一章
それは私の中に残った、一番古い記憶。
近くには人の気配がし、遠くからは雨音が聞こえる。どこかも分からない場所、そこで寝ている私へ、一人の少女が言うのだ。
『約束だよ』
薄れていく意識の中で、微かに聞こえる少女の温かな声。二年経った今、その声すらもおぼろげになっている。目を閉じていたせいで姿も覚えていない。それでも約束の内容ははっきり覚えている。
二年前。『混沌』の最中に私と彼女は二つの約束を交わした。それは――
『必ず絶対評価制を廃止して』
少女の泣きそうな声。
私は彼女を慰めたくてなんとか声を出そうとするのだが、口が動かない。人間として当たり前のこともできないほど、私は人間らしさを失っていた。自分でも――否、自分だからこそはっきり分かる。私はこれから間もなく死ぬのだろう。それほどの怪我を負っている筈だった。
しかし少女はそんな私へ約束を結ばせようとする。小さな手で私の手を握り、懸命に声をかける。
『そしていつか私を――』
二つ目の約束は覚えていない。
何故なら私の意識はそこで途絶えたからだ。
○
最悪といえば最悪の目覚めだった。
私はあまり最悪という言葉は使いたくないのだが、この夢に関してはそうとしか言えない。少女との約束が嫌だというわけではない。この夢はとてつもなくリアルなのだ。身体は痛いし冷たいし、かつて死にかけた感覚までもが再現され、夢が終わる度に死を覚悟する。そんな夢を見て、ひゃっほうなんて浮かれられるものか。
古い記憶を呼び起こした私の脳を恨めしく思いながら、身体を起こす。壁にかけられている時計へ自然と目線をやり、現在の時刻が八時であることを確認。と同時に肝を冷やす――が、思い出した。
「そういえば休みだったっけ……」
『優等生』の一件が終わり、数日が経過。あれから何事もなく現在は楽しい週末。土曜日である。遅刻などとは無縁の日だ。
明日は休みの日だと、わくわくしながら昨夜は寝た筈なのだが……。すっかりあそこでの生活が身に付いていることを痛感する。規則正しい生活も困ったものだ。
「……あら? 楼さん、もう起床でして?」
欠伸をもらす。すると私の隣に寝ていた華蓮が目を覚ました。眠そうに目を擦り、彼女は時計を見やる。そして時刻を目視した後、枕に顔を突っ伏した。
「まだこんな時間なのに、早起きですわね……おやすみなさい」
彼女は私と違って身体をエンジョイ休日にシフトできる人間らしい。数秒も経たないうちに再び寝息を立てはじめた。仕事のある日は老人並みに早寝早起きなんだけど、相変わらずである。
「さてと」
私も睡眠は嫌いではない。しかし目が覚めてしまったし、このまま眠るのも勿体ないだろう。早起きは三文の得だとも言うし、できた時間で何かしようか。などと考えつつベッドから降りる。できるだけ華蓮を起こさないよう、静かに。
リビングと同じく、ベッドに天蓋が付いていたりとやたら豪華な寝室。しかし間取りは馬鹿でかいリビングと比べ随分と常識的で、ダブルベッドと机の間に人二人くらい通れる道がある程度である。
小さな電球とカーテンから漏れる光に照らされた室内の道を、私はゆっくりと歩いていく。休日は私の方が早く目覚めることも多いため、静かに歩くのには慣れっこだった。
私と華蓮は毎日同じ寝室で眠っている。それは二年前からの習慣のようなもので、特に深い意味があるわけでもない。ただ単にこうして眠らないと落ち着かないというだけだ。
「……勉強、は悲しいよね。とりあえず朝ごはんかな」
寝室から脱出。廊下に出ると独り言を呟き、私はリビングの方へ向かおうとする。しかしそのタイミングで家のインターホンが鳴った。来訪者である。
「休日に人?」
