「行ってきます!」
「はーい、車に気を付けてねー」
「分かってるー!」
家に帰るなり事前に用意してあったリュックを背負い、悠斗は再び出掛けた。深雪の声を背中越しに聞いて、その身を懸命に動かす。いつもの篠ノ之道場へ。
悠斗が箒と出会ってからはや二ヶ月が経とうとしていた。
あれから毎日のように篠ノ之道場に通うようになった悠斗。少し飽きっぽい性格だった彼が、ここまで長続き出来ているのは奇跡的とも言えた。
事実、快斗も深雪もまさかこんなにも熱心にやるとは思わなかったのだ。たとえそれが箒への恋心から来るものだと分かっていても。
未だに当の本人は自身が抱える箒への想いには気付いていない。ただ彼女の側にいるだけで嬉しくなり、彼女の笑顔を見るだけでどうしようもなく浮かれてしまう。それだけで悠斗は幸せを感じていたのだった。
そんな小さな心の持ち主は今日も走る。彼女の側にいるために、彼女の笑顔を見るために。
「こんにちは!」
「はい、こんにちは。箒ならもう道場にいるわよ」
「はいっ!」
「ふふっ、相変わらず元気ね……」
神社の前で掃き掃除をしている女性と挨拶を交わし、箒が道場に居る事を知るや否や走る速度を更に上げた。それを見た女性、箒の母親である篠ノ之雫は彼の隠そうともしない純情な想いに微笑んだ。
あれだけ一途に思ってくれるあの子ならきっと箒を幸せにしてくれる。将来、自分の息子になるかもしれない男の子に早すぎる期待をしつつ、雫は掃き掃除に戻る。いつか必ず叶えてくれると信じて。
悠斗は初日に教えられた更衣室に行くとリュックから道着を取り出して、慣れた手付きで着替える。初めて一週間くらいは一人で満足に着替える事も出来なかった悠斗だが、今ではちゃんと一人で出来るようになっていた。
「よし! ……ぬぐっ」
着替え終わった悠斗が再び駆け出そうとしたがすんでの所で立ち止まった。あまりにも慌ただしく道場に入ったら礼儀がなっていないと怒られたのを思い出したのだ。序でに箒に笑われたのも苦い思い出である。自覚はしていないが、好きな子の前で格好付けたい、情けない姿を見せたくないという欲求には逆らえそうにもない。
逸る気持ちをどうにか抑えて悠斗は道場に向かうと。
「はっ! はっ!」
「――――」
そこにはやはりというべきか、既にうっすらと汗をかいた箒が真面目に素振りをしている姿が。何度も何度も見ているはずなのに、毎回悠斗はその姿に言葉を無くして呆然としてしまう。懸命に、ただ直向きに日本一の剣士になるという夢に向かって頑張る箒の姿が大好きだった。
「ふぅ……あっ、悠斗!」
「あ、う」
ふと一段落着いた箒と目が合うと、悠斗ははっとし、目に見えて狼狽え出す。何故かは分からないが恥ずかしいのだ。同い年の門下生が来た事に喜んで駆け寄ってくる箒に、彼はいつも通り顔を真っ赤にして押し黙ってしまう。
「むぅ、またいつものか。全く、どうしたと言うのだ」
「な、何でもないって! 失礼します!」
不思議そうに首を傾げる箒を尻目に一礼してから道場に入った。既にここに来るまでに走ってきたので充分暖まっているが、きちんと準備体操から行う事に。これにはすっかり激しくなった動悸を落ち着かせるためという目的もあった。
「(ここまで走ってきたけど、さっきまでこんなにドキドキしてなかったのに……)」
ゆっくりと体を動かしながら悠斗は自分の異変について考える。これもまたいつもの事だが、てんで分からない。もしかしたら何かの病気かもしれないと思うと背筋がぞくりとするが、即座にそんな事はないと頭を振って否定する。だが不安はそう簡単には拭えそうになかった。
