楓の木の下でまた貴方に恋をする   作:かえるくん

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第十二話

 それからしばらくの学校生活は酷いもので、おおっぴらに害を受けることはなかったが陰湿な嫌がらせは毎日続いた。望み薄ではあったが神社に通ってはみるものの先輩と会うこともかなわない。おじいちゃんが力一杯背中を押してくれたが意思は強くなってもきれる手札が全然なかった。いや、一枚だけある。別に難しい事ではないが私にも先輩にもかなりのリスクが伴ってしまうので踏ん切りがつかないでいた。しかしこれ以上くすぶっているわけにもいかないのは確かだ。今日あたり覚悟を決めなくてはいけないかもしれない。

 

 後十数分で本日最後の授業が終わる。これからどうするかを色々考えていると頭がごちゃごちゃしてきたので少しでも軽くするため外に目を向ける。先生の話す声は遠い。雨こそ降りはしていないがここ数日はずっとこの曇天模様だ。そんなすっきりしない空気の中、下級生であろうクラスが体育の授業で校庭に散らばって体を動かしている。奥の方に鎮座している遊具達も不思議と陰鬱に見えた。それをぼやっと眺めているとうっすらと笛の音が聞こえる。それを合図にバラバラだった児童はぱっと1ヶ所に集まった。ふと教室の時計に目を向ければ授業終了5分前。もうそんなに時間が経ったのかと朧気に思いながら机上のノートに目を落とすがそこにはただ罫線が並んでいるだけで文字は1つもない。

 

 教室内に終了のチャイムが鳴り響くと同時に教卓の前に立っていた先生は話を区切ると、広げていた教材を閉じて日直に挨拶をするように促す。皆がそれに従い一斉に挨拶をすれば先生は教室を後にした。さっきまでの授業中の静けさはいったいどこへいってしまったのか、放課後になったここは一気に動物園のように騒がしくなる。その喧騒にもみくちゃにされながら教室を出ようとしたところで不意に呼び止められた。

 

「いろはちゃん」

 

 振り向いてみるとそこには飽きもせず私に嫌がらせを続けている女の子達がいた。私は思わず固まってしまうが向こうは嫌な笑みを浮かべながらそんな私を見つめていた。あーこれは面倒な事が起こりそうだなと内心げんなりするが少しでも相手の不快感を煽らないためにも顔には出さない。

 

「何かようかな?」

 

 不自然にならないように気を付けながら声を絞り出す。上手く出来たのか平然としている私に目の前の女の子は顔に不機嫌を滲ませた。

 

「ちょっと来て」

 

 その声には隠しきれていないイライラが含まれている。少し強がりすぎたかもしれない。実のところ結構に参っているのだがそれでも負けるかと思って耐えてきた。しかしそんな私の様子で彼女たちがはたして満足するだろうか。知らないうちに私は彼女たちを煽ってしまっていたのかもしれない。歩き出す小さな集団の後を私は重い足をひきずってついていく。

 

 

 

 人気のない校舎裏に1つ甲高い破裂音に似た音が鳴り響く。次にお尻に鈍い痛みを感じた。いつのまにか閉じていた目を開けば彼女たちが私を見下ろしている。左頬が酷く熱い。

 

「あんまり調子に乗らないで」

 

 正面の子が右手を反対の手で押さえながらそう吐き捨てると他の子を連れて去っていってしまった。そうか、私は今はたかれたのか。痛い、痛いな。やっとの思いで立ち上がると砂がついたであろうスカートを両手でパンパンと叩く。ふと、熱い頬に違う種の痛みがあることに気づいて手を触れるとピリッと電気が走る。指先をみれば小さい赤が付着していた。私は背負っていたランドセルをおろして中から可愛らしいカットバンを取り出すと勘で頬にはる。

 

 パタパタと、突然二滴の水滴が地面を濡らした。雨でも振りだすのか、踏んだり蹴ったりだなと思いながら頭上を見上げるが視界が霞んでよく見えない。一回瞬きをすると視界は晴れて顔を何かが伝う感触がする。雨は降っていなかった。

 

 右手でそれを拭き取るが次から次へと流れ出す。ダメだ、止まらない。私は諦めてランドセルを背負い直して歩き出す。度々滲む視界のせいで前がよく見えない。それでも私は無心で歩いた。歩いて歩いて、辿り着いたのはいつもの神社ではなく元々行くつもりだった先輩の通う中学校の近くだった。

