テイルズオブフェイシア ―己が神を信ずるRPG― (澄々紀行)
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設定資料集
メインキャラクター紹介



所謂パーティメンバー。
増えるごとに更新する予定。



 

フォルセ・ティティス(Forse Titis)

 

 

性別:男

年齢:19

誕生日:A.F.2031.01.07

身長:175cm

体重:63kg

髪色:金色

眼色:翠色

国籍:フラン=ヴェルニカ

一人称:僕、私

二人称:君、貴方

弱点属性:――

耐性属性:

解放武器:銃装細剣

固有武器:自動拳銃

好きな食べ物:酒全般(法は守っている)

嫌いな食べ物:グミ(致命的とよく言われる)

 

 

称号:フラン=ヴェルニカ司祭

   ブリーシンガ隊祭士

 

 

 本作の主人公。

 宗教団体フラン=ヴェルニカ教団の聖職者。

 司祭として教練を積む一方、教団の騎士団に所属する騎士でもある。

 

 物腰柔らかで穏やかな性格。女神フレイヤの教えを忠実に守り、立場に相応しくあろうと努めている。一方で、異なる解釈への理解を深めようとする柔軟性も持っており、よく言えば自由主義、悪く言えば今なお迷える子羊である。

 

 

 

 

ミレイ・ノート(Mirei Nott)

 

 

性別:女

年齢:15

誕生日:A.F.2035.11.09

身長:155cm

体重:43kg

髪色:黒色

眼色:空色

国籍:不明

一人称:あたし/わたし

二人称:あなた

弱点属性:

耐性属性:

解放武器:スローイングナイフ

固有武器:服の装飾リボン

好きな食べ物:サンドウィッチ(片手で食べられるし)

嫌いな食べ物:フルコース(片手で食べられないし)

 

 

称号:謎の少女

   自称黙示録の所持者

 

 

 本作のヒロイン。

 フォルセが出会った謎の少女。レムの黙示録の正当所有者を名乗り、フォルセを〈神の愛し子の剣〉だと主張する。

 出身、所属、経歴等が一切不明。ある騒動の後、フォルセと共に行動することになる。色んな意味で突拍子のない行動をする。

 押しが強く、素直すぎ、非常に明るい性格。感情に振り回されることが多く、頼られると嬉しい。時にシビアな考え方を見せることもあり、どこか不安定な印象を与える。

 

 

 

 

シド・ガードライナス(Sid Gardrinas)

 

 

性別:男

年齢:25

誕生日:A.F.2025.06.05

身長:182cm

体重:73kg

髪色:群青色

眼色:黄土色

国籍:サン=グリアード王国

一人称:オレ

二人称:アンタ

弱点属性:

耐性属性:

解放武器:両刃両手剣

固有武器:ウェポン

好きな食べ物:カツ丼(脂っこいほど好き)

嫌いな食べ物:無し(いいこだ)

 

 

称号:シルトト記者

   旅するジャーナリスト

 

 

 旅の記者。サン=グリアード王国の新聞社シルバレット・ポスト(通称シルトト新聞)に勤めており、王国事情に精通している。普段から各地でスクープを求めているため、旅慣れしている。が、戦闘はやや怖がりな時から異常に怖がる時まで色々。怖がるわりに動きは洗練されている、所謂やればできる奴。

 

 一見して遊び人風だが心根は至って真面目かつ空回りかつ迷惑気味。スクープのためならたとえ火の中水の中、どこへでも行き周囲を巻き込んでいく。愛国心が強く、王国のこととなると記事も放り出すほど熱が入る。

 

 

 

 



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第0章 ―神父フォルセの日常―
Prologue  〈始祖ユーミルの軌跡〉


 

 勇者が勇者となった後、女神は世界を救われた。

 

 悪しき瘴気を、大地の腐食を連れて、勇者の嘆きを聞きながら、女神は命を落とされた。

 

 愛ゆえに。目の前の者、隣の者、何処かの彼方に生きる知らぬ者への愛ゆえに。ただ世界に生きる、あらゆる全てを愛したがゆえに。

 

 

 それこそが――女神が女神である証。

 

 

 

 勇者は嘆きの中で、女神の愛を受け取った。だからこそ勇者は勇者を捨て、己が名すらも捨て去って、女神の亡骸に寄り添った。

 

 

 女神を――愛したがゆえに。

 

 

 

 “勇者であった者”は独りではなかった。“勇者であった者”と共に勇者となった者――ユーミルがいた。愛ゆえに、ユーミルが受け継いだ女神の愛があったゆえに、勇者は捨てられ、“勇者であった者”が生まれた。

 

 

 

 世界の中心――女神の墓に寄り添う“勇者であった者”に、ユーミルは愛を以て告ぐ。

 

 

『我が友よ。愛する友よ。勇者であった勇敢なる者よ。我が言葉は女神の言葉、我が心は女神の心。世界のために、愛する隣人達のために、我が存在は女神となろう』

 

『我が最愛の隣人ユーミルよ。我は願おう、その愛を。此処から、我らが愛おしき女神の傍で、世界に愛が満ちることを願い続けよう』

 

 

 “勇者であった者”の祝福を受けながら、ユーミルは女神の言葉を携えて、荒れ果てた世界へ旅立った。

 

 “勇者であった者”が女神の亡骸を守る“墓守りの君”ならば、ユーミルは女神の想いを守る人だった。

 

 

『誰もを赦しましょう。誰もを信じましょう、愛ゆえに。目の前の者を、隣人を、何処かの彼方の知らぬ者さえも等しく愛しましょう』

 

 

 ユーミルは告ぐ、女神の言葉を。

 

 ユーミルは悟る、女神の願いを。

 

 ユーミルは祈る、女神の慈愛を。

 

 

 

 ――世界への、愛ゆえに。

 

 

 荒廃した大地に、ユーミルの愛は流れゆく。目の前の者、その目の前の者、その隣人、その先の隣人、隣人の隣人、知らぬ者の隣人、知らぬ者の隣に生きる、名も無き誰かにさえも。

 

 

『告げましょう、女神の言葉を。悟りましょう、女神の願いを。祈りましょう、女神の慈愛を。それが世界を照らす光と信じて、何処かの彼方の隣人と共に愛しましょう』

 

 

 ユーミルの言葉は女神の言葉。ユーミルの心は女神の心。ユーミルは女神であり、愛は女神であった。

 

 

『世界が等しく愛するように』

 

 

 祈るユーミルに続く者達が、愛を繋ぐ軌跡となっていく。

 

 

 何処かの彼方の誰かから、その隣人、隣人の隣人へ。続き、流れ、貴方の目の前の者へと繋がっていく。

 

 

 

 愛しましょう。友を、隣人を、知らぬ者を、彼方まで続くこの世界を。

 

 

 ――女神フレイヤへの、愛ゆえに。

 

 

 




2013/12/01
2014/04/09:加筆
2014/05/01:加筆
2016/11/13:ハーメルン引越し


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Chapter1  女神を信ずる世界

 

 木造の簡易な教会――その礼拝堂に、本を閉じる音が鳴る。静寂に満ちた空間に、その音はどこまでもどこまでも続くように反響した。

 

 (こうべ)を垂れて祈りを捧げていた者達が、一人、また一人と音の出所へと眼を向けていく。誰も言葉を発しはしない。言の葉を紡ぐのは誰なのか、皆知っていたからだ。

 

 

「心の波を静め、答えなさい」

 

 

 成人を控えた青年の声だ。どこか、悠然たる精神の色を帯び、礼拝堂を包む静寂へふわりと溶けていく。

 

 

「“あなた方が信じる神は、何者ですか?”」

 

 

 ステンドグラスから溢れる光を浴びながら言の葉を紡ぐのは、白い法衣を纏った一人の青年だった。天使の輪を築く金糸の髪を背に流し、目を閉じて、安らかに眠っているが如く穏やかな相貌に透けるような笑みを浮かべている。

 

 

 青年の言葉に沈黙無くして続くのは――“女神フレイヤ”の御名のみ。

 

 

「愛しましょう。何処かの彼方のその先までも。始祖ユーミルの名の下に、女神フレイヤの愛を片手に、ただただ等しく愛しましょう」

 

 

 青年は大きく両手を広げた。先程まで読み上げていた物語〈始祖ユーミルの軌跡〉の表紙を撫で、瞼を開く。慈愛に満ちた翡翠の眼が現れ、眼下に居る多くの“子羊”達を優しく見下ろした。

 

 

 祈ります、我らが愛する女神フレイヤよ――巡礼者達の声が幾重にも響き渡り、

 

 

「……祈ります、我らが愛する女神フレイヤよ」

 

 

 青年もまた、それに続く。

 

 

 

 祈りが終わった。青年は両手を下ろし、窓の外へゆっくりと目を向けた。どこまでも続く、緑を被った雄大なる山脈が広がっている。山脈内を流れる穏やかさを硝子越しに感じ取り、青年は笑みを深くした。

 

 

「祈りは聞き届けられました。女神はあなた方を祝福するでしょう。尊く思い、隣人を助け、ただ等しくその愛を広げなさい」

 

 

 青年は再び巡礼者達を見つめ、片手を広げて祝福の言葉を告げた。

 

 女神の慈愛に感謝します――巡礼者達の言葉が響く。その声を耳にしながら、青年は本を片手に台を降りた。

 

 

「……さあ皆さん、私の役目は終わりです。後は係の方に従って、清く正しく支度なさってください」

 

 

 纏う神聖さを霧散させ、青年は僅かに言葉を崩しながら軽く手を叩いた。それを合図に巡礼者達は多種多様な笑みを溢しながら席を立つ。

 

 神父様、ありがとうございました、これで安心して聖地に赴くことができます――そんな言葉を告げながら、巡礼者達は礼拝堂を出て行った。それら全てに言葉を返しつつ、青年は終始笑顔で彼らを見送る。

 

 老夫婦、幼子も含めた家族、また老夫婦、青年よりも歳が上や下の若者達――最後の巡礼者が出て行ったのを見届けて、青年は漸く息を吐くことができた。

 

 

「これで、此処での修練も終わりか。終わってみると、何だか寂しい気もするな」

 

 

 その言葉通り寂しげな表情で、青年はポツリと呟いた。もう一度、窓から外を見つめる。そこに神聖なるフェニルス霊山が広がっていることを、青年はよく知っていた。彼が居るこの教会は、霊山へ至る途中に在る所謂“休憩所”なのだから、知っているのは当然であった。

 

 

 青年が窓から目を離した時だった。お疲れ様です――老いた男性の声が青年の耳に届く。

 

 礼拝堂の脇から一人の神父が現れ、青年の元へと歩いてきた。穏やかな笑みを浮かべ、その顔の皺を更に深く増やしている。

 

 

 その神父は、教会の司祭であった。

 

 

「お帰りなさい、ペトリ様」

 

 

 青年は労いを込めてにこりと微笑んだ。神父ペトリが霊山を登る巡礼者達の案内をし、それが思いの外疲れることを知っていたがゆえに、青年は心からその労をねぎらっているのだ。

 

 青年の労いを嬉しそうに受けながら、ペトリは柔らかく口を開いた。

 

 

「学びのために貴方が教会に来て、今日で半年。思えば短いものでしたね」

 

「ええ本当に。今日で終いと言わず、もう少しこちらでお世話になりたいものです」

 

 

 冗談ともつかぬ青年の言葉にペトリは朗らかに笑う。

 

 

「貴方はまだ若い、学ぶ事は沢山ございましょう。半年という期間、このフェニルス霊山で貴方が学んだことを深く吟味し、広げ、愛し、いつかまた此処に訪れてください」

 

 

 ペトリの言葉に青年は小さく頷いた。もう少し此処に、とはやはり冗談であったようだ。神妙な面持ちではあるが、その瞳は存分に青年の想いを語っている。“聖地フェニルス霊山教会での修行”――青年にとっては確かに良い経験となっていた。

 

 

「ペトリ様とこの地に、女神フレイヤの加護在らんことを」

 

「ありがとうフォルセ。貴方にも、女神の加護在らんことを」

 

 

 敬愛する神父からの祝福を受け、青年――フォルセ・ティティスは己が感謝と親愛を込めて深く深く(こうべ)を垂れるのだった。

 

 

 

***

 

 

 惑星ホルスフレイン。全てを蝕む毒素たる瘴気の蔓延によって、嘗て滅びの危機を迎えた星。

 

 慈愛の女神フレイヤによって滅亡から救われたがゆえに、この世界では女神信仰が栄えていた。

 

 

『目の前の者を愛しましょう。隣人を愛しましょう。隣人の隣人を愛しましょう。名も知らぬ誰かを愛しましょう。――それこそが世界を満たす愛への軌跡だと知りましょう』

 

 

 女神フレイヤ、そしてその思想と言葉を継ぎ広めた始祖ユーミル、その愛によって救われし惑星ホルスフレイン。

 

 

 この三つを象徴とする唯一宗教を、フレイヤ教と呼ぶ。

 

 

 愛ゆえに愛せよ、とはフレイヤ教に触れた者なら誰もが耳にする言葉だろう。聖地フェニルス霊山を下りる青年、フォルセ・ティティスもまたその一人。否、寧ろ彼は、その言葉を信者に教え広める立場にあった。

 

 

 宗教団体フラン=ヴェルニカ教団――フレイヤ教信者を取り纏めるこの団体に、フォルセもまた一人の聖職者として所属していた。階位は司祭。その信仰心と才ゆえに、いずれは司教としての未来を期待されている若者だ。

 

 

 しかし、フォルセ自身はそういった権威には興味の欠片も無いように、時折こうして――此度のフェニルス霊山教会での修行のように――各地の教会に赴き、年配の神父達に教えを請うていた。それが一部の人間の苦笑を生んでいることをフォルセは知っていたが、己はまだまだ若輩の身ゆえ学ぶことは多いのだと、歳に見合わぬ微笑でのらりくらりとかわしている。

 

 

 

 フェニルス霊山中腹。教会での修練を終え、フォルセは(ふもと)へ向かって下山していた。それに伴い、現在フォルセは教会で着用していたものとは別の法衣を纏っている。

 

 山吹の紋様をあしらった白い祭服、それをベースにした僧兵服だ。司祭位を表す深緑のストールを首に掛け、左耳にはトパーズとアメジストのあしらわれたイヤーカフを着けている。腰回りを黄金の紐で締め、そこに修練用の経本と小さな荷物袋を提げていた。

 

 動きやすそうな要素と言えば足に穿くブーツくらいで、端から見ればひらひらと布地が舞って動きづらそうである。が、見た目通りではないのか、フォルセは何の苦もなくその格好で歩いていた。

 

 やがて、辿り着いた登山道の脇――落下防止のために作られた柵の近くでフォルセはおもむろに立ち止まった。晴れた蒼穹の下、雄々しき山々が一望できる。(ふもと)に比べれば風が強いが、気にするほどでもない。

 

 風で乱れる金髪を押さえながら、フォルセは山の光景をゆったりと楽しんでいた。澄みきった風を浴びながらこの山の上を飛べたらどんなに気持ちの良いことだろう、いっそ飛ぼうか此処から――実に満足そうな笑みを浮かべているが、こうして崖際に立つ者などそうはいない。現在、運良く昼前。時間が時間なら、フォルセは多くの者から奇異の目で見られたことだろう。

 

 

 下山するわりに、フォルセは実に身軽であった。荷と言えば、腰に提げる経本と小さな荷物袋のみ。霊山の道とはいえ時折魔物も現れるこの場所で、それは余りにも軽装過ぎた。

 

 しかしフォルセにとって、この荷の少なさは決して無謀などでは無かった。そもそも普段は荷物袋すら提げていないのだが――此処では割愛しよう。

 

 無謀ではない理由。それはフォルセがフラン=ヴェルニカの所持する自警団――ヴェルニカ騎士団に所属する騎士であるからだった。左耳に着けたイヤーカフが、真実騎士団の者であることを証明している。今回は騎士としてではなく一聖職者として出立しているために帯剣はしていない――が、それでも尚充分なほどの実力をフォルセは持っている。

 

 

『慈愛深く温厚な性格とは裏腹に、ヴェルニカの騎士はまるで無慈悲だ……』

 

 

 かつて何処かの地で一人の罪人が処刑の間際そう呟いたというが、果たして――。

 

 

 

 ふと思い立ち、フォルセは己の腰に提がる荷物袋を持ち上げた。落とさぬように注意しながら中を見る。旅人には必需品と謳われるグミ状の回復薬が数個、支度時と変わらず鎮座していた。フォルセ自身は甘いもの――特にフルーツの類を好いているのだが、この回復薬という名のグミにはどうも眉を顰めてしまうらしい。

 

 

「…………」

 

 

 暫しグミを見つめる。できれば使いたくないな、と小さく溜め息を吐きながら、フォルセは再び袋を腰に提げた。もう一度、眼前に広がる山々を一望する。深い緑、吸い込まれそうなほどに広がる空間。美しい。心が洗われるようだ。やはり飛ぶか。

 

 

 美しい光景から視線を外し、フォルセは再び歩き出した。重力に従い、そしてそれなりに逆らいながら悠々と道を下る。時折参拝客とその護衛たる騎士団員に出会いつつ、やがてフォルセは眼下に木々の生い茂っている崖へとやって来た。崖下を覗く。低い。容易に降りられそうだ。

 

 

「もうすぐ(ふもと)かな。“普通”に行けば、あと一時間くらいで着くけれど」

 

 

 小さく呟きながら、その足を道の外――崖へと向ける。周囲には誰もいない。誰もフォルセが登山道から外れていくのを見てはいない。フォルセは何の躊躇も無く歩を進め、崖下へと降りていった。

 

 

 崖の下には高い木々が生える森があった。歩を進めるにつれ、徐々に鬱蒼としていく。舗装されていない地面は少々歩きづらい。そして人の手の入らぬ地には、必然的に魔物が多く生息していた。一見愛らしい歩く小さな植物、群れで行動を成す狼、ぎょろりとした眼の小鳥――実力の差ゆえか、フォルセの敵意の無さゆえか、あまり襲われることは無かったが。

 

 

「……マナが、乱れている」

 

 

 暫く歩いた後、フォルセはポツリと呟いた。

 

 

 マナとは、あらゆる物質に宿る生命の源である。

 “星の息吹”とも言われ、大気中や大地、無機物、人と魔物の区別無く全ての生物に宿っている。また地水火風の四属性を操る術――魔術の行使に用いられるエネルギーとしても使われている。

 

 人間はその身にマナを宿している。フォルセも例外ではない。だからこそこうして周囲のマナを感じ取ることができる。身体を巡る血脈にも似た流れに意識を集中させ、己から外気へと這わせていく。

 

 

 揺れる。震える。弱々しく、暴れだしそうなほどに。感じたマナの乱れように、フォルセは僅かに眉を寄せた。

 

 

「霊山一帯は四属性のバランスが良い筈なのに。……熱く、揺らぎ、冷え、収まり、震えている。まるで彷徨える子羊のように……これは一体、」

 

 

 フォルセは訝しげな表情で立ち止まり、マナを一層感じ取るべく瞳を閉じた。瞑想でもしているかのように微動だにせず、ただただ星の命脈を探る。深くまで、探る。探る。その時――、

 

 

「――!」

 

 

 無防備なその背に、鋭利な爪が突き立てられた。

 

 

 




2013/12/01
2014/04/09:加筆
2014/05/01:加筆
2016/11/13:ハーメルン引越し


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Chapter2  信仰讃える聖剣〈リージャ〉

 

 強烈な殺気が、ゾクリと背を撫でる。フォルセは身体を大きく捻って飛び退いた。直後、轟音と共に地面が大きく抉られる。爆ぜた土塊を横目に金髪をふわりと揺らし、殺気の方へと顔を上げる。

 

 

 視線の先――其処には一体の魔物がいた。

 

 

魔狼(ウルフ)の異常種……に近いか。一撃でも受けたら一溜まりもないな)

 

 

 フォルセの思う通り、その魔物は魔狼(ウルフ)の異常種に似た姿を持っていた。全身の筋肉は異常なほど盛り上がっており、太い血管が幾つも浮き出ている。その猛々しい肉体を後ろ足でのみ支えており、“見た目だけなら”まさしく魔狼(ウルフ)の異常種たる人狼(ワーウルフ)そのものであった。

 

 しかしその魔物は、ただの異常種とは言えぬほどに黒く禍々しい殺気を放っていた。荒く息を吐き、二度と逃さんとばかりに血走った眼で睥睨(へいげい)してくる。その様は通常の人狼(ワーウルフ)には到底有り得ないだろう――邪気に満ちた姿。

 

 

 普通なら一目散に逃げ出すか、命乞いでもするだろうが――、

 

 

(……見た目通りただの異常種なら、下すほどではないのだけれど)

 

 

 フッ、と甘く柔らかな笑みが落ちた。

 乱れたストールをゆるりと撫で、フォルセは魔物を見返す。肩の力を抜き、教会に在るのと同様に典礼の姿勢をとる。

 

 己を容易く凌駕する巨体を前に、フォルセはゆったりと構えていた。

 

 空気を震わす凄まじい咆哮を合図に、魔物が勢い良く地を蹴った。

 刹那の内に迫る存在、それをしかと眼に映し、フォルセは意識を集中させる。

 

 

「女神の名の下――」

 

 

 女神フレイヤが言葉を綴る古代文字“ヴィーグリック言語”が淡く輝き、青い光がフォルセの全身より溢れ出でる。

 

 

「――浄化しましょう!」

 

 

 敬愛せし女神への信仰をもって慈しみを浮かべながら、フォルセは高らかにそう告げた。

 

 

 

***

 

 

 フォルセ・ティティスが登山道を逸れた理由を語ろう。

 それは昨晩の出来事であった。

 

 次の日の朝に控えた最後の典礼のため、フォルセは部屋で〈始祖ユーミルの軌跡〉を読み上げていた。本を手にせずとも覚えているが、神聖なる女神の文字ヴィーグリック言語をなぞりながら信者に読み聞かせることも、神父としての務めである。

 

 古めかしい蝋燭(ろうそく)の灯りの下、丁寧に頁を捲りながらフォルセは瞳を動かしていく。

 

 

『フォルセ、御手紙が届いていますよ』

 

 

 そこにやって来たのは神父ペトリであった。己を呼ぶ声にフォルセは本を置き、一息吐いて振り返る。二、三の言葉を交わして一通の手紙を受け取り、フォルセは僅かに表情を硬くした。

 

 それは、ヴェルニカ騎士団からの報せ――端的に言えば命令書であった。封を切る。中からは二通――堅苦しい文体で書かれた書類と、急いで書き殴った、にしては長文な、見覚えのある筆跡の手紙が出てきた。書類はとりあえず置いて、手紙の方へと目を通す。

 

 

『――フェニルス霊山(ふもと)にて、ヘレティック発生。単独での任務を命ず。発見次第討伐せよ』

 

 

 手紙の冒頭は、書類の内容を短縮したものから始まっていた。やはり、と頷きつつ、フォルセは手紙を読み進める。

 

 ヘレティックとは、邪心に冒された存在のことである。

 

 人も魔物も差はあれど、その心には女神フレイヤへの信心があるという。嘗て惑星ホルスフレインを救った女神への敬愛はあらゆる生命の魂に宿っており、死した後も語り継がれていく――それが、この世界の(ことわり)である。

 

 しかしヘレティックと呼ばれる種には、その本来あるべき信心が存在しない。邪悪に染まり、女神へ背を向け、凶暴化してしまっている非常に危険な存在なのだ。

 

 人間と魔物は争う。人間側は多くの理由のため、そして魔物はただ生きるために。だが互いに無意識下で共存を保ちながら、共に生きている。

 ヘレティックはそれらを容赦も躊躇もなく踏み荒らし、破壊していく。ゆえに見つけ次第、フォルセ含むヴェルニカ騎士には討伐命令が下されるのだ。

 

 

『――追伸』

 

 

 手紙の続きにフォルセの眉がピク、と上がる。

 

 

『よう。俺、現在遠征中。我が部隊唯一の祭士(さいし)の癖に半年修行をもぎ取ってくれやがった友人フォルセ・ティティスの横っ面に労いのキスができないことが非常に残念だ……と、お前の信仰深さにほんの僅かなヒビを入れられたんじゃないかと勝手に満足しつつ、俺はペンを置く。久々の任務だろうが俺は知らない。精々任務を軽く終えて、無事帰ってこい。

 ――ブリーシンガ隊隊長テュール・スパルティーノ』

 

 

 ――グシャ。手紙を潰す音が沈黙を破った。

 

 

『…………、態々ありがとうございます、ペトリ様』

 

 

 手紙を読み終わり、フォルセはペトリに礼を言った。透けるような笑みで手紙を畳み、屑カゴヘ小さく小さく千切っては投げ、千切っては投げを繰り返す。その行いは同封された書類の方こそが正式なものであると知っているためだ。ゆえに問題など皆無。容赦など皆無。

 

 

『それは討伐……それもヘレティック討伐の命令書だと聞いています。フォルセ、本当にお一人で大丈夫なのですか?』

 

 

 心底から案じているのだろう。ペトリの表情は暗く曇っている。しかしフォルセは安心させるように笑みを返し、口を開いた。

 

 

『ご心配痛み入ります、ペトリ様。でも大丈夫、これでもヴェルニカ騎士団の端くれですから』

 

『ですが貴方は剣をお持ちになっていない。貴方の法力の強さは知っていますが、修練とはいえやはり帯剣なされた方が良かったのでは……?』

 

『司祭としての修練に剣は不要です。それに規律ゆえの所属とはいえ、僕がヴェルニカ騎士団の一員であることは歴然とした事実。その上で個人的な聖地巡礼や教会への修行をという我侭を申し出ているのですから、急な命令に対応することも承知の上です。

 ……一応、単独行動を許された“祭士(さいし)”の位を賜ってますし、隊長の期待にも御応えしないと』

 

 

 ヴェルニカ騎士団員は全て、フラン=ヴェルニカ教団の者で構成されている。その内、フォルセのように聖職との兼任をしている者も少なくはない。

 

 騎士団での階級名では、聖職兼任者は“祭”の文字を冠し、騎士団へ完全従事する者は“修”の文字を冠する。

 

 隊長の他、兵卒を纏める者、それらを纏める者、更にそれらを纏め隊長へ直接報告する義務を持つ者、と騎士団内での地位は様々だ。そんな中でフォルセは、隊長より単独任務を命じられる立場にある。それを表す階級名が“祭士(さいし)”なのだ。

 

 

 フラン=ヴェルニカ教団司祭、そしてヴェルニカ騎士団ブリーシンガ隊所属祭士(さいし)

 この二つが、フォルセの職務上での地位であった。

 

 

『厚い信頼があるのですね……わかりました。もう何も言いません。貴方のことを私も信じましょう。明日は快く送り出したいですから』

 

 

 教団員の殆どは騎士団への従事を経験している。ペトリもまた、若き頃は騎士団にて任務に励んだ者だった。既に退役しているとはいえ、己の知る祭士(さいし)という階級の者を思い起こしたのだろう。これ以上の心配は逆に負担になると考えたのか、ペトリは続きかけた言葉を呑み込み、代わりに自身もフォルセを信頼するという旨の言葉を伝える。

 

 

『……ありがとうございます、ペトリ様』

 

 

 ペトリの心情を読み取り、フォルセは珍しく子供のような笑みでそう締めくくった。

 

 

 

***

 

 

 地を揺らす轟音が森に響く――恐ろしい両の腕が一撃、二撃、三撃と降り下ろされる。連なった岩を粘土のように抉り、木々はまるで小枝でも折るように薙ぎ倒していく。鬱蒼としていた筈の森は、木々が無惨な姿となる度に皮肉にも拓け、明るくなっていった。

 

 恐ろしきヘレティックの猛攻。フォルセはそれらを見切り、かわしていた。その結果が美しい景観の崩壊に繋がっていることを申し訳なく思いながら、腰の荷物袋から金縁のルーペを取り出し、(かざ)す。

 

 

「――やはり、光に弱い。見ずとも良かったか?」

 

 

 普段と変わらぬ柔らかな声色でフォルセは呟いた。

 

 そのルーペ――スペクタクルズは、対象のマナを乱す、或いは正す属性を読み取る道具だ。生物のマナに属性は存在しないが、マナに干渉する――簡単に言えば、苦手であったり耐性を持つ属性は必ず存在する。

 

 光に弱い、つまりフォルセの目の前にいるこのヘレティックには、光属性の攻撃を仕掛ければ良いということだ。

 

 逃げるフォルセに苛立っているのか、ヘレティックの動きは徐々に荒く、より攻撃的となっていった。避けきれぬ巨岩に向けてフォルセは手を(かざ)し、光の障壁によって直撃を防ぐ。粉砕され飛び散った岩の欠片が頬を掠めるも、気に留めることはしない。

 

 大きくバックステップした所で、フォルセは立ち止まった。背に触れるは崖、周囲には薙ぎ倒された木々、平坦だった地面は飛び散った岩片によって無惨に変貌している――逃げ場は、もう無い。

 

 犬歯を剥き出しにした口がどこかニヤリと笑ったように歪んだ。それは獲物を捕らえた喜びへの確信。直後、ヘレティックは鋭い爪をフォルセに向け、驚異的な速さで飛び上がった。

 

 

 

***

 

 

『ヘレティック種は、その多くが光と闇の属性を苦手とします』

 

 

 神父とは何も典礼を成すだけの存在ではない。学びを求める者へ知識を授けることもまた、神父としての勤めである。

 

 いつのことだったか。教会の幼き修行者達を前にし、フォルセもまた授業を行ったことがある。己の掌に太陽を思わせる光球を出現させて、フォルセはある世界の不変の真理について語り出す。

 

 

『それが、ヘレティック種討伐の多くがヴェルニカ騎士団によって請け負われている理由です』

 

 

 もう片方の掌に、今度は夜を濃縮したような黒球を生み出す。光と闇――双方の球を合わせれば、それらは朝焼けとも夕焼けとも言える不思議で淡い空間を成して、静かに霧散した。

 

 

『魔術は自然要素たる四大を行使する術。己のマナをもって星の(ことわり)を謳い、地水火風の力を紡ぐ大いなる御技。

 では――清浄を司る光、静寂を担う闇。この二つを行使するにはどうすればよいのか?

 ……己がマナを、神に捧げるのです』

 

 

 胸の前で手を組み女神フレイヤに祈りを捧げれば、聖なる青の粒子が身体から放たれた。輝き、収束して空へ溶ける。

 

 そして青き粒子――解放されたフォルセのマナの代わりにやって来たのは、正しき祈りを認めた女神の慈愛、光と闇を織るための聖なる力だ。白く輝くその力は、フォルセの身体に溶け入り、体内のマナが巡る道へと流れていく。

 

 それこそがフォルセの求めた――偉大なる女神の力。

 

 

『女神フレイヤに祈りましょう。捧げましょう。愛しましょう。女神フレイヤは慈愛の神。なればその眼は等しく我らを見つめ、その加護を授けて下さるのです』

 

 

 フォルセは歌うように言葉を放った。幼き修行者達を見下ろす二対の緑玉は、どこか恍惚とした色を帯びている。両手を広げ、眼下の者共に自身と同じ解放を促して、女神へと捧げる祈りのマナを導いた。

 

 

『さあ祈りましょう、平和への軌跡を。誰もが等しく愛せる美しき世界を。そして女神が慈愛、光と闇、法術の源――“リージャ”を授かるのです』

 

 

 

***

 

 

「――光よ」

 

 

 その一言が空気を震わせたのを合図に、柔らかな金髪がふわりと舞った。

 

 

「フォトン!」

 

 

 淡く輝く手を払い、清浄なる光の召喚を命ずる。大気より出でし光の粒子――それは間近に迫ったヘレティックの腹部にて集束し、大きく弾けると共にその巨体を後方へと押し退けた。大気を震わす断末魔が響く。まとわりついた禍々しき気は次々に霧散し、筋骨隆々たる肉体には幾つもの風穴が開けられていった。

 

 リージャ――女神フレイヤへの信心によって得られる聖なる力が、悪しきヘレティックの肉体を浄化しているのだ。

 

 吹き飛ばしたヘレティックを追ってフォルセは素早く踏み出し、焼け焦げた懐に飛び込んだ。目標も定まらぬままに降り下ろされた豪腕を、リージャの障壁ではね除ける。

 

 苦痛に歪むヘレティックの面を、フォルセはしかと見据え、両手を防御から攻撃の型へと移行した。漏れ出る青い光が稲妻となって弾け飛び、バチバチと鼓膜を弾くような雷鳴が森中に響き渡る。

 

 

「セイバースティング!」

 

 

 剣でも扱うように腕を振り払う。幾本もの雷が前方へ放たれ、ヘレティックの肉体を更に焼き尽くしていった。四肢は千切れ、辛うじて皮一枚で繋がる部分もあるが、鋼のような肉体は最早使い物にならないだろう。耳をつんざくような咆哮が、その苦痛の様を表していた。

 

 後方へと押し退けられたヘレティックは、どう、と音をたてて倒れ伏した。だがこれほどまでに肉体を損傷してなお、その敵意は衰えていないらしい。ヘレティックは尚も立ち上がろうと足掻き、唸り声をあげる。(もや)のように漂っていた黒い気が濃さを増し、焼け焦げ、裂傷の数々を帯びた肉体を瞬く間に再生していく。

 

 驚異的な再生能力――僅かに動きを止めたフォルセは、それを見て柔らかく目を細め、後方へと飛び退いた。

 

 青く光る陣がフォルセの足元に築かれ、体内のリージャを集束していく。大気は震え、渦巻く風が彼の髪や服を舞い上げていく。

 

 

光明(こうみょう)導く眩耀(げんよう)の使徒……」

 

 

 神の代行者の唇から詠唱が紡がれる。翡翠の瞳が、慈悲深き“無慈悲”に開かれた。

 

 

「――レイ!」

 

 

 高らかに告げられた言葉と共に、ヘレティックの頭上に眩いほどに輝く光の球が出現した。フォルセが腕を降り下ろす。それを合図に光球から幾本もの光線が放たれ、ヘレティックを貫き消滅させていく。

 

 

 怒りに満ちた咆哮が、清浄な大気へと溶け、生と共に消えていった。

 

 

 

***

 

 

 断末魔の余韻が消え、光球が霧散した頃、漸く辺りに静寂が戻った。

 

 戦闘によって僅かに昂った精神を愚かしく思いながら、フォルセは己の頬に手をやった。岩の欠片によって血の滲んだ部分を、簡易な治癒術によって癒す。血を拭いながら視線を向ければ、ヘレティックの死体が徐々に粒子となって消えていく様子が見えた。

 

 が、そこに見慣れぬ物体を見つけ、フォルセは小さく首を傾げた。消えゆく死体に近付き身を屈め、“それ”を注意深く拾い上げる。

 

 拾ったそれは、禍々しい色を帯びた小石大の宝石だった。

 

 

「ん? これは――っう!?」

 

 

 深淵を思わせる妖しげな赤と黒、生きているかのように渦巻く内部は酷く薄気味悪い。だがその宝石は、触れた部分から何故か白く、そして透明になっていった。フォルセは驚き、思わずそれを手放した。暫し硬直。後、地に落ちた宝石をまじまじと見つめる。この妖しい存在は何なのだろうか。まるで己のリージャが震えているようだと、フォルセは疑問に思う。

 

 

「ヘレティックからこんなものが出るなんて。今まで見たことの無い宝石だ……報告、した方が良いかもしれないな」

 

 

 言うものの、触れて変化するそれをどう持ち帰るべきか。何か反応が起きて本来の性質が失われでもしたら、持ち帰る意味をも無くしてしまうやも知れない。顎に手をやり、フォルセは思考の海に沈み、考える。

 

 

(何か袋…………あぁ思い付いた、いや思い付かないな。他に方法は無いかな)

 

 

 暫く考え、フォルセはある一つの方法を思い付き、そして否定した。思考の海に再び沈む。浮かぶ。退ける。沈む。浮かぶ。退ける。沈む。沈む。沈む。沈む。

 

 どれほど沈んでも、思い付くのはただ一つの方法だけだった。

 

 

「…………仕方ない、荷を少なくしたのは僕だ。今度からは空袋も用意しよう」

 

 

 思考終わり。フォルセはとうとう観念し、深く深く息を吐き出した。

 

 

「ああ、女神フレイヤよ。創造物を無駄にすることを御許しください……」

 

 

 できるだけ美味しく頂きますから、と沈痛な面持ちで呟くと、フォルセは腰の荷物袋を手に取り、中のグミを全て取り出した。僅かに躊躇し、意を決し一口にそれらを食べる。二種――アップルとオレンジ味――のグミを食べても市場で売られるミックス味とは違うのだと、フォルセは不本意ながら初めて知った。

 

 

(この食感、圧迫感……やっぱり、好きになれない……んぐっ、うぅ……)

 

 

 今にも泣き出しそうな顔で口をもごもごさせつつ、フォルセは落とした宝石を素早く拾い空にした袋へと放り込んだ。苦肉の策、少々グミ臭くなってしまいそうだが手で持っていくよりは大丈夫だろう。でなければ己もグミも報われない――そんな悲痛な叫びが心中で木霊する。

 

 

「…………早く戻って美味しいものが食べたい」

 

 

 少々目的を見失いつつも、フォルセはすっくと立ち上がった。

 

 進もうとした矢先、木々が薙ぎ倒されたことで拓けた光景が映る。偶然にも太陽が雲に隠れたその瞬間、遠い先、彼方の向こうに、フォルセが向かう地、フラン=ヴェルニカ総本山グラツィオの雄々しき影が見えた。豆粒ほどの大きさだ。雲が退き、日の眩しさゆえにその影を見ることはすぐに叶わなくなってしまったが、それでも柔らかな懐かしさが、フォルセの心を癒していく。

 

 

 フォルセはおもむろに手を(かざ)し、己のリージャを最大限に奮った。暖かな治癒の光が森に降り注ぐ。倒れた木々からは青々とした新たな命が生まれ、荒れた地面からは何もかも受け入れると言いたげな強い包容力が感じられる。

 

 

「さて……行こう」

 

 

 この地はマナも豊かだ、程無くして戻るだろう――蘇る兆しを見届けて微かに笑い、フォルセは予定通りグラツィオに向けて歩き出したのであった。

 

 

 




2013/12/01
2014/04/09:加筆
2014/09/06:修正
2016/11/09:フォルセの戦い方ちょっと修正
2016/11/13:ハーメルン引越し


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Chapter3  半年ぶりの愛すべき街

 

 フラン=ヴェルニカ総本山グラツィオ。

 

 アリアン大陸北部、聖地フェニルス霊山東に位置し、フラン=ヴェルニカ教団に属する聖職者だけでなく他国から移住してきた信者も多い都だ。白亜の壁が特徴的な家屋、建物が数多く並び、道なりに進んだ先に見える大噴水周囲には活気付いた商店が集まっている。

 

 静寂とは言えない。しかし耳に届くのは心地よい人々の生活音。鼻先を過ぎるのは甘い花の香りと住民が焼くパンの匂い。他国の主な街と比べて少々古風、良く言えば伝統的で歴史を感じさせるその街並みは、清く正しくを生活の基準とする信者達にとって実に住みやすいと言えるだろう。

 

 

 この時期美味しい野菜は何か、流行の装飾品はどれか、騎士様に助けてもらった、今日も女神様のお蔭で良い一日が始まる――そんな会話があちらこちらから聞こえてくる。皆一様に微笑みを絶やさず、幸福に満ち溢れている。

 

 誰もに己の幸福を分け与えたいと思う、誰もの幸福を分かち合いたいと思う、そんな空気がグラツィオの都を取り巻いていた。それこそが、皆の愛する女神フレイヤの教えであった。

 

 

 やがて日が沈む頃になっても、都の活気は収まらない。大気中に漂う火のマナによって街灯が夕暮れの都を照らす。今晩の飯は何だ、月が綺麗ですね、騎士様が躓いた、今日も女神様のお蔭で良い一日を過ごせた――昼間から変わっているのかいないのか区別のつかぬほどに元気な住民達の会話が街に響く。ヴェルニカ騎士団より派遣されている憲兵達は、そんな住民達を兜の裏からにこやかに見つめ、時折己らも同じように笑って過ごしていた。

 

 

 その時だった。空が夕焼けに染まり、星が瞬く頃、荘厳な鐘の音がグラツィオの空に響き渡った。瞬間、あれほどまでに賑やかだった住民達は一斉に口を閉じ、憲兵も含め、グラツィオに住まう全ての者が膝をついた。胸の前で手を組み、皆同じ方向へと頭を垂れ、祈っている。

 

 彼らが跪くその方向には、フラン=ヴェルニカが保持する最大の聖堂――ビフレスト大聖堂が聳え立っていた。天まで届くほどに高く、グラツィオのどこにいても見える外観は美しく、神々しい。

 

 その鐘の音が夕刻――十八の刻を告げた。一日は大きく二十四の刻に分けられるが、そのうち三、六、九……など、三の倍数の刻は女神フレイヤへの祈りの刻として定められ、ビフレスト大聖堂の鐘が鳴らされる。その時だけは皆全ての行いを止めて跪き、女神フレイヤへ祈りを捧げるのだ。――とはいえ、深夜、早朝に当たる二十四の刻や三の刻は安らかなる眠りを妨げるべきではないとされ、鐘の塔で司祭の一人が掌サイズの鐘をリズミカルに鳴らすだけとなっているようだが。

 

 約五分ほどか。鐘の音が静かに収まった。余響が残る中、人々は祈りを終え、グラツィオはまた元の賑やかな空気へと戻っていく。空に映る朱色が消えて夜の色に染まるまで、彼らの声は楽しそうに響き渡っていた。

 

 

 

***

 

 

 十八の刻。フォルセもまたグラツィオで祈りを捧げていた。場所は丁度グラツィオの入り口、憲兵達によって守られる正面の門だった。

 

 フォルセがイヤーカフと首のストール――これら二つが祭士と司祭というフォルセの地位を表している――を見せて門を潜った直後、ビフレストの鐘は鳴った。聖地フェニルス霊山にも微かに鐘の音は届いていたが、こうしてグラツィオの地で聴き、祈るのは実に半年ぶりのこと。感慨深く思いながら、フォルセは他の者と共に女神フレイヤへと祈りを捧げた。

 

 祈り終えた後、フォルセは門兵達に労いと感謝を述べ、夜を迎えたグラツィオへと歩き出した。フラン=ヴェルニカ総本山ゆえ、聖職者がいるのは決して珍しいことではない。半年ぶりの再会とわかる者、そうでない者と様々であったが、通り過ぎる者達は皆一様にフォルセへ敬愛の礼を向ける。

 

 人々に礼を返しながら、フォルセはビフレスト大聖堂へと向かっていた。半年の修行からの帰還、そしてヘレティック討伐任務と謎の宝石についての報告をするためだ。己の上官たる隊長テュールが遠征でいない今、フォルセが会うべきはフラン=ヴェルニカ教団の大司教エイルーという人物である。

 

 

「あっ……フォルセの兄ちゃんだ!」

 

 

 商店の通りに差し掛かった時だった。高らかな子供の声がフォルセの背へと投げられた。装飾品店の方からだ。振り返ったそこには十に満たない程度の、活発さを体現したかのような少年が、荷馬車の横に立っていた。フォルセが視線を向けるとパッと表情を明るくして駆け寄ってくる。

 

 

「貴方は……トビーではありませんか。お久し振りです、長く会わないうちに少し大きくなりましたね」

 

 

 眼を柔らかく細め、フォルセは皆に向けるのとはまた違う笑みを溢した。

 

 トビー――トビアスという名のその少年は、商人ギルドに属する商人の息子であり、二年ほど前にフォルセが任務の一環としてギルドの護衛に就いた時からの知己であった。

 

 

(……最初とは大違いだ。あの時は騎士らしくないとさえ言われたのに。きっかけはどうあれ、好かれて嬉しくないわけではないけれど)

 

 

 出会った当初、フォルセはトビーに酷く嫌われていた。が、任務が終わった頃にはすっかりなつかれ、その後に幾度かの再会を経て現在に至る。

 会う度にやれ剣を教えてほしいだの、遊びに行こうだの、流行りの装飾品はいかが? だのと商人の息子らしい小生意気な口調で突撃してくるその姿は、フォルセにとってはなかなかに面白いものだった。

 

 

「久しぶり、兄ちゃん! 何ヶ月ぶり? 確か冬が終わる頃に一回会ったよな」

 

「二月にここで御会いしましたから……八ヶ月ぶりですね」

 

「そんなに!? おれ、仕事でけっこーグラツィオに来てたんだぞ? なのに一回も会えないなんて……あ、わかった。兄ちゃん、ずっと教会とか大聖堂に引きこもってたんだろ? 一日中祈ってても平気そうだもんな」

 

 

 好き勝手言っているが、トビー自身も一応はフレイヤ教の信者である。一日の祈りもきちんと行っており、フォルセ以外の聖職者には敬いの礼を向ける賢い少年だ。が、子供らしく知恵を働かせているのだろう、トビーにとっては多少からかっても問題ない人物としてフォルセは認識されていた。

 

 

「……よくおわかりですね。流石、商人ギルド期待の星」

 

 

 フォルセ自身としては大して気に留めていないため、そんなトビーの内心を理解しながらも特に咎めることは無い。ニヤニヤと見つめてくるトビーにクスリと笑い、フォルセは視線を合わせるために少しだけ身を屈める。

 

 

「あながち間違いではありませんよ、トビー。私は四月から今日まで、フェニルス霊山へ修行に出ていましたから」

 

「……、ほんっとうにマジメだよな、フォルセの兄ちゃんは。でも騎士団はどうしたんだよ、辞めたの?」

 

「まさか。勿論、騎士としての任務も全うしていましたよ。主にフェニルス霊山周辺のものですが」

 

「ならいいけどさ。霊山に引き込もられたら全然会えないじゃん。おれ、兄ちゃんに会いたくていつもギルドの皆にくっついて来てたんだぜ? 修行も良いけど……少しはおれのことも考えてくれよな」

 

 

 本気で言っているかのように、トビーは頬をぷくりと膨らませた。が、小さな友人のそんな反応には慣れているため、フォルセはただおかしそうに笑うだけである。

 

 

「そうだったのですか。すみません、御会いできなくて」

 

「……まー、マジメな兄ちゃんに免じて、許してやるよ! その代わり、埋め合わせ……宜しくな?」

 

「埋め合わせ?」

 

「そう! 実はおれ、あと何日かグラツィオにいるんだ。だからヒマな時にまた剣を教え……いてぇっ!!」

 

 

 ころころと変わる表情にフォルセがうんうんと頷いていると、トビーの脳天に大きな握り拳が振り下ろされた。ゴッという鈍い音と共にトビーが大きな悲鳴をあげる。真正面からその様を目撃し、フォルセはぎょっと驚きながら顔を上げた。

 

 

「……、ああ、貴方は……」

 

 

 フォルセは目を丸くした。その視線は、頭を押さえて蹲るトビーの背後に向いている。

 其処にはいつの間にか一人の男が立っていた。拳を震わせ、怒りで真っ赤になっているその顔は、フォルセの見知ったものだった。

 

 

「こら……トビーてめぇ! ちゃんと馬車見とけって言っただろうがッ!!」

 

 

 鼓膜を震わす怒号が響く。トビーに悲鳴をあげさせた――拳骨を落としたその男は、彼の父マルクスであった。どうやら息子のことしか目に入っていないらしく、フォルセの存在にまるで気がついていない。

 

 怒声をあげる父を、トビーは潤んだ瞳を釣り上げてバッと振り返った。

 

 

「~~~っ! いってぇよ父ちゃん!! この馬鹿力!!」

 

「馬鹿はてめぇだ馬鹿息子! 荷物もまともに見張れねぇのかこのっ!」

 

「い、いいじゃんかよ! このへーわなグラツィオで問題なんか起きるわけないだろ!」

 

「てめぇは何年俺の息子やってやがる! 此処でできないで、一体どこでできるってんだ!!」

 

「!! ~~~ってぇ!!」

 

 

 涙目ながらも生意気に文句を返したトビーであったが、再び振り下ろされた拳にあえなく撃沈した。唸る息子を見下ろしマルクスはふん、と鼻を鳴らす。しかしクスクスと笑う声――フォルセの存在に漸く気がつき、その顔は見る見るうちに赤くなった。勿論、今度は怒りではなく羞恥で。

 

 

「ぁああアンタ、じゃない貴方はフォルセ様! いつから、いやその、お、お恥ずかしいところをお見せしました……」

 

「良いのですよ、マルクス殿。お二人とも変わらず仲が宜しいようで何より」

 

 

 言いながら立ち上がったフォルセは、微笑ましげにそう言った。何の他意も無いのだが、マルクスにとっては羞恥を煽るものだったらしく、いやいやあはは、と営業スマイル崩れを振り撒きながら、息子の身体を無理やり持ち上げた。

 

 

「すいませんね、愚息が失礼なことを。ほら、こいつフォルセ様のことが大好きでしょう? ギルド連中にグラツィオ行きの奴がいるとうちの商売放って無理やり着いてっちまうくらいなんです。いやあ、親不孝な馬鹿息子ですよ。ホント」

 

「親不孝だなんてとんでもない。働く貴方の背をよく見ているのでしょう。流行りの品物をよく勧めてくれますし、他国でのお話も聞かせてくれるので私としてはとても嬉しく、楽しく思っております。頼もしい御子息ですよ。存分に自慢なさってください」

 

 

 最後に会った時もグミを、ええグミを沢山買わされて――。フォルセの視線がどことなく彼方へ向かう中、マルクスは顔から火が出るほどに悶絶しながら、腕の中でもがく愛息子を抱き潰すのであった。

 

 

 

***

 

 

「うげぇ。し、死ぬかと思った……」

 

 

 父マルクスから漸く解放されたトビーは、ぐったりと肩を落とした。掻き回された髪は無惨にもぴょんぴょんと跳ねている。トビー曰く馬鹿力でもみくちゃにされた服は、哀れにもふにゃりと伸びきっていた。

 

 因みに当のマルクスはというと。怒っていたことも忘れたのか『フォルセ様に失礼の無いようにな!』とトビーに言い捨て、再び装飾品店へと入っていった。商談の途中だったらしく、何やら変に気合いを入れていた――騒がしいのは、やはり遺伝のようである。

 

 ふやけたトビーの姿を微笑ましく思いながら、フォルセは彼の手を引き装飾品店前のベンチに座った。

 

 

「実際にお会いするのは二年前の護衛以来ですが……変わらず、お優しい父君ですね」

 

「ただのらんぼー親父だよ……いってぇ。ジマンの息子がバカになったらどーするんだってーの!」

 

 

 今だに疼く頭を押さえながら、トビーは憎まれ口を叩く。だがフォルセと共にいられることが嬉しいのか、すぐに満面の笑顔になった。

 

 

「へへ、でもまた会えて嬉しい。なぁ兄ちゃん、さっき言いかけたけどまた剣を教えてくれよ。おれ、早くヴェルニカ騎士団に入りたいんだ!」

 

「……以前にも言いましたが、私には誰かに剣を教えられるほどの腕はありませんよ。それに私はただ規律に従って騎士団に所属しているだけですから……トビーが目指す騎士様とは、少し違うのではないかと」

 

「違わない! おれ、難しいことわかんないけどさ。昔おれ達を守ってくれたのはフォルセの兄ちゃんだろ? あの時の兄ちゃん、すっごくかっこよかった。だからおれがなりたいのは兄ちゃんみたいな騎士なんだ!」

 

 

 興奮しながら、トビーは当時の再現だろうか――どこか引き締まった表情で腕を振り、敵を斬る動きをした。大きすぎる動作、真っ直ぐすぎる言葉が実に子供らしい。これにはいつも負ける、とフォルセは嬉しさを含みながら小さく苦笑を溢した。

 

 

「ありがとうトビー。わかりました。私でよければ、出来得る限りを教えましょう。ですが私のようになりたいのなら……」

 

「『愛ゆえに愛せよ。目の前の人を、隣人を、何処かの彼方の誰かをも』だろ? わかってるって」

 

「そう……女神フレイヤはいつも我らを見つめています。愛を以て、祈り、捧げ、努めて生きれば慈悲深き裁定が得られるでしょう。だからトビーも、周りの人を大切にしてあげてくださいね」

 

 

 にこりと微笑むフォルセの顔は、正しく神父のそれ――女神フレイヤの代行者に相応しいものだ。わかったよ兄ちゃん、とトビーは一見素直に頷く。その内心で、剣の指導が言いづらくなったと嘆いていることにフォルセは気が付いていたが、何も言わない。

 

 フォルセは視線を動かし、商店通り中央に立つ時計台を見つめた。十八の刻から長針が半分ほど過ぎている。もうそんなに経ったかと、フォルセは眉をピクンと上げた。

 

 

「……すみません、トビー。もう行かないと」

 

「えっ!? もう行っちゃうのかよ!」

 

「色々報告することがあるんです。大司教――エイルー様には事前に鳩を飛ばしていますが、あまりお待たせするわけにもいきません。

 ……もしかしたら、明日もそれほど時間は取れないかもしれないですね」

 

「そ、そんなぁ……!」

 

 

 案の定トビーは酷く落胆した。フォルセの内心を罪悪感がチクリと刺す。だがそこは普段から大人に囲まれているためか、トビーはニカッと笑って立ち直った。

 

 

「それじゃあ、今度は兄ちゃんがニクスヘイムに来てくれよ! 良いもの揃ってる店、おれが案内するからさ!」

 

「……ふふ、わかりました」

 

 

 罪悪で曇ったフォルセに相貌に小さく笑みが浮かぶ。立ち直りの早い子だと感心しつつ、フォルセはトビーの故郷――ニクスヘイムを思い浮かべた。

 

 ニクスヘイムとは、アリアン大陸南部、グラツィオからコンフォ山脈を隔てた南側にある、ギルドの拠点と呼ばれる都市だ。嘗ては商人ギルドと採掘ギルドの小規模な集まりだったものを、フラン=ヴェルニカがバックアップし、今では世界中の流通を担う大市場となっている。

 

 グラツィオの物資は全て、一度ニクスヘイムを通過している。トビーの父マルクスもグラツィオに物資を通す商人の一人だ。山脈によって殆ど隔離された位置にあるグラツィオがこうして豊かに栄えているのは、ギルド拠点ニクスヘイムのお蔭である。

 

 

「必ず遊びに行きます。その時は宜しくお願いしますね、トビー」

 

「うん! ……あ、そうだ兄ちゃん。最後に一個いいか?」

 

 

 ベンチから立ち上がったフォルセを引き留め、トビーは急に神妙な面持ちで、実はさ、と耳打ちしてきた。

 

 

「父ちゃんはあんま大きな声で言うなって言ってたんだけど……最近グリアードとルモルエ、クローシアとますます仲悪いみたいだぜ」

 

「三国の対立は今に始まったことではないのでは?」

 

「そうなんだけど、ちょっと嫌な感じがするって父ちゃんが。最近聞いた話だから、霊山まで噂は届いてないと思う」

 

 

 トビーの言い方では、まるで人間同士に起きた仲違いのように聞こえるが――これはれっきとした国同士の関係悪化に関する話である。

 

 海を越えた先。此処アリアン大陸の西に存在するサン=グリアード王国と、東に存在するセント=ルモルエ帝国。そして南のクローシア皇国。

 現在、世界はこの三国によって治められている。唯一アリアン大陸のみを完全中立の立場からフラン=ヴェルニカ教団が治めているが、ここでは割愛しよう。

 

 サン=グリアード王国とセント=ルモルエ帝国は長年敵対関係にあった。十数年前に大規模な戦争を引き起こしたことは今でも記憶に新しい。しかしそれらを取り纏め、休戦条約を結ぶよう働きかけたのがフラン=ヴェルニカ教団であった。

 

 フラン=ヴェルニカの助力によって、二国間は――国民に限って言えばだが――そこそこ平和的に交流している。国家としては変わらず互いを敵国と認識し、各々多くの問題を抱えているものの、二国はまずまずの平和を築いていると言えよう。

 

 しかし、問題は南のクローシア皇国であった。建国されたのは僅か十数年ほど前――否、建国などといえるものだろうか。それは前述したサン=グリアード王国とセント=ルモルエ帝国間の戦争最中のことだった。嘗ての聖人クラウディウスの名を掲げて突然現れた皇国一派は、戦争中に両国から無理やり独立する形で領土を奪った。独立における理由等は一切不明。戦火の中に在った二国の軍人達の行方も不明。皇国一派の正体もわからず、クローシア皇国は未だ多くの謎に包まれている国である。

 

 現在もフラン=ヴェルニカに対し、二国との対等な関係認知を求めるこのクローシア皇国。当然ながらサン=グリアード王国、セント=ルモルエ帝国の両国とは仲が悪い。否、仲が悪いなどという話ではない。いつ戦が始まっても可笑しくはない、一触即発状態にあった。

 

 

「国境近くの争いも急に多くなったみたいでさ。とくに陸続きでクローシアと繋がってるルモルエは大変らしいんだ」

 

「海を隔てて離れているサン=グリアード王国とは違って、セント=ルモルエ帝国はフェーン大陸のシムナ砂漠に国境が敷かれていますからね。砂漠の東をセント=ルモルエ、西をクローシア……どうあっても衝突は免れないのでしょう」

 

 

 フェーン大陸のシムナ砂漠とは、元々セント=ルモルエ帝国の領土であり、現在は西側をクローシア皇国が占領する地である。

 

 

「あそこは確か、聖地の一つがあった筈だけれど……」

 

「……なあ兄ちゃん、」

 

 

 フォルセの独り言は聞こえなかったらしい。「もし戦争になっても、兄ちゃん達が止めてくれるよな?」不安を顕にトビーは言った。

 

 

「……止めませんよ」

 

 

 が、フォルセはいつも通りの微笑で小さく首を振った。それはどう見ても否定の仕草であり、トビーはなんで? と言いたげにポカンと口を開ける。

 

 

「フラン=ヴェルニカはあくまで中立。仮に戦争が始まってもそれを止めることはありません」

 

「そう……なのか? でも前の戦争はフラン=ヴェルニカが止めて、えっと、きゅうせんじょーやく? を結ぶようグリアードとルモルエに言ったって父ちゃんが……」

 

「フラン=ヴェルニカが戦争を止めたわけではありませんよ」

 

 

 誤解だ、とフォルセは柔らかく目を細める。

 

 

「あの戦争を終わらせたのは……そうですね、かのクローシア皇国と言えるでしょうか」

 

「あんなメーワクな国が? まさかぁ……」

 

「見方によっては本当なのですよ。終わらぬ戦争の最中、突如クローシア皇国と名乗る集団が独立宣言をし、狂人の戯言とは捨て置けぬ謎めいた力と速さで、ファジーブル列島と西シムナ砂漠――あの戦争で、サン=グリアード王国とセント=ルモルエ帝国がぶつかっていた戦場をごっそり奪っていった。

 戦場だけでなく領土をも奪われた両国は、クローシア皇国という共通の“敵”を前に協力を余儀なくされ、やむを得ず、多くの約定や補償を後回しにし、フラン=ヴェルニカの仲介を経て休戦条約を結んだのです」

 

「う、うん……なるほどなるほど」

 

 

 スラスラと述べられるフォルセの説明に、トビーは瞳を丸くしながら必死に着いていく。

 

 

「それから十年以上経った今でも三国の問題は続いていますが、これ以上フラン=ヴェルニカが立ち入ることはないと思いますよ。中立ですから、ね」

 

「ふ、ふーん。なんか、スゲーしょーげき……」

 

「ふふ、トビーにはまだ難しかったですか?」

 

「ううん、そんなことない。ありがとう兄ちゃん」

 

「……こちらこそ。教えてくれてありがとう、トビー」

 

 

 フォルセは再び立ち上がった。もうトビーは引き留めない。今しがた学んだ歴史を整理するので頭が一杯なようである。勉強熱心で何より、とフォルセは内心感心する。

 

 

「心配せずとも宜しいですよ、トビー」

 

「…………へ?」

 

「貴方達の町――ニクスヘイムはフラン=ヴェルニカ教団の庇護の下にあります。戦火が降ろうとも、貴方達のことは我らヴェルニカ騎士団が必ず守ります。安心してください」

 

 

 経典を読み上げる時と同じような表情でフォルセは言う。

 

 

「女神フレイヤの教え、教えに従う迷い子達を悪意を持って害する者あれば……我らは誰であろうと、等しく、愛をもって、“浄化”しますから」

 

 

 優しげに、優しげに微笑む。その柔らかな表情はトビーを安心させると同時に、何故か臆させ身を引かせ。

 

 ビビり顔でブンブン頷くトビーに、フォルセは自身の迫力ある笑顔に気付くことなく頷き返した。

 

 

 




2013/12/01
2014/04/09:加筆
2014/05/07:修正
2016/09/24:加筆修正
2016/11/13:ハーメルン引越し


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Chapter4  大司教とヴィーグリック言語

 

 トビーと別れて二十分ほど。フォルセは漸く目的地であるビフレスト大聖堂に辿り着いた。荘厳なる外観が遥か上空まで伸び、視界の殆どを埋めている。

 

 満天の星空が広がる下、ビフレスト大聖堂は人工灯によって淡く照らされ、夜だけの姿を見せていた。大聖堂を囲うように広がる庭には色とりどりの花が咲き、そこを見下ろすように幾つもの塔が連なる構造となっている。外壁に見えるステンドグラスの一部が神々しく、偉大なる聖人達を模した彫刻は見る者に畏怖すらも感じさせる。

 

 存在感溢れる、世界最大の聖地ビフレスト大聖堂。だが此処で語られる教えは決して怖れるものではない。――あふれんばかりの愛に満ちたものであると、此処に在る誰もがよく知っていることだろう。

 

 

「司祭フォルセにございます。本日、聖地フェニルス霊山より帰還致しました。此度は大司教エイルーに拝謁したく……」

 

 

 扉口の前、そこに立つ兵士にフォルセは告げた。連絡が行き届いていたのだろう、労をねぎらう言葉と共に大聖堂内へと通された。

 

 足音をたてることさえ憚れる空間を、しかしフォルセは堂々と進んでいく。

 

 大聖堂内部には夜闇が降り、見る者の芯に触れるような厳粛な空気が漂っていた。幾つもの柱が天井まで高く高く伸びている。外とは違い、内部ではマナによって起こされた本物の火だけが灯されており、光の届かぬ天井付近は深い闇に染まっていた。高みより見守るが如く鎮座する彫刻、現代まで語り継がれる物語を描いた絵画、そして神々しいステンドグラスは闇に阻まれ今は見えない。が、恐らくフォルセの記憶に違わぬ姿で其処に在り、そして美しいのだろう。

 

 敬虔な信者だけが座することのできる長椅子が、奥までずらりと並んでいる。火によって暖かく照らされる長い身廊を歩いていくと、最奥の礼拝堂、そこにある説教壇の側に人影が見えた。一見して高位の者とわかるミトルと法衣を身に付け、アイリスパープルの髪を腰まで伸ばしている。

 

 堂々たるその背を見て、フォルセはスッと背筋を伸ばした。

 

 

「司祭フォルセ。聖地フェニルス霊山での修練を終え……ただ今戻り、」

 

「遅い」

 

 

 感情の欠片も感じさせない声に礼を中断され、フォルセはピタリと止まった。

 

 

(ぬし)が鳩を寄越して早十刻ほどの時が経った。鳩はとうに帰った。主は鳩よりも歩みが遅いと見える」

 

「……、鳩殿との歩みにおきましては、私の方が速いと自負しておりますが」

 

「では何故、このような時に帰った?」

 

「帰路の(みち)にて幼き知己に会ったがゆえにございます。エイルー様」

 

 

 それに鳩は飛べますし、と心の中で呟きながら、フォルセは人影――大司教エイルーの背を見つめた。その心の内を読んだように、エイルーはふっと息を溢し振り返った。

 

 雪のような肌を持つ中性的な相貌が、灯火に照らされ僅かに色付いていた。夕陽の瞳が瞬き一つせずにフォルセを見つめ、威圧を与える。その表情は、声色同様に感情の見えないものだ。が、それが大司教エイルー――“彼女”の常であると、フォルセは知っていた。

 

 

 遥か昔、旧暦時代や新暦初期において、聖職者は男性のみとされていた。しかしフラン=ヴェルニカ教団に、そのような制約はない。教団の聖職位階は法力――リージャの強さによって決まるという、実にわかりやすいものだった。ゆえにフォルセのような若いながらも司祭職に叙階される者や、エイルーのような高位の女性聖職者がフラン=ヴェルニカには多く存在している。

 

 咎める気が失せたのか、それとも元からそんな気は無かったのか。エイルーは読めぬ表情で頷いた。

 

 

「知己に会ったと。良い、許す。が、それだけか?」

 

「……霊山での最後の任務として、麓にてスパルティーノ隊長からの任を」

 

「ほう、テュールか……」

 

 

 白雪に乗った柳眉が僅かに寄ったのを、フォルセは見逃さなかった。

 

 

「アレは今、グラツィオを発っている。セント=ルモルエ領ダースト大陸北――帝都付近だな。ヘレティック大量発生の報せを受け、小隊を連れて十日ほど前に行った」

 

「存じております。私からの報告はエイルー様に伝えよ、と」

 

「……あやつ、どれほど我の仕事を増やせば気が済むのか。大体何故司祭としての修行に赴いた主に騎士団の任務を寄越す。グラツィオにも騎士はいる。そやつらにやらせればいい」

 

「ヘレティック討伐任務だったので、そういうわけにも」

 

「だからこそ、だ。我は常々言っている……一部隊でのみ異端討伐を担うのは不快だと。それをテュールは『俺らで事足りる。やれるやつがやればいい』と過信も甚だしい、いつ誰が欠けるともわからぬのだぞ。世は流動し止まるところを知らぬのだからいつなんどき……」

 

 

 低くなった声がこぼし始めた愚痴の嵐に、フォルセは慣れた顔で肩を竦めた。

 

 

 人望厚く、だがその言動はどこか軽薄さの抜けない男。ヴェルニカ騎士団ブリーシンガ隊隊長テュール・スパルティーノ。

 

 信者からは敬愛を、知る者からは畏敬の念を受ける女。フラン=ヴェルニカ教団大司教エイルー。

 

 あまりに対照的なこの二人は、フラン=ヴェルニカでも有名であった。

 

 性格は完全に正反対、静と動、水と油などと揶揄されることもしばしば。同じ、それも互いに高位の教団員ゆえに両者の接触は意外と多い。更に言えば、テュールからエイルーへの――軟派な“男”から硬派な“女”への接触も――無駄に、無駄に多い。

 

 大きな争いに発展したことは勿論ないが、代わりに両者が揃えばたちまち空気が凍る。教団内ではもっぱら周知の事実だ。

 

 そして、この二者に同じだけ好かれ、いつも間に入って微笑んでいる“苦労人”がフォルセであった。

 

 

(実際この二人は公的に対立している訳じゃない。あの様子じゃ、誤解されるのも無理はないけれど……)

 

 

 特別何かがあったわけではない。出会った当初から続く確執――要は、壊滅的に合わないのだ、この二人は。

 

 

「司祭フォルセよ」

 

「はい」

 

「今、我とアレの噂を思考しただろう」

 

「……ふふ。すみません、つい」

 

 

 図星を突かれたにも関わらず、フォルセは何の躊躇いもなく微笑んだ。そんな彼に多少の恥じらいを見せ、エイルーはふうっと息を吐く。

 

 

「構わん、許す。アレと対峙して自制できぬ我が悪い。……わかっている」

 

 

 心底から己を責め立てているのだろう。“大司教エイルー”とはそういう人間だったと、フォルセは内心で苦笑した。

 

 そんなフォルセの心情を知ってか知らずか、エイルーは瞬き一つして表情から憂いを消した。説教壇から一段降り、フォルセと同じ高さの地に着く。

 

 

「報告をせよ、フォルセ・ティティス」

 

 

 感情の窺えぬ顔に戻り、エイルーは言った。

 

 

「はい。フェニルス霊山での修練は……」

 

「……、ああ待て。そちらはいい」

 

 

 手で静止しながらそう言うと、エイルーは懐から数枚の紙を出し、ひらりと振った。どうやら手紙らしい、僅かに見えた字はフォルセの見覚えのあるものだった。

 

 何だったか、何処で見たのかと記憶を辿る。だがフォルセが答えに辿り着く前にエイルーの口から答えが出された。

 

 

「ペトリからの書簡だ」

 

「……ペトリ様?」

 

 

 その手紙は、フォルセがほんの今朝方まで世話になっていた神父ペトリからのものだった。そうだった、あの意外にも達筆な字体はペトリ様のものだ、とフォルセは納得する。

 

 

「主のことが書かれていた。よく励み、務めていたとな」

 

「……ペトリ様らしい」

 

「修練の結果は主の今後の有り様が示すだろう。後に話は聞かせてもらうが、今はいい」

 

「はい。これからも女神フレイヤの教えに従い、平穏と慈愛の軌跡を築いて参ります」

 

 

 胸に手を当て、フォルセは改めて誓った。それにエイルーは激励を込めて頷き、次いでスッと目を細めた。

 

 

「では任務の報告を。……その顔は、何か変わったことがあったと見える」

 

「はい。実は……」

 

 

 改めて促してきたエイルーに今度は騎士団員としての礼をし、フォルセは霊山での戦闘について報告を始めた。

 

 

 

***

 

 

「成る程。黒く禍々しい宝石、か」

 

 

 十数分後。フォルセの報告を聞き終え、エイルーは息を吐いた。フォルセが取り出したその宝石を袋越しに持ち、考え込む。

 

 

「ヘレティック――否、討った魔物からこのようなものが発見されたなど、我も聞いたことがない。突然変異か、或いは……何か別の要因か」

 

 

 言いながら、エイルーは手の内の宝石を見つめる。炎に照らされて尚深い闇を映すそれは、この世の“悪”と呼べるもの全てを凝縮したかのようだ。見つめる時間が経つほどに、形良い眉が不快げに顰められていく。

 

 

「……とはいえ、我は一介の聖職者。グラツィオからあまり出ぬゆえ、聞く以前に知る機会が少ない。こういった話は我よりも……テュールの方が詳しいだろうな」

 

「そうですね……では隊長が御帰還なさるまで、此方で保管しましょう。私はこのまま騎士団宿舎に戻るつもりでしたので、途中で本部まで行って封を施しておきます」

 

「そうだな。では頼むとし……いや、待て」

 

 

 フォルセの提案に頷き、エイルーが宝石を彼に渡そうとしたその時だった。不意に何かを思い出したようにピタリと止まり、エイルーはその手をひょい、と引っ込めてしまった。

 

 

「エイルー様?」

 

 

 受け取ろうとした姿勢のまま、フォルセは訝しげに名を呼んだ。呼ばれた当の本人はその整った眉を僅かに下げ、よく見ねばわからぬ程の笑みを浮かべた。

 

 

「すまぬ。忘れていた。主の部屋は今そちらには無い」

 

「え?」

 

「『半年もいねぇ奴のお部屋はポイッてな』とアレが勝手に教会宿舎へと移動させた。ゆえに主の戻るべきは騎士団宿舎ではなく、反対側の教会宿舎だ」

 

「あ……ああ、そうですか。あの人らしい、ことです」

 

 

 エイルー曰くアレ――テュールが言い、そして実行したことを思い浮かべ、フォルセは困ったように微笑んだ。内心ではその気遣いに感謝しているのだが、上官の普段の言動ゆえにその表情は微妙なものであった。

 

 

 ビフレスト大聖堂周囲には、大きく分けて三つの教団関係者用宿舎が存在している。

 

 一つはヴェルニカ騎士団員の宿舎。テュール含め、グラツィオに在住している団員全てが此処で生活している。訓練場や厩舎も存在し、グラツィオの馬車等は全て此処で保管されている。

 

 二つ目は聖職者用の教会宿舎。此方は大司教エイルーを含めた司祭以上の聖職位階である者が生活している。騎士団宿舎と違い各々一人部屋であり、更に大聖堂より小規模だが教会も隣接しているため、一部は巡礼者用の宿泊施設としても利用されている。

 

 そして最後――ビフレスト大聖堂に隣接するアリアン宮殿には、フラン=ヴェルニカ教団トップである教皇と枢機卿団が住んでいる。他国との会議や教皇選出等、政治的に重要な事柄を司る場所である。

 

 この三つと住民街の中心にビフレスト大聖堂は存在していた。教皇、聖職者、騎士団、信者――彼らが住まう四ヶ所全てに道は通じているため、そういった意味でもビフレスト大聖堂はグラツィオの中心であり象徴と言えるだろう。

 

 住まう者が違えば、自ずとその造りも大きく異なる。特に闘いを主とする騎士と教えを常とする聖職者では、特に。

 

 

「隊長が戻られたら御礼をしないと。騎士団宿舎より教会宿舎の方が過ごしやすいので、私としては嬉しい限りですので」

 

 

 フォルセは苦笑ぎみにそう言った。その言葉通り――ルームメイトがいて当たり前、下手をすれば大勢で寝食を共にすることもある騎士団宿舎と、一人部屋が普通とされ、常に静寂の纏う教会宿舎ではかなりの差があった。

 

 好みは人それぞれであるし、各々良し悪しもあるだろう。しかし、やはりフォルセには教会宿舎で過ごす方が性に合っていた。宿舎の選択権があるというのは、騎士団と聖職を兼任する祭士であるがゆえの特権と言えよう。

 

 

「主を思っての、アレなりの気遣いだろうな。勝手をやられて此方は少々困りはしたが」

 

「申し訳ありません、エイルー様」

 

「主が謝ることではない。部屋が足りなくなった訳ではないし、主のような者ならやはり此方の宿舎の方が落ち着くであろう。ただ、ただせめて我か宿舎に話を通してからにせよと……」

 

 

 再び始まった愚痴にフォルセがクスリと笑うと、エイルーは我に返り小さく咳払いをした。反省の込められた深い溜め息を吐く。気を取り直して宝石を懐に仕舞うと、エイルーは代わりに別のもの――自身の経本を取り出した。

 

 

「そういうわけだ、この宝石は我が持っていこう。主はこのまま修練での疲れを癒すように……と言いたいところだが、その前に主に渡すものがある。受けよ」

 

「……え、私に、ですか?」

 

 

 エイルーは首を傾げるフォルセを見つつ、自身の手にリージャを練り上げた。直後、経本より聖なる青が溢れ出でる。古代文字ヴィーグリック言語が輝き、列を成し、エイルーの手を追うように経本のページからふわりと浮き出てきた。

 

 白く長い指がくるりと一回転し、文字の列はそれに倣うように動く。エイルーの指が経本の角をトン、と叩けば、宙で回る文字は統率された兵の如くスッ、と集束し、弾け飛んだ。

 

 そうして現れたのは萌葱色の表紙を持つ一冊の本。今現在エイルーが持つものと同じ種類の経本が、ヴィーグリック言語に代わって宙に出現したのだった。

 

 

「っ!? 危ない……!」

 

 

 驚きながら、フォルセは現れた経本を受け取った。無礼にもエイルーの目の前に手を伸ばすこととなったのだが、その経本が何なのか察したためにフォルセはそうせざるを得なかったのである。

 

 片手で受け止めた経本を寄せ、窺うようにエイルーを見つめると、やはりうっすらと笑みが見えた――否、先程より僅かに深くなっているだろうか。フォルセが瞬き一つした頃には、既に元の感情読めぬ面に戻っていたが。

 

 

「軽量化を施してあったゆえ、重くはなかったが。……よく持てるな」

 

 

 フォルセの持つ経本は、見た目からは考えられないほどの重さをその手に与えている。エイルーの細腕ではとても持てそうにない。

 

 

「ああ軽量化、ですか。……すみません、剣以外にも色々入れてますので」

 

「それを平気で持てることに感服する。“ヴェルニカ騎士の経本”は全てそのようなものなのか?」

 

「どうでしょう? ただテュール隊長の場合は剣そのものが重いので……重さだけなら私の比ではありませんね」

 

「…………恐ろしい馬鹿力だな、アレは」

 

 

 ふっ、と何処か遠くを見つめ始めたエイルーに心中で同意しつつ、フォルセは手に持つ経本へと視線を落とした。深緑の表紙を一撫でする。半年ぶりの感触だ。懐かしげに瞳を細め、フォルセは経本を開く。

 

 開いた経本の頁には、フォルセの直筆にて書かれたヴィーグリック言語がびっしりと並んでいた。時々隅に描かれている絵が芸術的もとい歪なのは見逃すべき部分である。視線を巡らせ、エイルーが書いた字を見つける。その部分を指でなぞって持ち上げれば、字は先程のように紙からふわりと浮き出でた。

 

 浮き上がった字を払って消し、フォルセは頁を白紙部分まで捲った。文字を書くように手を添える。フォルセのリージャがペンの形を成し、手の内に現れた。それを用い、フォルセは“経本”を意味するヴィーグリック言語をサラサラと書き記した。

 

 次いでペンを消し、フォルセは己の腰に提げていた、フェニルス霊山から持ってきた経本を手に取った。先程書き記したヴィーグリック言語の上にそれを翳す。すると経本は瞬く間に消え、代わりに気高き赤で彩られたヴィーグリック言語となった。空中でくるくると回転するそれらは列を成し、フォルセが書き記した頁へと吸い込まれ、そのまま消えてしまった。フォルセの手に持たれた経本が、また少し重くなる。今しがた消えた経本を“入れた”ことで、重量が増したのだ。

 

 

「ふっ、見事な“ヴィグルテイン化”だ」

 

 

 じっと様子を窺っていたエイルーが、静かに感嘆の意を表した。

 

 

「まだ未熟なものです。書き記す情報も纏めきれていませんし」

 

「ヴィーグリック言語の扱いは高位の者であっても容易くできるものではない。……経本一冊にその程度なら充分であろう。良く学んでいると見える」

 

 

 敬愛するエイルーからの褒め言葉に、フォルセは嬉しさと照れと謙遜の入り交じった顔ではにかんだ。

 

 

 古代文字ヴィーグリック言語。女神フレイヤの言葉を綴るこの言葉を読み解ける者は、フラン=ヴェルニカ教団でもそう多くはない。公用語であるセスラ言語と同レベルに読み書きするには相応の学と経験が必要とされる。

 

 フォルセはその数少ない内の一人であった。神父として、時に騎士としても、彼はヴィーグリック言語を他者に授けることを許される立場にある。

 

 しかしヴィーグリック言語は何も教団でのみ使われているものではなかった。寧ろセスラ言語同様、広く世界で使われている言語である――何故か。その最大の理由こそが、今エイルーとフォルセが使った技術――〈ヴィグルテイン〉である。

 

 物質をヴィーグリック言語によって表し、その文字を媒体に刻む。そうすることで物質をマナ粒子にまで分解し、媒体――書き易さゆえ特に書物が好まれる――に宿す。この現象、及び技術が〈ヴィグルテイン〉だ。容易な技術と思われるが、実際はヴィーグリック言語に訳す難しさゆえに、この技術を施せる者は少ない。

 

 しかし、ヴィグルテイン化した物質は持ち主と認識させた者のマナ操作によって再構築、分解をする為、一度ヴィグルテイン化してしまえばヴィーグリック言語を知らぬ者でも容易に出し入れすることができる。

 

 ヴィーグリック言語は、ヴィグルテイン技術という形で世界中に認知され、使われているのだ。

 

 

「……が、やはり主のそれは重すぎる。自身でヴィグルテイン化できるとはいえ、入れた分だけ重量も増すのだから少しは自重せよ……」

 

 

 呆れ混じりに続いたエイルーの言葉に、フォルセは照れた笑みをそのまま苦笑へと変える。その表情は、自覚はしているがどうにも手を出してしまう、と言いたげである。

 

 エイルーの言った通り、ヴィグルテイン化した物質はその本来の重量だけが残る。要するに、媒体に加えてヴィグルテイン化した物質の重量もかかってくるのだ。

 

 エイルーがかけていた軽量化という技術は、かけた者にしか物質の再構築、分解ができなくなる。ヴィグルテイン技術の利である“ヴィーグリック言語を知らずとも出し入れできる”という点が損なわれてしまうのだ。ゆえに、たとえヴィーグリック言語で表せたとしても、持ち運びできぬほど重い物がヴィグルテイン化されることは、まず無いと言える。

 

 ヴィグルテイン化するにも技術者を通さねばならない。その分費用も時間もかかるため、輸出入される荷や商人が運ぶ品等はそのまま運ばれることが殆どだ。ヴィグルテイン化される物といえばもっぱら、騎士や軍人、旅人等、外界で戦闘を行う者達の武器や旅道具である。

 

 因みに。今此処で問題視されているフォルセの経本には――彼の剣とテントや毛布、食材といった軽い旅道具の他、その他経本や儀式用の聖道具等がどっさり入っていた。

 

 

「わかってはいるのですが、ヴィーグリック言語の復習も兼ねるとどうしても色々と試してしまって。……ところで」

 

「ん?」

 

「……何故、私の経本をエイルー様が御持ちに? これは修練へ赴く際、騎士団宿舎に置いてきた筈ですが」

 

 

 言いつつも確信しているのだろう。フォルセの面は、彼の“感情”を表すように深い深い深い笑みを浮かべている。

 

 問われたエイルーは、再び何処か遠く――今は他国に遠征中の同胞と言うには憚れる(アレ)の存在――を見つめ、フォルセに答えを与えた。

 

 

「主が考える通りだ。『騎士団員表すイヤーカフ着けておいて剣だけ置いてくんじゃねぇよ。毎日手入れして祈っといたから感謝しろよ、我が“祭士”……つーわけで大司教エイルー様、これ親愛なる我が部下に渡しといてくれ。礼は今度二人で食事でもどうよ』云々と、アレが至極腹立たしい笑みで置いていった」

 

「…………」

 

「ちなみに食事は美味だった。……フォルセ?」

 

「腹立たしい笑み、ですか」

 

「ああ」

 

「成る程、そうですか……腹立たしい笑みで……わざわざ大司教様にそんな無礼を」

 

 

 復唱しながら思い浮かべる。己の口角がきりきりと上がるのがわかり、フォルセは顔を覆って俯いた。表情筋がピクピクと馬鹿の一つ覚えのように跳ねる。主も大概苦労しているな、というエイルーの同情染みた言葉を聞きながらフォルセは、

 

 

「――浄化を御望みか、あの痴れ者(アレ)は」

 

 

 地を這う恨みがましい声を、清浄なるビフレストに吐き出した。

 

 

 




2013/12/01
2014/04/09:加筆
2016/09/24:加筆修正
2016/11/13:ハーメルン引越し


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Chapter5  静寂壊す少女との出会い

 

 ビフレスト大聖堂西側から出れば、そこには大聖堂をぐるりと囲うように作られた大きな庭園が広がっていた。多彩な花々や豊かな葉を揺らす木々が夜闇、月光に浮かぶ光景はとても幻想的だ。

 

 この美しき庭に癒されたいが為にグラツィオを訪れる者も多い。二十の刻を過ぎたばかり、夜風が僅かに冷たくなった今でも行き交う人々は沢山いた。

 

 フォルセもまた、人々と同じように庭園の道を歩いていた。神父らしくその表情は穏やかに凪いでいる。が、心中はそれとは正反対に荒れ狂い、波打っていた。それも全ては彼の上官――テュールの所業にある。

 

 

(よりにもよって大司教に届けさせるなんて……一体どこまで暴挙を重ねれば気が済むんだ、あの人は)

 

 

 フォルセのおらぬ間に宿舎を移動させるという気遣い――それによって僅かに上がったテュールの好感度は、その後の行いによって落雷の如き勢いで地に落ちた。当分回復することは無い、今度会ったら浄化――もとい、説教しようと、フォルセは深い溜め息を吐く。

 

 

 ビフレストの庭園、色とりどりに咲く花の中だというのに心中は荒れたまま――それはとても残念なことだ。このままではいけないと頭を振り、フォルセは諸々の邪念を無理やり払った。内心のあれやこれやを積極的に昇華する。ああ、甘く澄んだ花の香りが鼻先を掠めていく――癒される癒される。

 

 

「……ん?」

 

 

 丁度庭の中心に来た頃だった。道の先を見つめ、フォルセは訝しげに眉を寄せる――遥か前方から、誰かが駆ける音が聞こえてきたのだ。静寂を破るその音はこの場に似つかわしくなく、周囲の人々も何事かと音の方を見つめる。

 

 

 駆ける音が止まった。静寂が戻る。ああ何でもなかったか、とフォルセ含めこの場の者達が視線を逸らしたその瞬間――喧騒は一層大きくなって帰ってきた。

 

 

「……もう! 行っても行っても同じようなところばかりじゃない! もう……もうもうもう!」

 

 

 なんなのよーっ! はつらつとした少女の声が何やらもうもうと叫び声をあげた。空気を震わすその声に、人々は一様に驚きの視線を向け、立ち止まった。

 

 

(…………何だ、今の)

 

 

 フォルセもまた、驚きに固まった一人だ。穏やかさを消し、呆然とした面で前方を見つめる。道の真ん中で立ち尽くすフォルセの前に、やがて叫び主がのしのしと足音荒くやって来た。

 

 年の頃は十五、六か。

 黒の中に桜色の花が咲いている――否、少女の黒髪と同じ色の帽子に、淡い桜色の花飾りが一つ飾られていたのだ。彼女が地団駄を踏むたびに、肩の上ほどまでの髪は羽根のようにふわふわ浮いて、帽子と同デザインのフリルやスカートが揺れ動く。特に手首の辺りを飾るリボンはまるで鞭のようにひゅんひゅん風を鳴らしていた。危ない。

 

 格好は、本人の振る舞いとは裏腹に愛らしい。とはいえ、今はきりりとつり上がっている大きな空色の眼や、ツンと立っている唇さえ落ち着けば、黒を基調とした服はきっと少女に似合うだろう。黙っていればかわいい、誰ともなしに聞こえる。

 

 少女の腰には白い表紙の本――フォルセの経本より一回りほど小さい――が、リボンによって巻かれ、提げられていた。

 

 

「大体広すぎるのよここ! そりゃあ花は綺麗だけど、こんなに道が入り組んでたら迷っちゃうじゃない! 現に! あたしが、迷子!」

 

 

 腕をぶんぶん振り回し、癇癪を起こした子供そのままの姿で少女は喚く。相当余裕が無いのか――周囲の迷惑そうな視線に気付く様子は、皆無だ。

 

 

(観光客かな。このままでは憲兵を呼ばれてしまいそうだ。それでも良いけれど……まあ、いいか)

 

 

 己としてはそれでも構わないが、この場にいて見過ごすわけにもいくまい。

 

 自分も騎士ゆえ問題ないだろうと一人納得し、フォルセは少女へと近付いていった。騎士の証たるイヤーカフが左耳で光り、司祭位を表すストールが揺れる。周囲の人々は安堵したように視線を戻し、或いは興味深げにひっそりと窺ってきた。

 

 

 少々の視線を浴びながら、フォルセは少女に話しかける。

 

 

「そこの貴女」

 

「そもそも案内の一つも無いのがおかしいのよ! ヒルデリアの花を目指せば着く筈なのに……これじゃあいつまで経っても着かないじゃない!」

 

「そこの、君」

 

「もう……もうもうもう! 一体何処にあるのよヒールーデーリーアーーッ!!」

 

「――ヒルデリアなら!!」

 

 

 呼び掛けても応えない――否、一向に気付かない少女に、フォルセはとうとう大声をあげた。少女はきゃっ、と声をあげ、ビクリと肩を揺らした。どうやら漸くフォルセの存在、そして如何に自分が騒がしかったのか気付いたらしい。ふっくらとした少女の頬がさっ、と赤く染まった。

 

 

「……ヒルデリアの花壇なら、此処を真っ直ぐ歩いて三番目の角を右に曲がった所ですよ」

 

「……」

 

「先程私も通りましたが、どれも生命力溢れ、とても美しく咲いておりました。花の一生は短いと言いますが、そう急く必要は無いと思いますよ?」

 

 

 柔らかく微笑んで言ったものの、少女の顔は強張ったまま変わる気配を見せない。これは困ったな、とフォルセは表情に苦笑を混じらせる。

 

 

「……ヒルデリアの花、あっちにあるの?」

 

 

 暫しの沈黙の後、少女は漸く口を開いた。フォルセが示した道を睨むように見つめる。問われたそれにフォルセがええ、と頷くと、少女は気に留める様子も見せずに歩き出した――、

 

 

「……、ありがと」

 

 

 ――が、少女はフォルセの隣で足を止め、視線も向けずに呟いた。

 

 

「道、教えてくれてありがと。聖職者は嫌いだって思うけど……親切にはちゃんと礼を返すのがスジ、だから」

 

 

 ともすれば聞き漏らしてしまいそうなそれは、はっきり“嫌い”と言ったようであるものの、確かに少女からの感謝の言葉であった。

 

 フォルセは不意を突かれたようにポカンと口を開け、少女の横顔を見つめた。数度の瞬きを経て意味を理解すると、呆けた表情をそれはそれは柔らかくして、微笑んだ。

 

 

「……どういたしまして」

 

「っ!」

 

「“ありがとう”にはこのように返すのがスジ、でしょう?」

 

 

 その言葉に、少女はばっ、と勢いよく振り返った。丸い眼を大きく見開き、驚愕と困惑の色を帯びている。

 

 ぷるぷると震えるその様にフォルセが笑みを深くすれば、少女の頬は比例するように赤く染まった。

 

 

「んうううう……もう、笑わないでよ!」

 

「すみません。貴女の“ありがとう”が嬉しかったもので、つい」

 

 

 フォルセの言葉に、少女は狼狽えたように眉を寄せた。

 

 

「……べ、別にそんなスゴイことじゃないでしょ? あたしはただ、誰かに借りを作るのが嫌いなだけ。でも今すぐあなたに返せない、だから言っただけ!」

 

「……ということは、いつか返して頂けるのですか?」

 

 

 素直ではない少女に、フォルセは声色に笑いを含みながら返した。

 

 普段なら貸し借りの有無などフォルセは気にも留めない。それでも少女に対し、端から見ればからかうように反応したのは、フォルセにとって彼女が物珍しい性格の持ち主だったからだ。グラツィオでは特に見かけない、感情のまま突っ込むタイプとみえる。

 

 元気があってよろしい。フォルセは駆け回る幼子達を見る眼差しで、少女の反応を窺っている。

 

 

「……そう、ね。聖職者に対してそんな機会がやって来たら、いいって思うけど」

 

 

 しかし少女の口から溢れたのは、焦りも困惑も無い――言うなればどこか哀しげな声色の呟きだった。

 

 どうしたのか、とフォルセはその俯いた顔を覗き込むが、黒髪に隠れたその表情を窺い知ることはできない。

 

 

「……ま、いっか。一応、あなたの“どういたしまして”は貰っとく。……それじゃあ」

 

「時間も遅いことですし、良ければ御案内しましょうか?」

 

「あなた、あたしの言うこと聞いてなかったの? 借りを作るのは嫌いなの。というか、聖職者自体、ホントは嫌いで……」

 

 

 呆れからぼやきめいた様子でぶつぶつと紡がれるその言葉を、フォルセは己の唇に人差し指を当てて制止した。え、と虚を突かれた顔の少女をじっと見つめ、にっこりと笑みを浮かべる。

 

 

「下を向いているよりも……そう、此処に来られた時のように表情豊かな方がずっとよろしい。どうやら貴女はとても“素直”な方のようだから、どうかそのままでいてほしいと私は思う」

 

 

 フォルセの口から放たれたのは、何故か少女への賛辞だった。

 

 

「え……えええっ!? いいいきなり何てこと言うのよ!! 恥ずかしいじゃない!!」

 

 

 少女は驚きで目をまん丸と開き、怒り声で羞恥を主張した。構わずフォルセは朗らかに笑う――その様が、少女を爆発させた。

 

 

「もうっ! だから聖職者って嫌いなのよ! “どういたしまして”も返すわ! ……あなたは知らないんだろうけどね、世の中にはあなたみたいに知ったような口を利いて心にズンズン入ってくるようなやつが嫌いな人間だってたっくさんいるに決まって、」

 

「……ですが」

 

 

 遠慮の欠片もなく言葉を遮る。怯んだ少女の瞳を、フォルセはくい、と覗き込んだ。

 

 

「此処はグラツィオです。女神フレイヤが御言葉を代行する使徒、フラン=ヴェルニカ教団の総本山。そんな場所で『聖職者は嫌い』だなどとは……たとえ素直であっても言わぬ方が宜しいですよ?」

 

 

 フォルセの忠告に少女ははっ、と息を呑み、周囲をちらりと見回した。興味本位でしかなかった視線が、いつの間にか少女を無言で責め立てるものへと変わっている。自身の言葉の不味さを漸く理解し、少女はぶるりと震え上がった。

 

 少女に向けて、庭園中から視線が突き刺さる。訝しげに、得体の知れぬ何かを見るような目で少女を見つめてくる。聖職者――我らが女神の代行者を貶すとはどういうことかと、信仰に基づいた怒りを放ってくる。

 

 少女は顔色を失くし、唇を噛み締めた。彼女自身、言ったことに嘘偽りは無いのだろう。しかし、だからこそこうしてこれ以上の“失言”をしないよう留め、己の身を守ろうとしている。フォルセの言ったことを遅まきながらも理解したからこそ、少女は後悔に身を震わせている。

 

 

 すっかり気力の無くなった少女を前に、フォルセは多少の罪悪感を覚えた。が、それでも少女の今後を考えて、慈愛に満ちた微笑で容赦なく言葉を続ける。

 

 

「それにもうすぐ二十一の刻を迎えますので、往来では少しだけ声を潜めてくださいね。此処は神聖なるビフレスト大聖堂の庭。あまり騒いでしまうと、折角の静寂が台無しだ」

 

「…………ううう、あ、あたしは、」

 

「素直な方。私達を嫌うというのならそれでも構いません。我らは等しく女神の代行者であり、そして未だ現世に繋がる未熟者。貴女にとって至らぬ点があるのなら、我らは真摯に受けましょう。

 ですがその言葉は、此処では鋭すぎる。貴女の言葉を胸に、私は己を見つめ直し、誰もが女神の御許へ赴けるよう一層尽くします。ですからどうか、その想いをこの庭で昇華して頂きたい」

 

「…………んぐう、何言ってるかよくわからな」

 

「安心なさい。女神はその(かいな)で貴女の全てを受け止めることでしょう。此処はそんな想いの数々を昇華するために在る場所。己が持つ鋭利な刃を正しく鞘へと納めるための聖地です。

 簡単にいえば、誰もが穏やかでありたくて此処にいる。……皆さんも、そうでしょう?」

 

 

 そう言って周囲を見渡せば――フォルセの言葉に感化されたのか、それともその“微笑み”がどうかしたのか、少女を睨んでいた者達は皆一斉に笑顔を浮かべ、花壇の方へと視線を戻した。各々が乱れた感情を癒そうと一生懸命になっている。ああ、甘く澄んだ花の香りが鼻先を掠め癒される云々と頑張る様は、女神フレイヤを信仰する姿としては実に立派なものだ。

 

 ――決して、神父の説教用笑顔が恐ろしかったなんてことはないのである。

 

 

 フォルセはそれを見て笑みを深くした。かく言う己も諸々の悪感情を癒していたところだった――とは当然言わず、人々を導いたその面のまま、ぐったり項垂れる少女に向き直る。

 

 

「ヒルデリアの花へ続く道は、女神や聖人と縁深い“古代花”に属するものが多く咲いています。道すがら、それらを楽しむのも良いものですよ。特に……」

 

「――ぁああもう! わかった! わかったわよっ! あたしが悪かったから、もうやめてちょうだいお願いだから!」

 

 

 放っておけばいつまでも続きそうなフォルセの説教――からの庭園案内に、少女は耐えきれんとばかりに叫び声をあげた。ゆえに再び庭園の静寂が失せることとなったのだが、そこは御愛嬌――と言えるのだろうか。

 

 懲りもせず見ていたらしい周囲からおお、と歓声があがる。若き神父の“笑顔”によく返した、と少女は謎の感嘆を浴びた。

 

 

「はあはあ……と、とにかく、悪かった。ごめんなさい。もう煩くしないし、言葉には……気を付けるから」

 

 

 居心地悪そうに少女は呟いた。もう勘弁して、と言いたげな、疲労感たっぷりのうんざりとした表情である。

 

 流石にもう良いか、とフォルセはフッと笑みの質を変えて頷いた。

 

 

「ええ。では道中お気をつけて」

 

「はいはーい。……それじゃあ」

 

 

 優しく見送る声にもう降参だ、とばかりに肩を落としながら、少女はフォルセに背を向け歩き出した。とぼとぼと歩を進める様は此処に来た時とは正反対のもので、どことなく哀愁が漂っている。

 

 フォルセもまた、無事終わって良かった、と肩の力を抜き、教会宿舎へ向けて歩き出した。だがその前に――今宵の主役とも言える少女へ一言贈ろうと、フォルセは去り行く背へと向き直った。

 

 

「……素直な方。貴女に、女神フレイヤの加護在らんことを」

 

 

 聖職者嫌いという少女へ贈るには相応しくない――などとは思わず、己が主は等しき愛を謳うのだからと、普段と変わらぬ言の葉を紡ぐ。

 

 そうしてフォルセは、今宵を何だか変わった出来事のあった夜として覚えながら、穏やかに緩やかに、己の日常へと戻っていく。

 

 

 ――――その、筈だった。

 

 

 

「――っ!?」

 

 

 ドクン、と一つ、鼓動が鳴った。フォルセは鋭く息を呑む。飛びかけた意識を己が心の臓に向ける――否、違う、そうではない、そこではない。だがとてつもなく近くで、心臓の鼓動よりも強く深くを鷲掴んでくる、大きな大きな音が響き渡った。

 

 立ち止まり、立ち尽くす。周囲の静寂が無音へと急速に近付いていく。己だけが置いていかれるような感覚の中、指先一つ動かせず、ただただ前方に広がる光景に目を向けて、意識を何とか留まらせる。

 

 冷たい汗が頬をつうっ、と流れ落ちた。今のは何だ、何故動けない。疑問の波に呑み込まれながらもどうにもならず、フォルセはまるで人形のように何の反応も示せずに沈み、沈み、沈み――――、

 

 

「――――ぇ、ちょっと、ねぇってば聖職者サマ!」

 

「……、はい?」

 

 

 思考からグン、と引き上げる声がした。途端、縛られたように動かなかった身体が一気に解放されていく。抜ける力に身を任せ、息を吐きながら視線を下ろせば、花飾りつきの帽子――とうに去った筈の少女がフォルセを見上げて立っていた。態々目の前まで回り込んだらしい。むくれた相貌に乗った空色の眼がやけに近い。

 

 

「…………、真っ直ぐ歩いて三番目の角を右に曲がった所、ですよ」

 

「二回も言わなくてもちゃんと行ける……って違ぁあああうっ!!」

 

 

 どこか呆けた様子でフォルセがポツリと言えば、少女は馬鹿にしないでと憤慨し、次いでそんなこと聞いてないと憤慨した。憤慨に憤慨を重ね、少女の相貌は愛らしくぷうと膨れる。

 

 

「……あなたに反応した」

 

「え?」

 

「っ……“黙示録”が、あなたに反応したの!」

 

 

 よりによってどうして聖職者に、と少女は小さく呟いた。その手には彼女の腰に提げられていた筈の白い本があり、表紙に美しい紋様が見て取れた。だがその見た目とは裏腹に、本からはフォルセの肌を撫で上げ突き刺すような、強烈な存在感が発せられていた。

 

 

(……黙示録)

 

 

 その言葉と本から感じ取れる力に、フォルセはすうっ、と瞳を細めた。

 

 

「……、確かに、何か強大な力を感じますね。体内のリージャを震わせるような……先程の鼓動の音は、この本から発せられたのか……?」

 

「やっぱり何か感じ取ったのね? もう、ホントにどうして聖職者……嫌いだって思うのに、あああ仕方ない、この際文句は言ってられないもの! 嫌いな筈だけど我慢するわ!」

 

 

 考え込むフォルセを他所に、少女は決心したように大きく頷いた。拳をグッとかざしたままグイと一歩前へ進み、フォルセとの距離を更に縮める。

 

 

「こほん……ぅうんっ。げほ。

 ねえ聖職者サマぁ? あたし、やっぱり少し心細いの。だからぁ……案内してもらえるぅ?」

 

 

 妙な声色で言いながらフォルセの服の袖を掴み、少女はくねくねにっこりと微笑んだ。笑う眼が逃がさねぇよと告げている。事の詳細は少女の目的地であるヒルデリアの花の下で話すということだろう――少女はさも“自然”を装い、フォルセを誘ってきた。

 

 

「そのように気を使って言わずとも、私は全く構いませんよ」

 

「んぐっ、い、いいじゃない! 一回断っちゃったんだし、ちょっとくらい媚びとかないと!」

 

「媚びる相手に言いますか、それ」

 

 

 猫なで声を引っ込めた少女を、フォルセは手本のような笑みを浮かべて見返した。その甲斐あってか、未だに二人を窺っていた周囲の者もなんだ結局二人で行くのか、あの娘ちょっと面白い、と微笑ましく思うだけで終わったようである。

 

 信者は野次馬根性が相当らしい、とフォルセは内心苦笑する。

 

 

(さて。これはまだ帰れそうにないな。場合によっては長くなる……

 もしも“あの”黙示録であるならば……この娘、聖職者嫌いだなんて言っていられなくなるな)

 

 

 微笑みの裡にある予感を募らせて、フォルセは己の手を差し出した。

 

 

「? なに?」

 

「折角ですし、自己紹介を。私はフォルセ・ティティス。フラン=ヴェルニカ教団に属する聖職者です。……貴女は?」

 

「…………」

 

「……貴女、は?」

 

「うぐ、もう腹を括るしかない、か……ええと、うん」

 

 

 差し出された手を恐る恐る握り返し、それでも少女は力強くフォルセを見上げ、己が名を高らかに告げる。

 

 

「あたしはミレイ。この本――“レムの黙示録”の正当な所有者。よろしくね、聖職者サマ!」

 

「宜しくお願いします……ミレイ。では行きましょうか、ヒルデリアの花の下へ」

 

 

 ミレイ。レムの黙示録の正当な所有者。二つの“名”を記憶に刻み、フォルセは少女ミレイを連れ、ビフレストの庭園を引き返した。

 

 

 




2013/12/01
2014/04/09:加筆
2014/08/01:加筆
2016/09/14:少女服装変更、終盤の神父台詞追加。他加筆修正。
2016/11/13:ハーメルン引越し


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第1章 ―剣と魔王と黙示録―
Chapter6  非日常告げる言の葉


 

 あと十数分程で二十一の刻を迎えるだろうか。話の途中で祈りを捧げるのは、相手が相手ゆえ避けたいところだとフォルセは思う。

 

 目の前には一人の少女がいた。名をミレイという。彼女は現在、ヒルデリアの花壇を熱心に見つめていた。人目を憚ることなくしゃがみこみ、上機嫌に揺れ、時折きゃあきゃあと感動している。

 

 夜も更けてきた。周囲にはフォルセとミレイ以外誰もおらず、またやって来る様子もない。鮮やかな古代花の咲くこの一画――そこに漂う幻想的な静寂が、人々の来訪を退けているようだった。

 

 とはいえ、そんな静寂を震わせる楽しそうな声が、フォルセの眼下より聞こえてくるのだが。

 

 もしも他の信者がいたのなら、今度こそミレイは不審者として通報されていただろう。この場にフォルセ以外の人間がいないことは、実に幸いと言えた。

 

 

 ミレイに気付かれぬように、フォルセはそっと、息を吐いた。

 

 

 

「綺麗な花! これだけでも、はるばるグラツィオまで来た甲斐があったってものね!」

 

 

 ミレイは丸い双眸を子供のように輝かせ、感動を顕にした。視線の先に在るのは桜色をした掌大の花々。楕円形の花弁は幾つも重なり、筒状となっている。花は重力に従って垂れ下がっており、時折淡い光――微量のマナを溢している。

 

 

 この花こそが、ミレイが探し求めていたヒルデリアの花であった。

 

 

「そういえば……」

 

「どしたの、聖職者サマ」

 

「貴女の帽子の飾り、ヒルデリアの花を模したものですね」

 

 

 フォルセの指摘にそうよ、と呟いて、ミレイは自身の黒髪に乗る帽子――それに付けられた花飾りに触れた。桜色のそれは眼前に広がるヒルデリアの花をそのまま小さくしたようなもので、だが触れる様子を見ればそれが精巧なガラス細工であることがわかる。

 

 こういった旅人の装飾品は大抵しっかりと強化されるため、ミレイの花飾りは傷一つ無く、とても美しい状態を保っていた。

 

 

「綺麗でしょ? 多分あたしのお気に入りよ。……でも、別にこれ目当てでヒルデリアが見たかったんじゃないの」

 

「では、何が目的で?」

 

 

 ミレイは花壇から目を離した。すっくと立ち上がり、問いかけるフォルセの眼をしかと見据える。自信満々にふふんと笑い、自身の腰に提げられた白い表紙の本――レムの黙示録を手に取り、口を開く。

 

 

「『実りの舟が御座すその場所は、ある一柱(ひとばしら)の御許への扉なり。七つ目の鐘鳴りし時、〈神の愛し子の剣〉、一柱の前にて降臨する』」

 

 

 ミレイの口からすらすらと述べられたその言葉に、フォルセは眼を見開いた。

 

 

「……それは、」

 

「黙示録の一節。半年前に浮かび上がったこの文を頼りに、あたしは此処まで来たの」

 

 

 どう、凄いでしょ? そう言いたげに、得意気な表情でミレイは言った。

 

 「浮かび上がった?」フォルセが首を傾げれば、ミレイはよくぞ聞いてくれたとばかりにニカッと笑う。

 

 

「レムの黙示録には、元々何も書かれていなかったの。だけど半年前、このあたしが触れたその瞬間、黙示録は大きな音をたてて反応した。そして……そして、この文章が浮かび上がった!!」

 

 

 つまりあたしこそが黙示録の正当な所有者! 素敵! かっこいい!