「ほら、もう準備体操はいいだろう? 一緒に素振りしよう!」
それでも箒が目の前で楽しそうに微笑んでくれるだけで、悠斗の不安はそれだけであっさり消えてしまった。
「ああ、そうだな」
「うむ! その意気だ!」
箒が差し伸ばしてくれた手を取ると悠斗は竹刀を受け取り、二人並んで竹刀を振る。道場内に二人の竹刀を振る数を数える声が木霊する中、悠斗は先程の事を考えていた。
「(不思議な女の子だなぁ)」
こんな事は悠斗の人生において今まで一度もなかった。幼稚園でも女の子と話したり、遊んだりする機会はあるものの、こうまで不安を消してくれたり、楽しいと思わせてくれる子は中々いない。
悠斗にとってずっと共に過ごしてきた一夏と同じくらい大切な、若しくはそれ以上に大切な友人、という認識だった。
「「「ありがとうございました」」」
「はい、今日もお疲れ様。悠斗くんも千冬くんも、気を付けて帰りなさい」
「「はい」」
もう外が暗くなってきた頃、部活を終えて途中から参加した千冬と一緒に師範である柳韻に一礼して今日の稽古の終わりを告げた。
最初の頃は終わる時には話す事も儘ならない程に力尽きていた悠斗だったが、毎日の鍛練に加えてここまで走ってきたおかげか、体力が大幅に伸びていた。というよりも力尽きていた原因は箒と同じメニューをやりたくて挑戦して敢えなく撃沈していただけなのだが。
それでも諦めずに何度もやった結果、技術は到底追い付かないが、体力だけは箒と並ぶ程となった。人の執念とは凄まじいものだ。
着替えて外で一人、千冬を待っていると悠斗の元へ駆け寄ってくる足音。振り返ると私服に着替えた箒がいた。
「悠斗! その、また明日も来てくれるか……?」
何処か不安げに訊ねてくる箒。いつからか、悠斗が帰る時になると毎度のようにこのやり取りを始めるようになっていた。
彼女が通っている幼稚園ではその話し方やら独特の雰囲気からか、彼女に親しい友人はいない。悠斗のように話してみれば分かるのだが、近寄り難いのだ。友人と呼べるとしたら唯一ここで出会う悠斗だけ。
そんな事は露知らず、悠斗は右手の親指を立てた所謂サムズアップのポーズを取ると屈託のない笑顔で応えた。
「おう! 早く箒に追い付かないとな!」
「っ、ああ! 待ってるからな!」
「あ、う……」
「む?」
いつもの答えに箒は嬉しそうに笑う。まるで華が咲いたような笑みに悠斗の顔は熱を持ち、熱暴走により思考も停止。ただ心臓の鼓動音のみが悠斗の聴覚を支配していた。
「あー、ごほんごほん。待たせたな、悠斗。さ、帰るぞ」
「……あ、うん!」
そこへ態とらしく咳をしながら二人の様子を見ていた千冬が現れた。ここで出るタイミングを逃してしまったら非常にまずいと思ったからである。
ふと千冬と手を繋いだ状態で悠斗を見やれば、箒に精一杯手を振っていて。単純ながらも微笑ましいと千冬は思った。
「悠斗、剣道は好きか?」
「剣道っていうか……その、箒と一緒に何かやるのが好きだよ」
「そうか」
帰り道。千冬は少し遠回しに箒が好きなのかと悠斗に訊ねると返ってきたのは大当たりと言っていい内容の答え。その答えに満足そうに千冬は笑う。
だがそれに反して悠斗の顔は少し沈んだものになっていた。どうしたのかと訊いてみる事に。
「どうしたんだ? 何処か具合でも悪いのか?」
「今は悪くないんだけど……」
「今は?」
「うん。箒といると心臓が急にドキドキしたりするんだ……これって病気なのかな?」
「(そうきたか……)」