 

 

 

 いつのまにか乾いた頬を撫でながら校門から少し離れた位置で学校から吐き出される生徒たちを眺める。中学校より小学校の方が早く終わるのでここについた頃は帰宅のピークを迎えていた。といっても出てくる生徒は部活をしていないか、休みである生徒だけなので量はそこまで多くない。これなら先輩を見落とすこともないだろう。

 

 数十分ほどたった頃やっと先輩と思われる生徒が出てきた。多少の距離があり注意していないとわからないので先輩は私のことにはまだ気付いていない。あれからそこそこ経過したため心も少しは楽になったのか、かなり久しぶりの再会に妙にそわそわしてしまう。いつもどういう顔で会っていたか、どう声をかけていたか必死に思い出そうとするがなぜか出来ない。確実に縮まっている距離に焦らされ様々な感情が私の中を暴れ回る。ぱっと先輩の方を見るといつの間にかすぐそこまで来ていた。互いの姿をはっきり認識できるくらいの距離。私の目は先輩の目をとらえ、また先輩の目も私をとらえていた。ただその姿を見たとき先程まで渦巻いていた大量の思いは動きを止め地に落ちる。

 

 先輩は明らかにボロボロだった。制服のあちこちを土で汚し、どこか痛むのか不自然に顔を歪ませている。そして何より目がいつもより数倍も酷い有り様だ。そんな姿に私は声を発することが出来ずにひたすらにそこで立ち尽くしていた。そして先輩も私を見つけて固まっていた。いるはずのない私が、避けていた私が突然現れて一番見せたくなかったであろう姿をさらしてしまっている。

 

 遠くで烏がそんな私を嘲笑うように鳴いた。あんなに支えたいと思っていた存在がいざ折れかけているというのに私は言葉の1つも発せない。傷を癒したいのに体はこれっぽっちも動かない。

 

「どうしてここに……」

 

 先に口を開いたのは先輩だった。その顔を未だいびつに歪ませたまま私を見つめている。私は何か答えようと口を開いて声を出すが、それは言葉とはならずにバラバラに崩れかき消えてしまった。

 

「場所、かえるか」

 

 先輩は後方にちらっと目をやるとそう呟いて歩き出した。先輩の後ろを見ればたった今学校を出てきた生徒がこちらに向かって歩いてきている。まだこちらを気にしている様子ではないが、こんな目立つところでずっとこうしているわけにもいかない。私は先を行く先輩の後ろを少し間をあけてついていく。歩いている間、先輩は一度も後ろを振り向かなかった。

 

 

 

 やって来たのはいつもの神社。楓も社もいつものようにどっしりとした佇まいでそこにある。ただここ最近空はずっと灰色に覆われていたため周囲の緑は心なしか力なく見える。そんな静かな境内をまっすぐ突っ切ると先輩は社の階段に腰を掛けたので私もそれに続く。ざわざわと鳴く木々の声が私の内を荒らした。

 

「悪かったな。しばらくここへ来なくて」

 

 先輩は私を見ることなく先にのびる石畳の一点を眺めながらそう言葉を発した。私はそんな先輩になんとか声を絞り出す。

 

「その怪我は…」

「これはまあ、いつものことだ。いつもよりちと酷いがな」

「……」

 

 先輩は口端を少しあげて笑うとそう答えた。その姿に私は再び言葉を詰まらせてしまう。ちょっとではない。いつもより格段に酷いではないか。

 

「お前がそんなに思い詰めた顔するなよ」

「でも……」

 

 そんな先輩に私は投げ掛ける言葉を見つけられない。すぐ傍の水溜まりに湿った紅の掌が数枚くたっと地面にはりついている。溜まった水は澄んでいて薄く空を映し出していた。どう言えば先輩を楽にしてあげられるのか、どうすれば先輩は強がらなくてよくなるのかわからない。

 

「それよりお前こそその頬どうしたんだ」

 

 考え込む私に不意に先輩が言った。はっとして手で触れると指先に肌とは全く違う感触が訪れる。叩かれたときに爪がひっかかってできた傷だ。

 

「え、えっと、これはちょっと自分で引っ掻いちゃって…」

 

 慌ててぱっと頭に浮かんだ嘘を溢してしまう。渋い顔をして聞いてくる先輩にどうしても本当の事は言えなかった。

 