 

 名乗った時と同様の口上を述べて、ミレイは持ち前の愛らしさを台無しにするようにアッハッハと笑った。非常に興奮している。危ない。どこからその高揚感が出てくるのか、全く不思議なものである。

 

 フォルセは頬をヒクリと引き攣らせた。半歩ほど下がり、乾いた笑いを浮かべてミレイを窺う。幼い顔に浮かぶ豪快なワハハ笑い――そんな状態でも、聖職者だからと警戒されるよりかはマシか、とフォルセは何処の誰とも知れぬ何かに向けて愛想笑いした。

 

 

 程無くして、ミレイはスッキリとしたイイ笑顔に落ち着いた。その様子を見届けて、フォルセは漸く声をかける。

 

 

「先程の文章、具体的にグラツィオを指しているようには聞こえませんでしたが……貴女はどう解釈なされたのですか?」

 

 

 疑問系で聞けば、ミレイは再び得意気な表情となった。が、そんな己の姿を“カッコ悪い”とでも思ったのか、コホンと咳払い一つし、至極落ち着いた様子を心掛けるようにゆっくりと答え出す。

 

 

「ヒルデリアの花は、別名“マナの方舟”。花が散る時、種と一緒に濃厚なマナを放出する神秘の花って言われてる。だからあたしは、このヒルデリアの花こそが、黙示録に書かれた『実りの舟』だと思ったの」

 

「なるほど」

 

「ヒルデリアの花がこんなに咲いてるのは、世界中でもこのグラツィオくらいだって思った。モチロン、根拠はそれだけじゃないわよ」

 

 

 そう言い、ミレイは夜空を背に聳え立つビフレスト大聖堂を見上げた。

 

 

「この大聖堂は、最も偉大な聖人の墓標だって思い出したの。だから文章の『ある一柱の御許への扉』っていうのが……」

 

「一柱とは神、即ち女神フレイヤのことですね。今では使われない数え方ですが……よく御存知で」

 

「えっ」

 

「えっ?」

 

 

 ミレイが突然声をあげた。その声色も表情も、驚きに満ちている。何をそんな思いもよらぬことを聞いたような顔をしているのかと、フォルセも内心動揺する。

 

 

「……一柱って神サマのことだったの? あたし、聖人……ユーミルって人のことだと思ってたんだけど」

 

 

 「神サマも聖人も同じようなもんだと思ったから」ミレイは暗い顔で呟いた。

 

 解釈の間違いは、ミレイが此処にいることそのものを否定することに繋がる。だから間違っているのはとてもマズイ。見る見るうちに青くなるその顔を、フォルセは苦笑混じりに見つめた。

 

 

「女神フレイヤが世界唯一の神として人々の心に宿る今、そのような数え方を用いることはありません。“一柱”という数え方は、旧暦時代……教えが統一しておらず、“神”と呼ばれる象徴が各地に複数存在していた頃に用いられたものです。

 貴女が仰った通り、ビフレスト大聖堂はフレイヤ教始祖である聖人ユーミルの墓、と言われています。ユーミルは女神フレイヤの教えを広め、最期には己の意志を継ぐ人々に見守られながら女神の御許へと向かわれました。ですから、」

 

「そ、そうなの? じゃあとりあえず此処で合ってるってことね!?」

 

 

 死後、聖人ユーミルは女神の御許へ向かった。ユーミルの墓は此処、ビフレスト大聖堂である。ゆえに大聖堂はユーミルの墓であり女神フレイヤへ続く道といえるだろう。「ある一柱の御許への扉」――その言葉を体現するように。

 

 やはり己は正しかった――ミレイは勢いを取り戻し、ひっくり返りそうなほど喜んだ。なんて嬉しそうなことか。フォルセはもう半歩ほど身を引いた。眼下に迫る少女の期待に応え、ぎこちなく頷く。鉄壁である筈の微笑みも若干危うくなってきたようで、どこか硬い。

 

 

「ええと……つまり、記述の前半はグラツィオの都を示している、ということで宜しいでしょうか」

 

「うん、そういうことになるかな。それがわかったところでぇ……」

 

 

 ミレイは意味ありげにニイッと笑った。

 

 

「『七つ目の鐘鳴りし時、〈神の愛し子の剣〉、一柱の前にて降臨する』」

 

 

 勿体振りつつ、黙示録の後半に当たる一文を再び読み上げる。そしてミレイは、ビフレスト大聖堂に隣接した鐘の塔を自信満々な表情で見上げた。

 

 あと少しで二十一の刻――一日の内の七度目に当たる鐘が鳴らされる。

 

 

「ほらほら、早く」

 

「……、はい?」

 

「ふふ、惚けても無駄よ。この黙示録はあなたに反応した……つまり! あなたこそがこの文章の中で一番意味わかんなかった〈神の愛し子の剣〉に違いないの! ……さあ、早く何かしてみて!」

 

「ええっ!? ……き、急にそんなことを言われても……」

 

 

 突然。あまりに突然の流れに、フォルセの笑みは今度こそ消え失せた。期待のこもった強い視線を真正面から受け、理不尽な要求をされているにも関わらず何故かどうにかしなければならないような気になってくる。いや流されてはいけない、兎に角彼女を落ち着かせないと、とフォルセは暴れ牛でも扱うようにどうどうと、ミレイを諌めようとした。

 

 が、そんなフォルセの努力も虚しく、ミレイの勢いは止まるところを知らない。

 

 

「もう覚悟はできてる、何が起こっても大丈夫よ! だからあなたも覚悟するの! さあ……さあさあさあっ!!」

 

「落ち着いてください! 確かにその本からはとても強い力を感じますが、ぼ……私がその〈神の愛し子の剣〉とやらであるという確証は、」

 

「黙示録の正当な所有者のあたしが! グラツィオにやって来たその夜に! あなたに出会った! そして黙示録が反応した! これが……これが必然でなくて何なのよっ!」

 

 

 ミレイの人差し指が、フォルセの鼻先にビシィッと突き付けられた。可笑しいな、どちらかと言えば最初は僕の方が“押して”いたのに、とフォルセは逃れるように指から目を逸らす――逸らした先まで指が追ってきた、どうあっても逃す気は無いらしい。

 

 対面してそれほど経っていないにも関わらず、ミレイの勢いは増す一方であった。フォルセもまさかここまで押しの強い少女だとは思わなかったがために、最早言葉を失っている。暫しの間視線を交わし、そらし、そして交わす。

 

 

「んもう! わかったわよ……ほら、特別に見せてあげるから! ねっ!!」

 

 

 ミレイは痺れを切らし、指もそのままに片手で器用に黙示録を開き、フォルセへ向けて勢いよく突きつけた。余程力を込めているのか、紙面に跡の残りそうな皺が寄っている。

 

 

「あ、ちょ……あまり乱暴に扱わないように……!」

 

 

 頁が折れてしまう――! フォルセは声を荒げ、慌てて両の手を伸ばした。歴史を感じさせる紙質でありながらたったの二文しか記されていない頁に、フォルセの指が軽く触れる――、

 

 

 

 “グラツィオに在る、〈神の愛し子の剣〉よ”

 

 

 

 ――ドクン、と一つ、鼓動が鳴った。

 

 

「っ!?」

 

 

 今宵再びとなる――心底より鷲掴まれる不快な感覚に、フォルセは鋭く息を呑んだ。音だけではない。聞こえてきたのは声。雑音混じりで聞き取りづらい、脳を直接揺さぶるような――男の声。

 

 フォルセは僅かに視線を落とした。指が熱い。見れば、レムの黙示録に刻まれた二文――「実りの舟が御座すその場所は、ある一柱の御許への扉なり。七つ目の鐘鳴りし時、〈神の愛し子の剣〉、一柱の前にて降臨する」――その全てが赤く赤く、光を発していた。

 

 

(……ヴィーグリック言語!)

 

 

 思考の殆どを持っていかれながら、フォルセは黙示録の文章を見て驚いた。黙示録に書いてあるのは、紛れも無く、聖なる神の言語であるヴィーグリック言語。予想通りといえばそうなのだが――、

 

 

(この娘……読めるのか?)

 

 

 どう見ても聖職とは関係ないミレイがヴィーグリック言語を読み解いたことにも、フォルセは驚きを隠せずにいた。

 

 

「ああっ!」

 

 

 ミレイが驚きに声をあげた。同時に、遥か頭上で荘厳なる鐘の音が高らかに響く。七度目の鐘、二十一の刻の鐘――フォルセは反射的に跪こうとした。だがそれは叶わなかった。ミレイがフォルセに押し付ける形となっていたレムの黙示録が、小刻みに震え、その存在感を急速に肥大化させていく。

 

 

「なっ、なに……レムの黙示録が……きゃあっ!」

 

 

 二文を照らす赤い光は勢いを増し、次いで黙示録ごと吹き飛んだ。ミレイの悲鳴があがり、後方へ落ちる――フォルセは手を伸ばし、倒れかけたその身を掴み、引き寄せた。

 

 

「……あ」

 

「御無事で?」

 

「う、うん……ありがと……」

 

 

 茫然とした表情で呟かれた礼に、フォルセは小さく微笑んだ。そしてミレイの無事を素早く確認し、笑みを消して向き直る。

 

 庭園を照らす赤い光――空中より湧き出でるその中にレムの黙示録は在った。風など吹いていない。にも関わらず、黙示録の頁はパラパラと勢いよく捲れ、そして止まった。そこはミレイの語った二文の刻まれた頁――ヴィーグリック言語で書かれたその文章が紙面より離れ、ふわりと浮き上がった。

 

 

 刻まれた文字が輝き、浮き上がる――まるでビフレスト大聖堂で行ったヴィグルテイン化のようだと、フォルセは目を見張った。そんな彼の視線の先で、赤く光る文字の羅列はくるくると回転し、集束していく。

 

 

 “グラツィオに在る、〈神の愛し子の剣〉よ――”

 

 

 再び聞こえた男の声に、フォルセ、そしてミレイは反応した。その声はどこから聞こえているのか、目の前で勢いを増す赤い光か、文字か、黙示録か、それとも――ふるりと震えるミレイを窺いながら、フォルセは神経を尖らせる。

 

 

 “その名の持つ、運命を――”

 

 

 声が、脳髄に直接入れ込むようにゆっくりと響き渡り、

 

 

 “――再誕せし、ノックスに示せ”

 

 

 レムの黙示録を包む赤い光が揺らぎ、爆発した。

 

 

 




2014/05/08
2014/08/05:加筆
2016/09/14:修正
2016/11/16:ハーメルン引越し


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Chapter7  燃え尽きぬ核

 

 爆ぜた赤い光を見据えながら、フォルセはミレイをグイと押し退けた。きゃふ、とあがった悲鳴を聞きつつ、フォルセは駆けるようにその足を踏み出し、身を低くする。

 

 熱気が頬を掠めるも止まりはしない。光――否、中心から端にかけて瞬く間に燃え上がった炎に向け、防衛と攻撃の意を示し、睥睨した。

 

 

 抜刀の構え――何もない己の腰に利き手を伸ばし、フォルセは前方をしかと見据え“剣”を引き抜いた。腰の経本より溢れ出た聖なる青たるヴィーグリック言語が列を成し、螺旋を描いてフォルセの得物を形作っていく。

 

 美しい螺旋を描いた柄、細くも真っ直ぐ伸びた銀の刀身。光と共に現れたそれはヴィグルテイン化によって経本に封じられていた、ヴェルニカ騎士の細剣だった。

 

 

「――はっ!」

 

 

 見た目以上に重いその細剣を、フォルセは何の躊躇もなく振り抜いた。実に半年ぶりの感触だ。炎を真っ二つに斬り裂く。手応えは無い。この手の生物特有の“核”は何処かと思考しながら、再び一つとなった炎に向けて刃を振るう。

 

 

界往波(かいおうは)!」

 

 

 返す刃から衝撃波が放った。空を裂くそれは炎に直撃し、共に霧散して消え去った。そうして宙に現れたのは、赤黒く禍々しい核。人の頭ほどのそれは、どこか見覚えのある色――フェニルス霊山より持ち帰ったあの宝石に、よく似ていた。

 

 フォルセの瞳が一瞬、驚愕に色付いた。あの宝石はヘレティック種より出でた、ならばこれも――? フォルセの脳裏に予感が過ぎる。

 

 核はその禍々しさを炎とし、再び空にて燃え上がった。動揺している暇はない。揺れる精神を押さえ付け、フォルセはグッと剣を構え直した。己がリージャを心底から剣に宿し、炎の中心にある核に向けて身体ごと――突き出す。

 

 

「はああああっ……招雷閃(しょうらいせん)!」

 

 

 雷を纏った刃が核を貫く――否、それは核の堅固さに阻まれ、表面をガッと抉るに留まった。刃と核がせめぎ合う――使い手によって、剣が無理やり押し込まれた。雷が炎を幾重にも裂く。

 

 雷鳴を響かせながら、フォルセは強引に核を押し退けた。

 

 

 飛ばされた核は苦痛を顕にするように炎を撒き散らした。ヒルデリアの花が呑み込まれる。どうにか最初の数撃で仕留めたかった、とフォルセは焼けていく花々を痛ましげに一瞥し、尚も燃え上がる核をしかと捉えた。

 

 刀身を持ち上げ、切っ先を前方に向ける。細剣らしく再び突きを繰り出すように、だがその意識は己の命脈を通り刀身を伝い、剣を離れたその先まで飛ぶ。

 

 リージャが巡る、その果て。

 

 

「――世断(せいだん)

 

 

 剣先付近に存在する“銃口”よりそれは放たれた。

 

 細剣の先端が、弾の発射と共に瞬間的に光る。高らかに響く銃声。連続して出でるそれはリージャによって生み出された気弾だった。

 

 剣の切っ先よりただ真っ直ぐ放たれたそれらは、正確に炎の中の核を撃ち抜いていく。核を抉り、細かな破片が幾つも飛ぶ。だが落ちない。表面に幾つもの傷を作られようとも、炎の勢いは止まらない。

 

 

(物理に寄った攻撃は効かないか。ならば――!)

 

 

 刀身に指を滑らせながら、フォルセは騎士の誓いのように剣を立てた。リージャを練り上げ、浄化として形作るべく言の葉を紡ぐ。

 

 

「その光は汝の道筋を示すだろう――出でよ、彼方の光明」

 

 

 その胸中に球となってリージャが集う。命ずる言葉は違くとも、それは今日“二度目”となる裁定であった。

 

 

「レイ!」

 

 

 切っ先を向け命を下せば、核の上空に輝く光の球が出現した。光球から幾本もの光線が放たれ、炎ごと核を容赦なく貫き――消滅させていく。

 

 

 炎の元凶は、消え去った。

 

 

 フォルセの剣が弾け、気高き赤たるヴィーグリック言語となって経本へと吸われていった。肩の力を抜く。存外時間がかかってしまった、反省すべきは幾つもあるか、と内心叱咤を投げながら、フォルセは燃える花壇へと足早に向かっていった。

 

 

 

***

 

 

「す、すごい……」

 

 

 ただただ茫然と立ち尽くしている内に終わった戦闘に、ミレイは眼を大きく開いてそう呟いた。今宵出会い、そして強引に連れてきた自覚のある聖職者が騎士であったことも驚きの一つであるが、何よりその見た目にそぐわぬ強さに――ミレイはどう反応すればいいのかわからない。

 

 

 驚かれている当の本人は、燃えるヒルデリアの花壇を前に忙しなく動いていた。冷たさを帯びた闇属性の法術を飛ばし、別の花壇に燃え広がるのを防ぐ。とはいえ、時間が経てば炎は容赦なく他へと燃え移るだろう。それを理解しているがゆえに、フォルセはあるものを探していた。

 

 

「……良かった、見つかった」

 

 

 ホッと息を吐くフォルセの目の前には、庭園の造りに合わせてデザインされた消火栓があった。景観を損なわないようにと、その見た目はそこそこシャレている。一見してわからないそれは、ヴェルニカ騎士団の者でなければまず気付くことはないだろう。

 

 存在を知っていながら今まで使う機会の無かった消火栓を、フォルセは手際よく操作していく。何も難しいことはない。ただ手順通りに微弱なマナを操作し、後はホースを引き抜いてぶっぱなすだけである。

 

 

「それ、消火栓だったんだ……って、違う! 黙示録……あたしの黙示録はっ!?」

 

 

 消火作業を進めるフォルセの背を茫然と見つめていたミレイは、己の大事なものが行方不明であることに漸く思い当たった。驚きを吹き飛ばし、焦りを浮かべて辺りをきょろきょろと見渡す。核が消え去った場所に、レムの黙示録はポツンと落ちていた。頁が開かれている。二文の綴られた、あの頁だ。

 

 

「あった! どこも燃えてないみたいね、ああ良かったぁ……」

 

 

 遠目からではわからない、とすたすた近付いて、ミレイはレムの黙示録を拾い上げた。白く美しい、ミレイの知るままの状態だ。安堵し、肩に乗った緊張を吐いて脱力した。

 

 

「! もう、何も起きない……の?」

 

 

 安心しすぎて先程起きた出来事を忘れていたらしい。ミレイはハッと息を呑み、警戒も顕に恐る恐る黙示録を見つめた。

 そうだ、そもそも自分が彼に何かしろと言って、詰め寄って、そしたら光って――消火栓を弄るフォルセの背をちらりと窺う。ミレイが言葉を失うほどに強かった彼は、庭園の道で出会った時のように穏やかな気質を纏っている――ように見える。

 

 

(怪我、無くて良かったわ。にしてもスゴイのね。いきなりあんなのが出たのに……フラン=ヴェルニカの聖職者サマって……やっぱり、)

 

 

 ミレイは呆けた顔を唐突に強ばらせ、レムの黙示録をぎゅっと抱き締めた。

 

 

(――凄く、こわい)

 

 

 恐れを孕んだ表情で俯く。唇を噛み締め、ミレイは小さく息を吐いた。己の抱いた感情を否定するように首を振るも、簡単にはいかない。

 

 

(あああもう駄目よ! あのヒトが〈神の愛し子の剣〉なら、これからもずうっと付き合ってもらわなきゃいけないんだから! こわがってなんかいられない! それに……)

 

 

 脳内での呟きに心を囚われながら、ミレイは黙示録の頁をパラリと捲った。

 

 

(助けてもらった。そう、借りを作りっぱなしなんて駄目。礼はきっちり返すのがスジなんだから……こわくても、ありがとうってちゃんと、)

 

 

 カシャン、と金属の鳴る音がした。フォルセが消火栓からホースでも取り出したのだろう。決意を新たにするミレイにとっては然程重要な音でもなかったため、気にも留めなかった。そう、今は穏やかでこわい聖職者サマに心からの礼を言うほうが重要なのだ。背を撫でる熱気がミレイの決意を後押しする。視界の隅を過ぎる火の粉のように、黒から赤へと瞬く間に変貌しては広がる炎のように、勢いよく飛び出してしまえば礼くらいきっと言えるのだ――、

 

 

「――危ない!!」

 

 

 消火も投げ出し駆けてきたフォルセに押され、ミレイの視界は宙へと飛んだ。

 

 

 

***

 

 

(――抜かった……!)

 

 

 背後で膨れ上がった気配を察し、ミレイと共に地面へ倒れ込んだフォルセは、彼にしては珍しく舌を打った。

 

 急いで身を起こす。目を白黒させているミレイを庇いながら、再び剣を抜こうと身構える。だが遅い。強大な気配の元――フォルセが討った筈の禍々しい核は、己が身に纏う炎をうねらせ、一気に放射した。

 

 

「――ぐうッ!」

 

「せ、聖職者サマ!?」

 

 

 ミレイの悲鳴を遠く聞きつつ、フォルセは咄嗟に障壁を張った。炎の勢いは凄まじく、フォルセの身体を容易く押し退ける。

 

 

(ぐっ、さっきよりも勢いが増している……!)

 

 

 火炎は辛うじて障壁に阻まれているものの、その熱と圧力にフォルセは顔を歪ませた。

 

 地を滑る足が唐突に浮く――浮遊感も覚えさせぬままに、灼熱の炎はフォルセの身体を吹き飛ばし、庭園を飾る人工灯の支柱へと叩き付けた。

 

 

「――っが……!」

 

 

 喉奥から苦痛の声を漏らし、フォルセは地面に落ちた。障壁に全力でリージャを注いだ結果、何とか骨を折ることだけは避けられた。それでも背に受けたダメージは大きく、身を起こしながら荒く息を吐く。背から這うように痛みが走る。ふらつく身体が、実に憎らしい。

 

 

(……浄化の手応えはあった。禍々しい気は完全に消し去った筈。復活したのか、それとも別個体か……?)

 

 

 腹の底に溜まった鈍痛を、細い息と共に吐き出した。自己嫌悪が脳裏を抉るように過ぎる。どちらにせよ、直前まで気配を察知できなかったのは己の不手際。

 

 フェニルス霊山での日々――半年の修行と称しておきながら、ただただぬるま湯に浸かっていたに過ぎないと言うことか。

 

 ならば今度こそ、清き浄化を確実に――自身の不甲斐なさに憤慨を覚えながら、フォルセは今度こそ剣を抜いた。

 

 

 通常、ヴィグルテイン化した物質を具現化した際、ヴィーグリック言語は媒体から消える。だがフォルセの剣のような頻繁に出し入れする物質は、具現化の際に所有者のマナやリージャを一定量消費し、そしてその分だけ常時消費し続けることで、媒体に刻んだヴィーグリック言語を保つことができる。

 

 ゆえにフォルセのリージャ総量は、剣を抜く前よりも減少していた。

 

 それだけではない。リージャ総量が減少すると同時に、フォルセの体内を巡るマナの流れも大きく変化していた。マナの流れを読むことは魔術や法術の行使に大きく関わる。ヴィグルテイン化解放時の対処は人それぞれであるが、フォルセの場合、攻撃術の詠唱文を安定化させ、治癒術に関しては使用そのものを封じることにしていた。攻撃術よりも治癒術の方が、便利な分暴走した際に危険であるがゆえの処置であった。

 

 攻撃法術はより長く安定した詠唱を、そして治癒術は使用を禁ずる。これが、フォルセが剣を具現化している際のルール。

 

 

 大きなダメージを負いながらも剣を抜く。これは、フォルセが治癒を捨て攻撃に転じたことを意味していた。

 

 

(炎の威力は、最初とは比べ物にならない。治癒の暇は無い。この状態で、何とか切り抜けないと)

 

 

 熱気による汗が頬を伝う。剣の柄を握り直し、己のリージャに意識を集中させる。花壇を焼き尽くす炎は勢いを増すばかり――騎士団もこの惨状にはとうに気付いているだろうが、此処まで辿り着くには時間がかかるだろう。

 

 

「ね、ねえっ!」

 

 

 ミレイが慌てふためいた様子で駆け寄ってきた。存外足は速いらしい。

 

 核は宙に留まり、静止している。フォルセらを窺っているのか、はたまた別の理由で止まっているのか、フォルセには判断できない。が、少なくとも力が足りないわけではないと、勢いよく燃え上がる炎から見て取れた。そんな状況で駆け寄ってきたミレイは存外肝が据わっているようだと、フォルセは思考の片隅で感心した。

 

 

「あのー……その、大丈夫?」

 

「問題ありません。心配してくれてありがとうミレイ」

 

 

 背がミシリと痛むのを感じながら、フォルセは普段通りの笑みを浮かべた。

 

 安心させようとしたのだが、どうやら失敗したらしい。ミレイはぎょっとした、次いで悔しそうな恥ずかしそうな複雑な顔で見つめてきた。

 

 

「うう、先に言われた……」

 

 

 その呟きの意味はわからなかったが、とにかく彼女をこの場から避難させねば、とフォルセは片手に力を込める。

 

 

「先程は情けないところを見せましたね。次はああはいきません。ですから貴女は、一刻も早く此処から逃げなさい」

 

「……えっ、じょ、冗談じゃないわよ! 黙示録を取り返さないといけないのに!」

 

 

 ミレイの手にレムの黙示録は存在していなかった。彼女の指差す先には炎を纏う黒き核。よく見れば、その核と共に黙示録が浮いていた。魔法耐性でも備わっているのだろう――フォルセの経本もそうだが、ああいった書物は火の中に放たれようが水に放られようが壊れぬよう、とにかく頑丈に作られている。戦いを生業とする者達も所有するのだ、そういった配慮は必要不可欠であった。

 

 

「それに、ええと……ほら、辺り一面炎の海でしょ! こんな状態じゃ逃げられないわね、ふふん残念でし、」

 

「一時的になら、私の法術で炎を払うことができます」

 

「え」

 

「貴女なら充分、安全な場所まで避難することができるでしょう。……今道を開けます、宜しいですね?」

 

 

 有無を言わさぬ声色だ。濃厚な闇の力を掌中に練りながら言うフォルセに、ミレイはんぐ、と唸って言葉を失くす。

 

 

「あちらへ真っ直ぐ走れば、騎士団本部へ出られます。さあ――」

 

「……駄目。やっぱり、そんなの駄目」

 

 

 頭を振り、頑なに逃げることを拒むミレイに、フォルセの向ける視線も自然と険しいものとなる。心根が温厚ゆえの厳しい眼差しにミレイはビクリと肩を揺らしながらも、その決意は揺らぐ様子が無い。

 

 

「レムの黙示録なら、必ず私が持ち帰ります。ですからミレイ……」

 

「……それだけじゃない!」

 

 

 自身の黙示録に執着する瞳とはどこか違う。ミレイは火の熱さ以外の理由で頬を染め、挑むようにキッとフォルセを睨み付けた。

 

 

「あなたを巻き込んだのはあたしだもの。責任は……最後まで取る!」

 

「……、私は気にしていませんよ」

 

「あたしが気にするの! 責任はきっちり、借りは必ず返す、それがスジ!! そう思うの!!」

 

 

 半ば意地になっているのか、梃子でも動きそうに無い。フォルセは焦燥も含んだ困り顔を向けつつ、手中の闇もそのままに暫し止まる。

 

 ――その時。炎が一層燃え上がった。核の発する禍々しさが増加し、暴風のように広がっていく。

 

 

「……わかりました」

 

「聖職者サマ!」

 

「ですが加勢は結構。せめて、燃えぬよう離れているように……」

 

 

 頑固な少女の意志に結局折れた。一応は釘を刺しつつ、フォルセは静寂の闇を核へ向けて放ち、勢いよく地を蹴った。

 

 

 




2014/05/09
2014/06/05:加筆
2014/08/06:加筆修正
2016/11/20:加筆修正
2016/11/20:ハーメルン引越し


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Chapter8  夢と現に燃える火

 

 核を中心に炎や水を纏う魔物――魔精生物と呼ばれる種は、物理耐性も然ることながら術に対する守りも堅いものが多い。とはいえ弱点属性もわかりやすい、或いは核さえ破壊すれば消滅するため、人によっては相性の良い者もいるだろう。

 

 火に対するは水だ。他の生物と違い、魔精生物は基本的な相性に沿った弱点と耐性を持つことが常である。しかしフォルセはその身のマナを殆どリージャへ変換しているため、地水火風の術は使えない。使えるのは光、そして闇のみだ。

 

 油断があったと、フォルセは自嘲する。明確な弱点を突けないとはいえ、水と性質の近い闇の術でも使っていれば、こうも無様な姿を晒すことは無かったかもしれない。後悔する余裕は無いが、それでもせずにはいられないと、フォルセは胸中に闇の力を練り上げながら、剣を構えて飛翔する。

 

 

閃空裂破(せんくうれっぱ)!」

 

 

 身体を捻り、回転しながら核を斬りつける。炎をも巻き込み、さながら自身が炎の竜巻にでもなったかのように勢いよく飛んだ。鋭く食い込んだ刃は黒い核を確実に捉え、大きな破片を飛び散らせる。己への怒りも混じった連撃だ。普通以上に力が入っている。

 

 宙に留まったまま、フォルセは核へ素早く切っ先を向けた。回転の余力と共に振り抜き、近付いてきた核へリージャの弾丸を連続発射する。炎の勢いが僅かに弱まった。ダメージは確実に与えられている。

 

 

「氷槍鋭利……アイスランス!」

 

 

 ミレイの声だ。燃え盛る炎の中、僅かな水のマナを集束させ、鋭利な氷柱を発射した。切っ先が核を捉え、炎と揉み合いあって蒸気と化す。やはり弱点は水属性だったようだが――核が逃れていればフォルセに当たっていた。少なくとも誰かとの共闘は不慣れなようだと、フォルセは心の片隅で苦笑する。

 

 

「その闇は汝の罪業を翳すだろう――出でよ、冥府の暗色。……静かに呑まれよ! デルタパージ!」

 

 

 フォルセの詠唱に応じて、暗黒の球が三つ、対象たる核の上空に出現した。光の法術〈レイ〉と同程度、しかし孕む力は闇属性の攻撃だ。水属性に近い、冷気を纏った攻撃を選んだ、ということである。

 

 夜闇に呑まれそうなほどに深い色の暗黒球は、フォルセの命に従って順に落ち、爆ぜて凝縮する。燃え上がる炎を呑み込み、同時に静かな冷気を以て核を抉り、球は消えた。

 

 形だけは綺麗な球状となっていた核も、今や削られ、抉られ、酷く歪な形となっていた。その禍々しさは弱まらないが、それでも炎の燃え上がる間隔が徐々に伸びている――消滅の兆しが見えてきた。剣を持つ手に力がこもる。

 

 核が揺らいだ。炎が再び放射され、ミレイの悲鳴が遠く響く。フォルセは剣を構え、障壁と共に己を守りつつ空中にて体勢を整えた。

 押し退けられる。背後に人工灯の支柱が迫る。が、もはや無様に背で受けなどしない。高所からの着地の如き要領で、フォルセは支柱にダンッ、と足を着けた。

 

 

「……っつ、」

 

 

 支柱が曲がるほどの衝撃が全身を襲い、フォルセの表情が痛みに歪む。だが想定内だ。己をまるでバネのように縮ませ、神聖なる闇を奥底から膨れ上がらせる。

 

 

「はぁあああっ……!」

 

 

 ミシミシと軋む人工灯を地面とし、猛烈な炎を押し返すように――飛び上がった。

 

 

「――マーシフル、ドライブ!!」

 

 

 全身に闇の波動を纏い、燃え盛る炎を消し飛ばしながら突っ込んだ。背に痛みが走る。僅かに勢いは落ちたが、それでもフォルセの突進は核に直撃し、吹っ飛ばした。

 

 核に大きなヒビが入る。その表面を地割れのように走り、広がり、そしてついに――粉々に砕け散った。

 

 

 

***

 

 

 比較的安全な場所に居つつ、ミレイは不機嫌そうに頬を膨らませた。

 

 

(け、結局殆どなんにもできなかったわ……もうもうっ、無理やり居残ったのにカッコ悪いじゃない!)

 

 

 気恥ずかしさも相まって、ミレイはぷりぷりと怒った。ミレイとしては、助けてもらった礼としてかっこよく援護したかったのだ。が、逆にフォルセと自分との力の差を見せつけられたようで、嬉しいと同時に辛い。

 

 しかし、そんなミレイの不機嫌は、降り立ったフォルセがそのまま崩れ落ちるように膝を着いたのを見て、多大な焦燥へと変わった。

 

 

「聖職者サマ……! や、やっぱり大丈夫じゃないんじゃない!」

 

 

 ミレイが大急ぎで駆け寄れば、大きく息を吐き出すフォルセと目が合った。戦闘の余韻が残っているのか、それとも苦痛ゆえか、その表情は酷く険しい。だがそれも一瞬。ミレイを認めた途端、フォルセは神父らしい優しげな笑みを浮かべた。

 

 

「……大丈夫ですよ」

 

「どこがよ! そ、そうだ……回復にはグミ、グミ」

 

「……、結構です。今なら、治癒に割ける時間くらいあります」

 

 

 フォルセの手に剣は無い――再びヴィグルテイン化し、経本に封じたのだった。フッと息を整え、フォルセは詠唱に入る。治癒術を使おうとしている、邪魔をしてはならないと、ミレイは慌てて口を噤んだ。

 

 ミレイの気遣いに笑みを深くし、しかしフォルセはすぐに険しい顔に戻って詠唱を始める。

 

 

「傷付きし(われ)に祝福を与えん」

 

「……」

 

「ヒール。…………は、」

 

 

 仄かな光がフォルセの身体を包む。主に背を中心に、痛みが急速に引いていった。後に残ったのは治癒術特有の微細な倦怠感。細く息を吸い、怠さと共に外へ吐き出す。

 

 それなりに高度な治癒術を使った。やはりダメージは大きかったらしい。フォルセは曇った面のまま、前方を睨み付けた。

 

 

「ミレイ。……これを」

 

 

 視線も交わさずにフォルセは腕を差し出した。その手にあったのは、汚れ一つない白い表紙の本――レムの黙示録。容赦の欠片無く攻撃しておきながら、キチンと取り戻していた。

 

 

「あっ……やだ、すっかり、」

 

 

 忘れてた、とは流石に言えず、ミレイは居心地悪そうに、だが嬉しそうに黙示録を受け取った。

 

 

「ありがと。……もう、お礼は言えたけど、借りの方は返すどころかどんどん増えていくじゃない!」

 

「ですから、私は気にしていませんよ」

 

「あたしが気にするの! ……そうだ!」

 

 

 良いことを思いついたと言いたげな笑顔で、ミレイは周囲を覆う炎へと注目した。普通なら慌てるところだが、彼女には此処から無事脱出できるという自信があった。

 

 

「結構燃えてるけど……でも大丈夫、あたしに任せてちょうだい! これでもマナの扱いは得意なんだから!」

 

「……先程も魔術で助けてくれましたね。ですが、辺り一面火の海で逃げられない、ともおっしゃっていませんでしたか?」

 

「そ、それは……そうでも言わないと此処に残れないと思ったからで……ああもうとにかく、」

 

 

 「あなたの術に頼らなくても、片っ端から消火してあげるから!」その手に水のマナ特有の冷気を纏わせながら、ミレイは高らかに宣言した。大切であろう筈のレムの黙示録をぶんぶん振り回している。存外たくましいその姿に、フォルセは安堵の笑みを浮かべた。

 

 

「それは、安心できますね」

 

「でしょ? ふふん、あなたは休んでて良いからね。これっくらいで返せるとは思わないけど……ちょっとくらい役に立たないと借りなんてとてもとても返せな、」

 

「でしたらその力で――今度こそ逃げてください」

 

「……え?」

 

 

 高揚する心境へ自分こそが冷や水を浴びせられ、ミレイは眼を丸くしてフォルセを見つめた。彼の翡翠の瞳は相変わらず前方――燃え盛る花壇の方を向いている。その手にはいつの間にか、封じた筈の剣が存在していた。

 

 

「せ、聖職者サマ? 何でまた剣……」

 

「――あれだけ攻撃して、まだ浄化できない」

 

 

 フォルセの呟いた言葉に、ミレイはポカンと口を開け、次いで顔色を徐々に青くしていった。黙示録を強く抱き締め、まさかまさかと震え出す。

 

 

「これ以上被害が広がらぬよう、手早く終わらせるつもりだった。今度こそ油断していない。……本気、だったんだけれどね」

 

 

 自嘲を通り越した渇いた笑みを浮かべ、フォルセは剣をゆっくりと構えた。ミレイも恐る恐る視線を向ける。

 

 

 ――黒い気配が、そこにはあった。

 

 

 庭園を焼く炎が揺らめき、集束していく。粉々に砕け散った核の破片が浮き上がり、赤黒く禍々しい気を発して一つとなっていく。

 

 燃え盛る炎をも呑み込み、核は再び美しい球状となって、復活した。

 

 

(凄まじいほどの再生能力……細かな粒も残さぬほどに消滅させねばならない、ということか。厄介だな)

 

 

 予想以上のしぶとさに、フォルセは疲労のこもった溜め息を呑み込んだ。周囲は火――熱気が確実に体力を奪っていく。対して相手は再びピンピンし始めた。明らかな劣勢。単身で討とうとした結果がこれだ、助けが来るのは――恐らく、だいぶ先のこと。

 

 

 “女神より出でる力――”

 

 

 背筋が凍る。フォルセは鋭く息を呑んだ。隣に立つミレイも、口を押さえてあっと驚いている。それは黙示録が反応した際に聞こえた男の声。思えばこの炎の魔物は、あの声が響いた直後に現れたのだった。フォルセは警戒を強くする。また何か、起こるのか。

 

 

「ああっ! また、レムの黙示録が……」

 

 

 ミレイの声にフォルセは視線を向けた。レムの黙示録が再び震え、その存在感を大きくしていく。

 

 

「んもうっ、暴れないで! 大人しくしなさいよう!!」

 

 

 もう手放しはしないと、ミレイは振動する黙示録を両の腕で押さえ付けた。赤い光が溢れ出る。頁一枚一枚から、解放を求むように強く輝いていく。庭園を呑みこみかねないほどの強烈な光――、

 

 

 “女神より出でる力が阻む――阻むものは、リージャ――”

 

 

 雑音混じりの男の声には、感情の一欠片すらも存在しない。だが言葉そのものはどこか不穏であり、フォルセは不快げに胸を押さえた。

 

 

(リージャが……体中のマナが震える……何をするつもりだ?)

 

 

 胸中に宿るは意味のわからぬ不快感と、警鐘を鳴らす信仰心。声は魔物のものなのか、何をしでかす気なのか――周囲で好き勝手に踊る火炎に煽られるように、フォルセの思考はぐるぐるぐるぐる右往左往する。

 

 

 “阻むものを抹消せよ――心底より開き、ノックスの下へ世界を繋げ――”

 

 

 雑音が消え、

 

 

 “〈神の愛し子の剣〉よ――”

 

 

 捉えられる。

 

 

 “――夢と現の狭間で、燃え上がれ”

 

 

 火炎に包まれた核が姿を変えた。

 

 

 

***

 

 

「っ!?」

 

 

 火と緋に染まる夜天を見上げ、フォルセは驚愕に眼を染めた。心臓と共に身の内のリージャが跳ねる。ドクリドクリと、速いのか遅いのかわからない鼓動に吐き気すら覚えながら、渇いた息を呑み込む。

 

 

「これは……ヴィーグリック言語?」

 

 

 炎より現れたのは、真白に光るヴィーグリック言語の羅列だった。四方八方、核を頂点としまるで傘のように伸びていく。グラツィオを覆うように遠く、遥か彼方まで列を成し、数多の言葉が空を駆けていく。

 

 ヴィーグリック言語の列は、やがて美しい文様を描き始めた。瞳を忙しなく動かし、フォルセはその意味を理解していく。脳髄の先まで理解が及んだ。フォルセの顔色が青く染まる。

 

 

「……、ミレイ」

 

「へっ?」

 

「早く此処から、逃げなさい」

 

 

 突然名を呼ばれたミレイは、暴れる黙示録を抱き潰しながら気の抜けた返事をした。そして再度――先程よりも強い口調で言われた言葉に、丸い眼をつり上げる。

 

 

「に、逃げないわよ! だって、」

 

「黙示録なら取り戻したでしょう?」

 

「そうだけど、でも……!」

 

「火の海も、乗り越えられるのでしょう?」

 

「……あなたを巻き込んだ責任が、」

 

「貴女の優しさと誠実さはとても嬉しい。ですが、今は此処から一刻も早く逃げてください」

 

 

 言い訳をことごとく潰される。急に頑なになったフォルセの態度にミレイは焦りと不審を浮かべ、だが彼の言葉に反して一歩も動かず、恐る恐る口を開いた。

 

 

「……あれ、なんなの? そんなにヤバいもの、なの?」

 

 

 夜空を覆う無数のヴィーグリック言語。聖なる文字である筈なのに、暗闇を呑むようにうねるその姿は実に薄気味悪い。庭園を焼く炎よりもミレイの不安を煽り、心底より恐怖を覚えさせる。

 

 ミレイの問いにフォルセは沈黙を返した。否、答えを返す余裕も無く、無言で剣を封じ、己のリージャを極限まで練り上げていたのだ。天上に広がる慣れ親しんだ言葉の羅列を睨み付け、忙しなく眼を動かしていく。

 

 

「……ヴィーグリック言語が列を成し、方陣を展開している。あれは法術……いや、魔術の一種だ」

 

「魔術? そういえば、大きくてよくわからないけど……術式と、陣に見える……!」

 

 

 マナの扱いは得意、と言うだけあって、魔術に関する知識は常人よりもあるのだろう。蠢くヴィーグリック言語が、よく見れば魔術発動の際に使用する術式や陣の形状を取っていることに、言われたミレイはすぐに気が付いた。

 

 

「それじゃあ、こんなに広い範囲でなにか魔術が発動するってこと!? マズいじゃない! グラツィオ全部呑み込んでるのよ!? 一体、どんな術が……」

 

「術式から判断はできない、僕も話に聞いたことがあるだけだから。でもあのヴィーグリック言語を読めばわかる。あれは……あれは、」

 

 

 フォルセの掌に、輝く光球が生まれた。

 

 

「リージャを奪う、禁忌の呪文――!!」

 

 

 腕を払いながら鋭く声をあげ、フォルセは光球を空へ飛ばした。濃縮された光が空を駆ける。尾を引くそれは一直線に飛び、ヴィーグリック言語の一文字を破壊した。

 

 調和した方陣がぐにゃりと歪む。文字一つ崩したことで、空を覆う方陣は中央の核へ向けて僅かに収縮した。

 

 

「術式を形成するヴィーグリック言語を崩せば、術の範囲を抑えられる。でも足りない。僕一人では、あれを完全に消滅させるには足りない……」

 

「た、足りないって……」

 

 

 不安げなミレイの声を聞きつつ、フォルセは二つ、三つと光球を放ち、次々にヴィーグリック言語を消していく。が、現状は無理やり術の発動を妨害している状態だ。一つ間違えれば周囲のマナ暴走を引き起こし、グラツィオを一瞬にして消滅させる。ゆえにフォルセの表情は硬く、リージャを練り上げる手も慎重を期している。

 

 

「……方陣の真下だ。少なくとも、此処は確実に術の範囲に入る。だからミレイ、早く逃げ、」

 

「だったら尚更聞けない!」

 

 

 黙示録を更に強く抱き締め、ミレイは怒り混じりに叫んだ。あなた一人置いていけないと、感じる責任や義務ゆえに此処に留まる意志を固くする。

 

 が、いい加減怒りを顕にするのはフォルセも同じことだった。温厚の壁を越え焦りを破り、フォルセは苛立ちのこもった視線をミレイに向ける。

 

 

「……っ、リージャを奪われれば、体内のマナを大いに乱されるだけでなく女神への信心も無くしかねない! それがどういうことか、わかっているのか!?」

 

「わかってるわよそんなこと! あなたを巻き込んだのはあたし! でもあたしは、あれをどうすることもできない! ……あなたに全部押し付けるしか、ないんでしょ!」

 

 

 ミレイの表情が悔しげに歪む。己の無力さに打ち拉がれ、感情をぶつけることでしか語れない現状に怒りを剥き出しにする。

 

 

「いつもそうよ! 結局あたしは何にもできない! 役に立ちたいから、今を変えたいから、……助けたいから旅に出たのに……これじゃあ何にも、何にも変わらない……っ!」

 

 

 ミレイの瞳に、今にも零れ出しそうな程の膜が張られる。唇を噛み締めて俯くその姿にフォルセは苛立ちを鎮めはするものの、胸中の義務感を一層強くさせる。

 

 

「……僕には、信者を守る義務がある。たとえこの身からリージャが消えようとも、女神のため、多くの信心を失わせるわけにはいかない……」

 

 

 数多の光球が天へと飛ばされる。少しずつ収縮したヴィーグリック言語の方陣は、遂にフォルセらのいる炎の庭園を見下ろすのみとなった。流れが止まる。白き言語が気高い筈の赤へと変貌した。空気中のマナが一斉に方陣――その中心に鎮座する核へと集束し、急速にその姿を変えていく。

 

 

「その想いだけで充分だ。君の優しさを、女神フレイヤはしかと見届けただろう。だから、さあ早く――」

 

 

 覚悟を決めた瞳。練り上げた光球の一つを闇へと変えて、フォルセは道を示した。

 

 

「――早く、行くんだ!!」

 

 

 フォルセの放った闇が炎の海を突き抜け、僅かな道を作った。夜空を覆う陣が揺らぐ。発動間近。ミレイから視線を外す。力の解放を望む天の方陣へと向き直り、フォルセは再び己のリージャを放ち始める。

 

 その背を見つめ、ミレイは立ち尽くす。踵を返せば、其処にはフォルセが開けた道があるのだろう。今駆け抜ければ間に合う。が、わかっている。残りたい。残るべきだ。ならば言えばいい。本当はただ一言告げれば済むことだ。わかっている。そう――、

 

 

「……逃げる必要なんて、無い」

 

 

 ミレイもまた、覚悟を決めた。

 

 

「あたしにリージャなんて……女神への信心なんて、無いもの」

 

 

 天へと向けられた手が、ぴたりと止まった。無音が広がる。燃える火の音も、歪むマナの音も止まったかのように、静寂が二人を包み込む。

 

 フォルセの眼が再びミレイへと向けられた。金糸のような髪が垂れ、翡翠が覗く。その表情にミレイは深い後悔を覚えた。聖職者は嫌い、そして恐い――全てはその表情を知っているがゆえに違いない。

 

 

「――――異端症(ヘレシス)?」

 

 

 憐れみを多分に孕み、異質なものと捉え、背徳のものかと告げる、その表情が――、

 

 

「っ!!」

 

 

 無音は一瞬、現実が戻る。弾かれたように上空を向いたフォルセに釣られ、ミレイもまた天を仰ぎ、別への恐怖で顔を染めた。

 

 マナの動きが止まる。気高き赤たるヴィーグリック言語が光となって広がっていく。禁呪の発動――その領域は、僅かにビフレスト大聖堂を呑んでいる。

 

 

「……くっ!」

 

 

 異端を告げた少女を一瞬見るも、そんな余裕は無いとフォルセは思い出す。方陣へ向けて眼を動かし、ある一点を見つける。

 

 

(――間に合え!)

 

 

 そう強く念じ、フォルセは即座に練り上げた光球を天へ放った。到達し、白く爆ぜる。光に混じりかけていた末端のヴィーグリック言語が破壊され、術の領域からビフレスト大聖堂が外された。それが、最後の抗い――、

 

 

 術式が紐解かれる。炎の如き光の奔流が、遂に――降り注いだ。

 

 

 

「っ、ぐッ、あ……ああああああああッ!!!」

 

 

 禁呪による光を全身に浴びる。心底よりガリガリと抉られるような痛みにフォルセは叫び、膝をついた。身の内からリージャが急速に失われる。容赦も躊躇もなく、死神の鎌によって苅り取られるように。膨大な力の喪失によって身体は軋み、燃えるように揺らぐ光の圧力に、その身のマナごと押し潰される。

 

 

「ッ……ぁ、あがっ、うぅ……っ!!」

 

 

 喉奥から搾り出すように苦痛の声を漏らす。苦悶の表情を浮かべ、歯を食い縛り、全身で悲鳴をあげる。これがグラツィオ全土に広がらず、本当に良かった――普段ならそう感じる筈の思考すら痛みに呑まれ、フォルセはただただ無力へと強制されていく。

 

 

「聖職者サマ!!」

 

 

 リージャを、信心を持たぬという言葉を裏付けるように、ミレイは何の影響も受けることなくフォルセの元へと駆け寄ってきた。その表情には怯えが走っていたが、それ以上に――フォルセの身を案じる色を浮かべている。が、それも徐々に絶望へと変わる。状況は先程――フォルセが核を砕いた直後とは大違いだ。声をかけようが肩を揺らそうが、目の前の神父は苦痛以外一切の反応を示さない。

 

 

「あ、ああ……やっぱり、何にもできない……もうイヤ! それを変えたくて来たのに! あたしにも、ああ、“わたし”にも何かできるって、特別な何かができるって、そう思ったから……!!」

 

 

 嫌々と首を振りながらミレイは叫ぶ。水の膜の張ったその眼に、ふと、抱き締めていたレムの黙示録が目に入った。真白の表紙、特別な何かを示すように美しく神聖な――、

 

 

「っ、何とかしてよ、レムの黙示録! 勇者を……“勇者様を呼び出す奇跡の本”、なんでしょう!?」

 

 

 大事な大事な黙示録が今は憎い。全ては己の所為なのか。浮かれた自分は何だったのか。感情だけがごちゃごちゃと綯い交ぜになる。荒ぶるままに、ミレイはレムの黙示録を地面へと叩き付けた――、

 

 

 その時、気を漂うマナが流れを変えた。

 

 

「……! え、なに……!?」

 

 

 突然の変化――激情も忘れ、ミレイは戸惑いの声をあげた。叩き付けられたレムの黙示録、そしてミレイの間に濃厚なマナが集束していく。空で方陣を展開する核のように、何か力強い術を発動させてしまうような、そんな予兆が始まる。

 

 

「……きゃあっ!」

 

 

 集束したマナが青く爆ぜ、降り注ぐ光とぶつかり合った。力が弾け飛ぶ。永久に続かんとばかりに落とされていた光は霧散し、強大な禁術は突然、終わりを告げた。

 

 

「っ!? ……は、はあっ……は、ぁ……!」

 

 

 全身に落とされていた圧力が唐突に失せ、フォルセは詰まっていた息を苦しげに吐き出した。身体を支える腕は、どこにどう力を入れていいのかわからないとばかりに小刻みに震えている。半ば飛んでいた意識をどうにかこうにか引き戻し、無理やり身を起こす。

 

 

「……いっ、たい……なに、を、」

 

 

 禁呪は発動した、だがそれは完全に発動し終えることはなかった。概ね終えられていたそれを強引に断ち切ったのは、どう考えてもミレイ、それかレムの黙示録――或いはそのどちらもか。とにかく何かがまた起こったと、フォルセはマナもリージャも失せきった頭で思う。

 

 

「わ、わかんない……あたし、今、何……?」

 

 

 対するミレイは、何一つ理解できないと言いたげに茫然としていた。その眼は揺らぎ、己が投げたレムの黙示録へと向いている。

 

 

 “阻むものの抹消を阻むもの――神の愛し子を望むもの――”

 

 

 男の声が再び聞こえ、フォルセとミレイは揃って天を見上げた。僅かに高度を下げた黒い核が、二人を見下ろすように其処に在った。

 

 フォルセは苦痛と焦燥に顔を歪めた。核は一見静寂だ。だが内包する禍々しさも、強大な力も、まるで衰えた様子が見えない。対する己はどうだ。ほんの僅かなリージャは辛うじて残ったものの、禁呪を受ける前のようには当然戦えない。そればかりか、リージャを奪われたことで体内のマナすらも変質し、全身鉛にでもなったかのように重く、そして痛い。

 

 

(この核が現れてどれほど経った? せめて……せめて、騎士団さえ来てくれれば……)

 

 

 最早、時間の感覚など無かった。己でどうにかできる可能性は、潰えている。

 

 

(ああ神よ……我らが故郷、愛する女神フレイヤよ……)

 

 

 後はひたすら祈るしかないと、フォルセは力無く項垂れる。

 

 

 だが――、

 

 

「な、なによ……まだ何かするって言うの!?」

 

 

 フォルセはハッと息を呑み、慌てて顔を上げた。見れば先程まで慌て、何かを嘆き、そして茫然としていた筈のミレイが、フォルセの目の前で仁王立ちしていた。ぽかんと口を開けるフォルセを他所に、ミレイは半ば自棄になったように核へ向かって叫ぶ。

 

 

「……や、やってやろうじゃない! こうなったら今此処で、あなたを倒して聖職者サマに借りを返すんだから!」

 

「っ、君が……敵う相手じゃない! 借りなんていいから……早く、逃げるんだ!」

 

「聖職者サマの言うことなんて聞かないわよ。あたしは信仰心を持たない異端の者……異端症なんだから!」

 

 

 梃子でも動かぬと、ミレイの背は強く告げる。フォルセはグッと唸る。“彼女は己と違う”とわかった今でも、守るべき対象であることには変わらない。だというのに、己の身体は言うことを聞かない。ミレイは言葉を聞く気がない。暴露してしまったことが逆に、ミレイの背を蛮勇へと押してしまっている。

 

 

 異端症(ヘレシス)。女神への信心を持たぬ、背徳の人間。それは――、

 

 

 “ノックスを知るもの――無に近きもの――異端と称される小さきもの――?”

 

 

 何かを確かめるように呟かれる男の声に、フォルセは不快感を覚えながら眉を顰めた。この言葉は己に向けられたものではない。そう何となく感じ取り、次いで目の前で臨戦態勢を取る少女を見つめる。己ではないのなら、その言葉が向けられているだろう者は、この場ではただ一人。

 

 

 “――心底より開き、ノックスの下へ世界を繋げ――〈神の愛し子の剣〉と共に”

 

 

 〈神の愛し子の剣〉。今度は己が呼ばれたと、フォルセがそう感じた時には既に――遅かった。

 

 

「え、ちょっと……何これ!?」

 

 

 フォルセとミレイ、二人の身体を赤い赤い光が呑み込んだ。ミレイの悲鳴があがる。周囲の炎すらも小さく見えるほどに強く輝くそれは、ミレイの恐怖にひきつった顔すら隠してしまった。肉体が溶ける。感覚が失われる。ミレイが叫ぶのも当然であった。フォルセですら、得体の知れないそれに――、

 

 

(……違う、僕はこれを知っている。これは……)

 

 

 溶けゆく己の身体を見つめる。細かな粒子、赤い光となっていく。赤い、気高き赤たるヴィーグリック言語となって、黒い核へと集束されていく。

 

 

「……まさか、ヴィグルテイン化?」

 

 

 半ば茫然と呟く。ヴィーグリック言語を用いて物質を封じる技術――ヴィグルテイン。普段なら己が施す立場にあるだろうその技術を、逆に己が身に使われている。有り得ない。意味がわからない。最早理解が追いつかない。

 

 

 “〈神の愛し子の剣〉よ――”

 

 

 再び呼ばれた。

 

 

 “――夢と現の狭間で、燃え上がれ”

 

 

 紡がれたその言葉とミレイの悲鳴が耳を掠める。ヴィーグリック言語として消えゆく身体に従って、フォルセの意識は緩やかに途絶えていった。

 

 

 




2014/05/17
2014/08/06:加筆修正
2016/11/24:加筆修正
2016/11/24:ハーメルン引越し


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Chapter9  光遠き目覚め

 

 深い深い森の中。豊かな葉を持つ木々の間を、舗装された道が続く。とはいえ石造りでも何でもない、剥き出しの地面が自然と慣らされただけの簡素な道だ。小石はふんぞり返り、数多の雑草が待ち構え、夜行性の獣が彼方から耳元まで声を届けてくる。

 

 時折その道を照らすのは、薄雲の間から顔を出す淡い月の光か、或いはカタカタと音を鳴らしながら通る荷馬車の灯火ぐらいであった。旅人にとっては暗い道。それが嫌なら灯りくらい持参して通れと、どこの誰が言わずとも皆が理解できよう。

 

 それでもほんの僅かな慈悲とばかりに、荷馬車のものであろう車輪の跡が道案内のように続いていた。道を照らし、荷馬車の生霊を辿っていけば――きっと森を抜けられるに違いない。

 

 

 森は獣――魔物たちの縄張りだ。夜ゆえに眠り、夜ゆえに活動するもの達がこぞって耳を立て、道を通るものを観察している。

 

 縄張りを荒らすのなら容赦しない、それ以上道を広げるのならば許さない――そう警戒するだけの魔物ならば、別に良い。道を通るもの達にとって厄介なのは、己が縄張りも関係なく、ただただ血肉を求めてふらりと現れる凶暴な魔物たちの方である。

 

 人の肉を喰いたいと望むのか、それとも特に何も考えていないのか。とにかくそういった無謀で野蛮で危険な種というものが、彼ら魔物の中にも存在していた。同種族にさえ背を向けられるほどに愚鈍なそのもの達は、どうしてだか異種同士で行動を共にし、来る人間を無差別に襲っている。

 

 

 今宵もまた、魔物の集団が、人を襲い――、

 

 

 

「――そして、その命を摘み取られる」

 

 

 夜光を背に飛びかかった魔狼(ウルフ)が一息に貫かれ、浮かぶ霊魂が魔術の風によって刻まれた。その圧倒的な攻撃を成したのは、何の変哲も無い木製の杖。

 

 杖の主――暗色のレザージャケットを羽織った一人の男が、其処にいた。男は杖を軽く振り、魔物の亡骸であったマナの粒子を払って消す。

 

 

「力量の差すらも理解せず、たとえ理解してもその差を越える強さを持てず……愚者はただ怯え、虚無を抱き、狂乱にその身を投げる」

 

 

 魔狼の異常種――巨大な肉体を持った二足歩行のヘレティックが、両腕を振り上げた直後、その身を真っ二つに引き裂かれた。強固な肉体を容易く裂いた男は、次いでマナを這わせた杖を剣のように振りぬいて、二つに分かれたヘレティックを跡形無く消し飛ばした。

 

 

「神を信じぬ輩の末路……ああこんなにも、哀れで恐ろしい」

 

 

 杖を下ろし、男はどこか悲しげに――、

 

 

「……なーんて、面倒そうな賢者を気取ってみたものの……何これすっげえ疲れるし絶対違う。暇潰しにすらなりゃしない……ってああああ独りでやってるって思い出しちまった恥ずかしい……!」

 

 

 ――悲しげに、羞恥に打ち震えていた。

 

 

「つーか、“試練”の“審判役”の俺がどうしてこんな面倒な調整しなきゃなんねーの? ちっ、これも全部あいつの所為だ……あの核野郎、おまえが燃えちまえってんだ……」

 

 

 ぶつぶつ文句を呟く男に、先程の戦いで見せていたキレの良さは感じられない。杖を力なく引きずりながら、夜の森をとぼとぼと歩いていく。

 

 

「核野郎が余計なことしなければ……この程度の魔物や障害、“あいつ”なら楽勝だった筈なのに。試練の直前になっていきなり『弱くなりましたー』とか……アドリブきかねーんだぞったく……」

 

 

 木々の間、草花の生える道無き道を男は行く。遠く、舗装された道を走る荷馬車を見つけては――大きな大きな溜め息を吐く。

 

 

「荷馬車で感知できない場所はこうして歩いて地道に潰すしかない……。あっ、“あいつ”もう入ってきやがった。大丈夫かな、強いやついないよな……」

 

 

 ぽつりぽつりと愚痴を溢しながら、時折現れる“愚か者ども”を容易く滅ぼす。

 

 げんなりと肩を下ろしながらも杖を振るう動作に無駄は無く、その姿はまさしく“戦神”とでも呼べるもの。

 

 

「……どうせ、今の“あいつ”じゃ越せやしない」

 

 

 何十体目かのヘレティックを滅ぼして、月光が溢れ落ちる場所までやって来て――男は、遠い空へと想いを馳せる。

 

 

「あんなに弱くなったんじゃあ、〈神の愛し子の剣〉は鞘に収まったまま。(まこと)の剣は抜けず、ずうっとこの世界で祈り続ける。

 ――俺は、その方が嬉しいけど」

 

 

 白い光の下。肩につくほどの赤毛を靡かせるその男は――やはりどこか悲しげに、打ち震えていた。

 

 

 

***

 

 

 見上げた空は変わらず夜だった。時折薄い雲が流れる中、星光が各々好き勝手に存在を主張している。フォルセが僅かに視線をずらせば、丸い月が地上をぼうっと見下ろしている。

 

 その光景は、幾重にも重なる葉に囲まれていた。深い森の中、生い茂った木々の間から望める夜天――まるで、一つの絵画のように美しく調和している。

 

 指先に柔らかな草が触れる。否、指先だけではない。頭の後ろから踵までその感触は続いている。どうやら己は地べたに寝転がっているらしいと、フォルセは天を仰ぎ見ながらぼんやりと思った。

 

 

「ここは……何処、だ……?」

 

 

 美しい、だが見知らぬ光景に眉を寄せる。己がいるべきは白亜の壁が並ぶ愛しき街――教団総本山グラツィオである筈だ。間違っても、こんな深い森であるわけがない。

 

 

「一体、何がどうなって…………ぐうっ!?」

 

 

 呆然としながら身を起こしたフォルセは、全身を走った激痛に呻き声をあげた。神経を直接引っ張られるような酷い痛みが、皮肉にもフォルセを完全に覚醒させる。

 

 

「っ……く、ぅ、なんて……痛みだ。あの時の禁呪のせいか? マナを破壊されるのがこんなにも、辛いとは……!」

 

 

 少しでも痛みを抑えんと、フォルセは吐き出す声をふるりふるりと震わせる。

 

 グラツィオを襲った禁呪文を受け止めたフォルセは、体内マナを無惨にもズタズタに破壊されていた。その影響で身体は水中にでもいるかのように重く、そして酷い痛みが余すところ無く走っている。

 

 身体を張って禁呪を抑えたことを後悔などしていないが、それでも痛いものは痛いと、フォルセは眉をぎゅっと寄せて俯き、止めどなくやって来る痛みを必死に耐える。

 

 

「……、マナが減ったことで、リージャも殆ど得られないか。僅かにでも残っただけ良かったと……思うべきなんだろうな」

 

 

 細く息を吐き、項垂れたまま身の内のリージャを確かめれば、初級法術がようやっと使える程度しか残っていなかった。当然だ。リージャは体内マナを放出した分だけ還ってくるのだから。

 

 どれほど信仰心を持っていようと、共に捧げるマナが無ければ意味がない。逆もまた然り。信仰心の塊のような人間に対して、マナ破壊はこの上なく効果的な“リージャ奪取”の御技だった。

 

 

(リージャを奪われてなお生き延びたということは……僕にはまだ現世で役割があるのだと、女神が教えてくださったに違いない。だから“この程度”で狼狽えるべきではないんだ、僕は……)

 

 

 激しい義務感で自らを縛り上げるものの――普段から法術に頼りきりであると自覚しているがゆえに、その眼前にある心許ない現状から、フォルセは目を背けることができない。

 

 不安で堪らない、心細くて仕方がない――弱々しく萎む己の思考に、フォルセは思わず不快気な表情を浮かべた。

 

 

 

 ガタ、ガタガタガタ――。

 フォルセの耳に、何重にも木を鳴らす音が聞こえてきた。驚くままに顔を上げ、視線を向けると、木々の間に小さな灯の光が見えた。

 

 

「この音。車輪……馬車、か?」

 

 

 フォルセの予想通り、その音は森を走る荷馬車の音だった。ゆっくりゆっくり進みながら、着実に遠ざかっていく。当然、フォルセは呼び止めようとした。が、邪魔立てするように走った身体の痛みに声を奪われ、結局荷馬車が消えるまでの数秒間、ただ視線を向けるだけしかできなかった。

 

 

「……行ってしまった。でも、少なくとも人の手が入った森だとわかった。道もある。どうにか森からは出られそうだ……」

 

 

 それより、とフォルセは視線を宙にずらした。見渡す限りに生い茂った木々――一体何が起きたのかと、鈍い頭を働かせる。

 

 

「グラツィオで、禁呪文を受けた後……そうだ、信じられないけれど、確かに身体がヴィーグリック言語に分解されたようだった。まるで、そう、このヴィグルテイン技術のように……」

 

 

 フォルセは力無く右腕を持ち上げた。

 

 意識を集中する――経本より青きヴィーグリック言語が現れ、一振りの細剣となって収束した。いつものように柄を握るも、持ち慣れている筈のそれはズシリと重く、結局溜め息を吐きながら再びしまう。

 

 物質を分解・再構築する法、ヴィグルテイン。武器も含め、旅道具一式や聖道具等、多くのものを持ち歩くために使っている身近な技術だ。

 

 日常とは切って離せないそれを非日常で垣間見たのだろうか。フォルセは自身に起きたグラツィオでの現象を思い返すが、同時に、否定を込めて首を振った。

 

 

「有り得ない。人体にヴィグルテイン技術を用いるなんて、仮に可能だとしてもどれほどの知識と労力がいるのか……」

 

 

 痛みと疑問で顔をしかめながら、フォルセは再び辺りを見渡した。周囲にはよく育った草木ばかりが、月光に照らされて揺らいでいる。仮にヴィグルテイン技術によって運ばれたのだとしても、一体何が目的でこんな森の中に放置したのか。やはりあの核の魔物が成したことなのか。疑問は尽きず、湧くばかり。

 

 

「……苛立っていても仕方がないな。此処がグラツィオでない以上、まずは無事に帰ることを考えないと」

 

 

 痛みを耐え、フォルセはゆっくりと立ち上がった。夜露で少しだけ濡れた草を踏みながら、一歩一歩、痛みに身体を慣らすように進む。

 

 ――が、フォルセはほんの数歩で立ち止まった。先程から思考を遮るようにぶつぶつと呟く物体を、どうにかしなければならないのだ。

 

 

「…………ゃ、むにゃ、んふふふふ……」

 

 

 フォルセは地面に転がっている“それ”を無表情で見下ろした。危機感の欠片もない呟き――所謂“寝言”が、近くに寄ったことでいっそうよく聞こえてくる。

 

 

「むふ、ダメよパン屋のおばちゃん……お腹いっぱい……青色のクリームパン……やだぁステキ…………むにゃ」

 

「…………」

 

「どーしよう、そんなもりもりにされても食べきれないわよぉ……うへへへへぇ……」

 

「……君は、青色のパンで涎を垂らすのかい?」

 

 

 だらしなく口許を動かす“それ”――ミレイに向けて、フォルセは溜め息混じりにそう言った。

 

 

 

 “レムの黙示録”を持つ少女、ミレイ。禁呪の影響で顔をしかめたままのフォルセと違い、彼女には傷一つついていなかった。ヒルデリアの花飾りをつけた帽子も、リボンの多い黒の服装も、そしてそれらを身につける彼女自身も――まるで、自ら其処で寝入ったかのように小綺麗だ。唯一中身の無事だけはわからないが、寝言を聞く限り恐らく多分きっと問題ない、と願いたい。

 

 

「外傷は無さそうだな、良かった。……いや念のため、少し治癒術をかけておいた方が良いか……」

 

 

 強すぎる治癒術は逆に危険だが、今の己ならそんな心配は無用だろう。自嘲も交えながらそう考え、フォルセは眠りこけるミレイに向けて手を翳す。

 

 

「安息を祈り…………っ!?」

 

 

 が、フォルセは唐突に詠唱を中断し、翳していた手をピタリと止めた。置物のように静止した彼の脳裏を、忘却していた記憶と知識がゆるりと通り過ぎていく――

 

 “異端症(ヘレシス)に対して法術は使えない”

 

 彼らは女神フレイヤへの信仰心を持たぬ、星にとって異質な存在であるからだ。

 

 信仰心という曖昧な、だが惑星ホルスフレインでは最も重要な要素を持たぬ異端症にとって、女神の愛であるリージャ、それを用いた奇跡である法術は、たとえ治癒の効果があっても毒となる。

 

 ミレイは自称ではあるが異端症だ。ゆえに彼女にとっても法術は危険。治癒するどころか、危うく害を与えるところだった――そう、思い出したのだ。

 

 

 しかし、フォルセが静止した理由はそこではなかった。翳した手を細かく震わせ、愕然とした表情で見下ろす。

 

 

「リージャが…………リージャが、応えない……」

 

 

 フォルセに残った僅かなリージャは、何故か、彼の意志にまるで反応しなくなっていた。

 

 

「何が……なんで、どうして」

 

 

 視線を宙で彷徨わせ、唇から弱々しい声を落とす。

 

 己の要とも言える力が、減ったどころか反応すらしない――その事実が、フォルセの芯をいとも容易く揺らがせた。震えて縮こまるその姿は、まるで彼が普段導いている迷い子のよう。

 

 狼狽する己を恥じる余裕すら、既に無い。フォルセは険しい表情で、もう一度身の内にある筈のリージャを探した。

 

 

(ああ、確かにある。禁呪で大半が失われたとはいえ、形作れぬほど微弱でもない……なのに、どうして応えない……?)

 

 

 体内のマナとリージャを再び――今度はゆっくりと感じ取ったからか、フォルセは幾分か落ち着きを取り戻した。とはいえ視線は揺らいだまま。背筋がゾッと冷えきった感覚は、未だ解けない。

 

 

「いただきまー……もぐ、むにゃ…………」

 

 

 傍らで、ミレイが幸せそうに身を捩った。フォルセはぴくりと肩を揺らし、彼女の方へと視線を向ける。

 

 

「…………、しょっぱ。クリームパンなのにどうしてしょっぱいのよぉ……」

 

「ミレイ?」

 

 

 ミレイはむくりと起き上がった。が、瞼は半分しか開いておらず、覚醒には程遠い。

 

 

「んもう、もうもうっ……しょっぱいままじゃ、甘くできないじゃない! あたしは甘いのが良いのよ……風で飛んでった砂糖、黙示録で、探さないと…………すうー……」

 

 

 寝惚け眼を宙に向け、何やら文句を垂れる。黙っていれば愛らしい筈なのに、口許の涎と据わった双眸と漏れでる夢の続きが、全てを台無しにしている。

 

 

「……仕方のない子だな」

 

 

 落ち込むばかりだった心をある意味力強く引き止められ、フォルセは思わず半目になりながらも苦笑した。「……あー、笑顔、笑顔……」微笑から苦みを取り除くフォルセの前で、ミレイが再び夢へと旅立とうとしている。

 

 瞼をゆらぁと下ろし、ミレイが猫のように寝転がった。

 

 余裕を取り戻させてくれたその寝顔に、フォルセは敬意ともろもろを込めまくってすうっと息を吸い――

 

 

「……おはようございまーす!」

 

「きゃあああっ!?」

 

 

 ――思いっきり、呼び起こした。

 

 

 

***

 

 

「……あ? 今何か妙に清涼感溢れるような声が……まあいいや。それよりお前だお前。ふざけんなよ、ったく」

 

 

 深い深い森の、端の方。襲い来る“愚か者ども”を蹴散らしていた筈の男が、赤毛を逆立て怒りを顕にしていた。

 

 視線の先には誰もいない――冷気を放つ暗い森が、鬱蒼と広がるだけである。

 

 

「一匹厄介なのが現れた? 感知する前に消え失せた? やっとここら一帯の調整終わった俺への第一声がそれぇ?

 ……このクソ忙しい中そんなの捜すのがどれだけ大変だと思ってんだあああああ!?」

 

 

 木製の杖で地面をブスブスと刺しながら、男は誰かに向かって怒鳴り散らした。うるさい。眠る魔物も起きている魔物も一様に苛々させるほどにうるさい。が、魔物達は皆、彼との力の差をよく理解していたため懸命に我慢していた、実に哀れ。

 

 男の力量をわかっているものだけが、この辺りでは生きていた。理解せず、無謀にも挑みかかったものは皆――男の手によって、既に葬られている。

 

 

「ぜぇ、ぜぇ……にしても、げほ……“暴走”か、やべーな。いつもなら、大した問題にもなってないのに」

 

 

 男は落ち着きを取り戻し、荒れた呼吸を整えた。地面を穴だらけにした杖で肩をこんこん叩き、全身で億劫だと表す。

 

 

「んで、加えて上もこのままなんだろ? 仮にも神の名を冠する試練でこうもトラブルが続くんじゃあ……やっぱり、止めといた方がいいんじゃねぇの?

 ……あ、駄目? ああそう……」

 

 

 男はガックリと肩を落とした。はあ、と大きな溜め息を吐き、怒鳴っていた方へくるりと背を向け歩き出す。

 

 とぼとぼと杖を引き摺りながら歩くその姿は妙に哀愁漂っていたが、それを哀れむ誰かはどこにもいない。

 

 

「わかったよ。お役目通り、俺が“あいつ”を捜して保護する。リージャの無い今の“あいつ”じゃあ、そこらの魔物相手でもコロッとくたばりかねないからな。先に上手いことエリュシオンの方へ誘導して……早いとこ、合流してやらないと」

 

 

 歩きながらも男は口を開いていた。まるで、どこで話そうとも会話が成り立つと思っているように、ぽつりぽつりと喋っている。

 

 傍から見れば大きな独り言を続ける異常者なのだが――それを訝しく思う誰かすら、この森にはいなかった。

 

 

「敵の調整さえ無ければ、とっくに合流してた筈なんだけどなぁ。……とにかく、俺は急いでエリュシオンに向かうから、そっちはどうにかして“あいつ”の誘導頼むぞ。

 ……、……は? さっき荷馬車から見かけた? とっくに目覚めて状況確認してたって? あっははは……そん時回収しとけよこの柔らか石頭あああああっ!!」

 

 

 怒号と共にぐるんと振り返り、男は杖をぶん投げた。哀れ、杖は森の奥の闇にぶつかってバキリと折れ、そのまま地面に落っこちた。

 

 四方八方、森に住む魔物から無言の抗議がジトジト寄せられる。が、男は構うことなく踵を返し、肩を鳴らして森を全力歩きしていった。

 

 

 ――パキッ。

 乾いた音をたてて杖の残骸が割れた。折れた枝同然と化したそれからは何故だかにょきりと芽が生えて、やがて初々しい若木へと成長し、遂には森の一部となってしまった。新たな住処の誕生だ。つい先程まで怒っていた魔物達は手のひらを返してうははと喜び歌い、種族も何も関係なく仲良く一緒に小踊りし始めた。気味の悪い、しかし妙にしっくりくるその光景は、魔物達が解散するまでだらだらぁと続く。

 

 

「ったく、こういう時ばっかり手引き通りつーか、なんつーか……まあいい。今は“あいつ”のことだけ考えよ。考えてもなんでか居場所わかんねーけど。何処にいんだホント。ああもうあの核野郎のせいだろマジで覚えとけよ……」

 

 

 背後で起きている歓喜の踊り含むあれこれを無視し、男は苛立ちを呟きながら、しかし迷うことなく森の中を進んでいく。

 

 

「……、待てよ?」

 

 

 そして、唐突に立ち止まった。

 

 

「よく考えたら此処、めちゃくちゃ端の方じゃん。うわ。だったら先にエリュシオンに帰って、そっから森まで逆走した方が“あいつ”と早く合流できる気がする。どうしよ。

 ああああ……! いいやもう考えるより先に行動だ、行動…………っ!?」

 

 

 空気が、ピンと張り詰めた。男の纏っていた怒りや焦りはすうっと掻き消えて、しかしより鋭利な感情となって周囲を漂い始める。

 

 

「…………」

 

 

 夜風が一層冷えて緑を揺らす。玉のごとき月が薄雲の後ろから顔を出し、男を天上からじっと見下ろした。――男の、黄金の色を有した双眸が返すように空を見上げ、月光に眩み、そして至極面倒臭そうに歪められる。

 

 

「……、いる」

 

 

 男が唸った。

 

 

「“あいつ”の隣に――“異端”がいる」

 

 

 

***

 

 

 騎士団仕込み――かどうかはわからないフォルセの特大「おはよう」を耳元に食らい、ミレイはそのまま浮く勢いで跳ね起きた。余程驚いたらしい、未だにきゃあきゃあと喚いている。

 

 圧し殺した苛立ちや不安までも滲み出たのか――フォルセの“囁いた”「おはよう」は妙にハツラツとしており、寝坊助を叩き起こすのにはある意味丁度良いものだった。らしくないことをした、とフォルセは密かに溜め息を吐いたが、実はちょっとだけスッキリしていたりする。

 

 

「……きゃあああ、あ、ああ…………ふああああ」

 

 

 夜天に届くほどの悲鳴が、大きな大きな欠伸に変わった。能天気なその姿に、フォルセはかくんと脱力する。

 

 

「はふ。……あービックリした。おはよう、聖職者サマ。ところで此処どこ?」

 

 

 ゆっくり時間をかけて覚醒したミレイは、眼前の見知った姿に落ち着きを取り戻し、次いで周囲をきょろきょろ見渡した。

 

 ミレイからの問いに答えを持たないため、フォルセは困ったように微笑を深める。

 

 

「残念ながら、存じ上げません」

 

「そっか。聖職者サマでもわからないんじゃ、どうしようもないわねぇ……」

 

「申し訳ない。私もまだ目覚めたばかりで、状況を殆ど把握できていないのです」

 

「ううん、大丈夫。街で戦ってたと思ったらいきなり森だなんて、誰だってワケわかんなくなるわよ」

 

 

 ミレイは手をひらひらさせて笑った。案外と楽観的だ。不安になるよりずっと良いが、こうも気にならないものかとフォルセは首を傾げる。

 

 

「あの、核の魔物やグラツィオのこと……気にならないので?」

 

「? 気になるわ。でもここで気にしても仕方ない、でしょ?」

 

「それは、そうですが……」

 

「じゃあいいじゃない。グラツィオには聖職者サマ以外にも騎士はいるんでしょ? あれだけ粘ったんだもの、きっとどうにかしてるわよ。

 それに……」

 

「……それに?」

 

「あの魔物、〈神の愛し子の剣〉を狙ってるみたいだった。ならグラツィオに残らないで、また聖職者サマのところに来るかもしれないわよ」

 

 

 なるほど、とフォルセは納得しかけた。だがどうだろう。自分が本当に〈神の愛し子の剣〉だったとして、ここまで弱体化した自分がまだそうと言えるのだろうか? それに〈神の愛し子の剣〉を狙っているなら、こんな場所に放置する意味もわからない。

 

 とはいえ、ミレイの言う通り考えていても仕方ないことだ。グラツィオは無事だと祈りながら、とにかく急いでグラツィオに帰ろう。そのためにもまず、此処がどこなのか、どうすべきか、慎重に考えねばなるまい。

 

 

「そう、あなたは〈神の愛し子の剣〉……これで安心。うぷぷぷぷ」

 

 

 何がどう安心なのか。ミレイの怪しげな笑い声に、フォルセは早くも不安を覚えた。

 

 

「うぷぷ……あ、こほん。ど、どこの森だか知らないけど……とにかく抜け出さなきゃ始まらないわよね。テキトーに歩いてたら、いつか出口に辿り着くかしら」

 

「……、先程、向こうを馬車が通っていきました。残念ながら呼び止めることはできなかったのですが、恐らく森の外へ通じる道があるのだと思います」

 

「そうなの? それじゃあ早速行ってみましょうよ」

 

「いえ、夜明けを待とうと思います。……規模が知れているならまだしも、この森がどれほど広いのかわかりませんから」

 

 

 夜の森は危険である。明かりさえあれば進めないこともないが、念には念を入れるべきだ――特に今は、フォルセ自身が普段通りと言えない状態なのだから。

 

 が、フォルセの事情を知らないミレイは、当然のように首を傾げた。

 

 

「聖職者サマが一緒なら、ちょっとくらい暗くても大丈夫じゃない?」

 

「あれほど無様にやられたのに、安心などできないでしょう」

 

「そんなことないわ。あれは別格よ、別格。あんな凄い術まで使ってヒキョーじゃない。

 あんなのがホイホイ出るわけないし、普通の魔物なら楽勝でしょ?」

 

「……うっ、それは、」

 

「あっ、モチロンあたしだって協力するわよ。借りだって返せてないもの。魔物と会ったら戦うし、なんだったら料理でも応援でも何でも……」

 

「いえ、実は……」

 

 

 フォルセは一瞬迷い、口を開いた。

 

 

「グラツィオで受けた禁呪の影響で、リージャの殆どが消失してしまいました。その所為か……現在、法術が全く使えません」

 

 

 そう告げるフォルセの顔には、悲哀がたっぷりと浮かんでいた。隠し通すことも考えたが、ミレイの言う通り、今後魔物と遭遇する可能性は充分にある。ならば先に告げておくべきだと判断したのだ。

 

 が、今もなお全身で感じている激痛に関して、フォルセは一言も告げなかった。こちらは教えることではない、自分が耐えればいいと、当然のように決めこんでいる。だからこそ、見え見えの悲哀を浮かべているのだ――法術を使えぬことだけが、唯一の問題だと言うように。

 

 

 思惑通り――フォルセが他にも問題事を抱えているなどとは露ほども思わずに、ミレイは大きな眼をうるりと潤ませた。

 

 

「ウソ……聖職者サマ、法術使えなくなっちゃったの? そうよね、あんなに凄いの受けて平気な筈ないわよね。ゴメンナサイ。あたし、全然気付かなかった……」

 

「貴女が気に病むことではありません。……覚悟の上で、あの禁呪を受け止めたのですから」

 

 

 死ぬ覚悟であって、リージャを失い生き延びる覚悟ではなかったのだが。

 

 

「……わかった。聖職者サマが言うなら、もう気にしない。でもその分、あたし頑張るから! 入信以外なら何でも言ってちょうだい!」

 

「にゅ、……本当に異端症なのですね」

 

「そうよ? む……なによ、怒ってるの?」

 

「怒ってはいませんが……その……」

 

 

 言い淀むフォルセを、ミレイは一転不機嫌を顕にした顔で睨む。

 

 

「異端の何が悪いのよ! イイ人だって沢山いるのよ? えーっと、えーと……」

 

「違います……ただ、異端と告げるのには相当な勇気があっただろうと思いまして。

 私を想って、あの場に留まろうとしたのでしょう?」

 

「えっ? う、うん……だって、助けられてばかりだったし。せっかくの〈神の愛し子の剣〉だし……」

 

 

 感情豊かな娘だな、とフォルセはもじもじ照れ始めたミレイを微笑ましく思う。同時に、そうまでして〈神の愛し子の剣〉――元を辿ればレムの黙示録にこだわり、従う理由は何なのかと疑問を覚えた。

 

 

「貴女は……何故、レムの黙示録を?」

 

「! それ、じ、尋問!?」

 

「……夜も遅いですし、何を願っているのかだけお教えください」

 

 

 豊かな感情を諌めるのはいささか面倒だと、フォルセは笑みの裡で思っている。

 

 

「あたしの願いは……“皆を救うこと”よ」

 

「みんな?」

 

「あたしの家族。仲間。あたしの大切なヒトたち。皆を救うため、あたしはレムの黙示録を持ってやって来たの。

 ……ねぇ、もういいでしょ? まずはこれからどうするか考えましょうよ」

 

「……、そうですね。ありがとうミレイ。それでは……」

 

 

 じっと見定めるような目つきに怯えたのか、ミレイは半ば無理やり話を断ち切った。それに気付き、フォルセは慌てて笑みを浮かべる。

 

 

「先程も申し上げた通り、夜明けを待って行動したい。野宿、ということになりますが……宜しいですか?」

 

 

 ミレイの旅経験がどの程度なのか知らないため、フォルセは気遣うように窺った。

 

 

「野宿かぁ……野宿、はっ」

 

「ん?」

 

「な、なんでもない! ええっと、野宿よね……二人っきりで眠るのよね……そうねぇ……」

 

 

 ミレイは頬をサッと染めた。野宿するのだと改めて告げられ、急に気恥ずかしくなったようだ。上目使いで視線を返し、次いで振り払うようにニカッと笑う。

 

 

「へっちゃらよ! ……って言いたいところだけど、実は暗いし肌寒いしちょっと怖い。野宿は良いけど焚き火とか欲しいかも?」

 

「そうですね……少し風も出てますし、木々も近い。周りに燃え移るかもしれません。ランタンなら何かあっても対応できますので、そちらを用意しますね」

 

「ランタン?」

 

「テントの中だと、結構暖かくなるんですよ。周囲の火のマナを使う魔術道具なので、扱いも簡単ですし」

 

「簡単? なら、あたし点けてみたい!」

 

「ふふ……、少々お待ちを」

 

 

 興味津々なミレイに苦笑し、フォルセは腰の経本を手にした。

 

 開いた頁から青い文字列が螺旋状に浮き出で、収束する。カシャンと音をたてて、ランタンがひとつ現れた。使い方を教えながら渡すその手は細かに震えていたのだが――受け取ったミレイも、どころか張本人たるフォルセですらも、それに気付かなかった。

 

 

「……、どうぞ。私は他のものを用意しますので、点いたら教えてください」

 

「りょーかい! えっとー……まずは自分のマナで、中の魔法陣を起動させる。小さな火が点いたら、横のハンドルを回して調整……」

 

 

 フォルセに教えられた通りの方法を復唱しながら、ミレイはランタンを弄り始めた。瞳を輝かせて点けるその姿は、まるで初めて外に出た幼子のようである。

 

 ミレイを尻目に、フォルセはテントや食材を探して経本を捲っていた。中身の確認はグラツィオで受け取った際に一通り行っていたが、まさかこんなにも早く使うことになるとは思ってもみなかったと、脳裏で静かに苦笑する。

 

 

 暫く経つと、わーお、という驚嘆と共に、橙の灯が森を照らし始めた。高くそびえる幹が夜闇に淡く浮き出で、木々の高さ、森の広さを知らしめる。

 

 己の調整一つで加減の変わる火をウキウキと見つめ、ミレイは元気よくフォルセを呼んだ。

 

 

「聖職者サマ! ランタン点い……」

 

 

 ――ドサッ!