千冬からして見ればただの惚気話なのだが、当の本人としては至ってまじめなので冗談も言うに言えない。彼女に自分の弟の友達の不安を煽り立てる事など出来ないのだ。
何故中学生の自分が幼稚園児の恋の悩みを聞かなければならないのか、と頭を抱えそうになるがぐっと堪える。
「大丈夫だ。それは病気じゃないから安心しろ」
「そうなの?」
「ああ、誰でもそうなるんだ。まぁ相手は箒とは限らないんだがな」
「そうなの? じゃあ千冬さんもこうなるの?」
「うぐっ……!」
「千冬さん?」
悠斗からの予期せぬ反撃に思わずよろめく。思い返せばこれまで恋などする事もなかった千冬が恋してる幼稚園児に偉そうに恋を語るというのは中々辛いものがあった。恐らくは千冬の親友が聞けば今頃大笑いしている事だろう。その瞬間、間違いなく殴り抜いているが。
「あ、ああ……ある、ぞ」
「そうなんだ。じゃあ大丈夫だね!」
「ああ……(すまない、恋をした事がなくて本当にすまない……)」
心の中でとある英雄のように全力で謝罪する千冬。心に決して小さくない傷を負ったが、それでもう一人の弟とも言える悠斗の不安が取り除けるのなら安いものだと考えた。せめてそう思わなければ割りに合わない。
「ただいまー!」
「お邪魔します」
「悠斗も千冬姉もお帰り!」
「はーい、ゆーくんも千冬ちゃんもお帰りー」
悠斗が千冬と家に帰ると案の定、一夏がお出迎え。そしてなし崩しでいつも通り、一夏と千冬も白井家の食卓にお邪魔する事となった。
「悪いね、千冬ちゃん」
「いえ、ご馳走になってますからこれくらいは」
快斗が持つグラスにとくとくとビールが注がれていく。世話になっているせめてものお礼として千冬が快斗のお酌をするのが恒例だった。
「うー、悠斗がいないからすげー暇なんだよー」
「しょうがないだろ。今は少しでも早く箒に追い付かないといけないんだから」
「またそいつかよ……」
一度も会った事はないが、箒の事を何度も何度も聞かされている一夏は自分が蔑ろにされている気がして面白くないのだ。悠斗はもっと自分と遊ぶべきなんだと。
「あらあら、小母さんが相手じゃ嫌なのかしら?」
「そんな事ないです! でも……」
「じゃあ一夏くんは良い子だからゆーくんを待てるわよね?」
「はーい……」
深雪に宥められて一度は引き下がるものの、やはり諦めきれないのか、今度は先程とは変わったアプローチを仕掛ける事にした。
「千冬姉、俺にも剣道やらせてくれよ」
「え!?」
それを聞いて黙ってられないのが悠斗である。一夏が才能の塊である事を誰よりも理解している彼としてはたった二ヶ月のアドバンテージ等、無いに等しい。下手をすれば同じくらいの練習量で現在の目標である箒にも届くかもしれないのだ。
そうなると格好付かない悠斗は焦らずにはいられない。
「私としてはいいのだが……」
そう答えて千冬はちらりと悠斗を見る。彼女としてもいつかは弟の一夏にも剣道を習わせたいと思っていた。だが今となっては少し迷う所もある。悠斗と箒を応援している身としてはどうするべきなのかを。
「まぁどちらにせよ、私だけじゃ決められない。あの二人に聞かないとな」
「えー、いつ帰って来てるか分かんないのに?」
千冬が言ったあの二人とは千冬と一夏の両親の事である。二人とは擦れ違いのような生活をしていて、ここ最近は顔を見る事もなかった。だが教育費等は出しているので無下にも出来ない。しかし、一夏もそうだが、千冬の言い方からも分かるように二人は両親に対して良い感情を抱いていない。
