二〇年前――古都セイラム。
古き良き時代の香りを残すこの街に、死と血と瘴気が満ちていた。
「っチェストォォォッ!」
一刀両断、冴える白刃が振り降ろされる。優雅な反りを描く細身の刃は青白い霊気を纏い、西洋の大剣にはない鋭利さを以って、肉も骨も一刀のもとに斬り伏せる。
日本刀による神速の斬撃。大上段からの唐竹割りである。
【カj;cm;いs!】
斬り裂かれたイウヴァルトは雄叫びをあげて絶命し、赤黒いタールとなって溶け落ちる。刃に纏わりつくそれを緋袴の裾で拭い取り、サヤは再び刃を構える。
今、目の前には、数匹のイウヴァルト。そして背後には――脇腹から血を流し、蒼白な顔をしたアヤの姿が。その右手には一振りの小太刀があるが、指に力はなく、握るというよりはむしろ、辛うじて取り落としていないという有様だった。
「サヤ、私も戦いま……」
「へたっぴは下がってる! あと止血!」
サヤはアヤに怒鳴りつけ、魔炎燃え盛るセイラムを、疾風の如く飛び跳ねる。
ちり、ちりん――サヤの髪をまとめるかんざしに付いた小さな鈴が、サヤの踏み込みに応えるように、音を立てた。
「せえええぇぇいッ!」
迫る鎌腕を弾きあげ、空いた脇腹に逆胴を斬り込む。そのまま刃を引いて斬り抜け、振り降ろされる触手を後ろに飛んでかわし、袖から取り出した護符を投げつけた。極東の神聖文字を描かれた護符は触手にぴたりと張り付いて、一瞬後に鬼火を噴いて霊気爆発。汚濁した血肉が辺りに散らばった。触手を失ったイウヴァルトの懐に一足で入り込み、逆袈裟に斬り捨てる。間を置かず背後の一体にも一太刀浴びせ、怯んだその顔面に切っ先を突きたてた。ビクリと身を震わせて絶命したイウヴァルトの顔を踏みつけて、根元まで埋まった刀身を引き抜き、血払いをして脇に構える。その切れ長の目が見据えるのは、突撃してくる最後の一体。
「まったく、亜米利加の妖怪って……見た目がキモいっ!」
振り下ろされた鎌腕を最小限の体捌きでかわし、カウンターの胴一閃。下腹部あたりで横一文字、切断面で体が左右にずれ、そしてずるりと滑り落ちる。忌まわしい生命力でなおもビチビチとのたうつ頭部には護符が投げつけられ、爆裂とともに塵と消える。サヤは細く息を吐きながらそれを見下ろし、懐紙で血糊を拭い、刀を鞘に納めた。
「姉ちゃん、止血ちゃんとできた?」
「なん、とか……」
サヤは乱れた髪をかきあげてかんざしを挿し直しながら、壁に寄り掛かっていたアヤに駆け寄って、肩を貸す。アヤは痛みに呻きながらも、サヤに支えられよろよろと歩きだした。
二人は寄り添い通りを歩くが、高濃度の瘴気は紫がかったスモッグとなって視界を霞ませる。かといって見える範囲には、死体と瓦礫と死体と死体……。あるものは魔炎に燃え、またあるものは濃い瘴気に早くも腐り始めている。
「ホントどうなってるんだろ、この街。満月の帝都でも、こんなには酷くないのに」
「そう、ですね……」
姉妹の視線は、遠くない空を見上げた。
どんよりと重い、黒紫の竜巻。あの方角は、街の中心部だろうか。黒々と濁った曇天を突き上げるように、渦巻く瘴気が立ち昇っている。瘴気の竜巻を取り囲むようにして、翅の生えた魔蟲が何匹も飛び回り、魔物の咆哮の様な不気味な風鳴りが、絶えず街中に轟いていた。
「大陸に移っても、逃れられたのは廃刀令だけ、か。ボクたちは結局、闇だの鬼だの妖怪だのって奴らから、離れて生きてはいけないのかもね」
「ごめんなさい、サヤ。私が亜米利加に行こうなんて言わなければ……」
