分かたぬ衣と往く先は (白縫綾)
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番外編
バレンタイン小話


本編の時代背景的に、物資の流通は未だ発達していないと思うので、時系列的には黒の時代の前くらいになりそう。朧も織田作も、この話においては年齢は二十歳超えてます。


6/4 一部修正。


 帰ったら、何だか高そうな箱が居間にある机の上にぽつんと乗っていてその存在を主張していた。

 

 見る限り、既に封は切られているようである。そっと蓋を開けると、ふわりと甘い香りが漂いだして、朧は興味深げにその中を覗き込む。

 口元を緩めて、少し微笑を漏らした。

 

 

 数センチ角四方に仕切られている箱の中には、一口サイズの菓子がずらりと、敷き詰められるようにして置いてある。

 光に照らされてつやつやと艶めく、焦げ茶の色が綺麗な菓子群だ。

 

 彼女も何度か食したことのあるそれは、一瞬で解ってしまう程度には匂い立っていたので、それが何か間違える筈もない。そう思いつつも──改めてみれば、何故家にこんなものが来るような事になったのだろうかという疑問で。

 朧はまじまじと、まるで初めて見るかのような眼になってそれらを見詰めた。

 

 

 本当に、見るからに高そうなものなのだが…………一体誰が之を持って来たのだろうか、なんて考えつつも一粒持ち上げてみることにする。

 因みに、現在一緒に住んでいる同居人が真逆こんなことをするとは思えなかったので先ず一番初めに候補から除外したのは間違っていないと思う。

 

 状況的に他の誰かから受け取った、位が妥当な線だろう。

 ……何というか、彼は何事にもあまり頓着しない性格なのだ。

 多分、違うと思う。

 

 

 

 

 

 かり、と試しに歯を立てて、削るように小さく、一口サイズのそれより尚小さな一欠けら分だけ、口の中に入れてみた。

 ほんの僅かにもならないような量であっても感じる仄かな苦みと甘さが口の中に広がって、たまに食べる位ならこういうのも善いな、と考えた──普段口にする甘味が大体にして和菓子とかそっち系のものであるからにして、彼女にとっては今迄食べたことは有れども珍しいことには違いない、そんな類いのものだった。

 

 もう一欠け、と中程迄口にして────不意に、その中から甘さとは別の香りが鼻孔を擽るのに気付く。

 

 

「之って……」

「────朧」

 

 

 思わず呟こうとしたのに被せるような形で、声がした。

 

 気付かなかったのは矢張り、そういう気配の消すような仕事を多く熟している方が上手いからだ。

 ……まあそう言い訳したところで何が変わる訳でも無いのだが、一瞬肩を跳ね上げてから朧は聞き慣れた声の主が居るのを、漸く認めた。

 

 

「帰っていたのか。お帰り」

「只今。うん、(さっき)帰ってきたんだ」

 

 

 ふ、と頭上に影がさして、何時の間にやら現れていた同居人が傍らに立ち、自分を見下ろしている。朧も又、それに合わせるように彼の方を見上げた。

 

 スーツとは異なって、比較的ゆったりとしている部屋着に身を包み、洗ったらしい髪はしっとりと湿り気を帯びている。手にはタオルを持っていて、鳶色の眼が此方を見詰め乍ら「今日は少し汚れたんだ」と云うのを聞いた。

 

 

「作之助さんも、お疲れ様。でも私より早いの、珍しいね?」

「そうだな……ん」

 

 

 その口元にすかさず、手に持っていてかじりかけの菓子を押し付けると、少し驚いた顔をして──それでも食べてはくれるのだけれど──もごもごと「食べないのか」と問われる。

 

 暫く咀嚼してから飲み込む、彼の喉のこくりとした動きを眺め乍ら、朧は「だって」と呟いた。

 

 

「お酒が入ってるとは思わなくて。作之助さん、一人で之の全部、消費出来そう?」

「出来なくはないし、無理なら太宰とか安吾あたりに押し付ければ問題無いだろう」

 

 

 実はこの菓子……というかチョコレート、中に酒が入っていた。

 

 朧は酒が得意ではない──只、嫌いという訳でもないのだが。

 飲みたいと思うし、実際飲むことも好きなのだが、悲しきかな酒に弱いのである。

 酒場でこの同居人があとの二人と平気で飲むようなペースでさえ、彼女がそのままいくならばひっくり返ること間違いなし、という程度には弱い。

 正直なところ、要らない自信である。

 

 

「まあ、」と織田作が云うので、どうしたのだろうと思い乍ら流れ作業のようにもう一粒、箱から摘み出して彼の口元に宛てがうように持って行こうとする──

 

 

「お義父さんが、弱い酒だから大丈夫だろうと云っていたんだ。少し位なら大丈夫だろう」

「えっ」

 

 

 思わず、手が止まった。

 

『お義父さん』は、何時呼び方を変えたんだとかいう疑問もあるがまあ置いておくとして、彼がそう称する可き差出人を、朧は一人しか識らなかった。──思わぬところで之を送って来た人に辿り着いてしまったのだが、考えてみれば妥当と云っても善いのかもしれなかった。

 

 朧の予想では広津であったのだが、よく考えればそれは彼女が親しい人であって、ポートマフィア内で派閥に所属しないこの同居人が何か受け取る程親しいという訳では無い。

 

 ……まあ、朧自身もその異能の汎用性の高さから色んな処にぽんぽんと放り込まれるだけで、本人的にはどの幹部派閥にも属してはいない、筈なのだけれど。

 

 

「院長先生が置いていったんだ。……どういう風の吹きまわしだろ」

 

 

 首を傾げて、その止まったままの状態に「手が止まってるぞ」と催促して、口の中に放り込まれた二つ目を食べつつ──何となく餌付けしてるようだな、と朧は思った──彼は、「こんな事を云ってたな」と呟いた。

 

 

「何でも菓子屋の営業(セールス)にあったと。『聖バレンタインの日』、だったか」

「外つ国の……何、行事?」

「多分そうだろう」

 

 

 彼も又その箱に視線を落とし、一つ摘み上げて彼女の方へずいと差し出した。

 

 

「何でも家族や恋人、親しい者と贈り物を交換しあうらしい」

「院長、教徒じゃないと思うんだけど……ね、今食べなきゃ駄目?」

「問題無い」

 

 

 然し、彼女の酒の弱さは推して識るべし。

 何かあってからでは遅い、というか食べ始めたら止まれる気がしない。何が入っていようと甘味は甘味なのである。

 

 夕飯作ってからの方が善いと思うの、と控えめに提案する前に口の中に突っ込まれた。(物理的に)反論する隙が無い。……これはこれで状況的に少々「美味しい」のだが口にはしないでおく。

 云ったとしてこの同居人がちゃんと理解出来るのか、怪しいところであるので。

 

 結論として、一つだけなら意外と大丈夫なようであった。

 

 

「交換しあう、かぁ。私たちも何か渡さないといけないね」

 

 

 もう一つ食べたいと手を伸ばしかける自分を自制しつつ、何が善いんだろう、と云ったら「似たようなのじゃ駄目なのか」と返された。

 

 

「うーん……駄目じゃない、んだけど」

 

 

 芸が無いというか。果してその芸が必要なのかすら判然としないが、結局のところ似たようなことになるような気がしないでもない。

 ……だから「そうか」と直ぐ納得したように呟かないでほしいのだが。

 云わないけど。そんなところも好きだけど。

 

 

 考えてみると、やっぱり消耗品とかが妥当なのだろう。

 

 形に残るようなものは、何となく逆に恥ずかしいような、愛が重いような、そんな気がした。口には出さず、そんなことを内心で思いつつも案外表情筋が正直であるようで、朧は微かに、面映ゆげに笑った。

 

 

 今迄あまり意識したことは無く、当たり前のように『院長』とそう呼んできたが、あの孤児院で暮らして寝食を共にし、弟や妹、兄と姉といった家族と称するべき子供たちが居たのならば、矢張りその養い親も父であって然るべきなのだ。

 血を分かつ者が他に誰か居るのかも識らない状況で、然し今更乍らそれに気付いたのだった。

 

 常はあまりはっきりと表情を見せない彼女が浮かべるにはしっかりとした(・・・・・・・)感情だな、と織田作はそんなことを考えて──尚、それが思いっ切り自分に当て嵌まるもの(ブーメラン)であるのには気付いていない──頭一つ分程低い処にある栗色の髪をさらりと撫で付けた。

 

 柔らかな眼の翠がちらりと上向いて、それが何か云う前に「髪を乾かして来る」と短く告げてから背を向けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「────それで、最終的に如何なったんですか」

「夕食後にその菓子を食べてから寝たな」

 

 

 より正確に表現するなら、菓子によって強制睡眠させられた、とも云う。

 

 

 

 

 次の日である。

 

 場所は会計事務所の隠し部屋。

 この場に居るのはこの場所を訪ねた自身と、もう一人……学者風の青年、マフィア専属情報員の坂口安吾。友人として扱う可きか判らないが、同業でそこそこ(・・・・)面識がある者として一番、或いは二番目に挙がるのがこの男である。

 つまり、安吾の仕事場に訪れていた。

 

 

 昼過ぎ頃に普段は持たないような荷物を風呂敷に包んで持って来た織田作は、その部屋の中にある応接用の簡素なソファに腰掛けていた。

 呆れた顔で話を聞きつつも、手を休めることなく作業を続ける近くで昨日のことを話していたのだった──他に話題が見つからなかったので。

 

 

「四個が限界だったらしい」

「相変わらずの弱さですね……」

 

 

 安吾の詞に「確かに」と頷いてから、織田作は風呂敷の結び目を丁寧に解いていった。

 

 

「それ、何です?」

「『結局何も思い付かないしお酒で頭も回らないしでとりあえず同じようにお菓子作ってたら作り過ぎた』とか云ってたな」

 

 

 おはぎである。

 風呂敷に包まれていた重箱の中に、詰め込まれるようなそれが見えた。

 

 書類から顔を上げていて、その中身を覗き込んだ安吾が顔を引き攣らせる程度の多さである。

 

 

「そんな状態で何で作り過ぎるんですか……」と咄嗟にこめかみを押さえて呻く安吾に「昔働いていた職場の必須技術(スキル)だったらしいからな」と何時ものように返して、織田作は更に箸と紙皿まで取り出した。

 用意周到である。

 安吾が男の顔を見ればその眼は真面目そのものであって、いよいよ頭痛がした──この男が冗談の類いを云えるような人間で無いのは既に識る処となって久しい。

 

 

 というか、之をどうしろと。

 

 紙皿を差し出されて困惑した表情の安吾に、「疲れた時には甘いものだろう」と真顔で云ってくる織田作の表情に溜め息を飲み込んで、安吾は「一つで勘弁してください」と割と真摯な願いを口にしたのだった。

 

 

 尚、その直ぐ後にどこぞの五大幹部の一人が突撃してきたりもするのだが、それは二人には未だあずかり識らぬ事である。

 

 

 

 

 

 




修正箇所:頭二つ分→一つ分
頭一つ分で大体25㎝らしいですね。流石に50㎝差は犯罪だわぁ……(*・ω・)






結局院長には別に適当なの見繕って後日渡したらしいです。
(其処まで書く気力無かった)

大体、こんな感じ。
そう、皆幸せな織田作を欲している筈なんだ……‼

やってることは甘いのに、何故か雰囲気が甘くならない謎である。
あと、個人的に安吾さんはオチに使いやすい。





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『猫町』

にゃんにゃんの日(2/22)過ぎたけど(2/24)、別ににゃんにゃん(健全)してもいいよね! な突発的番外編第三弾。短め。

なお、一時間の一発書き。





 にあー、と間延びした声で鳴くそれ(・・)を両手で持ち上げて、「かわいい」と思わず呟いたのに隣の男がぴくりと反応したように思えた。

 

 

「猫ってかわいいよね」

 

 

 そう云って、くるりと上目遣い気味に見上げてきた女の──身長差的にはそう成らざるを得ないのである──黒混じりの翠の瞳はどこと無くきらきらと煌めいているように感じたのだった。

 

 そんなことを思って、織田作はその様子を暫し眺めた。彼からしたら、この女の容貌やら髪質やらも似たような風に違いないのであるが……その腕に抱き抱え直して此方を見てくる二対の眼と見つめ合っても矢張り、その考えは変わらなかった。

 

「そうだな」と云うと、見下ろしている女の目元が僅かに緩んで、少し嬉しげな顔になる。

 

 

「あ、矢っ張り作之助さんも猫好きなんだ」

「いや、似てると思ってな」

「ん…………?」

 

 

 少し首を傾げられた。

 

 

「何、私って猫っぽいの? 今猫かわいいよねって話だったんだけど」

「…………」

「あ──え、っと」

 

 

 二人して顔を見合わせてから暫くして、意味を理解した女がちょっと顔を赤らめた。

 

 ぎゅっと猫を抱きしめる腕の、その力が強かったのか猫がじたばたと暴れ始めて、慌てて拘束を緩めていた。

 

 ……若し之で性格も猫に似通っていたら困ったことになっていたのだが、そうでないことは救いだろうと、織田作は一人そう思った。

 なにしろ現在の食卓事情は、殆ど彼女が握っているも同然であるので。

 

 

「その内飼ってみるか」と云うと、「んー」と少し悩むような声で朧は唸った。再び大人しくなった猫の頭の上に頤を乗せてから、ゆっくりと頭を振った。

 

 

「いや、いいかな」

 

 

「そうか」と頷きかけて、「そうなのか?」と問い返す──少し意外で、織田作は目を瞬かせた。

 

 

「何だかね、猫って何にも囚われないで気ままな処が好きなんだ。飼ってしまったら束縛してるような気分にならない?」

「成る程……ん」

 

 

 朧の腕からするりと抜け出した猫が、二人を交互に見て「なら捕まえるな」と、そう訴えているような気がした。

 

 

「まあ、野良とこうしてたまに戯れたら善いよ、私は」と云って朧は笑ってから屈んで、行儀良く座る猫の頭を小突いた。

 

 

「お前もその方が善いでしょう?」

 

 

 にあー、と間延びしたように答える猫にくすくすと声を漏らす。織田作も口元を緩く横にして微笑んだ。

 

 

 単に彼女は、自分と違うように生きるものを見ることが好きなのだと思う。まあかといって真逆今の状況に満足していない、という風にはまるで見えないが──……届かないものを嘆くように諦観に似た笑みを浮かべるでも無く、憧れでも無く。

 純粋にその生き方を美しいと肯定する、そんな今の朧の表情を、織田作は好ましく思っている。

 

 

「あら?」

 

 

 猫がおもむろに立ち上がって──頭を小突く朧への抗議の可能性も否めなくは無かった──その長い尾で足の辺りをぺしぺしと叩かれる。織田作は猫を見下ろした。

 猫にしては理知的な光を宿した眼が何か訴えているようでもある。

 

 たた、と数歩先を歩いてから振り返られる。

 朧が立ち上がるのに手を貸して、そのまま顔を見合わせた。

 

 

「ついて来い、って云ってる?」

「そうかもしれないな」

 

 

 

 にあ、と応えるような小さな一声が空気を響かせて消えた。

 

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

 

 それは端から見れば奇妙な光景であったろう。

 

 一匹の黒猫の後ろを、人間の男女が二人ついていくという──追い掛けている、という訳でも無く、それは連れられているという詞が最も適切だった。

 

 朧の温い体温を伝える手が、男の手を引いて足早に歩いていく。

 歩調の関係で普段は織田作が少し前を歩くのに、この時ばかりは逆であった。

 

 狭い道や隙間を器用に通り過ぎる猫の進みは早い。二人で足早に、之まで通ったことも無いような横浜の街を小走りに過ぎていく。

 

 

 くす、と朧が笑った。

 

 

「何だか、『猫町』を思い出すね?」

「……ああ、あれか」

 

 

 そうだなと呟いて、然し頷くのは、彼女が前を往くので止めることにした。

 

 朧はその養い親だった男の影響で、織田作は或る契機(・・・・)を彼に与えた、又別の男が居た為に、本にはそれなりに精通していると云えた。

 だからその題名は、織田作も識っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 景色が何だか早く移ろっていく気がした。

 

 足元がふわふわとして、彼女と繋いだ手が妙に熱く──くらくらとするのは、夢か現か。

 

 どの道を通ったのか、今何処に居るのか、見知った街の筈が、よく解らなかった。

 

 

「うわぁ……」

 

 

 急に開けた場所に出て、歓声を上げた彼女が段々と歩調を緩めて立ち止まった。

 

 

「海が……近いな」

「こんな場所、識らなかったな」

 

 

 そんなに歩いたっけ、と見渡す周りには猫の大集団が居て、小さな公園の中で思い思いに過ごしていた。

 

 

「あの猫、何処に往ったんだろう」

 

 

 ──その多さに、先程の理知的な光を宿す黒猫を捜し当てることは出来なかった。

 

 

「…………『猫の精霊ばかりの住んでいる町が、確かに宇宙の或るどこかに必ず実在してるに違いない』、か」

 

 

 織田作の抱き上げた一匹の猫の頭を撫でながら、「善い話なんだけど、少し寂しいよね」と朧は呟いた。

 

 

「何時の間にか元の世界に、かぁ……確かに何だか、今は世界がくっきりしてて、何時もと違うように見えるみたい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ────その時、もはやあの不可解な猫の姿は私の視界から消えてしまった。

 

 にあー、という声と擦り寄る黒猫が、此方を見上げている。

 

 

「もう、時間なの?」

 

 

 にあ、と鳴く声が何だか名残惜しくて、確かにもう夕陽は沈みかけている頃だった。

 

 時間の流れがひどく曖昧で、少ししか経っていないようにも感じたのだが。

 

 

 ────あの蠱惑的な不思議な町はどこかまるで消えてしまって、カルタの裏を返したようにすっかり別の世界が現れていた。

 

 

 それも又、猫の気まぐれであったのだろう。

 

 本当に僅かな時間を過ごして、再び連れ出された後に振り返っても、それが何処であったのか思い出せず、見慣れた港湾に二人佇んでいたのである。

 

 朧が織田作を見上げて、矢っ張り可笑しそうに、くすりと笑った。

 変な顔をしていただろうか、と顔を触ってみても、よく解らなかったが……狐ならぬ猫に化かされて、きょとんとした顔でもしていたのかもしれなかった。

 

 

 

 

 

 




参考:萩原朔太郎の『猫町』

良い話です。萩原朔太郎、文豪の中では一番好きだったりします。
何時か文ストに出るんでしょうかね? 分かりませんが、一足早く作品だけ登場させました。


書いたら意外に出来が良かったので、後で手直しして時期的に合うところの本編に入れてもいいかもしれない。





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誕生日記念小話(10/26)

その日がやって来たとして、彼らの過ごす日々が変わる訳では決してない。
けれど、殺しから足を洗い、今も尚密かにその罪と咎を背負う自分でも……否だからこそ、未来までと贅沢なことまでは云える筈も無い、────今この時に、隣に居る人と少し笑える位のささやかな幸せを、何処か夢心地のようにも感じている。


※既存キャラ×オリ女主のR-15程度の描写(直接的)あります。


 酒場(バー)で飲んでいた時に「あ、」と何か気付いたような、それでいて上の空であるような、何とも形容し難い声色の声が小さく上がったのはごく近く、隣の席からだった。

 その声を上げた女と大抵は連れたって行動することの多い彼であったが、かといって互いに口数が多い訳ではない。

 頬杖ついて酒を傾けていた織田作は、ちらりと顔だけを彼女の方へと向けた。

 

 

「朧?」

「んー……?」

 

 

 なぁに、と常よりも間延びした声で、女は自身の上げた声にどうかしたのかと視線を受け止めて、機嫌よく笑った。

 明らかに酔っている。弱いのも理由の一つには成ろうが、何より彼女は飲み方の配分がとにかく下手であるのは既に識るところとなって久しい。

 

 

「作之助さん、そういえば誕生日もう大分近いんだねぇ」

 そんな詞に、云われてみればそうだったな、と思った。

 

 彼女が不意に思い出したのは急に冷えてきたせいであろうか、或いは家の周りに無造作に植わっている金木犀の仄かな薫りが強くなってきたからかもしれない。

 織田作の産まれたであろう季節は、そういった変化がよく感じられる時分だった。

 

 お互いが未だ大人になる前、未だ少年少女といっても差し支えないだろう歳であった時。何かの折にそんな事を話して、けれども孤児である彼女にとって不明である事もあって、表面上では二人共にあまり気にしてもいない事柄であった。

 …………付け加えるなら、生きていることを毎年祝うような、それに何時死ぬとも知れないのにその時だけ無責任に祝うなんてこと、彼女は絶対に出来る筈が無いということも加味すべきだ。

 

 だから、彼女の内心は別なのだろう──そう思っていて、真逆実際に詞として聞くとは思ってもみなかった。

 

 

(それこそ、彼女が不覚をとるようなこんな状態で無ければ、詞にすることも無かったのだろう)

「そうだな」

 

 

 否定する理由もなく頷いて、よく覚えていたものだ、と云うよりは気付かれないながらも気にしてはいたのか、という感想だった。

 

 酔っ払いの言動には困らされることの方が多いが、きっとこの時に限ってはこれで善かったのだろうと思う。

 ぽろりと飛び出して来る本人の深奥も、たまには外に吐き出させるべきであると織田作は思っている。彼女の内心は、そういう柔らかいもので出来ていることを、よくよく承知していた。

 

 何気無い風を装い、出逢った当初から変わらない凪いだ瞳の穏やかさにも、何かしら秘めるものは存在するのだろう。……いや、実際のところそれなりに長く付き合ってきた人からすれば意外と解りやすいのが彼女だから、この表現には少々語弊があるけれど。

 

 

 

 

 

 肘をついていた手を伸ばして軟らかな猫っ毛にそっと指を鋤かすと、矢張り猫のように気持ち目を細めた。酒に弱いから、織田作に比べればほんの少量の酒だけでももう酔いを全身に回してしまっている。

 うっすらと頬を染め、既にふわふわと微笑むのは、普段あまり表情筋を動かすことのない──もし笑ったとしてもそれはこの眼前のそれとは全く異なる、如何にもな日本人然とした曖昧なものだろう──朧からしたら相当に緩んでいる顔だった。

 

 そんな彼女を眺めて、途中からどうにも見ていられなくなってついと逸らした視線を適当にさ迷わせる。

 翠の眼が薄暗く設定されている部屋の影を溶かしてとろりとしているその様を、口に出したことは無いが織田作は一等好んでいて、けれどもずっと見詰めているには艶がありすぎる。

 空に成っていたグラスをもて余しているだろう隣の為に水を頼んで、織田作もまた手に持っていたグラスに残る水割りを飲み干して、少しだけ目を閉ざした。

 

 

「誕生日、か」

 

 

 返事が返ってくるのを既に期待してはいない。

 少なくとも今口にするには二人とも大人に成りすぎていたし、かといってそれを祝う年齢の幼少時代では、未だ戦後である世間は混乱の中にあった。

 

 きっと、同じ年代の彼らだって余程幸せな恵まれた家で無い限りは同じようなものだっただろう。

 生きるために行動しなければならなかった昔と余裕のある考え方を出来るようになった今では、自分たちの変化も含めてもう随分と、状況が異なってしまっている。

 

 

 

 ……実際、自分が産まれた状況がどんなものだったのか、織田作は識らない。

 ただ、『生きるために行動をしなければならなかった』割に自分はその事にさして意味を見出だしたことは無かったし、殺し屋として活動していた最盛期だって、仕事に対する自負があった割にはその方法自体に何かを思うでもなかった。

 他を殺してまで生き続ける理由を識らず、少女と出逢い、人並みの感情を抱くようになり、そして自分は殺しを止めた。

 

 ──……それは、自分が一歩踏み出す為のことだったとはいえ、自分が幼かったとはいえ。何とも傲慢で、身勝手なものだっただろう。

 

 

 人らしい情動をしっかりと自覚出来た今だからこそ、こんな自分が今になってその生を祝福されることに罪悪感と幸福と、気恥ずかしさがない交ぜになったような気持ちになる。

 

 ことり、と各々の目の前に再びグラスが置かれて、もう眠り込みそうな幼い顔を見せる女に手を伸ばす。

 

 

「朧、」

「………………ん」

「一口だけでも水を飲んでおいた方がいい」

 

 

 介護よろしく数口水を飲ませた直後、力尽きてしまったが如く突っ伏した頭に何かと手を伸ばしてしまうのは、最早癖でもあった。

 

 

 ──何処か機械的だった嘗ての少年は、人の心を識ってしまった以上、今更戻れる筈もなく。

 途中から一緒に歩いてきた、この到底綺麗とは云えない途を、それでもいっそ恐ろしいまでに手放したくないと感じる罪深さは、彼と彼女が男と女であった故なのだろう。

 

 

(…………嗚呼)

 

 

 こんな日に限って常なら居る筈の話し相手たちが居ないから、一人でこんなことを考えてしまうのだろうと思う。

 

 同様に口数の少ない店主が、先程出したグラスをそっと手で示して──今度は水で薄められていない酒を煽ると、案の定灼けたように喉がひりついた。

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

 ゆらゆらと、体が規則的に揺らされている。頬にひんやりとした物が当たっていた。

 ぼんやりとした頭のまま頬擦りをすると、摩擦熱か或いはぴたりとくっ付けたことで漸く熱が伝わったのか、温かくなったように思える。

 

「起きたのか」と少し意外そうな詞は、聞き慣れた声色だ。揺れが少しだけ激しくなって、緩慢に一つ、まばたきをする。

 一回すこんと寝始めたら、深く眠り込んで朝まで起きないような朧だったから、確かに珍しいことだった。ぼんやりとして、意識があるか無いかも微妙な状態で、目蓋はやけに重い。

 

 

「くすぐったいからじっとしていろ」

「……うん」

 

 

 はっきりと云う声は何時もの心地よい低さで、怒っている訳ではないようだ。体を預けている背中で響くような音はこんなにも近くで聞こえる声であったので、彼女を運んでいるのは間違いなく織田作だろう。

 何度も運んでもらっているのだろうが、そんな時は決まって眠りこけている彼女だったので、酒の残った頭は何が可笑しいでもないのに勝手に笑いを漏らしてしまう。

 

 耳を背に押し当て、とくとくと鈍く響く心臓の音に、何となく、生きている音だなぁ、という感想を抱いて目を閉じた。

 

 目蓋が厭に重たい。身体に力が入らない。然しそれは心地よいものでもあった。

 こうしていることさえ最早夢か現か──夢だとしてもきっと、この背中の高い体温が変わることはないのだろう。

 

 ゆらゆらと揺れる規則的な調子は、彼の足取りがしっかりしている証拠だ。まるで揺り籠のようで、多分もう少ししてしまえば完全に意識が落ちてしまう。

 

 

「未だ眠いだろう」と囁かれたように思う。寝ておくといい、とも。

 それがどうしようもなく愛しく感じて、夢心地の頭は何を思ったか、何の脈絡もなく「好きだよ」と返していた。

 

「……。突然だな」

「だって、云う機会無いから」

 

 

 ぽろぽろと、頭で考える間もなく口が動いている癖に、何処か他人事のようにも思うのはいっそ奇妙でもあった。未だ動き続ける口を、然し止める気などありはしない。

 本当に云う機会が無いのだから、今云わずして何時云うというのか。口に出したところで今更変わることのない強固な関係ではあるけれど、それとこれとは話が別だ。

 

 好きか嫌いかでいえば絶対に好きだ。一緒に居ることが当たり前になって、恐らく半身のようにも思っていて、もしいなくなってしまったら何か永遠に欠けたままになるのだろう、それくらいには。

 そして、それが自分だけでなく、お互いのものであるとも自覚している。…………人はそれを、依存と呼ぶのかもしれないけれど。

 

 

「こんな事が云えるのは、本当にいい夢だなぁって」

「夢、か」

 

 

 そう、これはきっと、気持ちのいい夢だった。少なくとも、異能者に成った日に夢見た不可思議な奴よりは余っ程、幸せな夢だ。

 

 ふふ、と笑う。

 これは夢なのだから、ならば何を云ってもいい筈だ。流石に素面で面と向かって、というのは気恥ずかしさで出来ないから。

 

 僅かに現実を感じさせながらも、優しくて温かな夢だと思った。

 

 

 ────本物に似た、夢のような。

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

 頭の回らなくなって、てっきり夢だと思っている彼女は、明日の何時か、起きた後に漸く『あれ』が現実であったと気づくのだろう。

 暫く聞いていた後に再び静かになって、背中に寄せられていた頭がかくりと傾き動かなくなった。

 こうなると理解していて連れ出される彼女も彼女だが、自分も人のことを云えたものではないだろうと、織田作は静かに苦笑を浮かべた。

 男性に比べれば遥かに小さく柔い体躯は、脱力しきってその身を任せきっていた。

 

 

 

 

 二人の住居である、ポートマフィア管轄下のアパートの一室へ程なく到着してから鍵を開け、電気を付ける。

 片手で女を背に固定したまま、眩い明かりに背中で小さく呻き声が上がった。

 

 寝台へそっと降ろし、今度は起きないことを確かめると、音を立てないようにそのまま浴室へ向かった。どんなに怠いことがあっても、一日の汚れや身体に纏わりつく硝煙の匂いを落とすのが織田作の染み付いた習慣だ。湯を頭から被り、目頭を押さえ付け、一日の疲れはじわりと溶け出したような気になる。

 石鹸でおざなりに身体を洗い、完全に温まる間もなく浴室を出た。疲れを取るための眠りに就く、その前の動きは習慣であってもどこか余計なものにも思えて、少し億劫であった。

 

 

 浴衣掛けで外に出るには既に涼しすぎる季節になったが、それでも部屋の中だけならば大丈夫といった体感なので、寝間着を温かいものに替えるのは未だ少し先になるだろう。

 

 体を拭き、髪を濡らしたまま、棚から同居人の分の浴衣も取り出したのは、外へ出る服のまま眠るのが窮屈そうに見えたからだ。

 

 寝台の方へと戻ってきて、先程転がしたままの体勢で変わっていない朧の服に無言で手を掛け、釦を外す。

 最早馴れた手つきは、きっと彼女がこの光景を見ていたなら介護と称しただろう──服を脱がし、下着だけになった薄い体躯に対して思うところが無い訳がないのだが、そこに被せる形で服を掛け、直ぐに織田作も寝台へ身を横たえた。

 

 天井を少し眺め、一息ついた音はどこかため息にも似ている。

 元々体温の低い彼女が、暖を求めて引っ付いてくるのは年中なのでもう馴れたものだが、織田作だって男だ。信頼の表れを裏切らない余裕くらいは持っているし、そういったところも含めた上で彼女がこうしているだろうとも理解しているにしても、時々どうしようもなく欲に駆られることはある。

 もう一度深く息を吐き出し、それから体を横向きにした。やけに近い寝顔を見ながら掛け布団を肩の辺りまで引き上げる。

 

 そっと頭を撫で付け、眠る人に気付かれない程度の密やかな口吸いを一度だけしてから、何事も無かったかのように目を閉じた。

 

 明日こそが自分の誕生日であるのだと、二日酔いの彼女は果してそのことに気づけるだろうかと思いながら。

 

 

 

 

 

(今日もこの日を無事に終えられたことに、感謝を込めて)

(明日が特別でなくとも……、ただ、こんな平和を享受出来る時間が長く続けば善い、というささやかな願いを、きっと彼女は笑わないだろう)

 

 

 

 

 

 




─次の日─

織田作「…………もしもし。あぁ、朧の仕事は入っていないのは識っているが一応連絡に。多分今日は調子が悪いから、急遽予定が入っても出られないだろう、と伝えておいてもらえると助かる。ああ、有り難う太宰。……この携帯? 朧の物だろう。本人なら今隣で寝ているから代わ────いいのか。(二日酔いで)動くのが億劫そうだから、今日はそっとしておく心算だ。体の力が(ここ数日立て込んでいた仕事と二日酔いのダブルパンチで)出ないと云われた。……ああ、明日には回復するらしいから問題ないだろうが、解った。また明日遭えたら」

朧「完全欠勤連絡はありがたいんだけど、何でか今日の頭痛は後を引くからなぁ。……それにしても作之助さん、それ多分、勘違い(R-18的な意味で)されてるよ?」
織田作「そうか」
朧「そんな、あっさりと……いたた、動いたら頭が」
織田作「じっとしておけ。今更困ることでも無いだろうに」
朧「…………うん。まあ、そうなんだけれど」
織田作「次いでに一緒に休みを貰えたのは棚ぼただった」
朧「作之助さんも今日はゆっくりしてね、ってこと? うーん……完全に『お楽しみ下さい』で気を遣われたよ、もう(´・ω・`)」
織田作「…………ふむ。ところで朧」
朧「なぁに?」
織田作「覚えてるかは識らないが、寝言というか、昨日の『あれ』は夢じゃないぞ」

朧「………………えっ」



太宰「…………」
安吾(通りすがり)「携帯じっと見て、何かあったんですか?」
太宰「ああ、今彼女の電話に出たんだけど──うん、織田作も男だったんだねぇ」
安吾「……はぁ、そうですか(察して何を今更、の顔)」




普通に勘違いされる。でも、朝のやり取りの後、当人達は家で一緒に(意味深)過ごしていたようなのであながち勘違いともいえない……?

作者の性癖が察せてしまう番外編、短編日常ver.~誕生日に酒を添えて~でした。
酔っ払って告白(今更)を口走る主人公が書きたかっただけの話。

と、いう訳で、織田作、お誕生日おめでとう!







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クリスマス小話 / A Starry Night

Merry Christmas! 今年最後の投稿になりそうです。


※ギリギリR-18未満の描写があります。
まあお分かりのように織田作とうちのオリ女主がくっついている未来の話なので、解釈違いです!!!!!の方は自衛、速やかに退避を宜しくお願いします。


 ざわざわとしたテレビの騒めきを、どこか遠くのものの背景として聞いていた。

 ぼうっとしている中に、微かな水音がしている。奥のところに置かれた浴室のシャワーは、今彼女と暮らしている男──朧の半身と云い換えてもいいだろう青年が使用中であった。

 

 強めに設定した暖房が部屋を暖めていくのを肌で感じながら、冷え込みやすい自分の身体を密着させるように膝を抱えた。

 窓の外はちかちかしたネオンの光が一際多く、寒い中でも街はそこそこの活気に溢れている。……私たちにはそうする余裕というか、暇はあまり無かったけれど。

 

 

 クリスマスに年越し、そして新年。

 イベント続きで浮つく時期の、その始め。そういう時こそ悪はこぞって暗躍するものだと、朧は身をもって識っている。

 比例して市警やらも出動する案件の多いこの時期、何故か犯罪者も浮わついているのだった。かくいう朧もその犯罪集団、裏に根を張る大組織、ポートマフィアに属しているとはいえ、同時に取り締まる側であったのだからその面倒さが分かるというものだろう。

 行事ごとにはしゃぐ悪党というのは余裕のある幹部か暢気な小悪党かの両極端で、大抵は後者でありながら、そういうのに限ってしつこい汚れの如く、なのである。割を食うのは何時だって、使い勝手のいい中間の人間である。

 彼女の異能の汎用性の高さ故でもあり、だから急な呼び出しもある。不定期な休みも程々に与えられているとはいえ、恋人こと織田作之助と休みを無理矢理にでも被らせた自分が人のことを云えたことではないかもしれないけれど、そう微苦笑をこぼした。

 

 なんといっても、此処は魔都、横浜なのだ。そしてその影の部分を如実に受けて育ったのが朧と織田作である。

 親しい者たちが集まるクリスマス──何故だか日本人の多くがそれを恋人たちのものとして認識しているが──、なんていうものは表の住人なら楽しいことになるのだろう。

 朧からしたら外つ国からやって来た異人たちによりもたらされた文化の一端、副産物だとそのまま捉えているところだ。日本人ならざる髪の色が頻繁に行き交うくらいには異人は流入していて、様々な民族問わず集まってくる以上は少なからず何かがあるからだろう。

 

 犯罪の温床にたんまりと栄養を注いでおきながら、その後始末の一部をして、副産物としてやって来た外つ国の行事に……それでも時が経てば順応してしまうものだから。そうなってしまっている自身に対して、朧はこういう時の自分の性分にたまに物申したくなったりする。

 今でこそ整備されて、表と裏の区分もしっかりとされてきているけれど、その区分がまるで意味を為していなかったことだってあったのだ。そしてそれはもう、人々の記憶から薄れた過去のことでもあった。

 

 

 何とか互いの予定を合わせて、一緒に帰る。何処か酒場(バー)やらで待ち合わせしてから帰ることは多くても、お互いの就業時間がぴったりと噛み合うのは珍しいことだ。

 途中で、いつもより手の込んだご馳走の並ぶ店の売り場を覗いたり、奮発して甘いものを買ったりしたけれど、そういう細やかな変化だったろう。

 特にからかってくるような人もなく、恋人どうし、家族で楽しげにするような人々ばかりの中を、周囲に特に違和を持たれるでもなく、すれ違いながら肩を並べて帰っていた。

 ……周囲に合わせてはみたけれど、それでもどちらも根が淡白なものだから、互いに過度な期待もないし、特別に何かしようとも話してはいなかった。クリスマス直前のこの時期にレストランの予約など取っている筈もない。

 

 それでも、強い調子で今日は急な呼び出しには絶対に応じないことを宣言するくらいはしている。

 幸いなことに、お陰でともいうべきか、連絡用の携帯は沈黙したままだ。──……それももう、電源ごと切ってしまう心算であった。

 そこまで気が入っていなくても、矢張り折角の休みは、とったのならばゆっくりとしたいものだったので。

 織田作の方は識らないけれど、まあ考慮していたのならおそらくそれなりの根回しをしているだろう。そこまで口を出す程野暮ではない。

 

 買った食事を並べて家でのんびり過ごそう、ということになったのだ。

 帰って、荷物を置いた後に冷えた身体を温めよう。そういうことになって、朧は今、部屋を暖めながら待っていた。

 大きめのソファーに膝を抱えたまま、ことりと倒れるように転がって、浴槽を洗うついでに先に入ると云ってから行ってしまった人が奥に去っていった扉をしばらく眺めていた。

 

 テレビの音を聞き流して、何時の間にかそれだけになっている。水音が一時消えたのなら、もう湯を溜めて入っているらしい。

 

「…………」

 

 朧が自分の冷えやすい体を考慮しなかった訳ではない。先に風呂を譲ったのは、単に何時もの習慣が実際行動にしてしまっただけで、彼から香る硝煙の匂いを流してもらう為である。

 私はどうなのだろうと思って何となく袖を鼻に当てて、すんと吸い込んでみると、煙草の移り香しかしなかった。

 

 おもむろに起き上がって立ち、ひたひたと裸足で歩いて居間を出て、脱衣所に入る。扉の先は、もわりと上がる水蒸気で曇っていて、隙間から熱交じりの空気が漏れだしているからか少し温かい。

 服を手早く脱いで、浴室に突入した朧に、浴槽に入っていた織田作が顔を上げてさして驚いた様子もなく「寒かったか」と云った。何時もの、落ち着いた、或いは平坦と云われるかもしれない声音である。

 頷きだけで返し、最初に湯を被ってから、躊躇うことなしに湯船に足から突っ込んだ。

 

 ざ、ぱん。

 水面が揺れた。冷えきっていた足先が、熱めの湯のせいか温度差でびりびりと痺れる。狭い浴槽の中では泳げる訳もない。もぞもぞと体勢を動かして、二人で入るには些か狭い浴槽なので、結局は織田作を椅子にするような形に収まった。

 当たり前のように二人とも一糸纏わぬ姿であるが、関係が関係であるのだし、実際こういうことが皆無というのでは無かったから、ただこうしているだけならば、そこに気恥ずかしさというものはほとんど無い。

 朧は男の体を背凭れにする形で落ち着いた。

 触れ合う肌が熱く感じるので、やはりというべきか。

「冷えている。先に譲るべきだったな」ひやりと低い体温は、元々の彼女の体質でもあったが、それにしても。

 

「うん、手足の先が少しね。…………何時もの習慣だもの、特に気にすることでもないよ」

 

 一緒に入れる大義名分になると思って、と薄っすらと微笑みすら見せる女が、その証拠とでも云うようにくったりと寄りかかって、体を無防備に預けた。

 

「……朧」

「なぁに」

 

 分かりきったことだが、意図的ではないからより性質が悪い。そういうことも含めてぐう、と男が喉奥で呻いたことにも、おそらく気づいてはいなかった。最初にその気がなくても、後から沸き上がってくるものもあるというのに。

 織田作はひっそりとため息をついてから、ぱしゃりぱしゃりと湯を女の浸かっていない部分にかけ始めることにした。体の端は一際だけれど、そればかりでなく、そもそも彼女の体温自体が低いから。

 触れている肩も織田作の肌とは遥かに違う冷たさでひんやりとしている。

 

 ひた、と濡れた手が暇そうに、そして織田作の気を引くような手つきで頬から顎にかけてするすると擦るように撫で、温かさに目を細めて朧は「髭剃ったんだ」と呟いた。

 特に大きな意味はない、会話の間を埋めるような台詞だった。

 

「厭か?」

「ん……いや、ではないよ。ただやっぱり、髭が無い方が少し幼いね。私の方が歳上なんだなあって思わされる」

「……大して変わらないだろう」

「まあ気持ちの問題だよねえ。お仕事だったら髭あった方が年食ってる感があっていいだろうけれど、私はこっちの方が好きかな」

 

 彼らの少年少女期。早々に背を抜かしてしまってから、ほんの一、二年でしかない歳の差は寧ろ、普段は逆転しているのではと錯覚してしまうくらいだ。その為か、時たま自分が歳上であることを確認してにこにことしている彼女の好きにさせている。

 織田作が改めて視線を向けたところ、朧も寄りかかったまま見上げるようにしていたので、黒混じりの若草の瞳の中に自分を発見して少しむず痒いような気持ちになった。

 

「作之助さん?」

「……いや。大分温まってきたな」

「うん?まあそうだね。おかげさまで、かな」

 

 朧が織田作の鳶色の瞳を好んで覗き込むように、織田作もまた朧の目の色の鮮やかさを好んでいるところがある。安吾は蛍石のようなと云うのだろうし、翡翠にも似ていると形容されるところを聞いたこともある。

 織田作にとっては、萌え出づる若葉の色である。

 

 するり、と当てられたままの手が、何も意図して行ったのではないだろうが、男の奥底に静かに燻っている欲を煽った。

 

 

 

 忘れているかもしれないが、この戯れは互いとも一糸纏わぬ密着状態での話であった。

 特別変に挙動をさせないまま、流れるように頬に添えていた手を掴まえられて、どうしたのかと思ったところに顎を持ち上げられた朧は、薄い唇に噛みつかれてぱちり、と緩くまばたいた。

 

「……」

「ぁ……ん、ふふ」

 

 割とすぐに解放されて、特に官能を感じさせるものでもなかった。

 ただ、それが文字通り甘噛みであり、同時に軽い『お強請(ゆす)り』であることに気づいた朧は、何かが可笑しかったのかくすくすと笑いをこぼす様なので、機嫌を損ねた訳ではないようだった。

 ただ、寄りかかっていた体を捻り、男の首筋に遊ぶように軽く歯を立て「未だ茹だりたくは無いかな」と囁いたその耳が、ほんのりとでも色づいていたので。頭に血が昇るまではないけれど、かといって一方通行で無いことは明らかであった。

 懐に入れる者には特別寛容で、感情も他人が居る時より余程動きやすい彼女は、こういう類いの慣れないことだけは恥ずかしがる。そういうところは、変わっていなかった。

 

 ……まあ、逆上(のぼ)せてしまう前に上がってしまえ、ということだ。

 互いに離れがたいことだけははっきりとしている。もし離れなかったら、それこそそのまま睦み合いの段階になって、出る機会を逸してしまうことは確定だったので。

 

 織田作は大人しく浴槽を抜け出してから、浴槽に一人になって縁に肘つき体を洗っているのを眺めている朧と、ぽつりぽつりと今日あったことの話をした。

 髪を洗って、流して、それから体を泡だらけにしていく。女が面白がっているように見詰めていることはあまり気に留めず、口だけは滑らかに動いていた。

 

「終わりそう?」

「うん?」

「交代。私も洗うから。……少し待っててくれる?」

「もとよりその心算だったが」

 

 ああ、と頷いてからちらりと向けられた目に、何かしらの意図を感じることは容易だ。

 

「……あのね、作之助さん」

「どうした」

する(・・)としても、食事して、その後だからね」

 

「楽しみにしている」そう、一瞬に満たないくらいだが、表情の乏しいこの男が、しかし確かに獣の眼を見せたことを朧が見逃す筈もなく。

 軽く微笑んで、けれども、それだけだった。

 明日の体に心配もあったが、それよりも尚、置いていかれないことの方が、より重要であったので。

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

 クリスマス、というが、異人が当たり前のように行き交うようになったのがここ数年であるので、聖夜だ何だというよりも、年末としてしまった方がしっくりとくる。

 ただ、商業戦略上、そしてそれに乗せられる世間の流れというものなのか、人気映画の放映や特番がテレビ表を埋め尽くしている。自分も男も、さしてテレビに熱中する性質ではないのだが、と朧はそっと息をつこうとして、食べ物で占められている口の中であったので、大人しくもぐもぐとしていた。

 

 風呂から二人出て、暖まった居間での食事中、互いに食べている間というのはお喋りには興じないことがほとんどであるので、背景音とばかりに流れている番組だけが賑やかだ。

 裏の人間には無縁の代物だし、そもそもそういう殺伐とした中に身を置いている人がこういうのを面白がらないのは、それを娯楽とするゆとりが無いからでもあるし、また自分とはかけ離れた、次元の違う別世界と捉えてしまっているからともいえる。

 彼女の養い親は何となく旧時代然とした雰囲気の抜けない人で電子機器など似合わないし、実際触らない。織田作に縁ある殺し屋も、もしかしたら面白がりはするかもしれないけれど、あれは生身の人間の観察を何よりも好んでいるから興味はなさそうだ。

 太宰はそもそもこの世界自体を斜に構えている節があり、安吾は大体せかせかしていてそんな暇もなさそうである。

 周りがすべてそんな調子であったので、つまり、テレビという家電が何故此処に家財としてあるのかも定かじゃないものであり、かといって使わないのも、ということで流されているだけである。

 敢えて補足するなら、朧は織田作との間にある静寂も好んでいるけれど、たまにならば、こういった静寂の中で聞き流す為の雑音という役割も有りなのかもしれない、とは時に思ったりしている。

 

 ことり、と箸を置いて、手を合わせる。

 男が、少し前に食べ終えていた癖に同じ頃合いに手を合わせて、その後直ぐに椅子から立ち態々向かいの私の席にやって来た。

 手を引かれて、テレビの前のソファーにぼふん、と二人して倒れ込む。

 

「読書は?」

「今日はいい」

「……そう?」

 

 世俗に疎いまま幼少期、少年期を迎え、やっと出来た趣味も物書きというものだったので、食後に得物の銃の整備か読書、または日記の書き込みに勤しんでいるところだが。

 こういう距離感は珍しくないが、それでも、何もしないままにこうしているのも珍しい。

 

 男の胸の辺りに鼻先が当たっていて、ふわりと同じ石鹸が香る。──昔の、殺し屋としての彼ならば、自ら、意図してでは決して許さなかっただろう距離感だ。

 なるべくしてなったものだと、『告死』なら笑うかもしれない。緩やかな変化が、けれども此処まで至ったことには自分ながら感嘆に価するものだ。……今なら毛頭手放す気などないと云えるけれど、最初に『告死』に有るかも判らない未来を語られた時は、全く信じられはしなかったものだ。

 

 寝間着越しにもそれなりに鍛えられていると判る筋肉を感じる背中に手を回して、こつりと額を当てる。動じた様子もなく、男の方からはテレビの画面が見えている筈なので、それを眺めているのだろうか。

 いずれにせよ、警戒することもなしにこんなことが出来るというのは、前の彼なら誰にも許さなかったに違いなかった。……そして、それを引き出したのが他ならぬ自分であるということも、朧には少し優越を感じさせるのだ。

 

 悪の道を邁進──というには語弊があるが、着実にそちらの方へ進んでいたことは確かだ──していた少年は、普通なら悪意に曝されてすれた(・・・)性格になってしまうのが普通である。

そこを、そのくせ誰よりも透明であるのだから、世俗慣れしていない天然の発言やらが改善されていないとはいえ、およそ人間らしさにおける成長が著しくなってきたのは。……明確に二人が恋人と位置づけられるようになったここ数年のことである。

「放っておいたままでもいずれそうなっていたことは分かるけど、どういう過程を経てそうなるのかは想像もつかないね」と云ったのは、その放っておくことが出来ずに手を出して、勝手に橋渡し役をしてきた張本人の言であるし、……実際そういう橋渡しが無かった場合、果して此処までの関係になり得たのだろうか、と朧は思う。

 

「……」

 

 何となく後頭部に視線を注がれて始めているような気がする。テレビなぞ眼中にもないことだけははっきりした。

 吐き出した詞を呑み込むのは今更不可能である。

 素知らぬ顔を決め込むことも出来ないが、かといって、食べてくださいという──内容的には勿論性的に、である──のも、いざ言うのは恥ずかしい。求められれば受け入れるが、誘いかけをするのがすこぶる苦手なのだ。

 ……まあ、既に心身共に捕まっている以上は、注がれ続ける視線に抗うことも、気付かないふりを続けるのも正直限界ではあったのだけれど。

 

 わかりやすい。

 表情が薄い人間も、長い付き合いであるならば、それこそ目は口ほどに物を云うくらいには察せられるようになるだろう。まして目を逸らさない無言の訴えであるならば、なおさら。

 

 朧が人の視線に疎いのは、今に始まったことではない。隠れ狙われ、何かをされるような立派な人間ではないし、何よりも平穏を是とする人間には余分な鋭さである。

 同時に、改めて裏社会に居ることを受け入れた少女期よりは格段に気配に気を配るようになったのもまた、確かであるのだ。

 魔都横浜、異能のせめぎあい。(しのぎ)を削るのは、人間の領域を凌駕した戦場の前線。

 

 ──異能者として矢張り同様に、個人により異なる力を奮う自分は、嘗ての寂しがりな疎外感を最早殆ど持ちえてはいない。

 

 

 孤児院時代、自分が異質であることを悟った少女が、家族同然に愛していた子供たちとは相容れないことがあった。

 外に出てから、引き寄せられるように出会う同類たちの、その一人が正に分かたれた半身同様の存在として居られる幸せが、あの頃抱いた気持ちから変質してしまったことに、気づかない訳がない。

 

 朧に倣うように、彼女の後頭部に添えられた指が、髪の下を潜って、催促するようにやわやわと撫でる。

 近すぎる距離故にか、視線は途切れる。代わりにとでもいうように肌の熱が、熱かった。

 物理的な攻撃力があれば穴が開きそうなほど、じっくりと視線を落としていただろうものがなくなって、少しほっとする。

 

 ……彼は、表面的には淡白なように人の目に映るし、実際そうなのだけれど。

 ただ、それは何か譲れない物をひとつも持たない人間としてのもので、本当に何も無かったのは、彼にはもう昔の話だ。

 

 私と同様に、男の譲れない一点として存在するのが私であった。

 重いとは思わない。苛烈でもない。

 表面に出すことなんてあまりないのだろうし、それを見たとして、目にするのは親しい誰それのもろもろを含んでもきっと当人たる朧くらいなのではなかろうか、なんて思いもする。

 異能は、その人間の本質が形になったものらしいというから───何の根拠もないのだけれど、かといってこれは一蹴されようにもできないことだ。

 彼の異能は、数瞬先の未来を内包している。啓示と思考、選択。生存に関して出来うる限りの最善を()き続けてきた男。

 こんなことを云ってしまうのは、こじつけかもしれない。けれどそういう男だからこそ、私の見る限り、織田作之助は周りが思っている以上に執着心が強いのだ。さながらどろりとしたタールのように重い独占欲であって、時々それが空恐ろしく思うこともあるけれど──もうそれすらも愛おしいと感じてしまう、むしろ安心できる重石だと思うのだから。

 

 先に手を伸ばしたのは私だけれど。すがる相手として選んでもう馴染んでしまったから、逃げられないし、逃げる心算もなくて、ならばもうそれでいいだろう、と。

 

 

 もぞり、と動いて、ごく至近距離の、今まで見上げていなかった男の顔を朧は見上げた。

「作之助さん」と囁いて、その声が自分から出たことにひどく驚いた。かっと頬が紅潮して、これが自分の声だったかと疑う程には、艶っぽい声だったからだ。

 恥ずかしさを隠すようにぺしぺしと背中に回した手で叩いて、緩まった腕から這い出す。密着していたところの熱がひどく名残惜しい。

 ふっと、男が雰囲気だけで笑ったようだった。

 

 腕から這い出した体勢のままに、つきっぱなしだったテレビの電源を消した。ぴ、と音がして、ばちんと画面が黒くなる。背後の気配が動いて、織田作も身体を起こしたようだった。

 少し身を捻って彼を見る前に、肩に手を回されて、そのまま斜めに寄りかかる。

 何の音も無くなって、ひどく静かだった。朧と織田作の息遣いだけが、ひそひそとあるだけ。

 

「良いか」と了承を求める声があって、もう何度かしていることなのに、始まるまでがとても緊張するのは、これからも変わらないのだろう。

 

「食事して、その後にと云った」

「……うん、忘れてないよ」

「……」

「良いか、って云われても──」

 

 

 わたしはもう、あなたの物なのに。

 聞かせた詞は、星の煌めきにも似ていた。

 

 それともこういうことは、結婚した男女が云うべきことだったろうか、と思い至る。愛が重いのはお互い様でもあって、きっと、朧は他の人間よりも強くそれを自覚している。朧が織田作を人生の錨にしていることを。

 悲観的で、人一倍感受性が高くて、傷つきやすい。そのくせ絶対に心を壊すことがない女には、いつか再び、大切なものを失ってしまうのではという疑念が付き纏って離れない。

 解っている。大切なものは、何だって何時しか喪われるものだ。それでも、その未来、得たもの全てを失い、置いていかれることになれば──もう二度と立ち上がれない、そんな予感があった。正気を失わないままに、絶望し続けるという拷問を、朧は耐えきる自信がない。

 

 抱えられるようにして、寝室まで引っ張られていく。見上げれば、男もまた朧を見下ろしていて、鳶色の目を一等気に入っていたので、繰り返し見入られ続けている。

 硝子のような眼をした少年だった。緩やかな変化をして、今はもうとっくに大人で、どろりと熱の籠っているような熱さすら感じそうだ。

 朧は何となく泣きたくなって、ぼんやりと、うつくしいものを見たと思った。

 

 寝台に腰掛けて、掛布団を足元に押しやる。同じように並んだ男が身体を引き寄せて口づけた。

 濡れた高い温度に、それだけで熱に浮かされたような心地になる。口内の奥に、怯える動物のような舌がいて、織田作は、震えているそれを容赦なく絡めとり引きずり出した。

 

「ん……」

 

 鼻に甘くかかる声。息継ぎが下手な人の動きの拙さにでも加減はしない。……云わなければ解らないとばかりに、男は女が限界と肩を押し出す仕草をするまで黙って唇を食んでいた。

 何度か重ねた行為であったゆえに、緊張で固くなりかけた身体をほぐすくらいならば待つ余裕があった、ともいえる。

 

 朧の膝がふるりと震えた。必死になって男にすがりつくような形、自分の体を支えようと力なく胸に手を置いて、そこでようやく口を解放してやれば、どちらのものかもわからない唾液がつっと糸を引いた。

 

 力の抜けた体を横たえさせる前に、寝間着をたくしあげる。胸の大きさのせいか、或いは単に息苦しいものは就寝まで身につけないからか、朧は下着を身につけていない。

 

 体温が低いせいもあるだろう、生白い肌がぼうっと浮かび上がるように光っていた。

 甲斐甲斐しく脱がせたものを後ろへ放った後に、その肢体に織田作は指を滑らせる。──……すべての男がそう感じているのかは定かでは無かったが、織田作は、恋人と肌を重ねる度に、新雪に触れるような気持ちになるのだった。きれいなものを汚しているような、そんな背徳感である。

 

 普段姿勢のいい背中が快楽に丸まっていて、ぴくりぴくりと震えているさまは、余計に神聖な物が手中にあるように思わせた。

 

 指先がつつ、と白い皮膚の上を滑っていく。

 首の後ろから浮いている背骨に沿って、かさついて熱い指が丁寧に撫でさすった。

 熱い息が(うなじ)に掛かって、朧は酸欠でとろりと溶けそうになっていた思考をわずかに戻した。ぶわりと全身の毛穴が開くような反応は、本格的な行為に対する危機感への反射か、或いは興奮だったのか。

 

「……っ」

「朧」

 

 一瞬、力が入らないながらに息を詰めた私の肩を持つようにがっしりと腕が回り、有無を云わさず身体ごと引き倒される。

 言い聞かせるように、あやすような口調。けれど普段の冷静で平坦な声色ではない。……きっと私しか知らない。どろり、耳から流し込まれて、内側から灼かれてしまうのではないかと思うくらいの──ぞっとするくらいに艶を帯びた低い声だ。

 

 なんというか、声がいい。朧の好みど真ん中の、腰を砕けさせにかかっているような低音。全身が性感帯になったかと錯覚さえ抱かせるくらいには弱いのだ。そして、この声に名前を呼ばれるのが弱いと知っていて、耳朶に直接吹き込んでくるのだから、性質が悪いというよりは使いどころをよく理解している。

 朧の方が年上だといっても元々威厳も無かったし、こと今のような状況だと正に今、こういう風に大体の女は男に組み敷かれてその弱点を晒してしまうものだろう。

 

 至近距離の茶褐色の瞳は、食事の時に飲んでいた酒精によって潤んでいるが、それだけでなく、昔には無かった、雄の本能というものをちらつかせており、双眸の奥にゆらゆらと揺らめいているのが見える。

 あぁ、と感嘆混じりに呻いた声は、私のものだった。

 

「綺麗だね」

「……俺が云うことではと思うが」

「私がそれを肯定しても…………んん、ぅ!」

 

 するりと、指が臍の下──胎の、男を受け入れるところをなぞって、身悶えする。幾つか折檻の傷痕のうちの数個が残っている肌は、周りよりも皮膚が薄い為か、敏感に、産毛が逆立つようなもどかしさで受け入れた。

 

 人でありながら、鏡のように素直だな、と思う。

 渡した愛や恋情の類いを、今この時に纏めて返されていることを、勘違いとは思いたくないし、思えもしないのだけれど、幸せだと思う。同時に、私がこの男を果して真に自分のものとして構わないのだろうか、という不安があることも事実だ。

 

 少年期と比して随分と精悍さを増して、子供特有のまろみのあった肌は大人のものに変化した。整った容貌はやはり、溜息が出るほど美しい。

 成長と共に身長はとうに抜かされてしまった。曲がりなりにも貧民街で、様々な脅威を回避しながら生き延びてきたからか、恋人もその例にもれず、日々の中で培われたしなやかな体は無駄なく鍛えられて引き締まっている。

 

「子供の頃の俺は、正に植物のようだったと、今ならわかる」

 

 お前が俺を人間にしてしまったのだ、と。

 相変わらず言葉は足りないが、その詞が結局何処へ向かっているのかは、何への合意なのかは、聞くまでもない。

 止める気など起こさせないまでに追い込んでおいて、一応こちらの意志を訊いてくるあたりは、なんというか可愛げがなく、ふてぶてしい。

 こういう有無を云わさないで、しかし最後の選択を朧に委ねてくるのは、彼女の養い親を彷彿とさせた。ついでに思い出してしまった『告死』は、きっと明日ひょっこり顔を出してきた挙句に「昨夜はお楽しみでしたね」をしてくるのがこれまでのことから容易に想像できる────少し腹が立ってきた。

 別の人間のことをちらりとでも考えたのが伝わったのか、がぶりと耳朶に噛みつかれる。

 されてばかりいるのも癪で、服を着たままでいる男の襟を掴んで引きずり下ろし、今度は自分から口づけた。……もしくは、喰われにいったといってもいのかもしれない。

 いちいち聞かなくても、解るだろう、と。

 

 その了承を理解したのか、完全に「あ、もう逃げられないだろうな」という目付きになって、それに歓喜してしまう自分が奥底に居るのだから、最早救われない。

 心の中だけで、ああ、と何度洩らしたか分からない溜息の中には、きっと感じるには未だ早いとしか思えない恍惚(エクスタシー)すらあったろう。

 

 私には、到底勿体ないひと。

 壊れかけていた少女の心を繋ぎ止める楔にされて、それを何も識らないままに受け入れながら、辛抱強く隣にいてくれた無二。傍に居てくれて、手を離さないでいてくれた。

 気づいた時から自分に頓着したところがなく、自分以外の子供の為に自身を費やすことを是としていた。自分以外の命という、尊いものの為に献身するように生きていて、異能というものが芽生えなければ恐らくそのままだったろう。

 苦しいこともあって、けれど、自分の欲の為の選択とは、誰かの為という免罪符を排している以上はそういうものだ。

 

 目の前の人間と、何も繕うものなしに向き合ってしまえば、私はただの女だ。そうあって欲しいと望まれて、私がそれに否と云う理由がない。

 

 

 邪魔そうに自分の服も脱ぎ捨てた体に、腕を伸ばして朧が招く。織田作が近づいたところにすり寄ってきて、彼女のさらさらとした猫っ毛が首筋を擽ると同時に、ふわりと女の甘い香が石鹸に混じって鼻を掠め、くらりと眩暈を起こさせた。

 同じ物を使っているのに、その体臭には風呂を上がった後でも多様性があらわれる。

 ……若葉の目がとろりと蜜のように蕩けて、ささやかな胸すら(こういうと怒られるので云わないが)色っぽいのは、惚れた者の贔屓目であろうか。

 

 こういう行為の時、ひんやりとした心地好さ、安心を与えてくれるものすらもどかしくて、皮膚すら邪魔なようにこのまま融け合ってしまいたいと思うことが織田作にはあった。低い体温に、それでも確かに生きて動いていることを、服すら取り払っても未だ遠いと思ってしまう。

 

 ただ、そんなことが現実に出来る筈がないので、傷痕を丹念になぞりあげて、涙目での非難と快楽の入り交じった表情に確かな愉悦を感じながら、柔らかな胸元に吸い付いて紅梅を咲かせる。

 時間をかけて、何度目かの体を拓いていく行為は、ゆっくりと緩やかに──最後にはぐずぐずに融かして、色々なものを、理性すら取っ払ってしまうくらいになるにはどれくらいかかるだろう。

 

 夜は長い。その上、過ぎたものに泣いてすがられても、未だ若者といっても差し支えない男の欲を止められる者はこの場にはいない。

 

 

 

 女は自分を卑下するきらいがあるから不安に思うことがあるらしいが、それでも、事実として、何も持たない人生に彩りを与えてくれたのは、他ならぬ朧という少女であった。

 何もないなら、今から少しずつ得れば良いと。遅くはないのだと諭して、そうなった人間の弱さも思い知ったけれど、そんな欠点を覆い隠してしまうくらいには生きるという営みを尊いと思ったのだ。

 少しずつ重ねた年月、会話。対話しようという詞。子供の児戯のような温もりを分けあう触れ合い。──…………何度、救われてきたか。

 

 多分、心を学んで、当たり前のことを知っていき、その過程で、意図せず少年は心を守られた。

 もう自分は、たとえ朧が望んだとしても、逃がしてやるようなことは──離そうにも、そうしてやれそうにはない。

 この女しか求めていないのだと。最早そうでなくては駄目なのだ。

 心を育んでくれた女のことをどれ程に愛しているのかを語る語彙力を、男は持ち合わせていない。

 

 そのくせ、矢張り朧は自分が救われたとばかり思っているのだから、此方の想いの重さを見誤られて不満であった。

「幸せになってもいいのかな」と──初めて肌を重ねたその夜に、熱に浮かされたまま、ほろりと女がそうこぼしたことがあって。だから織田作は、識っている方法で以て愛そうと思ったのだ。

 多分、本当に理性を飛ばしていた時に溢れた本音の一部だったので、実際には、彼女は自分がそう口にしたことを覚えてはいないのだろうが。

 

 

 不意に、ほっそりとした指が湿り気を残す生え際をそろりと撫でてきて、織田作に何を見たのか、女が仄かに笑った。

 熱い吐息で快楽を逃がしながら、淫靡な手つきで手を伸ばし──その上慈しみすら感じさせるのだから、「あなたの隣が欲しいな」と何時か暗がりの中で女が微笑んだあの時から二人、随分と変化したものだなと思う。

 生白い肌に、幾つもの花が咲いて、彼女が自分の愛の丈を正確に識る時が来るのは何時になるだろうかと考える。

 

 

 

 女のさ迷わせていた自由な手を、一つ一つ、指を互いの手の合間に差し込む形で絡めて、ぎゅうと握りしめた。

 末端までひんやりとした、しかし血の通う一人の人間。生きてここにいることを、命の鼓動があって、彼女以上に大切な存在を織田作は識らない。

 

 ──わたしはもう、あなたの物なのに。

 

 その存在に「自分のものだ」と云いきるような、傲慢さに似た勇気をふるうには未だ何かが足らなくて……願わくは、その日が来るのが、遠い先にならなければいい。

 

 お互い理性をどろどろに溶かして、何も考えられないくらいに溺れる夜闇、窓越しに星がちかちかとまたたいていた。

 どちらかが生唾を呑み込んだ音がして、途切れ途切れにでも続いている水音、喉仏が動き……ふと、女が口を開いて云いかけたところを阻止するように口を塞いだのは男の方で。織田作は朧の発しかけた詞を端から喰い尽くしてしまうくらいに深く、舌ごと舐め貪った。

 

 ──わたしがあなたを愛し続けることを、あなたは許してくれるだろうか。

 

 ふわふわとでも辛うじて残っていた理性はついにぱちんと弾けて、女が何を思って何を云いかけたのかをもすべて押し流していった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




織田作を拗らせて「誰かと幸せに生きてるのが見たい!!!」で書き始めてから早くも二年、何故いまだにくっついていないんですか!!?!!!!?となって色々と箍を外してしまった結果。取り敢えずこれが今私に書ける最大限の純愛です。
大変だったし鎮火したのでもう二度とR-18に近い作品は書かない……多分。読者の要望と織田作への思いと今回詰め込めなかった性癖を書きたくなった場合は検討します。


※書くにあたって気をつけたこと
・個人的に織田作はR本番直前の準備とかがめっっっっっちゃねちっこいのが性癖。あと朧さんは口づけが好きな印象。
・二人の触れ合いはRいかないまでも割と詳細に:実際やってるの一緒に風呂入って口づけ何回かして服脱いだくらいだしセーフでは???(ガバガバ判定)
・肉欲を含んだ愛について、どれだけ神聖みある風に書けるのかの試み:性に直結する感じに思われるような単語はあまり使っていないつもり。
・黒の時代より少し前の出来事であることを鑑みること。
・本人たちに「愛」という言葉を軽々しく使わせないこと:後半は内容的に無理でした。
・雰囲気は艶やか×淑やか◯に

※※補足
最後ちょっと不穏ですが特にどうといった意味はないです。
朧ちゃんが微妙に、自分が愛されている度合いをきちんと理解していないところがあるのは己を卑下している故。そこのところを織田作はちゃんと承知しています。
なので実際は織田作→→→→←←←(←)朧くらいのつもり。
つまりどっちもどっちではあるけれど、彼の方が実は重い。()の部分は兄を亡くしたことによって朧さんが拠り所としたのが織田作であるという、愛やらは関係ない領域のところです。

……感想貰えたら嬉しいです(´・ω・`)モチベーション的に。



お粗末さまでした!





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第一章 遥か遠き過去からの
第一話 或る夢


※転生云々は作者が既存の作品を異能にすることに抵抗があって付けられた設定ではありますが、理由は他にも一応あります。
人によっては地雷の可能性。ご注意下さい。

※※
第一章……主人公が異能力について自覚するまでのあれこれについて。
ほぼオリキャラで構成されています。



 それは、夢のようにも思えた。

 

 

 空白の部屋で老人とテーブル越しに向かい合わせて座っている。

 老人はテーブルの上、私の前に様々な本を置いていた。

 

 私はそれらを見渡している。

 表紙は何故か真っさらで、題名(タイトル)も何もない。

 

 

 並べていた彼曰く、──それらは、私も知る今は亡き人の小説たちであるという。

 私は最早覚えていなかったが、確かに一度は手に掛け憧憬を抱いた、誰かの作品らしい。中身について、そう教えられた。

 

 

 事態がいまいち掴めないが、私は相槌を打った。

 どう応えたら善いか見当がつかなかった。

 

 多少引っ掛かるものが在って、けれどそれだけだったのでそのまま暫く、喋らずに眺める。

 

 

 

 そうすれば、不意に──どんな物語を描きたかったのだ、と問われた。

 

 

 質問の意図を計りかねて、如何(どう)いうことだと聞き返せば、此の本たちの中からただひとつ、お前の真理を与えようと云う。

 其の為に私は此処に居て、其の為に此れらの本は私の目の前に在ったらしい。

 

 

 

 ──そういえば。

 

 

 確かに、物書きに為りたいという事実を、記憶が蘇るかのように認識……(もとい)、思い出した。

 同時に此の状況にも納得がいった気がした。

 

 逆に『その記憶』以外はまるで覚えていなかったが――気にならなかった。

 私は其れらをとっくりと見詰めてみた。

 

 

 そうして暫くの後──感じ入るものは何も無かった場合、問い掛けの答えには「無い」と云っても善いのかと、老人に尋ねた。

 

 其の言葉に、怒るでもなくそうかと老人は云い、更に何故その答えに至ったのだと問うてくる。

 

 

 

 云いたくない訳ではなかったので、応えた。

 

 老人が云うに、目の前の此れらは私以外の誰かが書き上げた作品であり、中でも私が特に憧憬を抱いただろう人の本らしい。

 覚えてはいなかった。

 

 だがそう、理由をあげるのならば……私の中にある事実が、『別に真似したかった訳ではないのだ』と云っているような気がした、からだ。

 

 

 ──憧憬は抱いたし、彼等に一寸でも近づければと思うことはあった。

 だが、真理ではないだろう。

 少なくともそれが他者から与えられたとして、私はそれを許容出来まい。あくまで私は私の、何かひとつを遺したい。

 

 確かに他人の物であるそれらを、私の手で取り出して、「此んな物語を描きたかった」など、云える筈もない。

 何より、幾ら云った所で、もう遅いのである。

 

 

 

 

 

 私はもう、死んでいる。

 

 小説を書こうと向き合い、文章を綴り、……恐らくはああでもないこうでもないと書き直しながら、されど一つとして完結迄作品を描き上げるには至らなかった、小説家未満の物書きであった。

 

 私は何も遺すことの無いまま、死んだ筈だった。

 

 

 

 

 私の話を向かいで聴いていた老人は、一寸(ちょっと)黙りこんでから口を開いた。

 

 

 ──貴様は確かに死んでいる。其の記憶の貴様は、嗚呼確かに死んでいるだろう。

 

 

 曰く、此処は死の先の場所であり、私の生はそこを乗り越えて更に続いていくらしい、と。ただそれだけの話である。

 ……一度生を終えた後に私は、再び歩み始めねばならぬらしい。

 その為の場所であり、その為の質問であったのだと、理解する。

 果たしてそれが自分の望みであったのかそうでないのかは、皆目見当もつかなかったが。

 

 

 ──本当に「無い」という応えに後悔しないのだな、という確認は愚問であった。

 

 ──変な質問だ、と感想を云えば貴様の答えも十分変だ、と云われた。

 

 

 答えがそれならば、手続きは終わりであった。

 椅子から立ち上がれば、老人は不可解な言葉を口にした。

 

 

 ──ならば貴様の異能(ちから)は、貴様自身のものとなるだろう。

 

 

 何を云われているのか、果してその言葉は手向けであったのか。

 

 

 ──(あら)ゆる最後を恐れろよ、小娘。道は長く果てが無く、それでいて有限だ。

 

 

 言葉の意味を理解しきれないまま、尋ねようとそう口を開きかけるが、……然しそれよりも早くに、視界は黒く暗く、塗り潰される────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夢を見て、そんなやり取りを思い出した。

 

 

「…………ぅ、あ」

 

 

 目覚めて、()ず私は呻いた。

 古ぼけた天井が遠く見える。

 腹の辺りは水に濡れそぼる布が在るくせに妙に熱い。

 一寸(ちょっと)してから、そういえばそこは火掻き棒を押し付けられた場所であるということを(ようや)く思い出した。

 

 

(おぼろ)姉が起きたよ!」

 

 

 近くで子供の声がした。

 此処が孤児院であることから、至極当然のことだった。

 声の大きさからするに、どうやら近くに此の傷の犯人である院長はいないらしい。

 近づいてくる足音の数は心なしか多いように思える。

 

 

 ──それを己が当たり前に受け入れていることに、奇妙な何かを感じた。

 

 

 私は朧だ。

 孤児院に長く居る子供の一人である。

 

 ……然し、同時に■■■でもあった、らしい。

 そこには、朧ではない()が居た。

 

 ()という朧が、こうして在ることに何の違和感も覚えないのは、まるで足りなかったものが補われたような、元の朧と一つに意識が溶け合ったような、そんな感じだからだろう。

 よくよく考えてみれば、奇妙な話だ。

 

 

 足音はどんどん近づき、何人もの幼子に覗き込まれる。

 顔を横に向ければ、何だか押し合いへし合いして一人、群れから弾き出されるようにして向き合った子供がいた。

 

 

「ごめんなさい……」

 

 

 顧みれば、──ああ、確かこの子を庇って代わりに罰を受けたのだったか。

 

 

「良いの。大丈夫だから、ね」

 

 

 此んな小さな子供が同じようにされたとして、酷い火傷、程度で済むわけがないだろう。まだ骨も柔らかい童なのだから。

 ゆっくりと起き上がって、その子の頭を撫でることにする。

 

 

「だから謝る代わりに、代えの布と、それから新しい水を持ってきて?」

「……うん、わかった!」

 

 

 一人輪から抜けて走り去っていく子供を、見送っていく。一人だけ足音が遠ざかる。

 

 

「朧姉、痛い?」

 

 

 入れ替わるようにそう聞いてきたのは、私を除けば一番の年長になる少年……然しそれでもまだ十にもならないだろう。

 私も、およそ十一、くらいか。誕生日が分からないので定かではないが。

 

 

「痛いよ。だって久しぶりだもの……念入りに水で冷やさないとね」

 

 

 肌と温く為った布が僅かに擦れて、痛みが走る。布を退()けて裾をめくりあげれば、それにあたる僅かな風すらも傷を無駄に撫でつけていく。

 だが、何よりも――骨が軋むようだ。

 一瞬顔をしかめてしまうが、不安にさせないためにすぐに微笑みで取り繕う。

 

 

 昔に火傷跡が出来たように、こんな痛みは馴れたものだが、痛いものは痛い。顔は歪になっていないだろうか────そう思いつつ見遣ると、少年は食い入るように腹の傷を見詰めていた。

 

 

「如何かした?」

「…………ううん。朧姉、矢張(やっぱ)り今日は休んだ方がいいよ」

「そうかな」

 

 

 でも仕事が在るから、と云えば、もう遣ったという返事で、そのことに少し、虚を衝かれた。

 

 ……もしかすると、随分と長い間眠っていたのかもしれなかった。それなら、此れほどまでに心配されるのも頷ける。

 

 明かり取りの窓が小さくある薄暗い部屋は静かな所で、他より少しは暖かい場所であったけれど、どの位経っているのか詳しくは判らなかった。

 

 掛けられていた、幾枚もの薄い毛布を剥いで立ち上がる。

 

 

「え、ちょっと姉さん! 何処に行くの!」

 

 

 そしたらそんな、慌てたような声で云うものだから。

 思わず笑って、途方に暮れるような表情の弟の頭を撫でて、「外に出るだけだよ」と応えた。

 

 彼以外の弟たちや妹たちにも「気にしないで遊びに戻りなさい」と云えば、一つきりしかない扉なので、少しつかえながらも一緒に部屋を出ることに為った。

 

 

 

 

 

 外に向かうべく歩く。

 

 小さな子供たちは廊下を走り抜け一目散、という様子で飛び出して行った。

 眠りから覚めて、此うして居る時点でもう大丈夫だと判っているだろうに、ぴったりとついて来るこの一番目の弟は本当に過保護だ。

 一週間もすれば痛みが引くだろう程度の傷なのだが。

 

 

 短い廊下を抜け、玄関口へと向かう。

 僅かに欠けた箇所の在る窓からは冬の風が吹き込んでくる。

 

 見上げた空は朱く、夕暮れ時を示していた。

 多分、今日の食事当番の子供たちが準備を始める位の頃合いだろう。

 矢張り、思った以上に長く眠っていたらしい。

 

 何時(いつ)もは在るはずの空腹感が無いままに、孤児院の()ぐ外のこの草原を歩く。

 程近く流れる小川で、水汲みを頼んだ子供の姿があるのを見つけた。

 

 

 ──まだ世を知らぬ娘が、餓鬼どもの親にでも為った心算(つもり)か?

 

 

 小さな子供が懸命に何かする様は、代わりに折檻を受けながら云われた言葉を蘇えらせた。

 

 

 久しぶりに其んな言葉を聴いたものだ、と苦痛を耐え抜いた今だからこそ思う。

 幼い子供たちばかりだからか、最近は折檻などといったこととは離れていたからだ。

 

 だが、暫くぶりなだけに恐らく、何時もよりも手酷いものであったろうとも思う。

 でなければ気を失って、ついでにに忘れ去っている筈の『私』という前世であった記憶のごく僅かな断片でも、思い出すなんてことはしないだろう。

 

 

「…………」

 

 

 覚えているのは、あの不可思議な部屋で交わした言葉だけだ。

 それより前の()が如何やって生き、如何やって死んだかなど記憶としては寸分も覚えていない。逆に、それくらいに薄い人生で在ったのかもしれなかった。

 

 離れて水汲みをしている小さな弟が、水を満杯に入れた桶が水の重みでそれを動かせなく為っていた。見兼ねたのか無言で隣から離れていく弟を尻目に、手近な長椅子(ベンチ)に腰掛けて、遊ぶ子供たちを眺めた。

 

 

「……もう少し着込んで来る()きだったかな」

 

 

 寒いのに、腹の一部だけが熱を持って疼くのをやり過ごしながら呟く。

 

 冬は好きでは無い。

 街へ稼ぎに行った数人の兄や姉の仕送りのお陰で、設備は脆いものの食事はある程度の水準を保てている。

 衣服も、不格好だが交織(まぜお)りのものを着れば問題はない。毛布は薄いけれど、人数以上に在る為身を寄せ合って眠れば気にならなかった。

 

 十分と云える環境である…………然し、風邪をひいてしまえば医者も呼べない財政には一たまりもないと考えるのは、果して求め過ぎであるのだろうか。

 

 

「朧姉」

「ん? ──ああ、持って来てくれたんだ。有難う」

「どう致しまして」

 

 

「水なんて一寸(ちょっと)浸すのに使えれば善いンだから、満杯にしなくても善いのに」なんて云いながらも手伝って来たらしい弟から桶を渡された。

 

 

 持って来ていた布を浸した時に触れた水もまた冬の冷たさで、指先を痺れさせながら軽く絞ったそれを腹に当てれば、痛みは少し和らいだ気がした。

 

 

 

 

 

 

 




初めての投稿です。至らない点はご容赦ください。
ノリと勢いでいつの間にか書き上げていたんだ……偏に織田作への愛がなせる業だね!

題名は織田作の異能力『天衣無縫』の語源です。





織田作の死と最後の言葉がなければ原作の太宰は居ないのでしょうが、本作のコンセプトは織田作が少しでも報われればいいな! ですので、原作が崩れる可能性があります。(見切り発車だから結末決めてない)
抵抗がある方もいらっしゃると思います。そっとブラウザバックしてやってください。




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第二話 誰も識らない昔日のこと

 両腕に微かな温もりを感じながら、うとうとと微睡(まどろ)みに揺られていたが、引き攣るような痛みに一気に意識が覚醒した。

 

 思わず目を見開くが、そう出来たとして、あまりにも急激な出来事に人の体は反応出来ないものらしい。

 動けるようになって()ぐに左右を確認すれば、何時(いつ)ものすき間風の入り込む広間で団子のようにして子供たちが眠っているだけにしか見えない。

 

 何も変わらない、静かな夜であった。

 

 

 ……ただ、妙にぴったりとくっついて来る妹の一人を見れば容易に推察は出来た。

 恐らくは、傍らの彼女が寝返りを打った時にでも、傷に触れて痛んだのだろう。

 

 他意は無いのだから、そう気にすることでもない、と結論づける。

 

 

「……………………」

 

 

 ──(しか)し、如何(どう)したものか。

 

 時間が経てばまた被害を被るのは必至であった。

 内心でそう呟きながら、然し何となく、自分が何をしようとしているのかは理解していた。

 

 くっついて暖をとろうとでもしているのか、妹の離れる時に縋るように身じろぎするのを、上手く宥めて起き上がる。

 

 (ひし)めき合うような状態の、床の僅かなすき間を縫うように歩いて、入口近くにばらばらと散らかる古びた靴の一組を突っかけ外へ出た。

 

 

 寝床で抱えていた温もりがたちまちにして吹き飛ばされ……一層寒い風が、肌を突き刺してくる。

 着込んで来れば善かった、と、聞き覚えのある失敗を繰り返す自分に苦笑する。

 風を凌げるようなものは勿論周囲には何もない。

 

 

 

 毎度思うが、相変わらず寂れた場所であった。

 月明かりの眩しい夜で、私はその下に居た。

 

 背後にはぽつりと建つ、元が図書館だったであろう孤児院。何故此んな場所に建てたのかは定かではない。

 

 数分歩いてたどり着く程度の遠さには、民家が小さく見える。

 

 夜中だからか辺りは静かで、もちろん何処(どこ)の家にも明かりは無い。申し訳程度の街灯が在るだけだった。

 

 

 

 夕暮れにも座っていた長椅子(ベンチ)に腰掛け、私は何も変わらない景色を眺める。

 

 

 ──原っぱは何時(いつ)其処(そこ)に在り、小川は何時も其処に在り、(みち)は何処までも遠く続き、建物も柵も位置を動くことはない。

 空の遠さが変わる筈も無い。

 

 

 変わらぬ風景の中で、明日の予定はどうなるのかを想像することにした。

 ()ず過保護な一面のある一番目の弟だが、彼以外の弟妹たちも其の影響を多分に受けているのだ。

 ……きっと、(しばら)くは大人しくさせられるに違いない。(ある)いは結果的にどうにか為ったとして、説得を試みることから始めなければならないだろう。

 

 可能であるならば普段の通りに朝食を当番するちびっ子の監督、朝の点呼に掃除と裏の畑での仕事をしたいものだ。

 

 

 何もしないのは、正直なところ勘弁願いたかった。

 一人だけ除け者のようになるのは好きではないから……流石(さすが)に其れは無いと信じたい。

 

 

「…………痛いな」

 

 

 未だ幼い子供たちに文字を教える位ならば許してくれるだろうか。

 何せ動かずに出来ることだ。其れだけならばなお善いかもしれない。

 

 

 

 ……其れは想像、と云うよりかは私に出来()ることの再確認のようなものであった。

 

 希望だけなら何とでも云えるし、私も何時(いつ)ものように振る舞いたいが、判っていた――畑仕事は正直なところ、望み薄だと()っていた。

 

 

 

 火掻き棒での折檻は、その最中もだが、その後の方が一層酷い。

 

 一日目は骨が軋むような痛みだ。

 傷が熱を持ち、跡も痛々しい。掻きむしりたいような衝動に駆られる。

 

 (しか)し矢張り、最も耐え(がた)く一番酷いと云えるのは三日目だろう。

 傷と服が擦れて、此れ以上に……死ぬ程痛む。

 

 

 例えそんな状態でも、自ら受け入れた以上は私が文句など吐ける筈もなかった。

 (かつ)て姉が云っていたことだが、此の種の折檻は(孤児)たちにとって普通のことであるらしいのだから。

 

 それに、よく考えれば、負うてくれる親が無い自分たちを食べさせる何て物好きの所業に善いところばかりが在る筈も無いのだから。

 当然かもしれなかった。

 

 (しばら)く折檻と無縁になると、こんなことさえも、『何時(いつ)もと違う』ように感じてしまうらしい。

 兄や姉が、傷が剥き出しになって何度も服と擦れ合うのを嫌がり包帯を巻いていた時のことさえ懐かしく思い出した。

 

 私もされた時は、よくそうして貰っていた。

 常備されている筈の包帯も、残りを確認して足りなければ調達を頼まなければならない。

 

「明日、ついでに今有る物の確認を一気にするのも善いかもしれない」と予定を付け加える。

 

 

 

 

 

 

 ……(しか)し、其れら以外に何か、私に出来ることは在るのだろうかと、考える。

 此うしてみれば、如何(いか)に自分が繰り返しの毎日を送って居るのかを思い知らされる。

 

 もうすることが無くなってしまうことが少し詰まらなく感じた。

 

 

 また眠りについてしまえれば問題が在ることは無かったのだろうが、残念なことに、一度覚めてしまった目は全くとして閉じようとする気配がない。

 気を失っているのは眠ったうちに入るのだろうかと考える程度には退屈をしていた。

 

 

「暇だな」

 

 

 呟いて、何をするでもなく腰掛けた状態から寝転がる態勢に移行した。

 

 綺麗な満月が目に映る。意外にも眩しい。

 到底届かないのは知っていて空に手を伸ばすのは、さして意味の無い動作だった。

 

 

 私は、私の此の、暇な時間を埋めるような何かが欲しかった。

 

 

 

「あ」

 

 

 ……ふと、思い付いた。

 

 

「例えば、こんなのは如何だろう」

 

 

 誰に聞かせるでも無いが、声に出して云ってみる。

 

 未だ日付が変わっていないなら、今日私に起こった余りにも不可解な出来事について、だ。

 

 

「嘗ての私、小説を書くことに執着していた人間」

 

 

 こんな話を誰かにしてしまえば狂人扱いされることは目に見えていたので、誰にも云うことは無いのだろうが──私だけが彼女の存在を知っている、その人生はどんなものだったのだろうか。

 

 一旦思い返せば、無性にそれが気になった。

 

 思い出すことの出来ない位に薄い人生などではなく――もしかしたら、単に私が思い出せないように為っているだけなのだという可能性を、見たくなった。

 

 

 私のように孤児の出であったろうか。

 (ある)いは裕福な家庭に生まれ、生活に不自由せず学び舎で勉学に励む、なんてことをしていたのだろうか。

 頭は善かったのだろうか。

 如何(どん)な性格だったろうか。

 果して人生に退屈して居ただろうか。

 何か、転機のような心躍らせる何かがひとつでも在ったろうか。

 共に同じ道を歩む誰かが居ただろうか。

 血の繋がりの在る兄弟は在ったのだろうか。

 どんな職業に就き、何を為したいと思い、実際何を為したのだろうか。

 

 

 ──何故、それ程までに小説を書き上げることを渇望していたのだろうか。

 

 

 ()である朧も覚えていない例えを繰り返し、思い付く限りに考えてみる。

 残念なことに私――朧の中の()は、うんともすんとも云わなかった。

 想定内であった。

 

 

「………………」

 

 

 ……ならば、孤児院の蔵書を調べてみては如何(どう)だろう?

 

 思いたった後の行動が速かったのは、其れくらいに暇を持て余して居たからであった。

 直ぐに起き上がって、我ながら(せわ)しないと思いつつも再び建物に入り込んだ。

 

 そっと音を立てぬように靴を脱ぎ、ひっそりとした足どりで移動する。

 

 そして目的の場所の前で、その時に(ようや)く、詰めていた息を吐き出した。

 外よりは幾分か暖かく、何より吹き付ける風は少ないのに一息ついた、というのもある。

 

 

 冷えた腕を摩りつつも、それから早速とばかりに、私は部屋を縁取るように在る広間の本棚を目を凝らし見詰めた。

 彼女が書いたものがひとつも無くとも、彼女のことを書いた何か、伝記のようなものが無いかと期待した――所謂(いわゆる)、浅慮な子供の考えであった。

 

 其れらしい、朧では無い()の何もかもを、知らないままに探そうとしたのである。

 

 

 

 本は未だ、高価なものであった。

 そんなものが如何(どう)して、元図書館とはいえ孤児院なんぞに在るのかは甚だ奇妙なことでは在ったが――いつぞやの兄の言葉によると、「彼奴(あいつ)は本狂いだからな」とのことであった。

 

 其の一言で済ませても善いのか、とは思ったがそれで今までやってきたのだから、それならそれで善いのではないか、と思っている。

 

 

 ……彼奴(あいつ)とは、院長のことだ。

 大体本を読み耽っている壮年。

 全身真っ白な白装束が似合っていない、此の孤児院唯一の大人。

 一日を本を読んで過ごし、何故か同じ題名(タイトル)のものを各々二冊ずつ揃えているのは、確かに趣味の範疇を越えているのだろう。

 ふらりと出掛けて持ち帰って来た本一冊が、気づけば補充されたように二冊に為ったりしているのだ。そこまでして、一体何に駆り立てられているのか、と思うが、今は関係の無い話である。

 

 

 一冊目を見つけたのは、それから数十分程してからだった。伝記自体も少なかったが、何より月明かりを頼りにする作業は、ひたすらに効率が悪い。

 

 音を立てぬように、丁重に取り出す……そうしなければ(うるさ)い人が居るので。

 ()し汚れなどを本に付けてしまえば、其れこそ折檻の対象に為る。

 幼い子供にも、其れだけは気をつけるようにときつく言い含めるのが兄や姉から引き継いできた最も重要な教えでもあった。

 

 ……まあ、残念なことに今日ちょうど、其れを破ってしまった弟が居たわけだが。

 

 

 月明かりに照らして見ると、題名(タイトル)が金文字で綴られて居るのが読めた。見るからに高価そうである。

 うっかり眠り込んで涎を零す、なんてことが無いようにしようと固く決心する。

 

 私は座り込んでから(ページ)をめくった。

 

 そうしてから(ようや)く、此れで暇が潰せるじゃないかと気づいて、あまりにも身近に其の手段が在ったことに自分で呆れた。

 

 院の本を読み尽くすのも善いかもしれない、と文章を目で追いつつ、今更ながらにそんなことを思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




所謂繋ぎの回。
原作敦くんのようなハードな孤児院ではないです。かなりマイルド。
得点(ポイント)制なんて、無かったんや……!




そもそも何でこんな昔から書いてんねん、織田作はよ! とか自分でも考えてますが、織田作生存のためには主人公ちゃんに織田作少年時代から出会ってもらって、更には少しずつ関わってほしいと思ってます(ニッコリ
織田作のためなら、私は努力を惜しまないよ!