「……そうか」

 

 少しの間の後、先輩はそう一言だけ反応した。私の返答を聞いても相変わらずすっきりしない顔をして私を見つめている。私は必死に地面に目を向けていた。嘘の代償か、もしくは全てを見透かされる恐怖か、どうしても先輩の目を見ることはできない。

 

「なあ、もう俺達こうやって会うのやめないか」

「え」

 

 不意に先輩がそんなことを言った。その言葉はゆっくりと耳から頭に入り、何度も鈍く繰り返される。そうしてやっとその意味が認識できたとき全ての音が消えた。もう会うのをやめる、離ればなれになる。ぎゅっと胸が何かに締め付けられる。

 

「このままいたら俺達の状況は悪くなるばかりだ」

「でも!」

 

 つい大きな声が出た。けれどもその後の言葉は続かない。それは先輩の言うとおりだからだろう。このまま私達が一緒に居続ければそれを見た周囲の反応が収まることはない。例えなくなったとしてもそれにどれだけの時間を要するのかは検討もつかない。その間に先輩と私が今以上に酷い仕打ちを受けることもあるかもしれない。だからほとぼりが冷めるまでそうすることが一番だというのは、頭のどこかでわかっていた。しかし頭でわかっていても心がどうしてもそれを拒んでいる。理屈ではないからこそ説明ができない。先輩を納得させられない。

 

「俺は!俺は俺のせいでお前が傷を作るのは嫌なんだ。俺がここへ来なければなんとかなるって思っていたけど、そうじゃなかった。お前はこうして傷を作ってる」

 

 先輩は最初こそ声を荒げるがその後は弱々しく静かに、私の頬を片手で優しく包みながらそう言った。少し冷たくなってきた空気に冷やされた私の頬にじんわりと先輩の手の温もりが広がる。それはガチガチに凍える私の心と鈍くなった体をゆっくりと溶かしていった。

 

「なんでそれを…」

 

 ポツリと、そう溢していた。やはり隠せはしなかった。

 

「引っ掻いただけじゃ周りは赤く腫れないだろ」

「でも…、これは先輩のせいじゃないです。私がもっと上手くやれれば」

 

 そっと言う先輩に私は自責の念を吐露する。そうだ、ここまで悪化してしまったのは色々と怠った私のせいだ。この傷は自業自得以外の何物でもない。先輩が自分を責める必要なんてどこにもないのだ。だから、そんな顔をしないで欲しい。

 

「俺の噂、お前のところまで行ってるんだろ? これ以上お前が俺と一緒にいるのはやっぱり危険」

「なんで、どうしてそんなこと言うんですか…」

 

 気づけば少し乱暴に先輩の言葉を打ち切っていた。内で何かがのたうちまわっている。嫌だと、必死に叫んでいる。胸が張り裂けそうなほどに。それに呼応するかのように周りの木々のざわめきも少し増した気がした。

 

「私は、私は確かに傷ついたし、怪我もしました。でも、それでも私は先輩といたいです。周りがなんといったって、どれだけ先輩を悪くいったって私はここでいつもみたいに先輩と笑いたい。私にとって隣に先輩がいないのは、何よりも痛い…」

 

 ついに私の中から留めきれない気持ちが言葉となって外へ吐き出される。眼からも透明な柔らかい結晶となって溢れた。私にとってそれは何よりも大事なもので大切なこと。嬉しいことがあったときはここに来て先輩に会ったらもっと嬉しくなれた。悲しいことがあったときは元気が出せた。あの日、楓の下で先輩と出会ってから私は本当の楽しさを知った。一人でないとこのありがたさを知った。人に救われる喜びも知った。初めて、人を好きになった。だからどうしてもこれだけは失いたくなかった。

 

「……そうか。お前は、そう言ってくれるんだな」

 

 小さく先輩はそう呟いた。その声はすぐに空気に溶け込んでしまうが、しっかりと私の元には届いていた。不意に先輩と目が合う。会えなかった間どんなことがあったのかは具体的にはわからない。聞けることでもないし、先輩のことだから教えてはくれないのだろう。しかし少しだけその目が教えてくれた。ぐらぐらに揺れる瞳がすっと落ち着きを取り戻す。そして先輩は不器用に笑った。

 

「ごめんな、さっきはあんなこと言って。嬉しかった。ありがとう」

 