「いーの、いーの! こっちに来たおかげで、剣を捨てずに済んだんだから。刀もなしに帝都にいるぐらいなら、西洋妖怪でもなんでもぶった斬ってやるっ! ……って、メチャ乗り気だったし。今も乗り気だしっ! ホント、ボク、姉ちゃんがいなきゃ何にも決められないからさっ。あのままじゃ、道場の隅で腐ってるだけだったもん」
ちり、ちりん――サヤの笑い声に合わせて、かんざしの鈴が鳴る。この双子の妹は、自分とは正反対の明るさは、同じ親の血の一体どこから来たのだろうか。双子だけあって顔立ちは良く似ているのに、サヤはいつだって勝ち気にまっすぐ前を見て笑っていて、私はいつだって自信なく申し訳なさそうに俯いている。
「サヤ……」
自分とは違い、剣才があり。自分とは違い、行動力があり。自分とは違い、強く優しい。そしていつでも共にある、最愛の妹。アヤは痛む脇腹を押えて、ぎこちなく微笑んだ。
「それでも、ごめんなさい。私、結局サヤに迷惑かけてばっかり。こんな怪我して、足手まといになって……」
「しょーがないじゃん、姉ちゃん基本的にトロいんだから。ボクの剣が届く限り、ボクが姉ちゃんを守るよ。姉ちゃんが考える、ボクが動く。ボクたちいつだって、そうやって……」
力強く腕を振り上げようとしたサヤの足もとが、不意にふらつく。二人とも倒れそうになるのを、アヤが何とか踏ん張った。
「え、あ、ゴメンゴメン! なんかちょっと、フラッとしちゃって。あはははは」
笑う顔にも、疲労は色濃い。この街に来てからずっと、不意に襲い来る悪魔たちと戦っていたのは、ほとんどサヤ一人である。さらにアヤが負傷してからは、戦いにおいては背中に庇い、歩く時には肩を貸す。さらに常時周囲を警戒し気を張り詰めているともなれば、その消耗は半端ではないだろう。
役に立たないどころか、妹に負担を強いている自分が不甲斐なく、アヤは地面を見つめるばかりである。
「ごめんなさい、サヤ。私がもっと強かったら……」
「もう、姉ちゃんは謝り過ぎ! どうせ言うならお礼を言いなさい、お礼を。〝ありがとう〟ってさ。その方が自分も相手も気持ちいい……っ!」
言葉を切って、サヤの右手が刀に伸びた。アヤを背中にかばうように一歩を踏み出し、身体全体で周囲の気配を探る。ちろちろと燃える魔炎、焦げる人肉、滴る血脂……
【@pげcmwヴぁ、gc:-スッ!】
ドガラァンッ! 煉瓦の壁を突き破り、一体のイウヴァルトが転がり出てきた。すでに何者かと交戦していたのか、鎌は折れ触手は千切れ、被った襤褸布には汚濁した体液がべったりと染み込んでいた。イウヴァルトは苦しげに呻きながらも、すぐ近くにいる生きた肉、体力回復の餌を感じ取り、盲目の牛のような動きで二人のいる方へと突っ込んできた。サヤは迷うことなく鯉口を切り、居合いの一刀で斬り伏せようとした。しかし、その時。
《Rah―――――――――――――――――》
手負いのイウヴァルトにとどめを刺そうと、壊れた煉瓦壁の奥から、一体のエンジェルが飛び出してきた。杓杖を振り上げるエンジェルを確認するも、今更刃を止められず。烈空の白刃はイウヴァルトを横一文字に切り裂き、そしてエンジェルの腕をも斬り落とした。
《Grawoooh!》
イウヴァルトは赤黒いタールとなって溶け落ちたが、エンジェルは断面から清き血潮を噴き上げて絶叫。落ちた右腕から杓杖をひったくり、力任せにサヤへと振り下ろした。
「くっ!」
背後のアヤを庇い、サヤは避けずに刀で受ける。
(お、重いっ。痩せぎすのくせに、なんて力……っ!)
