不可侵聖域に踏み入ったレイヴンを迎えたのは、強烈な腐臭だった。
湿ったように淀む暗闇の中にぼんやりと、濁った青緑色に浮かび上がって見える部分があった。それは、機械仕掛けの〝子宮〟の中央、〝胎盤〟に相当する円環構造物――億千万の悪魔を吐きだす【地獄門】。
そこにはだらりと力なく倒れ伏した無数のモノがあり、それらが臭気の発生源だった。
そのモノの正体は、まるで陸に打ち上げられた深海魚のように、ぶよぶよとした身体を投げ出している【闇の触手】の残骸。数百数千もの天使や悪魔・人間の血肉を喰らい、確固たる実体を得た【触手】の群れが、その肉をぐずぐずに腐敗させていたのだ。
「この傷跡……喰い殺されて……?」
『うむ。そのようだが……』
【触手】の屍たちに残されたそれは、まさに「歯形」。その大きさこそレイヴンを一口に胴切りにできるほどの巨大さではあったが、噛み千切られた肉に残る歯の形や配列は、どうみても人間のそれであった。そしてその歯形はまだ鮮血が流れるほどに真新しい傷跡であるにも関わらず、もう周囲の肉が腐りきっているのだ。
レイヴンが腐敗した肉塊を避けながら歩を進めると、その靴底が、ぬちゃりとした不快な液体を踏みつけた。それは、割れ砕けた無数の実験器具や試験から溢れ出した、粘ついた液体。【触手】の血肉片が混じり部分的に濁っているそれは、まるで蛍のように熱のない青緑色の光を、薄ぼんやりと放っていた。この窓一つない腐臭に満ちた空洞を照らすのは、どうやらこの薄気味悪い蛍光液のみらしい。
「ふん。ずいぶんと演出に凝った
レイヴンは右手でパンドラを担ぎ下げ、形のいい眉を心底うんざりした様子で顰めながら小鼻をぴくぴくと痙攣させた。素早く視線を左右に配るが、がらんどうの空間の半分以上は闇の中。辛うじて物の輪郭が確認できるのは、せいぜい【地獄門】の円環構造物と、その円周上に建つ不揃いの円柱ぐらいだった。……と、そのうちの一本に、レイヴンの目がとまった。
「アヤ……」
呟いてしまったその名前を飲み込み、レイヴンはその場にぐっと足を踏ん張った。
そこにあったのは、極めて精緻に女性の姿を再現した彫刻。不揃いの円柱の半ばほどに、大航海時代の船首像のように彫られている女神像は、間違いようもなく、彼女の姿を模していた。
否、模しているのではない。おそらくあれは、彼女自身。圧倒的な《過剰祝福》の奔流に呑み込まれ、ヒトとしてのカタチを失っただけの――
(だったら。だったら、ここに……)
大いなる《熾天使》の召喚儀式を、ヒトのカタチを失わせるほどの《祝福》と《聖気》を、必要としたモノが有る。億千万の悪魔の召喚装置たる【地獄門】から呼び出された【闇の触手】を喰い散らかし、【魔力】に満ちたその血肉を貪ったモノが在る。
「……パンドラ」
『うむ。いるぞ。だが、気配が読めぬ。……気をつけろ』
それを、殺さなければ。潰して殺して引き裂いて滅却して焼き尽くして殲滅しなければ、彼女は戻ってこないだろう。喰い散らかされた魂を、溶かし尽されたカタチの破片を、取り戻さなければ。レイヴンは務めて無表情を形作っていたが同時に、固く拳を握り締めてもいた。
(……来る!)
