長い、長い入浴を終え、懺悔室のドアを蹴り開けて外に出たレイヴンは、身体中の水滴を拭おうともせず、無造作に置かれた長椅子に腰をおろした。パンドラを隣に投げ置いて、脚を組む。アヤのいなくなった廃教会に、まだ燃え残っている焚き木が僅かな熱と灯りを残していた。
『せめてタオルを巻け。湯冷めをするぞ』
「知ってるわ」
そう言ったきり、全裸のまま動こうとしないレイヴンに、パンドラはタメ息をつきながら、バスタオルを吐きだした。真っ白なバスタオルは濡れた髪をふわりと包み込み、レイヴンは半ば無意識に髪の毛を拭き始めた。
「手のかかるお嬢サンを持つと、
フゴフゴと、くぐもった笑い声。レイヴンはまだ赤熱している焚き木の燃えカスを足の指で器用につまみ、ぽーんと放り投げた。燃えカスはレイヴンの頭上を超えて長椅子の後ろに落ち、
「ああああアチチだヨー!」
小柄なガスマスク姿が、飛びあがってきた。小柄なセラーは頭のてっぺんを焦がしながらそこいら中を走り回り、手で叩いて火を消そうとする。レイヴンは片手で髪を拭きながら頬杖をつき、幼児のように慌てふためくセラーをじっとりとした眼で睥睨した。
「ねえセラー、あたしには嫌いなものが三つあるの。ジョーク・スラング・回りくどい話よ」
『好きな言葉は〝棚上げ〟か』
「うっさい」
パンドラに裏拳を叩き込み、黙らせる。そして髪をアップにまとめ上げながら、涙眼になったセラー(実際には無表情なガスマスクだが、だいたい、そのような雰囲気)をじっとり睨む。
「とにかく。あたしは今、気分じゃないの。要件はさっさと言いなさい」
そしてどこから取り出したのか、レイヴンはメルテ紙幣を数十枚の束で放りなげる。焚き火の上に落ちそうになった紙幣の束をセラーは慌てて掬いあげ、「お客サン、ひどいヨー」などとぶつぶつ言いながら枚数を数える。そして最後の一枚を鮮やかな手つきでピンと弾き、被り物の内側へ仕舞った。引き換えに薄い冊子を取り出して、レイヴンに手渡す。
その表紙には、〝インジゴ聖教義典〟の文字。そして〝翼の生えたフラスコと蛇〟の紋章。
「この紋章、街のド真ん中のアレと同じね」
「街の事実上の支配者、インジゴフラスコ教団の紋章ネ。その本、インジゴ教団の教義書だヨ」
この街の中心にそびえる、教団本部大聖堂。街のどの街区にいても、その威容は視界に入り込んでくる。中央の大尖塔頂上に輝く聖金属の紋章は勿論、聖堂をぐるりと囲む城壁にも、〝翼の生えたフラスコと蛇〟は刻まれている。信者はかなりの数がいるらしく、街を歩けば、紋章入りの青黒いローブを着た、武装神父の一団とすれ違うことも多い。
「この教団が?」
セラーは頷き、レイヴンの手元の教義書を勝手にめくって、教祖の写真が印刷されたページを開いた。禿頭、鷲鼻、細い顎。眼鏡の奥には鋭い眼光。宗教家というよりは、頭脳派軍人といった印象の壮年男性。かの有名な魔導都市アーカムシティの最高学府・ミスカトニック大学で錬金術を学び、魔導科学的錬金術理論の提唱者、天地魔界全ての霊的生物の研究者として名高い。博士号は錬金術・霊的生物学以外にも、法儀式学、紋章学など、十以上にも及ぶ。
「インジゴフラスコ教団の大教祖にして天才錬金術師、アゾット。この街で熾天使級の《刻印》を刻めるような人間、こいつだけヨ。……コレ、ソースは秘密ネ。でも、信憑性は保証するヨ」
セラーはフゴフゴと笑い、言葉を続けた。
「さらにさらに。今の教団本部、大聖堂が建っている場所。アソコ、二〇年前にこの街で起きた、デモノハザードの中心地ネ。無量大数の悪魔が沸き出した、【地獄門】が開いた場所。大聖堂の地下区画には、上級幹部でも入れない〝開かずの間〟があるらしいヨ」
『……【地獄門】と言ったか』
問うたパンドラに、レイヴンは視線を送った。
『デモノハザードに至るほどの【地獄門】。我が〝欠片〟、禁忌兵装に相違ないだろう』
「例の〝大物〟の欠片、ね」
レイヴンはにやりと口角を上げ、顎に手を当てて考える。《熾天使の刻印》を刻む力を持った教祖が、【地獄門】が開いた地に大聖堂を建てている。そして――
《Rah――――――――――――――――――――》
ひび割れたステンドグラスを突き破り、一体の下級天使(エンジェル)が廃教会へ飛び込んできた。降り注ぐ原色のガラス片の中を弾丸のように翔けぬけ、黄金の杓杖をレイヴンへと振り下ろす!
