別離 -PROLOGUE-
――――某日、南西諸島海域
勇み飛び出してきた一つの艦隊に大きな混乱が起きていた。
暴風、豪雨、雷鳴、全ての音が大自然の中に掻き消されて誰の声も届かない。
少女たちはその身を荒れ狂う波に打たれながらも叫び続けるが、響くのは自然の声のみ。
ごくごく簡単な任務のはずだった。
某国から出発したとある輸送船の護衛任務。当海域に出現した小規模の敵艦隊からの護衛。
しかし、天候が一変したこと。合流地点到着前に先鋒が敵の奇襲を受けたこと。
派遣された少女たちにはすべてが予測外のことであった。渡された情報と違う点が多すぎる。
現場での判断を厳しい環境の中で要求された彼女たち。必然的に生じた混乱の中で更なる問題が発生する。
巨大な波に襲われて艦隊は大きく分断される。更に安定しない足下と視界。耳から拾う音もあてにはならない。
必死に互いの名前を呼び合うものの合流するまでに時間がかかりすぎて合流地点に到着した時にはすべてが終わっていた。
だが、彼女たちはその時に気付くことになった。あの混乱の中で失われていた存在に。
そして、一人の艦娘が姿を消した。
*
路地裏で餓死しかけていたあの頃を思い出す。同じように生気を無くし虚ろな目を何もない地面に落とす影と成り下がった者たち。
異臭と死が立ち込めるこの狭い路地の光景が俺の半生を埋め尽くしてしまっている。
衣服は粗末な布一枚でろくに夜の寒さも凌げず、腹を壊すと分かっていても生きるために泥水をすすり、明日を生きるための金を稼ぐために手足を擦りきって骨と皮だけの身体に鞭を打ち、そしていつも見上げる空から日の光が差すことはない。
濃い灰色の煙雲が空を遮り、俺は空の色を知ることはなかった。
幼い子どもたちは汚れた空気に喉をやられ、咳き込む老人たちは何度も血を吐き、切り傷は腫れ上がり激痛と高熱に魘されて、腐った飯を胃に流し込んで精力を養う。
この土地の空気に咳き込まない日はない。浅黒い肌のお陰で目立たないが、透き通っていない雨に晒される身体は黒や白にところどころ変色している。
家族は居ない。居るとすれば、ここで毎日死にかけている奴らだ。まあ、そんなこと思ってるのは俺くらいだろうが。
他人の事なんか考えない。明日の事なんか考えない。何も考えない。今を凌ぐ奴らばかり。
人じゃない。人としての尊厳さえ失った生き物だ。死ねばそれが物言わぬ肉の塊になる、それだけ。
死とはそんなに複雑なものじゃない。極めて淡白なもので単純なもの。
平和であろうが平和でなかろうが、死ぬときは死ぬ。生きる時は生きる。
神様とやらが決めた時に死ぬ。どれだけ若かろうが年を取ろうが、老衰だろうが病死だろうが事故だろうが殺されようが死ぬときは死ぬ。
それが運だ。神様とやらがメモ帳にした落書き程度のものだが、人間なんてそんなものだ。
恵まれた人間たちは自分の死に価値を持ちたがる。だからこそ、生きている自分を誇らしくしようとする。他者よりより良いものにしようとする。平和を願う。幸せを求める。
そして、自分たちが本当に恵まれている人間であることに気付くことはない。
その人生が持つ価値に気付かない。
俺たちの世界にはそんなものない。価値なんてない。ゴミの方が価値がある。
自分の価値を見出せないのだ。なぜ生きているのかさえ分からない。
感覚がマヒしてしまい、毎日同じようなことをただただ繰り返すだけ。それも俺たちより前に生きていた人間たちが繰り返してきたことを真似ているだけ。
ただの繰り返し。
俺がその繰り返しを数えるようになったきっかけは本当に些細なものだった。
泥ではなく擦り切れた傷から溢れ出る自分の血で黒く汚れている足を見ていた。あの日も寒かった。
日の光が差さないこの国。雲の向こうに太陽があることさえ生まれた頃から知らないし、誰も教えてはくれない。
俺が偶然空を見上げて、自分が向かおうとしている方に目を向けて、その遠さの違いがふと気になった。
それで偶然、本当に偶然抱いた一つの疑問。
あの向こうには何があるのか。それだけだった。
その疑問が、何かを知ろうとしたことが、俺の人生に価値を与えた。
探求心。何もなかった俺の中に生まれたそれが俺の魂を強くした。
地獄とさえ呼ぶにあたわない腐った世界でも俺は夢を持った。
夢、そんな言葉を知る者なんてこの町にほんの一握りだろう。
空の色が知りたい。
それだけだ。
俺が生まれた意味を何か見出だすとするのならば、空の色をこの眼に映すこと。
それだけを求めて、俺は港まで歩いた。町の豪族の船が定期的に船を港から出し入れする。
港の周りには、異国の文化が溢れている。ごみ一つでさえ俺には知らない世界。幼い頃に気付いた俺は腹が減っても通い詰め、ゴミを集めて知識を養った。
人の声を聞き意味を考え、真似をする。並んだ謎の文字の形をひたすら指で地面に書き、法則性を見つけ出した。
俺の知識は一気に増えていき、考えに幅が生まれた。
最初は絵を見て、柄を見て、形を見て、文字を見て、文を見て……その繰り返し。
こう言う時間は空腹さえ忘れ、何度も餓死しかけては、近くの浜辺に打ち上がった魚の死骸や海草を食って生き延びた。
味は舌が痺れるようなものだったが、腹が膨れればそれでよかった。