 呼び声は、経本が落ちた音で遮られた。ミレイがポカンと口を開けるその先で、持ち主である神父は、何が起きたかわからない様子で己の手を見つめている。

 

 

「……、聖職者サマ?」

 

「…………? ああ、すみません、手が滑りました……」

 

 

 ミレイに呼ばれ、フォルセはハッと我に返った。珍しく取り繕うような笑みを浮かべ、地面に落とした経本を拾う。

 

 

「経本が落ちるような音じゃなかったけど……それより、ランタン点いたわよ! もっとあったかくした方がいいかし、」

 

「うっ……!?」

 

 

 フォルセは素早く経本を拾い、近付いてきたミレイから逃げるようにバッと後退りした。背を木の幹にドンと打ちつけ、硬い表情でミレイを――というより、その手に持たれたランタンを凝視する。

 

 

「……、……、聖職者サマ?」

 

 

 ミレイは再度、フォルセを呼んだ。心配を通り越して不審を滲ませる声色で、当然表情にもそんな心境が浮かんでいる。仕方ない。折角点けたランタンを見せただけで、何故か持ち主が尻尾を踏まれた猫のように逃げてしまったのだから。

 

 当のフォルセも、自身の行動に深い困惑を浮かべていた。視線はずっとランタンに向いている。だが慌てて後退った理由にはてんで思い当たる節がない。

 

 

(なんだ、いきなり……ランタンが点いた途端、全身が浮ついたような、妙な違和感に襲われた。いや、今もおかしい。明らかにおかしい。ランタンというよりは、寧ろ……)

 

 

 フォルセの視線が、ランタンの中身に向かった。

 

 

「うぅうううう……!! もう、もうもうっ、聖職者サマ! あたしを忘れないでちょうだい!!」

 

「えっ! あ……あう、すみません」

 

 

 耐え切れず怒ったミレイに、フォルセはビクリと肩を揺らした。笑みを失敗しながら経本を抱き締め、視線を左右に彷徨わせる。

 

 

「火の光と、月光が重なって、少し驚いてしまいました。ええ、そうです、眩しかっただけです、問題ないです……」

 

「ホントに? なんだか、聖職者サマらしくない逃げっぷりだったけど」

 

「……私とて、驚くことや怖いことの一つや二つ、ありますよ」

 

 

 言いながら、フォルセは瞼を震わせた。微細なその動きはミレイに気づかれることなく収まったが、当人の心中は荒れる一方だった。

 

 

(……まさか。いやそんな筈はない)

 

 

 ふと思い当たった“奇行の理由”に、真っ向から拒絶を示す。

 

 

(女神の従僕に相応しくあるため、僕はとうに乗り越えている筈だ……)

 

 

 だから失せてくれと――フォルセは内心に渦巻く動揺を冷たく、必死に振り払った。

 

 

「……火の大きさは、それで結構です。あとは貴女にお任せします」

 

 

 意を決して――そんな心構えが必要であることにも苛立ちつつ――フォルセは微笑み、頬を膨らませているミレイに視線を向けた。

 

 火の橙と真白の光が混ざり、森を形作る木々が映える――

 

 

「っ……? ミレイ」

 

「なぁに?」

 

「……レムの黙示録が」

 

 

 えっ、とミレイは声をあげ、フォルセの指差す先を見下ろした。彼女が腰に提げていた白い本、レムの黙示録が眩い光を放って輝いている。

 

 

「なっ、なに!? やっだ全然気付かなかった! もしかして、また何か魔物が……」

 

 

 グラツィオに現れた核の魔物のことを言っているのだろう。ミレイは少しだけ怯えながらもランタンを置き、黙示録を取り、光に目を細めながら頁を開いた。

 

 グラツィオでミレイが語った予言めいた文章以外、何一つ書かれていなかった頁に、ヴィーグリック言語の文が新たに書き記されていく。あわわ、とミレイが狼狽えている間にそれは書き終わり、光は次第に収束し、消えていった。

 

 

「……なにか、変化はありましたか」

 

 

 地面に置かれたランタンを惑いながらも慎重に拾い、フォルセは固まるミレイに問いかけた。

 

 ギギギ、と錆びれた歯車のように首を動かしたミレイは、同じような動きで黙示録を持ち直し、フォルセに見せた。

 

 

「文章が、増えた。でもあたし、ヴィーグリック言語読めないからわからない……」

 

「読めない? 貴女が最初に口にしたあの文章は、ヴィーグリック言語で書かれていたのですよ?」

 

 

 訝しげに言ったフォルセに、ミレイはあう、と声をあげた。困惑が多分に含まれた声を二度三度と溢し、動揺を大いに表す。

 

 

「あ、あー、えーっと、それはね……最初から、何て書いてあったかわかったの。見た瞬間、これはこういう意味の文なんだって、心から思ったのよ」

 

「……つまり、読んだわけではないと? 確かにヴィーグリック言語の解読は、フラン=ヴェルニカ教団の者ですら難しい。ですから、貴女がアレを読めたことに驚いてはいました」

 

「ふ、ふーん……きっと、あたしが黙示録の正当な所有者だから読めたのね。でも今回は読めないみたい。えへへ、ザンネーン……」

 

 

 どう足掻いても不審を買うだろう顔を明後日へ向け、ミレイは引きつった笑みで頬を揺らした。

 

 

「……わかりました、私が読みます。御貸しください」

 

 

 それ以上突っ込みはせず、フォルセは自然な動作で手にしたランタンとレムの黙示録を交換した。ホッとしつつも黙示録に目を向け、刻まれた文章を解読する。

 

 

「……、……これは」

 

「なになに、何て書いてあるの?」

 

 

 再び持たされたランタンをカシャンカシャンと鳴らし、ミレイは興奮ぎみにフォルセと黙示録を覗き込んだ。

 

 フォルセは黙示録を見つめたまま、解読した文を読み上げる。

 

 

「『此処は女神が創りし試練の場。名を夢と現の狭間たるゲイグスと称す。今宵のゲイグスは病み続き、奈落の日はいつまでも昇らない』」

 

 

 フォルセの視線が僅かに下がる。

 

 

「『子の叫びに耳を傾けよ。汝が剣を抜くために』」

 

 

 読み終わった。パタン、とレムの黙示録を閉じる。フォルセはそれ以上何も言わず、動かず、読み上げた文の意味を考える。

 

 

「“夢と現の狭間”って、あの核の魔物も言ってたわね。それの名が“ゲイグス”……ええっと、この森の名前? それとも、土地かしら」

 

「わかりません。聞いたことのない名称なので、もっと違うものの名なのかも……。それより、“病み続き”……“奈落の日は昇らない”……」

 

 

 ぶつぶつ呟きながら、フォルセはふと空を見上げた。

 

 木々の間から見える夜空には月が浮かんでいる。雲が流れ、確かに動いているのだが――

 

 

「前半部分は、夜が明けない、と言いたいのかもしれません。言葉通りに受け取れば、ですが……」

 

「明けない? えっ、じゃあずっと夜ってこと!? 朝来ないってこと!?」

 

「教団の設立当初に書かれたとされる書物に、これと似た文章が記されているんです。

 ――二千年前に女神フレイヤと勇者が治めた争乱を『明けぬ夜』、または『治らぬ病』と呼び、そして荒廃の続いた長い年月を『日はアビスに呑まれていた』……と」

 

「つ、つまり……この黙示録の方の意味は?」

 

「『今夜のゲイグスは明けぬ夜がずうっと続きますよ!』……という意味かと」

 

「…………、…………いっ」

 

「いっ?」

 

 

 少女の愛らしくあるべき顔が、酷いことになった。

 

 

「……ぃいやあああっ!! ジョーダンじゃないわよぉおおおおおっっ!!!」

 

「落ち着いてください。……周りの魔物が起きますよ」

 

「だって大変じゃない! 重要事項じゃない! このまま森を彷徨い続けるかもしれないじゃないぃいいいっ!!」

 

「まあそうですが。み、見知らぬ土地に来ても落ち着いていたのにどうして……」

 

「それとこれとは話が別よ! ずっと、ずーっと暗いってことは……!」

 

「わ?」

 

「オバケとか出るかもっ! いやぁあああ!!」

 

 

 叫びまくるミレイに、フォルセはつい生温い視線を向けた。が、オバケはともかく、一応気持ちだけなら彼女と同じだった。教団が保管する書物を元に読み解いたとはいえ、フォルセ自身、己の考えを信用できていない。

 

 夜明けが来ないなど、俄かには信じられないことだ。だが、もしそれが本当のことであるならば、これから始めようとしている野宿は何の意味も成さないことになる。訪れぬ朝を待って永遠に森住まいなど――想像するだけで、身悶えしそうである。

 

 

「ぜぇ、ぜぇ、げほごほ……」

 

「……落ち着きましたか?」

 

「はぁ……ど、ドンとウォーリアぁ……」

 

 

 ぐにゃりとへこたれるミレイの姿に、フォルセは苦笑を隠しきれなかった。気を引き締めねばならないのに、同行者がこの有り様では否が応でも和まされてしまう。

 

 ミレイの騒ぎように比べれば、言語のちょっとした狂いなど取るに足らないものだ。色んな意味で目が離せない。なんて面倒な子だろうか。

 

 

「さて、どうしましょうか。私の解釈が間違っていると信じて野宿するか。それとも夜は明けぬと覚悟して先へ進むか……」

 

「せ、選択肢がその二つなら……あたし、先に進むべきだと思う」

 

 

 おや、とフォルセは片眉を跳ねさせた。感情豊かに明けぬ夜を怖がっていた少女は、存外しっかりとした芯を持っているようだった。

 

 

(いや、彼女が異端症である時点で……芯の強さは知れたことか。神への信心もないのによく……)

 

 

 進むか、それとも進まぬか。ただそれだけの問いだったが、フォルセが感心するほどには、ミレイの表情は強く真っ直ぐなものだった。

 

 盛大な怯えに負けぬ芯、心の支え――ミレイにとってのそれは一体何であるのか、続く言葉で再び知れることとなる。

 

 

「レムの黙示録に刻まれたんだから、きっとこれも〈神の愛し子の剣〉のための言葉なのよ。だから、〈神の愛し子の剣〉である聖職者サマが言うならその通りだと思うし、このまま出口を目指して進んだ方が良いハズ!」

 

「……私が黙示録に読まれた存在だからこそ、その解釈も正しいに違いないと?」

 

「そういうこと!」

 

 

 ミレイの迷いない瞳を見て、フォルセは納得した。――彼女の言い分にではなく、態度の変わりようにである。

 

 グラツィオで声をかけた時のミレイは、まさに警戒心の塊のようであった。短い間に色々あった。助けもした。情けない姿を見せもした。が、それだけで異端症の警戒が解けるだなどと、神父であるフォルセは思わない。

 

 

(僕のことを黙示録に読まれた〈神の愛し子の剣〉だと信じているのが、警戒を解いた一番の理由なんだろうな。自分がそんな大層なモノだなんて思ってないけれど……行動を共にする以上、警戒されているよりかはずっと良い。

 ……どうであれ、迷い子に応えるのは義務だ)

 

 

 信頼されている分だけプレッシャーを感じるのは、聖職者ゆえの性なのだろうか。

 

 

(それに……異端でありながら願いのため進むこの娘に、僕は……)

 

 

 双肩に乗る信頼と痛みの重みを流しつつ、フォルセはにっこり笑う。

 

 

「わかりました。では充分に注意して、先に進んでみましょう。

 文章後半……『子の叫びに耳を傾けよ。汝が剣を抜くために』の意味は、まだわかりませんが……」

 

「大丈夫よ。あたしだって、よくわかんないままグラツィオに行ったけど、こうしてちゃんと聖職者サマに会えたもの。だからきっと、進んでみたらいつかわかるわ!」

 

「そうだったんですか。良かったですね。……本当に」

 

 

 夜空の月が、丁度よく雲で隠れた。再び顔を出されるその前に、フォルセは滲んだ呆れをさっさと隠す。

 

 傍らで過ぎ去った失笑に気付かぬまま、ミレイは手に持つランタンをグッと掲げた。

 

 

「善は急げ、朝が来ないならこっちから出向くまでよ!

 さあ聖職者サマ、さっき言ってた荷馬車が通ったっていう道に、早いとこ行ってみ……」

 

 

 ――ぐるるるる。

 

 

「…………」

 

 

 響き渡った腹の音が、昂った鋭気に水をぶっかけた。

 

 フォルセは折角直した微笑を崩し、眼を丸くする。

 

 

「……、う。う。……うっ。ううううう……!」

 

 

 拳を上げたまま、ミレイは全身から湯気が出そうなほどに熱し、震え始めた。ぐるるるる。追撃がかかる。ぐきゅるるる、るるる。耐えきれず、ランタンをガシャンと落とした。

 

 

「……、今後のことを考えて、やはり少し休憩してから進みましょうか」

 

「…………」

 

「サンドウィッチくらいなら、すぐに御用意できますよ? グラツィオで作られた特製のパンを使いましょう。食べられないものがありましたらお教えください」

 

「……ハイ、オネガイシマス…………」

 

 

 ミレイは消え入りそうな声で返事をした。羞恥を払うこともできぬまま、ランタンを弱々しく拾い、フラフラと近くの木に近寄って蹲り、うぉああああ、と謎の呻き声を発し始める。

 

 

(これ以上呻く前に、早く作ってあげねばならないな。……下手したら、蒸発して消えてしまいそうだ)

 

 

 今度こそ隠せなかった呆れと笑いの混ざった顔で――身体の痛みで声無く呻き、フォルセは少女のため、休憩の用意をし始めるのだった。

 

 

 




2015/05/25:完成
2016/11/13:加筆修正
2016/12/01:ハーメルン引越し


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Chapter10 火はいつ何時昇るのか

 

 相も変わらぬ夜のもと、森を吹く風が少しずつ冷えていく。

 

 遠くで(ふくろう)がホウホウ鳴いている――これからもっと寒くなる、動くか寝るかはっきりしろ、そんな風にでも言いたげだ。

 

 

「…………、思ってた以上に面倒臭いことになってた」

 

 

 先程まで草木を掻き分けていた赤毛の男は今、森を続く道を全力で歩いていた。背にどんよりと怠惰な空気を纏い、しかしやらねばならぬことがあると自覚しているため、スタスタスタスタと懸命に急ぐ。

 

 予定外のあれやこれやが、男の頭をキリキリ悩ませていた。誰かが褒めてやれば少しは浮上しそうなものだが、残念ながら周囲の魔物や動物たちは、みんなグースカ狸寝入り中である。

 

 

「“あいつ”が黙示録を手に入れてこっちに来たんだと思ってたが……まさか“異端”が所持者になってるとはな。女神の試練に異端者が関わるとか……面倒臭い。絶対面倒臭い。“あいつ”だけで良いってのに、はぁ……」

 

 

 男がぶつぶつ文句を言いながら進んで、数分後。道が二手に分かれているところへ辿り着いた。

 

 男の歩いてきた道も含めて三方向に道は分かれ、誘導の為、交差地点に木製の看板が立っている。

 

 

「えーとなになに……『あっちもこっちもそっちも森。出口はあっち。ファイト!』…………、あ゛?」

 

 

 看板を、書いてある通り情緒的に読んで、男は頬をひくりと跳ねさせた。

 

 

「……いやいらねーだろ。誰だこんな無駄な立て看板置いたの」

 

 

 米神に青筋をたてて、男は看板に近付いた。力任せにズボッと引き抜く。相応に重量があるだろうそれを軽々持ち上げ、棒部分の端と端を握る。

 

 

「まあ丁度いいや。せーの、リサイクルっ……とぉ!」

 

 

 ――ブオンッ!

 掛け声と共に空気が鳴いた。男の手によって、看板が勢いよく回転させられたのだ。

 

 

「ふっ……カンペキだ」

 

 

 男は口角を上げ、手に持つ“それ”を満足げに見下ろした。

 

 看板はいつの間にか、男がつい先程破壊したあの木製の杖へと変じていた。看板の表示部分が折れたわけではない。どこをどう見ても、職人の手で一から創られただろう立派な“杖”である。

 

 看板と比べて数倍軽くなった杖をぎゅう、と抱き締めて、男は緩んだ唇に力を入れる。

 

 

「杖ひとつ手に入れるのにだいぶ時間食った。でもこれで、やっとエリュシオンまで飛べる。やっと“あいつ”に会える! 当分森には入らずに済む、かも! 本当に長かった……!」

 

 

 ああでもこの後“異端”にも出くわすんだよなぁ面倒臭い! 感極まりながらも、愚痴はしっかり溢す。

 

 

 男の目的は近道することだった。が、近道には杖が必要だった。杖は男が怒り任せに破壊していた。だから男は、杖を探して森を全力疾歩していたのである。

 

 そして今、彼はようやっと杖を手に入れた。感動もひとしおであった。苦労が大きければ大きいほど、達成の喜びは五臓六腑に満ちるのだ!

 

 が、その必要不可欠だった杖を元は誰がどうしたのかを考えれば――全ては、男の自業自得である。

 

 

「…………おふざけが過ぎたな。さっさと行くか……」

 

 

 昇揚した己をさらりと抑え、男は気構えを正した。先ほど得た杖を掲げ、黄金の瞳を静かに閉じる。――たったそれだけの動きや仕草が、少しばかり抜けていそうな男の本性と、底知れぬ力を滲ませる。

 

 

「自由を求めしゲイグスの地へ、女神が試練の審判者ハーヴェスタが命ずる……」

 

 

 言の葉と共に溢れ出た力が、周囲の気を否が応にも張り詰めさせる。風は止み、夜鳥は黙り、夜は僅かに明けへと進む。

 

 

「恵み、歴史、想い、天災。走者に抱かれし我乞うは、」

 

 

 男の周囲がグニャリと歪み、

 

 

「【ひとひと落ちひと落ちひと落ち落ちひと】」

 

 

 ――一瞬にして、弾けた。

 

 男が命じた通り、気味悪くうねる空間はブワリと広がり、彼の全身を呑み込み、そして消えた。

 

 

 男は唐突に、いなくなった。

 

 

 

 夜風が戻り、(ふくろう)がホウホウ鳴き始める。夜闇に浮かぶ赤毛は何処にもいない。歪んだ空間も見当たらない。男がいたのは事実。消えたのも事実。されどそれを騒ぐモノはおらず。もはや真実かどうかもわからず。それを不安に思うモノは此処にはいない。

 

 木々は相も変わらずざわざわ鳴り響き、夜は一向に帰る気配を見せない。ヒト一人が瞬く間に消えてしまったその事実、驚かざるを得ない筈の出来事を――広大な森はちらりと見ただけで、さほど気に留めはしなかった。

 

 

 

***

 

 

 ――弾切れだ。

 三度目の引き金が虚しく鳴ったのを聞いて、フォルセは左手に持った自動拳銃を手放した。拳銃は地に落ちることなく赤きヴィーグリック言語となり、フォルセの経本へと吸い込まれる。

 

 銀で彩られたその銃は、フォルセが持つもう一つの得物だ。彼のリージャ総量に応じ、連続して気弾を放つことができる――細剣同様、ヴェルニカ騎士にのみ与えられる特殊な武器である。

 

 正確に言えば弾切れではない。リージャさえあれば、弾丸は無数に放つことができるのだから。が、連続で発射できる弾数は使い手――フォルセのリージャ総量に準ずるため、現在の彼では連続で二発程度が精一杯だ。そんな己の情けない状態を、フォルセは無感情に“弾切れ”と表したのだった――。

 

 

 

「ミレイ、下がって」

 

「ふへ?」

 

 

 ミレイの持つランタンの光が、夜の森を淡く照らす。途切れること無く続く長い道、その途中で戦闘は始まった。

 

 膨れ上がる殺意――それに気付いたフォルセの撃った弾丸は、木々の間から飛びかかってきた魔物共に当たった。

 

 狙ったのは二匹の魔狼(ウルフ)。銃弾の一発は一匹の脳天を貫き見事絶命させたが、もう一匹には僅差で避けられる。

 

 

(……参ったな。この重さ、早く慣れないと)

 

 

 道の真ん中で自省しながら、フォルセは迫り来る魔狼へ向けて駆け出し、勢いのまま剣を振り抜いた。小さく舌を打つ。身体が重い。そして痛い。踏み込む毎に、一撃振るうその度に、己の知る感覚とのズレが顕著に現れる。

 

 煩わしい、いちいち軋むな――内心の苛立ちを抑え込み、神父としてあるべき慈悲を携えて、フォルセは何度目かの斬りつけで魔狼の命を摘み取った。

 

 

 次いで、新たに二匹の魔狼が駆けてきた。更にその背後には、鋭いくちばしを持つ巨鳥ガルーダも飛んでいる。

 

 眼を動かし、状況を把握する。剣をしまい、再び拳銃を取り出し、フォルセは群れを見据えてしゃがみこんだ。

 

 

「ま、魔物!? え、ええっと……くらえっ、アサシネイト!」

 

 

 ミレイは慌てふためきつつもナイフを飛ばした。伏せたフォルセの頭上を通り、魔狼をも抜け、ガルーダの片翼を刺し貫く。

 

 鳥特有の甲高い鳴き声を耳にフォルセは銃を撃ち、動き回る二匹の魔狼の脳天を飛ばした。

 

 

「さらにっ、ファングドライブ!!」

 

 

 風のマナを周囲より集め、ナイフに乗せて前方に飛ばす。

 

 ミレイの狙い通り、ナイフは初手以上のスピードを以て空を飛び、ガルーダの胸部に深々と突き刺さった。旋風が巻き上がり、両翼と胴体を無残に引き裂いていく。魔狼同様マナに還ったガルーダを見つめ、ミレイはやった! と歓喜の声をあげた。

 

 

(いや、まだいる……)

 

 

 撃ち終えた銃をしまい、フォルセは両足をばねのように動かし跳んだ。腰を捻り、道に沿って並ぶ森林側へと身体を向ける。そうして立ち上がった勢いに身を任せ、木の陰から飛び出してきた二羽目のガルーダを斬りつけた。

 

 

「うげっ、ま、まだいたの!?」

 

「どうやら複数の群れに遭遇したようですね。……範囲重視、前方へ魔術を!」

 

「うお、りょーかい! ……あたしのとっておき、初披露よ!」

 

 

 ミレイの周囲に濃厚なマナが集い始める。返す刃でガルーダを討ち、フォルセは大きくバックステップした。直後、彼のいた場所に新たな魔狼が襲い掛かり、しかしその前足は無人の地面を抉るに止まる。

 

 

界往波(かいおうは)!」

 

 

 剣を振って衝撃波を放ち、襲い掛かってきた魔狼を吹き飛ばす。大木の幹に叩きつけられたその姿を見送りながら、フォルセは一度体勢を整え直した。

 

 ――魔物の気配があと二つ。猪型の魔物サイノッサスが二匹、草陰から現れた。

 

 一匹はその場に留まり、もう一匹が勢いよく走り出した。ずんぐりとした見た目に似合わぬ強力な突進だ。鼻の両脇から伸びた牙が、フォルセの身体を貫かんと向かってくる。

 

 ミレイの術まであと少し。フォルセは剣を引き、下段に構え、己のリージャを集わせて、

 

 

(……っ!? しまった……!)

 

 

 ――焦りの表情を浮かべて斬り上げた。ぶれた体勢のまま放った攻撃が、サイノッサスの牙によって容易く弾かれる。

 

 うっかり、と言えばそれまでだが戦闘においては致命的――己のリージャが応えぬことを完全に忘れ、フォルセは法術を交えた剣技を出そうとしてしまった。

 

 剣と拳銃の弾丸は出る。障壁も薄いがどうにか使える。が、それ以上の法術、法剣といった、少量のリージャを消費する術技は未だ使えない。頭ではわかっているのに、身に染み付いた経験が邪魔をする。――フォルセの苛立ちが、冷えた背筋に反して胸中を沸騰させる。

 

 狼狽えている暇はない。サイノッサスは、もう一匹いる。

 

 剣を弾いた牙の持ち主は後退し、もう片方が同様に牙を剥いて突進してきた。狙いは無防備な横腹――避けられぬとわかってしまう体勢のまま、フォルセは眼だけを端まで動かす。

 

 

「――ぐ、うっ!!」

 

 

 身体を無理に捻った結果、横ではなく前から突進を受けた。牙は避けきったものの――腹の鈍痛に呻きながら吹っ飛ばされ、それでも意地でどうにか着地する。

 

 

「猛火激烈、天まで届け……!」

 

 

 ミレイの詠唱が漸く完了する。対象は二匹の猪。これで終わるか――否、フォルセの視界の隅から、倒しきれなかった魔狼が顔を出した。ミレイの術の範囲外だ。自身の腹を押さえながらそれを知り、フォルセは落としかけた剣を持ち直し、地を蹴った。

 

 

「焼き尽くせ、フレイムピラー!!」

 

 

 サイノッサス共を囲うように、地面から幾本もの巨大な火柱が勢いよく立ち昇った。『マナの扱いは得意』というミレイの言葉を体現するように、火は周囲の木々に燃え移ることなく、二つの巨体だけを容赦なく焼き焦がしていく。

 

 

「――――っ、く……!」

 

 

 攻撃態勢に入っていたフォルセがひゅっ、と息を呑んだ。眼前には魔狼、十数歩先には己に無害な炎の柱――心底で冷たい“何か”が顔を出し、血の巡りに乗ってフォルセの神経を一斉に撫で上げる。

 

 全身をフッと投げ出される感覚が、フォルセを襲う――

 

 

(不調の原因がひとつ、認めるしかないここまで堕ちたと……ああ本当に、煩わしいッ!)

 

 

 それこそ炎のような怒りで殺気立ち、フォルセは咄嗟に刃先をずらした。真っ直ぐ突き出された剣が魔狼の犬歯を砕き、その喉奥を刺し貫く。――剣が横に払われる。肉の内側への容赦ない攻撃によって魔狼は絶命し、炎柱の跡に残ったものどもと同じように、マナの粒子となって還っていった。

 

 

 敵意は消え、またやってくる気配ももはやない。数個の群れと遭遇したその戦闘は、それで漸く終わりを告げた。

 

 

 

「――、はぁっ……はっ……」

 

 

 フォルセの右手から、剣がするりと落ちた。刃が地に着くその前に、赤きヴィーグリック言語となって経本にしまわれる。剣を収めるのは、本来なら周囲を確認してから行うものだが――今の彼に、そんな余裕は全く無い。

 

 烈火のごとき怒りは消え、代わりに顔色は青白く、表情と言ったものを一切削げ落としている。

 

 動悸を抑えようと努める。詰めていた息を吐いては吸い、吸っては吐いて、短い間隔で呼吸めいたものをする。

 

 

「……っ、う、う……」

 

 

 喉奥を震わせて呻き、フォルセは口許を両手で覆った。頭を僅かに下げ、苦しげにピクン、ピクンと肩を揺らす。

 

 

「ふうー……あ、あんなにいっぺんに来るなんてヒキョーよ! こっちは忙しいんだからほっといてちょうだい!

 ……で、どーしたの、聖職者サマー?」

 

 

 ミレイが、口の割には足取り軽く近寄ってきた。背を向けているためか、フォルセの現状には気付いていない。

 

 後方支援に徹していたとはいえ、結構な疲労を感じているだろう。が、そんな素振りは微塵も見せず、ミレイは御機嫌そうに笑っている。それほど信頼し、気を許しているのだ――〈神の愛し子の剣〉であるフォルセに対して。

 

 

(ああ、応えないと。信頼されているのだから、応えないと……)

 

 

 込み上げるものを無理に飲み込み、焼けた喉を押さえつける。どんな姿が“己らしい”か考えて、表情筋を動かして、フォルセはもう一度だけ深く呼吸した。

 

 

 

***

 

 

 先程の戦闘は大変だった。魔物があんなに現れるとは思ってもみなかった。

 

 だが、ミレイは不安など感じていなかった――心の底から信頼しているヒトが、共に戦ってくれていたからである。現にその信頼通り、襲ってくる魔物の殆どはそのヒトの剣によって討ち倒されていたし、ミレイ自身も彼の指示に従っていただけだった。先程だけではない。これまでに発生した戦闘は全て彼――フォルセに導かれるように、終えている。

 

 

『投げナイフを得意とするのですね、丁度いい。私が合わせますので、貴女は指示通りに、それ以外では御自身のペースで攻撃してください。

 ただし、近付かれた場合は距離を取ること。必ず……相手との間に私を挟んで対峙してくださいね』

 

 

 聞こえは悪いが、要は任せきりであった。ミレイはそれを嬉しいと思いこそすれ、悪いとは思わなかった。〈神の愛し子の剣〉の彼なら、何でも信じられる。導いてくれる、だって黙示録に読まれた〈神の愛し子の剣〉なのだから。

 

 そんな思考でここまでやって来た。

 

 だから先の戦闘後、フォルセが自分に背を向けたまま微動だにしなくとも、何も気に留めることは無かった。どうしたの、さあ先に進もう、出口はきっともうすぐよ。そんな想いを込めて声をかける。

 

 一息おいて、真白の背がくるりと回り、憂いを帯びた聖職者の顔が現れた。

 

 

「……懺悔し、祈っておりました。今、己が奪った命に対して」

 

 

 フォルセは祈りの形で手を組み、笑みを浮かべていた。が、少しだけ影があるようにも見える。きっとこちらを向くまではいかにも祈っています、といった表情だったのだろうと、ミレイは心の片隅で思う。

 

 

「祈り? ……さっきの敵に?」

 

 

 ミレイは浮かんだ疑問をそのまま口にした。別に命を尊ぶ行為が珍しいのではない――むしろフォルセが“何者”であるのかを考えれば、至極当然の行為と言えよう。

 

 今、ミレイが言いたいのは――“何故その祈りを今になって行うのか”である。

 

 

 

 目覚めた場所での休憩を終えた後のこと――二人は、深い森の中を続く道を歩いていた。フォルセが見たという、荷馬車が通っていった道である。

 

 石ころが転がる道とはいえ、自然そのままの木々の間を歩くよりかはだいぶ楽だった。加えて、車輪の跡が道案内のように続いていたため、何度か分かれ道に行き着いても正しいだろう道を進むことができている。

 

 それよりも問題だったのは、現れる魔物の多さだった。個々は大したことのない強さでも、頻度で攻められては疲労も募る。そういう意味では、道を通るのも大変ではあるのだが――迷ってしまっては元も子もないので、魔物が出ようとも道を辿らざるを得なかった。

 

 だが、途中で何度かの休憩を取ることはできていた。道から伸びていた幾つかの獣道が、そのままテントひとつ広げられそうな空間に繋がっていたのである。

 

 どうやら其処は、旅人が幾度も利用した場所のようだった。かすかに寝泊まりの跡が見え、同時に周囲の理性ある魔物の視線がジトッと感じられた。せっかく避けられている戦闘を増やすわけにはいかないと、二人はそれはもう静かに穏やかに休憩した。

 

 ――因みに。最初、目覚めた場所での休憩中のことだ。

 

 ミレイの腹の音を抑えるべく、フォルセは幾つかの野菜とベーコンを使ったサンドウィッチを作った。程よい塩味が売りの薄切りベーコンを、経本に入れた当時のままのみずみずしさを保つトマトやレタスで挟み込み、それをグラツィオ商店通りのパン屋で生まれた麦の香る逸品で更に挟む。他に味付けはしなかった。実は結構味の濃いベーコンを考えればそれだけで充分だと、フォルセは経験上知っていたからだ。

 

 謙遜と共に出された食事を前に、ミレイの口内にはこれでもかとばかりに唾液が溜まった。結果、彼女は蕩けそうな顔つきで、フォルセの四倍ほどの量をぺろりと平らげた。その外聞など知ったこっちゃない幸せそうな食べっぷりに、フォルセは嬉しい一方で思わず引いてしまったのだが――まあ、仕方あるまい。

 

 閑話休題。

 

 運にも恵まれ、けれど戦闘は多い。それでもなお問題もなく進み、二人の連携もそれなりに形となってきた――そんな時、あの複数の群れといっぺんに遭遇する、という厄介極まりない戦闘が起きたのだった。

 

 

 

 両の手の指を交互に組み、まるでそこが教会であるかのような佇まいでフォルセは祈る。何かに耐え、そして鎮めるような横顔だ。ミレイにとって、その姿はここに至るまでで初めて見るもの――だからこそ、“今更”という感が拭えない。

 

 

「そりゃあ数は多かったけどさ、ここに来るまでだって何度か戦ったじゃない。それとも、あたしが気付かなかっただけで、もしかして……戦闘の度に祈ってたの?」

 

「心の中では。こうして貴女の前で祈るのは……此度が初めてです」

 

「ふうん、さっきの戦いで何か特別なことでもあったの?

 ……っていうか、結局倒さなきゃいけない相手には変わりないんだから、いちいち祈っててもしょうがないと思うんだけど」

 

 

 ミレイにとっては当然の疑問だった。わざわざ現れて邪魔をしてきたのは向こうの方。自分達はただ身を守るために戦っただけなのだから、その都度心を砕いていては身がもたない――苦々しい表情で雄弁に語る。

 

 

「……私が彼らの命を摘み取ったのは、ひとえに彼らを“救ってやりたかった”からです。女神の御許で不浄を払い、そしていつかの世では愛し合える存在になりましょう、とね」

 

「それは、女神フレイヤの教え?」

 

「教えを噛み締め、尊び、広げた結果……とでも言いましょうか」

 

 

 女神の教えそのものではなく、あくまでも教えを自分なりに解釈したがゆえの行動だとフォルセは語る。が、その言い様や彼自身の立場を考えれば――フラン=ヴェルニカ教団では珍しくない、むしろ一般的な行動なのだと知れる。

 

 

「ですから、私……いえ、我ら女神に仕える者共は、たとえ守るためであっても、慈愛をもって奪う命と向き合わねばなりません。ですが……」

 

 

 手を組んだまま、フォルセは憂いを漏らすようにほう、と息を吐いた。

 

 

「情けないことに、先ほど少々己を見失ってしまいました。想いを伴わず、ただこの身が動くままに命を奪ってしまった……そのようなこと、決してあってはならないというのに」

 

 

 最後の最後で、動揺が慈愛を押し退けた。救うべき命は慈しみの乗らぬ剣によって惨く貫かれ、しかし他の者達と全く同じように星へと還っていった。

 

 死に様は一瞬、結果は他と変わらぬのかもしれない。だが、僅かでもあるべき姿を見失ったことを、フォルセは深く恥じていた――恥じなければ、ならなかった。

 

 愛を謳う女神に仕え、その教えを信じるからこそ、いつ何時たりとも慈愛を忘れてはならない。忘れ、本能のままに剣を振るっては――それこそ“魔物”と言われても仕方がない。そんな風にさえ、思っている。

 

 

 己を恥じ、奪った命へ懺悔と祈りを捧げる。それが当然と言いたげなフォルセの姿を――ミレイは理解できない、けれど理解しようと悩む、そんな複雑な表情で見つめた。心の有り様がそんなに重要なのか、いつもそんなので辛くはないのかと、“異端”と称する頭でぐるぐるぐるぐる悩みだす。

 

 

「……うう、駄目。やっぱりわからない」

 

 

 諦めきれぬ苦しさと、理解できない悔しさと、訳のわからぬ考えに染まらなかったかすかな喜びを混ぜた表情で、ミレイはポイと匙を投げた。が、できることなら理解したいのだ――己が信じる〈神の愛し子の剣〉であるフォルセと僅かでも意識を共有できていないという事実は、とても、とても恐ろしいことのように思えたから。

 

 

「だって命がかかってるのよ? 気を抜いたらこっちがやられちゃう。……相手のことなんて、考えてる余裕無いわよ」

 

「それではならないのですよ。……女神はいつだって、どこでだって我々を見ていらっしゃるのですから。

 ……ああ、いえ、すみません」

 

「え?」

 

 

 理解に苦しむミレイを慈悲に満ちた瞳で見遣り、フォルセは小さく笑った。

 

 

「これは、我々が戒めねばならぬこと。……貴女が気に病む必要はありませんよ」

 

 

 ――貴女は、貴女が信じるままにいきなさい。優しい優しい神父の顔が、そう告げた。

 

 

「……っ、っ!? なに、よ。それ……!」

 

 

 思いも寄らぬフォルセからの“肯定”に、ミレイは声を震わせた。荒んだ心を慰めるような、柔らかな神父の顔――しかしミレイにとって、それはどうしてだか透明な壁の向こう側にあるような、そんな気がしてならない。

 

 不快、心外、焦燥、苛立ち――あらゆる負の想いがない交ぜになっているミレイを、フォルセは表情ひとつ変えずに“見守っている”。その優しげな面さえも、今は彼女の不快感を煽るだけだ。わかっていながら、フォルセは微笑みを絶やさないようだった。

 

 

「女神とか、教えとか、あなたにとって大事なものなんでしょ? だったらなんでもっと、」

 

「貴女には、他に信じるものがあるのでしょう。ならば私から申し上げることはございません。

 ――“異端”なら“異端”のままで良いのです。悩む必要はない。影響される必要はない。私は教えを強要しない」

 

「っ…………」

 

「……、足を止めて申し訳ありませんでした。もう結構です、そろそろ行きましょう」

 

 

 柔らかく包むような微笑で断ち切り、フォルセは法衣をなびかせて歩きだした。

 

 

 前へ進んでいく立派な聖職者の背を、ミレイは苦々しく見つめる。

 

 

「……なによ。結局見捨てられるの? 期待なんてされないの? “あなた”なら、もしかしてって思ったのに……」

 

 

 抱きしめていた信頼を割り落とし、ミレイは胸中から指先までを失望で凍らせた。信仰を押しつけられずに済んで嬉しい筈、だのに手酷く突き放されたような不快感が募る。もっと言葉を尽くしてくれても良いのにと、引かれた境界線を忌々しく思う。

 

 

異端症(ヘレシス)相手には、歩み寄る気すら起きないのね。こっちがどんなに理解したくても、全部全部優しく尊重して、決して一緒にはなってくれないのね……!

 したい、されたいとか、そう思いたいだけなのに。……やっぱり、聖職者なんて、」

 

 

 ――“嫌い”と言えればどれほど楽か。彼が黙示録に関係しなければどれほど良かったことか。

 

 どれほど失意に落とされても、ミレイは自分の目的のため、レムの黙示録を――〈神の愛し子の剣〉として読まれたフォルセを、信用しなくてはならない。

 

 ミレイが抱く信用は、願いのために必要不可欠な鍵。義務と言ってもいいものだった。だからこそ、それを否定したくてもできない現状に苛立ち、それを気持ちよく実施させてくれないフォルセに対し、考えるより先に怒りを覚える。

 

 自分が何を口走っているのかもわかっていない。

 

 失望が、己の芯とぶつかり合う。その気持ち悪さと醜さに顔を歪ませて、ミレイは重い足取りで聖職者の背を追っていった。

 

 

 

 ――――

 

 

 ――

 

 

 

 後方にて光るランタンの灯は、視界を照らすにはやや遠い。それでも既に慣れた眼で夜の道を歩き、神父は疲労のこもった息を細く長く吐き出す。

 

 左手で、右の腕を掴む。どちらがどう震えているのかわからない、どんどんと酷くなっている。今すぐ剣を持てと言われたら、恐らくは抜いた瞬間どこかに吹っ飛ばしてしまうだろう。ただ握るだけの動作にすら自信を失うほど、彼の両腕は力無く震えている。

 

 僅かな打開策はあった。せめて戦う時だけでも現れなければ、もしかしたら耐えられるかもしれない。が、それを成すには同行している彼女の協力が必要不可欠だ。やはり無理だと神父は嘆息する。ただでさえリージャが使えぬと告げてしまっているのに、これ以上心配事を増やさせたくはない。

 

 後ろで歩いている同行者を気にすれば、結構な距離が開いてしまったことに気付いた。無意識のうちに、歩く速度が上がっていたようだ。はぐれてしまっては元も子もない。言うことを聞かぬ身体へ強く命令し、少しずつ歩みを遅くする。縮まる距離に、また腕の震えが強まった。腕だけではない。禁呪で痛む全身が、気を抜けば逃げ出してしまいそうなくらいの力で神父の意思に抵抗している。

 

 震える。震える。身体が、だなどとはもはや言えない。身体も、その中身の心までもが、震えて震えて仕方が無い。耐えられない。耐えなければ。乗り越えなければ。昔のように。越えなければ。――どうやって?

 

 ああ、と神父は思い出した。そうだ、自分は昔も震えていた。その時からだ、女神の愛を乞い願うようになったのは。願って、祈って、ようやく乗り越えた頃には、少しばかり愛を語れるだけの人間になっていた。自分が女神の愛に救われたから、今度は誰かが救われることを望むようになった。その結果がこれだ。後悔はしていない。けれどまた震え出すなんて考えてもみなかった。恨めしい。憎たらしい。煩わしい。腹立たしい。全て、己に向いている。

 

 リージャが無くなったから、このような情けない状態になってしまったのだろうか。わからない。けれど、だからと言って信仰心までも失ったとは思っていない。この身に宿るは女神の従僕としての心。導かれ、導いて、そうして女神の謳う愛の軌跡を紡いできたという確かな記憶。思い起こせば頬が緩み、禁呪の痛みすらもうっすらと揺らぐ。それほどの喜びを感じてきた。それほどの愛を繋げてきた。

 

 ならばどうするべきか。わかっている。己はただ、信仰心に従って歩むのみ。抱く意義のまま、女神の謳う愛を紡ぎ続けることこそが、己すらも救う道に違いない。

 

 だから、と言うわけではないが。救うべき、導くべき者がすぐ近くにいるのもまた現状。異端と称す彼女は、自分に信頼を寄せてくれている。大切にしなくてはならない。出来うる限り導いて、助けてあげなければならない。

 

 義務感が、震えを殺す――

 

 先程彼女へ告げた言葉は、そんな神父の想いからきたものだった。教えにより戒められるのは自分達だけ、異端は異端のままでいい。影響される必要は無い。自分は何も強要しない。だからそのままでいてほしい。そのまま、その芯を揺らがせることなく存在して欲しい。頑張る弱者でいてほしい。異端は、女神を信じぬ異端者は、その意思が正しく機能しているだけで、愛おしい奇跡と言えるのだから。

 

 背後で、ランタンの揺れる音が聞こえた。徐々に近付いてくるその音に神父が身体を強張らせていると、隣に彼女が現れ、そしてそのまま走り去っていった。何か言っている。出口、そう出口だ。道の先にて見えた外の光景に、彼女は耐えきれず向かっていったようだった。

 

 早く、と彼女が言っている。なんとなく硬い声色に思えるが、やはり疲れているのだろうか。なるべく負担をかけぬように動いていたつもりだったが、上手くいかない。情けない。負の感情に頭をやられそうになる。

 

 腹に力を入れ、神父は詰まっていた息を吐き出した。やはり、酷くなっている。擦れ違っただけで、あの程度の大きさのものが寄って来ただけで、身体は震え上がり、心の臓は壊れたように暴れ出す。

 

 応えなければ。信頼されているのだから、応えなければ。応えなければ、こたえ

 

 

 

 

 

 ああ駄目だ。やっぱり震える。

 

 昔のように、あの頃のように、フォルセ・ティティスは心の底から――火が怖い。

 

 

 




2015/06/22:完成
2016/12/06:加筆修正
2016/12/06:ハーメルン引越し


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Chapter11 震える我が身を食い破るのは

 

 まだ幼くて、まだ女神の愛に縋るしかなかった頃の僕。似たような境遇の子供達と共に、優しい父母達によって育てられた。

 

 産みの親である男女のことを、僕は殆ど知らない。けれど寂しいと思ったことはなかった。周りの子は皆、僕と同じだったから。育ててくれた大人は皆、とても優しかったから。

 

 

 唯一無二の女神を敬い、愛を繋ぐに相応しい人間を育てる場所。

 

 孤児院の彼ら――沢山の親と兄弟姉妹達が、僕にとっての家族だった。

 

 

 

 暖かな記憶が崩れる。

 

 燃え盛る火の中、轟々と音をたてて小さな教会が崩れ落ちていく。

 

 悲鳴が聞こえる。

 

 大人も子供も関係ない。誰もが迫り来る火に怯え、泣き叫び、どうにか外に出ようと扉を叩いている。ドンッドンッと拳の骨が折れかねない力で叩いて、叩いて、けれど扉は開かない。

 

 ステンドグラスが爆ぜるように割れる。出せ、出してくれ、と扉を叩いていた誰かは不意にいなくなり、代わりに血を怖れた女子供の絶叫が響く。――それもすぐ、崩れた天井の下? に消えていった。

 

 

 消えていく。

 命の火が消えていく。

 

 僕はただ震えていた。父母達の励ましがやがて我先にと吠える怒号となっても、兄弟姉妹の慟哭が煙によって少しずつしぼんで消えていっても、何もできず、震えていることしかできなかった。

 

 

 “おお……神よ……!”

 “開かない、ごほっ、誰か、誰かいないのか!?”

 “げほっ……げほぉっ……苦し、よぉ……”

 “だいじょうぶよ……きっと女神、様が……”

 

 

 助けを求めている。

 

 

 “死にたくない……死っ、退けぇっ!”

 “がァっ、熱い! 熱いぃいい!!”

 “いやだ! いや、ぎゃあっ!”

 “ぁあ……やめて、あぁあああああっ……!!”

 

 

 助けを得ようと足掻いている。

 

 

『ぅ……ふ、ぅ、うぅっ……!』

 

 

 僕はただ、震えているだけ。四方八方から迫り来る熱に惑い、今にも叫んでしまいそうな喉を痙攣させて、ただぶるぶると震えているだけ。

 

 

 燃え盛る火の中で、優しかった家族が次々に変わり果てていく。

 

 愛情も優しさも、全てを呑んで焼き尽くしていく。

 

 

『たすけてください……めがみさま』

 

 

 あのひから僕は変わった。

 

 

『みんな、ほんとうはやさしいから……おこらないで。みちびいて。こわがりなぼくを、たすけて……』

 

 

 怯えて惑い、ただひたすら祈り続けた。

 

 錯乱したまま炭と化した皆を受け入れてほしいと。

 頭の隅々にへばりついた火を越える力が欲しいと。

 

 偉大な女神に乞い願い続けた。

 

 

 ――――

 

 そうして少しずつ、愛を語れるようになっていった。

 

 女神の従僕に、近付いていった。

 

 

 もう火だって怖くない。

 もう願うだけじゃない。

 

 悲しみも恐怖も、全て女神のおかげで思い出になった。

 

 だから、皆にも女神の愛を。

 

 女神フレイヤの謳う愛の軌跡を。

 

 怖いものを皆で乗り越えて、一緒に、穏やかに、女神の御許へ往こう。

 

 

 

 ――そう思って、今まで生きてきたのだけれど。

 

 

 

***

 

 

 艶やかなる葉の屋根が、不意に途切れる。

 

 

(! 外、か……)

 

 

 がらりと変わった光景によって、フォルセは思考の底から浮上した。

 

 道は続くが森はここでおしまい、視界に現れたのは広大なる平原だった。森から続く道以外、短い草がどこまでも生え広がっている。道は途中から小高い丘を有し、日が昇っていたのなら、青々とした草原が視界の半分を埋め尽くしていたことだろう。

 

 見上げれば、月と星の煌めく夜天が相も変わらず続いていた。森から垣間見た光景と同じだ、少しくらい明けに近付いても良いのだが――やはりレムの黙示録が読んだ通り、夜はずっと明けないのだろうか。

 

 

(火が怖いと自覚したせいか。さっきから、昔のことばかりが思い浮かぶ。思い出になった筈なのに、つい昨日のことのように胸の奥がざわついて……)

 

 

 再発した火への恐怖。乗り越えた筈のそれが生まれたそもそもの原因。自身にとっての“トラウマ”であり“転機”である過去を、フォルセは思い返していた。

 

 

 フォルセが育った孤児院――ティティス孤児院。そこに住まう者達全てを巻き込んだ、とある火事。

 

 否。巻き込まれたのは孤児院の者だけではなかった。孤児院があった町そのものを焼き払い、老若男女問わず全てを炭にした、大規模な火災だった。

 

 町の名から、その火災はこう呼ばれている。

 

 “アルルーテンの業火”――フォルセはその唯一の、生存者だった。

 

 

(あの日、アルルーテンが火に包まれたあのひから……僕は始まった。

 どうして僕だけが助かったのかは未だにわからない。けれど、見聞きした全てに震えていたことだけは覚えてる。だからこそ……今の僕がある)

 

 

 幼き頃の辛かった記憶は、後に世話となるヴェルニカ騎士団やフラン=ヴェルニカ教団の人々、そして何より女神フレイヤの優しい教えのお蔭で、悲しいだけの思い出へと昇華した。

 

 そして、成長したフォルセは望んだ――女神フレイヤによって、自分と同じように誰かが救われることを。

 

 そのために、フォルセは女神の従僕として相応しくあるよう努力した。その努力もまた、フォルセのトラウマを安らかに昇華させ、よりいっそう彼自身の目指す理想に近付く糧となった。

 

 そんな風にフォルセは生きてきた。震えることがなくなって、それどころかそんな過去があった素振りすら見せなくなって――フォルセ自身、既に乗り越えられたものだと思っていた。

 

 

(ああまただ……また、呑まれていく皆の姿が……!)

 

 

 淡い思い出が再び辛い痛みとなって、フォルセの心身を苛んでいる。

 

 

 

「聖職者サマ」

 

 

 先に駆けていったミレイに呼ばれ、フォルセは意識を完全に切り替えた。――見ればランタン片手に、森から出て左側にあった看板の前から手招きしている。

 

 

(ああ、やけに明るいと思ったら……ランタンの火を大きくした、のか)

 

 

 重い足を動かし歩み寄れば、灯によって照らされた不満そうな顔が、看板をじいっと睨みつけていた。

 

 

「どうしましたか?」

 

「……」

 

 

 ミレイはちらり、とフォルセを見遣り、しかしすぐに看板へ視線を戻してしまった。何か言いたげに、唇をもごもごさせている。

 

 呼んでおいて何も言わない――実に不審な姿だ。が、特に何も突っ込まず、フォルセは静かに返答を待った。その間、僅か数秒ほど。結局ミレイは目の前の不満を解消することを優先したらしく、ゆっくりと口を開いた。

 

 

「……看板、読めない。何か書いてあるのはわかるんだけど」

 

 

 ミレイが指し示した方に、フォルセも視線をやる。彼女の言う通り、看板には何やら文字が刻まれていた。文字自体は大きいのだが、作られてだいぶ経っているらしく、掠れて読みづらくなっている。

 

 

「どうする? ……あっちとか、丘になってて結構見晴らし良さそうだし、読まずに進んでみる?」

 

「土地の情報は少しでも欲しいところですが……流石にこれを読むのは、ちょっと無理ですね」

 

「そっか……聖職者サマでも、無理か」

 

 

 ミレイの表情に、落胆の色がかすかに乗った。

 

 

(……期待されていたのかな)

 

 

 フォルセは少しだけ思考を巡らせ、自嘲を交えて苦く笑う。

 

 

「そうですね。……今は、無理です」

 

「今は?」

 

「禁呪を受ける前なら、ヴィグルテイン技術を応用してなんとかできたでしょう。ただ、マナやリージャの細かい操作も必要なので……今はできません」

 

 

 不甲斐なくて申し訳ない、とフォルセが笑えば、ミレイは顔をくしゃりと歪め、視線を逸らした。

 

 

「……ヴィグルテイン技術って、あたしのナイフにも使われてる……モノを分解して、本とかにしまっておく技術のことよね?」

 

「ええ」

 

「ふーん、どんな風にやるの? 看板読むのはいいからさ、やり方だけ教えてよ」

 

「少し、長くなりますよ」

 

「へっちゃらよ! どーんと喋っちゃって! ……知れることは、知っておきたいの」

 

 

 声色だけは、明るい。表情と違えていることに気付いていないのか、とフォルセは密かにミレイを窺ったが、やはり何も言わず、問いに答えることを優先した。

 

 左手を上げ、意識を集中し――澄んだ水でできたペンを生み出す。

 

 

「わっ! なに……水の、ペン?」

 

「ヴィグルテイン技術で使うものです。普段ならリージャを用いて作るのですが……今は、水のマナで代用しますね」

 

 

 驚いたミレイに微笑みかけ、フォルセは空中に何かを書く動作をした。

 

 

「ヴィグルテイン化する時、通常は対象の情報をヴィーグリック言語で書き表し、経本などの媒体に刻みます。……その際、マナを過剰に含ませることで、対象の情報を分断することができるのです」

 

「情報の分断……? それがさっき言ってた、今はできないっていう方法?」

 

「ええ。例えばこの看板なら……風と地のマナを絡めてヴィグルテイン化することで、“看板”と“書かれている文字”の情報に分けることができます。……マナと文字を置き換えた、ということですね」

 

 

 そこで一区切りし、フォルセは慣れた手つきでヴィーグリック言語を書き出した。水でできた文章が次々と空中に浮かぶ。その一部にフォルセが指で触れた瞬間――目の前の看板に刻まれた文字だけが、陽炎のように揺らめいた。

 

 

「マナと看板は、通常通りヴィグルテイン化されます。そして分断された文字情報は、マナとなって術者の体内に入り込む」

 

「文字がマナになって……入る? え、それ大丈夫なの? 痛くないの?」

 

「痛くはありませんが、危険ですよ」

 

「え」

 

「マナといっても、元は別の物質のもの。人体にとっては異物ですからね。そのままにしていれば、やがて肉体や精神は崩壊し……最後には、女神の御許へ」

 

 

 ――そのような理由で参っては、女神に顔向けできませんね。ふふ。

 

 さらりと言ってのけたフォルセの面を、ミレイは化け物を見るような目で凝視した。酷いな、とフォルセが考えていると、彼女は俯いてゆるゆると首を振り出す。

 

 

「そう、なんだ。教えてくれて……ありがとう。でも、そんな危険な方法なら、やらなくていいわよ」

 

「やりませんよ。というより、できないのですが…………、?」

 

 

 若干ずれた返答をしたフォルセは――一瞬顔色を変え、瞳を宙へ向けた。

 

 法衣で隠れた肌が、ゾクリと粟立つ。

 

 

「違うっ、できてもやらなくていいって言ってるの!」

 

「……、…………」

 

 

 激昂するミレイへ、フォルセのやけに透き通った眼がゆるりと向いた。

 

 

「あなたが大丈夫でも、ちょっとでも危険なら駄目だから、しちゃいけないから……だからあたしは……その……」

 

 

 鏡のようにまんべんなく、容赦なく映すような翡翠の眼差し。フォルセの視線の些細な変化を“責められている”とでも感じたのか、ミレイの声が尻すぼみになっていく。

 

 

「えっと……だ、だから……死んじゃうのは、駄目よ」

 

 

 ミレイは弱々しく言った。が、その顔には死への拒絶がありありと浮かんでいる。生半可な気持ちではないと言いたげに、ミレイの双眸はフォルセに負けず劣らず澄んでいる。

 

 

「……体内に入った物質情報のマナは、」

 

 

 瞬きをひとつして。あるようでない表情を向けたまま、フォルセは話を戻す。

 

 

「リージャに変換する要領で放出することで、体内から出て、リージャではなくヴィーグリック言語となります。……それを読み解けば、情報の詳細を知ることができるのです」

 

「……? え、と、つまり、術者の中に入ってきたマナを解放したら、ヴィーグリック言語に訳されて出てくるってこと? この看板だったら、読めない文字がヴィーグリック言語になるってこと?」

 

「そういうこと、です」

 

 

 頭の中で噛み砕きながら理解したミレイに、フォルセは口角をきゅっと上げて微笑んだ。危険だが、危険ではない。体内に入ったマナはすぐに出すから大丈夫、そう言いたげだ。

 

 が、そもそもはヴィーグリック言語に関する知識、マナやリージャの細かい操作など、多くの技術が必要不可欠とされる方法だ。どちらか一方が欠けていてもできない、更には自分の体内に異物のマナが入ることを受け入れる度胸も必要。できる者も、やろうとする者も、それどころかやる機会すらも少ない、そんな技法だった。

 

 

「私のリージャが戻って、必要な機会が訪れたなら……その時は、お見せしましょうか」

 

「だから……危ないなら、いいってば」

 

「貴女の助けになるのなら、特にどうということはありませんよ。それに……折角こうして、御理解頂けたのですし」

 

「っ!」

 

 

 俯いていた顔をバッと上げ、ミレイはフォルセを射抜くように睨み付けた。その視線はかち合わず、彼女自身もそれを望まずすぐに地面を向いてしまった。

 

 

「……なによ。ホントに大事なことは、理解しなくてもいいくせにっ」

 

 

 ミレイがボソリと吐き捨てた言葉は、思いの外よく響いた。が、既に意識を別の方へ向けていたフォルセの耳に、それが拾われることもなく――結局、可視化しかけた二人の溝は、再び姿を消してしまった。

 

 

(……さっきの気配、幸いミレイのものではないようだ。なら、一体何処から……)

 

 

 フォルセは微笑んだまま、剣呑な表情を浮かべた。その意識は、先程唐突に感じた“寒気”の出所を探している。

 

 

(それとも、気のせい、か……?)

 

 

 左手に持ち続けていた水のペンと書いた文章を払って消し、脳と神経をフル回転させて気配を探る。隣に立つ少女に気付かれないよう、慎重に、慎重に――

 

 

 その時。バラバラのマナが一斉に鳴き、フォルセの全身がズキンと軋んだ。

 

 

「っ…………はあ……」

 

 

 禁呪の痛みは唐突にやって来る。無意識のうちに大きな溜め息が漏れた。その、疲労を思わせるかもしれない失態にフォルセはサッと顔色を変えた。

 

 知られるべきではない、いらぬ心配を与えたくない。

 

 “異端”である彼女に不安を感じさせるわけには――

 

 その一心で、尖らせていた神経を放り出し、慌てて隣を窺った。

 

 

「…………あ」

 

 

 呆けた顔と目が合った――ミレイもまた、彫像のように固まりながらフォルセへ視線を向けたところだった。彼女は彼女で、自分の呟きに怒りを覚えられたのかと慌てていたのだが、フォルセには知る由もない。

 

 ひときわ冷たい夜風が吹くまで、暫し沈黙が落ちる。

 

 

「せ、聖職者サマってさ」

 

「……はい」

 

「えと、ひ、左利き、だったの? 銃は左で持ってたけど、剣は右手よね。あはは……」

 

 

 ミレイは引きつった顔で、無理やり話題を放った。

 

 その問いにフォルセは首を傾けたが、すぐにああ、と納得した。先程までペンを持っていた左手に、一瞬だけ眼を向ける。

 

 

「右利きですが、ヴィーグリック言語だけは、どちらでも書けるんです。……何かあった時のため、両方で書けるよう練習したのですよ」

 

「あっ、そうなんだ。へえ……」

 

 

 ミレイは苦く笑い、視線を逸らした。どうにか誤魔化せた安堵で、全身から力を抜く。

 

 

(……何をやってるんだ、僕は)

 

 

 ミレイとは対照的に、フォルセの面からは表情が消えていた。再び漏れそうになった溜め息を呑み込み、鬱陶しげに髪をかき上げる。

 

 

(何も感じられない……やはり気のせい、か。なら、あれこれバレないうちに、早いところ先へ……)

 

 

 感じた寒気、感じている恐怖、そして痛み。もはやどれに焦っているのかわからない。

 

 気を引き締めなければ。フォルセはそう思いながら、震え続ける腕を抑えんと拳を握り、道の先を見つめ、ミレイに声をかけようとして(おぞましい気配に背を撫でられ)口を開き、

 

 森の方へ急いで振り向く。

 

 

 

 

 

 真っ赤な二つの眼が、闇の中に浮かんでいた。

 

 

 

「っ!? ……ミ、レイ」

 

「なぁに、聖職者サマ?」

 

「看板。読めませんし、そろそろ進みましょうか……」

 

「そうね。このまま止まってても仕方ないし」

 

 

 まあるい、まあるい――血色の目玉、だ。闇に覆われながらもそれだけは映る、なんと不自然な光景か。

 

 ミレイを背に庇うように、フォルセは数歩後退った。険しい表情で、呼吸すらも抑えている。

 

 突然近付いてきた法衣にミレイは驚くが、その背中越しに二つの赤を見つけ、ヒッと悲鳴をあげた。

 

 

「え、なっ!? な、な、な、ななな……っ!」

 

「……そこにいらっしゃるのは、どなたですか?」

 

「ち、ちょ、聖職者サマ……!」

 

「私が対応します。……貴女は、少し先まで歩いていてください」

 

 

 言外に逃げろ、と告げている――そう理解し、ミレイは法衣を引っ掴み、抗議の声をあげた。

 

 

「だ、駄目よ! あたしひとり逃げるなんて、そんなのできっこない。だって聖職者サマは、あたしが望んだ〈神の愛し子の剣〉だもの。一緒にいなくちゃ、駄目なのよ……!」

 

「何事もなければ、すぐに呼ぶか追いつきます。貴女をひとりにすることは謝りますが、ほんの少しだけですから」

 

「で、でも、何でそんな、」

 

「ミレイ。……お願いします」

 

 

 フォルセは内心の焦りを押し殺し、柔らかく笑んだ。それがミレイのためになると信じて疑わず、少ない言葉で彼女を透明な壁の向こうへ放り投げる。

 

 

「…………っ」

 

 

 唇を噛み締め、ミレイは悔しげな表情で一歩、また一歩と下がっていった。それを見送るフォルセの翡翠の瞳がうっすらと安堵に染まり、そして森の方へと向き直る。

 

 

 森の奥に見えた二対の赤眼が、フォルセの呼びかけに応じ、上下に小さく揺れながら近付いてきた。魔物にしては警戒心が感じられず、だがヒトにしては不気味すぎる動き方だ。

 

 浮かべていた微笑を消して、フォルセはいつでも得物を出せるよう身構えた。明かりも持たずにいる時点で、無害な旅人という可能性は否定している。

 

 

(気のせいと流しかけた失態はともかく……リージャが無い今、この状況はかなりマズい)

 

 

 長い金髪で隠れた米神を、冷たい汗が一筋流れ落ちる。フォルセの中のリージャは未だ応えようとしない――魔物の闊歩する森を抜けるのとは比べ物にならぬほどの焦りを、フォルセは感じていた。

 

 

(もしも間に合わなかったら、きっとみんなのように“変わってしまう”。この場で動けるのは僕しかいない。

 僕がやらなければ……ぼくが……)

 

 

 脳裏に過ぎるのはかつての、そして現在進行形でフォルセを悩ませる火のトラウマ。

 

 熱い火よりも、全てを焼き尽くす炎よりも――迫り来る死を前に身も心も醜く変わっていくことの方が怖かった。だからこそ今、らしくないほどに焦燥している。

 

 

「……似てるわね、グラツィオの時と」

 

 

 え、とフォルセは驚きに肩を揺らした。背にトンと小さな衝撃が加えられる――彼が振り返るのを防ぐように、先に行った筈のミレイがしがみついてきたのだ。

 

 背中越しに震えが伝わってくる。怖いならどうして戻ってきたのか、どうして言うことを聞いてくれないのか。せめてランタンを遠ざけてはくれないか。なんなら一緒にどこかへ離れてほしい――

 

 フォルセの頭は一瞬にして、ぐちゃぐちゃにこんがらがった。

 

 

「っ、ミレイ……言った、でしょう。此処は私に任せて、貴女は先に……」

 

「借りがあったら返すのがスジ。異端症(ヘレシス)は聖職者の言うことなんか聞かない。……あたしがそういう人間だって、知ってるでしょ?」

 

「……、ここでそれを、言うのですか」

 

「素直になったと思った? ザンネンだけど、あたしは自分に素直なだけ。やりたいように、返したいように借りを返す。

 まあ、今は借りがどうって話じゃないけどね。……知れることは知っておきたい、それだけよ」

 

 

 法衣を強く強く握り締めてくるミレイを、フォルセは苦虫を噛み潰したような顔で見下ろした。

 

 

(君が一番“危険”だから、遠ざけたかったというのに!)

 

 

 感じた寒気の出所を“ミレイから”だと勘違いした理由に、全ては起因している。

 

 

 そうこうしているうちに、赤眼の主が葉の屋根を潜り、その容姿を二人の視界にさらけ出した。見えた姿に、フォルセは更に顔を強張らせ、対してミレイはポカンと口を開ける。

 

 

「ぇ…………、こども?」

 

 

 ミレイの、気の抜けきった声がその場に落ちた。

 

 

 癖毛の髪に、指先まで隠れるほどの長袖、成長途中の二本足が伸びる短パン。平凡な、だが丸い二つの赤眼だけが爛々と輝いているその“ヒト”は――

 

 

「おにいちゃん達、迷子?」

 

 

 (よわい)十にも満たないほどの、一人の少年だった。

 

 

 

***

 

 

 闇に浮かぶ二つの赤――恐怖を煽るその光景に反して、現れたのは普通の子供。赤い瞳も、よくよく見れば幼いがゆえの無垢で輝いているようにも思える。

 

 小首を傾げ、トコトコと近付いてくるその姿は、ミレイの恐怖を容易く消し去った。

 

 

「な、なぁんだ……何かと思ったら、ただのこどもじゃない。もうもうっ、ビックリさせないでよ!」

 

 

 言葉とは裏腹に、ミレイはすっかり安心していた。そして疑問を浮かべる。――こんな時間に、こんな場所で、子供が一人で何をしているのか?

 

 

「なりません」

 

 

 近付こうとしたミレイを、フォルセの腕が遮った。彼らしくない、やや乱暴な制止だ。

 

 ミレイは眼を丸くし、驚いた――神父の横顔は未だ硬く、硬く、強張っている。

 

 

「どしたのよ。相手は魔物じゃなくて、ただの子供よ? そんな恐い顔、もうしなくても、」

 

「ミレイ。……よく聞きなさい」

 

 

 少年を見据えたまま、フォルセは小さな、けれど有無を言わせぬ声色で言い始めた。

 

 

「先に行って、できるだけここから離れて、大人しく待っていてください。これは貴女を想って言っています。……聞き分けるのなら今のうちです」

 

 

 その言葉で、ミレイは悟った。――まだ、安心できる状況ではないのだと。

 

 内心はどうあれ、ミレイはフォルセの判断力には絶対的な信用を置いているのだ。彼がそこまで言うのなら、きっとあの無害そうな子供には何かあるのだろう。

 

 聖職者なんて嫌い。そんな感情を蘇らせながらも聖職者の言葉を信じる。都合のいい自分に気付き、ミレイは複雑な心境になった。

 

 ――が、だからといって素直に引き下がるわけもなく。

 

 

「さっきも言ったけど、あたしはあなたから離れる気なんて、これっぽっちも無いわ」

 

「ミレイ……!」

 

「怖い顔したって無駄よ。あたしは逃げないし、理解しなくていいって言われても無理やりするわ」

 

 

 ミレイは神父との間に感じた透明な壁を壊すため、一石を投じる。

 

 

「どうしても聞いてほしいなら、まずあたしを納得させてちょうだい」

 

「納得、ですか」

 

「なによ。あたしと話すの……そんなにイヤ?」

 

「嫌だなんて、そんなことは……」

 

「だったら話せるでしょう? ……ねぇ聖職者サマ。あなたは今、何を考えてるの? 何をそんなに恐れているの? あそこにいる子が、なんだって…………あっ」

 

 

 二人が押し問答――というよりミレイの一方的な詰め寄り――をしている間に、少年は彼らのすぐ傍まで歩み寄っていた。

 

 重量を帯びた温い風が、鼻先を通る。

 

 

「おにいちゃん達、迷子?」

 

 

 少年が、どこかぼんやりとした様子で先程と同じ言葉を紡いだ。

 

 

「迷子!? ……あー、言われてみればそう……なのかしら? あたし達、ここがどこかよくわかってないし……」

 

「ここはゲイグスの世界だよ」

 

「ああっ、それならレムの黙示録に書いてあったわ! やっぱりゲイグスって名前の土地なのね」

 

「ちがうよ、ここはゲイグスの世界だよ」

 

「? そ、そう……」

 

 

 妙な言い方に首を傾げながら、ミレイは少年をまじまじと見つめた。頭から足先まで無遠慮に観察するが――どこからどう見ても、普通の子供にしか見えない。

 

 可笑しなところと言えば、両手が見えないくらい長い袖の服を着ているくらいだ。それさえも、服に着られているようで微笑ましい。

 

 

「やはり……………………」

 

 

 頭上から聞こえてきた吐息のような声に、ミレイはえっ、と反応した。

 

 

「聖職者サマ、今なん……」

 

「…………」

 

 

 フォルセは無言でミレイから離れ、少年に近づいた。

 

 当然あるものと思っていた返答が無く、ミレイは息を呑んで硬直した。――何も言われなかった。人に優しい彼のことだ、ミレイがこうもあからさまに狼狽えていれば柔らかな言葉のひとつでも送ってきそうなものなのだが――実際には配慮ある言葉どころか、忠告も警告も、ただの一声さえも与えられず、けれど僅かに開いた彼との距離は、警告以上にミレイの奥深くをざわつかせた。

 

 

(やだ、何でこんなに不安になるのよ……逃げないって決めたんだから、堂々とここにいればいいじゃない。

 ……そうよ、さっきの話が途中だから、こんなにモヤモヤするんだわ。あたしの質問に答えてくれなかった、聖職者サマが悪いのよ……)

 

 

 身勝手だとわかっていながら、ミレイは何かしらの言葉をフォルセに求めた。先程のように理由も述べずに離れていろとでも言ってくれないか、そうしたらまたここに居座る主張をして元気を出すのにと、ミレイ自身が不安から逃れたいがために深く願う。

 

 が、願うだけのそれが届く筈もなく――或いは気付いていてなお何も言わぬのか、彼はその背のみで何かを語るようにミレイから離れていく。

 

 

(さっき聞こえたひとりごと……それが、これから起こる何かに繋がるの?)

 

 

 不安で胸を揺らしながら、ミレイは先程聞いたフォルセの呟きを心の中で反復する。

 

 “やはり、手遅れだったか”――?

 

 

 

「ぼくも迷子なんだ。おにいちゃんに会いにきたんだけど、会えなかった。おにいちゃん達、赤毛のおにいちゃん、見なかった?」

 

「……いえ、森では誰ともお会いしませんでしたね」

 

「そっかぁ。……おなかすいたなあ」

 

 

 ミレイの混乱を置いて会話は進む。

 少年は寂しそうに空腹を訴えながらトコトコ歩き、フォルセの腹に顔を埋めた。

 

 フォルセは憂いの帯びた表情のまま、しかしそれ以上の慈しみを湛えて少年を見下ろした。

 

 温い熱とにおいが伝わってくる。右手で優しく頭を撫でてやれば、甘えるようにくっついてくる。

 

 

「おにいちゃん、いい匂いがする……サンドウィッチの匂いだ。ぼくね、お母さんの作るサンドウィッチが大好きなんだ。お肉をたくさん入れてくれるから」

 

「ふふ。……貴方のその嬉しそうな顔だけで、美味しさが伝わってきますね」

 

「うん。お母さんと一緒にね、いつも食べ物にアリガトウ、って言ってるんだ。……でもね、みんなひどいんだよ?」

 

「みんな、とは?」

 

「ぼくの町の、他のみんなのこと。この先にある、エリュシオンっていう名前の町」

 

 

 エリュシオン。少年の町のものだというその名称を、フォルセは小さく復唱した。

 

 

「ま、町っ? 町があるの!?」

 

 

 町。聞き捨てならない内容に、ミレイが混乱の渦中から復活した。

 

 

「うん。そこの看板にもかいてあるよ」

 

「文字が掠れて読めなかったのよ!」

 

「エリュシオン……変わった名の町ですね」

 

「えっ、どこが? もしかして聖職者サマ、何かわかったの?」

 

 

 ミレイの色々な期待のこもった質問に、フォルセは首を横に振るだけで返答する。

 

 

「ひどいんだよ、エリュシオンのみんな」

 

 

 少年は二人のやり取りに興味を持たず、自分の話を再び開始した。両手は下ろしたまま、小さな頭を、フォルセの腹へぐりぐりと押し付ける。

 

 温いにおいが増す。此処は戦地かと違えそうな程に濃厚な、温いにおいが。

 

 

「お肉をね、嫌いだっていうんだ。ぼくには好き嫌いしちゃだめっていってたのに」

 

「……」

 

「どうして嫌いっていうのかな、どうしてみんな逃げちゃったのかな。わからなかったから、おにいちゃんに聞きにいこうと思ったのにどこにいるのかわからなくて、気付いたら夜になっててずっと夜でお肉はたくさんできちゃって……」

 

「ちょ……お、落ち着いてよ。怖かったのはわかるけど、ねっ……?」

 

 

 宥めようとするミレイの想いは届きそうにない。

 少年の声がだんだんと色を失い、けれどただ一色に染まっていくかのような性急さで口からこぼれ、法衣にぶつかって霧散する。

 

 フォルセの右手が、少年の頭を優しく撫でる。下ろされている左手がゆっくりと閉じ――静かに現れた拳銃のグリップを、握った。

 

 

「っ!? せ、聖職者サマっ、どうして銃、なんか……!」

 

「ひどいよね。ね? みんな、ひどいお肉よね? ねぇ、ね?」

 

 

 ミレイの驚愕の声に、少年の形容し難い上擦った声が重なる。

 

 法衣に埋まっていた頭が天を向く。白目までも赤く染まった幼き双眸が、慈悲に満ちた緑眼とかち合う。

 

 

「……お肉。焼かなくてもこんなに、」

 

 

 少年の両腕がゆらりと持ち上がり、長い袖で隠れていた両の手がフォルセの眼前に

 

 

 

「おいしいのに」

 

 

 ――現れなかった。あるべき五本と五本は既に無く、時間をかけて肉と神経を切り骨を砕いた断面が、双方それぞれ五つずつ。断たれた管から流れる赤は、吹き出すことも地面に垂れ落ちることも無く、細い腕へ巻きつくように伝っている。

 

 フォルセの鼻先を、生温い鉄のにおいと共に焦げた臭いが掠めていった。悪臭ではないが、不快。少年の腕を伝い、衣服に隠れた肌を撫でる赤き道は――成長途中の肉を焼き、至るところから細い煙をあげている。

 

 

「……ひっ!?」

 

 

 その異様な光景に、ミレイは喉奥から小さな悲鳴をあげた。あんなにも逃げないと意気込んでいたにも関わらず、その両足は勝手に後退っていく。これが、これこそが送られ続けていた警告の正体なのかと、動揺などせず少年を撫でたままのフォルセを見て悟る。

 

 

「ねえおにいちゃん」

 

「はい」

 

「おにいちゃんも、食べよう? おいしく、アリガトウして、お肉おなじお肉食べよしよう?」

 

 

 小さな口が開くたび、細長い何かが数本見える。両頬に好物を貯めこむ小動物の如きその面は、本来ならもっと与えたくなる幸福の姿。沢山お食べ、と成長を祈りたくなる筈のもの。

 

 

「……そうですね」

 

 

 フォルセの唇が笑みとなる。

 

 

「いつかの世では、共に」

 

 

 銃口が少年の米神に当てられる。フォルセの右手がいっそう柔らかく優しげに少年の頭を撫で、同時に引き金は引かれ――、

 

 

「――――だ、駄目よッ!!」

 

 

 銃声が、明けを知らぬ夜空に響き渡った。

 

 

 

***

 

 

 夜天に響き渡った一発の銃声――しかし、その弾丸はあらぬ方向へと飛び、役割を果たせぬまま何処かへ消えた。

 

 

「……っ、なにを……!?」

 

 

 フォルセが戸惑いで眼を見開いた。が、すぐさま状況を理解し、己の左腕に突進してきた邪魔者をキッと睨み付ける。

 

 

「――ミレイッ!!」

 

 

 激しい怒りのこもった大声に、ミレイはビクリと肩を揺らした。怯えながらも、フォルセの腕を放そうとはしない。それどころか、絶対解放しないとばかりにより力を込めてくる始末だ。

 

 

 脳天を撃ち抜かれかけた少年は――ミレイがフォルセに掴みかかった直後、その非力そうな身体にはそぐわぬ速さでバックステップし、二人から大きく離れていた。くちゃくちゃと口を動かしながら、赤い両目だけを爛々とさせている。

 

 

「お肉、おいしい」

 

 

 少年はそう呟いて、掴むことを忘れた手をぺろぺろと、ぶちりぶちりと堪能し始める。

 

 遠く離れた場所で己を楽しむ少年を、フォルセは痛ましげな表情で見遣った。そして、ぶるぶる震えながらも決して離れようとはしないミレイに、激しい怒りで染まった顔を向ける。

 

 

「君は……あれほど残ると豪語しておきながら、いざ事が始まれば邪魔をするのか。――一体何のために此処にいるつもりだ!!」

 

「だ、だって、いきなり銃なんか出して、あんなちっちゃい子に向けるんだもの! 止めるに決まってるじゃない……!」

 

「よく見ろ、腐臭と瘴気を漂わせ、自分の肉を喰らうあの姿を!!

 あの子は完全に、“暴走”して…………っ!?」

 

 

 慈悲など無い、憤怒で顔を歪ませたフォルセは――突如我に返り、ミレイを思いきり突き飛ばした。

 

 

「きゃあっ!」

 

「っ、ぐぅッ……!!」

 

 

 ミレイの悲鳴と被さるように呻き声をあげ、フォルセは苦悶の表情で崩れ落ちた。両膝をガクンと落とし、荒く息を吐き、右手で自身の腰辺りを押さえる。

 

 

「いたた……せ、聖職者サマ……!?」

 

「っ、しょ……き、ぐうっ……!」

 

 

 額に汗を浮かべ、フォルセは掠れた声を漏らした。――見れば、大きな針とでも言えるような長さの赤黒い刃が、彼の脇腹を刺し貫いていた。傷口から黒い煙がのぼっている。溢れ出る血が法衣と地面、傷口を押さえる右手をしとどに濡らす。

 

 

「っ!? あ、あたし……そんな、っぁ……!」

 

 

 そんなつもりじゃなかった、聖職者サマが傷付くことを望んだわけじゃ――言い訳にすらならぬ言葉は、ミレイの喉につっかえて出てこなかった。代わりに出てくるのは、事態を打開してくれる魔法のような言葉を探す、未熟な声音のみ。

 

 心配で、けれど恐ろしくて近付けない。触れれば余計に痛みを与えそうで、触れれば自分の行動が間違っていたと認めてしまいそうで――ミレイは泣きそうな表情で、おろおろと立ち往生するしかない。

 

 一方でフォルセは、ミレイの突発的な行動を読めなかった自分を責め、焦っていた。

 

 

(これは、瘴気の塊か……! 抜かった、半端に浄化から逃れたせいで、あの子の暴走は一気に進んでしまったみたいだ。

 っ……くそ、マナの脈を、瘴気が焼いて……っ、……?)

 

 

 痛みに耐えながらも、唐突に疑問符を浮かべる。遠くで立ち尽くす少年を見据えながら、フォルセは苦痛に歪んでいた双眸を大きく見開いた。

 

 

(……瘴気にしては、あまり痛くないな。もとから禁呪の痛みがあるせい、か? ……いや、違う……)

 

 

 視線を合わせたまま、自身の体内に意識を向ける。そして気付いた。禁呪でバラバラになったマナ――否、リージャが、フォルセの意思とは別の動きをして、その力を発揮していることに。

 

 光と闇、そして治癒の効果を持つ力が、持ち主――つまりはフォルセの痛覚神経を柔らかく包んでいる。

 

 あまりに大きな痛みから、リージャはフォルセを守っている――

 

 

(……っ! これか! リージャが残っているのに法術が使えなかった理由……!)

 

 

 怪我の功名とでも言えようか。今この時になってわかった事実に、フォルセは焦りを僅かに消した。

 

 が、だからと言って止まっている暇は無い。フォルセは自身の脇腹を貫いている刃を乱暴に掴む。

 

 強引に引き抜き――かけて止め、片手を背に回して後ろから刃を掴み、

 

 

「ぐっ、ぅ……はぁッ!!」

 

 

 ――“雷撃”を帯び出した片手でバキリと折った。

 

 

「っ!? ほ、法術……!?」

 

 

 どうして、使えないんじゃと驚くミレイを他所に、フォルセは元の三分の一ほどの長さになった刃を腹の側へと引き抜いた。

 

 傷口から血がドプリと吹き出す。体内に瘴気を直接流し込まれたことで、出血が普通よりも多くなっているのだ。

 

 

「あは、なにか飛んでった……ぼくの手から、赤いもの……お肉? あれ無いぼくの、ぁ、?」

 

「はあっ、はっ……っぐぅ……!」

 

「……食べたらうれしいかな? おにいちゃんのサンドウィッチおいしそう、おいし、お肉……アリガト……あれ? あれ?」

 

 

 少年は小首を傾げ、歳相応に笑んだ。あまりに無邪気な姿だが――その腕から固形となってカランカランと落ちる血が、少年による攻撃があったことを物語っている。

 

 

「う、なによ、なんなのよ……! そんなことして、ああ、あんなこともして、なんで笑ってられるのよっ!!」

 

「っ、はやく……」

 

「え、聖職者サマ?」

 

「早く……浄化、しなければ……」

 

 

 常の柔らかさなど欠片も存在していない顔で、フォルセはゆらりと立ち上がった。翡翠の両眼がうっすらと淀み、瞬きひとつで澄んだ光を灯す。

 

 

「愛情も優しさも、全てが呑まれるその前に! ……今ここで、僕が救ってやらなければ……!」

 

 

 慈悲ゆえ、というよりはどこか必死な様子も窺えるフォルセの叫び。――神父フォルセではなく、フォルセ・ティティス個人のものなのだと、ミレイはどうしてだか思った。

 

 フォルセの脳裏に幼き頃の光景が蘇っていることなど、彼女には知る由もない。

 

 

「女神の名の下、白き浄化を!!」

 

 

 バチッ! 細い音と共に稲妻が弾けた。全身からうっすらと“リージャ”を発しながら――フォルセは血で濡れた右手を払い(抜剣し)、勢いよく地を蹴った。

 

 

「っ!? 待って、聖職者サマぁっ!!」

 

 

 我に返ったミレイの悲鳴にも似た声が背に投げられる。が、フォルセは何も言わず、前方で笑う少年に向かって一直線に駆け抜ける。

 

 

「ぐ、うっ……!!」

 

 

 フォルセの相貌が更に歪む。腹の底から膨れ上がる“痛み”を、気力で必死に抑えつけているのだ。

 

 構えた剣に力を込める。フォルセの命に従って、刀身がバチバチと真白の火花をあげる。

 

 

「いつかの世で……またお会いしましょう!」

 

 

 刃が爆ぜる。眩きリージャの雷が、枝葉の如く萌え盛る。

 

 慈しみと必死さを孕んだフォルセの叫びに、少年は五指を失くした両の手を広げ、喜びを。

 

 

「うん。ありがとう、おにいちゃん」

 

「――招雷閃(しょうらいせん)!!」

 

 

 聖なる雷を伴った渾身の突きを、フォルセは躊躇無く、少年へと放った。

 

 

 




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Chapter12 爆ぜる信条

 

 リージャの雷が収束する。空気中でうねり、地面を叩き、夜闇を一瞬にして白く照らしあげたそれは――やはり一瞬にして、かき消えた。

 

 

「っ、ぐ、くそっ……」

 

 

 フォルセの口からこぼれた悪態は、ミレイのもとへは届かなかった。だが彼女には見えた。たとえ恐怖のあまり両手で顔を覆っていても、声無き悲鳴をあげていても、目の前で起きた刹那の結果は、離れている彼女の目にもよく映ってしまった。

 

 

「間に、合わなかった……!」

 

 

 少年の、血の滴る両手――合わせて十ある肉の断面から生える赤黒い鉤爪によって、フォルセの細剣は、誰を貫くこともなく受け止められていた。

 

 

「ああ、ひどい……」

 

「っ、」

 

「ひどいひどいひどいひどいみんなが酷い! どうして焼くの、どうして燃やすの、どうして誰も悲しくないの!?」

 

「ぅっ、ぐああっ!」

 

 

 少年の顔から笑みが消えた。赤き眼をカッと見開き、同じ色の涙を流して狂ったように叫ぶ。

 

 そして、その小さな身体からは想像できないほどの怪力で腕を振り回し、受け止めていた剣ごとフォルセを吹っ飛ばした。

 

 

「っ! う、ぐ、ぅ……あ、ぁが、あっ……!!」

 

 

 道の脇の地面にドサリと落ちる。背を強かに打ちつけ、フォルセの呼吸が一瞬止まった。――どこか様子がおかしい。転がって草を何本か掴んだまま、起き上がることができずにいる。

 

 背への衝撃だけでは説明できないほどの苦悶の表情で、フォルセは喉奥から呻き声をあげた。

 

 

「聖職者サマ! ……きゃあっ!」

 

 

 フォルセに駆け寄ろうとしたミレイの近くを、熱い何かが横切った――直後、遠くで一発の爆発音が聞こえた。ミレイは悲鳴をあげて立ち止まり、恐る恐る視線を向ける。

 

 道の先の、草原の一部が燃えていた。夜闇を開きながらメラメラと燃え、黒い煙を上げているその光景を見て、ミレイは飛んでいったものが大きな大きな火の塊であったことを理解した。

 

 

「う、うそ……魔術? え、あの子がやったの? え?」

 

「どうして……」

 

「ひいっ!?」

 

 

 驚きのあまり動けなくなったミレイのもとへ、いつの間にか少年が近寄っていた。血色の涙を流し、両手から生やした鉤爪をずるずると引き摺っている――その異様な姿に、ミレイは引きつった悲鳴をあげる。

 

 

「どうして……眠っていただけなのに、どうしていじめるの、どうして燃やすの……」

 

「あ……あぁ……」

 

「ともだちだったのに……みんな、ともだちだったのに! どうして笑うのどうして平気なのどうして燃やして捨てちゃうの!? ……アリガトウって言ったよ? お母さんと一緒にお祈りしたよ? なのにどうして誰も食べないの!? ぼくちゃんと食べたよ、焼きすぎたけどちゃんと……!!」

 

「いや、い、いや……!」

 

 

 喉を裂きかねないほどに絶叫する少年から、ミレイは震えながら後退る。わからない。意味がわからない。少年の言うことも、その異様な姿も、自分の傍に神父がいないこの状況も。

 

 踵に当たった石ころでバランスを崩し、ミレイは尻餅をついた。が、悲鳴すらこぼせない。目の前に迫る少年への恐怖が、彼女の心身を凍らせている。

 

 

「だから、お母さんにもアリガトウって言ったんだ。焼いたお肉にして食べてにしたんだぁ……」

 

 

 少年が、幸せそうに笑った。不規則な呼吸を繰り返すミレイを見下ろし、両腕を――血色の鉤爪を、ゆらりと振り上げる。

 

 

「おねえちゃんも、しよ?」

 

「っひ、」

 

「ぼくと一緒だからきっとできるよ。ほら、ねぇ? こうやって、おててを合わせて、ぼくと一緒に……」

 

 

 “アリガトウ”

 

 血塗れた少年の唇がとろりと動いた。

 

 

「――い、イヤァアアアアアァッ!!!」

 

 

 恐怖が臨界点に達した。

 

 多大な負荷のかかった思考によって、考えるより先に生きることを命じられ――ミレイは少年目掛け、ナイフを放った。

 

 

「っ!? っうぇ……!!」

 

 

 放たれた刃が少年の喉を掻き切った。血飛沫と共にくぐもった声がもれる。

 

 

「来ないで、来ないで! こっちに来ないでよぉっ!!」

 

 

 本能が叫ぶままにナイフを投げる。夢中で振るう。一心に放つ。己の武器たる刃を投げて投げて投げて――。

 

 恐怖と生存本能に急かされたその姿には、もはやフォルセを止めた時の必死さは無い。

 

 目の前のあれはもはや庇護すべき子供ではない。恐ろしい武器を振り上げ、理解不能な言動を散らす、排除すべき“敵”だ――!!

 

 

 刃の曇った煌めきに伴い、幼き身体が血濡れと化していく。肉が裂かれるその度に、少年の全身から焦げた臭いと煙がのぼる。それこそがまさに、世界の毒素たる瘴気なのか――誰に問われることもないまま、小さな異形はミレイから一歩一歩と離れていく。

 

 

「はやく倒れなさいよ! どっかいってよ! いやっ、なんで、なんでこんなっ……」

 

「ぃどい……ひどいよ……お、ねえちゃんッ!」

 

「っきゃ、っ!」

 

 

 されるがままだった少年が、たどたどしい怒りと共にナイフを薙ぎ払った。

 

 

「っ! あ……ぁあっ……!」

 

 

 足元に幾本かのナイフが無情に転がる。ただ一度攻撃を跳ね返されただけで、ミレイの抵抗意志は針を刺された風船のように割れてしまった。後に残ったのは修復不可能な意志の残骸――死への恐怖で打ちのめされ、ミレイは力なくへたりこむ。

 

 

「ひどいよ、ひどい……とてもひどい……」

 

 

 少年がゆらゆら揺れ動きながら近付いてくる。引き摺る鉤爪はとても鋭く、きっとミレイの柔な身体など簡単に引き裂いてしまうだろう。

 

 ミレイの脳裏に、自らの死んだ姿が浮かんでは消える。死にたくないと、誰もが抱く本能的な恐怖に包まれる。

 

 

 ――身の心配ばかりしていたから、心はとても無防備だった。

 

 

「ひどいよ、おねえちゃん。

 

 ……ぼくもカミサマを信じない子なのに、どうしてひどいことするの?」

 

 

 

 

 

「……………………え?」

 

 

 長い時間をかけても理解できなかった(したくなかった)その言葉に、ミレイは思わず呆けた顔を向けた。

 

 視界の外から真白の影が駆け抜ける。

 

 

「ゥア……っ!?」

 

 

 背に衝撃を受け、少年が驚きの声をもらした。

 

 少年の背に勢いよく突進した白――フォルセが必死な形相で、突き立てた細剣を押し込む。

 

 血肉を抉る音がやけに響いて。

 

 ミレイの頬にピチャリと血飛沫が飛び散った。生温かいそれに触れるよりも先に、細剣がグイと動かされ、

 

 

「――はああああぁっ!!」

 

 

 躊躇なく薙ぎ払われた。少年をミレイから引き離すべく、フォルセが剣を思いきり振り回したのだ。

 

 少年は何をされたかわからない顔のまま、森の方へと吹っ飛んだ。

 

 

「光明導く、ッ、眩耀の使徒!!」

 

 

 急いた様子で剣を収め、フォルセが苦悶を顕にしながら詠唱を紡いだ。

 

 

「レイ!!」

 

 

 少年の頭上に、神々しい光の球が出現した。地面に向けて幾本もの光線を放ち、幼い身体を焼き貫き、その場に縫い付ける。

 

 

「……はぁっ……はぁ、ぁぐ、くそ……」

 

 

 フォルセは悪態をついて、大きくよろめいた。剣を支えにどうにか動き、歪めた顔をミレイに向ける。

 

 

「大丈夫ですか? 怪我は、ありませ……」

 

 

 笑みを浮かべようとして失敗したフォルセの相貌が、ミレイを――恐怖で眼を見開き、口許だけ笑みを浮かべては震えている様子を見て、更に強張った。

 

 

「…………聞いてよ聖職者サマ。あの子、こどもだった」

 

 

 焦点の合わぬ目でミレイが語る。

 

 

「近くで見るとね、目がね、ぱちぱち動いて可愛かったわ。おかしいわよね、だってあの子魔物……化け物でしょ? なのに、なんであんなヒトの子そっくりなのかしら、変なの」

 

「……ミレイ、落ち着いて。貴女の信じるものを心に浮かべなさい。“皆を救いたい”のでしょう? 自分を見失っては、なりません」

 

 

 顔を青ざめさせたフォルセは、ミレイをどうにか引き上げようとつっかえながらも言葉を尽くす。

 

 が、それは逆効果だった。

 

 

「おかしいわよね、違うわよね? だってあんなに恐ろしくて気持ち悪いんだもの、違うに決まってる…………あれが、あたしと同じなワケないッ!!」

 

 

 頭を抱え、ミレイは否定を求める否定を叫んだ。

 

 

「あたしはあんな風にならない! “皆”だって、違う! だから倒そうとしたっ、聖職者サマだって攻撃したものっ!!

 ……黙示録は、全てを救ってくれる勇者を呼ぶ。だから〈神の愛し子の剣〉はそうなの。そのハズなの。だから違うのよ!!」

 

 

 ミレイは見開いた眼で、すがるようにフォルセを見つめた。睨み付けていると言っても過言ではないほどに力のこもった眼差しに、彼女の動揺が見て取れる。

 

 

「違うって言ってよ聖職者サマ。あなたは〈神の愛し子の剣〉だから、あたしを、みんなを……異端症(ヘレシス)を、救ってくれるんでしょう?」

 

「……っ」

 

「あたしは異端症(ヘレシス)を救ってほしくて黙示録にすがったのよ。だから早く倒してよアレ……化け物倒して、お祈りしてよッ! 聖職者サマ!!」

 

 

 フォルセの放った法術が消え、少年を阻むものがなくなった。光線によって全身を貫かれ、鉤爪も数本折れた少年は、ガクガクと痙攣しながらもその身を再生させていく。

 

 猶予は無くなった。望まれるままにこたえれば、ミレイの混乱は収まるだろうとフォルセは思う。

 

 けれど、たとえ窮地とわかっていても――嘘はつけなかった。

 

 

「……私はあの子を殺します。哀れな“異端”を、救うために」

 

 

 混乱で揺れる眼が、ピタリと定まった。

 

 

「こんな時におかしなこと言わないでよ、聖職者サマ。殺す? 救うため? ……誰が救われるって言うのよ」

 

「異端であるがゆえに歪んだ“魂”が。……女神の御許からまた始まることができるよう、現世にて、隣人を愛し送り出すことこそが我らの務め。ゆえに……」

 

「……ふざけないで!」

 

 

 腰が抜けていたとは思えぬ勢いでミレイは立ち上がり――憎悪にも近い怒りで顔を染め――フォルセの胸ぐらをグイと掴み取った。

 

 

「死んじゃったら、全部終わり! 何も、始まりなんかしない! なのにどうして……どうして笑っていられるの!?」

 

 

 信頼など皆無、あるのは憎しみと失望だけだとミレイは吠える。

 

 ――笑うどころか無表情、或いは苦痛で歪んでいるとすら言い表せるだろうフォルセの面に、彼女が気付くことはない。

 

 

「…………ミレイ」

 

 

 常を知る者なら震えていると称すだろう声で、フォルセはミレイを見つめ返した。

 

 

「貴女はあの少年を、どうしろと言うのですか」

 

「さっきから言ってるでしょ!? 化け物なら倒して! 殺して! 異端症(ヘレシス)だって言い張るんなら……救ってよ!!」

 

「では救います。……この剣とリージャをもって」

 

「っ、違う違う! そんなの願ってないっ、アレは異端症(ヘレシス)じゃない! あたしと一緒なんかじゃない!!

 あなたは黙示録に読まれた〈神の愛し子の剣〉なんでしょう!? だったらちゃんと生かして、救いなさいよっ!!」

 

「……、それならば、」

 

 

 祈るように眼を閉じ――フォルセは覚悟を決めて、深い緑眼にミレイを映し直した。

 

 

「私はきっと……〈神の愛し子の剣〉ではないのでしょう」

 

 

 

 

 

「あぁハハ……はは、は……あぁああァああ……!!」

 

 

 少年が、知性を思わせない虚ろな表情で笑った。

 

 

「ひどいひどいひどイヒドイィ……! あっは、ハハハ、あはァははは……ッ!!」

 

 

 べちゃり、と泥のような血が落ちる。再生したかのように思われた少年の身体は、腐臭をいっそう強くして、所々に開けられた風穴から黒い(もや)のような瘴気を噴き出した。

 

 「焼かないのっ、ヒドイねぇァアハハは……っ!」少年の笑い声を合図に、ボシュ、ボシュ、とガスの破裂する音が断続的に鳴り、噴き出す瘴気に炎が混じり始める。

 

 

「ははハっ、ハッ……ガぁっ……ぐる、じ……ぐるじィ、あはハァハハ……ハ、は……おかあさん?

 

 ――ガ、ァアアアァアアアァッ!!」

 

 

 少年を覆う瘴気がいっそう濃く広がり、そして爆ぜた。

 

 

「……、始まってしまったか……異端症(ヘレシス)の、“ヘレティック化”……!」

 

 

 ミレイに背を向け、フォルセは険しい表情で息を呑んだ。

 

 

 暴風のような咆哮が続く。夜闇の下に生まれた闇から、少年“だったモノ”の姿が現れた。

 

 全身の筋肉は膨らみ、けれども肉の全てが腐ってしまったためにどこか不安定。炎は変わらず噴き出して、まるで今にも腐り落ちそうな肉同士を繋ぎ止めているかのようだ。大きさは成人男性ほど。もはやその“化け物”に、少年の面影は欠片も存在しない。

 

 

「グォアアァアアァアッ!!」

 

 

 赤黒い鉤爪を引き摺り、身体中から噴き出す炎で身を守る腐乱死体が――瘴気の中から生まれ出でた。

 

 

(こうなる前に、浄化してやりたかった……暴走した異端症(ヘレシス)が、心どころか身体すらも失う、その前に……!)

 

 

 無念に染まった眼差しを少年――否、ヘレティックへと向ける。

 

 

 信仰心の一切存在しない、全てを破壊する獣ヘレティック。その正体のひとつが異端症(ヘレシス)であると、フォルセはよく知っていた。

 

 ヘレティックの起源全てがそうではないのだが――確実に言えるのは、あまりにも痛々しく哀れである、ということだ。

 

 

(せめてすぐにでも送ってやりたい……けれど、リージャを使おうにもそう長くは続かない。……痛みが、強すぎる)

 

 

 瘴気を伴った攻撃を受けたことで、フォルセは自身のリージャが応えない理由を理解することができた。――彼の身体は、彼が思う以上に損傷していたのだ。

 

 禁呪で体内マナを破壊されたフォルセの身体には、本来、禁呪を受けた瞬間と同等の痛みが走っている筈だった。しかし、あまりに強いその痛みは、残ったリージャによって元の一割程度にまで抑制されていた。フォルセ自身が無意識に行っていた防衛本能のようなものだったため、瘴気を食らうまで気付くことができなかったのである。

 

 リージャの働きに気付いた今、フォルセが意識すればリージャは普段通りに応えてくれる。その代わり、マナを破壊される痛みと同じものに耐えなければならない。

 

 

(加えて、よりにもよって火を出して……ああ駄目だ……怖い、この距離ですら震えてしまう。

 いつものようにリージャ任せの戦い方では駄目、けれど近付くこともままならない。一体どう動けば……)

 

 

 常にリージャを解放していては、禁呪相当の痛みでまともに動くことができない。しかし一撃で終わらせるつもりで挑まねば――確実に、殺される。

 

 溢れんばかりのリージャがあったからこそ、心の余裕を持つことができたのだ。悲しいかな、愛をもって隣人を救おうと教えるフォルセは今、愛とはあまり関係のない力不足で窮地に立っている。

 

 

(できるのか? この僕に……)

 

 

 ヘレティックの咆哮が再び響き渡る。

 

 

(身も心も、女神の従僕とは言えなくなったこの僕に……“彼ら”を救うことはできるのか?)