「《刻印》の女がいなくなった途端に、襲いかかってくる天使、か」
派手な破壊音は、長椅子が砕けた音。壊れた椅子の残骸には、【
「このパズル、もう少しピースが欲しいわね」
薄桃色に火照った掌が、後ろから、エンジェルの首筋を鷲掴みにした。レイヴンそのままは力任せに掌をひねり、首をへし折った。一瞬身体を強張らせ、そして力を失ったエンジェルは崩れ落ちながら光の花弁と散っていった。レイヴンは一糸まとわぬ仁王立ち、パンドラを左肩に担ぎ提げる、いつもの姿勢。そして見上げるのは、朽ち果てた天井画。
煌く羽根と聖なる《歌声》が廃教会を満たし、五体のエンジェルが、天井画を屋根ごと突き破って降臨した。エンジェル達は黄金の杓杖を振りかざし、レイヴン目指して一直線に降下してくる。
「……変身!」
『〝オニキス〟 【ダーク】 リべレイション』
パンドラの声にレイヴンの【魔力】が解放され、アップにした髪と《天使》を射抜く瞳とが、黒紫の燐光を散らした。その右手には〝ブラッドオニキス〟が、獲物を前に魔獣の咆哮を上げている!
「遊んであげるわ、トリ頭!」
裸足の足裏で床を蹴って、レイヴンはエンジェル達の高さまで飛び上がった。振り下ろされた杓杖をパンドラで受け止め、長い脚を絡めて蝙蝠のようにぶら下がる。上下逆さまの視界の中、エンジェルの腹に黒死銃(ブラッドオニキス)を連射。致死の呪弾が体内で炸裂し、エンジェルは内臓を撒き散らして下半身と離ればなれとなった。光華に散る上半身を蹴ってさらに飛び上がり、次のエンジェルに膝蹴りを叩きこむ。空中でよろけたその頭頂部にパンドラを打ち下ろし、地面に叩きつける。背後から突き出された杓杖を、体を捻ってかわし、腋に挟み込んで捕獲。老聖人の仮面に銃口を押しつけて、黒死の弾丸を撃ち込んだ。エンジェルはビクビクと身体を痙攣させて絶命。力の抜けた腕から杓杖を奪い取り、首から下だけになった身体を蹴り落とす。残った一体には、奪った杓杖で横殴りの一撃を加えて吹き飛ばし、壁に叩きつけられたところへ杓杖を投擲。胸のど真ん中をブチ抜いて磔にし、さらに頭を銃弾で撃ち抜いた。真っ赤に弾ぜる脳漿を尻目に、落下しながら風車のように猛回転。地面に叩きつけたエンジェルに、落下の加速度と遠心力とを乗せに乗せ、踵落としを突き刺した。骨の砕ける音と、臓器が潰れる感触。大きくのけぞって血反吐を吐いたその背中を踏みつけて、黒き呪弾を頭に一発。エンジェルは四肢をびくりと痙攣させ、《聖光》の欠片となって消え去った。
「おおお客サン! ドンパチするなら先に言ってヨー!」
いつの間に展開したのか、強力な守護結界がセラーを包みこんでいた。異国の神聖文字らしい複雑な記号の羅列が、円環状にセラーの周囲を取り囲み、回転している。レイヴンはウィンクで答えて、セラーに向けて黒死の呪弾をぶっ放した。
「ヒャわっ!?」
《Gjhaooo!》
セラーのすぐ背後で、エンジェルの頭が弾け飛ぶ。最後の一体が光華に散って、廃教会を満たしていた過剰な《聖気》は、幻のように掻き消えた。
「も、もう~、お客サンの仕事、いつもこんな展開になるヨー」
