その言葉には少し早いが、草木も眠ると言う通りしんと静まり返った夜の住宅地を、黒髪の女が少年を連れて進んでいく。親子というには年の近い二人は、似ても似つかぬ姿ではあったが見る者がいなければ疑念を呈する者もいない。一軒家の多いこの辺りでは一等背の高いマンションの中へ彼を招き入れ、女は台所へ足を運ぶ。
「今ご飯作るからちょっと待っててね。あ、先にお風呂入る?」
「……いえ、そこまでしていただくわけには」
面食らったように少年は言うが、女はそれ以上の反論を封じるように言い返す。
「これはあたしの趣味なの。わがままなの。いいから黙って食べて、お風呂も入りなさい。布団が汚れるでしょう」
はあ、と生返事を返した少年は、そこで漸く周囲を見回した。女の一人暮らしには過剰な部屋だ。特段なにがしかのコレクションがあるでもなし、ファミリー向けだろう物件を借りる理由はなんなのだろう。まさか本当に家出少年を泊めるためだけにスペースを確保しているわけでもあるまいに。そこまで少年が考えたところで、冷蔵庫(これも一人暮らしには過剰な大きさのものだった)を覗き込む女が声をかけた。
「シチューの残りがあるからドリアにしようと思うんだけど、平気?アレルギーとかない?」
「あ、はい。大丈夫です」
「他にアレルギーは?」
「そばとピーナッツです。どっちも少量なら出ないので、えーと、」
「材料として使わなければいいのね。分かった」
「ありがとうございます」
「あ、暇なら本棚の本は勝手に読んでいいから」
電子レンジを操作しながら女はそう言ったが、そう言われたところで「はいそうですか」とくつろげる性格なら思い悩んで家出などしない、と目を伏せた少年は思いをはせる。親は親なりに愛してくれたのだろう。とうてい納得はできなかったが彼らが愛しているつもりなのは少年も理解していた。けれど彼もたまには映画を見に行きたかった。友人たちに混ざってカラオケで馬鹿騒ぎをしたり、夏休みに一人旅に出たりしてみたかった。
けれど少年の母に言わせてみればそれらはすべて「無駄なこと」だった。だから抗議のつもりで、冬期講習が終わったあと、家とは反対の方向に向かった。ビジネスホテルが何軒かあるのは知っていたから、三日ほど泊まってしれっと帰るつもりだったのだ。コンビニで買った肉まんを店の前のゴミ箱の横で囓っているときに彼女に声をかけられたのだ。今から思うとなんだって知人でも何でもない女性についてきたのかさっぱり分からなかった。
ならこのまま
包丁の音がやんで、フライパンでなにやら炒める音がする。じゅうじゅうという音に混じって漂うのは肉の脂とそれからどこか甘いにおい。
細かく切ったもも肉とタマネギ、それから冷凍してあった白米を炒めながら、女は明日からの食事をどうしようか考えていた。あまり運動しているようには見えないとはいえ中学生か高校生くらいの少年、唐揚げなどがいいだろうか、それともあまり豪華なものでない方がいいだろうか。
塩こしょうと少量のケチャップで味を付けたら色違いの陶器の深皿に入れ、温め直したシチューをかける。冷凍してあったチーズを散らしてオーブンレンジに突っ込むと、彼女はシンクへ向き直った。使用した調理器具一式を洗って、包丁を研ぎ直す。シンクの下から鍋敷きを二つ取りだし、少年のいる部屋、そのテーブルの上に置いた。
「ちょっと待っててね。今持ってくるから。あ、飲み物は麦茶で良い?麦茶とビールとトマトジュースしかないんだけど」
「は、はい。麦茶でお願いします」
盆はないのか、一皿ずつ運ばれてきたドリアは、ファミレスのそれやコンビニのそれと違って、それが持つ熱量以上に温かに見えた。スプーンもコップもなぜか二つ揃いの柄で、少年は内心首をかしげた。それを感じ取ったように、自分のコップにビールを缶から注ぎながら女が言う。
「去年の今頃はね、恋人と暮らしてたの。出て行かれちゃったけど」
「ああ、」
少し慌てたように女は付け足した。
「あなたが代わりってわけじゃないから安心してちょうだい。いくら何でも学生に欲情するほど落ちぶれてないから」
少年の方はというと、はあ、と間抜けな声を出すしかできなかった。「欲情」だなどという下品なのに堅い言葉を、実際に口にする人間など初めて会ったからだ。
「なんて言うか、こう、餌付け?野良猫拾ってくる気分」
正直、失礼なことを言うものだと思ったが、賢明にも少年がそれを口に出すことはなかった。どれだけいっても食べ盛り育ち盛りの少年、右から左と聞き流してスプーンを口に運ぶ機械と化していた。
