輩と後輩】
日直なんて面倒で仕方がない。何故日直などというシステムがあるのだろうか。授業前に黒板を綺麗にしておくのは分かるとして、日誌はどうにかならないのか。たった半日学校にいて何行も書くことなんて見つかることの方が少ないはずだ。
しかし早めに書き終えないと部活に参加出来ずにいたずらに時間が過ぎていってしまう。
こうなったら香織の魅力をページいっぱいに書いてしまおうか、うんそれが良い。
「香織先輩マジ天使!」
不意にすごい聞き覚えのある声で聞き覚えのある言葉が耳に入ってきた。ハッと我に返って日誌を読み返し、一つ頷くとページを閉じた。担任の教師には明日ちゃんと怒られるから今日はもう許して欲しい。完全に集中力が切れてしまった以上ペンを持つことは出来ない。
それよりも、だ。廊下で騒いでいる人物をどうにかしなければならない。香織が天使であることは自分が世界中の誰よりも深く理解している。
そのことは多くの人が知るべきことであるかもしれないが、しかし浩介は別に布教することに積極的ではない。香織の魅力は自分が理解していれば良い、解ってくれる人がいるならそれはそれで嬉しい、それだけだ。
むしろ周りが変に騒いで香織に迷惑が掛かるようなことだけは避けなければならない。廊下にいるあの後輩はそのことを理解しているはずなのに、どうしてかやはり香織のことになると良識が飛び掛けている気がする。
考え事をしている内に荷物は片付いた。後は日誌を職員室に持って行けば無罪放免である。
浩介はふう、と一つ息を吐くと廊下へと繋がるドアを開けた。
「何ですか、これ」
久美子が思わずそう呟いてしまうのも無理はない。廊下の階段へと繋がる広場、いわゆる踊り場で香織を被写体にカメラのフラッシュを焚く優子。先ほど麗奈から聞いた通り、完全に記録係としての権利を乱用している。
止めるべきか、しかし自分が進言してもそれを聞くとも思えない。とはいえ、この状態を放置することも出来ずに、どうしたものかと思案していると背後のドアがガラガラと音を立てた。
「おーい、そこのデカリボンちゃん。教室まで声が響いてるからもう少し音量下げようね。……と、黄前ちゃん?」
「あ、進藤先輩、こんにちは」
「あれ、黄前ちゃんも香織の魅力にハマっちゃったの?」
「デカリボンじゃなくて優子という名前があるんですからちゃんと名前で呼んで下さい!」
「いえ、何か優子先輩にどう声を掛けたら良いか悩んでいるだけで別に––––」
「それなら黄前さんも一緒に香織先輩と写真撮るわよ! そうしたら香織先輩の魅力がハッキリと分かるから!」
「でも優子っていつも同じリボンしてるよな。もしかしてそれが本体とか?」
会話が入り乱れ過ぎていて何が何だか分からなくなってきた。久美子は頭痛のしてきた頭を抑えつつ、救いを求めるように被写体になっていた香織に目を向ける。きっと彼女ならこの場を収めてくれるはずだ。
「じゃあみんなで写真撮ろうか」
ダメだった。いつもは吹奏楽部のマドンナとして、また一先輩としての振る舞いは尊敬に値するのに、浩介がいると急にポンコツになるのは何故か。
同調して浩介にカメラを押し付ける優子のはしゃぎ様を見ていると諦めて流されるしかないように思えてくる。
仕方ない気持ちを切り替えるか。久美子は一つ深呼吸をして口を開いた。
「ではこれからフォトセッションについて––––」
「黄前さん、その発言はダメよ」
「うん? そうしたら川島さんの代わりに俺がハイ、チーズとOKですって言えば良いの?」
「撮った写真はSNSなどに––––」
「二人ともわざとでしょ?!」
あー、もう!
