――――何者かの声が聞こえる。
性別を問わず、老いも若きも問わず、ありとあらゆる命を持つ者たちの声が
何重にも重なって頭の中で反響している。
海の声。海の感じ取る命の声。
かつてこの大海原に魂を溶かしたこの身体は、それと同じ感覚を共有している。
だからこそ、彼女たちは強かった。
そう決めつけた科学者たちは一つの仮説を提唱した。
端的に述べれば「魂の質量と母たる海の結びつきの間に生じる関係性」である。
艦娘と海の関係は大いにある。
しかし、その間に存在する法則がはっきりとしていない。
何かしらの因果関係が存在するのであれば、それを紐解くことによって艦娘という存在は
より強力な物へと進化するのではないか。
巡り巡ってそれは人類種と言う生物の進化へと結びつくのではないか。
魂に質量があるかという議論はさておき、この議題は彼女たちに関わっていた
当時の科学者たちの中で大いに議論を尽くされ、そして実験が繰り返されて、幾度となく失敗に終わった。
マクロとミクロを除いて、ニュートンの定めた方程式が運動の様相を決めつけるように、
彼女たちの世界においては既に定められた法則が存在している。
艦娘を作り出した一人の科学者がその生涯をかけて作り上げた理論体系。
それを否定しようものならば、それこそマクロとミクロの世界について研究を費やす必要がある。
では、魂の世界のミクロとマクロとは何なのか。
そこに人類が辿り着く前に、彼女たち……艦娘の戦いは終わり、今に至るまで100年の眠りについた。
『 魂のサイズに比例して、海の持つ感覚の共有の度合いが増すのならば 』
抽象的な事象に対する疑問である。
魂の存在も、海の持つ感覚とやらもその存在をはっきりと証明するものは未だかつて存在していなかった。
だが、その議論は100年経ったここに来てようやく一つの答えに辿り着いた。
艦娘は『人間の形をした容器に艦艇の魂を押し込めたもの』である。
容器の容量は、どう足掻いても人間が持つ一人分の容量を超えることはない。
シンプルに説明すれば、2つ以上の魂を個人がもつことはあり得ない。
では、人間でないとしたら。
もしくは、複数の人間によって成された合成体を入れ物とすれば。
失敗は見えていた。
そもそも、艦娘を作り出すのは人間ではなく、
建造装置と呼ばれる魂の世界とこの世界を結びつける機械だ。
建造装置が魂に従って肉体を作り出し、その為に非常に高い適合率を有して艦娘が生まれる。
魂の濃度に適した肉体、それが艦娘の持つ人間のカラダ。
100年かけて『天の剣』の人間たちはその合理性を理解し、
ようやくその先へと足を踏み出したばかりであった。
1対1の関係。そこが、人間の限界であった。
*
戦闘が始まって既に1時間経過していた。
当初の作戦通り、撃破を目的とせず、こちら側の生存を目的として慎重に戦闘を行っていた。
敵の出方を窺いながら、ひとつひとつ攻撃を行っていく。
そこにあるのは遠方から見てもその形が分かるほどに巨大な存在。
多少適当に撃ったとしても当たるのではないかと勘違いするほどに。
『天の剣』に隠されていた試製シリーズの性能は申し分なかった。
ただ、彼女たちが慣れるのに少しの時間を要した。その時間が致命的であった訳ではない。
彼女たちはよく鍛え抜かれていた。
不慣れな武器を手にしても、数分で調整を終えてものの見事に操ってみせた。
その性能を充分に発揮するほどの動きを見せた。
射程、精度のどちらをとってもかつて抱えていた主砲より高性能であった。
欠点と言えば、やや大きく重く感じる事であったが、日向からすれば些細な事であった。
「――――撃て……ッ!」
海面が沈み込んだ。衝撃が海面を叩き、黒煙を裂いて砲弾が宙へと投げ出される。
いつもより遠くから、いつもより正確な砲撃を放った。
放たれた4発の徹甲弾は2発が海面を打ち、2発が海龍のような船体の横っ腹に突き刺さった。
「―――――――ッ!!!!!」
その瞬間、海龍の頭部にある女神像、その真下に開いた巨大な口にも思える亀裂から不協和音が鳴り響いた。
耳を塞ぐ暇もなく、不穏な気配を察した艦娘たちは距離を置こうとしたのだが、
その時には既に異形の背にある鱗のようなものが上空に向かって放たれたのだ。
その数、優に二百を超えていた。