そんな二人に聞いてみないとと言った所で一夏は不貞腐れて机に突っ伏した。要するに諦めろと言われたも同然なのだから無理もないだろう。
「一夏くん。まだ食べてる途中なんだからちゃんと起きなさい」
「はーい……」
快斗に言われて起き上がると一夏は少し寂しそうに箸を進めた。
時は過ぎて十二月。悠斗が篠ノ之道場に通うようになって半年が経過した頃。今日も今日とて箒は竹刀を振っていた。目指す頂きは遥か遠くにあるのだから少しでも前に進むためにも日々の稽古は欠かせない。
ちらりと時計を見ると自然と笑みが溢れた。
「ふふっ、そろそろ来る頃か……」
だが彼女が思い浮かべていたのは日本一の剣士になる事ではなく、同い年の門下生の事だった。
白井悠斗。箒にとって初めての友達であり、共に父から剣を学ぶ仲間。彼がここに来るようになってから箒の生活は少しずつだが確かに変わっていった。幼稚園にいても帰って来てからも一人で過ごす事が多かった彼女の一日は彼と共に過ごす事が多くなる。
彼はいつも楽しい話をしてくれた。主に親友の一夏という男との話だったが、親しい友人がいない箒にとっては新鮮で羨ましいものだった。
しかもただ共に過ごすだけじゃなく、互いが互いを意識して高め合うというライバルとしての関係もあったのだ。まだまだ荒削りだが、毎日欠かさず真面目に頑張るその姿は負けるものかと箒の気を引き締めてくれる。
「いかんいかん、あいつを見習ってまじめにやらなければ」
そう、今もこうして箒を剣に集中させてくれた。それでも悠斗が来る楽しみの方が勝ってしまうのは仕方ない。
竹刀を振りながらも時計を見る事が増えていく中で、漸く異変に気付き出した。
「今日は遅いな……」
いつもの時間になってもやって来ない事に少し不安を持ち始めていた。そんな事はない。これまで欠かさず来ていた悠斗が来なくなるなんて。
しかし幾ら待っても悠斗が来る事はなく、最初は何とか剣を振っていた箒も、いつしか素振りをやめて道場内を行ったり来たりするように。
「ゆ、悠斗はどうしたんだ……。いつもならもう来ているのに……」
答えが分からないまま、時間だけが過ぎていき、父である柳韻がやって来て答えが分かったのだった。
「インフルエンザ?」
「ああ、だから悠斗くんは暫く……そうだな、最低でも一週間は来れないだろう」
「そ、そうだったんですか……」
てっきり剣道に飽きたのかと思っていた箒は僅かに安堵した。思えば昨日別れた時は何処か上の空だったのを思い出した。あの時から体調が良くなかったかもしれない。
「よし、では今日の稽古を始める!」
「はいっ!」
久々にたった一人で受ける稽古は何処か寂しく感じた。
それは日増しに強くなっていき、二人でいる時には全く思わなかった道場の広さや寒さに凍えそうになる。千冬や柳韻が来ても寒いままで。幼稚園に一人でいる時は寂しいなんて思わなかったのに、今では寂しくて仕方がない。
「その、ゆ、悠斗はどうなんですか?」
「このままなら直ぐに元気になる。もう少しだけ待ってろ」
「は、はい……」
こうして毎日千冬から悠斗の容態を聞くのが箒が唯一安らぐ瞬間だった。
そんな孤独な時間が過ぎていき、遂に一週間後。今日は来るのかと朝からずっとそわそわしていると。
「悠斗!」
「お、箒だ。久し振り!」
一週間振りに会った悠斗に駆け寄る。片手を上げてにこやかに微笑むいつもの彼の姿に何故か嬉しくなり、心が弾む。
「今日はどんな話をしてくれるんだっ?」
「そうだな。じゃあ今日は――――」
たった一人、悠斗が増えただけでこの道場が暖かくなった気がした。