しばらく行っていなかった、漫画やDVDをレンタルできる店。その自動ドアが開いた先にはショーケースに入った商品が見える。たしか昔は漫画やDVDをレンタルする度に溜まるポイントで中に入っている物をもらえた気がするが、どうだったか。
一階は最近カードゲームで遊ぶためのスペースになっている。結構前に二階に同じようなスペースがあり、それが消えたかと思えば一階に移動してきたのだ。そのせいで元々一階に置いてあった漫画の整理が追いついていないらしい。
目的は漫画の立ち読みなので二階へ向かうべく階段を上る。道中見える本棚だったはずの場所は鏡になっていた。映る自分の姿を確認できなかった原因は、異様に高い天井を映す鏡の上へ上へと気を取られていたからだろうか。
この場所に鏡なんてなかった。天井はこんなに高くなかった。
階段を上りきると赤い絨毯の敷かれた円形の部屋へすでに全員が集まっていた。初対面の中に一人で入っていくのは緊張するが、初めが肝心だと思ったのでそばにいた人に声をかける。
「怖くない?」
私に話しかけられて振り向いた少女は、名を島風という。知っているのだ。
「別に。あのおじいさんが怖いの?」
言われてみれば、私はこれからおじいさんに会う気がしてきた。気がするどころか、私は白く長い髭と大仰な杖を持った、仙人のようなおじいさんに会いに来たのだ。
ここにいる全員が生きて帰ることはできないだろうと直感した。何人が生き残るのかなんてわからない上、そもそも一人でも生き残ることがあるのかさえわからない。だが私は死ぬ気なんてない。
しばらくすると何処より声が聞こえた。声が降り注いでくる、という表現が正しそうだった。姿は見えずとも、あの仙人が喋っているのだとわかった。
そうとわかると、まるで目の前に彼の映像が見えているような気になる。自分以外はその映像に背を向けているか見向きもしていないので、やはり私にしか見えていない幻のような物なのだ。
「よく来てくれた。まぁ、まずは右へ進んでくれ」
右? この部屋には一つの出入り口しかなかったと認識していたが、気のせいだったらしい。よく見ると右側に長々と続く通路が見える。
初めに通路の存在にまったく気がつかなかったのは、いかんせんこの部屋が暗すぎるのだ。部屋の円周にまで光が届いていない。
通路は横幅は広いが、長々続くと言っても先が見えないほどではなかった。左右にパン屋や教室が見えたので、ちょっと歩いているだけで楽しくなってくる。教室が何年何組の物かは知らないけれど。
パン屋には店員らしき人がいたが、開店はしていなかった。教室に人がいたかは、今さっき見たはずなのに憶えていない。
突き当たりまで来ると左右の分かれ道になっていた。右へ行けば再び長い通路、左へいけば特別教室のドアがある。それが理科室なのか家庭科室なのか技術室なのか、もしかして図書室なのかはわからないけれど。たぶん保健室ではないだろう。
左側のドアへ行く途中に、壁が縞模様になっている螺旋階段があった。縞というのは、一定の間隔で縦に隙間が空くように、なおかつ人が謝って落下することはないようにデザインされているのだ。これならたしかに、階段を上り下りしている人が外からでも見える。
右と左、どちらへ進めばいいのか指示がない。おかしいなと思って、自然と左側へ集まる集団の中から抜け出し、今来た道を見てみた。
防火シャッターのようなもので閉鎖されていた。帰る道がなくなっていたのだ。嫌な予感がした。
と、予感通りに激流がどこからか流れ込んでくる。壁も屋根も床も開いた様子はなく、ただ大量の水が、私たちへの殺意を持って出現した。
「逃げろ!」
いち早くこの事態に気づいたのは私であったはずだが、声を上げたのは別の誰かだった。その声が男女どちらのものかを考える余裕もなく全員で逃げ惑う。
何の教室なのかわからない教室のドアを我先にと開いてなだれ込む人々の中で、さっき声を話しかけた島風だけは反対の方へ走りだした。
まさか右側の通路へ行くつもりだろうか。激流に勝負を挑むほど足の速さに自信でもあるのか? と思いきや、彼女が向かったのは螺旋階段だった。まるで階段ではなく坂道でも走るかのような速さで降りていく彼女を隙間のある壁から見て、助かりたければあちらだと確信した。根拠はないが、教室へ逃げ込んだ人たちは死ぬだろう。つまり、私と島風以外は死ぬ。
自分でも何段飛ばしで降りているのだかわからないめちゃくちゃな速さで階段を降りる。島風の背中が見え、下の階へと足が着いた時に助かったと安堵した。
そんな私たち二人を上の階から追ってきた激流が飲み込んだ。目を閉じて息を止めて、ぐっと耐える。なぜかは知らないが、こんなことで死にはしないと確信できるから耐えることもできる。
気がつくと全身水浸しの状態で仰向けに倒れていた。これといった特徴もない天井を確認したあと起き上がると、島風の方はうつ伏せで倒れていた。
この階の壁には一面胸の高さあたりに窓がはめられており、窓以外の部分には綺麗な花の模様が描かれている。
しかしその模様は壁紙ではないし、ペンキでも絵具でも、クレヨンでも色鉛筆でもない。であれば映像かと思えど、もちろんそれも違う。見たことのない物が自然と目の前にある違和感に嫌気が差してきたところで、背後で島風が口の端を釣り上げたのが見えた。