 先輩の大きくはない手が優しく私の頭を撫でる。しかし私はその手をどこまでも大きく感じていた、私一人を容易く包み込んでしまえるくらい大きく。私はその頭の上にある手を両手でぎゅっと握りしめ、久しぶりに自然と底から微笑んだ。

 

「こちらこそ、ありがとうございます。やっぱりこうしてるのが、一番好きです」

 

 先程まで嫌に耳についた楓の葉の擦れる音が今はこうも心地よい。吹き抜ける柔らかい風が不思議と温かい。時間が止まってしまったかのように私も先輩も動かず口を開かなかった。いっそこのまま止まってしまえばいいのに、ずっとここでこうしていられたらどれ程幸せだろう。そんなことまで頭の片隅で思ってしまった。

 

「あのさ、来週一緒に祭り行こうか。今年はいつもより長く、しばらく一緒にいられなかったぶんまで」

「そっか、もうそんなに近づいてたんですね。今年はもう行けないかと思ってたので嬉しいです」

 

 長い沈黙が先輩の声で破られる。秋祭り、先輩と出会ってからは毎年二人で遊びに行った。一年を通して一番のイベントだ。最近は色々あったせいで全然気づけなかった。ふとそびえ立つ紅に目を向ける。祭りが近いということはもうそろそろこの楓も見納めなのだろう。

 

「じゃ、約束な」

「はい」

 

 そう言って私達は小指を絡め合う。あの約束をしてから何か約束するときはいつもこうして指切りをした。この繋がりが断ち切れないように、何度も何度も結び直すように。

 

 日が少し落ちてきたせいか多少薄暗くなった。今日はもう終わり。でも今度は明日がある。その次も、その次だってまたこうして会えるから、この寂しさも我慢できる。帰り道、別れる道に着くまで私達は笑い合った。久しぶりのこの感じに全力で身を任せた。

 

 急に視界の端が眩しくなって目を細める。西の方角を見ると雲の隙間から夕日の橙が漏れ出ていた。この光を見るのはいつぶりだろう。つい見とれて足が止まってしまった。それにつられて先輩も歩くのをやめ、私の視線の先に目をやる。

 

「きれい、だな」

「そうですね、なんか、温かいです」

「…じゃ、またな」

「はい、またです」

 

 しばらく二人してそれに包まれた後、再び歩みを進める。今度は別々の方向へ。背中に当たる西日が体に染みる。足は軽かった。

 

 

   ____________

 

 

 

 いつもよりちょっとだけおめかしをして家を出る。つい先程まで母親にその事でからかわれていたせいか少しお拗ねモードだ。ランドセルから一時的に移してきた猫ちゃんのキーホルダーが肩から下がっている小さめの鞄に添えられている。なんともなくその猫も不機嫌な顔をしているように見えた。

 

 待ち合わせの場所までたらたらと歩く。早く母親のいじりから逃げたしたかったのでつい家を出るのが予定より早くなってしまった。このまま行っても長く待たないといけなくなるので少しでも時間を潰す。空模様は晴れと曇りの中間くらい。天気予報によれば夕方あたりに少しくずつく可能性があるらしいが、今昼過ぎから四時くらいまで保ってくれればそれでいい。

 

 気づけば待ち合わせ場所に着いていた。ゆっくり歩いていたはずなのだが勝手にペースは早くなっていたようだ。確かにずっと楽しみにしてはいたが少し浮かれすぎかもしれない。でも今日ぐらい久しぶりに許してくれてもいいのではないか。

 

 待ち合わせ場所はいつも先輩とお別れする交差点。信号機くらいしかない味気ない交差点である。もう少し整備が進んでもいいと思うのだが見たところその予定はなさそうだ。こちらに向かってきた車が赤信号で停まる。私の正面にある歩行者用の青信号が点滅して赤に変わり、向こうは黄色になって赤になった。止まっていた車はやっとかというようにぶるんと1つ声をあげるとそのまま走り去っていった。

 

 信号が何回変わっただろうか。変わり続ける赤と青にも見飽きて靴の先でコンクリートの地面を意味もなく突っついてみる。そういえば今何時ごろだろうか。両腕に目をおとしてみても自分の色白の肌があるだけで腕時計はない。どうやら急いでいたせいで忘れてしまったらしい。だいぶ時間がたった気もするし、まだここに来てから数分しか経ってないような感覚もする。はたしてどちらだろうか、とぼやっと考えてみるがどうやら前者だったようだ。それを向こうから私に気づいて駆け足で近づいてくる先輩の姿が教えてくれた。