強張った首筋に舐めるような悪寒を感じた、その瞬間。重々しく、粘ついた足音――そして、野太い、しかし妙に赤ん坊じみた奇声が、不可侵聖域に響き渡った。
「おおおをぁぁあああああああぁぁぁああああぁぁぁぁああぁぁあああぁあああ!」
濃密な闇からのそりのそりと這い出してきた〝それ〟は、完全な黄金律で形成された骨格と、完璧な均整のとれた筋肉と、滑らかな金属光沢を放つ白黒二色の肌、そして金色の幾何学紋様で構成された、十五メートル超の巨人だった。
その顔と身体の造形は、古代のギリシャやローマで好んで生み出された神像の意匠に似て、美しすぎるほどに美しい。鼻筋はすらりと通り、ほりは深く、首筋から鎖骨、胸板に至る筋骨の線は、同性とて恋してしまいそうな逞しい美青年のそれである。
しかしその挙動は、まさに人外の異形。闇の中から這い出てくる姿は四足歩行、しかもまるで爬虫類のように、両腕両脚を横向きに大きく張り出し、腹を擦るような低姿勢。板金鎧のような質感を持つ金属質の皮膚と皮膚の隙間からは、粘液に塗れた筋肉繊維のようなものが垂れ下がり、青緑色の薄明りをてらてらと照り返している。
「ばあぁぁ! あぶうぅぅぉおおあ!」
整った美青年の顔が赤黒くどろどろとした唾液を飛ばして赤子のように喚き散らす様に、その誕生の過程を見ていないレイヴンにも、それが忌まわしき被造物であることは容易に感じ取れた。
それは、《
レイヴンは口の端を吊りあげて、呆れたように蔑んだ。
「
『フン、悪趣味な小童よ。親の顔が見たいな』
パンドラの軽口に「そうね」と返し、レイヴンはゆっくりと左手で、黒死銃を引き抜いた。同時、パンドラは数条の呪化黒帯を吐きだして、銃を持つレイヴンの手を固くテーピングする。
これで、多少手が震えようとも、銃を取り落とすことはない。
「でも、その前に……」
続いてパンドラを背中のガンベルトに斜めに背負い、銀聖銃を引き抜いた。
右に銀聖、左に黒死。《オニキス》&【オニキス】、〝
サンダーボルトを撃破した、防御無用の対キメラ特化型攻撃形態。
「こいつの泣き顔、見せてもらうわ」
レイヴンは踊るように軽やかなステップを踏み、ケレン味たっぷりの振り返りざま、二つの銃口をおぞましき偽神像へと突きつけた。
その髪は金糸、その瞳は紺碧。【魔力】も《聖気》も籠らない、傷だらけの少女の姿……!
「
「ぁぶぅぅぅうあぁぁぁぁああああああぁぉぉおおおぉえぇぇっ!」
偽神像は咆哮、そこいら中に転がる腐乱触手を両手両足で蹴散らしながら突っ込んできた。しかし、その動きはまるで盲目の獣。攻撃対象をまともに捉えているのかも怪しい突撃を、レイヴンは機敏なステップの一つでたやすくかわし、すれ違いざまに
「……っ!」
ヂュン、という擦過音とともに、キメラに対して有効なはずの無属性弾は、【魔導障壁】に弾かれた。偽神像は銃撃など意に介さず、猛烈な勢いでレイヴンの真横を突きぬけて行く。
『む……上位種、ということか』
「だったらぁっ!」
僅かに焦燥の色が滲むパンドラの声に、レイヴンは叫び、銀聖銃のシリンダーを振り開き黒死銃の弾倉を落とした。同時、阿吽の呼吸で理解したパンドラは、数え切れないほどの弾丸と弾倉を吐き出した。キラキラと輝く真鍮の雨が、一瞬、レイヴンの頭上に滞空する。
「これでぇ……」
舞うように一回転、両手の銃を振りぬけば、銀聖銃にはバラの弾丸がシリンダーに、黒死銃には弾倉がきっちりと、納まっている。回る視界の中に偽神像の姿を捉えると、偽神像は突き抜けていった勢いのまま、地面に爪を突きたてるようにして方向転換。床面にぶち撒けられた青緑色の粘液に足を取られながらもレイヴンへと向き直り、再び突撃を仕掛けてきていた。
「弾けろぉーーッ!」
レイヴンは回転の勢いのまま、銃をほぼ真横に傾けての二丁拳銃全弾連射、即座にもう一回転し再装填、二丁拳銃全弾連射・回転・再装填・二丁拳銃全弾連射・回転・再装填・二丁拳銃全弾連射回転再装填二丁拳銃全弾連射回転再装填二丁拳銃全弾連射再装填全弾連射再装填全弾連射再装填連射装填連射装填連射装填連射装填連射装填連射装填連射装填連射装填連射装填連射射射射射射射射射射射射射射射射射射射射射射射射射射射射射射射射射射射射射射射射!
