セイラム第一街区、市民居住区。セイラムが恒久封鎖される直前まで、富裕層が生活していた一等地である。しかしそんな過去もデモノハザードと二〇年の年月に風化して、現在では、魔都にありながらまだ人の道を踏み外せない住人達が比較的良心的に暮らしている、他の街区より多少は治安がいい程度の地区である。
しかしそれも、人の間、昼の間でのこと。半分以上が廃墟と化したかつての高級住宅街には、夕暮れ時ともなれば早くも【闇】が蟠り、人肉を求める悪魔たちが跋扈し始めるのだ。
【;mvフイdqcmオデmヴェイ@ア唖ァァ!】
耳を裂くような高音の断末魔を上げ、一体のイウヴァルトが縦に三つに切り裂かれた。レイヴンは淀みない動きで両手の剣を切り返し、背後に迫ったもう一体の触手を斬り落とす。痛みに怯んだその顔面を踏み台にして空中に翔け上がり、家の壁面に張り付いていた一体へ、神速の連続攻撃。二刀一対の黄金剣が一息に十数合も閃き、魔蟲は細切れ肉へと成り果てた。
「一口サイズには、ちょっと大きかったかしら」
――〝黄金剣コラーダ&ティソーン〟。まったく別の地方に住む、一度の面識も持たない二人の刀鍛冶が、同時に剣神の啓示を受けて鍛えたとされる黄金の宝剣。時の王族や権力者達の手を渡り受け継がれてきたこの剣は、それぞれが非凡なる悪魔殺しの能力を持ち、二刀一対となることで【魔王】さえ瞬きの内に斬り殺す、神速の双刃である。
地上のイウヴァルトたちが一斉に猛毒の粘液を吐きだすが、レイヴンは壁を蹴って飛びあがり、回避。落下と同時に、先ほど触手を斬り落としたイウヴァルトの脳天に二本の黄金剣を突きたて、絶命させる。剣を引き抜くと同時に、粘度の高い体液が傷口から噴き出すが、双剣は黄金の《聖気》を微塵も曇らせず、髪と瞳は銀に煌めく。
『残敵、
「胸ヤケしそうね。ま、いただくけど」
背中のパンドラに、レイヴンは半分笑って答えた。煉瓦敷きの道路を双剣の切っ先で引っ掻きながら走り、密集する下級魔蟲どもの中心へ、疾風の如く飛び込んだ。走り抜けながら昆虫のような脚を次から次に撫で斬りにし、振り下ろされる鎌を聖剣コラーダで防ぎ、光剣ティソーンで脇腹を一斬。ひるみ、力が緩んだところで鎌を弾きあげ、無防備な顔面にさらに一斬。身体ごと回転し左右二連斬。振り返り、背後の敵に右左二連斬。さらに回転して二連斬。回って連斬。連斬・連斬・連斬・連斬連斬連斬連斬連斬連斬連斬連斬連斬連斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬――
「あんたで最後よ!」
細切れ肉塊の中から高く跳躍、自由落下の勢いを加えての、大上段二重唐竹割り。きれいに三枚おろしにされたイウヴァルトの屍は一瞬で炭化、瘴気の霧となって消え去った。
「……ごちそうさま。味はともかく、お腹はいっぱいだわ」
『美食とはほど遠いな』
黄金剣を軽く振って血払いをし、パンドラに収める。《聖気》の燐光が花弁のように剥がれ落ち、レイヴンは金髪碧眼の姿に戻った。パンドラを左手で掴み、肩に担ぎ提げるいつもの姿勢へ。レイヴンは一度ぐるりと辺りを見回して、彼らの気配がするあたりに向けて、大声を張り上げる。
「セラー、見てたんでしょ。報酬をよこしなさい」
「ガハハハハ! やはり、いつ見ても良い手際ダ! オレたちは良いお客サンを掴んだゾ。ガハハハハ!」
バカでかい嗄れ声で応え、三階建ての屋敷の屋上から飛び降りてきたのは、筋骨隆々の大男。ごちゃごちゃしたガスマスクはあの小柄なセラーと同じだが、布のかぶり物までサイズが同じなので、胸のあたりまでしか身体を隠せていない。その下は、ゴリラのように逞しい裸の上半身に堅そうな革手袋、ポケットだらけの迷彩柄ズボンと登山靴。一見すると、ただの変態である。
大柄なセラーは煉瓦敷きの道路を靴の形に陥没させて着地し、ズボンのポケットの一つからメルテ紙幣を束で掴みだして、レイヴンに押し付けた。
「これ、お客サンの取り分ダ。一割、オレたちの取り分は引いてあるゾ。あと、あそこの残骸は、全部オレたちがいただくゾ」