骨が軋み、腕が震える。今のサヤに、押し返すだけの力はない。サヤは体を右に捌き、杓杖を左へ受け流した。そして側面に回り込み、急に相手を失い姿勢を崩したエンジェルの背中に、体ごと浴びせかけるような一太刀。背の筋肉に深く切り込むが、背骨を断つには至らない。刃を引き、脇腹を蹴って距離を取る。
《Rah―――――――――――――――――!》
人間ならば死んでいる傷だが、エンジェルは流血・吐血しながら怒りの《歌声》、左手の杓杖を振り回す。その《歌声》に呼ばれたのか、煉瓦壁の向こうから、二体のエンジェルが現れた。その全員が全員とも、普段ならば単なるゲート、もしくは供物としか見ていない人間に、明確な敵意を顕わにしていた。唯でさえ罪深き下界の生物が、神の御使いに刃を向けるとは! 単なる人間の分際で、神威の代行者を斬るなどと!
サヤはそのただならぬ雰囲気に、アヤの手を引いて自分の背中に隠れさせる。
「三匹も……サヤ、私も戦いますから……」
「へたっぴは引っ込んでる! 小太刀貸して!」
妖怪変化の類とは違うようだが……かかってくるなら、斬るのみだ。大小の二刀流、黒柄の小太刀は左に逆手で構え、サヤは地を蹴り疾駆する。縮地――刹那の内に相手の懐に潜り込む、神速の歩法――でエンジェルに肉薄。小太刀で足首を斬り付け、膝をついたその首筋に刀の一閃を走らせる。噴水のように血を噴くエンジェルから一足で離れ、次の一足ですでに別のエンジェルの懐へ。筋肉にも聖銀の装身具にも守られていない脇腹に小太刀を突き立て、右手の刀を両手持ちへ。半歩、足を引いて最適な間合いを取り、気声とともに大上段から振り下ろす。鎖骨を両断、胸の半ばまで斬り下げて刃を引いた。小太刀をぐりと捻って引きぬけば、エンジェルは縦横に血を噴き出して光華に散る。杓杖を振り下ろすどころか、振り上げる間すら与えずに早くも二体を片付けた。……正直、今、長時間はつらい。
「サヤ、後ろです!」
アヤの声に反応し、後ろを見ずにその場から飛び退く。残った最後の一体、血塗れになった隻腕のエンジェルが、もはや武器も使わず、残った一本の腕で殴りかかってきていた。大振りで、片腕ゆえに回転も悪く、大きな脅威にはなり得ない。サヤは澄んだ双眸で拳の流れを見極め、
(……ここだっ!)
腕に小太刀を突き立て、動きを封じた。拳を繰り出した前のめりの姿勢、エンジェルの白い喉元は無防備にさらされている。サヤは削ぎ落すような一閃、エンジェルの首を刎ね飛ばした。
「ふぅ……何なのこいつら。何か、鳥、みたいな……妖怪っぽくないけど」
今斬った鳥人間どもの血は、血払いをすれば刃に残らない。だがそれでも、サヤは懐紙で刀を拭い、鞘に納めた。エンジェルの首無し死体が光の欠片となって崩れ落ち、後に残ったのは――残ったのは、首筋から鮮血をだくだくと流す、瀕死のエンジェル。幽鬼のように立ち上がり、逆手に持った杓杖を振り上げる。
「サヤあっ!」
反応、振りむき、認識。刀に手をかけ、足を踏み出す。
――くらり。眩暈がっ……!?