 

「悪い、待たせたか」

「いえ、私がちょっと早く来ちゃっただけだと思います」

 

 ぽりぽりと頭をかきながら先輩が声をかけてきたので私も返事をする。どれだけ待ったのかわかっていないためはっきりしない返答になってしまった。

 

「じゃ、さっさと行っちゃうか」

「はい!」

 

 私達は二人並んで人でごったがえしてるであろう商店街へと向かう。大好きな二人の時間を噛み締めようと、そんなことを考えた。

 

 

 

 案の定商店街は人で溢れていた。友達同士で遊びに来ている集団から家族連れまで。所狭しと並んでいる屋台がどれも面白そうに見えて仕方がない。一通りぐるっとまわり吟味してから遊ぶことを話し合って決めた。小学生と中学生じゃ持っているお金はたかが知れている。あれこれ考えなしに使ってしまえばすぐに底をついてしまうだろう。最大限に楽しむためにはまず計画をたてなければならない。

 

 やっと半分くらいを回った頃だろうか、ふと視界のすみに見慣れた集団を見つけた。あの女の子達だ。思わず足が止まり、光で満ちていた私の中に小さな黒が芽生える。

 

「どうかしたか?」

 

 不意に黙りこんだ私を不審に思ってか先輩が顔を覗き混んできた。はっとしてかぶりを振り何でもないと伝えるが、先輩は先程まで私が向けていた視線を辿ってしまう。私が何を見ていたかを理解した先輩は一瞬だけ苦い顔をするが言葉は発しないでいてくれた。再び目を向けるとあちらの集団もこちらに気付いてしまったようで、気持ちの悪い目を向けている。そのせいで先輩の理解をより促してしまったのだろう。私達は人混みに紛れるようにして彼女らの世界から消えた。

 

 少し落ち込んでしまった気分を改善するために近くの出店で遊ぶことにした。祭りは眺めるのも楽しいが、実際に体験するのはこの上なく面白い。暫しの間出店を転々とした後、変な勢いがついてしまったせいか、その近くでいくつか甘いものも買った。ほんの少し商店街から離れた場所でそれを二人で堪能する。周りにも私達と同じように休憩している人達がたくさんいた。しばらく中にいたので実感が薄れてしまったが、商店街の方は相変わらずなかなかの混雑具合だ。全てを平らげたところでおもむろに先輩は立ち上がる。

 

「ちょっとごみ捨てて来るついでにトイレいってくるけど、待っててくれるか?」

「いいですけど、私がゴミは捨ててきましょうか?」

「いや、二人で動くとはぐれるかもしれないし別に大丈夫だ。じゃ、ちょっと行ってくるわ」

 

 そう言い残すと先輩は少し遠くの人の渦の中へとのまれていく。突然、ピシリと何処かで音がなった。はっとして目を見開くと先輩の背中がちょうど見えなくなる。ダメだ、行かせてはダメだ。ふとそう思った。駆け出して先輩が消えた人の塊に潜り込む。人の流れに逆らって進んでいるせいで何回も人にぶつかる。もまれてもまれてすっとその流れから吐き出された。辺りを見回りてみるが先輩はいない。知らない人達が私の周りを通りすぎていく。周囲の喧騒がどんどん大きくなる。無数の足音が耳を刺激する。意味のわからない不安がふつふつと沸き上がり私を埋め尽くした。ぴったりとくっついてしまったように足が動かない。

 

 いけない、ついあの場所を離れてしまった。先輩が戻ってきたら心配をかけてしまう。無理矢理に現実的なことを考えて落ち着きを取り戻す。根拠はないのだ、ただの気のせいかもしれない。やっと溶けた足を動かしてさっきの場所に戻ろうとしたときだった。

 

「あれ、いろはちゃんだ」

 

 急に名前を呼ばれ声のした方を振り返る。そこには

先ほど見かけたあの女の子達がいた。

 

「あれ? あの中学生は一緒じゃないんだー」

「捨てられちゃった?」

 

 わざとらしい声色で一人の私に言葉を投げつけてくる。押し殺していた不安が再び蠢きだし、じわじわと広がり始める。そのせいでいつもより心の奥まで刃が侵入してきた。いや、今はこんなことを気にしている場合ではない。早くこの状況から抜け出してしまおうと、突き放すように言う。