セラーが指さしたのは、レイヴンが殺した【悪魔】の残骸。炭化し、瘴気化して砕け散っていく死体の中に、【牙】や【爪】など、魔法薬の原料ともなる遺物が埋もれている。
「好きになさい。どうせ、あんたたちに売るしか使い道ないもの」
黒魔術や錬金術の知識を持たないレイヴンにとっては、無用の長物だ。レイヴンはメルテ紙幣を受け取り、足早にその場を去った。それが合図だったかのように、周りの家々の雨戸や鎧戸がそろそろと開けられ、怯えきった表情の人間たちが顔を覗かせ始めた。今回の依頼は、おそらくこの地区の住人たちからのものだったのだろう。
レイヴンがセイラムに来て、十日。悪魔殺しの力を持つ少女がいるという噂は、じわじわと街に広がっていた。表と裏と闇の世界とを行き来するセラーたちが仲介人となって、レイヴンに依頼を持ってくるようになったのは、ここ数日ほどのことだ。
「それにしても少ないわねー、儲け。あいつら、本当は三割ぐらい抜いてるんじゃないの」
『セラーどもは、金に関して一切のペテンを許さぬ。他人にも、自分たち自身にもだ』
「知ってるわ。ただの愚痴よ」
紙幣をパチンと指ではじき、コートの内ポケットに突っ込む。レイヴンとて、生きている。食事もすれば水も飲む。金はいくらあってもいいのだ……しかも、いまや二人分、生活費は必要なのだから――
「わ、私の、名前は……アヤ、と、いいます……」
あの日、泣きやんだアヤの第一声がそれだった。しかしそれからまた黙り込んでしまったアヤにどう対応したものか、レイヴンは黙って向かい合っていたのだが、長くは持たなかった。空腹を感じ、コートの内ポケットから携帯食料を取り出し、齧る。もう一本取り出してアヤに差し出すと、アヤは小動物のようにびくりと身を震わせてからおずおずとそれを受け取り、少し迷ってから、レイヴンと同じように齧った。しかし、衰えきった筋肉には、硬い携帯食料を噛み砕くだけの力はなかった。
「あぁ、もう、しょうがないわね!」
一生懸命に食べようとするアヤを見ていられず、レイヴンは人差し指で眉間を叩きながら立ち上がった。パンドラを開き、鍋を取り出す。あたりにあるものを集めて火を起こし、湯を沸かす。アヤの手から携帯食料をふんだくり、沸騰直前の湯の中に放り込んだ。そして、数十秒。濃厚な栄養素が溶け込んだ、とろりと濃いコンソメ色のスープが出来上がった。
「ほら、飲みなさい」
野営用のステンレスカップにスープを注ぎ、差し出す。アヤは震える掌でそれを受け取り、口元へ運んだ。
「おいしい、です……ありがとう、ございます……ありがとう……」
「ふ、ふん。礼なんて言われる筋合いはないわ」
つんとそっぽを向くレイヴンの隣で、アヤはまた一口して、湯気の向こうで涙をこぼす。それはまるで、せっかく摂った水分を、そのまま涙に変えているようだった。
――それが、ふたりで摂った最初の食事だった。以来十日、レイヴンはアヤを放りだそうともせず、廃教会で一緒に生活をしていたのだ。パンドラは特に何も言わなかったが、内心ではどう思っていることか。
「あ、あの、おかね……」
歩くレイヴンに、下の方から声をかけるものがあった。ふと見下ろすと、浮浪児だろう、身体中が薄汚い埃に塗れた、五、六歳ほどの女の子だった。コートの裾をきゅっと握り、もはやその形で固まっているらしい、同情を誘う悲しげな瞳でレイヴンを見上げる。
「なんでもしますから、おかねをください……どんなことでもします……」
レイヴンは人差し指で眉間を押さえ、女の子の手からコートの裾を剥ぎ取った。女の子の前にしゃがみ込み、パンドラを地面に置く。
「悪いが。恵んでやる金はないんだよ。……何か、売りもんがあるなら買うけどね」
『何を言う。乞食の子供から買うようなものなど、何一つ』
「うっさい」
殴られ、パンドラは仕方なく黙る。レイヴンの言っている意味が分かったのかどうなのか、女の子はここぞとばかりにしゃべり出す。
「お、おうた、うたえます。おどり、できます。ま、まっさーじ、できます! あ、あと、いれるのはむりだけど、てでしこしことか、くちであむあむならできます!」