 

 

 剣を構えたフォルセの米神を、冷たい汗が流れ落ちる。身を硬く強張らせているのは痛みか、それとも不安か恐怖か――

 

 

『あなたは黙示録に読まれた〈神の愛し子の剣〉なんでしょう!? だったらちゃんと生かして、救いなさいよっ!!』

 

 

 異端の少女に乞われた“救い”が脳裏を過る。

 

 ブワリと広がった殺気に対し、フォルセは――“背後”に向けて、剣を振るった。

 

 

界往波(かいおうは)ッ!!」

 

 

 衝撃波を放ち、魔術である“烈風の槍”に対抗した。

 

 圧力の塊同士が衝突し、嵐が一瞬やってきたかのような轟音が鳴る。

 

 間を置かず、再び風槍が飛んできた。相殺は間に合わない。剣を真横に構えて防御する、が、凄まじい風圧で押されてしまう。

 

 

「グァアアアアッ!!」

 

「っ、ちいっ……!」

 

 

 槍から放たれる鎌鼬で頬を浅く切られながらも、剣を押し込んでそれを弾き、瞬時に身を捩って飛びかかってきたヘレティックを迎え撃つ。

 

 剣と鉤爪がぶつかり合った――キィンと高い金属音が鳴る。視界いっぱいに広がる腐肉よりも何よりも、肌が焼けそうなほど近くに迫った炎にこそ恐怖して、フォルセはひっ、とらしくない呻き声をもらした。

 

 

「っ、っ……フォトン!!」

 

 

 火への恐怖で頭をいっぱいにし、とにかく離れたい一心で光球を放つ。

 

 「グアァッ!?」眼前で弾けた聖なる光を嫌がり、ヘレティックは思惑通り大きく飛び退いた。

 

 

「っはぁ、はぁ……!」

 

 

 幾分か落ち着きを取り戻したフォルセは、荒く息を吐き、戦場の両端を見るため数歩下がった。

 

 視界の左端には、深い森とヘレティック。そしてその逆側、風槍の飛んできた丘の側には――

 

 

「そんなハズない……〈神の愛し子の剣〉じゃないハズない……あたしは、化け物になんかならないもの……!」

 

 

 暗い声で怨嗟を吐く少女がひとりいた。その面には、見る者をゾッとさせるほどの絶望しかない。

 

 

「違う、違う……黙示録は正しいの、だってあたし信じてるもの、黙示録は全てを救ってくれる勇者を呼ぶんだって……だから違う……異端症(ヘレシス)はあんな化け物なんかじゃない……

 あたしが攻撃したのは、異端症(ヘレシス)じゃない!!」

 

 

 血色に濁った瞳がフォルセに向かう。聖職者サマ、と慕う想いも縋る想いも既に無く、あるのは親の敵でも見るかのような憎悪だけ。

 

 

「どうして救えないなんて言うのよ……全部ウソに決まってる。ウソ? 何が? どこがどこまでが?

 あ、ぁあ……! あなた、あたしの聖職者サマを……〈神の愛し子の剣〉を、どこへやったのよぉおおおッ!!」

 

 

 絶叫と共にマナが爆ぜ、鋭利な突風が巻き起こった。

 

 

 一対一対一、いやむしろ一対二。

 

 異端症(ヘレシス)の暴走状態を発症したミレイもまた、今やフォルセを襲う恐ろしき“魔物”であった。

 

 

 




2015/08/28:完成
2016/12/14:加筆修正
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Chapter13 狂い火と試練の訪れ

 

 萌え盛る森の前で、二つの異端が狂っている。

 

 その様子など全く見えない距離にある道の真ん中で、赤毛の男が夜天を見上げていた。

 

 橙の灯がちらほら見える小さな町を背に、男は立っている。

 

 

「偶然の面倒かと思ったが……あれ、必然じゃねぇか」

 

 

 男は一応、森のある方角を向いていた。けれどもそれだけだ。途中が緩い丘にもなっている公道からは森の頭角すらも見えない。

 

 しかし男の金眼は、現在森で起きている“面倒”をしかと映しているかのように瞬いている。

 

 

「つーか、着いてきた異端も結局あのザマかよ、やっぱりこうなった絶対なると思った……今から行くのすっげえ面倒臭い」

 

 

 そう言いながらも、木の杖を持って歩き出す。

 

 森から“飛んできた”ようにはいかないため、男は己の足で移動するしかない。

 

 

「まあ、俺が行くまで耐えきりゃいい。必然だっていうなら、精々試練に組み込んでやるさ。……試練の審判者権限で、な」

 

 

 喜劇を楽しむ観客のようにフッと笑い、男は少しばかり足を速め、荒れる森へと向かっていった。

 

 

 

***

 

 

 飛び交う烈風の槍は、術者から対象に向けて一直線に飛ぶ性質上、対象が身軽であればあるほど避けられやすい。

 

 

「あたしの〈神の愛し子の剣〉をどこへやったのよ! あなたを倒せば、あぁ、どこっ、聖職者サマっ……聖職者サマぁっ!!」

 

 

 が、身軽とは、なにも肉体の重さや大きさだけを指すものではない。

 

 

「グォオオオォオオッ!!」

 

「ぐ、うっ……!」

 

 

 対象の、周囲へ払う意識が多いほど――当てるのは容易となる。

 

 

(……くそ、防戦一方だ。ミレイがヘレティックに合わせているのか、攻撃の隙が全く見えない……!)

 

 

 フォルセはヘレティックの鉤爪を弾き返し、追撃の態勢を取った。直後、飛んできた風槍に妨害され、左腕を幾度か切り裂かれる。

 

 顔をしかめながらバックステップし、魔術の効果範囲から逃れる。――風槍がまたひとつやって来た。衝撃波で弾く。風槍がまたひとつ、ふたつ。横っ飛びするが全ては避けきれず、風圧に押され裂かれながらどうにか耐える。

 

 

「ちっ、身体が重いのがここにきて足を引っぱ――っ!?」

 

 

 上空から鉤爪が降ってきた。

 

 見た目に反して素早いヘレティックを剣で受け止め、その重圧と諸々にフォルセは苦しげに呻く。

 

 

(っ! ち、かい……火がっ……!)

 

 

 フォルセの顔が恐怖一色に染まった。ヘレティックの身体から降り落ちる火の粉に、全身の筋肉が一斉にビクつく。

 

 力が抜ける、けれど抜けきったが最後、目の前の鉤爪に裂かれるか炎に焼かれるかして死ぬ。フォルセはすんでのところで腹に全神経を込め、踏み留まった。

 

 

「くっ、ぅ……は、ぐッ……!!」

 

 

 ガチガチと、剣と鉤爪のかち合う音が喧しく鳴る。上から押し潰さんとするヘレティックに対し、フォルセは剣を持った両腕を上げるのみ。

 

 燃えている。火が眼前にある。もうそれだけで、フォルセは視線を地に落とすしかなくなる。

 

 

 周囲のマナが渦巻く――暴走する、もうひとりの異端によって。その色が今もっとも忌避したいものであることに気付き、フォルセの顔色は更に悪くなった。

 

 

「ぐうっ……! ライトニング!!」

 

 

 恐怖をも吐き出す勢いで、ヘレティックに向けて雷撃を落とした。バンッ! と雷鳴が轟き、鼓膜を強かに弾く。

 

 「グォオオオッ……!」聖なる雷に頭部を削られ、ヘレティックが大きく仰け反った。フォルセもまた、釣られるように倒れる――気力で首だけ動かし、ミレイを視界に入れ、左手を伸ばす。

 

 “リージャを放て”

 “活路を開け!”

 

 その意志強き視線も指先も、迷い無くミレイの心臓に向けられたのだが、

 

 

『えっと……だ、だから……死んじゃうのは、駄目よ』

 

 

(――っ、)

 

 

 一瞬の戸惑いと躊躇によって、足元まで下げられた。

 

 

「んぎゃっ!?」

 

 

 フォルセの指先から光弾が飛んだ。それはミレイの足元に着弾して一気に爆ぜ、太陽を思わせるほどの光を放った。

 

 視界を真っ白に染め上げられ、ミレイは両目を抑えてドサリと尻餅をついた。目が痛むほど眩く、加えてリージャそのものでもあるその光は、異端症(ヘレシス)であるミレイにとっては効果てきめんだった。

 

 ミレイが止まったことで、魔術の嵐もまた止んだ。戦況を変えるなら今のうち、早くせねばヘレティックの再生が終わってしまう。

 

 しかし――、

 

 

「あっ……! ぐ、ぅああッ!!」

 

 

 リージャを放ったことで本来の痛みが復活し、フォルセは耐えきれず、受け身を取れぬまま地面へ倒れ込んだ。

 

 固い地面に打ち付けた痛みが、倍増したかのように脳天を揺らす。みっともなく呻きながらフォルセは身を起こし、そして再び地に倒れた。

 

 

「っ、リ、リージャを無理に練りすぎた……」

 

 

 呼吸を整え、時間をかけてどうにか立ち上がる。ミレイは未だに動けないようだが――ヘレティックの損傷は、既に再生し終わっていた。

 

 

「ガァアアァアアッ!!」

 

 

 休む間など無かった。咆哮ひとつで空気を痺れさせ、無情にもヘレティックは動き出す。

 

 炎と腐肉を撒き散らしながら、ヘレティックはおもむろに鉤爪を振り下ろした。赤い影が空を切る、また鉤爪が飛ばされたのだ。

 

 覚悟を決めねば、いずれ押し抜かれる――

 

 

「っ、ふっ……!」

 

 

 フォルセは鋭く息を吐いて身構えた。軽く地を蹴り、飛んできた鉤爪を剣で弾く――金属音の余韻が消える、眼前には既にヘレティックが迫る。

 

 両腕を振り上げ、フォルセを引き裂かんと狙うその姿に対し、

 

 

(怖いなら――見えなければどうだ!)

 

 

 翡翠の眼は、不意に閉じきった。

 

 

閃空裂破(せんくうれっぱ)――!」

 

 

 目を瞑ったまま、フォルセは横回転しながら高らかに飛んだ。回転と飛翔による力が加わり、より深く、ヘレティックの肉体を斬り裂いていく。

 

 ヘレティックの目線より上まで飛んだフォルセは、空中に留まったまま剣を振り上げ、リージャを解放した。白い雷が枝葉のごとく萌え広がり、腐った肉体を削っていく。

 

 「襲爪(しゅうそう)、ッ」フォルセの両腕に力がこもる。「……雷斬(らいざん)!!」振り下ろされた刃がヘレティックの肩に食い込み、雷と共に斬り裂いた。

 

 重力に従い刃が下りる。フォルセが地に足を着けたと同時に――刃は肉を断ち終わり、ヘレティックの左腕は呆気なく、肩からボトリと落とされた。

 

 

「ギャアアアアアァアアァッ!!」

 

「っう、っ!」

 

 

 ボウッ! 落とした左腕の断面から、炎が噴き出した。勢いよく噴射されるその熱に、フォルセはビクリと肩を揺らし、トドメを刺すべく構えていた姿勢を硬く強張らせた。

 

 怒りに満ちたヘレティックの咆哮と共に、残った右腕が力任せに振るわれる。フォルセは思わず眼を開き、咄嗟に剣を構えた。が、恐怖で凝り固まった身体はとにかくその場から離れたかったのか、フォルセの意志に反して殴られるままに吹っ飛ばされた。

 

 

「ぐああっ!!」

 

 

 フォルセは数メートルほど飛ばされ、地面に叩きつけられた。――視界が霞む。力が入らない。頭をぐったりと押さえ、深い自責の念を感じる。

 

 

(何をやっているんだ僕は……見ようが見まいが、意味が無い!)

 

 

 げほっ、と激しく咳き込みながら、剣を支えに身を起こす。法術使用による痛みを流すべく呼吸を整えるが、その様子はあまりにも隙だらけである。が、幸いなことに、ヘレティックもまた無くなった左腕を嘆いて、その場から動かずにいた。

 

 そう、全て幸いなこと。ささやかな幸運だけで、フォルセは今辛うじて生きている。

 

 

(これでは埒が明かない! せめて、身体が重くなければ……痛み無く法術が使えれば……火への恐怖が戻っていなければ!

 昔、浄化した覚えのあるあのヘレティック。苦しまず、御許へ送ってやれるのに!!)

 

 

 人狼(ワーウルフ)系統のような獣に近い姿のヘレティックならば、これまで何度も発見されている。しかし、今ここにいるヘレティックはとても珍しいタイプに該当し、フォルセも経験上一度浄化したことがあるだけだった。

 

 職業柄多くのヘレティックを相手にしてきたため、その記憶がいつ頃のものだったのかを思い出すのは難しい。それでも浄化の経験があるのだから、フォルセが問題視するレベルのものではないのだ――本来ならば。

 

 

「ぅ……なんでぇ? どうしてよ……」

 

「! しまった……」

 

 

 リージャのダメージから、ミレイが復活した。未だ目を覆っているが、眩んでいるのではなく泣いているようだった。俯きながら立ち上がる姿はどこか痛々しく、けれどもこの状況では同情よりも焦りの方を誘う。

 

 

「もう……無理、か。僕では、彼らを救うことはできないのか……」

 

 

 どこで間違えたのか――わかっている。怯えたり痛かったり戸惑ったりで、最後の一撃を踏み込むことができなかったからだ。全ては自分の不甲斐なさゆえ。フォルセは諦めの心でそう考える。

 

 

(……それとも)

 

 

 〈神の愛し子の剣〉というものであったなら、それこそ奇跡のように全てを救うことができたのだろうか。

 

 フォルセも満足し、ミレイも喜ぶ、それこそ“神の愛し子”が成すような救いを――

 

 

「どうしていないのよ、聖職者サマ……あ、ぁ、そうよ、あたしマナの扱い得意だから、こんな火簡単に消してあげられる……」

 

「っ? これは……!」

 

「だから見てて、聖職者サマ。必ず連れ戻す、そして救ってもらう、だってあたしの〈神の愛し子の剣〉だもの! う、ぅうぁあああ……!!」

 

 

 ミレイが再びマナを練り始めた。だが風ではない。火でもない。それは火の対極に位置する、清涼なマナ。その質量から察するに、烈風の槍と同等の力を持つ――多くの水を生み出す魔術。

 

 

「まだ……」

 

 

 フォルセの眼から諦念の色が消えた。

 

 

「まだ、終わらせはしない……!」

 

 

 その魔術の対象を確認し、フォルセは剣を構え直した。

 

 

「早く消さないと、火、火ぃっ……早く消えて!!」

 

「グ、ォオオオオオッ!!」

 

 

 術が発動する。ヘレティックが殺気を強めて咆哮する。

 

 フォルセの胸元に拳大の水の塊が出現した。――水が広がる、その直前、フォルセは剣を振るい、衝撃波を“ヘレティックに向けて”放った。

 

 「グオァッ!?」衝撃波によってヘレティックが怯んだ。同時にフォルセの全身を水が包み込む。地から足を離され、巨大な球となった水の中で湧き出す泡に何度も何度も殴打されながら、フォルセは息を止めて必死に耐える。

 

 バシャン! と水が弾け、最後の一撃をフォルセに与えて魔術が終わった。全身びしょ濡れになったフォルセが、力無く着地する――足が着いたその瞬間、フォルセは持てる全ての気力を振り絞り、駆け出した。

 

 向かう先はヘレティック――今度こそ浄化するため、弱った己を鼓舞するために、フォルセはミレイを利用した。

 

 

(濡れているから大丈夫、怖くない、怖くない怯えるな、

 ――平常心を、信仰心を、女神に倣った愛を保て!!)

 

 

 火への恐怖を誤魔化して、フォルセは左手を力強く翳した。

 

 

「フォトン!」

 

 

 全身にかけて走る痛みを無視し、光球を放つ。ヘレティックの防御などものともせず、光は爆ぜ、その腐った肉体を削り取った。

 

 怯んだヘレティックの懐に飛び込む。飛んでくる火の粉など問題ないと自らに言い聞かせ、

 

 「閃空裂破(せんくうれっぱ)!!」フォルセは剣を構え、横に回転しながら飛翔した。光球によって削れた場所をできうる限り正確に斬り裂き、空中に留まったまま、リージャを使いきるつもりで解放する。

 

 

「……っ、」

 

 

 フォルセの身体が、ミシリと軋んだ。

 

 

襲爪雷斬(しゅうそうらいざん)!!」

 

 

 刀身より広がる雷がヘレティックを焼く――重力に身を任せ、腐肉の肩から足までを容赦なく斬り裂いた。轟音のごとき咆哮が響くが、それ以上にフォルセの放つリージャが唸る。

 

 雷が、腐肉を繋ぐ炎を呑み込んでいく。それに伴いヘレティックの肉体は崩れかけ、もはや誰が見ても脅威とは感じられない。

 

 

「さあ……これで、女神の御許へ!」

 

 

 慈愛の戻った眼で見据え、フォルセは姿勢を低く構えた。

 

 

界脈(かいみゃく)……烈震往(れっしんおう)ッ!!」

 

 

 剣を振り抜き、全力の衝撃波を放つ。間髪入れずにもう一度――そして渾身の力をこめて、自身すらも容易く呑み込むほどの巨大な衝撃波を放ち、ヘレティックを吹き飛ばした。

 

 

「ガァアアアアッ!? ガ、ァアア、アア…………!!」

 

 

 腐肉を削りながら地面を転がり、ヘレティックは断末魔の叫びをあげ――瘴気の煙となって、消滅した。

 

 

 

***

 

 

「っう、う……はぁっ、はあっ……!!」

 

 

 ヘレティックの気配が完全に消えたことを確認し、フォルセは膝からガクリと崩れ落ちた。

 

 残ったかすかなリージャを封じ、痛みの余韻に呻きながらどうにかこうにか息を整えようとする。

 

 

(浄化、できた……こんな荒っぽい気持ちで申し訳ないけれど、どうか安らかに眠ってくれ……)

 

 

 ヘレティックの元の姿である少年を思い浮かべ、フォルセは密かに祈りをこめた。

 

 

(あとは……彼女だけ)

 

 

 荒く呼吸しながら首を動かす。フォルセの視線の先で、ミレイが脱力していた。――先程の魔術もそうだが、彼女はずっと中級クラスの魔術を連発していた。マナが切れるのも仕方が無い。

 

 

(早く動かねばならない……わかってる、でもこんな想いは初めてだ)

 

 

 あの少年――ヘレティックのように、ミレイも浄化しなければならない。けれども僅かな戸惑いが、その義務感を押し留める。

 

 

(……彼女が僕の救いを望まないとわかっているから、か)

 

 

 生かして救え、とミレイは言った。はっきりと、確かな意志をもってフォルセにすがったのだ。

 

 だからこそフォルセは戸惑う。気付いた――否、知ったうえで見過ごしてきた事実を改めて再確認したために。

 

 “女神の御許へ送ること”。それを異端が望んでいると、普段確信しているわけではない。

 

 現世での死が救いであると信じているのは――フォルセや、彼と志を同じくする者達。

 

 

(けれど、今ここで僕がやらなければならない。彼女が本格的に暴走して、誰かを襲うその前に。愛情も優しさも、全てが呑まれるその前に……!)

 

 

 ミレイの望みに反していると理解しながら、“いつか何処かで彼女が殺すかもしれない誰かを守るため”、フォルセは剣を持ち、立ち上がった――

 

 

 

 

 

 ころん。

 

 

「…………え?」

 

 

 視界の隅で何かが転がった。夜闇に紛れているそれが、差した月光できらりと光る。

 

 掌に乗せられそうな小さな球体。深淵を思わせる赤と黒が入り交じった、どことなく薄気味悪い小石大の――宝石。

 

 

「…………」

 

 

 フォルセは渇ききった喉をこくりと鳴らした。つい最近、もしかしたら見てまだ一日も経っていないのではないかとすら考えられるその宝石は、フォルセの五感から第六感までをがんがんと揺さぶってくる。

 

 十中八九、ヘレティックの死体から出てきたのだろうその宝石は、まるで意思でもあるかのごとく、フォルセに向かって転がってきた。

 

 

 “――終幕にあらず”

 

 

 聞こえたその男の声に、フォルセの喉がひゅっ、と鳴った。

 

 

 “――始まりすら、未だ。〈神の愛し子の剣〉が抜かれるまで夜は続く。定められた約束が果たされねば、

 

 夢と現の狭間は終わらない――”

 

 

 パキッ――軽い音をたて、宝石が真っ二つに割れた。割れ目から黒い瘴気がシュウシュウと鳴りながら立ち昇り、濃い煙の塊となっていく。

 

 

 フォルセの顔がゆっくりと歪んだ。目の前で起きている事象に得体の知れない不快感を覚え、警戒を顕に後退る。

 

 

 その時――瘴気の奥から、何かがぬうっ、と現れた。

 

 

「おにいちゃん、迷子?」

 

 

 既に懐かしく思える、その台詞。

 

 

「…………は、」

 

 

 フォルセが言葉を詰まらせたのも無理はなかった。瘴気の煙から現れたのは――ヘレティックとなって浄化された、あの少年の顔だったのだから。

 

 それが本来の色なのだろう。少年が、血色からは程遠い澄んだ瞳でフォルセを見た。

 

 

「ぼくね、おなかすいてるの」

 

「…………」

 

「ぼくがどうしておなかすいてるのか、どうして焼いたお肉食べてしたいのか。……わかったら、とってもうれしいよ」

 

「っ!? 待っ……!」

 

 

 少年はにっこり笑い、瘴気の奥へと再び消えた。フォルセのことを心から親しんでいるような、本当に無邪気なその顔が、フォルセの頭に焼きついて離れなくなる。

 

 

(……何が、起きた?)

 

 

 あまりの驚愕に思考が狂う。

 

 

(一体何が……起きている?)

 

 

 頭で鳴り響く警鐘が、フォルセの全身を冷やしていく。

 

 

 “――世界は未だ繋がらない。ノックスは望む、心底より燃え上がることを”

 

「っ……貴方はあの核の魔物ですか。グラツィオを焼き、僕達をこんな場所に飛ばし、そうしてまたあっさりと現れた……!

 ――お前は一体、何者だッ!!」

 

 

 フォルセは八つ当たりのように怒鳴った。未だに状況が掴めず、嫌な予感も意味のわからぬ事柄も増える一方――いくらフォルセと言えど、怒りを覚えずにはいられない。

 

 

 “――名を望まれたならば、返すことは道理”

 

 

 男の声は、存外素直に応えた。

 

 

 “――名はノックス。現在より千年の夜を戻る頃、者達によって“魔王”と呼ばれ、凍てつく封印を与えられたモノ”

 

「魔王……ノックス……!?」

 

 “――続行せよ、〈神の愛し子の剣〉を抜くために。ノックスの下へ世界を繋ぐために”

 

「っ、待て、まだ話は終わってない!!」

 

 

 急速に遠ざかっていく声に、フォルセは焦りを浮かべて叫んだ。

 

 が、無常にも声――ノックスは、耳を傾けてどうにか聞こえる程度の声量となっていく。

 

 

 “――阻むもの無し。黙示録は語り、者は語った。神である彼女が正しいのなら、〈神の愛し子の剣〉は燃え上がる――”

 

 

 名乗りはしたが、結局は好き勝手に囁いて――ノックスの声は、完全に消えた。

 

 

 宝石より噴き出していた瘴気が、ぶわりと霧散する。

 

 

「――ガァアアアァァアアアッ!!」

 

「なっ……そんな……!?」

 

 

 瘴気を払って現れたのは、全身から炎を噴き出す腐乱死体。

 

 

(……浄化しきった筈なのに、あの核……ノックスと同じ……!)

 

 

 何事もなかったかのように復活したヘレティックの姿に、フォルセは唇を震わせた。

 

 

(また浄化を、どうにか懐へ飛びこ……ああ駄目だ、怖い、それに減ったリージャが回復しきってない。このまま耐えて、機を見ないと、でもそれでは……)

 

 

 浄化せねばと思う一方で、身も心も逃げ腰だった。

 

 ミレイの魔術によって濡れた身体は、既に乾き始めている。状況と、飛んでくる火の粉から少しでも離れようと、フォルセの足は勝手に後ろへ行く。

 

 

「……わかった、火が足りないんだわ」

 

 

 聞こえてきた物騒な言葉に、フォルセは血の気を引かせて振り向いた。

 

 ミレイが切羽詰まった笑みを浮かべ、フォルセを通り越して何かを見ている。

 

 

「そうよ火……火よ。あの時だって沢山燃えてた。花とか沢山燃えて、聖職者サマがかっこよく戦ってた! アレがあれば……きっと聖職者サマも戻ってくる!!」

 

 

 ミレイの髪がふわりと揺れた。放心している間にマナが回復したのか、止める間もなく練り終わる。

 

 

「っ!? ま、まさか……」

 

 

 フォルセの肌がゾクリと粟立った。集まったそのマナの色は、気配は、先程彼が利用したものとは正反対。彼が無意識に感じている絶望を剥き出しにして、肥大化させる力。

 

 

「よしなさい……よせっ……!」

 

 

 復活したヘレティックも纏っている、最も忌避すべき熱が集束し、そして――

 

 

「早く戻ってきて! あたしの〈神の愛し子の剣〉!」

 

「っ、やめろぉおおおっ!!」

 

 

 ボウッ! 異彩な音と共に、夜闇が一気に照らされた。

 

 ミレイの上半身を隠すほどに大きく、ほんの僅か前にあの少年が放ったものと同じ。

 

 巨大な火球が現れ、そして制止も聞かず――放たれた。

 

 

「! うわあぁっ!?」

 

 

 眼前に迫った脅威に、フォルセは情けない悲鳴をこぼした。初めての訓練に立つ新兵のように剣を握り、己をかばうように身構える。

 

 けれども火球はフォルセもヘレティックも素通りして、その背後にある場所へと飛び込んだ。

 

 

 ――――

 

 その瞬間、フォルセの周囲から音が消えた。光景が消えた。何もかもからズルリと落ち、真っ暗闇にやって来た。

 

 

「――あ、」

 

 

 落ちる感覚が消えた。――視界が晴れる。音が来る。けれどもそれらは現実ではなく、フォルセが越えたと思い込んでいた過去の残滓。

 

 

 全てが燃え上がり、崩れていく。悲鳴が聞こえ、皆の心も身体も焼け朽ちていく。

 

 互いに焼いて、焼かれてを繰り返し――喰らっていく。

 

 ただ見ていることしかできなかった過去を再び見つめ、今にも爆ぜてしまいそうなほど震える身を抱え、

 

 

「あ、あっ……ぁああっ……!!」

 

 

 ――フォルセは、現実に戻ってきた。

 

 

 

***

 

 

 轟々たる爆音が鼓膜を焼く。豊かな緑を呑む赤が瞳を焼く。空気を伝う熱が肌を焼き、立ち昇る煙と光が空を焼く。

 

 あの広大な森が、燃えていた。

 

 もはや入り口すらもわからぬほどに燃え盛り、バキリバキリと木々を蹴落としながら四方八方へ広がっていく。

 

 

「っ、っ……ひ……、……!」

 

 

 何の覚悟も許されぬまま現れた炎の壁に、フォルセは拒絶の声も出なくなった。

 

 闇を裂き、偽りの夜明けをもたらしたその業火によって――フォルセの記憶も心も身体も、全てが惑い、震えてしまう。

 

 

「ガァアアアアアアッ!!」

 

 

 己の身から溢れるものと同じモノの出現に対してか、ヘレティックは荒々しく吠え叫んだ。

 

 が、フォルセは森を見つめたまま動かない。目を見開いているのに、近付いてくるヘレティックに警戒すらしない。それだけ、彼の思考が火とトラウマに埋もれているということだった。

 

 鋭利な鉤爪が振り下ろされる。天をも焦がす業火を背に、フォルセに仇なさんと腐肉が動いて、

 

 

「! 来るなぁッ!! ――!?」

 

 

 フォルセは必死の形相で雷撃を放った。使いきるつもり、なんて甘いものではない――かすかに残った全てのリージャを、ただ視界で動いたものに向けて考えもせずに出しきったのだ。

 

 

「グォオッ!?」

 

 

 雷撃がヘレティックの全身を呑んだ。何の狙いもなく、ただ反射的に飛ばされたそれは量の割に殺傷能力が乏しく、けれども運の良いことにヘレティックの身体を僅かの間痺れさせることに成功した。

 

 身体の痺れに対して苛立ったように吠え、ヘレティックはふらふらとよろめきながら腕を振り回す。鉤爪の分だけ長いその腕は――フォルセに当たることなく空を切り続ける。

 

 

「ぐ、ぅ! ……い、だい……あ、ぐぁああっ!!」

 

 

 フォルセは痛みに呻き、崩れ落ちていた。先程考えなしにリージャを出しきったせいで、彼の身体に走る痛みを抑制できなくなったのだ。禁呪を受け止めた時と同じように呻き、唸り、思考もできない状態を晒す。

 

 あんまりにも痛すぎて、火への恐怖すらもぶっ飛んでいることに、フォルセは気付かない。

 

 

「お、かしいわよ……」

 

 

 ミレイがつかれきった顔で、フォルセの背後に近付いてきた。

 

 

「ここまでしたのに戻ってこない……あたしが間違ってる? そんな、そんなハズない……」

 

「……ぐうっ……ぅ……!」

 

「もうこれしか残ってない……“わたし”が直接、あなたを迎えに行くのよ……!」

 

 

 ミレイはうっとりと笑った。フォルセの背へ倒れこむようにのしかかり、そのまま彼の胸倉を引っ掴んで起こし、鼻先がつきそうな近さで向かい合う。

 

 その手にはナイフが、投げるのではなく刺すために持たれていた。

 

 痛みで歪んだ神父と、暴走して歪んだ少女の顔が見つめあう。が、どちらも互いを見る余裕など皆無。

 

 

「さあ、戻って、わたしを救ってよ、聖職者サマ」

 

 

 血色に染まった瞳が笑い、フォルセではない――“ミレイにとって理想のフォルセ”を射抜いた。

 

 彼女の力でも難なく肉を突き破るだろう刃が、ゆっくりと埋められるその瞬間――

 

 

 

『えっと……だ、だから……死んじゃうのは、駄目よ』

 

 

 痛みで呑まれたフォルセの脳裏に、つい最近の過去が蘇った。

 

 看板が読めない、禁呪が無かったら読めてたのにな、などと言っていたあの時の。

 

 

『あなたが大丈夫でも、ちょっとでも危険なら駄目だから、しちゃいけないから……だからあたしは……その……』

 

 

 そんな言葉から繋がる、フォルセの身を案じる言葉。たとえ相手に対して複雑な心境でいようとも、大切ならば死を恐れ、拒絶する想いだけは変わらず伝えるその心。

 

 

 “いけない”

 

 

 フォルセの思考が勝手に動く。

 

 

 “彼女の手にかかってはいけない”

 “死を恐れる彼女にだけは……!”

 

 

 不意に落ちてきた思いのままに、痛すぎる身を叱咤した。

 

 

 

「っ!?」

 

 

 青い光が弾けた。何処かで見た、そう、禁呪を突然止めた光に似た、青い光が。

 

 その光の中にヴィーグリック言語を見た気がして、息を呑んだ者――ミレイは、焦点の合った空色の眼をぱちぱちと瞬きさせた。まるで目の前で大きな風船を割られたような心境だ。驚きで頭がとても重い。

 

 

「あれ……あたし、なにを……」

 

 

 直前までの記憶が見つからない。不安。とても不安。ならばどうするべきか。知ってる。思い出そうとすればいい。頭をうんうん唸らせて、それでも駄目なら周りをよーく見つめて――

 

 

「ミ、レイ」

 

「…………あっ」

 

 

 轟音をたてて燃え盛る森(得意な炎を飛ばして燃やした)、己の名を呼んだヒトの腕や足はところどころボロボロに切り裂かれていて(今の自分じゃ使えない筈の風槍が裂いた)、

 

 そして――己の手に今も握られているナイフを、逆に握り返す神父の手(真っ赤に染まったそれ、利き手だろう、よりにもよってどうして右手なのか)

 

 

「あ、あたし……あたしっ……!!」

 

 

 そんなつもりじゃなかった、なんて言い訳は通用しない。

 

 なんせミレイは覚えているのだ、自分が心底正しいと思って行っていたという事実を。

 

 

 それ以上傷付かないようにするためか、フォルセの右手がゆっくりと離れていった。

 

 彼らしくなくしかめた顔に、ミレイは泣きそうになった。痛いのか。痛いのだろう。怒っているのか。怒っているのだろう――

 

 

異端症(ヘレシス)って、」

 

「へっ?」

 

「戻れるのか」

 

 

 痛みと怒り――ではなく、痛みと“常識がいきなり覆されて”呆然としているのだと、ミレイは知ることができた。

 

 

「ッガ、ァアアアアッ!!」

 

 

 痺れの取れたヘレティックが、フォルセ達二人の状況を理解しているかのようにゆらり、ゆらりと歩いてきた。

 

 状況は絶望を極めている。フォルセのリージャは未だ回復せず、ミレイのマナとて似たような状態。唯一違うところと言えば、フォルセは全身痛みだらけで、ミレイは暴走から無事帰還した、ということだけ。

 

 それでも、フォルセは立ち上がった。血濡れの利き手ではなく左手で剣を持ち直してまで、ミレイを庇って向き直った。

 

 

「う……ぐ、っ」

 

「聖職者、サマ……こんな、あたしを守ってくれるの……?」

 

 

 あたしはなんてことを、とミレイは涙をぼろぼろ流す。

 

 けれどフォルセは気付かない――気付く余裕がなかった。身体は痛みに支配され、記憶はトラウマに囚われ、心は覆った常識に戸惑っている。

 

 ミレイを庇ってヘレティックと対峙するのも、頭の片隅に残っていた義務感ゆえ。

 

 誰を救いたいのか、誰を守るべきなのか――もう、わからない。

 

 

(浄化をせねばと誰かが言ってる。でも異端症(ヘレシス)が戻れるのなら……今僕がやろうとしていることに、)

 

 

 そんな心身で目の前の脅威を止めるなど、

 

 

(意味なんてあるのだろうか)

 

 

 無意味でしかなかったのだ。

 

 

 

 ――キィンッ!

 

 

「うっ!」

 

「っきゃあ!?」

 

 

 構えた剣は容易く弾かれた。

 

 フォルセはたたらを踏み、背に庇っていたミレイを下敷きにして倒れた。背中に確かな生の鼓動を感じながら、纏わりつく苦痛も忘却し、ただ目の前に迫る脅威に目をやる。

 

 

 咆哮する“何か”。メラメラと音をあげる熱い“何か”。

 

 

(ああ、からだがうごかないのがわかる……)

 

 

 現実から逃げたがる迷い子と同じ顔で、フォルセはぎゅっと目をつぶり、

 

 

 

 

 

 ――落ちる剣を、受け止める音が聞こえた。

 

 

 

***

 

 

 ――キィンッ!

 

 

 つい先程と同じ、けれど少しばかり違う音が響き渡った。

 

 

 メラメラと燃え盛る森、殺意を振りまくヘレティック――その更に手前で、鉤爪を受け止める“何か”が増えていた。

 

 まず目についたのは、肩を越すほどまでに伸びた見事な赤毛。火の中にあっても、その力強さを示すように靡いている。――一瞬、髪の毛の中で何かが光った。装飾品でも着けているのかもしれない。

 

 そして、目立つ髪の代わりのように地味な暗色のレザージャケットを羽織り、右手には何の装飾もない木の杖を持っている。

 

 一人の男が、そこにいた。フォルセの細剣を左手に構え、ヘレティックの鉤爪を器用に受け止めている。

 

 ガキィン! 男が剣を一閃し、鉤爪を押し返した。仰け反ったヘレティックに素早く肉薄し、横に回転しながら飛び上がる。一瞬で何度も腐肉を抉り取り、間を開けず、真白の雷を放って斬り下ろした。

 ヘレティックが断末魔の叫びをあげる。軽い動作で着地した男は、完璧としか言いようのない構えと動きで剣を引き、ヘレティックに向けて衝撃波を一度、そして二度、最後に特大のものを振り放った。

 

 「グォオオァアアアアッ!?」衝撃波によってヘレティックは吹き飛ばされ、燃え盛る森へと突っ込んだ。

 

 勢力を増すばかりの火と轟音が、ヘレティックの姿かたちを呑みこんで消す。それを見送って、どこかで見たような連携をこなした男はポキ、ポキと首を鳴らした。

 

 

「見た感じ、確かこんなんだったか? ……何かひとつ、抜けた気がするけど」

 

 

 剣使うのすげー久しぶり、と、男はのんびりと呟く。

 

 

「……にしても面倒なことしてくれたな。荷馬車まだ中に入ってんぞ。馬車はともかく御者が燃えそうだ。いなくなると流石に困るんだよな、俺も。

 ……、……はぁ? 別に心配なんかしてねーし! 盗み聞きすんな柔らか石頭!!」

 

 

 男は怒鳴りながら、フォルセの剣を地に刺し、右手に持っていた杖を構えた。

 

 

「……予定通り、試練に組み込む。巻き込まれないよう注意しな」

 

 

 ――その瞬間、場の空気は一変した。巨大な熱が傍にあるにも関わらず、いっそ冷たさすらも感じられるような、そんな空気に。

 

 

「な、なに……肌をチクチクされるような、変な空気。あの人……何をする気なの?」

 

「同じ……」

 

「せ、聖職者サマ……!」

 

 

 ミレイにもたれかかっていたフォルセが、天を見上げたまま呟いた。

 

 

「あの禁呪と……同じ気配……」

 

 

 

 男は杖を構えたまま、燃え盛る森をぐるりと見渡した。

 

 崩れ落ちる木々によって、煙と灰が舞い上がる。男の近くにも届いたが、男は気にすることなく力を収束させる。

 

 

「異端に焼かれし森から破壊の象徴に告ぐ。

 求めるは一時の消滅、天よりの再誕。我が声に耳を傾けよ、規律の()を断ち切りたまえ」

 

 

 研ぎ澄まされた“気”が男へ向かって一気に集い、

 

 

「――【ユシェル・バイツァル(yuciel,buyturl)】」

 

 

 暗色のエネルギー球となって、男の眼前に現れた。

 

 

「再誕命ずるは、〈神の愛し子の剣〉試練の場……エリスの神殿」

 

 

 抗うことを許さない声で命じ――男は杖を振り、エネルギー球を森へ向けて飛ばした。

 

 

(今のは……)

 

 

 炎の海から視線を外し、音だけを聞いてフォルセは思う。

 

 

(どこかで聞いた……いや、“読んだ”。今の術の名、もしかして……ヴィーグリック言語?)

 

 

 己にとって身近な言葉を耳で聞き、フォルセの思考に驚きが散る。

 

 

 凄まじい速さで飛んでいったエネルギー球は、渦巻く火や倒れる木々を器用にかわし、燃焼範囲のほぼ中心でピタリと止まった。おもむろにぎゅっと圧縮される――直後、エネルギー球は一気に爆ぜ、澄んだ闇となって拡散した。火を消すわけでも木々を癒すでもなくただ呑み込んで、ついには燃えている範囲全てを包み込んだ。

 

 そうして、闇は再び収束する――呑み込んだ全てを巻き込んで。

 

 

「う、うそ……」

 

 

 ミレイの唖然とした声が落とされる。

 

 

「森が……消えた……!?」

 

 

 爆ぜた闇が再びエネルギー球となるのに従って、燃え盛っていた森もまた跡形なく消えてしまった。

 

 

 

 

 

 遠くに鬱蒼と生い茂る森が見え、その手前には草一つ生えていない地面が現れた。燃え盛る森“だけ”が消し飛ばされたその光景は、現実味が無さすぎて非常に違和感がある。

 

 

「落ちてきたから借りたぞ? 結構使いやすい剣だなあ」

 

 

 森を消すなどという所業をなした男は、何事もなかったように振り返り、フォルセとミレイを見下ろした。地に刺していた剣を抜き、褒め称えながらまた突き刺す。

 

 

 大きな光源は消え去り、辺りは再び夜闇に包まれた。ゆえに男の顔は少しばかり見えづらく、ミレイは安堵と不安の入り混じった顔でおずおずと口を開く。

 

 

「あ、あなた、誰……?」

 

「あん? 俺? ああ、名乗るほどの者じゃねえけど、名乗んなきゃ面倒臭いよなあ。……俺、試練の審判役だし。関わらざるを得ないし。あっははは」

 

 

 ミレイに名を聞かれ、男は笑いながらしゃがみこんだ。ようやっとはっきり見えるようになったその顔を見て、

 

 

「……、えー……」

 

 

 ミレイは目に見えて引いた。その腕に抱き締める聖職者を盾に構えるほどに、引いた。

 

 男の黄金の瞳は確かに珍しく、フォルセと同年代ほどの顔立ちはだいぶ整っている。だが、それら全てを台無しにするほどに、男の目は“死んでいた”。生気も無ければやる気もない、声色が軽さと笑みを醸し出している分、余計にその目が目立つのだ。

 

 黄金なのに深遠とはこれ如何に。

 

 目の前の男を見ていると自分まで死んでしまいそうだと、ミレイは恩も忘れて思った。死にきった目から逃げようと、視線をうろうろさせる。――赤毛の中で、月光に照らされ何かが光った。目立たないそれ、桃色の花弁を模した飾りだ。

 

 

(あたしの花飾りと同じ……?)

 

 

 自身の帽子についた花飾りを思い、ミレイは目の前の男に若干の親近感を抱き、見つめ、そしてまた視線を逃げさせた。

 

 

「助けて、いただき……」

 

「お?」

 

「!? 聖職者サマ」

 

「あり、がとう……ございました」

 

 

 フォルセが、弱々しい声で礼を言った。リージャが徐々に回復しているのだろう――痛みの表情は僅かだが、疲労がだいぶ見えている。

 

 

「気にすんなって、ちょっとしたトラブルに対するちょっとしたフォローだから。おまけみたいなもんさ。これくらいはいいだろうよ」

 

 

 男の口角がきゅっと上がった。恐らく、彼は笑っているのだろう――気力皆無な瞳が、見る者の自信を失わせる。

 

 それでも、フォルセを見つめる視線はどこか柔らかいように、ミレイには感じられた。

 

 

「……にしてもまだ暑いな、むしろ熱い! さっさとここ離れるぞ。俺は荷馬車呼ぶから、お前はそいつをどうにかしとけよ」

 

「…………」

 

「最近の異端は返事もしねぇの?」

 

「……、えっ!? あたしに言ったの!?」

 

 

 わかんないわよー! と動揺しながらミレイは叫んだ。

 

 

「当たり前だろ! こんな弱った奴になんとかしろとは流石の俺もいつか言う時まで取っておくっての!」

 

「いつか!? いつか言う気なの!?」

 

「だって俺、試練の審判者だもん! 〈神の愛し子の剣〉候補に頑張って無理しろ、って言うのは至極トーゼンのことだろうが!!」

 

 

 男の主張に、ミレイは目を余計に見張った。

 

 

「〈神の愛し子の剣〉……!? あ、あなた、何を知ってるの!?」

 

「だーかーらー。そういう面倒なのは全部後で、時間できたら言うから。今俺、火事飛ばして疲れてんの。荷馬車呼ばなきゃいけない面倒を嘆いてんの。ホントは全部面倒くせぇの! ……わかるだろ?」

 

「わかるかぁあああっ!!」

 

「うるせーなあ、元はと言えば火事はお前のせいだろ! 試練に組み込むついでに尻拭いしてやったんだから素直に聞けってのー!!」

 

 

 己の所業を突きつけられ、ミレイはうっ、と黙り込んだ。

 

 

「……ふう。ま、良いや。もうそいつも限界みたいだし、名乗りと挨拶くらいはしてやんよ」

 

 

 男は唇でニイと笑い、胸を張って姿勢を正した。

 

 

「俺はハーヴェスタ、女神が創りし夢と現の狭間――ゲイグスの世界の住人。この世界で〈神の愛し子の剣〉に与えられる試練を見守り、助け、審判する者。

 ……名前呼びづらいだろ? 気軽にハーヴィって呼んでくれ」

 

「ハーヴィ? ……あなたが、〈神の愛し子の剣〉の試練……審判者?」

 

「ああ、よろしく。……ってわけだ。軽く挨拶も済んだことだし、今は安心して眠りな、〈神の愛し子の剣〉候補」

 

 

 僅かに愉悦を浮かべた金眼が、フォルセを見下ろした。

 

 その視線と、驚くミレイを背に感じつつ、

 

 

(気を抜いてはダメだ、信用できるかわからな……ああ、もう……ねむ)

 

 

 疲労によって気力を鎮火され、フォルセは糸が切れたように意識を失うのであった。

 

 

 




2015/09/07:完成
2016/12/22:加筆修正
2016/12/22:ハーメルン引越し


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Chapter14 惑い人の過去

 

 どうして違うのか。

 

 どうして同じなのか。

 

 あたしは何を望んでいたのか。

 

 わたしは何を望んでいるのか。

 

 

 ――もうわからない。

 

 夢と現の狭間だというのなら、いっそ全てを夢にして、少しばかりの悪夢として覚めてしまえばいいのに。

 

 

 ――。

 

 さあ受け入れよう、もう手遅れだ。

 

 無条件に自分を信じていられる時間は、手の届かぬ過去へと落ちてしまった。

 

 

 ほら、泣いていないで。

 

 顔を上げて。

 

 

 現実を受け入れなさいよ――愚かな“あたし”。

 

 

 

***

 

 

「聖職者サマ!? しっかりして!」

 

 

 眠るように気絶したフォルセを後ろから抱き締め、ミレイは悲痛の声をあげた。

 

 

(あたしのせいだ……)

 

 

 気を失う間際に見た、フォルセの放心しきった顔を思い出すだけで、ミレイの胸中に申し訳なさと心配が溢れんばかりに生まれる。

 

 

(どうしてあんな酷いことしちゃったの? どうしてあんな酷いことが言えたの? どうして……どうして、どうして――!?)

 

 

 状況どころか、自分の身に起きたことすらわからない。けれども、不安に流されてまた“暴走”状態になっては元も子もない――ただそれだけはわかるため、ミレイは泣き出しそうな眼へ必死に力をこめ、己にぐったりともたれかかる神父の身体を懸命に支え続けた。

 

 

「お前、どんだけ離れたとこにいんだよ!」

 

「ひゃ!?」

 

 

 突然の怒鳴り声に、ミレイは肩をビクリと揺らした。

 

 声の主たる赤毛は、ミレイへ背中を向けたまま宙を向いていた。その手に持っている木の杖で、苛立たしげに地面をガスガスとつついている。

 

 

「はあ? 巻き込まれないようにって言ったのは俺だって? そりゃあ言ったけど、逃げるにしても限度ってもんがあるだろうが。アルカディアっつったらここの前の前の前のゲイグスだぞ? ……ああ? 懐かしい? これがいわゆるホームシックかって? あっははは……

 ――うるせえさっさと来い!!」

 

 

 ドスッ! 大きな音をたてて木の杖が地面に突き刺された。盛大なひとりごとを終えた赤毛――ハーヴェスタは、はぁー、と溜め息を吐いて脱力した。

 

 

 現在、燃えた森とヘレティックだけが消えた森の前。

 

 ミレイは気絶したフォルセを抱え、ハーヴェスタが呼ぶらしい荷馬車を待っていた。

 

 ひとりで怒鳴る自称審判者に不審ばかりが湧いてくるが、一応は恩人。フォルセが眠っている今、嫌でも頼るしかない。精一杯の警戒と若干の軽蔑を眼に湛え、神父をぎゅうと抱き潰す。

 

 

「ったく、馬車が来るまで微妙に時間あるな…………おい、異端」

 

「な、なによっ!」

 

「そんなに強く締めたら、怪我に障るぞ。……特に脇腹」

 

 

 ――ほら、ぶっ刺さってただろ盛大に。ハーヴェスタは笑いながら振り向き、くるりと手を翳して、

 

 

「ヒール」

 

 

 治癒術を使った。ミレイが反応する間もなく、治癒の光はフォルセを包み、その身に刻まれた傷を一瞬で消し去った。

 

 

「……あっ」

 

 

 目に見えていた傷が消え――血濡れの法衣に隠れていたものも癒えたのだろう、フォルセの呼吸が少しばかり穏やかになった――ミレイは、安堵の混じった複雑な表情を浮かべた。ぎゅっと唇を噛み締める。悔しい、ハーヴェスタがその気になれば、ミレイは抵抗もできずに攻撃されるのだと知れた。

 

 そして、別の意味でもミレイはフォルセを守れない――けれど、わかっている。無いものねだりをしても意味がないのだ。

 

 法術が使えれば、ハーヴェスタではなく自分がフォルセを癒してやれた。いやそれ以前に異端症(ヘレシス)ですらないのだから、ミレイが彼を傷つけ、森を焼き尽くすことだってなかったに違いない。

 

 わかってはいるが、だからといってフレイヤ教に入信したいとは思えない。法術のために神を信じるなど、それこそ今己が抱き潰していた聖職者の気を悪くするだろうとミレイは思う。

 

 

「リージャ使いまくって戦ってたお蔭だな、脇腹も半分くらいは塞がってた。出血は多いし瘴気も取り込んでたけど……ま、安静にしてれば問題ないさ」

 

「……そう、よかった。でも聖職者サマ、禁呪のせいで法術使えないって言ってたのに……もしかして、あたしが異端症(ヘレシス)だからウソ、」

 

「そんな嘘ついてどーすんだよ。リージャ無しで戦うのだって楽じゃねぇのに。……見たところ、法術使えなかった原因は体内マナの損傷だな。全身余すとこなく痛いから、リージャで抑制してたんだろうよ」

 

 

 自分もあまり詳しくないけどと前置きして、ハーヴェスタは体内マナについて少しだけ語った。

 

 体内マナというのは、その名の通り人体を流れるマナのことだ。マナは第二の血とも呼ばれ、血管にも似た道を通って常に体内を巡っている。フォルセの場合、それが禁呪によってぶつ切り状態にされたらしい。体内のあちこちでマナが滞り、溜まっているために、身体が尋常でなく重いのだ。

 

 更に、マナは普段から頻繁に入れ替えているほど――つまり、術として使用しているほど、身体神経に絡まるように巡り出す。魔術師だけでなく、マナを還してリージャを得る法術師も同様だ。フォルセも当然そうである――ゆえに、溜まったマナは彼の神経を直接抉り、酷い痛みの原因となっていた。

 

 本来ならもがき苦しむしかないその激痛を、フォルセは僅かなリージャで抑え、麻痺させていたのだが――本人が眠っている今、それが彼の意志とは無関係に働いていたことを、ミレイもハーヴェスタも知ることはなかった。

 

 

「それじゃあ聖職者サマは、自分の痛みよりもあの子の……浄化を優先したってこと?」

 

 

 法術を使ったということは、そういうことだ。容赦なく少年を殺そうとしたフォルセの自己犠牲に気付いて、ミレイは己の行動にますます後悔を覚える。

 

 フォルセが銃を持った時に邪魔をしなければ。少年はあのような化け物になることなく生を終えたのだろう。死ぬのは怖い、けれどあんな姿になってまで生き長らえるなど――流石のミレイも、正しいとは思えない。

 

 

「さぁな、気になるなら本人に聞けよ。……やっと来たか」

 

「ふえっ? ……んきゃあっ!?」

 

 

 ――ドシンッ! 重量感のある落下音が突如鳴った。心臓が飛び上がるほど驚いたミレイは、力の限り抱き潰したフォルセを盾に、その正体に目をやる。

 

 

「って……馬くらいつけとけよ、怪しいだろ」

 

 

 「馬?」ジト目になったハーヴェスタのぼやきに、ミレイは疑問を覚え――そして同意した。ハーヴェスタと同じようにじっとりと眼をしぼる。視線の先に現れた物があまりにも、奇怪だったからだ。

 

 音の出所に、一台の馬車が鎮座していた。中に数人ほどの人間が乗れる箱型のもので、上には大量の荷物が無理やり乗せられている。森でフォルセが言っていたように、扉の横には橙の光を帯びたランタンが揺れており、大きな四つの車輪が箱を均等に支えあっている。

 

 ――が、その荷馬車には、肝心の動力たる馬が一頭たりとも存在していなかった。箱の前方部に背の低いローブの御者がちょこんと座っているだけで、更にその前にいる筈の、移動力である筈の馬はどれだけ目を凝らしても見当たらない。

 

 

「な、なんで馬、いないのよ。それよりどっからやってきたの、この荷馬車」

 

 

 御者の手に持たれている乗馬用の鞭は何なのかと、ミレイは現実逃避ぎみに考えた。

 

 

「馬は遅いので捨てた。馬はアルカディアで牧草を貪っている」

 

 

 小さな御者が、ローブの奥で口を開いた。平坦な声色だ。顔も体格も見えないために、性別も年齢も窺い知ることができない。

 

 

「馬車は急げと言われたから急いだ。可哀想な馬は急ぐために捨てられたのだ。急げと言ったのは……」

 

「あーはいはい俺だよ俺! 俺のせいで馬いねぇの! わかったからさっさと馬出せ! こえーからそのまま走るな!!」

 

「ハーヴィは怒っている。可哀想な馬だ」

 

 

 怒鳴るハーヴェスタに無表情な言の葉を向けて、御者は鞭をひと振りした。パシンッ、とやや軽い音が響いたかと思えば――次の瞬間、御者の前に、二頭の馬がブルブルと鼻息荒く現れた。

 

 

「……? うえぇっ!? う、馬っ、えっいつのまに、なんで!? どうやって!?」

 

「よし、ちゃんと“荷馬車”になったな!」

 

「ちょっと! なんで納得するのよ!?」

 

「うるせーな、ゲイグスの世界じゃこれがフツーなの! いいからさっさと乗れ!」

 

 

 中で寝てていいから、とハーヴェスタは言い捨て、ミレイの腕からフォルセをひょいと抱き上げた。そのまま器用に扉を開けて荷馬車に乗っていく。粗暴なのか優しいのかわからない男である。

 

 その背を呆然と見送ったミレイは、頭をくらくらさせながら立ち上がった。

 

 

(い、いったい何なのよ……この世界!)

 

 

 未だ眠りについている神父に、早速助けを求めたくなったが――残念ながら、既に馬車へ運ばれた後である。

 

 

(……これ、ホントに着いていっていいのかしら。審判者っていうのがウソだったら? あたし、また何か間違えちゃったりしない?)

 

 

 唐突に不安になってきた。何もかもが疑惑で満ちているように感じられる。周りのもの全て、そして何よりも自分自身が信じられない。

 

 

(聖職者サマ……ああダメ、聖職者サマに頼っちゃダメ。あんなに傷付いてるヒトに、これ以上酷いことしちゃ、ダメなのよ……)

 

 

 不安を胸にとぼとぼ歩き、荷馬車の扉の冷えた取っ手を掴んだその一瞬――ミレイは、変わり果ててしまった森へと恐る恐る視線を向けた。

 

 もえさかっていた森はおかしな形に切り取られ、手前の地面には戦闘の痕跡が色濃く残っている。酷い有様、まるでミレイを責めているようだ――否、実際そうなのだろう。森から出たばかりの記憶を思い出すほど、ミレイの頭はズキズキと痛み出す。

 

 

(うう、思い出すだけで頭イタイ……。〈神の愛し子の剣〉とか黙示録とか……信じてたこと自体、なんだか夢だったみたいにはっきりしない。

 どうしよう。聖職者サマ、せいしょくしゃさま……起きたら絶対、怒るわよね……)

 

 

 痛みから逃れたいと、腰に提げているレムの黙示録にそっ、と手を触れる。が、期待していた安心感は得られず、無機質な革の感触だけが指先から伝った。ザラリとした真白の経本。今はどうしてだか気持ち悪い。

 

 

「おい、いたーん……異端! 早く乗れってーの!」

 

「う、わかってるわよ!」

 

 

 償う方法なんてわからない。今のままでは“ごめんなさい”すら言えそうにない――そんな風に思うほど、ミレイの芯はあやふやになっている。

 

 〈神の愛し子の剣〉どころか自分すらも信じられない心境で、ミレイは不可思議な荷馬車の中に、その重い足をゆっくりと乗せた。

 

 

 

***

 

 

 荷馬車はあっという間に辿り着いた。時間にして、体感的には長針が一周ほどだろうか。いつまでも夜空が帰らぬ現状では、時間の経過などはっきりとはわからない。

 

 煉瓦で作られたアーチ状の門を潜り抜ける。石造りの道が続く先、白壁ばかりの民家がポツリポツリと、場所によっては敷き詰められるように建っている。これといって特徴もなく、強いていうなら見渡す限り赤い屋根。唯一、西側の高台に見える大きな屋敷だけは例外だが――裕福も貧困も感じられず、やや黄色みを帯びた壁はどれほど時を経ているのか想像させない。

 

 エリュシオン。あの少年の口からも聞いた名の町。確かフォルセは「変わった名だ」と呟いていた。目覚めたら理由を聞いてみたいと、ミレイは荷馬車から降りつつ思う。

 

 

「試練とか俺のこととか、聞きたいこと沢山あるだろうけど。それはこいつが起きてから一緒に説明する。だからもう少しだけ待ってな」

 

 

 背負ったフォルセを指しながら、ハーヴェスタは言った。荷馬車の中でもこの調子だったため、ミレイは諦め顔で頷く。

 

 

「ただ先にこれだけ教えとく。……このゲイグスの世界は試練のための場所。ここで起きることは全部〈神の愛し子の剣〉のための出来事だ」

 

「……、あの子がば、化け物になったことも? あたしが森を燃やして、聖職者サマを傷つけちゃったことも?」

 

「そ。猪突猛進ぎみのお前が自分不信になって止まってることも、全部な」

 

 

 口角だけをにい、と上げた笑みに、ミレイは心臓を鷲掴みされたような気分になった。泥のような金眼が、今は磨きあげられた鏡のようにも見え、思わず逃げ腰になる。

 

 

「あ、あなた。ホントに試練の審判者……〈神の愛し子の剣〉に関係するヒトなのよね? 信用しても、イイのよね?」

 

「それ俺に聞くかフツー? はぁ、これだから異端は面倒なんだ……暴走してないだけ、いいのかもしんねぇけど」

 

「暴走……聖職者サマも、そんなこと言ってた。ねえ、一体何のこと? あの子みたいなことを言うの? あたしがなったような、心も身体もいうこと聞かないような状態のことを言うの? 化け物になっちゃうことも、」

 

「あーうっせえ! 疑問系を何度も飛ばすんじゃねぇよ! ……そんなに知りたいことあるんなら、見て回れば?」

 

 

 ハーヴェスタは心底迷惑だ、と言わんばかりの顔で、けれどもミレイを真正面から見つめて答えた。

 

 

(あ、わざわざこっち向いてくれた。聖職者サマ背負って大変っぽいのに。……なんだか聖職者サマみたいだわ。やっぱりいい人、なのかしら)

 

 

 口調や態度のわりにどこか親切。背負うフォルセを気遣う様も丁寧この上ない。信用していいのか。疑い続けるべきなのか。ミレイは困惑するばかりである。

 

 

「見て回るって……この町を?」

 

「ああ、ここはゲイグスの世界にある町だからな。〈神の愛し子の剣〉やその協力者のため、力になる情報をわんさか用意してるのさ。

 ……だから、頭からっぽのお前でもちょっとは役立つことを詰められるんじゃねぇの?」

 

 

 ――訂正。目の前の男、やはり悪い相手である。

 

 

「ちょ……頭からっぽってどういう意味よ!」

 

「どうもこうも言ったまんまだってーの。それくらいわかれよ!」

 

「何を、どう、わかれって言うのよ!」

 

「はぁ? だってお前、………………ぇ?」

 

 

 怒鳴りあいが突如止んだ。ハーヴェスタは真顔でまじまじとミレイを見つめ、危うくフォルセを落としかける。

 

 

「……な、なによ」

 

 

 死んだような目。そのくせ送られる視線はミレイをきつく責め立てるような色を帯びている。怯えながら窺えば、ハーヴェスタの両肩がガクリと落とされた。その背に乗っかる金色が一緒に揺れる。耳の近くで煩かっただろうに、フォルセは目覚める気配すら見せない。

 

 

「……お前、自分のことこいつに言ってねぇの?」

 

「あたしのこと? 失礼ね、ちゃんと言ったわよ」

 

「あっそう、なんつったの」

 

「何って……あたしはミレイ、レムの黙示録の正当な所持者よ! って、グラツィオで」

 

「自己紹介じゃねーかそれ。……他には?」

 

 

 「ほかぁ?」ミレイは首を傾げた。他に言うことなどあっただろうか。性別は見ての通り。年齢は言っていないが、十五、まあ見た目通り。異端症(ヘレシス)、土壇場で言った。

 

 

「まさか、気付いてない?」

 

 

 金色の眼がどろんと揺れた。呆れを滲ませ、どうしてだか唖然としている。

 

 

「……あのさ。お前どこ住み?」

 

 

 ほんの一瞬の沈黙を経て、ハーヴェスタは口調だけ軽く聞いてきた。

 

 

「え、いきなりなに」

 

「いいからさ、もったいぶらずに教えろよ」

 

「もう何なのよぉ……どこってあたしは、……、んん?」

 

 

 「あれ?」ミレイの脳裏に闇がやって来た。何もない。何も浮かばない。何をしている。どこそこ出身のミレイです、だとか元気良く答えればいいだけの話じゃないか。なのにどうして口が開かないのか。何も言葉が出てこないのか。

 

 ミレイの顔から血の気がすうっと引いていく。

 

 

「お前の家族ってどんなヒト?」

 

「…………」

 

「お前の救いたい“皆”ってどんなやつら?」

 

「……」

 

「お前の昔って、どんなだった?」

 

 

 何も答えが、浮かばない――!!

 

 

「ど、」

 

「あ?」

 

 

 ミレイは切羽詰まった顔で目の前の胸倉を引っ掴んだ。

 

 

「……どうしよぉおおおおっ!! ねぇっハーヴィっ、あたし、なんにも憶えてない!! おぼえてないのよぉおおおっ!!」

 

「うわ!? ちょおっやめろ! 揺らすな! 落とすっ、落とすぅっ、〈神の愛し子の剣〉候補落としちゃうのぉおおおおっっ!!」

 

 

 がくがくと揺さぶられ、ハーヴェスタから絶叫が漏れる。一緒に神父も揺れる。落とすまいと神父の腰と臀部を鷲掴んだハーヴェスタはきっと一番頑張った。

 

 

「これっ、あたしアレよね!? アレ、ききき、き、きお、きおく……!?」

 

「だああああっ! 揺らすなっつってんだろーが頭からっぽオンナぁあああ!!」

 

 

 この瞬間――ミレイは、自身が“記憶喪失”であることを理解した。

 

 

 

「んっ……ぐ、ぅ……」

 

 

 喚き声の中、苦しげな呻き声が聞こえた。ミレイとハーヴェスタはピタリと動きを止め、同じ方へと視線を向ける。

 

 双方から見つめられたフォルセはやはり目覚めることなく顔をしかめ、ハーヴェスタの後頭部にゴツンと頭をぶつけた。

 

 

「……つまり、だ」

 

 

 小さな声で、ハーヴェスタが仕切りなおした。

 

 

「お前が今気付いたってことは、当然こいつも知らないわけだよな? ……お前の記憶喪失のこと」

 

「う、うん……だってあたし、自分が記憶喪失だなんて思いつきもしなかったのよ? っていうかよく考えたら、グラツィオまで船で来たのは憶えてるけど、それより前のことは全然思い出せない……。

 っ! もしかしてあなた、知ってたの? あたしも気付かなかったのにどうして?」

 

「いや俺、試練の審判者だし。異端……お前の存在に気付いた時点で、どういう状態かは探らせてもらってた」

 

「し、審判者ってそんなこともわかるんだ……驚いたわ。さっきは疑って、ごめんなさい」

 

「俺は、今の今までお前が気付かなかったことの方が驚きだよ……」

 

 

 「こいつもこいつでおかしいと思わなかったのか?」ハーヴェスタからフォルセへ向けられる分の呆れまでも受け、ミレイはむぎゅう、と唸った。

 

 

(気付かなかった、っていうより……考えるの、避けてたのかも)

 

 

 ふと思い出したのは、森でレムの黙示録に文章が刻まれた時のことだ。あの時文章を解読したフォルセは、ミレイがヴィーグリック言語を読めないことを不思議がっていた。

 

 ミレイもまた、不思議だった。最初の文はわかったのにどうして読めないのかと。ただそれ以上踏み込まれるのがどうしてだか怖くて――不審に思われるのを承知の上で、大慌てで誤魔化したのだった。

 

 

(もしもあの時、勇気を出して相談していたら……森で感じた不満をもっと早く口にしていたら……何か、変わっていたのかしら)

 

 

 今までどうとも思わなかった些細な出来事。その全てが、重大な分岐点だったように感じられる。ミレイ自身が気付かなかった事柄を悔いても仕方がないのだが――取り返しのつかないことをしてしまった今、どうしても後悔せずにはいられない。

 

 

「ま、気付かなくても仕方ないか。異端ってのはそんなもんだ」

 

「……どういうこと?」

 

異端症(ヘレシス)ってのは、あるひとつの事柄に対する感情が尋常じゃなく強いんだよ。『あのヒトに恋してる、もうあのヒトのことしか考えられない……!』なーんてのとは比べものにならないくらい、求めるもの以外への思考力が低下する。その分、体内マナは大きく活性化するとも言われるけどな」

 

「あたしは黙示録のことばかり考えてたから、自分の記憶喪失にも気付かなかったってこと?」

 

「そういうこったな。ま、お前はまだいい方だよ。んで、異端症(ヘレシス)の暴走とかも結局はそれが原因なんだけど……って、あっははは。これ以上は、教えてやんない」

 

「……、へ?」

 

 

 気の抜けたミレイを他所に、ハーヴェスタはにんまり笑ってフォルセを背負い直した。

 

 

「俺はあくまで審判者。ちょっとは助けてやるけど、探して見つかるもんを簡単に与えるようなことはしねぇよ。知りたいなら、自分の足で探してきな」

 

「さ、探すって、一体どこでどうやって」

 

「言ったろ? ここはゲイグスの町エリュシオン。〈神の愛し子の剣〉やその協力者のため、力になる情報を用意してるって。

 ――んじゃまたあとで、こいつのことは心配しなくていいから精々頑張りなー」

 

「あっ! ちょっと、待ちなさいよっ……ハーヴィ!」

 

 

 ハーヴェスタは愉悦を口元に帯びたまま、フォルセを背負って町の中へと行ってしまった。

 

 

 

「あー……いっちゃった。聖職者サマ、連れてかれちゃった」

 

 

 「どうしよう……」ミレイは途方にくれた。またあとで、と言ったからには迎えにでも来てくれるのかもしれない。とはいえ、見知らぬ場所でひとりにされるのは、とてもつらい。

 

 知りたいなら探せ、とハーヴェスタは言ったが――闇に静まり返った町、一体何処に情報など転がっているのか。

 

 

「黙示録所持者は困っている。ハーヴィは不親切な馬だ」

 

「ひえっ……! あ、あなた、まだいたんだ」

 

 

 荷馬車の御者だ。ミレイは肩を揺らして驚いた。忘れていた。荷馬車は未だ、その場に残っていたのだ。先ほど散々喚き散らかしたことを思い出し、今更ながら恥ずかしくなる。

 

 

「エリュシオンで起きている事柄は今ない。だが起きた事柄はある。名残がある。黙示録所持者は行くべきだと推奨する」

 

 

 御者が、思わず右から左に流しそうになる声色で告げた。

 

 

「えーっと……この町で、何かあったの?」

 

「母親が殺された」

 

「っ!? あ、なたの……?」

 

「違う」

 

「え」

 

「幼子の母親が殺された」

 

 

 喋り方があまりに独特だ。跳ねた心臓を抑え込みながら、ミレイは少しだけ恨みがましく御者を睨む。

 

 けれども何かがひっかかる。殺された。母親が。誰の。幼子の。

 

 

「幼子は名をクルトという。東だ。向こうの道だ。今は町長が管理している」

 

「ここの町長さん? って……ちょっと、待って! あなたもどこか行っちゃうの!?」

 

「荷馬車はあちらの門に置く。レムの黙示録に願うなら所持者は行くべきだと推奨する。

 覚えておくといい『黙示録所持者は全てを通す』。ディーヴは御者、ディーヴは頼れる御者――」

 

 

 言うだけ言って、御者――ディーヴは、町の反対側にある門へと荷馬車を走らせ去っていった。

 

 

 

 いよいよひとりになった。ミレイは不安な表情を隠さず、呆然と立ち尽くしながら考える。

 

 

「殺された……クルトって子のお母さんが。……、誰に?」

 

 

 予感はある。つい最近、母親の料理をいとおしげに語った少年に会ったからだ。異形と化したあの子と関係があるのか。あの子こそがクルトという幼子なのか。もしもそうであるのなら、一体どんな悲劇があって、子が母の血に濡れなければならなかったのか。

 

 

「行くの、こわい。……でも、あの子がホントに異端症(ヘレシス)なら。クルトって子を知ることがあたしの知りたいこと……知らなきゃいけないことに繋がるかもしれない。それにハーヴィの言う通りなら、〈神の愛し子の剣〉……聖職者サマのためになるかもしれない」

 

 

 この世界で起きることは全て〈神の愛し子の剣〉の試練のため。

 この世界にある情報は全て〈神の愛し子の剣〉とその協力者の力となる。

 

 ハーヴェスタの言葉を信用するのなら――行く以外に、選択肢は無い。

 

 

「……行ってみよう。自分で決めて進むのは怖いし、自分のこと全然わからなくなってるけど……ひとつくらい、何かがわかってから謝りたいもの」

 

 

 ほんの少しだけ、勇気を出して一歩を踏む。眠る神父を脳裏に浮かべ、ミレイは震える足を叱咤し、夜の町へと歩き出した。

 

 

 

***

 

 

 目的の家はすぐ見つかった。周囲に建つ赤い屋根の家と変わらぬ外観だったが、近付くにつれ、異常なほど濃厚な血の臭いが漂ってきたからだ。

 

 二階建てのこじんまりとした家。クルトという幼子の母が殺されたらしい、悲劇の場所。

 

 錆びた鉄を思わせる温い風が、ミレイの鼻先を掠めていった。

 

 顔をしかめながら歩を進めていくと、家の前にひとりの壮年の男性を見つけた。憂いの表情を浮かべ、法衣を身に纏うその姿は、どこかフォルセに似ている。

 

 

「あのぉ……」

 

「おや、こんばんは」

 

「こんばんは。あの、あたし……レムの黙示録を持ってて、ディーヴって御者さんに言われてきたんだけど……」

 

 

 “黙示録所持者は全てを通す。”

 そうディーヴに言われたことを思い出しながら、ミレイは恐る恐る話しかけた。

 

 男性は驚くことなく優しく笑った。

 

 

「黙示録の方でしたか。ええ、ええ大丈夫、そのように怯えずともよろしいですよ。ディーヴのおっしゃった通り、ここが貴女の来るべき場所です」

 

「ありがとう。……あなたが、町長さん? なんだか聖職者サマ……あたしの知ってる神父サマみたいな格好ね」

 

「フラン=ヴェルニカ教団では司祭位を賜っております。ですがこのゲイグスの世界では、今だけエリュシオンの町長です」

 

「……、へ、へえー聖職者サマと同じ司祭サマなんだ。というか現実のヒトなのね、あなた」

 

 

 このゲイグスの世界では、と。まるで当然のように言う。もはや驚きを通り越して納得してしまった。いちいち突っ込んでいてはキリがなさそうである。

 

 

「名をペトリと申します。こちらとそちらの世界では、どうぞよしなに」

 

 

 優しさ溢れるその笑みに、ミレイはじんわりと安心感を覚え、素直に頭を下げた。

 

 

(聖職者サマみたいに優しいヒトで良かった。そういえば、あたし聖職者は怖いって思ってたけど……これ、記憶を失う前の感情なのかしら)

 

 

 思えば、怖いと思う根拠が無い――憶えていない、と言うべきだろうか。つくづく感情だけで行動していたのだと、自分のことながら呆れかえる。

 

 

(いいわ、前のことより今のことよ。で、このヒトなんて呼ぼうかしら……)

 

 

 軽い挨拶を終え、ペトリに対する呼称を暫し悩む。司祭だけど町長。ならばこちらの世界に合わせるべきか。

 

 

「じゃあ、町長さん。クルトって子のお母さん……殺されちゃったって聞いた。誰がそんなことしたのか、教えてもらえる……かしら」

 

 

 行くべき、来るべきだと言われたのだから、知ることを恐れるわけにはいかないのだろう。普通なら聞くことを躊躇する事柄を、ミレイは意を決して尋ねた。

 

 ペトリは意外にも――この世界ではそうでもないのか――不躾な質問を気にすること無く、ほう、と憂いを吐いた。

 

 

「……とても、凄惨な有様でした。子が母を手にかけることですら、信じられぬというのに……」

 

「やっぱり……クルトって子が、やったのね」

 

「ここが長い夜に入ってからの出来事です。目撃した者によれば、あの子は母を手にかけてすぐに町を出たようで……」

 

「誰も追わなかったの? ……あっ、ご、ごめんなさい。そんなの、怖くて追えないわよね……」

 

「いえ、森にはハーヴィもいましたし。こちらも変更の相次ぐ試練の準備に入っていましたので。誰も追いはしませんでした」

 

 

 試練の準備。思わぬ返答に、ミレイはポカンと口を開けきった。優しい、まるで聖職者サマのよう――そう思い始めていた目の前の人物が、急に不気味に感じられる。

 

 

(あ、あんまり考えないようにしよ……ここは、不思議なゲイグスの世界。現実とは色々違うんだわ……)

 

 

 身体の中心からブルリと震え、ミレイは引き気味の思考を振り払った。今は森の出口で会ったあの子、そしてクルトという幼子のことを知るべきだ。怯えを滲ませながら質問を続ける。

 

 

「あたし、聖職者サマと一緒にその子に会ったかもしれないの。その……おにいちゃんを捜しに来たって言ってたわ。クルトって子におにいちゃん……兄は、いたのかしら」

 

「そう歳の変わらぬ兄がいたと聞いております。確か今は、父親と共に森へ仕事に行っているとか」

 

 

 森にヒトがいる。ミレイはサッと青ざめ、自身の手で燃やした範囲からは逃れたことを祈りながら、話を続ける。

 

 

「その子もまだ子供なのに……仕事?」

 

「活発な子らしく、将来は父親の跡を継ぐようですよ。……すみませんね、私はエリュシオンの町長ですが、現実では遠い地の司祭なので……あまり詳しくは知らないのです」

 

「そ、そうなんだ……ううん、気にしないで。ありがとう」

 

 

 妙なところで現実と混ざっているらしい。新たに増えたゲイグスの不思議を気にしないようにしながら、ミレイは疑惑を確信に変えた。

 

 

(やっぱり、あの子が“クルト”なんだ……! でもあの子、赤毛のおにいちゃんを捜してるって言ってたわよね。赤毛っていったら、ハーヴィが思いつくけど……)

 

 

 見事な赤毛を靡かせるハーヴェスタだが――流石に、クルトと歳が変わらないなどと言える見た目ではない。

 

 

「偶然、ハーヴィと同じ赤毛のおにいちゃんなのかしら」

 

「いいえ」

 

 

 ペトリが思いもよらぬ早さで反応した。驚くミレイに、彼は憂いの欠片も見えない薄い笑みを浮かべる。

 

 

「混ざっているだけです。“おにいちゃん”を捜しに出た現実と、ハーヴィに関する記憶が」

 

「記憶が混ざる……? でも、自分のおにいちゃんのことよ? そんなこと簡単に起きるわけ……」

 

「夢と現の狭間ではよくあることなのです。それにあの子は異端症(ヘレシス)ですから、普通と違うことが起きてもおかしくはないでしょう」

 

「!? へ、異端症(ヘレシス)……だから……?」

 

 

 異端症(ヘレシス)だから、記憶が混ざる。心が爆ぜる。身体が異形と化す。

 

 ミレイは頭をガツンと殴られたような衝撃を受けた。異端症(ヘレシス)とはそれほどまでに異常なものなのかと、己の無知を深く呪い、そして恐れる。

 

 

「カミサマを信じてないだけで、どうしてそんなことになるの? 信仰心なんて、そんなすぐ持てるものじゃないのに……」

 

「貴女の疑問に、私は答えることができません」

 

「ど、どうして!? 聖職者サマと同じ神父サマなんでしょ? 異端症(ヘレシス)のこと……もっと知ってるんじゃないの!?」

 

「貴女の疑問に、私は答えることができません」

 

「っ、っ……ハーヴィは、〈神の愛し子の剣〉とその協力者の力になる情報が、この町にあるって言ってたわ。それでも教えてくれないの?」

 

「貴女の疑問に、私は答えることができません。……私の役目は、ここで試練の者をお出迎えすることなのです」

 

 

 柔らかな笑みが今は鉄面皮のような重圧を秘めている。ミレイは絶句した。フォルセに感じた壁どころではない、どう足掻いても無理なものを、ペトリの笑みから感じ取った。

 

 

(このヒトは、本当に役目以上のことをしない。……ううん、“できない”。そんな気がする)

 

 

 水のマナが火の魔術を構成できないように。ペトリもまた、ミレイに対して答えることができないのだ。

 

 

「……わかったわ。納得できないけど、この世界の不思議がまたひとつ増えたってことにしとく。

 それじゃあ町長さん、質問を変えるわ。クルトと異端症(ヘレシス)のこと……両方知ってるヒト、誰かいないかしら」

 

「ええ、いらっしゃいますよ」

 

「っ! ……ホントに?」

 

「クルトの母親はこの家の中で亡くなっていました。今……専門の騎士が調べております」

 

「専門……そのヒトが?」

 

「ヘレティック討伐を任務とする部隊の方です。クルトの父親の護衛についていましたが、此度の惨事を受け、おひとりだけこちらに」

 

 

 生温い臭いの強い入り口を指して、ペトリは和やかに笑んだ。

 

 

「異端に関してどうしても知りたいのであれば、彼にお聞きすると良いでしょう。……いってらっしゃい、貴女に女神の御加護がありますように」

 

 

 

***

 

 

 ミレイは恐怖で凝り固まった顔で、扉を開けた。ギイ、と蝶番の音がやけに大きく響き渡る。暗い。もわりとした重い空気に眉を寄せ、血の臭いに耐えながら息を吸う。酸素が少ない、なんとなくそう感じた。

 

 この家は四人家族らしい。父と母、二人の兄弟。その数に見合った質素なテーブルと椅子が視界の中央に位置し、その更に奥を見れば使い慣らされたキッチンがあった。食事時だったのか、テーブルの上には二人分の食事が中途半端に用意されている。――皿からパンが転がり落ちた。ビチャッと水音が鳴る。まだ乾いていないようだった。

 

 バケツをひっくり返したように濡れる赤い床と、散乱した食器や食べ物さえなければ。平穏漂う民家のひとつに過ぎないのに。

 

 

「お、おじゃましまぁす……騎士サマ、いるかしら……?」

 

 

 怯えながら、ペトリの言っていた“専門の騎士”を捜す。家具や床の状態が見えるのだ、どこかにいるのは間違いない――暗闇をうっすらと照らす光を追って、ミレイはおっかなびっくり進む。

 

 

(不思議な明かり。ランタンとはちょっと違う……)

 

 

 グラツィオにあった人工灯のようだ。が、どこに光源があるのかわからない。部屋の外から光だけ送られているように感じる。

 

 

「……どなたです」

 

「きゃあああっ!?」

 

 

 部屋の奥から声が聞こえた。年若い男の声だ。やけに近くで響いたように感じたそれにミレイは悲鳴をあげ、へなへなと腰を抜かしてしまう。

 

 声の主は、それ以上動かずミレイの動向を探っているようだった。警戒、というよりは待っている様子である。そんな気配にミレイはどうしてだか気恥ずかしさを感じ、力をこめて立ち上がった。

 

 

「あの! あたし……クルトって子のことを知るために来たの!」

 

「……、異端の子の?」

 

「そ、そう……異端……それとあたし、異端症(ヘレシス)のことも知りたくて。あなたに聞くといいって町長さんに言われたんだけど」

 

「あまりおすすめはしませんよ。哀れな異端のなしたこと、貴女にはきっとつらいものばかりだ」

 

「いいの、あたしは今わからないことだらけで、知れることは知っておきたい。今度こそ、ちゃんと耐えて知りたいの! そうじゃないと、謝れもしない!」

 

「ですが……」

 

「お願い! あたし……レムの黙示録の所持者だから」

 

 

 ああ、と気配が一言呟き、そのままゆっくりと近付いてきた。渋っていたのに呆気ない。“黙示録所持者は全てを通す”――本当に、御者ディーヴの言った通りだった。便利と思う一方、やはり不気味ではある。

 

 ミレイはゴクリと息を呑んだ。一体どんな人物だろうか、フォルセやペトリのように優しいヒトなら良いのだが――血生臭い空気を吸って不快極まりなかったが、それ以上の緊張で喉をつっかえさせる。

 

 

「……え、」

 

 

 現れた人物を見て、ミレイの口から掠れた驚きがこぼれた。

 

 

「私で良ければ、貴女の助けになりましょう。……ミレイ」

 

 

 柔らかな金髪と翡翠の双眸。真白の法衣に深緑のストールを纏う優しげな“騎士”。

 

 ミレイの前に現れたのは、今は深い眠りについている筈の聖職者――フォルセ・ティティスだった。

 

 

 




2015/09/28:完成
2016/12/28:加筆修正
2016/12/28:ハーメルン引越し


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Chapter15 不可思議に踊る演者

 

「っへっくし!」

 

 

 審判者たるハーヴェスタは盛大にくしゃみした。そこはエリュシオンで唯一“屋敷”と称される三階建ての家屋、その最上階にある一人部屋。ベッドにランプ、小さなテーブルとソファ等々、黄金で彩られた豪奢な家具が適当に並び、窓辺に立つ彼の背を無言で見守っている。

 

 その部屋の窓からは、エリュシオン含む外の景色を悠々と一望できた。見れば緩やかな丘から大して広くも狭くもない敷地を借りて、幾つかの赤い屋根がまばらに収まり、隙間を埋めるようにほっそりとした木々が植えられている。

 

 平々凡々――見れば見るほど平和な町だ。見慣れすぎたその光景に、ハーヴェスタの口はくしゃみしながらへし曲がっていた。遠くに見える森は歪に“切り取られ”、町中では物騒な殺人が行われ、町には珍しい外来者が二人もいるのだが、それでもハーヴェスタにとっては普段と大差無いようにしか見えない。

 

 もっと大きな刺激が、それこそ夢から一気に引き上げられるような激動があればいいんだが。ハーヴェスタは大きな溜め息を吐いた。審判者の日常は長い――飽きているのだ、色々と。

 

 

「あの異端……無事クルトの家に着いたみたいだな。ったく、ヒント与えすぎなんだよ。お人よしってキャラじゃねーだろディーヴっへっっくしっ!!」

 

 

 無感情な御者を思い、ハーヴェスタは鼻をすすりながら窓を閉めた。眼を余計にどろんとさせながら振り返る――ハーヴェスタの金眼とは正反対に輝く黄金の物々が目に付いた。

 

 居心地の良さそうな家具、いかにも金持ちが好みそうな前衛的なデザインだ。このやろう、家具のくせに俺より生き生きしてやがる、とハーヴェスタは苛立ちを隠さず舌打ちした。

 

 逃げるように部屋を出て、廊下の赤絨毯を踏み歩き階下に向かう。一階。横広の階段を降りるハーヴェスタを広いエントランスが出迎えた。視線を巡らせ、客間へと足を運ぶ。ゆうるりとした歩調で中へ入ると、彼の趣味ではないきらびやかなテーブルとソファと、彼好みの質素な暖炉が鎮座していた。

 

 客間のソファに寝かされ、眉を寄せて眠るフォルセを――ハーヴェスタは無表情で見下ろす。

 

 

「……〈神の愛し子の剣〉」

 

 

 フォルセが痛みに呻いて寝返りを打った。治ったとはいえ怪我人だ。本来なら、ちゃんとした場所に寝かせて休ませてやるべきなのだろう。が、どうせ目覚めたら外へ出る、少々適当に寝かせておいても問題ない――ハーヴェスタはそう思いながら、死にきった眼に相応しい面で物思いに耽る。

 

 

「二千年前、あいつが持ってたのと同じ。“神の愛し子”が振るう聖なる刃。悪夢を終わらせる唯一の、

 

 ……く、あっははは」

 

 

 不意にわらった。

 

 

「――顔は似てるよなあ」

 

 

 神父を眺めるそのほほえみは、まるでとうに旅立った故郷へ向けているかのごとき複雑な感情で彩られていた。

 

 

 

***

 

 

 暗闇から現れた見知ったヒト。ここにいる筈がないのに、とミレイは震えた声で指をさす。

 

 

「どうして……な、なんで、聖職者サマが……」

 

 

 「ハーヴィに連れてかれた筈じゃあ、」呆然としたミレイの呟きに、フォルセは惨劇の行われた部屋の真ん中で申し訳なさそうに微笑んだ。

 

 

「この町の、一番大きな屋敷で休ませてもらってます。……すみません、本当なら私も共に来るべきだったのでしょうが」

 

「い、いいのよ……だって、疲れてるでしょうし、それに……」

 

 

 言葉が出ない。言うべきことがあると頭ではわかっているのに、あまりに急すぎて心が追い付かない。

 

 

「……っ……」

 

 

 ミレイは唇を噛んで、俯いた。せめてフォルセが目覚める前に何かを変えておきたかった。クルトの詳細を知るでもいい。自分の無知を直すでもいい。とにかく良い方向へ変わらないと、顔向けなんてできやしない――そう、愚かな頭で思っていたのに。

 

 

「顔を上げて、ミレイ」

 

 

 優しさばかりの呼びかけに、しかしミレイは無言で首を振る。駄々をこねる幼子のようだ。ミレイはますます自分が嫌いになる。

 

 

「そんなに自分を責めないで。大丈夫。……私はクルト少年と異端症(ヘレシス)の詳細を伝える役目を持った、フォルセですから」

 

「……、は?」

 

 

 ミレイは思わず顔を上げた。役目がどうのと、つい最近どこかで聞いた――そう、この家の前で出会った町長ペトリが言っていた言葉である。

 

 

「あなた……誰?」

 

 

 怯えと不信と、けれども自身ではどうしようもない変な確信をもって――ミレイは、尋ねた。

 

 

「大丈夫。……私はクルト少年と異端症(ヘレシス)の詳細を伝える役目を持った、フォルセですから」

 

 

 少しだけちぐはぐな返答と共に、フォルセは相変わらずの澄んだ瞳で微笑んだ。

 

 

 

 少年クルトが自らの母親を殺したという、この民家。温かな食事風景を思わせる筈の食卓が乱雑し、壁や床は未だ乾かぬ血で濡れている。

 

 夜闇の中でそうとわかるのは、淡い光が部屋を照らしているからだ。法術の一種だろうか。奥から現れたフォルセに従うように、光が少しだけ強くなった。

 

 ――対してミレイの顔は、秒を重ねるごとに表情を無くし、瞳は遠くを見つめ出す。

 

 

「クルト少年のことからお教えしましょうか? それとも異端症(ヘレシス)から? 貴女に応えられるのなら、私は言えるだけの全てをお話ししますよ」

 

「……それが、あなたの役目だから? 役目だから、ここにいるって?」

 

「ええ。役目だから、此処にいます」

 

「……、聖職者サマ、気絶して連れてかれたわよね?」

 

「連れていかれましたよ。今も寝てます。ぐっすりと」

 

「……あぁそう。“役目”を持った聖職者サマ。でも寝てるの、聖職者サマ。まるで聖職者サマが二人いるみたいね?」

 

「ええ、よくわかりましたね」

 

「……、へぇ。そうなの。二人いるの、聖職者サマ。へぇ。へ、

 

 ――あああもう意味わかんなぁああい!!」

 

 

 フォルセの眼前であることも忘れ、ミレイは頭を抱えて絶叫した。

 

 

「ミレイ」

 

「気にしないようにしてたけどもう無理! なんなのよこの世界! 子供は化け物になるし、あたしは燃やすし、燃えてる森は消えちゃうし、ハーヴィは恩人でムカつくし、馬のない馬車は出てくるし馬はいつの間にか現れるし!!」

 

「ミレイ」

 

「やっとまともそうな町長さんに会えたと思ったら、役目がどうのって訳わかんないこと言うし、

 あ、あ、挙句の果てには眠ってる筈の聖職者サマが出てきて!? 聖職者サマ増殖!? ちょっと嬉しゲフンゴフン――んもうなんなの!? ゲイグスの世界ってなんなのよ!! もうもうもうーっ!!」

 

「ミレイ」

 

 

 ミレイは歪みきった表情で帽子ごと頭をかきむしった。胸中の自責と度重なる不可思議が、ミレイの許容を超えたのだ。帽子につけたヒルデリアの花飾りがチクンチクンと指を突くが、その痛み以上の熱が脳も感覚も焼いていき――心なしか、服のリボンも逆立って見える。

 

 そんなミレイを、フォルセは壊れた蓄音機のように呼び続けている。その姿は、例え司祭の位を戴いていようとも不気味でしかない。ミレイが誰かと問いかけるのも無理はなかった。

 

 が、目の前で微笑む青年はどう見ても――フォルセ・ティティスその人である。

 

 

「そ、そうよ……これはきっと夢。うふふ、またハーヴィに頭からっぽとか言われちゃう。聖職者サマにも迷惑かけるわね。うふふ、ふふぅうぐぐぐぐ……」

 

 

 早く覚めないかしら、とミレイは乾いた笑いを浮かべてほっぺをむぎゅりとつねった。

 

 

「ミレイ」

 

「ふふ、ふ……。……。なんでしょーか」

 

「私は、貴女の知りたいことのために此処にいる」

 

 

 狼狽えるミレイをじっと見つめ、フォルセは言った。

 

 

「貴女が知りたいことを知るために、まず私が“何であるか”を知る必要がありますか?」

 

「い、言ってる意味が全然わからない……けど、ひとつだけ。思うことはあるわ」

 

 

 ミレイは頭を抱えながらも、確信めいた眼差しでフォルセを見つめ返した。

 

 慈愛に満ちた眼、常に弧を描く唇。それらを見た瞬間に湧いた思考を、おずおずと吐き出す。

 

 

「あなたは、あたしの知ってる聖職者サマにそっくりよ。でも違う。会ったばっかりの頃には似てるけど……でも、違うの」

 

 

 経過した時間的には今だって“会ったばかり”に入るだろうが、少なくともミレイはそう感じていた。

 

 目の前のフォルセは、グラツィオで出会った時の彼に近い。――表情が違うのだ。まるで何ひとつ後ろ暗い所は無いとでも言いたげな、透けるような笑みを浮かべている。

 

 フォルセが“二人”いるというのなら、きっとここにいるフォルセは禁呪を受ける前の彼なのだろう。こうして比較対象が現れたことで、フォルセが禁呪を受ける前と後――その微細な違いを痛感する。

 

 

(でも、違うなんて今更よね。法術使えないって、ちゃんと教えてもらってたじゃない。

 ……それに、マナが傷付いて身体中痛かったって、あたしはハーヴィに言われるまで全然気がつかなくて、なのにあんな平気そうに動いて、あたしのこと守ってくれて……疲れて当然、変わって当然だったんだわ)

 

 

 法術が無くとも、フォルセは強かった。頼れるヒトだった。だからずっと、任せきりだった。

 

 加えてフォルセが〈神の愛し子の剣〉だったがために、ミレイは知らぬうちに全身で寄りかかっていた。けれど、そんなミレイの期待を受ける裏で、フォルセの心身は変わってしまっていたのだ。恐らくは彼が思う以上に大きく、そしてミレイが漸く気付くほどの小ささで。

 

 

(その分あたしも頑張るからって……なんて軽い言葉を言ったのかしら。あたしは結局、聖職者サマのためになんか考えてなかったのに!)

 

 

 全ては、“皆を救いたい”という願いのため。レムの黙示録のため。そのために必要だったからフォルセを頼って、頼って、頼りすぎた。だから簡単に失望できた――あまりに短い間で、多くを望みすぎたのだ。

 

 ミレイは、フォルセの家族でも何でもない。信者ですらない。だのにフォルセが〈神の愛し子の剣〉であるから「助けてくれるべき」と一方的に縁を結び、勝手に期待し、不信を覚え、裏切られたと暴走した。それでもなお優しかったフォルセを見て漸く――ミレイは、己の身勝手ぶりを理解する。

 

 これなら、まだ〈神の愛し子の剣〉と知れる前のほうが良かった。知った後でも、グラツィオで核の魔物を前に挑んだ時くらい、フォルセを思うことができたなら。あの時の燃えるような激情は、想いは、一体ミレイのどこに隠れてしまったのだろう? それを再び見つけることができたなら、少しはマシになれるのか。

 

 

「あなたは、少なくともあたしの知ってる聖職者サマじゃないって、ほんとに心の底から思ってる。

 ……でも、大切なココロを忘れた今のあたしにとっては、確かに必要な役目を持ったヒトなのかもしれないわ」

 

「ミレイ」

 

「あたしは、自分のことしか考えてなかった。異端症(ヘレシス)はそういうものだってハーヴィは言ってたけど……そうは思わない。思わないようにする。あたしはあたしだったから、記憶喪失だってことにさえ気付かなかったし、勝手ばかりやって聖職者サマを傷付けたのよ」

 

「――」

 

「今のあたしには自信なんてこれっぽっちも残ってない。けど今だけ、もう一度だけ自分の感覚を信じることにした……だからここへ来たのよ。

 ……これで間違ってるなら、あたしはレムの黙示録を持つに相応しくないんだわ、きっと」

 

 

 レムの黙示録を放棄する覚悟さえ持って、自身の感覚に再び賭ける。

 確証はない。ただの直感だ。自信を無くしたミレイが抱いた、弱々しいにも程がある直感だ。ぶっちゃけるとヤケっぱち。後も無ければ先も見えないのにギャンブルへ身ごと投じる、そんな無謀な心境だ。

 

 虚勢といえども胸を張って、真っ直ぐ射抜くように問いかけたミレイに対し、

 

 

「……ああ。貴女はとても、強いヒトだ」

 

 

 フォルセは、微笑を少しだけ揺らした。

 

 

「……? えぇっ? な、なんで。止めてよ。あたしそんな褒められるようなことしてない。慰めなら……いらないわ」

 

「慰めなどではありません、貴女が異端症(ヘレシス)だとわかってから“フォルセが”ずっと抱いていた想いです。……聞いてくれますか?」

 

 

 フォルセが抱いていた想い――そんなことを言われて、ミレイが拒否などできるわけがない。しかし目の前のフォルセは“フォルセとは違う”と言ったばかりだ。知りたいという欲求を抑え付け、ミレイは不審を彼に向けた。

 

 

「それが聖職者サマの本音だっていう証拠はあるの? 言ったでしょう? あたしはあなたを“あたしの聖職者サマ”だとは思えない。だからどれだけあなたが彼に似ていても、信じるわけにはいかないのよ……」

 

「なるほど。では私を“フォルセ・ティティス”ではなく、ペトリ町長と同じく貴女に協力する者として……ならば?」

 

「え。それなら……信じるしか、ないのかも……?」

 

「なるほど。ではやはり、私が“何であるか”を知っていただく必要がありますね」

 

 

 「貴女が知りたいことを知るためにも」先程言った台詞を、フォルセは歯切れ悪く呟いた。翡翠の瞳が宙を飛ぶ。憂いを帯びた表情が、彼をますます“フォルセ”にする。

 

 

(んぐぐぐぐ……痺れた足をツンツンされてるような気分だわ。やっぱりどこをどう見ても聖職者サマ……でも、やっぱりなんか違うように見えるし……あああああっ! こんな顔、ずるいわ!!)

