無人の死都となったセイラムを突っ切るのは、容易ではなかった。
行く手を遮る人の群れは、存在しない。死体の千や二千が転がっていたところで、怖気づくレイヴンでもない。その行く足を押し留めるのは、ただひたすらに溢れ返る、《天使》と【悪魔】の存在である。
「邪魔だどけぇぇーーッ!」
すでに
あそこに、アヤがいるのだ……!
「パンドラ、まとめてブッ潰すわ!」
『把握した。〝エル・シード〟 《ライト》 エクスキューション』
翅百足の群れが途切れた刹那、レイヴンは門柱の影から飛び出した。そのまま庭の中心まで走り抜け、在りし日は清浄な水を噴き出していたのであろう、立派な大理石の噴水の上に飛び乗った。噴水の最上段を飾る女神像の水瓶の上で、聖剣コラーダを逆手に縦一文字、光剣ティソーンを順手に横一文字に構える。二振りの黄金剣によって描き出された黄金の十字架に、《黄金聖気》が漲っていく。そして周囲の空間に、《黄金の聖徴》に導かれるようにして、金色に輝く人型が、一人、二人……いや、甲冑に身を包んだ騎士が十、二十……いや、違う。黄金の重装甲冑に黄金の突撃槍を備え、黄金の装面軍馬に跨る数百騎もの
『「レギオン・エクスキューションッ!」』
それはまさに、荒れ狂う金色の大津波。《黄金聖気》によって形作られた重装騎馬兵団が、堰を切るように進撃した。その勢いは疾風怒濤、真正面から突っ込んできたオリウィエルの大群を、ただ前に押し進むだけで黄金の荒波の中に飲み込んでいった。続いてベリアスを、中央街に蔓延っていたイウヴァルトの群れを、進撃する方向にある全ての存在を、黄金騎兵の突撃槍が、金色軍馬の鉄蹄が、純粋にして最強たる〝数の暴力〟が、貫き引き裂き踏み砕き、目の前の全てを蹂躙して征く。
「よしっ、このままカチ込むぞレギオンどもっ!」
レイヴンもまた、煌く黄金剣を軍旗代わりに振りかざし、黄金軍馬の一騎に跨っていた。レイヴン率いる黄金重装騎馬兵団(レギオン)は《黄金聖気》の雄叫びを上げながら、無人の野を往くが如く、蔓延る【悪魔】を踏み荒らし、中央街を駆け抜けた。
「これだ! これこそが……っ!」
充血した眼を狂喜に染めて、アゾットはひたすらに儀式を進めた。
吹き荒れる《聖気》の暴風、蠕動する【魔力】の湖面、祝詞を紡ぎ続ける生贄の巫女。インジゴフラスコ教団二〇年の悲願が成就する日が――この大天才を切り捨てたミスカトニックの無能な教授どもに、錬金術の真理を突きつけてやる瞬間が――今まさに、訪れようとしている。
「長かった……長かったぞぉっ、我が神よ。……いや!」
渦を巻く《聖気》の圧力が、結界の一部を突き破った。暴走する《聖気》の激流が地下研究所内に流れ込み、密集する試験管や水槽を引き倒し、叩き割っていく。ブチ撒けられたショゴロイドの幼生体がビクビクと痙攣しながら絶命していき、機械装置は次々とショートしていく。しかしアゾットは、儀式のこの段階においてもはや無用となったそれらを一顧だにせず、杖を一振りして結界を修復した。正常な流れに戻された《聖気》が再び魔導式を駆け巡り、未だかつて人界に開いたことのない《門》の錠前を抉じ開けていく。
「今や! 我こそが神を超え得る!」
懐から、朽ちた黒革で装丁された魔導書を取り出し、そのページを引き千切ってばら撒いた。瞬間、【地獄門】が湛える【闇】の水面から、蛸とも蛭ともつかない、ぬらりとした【闇の触手】が無数に伸び、《聖気》の奔流に舞う魔導書のページを飲み込んでいった。ページに記載されていた人外異形の情報が、呪術的な文言が、星間宇宙の脅威についての記述が、赤黒く明滅する刻印となって【闇の触手】へと流れ込んでいく。それらは無限魔導機関【