『…………』
「……そう」
これもまた、この腐りきった廃墟都市では当たり前のこと。この子どもは、大人と見ればとりあえず、そのセリフを言っているに違いない。男女の区別も何もなく、その言葉の意味も悲劇も、その行為の罪も穢れも、何も知らないそのままに。
レイヴンの沈黙を拒絶と勘違いしたのか、女の子はまた、売り込みを始めようとした。レイヴンはその唇を指で止め、反対の手の指を、三本立てた。
「あんたに言いたいことが三つあるわ。ひとつ、あたしは男じゃない。ふたつ、子どもが女を売るな。三つ……」
「やめろぉぉーーっ!」
叫び声とともに、一人の男の子がレイヴンと女の子の間に飛び込んできた。男の子はレイヴンを敵意に満ちた眼で睨みつけ、背中に女の子を隠すように立ちはだかる。兄か弟か、年は同じぐらいに見えるが……
「ね、ねえちゃんをどうするきだ、このばけものめ!」
震える脚、汗のにじむ額、くいしばった奥歯。男の子は精一杯の虚勢を張って、レイヴンに相対していた。レイヴンはタメ息をつき、パンドラを手に取って立ち上がる。
「ば、ばけもの、って……?」
「こいつ、あのあくまごろしだよ! てんしさまもころすんだ!」
「えっ……ひっ……!」
男の子の言葉を聞いて、女の子の瞳が恐怖に染まる。頭を抱えてへたり込み、「ころさないで」と小さく叫ぶ。レイヴンは一度だけ、冷めきった視線で幼い浮浪児の姉弟を見下ろし、パンドラを肩に担ぎ提げた。
「良い見世物だった。こいつをくれてやるわ」
そしてぶらりと、何でもないように立ち去りながら、二本の携帯食料を放り投げる。足元に落ちた食料を、貧困の姉弟は拾わない。
ヒトと天使を殺すモノは、【悪魔】。
ヒトと悪魔を殺すモノは、《天使》。
では、悪魔も天使も有象も無象も、殺し、殺して、殺し尽くすモノは――
――怯えろ。そう、怯えるがいい。
あたしは〝禁忌ノ娘〟。《天使》も【悪魔】も殺し尽す、〝災厄の権化〟なのだから。
「油断してた」
『そうか』
パンドラの返答に間はなかったが、余計な言葉もまた、なかった。
永久に晴れない曇天のセイラムでも、空の端では雲が切れる。しかしその雲の切れ目の向こうでは、短い夕焼けを終えた太陽が沈み……街は、夜闇に沈もうとしていた。
ぱちぱちと火の粉が爆ぜ、割れたステンドグラスへと、煙が細く昇っていく。古い聖書や、礼拝堂の長椅子を叩き壊して燃やした焚き火が、暖かく、夜の廃教会を照らしていた。
「さあ、レイヴン。もうそろそろいいですよ」
この十日で目に見えて体力を回復し、顔色も良くなったアヤが、火カキ棒で焚き火を崩した。すると中から、焼け焦げた新聞紙に包まれたモノが転がりだしてくる。
「ねえ、アヤ。私にはこれは、単なる焦げた元・サツマイモにしか見えないんだけど」
『我も同意だ。食料を無駄にしたか』
フォークの先でそれをつつくレイヴンにアヤは微笑みかけ、さらにもう一つ、焚き火の中から真っ黒焦げの塊を取り出した。
「私の故郷の食べ物で、ヤキイモと言います。濡らした新聞紙で包んだので、蒸し焼きになっているんですよ。ほら、開いてみてください」
言いながらアヤは、細い二本の棒を器用に使って、焦げた新聞紙を剥がしていく。一方レイヴンは、火から出たばかりの〝ヤキイモ〟を素手でつかみ、適当に割り開いた。瞬間、鮮やかな黄色が顔を覗かせ、しっとりとささくれ立った繊維質の断面から、ほかほかの湯気が立ち上る。人工のどんな甘味料とも違う、形容できない甘い香りが湯気に乗って鼻をくすぐり、レイヴンの腹の虫をかき鳴らした。
「ふふ。おいしそうでしょう、レイヴン?」
アヤも、布切れを使ってヤキイモを握り、割り開く。甘い香りが、一層濃くなった。立ち上る湯気の向こうで、柔らかに微笑むアヤ。今は襤褸布の服は脱ぎ、廃教会にあった古着の尼僧服を着ているので、その表情は本物のシスターのように見える。
「皮は剥いてもそのままでもいいですけど、新聞紙はとってくださいね」
「そこまでがっついちゃいないわよ」