「チッ!」
抜き打ち一閃、真一文字に両断されたエンジェルが、光となって舞い散った。しかし、聖金属の武具である杓杖は、天使が死んだとて消えることはない。
「あ、がっ……」
それは、いともたやすく。巫女装束を突き破り。さらしを巻いた胸元を、いともたやすく貫いて。突き抜けた切っ先は血に染まり、赤い飛沫がアヤの頬に散っていた。黄金の杓杖に胸を貫かれたサヤは、吐血しながら仰向けに倒れた。
「サヤ、サヤぁぁぁっ!」
アヤは駆け寄り、しかしどうしていいか分からずにへたり込む。ぴくぴくと痙攣するサヤの手を握り、ひたすら名前を呼ぶことしかできない。
「サヤ、死なないでサヤぁぁ! サヤぁぁぁっ!」
「何、これ……なんか、変……?」
瞳孔は開き、肌は蒼白。しかし、サヤは自分の心臓が、貫かれたはずの心臓が、熱く激しく脈打っているのを感じた。もはや見えない視界の中央に、眩いばかりの《光》が見えた。怒り、狂い、猛り、怒涛の勢いで迫りくる、これは一体……?
《Rah―――――――――――――――――》
泣きじゃくっていたアヤがびくりと顔を上げると、そこには《門》が開いていた。複雑な神聖文字や図形のような天使語が空中に煌々と円環を描き、十数枚もの清き翼が羽根を散らせる。しかして、その《門》が孕むのは、絶対的な怒り。罪人に永劫の懲罰を課し続ける、憤怒と憎悪の《天獄門》。
「だめ……やめて……」
一神教文化圏の生死観・宗教観に疎いアヤでも、肌を粟立たせる
あれに連れて行かれたが、最後。サヤは死ぬことすらできない。
「やめてぇぇぇっ!」
《Rah―――――――――――――――――》
人間が! 人間ごときが! 罪に塗れた肉塊が! 我ら神威の代行者に、何をしたァッ!
輝く《天獄門》を突き破るように、何十何百もの天使の腕が、溢れ出してきた。のたうつ白い大蛇の如く、腕の群れはサヤに次々と絡みつき、《門》の奥へと引き摺り込む。アヤは必死でサヤにしがみつくが、天使の腕の一本に、簡単に引き剥がされる。
「や、やめてぇっ! 連れてかないでぇぇぇっ!」
もう一度、もう一度とアヤはサヤにしがみつくが、その度に天使の腕に引き剥がされ、投げ捨てられる。
「サヤを連れてかないでぇっ! サヤっ、サヤぁぁっ!」
それでもアヤは、だらりと力なく垂れ下ったサヤの腕に、必死の思いでしがみ付いた。
「いやぁぁっ、サヤぁぁぁぁっ!」
ずり、めり、ずるりと、《向こう側》へと引きずり込まれていくサヤの瞳に、もはや正気の色はない。半開きになった口元からは泡混じりの涎を垂らし、極彩色に煌く狂気の光に撹拌された意識の中で、無限に続く拷問のような快楽にすでに犯され始めている。
暴力的な、暴走的な、暴虐的な《聖気》の奔流よる《
「ねヱ……ちゃン……」
「サヤっ!」
微かに聞こえたその声に、アヤはサヤの顔を見た。そしてその時、アヤは確かに見た。正気の光を失った眼で、サヤが、確かに微笑んだのを。
「……あリが、とウ」
ちりん――手の甲を貫く、鋭い痛み。サヤのかんざしが、アヤの左手に突きたてられていた。
「……っ!?」
痛みに怯み、手を放す……いや、放してしまった! 瞬間、天使の腕たちが、一斉にサヤを《門》へと引きずり込む。いくら叫んだとて、もう遅い。
最後の力を振り絞り、アヤにかんざしを突き立てた、その手が。
最期にアヤの頬を撫で、そして――
「サヤぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