「私はぁっ! 溢れるほどの才能に恵まれながら、世界の枠組みに捉われ、所詮は人の身に可能な範囲でしかその天才を発揮してこなかった! しかし、それすら否定するこの世界であるならば……〝神〟と定義される存在は、無限有たる〝混沌〟と! 無限無たる〝虚無〟との、等価交換によってのみ錬成可能となるであろう!」
六人の巫女の頭上に、人の身ではありえない《光輪》が現れた。彼女らはすでに、現世の存在ではない。すでにその肉は霊子変換され、その魂は普遍的無意識、生まれる前の原初の海、生命のスープへと還元されている。今、【闇の触手】がずるりずるりと這い上がり、巻きついてきたのが誰の脚なのか、それすらも判然としない。そんなヒトのカタチをした人外に堕ちてすらそこにあるのは……切ないまでに純粋な、祈り。
(サヤ……愛してるのよ、サヤ……許して、私を……赦して……)
その祈りだけが、自分自身。それ以外の全てが溶け合って、無限の〝混沌〟に、眩い《光輝》に吸い寄せられる。無限の〝虚無〟に、昏い【暗黒】に引き込まれる。
ここは【地獄】だ。そして《天獄》だ。矮小な自我が吹き飛ばされそうになる中、自分の霊魂が《天獄》と【地獄】の両極端を何度も何度も行き来していることだけがはっきりと認識できた。
しかしその一方で、肉体の感覚は鈍くなっていくばかりだった。アヤの胸元にたったひとつ、ちりちりんと鳴るかんざしの鈴の音さえ、次第に分からなくなっていく……
「さあ開け! 超越せよ! 我が悲願よ……聖魔神よ!」
地下空洞全体が振動し、壁や天井の一部が崩落した。崩れた岩盤の奥に顔を覗かせたのは、複雑に絡み合った発条や歯車、ピストン機関の集合体。地下空洞全体を覆い包むように埋め込まれていたそれらの機械装置が、ある種の生物的な調和を以って脈動し始めた。複雑な機械装置と法儀式により増幅され、幾度となく繰り返される《
これを、これこそを、この瞬間こそを待ち侘びていたアゾットは、全身を駆け巡る甘美な電撃に酔いしれながら、【地獄門】の縁石に飛び乗った。すると、今までどこに控えていたのか、数体のショゴロイドがアゾットに続く。が、【闇】の湖面に近づき過ぎた二体ほどが、【触手】に捕らわれ、呑み込まれる。続いてもう一体、さらにもう一体……儀式の杖を持つアゾット、そして膨大な《聖気》に祝福された巫女たち以外は、【門】にとってはただの肉。二〇年の飢餓を満たす、餌にすぎない。
「ふ、ふふ……溢れるぞ。〝混沌〟と〝虚無〟とが……!」
氾濫する【触手】は逃げ惑うショゴロイドを捕まえては呑み、無限の〝虚無〟へと嚥下していく。アゾットはその狂乱の中で唯一、泰然と瞼を閉じて天を仰いだ。
「さあ来い、熾天使よ。我が宿願に、カタチを……与えるのだ……っ」
溢れ、蠢く【闇の触手】に対抗するかのように、巫女たちを包む《聖気》の光流がその輝きを増した。びくびくと痙攣する巫女たちの目から、鼻から、耳から、そして秘部からも、たらりと鮮血が垂れた。渦を巻く《光》があやふやな、しかし確固とした一つのカタチを取っていく。
それは、熾天使のカタチ。幾千の眼と、幾万の翼と、幾億もの奇跡を持った上級第一位天使《セラフィム》の、ヒトの脳に認識しうるごく一部。どうやら顔らしい造詣の中央部に、歯車型の瞳を持つ黄金の眼が、今、見開かれた。
「来たァッ!」
瞳の中にさらにもう一つ、正十字型の瞳が見開かれ、そして、
『残念、そこまで。そこまでよ』
「な、ニア……!?」
言いきる前にその手から、儀式の杖が奪われた。背筋を駆け上がる悪寒に背後を振り仰げば、そこには、空間を直接切り裂いたような【闇】が口をあけていた。そしてその奥から、薄いヴェール越しにアゾットを嗤うのは……眦を歪めた、深紅の瞳。
『本当に残念ね』
「貴様っ、裏切」
その後を、アゾットが口にすることはなかった――否。口にする口がなくなっていた。