口では言いながら、レイヴンは焦げた新聞紙を乱雑に払いのけ、皮は半分ぐらい剥いただけで齧り付いた。小さな口いっぱいにヤキイモをほおばり、もしゃもしゃと咀嚼する。
「どう、ですか?」
自分も少しずつ食べながら、アヤがレイヴンに訊ねる。
「そうね、言うなれば……」
レイヴンは口の中のイモを飲み込み、眉間に指を当てて考える。
「そうね。英国のほとんどすべての料理より、おいしいわ」
『そのイモを誉めているのか、英国をバカにしているのか……』
「それは嬉しいです。英国の料理は、フィッシュ&チップスだけはおいしかったですから」
「えー? アレ、油っこ過ぎて完食できないわ。無理。絶対無理だわ」
『貴様ら……英国人に刺されても知らぬぞ』
パンドラのタメ息とともに、アヤの口から笑い声が漏れる。レイヴンもそれに釣られて、ぷっと吹き出して笑ってしまった。
――そう、笑っていたのだ。
「あ、レイヴン、食べかすが……」
『まったく、意地汚い娘だ』
「う、うっさい! 子ども扱いするなっ」
「あら、私から見れば子どもですよ。まだまだちっちゃいですし」
「ううううっさい! 身長と胸よこせっ、東洋人のくせにスタイルばっかりよくてっ!」
『ええい、食事中ぐらい静かにできんのかこのお転婆が!』
「うっさいわねこのC級革製品が! そのジャラついたシルバーアクセ全部むしり取ってやろうか!」
そのやり取りに、またもアヤは吹き出して笑ってしまう。ツボにはいったのか、はたまた生来の笑い上戸なのか、アヤの笑いは上品ながらもしばらく止まらず、レイヴンはまたも釣られてしまう。
――笑顔。〝禁忌ノ娘〟と、〝災厄の権化〟と。呼ばれ疎まれ放浪した年月の中で、いつしか使わなくなっていた表情。レイヴンは、慣れない使われ方をしている頬の筋肉がぴくぴくと痙攣しそうになるのを感じたが、それを煩わしくは感じなかった。
瘴気に犯しつくされたセイラム第三街区裏通り、その最東端の廃教会。
今、この場所だけは唯一、魔導に汚染された魔都の中で、【闇】とは無縁となっていた。
「ぅんっ……」
熱いシャワーを頭から浴びて、レイヴンは満足そうに吐息をもらした。元々は懺悔室だったらしい狭い個室の天井にパンドラを吊るし、開いた鞄の口からは、半透明のゴム製ホースと、薄青色の硝子製シャワーヘッドが伸びている。水道管と繋がっているわけでもないのに、シャワーヘッドからは十分に熱された温水が、途切れることなく吐き出されている。
――〝幻惑する水精霊〟。いろいろと謂われがあるにはあるのだが、レイヴンは単なるシャワーとしか認識していないし、シャワーとしてしか使っていない。数あるパンドラの〝欠片〟、天地魔界に敵なしと恐れられた数々の神器・魔具の中でも、おそらく最も可哀想な一片である。
「ふぅ……」
レイヴンのシャワーは、長い。無駄な起伏のない肢体を、一点の曇りもない白磁の肌を、絹糸よりも滑らかな金髪を、湯気を上げる温水が滑り落ちていく。レイヴンはシャワーヘッドをパンドラにひっかけて、降り注ぐ温水の雨を全身に受ける。レイヴンが何も言わずに掌を向けると、パンドラもまた何も言わずに、シャワーの水圧を弱めて乳白色の石鹸を吐きだした。レイヴンは
「ん、んっ……」
胸元、左腕と泡の軌跡は伸びていき、また胸元に戻って、今度は腹から背中、そして細い腰へ。壁に手をついて左右の太もも、軽く足を上げでふくらはぎから足の裏まで、余すところなく柔らかい泡につつんでいく。鼻歌など歌いながら石鹸をパンドラに投げ込むと、再び水圧が戻り、レイヴンはただ頭から湯を浴びて、泡を洗い流していく。脇の下や太ももの内側などに泡が残るが、気にしない。ただ、肌の上を湯が流れていくその感覚を、楽しむのだ。色素の薄いレイヴンの肌も、この時ばかりは薄桃色に上気する。
『レイヴン』
いつもはこの楽しみに口をはさまないパンドラが、珍しく話しかけてきた。
『いつまで続ける気だ』
「あら、まだ30分も経ってないわ」
『もう十日だ』
その言葉に、レイヴンの表情が曇る。
「……考えは、あるわ」