――《門》は、閉ざされた。
いつしか、雨が降っていた。針のような氷雨は墓石をしっとりと濡らし、それを撫でるアヤの表情は、濡れた前髪に隠されて見えなかった。
『《天獄》か。死ねず、狂えず、赦されず……【地獄】以上の地獄と聞く』
アヤは、黙って首肯。左手の甲に刻まれた傷痕を指で撫でる。
「その後、あてもなく街を彷徨っていた私を、教団が拾ってくれました。あの時は、街中にそんな人間はごろごろしていて……私は、一切れのパン、一杯の水と引き換えに、教団の祝福を受け、改宗を誓いました」
その頃のことは、よく覚えていない。気がつけば、自分はパンを配る側にいて、祝福を施す側にいた。日に日に胡乱な輩が増えていくセイラムの街で、教団は凄まじい勢いで勢力を拡大。幾つか年がめぐる頃には、地獄の窯に蓋をするように、渦巻く瘴気の中心地に大聖堂が建っていた。
「……そして、ある日のことです。私は大聖堂に召喚され、教祖アゾットから聞かされました。サヤの魂を解放するには、〝贖罪〟をするしかないと」
アヤの指が、右腕を撫でた。破れた尼僧服の袖から、《熾天使の刻印》が覗いている。
「《熾天使の刻印》……私と同じような生贄の巫女が、他にも数人います」
……あの日。大聖堂に集められたのは皆、何がしかの〝罪〟を背負った女たちだった。鷲鼻の大教祖は、彼女たちの前で尊大に言い放った。
我こそは、諸君らに〝贖罪〟の術を与える者なり!
我に従い、汝が時を、命を、魂を、天に捧げよ!
さすれば、罪は赦されん! さすれば、罪は赦されん!
「天界最上位天使たる熾天使、大いなるセラフィム。未だ愚かなる黄昏の人間界に、最大にして最上なる神の御使いを降臨させること。それが教団の目的で……私の〝贖罪〟だと」
大いなるセラフィムの降臨のため、その身を天に捧げる。その崇高な自己犠牲は、地上の穢れを洗い流し、全ての罪は赦される。そして、その〝赦し〟を以って……大罪の無限牢に囚われし妹の魂を、解放する。
「私が弱いから、サヤを苦しめる。こんな弱い私に、何もできない私に、サヤの魂を無限苦の《天獄》から救うことができるのなら。……私は、生贄の巫女となりました」
――祈り、唄い、踊る毎日。教団信徒たちが捧げる祈りの《聖気》を、唄と踊りを以って寄り集め、大聖堂の床一面に刻まれた神聖文字へと注ぎ込む。貪欲に信仰心を貪る召喚の法儀式は、気の遠くなるような量の《聖気》を呑み下してなお、満たされない。
高い壇上で教義を演説する大教祖、忘我の表情で祈りを捧げる信徒たち。まだ見ぬ天上の存在に陶酔しきった表情。
聖なる《刻印》に、信徒たちの《聖気》に、〝老い〟と〝死〟を奪われた踊る守護神機関となった巫女たちは、いつ果てるともない賛歌を歌い、止まることない舞踏を舞う。額に、右腕に、左腕に、胸に、右脚に、左脚に。刻まれた《刻印》によって、六人の巫女は無意識化で同期・統制された完璧なリズムでひたすらに舞い踊る。老若男女の信徒たちは、信じ切った教義に則り祈りを捧げる。
分厚い城壁と信仰の壁に護られた大聖堂は渦巻く《聖気》の坩堝となり、信仰が信仰を呼ぶ連鎖反応の高炉……《聖力炉》とでも言うべき様相を呈していた。
そして、それから一〇数年。ついに聖堂の法儀式は《聖気》に満ち、この穢れた街の【魔力】が弱まる時――新月の夜を、待つばかりとなった。
「それが、半月ほど前のことです。その日の礼拝が終わり、教祖アゾットが現れました。そして私たち生贄の巫女を、大聖堂地下……教団ではただ〝門〟とだけ呼ばれていた、不可侵聖域へと連れていったのです」