―――***―――
食事が終わると、いつまでも恐縮されるとこちらが落ち着かないといって女は少年に文庫本を数冊押しつけ、洗い物の続きと風呂掃除に向かう。しかし、どうにか皿にこびりついたチーズを洗い落とした彼女が戻ってくる頃には、少年はソファで眠ってしまっていた。
それをみた女はにやりと笑みを浮かべると、玄関まで足を運び靴箱を開けた。その中にはガムテープと彼女の親指ほどの太さをした縄。それらを手に取ると、女はリビングへ戻っていく。
育ちが良いのかきちんと閉じられた足を、まずは。つぎに文庫本を落としてしまった両の手首。そうして動けぬようにしてから、口を。ガムテープで手早く封じる。念のためにとソファーから引きずり降ろした少年の首に腕を回し、頸動脈を圧迫して薬よりも深い眠りに落とす。腕ごと胴体を縄で縛り、足首まで縄を伸ばしてもう一度くくる。女は彼女自身の右手に縄の端を巻き付けると、両腕で彼を抱え上げて風呂場へ運んでいった。ユニットバスでもないのに取り付けられたシャワーカーテンのポールに縄をかけ、しかし頭は湯船の底につくように。湯船の栓を抜いて、湯張り機能を切る。そこまで準備を整えたところで女は一度風呂場を出た。
再び戻ってきたとき、女は裸体であった。その手には食事の前に研いでいた三徳包丁と、裁ち鋏。一度鋏を湯船の外に置き、バスタオルを数枚湯船に投げ入れる。そして自身も湯船に足を踏み入れ、もう一度湯船に栓をして、シャワーカーテンを閉めた。
あごに手をかけ、のけぞらせて喉元をあらわにすると、女は右の手に持った包丁を突き入れ、そのまま相対した少年の首を半分、切り裂いた。痛みに目を覚ます暇すらなく、少年はその二十年に満たぬ生涯を終えた。噴水のように噴き出した鮮赤色の液体は無色透明だったはずのシャワーカーテンにも降りかかり、特有の粘性でもってそれを染め上げた。女は顔を背け、十秒ほどの後、出血が穏やかになったところでカーテンのすぐ向こうに置いてあった洋裁鋏を手にする。
血でべたついた、もとは薄いベージュだったスラックスに鋏を通し、切り取っていく。完全にそれが取り去られる頃には首の出血も治まり、代わりに足下にはタオルでも吸いきれなかった血の海ができていた。湯船の外に出て簡単にシャワーを浴びた女は、念入りに体を拭いてからこれまた一人暮らしにはそぐわない大きなバケツを運んでくる。タオルを絞っては浴槽に戻し、絞っては戻し、たまった血をあらかたバケツに移して女は栓を抜き、バケツを中に入れる。手近のボディーソープで軽く洗ったタイルの上になんとか少年の死体を横たえ、体を縛っていた縄を切り取る。続いて服もすべて同じように。タオルと共にまとめてバケツの中に放り込み、水で濡らした別のタオルで全身を拭いていく。
「さて、どうしようかしら」
女は再び翌日以降の食事について思い描く。うつ伏せに横たえられた少年だったものの首筋に包丁を突き立て、キッチンばさみで背の皮膚を脊柱に沿って切り開きながら。
もも肉はやはり唐揚げにしよう。刃にまとわりつく黄色い脂肪をキッチンペーパーで拭う。せっかくだから彼自身の脂で揚げてみても良いかもしれない。薄墨の臓腑は腐りやすい上、寄生虫も恐ろしい。今まで食したことはなかったが心臓くらいなら問題ないだろうか。錐と金槌で罅を入れた肋骨を、梃子の要領で割り砕いて、深紅の筋肉塊に手を伸ばす。自身の拳よりも大きなそれを鋏で切り離し、女は思考を続ける。くさみは生姜で押さえて、みりんと醤油で煮ようか。
煮るといえば、と彼女は視線をずらした。心臓と同じような味付けになるのは避けられまいが、鮪の目玉は煮付けにすることがあると言う。きちんと湯がいて血合いを取れば、こちらもきっと美味であろう。
それなら舌は付け根から切り取って表面を剥ぎ、炙ってわさび醤油にでもつけて。胸肉もたたきにできるだろうか、と臀部の肉を剥がし終えた女は少し軽くなった体を裏返す。
ピンセットで浮かせた瞼に、赤子の爪を切るような小さな鋏を入れていく。涙袋から竹串を差し入れ、筋繊維を掬い上げて断つ。最期に箸で全体を持ち上げて視神経を取り去り、焦茶の光彩の眼球は酒の中へ。
最後に脂肪と筋肉の合間から抜き取った大腿骨にそっと唇を落として、女は立ち上がると、まだ胃の腑の外の食べ残しと、それから様々の液体に濡れたタイル張りの床を一瞥した。