儀式の要たる杖を失ったことで、アゾット自身もまた、【触手】にとって、無限の飢餓を満たす肉の一つに過ぎなくなったのだ。首から上をきれいに喰い千切られ、よくできた噴水のように鮮血を噴き出す彼の残骸は、糸の切れたマリオネットのように【地獄門】へと墜ちて行った。
……かくして、《熾天使》降臨の儀式は、【地獄門】開放の儀式は、主を失ったまま進行する。
『うふふ。足掻きなさい、さあ、足掻きなさいな』
二アーラは切れ長の眼を歪めて、さも愛しげに、嗤う/哂う/嘲笑う。
崩れ落ちていったアゾットの身体を中心として、どろどろとした〝混沌〟と〝虚無〟の円環が描くまだら模様の異界。その奥底で、《光》と【闇】とが渦巻くさまを。
まさに降臨せんとした、《熾天使》の肉。沸き出さんとした、億千万の【悪魔】たちの肉。そして、学会を追放された外道錬金術師・アゾットが、数十年にわたりその身の内に溜めこんだ鬱屈した自己顕示欲。それらが混ざり合うさまを。
――それは、新たなる〝種〟の誕生。
――それは、《過剰祝福》と【奈落堕ち】の行きつく先。
――それは、尽きる事無く呪っても呪いきれない、澱みの底から産まれる生命。
『嗚呼、愛しい! 愛しいわ、なんて愛おしいのかしら』
狂ったように叫びながら、ニアーラは儀式の杖を、その幼い喉へと押し込み、呑み下した。
『この、出来損ないのいきものたちは!』
口もとの涎をぬぐい、ニアーラは切り裂いた空間ごと、唐突に消えた。
あとに残るのは、荒ぶる【触手】と《聖気》の奔流。そして――
「おぉあぁぁ……」
――忌まわしき、産声。
「せいッ! やあぁぁッ!」
足下のイウヴァルトを黄金の蹄鉄で蹴散らし、眼前のオリウィエルを金色の突撃槍で貫き、黄金重装騎馬兵団(レギオン)は中央街道を進撃する。レイヴンもまた、すれ違いざまに魔蟲の脳天に黄金剣を振り下ろし、軍馬の一蹴りで甲殻を叩き割っている。魔蟲の兜割り死体は後続の騎馬たちに滅茶苦茶に踏み荒らされ、灰に還る間もなく原型を失っていく。
この時点で、レイヴンが斬り裂き叩き潰し殺し尽した人外異形の者どもは、千を超えていた。それはすでに、レイヴンがセイラムに足を踏み入れてから昨日までの殺戮数を、遙かに凌駕している。黄金剣を振る腕に感じ始めた疲れを握り潰し、レイヴンは黄金騎馬を走らせる。
「このまま一気に……っ!」
見据えるのは、目前に迫った大聖堂南門。しかしその門前には、テノールの《歌声》で咆哮する、三体の
「ちっ、邪魔ね。……パンドラ、お腹は空いてるかしら?」
『貴様と契約してからこちら、常に胃拡張気味だ』
レイヴンが黄金剣をパンドラに仕舞うと、猛威を振るった騎馬兵団は金色の霞となって消えていく。レイヴンは消え行く軍馬の背を蹴って、高く宙に躍り出た。放物線の頂点で膝を抱えて回転すれば、【魔力】に満ちた黒紫の燐光がレイヴンを黒く染め上げる。そして着地、受け身すら取らず走り出す。
『〝オニキス〟 【ダーク】 リベレイション』
《Rah―――――――――――――――――》
巨躯の天使は高らかに咆哮、その体重で石畳を踏み割りながら突撃してきた。三体が縦一線に並び、それぞれに長剛腕を振りかざす。響き合う《歌声》と下級第一位天使の《聖気》が風を呼び、白銀に煌く
《Rah―――――――――――――――――》
一体目が繰り出した地を擦るような超低空ラリアットを、跳躍して回避。相手を見失い、動揺する一体目の頭を踏み台にして、レイヴンはさらなる跳躍。
《Rah!?》
直後、二体目が大振りの右ナックルを繰り出してくるが、巨岩のような拳に黒死の呪弾を
《Grawoooh!》
苦悶絶叫、顔面から血肉をブチ撒いて倒れる二体目に覆いかぶさるようにして、三体目が飛びかかって来た。左右の拳を固く握り合せた、大上段からのハンマーパンチ。
「見える! ……ってね!」