この時点で私は別の視点から見ている第三者だったのだ。背後にいる人間の口の動きが見えるわけがないのだから。
島風の右腕が伸び、私の肩を捉えたかと思えば軽々とそのまま持ちあげた。左腕とは比べ物にならない太さを持って伸びている腕は、彼女の足元へと私を叩きつけた。
彼女はその腕で私を押さえつけたまま馬乗りになり、私の服のボタンを乱暴に数個引きちぎった。
ボタンのある服を着ていた憶えはない。おかしいなと思ったらそいつは私ではなく、別の誰かだった。私はそれをどこからか眺めているが、これがどこなのかわからない。
ハッと気がつくと大きな鏡の前だった。漫画を立ち読みしようと、二階へ向かうために上っていた階段で見た、本棚があったはずの場所にあるあの鑑だ。
鏡には初めに映っていた高い高い天井の代わりに、本来あるべき本棚が映っていた。しかしそれはそこに存在せず、ただ鏡の中に映っているだけだった。その本棚を、本棚と垂直になるように真っ直ぐ見つめて、私はようやく自分の姿が映っていないことに気づいた。
本棚の中心だけ漫画の代わりに小さなテレビが設置されていて、それは宇宙の映像を映し始めた。宇宙と言っても、アニメーションで描かれる物だ。
私は弟をペラントという円盤に奪われたので、一刻も早く取り戻さなくてはならない。だが、まともに戦えば犬死にすることは確実な相手だ。正直、このまま逃げてしまいたいと思った。
宇宙を漂うペラントはあちらから接近してくることはなく、私は逃亡を実行しようとした。すると二階にいた店員と思われる男の声がした。
「それじゃあダメだ」
うるさいな。苛立ちを隠すことなくぶつけてやろうと思い二階を見ると、店員はいなかった。
そういえば立ち読みをすることが目的だったので、さっさと階段を上りきって二階へ行く。目的の漫画を探そうと歩きまわっていると、カードゲームやすごろくの置いてある棚を見つけた。
カードゲームは一階に置くのではないのか、とか。すごろくが面白そうな物だったら買いたいな、とか。そんなことを考えながら棚に近づくと、惣菜を入れるようなパックに土が詰められている物も発見した。
見てみると土の中に小さなシャーレのような物があり、その中には綿が敷かれ、小さめのゴキブリが主役として飾られていた。
思わず驚き飛んで逃げ出しそうになる。が、中身の奴はもう死んでいるらしい。克服するいい機会かもしれないと思い、視力的に微妙に見えるか見えないかという位置まで、目を手の平で覆って移動した。
そして、ほんの少しだけ指を開いて隙間を作り、そこから観察する。この状態なら見れなくはない。見ているパックの下には同じように土の入ったパックがあるが、さすがにそれは放っておこう。
「けひひひひ」
笑い声が聞こえた。考えてみれば、今自分は傍から見ればおかしな恰好をしている風に映るだろう。恥ずかしくなってスッと立ちあがる。そして、何事もなかったかのように歩きだす。
……はて、ところでなぜあんな場所に、あんな物があったのだろう。ここは漫画とDVDのレンタルをしている店のはずで、多くの人に忌み嫌われる害虫を置いておく必要はないはずだ。
カードゲームは最近また売り始めたらしいし、すごろくもその延長線上として見れば納得できないこともない。が、ゴキブリだけは明らかにおかしい。
「気をつけないと、ちょっと油断すると夢の中だよ」
また店員と思しき男の声がした。声のする方を向くと、今度はいた。スキンヘッドで、店の制服である青いエプロンをしている。
「けひひひひ」
今度は背後から再びさっきの笑い声が聞こえた。見ると、店員とまったく同じ容姿の人間が、服装だけ違う物を身に着けて漫画をカゴに入れて持っている。
あまりに見た目がそっくりだが、服は普通だ。単にカゴに漫画を入れ、レジへ持って行きレンタルするだけだと思う。……が、また別のところからも笑い声がする。
「けひひひひ」
目の前の店員にそっくりな男は笑っている。口はほとんど開けずに、横へ伸ばすようにして笑っている。見ず知らずの他人様を凝視してしまっていることに気づいて目を逸らすが、それでもやはり笑っている。
もう一つの笑い声を探して横を向くと、本棚と本棚の間にさっきの店員と同じ顔をした男がこちらを見て笑っていた。どいつもこいつもスキンヘッドで、口を横に伸ばすようにして笑っている。
「けひひひひ」
ここにいてはまずい気がして一階へ駆け下りる。鏡のあった場所は本来ある通りの本棚に戻っていた。
レジにいる店員も、今までの奴と同じ顔だった。目を合わせずに店を走り出る。自動ドアどころかドアなんて存在しなかったんじゃないかと思うほど、素早くスムーズに店を出られた。
少し上がった息を整えながら歩く。車道の方を車が走っているのが見える。自動ドアというかドアがあの店から消えていた気がするが、確認のために振り返ることはしなかった。
気をつけないと、ちょっと油断すると夢の中。振り返ることはたぶん油断になる。
それどころか、私は今足元だけを見て歩いているが、顔を上げれば何が油断になるのかもわからない。車道を走っている車に何かおかしい点がなかったかなんてわからない。
そういえばこの店へ来た時、自転車には乗っていなかったのだろうか。徒歩で来るにはつらい距離なのだが、もう私はそんなこともわからなかった。