この国ではあの空の色を知ることができない。
この町には黒と白と灰色しか色がない。
だったら、あの船が向かう場所にはどんな色があるのか。色が増えれば俺の人生もきっと鮮やかなものになる。
この町から逃げ出さなければ。
俺はまた空を見上げた。
この空は周期的に白い灰色になったり、黒になったりする。
その度にこの身体にも何も感じない時間と、比較的にはっきりとしている時間がある。
その移り変わりを俺は数え始めた。
その移り変わりがある数になった時に船は港に来た。
そこからまた数えて、出ていくと、また数える。同じだけ数えたら、また船がやってくる。
逃げようと考えてから何千回数えたか分からない。
しかし、俺の中には確信が生まれていた。俺は準備を始めた。
そして、時が来た。
豪族の船が港を出る。そこに潜り込んで俺は外の世界へと赴くことを決めた。何度も観察し続けて忍び込むタイミングを把握した。
忍び込むと、隠れやすい場所を探して、大量の箱がある場所に隠れた。
その場所には俺が見たことのないものがたくさんあった。だが、一番目についたのは石。
巨大な金属の箱の中に大量の石が入っていた。色は黒く見えるが…こんなものをこの国から運び出していたのか?
こんなものが何の役に立つのか分からない。もしかしたら食えるのかと思い、齧ってみたが案の定ただの石だった。
一つを取り出して、鉄の床にいつものように移り変わりの数を数えていった。この場所は暗い。
身体に覚えこませたこのパターンだけが頼りだった。
そして、数を数え始めてふと違和感を覚える。
いつもより数が多い。数え間違いではない。どういう訳かこの船はまだ出港する気配は見せない日が続いている。
もしかすると、俺のことがばれたのかもしれない。だが、探し回るような様子はない。慌てている人の声も聞こえない。
案の定、杞憂だった。
もう一つ数を数えた時にこの船は港を出た。初めて感じる揺れる世界。
視界がくるくる回り、いつか病にかかった時を思い出した。あの時もこの頭の中を掻き乱す気持ち悪さがあった。
何も入っていない腹の中から変な味の液を何度も吐き出した。この身体から徐々に気力が消えていく。
気付かないうちに何度も意識を失っていた。その度にこの気持ち悪さは消えていった(慣れというものだろうか?)が、それでもこの揺れは激しさを増していき、外からは何か大きな音が響く。
床の上を転げ回るほどに傾くこの船に一体何が起こっているのだろうか?外から聞こえる大きな音も聞いたことがない。
せっかく落ち着いてきた体調が再び悪くなってきた。冷たい床にしばらく横になってみたが、船体を何かに叩きつけるような音が終始聞こえてきて、休むに休めない。
それでも、俺の中に刻み込まれた周期に従って、目の前は次第に黒くなっていく。
次に俺の目が形あるものを映した時、慌ただしい声が船内に響きつづけていた。それにしても寒い。
何かこの寒さを凌ぐものはないかとふらつきながら立ち上がった瞬間だった。
船が激しく跳ねた。俺の軽い身体は壁に叩きつけられ、壁に挟み込まれたかのように腹の中に溜まっていたものすべてが押し出されて吸い込むことができないまま、床に崩れ落ちた。
視界が白くなったり黒くなったりする。今までの揺れとは違う。絶えず何かに衝突するような衝撃。
響く罵声に、何かが弾けるような大きな音。そして、鉄の板を擦り合わせるような音と建物が崩れ落ちるような声。
木の割れる音。目に映るのは壁に走っていく線。さっきまではなかったものだ。何か確かめようと身体を起こした時だった。
突然壁が迫ってきた。吹き飛ぶ身体。なにか冷たいものに包み込まれていく感触。自分の力じゃどうしようもない力に引っ張られるような感覚。
一気に全身を包み込んだ未知の感触。空気が吸えずに、口の中を水のようなものが埋め尽くしていく。
まるで巨大な何者かの掌の上で遊ばれているかのように体が舞い踊るかのように見えない力に操られる。
体中になにかロープのようなものを括られて引っ張られているような、そんなものだ。
そして、ロープに引かれて、俺の身体はようやく別の何かに触れることができた。
顔をそちらの方向に出すがうまくバランスが取れない。何かを掴もうにも、掴めど逃げるものばかり。
この空気を掴むようなものの他に何かないかと辺りを見渡して、何かの塊を見つけてそれを掴んだ。
よく分からないが木の板のようなものだ。偶に海岸に打ち上がっていたりするが海にはこういうものが漂っているのだろう。
ようやくバランスを保ち、頭がくらくらしながらも辺りを見渡す。
顔を激しく水が打ち付ける。
見上げた空はいつもより黒く、何か白い線が生き物のように走っていた。
そして、強い雨に高い波、激しく吹き荒れる風。今まで味わったことのない自然の猛威。
冷たい…そうこの冷たさはあの路地裏を思い出させる。
俺はどこに行こうとこの冷たさを味わう運命にあるのかもしれない。いや、あの路地裏よりもはるかに冷たい。
それはあそこでゴミのように生きる運命であったことを拒んだ俺への神様とやらが送った罰なのかもしれない。
だが、おかしい。俺は船の中にいたはずなのにどうしてこんなところにいるんだ?