誰だろうか。考えてみるも、特にこれといった候補は挙がらなかった。華蓮は用事事を顔を合わせて済ます派だし、私は一般的な学生だ。通販などを利用した覚えもないし、休日の朝から家に来る人なんていないだろう。
そう思うも、実際インターホンが鳴っているのだから出ないわけにはいかない。私は早足で歩いてインターホンのマイクに話しかける。
「はい、なんでしょうか?」
『おはよう、姉さん。今暇?』
少しの申し訳なさも滲ませずにそう言ったのは、妹の声であった。ここ最近毎日会っているからスピーカー越しでもすぐ分かる。私は溜息を吐くとスイッチを操作する。
「妹か……暇だよ。ちょっと待って」
華蓮は寝ているけど、妹ならばまぁいいだろう。私も妹もギャーギャー騒ぐタイプではないし。約一名ツッコミはするかもしれないけども。
○
「やー、いいところに住んでるのね、姉さんは。羨ましいわ」
数分後。服を着替えてから妹を家へ入れ、リビング。大きなテーブルを挟んで私と妹はお茶を口にしていた。
温かな緑茶を飲み、私は妹を見る。今日の彼女は休日だということもあり、水色のワンピースとカーディガンという装いだ。制服と同じく、至って普通なのだが……やはり金髪ツインテールが常識から超越しているためおかしく見える。
まぁ、私が黒髪長髪でパーカーにジーパンなんておしゃれさの欠片もない格好をしてるからそう思えるのかもしれないけど。
「居候だけどね。……で、何の用?」
こいつの場合、『姉さんに会いにきた』とか可愛らしいいことは言わないだろう。何か目的がある筈。訝しむ私が問うと、妹は笑顔を浮かべた。
「暇だから世間話に」
まったくストーリー性のない目的であった。
「ええと、こういうときはお前なぁ……とか言うのかな。ん? そういえば、どうしてここが分かったの?」
「そこは組織の調査でちょちょいと」
茶目っ気たっぷりにウインクする妹。プライバシーがちょちょいとなくなるんだからこの世界は恐ろしいというか。
「私に聞けばいいのに……」
「まぁまぁ。細かいことは言わずに、私と話しなさい」
「……なに話すの?」
ちょうど暇をしていたところだ。話にのるくらいならば構わない。
「私のあげるヒントについて」
どんな下らない話題が、なんて頭の思考は吹っ飛んだ。『ヒント』。そうだ。妹は私が手伝ったらヒントをくれると言っていた。手伝うことに夢中ですっかり忘れていた。
「思い出した? 聞きに来ないし、自分から向かった次第よ」
なにやってるんだかなぁ、私。間抜けな自分が恥ずかしい。
「無視しても良かったんだけどね。そこはほら、私は優しいから」
「はいはい。感謝してるよ。それで、ヒントは?」
私のこなれた対応に、妹は気分を害したようだった。ぶー、と口で丁寧に言い唇を尖らせる。
「そんな態度だと教えてあげないわよ」
「自分の態度を改めてから言うんだね、そういうことは」
いきなり現れて妹宣言し、そして私を『組織』という名前の組織の活動に巻き込んだ張本人、妹。彼女はまさに傍若無人というべき性格をしており、基本他人に害しかなさない。それでいて他人が妹に対して抱いた不満を、その眼力で押さえこんでしまうのだから厄介である。現に私も強気なことを言っているが、妹の鋭い視線に怯え中だ。彼女への態度を改める必要はない。そう確信していても揺らいでしまうだけのなにかがある。単に私の心が弱いのだとか、そういった話ではない。
やや沈黙が続く。その結果折れたのは妹らしく、視線を逸らして大きな嘆息をつく。
「まぁいいわ。約束だから。守らないとね」
『約束』。その言葉が私の耳にやけに強調されて入る。夢を見たせいか、過剰に反応してしまう自分がいた。
「どうしたの?」
「あ、なんでもない。ちょっと寝惚けただけ」
首を横に振る。妹は大して気にしていない様子で話を続けた。
「そ。じゃあヒントね。絶対評価制の仕組み。それを作ったのが『原初』よ」