「回避ぃーーー!!」
偵察機を回していた利根の声が海上に轟く。
咄嗟に反転しようとした日向。距離を置いていたため、余裕があった夕張と雪風。
空を覆い尽くす黒鉄の雨。亜音速で飛来したそれは、一瞬にして日向と利根の放っていた水上機を火に包む。
黒い矢じりのように突き刺さり、弧を描くような2キロほどに渡る範囲を一気に薙ぎ払った。
砲撃の反動もあってか、やや遅れていた日向がそれに巻き込まれる。
「ひ、被害報告!」
煙に巻かれていた夕張が顔を庇っていた腕を解いて辺りを見渡す。
仲間の影を探しながら、我に戻ったように叫ぶと「アレ」から遠ざかるように航行した。
「夕張、損傷軽微!」「利根、損傷軽微じゃ!」「雪風、無傷!大丈夫です!」
煙が晴れていく中で少しずつ見えるようになった仲間の姿。
咳き込む様子を見せながらも、目だった損傷は見られず夕張は
ホッと胸をなでおろしたのも束の間、続いて聞こえるはずだった声の主は沈黙を貫いていた。
「日向さん!」
いち早く飛び出したのは雪風だった。
「雪風ッ!」
航空巡洋艦となった《利根》の声が海上に響いた。
辺りには駆逐艦の張り巡らせた煙幕が漂って視界が利かなくなっている。
「大丈夫です……それよりも日向さんが!」
「私は大丈夫だ。小破程度の損傷だろう。雪風、早く逃げるんだ」
航空戦艦《日向》の艤装は小破していた。飛行甲板は既にそこにはない。
艤装に大きな損傷こそ見られないが、身体の方にもダメージを負っている。
顔の右半分は頭部より流れる血に塗れており、肩のあたりは衣装が焼け落ちていた。
「まだ撃てる。まだ戦える」
背筋を伸ばして立ち上がる日向に肩を貸す雪風は、日向が再び航行を始めたのを
確認すると独り先行して「アレ」の方へと進路を向けた。
彼女はいつになく焦った面立ちで辺りを警戒していた。
咄嗟に煙幕を張った。これが「アレ」相手に上手く機能するか分からない。
隠れているつもりでも「アレ」からはとっくに見つかっており、今にも砲撃が飛んでくるかもしれない。
「利根さん!艦載機は?」
「随分と落とされてしまった。もう一度出せる分は残っておるはずじゃ」
雪風は利根、夕張に日向が加わった戦列に戻り、一度敵の方を見やる。
日向の試製41㎝三連装砲による一撃は確かに敵の横腹を撃ち抜いた。
しかし、少しもダメージを与えている気がしない。
駆逐艦や重巡、軽巡級の主砲では距離が離れすぎていた。無論、魚雷も届かない。
「一度、日向さんの損傷を直すために母港に」
「いや、こんなところで足を引張ってはいられない。主砲は健在だ。まだ戦えるだろう」
「でも……」
「それにダメコンも支給してもらったんだ。この程度で泣きごとなんか言っていられない」
日向は左の袖で目元を拭うと、赤く染まった目を開いてもう一度敵を見て目を細めた。
「足を止めておる暇はないぞ!すぐにも追撃が―――」
利根の声を切り裂くように、海が泣いた。
ギギギと刃物を擦り合わせるような声が波紋を広げながら海に広がっていき、
一帯を大きく抉り取るような衝撃が、突然海面を打った。
今度は砲撃が海を割った。黒々とした砲弾を無数にばらまく戦艦級射程の砲撃。
「利根!避けろ!!」
日向の忠告に反射的に利根が航速を上げた。
投げ出すように身体を右に反転させたときに水柱の向こうに利根の姿は消える。
「利根さん!」
感覚50メートルほど、単縦陣。弧を描くように航路を変更し、
回避運動に入った後列をよそに、先頭を進んでいた利根だけが水柱の向こうに切り離される。
「くっ……!」
間一髪のところで直撃を避けたものの、衝撃が利根の艤装を軋ませる。
破片が艤装に、衣服に突き刺さり、一瞬よろけたものの、すぐに体勢を立て直した。
肩や脚、主砲の一部が被害を受けたものの、利根が咄嗟に庇うようにしたカタパルトは無傷のまま健在だった。
「大丈夫ですか?!」
「大丈夫じゃ……くそぉ、奴め。大和型でもこれほどの距離で当ててこんぞ」
苦虫を噛み潰したような利根の顔。
遠くに見据える【異形の龍】。
それは記憶の中にあるどの船とも、どの兵器とも合致しない形をしている。
強いて挙げるのであれば、辛うじて船と呼べる代物。
―――艦娘は何者か。深海棲艦とは何者か。人か、船か。
その曖昧な境界線を限界まで伸ばしていって、最果てに存在するのが相対している異形の正体だ。