回る機銃座と化したレイヴンの周囲には過熱した空薬莢が金色の滝となって流れ落ち、発砲煙と着弾の噴煙が渦を巻いて不可侵聖域にたちこめた。銃身を赤熱させた
「ばああぁっ!」
だが、読みは外れた! 偽神像は何事もなかったかのように噴煙を突き破り、飛びだしてきた。その全身には《守護光盾》と【魔導障壁】がまだらに輝いており、全ての銃弾は偽神像に掠り傷一つ付けられずに弾き飛ばされていた。
「《光盾》と【障壁】の同時展開!?」
『
「だぁあああぁうっ!」
偽神像は獲物を狩る肉食獣のように、全身でレイヴンに向かってダイブ。レイヴンの身長ほどもある巨大な掌が左右から挟み込むように迫ってくるが、レイヴンは地を蹴って跳躍、不揃いの円柱の側面に、
「ちぃっ!」
赤黒く濁った粘液に塗れたそれは、ぐねぐねと蛇行しながら凄まじい勢いでレイヴンに喰らいついた。その先端の捕食器がレイヴンの下腹部あたりを噛み千切り、レイヴンは上半身と二本の脚に分断され、腸や血肉を撒き散らす。その傷口は赤黒い粘液が持つ腐蝕性の呪力によって、瞬く間に腐り果てていく――途中で、薄青色の水の塊となって流れ落ちた。
『〝ウンディーネ〟 《ライト》 リベレイション』
「胸糞悪い……ッ」
レイヴンは偽神像の直上、ほぼ天井付近の高さに跳躍していた。悪態とともに〝幻惑する水精霊〟の小瓶を吐き捨てながら、その眼と髪を銀に染める。同時、《聖気》の燐光が燃えるようにレイヴンの両脚を包みこみ、地母神の骸骨鎧を形成する!
「全力全開ッ……貫き徹すッ!」
『〝ドゥルガー〟 《ライト》 リベレイション! エクスキューション!』
白き神骨の
そして顕現するのは、巨躯の偽神像と比べてもなお巨大な、燃え盛り煌き輝く《聖焔》の左脚。全ての悪鬼を一蹴の下に蹴り砕く、荒ぶる地母神の破城槌!
『「ドゥルガーラム・エクスキューション!」』
地を叩き割るような衝撃が、偽神像の顔面に叩きつけられた。続いて、爆裂――燃え盛る《聖焔》によって極大化された〝カーリーの脚甲〟による渾身の
「あぶぅう……」
狂える偽神像は砕けない。
だがしかし、それで諦めるレイヴンではない。すでにレイヴンは地に降り立っていた。右腕を大きく後ろに引き込み、強く地を踏みしめる正拳の構え。
その眼は黒紫、髪は漆黒。右腕にはすでに顕現している、黒き龍骨の霊源機関!
「まだまだぁっ!」
『〝ドゥルガー〟 【ダーク】 リベレイション! エクスキューション!』
「ブチ抜けぇええええッ!」
夜闇のように重く渦巻く漆黒の【魔焱】が、黒き地母神の怒りが、霊源機関に導かれ〝ドゥーガの鉄拳〟を極大化する。膨れ上がった【魔焱】の渦がめらめらと燃え盛り、レイヴンの右腕は今、星をも掴むほどに巨大化した。
そして炸裂するのは、全ての悪鬼を天の彼方まで撃ち貫く、怒れる地母神の破城弓!