 

「ちょっと待ってるように言われただけだから、じゃあね」

 

 背を向けて歩き出す。先程までいた場所に戻ればちゃんとまた会えるだろう。第一そういう約束だったのだ。再び人の流れに入ろうと足をあげる。

 

「へー、でも本当にあの人戻ってくるのかなー」

 

 後数センチで流れに入るというところでピタリと足を止める。そのまま足を元あった場所に戻した。雑踏は遠くなる。

 

「どういうこと?」

 

 絶対に振り向かないと思っていたのにそれを破ってしまう。目の前の少女は異様に意味ありげに、いやらしくいい放った。それは私の意識をすべて持っていくには十分すぎた。これは、何か知っているのか、そう思わずにはいられない。

 

「どういうって、さっきあの人男子の集団にいるの見かけたからもう別れたのかなって思ったのに、今の様子を見ると最初の冗談も案外事実だったりして、なんて思ったの」

 

 相も変わらず気色の悪い笑みを浮かべてたらたらとしゃべってくれる。神経は逆撫でられるばかりだが、きっと嘘ではない。おいしいネタを見つけた顔をしているから間違いないのだろう。

 

「それで先輩はどこに?」

「先輩? ああ、あの人のこと? さあ、知らないわよそんなこと。でもこの商店街の何処かで財布でもやってるんしゃない?」

 

 そう言って少女は声を殺して笑った。

 

「どっちへ向かったかも?」

 

 私は藁にもすがる思いで質問する。このままでは先輩を見つけられない。先輩に何か起こっているのは確かなのだ、あの胸騒ぎはきのせいではなかったのだ。

 

「てか、知ってても教えるわけないでしょ」

 

 少女は嘲笑う。私は焦りに侵食され、足が地面から離れるような感覚に陥る。そして、気づけば少女真ん前へと駆け出していた。

 

「お願い! お願いだから! 何処へ向かったかだけでいいから、教えて」

 

 突然のことに驚いたのか、少女はのけぞって私から咄嗟に距離をとって私を睨み付ける。それでも私は問い詰め続けた。必死で、それ以外考えていられなかった。あまりの私のしつこさに、とうとう少女は投げやりに指を指しながら教えてくれた。ありがとうとその場に残して私は走り出す。去っていく私の背中を、少女達は何の感情もなくただただ見つめていた。

 

 人が多くて上手いように進めないが、そのお陰かかえって周囲を見渡しながら走ることができた。違う、違う、いない、ここじゃないのか、もしかしてさっきのは嘘か、あれも違う。

 

 ざっ、と、不意に周囲のざわめきが遠くなる。気づけば商店街から飛び出していた。まるであちらの世界とは切り離されたみたいに、こっちは嫌に静かだ。よく見渡してみれば細い道路でもともと人通りが多くはないようだ。それでも少なすぎはしないかと、そう思ったところで視界の片隅に行き止まりの看板を見つける。そういうことか、じゃあやはりこっちに向かったというのは嘘だったのか。足から力が抜けて思わずしゃがみこむ。

 

 どうしよう、こんな人の塊から本当に見つけられるのか、不安だ。このまま会えなくなるかもしれない、不安だ。一人でいることが、不安だ。

 

 いつもこんな時は神社に行ったな。そうすれば先輩がひょっこり現れては不器用に慰めてくれた。そうすることで助けられてきた。もしかしたら、もしかしたら今も先輩が突然目の前に現れて、こんなところでどうしたんだって声かけてくれるかも。それでまた祭りをまわる。

 

 足音がした。前から確実に私の方に向かって歩いてくる。そして、私の前で止まった。埋めていた顔をあげて目を開ける。急な明るい世界にピントが合わない。ぼやっと目の前に人の姿が浮き出されていく。

 

「ちょっと君、気分でも悪いのか」

 

 大人の渋い声だった。はっきりした視界に映るのは知らない中年のおじさん。二の腕のところに腕章がついている。ああ、見回りの人か。そうわかった途端、私の馬鹿な夢物語はくだけ散った。そりゃそうだ、そんなにおいしい話があるはずない。ここはドラマでも漫画でもない、現実なのだから。

 

「いえ、ちょっと人とはぐれてしまっただけなので大丈夫です」

 