船であるならば、船同様の攻撃が通じるのが道理である。人間であるならば、また然り。
そのどちらでもないならば、そのどちらのものでもない攻撃が通るのであれば、
その領域に踏み込んでいる者だけがあの異形を打ち倒せるのだろう。
問題は、自分たちがその領域に踏み込んでいるのかどうか。
「日向よ。どう思う? アレを吾輩らだけで倒せると思うか?」
日向と合流した利根は出会い頭にそう問いかけた。
「……分からない。だが、やるしかあるまい」
日向は生き残った主砲を動かして、再び照準を敵へと定める。
噴煙と衝撃を撒きながら装填した砲弾は再び宙を翔けて敵へと飛来した。
一射目は海龍を大きく外れた。二射目で狭叉する。三射目でようやく甲板上に当たる箇所へと命中する。
徹甲弾に抉られて黒い破片が飛び散り、黒煙が噴き出すのだが、
異形の船体が揺らぐことはなく、逆に何かが艦隊の方へと向けられた。
先程の黒い破片を飛ばす砲撃かと思えば、それが恐ろしく長く、恐ろしく巨大な棒状の何か。
完全な円ではなくスリットのような文様が両側面に走り、赤い光がその隙間から漏れ出している。
「―――ぐぅッ!!!!」
突然、利根が耳を塞いだ。彼女がこの艦隊の中で一番耳が良かった。
次に雪風、直後に同時に日向と夕張が耳を塞ぐ。
「な、なにこれ……こんなに離れてるのにッ!」
それは雑音や叫び声と言ったこの世界に存在するどの音にも該当しないものであった。
鼓膜を介してではなく、空気を介して全身から浸透する肉体的な音。
それはありとあらゆる生命を冒涜する声のようであって、
明確な意図も意志も存在しない純粋な悪意によって固められた精神波動であった。
艦娘とは魂の結びつきを重要とする。肉体と艤装と在りし日の艦艇の記憶、その魂。
それらの繋がりを絶とうとしているような音だったのだ。
その音に意図や意志はないが、艦娘たちは直感的に悟っていた。
この音に屈すれば、自分の存在をこの世界に保てなくなるであろうことを。
その中で最初に動いたのは雪風だった。
彼女はあろうことか艦隊を飛び出した。
水平線に見える敵とのその距離を縮めるように舵を切り、海上を駆け抜けていった。
「雪風さんッ、何を……ッ!!」
夕張が止めようとしたが、敵より放たれる精神波動の下に言葉は絶たれてしまう。
一方で敵へと向かっていく雪風の顔にも苦悶の色があった。歯を食い縛り、脂汗を流し、
そのあどけなさに似合わぬ覇気を持って、敵へと近付いていく。
精神波動は敵に近付くにつれて、より濃くなっていく。
それでも雪風は機関を最大戦速のまま維持して、敵艦へと向かっていった。
ふと、後方から音が聞こえた。顔だけ振り返れば日向が砲撃を行っている。
その表情には独断専行した雪風に対する焦りが見受けられた。
救わなければあの駆逐艦は沈むかもしれない。その意思が日向に反撃の意志を与えていた。
雪風は苦悶の表情を緩めて微かに笑みを浮かべた。
そして、敵艦へと再び目を向けた時には既に魚雷の射程へと入っていた。
海龍の如き巨躯を仰げば、その背よりいくつもの黒い破片が飛び立つのが見えた。
しかし、同時に着弾した日向の徹甲弾が放たれる前のそれらを蹴散らす。
生まれた隙を雪風は見逃さなかった。
全身の骨の肉が引き剥がされるような幻の痛みを感じた。神経を焼かれるような幻覚だ。
近付きすぎたが故にそれは直感としてだけではなく「痛みを予感させる」という次元まで登ってきた。
それでも、雪風の目から光は消えずに真っすぐに海上に立つ小兵は標的へと手を伸ばした。
「魚雷管発射用意、一番から六番、撃てっ!」
試製六連装酸素魚雷発射管より、順次に六本の魚雷が放たれていく。
水に落ちた瞬間に生を得たように飛んでいく魚雷は、静かに海龍の懐へと突き進んでいった。
海龍の背から跳び出した黒い破片がその迎撃に向かう。
雪風の方へと飛来する物もあったが回避するには余裕のある密度であった。
弧を描くように移動しながら敵艦との距離を保ちつつ、それでも進路をジグザグに曲げながら
回避運動を繰り返し、更に次の魚雷を発射管へと装填していく。
「―――ッ!」
全身が軋むような感覚に襲われながらも、雪風は努めて冷静であった。
しかし、冷静になるには理由がある。それはもはや本能的なものとしか言いようがない予感。