『「ドゥルガーバリスタ・エクスキューション!」』
大気を激震する大轟音! レイヴンが全霊の力を込めて突き出した黒き大鉄拳は、肘のあたりから【魔焱】を噴き出し、猛烈な勢いで飛びだしていった。
「ぅあうー?」
偽神像は美青年の顔に虫を苛め殺す幼児のような笑みを浮かべ、自分の腹部に突き当る破城弓を両手で掴んだ。そして無造作にそれを真っ二つに引きちぎり、投げ捨てる。捨てられた破城弓の残骸は数度の小爆発を起こして機能を停止、濃い紫色の炎を上げて燃え、もはや武装としての役割をなさない。
「ばぁ! あーう!」
偽神像は再び両手をついて四足歩行の姿勢に戻り、レイヴンを睥睨し嘲笑した。紫色の炎に照らされたその顔にあるのは、「つぎはなにをしてあそぶ?」とでも言いたげな無垢なる邪悪だ。自分から手出しをしてこないのは、遊んでいるのか試しているのか……いずれにしても、余裕の表れ。
「これほどのゴリ押しでも、ダメとはね……
『……おかしい』
悪態をつき血混じりの唾を吐くレイヴンの背で、パンドラが呟いた。
『レイヴン。彼奴、やはりおかしいぞ』
「そうね、知ってるわ。
『そうではない』
「……?」
レイヴンは〝ドゥーガの鉄拳〟を
レイヴンは口でスライドを引き、初弾を装填しながらパンドラの言葉を聞いた。
『昨夜のサンダーボルトとやらの時もだが、彼奴らには気配がない。《聖気》も【魔力】もそのどちらも、彼奴らの体内には微塵も気配が感じられぬ。それ故、昨夜も気づかぬ内に肉薄されたが……』
「そーゆーキメラなんでしょ、あのショゴロイドって奴が」
『得心がいかぬ。身の内に霊気を持たぬのに――』
「だから、そーゆーモンなんじゃ……」
『――なぜ、ああも強力な障壁を展開できる?』
「……!」
パンドラの言わんとすることが、レイヴンにもわかった。
薪がなければ火は燃えない。《守護光盾》にしろ【魔導障壁】にしろ、対応する属性の霊気がなければ、展開できるはずもない。だが、昨夜のショゴロイドもこの偽神像も、霊気の気配は欠片もない。特にこの偽神像に至っては、大いなる《熾天使》の《聖気》と億千万の【悪魔】の【魔力】を呑み込んでいるはずなのに――つまり、
『推測するに彼奴らは、どこかに膨大に溜め込んだ霊気を受け取って、己の力とするのだろう』
「どこか、って……ふふ。あなたのそういうとこ、嫌いじゃないわ」
『ふん。好きに言え。ゆくぞ、レイヴン』
「ええ、そうね……!」
傷だらけのレイヴンの顔に、笑みが浮かんだ。ただしそれは、口の端を吊りあげ、戦意に満ちた瞳をギラつかせる、狩人のそれ。
どこかに溜め込まれた膨大な霊気。大いなる《熾天使》と億千万の【悪魔】から蒐集した霊気。おぞましき偽神像を駆動させる呪われた霊気。それが溜め込まれているどこか……
それが、ここ――教団本部地下不可侵聖域以外の、いったいどこだというのだ?
「仕切り直しよ!」
両手の黒死銃を偽神像に向け構え直すのと同時、一瞬にしてレイヴンのコートは呪化黒帯へと解け、そしてまた再構築。コートを袖で腰に巻きつけ、パンドラをガンベルトに吊るした形へとスタイルを変える。髪と眼に散る黒紫の燐光がその明度を増し、爛々と燃え輝いた。
「ぁぶぅぅぅうあぁぁぁぁああああああぁぉぉおおおぉえぇぇっ!」
待っていても「あそんでくれない」獲物に痺れを切らしたのか、偽神像は苛立たしげに吼え〝肉の触手〟を吐き出した。
レイヴンはそれを真っ直ぐに見据え、腹の底から雄叫びをあげる!