という言い訳でした。
抵抗のある方は、そっとブラウザバックしてやってください。




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第三話 泡を抱く

書いてる途中にボリス・ヴィアン著『日々の泡』が思い出されたため少々拝借。日本語題だと『うたかたの日々』の方が良いかもしれない。フランスの文豪です。
泡は日常という意味を込めて。




 ──気づけば、朝に()りかけていた。

 

 

 読みかけの()れの、題名(タイトル)は覚えていた。

 ()し忘れてしまったとして、文字を縁取る金色は目立つから、きっと()ぐに見つけ出せるだろう。

 使い込まれたような表紙を一撫でして、私は弟妹たちが目覚める前にと本を元の位置に戻した。

 

 見れば、空が下の方から白み始めていた。

 私は立ち上がり、意味もなく深呼吸をしてみた。

 朝方だからか、何処(どこ)か空気は澄んでいる気がした。

 

 静かだった。

 子供たちの昼間のはしゃぎようが嘘のようにしん、と静まり返る広間。自分の寝床まで戻ってから再び布団に潜り込む。

 

 私の場所は勿論(もちろん)ながらひんやりとしていた。両隣の、さして離れていないところに転がって居る妹たちの仄かな熱が、共有する掛け布団の中で私を温める。

 

 ──天井を見上げ仰向けになってから、ふと袖の辺りを握られたような気がした。

 

 其方(そちら)を向けば、ぱっちりと目を開いた子供が、私のことを見詰めていた。

 思わず言葉が詰まった。

 心臓が跳ねて飛び出して来そうな気さえする。

 

 

「起きていたの?」

 

 

 横向きになり、周囲を起こさない程度の声で、私は囁く。

「うん」と少女は頷き、応えた。

 

 

(さっき)、気づいたの」

 

 

 そう云い、身を寄せて来た子の頭を私は撫でた。

 柔らかな毛先がするすると指を通り抜ける。

 何故だか弟妹たちが頭を撫でられると気持ち良さそうにするのは皆、同じことらしかった。

 

 

(おぼろ)姉、如何(どう)して何時(いつ)もより凄く早く起きたの?」

「姉さん、昨日の夕方(まで)眠っていたでしょう。眠く無かったの……でも、皆には内緒よ? また心配されちゃう」

 

 

 妹は(くすぐ)ったそうに笑って、「善いよ」と指を口元に()てた。其の仕種が可愛らしくて、私も微笑み同じようにした。

 

 

「姉さん、(からだ)冷たいね」

「少し外に居たからね」

「温めてあげる!」

「お腹は触ったら駄目よ?」

 

 

 控え目に抱き着いてきた妹の高い体温を直に感じながら、眠れる訳ではないと判っていたけれど、私は目を閉じた。

 短い間なら、何をするでも無く(ただ)そうするのも善いのかもしれない、とそう思ったからだ。

 

 

 

 

 

 ……其んなことが在ったのが、朝に()るより前の話だ。

 起床の時間(まで)布団に包まっていた身も、其の時に為れば弟妹を起こして回ることとなる。

 

 布団の片付け。

 一部は食事の支度とその監督をしに向かい、其れ以外は外へ出て点呼を行う。

 その後に各自交代制の仕事を(こな)していく。或る子供は風呂用の水を貯水槽へ少しずつ運び、又別の子供は靴を置いて在った場所の掃き掃除──といった具合に。

 

 余りにも小さい子供たちは未だ其れらをするには早過ぎるので……辺りを走り回り、お互いに戯れたりして居る。

 

 

 

 

 

 私は、そんな彼らを、目的の場所へと向かう途中に窓から眺めていた。

 

 大きな両開きの窓からは、その様子が良く見える。

 聞こえる幼童特有の高く細い声の賑やかさに、陰りのようなものは存在していない。

 

 

 思うのは、(およ)そ考えつく限り、手間の懸かるような子供は殆ど居ない、ということだった。

 或いは、……未だ幾つも生きておらぬ子供たちがそんな子供に見合わぬ素直さであるのは、矢張り孤児と云う面が色濃く現れているからだろうか、とも。

 

 

 ──其れは同時に、私にも云えることだろうというのは、十分過ぎるくらいに理解していた。

 

 

 

 

 物置に為っている部屋のひとつにたどり着く。

 目的は、今以て爛れている傷の為に巻く包帯だ。

 其れが在るかどうかで、本日の予定……(もとい)、遠い隣の民家に訪ねるか否かが決まる。

 

 開くと、物置の中には、幾つもの箱が折り重なっている。

 内容は大体その季節でない時の服だとか風呂を沸かすのに使う炭や、必要最小限の道具、又はよく使われる消耗品等が雑然と詰まって置いてある。

 私は其処から見当をつけて、包帯の在るだろう箱を物置から出した。

 

 

「無い、か……」

 

 

 開けてみれば、有るには有ったのだが、其れは使うには足りない位の程度でしかなかった。

 何故前回使用した時点で補充しようとしなかったのか、其れが悔やまれる。

 

 

 肩を落として居ると、廊下の奥の方から丁度、扉が開く音がした。

 

 顔を向ける。

 奥の部屋から院長が出て歩いて来るところであった。

 

 きっちりと整えられた白髪交じりの髪、相変わらず似合わない全身真っ白な白装束。口元は厳しく引き結ばれ、手には本を持っていた。

 冷たいようにも見える黒々とした瞳が、近づいて初めて気づいたように私を見据える。事実、そうだったろう。

 その姿を既に認めていた私と彼の視線が、かちりと合わさったようで思わず身震いした。

 

 

 ぼそりと、院長が云った。

 

 

「…………ああ、貴様か」

 

 

 私は応えなかった。

 答えは、求められていなかった。

 

 

「包帯が無いだろう、隣から借りたら(おれ)の処へ持って来い」

「……はい」

 

 

 辛うじて発した了解の返事すら、聞いていたかどうか。

 云うだけ云ってから用は済んだとばかりに朝食を求めて去る後ろ姿を暫く眺めて、箱の蓋を閉めた。

 

 

「………………」

 

 

 別に、特別嫌われている訳ではない筈だ。

 孤児が皆等しくそうである以上、彼にとっての私たちは同じものであるに違いないのだから。

 

 時折云われる聞き慣れた厭味も、其れ以上に云われることは無い。

 幼い頃の私は、すぐに涙ぐんでしまうような子供だったが、最早それしきのことで傷つくような齡ではなかった。

 

 

『泣いちゃだめよ、朧。私たちは心の傷に愚鈍でなければならないの。其れが許されるのは、親のいる子供だけなのだから』

 

 

 そう私に云い聞かせた姉は、当たり前のことを云っただけなのだろうが…………なんと残酷なことを言葉にしたのか、今なら判る。

 

 私も又、その言葉をいつかの姉のように言い聞かせるような年齢に為っていた、只それだけのことだ。

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

 孤児院に外付けされた小さな小屋で調理はされている。

 其処から後始末の確認をしたところで、私は監督を引き受けてくれて弟と小屋の中を確認していた。

 

 心なしか満足そうな様子から、恐らく調理途中の味見やらでおこぼれを与ったものと推測する。

 育ち盛りの男児だ、それくらい役得があっても善いだろう。

 

 

「姉さん、何時も大丈夫なンだからそんなに心配する必要無いと思うけど」

 

 

 呆れるような声を背中に聞きながら、確認を終了させる。

 小屋を出て、歩きながら其の大切さを教える。

 

 

「念のためだよ。特に火の後始末をちゃんとしなかったら、本が焼ける可能性に院長が又怒るから」

「…………其れは、厭かなあ」

 

 

 ぎゅっと眉を顰めたのに頷く。私も厭だ。

 

 大人という生き物は如何なるものであれ、少なくとも私たちにとっては強大で敵うことのない何かだった。

 そして、私たちが絶えずその大人へと近づいて往くことは、歩いている地面が罅割れ崩れ去ってしまうようだと形容出来る位に信じられないことだった。

 (いず)れ訪れるその時にも、私はそう考えているのだろうかと、少し不安に思った。

 

 

 子供たちが食事をする部屋へ弟と共に入る。一目その様子を見て思わず声を上げ、その後に苦笑いが漏れた。

 

 言葉たちの無邪気な、澄んだ目が揃ってこちらを向いていた。

 (はや)く疾くと、急かしている態度が其のまま言葉に成りそうだ。

 

 遅れて来た二人分の食器も既に準備され、あとは号令を待つだけのようだった。

 私たちを待っていてくれたらしい。

 

 私は速やかに自分の席へついた。誰かが生唾を呑む音が聞こえた。

 そこまで必死になることだろうか、とも思うが、きっとそうなのだろう。

 

 

「──じゃあ、皆手を合わせて」

 

 

 いただきます、と云うのが早いか、或いは動いた方が疾かったか。

 味付けは兎も角量は有るので、そこから先は……激戦だった、と云っておこう。

 こんな様子を見ると、空腹は最高の薬味(スパイス)だと云う言葉は正に至言であると熟熟(つくづく)思うのである。

 

 私は走り回る、という訳ではないからか空腹に為っても割合に少量の食事で事足りる。

 然し、そうでもない子供たちも多い、と云うことだった。

 

 

 朝に食べるものは大体にして、大きめの碗にご飯を少量入れ、その上に野菜類の入った薄い汁物(スープ)を掛けている。時折其れに鶏肉だとか卵だとかが入って来ることも有る。

 今日のは、普通に野菜のみのものである。

 

 十分だ。

 それなりに腹が膨れるし、何より温かいものというのは善いものである。

 他の子供たちがどうかは判らないが。

 

 

「…………うん」

 

 

 多少大きさや形が違うが、年齢を考えれば十二分に上手くやれているだろう。

 ふやけて膨らんだ米をさらさらと汁ごと胃に流し込み、残った野菜を食べる。

 持って来た寸胴鍋からは未だ湯気が立ち上り、早くも一杯目を食べ終えた子供たちが其処に誘われるように集っていく。

 

 先程迄話していた弟が隣で身じろぎしたのが見えた。

 

 既に器が空っぽなのを見れば――お代わりするか否か迷っているらしい。

 大体にして変わらないメニューだが、好き嫌い云っても腹は膨れないからだ。

 

 

「行ってきていいよ?」と促せば、「後で行くよ」と云われた。

 

 

彼奴(あいつ)らが遠慮して来るような気がするから、其れ迄待とうと思って」

 

 

 それに、僕は味見で少し多めに食べてるから、と──恥ずかしそうに頬を掻いた様子に、私は何も言わずに口を閉じた。

 

 何か云う程野暮ではなかったし、確かにその通りであった。

 

 

 

 

「ところで、今日の私の仕事だけど」

「姉さんは大人しくしてること。判った?」

「……矢張(やっぱ)り、そう為るよねぇ」

「寧ろ痛がらない姉さんの方に感心するよ。其れより酷くないのでも痛いってのにさ……あ。空いたから行ってくる」

 

 

 立ち上がって第二陣として突貫していく後ろ姿を見送れば、私も又、丁度食べ終わるところだった。

 

 器の上に箸を置けば、ころりと滑るように転がってから、小さく音を立てて落ちた。

 

 

 

 

 




繋ぎの回其のニ。
孤児院の生活がいまいち想像できないんですが、大体はふわっとこんな感じ。
主人公は戦後黎明期にしては多分かなり恵まれた環境に居ると思います。


ルビは作者が読んでて見にくい所に振っています。最初の方はルビの数が多いです。
多分、段々減っていくはず。






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第四話 躰の灯火たる眼は

 隣の農家へ徒歩で数分歩いて向かおうとしていた。

 

 直ぐに戻るからと弟に用事を話しているのを近くに居た妹の一人が聞いていたらしく、付いていきたいと云ったので連れていくことにする。

 一人増えたところで、別に私は構わなかったからだ。

 

 だから好きにすれば()いと伝えた。

 此の妹も又、幼い。聞き分けがいいとはいえ、まだまだ甘えたがる年齢だ。

 

 大戦の影響で駆り出され、或いは働きに出された歳の離れた兄や姉のことはきっと覚えていないのだろう。

 幼い子供たちにとっては実質、私が『姉』なのだった。

 

 

 年長者の温もりを求めることは罪ではない。

 それを拒む程冷血じゃないし、断ち切るなんてことは出来る性格でもなかった。

 

 そんな程度には、私たちは家族であった。

 

 

 ……ただ、私の兄や姉──今街へ稼ぎに出ているのとは別の、戦争に、或いは工場の労働力として駆り出されていった歳の離れた方の──である、彼ら彼女らが今どうしているのだろう、と。

 何故だか、その杳として知れない行方を思わせた。

 

 何時だって気掛かりだが、それをまざまざと感じさせるような──、不意にそう考えずにはいられないような時というのが、正に今で。

 

 妹の無邪気さが、思い出させたのだ。

 

 

 

 ……まあ、大人に為っているのだから、知らせる必要が無ければ帰ってくる必要も無い。性格からして一度は顔出しするのではと勝手に思っているだけ。

 判っている。恐らく生き延びていたとして、日々を生き抜くことに必死に為るしかないのだろう。

 此の孤児院に居る子供たちが、私を含めて年齢が比較的低い理由であった。

 

 

 ──勿論、そんなことをずっと考えているわけではないけれど、事実その道中で考えていたので、「朧姉の手、大きいね!」と妹が笑うのに少し反応が遅れた。

 私は一寸(ちょっと)黙してから、体温の高い温もりを握り返した。見遣ってみればきらきらと目が輝いている。

 

 まるで灯のようにも見えた。

 

 見ていたら、私もつられるように笑いが込み上げてきて、「皆きっと、私より大きくなるよ」と応えた。

 

 

 

 えー、と賑やかに笑う隣の子供と手を繋いで、道程を歩く。

 小さな手。私もかつてそうだったとは考えられない柔らかさ。

 姉や兄もこんな気持ちだったのだろうか。

 

 

 手を繋いだまま、やがてその玄関前に立つことになった。

 中からは人の気配が感じられる気がした。

 なかなか言い出さない私に、妹が首を傾げた。

 

 

「声、掛けないの?」

「……云っていいのかなあ。忙しそうだ」

 

 

 なんだか、気後れしたのだ。

 

 擦りつけるわけでは無かったが、試しに声を掛けてみるかと妹に云ってみれば、「え、いいの?」とぱっと顔を輝かせた。

 様子は可愛らしく、けれどもなんだか罪悪感が湧いた。

 

 

「ごめんくださぁい!」

 

 

 幼げな声が通り抜ける。存外大きな声に家屋の声が一瞬潜まったように感じた。

「はぁい」と声がした。足音に気を遣ろうとせずとも、既に聞き取れる位には近くにいたらしかった。

 

 なんだか邪魔をした気分だ。事実、そうなのだろう。

 包帯を借りたい、と云えばその旨に承諾が返ってきて、真新しいのを一巻き貰う。妹の愛嬌か、はたまた私の火傷への同情か……卵を二つ貰った。思わぬ戦利品である。

 

 今日の夕飯の汁物(スープ)に入ることになるだろう。

 包帯と卵二つという、奇妙な取り合わせで手に持ちながら、帰りについた。

 

 手元にあるのだから、本当なら直ぐにでも包帯を腹に巻き付けたい。然し院長からの言い付けでは何故か、それを持って来いということだった。

 

 

 意味が判らないが、そんな判らないことを平然とするのが院長で、私にとっての大人だった。

 やっぱり骨と皮膚が、同時に鈍く痛んでいた。

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

 用事自体は直ぐに終わったので、妹と別れてから或る部屋へと向かった。

 

 本棚が並び立つ閑散とした広間を抜け、廊下を時折弟妹が戯れる横を通り過ぎる。

 手に其れを抱え、目指している目的地は言うまでもなく──

 

 

「院長、朧です。入ります」

 

 

 私は扉をノックして、そう云った。

 

 云ってはみたが、返事が無いのにどうするべきかと迷った。そもそも、居るのか居ないのか判らない。

 意を決してそっと扉を開ければ、果して男は居た。

 そのことに胸を撫で下ろしたが、然し、居たら居たで緊張するものらしい。

 

 

 其処は、それなりの広さであるくせして妙に狭く見える部屋であった。

 

 

 本。

 ひたすらに其れだけが、目についた。

 見渡す限りに有って、部屋を覆い尽くしてしまいそうな量だった。

 

 床から積み重ねたうずたかい本のタワーが無数にある。

 机の上も同様で、本の塔の隙間に辛うじて、男が居るのを見ることができた。

 壁際に置いている棚には満杯というが如く本が押し込まれ、更には棚の上から天井まで隙間なく積み上がっている。

 

 端にある、足の短い寝台の上まで侵食しているのだ。足の踏み場など殆どなく、僅かな隙間が道のようになっているだけである。

 

 

「……貴様か」

 

 

 椅子に腰掛け本を開いていた院長はそう云ってから、本を閉じた。

 

 何時も通りの服装に、何時も通りの無表情で、見慣れた動作だった。

 

 

 此方に来て傷を見せろと、そう云われて、言葉通りに本の塔の隙間を縫うように進んだ。

 

 手に抱えた包帯を渡してから、服を捲り上げる。

 院長は爛れた火傷跡をじっと、見詰めた。

 

 

「…………」

 

 

 私は、黙っていた。無機質な黒目が傷を眺める様子を見ていた。

 

 

()り過ぎだったと思うか、朧」

 

 

 不意に云われる、その平坦な言葉になんと答えれば正解なのか、判らなかった。

 

 然し何か、応えなければならないと求められているようにも思えて、只「…………私は、大丈夫でした」と、そう応えた。

 

 

 院長は相変わらず乏しい表情だった。私の応えに何を思ったか、読み取ることは出来なかった。

 彼は一寸黙り込み、云った。

 

 

「其れ以上の自己犠牲は、(いず)れ身を(ほろ)ぼすぞ」と。

 

 

 けれども、罰を受ける筈のあの子は未だ小さい子供だった。

 そう云えば、「貴様の最初の折檻を忘れたか」と返される──そんなに幼かったろうか、と私は考えた。

 

 

 ──幼い時のことは、あまり覚えていない。

 

 

 物心ついた時から此の孤児院に居た幼い時分で、特別なことが無かった訳ではない。

 然し覚えているのは、自分が泣き虫だったこととか何かと世話を焼いてきた兄や姉たちの顔と言葉の断片、それくらいのものだ。

 

 

 私は自分の傷を改めて見遣った。

 所々引き攣りのようになって皮膚が変色している古傷だが、孤児ならそんな傷の一つや二つ、きっと当たり前のことだ。

 

 暫くそうして、気づけば院長は包帯を弄び始めていた。

 火傷から視線を外すことは無かったが、無表情のくせして何処か退屈そうにも見える。

 

 

「貴様は何処か、自分を蔑ろにする節が有る。──まあ知ったことでは無いし、(そもそ)態々(わざわざ)貴様を呼んだ理由も此んな忠告をしに来た訳では無いが」

 

 

 本題、が在るらしかった。

 

 思わず眉を顰めてしまう。

 抑も、院長は最低限の生活の保証をしてくれるが、それは逆に必要最低限の接触しか測っていないことに等しい。

 そんな状態で、私という一個人に対して何の用が在るというのか。

 

 

「私、何もしていませんよ?」

「何も、だと────? ……(いや)、気付いていないならば丁度今を以て識ることになるだけか」

 

 

 此れを見ろ、と院長が手元の包帯を振り、私が其れを見遣る。

 

 何の変哲も無い、白さが眩しい一巻きだと、私が持って来たのだからその位は判っている。

 彼は、置き場の無い机の端に其れを置くと、(おもむ)ろに撫ぜてからその掌を上に向けた。

 

 

「見ていろ」

 

 

 それから起きたことは、……──出せたのは、声にも為らない息だけだった。

 

 瞬きをした一瞬に其れが生じたのだろう。

 然し、そうだとすればまるで超常の類いにしか思われぬもの。

 

 

 ……彼の掌には、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()の包帯が上に乗せられていた。

 院長は、私の前で何食わぬ顔をしながらそれを二度三度と繰り返し、漸く止める頃には十分過ぎる程の量に成っていた。

 

 院長は、「何か判るか」と云った。

 真逆存在しているとも思わなかった私だが、彼は私が言葉を発する前に答えを云った。

 

 

「【異能】。聞いたこと位有るだろう」

「……でも如何して、それを今私に見せる必要があったのかが判りません」

「此れから云うのだから気付いていない貴様に判る筈がないだろう、戯けが」

「…………」

 

 

 私は黙り込む。

 そう、異能だ。ならばそれを扱う院長(かれ)は異能者か。

 

 

 ──曰く、一個人につき一能力。

 ──曰く、本人が自覚し意図的に操れるものもあれば、制御不能に自動発動するものもある。

 ──曰く、生来の異能者もいれば、ある時突然異能が開花する場合もある。

 ──曰く、異能がそれを所持する本人を倖せにするとは限らない。

 

 

 存在も曖昧で、或いは人の身には過ぎたものが、目の前でその真実を主張していた。

 何故、私がそれを明かされたのか、理解できなかった。

 

 ()やした包帯で私の傷跡の上を覆い隠し乍ら、彼は私に「貴様も特殊な何かを──異能を、発現しているだろう」と云った。

 

 

 

 それは、全く縁の無いような言葉だった。私の目の前で今しがた起こった超常と同種の何かが、私の中に眠っているというのだ。

 

 信じられなかった。

 だって、……一体何処に、本人も気付けぬ兆候が生じていたというのか。

 どのようにして院長はそれを見付けたのか。

 

 

 私自身に特に変化は無い筈だ。

 

 思い返して暫くして──然し、敢えて云うなれば或る夢の中に答えは在ったのかもしれなかった。

 老人の姿をした誰かが云った言葉。それは、証拠と為りうるのだろうか。

 

 確かそう、『──ならば貴様の異能(ちから)は、貴様自身のものとなるだろう』と。

 

 私の、私自身の【力】とは即ち……異能であったのではなかろうかと、今更ながらに考えた。

 

 不可解な言葉は、改めて考えてみればそうともとれた。むしろそうでなくば、納得がいかない。

 あの何のことはない、戯れに発せられた様な手向けにも、意味はあるらしかった。

 

 

「私に、異能……」

「先の折檻で貴様に触れた時、(おれ)の異能に干渉する『何か』を感じた。異能に対抗しうるのは異能位だ──発現したに、違いないだろう」

「……何か、ですか」

 

 

 呟けば、「其れ以外は知らん。自分で考えろ」と言い放たれた。

 相変わらず冷たい雰囲気だったが手は動かしていたらしく、いつの間にやら包帯は巻き終えていたのに気づいた。

 

 短い会話で、けれども私が此処に居る用はもう無かった。

 

 

 予備に作られた異能の産物を「(つい)でに物置に入れておけ」と押し付けられて最後、部屋を出ていく際に、此んなことを云われた。

 

 

「貴様が何を思い、異能で何を為すのかなぞ知らんし興味も無い。然し……其れを為すのに足る異能(ちから)が有る以上心しておくことだ」

 

 

 その言葉に振り返って見れば、彼は既に本を読み耽る体勢だった。

 私は黙って頭を下げてから部屋を出た。

 

 

 扉を閉め廊下を歩き、「異能者、か」と呟いた。

 

 未だあまり実感は湧いていなかった。

 

 

 

 

 

 




           





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第五話 黒き石竜(前編)

 

 其れから、何の変化もない日が数日と、過ぎて往った。

 安静を言い付けられて暫く、私の抱える痛みも峠を越え、無事に復帰出来そうであった。

 

 復帰出来そう、というのは、単に一番上の弟が「未だ駄目だよ」と頑なだからだ。

 

 

「…………ふぁ」

 

 

 だからこうして暇を潰している。不意に出てくる欠伸を噛み殺しながら本の(ページ)を捲り、読み進めていく。

 勿論、汚れが付かないようによく配慮している積りだ。

 

 

 此処まで回復が速いのも(ひとえ)に成長期を迎えている身体だからだ。

 幸いなことに、殆どの痛みを取り去ってしまっていた。

 心配そうにして必要以上に取り付いてくる子供たちも減ってきているのがその証左である。

 

 今は日も昇りきって暖かい時間だから、外で遊んでいるのが殆どだ。

 あとは室内で遊ぶ子供が(まば)らに居て、残りに一人、ぴたりと私にくっつくように本を読んでいる。

 

 

 ……此の光景に、今更ながらに思うことだが、私たちは十分恵まれているのだろう。

 他の孤児院のことなどは知る由も無いが、高価である筈の本にこうして触れている時点で──そのおよそ半分が院長の【異能】によるものだとしても──そう考えなければならなかったのかもしれない。

 或いは、今までそれに気付かずに「そういうものなのだ」と思っていた程私は無知であったのだ、と云う()きだろうか。

 

 抑も大戦が終止符を打たれたのもここ一、二年の最近のことで、敗戦国の民たる私たちが貧困に喘ぐのは必然だったのである。

 各地に在る筈の孤児院へ物資や金銭を融通する機関も、果して正常に機能しているか怪しい状況で……それでも『私たちが生活する上で最低限の環境』が在ったのは偶然ではなかったのだろう。

 

 

 妹が袖を引っ張るのに本から顔を上げれば、甘えた様子で、私とは別の本を持って広げて見せていた。

 

「朧姉ー」と、どこか舌足らずで、鼻にかかるような声で私を呼ぶ。

「どうかしたの?」と──何の用か判っていながら、私はそう尋ねた。

 

 

「此の字、判らないのー」

「うん、どれ……」

 

 

 私も昔は此んな風にして文字を学んでいったな、と思い乍らそれを覗き込んだ。

 ぴたりとくっついている身体の、触れ合っているところが温かかった。頭を撫でてあげながらその文字の読み方を教えてあげた。

 

 

「また判らなかったら聞くのよ?」

「はぁい」

 

 

 そう返事をしてから、また本に向き直っているのを少しの間、眺めることにする。

 

 この妹は、中でも特に熱心に文字を学びたがる。

 皆()し本を汚して院長の怒りを買ってしまえばと、そう考えて最低限しか本に触れることは無いのである。

 

 かくいう私もその口ではあったのだが……それを気にしない程豪胆では無かった、只それだけの話だ。

 注意さえしていれば何も問題は無いものなのに。

 

 

 勿論、私が幼い時にもこうして兄や姉に文字の読み書きを教えてもらっていた。

 私が、私よりも下の弟妹たちにしてあげられるのは之くらいしか無いのである。

 

 

 ──先ず自分の名前を覚える。字が解らなくともそれが書けねば話に成らない。

 覚えて(しま)えば、後に平仮名に着手。それから他の漢字等を覚えていく。

 判らない……(もとい)、読めない文字でも、いずれは慣れてゆく。年齢を重ねれば、こうして読めるようになるものだ。

 

 

 文章をなぞりながら、そんな何でもないことを思う。

 同時に、何時も通りの緩やかな時間が断ち切られたのも此の時であった。

 

 

「朧、居るか」

「…………院長? 何か有りましたか?」

 

 

 白一色の装いの男が音も無く姿を現したのに妹が飛び上がって私の背に隠れた。

 

 私が背中を気にしながら、間を空けて問えば、院長は或るものを其処から放ってきた。

 細長い茶封筒。それが私の目の前に、紙特有の軽い音を立て乍ら落ちた。

 

 

白木(しらき)から手紙が来た」

「え…………兄さんが?」

 

 

 それは、兄からのものであった。

 

 よく見れば、宛名に書かれたやや癖のある字は私を示していた。

 私は開いていた書巻(ほん)に在って、今迄読んでいた頁の最後を目に焼き付けるようにしてから、手元のそれを閉じ脇に置く。

 

 封筒を、躊躇いつつも取り上げた。

 

 

『──ところが、偶然というものは続きだしたら切りのないもので、…………』

 

 

 書巻には、そんな文章が書かれていた。

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

 何時もの風景のように見えながら、その実この日は何時もと違っていた。

 図書館と云うべきか、或いは孤児院と云うべきか……やや古びた建物の前の、開けた場所では幼い子供たちが遊んでいる。

 そして、それを眺めることの出来る位置に備え付けてある長椅子(ベンチ)に座り、本を開いている少女が居た。

 

 

 やや不揃いに切られた栗色の猫っ毛に黒みがかった(みどり)の瞳という、少しばかり色素の薄い様相は珍しくとも、居ない訳ではない。

 院によく見られる交織りの服を身に纏い、吹き付ける風に靡く髪を押さえ乍ら本を開いている。

 

 

 少女は──朧は、人を待っていた。

 

 一番歳が近くて、よく朧の面倒も見てくれた兄、白木から数日前に届いた手紙が発端であった。

 

 生き生きとした表情で「行ってくる」と云い院を出て行ったのを、朧はよく覚えている。

 上京してから生活を安定させる迄は帰って来ないと宣言し、院の子供たちの中で実質一番の年長者に成ってから、僅か一年も経っていない。

 

 そんな兄からの手紙には、丁寧にも──やって来る日にちが指定されていた。

 

 

「それだけなら未だ善かったのに、どうしたら上司を孤児院(こんな場所)に連れて来る可能性が出て来るんだろう……」

 

 

 単純に仕事が上手くいっていて、一人きりで偶には帰って来ようとしていたと云うならば、此んな風に待つことなんてしなかっただろう。

 

 問題は、変な方向に状況が進んでいる場合だ。

「若しかしたら上司が付いてくる可能性があるかもしれない」とは何なのか。

 

 都市からやや離れた場所に在る此の場所でずっと暮らし、世事に疎く成っているような彼女にも理解出来る。

 

 ……まあ、あくまでも可能性である。

 兄自身が冗談好きな性格なので、そんな可能性は無いことを期待している。

 

 然し、若しもそれが本当ならば──何か、自分の理解の及ばぬ何かが起きているような、そんな感じにも思えるのだった。

 

 

 それは、些細なことが切っ掛けで判明した、【異能】なるもののことについても同様であった。

 寧ろ其処から変化が起き始めたと云っても過言では無いだろう。

 

 朧とて、何もせずに居た訳ではないのだ。

 院長に云われてから後に、自分の持つ『それ』について考えてみることはした。

 

 然し『只、自分の中に在るらしい其れをどうすれば善いのか自然と判る』なんてことは無く、かといって『明確に【異能】と断ずるだけの超常たる何かが目の前に現れる』のでも無かった。

 

 院長の云うには、『異能に干渉されるような違和感』が有ったらしい。

 然し後に尋ねたところ、「違和感は在ったが特に変化が無い」と期待は一刀両断され、その力は変わらず判然としなかった。

 

 自分で考えろ、と云われた手前、真逆「未だ判らないので手伝って欲しい」とも云い出せずに今に至っている。

 

 

 自分のことなのだから、自分が一番判っているだろう──その筈なのだ。

 胸の中に渦巻くような、何とも云えぬもやもや(・・・・)とした何かを、彼女は形容することが出来なかった。

 

 

「…………異能、ねぇ」

 

 

 栞代わりにした茶封筒を本に挟み込んで、朧は普段よりも心なしか忙しなく思える仕草で辺りを眺めた。

 表情は余り変化が無いにせよ、親しい者が見れば「悩んでます」と云わんばかりの表情だった。

 

 本も只、手に付ける様な、落ち着くための何かを必要とした時に手元に在ったから持ってきた、それだけの理由である。

 残念なことに全く気を紛らしてはくれなかったのだが。

 

 

「解らないな……」

「姉さん…………何悩んでるの?」

 

 

 彼女がそうして居れば、何か用事のあるらしい弟が何だか神妙な顔つきでやって来たことに気付いて、本を閉じた。

 

 

 

「いや、何もないよ。其方(そっち)こそ何か在ったの?」

「遠くから兄さんっぽい人が見えたのは善いンだけどさ……何か、知らない人が一緒に居るのが見える」

 

 

 朧はうわぁ、と思わず声に出してそう云った。

 実は可能性なんかじゃなくて、確定事項だったんじゃあなかろうか。

 

 

「あああ、矢張(やっぱ)り…………。何だか上司もついて来るかもしれないって書いてあったんだよね」

「はぁッ!?」

 

 

「そういうのは早くに云っておく可きだと思う」という苦言に朧は微かに苦笑して、謝った。

 

 

「だって、真逆此んな場所に来るなんて思わないじゃない? 白木兄さんなら冗談でそんなこと云いそうだもの」

「確かに」

 

 

 弟に連れられてその様子が見える位置に赴けば、本当に二人、歩いてやって来るのが遠くから見えた。

 

 目を眇めてよくよく観察すると、大荷物でありながら此方に手を振っているのが見えて、彼女は弟と顔を見合わせてから仕方なしに手を振り返したのだった。

 

 

 

 

 

 




石竜は蜥蜴の別読み。
サブタイトルで若干期待した方、すまない(´・ω・`)
記念すべき原作キャラの一人目である彼が出てくるのは次の話なんだ……


感想、評価等お待ちしてます。



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第六話 黒き石竜(後編)

 

 

 

 其の部下が、曰く付きのあの(・・)孤児院の出身であることを識ったのは本当に偶然のことであった。

 

 勿論仕事で私的な事について話すこと等無いのだから其れ迄識らなかったことが当たり前で、正しい。

 解ってはいたが、真逆こんな身近に転がっているような事だとは思わなかったのである。

 

 

 ある意味で有名な其処は、一見すれば何の変哲も無い場所だ。

 

 敢えて云うなれば、図書館であった所をある程度の人数が住めるように整理した、そんな建物が建っているらしい。

 生憎見る機会は無かったので、話に聞いているだけだが、それだけならばさして気にも留めぬような、そんな場所だ。

 

 

 …………然し、其処を城とする男、孤児院の院長である彼は割と名の知れた者である――善い意味でも悪い意味でも、大戦に関わってきた異能者にとっては。

 

 それに自分も含まれるのは、云うまでもない。

 

 

 

 

 ──そういうことを説明した筈なのだが、此奴はそれを受け入れきれていないらしい。

 

 

 まあ、識っている人が、そんな側面を持っていたと、直ぐには認められないという気持ちも解るのだが。

 

 広津柳浪はそんなことを内心で思いつつ……然し、溜め息を隠しもせずに吐き出した。

 

 事の発端と成ったのは、隣を歩く此の青年であった。

 幼さの滲む風貌だが、此れでも実力はそれなりで、とある(・・・)組織において広津の指揮する部隊──武闘組織「黒蜥蜴」の十人長を務めている。

 

 入隊歴は短くとも部下からの信頼は篤く、何より広津自身がその実力を認めている。

 

 …………冗談が多いのが玉に瑕であるが。

 

 

 

「俺だって知らなかったンですよ、抑も彼奴(あいつ)に最低限しか近づかないのは彼処(あそこ)じゃあ暗黙の了解ッて奴で」

「……使えん奴め」

「それは横暴と思うんスけど」

 

 

 広津の隣を歩くのは、白木といった。

 

 長袖の上下に丈の短めな上着を羽織る、至って普通の青年である。

 やや小柄な体躯で、広津の横を早足に歩いているのは単純に歩幅の差でそうでもしなければ広津と並んで歩けないからだ。

 

 まあ、其れもそうか、と広津は云った。

「使えない」と云いながらも、果してそうだろうことは広津にも判っているのだ。

 

 仮にその院長とある程度友好な関係を築けたとしても、その事実は得られなかっただろう。

 院に居る数多の孤児たちの一人である、至って普通の若者が其の事実を識っているならば、異能者が秘匿される様な扱いをされる訳が無いのだ。

 

 

 

 ……その男は、別に軍を易々と制圧出来るような異能を持っていた訳ではない。

 極めて稀な、人を癒す異能を所持する訳でもない。

 だが大戦において、軍部に重宝される人材には違いなかった。

 

 

 終戦と相成った今でも、未だ男の有用性は生きている。

 軍部という後ろ盾を失いつつある男に目を付けている組織は少なくないだろう──態々(わざわざ)広津が付いて行くのも、そんな理由が有るからだった。

 

 まあ其れとは別に、一個人として多少興味を持っている、というのも無きにしもあらずであるのだが。

 

 

 広津の同行の目的を理解し、何よりその下で働いている白木も既に状況は知らされている。

 広津がそれを伝えた時、彼は「俺は只、ちびたちに関わりが無ければ問題在りません」と、即座に一言、それだけを云うのみであった。

 孤児院育ち、お互いに助け合って生きてきただろうことは、弟妹たちに与えるのだと背負った大荷物から窺えた。

 どうやら院長はその枠からは外れているらしい。

 

 

 

 殺風景に過ぎる(みち)を辿り、歩を進め続ければ、やがて見えてくるものがあった。

 

 

「…………あれ(・・)かね」

「あれっスね。何だか懐かしいなぁ」

 

 

 未だ遠くに見える建物。

 粒のようにも見えるが、人の確認くらいは出来た。遊んでいるのだろう頻りに動いているのは子供たちだ。

 

 

 ……暫く眺めて居れば其処からやや離れた場所で二人、此方を向いているようにも思える人影が在るのを認める。

 広津は単眼鏡(モノクル)の掛かる目を眇め、「あの子らも此方に気付いたようだな」と云った。

 

 

「あれは……朧かなぁ。ああ、俺が手紙を送った妹ですけどね、今ちび共を纏めてる子っスね」

 

 

 其んな説明を聞き流し乍ら、此んな兄を持っている妹はさぞかし大変だったろう、と──広津は、何時も以上に元気に為った部下が手を振っているのを眺めてそんな事を思った。

 

 

 それまで暇潰しのように煙を燻らせていた葉巻の火を、ゆったりした仕種で消す。懐の棄函(アッシュケース)を探り、その中に仕舞った。

 

 落ち着かなげに成っている白木が、その仕種を待っていたかのように弾んだ声を出した。

 

 

「あ、広津さん俺先に行ってて善いっスか!」

「…………好きにし給え」

「よっしゃ、あざっす! 朧ー、今から其方(そっち)に行くからな!」

 

 

 広津は再び溜め息を吐き出し、それを綺麗に無視して走り出した部下の後ろ姿を眺めた。……多分、溜め息も聞こえていなかっただろう。今火を消したばかりにも関わらず無性に葉巻を吸いたくなった。

 

 新しい葉巻を又一本取り出そうとして──止める。

 目的地へ到着して火を消して仕舞うならば、此の距離で新しいのを無駄にしてしまうだろうと、そう考えたからだった。

 

 

 

 

 

 既に大分近く迄近付いていた。

 

 白木が大荷物のまま二人の子供の方に倒れ込むのが見えた。

 一人は上手く抜け出して、さっさと中に荷物を運び込んでいるのを確認する。

 時間としては、白木よりも少しばかり遅れた程度であったろうか。

 

 到着すると、其処には部下に未だ抱き着かれるようにされる少女が居た。

 逃げられなかったのは彼女であったらしい。

 少女は抱き着かれた体勢で困った様にし乍らも、広津に小さく会釈した。

 

 

 何処か大人びたようにも見える子供だった。

 風に靡く栗色の猫っ毛を押さえつつ、黒みがかった(みどり)の大きな瞳が此方を見つめ返していた。

 

 然し、他に特筆すべき何かは無い。

 そんな普通の少女、探せば幾らも居そうな子供だ……此の部下はどうやらその子を滅法可愛がっているようだったが。

 

 ポートマフィアの構成員らしからぬ姿に思わず額を押さえる。

 何も云わずには居られなかった。

 

 

「……白木、そろそろ離れてはどうかね」

「妹が足りません。もう少しこのままで善いっスか」

「…………兄さん」

 

 

 即答する白木に少女が呆れた声を上げ、「すみません」と何処か諦めたように呟いた。

 

 

 

「判るけど、後でね」

「朧、お前…………立派に為ったな」

「前と変わってないと思うよ? 其れ、多分大分前の話だと思うんだけど……本当に、すみません」

 

 

 無理矢理に白木を引きはがした少女は、「朧です。兄がお世話になってます」と改めて頭を下げた。されるがままに為っていたのは、抜け出せないからでは無かったらしい。

 白木を放り出し礼をすれば、交織りの生地で造られているだぼついた裾がちらりと揺れた。

 

 

 気付けば他の子供たちは居なくなっている。

 

「弟が中に入れました。見苦しかったら申し訳ないので」とその疑問に答えるように云う少女に対して、広津は此の少女が「朧」なのだろうと推察した。

 

 心なしか静かに思える中、広津は少女に向かって手を差し出した。

 

 

「私は広津……広津柳浪と云う。出迎えまでさせてすまないね」

 

 

 少女はいいえ、と微かに首を横に振り、広津の手を取り握手をした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──その時の違和感を、何と表現したらいいか、広津には解らなかった。

 

 

 至って普通な少女であった故に、それは不意打ちのようにも思われた。

 それでつい【異能】を出してしまう程驚かされた訳でも無いが、それでも少し、驚かされるものがあった。

 

 只それが初めての感覚であったのは解る。

 そして、広津がぴくりと眉を動かしたと同時に、少女の表情に驚きの混じるそれが在ったのを認めた。

 

 手袋越しに、少女の手が強張ったのを感じ取る。

 

 

「………………⁉」

「之は────」

 

 

 思わず手を離した少女に思わず漏れた詞を、果して聞いていたのかいなかったのか。「広津さん」と、何時の間にか白木が起き上がって、割り込むように身体を差し込んでいた。

 遮るように云われたのはきっと、気のせいでは無かった。

 然しそれを広津がそれについて言及するより前に彼は「朧、又後でな」と云って進む事を促した。

 

 

「────うん、後でね」

「……………………」

 

 

 手を離し、不自然に急かす白木に連れられ乍らも広津が振り返れば。

 握手した方の手を離した状態は変わらず、中途半端にその手を持ち上げたままに少女も又、広津のことを見詰めていた。

 

 どうやら、見かけ通りの普通の少女では無かったらしい。

 

 見誤ったのは、異能者が醸し出す特殊さを感じなかったからであった。

 或いは、彼女が()()()()()()()ばかりなのか。

 

 その口元が、声を出さない状態で何と云われたのか、その握手を経たからこそ理解できた。

 

 

 い、の、う──。

【異能】。

 

 

 少女はそう云って、何処か真剣にも思える表情で広津を見送った。

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

「……何故止めた?」

 

 

 何処か部屋に押し込んだのか、子供たちは見当たらなかった。

 

 問い掛けに、白木は広津の隣、苦笑ともとれる表情で、「彼奴(あいつ)……朧には、無理っスよ」とだけ云った。少女の不自然な行動までは見えなかったのか、言及してくることは無い。

 

 単に広津の表情から、何かを察しただけなのだろう。

 恐らく位置的に、少女の顔を捉えられなかったというのもある筈だ。

 

 

 それで善いのだ、と広津は思った。

 識らない方が善い、寧ろ識る可きでは無い。

 

 見えない罅が今の関係を未だ壊さないでいるのならば、それに越したことは無いのだから。

 

 

「広津さん、興味が湧いたみたいな顔してましたけど、朧は普通の子です。普通の子で、俺の妹だ」

「……否定はせんがね」

 

 

 ────然し此れからどう成るかは判らないだろう。

 そんな言葉は、胸の内に留めた。

 

 自身が彼女と同類たる()()を持っているから判るのだ。

『そうすれば出来る』のだと、曖昧に、殆ど感覚で用いているもの。

 然し限りなく自分に近く、或いは自分そのものである何かが作用して表れた超常。

 

 異能…………広津自身完全に把握しきれぬ其れに『何か』が触れたような、否、明確に干渉されるものがあったのを感じ取っていた。

 

 それは明らかに、異能であった。

 あの少女が、内側に抱えているものは。

 

 そして残念なことに、大体にして、異能(いじょう)を抱えている人間が真っさらなままで居られることは無いのである。

 

 

 ──曰く、異能がそれを所持する本人を倖せにするとは限らない。

 

 

 自身の身の内が招いたことを受け入れられるか否か? それは、本人次第だ。

 どちらにせよ、異能力者は必然的に()()()()()()()を呼び寄せることには違いない。

 

 

 自身がそれを真正面から見据えることが出来る者であるのか、或いはそこから目を背け不本意を抱え乍ら生き続けるのか。

 その選択を迫られる、只それだけのことだ。

 

 

 

 

 

 殺風景な外の景色を臨みつつ進む先に、扉があった。

『院長』──その男が居るという部屋の前で、白木がノックをする。

 

 

「院長、入るっスよ」

「失礼する」

 

 

 そうして、扉を抜けて進んだ先へと踏み踏み出した先──狭苦しいくらいにびっしりと本に覆われる小さな部屋が、其処に在った。

 正に城だと、そう云い表して善いだろう。

 

 本。

 視界を埋め尽くすように、ひたすらに其れだけが、目についた。

 

 見渡す限りに有って、そのうちこの部屋からもはみ出してしまうのではないかとも思えてくる。此処までくれば、いっそ壮観と云って善い位だ。

 

 狭い部屋でこの様相の割に圧迫感があまり無いのは、大きめの窓から外を眺められるからだろうか。カーテンは古びたもので、所々の解れが目立つ様に在る。

 

 足の踏み場も無いような場所で、然し通り路の様に連なる隙間を縫うようにすれば、丁度部屋の真ん中に来た辺りで、奥から声がした。低く平坦な男の声だ。

 

 

「狭き門より入れ、滅に至る門は大きく、その路は廣く、之より入る者多し………………」

 

 

 入ってから、出迎えとも云うべき言葉は其れだった。

 開口一番、本から顔を上げもせずに、其んなことを男は云う。

 

 広津は立ち止まって辺りを覆う本を退かし、またその内の一冊を徐に拾い上げ乍ら言葉を引き継いだ。

 

 

「生命に至る門は狭く、その路は細く、これを見出す者少なし」

 

 

 神は信じていないが、有名な一節を識らぬ程学が無い訳では無かった。

「は」と云った白木の呟きを無視して広津は眉を僅かに上げ、まじまじと彼を観察した。

 

 広津よりも幾分か年齢は上だろう壮年だ。

 本の塔の陰にあってよく見えていなかったが、声の方向を改めて見遣れば、白尽くめの装束を身に纏い本の山のその更に奥に座しているのを見ることが出来る。

 

 

「手紙は見た。大体の想像はつくが……貴様等からは未だ其んな話を貰ったことは無かったな」

「態々機会を設けて頂いたことは、感謝している」

 

 

 目が、その黒々とした眼差しで以てゆるりと上向き此方を見詰め、広津は其れに正面から相対する。手に取った本を近くにあった本の塔の、其の更に上の天辺に乗せれば、僅かに足の踏み場が増えた。

 

 向かい合っている男は、にこりとも笑わなかった。

 手に持つ其れに手を置いて、誰に聞かせるでも無い様な呟く声で、その実明確に、正面の広津へと語り掛けていた。

 

 

「此の一節を読むと何時も思う……大体の者が至る路を過ちとするならば、いっそ(おれ)は立ち止まる方を選ぶ。貴様は如何に思う? 広津柳浪」

「……返事は必要かね?」

 

 

(いいや)、要らん」と男は云い、本を閉じた。

 改めて、とでもいうようにもう一度広津を見遣った。

 

 …………白木が遠ざけるのも解る気がした。

 どこか無機質で、一見底の見えないようにも見える目だった。この冗談好きな部下とは絶対に気の合わないだろう、そんな人種であると察した。

 

 

「話が有るらしいな、聞こう」

 

 

 男が切り出し、広津は頷いた。

 もとより此の時の為に来たのだった。其れが今回広津に課せられた役目である。

 

 広津は口を開いた。

 

 

 

 

 

「では────」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




思わず出してしまった『狭き門』。云わずもがなアンドレ・ジッドの『狭き門』から。

ジッドのメジャーなのは狭き門だよなあと思いつつ、文スト小説『黒の時代』にて織田作と語り合い(?)をする最期で敢えて『一粒の麦もし死なずば』を引用してくる作者さんには脱帽と云うしかありませんです、はい。




やっと広津さん(原作キャラ)が出てきて、少しほっとしています。長かった……
原作開始時は50歳らしいので、原作十数年前の本作においては30代半ば位の素敵なおじさまで想像して下さい(キリッ


※※
お気に入りがじわっと増えてて感激。
皆、織田作が好きなんだね。思わずにっこりしてしまいました。










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第七話 匣の中身

 偶然とは斯くの如く在るものなのだろうか、と思わされることが在った。

 

 勿論、それが意図されたことでは無いとは解っている。

 云うなれば、只成るべくして成った、それだけのことなのだろう。

 

 

 兄の帰省。単純にそれだけの内容である筈だった。

 

 それを思わず放り出してしまう程のこと、少なくとも私にとって状況を覆されたかのようなことが起こっているのは間違い無かった。

 

 

「……………………此れ、が」

 

 

 一人で呟くが、然し返事は無い。

 誰も居ないのだから当然である。

 

 先程迄居た弟は兄の荷物を中に運び込み、序でとばかりに他の子供たちも撤収させていった。

 周囲に人の気配は無く、今此の時私は一人だった。

 

 

 

 外に取り残された身体に吹き付ける風は、酷く冷たい様に感じた。

 背中から噴き出してきた汗のせいで尚更そう感じる。

 

 私は、強張って動かなくなった手を何とか動かし、その場に座り込んだ。

 服が土埃で汚れるかもしれないとか、そんな考えは邪魔なものだった。

 

 それ以上に重大なことだろう──……少なくとも、私にとってはそうだった。

 

 事前に聞かされていた。

 然しそれでも、自分の中に、その時迄全くとして自覚していなかった『何か』が在る、というのは……否、回りくどく『何か』などと称するのでは無く、【異能】と断ずる可きそれに対する衝撃の方が余程大きく、私の中を渦巻いていた。

 

 

 在るのだと云われ、実際に存在すら判らぬままに数日経ち、私はようやっとそれに気付いたのだった。

 

 突如にして、日常という中に投げ込まれた異質なるもの。

【異能】──噂やお伽話、空想の類いと思っていた。

 

 私の生きる場所とは違う世界は、然し私の眼前にある。

 震えが走り、私は自分で自身を掻き抱いた。

 

 

 

 ──きっかけは、何となく察しがついた。

 そしてそれが正しいのならば、今より前に気付けていたなら、もしかすると…………いや、止めよう。若しもの話をした所で、其れが起きなかったことは確かだった。

 

 ()()()()とした感情。

 自分のことであるのに判らないという不気味さに焦れ、識りたいと願うばかりでは、その感覚は掴めないものだった。

 白木──兄が連れて来た上司であるかの人が『そういう人』であるのは、名前を交わし握手をした、あの少しの間だけでも十分に理解出来たのは、私の【異能】が発動したからだ。

 私は紳士然とした壮年の姿を思い返し乍ら、そんなことを考えていた。

 

 

 艶やかな黒髪を撫で付け、一目で質の良さが解る黒外套と背広は残らず糊をきかせたものであった。

 去り際の彼は泰然たる佇まいで、単眼鏡(モノクル)の奥から何か観察するように此方を見詰めていた。

 

 握手をしたあの時、僅かに表情が動いたのを見た事から、恐らく彼も又、私と同じような感覚を同時に体験した筈だ。

 

 

 

 その時、自分の中にある其れを、私は初めて明確に感じたのだった。

 確かに(わたし)の中に蠢くそれは──今にして思えばどうして気付かなかったのかが疑問になる位で、あたかもずっと一緒に在ったかのようにしっくり(・・・・)としていた。

 事実、そうなのだろう。私の【異能】はその存在を識らずとも、私が今迄抱えてきたものなのだろうから。

 

 異能が、私の意識を失っている時に勝手に発動したのならば気付けないのも解る気がした。

 逆に、若し、と思うことがある。

 抑も院長の云っていた最初の発現の時──私が気を失う程のことが起こらなければ、私はその異能すら発現することなく居たのかもしれない、と。

 

 それが今更云っても詮無きことだとは、勿論解っていることなのだけれど。

 

 

 

 発現する前の状態から無理矢理叩き起こされたかのように、危険な目に遭ったから、と勝手に異能そのものがそう判断したのだろうか。

 

 何と云えば善いのだろう。

 …………その、いわば解錠され蓋を開けられたばかりの(はこ)を──【異能】という中身を剥き出しにしているそれを多分、私は取り出さねばならなかった。

 此の時を以て、それをようやっと理解出来たのだ。

 

 単に、私の場合は状況が特異だったのだろう。

 真逆意識を無くした後、本人の意思の無い時に勝手に力が開花する何て思わない。

 この例えで云うならば……匣の中身たる異能の感覚など、取り出し手に取ってもいないのに解る筈が無い、ということだ。

 

 私は、息を深く吐いた。

 どうすれば善かったのか、或いはどの様に考える可きだったか、色々と考え込んだ自分が莫迦みたいにも思える。

 

 私は只、待てば善かったのだろうか。

 身内に院長という身内が居る以上、来るべき機会は必ず訪れた。

 院長(かれ)だって、別に疾くとか、期間を定めていた訳では無い。いっそ無感動な迄に私を見て…………実感が無いと思いつつ、その実焦っていたのは私だった。

 

 まあ、こう云ったところで時間が巻き戻るわけでもなく、一日二日の差など誤差にも成らないのかもしれないが。

 

 

「…………」

 

 

 私は自分の掌を見詰めた。

 

 異能について、何を如何する可きなのか、漠然と解っているような気がした。

 此の身の内に潜む、然し永い間共に在った力は、私にそれを振るえと囁いているのだろうか。

 

 確か──院長はこう云っていた筈だ。

 

「貴様が何を思い、異能で何を為すのかなぞ知らんし興味も無い」と。

 同時に、「其れを為すのに足る異能(ちから)が有る以上心しておくことだ」とも。

 

 私の持つそれも又、異能(ちから)である。

 きっと矮小たる身には過ぎた代物。

 紛れも無い異物であり、異常。

 人に優劣を付けてしまう超常──或いは、奇跡。

 

 

 私は答えを知りたかった。

 

 再び立ち上がれば、背中の骨が軋むような感覚を感じた。

 土埃を払い、手を握っては開いて見詰めていれば……「朧」と、私の名を呼ぶのが聞こえた。

 私の、歳は二つ三つくらい離れた兄──白木が、可笑しさを滲ませるような表情で、此方を観ていた。

 

「今まで、観てたの?」と聞けば、「真逆! 見えただけだよ」と何とも判然としない答を返された。要は見ていたのだろう。来たばかりなのかはよく、判らなかったけれど。

 

「裾が未だ埃っぽく成ってる。払ってあげるよ」と未だ少し笑っている兄は──「話もしたいから!」と云って、長椅子(ベンチ)の方へ、私を促した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お前は覚えて無いンだろうけどさ、此れは随分昔に兄貴たちが造った奴でな?」

 

 

 識ら無かっただろう、と云って、置きっぱなしにしてあった本を手渡された。

 

 兄はそこに座り、私は本を抱えなおしてその隣を陣取る。

 本の間の頁には挟んでいた封筒があり、私はそれを取り出し改めて眺めた。

 

 

「真逆上司の人を連れて来るなんて、何時もの冗談かなって、思ってた」

「冗談とは酷い。兄さんは仕事のことに関して嘘を吐かない男として有名なんだぞ? あれは未だきちんと決定して無い時に書いた物だから、仕方ない」

 

 

 私の視線を──多分じっとりとしていたのだろう──を暫く受けると、兄は肩を竦めて「何だか多少気が強く為ったなぁ」と呟いた。

 

 

「何だか彼奴(あいつ)……院長先生は有名らしいぜ? 異能的に。広津さんは久しぶりに帰省する部下の付き添いを気まぐれにしていただけ──という名目で面会しに来たわけだ」

「…………」

「ははは、何で識ってるんだって顔してるぞ朧」

 

 

 事実、私は間抜けな顔を曝していただろう。

 然し──其れでは、矢張り…………

 

 

「じゃああの、広津さんって人は院長に用が在って此処に来たの?」

「まァ正確にはその異能、にだけどな……組織に利用出来るモンは何でも、皆欲しがるから」

 

 

 あんまり詳しいことは仕事だし話せないぞ、と云って兄は笑った。相変わらずよく笑う兄である。

 

 

 それは嘗て兄も此処に居た頃の生活を彷彿とさせるもので……然し、どうにも遠く感じられた。

 隣どうしに座っているし、僅かな隙間からでも感じる仄かな熱があるのに、私には、その横顔を見せる兄が何処か透明な壁一枚を隔てて別の場所に居るようにも思われた。

 ……其れが自ら引いてしまっている線引きなのは、理解している。

 

 

「異能は都市伝説みたいに語られてるし、俺も正直信じては居なかったんだがなぁ……ちびっ子でも信じなさそうな代物だが、上司という例がある以上信じざるを得ないよ。お前も識ってるンだろ?」

 

 

 問い掛けられて、少しだけ私は唇を引き結んだ。

 

 常識から外れているだろう力を、他でも無い私自身が持っているという事実が、妙に胸に刺さった。

 果して此れが……院長の云っていた「心しておけ」という言葉の示す一端であったのかもしれない。

 救いなのは、院長や広津という男から話を聞かない限り、兄がそれを識ることは無いということだ。

 

 私もあまり、自分が異能に目覚めていることは人に云いたくは無いから、気付かれない限りは云う積りも無い。

 

 

「聞いたの?」

「何か見られたからばらしたッて云ってたんだが……彼奴もへま(・・)をするモンなんだなぁ」

「…………」

 

 

 そしてどうやら、院長も兄に私のことを話す積りは無かったようだった。

 そこにどんな理由が在るかは識らないが、矢張り異能はそういう(・・・・)扱い故に今迄噂や幻と云われていたに違いない。

 

 

「俺は抑もお前たちを構いに来ただけだから、さっさと出て来たンだ。あれは広津さんの仕事だしね」と、兄はそう云いつつ頭を掻き混ぜてくる。

 私は、暫くされるがままになった。

 

 遠くに居るようでも私は兄に触れられるし、兄も私に触れられるのだ。

 それが妙に胸に染みた。

 

 色々なことが一気に起こった感覚で──然し今は未だそれでもいいかな、と私は思った。

 頭を撫でる手が懐かしく、温かかったからというのもあるのかもしれない。

 

 何となくしんみりとした心持ちに成って、兄が膝をぱん、と叩き立ち上がった。

 

 

「此んな寒い処に居るより、中に入るか!」

「皆も兄さんと遊びたいと思うよ?」

「土産も在るんだ。以外と夢中で相手にしれくれないことも有り得るけどなぁ」

「それこそ真逆、だよ」

 

 

 兄を慕わない子たちが、自分を含めて居る筈が無いではないか。

 私がそんな意味を込めて云えば、兄は一瞬きょとんと此方を見て、そして破顔した。

 

 

「うん、矢張(やっぱ)り善いもんだな」

「…………」

 

 

 何だか気恥ずかしくて目を逸らせば、頭をぐりぐりと撫で回される。

 兄がどんな顔をしているのか容易に想像出来た。

 

 そんな私たちを待ちきれずにいたのか、弟が一人入り口から出てきて此方の方を向き目を丸くした。

「姉さんがそんな風にされるの、久しぶりだね?」と云って意外そうな顔をしているのが見えた。

 

 

「おう、先程(さっき)ぶりだな弟よ」

「はいはい、改めてお帰り……と云いたいンだけどさ、取り敢えず先に皆の相手宜しくして欲しいな。ちび達皆待ってるよ」

「兄さん、愛されてるね?」

 

 

「は」と声を上げかけるのを逃さぬようにと、弟は兄の腕をつかんで、中へ急ぐように入っていく。私は慌ててそれを追いかけた。

 

 或る部屋の前で立ち止まり、その外から「いいよ」と心持ち大きな声で弟が云った。同時に兄の手を放し、扉の前へ押し出すと、細く開けられた扉から間髪容れずに伸びるものがあった。小さな手だ。

 

 兄を容赦無く引きずり込んでいったのに瞬きをして、私は乱れた髪を手櫛でさっと直した。

 …………正直な所、少し怖かった。

 

 

余程(よっぽど)嬉しかったんだね」

 

 

 しみじみと呟く弟の顔は、心なしか疲れて見える。

 私の居ない短時間に、苦労することがあったのは容易に推察出来た。

 私はふ、と息をついた。

 

 

「……暫くしてから、入ろうか」

「それが善いと思う」

 

 

 もみくちゃにされているんだろうなあ、と思いつつそんな言葉を交わして、時間を潰すように壁に寄り掛かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




何となく、ふわっとした異能の解釈。
発現、又は自覚の仕方は人それぞれらしいので、一応独自扱いということで。
一番書くのに苦労したので、説明が下手かもしれない。



主人公の異能力の詳細は未だ出てきません。
勿論のことオリジナルなので、そこらへんは温かく見守って頂ければ幸い。
苦手という人はそっとブラウザバックしてやって下さい。


感想、評価等お待ちしてます。





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第八話 朧げなる境界にて

 

 

 

 兄が私たちに送ってくれた土産はかなりの量があった。

 既に子供たちの検分は済まされているように見受けられる。

 只、今は兄に群がっているためにか、ぽつんと取り残されるようにして置いてあった。

 

 私も又、それに近付く。

 興味が無いという訳ではなかった。

 

 

「案外多いんだね?」

「兄さんも、よくもまあこんなに買ってきたよなぁ……」

 

 

 弟と二人でそう云いながら、一つずつ並べられたのを手に取ってみる。

 一人で運んだとすると此処まで来るのも大変だったろう、と思わされる位の量であった。

 実際、あの何処と無く気品の感じられる上司に、兄が個人的な荷物を持たせる筈が無いのは、短い間でも理解していた。

 

 私は先ずその存在感を主張している毛布を触った。

 選んだのは今が寒い季節だからなのか。一枚きりだが、かなり分厚い物だ。小さな子供たち数人ならこれ一枚で十分凌げそうである。

 孤児院事情をよく解っているなと、当たり前のことながら感心した。

 

 弟がその横で眺めていたのは甘味だ。見れば、色とりどりの金平糖を瓶詰めにしたものが数個ある。

 食事だって今でも細々として繋いでいくだけなのに、これはかなり貴重なのでは無かろうか、と思ったのは正しいだろう。

 

 大体服装からして何故そんなに金回りが善いのか、逆に不安で問い質したくなってくるくらいだ。

 ……小さな弟妹の手前、間違ってもそんなことはしないが。

 

 他にも細々とした物品が在ったのだが、その中でふと、或る物を見つけた。

 

 

「後……此れは?」

「服だね」

 

 

 一人分の服は、流石に皺に成ることを子供たちも危惧したのか、あまり手を付けている様子見られない。 

 

 子供たちの中で埋もれている兄の方から、私たち二人の会話が聞こえていたのか、至福と云わんばかりの声音で「服だな!」というのが聞こえた。

 ……声だけは、拾っていたらしい。

 

 振り向けば、当の本人が緩んだ笑顔で子供たちを引き剥がし乍ら、起き上がるところだった。

 表情と動作が何となく噛み合っていないなあ、と、そんなことを思う。

 

 

「ほらちび共、俺は逃げないから少し大人しくしてな────っと」

 

 

 乱れた服装も直して、兄は「其れは朧のだよ」と云った。

 

 

「お前も一人立ちして街に行くことに為った時、その交織りじゃ厭だろ? 俺は厭だった」

「経験済み?」

「経験済み」

 

 

「まァ、世が世だから仕方無いんだがな」とつけ加えられて、私は手に取ってみたそれを見遣る…………どうやら、私の為の洋服であったらしい。

 何だか見慣れない感じであるが、質が善さそうだというのは一目でも判る。

 

 長袖で襟のついた黒の襯衣(ブラウス)に、どこかつるりとした手触りの黒下裾着(ズボン)

 真っ黒だ。何か、仕事用ですとでも云わんばかりの服だった。

 女性にもこんな恰好をした人が居るものなのだろうか。

 

 

「……高かったんじゃない?」

「まァ大体闇市頼りだからな……値は大分下がったから気にする程でも無いぞ? 少し前なら驚く位高かったんだが、連合諸国の流入やら取り入れられる品物の量の多さやらで、流通の面では問題無い位に為ったからな」

「へぇ…………」

 

 

 ……少し、ほっとした。

 

 

「姉さん、着てみたら?」

「今?」

 

 

「大きさの心配もあるからな。大丈夫だとは思うが」と云われて、私は素直にその場で、簡素な作りをしている服を脱いだ。

 薄い下着一枚に成ってから不意に見遣れば、兄と弟にさっと視線を逸らされた。

 

 そんな、未成熟の身体に何もそうする必要も無いのでは、と思う。

 胸なんて無きに等しいというのに。

 

 

「お前、女なンだからもう一寸(ちょっと)羞恥心ッてモンをだな」

「別に家族だし、今更だと思うんだけど……? 着てみたらって云ったの其方(そっち)じゃない」

「「普通着替えは声を掛けるものだ!」」

 

 

 声を揃えて云われ、私は一寸(ちょっと)肩を竦めた。

 

 然う云えば兄も弟も、いつの間にか一緒に風呂には入らなく成っていたのだ。

 小さい頃は一緒に入りもしたが、何時からか自然と男女に別れているし、風呂の間は絶対に近付くなとか厳命されたりもするし。

 

 態々近付く必要性も無いからする訳が無いのだけれども……この反応は、振り返ってみれば当たり前のことかもしれない。

 

 目の前の此の二人も何かしらあるのだろう。

 ……性格は全然と云って善い程なのに、妙に似通った言葉遣いや行動、思考回路をしているところは流石兄弟、と云う可きか。

 

 

「何だかなぁ……」

 

 

【異能】とか、それ以前に性別という面でも人が住み分けをしているのだと思うと、外の世界はもっと面倒な作りに成っている筈だ。

 

 私は別に面倒臭がりな気質では無いが、抵抗というものも何と無くはある。

 少なくとも家族なんだから、仕切りなんて無いに越したことは無いというのに。

 

 

「姉さんが無頓着なだけだからね」

「そうなの?」

 

 

 首を傾げるが、然し、それで無い自覚が沸き起こる訳が無い。

 

 此の僅かな抵抗すらも無頓着の内に入るのだろうか、然し弟が云うのならそうなのかもしれない──と内心で思いつつ、袖に手を通してみる。

 

 二人は相変わらず顔を背けていた。

 他の子供たちは何も気にせず遊んでいる。多少視線を感じるが、それだけだった。

 

 私は(ボタン)を留め、下裾着(ズボン)に足を通した。見下ろせば真っ黒である。

 

 

一寸(ちょっと)大きいかな……?」

「成長するから、それ位で善いンだよ。彼方(あっち)じゃ珍しくもないから、気にする必要も無い」

「真っ黒なのも?」

「それは気分だ」

「えぇ……」

 

 

 まあ似合ってるから善いじゃないか、という言葉に私は頷いた。

 

 

 ──大事にしようと思う。

 ──亡くしてはいけないと思う。

 ──ずっと(・・・)使えたらいいな、と願う。

 ──破れたりするようなことが有るのは厭なのだ。

 

 

「あ」

 

 

 その時、ざわり、と、私の()が蠢めいた。

 私の中を満たしているそれが、手に触れていた襯衣(ブラウス)へ向かい僅かに出ていったように感じた。

 

 勝手に……否、此れは、勝手にと云う可きなのだろうか。

 

 

「朧、如何かしたか?」

「…………何でも無いよ。此れ、凄く善さそうな物だから大事にしたいなって」

「そう云ってくれたなら、あげた(かい)が有るッてモンだ! ……あ、弟。お前はもう少し大きく成ったらだからな?」

「兄さん、そんな事位判ってるって……」

「ふふふ、そんな事云って実は拗ねてるんだろ? 愛い奴め!」

「ちょ、兄さ……ああもうちび共も乗じて群がってくるなぁ!」

 

 

 私は一寸笑ってからその様子を眺めた。

 

 機を窺っていたらしい弟妹たちが突進していき、兄共々悲鳴を上げている。…………昔は気付かなかったが、一人増えるだけで此んなに違うものらしい。

 或いは久しぶりにやって来たからで、此の光景も、もしかしたら暫く居れば元に戻ってしまうのかもしれないが、今は関係無い話だろう。

 

 

 賑やかだなぁ、と思う。

 

 その輪に入らず、只少し離れた処から、それを眺めていた。

 脱いだ交織りの服は足元に落ちていて、そこから取り上げれば未だ仄かに熱を持っていた。

 私はそれを丁寧に畳みなおした。どうせ直ぐに着替え直すというのに。

 そうしたところで何かが変わる訳では無いことは、知っていた。

 

 不意に子供が一人、輪から飛び出して此方へと駆けてくる。

 

 

「織姉、来ないのー?」

「ん……姉さん、此れを衣紋掛け(ハンガー)に掛けて来ようかなって。兄さんに云っておいてくれる?」

「解ったー!」

 

 

 たた、と又直ぐに小走りで私の元から離れ往く子供を、私は見届けることなく静かに部屋を出た。

 後ろ手に扉を閉めて歩き出す。

 

 途中でふと頭に手をやって指で少しだけ髪をくしけずれば、僅かな絡まりを発見する。後でいいかと放置して結局直ぐに手を離した。

 

 

 もう、驚かなかった。

 

 私の内に宿る異能(こいつ)は、私がそれを望めば多分、十全にその持つ効果を発揮してくれる筈だ。

 何だか対象には出来るものと出来ないものがある様だと云うのも判った。多分、時間制限もあるのだろう。

 

 まあ、目覚めたばかりの力をそう簡単に扱えるとも思っていないけれど、それなりに意識すれば制御も出来るようになると思う。

 その点で云うなら、案外私と異能(こいつ)は気が合うのかもしれないな、と思った。

 

 勿論異能は私自身でもある故にそういう問題でも無いし、抑も私の異能が意思を持っている訳では無い。

 

 只……、此れが『そのようにしてある』ことを、疑問に思いこそすれ拒絶しないという点で、相性は善いのかもしれなかった。

 

 

「…………うん、そっか」

 

 

 私は自分のことが何と無く識れて、同時に、一寸(ちょっと)だけ世界が優しく無いことも理解した。

 

 生きている以上至極当然の事だ。

 私もそんなことは以前から識っていて、それを再確認出来ただけだけの話である。

 結果としては未だ何も変わりはしていない。

 

 でもきっと、今はそれだけでも善いのかな、とも思った。

 

 

 

 

 物置から空きの衣紋掛け(ハンガー)を見付けだして、直ぐに脱ぐ事に成った服を丁寧に掛ける。

 元の交織りを着込めば、元通りとはいかなくとも何時もの私が出来上がる。

 

 兄たちの居る部屋に直ぐに戻る気にも成れず、そのままの足で広間へ向かう。

 ……誰も居ない場所で静かに一人、居たかった。

 

 

 

 広間に入り、玄関を見遣れば弟は子供たちを急かしたのか、よく見れば慌てて入った様に、靴は普段以上に乱れていた。

 その脇に兄と、そして恐らくはその上司の靴が揃えられている。

 

 私は屈んでそれらを見れる程度に揃えるとそのまま、何とは無しに頬杖つく。

 視界の端には本棚が変わらずそびえ立っていて、私はそれを認めてから目を閉じた。

 

 

 ──記憶は無くとも、何だか(わたし)の前の私はより身近に為って、私は彼女と、彼女により齎された異能のことを確実に理解し始めていた。

 

 

 確証なんて無いけれど、異能が一個人につき一能力、と云われるのはきっと……意識的であれ無意識的であれ、個人が抱えてきた『何か』があるからだ。

 

 一人ひとりが寸分違わず人生という道を同じ様に歩むことは決して無く、仮にそう歩んだとして、それをどう受け取るかは各人次第。

 

 普通の人から最早逸脱してしまったけれど、私がそう成るに至る何かが、此の緩やかにも思える代わり映えの無い毎日の連続の中に在ったのだろう──嗚呼、確かにそうだ。

 

「凡ゆる終わりを恐れろよ」と、彼の者は云った。

 そして何より、云われずとも、そう思ってしまうのが私であった。

 

 

 何てことは無い、私の願望(おもい)が僅か乍らに反映された、そして同時にそれは、嘗ての彼女(わたし)と同一の思いであったやもしれない。

 それは…………私にとってそんな異能だった。

 只――私には異能(じぶん)を拒絶する積りは毛頭無いけれど──その異能こそがある意味で、私の日常に終わりという終止符を打ったということは、何とも皮肉な話である。

 

 

 

 

 目を開く。

 そうすれば、変わらぬ景色が何時ものように広がっている。

 

 考え込んだのは一瞬か、はたまた数分はそのままだったのか。

 他人からすれば深く考える必要も無い事柄かもしれないが、数分そうしていたとして、然し私にとってはそうするのに値する程度には重要な話だった。

 

 

「どうせなら、最初から発現してれば善かったのに」

 

 

 立ち上がって本棚に歩み寄る。

 並んでいる幾つもの本の背表紙を指でなぞり上げ乍らその力が発揮されているのを感じ取る。……今やってみた限り、能力が行使されている最中か否か、触れればそんなことも把握出来るらしい。

 

 何だか無駄に便利な異能だ。

 多分こうしていれば、子供たちが本の頁を破るなんて心配をしなくても済むのだろう。

 折檻を恐れる子も気軽に本を手に取ることが出来る。

 

 宝の持ち腐れを解消出来るのだと思えば、多少なれど気分も晴れた。

 

 

「……………………」

 

 

 

 

 

 ──……だから、と云うのも変なのだが、意図的に異能を行使したのが初めてのこともあって、私は集中していたのだろう。

 

 少なくとも、誰も来ないだろう時間を越えてしまう位には。

 その場にある本全てをやり終える頃に、漸く人の気配を感じ取ったのは、誤算という他無かったのだ。

 

 

 

 

 

 それ(・・)に漸く気付いた私は振り返って──その人と見つめ合った。

 彼も此方を見ていて、お互いの視線が絡みあった。

 

 暫くの間、私と彼は、何も云わなかった。

 

 

「朧、と云ったかね」

 

 

 口火を切ったのは、相手の方だ。

 落ち着いた口調に、此方を探るような瞳が、黒々として此方を見据えて居た。

 

 ……事前に知らされる何もが無い時に出くわすと、思った以上に人は動揺するものらしい。

 私の身体は僅かに強張り、喉には何か絡まったかのようだった。

 彼にも、院長とは又別の種の『大人』という……云わば上位者であることをまざまざと感じさせる何かがあった。

 

 そのせいか、私の出した最初の一声は、少し掠れていたようにも思う。

 

 

「兄は詳しく教えてくれませんでしたけど、院長とのお話は終わったのですか」

「『交渉』は思いの外上手くいったものでね。多少運が善かったというのもあるし、ある意味君のお蔭なのだろうが──まあ、君には未だ(・・)関係無い話か」

 

 

 そんな意味深な言葉と共に、「そんなに固くならずとも善い」と付け加えるように云われて、私ははっとして謝り少しだけ肩の力を抜いた。

 

 お互い立ったままというのも居心地が悪かったからか、自然と本棚を背に、間を空け並んで座り込む形になる。

 座ることで僅かに立ち上り風に舞った塵が、陽光に照らされて煌めくのを眺める。

 そうし乍ら私は、取り敢えず、又別の事について謝ることから始めなければならなかった。

 

 

「──先刻(さっき)は、小父(おじ)さまへ異能を発動させてすみませんでした」

「…………ああ、あれかね」

 

 

「矢張り、あの感覚が『異能への干渉』とやらだったのか」彼はふと思い出したような然り気無い仕草で得心したようにふ、と息をついた。

 一拍おいてから「白木には識らせたのかね」と尋ねてくる。

 

 当然の疑問かもしれない。

 勿論私は、首を振った。

 何時かはばれるだろうと、そんなことは解っていたけれど。

 

 首を横に振りつつ──私はといえば、思ったより淡泊な対応で何だか虚を衝かれたような面持ちであった。

 もっと何か、別のことを云われると思っていた。

 

 

「詳細を、聞かないのですか」

「推測なら未だしも、異能力の詮索は異能力者(われわれ)にとって余程気心の識れた同胞(はらから)で無い限り、礼儀に反するのでね」

 

 

 私は、曖昧に頷いた。

 どうやら、そういうものであるらしい。

 

「所謂自己責任、という奴だ」と男は云った。

 

 

「故意であろうと無かろうと、君が謝る必要は無い。結果が全て、それこそが事実なのだから。勿論気をつけるに越したことは無いのだが……異能力、異能力者とは、望む望まざるに関わらずそういう(・・・・)世界へ、そんな考えが当たり前な世界へ足を踏み入れてしまうものだ」

「…………」

「であるならば、若しも攻撃的な異能力を君が持っていたとして、私が此処に居ない様な事と成るとしてもそれは、君の責では無い」

 

 

 そうで無いから此うしているのだと、暗に示すようにそう云った。

 

 

「能力を発現させる状況からも示されていることだ。真逆“精神操作"系の異能力者でもあるまい?」

 

 

 抑も異能力に系統があることも識らないのだから、私は返事のしようが無かった。

 本当に、『何でもあり』な力らしい。

 

 

「──私は、」

 

 

 異能力を振るえば(いず)れ訪れるものに今は未だ(・・・・)、恐れは無い。……私は無知だから、それ故に。

 

 けれどもそんな私でも、男の云う世界とやらが、普通の人なら一生関わることのない出来事を多分に含んでいるのは容易に想像出来た。

 同時に此の会話そのものが、私などが踏み入れてしまえば二度と這い上がれない領域への切っ掛けであるということも。

 

 

 だって、そうで無ければ彼が、(まる)で見てきたかのような口調で話せたりしないだろう。

 

 

「──私は、如何なるでしょうか」

 

 

 尋ねた訳では無かったけれど、漏れた声に「それは君が選ぶ事だ」と返事が返ってきた。

 

 

「彼──君の云う『院長』の様に生きるも善し、或いは私の様に成るのも善し」

「小父さまも、選んだのですね」

「無論そうだとも」

「…………私よりも小さな子供が異能力で以て小父さまを亡き者にしようとすることも、異能力ならば普通にあることなのですか」

 

 

 彼が無感情に頷いたのを見詰めて──兄が危険な世界に足を踏み入れたのだと、理解した。

 

 兄の職種を聞く機会が無かったけれど、本人から直接聞かなくて善かったのだろう、と何となく思った。

 居るか居ないかと云われるような異能力者を上司に持ち、その力を用いることも有り得る仕事というのは──或いは兄は、敢えて話さなかったというのもあるのかもしれなかった。

 

 

 一瞬、沈黙が落ちる。

 

 彼は白の手袋に包まれた掌を握ったり開いたりし乍ら、「君の異能力の様なものは珍しいな」と呟いた。

 

 

「一日程で効力は切れるらしいと聞いたが……今迄に無い感触(もの)だ」

「…………そうなのですか?」

「ああ、君は異能力を発現させた(ばか)り故、未だ自身で把握仕切れていないのか」

 

 

 私は、目を瞬かせた。私が彼以外に異能を施した人物は、他に一人しか居なかった。

 あの一見、というか──見るからに近寄り難い雰囲気を醸し出している壮年が私のことについて話をしていたということが抑も驚く可きことだが……矢張り、と云う可きなのか。

 

 私が信じられないようなことは、未だ世界に沢山溢れているらしい。

 まあ、院長が本以外のことを気に掛けたのも単に私が異能力者であり、一度は己に行使された異能についてのことだからだろう。

 

 後は多分、気紛れとか、そんな感じだ。

 

 

「白木の云った通りだな」と彼は云う。

 

「君に我々の仕事が出来るとは思えない」と、口元だけ笑って見せた。

 

 

「…………?」

「異能は、その人の人となりを観ていれば判ることも多いのだよ。貴重な異能力者だ、少し位唾を付けておいても善いと思ったんだがね」

「何というか……小父さま、特殊な仕事をしていることを隠さなく為ってますね?」

 

 

 私は苦笑した。

 何だか、此の会話にも馴れてきていた。

 内容は私からすればかなり重いのだろうけれど、それも暫くすれば苦では無かった。

 

 彼が単眼鏡(モノクル)を弄り始め乍ら、口を開く。

 

 

「あれは──白木は話さないだろう。成る程懸命だ……と云いたいところだが、君が異能力者なら話は別だ。何れ当たり前のことに成るとも」

 

 

 それは、果たして院長にとっても当たり前のことであったのだろうかと、そう思いつつ、話を聞いていた。

 意図せずして兄の願いに背いてしまったことを、少し申し訳なく思った。

 

 

「君の『院長』が後で話すことに成るだろう。そして聞いてから、選び給え──君には、未だ時間が有るのだから、その時迄に決めれば善い」

 

 

 果たして私の往く末を、私は識らない。

 

 然し、そこへ至る迄に少なからず出会える人が居るというのは、きっと幸せなことだった。

 

 

「…………私は、恵まれて居るのでしょうね」

 

 

 言外の感謝に広津は、「敵では無いのだ、先進が未だ幼い娘に少々口を滑らせても罪には成るまい?」と茶目っ気を含ませて笑った。

 

 私もその返しに一寸笑い、髪を撫でつけた。

 

 毛先に作った絡まりを丁寧に解き乍ら、僅かな沈黙の中で考えた。

 

 

 ──私は此の時、真に人生を歩みだしたのかもしれなかった。

 

 

 

 

 別に、安穏とした日々を否定する訳ではない。

 寧ろ私はそれを望んでいたのだから。

 

 ……然し、その望みの末に発現したのが此の異能であり、嘗ての私が生を終え再びこうして生き始めたことは、此の鼓動こそが証左であるのだと、そう云われているようにも思えている。

 

 さながら彼女が記した、未完(終らぬ)ものである物語のように、私は生き続ければ善い。

 先ずはそこから始めて、然し何れ至るだろう終わりは……まあ、その時に成れば判るだろう。

 出来れば今の、家族と在るような日常を過ごせていれば善いな、と思うのだが。

 

 

 

 踏ん切りがついた、とまでは云わないが、一歩前へ進めたような気がした。

 

 私は窓の外を眺め、日が昼頃を指しているのを眺め乍ら、子供たちは昼寝をしているのだろうな、とそんなことを思い付いたように考えた。

 

 腕を伸ばせば、妙に寒さが身に染みるようだった。

 

 私は目を閉じて…………きりきりとした冷たさを訳も無く吸い込んで、何だか笑みが溢れた。

 

 

 

 

 

 

 

 




朧視点は一旦終了して、次話が第一章最終話になります。



ナチュラルに広津さんを小父(おじ)さまと呼ばせるのは完全に作者の趣味。

※※
正直なところ、探偵社は一般人を脱した人ばかりなので、普通の何も知らない子供がいざそんな局面に遭ったならこんな感じなのかなあ、という妄想。
漸くスタートラインに立った感じです。





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第九話 A Man Of The Orphanage

院長の過去と第六話の続き。
概ね三人称てす。





 其の、眉唾ものとも云える異能が、然し本当に存在するのだということを彼は幼い乍らに識っていた。

 

 そして其れが、人為らざる領域──或いは存在しているかも定かではない、彼方へと近付きゆくのだろう異質なる物だとも理解していた。

 

 未だ幼き少年は己の掌を暫く見遣り────元の様に居直ってから、黙って何時も通りに努めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 少年の家は、指折りの名士と云われる様な家……つまるところ、古くから連なる家である。

 

 母は既に亡くなっている。

 然し其れが不幸な訳ではなかった。

 

 幾人もの使用人が居て、父が治める家の中で彼は、滅多に接することの無い兄と共に不自由無く育った…………否、不自由無く、とは云い過ぎだろうか。

 

 幼き頃より、彼も其の家の血を継ぐ者として、相応しく為るがための教育を施される中、彼の父は云った。

 

 

「強く在れ、正しく在れ、清く在れ。其れが此の家の掟であり、同時に其処へ至るため突き進まんとする者こそ我が息子である」と。

 

 

 故に、少年の内心が如何に在るかに関わらず、彼は様々なことを周囲から施された。

 其の意思を問われないという事に限り、彼は不自由であったが、余り気に留めることは無かった。

 

 剣術は勿論のこと、合気や漢詩、外つ国の語に至る迄──本当に、様々な事をした。

 

 

 

 

「そう在れ」と定められたのならば、そう在る可きなのだろう、と──至極単純な考えで、彼は黙って其れを、受け入れていたのだった。

 

 兄がどう思っていたのかは識る由も無いが、少なくとも彼にとってそうだった。

 

 

 

 幸か不幸か、少年には才能があった。

 周囲は彼に期待し、彼の方も淡々とそれに応えつづけたのだ。

 

 

 

 そんな風にして、十数歳にも為る頃の事だ。

 何度目に成るのか、戦争が起きた。

 幾人もの若者たちが徴兵された。

 

 次男であった彼にもその義務が在ったが、未だ来る可きその年齢では無く、彼は日々を過ごして居た。

 

 

 武器は沢山流れ、只でさえ混沌とした街の治安はそれ以上に悪く成ってゆく。

 

 少年が初めて人を殺めたのも、その頃であった。

 同時に転機と成る出来事でもあった。

 

 

 

 …………人を、殺す。

 是以上無い位の罪だろう。

 然し其れが、相手から向かって来たのならば、話は別であった。

 

 きっと皆、必死だった。

 其れを少年は、普段の訓練により鍛えられた太刀筋を以て、反射の如くその人を斬り殺していたのだ。

 

 

 

 顔に散った僅かな血。抜いた刀の血を振り払っても、彼は顔のそれを拭うことなく只僅かに、眉を顰めた。

 彼を襲った男は持っていた拳銃を落とし、倒れ伏す。

 

 から、と軽い音を立てて転がった物だけを拾い、帰宅した。

 

 

 

 

 ──意外だな。そんな顔をするのか。

 

 

 帰ってきた息子の表情を見て、父はそう云った。

 彼は「殺しは嫌いだ」と短く応えた。

 

 至極当然の応えであったが、普段から何でも卒無く熟す息子であっただけに、それは父にとって意外なことらしかった。

 ……渡された布で顔を拭い、普段の無表情を少しだけ歪めるのは、酷く印象的なものだったのだろう。

 

 そんな父に、息子は問うた。

 

 

 ──父よ。此れは正しく在る可きことだったのか。

 或いは其れは清き行動だったのか。

 ならば私は、それは厭だ。

 

 

 それは少年が初めて口にした、我が儘に近しい何かだった。

 然しそんな言葉を向けられたことが初めてである父は、その返答と選択を誤った。

 

 

「全てその様に正しく在る事が出来るのならば、誰もがそうするだろう。全てが全て、そう成る訳では無い。故に理想と呼ばれるのだ」と云ったのだ。

 

 

 息子は其の意味を暫く咀嚼するように黙り込んでから「そうか」と呟き──それから数日後、忽然と姿を消した。

 

 切っ掛けが此の問答であったのは、云う迄も無かった。

 

 

 

 

 

 家の者が探しているだろうことを理解していたが、少年は宛ても無い歩みを止めようとは思っていなかった。

 常より持ち歩いている刀と懐に拳銃、数日は食い繋げられる程度の銭のみを持って、歩いていた。

 

 彼らは少年にとって庇護者であったが家族ではなく、血の繋がった他人であった。

 母という存在なども皆目見当がつかないのだから、親子の情なども無縁のようなものだった。

 

 

 ──只其れでも、あの家訓に沿えと、そう在れと望まれていた。

 だから私は其方へ居たのだ。

 

 

 唯一その為に少年がしてきたことは裏切られ、ならば自分に何が残ったというのか。

 

 

「………………」

 

 

 偶然か或いは必然だったのか、少年の足は彼を或る場所へと導いていた。

 

 (いず)れ往くことになる場所へとたどり着いた彼は、暫く其の門を黙って見上げた。

 手に触れ感じるのは固い金属の感触だ。彼は懐へ手を突っ込んだ侭、門番へと歩み寄った。

 

 

「何だ小僧」

 

 

 門番は、頭二つ分小さな少年を見下ろして笑う。

 

 

「此処は軍部だ。よもや気でも逸ったか? 止めとけ止めとけ、(わっぱ)にゃ未だ早い!」

 

 

 揶揄うような調子に、然し無感情なままで、(いいや)、と少年は首を横へ振った。

 その仕種は若者がするにしては酷く空虚で、同時に諦観を滲ませるものだった。

 

 

 ──否、私は其の為に此処へ来たのでは無い。

 

 きっと私は私の有用性を以て、着いた先が此処だったのだ。

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

「では──と云いたい処だが、椅子は無いのかね?」

「そこ迄時間が掛かるとも思えんが…………善いだろう」

 

 

 男は本の山を崩し乍ら椅子から立ち上がり、徐に掴んでいた椅子の背を持ち上げた。

 

 

(おれ)の経歴位は調べたのだろう? 広津柳浪」

「其方こそ、大体の用事は理解しておられるようだがね」

 

 

 新たに出現した全く同じ色形をしている其れを押し出して、「持って行け」と男は云った。

 

 白木が憮然とした顔で本の山を同様に崩しつつ其れを受け取って広津の処まで持って行った。

 どうやら自然に行使された異能に対してよりも男に対する感情の方が勝ったらしい。

 当て擦りの様な行動に、然し双方眉一つ動かさず向かいあっていた。

 

 

 

 本の塔が崩されたからか、お互いの表情がよく見える。

 

 広津が腰掛け、視線の高さが同じになると、男はふと、其の冷徹な(かお)に見合わぬ息を吐いた。

 手は先程迄開いていた本の表紙を撫でている。恐らくその内容を諳じることも出来るのだろう。

 それ位に古びている一冊は──先程男の読み上げたある一節を記されている物だった。

 

 福音書である。

 視線に気付いたのか、広津が問う前に男が口を開き「先の(ことば)だが」と云った。

 

 

「己に組織への所属を望む輩には何時も此の一節を聞かせるのだ。『貴様等の提示する(みち)が、如何して己を正しく導くと云えるのか?』と。──ああ(いや)、己の正しさが所詮只の理想なのは識っているがな」 

 

 

 それを、此れ迄に男を勧誘しただろう組織と同様に遣いとして来た広津に話したのは……会話をする僅かな間にある一定の基準を見出したのか、はたまた単に同じ異能力者としての(よしみ)であったからか。

 

 

「理解しているとも。如何云おうと何れ、己は何処かへ属することを求められるだろう」と彼は云った。

 同時に「然し」とも口にした。

 

 

「どうせ庇護されるならば、己は己の有用性を十全に用いられる場所を望もう。戦時中の幼き己には、思い付く選択肢が軍だけだったから其処へ赴いた、其れだけの話なのだ……同時に、己に残された唯一の有用性を最も活用出来ていただろう処でもあったが」

 

 

 そこで一息つく。

 視界には、白木が身じろぐのを捉えている。

 

 横目に見ている所為か、只でさえ身構えられる顔が更に凄味を増しているのには気付いていないようである。院の幼子が見て下手をすると泣き出してしまいそうな視線だった。

 

 

「まあ、昔の話だ。戦争は終わった、最早己に盾は無くなる、己の有用性は何処かへと変わりゆく……己は貴様等『ポートマフィア』に、己へ何を提示するかを聞かねばならん」

 

 

 静かに、然しはっきりと、白木は瞠目した。

 そうして僅か、悔いるように目を閉じた。

 

 彼に男の、無機質な視線が突き刺さるのには幾許も掛からなかった。

 広津もちらとその方を見たが、何も云わない。

 

 

 ──判っていた。広津と共に来た時点で悟られているだろうことは。

 

 只、幼少の頃から、丸で届かない場所から見下ろすように居たこの男の印象の方が強かった。

 

 

「識らぬ筈が無かろう。貴様の使う銃弾等を誰が精製していたと思っている?」

「真逆、矢っ張り…………」

 

 

 未だ少し信じられずにそう漏らす青年と、それに対して、「戯けが」と短く云い棄てたのは外ならぬその城で彼を育てた男だ。

 

 上司は口を挟む迄も無く、彼らのやり取りを見詰めている。

 

 

「貴様がそこ(・・)へ足を踏み入れた事を、己が識らぬとでも思ったか──白木」

「────ッ!」

 

 

 白木は多少だが怯んだ。

 判って居たが、改めて言葉として真正面から云われるのは……罪悪感を、少なからず感じさせるのだった。

 

 苦手であった。

 関わりも少ない。

 然し一応は育ての親だ……大体のことを数多くの兄弟姉妹たちと熟してはいても、その事実は変わらない、確かなことであるのだった。

 

 きっと──何とも思わないにしては、彼の育った環境は優し過ぎた、というのもある筈だ。

 

 

 それに、浮世離れしているような雰囲気さえある育ての親も、……自分が思っているよりずっと近くの世界に居たのだと。

 此の地に足を付けて生きている以上は、当然のことなのかもしれないけれど。

 

 

「白木、外に出給え」

 

 

 だから、きっと────暫くの沈黙、話が進まないのを見かねて発せられた広津の一声は、彼にとっての助けの一言であった。

 同時に、無慈悲な宣告でもあったろう。

 

 

「…………」

「弟妹の処へ行ってやるのでは無いのかね? 抑も、その為に帰って来たのだろう」

 

 

 広津のみで事足りる事案なのは、彼等が一番よく識っている。

 

 異能力者でない白木には縁遠い話だ。

 抑も赴いた理由が違う、今此の場においては白木こそが邪魔者であった……否、其方には最早、拒否権等は無かった。

 

 此の場においての彼らは、孤児院の主とその養い子、片や上司と部下であった。

 

 

「朧が偶然己の異能を見た時でもあの様に成る事は無かったが、矢張り性格か……」

 

 

 扉を閉める直前に其んな言葉を耳にした。

 白木は僅かに唇を噛み締めて其の場を離れて往く。

 

 勿論、自分の暴力と流血に塗れた職業について打ち明ける訳では無かったけれど、白木は彼の妹──朧と、無性に話したかった。

 

 歳に見合わぬ大人っぽさと凪いだ瞳をする子供が、院長と同じでは無いと判っていても……何時の間にか識らぬ何処かへ往ってしまっていないか確かめたかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 気配が無くなったのを感じて、広津は改めて溜め息をついた。

 

「──白木のような性格が出来るのも頷けるというものだ。見た目に反して寛容で甘いのは本当らしい」

「…………」

 

 男が確認したように、広津は彼の経歴を一通り識ってから此の場に来ていた。軍部の後ろ盾が陰る今、その程度のことは容易に識れた。

 

 

 

 

 

 

 ──曰く、名士の家の次男坊。

 

 物心ついた時母は既に亡く、父と歳の離れた兄が一人。

 才能甚だしく、幼少より高度な教育を施される。

 

 やがて戦争が始まる。

 家督を継ぐ立場に無いため彼も又、他の者と同じように徴兵を義務付けられる。

 

 ある時を境に家族と不和を起こし、出奔。徴兵の年齢よりも早くに軍へ属すこととなる。

 その際、其れ迄ひた隠しにしてきた異能を活かして物資確保の面で貢献する。

 

 戦争の激化と共に、補給係の一角を担う彼の暗殺を恐れ、軍部に名を変えられ、同時に一般人の側面を与えられる。

 

 その際、軍部は孤児院に勤めたいという本人の希望を受諾する。功績を評価された故であり、その後も定期的な物質の補給を望まれる。

 

 目立たぬ様万全を期して己の存在を秘すように生き、終戦迄武器を積み上げ続けた男であった。

 

 

 

 

 ──其の異能は、手で持ち上げられる程度の重量の物に対し触れることで、その触れた物と全く同じ物(・・・・・・・・・・)をもう片方の手から生み出すことを可能とする。

 

 

 

 

 

 そんな来歴を持つ男は、成る程上手く出来ているものらしいと──半ば諦めた様な口調で云った。

 

 

「どうせ己たちは時代に取り残された身だ……つい先日のことが無ければ、貴様等の話も此れ迄断ったのと同様、断ろうとしたのだが」

 

 

 その言葉を聞き乍ら広津は「間が善かったらしいな」と呟き、手持ち無沙汰に懐を探った。

 

 

「……葉巻を吸っても?」

「灰を落とさないのなら好きにしろ」

 

 

 男は、ゆっくりとした仕種で火を付けるその様子を暫く眺め、「朧には遭ったか」と呟くような調子で云った。

 

 紫煙がたゆたい、狭い部屋の中を回るように特有の香を漂わせ始める。

 少し間を空けて、広津はその姿を思い返す。

 

 一見は丸で普通の少女、否──或いは此れから変わりゆくのかも識れぬ。

 

 

 

 

 異能力を所持している限り、少なからず平穏な人生を送れはしないことだけは察することができた。

 それ以外のことなど、広津には解る筈も無かった。

 

 それ位に、異能力、或いは異能力者について判明していることで断言出来ることは少ない。

 

 

 

 

「朧──ああ、あの少女かね? 白木がいたく気に入っていた」

 

 

「ああ」と男は応えた。「あれも又、異能力を発現した…………とすれば、此れも縁だったのだろうと云う己も居るのだ」とそう云った。

 それが切っ掛けであり、又広津の、ひいてはポートマフィアの要望を受け入れる理由になったのは、想像に難くなかった。

 

 

 

 異能力者という存在は、その異質さ故に、何か普通で無いものを引き寄せるものだ。

 

 それが本人の望みであろうと無かろうと、はたまた自覚が有っても無くても……恐らくそういうもの(・・・・・・)なのである。

 男や広津にとってのそれはきっと、大戦そのものだった。

 

 

「握手した時に干渉された時には驚いたものだ。真逆異能力に直接作用出来る異能力とは……」

「何だ、既に識っていたのか」

 

 

「害には成らんから心配するな」と云ったことからして…………既に経験済であるらしい、と広津は話を聞いていた。

 

 異能力、其れは世に僅かながら存在する、超常の力を振るうもの。

 その待遇は先の大戦終結に伴い変化していた。

 

 合法的に職務に携わる者は少なく、多くは世間に関わらないか、或いは黒社会に属している。

 

 

 どちらにせよ、政府特務機関……国内異能者を管理する存在がある以上、前者で居られる程人間できている(・・・・・)者がどれだけ居るだろう。

 又其の機関自体、異能力者を保護してくれる訳でも無く、男からすれば己の存在を把握されるだけのものに信用が置ける筈も無かった。

 

 現に広津は黒社会の中に潜むように生き、男は未だ中立の状態とはいえ、之迄の争いを幇助していたことには違いない。

 まして之からする判断は、手っ取り早いとはいえお世辞にも善い、とは云えぬものだった。

 

 

 男は云う。

 

 

「己は恐らく、あれに教えねばならんだろうな。如何に足掻こうと、あれは最早光の中だけでは生きられまい」

「我々と同じように、かね?」

「身内に黒社会の者が居るだけなら未だしも、尚且つ異能者であるのが問題だ。心構えだけでもさせねば、何れあの過ぎた自己犠牲で身を亡ぼすのは目に見えている」

 

 

「後味が悪くなる」と吐き棄てる様に云った男の性格を、広津は徐々に把握し始めていた。

 ──……どうも素直でないらしい。

 白木への態度然り、それが子供たちに通じているかは別にして、だが。

 

 

 

 孤児院の中でも、此の場所の環境は他に較べれば圧倒的に善いと云える。

 普通はもっと酷い体罰が横行しているし、物資そういう(・・・・)異能力者が居るお陰で充分な物であるのは容易に察することが出来る。

 余りにも事足りる状態であると、周囲から怪しまれるのだ。

 その為に院の物資も必要最低限に抑えているのだろう。

 

 聞けば一日二回だが毎食食べれるようでもあるらしい。

 孤児達は識らないことだろうが、それだけでも甘いと云うには充分な環境だった。

 時に因っては、不定期な食事であったり、その食事すらも抜きにされることがあるというのだから。

 

 

 ……何より、普通ならば孤児(子供)たちが笑い合うように生きている、それこそが奇跡のようなことであった。

 

 

「それは、ポートマフィアに属するという答ととっても善いのかね?」

「ああ。……只、他の奴らに急に物資を流さなくなるのは悪手故、最初の方は貴様等に融通をきかせる様にする程度になるがな」

「充分と思うがね。……之は単なる興味だが、果して何を求める?」

「己が此処を中心に活動することの許可と完全なる後ろ盾となること、孤児共の将来の選択の自由に──嗚呼、あとは……」

 

 

「大したことではあるまい?」と云った男の最後の要求を聞いて、広津は笑みを零さないように苦労しなければならなかった。

 

 

 ──成る程、矢張り異能力者の発現する異能力の系統には本人の性格が如実に現れるものらしい、と、そんなことを思った。

 

 

「最初に勿体振る割にはあっさりとした承諾だったな」

「云ったろう、どうせ何れは決断せねばならなかった。其れが今であっただけの話だ」

 

 

 ──ずっと同じ侭では居られぬのが人で、己たちは須らく其の流れに流されゆくものである故に。

 

 

 溢れ者と為って放り出され、遂には黒社会へと進んだ広津とは正反対の境遇であるにも関わらずその果てが同じ『ポートマフィア』というのも些かおかしな話でもあるが。

 

 

 

 男はそう呟き、広津は今度こそ声を上げて笑った。

 