地面を転がるようにして三体目の股下を潜り抜け、立ちあがりながら空弾倉を捨て、黒死銃を頭上へ投げた。空いた右手で腰のガンベルトから新たな弾倉を引き抜き、同じく頭上へ投げあげる。落ちてきた黒死銃を右手でキャッチ、時間差で落ちてきた弾倉に、方向・角度・時機を合わせて右手を振りぬけば、弾倉は銃に収まっている。
「喰い散らかしな、ブラッドオニキス!」
『〝オニキス〟 【ダーク】 エクスキューション!』
銃を横に傾けての、七発全弾一斉射撃。銃身に彫り込まれた【紅ノ呪詛】が、ドクンと脈打つように輝いた。瞬間、黒死銃から放たれた七つの銃弾が、幾千幾百もの鱗状の黒刃へと分裂した。人の爪ほどの大きさしかないそれらだが、その一つ一つに、【貫通】と【致死】の指向性魔力を孕んだ【呪詛】が紅く妖しく輝いている!
『「ブラッドゲイル・エクスキューションッ!」』
轟……ッ! 二人が重なり告げた死刑宣告と同時、紅く輝く致死の黒刃は、赤黒の呪刃竜巻となって、プリンシパリティたちに襲いかかった。巨躯の天使は必死で《光盾》を展開するが、【呪詛】の黒刃の前には無駄な足掻きだった。無数の黒刃は竜巻状から球形へと軌道を変え、もがき苦しむプリンシパリティたちを取り囲み、超局地的な刃の台風となって肉を切り裂き抉り取り引き千切る。飛び散る血潮が、肉片が、黒刃の螺旋に巻き上げられ、刃の暴風は次第に血の紅に染まっていく。その様はまるで、数万の狂った鴉の群れに啄まれているかのよう――
《Rah――whuu……Ru――……》
――そして、数秒。黒刃たちが魔力を失い地に落ちれば、後に残るのは、自らの血に汚れ、僅かに肉片がこびり付いた骨格標本と成り果てた、巨躯の天使の骸が三つ。
「ふん。グルメとは言い難いわね」
レイヴンはおどけた様子で肩をすくめ、黒死銃をパンドラに放りこんだ。
死都と化した街のあちこちで火の手が上がり、修羅の喧騒は続いているが、この南門の周辺にいる人外どもは、片付いたようだ。レイヴンは一つ息をつき、額に浮かんだ汗を手の甲で拭った。
『……あとは、この門の先だ』
「そうね。
パンドラに応え、眼前に迫った大聖堂南門を振り仰いだ、その瞬間。
門の向こうに聳え立つ尖塔の、窓という窓から、闇色の【触手】が無数に飛び出してきた。そして天使と言わず悪魔と言わず、その粘液に塗れた皮膚に触れる全てのモノを巻き込み、或いは捕食器に一呑みにし、塔の中へと引き摺り込んでいく。南門方向に飛び出してきた【触手】の何本かは、レイヴンの存在を嗅ぎつけ、飛びかかってきた。レイヴンは舌打ちを一つ、髪と瞳とを銀に染め、爪先で地面を引っ掻いて《
「チッ、気持悪いツラして……っ!」
迫りくる【触手】、その先端には蚯蚓か蛭を思わせる、不揃いの牙が並んだ腔腸が大きく口を開けていた。粘液を撒き散らすそれに喰いつかれる直前に魔法陣を発動、門番詰所の屋根に転移し、パンドラを背中のガンベルトに吊るした。パンドラは〝カーリーの脚甲〟を発動宣言、煌く白銀の輝きがレイヴンの下半身を包みこみ、荒ぶる地母神の骸骨鎧が顕現した。神骨の守護神機関に、銀の《聖焔》が燃え盛る。
「潰したらアァァァァッ!」
再び襲いかかってきた【触手】を、屋根から飛び退いて回避。詰所に頭から突っ込み、瓦礫に埋もれて動けなくなったその首筋に、《聖焔》のロケットで
「次ぃッ!」
レイヴンはその場に
『まだだ!』
「ッ!?」
爆ぜ散った肉片を喰い破るようにして、さらにもう一本の【触手】が突っ込んできた。レイヴンは瞬時に
「ぐあッ……!?」
全力で展開した《光盾》がいとも簡単に突き破られ、荒ぶる猛牛の大群にでも跳ね飛ばされたかのように、レイヴンの身体が宙を舞う。そこへ、さらに別の【触手】が振り下ろされる。為す術もなく全身でそれを受け、地面に叩きつけられるかと思いきや、さらに別の【触手】が斜め下から突き上げを喰らわせてきた。その直撃位置は、レイヴンの左腕……!