レイヴンは壁に背中を預け、懺悔室の唯一の光源を見上げた。高い位置にある窓の向こうには、ほとんど消えそうなほどにか細い月が、濃紺の曇天に浮かんでいる。星光の見えないこの街では、夜の光は月一つ。魔導汚染された晴れない曇天も、【魔力】に満ちた月の光だけは遮ることができない。だからあんなにか細い月でも、冷たく煌々とした光が、地上にまで降り注いでいるのだ。
「明日は新月よ。月の光が限りなく零に近づいて、大地の魔力が最も希薄になる夜。聖気塗れの熾天使サマが降臨するには、丁度いい夜になるわ」
『それが、我が欠片と関係すると?』
「セラーに情報収集を頼んでる。誰があの刻印を彫ったのか」
レイヴンはシャワーを止め、自分が背にした壁をゴンと一つ、ノックした。壁の向こう側から「ひゃっ」と短い悲鳴が上がって、レイヴンは苦笑する。
「アヤが教えてくれれば、早い話なんだけどね」
「あの、その……」
懺悔室を左右に仕切る壁には、小さな格子窓が付いている。本来その窓は、懺悔者と神父とが顔を合わせずに言葉を交わすためのもの。今もまた、レイヴンの位置からはアヤの顔は見えなかった。
「えっと、その……お話が、あります」
胸元で指をいじいじと弄び、少し俯いて、言いにくそうにしているのが手に取るようにわかる。そんな声色だった。レイヴンは壁にもたれかかったまま、腕を組んで聞き返した。
「何?」
「レイヴン、私……」
それからまた、しばらくの間。気を利かせたつもりか、パンドラがシャワーを止めた。ぽたぽたと垂れる水滴の音だけが、等間隔に時を刻む。
その時間に何を決意したのか、アヤは急に口調をはっきりさせて、一息に言いきった。
「十日間も、ありがとうございました」
アヤは祈るように指を組んで、朽ちた板張りの床に跪き、格子窓を見上げていた。レイヴンからの返答はないが、聞いてくれていると信じ、言葉を続ける。
「もう、時間がないんです。レイヴンを、巻き込むわけにはいきません。もう、お別れをしなくては、ならないんです」
そう、巻き込むわけにはいかない。これは、私の弱さが生んだ罪。弱い私への罰なのだから。
どんなに死にたいと願っても、《天使》が私を死なせない。どんなに殺してと願っても、【悪魔】に私は殺せない。ただ、私の周りにいた人たちだけが、殺され、死んでいく。
(レイヴン……ごめんなさい、レイヴン……)
でも彼女は、彼女だけは違った。《天使》を殺し【悪魔】を殺し、《天使》にも【悪魔】にも殺されず、私を闇から引き摺りだした。私に付きまとう〝死〟を皆殺しにして、私に〝生〟を与えてくれた。私の周りでだれも死なない、十日間の〝生〟を。
――だから。だからその強さに、甘えてしまった。
「だから……ごめんなさい……」
見えていないと分かっていても、深々と頭を下げる。レイヴンからの返答はないが、仕方がない。なんの恩返しもせず、何の事情も告げず、自分は去っていこうというのだ。アヤはもう一度だけ頭を下げて、懺悔室を出て行こうとした……その背中に、ぶっきらぼうな声が飛んでくる。
「行くアテはあるのかしら」
アヤは少し躊躇して、無理やりに笑顔を作って答えた。
「公共墓地に。やりたいことが、残っていますから……ごめんなさい」
場所を告げてしまったのは、私の最後の甘えだろうか。アヤは自分の〝弱さ〟を嗤いながら、懺悔室を出ていった。
(どうせ、あと一日なんだから……)
焚き火に照らされた廃教会を見回して、少し、感傷に浸る。この十日間は、本当に平穏だった。夕刻になるとレイヴンはいなくなることが多かったが、片腕に食料の紙袋を抱えて帰ってきた。もうどれぐらいぶりになるか分からない、人間らしい食事。誰かと共にする食事。その後には、決まって長いシャワータイムを待たされて、けれど私は烏の行水で十分で。酷い寝相の悪さに脇腹を蹴っ飛ばされても、なぜか熟睡できた。
(寝相とか……あの子に、似ていたかもしれない)
もう、何年前――いや、何十年前にもなる。少しも風化しない記憶の中にその姿を幻視して、アヤは《刻印》された右手で左手の傷を指でなぞり、胸のかんざしをぎゅっと握った。そして、出入り口に刻まれた《