 それは、残念なことに英雄に成り切れず、大戦中に死ぬことも叶わなかった身にとっては僅かながらにも幸運な出来事だった。

 

 

「然し、将来の選択の自由か……」

「不満か?」

(いや)

 

 

 只、今の情勢──治安警察、所謂市警こそ何とか機能しているものの、軍警、沿岸警備隊などがほとんど無力化されている、正に魔都と呼ぶに相応しい横浜においてそれがどれだけの力を発揮するのかは解らないが。

 

 闇市も徐々に物価が下がり、一般市民の生活も楽に成っているとはいえ……否、連合軍系列の各国軍閥が流入してそういう(・・・・)状況に成っているが故に裏では戦時中よりも危険になっている、というのは確かだった。

 

 

 

 広津の考えを読み取ったように、男は云った。

 

 

「此の孤児院の子供は、抑も黒社会で生きて行けるような性格では無い」

「白木が居ることは予想外だったかね?」

「ふん…………中途半端な冷酷さも又、身を亡ぼすことに為るだろうよ。部下の教育をしっかりしておくことだ」

 

 

 あれは既に己の手を離れ、自分で自らの道を選んだのだから。

 

 口には出さず、然し其んなことを男は内心で呟いて、「まぁ──何だ」と云った。

 

 

「又遭うことも有るだろうよ。宜しく頼む、御傍輩」

「あぁ──此方こそ」

 

 

 そう云い、広津は立ち上がって男の方へと近付き、互いに差し出した手を握り締めた。

 

 

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

 

 辺りが暗く為る前に帰って行った二人を、男が見送ることは無かった。

 

 此の場では無くとも、何時か又別の場所で、機会が有るならば遭えるだろうことを識っていたからだ。

 落ち着かなげに気にしている子供を目の前にしながらも尚、男は其の無表情を崩すことは無かった。

 

 

 

「朧」と──男は呼んだ。

 

 少女は弾かれたように男の方を注視して、「何ですか」と喉の奥から絞り出す様に云った。

 

 

「白木だけでない、貴様の姉や兄も又、横浜に居るやもしれぬ。遭いたいと思うか」

「何時までも此処に居ることが叶わないのなら……遭いたいと、そう思うことは、駄目なことですか?」

 

 

 少女の翠の瞳が、夕日の朱さに照らされて何時もとは違う艶めきを与えているのを見詰める。

 

 或いは暖色系の色だからか──その眼は、普段の凪いだ様相よりも、力強く輝いているようにも思えた。

 

 否、と男は首を振った。

 

 

 

「貴様が云うように、異能力者で在る以上、何事かに巻き込まれることは前提にある。白木と同じように、時期が来れば貴様は此の場所を出るのだろうが…………今の侭では無駄死にを晒すことになるぞ」

 

 

 寧ろ此の揺り籠からあの魔都へ赴き且つ生きていくのに時間があるのは幸運なことであったのだと、そう少女が思い識ることになるのは、未だ先の話だろう。

 

 

「────喜べ。貴様には、己から少なくとも最低限は武術を身につけさせてやる」

 

 

 少女は少し、虚を突かれたような顔をした。

 数瞬の戸惑いを見せたが……やがて頷いた。

 

 

「勘違いするなよ。己は貴様に選ぶ可き選択肢を僅か乍ら殖やす手伝いをするだけだ」

 

 

 ──其の道を歩むのは貴様自身であることを、努々(ゆめゆめ)忘れるな。

 

 

 私が異能力者だからですか、と尋ねた少女に、男はこうも云った。

 

 

 ──(そうだ)

 そしてその価値の利点と欠点を何れ識ることに成るのは必然的であるのだ。その、陽だまりの中だけでない世界に足を踏み入れざるを得ないということは。

 

 

 

 院長もそうだったのですか、と更に重ねられた問い掛けを…………男は、黙殺した。

 

 

 

 

 

 

 

 




今年の投稿、及び第一章はこれで終了。
お気に入り登録して下さった方、或いはこの作品を覗いてくださった皆さん、有り難うございました。
評価、感想(おとしだま)下さい(´・ω・`)



第ニ章の書き溜めは未だ全然なので、ここから登場人物紹介を入れた後は不定期になります。一応不定期更新のタグも付けてきました。
でも一ヶ月は空けないようにしたいです。





未だ武装探偵社、所謂表と裏のあわいにある機関がこの時は無く、それ故にどっち付かずの状態では居られない、という風に解釈しております。

異能特務課についても、不明な点ばかりなので独自設定を入れつつ若干ぼかした感じで。





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登場人物設定(第一章時点)

  

文スト式登場人物設定。
オリキャラの誕生日とか面倒で所々決めてないです。
決めてても適当。




・朧

 

能力:『────』

   現時点(第一章時)において詳細不明。

年齢:11~12歳程度

誕生日:孤児院に入った日。不明

身長:136㎝

体重:────(公開不可)

血液型:AB型

好きなもの:子供、小説、甘いもの

嫌いなもの:孤独、壊れているもの、火

 

 

 

○備考

孤児院出身の少女。

現時点で一番年長であり、皆から頼られ或いは好かれている。

  

栗色の猫っ毛に黒混じりの翠の瞳。

若干色素が薄い容貌である。

 

程度の酷い折檻を受けた影響で異能力を発現する。

本人は云われる迄気付かなかったが、それはちょうど気絶した時に異能力が表れ、目覚めた後にはその扱い方が分かっていなかった為と推測される。

彼女の場合、ある程度の情動によってその発動が為されるのだと自身で認識することが重要なファクターとなる。

 

異能力のみならず、物にも干渉出来ることが判明しているが、本人曰く「便利な能力」とのこと。

 

院長曰く「自己犠牲のきらいがある」らしいが、本人はそれをあまり自覚していない。

 

第一章を殆ど彼女の一人称で通していることからも解るように、自己完結型の性格であるが同時に頭は若干固く、院長に呆れられることも。

只、ぐるぐる考える割には最終的に当初の通りになるので、端から見たら愚直であるのかもしれない。

 

転生要素は本当に僅か。

ぶっちゃけ、殆ど覚えてないに等しい。

只、その有り様が異能力に反映されている、それだけ。

 

 

 

名前の由来。

 

1 ぼんやりとかすんでいるさま。はっきりしないさま。

2 不確かなさま。

 

まあ、その意味のまま。

オリジナルなので居るか居ないかも判らないとか、織田作生存の可能性を秘めているという有り得ない筈のことに対する反駁の意味合いも込めて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・白木

 

能力:なし

年齢:16歳 

誕生日:11月25日

身長:155㎝

体重:42kg

血液型:O型

好きなもの:妹、弟、温かい場所

嫌いなもの:感情の読めない人、不条理、沈黙

 

 

 

 

○備考

オリキャラ。

本作品において妹スキー(シスコン)を拗らせかけている朧の兄。

尚、シスコンのみならずブラコンでもあるため、死角はない。

 

栄養状態が悪い環境下にいたせいか(戦時中に成長期だった……?)、身長は低い(155㎝)。但し成長の余地あり。

 

上下の長袖に丈の短い上着といった、至って普通の若者の恰好をしている。

 

銃の扱いが上手く、院長の想像以上には案外と黒社会に馴染めている。

冗談好きな為に軽んじられることもあるが、部下からの信頼は厚い。

 

広津に対しての口調は敬語にしようとして失敗した成れの果てである。

正直普通の口調の方が丁寧だが、誰も指摘していないし本人も訂正する様子はないのでよし。

 

幼少期の泣き虫な朧をよく見ていたせいか、彼女を気にかける傾向にある。

勿論他の弟妹も可愛いのだが、朧は別枠にある何か。

 

異能力関連で興味を抱いた広津に対し、彼女が異能を開花させていることに気付いてはいなかったが「朧には向いていない」と断言しており、庇う様子を見せたことから出来るだけ黒社会に関わらせたくないと考えている模様。

 

只、その思いは残念なことに見事な迄に裏切られている。

隠し事をしている(但しお互いにであり、片方は一方的にばらされていることにも隠し事をされていることも識らない)のだから仕方ないのかもしれないが、そのことに未だ気付いていないのは幸せなことなのか。

 

上着の内側に銃を隠し持っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・院長(本名不明)

 

能力:『────』

   片手で持ち上げられる程度の重量の物に限り、触れることによって()()()()()()()()()()()()をもう片方の手から生み出す。

年齢:広津より若干年上

誕生日:────

身長:175cm

体重:────

血液型:────

好きなもの:本

嫌いなもの:騒音、人を殺すこと、家訓

 

 

 

 

○備考

経歴は第九話参照のこと。

↓一応抜粋

 

『名士の家の次男坊。

 

物心ついた時母は既に亡く、父と歳の離れた兄が一人。才能甚だしく、幼少より高度な教育を施される。

 

やがて戦争が始まる。家督を継ぐ立場に無いため彼も又、他の者と同じように徴兵を義務付けられる。

 

ある時を境に家族と不和を起こし、出奔。徴兵の年齢よりも早くに軍へ属すこととなる。その際、其れ迄ひた隠しにしてきた異能を活かして物資確保の面で貢献する。

 

戦争の激化と共に、補給係の一角を担う彼の暗殺を恐れ、軍部に名を変えられ、同時に一般人の側面を与えられる。その際、軍部は孤児院に勤めたいという本人の希望を受諾する。

功績を評価された故であり、その後も定期的な物質の補給を望まれる。

 

目立たぬ様万全を期して己の存在を秘すように生き、終戦迄武器を積み上げ続けた男であった…………』

 

 

オリキャラその二。

黒髪に白装束。朧曰く、「似合っていない」。

 

感情の変化に乏しく、無機質的な瞳で相手を見詰める為にあまり人(特に子供)に好かれていない。実際の性格は、見た目よりも甘いとは広津の言。

 

家訓(同じく第九話参照)に対しては未だに思うところがあり、

 

 

「――結局の処強きと清きは反し、清きと正しきは相異なるもの。正しきは強さに宿ると云うのも、所詮それは結果に過ぎぬ」

 

 

と本編外の広津さんとのお喋りではそう仰っていた模様。

(執筆時に作者によって没にされた台詞)

 

 

 

 

 

朧のことが切っ掛けにより、ポートマフィア所属の勧誘を受諾する。

 

冷徹に見せ掛けた微ツンデレ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・広津 柳浪(原作準拠)

能力:『落椿』

   指先で触れたものを斥力で弾き飛ばす。

年齢:30代後半(公式では50歳と記載。原作十数年前のため)

誕生:7月15日

身長:178㎝

体重:66㎏

血液型:A型

好きなもの:煙草

嫌いなもの:社会

 

 

 

 

○備考

一章唯一の原作キャラクター。

 

原作初登場時に強敵臭を醸し出していたにも関わらず武装探偵社に成す術もなくやられていたのを不憫に思った作者により登場させられた。

 

原作前なので強敵臭は健在。

 

朧からは『広津の小父(おじ)さま』と呼ばれ若干微妙な顔を見せる。

 

恰好は原作と変更点無し、但し未だ髪は黒いし全体的に若い。

 

戦争には参加していたものの、大戦終結後には不要とばかりに弾き出されてその侭黒社会入りした――というのは作者の自己解釈、独自設定に依る。

 

一応、抜粋。

 

『溢れ者と為って放り出され、遂には黒社会へと進んだ広津とは正反対の境遇であるにも関わらずその果てが同じ『ポートマフィア』というのも些かおかしな話でもあるが。…………(第九話より)』

 

 

 

院長と割合仲が良い。

 

年齢故か、割とお茶目な一面も。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




TouAさん、kimmさん高評価ありがとうございました。
励みにさせて頂きます、これからも拙作をどうぞよろしくお願いします‼


※どうでもいい話
第一章執筆時のBGM…………大体はRADWIMPSの『グラウンドゼロ』。
            
テンポと歌詞が微妙に、何となくマッチしてる気がした故のセレクト。
後単に好きな曲だから、というのもある。




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番外編 年越し小話

カレーうどんを食べてたら思いついた話。
多分、その頃の織田作(第一章終了時)。年越し企画。

※急遽書いた為に、ニ章で出す予定だったオリキャラがフライングで出張ってきてます。

※※色々挿入箇所の変更がありましたが、結局元の場所に戻りました。
以降、先取りという形で書いた番外編は本編にてその時系列となった場合に挿入する事にします。



 賑やかな表通り、静まり返る裏路地。

 吐く息は白く、空気を吸えば冷たさがきりきりと肺を締め付ける。

 

 周辺に人は無い。

 薄暗くなり始めた曇り空、それよりもなお暗がりにある道を歩く少年が居る。

 

 

 

 未だ少年と云ってよく、更に付け加えるならばその貌には未だ幼さが残る──そんな子供だ。

 

 小柄であり肩幅も小さい。服はごく一般的な紺色のシャツに作業ズボンと革靴、何かの戦闘に使い込まれているような様子もない。

 一見すれば、この暗がりに居ることに少しばかり馴れ親しんでいるような、そんな印象を抱かせるだけのごくごく普通の少年である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 足音をたてず、誰にも気付かれないようにするかの如く、するする(・・・・)と少年は歩いて往った。

 

 想定されるその年齢の割に歩き方はしっかりとしたもので、或る種の馴れのようなものを思わせる。

 

 

 

 少年には、向かい往く場所があった。

 今住み処にしている所では無い。          

 ちょくちょく場所を変えていて、その中の一つである其処は、少年が先程出て行ったばかりである。

 

 

 少年は裏路地の暗がりを馴れた様子で歩いた。

 

 時にはジグザグに為り、時には蛇の蜷局(とぐろ)のようにうねうねとうねる道を抜けて、目的地へと進む。

 

 

 

 先の真っ暗闇しか無いトンネルの前に、一人の男が何時ものように居るのを見付けた。

 

 小さな机のような物に椅子、手には水晶球と思しき物を片手で弄んでいる。

 

 

 ────否、初めて見た者が居るのならばその性別を判断するのは難しいかもしれない。

 

 

 大きめであるのか、黒の上張り(マント)は何処かだぼついたようにも見えるが気にする様子も無く、目元迄深く下げられた被り(フード)の所為で、口の部分しか見えない。

 

 そんな、見るからに怪しげなる格好であっても少年が臆することの無いのは、偏に少年がその男の事を識っているからに他ならなかった。

 

 少年が近づいてきたのを察したのか、その口が僅かに弧を描いた。そしてその人は、勿体振るような感じにごとりと音をたて水晶球を置いて、手を組む。

 

 

「────やぁ、来たね作坊。生命判断する?」

「…………」

 

 

 少年──作坊、と呼ばれた少年はそう掛けられた言葉に直ぐには応えず、じっと男を見詰めた。

 

 赤みがかった髪が少し伸びてきているその奥に、鳶色の硝子を嵌め込んだような瞳。それが無感情なままに男を見返している。

 

 子供であるにも関わらず……ともすれば、相対した此方が圧倒されてしまいそうな眼差しであった。

 

 

 然し、馴れたとでもいう可きなのだろうか。

 

 直ぐに男は肩を竦めて、動じた様子も無く「冗談だよ」と云いうっすらと笑った。

 …………只、それで少年の表情が変化したのかといえば、否であるのだが。

 

 

 

「用が有ると聞いた」と少年は囁くように云う。その為に来たのだと。

 幼さの残る高い声、勿論のこと乍ら声変わりを済ませるには未だ早い、そんな年齢を感じさせる。

 

 

 少年の名を、織田作之助と云った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 初めて対した時のことは、鮮明にとまではいかない迄も記憶に残っていた。

 

 少年は暗殺者である。

 

 何時から始まったか定かでは無いが、フリーの請負殺人をする殺し屋で、仕事をしくじったことは一度足りとて無い。

 それよりも前から、同じように仕事をする『同業者』なる者も居ることは風の噂には聴いていても、それについてどうという感想が出る訳でも無かった。

 

 

 通り掛かり、初めての邂逅のそれは本当に偶然で──正に今、二人が居る場所で出逢ったのだ──、それも今では馴れる程度に通い、こうして言葉を交わしたりする。

 まあ、大体が少年からではなく相手の方から声を掛けるのだが。

 

 

 今回も正にそうで、少年は無感情に男を眺め、その返答を待った。

 

 当の本人はというと、「用事、用事か……そんなことも有った気がするなぁ」と呟いてから、被り(フード)を徐に脱いだ。

 ぱさり、と乾いた音がするのを聴く。脱ぎ去ったものから、見えていなかった顔が覗いた。

 

 本人曰く、そうすることで『仕事状態(モード)解除(オフ)』に成るらしいが、何故今そんな事をするのかはよく解らない。

 店じまいする、ということだろうか。

 

 

 その年齢……見た目からして二十代後半程に似つかわしいとは云えない、混じりっ気の無い白髪のよく映える、そんな男だ。

 うっすらと浮かべていた笑みを消して、悩ましげな表情で男は問うた。

 

 

「作坊、前回遭ったのは何時だっけ?」

 

 

 少年は少し考えてから、一月位前だと応えた。

 

 

「そうかそうか、で今日が十二月三十一日、と…………あ、成る程ね」

 

 

 思い出したように男はぽんと手を打ち、その拍子になのか水晶球が落ちた。

 硝子特有の耳に障る音が足元に響いて、然し二人とも特に反応は見せない。

 

 状況こそ違えど、よくある光景であるのだった。

 気にすることも無い調子で男は立ち上がり、「じゃあ往こうか作坊」と云った。

 

 少年は微かに頷いてから、然し用が有ると云っていた男の大体の考えは、経験的に何と無く判っていた。

 

 立ち上がるとニ(メートル)もありそうな、痩せ型のひょろりとした横をやや早歩きに──そうでもしないと歩幅が合わなかったので──して並び乍ら、用事は何だったのかと改めて尋ねた。

 

 男はにっこりと笑み、それから少年の赤みがかった髪を片手でぐしゃぐしゃと掻き混ぜて、然し何も云わなかった。

 

 少年もされるがままに成って、それ以上聞くことは無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 男も又、その平和的な様相とは相異なり、殺しを生業とする者である。

 

 自称『生命判断師』、然し人は彼のことを──男からすれば非常に遺憾なことであるらしいが──『死神』か又は『告死の男』と呼ぶ。

 

 少年からすれば先輩であり、ある意味商売敵で、自分は数年遅れの後輩だ。

 

 然し、それで敵対するかと云われれば、そうではなかった。

 自身を子供好きと云って憚らないこの男が自重する訳も無く、出逢ってから何だかんだで関係を続けている。

 

 独特の死の香を少年に感じさせるのは今此の時だって変わらず、抑えられない以上は仕方のないものなのだろうが……何処か矛盾するような、ずれ(・・)を孕んだ人物であるには違いなかった。

 

 

 

 

 

 直ぐに日は暮れ、完全に夜と為った中、男の先導に従って少年はその後をついていく。

 曇り空のせいで月明かりは無く、何か物が落ちていれば蹴つまずいてしまいそうな位に暗いのを歩きながら、男が沈黙を破るように不意に「作坊」と呼ぶのが聴こえた。

 

 

「最近は如何だい?」

「別に」

「ま、そうだよねぇ。……お互い、殺さなきゃならない奴ってのはそうされるだけの理由が有る輩だ」

 

 

 殺しに対して特に何の感慨も沸かない少年と……そこに並ぶ男は、果して何を思っていたのか。

 

 

「あの手の奴ってのは、小粒(こもの)の癖に大体最後に『今なら未だ赦される』とか『悔い改めろ』とか一丁前に(おど)してくる」

「…………うん」

 

「それが云えるのはもっと高尚な、一握りの誰かだってのにさ────この世界の大体にそんな甘い赦しは無いし、それならきっと赦しは要らない。少なくとも僕はね」

 

 

 うっすらとそう云い笑う様は、成る程確かに『死神』にも見えるのかもしれない。

 

 男から立ち上って、或いは無意識にか振り撒かれている死が、少し強く感じられた。

 少年は少し距離をとる。

 彼の異能──『天衣無縫』は何の危険も予見しなかったが、黒社会に長く居る今までの経験が、感覚的に少年をそうさせるのだった。

 

 僅かに距離をとり乍ら、「そういうものなのか」と問い掛けた。

 嵌め込んだ硝子のような眼がくるりと男を見上げ、「作坊がどうかは解らないなぁ。まあ、何時か自分で答えは見つけると思うよ」と答えたのに只首を傾げて、一寸してからうん、と頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 男が少年を連れて何処かへ往く時、それは大体決まっていた。

 

 ある時は異国情緒溢れる酒場(パブ)、又ある時は差し込む柔らかな陽が眩しく見える喫茶店(カフェ)。咖喱を売りにする小さな洋食屋。

 そこで、ぽつぽつと話を交え乍ら、食事をする。

 

 この日も又同じように、少年の識らない店へと男は足を踏み入れた。

 

 

「やあ、店主。お久しぶりだね」

「『告死』の方…………連れが居るんですか、珍しいですね」

「そういう日もあるってことだよ。後それで呼ぶの止めてくんない? それ云われると周りの人から怯えられるんだけど」

 

 

 普段からモルテ、と────そう名乗っているのに全く定着しない状況に嘆きつつ、男は少年と隣り合わせにして対面(カウンター)の席に腰掛けた。

 

 

「此処は?」

 

 

 少年がどんな場所だと尋ねると、「頼めば何でも作ってくれる料理屋」と短く返事が返ってきた。

 見渡しても……確かに、狭い店内にお品書き(メニュー)のようなものは置いてない。

 

 

「初対面で『じゃあビッタラウェンジャナ下さい』とか真顔で云う客が常連なんて、この位の厭味では足りませんよ」

「それに同じ真顔で『茹卵入り咖喱ですね、畏まりました』とか云う店主に云われたくはないね」

 

 

「何だかこう、色々と云われてる割には扱いが雑なんだけど、作坊どう思う?」と話を振られた少年は店主と隣の男を交互にちらと見遣って……「あまり厭がってる風には見えない」と呟いた。

 

 店主が吹きだそうとするのを堪えて、小刻みに震えている一方で、男は肩を竦めた。

 

 

「それを云われると弱いなぁ」

「ふふふ、善い子供じゃあないですか」

 

 

 そんな事を宣う大人組だが、少年がそれに居心地悪く思うようなことは無かった。

 只、思ったよりかは雑談が多いな、とは思っていたが口には出さないだけだ。

 

「善い子供って、同業者(暗殺者)だけど」と店主に向かって云い、少年は手元のコップの水を揺らした。

 からからと氷の鳴るような音がした。

 

 

「…………それより、咖喱があると云ってた」

 

 

 くう、と丁度よく少年の腹が鳴って、店主は「有りますよ」と微笑んだ。

 どこか無機質であった瞳がきらりと光り、少年はほんの少しだけ、唇を横に引いて微笑した。

 

 

「いや、師走の最後は年越蕎麦だろう。麺は食べねば」

「貴方も大人げないですねぇ…………まあ、麺ならこんなのはどうです?」

 

 

 店主に云われた言葉を少し反芻するようにして、「そんなものも有るのか」と少し驚いたように云い乍ら────

 

「構わない」

「ふふ、じゃあそうしましょうか」

 

 

 夜は未だ始まったばかりである。

 

 然しその年を終えるのには後数時間という時間しか無い。

 

 

「作坊、今日は日が変わるまで此処に居ようか」

 

 

 一人で年の変わるのを過ごすのも、何だか寂しいだろう、と云った男の今回の狙いはこういうことだったらしい。

 

 少年はそんなことを思って……取り敢えずひとつ、頷いておくことにした。

 

 

 

 

 

 




その後織田作少年は咖喱うどんを頂きましたとさ。

一発書きなので割とさくさく進んでます。あと若干のネタ。
探偵社設立秘話の織田作少年と比べて頂いたら楽しめるかもしれない。
既に織田作生存への計画は始まっているのだ…………‼


今年も宜しくお願いします。
評価感想(おとしだま)は何時でも歓迎。


※※
『告死の男』簡易プロフィール

・自称『生命判断師』誤字ではありません。姓名判断ではない。
・『死神』か又は『告死の男』と呼ばれている。職業殺人者。
・『モルテ』……一応名前(自称)。イタリア語で死を意味する。只、認知はされていない。本名は出てこない模様。
・白髪の二十代の男。長身。子供好き。
・本人の気付かない内に死の臭いを醸し出している。
・織田作を『作坊』と呼ぶ。やっぱり織田作と最初に云うのは太宰とかであって欲しい。


ちょっと名称が多すぎたのでまとめ。
ニ章で出てくるオリキャラはいまのところ彼だけです。




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第二章 続きゆく途は長く
第一〇話 立ち往く月日の記録


第二章の始まり。
改めて、宜しくお願いします。






 日常が日常で無くなろうとしていて、けれどもそれが未だ自分の手の中に、又は周りを取り巻くものとして在った時、それは嘗ての話である。

 

 その『嘗て』の時……ふらりと何時ものように居なくなって、何時ものように帰ってきた男の手から渡された物があった。

 

 

「…………」

「………………、これは?」

 

 

 渡したっきりで何も云わず、黙って少女を見下ろす長身の上から、彼は果して何を思っていたのだろうか。

 

 

 

 

 

 ぴろろ、と、何処か遠くで微かに、そんな風な間の抜けた鳥の声が窓越しに聴こえてきた気がする。

 まるで夢のようにふわふわとした気分で、然し其れは現であった。

 

 

 少女に渡されただろうそれ。

 つい最近迄、自分にとってはおよそ縁の無いものだと思っていた物だ。

 

 少女は男が手に持っているのを未だ他人事のような心持ちでちらりと眺める。

 長い間見詰めるでもなく、直ぐに視線を頭数個ぶんは上の男に視線を戻した。

 

 

「手を出せ」と云われてその通りにして、掌に落とされ…………解っている筈なのに、そのままの状態になる。

 手の上に乗せたままで、僅かに困惑した表情で少女は彼を振り仰いだ。

 

 

 

 

 

 男は無表情であった。

 その様相で見下ろされ、何だか少女には、自分がひどく小さいもののように思えた。

 実際にそうなのか、いやそうなのだろうけれど──……何だか、自身にそんなことを改めて思い知らせるような、そんな目をしていたような気がする。

 

 

 深淵を覗くような、いっそ不気味なまでに黒々とした目だ。

 

 口元は引き結ばれており、微塵たりとも動くものか、とでもいうよう。

 最早見馴れた表情で、今この時もそれは変わらないようにも思えた。

 

 

「…………」

「………………?」

 

 

 只、何なのだろうか……否、それを常より見馴れている故に、なのか。

 男が醸し出すものが、彼女が日頃感じていた雰囲気よりも違うのは、果して気のせいと、そう済ませてしまっても善いものだろうか。

 

 少女にとっては何処か何かが違うように思えたことと同じくして、それが有り得ることなのかという疑心があった。

 …………まあ、違いと云ってもほんの、指の先程も無いくらいで、それ位の、もう気にするまでもないような微かな違和感だが。

 

 

 少女は首を傾げて、その理由を探そうか探すまいか迷う。

 然し決めかねて、結局は結論を出すよりも疾く、男が口を開くこととなった。

 

 

 

 

 端から見たら漸く、といった具合なのだが、真逆その引き結ばれた口元が動くなんて思わなかった。

 思考に没入しそうになっていた少女は我に返ってぴくり、と身体を揺らした。

 

 思わず小さな声があ、と僅かに開いた口から漏らすのに、その瞬間を目撃して男が何処か、呆れたような表情をした。

 

 

 思考は、遮られる。

 

 我に返ったように改めて男を見遣った少女は、けれども長い間目を合わせているのが怖くて視線を外すように、その鼻の辺りを見ることに集中した。

 

 

(まえ)に云ったろう。貴様の得物だ」と、短く男はそう云った。

 直ぐにつぐんだ口は、多分もう、少女が何か問い掛けるかしない限り開くことは無いのだろう。そんな気がする。

 

 

 少女は、何か云いたかった。

 然し、何をどのように言葉にすれば善いのか、少女には皆目見当もつかなかった。

 

 それでいて、自身の腹の底にある何かが、喉元迄出て来そうな気がしてならない。

 

 

 

 その出かかっていたことを絶たれた様になり、どうしよう、なんて思って……然し彼女は、結局形にも成らなかった考えを、手放した。

 

 手放してから────代わりにというように「然う云えば、其んなことも在ったなあ」と内心でぼんやりと呟いた。

 

 

 

 意外にも変わらない日々にいっそ素通りしかけて、受け入れたばかりのことを真逆夢だったのではと考えかけて。

 ……そんな筈は無いということは、外ならぬ自身が最も識っているというのに。

 

 彼女は、自分は目の前の此の男と、紛れも無く同類である。

 その認識は、どうしようとも覆すことの出来ないものである筈なのに。

 

 

 

 何がどう作用したのか、足掻いたとして自分はある一線(・・・・)を越え、今こうして彼と向かいあっていること。

 それがこれ以上に変わる筈が無い。

 それこそが、事実だ。

 

 

 だから、きっと……そうであるからには、自分の方から態々やって来るその片鱗、厄介事に対処する力が少女には必要なのだと、そう聞いた。

 

 若し自分が、もっと強力で、人知の及ばぬものの頂に在るような強力な力を持っていたなら、それも必要無かったのだろう。

 そう説明されたことは記憶に新しいのに、何を夢だと思っていたのか。

 

 少女の力は確かに異常なものの一つには違いなかったが、…………その力だけでどうにかなるのかと問われれば、そうではないものであるのだと。

 

 

 まあ、「寧ろそれで善かったと思え」と院長は云っていたのだが。

「強力な異能はその力故に、人の人生を容易く捩曲げるのだから」と。

 

 

 目の前に顕れた実例が自身の、一見何とも判らないような力と、全くとして暴力的な面の無い彼女の養い親のものであることは幸福なことで、然し少女に完全に危機感を抱かせるには不十分なものであった。

『異能力者』という者が自然に遭遇する、又は呼び寄せるような、未だ見もしていない出来事に、少し溜め息を漏らしてしまうのもきっとそのせいだ。

 

 だが、それこそが少女の選んだことだ、今更何と云うことも無い…………そこに選択の余地があったのか否かは別にして。

 

 

 

 

 未だ、之からなのだ。

 少女の人生を存分に振り回してくれるであろうものは之から萌芽し、そして顔を出し始める。

 そう云って差し支えないのだろう。

 

 

 だから……実感が無くとも、きっとそれは少女に必要なものだった。

 

 彼女は渡されたそれ(・・)を、注意深く鞘から抜き、眺め────素直に、有り難うございますと小さく呟いた。

 

 渡してきた院長が無表情のまま、けれど小さく頷いたのを確かに視界の端に見た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 手帳に文字を書き付けていると、ふとした瞬間にそんな風景が、そこだけ切り取ってきたかのようにふ、と思い出されることがある。

 

 

 別に何の脈絡も無い、というような訳では無い。

 単純に此のことを始める切っ掛けに成ったようなことであったから、よく覚えている。

 記憶を探るまでも無く、鮮明とはいかないにしても、色褪せてもなおはっきりと。

 

 

 

 あの頃の私が直面していたのは…………云わば、分水嶺のうちの一つであったのだろうから、どうにか忘れようにも忘れきれない出来事であるのだ。

 

 

「…………」

 

 

 皆が寝静まったところ、月光の照らされる中。こうしてひっそりと、日記とも云えぬ何かを、書き付けている。

 

 大したことは書いていない。

 日々の、少しずつ変わりゆく何かを、気付いた時に書き留めているだけだ──とは云え、既に半分位は(ページ)が埋められているのだけれど。

 真逆こんなにも使ってしまうことになるとは思わなかったので、此れを開く度に思うことなのだけれど……改めて少し、驚いてみることにする。

 

 

 多分、色々なことが変化して往った。

 

 疾いものだなと、そう思う。

 今と成っては、何時かにやって来た院長以外の大人……広津の小父(おじ)さまともかなり砕けた調子で言葉を交わしあえる、その程度に、時間は過ぎている。

 

 …………(およ)そ二年、又はそれに辛うじて満たない位か。それ位の時間が、経っていた。

 院長曰く『準備期間』とも称される可きことは、その間その名に相応しい内容で、私に施されてきた。

 

 何故それ程迄に『準備』に徹する必要があるのか、なんて問いは無用だし、無粋だ。

 それはきっと、何れ私が向かう可き場所を、私自身が直に見ていないからこそ云えることなのだろう。

 兄の居る場所、横浜は、それが冠する魔都の名に相応しく牙を剥くのだと。

 何もせずに居れば、私のような矮小な身の上では直ぐさま食い潰されて跡形も無くなってしまう、それ故なのだと。

 

 ……受け売りなので、何とも云い切れずにいて、しまらない(・・・・・)ところもあるのだが、それは置いておく。

 

 

 他人のことを顧みないような院長(かれ)は、然しそれなりには人の情を持ち合わせていたのだとようやっと気付けることの出来たのは、果していつ頃からだったろうか。

 

 それに私たち子供が気付かないのは、肥大化した院長への恐れに目が曇っているのか──或いは単に、気付かぬ内に私自身が『大人』という未知へと近付きつつある故か。

 きっと、どちらでもあるのだろう。

 

 私が何時か歩く、光から作られた(黒社会)は、そうでもせねば上手く歩くことが出来ないのだ、と。その位は鈍い私にも察せる。

 

 

 では何故、私がそれ程迄して魔都、とそう呼ばるる所へと赴こうとするのか──確かに、私の持ち合わせる性格にはそぐわないやもしれぬ思いだ。

 

 どこか周りに流されがちで、然し一方で自分が大切だと、そう断じたものは決して手放すまいとする…………そんな、ごくごくありふれた普通の人間の性分である。

 同時に、有りがちなことであるのだけど──多分私は、その上に欲張りでもあるのだった。

 

 どうにも記憶に残っている(ことば)は──(みち)は長く果てが無く、それでいて有限だ、とは――よく云ったものである。

 平穏なる日常に満足していた筈が、それ以上の何かを求めるのは最早人間の性、とでもする可きかもしれない。

 

 

 

 

 まあ何だかんだと理屈をこねたが、結論からすれば、気付いてしまったのだった。

 

 私が孤児院(ここ)の子供たちの為に出来る最大のことは、それ位のものであるのだと。

 

 環境は変わった。

 私たちはあの頃と較べれば心のみならず身も又、豊かに為った。

 院長の御蔭である…………或いは、その背後にあるポートマフィアの。

 

 薄々と、ではない。確実にそう、感づいている。

 或る日を境に、私の……否、私たちの生活は緩やかに、然し確実に変化していた。

 

 その代償、或いは対価、残念乍ら私の邪推では無いままに、それらが私の前に立ちはだかっている。

 

 

 

 

 

 手帳に筆記具を挟み込み、窓際に置く。

 

 伸びをして、固まっていた体がこきりと鳴るのが聞こえた。

 もう夜も遅い。運動をして気怠い身を横たえなければ、明日に響く。というより、朝も早いのだ。

 

 普段ならばもっと早く寝るのだが、こういうような日々を振り返る時──確実に睡眠時間は削られる。それでいて外せないことであるのが憎いものだ。

 

 解ってはいたけれど、ふとした拍子に漏らした欠伸を噛み殺して、私は手帳を本棚の一番端に仕舞った。

 

 

 広間へと向かい、少し大きくなった妹が寝床(テリトリー)に侵入してきているのをそっと退かしてから、温まった所に身体を横たえた。

 

 

 そっと目を閉じていて、引き込まれていくのにさして時間は掛からなかった。

 

 

 

 

 

 

 




不定期更新です。次回、最大で一ヶ月空きます。



緋旋さん、高評価ありがとうございました。
私白縫、此れからも同志(織田作好き)を出来るだけ増やすよう頑張っていく所存であります(・ω・)

但し、織田作と対面するのは未だ当分先のもよう。













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第一一話 薄氷の上で踊る(前編)

 

 

 私と院長の朝は早い。

 

 未だ陽も出て来ていない中、院長が此処(・・)へやって来る前から、私は瞑想を始める。床の上に蓮華座の形で座し、冷えて固い床を感じながら、深く息を吐く。

 

 

 

 

 しん、としていた。

 

 どんな音も、咳ばらい一つさえ拒絶するような沈黙が、水面のように広がっていた。

 

 腰を丸くしないように、背骨が長くなったような心持ちで。一本の棒が突き抜ける想像(イメージ)をする。脚を数回揺り動かし、一番収まりの善い体勢を探す。息を吸う。膝の辺りに両手の甲を置いた。

 

 

 

 

 

 薄暗い館内。

 一人分の、未だ潜まっているとは云えない息遣い。

 開けられた窓から入り込む風の音────半眼で開けていた目を、閉じる。

 

 

 視界は閉ざされた。視覚を失い、頼りになるのは聴覚、嗅覚、触覚、味覚……他の感覚頼みの状態に置かれている。

 私は音を立てずに息を深く吸い、吸ったそれを薄く引き伸ばすように吐きだした。

 

 

 周囲に同化するように、自身が空気に溶けて、周りも自分そのものになるのだと、そういう未来を夢想する──実際はそんな考えも無用であり、直ぐに頭の中から消え去ると、解ってはいるが。

 

 

 身体の意識を希薄にすること。

 身体とその外側という境界を消し去るよう、心掛けるということ。

 

 肉体と精神を限りなく遠い処迄引き離し『無心』の状態を形作る。

 

 

 ── 一、二、三、四、五……

 

 

 此れをするにあたって先ず始めるのが、数を数えることだと、院長は最初にそう云っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『数を、数える…………?』

 

 

 首を傾げている少女が居る。

 栗色の柔らかな猫っ毛に翠の瞳をぱちり、と瞬かせたのは──過去の私だ。

 

 その目の前に居るのは勿論、私の養い親である壮年。相変わらず絶望的な迄に服装が似合っていない。

 そんな思いも露知らず、何処か拍子抜けした、とでも云うように鸚鵡返しにした少女に対して男は鷹揚に頷いた。

 

 

(そうだ)──正確には息を、だが』

 

 

 吸ってから吐く迄の一巡り(サイクル)を一つと数えるのだ、と彼は云う。

 

 

『自分の心を支配するものが只“息を数えることのみ”という処へと持って往くことが理想だ。土台と迄はいかんが、心積もりとしてそれが無くば、最初の足掛かりにも届かん』

 

 

 冷厳とした顔付きで院長は蓮華座に脚を組んでみせた。

 

 よく覚えている──私も同じ様に真似しようとした直後、何とも云い難い痛みに襲われて「……先ずは柔軟からか」と呟いた院長の微妙そうな表情が物珍しかったので。

 

 

 今ではそんな痛みも存在しない。馴れた今と成っては寧ろ蓮華座(こちら)の方が楽なのだった。

 

 

『自分の動作を意識することに囚われるなよ。思考や感情とは同列で無いのだ』

『…………? はい』

『理解してる者なら首を傾げて「はい」とは云わん、──おい、それで戻しても変わる訳が無いだろう』

『……先ず遣ってみてもいいですか? 少し混乱してる気がします』

『…………好きにしろ』

 

 

 一番初めは理解出来なかったが、それを乗り越え他のことにも着手している今だからこそ、彼の云っていたことに素直に頷くことが出来る。

 

 無心に入ると云うのは、考えることでは無いが、同時に考えないことである、という訳でも無い。

 只ひたすらに、ひたむきに今此処にある『今』を見詰めることなのだと思う。

 

 過去へ向かう回帰でも、未来へ向かい往く将来でも無く、自身が今、人生という(みち)に足を踏み締め立つ『ある一点』だけを想う。

 きっとそれが無心であった。

 

 そして、だからこそ無心(それ)は、何れ研ぎ澄まされた集中に到るのだろうし、それを以て行うことが、此れからのことに必要になるのだろう。

 

 

『随分と深く潜っていたな──喜べ、一先ず第一段階は越えた。ならば次だ』

『……全部で何段階なんですか』

『其れは今貴様が識ることでは無い』

 

 

 

 

 

 回想も、瞑想を始め暫くすればふっと、溶けるように消えていった。

 

 只息を吸う。吐く。

 数を数える。息をする、当たり前の一連を数え続ける。

 

 

 ── 一、二、三、四、五……

 

 

 心の中で、それだけを念じるかの如く呟いた。

 

 他に考えることなど無い──果てには数を数える、ということも意識しなくなるのであるから、この詞も正しいとは言い切れないのだが──それこそを目指すのだ。

 

 

 風の音がした。

 ぴろろ、と遠くか近くかも判らぬ何処かで鳥が鳴く。

 鼻から吸い込んだ息が、ぴんと伸ばした背骨を伝い臓腑に染み渡るような、そんな錯覚を抱く。

 座している床は、外ならぬ自身の体温で温もれていた。

 

 息を吐く。吸う。

 数を数える。

 呼吸の音が耳に入り込み、そして流れていく。

 何時からか心臓の鼓動が耳の奥で響き始めていた。

 息を吸う。吐く。

 どこか水中に潜り込んでいる様な、不思議な心持ちに成る。

 

 何も無い。

 私は『今』を静かに見詰めている──それすらも自ら意識することは無い。

 深い、海のようだ。濃く暗い青に身を沈めていく。

 

 息を、吐いた。もう一度、吸った。

 深い。何処までも。

 まるで底が無いかのように、嗚呼だからこそ海であるのか。

 深く、沈み続ける。

 何時までも何処までも────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──どれだけの間、そうして『潜って』いたのだろうか。

 

 

 過度に拡大されている知覚。波の無い水面の如くあったところに、一石を投じるような……自分では無い、何か別の気配を感じた。

 

 別の存在が生じることによって、只数を追い掛け、何時の間にかそれすら放棄していた、あの夢のような何か(・・)から目覚めた。

 眠っていたのでは無い……只、随分永い間であったように思う。時間感覚は当てにはならないと経験的に理解していたが、そんなことを考える。

『あの状態』に成ると、時間が引き延ばされたかのように感じるのは毎度のことだった。

 

 

 最早意識は元の通りに成り、ややしてから改めて、感覚的に感じた違和感の正体が放つ気配を感じ取る。

 

 誰なのか、なんて問いは必要無い。

 どうせ直ぐに解ることだろうし────、やって来るのは、こんな時間に態々(わざわざ)その設定をした本人一人に外ならないのである。

 

 

 

 

 

 瞼を開いた。

 薄暗く普段よりもくすんだように見える筈の館内は、然し何故か、どこか色鮮やかにも感じる。

 

 気のせいなのかもしれぬと、理解している。然しそれでも、同時に──そうして改めて吸う空気、それまで当たり前にしていたことは何て素晴らしいことなのかと、そんなことを思うのだ。

 

 ……私がこの瞬間を嫌いになることは多分、無いだろう。

 まるでもう一度生まれなおすような、或いは余計なものが全て洗い流されるような、そんな清々しさは。又味わいたいと考えさせるには十分なものだった。

 私が之からも生きていて善いのだと──まあ今迄、そんな類の否定も肯定も、面と向かってされたことは無いのだけれど──そう云われているような気にもなる。

 

 

 目を数回しばたたき、その気持ちすらも直ぐに振り払うことになった。

 そんな感慨に永く浸ることは出来ないのだ。

 閉じることで暗闇に馴れた瞳にも、人影があるのを認めている。気配を感じたのだから、何よりこうして眼前に居るのだから、錯覚でも見間違いでもない。

 

 

 開け放しになる出入口、彼は当然のように立っていた。

 

 丁度やって来たのか、それよりも前にもう居たのかは定かではない。

 見た限りの様子ではそれを読み取ることは出来なかった。

 

 

 色合いのまるでない、真っ白な衣を身に纏う長身痩躯だ。

 癖一つない黒髪に、同様の色をした黒々とした瞳。皴の無い白装束を着て、かちりと眼が合った。

 

 

「おはようございます、院長先生」

「…………」

 

 

 数瞬互いに見詰め合って、然し何の返事も返されなかったが、特段気にすることでは無い──何時ものことだ。

 靴を脱ぎ、裸足に成って此方に近付いて来るのを、私はその座した状態の侭眺めていた。

 

 

「朧」

「──はい」

 

 

 立て、と院長は云った。

 

 この一人でする瞑想の後、私は鍛練……と云うべきなのかは判らないが、そう形容すべきことをするからだ。それもこれも全て、何れ私が一人に成る何時かへ向けての為である。

 

 

 

『準備期間』。

 之まで二年近くの間、みっちりとやって来たが、それでもまだまだ足りない、と思わせる……そんなに簡単に武術を修められるのであれば誰も苦労しない筈なので、当然といえば当然なのだけれど。

 

 歳を数えれば、私ももう十四になろうとしている。

 兄、白木がこの孤児院を出たのが十五の頃──もう時間はあまり、無い。

 

 

 私は組んでいた脚を解いて、ゆっくりと立ち上がった。すぐ横に置いていた得物を取ることも忘れない。

 

 その体勢が楽であっても矢張りずっと同じ様に居るのはそれなりに身体を強張らせたらしく、膝を曲げた時にこきり、と小気味よい音が鳴った。

 背の中程迄伸びているのが邪魔で、髪を紐で結わえていたのだが、その分首筋が冷気に曝されているので一瞬、震えが走る──顔が勝手に顰めっ面になった。

 

 

 私は正面に院長と向かい合う。

 無機質な黒目に、顰められて、直ぐに元に戻った私の顔が映り込んでいる。……何故だか解らないが、微かに頷かれたような気がした。

 私は又数回目を瞬かせ乍ら、気のせいだろうか、とそんなことを考えた。首を傾げているのは内心だけで、院長を見上げていた。

 この養い親の計らいにより善くなった食事環境の御蔭なのか、或いは単に成長期なのだろうか。私はこの二年でかなり身長が伸び、院長を見上げていた首も少し上向ければ善い、そんな程度になっている。

 

 

 

 

 互いにずっと黙っているのは無為な時間だった。

 先に口火を切ったのは私では無かった。

 

 

「何時も通りだ。先ず歩法、刀の扱いに少しの打ち合い、合気の型。最後に(おれ)と試合を数回」

「解りました」

「貴様が型をする間に己も少し、調えておこう(・・・・・・)

 

 

 ではな、と云って端の方に歩いて往く──先程の私同様に瞑想を始めるのだろう──のを見送ってから、私も又する可きことをしなければならなかった。

 

 

『何か一つでも善い、強く成れ──其れが、生き残る者の条件だ』

 

 

 何時のことだったか、一度だけ、そんなことを云われたのを思い出す。

 

 院長だって私たちと同じ血の流れる人なのだと感じた、初めての瞬間だった……何だかんだで寝食を共にし、同じ異能力者である私に、何かしら思うところが有ったのか、そこ迄は解らない。

 然し、そうで無くば、こんな事をするまでも無く、私を打ち棄てることも可能だったのだから、そう考えざるを得ないというのもあった。

 

 

 

 

 私は多分、取り立てて長所の無い、普通の子供であった。

 意図せずして…………然し最終的には、その領域(・・・・)に足を踏み入れたのは自分だと、理解している。

 

 手にした得物を握り締める。

 握っている箇所がじんわりと熱を孕みはじめて、私は少しの間だけ目を閉じて、呼吸を整えた。

 

 

 先程迄潜っていた、無心の──虚無の海とも云える何処かが、ちらついていた。

 

 

 

 

 




追記(2/10):バレンタイン小話更新。織田作出しました。微恋愛要素。

同志の友人に「そろそろタイトル詐欺じゃない?」という厳しい言葉を頂いたので、こねこねしてた朧と織田作の絡みというか、そんなのを書いてみました。

オリヒロイン×原作キャラなので、苦手な方も居ると思いますが、織田作が好きでこのオリジナル要素だらけの作品を読んでくれてる同志なら、きっと大丈夫だよね‼








次回、戦闘有り。朧の異能力も此処でやっと明らかになる予定。
期待はしないで下さい。


※いつもの。
cedar7150さん、高評価ありがとうございました。
あと誤字報告も頂きました。感謝が尽きない……(´- `*)



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第一二話 薄氷の上で踊る(後編)

 

 

 大体、どんな順で鍛錬をするのかは決まっていた。

 

 

 先ず念入りな柔軟をし、それから貰った得物を振り回す。

 院長が少しの瞑想をしている間にそれを続けて後に、相手が居なければ出来ない打ち合いと、合気の型を行う。身体が温まり、僅かに荒くなる息を鎮めていき乍ら、最後の試合の直前に動作の確認を数回。

 

 手に持つのは私の得物──云うところの、逆刃刀である。

 刃渡りは二十センチを超えた位で、その長さの割には重みがある。

 見た目からして実用的な物では無く、実際に使おうとすればすぐに折れてしまうような玩具(おもちゃ)の如き代物らしい、が…………私の異能とは頗る相性が善かったのだ。

 

 その時にはもう話していた私の異能力(ちから)の詳細に、院長がそれを考慮して与えてくれた物だった。

 

 

 

 

 

 ────私の異能。

 

 其れは、私が触れた物に対して、それが世に有る以上は必ず可能性のある果て、終わりの要因となる『破壊』の施す損害(ダメージ)を無効化する、というものだ。期限は異能を施してから一日…………その間ならば、切り付けようと銃を撃とうと、落とそうとも壊れない。

 簡単に云うなれば、物に『不壊(ふえ)』の属性を付与する、只それだけのもの(異能)だ。

 生きているものには効かない──何故かその、生きている人が持っている異能には通用するのは聊かおかしな話ではある──という欠点も有るし、全くもって微妙な力なのだが、まあ今それを云ったとして何か変わる訳でも無いだろう。

 

 

「…………」

 

 

 私は得物を──小刀を、振り回す。

 袈裟。薙ぎ。振り下ろし。切り上げ、引き付けて、……そこから突く。

 

 切っ先の、風を切るような鋭い音を響かせて、相手(院長)の視線に曝され乍らも数回それを、繰り返した。

 

 

「…………」

 

 

 暫く気の済む迄して、それから手を止めた。小さく息をつく。直前の(・・・)準備運動は、これで終いになる。

 もう一度、改めて、眼前に佇む長身を見遣ってから、私は数歩後ろへ退がった──断じて、臆してはいない。その筈だ。

 

 数歩駆ければ到達出来るだろう距離を空けて、その先に白一色の和装を纏った男がひとり。私はその人と相対するように身体を向けた。

 

 彼の腰には私よりも刀身の長く、勿論逆刃では無いもの()がある。その柄には手が添えられており、恐らく何時でも対応出来る状態になっている。

 ──その鞘に隠されている白刃が、未だ抜き放たれてはいないにしても、変わらずにその中で冷たく光っていることは容易に想像出来た。

 

 

 少し緊張感が這い上がってきて、それが心臓を鷲掴みする前に何とかふるい落として、奮い立たせた。

 

 毎度のことだ。

 あくまでも、試合である。

 そしてこう自分に言い聞かせるのも、何回とやって来たことだ。

 

 これは自分の技量を識り、確認し、時には試す場である。何がどうあっても殺し合いでは無い。

 

 

「準備は善いか」

 

 

 院長が問い掛けてくる。

 力は着実に付いてきていると、そう思いたいが、勿論彼が、私のような未熟者に全力を出し切る訳も無い。

 

 寧ろ私へのハンデとでも云うようにして、安全性を高める為にする可き私の異能を拒む。不壊の属性を付与するのは、私の異能力の扱いの練習、というのもあるが――之は服に付与すれば、防弾・防刃を可能にするのだ。

 

 まあ切り付けられたとして肉に届かない、とはいっても、ちゃんとその分の衝撃は届くのだから、痛いものは痛いのだけれど。

 

 

 

 

 

 私は一度、刀身を元の鞘へと戻してから、努めて集中するようにした。

 身体は温まり、何時でも本番(・・)に移行出来る状態へと持っていく。

 

 そうして意識して呼吸を、ひとつ。即ち、集中だ。

 投げ掛けられた問いへは、頷くことで応えて、続けられた言葉を聞く。

 

 

「では条件は何時ものように──時間制限は無し、即死へ至る技は無し。(おれ)は『縮地』を封じる。互いに降参を宣言するか、或いは戦闘不能へ陥れば試合は終了とする」

「はい」

 

 

 声を出すことも何だか惜しいことに思われたけれど、一言そう返事をする。

 静かに息を吐き出し、浮ついた重心を安定させる。

 

 私がそうしている間に院長も又、数歩退がって距離をとった。館内全体を使っての試合が私たちの常である──最も、院長()にとって私たちの、その間でさえ有っても無くとも関係ないのではあるのだけれど。

 

 その変わらない表情に無機質的な黒目は、見る者が見れば恐怖である。普通なら平静を何処かへ置いて来てしまうような、戦いの中であれば尚更そうだろう。

 

 

 集中しよう、と内心で私は呟いた。

 今は目の前にある、私に出来ることを見詰めるのだ。私にはそれしか出来ないし、ならばきっとそれしか取り柄(・・・)は無い。

 

 集中────(たちま)ち海の中へと没入するような感覚に襲われ、息を吸い、吐き、然し違うのは、目を開くことだった。相対する声が始まりを告げるのを聞き、刀を鞘から抜き放つ。

 

 

「常より云っていることだが、繰り返し…………死なないよう、注意することだ」

 

 

 重苦しい声がそう云って、試合は始まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 常より院長、と呼ばれる男から見てこの朧という少女の存在は異能力、異能者という事実を考慮しても矢張り普通の、平々凡々な子供であった。

 

 労働とはいっても、畑仕事や薪割りのような事に従事してきたような娘だ。下の子供と走り回る事はあってもその程度のもので、本人も進んで身体を動かすようなことはあまり見受けられない。

 最初の一歩である蓮華座も組めなかったのを見た時には、少し呆れを隠すことが出来なかったものだ……まあ、環境だけに、出来たら出来たで驚いていたのかもしれないが。

 

 それでも、その日頃の家事の御蔭か、貧弱極まる程で無かったのが救いでもあった。少し鍛えてやって、もう少し体力をつけさせてやれば短期決戦には持ち込める筈だと、判断した。

 

 異能力者同士の戦いなんて大抵その短い間で決まるのだからその程度で十分と、そう云いたいところではあったが、生憎なことに己もこの少女も、いざ戦うとなれば自分の身で以て飛び込んでいくしかない。

 体力を付けることは必須条件なのだった。

 

 

 そうして武術……簡単な刀術や合気、間合いの使い方等、徐々に、そして様々に教えていく予定であった。

 

 普通の、子供に教えるようにすれば善いと、そう思っていた中。然しそれよりも前、もっと最初の時点で少女の強みが顕れたのは──、僥倖を通り越して想定外のことであった。

 

 

『無心』という言葉がある。

 そう成るように努めるというのは、武術に於いては基礎とされるものであり、同時に極意へ至る為には必要とされる重要な要素である。

 

 それは、その瞬間の最善を、直感に基づいて行える状態。直感を、思考という頭の雑音を乗り越えてやって来る囁き声を、自身が受信出来るという状態だ。

 基礎ではあるが、『無心』に成るというのは難しい。それが善いと頭では解っていても、早々と出来るものでは無い。

 普通ならば、その目指す可き到達点へと徐々に近付いていく感覚を頼りに、少しずつ習得していくものなのである。

 

 だからきっとそれは、早々と顕れた、彼女が持つ唯一の才能ともいえた。

 唯一ではあったが、内容が内容である。それだけでも十二分に少女は凡人の一歩先を往っていた。

 

 

『随分と深く潜っていたな──喜べ、一先ず第一段階は越えた。ならば次だ』

『……全部で何段階なんですか』

 

 

 大体がその第一段階で躓くことを、少女は識らないだろう……出来ない者も多い中で、それを易々とやってのけた娘の特異さにいっそ安心さえしたものだ。

 

 

 嗚呼矢張り、この娘も確かに異能力者(同類)であった、と────。

 

 

 少女は──朧は、男が見た中では最も深く『潜る』ことの出来る者だと云っても過言では無かった。確かにそれは生来の、天稟と称して差し支えない。

 その見た目からは想像出来ない、意外な才能であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 始まりを告げると同時。一瞬眼を閉じて開いた少女の黒混じりの翠が微かに陰っているのを遠くに確認した。判りやすい(しるし)だ。何処かしら薄ら寒さを感じさせる、全てを映しているようでその実何も見ていない瞳。

 他人事の様に、何も感じること無く只の事象として捉えられる様な感覚…………それ程経験を積んでいないにも関わらず其処までして見せることに改めて末恐ろしさをも感じ乍ら、男は距離を詰めていった。

 

 少女も僅かに走りより、互いに相対速度が速まる。

 朧が僅かに一回、瞬きをする瞬間を見計らって男は加速する。一気に眼前に現れるように刀を振るい、金属の硬質な音が一度鳴り響く。

 

 朧の、『潜っている』というのが一目で解る茫洋とした、然しまるで無駄の無い動きを可能にする眼とが交錯する。

 戦いに相応しく無い静謐さ、常の少女ならば動揺する一瞬も、この時に限ってはそうでは無い。

 

 

 力には男の方が分があった。

 そして少女はどちらかと云えば『受ける』側である。

 大人の、まるで違う膂力によって得物が弾き飛ばされないように身体自体を僅かにずらすことで、少女は少しの間を取ろうとする。

 

 じりじりと逃げる様にして、然し追い掛けられる。

 その間にも数合の打ち合いがあった。

 

 男の追撃を、その小さな身体特有のすばしっこさで躱す。

 館内の端に到達しそうになっていることに気付いてから、一気に横飛びに逃れる。

 

 

「…………」

「…………」

 

 

 追撃は無い────きっと、否、間違いなく手加減であろう。

 

 少女の茫洋とした、それでいて妙に動きが明確(クリア)に見える視界の中、然しそれによって起こりうる余計な考えは、露も表れることはなかった。

 

 同様に、焦りも無い。

 見えるのは目の前のことのみ──深い集中状態で、普段の弱気で流されがちな気勢は鳴りを潜めている。故に、場の空気に呑まれない、それこそが少女の強みである。

 空気に呑まれないということは、本人の全力を出せる、というのと同意であるのだ。

 

 

 少女は得物を持つ手を背に回し、間合いから少し外れた程度の距離から心持ち大きな歩幅で跳んだ。

 水平に、勢いも乗せて振り抜かれた逆刃刀を、男は得物を逆手に持ち縦にすることで防御した。

 

 力の差からして競り合いは得策ではない。

 弾かれた刀身、その防御したところから胸元を狙って来る突きを身体を捻ることで回避する。直ぐ横を真っ直ぐ刃が通り過ぎていくが、未だそれは男の攻撃の範囲内であり、故に朧は迷わず次の攻撃へと移る。

 

 身体を屈め、前ががら空きとなった腹に刀を叩き込む。逆刃な為に云わずもがな、峰の方だ。

 

 確かな手応え、然し少女故に弱いその衝撃に眉一つ動かさずに少女のその手を、男の刀を持たない手が押さえ付けた。

 

 手首を反すように回転させ、未ださほど力を出していなかったのか直ぐに外すことは出来た────然しその外したその一瞬に、手を叩かれる。

 握り締めていた筈の得物が、容易にぽろりと落とされた。咄嗟に後退する。

 弾かれた手に得物は無く、床に落とされた逆刃刀はからからと音を立てて遠くへ転がった。

 

 取りに往くことは出来ないし、男がそれを許さないだろう。

 一度崩すことに成功した男の体勢だが、その攻防の後既に隙は無く、手には刀が有った。再度向けられた切っ先は、今度は朧の頸部を狙っている。

 

 無手に成り、じりじりと動きつつ、今度は男から仕掛けた。

 逆袈裟に切り上げ、次いで頭上から切り下ろし、連続して追い詰めようとした瞬間、朧が消える。

 

 瞬間的に男への横へと現れた少女の、刀を持つ側への面打ちを、咄嗟の判断で刀を手放しつつ上体を反らす。紙一重で避けて、腕を掴んだ。

 

 少女の突っ込んできた勢いを利用して手首を(かえ)し、投げる。

 

 綺麗な一回転に、やや落とす力に手心を加えて、それでも床に打ち付けられる音はそれなりだった。

 少女が僅かに呻き声を上げた。

 

 

「未だ荒い、が…………善い動きだ」

「──自分でも驚き、です」

 

 

 けほ、と打ち付けられた衝撃に咳込んでから、眼に光を戻して──極度の集中状態から脱したらしい──朧はちょっと顔を顰め乍らも僅かに微笑するという、器用なことをやってのけた。

 

 完全に力の抜けた笑み、常よりこの少女が浮かべているそれと同じで、試合はその侭終了する雰囲気であった。戦闘不能に成っていないとはいえ、最早此の状況で少女に打てる手は存在しない。

 何より、集中が切れた後の少女ならば幾らでも押さえられる自信があったし、それでは試合の意味は無い。

 

 ……まあ勿論、その気の抜けた状態で男の表情筋が仕事をするかといえば、全くであるのだが。

 

 一旦之で終りだ、と云う様に掴んでいた手の力を緩めて、男は読めない(・・・・)眼で少女を見る。

 腕を離してやり、安心したように息をついた朧を眺め、転がった刀を回収に向かい乍ら男は「ああ、(ところ)で」と云った。

 

 

「何ですか?」

「『縮地』が出来る様になったのか」

 

 

 縮地──それは独特の体重移動を以て瞬時に敵に接近する、足捌きの技術だ。

 前動作無く地を蹴り近付く為に、習得には困難を極めるという。

 

 そして男は、朧に未だそれを教えてはいなかったのだった。

 未だ早い、そう云って。

 

 少女も又、そう思ってはいたのだが──自覚無くやっていたようだった。

 座り直して両脚の(ふくらはぎ)を摩りつつ、「あれがそうなんですか」と答えた。

 

 

「何だか脚に力が入らなく成ったのですけど。……こんな危険の多い(リスキー)な技なんですか」

「それは貴様が無理矢理したからだろう。戯け」

 

 

 脚のばねを酷使して無理矢理の移動であった筈だ。次いでに遠く弾かれた朧の逆刃刀も取りに向かい、男はそう説明した。

 

 

「本来ならそんな風にはならん。癖がつく故、己が教える迄は使用禁止だ。いいな?」

「え、でも殆ど無意識にやってたというか、その場合どうすれば」

「言い訳は要らん。いいな?」

「…………はい」

「脚の力が戻ったらもう一試合するぞ、いいな?」

「はい────って、え」

 

 

 この流れは鍛練終了になるんじゃないのですか、と僅かに非難の目を向けた少女に、男は「其んな訳が無かろう」と云い棄てたのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 男の手刀が少女の首筋を打ち据える音が、鈍く響いていた。

 ぱたりと糸が切れたようになる少女を男は暫く眺めて棒立ちになり、暫くそうしてから「やり過ぎたか」と呟いた。

 

 

 結局あれから二戦したのだった。

 最後の方は少女の体力が尽きていたからなのか、案外呆気なく終ってしまったのだが──それは仕方ない、と云う可きだろうか。

 

 計三戦。只、休憩を含めてもそれに要した時間は一時間かそこらだろう。試合の一つ一つは長くて十分、その程度のものだからだ。

 

 

 

 

 

 空は漸く白み始めた、という具合であった。

 

 男は倒れ伏した少女の傍らに座り込んで、その手持ち無沙汰にさ迷わせた右手を眠り込むようにする少女の頭へと置いた。

 栗色の、二年程前から伸ばし続けている髪は、今は背の中程迄になっている。

 試合の間に乱れたのか、一房だけ顔の横に垂れていた。

 

 館内の天井を訳も無く見上げて暫く眺め、するするとすり抜けるように軟らかい猫っ毛を指に感じた。

 ふとその目元を緩め────男は娘の頭に手は乗せたままにして、静かに息をついた。

 

 

 一つの気配が何時からか隠れるようにして此方を見ていることに、気付いてはいた。

 

 然し男には、応ずるような積もりは微塵とて無かったし、やがてその気配が消えようと去るその時にも、姿を見極めようとはしなかったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 




 
と、いうわけで朧の異能について、情報公開(伏線っぽいの回収)のお時間よー。
https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=133580&uid=90558


※雨ふり傘さん、最高評価ありがとうございました。
ご期待に沿えるよう今後とも精進していきたいです。

※※作者自身が運動能力ポンコツな為に、戦闘描写が下手です。申し訳ない。全然、動きが想像出来ない…………‼



以下、Q&A形式の言い訳↓


Q:院長、本気出し過ぎじゃない?
A:本気じゃないです。勝てる気がしないラスボス感。手抜いてます。


Q:朧が意外と好戦的な気がする
A:あくまでも『逃げ場が無い場合を想定して』の戦闘訓練、の筈。
  朧は人を傷付けるのが好きでは無い為、多分逆刃刀じゃなかったらまともに訓練出来ない。まあ、自分の為というのもあるので、多少のことは院長の「仕方ない」で大体解決。


Q:武器について(逆刃刀)
A:『るろ剣』見てください。
  実際はまるで実用的でない(折れやすい)らしいのですが、そこは朧の異能でカバー。まあ『斬』の研無刀(玄人好みのあつかいにくすぎる刀)リスペクトで切れ味無しの完全に破壊特化の刀も考えたんですが、女の子の武器じゃないかなって。


Q:二年位しか武術してない割には強すぎ?
A:主人公補正です(震え声)
  才能の方向(ベクトル)が善い方向で噛み合った結果ともいう。普通の状態でいくなら中堅(太宰)より上くらい。集中状態で漸く院長(ラスボス)手抜き(五割位)に対抗出来る程度。


Q:院長、デレました?
A:心を開けば案外普通の人。但しそこまでこぎつけるのが大変な上に、本人の見ていない所でしかデレない。





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第一三話 水底に沈む翠(前編)

修正前のは色々ごちゃごちゃしていたのでもう一度推敲し直して再投稿です。申し訳ありません。内容は変わってませんが表現が一部変わったりしています。
内容的にまとめて読んだ方がいいので、本日中に中編、後編も投稿する予定です。

弟視点その一です。




 

 

 ────その姿を不意打ちで見付けた時、決まって心臓を握り潰されそうになるような恐怖感に襲われる。

 

 

 それは大切な人のあまりにも哀しい、打ち棄てられたような姿だ。

 

 その貌に何時もの控え目な笑みは無い。

 只倒れ伏している姿に、目にしてしまった此方が息を詰まらせてしまうような、そんな感覚に陥る。

 

 

 寂しい様子だった。

 此方の心臓に悪いもので、然しそれなのに恐ろしさが勝って僕は彼女に近づけないのだった。

 

 ……確かに、目を凝らして注視すればその胸元は呼吸に上下しているのが見てとれるだろう。

 溜め息の中に安堵は勿論だが、同時に往き場の無い怒りが混じっていることも少なく無い…………素直に「善かった」等と云える訳も無い。

 普段の笑みは無く、ぱっと見ただけでは息をしていないのではと疑ってしまいそうになるというのに。

 

 

 ──初めて見た時は恐怖に腰が抜け、二度目は彼女をその状態に至らしめた張本人(養い親)に掴み掛かるのを自制した。

 今は……どうだろう、よく判らない。

 

 姉は、僕がどんなことを思い見ているのかなんて、きっと解らない筈だ。

 自身がどんな姿で横たわっていたのかも識らない侭、平然とその日を、又それ以降も元気に過ごしているのだから。

 

 

 その光景を見るのは、苦しいことだった。

 回数を重ね、何度もその様子を──最終的にはそれが彼女の為に成るのだろう、彼女も拒む様子は無い、そう思い乍ら──僕はただ、為す術も無く眺めていた。

 何も出来ないのは──否、しようとしなかったのだと解ってはいる──辛いことだ。

 

 唯一、ある事の曖昧な支えのみで僕は立っていた。

 

 識っていたのだ。

 何の意味も無く、彼女が自らを(なげう)つ筈が無いと。そういう既知が、僕の中にあった。

 共に暮らして来た知識が、だから案ずるなと囁きかけているのだ。

 

 案ずる必要は無い──然し僕は見届けなければならない。

 いや、僕自身が、せめて之だけはと、見届けたいと思っているのだった。

 

 

 …………まあ、だからといって馴れるかと問われれば、それはそれ、という奴なのだけれど。

 

 

 

 

 少年にとっての彼女の存在とは、きっとそういうもの(・・・・・・)だった。

 

 

 彼女は、その血が繋がっていないにしても限りなく家族に近い存在──否、家族そのものの、最も大切な一人であった。

 彼女は少年の姉であり、同時に少年よりも下の弟妹の姉でもあった。

 直接その口から聞いた訳では無いが、彼女は少年に、自身の存在を認めてくれる人は居るのだと、そう感じさせてくれた人だった。

 彼女は何かしら危うく、無防備で、責任感はある癖に流されやすい、よく判らないけれど────決して放ってはおけなくて。

 自身()が守りたいと思い願った初めての人だった。

 

 

「そう……だからこそ、憎めないから、より一層性質(たち)が悪い」

 

 

 きっと、そうなのだった。

 

 院から少し離れた場所の館内から一人出て来る男を認めて、少年はそう独りごちた。

 眉を顰めて、何時ものようにその姿が男一人だけであるのを確認する。

 

 続いて人が出て来る気配は矢張り無い。あれ(・・)からさほど時間は経っていないのだから、当然か。

 ならば……居る筈の、もう一人(自身の姉)は矢張り今もあの冷たい板張りの床に、倒れ伏しているのだろう。

 

 

 出て来た男が不意に此方を見据えた。

 距離を空けて、然し視線は交錯した──そのように、思われた。

 

 簡単に目視出来る程度の距離だし、別に驚くような事ではなかろう。

 

 実際にその『護身の為の武術』を目にする迄、男の実力は識る機会すらも無かった。

 彼女が居なければその一度も有り得ないものだったろう……あの男ならば見ることをしなくともその気配のみで、此方のことを識ることすら自然に出来そうだと、今ならそう思う。

 

 印象としてある、男の持ち合わせる人成らざる不気味さ。それが本物なのだと理解している。

 その理解した頭が、本能的な迄に「それ以上は踏み込んではならぬ」と囁く──精神の最奥で何か囁くような、(ことば)でもない何かを、聞いた。

 

 それは、警告だ。

 線引きされた縁の、ぎりぎり内側に立っているような危機感でもある。

 

 

 ──その先に何が在るのか、僕には識る由も無い。

 けれどもきっと進めばもう元には戻れず、生半可な気持ちの(自分)は喰われてしまうのだろう、それは理解していた。

 

 …………理解はしているが、認める訳ではない。

 そうしてしまうと自分が負けるようで、癪にも思ってしまう辺り、無駄な反抗、僅かな反骨心をこんな処で発揮してしまうこの身はどうにも救われないな、等と思う。

 

 

 

 

 

 大分空けた距離での交錯は、直ぐに終わった。

 少年が自ら離脱して、建物の中──即ち孤児院内へと戻った為である。

 

 只、その姿が視界に無い今でも、短い間しか離れていない距離から此方を見詰める眼を思い出す。

 ひやりと、触れるような無機質的な純黒を思い出して──震えが走った。

 

 きっと理屈ではない。

 いっそ、反射的な迄に拒絶してしまう何かしらである。

 

 

 だから止めろと云ってるじゃあないか、と警鐘を鳴らす自身が皮肉気に嗤う。

 それに首を振って否定する。

 

 

 ──それを経験しても尚、僕はこの行為を止めるつもりは無い。

 

「…………、姉さんは」

 

 

 少年は呟き、ずるずると壁と背を擦るようにして、座り込んだ。

 

 どれだけの事を思ったとしても、何処か遠くを見詰めるようなその瞳に彼女が一体何を映していたのか、それだけがずっと判っていない。

 

 判らなくとも、見届けねばならない。

 自分は彼女の弟である、それ故に。

 血を分かつこと無くとも、紛れも無くこの身は共に過ごしてきた。

 

 

 ──何が違うのだろうか、としばしば思う。

 

 

 少しずつ開いていくずれ(・・)、ずっとそれに気付いていた。

 他の弟や妹も無意識に察知して何かと姉の方へ向かうのはそのせいであった。

 

 何となく感じ取るだけならば未だ善い──僕のように気付いてしまうのは別だ。

 きっとそうなってはならなかった。その上でぎりぎり一線を越えない迄の一歩を踏み込んだ。

 そうしてこの身が発する警告を無視しておきながら、最後の最後で踏み切れずに足踏みする──此処迄来たなら、一気に踏み込んでしまえば善かったと、今更乍らに後悔して──矢張りその中途半端さに、苦笑いを漏らす。

 

 その、此方と彼方を隔てている薄い膜は、もしかすると自分も見えない筈だった、或いは見えてはならなかった物。

 

 あの養い親と同じ(・・・・・・・・)なんて、考えてはならないことなのに、だ。

 

 

 彼女も又────。

 

「…………」

 

 

 薄々と思っていたことを、然し口にするのは躊躇われた。

 

 無駄な足掻き、それにも満たないかもしれない行為だ。

 然しそれでも、外ならぬ自分がそれをしてしまえば、二度と修復出来ないものがあるような、そんな気がした。

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

 未だ記憶に残っている、それこそがきっと発端である。

 

 冬のある日、突然この孤児院とも云えない孤児院(図書館)の近くに、もう一つ建物が建つことになったのだという話を姉から聞いた。

 

 

「何で急にそんな話になったの」

「あぁ、それはね……」

 

 

 姉である年上の少女に尋ねれば、彼女はその黒みがかった翠の目を苦笑するようにすぅ、と細めて話してくれた。

 

 何でも今、兄が居て働き、日々を過ごしているその場所──横浜は魔都と呼ばれているらしく、かなり物騒なのだ、と。

 僕は神妙に頷いて、どういう経緯でそれが持ち上がってきたのか、未だ識らないその先を促した。

 その位は兄が話してくれた内容の一部に含まれていたからだ。

 

 姉が、その日に貰った土産(と云って善いのかは判らないが)の真っ黒な洋服の上下を持って片付けに部屋から出て行っている間に少しその話を聞いた──……そも、一番上()が識っていて二番目()が識らないというのも、おかしな事であるので。

 

 そして姉が何と無く苦笑している理由の大元が、それであったらしい。

 

 

「私もあと三年位したら多分、横浜へ往くでしょう? 危険だし物騒だから、少し位護身を覚えた方が善い、って広津の小父(おじ)さまが云っていたの」

「小父さま、って朧姉…………兄さんの上司の人、だよね」

「そうそう」

 

 

 あの人そんな名前だったのか、と呟けば、結構善い人よ? と返されて、何だか少し憮然とした顔になるのが自分でも解った。

 顔面は正直である。残念なことに。

 

 ……何だか反射的にというか、どうにも気に入ららなかったというか。

 何時の間にそんな、仲良くなるような機会があったのか、ていうかあの人そんな気さくな風には見えないんだけど──とか、まあ云いたいことは沢山あったが取り敢えず口には出さない。横道に逸れてしまうので。

 

 

「で、小父さまと院長が話をして、そしたらそれ用(・・・)の建物を建ててしまおうか、っていう話になったらしいよ?」

 

 

 外でも出来るような気もするんだけどな、と彼女は云って……苦笑したのはそういうのも含んでいるのだろう。

 然し問題はそこでは無い気がするのは、果して僕だけなのだろうか。

 

 こういう、たまにずれてる(・・・・)時があるのだが、今はそれ程重要なことでは無いので、正すのは止めることにする。

 そうして僕も又、その姉の詞を聞いてから考えてみたのだが──解ったことがある。

 

 

 正直に云ってしまおう。

 例え姉の口からそれを聞いたとして、内容通りのことを話している光景が全く想像出来ない。

 

 

 話だけなら、まるで彼が過保護な養い親のように聞こえるが、その本人はあれである。

 冷徹で全然笑わ無くて本ばかり読んでる癖にちゃんと折檻だけはしてくる、表情筋仕事しろと云いたくなるけども本人を前には絶対に云える筈の無い、簡単に説明するのならばそんな男である。

 

 

「……姉さんに護身を教える場所の為に、態々建物を建てるの?」

「普段は皆の遊び場にも使えるんじゃないかな、とも思うんだけどね?」

 

 

 多分そんなこと一切考えてない気がする。

 否、『気がする』なんてものではなく絶対そうだろう。最終的にはそうなるのだとしても、である。

 

 大体その、院長と男……広津とやらの会話が、とても物騒で殺伐とした会話、というか詞の避球(ドッジボール)しか想像出来ないのである。

 兄には悪いが、完全に悪者共の会談である。

 

 

 色々困惑して、改めてちらりと姉の顔を見た。

 彼女は困ったように眉を下げて、微笑んだまま僕を見ていたので──何か云おうとしたが、やっぱり詞を飲み込んだ。

 

 口を開きかけて結局黙り込む僕に、一体何を思ったのか、姉が手を伸ばして少しばかり背の低い、僕の頭をさらさらと撫ぜてくる。

 何も解決していないが、僕はされるがままに目を細めて、それから頭に感じる仄かな温もりを享受することにする。

 …………影から此方をちらちら見てくる弟妹が数名居るが、無視だ無視。

 姉が気付いていない限りはそんな行為も無意味同然である。

 

 

 今更ながら皆、姉のことが大好きなのだと自覚した。

 

 何時も微笑んでいて、自分たちを何も云うこと無く受け止めてくれて──……もう少し彼女自身を大事にして欲しいとは思うけれど、それはきっと、彼女の気質に寄り掛かっている僕らがあまり云ってはいけないことだから。

 

 多分その点で、僕たち年下と、兄さんのような年上が姉さんを気にかける理由は違うのだった。

 

 

 今でこそ大人びた、どこか浮世離れした雰囲気を持つ少女だが、過去の話だけを聞くならば別の印象を抱かせる。

 兄の話によく出て来て、それでいて兄が姉を気にかける、僕たちとは異なる理由。

 

「よく泣く子だった」と──兄がよく云っているような、姉が泣き虫だったというのを、実の処、云うほど歳の離れていないのに僕は覚えていないのである。

 

 そう歳の関係ない、幼い頃からそうだった(大人びていた)ようにも思うのだが、それは気のせいで、勝手に記憶を作り出しているのだろうか。

 

 未だ僕にも姉にも年上の彼らが居た時──思い返そうとしても、記憶に無いものを掘り返すことは出来なかった。

 

 

「どうかしたの?」

「いや……院長が真逆なァ、って」

 

 

 姉の尋ねに詞を濁して会話の続きをする。

 ……何だか色々と認識を変えさせられる内容であったことは否定しない。

 

 聞けばその建物、院長の自費(ポケットマネー)であるというではないか。

 意味が解らない。

 

 ……否、解ってはいるのだが、脳が理解するのを必死で拒否している。

 そんなお金があるなら食事環境とか、あとこの孤児院の一部割れている窓の替えとか、寧ろそういうことに使ってほしいと思う。

 他の院の事情とか識らないので、堂々と云えはしないのだけど、そんなことを考えた。

 

 

 

 

 

 ふと、疑問に思った。

「それって姉さんだけなのかな」と尋ねれば、姉はうん、とあっさり頷いた。

 

 

「でも、頼めば案外してくれそうな気もするのよ?」

「それは、……建物建てる位だしさ」

 

 

 然し、だから可能性があるのかと云えば、かといってそうでもない訳で。

 

 

「まあ院長と云えば本、本と云えば院長だしね? でも、流石に指南役(せんせい)を一人の為だけに雇う訳も無いと思うの」

 

 

 そうして何かを思い出したのだろうか──厭な事を思い出したような顔を、姉はした。

 大体のことは何時もうっすらと微笑んで受け入れるのが常であるだけに、その表情は珍しいといえた。

 

 一瞬の間だけだが、そんな顔をしたのは、之からの事を憂いた故だったのだろうか……理由も無いけれど、多分違うのだろうなと思った。

 

 

 云われた詞は肯定であったのに、その一瞬の表情と僅かに常と異なる雰囲気に距離を感じた。拒絶と迄はいかなくとも、まるで線引きされているような感があった。

 

 この姉に識る限りで疑う可き要素等見付からないだろうことは、(家族)である自分がよく解っているつもりである。

 なのに、何だか自分でも理解しないままに、それを否定する何かが首を擡げて来ていた。

 

 

「ま、解らない事を色々推測してもどうにも成らないかなって思うよ?」

「そっか……うん、まあそうだね」

 

 

 ぷつりと会話は途切れて、それを埋めるように割り込んできたのは先程迄陰から此方を見てきていた年下(ちび)共であった。

 正直に、之ばかりは有り難かった。

 その御蔭で、途切れた会話の先が無くとも別段気になるような事は無かったので。

 

 纏わり付いてくる子供らの、ひしとしがみつくようにし乍ら差し出してくる頭を、暫くは流れ作業の如くはいはいと撫で回すのに集中することとなった。

 

 

 

 

 

 

 




※いつもの。
アイアムヒューマンさん、田無火さん、最高評価ありがとうございました!
とても励みになっております。之からもこの作品を宜しくお願いします( `・∀・´)ノ




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第一四話 水底に沈む翠(中編)

本日二話目。
最新話から来られた方は注意してください。

弟視点その二です。


 

 

 

 それから何が変わったか、と尋ねられれば返答に窮するかもしれない。

 何を挙げれば善いのか、一体何がそこ迄変えさせるようなことの切っ掛けであったのか、恐らく僕ごときには理解出来ない──否、理解する可きでないことなのかもしれない。

 只それでも、その結果として環境が改善され、以前よりも善い『今』を享受出来ているという点に於いては感謝するしかない。

 そうする可き、なのだろう。

 

 

 ──冬が終わりを見せ、春が近付いてきていた。

 姉との話題にも現れていたた建物……云うところの、習練場のようなものが、院から少し離れた場所に早々と建設された。

 そして、その間に起きたことについても言及せねばなるまい。

 

 先ず、食事環境が善くなった。

 一日二食最低限に抑えられた、単純に腹を膨らませる為だけの料理が、少しずつ善いものになり始めた。

 

 入って来る物資の量も増えた。

 元よりあまり頓着していなかったが、よく見れば何と無く、弟妹たち、勿論のこと僕自身も含めて血色が善くなってきている感じがする。

 

 機会が有れば硝子窓の割れた部分も修理することになるだろう、と聞いた。

 一気に自費(ポケットマネー)から金銭を捻り出して来ているだろうに、一体どんな心境の変化なのか、その表情から推し量ることは出来なかった。

 

 見た目こそそんなに変わった風には見えないから、ますます以て不気味である。

 

 

 ……決して気まぐれでは無いのだろう。

 そんな性格にはとても見えないと、実際そんな人であることを、浅くとも長い付き合いの中で識る程度には解っている。

 

 そしてそんな徐々に豊かに成り行く状況が、短い間でありながらも馴れてしまった春──これが最も特筆すべきことかもしれない──その奇妙さを吹き飛ばすような出来事があった。

 家族が増えたのである。

 

 

 僕らは、親に棄てられた子供だ。

 子へ最も愛を向けねばならぬ存在に拒絶をされた。…………それでいて奴ら(大人)人の理の外へ往く(その子供を自身で殺す)ことも出来ず、逃げた先は責任の押し付けで、その果てに生じたのが僕らである。

 

 此んな辺鄙な場所へ態々足を運んだのは、単に偶然通り掛かったのか、或いは此の孤児院がそこまで認知されるようなものであったのか…………定かでない。

 識る必要は無い。

 識りたいとも思わない。

 

 家族が増えた、それだけのことだ。

 珍しいことではあるにしても、驚くことじゃない。

 春、暖かくなる時期にはよく有ることだった。

 

 流石に冬の寒い間に放り出せば直ぐに躯は冷えて死んでしまうことは火を見るより明らかである。

 ではそこまで冷血では無い、と捉えても善いのか────そんな半端な冷血さならば、こんなありふれた残酷さは、僕ならいっそ必要なかった。

 

 ……あくまで僕がそう思っているだけで、他の家族がどう考えているかは識らない。

 或いは、そんなことを考えていない可能性だってある。

 けれど皆共通して云えることは──身の回りとかで多少、というかかなりの不自由は有るにしても、家族と十分に称することの出来る人が居る環境は、人生の最初、自我の生えぬ時点で躓いた僕らにしては幸せだった。

 

 顔も識らぬ親は愛する筈の子を棄て、自分たちは棄てられ、……然し自分から手に入れる迄も無く、求めていたものは何もせずとも手元に有った。

 それは幸せなのだと、未だよく世を識らない僕でも判ることで。そういう点では逆に恵まれているとも取れるのかもしれない、というのは、聊か前向きに過ぎるだろうか。

 

 

 

 その子供を見付けたのは下の妹であった。

 幼い声がやや焦ったように呼んで、その時近くに居た姉と顔を見合わせてから向かったのを覚えている。

 やや擦り切れたような布は、然ししっかりと、柔らかに赤子を包んでいてくれていた。

 赤子は棄てられていた。僕らの新しい家族だった。

 

「名前を付けなきゃね」と姉が呟いていたと思う。

 赤子は、女児であった。

 

 名前が付けられている子供でも棄てられた子供は居る。この赤子にはそのような様子は無かったからだった。

 

 わらわらと群れ集まるように院全体の子供が集まって、姉の手に渡って腕に抱かれた子供を覗き込んだ。

 名前と聞いて、小さな弟妹たちがうんうんと唸っていたが、子供の、しかも幼い頭では考えつかないのは当たり前である。

 

 ……かといって院長が出て来る訳でも無く、結局姉の名付けによって、新たな妹の名前が決められたのだった。

 

 そうだね、と独り言のように呟いて、こんなのはどうかなと、姉が云った。

 

 

「春を(こいねが)う日の──」

 

 

 春希(はるき)、なんてどうだろう。

 

 割と安直だが、綺麗な名前だと思った。何となく、温かさを感じさせるような。

 

 そう云われた名前の子供はその時は未だ大人しく眠っていた……視線に曝されながらこれ(・・)とは、図太いのか。今から心配である。

 

 暫くその、見ているだけで壊れてしまいそうな様子を見詰めて、それから続くようにしてて僕は、その子を抱いている姉の顔をちょっと見上げる。

 顔を向けてから直ぐに、見なければ善かったかなと、少し後悔したのだった。

 

 慈しむように赤子を見下ろす翠の瞳は、優しいようでありながら別の何かを含んでいる。

 時たま、彼女がそんな目をしていることを僕は識っていた。

 

 複雑そうな、その視線の先にあるものは様々なもの──それは何の変哲もない何時も通りの料理であったり、妹たちがままごとに興じている姿であったり、或いは外の何も変わらぬ景色をぼうっと眺めている時で、この赤子を見詰める今であった。

 

 彼女は、僕らと少ししか齢は違わないというのに、之からの僕たちがきっと持ち得ることは無いであろう表情をするのだった。

 

 以前から度々浮かべられるものは、更に顕著に成って──ずれ(・・)のようなものとして現れているように思えた。

 

 それは、諦観にも似た落ち着きを底に湛えた、脆く控えめな笑みだった。

 何か眩しいものを見るようで、見られている此方側がくすぐったく感じてしまうような……然しそれが彼女にとって善いものであるのかと云えば、矢張り否であるのだろう。

 

 純粋無垢な赤子はそれ故の儚さだった。

 人は段々とその儚さから縁遠く成っていくものだが……姉も又、種類は違えど別の儚さを持ち続けていた。

 それは、触れたら壊れてしまいそうな印象を受ける。その癖して若し触れて無ければ、目を離した一瞬のうちに崩れ去ってしまいそうでもある、そんな危うさだった。

 

 ……何と云うか、全面的に守られているのは此方である筈なのに、守ってやらなければならないと思わせるような。

 

 歯痒く思う。

 ────そうする(守ってやる)のだと、思っていたとしても。

 

 実際に、現実において彼女を守るのはきっと僕では無く、別の見知らぬ誰かであるのだと、薄々乍ら感づいてはいたのだ。

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

 院長は結局一人で姉に武術を教える心算(つもり)らしかった。

 

 まあ金銭的に妥当である──そう感じるものではあったけれど、(まえ)の姉との話でも口にしたように、あの男が果してそれが出来得るのだろうかと疑っていた。

 

 ……まあ、何の実力も無い癖に侮っていたという、それだけの話である。

 武術なんて縁遠い僕が、それを推し量ることなど出来る筈も無いのは自明であった。

 

 何だかやけに早く建った修練場の、真新しい板張りの上に素足を滑らせて、僕は二人(・・)を横目でちらっと見遣った。

 

 二人──そう、二人だ。

 姉と院長。そこに何故僕が居るのかは皆目定かでは無かった。

 

 別に繋がりが無いと迄は云わない。

 之でも男は、表面上は僕らの養い親である。姉だけでなくこの身にも、少なからず折檻の跡は残っているからにして、認めたくは無いがある種の『教育』を施されていると云って善い。

 

 

 院長は出来上がったばかりの建物内を見渡し乍ら口を開いて、「教える時間は子供らの起きる前にする」と云った。

 僕の方を一瞬見て、それから「いいな」と既に決定したかのように言い放つ。

 

 

「昼間は駄目なのですか」

「子供らが起きていると纏わり付いて来るだろう。あれら(・・・)は、邪魔だ」

 

 

 邪魔、という詞に姉が僅か、むっとした顔をした。

 多分僕もそんな顔をしている気がする。流石に口にすることはしないが。……色々と、死活問題である気がするので。

 

 

「貴様も既に、朧無しで取り纏めが出来るようになっているだろう」

「院長先生がそこ迄して、姉さんが受けなきゃならない理由があるとは僕には思えないんですが?」

 

 

 どうにも不自然に、というより不完全に説明されたその理由を、然し院長は何時ものように淡々とした態度と目付きで「貴様が識る必要は無い」と云った。

 

 事の発端の始まりが何時かは理解していてもそれが何なのかは教えられず、然しその必要が僕に無いのならば何故彼女であるのか。

 単に時期的な話では説明のつかない位の判りやすい違和感がしこり(・・・)のようで、ひどく不快だった。

 

 例えば、姉の儚いようにも見える佇まい、それこそを特異性であるとして、何故今頃なのか。

 その片鱗は何時も何処かしらにちらついていたものだというのに。

 漸く気付いたように姉を囲い込み、それを見せないように厳重に隠そうとしているのだろうか。

 

 その表情から何かを読み取ることは出来ず、又何を意図しているのかを察することは出来なかった。

 

 ……そして同様に、姉がその全貌を理解しえているのかどうかも、僕の感知する処ではなかった。

 只彼女は察しているのだろうなと、それだけがはっきりとしていた。

 

 姉はそういう人だ。

 理解していて、然し相手がそうだと云うならばきっとそれが正しいのだと、自ら道を譲るような人である。

 

 

 

 ──それが全て了解した上で選択し、受け入れたことならきっと僕も文句は無かった。

 

 然し、僕には姉がそうすることをまるで想像出来ないのだ。

 例え彼女が自らその道を選んでいたとして、之までの記憶が、僕がそう思うのを邪魔するのだった。

 

 

「朝早いから、夜は任せっきりになるね」

 

 

 院長の詞に従うならば、姉は早く起きて、夜はその分早く眠らなければならなくなる。

 

 

 ごめんね、と彼女は云った。

 

 状況と僕の内心と、すぐ近くの男の視線が、ある一つの詞以外に云うことを許さなかった。

 だから僕は只、うんと一回だけ頷いた。

 

 彼女のそれは、何に対しての謝罪であったのか…………否、余計な事だ。勘繰ってしまうのは、過ぎたことだ。そう思うことにする。

 

 ──だって、そうだろう。認められる筈が無い。

 

 そうして、又情けないことに、その認められないことをずっと胸に秘めておける程僕の強さも持ち合わせてはいなかったのだ。

 

 

 だから、と云うのはおかしいかもしれないが、新しく出来た妹……春希をあやし乍ら、そんな事を兄に話した。

 

 兄がその上司を連れて帰ってきた初めての日……まあ二度目があるなんて思わないが、実は僕もある物を受け取っていた。

 姉の貰った洋服──スーツ、と云うらしい──とは別に、「たまには連絡しろよ?」なんて詞付きで。

 

 彼女が一度部屋を去った後に、兄が懐から出してきた機械仕掛けのそれの存在を識った。

 目の前には居ない、遥か遠くの人と喋る事が出来る珍妙なる物体。

 携帯電話、というらしい。

 

 

 それを春希を抱えた体勢で器用に開いてから、ある(ボタン)を押した。

 帰ってきて未だあまり時間の経っていなかった頃で、だからそれが初めての通話だった。

 

 使い方は聞いているが、それでも何処か緊張した。

 ぷるる、という何とも間の抜けるような音を聞いて、数回あった後に『おう、やっと電話してきたか弟』なんて詞が聞こえた時……何時も通りで、少し気が抜けたのを覚えていた。

 

 

「何か最初の時って、こういうのするのが怖くて──時間、大丈夫?」

『昼飯の時間だから、今は暇だな。如何した』

「いや、声が聞きたくなったは善いけど、時間大丈夫かなッて。あと妹増えた」

『えっ』

「えっ?」

 

 

 何でそんな反応をするのか、と思ったら「寧ろ其方(そっち)が用件だろう」と呆れられた。実は本命は又別のことなのだが、未だ口には出さない。

 それにしても、そこ迄反応する必要は無いように思うのだが。

 

 

 ── 一瞬の沈黙。

 

 

 機械越しに、兄の姿が頬を掻くような姿を見た気がした。

 

 

『あー……その、な。少し意外だったというか』

「意外って、何が?」

『いや、俺たちの孤児院って図書館だろう。改築もしないで無理矢理住んでる形の』

 

 

 確かに、と僕は頷いた。

 

 本を扱う場所故に、火を扱うのは隣接して建てられた小屋で行っているのだ。済むのに適しているとは到底云い切れない。

 

 こうして住んでいる人数自体もきっと、こじんまりとして少ない方なのだろう。

 

 

『で、しかも辺鄙な場所にあるから、規模も小さい。お前は識らないだろうけど……孤児院自体は横浜にも有ッてな? なら其方にやった方が早いのにと思った』

 

 

「見た目は立派だぞー」と云う詞にどう応えたものか決めかねて、然しあんまり想像も出来ずに、只ぐずりだした赤子を抱え直すことにした。

 

 微かにその、赤子の声が聞こえたのだろう。

 僕は自分の、抱えている子供を少し見詰めて、数回ゆらゆらと揺らし乍ら、名前は何て云うんだ、と──心なしか優しく、柔らかくなったようにも感じる声音で尋ねられた。

 

「春希、だよ。希う春って書く」と、そう返した。

 

 

『うん、善い名前だ。付けたの、朧か』

「判るの?」

『いや、院長先生とかちびっ子たちにそういうの期待してないから』

「僕は?」

『お前もなァ……うん』

「え」

 

 

 その云い方は酷くないか、とも思ったが……まあ、否定しきれないのが辛い処である。

 

 

『後変わったとことか有るか? いや、何も無い処で変化なんて──』

「ああ、兄さん識ってるかどうか判らないけど」

『んッ? 有るのか』

「…………有るよ? 多分」

 

 

 それで、漸く本題だった。

 

 一通り僕の話を聞かせてから──姉の課せられる事に成るらしい何かとか、何処かしらの不自然さとか、異常な迄の速さで建っていった建物とか、そんな事を話した──通話口で兄の詞を待った。

 

 何が変わる訳でも無いだろうけど……それでもどこかちょっと、期待していた。

 

 

『院長がそんな手間を面倒がったりしないのが先ず、なぁ』

其方(そっち)の広津? さんが発端らしいけど」

『あぁ、広津さんか……どうなんだろうな、俺も全く関与してないから何とも。あの人が朧を気に入ってるみたいなのは解るんだが、その肝心の理由が解らん』

 

 

 白木から見て上司の男として印象にあるのは、彼がその理知的な相貌とは異なり意外にもその強さを重視する節がある──ということだった。

 

 然しそれを前提として鑑みても朧は、白木の妹は、そう強くは無かった筈だ。

 広津の気に掛ける要素を、彼は識らなかった。

 

 身体面でも、そして多分……精神面でも、見る限りでは。

 それもそうだ。広津が彼女を気に掛ける唯一の要素こそ、白木の識らないことなのだった。

 

 

 昔からそうだった、泣き虫な可愛い妹。

 今でこそ流す涙が無く、然し相変わらず泣きそうな顔であるのは変わらない、血の繋がり無くとも大事にしたいと思う少女。

 

 この今話している弟は聡かった。

 なればきっと白木よりも賢く、人の気持ちに敏感であり、その感じた事は正しいのだろう。

 自分の識らない事を弟が識っているのは少々癪ではあったが、年上の威厳として、努めて声には表さなかった。

 

 院長に直接聞くしか無いのでは無かろうか、そう云ったら、意外にも既に云った後だったらしく、苦々しげな声が返ってきたのだった。

 

 

「その識りたいことを、それでも話してくれなかった」と、電話越しに少年が云うのを白木は聞いていた。

 

 只淡々とした口調で、それは貴様が識る必要無きことだと──貴様に要らないものをあれ(・・)は必要とする、それだけの話なのだと。

 

 貴様らとあの娘は違うのだ、と──その詞は、云われるまでも無く識っているからこそ一番聞きたく無い台詞だった。

 

 

 




 
因みにこの弟視点が終了したら孤児院編はほぼ終了となります。
漸く原作と本格的に関わりだすよ、やったね!