涙声でぼやきながらも、セラーはちょこまかと動き回り、舞い散る光華の中から《天使の光輪》や《黄金の杓杖》を回収していく。地上には存在しない聖金属製のリングや武器は、神器や魔具の材料として高値で取引されているのだ。
「あら、あんたもきっちり儲けてるじゃない」
レイヴンは未だ硝煙を燻らせる銃口で、セラーの額を軽く小突いた。重いガスマスクのせいで重心が不安定なセラーはそれだけでコロンと転がり、恨めし気にレイヴンを見上げる。
「お客サン、いい加減に服着るヨ。風邪ひくヨー」
『同感だ。恥じろ』
自分の身体を見下ろせば、タオルを首に掛けただけの全裸。
「……それもそうね」
レイヴンは黒死銃をパンドラに収納して、代わりに下着をひっぱりだした。シルクの光沢も艶やかな、飾り気のない黒の上下。一切隠そうともせずに、その場で下着をつけ始めたレイヴンから、セラーはタメ息を吐きながら眼を逸らした。
「……アレ?」
割れた窓の外、暗闇の裏通りへと向けたセラーのゴーグルに、爆炎が映った。距離は遠いが、かなり大きいらしく、はっきりと見える。
「チョット、お客サン。外に……」
ドゴォォォンッ! 遅れて轟いた爆音が、セラーの声を掻き消した。瞬間、レイヴンは跳躍、廃教会の屋根に飛び乗り、爆音の発生源を視界に捉える。
「あらあら。ずいぶん派手にヤってるじゃない」
遠く、街の西方。第二街区の中心あたりだろうか。街区のメインストリートに沿って次々と火の手が上がり、数秒遅れの爆音が断続的に轟いている。か細い月明かりだけが照らす闇夜に、炎の橙赤色が燃え上がり、火の手の先を行くように飛び回る有象無象を照らしだしていた。
【:mvフイdcmオデmヴェイ唖ァァ――】
《Rah―――――――――――――――――》
白影は《天使》、黒影は【悪魔】。爆発音と人々の悲鳴に混じって、確かに歌声と咆哮が聞こえてくる。現場はもはや、阿鼻叫喚の地獄絵図と化していることだろう。
「ねぇパンドラ。あの辺りって、何があるのかしら」
『第二街区北西。ギャロウズ・ヒル跡地、ヒルサイドタウン、それに……』
聞くまでもなく、レイヴンは半ば確信していた。あのあたりには、おそらく、きっと――
『公共墓地だ』
パンドラが言い終わるのを待たず、レイヴンは屋根を蹴って闇夜の空へ飛び上がった。か細い月をバックに急な放物線を描く、その頂点で
「〝ジャックラビット〟!」
『〝トーチャーホイール〟 【ダーク】 リベレイション』
パンドラはその鞄型の身体をガパリと開き、黒紫の波動を迸らせた。瞬間、鞄の中から無数の歯車・パイプ・装甲板、その他複雑な機械部品が吐きだされ、まるで金属製の植物が発芽するような生々しさを以って、巨大な機械を形成していく。パンドラ自身を核に据えた
――〝ジャックラビット〟。欧州暗黒の一六世紀、魔女裁判に用いられた車輪型拷問具のなれの果て。数え切れない魔女とそうでない女の怨念に染まった車輪は、狂える天才錬金術師が付け加えた無限魔導機関【
ちょうど落下地点に顕現した魔動大型バイクのシートに、レイヴンはそのまま飛び降りた。半ば車体に埋め込まれた形のハンドルを握り、エンジンを吹かす。脈打つ【逆転懐中時計】がマフラーから黒紫の燐光を噴出し、自身の万全を主張した。