さらっと言われたそれは、よく意味が理解できなかった。絶対評価制の仕組みというのもちんぷんかんぷんだし、『原初』というのも初めて聞いた。
「そのリアクションだと本当に覚えてなさそうね……」
「だからそう言ってるでしょ。『混沌』前の常識くらいしか覚えてないって」
呆れ顔の妹に憮然として返す。記憶のことを私に言うのは筋違いというものだろう。というか、普通しないだろう、空気を読むなら。
「それならそれでもいいわ。覚えといて損はない筈よ。『原初』」
「うーん……どうせその言葉の意味も教えてくれないんでしょ?」
単語を覚えていても意味を理解していなければ無意味である。私が恨めしげに妹を見ると、彼女は微笑を浮かべる。
「そうよ。と言いたいところだけど、今回は特別に話してあげようかしら。なにも思い出さないで死んだら空しいし」
相変わらず恐ろしいことを当たり前のように言う奴である。近々私が死ぬ可能性があるような言い方だ。文句の一つも言ってやりたいが夢深の話を聞いた今、それを否定できないことが辛い。
「そもそも、絶対評価制が何か、姉さんは知ってる?」
妹は腕を組むと偉そうな口調で問いかけた。絶対評価制。それは現在の世界では日常と化している非日常。地球に生きる人間ならば全員が知っているものだ。私は首肯する。
「知ってるよ。他人からの評価で自分の中にある能力が開放、封印されていくシステムだよね?」
「それがどうやって実現してると思う?」
「それは……知らない」
おそらく殆どの人間がそう答えるだろう。この制度はうまくできている。しかしそれでいて実態が掴みきれない。肝心の仕組みだって公開されていない。示されているのはルールだけ。それに従うか抗うかはその人次第。しかし従わなければ弱者になることは目に見えている。
……だから、私はこの制度が嫌いなのだ。
「そう。それが常識。そんなのが何故まかり通っているか……それはまた別の話で、評価で人の力を開放、そんなシステムを作るためには何が必要だと思う?」
別の話にしちゃうんだ……かなり興味あったのに。自分で思い出せということだろうか。
絶対評価制を作るために必要なもの。それは前々から気になっていたことだ。全世界の人間に施行する――いや、一部の人間に絶対評価制を施行するだけでも驚きだ。技術だけでなく、魔法を使えたりするのだから科学の枠を大きく超えている。となれば。
「……魔法?」
自分で口にして可笑しく思う答えに、妹は大真面目に頷いた。
「正解。んー、若者はいいわよね、発想が柔軟で。そう、魔法なのよ」
本人がどういうつもりで言っているか分からないけど、何故だか馬鹿にされた気がした。
「本気で言ってるの? 魔法だよ?」
魔法は絶対評価制が施行された今でこそ当たり前のものだが、それが絶対評価制を作ったのならば矛盾している。だから私は可笑しいと思ったのだ。
「本気よ。絶対評価制に関係なく魔法が使える人間、それが『原初』なんだから」
しかし妹は呆れる私を嘲笑し、薄い胸を張る。『原初』は魔法を使える。つまり『原初』はその魔法で以て絶対評価制を作ったのだ。それならば科学を超越した制度も納得できよう。魔法の存在が本当のことならばの話だが。
「今日のヒントはここまでよ。あとは姉さんの活躍に期待するわ」
ヒントを聞いたお陰で余計に頭がもやもやした気がする。少なくとも私は『原初』についてなにも知らなそうだ。『約束』という言葉を耳にした時の方が反応していた。話を切り上げ、室内を見回す妹から視線を逸らし私は考える。
「……そういえば」
その過程で、不意にあることを思い出す。目の前にいるこの人物。彼女について気になることがあった。
「妹って名前なんていうの?」
妹は露骨に面倒そうな顔をした。なんで今更、という顔である。