軋む骨格、歪む視界、胃袋の中身が逆流してきそうになる。気の狂った巨象に蹴飛ばされたような衝撃に全身を打たれ、庇う暇すらなかった左腕には骨の髄まで激痛が響き、塞いでいた傷口が大きく裂ける。きつく巻いてあるはずの
レイヴンは空中で無理やり身をひねり、半ば転がり落ちるようにして地面に着地。同時、カーリーの脚甲は光の欠片となって砕け散ってしまい、踏ん張りきれずに膝をつき、右手もつく。全身を包んでいた《聖気》の燐光ははらはらと剥がれおちていき、レイヴンは金髪碧眼の少女の姿へと戻ってしまった。
『レイヴン……!』
「ぐにゃぐにゃのっ、不能のっ! クソ肉棒の分際ゥげぼッ!?」
悪態をつくその口から、同時に吐血。肋骨か、内蔵か、その両方か……。さらに、口元を拭おうとした左手が動かないことに気づき、レイヴンはにやりと、口の端を吊りあげる。
「ふ……まるでレイプね。こんなかよわい美少女を、大人数でよってたかって」
左腕をだらりと垂らしたまま、レイヴンはよろよろと立ちあがる。その周囲には、弱った獲物の存在を嗅ぎ取ったのか、周囲からも集まってきた数十もの【触手】が、鎌首をもたげていた。
『レイヴン。死ぬ前に退け』
「あら、あたしがピンチにでも見えるのかしら? まったく、心配症なん……」
『退けと言っているッ!』
珍しく語気を荒らげたパンドラを、レイヴンは右手で肩に担ぎ提げる。
その立ち姿は――口元の吐血を、あばらの骨折を、蓄積された内臓器官へのダメージを、数え切れない打撲傷と内出血を、全身の疲労を、そしてだらりと垂れたまま動かない左腕を除けば――いつも通り。
レイヴンは、自分を見下ろし取り囲む【触手】どもを睥睨し、言う。
「いやよ」
『レイヴ……』
「いや。絶対に、いや」
パンドラの言葉を遮り、揺るぎなく言う。
「言わせてやるのよ」
あたしは〝禁忌ノ娘〟。《天使》も【悪魔】も殺し尽す、〝災厄の権化〟。
「絶対に、もう一度、言わせてやるのよ」
《天使》も【悪魔】も《神》も【魔王】も、憎悪と憤怒に狂わせる、〝最凶の災厄〟。
「助け出して、手を握らせて、私の顔を見させて、言わせるのよ」
でも、そんなあたしでも。〝ばけもの〟と呼ばれるあたしでも。
「完膚なきまでに自発的に、完全無欠に心の底から……もう一度、言わせてやるのよ」
――あのことばは、うれしかったんだから。
「〝ありがとう〟、ってね」
そして、笑った。
嗤いもせず。哂いもせず。自嘲いもせず。
レイヴンが、〝禁忌の娘〟が笑ったのだ。
『………………手のかかる娘だ』
「そうね、ごめん。あと、ありがと。……はぁぁッ!」
言葉と同時、【触手】の群れが襲いかかる! 怒涛の勢いで迫りくる不揃いの牙の大波を、レイヴンは跳躍して回避。
まさに疾風迅雷、一つ縛りにした長い金髪が城壁をジグザグに駆け昇っていくその様は、浅黒い【触手】の海を切り裂く金色の稲妻に見えた。
そうして聳え立つ城壁を一息に駆け上がったレイヴンは、勢いのままに壁の上端を蹴り、曇天の切れ間に宵の明星が輝く群青色の空へと、高く高く舞い上がった。口を開け追いすがる【触手】どもすら、すでにその眼には映っていない。