 心配そうに覗きこんでくるおじさんに、なんでもないと笑って言う。それを聞いてもすっきりしない顔を続けたおじさんだったが、渋々納得して商店街へと戻っていった。いつまでもこうしてられない。そう思って再び立ち上がり人の渦に向かおうとしたときだった。

 

 ガシャンと、後ろの方から物音が聞こえた。少し距離があるせいかそこまで大きくはなかったが、この閑散とした空間にいる私にだけそれは届いた。私は音のした方を振り返る。まっすぐのびる道の先にはコンクリート塀が立ちふさがっていた。いや、よく見ると右にまだ道が続いている。私はゆっくりと歩みを進める。音がしたのはきっとあそこを右に曲がった先。

 

 ある程度近づいたところでうっすらと誰かが話す声が聞こえる。それは曲がり角にたどり着いたところではっきりと聞こえた。

 

「こんなところにお前がいるのは意外だったな」

 

 男の声だ。しかしどことなく声に幼さが残っているので子供だろうか。

 

「別に、俺だって祭りくらい来る」

 

 今度の声は聞きなれた声だった。さっきまでずっと隣から聞こえてきた声。はっとして覗いてみると、三人の背中と壁に背を預けてへたり込んでいる先輩がいた。その横にはゴミ箱が横たわっている。なんだこれは。動転してその状況がすぐには理解できなかった。

 

「一人で?」

「そうだが、何か問題あるか?」

 

 私はその空間に入ることはできずに、ずっと影からやり取りを盗み聞くことしかできない。恐くて、足が動かなかった。

 

「相変わらずきめーな」

「てかあれじゃね、本当は例の女の子と来てんじゃねえの?」

 

 不意に会話に出てきた私の存在にどきりとする。でも何で先輩は私のことを隠したんだ?

 

「お前なんかと一緒にいるとか物好きだよな」

「こいつと遊ぶくらいだったら、俺たちとも遊んでくれるんじゃね?」

「ちょっと探してみる?」

 

 先輩をそっちのけで三人は淡々と話を進めていく。

 

「やめろ」

 

 その一言が三人を沈黙させる。それは私が一度も聞いたことのない鋭い先輩の声で、ついビクッとしてしまった。知らない先輩がそこにいる。

 

「約束忘れたとは言わせないぞ。俺が黙ってお前達のいいなりになるから、あいつには絶対に手出ししない。そういう約束だったろ」

 

 先輩は声を荒げることなく淡々とそう言った。どういうことだそれは。

 

「そうだったな。お前が抵抗しない限りなにもしねーよ。もし歯向かえばその時は」

「わかってる。別に抵抗したりしない」

 

 待て、それでは先輩が私に害を及ぼさないために身を削っているということか。あの日見たボロボロの姿も、今にも折れそうだったという姿も全部私のため、いや、私のせい?

 

 ドカッと鈍い音がした。続いて先輩の小さく呻く声が聞こえた。しかし先輩は言っていた通りなんの抵抗もしない。暴力し返すことも、それを防ぐことさえしない。

 

 ふとこの間の先輩の言葉が甦った。もう会うのをやめる、私達の状況を悪化させないための方法。先輩はこうして私が傷付くのを阻止しようとしていた。しかしあの日私の傷を見てこれだけでは足りないと思ったのだろう。私達が一緒にいる限り、その約束は意味を持ち続ける。なんの拍子に破られるかもしれない危うい約束。一番の目的は、この約束から私を切り離すことだったのではないか?私と先輩が疎遠になることで私に害を与えたところで先輩は痛くない、そうなれば向こうが私に手を出す理由はなくなる。先輩はすべての矛先を自分に向けさせるための提案だったのかもしれない。私に向く槍を少しだけでも減らそうとしていたのかもしれない。

 

 それを私は否定した。一緒にいたいと言う理由で、それだけの我が儘で。先輩が身を犠牲にして私を守っていることも知らずに、苦渋の決断だったろうことも知らずに。私は先輩のことなんて何も知らずに、わかろうともしないでずっと寄りかかっていたのだ。先輩が折れかけたのは私のせいだったのか。

 

 そうだ、私はいつも先輩と一緒にいたいとしか考えていなかった。先輩が傷ついていることも認識してはいても理解はしていなかった。常に中心には私がいた。私が嫌な状況にならないように、寂しくないようにと。そこに先輩はいない。先輩は私を中心に置いてくれていたのに、それでたくさん傷を負ったのに。