 

 

 ミレイの眉が、年頃の少女には似合わぬほどに寄せられた。怒っているのではない、今にも叫び出しそうなのを耐えているのだ。

 

 “フォルセが困る姿”は見ていてつらい。記憶に新しい、傷付いた彼の姿が視界をちらついて止まない。もしもこれが自分を嵌めようとする罠であるなら、これほど効果的なものはないとミレイは思う。

 

 

「じゃあ聖職、んんっ……騎士サマ。あなたが何者か、そしてその他モロモロも……教えてもらおうかしら」

 

「随分喧嘩腰ですね」

 

「し、仕方ないでしょ! あたし今、疑心暗鬼のカタマリなんだから!」

 

「ふふ。では、今一度ご挨拶を。

 私はフォルセ・ティティス。ヴェルニカ騎士団ブリーシンガ隊にて祭士位を賜る騎士。異端症(ヘレシス)となった少年を追い、二年前に浄化致しました」

 

「うんん……町長さんから聞いたのと同じ…………ん、っ?」

 

 

 「浄化した? 二年前?」ミレイは疑問符を浮かべた。胸の奥をざらりと撫でられたような不快感を覚える。

 

 自身の知っている“彼”と目の前の“彼”――今の言葉こそが、最も違う部分ではなかろうか。

 

 

「クルト少年が異端症(ヘレシス)となり、母親を殺し、ヘレティックと化した一連の出来事は、全て現実で起きたことです。そして私……フォルセがあの子を浄化したのも、また事実」

 

「どういう……こと?」

 

「過去の再現を行っているのですよ、このゲイグスの世界では」

 

 

 “過去”、“再現”――フォルセの放った言葉が、ミレイの脳内をぐるぐる巡る。

 

 

「今この世界で起きている出来事は、“フォルセ・ティティス”があのヘレティックと戦い、浄化した過去に基づいたものです。

 少年クルトも、その家族も、そしてこの私も……皆、過去を再現しているゲイグスの住人」

 

「え……そ、それじゃああなたは……元々別の誰かで、今は過去を再現するために聖職者サマになりきってるって言うの……!?」

 

 

 ミレイは確かに疑った。あなたは誰かと、目の前のフォルセをはっきりと疑った。

 

 それでも動揺を隠せぬほど目の前のフォルセは“フォルセ”であるし、何よりその明らかになった理由は、にわかに信じがたいものである。

 

 

「……どうして、そんな面倒なことをしてまで再現なんて」

 

 

 この際、“何故他者の過去を忠実に再現できるのか”という疑問は置いておく――このゲイグスの世界では、不可思議なことばかり起きているのだから。

 

 今のミレイが知りたいのは、方法ではなく理由だった。ミレイの疑問に、フォルセは何でもないような顔をする。

 

 

「試練のためです」

 

「し、れん……? まさか、〈神の愛し子の剣〉のための……!?」

 

 

 ハーヴェスタやペトリが語った言葉を思い出し、ミレイは驚きをより顕にする。

 

 

「でもっ、それじゃあおかしいわ。だって聖職者サマ、あの子のこと初めて見たような反応だったもの! 昔の出来事を再現して、あの子もあなたと同じように本人と瓜二つなら……それこそ、お、オバケにでも遭遇したような反応になるんじゃないの!?」

 

「二年前に此処へ来た時、既にクルト少年は森へ行った後でした。私は今宵と同じようにこの家を調べ、そしてあの子を追いました。けれど追い付いた時にはもう……あの子は、ヘレティックと化していたのです」

 

「じゃあ聖職者サマは、あの子の元の姿を知らなかった……? でも、それならもっとおかしい。ここが本当に聖職者サマの過去を再現してる世界なら、聖職者サマが知らないものは存在しないハズでしょう?」

 

 

 フォルセがヘレティックとなる以前のクルトを知らないのなら、当然この世界にも“子供の姿をしたクルト”は存在しない筈――ミレイはそう主張したい。

 

 だが――、

 

 

「私が知らずとも、女神は知っている」

 

 

 ミレイの疑問に対し、フォルセは否定を告げた。

 

 

「女神……サマ?」

 

「我らの所業を全て、余すところなく……生死の一片までもを知りつくし、そして愛している存在。

 ――此処は女神の創りしゲイグスの世界。〈神の愛し子の剣〉の試練がため、女神の記憶すらも情報となる」

 

 

 「つまり、」フォルセが笑った。

 

 

「この世界では、私の知らぬ事実を女神の記憶で補完しているのです」

 

「ほ、かん……」

 

「覚えておくといい“女神の記憶は全てを知る。”女神は史実、女神は嘘つかない――」

 

 

 歌うように言い放ったその顔は――ほんの少しだけ、違う誰かを彷彿とさせた。

 

 

「……、確信した。やっぱりあなた、聖職者サマじゃないわ」

 

 

 脳がフラッと飛んでいくのを感じながら、ミレイは気が抜けたようにがくりと肩を落とした。

 

 

 

***

 

 

 エリュシオンに存在する中で最も大きな屋敷。三階建て。赤い屋根の周囲から浮き出るように濃紺の屋根を被り、部屋の数だけある古びた金縁の窓は、さながら礼服のポケットのようにきっちり閉まり――と思いきや、突如バンッ! と音をたてて一斉に全開となった。

 

 

「っあああああ言い過ぎなんだよどいつもこいつもぉおおおおおっ!!」

 

 

 ハーヴェスタの絶叫が夜のエリュシオンに響く。わざわざ窓を開けて言い放った、周囲の迷惑なんて知ったこっちゃない様子だ。が、事実この町にいる者共――ゲイグスの住人は、審判者が多少喧しかろうが地団駄踏もうが、まるで気に止めない。またか、と皆同じ笑顔を浮かべて名物扱いするほどである。

 

 さて、何故ハーヴェスタが絶叫するに至ったか。その原因は彼の眼の“向こう側”にあった。――ミレイの様子を窺っていた彼にとって、向こうにいるフォルセの発言は予定外だったのである。

 

 ドスドスと窓辺を殴りつけるその様子は、実に滑稽で喧しい。が、同じ部屋で眠っているフォルセはやはり起きない。ヘレティックとの戦闘で消耗したとはいえ、既に起きていてもおかしくはないのだが――どうしてだか、目覚める気配すら見せない。

 

 

「再現中はちゃんとなりきれってーの! なに俺の説明することまで喋ってんだ! いくらあの女が黙示録所持者だからって、言いすぎにもほどがあるだろうがあの柔らか石頭どもがぁああああっ!

 ……、はあ。ったく……試練やりたくねぇから異端を放り出したのに……とんだ助っ人が入ったな」

 

 

 散々叫んでようやっと落ち着いたハーヴェスタは、窓をガチャンと閉め、振り返り、横たわるフォルセをじとりと見下ろした。

 

 

「再現されたのがお前の過去で良かったな? ……あれだけ言われてまだあの女を心配してるとこに、俺は感服するよ。ほんと……」

 

 

 ハーヴェスタは心底からげんなりし、赤毛の頭をがしがしかきむしる。

 

 ――ザクッ。

 

 

「あん?」

 

 

 痛々しい感触がハーヴェスタの指を襲った。赤毛に埋もれたヒルデリア――桃色の花弁を模した髪飾りによって、指の肉を裂いたのだ。

 

 

「……。あっ、やべ」

 

 

 ハーヴェスタは慌てて指を治療した。やる気ない表情すら崩し、それどころかこの世の終わりに遭遇したような面で迅速に治癒の光を宛がう。――傷は浅かったらしく、すぐに治った。綺麗になった指を暫し見つめ、ハーヴェスタは不意に鼻でわらう。

 

 

「はっ……痛みを治すのも、抑えるのも、結構しんどいもんだよな。

 いっそ痛いままの方が楽かもな。……特に、〈神の愛し子の剣〉ってやつは」

 

 

 死にきった黄金の瞳が不意に揺れ、視線が指からフォルセ、そして部屋奥の暖炉に向かう。

 

 暖炉の上には、古びた写真立てがひとつあり――赤毛の剣士と金髪の騎士が、仲良さげに写っていた。

 

 

「……本当に、顔はよく似てる。だが今はそれだけだ。俺はまだ何も認めちゃいない」

 

 

 未来の幸福を誓うその写真を、ハーヴェスタは腕を軽く一振りして(魔術の風をふわりと飛ばして)優しく倒した。

 

 

「二千年ぶりに、また覚悟を決めてやる。

 ――似てるのが顔だけで終わるのか、俺がしっかり見定めてやんよ」

 

 

 望郷にも似た色を一瞬浮かべ、ハーヴェスタは目覚めぬフォルセを見つめながら、再び“向こう側”を覗き始めた。

 

 

 

***

 

 

 ゲイグスの世界はひとつの舞台である。

 

 試練のために多くの事柄が用意され、住人総出で〈神の愛し子の剣〉を待っている。彼らは皆乞われれば力となるが、少々頭が固いので役割以上のことなどしやしない。審判者たるハーヴェスタがしょっちゅうぶちぎれるほど、ゲイグスの住人というのは融通が利かないのだ。

 

 が、彼らの頭を少しだけ柔らかくする例外が存在していた――“黙示録所持者”である。

 

 

『覚えておくといい“黙示録所持者は全てを通す。”ディーヴは御者、ディーヴは頼れる御者――』

 

 

 荷馬車の御者ディーヴの言葉通り、黙示録所持者というのは色々と優遇されるらしい。ゲイグスの住人は可能な範囲で所持者を助ける。少しばかりわかりづらいのは御愛嬌、なのかもしれない。

 

 

「特に私は身も心も“フォルセ”ですから。力になりたい、応えてやりたいと思っている貴女に対し、与えられた役目以上の情報をぽろっと口にしても……仕方がないのです」

 

「つまり……余計に言い過ぎたってこと?」

 

「ええ。ハーヴィは怒っていますね。……我々ゲイグスの住人は、融通が利きすぎるのもイケナイようです」

 

 

 クルトの家は二階建てだった。クルトが暴れた痕跡か、所々がボロボロに砕けている階段を上りながら、フォルセは後を着いてくるミレイに向けてそう言った。

 

 

「予定では、彼がゲイグスの住人について説明する筈でした」

 

「だったらさっき言ってくれれば良かったのに! もしかしてハーヴィ、わざと何も言わないであたしを……!?

 ……まあいいわ。それよりあなた……ほんとは聖職者サマを演じてるだけなんでしょう? 説明は助かるけど、いいの?」

 

 

 「もうまた引っ掛かった!」折れた手すりに服のリボンを引っ掛け、ミレイは唇を尖らせる。

 

 

「演じてるだけ。……本当にそう思いますか?」

 

 

 首だけで振り向いたフォルセがうっそりと笑ってミレイを見下ろした。暗闇に似合うその面に、ミレイの背筋がゾクリと冷える。聖職者サマはこんな顔もするのか、いや違う目の前の彼は――

 

 「貴女だからこそお聞きしたい」温とも冷ともつかぬ声音が、ミレイの意識を浮上させた。

 

 

「この姿も、記憶も、感情も……全てフォルセ・ティティスと同じもの。二年前を再現していると言いましたが、今の私は法術を使えない。現在のフォルセと同じ状態です。

 体内マナの損傷により、この身は常にザクザクと剣で斬られるような痛みを纏い、それを僅かに残ったリージャで無理やり抑え込んでいる。

 ……それでも貴女は、私をフォルセではないとおっしゃいますか」

 

 

 思いもよらぬ問いかけだ。芯がはっきりしていれば即答できたのだろうか――少なくともミレイは、ひゅっと息を呑んだまま固まった。

 

 ギシギシと階段を鳴らす音が一人分減る。立ち止まったミレイを他所に、問いを投げかけた当の本人は、再び前を向いて上っていってしまった。

 

 演じている。当の本人から告げられて、更には自身も違うと確信していてなお、ミレイの無意識は“彼”をフォルセだと認識してしまう。考えるより先に、ただ視界に入っているだけで“フォルセが傍にいる安堵感と罪悪感”をミレイに与えるのだ。

 

 ミレイは詰めていた息をふう、と吐いた。冷静になれ。そもそも目の前の“彼”に何を求めているのか。――思い出した、知りたいことのためだ。クルトのこと、そして異端症(ヘレシス)のこと。間違えすぎた自分が変わるために此処にいるのだ。そのためにも、“彼”をどう思うのか今一度口にする。

 

 

「……、当然よ。だってあたしの聖職者サマは、気絶したままハーヴィに連れていかれた方だもの」

 

 

 己自身に言い聞かせ、ミレイは階段を一気に上りきった。

 

 狭い廊下から幾つか扉が見え、そのうちのひとつを前にフォルセは立ち止まっていた。聞こえていたのだろうか。フォルセは薄く笑みを浮かべている。

 

 

「……騎士サマ。あなたには“ゲイグスの住人”である自覚があるんでしょう? だったらその時点で、あなたは聖職者サマじゃない。聖職者サマを演じてるだけのヒトよ」

 

「ふふ。ならば貴女が出会ったあの少年も、クルトを演じているだけのヒトですか」

 

「……ええそうね。あの子はクルトじゃない。でも、少なくともあたしは痛いし苦しい。あの子を助けたいって今でも思ってるし、でも思い出すと恐ろしいし……もう全部が苦しくて仕方ない。

 だからあなたが聖職者サマじゃなくても、あたしはこのまま行く。もう一度だけ、自分の感情を信じたいから」

 

「――」

 

「それに、あなた達が言ったのよ? 『このゲイグスの世界には〈神の愛し子の剣〉とその協力者のため、力となる情報が用意されてる』って。

 だったら行くしかないじゃない……あたしは今度こそ、聖職者サマの助けになりたいんだから」

 

 

 フォルセは笑ったまま下がった。フォルセのようで、どこか違う笑みを浮かべる彼の思考は、ミレイにはわからない。

 

 ただ、今一度。望みのため、聖職者サマのため、愚かな自分を変えるため――ミレイは思ったままに行動する。そのための勇気を振り絞る。

 

 

(変わらなくちゃ……イイ方向に)

 

 

 そのためならば、不可思議な舞台にだって特攻しよう。

 

 渇いた喉をこくりと鳴らし、ミレイは扉を開いた。

 

 

 




2016/01/06:完成
2017/01/03:加筆修正
2017/01/03:ハーメルン引越し


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Chapter16 あいを知る舞台

 

 二つのベッドが並べて置かれ、脇には小さな棚が備え付けられている。使い古された化粧台が女性の存在を思わせ、けれども窓辺に放置された鞄は妙に男臭い。

 

 ミレイが入ったその部屋は、十中八九クルトの両親が使っている寝室だった。

 

 

「……、騎士サマが立ってたから開けたけど……なんで、寝室?」

 

 

 困惑するミレイを置いて、フォルセは躊躇無く足を踏み入れた。

 

 フォルセが腕を一振りすると、淡かった光が少しだけ強まった。「法術? 使って大丈夫なの?」ミレイが心配そうに尋ねれば、深い笑みだけが返ってくる。

 

 

「クルト少年のことを知りたいのでしょう? まだ小さい子ですから、御両親の部屋の方が手がかりを探しやすいかと思いまして」

 

「手がかりって……あなた、知ってるんじゃないの?」

 

「言ったでしょう。私は此処に来てすぐにあの子を追ったのです。当時調べたのも一階だけで、此処まで来るのは私も初めて。

 ……この“夫妻の寝室”は、女神の記憶から補完している部分なのですよ」

 

「へぇ。ということはあなた。この先に何があるか、とか、そーいうのは……」

 

「はい。知りません」

 

 

 やっぱりね……とミレイはガクリと脱力した。勢い勇んでやって来たのに、拍子抜けもいいところである。

 

 

「てっきり、あなたが全部教えてくれるのかと思ったわ……」

 

「ハーヴィがお教えしていなかったために、先程は余計に説明致しましたが……本来なら、私が与えられるのはフォルセ・ティティスが知るだけの情報と、思っただけの情報のみなのです」

 

「……? 聖職者サマがここに来ようって“思った”から、ここに来たってこと?」

 

「はい。クルト少年を追う必要があったので、結局来ることはありませんでしたが。

 ……私が伝えられるのは、後にクルトの父親から聞いた『困ったことに、あの子は動物好きだった』という情報だけです」

 

「え? 困ったことにって……別に、動物好きで困るようなことないと思うけど」

 

 

 ミレイは首を傾げながら、もう一度寝室内を見渡した。が、普通。特に変わったところは見当たらない。ならば手当たり次第に探すべきかと一瞬考えるが、まるで盗人のような行いをするのは、かなり気が引ける。

 

 

(……あれ、ドレッサーの上に何かある)

 

 

 クルトの母親が使っていただろう化粧台に何かを見つけ、ミレイはソッと近寄った。本来なら化粧道具を並べる台の上にあったのは――花柄表紙が愛らしい、一冊の手帳だった。

 

 

「これって……」

 

 

 「クルトのお母さんのものかしら?」ミレイが思わず手を伸ばすと

 

 

 

「わたしはあの子を愛していたの」

 

 

 青白い女の顔が、眼前をぼんやりと覆った。

 

 

「――」

 

 

 ミレイが止まった。女も止まった。決意を新たにした少女と、向こう側に化粧台が透けて見える女の顔が、まるで親しい仲を思わせる距離で向き合った。

 

 「愛していたの」冷気が肌をなぞり、絡みつき、ミレイの頬を粟立たせ「わたしもあの人もあの子も、」血の気の無い両腕がゆうるりと伸び、眼に黒目は無くけれども極限まで見開かれ、いっそ殺せと叫び「みんなであの子を」たくなるほどの悪寒が、背から足から全身へと伝い「愛していたのに」キンと耳鳴りが頭を揺らす。

 

 

「なのに間違えたから、食べられちゃ、」

 

「――ギャァアアアアアアアッッ!!」

 

 

 漸く復活したミレイが、腹の底から絶叫した。

 

 恐怖だけをそのまま凝縮した叫びは、寝室の壁に当たって跳ね返り、にこやかに立っていたフォルセの耳を直撃した――ついでにミレイ本人も直撃してきた、フォルセはんぐ、と呻きながら、逃げてきたミレイを受け止める。

 

 

「ああ、あ、ああ、おおおば、おば、お、おお、お、……っ!」

 

「落ち着いてください、ミレイ」

 

「オバケぇえええええ!!!」

 

「落ち着いてください、ミレイ」

 

 

 よしよし、と背を撫でてくるフォルセを涙目で見上げ、ミレイは絶叫を繰り返す。

 

 

「無理! ムリムリ! だってオバケっ、オバケは嫌なの!! 非科学的よっいるっていうなら証明しなさいよぉおおおあああああっ!!」

 

「あれは、マナを纏った残存思念ですね。此処にいるということは、現実世界にもいるでしょう。機会があれば行ってみるとよろしい」

 

「……、……残存、思念??」

 

「ええ、“残存思念”……周囲に漂うマナの集合体です。

 マナは生物にとって第二の血であり、同時に世界の映し鏡とも呼ばれています。あまりに強い感情は世界を漂うマナに残りやすく、結果、感情を核にマナが結びつき、俗に言う幽霊のような存在に変化するのです」

 

「……マナって……魔術に使う以外にも、変化するの?」

 

「霊魂系の魔物は、殆どが残存思念のなれの果てですよ。

 そしてそのように残る思念には、異端症(ヘレシス)が関わっている可能性が高い」

 

 

 ひゅっと喉を鳴らして、ミレイは恐る恐る振り返った。

 

 闇に同化しそうなほどに不気味な女が、化粧台からぬうっと抜け出した。白目ばかりかと思えた双眸は、よく見ればうっすらと黒目部分が見え、真っ直ぐミレイを射抜いているのがわかる。全身の肌は青白く透けており、向こう側の化粧台と手帳、寝室の壁が見えた。

 

 ミレイの顔がぎゅっと歪んだ。恐ろしい、つい先程ミレイに恐怖を与えたばかりの女の思念体には、異端症(ヘレシス)が関わっているらしい。また異端症(ヘレシス)か。また同胞なのか――まるで化け物を生み出すしか道は無いと、世界中から言われているようだ。“皆を救いたい”というミレイ自身の願い、その芯がぐらりと揺れる。

 

 ミレイは頭を大きく振った。生かして救ってくれ、とフォルセに縋って叫んだことが、遥か昔の出来事のように思い出される。相当な無茶を言っていたのだと、理解がストンと落ちてきた。

 

 

(そうよ、あたしだってクルトの暴走を見て、化け物だって怖がった。きっとそれが普通の反応なんだわ。同じ異端症(ヘレシス)だから助けたいと思うなんて、ホントに勝手だった。記憶があろうと無かろうと、あたしは何もわかっていなかったんだわ)

 

 

 こんな状況にならなければ、ミレイは異端症(ヘレシス)の危険性も何もかも、ちゃんと理解できなかったのだ。言葉だけで語られても、きっとそんなことはない救えるに違いないと、机上の空論にも劣る主張を延々と繰り返していたことだろう。ギリギリになるまで何も告げなかったフォルセの行動は、ある意味正しかったのかもしれない。

 

 

 「わたしはあの子を愛して、間違えて、食べられた」女が声を発する度、強い耳鳴りがミレイを襲う。が、全身を這うような恐怖は無くなっていた。“オバケ”か“残存思念”かの違いはミレイにとってかなり大きいもので、更に異端症(ヘレシス)が関わるという事実が、ミレイの頭に冷水をぶっかけたのだ。

 

 

「……、マナが思念を映しやすいって、要するにどういう理屈なの?」

 

「魔術と同じですよ。詠唱や陣と共に術者の“思念”を核とし、マナを変化させる――それが魔術。残存思念は、簡単に言えば詠唱や陣を省略し、思念だけで無理やり練られた魔術、といったところです」

 

「つまり、科学的に証明できるってことよね!?」

 

「ええまあ」

 

 

 引きつっていたミレイの顔が、にんまりと笑顔を浮かべた。

 

 

「そういうことなら……大丈夫よ! オバケだからって怯える必要なんて無い、だってちゃんと説明できる存在なんだもの! ふふ、うふふふふ……難関ひとつ、クリアね!」

 

「それは良かったです」

 

「こほん……それで、この女のヒトも……異端症(ヘレシス)だったの?」

 

「思念が残される際に異端症(ヘレシス)が関わっていることが多い、というだけで、彼女が異端症(ヘレシス)だったという確証はありません」

 

「あっそう……まあいいわ。このヒトが誰なのかはわかったし、もしそうなら絶対異端症(ヘレシス)が関わってる筈だもの」

 

 

 女から視線を逸らさぬまま、ミレイはゆっくりと横に動いた。ベッドサイドへ手を伸ばし、カタリと音をたてて何かを掴む。

 

 ミレイが取り上げたのは――小さな写真立てだった。先程逃げ惑っている間、視界の隅で見つけたらしい。得意げな表情を隠さぬまま、ミレイはフフンと笑う。

 

 フォルセが、幼子を褒めるような微笑を浮かべた。

 

 

「フラン=ヴェルニカ教団と、西のサン=グリアード王国による共同開発が進んで、昨今では、それぐらいの写真は手軽に撮れるようになりましたね」

 

「へーえ。ちょっと興味あるお話だけど、今は写真の中身が重要よ。……見て!」

 

 

 ミレイは手にした写真立てをフォルセに見せた。壮年の男女と少年が二人、幸せそうに並んで写っている。

 

 そのうちの二人に、ミレイは見覚えがあった。二人の少年のうち、より幼い方がクルト。そして優しげな表情を浮かべている女性が――目の前にいる、青白い顔の女である。

 

 

「このヒトが、ううん……この思念の本当の持ち主が、クルトのお母さんなのよ……実の子供に殺されたんだもの。最期に何か強い想いを持ったに違いないわ。

 ……ところで騎士サマ。このヒトまで、ゲイグスの住人ってわけじゃないわよね?」

 

「住人ですよ」

 

「……、すげぇわね」

 

 

 ここまで怖気の走る存在までも、ゲイグスの住人とやらは演じてしまうのか。ミレイは驚きで一瞬放心した。が、すぐに気を引き締める。演技であろうとなかろうと、自分にとっては紛れもない“現実”として真摯に受け止めるべきなのだ。

 

 

「わたしはあの子を愛していたの」

 

 

 女――クルトの母親が残した思いが、再び言葉を発する。

 

 

「あの子って、クルト……あなたの子供のこと?」

 

「クルト……愛していたの。優しい子だった。……優しすぎた」

 

「優し……すぎた?」

 

 

 対話になっているのだろうか。僅かに変化した女の言葉に、ミレイは訝しげに眉を寄せる。先程フォルセが言った「父親曰く『困ったことに、あの子は動物好きだった』」という情報が、不意に脳裏を過ぎる。

 

 

「動物や魔物を飼って、狩って、生きていたの。誰かが使う旅道具、誰かが着る衣服、糧となる食べ物。その素を作っていたの」

 

「! 『父親と兄は仕事で森に出かけてる』って、町長さんが言ってたわね……」

 

「素が沢山売れると、あの人はとても喜んでいた。あの子もあの子も喜んでいた。わたしも嬉しかった。きっと女神様も喜んでいた」

 

「商人だった、ってことね。確か町長さん、『兄は父親の跡を継ぐため頑張ってる』とも言ってた。……何代も前からそうやって暮らしていたのかしら」

 

 

 毛皮や角といったもののほか、植物系の魔物からは回復薬の素となる実や葉なども採取できる。更に魔物の肉は、時に家畜以上の値打ちになるとも言われており、地域によっては名産品と謳われている。

 

 一家の姿が少しずつ見えてきた。自給自足を兼ねた商人の家だったのだ。幸せそうな写真と女の言葉から察するに、きっと穏やかな日々を過ごしていたに違いない。

 

 ならば何故、クルトはああも“暴走”してしまったのだろうか――

 

 

「やっぱり異端症(ヘレシス)だったから……しあわせは、壊れてしまったの……?」

 

「いいえ」

 

「っ! せ……騎士、サマ」

 

「異端だったから壊れたのではありません。

 ……異端になってしまったから壊れたのです」

 

 

 相も変わらずにこやかな顔で告げられた――その言葉の些細な違いをミレイが理解し、噛み砕くその前に、

 

 

「わたしが間違えてしまったの……」

 

 

 女の――母の思念が黒く染まった。

 

 

「生きる糧への感謝を、“ありがとう”を告げる先を、ちゃんと教えてあげられなかったから――

 

 ……ぁ、ァ、あああああ!!」

 

「え……っ、」

 

 

 女が叫び、いっそう長い耳鳴りが響いた。直後、窓辺の鞄やベッド脇の棚が、あろうことか宙に浮き、ミレイの真横を勢いよく“飛んでいった”。

 

 

「っ、きゃあっ!」

 

 

 ミレイは悲鳴をあげながらもなんとか避けた。ガシャン! と音をたてて床に叩きつけられた物体達は、しかし再び宙に浮かんでミレイを狙う。

 

 

「な、なに……!? 一体何が起きてるの!?」

 

 

 飛び交う家具をギリギリで避ける。持ち前の身軽さを生かす最中、ズズ、ズズ……と何かが引き摺られる音が聞こえ始める。

 

 慌てて周囲を見渡すミレイ、その顔から血の気が一気に引いた。――女の叫びに従って、二つのベッドまでもが動き出した!

 

 

「――フォトン!!」

 

 

 ミレイの背後から飛んできた光弾が、宙に浮かび上がったベッドに直撃した。ベッドはそのまま壁に激突し、轟音をあげて床に落ちた。

 

 

「ほ、法術……! っ、騎士サマ!」

 

 

 飛び交う家具を、光弾が次々に撃ち落とす。出所はひとつしかない、けれどもミレイの心は冷える一方。

 

 法術が使えない、否、“リージャで痛みを抑えているから使えない”フォルセを見つめ、ミレイは焦りと混乱で立ち止まる。

 

 

(ど、どうしよう、なんとかしなきゃ。また聖職者サマが無理してる)

 

 

 全身の痛みを抑えることを止め、救い、助けるために法術を使う。クルトと戦っていたフォルセと同じ。たとえ演じているだけであろうとも――いやだからこそ、今ここにいる“フォルセ”にも、ミレイは同じように罪悪感を覚える。

 

 唯一違う点といえば、フォルセが相変わらず薄い笑みを浮かべていることだろうか。が、その頬には一筋の汗が流れ、少しずつ、少しずつ反応が遅れてきている。

 

 

(止めなきゃ、でもどうすればいいの……せっかく変わろうと思ったのに。結局何もできないまま聖職者サマを傷付けて、また、あたしは……)

 

 

 この場にいるフォルセと、森でクルト相手に戦ったフォルセの姿が、ミレイの脳裏でピタリと重なる。罪悪感が胸いっぱいに広がり、また間違えるのではないかと恐怖を募らせる。

 

 

「ぁ、ああ、お肉が好きなあの子……それが大好きな友達だって、知らなかったあの子……!」

 

「えっ……!?」

 

「食べるのはありがとうなのよ、そうして繋がるの、怖くないのよ、……わたしの言葉が届かない、届けるのが遅かった。わたしは間違えてしまった。あの子は大丈夫だったから、あの子も大丈夫だと思ってしまった。

 ごめんなさい、ごめんなさい……」

 

 

 ごめんなさい、ごめんなさい――続く謝罪の言葉と共に、宙に浮く家具が増えていく。

 

 恐怖で染まっていたミレイの心に、同調と哀れみの色が落ちてきた。

 

 

「このヒト……あたしみたいだわ。あたしは聖職者サマを責めるばかりだった。そしてこのヒトは自分を責めている。責め苦ばかりの残存思念……向いてる方は違うけど、あたしみたいに、暴走してる」

 

「そう……」

 

「! 騎士サマ!」

 

 

 光弾を撃ち続けるフォルセが、それでも笑ってミレイを見つめてきた。

 

 

「癒されぬ思念はマナを蝕み、残存思念は魔物となる。たとえ言葉を失っても思念は残り、強い思念は周囲のマナへ再び干渉する。

 ……ポルターガイストって知ってますか?」

 

「ポ……え??」

 

「誰も触れていないのに、物体が宙を飛んだり、物音がするといった……大昔から語られている心霊現象のことです。

 ……ああ怖がらないで。昨今では、残存思念から昇華した魔物、あるいは異端症(ヘレシス)の仕業だったのかもしれないと言われているのですよ」

 

「……へれ、しす…………あっ!!」

 

 

 ミレイは思い出した。エリュシオンに来る前、ハーヴェスタが語った言葉だ。

 

 異端症(ヘレシス)は、ひとつの事柄に対する想いが尋常でなく強い。だから暴走しても、仕方がないのだと。

 

 

異端症(ヘレシス)が肉体を変貌させヘレティックとなるのも、強すぎる感情が瘴気汚染を促し、肉体のマナを一気に変質させるがゆえ。

 ――感情が強いほど、マナは映し鏡のように変じる。善悪関係なく、マナは望まれるままに応えるのです」

 

 

 言い終えた直後、フォルセは光弾を放っていた両腕を下ろした。荒い息遣いが聞こえる。真白の法衣が肩で息をしている。“フォルセ”と同じようにリージャを使いきって、全身を酷い痛みが襲っているのだろう。

 

 既に殆どが大破している家具は、しかしなおも浮き上がり、フォルセへと狙いを定める。

 

 

(感情、強い感情……)

 

 

 戸惑ってばかりだったミレイの瞳が、浮き上がる脅威を真っ直ぐ睨む。

 

 

「あたしにも、できるかしら」

 

「……」

 

 

 苦しげだったフォルセの表情が、どこか安堵したように美しく微笑んだ。

 

 

「貴女に応えられる情報を、私は持ち合わせておりません」

 

 

 アアアアア……ッ!! 獣の咆哮となった女の“謝罪”が、浮き上げた家具を一斉に吹き飛ばす。

 

 

 

「――止まれぇっ!!」

 

 

 ミレイの渾身の叫びを最後に――その部屋は、痛いほどの静寂に包まれた。

 

 

 

***

 

 

 肉も記憶も感情も、留まる理由がないそれらは綺麗にキレイに削げていく。

 

 

「貴女を何故強いと感じたか、結局伝えられませんでしたね。

 ――言わぬことは正しかった。これは役目ではない」

 

 

 彼女(ミレイ)の意識に登らぬよう、静寂よりなお自然に消えていく。

 

 

「……わたしの役目も終わりました。帰りましょう」

 

 

 騎士フォルセ・ティティスを演じた役者が一人、舞台から降りた。

 

 

 

***

 

 

 ――ピィン! 糸を張り詰めたような音が響き、宙を飛ぶ家具達が一斉に留まった。

 

 ミレイは女を指差したまま、ポカンと口を開け放心する。

 

 

「あ……あ。できた」

 

 

 強い感情でマナに干渉する。残存思念体である女と同じ、否、それ以上の力を発揮する。異端症(ヘレシス)である自分ならできると思ってやったことだが、いざ成功すると現実味がない。

 

 ググ、と浮いたままの家具が揺れ始めた。ミレイはハッと息を呑む。そうだ、気を抜いてはいけない。まだ力比べの真っ最中なのだ。集中せよ、感情を爆発させよ、頭がキンキン唸るが知ったこっちゃない!

 

 

「んぐぐ……飛んでいけっ!!」

 

 

 窓を指差し、ヤケクソ気味に命ずる――ミレイの脳みそが熱く沸き立つと同時に、ベッドやチェスト、化粧台、鞄や手帳までもが窓を目指して飛んでいった。

 

 轟音をたて、窓が盛大に割れる。縁ごとガラスを突き破り、周囲の壁をもぶち抜いて、ほぼ全ての家具が外へと放り出された。夜闇を切り裂く落下音がエリュシオン全域に響き渡る。

 

 ミレイは詰めていた息を一気に吐き出し、ガクリと脱力した。

 

 

「っ、はぁ、はぁ、はあっ……うげ、うえぇ……きもちわるぅ……」

 

 

 全身の血をいっぺんに抜かれた気分だ。頭をくらくらさせながら、ミレイは吐き気を我慢する。

 

 

「アア、アアアアア――」

 

「っぅぇ、ちょ、待って……!」

 

 

 ミレイが動けなくなっている間に、女が窓から飛び出していった。思念体である彼女にとって、二階の窓から降りることなど容易だったらしい。

 

 ――窓から消える間際、女の後姿がぼう、と揺らぎ、紫紺の光となった。ミレイは悟った。理性らしきものが消え去ったとわかった。女の思念は、完全に魔物と化してしまったのだ。

 

 

「逃げちゃった……大変だわ、早く追いかけないと!」

 

 

 町にいるのはゲイグスの住人ばかり、そして今飛び去った魔物も元は住人が演じている思念体だ。魔物となっても住人なのか、そもそもゲイグスの住人とはどういう存在なのか。未だによくわかっていないものの、森の魔物が容赦なく襲いかかってきたことをミレイはしっかり覚えている。

 

 

(放っておいたら、誰かが襲われるかもしれない――!)

 

 

 その“襲われる誰か”に、聖職者サマが入っているかもしれない――ミレイは重い足を動かし、慌てて女を追った。

 

 つい先程まで窓のあった場所に立つ。壁は崩れ、天井にまで届く大きな穴が無残にも開いていた。

 

 唯一落ちなかったベッドが穴の近くで大破し、ただの鋭利な木片と化している。持ったままだった写真立てを置き、ベッドを乗り越え、外を見る。

 

 相変わらず明ける気配のない夜空と、程よく距離を開けた先にて隣家を望むことができた。一体どれだけ強い力で家具をぶち当てたのか――ミレイは自身でやっておきながら、ブルリと震えた。

 

 夜の冷たい風が寝室に吹き込み、ミレイの黒髪も服も容赦なく揺らす。帽子を押さえ、恐る恐る下を覗き見れば、街灯に照らされた家具の残骸と女だった魔物の影を発見した。どちらも隣家の方まで寄っている。家具はともかく、急がねば女を見失ってしまう――。

 

 

「いた! よ、ようし……あたしもいっちょショートカットしてやろうじゃないの……!」

 

 

 少し前までなら、部屋から出て階段を駆け降りたことだろう。が、感情だけでベッドまでふっ飛ばせたのだ。少しばかり応用すれば上手く着地できるだろうと、ミレイは武者震いしながら結論付けた。

 

 

「いち、にの、さん! ……で、飛ぶわよ!」

 

 

 誰に言い聞かせているのか。ミレイは興奮を隠さぬまま、先程と同じように心をわざと震わせた。鼓動が痛い。深呼吸をひとつ。先程できたのだから絶対できる、できなければ終わりだ。ミレイとしても、黙示録所持者としても――

 

 

「いち、にの、――!?」

 

 

 大層な決意でミレイは飛ん――大破したベッドの木片が、彼女の服を掴んで止めた。正確には服の装飾のリボンを掴んで、だ。運の悪いことに、ミレイのリボンは絶妙なタイミングで引っかかり、彼女のバランスを大きく大きく、致命的なまでに崩してみせた。

 

 

「うぇっ、ちょ、ゃ……うゃあああああっ!?」

 

 

 引っかかったリボンがしゅるりと解け、ミレイは当初の予定通り飛んだ。落下した、と言った方が良いかもしれない。彼女がどんな精神状態で宙に舞ったか――それは、彼女の悲鳴がよく表していることだろう。

 

 二階から地面までそう長くはなかった。ミレイは悲鳴をあげながら、迫りくる地表に向けてヤケクソ気味に感情をぶつけた。「痛くない!!」と意味不明な叫びだったが、どうにか周囲のマナをクッションに、ミレイはふわりと着地することに成功した。

 

 

「あ、危な……っ!」

 

 

 ホッと息吐く間もなく、強風のごとき殺意がミレイへ容赦なく吹き荒ぶ。

 

 

「っ、霊魂系の魔物になるって、さっき騎士サマが言ってたわね……!」

 

 

 ミレイは強張った顔で身構えた。夜闇に浮かぶ紫紺の光が、ふわふわ浮きながら睨んでくる。

 

 

(……やっぱり、もう言葉は話せないみたい)

 

 

 言葉を失う前に会話できて良かった――そう考えた直後、ミレイはどうしようもない胸の痛みに襲われる。

 

 

(聖職者サマは、いつもこんな気持ちで戦ってるのかしら。どんな相手にも、こんな……)

 

 

 胸中を渦巻くこの痛みは、魔物と化した思念への哀れみか。現実世界には何ら影響しない戦いへの虚しさか。――それとも、演じられた悲劇に一喜一憂する自分自身への嘲りか。

 

 

「命を狙ってくる相手のために、祈る必要なんてない。そう思ってたのに……あたし、やっぱり勝手だわ」

 

 

 胸が痛い理由をはっきり言葉にできぬまま、ミレイは目の前の魔物に向けて、ナイフを構えた。

 

 

 

***

 

 

 エリュシオンの道を荷馬車が走る。カタカタと音を鳴らし、門へ向けてゆったりと進んでいる。

 

 

「ディーヴは御者、ディーヴは頼れる御者――」

 

 

 ローブにすっぽり包まれた小柄な御者――ディーヴは、荷馬車に座って延々同じ言葉を呟いていた。

 

 馬用の鞭でぺちぺちリズムをとるその様子は、少しどころかかなりおかしい。だが、普段それを突っ込んでいる赤毛の審判者は、残念ながらこの場にいない。いるのは演技中の住人ばかり、皆この町で起きた母殺しの事件を怖がる演技を、一生懸命続けている。

 

 その最中、荷馬車に向かって突風がやって来た。

 

 

「――黙示録所持者と〈神の愛し子の剣〉は、契約をきっちり結んでから戻るべきだ」

 

 

 突風が通り過ぎる間際、ディーヴは独り言を止めてそう言った。

 

 

「でないとハーヴィが怒る。ずっと試練を嫌がっていたのに、今は三割増しで張り切っている。やる気があるハーヴィは面倒な馬だ。

 だから黙示録所持者と〈神の愛し子の剣〉は、契約をきっちり結んでくるべきだと推奨する。でないとハーヴィが怒る。これ以上試練の内容が変わるのは、ディーヴ達もちょっと困る。演技が雑になる」

 

 

 ほんの一瞬止まった突風は、熟考し、首を傾げながら、再び吹いて通り過ぎていった。

 

 

「覚えておくといい“〈神の愛し子の剣〉は全てをすくう。”ディーヴは御者、ディーヴは頼れる御者――」

 

 

 黄金で真白の、焦りばかり乗せた突風を見送って、

 ディーヴは独り言を再開し、荷馬車をゆったり進めていった。

 

 

 

***

 

 

「アサシネイト!」

 

 

 正面突破だとばかりに、ミレイはナイフを鋭く投げた。真っ直ぐ飛んだナイフは確かに魔物の中心に突き刺さったが、霊体である魔物にあまり効果はなく、そのまま虚しく通り抜けていった。

 

 

「やっぱり工夫しないと駄目ね……! それならこれよっ、アサシネイトドライ!!」

 

 

 軌道は先程同様、ただ対象に向けて一本のナイフを真っ直ぐ飛ばすものだ――しかしその刃には、魔力による冷気がうっすらと纏わりついていた。結果、刃を受けた魔物の身体は一瞬にして凍りつき、巨大な氷の塊となってドスンと落ちた。

 

 氷塊が爆ぜる。細かな欠片はそのまま消え、掌サイズの塊が三つ出来上がった。氷はすぐ蒸発するように解け、塊の数だけ霊魂の魔物は分かれ、ふわりと浮き上がってしまう。

 

 元より一回り小さくなったとはいえ――三体に増えたことで、ミレイは圧倒的に不利となる。

 

 

「うげっ……増えちゃった。もうっ威力が足りなかったのかしら……って、きゃあっ!」

 

 

 魔術の光弾が、ミレイへ向けて次々と飛んできた。悲鳴をあげながら間一髪で避ける。目標を見失った光弾は、地面あるいはクルトの家の壁に当たり、小さな焦げ痕を残していく。

 

 重量が無い分、家具が飛んでくるよりは遥かにマシだが、それでも三体でバラバラに放たれるのは厄介である。

 

 

(でも三つに増えた分、力は弱くなってるみたい。もう家具を飛ばしてくることはなさそうね。とにかく、早く一体だけでも倒さなくちゃ……!)

 

 

 けれどもミレイが選べるのは、ナイフか魔術の二択だけだ。強力な魔術を使うには隙が無さ過ぎて、投げナイフで戦うために距離を取っているのは、相手にとっても有利に働くだろう。

 

 フォルセのように詠唱もなく法術で戦えれば、あるいはフォルセのように接近戦ができれば。そうすれば、例え魔物が三体だろうが三十体だろうが、一気に倒してしまえるのに。

 

 想像上のフォルセが剣を片手に戦って、勝って、ミレイにふわりと微笑みかけてくる。フォルセ、フォルセ――ミレイの頭はフォルセでいっぱいである。

 

 

(剣……け、ん?)

 

 

 ふと視界の隅――自身の腕に、剣が見えたような気がした。こんな時に幻覚か、たとえ在ったとしてもあんな重そうなものを自分は振り回せそうにない。ミレイは己の非力さに苛立ちながら、魔物の攻撃から必死に逃げる。

 

 

「反撃するスキが……あぁんもうっ!!」

 

 

 逃げている間も、視界の隅っこを剣がちらちらと映る。一体なんだ、そんなに剣が好きなのかと、ミレイは苛々しながら自分の腕を見下ろした。

 

 ちらちらと視界に入っていたのは、ひらひらと揺れる服のリボンであった。

 

 

「……リボン……。……!」

 

 

 ミレイの頭が、落雷のごとき衝撃を受けた。

 

 魔物の方へバッと振り向く――ミレイの眼前に、ぼやあっと幻覚が現れた。一体の魔物から光弾が放たれる。飛んできた光弾を、ミレイの姿をしたその幻覚は腕を振って、まるで剣を扱うように軽々と――

 

 

「――おりゃあっ!!」

 

 

 一刀両断にした。二つに分かれた光弾はミレイの背後の地面に落ち、僅かな焼け跡を残して消えた。

 

 幻覚――否、不意に浮かんだイメージ通りに、ミレイは柔らかな筈のリボンを剣のように扱ってみせた。

 

 

「あ……あ。またできた」

 

 

 家具を留め、ふっ飛ばした時同様、ミレイは感情を震わせマナに強く干渉することで、リボンを鋭利な刃へと変化させたのだった。気を抜いた瞬間、リボンは再びただの装飾に成り果てたが、いつまでも刃であってはミレイも困る。

 

 唐突なひらめきに心ゆくまま従って、ミレイは新たな力を得た。

 

 

「……、ふ、ふふ、ふふふふふ……!」

 

 

 我に返ったミレイが、湧き起こる興奮を小刻みに漏らす。ある意味不気味な笑い声が、ミレイのテンションを更に更に高くし、理性が無い筈の魔物を困惑させる。自責と罪悪と、他にも色んなストレスで縮こまっていたためだろう――氾濫した河水のように、ミレイの脳を駆け巡る熱は止まるところを知らない。

 

 

「ふふふ……これなら、いけるわ!!」

 

 

 ミレイは漸く、調子に乗り出した。

 

 飛んできた光弾を再び両断し、勢いよく駆け出した。気分は完全に“聖職者サマ”だ。かっこいい彼がするように、恐れなく魔物へ突っ込んでいく。

 

 

昇舞連(しょうぶれん)!!」

 

 

 一体の魔物へ一気に距離を詰め、魔力を纏わせたリボンを構えた。ジャンプしながら下から抉るように斬り上げ、仰け反らせる。

 

 が、やられるばかりの魔物達ではない。詠唱の必要な光弾ではなく、霊体の身でありながら体当たりを仕掛けてきた。ミレイはフフンと笑い、イメージする。強くてかっこいい聖職者の姿を。

 

 

「まとめて吹っ飛べ! ――風裂閃牙(ふうれっせんが)!!」

 

 

 両腕のリボンを伸ばし、回転しながら飛び上がる。フォルセの剣技「閃空裂破(せんくうれっぱ)」をイメージしながら、非力さをカバーすべく風の魔力を纏わせて、ミレイは三体の魔物をいっぺんに斬り上げた。

 

 最初に一撃見舞った魔物が、マナの粒子となって消えた。残るは二体。あと一撃ずつ与えれば、きっと勝てる筈。魔力を伴うこの攻撃は、ミレイが思った以上に強力であるようだった。

 

 

(あたし、もしかして記憶を失う前もこうやって戦ってたのかしら)

 

 

 ただのひらめきにしては、なんだか身体が軽すぎる。

 

 

「っあ!」

 

 

 ふっ飛ばした魔物のうちの一体が、ゆらゆら揺らめきながら特攻してきた。攻撃した直後であるミレイは、その思考も含めて隙だらけだった。魔物の突進を食らい、小さな悲鳴と共にたたらを踏む。霊体の体当たりはそれほど威力のあるものではなかったが、それでもミレイの調子を崩すには充分だった。

 

 

「いったぁ……! んもうっ、どうして失敗してから気付くのかしら! もうもうもうっ!」

 

 

 苛立ちながら腕を振り回し、突進してきた魔物をリボンでぶっ叩く。バチン! と弾くような音が響き、二体目の魔物が消え去った。リボンは気持ちひとつで剣にも鞭にもなるらしい、便利なものだが、それに感動している余裕はミレイにない。最後の一体から飛んできた光弾を避けるため、バックステップを繰り返す。

 

 いつの間にか、クルトの家の壁が背に迫っていた。

 

 ――ガラッ。

 

 

「えっ」

 

 

 頭上から小石がひとつ落ちてきた。驚き、見上げれば――二階で唯一留まっていたベッドの残骸が、今まさにミレイ目掛けて落ちようとしていた。

 

 

(あ、さっき避けてた攻撃……壁にたくさん、当たってたっけ)

 

 

 詰めが甘いというか、周りが見えていないというか。

 

 調子に乗りながらも冷静に注意していれば、気付くことができたに違いない。こんな突然では、先程できたマナへの干渉なんて――できやしない。

 

 

(聖職者サマだったら、ぴょんって飛んで、かわして、魔物の攻撃だって……)

 

 

 魔物の詠唱と、もはや避けられぬ残骸の落下がゆっくりと感じられる。

 

 窮地にあってなお、ミレイの頭はフォルセでいっぱいだった。

 

 

 

「――っんぐえっ!?」

 

 

 そんなミレイの横っ腹を、突風が思い切りかっさらっていった。

 

 

 

 みっともない悲鳴をあげたミレイが、突風に煽られ――否、何かに引っ張られてどしゃりと倒れこんだ。同時に二階の穴からベッドが落ちて、落下音と共に土煙をあげる。

 

 間一髪。あと少し遅ければ、ミレイはベッドの下敷きになっていた。

 

 

(な、なに……? ――あったかい)

 

 

 ミレイは茫然とした。身体を何かが包んでいる。冷たい地面ではない。暖かな白、顔を上げた先に見えたのは――少々土で汚れた、黄金。

 

 ミレイが下敷きにするその白くて黄金の“突風”は、バッと右腕を魔物へ翳し、

 

 

「――フォトン!!」

 

 

 法術の光弾を放った。魔物も対抗するように――否、同時よりも少し早く光弾を飛ばす。

 

 二つの光がぶつかり、マナとリージャを撒き散らしながら爆発した。双方に強烈な向かい風が吹く。リージャを含んでいるのに、異端症(ヘレシス)であるミレイに害を及ぼさない風が。

 

 

 衝撃で揺れた魔物に向かって、

 

 

「――いけ!!」

 

 

 ミレイはいつもより荒い口調の“突風”に背を押され、我に返って駆け出した。

 

 

「……っ! 終わりっ、昇舞連(しょうぶれん)!」

 

 

 マナと胸の痛みをリボンにこめて、ジャンプと共に斬り上げる。

 

 最後の一体が、細かな粒子となって夜闇に消えた。

 

 思わぬ、けれど待ち望んだ、だがまだ会いたくなかった助力によって――ミレイは最後の一体を、漸く倒したのだった。

 

 

 



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Chapter17 断末魔は突然に

 

 終わったと感じた直後、どっと疲れがやってきた。思えば酷い無茶をしたものだと、先程魔物からミレイを助けた“突風”――フォルセは、家屋の二階から崩れ落ちた寝台を見つめた。

 

 

(どうしてこんなことに)

 

 

 然程遠くない場所でミレイが今更ふるりと震えており、フォルセは呆れ顔になってその背を眺めた。己が駆けつけた時には寝台の下敷きになりかけていた彼女。それまで一体どんな無茶をしていたのか――考えるほど、真実から遠ざかる気がしてならない。

 

 

「……随分と無茶をしましたね」

 

 

 思わず、呆れと心配を含んだ声を背に投げた。

 

 悪戯のバレた子供のように肩を揺らし、ミレイが恐る恐る振り向いた。地面から起き上がるフォルセの姿を見て、言い訳するように苦く笑う。

 

 

「無茶したように、見えた?」

 

「ええ」

 

「ひとりで勝手に、って、怒ってる?」

 

「実はほんの少しだけ」

 

 

 なんて艶やかな笑みだろうか――フォルセの顔を見て、ミレイはそんな感想を抱いた。言い訳など通用しないとわかったのだろう、どこぞの赤毛審判者(ハーヴェスタ)曰く“空っぽ”な頭を勢いよく、風を鳴らして振り下ろす。

 

 

「――ごめんなさい! それから……ありがとうっ!」

 

 

 森での暴走、いやその前からずっと押しつけていた身勝手を含めた謝罪と、礼を。

 

 謝られたが、此度ばかりは許せない。フォルセはミレイの意を充分に理解した顔で、しかし何も言わず、今度は疲労を隠さず苦笑した。

 

 

 

***

 

 

 ――他に何か用事はあるか。できるなら一度に終えてしまおうと、フォルセはミレイに尋ねた。そんな彼に甘えるように、ミレイは「見てほしいものがあるの」と、クルト少年の家へと彼を誘う。

 

 二階に置いてきたクルトの家族写真を見せれば、二年前の当事者であるフォルセなら何かわかるかもしれない。ミレイはそう考えたのだ。

 

 移動の最中、ミレイは自分が知り得たことや行動中の出来事を簡単に説明した。このゲイグスの世界のこと、〈神の愛し子の剣〉の試練が行われていること、戦った魔物のこと、出会った騎士“フォルセ”のこと、自分が記憶喪失であることも、全て。

 

 

「〈神の愛し子の剣〉の試練のために、聖職者サマの二年前の経験が再現されているの。あたしは森で出会ったあの子――クルトに何が起きたのか、調べてた。

 って言っても、まだ調べ始めたばかりだったわ。ここに来たのも、あの子が自分の家で母親を殺したって聞いたからだし……」

 

「ミレイ、貴女は今でも私を〈神の愛し子の剣〉と考えているのですか?」

 

「え? う、うん……」

 

 

 ミレイはこてんと首を傾げた。てっきり過去を再現されていることを驚かれると思ったらしい。次いで、フォルセのどうにも形容しがたい表情を見て顔を曇らせる。

 

 

「もしかして……あたしが〈神の愛し子の剣〉だと認めないようなこと言ったから? それとも、聖職者サマ自身が、まだ……」

 

 

 ポツリと呟かれたその言葉に、フォルセは何も返さなかった。

 

 ミレイの望む救いができないなら〈神の愛し子の剣〉ではないのだろうと、フォルセは森で確かに言った。あの言葉が、ミレイが暴走する引き金だったとも言えるが――フォルセにとっては今もなお本心である。

 

 フォルセからすれば、負け続きの自分をどうして〈神の愛し子の剣〉であると信じられるのかと疑問が絶えないのだ。が、話が進まないので、ひとまず自分が〈神の愛し子の剣〉であることを前提に、フォルセは再び口を開いた。

 

 

「……、そうですか。ならば〈神の愛し子の剣〉である私が目覚めてから行動しようとは、思わなかったのですか?」

 

「聖職者サマの力に……なりたかったから。ハーヴィが言ってたの。『この世界には〈神の愛し子の剣〉とその協力者のため、力となる情報が用意されている』って」

 

「ハーヴィ……あの時助けてくれた、例の審判者ですか」

 

「そう。それにあたし、もう知らずに喚くのは嫌だったから。だから少しでも無知を無くして、あなたに謝りたかった」

 

「……」

 

「ごめんなさい、本当に。あたしは願うだけで、聖職者サマに勝手を押しつけてばかりいた。そのくせ自分の無知もわからずに邪魔をして、あの子が救われる機会を……失わせてしまった」

 

 

 ごめんなさい。ミレイから改めて謝罪され、フォルセの眼が瞬きに紛れて揺らいだ。

 

 

「その言い様から察するに、貴女はあの子の命を……」

 

「“奪わなきゃ”って、そう考えてる」

 

「死を恐れているのではないのですか? それも、貴女が救いたい“異端”を……」

 

「そりゃこわいわ、トーゼンよ。でも、時にはそうすることが救いになるのかもしれない。ううん、たとえならなくても、今“生きている”誰かを守るためにやらなきゃいけない時がある。

 ――自分ひとりで魔物に立ち向かって、ようやくわかったのよ」

 

「……」

 

「あの子に銃を向けたとき、あなたはこんなふうに考えてたのよね?」

 

「……そう、ですね。私は聖職者として、信者を守る義務がありますから」

 

 

 何処かの彼方にいるだろう信者を守るため、フォルセは異端に剣を向けた。

 

 

 夫妻の部屋に辿り着いた。先程より軋んだ扉をゆっくり開ける――壁にあいた大穴から、静かなエリュシオンの町が見えた。

 

 ――“騎士サマ”は、いない。

 

 

「私を演じているという方は……」

 

「いないわね。何も言わずにいなくなるとは思えないのに」

 

「……私が来たからかもしれませんね。過去の延長にいる私がいるのなら、過去を演じる必要もないでしょう」

 

「そう……なのかしら」

 

 

 けれど無言のお別れなんて寂しい。今度会えたら礼を言わなくちゃと呟きつつ、ミレイは目的のものを手に取った。

 

 

「……これよ。あの子の家族が写ってる」

 

「では、」

 

「待って! その前にひとつ言いたいことがある」

 

 

 ミレイが写真立てをぎゅっと抱きしめたまま、訝しむフォルセを見つめた。

 

 

「あたし、身勝手だった。そして今もそう……あんなに無理な要求をして、傷つけて、拒絶する言葉をたくさん言ったのに、今もあなたが〈神の愛し子の剣〉であると疑ってないの」

 

「……」

 

「このままじゃいけない。だから聖職者サマ、今は〈神の愛し子の剣〉としてじゃなくて、あの子のことを知るために、あたしに力を貸してほしい。……お願い、します」

 

 

 〈神の愛し子の剣〉ではなく、ただ一人の者として協力を。ミレイの懇願に、フォルセは思わず睨むような顔つきになって驚いた。

 

 

「……貴女は〈神の愛し子の剣〉を望んでいる、それにこの世界では〈神の愛し子の剣〉の試練が行われているのでしょう? 良いのですか?」

 

「いいの。たとえハーヴィが急かしてきても突っぱねるわ!

 それに……思うの。あの子は、あたしが救いたい“皆”のうちの一人だけど、再現(ここ)で何をしても、あの子自身が救われるわけじゃない。だったらここで覚悟を決めておこう。あたしは現実の世界できっと同じ悩みを持つことになるから。だから今のうちに知れることを全て知って、悩んでおこうって」

 

「つまり……この再現の世界で悩めることは幸運であると?」

 

「酷い話だけど、そうよ。その間に、〈神の愛し子の剣〉になってもらう為にお願いする言葉も考えたい」

 

 

 フォルセの大きな溜め息が響いた。次いで現れた苦笑に、ミレイもまた詰めていた息をホッと吐き出す。

 

 

「わかりました。今から私は、貴女と共に悩む子羊のひとりです」

 

「聖職者サマも悩むの?」

 

「ええ。私も、自分がどうあるべきなのか……今一度見つめ直さねばなりませんので」

 

「あっ、ありがとう聖職者サマ……じゃあこれ、あの子の写真」

 

 

 ミレイはまるで悩むフォルセを珍しがるような反応をし、すぐに慌てた顔で抱きしめたままの写真立てを彼に渡した。

 

 フォルセは無言でそれを受け取った。直後、虚ろに近かった双眸が見開き、何かしらの記憶が呼び起こされたことを傍から見ていたミレイに知らせた。

 

 

「どう? 何かわかる?」

 

 

 ミレイがらしくない小声で尋ねた。二人だけなのに、まるで内緒話でもするかのようで滑稽だ。が、ミレイは至って真面目だった。感情のまま戦う術を覚えたとはいえ、普段からそれではフォルセを困らせてしまうと、残念ながら経験で知っていた。

 

 

「……無知は嫌だとおっしゃいましたね?」

 

「うん」

 

 

 遠慮を捨てたフォルセに対し、ミレイの表情が緊張で彩られる。

 

 

「これから話すことは、私の……ヴェルニカ騎士の“日常”とも言える話です。異端症(ヘレシス)である貴女にはもしかしたら、辛いことかもしれません」

 

「心配してくれてありがと、でも大丈夫よ。あの子を殺したのが聖職者サマだって知ってるから、きっとそういう話なんだろうなって覚悟してる。……大丈夫よ、あたしはもう暴走しない」

 

 

 最後の科白は、ミレイ自身に向けたものだ。ミレイは様々な怯えを抑え、強い――芯の通った眼でフォルセを射抜いた。

 

 

「確証も裏付けもなんにもないけど、信じてほしい」

 

「……。私は神父であるべき身。常日頃から神の御言葉の尊さを信じてもらうために努める側です」

 

 

 フォルセは迷い子そのものの顔から、迷い子を癒すための透き通った笑みを浮かべた。

 

 

「だから信じますよ、ミレイ」

 

 

 

***

 

 

 二年前、フォルセ・ティティスは祭士の位を戴いたばかりだった。

 

 隊長から単独での任務を課せられる地位とはいえ、まだ書類上で受け取っただけのもの。祭士向けの任務が無かったことも相まって、フォルセは以前からと同じように、小隊にくっついてある任務へと赴くこととなった。

 

 

「ルスタ湖畔に住んでいる商人から、騎士団にヘルプ要請があった」

 

 

 その時から隊長であるテュールが濃紺の短髪を掻き上げ、祭士の任務じゃなくて悪いな、とそれこそ悪そうな顔つきで言ったのを、フォルセは今はっきりと思い出している。

 

 

「なんでも、採取場の森で見たことのない魔物を発見したらしい。あんまりに恐ろしいんで道中護衛がほしいそうだ。どう思う、我が祭士よ」

 

「……異端討伐ではなくただの護衛ですか? ならば騎士団ではなく、まず王国駐屯軍に任せるべきでは」

 

 

 向かう先は、西のサン=グリアード王国領地ルスタ湖――その周囲をぐるりと覆う森だった。同大陸にあるフェンサリル大樹海の陰に隠れがちだが、ルスタ湖森林もまたそれなりに深く、更に地面はデコボコと歩きにくいことで知られている。

 

 

「ルスタ湖畔には小さな村が一つあるだけだ。可哀想に……わざわざ王国軍が赴くことはない、自分達で解決しろと蹴られたらしい」

 

 

 サン=グリアード王国軍の徹底した階級主義――特に下層民に対する差別意識は、昔から教団にも届いている。

 

 

「そこで、俺達ブリーシンガ隊の出番というわけだ! 哀れな民草を守り、女神の謳う愛の軌跡を、」

 

「胸のうちに灯すのだ、ですか?」

 

「そうとも。正しく燃やせば燃やすほど、火はよき発展へと繋がる。発展はいつも燃焼から始まるんだ。特に今回の民草――商人の話、俺はすこぶる気に入った。この時期高く売れるチルデアの花を摘みに行きたいから、是が非でも森に行きたいそうだ! 商魂たくましくて結構だ、気に入ったぞ俺は!」

 

「はいはいわかりました。どちらにしろ、その方に案内を頼むことになるでしょう。チルデアの花は大聖堂の庭園にはありませんし、いい機会です」

 

「ようし決まりだな。小隊はラヴァナ修官に任せた、お前が着いてくことも伝達済みだ。聞く限り、見かけたという魔物はヘレティックじゃないただの魔物と思われるが……万が一、」

 

 

 ここで、軽薄そうなテュールの顔が“隊長のそれ”になり、フォルセは自然と背筋を正した。

 

 

「何か、小隊では御しきれない事態が起きた場合は。お前が動け。そのための祭士位だ」

 

「了解」

 

「それから」

 

「?」

 

 

 歴戦の名将。その実力を感じさせる強い眼差しで、テュールはクイ、とクールに指招きした。

 

 

「……出立は三時間後だ。急げ、俺にいってきますのキスをしろ。熱烈なやつを一発」

 

「一発、浄化の雷を御所望ですか?」

 

「おお嘆かわしいぞ我が祭士! 年々エイルーに言動が似てきている。あいつはイイ女だがお前がやるとただこわいだけだ何も燃えん」

 

「大司教たるエイルー様に失礼をするなと、何度言ったら、わかるのですか!」

 

「俺とて何度も言っているぞ? 俺は修導位を持つブリーシンガ隊隊長。教皇ヘイムダルに選ばれた四導赦(フォエドラーレ)が一人、テュール・スパルティーノだ! 大司教だろうが我が祭士だろうが、口説けるしラヴだしデートだって、行ける!!」

 

 

 行ってまいりますこの痴れ者が! フォルセは思いをリージャに込めてぶっ放し、足音荒く出立した。

 

 

 

 ヴェルニカ騎士団でいう小隊は、多くて三十人ほどの編成だ。他国と比べて規模を抑えているため、任務によっては更に数を減らして行く。

 

 此度の任務もまた、総勢二十人の騎士にとどめられた。新兵五人を含め、一応は“ヘレティック討伐”を意識した編成だ。

 

 本来なら、フォルセが同行する予定はなかった。する意味もない。任務も執務もなく暇ではあったが、それは騎士としての話。“司祭”であるフォルセは暇ではないのだ。

 

 司祭位とて、祭士となるより半年前に賜ったばかり。若いフォルセにはまだまだ覚えることが沢山あった。

 

 しかしテュールは、多忙なフォルセを引っ張りだしわざわざこの任務にねじ込んだ。そこに、信用できる“直感”があることをフォルセは知っている。

 

 

「任務自体は簡単なものだろう。だが嫌な予感がする。司祭フォルセには悪いが、今回はうちのフォルセに戻ってもらおうか」

 

「それは、いつもの直感……ですか?」

 

「まあな、俺の本能がさっきからうるさくて敵わん。

 ――若木が燻っている臭いがするんだが、わかるか? 我が祭士」

 

 

 テュールの勘はいつも当たる。だからフォルセは文句も言わず、急な任務であろうと従ってきた。神父としての修行中であろうとも――テュールのことを信用しているから、いつだって。

 

 そして、例に漏れず今回も。フォルセは上司の勘を末恐ろしく思うこととなる――。

 

 

 ニクスヘイム港から船に乗り、太陽がてっぺんに昇る頃、フォルセ含む小隊はルスタ湖のあるウィズバニア大陸へとやって来た。

 

 そこから急行の亀車(調教した魔亀(タートル)に引かせる、王国ではメジャーな車である)で数十分。大陸の半分を占める湿地を抜け、荒れ狂う亀エンジンによる乗り物酔いを多発させながら、ようやくルスタ湖畔に辿り着いた。

 

 湖畔にある小さな村の入口で、此度の護衛を依頼した商人と落ち合う。

 

 

「木がね、動いたんですよ! こんな大きい、えー……俺が三人肩車したくらいの大きさで、枝がひょろっと手みたいに伸びて、根っこでこうズルズルッと歩いてたんです!」

 

「あー、マットソン殿?」

 

「あ! それから真っ赤な目がぎょろっとしてて、いやあ恐ろしいヤツでした!」

 

 

 本当に怖がっているのか? 小隊を率いるラヴァナ修官は、興奮ぎみな依頼主を前に兜の中で引きつった笑みを浮かべた。その更に隣から、フォルセが苦笑して見守っている。

 

 商魂たくましいとはこの事か。小隊一同が考えていると、この場に出てくる筈もない幼い声が割って入ってきた。

 

 

「とーちゃん、そんな説明じゃわかんねー……いってえっ!」

 

「こらてめぇ! 今日は騎士様方と森へ行くから、絶対来るなって言っただろうがっ!」

 

「いーじゃんか、おれだってヴェルニカの騎士さま見たかったんだよ! とーちゃんばっかりずりぃだろ!」

 

「子供の出る幕じゃないの! 大人しく家に帰れ!」

 

 

 その子供は、商人マルクス・マットソンの息子だった。父からの拳骨を再び食らって涙目になりながらも、少年は反抗を止めない。

 

 

「子供って言うけどさ、魔物退治なんだろ? とーちゃんだって出る幕ねーじゃん!」

 

「お、俺は、道案内で行くんだ!」

 

「案内ならおれでもできるし! それにとーちゃん、こないだ思いっきり道間違えて大変だっただろ! かーちゃんもクーも、騎士さまにメーワクかけないかって心配……いってぇっ!」

 

「ああもうてめぇは! 何で! 余計なことばっか……ッ!」

 

「……ちぇっ、なんだよ……こないだも“余計なこと”とかって怒って……わかんねーよ。いつもは、早く大人になって楽させろ、ってうるせーのに!」

 

「! それは、……」

 

 

 少年のぼやきに、マルクスは突然ハッと息を呑み、ばつが悪そうに黙りこんだ。急激に暗くなった顔で溜め息をひとつ吐き、少年の頭に力無く拳を置く。

 

 その様子は、そこにいた誰もに疑問を覚えさせたが――答えは未だ得られていない。

 

 

「えーと。す、すいません、騎士様方。お見苦しいところを……」

 

「良いのですよ、マットソン殿。仲が宜しくて何よりです」

 

 

 思わず気遣ったのは、フォルセだった。他の面々は既に森へ出立する最終確認を行っている。非情と言うことなかれ、一応少年が着いてくることも想定し、陣形を整えているのだ。

 

 

「……にーちゃん、まさか騎士なのか?」

 

「ええ、そうですよ」

 

「……」

 

「?」

 

 

 まるで詐欺師でも見るかのような視線を受け、フォルセは訝しげに首を傾げた。

 

 何か失言したかと悩むフォルセを睨み、少年は、再び“余計なこと”を口にする。

 

 

「なんだそのかっこ。にーちゃん、全然騎士っぽくない!!」

 

 

 ――無音が吹いた。

 

 「あああああトビーィイイイイイイイッ――!!」マルクスの怒号が村の端まで突き抜けた。一斉に耳を塞いだフォルセらの前で、少年トビアス、もといトビーは、本日一番の拳骨を食らい、きらりと舞う星を見た――。

 

 

 

 その後、収集のつかないほどの親子喧嘩が勃発したため――ラヴァナはやむを得ず、トビー少年の同行を許可した。

 

 俺も祭士のような余裕が欲しいよ。そう愚痴をこぼすラヴァナは、フォルセよりも五つほど年上だ。修行あるのみです、と微笑んで返したフォルセは、マットソン父子を囲うように並ぶ陣形を見渡し、僅かな穴と思われる位置に移動した。

 

 

「村を経由するなら……いや、あの様子じゃ梃子でも離れないな」

 

 

 諦め顔でそうぼやいたのは当然、予定外の陣形を率いることになったラヴァナであった。森へ行く前に村の中を通り抜けることとなり、密かに期待したのだが――村民数人には会ったものの、マルクスらの家族には出会わなかった。

 

 トビーよりも幼い弟ならともかく、母親がトビーを捜していてもおかしくはないだろうに――

 

 

「下の子と違って、こいつは好奇心旺盛すぎて。エメリ……うちの家内も、俺に着いてったんだとわかったんだと思います」

 

「ですが、念のためお伝えしたほうが良かったのでは?」

 

「あ、そりゃ大丈夫です。うちの村は狭くてすぐ話が行き渡るから、誰か教えてくれますよ。うはは」

 

 

 豪快に笑うマルクスから、ヴェルニカ騎士団への全幅の信頼をも感じ取り――ラヴァナらは、彼らを何がなんでも無事に帰さねばと決意を固くした。

 

 

 

 豊かな木々が生い茂る森、しかし地面は酷くデコボコとしていて歩きづらい。ラヴァナを中心に指示を出し、魔物の気配に注視しながら小隊は進んだ。

 

 その間、民間人であるマットソン父子の緊張を解そうと、フォルセは神父寄りの顔で話しかけていた。

 

 

「流石、お二人は慣れておりますね」

 

「うちは代々、このルスタの森で採取を行ってるんです。だからうちのトビーも、将来の為に何度か連れてきてるんですが、いっつも俺からはぐれて……」

 

「おれじゃなくて、とーちゃんがはぐれてるんだよ。せっかくおれが近道見つけてやってるのにさ!」

 

「急がば回れ。あんな危ない道、軍人や騎士様でもないのに通れるわけないだろ!」

 

 

 「ねぇ?」同意を求めてきたマルクスに、フォルセは曖昧な笑みだけを返した。“近道”を知らぬのだから当然だ。次いでトビーを見れば、未だにフォルセを騎士と思わぬ表情だった。

 

 嫌われたものだと、フォルセは内心苦笑した。頭のてっぺんから足先まで“か弱げな神父”の格好は、どうやらトビーの抱く騎士像を少々破壊してしまったらしい。――確かに、浮いてはいる。小隊は皆、重厚な甲冑に身を包んでいるために。

 

 

「止まれ。……いたぞ、やっぱり妖老樹(トレント)だ」

 

 

 前方より聞こえたラヴァナの制止に、フォルセは顔を上げた。ピリリと冴え渡った空気を感じ取ったのか、小隊の中心で守られているマットソン父子の表情が揃って硬く強ばる。

 

 さてどうしようか。小隊と違って剣も抜かず、フォルセは視線だけをぐるりと動かした。おとな数人分の大きさを持つ、根っこで歩く恐ろしい木――この地域では珍しい植物系の“魔物”である妖老樹(トレント)。報告から推察していた通り、ヘレティックではない。新兵だけでも討伐できる相手である。

 

 もっとも、戦いに不慣れなものにとっては充分脅威となる魔物なのだ。特にその巨大な図体が、素人の抱く恐怖に拍車をかけている。

 

 

「き、騎士様……! 俺が見たのはアレですっ、早くやっつけてください!」

 

「静かに。今のところ、さしたる動きも見えない。恐らく必要とするマナが足りず、弱っているのでしょう」

 

 

 怯えのあまり大声を出すマルクスを、ラヴァナは冷静に宥めた。

 

 人間と同じく、魔物は体内に無属性のマナを持つ。しかし、人間よりも遥かに周囲のマナ環境に敏感であるため、時に適応するべく進化し、あるいは容易く滅びていく。

 

 一行の見つけた妖老樹(トレント)は、環境に適応できていないようであった。巨大な図体はよく見れば枯れかけで、先に朽ちた花の蕾が頭部で悲しげに揺れている。

 

 

「討伐より、もっと南方に連れたほうが良いのでは?」

 

「フォルセ祭士……そうだな。南はここよりも地のマナが豊富だ。妖老樹(トレント)の生息地もあったはず。あの一体だけなら、我々だけでもなんとか連れていけるか……」

 

「ちょ、ちょ……騎士様! あれ、やっつけないんですかい!?」

 

 

 ラヴァナとフォルセのやりとりに、マルクスは驚いた形相で詰め寄った。

 

 

「落ち着いてください、マットソン殿」

 

「神父さ……いや騎士様」

 

「あの妖老樹(トレント)という魔物は小規模ながらも群れをなすゆえ、通常、森にたった一匹でいることはありえないのです。ただ、稀に種子を鳥が運び、運良く発芽することがありまして……恐らく、今回もそれかと」

 

「祭士、魔物の輸送となると新兵には早すぎる。修官を中心に編成し直して……行ってくる」

 

「わかりました、ここはお任せを。……ですからマットソン殿、この森にいる妖老樹(トレント)は、今見えているあの一体だけと思われます。念のため、あとで森全域を見回ることも考えておりますが」

 

「なんでやっつけないんだよ……」

 

 

 はぁと頷くばかりのマルクスに代わって、息子であるトビーが不満げな声をあげた。

 

 

「弱ってるなら、さっさとやっつけたほうがいーじゃん」

 

「……君は、家族を心配しているんですね? 優しい子です」

 

「そ、そんなんじゃねーし! 危ない魔物はやっつけるのがフツーだって思ったから……!」

 

 

 フォルセの賛辞に、トビーはぎょっと目を剥いた。恥ずかしそうに喚くが、もう遅い。その幼い眼が訴える不安を、フォルセは既に見抜いている。

 

 

「大丈夫。あの弱りようでは、この森に住まうピヨピヨのほうがまだ手強い。このまま放っておけば、環境に適応できぬまま死んでしまうでしょう」

 

「じゃあ、なんで保護なんかするんだよ!」

 

妖老樹(トレント)の葉や果実は、加工すれば薬にも調味料にもなります。商人であるマットソン殿なら耳にしたことがあるのでは?」

 

「え? あーそういえば……はい。確かに聞いたことがあります、ウワサですけど」

 

「そ、そうなのか? とーちゃん」

 

「ああ。歩きながら地面に採取品を落としていくから、わざわざ戦って手に入れる必要がない。だから採り過ぎないよう注意すれば、商人にとっちゃあこんなに優しい魔物はいないってウワサだ。南方じゃあ“歩く薬箱”とかって呼ばれて……あーそうかそうなのか、あれがその魔物なのか……!」

 

 

 マルクスの目色が、商人独特の熱いものに変わった。先ほどまで恐ろしがっていたのはどこの誰だったのか――妖老樹(トレント)に向ける眼差しはもはや世界の共通通貨、輝くガルドのマークをギラギラと宿している。

 

 トビーもまた、父親の言葉なら信用できたのだろう。不安が払拭され、興味深げな表情を浮かべている。

 

 

「確かに魔物。時にヒトを襲い、時にヒトが襲う。けれどヒトは、魔物から多くの恩恵をも受けている。……ならば、たとえエゴであろうとも救えるものなら救いましょう。それもまた、女神の謳う愛の軌跡を紡ぐ道です」

 

「にーちゃん、やっぱり騎士には見えないな。森外れに教会あるからさ、そこで神父さまやったほうがいいんじゃねーの?」

 

「……ははっ! もう間に合っておりますよ。私は……

 

 ――ッ!?」

 

 

 キン、と響いた耳鳴りに、フォルセは息を呑み、険しい顔つきとなって構えた。

 

 柔らかな神父の面を取り払った、まさしく騎士の顔。その抜剣の構えに、マットソン父子は揃って目を白黒させている。

 

 

「よし、みな配置についたな? 妖老樹(トレント)を刺激しないようゆっくり、幼女でも扱うように……」

 

「ラヴァナ修官、お待ちを!」

 

「! どうした!」

 

「この肌を刺す冷たい気配……間違いない、暴走です!」

 

「なっ……んだって!? 何処に!!」

 

「……――戻ります! 修官、余波を受けた魔物に気をつけて!」

 

「っ祭士!」

 

 

 フォルセは背を向けたままラヴァナに“指示”し、元来た道を――否、トビーが見つけたという近道を軽々と抜け、一同の視界から消えていった。

 

 

 ――。

 

 ここからの会話を、その場からいなくなったフォルセは知らない。ただ事が終わったあと、ラヴァナ修官から伝え聞いたのだ。

 

 

「くっ……祭士の世話になってしまうとは、面目ないっ」

 

「ラヴァナ修官! 妖老樹(トレント)が突然……う、うわあああっ!」

 

「き、騎士様!?」

 

「まずいっ余波がここまで来たか!? 弱っていることが逆に仇となったんだな……総員! 何度も悪いが作戦変更! “異端”討伐用意! 急げ!」

 

 

 枯れかけの躯体を瘴気の色に染め上げた――もはや救うことなど不可能となった、“異端”の妖老樹(トレント)

 

 

「“異端”だって? ……じゃ、じゃあ祭士が言ってた暴走って、異端症(ヘレシス)の暴走……?」

 

「祭士、さっき戻るって言って……まさか、村に!?」

 

「村!? ……ああっ、かーちゃん、クー!!」

 

「お、おい待てトビー! ……わああっ!?」

 

 

 異端討伐すら早い、余計な口を持つ“新兵”達がいたと。

 

 ラヴァナ修官は、負傷した身でフォルセに悔いたのだ。

 

 

「なっ……お前たちッ、せっかく俺と祭士が隠し……ああくそっ! 新兵どもはマットソン殿について随時詠唱! 残りの修兵はトビー君を、祭兵はこっちへ!

 

 ――暴走余波(インフェクション)だ! 気を引き締めろ!!」

 

 

 

***

 

 

「――ギャアアアアアアッ!!!」

 

 

 その断末魔の叫びに、フォルセは思わず口を閉じた。二年前、己が村に戻った時も聞いた気がするその声に、話すどころではないと思い直す。

 

 

「ミレイ、……ミレイ!」

 

「へ?」

 

「大丈夫ですか? 私の声が……聞こえますか?」

 

 

 ミレイの肩を掴んで呼べば、彼女は呆けた顔で頷いた。

 

 

「大丈夫よ、それよりお話の続きを……断末魔が聞こえて、どうなったの?」

 

「続き? それどころではありません」

 

「へ?」

 

「町から悲鳴が。それと……血の臭いがここまで。貴女が聞いた断末魔は本物ですよ、ミレイ」

 

 

 再び抜けた声を出したミレイの前で、フォルセは鋭い眼差しで、壁の大穴からエリュシオンを睥睨した。

 

 フォルセの言った通り、静閑だった町には今や人々の悲鳴が響き渡っていた。生温い、空気が赤く染まってしまいそうなほど濃厚な血の臭いが、鼻を萎ませてしまいそうだ。

 

 豊かな想像力から帰ってきたミレイは、穴から見える光景に眼をこれでもかと見開いた。

 

 

「な、ななななにが起きたっていうの……!?」

 

「わかりません。私も先ほどの悲鳴で気付いたので。

 ただ……ここまで濃い血と悲鳴なのに、なんというか、まるで突然そこに現れたように急に気配が膨れ上がって……正直、何がなんだか」

 

 

 フォルセは自身の困惑を口にした。それを聞き、ミレイが何かに思い当たったように表情を変える。

 

 

「この世界では不思議なことがたくさん起きるから、きっと今回もそれなのかもしれないわね」

 

「ゲイグスの世界の不思議、ですか……」

 

「そう。ヒトも魔物も演じられてる、不思議な世界……だけど、」

 

「だけど?」

 

「こんな悲鳴を聞いたまま、放ってなんておけない。“ゲイグスの世界の不思議”でも関係ない、助けに行かなくちゃ」

 

 

 フォルセに負けず劣らず、ミレイの眼は強く真っ直ぐだ。漂う不穏な気配に呑まれることなく、自分のすべきことを訴える。

 

 あまりに気負いすぎて、容易く折れてしまいそうだとフォルセは思う――

 

 

「――ええ。私も同じ考えですよ、ミレイ」

 

「同じ」

 

「ただ……今の私はとても弱い。貴女が思ってくれているよりもずっと、弱いのです」

 

「知ってる。法術は使えるけど、使うと身体がミシミシ痛むって……騎士サマが……」

 

 

 ミレイの気遣う言葉に、フォルセは一瞬目を逸らしそうになった。

 

 弱くなったとは、何もリージャの減少や身体中の痛みだけではない。フォルセにとってはもっと重要な弱み――“火が怖い”という、致命傷がある。

 

 フォルセは気付いていた。血の臭いに混じり、町からは燃え盛る火の臭いも漂ってきている。

 

 

(リージャも身体の痛みも知られてしまった。ならばせめて、これだけは隠し通さないと……)

 

 

 火への恐怖を知られるわけにはいかない。身体の痛みを隠していた時と同じ理由で、フォルセは笑顔の裏に自身の弱みを押し隠した。

 

 “暴走しない”という言葉を信じると言った身で、彼女の暴走を“案じている”。

 

 

「……、えぇ。だからミレイ、私と一緒に戦ってくれますか?」

 

「一緒?」

 

「今の迷える私には、貴女の力が必要なのです。私が弱くなったかわりに、懸命に強くなった貴女の力が」

 

「必要……あたしが、必要?」

 

 

 人々の悲鳴は変わらず、いやいっそう大きくなって夜天を裂く。だが今のミレイに外の喧騒は掠れた風のようにしか聞こえていなかった。それはフォルセの思った通り――いやそれ以上の反応だったのだが、喜びに満ちたミレイは当然気がついていない。

 

 一緒。貴女の力が必要。

 

 強くなったと言ってくれた。

 

 

「……っ!」

 

 

 言われた言葉を頭の中で何度もなんども反響させる。現金なことだと言うことなかれ。フォルセの言葉はミレイの不安を柔らかく包み込み、歓喜とともにすくっていった。必要とされることがこんなにも嬉しいなんてと、ミレイの胸は感動でいっぱいになる。

 

 この場には決してそぐわない喜びだが――少なくとも、経験不足のミレイには必要なものだった。それをフォルセもわかっているからこそ、彼女を浮上させる言葉を本心から告げたのだ。

 

 

「こちらこそ! 一緒に悩んで戦いましょうっ、聖職者サマ!」

 

 

 緩む頬を精一杯引き上げて、ミレイは力強く頷いた。その反応が欲しかったフォルセは、艶やかに笑んでその手を取る。

 

 

「……では、行きましょう」

 

「うん!」

 

 

 フォルセは相も変わらず弱さを押し隠したまま、ミレイの手を握り返す。

 

 弱さを隠し、信を預ける。

 

 それが無意味な抵抗でしかなかったと気付くのは、フォルセが予想しないほど近い未来のことだった。

 

 

 



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Chapter18 迷える祈り

 

 夜闇の続く町に、断末魔の声が絶えず響き渡る。

 血色が空気中に見えそうなほどの濃厚な臭い、そして同時に焦げ臭い炎の香りが町中に漂っている。チリチリと肌を焼く火が何処にいても感じられる、そんな場所に降り立ったフォルセは、全身の肌が酷く粟立って仕方がなかった。

 

 

「一体何が……」

 

 

 困惑が喉に引っかかりながら溢れた。それは唐突に現れた騒動への驚きに加え、よりによってどうして燃えているのかという苛立ちもあった。

 火が怖い。森で再発を自覚したトラウマは、より厄介な形でフォルセを蝕んできている。

 

 

「聖職者サマ! 魔物が……!」

 

 

 ミレイの声にハッと我に返り、感じた殺気に釣られるまま剣を抜いた。

 現れたのは二体の――豚だ。所々腐敗した肉体を引き摺り、そして火を撒き散らしている。火の元はこれかと、フォルセはぎゅっと剣を握り締めた。漂う火の臭いから察するに、町中に同じような魔物が闊歩しているに違いない。

 

 そう考えて、フォルセの脳裏にある光景が蘇った。

 

 

「ヘレティック……あの時と同じ」

 

「あの時?」

 

「……来ます、話は後で!」

 

 

 地を蹴った豚どもを見て、フォルセは重い足を動かした。ミレイもまたそれどころではないと判断したのだろう、リボンを振り翳し、距離を詰める。

 

 腐肉と炎を撒き散らす身体を受け止め、フォルセはすぐさま受け流した。火が怖い。全身から力が抜ける。何とかしなければ、と瞳をうっすらと細める。

 

 

「いくわよ、昇舞連(しょうぶれん)!」

 

 

 ミレイが豚を腹から切り上げ、軽々と吹き飛ばした。次いで両腕のリボンを刃のように硬化させ、一気に距離を詰めて追撃する。

 

 

(くっ、やはり身体が思うように動かない……怖がらず、彼女のように戦わねばならないのに!)

 

 

 まるで恐怖などないミレイの姿に、フォルセは心の底から焦りを感じた。彼女が懸命に戦っているのに、自分が惑うてどうするのか。

 

 

(……冷静になれ、でなければ今度こそ信仰心を失うことになる)

 

 

 苛立ちを抑えて衝撃波を放つ。焦りを込めて剣を振るってはならない。命を奪うことへの祈りを忘れてはならないのだ。そう自戒するほど、リージャが身体を締め付ける。その締め付けに従うように、フォルセは白雷を纏って突撃し、豚を一気に浄化した。

 

 ほぼ同時に豚を倒したミレイが、げんなりした様子でリボンを収めた。

 

 

「ふぅ……こんなのが町中にいるって言うの?」

 

「恐らくは。……ミレイ、何かに似ていると思いませんか?」

 

「クルトのヘレティック化した姿ね。あたしも思ったわ……何か、関係があるのね」

 

 

 察しのいいミレイに頷き、フォルセは自身の記憶を語り始める。

 

 

「先程の話の続きです。二年前、異端の気配を感じとった私は急いで村に戻り……そこで、これと同じ光景を見たのです。

 異端症(ヘレシス)が暴走する時に発動する術――暴走余波(インフェクション)によってヘレティックと化した家畜が、村中で暴れ回っている光景を」

 

「! じゃあ、この町のどこかに暴走した異端症(ヘレシス)がいるってこと……? あぁでも待って。もしかしたら、これも二年前の再現かもしれない……」

 

「再現である可能性が高いでしょうね。あの時の暴走余波(インフェクション)はクルト少年によるものでしたから」

 

 

 ふう、と詰めていた息を吐き出し、フォルセは町の端を見据えるように視線を飛ばした。実際には崩れ落ちた家屋しか見えなかったが、それでも惨劇の全貌が見えているように眉を寄せる。

 

 

暴走余波(インフェクション)は、一度に大量のヘレティックを生みます。しかし、最初にヘレティックと化した個体……古毒者(アンティペッカー)を浄化すれば、同じ暴走余波(インフェクション)によって暴走したヘレティックもまた浄化できるのです」

 

古毒者(アンティペッカー)……わかったわ。それを捜しながら、町の人を助けるってミッションね!」

 

「えぇ……」

 

「どうしたの聖職者サマ? ……やっぱりまだ疲れが、」

 

「何でもありません。大丈夫です、行きましょう」

 

 

 そう、とミレイは無理やり納得した顔で引き下がった。

 

 

(同じ異端として不安に違いないんだ……僕がしっかりしなくてどうする……)

 

 

 火への恐怖にミレイは気付いていない、ならばずっと知らぬままでいるべきだ。これ以上、フォルセの弱さを知らせて不安にさせることもない。

 

 が、抱える不安を知らせて困るのは、フォルセの方だった。森で全身の痛みを隠していた時と同じ、もしくはそれ以上の秘匿をもって恐怖を隠す。隠したいと、望んでいる。

 

 

(これ以上、不安にさせるわけにはいかない……いかないんだ……)

 

 

 ミレイは変わった。しかし、フォルセの方はあまり変わってはいなかった。

 

 

 

***

 

 

 エリュシオンの町を駆け回り、ヘレティックを倒しながら人々を助ける。

 

 

「教会は、人工的に作られた聖地です。ヘレティックを寄せ付けないので、人々も向かっていることでしょう」

 

 

 不可思議なるゲイグスの町とはいえ教会があったのは幸いであった。二人は見つけた人々を片っ端から教会に送っていった。ヘレティックに襲われて間一髪、という者もいれば、自ら助けを求めてきた者もいる。そして間に合わなかった者も。時に大所帯となりながら護衛をし、二人は短い間に満身創痍となっていた。

 

 それでも、と懸命に足を動かすのはミレイだ。まだ聞こえてくる助けを求める呼び声――それに応えられるのは自分達だけなのだと自覚して、疲労を抑えて駆けずり回っている。

 

 そんなミレイの姿に感化されながら、フォルセは思うように動かない身体に辟易としていた。

 

 

(ほんの小さな火ですら怖い……)

 

 

 森で再発した火へのトラウマは、フォルセが思っている以上に深刻なようだった。詠唱が震え、剣の切っ先がぶれる。自棄になれるほど身勝手になれる状況ではないし、そうできるほど理性を失っているわけでもなかった。

 

 

(幼き頃の光景がどうしてもちらつく。集中しなければいけないのに……あの日からの恐怖が、全身にまとわりついているようだ)

 

 

 故郷を襲った大規模なる火災。その日の光景がまるで昨日の事のように思い出される。忘れていたわけではないのに、今まで平気だったことが夢であったかのように、フォルセの心身はあの頃のままだ。

 

 火に追われる人々ですら、フォルセにとっては恐怖の対象だった。轟く悲鳴に、正義感より先に恐怖を感じる。

 

 

「聖職者サマ、向こうから女の子の声が!」

 

 

 教会に人々を送り、再び町へと向かった時のことだった。

 

 ミレイがか細く泣く幼女の声に気がついた。向かった先で、瓦礫に足を挟まれ動けない幼女を見つける。協力して瓦礫を排除し、どうにか引っ張り上げれば、治癒術で治せる程の怪我が現れた。

 

 

「今、治します。よく頑張りましたね……」

 

 

 己の痛みも忘れ、フォルセは幼女に治癒術を使った。暖かな光が彼女を包む。数秒の後、幼女は自らの足で地に立つことができ、ミレイが自分のことのように喜んだ。

 

 

「良かった……! さぁ、あたし達と一緒に教会に行きましょ。他の人もそこに逃げてるから」

 

「う、うん……」

 

 

 ミレイが差し伸べた手に掴まり、幼女は恐る恐る立ち上がった。怪我が治り、難なく立てることを不思議そうに確かめる様子に、ミレイの表情が若干緩む。

 

 が、止まっている暇は無いと思い直し、ミレイは幼女の手を軽く引っ張った。

 

 

「こっちよ、ゆっくりでいいからあたし達に着いてきて」

 

「……おねえちゃんは、どうして治してもらってないの?」

 

「え?」

 

「おねえちゃんの手、傷だらけ。神父様に治してもらえないの?」

 

 

 幼女に責めるように見つめられ、フォルセは困ったように苦笑した。確かにフォルセと比べ、ミレイの姿はボロボロだ。が、異端であるミレイに治癒術は使えない。回復薬は確かに摂取しているが、どうしても治癒術の万能さには敵わないのだ。どう伝えればいいものかと、言葉を考えあぐねる。

 

 

「そりゃあ仕方ないわ。だってあたし異端だもの」

 

 

 悩むフォルセに反し、ミレイはあっけらかんと事実を告げた。

 

 

(確かにそうなのだけれど、はっきり言ってしまうと支障が……)

 

 

 ぽかんと口を開ける幼女を見て、フォルセは異端と告げることのデメリットを考えた。そう、デメリット――問題だらけなのだ。ただ自分は既にミレイを受け入れているから、問題がないように見えるだけで、一般人にとっては――

 

 

「……いゃあああああっ!!」

 

 

 唐突な悲鳴の後、幼女は掴まれていた手を振り払い脱兎の如く逃げ出した。今度はミレイがぽかんと口を開けることになった。振り払われた傷だらけの手が、とても痛い。

 

 

「……な、なに?」

 

「ぁ……しまった。うっかり麻痺していた……」

 

 

 幼女の逃げていった先を呆然と見つめるミレイに対し、フォルセはあぁ、と頭痛を湛えて天を仰いだ。

 

 

「ミレイ。あれが一般人の反応だと覚えておいてください……」

 

「……あたし、異端って言っただけよ?」

 

「それが、恐怖の対象となるのです。異端とは……神への信仰を持たず、世迷い移ろう存在。いつなん時現れるとも知れない……暴走の権化、ですから」

 

 

 つい先日までなら言う筈もなかった言葉を告げれば、案の定ミレイの顔色がサッと変わった。哀れにも血の気が失せて、唇を震わせるその姿を――フォルセはじっと、暴走しやしないかと心配しながら見つめる。

 

 フォルセの考えに思い当たったのだろう――ミレイはきゅっと顔を引き締め直した。

 

 

「……確かに、いつ暴走するかわからないものね」

 

異端症(ヘレシス)という存在が人々に知れ渡るのは、異端症(ヘレシス)自身が暴走を起こした時です。貴女のように自ら異端と名乗る者を、私は今まで見たことが無かった」

 

「だから驚いてたのね、聖職者サマ。……むぅ、あんな反応されるなら、そりゃあ名乗るわけないわよね……」

 

 

 何だか悔しい、とミレイは血色の戻った頬を膨らませる。

 

 

「いいわ。言っちゃったもんは仕方ないもの。あの子を捜して、無事教会まで送り届けて、かっこいい異端だって上書きしてやるんだから」

 

「……っ、お強いですね、本当に」

 

「騎士サマにも言われたわ、それ。あたしはそんなに強く見える? そうは思えないんだけど」

 

「異端であるのに暴走していないというだけで、私にとっては強い御方なのですよ」

 

「……そっか。それじゃあますます、暴走するわけにはいかないわね!」

 

 

 フォルセの言葉に、ミレイはグッと拳を掲げて誓い直した。

 

 幼女を追いかけようと駆け出したミレイを追い、フォルセは内心苦笑する。

 

 

(……強いヒトだ。この様子なら、本当にもう暴走することはないかもしれない。僕の弱さを知っても、きっと……)

 

 

 今現在、フォルセは火への弱点を頑なに隠そうとしている。ミレイを不安にさせたくない、暴走させるわけにはいかないという思いゆえだ――少なくとも、フォルセはそう考えている。

 

 しかし、あからさまな異端への嫌悪を目の当たりにしてすら耐えている、寧ろ平然とさえしてみせるミレイを思えば、フォルセの弱点を知ったところで平気なのではないだろうか。

 

 

(けれど……あぁ、駄目だ。言う勇気が持てない……)

 

 

 そう考え直しても、フォルセは自身の弱さを告げることができずにいる。

 

 

 

「――きゃああああっ……!」

 

 

 幼女の悲鳴が、僅かな距離から響いた。

 

 

「さっきの女の子の声!」

 

「……この声、」

 

「? どうかした?」

 

「いえ……急ぎましょう……!」

 

 

 耳に届いた悲鳴に、フォルセは胸の奥を撫でられる思いがした。所謂“嫌な予感”というものだったのだが、その正体に思い当たることはできず、急ぐままに駆けつける。

 

 そして、その“嫌な予感”が見事的中したことを知り、フォルセは危うく剣を取り落としそうになった。

 

 

「いやっ……誰かぁ……!」

 

 

 幼女がへたり込む前に、炎の塊が轟音をあげて燃えていた。

 

 それは、家畜の中でも大きな体躯を持つだろう牛だった。角は鋭く生え変わり、しかし身体は腐り果てながらも炎が噴き上げ――元の雌牛だった姿からは想像つかぬほどに恐ろしい姿だ。特に、口から撒き散らす炎は他のヘレティックの比ではなく、幼女に燃え移っていないことが不思議なくらいであった。

 

 

(そうだ……! 二年前にも女の子を助け、こんなヘレティックを浄化した。当時は何とも思わなかったけれど、今の僕にとっては最悪の相手だ……)

 

 

 昔の記憶が知らぬうちに警鐘を鳴らしていた。火によるものではない汗がじっとりと肌を伝う。

 

 考える。本来の自分ならどうするか。そうすれば自然と祈りは生まれ、言の葉が掠れ声で出てきた。

 

 

「……ミレイ、あれが此度の古毒者(アンティペッカー)です。あの子を頼みます!」

 

「りょーかい!」

 

 

 同時に地を蹴り、怯える幼女とヘレティックの元へ向かう。

 

 

界往波(かいおうは)!」

 

 

 ミレイが幼女を抱えて飛び退くと同時、フォルセは衝撃波を放ち、ヘレティックを大きく仰け反らせた。火の消えた脳天目掛け素早く飛び込み、出来うる限り深く斬りつける。

 

 

「う、わぁああん……!」

 

「あぁあ、泣かないでっ、もう大丈夫だから!」

 

 

 怖かった、と幼女がミレイにしがみつく。それを横目に、フォルセはより距離を離さんと剣を払う。

 

 

襲爪雷斬(しゅうそうらいざん)!」

 

 

 火を打ち消さんと、白雷を帯びた斬撃を放った。ヘレティックが悲鳴をあげて後退する。このまま押し込める――フォルセは再びリージャを奮わんと剣を構えた。が、噴き上げる火が頬を掠め、声無き悲鳴をあげて肩を揺らす。

 

 

「! ぐっ!」

 

「聖職者サマ!」

 

 

 天を仰ぐ角で薙ぎ払われ、フォルセは剣を弾かれた。ミレイの悲鳴が響く。が、彼女は幼女にしがみつかれている為に飛び出すことができない。

 

 

「行かないでおねえちゃん! 神父様ならだいじょうぶだから……」

 

 

 幼女の声が遠く聞こえる。“神父様なら大丈夫”――取り落としかけた剣をぐっと握り、フォルセは揺れる眼に力を込めた。

 

 

(この身に纏うものを思い出せ……トラウマで動けず、何が神父だ!)