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第一五話 水底に沈む翠(後編)

本日三話目。
最新話から来られた方は注意してください。

弟視点その三です。




 

 

 実を云うと、姉と院長の修練を僕が最初から最後迄見届けた事は無い。

 

 大体途中から眺めたり、逆に離脱したりしている。

 それ程長い間見ていたならば何時かは気付かれてしまうのは自明であったし、何より姉が気付く前に院長の視線によって追い払われるのだ…………残念なことに、既に経験済みである。

 それでも院長が立ち去った後の一目は、必ず見るようにしている。

 

 

『子供らが起きていると纏わり付いて来るだろう。あれら(・・・)は、邪魔だ』

 

 

 その中には、きっと僕も含まれていた。

 姉以外に下の子供を取り纏める人間が必要で、僕はその為だけに院長の、あの発言があった場に居合わせることになった、多分それだけの話であった。

 

 壁を背にして座り込んだ、その時でも容赦無く時間は流れていく。

 

 何をするでも無くぼんやりと空を眺め、自分は一体何がしたかったのだろうと思った。

 

 

 くぁ、と欠伸を一つ漏らすと──ちゃんと寝ないと身長伸びないよ、なんて云う姉の声が聞こえたような──何とも末期的な幻聴がした。余計なお世話だ。

 

 そのまま、ふうっ、と息をつく。

 

 

 にわかには信じきれない様なことではあったが、この目で見たものは真実、自分が認めざるを得ない現実でもあった。

 

 姉の持つ奇妙な小刀が間合いの違う得物とぶつかり合う。

 長さの異なる白刃が互いに弾け、空を裂いていく。

 至近距離で振るわれたそれを身軽な動きでかわし、時には受けて、或いはその膂力に捩じ伏せられそうに成るのを紙一重で捌ききる。

 

 

 まるで、その場に居る二人だけが、異なる時間の流れの中で動いているような、目まぐるしい迄に激しい攻防であった。

 たった二年程度でそこ(・・)迄往くのが果して普通であるのか、その動きの半分も目で追えず、処理しきれない自分には判断出来はしなかった。

 

 然し、少なくとも仮に僕が同様の過程を経たとして、その着地点が果して姉と同じであることは無かっただろう。

 

 

 ──それに対して何かを云うには、僕は何もかもを識らなさ過ぎた。

 

 

 座り込んで、膝を抱えて、頭をその中に埋めるようにして。矢張り、僕に出来るのは、そんな意味の無いことだけだった……まあ、そうなったのは紛れも無い自分の選んだことなのだけれど。

 

 苦笑いを漏らす。

 見届けることすら負け惜しみのようで、そんな自分に厭な気持ちになる。

 

 彼女のその身体は近くに在るのに、何処か遠くも感じさせる、そんなもどかしさも抱えているうちに何時しか──本音を云えば少ししんどかったりもするが──馴れてしまった。

 

 そうして、一度院長とさし(・・)で話したことがあった時のことを、思い出していた。

 

 

 

 

 

 姉の云うところの『鍛練』は、彼女にしか施されなかった。

 

 否、正確に云うなれば、最終段階の時に志願しようとする者は最早残ってはいなかった、というのが正しい。

 

 興味を持つ子供も居たし、毎日続けなければならないことも承知していただろうが……僕の身に起こったことを鑑みれば当然の話かもしれなかった。

 

 そも、今迄事足りていた生活の中に更に不要なものを放り込む必要性は無いのであるから、子供たちにとっては趣味の延長線上とも取れることを院長の目に晒され乍らやらなければならないことは苦行以外の何物でも無かっただろう。

 

 ただでさえ恐怖の象徴ともされている院長だ。

 利口であるとはいえ、未だ齢が十もいかぬ子供が、そんな毎日に到底耐えうる訳が無い。

 

 

 子供たちの判断は正しかった。

 最終的なところで何も悩むこと無くすっぱりと、諦めた──それは最適解であったと思う。

 ……こんな風な未練がましい様は自分でも少し呆れる位なのだ。

 

 

 きっと人は成長していくにつれてどんどんと余計なことが付いてきて、無駄な(しがらみ)に捕われてしまうのだろう。

 それは姉も僕も例外では無く、その上で僕は半端者だった。

 

 

『……若ししたとして、貴様はそれに何を求めるのだ』

 

 

 僕にも姉と同じような鍛練を施して下さい、と云いに往った。

 

 ぱた、と本を閉じた白装束の男が、ゆるりとその頭を擡げ、瞳を此方に向けてそう問うてきた。

 

 何を求めるのか? ──僕は、自分は何を求めているのだろう。

 問われた時に改めて、僕は自分が何を求めているのだろうかと、初めて自問するように思った。

 

 然しそれを識らない時でも、姉が遥かな手も届かないような先に往ってしまうような、そんな気はしていた。

 居てもたってもいられぬような衝動に突き動かされて、その衝動を叩き付けるように院長に請うていたのだった。

 

 

 彼女がそこに求めるもの、理由……僕は只、姉の近くでそれを見届けたかった。

 そう云うと、院長はそれを聞いて数瞬、僕のことをじろりと覗き込むようにして見てきた。

 

 僅かに吐かれた息は溜め息なのか。寧ろそうとしか考えつかないのが残念でもある。

 

 

『止めておけ』

 

 

 予想は容易く当たる。

 

 勢い任せに突っ込んだ衝動がその一言で段々と萎んでいくような気がする。

 そのまま諦めてしまえばいいのに、それを恐れて何故か進んでしまうのが僕である──ぐっと、止まるように努めようとした。

 

 喉の奥に何か張り付いたようでいて、上手く声が出て来ない。ようやっと絞り出した声はとぎれとぎれに成って、そのことに内心で自嘲する。

 それとも、矢張り……見届ける、なんて詞は些か傲慢であっただろうか。

 

 

『────僕、は』

 

 

 椅子に座った侭の男は、肩肘をついて僕のことを見詰めていた。

 その黒目が暴かずとも直ぐに剥がれてしまうような、そんな脆い決心だったのか。

 

 否──傲慢でもいい、簡単にそんなことを許して堪るものか。

 

 

『何れ後悔する道ならば、いっそ選び取らぬ方が幸せなこともある。抑もだ、何故其処迄にこだわることがある?』

 

 

 決まっている。

 

 

『僕が、そうする可きだと思っているからです』

『……ふん、足りんな』

 

 

 それでも。まるで足りん、と目の前の男はそう呟いて、こんなことを云う。

 

 

(おれ)から見ても判る──半端な情、半端な決意ならば要らぬ』と。誰よりも中途半端なのは、僕が一番理解している。

 

 それでも、姉への思いは確かに本物だった。そう自負していた。

 

 

『貴様とあれ(・・)が決定的に違うものを、そんな物で埋められる筈が無かろう』

『…………』

 

 

 姉さんは、姉さんだ。

 それなのに、到底僕が持ち得ないような何かは、それが無ければ、遠くに往ってしまうような彼女について進むことも出来ないのか。

 

 何という理不尽。けれどそれでいて、そんな曖昧な説明で納得してしまう自分が腹立たしくて仕方ない。

 

 

『あの小娘が持つもの(・・)に関わったとして、その安穏とした生活を掻き回されても善いならば止めはしないがな』

 

 

 曖昧な癖に、その詳細を頑なに話そうとしないから此処まで話が拗れるのだ。

 

 姉さんの何を識っているのか、反抗的にそう思って──ああ、それはお互い様かと考え直した。

 

 この男が僕の識らない姉を識っていることも、又同様に僕がこの男の今迄関与して来なかった分姉について識ってることも。それらはきっと正しいことだった。

 

 然し、それ程迄に徹底して話すのを拒むような、所謂「禁則事項」は一体何なのか。

 矢張り、踏み込んではならぬ領域の何か、なのだろうか──脳の奥で鈍く、警鐘のような音を聴いた気がした。

 

 否、気のせいだろうと思おうと懸命に無視しようとするのに、追撃のように詞が響く。

 

 

『それにだ、必死に吠えて虚勢を張った処で貴様には出来るまい。貴様はそういう輩だ』

 

 

 何も云い返せない。然しそれでも、

 

 

『自ら幸福を手放すと云っておきながら最終的にその掌を返すような──違うか?』

『……そんなの』

 

 

 耐え切れずに、何かが決壊した。

 

 

 堪え性が無いとか、そんなのは自分が一番自覚している。

 ただしそれを云うなら、何も話さずに此処迄否定してくる院長の方だってやり過ぎなように思う。

 

 

『そんなの、僕には無い何かを姉さんが持ってること位、前からずっと識ってた──今迄何もしてこなかった癖に、何で今更姉さんを引き離そうとするんだよ! 姉さんには恩がある、姉さんは家族だ。姉さんがお前と関わったらその分姉さんが遠くなる!』

『……』

 

 

 勝手に口から出て来た詞でも、やり直しはきかないものである。

 院長の顔には矢張り表情は無く…………然し頬の辺りがぴくりと動いたのは、果して気のせいであったろうか。

 

 

『云いたいのはそれだけか』

 

 

 正直な処もっと云うことはあったのだが、その時の僕には之が限界だった。

 頭に血が上っていたので多少語彙力が乏しく成っているような感もあるが、よくもまあこんなことを云えたものだと少し感心している……思い返しただけでも恐ろしかった。

 

 その直ぐ後、無表情で云った男が立ち上がってからかつかつと近付いてきて、返事を待つでも無く僕の首を片手で掴んできたからだ。

 

 

『ぐっ…………』

『──無知とは』

 

 

 後で考えてみれば普通に息も出来ていたので、かなり加減していたのだと思う。

 院長から発せられる圧迫感が増していたので、それに()されて気付かなかったのだろう。

 

 見下ろす黒目の中に僕が映っている、そのことが奇妙であるように思えた。

 それは底無しの、呑まれてしまいそうな位に深い色である筈で、映るもの無き純黒のそれだと思っていた。

 

 

 男は云った。

『それはある意味で正しく、同時に愚かしくあり、なればこそ幸福なものだ』と。

 

 その詞の示す処の正確な意味を、然し僕は掴みきれていない。

 矢っ張り話す積もりは無いのだな、と──只それだけである。

 

 

 

 

 

 

 その時の首に当たる温い体温を思い出す。首元を摩りながら、意外にも覚えているらしい、とぼんやりと考える。

 腹に幾つか残る火傷痕のうちどれだっただろうかと、僅か思いを馳せた。

 

 

 ──耳元に直接流し込まれたのは、きっと毒であった。

 

 

「それしか云い切れぬのならば、着いて往ったところで矢張り貴様は、近かれ遠かれあれに突き放されるだろうよ」と預言めいた詞の重さが、耳に留まり続けている。

 

 

 ──その後、目上の者に対して喚き立てることは罪だと折檻をされて転がされ、魘れ乍らも姉の追及を何とか躱しきった自分を褒めてほしい。

 

 然し代わりとでも云うように、その痛みが引く頃に既に姉の修業は始まっていた。

 僕はその最初に乗り遅れた侭自分もやる等と云い出すことも出来ずに、こうして結局諦めてしまっているのだが。

 下の子供たちも、僕が何を院長へ訴えに往ってその結果がどうなったかを識っているから、それきり何も云うようなことは無くなった。

 

 

 然し若し、これで本当に院長が断じた以上の心意気を見せていたのなら──つまりは、そういうこと(・・・・・・)なのだろう。

 

 

 その程度だと、外ならぬ自身が心の奥底で認めてしまった。

 せめて行動だけでもそれに抗おうとしているのは、もしかすると滑稽にも見えるかもしれない。

 

 

 まあ、今更な話だった。

 

 僕は又ひとつ、溜め息をついてからずるずると立ち上がった。

 何時までもそうしておける程偉くも無い。

 

 立ち上がってから外をちらりと見るが、そこら周辺に最早男の姿は無かった。

 どうやら裏口からさっさと入ってしまったらしい──ぶるりと訳も無く一度身震いをする。

 

 

「……まぁ、うん」

 

 

 一緒に生きることが当たり前だと思ってはいけないのは十分に、身に沁みて感じていた。

 

 踵を反して広間の、弟妹の眠る場所へと戻り乍ら、そんな取り留めも無いことを思った。

 

 

 

 




と、いうわけで弟視点終了。





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第一六話 手に余る夢

同志諸君、お待たせしました。漸く脱・孤児院編。織田作まであと少し。
展開は少し駆け足気味にいきます。




 

 

 少しずつの変化を添えつつも、概ねが何時ものように過ぎていく。その中で、それでもその時(・・・)というのがやって来る、というのは間違いでは無かった。

 

 これは比喩だが── 一つの処にずっと留まれる訳で無いのは当たり前のことなのだった。口に出す迄も無く至極当然のこと。

 どんなことにも始まりはあり、凡ゆる(すべ)てに終着が訪れるのだから。

 

 然しそれでも、訪れて欲しくは無かったのだ……これも又、恐らくは当たり前のように誰もが一度は思ったことがあるだろう。

 

 

「えー…………」

 

 

 間延びした呟きに応える人は居なく、朧はちょっとしてからまた一人で唸った。

 

 まあそれでどうにかなる訳でも無く、手に持つそれを目の高さまで持ち上げて見ても真逆消える筈が無い。

 残念なことに、自分が感じている洋服の重さは本物であった。

 

 手っ取り早く云うなら、少女は自分が今──恐らくそれに直面しているのだ、とそんなように思うのだった。

 

 

 

 

 

 朝の鍛練の後、昏倒していた状態から目覚めた。

 何時ものように一日を始めようとしていたのを挫くように、院長から「今日人が来ると連絡があった。準備しておけ」と服を放り投げられたのである──特筆しておく可きことでも無いが、院長が交織り以外の服を街から調達してきている、というのも変化のひとつであろう。

 

「複製してませんか?」と思わずそう尋ねてしまった返答の代わりに無言の重圧を受けたのは善い思い出である……色んな意味で。

 

 少女の、今手に有るのはそんな内の一着分だ。彼女の兄が買ってきたもの──後から聞けばスーツ、と云う種類の仕事着らしい──とは別の服である。

 手触りも柔らかで手に心地好い。質が善い物だと、自身が無知だと自負している朧にも判ることだった。

 

 

 ……それにしても、何なのだろう。準備しておけ、とは。

 

 

 入れ違いに小さな機器を持って早足に何処かへ往く弟を見つけて声を掛けようとしたが、少し躊躇われた。

 

 

「……」

 

 

 結局声には出さなかった。

 

 その機器には見覚えがある。というより、朧も何度か触ったことがあった。何だかよく解らない理屈で動く未知は、……まあ同じような異能(もの)を持っている自分が云える訳では無いが、触れても善いのかと思ってしまう代物だ。

 兄──白木との通信が出来るそれは、何でも彼女が使うと危なっかしいらしくあんまり触らせてもらえない物だから、そこ迄構え無くても善いのだけれど。

 ……本人の居ない処で「『何かあったら電話しろよー』って云ってるけど、姉さんの場合その何かが起きても連絡しなさそうだよね」「確かに」とかいうやり取りがあったことは全く識らないのは救いなのだろう。

 

 

 

 

 

 後ろ髪を引かれるが、とりあえず何かしなければならない。ならば、先ず手元の物を片付けよう、と手近な部屋に足を向けた。

 

 別に何処でも善いが、弟によれば人気(ひとけ)の無い場所が最良(ベスト)であるらしいので──「姉さんはもっと羞恥心を持つ可きじゃないかな」とは一体何だったのか。

 家族にそんなもの必要無いと思う。

 

 部屋に入ると、先客がぽつりぽつりと居た。数人の子供、その中の一人がふと顔を上げて「あ、」と云った。

 

 唇に指を当てているのに何となく察して、朧も又小声になった。

 

 

「入っても善いかな。……若しかして春希、今寝たところだったの?」

 

 

 うん、と頷く妹の脚の間にすっぽりと嵌まるようになっている末妹の姿がある。微笑ましい様子を眺め乍ら肯定の返事を聞く。

 音を立てないようにそっと、後ろ手にその戸を閉めた。

 

 左右に何時の間にか居た別の妹二人がしがみつくのに「未だ甘えっ子だね」と微笑して、朧はそんな子供たちを引き連れてその方に向かった。

 

「可愛いよね」「うん」と口々に──但し、勿論のこと小声だ──妹が云った。そんな詞に、彼女も口元を緩めたまま「そうね」と頷いた。

 

 

「皆こんな感じだったよ? ……ああでも、こんな寝坊助じゃ無かったかな」

「ほんと、よく寝るよねぇ」

 

 

 屈み込んで幼児の柔肌を軽く突つく。

 そんな私の様子に、春希を抱えている妹がくすくすと、くすぐったそうに笑った。

 

 ……別に弟妹の間で差をつける積もりも無いが、自身が名付けただけあってその思い入れも一入(ひとしお)であるのだった。

 

 何よりこの位の子供に構うのが久しぶりで、矢張り可愛いのだ、というのもある──まあ、諸事情によりどちらかと云えばお兄ちゃんっ子であるのは少し悲しいものだが。

 

 

 

 

 

 それはそうと、と妹が口を開いた。

 

 何事かと思えば──彼女は心なしかわくわくした顔つきで姉の方を下側から覗き込み、「ねね、今日誰か来るの?」と云った。

 声もどこと無く弾んでいるように思える。

 

 朧は笑ってから頷いた。先程と違い曖昧な笑みに成ってしまったのは仕方ないだろう、そう割り切ることにする。

 だって誰が来るのか識らないのだ。

 

 

「誰かは聞かされて無いのだけどね? 私も急に云われたから解らないのだけど、多分皆も着替えるんじゃないかな。私だけって云うのも変だもの」

 

 

 院長先生は云わなかったけれど、何だか慌ただしかったし、云い忘れることもあるんだね、と呟くと「そんなこと云えるの、姉さん位だと思うよ?」という返事が返されて、然し何かが可笑しかったのかくすくすと又笑い始めた。

 少し笑い上戸の気がある子供の笑い処は、私からすればいまいち不明でならない。

 そんな様子に、少し呆れつつ……まあでも、否定出来ないな、と思った。

 

 

 何だかんだで私も、段々と馴れてしまっている気がする。

 図太さに磨きがかかったのは否定しないがそういう訳では無くて、何と云えば善いのだろう──そういうものなんだと、それ迄只何も考えずに受け入れていた事についての、少しばかりの心境の変化と云おうか。

 

 自分のこの身すら把握出来ていないと、識らなかったことを理解させられて。

 それだけのことだとしても、そんな些細なきっかけ一つで変わる何かも在る。

 

 

「ついでだから、皆の分も出してくるね。……そのままだと暫くは動けなさそうだものね?」

 

 

 ありがと、と小声で云うのに「はいはい」と頷いてから物置へと向かった。手に持っていた服は部屋へと置いてきているので勿論のこと手ぶらである。

 

 

「あ、院長先生」

「……朧か」

 

 

 途中、丁度善い処で出逢った。

 

 未だ着替えて無いのか、と云うのに未だそんなに時間経ってない筈なんだけどな、と首を振る。

 男の様子を見るに、何か意外であったらしい──片眉をちょっと上げた貌を見上げて、聞きたいことがあったんですと云った。

 

 

「結局訪れる人が誰だったか聞いてないと思って。……あと、どうせなら皆にも洋服を着せたいなぁ、と」

「善かろう」

 

 

 即答だった。

 一瞬、呆気にとられた。

 返答が早過ぎたので……大体この人の詞にあるため(・・)のような重さが無くて、端的に云うなららしく無かった。

「え、善いんですか」と漏らした口を、じろりと黒目が睥睨してきた。

 

 

「……一度貴様とは、(おれ)について如何に思っているか話し合わなければならないようだな」

 

 

 それに僅か肩は竦めても、最早あまり臆したりはしない──度胸がついたのだと云ってほしい。毎日、紛いとはいえ殺気を浴びればそれは馴れるに決まっていよう。

 

 

 それに最近、思うのだった。

 何も出来ないまま見た目だけ毅然としていた自分の、こうして大人になるにつれて感じるような変化も、案外悪くないものだと……面と向かって認めるには、多少の抵抗があるけれど。

 

 向けられた眼は、然し男の方から逸らされた。

 珍しい、と少し目を瞬かせた。

 

 

「まあ、それは後で善い。最初の質問についてだが」

 

 

 そこで自らの養い子から完全に視線を外して、ぐるりと周囲を見渡すようにした。

 

 少女も又、それに釣られるように後ろを振り返ったりして、そこで漸く周りに人っ子ひとり居ないことに気付いた。……そういえば気配も感じられてはいないのだった。

 

 それが逆に不自然であり、矢張りこの養い親には子供避けのような何か(・・)が体中から発せられているのではないか──等と(あなが)ち間違ってなさそうなことを推し当ててみる。

 

 周りを気にしなければ話せぬ話題とは、この男と少女の間に於ける共通項に他ならなくて。

 つまりは、そういうこと(・・・・・・)なのだった。

 

 

「貴様に漏らして善いのか……(いいや)、気にする可くも無いか」

 

 いいか、と男は少女に向けて云った。

 

 

「内務省の、非公然組織に『異能特務課』と呼ばれる場所が在る」

「異能、特務…………?」

 

 

 

 目をぱちり、と瞬かせて何か事態が動き始めたことは何となく理解して。「遅すぎる、若しくはこうして時間を置いた癖にやって来るには早過ぎだ──奴らは時期という物を解ってない連中でな」という台詞はなんだか愚痴のようにも聞こえた。

 

「えっと、その人たちがやって来るのですか」と問えば、「ああ」と肯定の返事が返ってくる。

 突然やって来たものは、自分の識らない世界で繰り広げられている「何か」だった。

 

 

 

 

 

 実感は湧かない。けれどその一端に今、触れているのは確かである。

 その世界について未だ新参者(・・・)もいい処の少女だ。

 そんな組織があるのも初耳であったし、名前とその肩書きからして何となく解る程度にしかその事情(・・)を把握出来てはいないが、一方で、何処でどのように関わってくるのか、という疑問だけはを呈することは無かった。

 

 

 云わずもがな、だ。十中八九、その場所である筈だ。

 

 

 魔都横浜。

 そう呼ばれる場所があることを少女は識っている──逆に云うなれば、それ以外の場所の名前を、彼女は識らないのだが。

 

 今生活している此処の地名は記憶に無く、この本の倉と云う可き孤児院には何故か地図は存在しない。

 外界から断絶されたようなこの場所で書物を読み漁り、有るか無きかも判らぬ何処かの名をぼんやりと覚えているのみである。

 

 

 少女は自身の掌を一瞬見詰めて、自身に宿る異能があることを識った時のことを思い返した。

 

 私は只生き続ければ善いと、先ずはそこから始めて……家族と在る日常を過ごせれば善いと、そう思っていて。

 然しそんな日常(幸せ)は何時までも続く筈が無い。何かしらは日々移ろい変化していく故に、そのことを身を以て感じていた。

 

 今が、その時だった。

 嘗てより身近にあって手の中に握り込んでいた日常は、この指からさらさらと零れ落ちるようでもあって。

 

 今を悪くないと思っている一方で、未練たらしくしているのは我ながら滑稽であったけれど、今の少女には──認めたくない事実だったが──朧には、それは最早手に余る夢のように思えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




タグ追加しました。(微原作改変)
オリキャラを入れる以上、若干変わるのは必定であります。
まあ抑も織田作生存√が改変なんで、仕方ない部分でもあります。ご了承下さいませ。



次回、あの人が登場します。(ヒント:異能特務課)
ほぼ答えですね!




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第一七話 類は友を呼ぶ

さくさく進みます。
微原作改変要素有り。

3/20:表現等修正
 


 

 

 不意に「どうした」と、そう声を掛けてきたのを少女は見上げた。

 

 顔を上げてみれば隣に座っている養い親の男が此方を見ていて、何だか見透かされているようだなと、そう思った。何か云いたそうな顔が、顔に出ていたのだろうか。

 この養い親と同様、表情の変化はあまり無いと自分で思っていたのだが──まあ、似ているからこそ判ったのかもしれない。

 

 

 間違ってはいないけれど、かといって態々(わざわざ)口にするようなことでもなく、朧は黙って首を振ることで応えた。

 ふっと見上げていた処から視線をずらし、やって来て迎え入れた二人組を改めて上から下へと眺めて──それから少し眉を下げた。

 

 

 

 

 二十代半ば位の青年。

 それから、その青年と一緒にやって来た、朧よりも年下かといった位の幼い顔の少年。どんなに多く見積もってもせいぜい同年だろう。

 そんな二人組は、かっちりとした衣服に身を包んで目の前に座っている。

 思っていたのと違う、というのがその姿を見た第一印象だった。

 

 

 何と云うか、普通だ。

 もっと専門的(プロフェッショナル)ぽいものを醸し出すような人が来るのだと思っていた。

 少女の心境を理解したのかどうかは判然としないが、隣で相手にも聞こえる程度の声の大きさで「ふん」と呟いている様子からして──院長も同様に思っているらしい。

 

 ……見た目上はあまり変化無しである上に雰囲気もあれ(・・)だが、少女の養い親に悪気は無い筈である。

 多分、きっと、恐らく。

 

 朧はそっと視線を逸らしてから、改めてその二人組の来訪者を物珍しく眺めることにする。

 

 

 

 

 先ず、でこぼこしているなと感じた。

 

 それは気の抜けるような気分にさせる最たる原因であり、ぱっと見ただけなら真逆そういう(・・・・)種類の人たちだとは到底思えまい。

 

 どう見ても彼らは歳の離れた兄弟か、──まあこれは年齢からすれば、あんまり人のことを云える訳では無いのだけれど──或いは親とその子にしか見えなかったのである。

 特に朧からしたら、尚更だ。常より自分より年下の弟妹と触れ合っているから、余計にそう思える……はっきり云うなら、思ったのと違った。

 

 

 こんなことは偏見なのだろうが、妙におどろおどろしいのは彼らが持つ『異能特務課』なる肩書きだけであったらしい。

 何せ──嘗ての話には聞いていたが──こんな自分と同年位の少年も所属していて、然し彼はひどく(・・・)厳しいとか、朧の想像するような恐ろしい環境に曝されているようには見えなかった。

 

 その幼さの残る表情に冷徹さは有っても、人として乾いてはいない。

 

 

「…………」

 

 

 そして同時にもう一つ、その少年の存在は朧にあることを教えた。

 善くも悪くも、年齢なんてものは関係無い、ということだった。

 

 広津の「所謂自己責任、という奴だ」という台詞が頭を()ぎる。

 確かにそうらしい。

 境遇の違いだけで、自分も近い内にその責任とやらを負わなければならないので他人事には出来ない。

 庇護者が自分を放り出した時がそうなる時で、然し未だそうなっていないのは矢張り、遅いのだろう。

 

 

 そこ迄思って、じろじろと眺めるのは失礼だったろうか──と考えた。

 

 いや然し、同じ部屋の中にいて、しかも向かい合っている状態で見るなという方が無理だろう。

 自分でそう思って自分で勝手に結論づけたが、そんなことをせずとも多分、おあいこ(・・・・)だった。

 朧がそうして見詰めているのと同様に、じっと見られるような視線を感じていたからだ。

 

 品定めされているようだな、と思った。同時に凡ゆる全てに倦んでいるような剣呑さを孕む眼で、少年は此方を見詰めていた。

 交差する──似ている、とは思わなかった。

 

 確かに同じ異能力者ではあるのだろう。

 けれど初対面の少年にそこ迄思える程自惚れてはいないし、そんな心境に辿り着く位自分の人間性が出来上がっている、なんて思わない。

 

 丸眼鏡の奥の目と暫く見合って…………不意に浮かんで齎されたのは、安心とほんの僅かな喜びだった。

 識らず詰めていた息を吐き出してから、少女はうっすらと、その唇を横に引いて微笑した。

 こんなことを云ったら悪いかもしれないが──否、元々の性格かもしれないが──何だか威嚇されているようで逆に微笑ましく思ったのだ。

 

 

 確かに大人びていたが、それは許容出来る程度のささやかな『異常』であった。

 一般人と少し隔たったような世界でも、なにも一人きりで生きねばならない訳じゃないと。寄り添える人の存在があるかもしれないと、その可能性を自分の目で確認出来たことは善いことだった。

 

 

 一人は怖い。

 一人は寂しい。

 ……でも多分、私はこの場所以外で生きなければならないのだから。

 

 

 それが当たり前のことかもしれなくても、そんな当たり前のことを識れたことがひどく嬉しかったのだ。

 

 ……まあ、その僅かな笑みにすら反応されて眉を寄せられたのは少し予想外だったのだけれど。

 失敗したかなぁ、という心境で、朧は対談が始まるもう直ぐを待つ。

 

 その場所──院長の部屋の中で、少し埃っぽさの感じる本の匂いを吸い込み、すっと表情を戻す。

 

 

 

 朧含める彼らは、そこで一堂に会していたのだった。

 四人が入るにはやや手狭な場所ではあったが、それでも入らないという訳ではない。

 

 部屋は矢張り本で溢れているが以前よりも遥かに足の踏み場は多くなって、どこと無くすっきりとした風でもある。

 少なくとも部屋の中に四人分の椅子を置ける程度には片付いていた。

 

 少女は普段院長が座っている場所の隣で常ならば見ないような視点から部屋を見ていた。少し落ち着かないようにさせられる位置で、自身の養い親はこんな風に景色を眺めていたのだな、と今更そんな新たな発見をする。

 

 

 

 

 

 ……そんな間にも、会話が始まるようだった。

 

 少年の横に居た青年が、その小さな同行者の何かしらの様子に堪え切れていない笑いを漏らす。自然と視線がその方へと向く。

 

 彼はくつくつと笑う間に「お久しぶりですね、『人間兵器庫(マスプロ)』殿?」と口にした。

 

 少女にはその意味する処は把握出来なかったが、院長を揶揄しているのだ、というのは何と無く理解できた。

 その呼び名、というか。それが横浜における男の通り名であるのだろう。

 ……然しそんなことを思う前、それよりも面食らう方が先に来ていた。

 真逆そんな、この養い親をからかえる猛者が居るとは想像出来る筈も無いので。

 

 世の中は本当に識らないことばかりなのだな、と若干見当違いなことを思いつつ、朧は改めて話に耳を傾けることにする。

 久しいな、と云った声は隣から発せられた。

 

 

「その久しぶりがこういう(・・・・)形なのは些か不本意なんですがねぇ。何時から子連れになったか、お伺いしても?」

「……其方は変わってなくて何よりだな」

 

 

 隣から溜め息が聞こえた。

 子連れ……私のことかと思って、もうそんな年齢ではないなんて庇護されている身では云える訳も無いのだけれど。

 

 

「貴様のそういう処は──いや、いい。此処が何処だか云ってみろ」

 

 

 少し思いを馳せるようにして、それから青年はぽん、と手を打って「んあ、そういや此処孤児院だったか。忘れそうになるなぁ」と軽い調子で云う。

 

 

 はっはっは、と一人で勝手に納得して一人で笑う青年に、院長と常より呼ばれる男の眉間に皺が寄った。

 心なしか威圧感が増した気もしたが、誰も反応しない。寧ろ異様なことでもあり、然しそれが現実である。

 きっと慣れとか度胸とかその他諸々の御蔭だろう。軽い戯れ(ジャブ)のようなものだ……繰り返すが悪気がある訳ではないのだ。

 多分。

 

 

「自己完結するなら先ず口に出す台詞を考るんだな。あとその呼び名は止めろ」と云う男に返されたのは「そっすねぇ」という軽い返事とぴんと上に立てられた人差し指である。

 ちょっと黙った方が善いのでは、と朧は要らぬ心配をしたが、「ま、『人間兵器庫(マスプロ)』殿が云うなら考えときましょうかね」とさらっと云っていたので既に手遅れである。

 

 

「んで、確かにコチラとしちゃあさっさと用事済ませたいんですけど、その前に一つ聞かなきゃなんないこともあるっぽいすねぇ」

 

 

 にっ、と歯を見せて笑う青年は、視線の先に居た男の隣──今度はもう一人の、子供の方を見た。

 

 少女──朧だ。

 少し跳ねている栗色の猫っ毛に、普通の町娘のような格好は何処にでも居そうなものである……だが、その養い親たる男が気まぐれに同席させるなんてことはあまり想像出来なかった。

 視線を向けられて、彼女は黒みがかった翠色をぱちりと瞬かせた。

 

 当の本人は、蚊帳の外のままだと思っていたらしい……きょとんとした表情に「お嬢さんはお仲間(異能者)、ってことで善いのかな?」と青年が問うと、僅かの間の後にこくりと頷いた。

 

「そっかそっか」と意味深にふむふむと頷いていたが、青年が思っていることは誰も窺い知ることは出来まい。……まあ彼の向かいの壮年は僅かに胡乱げな表情をしていたのだが、そこは割愛する。

 

 

 

 

 いい目だ──とても、善い。

 未だ世の影に触れていない無垢さは、直ぐに消えてしまいそうなものであっても見ていて気分が善い。

 少女が異能力者であるならば尚更である…………横浜に着いてしまえばそれも無くなってしまうのだろうが、それだけが惜しいことである。

 

 小生意気な少年(こいつ)に、善い刺激かもしれないなぁ、なんて。

 青年の笑みの中にはそんな意味も含まれていた。

 

 

「それは重畳。我々の世界にようこそ、お嬢さん。ああ、僕らは歓迎するともさ……名前をお伺いしても?」

 

 

 至って普通に見える少女が僅か戸惑ったように身じろいだ。促されて口元が紡いだ名を、そうして識ることとなる。

 

 異能特務課に在籍している一人の少年と、それから何処にでも居るような孤児院の──然し異能力者でもある少女が最初に出逢ったのは、この時であった。

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

 朧は、自分が名乗ったので相手の少年の名前も解るのだろうかと、そんなことを考えていた。

 

 大仰に云うならその少年は不遜で退屈そうな雰囲気である。が、同時に、理由も無い勘だけれど──仲良くなれそうな感じにも思ったのだ。

 之まで大勢の家族と少しの大人、それだけとしか関わって来なかった少女にとって、上手くいけば彼は多分初めての『友人』である。

 柄にも無く少し、わくわくした。

 

 

「……そう云う貴様こそ、そんな童子を連れてどうした」

 

 

 隣の院長が云って、青年が「ああ、此奴(こいつ)?」と少年の髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜた。

 何と言うか、めちゃくちゃ厭そうな顔をしているのに気づいていないのだろうか──他人の厭がることをすることが好きな人種が世の中には居るのだと、未だ彼女は識る由も無い──と首を僅かに傾げてその様子を観察する。

 

 

「雑役というか、丁稚(でっち)のようなもんですよ。まだまだ可愛い新入りでさ……()ったぁっ」

「余計な事を云わないでください」

 

 

 まあ、直ぐに同情へと様変わりしたのだが。

 あれは痛い。

 

 ……その当人による報復が起こったのである。

 悶絶する青年を、汚物を見るような目で眺めてから、朧と院長の方を向いた。きっちりと整えられていた髪が乱れて不満そうである。

 

 少年特有のやや高い声が不機嫌そうに、「坂口安吾です」とややぶっきらぼうな調子で自分の名前を告げた。

 

 

「正直何で僕が連れられて来たのか、僕も解ってません」

 

 

 何も聞かされずに来たらしく、「でも貴方のことは前に聞いたことがあります」と院長の方をちらっと見て──そう口にした。

 

 

 この養い親は有名らしかった。

 ただ、異能力者という少人数間の限定的なものなのか、本当に色々と識られているのか、その台詞からだけでは定かでは無かった。

 

 院長はその詞に応えるようなことは云わず「単純に引き止め役(ストッパー)だろう」と呟いた。

 痛がっている割に直ぐに復活した青年が蹴られた部分を摩り乍ら顔を上げて「一応組織では信用されてますよ」という口を挟む。

 

 

「いや、最初は普通に親愛なる(・・・・)人間兵器庫(マスプロ)』殿に逢わせようと思っただけなんだが……安吾お前ェ、一応僕お前の教育係なんだけど?」

 

 

 教育係……つまるところ、どれだけ腐っても上司だ。逆らう訳にもいくまい。

 

「但し、かといって抗議をしないという訳でも無いです」と素っ気なく云った彼は凄いな、と素直に朧は感心した。

 

 だが抗議(物理)だ。

 見習う可きじゃない、それでも──そんなこと、中々云えるものではない。

 

 

 安吾は鼻を鳴らして、「あんたが余計な事云うから話が進まないんでしょう」と又脛をげしげしと蹴り付けようとして、今度は避けられていた。

 何だかんだで仲は良さそうだなと、朧は淡く微笑む。幸いなことに今度は気付かれることは無かった。

 

 

「で、話だが」

 

 

 さっさとするのには同感だな、と院長が云って、顎で話の先を促す。

 

 

「貴様のとった約束(アポイントメント)は今日だけだ。それ以降は相手せんぞ、異能特務課」

「えー……はいはい、解ってますよっと。『人間兵器庫(マスプロ)』、そんなに短気だと頭の血管ぷっつんしますよ?」

 

 

「もう結構いい年なんですから」というその詞にこそぷっつんしそうだった……未だ四十路である。

 

 

「識ったことじゃない。あとその呼び名は止めろ」

 

 

 苛立った調子で──そのくせ無表情なのが恐ろしい──机を指でとんとんと叩く男に肩を竦めて、「じゃあ本題入りましょうかね。会話に入ってないお嬢さんがそろそろかわいそうだ」と朧へ向けて片目を瞑って見せた。

 割と黙って聞いていても楽しかったので問題無い。少女は一度だけ首を振った。

 

 

 青年はそれから、肩に提げる形で持っていた鞄を開けて書類だろう紙を数枚、取出した。

 

 

「じゃあ異能特務課の仕事をしますよっと」

「…………」

「解ったから安吾、睨まないで怖いから」

 

 

 ごほん、と一つ咳ばらいをして。

 

 

「────はい、貴方に辞令が出ているのを届けに参りました。まあ、正確にはちょっと圧力掛けて出させたんですが! そこは省略でね!」

 

 

 ひらりと投げ渡された数枚は上手い具合に机に着地して、院長が手に取ったのに朧もそれを覗き込んだ。「ふむ」と唸ってさらっと内容を検分する脇でちょっと眉を顰める。

 

 色々と書かれていたが、所々の単語を見るに、簡単に要約すると内容はこうだ──院長は、孤児院を統括する機関から辞職を要請されているらしい。

 そのことを理解してから思わず養い親の顔を窺っても、その表情は変わっていなかった。「寧ろ遅すぎる」という、聞き覚えのある台詞を吐いた。

 

 予期、していたのだろうか。

 

 

「遅すぎる、或いは早過ぎた。こうして時間を置いた癖にやって来るには……御蔭で此処で少々金を遣い過ぎた」

「いや、あんたなら金なんて普通に造れるでしょう。本物から寸分違わぬ本物を作り出す人が」

 

 

 ああ似たようなことを最近云った気がする、と朧は遠い目をした。

 隣で溜め息をつかれて、流石に少し申し訳なく思った。

 

 

「朧にも云ったことがあるが、貴様らが(おれ)のことをどう思っているかがよく解る詞だな」

 

 

 抑も辞令の出た理由の見当をつけられない彼女からすると、その後に続く「己は直接自身の益になるような犯罪はしないと決めている」という台詞に、まあ性格的に無さそう、と頷けるのだが、

 

 

「──へぇ、そんな事云うんですか。どちらにせよ犯罪だろうが」

 

 

 けらけらと笑う青年の、然し少し周囲の気温が下がるような感覚に陥った。

 

 空気が薄い。

 何の詞が彼をそんなにさせたのか。

 

 

 ぽんぽん飛び交う軽い会話が無くなり、声だけ笑い乍ら、然し少し眼を眇めて青年は男を見た──殺気には最早慣れていたけれど、それでも自分にそれが向いていないということに少し、ほっとする。

 薄情だと解っているが、この男には彼女が年下の弟妹たちにやるような気遣いをすることこそが失礼だと、今ならそう思っている故に。

 

 少年の方はどうだろうと見れば、初めて見たのだろうか、鋭かった目を丸くさせて驚いているようだった。きっと珍しい光景、なのだろう……態度の落差が凄まじい。

 何でも卒無く熟す養い親は、この時ばかりは逆鱗たる何かを踏み抜いたのか。

 

 

 青年は「犯罪、ねぇ」と呟いた。

 今迄が騒がしかっただけに、部屋は妙に静かであるように思えた。

 

 そりゃあ色々忙しくて対応が遅れたのは此方の落ち度だけどさ、と云って溜め息をつく。

 

 

「ただね、その新しい盾が犯罪を蔓延らせている原因の一つである、ってぇのは感心しないと僕は思うんだよね──ポートマフィアの手の者が」

 

 

 その最後の詞で気付いた……そうだった。

 

 そういう意味でも男は識られていたのかもしれない。

 何れ無くなるとはいえ、その盾を失う前にそれを自ら棄ててポートマフィアに参入した男。

 丁度自身が異能力を開花させた時期であり──とどのつまりは、私のせいだ。

 

 

 男が唇を僅かに歪めて「庇護されている、と云え」と吐き棄てるのにはっとさせられる。

 

 

「戦時中も、そして戦後も己に『人間兵器庫』以外の有用性が存在しない以上、政府の盾が消え失せるのは自明に決まっていよう。それ故に云った、遅すぎると」

 

 

 一度詞を切って、その瞳が今度は少年の方を向いて「小僧」と呼んだ。

 

 

「貴様もこれ(・・)の補佐なら内容は識っていよう。此奴は暫く使い物にならん、続きを話せ」

 

 

 朧は、院長をじっと見上げた。

 それから……少年と顔を見合わせて、目を伏せた。

 

 頭を、掴まれる。

 無理矢理養い親の方を向かされる──素直に、その力に従った。

 

 

「自惚れるなよ。(おれ)()ったことだ」

「…………一端は私の責任です」

 

 

 黒目が少し細められて、然しそれを真っ向から見据えた。

 お互い目を逸らさず、養い親はその手に力を込めた……頭が、痛かった。

 

 

「ああそうだろうな。然しその上で選んだのは己だ」

 

 

 その瞳が此方の心の奥底を覗き込むようで、その事に何故だか妙に泣きたいような心持ちになって、朧はぱちぱちと瞬きをした。

 涙は零れなかったし、流すこともなかった。

 

 

 

 

 

 

 




院長の通り名:『人間兵器庫(マスプロ)』。mass production。理由はお察し。

本物を作り出す異能が金銭の偽造という点で犯罪であるかどうか。まあ金銭ではしてないようです。他は、ね。
武器の製造()という面に於いても、嘗て政府が院長にさせていたことであり、それを今更犯罪というのも……まあ、グレーゾーンでしょうか。




安吾少年がいつ特務課に入ったのか分からないため、それ故の微原作改変です。捏造とした方が良かったでしょうか。安吾少年はあんな感じにツンツンしてると信じてる。


※月詠之人さん、高評価ありがとうございました! 励みにさせていただいております。
また、総合評価がどうも200ptを超えていたらしく、嬉しい限りです。
矢張り同志はたくさん居るようで(´・ω・`)


※※十万字超えたようです。この時点で主人公の片割れたる織田作が何故出てきていないのか……おかしいですね(困惑)









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第一八話 Hazy Sky

前話と合わせて読むことをお勧めします。
 


 安吾は目の前の二人がするやり取りの間に、自分の上司の男を見ることにした。

 

 目を向けた先では気持ちを落ち着ける為にか、その人の目は閉じられている。

 此方が視線を向けたことに気付いているかどうかは定かでは無い。うなだれているのも、それで静かであるのなら正直どうでもいい──と、いうか。

 仕事中にそんな風になる方が悪いのである。あと日頃の行いとか。

 

 

 然し、まあ……対面する白装束の男が云った「暫く使い物にはならない」というのには確かに同意だったから、黙ったまま暫くはそっとしておこうかと、そんな気遣いらしいことを思ったりもする。

 今ばかりは彼を責めるのは酷であろう──少なくとも好ましいとは云えぬだろうことは、理解していた。

 

 この一回り以上年上である上司は、然し感情を押さえ込むことを不得手としている。

 手っ取り早く種を明かせば、常から軽い調子である者にもそれなりの過去があって、云われた台詞の一部をその記憶が許容出来なかったと。安吾からすればそれだけのことだ。

 

 だがその物事に対する思いの大きさなんてものは当人が決めるもので、本当は部下であるというだけの自分が決め付けられるようなことでは無かった。

 それはそれに直面した、当人だけが持ち得る権利だ。

 

 

 目の前で見た訳ではない──その時の安吾の年齢を考慮すれば当然である──が、それは割と有名で、かつ内容もこの御時世なら案外普通な話だから自然と耳に入ってきて。

 

 ポートマフィアと他勢力との抗争に巻き添えを喰らった人々の中。

 そこに、この上司の恋人が居たという。

 こんなことを云うのはやや冷淡かもしれないが……聞くだけならば世の中に溢れているだろう、極々ありふれた悲劇であった。

 

 よくあることだ。

 だから当たり前のように識ることになって、当然のような表情(かお)をして聞いていた。

 そのことを自分に識られていると気付いた本人が「つまんない話だろ?」と云ってきて、けらけらと笑い飛ばすのに対して真顔で頷くくらいの出来事だった……まあ、どうやら今回は許容出来なかったらしいのだけれど。

 

 彼ら二人が顔見知りであったことに関係、或いは起因しているのだろうなと推測出来るのみだ。

 白装束の男、通称『人間兵器庫(マスプロ)』…………真逆こんな大物(・・)と知り合いだとは流石に想定外、夢にも思わないが。

 下手すれば一個軍隊の息の根を止められよう──早くから剣を棄てた故にその名を賜ることは無かったが、“五剣”と同等の力を持つような才覚に恵まれた剣客、否怪物である。

 仮令(たとえ)剣がその手に無くとも、持つ得物が一つの拳銃とたった一つの銃弾であろうと、それさえ有れば(・・・・・・・)その異能を以て幾人をも無力化することの出来る武芸。

 白装束を身に纏うのは、それまでに対峙し切り伏せてきた相手へ向けてか、或いはその白地に返り血一つ浴びぬという完璧なる技量に因るところか。

 

 そんな相手にキレないでほしい。

 というか何故放逐していたのか、それが解らない。

 

 

 そんな諸々の内心での文句を口にすることなく飲み下しながら、様子を窺った。

 その間にも放たれていた殺気は徐々に収まりつつある。一度薄くなった空気は元に戻り、身体が軽くなるような感覚を覚えた。

 時間の流れが正常になる錯覚に陥って、少し息を吐き出す──相手側に悟られないように努力をすることにする。

 

 血を通わせるように右手を握ったり開いたりを数度繰り返ししつつ同様に青年の手元を見れば、握り締めた掌は白くなっていた。

 俯きがちであるせいでもあるのだろうが、顔には陰りがあり、眉間に皺を寄せて唇は微かにわなないている。

 

 何かに耐えているようだと、安吾はそう思った。

 事実そうであるのだろう。

 大丈夫、と此方へ言い聞かせるように呟いているのが聞こえたが、説得力は全くもって無い。

「あー」と小さく呻いて、こんなことを云う。

 

 

「落ち着いてる。落ち着いてるって、安吾」

 

 

 目をぱちりと開いて最初の、そんな詞が発せられるのに呆れ果て、寧ろ感心さえした。

 

 

「ただ怒りがあるだけだかんね」

「……いや、それ落ち着いてないんで。もうちょっと頭冷やして下さい」

 

 

 思わずそう云ってしまうくらいに、説得力が無かった。

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

 之からの説明くらい僕にだって出来ますから。

 

 そう云った少年が「ホント、お前は出来た奴だなぁ」とその頭を又撫でようとする手を払いのけてから──残念がるような顔に露も反応していないのに、話し掛ける前から友達になぞ成れるのかという疑問が頭を擡げてきた──改めて此方を向き直ってきて、朧も又表情を正した。

 

 丸眼鏡をくいと上げて、少年が何時の間にか手にしている書類を一枚めくる。「大体の内容は其処に書いてあるとは思いますが」と云い、その紙の上の文字列をおさらいでもするようにさらさらと追い掛けた。

 その手にしているものが、院長へ渡されたものと同じであると気づくのに数瞬を要して、もう一度養い親の手元にあるそれを覗き見る。

 

 

「最初の確認からしましょう。其方がポートマフィアに下ったことにより政府の後ろ盾は既に消失しております──把握していますか」

「戦後以降は在って無いようなものだったからな。構わん」

 

 

 本当、全面的に悪いのは此方であるのは気のせいでは無かろう────そんなことを思いかけたのを打ち消し「…………では」と咳ばらいをした。

 

 

「伴って先程申し上げましたように、政府管轄の孤児院総轄からの辞令が下りました。それを以て先ず、その名が返還されることになります」

 

 

 朧は院長の顔をこっそり見ようとして──何故かばっちり視線が合ったので、そっと顔を戻して見なかったことにした。

 

 少女にとって男は『院長先生』であり、それ以外の何者でも無い。

 それなのに、使われることの無い名前という最早符合にもならない代物が、然しこの養い親の本名なのだと。そう思うと、何ともし難いもやが胸の内に広がるようであった。

 

 

「同時に、識っているかいないか判りませんが……先月、貴方の兄にあたる旧家の当主が逝去されています。その手続きを踏んでもらわねばなりません」

「ふん…………成る程、そういうことか」

 

 

「居ないことにされている筈の(おれ)の幼少を識る者も最早居ない、か」と呟いた男は果して何を思ったのか。

 

 世情に疎い朧には識る機会も無いことであったが、この戦後の混乱に於いて幾分か落ち着いたとはいえ──()つ国の文化等の急激なる流入はこの小国の家柄などものともせず、その価値は消えつつある。

 好都合でもあったのだろう。それ故の今、であった。

 

 安吾がその内心でわずかながら慄いたように、確かにこの男は“五剣”に匹敵する天稟の持ち主であるが、同時に最優先事項(ブラックリスト)に載る程でも無い。

 理由は偏にその異能が特務課の抹殺対象に成り得ないと、いうことだ。

 異能者による犯罪は後をたたないし、組織化された異能犯罪集団は特務課を困らせるそのもの(・・・・)である────然し、すべての異能者が悪人である訳じゃない。

 殺意に対しては無力化することで応じるだろう。然し裏返せば、それさえしなければ何もしない、災厄を振り撒くことも無かった。そんな存在に人員を割いておける程、当時の特務課に余裕は無かった。

 

 然し最大の理由は──何より、つい数年前までその異能によって、軍はぎりぎり持ちこたえてきたのだということだ。

 政府には負い目があった。

 この男が少年であった頃、軍部へその力を提供する際、少年はこう云った。「きっと私は私の有用性を以て、着いた先が此処だったのだ」と。

 その欲求は時と共に薄まりつつあったが、少年は青年になり、それすら過ぎて尚、完全にその、自身に伴う意味(意義)を求めることを止めた訳では無かった。

 戦後に於いてもそれを追い続け、嘗て軍部でやっていたことと全く同様のことを、その力が利用出来る所ですることに何を以てしても政府にそれを止めさせるだけの十分な理由が見つからなかったのだ。

 

 戦後の混乱が冷めつつある、そして丁度(・・)都合善くもう一つの懸念を解消出来る機会がこの時であったのだ。

 ある程度事情を識る者からしたら、小さな面倒事はいっぺんに済ませてしまえ、というような魂胆が透けて見えるようでもある。

 

 抑もの話、対応が遅くならなければこんな事態に発展もしなかったのかもしれないが……最早過ぎたことを云うのは仕方ないことだ。

 敢えて弁明するなら、真逆異能特務課も、政府が男の次の行き先を決める前にこの男の眼鏡にかなうようなところが現れるなぞ考えもしなかったので。

 しかも、ポートマフィアだ。阿鼻叫喚である──まあ戦線の維持拡大を唱えていた好戦派の官僚の方へ乗り換えられるよりは遥かにまし(・・)で善い判断ではあったのだが。

 

 

「家を出てから一度も遭いはしなかったし血を分けた他人のようでもあったが──兄か」

 

 

 静かに、死因は何だと問う壮年に「肺を患っての喀血、と聞いています」と応じる──少なくとも書類上はそう記されている──矢張り表情に変化は見られなかった。

 

「そうか」と云い、それっきりであった。

 傍らの、神妙に聴き入っている少女の方へ「ポートマフィアの手の者が政府へ影響を与えるなんてことはあってはならないだろう」と補足するようにして男は頷いた。

 

 いやにあっさりとしたものだった。

 然し諸々を理解したのだろうことは明らかであったから、安吾も確信できた──同時に、自分よりも年上の少女が場所の所為もあるとはいえ、識らないことの方が多いのだろう、ということも。

 

 少年の内心を読み取ったかのように一瞥してきて、その薄ら寒くさせる黒々とした瞳がじいっ、と見詰めた。

「──この小娘は」と口が動いて、続けて云った。

 

 

これ(・・)はな、未だ異能を開花させてから二年も経っていない。能力制御と体術刀術の基礎を優先して叩き込んだ故に、未だ裏の事情には疎い」

 

 

「その能力の開花が無かったのなら、本来は識る必要の無いことだからな」という詞に、驚かなかったといえば嘘になる。

 

 

「無知で愚かな娘だが、多少のことは目を瞑ってくれ」

「…………」

 

 

 この、噂に聞く限りで武に於ける強さは化物としても善いだろう男の、そのお墨付きを貰えるというのは──この少女も又一般から逸脱しているという、何よりの証左であった。

 

 はっとしたのは安吾だけでは無かった。

 隣で身じろぎをするのを感じて横を向けば、青年も顔を上げて二人を見ていた。主に少女の方を。

 視線に晒されたからか、少女は神妙に聞いていたそれまでの表情を崩してうっすらと微笑んだ。…………その曖昧な微笑がやっぱり苦手だと、そう思った。

 

 それは少年から見た、彼女の最初の印象だった。はっきりとしない表情は何を考えているのかよく読み取ることが出来ない。

 ……まあその最初でさえ、笑みの裏側で何を考えていたかなんてのは、朧からしたら友人がどうとかというだけでそう大したことでは無かったのだが。

 安吾がそれを識るのは未だ先のことになるだろう。

 

 

 不意に「……ふん、落ち着いたか糞餓鬼」と呟いた壮年の台詞に、その様子を観察されていた青年はわずかに唇を歪める。

 然しそれだけで「仕事中に(いや)ぁな事を色々と思い出させないで欲しいんですけど」とぼやくように答えた。

 

 

「或いは貴様もやったことのある鍛練を思い出して我に返ったか」

「まぁそんなところで……そっかぁ、考えてみれば妹弟子みたいなものか、君は。僕もたまに稽古付けてもらったよ」

 

 

 まじまじと朧を見詰めて、「あの連続試合はきついよね」と感慨深げな表情をした。

 この青年が院長に対していやに馴れ馴れしい、納得の理由であった。……かと云って、出来るかと問われれば別の話だが。

 

 少女のうっすらと笑んだ顔が一瞬、少しだけ引き攣った。

 自分なら当たり前のように出来ない、そう思ったので。

 

 

「貴様がやって来たのも縁、か」

「そんなモノに頼るようなあんたじゃ無いでしょうに」

「不確かな物に頼るのは性に合わんが──善い機会だったかもしれんな。朧」

 

 

 何ですか、と彼の方を向く養い子へ向けて「貴様には二つの選択肢が提示されるだろう」と壮年は云った。

 

 

「すなわち、だ──(おれ)について往くか、或いはそこの二人について往くかだ」

「人員的にたまには引き入れもするからね! よく解ってるじゃないすか『人間兵器庫(マスプロ)』!」

 

 

 なんだか自棄気味に云う青年に「あ、元に戻ったな」と思ったのは、きっと本人以外の全員の見解であった。

 院長がぐっと眉を顰めた。

 

 

「偉そうに云うな糞餓鬼が──小僧、貴様はこんな莫迦になるなよ」

「なりたくないので大丈夫です」

 

 

 安吾はさらっとそう云ってから、少女の方を向く。

 好意的では無い視線に内心で傷ついて、そうしながら、そんな重大な爆弾(こと)を今この場で決めなければならないのかと少し困惑する。

 とはいえ。そんな重大なことこそ前触れなど殆ど無いのだと、彼女は身を以て識っていた。

 

 

 ──君には、未だ時間が有るのだから、その時迄に決めれば善い。

 

 

 柔らかくそう云った単眼鏡(モノクル)の男の台詞が、浮かんでから消えた。

 

 選ぶと云っても、それは正道から外れた道の上での選択であることには違いない。

 本当に今更な話だし、それについてどうこう(・・・・)と選べる時間はとうに過ぎ去った後だ。

 

 そんなことを冷静に、当たり前に思ってしまうあたり……既に自分も戻れないところ迄やって来てしまったらしい。

 朧はそんなことを思って、遠くの兄へ向けてもう十何度目かの謝罪を心の中で行った。

 

 絶対に届いてはいないだろうが、こういうことは誠意が大事なのである。きっと。

 

 

「私は…………」

 

 

 まあ、云うなれば。

 恐らくは之も分水嶺の一つだった。

 そしてこれ以降にそれが現れることは無いのだろうなと、当てにならない直感がそう云っていたのだった。

 

 

 

 

 




さくさくと終わらせた脱・孤児院編。大体、こんな感じ。
次回原作主人公(幼)との邂逅。



 


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第一九話 少女と子虎

 

 

「孤児院には別の職員が向かうことになると思います」なんて云った少年と詞を交わしたのも、気づけばもう数日も前のことになる。

 

 

 ふと、少年……坂口安吾の世に倦んでいるような眼が向けられた時に少し怯んだのが、思い出された。

 同時にそんな台詞から始まる場面が記憶として蘇ってくる。

 

 朧はくす、と少し笑いを零した。今考えてみれば何だかおかしく思える。

 所謂(いわゆる)思い出し笑い、というやつだ。

 

 

 

 

 

 彼女のすぐ側でじゃれついていた生き物(・・・)はわずかに漏れた声を聞き付けたらしい。

 ぴたりと動きを止めてどうしたの、とでも云うように此方を見上げて首を傾げた。耳だけぴくぴくと動かして様子を窺ってくる目は可愛らしい。

 ……可愛らしい、のだけれど。でもそんなのも今だけなのだろうな、とふっと現実に立ち返ったりもする。

 ()に偶然出逢ったとして、その大きさは如何程になっているのだろうかと、未だ来るかも判らぬ未来に思いを馳せる。

 

 今は未だ大きめの猫程度の大きさだけれど、逆に本人が二、三歳の今──考えてみれば丁度孤児院に残してきた末妹と同じくらいの年齢である──でそれならば、之から先もっと成長していくのは容易に想像出来るのだ。

 

 

「本当に、ねぇ」

 

 

 そんな独り言にも律儀にがう、と返事をされた。

 

 見下ろせば、体勢を変えないまま見上げ続けていたらしいその眼には獣とも思えぬ理性的な光が宿っている。

 大きさこそ小さくとも、この獣の状態での精神は既に成熟しているのだろうか。

 

 

 ……本当に、世の中には識らないような未知が沢山潜んでいるものらしい。

 

 或いは、出逢うべくしてそうなったか。

 構って欲しいと前足で腕をてしてしと引っ掛けられながら、少し笑みを漏らす──子供っぽさは残しているようだ。

 

 

 

 

 少し意外でもあった。

 異能者特有のお互いを引き寄せるような何かが、それでもこんな穏やかな時を施してくれることもあるらしい。

 多少入れ込んでしまっている、というのもあるのだろう──赤の他人から少し気に掛ける知り合い、といったそんな少しの程度だけれど。

 

 自覚している。

 僅かでもそう思ったのは、きっと境遇が似ているせいだろう。

 ……まあ、とはいっても、孤児で異能者である、それだけしか共通点は無いのではある。

 

 

 ただ一つ、懸念があった。

 

 自分とこの子が違っているのは────自身の中に埋まっていた異能を、十を過ぎて迄感じてさえいなかった私と。

 それを、奇しくも産まれた時から既に行使できるという幼子には、決定的な違いがあった。

 

 どうなるのか、それが心配だった。

 孤児であるというのも合わさって、『普通』と縁遠いどころか触れることすら叶わないかもしれない。

 そんな存在だからこそ、今の、穏やかな時間に身を委ねることに、実は少々複雑さを感じていたりもする。

 

 

「がる」

「はいはい、ごめんね……前のことを少し思い出してただけなのよ?」

 

 

 内心の考えを喋るようなことはしない。

 云って解るかどうかは定かでないけれど──何気なく伸ばした手の指にかぷり、と甘噛みしてくるのも、矢張り加減している筈で。

 そんな諸々のことも許してやる、と云っているのかもしれない。

 喉元を擽ればぐるる、とそんな甘えたような唸り声でその躯を擦り寄せてきて。それにしても──親の居ない虎はどうやって成長するのだろうと、ふわふわとした毛を堪能しながら、そんなことをぼんやりと考えた。

 

 こう云っては何だが、別に人間は善いのだ。

 手本と成るような誰かしらは周囲に一人くらいは居るだろう。

 この、人の持つ側面として発生した虎は、異能である故に人の中でしか育てないのだ。

 それとも……この幼子(子虎)こそが子虎(幼子)であるのだから、そう深く考えずとも善いのだろうか。

 

 今一よく、解らなかった。

 まあ抑も考える必要も無いのではあるけれど、仄かに興味が湧いたというか。

 

 

「うーん、かわいいんだけど唸り声は矢っ張り、猫じゃないんだよねぇ……」

 

 

 可愛すぎる。

 

 そして、この姿が異能(・・)だというのも、朧からしたら何だか信じ難いような話であったのだった。

 

 でもあの少年なら、そんな思いもばっさりと両断してしまいそうな気がして、ちょっと苦く笑って朧は子虎の耳の裏をかりかりと掻いてやった。

 

 

 ──この子の、獣性とも云う可き人間から翻った姿が将来、この人間の社会の中でも生きて居られることを切に願う。

 

 

 郊外に程近いとはいえ、此の場所も横浜。

 そう、既に朧はその魔都へと、足を踏み入れていた。

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

 短い時間の間に自問を繰り返し行った末に、結局、朧は院長についていくことを選んだ。

 

 異能特務課に保護された方がもしかしたら善かったのかもしれない、そんな思いが無かった訳では無い────それでも、今の彼女を作ったのは院長の鍛練であり、広津の詞でもあり、過保護な兄の無用な気遣いで、この孤児院の環境であった。

 其方へ、異能特務課の彼らについて往ってしまえば、そんな最初のことさえも忘れ去ってしまいそうで少し怖かった。

 

 何より自分が未だ、この無愛想な養い親に教えて貰っていないことがある。そして、今迄半ば強制的に教えを受けてきた身でこの孤児院を去るのだと云われて、はいそうですか、なんて応える程朧は薄情ではなかった。

 

 男の、それこそよく見なければ判らない程度の感情の変化を察せる位に成っていたし、そんなことが出来るようになる程の時間の内に彼女自身、この養い親を『大事な人』の種類(カテゴリ)に分類してしまっているのだ。

 

 意外にも理由は沢山あって、それを自身が望んでいるのだと少女はそう、自覚した。

 

 

 そして、望んだように選択をした。のだけれど…… 一つ、問題を発見した。

 

 

 

 

 

 そう結論を出して、答えた後の少年の眼光が、鋭さを更に増しているのだ。

 ああこれ間違えたかなぁ────と又思っても、既に後の祭りである。後悔はしていないし、今更変える心算(つもり)も無いのだけれど、友人への道が遠のいた。

 難易度が跳ね上がったとも云う。

 

 

 まあ、どうあってもそれが選択だった。反応が解っていたとして、変えるなんてことはしなかっただろう。

 少し眉を下げてみるが、それすらも何の反応も返してくれないし、気づけばもう、その二人の用事は終了して帰る時間が近づいていたのだった。

 

 

 困った子を見るかのように──事実そうなのだが──彼女は少年を見詰めた。

 確かに微笑ましいと最初は思ったが、それにしては過ぎたものであるように思う。

 

 彼は自身よりも年下の筈で、だからこそ、そこまで敵対心のようなものを向けられることに、朧は困惑しきりであった。

 善い意味でも悪い意味でも、少女の周りでそういう(・・・・)種類の性格である子供に出逢うことは少ない。

 大体が素直で、逆に云うなら過度な自己主張が無い弟や妹である。協調性があって、だから多分周囲と助け合わなければ生きていけない──家事とかの作業的な意味合いは勿論のことだが、精神的にも。

 多分、そういう風に成らざるを得なかった……というのも、あるのかもしれないけれど。

 

 

 何と云う可きだろうか──そう、ふてぶてしさと少々の反骨心を子供の精神に練り合わせて育てたような、そんな感じだった。

 間違ってはいない筈だ。

 多分、彼にとって根本的に気に入らない何かを、朧が持っているのだった。

 

 

 彼女の、その考えは正しいといえる。

 そしてそれは運よく、暫く二人が話し合ってお互いを把握出来れば解決出来る──その、話し合う状況を作るのが中々大変そうなのだが──ものだった。

 仲良くなれそうだし、彼女の、今迄存在も感知していなかった兄弟子のような人が少年の教育係であるからにして、きっとまた顔を合わせることもあるだろう。

 

 

 ……と、ここ迄考えてはみた。

 かなり時間が掛かる、それだけは疎い彼女にも察せることだった。

 何せ嘗てはあんなにも恐れていた養い親とも普通に話せるのだから、可能性は無きにしもあらず。

 

 多分、間違ってはいない。

 だから時間をかけなければならないだろうな、そう思って──内心のささやかな願いを叶えてくれるようなことがあった。

 やや性急な感もあるのだが、少し嬉しくも思う。

 

 二人を見送り──辞令を受け取ったからには院長と呼ばれていた男とそれについていくと決めた彼女もその後速やかに発つこととなるだろう──、その去り際に青年から「ああ、丁度善いから此奴(こいつ)と友達に成ってやってくれないかな?」と云われたのだ。

 少年の何云ってんだこいつ、という表情がやけに印象的だった。

 

 

 ……簡単に云うなら、非常にタイムリーな爆弾で、機会であった。

 そんな台詞を投げ掛けられて確かに嬉しい。嬉しいのだが、相手も同じ気持ちであるとは到底思えない。少し迷いつつも一応試みとして差し出した手は、矢張り容赦なく叩き落とされた。

 

 多分、中々出来る経験では無いと思う。

 そこ迄されるようなことをした覚えが無いのだけれど、と曖昧に笑うと、また睨まれた。

 

 

「あんまり馴れ馴れしくしないで下さい」

 

 

 ……まあ、そう云って落とされた手はもう一度と差し出したのだけれど。

 

 

「安吾、だってお前友達居ないだろう」

「あんたは一々大きなお世話なんですよ!」

 

 

 青年へ向けてそんな暴言を吐き棄ててから、少年は彼女の差し出した手を、まるで親の仇であるかのような目で眺めた。

 それから朧へと視線を合わせる──この手は何だ、とか思っていそうな感じだった。然し如何せん未だ少年の彼にそれらしい威圧感は無い故に全く怖くないが、何ともまた。

 

 

「……えっと、朧です?」

「そんなの識ってます」

 

 

 即答された。

 

 想定して流れるように返される返答に、会話が続かない。

 朧自身少し口下手なところがあるので、こういう自分から切り込んでいくというのはすこぶる苦手であるのだ。

 

 どうしたものかなと思って後ろでにやりとしている青年を見ても、一層笑みを深めるばかりである。兄弟子のようなものであるらしいが、面白がっているようにしか見えなかった。

 自分一人だけ手を伸ばしているのは、確かに少し間の抜けたように見えているのかもしれなかった。

 

 

「いや、改めて名乗るのが礼儀かなって」と呟く。

 そしたら「友人に成るような必要性を感じません」なんて返されて。

 

 彼女はそういう在り方によく似た人から育てられたけれど、たまに思うことがある──間違ってはいないのかもしれないけれど、淋しく思わないのだろうか。

 

 そういう基準で決めて、漏れた中に自分にとっての大切に思える人が居るかもしれないのに。

 真逆自分が少年にとってそう足り得る人だと断言する訳では無いのだけれど……ちょっと勿体ないな、とそんなことを思うのだ。

 

 

「私には判らないけど……そういうのはきっと、必要を感じたから成るってものじゃ無いと思うよ?」

 

 

 笑ってみせると、じっとりとした視線を向けられて「これは仕事なんで」と云われた。

 未だ幼さはあるけれど、年齢は別に公私を分けなければ気が済まなそうな性格には関係ないらしい。

 

 

 ──云われていることは正論だから確かに、とも思うのだ。

 でもわずか、腑に落ちないのである。

 

 

「逆に必要無いのに無闇にこうするのもどうかと思いますけどね」

「でも、私は成りたいかな……うん。なら、之から私がその価値を持てば善いの?」

「…………」

 

 

 ……不意に、雰囲気が変化した気がした。

 何だか意外そうにその手から此方を見上げて、少しの間注視される。

 

 

 

 

 

 多分。

 この少年は、本当に大切な人は自分で見つけ出せると思っているのかもしれない。漠然と、そう思った。

 

 

 彼女の少ない経験上では少なくともその大切な人、なんてものは先ず、付き合う沢山の人の中に波長(・・)が合う数人が居て。時間と共に、何時の間にか自分の中でその存在が自然と格上げされていくものだった。

 

 友人が居ない、とそう云われていた。

 少年はもしかすると、そんな誰もが識らず経験しているようなことを識らないのかもしれなかった。

 

 自分のことを押し付けようとしたいのではない、けれど…………嗚呼、内心で色々理由を並べても、結局のところ、自分はこの子供と仲良くしたいと思っていて。

 そしてきっと彼となら、仲良く出来る気がするのだ。

 

 

「安吾くん」

 

 

 宜しくお願いします、と云ってから控えめに笑みを浮かべた少女の顔と差し出されたままの手、それからはっとして振り返った先の上司のにやけ顔を順に見て「何ですかこれ」と呟いた。

 ……直ぐに、諦めたような表情で、やや自棄気味であった。

 

 

「解りました。ええ、解りましたとも。こうすれば善いんでしょう」

 

 

 少年が差し出された手を掴んだのを確認した。温かさがじわり、と肌に染みる──朧の体温は比較的低い方なのだ。

 ほっと息をついて、朧はそれから少し近づいて、もう一方の手で安吾の眉間の皺をぐりぐりとほぐすように指で押し込んだ……先程からずっと気になっていたので。

 

 彼の表情が一瞬虚を衝かれるようになって、それから朧はずっと我関せずである自分の養い親がどこか呆れた表情になるのを見てとった。

 別に、これで友人同士になったのだから、もう善いだろうに。

 そう思ったが、後ろで傍観している大人からしたら何か間違っているようだ。

 因みにもう一人の方はにやけ顔を一変させ、笑い過ぎにより息絶え絶えになっていた。

 

 ぱっと手を離されて、更に一歩後ろに引かれた。

 

 

「近いです」

「えー……」

 

 

 流石に未だ早い、と怒られたのだった。

 本当に、つれない友人である。

 

 口元を緩めながら暇つぶしのようにそんな一場面をとつとつと語る少女の話に、途中からそれを膝上で聞いていた子虎が小さく一つ、欠伸をしたのだった。

 

 

 

 

 




肝心の朧と安吾少年のお友達計画()のくだりを書くの忘れていたので回想という形で。
安吾さん(真正のツン)ってどうやってお友達作るんでしょうね?

二人の関係はまあこんな感じ。
朧ちゃんが存在する時空において、黒の時代終了時点の安吾さんはどう転んでも朧ちゃんに腹パンされる運命にしかない不憫()枠です。
まあ、織田作より仕事選んじゃった人だからね。仕方ないね。
(決して作者が安吾さん嫌いだからではありません。寧ろ好きです)










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第二〇話 指針を決めるもの

4/10に投稿したものに表現等修正・一部矛盾箇所の訂正後、再投稿しました(4/13)
追加文章ありますが、内容はそんなに変わっていません。


 

 

 その弧児院は、横浜に存在する。

 一口に横浜、と云うが──広い中の、郊外に近い処に位置している。

 

 それは、立派な建物だ。

 少女がこれまで生活していたところなど比べ物にならない、一体何だったのだろうと思わされるような。そんな建物だった。真っ白な壁はそれを見た者にどこか冷たい印象を与えさせる、誰かの城だった。

 其処に男が養い子を連れて立ち寄ったのは、その場所を、彼が『それなりに関わりのあるもの』と見なしているからに他ならない。

 

 それなりに関わりのあるもの──それを繋いだのは、男の持つ異能である。

 

 朧の養い親たる、男。

 彼が持って生まれた異能は、非生物であり、かつ片手で持てる程度の重量の物に対してしか効果を発揮しない。然しそれでも十分過ぎる位の利益──孤児院を運営する総てに行き渡るように供給するのだから──があった。服も一着あれば同じ物を量産でき、その他も又然り。

 全体の生産量からすれば微々たるものでも、それを一々作っている者からすれば笑えない話である。そしてそれを享受する者からしたら助かることこの上ない。

 

 眼前にあるこの孤児院も例外無く、その恩恵を受けていた。

 孤児院が男に出した辞令とやらの内容は、じきに識らされることではあっても未だ各地の孤児院の大人たちには伝えられていない事である故に──先んじてその情報を当人から聞かされれば、本来あるべき環境に戻っても何も聞かされていないよりは早く順応できることだろう。

 ……まあ、当の男からすればそれも気まぐれな行動で、単に目的地に行くまでには日が暮れてしまうような地点で近くに泊まれるような場所が他に無かったからという理由であったが。別に、連れている少女に別の孤児院を見せよう気持ちが無かった訳ではない。

 

 あの孤児院は、特異だった。

 そもそもが男の我儘で作られたようなもので──そうでなければ大人一人きりで運営なんてする訳がない──その孤児院の運営も、男は物資を子供に提供しただけだ。実際それだけでも子供は十分にしぶとく生きた。

 気づいた時に物資を供給し、たまに思い出したように子供が増え、読書の邪魔をすれば罰する。それだけの生活を送っていた。

 男が、若し子供が好きかと問われるのなら、興味がないと──そう答えるだろう。

 関わったとして、異能者の取り巻く環境に巻き込まれて覚悟もないままに死んでいく者はきっと憐れに違いないのだから。

 

 

 男の居た処、少人数だろう子供と、これまた少ない、大人一人だけ。

 少女が都市郊外を通り抜け更に先へ来たのは、人気の無い田舎町にぽつりと在るようなおよそ似つかわしくない建物とまるで違う、孤児院とはこういうものなのだと云われているような気にもなる処だった。

 これが普通で……そんなのを養い子に見せる機会があったというだけの事であった。

 

 

 

 

 

「これが孤児院なのですか」と、少し目を丸くして云った少女は一体何を思ったのか。

 

 小川があり、さらさらと揺れる草木があり、夜は星と月明かりのみである、閑静な場所とは異なる。そんな孤児院であるだろうに、何か入る者を拒絶するような、無機質的な威容を目の前にして、少し目を瞬かせた。

 

 ちら、と見上げられるのに「どうした」と云って、男は朧の何を云うでもない視線を受け止める。

 どうせろくでもないことを考えているのだろう、と思った──この少女、どこか抜けているせいなのか割とそういった表情を隠すのが苦手である。微妙な表情の変化も、慣れてしまえばその感情を読み取るのは容易いものだった。

 

 ゆるりと首を振って、薄ぼんやりとした瞳は不思議そうにも見えた。

 

 

「いいえ、何も。ただ……」

「何だ」

「此処に居る大人の人は、きっと院長先生みたいな人なのかな、と」

「………………」

 

 

 運営する者が違うのだから、違った風に感じることが当たり前だろうに、養い親はその詞には答えなかった。

 沈黙こそが答えであるのかもしれないが……男は黙ってその建物の、門の脇にある呼び鈴に手を伸ばした。

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

 出て往く際に、軽く一悶着はあった。

 

 本来ならば一年後の予定だったのだ。すなわち、朧が十五に成る時に彼女はこの弧児院を発つ心算(つもり)でいたし、周りもそうだと思っていた。

 

 云い出してしまったものは仕方ないだろう。決まってしまったことも最早戻れはしないだろう。

 

 既に舵は切られた。

 何時までも一緒に居られないのは、自身が異能者であるのだと見詰め直した時点で既に判っていたことで……この沢山居る弟妹から一番上がたった一人、欠けるだけのことだ。一悶着あっても無くてもそのずっと後、最終的には、きっとその欠けた状態が、朧の居ない状態が普通になっていくのだろう。その前、白木の時もそうであったように。

 そして、そう仕向けるように、朧もまた、子供たちを仕切ることは既に弟へ一任していた。

 だから自分が去ったところで大して変わることは無いと、そう思っている。そう思いたかった。

 

 

 ……実際、この考えは正しい。この行動も、間違ってはいない。

 人とは、そういう(・・・・)ものなのだ。

 

 まあ、そのように自分に云い聞かせていた、というところもあるのだけれど。

 頭では理解していても感情が伴わない。こういう時、自分の弱さを改めて実感させられるのだった。

 

 

 幼い頃泣き虫だった自分。

 泣きたい衝動をなんとか飼い馴らし、けれどそれ以上進むことなく。それは何も行動しないことと同義であることに気付いてすらいなかった二年前。

 自身の異常(異能)を真っ向から見詰めるようになり、様々なことを識って、識ったからこそ少し脆くなったかもしれない今の自分。

 

 未だこの身が生を受けてから十と数年しか経っていないが、そんな私がこの何の変哲も無い人生を回顧するのに苦痛を感じるのは、忘れようと努めて、途中までうまくいく癖に、ふとした気の緩みで泣きそうになるのは──偏に自分の弱さのせいだ。

 少し虚しさすら覚えるのは、きっとそんな感情も多分に漏れず、自分の中で薄れ消え、忘れていってしまうのだと。

 今感じているこの気持ちも、離れていったその瞬間から気づかないような速度でじわじわと風化してしまうのだということだ。

 

 心の依り処というのはそう簡単に成れるようなものではなく、そうあっさりと手放せるようなものでないのと同義でもあり、──彼女にとっての新天地において、残してきた子供たちとはまた別に、新たに縋れるものがあるという可能性。それはすなわち、そんな事実を否定出来ない確固たる理由でもあった。

 

 

 心は痛いだろう。

 然し痛みには馴れている。

 

 前に進むのだ。

 何故なら、私の(みち)は未だ続いている。

 

 

 途切れることなく終わりが見えないなら、それでも何れ訪れる終わりまで歩き続ければ善い。そうする可きだ。

 

 それは当たり前のことで、大切なことでもあった。

 然しいざ意識してみると、難しいことこの上ない。その末の結果は……今の朧を見れば解ることである。

 

 

 ──僕は多分、何も云っちゃいけないんだろうなッて。それくらいしか解らないけど。

 

 

 聡い弟は云った。くしゃりと泣き笑いのような(かお)をさせたのは、他でもない朧であった。

 ……それは、自分が異能について受け入れるという選択をした故の話であった。

 

 

「ごめんね」としか云えぬ自分は、果してどのような表情(かお)をしていたか。

 ただ、こんな自分でも、こんな不甲斐ない姉でも未だ家族だと、そう云っていてくれると善いなと思った。

 

 

 ひとつ、解ったことがある。

 

 一緒に居れずとも、遠く離れても、共に過ごした記憶が色褪せてゆこうとも。そんなに悲観するなと、寄り掛かり縋り支え合うことがその時出来なくとも。

 仮令(たとえ)どんな状況下にあったとしても。想いは薄れ風化していくのだろうが、そうだとしても、一度そうなったという事実は……家族たる彼らは、少なくとも少女にとって自身を現実へと縫いとめる『杭』になる。風化したとして、その杭の根元は、穿たれたという事実を自身の中に残すだろう。

 

 それは、離れても平気になったとして、けれど失ってしまったのなら多分……いや絶対にただでは済まない、そういうことだ。

 

 異能者(ひと)人間(ひと)と繋ぎ止めるもの。怪物も確かに皆と同じだと──戯言と云われるかもしれないが、事実でもある──突き付ける楔は、悪いものでは無いと解っている筈なのに、まるで傷つけるように心の奥底までぞぶりと刺さっている。抜こうとするなら必ず何処か傷を残すだろう。

 

 

 

 

 

 こんな(・・・)些細な出逢いにさえこんなことを思ってしまうのも又、きっと自分がこんな面倒な性分を抱えて進んだ故だった──ぼんやりとそんなことを思う内に、ふっとその背に置いていた手に感じる感触が変化する。

 

 膝の上で眠りはじめた子虎の姿から目を離した数瞬の間である。

 

 

「…………」

 

 

 ちらりと、見下ろす。

 元々子虎は少年である。解りきっていることであった。

 頭を預けるような、いわゆる膝枕のような状態になっていて、ついくすりと笑みを漏らした。

 

 白に近い、月白と云う可きか。

 そんな色の髪をした、あどけない寝顔をした子供がすやすやと穏やかに眠っている。恐らく三、四歳程度の男児だ。朧の居た孤児院の末妹よりもやや年上、といった程度か。

 

 つい先程までこの虎であった本人である。

 虎が眠ってしまった故の変化か、それとも純粋に制御が解けたのが今だったか。

 どちらにしても前触れのない変化だ。よく見ると、何となくその寝顔は似ているようにも思える。

 

 そっと髪を撫でて、起きないのを善いことに──遊んだ後の幼児というものはなかなか起きないと相場が決まっている──服を捲った。

 肌に走るのは、傷痕だった。しっかりと認めてから、少し顔を顰める。

 こういう点は、きっと何処も変わらない。

 

 

 

 ……「朧」と云う、咎められているような気にもさせられる平坦な声の主が先程やってきたというのはとっくに承知していた。

 見るまでもなく自身の養い親であると、少女は顔を上げずにその声だけを聞いた。

 

 

それ(・・)が、か。変身能力とは珍しい」

 

 

 それ、という台詞に何やら含みのようなものを感じる。

 この孤児院の中に通されてから、何故か引き合わされたこの場所は──よくよく考えてみれば隔離部屋のようなものにも思えることも、事実ではあるのだけれど。

 

 

「……私にはよく解りませんけど」

「少なくとも(おれ)は初めて見る──ああ、貴様のような異能(もの)も珍しい類ではあるが」

 

 

 院長先生、と云ってから、そういえばこの養い親は最早院長では無かったな、どう呼んだら善いのだろうかと……そんな関係のないことを考えつつ「この子、連れていくことは出来ないんでしょうか」と、顔を合わせないままに朧はそう言った。

 

 そんな少女に、探しにやって来ただろう男がそれを想像していなかったかと云えば、嘘になるだろう。

 

 

(おれ)や貴様の一存で決められることではない……此処の院長が決めることで、残念なことに己とは方針が違う」

「……そう、ですか」

 

 

 少し考えた風にして、少女は名も識らぬ虎……であった幼児の、長さの整っていない髪をするすると撫でつけた。

 なんだか埃っぽいようにも思えて、触れた指を擦り合わせてざらりとした感触に少し首を傾げる。

 

「あっさりと引き下がったな」と云った養い親に、「納得しただけです」と朧は返した。

 

 

 同情はする。

 仲間意識のようなものもある。

 ただ、同類とはいえ、境遇が似ているものであったのだとしても、それが彼女にとって守りたい、壊したくないもの──『家族』になり得るかといえば、否であった。

 

 それだけで懐に入れてしまうような度量が無い事を自覚している。

 きっと安易にそんな家族となったとして、仮に失ってしまうようなことがあるのなら────それは、大げさに云ってしまえば魂を握られるような、ともいう可き心持ちなのだろう。多分そんな感じだ。

 

 そして、この幼児が少女にそんな心にさせるのには──未だ、足りなかった。きっともう少し踏み込まれてからでも遅くはない。

 ……自己犠牲が過ぎると云われたこともあるが、かといってそこまでお人好しぶりを安売りしている訳じゃないのだ。

 彼女が、未だ出逢って一日にも満たない相手にそれなりの感情を抱く、ということですら、この目の前に居る冷徹な養い親に育てられたという前提からしたら十分なくらいに甘いことなのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 ふと、思いついたように口を開いた。

 今日、この弧児院に泊まるのですか、と。

 

 

「行程の区切りが善いからな。あれら(・・・)がぐずらなければ今日中に移動は終了していた筈だ」

「…………あと一年、あると皆思っていたので。余裕が無かったのは私も同じです」

 

 

 数日前の一悶着は未だ暫くは忘れる事も無いだろう。……まあ、仕方のないこととも云えるのだが。

「それも含めて貴様が選んだことだろう」という詞に「喜んで受け入れるかどうかは別だと思います」と少女は呟いた。

 

 認めよう。

 そう選択したのは他でもない、私だと。

 薄い膜のような隔てられた世界に身を移した後、私はもっと深く(・・)まで沈み込んでいるのだと。短い二年間に、然しじわりじわりと染み込むように、異常はやがて当たり前へと変化していく。

 

 

 意図された事ではない。然し、思い識らされたのだ。

 

 異能という人理に反するような物事を識って尚認識と最後の詰めが甘い自分が、異常を孕んでいることを自覚している。今進行形で進み続けていることは、嘗ての自分の最早変えようもない未来である。

 そんなことを許容出来てしまっていた。

 否、その異常を許容出来る、それ故に自分は異能者なのだった。

 

 

「この子の名前、院長先生は聞きましたか」

「もう一度縁があれば遭うこともあるだろうがな。識ったとしてどうする?」

「ただなんとなく、識りたくなっただけです」

 

 

 まあ、この子供が何時か彼女にとって大切な、そんな存在になるという可能性は無きにしも非ず、といった程度だろうけれど。

 異能者が同類を引き寄せる何かしらの力を持つのであるのなら、将来あり得る『もしも』に一つ付け加えても善いかもしれない。そう考えて、ふと。

 

 

 ──その時自分は、どのように変わっているのだろうかと。そんなことを思った。

 

 

 ……すぐ近くの養い親の前で云うことも躊躇われるが、異能を発現してからというもの、自分の将来が全く想像出来ない朧だった。安穏と生きて、当たり前のように死んでいくと思っていた像を崩されたこの先の道のりを見通すことは未だ出来なかった。

 

 この養い親という先導役について霧の中を進んでいくようで。

 自分の先が見えなくて、然しそれでも確かに終着点は存在するのだという。

 

 

 

 

 

 

 

 その終着の前までにまた、この子供と関わることがあるのなら。

 その時互いに覚えているのかも定かではないけれど。

 

 

 少女がその子供の寝顔をちらと見遣ってみても、未だ暫く目覚める気配は無かった。

 

 

 

 




少し筆が進まないです(;´・ω・)
これも深化録ってやつのせいなんだ……設定、練り直してます……!