 

 真っ暗になった。私は静かにその場から離れる。今から先輩に顔を見せることも、先輩の顔を見ることもできそうになかった。逃げ出してしまいたかった。来た道を無気力に戻る。ずっとごちゃごちゃと考えて商店街を抜けた。

 

 パタパタと空から滴が落ちてきた。それは灰色のアスファルトに小さな染みを作っていく。あっという間にそれは広がって地面を真っ黒にした。周囲の人達が急な雨にあわてふためき私の横を勢いよく駆け抜けていく。そんな中、私は変わらない速度で歩き続けた。髪はあっという間に水を含み、こめかみや前髪から滴が垂れる。着ていた服が体に張り付いて気持ちが悪い。

 

 あれ、どうしてこんなことになったんだっけ。おかしくなったのはいつからだ? 私が先輩の提案を否定した時? おじいちゃんが先輩を見たって聞いたとき? あの男の子が告白紛いなことをしてきたとき? 先輩が神社に来なくなった時?

 

 最初は純粋に楽しかった。あの日、初めて先輩と出会って、励ましてくれたっけ。今度は私が先輩を励まして、大事な約束をした。それから先輩とあの神社で会うようになって、いくつか季節がめぐった。陽光が優しい春も、緑が元気な夏も、楓が美しい秋も、物寂しい冬も、先輩とあの神社で過ごした。しょうもないことで笑いあって、馬鹿馬鹿しいことでちょっと喧嘩して、不器用に仲直りして。私は先輩と一緒にいたかった。きっと先輩もそう思っていてくれていたはず。

 

 でもそれは崩れた。きっかけなんてわからない。でも1つだけ確かなのは、私が先輩をボロボロにしてしまったということだ。大好きだった。大切で、かけがえのない人だった。それを、私は自分の身勝手で傷つけていた。大事な約束を破っていた。

 

 どこで私は間違ってしまったのだろう。ずっと遡ってみてももうよく分からない。

 

 ジャリっと足元で音がした。知らないうちに雨は止んでいて、目の前にはあの大きな楓の木があった。どれくらい時間が経ったのだろう。ほとんど太陽が沈んでしまったのか、薄暗くなっていた。商店街からこの神社まではそこそこ距離がある。歩いていたペースを考慮すると通り雨が過ぎ去るくらいの時間がたっていてもおかしくない。空を見上げると雲の切れ目から真ん丸の月が顔を出していた。今日は満月だったのか。

 

 何かあったときは決まってここへ来た。そのせいで習慣になってしまったようだ。例に漏れず今も無意識のうちにここに来ている。でも今、ここには励ましてくれる先輩はいない。そうされる資格が、私にはない。

 

 頬を涙が伝った。次から次へと止めどなく溢れた。力は抜け、私は座り込む。どうして、どうして、どうして。

 

 そして思い至ってしまった。そこにだけは行き着いてはいけない場所。それだけは考えてはいけないこと。すべての否定、完全な拒絶。嫌なことも大事なことも全部を無に返してしまうから。

 

 私達の間違いは一番最初だったのでは、と。始まった時点で間違いだったのでは、と。先輩が身を削る必要もなく、私が先輩を傷つけることもない。こんなことになりはしない、たった1つの条件。

 

 ダメだ、これ以上思ってはいけない。しかし止めようとしても思考は止まらない。言ってはダメだ。言葉にしてはダメだ。やめて、やめてくれ、やめて――

 

 

 

「私は、先輩と出会ってはいけなかったんだ」

 

 

 

 私の中のすべてが崩れ、壊れて、霧散した。

 

 強い風が吹く。それは散らばっている無数の小さな紅い掌を巻き上げ、私を飲み込んだ。鞄にぶら下がっていた黒猫は風に煽られて暴れている。私は突然の不自然に顔をあげるがうまく目を開けられず、身動きがとれない。パチンと、黒猫を繋ぎ止めていたチェーンがついにちぎれた。

 

 それと共に、私の中から大切な記憶は消え去った。

 





 お待たせしました。待っていてくださった方ありがとうございます。

 たくさん書いていた頃より上手く書けなくなってしまったのですが、完結はさせようと思ってなんとか書きました。

 次が最終話です。まだいつ頃あげられるかわかりませんが、その時はよろしくお願いします。

 ではまた次回に。

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