精神波動由来のものではなく、敵艦の背から伸びた巨大な棒状の何かであった。
あれの正体に見当はつかない。しかし、あれが船であるならば「砲」ではないかと推測した。
撃たせてはいけない―――本能的に雪風の中に生まれた予感が、特攻まがいの行動を実行させたのだった。
魚雷が三本爆ぜた。大きく船体が揺れるのが分かる。
効いている。魚雷のダメージだけでなく、日向の砲撃も蓄積されている。
目に見えて得られた成果が雪風の身体を強く支えた。
それは後方でこちらを窺っている利根たちの目にも映った成果であった。
次発装填が終わった魚雷管を回し、再び発射体制を整えながら敵艦と相対する。
「ハァ……ハァ……」
息が切れる。擦り減っていく精神と、それに伴って力の抜けていく身体。
歴戦の記憶と、矜持。それだけが艦娘たちが共有できる記憶。だが、雪風は違う。
そこに先代の《雪風》の記憶がある。
彼女は吹雪の中で共に戦う事を辞めて、同じ海に立つことを選んだ。
その理由は、《吹雪》を内なる世界に待つ者たちの下へと導くこと、それともう一つ。
駆逐艦として共に戦った在りし日の彼女ともう一度肩を並べて海を駆けてみたかった。
「雪風は、守ります……仲間を、守ります」
あの時代と同じように。混沌と混乱に晒された人間の浅ましさに一時は絶望すら抱いた。
屈強な仲間たちがより強大な力を前に崩れ落ちていく様を見届けた。
零れ落ちた命は数知れず、葬った敵艦も数知れず。
何を守るかさえ分からなくなった闇の中で手を引いて導いてくれた光があった。
今、ここにある自分は、その光の意志をここに体現するためにあるのだと言う使命感。
ただ一つ。雪風の中だけにあるその意思が二射目の魚雷を海中へと放った。
一本目、二本目、三本目、四本目、五本目、そして―――雪風の身体が浮き上がった。
胸の辺りに痛みが走る。これは幻だろうか。精神波動による幻の痛みだろうか。
気付けば海の上に転がっていた。
そこに至るまで何度か海面に叩き付けられたような気もするが、
朦朧とする意識はそこまで思い出せずに揺蕩っている。
何とか身体を起こした雪風はその空間に違和感を覚えた。
身体は重たいのだが、それでもどこか清々しい。
痛みはあるのだが、それは見知った痛みであって嫌悪感を覚えるような痛みではない。
ハッとなって顔を上げると、先程まで海上を鳴り響いていた精神波動が止んでいる。
それを好機と捉えるまで雪風は夢の中に堕ちてはいなかった。
『―――さん……――風さん!雪風さん!!』
無線から声が聞こえた。まともに会話ができる程度に環境がマシになったようだ。
『無事ですか!?雪風さん!?』
聞き覚えのある―――夕張の声だ。鬼気迫る声で雪風の名前を呼び続けている。
『逃げ―――くだ―――さん―――!』
掠れた声で雪風が返事する。無線の向こうでは反応に対する歓喜の声が聞こえたが、
雪風の心境はそれに構っているほど穏やかではなかった。
『夕張さん、全員を連れて距離をずっと取ってください。あの射程は計り知れないです』
『それよりも雪風さんこそ!急いでそこから離れてください!機関は無事ですか!?』
機関は……まだ動く。足もまだ海上に立っている。主砲は1基ダメになった。
魚雷発射管には……発射できなかった魚雷が一本引っかかっている。
衣服の損傷はそれほどではないが、呼吸が辛かった。小破相当の損傷だろうが、状態は芳しくない。
自分の状態の確認を終えると、急いで敵艦を見据えて―――そして絶望した。
棒状の何かは青く染まり切っていた。それこそ、青い炎を纏っているかのように。
『私は大丈夫です!急いでそこから逃げてください!!』
雪風は遠く離れた仲間たちに呼びかけた。
しかし、その声が彼女たちへと届き、彼女たちが動き出す前に、一閃の光が世界を二分する。
分かりやすく、天と地に。天と海に。一本の線が彼女の視界に映る景色に境界を作り出すように。
音が薙いだ。聴覚を失ったように静かだった。
長い時間があった。僅か一瞬の出来事が永遠のように焼き付いた。
海が割れた。モーセが割ったように割れた。
世界の叫びが聞こえた。全ての命を引き裂くような金切声のような音だった。
見えない壁に押し倒されて、天か地か、この身に相応しい方へと倒れ込んだ。