織田作の年齢が出てきて少しほっとしているところでもあります。
しかも好きなタイプ(女性)まで書いてあるとは……やりおる……あと何か種田さんとかジイドとか、どっかの三毛猫先生()とか言いたいことは色々あるんですが、そういうものの関わり始めは第三章からになる予定。








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第二一話 埋もれ木の家

若干の自己解釈有りです。
あと敦くん(幼)の性格がよく分からないので捏造しています。違和感がある時はお知らせ下さると幸いです。修正します。


 或る、二人の話をしよう。

 

 

 

 ──その男は、自分という異物が純真無垢なる子供と関わり合いになることをひどく嫌っていた。

 ──また別の男は、自身が経験してきた社会の厳しさの中、自分の手が届く凡ゆる事をすることこそが生き延びる術であることを身を以て識っていた。

 

 

 ──その男は、子供を遠ざける節があった癖に、やがて身を孤児院へと置いた。政府と取引をした結果だった。

 ──また別の男は、働き口を求め彷徨い、孤児院へと辿り着いた。

 

 

 ──その男は、自身の異能を用いて環境の改善に務めることにした。

 ──また別の男は、便利な異能を用いるという男が別の孤児院に居るという話を小耳に挟んだ。

 

 

 ──その男は、異能の産物を各地の孤児院へと届けるようになった。

 ──また別の男は、矢張り異能は実在するものなのかと半ば信じられないような気持ちでやって来た男と異能が行使される現場を眺めた。

 

 

 ──その男は、孤児院に居た一人の少女がある時異能を開花させたのを目の当たりにした。

 ──また別の男は、孤児院に置き去りにされた赤子が異能者であることに気づいた。

 

 

 ──その男が、関わって来なかった子供の一人だけに、一歩でも歩み寄ったということは……その少女を同類と認めた故であった。

 ──また別の男は、初めて異能者の子供を育てるということに困惑した。然し、どんな理不尽にも耐えられる様でなければ駄目だろうということは理解していた…………その子供の恨みの矛先は自分に向かうだろうが、そんな未来であっても将来この赤子が逞しく生きていてくれたらそれで善いだろうと、思うのだ。

 

 

 ──その男は、少女と共に横浜へと向かった。郊外に近い孤児院へと立ち寄ると、そこの子供の一人が異能者であるという。

 ──また別の男は、なんだかんだと長い付き合いになっている男が上からの辞令を受けて孤児院にはもう居られないことを識った。

 

 

 ──その男は、一人になってしまった養い子が小さな虎の子を撫でているのをじっと見詰めた。

 ──また別の男は、その男に異能者の子供を託したかったがにべもなく断られた。今している事を、何れ子供が孤児院を発つまでずっと続けることを最善と信じても善いのか。

 

 

 

 

 

 ────そんな幼子を、何の選択もさせていない状態で此方側(裏社会)へと引きずり込むような、そんな真似が出来るならば。

 

 

 

 

 

 ────(おれ)ももっと、楽に生きていたのだろう……そう、思わないか。

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

 一晩の間だけ、それ迄識りもしなかった別の孤児院で身を休めたことについて、何か云う心算(つもり)は無かった。

 この孤児院と自分が居た処は違う。それくらいは理解していた──此処の子供たちにとって周囲に居る他の子供は『家族』なんかではなく、蹴落とすべき存在であるということなのだろう。

 考えられないとまではいかないが少し衝撃的なことで、然しそんな感想に至る自分こそが特異なのだと、そう思う。

 自分の居た、時代の趨勢と隔絶されているようなあの場所は……何というか、きっと普通ではなかった。

 

 

 与えられた簡素な家具つきの部屋で寝床に潜り込んだ体勢のままに、そんなことを思っていた。

 孤児院に泊まるにあたって宛てがわれた部屋は一人用で、狭苦しい程度の広さにそれを補おうとするような大きめの窓。差し込む月と星の明かりを遥か遠くの空に認める。

 

 大した理由のない経緯によって、少女はこの建物の内部に居る訳だが、初め前に立った時の感覚を思い返すと…………厳然とした雰囲気は、どこか自分の養い親と似たような種のものであるようにも感じていた。

 要は近寄りがたくて、その癖、その彼が管理している城の内側で用意された寝床に潜り込んでいるのだから、中々奇妙な事のようにも思える。

 

 

 ……判ったのは、雰囲気が似ているならば思考も似通ったものになる、そんな訳ではないということだ。

 想像が実際と異なる、なんていうのはままある話で。ごろりと寝返りを打って、朧は窓越しにぼんやりと空を振り煽ぐ。

 

 

 ──環境が、そうさせたのか。

 

 

 ぽろりと、そんな独り言が口をついて出てきそうで、けれど実際に声には出していない。

 いつかの始まりにおいてやむを得ずに踏み出した一歩目が、後々にも続く方針となって今に続いている。

 人間皆、きっとそんなものだ。ただそれだけのことである。そう、思う。

 

 ……こんな事を云いたくはないし、実際口に出すものでもないのだけれど。

 異能者と只人の違い、というのが多分にあるというのも、十分に理解していた。

 

 

「…………」

 

 

 ふと思い当たったように注視した月が漏らす明かりは、常から見ているものよりその輝きを翳らせているようにも見える。

 朧は少し目を細めて、それをじいっと見入るように見上げていた。

 

 街中にあっても敷地がそれなりに広いからか。

 

 夜の街の光はそこまで強くは感じられないが、そのせいか星も同様、どこか見えづらい。中心部ヘと往けばその翳りはもっと目に見えるような変化になってこの目に映るのだろうか。

 

 

 ──離れたばかりなのに、そして覚悟はとうに決めていたのに。

 

 

孤児院、之までずっと過ごしてきていた場所を既に懐かしく思うことが罪悪感のようにも思えた。

 

 

「…………眠れないな」

 

 

 思えば、一人で寝るのは初めてかもしれない。

 

 呟きを拾ってくれる人は居らず、そもそもこの宛てがわれた部屋には一人きり。客としてなのだから当然であって、然し、いつも寄り添うようにして眠っていた他の人の温もりが当たり前に思っていた身としては寂しくて仕方なかった。

 冷たかった布団の中に篭る仄かな熱は自分のものだけ。寝床は一人用で、身を寄せ合って眠っていた身からするとそれさえも広い。

 

 

「これも────」

 

 

 慣れていかなければ、ならないのだろうか。そう、呟いた。

 そして、…………部屋から抜け出そうと、そう考えつくまでにさして時間はかからなかった。

 

 

 

 

 

 それはきっと、誰にでもあるだろう小さな逃避だ。

 手洗いにでも行こうとした、そう云えば善いのだ。そんな安易な考えのみを携えて、ひたひたと彷徨い歩くことにした。

 実際の方向は手洗いのある方とはまるで逆だが、きっと些末事である。その筈だ。

 

 

 

 

 

 扉を開けて、できる限り音を立てないように。人気のないところを、ただただ往く宛も無く。

 足の裏からぞわぞわと這い上がるような冷たさに身を竦める。それでも立ち止まるようなことはしない。

 

 ひたひた、ひたひたと。

 

 黙して足のみを動かす。そうさせるだけの、広さがあった。

 案内されてもいない建物も、自分の居た処より遥かに広い敷地ではあれど孤児院なのだというから恐ろしい。

 

 けれど多分、これが普通だった。

 基準を目の当たりにした訳ではないが、そう思った。

 

 少数とはいえ、子供たちの養い親となった男が一人きりで面倒──まあ、養われている方からしたら首を傾げたくなるような、ほとんど自活に近いものだが──をみていたというのは、通常とは異なる(・・・)ことの筈である。

 だって、そのみていた面倒すらも実際のところは物資の融通のみであり、子供たちは殆どを互いに支えることに専念していたのだから。

 それを如何して普通と云えようか。

 

 

 孤児院は慈善事業だ。

 然し間違っても、そこに居るだろう孤児院の子供に家族が何たるかを教えるような場所ではない。

 

 時代が、というのももちろんあるだろう──この優しくない社会の中でどうやって生きていけば善いのか、それを身体に染み込ませるが如くにして、でもそれは間違っても、自ら黒社会へと突き進ませるようなものではない。

 多少逸れたとして、それは正しく正道である。

 

 

 ……朧が孤児院を出たのは、そういう理由でもあったのだった。

 

 だって、きっと院長の、かの養い親の後釜になるであろう人はずっとまともだろうから。

 善い意味でも、悪い意味でも。一般人らしく、一般人が社会で生きていく為のやり方を普通に身につけているだろう。

 

 そこに、あの養い親である男と同類たる少女が居れる理由がどれだけあろうか。正道を往ける人々の中にその裏の暗がりに身を潜めるような存在の自分たちに、それは何と眩しいことか。

 

 

 歩いていったその先に何が在るのか、朧は識らない。そもそも何かを目的にして歩いて往っているのでもない。

 

 

 ──それでも歩き続けなければならぬ。

 

 

 半ば意地、だった。

 寝静まっていて静けさばかりの空気が自然とそうさせたのかもしれなかった。

 ……或いは、そうしなければ(みち)の先など切り開くことすら出来ないのだと薄々ながら識っていた故か。

 

 そんな中、前方にぼんやりと顕れた光がある。

 よく見て取れば、興味の惹かれるままにふらり、と中を覗き込む。

 あたかも、最初から其処を目的地として定めているかのような自然さで、少女は隙間のわずかに開いている処に指を掛けた。

 

 音もなく、扉が開く。

 音は無くとも然し、そこから生じた柔らかな風の気配を感じたのか。先客の子供がぱっと振り向いて、朧はその少年の容貌を見ておや、と眉を動かした。

 

 其処は書庫だった。

 光を極力漏らすまいと、扉を閉めることにする。柔らかく薄ぼんやりとした光がその内装を照らし出す。

「わ」と小さく呟いた少女はそれから少し首を傾げて、積み上げられたている本の塔を──彼女の身長よりは低い程度の高さである──見下ろした。

 

 

 どうでもいいことなのだが、本は高価であるだろうに何故食事にも困ってしまう経済状況の孤児院にこれ程までの書物があるのかは皆目不明である…………不明、ということにしておく。

 

 心当たりが無い訳じゃないが──逆にたった一人の異能を活用した結果が本の値崩れであるのならば、それこそ恐ろしい事である。世の中には識らない方が幸せであろう物事で溢れているのだ。

 薮蛇の可能性を考え、朧はそっと口を慎んだ。

 

 此方を見詰めたまま固まっている少年に少し笑みを漏らして、朧はぐるりと周囲を見渡した。

 

 余計な考えさえ起こさなければ、其処は素晴らしく幻想的な処であるように思えた。

 その明かりを灯した人の目的さえきちんとしたものであったなら、それこそ文句などは無かったのだが、それを年端のゆかぬ少年に求めるというのは無理な話だろう。

 

 

「だれ?」

 

 

 そう云って、怯えた表情を隠しきれないまま首を傾げた幼子の、人の姿で起きているのを見たのは初めてだなと思った。

 月白の髪の──子供が両手に大事そうに抱えていたものを見て、思わずといった風に苦笑が漏れる。

 

 本に用があった訳では無く、ただ単に隠れて夜食を食べる為の場所として選んだのか。

 淵一部が欠けた茶碗に入っていた中身が未だ残っているのを見るに、どうやらこの子供も書庫へ入り込んでからそこまで時間は経っていないらしいことだけは理解する。

 

 

「君の──敦君の同類ですよ」

「…………おねーさん、お腹空いてるの」

「………………ん?」

 

 

 怯えながらも、あげないよ、とやや食い意地の張った頓珍漢な応えに朧も首を傾げて幼子を見た。

 上から下に少し眺めて、ああ成る程と、頷いた。

 

 それにしても、誰、とは…………彼は、自身が獣の時の記憶を持ち合わせていないらしい。

 幼い子供である彼が人間の状態で、目覚めたままに対面した初めての場面であるのならそれは初対面にも等しいことだったことに思い至った感想である── 一度経験したからこそ解ることだが、子供から見た自分が大人といって差し支えないくらいの雰囲気を既に持っているのなら、怯えるのも無理からぬことだった。

 初対面、というのもあるだろう──此方からしたらこの偶然を二回目とするが、この子供からしたら初めて顔を合わせたことになるのだ。

 

 それとも、或いは。

 彼の怯えは、小さく閉塞した息苦しい世界に現れた見知らぬ人が初対面の癖して見覚えがあるという、そんな奇妙さへ向けられたものであったのだろうか。

 

 どちらにしても識り得るような事では無かったが……どんな気持ちなのだろう、と。

 思うだけならただであると、そんなことを少しだけ、考えた。

 

 

 

 

 

 未だ自分の異能(ちから)を識らない子供は、自身のことにこそ無知で。

 自身の身の内にある異常、それ以外の何物でもない理不尽を識らず……そして恐らくは、何故自分が人目を盗んで夜な夜な食事をとらなければならないのかも理解していない。そんな子供。

『異能者』である朧がこの子供の待遇を見て、その理由に思い至らないことこそ有り得ないことだった。

 

 その存在を感知出来ず、制御もままならない異能。成長すれば狂暴性が増すだろう事は想像に難くなく、然し前提として、そもそも制御出来るかどうかも怪しい。

 

 色々考慮して、然し結局この子供に自身の事をどう伝えたら善かったのか判らず、だから思わず『同類』と云った。……まあ、普通に勘違いされたが。

 

 

「?」

「気にしないで、食べるといいよ。元々その食べ物は君のものだもの」

 

 

 その詞に、きっとよく意味を理解出来なかったのだろう──きょとんとした表情と見当違いな返答をした子供は、何が可笑しかったのかふくくく、と何かを押し殺すような笑い方をした。

子供の感情の起伏は激しい。先程までの怯えがまるで嘘のようだった。

 

 

「おねーさんはこわいことしない人だ」

 

 

 ふくくくく。

 中途半端に押し殺した笑い声をあげながら、子供は未だ茶碗の中身に残っていた夜食を再びもそもそと食べ始めた。

 

 

「怖いこと?」

「せんせいみたいなこと、するの?」

「…………しない、かなぁ。多分」

「おねーさん、いい人だ」

 

 

 にこりと、そう云われて。

 ……果して、善いと、そうしてしまっても善かったのだろうかと、思った。

 或いは単に、そう云わせてしまう程食い意地が張っているだけなのかと。

 

 

 朧は、何か喉元に支えているような微妙な表情になって子供を見詰めた。

 

 これしきの同情で大切な人を増やしてはならない。

 理解していて尚、大切な者の枠に入れる方向へ天秤が傾きかけるのは誘惑という名の幻想だった。

 

 その幻想は、険しい途だ。少女が選んではならない分岐点の片側だ。

 

 

 ──けれども、何も識らないとはいえ、こんな考えはこの子供に対してこそ失礼というものであった。

 

 

 世の中ままならないことばかりで、心が一度決めた筈の意思を超えてしまうのはよくある体験で。

 

 

「そっか。……うん、君がそう云うならきっと、そうなんだろうな」

 

 

 他にどう云えば善いのだったか。

 朧にはそう云って笑うことしか出来ない。

 

 幾ら云ったところでこんな些細な事へ情を割いてしまうなんてことは、此方の身がもたないだろう。

 それにこんな遭遇なんて、きっとこれからもっとあることだろうから。

 

 

 そんな考えをしている内に、心底呆れたという様子で見下ろしてくる男の姿が容易に思い出せるのだった。

 彼女の養い親が嘗て彼女に云った台詞は確か、そう──その程度で済んで善かったと思え、だったか。

 

 彼女の異能に掛かっている微妙な制限……生きていない物に限ってしか発動出来ないだとか、その効果が一日分ということとかに対しての詞だった。

 

 

 男が彼女に教えた、彼なりの気遣いであったことは理解している。矮小なるこの身が異端を背負えど、それ故に人間なのだ、と。そう云いたいのだろう。

 そうして、生きているのだと感じさせてくれる機会があるならば……それがどんなに辛くとも、又は幸福に思えなくとも、幸せなのだろう、と。

 

 

 

 これを割り切ってしまえる性格なら、然し彼女の養い親は此処まで彼女を保護してはくれなかった。

 だが同時に、この、ままならない心に朧が此処まで苦労することも無かったろう。

 

 

 

 

 

 ……まあ、詰まるところ、そう上手くいかないものだなと。

 

 苦笑したところに、此方の考えを感知出来るはずもない子供が首を傾げるのが見えて、少女は「何でもないよ」と呟いてからそろりとその頭を撫でた。

 

 

「…………?」

「………………嗚呼」

 

 

(ぬく)いなぁ、と。

 

 

 何故かしみじみと、生きていることを実感した瞬間であった。

 

 

 

 

 

 

 




これ以上書こうとするとずるずる引きずってしまうと思ったので敦くん編はこれにて終了。
次話、第二章最終話になります。
ちらっと織田作出ます。出します。でもメインは告死さんです。
(番外編年越し小話に出てきてます)





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第二二話 其の名は、『告死』

 

 

 

 何時ものように夕暮れ時の路を、同業の少年を伴い歩いていた時に、特に印象に残る或る男が、その傍らに一人の少女を置いているのを見た。

 識った顔ではあるがまともに会話したことは無い。敵では無いが、かといって味方でもない、そんな男だ。

 

 自分が云えたことでは無いが、それなりに名の識れた男であった。裏路地の、向かい側から歩いて来ているのを見てああ、あの男かと、眺めていた。

 ただ一つ、不思議であったのは──その横に、見慣れないような、それでいて何処か別の処で逢ったことがあったかと首を捻るような、そんな顔立ちの少女の姿があったことだ。

 

 その素性は判らない。

 何処からか引き取ったのか、或いはこれまでその存在を隠してきた実の子か。

 それとも単に、仕事上での付き添い人か。

 

 正解が何かを識りたいとは思わなかった。

 ただ、外見に似たような処は無くとも、……何かを見詰める、その目付きだけが重なっているかという位に妙に似通っている子供だった。

 

 かの男のように、冷徹な目ではないけれども──まるで色の無いような、透明な視線。

 此方を透かしてその遥か別の場所を見詰めるような、そんな目だ。

 

 二人は、急いでいる人間が他の通行人に気を配らないのと同様に、何の素振りも無いままに向かいより進んで来ている。

 

 何故なら、名前も識らない他人へ愛想を振り撒くのは莫迦のする事だから。他ならぬ自分を除いて、その隣に居る少年も同じに違いない。

 ああでも、それでは自分が莫迦みたいじゃないか。そう思って、見た目には判らない程度の苦笑が勝手に漏れる。

 

 

 

 

 

 そこそこ幅の広い裏路地は、大人二人に子供二人が横並びになったとしても余裕があったから……そうして、十分過ぎるくらいの隙間を空けてお互いに、通り過ぎた。

 

 少女を何処かで見かけたような既視感は、その時に解った。

 何処にでも居るから見たことがあるような気がする、そんなものでは無く、一方的にではあれど男は少女を見たことがあった。

 そんな事実に気がついて、おや、と思わず口に出しそうになった。解ったというか、記憶から掘り起こされたのだ。

 

 まあこんな暗がりであったから、また音が響くような場所であることを考慮して────結局は口を開き、そのまま閉じることに留めることになったが、ふと。

 

 

 ──垣間見えた或る未来図(ヴィジョン)は、思い出させるようにその光景を映し出した。

 

 

 肩越しに振り返ってみる、と。

 少女もまた、何故か振り返って此方を見詰めていた。

 偶然であっても、はっきりと重なり絡み合った視線に、今度こそはっきりと、傍目に診ても判るような表情の変化をした心算(つもり)だった。

 

 角の曲がり際に此方を確かに認めたのは、翳りのあるような翠の瞳である。

 興味がないかのようだった透明感のある感情がその一瞬、微かに色づいているように感じていた。

 

 

 

 

 

 角を曲がって、直ぐに消えていったその姿のあった場所を未練がましく眺め、男は訳もなく──少なくともそれは、彼にしか解らない理由であっただろう──黙して隣を歩いている未だ幼げな少年の頭をくしゃくしゃとかき混ぜた。

 端から見たら手持ち無沙汰のような行動にも見える筈だろう。……違うのだ。

 

 ただ、自分の持っている『異能』が識らせた或る未来図(ヴィジョン)に、馴れてしまったとはいえ…………自分をわずかに動揺させる光景を、其処に見たのだ。

 

 少年は、頭をいきなり撫でられても反抗のようなものは無く、されるがままになっていた──どうかしたのだろうかといった風に、少年の目が男の顔を窺うように見上げている。

 そこに非難の色はなく、いつものような淡々とした表情であって、それがなけなしの罪悪感を掻き立てた。

 何でも無い、と首を振って見せる。

 

 

 

 

 

 ────この少年にとって、或いはあの知り合いにも成っていないあの少女にとって、これからお互いに深く関わり合うことになるであろう人が今正に、通り過ぎたのだと。

 男がそう教えぬ限り、当人たちがその、普通なら到底識り得ない事実を識るようなことにはならないだろう。

 

 

 そして、その未来の可能性の一片として見た光景が男の異能によるものであり不可抗力ではあるといっても、……その関わり合いになる、一人の少女の将来の最期をまじまじと見てしまったのだと、どうして云えようか。

 

 

 

 

 

 ────────────────────────────────────────────

 

 

 

 

 

 同日、日は暮れ既に夜の帳が下りている頃まで時間は経過する。

 

 この日、月は無く、光は街の人工的な明かりのみであった。星明かりだけわずかに見えている調子で、その中── 一人の男が自室で、その空を見上げるようにして居た。

 

 その部屋は備え付けである灯りのお陰で仄明るく、柔らかい光で満たされている。

 質の高い調度品、踏み締める絨毯のふわりとした柔らかさは感触を余さず足裏に伝えていた。

 豪奢な室内を余さず照らし出す──そんな光景を背に立ち、窓際で優雅にグラスを傾ける男が居る。

 

 男の視線の先にあるのは港湾、明るく光る横浜の街。普段歩いている筈の場所は見ればひどく小さく、それを遥か上から俯瞰するかの如き体勢も相まって、妙なまでの全能感に襲われる。

 見下ろせば美しく見える場所も、そこには犯罪が蔓延っている。光が有れば影ができるように、栄光の裏に災禍があるように。半ば自然の摂理じみた当然なるものである。

 それすら一緒に纏めて自分が上位者であるかのように振る舞えるのを、男はそこそこ気に入っていた。

 

 彼は、この地の栄光にありつくべく、この地へやって来た。善く云えば新参者で、悪く云うなら侵略者。

 人生経験でいうなら、何事も卒無くやり遂げられる位のものを持っていて、それ故に態々此処へ居を構えることにした。

 

 

 ────魔都、横浜。

 この地はそう呼ばれているという。

 

 別の地で一財産を築き上げたこの男は、新天地で更なる発展を狙っていた。所謂『勝者』の側に属するような人間。

 或る会社の長をしており、利益を多く出し、そして之からもその益が増えていく余地、可能性があることを識っていた。

 

 苦労して、時には他者を蹴落としながら、然しその総ては概ね男の思うように進んでいた。

 

 それは、自他共に認める『勝者』である。

 今より未来の之からもそう、自分の描いたようになるだろうと思っていた。

 

 グラスの液体がゆらゆらと揺れるのを眺めつつ、瞼を一度閉じて、そんな感慨に浸る。とっぷりと更けた夜の街明かりを見下ろし、「善い夜だ」と何とは無しに呟こうとした────

 

 

「──やぁ、佳い夜だね」

 

 

 突然だった。

 直ぐ背後でそんな若い声で話し掛けられて、躯が固まるのが自分でも解った。

 誰も居ない筈の室内に存在する人…………暗殺者の類いの者か。然し、監視の者も付けているというのに。

 

 先ず、異能者という単語が頭に浮かぶ。

 

 そう称される者が居ることくらいなら男は識っていた。だが然し、圧倒的なまでに絶対数は少ない。居たとしても閉鎖的な地方では淘汰されるもので、故にその存在は、生憎最近まで拠点としていた地には居なかった。

 情報なら少し持っている、その程度である。

 

 

 ──それは人によって様々であるという。

 或る一部に於ける特別な、個性ともとれる何か(・・)だ。

 

 それは物を生み出す異能である。

 それは触れた相手を斥力により弾き飛ばす異能である。

 それは何者を通さない盾を作る異能である。

 それは相手の精神を歪め、操作する異能である。

 それは対象を治癒する異能である。

 それは──…………

 

 

 そんな様々なる眉唾のような、然し確かに実在する話の中で(まこと)しやかに囁かれる、こんな話がある。

 

 ──その異能者たちの中に、凡ゆる総てを殺し尽くす生命体を操る者が居るという。

 新月の夜にしばしば現れて誰かの命を刈り取っていくその姿は、正に死神の如し。

 

 

 真逆(まさか)、と笑い飛ばしたのは、彼が異能者の何たるかを実際に目にしたことが無いからだ。

 

 同じ人間であるというのに、そんな話が有るものかと。それこそ有り得ないことであろう、そう思った。凡ゆる総てを殺し尽くす、など。

 

 同じ人間が、いとも容易くそんな死を決定づけられることは、その種として同一である筈の生死の選択を握られている、ということだ。

 そんなのは最早、人では無い。神か悪魔か、はたまたその他の化物の類である。

 

 若し仮に、その異能を持っていると云われる異能者らしき人物が居たとしよう。

 然し凡ゆる総てを殺し尽くすのならば、どうしてそんな話が囁かれるようなことがあるだろうか──そんな考えもあって、信じてはいなかった。

 

 きっと何か仕掛けがあって、それが憶測を呼びそのような噂になったのだろう、軽くそう思っていた。

 見たことが無いのだから、その恐ろしさなど解る筈が無い。……ただ、それが普通の考え方であったとしても、信じなかったことこそが致命的なまでに男を破滅へと導いていたのだ。

 

 

 無知は罪である。

 然しそれよりも、その存在を感知しておきながら知ろうとしないことこそが最も重い罪である。

 何せ異能者に対抗出来るのは異能者だけ。それも相性が悪ければ簡単に勝敗は決する。

 

 

 ──……信じていなかったくせしてそのことを思い出したのは、居るか居ないかも判然としなかった存在を、前にしてようやく気づかされたからであった。

 

 これは、本物だと。

 

 

 それは、正しかった。

 実際、その男はフリーの殺し屋であった。

 同時に、異能者でもあった。

 そして──その夜に月は出ていなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 果して、何時から居たのか。

 そいつが声を発し、男がその存在を知覚した瞬間から空気は変貌していた。

 男の本能が、そういう風に感じて悲鳴をあげていた。

 

 死が──人に必ずやって来る死が、抵抗出来ぬくらいに部屋の中に立ち込めていた。

 

 まるで逃がすまいとでもするように。

 この躯へ纏わり付き、腕に脚に絡み付いてくるものがねっとりと、粘るように触れるのは、そんな死の感触だった。

 

 

 男はゆっくりと振り返った。

 先程までの全能感は最早跡形もない。余裕は消え去り、手は血が通っていないかのように強張っている。冷たい汗が浮いて首筋を冷やし、背の骨がぎしぎしと軋む。

 躯中が冷えて、振り返るのを全力で拒否しているようだった。

 

 ……それでも振り返ったのはきっと、生物の本能的な恐怖の中に尚、意地というやつが残っていたからだ。

 

 かたかたと震えだす手の振動が、グラス越しに中の液体を細かく揺らしだした。

 

 

「初めまして」

 

 

 それ(・・)は一人で部屋の中央、ソファに自身の躯を沈み込ませていた。

 脚を組み、腕は膝の上について、寛いでいるように…………先程迄はそこに人なんて存在しなかった、その筈だった。

 

 声からして若者のような、その雰囲気にそぐわない弾むような声音を響かせる。

 

 男、だった。

 然し一見しただけではその性別を上手く判別することは出来まい。大きめである黒の上張り(マント)はだぼついてその体躯を隠し、目元迄深く下げられた被り(フード)の所為で、口元しか見ることが出来ないのだ。

 まあ──── 一言で云うなら、怪しげと云う他ない、というのが的確であるようだった。

 

 

 

 

 

 果して、何時から居たのだろう。

 この、若者を模したような化物の如き存在がこの場所に居て、そしてそのことを知覚する。それだけで、まるで周囲が暗くなるような錯覚に襲われた。

 顔の部分で、唯一見えている唇に弧を描き、その者は声も無く笑んでいた……まるで此方が声を発するのを待っているようにも思える。

 

 眩暈がしたのは、何もこの濃密なまでに香る死の匂いのせいだけでは無いだろう。

 来訪者の目的は尋ねずとも察せるというのに、その上で会話を求めるのか──それは、何よりも残酷な無言の宣告だった。

 

 

「誰だ、何をしに来た…………護衛は」

 

 

 男は、解りきっていることを、敢えてなぞるように口にした。

 護衛をそこかしこに配備していたというのに、それをくぐり抜けて来たというのは疾うに理解しているというのに。

 

 心底、恐怖している。

 

 掠れて威厳の欠片も無いような声であった。然し何故か相手の唇は嬉しそうに端を持ち上げてくつり、と音を立てた。

 笑うような要素は、然し嗚呼、もしかすると──それ程までに滑稽であったのかもしれない、と自分で思った。

 

 

「意外だな。余程肝が据わっているみたいだ」

「…………」

 

 

 たら、と冷や汗が頬を伝う。

 そんな様子を見て、くつり、と洩らされたのは笑み。

 

 

「それくらいの要請(リクエスト)には応えるよ。僕だってそこまで狭量な心算(つもり)でも無いんだ」

 

 

 おもむろにその目深に被っていたのを取り、肩口まで伸ばされた蓬髪を掻き上げれば──色が抜け落ちたような白がさらりと揺れた。

 その声の通りに若い男。

 

 

「貴方も、もしかしたら噂に位は聞いたことが有るかもね」

「…………」

「ここら辺の界隈では『死神』とか『告死の男』とか不名誉な称号ばかりあるけれど──まあ、殺し屋だよ。此処へは依頼を受けて来たんだ……あぁ、護衛には眠ってもらってるさ」

 

 

 いっそ穏やかなまでの(かお)で振り撒かれる死の重圧は、矢張り、と云うべきかひどくちぐはぐ(・・・・)なものであった。

 

 

「依頼主の事情については、あんまり聞かないようにしているんだ。貴方がどんな人であれ、その人の邪魔に感じさせるようなことが有ったんだろうね」

 

 

 だから、こんなことには成ったのは残念だ、と。

 全然悪びれもしない表情。それを飯の種にしている本人こそがそんな事を云うという矛盾。

 

 

「運悪く、貴方はこの地に蔓延る悪の餌に成る訳だ──もっとも、貴方が想像しているような、そんな生易しいモノなんかじゃ無いとは思うけれどね」

 

 

 その『悪』にはきっと、僕も含まれているんだろう、と──殺し屋はそう云った。

 

 そして、死に往く者に何故こんな風に語って来るのか、直に殺されるだろう当人も不可解に思っていた。

 

 

「…………何故そんなことを(わし)に話す。やるならばさっさと殺せ」

「流儀みたいなものだからねぇ。僕は殺し屋だけど、暗殺者じゃないし」

 

 

 本人さえ気づかない内にその息を絶やすなんて味気無いじゃないか、そう云うのに眉間に皺を寄せる。

 ……理解したくは無いし、出来たとしてそれをされる方からしたら趣味が悪いとしか思えなかったのだった。

 どちらにせよ殺すのに、敢えて識らせてから末期の詞を云わせるのか、と。

 

 

「…… 一思いにして終えば善いものを」

 

 

 強張る躯を無理矢理動かして、近くの椅子に座る。かたかたと震え続けていた手に握り込むグラスの中身を思い切って一気に煽り、机の上に置く。

 

 机の引き出しの、その裏には緊急事態用の(ボタン)が存在する。然し、眠らされた護衛が果してそれで起きるのかといえば、疑問の残るところであった。

 或いはそれは、永遠の眠りである可能性すらあるのだ。

 

 男は、息を努めて長く吐こうとした。どくどくと、心臓の鼓動が耳の奥に響いている。

『告死』の男からの視線が、ずっと向けられているのを感じている。

 

 そうして、暫く──「惜しいな」と呟かれた。

 

 

「本当に、惜しい。貴方のような普通に真っ当な人間の処断は割に珍しいんだ」

 

 

 真っ当とは云い難いものだとは思うが。

 之迄の自身の所業が甘く見える程、この街の闇は想像の遥か上を往く黒さで此方を引きずり落とすのだと、暗に云っているらしい。

 

 

「…………依頼人は、儂の部下か」

 

 

「さて、どうだろうね」と殺し屋は嘯いた。

 そうしながらも、蓬髪の奥からその瞳は逃がすまいともするように此方を見つめ続けている……それは、自身の深層に潜む処まで覗き込まれるような感覚だ。

 

 

()は貴方を殺して欲しいそうだからね、まあ惜しいとはいえ、それでも殺すけど…………人並みの野心も時には身を亡ぼす、か」

 

 

「おいで、────」と囁くように云ったのを果して誰に向けていたのか、その背後に顕現した何者かを見た時に理解した。

 

 どう表現すれば善かったか。

 じわりと滲む程度であった汗は更に噴き出すように背を冷やし、『死』を可視化すればこのようになるのかと、そう納得させられた。

 

 

 その後から背中合わせの形で溶け出すように顕れた人型があった。

 全身包帯塗れの体躯に襤褸(ぼろ)を羽織り、担いでいるのは大鎌。背から片側だけ生えるのは、歪に折れ曲がった漆黒の翼である。

 

 

「異能…………これが、」

 

 

 否定されないというのは、すなわち肯定ということである。

 目前の死が、手招きしてこの身を骸へと変えようとしているのだ。

 

「何か云い残したいことは」と問われて首を振ろうとする──詞を発するだけの気力は、目前に顕現した『死』によって失われていた。

 嗚呼、然し。何と云う可きか────

 

 

「儂は、自分の限界を識りたかった」

 

 

 指の先の細かい震えが喉にまで伝播して、声はいっそ哀れなまでに掠れる。

 

 

「もっと先へ進めると思っていた……然し、予期出来ぬからこそ死は死たり得るのだろうか」

 

 

「それで合っているよ」と殺し屋は答えた。その影のようにひっそりと居たもの(・・)──異能生命体がするりと動いて、男をその包帯しか見えない腕で抱きしめるようにする。

 死が歓迎するように微笑んだ。

 

 

「死は予期出来ない必定なんだ。それを捻曲げる方法が無い訳でもないけれど、それを遂げるのは至難の技で────……恐らくは貴方が此処(横浜)へ来ることが決まった時点では既に回避 出来ない大いなる流れの中だった。

どう足掻こうとその死は本人が識ることの出来ない確定された終焉で、生に価値を見出だそうとした人々の果て、生命と云われる群が何れ収束しゆくとある(・・・)一点が今、貴方の目の前に現れた、それだけの話だ」

 

 

 確かに、この殺し屋に暗殺は出来ないのだろう──それをするにはお喋りが過ぎた。

 

「別に、恐れなくても善い」と声は云った。

 男はその時、俯けていた顔を上げ、『死』を見上げた。

 顔も全体包帯が巻かれ、どんな顔をしているのかも解らない。大鎌は未だ添えられておらず、黙したままだ。

 殺し屋本人といえば、未だ座っている。

 

 

「恐れる必要は無い。黄泉路への旅立ちは、確かに此の世を生きた証なのだから。

 誇ると善い。限界等云わずとも、其の価値は必ず誰かに継がれゆくのだろうから。

 貴方の、世界へ刻んだ(しるべ)は其の持つ役割を果たすだろう。そして、だからこそ宣告しよう──貴方の契約は、今を以て満了する。僕はその為に来た」

 

 

「此の世を生きるという、人生と云う名の契約だよ」と彼は微笑んだ。

 ぐずる赤子を優しくあやすように云い聞かせる。

 

 

「…………」

「死は、多分貴方が思っているよりもっと穏やかに訪れる。貴方の傍らに在るそれが施すのは安息で、貴方の往く、此処から那由多の果てに在る処は理想郷(アルカディア)だから」

 

 

 まるで故郷を懐かしむかのような声音だった。

 或いは、それを一度体験したからこその異能者であるのかもしれない。

 

 殺し屋はおもむろに懐中時計を取り出して時間を眺めると、「そろそろか」と呟いた。

 

 

「そろそろ時間が来る……どうあれ、貴方の最期の詞、確かに受け取りました」

 

 

 殺し屋は立ち上がり、扉へと向かう。背を向けたままでひらひらと手を振り、

 

 

「それでは、死魔の腕に抱かれて、お休みなさい────佳い夢を」

 

 

 はっとして見た閃きは大鎌の刃であったのか。

 

 

 

 

 

 確かに穏やかであった。

 痛くもなかったろう。

 

 ただ、すとんと落とされた意識が、もう覚めることのないことだけは確かであった。

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

 上へ往けば、比例するように風の強さは増していく。

 被り直した筈の被り(フード)は勝手に外れ、上張り(マント)は強風にはためく。前髪が煽られ、目を細めて彼は街並みを見下ろした。

 

 林立するビル群。

 ちらちらと見える家の灯、一際明るく目を焼くのは港湾で、その先の海は闇に塗り潰されている。

 彼の根城とする辺りの処も、そんな風に暗く黒く、光は無かった。

 

 或る建物の屋上。フェンスを越えて一歩踏み外してしまえば地面に叩きつけられるだろう──そんな場所に一人で居る。

 

 座って脚をぶらつかせる。

 頬杖をついて、ふっと息をつく。

 

 

「……おいで、『誘死機関(サリエル)』」

 

 

 詞に応えたのは、形容し難い何か、であった。

 

 一人が二人に増える。

 否、正確に云うならば一人とするのが正しいだろうが……その陰に付き従うように居る人型は、確かにその形をしていても彼の異能生命体である異形である。

 

 その手に持つ大鎌から死神とすれば善いのか、或いはその漆黒の翼故に堕天使とすれば善いのか。生物的な分類をどうす可きかなんて彼の識ったことでは無いが──呼んでいるのは、その異能を示す名であった。

 

 

 視線だけそれに向けて、「仕事お疲れ様」と呟いた。

 

 

「────」

「まあね」

 

 

 適当に返事をする……彼に包帯の下の表情を読む術は無かったが、何となく云わんとしていることは理解している。

 

 自身から生まれた異能であり、ならばこの異能は自身でもある。長い間こういう付き合いが続いているのは伊達ではない。

 

 

 愛用の大鎌を大切そうに抱き抱えた死魔が音も無く隣を陣取った。

 歪な翼でも広げればそれなりの大きさになるので、それで風を遮るように包まれる。

 風が遮られ、目を細めるのを止めることにする。

 

 

「今日の人は、本当に惜しかったな」

 

 

 男はフリーの殺し屋であった。

 不安定な収入の職業である。基本的に仕事にえり好みはしない主義だ。

 死に最も近い場所に居ると自負しているし、実際幾人もを殺してきた身としては最早それで苦しむことも心を動かされることも無い。

 

 けれど、たまに善い出逢いをすると何となく、惜しいな、とそう思うのは自分が未だ人の心を持っている証拠であった。

 

 

「未だ裏の世界に浸かろうとする前……もう少し早く、客として出逢えていたのなら或いは、その死を回避出来たのかもしれないね。まあ裏の世界でしか活動してないから、無理なんだろうけど」

「────────!」

「んー……まぁ、過ぎた話か。あと『誘死機関(サリエル)』、そんな感想は聞いて無いんだけど」

 

 

 自身から生まれた異能であり、ならばこの異能は自身でもある。長い間こういう付き合いが続いているのは伊達ではない。

 ……ないのだが、時々これ(・・)が本当に自分から生まれたものであるのか、判らなくなる時がある。

 

 

 男は異能たる彼──或いは彼女のことを、誘死機関、と呼んでいた。

 

 文字通り、他者を死へと誘う異能だ。

 生きている身でありながら死を抱え込んだ人間が、偶然にも持ってしまった超常の力。その力でつい先程、一人の老人を処断したのだった。

 

 仕事上、何人目かなんて、識る可きことではないから、気にかけるまでも無かろう。

 何より、一人だろうと百人だろうと──まあそれよりも多いだろうと確信しているのだが──その罪と咎を背負うのが、人というものだ。

 

 例え、それが人にあるまじき異能を扱っているのだとしても。何れその、「惜しい」と思った筈の老人のことも記憶の彼方へと流れ去るのだろう、と、そんなことを思う。

 

 

 

 

 勝手に部屋から拝借してきた葡萄酒(ワイン)を瓶から直接喉へ流し込んで、「佳い夜だな」と呟いた。

 

 隣でそわそわとしだした死魔(やつ)を横目に眺めて、そのまま見なかったふりをする。おこぼれに与りたいのがまるわかりだった。

 

 

「戦後の混乱が収まりつつあるからこそなんだが、それでも仕事は減らないんだよなぁ……しかも難易度は上がってくると来た」

 

 

 ポートマフィアは未だ善い。同じ穴の何とやらだろう。

 目下の問題は、異能特務課や外つ国のよく分からん機関、最近此方側(・・・)でもその名を聞くようになった『銀狼』。

 忠実なる政府の狗に縄張りを広げに来た侵略者、そして孤高を貫けるだけの力を持つ“五剣”の一人だ。

 

 

「『人間兵器庫(マスプロ)』は別に善いとして…………あの子が、ね」

 

 

 ちょいちょいと上張り(マント)を引っ張りだして葡萄酒(ワイン)を強請ってくるのに思考を乱されながらも、瓶ごと投げ渡すと嬉しそうに──何と云うか、雰囲気的にそんな感じだった──受け取られた。

 まあ仕事の役割はちゃんとやり遂げるのだから文句は無いけれど、若し誰かに見られたら一瞬で想像(イメージ)上の何かが崩壊しそうである。

 

 之が自分の一部で、それに納得してしまうだから悲しいものだった──そんなのを尻目に、思い出す。

 実は声に出さなくても覚えていた。その少女の存在は、ずっと頭の片隅にあった。態々(わざわざ)そうしたのは、男がそうしなければならないと思ったからだ。口に出して、その存在が夢では無いのだと確信するための行動だった。

 

 

 一人の少女だった。

 それだけなら特段気に留めることも無いのだろう。然し、死魔が自身の中で異能者(どうるい)だと先に気づき、声無くそう囁いて、何時ものように彼女の未来の死期(ヴィジョン)を──死を施す者故か、彼の異能は対面した者の死期を読み取れるのだ──見せたのだった。

 

 見過ごしそうになるくらい普通の子供は、そんな目に見えない特徴が無ければ注目することも無かったろう。

 いざ見てみれば、少しばかり既視感を感じて。内心首を傾げて、それからよく見れば、その隣を歩く人相に見覚えがあった。

 何時もの白一色の和装は、そこに色合いのある(かすり)の羽織りを身に纏うだけであまり目立たなくなるらしい……かの『人間兵器庫(マスプロ)』の連れ子である少女もまた、その見た目以上には普通では無いという何よりの理由であるかもしれない。

 

 近寄り難い無表情の後ろをついて歩く子供。

 栗色のさらりとした髪と、黒混じりの翠の眼。

 

 向かいから段々と近づき、通り過ぎて、何時ものようにその死期(・・)が見える──それは、異能を発現させたことによってついでのように出来るようになった副作用。

 対面した人の未来を『覗く』手段である。

 

 

「『誘死機関(サリエル)』、あの子のこと、覚えてるかな」

「──?」

 

 

 かぱかぱと瓶を傾けて酒を呑んでいたのに、首を傾げられる──顔にも包帯は巻かれていても口の部分だけは上手い具合に開閉出来るらしいが、まずもって酒を嗜む異能生命体とはこれ如何に。

 

 

「作坊と歩いてる時に通り過ぎた二人組」

「!」

「それそれ。あの女の子が、ねぇ……」

 

 

 既視感は、思い返せば直ぐに解ることだった。

 その少女と何処かで逢ったように感じたのは、それを利用して行っているもう一つの商売──『生命判断師』としての常連客の中に、彼女に関わりのある人間が居たからだ。

 

 少女はその客の死に目の可能性に立ち会う人間で、それなら成る程確かに、間接的には出逢っている。

 

 

 彼女の最もあり得る可能性上の死期に動揺したのは、思いもよらない光景を其処に見たからだ。

 

 それ(・・)がそんな都合よく目の前に現れるのは……果して偶然であったのであろうか。

 それとも世間が案外狭いというだけなのか、はたまた異能が互いを引き寄せ合った結果か。

 

 

 ──自分にしか見えぬ景色があった。

 

 

 確定まではしていなくとも、将来で最も可能性のある未来だ。それを回避出来るのかは本人次第、としか云えない。

 

 …………不思議なもので、人が迎える死期というのは、本人の行った選択によって変動する。

 だが敢えて厳しい現実を突き付けるのなら──その一方で、死期が変わった例は、片手の指で数える程も無いというのも事実だ。

 余程のことが無い限り、その迎える結末は変わらない。

 

 人は何れ死ぬものだ。之より酷い光景を見たことだって何度もある。

 奇跡は、起こせないから奇跡というのだ。

 

 土壇場で急激な変化があれば別なのだろう……最終的な未来を覆すなんてことは、そう簡単に出来ることでは無いのは、間近で見てきたからこそ誰よりも理解している。

 

 

 

 

 

 殺し屋が此処まで他人の死を憂えるのはおかしな話ではあったが──印象に残ったのは、何も『人間兵器庫(マスプロ)』という通り名の壮年の連れ子だからという理由ではないし、かといって自分の客に関わりある人だから、たいうのでもない。

 

 

 少女の死期であろう未来の光景には、それを看取る誰かが居て、その中に映り込んでいた。

 

 力無く横たわる女の側でその手を握り何事かを云う青年の姿には、どうにも見覚えがある……ぼやかすような云い方は、止めにすべきだろうか。

 

 

 

 鳶色の硝子球のような眼は今よりもわずかに、それでも鮮やかに色付いている。

 見慣れない砂色の長外套(コート)に二、三日剃っていないような無精髭。

 

 現在『告死』の男と一番交流があるとしても善い同業者の、何れ成長した姿。

 

 

 識っている。

 ああ、識っているとも。

 

 

「身長、僕より高くなってるのかね」と呟いてぐっと身体を伸ばせば、息を吸い込んだ肺に潮の香がふわりと満ちる。

 ……その未来における横浜が果してどうなっているのか、少なくともとあるごたごた(・・・・)に巻き込まれたのだろうこと以外にはまるで見当もつかない。

 或いは彼女から進んで飛び込んだのやもしれぬ。

 

 

「どちらにしろ」

 

 

 男は内心で憂えているとは思えないような表情でうっすらと、微笑んだ。

 

 

 ──その者、凡ゆる生けとし生けるモノの隣人である。

 ──その者、生命を慈しみながらも魂を()り取る処刑人である。

 ──その者、死神の如く対面した者へ宣告する『告死』の男である。

 

 

「是非ともあの子にはその未来(死期)を変えて欲しいもんだね。あの子自身と、作坊の為に」

 

 

 人を殺して飯を食っているような者が考えることではないが、その死期を伸ばしてやりたいと思ったことは何度かある。

 これもそのうちの一つだ。人間性が一握りでも残っているのだと、そう思いたい。

 

 示された最期は、運命に限りなく近い可能性。

 そんな未来を、はいそうですかと見過ごすことは裏の世界では当たり前のことである。けれども──

 

 

「之からの未来ある子が、そんな若さで死ぬ可きじゃないよ」

「────」

「あー……湿っぽいのは似合わないって? そんなの解ってるよ」

 

 

 ──あの同業者(殺し屋)の少年は、未だ識らないのだ。

 

 精神が変に育ってしまった。虚無を秘めたような硝子の瞳は、然しおかしな処で真っ直ぐだったりもする。

 

 自ら棄てたのならば善い。態々(わざわざ)棄てた人間性を拾って押し付けるようなことをするまでお人よしではない。

 然しなまじ一人で生きていけただけに──貧民街(スラム)の恵まれない子供でさえ理解していることを、あの少年は識らない。

 

 無知なのだ。どうしようもなく。

 人は寄り添ってこそその人間性を育むのに、その機会が無かった子供。

 

 

 それはきっと、異能の被害者だった。

 空虚のまま成長して、それなりの付き合いの自分でもそれを見た目普通くらいまでに矯正することは出来なかった。

 

 

 ──彼女はやってのけるだろうなという自信があった。

 その末路、当人にとって不本意だろう未来。それを見て、見たからこそ確信した。

 

 きっと彼女の最期に、今は少年である彼が涙を流し慟哭するのは……そんな理由である筈だ。

 そうであって欲しいと、思うのだ。

 

 

「風が強くなってきたね」

「──?」

「そうだな、帰ろうか──この建物も騒がしくなり始めたみたいだ。『誘死機関(サリエル)』」

「!」

「上手く受け止めてくれよ」

 

 

 ふらり、とごく自然な動きでその男は身を乗り出した。フェンスを越えている為に、その直ぐ先に地面は無い。

 

 

 男は、落ちた。

 そしてそれは割と何時も利用する手段だったりした。

 建物の屋上から地面まではかなりの高さで、普通の人なら潰れたトマトのように成ること間違いないが、彼からすれば単なる道筋の簡略化に過ぎない。

 

 落下する男に追随するように顕れている死魔がその腕を引っ掴んで、片翼のみで器用に数秒飛行する。

 

 軟らかく地面に降ろされて、とんとんと爪先で地面を確認する。

 男は建物を見上げ、微かに聞こえる慌ただしい様子に目を細めた。

 

 

「──任務は完了。さあ、帰ろうか」

 

 

 黒の上張り(マント)を翻し、被り(フード)を目深にして、男はひっそりと夜闇に溶け込んでいく。

 

 

 ──或る、月の無い夜の話だった。

 

 

 

 

 

 ────────────────────────────────────────────

 

 

 

 

 一泊した孤児院を出て、他の交通機関を用いるまでの遠さではないからと云われた為にそのまま、目的の場所へと歩いて向かうことになった。

 

 ただその背中を眺めるままについて歩いて往けば、はたと目の前で立ち止まった養い親に思わず少し、たたらを踏むことになった。

 

 

(さっき)、通り過ぎた二人組が居ただろう」

 

 突然、そう振られた話題にもう喋っても善いのだろうかと首を傾げてから、はいと少女は頷いた。

 

 雪のような髪の男が珍しくて、角を曲がる際で振り返ったら丁度目が合ったことを思い出す──少し離れた処から見たのだが、その相手である彼もまた、何故か此方を見ていたのだ。

 しかも、その上でにっこり、と微笑された。

 

 

「『口を開くな』と仰っていましたけど……何だか目が合って、微笑まれたのですが」

「…………何?」

 

 

 おもむろに再び歩き出した──心なしか早足であるようにも思える──後を、取り残されまいとやや小走りになって追い掛ける。

 

 ……その態度からして、知り合いではあるが養い親からは関わり合うのを避けたい相手である、ということか。

 それにしては一方的な避け方のようでもあったが──相手がどう考えているかなど、その為人(ひととなり)すら識らない自分がどうこう云える話では無いのだろう。

 

 

「彼は此方の人なのですか」

 

 

 そう問えば、「(そうだ)」と返される。

 

 

「印象的な男だったろう」

「はい。真っ白な…………あの、彼らって」

「何だ」

仕事仲間(ボートマフィア)ですか」

「は、」

 

 

 真逆、と云って笑われたのは、果して何だったのか。

 

 

あれ(・・)は組織の狗にもなれぬ死神よ。請われて人を殺す『殺し屋』だ。早々奴に対面する事になるとは思わなかったが、あんなのが普通に闊歩するのが此処(横浜)だ」

 

 

 先ず最初に浮かんだのは、感想でも何でもなく。

 

 

「じゃああの──その隣に居た子供は、」

同じ(・・)だ」

 

 

 それは詰まり、そういうことで。

 衝撃を受けなかったかといえば思いっきり嘘になるだろう。

 

 殺し屋だという少年の顔は影であまり見えはしなかったが──隣に居た男の存在感が強すぎた、というのもある──その、赤みがかった鳶色の髪の鮮やかさは妙に記憶に残っていたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




※皆、織田作が来たぞ! 囲め囲め!

※※アンケート実施中です▼→終了しました。
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何気に100件超えたお気に入り……ありがとうございます(`・ω・´)






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登場人物設定(第二章)・時系列詳細

例の如く文スト式登場人物設定。ところどころ抜けあり。

なお、時系列詳細は曖昧な模様。
修正入れました(3/23)




 

 

 

 ・朧

 能力:『    』

   触れた物に不壊の属性を付与する。

   対象は基本生きていない物に対してのみ発動されるが、例外として異能力者の持つ異能にも干渉可能。

   物に付与する場合、その物への破壊に至る攻撃等を受けても損害が発生しない。

   例えば、服に異能を発動させると、それは防弾・防刃・防火等の効果を得る。

   効果は触れてから一日間である。

 

(※朧の持つ異能の説明について以下、活動報告の内容と同じ↓)

 

 ・『完結させられなかった物語』の作者が、転生を果たす(記憶無し)

 ⇒『未完』と『転生した後の続き』という、ある種の『終わりの否定』という要素が異能となっている。

 凡ゆる物は何れ全て壊れるものであり、誰もそれを止めることは出来ないが、それを一時的であれ、人の身で以て否定するのである。

 ・『──道は長く果てが無く、それでいて有限だ』

 ⇒何度か繰り返し引用した。彼女の異能をふわっと云うなら、まあこんな感じ。

 ・異能と性格の連動性(原作で言及されてない筈なので、一応独自)

 ⇒嫌いなものに『壊れているもの』とあるのはそのせい。

 又、本人の性格もあってか攻撃的なものでは無いし、大して強い訳でもない異能。

 汎用性の高いサポート特化系。

 

 年齢:11~12歳程度→およそ二年経過

 誕生日:孤児院に入った日。不明

 身長:136㎝→148㎝

 体重:────(公開不可)

 血液型:AB型

 好きなもの:子供、小説、甘いもの

 嫌いなもの:孤独、壊れているもの、火

 

 

 

 

 ○備考

 孤児院出身の少女。本作主人公。

 第二章において、第一章のおよそ二年後。

 より成長した姿となる。侘しい食事から抜け出した為か、幾分か肉のついたまともに体形に。但し胸はない。

 

 二年という短い時間ではあるが、養い親である男を師と仰ぎ、武術を学ぶこととなる。

 武の才能はごく普通な程度であると本人自身は思っているが、その天稟は確かに存在する。

 無心へと至る領域──自我を限りなく薄め意識を拡散させ、一種のトランス状態へと自己を落とし込む術は一級品であり、早々にそれを達成出来るのは才能以外の何物でもない、というのは院長の言。

 異能自体はサポート特化であり戦闘に関してはほぼ自分の身体能力頼りになる。彼女の持つ天稟の特性上、肉弾戦、しかも短期決戦が最も望ましい。

 

 

 二年の月日の間にそれなりの心境の変化を感じている。

 家族と共に過ごせていけたらいいという(第一章最後時点)考えはもう捨て去り、自身が孤児院から離れていくことこそが最善であることを確信した。

 多少不安定な心境であるが、今章で安吾という友人、或いは心の支えと成るであろう一つを得て、その心の内は何れ改善されていく予定。

 

 

 機械音痴のようなところがあり、未だ携帯は持たされていないのに特務課二人組(兄弟子の方が勝手に二人分渡した)の連絡先を渡されて「これどうしよう」な心境になっているのは余談である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ・院長(本名不明)

 

 能力:『────』

   片手で持ち上げられる程度の重量の物に限り、触れることによってその触れた物と全く同じ物(・・・・・・・・・・・・)をもう片方の手から生み出す。

 年齢:広津より若干年上

 誕生日:────

 身長:175cm

 体重:────

 血液型:────

 好きなもの:本

 嫌いなもの:騒音、人を殺すこと、家訓

 

 

 

 

 ○備考

 オリキャラその二。

 黒髪に白装束だった……が、最近白装束があまりにも目立つ(今更)という話になり(かすり)の羽織りを持つようになったらしい(第二十二話参照)。

 

 簡単な経歴、追加(第十八話参照)。

『…………下手すれば一個軍隊の息の根を止められよう──早くから剣を棄てた故にその名を賜ることは無かったが、“五剣”と同等の力を持つような才覚に恵まれた剣客、否怪物である。

 仮令(たとえ)剣がその手に無くとも、持つ得物が一つの拳銃とたった一つの銃弾であろうと、それさえ有れば(・・・・・・・)その異能を以て幾人をも無力化することの出来る武芸。

 白装束を身に纏うのは、それまでに対峙し切り伏せてきた相手へ向けてか、或いはその白地に返り血一つ浴びぬという完璧なる技量に因るところか…………』

 

 

 一時期、深くではないが同じ政府管轄であったが故に特務課と接触する機会はあった。そのせいか数人の弟子(但しどれも自称である)を持っている。

 本人的には身体が鈍らないようにそこら辺にいた手頃な若者を程々に打ちのめした、それだけのことであったりする。

 

 冷徹に見せ掛けた微ツンデレ────であったが、朧の所為か、はたまた本来の埋もれていた性格が漸く顔を出したのか、朧から見た印象が少し丸くなってきている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ・弟

 能力:なし

 年齢:朧より年下

 誕生日:──

 身長:142㎝

 体重:30㎏

 血液型:A型

 好きなもの:姉、他兄弟

 嫌いなもの:大人、理不尽

 

 

 

 

 ○備考

 オリキャラ。

 孤児院の少年。

 

 朧を除いて現時点で一番年上となっている。

 朧の代わりに普段の生活の一切を取り仕切る。

 

 現在の生活に特に不満は無いが、ただ一つ、姉とその養い親が秘めている物について解らないながらも薄々察してきている人。聡い。

 

 一度、院長に秘密について教えることを迫ったことはあるが、その内情を識ることは結局叶わない。

 然し一方で、自身の姉について……『 実際に、現実において彼女を守るのはきっと僕では無く、別の見知らぬ誰かであるのだと、薄々乍ら感づいてはいたのだ』、と。

 云うまでもなく、織田作フラグである。

 

 捨てられていた赤子『春希』を育てる。一番懐かれている。

 

 白木に連絡用の携帯を持たされていた。たまに連絡をとっている模様。朧には触らせていないが、その事は本人も承知している。

 ……なんとなく、機械に強そう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ・妹(春希)

 ○備考

 オリキャラ。孤児院の末の妹。

 孤児院に棄てられていたのを無事に拾われる。

 命名は朧。時期と合わせて『(こいねが)う春の日』。

 

 敦と同年代くらいにしたい(予定)。

 他の子に比べたら、あまり朧には懐いていない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ・青年(特務課)

 ○備考

 オリキャラ。

 安吾少年が何時頃特務課に入ったかは定かではないが、少なくとも未だまともに仕事は与えられていないだろうという考えから、安吾少年の教育係兼上司としての立ち位置にいる人。

 

 自称院長の弟子。朧からしたら兄弟子。

 ポートマフィアに恨みがある。

 

 ポートマフィアと他勢力との抗争に巻き添えを喰らった人々の中、恋人が居たという。安吾少年曰く、『世の中に溢れているだろう、極々ありふれた悲劇』。

 

 故に、一応それなりに(強さ的に)慕っていた男が、特務課の対応の遅さが原因だとしてもポートマフィアに参入してしまったことを直ぐには許容出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ・坂口 安吾(少年)

 能力:『堕落論』

   詳細不明。

 年齢:(『黒の時代』では22歳)

 誕生日:10月20日

 身長:

 体重:

 血液型:A型

 好きなもの:

 嫌いなもの:

 

 

 

 

 ○備考

 原作キャラ。

 何時から特務課に入ったのかは定かではないが、少なくとも中学生くらいの年齢の時に入っていたと思われる(史実として、中学時代に「自己に暗いから暗吾と名乗れ」と教師に云われ、本名炳五(へいご)から暗吾、字をあて安吾となった……という話があるらしいです)。

 

 実際のところ、どうなのかは不明の為丁稚(でっち)という扱いにしてある。

 

 今章で、朧と友人(強制)になる。振り回される未来を幻視して今から頭が痛いとかなんとか。

 真性のツンではあるが、懐に入れた者に対してどうしても冷徹になりきれないところがある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ・中島 敦(幼年期)(括弧部分は原作開始時)

 能力:『月下獣』

    月の光を浴びたり極度に感情が高ぶると非常に大柄な白虎に変身する。

 年齢:

 誕生日:5月5日

 身長:(170㎝)

 体重:(55㎏)

 血液型:AB型

 好きなもの:(茶漬け・猫・カメレオン)

 嫌いなもの:(自分自身・昔いた孤児院)

 

 

 

 

 ○備考

 原作主人公その人。未だ幼い。

 自分が異能者であることに気付いていない。

 

 朧と出逢い喋ったことを原作開始時の彼が覚えていたとして、それは夢の残滓のようなうっすらとした既視感だけだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ・『告死』の男

 能力:『誘死機関(サリエル)

   “死魔”と思われる異能生命体を操る。

   それは意思を持っているが基本主には従順であるものといえる。

   異能を発現させた当初にした指示「(自分)に向かう一切の害を無効化せよ」を最優先の行動理由とする。

   “死魔”の見た目は全身包帯に覆われたもの。襤褸を身に纏う人型であるが、その背には歪に折れ曲がった片翼の翼がある。

   大鎌を所持している。異能が最初から所持しているもので、出現時に手にするのが見られる。それを以て刈り取ることの出来る対象は実体在るものだけには留まらない。

 

   唯一の弱点として、月光下で弱体化する。

   副次的な能力として、異能所持者は、自分が対面した者の、最も可能性のある死の場面の光景を見ることが可能である。

   集中すれば見ないようにも出来るようだが、基本的には受動的(パッシブ)な副作用である。

 

 

 年齢:二十代半ば

 誕生日:12月25日

 身長:184㎝

 体重:

 血液型:B型

 

 

 ○備考

 オリキャラ。

 自称『生命判断師』。誤字にあらず。

 本業はフリーの殺し屋である。本名は不明であり、“モルテ(イタリア語における『死』)”と便宜上名乗っているが、定着していない。

 死を告げること、死を施す悪魔を操ることから『死神』『告死の男』と呼ばれる。

 

 フード付き黒外套、年齢に見合わない位の雪のごとき白髪が特徴的。色の抜け落ちたような、とも称される。

 

 本人(の異能)が振り撒く死の気配に反し、至って温厚()な性格をしている。

 病気の者には手に入れた薬を無償で与えるし、金銭に困る者には金を工面してやるが、その厚意について周囲からは「死神に借りを作った」「目を付けられたからには、この人生の最期魂狩りに遭うのだろう」等と勝手に云われ、意図せず通り名(『死神』『告死』の方)が勝手に云われ定着した。本人は遺憾の意を示している。

 

 貧民街(スラム)の子供たちと戯れることが好き。あと織田作。特に織田作のことは同業者としてだけでなく、その周囲にいる一大人として気に掛けている。

 自身の異能により朧が織田作とこれから関わっていくことを識り、その未来の、本人たちにとって不本意となろう結末の改変(つまり原作改変である)を切望している。

 ある意味この作品内のキーマン。

 

 

 殆ど異能頼りの攻撃しか行わない。攻守ともに彼の異能生命体が兼任可能であるからである。それ故に質の悪い最強クラス。

 一応自衛用に拳銃を携行しているが、射撃センスは皆無。

 

 一応異能生命体たる“死魔”にも感情はあるらしく、時々二人で会話を行うのが見られる(但し死魔は詞を口に出来ない為、一方的な語りかけに見える)。

 生命体は死の重圧を振り撒くそのものであるが、意外に取っつきやすい茶目っ気(?)を持つ。

 その主たる『告死』曰く、「想像(イメージ)上の何かが崩壊しそうである 」。

 酒好き、又大鎌コレクターであり、自身が元より持っている鎌の他にも、普通に店で購入した『物しか刈れない』鎌を気紛れで装備していたりもする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 +α(時系列設定、一部憶測あり、あいまい)

 

 

 

 

 ・原作13年前(と仮定)

 小説『探偵社設立秘話』時

──織田作14歳

  乱歩少年13歳

  社長32歳

 

  乱歩、福沢に出逢う(天使事件)

  織田作との接触あり

 

     │

     │

  織田作、夏目漱石に出逢う(殺しを止める切っ掛け)

     │

     │

 ・原作12年前      

──社長、乱歩が漱石と対面

  (異能業務許可証)

     │

     │

     │

  織田作、ポートマフィアに入る

     │

     │

     │

  太宰ポートマフィア入り?

  頭領の交代(先代→森医師)

     │

     │

     │

 ・原作6年前(龍頭抗争)        

──太宰16歳:幹部昇格間際

   多分この頃に芥川を部下にする

   『双黒』の結成?

  織田作21歳:この頃孤児4人を拾う

  安吾20歳:太宰、織田作に初めて逢う

        ポートマフィア入りたて

     │

     │

  幹部昇格後、太宰による『闇と血のリスト』

     │

     │

 ・原作4年前(黒の時代)       

──乱歩22歳

  織田作23歳

  安吾22歳

  太宰18歳:織田作の死を切っ掛けにポートマフィアを抜ける

     │

     │

  太宰潜伏期間(2年間)

     │

     │

 ・原作2年前(太宰入社試験編)     

──乱歩24歳

  太宰20歳:国木田と共に『青王』事件を追う

     │

外伝『綾辻行人vs京極夏彦』

     │

 ・原作開始         

──乱歩26歳

  太宰22歳

  社長45歳

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                 

 

 

 

 

 

 

 




第二章、これにて終了。お疲れ様でした。
長々と書いて漸く織田作の出逢いに漕ぎ着けました。
と、いうかこの第二章、そもそもが当初のプロットに存在しない話だったんですけどね。本当、長かった…………


乱歩さんの年齢が時系列把握に使いやすい件。多分こんな感じだと思われ。
適当に逆算して下さい。
間違ってたらすいません。



※第二章BGM……ELLEGARDENより『Middle of Nowhere』でどうぞ。







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番外編 とある二人の晩餐

アンケート番外編。
『告死』さんと織田作少年のクッキング講座……の筈が何故か食レポちっくに。

多分実際に食べながら打ち込んでたのがダメだったのだと思われ。
少し時期外れではあります。


 

 殺し屋という職業に、決まった休みというのは無い。

 そもそもが頻度の少ないものだし、危険に曝されることも多いが代わりに見返り──その報酬は破格だ。

 

 だから、意外と自由な時間は多い。

 少年、織田作之助はその時間の大体を、本を読むことに費やしている。

 後は、時折──同業の『生命判断師』がやって来て一緒に食事をとること、くらいか。

 

 

 だからその日も、一緒に居たのは何の不思議もないことなのだ。

 

 何かにつけて構ってくる男とは、然し案外に色々なことについて詞を交わす。

 

 ……まあ、とはいっても、二人の会話のほとんどは男の説明や他愛ない内容の話を一方的に話されるだけで、少年はそれに相槌を打つだけだ。

 彼は少年の知らない、けれどもこの世界の何処かに必ずあるような事実をたくさん教えてくれた。逆に云うならそうすることしか話を繋げないとも云えるのだが────話すのが下手らしい少年に、人との会話でそれ以上のものを期待されても困るというもので。

 男との奇妙な関係は、自然とそうなってから長いこと続いていた。

 

 ──それは例えば、物の名前や、使い方。

 外つ国の出来事。

 常識的な…………然し、少年に欠落している知識。そんなとりとめもない色々を、つらつらと流れるように話す。

 

 少年に向けて語られる詞は、その醸し出される雰囲気とはまるで違う、柔らかさを感じさせる声音だ。

 

 常識が少し抜けているとはいえ、自分に向けて語られる、そんな男の声を聴くのは。お互いにこんな関係になって長い今であってもなお、とても贅沢なことだろうと──そう思わされているこの思いは、間違ってはいない筈だ。

 

 

「作坊」

 

 

 向けられているのは、柔らかで、温かな声。

 

 

 

 普段、必要以上の対話、ということを自らすることは無い。

 だからなのか、変に精神が成長した少年にとって、自分に聞かせるためにその音が紡がれているということが──この気持ちは、そんな関係を築き上げて大分経った今だからこそじわじわと染み入るのだと、そこまでは気づけない。

 

 年齢も相まって、成熟していない精神には未だ以て新鮮、という表現しか出来なかった。

 

 一方的に喋り掛けられる。たまにそれに応える。

 反応があって、詞が返される。

 

 

「──作坊?」

 

 

 ふ、と。

 声が自分の名前を呼んでいるのを聞いて、ゆるりと顔を上げた。どうかしたのだろうか、という疑問の視線を受け止めて、どうやら話し掛けられていたらしいと気づく。

 ぼそりと、「少し考え事をしていた」と呟いた。

 

 

「話を聞いてなかったかもしれない」

「そっか。別に気にしないよ……寧ろ、普段の作坊は真剣に話を聞き過ぎる」

 

 

 相対する男の声音は変わらず、咎められるかと思えば何もなく、そんな詞を口にして──思いがけないことだったので、少年は首を傾げた。

 よく、解らなかった。

 

 

「そうなんだろうか」と云うと、「拝聴、て感じだからねえ」と返される。それから目の前の男は「そうだなぁ」と独り言のように呟いて、

 

 

「でも、少し安心したよ。子供ってのは未だそんなに弁える必要が無いのが普通で──きっと、そんなもんだと思うんだ」

「…………」

 

 

 聞き分けがいい、というのは別に、善いことなんじゃないのかと思った。

 善いこと、の筈なのに何か悪いような気にもなって、然しこの男が口にしたのだから恐らくそれにも意味があったのだろう。

 

 少年がじっとそのまま、男を見上げていると、彼はふっと小さく口の端に笑みを浮かべて見せた。

 

 

「まあ、この裏の世界で生きている以上そう成らざるを得なかったんだから、僕がどうこうと云えたことじゃあ無いんだけどね」

 

 

 確かにそうだ。頷く。

 詞は出さなかった。

 ……どう応える可きか少し迷って、そんな迷っている時間の間に応えることの出来る機会(タイミング)を逃してしまっていた。

 

 きっと自分は普通では無いのだろう。

 でも、この男も多分同じくらい普通じゃなかった。

 同じような者どうしの筈なのに、彼は一体何を自分に求めていたのか、少年にはそれが解らなかった。

 

 

 

 少し押し黙ってしん、と静かになった部屋の中に、かちかちと規則正しい音が響く。

 男の持っている懐中時計から響いているのを、聞いていた。

 

 

「時計の音が気になる? ──今、何時だっけな」

 

 

 ぱかり、とその蓋を開くのを少年は眺める。何の意味もないが、鸚鵡返しのように「時計」と呟くと、「一四時、三二分だ」と云われた。

 

 

「今までの話とは関係なくなるけどさ、一日を一生と例えて考えた人がいるらしいね」と、とりとめもない話の続きのように、何気無く云われた詞が気になったは何故だったのか。

 

 

「例えば人の死ぬ時期を六十と仮定しようか──そうしたら、僕の人生は未だ昼前までしか進んでないわけだ」

「うん」

「そんで、作坊の場合で考えたら夜明け前だ。未だ四半分も過ぎてないんだからね」

 

 

 これは実物を見たほうが早いかな、と笑って、ぽとり、と掌に置かれたのは、小さな丸い、箱のようなもの。

 細かな鎖がしゃらりと音を立て、その中身を覆い隠すような蓋は艶やかな金属製である。

 

 今度は少年が、その蓋をぱかりと開けた。

 

 

 

 

 

 描かれているのは等間隔に並ぶ線と文字とで構成された綺麗な円だ。

 その中心からは二本の大小大きさの異なる針と、一本のやたら小刻みに動き続ける細身の針が伸びている。

 

 耳を澄ますと、かち、こち、と規則正しい音。

 細身の針が動くのに合わせて、その音が聞こえてきているようだった。

 

 

「まあ今は昼過ぎだけどさ──ほら、此処だ」

「うん」

 

 

 血の通ってないかのような、白く長い指がその文字盤の目盛りを指差して、少年はそれを見ていた。

 

 時を計ると書いて時計と読むのなら、人生を時計に見立てることは不思議でも何でもないのかもしれなかった。

 

 意味なんて、あまりにも身近だったから考えたことがなくて。時を計る、というその詞は何処か聞きなれないもので。

 

 

「かちこち、って音がさ。聞こえるだろう」

「聞こえる」

「普通に捉えたら、秒針が動く度に聞こえる音だと済ませるんだろうけど。人生を時計に見立てた人は詩人だったんだろうな…………この音はきっと、心臓の音なんだろう、ってさ」

 

 

 見詰めていた。

「そうなのか」と呟くように云った。

 

 針が動いている。かち。

 ぴくり、と動く。こち。

 ぴくり。かち。

 ぴくり。こち。

 

 ──とくとくと。

 その中に、自分の心臓の音を聞いた気がして。

 

 神妙な顔でもしていたのか、おかしそうに目の前の男が吹き出した。

 

 

「まあ、人生は長いってことだ。もっと子供らしくても許されるだろうってね、作坊を見てるとよく思うんだよ──人生の一日じゃあ未だ朝飯も食ってないんだから」

 

 

 返事を返さずにじい、と見詰めたままの体勢でいる少年に、男は首を捻った。

 

 

「どうした」

 

 大したことじゃない、と示すように少年は首を横に降った。

 

 

「そんなに長く生きてるとは思わない」

「長く────あぁ、ね」

 

 

 少年が指摘したのは…………それは然し、仮にその寿命を全うできるとすれば、という仮定がついていたということだ。

 少年がそれを失念する筈がなく、かといってそれを言い出した男だってあくまでも例として云ったに過ぎないのだ。

 

 

 ──裏の世界で長く生きていられるのは常に強者である。

 それが少なくとも要される、最低条件であった。

 

 

 懐中時計の蓋を閉じると、針の音とはまた違ったかちり、という音が鳴る。

 

 見上げた空は晴れやかで、抜けるような薄青に染まっている。

 この空の下の────然し、その陰になるような処でひっそりと、生きている。少年が物心ついた時から、自分の居場所は此処だった。

 この、業とも称すべき闇は重く暗く、例えるならば……少し先すらどんよりと澱むように見える、そんな世界。

 

 この世界で、それでも「朝」と呼ばれるような概念は存在している。

 そして、こんな自分でもそれを共有する相手を持っていることが、不思議なことだと思った。

 この世界には自分しか居ない、そんな訳がないのは当たり前のように識っているのに。

 

 

「確かに僕は作坊の死期を識ってる」

 

 

「六十、っていうのがほんの例えだっていうのは、僕が一番承知しているさ」と男は微笑んだ。

 彼は『生命判断師』である故に。

 

 

「ただ、ね。未来は解らないよ、作坊────僕が、僕だからこそ、そう断言しよう。

 可能性は運命に限りなく近くても可能性であるには違いない。それに、善くも悪くも人というのは、ずっと同じままではいられないものだ。

 後は…………これから出逢う人との関わりが未来を変える力を持つかもしれないし、ね」

 

 

 意味ありげにそんなことを云った中に、自分が何かの切っ掛けで何時か、若いといえる位で死んでしまう可能性も確かに有るのだ、と。

 そう教えられて、然し少年は表情を変えることは無く、ただ数度瞬きをするだけであった。

 

 何も思わない、というのは嘘である。

 だが、それを云われたところで何処か遠い処の話であるようにも思えたし、若し自分がその死に直面したとして、きっと何か未練を残すようなことも無いのだろう。

 そう、思う。

 

 

「僕はね。お前が未だ、人生の夜明けも識らない幼子であってほしい、と──そう思うんだ」

 

 

 この男が見た未来を尋ねようとしたことは無かった。それを頼りにする者には申し訳無いかもしれないが、興味は薄い。

 元々死が蔓延るような処に首元まで浸かっている者が今更生を惜しむ理由が存在しない。

 

 

 夜明け──朝、というのは。

 それは、陽が昇り始める時間だ。

 陽が高くなったら昼で、陽が暮れ始めたら夕方で、陽が沈んだら夜。

 

 自身の辿る未来を識りもしないのに。人生に於ける夜明けを迎えても、裏社会の住人である以上自身が陽に照らされることはない。

 それは悲しむべきことであるのだろうか。

 或いは、残念と思うべきであったのか……そう、思うのは、本来己の内から生じなければならない気持ちの筈だった。それを感じないのは単にそうするのに値しないのだと、少年が何となくでもそう思っていたからではなかったか。

 それは、全くもって普通から外れている、と示しているようなものだった。

 

 

 

 

 

 ぽす、と頭の上に手を置かれて、懐中時計から目を離す。

 

 

「柄にも無いことを云っちゃったなぁ」と男は苦笑して、そのまま少年の髪をぐしゃぐしゃとやや乱暴に撫でた。

 

 

「こんなことが云いたかった訳じゃないんだ。……まあ何時か話してみようとは考えてもいたけど、何も今、これを話さなくても善かったのになぁ」

 

 

 なぁ? と云われて、「そうなのか」と、取り敢えず頷いておくことにする。

 一段落ついたような雰囲気で、織田作は手近に置いていた数冊の本の中の一番上を手に取った。

 

 返された懐中時計を懐に仕舞った男は、ちょろっと窓の外の陽の高さを確かめてから組んでいる脚を解いた。

 よいしょ、と立ち上がって伸びをする。

 

 

「作坊、ちょっと買い物にいってくるよ」

 

 

 頷く。少し伸びてきている髪が鬱陶しく視界を(よぎ)った。

 

 

「夕方より前には帰るさ」

「わかった」

 

 

 そもそもこの場所は少年が転々としている(ねぐら)の一つであって、では何故家主では無い男が買い物に往くのか、といえば、それは単純に男の気紛れである。

 どちらかといえば受け身的気質である少年が拒むような理由は無かった。

 

 大体こうして一緒に居る時は食事の時で、何処かの店へ往くか、或いは男が作るのを傍らで眺めていたりする。

 今回は後者であったらしい、と今その事を識る。

 

 

 

 男は、季節問わず常より羽織っている黒外套に身を包んでから目元深くまで被り物(フード)を下げた。

 少年はといえば、狭く殺風景な室内で、長身の男が靴を引っ掛けて扉に手を掛けるまで本を手にしたまま、黙ってその様子を眺めていた。

 

 

「いってきます」

「うん」

 

 

 ぱたん、とドアが閉まった。外からとんとん、と響いている靴音は徐々に遠のいていっている。静かな時間は、眠りに落ちる前の浮遊感にも似た気持ちを思い起こさせた。

 

 部屋の中が急に静かになった。

 

 かち、かち、かち。

 

 男が持っていってしまったから部屋に時計は無いのに、時を刻む音が幻聴のように耳の奥で木霊しているようだった。

 

 少年は座ったままに、再び窓の外を何となく見上げた。

 空に輝く陽は、男が帰ってくるまでにどれくらい動くのだろうと、そんなことを思って、手元の本に目を落とした。

 

 仕事を終えるついでによく物を失敬する。織田作の場合それは本であり、あの『告死』の男の場合は意外にも酒瓶であったりする。

 

 手に持っているのは、その内の一冊だった。

 未だ読み終えてないのは多くある。中には上巻、中巻とあるのに下巻だけ存在しないのもあって、そういうものは後回しにしている。

 

 何の声もしないのが、自分以外の気配が部屋の中にないのが、不思議と寒々しく、外から射し込む光はどこか眩しいようにも感じる。

 

 

「…………」

 

 

 ぱらり、と本を開いた。

 栞を持っていないので、頁の数は自分の記憶のみを頼りとする。

 

 ぱらぱらぱら、と大体の処に見当をつけて捲っていった途中で指先にちり、とした痛みが走る。

 

 

「…………」

 

 

 見ると、紙が肌を僅かに裂いたようで、うっすらと出来た割れ目に血が滲んでいた。

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

 

 

 ──きっと、随分と長い間独りだった。

 

 

 同じ音質の靴音を聞いて顔を上げた少年が最初に思ったのは、意外にもそんな感想だった。

 

 それは、男が留守にしている数時間のことであったし、同時に今更な話ではあったが……織田作が彼と出逢う前に歩んでいた道程(人生)に対してでもあった。

 

 前者に対し何故そう思ったのか、少年は自分でも理解してはいなかった。

 ただ、後者に関して──時計では計りきれないほどの長い間、今よりも幼い、あの男と出逢う前まで自分が独りで過ごしていた日々を。

 実際よりも遥か遠くの、どこか遠い日の出来事のように思っていた。

 

 

 最低限の生きる術は、その本能の示すように備わっていた。

 それ以外の細々とした──云うところの常識(・・)、という奴の一握りは、学び或いは教わって得たものだった。

 

 鍵の掛かっていない扉ががちゃりと、無造作に開けられた。取っ手を外側から回されて、その瞬間に、頭に過っていた思考を隠すように手元に視線を落とした。

 

 陽が沈み始めて、空が赤々と染まり、やがてゆっくりと紺色に染まっていく。その内の、明々とした一筋の光が本の一頁を照らしていた。

 

 

 

 

只今(ただいま)」という声がした。

 

 今気付いたといった風に再び顔を上げ──実際のところ、その職業上隠密や気配察知が得意な少年がまず気づかない筈が無いのだが、買い物袋を持って妙に生活感に溢れている格好を見遣った。

 

 外が暗くなり、部屋の中が暗くなり、ぱちりと電気が付けられた。

 窓の外では直に明かりが灯り始めるだろう。

 

 男の詞に対する返事の代わりに、少し大きめな音を立てて本を閉じた。

 

 きゅう、と腹が鳴る。声も無く男が笑って、「丁度らしいね」と云った。

 

 今、一体何時なのだろうか、と思った。

 織田作は時計を持っていない。どうにも高価であったし、自身が必要とする局面に出逢ったことがあまり、無かった。

 

 立ち上がってから直ぐそこの玄関まで迎えにいくと、その両手に持っていた買い物袋の片方をおもむろに手渡された。

 

 

「おでんでも作ろうかな、とね」

 

 

 渡された大きな白い袋の中には具材らしきものがごろごろと入っていた。

 

 

「おでん」

「そ、おでんね」

 

 

 復唱して、今は春先の筈であったが、と思う。

 

 

「秋頃まで食べれなくなるから、一回この時期に作りたくなるんだよね。店主も、最低十月にならないと作ってくれないから」

 

 

「全く、此方は客だっていうのにさ」と思い出したような文句を呟く──男の云う『店主』というのは少年が何度か連れていかれたことのある、男曰くの『何でも作ってくれる料理屋』の店長(マスター)のことだった。

 一度頼んで、断られたということらしい。

 普通に考えて、殺し屋として畏れられている男にそんなこんな態度がとれる一般人はそうそう居ないものである──まあ、実は一般人では無い可能性もあるのだが、それは置いておくことにする。

 

 そんな場面を少し想像してつい、じぃ、と男を見詰める。首を傾げられた。

 既に被り物(フード)は外されているので、その真白の髪がさらり、と揺れた。

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

 

 

「さて、作ろうか。まあ切って混ぜて煮込むだけなんだけど。あ、普通に作ると時間かかるから短縮するけどね。おいでー、『誘死機関(サリエル)』」

「…………」

 

 

 いきなりで何だが、違うだろう、と思った。

 

 いや、現実は違わないのだが────調理開始とでも云うように手を叩いた男の後ろでぽんっ、と、いきなりに顕現した異能生命体があり、それが手に持っているのは鎌では無かった。

 

 それは、死神である。

 心なしか大きさが小さめであるのは、気のせいではない────死の匂いは、変わらずであったが。

 それだけに、別方向の非現実(シュール)さが際立つ。

 

 因みに、調理用なのか丁寧に前掛け(エプロン)まで着用しての登場だった。しかもフリル付き。

 

 抱えている何らかの機械を異能生命体から受け取った男は、一瞬微妙な顔を見せて苦笑した後に「よいしょ」と云ってそれを台所の一角に設置した。

 

 

「解らない、って顔をしてるなぁ」

 

 

 その顔が此方へと向けられて、少年はそれからかくかくしかじかと、話を聞いた。

 その機械…………この男の持ち物であるらしいそれは、聞くと調理用具の一つである。詳しい名称は定かじゃないが、どうやら蒸し器、であるらしい。

 何でも使うと出来上がりが早くなる、とかなんとか。

 

 

 

 

 

 手を洗って、大きく野菜類を切り分けて。

 日の入り通りにくいものを水と一緒に蒸し器に投入する。強火力で、一気に加熱。ぼ、と橙の焔が揺れる。

 

 その間におでんの汁を作成する。

 昆布、味醂(みりん)・薄口醤油の瓶を袋から出して云われた分量だけ出し、水と一緒に入れて沸騰させる。

 ふつふつと、金色にも見えるような薄茶の色に沸くのを見詰めて、それから丁度善い位に軟らかく蒸された野菜を、他の具より僅かに早く投入する──これで汁が染み込みやすくなるらしいが、原理はよく識らない。

 

 蓋をして、暫く待機する。

 作業は思いの外あっさりと終わり、拍子抜けしたようにも感じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「じゃーん」

「おー」

 

 

 男に合わせるようにぱちり、と手を合わせ拍手をやりかけたのに、「別に無理して反応しなくてもいいよ」と云われた。

 

 ぱかり、と蓋をあけると、ふわと湯気が昇る。

 

 漠然と、これが良い匂いだと解る。

 ぐる、と腹が再び鳴る……いろんな匂いが混じっている。

 ほんのりと甘い、ような。柔らかい匂い。

 じわじわと染み入るような、それでいてつい引寄せられてしまうような香り。咖喱とはまた異なったものだ。

 

「取り敢えず、全部一種類はとろうか」と、出してきた深皿の中に入れていく────卵、出汁まき、大根、人参、竹輪、蒟蒻(こんにゃく)にはんぺん、もちきん、厚揚げと最後に巻甘藍(ロールキャベツ)

 

 次々と分けていって、それでもなお、具は鍋の中に沈んでいた。それだけの量があったらしいが…………男が確認した時計を一緒に覗き込むと、調理の開始から一時間もいってない程度の時間しか経っていなかった。

 

 最後に鍋を慎重に傾けて、皿の中にとぷとぷと、金色の澄んだスープが注がれた。

 ふわっと湯気が香って鼻を擽る。

 

 

「よし」

 

 

 出来た、という声に現場監督の『誘死機関(サリエル)』が誇らしげに胸を張ってから、今度は唐突にぽんっ、と消えた──と、いうか消されていた。

 あくまでも生命体を掌握しているのはその異能保持者である、という証左でもあった。

 

 

 男が手を合わせて見せて、少年もその真似をするようにした。

 どんな掛け声をするのかは、流石に少年も把握しているのだ。

 

 

「いただきます」

「うん、いただこうか」

 

 

 箸をひとしきりさ迷わせてから顔をあげると、男が厚みのある茶色い楕円──詰まるところ、大根を頬張っているところだった。

 織田作も、大人しくそれに倣う。

 汁を吸い込んで、持ち上げてぽたぽたと落ちているところの機会(タイミング)を見計らって噛みついた。

 

 じわ、と口の中に感じる熱。

 とろけるように柔らかいのに、しゃくしゃくとわずかに残る微かな繊維の感触。

 甘いのは汁のせいか、或いは素材そのものか……または、どちらでもあるのかもしれなかった。

 咀嚼すると、甘さの中、少しほろ苦い味わいが混じりだしている気もするが、美味しいことに変わりはなかった。

 

 はふ、と、咥内の熱を逃そうと息を吐く声が聞こえる。それでも食べるのは止められないのだ。

 短時間で作った割には上出来過ぎる結果であった。

 

 無言のまま、出汁まきへと手を伸ばす。

 薄く茶色がかった黄色みの強い物体が箸に挟まれ、ゆらゆらと揺れている……たっぷりとスープを吸って、柔らかそうだった。

 噛みつく。しっとりと柔らかな味わいが口の中にふわふわと広がっていく。

 まろやかで柔く、優しく、それでいて先の大根と同じ味。

 でも、もっと甘くて、濃厚だった。

 合間に、皿に湛えられた汁にちろ、と舌を出すように飲んでみる。

 

 

「……」

 

 

 何味だ、と云うのはきっと相応しくは無いのだろう。数多くの味が混ざり合って、調和のとれたような味。

 一口分残していた出汁まきの残りを食べきる。

 皿の中には、丸ごと入れられた卵も入っているのだ。

 

 卵は善い。

 基本的に何にでも合うのだ────もちろん、咖喱にも、だ。

 

 無言で卵にかぶりついた。

 つるり、と卵が逃げるのを無理矢理押さえ付け、歯でぐっと圧をかけ……ぶつりと噛みきる。

 

 ぷにぷに、とした食感である。

 つるりとした白身は淡泊な味がする。

 けれど、更に噛み進めていけば、やがてその中から現れるのが鮮やかな橙色をしていることを、識っていた。

 

 赤みを帯びた鮮やかな色合い。口に含むと濃厚な味わいが咥内にはりついて、喉に貼り付きそうな感触でいつまでも呑み込めない。

 そこに僅かなもどかしさを感じつつも、噛み締める。一緒に汁を少し飲むと、口の中にまとわりついていた卵がほろほろとその中にに溶けていった。

 

 

 

「……卵が、好きかもしれない」

「嫌いな人ってあんまり居ないと思うよ。でも、確かに僕も同感かなぁ」

 

 

 ずず、と啜ってから、心なしか幸せそうな息を吐き出した。

 確かに、ほっこりと身体の芯から温まる。

 今は春だが。

 

 

「次は……これ、いこうか」

 

 

 最初からこの形だったのは、聞けば『店長』に頼んでしてもらったらしかった。

 しっとりと柔らかそうな塊になって、皿に心持ち大きく横たわっている。薄い茶色に染まっていた──噛みつく。と口の中に柔らかな旨味が広がる。

 見た目からしても柔らかそうなそれが、口の中で蕩けるように消えていく。

 

 噛むまでもない。

 舌と口蓋の間で軽く抑えるだけで汁の味わいがほどけていくのだ。ほのかに甘みが強くなるのはそれそのものの味なのかもしれなかった。

 

 

 ぶつ、と一瞬、食感が変わる。紐を千切ったような…………いや、実際そうなのだろう。

 

 

「なるほど」

 

 

 この柔らかなものが甘藍で、内側にまた違う味を閉じ込めるのに紐を使っているらしい。じわりと、異なる旨味が口の中に広がっていく。

 こってりとした濃厚な味わいはどこか少し先ほどの卵にも似ていた。鶏の肉だった。

 卵が育つと、鶏になる。ならばその味付けが似通ったものになるのは自明であった。

 

 

 

 

 

 舌が肥えてしまったと、自分でも思った。

 この男に連れていかれる店は大体自分の識らない味で、然し時にはこうやって何か懐かしさのある物に巡り逢わされる。

 

 ──何故、懐かしいと思うのだろう、と思った。

 

 無言で咀嚼を繰り返しながら、そんなことを考えた。

 

 

「作坊作坊、そろそろこれ、入れてみない?」

 

 

 男がそんな考えを識る由も無く、じゃーん、そう云って、小さな瓶を取り出した。

 

 

「それは?」

「ふふふ、柚子胡椒は至高なのだよ作坊」

 

 

 ふふふとわざとらしい笑みのまま、男は蓋を回して、薄く黄緑がかった塊を汁に投入した。

 落ちたそれを、箸の先ですりつぶすようにして溶かし込み、ふと、鼻先を掠めた香りがあった。

 

 

 とぽんと、同じように入れられて、同じように溶かした。薄く透き通っていた汁が少し濁りを帯びている。

 爽やかな香り。小さく一口分を、飲み下した。

 

 

「……!」

 

 

 柔らかな味わいに入り交じるぴりっとした刺激と、爽やかな香りが遅れるように口の中で広がった。

 甘さに慣れた処に訪れた、新鮮な刺激。

 黙々と食べ進めていく。

 

 気づけば、お互いの皿に残るおでんは一つ、しかも同じ具材だった。

 

 

「やっぱり締め(シメ)はもちきんだよねー」

 

 

 見た目は厚揚げの表面のようだ。

 きゅっと縊れた部分に結ばれている紐で、その先は膨らんでじっとりと汁を吸っていた。

 

 

 齧りついて、中に閉じ込められていた餅がどろりと溢れだす。

 熱い食感で、舌が痺れていく。口から溢れ出さないように注意しつつ、伸びる白い餅を口の中へと納めた。

 どろつく餅の甘みと、ぴり辛い柚子胡椒の爽やかさが絶妙であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 綺麗にお皿の中身を空にしたところで、「ごちそうさま」と向かい側が手を合わせた。

 

 

「ごちそうさまでした」

 

 

 それに倣う。

 すっかり空っぽになってしまった皿と、ずっしりとした充足。

 吐きだす息は心なしか温かい。

 

 

 ────或いは、こういうのが幸福というものなのだろうか。

 

 

 そんなことを思いかけて、少年は薄く唇を引いて笑みを浮かべたのだった。

 

 

 

 

 

 




告死さん「因みにこの残りを使ってカレーも作れるぜ」
織田作「!」

みたいな余談。肝心の後半が若干やっつけになったような気もする……
そんな感じの、春先ぐらいの二人のお話でした。おでん美味しいよね。柚子胡椒は至高です。



文スト公式スピンオフ『文豪ストレイドッグス わん!』①を参考に、おでんでした。
因みに、その『わん!』にて紹介されていた太宰治風おでんレシピ。

①中島敦に材料を買ってきてもらう
②国木田独歩を呼ぶ

お、おう……(´・ω・`)

時短で蒸し器としましたが、この時代に電子レンジに相当する物がそれぐらいしか思い付かなかったからです。因みに、レンジを活用すると大体三十~四十分くらいでいい感じに仕上がれます。





※いつもの。
ましろんろんさん、狐拍さん、高評価ありがとうございます!
ランキングにも一瞬載っていたらしいですね。ランキングの威力、恐るべし……!











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第三章 Corposant(探偵社設立編+α)
第二三話 Sole


第三章突入。


 

 

 着いたその場所は、これから二人で住むには広すぎるような場所だった。

 

 此処がそうなのか、と──無言の確認の為に、少女が傍に並び立つ男の方を見上げると、その横顔は何処か懐古に浸っているようで。数度瞬きをしてから、そっと、その様子を伺った。

 

 人の居なくなった家は、直ぐに荒廃してしまうという。

 

 その家主が亡くなってから、未だそれ程も経ってはいない筈だ。然し逆に云うならば、そういった云わば『使われる可きもの』というのは、その本来の意味を喪ってしまえばそんなわずかな時間の流れも許さないのかもしれない。

 

 養い親は、門扉の横にある、矩型の窪みを眺めていた。

 

 

「此処には表札があった」

 

 

 ぐるりとその窪みを指でなぞり、男は平坦な声で「古く成ったものだ」と呟いた。

 淡々と──その中に、一抹の郷愁を感じたような気がする。口にはしないが、そう思った。

 

 

「じゃあ、此処が……?」

「今となっては遥か過去の話ではあるが」

 

 

 ────(おれ)の生家だ。そして、

 

 

「今を以て、貴様の家とも成る処だ」

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

 

 

 そんなことが、あった。

 今はただ、雑然とした部屋に向かい箒を持つ手を動かしている。掃除だった。

 

 

 否、雑然、というよりかは──何だろう。

 それ程長い間放置されていた訳ではなかったが、時代に置いていかれたような古さ、と云う方が正しいような印象を受ける。

 

 酷い埃だった。

 親類縁者もあの養い親以外に居なかったのか、家主が亡くなった後そのままに物は埃を被っていた。

 使用人は、今は既に亡き故人が逝く前には既に解雇されていたというのだからこの状態なのも頷けるというものだった。

 

 ──新しい家、新しい住処。

 きっと云い方はどうでもいい。誰か(養い親)の、少しでは有れども確かに思い出の中にある場所。

 けれども私の、私にとってこの場所は……横浜に於ける最初の一歩である。

 

 

 

 

 

 防塵の為、口元を隠すように巻き付けていた布を首の処に降ろして窓を開けた。

 想像以上に強い風。春の、どこか甘くも感じられる温い陽光の匂い。

 ぶわり、と吹き込む風が想像以上で少し、息を呑んだ。

 

 殺風景で荒れ果てた庭。ましになったとはいえ、未だ残っている中で埃が舞い上がる。

 細かな粒子が光に照らされてきらきらと光り幻想的でもある、が────然し、うっかりでも吸いこんではいけないものであった。

 

 大体は取り除いた筈の埃が煽られて再び広がっていき、先に口元の布を取り去ったことを後悔する。

 毛羽立っているような感じ。けほ、と一つ咳をして喉を擦り、朧は涙目になって顔周りの空気をぱたぱたと払うようにした。

 

 

「水、飲まなきゃなぁ……変な感じ、んんんっ」

 

 

 中身が僅かに減っているような感じの塵取りを持って、掌で風を遮るようにする。屑入れの中に中身を投入してから、もう一度咳払い。

 ひりつくような眼は、擦りたくても掃除中の手では少し躊躇われた。

 

 一通り埃を払い終えて、それから、その部屋に在った立派な造りの棚に目を遣った。……重厚な造りの、一目で善いものだと判るような木製の棚だ。

 恐る恐る、その扉に両手を掛ける──開けてみて、意外にも埃っぽくないことに、少し目をしばたかせる。

 

 

「…………」

 

 

 開けた時に風が入り込んだのか、ひらり、とその存在を誇示するように目の前に落ちる物を拾い上げた。

 つまみ上げ、裏を返して、まじまじと見詰めて……そこに写り込んでいる人の正体を、私は識っていた。

 

 

「い、ん長……?」

 

 

 意外にも保存状態は良好であったから、その写真に写されている者の姿もくっきりと目に入ってくる。

 ……一人の少年の、色の無い、射抜くような目がそこに在った。

 自分が見間違える筈も無い。白黒の写真。無表情ながら、何かを透かして此方を見詰める一人の、年端もゆかぬ少年────その隣に居るのは兄と思しき子供、そして父親らしき男。

 兄はどこか自信の無いようなふやけた笑みを浮かべ、それと対照的だというような父親は、朧の養い親に酷似していた。

 

 似ているな、と思った。

 

 

「…………」

 

 

 思わず。

 思わず──本当に、無意識に近い反応速度で──自身の異能を発動させてしまっていた。

 此れは残しておかなければならない物だと、少女の中の何か(異能)が叫んでいる。

 

 残しておけと。

 どんな事情があったとしてもそれは大切な、大切にするべきものだと。

 これは私が手放したものに限りなく近いものだと。

 経緯は違うにせよ、あの養い親が嘗て手にしていて、そして遠ざけたものだと。

 ──……私がこれから手に入れられるかも定かではない『何か』であるのだ、と。

 

 自分の異能については、発現したときからその効果を少しずつ検証して、ある程度の制御が可能となっている──暴走とも言い難く、なればそれは、自分が異能共々追いかけている物であると、理解していた。

 

 中にあった、撮った写真を収める為のアルバムを取り出し、そっと挟み込んでから脇に置く。

 

 他にも書物や何やらがあって、それら全てを一旦取り出してから、固く絞った雑巾で中を拭いてみると、思った以上に汚れで黒くなった布が出来上がった。

 

 

「……。待ってた、のかなぁ」

 

 

 ふ、とそんなことが頭に浮かんだ。

 棚自体を綺麗にしたような形跡は無かったが、それでもその中に在ったものの保存状態の良さを見れば──そうであって欲しい、と思わずにはいられない。

 

 ぱちぱち、と無駄に思える程に瞬きを繰り返したのは、きっとこの部屋に未だ漂っている埃っぽさの所為なのだと無理矢理、そう思った。

 

 雑巾を水の湛えられた桶の中に突っ込むと、徐々に黒ずんでいく。その様子を眺めて、水のひやりとした心地よい冷たさに目を細めた。

 

 

 

 

 

 気配を感じて、その一瞬後に聞き慣れた平坦な声が名前を呼んだ。

 

 

「朧」

「あ、院長先生」

 

 

 振り返れば庭に男が下りていて、開けた窓から此方を覗き込んでいる。何時もの白装束で、手にハタキを持っているのが何だかおかしな格好に見えた。

 

 

「……その格好、汚れませんか?」

「問題ない」

 

 

 問題ない、らしい。確かに真っ白なままであった。

 

 窓の桟に外から寄りかかる形になってから、彼は「必要な物とそうでない物に分けるから一通り掃除したら別の部屋に往け」と云った。

 はい、と応える以外に無く、ふ、と男の居る庭に目を向けると、その後ろで山に成っている何か、がある。

 

 

「院長先生……その、それは?」

「不要品だ」

「え、」

 

 

 かなりの量で、つまり──この庭に出されたものは全て、きっと燃やされてしまうことは容易に想像がついた。

 

 

「善いんですか」

 

 

 恐る恐るの確認は、然し咎められることはなかった。

 

 

「構わん。貴様が気にするようなことではない」

 

 

 淡々と、養い親はそう云った。

 そう云っただけで、少女がその詞に何かを返すことは出来なかった。

 そんなことを期待されてはいない筈だし、求められてもなかったろう。

 これは、いくら養い子であったとしても朧が介入して善いことではきっと、無かった。

 

 

 ──疾うの昔に棄て去ったものを、今更拾い上げることは害悪以外の何物でもない。

 ()してやそれが、自らの意思の下に行ったものであるのなら尚更そうだ。

 

 

 頭ではぼんやりと、理解していた。

 後にそう云われることも、然しこの時の状況では未だ何とも云えないもどかしさばかりで、私はただそれに頷くことだけしか出来なかった。

 少しだけ感じた、しこり(・・・)のようになる違和感の正体に思い至らなかった辺り、そこには未だ隔たりがあって────あれは、この養い親なりの『けじめ』であったのだなと、そう思うのは未だ先のことであった。

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

 ちらちらと燃える、橙の微かな焔をぽとりと落として、燃え広がっていくのを見詰める男の姿があった。

 隣に少女──朧の姿は無い。

 一際酷い風呂場の掃除にやったので、暫く帰ってこない筈であった。

 

 横浜、住居の建ち並ぶ一角。

 人が消え、その間誰も出入りすることの無かった家──男の、生家である。

 一対の眼からの視線を感じながら、その家の庭に立っていた。

 

 

 

 

 

 先ず思ったのが、前の住人が居たことを示す『人間らしさ』の跡を消さなければならない、そんな考えだった。

 

 収集物は何処か骨董品を扱う処に売り払うことにする。掃除をして隅々まで綺麗にする。

 見つけた手紙や写真のような類いの物は、今こうやって燃やしていた。

 

 

 

 時間を感じさせる僅かに色褪せた紙。

 明々とした火が移り、くすんだような白は黒く焦げ、やがては灰になってほろほろと落ちていく。

 あまりにも呆気なく、崩れて消えていく。

 

 ──嘗ての此処な住人の生活を、一体どれだけの人間が覚えているのだろうか。

 

 

 

 燃え尽きてちろちろと小さくなっていく焔に、ふと。

 一つだけ、何も無いかのように(・・・・・・・・・)灰の中に半分埋もれている物を見た。

 屈んで、拾い上げ、

 

 

「…………朧か。余計な事を」

 

 

 その写真に施されたものが何であるのか、その養い親たる男に理解出来ない筈が無かった。

 異能。養い子の異能は、その性格に相応しい、あの子供を体現したような力だ。

 

 普段が鈍い割に、こういったこと(・・・・・・・)には聡い。

 きっと、あの娘は気付いただろう……気付かない訳が無いのだ。あの娘は、そういう子供だった。

 

 視線は未だ、注がれたままである。

 

 

「広津くらいの距離感が丁度善いのだ──あれ(・・)はともかくとして、だ。貴様も近すぎるだろう。或いはこうして来たということは、又何かの前触れを察知したか?」

 

 

 丁度その様子を、塀の上から見下ろすようにしている三毛猫。素知らぬ顔で飄々と居るのを睨み上げて、男は唸るようにそう云った。

 

 

夏目。今日も優雅なことだな」

 

 

 にぁー、と、三毛が鳴く。

 その目の光は到底獣のそれとは思えず、黒々と奥底まで見抜くような瞳が大きく、ぱちりと瞬いた。

 

 

 拾い上げた写真を、そのまま懐へと仕舞い込む。

 灰のざらりとした感触。風に煽られて、こんもりと積もっていた灰がぱらぱらと散っていく。

 三毛猫とそれを眺める────塀から飛び降り、残っている灰へ飛び込もうとする首の皮を掴み、顔の高さまで持ち上げてから目を合わせた。

 

 ぶら下げている重みから、心なしか太々しく成長している気がしないでも無かった──が、案外人間よりも猫の方が気楽に居られるのかもしれない。

 

 だらり、と躯に力を入れられていない獣に「又後日に来い」と云い放ってそのまま塀の向こう側へ放り投げれば、意外にも聞き入れたらしくその後に姿を現すことはない。

 

 

「…………」

 

 

 ひょっこりと又顔を出してこないのを確認してから、再び懐から取り出して眺めたのは写真に写る若き日のことだ。

 

 男は、自分が思っている以上に己の父であった者のその、面影を受け継いでいたらしい。そうしてそこで漸く気付いたのは──果して幸であったか、或いは不幸であったのか。

 矢張りそれは、本人のみにしか感じ得ないことであったのだろう。

 

 

 

 




ここ数話分が異常に長かった反動か、少し短め。探偵社設立編+αです。
なお、αの方が割合的には多い。





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第二四話 天稟の在り処

自分以外の何かを守らんが為に自ら強くなることを願った者。
元から身を置いていた環境故に強くならざるを得なかった者。
ただ認められたいが為に努めた者。

──……或いは単に、その果てを臨まんが為に強さという闘争の象徴を追い求めた者。

私の目的は、きっとそのどれでも無かった。






 

 

 

 朝の鍛練は、場所を変えた今になっても続いていた。

 

 あの少ししか使うことのなかった、鍛練用の建物は果して今頃どうやって使われているだろうかと、そんなことが頭に過りながらも、今現在、実際の自分は地に這いつくばるようにして荒く息を吐いている。

 

 日中ならば清々しく、どこか甘いようにも感じる春先の空気も、今に限っては息苦しくて仕方がない。喉は水分を求め干からび、汗で額に張りついたものを払いのける動作をするのすら億劫だ。

 ひたり、と手を添える首筋に既にその刃は無い。然し一度添えられた真剣の冷たさはいっそひやりとした熱さであって、その温度は添えられていた箇所に未だ残っているようにも錯覚する。

 

 思考が鈍っていた。

 極端に集中して、その反動であるのか鈍くなった思考では何も考えることが出来ない。何か考えようとして、そのまま何もせずにふわふわと。ただ思考だけが行き場を失ったかのように彷徨い歩いている。

 

空白のような思考であっても反射的に反応出来たのは、これまでの成果の中の一つであったのかもしれない。水に浸したらしい手拭いを投げつけられて、それを普通に受け止めていた。

 

 幾分か多く水気を含んでいる。触れた指先でぎゅっと摘まめば、その端から滴り落ちる水の一筋が腕を濡らす。ほう、と息をついてから顔を上げて男の顔を見ると、流石に涼しい顔、とまではいかなかったのか、微かに息が乱れている。

 

自分の立ち回りが上手くなってきているのか、はたまた単に男の身体の、年齢に伴うじわじわとした衰えか。どちらであったとしても、そんな些細なことでさえ一矢報いたと感じるのは相手がそれだけ強大である証だ。

 

 未だ地力に遥かな差があることは当然のことであるにしても、この男がどれだけの力があるのかを図りかねる程に彼は強かった。

 勝てたことなど、もちろん一度も無い。

そこに一抹の不安を抱いて、ついぽろっと口に出した詞があった。

 

 

「……私、強くなれているのでしょうか」

 

 

 仰向けになったまま、ほぼ無意識にそう云っていた。

 

空は抜けるような薄青で、どこまでも遠い。果ての見えない道ゆき。

とても綺麗な色は、だからこそ少し不安にも思わせる。

 

 通りからの目を遮るようにしてある庭、その壁に寄り掛かって目を閉じていた養い親が、その黒目で此方のことを見詰めていた。

 

「朧」と、名前を呼ばれる。

 何か云いたげな眼だな、とだけは判った。

 

 

「強く、か」

「…………? はい」

 

 

 確認するような問い掛けともつかない呟きに首肯、微かにため息の音を一つ聞く。もちろん自分ではなく、吐いたのは朧の目の前にいる相手であった。

 

「急いているな」という呟きを耳に捉える──急いている?