「手当たり次第にぃっ……ブッ、壊したらアアッ!」
『〝オニキス〟 【ダーク】 エクスキューション!』
『「ブラッドゲイル・ショットガン・エクスキューションッ!」』
ドドドドドドドドドドドドドドンッ! 十四連射された黒死の魔弾は一瞬のうちに数千数百もの致死の黒爪へと分裂、それぞれがまるで獲物を狩る猛禽のような勢いで、全方位へと飛び散っていった。
床に転がっていた実験器具の残骸を貫き、燃え残っていた触手の腐肉を切り裂き、【地獄門】の円環構造物に突き刺さった。【貫通】と【致死】の指向性呪詛を孕んだ黒爪は、その進路上にある全てのものを破壊し尽したが、偽神像はまだら模様になった《光盾》と【障壁】とに一部の隙もなく防護され、その巨躯に一切の傷はない。
しかし、この一撃の目的は、そうではない。
「……そこかっ!」
ぐるりと巡らせたレイヴンの眼が、それを捉えた。黒爪に引っ掻かれた裂け目から、その身に充満した霊気を血潮の如く溢れ出させる、不揃いの円柱を。
そう、考えてみれば簡単な事だったのだ。この不可侵聖域に据え置かれていたものは、残骸と化した実験器具と、【地獄門】たる円環構造物、そして生贄の巫女の慣れの果てが彫り込まれた不揃いの円柱の三つのみ。周囲に転がる実験器具はもはや機能を果たさず、床一面に広がる【地獄門】はパンドラの〝欠片〟なのだから、残るは――偽神像の生命線、膨大な霊気の貯蔵タンクは、不揃いの円柱に他ならない。
「パンドラっ!」
『〝ギロチン〟 【ダーク】 リベレイション!』
両手の黒死銃を叩き込むと同時、〝ザンシュフの処刑鋸〟へと変形したパンドラを引っ掴み、レイヴンは地を蹴り跳躍した。その行く先には虚空足場が次から次に展開され、レイヴンは黒紫の燐光の尾を引き一直線に宙を駆ける。刃のようなその視線は既に、不揃いの円柱を見据えている!
「あぶあああぁぁぁあぁう!」
その様子に危機的なものを感じたのか、偽神像は背部中央、天使であれば翼が生えているあたりの皮膚を突き破るようにして、さらに四本の〝触手〟を出現させた。計五本の〝触手〟たちが宙を駆け抜けるレイヴンを追撃するが、レイヴンは虚空足場を三次元的に展開、超人的な跳躍力による立体機動で全ての攻撃を回避。追いすがる〝触手〟の歯は、足場の残滓を噛むばかりであった。
「まずは……」
レイヴンは鋭角的な軌道を描いて大きく跳躍、不揃いの円柱を眼前に捉えた。そして間を置かず、アクセル全開、オーバーヒート直前まで
「ひとぉぉつッ!」
十メートルはあろうかという円柱の最上部から、【地獄門】と直結したその根元まで。その中ほどに彫刻された女神像――右太ももに〝刻印〟をされた、幼い少女――もろともに、脳天から一直線に叩き割る。その刹那、爆発的に溢れ出した膨大な霊気が、瞬間的な《過剰祝福》と【奈落堕ち】を引き起こした。
やめてパパ! いいこになるから! わたし、いいこになるから! おねがいパパ、ママをいじめないで! ママをなぐらないで! ママを……ママを殺さないで!
「ぐっ……これ、は……!?」
もうやめて……もうやめて……パパ、やめて……わたしは、ママのかわりじゃないよ……わたしにママはできないよ……やメてよ、おネガい……ワタしを愛しテ……愛シて……愛して、くレなイナラ……殺スヨ?