 

 

 ザッと土煙をあげて食い留まり、フォルセは不意に瞳を閉じた。何も見えない――怖い火も、そして間合いすらも。けれども間合いなど、培った経験でカバーすればいい!

 

 

招雷閃(しょうらいせん)!」

 

 

 雷を纏いし必殺の突きを放ち、ヘレティックの角を破壊する。

 

 

「こうなったら魔術でフォローするわ! ――氷槍鋭利、」

 

閃空裂破(せんくうれっぱ)!」

 

「……アイスランス!」

 

 

 集束するマナからミレイの助力を判断し、フォルセは回転と共に斬り上げた。冷気が爆ぜる――ミレイの元から巨大な氷柱が飛び、ヘレティックの胴体を貫いた。

 

 瞳を開ける。場は空中、目の前には角の片方を破壊されて呻くヘレティック。火の勢いは僅かに衰えたとはいえ未だ轟々と燃え盛り、フォルセの心底から恐怖を引き摺り出そうと抗ってくる。

 

 

(火が見えて、怖いなら……)

 

 

 恐怖に惑うその心に蓋をするのは――リージャによる、神経を抉るような激烈な痛み。

 

 

「痛みで忘れてしまえっ……! 襲爪雷斬(しゅうそうらいざん)!」

 

 

 空中より一層威力の増した白雷の斬撃を、ヘレティックの脳天に直撃させる。巨体、その胴体までもを引き裂いて、フォルセはヘレティックを叩き落とした。

 

 地面に落ちたヘレティックの身が、マナとなって還っていく。

 

 

「やった……聖職者サマ!」

 

「……っ!」

 

 

 痛みでいっぱいとなった身体での着地は、嘘でも軽やかとは言えなかった。

 

 喜ぶミレイを尻目に、フォルセは剣を構え直す。

 

 

「まだです! まだ終わりじゃありません!」

 

 

 へ、と気の抜けた声を出すミレイに、先に言っておけば良かったかとフォルセは心の中で反省する。

 

 

古毒者(アンティペッカー)は簡単には浄化できない! 姿かたちを変えて復活するのです!」

 

 

 フォルセの怒号が響く中、ヘレティックが黒(もや)に包まれた。周囲の熱気にも負けぬ冷たい空気に、ミレイもまたゴクリと息を呑み、臨戦態勢を取る。

 

 瘴気が爆ぜ、ヘレティックの新たな姿が現れた。

 

 その姿は筋骨隆々、いつだかフォルセが浄化した人狼(ワーウルフ)にも似た二足歩行、しかしその頭は鋭い角の生えた牛のそれだ。どこから取り出したのか、その腕には燃え盛る巨大な斧を持ち、姿は伝説上の牛頭人(ミノタウロス)のようであった。

 

 

「――ゴォァアアアアッ!!」

 

 

 暴風の如き咆哮をあげ、ヘレティックがフォルセに向けて地を蹴った。

 

 

(! 記憶にあるより、速い――!)

 

 

 避けるに避けられず、フォルセは真正面から巨斧を受け止めた。重みによって、両足が地面に沈む。炎を纏っているのは斧の部分だけだが、スピードとパワーは森で戦ったヘレティックよりも上であった。

 

 

「ぐぅっ……ひ、火が……!」

 

 

 斧より降り注ぐ火の粉が、フォルセの全身から力を抜き去る。

 

 

「氷槍鋭利――」

 

「! だ、駄目です……ミレ、イ!」

 

「アイスランス!」

 

 

 フォルセを助けんと、ミレイが再び氷柱を放った。が、所詮は下級魔術である攻撃はヘレティックの肩に当たって砕け、ただ煩わしい苛立ちをヘレティックに与えたに過ぎなかった。

 

 

「ぐ、ぅあああっ――!」

 

 

 斧が力任せに振るわれ、フォルセの身体が軽々と吹き飛ばされる。

 

 

「聖職者サマ!」

 

「神父様……!」

 

 

 瓦礫に突っ込んだフォルセの姿に、ミレイと幼女が怯えきった顔で叫んだ。

 

 ヘレティックが再び吼える。煩わしい攻撃をしたのは誰かと捜し、そうして怯える二人の人間を見つけ、怪しく舌なめずりする。

 

 先程のスピードは何処へやら――獲物を追い詰めるようにゆっくりと、ヘレティックはミレイ達の元へ歩いていく。

 

 

「……ここはあたしが!」

 

 

 ミレイが幼女を背に庇い、迫り来るヘレティックに向けてリボンを構えた。

 

 

「大丈夫よ、聖職者サマはすぐに来る! それまであたしが……食い止める!」

 

「お、ねぇちゃん……」

 

 

 ミレイの背を、彼女に怯えていた幼女が濡れきった眼で見つめる。先程もそうだった。ヘレティックから己を助けてくれたミレイにしがみつき、怖かったと泣き叫んだ。

 

 

「ごめんなさい……」

 

 

 幼女のか細い謝罪を背に受け、ミレイは絶対守ってみせると地を蹴った。

 

 

旋導波(せんどうは)!」

 

 

 幾重にも、思いきり横に薙ぐ――が、力の差によっていとも容易く弾かれ、たたらを踏んでいるうちに追撃を食らう。

 

 

「ぐっ、きゃ……っ!」

 

「! 神父様! おねえちゃんが、おねえちゃんがやられちゃうよお!!」

 

 

 ミレイの身体が大きく揺れた。直後、ヘレティックの重い一撃が彼女のリボンを無惨に散らす。

 

 同時に、瓦礫の中からフォルセが起き上がった。眩みながら立ち上がり、状況を確認するや否や駆け出す。

 

 

「……ミレイ!」

 

 

 フォルセが直感した通り、ミレイの身は鋭利な斧の餌食となろうとしていた。

 

 ――間に合わない!

 

 

 

天翔弾(てんしょうだん)――!」

 

 

 その時、どこからともなく白い霊弾が放たれた。それはヘレティックの斧に直撃し、その巨大な身体を僅かに怯ませ、押し退けた。

 

 

「……アーチシェイド!」

 

 

 ミレイとヘレティックの間に人影が落ちた。影から強烈な闇の放物線が飛び、ヘレティックを大きく吹き飛ばす。轟音に等しき咆哮が響き渡る。

 

 ブオン、と杖を唸らす音がそれを掻き消すように響き、影の正体を顕にした。

 

 

「あっ……ハーヴィ……!」

 

「よぉ異端。見ないうちに随分まともになったじゃねぇか」

 

 

 それは、審判者を自称する赤毛の男ハーヴェスタであった。彼は木の杖を構え直し、ヘレティックを威嚇するように佇む。

 

 

「こっちもちょっとワケありでね、助太刀させてもらう。……おい、〈神の愛し子の剣〉候補!」

 

「え……、は、はい」

 

「悪ぃけど、何も考えず俺に治癒術かけてくれないか? それくらいは、できるだろう……?」

 

 

 それくらいは。ハーヴェスタの言葉が胸に刺さる。まるで無力なフォルセを責め立てるような言い草に、フォルセはビクリと肩を揺らし、震える手でリージャを練る。

 

 

「傷付きし汝に祝福を与えん……ヒール!」

 

「……え?」

 

 

 ミレイが呆気に取られた声をあげた。フォルセからハーヴェスタへ移った真白の光が、虹色となってミレイに移動していったからだ。その光は傷付いたミレイを――異端である筈の身を、柔らかく癒していく。

 

 それを為したであろう赤毛の審判者は、既にヘレティックに向かって杖を振り翳していた。答えは得られそうになく、フォルセは訳がわからぬまま覚束無い足取りで駆けつける。

 

 

「……ミレイ」

 

「聖職者サマ、見て。あたし、何か癒されちゃった」

 

 

 凄い凄い、とミレイは無邪気に笑っている。

 そんな彼女に駆け寄って、フォルセは笑むことすらできなかった。

 

 

「すみません」

 

「聖職者サマ?」

 

「私は、また貴女を危険な目にあわせてしまった……」

 

 

 どこか虚ろな目で謝罪するフォルセに何を感じ取ったのか。ミレイは口を閉じ、じっとフォルセを見つめだした。

 

 

「聖職者サマ……」

 

「はい」

 

「まだ何か、隠してない?」

 

 

 フォルセは思わず肩を揺らした。

 

 

「なに、な、何のことでしょう……」

 

「あからさますぎるわ聖職者サマ。でも、今はそれどころじゃないわね、あのヘレティックを倒さないと」

 

 

 状況をよく理解しているその言葉に、フォルセは己の不甲斐なさを更に理解することとなった。今はミレイに駆け寄っている場合ではないのだ。ハーヴェスタが相手取っているから良いものの、古毒者(アンティペッカー)の脅威は未だ続いている。

 

 

「水が弱点じゃないのかしら。それともあたしの術が弱すぎた? うぅん……」

 

「……火です」

 

「火ぃ?」

 

「斧は燃えてますが、本体は火が弱点です。珍しかったので、当時も驚いた覚えがあります」

 

 

 フォルセは震えた声でそう告げた。本心を言えば、許されるなら伝えたくなかった。ミレイの術は害無きものとはいえ、前後左右火に囲まれるのはどうしても避けたかった。

 

 その思いが表情に出ていたのか、ミレイが再び訝しげな表情で見つめてきた。

 

 

「……今度は負けません。フォローをお願いします」

 

 

 強い視線を振り切るように、フォルセは剣を構え直して駆け出した。

 

 

 

 ハーヴェスタは杖を薙いでヘレティックの振るう斧を受け流し、空いた腹を攻撃した。木の杖が筋肉を打ち付け、鈍い音をたてる。大した威力にもならぬ攻撃を続けているにも関わらず、ハーヴェスタの表情は凪いだままだった。

 

 

襲爪雷斬(しゅうそうらいざん)!」

 

 

 ハーヴェスタの口元がニイと笑う。

 

 両者の間に割り込み、フォルセは思いきり剣を払った。リージャを乗せた銀の煌めきが太い腕を切り落とし、ヘレティックの悲鳴を誘う。

 

 

「遅かったな、〈神の愛し子の剣〉候補」

 

界往波(かいおうは)! ――貴方は、確かハーヴェスタ殿でしたね? 試練の審判者という……」

 

 

 ヘレティックを衝撃波で吹き飛ばし、フォルセは隣に佇む赤毛の男を見た。

 

 

「ハーヴィでいいよ、呼びづらいだろう? ……助けてやるのは二度目だな」

 

「……そうですね。助かりました、ハーヴィ……」

 

「聞きたいこと沢山あるだろうが……まずはこの厄介なヘレティックを倒すとこからだ、いいな?」

 

 

 頷き返し、フォルセは吹き飛ばしたヘレティック――古毒者(アンティペッカー)を睨みつけた。

 

 フォルセが切り落とした腕は、既に瘴気によって完治していた。古毒者(アンティペッカー)の最も厄介な点は、通常のヘレティックを大きく上回る自己治癒力にある。並の攻撃では怒りを買うだけ、一撃の元沈めなければ――すぐさまやられてしまう。

 

 

(今この場で有力なのは、ミレイの魔術に合わせてヘレティックを押し留めること……)

 

 

 ミレイは幼女から離れず、火属性魔術を全力で放ってくれるだろう。フォルセにできるのは、彼女の攻撃が十二分に発揮されるよう囮となってヘレティックを引きつけることだけ。

 

 

(彼と一緒なら、それも可能か……?)

 

 

 フォルセはチラ、と自称審判者の男を見遣った。ハーヴェスタもまた死にきった金眼でフォルセを見返す。

 

 

「何を期待してるか、大体予想はつくが……」

 

「? ……うわっ!?」

 

 

 ハーヴェスタの手にボウッ! と小ぶりな火が現れた。

 

 

「俺“も”術師だ、期待されても困るぜ? ……燃えちまいなッ! フレイムドライブ!」

 

 

 火のマナが一気に爆ぜ、三つの火炎球がハーヴェスタの元より飛び立った。

 

 空中で弧を描き、ヘレティックの額、そして胴体に当たり、焼き焦がす。

 

 

「そら来るぞ! 精々俺らを守んな!」

 

 

 ハーヴェスタに背を押され、フォルセはビクついた身体のまま駆け出した。

 

 

「業火爆裂、バーニングショット!」

 

「――フレイムドライブ!」

 

 

 ミレイの元から巨大な炎、ハーヴェスタから再び三つの火炎球が飛び、フォルセを追い越しヘレティックを襲う。

 

 

(っ……!)

 

 

 火炎に追い越される度、フォルセの視界がチカチカと照る。頭痛が酷い。リージャの痛みに身を任せても、逃げ場にはまた火が通る。

 

 

(逃げ場の無い……炎の海……)

 

 

 周囲の瓦礫すら、燃えて見える。燃え盛るヘレティックの斧をすんででかわすも、徐々に距離感が掴めなくなってくる。

 

 

(あの時もそうだった。周りは全部燃えていて、誰もが逃げたいと抗って……)

 

 

 視界が変わる。燃え盛る炎の中、震えるばかりの幼いフォルセが聞いたのは――人々の怯える怒号が、徐々に獣の咆哮へと変わっていく地獄。

 

 バリンと割れたのは開かずとなっていた教会の窓。割り、外へと飛び出したのは先程までヒトだったモノだ。黒い、瘴気を纏う獣となって、己が家族を食い殺してまでも燃え盛る教会から逃げ出した――フォルセにとっての恐怖の権化。

 

 教会だけではない。それがフォルセの故郷――アルルーテンに起きた最期の光景。

 

 

 ――鋼を弾く、音が響いた。

 

 

『よく聞いておけ、未来の我が祭士』

 

 

 いつだったか、上司であるテュールが語った言葉が脳裏を過ぎる。

 

 

『剣はお前だ、お前は剣だ。惑えば刃はふらつき、祈れば強き芯を持つ。

 一度剣を持ったなら、惑うな。惑えば最後……お前は“また”、憎しみの業火に呑まれることとなるぞ』

 

 

 あの時なんと返したのだったか。フォルセは思い出せぬまま、現実に引き寄せられる。

 

 巨大な腕に、腕を掴まれ引き寄せられる――

 

 

 

「……しょ……サマ、聖職者サマ!」

 

「――ゴォァアアアアッ!!」

 

 

 ミレイの声が、間近に迫ったヘレティックの咆哮に呑まれる。見上げれば、赤黒い目をした牛の面と目が合った。憎しみに満ちた目だ。けれどその奥に愉悦を感じ、フォルセは剣を振るわんと掴まれた腕を引っ張った。

 

 ――腕はピクリとも動かず、剣は手元に無かった。

 

 燃え盛る斧が振り上げられる。飛び散る火の粉に怯えながら見上げた先で、ヘレティックがお返しだ、と嗤ったように思われた。

 

 

 

***

 

 

 その悲鳴を聞いたのは、二度目だった。

 

 

「っ、ぐッ、あ……ああああああああッ!!!」

 

 

 振り下ろされた斧がフォルセの右腕に落ち、神経の一片までも切断する。一連の流れをゆっくりと見届けたミレイは、声にならぬ悲鳴をあげ、何も考えられぬまま歩を踏み出した。

 

 

「せいしょ、……きゃあっ!!」

 

 

 次いで振り払われた斧が大地を抉る。ミレイはフォルセの後方で踏み止まり、腕を交差して土煙から逃れた。このままでは二の舞になる――何の? 彼の。無惨に切り落とされた聖職者の!

 

 

「聖職者、サマ……ぁ、ああ……」

 

 

 先程見た光景は夢だったのだろうか。――否、そんな筈はないとミレイが一番よくわかっていた。砂埃が晴れ、顕になる。現れたのは先程と変わらぬ光景、ヘレティックが細い腕を高々と掲げ、その足元にフォルセが無くなった右腕を押さえて蹲っている。

 

 

「……の、」

 

 

 フォルセの周囲に、青い稲光が走った。

 

 

「この……穢れた獣畜が……!」

 

 

 切断部から大量の血を流しながら、フォルセは青白い顔で立ち上がった。残った左腕に稲妻を纏い、ヘレティックの持つ斧を鷲掴みする。

 

 驚いたのはミレイだけではなかった。ヘレティックもまた、仕留めたと思った獲物がより素早く、攻撃的に動いたことに驚愕し、そしてその溢れんばかりの稲光に本能から怯えを発している。

 

 

 バチバチと音をたて、フォルセの放つ雷がヘレティックを捕らえる檻と化す。

 

 

「……おい、異端。いたーん!」

 

「ぇ……」

 

「今がチャンスだ! でかい火一発ぶちかましてやれ!」

 

 

 言いながら火のマナを集めるのはハーヴェスタだった。ミレイは信じられない、と言いたげな顔で彼を見遣った。こんな状況で何がチャンスだというのか、自分に一体何をしろと言うのか。

 

 

「あのヘレティックを倒すチャンスだっつってんの! 腕をもう一本犠牲にさせるつもりか!?」

 

「! わ……かったわよ……!」

 

 

 ハーヴェスタの言い様にミレイは怒りに顔を染め上げ、彼と同じように火のマナを集め出した。

 

 

 怒りが集束する。その中心にいるのは、片腕を失った聖職者――

 

 

(こわい、恐ろしい怖い……ぃ、にくい、憎い憎い憎い!)

 

 

 恐怖と憎しみによるリージャを発し、フォルセは何のためらいもなく目の前の異端を滅ぼそうとしている。

 

 

「猛火激烈、天まで届け! フレイムピラー!」

 

「燃えよ焔花、滅んじまいな! ブレイジングハーツ!」

 

 

 ミレイとハーヴェスタ、それぞれが火のマナを解放する。炎がヘレティックを――拘束するフォルセをも呑んで燃え盛る。

 

 

「ゴォァアアアアッ!? ァアア、アアアアア……」

 

 

 ヘレティックの断末魔が燃焼の音に呑まれゆく。惨劇の核を焼き尽くし、エリュシオン全域の異端を連れ、星に還っていく。

 

 炎が消えた。

 

 断ち切られた右腕が置き土産のように落ちる。それに従い、リージャを解放し尽くしたフォルセはその場に力無く崩れ落ちた。

 

 

 



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Chapter19 惑い火との過去

 

「……っ、聖職者サマ!」

 

 

 ミレイはすぐにフォルセを呼んだ。呼んだからといって何をしたい、すべきかなどわからなかったが、とにかく呼ばずにはいられなかった。

 

 返事はない。フォルセは(うずくま)ったまま、己の右腕だったモノを見つめ、固まっている。

 

 

「……失いたくない」

 

 

 フォルセはぽそりと呟いた。残った左腕を力無く上げ、か細いリージャを発し、光のペンを出す。慣れた手つきで空中に書かれるのはヴィーグリック言語――ミレイにもわかるほど複雑な文章を、無心で書き連ねていく。

 

 書き終わった直後、地面に落ちた右腕を光が包み、赤きヴィーグリック言語となって弾けた。現れた文字の羅列は、まるでフォルセが剣を収める時のように収束し、彼の経本に吸い込まれていった。

 

 

「……ぅ…………」

 

 

 ボタボタと血の流れる切断部位を押さえ、フォルセが苦しげに呻いた。それを見て、ミレイは弾かれたように駆け出し――じっと佇んでいたハーヴェスタを引っ張り、彼の元へと走っていった。

 

 

「おい、何すんだ異端」

 

「何、じゃないわよ! 治癒術使えるでしょ! 早くかけてあげて!」

 

「自分で使えるんだからいいじゃねーか」

 

「こんな状況で、そんなこと言わないでよ!」

 

「だったらお前が使ってやればいいだろう? 今すぐ改宗してさ」

 

 

 ハーヴェスタの言葉に、ミレイはぐっと黙り込んだ。改宗などと簡単に言うが、それはミレイ自身のアイデンティティや存在価値を捨て去ることと同義だ。容易くできるものではなく、無力な自分に歯噛みすることとなる。

 

 

「……大丈夫、です……」

 

「聖職者サマっ」

 

「彼の言う通り、自分でなんとか、でき……」

 

 

 フォルセは弱々しく、左手を胸に当てた。自分で治癒する、と言い、暫しの間黙り込む。しかし、いつまで経っても治癒の光は現れない。

 

 

「……仕方ねぇな」

 

 

 ハーヴェスタがはあ、と大きな溜め息を吐いてしゃがみ、フォルセの肩をぐっと抱き込んだ。呻く彼に構わず、小さく詠唱し、強力な治癒術を発動させた。

 

 

「サービスだ。ったく……こりゃ、俺もディーヴ達のことは言えねぇな」

 

 

 傷口が塞がり、フォルセの腕の流血が収まった。とはいえ既に大量の血を流していることに変わりなく、肉の欠損は治癒術では保護しきれない痛みをフォルセに与えている。

 

 

「し、神父様……手、てが……」

 

 

 先程までミレイに庇われていた幼女が、彼らの元へ怯えながらやって来た。その顔はフォルセに負けず劣らず真っ青だ。短い間に見た光景は、幼き彼女にとって恐ろしく、想像を絶するものだった。

 

 

「ウミちゃんのせい! ウミちゃんが、おねえちゃんから逃げたから……」

 

「! 悪いのは……」

 

 

 ミレイは思わず幼女を見た。ウミちゃんと名乗った彼女の言葉を聞き、ほんの一瞬、憎しみのこもった視線を向ける。

 

 

「……違うわ。元を正せば、あたしが異端って名乗ったからよ」

 

 

 が、ミレイはすぐさま思い直し、見当違いな憎悪を払うように頭を振った。自分が軽率な発言をしなければこんなことにはならなかった。そう言いたげに、唇を噛む。

 

 

「……誰のせいでも、ありません……」

 

 

 そんな彼女らに聞かせるように、フォルセは小さく口を開いた。

 

 

「悪いのは、私です。弱いままの、無力な僕の……」

 

「聖職者サマ……? ……っ、」

 

 

 フォルセの言葉に自責以外の弱さを感じ、ミレイは声をかけようとした。そこに降り注いだのは、崩れる瓦礫の音。未だ燃え盛るエリュシオンの小さな崩落の響きだった。

 

 

「! ひ、嫌だ……」

 

「え?」

 

「嫌だ、こわい、憎い……ぁあ……!」

 

 

 弾けた火の粉に大きく肩を揺らしたフォルセを見て、ミレイはずっと目撃していた疑惑をはっきりと感じ取った。クルト少年と戦っていた時の表情、そして――先程の戦闘での、ありえないほど弱々しい戦い方。

 

 

「……もしかして聖職者サマ……火が、怖いの?」

 

「……! ゃ、違います。怖くない、怖くなんてないんです……ぅ……」

 

「聖職者サマ、あたしの目を見て。火を得意とするあたしを見て……同じことが言える?」

 

 

 フォルセは涙をこぼす寸前のような顔でミレイを見上げ、そして力無く俯いた。

 

 

「……あたしが、森を燃やしたから。だから聖職者サマ、火が怖くなったの?」

 

「っ、違います! 貴女のせいで怖いわけでは……ぁ……」

 

 

 告白した。フォルセは今はっきりと、ミレイに対し“火が怖い”と弱音を吐いた。

 

 

 

***

 

 

 取り乱したフォルセが僅かに落ち着いた頃、彼らは幼女を連れてエリュシオンの教会に向かった。

 

 幼女を送り届け、ヘレティックの脅威が消えたことを住民に知らせる。人々は安堵に包まれたが、それを伝えたミレイの心は思わしくなかった。

 

 フォルセは教会に入らなかった。こんな無様な姿を見せたくないと駄々をこね、教会の外で待っている。

 

 

「神父様……大丈夫かな……」

 

「大丈夫、今はちょっと元気無いけど……きっと、元の優しくて強い聖職者サマに戻るわ」

 

「……おねえちゃん、優しい異端なのね。ごめんなさい……ありがとう」

 

「……っ、こっちこそ、ありがとうウミちゃん」

 

 

 幼女の頭を軽く撫で、ミレイはフォルセとハーヴェスタの元へと戻っていった。

 

 

「聞きたいこと沢山あるだろう? 俺も話すことあるし……屋敷に連れてってやんよ」

 

 

 ハーヴェスタの案内で、二人は彼の屋敷に行くこととなった。フォルセが休ませてもらっていたという屋敷だが、無我夢中で飛び出してきたフォルセは場所をよく覚えていなかった。そうでなくとも、彼は今心身に負った怪我によってふらついている状態だ。ミレイは大人しく、ハーヴェスタに付き従うことにした。

 

 エリュシオンを見下ろす高台にある、ひときわ豪奢な造りの屋敷。金縁の窓が沢山ある、三階建てのその屋敷に入り、ハーヴェスタは一階にある客間に二人を案内した。

 

 豪奢なソファとテーブル、そして簡易な暖炉がどこかミスマッチな客間だ。フォルセは暖炉を見るや否やビクリと肩を揺らして立ち止まる。結局ミレイが暖炉側に座り、彼はその横に何とか落ち着いた。

 

 

「……はぁ……」

 

 

 フォルセの溜め息が響き、ミレイは彼の顔を心配そうに覗き込んだ。

 

 

「聖職者サマ……顔、赤い」

 

「大丈夫、です……」

 

「そんな筈ない。……ほら、やっぱり熱あるわ。すっごく熱いもの」

 

 

 嫌がるフォルセを無視して頬に触れば、それこそ燃えているのではないかというほどに熱かった。

 

 

「……ごめんなさい、あたしが治癒術使えれば良かったんだけど」

 

「謝ることではありません……私とて、使えないのですから」

 

「えっ、使えないって……法術が?」

 

「リージャが反応しません。だからさっきも、自分で治癒ができなくて……」

 

 

 熱っぽい息と共に吐き出された事実に、ミレイは驚愕で目を見開いた。

 

 

「そんな……ど、どうして」

 

「憎しみと共にリージャを使ったから」

 

「憎しみ?」

 

「……大切な信仰を、忘れてしまったから」

 

 

 フォルセがぼんやりと語る原因に、ミレイは言葉を失った。“憎しみ”など、フォルセに一番似合わぬ言葉と思う。けれど、とミレイは思い直す。あのヘレティックを打ち倒す直前、リージャを発揮したフォルセがどんな状態だったか、記憶に新しい。

 

 

『この……穢れた獣畜が……!』

 

 

 あの時のフォルセの叫びは、確かに憎しみで濡れていたように思われる。

 

 

「よーう、待たせたな」

 

 

 暗い空気を吹き飛ばすように、ハーヴェスタが茶と菓子を持ってやって来た。美味しそうに香る紅茶とクッキーだ。出来立てだぜ、とハーヴェスタは得意げにそれらをテーブルに置いた。

 

 

「召し上がれ」

 

「う、うん……ありがと」

 

「……辛気くせーぞお前ら、リージャが応えなくなっただけじゃねぇか」

 

「あのねぇ……! って、気付いてたの?」

 

「まぁな。だから治癒してやったんだし」

 

 

 「俺も腕まで吹っ飛ばされるのは想定外だったから」ハーヴェスタは一瞬、心配そうにフォルセを見た後、自身の持ってきた菓子を摘んで食べた。

 

 

「ま、その腕に関しちゃ自業自得だろ。古毒者(アンティペッカー)相手にあの動きじゃあな」

 

「確かに、いつもの動きじゃなかったけど……でもそれは、火が怖かったからでしょ? あたしが知ってたら他の戦い方だってできたわ。だから……」

 

「そう。他の戦い方もできた。だから結局はこいつの自業自得さ」

 

 

 ハーヴェスタの痛烈な言葉に言い返せず、ミレイはぐっと口を噤んだ。チラ、とフォルセを横目で見れば、彼もまた充分理解した顔で俯いている。

 

 

「……どうして言ってくれなかったの、聖職者サマ」

 

 

 責めたくはない、けれど言わずにはいられなかった。

 

 

「火が怖いって。一言言ってくれれば、あたしがヘレティックの囮になることだってできたわ」

 

「……」

 

「聖職者サマ!」

 

「……言えるわけない。これ以上僕の弱い部分を伝えて、不安にさせることなんてできるわけがない」

 

 

 フォルセは熱っぽい眼差しでミレイを睨みつけた。明確な拒絶を受け、ミレイの表情が硬く強張る。

 

 

「不安にさせて……暴走でもしてしまったらと思うと、僕は……」

 

「……っ、わかってたわ。聖職者サマがあたしを信じてくれていないことは」

 

 

 ミレイの言葉にフォルセは弾かれるように顔を上げ、そして肯定するように力無く俯いた。

 

 

「でも、それでもあなたは信じるって言ってくれた。あたしはそれが嬉しかった」

 

「ミ、レイ……」

 

「嬉しかったから、もう暴走するわけにはいかないって思ってる。でも難しいわね、どうすればそれを信じてもらえるのか、あたしにはわからない……」

 

 

 一番簡単に信用される術を、ミレイは知っている。フォルセと同じものを信じればいいのだとわかっている。しかし、それだけは選べないために、ミレイは深く苦悩している。

 

 ミレイの悲しみを重々理解しているフォルセは、それでもそれ以上の言葉を紡げないまま、足りなくなった己の手に視線を落とした。

 

 二人の様子を見て、ハーヴェスタが嘲るように笑った。

 

 

「辛気くせーなぁ。悩んでばかりで行き詰まってるなら、別の話をしてやろうか?」

 

「なによ……別の話って」

 

「試練のことだよ。今どういう状況になってるか、俺には話す義務がある」

 

 

 どうだ? ひとりクスクス笑うハーヴェスタに、二人は力無く向き直った。

 

 

「試練のことを話すには、まず黙示録の伝説について話さなきゃならない。

 『この世に未曾有の危機が訪れた時、神の遺した黙示録が再び勇者を呼び寄せるだろう』……ってな」

 

「“勇者を呼ぶ黙示録”……教団に伝わるものと同じですね……」

 

「! フラン=ヴェルニカ教団に、黙示録の話が伝わってるの!?」

 

「えぇ……だから私は貴女に着いてきたのです。黙示録の真偽を確かめるために……」

 

 

 教団、そしてフォルセが知っていたという事実に、ミレイは驚きを顕にした。

 

 

「勇者とは……恐らく二千年前に世界を救った女神の勇者を指すのでしょう……伝説が本当なら、世界に未曾有の危機が訪れたということですが……」

 

「あぁ。その未曾有の危機ってのが、あの核野郎……魔王ノックスだ」

 

 

 「魔王、ノックス……?」ひとり知らないミレイが、ポツリとその名を呟いた。

 

 

「……千年前、マナとリージャを独占しようと現れ、太古の魔獣をも復活させようとした……恐ろしき魔術師です」

 

「千年前?」

 

「はい……魔獣復活を目前としながら、当時の偉大なる聖人達により打ち倒され、永遠の夜に封じられたと」

 

「だが、封印は完全じゃあなかった。千年経った今、奴は不完全ながらも復活を果たし、グラツィオに現れたのさ」

 

 

 フォルセの話を引き継ぎながら、ハーヴェスタは憎々しげに菓子を頬張った。

 

 フォルセもまた渇いた喉を潤さんと紅茶に口をつけ、再び話を紡ぐ。

 

 

「声だけなら……この世界にも現れました。クルト少年を一度討った際、自ら魔王ノックスと名乗り……去っていった……」

 

「グラツィオでもそうだが、奴はこっちの世界にも介入してきてる。さっき戦った古毒者(アンティペッカー)もそうだ、再現よりずっと強力で、邪悪な個体にさせられた。ワケありってのはそういうこった」

 

「! 再現より強力……じゃあ、ノックスのせいで聖職者サマは……!」

 

「どうだかな? たとえ再現通りでも、あの戦いっぷりじゃあ結果は同じだったかもしれないぜ」

 

 

 結果は同じ――折角の逃げ道を塞がれ、ミレイは恨めしげに目の前の審判者を睨みつけた。

 

 

「あなた、助けてくれるのに意地悪よ……」

 

「そりゃどーも」

 

「そういえば……」

 

 

 ミレイの愚痴に軽く返したハーヴェスタに対し、フォルセはふと熱に浮かされた顔で尋ねた。

 

 

「どうして異端であるミレイを治癒できたのですか? 私は、確かに貴方へ治癒術をかけたのに……」

 

「あぁ、そりゃあ審判者特権だ」

 

「……特権、ですか?」

 

「おう。折角だ、もう一度見せてやんよ」

 

 

 そう言ってハーヴェスタは両手を広げて見せた。治癒術特有の白い光が右手より溢れる。そして左手にはマナでもリージャでもない不可思議なる力が集束し、小さな魔法陣を形作る。

 

 

「……ロウディン(lo wdin)、」

 

 

 ハーヴェスタの唇がフォルセも聞いたことのない詠唱を紡いだ。

 

 

「【ライフ・マテリア】」

 

「っ!」

 

 

 術の完成と共に、治癒術による白い光が虹色の光となってミレイに移った。今宵二度目の光景にフォルセとミレイは目を見張る。光はミレイの身体から細かな傷跡すら消し去り、僅かな虚脱感を与えて消えた。

 

 

「今のは……」

 

詠歌律唱(ルフィアス)だ。マナもリージャも使わぬ古代の秘術。俺は今、リージャによる治癒をマナによる治癒に変換したってわけ」

 

「変換……そんなことが可能なのですか……?」

 

「実際、効果あっただろう? 森で使った術も詠歌律唱(ルフィアス)の一種でね、審判者である俺にしか使えない」

 

「凄い……でも残念ね。あたしにも使えるようなものだったら、何か違ったかもしれないのに」

 

 

 感動しながらも残念がるミレイを見つめ、ハーヴェスタはクッと口角を上げてわらった。

 

 

「審判者特権だっつったろ? まあ……核野郎の介入っていう予定外の問題もあったから、今回の試練が終わるまではお前らに着いてってやんよ」

 

「! 協力してくれるの!?」

 

「あくまで道中の戦闘だけな。試練は手出ししねーよ」

 

「それでも充分心強いわ! 良かったわね聖職者サマ……」

 

 

 喜び勇んでフォルセを呼んだミレイは、視線の先で見た横顔に息を呑んだ。

 

 熱に濡れながら、凪いだ緑眼。腕の無い右肩を抱くフォルセの姿は、とても試練を受け入れているようには見えない。

 

 

「腕も、リージャすらも失った僕を……君はまだ〈神の愛し子の剣〉と思うのかい?」

 

「! それは……」

 

「貴方もです、ハーヴィ。こんな私は、まだ〈神の愛し子の剣〉と呼べるのですか……?」

 

「勘違いするなよフォルセ、お前はあくまで〈神の愛し子の剣〉候補。いいか、“候補”だ。それ以上かどうかは俺がこれから見極めてやんよ」

 

「っ、これからなど……!」

 

 

 フォルセは顔を歪め、弱々しく頭を振った。

 

 

「僕にはもう何の力も無い! リージャも……リージャを奮うに相応しい信仰心も! 僕は、そんな大層な存在じゃあないんだ……」

 

「……聖職者サマ……」

 

「……ミレイ。こんな僕からは一刻も早く離れた方がいい。僕は〈神の愛し子の剣〉にはなれない。君の役には立てないのだから……」

 

「っそんなことない! だって聖職者サマは!」

 

「離れろと言ってるんだッ!!」

 

 

 フォルセの怒号を最後に、客間は恐ろしいまでに静まり返った。その静寂で我に返ったフォルセは、隣に座るミレイの驚きに満ちた顔を見て、激しい後悔に襲われる。

 

 

「っ、風に当たってきます……頭を冷やさなければ……」

 

「聖職者サマ!」

 

 

 ミレイの止める間もなく、フォルセは立ち上がり客間から出ていった。

 

 

 

***

 

 

 行くあてもなく外に出て、フォルセは屋敷の外れにある高台に落ち着いた。エリュシオンを一望できるそこで風に当たるも、昂った熱は収まらず、大きく息を吐く。

 

 

(腕を失おうとも、片腕がある……)

 

 

 十数年前の戦争以後、心身の傷付いた民は多く存在し、フォルセも神父としてそんな民を慰めたことがあった。

 

 そんな自分が、“たかが腕一つで”落ち込むわけにはいかない――フォルセはそう考え、失った右腕をそろりと撫でる。

 

 

(けれど、リージャは……)

 

 

 リージャが再び応えなくなった。その理由にフォルセは気付いている。

 

 

(憎しみをもってリージャを使ってしまった。僕にはもう、リージャを使う資格は無い……そうでなくとも、ミレイにあんなことを言ってしまって、僕は……)

 

 

 悲しみと後悔に暮れるフォルセ。その背後から静かに近寄る者がいた。

 

 柔らかな気配に、フォルセは何故か懐かしさを感じながら恐る恐る振り返る。

 

 

「再び悩んでおられるのですね、司祭フォルセ」

 

「! 貴方は……ペトリ様!?」

 

 

 誰だろうかと振り向いた先にいた者の姿に、フォルセは驚きを顕にした。

 

 ペトリは優しげな笑みを浮かべ、高台を登ってくる。エリュシオンの町長役として演じている彼が現れても何らおかしくはないのだが、フォルセにとってペトリは司祭。現実世界ではフェニルス霊山にいるべき者だ。たとえゲイグスの不可思議を聞き及んでいても、驚くのは無理もなかった。

 

 

「ペトリ様……何故、ここに」

 

「この世界の有り様を知っているのなら、わかるでしょう?」

 

「っ……『〈神の愛し子の剣〉とその協力者のため、力となる情報が用意されている』……しかし! 私は〈神の愛し子の剣〉などでは……」

 

「……、話してごらんなさいフォルセ。貴方の悩みを、昔のように……」

 

 

 恩師の言葉にフォルセは言い淀む。話したい。吐き出してしまいたい。目の前のペトリが演じられた者とわかっていながら、フォルセの心は決壊寸前だった。

 

 結局、フォルセは教会で懺悔するように頑なな口を開く。

 

 

「……私は、愚かにも憎しみと共にリージャを使ってしまいました。私にはもう、リージャを使う資格はありません……」

 

「“再び”憎しみに呑まれてしまったと?」

 

「っ……そう、です。昔の……十年前のあの頃のように。アルルーテンの業火から逃れた際に抱いた憎悪が、恐怖が……私を締め付けて離さない」

 

「言ってごらんなさい。何がそこまで貴方を追い詰めるのですか?」

 

 

 気持ちの吐露を促され、フォルセはぐっと黙り込んだ。俯き、エリュシオンの外景へと視線を向ける。火は消え始め、落ち着きを取り戻しているが――それでも、怖い。

 

 

「ペトリ様は……御存知の筈です。私は……僕は、家族を殺した異端が心底憎いと!」

 

 

 「……憎い?」か細く聞こえてきた声はペトリのものではなかった。聞き慣れたその声にフォルセは顔色を変え、声の方へと視線を向けた。

 

 

「聖職者サマ……」

 

 

 物陰から現れたのは、ミレイだった。フォルセを追いかけてきたのだろう、少しばかり息が切れている。

 

 

(っ、聞かれた……!)

 

 

 フォルセは思わず視線を逸らした。聞かれたくないことだった。迂闊だった。けれども後悔してももう遅く、どう誤魔化そうかと頭を働かせる所為で、心臓がバクバクと高鳴ってしまう。

 

 

「ペトリ様……っ、あれ……?」

 

 

 助けを求めた先に、ペトリは既にいなかった。まるで最初からいなかったように、役者が壇上から静かに降りたかのように消えた恩師の姿を、フォルセは迷子のような顔つきで捜す。

 

 

「……続きを話してよ、聖職者サマ」

 

 

 ミレイが高台へ一歩一歩近付いてきた。逃げ場はなく、フォルセは緊張のこもった顔で彼女を見遣る。

 

 

「それとも、町長さんじゃないとダメ?」

 

「町長、さん……?」

 

「さっき聖職者サマが話してたヒト。この町の町長さんなんだって。……クルトの家が何処か聞いた時、あたしを導いてくれたの」

 

「……ペトリ様が、貴女をあの家に」

 

 

 「ねぇ聖職者サマ」フォルセの隣に立ち、ミレイが彼へと手を伸ばした。ビクリと肩を揺らすフォルセに同じようにビクつきながら、上腕を半分だけ残した右腕にそっと触れる。

 

 

「……あたし、聖職者サマに信頼されたい」

 

「ミレイ……」

 

「異端をやめる以外の方法なんて思いつかないし、それを選ぶ気になんてなれない。でも、信じてほしい。……もう失わせたくないもの」

 

「……この腕は、貴女のせいでは、」

 

「確かに、聖職者サマの責任かもしれない。でもあたしが信用を勝ち得ていたら、起こらなかった現実かもしれない。……この腕は、あたしが聖職者サマの信頼を得られなかった証。忘れずに……覚えておく」

 

 

 ミレイは悲しみを呑んだ顔で、フォルセを見つめた。強い眼差しで、迷いも後悔も踏み越えんとする顔で、今は迷い子のフォルセに訴えかける。

 

 

「あたしね、ウミちゃん……さっき助けた女の子にお礼を言われたの。異端だって怖がってたのに、最後にはありがとうって言ってもらえた」

 

「……貴女の勇姿に、あの子も思うところがあったのでしょう」

 

「そうね、とっても嬉しいことだわ。きっと現実でもそう……沢山怖がられて、信じてもらえない時が来る。その度にあたしは勇気を持って立ち向かわなきゃいけないんだって、あの子と……聖職者サマの反応を見て思った」

 

 

 ミレイの言葉に、フォルセは言葉を失った。なにが暴走してほしくないだ。言葉よりも態度で、フォルセは“異端を信じられない”と雄弁に語っていたのだ。

 

 フォルセは罪悪感にまみれた顔でミレイを見た。見返してきた瞳は昼空の青のように澄み、希望に満ちていた。

 

 

「諦めないで、必死に頑張っていれば信じてもらえる時が来る。だから聖職者サマ……あたしにできることは何でも言って?」

 

「は……?」

 

「戦いになったらあたしが聖職者サマを守る。ヴィーグリック言語が書きたいなら、あたしが勉強して代わりに書く。〈神の愛し子の剣〉が嫌なら……もう、そうは思わない」

 

「っ!」

 

「諦めずにいれば得られるものがあるって、この世界で知った。だから聖職者サマの信頼を勝ち取るまで諦めない。……信じてもらうまで、絶対に離れないから!」

 

 

 夜天の下で響いた宣言は、フォルセの心を何倍にも震わせた。

 

 

「あ、貴女は……」

 

「なに、何でも言ってちょうだい!」

 

「……願いのために、〈神の愛し子の剣〉が必要なのではなかったのですか……」

 

「そりゃあ必要だけど、今は聖職者サマが大事だもの」

 

 

 ふんす、と鼻を鳴らして堂々と立つミレイに、フォルセは観念したように溜め息を吐いた。

 

 

「何でも、と言ったよね……」

 

「うん」

 

「それじゃあ……聞いてほしい、僕の過去を。僕がどうして異端を憎んでいるのか……どうして火が怖いのか、その理由を」

 

「聞くわ、全部。暴走なんてせずに、町長さんみたく……落ち着いて」

 

 

 ミレイの笑顔に心から観念し、フォルセは己の過去を思い描きながら口を開いた。

 

 

「僕は捨て子でね、アルルーテンという町のティティス孤児院という場所で育った。町自体はそう盛んな町でもなかったけれど、孤児院では未来の神官を育てるための教育がずっとなされていた。

 十年前のあの日も、僕は兄弟姉妹達、沢山のマザー達と一緒に教会で祈りを捧げていた。けれど……そう、丁度今宵のような夜空だった。教会が……いや、町全体が突然火の海に包まれたんだ……」

 

 

 眼前が、過去の光景へと転移する。火に包まれた町、教会――泣き叫ぶ人々の声が、今もなおフォルセの耳で反響している。

 

 

「教会に閉じ込められて、だんだんと暑く、熱くなっていくなか、僕の家族は必死に足掻いた。外の空気を吸おうと扉を叩いて、けれども崩れ落ちた天井……の下敷きになっただけで終わって。蒸し焼きにされて死ぬ恐怖が、信仰を上回ったんだろう……祈る声が、次々にヘレティックの声となっていった」

 

「! まさか……」

 

「そう、暴走した。死の恐怖が異端症(ヘレシス)を発症させ、暴走させてヘレティックにした。密閉された空間の中で、ヘレティックどもはまだ人の形を保っていた家族達を喰らい、暴れ、火に呑まれて死んでいった。

 僕は……それをただ震えて見ている事しか出来なかった」

 

「……」

 

「教会に起きたことがアルルーテンの町全域に起きていた。生き残りは僕だけだった。ススだらけで丸くなっているところをテュール隊長……今の上官に拾われた。それ以来、僕は教団の世話になっている。

 当時、隊長は言っていた……アルルーテンの業火は七日七晩続き、明らかにヒトの魔術の痕跡があったと」

 

「な……人為的なものだったの?」

 

「僕も隊長もそう思ってる。それに、僕はあの夜聞いたんだ……」

 

「聞いたって、何を」

 

 

 フォルセの瞳が色を変え、ヘレティックを前にしたかのような憎しみに彩られた。ミレイはひゅっと息を呑む。まるで、自分に対して向いているかのような憎悪が炎のように熱い。

 

 

「……、『神など信じるものかッ!!』」

 

「ひっ」

 

「……あの夜、憎悪にまみれたこの言葉を確かに聞いた。今も耳に残ってる」

 

 

 驚かせてすまない、とフォルセは眦を殊更和らげた。こくこく、と頷いて返事をするミレイに苦笑し、そして感謝する。

 

 

「僕の故郷を焼き尽くしたのは神への不信を持つ異端。そして、僕の家族を喰らったのも元は家族とはいえ暴走した異端……。

 僕はあれ以来ずっと異端が憎い。この心の底を焼くような憎しみを思い出すから……火が、怖いんだ」

 

 

 フォルセの話が一通り終わり、ミレイは黙り込んだまま天を仰いだ。星々の煌めく空が美しい、けれどもミレイの望む答えは降ってこない。

 

 

「聖職者サマの過去はわかったわ……異端を憎むのも仕方ないことだと思う。でも聖職者サマはそう思わないのよね?」

 

「ええ……憎しみに振り回されてリージャを……尊き女神の力を奮ってしまった僕には、もうリージャを持つ資格なんて」

 

「ねぇ聖職者サマ、森であたしが暴走してた時のこと覚えてるかしら?」

 

「えっ……?」

 

「森で、あたしが聖職者サマを刺そうとした時。あなたは動けなくなってたのに、あたしのナイフを受け止めてくれた」

 

 

 今は無い右手で受け止めてくれたのだと、ミレイは視線を動かして言う。

 

 

「あの時の聖職者サマは、あたしを心から助けようとしていたわ」

 

「そ、それは……君が、死を恐れていたから。だから君の手にかかるわけにはいかないと思って、身体が勝手に……」

 

「やっぱりね。身体が勝手に動いたなら、それが聖職者サマの本心なのよ。

 聖職者サマは、異端のあたしを命をかけて救うヒト。憎しみでなんて濡れてない。だから……リージャを使っても大丈夫」

 

 

 フォルセの胸にそっと触れ、ミレイは自信満々に笑った。

 

 彼女の言いたいことに気付き、フォルセは両肩から思わず脱力する。

 

 

「は、はは……あんなに不甲斐ない姿を晒したのに、君はそんなことを言ってくれるのだね?」

 

「何度も言うわ。聖職者サマが迷うたび、何度だって」

 

「……わかったよ。少しだけ、迷いが晴れた気がする」

 

 

 高台にやってきた時よりもずっと清々しい顔色で、フォルセは子供のように微笑んだ。

 

 

「話してスッキリしました。もっと早くに話していれば……あんな無様な姿は晒さなかったのに」

 

「うん、充分反省して? そしてこれからもあたしに何でもぶちまけてちょうだい」

 

 

 ミレイの言い様にフォルセは声をあげて笑った。

 

 

「……あの子を、浄化しなければ」

 

「クルトのことね?」

 

「ええ。二年前のあの時のように……トビーの弟であるあの子が、これ以上悲しい罪を犯す前に」

 

「行きましょ? ハーヴィが待ってるわ」

 

「俺ならここにいるぜ」

 

 

 高台にハーヴェスタがやって来た。相変わらず神出鬼没だとフォルセは思うが、彼の表情は常よりも硬く、苛立ちを秘めていた。

 

 

「ハーヴィ……どうしましたか、そんな顔で」

 

「緊急事態だ。お前らには悪いが、このままエリスの神殿に向かってもらう」

 

「エリスの神殿って?」

 

「俺がヘレティックを転移させた場所だ。もう少し閉じ込めておける予定だったんだが……またノックスの野郎が介入したみたいでな。いつ出てきてもおかしくない」

 

 

 また予定が狂った、とハーヴェスタは忌々しげに、赤毛の頭をがしがしと掻き毟っている。

 

 フォルセとミレイは互いに顔を見合わせた。今しがた、クルト少年を浄化する決意を固めたところだ。寧ろ決意の揺るがぬうちに出立できて、ありがたいとすら思う。

 

 

「望むところです。……などと、私が言えたことではありませんね」

 

「お? なんだよ〈神の愛し子の剣〉候補、少しは顔色良くなったじゃねぇの」

 

「おかげさまで……己のやるべきことを思い出しました。どうか力をお貸しください、ハーヴィ」

 

「着いてくって言ったろ? 二言はねぇよ。暴走しそうな異端がいることだけが心配だけどな」

 

「彼女は暴走しません。……信じております」

 

 

 フォルセの即答に、ミレイは当然よ、と頬をほんのり染め、大きく頷いた。

 

 それを見てハーヴェスタはククッとわらい、踵を返す。

 

 

「すぐ出発する、着いてきな」

 

 

 手招きする審判者に応と返し、フォルセとミレイは哀れな異端を浄化すべく――決意を新たに、高台を下っていった。

 

 

 



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Chapter20 深きに潜むこたえ

 

 エリュシオンの門――最初に入ってきた方とは真逆の位置にある場所に案内され、フォルセとミレイは無意識のうちに息を吐いた。

 

 先に待っていたのは一台の荷馬車と御者のディーヴ。ハーヴェスタの歩み寄る様子からして、今後の移動に用いられることは明白だ。フォルセとミレイ――二人ともやる気と同じくらいには疲労が積もっていたため、荷馬車で移動できるのはありがたいことだった。クルト少年の浄化に備え、荷馬車の中でひと休みしようと互いに顔を見合わせる。

 

 

「待って、おねえちゃん!」

 

 

 荷馬車に乗りかけたミレイは、自身を呼ぶ幼い声に首を傾げながら振り向いた。予想通り、視線の先にいたのはウミちゃん――先の騒動で助けた幼女だった。手を振りながら、彼女はミレイの元へとトコトコ走ってくる。

 

 そして――

 

 

「ウミエラ、気持ちはわかるが落ち着きなさい」

 

「ああ……皆さん、間に合って良かった」

 

 

 幼女に続き、数人の大人――老若男女、様々な人間までもが、ミレイやフォルセへの感謝を表情に乗せてやってきた。

 

 何事かと目を丸くするミレイに、幼女が手に持っていたものを差し出してくる。

 

 

「おねえちゃんにこれあげる、みんなで集めたの」

 

「え、なに……わあ、グミやボトルがこんなに沢山……いいの?」

 

 

 幼女が差し出してきた袋を開け、ミレイは驚きで声をあげた。そんな彼女に、やって来た大人のうちの一人が、微笑んで頷く。

 

 

「いいんですよ、貴女は私達を助けてくれたんですから。……本当は町民全員で来るべきなのでしょうが……その……」

 

「ごめんねおねえちゃん……他のヒトは、おねえちゃんのことこわいって」

 

 

 申し訳なさそうに俯く彼らを見て、ミレイは自分が異端であることが町民達に知れ渡ったのだと悟った。

 

 エリュシオンの町民達は、その多くが先刻までヘレティックどもに襲われていた者達だ。ゆえに異端の魔物(ヘレティック)異端(ミレイ)を重ね、恐ろしくて来れなかったに違いない。

 

 それでもこれだけの人が見送りに来てくれた。それは本当に尊く嬉しいことなのだと、ミレイは彼らを見渡し、満面の笑みを浮かべた。

 

 

「気にしないで。あなた達の気持ちはわかるから」

 

「来なかった奴らも、貴女……いえ、あなた方には本当に感謝してるんです。ありがとうございました、このご恩は一生忘れません」

 

「こっちこそ、異端のあたしを信じてくれてありがとね」

 

 

 嬉しそうにはにかむミレイ。その細くも頼りがいのある背を、フォルセは安堵を交えて見守っていた。

 

 

(彼女の望む世界は……酷く難しい。せめて暴走さえしなければ、異端も恐れる必要は無いのだけれど)

 

 

 思い浮かべる世界へ到達する方法を、神父であるフォルセは知らない。そんな方法があるのかさえわからない。

 

 だが、とフォルセはミレイのしかと立つ姿を見据え、考える。彼女は確かに暴走した、しかしもうそんなことにはならないと誓ってここにいる。その姿勢こそが、異端が暴走しない道へと繋がっているのではなかろうか。彼女を真に信じると決めたフォルセはそんな淡い期待、希望を――心の奥底に持つようになっていた。

 

 

「お別れは済んだか?」

 

 

 礼を言い合うミレイらを、ハーヴェスタが呆れた顔で見つめ、急かした。

 

 

「試練も終盤だ。エリスの神殿に行ったら、もう此処には戻ってこないと思っとけよ」

 

「あ……じゃあちょっと待って。あたし、騎士サマにもお礼を言いたいの。直接が無理なら、せめて伝えておいてほしいんだけど……」

 

「騎士サマ? それならウミちゃんのことよ?」

 

 

 え? ミレイは視線を下げ、自身を指さす幼女を見下ろした。そうか、少々泣き虫そうなこの幼女が騎士サマ――二年前のフォルセ・ティティスなのか。知らないうちに随分と容姿が変わったな。思考が固まり、思わず傍らに立つフォルセを見つめる。

 

 ミレイの視線を受け、フォルセはぶんぶんと首を横に振った。幼女と己を同一視しないでくれと、驚きで引きつった顔で訴える。

 

 

「神父様を演じた後、ホントは舞台裏で休んでるはずだったの。でも人数が足りなくなっちゃったから……だから予定を変更して、ウミちゃんがウミちゃんを演じることになったの」

 

「そ、そうなの……へえ」

 

「演者との劇は夢みたいだけどホントのこと。覚えておいてね、おねえちゃんと神父様。――クルト少年をお願いします、ミレイと私」

 

「!? 聖職者サマの声……?」

 

「私じゃありません!」

 

 

 幼女と町民達が、皆笑う。幼女の口からこぼれるのは明らかに“騎士サマ”の笑い声だ。皆、一様に笑みを浮かべ、まるでたったひとりの人物に微笑みかけられているかのような錯覚を、フォルセとミレイに与える。

 

 

「いってらっしゃい、黙示録の者と〈神の愛し子の剣〉。――試練頑張ってね、おねえちゃん。――ミレイ、貴女に女神の加護在らんことを……」

 

「う、うん……ありがと、頑張るわ。行きましょ聖職者サマ」

 

「ええ……皆さん、お世話になりました」

 

 

 ――ゲイグスの住人は、不可思議すぎる。

 

 暖かい気分にゾッとする事実を当てられ、二人は引きつった笑みで礼をし、逃げるように荷馬車へ乗った。

 

 

 

***

 

 

 緩やかな丘の間を荷馬車が進む。荷馬車はやがて痩せ細った木々の並ぶ森に入り、月明かりが照る中、やや速度を増して走っていた。

 

 

「エリスの神殿まで、どのくらいかかるの?」

 

「道中魔物に襲われても一時間、ってとこだな。ま、ゆっくりしてるといいさ」

 

 

 ミレイの問いに、ハーヴェスタは欠伸混じりに言った。

 

 ふーん、とミレイは返事をしたきり黙り込み、隣に座る神父を見つめた。神父もまた、ミレイを見ていた。なんだか気恥ずかしくなり、視線を逸らす。

 

 

「そ、そうだ聖職者サマ……エリュシオンのこと、『変わった名前だ』って言ってたじゃない? どうして?」

 

 

 無理やり捻り出した会話に、フォルセは苦笑した。

 

 

「ヴィーグリック言語で、(イー)の文字がエリュシオン――理想郷を表すのですよ。他にも(エー)はアルカディア、I(アイ)はイザヴェル、(ユー)はユートピア、(オー)はオフィール。どれも理想郷を表す言葉です」

 

「同じ意味なのに、五つも表す言葉があるの?」

 

「微妙に意味は違うのです。エリュシオンは本能的な愛、アルカディアは親愛を同時に表します。

 理想郷とは、愛の軌跡が集う正に理想の世界。ゆえに理想郷という言葉には、同時に様々な愛情の意味が込められているのです」

 

「へぇ……なんだか難しそう」

 

 

 難しいと言いながら、ミレイはレムの黙示録に素早くメモしていた。フォルセの代わりにヴィーグリック言語を書く――その宣言は今も生きているらしく、彼女の眼は勉強の意欲で輝いている。

 

 

「他にも(ビー)は本、(エム)は奇跡の意を……そうですね、時間があったら、一緒に聖書を読みましょう。聖書はヴィーグリック言語で書かれているものが多いですから」

 

「……入信は、しないわよ?」

 

「ふふ、わかっております」

 

 

 にやりと笑うミレイに、フォルセはくすくすと微笑んだ。

 

 

「……お二人さん、悪いが休憩はここまでだ」

 

 

 二人がヴィーグリック言語について語り合って暫くの後、ハーヴェスタが頭を上げて言った。直後、荷馬車がガタリと音をたて、スピードを上げる。

 

 

「な、なに……突然速くなったけど」

 

「ヘレティックだ。森で、クルトとお前が暴走余波(インフェクション)を起こしたお蔭でな、俺がクルトを転移させる際、一緒に着いてきちまった」

 

 

 天井の窓を開け、ミレイが外に身を乗り出す。ハーヴェスタの言った通り、荷馬車の背後から腐った身体の魔狼(ウルフ)と巨鳥ガルーダが、荷馬車を追ってきていた。

 

 馬は全速力で走っている。だがそれ以上にヘレティックどもは速く、追いつかれるのは時間の問題だった。

 

 

「ど、どうしよう! 追いつかれちゃう!」

 

「落ち着け。いちいち降りてちゃいつまで経っても神殿に辿り着けねぇ。このまま迎撃する」

 

 

 そう言ってハーヴェスタは荷馬車の扉を開けた。吹き込む風が彼の赤毛と服を豪風のように揺らす。

 

 

「異端、後ろは頼んだ」

 

 

 前方にて待ち構えるヘレティックを迎撃するため、ハーヴェスタは猛スピードで走る荷馬車を伝い、御者ディーヴのいる座席に移っていった。

 

 ミレイは慌てて扉を開ける。突然「頼んだ」と言われても間に合わないと、文句すら言えぬまま咄嗟にナイフを構える。

 

 ――が、ミレイがナイフを投げるより早く、反対側の扉から銃声が響いた。

 

 

「聖職者サマ!?」

 

「ミレイ、近付かせぬよう私が対処しますので、貴女はその間に弱点の魔術を」

 

 

 言いながら、フォルセは左手で銃を撃ちヘレティックどもを牽制した。見れば両足で器用に上体を支えながら扉の外に身を乗り出し、的確に銃を撃っている。片腕が無いとは思えぬほどにブレぬ姿に、ミレイは緊急事態ということも忘れて感嘆した。直後、ぶんぶんと頭を振って我に返り、言われた通りヘレティックどもの弱点を見る。

 

 

「! せ、聖職者サマ……弱点、火なんだけど」

 

「ああ……予想しておりました」

 

「っ、大丈夫よ。火じゃなくてもやっつけてみせる、だから……」

 

「ミレイ」

 

 

 腕を失った熱が引かぬ顔を向け、フォルセはにこりと微笑んだ。

 

 

「怖くても守ってくれるのでしょう? 貴女が」

 

「――!!」

 

 

 信頼に溢れたその笑みは、ミレイに考えるより先に火のマナを集めさせた。

 

 

 

 銃弾が魔狼(ウルフ)の走行を食い止め、その隙に燃え盛る炎球がヘレティックどもを焼き尽くす。荷馬車の前方でも、ハーヴェスタが火炎球を飛ばして応戦していた。

 

 火のマナが集い、四方八方から飛び交う。その度に恐怖と憎悪が身を震わせるが、フォルセは息を呑んで耐えていた。銃の照準が僅かにブレる――大丈夫、今なら彼女が助けてくれる。その想いがフォルセを戦場に引き戻し、狙い通りの場所へ弾丸を放たせる。

 

 

(心の闇を知ってもらえることがこんなにも楽なことだなんて……とうに忘れていた)

 

 

 フォルセの過去を知る者は二人いる。上官テュールと恩師ペトリだ。二人とも、憎悪と恐怖に呑まれていた当時のフォルセを守り、慈しみ、支えてくれた。そんな過去を経て、神父フォルセがここにいる。

 

 そして、過去を知る者が三人になった。異端の彼女は先の二人よりずっと迷いが多く、弱い存在だが――フォルセに誓った宣言は、二人に負けず劣らず強い光を放っていた。

 

 

(怖い、そして憎い。けれども今なら戦える。迷いは未だに晴れないけれど……今なら、恐れを越えて、戦える!)

 

 

 炎を避けてガルーダが急接近した。その姿をしかと捉え、脳天を確実に撃ち貫く。

 

 

「二人とも! 神殿に着くぞ、用意しろ!」

 

 

 ハーヴェスタの号令に合わせ、フォルセは追ってくるヘレティックどもをぐるりと睥睨し、撃てるだけの弾丸を放ち牽制した。

 

 荷馬車が車輪の跡を残しながら、土煙をあげて止まる。

 

 辿り着いたのは、白亜の石によって造られた巨大な神殿。朽ちた石像がどこか物悲しさを放つ遺跡――ここが試練の場、エリスの神殿。

 

 

「はあっ!」

 

 

 荷馬車が止まると同時に、フォルセは車を蹴って飛び出した。銃を投げ、代わりに剣を抜く。左手だろうが関係ない。“自身は剣であれ”と教えてきた師によって、どんな剣だろうと扱える。

 

 飛び上がり、ガルーダに向けて一閃。急所を的確に捉えて討ち滅ぼした。着地を狙って飛びかかってきた魔狼(ウルフ)に敢えて剣を噛ませ、瞬時に銃を構えて脳天を撃つ。

 

 

界往波(かいおうは)!」

 

 

 放った衝撃波で、十にも至る残りを吹っ飛ばし、フォルセは迷うことなく地を蹴った。十のヘレティックより向けられる憎悪の視線を、今ここにいるのは己だけと言わんばかりに引き受け、誰も逃がさぬよう立ち回る。四方八方から飛んでくる鋭い一撃を紙一重で受け流しながら、隙あらば無慈悲なる剣の一撃を叩き込み、リージャも無しにヘレティックを削いでいく。

 

 

「異端、手ぇ止まってるぞ」

 

 

 御者の座席から舞い戻ったハーヴェスタが、固まるミレイを軽く叱責した。

 

 

「あ……ご、ごめん」

 

「見惚れるのはわかるけどな。……あいつも、剣の腕は一流だった」

 

「……あいつって?」

 

 

 フォルセの動きに合わせて炎球を飛ばしながらミレイが伺えば、ハーヴェスタは懐かしげに目を細める。

 

 

「二千年前の勇者。かつて〈神の愛し子の剣〉を持っていた俺の……トモダチ」

 

「あなた二千年も生きてるの!?」

 

「今更だな。どうして俺が審判者やってると思ってたんだ?」

 

 

 杖をくるりと回し、ハーヴェスタは不敵に笑う。

 

 

「俺があいつを知ってるからだ。俺にしか……〈神の愛し子の剣〉かどうか、審判できない」

 

 

 ハーヴェスタの足元に、一層巨大な赤の魔法陣が出現した。集うは火、エリュシオンで見せた炎の魔術だ。

 

 

「火の術……!」

 

 

 それを見て、ミレイは瞬時に考える。そして行動した――自身の唱えていた魔術を止め、ナイフを構えておもむろに駆け出す。

 

 

「引いて聖職者サマ!」

 

「っ!」

 

「……コープスバード!」

 

 

 群れの中央からバックステップで引いたフォルセに合わせ、ミレイは五本のナイフを扇状に投げた。威力は低いが、その分広範囲に刃を放つ――火で動きの鈍ってしまうフォルセを守るため、ヘレティックどもをいっぺんに押さえ込む。

 

 

「続けて、ファングドライブ!」

 

「――……燃えよ焔花、滅んじまいな! ブレイジングハーツ!」

 

 

 ミレイの追撃が旋風を帯びてヘレティックどもを切り裂く。時は充分に稼いだ。ハーヴェスタの号令によって業火が爆ぜ、ヘレティックどもを一挙に討ち滅ぼした。

 

 

「……助かりました、ミレイ」

 

 

 フォルセは震えながら剣を収めた。引きつった笑みは本来ならもっと小綺麗である筈だったが、火を恐れる彼にとってはそれが精一杯の笑みだった。

 

 

「聖職者サマこそ、その……片腕とは思えなかったわ」

 

 

 消えゆくヘレティックの残骸を見渡し、ミレイは興奮ぎみに言った。数はゆうに十を超えていた。神殿に辿り着く頃にはやや減っていたとはいえ、それら全てを前衛で引き受けたフォルセに対し、改めて感嘆の意を示す。

 

 

「貴女がいてくれたから、戦えました」

 

「っ、そ、そう……良かった」

 

 

 満点を持ってきた子供のような笑みを向けられ、ミレイは真っ赤になって俯いた。

 

 

「お前ら、立ち止まってる暇はねぇぞ」

 

「……わかっております。クルト少年の元へ急がねば」

 

「ならいいけどな。……あの子は神殿の地下にいる。どうにかして入んなきゃならないんだが、地下への入口は閉ざされててな。仕掛けを解かないと入れない」

 

 

 ハーヴェスタは面倒臭そうに神殿へと視線を向けた。白亜の壁は所々崩れており、特に入口付近は酷く、中に入れそうもない。

 

 

「外から地下へ通じる穴があった筈なんだが……」

 

「あな……穴……ねぇ、穴ってあれじゃない?」

 

 

 あれ、とミレイが指したのは、神殿入口付近の地面だった。

 

 

「ほら、少しズレた跡がある。きっと仕掛けで動く隠し扉よ」

 

「……地面とほぼ同化しているのに、よくわかりましたね」

 

「えへへ……なんか見てたらピーンときたの。もしかしたら、“わたし”はそういう仕事でもしてたのかもね」

 

 

 照れ臭そうに笑いながら、ミレイは記憶を失う前の自分に思いを馳せた。

 

 

「よし、じゃあその仕掛けってやつを探すとするか」

 

「あなた審判者でしょ? 仕掛けの場所とか知らないの?」

 

「そういう細かいところには関与してねーの。ま、知ってても教えないけどな」

 

 

 ハーヴェスタの言い分になるほど、と納得しつつ、一行は隠し扉を開ける仕掛けを探し始めた。魔物にも遭遇しないまま、数分後。ピーンときた、と言っていただけあり、やはり仕掛けを見つけたのはミレイだった。

 

 入口の両脇に鎮座している石像を適当に動かせば、先程見つけた隠し扉がゴゴ――と音をたてて動き、地下への階段を表す。

 

 

「やった!」

 

「ミレイ……貴女はもしかしたら考古学者か何かだったのかもしれませんね」

 

「やだ、大袈裟よ聖職者サマ。でも不思議……神殿を見てると、後ろ頭のほうがピーンって鳴るの……うーん……」

 

「空っぽ頭をどうにかしたいのはわかるが、優先順位を間違えるなよ?」

 

 

 「わかってるわよ!」皮肉るハーヴェスタに、ミレイは頬を赤らめて怒鳴った。

 

 

 

***

 

 

 地下への階段を降り、神殿内部を進む。時折現れる魔物は先程戦った種類の他、元々神殿に住み着いていたであろう霊魂系の魔物が多かった。

 

 

「オバケ!」

 

 

 霊魂系の魔物が現れる度そう騒ぐミレイに苦笑しながら、フォルセは未だ法術を使えぬことを歯痒く感じていた。

 

 

(ミレイのお蔭で、ほんの少しだけ迷いは晴れた。けれど僕は、もうこの迷いを無視することは出来ない……)

 

 

 今まではリージャの裡に隠していた迷い、恐怖、憎悪――それらを本当の意味で乗り越えたいと、フォルセは短い間に考えるようになっていた。

 

 

「なーに悩んでんだ?」

 

「……ハーヴィ」

 

「目的は近いんだ、頭使って無駄に体力消耗すんじゃねーよ」

 

 

 あいつみたいに、とハーヴェスタは呆れ顔でミレイを指した。

 

 現在、周りに魔物の気配はなく、一行は休憩がてらややゆっくりと回廊を歩いていた。そんな中ミレイは興味の赴くままに神殿を見渡し、時折「なるほどねぇ」と一人頷いている。

 

 

「ふふ、あれで記憶が戻れば良いのですが、ね」

 

「どうだかな。そう簡単に戻るなら苦労はしねーが。……それよりお前だ、何悩んでるんだ?」

 

「……心配してくださるのですか?」

 

「ばっかちげーよ! また腑抜けた戦い方されちゃあ、流石に試練も進められねぇって言ってんだ」

 

 

 ハーヴェスタの表情は言葉通りのものだった。が、心配は心配だ。フォルセは申し訳なさげに苦笑しながら、折角だからと口を開いた。

 

 

「どうすれば迷いが晴れるのかと、考えていたのです」

 

「はっ、考えるだけ無駄だな」

 

「……キツいお言葉ですね」

 

「だってそうだろう? 迷いがあるから人間なんだ。迷いが悲劇を生むし、同情だって生む」

 

「同情……ですか」

 

「そ。一度だって迷ったことのないヒトってのは、指針にこそなれ寄り添っちゃあくれない。人間に寄り添えるのは人間だけ。迷いを晴らしたきゃ人間止めることだな……」

 

 

 ハーヴェスタのどろりとした金眼は、どこか遠くを見つめている。

 

 

「寄り添えるのは、迷いがあるから……」

 

「迷ったことのない奴に慰められても腹立つだけだろ?」

 

「そういうもの、でしょうか……」

 

「俺はな。ま、経験則だ。あんま当てにすんじゃねーよ」

 

 

 手をひらひらさせて笑うハーヴェスタは、一体どこまでが真面目に語っているのかわからない。

 

 

「ただ一つ言えるのは……」

 

「言えるのは?」

 

「……。迷いがあろうがなかろうが、いざって時の行動が全てを決める。本能、本性ってのはそう簡単に変えられない……追い詰められた時、無意識にでも正しい道を選べる奴が、本当の勇者になれる」

 

 

 思わず口が滑った、と言いたげな顔で言い終えたハーヴェスタは、フォルセの頭をポンと叩き、注意力散漫ぎみなミレイに皮肉を言いに行った。

 

 前方から、二人の軽い言い合いが聞こえる。撫でるように叩かれた頭に手をやり、フォルセは今しがた聞いた言葉の意味を考える。

 

 

「いざって時に、正しい道を……」

 

 

 その言葉は、フォルセに“憎しみで濡れてない”“異端をも助けるのがあなたの本音”と語ったミレイと同じような意味を持っていた。

 

 

「僕は、選べるだろうか」

 

 

 自分でははっきり見えない心根に、フォルセは迷いながら問いかけた。

 

 

 

***

 

 

 幾つかの仕掛けを解き、一行は最深部に辿り着いた。

 

 巨大な筒を縦にしたような空間が地下へと広がっている。壁面には石棒を張り出しただけの階段が備えられており、螺旋状に底へと続いていた。

 

 底から、火の粉と共に赤い光が昇ってくる。

 

 

「……いるわね」

 

「ええ」

 

 

 筒の底から唸り声が聞こえてくる。気配を押し殺して覗いてみれば、予想通りヘレティック――クルト少年の変じた姿がそこにあった。一緒に飛ばされてきた森の一部分は未だ燃えながら空間を照らしており、通常の成人男性を優に超える腐乱死体が、火の粉を散らしながら両腕の鈎爪を引き摺り、上へと登ろうとしていた。

 

 

「弱点は……ああやっぱり火だわ、燃えてるのに」

 

「ならば、ここまでと同様の戦い方でいきましょう」

 

「待て。悪いが俺は今までのようには戦えない。試練は終盤だし、ノックスの野郎を警戒しなくちゃならねぇからな。できても……お前ら二人の回復だけと思え」

 

「わかったわ。……長期戦になりそうね」

 

 

 ハーヴェスタが回復に回るなら、魔術を使えるのはミレイだけ。前衛であるフォルセを気遣いながら戦えば、その分致命傷を与えるチャンスを逃すことになるだろう。

 

 足を引っ張っているのは己――フォルセはそう理解した顔で掌を見つめ、おもむろに意識を集中した。

 

 

(僕がリージャを使えれば……)

 

 

 奥底に問いかける。リージャは微かに震えたが、未だ望む通りには応えない。

 

 

「……。作戦を変更しましょう。ミレイ、私に構わず攻撃してください」

 

「! でもっ」

 

「どのみち相手も周りも燃えています。それに少しずつですが、火には慣れてきたように感じるのです」

 

「……」

 

 

 フォルセの実直な眼差しを受けても、ミレイは迷いを捨てられなかった。彼女が見つめる先には、ある筈の右腕が無い。また失うことになったらと、予感をどうしても拭えない。

 

 

「ミレイ」

 

 

 残った左手で、フォルセは彼女の手を取った。

 

 

「貴女が信じてくれるなら、私はきっと戦える」

 

「!」

 

「貴女が信じる私を、私に信じさせてください」

 

「……わかったわ。あたしも……聖職者サマが信じるあたし自身を、信じるから」

 

 

 リージャが無くとも覚悟するフォルセの手を――ミレイは大きく深呼吸した後、力強く握り返した。

 

 

「よし、心意気も整ったところで……」

 

 

 決意を改める二人に笑いかけ、ハーヴェスタがさりげなく背を押そうと口を開いた――その時。

 

 

 

 “剣を抜くには――まだ、足りぬ”

 

 

 「っ!?」雑音混じりの男の声が。この試練の起きる元凶たる声が、突如三人の耳に響き渡った。

 

 

「魔王……ノックス!」

 

 “――名を名乗る時が省けたことは喜ばしい。ノックスはこれより、〈神の愛し子の剣〉に最後の試練を送る”

 

「おいおいおい勝手を言うなよこの核野郎ッ! ……試練を荒らすな、審判者は俺だ」

 

 

 ハーヴェスタの激昴を意に介することなく、ノックスは姿さえ見せぬまま、冷気すら感じられるおぞましい“力”を発していく。

 

 

「なに……また禁呪を使う気なの!?」

 

「いや、そんな気は感じられない……これは最近できたか、あるいは新品の魔術かなんかだ。くそっ……本体は向こう側にあるせいか、うまく読めねぇな……」

 

 “――試練の審判者。夢と現の番人。阻むものは、器……”

 

 

 力が揺れ動きながら増大していく。捉えきれないそれにハーヴェスタは苛立ちを募らせる。

 

 

「グ……ォ、オオオオオオッ!!」

 

「……っまずい、気付かれました!」

 

 

 筒の底からクルト少年――ヘレティックが彼らを睥睨し、赤黒い槍のような針を飛ばしてきた。フォルセは立ち上がりざま剣を抜き、甲高い金属音と共に打ち落とした。

 

 ヘレティックとフォルセの視線が交差する。今度こそ浄化すると、フォルセは剣を構え直した。

 

 

「おい魔王、見ての通り試練の邪魔だ。とっとと失せな!」

 

「そうよ! もう聖職者サマを傷つけるようなことはさせ、」

 

 “――再生を成したが、未だ叫びは聞かずか”

 

 

 ノックスの意識が、フォルセ――そして、階下のヘレティックへと向けられる。

 

 

 “子の叫びに耳を傾けよ。汝が剣を抜くために――”

 

「? それって……森で黙示録に刻まれた言葉じゃない……」

 

「なんだと? ちょっと貸せ、異端」

 

 

 「……こんな文章、ディーヴには書かせてねぇぞ」夜は明けない、と記載された部分の後を読み、ハーヴェスタは呆然と呟いた。

 

 

 “――これより〈神の愛し子の剣〉へ試練を贈ろう。現のヒトより学んだ、魂の檻を視覚する術を見るがいい”

 

「……、っ、まさか……! フォルセ! ミレイ! 早くあのヘレティックを倒せ!」

 

「な、なに……!?」

 

「狙いはそっちだ! また介入される!」

 

 

 狙いはそっち(クルト)――ハーヴェスタの意図を把握し、フォルセは筒の底へと迷いなく飛んだ。

 

 

 “我が眷属に告ぐ。――止めよ”

 

「……ぐっ、う!」

 

 

 底で燃え盛る木々の間から異端の巨鳥どもが飛び出し、空中を落下するフォルセへと襲いかかる。

 

 

「聖職者サマ! ――アサシネイトドライ! このっ、この!」

 

 

 追って落ちるより投げた方が速いと、ミレイは凍てつくナイフを次々投げた。それでもなお突っ込んでくる巨鳥どもを叩き斬りながら、フォルセは底で待ち構えるヘレティックに向けて、浄化を意図する切っ先を構える。

 

 

「はああああっ!!」

 

 

 振り上げられた鉤爪に、フォルセは重力を乗せて斬りつけた。金属を削り落とす音が響く。

 

 

 “――ならぬ。それはもはや我が眷属ゆえ……”

 

「なっ……ぐ、っ!!」

 

「聖職者サマ!」

 

 

 ノックスの介入が成された――重力に逆らって押し上げられたことで、フォルセの剣は僅かにぶれ、その隙を大きく突かれるように吹っ飛ばされた。壁に叩きつけられたフォルセを見て、ミレイが飛んでくる魔物を払いながら悲痛に叫ぶ。

 

 

「っくっ、雑魚は俺が引き受ける! お前はフォルセのところへ!」

 

「……ありがとう!」

 

 

 飛び交う巨鳥を避けながら、ミレイは壁を伝う螺旋階段を駆け下りていった。フォルセのように飛び下りたいが、空中で巨鳥を避けきれる自信が無い。突っ込んでくる鳥を手当り次第に落としながら、底にいるフォルセのもとへと急ぐ。

 

 

 “――……驚嘆だ。審判者がここまで介入するか”

 

「現在進行形で邪魔が入ってるんでな! これもサービスだ……トリニティスパーク!」

 

 

 計五体の巨鳥がハーヴェスタの心臓めがけ突っ込む――引いた杖を光と共に押し込み、ハーヴェスタは前方に向け巨大な三角錐を成す雷撃を放った。頂点が一体を貫き、余波の電流が他を焼き焦がす。

 

 巨鳥の群れはハーヴェスタを完全に標的と見なし、次々に襲いかかる。ゆえにミレイは無事底へと辿り着き、フォルセとヘレティックの間に割って入った。

 

 

「聖職者サマ!」

 

「ミ、レイ……」

 

「大丈夫!? ……あたしが相手よ、やぁあああっ……! 旋導波(せんどうは)!」

 

 

 ミレイのリボンが鞭のように唸り、ヘレティックの動きを食い止めた。

 

 が、ヘレティックもまた狙いをミレイに変え、猛攻をしかける。巨体には似合わぬ素早い一撃、鉤爪によるリーチの長い斬撃は戦闘経験の浅いミレイにはどうしても避けきれない。

 

 

「っきゃあ!」

 

「ミレイ……くっ!」

 

 

 痛みと自責を抑え、フォルセは再び前へ出た。その動きを見て、ミレイは魔術を練るべく、再び後ろへ下がろうとした――が、一番厄介な相手がわかっているのだろう、逃がすまいとヘレティックは両腕の鈎爪を大きく振りかざし、フォルセとミレイの二人を同時に攻撃し始めた。

 

 

残光襲(ざんこうしゅう)!」

 

「っ……昇舞連(しょうぶれん)! んもうっ、魔術が使えない! 早く倒さなきゃいけないのに!」

 

 

 フォルセが素早い連続突きを繰り出し、ミレイが渾身の力で突き上げる。が、陣形もタイミングもバラバラになってきている。魔王による介入で、ヘレティックの力が増しているのだ。要となる攻撃のチャンスを逃し続け、二人ともが焦りに呑まれ始める。

 

 

「ちっ……何やってんだあいつら……!」

 

 “――〈神の愛し子の剣〉には一歩届かぬ。やはり、子の叫びが必要か”

 

「あぁ!? ……っ、この魔力は、」

 

 

 ハーヴェスタが顔色を変えるほど濃厚な魔力が、急速に集い始めた。

 

 

 “古より神の慈悲と謳われし秘術――”

 “現より人の罪過と嘆かれし餓術――”

 

「……同時詠唱か!? くっ……これ以上好き勝手させるかよ! ――ロウディン(lo wdin)!」

 

 

 魔王(ノックス)審判者(ハーヴェスタ)の力が交差する。

 

 

 “――タイムストップ”

 “――プリズンボイド”

 

「【グレアケイジ】!」

 

 

 

 

 

 ハーヴェスタの選択はある意味で仇となった。

 

 魔王の秘術によって、時が凍る。燃え盛る火も、飛び交う鳥も何もかも、全てその場に留められる。

 

 ハーヴェスタの放った魔力遅延の効果が現れたのは、各々の意識であった。

 

 

(すぐ目の前にあの子がいるのに……身体が、動かない……!)

 

(なに、なにが……起きたの!?)

 

 

 フォルセとミレイ、二人ともが動かぬ身体に混乱する。

 

 本来なら意識すらも時間の氷結に置かれるはずが、ハーヴェスタの使った詠歌律唱(ルフィアス)〈グレアケイジ〉の効果によって消去され、フォルセ含む全ての意識が、止まった時を認知する。

 

 そして――魔王の放ったもう一つの魔術が、試練を大きく掻き乱す。

 

 

 “おにいちゃん”

 

(……っ!?)

 

 

 エゴを押し付けることを許せと、告げてやることすら叶わなかった幼き意思が――そこに現れた。

 

 

 “ぼくを殺すの? みんながともだちを殺したみたいに”

 

(……まさか、)

 

 “ぼくはどうしてここにいるの? おとうさんとおにいちゃんをさがして……あぁ、あぁっ、おかあさん!! おかあさん!!”

 

 

 

 “――それはゲイグスの演者ではない”

 

 

 混乱する“幼子”を見下ろし、ノックスは平坦な声色をどこか満足げに歪ませた。

 

 

 “――そこにあるのは本物の、幼子が心。輪廻の向こう側より呼び寄せた真なる魂の叫びに、〈神の愛し子の剣〉よ……汝はどう救いを振りかざすか”

 

 

 幼子――クルト少年の怯える姿が、ヘレティックの背後に現れた。

 

 

(こんな……っ、外道が!!)

 

 

 ――時が動く。

 それが“演じられたもの”ではなく“本物”だと、誰もが心の底から理解した。

 

 

「か、はっ……!」

 

 

 鉤爪の先にいたのはミレイだった――が、彼女は無事突き飛ばされ、難を逃れた。

 

 代わりに貫かれたのは、予想し得た攻撃の盾になろうと意識だけをずっと向けていた、フォルセ自身。

 

 

「!! いや、いやあああっ! 聖職者サマ!!」

 

 

 目の前で串刺しにされた神父を見つめ、ミレイは悲痛の叫びをあげ、立ち止まった。

 

 

「ちっ……演者を“本物”にすり替えやがったか……やりやがったな、てめぇ」

 

 

 階下の混乱を見下ろし、ハーヴェスタは憤怒を顕に姿無きノックスを睥睨(へいげい)した。

 

 

 “否。ノックスの予測した未来を崩したのは審判者だ。〈神の愛し子の剣〉の命――今や風前の灯”

 

「俺のせいかよ、とんだ根性してやがる。今すぐぶっ倒してやりたいが……お前に構ってる余裕は、俺には無い!」

 

 “否。――審判者は不要也”

 

 

 ミレイらのもとへ行かんと、ハーヴェスタは底へと飛ぼうとした――しかしその足は、突如現れた黒い(もや)によって止められた。

 

 

「っ、蟲食いか!?」

 

 

 “蟲食い”とハーヴェスタが称したそれは、神殿の床から天井に至るまで文字通り蟲が食ったように穴を空け、行く手を全て阻んでいた。飛び越えようにも、深淵の穴の中にはおぞましき“ナニか”がひしめき合っており、視線が合えばどうなるか――わかったものではない。

 

 

「くそっ、おい異端! 聞こえるか!」

 

「ハーヴィ!?」

 

「妨害された、そっちに行けない……とにかくあいつを、フォルセを助けろ!」

 

「わかってる! わかってるんだけど……!」

 

 

 ミレイの泣きそうな声に、ハーヴェスタはちいっ、と舌打ちした。

 

 

 “おかあさん、ぼく……食べ、ああ……違うの、ぼくは……あ、ああああああああああ……”

 

 

 聞こえてくるのは、エゴで押し通すはずだった嘆きの声。想像することでしか聞けなかったはずの声が、魔王の術によってなんの障害もなく垂れ流しにされている。

 

 

「そんなんまやかしだ! 騙されるな!」

 

「だって……本物だって……それに、あの子がいる! あの子が、ヘレティックの後ろで泣いてるのよ!」

 

「……悪、趣味な……!」

 

 

 ミレイの眼前には、ヘレティックと、その鋭利な鉤爪によって貫かれたままのフォルセと――腐敗した巨体の背にしがみつき、怯え、泣いているクルト少年の姿がぼんやりと見えている。

 

 

「攻撃なんて……できるわけ、」

 

「しないとあいつが死ぬ! しないともっと悲しいことが起きる! 決めたんだろう、覚悟を!」

 

「……!」

 

「今がやる時だ! 勇者でなくてもそういう時は来る! 祈るなら……お前も背負えっ、ミレイ!」

 

「っ……あああああっ!!」

 

 

 フォルセと――クルトを助けようと、ミレイは涙を拭い、走り出した。

 

 「グォオオオオオッ!!」鉤爪とリボンがぶつかり合い、剣戟にも似た激しいぶつかりを響かせる。

 

 

 “――さあ、審判者は何を望む? 〈神の愛し子の剣〉に、何を”

 

「ああうるせえよ核野郎……望ませたかったらとっとと失せな」

 

 “……――ノックスを退ける術であったか。大義、大義”

 

「失せろ!」

 

 

 先ほど発動したハーヴェスタの術〈グレアケイジ〉によって、魔王の声、気配は完全に消え失せた――。

 

 

「……やっぱりまだ早かった。試練は……もっと強くなってからにすべきだったな。俺のミスだ、ちくしょうっ」

 

 

 二人のもとへなんとか駆けつけるため、そして今一度試練を中断するために意識を集中し、ハーヴェスタは力ある言の葉を紡いでいく。

 

 

 ミレイとハーヴェスタ。それぞれが力を使い、フォルセを助けようと奮闘している。

 

 それを耳にしながら――フォルセは焼けつく痛みの中、無意識のうちに手を伸ばしていた。

 

 

 “違うの、違うの、ぼくは怖かったんだ。ぼくは……”

 

(……迷い子よ、怖いのですか)

 

 “! だれ……”

 

(貴方の声を聞く機会を与えられた者です。貴方と同じように、迷う者です……)

 

 

 ヘレティックとミレイの激しい攻防が続く間、フォルセの喉奥から血反吐がこぼれた。

 

 それでも、フォルセの目には怯える幼子の姿しか映っていなかった。

 

 朦朧とする意識の中に浮かぶのは、火への恐怖でもエゴを掲げる信心でもなく、ただ目の前で泣く幼子を撫でてやりたいという慈しみの心。

 

 救ってやりたい、寄り添ってやりたいと、フォルセは心の底から祈る。

 

 

(聞かせてください、君の想いを)

 

 

 フォルセが伸ばした手に、小さな手がおずおずと向く。

 

 

(君の恐怖を、僕に教えて)

 

 

 怯える手が触れ合って、

 

 誰にも聞こえぬ、二人だけの夢が始まった。

 

 

 



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Chapter21 その剣の名は、

 

「聖職者サマ! 起きて、聖職者サマぁ!」

 

 

 ヘレティックの猛攻を避けながら――避けきれず、腕やリボンを裂かれながら、ミレイは叫ぶ。

 

 

「うぐっ……もう駄目なの? 覚悟を決めたのに、こんな……!」

 

 

 ぽっと出の魔王によって無茶苦茶にされてしまうのかと、ミレイは嘆き、それでもフォルセを助けたいと、けれどもクルト少年を傷つけられないと弱くなって――ただひたすらに、柔な攻撃を放つ。

 

 

「聖職者サマ! 聖職者サマ……!」

 

 

 ミレイにできるのは、ただ彼の名を呼ぶことだけだった――。

 

 

 

***

 

 

「ぼくのともだちは、ずっと昔からここにいるの」

 

 

 何の変哲もない――強いて言えばその長閑さが一番の特徴と言えるような村。

 

 ここは何処だろう、とフォルセは思う。幻か、はたまた夢か。突然変わった光景は、しかし今必要とされているものなのだと無意識が囁いている。

 

 

 クルト少年はフォルセの手を引き、自分の家に備えられた牛舎にやってきた。

 

 

「牛さん、豚さん、鶏さん……ぼくが生まれるよりもたくさん前からいる。ぼくが生まれた時もいたんだよ」

 

「覚えているのですか?」

 

「ぼく、早く生まれたくなっちゃって……おかあさん、ここで苦しそうになっちゃったんだ」

 

 

 「牛さん達が心配してたよ」嘘か真か、そんなことフォルセにはわからない。だがそうだと言うならそうなのだろう。生まれる前から、彼らはクルト少年のともだちだった――それがここでの真実。

 

 場面は変わる。クルト少年が記憶する夢が現れる。幼いクルトと母が揃って家畜の世話をして、幸せそうに微笑み合っている。

 

 

「牛さんはシナン、豚さんはリッヘ、鶏さんはアーシュとルコっていうの。たくさんいるけどみんな同じ」

 

「名前がついているのですね」

 

「ぼくがつけたんだよ。おかあさんは『じゃあこの子はリッヘ2号かしら?』って笑ってた」

 

 

 家畜は皆、寿命、あるいは食卓に並んだか売られた――とかくそれぞれの理由で消え、そうして次の世代がやってくる。

 

 クルト少年には、わからなかった。全部同じ命なのだと思っていたから。

 

 

「おかあさんは違う名前にしよう、って言ってたけど、どうしてだかわからなかった。みんな、ぼくが生まれる前からここにいる。時々身体が小さくなるけど、ずーっとここにいるんだ」

 

「ええ」

 

「おかあさん、言ってた。命は繋がってるからありがとうを言うんだって。おとうさん、言ってた。命を貰うから残しちゃいけないって。おにいちゃん、言ってた。……いつも食べてるだろって。

 ぼくはわからなかった。お肉はおいしいけど、ともだちとは全然違うのにって」

 

「……ええ」

 

「ぼくがそう言うと、おとうさんもおかあさんも悲しそうな顔になるんだ。おにいちゃんだけは、変なやつって笑ってくれた。……笑ってくれたのに、ひどいことした」

 

 

 父母は焦った。食べ盛りの息子が食しているのは紛れもなく息子のともだちなのだ。けれど、息子はそれがわからないという。

 このまま生き物の理を知らない人間に育ってしまったら? もうひとりの息子が“正しく”育っていたから、彼らは余計に“間違えた”と感じてしまった。

 

 それを、もうひとりの息子も感じ取ったのだろう。

 

 場面は変わる。怯えるクルトを連れ、兄であるトビーが牛舎の奥へ行き――幼いながらも手際良く、アーシュだかルコだか、鶏を一羽、締め上げた。

 

 

「ぼく、ぼく、こわくてわからなかった」

 

「ええ。……ええ」

 

「なんでひどいことするの、眠っているのにいじめないでって怒ったよ。でもおにいちゃんは、あとで会えるからって言って行っちゃった。

 ……おかあさんが燃やしてた。チキンサンド、食べられなかった」

 

「あの子は優しいのですが、走り出すと止まらないところがありますからね……」

 

「そうなんだ。ひどいよね、そんなふうにしなくてもよかったのにな」

 

 

 クルト少年は笑いながら泣いていた。最愛の兄が大好きで憎たらしい。兄のせいで暴走することになったのだと、罪を押し付けることだってできやしない。

 

 

「ぼく、思ったんだ。食べるならありがとうを言わなきゃいけないんだって。大好きなともだちに言わなきゃいけないから、大好きなひとにも、ありがとうって言わなきゃいけないんだって……」

 

「ええ」

 

「変だって思ったけど、そうなんだ。思ったけど、やらなきゃいけないって思ったんだ。だからぼくは……ぼく、おかあさんに、笑ってほしくて、ありがとうって言いたくて、」

 

「ええ……ええ……」

 

「でも、おかあさん、こわがってた。すごくこわがって、こわいって……笑ってくれなかった!」

 

 

 場面は変わる。血色の涙を流すクルトが、昼食を作る母を裂き、燃やして、笑いながら貪る様子。

 

 フォルセの腕の中で、クルト少年は泣き叫ぶ。流れる涙は透明で――だか少しずつ、赤くなっていく。

 

 

「どうしてともだちはいいの? どうしてともだちは食べていいの? どうして……ぼくは、おかあさん……」

 

「……、君は、小さい頃より大きくなっているね」

 

「うん……ぼく、おにいちゃんよりも大きくなるんだよ。こどもは大きくなるんだって、おとうさん言ってた」

 

「そう……命を貰うから、大きくなれるんだよ」

 

 

 うっすらと潤む少年の目が、疑問を湛えてフォルセを見つめる。

 

 

「ヒトは、命を食べて生きている。動物だってそうだ。命を食べないと生きていけない。

 そして、ヒトもいつかは死ぬ。色んなものを遺して死ぬ。遺したものから他の命が生まれて、育って……そうして命は巡るんだ」

 

「命は……めぐる? でも、死んじゃうのは痛いよ」

 

「そう。だからありがとうを伝えるんだ。命を貰った分だけ、大きくなるからと感謝するために」

 

 

 命を貰わないと生きていけないから。フォルセはただ寄り添いたいと願いながら、小さな身体を抱き締める。

 

 

「ぼく、ぼく……」

 

「ええ」

 

「ぼく……わからなかったんだ。間違えちゃったんだね。だから、おかあさん……おかあさんを、……!」

 

 

 場面は、変わらない。クルトが母を裂き、燃やして、食っている。

 

 フォルセは知っている。それが辛うじて性別がわかる有様だったことを。ここの家族に女性は一人だけだったからそうなのだろうと、そう思うしかなかったことを。

 

 

「ぼくは、わからなかった。わからなくて……そうだった、そうしなきゃいけないって思って……おかあさん、おかあさん……」

 

「ええ……ええ……」

 

「おかあさんにちゃんとありがとう言えたこと、おにいちゃんに教えたかったんだ。おかあさん笑わなかったから、こわくて、おにいちゃんにまた正解を教えてほしかった……

 どうしてなのかわからなかった! こわかった! こわかった!」

 

「こわかったですね……こわかった……こわかった……」

 

「おかあさん、殺しちゃった……あああっ、ぼくっ、おにいちゃんも、殺しちゃった!」

 

 

 

「それは違う。君はあの時トビーを殺していない」

 

 

 えっ、とフォルセを見上げる大きな瞳――流れ落ちる涙を拭ってやりながら、フォルセはああ、と悟った。自分が、今この子に何を伝えるべきなのか。

 

 

「あの時……君は、トビーのもとへ行った。僕はそれを追ったんだ」

 

 

 母を殺し、クルトは兄を求めて森へ向かった。騎士フォルセは村に戻り、暴走余波(インフェクション)の騒動を収めるため暫し留まった。

 

 その後のこと。生き残った村人から話を聞いて、フォルセは再び森へ戻った――クルトが兄トビーの元へ現れたのは、フォルセに追いつかれる、その直前。

 

 

『クー? クー……なのか?』

 

『おにいちゃん……迷子?』

 

『クー……どう、したんだよ! 血、指が、血が……!』

 

『おにいちゃん……ぁ、アは、ありがとう言えたよ? これで良かったんだよね? おにいちゃん……』

 

『っ! ヒ、ヒイッ……!』

 

 

 場面は変わる。最愛の兄に縋るのは、血色の鉤爪を引き摺る――小さな、化け物。

 

 

『ァア、どうして逃げるの、どうして褒めてくれないの、どうして教えてくれないの! ぼくちゃんとアリガトウ言ったよ? 焼きすぎたけど、ちゃんと……!』

 

『あ、ぁああっ……クー……!』

 

『おにいちゃん……褒めて、ほめて。ぁああハハハ……焼いたお肉にして食べてにしたからぁ……! おにいちゃん……!』

 

『クー……! クー!』

 

『! ははハっ、ハッ……ガぁっ……ぐる、じ……ぐるじィ、あはハァハハ……ハ、は……おかあさん?