 首を捻る。傾げてから、常より感じている威圧感が心なしか弱々しいことに気付く。

 

 

 この時の養い親は、何だか……普通の『大人』だった。

 ふ、と息をついた男は目を閉じて、ゆるりと空を振り仰ぐ。

 どういう意味なのか問い掛けても、それに対して「いや」と詞を濁すように。

 

 

「大したことではない」

「そう、なんですか」

 

 

 何時もはっきりともの(・・)を云う男にしては珍しい話である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 暫く互いに黙って、私はそんな様子を眺めていた。

 少し、目を眇める。じりじりと時間が過ぎていくのを感じている。

 

 吸う息は未だ熱い。

 見上げるところには涼しげな薄青の天蓋。曇りひとつ無き蒼穹。

 いつまでも届かない果てがちらちらと目に映る。

 

 

「あぁ」と。

 男はふと思い出したかのような素振りで、再び此方を向いた。

 先程のやり取りがまるで無かったかのような口振りに何だろうか、と思いつつ詞を待つ。

 

 

「貴様の此れからについて、未だ話していなかったな」

「……此れから、とは」

 

 

 瞬きする。『強さ』に反応を示した養い親の、突然の話題の転換に少し、意外に思う。彼が必要以上のことを口にしないのが常であったからこその違和感は、けれども多分追及するべきではないのだろう。つい先程のことは例外で、それさえ除いてしまえば、今云ったことの、その示す処にこそ重要な何かを秘めていると考えるのが自然だろう。

 

 これから……それはきっと、未来についてだ。

 思い当たる物としては一つ二つ、三つ。意外とあるものだった。

 思い返す。

 

 一つ、所属について。

 ポートマフィアの一構成員と成っている養い親ではあるが、その娘であるからといって未だ少女の身が同じ預りになる、というのではない。

 

 二つ、仕事について。

 いくら保護者が居るからといって、働かない理由にはならないのだ。彼女の兄だって、彼女の今よりも一つ上の年齢でこの横浜へと一人旅立っていった。その背中を、よく覚えていた。

 それに何より、何もしないなんてのは性に合わないのだった──探し始めなければならないことを、頭の中に留めておくことにする。

 

 ──三つ目。

 

『白木だけでない、貴様の姉や兄も又、横浜に居るだろう。遭いたいと思うか』

『……遭いたいと、そう思うことは、駄目なことですか?』

 

 そんな、何時ぞやの問答。広津と初めて対面した、その日の暮れの出来事。

 どんな心境の変化があっても、根底には必ずその気持ちが存ある……探したかった、という思いは今もなお存在する。

 

 きっと居ないかもしれない。

 それでも一人くらいは居て欲しい、と。そう、信じている。

 

 その安否を確認して、側に往って話すことが叶わない可能性もあるかもしれないけれど。

 その姿をもう一度、見てみたいなぁと、思うのだ。

 

 ──泣いちゃだめよ、朧。私たちは心の傷に愚鈍でなければならないの。

 其れが許されるのは、親のいる子供だけなのだから。

 

 その詞が示すことがどれだけ残酷なものであったとして、それでも確かに私の根底に存在しているのはそんな詞に他ならないのだから。

 

 

「今の(おれ)はポートマフィアの一構成員だが、だからといってそれが貴様に適用されるという訳ではない」

 

 

 裏社会に蔓延る最大組織、ポートマフィア。

 その一構成員──とはいえ、あの単眼鏡(モノクル)の、老成した風にも見える男が直に勧誘してきた事実を鑑みると、そんな軽い話ではないのだろう。

 そんな男の、血は繋がっては無くとも確かにそうと認めている、一人娘。最早孤児院の子供では無いのだ。それが(わたし)であった。

 

 そしてもちろん……養い親がそうだからといって、その所属まで同じと云われる訳ではない。

 この身が何処かの組織に属することになったという話は未だ聞かない。ならば、そんな事実は存在しないのである。

 

 

「貴様は今、不安定な立場だ。異能者ともなれば尚更だろう」

 

 

 黙って、その続きに耳を澄ませる。

 

 

「今は未だだが、識られるべきでない相手に識られるようなこともあるだろう。そしてその日は、思っているよりも近いかもしれないのだ──貴様の異能は貴様自身が思っているより、ずっとその価値が高いことに気付いているか」

 

 

 ……たった一日。

 それは、たった一日だけ物を壊れなくなるだけの異能(ちから)だった。

 

異能にも施せるという一風変わった力は、けれどもそれ(異能)自体がそもそも実体の無いものであるし、物にしたって一日だ。目に見える変化など無い、寧ろよく気付けたとでも云うべきもの。

 

 

「効果はたった一日、されど一日だ。それで済んだことに感謝すべきだろう」

 

 

 凡ゆる全てには結末が存在する。

 終わりが無いものなど、それこそ有り得ない。

 

 それを、一時とはいえ押し止めるというのは。

 一見地味ではあれど矢張り、人知を超えた何かであったのだろう。

 

 掌を、そっと見遣る。

少し前まで得物を握り込んでいたのを開け閉めして、それで何かが変わる訳でもなく視線を元に戻す。

 

 

(おれ)の手はそれ程広くを覆える訳ではない。いざという時には貴様が自らの力と(つて)でその身を守らなければならない」

 

 

 この手は、最早離れてしまった孤児院の弟妹たちから離れた手だ。今はただこうしているのは、自身が持っていた物は…………他ならぬ自身が手放した。

 

 何かと物騒な世の中で、きっとその渦中に身を投じることもあろう自分にはそれが出来うる最善であって。

 けれど、もっと自分に力があるのなら。

 こんなことなんて気にすることなく脅威を捩じ伏せられるのかもしれない、淡くそう思って──

 

 

「…………」

 

 

 自分がそんなことが出来る器でないのは、とうの昔に理解しているというのに。

 

 黙ったままの少女に対して、男はその姿を見下ろす。娘の表情に何か云うでもなくただ、「土台は作ってやろう」と彼は云った。

 力をつける、そういう意味で今この状況が正にそれであって。正直、これだけでも十二分に恵まれているだろうと思う。

 

 その詞を態々云われたのはきっと、自明であるこの鍛練以外の、(つて)の部分を示しているからだった。横浜という魔窟で、個人の力で生き抜けるのは裏社会に於ける階層構造(ヒエラルキー)の上位に座する人々だけだ。

 経緯がどうであれ、彼女がこの男に守られている部分が多いのは否定出来ないことである。そして、何時までもそうしていられる訳でない、何時までも止まっていられる訳が無いのだと、こんな異能(ちから)を持つ自分が理解していることこそが皮肉なことであった。

 

 

「……わたしは、」

 

 

 ただ平和に生きて過ごしたい、それだけだった。

 然し一方、漫然とした平和というものにはその土台に生き足掻いた過程(道のり)がつきものでもあって────きっと異端たち(異能者)からすれば、その平和こそが異端であるのだろう、と。

 

 

(…………あぁ)

 

 

 何故だか今この瞬間、久しぶりにはっきりと思い出す。

 こんな時、以前(前世)の自分なら何を云ったのだろう、と考える。

 

 矢っ張り思考が上手く固まらない。

 記憶が無くても同じ人間ならば、案外同じようにしか考えないのかもしれないけれど。

 でも、一つだけはっきりとしていることがあった。

 

 

「私は」

 

 

 男がじろりと、その黒目で此方を見詰めていた。

 最早見馴れたそれは、嘗ては見馴れていてもなお恐ろしく感じていたのに。

 今はそれ程でも無い。それは不思議なことでも何でもなかった。

 

 大人に成りつつある。

 何もない安寧の中に居たいけれど、きっとそれ以上に他の人(養い親)に守られていたくなかった。

 守られるのは子供の役目で、まだまだ子供であろう自分(わたし)も、直に大人になる(戻る)ことを迫られる。

 

 

 

「……………………」

 

 

 こんな関係になった最初から、養い親の頭にそんな計画(プラン)は存在した筈だ。

 そして、…………それを自分が拒絶する訳が無いことも、きっと織り込み済みだった。

黙り込んだ少女の傍で、軽いため息が一つ。

 

 

「暫く鍛練は中止だ」

「…………え」

 

 

「貴様には少し、自身を見直す必要があるだろう」と云った詞を内心だけで復唱する。

そうかもしれない。けれど、何だかんだと考えて結局自分は最初の考えに帰結するのだ。──或いはその考える過程をこなせ、というのか。

 

 

  無表情なのに、その瞳はどこかじっとりとしているように見える。何か、咎められているようでもあった。

 身を起こして、未だ痛い脇腹を擦りつつ、改めてその眼の中を覗き込む。

 

 黒い。──その中に、自分の姿が映っていて、やや呆けたような顔をしている。だってその意図していることが解らないのだ。

 この養い親の表情が理解出来たとして、肝心の内心、その内容が解らなければ意味が無い。

 

 

「目的を違えてくれるなよ、それだけの話だ」

 

 

 その『それだけ』の中には一体どれだけの詞が呑み込まれているのだろう、そう思わずにはいられなかった。

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

「…………して、家の用事(片付け)は済んだのかね」

「終えたから此処に居るに決まっているだろう」

 

 

 からり、とグラスの氷が揺れる。

 じわりじわりと、グラスの冷たさに冷やされた空気が凝縮していくのを眺めていた。

 

 落ち着いた雰囲気の酒場(バー)の、店主と真向かいで並び座っている男二人。

 一人は云わずもがな、『人間兵器庫(マスプロ)』の名で通っているポートマフィア構成員の壮年。白装束の上に絣の羽織を通し、何時ものように無表情な男。

 その隣に居るのが、広津柳浪────同じくポートマフィアの一員である。武闘組織「黒蜥蜴」を率いる異能者で、『落椿』と称される異能の保持者であった。

 

 

「大体は焼いて処分するだけだからな、想定していた以上には楽な作業だった」

「焼いたのか」

「焼いたな」

 

 

 意外にもあっさりと云ってのけた男に、「お前の家だろう」と云いかけてぐっと堪え、代わりに少し単眼鏡(モノクル)を弄る──野暮な突っ込みは控えるべきで、そんなことを、口にするべき席ではなかった。

 

 

 からり、とグラスが揺れる。

 ここ数日の休暇をとっていた男がその前に「拠点を移すことにした」とあっさり云ってのけたことは記憶に新しい。

 そう連絡(電話)してきた時は詳しく聞き出すことも出来ず──というのも、直ぐにぶつりと切られてしまったので──今この場で聞き出してしまおう、という考えがあったのだ。

 

 

「……異能特務課がな」

 

 

 男はそう云って、ちびりちびりと口に酒を含んだ。

 

 

「社会に適合して生きる輩は須らくして、不合理的な行動が目につくものだ……識らない訳ではなかろうに」

「まあ、な」

 

 

 早すぎたし、或いは遅すぎる。

 そんな風に呟いて、男はこうも云った。

 

 

「あれ以上話していたら、恐らく間諜(スパイ)の仕事を持ち掛けられていただろう」

「…………して、」

「云わせる前に精神的優位に立ったから実際に聞いた訳じゃない」

 

 

 ただ、あの組織の末端はともかく、上層部は化物揃いである────まあそれは、大体の大組織に於ける共通項でもあるのだが。

「昔にくっついて来ていた若造が遣いとして来てな」「ふむ」……合間にもう一口、ぐびりと飲み干す。想像に難くないことを口に出すのは、その意図されていることを考えるとまざまざと思い知らされるようで不愉快であった。

 

 

「あと此れは偶然かどうか判然としないのだが……朧より数歳程度下の小僧も居たな」

「異能者、かね」

「だろうな…………む」

 

 

 出されていた酒の伴(つまみ)が無くなるのに合わせて補充していく店主(マスター)が、淡く笑んで何事も無かったようにグラスを拭き始める。

 

暫く、沈黙が下りた。

 

 

 

 

「朧はどうしている?」

「今頃は眠ってるだろうが……暫くは街に馴れさせることにする。あとはな」

 

 

 数瞬黙って、不意に片手で顔を覆った男に「どうしたのかね」と尋ねる──何か、思い出したようだった。

 

 

(いいや)……少し嫌なことを思い出しただけだ。問題ない」

 

 

 縦に瞳孔の割れた猫の目を、ふっと何の脈絡もなく思い出しただけ──なお、この男、犬派である。

 

 

「あとは…………広津、一つ聞きたいのだが」

「何だね、急に」

「己は急ぎすぎているだろうか」

「…………」

 

 

 何についての急ぎすぎている、かは話の流れ的にぼんやりと理解していた。およそ二年程前の鍛練の話は広津も(設備的な意味で)協力した事案であるので。

 ……振り返ってみればこの男、見た目以上に過保護である。

 

 

「時代に取り残された己たちが強さを重んじることは当然としても、あの娘がよもや自分が『強く成れているのか』なぞと問うてくるとは思わなくてな」

 

 

 それの何が残る不満なのか、広津には解らなかった。ただ、この男は──その人の差故に生じる価値観を、案外と大事に思っていたのかもしれなかった。

 

 あの少女が身を守る為につけた力だ。

 然しあの凪いだ翠の眼に沈む諦念は、きっと誰よりも「強さ」という詞に似つかわしくないと。隣で、うわごとにしてははっきりと、そう云うのが聞こえた。

 

 

 何がそれ程までに気になるのか、未だ広津には理解出来ないことだった。

 同じ組織内でも、入れ替わりの激しい中において情はほどほどまでにしか湧かない。──……まあ然し、戦後になって表の社会から弾き出されたのが、戦場の空気から抜け出しきれなかったというそれこそが、こうして同じような場所に立っている一因であるのだと気付いてはいる。

 

 だからそれは、広津ならば簡単に見過ごしてしまいそうなことであった。

 少しいとけない顔になって「広津の小父(おじ)さま」と云う少女を少し顧みて……隣に居る男の口から洩れたのは、彼女のことを、彼女自身を除き一番よく理解しているのが、この男だからこその詞なのだろうと思った。

 

 何時もより饒舌に喋る同輩を横目でちらり、と見つつ──普段の彼らがこんなに喋ることは無い──氷で薄まった蒸留酒(ウイスキー)を舐めて、黙った状態で続きを促した。

 

 

「己はな、人間の本質が容易には曲がらぬことを識っている。……あれには確かに天稟があった。武の、天稟が有る」

 

 

 この男をして才能があると云わしめた少女。

 

 

「だがそれは、あの娘の本質(異能)にまるでそぐわないものだ──気になるものだろう」

「……それもまた、あの子の一つの側面であるとは考えないのかね?」

「さて、どうだろうな」

 

 

 グラスを揺らして、男はゆっくりと嘆息した。

 からからと、小気味いい音が鳴っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 






朧:猫好き。未だ織田作に会えてない。鍛練中止を受けて困惑中。

院長先生:圧倒的犬派。広津さんに愚痴る。猫(というより三毛猫先生)は苦手。
最初の方と読み比べて感じる、院長先生丸くなり過ぎ!

広津さん:どちらかというと猫派(という作者の願望)。院長先生に愚痴られる。
原作広津さんよりも実は強い(院長先生とちょっと体術の訓練したりしてる)。原作みたいに国木田(くにきー)に投げ飛ばされたりしない。別に広津さんが強キャラでもいいよね。







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第二五話 桜花

あまり表情の変化が見受けられないにしても、彼女は見た目以上に多感な少女であった。
そこには同時に、何処か浮世離れした雰囲気に湛えられた諦観が存在している。

だからなのか、その線引きははっきりしたもので、それでも踏み込んでみれば、彼女が思ったよりも笑うのが意外にも思えた。





 ──お久しぶり、と言うにはそんなに時間は空いてないかな。

 

 

 柔らかくそう言った少女の、どんな表情をしてその詞を口にしているのかが妙に気になった。

 

 既に横浜に着いているという話は人伝に聞いていて、然し新たにやって来た場所に特段変化のあるような態度ではない彼女。その様子に、未だそんなに長い付き合いでは無いにも関わらず、彼女らしい、なんて心の内だけで呟いた。未だそんなに把握出来ている訳でも無いが、自然とそう思わせるように感じさせた。

 

 

「朧さん、それで今日の用件は何かあるんですか」

 

 

 憮然とした自分の表情に対して「呼び捨てでも善いのに」なんて云う彼女は、きっと笑っているのだろう──……まぁ、元々こんな顔ではあるのだから例えどう云われようと直せる筈が無いのだが、声だけでも判るくらいには、弾んだ声をしていた。

 

 

 ──何か用件が有るって訳でも無いんだけれどね。

 

 

 電話越しの声は何処か嬉しげで。

 

 

 ──自分の携帯、って奴を初めて持って初めて入れた連絡先が君だったから。そんな君と何だかお祝いしたい気分だなぁ、とね。

 

 

 そんなことを云って、くすくすと笑みを溢しているのを聞いた。

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

「…………うん、善い天気だ」

 

 

 そう云って、空を眩しそうに振り仰ぐ彼女の横顔を見詰めていた。

 ふわふわと吹く風に乗る花弁は軽やかで、麗かな春の陽気を一層心地好く思わせる。

 

 すぐ傍には、歳上の少女が居る。……つい先日知り合ったばかりで、出逢ってから一月も経ってはいないだろうというのに、何故か今見ている光景が妙に見馴れたようにしっくり(・・・・)としていることが不思議である。

 

 彼女は額の辺りに手を翳し、降り注ぐ陽光に目を細めていた。栗色の髪が光を透して明るい色にも見える。

 彼女は、日向が似合う人だった。

 

 

 二人、公園の桜の下。

 誘われたは良いものの、そこでどうしたら善いのかもよく解らないままに、坂口安吾はこんな場所でこんなことをしていた。

 ちらほらと、桜が散るのが視界に入る。

 

 

「私の居た処、君は見たことあるから解るだろうけれどね。割と殺風景な場所だったから、こういう処があるのは嬉しいなって思うんだ」

「……ああ、確かに、何も無い場所でしたね」

 

 

 ぽつぽつと、とりとめの無い会話。

 敷物の上で、靴を丁寧に重石にして揃え、既にやって来ていて座り込んだ彼女……朧と、少し距離を空けてから腰を下ろす。

 ふ、とその視線が此方を向いて、目が合った。

 苦笑するように目を細められたのは、恐らく──前回逢った時と同じ服装、つまる所仕事用の服でやって来たのは矢張り、いけなかったのかもしれない。

 少し色素の薄い髪が微かに煽られて、呟きがそのまま風に乗るようにして耳に届く。

「やっぱり仕事、忙しかったりするのかな」と、彼女はそう云った。

 

 

「……何故、そんなことを?」

「こんなことを云うのは大きなお世話かもだけど、君の眉間にまた皺が寄ってるから」

 

 

 此方の勝手で連れ出してごめんね、厭だったかな。

 識らない素振りをして尋ねれば、そんな返事が返ってきて。

 あまり変化の無いような表情で、それでも困ったような表情(かお)をするものだから、そんな顔をさせている自分が悪いような気にもなってくる。

 

 ──……正直に云ってしまえば、安吾は、はっきりとものを云わない人が苦手なのだった。多分、明け透けに物事を云ってしまう人よりも、遥かに。

 見ていて何となく、もやもやとするものだから。座り心地が悪いようにも感じさせる、とでも云うのか。

 

 彼女にそんなことを云われてから、自分で額の直ぐ下まで指を滑らせる。

 確かに云われた通りになっていて、初対面で指を押し込まれたあの時のことを思い出した。

 

 

 ──なら、之から私がその価値を持てば善いの?

 

 

 ふわふわと頼りないような顔つきと言動である、その癖にこの人が躊躇いがちに差し出した手と見比べた蛍石の目は、酷く澄んできらきらとしていることが意外に思ったことを覚えている。

 

 そう彼女は云ったが、然し彼女自身の価値は既にそれなりの物があるのだった。

 孤児とはいえその養い親が『人間兵器庫(マスプロ)』と称される者であり、色々な出来事が重なったとしても、あの男がポートマフィアへと参入する切っ掛けになったのに一枚噛んでいるのは間違いではない。

 順番がどうあれ、かの者を動かした元というのは紛れもなくこの少女であった。それを理解しない訳では無いだろう────いや、安吾が求める、それに値する物を自分自身が持つべきなのだと、詞にしなくても彼女は理解していたのかもしれなかった。

 彼女が持つ、彼女にしかない、価値。

 けれどそれを求めたところで、例えばそれが自分自身に返ってきた時に、果して安吾は彼女のように詞を口にすることが出来ただろうか。

 

 

「安吾くん、私ね」

 

 

 眉間の辺りに指を添えたまま、再び彼女を見る。

 朧は木の幹に寄り掛かるようになって、顔だけ横を向いて此方を見ていた。反らした首が生白く光り、それが妙に神秘的にも思われて、一瞬だけ呼吸が止まったように錯覚する。

 その様子に気付かなかったのか、或いは気付かない振りをしたのか。朧は口の端だけで淡く笑みながら、少しだけ唇を開いた。

 

 

「薄っぺらく聞こえるかもしれないけれどね、本当に君には感謝してるんだ」

「…………」

 

 

 私は何も識らなかったから。

 漠然とただ、一人きりで(みち)を拓いていかなくちゃいけないのが異能者なのかなって、そんなことを考えていたんだ。

 

 

「異能者は普通じゃないし、普通じゃいられない──それでも、大きな枠の中では人であることに変わりない。人はきっと、一人では生きていけない。こんなことは、識っていた筈なのに」

 

 

 当たり前のことを、気付いてもいいのにね、と少女は呟いた。

 

 

「僕はただ、仕事で着いていっただけです」

「それでも、だよ。安吾くん」

「……何ですか」

「多分ね、そんな大層な理由は要らないよ。偶然あったことに私は感謝していて、そういった単純なことでも私と君が友人になるのは十分だと思うの」

 

 

 ──君は私の大切な人だから、改めてそれを伝えたかった、っていうのもあるんだ。

 此処まで、割と直球な詞であることに気付いて、眉間から指を離した。

 

 

「朧さんって、一度懐に入れた人には甘い人ですか」

「……そんな感じするかな?」

 

 

 頷く。

 甘い、というには語弊があるだろうか──とにかく、やたら距離感が近かった。

 そしてそんな彼女に対してだからこそなのか。年齢の割には精神的に成熟しているといえる安吾でも、自分の秘めているところを明かしてしまえば、責められはせずとも彼女から近い非難を受けるのかもしれない、という幼い恐怖を漠然と持っていた。

 

 

 

 

 

 教育係の男の足幅が大きいのを、少し早足になって追い掛けて居たのは、初めて少女と顔を合わせた帰りのことだ。

 

 

『あの人……朧さん、携帯電話持ってないって云ってましたけど』

 

 

 無理矢理連絡先を渡していたのを目撃している少年は、思いついたようにそれを尋ねた。

 

 

『んー、別に善いのさっ、アレで。ああいう感じの子なら近い内に連絡入れて来るだろ? お師匠は駄目なのは目に見えてるけど、あの娘なら、お前の頼みで頷く確率は未だ高い』

間諜(スパイ)の?』

『そういうコト。異能者であるお師匠なら、ポートマフィアでの地位もそれなりの筈だ。そんな地位にいる義娘だからこそ、上手く潜り込めるに違いないさ。理解したか?』

『……理解しました』

 

 

 粗がある、とは云わないまま、『流石。お前の教育係はホント楽だよ、安吾』と云ってひゅう、と下手な口笛を吹くのを聞く。ただ、それもきっと可能性の内の保険に過ぎないことなのだろう。

 そう思いながら『きっとお師匠は理解してても云わないだろうしな、あの分じゃ』と青年が呟く横顔を、見ていた。

 

 

『まあ、いい感じに友人に成ってくれよ。んで、頃合いを見てから少し話をしてみればいい。ポートマフィアの奴等がキナ臭い(・・・・)のは何時ものコトだけどな、俺らがそうと気付いた後にはもう時既に遅し────なんてのは洒落にもならんよ』

『…………』

『あ、因みに勧誘出来そうに無かったらお前自身が間諜になるんだぞ』

 

 

 流石にそれは、初耳だった。

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

 それから暫く、お互いの近況について軽く話をする──とはいえ、安吾の方はそんな詳しい仕事の内容を話せる訳では無い。

 殆どは目の前の少女が話していて、それに相槌を打ったり、たまにその会話に出て来た単語のせいで話が脱線したりするけれども、大体はそんな感じであった。

 

 

 話通して喉が渇いたと、傍らに置いていた水筒に手を伸ばす朧を眺めながら、先程から少しだけ気になっていたもう一つの風呂敷包みに、安吾も躙り寄って持ち上げてみる。

 丁度口をつけた水筒から顔を上げぷは、と息をついた朧が、それを見て少し目を丸くした。

 

 

「あれ、気になってたの?」

「…………まぁ」

 

 

 手にとって今更戻すことも出来ず気まずげにそっと視線を逸らした少年に、思わずくすり、と笑みを漏らす。

 中身は簡単な弁当と、甘味である。安吾が結び目を解くと、目に入ったのは重箱だった。

 

 

「張り切り過ぎでは?」

 

 

 え、そうかなぁと朧は少し首を傾げて、「何か院長先生から鍛練を中止にされて、代わりに料理の練習しろ、なんて云われたから」とさらっとそんなことを云った。

 蓋を開けると、存外綺麗に詰められている食事に、そういえば自炊をしようなんて考えたことも無かったな、と内心でそんなことを思う。

 

 

「餡子を使ったお菓子、とか妙に限定されたのだけど。院長先生が甘いの好きだとも思えなくて」

 

 

 安吾くん識ってるかな、という控え目な問いに無言で否定を返す。識っている訳が無い。

 

 

「というか、鍛練の中止って何したんですか」

「……さぁ、私が教えて欲しい位だよ」

 

 

 本当に解らないのだから、これまでの自分を振り返ってみても判然としないことであった。……正直に云うと、そこから料理の練習をするところに繋がる辺りが一番よく解らないのだが。確かに、切って煮るだけの最低限のことしかしてこなかったことは認めるけれど。

 

 肩に落ちていた白桃色の花弁を払ってから、結び目を解かれそのまま落ちていた風呂敷の中から箸を取り出してはい、と少年に手渡す。

 何故か疑わしげな目で見られたことだけが、釈然としない。

 

 

「毒味ですか」

「…………ふふ」

 

 

 流石に失礼だと思う、とか少し思ったりもしたが、これが少年の照れ隠しだったとすれば微笑ましくも思えて、少し笑いが溢れてきた。

 次に皿を渡そうとして、ついでに伸ばした手でそのまま年下の友人の髪を撫で付けたのは、似てないにしても僅かに、其処に弟を思い出したからだった。

 突然のことに虚を衝かれた表情が、直ぐに抗議の視線を向けてくるのが面白くてくすくす笑う。

 

 

「何してるんです」

「桜の花弁がついてたから」

「……取ったなら手を離して欲しいんですがね」

 

 

 それでもこの手を払わないあたり、少年も実は認めているんじゃないのか、なんて台詞は口にはしなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




個人的に安吾さんは雨が似合う人です。大体彼を書くときには作業用BGMに雨関連の曲を流しています。




雨の日の無頼派三人組+α(個人的なイメージ)

織田作:基本傘を差さない。朧と二人で傘の中に入って肩の端っことかが濡れてたりすると非常に私得。
安吾:雨の似合う人。傘は折り畳み常備。眼鏡に水滴とか嫌がりそう。
太宰:傘を使うのが想像できない人。多分持ってても使わないと思う。傘は持ち手よりも真ん中辺りを持ってそう。
朧:傘を持たない人。雨の日は大体濡れてるところを他の人の傘に強制避難させられてる。
濡れてブラウスが肌にぺったりついたりすると(作者が)嬉しい。



※※
三章予定を数えたら全二十一話になった件。えっ(´・ω・`)
オリキャラを大量に出した弊害が此処に……朧ちゃんを色んな人に出逢わせるのが大変です。









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第二六話 ただしくないひと(前編)

ぬるり、と猫が人の形をとる様子を見るのは、何も初めてでは無い。
男はその猫が誰なのか承知していたし、猫の方だって男とは随分と長い付き合いであるからだ。

だが、まるで違う大きさに変化するのは何時見ても面妖以外の何物でもない。
猫……猫であった人は、そんな男を前にして、やや呆れたような口調になっていた。


「ほんに面倒な奴だなぁ、御前(おまえ)は」
「……夏目」


それから交わされた、二言三言の会話。
その後に、「さてな、」と片方が相手にそう応えた。


「だが過保護な御前に、娘を少し観察しただけの儂はこう云おうか──あの子は、御前によく似ているぞ」
「…………」




 

 よくやって来る猫が居る。

 

 それは、新しい家に越してきてから数日して、人の気配につられて現れたのだろうと、朧は最初の頃こそはそう思っていた。

 

 それはいやに馴れ馴れしい素振りを見せながらも、一定の距離を置くような獣だった。

 何処か嫌いになれず、見た目は普通そのものだが然し、暫く見ていれば、そこらの野良に紛れていても見分けられるようになってしまう程度には不思議な空気を纏っていたように思う。

 

 

 少女が友人となった少年と、花見を称して逢いに往った少し後のことだった。

 見た目は確かに普通であっても、実は珍しい猫であるのだ、とその時に識った。──希少であろう猫の色は三毛のそれであったが、然し雄猫であるらしいという。

 三毛は総じて雌であることが多い。それの雄ともなれば、かなりの低確率でしか産まれないのだとか。

 最初にそれを聞いた時、先ず何よりも先に首を傾げてしまったのは、きっと間違っていないだろう。

 

 何故野良なのか、或いは放蕩癖のある飼い猫なのか、よりによって何故自分の目の前に、そんな世にも珍しいものが存在しているのか。

 けれどもきっと、それ以上に、猫嫌いな筈の養い親がそれを『雄猫である』と断定したそのことが──ひっくり返して腹を見なければ判らないような情報を識っているのを疑問に思った。

 

 不思議なのは、猫が嫌いであると、過去にはっきりと云っていた筈の養い親についてだった。厭っているとありありと貌に浮かべている男が何故、触らなければ識りえないようなことを識っているのか、であった。

 

 好きの反対は無関心──そう誰かが云っていた。

 それなのに、若し嫌いならば無視するのが普通であるのに、一人と一匹がやたら一緒に居るのを見かけるのは果して、少女の気のせいでは無いのだろう。

 しかもそれは、猫好きなのに微妙に距離を置かれている彼女よりも若干、近いのだ。

 

 

「……その猫、野良の割には人懐こい子ですよね」

 

 

 構わなければいいのに、そう思いながらも今日とて睨み合っている──正確に云うなら肝心の猫の方は寛ぐようにしていて、残念なことに一方的な敵愾心だ──をしている養い親の方へ近づいたところ、その声で漸く気付いたように顔を向けてくるのが珍しいと思わされる。

 

「──ああ、朧か」と一拍遅れた返事に、それまで感知されていなかったのは明白であった。

 ……隠遁は養い親の方が遥かに上手いことを身を以て識っているからこそ、流石に少し看過出来ないというか、そんな感じだ。

 それを云おうか云うまいか。僅かばかりの逡巡の内に、ふと険しかった視線が緩む瞬間を目にして、少女は確かに虚を衝かれたのだった。

 

 

「触ってみろ」

「……この猫を、ですか」

 

 

 朧は猫が好きではあったが、何故か度々目にするこの猫に触れたことは一度だって無かった。

 何故、と、そう問われてしまえば返事に窮してしまうのだが、敢えて云うならば、空けられている一定の距離感に、まるで獣に似つかわしくない理性を垣間見せる獣自身から、立ち入ってはならないと、そう云われているように思われたのだ。

 

 

 ──ただ、もう一つ。

 例えば養い親にそれを見られたら。そんな時に彼がどんな反応をするのかが想像出来ない、少しばかり臆病な気持ちが働いたからでもあるが、彼女がそれを胸の内だけに留めているのは、また別の話だろうか。

 

 ただ結局は、少女は云われたように恐る恐る触れてみたのだった。猫の気紛れか、或いは養い親の詞を聞いて理解したのか、その時は定かで無かったのだが──逃げられることは無かった。

 

 ふわ、とその毛並みに指が沈む。

 けれど、毛並みの感触とか距離を空けられていた猫からの反応とかよりも、その時感じた別のこと(・・・・)に少女はぱちり、と目を瞬かせた。

 

 ……養い親は、その猫を『夏目』と、そう呼んでいた。

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

 夏目。

 そう呼ばれた猫は、よく養い親と居る場面を多々目にしたが、何もずっとべったりとしている訳では無かった。

 寧ろ日中は仕事で居ないことが多い養い親であったので、朧の周辺にも時々ふらりと現れた──あの初めて触ってみたその日以降、距離を縮めてくれたのは嬉しい誤算でもあると同時に、少し複雑でもあったけれど。

 

 

 ふ、と曇天の空を振り仰いで、その視界の隅に、此方へ真っ直ぐにやって来ているのだろう存在を目に捉えた。

 ぽつり、と額に雫が乗って、直ぐにさあさあと音を立て始める。丁度買い物の帰りだった袋を胸に抱えるようにして、やっぱり喫茶店に寄ったのは間違ったかなぁ、とそんな感想を抱いた。

 

 鍛練が無くなっても自主的にそれを行っている、とはいえ一日を過ごすには時間が余ってしまうのは明らかである。

 

 朧だって何もしない訳にはいかないし、第一鍛練が無くなったのだって自分の意思ではない。

 何かしていないと気が済まない孤児院の身の上としては、何もしないことこそが少女の恐怖であるといっても過言では無いのだから──穏やかな時間を望んでいるとはいえ、それは時間を無為に過ごしたいというのとはまるで別物である。自身がそんな性分じゃないということだけは、朧ははっきりとそう云えるだろう。

 

 そんな考えもあって、朧は求人広告なる紙にまとめられている目録(リスト)に載った場所へ、客としてちょくちょく見に行くことを繰り返していた。今日この日に立ち寄った処もそんな場所の一つで、昼過ぎの今は買い物ついでに店内の観察に向かって帰る、家への道のりを歩む途中だった。

 

 

 

 さあさあ、と細かな雨は何処か霧のようにも思えて、ふ、と意味も無く目を眇めた少女は翳すような形でその掌を額に置いた。

 少しの間に、雨で地面の色が変わっている。

 然し多分、そこまで長くは降らないのだろう。 そう思いながら、川沿いの途を進む。

 

 すぐ横の土手は、雨と草の匂いであふれていた。

 中途半端に刈り取ったのだろう草の匂いは、きっと降りだした雨も相まって強くその存在を主張し鼻をつく。

 流れてくる風は、どこか生ぬるい。

 春先を過ぎ、初夏一歩手前、といった程度の季節は、暑がりな兄ならばきっと暑いと唸るに違いなかった。

 雨のせいか、きっともう散り時であったのもあるのだろうが、桜並木の下にはもうかなりの花弁が散乱するように落ちていた。

 頭に落ちた水滴が顎から滴り、足に落ちた。

 その足下で薄紅の花弁を踏みつけ、黒く汚すようにして歩いていく。

 買い物袋を持っていない方で惰性のように上げた腕は、それでも矢張り雨を防ぐには完璧とは言えない。

 天気の所為か、安吾と共に見上げた時よりもどこかくすんだ色をして見える柔らかな薄紅。その中に、緑の葉が交じっているのを見る。

 

 

 ぴたり、と別の音が寄ってくるのを聞いて、その方へと顔を向けた。この身長よりも高い位置からの音は、道沿いに狭苦しく並び立つ家々の間の僅かな隙間からするすると出てきたモノで、朧はそれを暫し見詰める。

 最早見馴れた三毛猫は、塀の上を器用に歩いていた。時折ぴたぴたと濡れた音をさせながら、少女は何時の間にか自分が立ち止まっていることに気付いた。

 

 どうせついてくるのだろうという想像は、正しかった。

 見詰めていたのから目を離して、少し早足になって進むと、それにも関わらず追い付かれたのには、きっと数分もかかってはいない。

 

 濡れて張り付いた前髪を少し鬱陶しく思いながら、大股についてくる『彼』の気配と心なし大きな足音が近づくのに、人に戻ったのだな、と理解する。

不意に、全身に掛かり続ける筈の雨が無くなった。丁度頭上にはそれを遮る物があり、直ぐ後ろには追い掛けてきた人が居た。

 

 

「濡れるぞ?」

「……『先生』もびしょ濡れですよ。雨の日に散策なんかするからです」

 

 

 傘を傾けてくれた背広姿の壮年に一言だけ返して、少女は、傘をさしかけられたのをそのままに、微妙な顔つきになった。

 

 降り注ぐ雨は静かに傘を叩いているのに、その音が、この空間の中ではやけに大きく響いていた。

 

 

 

 



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第二七話 ただしくないひと(後編)

 ──本を、探していました。


 そう云うと、『先生』は何か興味をそそられる要素をそこに感じたのか、そんな表情で此方に向き直った。
 お茶請けの菓子をつつき咀嚼している。その合間に顎をくい、と動かして、続きを促されたらしい、と察した。

 …………、とはいえ。
 それが頭の片隅に留める程度の、現実味のない願いであるのも一因ではあるが、私が、何も識らない、存在するかも定かではない何か(・・)を探しているのだと──そう云うのは、仔細をぼやかす様にしたにしてもそれなりに勇気を必要とするのだ。
 触れる社会の裏側が如何に混沌を混ぜた闇であろうとも、それが一際異質な私の輪廻の巡りの一端を記憶していることを許容してくれるとは思わなかった。


 ──何も為し得ずに死んだ(ひと)の、未完の作品(ものがたり)を、或いはその人の人生を綴ったものを。


 呟いたそれが少女にとって何を意味するのかは、矢張り少女のみ識ることである。



 獣と人として、ではなく、二人の人として──大人一人と子供一人が初めて互いにその顔を認めた時、彼らを繋ぐであろうそもそもの発端であった男は居合わせていなかった。

 

 仕事を手にしている者ならば大抵はそうすべきだという当たり前に従って働くような、そんな時間帯である。

 その壮年のことを『先生』と、養い親と然程変わらないような名称で呼び掛けることになったのは、きっとそれが相応しい──自然であるように思えたからだ。

 

 人の姿で初めて対面した場所は、広い、邸と云っても善いくらいの家の、庭に面している縁側であった。

 雑草が無差別に端から庭を侵略しつつある中、その時は未だ、一人の男の、昔の未練を焼いた跡が土に焦げ付いたまま残っていた。少女が持て余した暇を潰すべく、少しずつ整え始めていた庭だが、如何せんゆっくりな進行で、まだまだ荒れていると云っても善い様相だった。

 

 丁当陽当たりの善い時間帯である為か、三毛が縁側で既に丸まっているのを見かけて、少女がいそいそと動き始めたのは、茶請けの準備をする為だ。

 茶を注いだ湯呑みに、皿に載せた萩餅を各々二人ぶん準備して盆に置く。そのまま、猫の隣にすとんと座り込んで皿をそっと差し出した。

 

 手を伸ばして、その頭を一撫ですると、矢張りそこに感じるものが間違いで無いと思わされて、撫でていた自分の指先を暫し見詰めた。

 少女の異能──異能力名は未だ決まっていなかった──は基本生きている者には影響を及ぼさない、詰まり『もの』にしか作用しない代物である。

 

 然し何故か、例外だとでも云うように──特異なる人間共、異能者の持ち得る異能という『もの』に対しては、生きている人間であっても、彼らが異能者である限り正しく作用するのだ。

 少女が触れる物はその際に、対象が果して異能を施せる『もの』であるか否かを違和感のようなものとして察知することが出来る。

 そして、──その特性を鑑みたならば、違和感を感じた生き物の正体にも多少見当がつくものだ。

 養い親が少女に()を触らせた時、きっと彼はそれを彼女に気付かせたかったに違いないのだと、少女はそう思っている。

 

 自分のぶんの湯呑みを持って、やや熱く淹れすぎた茶に息を吹き掛けて冷ます。そっと息を吹き掛けながら、唇を水面に近付けて、横目で隣の様子を伺った。

 当の本人は──今ばかりは、本猫の方が善いのだろうか──ぱたり、と床を尻尾で叩きながら素知らぬ顔、とでもいうような風にしている。

 

 視線を逸らして、──多分見ているから遠慮されるのだと思って──そうすれば予想の通りに、少しの間をおいて空気が揺れるのを感じた。

 

 

「…………初めまして?」

 

 

 足を組み、脇には杖を置いてある。その時に、朧は漸くまじまじとその男を眺めることを許された。

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

 しっとりと互いに濡れてしまった後に傘に入るというのは、何とも不毛なことだった。

 ちらり、と半歩後ろに立つようにしている彼……猫だったもの、院長先生の知り合いであろう人、そして少女から云わせれば支援者(スポンサー)であり、養い親とは別の意味を含めた『先生』、というのが正しい。

 

 朧を構成しているものが、覚えてもいない前世とやらを基盤とし今世の人々との関係によるのだとするならば。そんな私の歩く、無明の中に与えられた導きの灯こそが、養い親が本心かも判らぬ気紛れさで放り投げた機会……この壮年の存在だ。

 新たに増えた知り合いがまた(・・)異能者であることには最早驚く必要は無いのだろうと思う。

 まあ、抑も、異能に頼ってしまうような場面には未だあまり出くわしてはいないので、限りなく平和ではあったのだけれど。

 

 

 ──朧の中の大人というのは、裏で生きている人々だった。院長であり、広津でもあり、数歳しか離れていない白木()であった。

 

 きっとその無明の眠りの中で、手探りだけで一層厳しい道程を歩いている。なまじっかある人生という経験が、苦境の中に立ったとして簡単に諦める(死ぬ)ことを許さない。

 馴れればそれも苦にはならなくなるのだろう、そう思わせるような老熟した空気を特に感じるのが『先生』という人だった。

 

 

 

 

 

 数分間、特に喋ることは無かった。

 

 道を二人、付かず離れず程度の距離を保ったまま家を目指す。

 しっとりと湿り気を帯び濡れた髪の先から水滴が首筋を濡らし、着ている服の襟が張り付くようで少々不快だ。……それを考えれば、傘をさしかけられるのも無駄では無かったのだろうか。

 少女の丁度隣に位置するように、その手だけが視界に入っている。

 そこから腕が伸びて、体自体は少女の後ろだ。背後を取られていて、しかもそれが大人の男であるという事実は、敵意をこの身が感じていないとはいっても少しの緊張は拭えない。

 けれども実際、彼女には人に対してあまり、苛烈ともいうような嫌悪の類の感情を抱いたことが無いのだから、出逢って間もない人間に対する心情としては正しいのかもしれない。

 

 

「…………」

 

 

 気まずさもあるが、実際彼に対する感情を占めているのは気後れだ、とした方が正しかった。

 背後を取られていて、しかも敵意が無いということが──それを感じていないからこそ、逆に朧を落ち着かなくさせた。まるっきり別物ではあったのだが、何となく養い親に相対した時に感じるものとよく似ているようにも思えた。

 

 

 

 

 がさり、と買い物袋を揺らすように身じろぎして、朧は足を動かす。無言が苦にならなく成るには、二人は未だそこまで関係を築けていない。

 少女が歩み寄ることに躊躇しているというのと、壮年がその現状をただ静かに眺めていて、それは端から見たら膠着状態、というのが適切だ。だって何となく背後の男は無口には思えない、そんな先入観があった。

 

 あまり、周囲では見ないような様子のひとは、その後ろで少女の内心を見透かしたようなにこやかさであったのを彼女は識らない。

 だから、──少女の歩く端からぴたぴたと水を踏みつける音だけが濁って響いて、それに少し眉を下げたのも、背後に居る男が識る由もない。

 

 

 

 

 

「空を飛べたら善いのに、と思うこと、ありませんか」

 

 

 唐突にそんなことを口にした少女が、態々振り返って男を見ることは無かった。

 それは偶然周りに聞かれてしまった独り言のようでもあり、また単にもう一人への純粋なる問いかけのようでもあった。

 友人の少年──安吾から『蛍石の瞳』と称された翠の眼は、薄暗く空を覆う雲のせいか、やや陰ったように伏せられて地面の方を見詰めていた。

 

 

「さて、そういう(・・・・)乗り物がある、と聞きたい訳では無さそうだな」

 

 

 後ろからでも判る、こっくりとした首肯は、流石の男にもそれしか返せなかったのだろう。

 

 

「きっと自由に飛べたのなら、さぞかし楽しいのだろう、と」

「……だがこんな天気の日には、寒くてかなわんだろうな」

「さぁ。──変な質問でしたか」

「そうだな、会話に困った時にする話題としては珍しかろう」

 

 

 今度こそ振り返った少女の、表情の解りにくい貌に少しばかり、苦笑いの如き感情を男は読み取った。

 少女の養い親に似ている処はあるが、けれどどうにも別の箇所で妙に内向的な性格の少女である。

 

 

「嗚呼、そう困った貌をされると此方も困る────その辺は『彼』には似なかったのだな」

「…………」

 

 

 ふと、思ったことを口にしただけだ。

 そして、その口に出したことが意外にも少女の核心に触れるようなものだった、それだけのことだった。

 

 

 水溜まりに靴の先が少し入り込んで波を立てた。

 ──雨はあまり好かない。

 だって飛べない生き物というのは、只管に泥濘に足を沈ませて歩くしかないから。自分の矮小さを理解し受け入れていても、思い知らされることが平気に思える訳ではない。……何処か憂鬱な気分に襲われるものだった。

 生き物は、もし例えるとしたならば──そこから如何に抵抗無く移動できるか考えるのが少女の養い親で、ずぶずぶと突っ込んだ足を引き抜くのを躊躇うのが少女だ。

 

 何か意味が有るのかと聞かれれば確実に無いと云うような、そんな内容の話、の筈だ。

 愚痴紛いの、大して意味の無いような──けれどもある瞬間に少女の心を僅かに揺さぶっただけの内容。

 

 大体を聞き手に徹している少女は沈黙が苦手ではない。けれどもそれは、彼女の周囲に、少女自身が関わろうと決めた者、そうでなくとも大抵が物心つく時には居たからこそだ。

 気心知れた間柄ではない、辛うじて知り合い以上と出来る程度の人が殆どで、ならばあの郊外にぽつりとある孤児院は、そういう(・・・・)見方をすれば確かに恵まれているだろう場所だった。

 ……もっとも、少女はそういう捉え方をする自身が少数派であろうとは、よくよく理解している心算(つもり)ではあるのだが。

 

 

 

 

 

 きぃ、と家の門扉を押し開けて玄関の中へ入り、玄関口に入ってから漸く頭上の傘が退けられる。

 

 畳んでから、傘立てへと無造作に濡れそぼったそれを入れた。纏わりつく湿気に、お互い止まない霧のような細い雨を降らす空を眺めていると、ぼそりと「身体を拭くものを持ってきます」と云った少女が片手で胸元に荷物を抱えたまま器用に靴を脱いで廊下へと上がった。

 

 

「少し待ってて下さいね」

 

 

 暗に上がってくるなとの含みを持たせ──濡れ具合は彼の方が少女よりも遥かに酷いと云えたので──足の裏に張りついた靴下は剥がさなければならなくて、少し眉を顰め内履きに履き替えた。

 

 とすとす、と軽く足音を立てながら、衣嚢(ポケット)から取り出すのは携帯式の電話だ。あまり扱いが上手くない少女にも出来る程度の操作で、知り合いから連絡が無いことを確認する。

 一軒家にしてはそこそこ長い長さの廊下を渡りきってから居間の電気をぱちり、と点けた。

 浴室の外に備え付けてある棚からタオルを数枚取り出してから、一つは頭に被り、他は玄関へと持っていった。

 また(・・)猫に戻っているのは、廊下が必要以上に濡れないので正直ありがたかった。玄関へと引き返し、タオルに猫を包み抱き上げた少女はそのまま移動する。

 途中で足を拭い、背中をタオルで擦って水気を軽く取り除いた。腹の辺りは男の尊厳とか──異能とそれなりの付き合いがあるだろう彼にとっては割と今更な話かもしれないが──少女の精神的に色々とくる(・・)ものがあるので遠慮させて頂いた。

 

 縁側にタオルごと置いて、しとしとという雨音を背後に聞きながら台所へと向かう。急いで風呂に入る程気にする必要は無い。それよりも、身体を芯から温めるような熱い茶の方が好ましい。

 

 

 熱い茶と茶請けを二人ぶん。何度か繰り返した作業は、少女には最早お手の物だった。

 養い親風に云うなら、『お供え物』という奴だ。かの()はどうやら甘い物に目がないらしい、ということだったので。

 

 朧は、湿っているだろう背広を脱いだ人型に背後から近づいた。横には杖と、無造作に畳まれた服がある。当人は気にするでもなく胡座で座っていた。

 一瞥する──見た目だけなら、結構な速さで乾いているのではないだろうか。なにぶん、大分濡れていたにしても、猫の毛並みは水気に強かったのだろう、それが人型に反映されたならば、こうなるのも頷けるというものだ。

 ……今更、猫だとか人だとかの不可思議な云々を異能者(私たち)が気にしたとして、その事実は動かぬものである。

 

 手近にあった衣紋掛け(ハンガー)にその背広を吊るし、壮年の横に陣取って、「猫、と云うからには猫舌なんでしょうか」と問い掛けた。

 湯呑みを一度持ち上げた姿は、その熱さを掌で感じたらしく、口をつける前に下ろされた。

 

 

「うん? 熱いのは苦手だな。嫌いでは無いが」

「先生のは(ぬる)くすれば善かったですね……因みに今日のお菓子は、先生の好きなお店の羊羹ですよ?」

「頂こう」

 

 

 くるりと向き直って、素直に差し出した皿へと楊枝を突き出した壮年の隣で、朧は舌が痺れるような熱さの茶を飲み込んだ。

 少女はやや火が苦手ではあるが、だとしても、熱いのが苦手な理由にはならなかった──寧ろこれ位の温度であれば、熱に割と強い少女からすれば臓腑にじんわりと伝わる熱は好ましい。

 料理の際にしていた茶を淹れる練習が成果を出したようで、朧にはお菓子作りの適正に見合う位には茶淹れが上手く成っていたようだった。

 こと萩餅に関しては隣の壮年からも「美味いな、姫よ」と満足げな一言を聞いている。

 

 

 

 

 

 ……少しばかりの交流から始まった関係ではあったが、時間が、彼らを一緒に外に出る位に近づいた間柄へと変化させるのは容易だったのだろう、と少しばかり振り返る。

 少女が一方的に近寄りがたいと感じているとしても、それは実際に危害を加えられているのではなく、恐怖とは別のものだ。

 夏目が『人を動かす側の人間』であり、朧が『人に動かされる側の人間』であること。そして朧が

 、男を彼女の養い親のような身内であるとは認識していない、未だあくまでも他人に過ぎないということ。

 引け目を感じてしまうのは自然なことで、けれども、無意識の境界線を知らずのうちに知覚し、適度な距離感を保ってくれているのは隣人のようにも感じさせる。

 

 出来たばかりの奇妙な関係は、それでも互いに『先生』『姫』と呼ぶようにさせるには十分な繋がりであったと思う──正直その呼称は朧からしたらまるで柄では無いものではあったのだが。

 ただ、その呼称にすら慣れて違和感が消えてしまった後、ふと思い出したように尋ねたところ……子供をあまり好かない彼女の養い親が一歩でも踏み入れることを許し、結果的にはその庇護に大事に(とは彼らの性格的に云いきれないものではあったが)包まれて此処までやって来た少女に向ける呼び名としては正しかっただろう、と笑われるのは未だ先の、彼女には識り得ない話だ。

 

 

 

 

 

 未だ整っていない、見るようなものもない庭に雨が地面を打ち付けるのを黙って隣り合わせになりながら眺めていて、先に口火を切ったのは、夏目の方だった。

 皿をつついていた手をふと止めて、「先程の話のことだが」と朧に話題を振ってきた。

 先程とは、と今少しばかり振り返る。

 

 

 ──空を飛べたら善いのに、と思うこと、ありませんか。

 

 

 …………自分が云ったことは、何か意図があって口に出したのではない。

 けれども、ぽろっとそう口に出していた少女の詞を、どうやら壮年は完全に聞き流した訳でなかったらしい。

 

 話の内容に簡単に当たりをつけてから──話はあれで終わっていたのだ──首を傾げ、朧もまた、そっと皿を取り上げた。

 いい店の羊羹は貧乏舌の彼女からすれば勿体ないようにも思える代物で、壮年よりも小さめに切り分けてしまったのは仕方ないことだと思うのだ。

 

 しとしとと音を響かせている空は見上げずとも、その曇っている様を思い浮かべられる。よく見えない、何か飛んでいても目視できないことがしばしばの、特筆するものもない薄墨色の空だ。

 

 

「飛びたい、まぁ、思ったことはあるな」と、空になった自分の皿に詞のないお代わりを要求しつつ男は云う。

 

「だがなぁ、姫──朧よ。自由を希求する(飛ぶのを願う)ことは、即ち、一人でもあるのだ。御前とて、一人は寂しかろう?」

「…………」

「願いは、それが手に届かない範囲にある無茶である限り、どんなものとて正当化されぬものだ」

 

 

 そう、云われる詞に少女は少し考え込んで、暫くしてから何の捻りも出来ないことを諦めたように一口、切り分けた羊羹をもそもそと咀嚼した。

 時折湯呑みで、冷えた指先を温めながら、一息吐いて「大丈夫ですよ」と云った。

 

 

「叶わない類の願いだということは、私も流石に判ります」

 

 

 その結果の最たるものが、弟たちと離れてしまったというそのことであったので。それに、逆にそうしなければ叶わない願いだって幾つもあったのだから……ただ、矢張り詞にしてみると少し考えてしまうところがあるのは仕方の無いことであろう。

 うっすらと微笑みのような曖昧な表情を浮かべた隣では、ふむ、と何か思案するような声音がする。

 

 

「……こんな詞を云った人が居た。

『──生きながらえるためには服従すべきであり、存在しつづけるためには戦うべきである』と。さて、姫の現状(いま)は果してどうなのだろうな?」

 

 

 養い親の言に諾々と従うのが前者で、けれども、本来自由であるべき自身の主張は、確かに彼の意見と同じであるのだから。

 彼との話は、正しく『先生』と生徒の関係のようで、彼女はどうあってもその問に自分なりの答えを述べなければならなかった。……微妙に話をすり替えられて、切っ掛け自体は彼からすれば何でも善かったのかもしれぬ、とはちょっと思いもしたけれど。

 朧は暫し目を伏せ、「……少なくとも」と唇を動かす。

 

 

「少なくとも今、庇護の下にある私は──その人風に云うなら『生きながらえ』ているのでしょうけど。今は、ほら。『戦う』為の下準備のようなものでしょう?」

 

「大丈夫だと、勝手に思ってるんです」と、その養い親よりかは幾分柔らかく頬を緩める。

 

「これでも状況判断が善い方だ、と褒められてるんですよ? 院長先生が云い出したことであっても、結局のところ、その決断は私の意思に委ねられたものには違いありませんから」

「だから、大丈夫だと」

「後悔はもう、しない心算(つもり)です」

 

 

 大体、養い親が──院長先生が、今になって少女の不利益と成り得ることをしろと云う筈がないのだ。

 その上、もし万一にでも逼迫した状況に自分が至ったとして、それを自身のみで解決しなければならないのはきっと、少女が大人の女性になる未来の話だ。

 まあ、この壮年の詰まるところの真意は──……その場面が来たとして、果して直面する覚悟をしているのか、という話であるのだろう。

 

 

「すまんな」と夏目はからからと笑った。雨音に紛れ笑いながら、

 

「裏の世界とはなぁ、姫よ。どんな形であろうとも、どの程度であったとしても、大体は自身で戦い抗うことを選ぶ者こそが生き残るものよ」

 

 

 そんなことを云った。

 自身の進退に自分自身を賭けるには、未だ幼い自分は恵まれ過ぎている、と。

 

 

 ……もし波風立たない人生であったならばそもそもそんな事など起こり得ないとしても、私はきっと、それを不幸だとは思わない。

 思考停止でも何でもなく、 そう確信している以上、それは少女が選んだことだった。

 

 

 

 

 

 

 

 




お待たせ致しました。
夏目先生のキャラが分からずに奮闘することすること……(´・ω・`)
書き直した回数は五回目以降は数えていません。


後々書き直しするかもしれません。

夏目先生の簡単なキャラ付け設定(独自)
・羊羹を好む。
・猫舌
・朧ちゃんを『姫』と呼ぶ。
・何か食えない性格の人
・朧曰く、『導き手』である。  etc……






評価感想、お待ちしております。



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第二八話 彼岸に沿う歩み(前編)

青年はある時、一人の男の話を耳にした。

「…………生命判断師?」

人の死に際の場面を本人に伝えることが出来る、奇妙な占い師の話だった。


『     』

「ん、あぁ。じゃあ──近い内に逢う日を作ろうか、朧。うん、また」

 

耳から離し、手馴れた動作で釦に触れた。

ぴ、と音を一度上げてから沈黙する機械を、白木は暫く見詰めていた。

吐いた深い溜め息は、諦観ではなく、後悔でもない。端から見ればそうと取れるのかもしれないが、今更そう思うのは往生際が悪いと理解していた。

そんな考えが出来る程度には、白木は大人になった心算である。

けれども、あぁ────

 

 

「次に逢う時、もしかしたらお前を泣かせてしまうかもなぁ」

 

 

ぽつりと、そう呟いた。

 

 

 

**

 

 

 

その時、別に彼ら二人は、待ち合わせのようなことをしてその場所に居合わせた訳ではなかった。

 

 

「久し振りっすね、死神さん」

 

 

けれども偶然とするのもどこか違う。

その人と近い内に何処かで遭遇する必要があると思ってはいた白木は、かといって探していたという程の熱意でもって歩いていた訳ではなかった。

ただ何となく、導かれるようにして歩いていて、そこに目的の人が居た。それは、運が善かったとしても善いのかは定かではない。

 

植え込みの中から声を掛けても、動揺の気配はひとつとして伝わってこない。

予想通りの反応ではあったけれど、面白くない気持ちが沸いてくる。基本はそこそこの愛想を持っている彼が嫌っている最たる人は彼の養い親だった男だが、それとは別方向に不愉快なものをしばしば感じさせるのが、今白木の前に居る者だった。

あまり相性が善くないとしても、嫌いな相手だからと正面から話さないなんていう選択肢はないのだから、どうこうと文句を云うのは極力心の中に留める努力はしている。

口に出しても善いことが起きた試しはないと学習している。学習しているにも関わらず内心が結構そういう文句で溢れているせいでよくつるっと口から漏れたりするが、ご愛嬌というものだ。

 

彼──白木が、がさがさと繁る中をかき分け、態とらしく音を立てながら近づいた先。

開けた景色だった。

目の前の閑静な広場にある音は、鳥の声に噴水の水がさらさらと流れる音くらいしかない。あまり生き物の気配を感じない場所で、けれどもきっと、此方に背を向けた形で長椅子(ベンチ)に腰掛ける男は、音を立てるよりも前に来訪者の存在に気づいていたに違いない。

自分ならばともかく、相手はあの男だからきっとそんな芸当も容易いのだろうと、他人にそう思わせるような何かがあった。

 

白木の見知った人の一人だ。裏の世界でその名をよく識られ恐れられているその男は、そのくせポートマフィアの下っぱ構成員であってもその機会さえあれば顔見知りになれる。奇妙なものだが、それも男が恐れられているせいというのが大体の理由だろうと、白木はそう思っている。

その男のもうひとつ(・・・・・)の仕事にまつわる関係について、白木自身が他人事ではいられないからこその考えだった。

 

 

──死神、『告死』の男、と呼ばれるひとがいる。

決して誇張ではなく、他人の死を宣告し、時には鎌持つ魔を手繰って魂を浚っていくという異能の者。

 

 

「やぁ、殉教者」と呟いて、男が顔を上げた。

ひょろりとした痩身に、目元を隠すようにする服は元からある不気味さを増大させている。

 

 

「……皮肉なら間に合ってるっす」

「生きてたんだね?」

 

 

噛み合わない詞の応酬は、白木の得意とするところではない。

どちらかというと、身体を動かして切った張ったをする方が──白木の専らの得物は銃ではあるのだが──合っている。頭を動かすのは余程、孤児院に未だ居る弟の方が絶対に得手としているのだ。

 

噛み合わないが──その云わんとしていることは理解している。

 

 

「貴方が俺の死期を云ったんだ。忘れていた訳じゃないっすよね?」

「……その語尾、本当に変だよ」

 

「云ってろ」と吐き捨てるように詞を繋いだ。

敬語であろうとそうではなくとも、能力こそが尊重される中でそんなのは些末事である。──そもそも、そういった普通から逸脱しているような人間の方こそ色々とアクが強いものである。

まあつまり、お前が云うな、と。

 

陽光に石畳が照り返して、その眩しさに目を細めながら白木は、その男の隣に座った。

きっと年齢は優に一回りは離れていて、けれども会話をするのに年齢なんて気にするだけ無駄なものだ。

 

 

──白木という青年は、ポートマフィア、横浜の裏社会に君臨する組織の、比較的末端に位置する構成員だ。

朗らかで軽い口調、時々毒を含んだやや乱暴にも思われる詞遣い。前者は元々のもので、後者が仕事上で自然と身についていったものだった。

 

彼ら以外の人影が無いことをいいことに、──此処は所謂穴場、というやつなのだろう──常より上着に仕舞い込んでいる拳銃をからりころりと無造作に、手持ち無沙汰で手の中で転がす。

そうしながら、それまで男がやっていたように、ぼうっと光の中を眺めていた。それくらいしか暇を紛らわせることがなかった。

 

 

「生きてたんだね」

 

 

二度にわたり同じ台詞を繰り返した男の口振りは、ただ単純に、その白木が生きて存在しているという事実を確かめているに過ぎないのだろう。

 

 

「意外、とでも云いたいんすか」

「喧嘩売られたみたいに云わないでほしいなぁ」

 

 

目を見せない男がどんな感情をその瞳に写しているのか識りえないことだったが、その薄い唇は面白そうに端を上げて微笑んでいた。

 

 

「うーん、あの宣告を外して君が想定外の死に見舞われてたなら、僕は自分の副業を考え直さなきゃいけないなぁ……君が僕のお客さんってことを識ってる人が居るのかはともかくね、まあ意外ではないよ。でも、此処だと人が死ぬなんて割とよくあることだからね」

 

 

一瞬、詞の意味を計りかねた。けれども、白木は直ぐに納得に表情を歪ませた。

人死にが茶飯事のように起こっている中で、情に流されること程愚かなことはないのだ。

それを割り切れているかどうかはともかくとして。一見薄情なそれは、裏社会では当たり前のことである、と。

 

当たり前でない場所での当たり前は、詰まるところ普通ではない。明日の天気の話をするかのような呑気さで、それでも人が死を悼む時は、きっと己の本当に大切な人に対してのみだろう。

まして真に非情な人間なら、それすらもしない。…………それにこの殺し屋が果して当てはまるのか否かは、白木の識るところではない。

客の一人に過ぎない者と彼の間には薄い関係しかないのだろうと推察しても、実際どうなのかなんて、白木には皆目見当もつかないことである。

 

 

「まあ、確かに」

「そうだろう?」

「ええ」

 

「──それで?」

 

「それだけじゃあないでしょう、云うことは」

 

 

がちゃりと拳銃を頭部に突き付けて、白木は隣の男の方にぐるりと顔を向けた。

もっと欲しい詞があった。寧ろそれを男の口から聞くことが白木の目的でもあった。狂暴に目を細めて、白木は男を見据えた。

 

そんな状況でも矢張り、男は淡く微笑んだままだった。目深に被る服の陰で一度まばたきをした後、示し合わせたように彼の異能が、コートの黒色から溶け出すようにして現れる。

背後から抱きつく格好でふわりと背中に乗っているのは、昼日中の明るい中ではどこか奇妙だった……重さを感じさせない異形は、その実人には背負いきれない程の業を負っているのは既に識るところとなって久しい。

 

元より、お互いに本気で傷つけようとする考えはなかった。

少し息をついて、白木は片手で懐から、その大きさにしてはやや高い葡萄酒の瓶を取り出し放る。

少々生温くなっているだろうけれど、それを気にしないように死魔は軽やかに酒瓶を受け取った。

 

その主人はといえば、顎に手を当てている。思案げ、というよりは話し出す機会(タイミング)を窺っているようにも白木には感じられた。

 

 

「…………君に云っておきたいこと、か」

暫くして手を顎から外し、首を捻って異形の様子を見つめ始めた男は──なお、未だ銃口はしっかり彼の頭を狙っている──その後も少し沈黙を貫いて、「先日、『彼女』に遭ったよ」と漸く重い口を開いた。

 

 

「……そうっすか」

 

 

数瞬呼吸が止まったことを、果して気づかれただろうか。

穏やかな昼下がり、誰も来る気配は矢張りないものだから、そっと息を吐き出した。疲労混じりの安堵だった。…………空元気は、不本意ながら慣れていた。

 

 

「じゃあ今日の呼ばれ方は当て付けってことっすね」

「……君ってさ、意外と自虐の気があるよね」

 

 

白木が云い放ったことに、『告死』の男が明確な返答を避けたのは。きっと、お互いが中途半端にお互いを思いやった無責任さの表れだった。

 

──殉教者、とは。

そういう言い方はあながち間違いでもない。厭がったところでそれが事実だろうと、白木は心からそれを認めていたし、名付けた方だってそう感じたから呼んでいるのだ。

 

当て付けなんてものではない。単純に、彼だって青年の気持ちを読むことくらいは可能だ。詞としてその有り様を示されて、納得をしただけのことだった。

 

この、白木という名前の青年にとっての『かみさま』が一人の少女であったのだ、と。

狂っていると詰るならばそうすれば善い、所詮は裏社会の人間に常識を説いたところで何が変わることがあるだろうか。

 

 

「君が聞きたかったのは、この詞で善かったのかな。『もうじき、君は死ぬ』」

「……じゃあ、そろそろ、という想像は間違い無いんすかね」

「虫の知らせ、って奴かい────ねぇ、殉教者」

「…………なんすか」

「もし仮に、『彼女』が僕と同じだって云ったら、君は一体どうするんだろうね」

 

 

真逆、それこそ有り得ないことだろうと、白木は声をあげて笑った。

 

ゆっくりと腕を下げて、懐に銃を仕舞い直す。何か虚を衝かれたようでもあって、この死を弄ぶような男とあの泣き虫な可愛い妹が同じ種類のものを秘めているなんていうのは、とんだ戯れ言のようなものとして白木には捉えられた。

信じられていないことを、特段気にした様子もなく、思いつきで喋った一言のように流して、男はするりと話を戻す。事実なのに、と云ったところで彼はそれを信じないだろうし、識らないことが幸せなのはままあることだ。

 

 

「僕は君が『彼女』を『かみさま』と崇める位に好きだというのは理解出来ないよ。だってついこの間、すれ違っただけの、赤の他人の間柄だ。ただ、私情を挟んでもいいのなら……」

 

これは個人情報になってしまうのかなと一言置いてから、「僕の大事な子の、大切な人でもあったらしくてね、あまり他人事でもないんだ」──ゆったりと背凭れに寄りかかる。

 

あの子が幸せになるための、ゆくゆくは礎になるのならば。こんなことをお客に云うのは正しくないのだろうけれど、

 

「僕も実は君のことを探していたから、お相子かもね。まぁ、この僕個人からのお願いが釣り合うものだとは到底思ってはいないんだけど…………もうじき、君は死ぬ。ならば、あの子らの為に死んでほしい」

「死ぬ意味が増えるだけなら大歓迎っすよ」

「……はっきりと云うんだね」

 

白木はひょいと肩を竦めた。

「別に何か、実際の終わりが変わる訳じゃないっすよね。ただそこに居なくて見ることの叶わないあの()の未来で、俺の死は意味あるものだったのだろうと聞いただけ。そしてそれに、別の理由が一つ加わっただけだ……俺は、頼み事をされる程偉くなった心算はありませんよ」

 

 

何時かの裏路地で、その死の往く末を先んじて識らされた時から今までの間はそれなりに長かった、と思っている。つまり、逃げも隠れもしない。泣き喚くような時期は、疾うの昔に過ぎ去った。

 

白木は、無性に妹の顔が見たかった。

黒の混じる鮮やかな翠の瞳が、白木は一等好きだった。あの色は春の芽吹きの色に似ていた。

妹の……朧の前で、あの娘の為に死ねば、怖がりな少女が闇の世界に足を踏み入れるような間違いを犯すことはないのだろう、そうあって欲しいと、漠然とそう考えていた。

未来でお前はある少女の前で死ぬだろう、生命判断師の男にそう未来を予言されたことがあった。死に際を見せてしまうことが確定しているのを、そう言い訳して正当化したのだ。苦し紛れの言い訳は白木にとって無二のひとの為であり、けれども圧倒的に自分の為でもあった。

 

正しいのか正しくないのか──圧倒的に後者であろうと、心の片隅で冷静な部分が囁いていた。

白木が妹を心底大切に思っているのは本当のことで、だからこそ倫理観の壊れた(自分)は彼女の傍に居てはならない。

 

 

「因みに、その『大事な子』ってなんですか」

「別に変な子じゃないから安心したらいい──精神が早くに成熟してしまっただけの子供さ」

「そうすか」

 

 

普通だなぁ、と詞を素直に受け取った白木は苦笑した。少し、安心もした。

 

──白木は今日も、人を殺した。

 

平穏は遠い。人を撃ち殺したことは、死の生々しい感覚は無くとも硝煙の香りが染み着く。それは裏社会の住人であるともう否定しきれない程に身近なものだ。

この世界の人々は、きっと須らく狂っている。

 

どんなに優しげな人も、どれだけ陽気で暢気に振る舞っていても、異能を当たり前ように振るう怪物たちを白木は識っている。

 

 

願わくば。どうか、この世界に沈むようなことにはならないでくれと、そう祈っている。

 

 

 




──数年の間で、青年の心もまた変化を辿る。



分かりにくかったので、白木について少しまとめてみました。
○妹を心底愛している(かみさまのような、という意味合いで)
○『告死』の男の客の一人である
○自身の死に際に妹である少女が立ち会うことになるだろうと予め識っている
○横浜に妹が訪れたことで自分の命がもう長くないことを悟り、『告死』の男に確認を得ている
●妹が『告死』と同類(異能者)であることを識らない
●妹に裏社会は似合わない、来てほしくないと思っている
●自身の妹の前で死ぬことが、妹の裏社会入りの抑止力になるだろうと(無理矢理)思い込んでいる
●精神的に弱ってきている(または狂ってきている)




*第三章の軸となる、重要な回でもありました。

**多分今年の投稿はこれで終了です。滞り気味で申し訳ない。
時折活動報告の方で近況を載せたりしますので、詳しくはそちらをどうぞ。

***評価感想、お待ちしております。



では、少し早いですが、よいお年を!




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第二九話 彼岸に沿う歩み(後編)

「……貴方はあの子に救われるのかしら」
「──救われる? 今更救い何て要らないだろう」


 片や哀切が滲み、片や優しげに響いている睦言は、静かな部屋の中で語られた。
 暗闇の中、けれどもその暗さに馴れた眼で、または重ね合わせた肌の温かさで互いに認識し合っていた。

 暗闇の中、男は女に語る。
 くつり、と声が洩れた。


「僕らの行き着く先も、彼らが歩む道も綺麗じゃないなら、それは地獄以外には有り得ない」

 ぞくりと、名状し難いものが女の背筋に走った。
 彼はきっと、笑みを浮かべている──僕たちは、そう成るだけの業としてそれを背負うべきだろう。


 睦言である筈だ。
 優しげで、子供をあやしているような、それでいて冷たく取り付く島もない返答に、女は黙って、そっと眼を伏せた。明かりがない故に、勿論それがはっきりと見られることはない。解っていたから、何かに思いを馳せるように、口を慎んだ。
 ──あぁ、けれども指が自然と己の傷をなぞったのにはきっと気づかれたのだろう。


「…………ええ、そうね」


 貴方の痛みを和らげることが出来たとして、結局のところは苦しみに苛まれるに違いないのだから。




 

 殺伐とした空気や話題が一瞬でもあったとは思えないくらいに、和やかな空気になっていると白木は思った。

 お互い、切り替えが早いと自信を持って云える訳ではない。それでもぽつりぽつりと、お互いに会話を交わせるだけの心の余裕はある。

 空元気もその状態に馴れきってしまえば一周回って余裕が生まれてしまうものらしい。

 

 二人並んで腰かけた分だけの距離だけれど、それに忌避するまでの嫌悪はなかった。白木は自分が愚かで、どうしようもなく矮小だと識っていたから、その嫌悪が隣に腰かけている男に対する本能的な恐怖に起因することを薄々理解していた。

 そういう、普通の人間が理解し難いと感じるような人特有の部分を持っている人ではあったけれど。かといってその人間性までも否定しようと思う程の傲慢さなど抱えるような、そういう種類の愚かさまでは持っていない心算だった。

 

 

「はー……」

「深い溜め息だね」

「誰の所為だと思ってるんすかねェ……」

 

 

 息を吐き出したのと同時に、視界でひらりと葉が落ちるのを目にした。さらさらと風に揺らされる音は耳に心地よい。青々としたそれが何だか眩しいように感じ目を閉じて、微かな風が勝手に白木たちの髪を揺らしていく。

 生き物が息づく静けさを、きっと妹は好むのだろう。そういう、黙って寄り添うことが泣き虫な子供にも有効であると孤児院の経験から承知していた。彼自身がそれを求め求められ、他の子供がすがりつく頭を撫でている光景を見ていた。

 

 

 ──無理矢理言葉で説明するのなら、それはじんわりとした未練だった。

 そしてそんな風に思った途端に、そう思ってしまう自分こそが難儀なものだと憐れんだ。

 その未練すら、無くなってしまえば最早自分ではない、人間でなくなってしまうのではないかと思ってしまうくらいには、白木は自分が空虚な存在だと自覚していた。

 社会の波に揉まれ、弱い人の心を簡単に磨耗させる。心を削り、擦りきれた中で白木へ向けて導きの灯を掲げたのは他でもない、死神と称されることもある男。

 

 安穏としたぬるま湯の中で、それなりの幼少を白木は過ごした。痛みを伴う仕置きが存在していても、不運ではあったし恨みもしたが、不幸だとは思ってはいない。

 結果として裏社会の闇に溺れ、右か左か、そもそも何故こんな澱みに身を沈めてしまったのだったか。ただ、何だってはじまりというのは些末な事が多いのは確かで、そのはじまりを(しるべ)として示されたのは、藁にもすがる気持ちの、裏社会なんてものに身を浸す覚悟の無い一人の少年であった。

 

 

「君、時間は?」

「残念ながらまだまだ余裕っす」

「そうなんだ」

 

 

 休憩時間はまだまだ終わらない。

 他に何かがある訳でもなかったが、もう少し話していてもいいだろうと白木はぼんやりと思っていた。自分に直接的な害が及ぼされ無い限りは──もちろん例外も存在するのだけれど──自分から何かをするでもなかった。

 付け加えるなら、元々仕事量の少ない日を見計らってやって来ているのもあったのかもしれない。

 ポートマフィアは、そのブラックな仕事内容に反比例するように善い待遇を受けられる。そうでなければ釣り合いがとれないというものなのだろう。

 その代わりとでもいうように物理的な被害とか危ない取引やらが多いので、総評すれば圧倒的ブラックとして輝くのは自明の理ではあるが。…………自ら裏社会の中で過ごしているようにも見える『告死』の男は、果して何を思っているのだろうか、と考えることがある。

 考えるだけだ。人知を超えたものを、詮索する気は起こらなかった。

 ずるり、と『死魔』が男の中へと引っ込むのを見る。

 

 

「君が僕を見つけたのは全くの予想外だけどね──今日は待ち合わせをしているんだ」

 

 

 かつん。

 

 静けさの中で自分ではない人間の立てる音が紛れていることに気づくのに、そう云われるまで気づかなかった。

 咄嗟に広場の中央にある時計盤を見上げるが、その盤面は光を反射している。どこか非現実的な心地で、けれども覗き込もうとしたところで、詳しい時間の正確なところは判らない。

 

 

 こつん。

 

 人気の無い場所で待ち合わせをするのは、人にあまり見られたくない理由があるからだ。

 ぼんやりとしていた顔を戻すと、隣で先んじて気付いたいたらしい男が、知己に対するような気安さでひらひらと手を振っているのを視界の端に確認した。

 隣の男は、ただ何もせずに暇を持て余していたのではないようだった。確かにこの男も白木に用はあったのだろうが、今日のことは偶然であって、何も今、というのではない。

 

 

 かつ、こつん。

 

 靴音を立てて、音が近くなる。白木はちらりと顔を上げて、現れた人のことを然り気無く、不快に思われない程度に観察した。

 この、人ならざると云っても過言ではない雰囲気の男の交遊関係など、早々と識れるところにはないのだろうから、ほんの少しばかり、興味があった。

 

 

 

 ……その人もまた、一風変わった格好で立っている。

 姿は、ひたすらに黒かった。それ以外の色などなく、ただ黒のみを身に纏っている。透かしの入った黒の面紗、手に持っている洋物の傘まで黒という徹底振りだ。

『告死』の男と同じような黒尽くめは、一方で、その人の身体にまろみを持たせていた。

 

 

「やあ、待ってたよ」

 

 

 男は笑った。その視線の先で、丈の長い洋物の袴だけが身体に余裕を持たせるように微かに揺らめいている。

 それを眺め、余程のこと──識別出来ない程に女装趣味を凝らしたので無い限り、きっと女の人だろうと思った。推測するまでもなく。

 

 余すとこなく黒の装束に包まれ、またその体を縁取っている様は、肌を見せている面積自体が少ないにしては妙な色気と艶があり、醸し出されるのは浮世離れした美しさ。

 面紗のせいでよく解らない顔であっても、うつくしい人、なのだろうと思わせる。

 圧倒されるような心地でもいる白木は、紅で色付いた唇がくうっとつり上がる様を確かに目撃した。

 

 立ち止まった女との距離は、さほど離れていない。人工的な、芳しい花の香りが漂ってくる。

 白木にはほとんど縁の無い話ではあったものの、それが情婦であろうとは理解出来ていた。

 

 

「真っ昼間から……?」

「ちょっと、変な邪推はやめて欲しいな」

 

 

 思わずぼそりと呟いた、というような白木からちらりと胡乱げな視線を寄越されても、男が返してきた詞にはあからさまな色は見えず、寧ろ苦笑混じりでもあった。

 白木はあまり大仰な態度もとれず「はぁ」と頷きを返すだけだった。というのも、基本的な知識はあっても、かといってそういう(・・・・)類のことに詳しくなるような機会はあまり無かったのだ。そういうこととは縁遠いものだと白木自身が思っていた。

 

 青少年にあるまじき悟りの境地に至っている訳ではない。

 ただ、彼が持つ心で当てはまるものがあるとするならば、肉欲的な面の一切を削ぎ落とした愛だった。

 

 白木の大事なかの娘に、家族愛に限りなく似ていて、違うものを抱いていた。そして、その事を、あの妹は気づいていない、と思う。

 きっと、『やや過保護』なと思われる、それだけなのだろう。だからまず間違いなく、気づかれないだろうとも思っている。

 彼が抱えた想いは、彼女自身がどう思おうと、彼女の信頼を裏切るものになりうるものだ。

 そして、庇護していた存在に向けるにはきっと、随分と重すぎる。

 だから、胸の奥、その水底深くに沈めるのが肝要であった。知る者は己と、或いは隣の男だけ。二度と開かぬよう、陽の下に晒されぬよう棺に納めて──水葬されるのが相応しい。

 

 

 

 

 

 こつり。

 

 靴音は、時計の秒を刻む音のようにもとれた。

 女から香る花の香りは、華やかで艶やか、けれど人工的な、つくられた美しさであると思わせる。

 彼女が自分と同じような客の一人かとも思ったけれど、何かそれは違うようにも感じて、白木からしては身に覚えの無い懐かしさがあって、そのことに少しだけ困惑もした。

 

 記憶には無い、筈だ。

 隣の男を深淵とするなら、女は夜のような、と形容すべき黒さだった。底なしのではなく、まるで此方が包みこまれるような柔らかな夜の色。

 それは情婦の艶やかさを出す人にはまるでそぐわないことだっただろう。けれども一方で、白木がぱっとその人を見据えた時──彼女のその美しさに人工的な何かを感じたのは、そういう差異が普通の情婦よりもよく見てとれたからだ。

 

 

 くうっと(たわ)んで、美しく(歪に)つり上げられていた口元は、何に対して向けたものだろう。

 それはどこか落ち着かない気持ちにさせるものだったから、白木は邪推な詞を発した自分の口を慎んで、もぞもぞと座り心地悪くなった。

 まず自分から近寄らないだろう人なのに、本能が、慈しまれるべき子供だったかつての精神が求めてやまないのだろう懐かしさがあることに戸惑ってしまう。

 揺りかごを揺らしてくれるだろう存在として、目を細めて、そうしたのは彼女の方を見れば逆光で眩しいからだと思いたかった。

 

 ──そこに意味があったかは定かではなかったけれども、彼女は手にしていた傘を手元でくるりと一回転させ、眺めていた男はおかしそうに笑う。

 

 

「……二人ではなかったの?」

「僕が君に嘘を云ったためしが有るかい」

「…………あなたって、何時もそう」

 

 

 呟くように云った女が、そこで不意に一瞥してきて、白木は反射のように会釈をした。面紗に遮られて訓しいところは見えなかったが、視線が注がれるのは感じとれた。

 

 

「…………」

「…………?」

 

 

 首を傾げて、その視線が、興味深いというよりかは何か、白木の持つところのどこかを暴こうとしているような──そんな居心地の悪さだった。

 

 邪魔だと思われているのだろうか。

 ならば、直ぐ退散するべきだろう。

 ……何せ自分の話が終わった以上、これから先の男の時間は彼女に予約済みにされている。

 

 

「君たちってお互いに人見知りなのかい」と云って微笑んだのだろう、隣の男の空気が少し揺れた。真逆(まさか)そんな、正反対のことを云われようとは考えもしなかった。

 白木は返事もせずに立ち上がる。懐の銃が服と擦れた。──そうして立ち上がって、女の背が自分よりも高いことに気づく。

 

 

「帰るっすね。用事を思い出した」

 

「そうかい」と男は応えた。

「君に云うのも変だけど、──注意力散漫にならないように」

「少なくともあんたよりは射撃は上手いんですが?」

「ははは、確かにねぇ」

「…………帰る」

 

 

(云われなくとも)

 少なくとも、この男が「死期が近いことを悟ったからといって自棄にならないように」と暗に念押ししてきたことを察して、自然とふてくされた顔になる。

 死んでくれと云ってきた、他でもない本人に命を大事にしろ、と云われる。とんでもなく屈辱感があり、そして、そういう詞は『死神』には似合わないと思った。

 自分よりも裏社会に溶け込んでいる男は、自分よりも余程まともに見せることが上手かった。

 ── 一々そう思ってしまうから、きっと自分は未来で死ぬのだろうと。

 

 

 立ち上がり、もう一度女へと会釈して──会話を見守るように、女は黙ったままだった──踵を返した。きっとあの男は手を振っているのだろう、それでも白木は振り返りはしなかった。

 何かに導かれるように、あるいは気まぐれに歩いて見つけた場所に再び往けるような、そんな期待は無い。だから、道順を覚えることもしなかった。

 

 先程までの場所と、二人の黒尽くめを思い返しながら歩く。

 死の匂いを薫らせる痩身の男と、艶やかに口に引かれた紅が際立つ情婦の女。如何にも上手く順応して生きている、そんな二人の姿を、忘れようにも出来ないのが白木だった。

 

 歩いて歩いて、そのうちに見慣れた景色が周辺にあった。

 大通りまで足を伸ばす。ざわざわとさんざめく人々の間を縫って歩き、普段よく彷徨いている闇市の方へと流される。

 闇市に近くなる程、自然と治安は悪くなっていく。人の笑う顔は心なしか少なくなり、ちらりと人混みに見え隠れするみすぼらしい身なりの子供は、他人の銭を掠め取ろうとする機会を眈々と狙っている。

 余程自分よりも小さな子供の方が、余程社会というものに見切りをつけている。そのことに、白木は苦笑を漏らしたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……感謝してるわ」

「んー、何のことかな」

「識っているくせに、識らない振りをするのね」

「何時ものことじゃないか」

 

 

「本当に感謝してるのよ、わたしの名前を呼ばないでくれて」

「……まぁ、君がそこまで云うなら受け取っておこうか、『疼木(ひいらぎ)』」

「…………そうしてくれると嬉しいわ」

 

 

 女は唇だけで笑って、そう云った。

 

 

 

 

 

 

 

 




少し迷走中。更新遅れまして申し訳ございません。
文スト一四巻読みました。訳が分からなすぎて顔面の表情筋が死滅しました。
やばいぞこれは、思考が回らん……因果整合性って何……種田長官……

あと、ゴーゴリ氏のキャラが微妙に『告死』さんと被っているような……やばい(´・ω・`)


※評価感想、お待ちしております。






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第三〇話 微睡

 少年の同業者の男には、一風変わった異能を持つ者が居る。あまり世間に興味を示さない少年に積極的に絡んでくる同業者だ。

 

 ──曰く、彼は出逢った人の死に際という未来を見ることが出来るという。

 

 出逢った人の、というからにはそれぞれの、それこそ少年の未来すら彼は見据えることが出来るのだろう。けれど、少年が男にそれを尋ねたことはない。

 

 少年は、死に頓着していなかった。

 けれども、むざむざと抵抗なく死に至る心算もない。

 

 その姿勢を出逢ってから今までずっと貫き通してきた少年に、『告死』の男は何を云うでもなく微笑んだまま、見守っていた。

 

 その裏で何を思っていたのか。何を考え、願っているのか。その確たる真意を少年が識る術はない。それは、男の雰囲気が、それを識られたくないと云っているように思えたからでもあった。

 

 だから、少年は口を閉ざす。

 男は構わずよく喋った。

 

 最近云われた中で、忘れられない台詞がある。

 

 

「作坊に善いことを教えてあげよう。──近々訪れる出逢いの機会を、逃しちゃあいけないよ」

 

 

 台詞は助言、或いは教示のようにも聞こえた。

 そして、きっとそれは遠い未来ではないのだろう。

 

 近い未来のことまで男は視ることを可能にしたのだろうか、と少年は首を傾げることになった。

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

 ふらり、と立ち寄った喫茶店にも求人の張り紙があるのを目にして、案外何処にでも人の手は足りていないらしい、とそんな感想を抱いたような記憶がある。

 

 明るい陽の射し込む店内。気に障らない程度の音量で、低く音盤(レコード)が鳴らされ、疎らに居る人は各々がくつろいでいる。

 店主と対面するように席をとり、腰かけてみるとそこからは店内をよく見渡せた。

 ぐるり、と首を回して…………ふと、一人の客に目が止まる。

 

『彼』は窓際の席で一人、本を読み耽っていた。

 陽の光の明るさを気にする様子もなく、ただ、その鳶色(・・)の髪が陽光を通して赤金に光って見えるのを暫く──とはいえそれは、不審に思われない程度の短い間だ──眺めていた。

 

 既視感、しかしそれ以上に…………仮にそれ(デジャヴ)がなくとも、きっと私は心に何か、固く決めていたのかもしれない。

 意を決し店主に向き合った時、彼は既に解っている、とでもいうような素振りでいた。

「此所で働いてみたい、と思うのです」「宜しいんじゃあないでしょうか」そんな簡単なやり取りだけだったけれども。

 

 息を吸い込むと、やや煙たいとも錯覚してしまいそうなまでに染み付いているのだろう珈琲の香ばしい香りが鼻を擽った。

 ほぅ、と息を吐き出して、朧はゆるりと目を細めた。最初こそ嗅ぎ慣れなかったものも、少し経ってしまえば心地好いものとして感じられる。

 

 柔らかな陽が眩しく見えるこの喫茶店(カフェ)を、ことの外朧は好んでいるらしかった。

 年月を経たような曇り硝子、落ち着いた色合いで纏まった店内には、溶け込むように低い音色を響かせ、流れている。

 どこか異なる時間の流れを感じさせる此の場所が、朧が働くことを決めた店だった。

 

 いくら保護者が居るからといって、働かない理由にはならない。彼女の心の中で、既にそれは決定事項だった。

 彼女の兄だって、彼女の今よりも一つ上の年齢でこの横浜へと一人旅立っていった。その背中は、彼女がかつて追いかけていたものだ。

 

 何もしないのは、孤児院の少女にはどうにも暇を持て余してしまう。そのくせ、きちんと仕事、といえるものをするのは初めてだった。

 もちろん朧がぐうたらした自堕落な生活を送ってきた筈もないが、敢えて云うならば、『その対価として金銭が発生する労働』は初めてである。

 

 陽当たりのいい、小さな喫茶店。

 その光景を眺めるだけで最早満足感を得ていたことを養い親が識ったのなら、無表情を浮かべた眉を顰められるのだろうなと思った。

 

 ちりん、と扉につけられたベルが鳴る。

 カップをを吹いていた店主が「朧さん」と少女の名前を促すように口にして、ふんわりと笑った。老人の穏やかさは、そういう種類の笑い方がよく似合う。

 客は彼女が応対することになっているのだから、朧だって気づいてはいたけれど、そう云うことは野暮というものだろう。

 

 入ってきた客を空いている席へと案内して、簡素にまとめられたお品書き(メニュー)を手渡す。何度か見た顔だから常連客だ。こういう人は、頼むものを決めていることが多いけれど、不要と申告されたことはないので、念のためだ。

 

 

 養い親も、時折この喫茶店にやって来る。

 やって来ては、その和装に似合わない洋物のカップの紅茶を傾け、何をするでもなく此方をじい、と見詰めている。

 暇なのだろうかと思えば、割と間違いではないらしいので笑ってしまう。人には云えない苦労だって彼はしているのかもしれないけれど、少なくとも目に見えるところではないのだから仕方ない。

 今でこそ立派に──まあ人には自慢出来ないような職業な訳だが──働いている男もまた、誰もがそうであるように、嘗て居た兄や姉を慕う幼い子供だった頃があるのだろうから。

 

 これは、朧が決めた一つのことだ。

 色々打算的なものがあるとはいっても、こうして裏社会の闇を感じながら、じわじわと馴らしていく。

 

 この店は、見掛けにはよらなくともポートマフィアの管轄下にある。なんというべきなのか、所謂縄張り(・・・)というやつだ。

 一般の人が識るところのない話は、朧が働き始めてから店長に教えられた。まるで世間話のように。

 

 

「君は、彼の宝玉のようですね」

「本当に驚いた」と、老人は微笑んだ。

 

「その話は……?」「独自の情報網といえば聞こえがいいかもしれないですね」

 

「私も昔は少々のやんちゃをしていたから、顔くらいは識っていますよ」がりがりと珈琲豆を器具で破砕していきながら、曖昧に誤魔化されるのを朧は黙って甘受した。

 申し訳程度の密やかさで「内緒だよ」と────心根が穏やかであっても、人は見掛けにはよらないと、朧はひとつ学んだ。

 どうあっても、その濃淡は違っても、結局のところは自分は何かしらの不穏を感じさせる出来事、人に関わらざるを得ないのかもしれない。

 

 少女は横浜へやって来た時点で、薄々そういう交友が意図せず広がることを察知していた。

 そこに不安は既に無い。仮にあったとして、燻っているものは黙殺するべきものだ。何故ならそういう感情は、正しくない(・・・・・)