「ゥぼおおォあああぁぁぁぁあああぁアァァッッ!」
刹那を数十倍にも引き延ばしたような感覚は、唐突に掻き消えた。我を取り戻したレイヴンの耳に届いたのは、野太くも妙に子供じみた絶叫、そして、肉が爆ぜ血がぶち撒けられる粘着質な破裂音。
「くっ、そ……っ。何だってのよ、今のは……」
『巫女の、記憶……だとでも言うのか』
脳内に流し込まれた強烈な感情と記憶の奔流を意識の外に押し出しつつ、レイヴンは両断され崩れ落ちる円柱から距離を取る。【地獄門】の円周、円環構造物の上を逆時計に駆け抜けながら偽神像に目を向ければ、気の悪くなるような破裂音の発生源は明らかだった。
苦しみにのたうつ偽神像の、右太ももが――両断した女神像の〝刻印〟と同じ位置が、内側から皮膚を捲り上げるようにして爆ぜていた。抉り飛んだその傷の奥には、霊源機関の残骸らしい有機的な物体が、濁った血潮と酷い悪臭のする煙を噴いている。黒く濁った血潮は、肉を腐らせる呪いの粘液。酷い悪臭は、霊気の防御を失った偽神像自身の肉が腐っていく臭いだ。
「あぁぁアアっ! ぎあぁァぁぁぅウうううぅッ!」
そもそもが、あの巨体である。そもそもが、生命として歪である。膨大な《聖気》と莫大な【魔力】で以って無理矢理に不条理に外道に誕生した、尽きる事無く呪っても呪いきれない、澱みの底から産まれる生命なのだ。その〝歪み〟を支えるだけの霊気が失われれば――無論、必然、拉げて捩れて潰れて爆ぜる。
『各部位に同調する巫女の〝刻印〟が彼奴に力を送る、か。迂遠な小細工よ』
「ふん、女を喰い物にする野郎には、せいぜいたっぷり苦しんでもらうわ」
レイヴンは血混じりの唾を吐き捨てながら、円環構造物上を走る。柱に刻まれた女神像の〝刻印〟と、同じ位置が破壊されるのなら……!
眼前に迫った円柱に彫り込まれた女神像、その左太ももに〝刻印〟があることを確認し、処刑鋸を大きく振りかぶった、その瞬間だった。
「次は、左をいただ……ぐっ……?」
――くらり。力が、入ら、な……!?
突如、足もとがふらつき、視界が緋色に歪んだ。頭の真ん中からすっと体温が消えて、手足の疲れを感じなくなったが、それ以外の感覚も同時にすべて消え失せる。足腰に力が入らず、踏ん張りがきかない。
『レイヴンッ!』
「……っ!?」
パンドラの叱声に我を取り戻すが、すでに眼の前には〝触手〟がその大口を開け、涎塗れの歯列が、レイヴンの頭に喰らい付こうとしていた。
「畜生ッ!」
レイヴンは咄嗟に身をかわすが、その左肩を牙が掠め、肉が数センチほどの深さまで抉り取られた。同時、燃えるような熱さとともに、自分の肉が猛烈な勢いで腐っていく、言いようもない悪寒と激痛が襲いかかってきた。腐蝕の呪いに身を犯されていくその感覚は、強姦に等しい。
『この腐蝕、侵食性だ!
「うっさい知ってるまどろっこしい!」
追い打ちとばかりに突っ込んできた〝触手〟を、跳躍して回避。レイヴンは奥歯をぎりと噛みしめて、処刑鋸の刃に、腐っていく自分の肉を押しあてた。そして、
「ぐっ、ゥ、があああぁぁッ!」
鋸刃を回転、削ぎ落す! 即座にパンドラが吐き出した呪化黒帯がその傷口を覆い隠すが、出血は甚大。最小限に抑えたとはいえ、またも、左腕へのダメージ。再び視界に緋色の霞がかかりレイヴンが膝をついてしまったところへ、まるでハイエナのように、大口を開けた〝触手〟が喰らいついてくる!
「パンドラ!」
『リベレイション!』
次の瞬間、すっぱりと首を噛みちぎられたレイヴンの死体は噴水のように血を撒き散らし、壊れた糸操り人形のように宙に舞った……が、それはすぐに薄青色の水飛沫となって弾け飛ぶ。
「これでぇ……」
レイヴンは〝水精霊〟の小瓶を口の中に溜まった血と共に吐き捨てながら、〝触手〟の背を蹴って跳躍した。その身に纏う燐光を煌く《聖気》の白銀色に変化させ、同じく白銀色に
「ふたぁつッ!」
そして、渾身の気合とともに、左太ももに〝刻印〟をされた女神像――全身に酷い火傷の痕がある――の胸のど真ん中へと、聖銀の処刑鋸を突き込んだ。