目的地に着いたのか?だとしたら、これは何だ?俺が見たかったのはこんな色じゃない。
それとも、一度目の前が黒になった時に誰かに見つかり放り出されたのか?
違う。少し遠くに見える。あれは何度も見た俺が乗っていた船だ。今にも波の中に沈もうとしている。
しかし、あまりにも酷い有様だ。俺が今までずっと観察してきた頑丈な船体が土人形のように脆く崩れている。
自然の力はこんなにも簡単に船さえ壊してしまうのか?それなのに俺の身体はまだ壊れてはいない。それでも俺がかなりひどい環境にいるのは間違いないが。
ふと、荒れ狂う波の間に、黒い闇が広がるその先に、ふわりと浮かぶ光のようなもの。
光…いや、違う。生き物だ。大きな魚のような…白い歯が海に浮かんでいる何かを噛み砕いている。
空を走る白い生き物が発する光が海を明るく照らす。その人間がはるかに小さく思える黒い身体は光を反射して暗闇に光る。
大きな頭に白い眼、大きな口。あんな生き物今まで見たこともない。海岸に打ち上がっていたこともない。
あれはなんだ…?
それにしても目の前がチカチカとする。空を走るあの生き物のせいか?腕にも思うように力が入らないし、目もまともに開き続けているのもきつい。
全身の力が全く入らない。冷たい。身体が冷たい。板を掴む手も生きていないかのように冷たい。
ダメだ…これ以上目を開けるのもつらい。仕方がない。周期が狂ってしまったがしばらく黒に身を任せよう。
その時、ふと誰かが俺の目の前に立っているような気がした。
きっと見間違いだ。ここは海だ。人が立てるはずがない。不思議なものを見ることが多い。
黒く染まった視界が少しだけ白く染まったとき、誰かが俺の身体を再び抗いようのない力で引っ張った。
*
空は未だに悪天候が続いていた。見渡す限り水平線のはるか向こうまで広がる黒雲が晴れるのはまだしばらく先のことになるだろう。
偶然辿り着いたのか。それとも導かれるようにして辿り着いたのか。
少女と一人の青年は無人島らしきその場所に辿り着いた。
「…………」
お互いに何者かは知らない。それでも、少女の中にある何かがこの青年を救えと命令した。身体が衝動的に動き沈もうとしていたその体を引き上げ引っ張り続けた。
冷たい雨が身体を凍えさせる。少女の小さな体から体温はすぐに失われていく。青年の手は既に冷たいが脈拍は辛うじてある。
「…………」
辺りを見渡すが何もない。目の前には密林。左右には砂浜。それだけ。
戸惑った少女は傷ついた背中の装備を一度砂浜の上に置いた。
そして、その一部である盾のような大きな鉄の板を青年の身体にかぶせると一人密林の中に足を進めていく。
その先に何があるかは分からないが、とにかく動かずにはいられない。
仲間からも逸れ、孤立し、連絡を取る手段も失い、しかも海難者を見つけた。
生きねばならぬ。生かさねばならぬ。一〇〇〇の守れなかった命を悔やむよりも一の救える命を救うことに専念すべきだと。
少女の手は密林を掻き分けて足は草を踏みながら奥へと進んでいく。
今、自分は試されているのだと心の隅で考えていた。弱いと日頃痛感している自分は試されているのだと。
少なくとも、この出会いは彼女にとって大きな変革となる。
しかし、その大きな鍵となるものにこのときまだ気づくことはなかった。
広い砂浜に墓標のように立つ一つの大きな木の板と、その前に横たわる異形に――――
新章突入です。
五話程度で終わらせるつもりですが、まだ全体が全然完成してないので何とも言えません。
少々時間がかかるかもしれませんがよろしくお願いします。