 彼女の近くには広津や夏目、院長の男といった、裏社会に属するか深く関係のある人間たちという知り合いが居た。何とも濃い面々は、だからこそ寄り集まる。異端同士が繋ぐ縁に、少女のそれも恐らく絡まっていた。

 

 強いていうなら、裏社会の組織の構成員とはいえ比較的末端である白木が、裏のことについて深い処を識る機会を得ることが無いだろうことが救いであるかもしれなかった。

 彼が、己の妹に善かれと思って知らせていないこと。それは彼女にとって、既に識りえることであるのだと朧自身が把握してしまっている。もし兄が総てを(つまび)らかにされたならどういう反応をするのかは、想像に難くない。

 察していないことは幸せかそうでないかと訊かれたらきっと、前者なのだろう。

 

 それなりに覚悟があったとして、殺しの才覚を人並み以上に持っていたとして。たった一つの資格(異能力)がない普通であった人と決定的な違いがあることを、朧は最早受け入れていた。

 

 彼女の兄と彼女は、別の理を敷く人種であった。

 店長の云う『彼』にかつては庇護されていながら早々に放り出された者と、そのまま庇護され続けている者。だからこそ自由を与えられた者と、闇に沈まざるを得ない異能(ちから)を持つ者。

 悲しいまでに決定的な違いがある。

 

 店主の詞に、少し訂正をいれたくなった。

 

 

「宝玉、なんて綺麗なものだとは思わないですよ」

 ──その有用性(異能力)は私のみにしか認められないのだから、それは抱えて守るものでは有り得ない。

 

 

「嗚呼確かに、私としたことが──貴女はきっと、彼の逆鱗に近しい人にあたるのかもしれませんね」

「……それも大げさなように思いますけれど」「彼の過去と現在を識る身としては、どうにもね。大切にされているのですよ、朧さん」

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

 養い親の男は、放任主義に見せかけて割と過保護なところがある。

 譲れないことは、ご丁寧に其処へ至るまでの道程を舗装する。そこまで誘導しておいて、最終的にその道を実際に往くのかは少女自身に決めさせる──極めて性質が悪いと、朧は思っている。

 その上、逃げることは許さないのだ。何かしらの決心を経たのならともかく、何も考えずに、思考からすら逃げることを、男は認めない。

 無関心に過ぎた過去のことを、今更掘り返す気は起こらないけれど、それを前提にしてしまえば、男の変化は劇的だろう、と考えてしまうのだ。

 

 鍛練も一時中止となって、何をしろとも云われず宙ぶらりんになって放逐されたことに対して、疑問よりも、ただの穀潰しになりたくはないという気持ちの方が勝っていたと思う。今でも暇を持て余すのは、真っ平ごめんだ。

 

 働き始めて暫く、入店してきた人の中に、養い親の顔を見た。何時識られたのか判らなかったが、何となく見当はついていて朧はちらりと店の奥へと目をやった。店主は素知らぬ顔をしていた。そも、恐らく最初から見知った間柄でいたのだろう。

 

「目の付け所は善いな」と云われたことに微妙な心地になった。

 この店を選んだのには思いっきり私情が入っているからだ。何も識らないうちに選んだその運すらも評価するならそれまでかもしれないが、……少女は少し居心地が悪く養い親が席についてお品書きをぱらぱらと捲るのを眺めていた。

 

 少し、目を閉じる。

 恐らく瞬きと同じくらいのそれを、朧は意図して行った。……戦後黎明期ともいえるこの時に、まっさらな白が居る一方で、その白に擬態する者も存在する。

 いざという時の解決に、武力を持つ組織の後ろ楯を得て、その代わりに収入の何割かを納める。正に此所は、そういう場所だ。敢えて特筆するなら、店主自身もかつては裏社会で『やんちゃ』をしていたことだった。

 

 ()に見せかけた()

 こういう形もあるのだと、既に少女は識っている。

 

 大体終業間際にやって来て帰る時まで外で待つという行動は、見た目だけは善い親のそれであった。無表情を固定したままに連れていかれる処は、食事処であったり古めかしい本屋──養い親は此所で複製した本の売り買いをしていたらしい──であったりする。

 けれども、其処まで行く時に態々(わざわざ)破落戸(ごろつき)が彷徨く路地裏を選んで通るのはどうかと思うのだ。

 可能な限り争い事を避けるべきというのは、きっとこればかりは表も裏も変わらないのだと思いたい。

 

 今更のような足掻きを、面と向かってする気は起きなかったけれど。

 その時に識ったのは、鍛練を停止した理由に治安の悪い処で否応なしに実践方式で鍛えられるだろうという思惑が含まれていたということだ。それ以外にも何かあったのかもしれないけれど、養い親がそれ以上口を開かないので、きっと自分が識ることはないのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……朧」

 

 

 ぼそりと小さく呼びつける声に珍しいことだな、と思いながらその声の方へと体を向けた先では、白装束の男が固い表情のまま珈琲を啜っていた。

 よく識らない人が見れば、強張っても見えるかもしれない表情は残念ながら何時も通りである。

 彼女の働くことになった店は、それこそ様々な人がやってくる。どういう経緯の人であれ、それは店主の人望か、はたまた店自体の雰囲気がそうさせるのか、当たり前のようなことだけれど喧嘩は御法度になっているから気楽なものだ。

 

 

 そっと周囲を見わたして────この男が彼女の養い親と識る人は、その時ばかりは本人たちと店主のみの筈だった。

 緩やかに低く流れ続ける音楽の中に潜ませるような囁きを、自然な形で落とす。

 

 

「院長、私は今これでも一応は一従業員なんですけれど」

「──お前、憶えているか」

「……何の事ですか?」

 

 

 少し困惑した──風にして、少女は少し接客用の顔を顰めた。

 

 伊達に長い付き合いではない。

 どこか言葉足らずのきらいがある男の視線を追って、直ぐに逸らしたそれは、果して興味を持たないような風に見せることが出来ただろうか、と考える。

 

 

「──……いや、解らないのなら、いい」

 

 

 

 

 

 私は、少しだけ悪い大人になってしまったのかもしれない。

 会話はそれから発展することもなく、周囲に気付かれるようなこともなく、自然な挙動ですぐに終了した。

 親しい──と云えるかは解らないけれど──人に何食わぬ顔で嘘を吐いて、背を向けて歩き、そのことに少しだけ、満足感を感じたのだった。

 

 視線の先の少年に、俯いた顔でそっと微笑む。私は、その少年のことをしっかりと憶えていた。

 鳶色の、けれども私は憶えられてはいないだろう、殺し屋の少年。

 

 彼はそこで、静かに本を読み進めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 




twitterやってます。(→@amaryllis34410)
⇨大体日常会話ネタ系

~今話で載せきれなかった織田作少年とのファーストコンタクト~
朧「あ」
織田作少年「……? はじめまして」
朧「(流石に覚えられてないよね)はじめまして。ご注文は?」
織田作「咖哩」
朧「(喫茶店にあるのかな)……聞いてきますね」

なお、此処までの朧ちゃんはメイド服の模様(作者の趣味)


~安吾少年との会話1~
朧「思うんだけどね」
安吾少年「なんです?」
朧「異能の名称って誰が決めてるのかなぁ、と」
安吾「あぁ……特務課でどんな能力か調査して、その調査書を上に提出すると上(=朝霧先生)が能力に合う名前を決めるみたいですよ」
朧「本当の順序は逆だけどね」
安吾「メタいこと云うのやめませんか?」


~会話2~
安吾「朧さんの異能って、なんだか微妙に複雑ですよね(※本編参照)」
朧「そうかな……そうかもね。布の服でも銃弾は防げるけれど、それって貫通しないだけで打撲とか骨折とかはするんだよね、多分」
安吾「たぶん」
朧「だって経験したことないもの」





※更新遅くなりました。

※※この作品も総合評価が400pt超えました。ありがとうございます。
ちゃんと完結まで漕ぎ着けるつもりはあるので、これからも宜しくお願いします(`・ω・´)






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第三一話 不壊は証明し得るものか?(前編) ※後書きに挿絵

 うわぁ、と心なしか引き気味に身体を反らした歳上の少女にちらりと顔を向けるだけで、少年は気にした様子もなく紙にさらさらと何かを書き連ねていた。

 一頻りの反応の後になって、すすす、と近づいて後ろから覗き込んでくるのもまた、彼は無視をする。

 

 

「安吾くんって、将来仕事に忙殺されそうな感じだよね」

「特務課は少数精鋭だそうですよ」

「わぁ、じぶんでそう(精鋭)って云っちゃうんだ……お休みの日も仕事するなら精鋭じゃなくてもいいかなぁ」

 

 ああでも、仕事の効率が悪くなりそうになったら私にも出来ることはあるだろうから云ってね、とにこやかな表情の少女に少年は眉を寄せた。

 

「何する心算(つもり)ですか」

 

 

 半目で見てくるのに構わずふふ、と声を漏らして少女は笑う。鮮やかな蛍石の瞳を心地好さそうに細めて、「甘やかしてあげるよ。友人だもの」と囁いた詞と共に、作業中の彼の肩に顎を乗せられた。

 吐息の音がすることにぴくり、と眉を動かすだけに留めたのは、少年の精神力のたまものだった。あまりにも近いことは、もう何を云ったとして直るとは到底思えないから、口煩い彼が諦めて放棄してしまう方が余程労力を無駄にしないで済むというものである。

 

 

「朧さん」

「何かな?」

「…………」

「…………ん?」

「……矢っ張りそうですよね、貴女ってそういう人でした……」

 

 

  とはいえ、形だけでも咎める形はとらなければ少年自身の気が済まない性分と板挟みになって結局少々の気疲れをしてしまうのだけれど。

 

「安吾くんは、何だか苦労性でもあるよねぇ」とのんびりした口調で少女が云うことに既に大分ほだされてしまっているのだから、余計たちが悪い。少年は、もう癖となっているため息を一つ落とした。

 

「何でもないですから──お茶、貰えますか」

「うん、少し待っててね」

 

 

 するりと身体を放して奥へと入っていった背を振り返った体勢で少し眺めて、安吾は、その年齢の少年がするには相応しくない表情で額に手をやった。

 

「全く、どちらが歳上か判ったものじゃありませんよ」

 

 

 そう呟いてはみるものの、少女と少年の交流は、順調過ぎると云っても過言ではない程に順調だったのだろう。

 少なくとも、拠点としている処に安吾がふらりとやって来る程度には心地好いものを感じていたのだし、それを歓迎する位には少女は初めての友人に甘かった。

 

「でも、書類を此所に持って来るのは迂闊じゃないのかな」と問えば、「そもそもこの年齢の僕に重要書類を任せる人が居るなら診てみたいものですね」と皮肉混じりの答えが返ってくる。

 朧は少し笑って──それが彼の性格が持つ癖だと重々承知していたからだ──手の届く処に湯呑みを置いた。ごとり、という音に安吾が漸く顔を上げた。

 

 

「今日のお菓子は少し奮発してみました」

「……別に、貴女(あなた)の萩餅も厭ではないんですよ」

 

 

 解ってるよ、と微かに微笑んでみせた彼女から向けられるものがむず痒いように感じて、合った視線をすぐに逸らしてしまうのは矢張りらしい(・・・)なぁ、と思ってしまう。

 筆記具を手放し、表情に乏しい筈の少女が少々得意気な顔で差し出した皿の練りきりを突ついて、それまで見ていた紙切れは代わりに朧が手に取った。

 

 

「……請求書の管理?」

「意外だと思いましたか」

「いや、……うん。まあそうなんだけれどね」

 

 そう詞を濁して、「もっと、こう如何にも『異能力』みたいな」と云うと「それはきちんと特務課の一員に成らなければ関与出来ませんね」と少年が返した。

 

「一応、異能力は表向きは眉唾物(・・・)ですし。異能という武力の情報や存在、それを持つ人を監視する機関は秘匿されていますから。表立って異能力をひけらかすことにどんな利点(メリット)が有るというんです? 」

「……それはこの書類も同じなんじゃないの?」

「これくらいでは、そもそも識られない機関を特定するのには足りませんよ」

 

 何も識らない人にいきなり「異能力は存在する」と云って、それが信じられる人はどのくらい居るのか。余程の非現実主義者でない限り、万に一つとして有り得ないだろうな、と朧は思う。

 人は、未知のものを恐れるのだ。

 それを朧は咎める心算は毛頭なかったし、自分がどうこう出来る問題でもないと理解していた。理解はしていたが……同じ理の裡にないことを、少しばかり寂しく感じはするものだ。

 

 

「職員の人は、矢っ張り異能力関連に携わるのかな」

「一度断っているのに、興味が出ましたか?……まあ本来その為に特務課はありますから。僕は未だ体術が弱いので立ち回りは許されていないんです」

 

 

 へぇ、と呟いて、紙を元の位置に戻した。同じように練りきりの皿に手を伸ばして、その時に呼び鈴の音が聞こえてきた。

 朧と安吾は、それぞれ顔を見合わせる。「来客かな」「僕に聞かないでもらえますか」と言い合いをしてから、この家の住人でもある少女が腰を上げて門扉の外側の人を見るべく顔を出しに向かった。

 

 

「こうして遭うのは久しぶりのように思えるが」

「広津の小父(おじ)さま! ……先生もご一緒ですか?」

「この猫の名前は『先生』と云うのかね」

 

 

「誰が付けたのだか」と云う男に、見覚えはもちろんあった。理性的な面持ちにどこか陰鬱さも滲ませる人に供は居らず、ならばごく私的な用事でふらりとこの家へ寄ったのだろう。

 

 単眼鏡(モノクル)の彼が、恐らく何も識らずに三毛猫を抱えて立っていたものだから──どんな表情をすれば善かったのか、少々複雑な思いをする羽目になった。

 片腕が塞がっているのは致命的だけれど、それだけ少女の前では安全であると考えれば問題ないだろう。……少女の戦闘力を歯牙にも掛けていない、という可能性やらは思いついたらきりがないものだから。

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

 異能力者は、その特異性から、やたら濃い(・・)性格をした人が多いと安吾は思っている。

 自分を差し引いた彼らが変わった性分を持っているから自分もそう(・・)である、というのは些か軽はずみな考えかもしれなかったが、少年自身が周りからどう見られているかと問えば、肯定されてしまうのかもしれない。

 

 ──少なくとも自分と少女は、子供にしては早くから精神が成熟していた。

 それもまた普通でないと自覚している。だからこそ安吾はこの歳上の少女の云う詞に思うところがあったのだし、朧はその出逢いが巡り合わせと信じて疑わずに『友人』を求めたのだ。

 

 

「おや、先客が居たのかね」

「私にも友人が出来たんですよ、小父さま」

 

 ──まぁ、だからといって総てが『友人だから』で済まされたら堪ったものではない。何でもはいはいと受け入れることは、そもそも自分の信条には合わないのだ。

 

 にゃあ、と男の腕の中で猫が鳴いた。

 

 

「済まないね。交遊を邪魔してしまったようだ」

 

 いえ、自分の声は思った以上に小さかった。

 

 安吾は、問わずとも彼の名前を識っていた。

 ────特務課という組織の都合とでもいうべきか、社会での立ち位置も加味した上で危険となりうる異能力者の姿形だけは、安吾のような丁稚程度の子供にも識らされている。

 その男の特徴的な姿は、よく覚えていた。

 

 単眼鏡(モノクル)、丈の長い黒の上着(コート)に端を余らせたような長い肩掛け(ストール)

 ポートマフィアを構成する一人、武闘組織を指揮する者、『黒蜥蜴』の長。

 異能力者。

 

 朧が来客の居る玄関口まで行った時、念のためにと書類はそっと鞄の中へと戻していたから、心配事はない。

 私服であるので、少し良いとこの子供に見えるだけだろう。そして、裏社会に関わろうとしている少女と友人である少年(自分)が、真逆(まさか)普通の訳がない。

 安吾は、下っ端ではあれども確かに異能特務課の人間だ。

 未熟故に未だ早いと云われている仕事を、けれども将来のことを見据えれば、此処で動かないのは莫迦のすることだ。それくらいには好機として捉えていた。

 

 

「坂口安吾、情報屋見習い(・・・・・・)をしています」

「おや、……宜しく頼もう。広津柳浪という」

 

 

 識っていますよ、と内心だけで返事をした。

 にゃあ、と三毛猫が鳴いて、するりと男の腕から逃れ安吾の方へとすり寄るのを眺めていた。

 

 

 

 




少年の、情報屋としての原点のお話。




※短めなので、お詫び(´・ω・)っ
【挿絵表示】

将来の朧と安吾さんの関係はこんな感じ。距離感は仕様です。
安吾さんの苦労性がよく分かる絵。
※※例の如く見直ししてないので、誤字脱字あるかも。申し訳ない。



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第三二話 不壊は証明し得るものか?(後編)

氷の入ったグラスを機械的にからころと動かしながら、じっと何かを考え込んでいる少年が居た。
ひょいと、そこに影が差す。声が降ってくる。


「作坊、何か考えてるのかな」
「…………」


無言で見上げて、硝子玉のような眼は、透明故にぞくりとする程に美しい。
氷の音は止まった。少年の唇が呟きを紡いだ。


「『近いうちに』と云った」
「…………? あぁ」

彼らの間の詞は必要最小限に抑えられる。それでも、男は一瞬の回想で過去の言動を思い返した。
──なるほど。確かにそんなことも云ったねぇ。気になってるのかな。

少年はかぶりを振った。
或いは、自身のことを正しく認識していないのかもしれない。その『誰か』と少年は、けれども確かに引き合っていることを識るのは、今のところそれを予言した男だけだ。
引き合っているのは、それを呼び寄せるのか、呼び寄せられるのか。それだけの違いだ。

何を云うか、そこで迷うように口を何度か開け閉めしたのは、詞を詰まらせたからだろう。
未知の感情は、善い方向にも悪い方向にも、人を成長させる。

少年に、男は眩しそうに微笑んでみせた。
嬉しそうに、寂しそうに、羨ましそうに、讃えるように。


「心配しなくても、彼女(・・)とはもう出逢っているかもしれないよ。何か印象に残っているものが、あるだろう?」
「…………」


その時、考え込むよりも前に、その瞬間の反射のように、少年の脳裏には(よぎ)るものがあった。
色だ。鮮やかな植物、春の翠の芽吹き。光が走るように、その色を何処で目にしたのか。

──思い出せそうでどうにもはっきりとしない人のことを、同業の男は『彼女』と呼び示した。


 友人の少年が彼自身のことを『情報屋見習い』と云った時、遅れて気付いたことがある。異能特務課とポートマフィア、政府下の訓練された飼い犬と厳しさに曝され弱肉強食の世を生きる野犬。

 そのどちらにも居ない猫と、幸運にも往く道に選択を与えられた()

 何とも奇妙な集団がこの場に集結していることの不可解さは、けして厭なものではなかった──それは、自分も染まってしまっているからだろうか、と朧は考える。

 種類は違えど黒だ。政府下にあれど隠される、影のような組織に、どっぷりと犯罪に染まる闇の一団の人。彼らのどちらとも、……きっと血腥いものであろうとも、完全に嫌ってしまえるような一線は疾うに越してしまったと、そう思う。

 そのどちらでもある(、、、、、、、、、)ような灰色(どっちつかず)は、もしそんなものがあったのならどんなに都合がいいだろう。そんな処が在ったなら是非とも入りたいところだが、今更だとも思う。

 

 それは、そんな組織を作ろうと挑戦する人や、当たり前の正義感を胸にする人が相応しいと確信していた。例えそんな正義を望んでいたとして、実際はその為に動かないだろう私にも、けれど定めたものがある。自ら裏の方へ進んでいった二人の家族を、見棄てることは『朧』という人間に出来ることではない。

 未来に誰かがそんな場所を作り出したとして、一度呑み込んだものを吐き出すことは不可能だ。

 

 少なくとも、先行きがどうあろうとも、今のところ少女は(しあわ)せであったから。

 

 だから、安吾にすり寄る三毛猫──その実態はいい歳した男である──にちらりと目を向けてから、朧は恩人ともいえる彼にもう一度「久しぶりですね」と穏やかに笑ってみせた。

 その眼は未だ明るく鮮やかに、広津も薄っすら笑って返した。

 

 

「元気そうで何よりだ……と云っておこうかね」

「院長先生に色々と(、、、)連れられたりもしましたけれど」

 

 主に裏路地の破落戸(ごろつき)などに。軽率に襲い掛かってくる輩を放ってすたすたと歩いて往くものだから、大体対処していたのは少女であった。黙々と対処した訳ではないし、かといって「何故避けないんですか!」「そのくらいが対処出来ない程度に貴様を育てた心算は無いが?」といった応酬はあっても、それで瞳が翳るような柔な精神はしていない。

 

 ──……それでも矢張り、自衛の為の力が何時自発的な暴力へ至るかと思うと、それが一等恐ろしくある。

 

 意図的なものかは定かではない。余計なことは口にするよりも心の内に沈めておくべきだからだ。

 けれど、仮に何もしなかったとしてきっと養い親はどうにでも出来ていただろうと考えるのは空しいし、だからといって放置する程酷薄にはできていない。

 

 強く、しかし脆い心の少女は確かに強くなった。

 それが一度壊れてしまうとしたならば──……それは、身近で大切な誰かを永遠に喪ってしまう時になるだろう。

 

 色々と、という詞に何か含みを感じたのか。追及しては来なかった広津に「得難い物もありましたから」と云ってから無言で猫と戯れている安吾を手招きした。

 その行動に理解を示して、広津が頷いた。

 

「確かに友は得難い物だな」

「小父さまにも?」

 

 

 ゆうらりと単眼鏡が揺れる。

 その服装も相まってかどうにも安心させられるような雰囲気を持っている。朧は、影を好んで纏っているような、時には酷薄にもなるだろう人を、それでも嫌いにはなれなかった。

 

 彼は、「君の養父のことなんだがね。あれで中々、悪い奴ではないのだよ」とそんなことを云う。

 識っている。

 彼女の養い親である男もまた同様に、悪い人ではない。世間一般から見たら悪い人かもしれないし、悪ぶっている節もあるけれど、少女一人の意見だと結果的には「識っていますよ」と返答するだろう。

 総ては解釈次第だ。そして、少女は自らの自分勝手な主観によって判断するだろう。

 

 だって私を育ててくれた人だから。見捨てないでくれたから。私に機会を与えてくれた人だから。贔屓目であっても、それが少女の真実である。

 

「安吾くんだって、院長先生に紹介して頂いたんですから」

「おや」

 

 そうなのかね、と意外そうに目を瞬かせた広津に──意外な仕草は、案外自然に感じられた── 一瞬、意外な反応をするものだと思っていそうな顔をした少年を朧は見逃さなかった。

 

 嘘は云っていない。

 押し掛けてきたのは特務課の方だし、紹介したのは安吾の教育役の、あの笑い上戸の男であったけれども……紛れもなく養い親の人脈によるものであることは確かだった。

 かの男の人脈が実際にどの程度であるのか、完全に識り得る人はこの場には居ないのだろう。

 

 そして、見るからに嘘を云いそうにない、そんな少女であったからこそ広津はあまり疑いを持たずに、ただ問い掛けたのだ。

 

「情報屋、と云ったかね」

見習い(・・・)ですよ。まだまだ仕事も任せてもらえない未熟者です」

 

 打てば響くように返される少年の声を、朧は好んでいた。自分が喋る時はよく台詞に溜め(、、)を使うことが多く、上手く合わせるものだ、とちょっと感心したのもある。

 少年から云い出したことではあったけれど──成る程確かに、彼はそういう不定形の情報(ナマモノ)の扱いが上手そうな、所謂頭脳労働者の気を感じるから、向いているのだろう。

 

「いや、幸運だとも。師事出来る者が居るというのは、それだけで独りでないことを保証してくれる」

 

 それぞれ別個に振るわれる超常を個性として扱われてしまう異能力者には、先達という者が存在しにくい。なまじ人には有り得ないことを出来てしまうことは爪弾きとなる要因でもある。

 生まれながらにして、或いは幼い頃にその人外の力を開花させてしまえば、彼らが人に寄り添うことは夢のまた夢となるのだろう。

 そこに親愛の情があるかどうかは別として、同類として生きる先達が存在するということは、幼き同胞(はらから)の異能力者には重要なことだろう、それが広津の考えだ。

 そしてそれは、組織という一歩離れた関係性であったならば実現出来ないことだ。同僚の義娘、それは一見遠いようでいて、組織的な柵など微塵もない、正に奇蹟のような繋がりであった。

 

 

「私ももちろん、感謝していますよ」

「解っているとも」

 

 

 彼らの往く末を見守ることが、年長者が弱き子らに出来る数少ないことの一つである。

 未だ其処まで歳を重ねてはいないと広津は思ってはいるが、それでも妙に感慨深い面持ちになってしまうのはきっと、子供の成長率が凝り固まった大人よりも遥かに高いからであるのだろう──自分も頑固な節があると自覚している広津が云えることではないのかもしれないが。

 

 

「君とも何れ、共に肩を並べる日が来るのかもしれないな」

「小父さま、また唾付けですか?」

「……見習いの身なれど、僕は未だ身の振り方を考えるまでに研鑽を終えていないのですが」

「然し、有り得んことではあるまいよ。何時か頼る時が来るやもしれない。この世界(裏社会)は案外狭く出来ている──有り得ないことは、有り得ないだろう。四季が(めぐ)るように、子供が大人に成るように、初春に芽吹きが訪れる如く、至極当たり前のように物事は流転するものだ。それは人の思考とて例外ではあるまい」

 

 どこかだみ声にも似た音で抗議のように手足をばたつかせる猫を再び抱き込むと、少年少女の両方から微妙な視線を頂いてぱっと腕を緩めた。

 途端に子供たちの間へと逃げて収まった三毛の狭い額を指で撫で付けながら、少女がともあれ、と口を開いた。

 

「小父さまとも久しぶりに見えたのですから──仕事柄なのは理解してますけども少しゆっくりとしませんか?」

 

 丁度美味しい御茶請けもあるのです、そう云って微笑んだ。

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

「──……と、そうは云ったけれどね。小父さまの前であの即興(アドリブ)は、少し肝が冷えたなぁ」

「僕はあなたがきちんと乗ってくれたことが驚きですよ」

「失礼だなぁ。そう思わないかな、『先生』」

 

 

 なぁご、と詞を理解しているかの如く(、、、、、、、、、、、、)鳴いた猫が、少女の無い胸へ頭を擦り寄せるのを微妙な心地で眺めながら、安吾は「良かったんですか」と問うた。

 

「危険人物とは云え、朧さん、貴女の仲まで僕は文句を云う心算は無いですよ」

「……私だって、正直なことを云った結果に起きるような悲劇を避けたいんだよ。それが人を少し騙す形であってもね」

 

 

 少女は猫の背骨のあたりをつつつ、と指でなぞりながら、少年の台詞に何てことはないような顔で応える。

 

 

「君はどの位識っているのかな」

「……それこそ何も、ですよ。僕が調べる分は推奨されてないことであれど、かといって強制されている訳ではありません」

「へぇ」

 

 だけれども、人の口に戸は立てられぬ。つまりはそういうことだ。

 

「──広津柳浪。異能力名、『落椿』。詳細は開示されず。然し相対したならばその手の届かない処への退避を推奨される。但しポートマフィアに擁される為、周囲に部下の居る可能性を留意すべし……此処までならば、下っ端の僕にも開示されますが」

「……それ、十分じゃないの?」

「…………そこから更に、裏に関わる死亡事件を遡ると、身体中の骨をへし折られたような(、、、、、、、、、、、、、、、)被害者が存在する事件には必ずかの男が周辺に出没しています」

「……わぁ」

 

 

 思ったより怖い異能力だった、と少女が呟いた詞に頷いて「然し、若し僕がポートマフィアに潜入するならば彼の立場は実に都合が好い。其処まで脅威度無さそうですし」と云うと、「抜け目無いね、安吾くんは」と苦笑された。

 

「矢張り、思うところが?」

「んー……いや、小父さまが云っていたことが引っ掛かっているだけだよ。ほら、云ってたでしょ──至極当たり前のように物事は流転するものだ、っていうのが」

 

 それが少しね、と少女はぽつりと漏らした。

 

「私の異能力は、それに喧嘩を売っているようなものだから。私が触れた物は、どんなことをしても一定時間は絶対に破損しない」

「…………」

「変わらないといい、というのは誰もが一時は考えるかもしれない。それは正常な思考だ。けれどね安吾くん、小父さまの詞こそ正しい。人は変わる生き物だよ」

 

 

 少女の異能力は、彼女の思考から形を成したのか、はたまたその異能力こそが少女を形作ったのか、定かではない。

 極めて概念的な要素をふんだんに盛り込んだそれ(・・)を、自分であるにも関わらず朧は上手く説明できない。

 

「なんというか、『不壊』はその文字通り『不壊(壊れないもの)』であるけれど。同時に『固定するもの』『変化しないもの』──『終らないもの』とも取れるでしょう?」

 

 安吾が顔を顰める。

 

「……それ、僕に教えて大丈夫なんですか」

「私の心のもやもや(、、、、)を晴らす為の愚痴に付き合ってくれる、正当な報酬だよ」

「そもそも貴女が語り始めたんでしょうに……」

 

 

 呆れ顔を少しの間晒した少年は、然しそのままに、止めようとはせず続きを促した。

 

 

これ(不変)を内包する、紛れもなく生きている(変わりゆく)人間(わたし)っていうのは何て矛盾した存在なんだろうと、たまに思い知らされるんだ。ただ、それが今だった……院長先生は、それで済んで良かっただろうと云うけれど。ならいっそ、何も持たない方が余程普通に幸せ(、、、、、)だったとも思うんだ──あぁでも、そうでなければ君とは逢わなかったんだろうね」

「……彼は、何故そう云ったんですか?」

 

 云いたい諸々を黙殺して、一つだけ問うたそれに、少女は淡くしか動かさない表情を蕩けるようにして、「私の異能力が人間に使えたのなら、それこそ目も当てられないもの」と(のたま)ったのだった。

 少女の力は、生きているものには作用しない。その癖、異能者(生きている人)自身でもある異能力そのものには干渉出来る。聞いた安吾は、その歪さを敢えて口にするような勇気は無かった。

 

「……それでも」

「うん?」

「朧さんがそれを人間に施すべきではないと理解している時点で、出来るか出来ないか、その是非に関わらず貴女は人間でしょう」

「…………うん、そうだね」

 

 いっそあらゆる総てに、限定的な時間とはいえ『不壊』を施せるとした方が余程自然だろう。中途半端に発動される異能のその先は、きっとパンドラの匣だと理解していた。

 

 

「……因みに、安吾くん?」

「云いませんからね。生命線を貴女に握られるのは厭です」

「まぁ、私が勝手に云ったんだものねぇ」

 

 

 仕方ないか、と少女は微笑って、残っていたお茶を飲み干した。

 好んでいる温度よりも幾分かぬるいそれに、後でもう一度淹れ直して飲もう、そんなことを思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 男と少女が、互いに向かい合っている。男の眼は冷たく、少女の眼はどこか諦観と、未知に対する不安が見え隠れする。

 男が口を開く。少女は黙したままだ。

 

 

 ──寧ろそれで善かったと思え。強力な異能はその力故に、人の人生を容易く捩曲げるのだから。

 ──……。

 ──人に作用しないのは幸いだということだ。不老不死を可能にしうる(、、、、、、、、、、、)だけの潜在性(ポテンシャル)を発揮してしまったのなら。人の営みを侵犯する力は、お前を我々異端者(異能者)以上に人倫から外れた存在にしたかもしれないだろう。

 

 

 

 

 

 




────少女が、自身を強く異端として自覚している理由。



異能『   』
触れた物に不壊の属性を付与する。対象は基本生きていない物に対してのみ発動されるが、例外として異能力者の持つ異能にも干渉可能。
物に付与する場合、その物への破壊に至る攻撃等を受けても損害が発生しない。

この力は制限を掛けられている。人の営みを侵犯する力は、少女の身には重すぎるから。





※考えたら、この異能で完全に優勢になれるのは梶井さんに対してだけですね。
鬼門は中也、異能生命体を扱う人々(森医師、紅葉姐さん、鏡花ちゃんetc…)とか。
異能自体に攻撃性は皆無であるにも関わらず、結構な爆弾をこっそり持ってる系異能筆頭。

※※時間軸の修正を入れました(外伝の位置)

※※※評価感想、お待ちしております。






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第三三話 影の中の闇(前編)


「やぁ、貴方が来るとは思わなかったな」
「……」
「死期を識りたくなったかい? 或いは暗殺の依頼? それとも……君の可愛い義娘の話かな」

「────あの小僧を周囲に見るのは、貴様の差し金か」
「そういう人聞きの悪いこと云わないで欲しいなぁ……店自体は完全な偶然だよ。でも、僕の大切な子供が報われる為の一つの要素を、彼女が担ってることは確かだけれどね」
「『告死』──(おれ)は、貴様が死期(運命)を捩曲げる心算はあるのかと、聞いている」
「ふふ、嗚呼……判るかい。でも明言はしないさ。だから貴方のご想像にお任せ致しますよ、『人間兵器庫(マスプロ)』殿」






 少年は、自分が割合に善い暮らしをしているという自覚を持っていた。

 庇護者を持たない子供が自分の仕事を手にしていて、危険は有れどもそれで十分に食べていけることも、住む場所も有ることは恐らく珍しいことだ。

 温かい食事に、何者かに脅かされる心配の無い寝床。清潔な衣服。野犬に喰い殺されることなく、寒さに凍え死ぬこともない。暇な時には本を読むだけの余裕だってある──自分が死ぬ時は、病気や環境によるどうしようもない事ではなく、誰かに息の根を止められる事によって成されるのだろう。

 自然とそう思うのは、自分の立場がそれこそ危ういということを承知しているからである。

 

 少年の今は、手を血に染めるような所業によって得られたものだ。然し、それを詰られたとして、ならばどうやって生きていくべきであったのか、それを少年は識らない。

 その生活を確立してしまうよりも前に、少年に先往く(みち)を示してくれる人は居なかった。

 

「…………」

 

 

 そっと、珈琲の入ったカップを持ち上げ、口に含んでから置く。つい砂糖や牛乳やらを多目に入れてしまうそれは、白色を混ぜこんだまろやかな色になっている。

 辛いものを好む癖してそのまま苦いのを飲むことを躊躇ってしまうのは、まだまだ子供舌だと笑われてしまっても止められない、贅沢に対する反射のようなものだった。

 

 甘みで苦さを和らげても、薫りが消されることは無い。鼻に抜けるような香ばしさに、知らず唇を緩ませる。

 かちゃりと陶器どうしが擦れ、音を響かせた。 それを気にすることなく、少年は本を読み進めていく。

 

 彼が長居しても、店の方から文句を云われることはない。

 元々隠れ家のような側面を持つひっそりとした佇まいの店であったから、そもそも客の数は少ない。時間も相まってか、店内は(まば)らである。

 

 曇り硝子からぼんやりと、本の頁に光が当たっていた。注視すると本の白さが強調されるようで、少し眩しく感じる。目を細めた。

 ふ、とそこに気配が現れて、柔らかく声がした。

 

 

「遮光用に衝立でも要りますか?」

 

 それとも、場所を移動されますか。

 女性にしては低く、落ち着いた声音をした人がそう問うて、少年──織田作之助は本から顔を上げた。

 一言二言なら普通に交わす程度の仲である。

 常連である少年にも、そこに居ることを景色として受け入れるくらいには見慣れてきた少女が近くに立っていた。恐らく幾つかも違わない、店主が店員の募集をしていた時分に来た従業員だ。

 栗色の髪、やや色素が薄いであろう生白い肌はどこか不健康にも見える。

 

 その中だからこそなのか、翠の色が、一際目をひいた。

 

 

「移動を」少し考え込んでから短く返答して、少ない荷物を持ち早々に奥へと移動した。

 少女が(トレイ)に飲み掛けのものを置いて運ぶのを視界に入れたままにする。彼女は斜め前に立って移動していた。

 どんな時であっても極力背後をとられたくないのは、仕事柄故か、そもそもの性分だろうか──恐らく、そもそも気を抜けない裏社会の環境からだろう。

 

「本を…………」

 

 よく読んでいますね、とぽそりと云ったのに目をその背に向けた。話題を探した結果なのだろうか、背後の子供(自分)が何を思っているのかも識らないまま少女は吐息で微笑った。

 答えにうんと頷いて、それが見えていないのだから頷いても意味は無かった。

 

 少年は口下手だ。そう自覚している。

 元々喋りを求められることなど無かったので、人と接することの少なさ故に何を以て世間話とするか、他愛もないことが何であるのかを理解していても、それを自発的に口にすることが頗る苦手であった。

 

「此処は、腰を落ち着けて本を読める」辛うじて答えた。そこに嘘はない。

 実際あまり気に入るような物を持たない彼であったが、この店に居る時の、時間が引き延ばされるような不思議な感覚を、少年は好んでいた。

 

「私は此処に勤めて長い訳ではないけれど──そう云っていただけるのは嬉しいものですね、店主(マスター)?」

「誰かが一人でも、腰を落ち着ける環境であるならばそれに越したことはありませんから」

 

 カウンターで食器を拭いていた店主も、距離が近いからかさらりと会話に混ざってそう云った。低音の声は、静かに鳴り響く音楽の中に違和感なく溶け込んでいく。

 そこまで遠くの席に移動してはいなかったが、陽光の届かない程度の奥行きがある場所へ座りなおす。

 飲み掛けのカップをことりと置かれる。水面に波紋が浮かんで、揃って覗き込んでいた少年少女の影が歪む。

 陽の光が無い場所は涼しい。光に照らされるのも少しなら悪くはないが、どちらかに腰を落ち着けろと問われれば、眩しくない方を選ぶだろう。

 

 顔を上げて、かち合った視線どうしに相手がきょとりと虚を衝かれたような表情をした。──果して今見上げている自分はどんな(かお)をしているのだろうか、と思う。

 そして、これから投げ掛ける詞が、彼女に対してするものであるのか、今一図りかねてもいた。

 然し、それに長々と迷っているのでは目の前の彼女は仕事に戻るだろう。そもそも、少年がゆっくりと思考して結論を決めることなど滅多にないのだ。一瞬の判断を求められる鉄火場に身を置く面のにとっては息をするように出来ることだ。

 迷ったと云っても、それはきっと一瞬にも満たなかっただろう。

 片手で、本に栞を挟み込んだ。

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

 少年の鳶色の瞳を覗き込んで、硝子玉のようだと朧は思った。

 

 表情の乗らない瞳だ。

 総てを在るように受けとる、無色の感情……それでも、無感情の人が本当に存在するかといえば、居ないだろうとも思っている。

 裏の世界を、幼いながらよく識る少年だ。

 人の強さは年齢に比例する訳ではない。困難を乗り越えられる人が居れば、一方で自分の知らなかった世界に感化され脆くなってしまう人も居る。

 ひとつはっきりしているのは、この世は善くも悪くも弱肉強食ということだ。そんな中を、普通ならば庇護されるべき脆弱な少年が一人で生きるということは、彼が強者の部類に入る者だということを示している。似た境遇の者同士で徒党を組む事もなく、『告死』が時折寄ってくるのみ。

 自分がおよそ踏み入れるとは、嘗てならば露程も思っていなかった少女は、少し気圧されて、それでも何か、惹かれるものがあった。

 

 

「ある男に、『近々訪れる出逢いの機会を逃すな』と云われたことがある」

 じい、とお互いに見詰めあって、ふと先に目を逸らした彼は、片手で本に栞を挟み込んで、本を読む体勢から居直ったようだった。

 近々訪れる、とは──……何とも曖昧で不確定な、けれども何故か確実さも孕んでいる。どこかで確信を得たような、そんな響きだ。ともすれば、少年にその詞を授けたその男が、何か確定的な未来を視たのだろうか、とも思わせてしまいそうでもある。

 

「何時だって出逢いなんてものはそこら中にあるでしょうに」それこそ、出逢いなんてものを考えればそれは何処にでも転がっているようなありふれたものなのだが、そういうことを彼は云っていないだろう。

 逃してはならない何か、それに気づいて、その上で選びとる。責任は否応なしに自身のものだ。重くとも軽くとも、選択という別たれた途がある以上、迫られることがある。それを、少女はよく識っていた。

 

「何故それを私に聞くんです?」と問うと、「なんとなく、あなたに聞いてみたくなった」という曖昧な返事で、恐らく未だその答えを得ていないようにも思える。

 

「私は非力な、ごく普通の一般人の心算なのだけれど……」

 

 自分の事を棚に上げて、思わずため息を吐いた。確認するように周囲を見渡すと、他に客は居ない──先程食べ終わっていたようだから、会計は恐らく何時の間にやら店主が行っていたのだろう──にこ、と邪気の無い微笑みを向けられる。その腹の中は真っ黒だと識っている人が他にどれだけ居るのだろうか。

 

 

「強者に気にかけられるような人ではないですよ」

 

 異能力があるとしても、それを知られていなければただの、矮小な、人混みに紛れ込んでしまえる程度にありふれた、とりたてて個性のない人だ。そう自負している。

 

 

「強者?」

「だってそうでしょう、長く裏社会で生きていけているのは。そういう点で、色々と識られる程度に有名な君は私の先達ですね。私は最近此方(・・)に来たばかりなんです。──だからこそ解せないなぁ、とそう思いますよ」

 

 多少なりとも裏の闇に浸かり始めているのを、けれどもそう考えるには普通過ぎるのだろう。まるで思ってもみなかったというような風にぱちりと瞬きをして、うろと店主の方を向いた。つられて見やれば、矢張り微笑んで頷かれた。

 少年の驚いただろう時の反応は、孤児院に残してきた弟によく似ていた──重ねる心算は毛頭無いけれど。

 くるりと動く鳶色から、目を逸らすことはしなかった。

 

 

「……あなたの眼が」

「眼?」

「その色合いが印象的だった」

 

 

 きっと、だから尋ねてみたかったのかもしれない。

 

 

「懐かしいとも思った。……あなたに、以前遭ったことはあるだろうか」

「──……さぁ、どうでしょう」

 

 

 けれど、もしも可能なら、と朧は云った。

 あの詞を君に云った人に、逢わせて頂けませんか。

 

 

 

 

 

 

 

 




短いです。
登場人物が大体所属している機関とか立場がばらばらなので、必然的に場面がぶつ切りになります……今回試行回数は最高を記録しました。せっかくの織田作なのに未だ書き慣れないから時間が掛かる……(´・ω・`)


サブタイトルに反して和やかな内容でしたが、後編で色々と(未だ何も書き出してない)出てくる予定です。





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第三四話 影の中の闇(中編)

 子守唄だけが響く暗がりに染まる部屋に、ぼぅ、と明かりが灯された。

疼木(ひいらぎ)
「……今、仕事中よ」

 ふつりと唄が途切れ、灯りをつけた男の方を女が見遣った。
 情婦である彼女の隣には、服を来た男が一人。ぴくりとも動かない。

 ──鉄錆の匂いが、鼻につく。


その人、もう亡くなっているのに(、、、、、、、、、、、、、、、)
「識っているわ。それでも、死んでしまって直ぐに止めてしまうのは少し、可哀想でしょう」
「優しいんだね」
「それを私に云うの?」


 せめてもの手向けよ、と撫でていた頭から漸く手を降ろす。手を握りあっていたもう片方の手も放した。冷え始めている体温は、最早生きた人のそれではなく、──無造作にともいえるように放り出された。
 ぐるり、と首が回り男を見据えた。


「で、何か用かしら?」
「作坊と『彼女』が来るんだ。教えておこうと思ってね」

 ひらと投げ出された写真を拾い上げ、そこに写る人に一瞬固まるように身体を強張らせて……女は一言、絞り出すようにして「厭味な男」と吐き捨てた。

「一目、見に行くかい?」
「遠慮しておくわ。だって──」


 その先の詞で、何を云おうとしたのかを男は識らない。女が云いかけた詞を呑み込んで、喋るまいとでもいうように俯いていたので。





 

 

 その日の割り当てられていた時間まできっちりと働いて、朧は今、未だあまりよく識らない少年に手を引かれて歩いている。

 自分よりも幼げで、背も低い。けれども、誰の支えもなく地に足をつけ立ち、平然と生きていることが実のところどれだけ異常であるのか、少女でも解ることだ。

 

 

「熱い」

「……あなたの手は冷たいと思う」

 

 

 少年と繋がれた掌は、彼の硝子のような透き通るような瞳とは正反対に、まるで生きていることを声高に主張しているかのようにも思えた。

 体温の低い朧ではあったけれど、彼女からすれば少年の熱は熾火のようにじりじりとしているようにも感じる────少々、過剰に表現し過ぎているかもしれないが。

 握られ、一方的に引かれている手は、自分のものだ。少しだけ弱く握り返して、一言少女は「何処に向かっているの」と今更に尋ねるようにして呟いた。

 しっかりと、聞こえていたらしい。

 

「あなたが、遭いたいと云った人のところへ」

「確かに云ったけれど……そう簡単に遭えるものとは思わなくて」

「──あの男は、子供には甘いから」

「答えになってないよ」

 

 

 そして、自身が気に入られている程度に、少年は『告死』の男のお気に入りであるという自覚が存在した。

 導かれた出逢い。その契機を作った男は、『彼女』と口にした。不明瞭だった人のことを、既に目していたのか否か──あったとして、一度擦れ違ったとかその程度なのだろうと少年は思っている。

 赤の他人に対してでもそう断言出来るだけの技能(異能)を『告死』が持っていることは少年にとっては既知のことだったから、有り得ないなんて云いきれる筈もないのだ。少年自身、その瞳の色に既視感と何か惹かれるものがあったから。

 

 弱く握り返された手を、少年は応えるように心持ち強く握り返す。

「どうしたの」と後ろから声。ぬるい温度は、彼女がややもすると生きていないのではと思わせてしまい、少年は少しだけ、その手を引いて歩くことにした自分に後悔した。

 自分よりも低い体温は、溢れ出て噎せ返る程に薫る血よりも余程、生きていることの生々しさを少年に伝えているように思えてならなかったのだ。

 

「子供に甘い……、かぁ」

彼奴(あいつ)貧民街(スラム)の子供の世話を焼く程度には物好きだから」

「子供好きな人って、その子供には君も含まれているのかな」

「きっとそうじゃなかったら、構われることも無かった」

「ふぅん……? 少なくともそれを悪いようには思っていないんだね」

 

 

 少年は歩調を緩めた。手を引いていたものがただ繋ぐだけの形に変わって、少女がゆっくりと解くように掴まれていた手を外した。

 

 横に、歳上の少女の顔がある。それでも、そこまで近い年齢の人とあまり話したことがない少年は、少し戸惑ったようにして温もりの消えた手をもて余していた。

 

 

「どうかしたかな?」

「手を」

「そこまで危なっかしいかなあ」

「此処は自由に動ける縄張り(テリトリー)じゃない」

「私だって、そこそこ出来るのに」

「あなたを此処に連れ込んだ責任がある」

 

 

 洋服の(ベルト)に挟み込んでいる得物に確かめるように触れながら、朧は少年と目を合わせる。鳶色の綺麗な眼は、けれども何度も凄惨な場面を見たことがあるのだろう。裏路地の暗さも相まってか、その色が仄暗く、少量の闇を落としたようにも見えた。

 それから目を逸らさず見据えて……少女は少しだけ頬を緩めて笑みをこぼした。

 

 

「自分の身を守ることは自己に課せられた責任だよ。私が望んだから此処に居る、それで善いと思わない?」

「…………」

「躊躇いはあった。選択肢も与えられていた。けれど私は此処に居る──自身の選んだ事にも責任はつくものだと理解しているから、君ばかりが負うのは公平(フェア)ではないでしょう」

「世の中は総じて不公平だ」

「その不公平を受け入れたんだから、君を好ましいと私は思うよ」

 

 

 既に離された手をひらひらと振ると、少しして鈍くなっていた歩みが元のように戻っていた。違うのは、手を引かれる形であった少女が少し速度を上げて今度は少年と隣り合って横並びに歩いていることだ。

 

 ふふ、と少女は微笑んだ。

 その笑みの理由を理解出来なかったのだろう、ぱちり、と瞬きをした目が一瞬不思議そうな色を見せたことを、朧だけが識っている。

 何でもないよと嘯いて、「それにしても随分歩くね」と問い掛けた。

 

 

「何個か拠点にしている中で一番、あの喫茶店から遠い処の筈だから」

「そうなの?」

「今日は疼木に用があると聞いた」

「ひいらぎ」

「情婦と聞いている」

「……」

「疼くの字に木、で疼木」

「……うん、そっか」

 

 

 一瞬、たどたどしく口調が固くなった人に何があったのか。少なくとも、名前の字面に頷いてほっとしたのは確かだった──知り合いに同じ名の人が居たのだろうか。

 そこまで珍しい名前ではないけれど。

 

 少年が『告死』を介して彼女……疼木と知り合いに成ってから、随分経つ。

 意図せず出くわす率は、実は男よりも彼女の方が圧倒的に多かった。それは互いの職業柄、保持する異能力や、もう少し言及するなら年齢も関係しているのだろう。色事ではない別のことで少年も何度か世話になっているからだ。

 

 拠点に近づき、掘っ立て小屋のような中にぼんやりと明かりが灯されていることを確認する。

 未だ暗くなりきってはない時刻であるからこの位の光量で事足りるのだろう。

 ……そこで、朧は保護者に連絡をいれていないことに今更ながら気づいたのだった。

 

 

「……少し待って。連絡しなきゃいけないから」

 

 

 黙って立ち止まってくれた少年に目線だけで礼を云って、携帯を操作する。相手へと繋げて、呼び出し音に耳を傾けようとした。

 

 

『何処に居る』

 

 ワンコールで出た。

 待ち構えていたかのような反応に、冷たいんだかなんだかが判らなくなって思わず半目になった。

 

 

「……連絡しなきゃいけないこと、忘れてました」

『連絡はきちんとしろ。社会の基本だ。で、何をしている』

「知り合った人と少し歩いているだけです。ちゃんと帰りますよ、院長先生」

『……誰だ』

「同年代の子ですよ?」

『表か裏か、其処まで関与する心算は無いが、精々拐われないように気をつけることだ。最近は治安が良くない』

「でも昔程では無いんでしょう? ──そう遅くはならないと思いますけど、気を付けますね」

『ふん……では家に戻っている』

「そうしてください」

 

 もう用がないとばかりにぶつり、と電話が切れた。もう用事は無いだろうと朧も携帯の電源を容赦なくぶつりと切った。

 電話先で、腹黒喫茶店主が種明かしとばかりに彼女が『告死』のもとへ向かったのだと知らされたことで自分の仕事先がどったんばったんしているなんて識る由もなく。

 きっと直後に電源を切るなんてことをしていなければ鬼電の嵐だった筈だが、勿論朧は何てことないように簡易に連絡を終えてしまったので、何も思うことなく懐へと携帯を戻す。

 

 

「待っててくれて有難う」

「そんなに待ってない」

「そこは『どういたしまして』、かな」

「……」

 

 

 朧を暫く眺めて、それから何かを確認するかのように、素直に少年は「どういたしまして」と呟いた。

 

 

 

 少年が近づいて、きぃ、と扉を開ける。と、ぼんやりとした光が薄く少年少女の足下を照らした。

 

 生活音はない。

 不自然なまでに静かな屋内で、足音も無くやって来た男を一瞬幽霊か何かかと勘違いしそうになった程だ。それくらいには静かだった。実際には何てことはない、朧が一度見たことのある男は、確かにそこに存在していた。

 ──まぁ、あの時はこれ程までに濃密な闇を感じさせてはいなかったけれど。

 

 

「……」

 

 

 黙って頭を下げた。

 そうさせるような何かがあった。闇と形容したものが大げさ、なんて誰が云えるのか。院長とてそう感じさせることはあったけれど、多分種類が違うと朧は思った。

 きっとこの人の闇は、もっとどろりとしたもので、昏く、そして凄惨だ。

 表情こそ柔らかい目の前の男を眺めると、何時の間にか底無し沼にずぶずぶと沈み込んでしまうような錯覚を抱かせる。

 うん?と首を傾げる様は無防備にも見えて、それがどうにもちぐはぐ(・・・・)だった。

 

 微笑んでいる、その顔は何やら含みのある表情であった。

 

 

「やぁ。────待っていたよ(・・・・・・)

 

 

 少年と顔を見合せる。その台詞で初めて男の声を聞いた少女が、彼女にしては珍しく顔をしかめて、男は笑みを崩すことはしなかった。

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

 二人で向かい合って座っている間の机には、熱く湯気を立てた湯呑みが二つ、置かれている。

 少年は部屋の奧へ行くようにと、この目の前の白髪の男が云って、静かに頷いた少年は、此方を見詰めながら少しの興味を瞳に乗せていたように思う。

 

「君とこうして話すのは初めての訳だけれど」口火を切った男が、元々入っている茶の中へ、何処からともなく取り出した酒瓶の中身をどぼどぼと注いで満足気にするのを、朧はじっと観察していた。

 

 

「作坊は奥で休んでいるよ」

「…………」

「織田作之助。上の名前で呼ぶのも味気ないと思わないかい、『朧ちゃん』」

「……私、名乗っていないのですが」

 

 

 ぴくり、と肩を揺らした少女が「ついでに云うなら貴方の名前も聞いていません」と、心なしかじっとりとした視線で睨むようにしているのに大して動じた様子もなく、男は手に持った湯呑みで口元を隠すような動きをした……持ち上がった口の端は真正面からでもばっちりと捉えることが出来ていたので、まるで意味は無かったのだけれど。

 

 その痩躯、ひょろりと縦長に伸びている体つき。

 雪のように白い髪は病弱にも見える、涼しげで頼りなさそうな男が、くすりと声を漏らしていた。

 よく笑う男だ、そう思う。こんな男が殺し屋なぞ出来るものなのだろうか、出来ているからこそ平然とした平和な顔付きで凄惨な雰囲気を纏っていられるのだろうか。

 

 

「何が可笑しいんですか」

「君が気に入ったのさ。──覚えているかい。あの日、僕たちは擦れ違った後に目を合わせていた」

「……覚えていますとも。貴方の格好があまりにも特徴的だったので」

 

 けれど接触はそれだけだった。

 それだけだ、と思うかい。男はそう云った。

 

「それで十分だよ。……元々君の育て親からは話を少々聞いていたのもあるけれど」

「院長先生が?」

「院長先生が、だ。まァ、随分と僕は嫌われているらしいけれどもね。彼に嫌われていたとしても僕は君に興味があったし、近い内に必ず出逢うだろうことも理解していた」

 

 

 朧は一瞬あの特務課の自称兄弟子を名乗っている、友人の教育係を思い浮かべていた。……あれとはまた異なる系統だけれど、それでも矢張り性格にも相性というものがあるから、お世辞にも良いとは考えられない。それが自然だ。

 そもそも朧の養い親は、一匹狼気質だ。誰の手も振り払って背中で拒絶するような。

 強いて云うならば、あまり干渉して来ない纏わりつかない、適度な距離感を保ってくれる、そんな人としか一緒に行動出来ない協調性の欠けた人である。

 もう理解出来ているのだ。養い親にしては随分な譲歩をして面倒を見てくれていることは自分だからこそで、何だかんだでそれに甘えていると自覚している。

 

 

「それで」唇を飲み物で湿らせて、

「私は貴方があの時の人かどうか識りたかったから来たのですが、貴方は?」

「うん?」

「『待っていたよ』と、云っていたでしょう。……こういう事を云うのは好きではないですけど、動向を把握されているのは、妙な気分です」

「それを口にする君も、結構肝が据わってるなぁ」

 

 男は、「そういうことも可能な異能力さ」とさらりと云ってのけたので、それには流石の朧でもぎょっとせずにはいられなかったけれど。

 

 

「そんなに驚かなくても、君も持ってるだろうに」

「……異能力は、秘匿されるべきものでは?」

「僕のそれ(・・)は有名だよ。そも、識られたところで何か困るようなことは起こり得ないものだからね」

 

 

 異能力が秘匿されることは、公に軍事利用の防止や大衆の混乱を避けることも含まれる。しかし、異能力を持つ個人からすれば何よりも重要なことは、異能力者同士の戦闘においてそれが弱味となるからだ。

 男の云うことは、弱点らしい弱点の存在しない、上位の能力を有するという意味である。

 だから、支援系統、それも限られた利用しか出来ない朧の異能力は位階(ランク)は下の方だ。

 

 

「『死を告げる男』だよ、僕は」

「…………」

 

 

 何も気負うことなく云いきるからこそ、怖気が走る。……彼は、こういう人であるのだと。

『告死』と呼ばれる男は目の前に居る。

 

 

「怖いかい」

 

 首を振った。

「いいえ」本能的な拒絶は、恐怖までは与えない。一度死を体験した少女は、死の与える恐怖に鈍感だ。

 そして、彼女を以てすれば、死への恐怖よりもこの男の浮世離れしている様の方が余程気になるものだった。

 

 

 

「なら大丈夫だ。これからも作坊と仲良くして欲しい、それだけ頼みたかったんだ」

「……これだけ答えて欲しいのですが。彼に云った『近い内に出逢う人』は、私で合っていたのですか?」

 

 

 その問いには、「僕は人のとある未来(・・・・・)を視ることが出来る」という囁きで返された。

 

 

「占いですか」

「そんな曖昧なものじゃないよ。もっと笑えないものだ」

「……起こり得る事実?」

「君の想像にお任せするよ」

 

 

 焙じ茶をごくりと飲み込む。胃の辺りにじんわりたした温かさを感じながら、突然目の前の男が眉を寄せるのに首を傾げて、「どうかしましたか」と尋ねる。

 

 

「……朧ちゃん、君の難点は保護者があの人であることだね」

「院長先生が何か?」

「連絡は入れたのかな」

「知り合った人と少し歩いている、と云いましたけど」

「知り合った?ああ、作坊か……じゃあ僕が怒られる案件なのかな、これは」

「……何かしましたか」

「うん、君の保護者様に僕の異能生命体が数発銃弾を撃ち込まれたね。銃弾なんて意味ないんだけど、腹いせかな」

 

 

 ちゃんと迎えに行かせたっていうのに、気が立ってるものだ、と肩を竦めた。

 

 

「……私の電話では『家に戻っている』って」

「こと僕に限ってはということだよ。これでも一応、危険人物なんだ」

「自分で云うんですか?」

 

 

 呆れた少女に、男は笑う。新雪の白は、朧の居た処とは別の孤児院にいた幼子の、月白の髪とはまた異なっている。

 

 

「こんな僕が、あのかわいそうな子に望むことだ。あの子の未熟な人間性は、闇にどっぷりと浸かりきった僕では育めないだろう」

「……あの少年と私は、長い付き合いになるんでしょうね」

「おや、疑問も質問も無いのかい」

「だって、未来を視たんでしょう。私は近しい人に成り得ると」

「あぁ、うん……何というかね。合ってるんだけど違うというか」

「?」

 

 

 いざ云うとなると勇気が要るなぁ、と男はぼやいて、少女の前で初めて苦笑を見せた。

 

 

「年頃の少女にこんな事を云うのは何だか変な気持ちなんだけど」

「何か問題でもあるんですか」

「問題というか……朧ちゃん、僕が君にこれを頼むのはね」

「はい」

 

「あの子の将来の好い人が君だからなんだよね」

 

 

 

 

 

 

「────は?」

 

 

 朧はぽかんとして殺し屋の男をまじまじと見詰めた。片肘をついて此方を見ている。この男が少年を大切にしているのは確かなことであったらしい、そこまで他人事のように思って、「え」とまた勝手に口から声が飛び出していた。

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

 少年が入った部屋は暗かったが、人の気配があった。同時に嗅ぎ慣れた鉄錆の香りが薄く漂っている。

 

 

「疼木」

「……あら」

「血の匂いがする」

「仕事は終ったわ」

 

 

 立ったままの少年を怠そうに見上げて、女は溜め息を吐いた。

「おいで」

 暗闇の中で手招きをする。するりと、猫のように少年は隣に座った。

 

 端から見たら、少し年の空いた姉と弟に見えたのかもしれない。

 けれども、女は、少年を名前で呼んだことは無かった。

 

 

「もう一人、人が来ている」

「識っているわ」

「知り合い?」

「……いいえ」

 

 

 嘘だ、と少年には判っていた。

 けれども、その嘘が何を思って吐かれたものなのか、何のために、誰を想ってのものかを一分として識らない。

 

 

『ひいらぎ』

『情婦と聞いている』

『……』

『疼くの字に木、で疼木』

『……うん、そっか』

 

 

「私のことは善いの。怪我は?」

「無い」

「相変わらず優秀ね」

「……」

「喜びなさいな。私の異能は弱者の為のもの。あなたは紛れもなく強者なのだから」

「……じゃあ、明日咖喱を食べる」

「そうしなさい」

 

 

 

 




────情婦は、拾い上げた写真を眩しそうに眺めて、泣くような表情になって顔を歪めた。










長い……長いよ_(:3」∠)_
後編に続きます。プロットを一行で終わらせる奴はこれだから!!!!(私です)


※最近ちょこちょこと文スト二次が出てきていますね。とっても嬉しいです( ´∀`)
皆、この調子で織田作救済を頑張ってくれてもいいのよ……?


※評価感想お待ちしております。



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第三五話 影の中の闇(後編)

 ぱぁん、という乾いた音が未だ耳の奥で反響している。

「白木十人長!」己をそう呼ぶ部下の声が聞こえて、青年は振り返った。
 合わせた自分の目は恐らく、血と硝煙に濡れているだろう。闘争に身を投じた者のそれに成っている筈だ、と他人事のように思う。


損害(・・)は?」
「死亡者二人、軽症は一人です」
「うん。……上々だな」


 ポートマフィアに属する武闘組織、黒蜥蜴。
 遊撃という役割を担う故に、人員の入れ替わりが多い部隊である。組織の為の人の死が、容易くそこに在った。
 それは裏社会の人をある程度まで間引きするという意味合いも込められている。
「本当に」「死傷者は少ない程善いですから」……けれども青年の上々、という詞は恐らく、この部下には少ない死傷者に対する安堵として捉えられたのだろう。最近加入した黒服だ。割とお喋りであることは白木に似ていなくもないけれど、実際としての自分は、任務中はもっと真面目である。

 こいつは近い内に死ぬだろうな、というのは口に出さなかった。 察しの悪い奴は幾ら教えたところで死ぬものだから。
 察することが出来ない奴はそのまま野垂れ死ね、そういうことは余程強くて我を貫き通せる奴に限る。甘い詞しか云えないのは、どれ程裏の世界が血塗られているかを実感していない者だけだから。


 ぴぴぴ、と機械音が鳴る。
 端末をちらりと見遣り、内容を確認する。
「撤収だ」と短く云うと、周囲に散らばっていた他の部下もそれに従って動き出す。

 血が薫っている。それは己の血ではない。
 けれども何れは自らの血に沈むのだろう。他ならぬ自分も。そして、その時は近いのだ──自分以外、この場の誰も識らぬことだけれど。


「俺は広津さんの処へ報告に戻る」
 返事を聞く前に、踵を返した。埃の立つ地面を踏みしめる。夢見が悪かったせいか、息苦しい。

 ──何時からか。この世界は、俺が生きていける為の酸素が薄かった。
 夢の中の妹は、ぼろぼろと涙を落として泣いている。





人間兵器庫(マスプロ)』と呼称される壮年の男のことを述べるならば、先ずポートマフィア内での細々とした噂の中にある異能力について関心がいくのだろう。

 彼は主に戦闘に使用される武器類、他にも小さい日用品や消耗する類いの物品の補充や任務後の現場に散らばるものの回収も手掛けている。

 保有する異能力は、手に持ったものの数量をそのまま二倍に複製して見せる力──手品ではない。その上、複製とはいっても、それはそっくりそのまま本物だ。

 

 活動は最下級構成員のそれと何ら変わりないだろうに、妙に人望があったり上層部と親しかったりするから、矢張り男もまた立派にポートマフィアの一員である。

 隠している訳ではない。事実、男がポートマフィア入りする前の勧誘の競争率はかなりのものだったのだから。

 値打ちものの宝石をちゃっかり増やして市場を操作する、なんてことも上から云われれば、目を付けられない程度にやってのけた実績を持つ──懇意にする情報屋から偶然に入手した情報であるので、恐らく識っている人はどれ程も居ないのだろうけれど。貨幣そのものに手を出さないのは懸命な判断であると思う。

 

 ともかく、資金面のことを長期的に考えるとこれ程有用な存在が、戦後政府から放逐されたった数年前までは何処にも属さず生きていたということだ。そして自らポートマフィアに入り、そこに当たり前のように溶け込んでいる。

 だからなのか、荒事にあまり関わっていないせいか、男の継戦能力は広く識られてはいない。

 

 上手くやっているものだ、と思う。

 だからこそ、嘗めてかかれば痛い目に遭うことは間違いない。『告死』の男はそう思っている。

 

 

 

 

 

 消音器(サイレンサー)を取り付けているのだろう、型の古い古ぼけた拳銃が閃く。

 片手を時折袂に突っ込み、馴れた動作で弾切れを起こすことなく(・・・・・・・・・・・)二丁を交互に操って銃撃の雨を降らせている男のことを、そんな場面を初めて目にした少女が目を丸くした。

 角度の問題か、周囲に及ぶものを含めて彼女は被害を被っていない。

『告死』はといえば、ひたすらに撃ち込まれる弾を、それを撃ち込んでいる本人をつい先程まで案内し、本来の仕事へと戻った異能生命体が、手元の大鎌によって防ぎ続けている。……弾道まで、きちんと把握出来ているのか。

 

 互いに大声をあげなさそうな二人にしては、声を張っていると解るくらいの声量だった。

 

 

「随分なご挨拶じゃないか、貴方も物騒だなぁ!」

「何とでも云え。──────ッ」

 

 

 弾丸が射出され、それを跳ね返したものは、その手元を狙ったのだろう。養い親の手からはじき出されて部屋の隅へと転がった拳銃が、からりと音を立てた。一瞬だけ視線で追いかけてから、動揺する様子もなく流れるように。刀を居合の要領で抜き放つ。

 

 男の異能生命体が構えている鎌と鍔迫り合いを続けている。朧の向かいに座ったままの男は、膠着した状態を見詰めて「そろそろ退かないと、止め時が無くなるよ」と彼女の養い親へと投げ掛けてから目蓋を閉じてソファに体を沈めた。

 唇が動く。

 

 

「驚いただろう、朧ちゃん」

「……ええ、とても 」

 

 

 文字通り、次元の異なる闘争である。

 朧が習っていたのはあくまでも護身で、彼女の識るものとは性質を異にするように思う。それは(ぬる)さであるのだろう、どんな心持ちで何を賭けて戦っているかの。

 最低限身を守り、あわよくば怯ませる程度には反撃できるように。想定の上で用意された状況の中で、ぎりぎり命をかけない程度の、物騒で高度なじゃれ合いという経験を、少女は持っていない。

 早朝の静けさの中、一対一で向かい合うのとは、まるで異なっていた。多数の破落戸を程々に打ちのめすのとも違う。何よりも、まるで躊躇いが無いからこそ自分とは遠く離れたように見てしまうのだ。……他人事では無いのかもしれないけれど。

 手を抜いていても、その殺意の純度の高さをびりびりと直に感じている。ぴくりと、目元が拒絶に引き攣れた。

 

 ぎゃりぎゃりぎゃり、と金属が擦れあう音がする。思わず耳を塞ぎたくなるような、厭な音だ。

 男の攻撃の直線上で、それでも自分の異能に守られている『告死』は、ゆるりと眼を開けて、少し呆れた声を出した。

 

 

「『人間兵器庫(マスプロ)』、君ねぇ」

「…………」

「聞いてるかい?」

「……貴様も大概冗談が通じないな。本気ではないに決まっているだろう」

 

 

 いや、絶対にあれは本気以外の何物でもなかっただろう、というような空気を黙殺して、少女の養い親はふっと力を緩めたようだった。

 一瞬のうちに間合いの外の後方へと飛び退いて、漸く少女の方を向く。隅に追いやられた自身の拳銃二丁を拾う。刀を元に仕舞って、かちりと小さく音が鳴った。

 

 

「迎えに来た」

「理不尽だなあ。あまり調度品は無いとはいえ、拠点が割と被害を被っていることには何か、ないのかな?」

「腹いせだ。納得しろ……理不尽、よくも貴様が云えたものだ」

 

 は、と嘲笑混じりの吐息。

 朧は息を潜めるように、それを見守っていた。初めに擦れ違った時から判っていたことではあったけれど、どうにも自分の養い親はこの男に嫌悪を感じているらしい。

 かの猫に化ける『先生』とは別種の、修復のしようもないような態度だ。何が彼をそうさせるのかは解らないけれど。

 

「そんなに警戒しなくてもいいのに」

 傍らでその異能生命体がこっくりと頷いた。彼女には初見である、その異形を皆は恐れるらしい。

 死を纏う、死に近い異能。人々が考えた死神の姿を形にすれば、こんな姿になるのだろうか。

 ……一度死んでいる故なのか、どうにもそれに一度経験した懐かしさを感じて、そのことに内心で少し、戸惑った。

 

「僕が彼女に危害を与えるなんてことは微塵足りとて無いのに。そこは信用してほしいなあ。そうだろう、朧ちゃん」

「……そこで私に振るんですか」

 

 

 二対の眼が、同時に彼女の方を向く。迫力があって、少女の背筋にぞわぞわとしたものを感じながら、それでも朧はこくりと首を縦に振った。

『告死』の男が、得意気な顔になった。多分院長先生が苛々させられる奴だった。

 

「ほら、ね。だから大丈夫」

「…………」

 

 今にも舌打ちしそうな養い親は、けれども少女にはそんな表情を消して、見定めるような視線を注いでいた。少しの居心地の悪さ、その後にふいと視線が逸らされて、興味が失せたかのように養い親は少女の隣に腰掛けた。拳一つ分くらいしか間は空いていない。

 

 硝煙の薫りがふわり、と鼻を掠めて、慣れない匂いだと眉を寄せた。

 

 

 

 **

 

 

 

 養い親がやって来るまでの間、男はといえば、少女に詳しいことまでは語らなかった。

 もっと恐ろしい、深刻な理由で上手いこと呼び寄せられたのだと思いかけていた朧は、あまりにも似合わない理由に呆気にとられた表情で居た。

 真逆、自分の将来の片割れともなろう人をそう指定されるとは。想定を見事に外している。

 問い返した少女は、けれども目の前の相手の顔が至極真剣であるのを見て、これが冗談で発したものではないことを悟った。

 

 数回、落ちつけるための深呼吸をする。

 ちらり、と部屋の扉、少年の消えた奥の方へと視線を向けながら、詞通りに受け止めるべきなのだろうな、と思っていた。

 

 好い人というのは、詰まるところ、友人を越え、家族とも異なる、血の繋がらない片割れに互いが成ることだ。少女にとっては未知であるそれを、未来で、あの鳶色の眼が綺麗な少年と共に。繋がりとして紡ぐということ。

 

 その繋がりはきっと、男の一言が無かったとしても何れは辿り着くだろう可能性の未来であったのだろう。

 他人の一言で関係を変化させてしまわれるような、そんな安い人間ではない、少なくとも少女自身はそう思っているので。

 余程心に響くものでなければ、人の詞によって心を動かす、なんてことは出来ない。そも、出逢いというものは人に云われてどうこう、というものでないのだし──……ならば、云わねばならない理由というものが、きっとこの男にはあったに違いないのだ。

 

 

「予想外でした」

「善い方に、それとも悪い方向にかい?」

「…………」

「驚いただろう」

 

 

 少女は、問い掛けには答えなかった。

 何が正しいか、なんて完璧な答えは無いのだろう。二択で決めてもいい問題ではない。何よりも、朧がそうしたくはなかった。

 

 

「けれど、当人どうしの間に介入を決意する程の未来を視たんでしょう」

「なんだか詞が刺々しいね? ……云っておくけどね、僕は本来そこまでお節介を焼くような性質(たち)じゃあないよ。あの子供と君だからこそ……と云ったら君は厭がるのかな」

「……私はそんな、さして気にかけられるような人じゃないと思うんですけれど」

「それを決めるのは君じゃない、僕だよ」

 

 口にして後悔するようなことを詞にしてはいけないよ、と笑われた。

 微笑んだままの表情で云われた筈のそれは、何故かひどく重いもののようにのし掛かった。

 

 

「その……あの子にこのことを教えては」

「いないね」

 

 ──少なくとも今のあの子が、愛というものを理解出来るとは思わないよ。

 

 

 

 

 

『告死』の男は、それが親愛であれ友愛であれ、家族愛、はたまた恋愛であったとしても、大別して愛と呼称される不確かな物を育むことの難しさを理解していた。

 初めて少年と出逢ったとき、自分を棚にあげて、何と空虚な瞳だろうかと思ったことを覚えている。

 

 子供は、感情が希薄だった。いっそ無知としても良いくらいだったのかもしれない。

 貧民街(スラム)の子供たちが身を寄せ合い、どうにかこうにか生きている中を、するりと何事も無いかのように通り抜けて。もしかすると、そこらの大人よりも不自由しない生活を送っている。

 惜しむらくは、その恩恵を与えている割の善い職業というやつが、自分と同じであることか。──けれどもきっと、それと同等に稼げるなんていうのは、ぱっと思い付く限りでは客足の絶えない男娼くらいのものだ。どちらにしても悲惨である。

 

 ……似ている、とまでは云わない。けれども、同業者として放っておけなかったのも事実だ。

 人に死を施す者ではあるが、それでも、緩やかに、子供自身でも気付けぬままに。着実に死へと突き進んでいる少年を見殺しにするような所業を、少なくともその時の『告死』は出来なかった。

 そして、──気に掛けているものは、何れ愛着が湧くものだ。

 

 お気に入りにしている、されている。そういう自覚があったのは双方ともだろう。けれど、だからこそ、『告死』の男自身が彼をみちびいてやることは不可能だ。

 疾うの昔に取り返しのつかない処にまで来てしまった男に、今更大切なものが出来てしまうとは、何とも笑える話である。

 

 

 尊いからこそ、触れる資格は無い。死に近すぎる故にその雰囲気にさえ死の香りがつきまとう男だったから、そんな自分に比すれば『彼女』のほうが余程適任で、果たせる役割だ。そう思っている。

 否、もっと正確に述べるのならば──彼女だからこそ、少年の人間性を引き出せるのだと、信じている。

 

 自分が導かずとも、何時かは二人は出逢ったのだろう。男はその出逢いを早めたけれど、少年はきっと少女を愛するようになるのだろうし、少女は少年の機械的な素振りにも寄り添う筈だ。

 その少しの時間の差が、何を変化させるのか、未だその未来に変容は見られない。しかし、意図して引き合わせたことで、未来を担うちっぽけな子供二人が育むだろうもの()を見れるのならば、それはきっと幸運なことだ。

 

 

 

 

「安心していいよ」

 

 だからそっと微笑む。彼女と彼女の保護者の前で、『告死』の男は、歌うように云った。

 

「誓っても善い。この娘に僕が危害を与えることは間違っても無く、それは僕の使役する死魔も同様。彼女が彼女()である限り、その未来が在る限り。僕は君の絶対的な味方であることを約束しよう、何なら僕の目の届く範囲に限って君が守られるべき僕の庇護下であると、そう知らしめたっていい。理由は──解っているだろう?」

 

 視線で促されて、少女は矢張り小さく頷いた。

 察しているのかいないのかは定かでは無かったけれど、少なくとも自分の口からその理由を口に出すことはないだろうな、と朧は思っていた。

 彼女の保護者がため息のように一息吐いて、「(おれ)は貴様を善いと思ったことは無いが」と云う。

 

「嗚呼、善いだろう。認めよう、(おれ)の大事な娘だ。貴様が何を以てその判断に至ったのか識る心算もないが、己は好かない者であれ、その実力を認められない程狭量ではないとも」

「……君、割と乗せられやすいって云われたこと無いかい?」

「少なくとも貴様に云われる筋合いは無いが?」

 

 養い親の横顔をちらと見遣って、苦笑いを溢しながら、しかし結局は自分の問題であるのだと朧が実感するまでには未だ時間がかかりそうだった。

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

 かちゃり、と奥の部屋の扉が開いた。

 

「もう帰ったよ」

「……あの子は眠ってしまったわ」

「未だ夕飯を食べてないのに」

 

 

 静かに男の傍へと寄った女に、「本当に逢わなくて善かったのかい?」と尋ねる。

 

「あの時に出ていっても、私はあの子に差し伸べるものは無いし、何よりもあの男に悟られたくは無いもの……でも、」

 

 あの子は思った以上に大切にされているようね。

 その囁きには、微かに喜色が含まれていた。

 

 

「……そういえば疼木、君時間は大丈夫なのかい」

「時間に厳しい訳ではないわ、あの先生(・・)は」

「仕事だろうに」

「お手伝い程度のことよ」

「先生……森医師(・・・)に宜しく云っておいて」

「直接遭って云えばいいじゃない」

「僕はこれから少し忙しくなる予定だからね」

「……呆れた。そんなにあの子が大事なのね?」

「それは君だって同じじゃないか。朧ちゃんは大事な妹なんだろう?」

「きっともう、忘れているわ」

 

 

 ぴんっ、と男の額を指で弾いて、女は「また後で」とその場を去ろうとする。

 

「疼木、忘れ物」

「……あら」

 

 細い鎖をじゃらりと投げつけられて、受け取った女はそれを腕に巻き付けた。

 

「忘れないでくれよ。それがある限りは、君は僕の物なんだから」

「解ってるわ」

 

 

 ばたり、と扉が閉まる。

 ふ、と一息ついて、一人になった部屋で男は一つ延びをした。思った以上に部屋の損害がある。

 奥の部屋で眠っているだろう子供のことを考えて、それよりも前に片付けしなくてはとぼやきながら、散らばっていた薬莢を摘まみ、何の意味もなく笑いを漏らしたのだった。

 

 

 

 




──あの子の幸せの在処である人を、男はひそかに探し続けていた。






※次くらいからようやっと、原作の探偵社設立秘話に入れるのかな~、というふわっとした予定を立てています。やったね、やっと社長と乱歩さん出てくるよ……!あと、最後の院長先生盛大にデレましたねやったー!

※※
手直ししてないので、ちょっと誤字脱字があるかもです……(;・ω・)遠慮なく誤字報告、お願いします。




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第三六話 銀狼



 足早に、目的地までを出来るだけ簡略化してその道筋を辿る。
 残党狩りは、今のところは此れを以て終了だ。追加があったならばまた適宜に連絡が来るのだろう。

 辺りは、不自然に静かで、生き物の気配が希薄である。当たり前のことなのだ、だって今の今まで周辺では命のやり取りが起こっていた。
 かつかつかつ、と足早に。
 本部では、端末を手持ち無沙汰のように握る単眼鏡(モノクル)の男──青年の上司が居て、その足音で気づいていたのだろう、此方に顔を向けていた。


「早いな、白木」
「撤収は総て任せてきたので。久しぶりに血に酔った気がするっすね」


 息苦しかった、とため息をついて、青年は無造作に髪を掻き上げた。その台詞通りに身体に血の匂いを纏わりつかせている。

「相手さんも此方も大分間引きされましたけど。上からは何も無いんすよね?」
「未だ何も、と云っておこう。……後数回位は出なければならないと見ているのだが」
「あー……まァ多少人員が少なくても精鋭で通るからいいか」


 ぼそぼそと適当に詞を交わして、白木は懐をまさぐり始めた。少しひしゃげている箱の中から煙草を取り出し、火を点ける前に一言断りを入れる。
 何も珍しいことでは無いけれど、ことその青年に限っては、広津は目を瞬かせてそれを見た。
 火が点いて、もわと煙が立つ。

「吸っていなかっただろう」
「最近ですよ、最近」

 流石に煙草の味も識らないまま死ぬのは、少し心残りがありますからね。





 少女は、自分の手首に巻きつけた細い鎖を眺めていた。

 一見すれば何か、装飾品の類いにも見えなくはない。けれども年頃の女子が持つにしてはやや素っ気ないもので、硬質な輝きを見せている。

 

 重量は然程なかった。動く間に金属が擦れ合って、控えめにちゃりちゃりとした音を立てている。

 それは、朧があの男の庇護を得るに相応するということを示し、或いはそれを周囲に知らしめるためのものだ──こういう云い方をすれば、鎖を渡してきたその男を元々気にくわないらしかった彼女の養い親が判りやすく顔を歪めるのだが、所謂『告死』の男の所有物である、と。

 

 その男は、自身の職業に反して子供好きであるということを、朧は自身の働いている喫茶の店主から聞いた。

 実際にして、そうなのだろう。圧倒的に強者だから弱点を曝せるのであり、その子供という弱点にも手を出せば手酷い報復が返ることは想像に難くない。過去にそういうこともあったのだ、と。

 

 孤児院にも入らぬ貧民街の、何の力も持たない、顔も識らぬ幼子たちがその鎖を肌身離さず、というのは珍しくないことであるという。だからか、貧民街の子供たちの生存率というのは、『告死』の男がこの横浜に現れてからは上向きになっているらしい。

 …………まぁ、こと少女に限ってはその子供好きが高じて、という中には入ってないのだけれど。

 

 

「…………」

 

 

 腕を何気なく挙げる。

 光を透かすようにすると、鈍色の輝きは思ったよりも眩しい。

 

 因みに、偶然道端で遭遇した広津や時折何気なくふらりと家に立ち寄ってくる安吾が、それぞれ朧の腕に巻つくそれを発見した途端に形容し難いような凄まじい表情を見せたり、呆れたような目で此方を見てきたりもしたのだから、一定以上の効果があることは確定だ。

 後者に至っては「朧さんの交友に口出ししませんけど、限度というものがあるでしょう!」というお小言付きで。

 

 

 ……少女は既に大人の手前といった年齢であった。

 だから、通常と異なった意図で渡されたのだと、気づく人は気づくのだろう。

 けれども、少なくとも少女がその理由を口にする、態々教えるなんてことは、そんなことをする心算など毛頭ある訳がない。ろくでもない妄想や、誤解されるかもという可能性もあるのだが、まぁ、外野には云わせておけばいい。

 

 何時かは話すのかもしれないけれど、それは今ではないし、きっと遠い先のことだ。それも身内のみのこと。

 未だ、少女はかの少年について何も識らないといっても過言ではないのだし。

 

 

 

 そこまで思ってから、元より生白い肌で、やや血色の悪いのが常である少女が、ほんのりとその頬を染めた。

 

 鏡など持っている筈もない。そういうものを見る習慣もあまりない。

 自分のことは自分自身では気づけないものだ。

 周りに誰か居たら指摘を受けていたことを、彼女が気づいていないことは幸運だった。

 

 

 

 

 

 それが限りなく確定に近い未来であるからか。

 彼女自身は識ることは無くても、その萌芽は緩やかに始まっている。

 

 

 呼び鈴の音がして、その音の方へと顔を向けた。

 

 

 

 

 

 来訪者は限られていた。

 少女の友人かポートマフィアの誰か、時たま猫の集会所でもあったりする(その時を狙ってか否か、家主が不在の時に限られている)。

 しかし今回は少女を訪ねることを目的としてやって来たのではないのだろうと思った。

 あるとすれば、少女もその周りも恐らく把握しきれてはいないくらい多くの()てを持つ、彼女の養い親の方だ。

 

 一見すれば白髪のようであったが、よく注視すればかの『告死』の男のような新雪の色ではなく、銀の色をしていた。さしずめ夜の月光だろうか、そんなことをちらりと思った。

 日本人然とした和装、そのくせその色合いは外つ国の血を連想させる。そう考えれば矢張り自分は平々凡々な一個人の筈で、けれどもなりそこないの異端(異能)者だ。

 門扉を開いて、顔を見合せ、見詰めあう間厳しい冷徹な眼差しに晒され、その中に僅か、困ったような戸惑いを感じた。

 

 それは彼女の養い親を彷彿とさせたが、まるで違うのは、その男から武人のような厳しさを感じられたからだろう。

 無感情に、路傍の石を見るようなそれと比べるのは失礼だと考え直してしまうくらい真っ直ぐで、誠実だった。

 そう思った朧の判断は、きっと間違っていない。────彼が家を間違えておらず、紛れもないこの家の主人と関係を築き続けているのならば、それを不思議に思ってしまうくらいに、男は善人に見えた。

 

 

 男は、呼び鈴の音で出てきた少女を見て、虚を衝かれたような顔をしていた。

 顔を合わせて互いに黙りこんだ。男がおもむろに一歩後退し表札のあった窪みを見つけても、そこに新たに作った表札は取り付けられていない。

 

 朧は、未だかの養い親の名字を識らなかった。

 興味は薄く、きっとこれからも識る機会は訪れないかもしれない。厳格そうに引き結ばれていた口が少しほどけて、彼は少女に問いかけた。

 

「……彼に娘が居たという話は聞かなかったが」と、思わず洩らしたかのように呟きだったが、それは確かに問い掛けであったので、朧は男に、素っ気なく「でしょうね」と同調した。

 

 

「私は孤児院の子ですから。彼が貴方の探して居る方で正しいのなら、私の養い親です。…………『人間兵器庫(マスプロ)』、この名称に聞き覚えは?」

「……家の場所を間違えたかと思っていた」

面会の許可(アポイントメント)を取り付けているのなら中で待って頂いても構いません。が、私の話はされなかったので?」

「彼は自分が人に識られることを嫌う人だ。私のことも覚えているか……噂で戻ってきたと聞いて、ふと訪ねただけだ」

 

「未だ俺が貴女くらいの年頃に、少しだけ」と、当時を思い返したのか、存外柔らかい声で云って、朧はぱちりと目を瞬かせた。

 見たところ三十前後くらいの年齢に見える男の少年時代に、それほどの何かを院長は彼に与えたのだろうか。

 けれど、この居るかどうかだけを確認するために来たらしい人に、院長は何処に行ってもあの態度を崩さなかったのだろうな 、と確信に近い状態でただ思った。

 同じくらいの齢に影響を与えられたということに少し親近感があったのかもしれない。押し黙って……中へ通すように門扉を開けた。

 少し驚いたように、目の前の人がぴくりと眉を上げたのが見えた。想像したよりは感情豊かな人なのかもしれない。

 

 

「約束は取り付けていないのだが。……入っても善いのだろうか」

「──私から連絡します。お名前をお伺いしても?」

 

 

 少しだけ逡巡してから、男は「福沢……福沢、諭吉だ」と名乗った。

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

「それで、貴様は(おれ)を呼び出したのか」

 

「その連絡の携帯はそういうことの為に与えたのでは無い筈だが?」と云う養い親に「興味があったので」「……面の皮が厚くなったな」なんてやりとりが出来たのは、偏に彼らが間食の菓子を摘まみながら会話をしているからである。

 緊張感は欠片も無い。端から見たら互いに仲が善くないと思われるのやもしれないが、それでも隣で何も云わずに様子を窺われるような、そんな雰囲気ではないと思うのだが──単に、来訪者が会話を自ら好むような性質ではないというのもあるのだろう。

 

 

「育ての親のお蔭でしょう」

「……己か」

「はい」

「…………」

「…………」

 

 

  睥睨していた視線をついと逸らし、代わりに深いため息と、「次から次へと……」という独り言を発した。

 

「……貴様は本当に、妙なものばかりを引き寄せる。あの店主然り、『告死』然り。お膳立てなど必要ないとでも云うくらい、勿論この男のことだって識りはしなかったのだろう」

「院長先生のお客様なら、それは先生にも云えるのでは?」

「己のそれは貴様に意図して見せている、限定された交友だろう。運が善いのか……しかし(おれ)は、貴様に訪ねられる程の何かをした覚えは無いと思っていたのだが。孤剣士銀狼」

 

 あぁ、狼か。

 何処か納得した面持ちで見た男には、誠実さの中に鋭さも同居している。……狼であるというのに群れをもたず一人であるのを、何時か懐へと容れるような誰かが現れることはあるのだろうか、とぼんやり考えた。

 

 縁側に姿勢よく座り、陽光に目を細めるのが、妙にさまに(・・・)なっている男だった。

 それまで伏せていた目を、朧と隣り合う院長その人の方へと向けられる。

 

「貴方は覚えておられないかもしれないが、童の時分に貴方に遭ったことはあるので」と謙虚に呟いた男に少し考え込んで、「剣で叩きのめしたか」と養い親が尋ねた。彼は半分程中身の無くなった湯呑みを膝の上へ固定して、至極真面目な表情で「はい」と頷いた。

 叩きのめしたことも実際はどうでもいいことのように覚えていなかったのだろうな、と朧はこっそり半目になった。

「己も若かったということだ」という台詞に「成る程」と納得出来る要素が何処にあるのか、問うたところでその問いの意味を理解されないことは目に見えている。

 

「なれば、再戦の試みといったところか」

「……それを考えなかったかと云われれば嘘になりますが」

 

 

 剣による異名を持つ以上、その男には天稟が存在するのだろう。朧よりも遥か上の、武に生きる人であるのだろう。……少女にとっての上限は未だこの養い親で固定されているが、それに太刀打ち出来る技量があるのだと、他でもない養い親が暗に認めていることに少し、驚いた。

 納得でもあったけれど。

 

 しかしその男は首をゆるりと振って、「些細な疑問を解決する為に」と云った。

「幼いあの頃ならば再戦も希望したのでしょうが。貴方がふらりと現れ、直ぐ居なくなり、それからの間、自制と増長のせめぎあう中で理解したことがあります。……天秤が後者へ傾いた時に剣は手放したので」

「それで?」

「都市外に居た貴方が自ら裏の組織に組み込まれることを是もした理由をお尋ねしたく」

 

 

「……識られて困ることでは無いが」と前置きして、養い親はちらりと少女を見遣った。福沢もまた少女に目を向ける。

 我関せずとでもいうように茶を啜っていた。或いは、態と視線を逸らして注視されることに気付かない振りをしていた。

 彼女の養い親の男は直ぐに目を戻す。

 

 

「取引をしてな」

「貴方が居るだけで戦力が桁外れに上がることは明白でしょう。木っ端も集まれば其れなりの暴力に変じる。ポートマフィアは他の組織よりも頭一つ抜きん出ることになりますが、出る杭は打たれるのでは、と」

「抗争が激しいことは聞いている。他組織の一部が徒党を組み潰しにかかってきたことも。もっとも、其処は大分戦力を削られたと耳にしたが」

「…………」

「……この娘の生きていく土壌を作る為の助力と後ろ楯、それと己を引き換えた、それだけだ。一度政府に放逐された身で態々手元に置かれるのは癪と云うものだし、信用もされていない。かといって、光の下で異能者たる己が生きるには柵が多すぎた。裏社会でフリーになろうとしたところで勧誘による抗争は起きるだろう。どちらにせよ選ぶべきは最善の選択肢だ」

「これが?」

「これが、だ。…………嗚呼、軍警は呼ぶなよ。まず政府には──少なくとも今は未だ、己に多大な負い目が有る」

「今の俺は用心棒ですが、目の前で襲撃でもしない限りは捕獲などは考えない心算です」

「…………今思い出した。貴様、あの小生意気な童か」

 

「忘れていた」と顔を顰めた院長に、男が微かに苦笑いをこぼした。

 

「何か可笑しいことがあったか」

「いえ。……貴方も、人の子であったのだなと」

 

 少なくとも、見ただけでは平々凡々としか見れない少女を気に掛けるなんてことをするとは福沢には到底思えなかったのだ。実際それは正しいもので、朧がその例外である。

「当然だろう」と院長が鼻を鳴らした。

 人の子であるからこそ、冷血漢で通っていた男でもそれを曲げるような状況に出逢う。そしてそれは他人事などではなく、云った当人である福沢とて例外ではないだろう。

 

 

 

 

 

 二人の出逢いともとれぬ会合は一度きりであったけれど、片方が十何年後の今になってこうして訪れるくらいには記憶に残る出逢いであった。

 幼い頃より剣術を嗜んできた福沢が男に見えたのは、その少年期に既に才を開花させ、苦戦など全くの無縁であった頃だ。

 

 初めての任務の前、ふらりと前に現れた青年から感じる強者のそれに惹かれて一戦を申し込んだ。

 未だ成熟しきっていない子供で、我が剣は国家安寧の為に在り、と本心で思っていた中には、されど己では気付かないくらい極小の闘争へひた走る修羅の影が見え隠れしており──そして少年は、地面へ転がされた。

 体躯から発する膂力の差、と簡単に云ってしまうのは言い訳だ。そして、弾き飛ばされた木刀に呆然とする福沢を冷酷な眼で見下ろし、「世も末か」と吐き捨てた男の、けれども何処かやるせないようにも見える表情を、決して忘れはしないのだろう。

 少年は心の何処かで増長するものを飼っていたことを自覚した。ふらりと現れた青年は案外名を識られていたようで、噂は意外にも多く聞いたが、時間が会わないのかそもそも行き交う場所に居ることがなかったのか、目にしたのはその一回きりだ。

 その間に研鑽を繰り返し、増長する心を抑え、自制し、無事に初の仕事を超え、繰り返し暗殺等をこなし──……何時しか人を斬る任務を受けることに喜悦を見出だした時、初めてあの時男の云った詞の意味を理解した。

 その剣技が未熟故の蔑みであると思っていた福沢にとって、それは数年越しの衝撃で、天啓であった。

 天稟が有るとはいえ、幼子に目覚めさせるべきではない悦楽の心を国家の為に利用すること、そして従順にその流れに乗り、正しく人斬りに変じかねない己に怖気が走った。

 思えば、元よりこの男は政府を然程信用してはいなかったのだろう。己の有用性を証明する為の手段としてでしかない、仮宿のような気分であったのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

「面識があったことも覚えていなかったが……これもまた巡り合わせか」

 

 息をついてから空に昇っている太陽を見上げて、大雑把に時間を確認したようだった。

 

 

「時に銀狼、仕事は今日は休みか」

「はい」

「貴様は些末な疑問を解消するだけで満足しようとしているが──……一つどうだ」

 

 

 庭に立て掛けてある数本の木刀をすっと指差して見せても、福沢の眼は凪いでいた。

 それにじっと目を合わせて、院長が満足げにふ、と息を漏らすように笑うような表情は、朧が初めて目にするもので──驚きと、ほんの少しの嫉妬があったことに自身が一番驚いた。

 修羅の影は無く、凪いだ目は成長した者のそれである。

 

 

「善い目をする……そう、ふるわれる力は須らく自分の為で無ければならない。その上で奥底の修羅を完全に封じきれているのは──実に、己好みだ」

 

 

 朧がすっと立ち上がって突っ掛けに足を突っ込み、その立て掛けてあった木刀を双方にそっと差し出す。

 ばし、と反射で受け取り、福沢は立ち上がった男を静かに見上げて、観念したように腰を上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




院長先生は人の好みは割とはっきりしている方なので、ちゃんとツンデレになります。余談。なお嫌いな人に対するとツンツンツンツンツンギレくらい。デレはない。
社長に対してはこの話から察するになんとなくデレが多め。でもその人猫派ですよ院長先生。


実はこの時点で社長は原作よりもやや長く人斬りとして務めていたという微妙な原作改変があったりします。自制の期間がやや長くなったこと、幼かったとはいえ自分を叩きのめせる存在を強く認識していた故のことです。
……しかし、戦時中に国家安寧のためという免罪符を自ら棄てて、長い時をかけて確立させた自分の剣を手放すなんていうのは当時だったら暴挙とかとち狂ったとか、周囲からそういう風に思われてもおかしくないのでは……と思うと、一貫して自分のため、或いは自分の有用性の証明の為だけに政府を利用したうちの院長のメンタル鋼なのでは???
何だか院長がどんどんヤバい人に成っていきますね(人脈的な意味とメンタル的な意味で)。最初の方ではここまで重要人物になる予定ではなかったんですが。