 

 ――ガ、ァアアアァアアアァッ!!』

 

 

 

『哀れで愛しい不浄の子よ……』

 

 

 フォルセの胸に縋り付いていたクルト少年が――救いを見つけたように、頭を上げた。

 

 場面は、幼き化け物が鈎爪を振りかぶったその瞬間。追いついた騎士フォルセが、慈悲を湛えて剣を抜く。

 

 

『ガァアアアァアアアッッ!!』

 

『クー! う、ぁあああああッッ――!!』

 

 

『女神の御許へ、還りなさい……!』

 

 

 真白の剣が、おぞましきヘレティックを――

 

 

「僕が……君を、殺した」

 

『――招雷閃(しょうらいせん)!!』

 

 

 ――浄化した。

 

 

 

「良かったぁ……」

 

 

 フォルセの腕の中で、クルト少年は澄んだ涙をこぼしながら笑った。

 

 

「おにいちゃんのこと……食べて、ない。今もおとうさんと一緒だね?」

 

「ええ、一緒です。とても、仲のいい……」

 

「よかった、よかったねぇ……」

 

 

 クルト少年の涙が、フォルセの法衣を濡らしていく。先程まではどこかへ行ってしまっていた涙が、フォルセに訴えるように染み渡る。

 

 喜びが溢れた。殺された少年が、殺した騎士に対して“家族を守ってくれてありがとう”と伝えている。

 

 

「おにいちゃん……ぼく、まだよくわからないけど。おかあさんに謝りたい……謝れるかな?」

 

「ええ。きっと聞いてくれます。君のお母さんも……ずっと君を心配していたから」

 

「そっか。おにいちゃんとおとうさんにも、ごめんなさいしたいな」

 

「きっと届きます。祈りはきっと……愛は、きっと」

 

 

 確約できない悲しみを抑え、フォルセは消えゆく幼子をゆっくり撫でた。

 

 

「ぼくも、のこしたかったな」

 

「遺せましたよ。君は確かに愛されていたのだから」

 

 

 薄く消えかけの笑顔を包み、あの子に届けたかった言の葉を。

 

 

「愛されていたよ。生まれてきた喜びは――今もきっと、続いてる」

 

 

 

***

 

 

「――っ!」

 

 

 燃え盛る炎の海で、フォルセは好き勝手振り回されながら血を吐いた。

 

 腐乱したヘレティックに刺し貫かれ、遠くではミレイがぼろぼろになりながらも戦っている。

 

 

「ガ――っぐ、う!」

 

 

 顔を上げた先、ヘレティックの背にしがみつく幼子の口が、フォルセに声なく訴える。

 

 ――“もう一度”と。

 

 

(対話の機会には感謝しよう――だけどっ!!)

 

 

 哀れみと慈しみに怒りを乗せて、フォルセは眼前にある腕の付け根を鷲掴み――叫んだ。

 

 

「ライトニング!!」

 

 

 稲光と共にヘレティックの腕が引きちぎられる。

 

 絶望の咆哮が神殿の壁をも揺らす中、フォルセは苦悶の表情で、ヘレティックから距離を置いた。腹を貫く鉤爪を引き抜き、抜剣する。

 

 

「せ、聖職者サマ、法術使え……っつ!」

 

「ミレイ……すまないね、また不甲斐ないところを見せて」

 

「そんなのより、あたし……! それに聖職者サマ、回復を!」

 

「この子の声を、もう一度聞くんだ……この子の、声、を……――はぁっ!」

 

 

 ごぼ、と口から血を吐きながら、フォルセは痛みなど感じていないように特攻していった。

 

 満身創痍の身では止められず、ミレイは歯痒く思いながら、意識的に聞かずにいた声に耳を傾けた。

 

 

 “おかあさん……ごめんなさい、おかあさん……”

 

 

 ――ああ、なんて惨いことだろう。辛い思いをしているだろう魂を、こんな場に引き摺り落とすなんて……

 

 

 “もう食べたくない……もう、だめなお肉はだめなんだ……だからもう一度、もう一度、”

 

 

 ――聞こえた。聞こえた!

 

 

 “ぼくをもう一度、やっつけて”

 

 

 

「……っ! あの魔王、絶対許さない!」

 

「せいっ!」

 

「やああああっ……! 火球導波(かきゅうどうは)!」

 

 

 ヘレティックの斬撃をフォルセは片腕で確実に受け流す。

 その足元へ、ミレイは地に刺したリボンから燃え盛る炎波を放った。覚悟を秘めた炎がヘレティックの足を焼き焦がし、フォルセの剣がそこに追撃する。

 

 

「……くっ、はぁっ……うご、け……!」

 

 

 ――が、先ほどまでたったひとりで戦っていたミレイの身体は、とうに限界を超えていた。炎を送って空っぽになった魔力共々、地に崩れ落ちて必死に呼吸する。

 

 

「っ……は……もうっ! うご、いてよ……! あたしの身体!」

 

「おーい、異端!」

 

「! ハーヴィ!」

 

「やっと蟲食いを越えられた。お前は少し休んでろ! ……俺がもう一度、そのヘレティックをぶっ飛ばす!」

 

 

 上から顔を出したハーヴェスタに、ミレイは眼を見開き驚いた。

 

 

「も、森ごと飛ばしたみたいに? でも聖職者サマが、」

 

「安心しろ、あいつは省く。大体あのままじゃあ確実に死ぬぞ! 何やってんだ!」

 

 

 「馬鹿か!?」怒号を放ったハーヴェスタを責める者は、いない。

 

 

「ああ馬鹿馬鹿大馬鹿野郎だお前も、あいつも! 俺が飛ばすまで持ちこたえろ!

 ――連れられし業火から破壊の象徴に告ぐ。

 求めるは一時の消滅、天よりの再誕。我が声に耳を傾けよ、規律の()を断ち切りたまえ――!」

 

 

 筒状の空間の最上部より、ハーヴェスタは木製の杖を掲げて力ある言の葉を紡ぐ。

 

 

 “――させ……ぬ”

 

「あっ……ノックス!」

 

「ちっ、魔力の残滓か……とことんしつこい魔王だな!」

 

 

 ハーヴェスタの行おうとしている試練の中断を、魔王の残り香は見逃そうとはしなかった。散りゆく魔力の最後の号令に従い、死にかけの巨鳥の肉体がただの岩のように次々と投擲され、ハーヴェスタのもとへと降り注ぐ。

 

 

「邪魔……するな!! アーチシェイド!」

 

 

 ハーヴェスタは詠唱を止め、忌々しげな表情で杖を払う。

 

 闇色の弧が降り注ぐ肉塊を薙ぎ、消滅させる――キィンッ! その間に、フォルセの剣がヘレティックによって、弾き飛ばされた。

 

 

「っきゃ……け、剣が!」

 

「くっ……間に合え!」

 

 

 飛んできた剣にミレイが悲鳴をあげる。もはや一刻の猶予はない、ハーヴェスタは上から飛び降りた。

 

 

「聖職者サマ!」

 

「フォルセ!」

 

 

 剣を失い、振り上げられた鉤爪を――フォルセは凪いだまま、鋭く見上げた。

 

 満身創痍とはとても思えない、澄んだ瞳――

 

 

「――っ!? あいつと同じ目……」

 

 

 ハーヴェスタの死んだと称される黄金の双眸が、何かを見つけたように瞬いた。

 

 

「っ……【ユシェル・バイツァル(yuciel,buyturl)】!」

 

 

 空中より振り下ろされたハーヴェスタの杖から、空間を吹き飛ばすほどの力を秘めた暗黒球が飛ぶ。真下のヘレティック目掛け――垂直に、止めようがない勢いで、落下する。

 

 それが当たれば、今宵は再び静寂に包まれるのだろう――だが、

 

 

「いけない」

 

 

 フォルセの唇が、ただ思うまま口を開く。

 

 

「この子をこれ以上苦しめるわけには――いかない!」

 

 

 業火を伴う咆哮、そして絶対を孕む力に向けて、〈神の愛し子の剣〉は意志を叫ぶ。

 

 ここで終わらせる。それが望みと聞こえるのだから――フォルセは心の求めるまま、己が“剣”を抜いた。

 

 

 

 ――一閃。

 

 

「なん――っ!」

 

 

 炎をも呑む緋色のヴィーグリック言語が、花を描くように爆ぜていく。

 

 暗黒球【ユシェル・バイツァル(yuciel,buyturl)】が弾き返され、ハーヴェスタは空中より落ちる最中、咄嗟に身を捩った。彼の持つ木製の杖を巻き込み天井へぶつかり、暗黒球は夜天を望める穴を空け、彼方へと消えていった。

 

 ――キィン! 溢れるヴィーグリック言語の中から剣戟の音が聞こえ始める。

 

 

「……剣?」

 

 

 どうにか拾い上げたフォルセの剣を、ミレイは目を白黒させながら見つめた。

 

 彼の剣はここにある。ならば彼は何をもって戦っているのか?

 

 

「……ちっ、さっきから空回りすると思ったら……こういう流れか」

 

「ハーヴィ……! 何が、聖職者サマは!?」

 

 

 難なく着地したハーヴェスタの苦くも弧を描く唇にも気付かず、ミレイは訳の分からぬまま詰め寄った。

 

 

「見ての通りだ、戦ってるよ……あの子のために。

 〈神の愛し子の剣〉を、抜いてな」

 

「! えっ……」

 

 

 ハーヴェスタの視線を追い、ミレイは胸をきゅうと締め付けるような熱を覚えた。

 

 

「あれ、が……〈神の愛し子の剣〉……?」

 

 

 緋色のヴィーグリック言語が集束する。纏うは彼――白き法衣をたなびかせ、全身から炎のようにヴィーグリック言語を放つ。

 

 〈神の愛し子の剣〉が、そこにいた。

 

 傷口より出でるは“緋”。通常のヴィグルテイン化とは違うその色は、しかしそれこそが正しい在り方のように輝き、炎華を成して巡っている。

 

 光が形をつくる。彼より現れたヴィーグリック言語は美しい文様を浮かべる剣となり、計七振りが彼の背後に鎮座していた。そのうち六振りは色抜けしたように透明で、残った緋の一振りを、彼は己が手元に這わせて構えている。

 

 剣を持つ手は“右”。失われた筈の右腕は、緋色のヴィーグリック言語の集合体となって生えている。

 

 

「よく見な、レムの黙示録所持者……あれこそが、お前の求めていた〈神の愛し子の剣〉。勇者の詠歌律唱(ルフィアス)を継ぎし、(うつつ)の勇者だ」

 

「……すごい」

 

 

 放心するミレイが見つめるその先で、〈神の愛し子の剣〉は飛ぶように駆けた。

 

 ヘレティックへ瞬く間に肉薄し、一閃――その手に持つ緋色の大剣を、まるで剣が腕の一部であるように軽々と振り抜き、ヘレティックの鉤爪、炎、腐敗した肉の一片に至るまでを真白のヴィーグリック言語にして己に還していく。

 

 剣を重ねるたびに魔王の力は消滅し、クルトの声は少しずつ消えていく。嘆くこと――否、何も嘆くことは無い。少年の表情は確かに和らぎ、喜びを吐露しているのだから。

 

 

「――招雷閃(しょうらいせん)

 

 

 真白のリージャの代わりにヴィーグリック言語を放つ剣が、ヘレティックの胴を押し貫いた。

 空いた穴は再生しない。再生を図る黒(もや)はヴィーグリック言語に呑まれ、白となって彼に還る。

 

 ――赤黒い宝石が現れた。

 

 再生を思わせる宝石が、彼を試さんとパキリと割れる。既に輪郭すらあやふやな少年が、救いを求めて彼を見た。応えるべく、救うべく、〈神の愛し子の剣〉はその剣を天へと向け、己が()を謳う。

 

 

「始まりの祝福を」

 

 “――……”

 

「神の御許へ、――【ゼムラス(zem las)】!」

 

 

 悪意の石へ、彼の切っ先が振り掲げられた。ヴィーグリック言語の奔流が巨大な槍のごとき光となってヘレティックを呑み込み、無垢なる白として還していく。

 

 

 “……ありがとう、おにいちゃん”

 

「――」

 

 

 ヴィーグリック言語とならなかったか細い音色が、彼の耳へしかと届く。ともだちや母に正しく告げたかった言の葉は、今、少年の喜びを乗せて送られる。

 

 いつの間にか、周囲の火は消えていた。少年と共に連れてこられた森は炭と化し、神殿を汚す黒となっている。

 

 それを纏っていたものは――もういない。おぞましくも悲しい異端の子は、今頃母のもとで色んな声をあげて泣いているだろう。その泣き顔がいつしか笑顔になればいいと新たな願いを抱きながら、〈神の愛し子の剣〉は剣を払った。

 

 

 

***

 

 

 一つの幕が、今降りた。

 

 静寂が包む。それを払ったのは――天より降り注いだ、暖かき太陽の光だった。

 

 

「おっ、やっと夜が明けたな」

 

「……終わった、の」

 

「ああ。いけよ黙示録所持者。休憩タイム続行だ」

 

 

 ミレイの背を、ハーヴェスタが治癒術ついでにポンと叩いた。

 

 押されるままに駆け寄ったミレイを、〈神の愛し子の剣〉はちら、と見遣る。

 

 

「……ミレイ」

 

 

 聖職者サマの声だ。ミレイは緊張の面持ちで見上げる。

 

 

「痛いよ、これ」

 

「え」

 

「リージャの痛みなんて比じゃない。火への恐怖なんて感じる余裕が無いほど痛い。笑ってるつもりだけど笑っていないのだろうね、僕は」

 

「えっあの」

 

「けれど……あの子をあのままにしておくほうがもっと痛かった。あの子を、救いたかったんだ」

 

 

 「心配かけてごめんね」〈神の愛し子の剣〉は至極無表情だった。だが願いはミレイと同じ――否、それよりずっと先を見てきた“彼”のもの。消えてしまった幼子が手を伸ばした、救済の可能性を秘めたもの。

 

 

「……やっぱりあなたは〈神の愛し子の剣〉だった」

 

「……」

 

「あなたのこと、信じてた。でも最後のさいごで駄目だったわ。あたしは諦めてしまった……反省してる」

 

「……、ありがとうと言っていたよ」

 

「! そっか……そっか! あの子を助けてくれてありがとう、聖職者サマ」

 

 

 どういたしまして、と〈神の愛し子の剣〉――フォルセは、笑うように小首を傾げた。

 

 

「で、いつまでそうしてる気だ?」

 

 

 雲ひとつない青空を見上げ、ハーヴェスタがうんと身を伸ばす。

 

 

「試練はクリア、お前はめでたく〈神の愛し子の剣〉だ。……気ぃ抜けよ、おめでとさん」

 

「……あ」

 

「ぎゃあっ聖職者サマ!」

 

 

 ヴィーグリック言語と七振りの剣がフッと消え、フォルセがふらりと崩れ落ちた。

 

 

「……。気が……抜けすぎました。……痛た……」

 

「あっそうよ! お腹っ、お腹に大穴が!」

 

「は? ……だああああっそうだった! 異端どけ! 俺が治療する!」

 

 

 慌てる二人に甘やかされ、フォルセはへらりと気の抜けた笑みをこぼす。

 

 

「ヒールで足りるか!? キュアか? レイズデッドかぁ!?」

 

「瀕死ではないので、そこまではいりませんよ……」

 

「……うーん。異端はこういう時、何にもできないのよねぇ…………あ、」

 

 

 治癒の光が出でる中、ミレイがふと何かに気付き、周囲を見渡した。

 

 

「どうしました……ミレイ」

 

「聖職者サマ、剣が落ちてる」

 

 

 ミレイの指さす先には、地に刺さる一振りの剣があった。美しい文様の剣だが、フォルセの所持する騎士の剣ではない。先ほどまで具現していた七振りのうち、唯一緋色に輝いていた剣によく似ていた。

 

 

「……それは、今回の試練クリアの証みたいなもんだ」

 

「どういうこと?」

 

「試練はこれで終わりじゃない。勇者の詠歌律唱(ルフィアス)はまだ六つ、〈神の愛し子の剣〉を待っている」

 

詠歌律唱(ルフィアス)……マナもリージャも使わない、古の技法でしたか」

 

「そう。〈神の愛し子の剣〉は勇者の力。二千年前の勇者が携えていた七つの詠歌律唱(ルフィアス)のことだ。

 その剣は、お前が今回得た詠歌律唱(ルフィアス)……祝福の剣〈ゼムラス(zem las)〉。抜くのはお前だ、ミレイ」

 

「あ、あたし? なんで」

 

「勇者の詠歌律唱(ルフィアス)は、その強大な浄化力ゆえに現世より封じられてるせいで、夢と現の狭間……つまりこのゲイグスの世界でしか使えない。だがレムの黙示録を使えば、その力の一部分を現世に持っていける。

 抜けば勝手に入る。外で引き抜くのは〈神の愛し子の剣〉の役目だけどな」

 

「つまり、鞘の役割……ということですね」

 

 

 緊張と困惑を隠せぬミレイを、フォルセは柔らかな表情で見つめた。

 

 

「抜いてください、ミレイ。私に、初めに〈神の愛し子の剣〉を望んだ貴女が。貴女の祈りをもって抜くのなら、今それは、貴女が抜くべきだ」

 

「それが……あたしの役目なのね。わかったわ」

 

 

 フォルセ自身に促され、ミレイは地に刺さる剣――〈ゼムラス(zem las)〉を掴んだ。

 

 重量ではなく、存在そのものへの重みを感じながら引き抜く――地より刀身の全てが現れた瞬間、〈ゼムラス(zem las)〉は真白のヴィーグリック言語となってレムの黙示録に収束した。

 

 

「……なんだか、ずっと重くなった気分だわ」

 

「私も感じます。あの剣の重み……私は、〈神の愛し子の剣〉なのですね」

 

 

 「もういいの?」立ち上がってきたフォルセにミレイが尋ねれば、彼は小さくもはっきりと頷いた。

 

 

「……おーい。忘れんなよ」

 

「あっ、ごめんハーヴィ」

 

「いや俺のことじゃなくて……その剣は、あの核野郎をぶっ倒すためのものだ。お前の個人的な願いは結構だが、それを忘れんじゃねーぞ。

 ――時間だ」

 

 

 降り注ぐ陽光を弾くほどの光が、フォルセとミレイの二人を包み込んだ。

 

 

「なっ、なになに!?」

 

「帰る時間だ。忘れてっかもしれないが、あっちはまだまだ大騒ぎの真っ最中……あのクソ核野郎に、一発ぶちかましてこい」

 

「貴方は、……ハーヴィは来ないのですか?」

 

「そうよ、折角仲間になったのに」

 

「……馬鹿言うな、俺は試練の審判者だ。このゲイグスの世界から出ることはない……次に会うのは、二度目の試練の時だな」

 

 

 寂しがるな、どうせすぐだ。ハーヴェスタはそう言いたげに、光の外から手を振る。

 

 

「……わかりました。次の試練で、また会いましょう!」

 

「今度は頭空っぽなんて言わせないから!」

 

「おう! また会おう、(うつつ)の勇者達!」

 

 

 光の中で、フォルセとミレイの全身は赤きヴィーグリック言語に分解され――天を目指し、吹き抜けていった。

 

 

 

***

 

 

「……!」

 

 

 フォルセは喧騒の中で目が覚めた。バタバタと横を走り去ったのは聞き慣れた鎧の音。ヴェルニカ騎士達の駆ける音。

 

 周囲は“未だ”燃えていた。フォルセが慌てて天を見上げれば――そこにはもうもうとあがる煙で汚れた夜天、巨大な時計塔は二十一の刻から長針が次の次の……幾つか次の数字へ。最後に見てから、四十分ほどしか経っていない。

 

 眠りについてから数えるなら僅か“十分”ほどと言ったところか。

 

 

(戻ってきた――!)

 

 

 教団総本山グラツィオへ。フォルセはようやく帰ってきた。両手をついて起き上がり、思わず右腕を見る。ヴィーグリック言語ではない。元の腕が、そこにはあった。

 

 

「……祭士っお目覚めか!」

 

「くそ、なんなんだあの魔物は!」

 

「砕いても砕いても、再生する!」

 

 

 呼び声と叫びにハッと視線を向ければ――見覚えのある、ありすぎる黒い核が、僅かな距離の先で火を吹いていた。幾多の騎士達が挑んでいるが、ほんの“十分前”のフォルセ同様、攻撃した先から再生され、意味を成していない。

 

 

「……ミレイは、」

 

「ここよ、聖職者サマ」

 

 

 フォルセの後ろに、ミレイはいた。同じように横にされていた彼女は今まさに治癒術を受けようとしており――「止めなさい、彼女は異端症(ヘレシス)です」フォルセは急ぎ、同僚でもある治癒術師の手を止めた。

 

 

異端症(ヘレシス)!? さ、祭士……しかし彼女は」

 

「聖職者サマの言う通りよ。あたしは異端症(ヘレシス)……暴走はしてないけどね」

 

「ミレイ、動けますか」

 

「モチロンよ。……ハーヴィに言われたものね、一発ぶちかましてこいって」

 

 

 不敵に笑むミレイの科白に、あぁ変な夢では決してなかったと安堵して、フォルセは周囲の止める言葉を抑えて立ち上がった。

 

 ミレイもまた、すっくと立ち上がる。暴走を恐れられているのか、彼女を止める者は誰もいない。

 

 

「――ノックス!」

 

 

 ビフレスト大聖堂の庭、今や燃え盛る火の海と化している場所へ並んで駆け出し、二人は魔王の名を腹の底より叫んだ。

 

 

 “――夢と現より帰還したか”

 

「お蔭様でね!」

 

 “――ノックスに、剣を向けるか”

 

「そのために、帰ってきたのです」

 

 

 彼ら以外に、会話の意味を知るものはいない。

 

 魔王ノックス――精鋭たる騎士達の攻撃にも不死のごとく再生してきた核が、炎を纏って二人を見下ろす。

 

 

「ミレイ」

 

「うん、感じる……ちゃんと入ってるわ、この中に」

 

 

 レムの黙示録を手に、強大な何かの存在を感じ取る。やはり現実であった。夢のように瞬く間の時であっても、彼らの心身は確実に――夢と現の狭間を飛来した。

 

 

(うつつ)にて応えよ……〈ゼムラス(zem las)〉!」

 

 

 その名を呼び、フォルセは新たな剣を抜く。

 

 抜剣は彼の経本からではない、緋色のヴィーグリック言語はミレイの手の内から現れ出でた。収束したのは一振りの剣、薄らと力を宿した勇猛なる剣、それはまさに現世に蘇りし――勇者の剣。

 

 

(感じる……この剣の奮い方を。僕は今神父でも騎士でもない、ただ一振りの〈神の愛し子の剣〉……)

 

 

 マナでもリージャでもない力を秘めた剣を――“読み取る”。この力ならば魔王に対抗できると、心から感じ取ることができた。

 

 

(くっ……脳が焼けつくほど痛い。これが〈神の愛し子の剣〉……勇者の力……!)

 

 

 握り締める剣から緋色のヴィーグリック言語が伸び、フォルセの右腕に優しく絡みつく。痛い。焼ける。けれどもそれで丁度いい。

 

 剣の“在り方”が、フォルセの中に流れ込んでくる。心身一体となった剣を構え、フォルセは己の討つべき“敵”に向かって――飛んだ。

 

 

「はああああっ!」

 

 “――世界は繋がった!”

 

 

 空を駆け、斬撃を放つフォルセに対し、無機質だった声が歓喜を叫ぶ。

 

 

 “――相見える世界がやってきた!”

 

 

 ――ガキィンッ! 剣と核とがぶつかり合い、火花――輝くヴィーグリック言語を細かに散らした。巻き込まれた炎がヴィーグリック言語となって刀身に呑まれ、刃が熱く燃え滾る。

 

 ヒビが現れ、燃え尽きぬ核の表面に亀裂が走る。フォルセは運命を受け入れた自分ごと、己が刀身を強く強く押し込めた。

 

 

「終わりにする!」

 

 “――否、これは始まりだ。我らが相見える世界の。戦いの――これこそが歓喜。待ちわびた機会。我は全てを欲する魔王たる存在!”

 

「ならば僕は誓おう! 受け入れよう! 〈神の愛し子の剣〉たる覚悟をもって、必ずお前を倒すと――!」

 

 “――それでいい、祝福しよう! 我らの幕がようやく上がった!”

 

「――【ゼムラス(zem las)】!」

 

 

 崩壊の音を夜天の先まで響かせて、魔王ノックスたる核は粉々に砕け散った。

 

 フォルセの剣が、眩き光を発する――砕けた核は一粒残らずヴィーグリック言語へと分解され、文様の浮かび上がった刀身へと収束されていった。

 

 騎士達の驚きと歓喜の声、燃え盛る火の音が遠く聞こえる。

 

 

 “――見事、見事也。まさに(うつつ)の勇者。魔王と対峙するに相応しき怨敵――”

 

 

 魔王の声は、現れた時とは比べ物にならぬほどの上機嫌さで、フォルセとミレイの二人だけに声を届ける。

 

 

 “――ノックスの望みは勇者と相見えること。ゆえに、千年の夜を遡る日には――古の魔獣をも欲した。

 ――ノックスを辿れ、〈神の愛し子の剣〉。神の愛し子を望む者よ。ノックスは――世界を滅ぼしながら、待っていよう。く……ッフフ、ハハハハハ……”

 

 

 無機質な声音から喜び、そして嘲りをこぼしつくし、ノックスはその場から完全に消え失せた。

 

 

 

「……なんだか、してやられた気分。一発じゃ済まないわよ、聖職者サマ」

 

「そうですね……」

 

 

 フォルセはほう、と重い息を吐いた。剣が消える。邪なる笑に当てられたように心が重い。受け入れた責務も――とても重い。

 

 

「今度はあたしも一発入れてやるわ! ……でもまずはぁ、」

 

 

 そんなフォルセを励ますように、ミレイが得意げに

ニっと笑った。

 

 

「消火しましょ、今度こそ見てて! マナの扱いは得意だって、聖職者サマの友達にも見せつけてやるんだから!」

 

 

 そう言ってミレイは、水のマナを纏って全力疾走していった。異端の登場に、グラツィオの喧騒が再び強くなる。知ったこっちゃない、見よこの水さばきと言いたげに、ミレイは踊るように火を消していく。

 

 騎士に紛れるミレイを見送り――フォルセはひとり、静かに誓う。

 

 

(魔王が望む、試練が望む……〈神の愛し子の剣〉として、僕が確かに望まれている)

 

 

 双肩に乗るのは未知なる責務。そんな大層な存在じゃない、とは言えぬ程度には既に自覚させられてしまったが、どこか姿の見えない重さであることには変わりない。

 

 思うまま望んでいたら、受け入れてしまった。この運命を昇華するにはほんの少しだけ、理性が追いついていない。

 

 

(倒すと啖呵を切ってしまったんだ。もう迷わない……〈神の愛し子の剣〉として、相応しくあるよう努めねば。……それが、恐怖まで戻った僕に課せられた、在るべき姿であるならば)

 

 

 震えはやってくる。それは周りを囲う火への恐怖か、それとも武者震いか、フォルセにはわからない。

 

 わからないながらも足掻こう。進んでいこう。この身に宿る信仰心のままに――フォルセは決意を新たに、燃え盛る火へと震える歩を踏み出していった。

 

 

 

***

 

 

「あぁ……寂しくなるのは俺のほうか。なんだかんだ、キーになったのは異端の行動か。お前らはどう思う? 仲間だってよ、なぁ…………」

 

「ハーヴィはうるさい馬だ」

 

「わああああっ!?」

 

 

 ここはすっかり休息モードとなった夢と現の狭間、ゲイグスの世界。

 

 フォルセらを見送り、ハーヴェスタは己こそが寂しそうに瞳を伏せ、懐から取り出した写真に話しかけていた。

 

 その背後に現れたのは――馬車の御者ディーヴと、同じようにローブをすっぽり被ったゲイグスの住人達だった。

 

 

「お、驚かすんじゃねぇよ柔らか石頭ども……住人総出で、なにしに来た?」

 

「魔王の介入を許したのは、ハーヴィの怠慢だ」

 

「……おう」

 

「神殿を壊したのは、ハーヴィの詠歌律唱(ルフィアス)だ」

 

「……お、おう」

 

「ハーヴィは杖もまた壊した。ハーヴィはいつの間にかノリノリの馬だ」

 

「……何が言いたい?」

 

 

 じりじりと囲われながら、ハーヴェスタは唇をひきつらせながら言う。

 

 

「『連れられし業火から破壊の象徴に告ぐ。

 求めるは一時の消滅、天よりの再誕。我が声に耳を傾けよ、規律の()を断ち切りたまえ』」

 

「あ? それ俺がさっき使った【ユシェル・バイツァル(yuciel,buyturl)】の詠唱、」

 

「住人賛成“100%”、これより審判者権限へ介入する。悪く思うなハーヴィの馬」

 

「は!?」

 

「宣告『連れられし業火から破壊の象徴』

 変更『夢と現に微睡む愛おしき審判者』」

 

「ちょ、まっ……」

 

 

 ディーヴを止めようとするハーヴェスタだが――哀れ他の住人によって囲われ、もみくちゃにされて阻まれる。

 

 

「……ああああ退けてめえらああああっ!」

 

「結果『』

 変更『再誕命ずるは、伝説の眠る箱……エオスの遺跡』」

 

 

 無情にも通達され、ハーヴェスタはサッと顔を青くする。

 

 ディーヴの号令によって、天に空いた穴より影が飛来する――それは、帰還せし暗黒球【ユシェル・バイツァル(yuciel,buyturl)】。ターゲットたる審判者目掛け、光よりは遅いがそれでもついていけないほどの速さで、容赦なく、落ちた。

 

 

「――!? てめえら覚えとけ! ひとり残らず必ず、絶対毛玉にしてやるからなぁあああぁぁぁっ……!!」

 

 

 怨恨溢れる叫びをあげて、ハーヴェスタは暗黒球に呑まれていった。

 

 ディーヴ達ゲイグスの住人は揃って手を振る。先ほどまでのハーヴェスタとは違い、寂しいなんて欠片もないバイバイを彼らはひとしきりする。

 

 

「……さぁ。帰ろう。次の舞台が待っている」

 

 

 誰がそんな台詞を言ったのか。もはやディーヴと呼ばれた御者がどれかわからなくなったまま、住人達は音もたてずにそこから消えた。

 

 

 



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Chapter22 日隠れに落つ一柱

 

 グラツィオの朝は早い。

 

 三の刻には小さいながら鐘が鳴らされ(小さすぎて誰も気付かないが)、六の刻にはその鬱憤を晴らさんがごとく清々しい鐘がゴインゴイン鳴らされる。商店通りのパン屋がそれより早く準備を始めるので、皆が起きた頃には街は豊かな麦の香りでいっぱいになっているのが特徴だ。

 

 パン好きには、ある意味楽園のような朝である。たとえ朝食がリゾットであろうとも、パンが良いと駄々をこねたくなるような――

 

 

「おはよう聖職者サマ!」

 

 

 ミレイのハツラツとした“おはよう”に、フォルセは寝崩した着のまま「おはようございます……」と返した。

 

 

「今日はパンを持ってきたわ、聖職者サマ」

 

「今日“も”でしょう……毎日毎食飽きないのですか……」

 

 

 「だって美味しいんだもの」とミレイは簡素な椅子に座り、ホカホカのクリームパンを割った。麦の香りとクリームの甘い香りが、鼻を通って胃にまで広がる。

 

 

「いっただっきまーす! ……聖職者サマ、顔洗ってくれば? あはは、聖職者サマの寝起きも見慣れたわね。あはは」

 

「……。……しつれい」

 

 

 何故ミレイが我が物顔で自室に入ってきたのか。何故当然のようにモーニングセットを開いているのか――何か言いたいのに頭は回らず、フォルセは観念して洗面所に向かった。

 

 

 ここはグラツィオ教会宿舎。教団の司祭以上が個室を与えられて住まう、言うなれば彼らの居城である。

 

 個室にあるのは備え付けのテーブルと椅子、ベッドと小さなクローゼット。そして簡易ながらも立派なシャワーもある。グラツィオ一番の宿には劣るものの、節制を心掛ける教団員には逆に丁度いい部屋だった。

 

 ミレイのことは、宿舎の人間に伝えてある。己の知り合いだから、やって来たら教えてくれと――それがこうして部屋までやって来るのは、フォルセにとっては予想外だった。彼女より先に起きれば問題ないのだが、朝一番のパンを求める彼女は神父である彼よりも随分と早起きだった。

 

 魔王ノックスたる核を退けてから、早三日が経過している。そのうち全ての寝起きを見られ、フォルセは妙な敗北感を覚えるようになっていた。

 

 

(遠慮するなとは言ったけれど。だからといって、部屋まで入ってこなくても……)

 

 

 洗顔を終え、くしゃくしゃの髪を整えながらフォルセは赤面した。

 

 

「今日も早いですね、ミレイ……」

 

「朝一のパンは美味しいのよ? はいコーヒー」

 

「……ありがとうございます」

 

 

 既に我が物顔で珈琲を煎れられるまでの仲である。夜になれば帰るのだからまだいい、いつの間にか居座られたらどうしようかと、フォルセは密かに悩んでいる。

 

 

「モチロン、パンだけが目当てなわけじゃないわよ。あたしはただ、早く旅に出たいだけなの」

 

「わかっております。私ももう充分動けるのですが……」

 

「もうっ、黙示録の鑑定ってそんなに時間がかかるの!? もう三日も経ってるのよ、三日!!」

 

 

 二つ目の堅焼きパンを丸かじりしながら、ミレイはぷりぷりと怒った。

 

 

 

 ミレイの怒りを説明するには、魔王ノックスを退けた夜にまで遡る必要がある。

 

 魔王ノックスである核を討った後のこと。燃え盛るビフレスト大聖堂の庭は無事消火され、フォルセとミレイは事情聴取のために騎士団本部へと連れられた。

 

 ゲイグスの世界については話せば長くなるので伏せ、二人は魔王ノックスに襲われたこと、禁呪のことについて説明した。騎士総出で敵わなかったノックスにフォルセが打ち勝てた理由は、フォルセがブリーシンガ隊の祭士であるからだと納得されたが、問題だったのはミレイが異端症(ヘレシス)であるということだった。浄化するか否かで暫し揉め、危ういところでフォルセがミレイを庇ったのである。

 

 

『彼女は暴走していない。それに彼女がいなければ、あの核の魔物には勝てなかったでしょう』

 

 

 フォルセの言葉を信じる者は――いなかった。信じ難いと言うべきか。それほどまでに異端の正常さに対して懐疑的なのだと、ミレイはぶすくれながらも感じ取っていた。

 

 

『フォルセ、無事であったか』

 

『エイルー様』

 

 

 そんな二人を解放したのは、フォルセがビフレスト大聖堂で別れた“ばかり”の大司教エイルーであった。

 

 無表情の中に心配を浮かべるアイリスパープルの美女が、フォルセにとってはどこか懐かしい。彼女ならば悪いようにはならないと、フォルセはホッと息を吐いた。

 

 

『ビフレスト大聖堂から禁呪の方陣を見た。あれを崩したのは(ぬし)か?』

 

『はい……真下におりました。なんとか食い止めようと思ったのですが、力及ばず』

 

『いや、お蔭で被害は最小に防がれた。庭にいた住人や観光客は、火事が起きた時点で避難が完了していたらしい。……リージャを失ったな?』

 

『……僅かに残りました、彼女のお蔭です』

 

 

 聖職者サマ、と制止しようとしたミレイを、フォルセは視線で逆に制した。禁呪が途中で収まった理由は未だ不明だが、あの時身体を張って立ち塞がろうとしたミレイの勇気は確かに救いとなったのだと、フォルセはエイルーに訴えたかったのだ。

 

 

『異端の少女がいると聞いたが……(ぬし)のことか』

 

『ミレイよ。その、あたしは……』

 

『エイルー様。彼女は黙示録の所持者です』

 

『……なに? 黙示録……』

 

 

 エイルーの瞳が僅かに険を帯びた。ミレイは緊張で肩を揺らし、身構える。

 

 

『なるほど。伝説が真になったということか……』

 

 

 ミレイの持つレムの黙示録を見つめ、エイルーは呟いた。

 

 黙示録は伝説として、教団に語り継がれている。教団の上層部に当たるエイルーも、当然黙示録の存在を知っていた。

 

 

『その黙示録、我に一時預けよ』

 

『えっ、だ、駄目よ!』

 

 

 突然の申し出――否、命令に、ミレイは渡してなるものかと黙示録を抱き締めた。

 

 

『盗るわけではない。伝説通りなら、黙示録は所持者を選ぶというのだからな。だが本物かどうか調べる必要がある。本物でなければ、教団としても協力はできぬのだから』

 

『エイルー様……』

 

『フォルセ……(ぬし)までそのような顔をするか。案ずるな、必ず返す。……鑑定が終わってからな』

 

 

 エイルーの言うことはもっともであった。フォルセもミレイも、試練の当事者としてレムの黙示録を信じている。だがそれだけでは駄目なのだ。このままでは、ただ黙示録の伝説に縋る狂人扱いされてしまう。

 

 エイルーならば大丈夫だ。フォルセは思い直し、警戒するミレイに向き直った。

 

 

『……ミレイ』

 

『うぅ……必ず、返してくれるなら』

 

『うむ。女神とユーミル、母なるホルスフレインに誓おう』

 

 

 こうしてレムの黙示録をエイルーに渡し、フォルセとミレイは騎士団本部を後にした。

 

 

『大丈夫です。エイルー様は約束を破るような方ではありません』

 

『聖職者サマが言うなら……信じるわ』

 

『ありがとう。この後はどうするのです?』

 

『宿に戻る。記憶喪失だけど、ちゃんと宿は取ってたのよ。……明日、また会いましょ』

 

『ではここから反対側にある教会宿舎に来てください。私は今そこに住んでいます……話を、通しておきますので』

 

 

 そんな会話を交わし、二人は別れた。どちらも疲労が積もり――特にフォルセは、禁呪の影響もあって身体が重く、ベッドに入ってからはすぐに眠りについてしまったのである。

 

 ――それが、今日から三日前のこと。

 

 

「もう我慢できない! ここで立ち往生してる間に魔王が何かしでかしたらどうするのよ!」

 

「お気持ちはよくわかります。ですが黙示録は伝説上の存在……鑑定も慎重に行われているのでしょう」

 

「わかる、わかるんだけど……ううううう……!!」

 

 

 四つ目の堅焼きパンを食べ終わったミレイ。もどかしくてしょうがないという気持ちがよく表れている。フォルセは苦笑しながらそれを宥め、空のカップを持って立ち上がった。

 

 

「新聞、取りに行きましょう。何か面白い記事でも載ってるかもしれません」

 

 

 

***

 

 

「セント=ルモルエ帝国にて入出国制限……」

 

 

 教会宿舎の一階に座り、ミレイは新聞を広げて読む。

 

 

「サン=グリアード王国では王位継承者を巡って軍部が分裂……ううん、随分きな臭いわねぇ」

 

「両国に何か覚えはありますか?」

 

「うふふ、全然」

 

 

 駄目だこりゃ、とミレイは新聞をポイと投げ出した。

 

 

「入国が制限されてるなら、セント=ルモルエには行けないわね。向かうならサン=グリアードかしら」

 

「そうですね。ノックスが手出ししないうちに、試練を終わらせなければ」

 

「でも、黙示録に新しい文章は現れてないわ。一体どこに向かえばいいのかしら……」

 

「当てはあります。勇者の詠歌律唱(ルフィアス)は残り六つ……六つと言えば、各地にある六聖地のことでしょう」

 

 

 新聞の代わりに世界地図を開き、フォルセは説明を始める。

 

 

「六聖地とは、マナの還る特別な場所です。最奥には聖霊(ファスパリエ)と呼ばれる存在が住んでおり、マナの循環を監視していると言われています。

 ここアリアン大陸には、フェニルス霊山と中央部の二箇所がありますね」

 

「そこが、試練を受けるための場所なのかもしれないのね」

 

「特別な六つであるなら、それしか考えられません。もっとも……黙示録の考えはわかりませんが」

 

「でも可能性は高い。だったら行ってみるほかないわ。……決まりね。旅立つ先は、六聖地」

 

 

 世界地図をなぞり、ミレイは嬉しそうに笑った。

 

 そこに――

 

 

「兄ちゃん達、六聖地巡礼に行くのか?」

 

 

 甲高い少年の声が二人を呼び止めた。フォルセは振り向き、驚いた。そこにいたのは三日前に別れたばかりの少年――商人の息子トビーだったのである。

 

 

「トビー……おはよう、お久し振りです。どうしたのですか?」

 

「三日前に会ったばかりだろ、変な兄ちゃんだなぁ。兄ちゃんがこないだの火事に巻き込まれたって聞いて、心配で来てみたんだ」

 

「そうだったのですか。ご心配をおかけしました、この通り大丈夫ですよ」

 

「そっか、なら良かったぜ。……それより兄ちゃん、ホントに六聖地巡礼に行くのか?」

 

 

 トビーは安堵の表情を浮かべた後、興味津々といった様子で尋ねてきた。

 

 六聖地巡礼とは、その名の通り六聖地を順に巡る旅路のことを指す。

 

 

「まだはっきりと決まったわけではありませんが……巡礼、するかもしれませんね」

 

「ねぇ聖職者サマ。六聖地に行くのってそんなにおおごとなの?」

 

「六聖地には巡る順序があるのですよ。最初は王国領土の二つ、その次が現在クローシア皇国領土と主張されている一つ、次が帝国領土。そして教団が管理する大陸中央部、最後がフェニルス霊山です。

 世界各地を巡りますからね、中には数年かけて行う者もいるほどの修練です。……とはいえ、殆どは観光がてらで終わるものですが」

 

「ふーん……大変なのねぇ」

 

「……姉ちゃん誰だ? もしかして……兄ちゃんの“これ”?」

 

 

 ミレイを訝しげに見つめていたトビーは、不意ににやけた顔になって手をぷらぷらさせた。

 

 

「旅の仲間ですよ」

 

 

 フォルセは不躾に揺れる手をやんわりと収め、手短にそう告げた。

 

 

「ミレイ、この子はトビアス。トビーと呼んでいます……あの子の兄君です」

 

「! はじめましてトビー、あたしはミレイ。聖職者サマの仲間よ」

 

 

 小声で“あの子”と言われ、思いつくのはただ一人だけだった。

 ゲイグスの世界で出会った異端の少年の兄――まさか現実で会うことになろうとは、とミレイは平静を保ちながら、心の底から驚愕していた。

 

 

「ミレイ姉ちゃんか、よろしくな!」

 

 

 ミレイの動揺に気付くことなく、トビーは二カリと快活な笑みを浮かべた。そして一転、真面目な顔付きになって二人を見上げる。

 

 

「姉ちゃんも、フォルセの兄ちゃんと巡礼に行くのか? だったらお願いだ、おれも連れてってくれ!」

 

「……ええっ!? 突然なにを……連れてってほしいから、六聖地巡礼のこと気にしてたの?」

 

 

 トビーの突然の申し出に、ミレイは内心の動揺を更に大きくして声をあげた。フォルセも同様に目を丸くしている。一体何が目的かと、真面目に見上げてくる幼い瞳をじっと窺う。

 

 

「ホントは六聖地巡礼じゃなくてもいいんだ。女神様のところに声が届けば……」

 

「何か、女神フレイヤにお伝えしたいことでも?」

 

「違う、女神様じゃなくて……俺の、弟とかーちゃんに」

 

 

 フォルセとミレイは互いに顔を見合わせた。トビーの弟と母には、ゲイグスの世界にて関わったばかりだ。こんな偶然があるだろうかと、互いに言葉を失う。

 

 

「こないだ、火事のあった日に夢を見たんだ。弟……クーがかーちゃんにすがりついて泣いてた。それからおれにごめんねって言ってくるんだ。

 おれ、二人を励ましてやりたくて。二人は悪くない、悪いのはあの異端の化け物だって」

 

「それは……」

 

 

 真実を知っているため、ミレイは素直に口を開けなかった。そして同時に悟った――トビー少年は、弟と母を異端に殺されたと勘違いしている。いや、ある意味正しいのだろうか。フォルセに目を向ければ、言いたいことを悟ったのだろう彼の口から小さく「……当時の記憶を改ざんしてしまっているようなのです」と告げられた。

 

 フォルセは一瞬瞳を伏せ、次いで慈しみを湛えた眼差しをトビーに向けた。

 

 

「お二人は……嘆いていただけでしたか?」

 

「えっ……そ、そうだな……ごめんねって言ってたけど、泣き顔でありがとうって笑ってたよ。何故か」

 

 

 「とーちゃんも同じ夢見たって言ってた」トビーは複雑そうな、しかし少しだけ嬉しそうな笑みを浮かべて言った。

 

 

「でしたら、トビーもお二人にありがとうを返しましょう。そのほうがお二人とも喜ぶはずです」

 

「そっかな……おれ、もうあんなこと嫌だから、だから兄ちゃんみたいな強い騎士になりたくて、でも……」

 

「お父君の跡を継がねばならないと、トビーはよくわかっているのですね」

 

「うん。おれ、とーちゃんのこと守ってやりたいんだ。もうおれしかいないから……なんとなくだけどさ、そうしなくちゃいけない気がして」

 

「そんな貴方を、お二人とも女神の御許より見守り、誇りに思っていることでしょう。

 トビー、六聖地は確かに女神の御許に近いと言われていますが、一番近いのは我らの紡ぐ愛の軌跡。いずれ流転するその時まで、貴方の愛は必ずやお二人のもとへと届くはずです」

 

 

 フォルセは神父の顔になり、ゆっくりと、染み渡るような声で言った。

 

 

「祈りや愛、生まれてきた喜びは必ずや届きます。それを信じて」

 

「……うん、わかったよ。ごめんな、話の途中だったのに」

 

「いえ、私……私達も、貴方の話が聞けて良かった」

 

「? まいっか。それじゃ、おれとーちゃんの手伝いがあるから……また会おうなっ、フォルセ兄ちゃんとミレイ姉ちゃん」

 

 

 来たときよりもどこかスッキリとした表情で、トビーは宿舎を出ていった。

 

 手を振り返していたミレイは、その背が扉の奥に消えると、神妙な顔をしてフォルセを見た。

 

 

「……届いたのかしら、あの子(クルト)の祈りは」

 

「きっと。ただの夢とは思えません」

 

 

 フォルセは何事もなくそこにある右腕を擦り、薄く笑みを浮かべて言った。

 

 

「夢のような経験でしたが、あれは間違いなく“現”でした。腕を飛ばされた痛みはまだ覚えているし、あの子を抱き締めた感触とて……この手に残っている」

 

「考えても仕方ない、か。でもあの子……クルトは最期にはありがとうって笑うことができたのよね。それがホントなら、素敵なことよ」

 

 

 ふふ、と自分のことのように微笑んで、ミレイはすっくと立ち上がった。

 

 

「次の試練も、あんな経験をするのかしら。……うーん、早く旅に出たい! いつになったら黙示録は戻ってくるの!」

 

「あの、」

 

「うひゃあああっ!?」

 

 

 気持ちを新たにしていた横から突然話しかけられ、ミレイは素っ頓狂な声をあげた。

 

 そこにいたのは、甲冑を被った一人の騎士。どこか控えめそうな雰囲気を醸し出してミレイ――を通り越してフォルセを熱く見つめている。

 

 

「フォルセ祭士とミレイさん、ですよね? 大司教エイルーより言伝を預かっております。

 『終わったので至急来るように』とのことです。でっ、では……」

 

 

 騎士はそれだけ言うと足早に立ち去っていった。その様子にフォルセは首を傾げる。

 

 

「落ち着きのない、緊張ぎみの方でしたね。どうしたのでしょう……」

 

「そんなことより聖職者サマ! 鑑定終わったって! 早く行きましょ!」

 

「ちょ、ああっ、引っ張らないで……私も黙示録も逃げませんから……」

 

 

 己らがこそ落ち着きなく会話しながら、二人は大急ぎでエイルーのもと――ビフレスト大聖堂へと向かうのだった。

 

 

 

「幼き少年を導く祭士……ああかっこよかったなぁ……」

 

 

 足早に立ち去った伝言騎士が、実は三日前の火事騒動で増えたフォルセのファンの一人であることに気付いたのは、教会宿舎で微笑む神父やシスターだけだった。

 

 

 

***

 

 

「返してくれないってどういうことよ!」

 

 

 晴天の中、冷えきった空気を漂わせるビフレスト大聖堂内部にて、ミレイの怒号が天井まで響いた。

 

 反響する怒号と今にも暴れそうなミレイを抑え、フォルセは大司教エイルーと、集まった司教団の面々を緊張した面持ちで見渡した。

 

 

「返さぬとは言っておらぬ。ただ返すのにも条件がいると言っておるのだ」

 

 

 エイルーは無表情の顔を僅かに困らせながら、フォルセとミレイに向けてそう言った。

 

 

「枢機卿団と司教団にて、黙示録が本物であるとわかった。が、それを異端に託すことに関して意見が割れてしまってな。そこで、ある条件をクリアしたならば認めようということになったのだ」

 

「認めてもらわなくても! あたしはー!」

 

「ミレイ落ち着いて! ……エイルー様、その条件とは……?」

 

「うむ。(ぬし)達にはエオスの遺跡に行ってもらいたい」

 

 

 エオスの遺跡。その場所の名にフォルセは思わず眉を寄せた。

 

 

「確か……六聖地の一つ、玉霊の誕導(ぎょくれいのたんどう)に通じる遺跡ですね?」

 

「何処よそれー!」

 

「ここから南方、コンフォ山脈にある遺跡ですよ」

 

「エオスの遺跡は一部を観光地として開放しておる。が、三日前からある異変が起きておるのだ。(ぬし)達にはそれを解決してきてもらいたい」

 

 

 その言葉を聞き、暴れていたミレイは漸く落ち着いた。

 

 

「異変の解決……それで、あたしを黙示録の所持者と認めてくれるの?」

 

「うむ」

 

「エイルー様、その……それだけで宜しいのですか?」

 

「なんだ司祭フォルセ、(ぬし)らしくもなく浅はかな」

 

「……は」

 

「異変は、遺跡にて聞こえる怪しげな“声”だ。何処から聞こえてくるともわからぬ……未だ発見されておらぬ遺跡の奥地に行くことになるやもしれぬ。気を引き締めよ」

 

「は……は、申し訳ございません。エイルー様」

 

 

 エイルーからの叱責を受け、フォルセは小さくなりながら頭を下げた。

 

 そんなフォルセを、エイルーは僅かに緩んだ目つきで見つめる。

 

 

「顔を上げよ、司祭。……ミレイとやら、これを」

 

「え、これ……レムの黙示録じゃない!」

 

 

 エイルーが取り出したのは、話題の渦中にあるレムの黙示録であった。

 

 

「返してくれないんじゃなかったの……?」

 

「それは(ぬし)のヴィグルテイン媒体としても使われておる。無ければ不便であろう」

 

「そりゃまあそうだけど……このまま持ってっちゃうとは、思わないの?」

 

「なに、その時はヴェルニカ騎士団が(ぬし)を追いかけ回すだけのこと。そこの“祭士”も含めて、な」

 

 

 言外にフォルセと仲間でいられなくなる、と言われ、ミレイはきりりと目尻を上げたまま、黙示録を腰に提げた。

 

 

「いいわ。その異変ってのを解決して、聖職者サマと堂々と旅に出てやるんだから!」

 

「エイルー様、寛大な御心に感謝致します……」

 

「いや、本当ならすぐにでも旅立たせてやりたかった。許せ」

 

 

 黙示録を返そうと尽力したのだろう。エイルーの表情はフォルセらへの気遣いを湛えており、だからこそフォルセも同じような顔つきで再び頭を下げた。

 

 

「それでは、いってまいります」

 

 

 礼をし、フォルセは憤然とするミレイを連れてその場を立ち去った。

 

 後に残るのはエイルー含む司教団の面々。皆一様にホッとした様子で両肩を下げ、安堵の表情を浮かべていた。

 

 

「いや、異端の少女が怒りだした時はどうしようかと」

 

「大司教よ。本当に宜しかったのですかな?」

 

 

 司教団は年配の者が多く、若く女であるエイルーはその中でも異質であった。不安がる面々を叱咤するように彼女は表情を一変させ、向き直る。

 

 

「一度決まったことだ、とやかく言うでない。それに我らがフラン=ヴェルニカの司祭がついておるのだ……信じてやらぬでどうする」

 

「は、確かに」

 

「我らの信仰が彼らの行く末を守るよう、祈りを深めねばなりませぬな」

 

「それでよい。それに……」

 

 

 各々慈しみを湛えて祈りだす司教団に、エイルーは厳格さを表した顔で告げる。

 

 

「教皇ヘイムダルが決めたことだ。我らには従うことしかできぬよ」

 

 

 

***

 

 

 グラツィオの都から馬車で南下し、数刻。フォルセとミレイはコンフォ山脈にある大トンネル――通称“御許の区”へとやってきた。

 

 山脈をくり抜いて造られた御許の区は、アリアン大陸の北と南を分ける検問所であり、旅券を持っていなければ通ることができない。北はグラツィオからの通行人が多い関係で幾つかの宿屋があるばかりの閑散とした場所となっているが、反面、南は大陸最南端にあるギルド拠点ニクスヘイムからの荷が多いため、業者をターゲットとした酒場の並ぶ通りとなっている。

 

 そして、二人の目的地であるエオスの遺跡は、南北それぞれから入ることのできる観光地であった。とはいえ、南北同士が遺跡内部で繋がっているわけではない。どちらも最奥は山脈の頂上に繋がっており、その先は六聖地の一つ玉霊の誕導(ぎょくれいのたんどう)と呼ばれる聖地となっている。

 

 ――以上を、観光ガイドのような口振りのフォルセから教えられ、ミレイはぐっとやる気に満ちた拳を掲げた。

 

 

「つまり、エオスの遺跡に行かないと始まらないってことね!」

 

 

 二人はまず、北側から行ける遺跡へと足を運んだ。

 

 まず目についたのは――光。否、光をモチーフにした石版の数々だった。発掘されたというそれらは厳重に管理されており、無理に近付こうものなら警備の騎士に肩を叩かれることだろう。

 

 観光客はそれなりに多いが、場所が場所だけに皆静かに立ち歩いている。時折小声で聞こえてくるのは、歴史を感じさせる建造物への感嘆、それらを造り上げた古代の人々への尊敬の念だ。

 

 

「うっわぁ……凄い。なんだろ、太陽や月明かりに女神を重ねているのかしら」

 

 

 ミレイは周囲の人々以上に興奮していた。異端であるのに、信者よりもずっと興味深げに遺跡を見渡している。

 

 

「この遺跡、まだまだ奥に続いていそう。発掘されてない場所もあるんじゃないかしら」

 

「六聖地へ続く道の他、発掘途中の現場もありますよ。どちらも制限がかかっておりますが」

 

「じゃあ、もっと広くなるかもしれないのね」

 

「ええ。歴史学者の見立てでは、南側とはやはり何処かで繋がっているそうです。繋がったら、遺跡内部にも検問所を建てねばなりませんね」

 

「でも広がるだけ昔のことがわかるんだもの。そのくらい許容範囲よ」

 

 

 楽しげなミレイを見つめ、フォルセもまた楽しそうに笑みながら口を開いた。

 

 

「ゲイグスの世界でもそうでしたが、ミレイは遺跡に興味がおありのようですね」

 

「知識はこれっぽっちも無いけどね。興味は頭の奥の方からずっと湧いてくるの。何か記憶の手掛かりになるかしら?」

 

「そうですね。六聖地巡りは貴女にとって良い旅路になるやもしれません」

 

 

 すっかり観光気分のミレイを置いて、フォルセは警備を担当している騎士のもとへと歩み寄った。

 

 所属と階級を明らかにすれば、暇そうにしていた騎士の背筋がしゃんと伸びる。暫し談笑した後、フォルセは異変――怪しげな“声”について騎士に尋ねた。

 

 

「それなら此処ではなく南側の遺跡です。どこからともなく呻き声のような音が、三日前から聞こえるようになり……ええ、丁度グラツィオの火災があった頃です。夜遅く、見回りの騎士が最初に気付きました」

 

「火事と同じ頃……ですか」

 

「自分は調査に携わっていないので、詳しくは存じ上げません。ただ、これといってヒトの気配もなく、調査は難航していると……」

 

 

 幽霊の類は苦手です、とミレイと同類らしい騎士に礼を言い、フォルセはミレイを呼びに戻った。

 

 

「ミレイ、声は南側の遺跡とのことです」

 

「あっごめんなさい、つい夢中になってた」

 

「いえ。そろそろ向かいましょうか」

 

 

 恥ずかしさで頬を染めるミレイを連れ、フォルセは南側の遺跡へ向かうべく、一度外へと戻った。

 

 ――そんな彼らを、一定の距離を置いて追う男がひとり。

 

 

「あいつら、ちょいとにおうなあ……」

 

 

 パシャリ、とその男の手の内で鳴ったのは、小型のカメラのシャッター音。ただの観光客とは思えぬ足取りで、その男もまた南側へと向かう。

 

 

 

 検問所を抜け、大トンネルを抜けるまでおよそ五分。歩けば相当な距離になるトンネルには、観光客向けの馬車が一定間隔で行ったり来たりしていた。

 

 フォルセとミレイもその観光用馬車を利用し、無事に南側の遺跡へとやってきた。

 

 

「こっちは……あれ、闇?」

 

 

 ミレイの言う通り、南側の遺跡は闇をモチーフとした石版が多く並べられていた。そして何より北側よりも広い。発掘がより進んでいることがわかる。

 

 

「よくわかりましたね。エオスの遺跡……そして山頂にある六聖地玉霊の誕導(ぎょくれいのたんどう)は、光と闇を司る聖地なのです」

 

「へぇー。六聖地っていうから、てっきり六属性を一つずつモチーフにしてるんだと思ったわ」

 

 

 魔術と法術を含め、この世には地水火風と光闇の六つの属性が存在している。ミレイがそう思うのも無理はなかった。

 

 

「よく間違えられるのですが……六聖地は地水火風をそれぞれ司る四ヶ所、光と闇を司る一ヶ所、そして全てを統括する一ヶ所の計六ヶ所で成り立っています。

 光と闇は表裏一体……リージャを扱う際にもそのように考えられるため、光と闇は一ヶ所に纏められているのですよ」

 

「なるほど……あっ、じゃあ聖霊(ファスパリエ)も二体いるの?」

 

「正解です。光のレムと闇のシャドウが最奥に住んでいると言われています」

 

 

 「レム……」ミレイは腰に提げてあるレムの黙示録に思わず触れた。

 

 

「地水火風はそれぞれ……地のノーム、水のウンディーネ、火のイフリート、風のシルフ。そして全ての聖霊(ファスパリエ)を統括する不死鳥フェニルスが住まう聖地が、グラツィオの北部に広がるフェニルス霊山です」

 

「聖地は六つ、でも特別な存在は七体いるのね。間違えないようにしないと……んんんん?」

 

 

 遺跡を巡りながら解説を聞いていたミレイは、人の少なくなった場所で不意に立ち止まった。

 

 

「どうしました?」

 

「しっ。……何か聴こえる」

 

 

 場所は、観光用に開放されている中でも一番奥。

 

 

 “……ぅ……ぅっ……”

 

「! 声、声が聴こえた!」

 

 

 耳をすませば、確かに呻き声のような音が聴こえてきた。二人は目を合わせ、少しずつ音の大きくなる場所を探して歩いていく。

 

 やがて辿り着いたのは、ひときわ大きな石版の前。

 

 

「ここが一番大きく聴こえる気がするけど……何かしら、この石版。光と闇を使ってるヒトを、別のヒト達が崇めてるみたいな……」

 

「これは……あみにんの壁画ですね」

 

「……“あみにん”?」

 

「二千年前、勇者を助けたと言われる伝説のヒトです。色とりどりの毛糸を使った編みぐるみの姿をしていたと言い伝えられており、現在でも寓話で多く登場しますね」

 

「編みぐるみのあみにん、ねぇ……何かヒントになると思ったけど、うーん」

 

 

 石版を見上げ、ミレイは思考を巡らせる。

 

 

「……ゲイグスの世界みたいに、『黙示録所持者は全てを通す』だったら良いのに……」

 

「なんですか、それは」

 

「馬車の御者がいたじゃない? ディーヴっていうんだけど……あのヒトから聞いたの。『黙示録所持者は全てを通す』って。その通り、あたしが黙示録所持者だって名乗ったら話がすんなり通ったことがあって……」

 

 

 言いながら、ミレイはもう一度石版を見上げた。

 

 ――石版がゴゴ、と音をたて、揺れる。

 

 

「! 聖職者サマ……石版が、」

 

「え、ええ……確かに動きました」

 

「……まさか」

 

 

 ミレイは自分の言った願望が叶ったのではないかと考え、胸を高鳴らせながら口を開いた。

 

 

「あたしは……ミレイ。レムの黙示録の正当な所持者」

 

 

 石版が、ひときわ大きな音をたてて――動いた。

 

 同時に石版周囲の床が揺れ、少しずつ収められるように姿を消していく。体勢を崩しかけたミレイを支え、フォルセは消える床に巻き込まれぬよう急いで後退した。

 

 現れたのは――巨大な“穴”。自然ではない人工的に造られたと思われる遺跡の穴が、ミレイの言葉によって出現した。

 

 

「やだ。ほ、ホントに通った……」

 

 

 驚くミレイを支えたまま、フォルセは現れた穴を険しい表情で覗き込んだ。暗い。底が見えない。吹き抜ける風が穴の先の空洞を思わせ、足元を竦ませる。

 

 遺跡全体が揺れたことで、警備の騎士達も何事かと集まってきた。突如現れた大穴に皆驚きながら、観光客が入れぬよう注意を呼びかけていく。

 

 

 “ぅう……う、ううう……”

 

「! 声、この下から聴こえてくる!」

 

 

 呻き声がより大きくなって聴こえ、ミレイは興奮ぎみに叫んだ。着実に真相へと近付いている。けれども穴は深く、物理的な進み方を躊躇させる。

 

 

「気になるなら、飛び込んでみればいいじゃないかあ」

 

「簡単に言わないでよ。こんな穴、準備も無しに行けるわけ……」

 

 

 「え?」誰とも知れぬ声にミレイは首を傾げた。

 

 フォルセとミレイの間に、ひとりの男が割って入る。男は二人の腰を難なく抱き上げ、見ずともわかるほどニヤリと笑った。

 

 男の首に下げられたカメラが、キラリと光る。

 

 

「ジャーナリストの心得、第一番。スクープの為なら危険を冒せ!」

 

「ちょ」

 

「第四番! におう奴はとにかく抱き込め!」

 

 

 警備の騎士達の怒号が、遠い。フォルセは自分を掴んで離さず、あろう事か助走をつけて駆け出した男を青ざめた顔で見上げた。

 

 逆立った青毛、それ以外は眼鏡が反射してよく見えない――

 

 

「いざ、神スクープのもとへ!」

 

「ちょ、待ってまってぁあああああああーっ……!?」

 

 

 ミレイの悲鳴があがる中、フォルセは抵抗もできぬまま彼らと共に穴の中へと落ちていった。

 

 

 



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Chapter23 涙する遺跡の謎

 

 ――ズシンッ! 巨大な鉄板が叩きつけられたようなその音は、遥か頭上より三人分の体重で落下した、男のブーツの音だった。

 

 遺跡の空洞を落ちてきた三人は、そのままどこぞの巨大滑り台よろしく滑り落ち、ついには垂直に落下した。やってきたのは、ゴツゴツとした岩壁がどこまでも続く洞窟。天井から時折雫がこぼれ、しかし地面はかつて人の手が入った経験があるかのように平坦に続いている。

 

 

「……っっっばか! ばかばかばかぁ!」

 

 

 水のにおいのする闇の中。法術〈ルクスリンク〉で周囲を照らすフォルセの横で、ミレイは涙目で男――全ての元凶を殴りまくった。

 

 

「いて、いてて……無事に着地できたんだから勘弁してくれえ!」

 

「どこが無事よ! 死ぬかと思ったじゃない! ……っつーか、」

 

 

 「あなた誰よ!?」ミレイがビシィッと指さす先で、青毛を逆立てた男はへらりと笑った。金縁眼鏡の奥でつり目がちの黄土色が和らぎ、フォルセとミレイをやや猫背ぎみに見下ろす。

 

 

「なあにただのしがないジャーナリストさあ。どっからどう見ても、怪しくないだろう?」

 

「名乗れっつってんの!」

 

「殴るなよう、気を紛らわすジョークだって。……オレはシド・ガードライナス。偉大なるサン=グリアード王国が膝元、シルバレット・ポストの記者さあ。よろしく頼むぜ、嬢さん方」

 

 

 どこかマイペースな雰囲気を醸し出しながら男――シドは恭しく礼をし、懐から一枚の紙切れを差し出してきた。名刺だ。“シルバレット・ポスト、旅の愛国者シド・ガードライナス(25)”と達筆な字で綴られている。

 

 

「あのシルトト新聞の記者ですか」

 

「……知ってるの、聖職者サマ」

 

「今朝、教会宿舎で読んだ新聞の発行元ですよ。シルバレット・ポスト……通称シルトト新聞。サン=グリアードの王都シルバレットに拠点を構える有名な新聞社です」

 

「うちの購読者だったかあ? 嬉しいねえ、帝国じゃあ滅多に読めないビッグニュースを揃えているから、是非とも毎日のお供にしてくれよ」

 

「はぁ、考えとく……じゃ、ないわよ! そのしがない記者サマがあたし達をどうする気!?」

 

 

 カラカラと笑うシドに対し、ミレイは今にもリボンを爆発させそうな勢いで威嚇した。当然だ。底の見えない大穴に本人諸共とはいえ突き落とされたのだから、怒るのも警戒するのも無理はない。

 

 激昴するミレイに、シドはまるで謂れなき罪を告げられたようにきょとんとした。

 

 

「どうするって……嬢さん方は遺跡の異変を探ってたんだろう? ならこのまま進むしかないじゃないか。さあ、行こうぜ」

 

「なんで当然のように着いてくる気満々なのよ……!」

 

「ええ? しがないジャーナリストをこんなところに置いていく気かあ? ……神父様は優しいからそんなことしないよなあ? なあ?」

 

 

 シドが涙目でフォルセを見つめてきた。捨てられた仔犬のような大男の眼差しを受け、フォルセは溜め息を呑み込んだ。

 

 

「……仕方ありませんね。出口がわからない以上、共に行く他ありません。一応身分は明かしてくれましたし……ただ、好奇心が過ぎただけでしょう」

 

「んもう聖職者サマ! 優しすぎよ!」

 

「ひええ、こっちの嬢さんはおっかないなあ。神父の嬢さんがいて良かったぜ。ありがとなあ」

 

 

 ほこほこと笑うシド。フォルセはそれをじとりと睨みつけ、奥へと続く道を照らした。

 

 

「……魔物の気配がします。道中、注意して進みましょう」

 

「おお! オレは強いから任せとけ、嬢さん方は後ろに下がってていいぜ」

 

「いえ、〈ルクスリンク〉……法術で照らしている間は詠唱術が使えませんので、私も前で」

 

「じゃああたしは後ろに下がるわ。……聖職者サマの邪魔なんかしたら、ただじゃおかないからね!」

 

「うへえ、本当におっかない嬢さんだ。大丈夫さあ、オレはこれでも旅のジャーナリスト。すっげえ戦い慣れてるからなあ」

 

 

 警戒を弱めぬミレイに、シドは相も変わらずマイペースに笑いかけるのだった。

 

 

 

***

 

 

 洞窟内部は入り組んでおり、進んだ先が行き止まりであることも多くあった。風の吹く通り、あるいは呻き声の聴こえる方へと進めば良いものを、シドがあっちはなんだこっちはあれだと好き勝手向かうのである。

 

 そんな寄り道をしていれば、トラブルが起こるのも必然。

 

 

「だーから言ったのよ怪しいって!!」

 

「ジャーナリストの心得、第一番。スクープの為なら危険を冒せ!」

 

「あたし達を巻き込むなってのぉおおお!」

 

 

 大騒ぎする彼らを追うのは、計五つの四角い影。表面に苔の生えたそれらは古びた宝箱の形をしており、中にはギラリと光る二対の目、上下に生え揃う鋭い歯が見えた。側面からは細長い腕がにょきりと生え、ばたつきながら地を這っている。

 

 実に不気味だが、逃げ惑うていても仕方がない。フォルセは急停止し、振り向きざま宝箱――フェイクを斬り払った。残り四つのフェイクがフォルセを襲う――

 

 

守護方陣(しゅごほうじん)……!」

 

 

 フォルセの足元に小規模な陣が出現し、立ち上る光がフェイクどもを打ち払った。

 

 陣形が崩れたことで、シドとミレイも逃げるのを止め、各々の武器を構える。

 

 

「形勢逆転だあ、魔神剣(まじんけん)!」

 

 

 シドが構えたのは、両手持ちの大剣だった。それを勢いよく叩きつけ、地を這う衝撃波を放ち、フェイクどもを吹っ飛ばす。その間にフォルセの隣に並び立ち、そのまま追い越していく。

 

 

「……シド、」

 

「任せなあ! ――水滅覇道斬(すいめつはどうざん)!」

 

 

 フォルセより前に出たシドは、再び大剣を振り下ろして地に叩きつけた。水のマナが爆ぜ、強大な水飛沫が発生する。丁度口を開けていたフェイクの一体がこれに呑まれ、マナに還っていく。

 

 

「やるじゃない! あたしも……」

 

「ミレイ嬢! こいつら水が弱点だ!」

 

「へ? わ、わかった……!」

 

 

 シドのアドバイスに従い、ミレイは水のマナを集めていく。その間にフォルセは雷を伴わせた刃をフェイクの口に突き入れ、撃破。残り三体となったフェイクを相手取るべく駆け出していた。

 

 

「おお、フォルセ嬢は強いな!」

 

「……、そっちに行きましたよっ!」

 

「ぬっ……フォルセ嬢の勇姿を撮ろうと思ったんだが……」

 

「後になさい!」

 

 

 目の前のフェイクを蹴り上げながら、フォルセはマイペースな記者を叱咤した。怒られてもなお腑抜けた顔をしつつ、シドもまたフォルセに倣い大剣を振るう。

 

 

「うおおおっ、旋撃衝(せんげきしょう)!」

 

「流浪抱擁、全てを弾け! ――バブルステイ!」

 

 

 シドが大剣を振り回してフェイクどもを纏めて吹っ飛ばす。直後、ミレイの足元で水色の魔法陣が輝き、三体のフェイクどもを水塊の中に閉じ込めた。

 

 泡が弾け、殴打していく。歯をガチガチと鳴らしながら暴れ回るフェイクどもは、やがて力尽きて消えていった。

 

 

「よくやったミレイ嬢!」

 

「ふふん、どんなもんよ……って、元はと言えばあなたがいけないんでしょー!」

 

 

 調子よく笑うシドにミレイが怒鳴る。

 

 五体のフェイクどもは、元々行き止まりの先でお行儀よく並んでいただけだった。行儀が良すぎて、見るからに“怪しい”と感じるそれら五つの宝箱を次々に開けては噛み付かれたのが、今現在カラカラと笑っているシドである。

 

 

「いやあ、まさかモンスターだとは思わなくてなあ」

 

「一個目で止めときなさいよ!」

 

「はっはっは。貴重な体験ができて良かったなあ」

 

「良くなーい!」

 

 

 ミレイは苛立ちと共に地団駄を踏んだ。出会って以来ずっと振り回され、限界が近い。

 

 話題を変えようと、フォルセは苦笑ぎみに口を開いた。

 

 

「そういえばシド。魔物との戦闘ではいち早く弱点に気付いていますが……何か、コツでもあるのですか?」

 

「コツじゃあない。こいつのお蔭さあ」

 

 

 “こいつ”とシドが指したのは、彼のかけている金縁眼鏡だった。

 

 

「オレの眼鏡は特別製でね。勝手に弱点発見(スペクタクルズ)してくれるのさあ」

 

「……へぇ、便利なものね。どこかで売ってるものなの?」

 

「さあなあ。物心ついた時からかけてたから、わかんねえや。でもこいつのお蔭で、さっきみたいなピンチも乗り越えてきたんだぜ? 凄いだろう?」

 

 

 ミレイの質問に、シドは自慢げに答えた。心なしか眼鏡の光沢も煌めいて見える。よく手入れされているのだろう。彼の言う通り、ピンチを共に乗り越えてきた相棒のように扱われている。

 

 雰囲気も良くなったところで、一行は再び洞窟内を進み始めた。岩壁が所々平坦になっており、よく見れば遺跡と同じような文様で表面が飾られていた。進むにつれそれは増えていき、道はだんだんと“遺跡内部”へと侵入しているようである。

 

 

「名刺には“旅の愛国者”と書かれていましたが……ずっと一人で旅をしているのですか?」

 

「おお。主に王国内をな。とびっきりのニュースを集めて、記事にしてるのさあ。……ああでも、今回はちょっとな。教団産の酒が必要になって、買いに来たんだあ」

 

 

 酒を買う道中で遺跡の噂を聞き、ジャーナリスト魂が疼いたのだという。

 

 

「……酒? でしたらエオス・フレーバーがおすすめですよ。今年は特に良いコクと花の香りがするのです」

 

「えっ……聖職者サマって、お酒飲めるの?」

 

 

 始まった会話にミレイは疑問を覚え、眉を寄せて突っ込んだ。

 

 

「それなりに飲めますよ」

 

「でも聖職者サマって、まだ十九歳よね?」

 

「ええ。……ああ、教団では十八歳で成人として認められるのですよ。だから飲んでも問題ありません」

 

「フォルセ嬢は十九か……王国の成人は二十歳だから、うちではまだ飲めないなあ。残念だ」

 

「……帝国は? それから、クローシア皇国も」

 

「帝国は確か十六で成人として認められるぜ。オレは早すぎると思うんだが……皇国はわからんなあ、あそこは未だ謎が多いから」

 

「そっか……」

 

 

 考え込み始めたミレイを、フォルセは訝しげに窺った。

 

 

「ミレイ、何か気になることでも?」

 

「聖職者サマ……あたし、サン=グリアード王国から来たのかもしれない」

 

「……! 根拠は?」

 

「聖職者サマのこと未成年だと思ったから。お酒が飲めるのは二十からだって、無意識に思ってたわ」

 

「なるほど……っ、そうだ、旅券。旅券にも何か手がかりがある筈です。あれは自国にて発行されるものですから」

 

 

 どうして気が付かなかったのかと歯噛みしながら、フォルセは旅券を見るよう提案した。

 

 言われるまま、ミレイは旅券を取り出す。フォルセのものとほぼ同デザインのそれは、しかし隅の方に小さくサン=グリアード王国の紋様が刻まれていた。

 

 

「おお、王国のシンボルが書かれているじゃないか。ミレイ嬢は王国民だったのかあ?」

 

「……みたい、ね。ますます王国に行く用事ができたわ。あたしの記憶の手がかりがあるかもしれない……」

 

「なんだなんだ、何かワケありのようだが」

 

 

 興味深そうに尋ねてきたシドに、ミレイは一瞬迷いながらも自分が記憶喪失であることを話した。何も、自分の故郷でさえ覚えていないという話に、シドの顔が同情で染まる。

 

 

「き、記憶喪失……ヘビーな話だなあ。オレにできることがあったら何でも言ってくれ。王国の話ならたっくさんできるぞ?」

 

「ありがと。あなた、優しいのね?」

 

「おお。同僚からは“気優しいトラブルメーカー”と呼ばれたこともあるぜ」

 

「ぷっ……何それ、褒めてないじゃない」

 

 

 気が和んだのか、ミレイは呆れ顔で笑った。思わぬところから発覚した記憶の手がかりに、フォルセもまた密かに喜ぶ。

 

 

 “……ぅううう、うぅ……”

 

「! 呻き声、大きくなってきたわね。早く解決して旅立ちたいわ」

 

「そうですね……? シド、何をしているのです?」

 

 

 呻き声を聞いた途端、シドは小さなメモ帳を取り出して何やらせっせと書き始めた。ジャーナリストだけあって、書くスピードはとても速い。そういえばミレイも書くのが速かったなとフォルセが思い出していると、書き終えたのか、シドはメモ帳をしまって笑った。

 

 

「今の呻き声、歳若い男の声に聴こえてなあ。報われぬ思いをした古代人の祟り! ……なんじゃないかと予想立ててみた」

 

「随分と耳がいいですね。私には悲しげな声にしか聴こえませんでした……しかし、内容はどうあれ記事にするのは難しいかもしれませんよ?」

 

「おお? 何故だ?」

 

「騎士の制止も聞かずに飛び込んできたでしょう。私やミレイを巻き込んだこと、多数の騎士が目撃しております。……戻ったら、厳重注意で済むよう口添えくらいはしますから」

 

「お、おお……それまでキビキビ働かせてもらうぜ」

 

 

 名高きヴェルニカ騎士団に怒られ、牢に放り込まれる光景までもを想像し、シドは引きつった笑みで素人っぽく敬礼した。怒られるだけで済むかは今後の働き次第。先程のような失態は繰り返さないと、率先して前を歩く。

 

 ――そんなシドを、ミレイが渾身の力で引っ張った。

 

 

「ぬごっ……ど、どうしたミレイ嬢。トイレか、」

 

「ねぇさっき、古代人の祟りって言ったわよね?」

 

「おお、オレの記事に興味があるのか? まあまだ仮説の段階だがオレはいい線言ってるとおも」

 

「オバケ」

 

 

 ミレイの顔は恐怖で引きつっていた。――しまった、折角思い当たっていなかったのに、とフォルセは彼女を落ち着かせようと手を伸ばす。その手を逆に鷲掴まれ、ぎゅうぎゅう圧迫され、痛い痛い。

 

 

「ミレ」

 

「――いやぁあああああオバケぇえええええっ!!」

 

 

 男二人を引っ掴み、少女は恐怖のままに涙目で爆走を始めた。洞窟から遺跡へと変わる道中に悲鳴が木霊する。うるさい。蝙蝠(こうもり)型の魔物やスライム、開けなければ大人しい筈の偽宝箱(フェイク)までもが飛び起き、うるせえこの野郎と奇声をあげながら襲いかかってきた。それら全てを張っ倒しながらも呻き声の方へと進むのは、彼女に残った僅かな理性ゆえだろうか。

 

 

「おおおおおおおベストショットが撮れねええええ」

 

「オバケはいやああああっ!」

 

「ああっ腕がっ、腕がまたちぎれるっ……!」

 

 

 各々盛大に悲鳴をあげながら、一行は順調に洞窟――否、エオスの地下遺跡を進んでいくのだった。

 

 

 

***

 

 

 “ううっ……うう……うう……”

 

 

 それが歳若い男の声だと耳を傾けずともわかる頃、一行――爆走ミレイはようやく終点を迎えた。

 

 其処は入り組んだ道の途中から続く、拓けた行き止まり。天井の何処かから水が流れ落ち、小島を中心に地下水脈を築く場所だった。その小島にはヒトの手が加わった形跡が幾つもあり、文様を描く地面やかつては灯りを置いていたと思われる石塔が、此処がエオスの遺跡の一部であることを示している。

 

 その小島の中心に、灰色の石で造られた棺がひとつ。男の呻き声はその中から聴こえるようだった。

 

 

「嫌よぉ……オバケは……ふええぇ……」

 

「言いながら辿り着いちまったなあ」

 

「だって、これを解決しないと始まらないんだもの! 怖くても進まなくちゃいけない時がある。あたしは聖職者サマから学んだの……ぐすっ」

 

「ふふ……いい子ですよミレイ」

 

 

 フォルセが危うく引きちぎれかけた手で撫でてやれば、ミレイはほにゃあと力無く笑んだ。

 

 

「オバケは一旦忘れましょう。ご覧なさい、ここもエオスの遺跡と同じような文様があります。大発見ですよ、ミレイ」

 

「……そうね、遺跡のこと考えたらなんだか元気が出てきた。文様は……穴が空いたとこで見たのと同じね。光と闇を使うヒトを、別のヒト達が崇めてる」

 

 

 涙を拭い、ミレイは周囲を興味深そうに見渡した。

 

 

「あみにん、だっけ? 編みぐるみの姿をしていて、勇者を助けた存在……」

 

「ええ。聖書などでは、女神フレイヤの遣いとして記されております。二千年前、世界が勇者と女神に救われて以後、あみにんも姿を消したと」

 

「……! そっか、ここは勇者にまつわる場所。だから黙示録の所持者であるあたしに反応したんだわ。もしかして、此処が次の試練の場なんじゃ……」

 

 

 先程まで怖がっていたのはどこへやら。ミレイは真剣な眼差しでレムの黙示録を取り出し、呻き声の聴こえる棺へと歩み寄った。

 

 その間に、シドもまた柔らかさを消した顔でフォルセに耳打ちする。

 

 

「なあフォルセ嬢……黙示録とか、試練とか、何のことだあ?」

 

「! 何ですか、突然」

 

「職業柄、重要そうなキーワードは逃さない耳をしてるのさあ。……オレの予想は正しかった。アンタ達はやっぱりスクープのにおいがする」

 

「……一介の神父である私には、お答え出来かねます」

 

 

 やんわりと拒絶の言葉を告げれば――シドは不満を一瞬見せ、次いで縋るような顔でフォルセの前に立った。

 

 

「そりゃあ教団の機密事項ってことかあ? 上等だ、機密が怖くてジャーナリストなんてやってられるかよお」

 

「無謀も大概になさい、旅する子羊よ。……事はそう単純ではないのです。世界に向けて発信すべきか否か、私では判断できない」

 

 

 フォルセは厳しいながらも困り顔で、諭すように言った。大司教エイルーからは異変調査以外の命を受けておらず、また宿敵である魔王は動きを見せていない。魔王の出方次第では嫌でも世界に知れ渡ることになるだろうが、現段階で、〈神の愛し子の剣〉だの黙示録だのをおいそれと口にして良いものか、フォルセにはわからなかった。

 

 が、そこまで言ってもなお、シドは諦めを見せなかった。

 

 

「なら、アンタが判断できるまでオレは着いていくぜ」

 

「シド」

 

「怒っても無駄だぜ、フォルセの嬢さん。オレにはもう後がねえんだ。手土産の一つでも持って帰らないと……オレは廃棄処分にされちまう」

 

「廃棄処分?」

 

「……クビだよ、クビ。教団産の上等酒を買いに来たのも、酒好きの上司への手土産にしようと思ったからなんだ。その途中で遺跡の噂を聞いて、これは持ってこいだと思って探ってた。

 スクープはにおいでわかる。アンタ達を見つけた時、オレは女神フレイヤに感謝したもんさあ」

 

 

 シドもまたワケありのようだった。悲痛な表情で訴えてくるシドに、フォルセはそれ以上厳しい言葉を口にすることができず、どうすべきか迷いを見せる。

 

 

「なあ、頼むよフォルセ嬢。機密って言うなら口外しねえ。いや社には報告するが、時が来るまでは絶対記事にはしねえ。でも発信するってんならオレにも一枚噛ませてくれ! 頼む、この通りだ!」

 

「……貴方がそこまで追い詰められている理由は何なのです? クビだなんて、何か事情があるのでしょう?」

 

「そ、それはだなあ……」

 

 

 言い縋っておきながら、シドはクビの理由を明らかにしたくないようだった。それでは困るとフォルセも無言で口を閉じる。幾らフォルセが神父とはいえ、いやだからこそ抱える重荷を明らかにしてもらわねば、救いを授けることはできないのだ。どれほど縋られようとも、心を開かぬ者を助けることはできない。

 

 

「……開かないわねぇ……、聖職者サマ」

 

「なんでしょう」

 

「棺に名乗ってみたけど、開かないわ。もしかしたら〈神の愛し子の剣〉に反応するのかも」

 

「わかりました、開けてみましょう」

 

 

 「〈神の愛し子の剣〉……?」反応するシドを置いて、フォルセはミレイの元へと向かった。棺の中からうーうーと呻き声がよく聴こえる。

 

 

(さて……これで本当に試練が始まったら、嫌でも彼を巻き込むことになるけれど……)

 

 

 棺に手をかけながら、フォルセは後方に佇む“無関係者”をどうするか考えあぐねていた。事は重要で、今後どう転ぶかわからない事態だ。一般人を巻き込むわけにはいかない。

 

 

「なるようになれ、か……」

 

「聖職者サマ?」

 

「いえ、彼を巻き込んだらどうしようかと思って……っ!」

 

 

 ズズ、と棺を動かしたその瞬間――膨れ上がった殺気に気付き、フォルセはミレイを抱えて飛び退いた。

 

 

「うひゃあああっ!?」

 

「! ど、どうしたどうしたあ?」

 

 

 直後、上空から巨大な影が降り、棺の上へと着地した。ズシン! と地響きを鳴らして現れたその影は、禍々しい気を放ちながら棺を呑み込む。

 

 それは、黒々とした身体を震わせる巨大なスライムだった。道中潜んでいた個体とは違い、全身から冷たくもおぞましい瘴気を発している。

 

 

「ヘレティック!? まさか、こんなところに……!」

 

 

 フォルセは焦りを浮かべながら、抱いていたミレイを下ろした。ヘレティックの敵意、殺意は紛うことなくフォルセらに向いている。鈍足そうな体躯ではあるが、ヘレティックを前にして逃げる選択肢は無い。剣を抜き、リージャを這わせ、フォルセは他二人に指示を飛ばす。

 

 

「私が注意を引きます、ミレイ……その間に、貴女は中央の核を狙って魔術を!」

 

「りょーかい!」

 

「あ、あれがヘレティック……噂に聞く、異端の化け物ってやつかあ……? お、おっかねえ……!」

 

「……。シド、貴方は後方に隠れていてください。危険です」

 

 

 震え上がるシドに対し、フォルセは騎士の顔になって告げた。その指示にミレイは詠唱の手を止めかけるが、青ざめた表情のシドを見て思い直す。

 

 

「安心してっ、あたしはヘレティックと戦ったことあるし、聖職者サマは強い騎士なんだから」

 

「……ってことは、ミレイ嬢は騎士じゃないのかあ……?」

 

「? そうだけど……」

 

「だ、だったらオレだけ隠れてるわけにはいかないぜ! 嬢さん方、オレも助太刀する!」

 

 

 シドは震え声で雄叫びをあげ、大剣を抜いて地を蹴った。彼が追いつくその間に、フォルセが素早い連撃を加えてヘレティックの躯体を抉る。飛び散る血肉にうひゃああ、と怯えながらも、シドは自らの武器をしかと持ち上げ、前線に立った。

 

 

「ちょ……む、無理しなくていいのよー?」

 

 

 自らの言葉で煽ってしまったと気付き、ミレイはばつの悪そうな顔で小さく声をかけた。「うおおおおっ!」それを聞く余裕なく、シドはヤケクソぎみに大剣を振り回す。

 

 

「――シド、相手の弱点が見えますか?」

 

 

 がむしゃらに攻撃するシドを引っ張り、フォルセは努めて柔らかな声でそう尋ねた。一度出てきてしまった人間を下がらせるには労力が要る。ならば少しでも落ち着かせる方が良いと判断したためである。

 

 

「じゃ、弱点? ……おお、見えたっ見えたぞフォルセ嬢っ」

 

「それをミレイに伝えてあげてください」

 

「よしっ……ミレイ嬢! こいつは風と光が弱点だあ!」

 

「……風ね、オッケー任せてちょうだい!」

 

 

 ミレイの元気な返事を聞いて、シドの表情が和らいだ。その様子をヘレティックの攻撃を受け流しながら窺い、フォルセは新兵に語りかけるように口を開く。

 

 

「ヘレティックとはいえ、戦い方は巨大なスライムと大差ありません。中心部の核を狙えるよう、前衛は周りの肉を削ぐのです」

 

「だっだが、瘴気に穢されてはしまわないかっ?」

 

「あの棺のように呑まれでもしない限り、体内のリージャで中和が可能です。後ほど私の法術にて浄化も可能ですから」

 

「よ、よし……!」

 

 

 薄く笑みすら浮かべるフォルセの言葉に、シドは恐怖を武者震いに変えたようだった。目の前の巨体はヘレティックではなくただのスライム――己の旅路でも乗り越えてきた種であると、息を整えつつ自身に言い聞かせる。

 

 

「うおおおおっ……旋撃衝(せんげきしょう)!」

 

「――残光襲(ざんこうしゅう)!」

 

 

 雄叫びと共にシドが大きく横に薙ぎ、次いで隙無くフォルセが高速の連続突きを放った。大振りの攻撃と手数で攻める攻撃に、ヘレティックの躯体はどんどんと抉れ、中央の核と棺を顕にしていく。

 

 

「っ……? 棺で守っているのか?」

 

 

 伸びる触手を斬り捨てながら、フォルセは気が付いた。ヘレティックは呑み込んだ石棺を核の前に置き、核のための盾としているようだった。これではミレイの魔術が届かない。どうにかして棺を押し退けるか、核を引きずり出さねば。

 

 その時――

 

 

「うおおおおっやってやる!」

 

「えっ……!?」

 

 

 思考するフォルセの脇から、シドが大きく飛び出した。

 

 

「くらええっ、風陣刹(ふうじんさつ)!」

 

 

 風を帯びた大剣を構え、シドはあろう事かヘレティックの体内へと突っ込んだ。核と棺を分断するように斬り裂き、突き進んでいく。ヘレティックの咆哮が鈍く耳を揺らす――突撃してきた愚か者を駆逐せんと、ヘレティックの体内がぎゅうと収縮を始めた。

 

 

「っ……光霊弾(こうれいだん)!」

 

 

 シドの身体が呑まれるその直前――フォルセは自動拳銃を即座に構え、光の弾丸を三発放った。シドを捕えんとしていた触手を撃ち、フォローする。その甲斐あって、シドは無事ヘレティックの体内を斬り開き、向こう側へとすり抜けた。

 

 

「ミレイ! 今です!」

 

「よっしゃー! くらえっ、ゲイルジャベリン!」

 

 

 フォルセの合図を受け、ミレイは溜め込んでいたマナを一気に解放した。風の槍が突き進み、直線上にいたヘレティックの核を押し貫く。バキバキと容赦なく核が割れ、ヘレティックは巨体をぶるりと震わせ、溶けていった。

 

 

(な、なんとか終わった……)

 

 

 念のため、とフォルセは光弾を幾つか放ち、核の破片を浄化した。瘴気の残り香が風に乗って遺跡の奥へと流れていく。残されたのはヘレティックに呑まれていた石の棺。中からは相変わらずうーうーと悲しげな呻き声が聴こえる。

 

 が、今は呻き声どころではなかった。いつの間にかミレイとハイタッチしている記者に、フォルセはじっとりと厳しい視線を向ける。

 

 

「シド……」

 

「おおっフォルセ嬢。オレの攻撃はどうだった? なかなかのものだったろう」

 

「ええ、いきなり突っ込むとは思いませんでした」

 

 

 フォルセはにこりと微笑んだ。げっ、とミレイが失礼にも程がある呻き声をこぼす。

 

 

「大剣での攻撃は見事なものでした。しかし、何の前触れなく飛び込むのは頂けませんね……危うく、本当に呑み込まれるところでしたよ」

 

「おお? フォルセ嬢は怒っているのか? ……いいじゃないかあ、最後には勝てたんだから」

 

「……、遺跡に飛び込んだことといい、貴方は少々無謀な所があるようですね。いつもこうなのですか?」

 

「勿論! 危険に飛び込んでこそ、一流のジャーナリストだ! それに……女の子にばかり戦わせるわけにはいかんしなあ」

 

 

 でへへ、とシドは頬から蕩けきった笑顔で言った。殴りたくなるようなその顔を、フォルセの輝かんばかりの笑みが睨み上げる。その睥睨(へいげい)の意味に、シドは全く気がついていない。

 

 

「……にしても、まさかヘレティックと戦うことになるとはなあ」

 

 

 「いい経験をさせてもらったぜ」シドは怒られていることなど全く気にしていない様子で、にこやかにメモを取り始めた。

 

 フォルセは大きく溜め息を吐いた。そんな彼に、ミレイがこそこそと耳打ちする。

 

 

「ねぇ聖職者サマ、ヘレティックと戦うのってそんなに珍しいことなの?」

 

「……馬は馬方、グミはグミ屋ということでね。普通、ヘレティック討伐はヴェルニカ騎士団に依頼されます。余程リージャに自信のある者で無い限り、一般人でヘレティックと戦う者はいないでしょう」

 

「ふーん。慣れちゃえば、普通の魔物と変わらないのにね」

 

「そう考えられる方が凄いのですよ、一般的にはね」

 

 

 そんなもんか、とミレイはひとり納得する。

 

 二人がヘレティック討伐について話している間、シドは此度の経験をメモし終えて満足げな表情を浮かべていた。そんな彼の足元に、ころんと転がる一粒の闇が――

 

 

「んん?」

 

 

 足先に転がってきたそれを、シドは何とも思わず拾い上げた。赤黒い小さな宝石。シドの中の好奇心を煽る不思議な色。先程まで戦っていた異形の色と、どこか似ている。

 

 

「フォルセ嬢、これは……――」

 

 

 言いかけて、シドは口を閉じた。調子よく笑って受け流していたが――シド自身、無謀を叱咤されたとよく理解していた。フォルセという騎士に知らせたら、きっとこの宝石は取り上げられてしまう。そう瞬時に悟るほどには、宝石の危うさを感じ取っている。

 

 危うい。だから何だ。オレはヘレティックにだって打ち勝てた。もっともっと踏み込んだとて大丈夫さ。腐ってもジャーナリストである彼の心が、そう囁いた。

 

 

「……どうしました、シド」

 

「いやっ、なんでもない!」

 

「?」

 

 

 フォルセの翡翠色の双眸から隠すように、シドは宝石を懐にしまいこんだ。

 

 

 “うぅ……うー……どうせ……どうせ……”

 

「! 忘れてた、呻き声!」

 

 

 「聞いてるこっちが悲しくなってくるわね」うー以外を発し始めた呻き声に、ミレイは若干げんなりした顔で呟いた。

 

 

「さっき、聖職者サマの手で開きかけたわよね?」

 

「ええ。……開けてみましょう」

 

「ついに現れるかあ? 古代人の祟り!」

 

「やめて!」

 

 

 ぎゃいぎゃい言い合う二人を他所に、フォルセは再び石棺に手をかけた。

 

 ズズ……と引きずる音をたてながら蓋が動く。同時にフォルセの心底を熱い何かが駆け巡り、心の鼓動を強くした。

 

 

「っ、黙示録に反応した時のような感じが……」

 

「何か感じるの? やっぱり〈神の愛し子の剣〉に反応を……」

 

 

 緊張した面持ちのミレイに視線で返し、フォルセはぐっと力を入れて棺を開けきった。ズシン、と落ちる重い蓋。闇一色の中身を照らした、その瞬間――

 

 黄金に光る、二対の何か。

 

 

『……おせーんだよお前らぁあああっ!』

 

「うわっ」

 

 

 棺の中から、赤い塊がフォルセの懐へと飛び込んだ。

 

 

 

***

 

 

『ぐすっ……うう、おせーんだよぉ……ぐずぐず』

 

 

 棺を開けた瞬間やってきた、赤い“それ”。

 

 

「……なにこれ」

 

 

 ミレイが覗き込むそれは、フォルセの手のひらに収まる小さな毛玉。――否、赤い毛糸が特徴的な、小さな小さな編みぐるみだった。

 

 

『……起きないといけないよなぁ、俺、……だもんなぁ。ぐすん』

 

 

 編みぐるみはぶつぶつ泣き言を呟きながら、フォルセの手の上でむくりと起き上がった。

 

 顔と身体が同じほどの見事な二頭身。赤い毛糸は“彼”の長い赤毛を表しており、目玉として縫い付けられた金色のボタンが二つ、キラキラと光っていた。茶色い杖を背負った黒装束までも全て毛糸で編まれているが、唯一頭を飾るヒルデリアの花飾りだけが、ミレイのものと同じガラス細工である。

 

 

『よぉお前ら。こっちじゃ三日ぶりだなこんちくしょーめ』

 

 

 その容姿カラーと皮肉気な声に、フォルセとミレイは覚えがあった。

 

 

「……、ハーヴィ?」

 

『そうだよ! お前らの審判者のハーヴェスタだよ! うわぁああんっおせーんだよお前らぁあああっ!』

 

 

 編みぐるみ――ハーヴェスタはぴーと泣き始めた。涙の代わりに水色のビーズがこぼれ、遺跡の床にぽろぽろ落ちる。

 

 

「……こいつは、あの伝説のあみにんってやつじゃないかあ?」

 

 

 ひとり除け者にされていたシドが、カメラを構えて呟いた。

 

 

「! そうよ、編みぐるみのあみにん! 石版に書かれてたのはこういうことだったんだわ!」

 