「〝パンドラの欠片〟、〝インジゴ教団〟、そして〝刻印の巫女〟。繋がってきたわね」
『……教団とやらに我が欠片があるのは、間違いなかろう』
毎分数千回転で鼓動するエンジンの中から、パンドラの声が答えた。その重く、感情を抑えた響きに、レイヴンは気付けない。
「アヤの《刻印》から感じた欠片の気配、アテになったってことね」
『……そうだな。あの女、アテになるのかも知れぬな』
レイヴンはコートから双眼のゴーグルを取り出して装着。口の端を吊りあげて、犬歯を剥き出しにした。
――それは、言い訳を手にした子供によく似た顔だった。
「そう。利用価値がありそうってことよ!」
ペダルを蹴ってギアを叩き込み、物理を無視した超加速。ジャックラビットは呪いの魔女語を刻まれた車輪を竜巻の如く回転させ、黒い弾丸となって飛び出していった。
見る間に小さくなっていくレイヴンを見送って、セラーは「ぶふぉー」と長い息を吐いた。
「まったくー。あのお客サンからの仕事、命がいくつあっても足りないヨー」
ぶつぶつ言いながらも、廃教会に転がる《天使》の残骸を拾っていく。〝命以外なら何でも売る〟がセラーたちのモットー。逆にいえば、商売になるモノならば何でも買うし、何でも売るのだ。だからこそ、《天使》や【悪魔】の残骸を回収し放題のレイヴンからの依頼は、断るに断れないのだが……本日の回収品、《天使の光輪》、そして《黄金の杓杖》がいくつか。良質な聖金属は、人間界では稀少だ。メルテで九万……いや、十万は堅いだろう。
「それにしても……」
レイヴンの行動に、セラーは疑問を感じていた。
自分たちが渡した情報で、インジゴ教団と〝欠片〟の関係はほぼ確定できただろう。だったら《刻印》の女など放っておいて、大聖堂に向かえばいいのだ。明日の夜になって《熾天使》が召喚されようと、生贄となって女が死のうと、〝欠片〟には何の関係もない。上級天使の一体ぐらいなら、あの〝禁忌ノ娘〟レイヴンと、〝災厄兵装〟パンドラのコンビが本気になれば倒すことぐらいはできるだろう。大聖堂を引っ繰り返すなり掘り返すなり叩き壊すなりして〝欠片〟を回収してしまえば、この街にはもう何の用事もなし、次の〝欠片〟を探しに行けるというものだ。
……実際、あの娘(レイヴン)はそのぐらいのことは何度もやってきている。ダンウィッチではウェイトリー屋敷を木端微塵に吹き飛ばしたし、ミスカトニック大学の地下封印施設は、数年たった今もまだ、完全に修復できていないと聞く。どんな星の巡りなのか、この小柄なセラーはその度に現場に居合わせ、死にそうなメにあっているのだ。
常に〝欠片〟の回収以外に興味を示さなかったレイヴンをして、何故に今回は。特に利用価値があるとも思えない、《刻印》の女に拘るのだろうか。
「……ま、ワタシたちには関係ないことネ」
セラーは思考を打ち切り、《天使の光輪》をしっかりと紐で結えた。そして青白い【魔力】が揺らめく指先で中空に魔法陣を描き、その中に飛び込んだ。高位の転移魔法によってセラーは煙のように掻き消えて、廃教会には静寂が戻る。
誰もいなくなった廃教会に、野営用のステンレスカップが、からりと転がった。