長身の大教祖すら子供に見える、圧倒的な巨大門。荘厳なレリーフを全面に施されたその威容は、その奥に眠る邪悪な本性を無理やりに捩じ込めるかのように、圧倒的な神聖さで塗り固められていた。
――この門をくぐる者、全て希望を捨てよ。
大教祖は巫女たちに告げ、厭らしく嗤った。中央に彫刻された大天使像を割るように、濃い青緑色の光が射した。門が左右に開かれて、不可侵聖域が暴かれる。突如現れた教団の武装神父に急きたてられ、天然の地下空洞を利用したらしい広い空間で、生贄の巫女は目の当たりにする。自分たちが時と命と魂を捧げ、踊り狂った足元に、一体何があったのかを。信徒の祈りを煮詰めた《聖気》が、《聖力炉》に渦巻く白銀の光が、そこで何を産み――この忌まわしき被造物を、生命と言えるのなら――育んでいたのかを。
この直後から、アヤの記憶は断片的になる。
青緑色の光の中に、無数に並んだ試験管。その中で蠢く胎児型のなにか。
窯に沸騰する《聖気》の蒸気。炉に灼熱する【魔力】の胎動。
異次元の色彩で明滅し、低く鳴動する円環状の構造物。
磔にされる巫女たち、迫る武装神父の掌。
逃げ出した背中に、声が聞こえる。
追うな。どうせ、行き場はない。
逃がせ。どうせ、死にもしない。
あの《刻印》が、ある以上は。
ただ生きもせず、死にもせず。
最期に贄と、なるのみだ。
我が宿願の、生贄と!
「教団の……教祖アゾットの目的は、熾天使の降臨などではありません。もっとおぞましい、忌まわしいなにか。私には想像もできないような、凶々しいなにかです。そして、自分がその一翼を担って……いえ、鍵となる存在だと知りました」
教団を離れ、セイラムを逃げ回り。その先々で《刻印》は、《天使》と【悪魔】を呼び寄せた。憎むべき刻印者を殺さんとする悪魔と、護らんとする天使。両者が戦うたび、他人(ひと)が血に塗れ死んでいく。《天使》の血を浴び、【悪魔】の臓物に塗れても走った。逃げた。止まれなかった。しかし、何も知らぬ街の人々がそれに巻き込まれ、意味も知らぬまま死んでいく、その事実だけは。走っても走っても、影を踏むように離れず、アヤの心を蝕んだ。無限とも思える逃避行は、儚くも三日ほどでアヤの心を壊し、そして彼女は、奴隷商人の手に落ちるところとなった。
「だから、死のうと思ったんです」
アヤは突然、胸に下げたかんざしを――かつて自分の手の甲を貫いた、サヤの形見を――自らの喉元に突きつけた。
「私なんて、死んでしまえばいい……そう、思ったんです」
私が死ねば。教団の計画は頓挫して、あの恐ろしいなにかは完成しないだろう。
私が死ねば。これ以上、私のために悪魔に殺され天使に喰われる人もないだろう。
でも、私が死ねば、〝贖罪〟は。サヤは、サヤの魂は――
「……もし本当に、この贖罪でサヤが赦されるのなら。そう考えると、死ぬこともできない……これは、私の〝弱さ〟が生んだ罪。私の〝弱さ〟への……罰なんです」
降り注ぐ霧雨が、ひび割れた墓地の黒土を、より黒く濡らす。濡れるがままのアヤの髪から水滴がぽたりぽたりと落ち、そして頬には、別の水滴が伝っていた。力なく握った掌から、《刻印》された右の掌から、かんざしは今にも取り落としそうで、頼りない。
「途中で天使に殺されればいい。悪魔に喰い殺されるなら、それでもいい。そうやって、殺されて罰を受けるべきなんです、私は。……あなたと別れて、最後の甘えも振り切って。でも、それでも死ぬことができませんでした。自分で自分に罰を与えることすらできなかったんです」