「パンドラ!」
『把握した!』
その声色に、これ以上の言葉は必要ないと確信する。レイヴンは膝を抱えてくるりと宙転、パンドラをガンベルトに吊るし、
「変身ッ!」
『〝オニキス〟 《ライト》 リベレイション! エクスキューション!』
煌く白銀が瞳を染め、輝く白金が髪を染める。漆黒の夜空に突如として輝いた、白銀の月――一瞬にしてレイヴンを銀に染め上げた《聖気》の燐光は、螺旋を描いて腕を伝い、指先を通じ、銀聖銃に流れ込む。
『「ディバインバスター・フルバースト・エクスキューションッッッ!」』
ドッ……ゴオォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォ―――――
ギャロウズ・ヒルを抉り取った時を遙かに超える光芒が、周囲の全てを白一色に染め上げた。半球状に広がったその光熱は太陽にも匹敵し、もはや物理的な圧力となって、その腕の中にあるすべての存在を焼き潰し、圧し熔かした。
全てを飲み込んだ白熱の光球がようやくその輝きを失ったとき、教団本部大聖堂は、すでにその影すらも消え去っていた。
魔導惨禍からの二十年、セイラムの中心であったその場所には今、ガラス質に焼結された巨大なクレーターがすり鉢状に広がり――その中心に、直径百メートルにも及ぶ、機械と肉の集合体が、鎮座していた。城塞ほどもある大聖堂と数万トンにもおよぶ土砂とを蒸発させた銀聖銃の砲煌にも、多少の焼け跡をつけたのみで耐えきったその構造物は、遠目には、捩子と歯車とパイプで複数の臓物をつなぎ合わせて作り上げた、人工の子宮のようにも見えた。
焼け跡に白煙を燻らせるその巨大な人工子宮は、教団内部において地下不可侵聖域と呼称されていた空間の、真の姿である。
今、レイヴンは、剥き出しとなった地下不可侵聖域の扉の前――その奥で繰り広げられる邪悪を極めた実験と創造の数々を塗り込める、荘厳なレリーフを施された巨大門の前にいた。
「ふん。やっとラスボスってわけね」
パンドラを右肩に担ぎ提げる、その姿は金髪碧眼。まだ灼熱が残留するガラス質の地面の上に稟とした立ち姿で屹立するが、エクスキューションを一発放っただけで、レイヴンの変身は解除されてしまっていたのだ。
「ねえ、パンドラ。あなたの〝欠片〟、例の大物ってこの中よね」
『周りを全て吹き飛ばしたのは、貴様だろう』
「ふふっ。それもそうね」
言いながらレイヴンは、震える左手をゆっくりと顔の高さまで持ち上げ、
『……動くのか?』
「ま……それなりに、ね」
具合を確かめるように拳を開閉しながら短く答え、レイヴンは左手で、パンドラから黒死銃を引き出した。いつものような
「行くわよ、パンドラ」
『把握した、レイヴン』
ドォン……ッ。轟音とともに吐き出された銃弾が大天使像の眉間を撃ち抜き、不可侵聖域の巨大門は、音を立てて崩れ落ちた。
ぽっかりと口を開けた機械と肉と人工子宮の中には、溢れ出しそうに濃密な闇が広がっている。レイヴンは黒死銃をパンドラに投げ込み、地を蹴って、その闇の中へと飛び込んでいった。