没話「うたって、おかあさん」

※これはアイドルマスターの二次創作です。
ただ没にするのも惜しいのでこちらに載せます


物語は如月千早が歌えなくなって8年後。
誰もが彼女を忘れ、人知れず社会に溶け込んでいた頃の話である。

彼女には現在娘が1人いる。
名前は優香といった。
今年で6歳になる娘は千早に似ず、お転婆でもう小学生になるのに落ち着きがない。
そんな娘との暮らしを守る為に千早は働いていた。
アイドルが増え、忙しくなった765プロを支える為に事務職を手伝うようになった千早。
かつての仲間達は皆一線級の仕事を続けている。それを彼女は微笑ましく見詰めていた。
その日も仲間を裏から支える為に彼女はコンサート会場でライブの準備を進めていた。社長から招待されていた娘をあやしながらの仕事は申し訳なく思う反面嬉しさがあった。
なにもかも順調だった。
そこで問題が起こる。

「余興が足りない?」

アイドル達を乗せたバスが渋滞に巻き込まれ、遅れているとの話だった。
その間に合わせとして先程から対応に追われていたのだが、もうそろそろ誰かが舞台に上がらなければ痺れを切らすだろうとの判断だった。

「そうだ、事務員さん。歌ってくれませんかね」

スタッフの1人が何気なく発言する。
765プロの事務員は昔からライブの繋ぎをするという風変わりの対応をしていた。
その事が頭の中にあったのだろう。
しかし、彼等は千早を知らない。如月千早というアイドルを知らなかった。

「うたって、おかあさん」

手を繋いだ娘が此方を見上げていた。
子守唄も満足に歌えない千早は無理だと言った。
もう歌えない。もう遅いんだ何もかもがと。
それでも優香は願う。
昔の映像で歌をうたう母親の姿が見たくて。
誰もが彼女を忘れていた。そんな彼女を社会が普通の人間にした。以前の彼女にはもう戻れない。
だからこそ願う。

「うたって、おかあさん」

戯れの言葉だと千早は思っていた。
一度の事ならばすぐに忘れている。それが再びならばそれは本気だ。
そして三度目の言葉。

「うたって、おかあさん」

逸らしていた視線を娘に向ければ、優香は涙ぐんていた。大粒の涙を溜めて此方を見上げている。
思わず胸が詰まる。心に去来する沢山のものがあった。
走馬灯のように過ぎ去っていく思いの一つ一つが千早を苦しめる。此処から逃げ出したいと悲鳴を上げている。
昔の自分、8年前の自分は逃げた。だからこそ今がある。
そこで千早は気付いた。
8年前とは違う寄り添う存在に。
繋いだ手が暖かかった。幼子の体温。
あぁ、自分は母親になっていたのかと今更ながらに思う。
優香を抱きしめる。

「お母さんね、頑張るわ」

抱き締めた温もりを手放し、千早はマイクを握る。
さぁ、8年前のやり直しをしよう。
彼女は舞台に立つ。
戸惑いが観客席に広まる。誰も彼女を知らない。今はまだ思い出せない。
千早は過去の亡霊だった。
音楽が鳴り始める。サウンドは最高だ。音響が素晴らしい。あの曲が、仲間達が自分に送った曲が鳴っている。
今は隣にいつもいた仲間達もいない。
ただ舞台袖で娘が見ている。
優香が観てくれている。
それだけで十分だった。
さぁ、歌おう。タイミングは今しかない。

「…………っ!」

声が出ない。
8年前と同じ現象。もうあれから8年も月日が経過しているのに変わらず声がでない。
あぁ駄目だ。心が折れる。
誰か音楽を止めてくれと悲鳴が漏れ出す。
だけど今はそれを実行してくれる大人達はいない。
孤独だった。いつも舞台には孤独があった。
千早はその孤独と戦ってきた。声を張り上げて抗ってきた。
その声がでない。
もう戦えない。抗えない。
あぁ、もう駄目なのかなぁ。
8年前と変わらない泣き言が溢れる。

「うたって! おかぁさぁん!!」

舞台袖から響く声。
はっとなる。泣きたくなるほど逃げ出したいのに声を聴いた瞬間に心の底から力が溢れ出してくる。
あぁ、心底思う。自分は母親になったのだと。
もう少しでサビがくる。
以前の自分は歌えなかった場所。
ここで歌えなければもう歌なんて捨ててしまおう。優香がいれば他に何も要らない。
諦めも多分に入っていた覚悟は決める。
会場の観客席は未だに流れ続けているBGMだけの曲にただ戸惑いと罵声が響き渡っている。
そこに歌声が加わった。
8年前と変わらない、むしろ人間として成熟しただけ歌の表現力は上がっている。
戸惑いが消えた。
罵声が響かなくなった。

「千早……765プロの如月千早だ!」

誰も思い出せなかった名前が帰ってくる。誰もが忘れていた名前が蘇ってくる。
気付けば青のサイリウムが揺れていた。会場全体に揺れるサイリウム。
今では他のアイドルの色なのにそれは如月千早の色なのだと主張している。
歌を鳴り響かせながら千早は思った。
8年前、自分が歌えていたらこの光景があったのだろうと。名残惜しくなる光景だった。
もうすぐアイドル達が戻ってくる。
それまでの繋ぎだ。
たった4分ちょっとの舞台だった。


日時:2015年04月17日(金) 16:54

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