※更新が遅れてしまったのは、こう、文迷っていう罪深いゲームのせいでしてね(目逸らし)少し落ち着いたので、次話はここまで間を空けることはないかと思います。






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第三七話 Gone (後書き:黒の時代IF√)

 身辺整理を開始している。
 虫の知らせ、死へ対する直感というのは自分が思っていた以上に優秀であったらしい。けれども、ひしひしと感じ、侵食するように心の内を占めていったからか、そこまで意外とは思っていなかった。
 細々とした日用品は質へ入れるように手配済みだし、他にすることもなかったので、自分が残していく人それぞれへ向けて、手紙をしたためておくことにした。

 上司、少しばかり仲の良い黒服の古参、院に残してきた弟や妹。癪ではあるが一応養い親であるあの男にも。
 そして、何にも替え難いと思っている、一際よく可愛がっていたと断言してもよい妹。安穏とした暮らしの大半を共にしてきた、とりわけ眩しく見える、男にとっての神様だ。

 数少ない家具もひとまとめにして、未だにどっしりと鎮座しているのは簡素な寝台のみ。机も出したままにしておけば善かっただろうかと今更のように後悔したけれど、直ぐに気を取り直して床に便箋を広げた。





 ……遺書めいたものというのは、果して何を記したらよいのだろう。

 文面について思考を巡らせながら、ごろりと転がって天井を見上げる形になる。夕暮れ色の真っ赤な色彩が窓から部屋中を染め上げていた。
 ことりと首を傾けると、眩しさが目を焼く。もう少しすれば、星明かり煌めく天蓋を見ることが出来るだろう──赤は焔の色にも、血の色にも似ていた。
 未だに残っている火傷の痕をそっと擦るが、けれども白木はその色が嫌いではない。何故なら火の色は、命を燃やす色だった。
 孤児院に於ける『教育』は、其処に居るならば程度の差はあれ誰しもが一度は通る道だ。それは規則から外れる恐怖を植え付け、団結するようになる。不思議なことに、白木の居た其処では他者を蹴落とすような出来事は発生しなかった。誰しもが発揮することは出来ない筈の、無垢な慈愛の精神を持つことがどれだけ尊いのか、その価値を、白木はこの横浜へ来てから初めて識った。


 目を閉じる。
 静かに己の最期を夢想する。
 銃弾に貫かれるのか、或いは刃物で斬られるのか。どのように自分が終る(死ぬ)のかを、それを予言した男は教えてはくれなかった。
 それ程までに惨いことであるのか、それとも単に云う必要性を感じなかったのか。けれど、いずれにしても看取ってくれる誰かが居ることを保証されているのは、それが況してや最愛の妹ならば、これ以上に(しあわ)せなことはない。……同時に、死に際に彼女を泣かせてしまうのだろうけれど。
 矛盾した心情でぐちゃぐちゃにかき混ぜられた内心を抑え、深く溜め息をつく。


 ──ああ、けれども、もうすぐ、やっと。
 自分は終われるのだ。





 ──真っ暗闇に閉ざされている。

 

 殺人を生業とする少年は、自身が縛られ拘束されていることにあまり動揺を見せないまま、ただ自身の状況を把握するように努めていた。

 それでも状況が良くないことは明白だ。息遣いは籠って聞こえるし、視界は頗る悪い。なんなら手まで椅子にくくりつけられる形で拘束されている。けれども、服の隅々まで確認しないところに対応の甘さを感じられた。まぁ、人にばれるような仕込み具の仕舞い方はしないのだけれど。

 

 人の気配は感じられない。

 厚手の黒布を被せられ、隙間から微かに差し込む光もなく、窓の外の陽光も部屋の照明も感じられない。

 手足は鉄線を含んだ縒り紐で椅子に縛られているが、どうにか指は動かせる。どちらにせよ、ここまで対処されるのは、予め(・・)それを予期していたかのような(・・・・・・・・・・・・・・)周到さだ。

 

 恐らく、否間違いなく、嵌められたのだろう。

 このまま軍警に引き渡されれば、自分を嵌めた依頼主の筈の男は、己が処断したにも関わらず、誰からの報復も恐れずに上手くいったとほくそ笑む、そんな様子がありありと目に浮かぶ。ひょっとしたら、腕利きの職業暗殺者を捕らえた、そのことも含めて寧ろ称賛を受けるのかもしれない。

 

 …………それは少し、面白くなかった。

 頭は至って冷静だ。その頭で考えて、少年は自分が軽く見られているのだと断じ、被せられている布袋の下で目を眇めた。

 

 後ろ手に縛られている手首が擦れるのも構わず、曲げた指先に目当てのものが落ちてくるように身動ぎする。服の下に隠すようにしてある細い鎖は、けれども緩く巻いているからか、ごそごそと体を揺すれば、するりとその一部が指先にうまく引っ掛かった。

 取り落とさないよう注意しながら、掛けた指を力を込めて引っ張る。作り自体は脆い材質であるのか、既にみしみしと音を立て始めている。

 

 ただの保険だ。だけれども、伝わるものはある。

 

 生にも死にも大して頓着などしない少年ではあったが、不思議とその時、少なくとも此処では死ねないという気持ちに襲われて、ひっそりと首を傾げた。

 

(……翠の、)

 

 あの色合いを今見ることが出来ないのは、少し残念に感じた。

 

 

 ────ぱきん。

 

 

 同時に、少年から離れた拠点の一室にて寛いでいた男が弾かれたように顔を上げて、一人きりの室内をぐるりと見渡した。

 

 ゆるゆると顎を擦って、何処かで千切れ 、鳴らされた鎖の場所を探る。

 それが破壊されるか千切れるかすることはすなわち、元の持ち主たる死魔及び『告死』の男が感じている感覚的な繋がりが切れることでもある。誰か(子供)が助けを求めているのだ。

 

 ──捕捉(みつけた)

 

 ざっと脳内に地図を思い浮かべ、その場所に何があるのかを確認したところで漸く不可解な表情になり、それから眉を動かす。空気の揺らぎに小さくおや、と呟いた。

 

「珍しいこともあるものだね。お前が自ら出てきたことも含めて」

「────」

 

 男の異能が声無き声を発した。死神の如き姿形。

 人が内包するものとしては、あってはならないもの。その包帯塗れの体躯、頬の辺りに、そっと指を滑らせた。

 

 

「──?」

「うん、解っている。様子は見に行く心算だよ……まぁ、単に保険だとも思うけれどね。手練れのあの子が──作坊が、助けを求めるなんていう、そのことこそが信じられないだろう」

「────」

「けれど保護者としての務めは果すさ。早急に向かおうか…………はてさて、余程の大物が出てきたか、単に嵌められてしまったのか、どちらだろうね」

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 その頃の福沢は、横浜の中ではおそろしく腕の立つ用心棒として噂されていた。

 

 刀を持たせれば百名の悪漢を斬り伏せ、槍を持たせれば一個軍勢と渡り合う。居合、柔を修め武芸百般、休日には書物と囲碁盤を供とし教養も高く、仕事ぶりは冷静沈着。狼のような男だった。実際は密かに敬する人も居るし、引け目を感じる者だって居る。そんな普通の営みをするくせ、少しだけ目立った才能のある個人であるからか、あまり人と群れることを好まないのも相まって、誰にも心を許さないのが欠点などと云われたりもしている。微妙に正解を云い当てているので放置された噂を、大して気に留めることもなく、福沢は孤高の無頼人、まつろわぬ銀の狼として日々の務めである用心棒として誰かの傍らに佇んでいた。

 

 

 その日は何時もとは少し異なる動きをしていた。

 福沢にとって依頼人が暗殺されたというのは、傍に自分が居ない時で全く過失は無いのだといっても、それが単なる契約警護ではなく専属の警護官として常駐していたのなら避けられた悲劇であった。

 嘗てのことを彷彿とさせるので組織に属することをあまり好まない福沢だが、それでもそれは晴天の霹靂であり、自己嫌悪させるのには十分な事件だった。寧ろそれを思わせるのに人一人の命は重すぎたとさえ思っている。

 

 それなりに敏腕であったらしい、あの女社長の生きて動く姿を見ることは出来ないことに、その戒めが己の群れを厭う性を越えられるのか僅かな不安を抱えつつも、福沢は潮が引くように避けられる人波の中を態々掻き分ける労力を使わずに当該する建物へ辿り着いた。

 外から上階を見上げる。海に近いからか強風は微かに塩の味がするように思われた。港に程近い、赤茶けた煉瓦造の建物は古びたものであるが、堅牢そうでもありそんな風ごときでは小揺るぎもしないだろう。

 

 アスファルトの路面に隠しきれない血痕を見た。

 福沢は瞑目するようにして、その実こっそりとそれから視線を逸らした。感情を殺し落下現場を通り過ぎ、「株式会社S・K商事」と書かれた看板を確認した。数度の警護で見馴れた筈のそれを幾分か長くじいと見詰めて、確かに此処の会社である、と漸く認めなければならないことに溜め息を吐き出した。

 

 

 

 

 

「やあご足労頂いて済みません。少々お待ち下さい、すぐに済みますので」

 

 

 おおよそ殺人現場には似つかわしくないような風景の中で、殺された女社長の秘書を務めている男が書類の山と格闘していた。

 広い筈の社長室には所狭しと書面が並び、机にも床にもびっしりと、ほぼ隙間ない一面に広がっているのはいっそ異様に映る。

 

 

「──何をしている?」

「書類をね、整理しているんです。此処にある書類は私しか把握していませんから」

 

 

 かなり不親切な説明に、少し困惑の表情を表に出した福沢は、けれども所詮は部外者であり、その主君たる女社長が殺害したその日に書類業務を行うこの男が果して不敬なのか勤労なのかを判断しかねていたが、顔色が悪い以上そこには悔やみがあるのだろうし──……一面の書類という衝撃(インパクト)で忘れかけてはいたが、今は凶事の直後である。直ぐに頭を下げて、悔やみの詞を述べた。

 

 秘書は暗い顔をいっそう暗くさせて「職業的暗殺者です」と語った。

 

「全く会社には痛恨の極みです。個人的にも、社長は前職にあった私を引き抜いて下さりここまで育てて頂いた師であり主君のようなものでしたから。凶行の真相を暴き、正義を白日のもとにさらすことが何よりの餞と考えています」

 

 そして隣の部屋を示し、既に殺し屋が捕らえられていると説明され、そのことに福沢は驚いた。

 

「未だ隣室に居るのか?」

「諦めたらしく、大変大人しいですよ。眠っているのかと勘違いする程です」

 

 

 有り得ない、とまでは云わないが──実物を目にするまでは、福沢はその秘書が云うことが本当なのかと疑いかけた。そう思わせるくらいには、横浜の殺し屋というのは他の都市のそれとは危険度の桁が異なる。

 

 ──魔都、横浜。そう称される位には、犯罪者の楽園なのである。

 福沢の脳裏に、先日伺った家の家主とその義娘の少女が思い浮かんで、振り払うようにこっそり頭を振った。

 戦時中とは比較にならないほどの無法地帯。大戦終結により連合軍系列の各国軍閥が流入、治外法権を振りかざし、自治区を蚕食するように築き上げ、闇組織は群雄割拠し、海外非合法資本や犯罪者、殺人者の坩堝である。

 そういった中でも一際危険で、警戒すべき異能者の存在を福沢は危惧していた。

 

 ただの暗殺者ならいい。

 しかし、超常の力を当たり前のように振るう者どもであるのなら、捕らえたという程度で油断したら此方の首が獲られかねない。そしてそれを近くに置いたまま今まで作業を続けていたこの秘書の男すらも、危険に晒されていたということだ。

 市民よりその超常へ触れてきたことが多い職種に就いているからこそ、その危険性を重々承知していた。

 

 福沢は隣室に捕らえられている暗殺者を見ることの了解をとる。己の武芸の腕を無駄に駆使し、並べられた書類をそよともそよがせないままに扉の前へ降り立ち、書類整理を続ける男を尻目に扉を開けて、その中へするりと滑り込んだ。

 

 

 

 

 

 殺し屋は座っていた。

 想像していたよりも小柄であった。肩幅も小さい。後ろ手にされた両手足を椅子に縛り付けられており、頭には黒い厚手の布袋を被せられているため容貌を確認することは叶わない。

 思ったよりも厳重に確保が成されていて、福沢は虚を衝かれたように思った。確かにこの格好では、抵抗しようとも脱出はおろか自分の鼻を掻くことさえ出来ないだろう。手足を縛るのは鉄線を含んだ縒り紐であり、どんな怪力の猛者でも引きちぎることはない────況してやこのように小柄な暗殺者では。

 

 

 けれども、この少年は手練れである。少し観察しても、明らかな異能者たる外見的特徴は見られなかったが、殺し屋の商売道具は部屋の隅にあり、いわば丸腰。

 備え付けの万年筆で斬撃の真似事をすれば、派手な音と共に自ら椅子ごと跳び、倒れ転がった。

 殺気を読んでいた。無数の修羅場を潜った、並を越えた殺し屋である。 異能と陰謀蠢く大戦後の横浜で、一握りの人間しか雇うことが叶わない、凄腕の職業殺人者。

 だからこそ──疑問であった。

 見敵必殺の暗殺者が女社長を窓から素手で突き落とし、逃走中に警備員に取り押さえられる──……そんな拙い犯行ならば、この少年は社会で生き抜くことは出来なかっただろうに。

 

 難しい顔でその不自然さに考え込んだ福沢は、床に倒れ込んだ少年の躰の下で、きらりと細い鎖が光ったことに気づけなかった。

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

 目当ての少年とは違う学生服の子供が窓際によるのを見て、そこから突入するのを窺っていた男は「運が善いじゃないか」と微笑んだ。

 強風が、向かいの建物に立っている男の処にまで声を運んでくる。自分が開けるまでもなく、内側か、開いたくれたのなら侵入も楽というものだ。

 

 

「……これは確かに、お祭りだなあ」

 

 書類だろう紙が、窓からの旋風によって鳥のようにばさばさと飛び立っていく。

 巻き上げられた一枚を無造作に掴んで、男──『告死』は、「株式会社S・K商事、ね」と呟いた。

 銀髪が窓から見える位置に覗いた。「おや」と云って、独り言を背後の異能生命体へと投げ掛けた。

 

「銀狼じゃないか」

「────!」

「作坊に不利な条件があったら逃げられないな……転落死なんてあの子の異能を活かせないような殺害方法を実行するとは思えないし、嵌められたかな」

 

 地面には血の跡が未だ残っている。

 報復だね、と男は口元を緩め、 「裏切り者への報復。出番はもう少し先かな」と云いながら 目元を隠すようにフードを深くかぶり直した。

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

 報復の意思に従い秘書が銃弾に撃ち抜かれ、目の前で人を殺された福沢が頭の布袋を力任せに剥ぎ取った。

 若い。

 赤みがかった短髪。鳶色の瞳は空虚で無感情。

 赤髪の少年暗殺者を、情報だけなら福沢は識っている。二挺拳銃を使い、おそろしく無感情で、対象を冷酷にただ殺す。拳銃の腕前は超人級で、どんな体勢から撃っても絶対に外さない。

 まるで未来を見ているかのような神懸かった先読みの力を持つ悪夢のような存在。

 福沢は襟を掴み腕で相手の首を絞めた。意識ある状態で置いておくのは危険だと判断したのだ。

 

 福沢の失敗は、その殺し屋の持つ技量だけでない、交友関係まで把握していなかったことであろう。

 

 

 少年は感情のない目で福沢を見返していて、気を失う直前にふと唇を歪めた。それは笑みの形であり…………

 

 

「────っ!!」

 

 

 別の殺意が背中を這い上がり、福沢は一気に飛び退いた。隣の社長室の窓は何時の間にか再び開けられていて、その傍に転がっている気絶したもう一人の、面接に来たという少年の脈を慌てて確認した。

 生きている。

 ほっとしたのもつかの間、先程福沢が首を絞めた暗殺者の手足の紐を切り離している男の背に「何者だ」と詞を投げ掛けた。

 それで食っていける程には己の腕に自信のあった福沢は、その埒外の存在に問い掛けながら、そんな人間は片手で数える程しかいないことを理解していた。

 

 背中越しに振り返った男が、そこから見える口元だけで微笑んだ。

 

 

「銀狼、かな。君の仕事の邪魔をするのは今まで無かったからはじめまして、だね」

 

 

 存外柔らかな声、薄い存在感とそれを塗り潰すような凄惨な殺気。そのちぐはぐさがいっそ恐ろしい。

 何故、と呟いた。

 自らこの幼い暗殺者を回収しにやって来たのだろう。その男の背中を守るように、その異能生命体が福沢に大鎌の切っ先で牽制している。

 

 呟きに応えるように、気絶してくったりした小柄な体躯の様子を確認しながら、その男──『告死』は「この子は僕の庇護下に居る子供でね」と云った。

 

 ────『告死』の男。

 仕事の達成率は十割。強力な異能者。

 凡ゆる総てを殺し尽くす生命体を操り、夜にしばしば現れ、誰かの命を刈り取っていくその姿は正に死神の如し。

 

 そんな存在が、態々この小さな暗殺者一人の為だけに、白日のもとにその姿を晒していた。

 

 

「市警に引き渡すなんてことをされるのは困るんだよね」

「…………」

「君が見逃してくれたら、此方も見逃してあげようと思っているんだけど、どうかな」

 

 

 暗に何時でも殺せるのだからと、そう云っていた。

 

 男は長外套をとる。隠していた顔まで露にしたそれで少年暗殺者を包み抱き上げ、「どうするのかな」と首を傾げた。

 さらり、と雪のような髪が揺れる。

 

 福沢は奥歯を噛み締めた。

 ぎしり、と音が口の中に響いた。

 

 

 

 

 




※微原作改変でした。
織田作を市警になんて引き渡すわけないでしょ!!!ということでついでに乱歩少年も気絶して頂きました。社長は強制的に乱歩さんのお守りですね(にこ)因みにこの時点で未だ二人は自己紹介してません。告死さんは織田作引っさげて悠々と窓から脱出していきました。

なお、織田作を嵌めやがった真犯人秘書さんの出番は出来るだけ削ってます!!!!!(怒)
大分抜かした秘書さんの台詞諸々は原作の方をご覧くださいね。


※※評価感想お待ちしております~(´-`)






以下おまけ。↓




【IF 黒の時代、後:海の日なので(本編じゃないです)】



「暫く、お休みを頂きたいと思います」と入室してから直ぐにそう云った女のお辞儀する姿を、森は少しの間眺めていた。

「顔を上げなさい、朧君」
柔らかく云ってから再び書類に目を落とし、彼女がその顔を上げるのを待つ。それが見るに堪えないものであることは、彼女が一番承知していることである筈だ。

「……今朝、鏡は見てきたかい?」
「隠しようもないので、これで善いんです」

泣き腫らした目元は何度も擦ったのか赤く、唇は噛み締めたのだろう、薄く血が滲んでいた。女は薄っすらと──しかし引き攣ったかのような笑みで「善いんです」と繰り返したのはひどく痛々しく、けれども何処か美しかった。

「織田君は、君の────だったね」
「はい。……首領、どうか許していただけませんか」
眼は爛々と輝いて、黒混じりの翠が自分を見据えている。森は「もっと仄暗い目をするかと思っていたよ」と溜め息を吐いた。
まるで云うことを聞かない生徒を見る教師のようでもあったけれど、その中に優しさと冷酷さと、温かさ、憐憫が多分に含まれていることを理解していたから、朧はそれを黙って受け取った。
彼の、幼女を模した異能生命体が、この時ばかりは心配するようにして静かに女に寄り添った。



──私は。

朧はふっと目を伏せて、エリスの艶めいた髪をそっと撫ぜながら、小さく呟くように語る。

「私は──……仮令(たとえ)大切なひとを失ったとしても、それが『彼』でないのならば。彼さえ居てくれたのならば、生きているのであれば、どんなに過酷な環境であったとしても耐えれていたと思います。それで構わないと、そう思っていました」
まぁ、何故かこうして居る訳ですが。
「彼は逝ってしまった。彼は、私の人生において標ではなかったけれど、掲げる灯火ではありました」

前へと進めないことを、けれども停滞するのは、彼の否定するところとなるだろう。

訥々と語られる、独白めいた台詞に、それを聞いていた森が声をたてずに笑った。──……その眼は彼女ではなく、大人しく髪を弄られるままに任せているエリスに注がれてはいたけれど。それを非難出来よう筈がない。


何時の間にか手を止めて、片肘ついて穏やかに微笑む首領は、「君のそれは、本当に判りにくい偏愛だねえ」と云った。
──ああだが、けれども、きっとうつくしい愛だ。
囁くような詞に、朧はふるりと背を震わせた。
それを察し、何を云うでもなく認めてくれる人は他にも居るのだろうけれど、他でもない首領が、朧にとってその一人目であることが、ひどく感動的なことのように思われた。

「依存、とは仰らないんですね?」
「真逆。──そんな、生温いものじゃあないだろうに」

くつりと、喉を震わせた男を前に首肯して、朧は幼女のさらさらした金の髪を手慰みのように編み込んだ。金糸の、手触りの良い、完全品の人形。


「但し、遠くへ往く時は太宰君を連れていくといい」
「……承知致しました。御心遣い、感謝します」

「エリスちゃんのそれが終わったら退出しても構わないよ」という詞通りに、何時もよりは幾分か大人しい幼子と少しの間戯れる。
その後、頃合いかと立ち去ろうとした朧の後ろ姿を引き留めたのは、他でもない森だった。

「朧君」
「何でしょう」
「君は私を恨んでいるかい?」


「……真逆」と女は云って、振り返ることなく扉を閉めた。





そこから始まるかの人の弔いの話。海です。海に散骨する朧ちゃんが思い浮かんだので。
勢いで書いてしまいましたけど、依存以上の愛って何だ……?

このif√は原作と同様の運びであり、本作でいうところのBADENDに相当します。

⇒この後の流れ
・太宰のコート選びに朧が付き添う(砂色のあれ)
・安吾さん、平手打ちされるの巻(太宰は満面の笑みによる腹パン。愛はある……はず)
・あのコートなら、もう焼いてしまったから。
・海(横浜)にて散骨。曲りなりにも彼が生きた場所であったので。
・……いってきますと云ったのなら、只今を云うために帰ってきてほしかった。


※以下ちょっとだけネタバレあります。注意!!









「……君も来るかい?」
「私がポートマフィアを抜けると思っているの、太宰くん」
「織田作が云っていたよ。安吾だって。……君は陽の光が似合う人だと」
「…………」
「私は潜る。彼が云ったんだ。どちらも同じなら佳い人間になれと。その方が、幾分かは素敵だともね」

ふふ、と女は笑った。「作之助さんらしい」とだけ呟いて、涙は溢さず、もしかすると疾うに涸れ果たのかもしれない。空虚に響く声が耳に痛くて、正直なところ太宰は己の耳を押さえて彼女の声の悉くを遮断したかった。

「首領にも許可されたのだろう、遠くへ往く時は私を連れていけと。ならば私が遠くへ往くのに君が居るのは、何ら不思議じゃない筈だ」
「……。けれど私に彼は────」

『いってくる』その声が、耳の奥で木霊している。

「あの人は。作之助さんは、いってくると、そう云ったのよ。彼の生きた場所、彼の居た場所。彼が帰る筈だった場所が仮令どんなに闇の中にあっても、私だけが楽に成るために其処を棄てるなんて、出来る訳がないじゃない」
「……朧。彼はそんなこと望んじゃあいないよ」
「それはあの人が云うことであって貴方が口にすることじゃないわ」

彼がいってくると云って、いってらっしゃいと声を掛けた。
せめて待っていてもいいかと尋ねて、ついて来るな、と答えをはぐらかされた。
物云わぬ骨は──……只今など、云える筈もない。

「私は君のそういうところ、嫌いでは無かったよ」
「嘘ね。……何より、首領は私が出ていくことを想定し、許しこそすれ、本当に私が此処を抜けるなんて思ってはいないでしょう。このポートマフィアに収容される封印済の敵異能者がどれだけ居ると思っているの?」


太宰の微笑みがあまりにもその首領に似た、出来の悪い子を見るようで、それを云ったら多分怒るのだろうな、と朧は思った。
心にぽっかりと穴が空いていて、今まで様々なことになあなあ(・・・・)で折り合いをつけてきた女だったけれど、今回ばかりは、その穴を埋められるような何かを一つも思い付けないのだ。


……これはおそらく、初恋ではない。
けれども、最後の恋だった。
時間が経つ程にきっと思いは募るのだ。最初に忘れてしまうだろうあの甘い低音の声から失って、やがてその顔すら朧気になってしまっても、その喪われた存在にこそ朧は恋をしていた。
この先誰にも、この心を明け渡しはしないのだ。向ける気持ちの深いところを、総て彼が拐って去ってしまった。

非道い人だ、と思う。ポートマフィアは彼の死を礎にして、だけれどそうして利用されても、子供たちの仇討という本懐を遂げた男は満足したのだろうから。

「彼は私の楔になった癖に勝手に死んだ。彼が私を陽の下へ置きたかったとしても、彼が居ないのなら意味がない。楔を失った私がそれでも生きるのなら、それはこの裏社会で藻掻く子供たちのために他ならないわ」
「……君は、それで救われるのか」
「同じ事を、別の人にも云われたわ」

くすりと笑い声だけ洩らして、それが当たり前であるかのように「それが駄目ならもう冥府にしか道はないでしょうね」と嘯いた。


あの人への罰だと女は云う。そして、男を止められなかった、(しがらみ)に成りきれない己の起こした罪禍でもある、と。

「さしずめ、墓守とでもいったところかな」

左手の指に嵌めた指環をそっと撫でて、女は歪に微笑んだ。







※あくまでひとつの可能性として。






  


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第三八話 常磐木の女



白木は結局、同じ孤児院の出の兄や姉たちを見つけられないでいる。
働くのなら都市部に居るのだろうと、至極安易に深く考えないままでいたけれど、今や殺人者の坩堝、普通の人が太刀打ち出来る筈もない力を持つ人が影で当たり前のように跋扈する魔窟。
魔都横浜で、逃げ切ったか未だひっそりと身を潜めているか、はたまた既に闇に骨の髄まで喰われ尽くされたか。白木としては一番目を推したいところである。

その治安の悪さに戦いて、地方に散っていけばいい。
そんな希望が通るのなら、再会は叶わずとも、生きてはいられるだろう。実際はどうなのかも白木の識るところではないし、そもその前に己は居ないのだからどうとも云えない。
けれど、多くは望むまい。彼らが生きているという願望の通りであったとして、それをこの目で確かめることが出来ないだろうとしても、そうであったのならそれで十分白木は満足だった。
もう少しこの都市がきちんと統制され、人が集まるようになるのなら、自然とその時はやって来るだろう。



白木は気付かない。
注意力が散漫である、という訳ではない。出稼ぎに出たという兄や姉だって当時は未だ二十にも満たなかった。その過去の、みすぼらしい身なりの少年少女と、きちんと衣服を身につけ、大人の色香のある人が同一人物だと即座に断定することは出来ない。
何時ぞやに会した女──『告死』の男といくらか親しげにしていた情婦の顔を隠す紗の下に、見知った姉の貌があることを白木は識らない。


 

 

 女のそれ(・・)が生来からのものであるのか、何気なく掛けた筈の負荷がはずみ(・・・)によって予期せぬままその箍を取り払ってしまったのか、詳しいところまでは女自身であってもあまりよく記憶していないことだった。

 

 切っ掛けというものは、確かにあったのだろう。同様に、素質も。

 

 少なくとも鈍感な子供であって、周囲からもそうとられていた。よく傷を作ることも多く、そしてそれ故に実の親から棄てられた。

 棄てられた記憶は有るし、自我が定着してから棄てられるその時まで、自分からしたら(・・・・・・・)特に大きな出来事もなく過ごしていた。多少不思議なことはあったけれど、幼い頭では何が正しいかなんて己で判断など出来ないだろう。周囲の認識する異常と己の考えるそれに差異があることを、その時は未だ理解してはいなかった。

 

 とろい(・・・)とは思われていただろうし、生傷絶えず、そしてそれを意に介することもないのだから、けれども違和感は前々から蓄積されていた。

 実際に決断を下されるまでの決定的なことが起きることが遅かっただけで、その体質が、女が自我を芽生えさせるよりも前の、随分と幼い時分の頃からであってもおかしくはなかった。

──どちらにしても、今となってはあまり気に掛けても意味のない事だ。

 

 冷たいことかもしれないが、棄てられた直後でも、当時の女は幼子の特権である泣き喚くようなことはしなかった。 ……痛みに鈍く、周囲そのものが薄い膜越しであったけれど、寧ろぼんやりとした幸福を享受出来てさえいた。

 鈍い彼女であっても、感じる視線に含まれる何かしらの感情は、多少察知出来ていた。大人のそれは色々なものがぐちゃぐちゃに混ざりあう複雑さを有していたが、孤児院の子供の感情は単純で、他の家庭に居るような幼子よりももっと無垢で、同じ子供である自分にはそれが一番安心できた。

 

 

 痛みというものに対して敏感である、血の繋がらない沢山の小さい家族たちからすれば転んでも泣き喚かない彼女が怪我を負った時に寄り添って宥めることに安心感を与えられたので、寧ろ棄てられた先の孤児院では珍しく、当時の彼女は倖せであった。大きい家族たちは特に突っ込んだことを云うでもなく、「あまり痛くなくともたまには泣きなさい」とだけだった。

 彼女自身も少し反省して振る舞いに気をつけたからその程度で済んだ。異端というものを幼子の身で完全に隠すなんて術は無かったけれど、それでも、酷い怪我を負った時にどうでもよさそうに何も気にせず、血を流したまま動き回るような明らかな愚を犯さないと学んだのだ。

 

 

 着の身着のまま孤児院の前に立っていた幼子は、数日後には他の子たちと変わらないような交ぜ織の簡素な服を身に纏い、あまり善いとは云えない食事環境の中で文句を口にもせず、見事に溶け込んでみせた。

 少女の名前は──幼子に名字を名乗る機会なんてものは無いので、直ぐに忘却の彼方へと去っている──柊というのは、彼女自身の肉体以外で親から最初に受け取ったもので、最早名前以外に残されたものはない。棄てられた身であったけれど、それでも与えられた名前を存外彼女は気に入っていたので、その点では感謝をしている。

 

 柊の新しい家になった孤児院はこぢんまりとしていた。

 外から見たら孤児院とは思われないだろう、外観は辺鄙な場所にはまるで不釣り合いな図書館。それでもそこが一応孤児院として成立しているのは、本の詰まっている棚が壁に沿う形であって障害物のない広間のように集まれる場所があるからである。児童書から小難しい本まで様々な本の背表紙を眺めていて、そういえばこの場所で大人に遭ったのは一度きりだな、と気づいたのは数日後の話だ。

 大人がひどく少ない孤児院であると思う。少ないなんてものではない、そもそも一人で、その一人すらも子供にあまり関心のない様子だった。それこそ、その一人いる大人のためだけに誂えられたかのような場所だった。

 そのくせ孤児院には規則とそれなりの秩序があって、大人が煩わしく思った時には対象である子供に折檻の罰が下される。

 子供たちは殆ど放置される形で、けれども周囲に学べる(もの)があったからこの均衡は保たれていた。

 

 

 その齢の同年の子供と比べれば成熟していたのかもしれないが、それは個性で済まされる範疇だった。

精神性で僅かながら勝ったものがあったとしても、当時未だ幼子で、沢山居る子供の中でも年下の方に位置していた柊は、その鈍さもあってか周囲を見る力が他の子供よりも著しく低かったから当たり前のように庇護されていた。恐らく、その欠陥によって棄てられたのだと、気づいている人は気づいていた。

 

 ぼうっとして何かにぶつかることが多い。幼子だからと片付けるには多すぎる回数で転倒する。兄や姉たちによる協議で「この子には絶対に刃物を触らせない」……満場一致で決められたのは必然だった。

 同時に、間違いなく折檻の対象になることが多いと予想され、かつその当人が痛みに鈍いという性質の悪い悪循環を危惧した年上たちは出来るだけ周りを見るようにと常々聞かせることになる。

 それでも生来のそれが容易く矯正出来るでもなく、彼女の初めての折檻は大して間を空けずに行われた。

 

 

 

 

 柊は、じんわりと赤くなった金属が自分の肌に触れるのを、どこか遠い物を見るような気持ちで受け入れた。

 じり、と音がした。

 肌が少し焼ける。熱いというよりは痛い。ずくりと疼きを感じて、ぎゅっと眉を寄せる。…………声は上げなかった。

 院長である男は、それを感情を読ませない瞳でじいと見詰めていた。

 

 痛みに意識を飛ばさなかったことが異常であることを、少女は識らなかった。院長である男は何を云うでもなく、寧ろ運び出す手間が省けたとでもいうように彼女を解放した。

 焼けた自分の肌は、未だ熱で燻っている。ぽいと部屋から放り出された少女に慌てて駆け寄った一人の兄が柊を担ぎ上げて走りだした。

 

 別の部屋に飛び込んで「水の準備出来てるんだろうな!」と唸っている。既に何かの準備態勢が出来ている他の兄姉に突き出され、ぜえはあと息を荒くしたその兄の頭を宥めるようにぽんぽんと撫でると、「お前さては自分の状況を理解していないな?」と余計に怒られた。

 

 

 

 

 

 柊には不思議な特技がある。

 彼女自身が感じることは出来ないので、それは大体申告されてのことだったし真偽は定かでは無かったけれど、最初は信じていなかった彼女でもそれが幾度か続けば実績になる。

 柊の周りでは、大体怪我をしたり折檻を受けた他の子供たちがぴったりと張りついて何かをしている。年長にあたる兄や姉は殆どはちゃんとしているけれど時折どうしようもない程のへま(・・)をすることがあるので、その時は柊の体ごと抱えあげられて昼寝されたりする。

 彼らに云わせると、何でも彼女に触れているか触れられているかした時に傷の痛みが和らぐとか何とか。

 

 彼女自身はそれの正体を推し量ることが出来ないでいる。何故なら、そもそも柊にとって『怪我などによって施される痛み』というのは瞬間的(・・・)なもので、その一瞬さえ過ぎれば感覚は何の変哲もない日常に戻ってしまう。癒えていない傷口に触れたところで感じるものは手がそれに触れているという事実だけである。

 持続的に与えられる痛みというものを彼女は識らないのだった。

 

 

 

「そもそも、怪我をした時にお前が感じているものと俺たちが感じるのは違っている」

「ちょっとそんなはっきり云わなくても……」

「あ? 事実だろうよ。この本で見る限り無痛症って訳でもなさそうだ。痛み自体はこいつも感じている。ただ、痛みが持続していないし、大体他者の痛覚を操作するなんてのは聞いたことないぞ」

 

 

 兄姉が難しい話をしている中柊自身がぼんやりとしているので、それを額をつつくことで咎めつつ、折檻されたばかりの幼子を運んできた少年はぐっと眉を寄せて顰めっ面になった。

 子供は折檻による火傷で痛々しい肌を冷やしているけれど、普通それだけでけろりと出来るような緩和効果が水ごときにある訳がない。

 明らかな異常であった。対応している方が狼狽えてしまうような。…………当時戦時中で、異能力というものがあらゆる面で戦力として投入されていた為か、市井にはそんなありもしない(・・・・・・)戯れ言を進んで広めるような人は居なかった。

 

 

「……いいか、柊」と重々しく云った兄に、「なぁに、お兄ちゃん」と返してことりと首を傾げると、何故か周囲が顔を覆って崩れ落ちた。

 

「ん゛んんっ」

「柊ちゃん可愛い……」

「流石お兄ちゃん! これで眉ひとつ動かさないなんて出来る兄貴だな!」

「うるせぇなお前ら」

「柊の教育係はあんただしね、私たちは可愛がるだけの係ですものねー」

「ねー」

「話進まねぇな……いいか、柊。雑音は無視してとりあえず聞け」

 

 うん、と頷くと「えぇ、酷いなぁ」とかいう周りの詞を早速聞き流して、柊は、目線を合わせるように屈んだ兄の顔を覗き込んだ。

 ひとつ咳払いをして、兄は「お前のそれは、隠さなければならないことだ」と云った。

 

 

「かくしごとは、いけないことよ?」

「よく解ってるじゃねぇか。だが、そういう異常があったから、その全てを把握しないまでもお前の親はお前を棄てた。隠した方が倖せなことだってある。お前、自分が他の奴と違う変なことが何か、理解しているか?

「……ころんでもなかない?」

「それもある。痛みは持続するものだ。ずっと痛い。だから泣くし、お前のところに寄ってくる。お前の近くに居ると痛みが和らぐ、なんてのもそうだ。他人に触ってるだけで痛みが無くなるならみんなそうしてる。おかしいことだ。異常は淘汰される……ってのは理解出来ないよな。つまり、それを他のところでするとお前はいじめられるってことだ。内緒にしなけりゃならん」

 

 指を唇に当てて、至極真面目な表情で「しー、だ」と云った兄に周囲が苦笑する。似合わないと解っているので、兄がそれに睨みで返した。

 

「お前らもこいつにあんまり頼るなよ。こいつが居ないのが今までで普通だったんだ。徴兵されたらもっと痛いことなんて幾らでもあるだろう」

「うーん、まあそうなんだけどねー」

「ついつい……っていうのは言い訳だな」

「徴兵かぁ。孤児院出の兵士は痛みに強いって聞いたことあるけどね」

 

 そろって柊の方を見た兄姉に、その部屋に居るなかの最年少は矢っ張り少しだけ首を傾げて、真似するように唇に指を添えて「しぃ」と囁いた。

 

 

 

 かくして柊という幼子が何時からか発現させていた異能という代物は、その正体をはっきりさせないままに公然の秘密となっていた。

 他の幼子たちも、それぞれによく懐いている教育係の年上たちに何か云われたのか、余程酷い怪我以外に必要以上に引っ付くこともなくなった。……ただ、秘密は秘密でも公然の秘密であるので、お互いに「しぃ」と口に指を当てて背中合わせに引っ付いたりすることは時たまあるのである。

 

 

 柊のことをよく気に掛けていた兄は、やや乱暴な詞遣いで不器用でもあったけれど、それでも少し認識のずれている幼子に根気強く付き添ってくれていた。

 

「汗は出る。やっぱり無痛症じゃねえな。いや、特殊な症状…………判らん。お前大きくなったら絶対に医者のとこに向かえよ」

「泣かなくてもいいが、多少痛がってるくらいはしろ。平然とするな」

「おい柊、火傷したな? 調理場で火だと? 論外に決まってるだろうが、ああん? 最初っからお前は出禁にするって兄弟との協議で決まってんだよ!!」

 

 

 ……短気ではあったけれど、それなりに、感謝はしているのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 赤紙が来た兄は、柊の伸びた髪を容赦なくかき混ぜて、「お前だけが気掛かりだよ」と呟いた。

 

 身長だってもう伸びて、兄には届かなくても、もう屈むまでもないくらいには成長していたのに、相変わらず子供は兄に心配ばかりを掛けさせている。

 その時には流石に、既に自覚があったので、神妙に頷いてみせた。

 

 

「周りをよく見ろよ。お前は注意力が散漫過ぎる」

「兄さんもね。私、兄さんに遭うのがこれが最後だなんてのは厭よ」

「云うようになったなぁ柊。…………元気でやれよ。便りも送れんようになるのか、それも判らんが、まあやれることをやるだけだ。それだけは何時になっても変わらんさ」

「うん。──行ってらっしゃい。帰ってきてね」

「ああ、行ってくる」

 

 

 それから現在に至るまで、柊の見た兄の姿は、青年になりたてのそれで止まっている。

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

 柊もまた、孤児院を出る年齢になって、それまでにはもう普通に振る舞うことも馴れたし、年下の幼子たちを相手にすることも増えた。何度か教育係をしたこともある──といってもそれは実際には、院の規則を教えたり、本の読み聞かせや字の練習など、日常の他愛ないことに付き添う程度であり、柊に付き添っていた彼程大変なことになっている人は見たことがないので、柊は余程要領が悪かったのだろう。

 

 複数人受け持っている中で、朧という名前の幼子に、何か引っ掛かるものがあった。

 朧は、よく泣く子供だった。日常では刺激さえ無ければ穏やか、大人しくあまり手の掛からない子であったが、それを崩されたらまあよく泣いた。

 精神が脆い子供だった。その上夜眠ってしまった後にも泣く。夢見が悪いのか何なのか、尋ねても首を傾げるばかりで、眠っている時に何を見ているのかは分からないが。

 少々悲観的なところがあり、物心つく前から孤児院に居て他の子供と同じように過ごしていたにも関わらず、妙に達観した、不安定な危うさを持つ子供だった。

 

 ──……思えば、それを理解していたかは別として、酷いことを云ったと思う。

 

 何時ぞやに、院長のきつい物言いで涙ぐんでいた幼子に、「泣いちゃだめよ、朧。私たちは心の傷に愚鈍でなければならないの。其れが許されるのは、親のいる子供だけなのだから」──と。

 年を重ねる毎に少しずつ泣くことも減っていったけれど、それでもたまには夜に何かを見て泣く。

 何がそんなに悲しいのか。それが無力さ故のものか、何か欠けたものを想ってのものなのか、単なる恐怖からくるものなのか、判然としない。

 当たり前のように夢のことを覚えていないから、夜夜中にふと目を覚ました時は流れている涙をそっと拭ってやったりするのみだ。

 

 ……ある時、不意に微睡みから目覚めると、よく朧に構っている年下の少年が、じっと幼子を見詰めていた。

 起きている者の気配は、眠っている人のそれと比べると総じて感じ取りやすい。

 

「白木」

「……柊姉さん」

「その子、泣いていた?」

 

 周囲が寝静まった中で、ひっそりと声を交わす。

 弟はうん、と頷いた。

 

「私が此処から出ることになったら、お前がその子を見てやるのよ」

「俺?」

「だって一番この子を気に掛けてやっているもの。だから頼むの」

「……姉さんはもう少しで此処から出るんだっけ」

「たまには連絡するわ。寂しいでしょう」

「…………」

「からかっているんじゃないのよ。ただ、反面教師が居たから」

「反面教師?」

「赤紙を貰って、便りを送ると云ったのに何の音沙汰もない兄よ」

「……」

「お前は覚えていないでしょうけどね」

「……姉さん」

「なぁに煮え切らない顔して。──でも、えぇ、そうね。寝ましょうか。お前を厭な気持ちにさせたい訳ではなかったのよ」

「…………うん」

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

 柊は、何処其処の、聞いたことのない地名の作業場に送られた。少女のうち数人は同じ孤児院の出で、そこだけは少し気が楽だった。

 作業場の統括は男で、そいつが下卑た目で品定めするように少女たちを眺めるのを、冷めた目で見詰めた。

 無い訳ではないのだろう、そういった慰みものという面での用途は。もっとも、そんなことに余裕を注ぎ込むくらいならさっさと戦争を終局へ持っていってくれと思うのが本音だが。

 柊は見た目こそ美人のそれであったけれど、その身体には幾つもの折檻の痕が消えずに残っている躰であったから、そこまで相手にされなかったのは救いであったのだろう。

 

 働いて、給金を貰い、初めてのそれで便箋を買った。殺風景だった孤児院の周辺より豊かな植生で、しかも山が近くにある。生々しいことは無しにそういう他愛ないことを書いて送った。

 生活に充てている費用から余ったお金を少しずつ貯めて、お菓子を買った。戦時中はかなり値がはるもので、小包で孤児院へ送る。手紙も添えて、ふと、弟が孤児院を出る時戦争は未だ続いているのだろうかと考えた。

 

 

 ──結局、白木がその年齢に達するよりも前に終戦が訪れた。

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

 作業場は、終戦後は最早需要のないものであったらしく、幾ばくかの給金を貰ってそのまま職無しの生活になった。

 同じ孤児院だった女が、柊がこの場所で最後にと書き綴っている手紙を覗き込みながら「何処へ往く心算なの?」と問う。

「横浜よ」と柊は短く答えた。手紙にもそう書いた。

 尋ねてきた彼女に貴女はどうするのかと返すと、彼女はちょっと躊躇って、はにかむように「旅をして回ろうと思って」と笑った。活発な彼女らしい、と頷いた。

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

 終戦後の横浜は、それこそ地獄のようであった。

 子供の泣く声が遠くに聞こえる。

 

 混沌としていた。

 大戦後、連合系列の軍閥が進出し外国人が雪崩れ込んできた。きっとこれから混血化が進むのだろうと思わせる程度には多い。明るい色の髪や眼を街中でよく見掛ける。綺羅綺羅しいからとても目立つのだ。

 

 大都市だから、港に面し流通面で困らない、それは街の治安が善い時に初めて安心して利用できるものだ。

 規制が間に合わない、悪意で溢れかえった場所でのそれは、寧ろ一般人には毒でしかない。

 

 日本人では有り得ざる金、銀、鮮やかな赤の髪。そんな彼らを尻目にし、柊が僅かなお金だけを持ってやって来た横浜で住処に選んだのは、都市の外れ、低所得者や移民が多く住む一角であった。

 

 女一人で生きていく為に、手っ取り早く職を見つけようと思うのなら。

 地方よりも高い物価にこっそりと戦く。食材を抱えて帰る道では当たり前のように少女が春を売っているのが目に入る。──……柊よりも余程幼い、けれど何処か覚悟を持った瞳が印象的だった。

 

 果して自分に何が出来るだろう、と柊は思う。

 単純作業は前の働いていた処で馴れたから可能だろう。けれど、それをこの都市が求めているとも思わなかった。

 柊を置いていった兄は、もうきっと居ない。彼は普通の中に溶け込む方法を教えてくれたけれど、もう彼の手をとっくに離れて、今は料理だって出来る。けれど、出来るといってもそれまでで、それはあくまで生活を送る為のものだった。仕事にまで出来るような技量を持ち合わせるものはない。

 

 だから柊は、情婦になろうと決めた。

 旅をしようと云った同郷の彼女に追い付くには金子が足りない。ならば、まず一人で生きていこうと思うのなら、それが一番手っ取り早い。

 この混沌とした中でそれでも生きていくのなら。その先で懸命に足掻く子供たちに手を伸ばすかどうかはともかくとして、先ずは自分が出来ることをする。

 幸い顔はそれなりに善い。

 躰の所々にある傷痕は痛々しいが、需要が無い訳ではないだろう。

 

 

 安物の化粧道具を手に入れて、同じように体を売って生計を立てている隣人に化粧の方法を習う。

 彼女の働いている娼館の紹介までしてくれて、その礼は彼女の、四歳になる子供の面倒を時折手伝うだけでいいと云うのだから、とんだお人好しだと思った。

 細々と客が来るが、如何せん綺麗な躰でないものだから、どうせ暗闇だから気にしないという大雑把な男や、その傷が善いのだという特殊な性癖を抱えた非常に残念な男、けれどそれで食っていく自分もどっこいどっこいだなと苦笑した。

 

 白木への手紙は、最後に横浜へ向かうのだと知らせたものから一つも送っていなかった。

 彼女の生活が安定するまで手紙を送る暇すらなかったというのもあるし、生きる為と云いながら割と即断で情婦になることを躊躇わなかった自分が、大人の汚さを嫌うあの少年に嫌悪を与えてしまうのではないかという一匙の恐怖もあった。軽蔑されるのではなかろうか、と。

 結局私も反面教師のあの人のことを云えないのだ。

 

 

 

 

 

 何時までも安定した時というのは続かない。

 常連客のある男から、娼婦と客、それ以上の関係を求められるようになってきていた頃、大規模な抗争が起こった。

 その男は前々からきな臭いようなものを感じていたのかもしれない、彼は大規模抗争を起こした組織の片方に属し、下級構成員の一人であった。

 

 小競り合いのようなものなら茶飯事であるけれど、それなりに大きな組織同士のそれは周囲を巻き込んで甚大な被害を及ぼした。

 柊の居る処は、低所得者の集まるような場所である。塵も積もれば山となるというが、詰まるところ社会における彼女の立場というのは、そういった塵程度のものなのだ。

 掃いて棄てる程の中の一人。徴兵へ出された兄も、こういった軽い扱いをされたのだろうか、とぼんやりと思った。

 

 

 人口が多いというのは、悪い方にも傾くらしい。

 柊は血がどくどくと流れているのを凪いだ目で眺めていた。勿論、痛みはない。

 娼館ごと見事に巻き込まれた柊は、何発か銃弾を躰に貰いながら、それでも生きていたし、意識もはっきりとさせていた。

 多少鈍くても柊には感覚がある。あるけれど、それは一度感じたその数瞬後には何も痛くないという奇妙な体質だ。一度は痛みを感じており、逆にいうならその一度、一瞬の痛みしか感じていない。そしてきっとそれは、重傷であればある程その真価を発揮できるのだろう。

 皮肉なことに、この力が無ければ痛みに昏倒していた。少なくとも失血で死ぬまでは意識を保てる自信があった。

 

 館の中、どこかの構成員と情婦たちが折り重なるように死んでいる。同じように横たわっていた柊は、ゆっくりと起き上がって、彼女が他の人よりも銃弾を受けていない原因、盾となっていた人をゆっくりと退かした。

 どさくさに紛れて()の肉盾となるくらいに愛していたのか。逃げようと云った男に答える前にこう(・・)なってしまったことに、多少の罪悪感を覚える。──こと切れた男の血に濡れた頬をそっと撫でて、「おやすみなさい」と呟いた。

 

 命の気配のない建物の中を、出来るだけ早足になって歩く。亡くなっている人の中には隣人の女が居て、それなりに懐いてくれている幼子が思い出された。

 父は判らず、一人きりになってしまった子供。未だこの横浜を生き抜く為の力も地位もないか弱い子供を一人にさせたくないのは、偏に柊が孤児院の出だからである。

 死ぬわけにはいかなかった。

 時々ぼたりと腹から血を落としながら、建物の外へ出る。簡易な止血だけだからか、失った血が多いのか、痛みはなくともくらりと眩暈を起こす。

 抗争直後だからか人気がない中を歩いて、倒れてしまう前に人に遭いたかった。出会った一人目に託そうという無責任な考えが浮かんでしまうくらいには柊も切羽詰まっていた。

 

 角を曲がる。

 人にぶつかりそうになった。

 相手に謝罪する前にその服を掴む。人を捕まえられたことに少しの安堵、一気に力が抜けた。

 形振り構っていられずに早口に己の隣の住人の住所を呟く。

 誰かの慌てるような声、がくりと目の位置が下がる。

 泥臭い泥濘の臭い。膝をついた。「お願いします」と声に出せたろうか。

 ────暗転。

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

 目覚めた時、鼻をつくのは消毒薬の匂いだった。

 手に温もりがあり、視線だけそこへ向けると、幼女がすがり付くように眠っている。

 

 

「やあ、起きたかい」

「…………」

 

 

 扉に寄りかかるようにして、男が立っていた。

 声を出そうとするが、喉からは掠れたような音しか出ない。その男から水差しを受け取り、喉を湿らせた。

 男を見る。真っ白な、痩身の男だ。

 東洋の、見るからに日本人の造形であるのに、その色素だけが抜き取られたように白い髪は新雪を思わせる色。

 

 大きな声は出せなかったので「あなたは?」と呟くように問うと、「死に体の君を医者のところまで運んだ者だよ」と返ってきた。

 

 

「……お世話を、お掛けしまして」

「ふふ、世話を掛けられまして、かな。見ず知らずの僕に助けを求めるくらいには無害なのに、その上同胞(はらから)であるなら情婦であっても見棄てるのは寝覚めが悪いからね」

 

 

「僕も子供は好きでね」と男は微笑する。

 しかしそれは結果に過ぎないことを、柊は識っていた。彼女が失血で昏倒するまでに子供のこの字も口には出さなかったのだから、この男は単純に倒れた彼女を哀れんだのだと、容易に察することが出来た。

 

 ──自分の幸運と、このお人好しな男に、深く感謝する。

 深々と頭を下げて、自分の手にしがみついて眠り込んでしまった幼子の顔にかかる髪を、そっと払ってやった。頬の涙の跡をなぞってやると、むずがるように口をむにむにと動かす。情が移ってしまった以上は、どうしても見棄てることは叶わなかった。

 或いはあの母親は、それを見越して交流を持ちかけていたのかもしれない。

 

 

「君も災難だったねぇ。かなりの重傷、よくもまああんなに歩けたものだ」

「火事場の何とか、という奴でしょう。……しかし職場が無くなってしまったことは痛いですね。余計な傷も増えましたし。此処のお医者様は何と?」

「彼は今出掛けているから、その時に尋ねたらいいよ。少し性癖が屈折しているけれど、悪い人ではないんだ」

 

 寝ている子供をちらりと見遣って云うのに首を傾げたが、柊は割と直ぐにその詞を理解することになる。

 白衣の医者は、重度の小児性愛者(ロリコン)であった。

 

 

 

「────これの何を見て、『少し』性癖が屈折しているなんて仰ったのか尋ねたいのですが」

 

 賑やかに帰って来た医師は、己の発言が扉を閉めていても途中から漏れ聞こえていたこと、そもそも患者である柊が起きているのも、子供に対しては一貫して庇護されるべきという考えであるというのも勿論識らない。

 

 

「君の客も似たようなものだったのでは?」

「彼らの方がまし(・・)です」

「そういうものか」

 馴れたような男の淡白な反応、そして医師の連れ子であるらしい幼女がぱっと顔を明るくして柊に駆け寄った。若干盾のようにされていることを気づかない程鈍くはない。ついでに影でこそこそと帳面に書き付けており、そっと差し出されたのを見る。

拙い字で『たいしょうはじゅうにさいいか』と書かれているのを見てしまった。すっと真顔になった。

 医師が今までの幼女に対する発言を無かったことにするかのようににこにこと「目が覚めたんだね」と云う。識ってしまった業の深さが憎たらしい。

 

 

「おかげさまで。けれど、貴方が小児性愛者なのに一気に心証が悪くなりました」

「君に間違っても欲情しないのだから、善いことじゃないか」

「この子を見ても同じ事を素面で云えますか?」

 

 図太く眠っている子供は美形である。未だ性がはっきりしていない、中性的な容姿で、欧州の血が入っているのか色素が薄い。

 あどけなさの中に色気が混じるのは母を見て育ったからか、或いは天性のものか。幼くとも引っ掛かる人は引っ掛かるだろう。

 頭を撫でつつ問うと、医師は無言でにっこりと微笑んだ。柊も微笑み返した。無言の肯定である。

 にこにこと笑顔の応酬を繰り返し、暫く経ってから目覚めたばかりで未だ本調子とは云い難い柊がため息を吐いてその場では根負けした。

 精一杯の強がりを保っていられる程の体力は無かったので。

 

「こんなしがない情婦です、預かりもののこの子以外であるならばこの身だろうと差し出せるものは差し出します」

「…………」

「本来なら私は多分、あの場で死に絶える筈の一人でしたから。お好きな様に、何とでも」

 

 

 どうせこの重傷の治療に払える金など無いのだから。

 

 白髪の男は我関せずの態度を貫き、白衣の医師は少し考え込んでいる。

 気紛れに医師の連れ子の金髪の幼女の頭を撫でると、花が開くように笑った。医師が羨ましそうにその様子を見て、そこで真面目な表情になり口を開いた。

 

 

「では、君の生命線についての情報を」

「生命線?」

「異能を持っているだろう? 彼から聞いたよ」

 

 柊は男を見た。彼は肩を竦めて「同胞(はらから)だって云っただろう」と云った。「僕は異能を所持しているかどうか見分けられるからね」と。

 

 そもそも、異能というものが何か。

 柊は前提を識らなかったが、それが自分の異様な体質を指しているのなら、同類が他にも居るらしい。

何だか救われたようで、妙に嬉しくなって口元だけで微笑んだ。

 

 

「その異能、とやらを私はよく識らないけれど…………それが私の異常な体質を指すのなら、生命線でも何でもないこれの詳細をお教えできますよ」

「おや。異能、異能者という詞に聞き覚えは無いのかい? ──……いや、民間には未だ浸透しきってないものなのか」

「そういえば昔兄に、医師に一度見てもらえと云われていましたね」

 

 

 すっかり忘れていました、と柊は薄く笑った。

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

 彼女の異能がそこそこ役に立つものであったので、そのまま柊は医師の手伝いをたまにしている。同時に、子供の庇護という点で意見が一致した白髪の男──『告死』ともそれなりに深い親交を続けていた。

 彼女の立ち位置というのはもう一介の情婦というだけでなく、異能による付加価値があった。色々と思うところがあって、(読みは同じだけれど)名前も変えた。もうずっと、弟に手紙は送っていない。

 

 預かりものの子供には、とにかく得意なことを探すこと、資格を取るだけでも社会的な信用は得られるのだと教えていたせいか、地頭がいいことも相まって社会を渡り歩くのは容易だろう。──少し甘ったれているのはどうにかしたいところではあったが。

 

 

 

 

 

 少年を黒外套に包んで抱えている男が、ひょいと顔を出して「疼木(ひいらぎ)」と呼びつける。

 森医師(せんせい)がおや、と眉を上げた。患者の手を握り鎮痛を行っている彼女もちらりと頭を上げて「少し待っていて」とだけ云った──患者は麻酔をかけられていないにも関わらず、泣き叫ぶこともなく銃弾の摘出が終わるのを待っている。

 処置を終えてから医師に一言断りを入れた疼木は、『告死』の男の方へ向かい、彼に抱えられている少年を確認して「この子、どうしたの」と尋ねた。

 

「仕事先で市警に引き渡されそうなのを掻っ攫ってきたんだ」

「『告死』、貴方ね……」

「取り敢えず意識が戻るまでは此所に置いて欲しいな。身体に支障があったらことだから」

「…………解ったわ。貴方は? これからどうするの」

 

 男は微笑んだ。

 

「僕はこれから行く処があってね」

「そう」

「後でまた来るよ」

「はいはい」

「……」

「……」

「疼木」

「……なあに」

「これから忙しくなるよ」

 

 

 ぽん、と頭に手を置かれる。お互いに忙しくなる。それはつまり、今起こっている抗争が終結へ向けて激化するのか。

 こくりと頷いた。頭から手が離れる。

 

「じゃあ、また夜に」

「ええ」

 

 その後ろ姿を見送って、外套ごと受け取った少年のくったりとした重みを感じながら、患者用の空きのある寝台の一つに横たえた。

 紙に事の次第を簡単に書き付けて枕元に置き、その場を離れて戻ろうと立ち上がる。

 

 最近また抗争の激化で患者は急増していた。

 彼女に出来るのは痛みをとってやることで、それだけが取り柄である。居ないより居た方がよい。その程度の人材だと己でも理解しているけれど、それを出来るのもまた彼女だけであるから。

 

 金髪の幼女がひょこりと顔を出して、疼木を手招きしていた。

 

 

「ヒイラギ! リンタロウが呼んでるわ!」

「あらエリスさん。迎えに来てくれたんだ」

 

 

「丁度戻ろうと思ったところだったんですよ」と云って、彼女は差し出された手をそっと取った。

 

 戻る心算で数歩歩き、ふと振り返ってみても、少年は未だ目を覚ます様子はなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




──ぱたりと、手紙が来なくなった。

元々頻繁なやり取りでは無かったが、それでも季節の節目には連絡を心がけているような、そういうまめな(・・・)ひとだった。
彼女の最後の手紙が、「終戦に伴い作業場が閉鎖したために、住居を横浜へ移すことにしました」という簡素な報告である。
彼女の性分からして、目的地に着けばまた連絡を寄越すのだろう、そう考えていた。

けれども一向にやって来ない手紙を待ち続けて、そのうち白木は、こうして受けとるばかりであると己を嘲った。
ここで「矢張り大人は」と云ってしまっても善かったが、そうしたとして、その詞が、面倒を見てくれた自分の姉に対して大っぴらにされてしまえば苦痛に思ってしまうから口を謹んだ。そのくらいには、白木は姉を慕っていた。

ただ、この細々とした交流が途絶えることへの心構えが出来ていなかっただけで。
かといって、未練が無くなる訳でもなく、自分も横浜へ向かってみようと白木は考えた。


────きっとこれが、彼の人生における分水嶺だった。







本文の最後の辺りは前話の(告死さんによる織田作回収)話の続きです。疼木さんに織田作を預ける為彼女(の職場。森医師(せんせい)も居ました)のところを訪れたもよう。
それを書く過程で、疼木さんの人生について、どうやって森医師のところまで行き着いたのかを書いたら異様に長くなりました。
多分各話の文字数の中では最長。


※※
院長先生は医学書はもっているけど医学には明るくない感じです。彼は寧ろ、哲学書とかを読んでそうなイメージ。

彼女の様子にもあまり興味を持たなかったので、彼女が感覚が鈍い、或いは無痛症と考えても、その無痛症とは症状が違っていることには気づいていませんでした。異能であると察する機会は無かったということです。
即ち、彼女は知らず知らずで無意識的に異能を行使しており、それが感覚に対する鈍感さに繋がっていたということになります。




情報整理として、簡易異能紹介。↓


・所持者:疼木(柊)
・異能:『───』
⇒自分、及び接触している他者の痛覚を操る異能。
己に対しては、怪我という傷を負った際に「痛い」と思った時点で異能が発動、無痛状態になる。
幼い頃からそれが普通だと思っていたので、他者もそうであるという思い込みが伝播し、結局として傷を負っている他者も無痛状態へと導いている。
恐らく逆に、痛みを増幅させることも可能ではあるが、積極的に使いたいとは考えていない。
異能を自覚してからは、その制御も可能になる。ただし、苦手な方ではあるが。



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第三九話 鏡写し

 ぱちり、と目を開けると、消毒薬の匂いが鼻をついた。少年は少し身動ぎして、腹のあたりに温かな重みを感じ頭を起こす。

 

 外は既に昏くなりはじめ、重さの正体である女はその頭を彼の身体に預けている。意識しなければ気づかない程微かに、女の好んで使っている香の匂いが漂っている。

 肩に手を添えて揺すると、浅い眠りからふと目を覚まし、ぼうとした瞳は焦点を結ぶのに少々の時間を要した。

 

「ああ、起きたのね」

 ぼんやりと宙を見ていた漸く後に、疼木はのったりと身体を起こして、「痛むところは無いかしら」と尋ねた。

 

 

「貴方、気絶したまま運ばれたでしょう。余程のへまをしたのね?」

「……依頼人にやりもしていない殺しの濡れ衣を着せられたから」

 

 

 擦る手首には縄の痕が痣のように残っている。けれど怪我らしい怪我といえば精々そのくらいだ。

 

 

「鎖を使ったの?」

「うん」

「……あの男もたまには役に立つらしいことに腹が立つわ」

 

 後で迎えに来るそうよ、と云った女は、ふと見つけた、少年の手首の痛々しい痣を指でそっとなぞる。

 擽ったくて、どこか居たたまれないような気持ちになりながら、じりと織田作は身動ぎした。

 

「……疼木(ひいらぎ)?」

「…………この程度で済んで善かったわ」

 

 貴方に何かあると、あの子はきっと悲しむでしょうから。

 その詞を聞いて、少年は女の顔を窺った。あの子、と鸚鵡返しにする。

 自分を大切にするような奇特な誰かが、『告死』の男以外に居ただろうか。

 

「未だ先の話だもの、云われても解らないでしょうね────ねぇ、私の依頼を聞いてくれないかしら」

「!」

 

 唐突に話題が変わった。彼女がひっそりと心を向ける誰か、それは何れ少年も識ることになると彼女自身が確信しているのに、己の口からは語りたくないというささやかな我が儘を薄っすらと感じさせるから、少年がその先を問うのはどこか躊躇われた。

 織田作が依頼という単語に反射的に背中を伸ばし、そんな様子に苦笑して「大したことじゃないのだけれど」と囁く疼木は、情婦の艶のあるものではない、何かを純粋に案じる女の顔を見せる。

 

 ──将来貴方に、手放したくない人が出来たのなら、どうかその人を置いていかないであげてほしいの。

 

 

 戸惑うのは仕方ないことだった。

 

 

「……それは依頼というよりは、願い事だ」

 それも彼女には何の利益もないような。

 

 戸惑ってそう呟いた少年に、女はそうね、とあっさり頷いた。

 

 疼木は、直接『告死』の男から話を聞いた訳ではないけれども、それでも雰囲気で察せられるものはある。

人間兵器庫(マスプロ)』という通り名を持っていたらしい、当時はそんなことを識る由もなかった孤児院の院長、それにしても連れられるようにして横浜へ導かれた子供。

『告死』は少女に近づき、自分(疼木)と少年に向けるそれと同様の庇護を彼女に与えた。──……何より、その二人の少年少女が互いに接触することを、彼らの保護者が見守りこそすれ咎めないのは。言葉にしなくてもその答えを導きだすのは容易だろう。

 

 特に『告死』の方に何か含むところがあることまで、女は承知しているけれど、きっと悪い様にはならないのだろう。少年少女は、彼らが大事に抱え込んでいる宝だ。

 もちろん自分も大事に思っていることに変わりはないけれど、疼木は、己の妹と、自分に気づかない弟に、けれどもそれに声をあげるでもなく甘んじて受け入れた。

 女は弱者だ。人を無条件で受け入れ守ってやることは、彼女が嘗てに託された、今は亡き情婦の娘だけである。何人も懐へ入れてやれる度量も才覚も、何もがない。

 黙って前に出ただけでも気づかれない。

 情婦として女を磨いた所為なのが表れているのだろうし、まして幼い頃にしか触れあわなかった妹であればなおさらそうだ。

 

 だから、せめて。自分が既に忘れられているとしても────彼らが辿る途を、それがどのような結末であれ、自分が既に路傍の人の一人として見詰めることを……どうか、許してほしい。

 

 戸惑いつつも、かといって拒否するような理由もなく頷いた少年に、女は顔を綻ばせる。

 疼木は少年の名前を呼んだことはない。最後の一線を越えることがないような距離を保っている。そんな彼女が、心の裡の誰かを想って微笑んでいる。情婦であるとは思えない程の無垢な笑みは、幼気な子供のそれによく似ていた。

 

 彼女の云う『あの子』が誰か察しがついている。少年の脳裏に浮かぶのは一人だけだったから。

 

 織田作が朧という少女を特別と思うまでには、重ねた時間の回数が少なすぎる。

 それでも、街中で溢れているような、道端で通り過ぎる他人を気にとめないようなありふれたものにしては何処かずれている。それは違和感として、少年の心を引っ掻いた。

 人の心の機微に疎い彼が、結局その頼み(依頼)に頷いてみせたことは。自覚は無いにしても、外堀は着々と埋められていたのは……後から振り返れば、明らかであったのだろう。

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

  小さな明かりとりの窓に、手元を見るための灯り。やや薄暗いが、それでも最低限の採光は成されている部屋が男の充てられた場所だ。

 

 部屋の中は、武器で溢れている。

 未使用の弾丸から始まり、様々な型の拳銃、ぎりぎり片手で持ち上がるくらいの軽機関銃(サブマシンガン)、重火器類以外の刃物等の武器、爆弾。総重量が片手で持ち上がらない場合は部品を分解し並べる。効率を理解すればひどく簡単な流れ作業になる。

 

 大小様々な武器。これを末端まで気軽に支給出来て、なおかつ予備まで準備出来るというのは、誰から見ても脅威だろう。

 ポートマフィアが拡大する一因を担っているという自覚はあるし、そんな自分の所属について争うのなら無尽蔵にものを生み出せる男の居るところこそが有利になるに違いない。けれど、人も物も損耗してまで己を手に入れようとする今の抗争はなんとも不毛である。後者はともかく、前者は……人が骸となってまで乞われるなんていうことにまざまざと人間の業を感じた。

 それが男自身の罪であることに、今更青臭く思い悩んだりはしないけれど、それでも、鈍くなった心に僅かに思うことはある。

 

 

 ──物の複製を可能にする異能持ち。

人間兵器庫(マスプロ)』なんて大仰な通り名で呼ばれている男は、それでもその通称に違わぬ程度には仕事に忠実で、仕事ぶりへの信頼、異様な力を操ることへの畏怖を受けている。

 不要は排する性質(たち)で、それでも根が真面目なのだ。そういうところに育ちの良さというのが現れる。そんな意味では、裏社会というはみ出し者たちの掃き溜めである処に居ることは全くもって似つかわしくなく、気が引けるような類いの相手であるのだろう。

 規定される社会に適応出来ない人、そうならざるを得ない環境で育ってきた子供。そんな者たちが多く居る。

 

 こつこつこつと靴音が冷たい廊下に反響する。

 武力を収めるという意味で厳重に隠された場所の其処は、ある一定の権限を持った者か、ポートマフィアに絶対の忠誠を誓う者しか潜ることの出来ない場所である。

 最下級構成員など以ての外で、その程度に対処出来ない男ではなかったけれど、何処で情報が漏れるのかなんてわからないのだから、その厳重さに苦言を呈することはない。

 

 扉の外の廊下は歩けば足音が響くような材質で、近づいてくる人の人数くらいは把握出来るようになっている。

 足音の重さも歩く速度もばらばらに扉の前で立ち止まったらしい人へ、男は素っ気なく「入れ」と促した。

 

 入ってきたのは三人。そちらをちらりと見遣って、僅かに眉を持ち上げた。造り出された武器を何時も持っていく運び屋の若者、広津、そして、男の嘗ての養い子。

 白木は気まずそうにそっと視線を逸らして脇に寄る。思っていたよりも殊勝な態度に広津は意外そうな顔をしてから、遠慮なく部屋に入りひらひらと手を振った。

 部下は単に付き添いであった。この養い親であった男に対して憎悪に近いものを抱えている白木は何時も、頑なとして接触を拒んでいるのだが、この日はどういう訳か着いてきたのである。

 広津が強要したでもなく、そのくせどうにも不服そうな表情ではあるけれど。

 

 

「御前か、広津」

 

 目付きの悪い眼光が、そのまま白木には目もくれずにいる。広津はこっそり肩を竦めて、手近な椅子に腰かけた。

 

 

「次が最後だろう。自由に出歩くのを多少でも制限されるのは痛いな」

「そうか」

 

 妥当だろうよ、と男は温度を感じない声で淡々と答えた。

 運び屋の、青年になりかけているだろうくらいの歳である少年が、荷車に大抵の物を積み、出入り口のあたりで一礼をした。

 

 

「あの子供は?」

「両親の時から運び屋として勤めていると聞いた。忠誠心においてなら疑いようはないだろうよ──そうすることでしか生きていくことが出来ない人間のそれだ。面識は無いのか? 御前とて長いだろう」

「生憎、関わりあいの薄い者を記憶に留めておくような優しさは無いものでな」

 

 広津が壁際の白木に「珈琲を」と声を掛けると、色々と持て余していたのだろう青年は少しほっとしたような息を吐いて、小さく据えられている棚の方へと歩いていった。

 

 話の内容の詳細を聞き取れないような距離にあることを何気無く確認して、広津は「何の意地を張り合っているのだ」とため息をついた。

 

「……何の話だ」

「御前と白木の話以外に何があると云うのかね? あれは妹をいっとう大事にしているだろう。御前を巡る抗争の手が朧に伸びることを危惧しているのに云い出せない、そんなところか」

「心配は不要だろう」

「何故そう云いきれる?」

「あれには『告死』の加護がある」

「──────、」

 

 

「云ってやれば善かろうに」と云っているのに「必要無かろう」とにべもなく返すものだから、この男は人の機微を慮ることがすっぽり抜けているのだったと内心で頭を抱えた。

 その上に頑固である。朋輩、或いは友として広津はこの男を好ましく思ってはいるが、この性分だけはいただけない。その上、この男に一応は育てられた身である白木なぞ、所詮子供は大人を見て育つのだから、これまた独り善がりで頑固極まりない。正直、自分を間において会話されているようで広津は頭が痛かった。

 しかも、広津も濃密な死のやり取りですっかり抜けていたけれど、彼らに較べれば癖のない少女……朧だってごく普通の見てくれで何時の間にか危険人物(『告死』の男)と仲良くなってしまうような猛者である。せめて彼女のように、もう少しこの男たちは詞を尽くしても善いのではないだろうか、そう思わされる。

 

 空いている作業机にことりと珈琲のはいったカップが置かれ、男はぐいとそれを飲み干す──広津がちらりと白木の方を見ると、用意したものが直ぐ様なくなったことに微妙な表情であった──傍らで、砂糖のみを投入し一口飲んだ。

 

 

「ふむ。……及第点」

「こういうのは喫茶店で頼んで売り上げに貢献するものだと思ってるんすよ」

「それもそうだ」

 

 ふ、と微かに笑い声を洩らす。

 こんな休憩をする余裕だってあるのだから、ポートマフィアがどれだけ優位な立ち位置にあるのか自ずと理解出来てしまうというものだ。

 この男──『人間兵器庫(マスプロ)』の弱味といえる少女が裏社会の死神の掌中にあるというのは、それだけ大きなことだった。

 

 

「此方に余力は未だ有るが、彼方の殆どは既に金も人も無かろうよ。──悪足掻きとでも云うべきか、弱味を握ろうと必死になっているようだがね」

「あれは大人しく捕まってやるほど大人しくはない」

「…………」

「白木、云いたいことがあるなら云ったらどうだね」

 

 

 視線を向けられて、少々狼狽えたようになる青年は、それでもそれ以上の感情の起伏が起こることはなく、ゆるゆると首を振った。

 

 

 ──若し俺が死んだとして、ことの発端である養い親であった男がその責を取ってくれるのかといえば、当然のように否であるのだろうから。

 

 白木は男を憎く思ってはいるが、けれども恨んではいない。曲りなりにも育てられた相手に対して思うところが無いとは云わないが、口汚く罵るようなことでもない。

 死がひたひたと押し寄せるこの感触を目の前の壮年二人が感じていないのなら、詰まりはこれ(・・)(自分)のものだ。

 何も口にして、心配されたいとも思っていない。胸に秘めたことは、一部を除き既に遺書のようなものへ(したた)めてきたので。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




白木という男は、その朗らかさとは裏腹に、尋問──特に拷問じみたそれを得意としている。
孤児院という環境下ゆえか、何が効率的に痛みを与えられるのか、飴と鞭をちらつかせ、要領よく緩急をつける。口を割らせやすくする、そのために心身共に痛めつけて、情報を渡すことを救いと思わせる。

白木は、影響を受けやすい性質であった。
幼い頃からあった大人への憎悪は、それを思わせた院長にもあれど恨むことはなく、そのくせ守りたいものが遠くへあることで、引き出される筈のない他者へ残虐性を剥き出しにする。
なけなしになった良心が悲鳴をあげる。無視を決め込んで、ひどく矛盾した心は憎悪を肯定する。


「────それで? 運のツキって奴っすよね。寧ろ今までが幸せ過ぎたから、人を喰い物にして、その巡る因果に何の覚悟も懐かないから、何も識らない振りをする(・・・・・)妻や娘に類が及ぶ」
「……待ってくれ!! 妻と娘、あの子たちだけは見逃してくれ、頼む、この通り──ぐぎ、あ゛あ゛あぁぁぁっ!」
「全く、本当に反吐が出る、俺も含めて。──ええ、でも、そうっすね。俺はこれでも優しい方なので、情報を吐いてくれたら、生きて家族に逢わせてあげる」

悪魔のような微笑みは、彼と多少の交流がある『告死』のそれに、よく似ていた。





「これが全てだ!知っていることは話しただろう、だからもう……!!」
「……煩いなぁ」


がつ、と骨と何かがぶつかる音。
人の呻き声、蹴り上げた足を下ろして、苦しそうに嘔吐(えず)く捕虜を酷薄な目で見下ろした青年は、懐に仕舞ってあった拳銃を詰まらなそうに弄んでいる。

「あれ、嘘だよ」あっけらかんと、そう口にしたことを、虜囚の男は数秒理解できなかったらしい。
詞を何回も反芻して、それからじわじわと絶望の色に染まっていく。白木はするりと銃口を突きつけて、躊躇いなく引き金を引いた。
もう数秒経っていたら、きっと呪いあれとの怨嗟の声が響いていたのだろう。

どさり、と人が一人倒れる音。
骸がひとつ転がった。


「酷い男だ」
「……あれ、広津さん何時から?」
「ほんの数分だが」

気まずそうに頭を掻いた青年は、直ぐに元の快活さを取り戻してしまうのだろう。

「俺はね、広津さん」
ちょっと取捨選択が上手いだけですよ。

そう云って、微笑んだ。






胸に秘めて、どこにも認めずに葬ろうとしているもの=家族愛が何時しか変化した、朧への恋情



※※
もう一つ連載『安吾さんの白い猫』を始めたので、そちらも是非どうぞ。
此方のよりも軽いスナック感覚の作品。
織田作には及びませんが、安吾さんへの愛が溢れたので……(目逸らし)





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第四〇話 少女は名探偵にはなれない(前編)

ささくれだった心を撫で付けるのももうお手の物だった。
ぐるりと一回、辺りを一周見渡す。そういえば、この男と話す時に近くに人が居た試しがない。……今更ながら問うことは藪蛇になりそうだった。
改めて、向かい合う。

「頼みがあるんだろう?」──解っているよとでも、云うように。

死が、ぞろぞろと生を舐め貪っている。その怖気が走る感覚を、果してこの男は識っているだろうか。……どこか人知を越えた存在だという感想になるのもしばしばなので、そのように感じることすら見抜かれているのかもと思う。
何しろ、裏社会にお互い居るにしてもその年季と濃さは桁違いだ。

一つため息。
用件を云うのは、自分が無力であることを自ら晒すようで好かないが、所詮自分はただの人だ。
ただの人は無力だが、けれども普通であることを認められる。それはきっと、倖せなことだ。──自分の考えを、勝手にあの()に押し付けることを、けれども朧は許してくれるのだろう。

「お前の鎖が一つ欲しい。生き延びる手段でなく、俺が死に瀕した時、あの子の元へこの足で行くには遠すぎる時。俺の足として連れていって欲しい」
「……報酬は?」
「差し出せる物はもうあまり無い。金なんて要らないだろう」
「冗談だよ。もう死に逝く君に、搾り取るような真似をするほど鬼畜じゃないからね」
「……よく云うよ、『告死(死神)』が」

形だけでもと、酒瓶とか持ってくれば善かったかな、と思う。
──云おうと思っていて、今回を逃してしまえばもうそれを伝えることも叶わなくなる、云いたいことを、それでもこの時まで口にするべきか迷っていた。

人外の空気を漂わせる男は、懐に入れた者には頗る甘い。
「何かあるんだろう」と促されるのに、どうせ隠し通せる訳もないかと、躊躇いながらも詞にした。


「『告死』」
「なんだい?」
「俺はお前のことを少しも理解できたことは無かった。だが、ある一点に於いては割と共感してたのかも」
「…………」
「お前が大事にしている子供のことを俺は識らないけど…………朧と関わりがあるんだろう。ならば、一人の人として。……その子が倖せであることを祈っている」

血の繋がり無くとも、家族のように護ってやりたいと感じる相手には、そう思うものだろう。

「────、」

それを聞いた男は、『告死』にしては珍しく瞠目して、それからゆるゆると笑みを浮かべて、声をあげて笑いさえした。
何が可笑しいのか、嬉しいのか。この男が笑ってしまった理由を、少しだけ理解しているからこそ、『告死』の示した反応に自然と仏頂面となる。

「十分以上だよ」

互いに大切にする子が居るからか、よく解ってるよね──いいよ、君の頼みを受けようじゃないか。





「鎖を千切ってくれれば、回収するよ。死出の旅路の手前まで、それまでならば何処までも」







 

 

 朧は、自分が決して強くはないことを自覚している。天稟がどうとか、といった話ではなく、単純に気概、心の持ちよう。そういう類の話だ。

 

 争い事は好かない。小さな揉め事すらも同様に。

 もし仮に、自分の死だけで他の諸々の犠牲を払わずに済むような状態に置かれたなら、──もちろんそんな、ご大層な身分になれるなんて露程も思ったことはないのだが、あくまでも仮定としてである──朧は自らの命を対価に平穏を差し出すことくらいはするかもしれない。

 周囲が全く識らない人ばかりであるなら分からないけれど、近くに大切な誰かが居て、その彼か彼女かに泣いて引き留められても、彼らのそれから続く道程(人生)が己だけの犠牲だけで幸福たりえるのなら、そう思って。

 それから、躊躇はするかもしれないけれど、彼らの為を思うなればこそ、すがり付いた人を振り払うくらいはするだろう。

 

 少なくとも少女には、いざとなったら惜しくない命であると考える、そんなところがある。──終わりを恐れる人は、けれども自分の身より大切なものが存在する。それが酷く矛盾していることに、彼女は気づいているだろうか。

 それが、一度既に生を経験していた嘗ての前世ゆえに……彼らからすれば唯一たる人生ではないからこそ疎かになるのだと、流石の夏目でもそこまでは理解しえないことだ。

 そういうものが、彼女でも識らぬ内に、朧の心の、根底に根付いている。

 

 ────そして、当の本人は、というと。

 

 

「…………」

 

 

 朝。

 未だ明るくなる前の空気の涼やかさに少し眉間に皺を寄せる。眠りが浅くなった丁度に、それまで図太く知覚していなかった空気の冷たさに晒されていることに意識を引き上げられた。

 目を覚ます。ふるりと身体を震わせて、もう夏も過ぎて秋めいてきたとぼんやり天井を見上げながら考える。

 薄い毛布を今更口元まで引き上げて、そこでふと何だか自分以外の体温を感じて頭を傾けると、案の定その生き物を枕の横に発見して、思わず嘆かわしいとため息を漏らしていた。

 

 朧は起き上がる。寝台が揺れた。背中がひんやりとする。

 眠気を振り払うように頭を振って、けれども目蓋は未だ少し重い。

 

 三毛猫がゆるりと目蓋を開けて、ひとつ欠伸をする。

 朧が咎める視線を向けているのにさらりと受け流して、素知らぬ振りをしているものだから、罰でも与えようと朧はその温い毛並みの背中をもふもふした。

 滅多にしないことをしている辺り、やっぱり未だ頭がうまく動いていない証左である。

 

 まぁ、それでも何も考えられない、なんて訳じゃないので。

 

「先生」

 ── 一体何時から、忍び込んでいたの。

 

 

 確かに窓を開けてはいたけれど、真逆本物の野良猫じゃああるまいし、この()は人間の、自分の自宅を持っている筈であった。

 夜までも猫のままで、態々この家にやって来るのは、彼を嫌う自分の養い親が居ないにしても、中々大胆なことではなかろうか。

 

 ついでに朝食の御相伴に預かろう、なんてことも考えていそうだ、そう思っている朧は、矢張りその程度の平和な思考の持ち主である。

 多かれ少なかれ、何処かしら歪みを抱えていることがある異能者にしては格段に普通に近い、けれどもだからといって普通に成りきれるわけでもないということが、いっそ皮肉であった。

 ──だから。治安が悪いことが元々である街で、自身が狙われているというのは、きっと自分が対処出来ている程度の脅威しかない限りは、きちんと事実として認識することはないのだろう。

 

 手櫛で髪を解かしながら勝手へと向かっていった薄い背中を見送り、寝台上の猫はゆらりと輪郭を揺らがせる。

 

 猫──夏目の方はといえば、ずっと浅い眠りを続けていて、猫の姿であったのは、そちらの方が人間の時よりも感覚が鋭敏だからである。

 夏目にも、蛇蝎の如く嫌われているという自覚はあるけれど、それが己が旧知である男の、やや危機感の足りない義娘をそのまま放置しておく理由には出来なかったのだ。

 少女が、そういう庇護欲を懐かせやすい、というのもあるのだが、どちらにしても矢張り過保護の部類になることは理解している。

 

 

「…………全く暢気なものだなぁ?朧よ」

 

 だがそれが悪い訳ではないのだろう。

 そう、呟いた。

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 夏目もまた、身なりを整えてから移動することにした。

 勝手の方からは既に、朝食の準備に勤しんでいるだろう気配と薫りがやって来ている。

 

 細々と動いているのを覗き込んで……猫に変じる異能持ちではあるけれど、何も人形(ひとがた)の時でも魚ばかりを好んで食している訳ではなのだがなぁ、と呟くだけはしてみる──まあ、かといって食べる頻度が少ないという訳でもないのだから、ある意味では事実なのだろう。

 

 貧乏舌というか、そもそもに関心が薄いのか、味に頓着せず腹に貯まればいいだろうという考えのこの娘が横浜という街に出て来て──早くも数ヵ月が経つ。

 季節は二度変わり、初秋の涼しげな気候。

 それまでにこの少女にどれだけの変容が起こったか、夏目はひっそりと考える。

 

 

 

 朧という少女は、家族愛という、限りなく脆い親愛によってのみ己を確立させることを揺るぎなく己に課している、幼い時分からそれはずっと変わってはいないらしかった。

 一本、揺るぎないものを持っていると云えばいいのか、けれども、悪い方へとるのならば進歩していないとしてしまえばよいのか。

 

 その身を血の繋がらない他人へ──孤児院で生活を共にした幼子、兄姉たちへ向けてならば自ら磨り潰すことも厭わないような。純度が高く、自己愛を限りなく含まない、その一方で自己中心的なものだった。

 身勝手な犠牲は、他者に止めるよう求められても拒絶される。全く関係のない他者からすれば尊い献身は、される方からしたら堪ったものではない。けれど幼い子からすれば止め方なんて識る由もなく、結局上の姉に倣い同じようなことを繰り返す。

 この娘から引き離して、一般的な大人を見て育っている今の孤児院の子どもたちが、何もかもとは云わないが、そういう振る舞いを風化させて忘れてくれれば善いのだが、そう思う。……あの男の成果故に黙って見ているしかなかったとはいっても、政府はきちんと制限をつけるべきだったろうに、と。

 院長、と呼ばれはしても、あれ程にその肩書きが似合わない男を、夏目は識らなかったから──識る中では最も子育てに向かない者であると断じているから、あの男が何をどうしたら、見方によれば人間的な蹴落としあいなどよりも遥かに惨い、共喰いのような思い遣りを持つようにしてしまったのだろうかと思うのだ。

 ……解っては、いるのだが。何時だって小さな切っ掛けが弾みになるに過ぎないということは。確かにその時は些末事に過ぎなかったのだろう。

 

 この目の前の娘に云ったことはないが、実は夏目は数度、猫の姿として孤児院を覗いたことがある。

 だから解る。朧と、それに近しい者は特にそれが顕著だ。

 何も大人では珍しくはないだろう。けれどそれが歪なまでに早熟な子供であり、特に朧は既に澱のように降り積もっている諦念を下地として持っている。誰からの影響でもなく、独自の要素として──それは矢張り、端から見ても普通ではないのだ。

 

 日々に楽しむものとして特筆するようなことがなく、強いて云うならば大切な誰かとの関わりを保つためだけに。まだまだ幼い癖に私的な欲の介在する余地が極端に少なく、これまでそうやって命を繋げてきたというのだから、驚きを通り越していっそ哀れにも思う。…………何か、その価値観を完膚なきまでに叩き壊すような場面に出逢うのなら、また変わるのかもしれないが。

 

 ──彼女の養い親となる男は、少女を『自己犠牲のきらいがある娘』であると称していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ことり、と置かれた朝食は、白米に汁物、少し焦げた卵焼き。夏目の方にだけ魚の煮付けがついていた。

 実はこれまでにも朝食の御相伴にあずかったことがある。その度に魚であるのは、それとなく尋ねた夏目に対して少女が云った「けれど、異能の発露はその人の根源たるものなのでしょう」という発言に上手い返しが出来なかったからである。余談ではあるが。

 

 燃費のよい、というよりは少食に過ぎる──しかしこれでも、この少女は肉付きが良くなってきた方だ──娘が、静かに手を合わせた。同じように食前の挨拶をして、夏目は食事に箸を伸ばす。

 

 二人の口数はお世辞にも多いとは云えない。

 むしろ猫と人との一方的な語り掛けや、もふもふによる意思疎通(コミュニケーション)の方が主である。

 しかし夏目だって話し掛けることがあれば自ら口を開くし、その時は正に少女に云わなければならない忠告があるのだった。

 

 

「朧」

「──?」

 

 口の中に卵焼きを含みながら、ことりと首を傾げた。

 どうかしたのかと問う少女は、矢張り危機感やらが足らない、少女自身と養父(おや)の有用性を正確に理解していない。

 ……否、体感していないからそもそも実感が出来ないのか。あの男が懐へ入れた者に頗る甘いからか、或いはこの少女がどこか放っておけない雰囲気であるのか、はたまたその両方であるかもしれないが、さて。

 

 

「仕事が有っても無くとも、今日は一日喫茶に居た方が良いだろう」

 

 そう云えば、もごもごと口を動かしていたのをごくりと呑み込んで、「どうしてでしょうか」と問うのだから。

 

「裏で御前の養父の能力(ちから)を狙う者に対してのごたごた(・・・・)が詰めになっている……相手の間諜が本気を出してしまったということだ。姫を守る騎士(死神)は随分と物騒ではあるが、念のためと云おうか。あの喫茶は不可侵領域故、そう手出しは出来まい」

 

 完全に、と云わないのが味噌だ。

 可能性は零にはなりえないが、危険らしい危険に立ち会っても安全が保証されていることだってある。

 ──夏目がちらりと、本人に気付かれないような然り気無さで見やったのは少女の手首だ。

 そこには装身具めいた華奢な鎖が巻き付いていて、しゃらしゃらと音を立てている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 かちゃり、ごく小さな音を立てて、箸を置く。

 生粋の甘党とはいえ食後の甘味をねだる程厚顔ではない夏目は、ぺろりと平らげた食器を重ねて手を合わせた。

 暫く黙々と口を動かしていた少女が、ぼんやりとした視線を不意に合わせて、「先生はどうなさるのですか」と云った。

 

 

「まぁ、先生があの人の弱味になるなんてことは無いのでしょうけれど」

「万に一つも、が抜けているぞ。儂があれの人質になり得る訳がなかろうに」

「本当に、一分一厘たりとも余地がないくらいに嫌っているのなら、院長先生は無関心を貫いてるでしょうね?」

「…………」

 

 口を閉じた夏目に容赦なく、「まぁ他の人が識ることなんて無いと思いますが」ときっちりととどめを刺したのはきっと偶然の筈だ。

 

 

「……まァ、ならば、儂は特に巻き込まれる予定は無いだろうな」

「私は一応身体を動かしていた方が善いのでしょうけれど」

「嗚呼、それがいい。──途中迄なら共に往こうか」

 

 夏目が立ちあがる。

 それを眺めて、朧は何か、ざわつくものがある心中に蓋をした。

 

 

 大抵の勘は当たらないけれど、時折根拠もなく妙に確信するような先見性が表れることがある。

 その予兆めいた、引っ掛かるような感覚が誰にとってのそれなのか、未だ少女は識らない。私自身か、または私に近しい誰かであることだけが、疑いようもないことだ。

 

「出る時間に成ったら呼びなさい。儂は風呂を使わせてもらう」と勝手に云って勝手に去っていった男の奔放さに、仄かに苦笑をこぼして。遅れて食べ終えた朧も食器を流しに置き、先ずは髪を解かさなければなぁ、と思った。

 よく考えれば、寝癖のついたまま夏目の前に居たのである。まあ同じ寝床に居た時点で(片方は一応自重したようで猫だったが)今更ではあるのだけれど。

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

 赤みがかった髪の幼い少年とその庇護者のように現れた『告死』の男は、共に暗殺者で、かつ異能者である。後者はともかく、前者は明らかにされてはいない。しかし福沢はそう断じていた。

 

 ──不完全燃焼のように、犯人死亡として終結した事件であった。

 社長も亡くなり、その真なる下手人であった男も既に亡い。あの商事は頭目を失い倒れるのは疑いようもない──だからといって、福沢がどうにかしてやれる訳ではないのだが。

 

 あの鶏のように喧しい少年が横浜の死神、『告死』の男に見逃されたのは、果して善いことだったのか悪いことなのか。全くもって判然としないことであったが、少なくともこの少年が何処に住んでいるのか判らなかったから、福沢は駆けつけた市警相手にこの少年が語った推理と、そして己が犯人も取り逃がしたという失態を自ら説明しなければならなかった。

 

 社長室であった出来事、捕まった殺し屋、少年が明らかにしたその真実。捕らえようとした所に現れたもう一人の殺し屋…………一歩間違えれば生きて意識を保っている唯一たる福沢こそが犯人とされても仕方ない惨状であった。

 その駆けつけた市警が武道家としての福沢を識らなければ(まあ確かに、福沢自身は秘書の死因である銃殺を出来るような銃の腕前ではない。あくまでも剣客に過ぎないのだ)一分も信用されなかっただろう。これまでの功績のお陰だろうかと、福沢は己の之迄に深く安堵した。──ただ、後日また署にて話を伺いますが、という条件ではあったのだが。そこは殺し屋を取り逃した手前、仕方ないと思っている。

 後に聴取の際に聞いたことだが、現場を確かめたところ、秘書が着ていた外套の内ポケットには殺し屋の少年の指紋を現場に付着させるためのプラスチック鋳型が発見されたらしい。また、別班による家宅捜索ではサンプルから指紋を複製するための用具一式に殺し屋の両手の指紋を模った型があったようだ。……だから実際に少年の推理が裏付けされたことを識ったのは後のことで、これらが全て伝聞調であるのは、福沢が昏倒させられた少年に病院まで付き添っていくために早々に現場を辞したからである。

 

 少年はその日の夕方には目を覚ました。

 理解出来ないものを見た、あれは何なのだと目を輝かせて──……福沢は、識ってしまった以上は、この、どうにも人の心を逆撫でするのが上手い少年が余計なことに首を突っ込まないか見ているべきだろうな、とややげんなりしながら考えた。

 異能は都市伝説めいている。秘匿されるべきものである。詳らかに公へ晒すことは罪ではないが非難されるべきことである──人は何時だって異端には厳しいのだ。

 

 あの商事で働く予定だったという少年を仕方なしに自らの住まいへ招いて──甘く見ていたらそのまま住み着かれてしまいそうな危機を感じた──可及的速やかに、少年の就職先の候補をまとめている。

 下手人は居らず、敵うか怪しい相手に対したとはいっても、あの出来事は福沢の過失を含んでいるのだと思っているからだ。

 

 数日、己ながらよくもった(・・・)方だと福沢は思う。この少年は今の時点で既に敵う人が居ないに等しいくらいに頭の出来が良く、それ故に情緒が幼い。何かを教える側である大人が大体においてその教える筈の子供よりも劣っているのだから、その子供が云うことを聞く筈がないのだ。

 むしろ乱歩の両親が乱歩をここまで育て上げたことに福沢は感服すらしている。

 

 異能について識ってしまった子供は目を離せず、見るからに黙っていられなさそうな少年をどうしたものかと思いながら、ずるずると数日が経つ。

 

 そして、その日の福沢へ寄せられた依頼。

 殺人の予告を出され、未だ目処もつかないその脅迫者に対する用心棒────或る演劇場が場所になる。当然のように少年も着いてきて、福沢はこっそりと蟀谷(こめかみ)を揉んだ。

 

 

 

 『天使が演者を、真の意味で死に至らしめるでしょう──V』

 

 

 

 

 

 

 




天使事件の開幕前まで。
更新遅れました。難産でした(白目)

場面切り替えが多過ぎ……院長先生は多分ポートマフィアに待機、白木はどっかの抗争の前線辺り、朧ちゃんは喫茶店、そして福沢さん夏目先生は演劇場…………これが同時平行ってすっごい。
院長先生を巡る抗争と原作の元々あったなんやかんやとついでに織田作、どうしてここまで大事になってるんですかね……(頭抱え)

長過ぎて分けました。多分中編か後編かはそう時間かからない、と思います。多分。もう一つやってる文ストの連載(https://syosetu.org/novel/167648/)の進捗次第です。





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