「クラスの子に聞けば分かるわよ、名前なんて」
「つまり『妹』は自称と?」
「当たり前でしょ、馬鹿?」
自分でも馬鹿だと思ったから、そんな直球で言わなくていいのに。
しかし本名でも、本当の家族でもないのか……どんなことがあって私の妹を自称するようになったのだろう。疑問である。
「ああ、そうだ。あと一つ話しておくことが――」
「おはようございます、楼さん」
妹が私を見てなにかを言おうとする――が、その台詞は何者かによって遮られた。リビングのドアを開いてのんびりとした挨拶とともに中へ入ってきたのは、華蓮である。何を張り切っていいるのだか分からないが、きちんとした外行き用の服を着ている。白いブラウスと、紺のロングスカート……きっちりした彼女が決して家の中で着ない服だ。見れば髪も寝起きとは思えないほどきっちり整えられており、彼女の気合いが窺える。肝心の狙いがまったく見えないのが辛いところだが。
「あら? お客様でして?」
唖然とする私の前、若干の棒読みで座っている妹を見る華蓮。突然の乱入者に妹も戸惑っているようなので、私が答えることにする。
「あ、うん……学校の知り合い」
「あらあら! お友達ですの!?」
誰も友達とは言ってない! とツッコミたいけれど、華蓮が本気で嬉しそうなのでそんなことは言える筈がない。
大体分かってきた。私に家に遊びに来るような友達ができて歓喜してるんだ、多分。学校へ通う前に相当私のことを心配していたからなぁ……。おそらく評価を気にせず突っ張るような発言をしたのも原因だろう。そんな生き方をしていては友人ができるかも危ういし。
「少し待っててください。お茶淹れてきますわ」
太陽のような眩しい笑顔を浮かべ、高いテンションのまま華蓮はキッチンへと歩いていった。
多分、妹が来てからずっと身支度してたんだろう。そんなに喜んでくれると、こっちまで嬉しいというか。
「なにあの人? 姉さんのお母さん?」
「いや、私の友達かな? この家に私を居候させてくれてる人」
私が説明すると、妹は合点がいったように頷いた。
「いい人そうね」
きついことを言うと思いきや、意外にも妹が口にしたのは称賛だった。それに何故だろう。一瞬彼女がすごく優しい顔をした気がする。気のせいだろうか。
「ま、それはともかく。あの人も来たことだし手短に話すわ」
妹はキッチンをちらっと見て声を僅かにひそめた。重要な話なのだろう。表情は真剣だ。
「『組織』のことなんだけど、当面の活動目標は仲間を増やすことだから、姉さんも誰か使えそうな人を探しておいて」
割とまともだ。『組織』の大それた目的を実現するにはもっと人が必要なのではと思っていたところである。そもそも、何をすれば絶対評価性を廃止することができるか分からないし、人数を増やしておいて損はないはずだ。『組織』が廃止の方法を考えていた場合でも仲間は必要だろう。
それに反対する理由はないのだが。
「どうやって探すの? 『組織』は秘密裏に活動してるんでしょ?」
私の所属している『組織』はおそらくデリケートな組織。人々を支配している『世界』に反旗をひるがえしているので、そうそう姿を現さない方がいい筈。そう考えると、リスクの少ない効率のいい探し方が分からなかった。どんな人を探せばいいのかも分からないし。
私の問いに妹は少し考え込む素振りを見せた。かすかに唸り、一言。
「なら、今狙ってる人がいるから二人でその人を勧誘する?」
「狙ってる人?」
妹は頷く。満面の笑みを浮かべ誇らしげに言った。
「そう。その人は——情報屋よ」
情報屋。またもや飛び出した学園生活に縁のない単語。キッチンから戻ってくる華蓮を視界の端に捉えつつ、私はため息を吐いた。
私の学校だけなのかな、こんなおかしいのは……。