優子は髪をわしゃわしゃとかきむしる。二人が笑顔でハイタッチをしているところを見るに、優子を揶揄うための発言だったらしい。そして仲良く見えるのか香織は羨ましそうに視線を向けている。ある意味先ほどよりも場が乱れている気がする。
「ほら、黄前さんはこっち! 浩介先輩も早くそっちに立ってカメラの準備して下さい」
「流石優子ちゃん、頼りになるね」
「そんな、香織先輩に褒められる程では––––」
「ハイチーズ」
「ちょっと! 何でもう撮ってるんですか?!」
まだ髪も整えていない上に表情も作っていない。そんな状態で撮影した写真など大変な出来栄えになりそうである。
ほら、と見せられた画像はやはりリボンが曲がったり、髪が若干ボサボサしていたり、あと何故か久美子がジト目だったり残念なものであった。
「準備が出来たら言いますからそれまで待ってて下さい」
「これから部活がある人間に待ってろとか酷い仕打ち」
「部活と香織先輩の素敵な笑顔の写真、どっちが大切なんですか?」
「それは香織だな」
「こ、浩介!」
多分だけど二人は真面目に会話をしている。
「じゃあ準備も出来たみたいだし撮るよ」
「はーい」
「香織先輩はー?」
「マジ天使!」
「ストップです」
久美子の言葉にどうして?と首を傾げる者が二名に赤面する者が一名。前者の二名は問題外である。
「さっきハイチーズって言ってたのにどうして急に変更してるんですか。完全に意味が分からなくて固まりますから」
「ちょっと黄前さん、香織先輩がマジ天使なのが意味不明ってどういうこと?」
「あ、いや、そうじゃなくて」
「あれか、最後の母音がイじゃないからダメってことか」
「いえ、そうでもなく」
「分かった! 浩介マジイケメンにすれば良いってことね!」
「香織先輩は少し黙っていて下さい」
一向に話が進まない。この三人はいつもどんな会話をしているのか。きっと真面目に変な方向へと突き進んでいるに違いない。
「進藤先輩はシャッターを切る合図はハイチーズにして下さい」
「優子先輩は香織先輩じゃなくてカメラの方を向いて下さい」
「香織先輩は……とりあえず笑顔でいて下さい」
有無を言わせない態度に三人の先輩は頷くのみであった。もしかしたら次々代の部長に適任なのではないか、そう優子に思わせるだけのものがあった。
「よし、じゃあ撮るよー」
「うん、お願い」
三年生の香織を中心に、隣に久美子と優子が並ぶ。
香織はくすぐったい気持ちになった。もしかしたらこの二人の後輩は、全く関わることなくこんな風に写真を撮ることもなかったかもしれない。特に久美子はパートも異なるし、学年も二つ離れている。他にはいない存在であり、それもまた不思議な縁である。
「ハイチーズ」
カシャ、と空間が切り取られる。数年後に今日という日を振り返る時が来たら、また笑って話し合いたい。
あと数ヶ月で終わってしまう学生生活、それよりも早く迎えてしまう部活動––––。
「うん、良い写真が撮れた」
「ありがとうございます」
「じゃあ、次は黄前さんと優子が下で膝ついて香織が上に立つピラミッドの感じで撮るよ」
「そういうの良いですから」
だから楽しもう。
昔浩介から借りた漫画の登場人物が言っていたように。
––––今楽しいと思えることは、今が一番楽しめる。
「うん、じゃあ上に乗るから二人とも膝ついてね」
「香織先輩まで何言ってるんですか?!」
全力で楽しむのだ。
次回予告(嘘)
さあて、来週の響け!ユーフォニアムは?
香織です。
先日クリスマスイブに北宇治高校吹奏楽部の定期演奏会に浩介と一緒に参加してきました。
ホールいっぱいに響き渡る楽器の音色は天から降り注いでいるようでとても素敵でした。優子ちゃんたちの演奏も立派で少し涙ぐんでしまったのは内緒です。
私もまたトランペットを吹きたいな。
さて次回は、
浩介やっぱりカッコ良い
浩介の日常
ダブルデート
の三本です。
来週もまた見てくださいね!
……ほんの出来心なんです。