それは、自嘲なのか。嗚咽混じりの嗤い声が、喉から漏れた。
「……私が、決断を先延ばしにしたから。死ぬ勇気を持てなかったから。私がもっと早く死ぬ勇気を持って、教団から逃げてすぐにでも死んでいれば、死なずに済んだ人たちも、いたはずなんです。私がレイヴンの強さに甘えて、巻き込んで、決断しなかったから……罪を償わなかったから……」
アヤは立ち上がり、ゆらりとレイヴンに振り向いた。レイヴンの顔はやや俯き加減で、濡れた前髪に隠され、表情は見えない。
『それで、どうするのだ』
レイヴンに代わって、パンドラが重々しく訊く。アヤは返答代わりに、かんざしの切っ先を深く喉に押しつけた。首筋に、細く血が垂れる。
「だから……ごめん、なさ――」
「うっさい」
パァン――乾いた銃声。
「ごちゃごちゃうっさいのよ、罪とか罰とかなんだとか」
硝煙揺らめく黒死銃の向こうで、レイヴンの眼光が矢のようにアヤを射抜いた。
レイヴンの撃った銃弾はアヤの手元を掠めて飛び、その衝撃の余波で、アヤはかんざしを取り落としていた。
「あ……」
アヤは糸が切れたように、墓石に背を預けてへたり込んだ。その胸元で、鎖に繋がれたかんざしが、ちりちりんと小さな鈴の音をたてながら揺れている。
「アンタに謝られると、すっごい気分が悪いのよ!」
レイヴンは言いながら、自分でも意味が分からなかった。
人間の生き死になど、あたしの知ったことじゃない。
あたしはただ〝欠片〟を集めて、あたしとパンドラの〝契約〟を果たすだけ。
人間なんて、【魔力】も《聖気》もろくに持たず、数ばかり多くて、醜く弱い。
ただ【悪魔】の餌にされ《天使》に使い捨てられ、それだけで失われる脆弱な生命。
だがしかし、なぜかアヤが「罪」だの「罰」だのとか言いだした時から、自分の内面に初めて、人間の生き死にに、何らかの感情を抱いていた。
死ねばいい。死にたきゃ死ねばいい。生きる意思がないのなら、この狭い地上界に一瞬でも場所を取らずに即刻消え失せてしまえばいい。生きる意志のない生命など、今すぐ手放してしまえばいい。生きたくても死ぬ命さえあるぐらいなのだから、死にたい命は死ねばいい。
――だけど、アヤは嫌だ。
「要するに、教団をブッ潰せば良いんでしょ。あたしは〝欠片〟が手に入る、教団の計画はブッ潰れる、アンタは生き残って、妹の魂を救う方法でも探しなさい。贖罪で魂を救うなんて、どうせリップサービスなんだから。教祖サマとやらをぶっ殺せば、アンタの《刻印》も意味を失くすわ。あら不思議、教団潰せば全部解決!」
正体のわからない感情に苛立ち、人差し指で眉間を叩きながら、まくしたてる。まるで聞き分けのない我儘な小娘だと、自覚する。でも、理由が分からない。……分からない!
黒死銃をパンドラに放り込み、立ちあがり、担ぎ提げる。大股にアヤに歩み寄り、乱暴にその手を差し伸べた。
「レイ、ヴン……」
霧雨を透かして、か細い月光が降り注ぐ夜。ただ無言で差し出されたその掌に、アヤはおずおずと掌を重ね――
「ゥンンンブォラァァアアアッッ!」
風圧と、着地音。無数のボルト電極を埋め込まれた岩石のような拳が、無防備なレイヴンの顔面に叩き込まれた。脳が揺れ、視界が回る。歪んだ景色の中でレイヴンは、辛うじて敵の姿を捉える。青黒いローブ、二メートル超の大男――頬に突き刺さったボルトの先端で黒紫の雷光が弾け、レイヴンは視界を真っ黒に塗り潰された。