「呻き声の正体は伝説上の存在かあ! こりゃあスクープだぜ……! 興奮するなあ!」

 

『だああっうるせーうるせー! 何がスクープだ災難だってーの!』

 

 

 興奮するミレイとシドの視線から逃れるように、ハーヴェスタはフォルセの頭へとよじ登った。金髪の上で踏まれる地団駄がぽふぽふ鳴る。

 

 

『杖の壊しすぎがなんだー! 何で俺があみにんになんぞならなきゃいけないんだー!』

 

「ハーヴィ……自らその姿になったのではないのですか?」

 

『んなわけねーだろ! ディーヴ達に杖壊しすぎ、調子乗りすぎって怒られたんだよ! いいじゃねーか、二千年ぶりの勇者なんだからちょっとくらい興奮したってよー! なーお前もそう思うだろ〈神の愛し子の剣〉ー!』

 

「……耳元で叫ばないでください……」

 

 

 ある意味テンションの高いハーヴェスタを、フォルセは苦笑ぎみに引っ掴んだ。ぶう、とぶすくれるあみにんの姿に、かつての面影はこれっぽっちもない。

 

 

「いやあ、やっぱりオレの予想は間違いなかった! アンタ達にくっついてれば、きっと編集長も納得のスクープが手に入るに違いねえ!」

 

 

 パシャパシャとカメラを切っていたシドが、眼をこれでもかと煌めかせて言った。

 

 

「フォルセ嬢! オレは何と言われようとアンタ達に着いていくぜ! 女の子だけの旅路に加わるのは嬉しい、いやちょっと気が引けるが、この通りだ! オレにスクープをモノにするチャンスをくれえ!」

 

「……コホン。不可思議なことが多いですが、せめてこれだけは解いておこうと思います」

 

 

 渾身の思いで頭を下げているだろうシドに対し、フォルセはどこか冷たい、迫力満点の顔つきで口を開いた。

 

 

「私は神父。れっきとした男です」

 

 

 「……男?」此度、様々な不可思議を経験したジャーナリストの顔が――最も深い驚きに包まれ、あんぐりと口を開ききった。

 

 

 



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Chapter24 旅路に転がる巡りの環

 

「嘘だあ」

 

 

 “フォルセは男”宣言から復活したシドの第一声は、疑心に満ち満ちたものだった。

 

 

「だってよお、こんな美人なのに女じゃない筈ねえ。オレの見立てに間違いはねえよお」

 

「間違いだらけです、悔い改めなさい!」

 

「いいやこれだけは譲れないな。確かめないと気が済まないぜ。……よっ」

 

 

 そう言うと、シドは大真面目な顔つきでスッと手を伸ばした。――むにっ。法衣に隠された臀部を掴む。あまりに普通に触ったものだから誰も反応できず、遺跡内に妙な空気が流れる。慣れた手つきが形を確かめ、全体をそろりと撫で上げたその瞬間、フォルセが声無き悲鳴をあげて飛び退いた。

 

 

「なっ……な、なっ! 何するんですかぁっ!‍?」

 

 

 顔を真っ赤にして怒鳴るフォルセを尻目に、シドは己の手を信じられないと言いたげに凝視した。

 

 

「……お、男のケツだ……!」

 

「当たり前でしょう!!」

 

「へーどれどれ……」

 

「真似するんじゃありません!」

 

 

 えー、とミレイは本気で残念がった。大きな眼を好奇心で光らせ、自分も触りたいと視線を向ける――見るな触るなと隠された。ちぇっと半分本気で舌打ちし、一体どんな触り心地だったのかと触った男に視線を向ける。

 

 

「マジか……本当に男なのか……」

 

「いつまで惚けてんのよ」

 

「いやあオレ、これでもヒトを見る目はあるんだ。取材にもナンパにも、観察力ってのは必要だろう? 個人的に男や“そういうの”を狙う時もあるが、このオレがマジで間違えるなんて……嬢さん、いや神父君。イイもん持ってる、自信持ってイイぜ」

 

「……何の自信ですか……」

 

 

 シドがグッと親指を立てて笑う。急にヒトの尻を触ったとは思えないほど、穏やかで真っ直ぐで澄んだ瞳だ。フォルセは力無く肩を落とした。目の前の記者にはことごとくトラブルを起こされている。いい加減地上へ戻ってお別れしたいが、本人の言った通りどこまでも着いてきそうな気がしてならない。

 

 

『あっははは! 大丈夫だ〈神の愛し子の剣〉。お前が女顔でも、試練は滞りなく進むから。……ぷぷぷ』

 

 

 肩で寛ぐあみぐるみ――ハーヴェスタが耳元で子供っぽく笑ってきた。馬鹿にされている。フォルセはしかめっ面を浮かべ、彼をじろりと睨んだ。

 

 ――ここに、とある事実がある。

 

 教団の神父フォルセ・ティティス。彼はどうしようもなく中性的な美人さんだった。

 

 常の微笑みは女神の愛を纏うかのよう、誰もに差し伸べられる手は白く滑らか。神父服を着ているからこそ男とわかる。それっぽい服装をしていたら誰もわからない。憂いを浮かべて酒を飲む金髪美人がいたら、それはもしかしたら神父のプライベートモードかもしれない。柔らかな雰囲気も相まって、十人いれば五人が性別で悩む、そんな微妙な面をしているのがフォルセであった。

 

 

「……誰が女顔ですか、そんなの不名誉なだけです……まったくっ!」

 

 

 柳眉をきりりとつり上げ、フォルセは首にかけたストールをぎゅうと握り締めてプイと踵を返した。ドスドスと彼らしからぬ足音をたてながら遺跡を突き進む様は、まるでちょっかいを出された猪のよう。そんな彼を嘲笑った罪人ハーヴェスタは、振り落とされないようわーわー言いながらしがみついている。

 

 二人と二人、それぞれ若干距離が開きつつも、一行は地上へ戻るべく遺跡を進む。

 

 

『気にするなよー〈神の愛し子の剣〉。お前の顔はあいつ譲りだし、気質も今のところは……あいつ譲りだし』

 

「……あいつ、というのは二千年前の勇者のことですか?」

 

『おう、見てて懐かしいくらい似てる。今度ゲイグスに来たら写真見せてやんよ。……あいつも、女扱いすると怒ってた』

 

 

 ハーヴェスタは花の形をしたビーズを飛ばして笑い、フォルセの肩の上で器用に寝転んだ。当然のように居座るつもりの彼を見て、フォルセの心が僅かに鎮まる。

 

 

「そんなに、似ているのですか……」

 

 

 孤児ゆえに血縁の顔を知らないフォルセにとって、その情報はとても気になるものだった。顔の似ている古の勇者――名も伝わっていない存在と同じように在ることができるだろうかと、見えない明日に思いを馳せる。

 

 落ち着きを取り戻し始めたフォルセを他所に、後ろの二人もまた会話を始めていた。

 

 

「……なあなあミレイ嬢、神父君と仲良くしてるあのあみにんの彼は何者だあ? ……試練とか、黙示録とかってのに関係してるのか?」

 

 

 メモ帳片手に、シドは遺跡内で響かない程度の声で尋ねた。フォルセに聞かれたらまただんまりを決められてしまう、ならばもう一人に聞くまでだと、期待を眼の裏に隠して聞く。

 

 

「あのヒトはハーヴェスタ。あんな姿してるけど、〈神の愛し子の剣〉の試練の審判者よ」

 

 

 ミレイは特に気にすることなく答えた。これは良い、とシドの顔がパッと明るくなり、メモする手付きも軽やかになる。

 

 

「〈神の愛し子の剣〉?」

 

「聖職者サマのことよ。黙示録に呼ばれた、勇者の力を持つ特別なヒト」

 

「勇者の力‍、ねえ。スケールのでかい話になってきたじゃねえの。……けどよ、国同士のいざこざが続いてるとはいえ、勇者が必要な御時世か?」

 

「……そういう世界になるのよ、これから」

 

 

 口の軽いミレイも、流石に魔王云々をどう伝えるべきか言いあぐねていた。思わせぶりな言い方がシドの好奇心を余計に煽る。シドは愛用のペンをくるくる回し、好物を見つけた肉食動物のように笑った。

 

 

「なんで勇者が必要になるんだ? 教えてくれよお」

 

「……千年前の魔王が復活したのよ。魔王ノックスっていうんだけど、あなた知ってる?」

 

「魔王ノックス? 〈魔王戦記〉に出てくる“夜の魔王”のことかあ?」

 

「‍? 〈魔王戦記〉って何?」

 

「おっと、嬢さんは劇とか興味ないクチ……っと、記憶喪失だったなあ。悪いことをした、ごめんなあ。

 〈魔王戦記〉ってのは、千年前、世界を混乱に陥れた“夜の魔王”と“四人の聖人達”の戦いのことさあ。聖人の一人グライアルドは我がサン=グリアード王国の建国者、リモーレはお隣セント=ルモルエ帝国の建国者だから、おとぎ話や劇で有名な話だぜ。

 ……で、その魔王が復活したんだって? 信じられねえなあ」

 

「信じられなくてもホントの話なのよ。魔王を倒すために、勇者の力が必要なの。あたし達はそのために……」

 

「ミレイ」

 

 

 いつの間にか二人の目前に控えていたフォルセが、彼らの口を縫うように呼び止めた。

 

 

「それ以上は、秘密です」

 

 

 「と言っても、殆ど話してしまったようですが」口止めしていなかったことを反省しつつ、フォルセはぽつりと呟いた。

 

 

「聖職者サマ……ご、ごめんなさい。つい」

 

「何だあ、イイじゃないか……言っただろう? 機密なら口外しない、時が来るまで記事にしないって」

 

 

 にこやかに笑うフォルセに対し、シドは不満を顕に言った。不機嫌ぶりがペンの振れ具合に表れている。が、口を閉じたままのフォルセを見て諦めたのか、今度は懇願するように弱々しい顔つきになった。

 

 

「頼むよう、神父君。スクープ持って帰らないと、編集長に廃棄されちまうんだよう……」

 

「先程も言いましたが、事はそう単純ではない。貴方のような立場の方に語っていいのか、私では判断できないのです」

 

「……千年前の魔王が復活したんだろう? 事は世界に及ぶじゃないか。オレはすぐにでも世界に発信すべきだと思うね。我が偉大なるサン=グリアード王国とセント=ルモルエ帝国、認めたくはないがクローシア皇国、世界は今この三国でできてる。昔とは違う」

 

 

 シドの言葉を聞いて、フォルセは困ったように目を細めた。彼の言う“昔”とは、まさに魔王ノックスの現れた千年前を指しているのだろう。当時はまだ王国も帝国もなく、小国同士のいざこざを教団が見守っていた。教団の力は強かった。だからこそ当時の魔王との戦いは教団主導で行われ、それをきっかけとして小国同士が纏まり、後のサン=グリアード王国、セント=ルモルエ帝国が生まれた。

 

 当時と違い、今は各国の影響力は強く、教団は逆に自治を認められている立場にある。シドの言う通り、此度の騒動は積極的に発信していくべきかもしれない。とはいえ、当事者であるフォルセがどう考えようと、決めるのは教団の上層部だ。秘密裏に行動しろと言われたら、そうする他ない。

 

 

「貴方の言うことも尤もですが、私の一存で決められるものではないので……」

 

「……くそう、口が硬いなあ。でもオレは諦めないぜ神父君。アンタの尻を鷲掴んだ勢いで、必ずスクープを掴んでやるぜ」

 

「はあ……」

 

 

 真っ直ぐすぎる瞳で言ってのけたシドに、フォルセは遠い目を浮かべるのだった。

 

 

 

***

 

 

 一行が進む道は正しかった。幾つ目かの石版を開けた先は地上の光が届く洞穴となっており、出口はコンフォ山脈の脇の森へと繋がっていた。

 

 日はすっかり暮れ、夕焼けが木々の隙間、地平の彼方より垣間見える。一行は急いで分断門のある御許の区へと戻り、そのまま騎士団の駐屯場所へと向かった。

 

 

「聞いてねえよお……いや聞いてたけどよお……」

 

 

 意気消沈するシドに、フォルセは堪らず苦笑した。向かった先にいたのは、フォルセとミレイの二人を心配し、一方で彼らを巻き込んだシドを叱咤しようと待ち構えていた騎士達だったのだから、シドが落ち込むのも当然であった。自業自得とも言える。こってりと絞られた彼の背は、どこか哀愁漂うように丸くなっている。

 

 

「まあまあ、あなたが巻き込んでくれたおかげで早くハーヴィに会えたんだし、落ち込むことないわよ」

 

「ミ、ミレイ嬢……うう、優しいなあ、ありがてえなあ」

 

「それにしても驚きました。まさかエイルー様がグラツィオを出立しているとは……」

 

 

 遺跡の騎士達に“地下にヘレティックがいた”ことを報せた際、フォルセは大司教エイルーからの言伝を受け取っていた。大司教曰く「異変が解決したらニクスヘイムに来るように。我はそこで待っている」とのこと。報告のためにグラツィオへ戻るつもりでいたフォルセは、思わぬ命令に戸惑いを隠せない。

 

 

「ニクスヘイムって、この先にある港町でしょ? いいじゃない、どうせ大陸を出るには港に行かなきゃいけないんだし。早く大司教サマに知らせて、黙示録の所持者だって認めてもらわなくちゃ」

 

 

 意気揚々と歩き出すミレイに引きずられるように、フォルセはニクスヘイム行きの馬車へと乗った。何も言わず、シドもちゃっかり着いてきている。熱心にメモ取りする姿からは先ほどまでの反省の色は見えず、フォルセは思わず厄介だな、と考えてしまった。

 

 

 

 夕暮れ時、ニクスヘイム行きの馬車に乗って半刻。一行はアリアン大陸の出入口――ギルド拠点ニクスヘイムへと辿り着いた。

 

 白亜の建物はグラツィオと同じだが、加えて色とりどりの旗が飾られており、それらを照らす人工灯は奇抜な――港町だからか、船のデザインをしていた。港へ続く道中には商人ギルドをはじめとする多くのギルド拠点、世界中の品々を扱う店が点在しており、夕暮れにも関わらず多くの人々が行き交っている。

 

 

「なあ頼むよ神父君……」

 

「駄目です」

 

「いれさせてくれよおっ!」

 

「色々と世話になりました、またどこかで」

 

 

 商店通りを過ぎ、騎士団駐屯地に辿り着いて――フォルセは心を鬼とし、シドに別れを告げた。シドが捨てられた子犬のような顔で抱きついてきても引き剥がし、にこやかに手を振り続ける。

 

 結局、見兼ねた騎士らによってシドは押さえられ、その間に二人は駐屯地へと入った。可哀想なことしちゃったわね、とミレイが呟く。フォルセは苦笑しつつ、エイルーの待つという一階のとある部屋に向かった。

 

 

「何やら騒がしかったな、司祭フォルセ」

 

 

 部屋に入った途端、優雅に茶を嗜んでいたエイルーからそう言われ、フォルセは渇いた笑いを浮かべた。彼女の足元には何やら古びた箱やら書物やらが沢山積まれている。何だろうかと密かに疑問を抱きながら、招かれるままに歩み寄る。

 

 

「エイルー様……我々が異変を解決すると、始めからわかっていらしたのですか?」

 

「異変は黙示録所持者と選ばれし者にしか解決できぬ――教皇ヘイムダルのお言葉だ。(ぬし)らがそうであるなら、すぐに解決できると思ったまで。……それで? 異変の正体は何だったのだ?」

 

「異変はこれよ。大司教サマ」

 

 

 『これって言うな!』ミレイに指さされ、ハーヴェスタはフォルセの肩の上から不機嫌そうに唇を尖らせた。

 

 

「……。喋る編みぐるみ、とな?」

 

「彼はハーヴェスタ。ゲイグスの世界で、あたし達を助けてくれた試練の審判者よ」

 

「……ハーヴェスタ、というのか」

 

「遺跡の奥にあった棺に閉じ込められておりました。恐らくは、伝説のあみにんなのではないかと……」

 

「ほう。あみにん……」

 

 

 エイルーの紫色の双眸が、ハーヴェスタを上から下までじっくりと見つめる。なんだよー、とたじろいだ彼に、エイルーはわざわざ立ち上がって手を伸ばし、柔らかく笑んだ。

 

 

「よろしく頼む、……ハーヴィ」

 

『! お、おー……よろしく……』

 

 

 無表情だった美貌に微笑まれたゆえか、ハーヴェスタは小さく縮こまりながら返事した。

 

 

「異変は解決した。……約束だ。我ら司教団、及び枢機卿団は、(ぬし)を黙示録の所持者と認めよう」

 

「! やった!」

 

 

 ミレイは小さく拳を掲げて喜んだ。フォルセもまた安堵したように息を吐く。

 

 

「これでやっと六聖地に向けて出発できるわね!」

 

『……? なんだ、六聖地って』

 

聖霊(ファスパリエ)の住む聖地のことよ! 知らないの、ハーヴィ」

 

『いや知ってるが……どうして六聖地に行くことになってんだ?』

 

「どうしてって……聖職者サマが言ったのよ。試練があと六つなら、試練は六聖地で行われるだろうって」

 

 

 「ねぇ?」ミレイに呼びかけられ、フォルセは苦笑ぎみに首を振った。確信しているわけではないのだと告げれば、ハーヴェスタはうーんと小さな身体で唸り出した。

 

 

『確かに試練はあと六つ、六つなら六聖地が一番怪しいと考えるのもわかる。……けどなー、黙示録が言えばバッチリなんだけどなー。おい異端、レムの黙示録は何も応えないのか?』

 

「そういえば、何にも無いわねぇ」

 

『……。黙示録に嫌われてるんじゃねーの?』

 

「むっ、そんな筈ないじゃない! あたしは黙示録の正当な所持者よ!」

 

 

 ミレイが眼をきりりとつり上げ、手に持っていた黙示録をぐいと振りかぶった。ハーヴェスタは慌てて逃げ、フォルセの上半身を小動物のように駆け、ついには胸元にしがみついた。

 

 ミレイの目には生意気なあみにんの姿しか映っていない。巻き添えを食らいかねないフォルセは不味い、と頬をひくつかせ、胸元からよじ登ってきた元凶を引っ掴んだ。が、離れない。ハーヴェスタの腕はしかとフォルセの法衣を掴んでいる。

 

 

「ハーヴィ!」

 

『やだっ、離れない! 異端こわい!』

 

「退いて聖職者サマ……そのあみにん殴れない!」

 

「ちょ、もっと穏便に……っ!?」

 

 

 振りかぶられた黙示録を見つめたその時、フォルセは驚きに息を呑んだ。

 

 ――光っている。音沙汰無かったレムの黙示録が、ここに来て漸く、ある意味タイミング良く反応した。

 

 

「ミ、ミレイっ、黙示録が応えてます! 早く開いて!」

 

「へ? ……きゃあっホントだ! もう待ちくたびれたわよもうもうもうっ」

 

 

 怒りの表情から一転、喜々として黙示録を開くミレイを見遣り、フォルセとハーヴェスタは揃って肩を落とした。

 

 

「……聖職者サマ」

 

「はい」

 

「読めない!」

 

 

 そう言って、ミレイが黙示録を差し出してきた。以前彼女がグラツィオに来るきっかけとなった文章に続き、新たに二つの文章が刻まれている。勿論ヴィーグリック言語だ。最初のは読めたのに、と悔しがるミレイから、フォルセは黙示録を受け取った。

 

 

「『不浄の王歩む世界、巡りの環が道開く。

 遺されし従僕に祝福捧げし時、神の愛し子の剣、不浄を払うべく試練へ向かう』……これは、」

 

「やっぱり、試練のための文章ね。でも意味はさっぱりだわ。記憶を失くす前の“わたし”だったら、意味が理解できたのかしら……」

 

 

 ミレイは顔をしかめて呟いた。胸の辺りがざわついてならず、けれど記憶はこれっぽっちも戻る気配がない。

 

 そんな彼女を他所に、教団組は記された文章の意味を考え始める。

 

 

「“不浄の王”とは、魔王ノックスのことでしょう。そして“遺されし従僕”……やはり、女神の遺した聖霊(ファスパリエ)と不死鳥フェニルスのことでは……?」

 

「うむ、我もそう考える。六聖地巡礼が試練に続くという(ぬし)の考えは、正しかったようだな」

 

「はい。ですが……この“巡りの環”とは何でしょう? これもマナの循環地点である六聖地を指すのでしょうか……?」

 

「……、待て。“巡りの環”なら心当たりがある」

 

 

 そう言ってエイルーは足元に築かれた物々を避け、小さな箱を一つ取り出した。手のひらサイズのそれをテーブルの上へと置き、開ける。中には虹色の水晶玉が嵌った指輪が一つ入っていた。

 

 

「エイルー様、この指輪は?」

 

「黙示録に関わるとされる聖道具だ。時が来れば役目を担うと言い伝えられ、長らく保管されてきた。“巡りを解き放つ”と言われているゆえ、もしやと思ったのだが……」

 

『おっ、ソーサラーリングじゃん。懐かしいなぁ』

 

 

 取り出された指輪に、ハーヴェスタが懐かしげに反応した。フォルセの胸元から飛び降り、指輪をつんつんと突っつき始める。

 

 

「ソーサラーリングというのですか、この指輪は」

 

『二千年前、あいつ……勇者も使ってた便利アイテムだよ。特殊な環境下でマナを打ち出すことができるんだ。けど……このままじゃ、使えねぇなぁ』

 

「どうすれば、使えるようになるのです?」

 

『……はは、そう簡単に教えると思うか?』

 

 

 ハーヴェスタは元の顔を思わせる皮肉げな笑みを浮かべた。フォルセは思わず眉を下げる。黄金のボタンで作られた瞳を、懇願するようにじっと見つめる。

 

 

「どうしても……教えてくれませんか?」

 

『……うっ』

 

「ハーヴィ……」

 

『うっ。うっ。……わかったよぉ、わかったからその顔止めろ。苦手なんだよその顔』

 

「! ありがとうございます、ハーヴィ」

 

 

 にっこり笑うフォルセに対し、ハーヴェスタはがっくりと項垂れた。『あいつもたまーに見せてたなぁその顔……』ぶつぶつ言いながら、ソーサラーリングを一撫でする。

 

 

『このリングには、四元素のマナが必要なんだ。四元素ってのは、地水火風の四属性が均等に揃ったマナのことで、こっちの世界だと確か……』

 

「……四元魔法素(マクスウェル)のことか?」

 

 

 ハーヴェスタの言葉に、エイルーがぽそりと答えた。その言葉に、黙って聞いていたミレイが興味深げに眼を瞬かせる。

 

 

「聖職者サマ、四元魔法素(マクスウェル)って?」

 

「お二人の言った通り……四属性が均等に揃ったマナ、そしてそのマナを持つ生命のことです。

 通常、体内マナには四属性の偏りがあり、その偏りが弱点や耐性属性を生み出します。しかし四元魔法素(マクスウェル)にはその偏りが無く、常人の数十倍もの魔力を持つと言われています。

 しかし、百万に一人とされる希少な存在です、そう簡単に見つかるとは思えませんね……」

 

『ふん、そりゃそうだ。そう簡単に試練が進むわけ……』

 

「……あてはある」

 

 

 エイルーが小さく口を開いた。なにぃ、と振り向くハーヴェスタをポンと撫で、しかし眉を僅かに寄せて話し出す。

 

 

「我が知る限り、最も腕の立つ魔術師でな。しかし、行方が知れんのだ……」

 

「魔術師……その方が、四元魔法素(マクスウェル)なのですか?」

 

「うむ。名を……今はヴァーナディと名乗っているのだったか」

 

 

 何処にいるのか、とエイルーが頭を悩ませたその時――

 

 

「……ヴァーナディ? “魔力喰いの魔女”ヴァーナディのことかあ?」

 

 

 空耳などとは到底言えぬ大きな独り言が、窓の外から聞こえてきた。

 

 

「……」

 

 

 失礼、とフォルセは一言告げ、怪訝な表情で窓辺に向かった。窓を開け放ち、身を乗り出す。

 

 

「イイこと聞いたぜ。あの魔女のとこに先回りすれば、神父君と合流できるかも……いや、居場所の情報と交換で取材させてもらうってのも手かあ?」

 

「……その魔女殿はどこにいらっしゃるのです?」

 

「王国領土のフェンサリル大樹海さあ。噂の絶えない魔女で、森にやってきた人間の魔力を喰うだの、古代魔導機構を収集してるだの……奇妙な噂ばかり聞こえてくるんだあ。

 オレも昔取材しようとしたんだが、結局森で迷子になっただけ……」

 

 

 「あ」外壁に耳を押しつけていた不審者――もといシドが、青ざめた顔で振り向いた。

 

 

 

***

 

 

「い、いやあ……騎士団駐屯地に窓から入るなんざ、イイ経験させてもらったぜえ」

 

 

 言葉通り窓を乗り越えて入ったシドが、言葉とは裏腹に焦りの表情で宣った。

 

 

「ごめんなさい聖職者サマ。あたしが迂闊にもべらべら喋っちゃったから……」

 

「いえ、私も事前に注意していませんでしたからね」

 

「それで、(ぬし)は一体何者だ?」

 

「自分はシド・ガードライナス。シルバレット・ポストの記者です。此度の件、神父君から話を伺い……是非、彼の専属記者にさせていただきたく!」

 

 

 緊張で渇いた喉を酷使して、シドはやけくそ気味に言った。

 

 エイルーが無言でフォルセを見遣る。フォルセもまた緊張気味に、シドとの関わりや経緯を話した。

 

 

「……なるほど。異変解決に一役買ったと」

 

「! そ、そうです。神父君とはもう切っても切れない仲で……」

 

(ぬし)がいたことで危険が倍増したようにも聞こえるが」

 

「そんなことないですよ! ねえ神父君、いや勇者フォルセ様!」

 

 

 なんとか飼ってもらおうと必死な子犬のごとき言動だ。が、実際はただの大男ゆえ、抱きつかれたフォルセはんぐぅ、と呻く以外無い。

 

 それをどう受け止めたのか。エイルーはまぁよい、と一言呟き、出したままのソーサラーリングを見つめた。

 

 

「記者の話が本当なら……あやつは王国にいるということか。今更……我の言葉を聞くかどうか、いや致し方あるまい」

 

 

 エイルーが悩ましげな表情で頭を抱えた。暫し考えた後、少し待て、と彼女は言い、懐からシンプルなレターセットを取り出した。数枚に渡り書き連ね、一息ついて封をする。封は大司教としてではなく個人としての物であり、見ていたフォルセは首を傾げた。

 

 

「司祭、これを」

 

「……魔女殿宛、ですか?」

 

「そうだ。長年手紙すら交わしておらぬゆえ、読むかどうかもわからぬが……他の四元魔法素(マクスウェル)を捜すよりは良いだろう。これも女神の導きだ。六聖地へ行く前に、会ってくるといい」

 

 

 差し出された手紙を受け取り、フォルセは戸惑いながらも頷いた。

 

 

「六聖地巡礼の最初は、王国領南にある地の遺跡。どちらにせよ、向かう先はサン=グリアード王国ということになりますね……しかしエイルー様。王国、いえ各国への通達もなく、勝手をしても良いのでしょうか……」

 

「問題ない。三国には教皇ヘイムダルの親書を届ける予定だ。(ぬし)らは気にせず、六聖地巡礼を進めるとよい。ただし、事の公表は各国との連携を進めてからになる。よいな」

 

「わかりました。……ミレイも良いですね?」

 

「へ、何が?」

 

「勇者や魔王のこと、むやみやたらと話してはならないということです」

 

「うぅ、りょーかい……もう既に一人話しちゃったけど……」

 

 

 ミレイが気まずげな表情でシドを見た。シドは何故かビクリと肩を揺らして彼女を見返す。

 

 

「ま、待ってくれ。神父君はイイとして……その旅、そこの嬢さんも行くのか? まさかな、そんな筈ないよなあ?」

 

「? 当たり前でしょ? あたしは黙示録の所持者なんだから」

 

「けど嬢さん、異端なんだろう?」

 

「……そうだけど、よくわかったわね」

 

 

 「あみにん君が異端って呼んでたからな」相変わらず耳の良いことをアピールしつつ、シドは一転して険しい表情となり、震える手つきでペンを持った。

 

 

「異端が、世界に関わる旅に加わるって?」

 

「そうよ」

 

「異端が、我が偉大なる王国に足を踏み入れるって?」

 

「……そうよ! なによ、言いたいことがあるならハッキリ言ってちょうだい!」

 

 

 眼をつり上げるミレイに対し、シドもまた垂れ目がちの目を鋭くして、ペンが軋むほど拳を握り締めた。

 

 

「じょ、冗談じゃないぜ! 平和な王国に、異端なんか入れてたまるかよお」

 

「……え」

 

「危険な異端が王国に来るなんて、賛成できないと言ってるんだ!」

 

 

 シドの叫びが、静寂に響く。ミレイは思いもよらぬことを言われた、と眼を見開く。

 

 

「聞くに黙示録ってのは、大事な未来を予言するものなんだろう? 異端なんかが持ってるより、勇者の力を継ぐっていう神父君が持ってたほうが安心じゃないか?」

 

「なっ、」

 

「事が機密で進むってのは理解した。けど王国に異端が侵入するってのは聞き捨てならないねえ。神父君に黙示録を明け渡すか、嬢さんが浄化を受けるかしてもらわないと、王国民としては安心が……」

 

「! あたしは異端であることも、黙示録も手放すつもりは無いわ!」

 

「ひ、ひええっ、異端が怒った! 暴走するっ……神父君! どうにかしてくれえっ!」

 

「シド。……少し黙ってください」

 

 

 フォルセは溜め息混じりに言い放った。両手を上げて騒いでいたシドがピタリと止まる。それを確認することなく、憤然とするミレイを見遣った。

 

 ミレイの視線がフォルセに向く。以前なら不信が垣間見えていただろうその眼には、しかし今は助けを求めるような水面が浮かんでいた。

 

 

「落ち着いてミレイ。私も、貴女を手放すつもりはありませんから」

 

 

 「……へ‍?」ミレイは惚けた顔を上げ、次いでかあぁっ……と頬を赤らめた。怒りなんぞ吹き飛び、現れたのは訳のわからぬ羞恥心。その中心からふつふつと歓喜が溢れていることに、いっぱいいっぱいの彼女は気付いていない。

 

 

「私に〈神の愛し子の剣〉を望んだのは貴女です。“皆を救いたい”と願った異端の貴女です。だからこそ、私は貴女と旅がしたい。私がちゃんと〈神の愛し子の剣〉となれるかどうか、異端の貴女に見極めてもらわねばならないから」

 

「聖職者サマ、」

 

「諦めずにいれば得られるものがある……ゲイグスの世界での貴女の言葉です。それを、この世界でも実行しましょう。たとえ異端であろうとも、貴女が貴女らしくある限り……きっと女神は、暖かく見守ってくださる」

 

「諦めずに、か……そう、そうよね!」

 

 

 ミレイの双眸に光が戻った。抱え込んでいた黙示録を掲げ、異端である己がこそ所有者なのだと、他ならぬ己自身に告げる。

 

 

「あたしは黙示録の正当な所持者。聖職者サマと一緒に、世界も“皆”も救うのよ!」

 

 

 元気と余裕を取り戻したミレイを――フォルセは安堵を浮かべて見つめ、エイルーは二人纏めて見定めるように窺っている。不満げに見つめているのはシドだけだった。なんで、異端がどうして……ぶつぶつ呟きながら、苛立ちを顕にペンを握る。

 

 

「さて」

 

 

 空気を一新するようにエイルーが手を叩いた。

 

 

「あとは(ぬし)だけだ、王国の記者よ。……ここまで機密を知ったのだ、ただで帰れるとは思わぬことだ」

 

 

 無表情で言われ、シドはぎょっと肩を揺らした。窓からの侵入すら許されたために、このままついていくことも許可されるのではないかと甘い期待を抱いていた――が、事はそう上手くもいかないとエイルーの表情から窺い知れた。しかも自分は、彼らが受け入れている異端を貶し、蔑んだ。彼女への侮蔑を理由として、取材どころか帰国すらも許されないかもしれない。シドの顔が蒼褪めていく。向けられた視線の鋭さに気圧され、怯え、たじろいでしまう。

 

 とはいえ、ここで引き下がるつもりもシドにはない。異端が許されるならとミレイを一瞥し、緊張で喉を鳴らしながら口を開く。

 

 

「じ、自分は最初に言ったように、二人……いや神父君の専属記者として認めてもらいたいだけです」

 

「時が来るまで報道は禁ずる、と言ってもか?」

 

「……ここまで知って引き下がるなんて、シルトト新聞の人間にはできませんよ。……千年前の魔王復活、それと戦う勇者の旅。世界の命運がかかってるってのに、教団が異端の自由を認めるんだ。尚更、オレのような“目”は必要な筈だ」

 

 

 「信用無いわねぇ」ミレイがぽつりと呟いた。それを見返すシドの目は、騎士団駐屯地に来るまで彼女と親しげに会話していたとは思えないほどに辛辣で、親の仇を見るかのような色をしていた。これが異端と知れた者の反応の一つなのかと、ミレイはふん、と胸を張りながら考える。

 

 

「いいじゃない、ついてくれば」

 

 

 睨まれていることなど物ともせず、ミレイは何でもないかのように言った。それに一番驚いたのはシドだ。何を言っているのかと、ペンをぽとりと落として呆然とする。

 

 

「機密って言われてることを喋ったのはあたしだし……それにあたしは、かっこいい異端だって行動で示さなきゃならない。それなら、異端だって知ってるヒトが一人でも多くいたほうが、旅のしがいがあるってものよ」

 

「……」

 

「それにあなたは聖職者サマと違って、あたしに優しくないみたいだから。……あたし自身のためにも、あなたみたいな“目”は必要かもしれないわ」

 

「……いつ暴走するともしれない異端なのに、よく言う」

 

「もう暴走しないわ。ね、聖職者サマ」

 

 

 フォルセは何も言わず、微笑んだまま頷いた。「暴走経験ありかよ……」シドの顔が余計に険しくなったことに気付きながらも、彼女を信じているからこそ首を縦に振るだけで終わる。

 

 

「司祭、(ぬし)は異存ないか?」

 

「一般人を巻き込むのはどうかと思いますが……」

 

「神父君は秘密裏に行動するんだろう? だったら何も気にすることないさあ。……どうしても困るっていうなら、表向きは神父君の六聖地巡礼を取材するって形で、どうだ」

 

「あたしからもお願いよ、聖職者サマ。ここまで言われて許さないんじゃ、あたしが引き下がったみたいで悔しいもの」

 

「……、わかりました。ですが、その前に一つ尋ねておきたいことがあります」

 

 

 ミレイによって、シドの同行が決まった。それなら、とフォルセは微笑みを深くする。

 

 

「このままではクビになるとおっしゃっていましたね。理由をお聞かせください」

 

「え」

 

「共に旅をするのです、私と貴方の間に信頼を結びましょう。貴方の困りごとを、私にも共有させてください……力になれるやもしれません」

 

 

 フォルセが聞いた途端、シドはしゅんとしょぼくれた。大の男ながら、その様子は何となく同情を誘う。先ほどまで異端を糾弾していたとは思えぬその姿に、フォルセの笑みが更に深くなった。

 

 

(懺悔を強要したようで、なんだからしくないことをしてしまったな。けれど、彼ばかり誰かを責めるのはずるい……あぁ、やっぱりらしくない)

 

 

 己の内心に苦笑しつつ、フォルセは視線を彷徨わせるシドの言葉を待つ。

 

 

「へ、編集長の怒りを買った……」

 

「何故?」

 

「その、ええとだな…………編集長の奥方をナンパして、離婚にまで発展させた」

 

 

 ……。――シドの渾身の告白に、場が一気に白けきった。

 

 

「……不埒(ふらち)な」

 

 

 フォルセの顔面が凶悪なまでに歪んだ。とても深くまで笑んでいたのに消し飛んだ。シドはますます小さくなる。

 

 

「し、仕方なかったんだ。すっごい美人でよお、話も合うし、こりゃあ運命の人だと思って口説いちまったんだよお……」

 

「編集長の奥さんって知らなかったのよね? 知っててやったなら相当な、」

 

「知ってました」

 

「バカじゃないの」

 

 

 ミレイにまで吐き捨てるように言われ、シドは悔し気に眼鏡を上げ直した。

 

 

「そんな問題を、酒一つ買って収めようとしたのですか……」

 

「二人とも教団産の酒が好きって聞いたんだよお。だからそれ持っていけば仲直りできるかなあと……」

 

「元凶が持っていっては、どんな銘酒も火に油です」

 

「っていうか、そんなことしたくせにあたしのこと責めたわけ?」

 

「! 異端よりマシだろう!? オレはただ青春に、純情に生きただけだあ!」

 

「……同行許したの、すっごい後悔したくなってきた」

 

 

 ミレイが心底嫌そうに顔をしかめた。フォルセも同調するように渇いた笑みを浮かべ、哀れな子羊を見る目でシドを見つめる。二人から似たような視線で見られ、シドは唇をわなわなと震わせた。

 

 

「くそうくそう。なんで神父と異端なのに、そんな仲いいんだよう……」

 

「なんでって言われても……聖職者サマとは危機を乗り越えてきた仲だもの。神父と異端だからって全然おかしくなんてないんだから」

 

「なんだよ、まるで深い付き合いみたいな反応を……っ! そ、そうか!」

 

 

 訳がわからないと言いたげに考え込んでいたシドは、突如閃いたとばかりに目を見開き、蔑まれているとは思えぬほど満面の笑みを浮かべた。

 

 

「アンタら、好き合ってるんだな!?」

 

 

 水を得た魚のように、シドは生き生きとした顔でカメラを手に取った。そのままはいチーズ、と何の了承もなくシャッターを切る。――パシャリ。撮られたミレイはハァ? と口を開けたまま、同じく撮られたフォルセに視線を向けた。唖然とした顔が視界に入る。好き合ってるなどと言われたのだから仕方ない。好き合ってる。好き。好き。言われた内容を咀嚼した結果、冷めきっていた頬に熱が上る。

 

 

「お二人さん、付き合いはどれくらいだ? 交際期間は? 浄化についてはどう考えてる? 出会ってからこれまで、互いに意識し合うような出来事はどんなものがあった? 二人の初デートは……」

 

「な……なんで熱愛前提なのよ! あたしと聖職者サマは旅の仲間! な、か、ま!! そんな関係じゃないから!」

 

「んな隠さなくてもいいって。神父と異端。交差するはずの無い男と女。熱い愛がなきゃ、一緒にいるはずがねえ。オレにはわかる。わかるんだあ。

 ……運命の糸に導かれし二人は見事本当の愛を育むことができるのか!? いやあオレ、王国紀行書くのと同じくらい、他人の恋愛追うのが好きなんだあ。アンタが異端で良かった、イイ絵が撮れそうだぜ。記事を書くのが楽しみだあ……ははははは」

 

「だからちげーってのぉおおお!」

 

 

 本気で否定するミレイにポカポカと叩かれながら、シドはあれやこれやと妄想を滾らせる。異端を毛嫌いしておきながら随分と調子のいいことだ。浮気で痛い目にあっていながら全く懲りぬ様子の彼に、フォルセの瞳が自然とじっとり絞られる。

 

 

「……エイルー様」

 

「うむ、頑張れ司祭」

 

「……、ハーヴィ……」

 

『クソ面倒くさそうなのが仲間になったなー。どうなるか見物だぜ、〈神の愛し子の剣〉。……ぷぷぷぷぷ』

 

 

 笑いを堪えながらの激励に、フォルセは疲労を湛えて肩を下ろした。

 

 

 



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Chapter25 快晴呑む不穏の船

 

 今宵は泊まっていけと言われたため、一行は騎士団駐屯地の一室にて身を休めることとなった。

 

 ミレイが文句を言うのを横目にしつつ、男女に分かれて部屋に入る。が、一人はつまらんと喚いた彼女によって、哀れなあみにんが連れていかれた。それをほんの少し心配しながら、相変わらず取材と称してあれこれ聞いてくるシドをかわし、フォルセは明日からの旅に備えてベッドに入る。

 

 ――。

 

 そして――チュンチュンと小鳥のさえずりが聞こえてきた。朝焼けがカーテンの隙間から見える頃、フォルセは予定の半分も眠れなかった、ともすればずっと覚醒状態にあった瞳を開けた。

 

 

「グゴゴ……ゴガ、グゴォオオ……」

 

 

 油の指していない歯車のような“声”が、隣のベッドから絶えず聞こえてくる。そこで眠るのは昨日同行者となったジャーナリストだ。大口を開け、気持ち良さそうに眠っている彼のいびきは、フォルセにとって不眠で瞑想するのに丁度良いものだった。丁度良い。んなわけはない。誰が旅立ち前夜に徹夜したいものか。フォルセはむくりと起き上がり、据わった眼で隣人を見遣る。

 

 

「こんなことなら……」

 

「ゴガゴゴ、グゴォ、ゴゴガガ……ガッ、ガッ」

 

「……法術で、無理やり眠りにつけばよかった」

 

 

 神父のぼやきを聞く者は、いない。

 

 

 

***

 

 

「起きろ、司祭フォルセ」

 

 

 「あっ、はい」フォルセは夢路から帰還した。ぼんやり気味の瞳を向ける先では、敬愛する大司教エイルーが呆れ顔で座っている。場所は昨日と同じ一室だ。彼女の足下には古びた箱やら書物やらが未だ積んである。

 

 

「らしくないな、旅立ちを思って緊張したか?」

 

「いえ、その……すみません」

 

「まぁよい。朝食前に呼び出したのだから、多少寝ていようがとやかくは言わぬ。……用事はこれだ」

 

 

 エイルーは足下から小さな箱を取り出した。ソーサラーリングのものと同じような、しかし古くはない真新しい箱だ。また指輪だろうか、とフォルセが寝惚けた頭で考えている間に、その箱は開けられた。

 

 箱の中には、何時だったかフォルセがフェニルス霊山より拾ってきた赤黒い宝石――その割り砕かれた一部が入っていた。

 

 

「! エイルー様、これについて何か……?」

 

 

 フォルセの頭が一気に目覚めた。

 

 

「黙示録に合わせ、この石についても急ぎ調べさせていた。昨晩、(ぬし)らが寝静まった後に到着したようでな。旅立つ前で良かった……」

 

「何か、わかったのですね?」

 

「うむ。これは……小さな虫の集合体だ」

 

 

 至極言いづらそうに告げたエイルーの顔を、フォルセは驚きを顕に見返した。次いでテーブルに置かれた石を見る。感じる禍々しさを抜かせば、ただの赤黒い宝石にしか見えない。

 

 

「虫……ですか?」

 

「勿論死骸だ。瘴気を纏った死骸が集まり、宝石と見紛うばかりの石を形成しているらしい。このような物は初めてだと、ミストカーフ隊の調査員が申していた」

 

「瘴気を纏った虫の死骸……一体、何の虫なのでしょう。ヘレティックから出てきたにしては、今まで発見されなかったのが不思議なものです」

 

「虫の種類については調査中だ。……それから、(ぬし)はこれに触れた際白く変色したと言っていたが……」

 

「はい。私の何に反応したのかわからず……変質しきっては調査もできないと思い、触れぬよう袋に詰めて、」

 

「……見るがいい」

 

 

 そう言うとエイルーは、躊躇なく素手で石に触れた。フォルセの眼が見開く――彼の予想に反し、石は何の変化もせず、赤黒く光るままだった。

 

 

「そんな……私が触れた時は、確かに」

 

「それを確かめるためにも、司祭よ……今ここで触れてみよ」

 

 

 元は球体だった宝石の破片をフォルセはやや緊張した面持ちで見つめ、意を決して手を伸ばした。指先が触れる――その瞬間、破片は瞬く間に白く、そして透明になっていき、そのまま跡形無く消え去った。

 

 

「き、消えた……」

 

「うむ、やはり(ぬし)にのみこのような現象が起きると考えて、間違いなさそうだな」

 

「私だけ、ですか」

 

「そうだ。他の誰が触れてもこのようなことは起きなかった。そしてこのタイミングだ……この石もまた、選ばれし者である(ぬし)に関係しているのかもしれぬ」

 

 

 選ばれし者――〈神の愛し子の剣〉であるフォルセにのみ反応する、禍々しい石。

 

 フォルセはゲイグスの世界での出来事を思い出した。試練の最中、そして終わりの間際にも似たような宝石が現れた。加えてグラツィオに現れた魔王ノックスは、この宝石にとても良く似た姿をしていた。魔王は〈神の愛し子の剣〉の力でないと倒せなかった。石を拾った時にフォルセは力を持っていなかったが――関係性を、疑わざるを得ない。

 

 

「魔王ノックスは、この石が更に巨大となったような意姿をしておりました。関係があるとすれば、やはり……」

 

「……そうか。魔王に関連するのなら、(ぬし)の旅路でもまた現れるやもしれぬな。こちらでも引き続き調査を進めておく。何かわかったら、(ぬし)からも報告をするように」

 

 

 「わかりました」謎めいた宝石を心に留め、フォルセはこくりと頷いた。

 

 

 

***

 

 

「遅かったわね、聖職者サマ」

 

 

 騎士団駐屯地を出たフォルセに向かって――既に待っていたミレイが、おはようついでに言ってきた。彼女の肩からぴょんと飛び移ってくるハーヴェスタを受け止め、フォルセは微笑みながらおはようを返す。

 

 

「船のチケット、用意しといたぜえ」

 

「ありがとうございます、シド」

 

「我が偉大なるサン=グリアード王国を案内するんだ。これくらいどうってことないさあ」

 

 

 胸を張るシドを先頭に、一行はニクスヘイムの港へと向かった。早朝にも関わらず港には既に数隻の船が到着しており、積荷作業や荷降ろしが始まっている。

 

 

「王国行きの船は……おお、アレだな」

 

「……おおーっ」

 

 

 シドが指さす船を、ミレイは感嘆の声をあげながら見上げた。

 

 張り出された二本の帆は、風ではなく風のマナを受けるもの。後方部には主動力だろう巨大機関が顔を出し、出発を今か今かと待っている。ミレイが首をぐるりと回して漸く全貌を見ることのできるその帆船には、既に大勢の客が乗り込み、港へ向けて手を振っていた。

 

 

「あれでも、王国行きにしては小さい方なんだぜ」

 

「えっ、そうなの‍?」

 

「一等大きいのはこの次の次の次くらいの時間に出るなあ。まあこの時間に出る船だと、王都シルバレットに着く頃には大荒れの天気だから仕方ねえや」

 

「‍? 天気が荒れるって事前にわかるの‍?」

 

「空のマナを読めば、おおよその予測はできるのさあ。特に雨や雪の予報に関しちゃあ、王国以上の精度はないぜ」

 

「……雨や雪?」

 

「おお、特に王国北部……王都のある方面はよおく降るぜ。常に雨、気温が下がるとすぐに雪に変わるから、傘のひとつでも持ってないと後悔するぜ。ミレイ嬢」

 

 

 「ふーん……」白雲流れる薄い青空を見上げ、ミレイは大荒れの天気とは何ぞや、と首を傾げた。

 

 

 

 一行が乗船して十数分後、船はサン=グリアード王国へ向けて出港した。

 

 三人分のベッドが備えられた部屋に入った直後、シドは「朝飯持ってくるぜ」と言って何処へと消えた。マイペースねぇ、と呆れるミレイに同調しながら、フォルセは口を開く。

 

 

「ミレイ、一つ尋ねておきたいことがあるのですが」

 

「なぁに‍?」

 

「エオスの遺跡地下でヘレティックと戦った際……赤黒い、宝石のような石を見ませんでしたか?」

 

 

 そう言い、フォルセは自分が拾った石についてミレイに語った。その石もまた〈神の愛し子の剣〉や魔王に関連するかもと告げれば、彼女の眼がより真剣みを帯びる。

 

 

「見てない。そんな怪しいものを見つけてたら、真っ先に聖職者サマに言うわ。

 それにしても、虫の死骸なんて悪趣味ね。絶対見たくないっていうか……肌がゾワゾワしてくるわ。一体何の虫なのかしら」

 

「教団でも調査中です。……ハーヴィは、何か知っていますか?」

 

『……虫なら、蟲喰いの虫が思い浮かぶな』

 

 

 ハーヴェスタは小さな身体で腕を組み、言った。

 

 

「蟲喰い‍?」

 

『世界を蝕む“穴”だよ。こっちの世界じゃ知らねぇが、ゲイグスの世界じゃたまーに見かける。落ちたら最後、二度と生きて出ることはできない……絶対にな』

 

「その穴を作っているのが、石の虫だと‍?」

 

『さぁな。ただ……蟲喰いはずっと昔から世界を悩ませてるって、ディーヴから聞いたことがある。ノックスと戦ってる時にも見かけたから、虫だの蟲喰いだのがあいつと関係あるってのは、案外当たってるかもな』

 

 

 ハーヴェスタがニイと笑い、毛糸でできた口を閉じた。これ以上の情報は無い、と言いたげな笑みだ。虫のこと、魔王のこと。わからないことは旅を進めていけばわかるはず――そう思い直し、フォルセもまた思考を止める。

 

 

「ただいま戻ったぜえ」

 

 

 丁度よく、シドが食事の乗った盆を抱えて帰ってきた。海鮮を多量に使ったリゾットだ。ほかほかと湯気のたつそれらを見て、各々密かに唾液を飲む。

 

 

「王国行きの船は違うねえ。レシピの取材ついでに作ってきたが、材料が新鮮で堪らなかったぜ」

 

「えっ……これ、シドが作ったの‍?」

 

「おお、これでも一人旅が長いからなあ。料理は結構得意だぜ。……異端の口に合うかどうかはわかんねえけど」

 

「失礼ね! 異端だって味覚は普通よっ、とっとと置いて、食べさせて!」

 

 

 「ひええっおっかねえ……」本気でビクビクしながら、シドは盆を置いた。豊かな海鮮とチーズの香りが部屋中に満ちるが――リゾットの数は三つ。省かれたハーヴェスタが、不満げにテーブルを踏み鳴らす。

 

 

『……俺の分は?』

 

「げっ。あ、あみにん君……アンタ食事するのか?」

 

『……』

 

「私と一緒に食べましょう? はい、あーん」

 

 

 ふて寝しかけたハーヴェスタは、優しい神父の言葉に喜び勇んで飛びついた。普通の人間にとってはほんの一欠片をぱくりと頬張り、

 

 

『うめぇ』

 

 

 ハーヴェスタはもぐもぐと長く咀嚼した後、花型ビーズを飛ばして感想をこぼした。フォルセとミレイも口にする。ハーヴェスタのわかりやすい感想通り、そのリゾットは海鮮とチーズが程よく絡み合い、しかし朝から食べようとも胃を刺激しない優しい味のするものだった。

 

 

「シド……あなた、ジャーナリストじゃなくてシェフだったの‍?」

 

「何言ってる。オレは根っからのジャーナリストだあ!」

 

『フォルセ、もっと』

 

「はいどうぞ」

 

 

 トラブルメーカーの思わぬ長所に、フォルセらはすっかり感心した。胃袋を掴まれたと言ってもいい。それなりに底辺を這っていたシドへの好感度が、ほんの少しだけ上昇した。それくらい、目の前のリゾットは美味い。

 

 「ところで」自身の手料理に満足げなシドが、海老を咀嚼しながら口を開いた。

 

 

「虫の石のこと、オレには聞かねえのかい?」

 

「! 聞こえていたのですか」

 

「おお。扉開けるのにちょいと苦労してなあ。立ち聞きみたいになっちまった。……オレもヘレティック退治の場にいたから聞いてくると思ったんだが、そんなに美味かったかあ‍? 光栄だねえ」

 

「ええ……とても、美味しいです」

 

 

 食事の美味しさにつられて聞くことを忘れていた。フォルセは少々頬を染めつつ、仕切り直すようにこほんと咳き込んだ。

 

 

「ではシド……先ほど私が話した、赤黒い石。遺跡地下で見かけましたか?」

 

「知らねえなあ」

 

 

 最後の一口を頬張り、シドは即答した。

 

 

「そうですか……確実に現れるものではないということか……‍?」

 

「レア物ってこと‍? それとも皆で見逃しただけかしら」

 

「だとすれば、遺跡調査に入った騎士団によって発見されているかもしれませんね。今度ヘレティックと戦うことがあったら……見逃さぬよう、注意しましょう」

 

「わかったわ」

 

 

 何も疑わず、二人は頷き合う。シドは二人を他所に最後の一口を食べ、ご馳走さん、と呟いた。

 

 

 

***

 

 

 朝食を食べ終えた彼らは、気分転換のため甲板に出た。一番はしゃいでいるのはミレイだ。朝焼けに照らされる海を見回し、これからの旅路に期待を寄せている。

 

 

「神父君」

 

 

 彼女を見守るフォルセを、シドが甲板の端――日陰になっている場所から呼んだ。どうしてそんなところにいるのか、とフォルセが首を傾げながら近寄ると、シドは人好きのする笑みを浮かべながら口を小さく開いた。

 

 

「ミレイ嬢について詳しく聞きたいんだが……良いか?」

 

「本人に聞けば宜しいのでは?」

 

「暴走した時のことを聞きたいんだよ。でも直接聞いたら絶対怒るだろ? 怒ったら、また暴走するかもしれないじゃねえか」

 

「……そのようなこと聞かれたら、私とて怒りますが」

 

 

 フォルセは眉を寄せて言った。

 

 

「怒るなよう、異端に対してのちゃんとした取材だからさあ。……暴走から立ち直った異端なんて聞いたことがないぜ。一体どんな浄化をしたんだ‍?」

 

「……お答えできかねます」

 

「んな意地の悪い」

 

「意地悪じゃありません」

 

 

 わからないのだ、とフォルセはミレイが暴走した時のことを極めて簡潔に話した。ゲイグスの世界で、不思議な光に包まれたと思ったら、暴走が収まっていた――その程度に。

 

 

「不思議な光ねえ。それも神父君の特別な力なのかい?」

 

「不明です」

 

「なんでえ、わからないことだらけじゃねえか」

 

「ですから、本人に聞けと申したのです。……ミレイ!」

 

 

 「げっ、神父君!」呼び止めるシドを無視し、フォルセはミレイを呼んだ。なぁに、と輝かんばかりの笑顔で振り向いたミレイが足早にやってくる。

 

 

「彼が、暴走した時のことについて聞きたいようです」

 

「はぁ‍?」

 

「いっいやオレは嬢さんに聞くつもりはなくて……」

 

「何よ、暴走って言ったらあたしのことじゃない。あたしに聞かなくてどうすんのよ!」

 

 

 一転して眼をつり上げるミレイに、シドがヒイィと喉奥から引きつった悲鳴をあげた。フォルセの後ろに隠れる彼を睨み、彼女はふんと鼻を鳴らす。

 

 

「いいわ、暴走のことでしょ。……あたしが暴走したのはゲイグスの世界でのこと。そこであたしは聖職者サマを攻撃して、そこにあった森を焼いたの」

 

「……どうして暴走することになったんだ‍? 罪悪感とか、自制心は働かなかったのかい」

 

「それは――」

 

 

 意を決して質問を始めたシドと答えるミレイを置いて、フォルセは甲板の端まで歩いていった。彼女なら心のままに答える。悪いようにはならないだろうと、ミレイを信頼しているからこそ、その場を離れる。

 

 潮風が気持ちいい。任務や修行で船に乗ることは多いが、今日は格別の天候だ。これを魔王は崩そうとしているのか、一体何をするつもりなのだろうかと、青空を見上げながら思う。

 

 頭上に広がる船の帆が、風を受け止める――

 

 

「……くしゅんっ」

 

 

 くしゃみの出処はミレイだった。無意味にビビるシドを尻目に、彼女は鼻を啜りながら天を見上げる。

 

 花弁のような白が、ミレイの鼻先に落ちて溶けた。

 

 

「冷たっ……もしかしてこれが雪‍? キレイね」

 

 

 ちらちらと降り注ぐ雪にミレイは感動の眼を向けた。綺麗だ。青空でよく見えないが、触れた瞬間溶ける様は実に素晴らしい。他の乗客も、突然の雪に戸惑いの声をあげている。

 

 

「雪‍? そんな筈ねえ」

 

 

 雪の結晶をその手に乗せ、シドが困惑ぎみに言った。

 

 

「でもあなた、王国では雪が降るって言ってたじゃない」

 

「そりゃあ王都近辺での話だあ。雨ならともかく、港じゃ雪は滅多に降らねえし、降ってたとしても、海上で出くわす筈ねえんだ。しかも、こんな良い天気で……」

 

 

 良い天気、とシドが言い終えるうちに、青空は瞬く間に消え失せ、分厚い灰色の雲が空を覆った。遠くへ視線を向ければ、消えた筈の青空が僅かに見える。その雲は、どうやら彼らの乗る船の上空にのみあるようだった。

 

 冷たい風が吹き荒ぶ。慌てて船内に戻る乗客も多く、また甲板にいた船員達はどうなってるんだと早口で言い合っている。

 

 

「‍おいおいなんだこの天気……。船員に聞いた予報じゃあ、王国までは快晴だって……」

 

「なに‍? 何かおかしいの……へっくし!」

 

「……。ああ。ええと。ううん……」

 

 

 寒そうに素肌を摩るミレイを見て、シドは瞳を右往左往させた。鞄に触れては放しを繰り返し、何かを盛大に迷っている。

 

 

「あの人のだが、ちょっとくらいなら問題ないよな……‍?」

 

「へっくしっへっくし! ……何が‍?」

 

「……いや。嬢さん、これ身につけてな。王国で人気のもふもふマフラーだぜ」

 

 

 シドは鞄から水色のマフラーを取り出し、ミレイに差し出した。彼の言う通りもふもふのそれを受け取り、彼女の眼が驚きに染まる。

 

 

「いいの‍?」

 

「だって嬢さん、見るからに寒そうだし。風邪ひかれても困るし。い、異端つっても少し貸すくらいなら大丈夫だろ、多分……」

 

「……ありがとう! 王国に着いたら返すわね!」

 

「王国はもっと寒いから、防寒具買うまでは貸してやるよう。……ああ。うん。大丈夫さ、あの人のだけど、ははは……」

 

 

 何やら後悔を押し殺すシドを他所に、ミレイは遠慮なくマフラーを巻いた。やけに年季のこもった香りがするそれは温かく、顔が自然とほころんだ。やっぱり優しいんじゃないとシドを見直す。しかしこの天気は何なのだろうと、もふもふを堪能しながら再び空を見上げる。

 

 ――巨大な影が、雲の向こうに見えた。

 

 

「!‍?」

 

 

 ミレイの顔がぎょっと歪んだ。影は雲の向こう側でゆっくりと動き、徐々に大きくなって――こちらに近付いてきているようだった。見ればフォルセもまたそれに気付いたようで、警戒を顕に空を見上げている。

 

 

「シ、シド、王国ではあんなでっかいものも降るの‍?」

 

「んなわけねえ……ありゃあ何だ‍? 未知の生物か‍? とにかくスクープには違いねえぜ!」

 

 

 ひゃっほう、とシドが興奮ぎみにカメラを向ける。残った乗客や船員達がざわつく中、フォルセが緊張ぎみの顔で戻ってきた。

 

 

「ミレイ……」

 

「聖職者サマ。なんか凄い影よ、何かしらね」

 

「わかりません。ただ……」

 

 

 「魔王ノックスと同じ気配を感じます」フォルセの言い放った言葉に、ミレイは眼を見開き、ばっと空を見上げた。

 

 

 

***

 

 

 周囲を灰色の雲が覆う空間――そこにある巨大な“それ”はヒトを乗せるものではあったが、本来空を泳ぐものではなかった。あるべき場所へ向かうがごとく、“それ”はゆっくりと、雲を裂きながら降下する。

 

 

「あんな船に何の用がある‍?」

 

 

 美しい氷の床が見えた。その上に佇む一人の、探せばどこででも見つかりそうな平凡な男が、自身の隣にいるローブの者に問いかける。

 

 

「最初の獲物にしちゃ、ショボイんじゃねぇか……?」

 

「生意気言うんじゃない、お前はアタシの言う通りにしていればいいのさ。そうすれば力を手に入れられると、その身でわかってるだろう……‍?」

 

 

 ヒヒ、とローブの者は腰を曲げたまま笑う。それに男は下衆じみた、どこか調子付いた笑みを浮かべ、懐から赤黒い宝石を取り出した。

 

 

「確かに、アンタのくれた力は俺らを変えた。今じゃ俺らは無敵だ……頭領にも勝った、王国軍のクソ共にだって負けやしねぇ……! クハハ……!」

 

「血と恨みが力を強くするのさ。時間はたっぷりとある……今はアタシの言うことを聞いて、よりその力を強めるんだよ。――力に抗うな、わかったね?」

 

「……わかった、他ならぬアンタの頼みだ。ぜーんぶ俺らに任せときな。

 要は殺しまくればいいんだろ? ちょっとは楽しめるといいんだがなァ……‍? ギャハハハハ!」

 

 

 男は、鈍く光る宝石に呑まれたように笑い、ローブの者を置いて雲の向こうに消えていった。その姿はまるで愚鈍。力だけが秀でた、哀れな凡人。

 

 氷上に残されたローブの者は、ヒヒ、ヒヒ、と薄気味悪い笑声をこぼしながら男の後を追う。

 

 

「たわけが。端役のお前らが敵う相手じゃあないよ、あそこにいるのは……」

 

 

 ローブの者が取り出した杖には、赤黒く光る禍々しい宝石がついていた。その力を引き出さんと、しわがれた声が雲の中でねっとりと響き渡る。

 

 

「呪え。下等なりに血を求めるのだ。かの場所にいるのは現の勇者……我らが求む、魔王の宿敵よ……ヒヒ、ヒヒヒヒヒッ」

 

 

 氷の床が冷気を放つ。冷気は命じられた通りに血を求め、雲を裂いて進む“それ”に恐ろしい力を与える。

 

 力に覆われた“それ”が、分厚き雲を突き破った――。

 

 

 

***

 

 

「氷の塊……‍? いや、違え!」

 

 

 カメラのレンズを合わせながらシドが叫ぶ。誰よりも視界を近付けている彼には、“それ”が何なのかいち早く知れた。

 

 

「船だ! 凍ったでけえ船が、こっちに突っ込んでくる!」

 

 

 分厚い雲の向こうから現れたのは、帆のない氷の船。フォルセらが乗る船より一回り大きいその船は、水色に輝く見事な氷で形成されていた。

 

 冷たい風と雪と共に、巨大な氷塊とも言うべき船が海上に向けて突っ込んでくる。「船内に逃げろ!」誰がそう叫んだのか。その声を皮切りに、パニックとなった乗客達が我先にと逃げていく。

 

 

「やべえよ……お、オレ達も逃げようぜ神父君!」

 

「いえ。あの船から魔王と同じ気配を感じます。逃げるわけにはいきません!」

 

「あたしも残る!」

 

「そ、そんなあ……」

 

 

 情けない声を出すシドを置いて、フォルセとミレイは身構えた。

 

 ゴオォォォ……と暴風のごとき音をたてて氷の船が近付く。フォルセら以外の乗客が甲板からいなくなった直後、氷の船は轟音をあげて海面――彼らの乗る船の真横へと着水した。

 

 

「――きゃあっ!」

 

 

 衝撃にミレイが悲鳴をあげる。着水と共にあがった波のごとき水飛沫が、甲板を濡らし、船を大きく揺らした。ビキビキと耳障りな音が鳴り、船を濡らした海水が瞬く間に凍っていく。まるで氷の船から伸びる無数の手のように、船同士を繋いでいく――

 

 

「へへ、近くで見ると意外にいい獲物だな……」

 

 

 フォルセらにとって聞き覚えのない男の声が響き渡った。緊張が走る――氷の船の奥から、一人の男が現れた。爛々と輝く血走った両目が特徴的な――しかし特徴といえばそれくらいの、何の変哲もないただの男だった。

 

 

「……貴方は?」

 

 

 問いかけるフォルセに、男は熱のこもった表情を浮かべた。

 

 

「ただの、通りすがりの山賊さぁ」

 

「……、山賊‍?」

 

「いや、元山賊かな‍? 俺らはもう地べたを這い蹲る弱者じゃねぇ……!

 ギャハハッ、アンタ教団の騎士だなぁ? その耳のイヤーカフを見ればわかるぜぇ……こりゃあ、ハハ、暴れるにはマズイ船だったかもなぁ……やられちまうよギャハハハハ!」

 

 

 男が笑う度、氷の船から男と同じような雰囲気を持つ人間が現れる。皆一様に下衆じみた笑みを浮かべ、まるで集団で酒に酔っているかのような、ねっとりとした空気を発している。

 

 

「なぁ騎士さん」

 

「……」

 

「軍のクソ野郎共を殺す前に、俺らの糧になってくれや……!」

 

 

 熱に浮かされた表情で言い、男は懐から赤黒い宝石を取り出した。

 

 

「その石は……!」

 

 

 驚くフォルセらを尻目に、男の拳が石を砕く――直後、握られた拳の隙間から細かな黒い粒が這い出でて、男の全身を一瞬にして呑み込んだ。他の人間どもも同じように石を割り、おぞましい黒へと呑まれていく。

 

 

「せ、聖職者サマ……あれ……」

 

「ノックスに感じた気配と同じ……あの石が砕ける度、強くなっていく……!」

 

 

 不安がるミレイに答えながら、フォルセは全身で怖気にも似た気配を感じ取っていた。法衣に隠れた肌が粟立つ。心底から、男どもに対して警鐘を鳴らしている。

 

 

「あ、あの石、もしかしてマジやべえもん……‍?」

 

 

 シドもまた、様子のおかしい男どもを見て顔色を変えていた。割り砕かれた石が異常な気配を発し、神父が警戒を強めている今――己の懐にある“アレ”は、一刻も早く排除するべきなのかも……

 

 

 石から現れる黒が収まった。男達の姿は変わらない――しかし纏う気配は一変し、雪舞う天候の中にも関わらず、肌に絡みつくような熱気が周囲を漂い始めていた。

 

 

「あぁ堪んねぇぜ……溢れ出る、この力……!」

 

 

 男が笑んだ。

 

 

「野郎ども――奪え、奪いつくせぇッ!」

 

「――来ます! ミレイ、シド、構えて!」

 

 

 「血肉の一片までもモノにしろッ、ギャハハハハ!」男の号令に従って、自称山賊どもが刃を抜く。

 

 寒空に吹くおぞましい熱気の中――船上の暴挙が、始まった。

 

 

 



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Chapter26 闇喰い石と操り人

 

 熱に浮かされた自称山賊どもが、氷の船から襲いかかってくる。

 

 フォルセに向かってくるは三――いや、四。使い古されたナイフを振り下ろされた瞬間、フォルセは手をかざし、障壁を展開した。顔が歪む。ひとりひとりが、鉄塊のように重い。

 

 

「ぐっ……――はぁっ!」

 

 

 沈みかける身体を持ち直し、リージャの雷を全方位に放つ。怯んだ一人を弾き飛ばすも、すぐに他から刃が返ってきた。フォルセは眼をぐるりと動かす――剣を抜くより、このまま法術で戦うほうがいい。そう判断し、迫り来る刃を障壁で弾きながら、雷撃や浄化の光を飛ばす。

 

 

「なんなのよっ……あなた達!」

 

「や、やべえ。神父君、オレ……うわあああっ!」

 

「余所見しちゃダメよシド!」

 

「いやその、オレ、あの石……」

 

 

 ミレイもまたリボンを駆使してバッタバッタと――ともすれば、この場で一番山賊どもを薙ぎ倒していた。そんな頼もしい彼女とは対照的に、シドは余裕無く大剣を振り回している。彼の顔色は山賊どもの対のように青く、振るう大剣にも全然力がこもっていない。

 

 

「ギャハハ、流石教団の騎士さん! 強い強い」

 

「一体何者ですか! 何故その石を……」

 

「……‍? 騎士さん、この石のこと知ってんのか。ならとっとと殺っちまわないとなァ……」

 

 

 氷の船に立つ男が、片手を上げて合図した。それに従い山賊どもが方向を変え、氷を伝って船内へと侵入していく。

 

 

「っ、しまった……!」

 

 

 フォルセは焦りを浮かべて周囲を見回した。氷は甲板から船内への道を完全に塞いでおり、船内へ行くには一度氷の船を通らなければならない。

 

 

「行って! 聖職者サマ!」

 

 

 ミレイの叫びに、フォルセは振り向いた。

 

 

「ここはあたし達で何とかする、だから乗客のみんなを早く!」

 

「えええ、オレは神父君に大事な用が……」

 

「そんなの後にしなさい!」

 

「……ひええええ」

 

 

 力強いミレイと情けない顔のシド――フォルセの心に一瞬迷いが生じた。頭を振って迷いを断ち切る。戦える彼らと戦えない乗客達、どちらを優先すべきかはっきりしている。

 

 

「……すみませんっ」

 

 

 フォルセは船同士を繋ぐ氷を蹴り、氷の船へ向かって一気に駆け上がった。その際、自身の肩に乗っていたハーヴェスタを掴み、後方へぽいと放り投げる。『ちょ、俺まで置いてくな!』抗議の声をあげる彼に対し、信頼の声を真っ直ぐ向ける。

 

 

「ハーヴィ、二人を頼みます!」

 

『っっ……だあああっ、わかったよ!』

 

 

 『さっさと戻ってこい!』ハーヴェスタはしかめっ面のまま山賊どもの頭を踏み抜き、ミレイの肩へと着地した。

 

 

「ギャハハ、お強い騎士さんのお出ましかァ……」

 

 

 一連の流れを氷の船から見ていた男は、仕方ないと言いたげに重い腰を上げた。ナイフを悠々と取り出し、余裕の表情を浮かべながらフォルセを迎える。

 

 しかし――

 

 

「退きなさい!」

 

 

 「ギャッ!‍?」フォルセの放った雷撃で、男は容易く膝をついた。その脇を通り抜け、フォルセは氷を伝って船内へと向かう。

 

 

「や、野郎……ッ!」

 

 

 男の顔が赤黒く染まった。馬鹿にしやがって、と歯茎を剥き出しにし、よろよろと震えながら立ち上がる。

 

 

「殺してやる! まずはお仲間からだァッ、ギャハハハハ!」

 

 

 男の怒号を合図に、山賊どもの纏う熱気がより強く、ねっとりとしたものになった。中には血塗れになりながら立ち上がる者もいる。

 

 不気味な光景にミレイは一瞬気圧されたが、ふんっと身体に力を込めて踏みとどまる。シドは相変わらずオロオロとしているが、その理由に彼女が気付くことはない。

 

 

「やれるもんなら……やってみなさい!」

 

 

 リボンを剣のように構え、ミレイは自身を奮い立たせるように叫んだ。

 

 

 

***

 

 

 生存者がいた。妻子を目の前で惨殺された男だった。

 生存者がいた。四肢の骨を折られた女だった。

 生存者がいた。兄の断末魔を聞きながら逃げた子供だった。

 

 生存者が――

 

 

「……セイバースティング!」

 

 

 狭い通路で前後を山賊どもに挟まれたフォルセは、無慈悲を顕に雷撃を放った。リージャの雷は前後の山賊どもを焼き払い、しかし彼らは糸を引き上げられた人形のように起き上がって嘲笑う。――銃声が鳴り響く。山賊どもの動きを予期していたフォルセが放った、銀の自動拳銃の音色だ。山賊どもの脳天を貫き、今度こそ、その命を刈り取る。

 

 

(ただの山賊とは思えないほどの体力、耐久力、そして禍々しさ……まるで、ヘレティックを相手にしているような感覚だ。そもそも本当に山賊なのか? 彼らは……)

 

 

 死亡確認のため、倒れ伏した彼らの頭を再び撃つ。ビクンと揺れた死体からは生気など感じられず、しかしヘレティックを相手取っていると考えれば、それもやり過ぎにはならないとフォルセは考える。

 

 そんな、見た目は正常な山賊どもの死体から――コロンと赤黒い石が転がってきた。

 

 

「っ‍? ……あっ、待て……‍!」

 

 

 石はふわりと浮き上がり、そのまま甲板の方へと飛んでいった。盛大に身構えたフォルセは、石の動きに即座に反応できず、伸ばした手は虚しく宙を掻く。

 

 

(甲板の方へ向かった……回収された、と見るべきか? 気になるけれど、今は一人でも多く生存者を助けなければ)

 

 

 思考を中断し、船内通路を駆け抜ける。

 

 ――そうして、どれほどの山賊どもを倒しただろう。フォルセは生存者達を連れて、漸く安全な船の後方部へとやってきた。氷はこちらまで及んでおらず、既に他の生存者達が船員に連れられて集まっていた。隔離も可能な造りだ、容易に突破されることはないだろう。

 

 

(……惨いことを)

 

 

 が、フォルセの心が軋むほど、生存者達の受けた傷は深いものだった。身体的にも、精神的にも、およそ考えつく限りの暴挙を受けながら生存し、彼らは放心するか怯えるか、あるいは憎悪にまみれた表情を浮かべて泣いていた。

 

 その様子を見ながら、フォルセは疑問をひとつ浮かべていた。惨いことをされながら、生存者達は意外と多い――山賊どもは彼らの生存を確認しながらも明らかに逃がした、もしくは放置していたように思われるのだ。

 

 この状況は意図的に作られた。そう考えざるを得ない動きを、山賊どもはしている。

 

 

(……考えても仕方ない。ここはもう大丈夫だ、早くミレイ達のところへ戻らないと)

 

 

 神父としては残りたいが、騎士としては戦いに戻らねばならない。

 

 「緊急の信号は発信済みです! 王国軍港からの助けが来るまで、もう暫くの辛抱です……!」必死な形相の副船長の言葉を聞き届け、フォルセは甲板に戻るべく踵を返した。

 

 

 

***

 

 

 次々に現れる山賊どもを、ミレイは戦う神父になったつもりで薙ぎ倒す。リボンを剣のように鞭のように振るい、二人分の戦力であるかのように動き回る。

 

 しかし、それも長くは続かなかった。

 

 

「はぁ、はぁっ……んもうっ、いつまで続くのよ!」

 

 

 ミレイが文句を言うのも無理はない。山賊どもは切ろうがはっ倒そうが薙ぎ払おうがすぐに起き上がり、そのナイフをゆうるりと振り上げてくるのだ。ヘラヘラと熱に浮かされた笑みは変わらず、心底不気味でしかない。

 

 

「ギャハハ、ハハ、女ァ……その威勢がいつまで持つかなァ?」

 

「うっさいわね! あなたなんて偉そうに見下してくるくせに何にもしないで、聖職者サマにやられたばっかじゃない!」

 

 

 氷の船上から動かぬままの男に対し、ミレイは八つ当たりぎみに吐き捨てた。男の顔が再び怒りに染まる。どうやら、男にとっての地雷を踏み抜いたようだった。

 

 

「……てめぇ、状況がわかってねぇようだなァ!」

 

「わかってるわよ! あたしは、偉そうに突っ立って何にもしないあなたがムカつくって言ってんの!」

 

「俺はリーダーだ! リーダーはこうして指示を出すもんなんだ!」

 

「あらそう! じゃあそのまま、あたし達が勝つまでぼーっとしてれば!‍? ――飛連昇舞(ひれんしょうぶ)!!」

 

 

 思う存分文句を吐き捨てたミレイは、全身に魔力を纏い、スケートでも嗜んでいるようにステップを踏んでいった。一見隙だらけの動きだが、彼女の周囲には鉄壁の魔力が渦巻き、触れた者の身体を軽々と吹っ飛ばしていく。

 

 

「ヒヒ、威勢のいい小娘だねぇ」

 

 

 怒りで震える男の背後から、腰の曲がったローブの者がのそりのそりとやってきた。

 

 

「アンタ、話が違うじゃねぇか! 相手はたったの二人なのに、いつまで経っても殺せねぇ……!」

 

「二人じゃあない、三人だよ」

 

 

 馬鹿者が、とローブの者は嘲笑い、骨と皮だけの腕を掲げ――船内から飛んでくる赤黒い石の数々を回収した。

 

 

「そ、その石は……」

 

「中に入った連中がやられた証さ。ヒヒ、あれだけ数がいながらたった一人の神父も殺せないとはねぇ」

 

「なっ……そんな馬鹿なっ。あいつらは団の中でも特に頭のいかれた連中なのに、やられちまったって言うのか!」

 

「ヒヒ、所詮は端役。特別な者には勝てないってことだね」

 

 

 ローブの者の言葉に、男は信じられないと言いたげに頭を抱える。男の動揺に釣られるかのごとく、甲板で暴れる山賊どももまた、熱が冷めた顔で動きが鈍くなる。

 

 

「せ、旋撃衝(せんげきしょう)! うおおおおっ!」

 

 

 怯えた子犬のように逃げ惑っていたシドが、山賊どもの動きに気付いて大剣を振り回した。隙が大きいながら、もう一度振り回す。巨大な鉄塊をぶつけられ、山賊どもは成すすべなく飛ばされた。

 

 氷の船から、男はおろおろと戦況を見遣る――

 

 

「そ、そんな……無敵になったのに、特別になったのに……」

 

「ヒヒ、所詮はお前も端役。取るに足らない存在だったということさ」

 

「! ち、違う!」

 

「何が違う‍? お前の元ボスなら、教団の騎士がいた時点でとうに撤退しているさ。お前のような能無しとは違ってねぇ」

 

「違う……俺は頭領みたく甘いやつじゃ……」

 

「石の力を僅かでも引き出したことは褒めてやるが、端役にはこれが限界さ。良くて、そこらのヘレティックレベル……やはり勇者どころか、その仲間さえも倒せやしない……」

 

 

 ローブの者が、他と何ら変わらぬ男を追い詰める。

 

 

「端役。いや、名すら与えられない群衆(モブ)。お前もとっととやられてくるがいい」

 

 

 杖の石が揺らめく――瞬間、男は夢遊病者のように眼を遠くにやり、ナイフを片手にふらふらと甲板へ向かっていった。他の山賊どもに混じって攻撃に加わる。凡庸なその動きはすぐに見分けがつかなくなり、

 

 

「――吹っ飛べ、旋導波(せんどうは)!」

 

 

 優雅に回るミレイによって、男は“船上で偉ぶっていたあの男”とさえ認識されぬまま、山賊どもの一人として吹き飛ばされた。

 

 

 

「さあて」

 

 

 山賊どもにとって不利な戦況を見下ろし、ローブの者は笑いながら杖を掲げた。

 

 

「そこの青い男」

 

「へっ!‍?」

 

 

 青毛のシドは、突然呼び止められてビクリと全身を揺らした。氷の船を見遣り、いつの間にか現れたローブの者――その妖しさに、大剣を持ったままぶるりと震え上がる。

 

 

「どこで手に入れたか知らないが……ヒヒ、お前もアタシの傀儡になるがいい」

 

 

 ローブの者の持つ杖が禍々しく光る。シドは再び全身を揺らし、大剣を持つ己の手を見下ろした。――ガシャン。大剣の刃先が地に落ちる。その音にミレイは振り向き、

 

 

「シド‍? ……きゃああっ!‍?」

 

 

 背後に迫っていた彼によって、突如斬りかかられた。

 

 

「ちょ、何すんのよシド!」

 

「い、いや……オレにも、何が、なんだか……!」

 

 

 間一髪刃から逃れ、ミレイは驚きと怒りでシドを睨んだ。その顔を見返すシドの表情は、容赦ない斬りつけに反して困惑に満ちており、どこか恐怖すら垣間見えた。

 

 大剣の刃は鈍重だが――当たれば最後、致命傷を免れない。ミレイはステップを駆使してかわしていくが、あまりにもブレない斬りつけの連続に、徐々に恐怖を募らせていく。

 

 

「きゃ……!」

 

 

 ミレイの腕から鮮血が飛んだ。痛みで思考が真っ赤に染まる。ほんの一瞬立ち止まったミレイは、目の前に迫る巨剣を見て半ば本能的に転がった。甲板を叩き潰す音が聞こえる。先ほど傷を負わせてきたのは山賊どものナイフだと知り、ミレイは少しばかり平静を取り戻しながらも、囲まれた現状に顔色を青くする。

 

 

「じょ、嬢さん……! くそうっ、なんで、なんで勝手に動くんだ……!」

 

「おや、アタシの命令を受けても自我が残っているのかい」

 

 

 ローブの者が甲板に降りてきた。山賊どもは先程まで暴れていたのが嘘のように静まり返り、ローブの者の為に道を開けた。冷気が漂う。巨大な氷船から感じられるものとは違う、もっと異様で異常な――心底を鷲掴んでくるような冷気が。

 

 

「あ、あなた何者‍!? 命令って……一体っ!」

 

 

 斬られた腕を押さえ、ミレイは現れたローブの者を果敢に見返した。その間もシドだけは攻撃を止めず、一方的な攻防が続く。

 

 

「騒ぐな小娘。アタシはね、この蟲疫(バヴァラ)石を持ってる人間を操ることができるのさ」

 

「……バヴァラ……‍?」

 

「ヒヒ、こやつら山賊どももそう……どれだけ吠えようが嘆こうが、心の底はアタシの人形。王国の山で拾ってきた捨て駒だがね、頭が悪い分そこそこ使える」

 

 

 ローブの者が指した赤黒い石を、ミレイは薄気味悪げに見つめた。そして気付いた。その石こそが、フォルセの言っていた“赤黒い虫の石”なのだと。

 

 

「シド! あなた持ってないって言ったじゃない!」

 

「ご、ごめんよう……なんか、スクープになると、思って……神父君に言ったら取られると、思って……!」

 

「だからって……あぁもう!」

 

 

 「シドの馬鹿!」ミレイの暴言に、シドは泣きそうな悔しそうな顔で剣を握り直した。

 

 攻防を続ける二人を見つめ、ローブの者は愉快げに口を開く。

 

 

「頼みの勇者様が戻るまで耐えられるかねぇ?」

 

「! な、なんで勇者のことを……っ!」

 

「そりゃあ、勇者目当てで来たからさ。……本当はそこの男が持ってる蟲疫(バヴァラ)石の気配を追ってきたんだが、勇者がいるなら、その力を試さないわけにはいかないからねぇ?」

 

 

 「ヒヒ、予想通り強い強い」ローブの者は蟲疫(バヴァラ)石を手の内で転がしながら、不気味に笑う。

 

 

「……あなたは誰‍!? 魔王の手先‍なの!?」

 

「嬢さん避けろ!」

 

「きゃっ……!」

 

「ヒヒヒ、仲間に襲われてるってのに大した度胸だ。……面白い。名乗るほどのもんじゃないが、一応名乗っておこうかねぇ」

 

 

 ローブの者は、骨張った手で頭を隠すローブを取り去った。白髪を撫でつけ、巨大な蟲疫(バヴァラ)石を額に飾る、肌の黒い老婆の顔が現れる。澱んだ眼は何処を見つめているのか――少なくとも碌なものではないと、その嘲笑滲む顔面から窺え知れる。

 

 

「アタシはメイランド。魔王ノックスが頭脳たる三賢の一人さ……」

 

 

 老婆――メイランドは腰を曲げたまま、戦う二人を圧倒した。

 

 

「時に小娘。お前、アタシらのところからどうやって黙示録を盗んだ?」

 

「……えっ!?」

 

「惚けても無駄だよ。そのレムの黙示録はね……元々アタシら魔王軍の所にあったものなんだ。それを半年前、何者かが盗んでいった。どんな盗っ人かと思えば、こんな小娘だったとはねぇ……ヒヒヒ」

 

「う、嘘よ! あたしが盗んだなんて……そんな……」

 

 

 ミレイは狼狽えた。嘘だと叫ぶが、自分には記憶が無い。嘘だと証明することはできないのだ。

 

 

「ぐっ……魔神(まじん)(けん)!」

 

「! きゃあああっ!?」

 

 

 シドの振り下ろした大剣が衝撃波を生み、狼狽えるミレイを呑み込んだ。甲板に積み重ねられた木箱に向かって吹っ飛ばされ、ミレイはぐったりと項垂れる。

 

 

「じょ、嬢さん……うぐ……」

 

 

 斬りつけではなく衝撃波で収めたのは、シドの最後の抵抗だったのだろう。攻撃を当てたことでシドは一気に脱力し、山賊ども同様虚ろな表情となって剣を下ろした。

 

 

「ヒヒ、やっと大人しくなったか」

 

 

 木箱の残骸に身を預けるミレイに、メイランドがゆっくりと近付いた。そのねっとりとした冷気に反応しようにも、ミレイの瞼はかすかに揺れるのみ。無遠慮に頬を撫でられ、肌がゾクリと粟立った。

 

 

「さぁ答えな。黙示録を、どうやって、盗んだ?」

 

「知らない……あたしはそんなの、知ら、ない……」

 

「強情な小娘だねぇ。――青いの。この娘は何者だ?」

 

 

 「ミレイ。異端で、記憶喪失……」虚ろな眼のシドが、メイランドの問いかけにぼんやりと答えた。

 

 

「記憶喪失、ねぇ。それなら無理にでも思い出してもらおうじゃないか」

 

 

 ミレイに対し、メイランドが杖を向けた。杖の石が禍々しく揺らめき、持ち主の望むままの力を発揮する。

 

 

「もう一度問おう。小娘……黙示録を、どうやって盗んだ?」

 

「うぅ……」

 

 

 ミレイが呻く。どよめく脳裏に吐き気を催しながら、引き上げられる記憶の奔流に呑まれ、全身から力も意識も抜いていく――

 

 

『やっと手に入れた……彼へと導く、黙示録!』

 

 

 チカチカと点滅する幾つもの光。暗い天井にまで至る幾多の機械類が周囲に連なり、低い稼働音を鳴らして動いている。此処はどこだか“わたし”は知っている。“わたし”は此処から旅立ったのだ、彼のもとへと行くために。

 

 

『ずっとずっと待ってたわ。何年も、何千年も!』

 

 

 追っ手は来ない。けれども気持ちは急いてばかり。機械の音ばかりが鳴る通路を駆け抜けて、一刻も早く彼のもとへと急ぐのだ。心が高ぶる。外の世界なんて知ったこっちゃないが、“わたし”と黙示録があればそんなことは関係ない。

 

 外に出た。曇り空の下に広大な森が見え、さわさわと葉のかすれる音が聞こえる。命の巡りが見える。彼が好きそうな光景だ。心が爆ぜる。震える。揺れ動く。“わたし”の知る世界とは随分違うけれど、彼とならどんなところにだって行ける。

 

 

『さぁ黙示録、“わたし”を彼のもとへと導いて……!』

 

 

 昂揚する想いを胸に“わたし”は、レムの黙示録を開いた。

 

 

『――――』

 

 

 暴走の波が、押し寄せる――

 

 

「ミレイ!」

 

 

 白い雷撃がメイランドの杖に直撃した。ミレイはハッと我に返る。今聞こえてきた声は紛れもなく彼のもの。あたしは、任せてくれと約束した。ならばこんな姿は見せられない――!

 

 

「てやあああっ!」

 

 

 軋む身体に鞭打って、ミレイは目の前の老婆に向かって突進した。「ぎゃあっ」倒れ伏すメイランドに釣られぬように踏ん張り、渾身の力を込めて甲板を駆け抜ける。ワンテンポ遅れ、山賊どもやシドが反応した。ミレイは彼のもとへ行きたい一心で走るが、「伏せて!」彼の声によって我に返り、言われた通りその場に伏せる。

 

 

世断(せいだん)――!」

 

 

 剣と自動拳銃を構えたフォルセが、氷の船上から一斉に射撃した。リージャの弾丸が山賊どもを貫き、倒していく。

 

 

「……清音、奏でるは愚者――高らかに。ヒュムナルライト……!」

 

 

 撃ち終えた得物を落として消し、フォルセは高めたリージャを解放した。光と共に天使のごとき面容の者達が現れ、宙を飛び、山賊どもの耳元で優しく歌った。光が爆ぜる。直後、山賊どもは一様に叫び声をあげ、ピクピクと痙攣しながら倒れ伏した。

 

 

「聖職者サマ!」

 

「ミレイ、無事で……っ!? 危ない!」

 

 

 「へっ?」昂揚する心のままに駆け寄ろうとしたミレイ。その背後から、フォルセの攻撃対象外とされていたシドが虚ろな表情で大剣を振り上げた。フォルセは先ほどの攻撃でリージャを使い切ったため、驚愕を顕にしながらも動くことができない。

 

 

『もっかい伏せな』

 

 

 肩に乗るハーヴェスタにそう囁かれ、ミレイは再びしゃがみ込んだ。同時にハーヴェスタがぴょんと飛び、両腕からまるでミレイのように伸ばしたリボン――否、毛糸を使い、シドの大剣を弾き返した。「!?」虚ろだったシドの表情がハッと目覚める。それに構うことなく、ハーヴェスタは風を纏って空中を蹴った。

 

 

『――風裂閃牙(ふうれっせんが)!』

 

「ぐああっ!?」

 

 

 旋風と共に飛び、鋭い回転切りを加える――ミレイの得意とする技を軽々と使い、ハーヴェスタはシドを吹き飛ばし、ミレイの肩に再び戻ってきた。

 

 

『ったく……おい異端』

 

「聖職者サマ!」

 

『おい』

 

 

 ハーヴェスタの制止も聞かず、ミレイはフォルセのもとへと駆け寄った。甲板に降り立った彼の胸に飛び込み、ようやっと息を吐く。

 

 

「会いたかったわ! ずっと会いたかったの……“わたし”はあなたに……」

 

「ミ、ミレイ?」

 

『……はぁ。単純だな、こいつ』

 

 

 困惑するフォルセに、ハーヴェスタが起きた出来事を軽く説明した。シドが石を持っていたこと、魔王の手先“三賢のメイランド”が現れたこと、そしてミレイが記憶を無理やり掘り起こされたことを聞き、フォルセの顔が僅かに歪む。

 

 

「ミレイ、しっかりして。今はどうすべき時ですか?」

 

「……?」

 

「敵はまだいます。シドも、操られたまま。貴女ならわかるはずです」

 

 

 山賊どもは倒れ伏した。が、シドは未だ剣を握ったまま操られている。意識だけは戻ったようだが、その切っ先はブレることなくフォルセらに向いている。

 「ヒヒヒ……やってくれたね小娘」忌々しげに呟きながら、メイランドもまた身を起こした。それをちらりと見遣りつつ、フォルセはミレイの顔を覗き込む。

 

 

「ミレイ」

 

「……、……はっ」

 

「気付きましたか」

 

「ご、ごめん聖職者サマ……なんか、無性に会いたくてしょうがなくて。それに任せて、って言ったのに、やだぁこんな恥ずかしい……」

 

「大丈夫。船内の侵入者は討ちました。生存者も……なんとか無事です。あとは彼らだけ。いけますね?」

 

 

 ミレイはこくんと頷き、フォルセから離れた。我に返った瞳で振り向き、もう失態は繰り返さないとナイフを構える。

 

 

「ヒッヒヒヒ、盗っ人小娘は勇者様にご執心かい」

 

 

 メイランドはふわりと宙に浮かび、黒く禍々しい魔法陣に包まれた。その球体魔法陣は彼女の詠唱と防衛――攻防一体の現れである。

 

 

「青いの。やけに洗脳の効きが悪いが……時間稼ぎくらいには役立ってもらうよ」

 

「ぐうっ……う、うわあああっ……! 神父君しんぷくんっ、助けてくれええっ!」

 

「――ミレイ、貴女はメイランドを!」

 

 

 「わかった!」ミレイの力強い返事を聞きつつ、フォルセはシドを迎え撃つべく駆け出した。

 

 

 

***

 

 

 シドの大剣が容赦なく振り下ろされる。障壁に当たるたび雷鳴のごとき音が耳をつんざき、フォルセの腕をかすかに痺れさせる。その重い攻撃に顔を歪めながら、フォルセはシドに呼びかけた。

 

 

「シド! 石はどこに!?」

 

「う、上着の……内ポケット……に!」

 

「早く捨てなさい!」

 

「そうもいかねえんだよおっ!」

 

 

 涙目のシドだが、攻撃は容赦なく続く。それに対し、フォルセの肩に戻ったハーヴェスタがうんざりした様子で溜め息を吐いた。

 

 

『埒が明かねぇ。取ってくるからもっと近付け』

 

「わかりました……頼みます!」

 

 

 ハーヴェスタのため、フォルセはシドの隙を探し始めた。一撃、二撃、三撃と続けて受け流した後、僅かな隙を見つけ、四撃目を受け流しながら懐に突っ込む――

 

 

「駄目だ神父君!」

 

「っ!?」

 

 

 が、大剣の四撃目は来なかった。シドの手からは大剣が消え失せ、代わりに何かが鋭く障壁を叩いた。――それはシドの拳だった。掌、手の甲、拳と連続で殴りつけられ、フォルセは予想外の攻撃に逆に隙を見せた。

 

 

「……かはっ――!」

 

 

 強烈なボディ・ブローがフォルセを襲った。だがチャンスだ。息を詰まらせながら、フォルセはシドの腕を鷲掴んだ。そう簡単にやられて堪るものか――騎士としての意地のようなものを感じつつ、彼を助けるために前進する。

 

 

『よくやった、あとは任せな』

 

 

 目論見通り、ハーヴェスタがシドの上着に飛び移った。直後、シドの自由な腕が大剣を取り出し、自らの腕ごとフォルセを叩き切ろうとする。フォルセは即座に腕を解放した。大剣が消える。鈍重な動きと速攻を使い分けるスタイルか、と素早く突っ込んできたシドを見つめ、フォルセは思考の片隅で考えた。

 

 

朱雀閃(すざくせん)!」

 

「う、ぐっ……!」

 

 

 足払いからのアッパーが決まった。障壁で受け止めたもののその衝撃は凄まじく、フォルセは甲板の端まで吹っ飛ばされた。

 

 

「――聖職者サマ!?」

 

「ヒッヒヒヒ、やるね青いの」

 

 

 三本のナイフを投げつけるも弾き返され、ミレイは視界を横切るように吹っ飛んだフォルセを案じた。瞬時に起き上がったフォルセは大丈夫、と首を振り、腹の鈍痛に耐えながら再び駆け出す。

 

 フォルセの姿に勇気づけられ、ミレイはキッと上空を睨み上げた。先ほどからナイフも魔術も効いている様子がない。が、それでも続けるしかないと、疲労で肩を揺らしながら攻撃の姿勢を取る。

 

 

『……おい』

 

 

 フォルセとシドの攻防、そしてミレイの攻撃が続く中――ハーヴェスタが、シドの上着から顔を出した。その可愛らしいあみにんの顔は酷く歪んでおり、何やら不機嫌を顕にしている。

 

 

『……金庫かよ! なんだこのポケット!』

 

 

 ハーヴェスタが怒鳴ったとおり、シドの上着内ポケットには簡易なダイヤル式鍵がつけられていた。形的にもそこに石が入っていることは間違いない。途端に面倒臭くなったハーヴェスタだったが、必死に戦うフォルセを見て気を取り直し、持ち主をジロリと見上げる。

 

 

『シド、番号教え……』

 

「うう……うおおおおっ! 掌底破(しょうていは)!」

 

「くっ!」

 

 

 『おいごらぁあああああっ!!』ハーヴェスタの怒号が響く中、シドの掌底とフォルセの障壁がぶつかり、激しい火花を散らした。

 

 

『……フォルセ!』

 

 

 もう我慢ならない。今にも噴火しそうな顔で、ハーヴェスタが叫ぶ。

 

 

『こいつ大人しくさせろ!』

 

「……っ……そう言われましても……!」

 

『元はと言えばこいつが悪い! 少しくらい痛めつけたって問題ねーだろ!!』

 

 

 「ひええそんなあっ……!」無慈悲なその言葉に、シドは涙目になりながらフォルセの障壁を殴りつける。

 

 

(……やむを得ないか……!)

 

 

 後方で苦戦するミレイも心配だ。フォルセは振り下ろされた拳を受け止め、払い、

 

 

「――ちょっと痛いですよ!!」

 

 

 シドの腹に、雷撃を帯びた掌底を放った。

 

 

「ぐへあッ……!?」

 

 

 白い雷が弾け、シドが甲板の端までぶっ飛んだ。ズシャアアッ、と甲板を滑り、大の字になって気絶する。

 

 

「ヒッヒ、勇者様は仲間にも無慈悲かい。端役どももいなくなっちまったし……これは、」

 

「っ、光明導く眩耀の使徒……!」

 

「猛火激烈、天まで届け!」

 

 

 遅かった。メイランドを包む球体魔法陣がぐにゃりと形を変える。それでもなんとかしようと、フォルセとミレイがそれぞれ渾身の力を込めて詠唱を開始する――

 

 

「そろそろ見せてやるしかないかねぇ」

 

 

 光の雨が降る。猛火の柱が抱擁する。それら全てをかいくぐり、禍々しい力が躊躇無く――発揮された。

 

 

 



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