プレアデス賛歌 (M.M.M)
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各話のあらすじ
1話、ナーベラルの王国語学習帳
人間の文字を読み書きできるようになれというアインズの命により王国語と格闘するナーベラルだったが、うかつにもゴミを集める孤児にその用紙の一部を持っていかれてしまう。誰かに読まれてはまずいため、魔法と配下を使って探すよう命じるアインズ。しかし、貧民街に住む4人の孤児達をまとめる青年は魔術師ナーベが文字の勉強中だと気づいてしまい、身の危険を感じ始める。
2話、ユリとシズの帝都姉妹旅情
アインズの命令で帝都にやってきたユリとシズ。目的は市場に眠っているかもしれない隠れマジックアイテムを発見すること。トラブルに遭遇しつつも順調にアイテムを見つけて行くが、ある少女の危機に見てユリは心を乱される。
3話、”激風”ニンブルの受難
魔導国から帝都にメイド2人が観光にやってきた。名はソリュシャン・イプシロンとエントマ・ヴァシリッサ・ゼータ。もちろん観光など嘘だとわかっている皇帝は"激風"ニンブルを護衛兼監視につける。二人が来た裏にはアインズの余計な親切心があった。
4話、 狼と踊る羊たち
辺境の村で電気によって信号を送る技術を開発しようとする男がいた。彼を雇用しようと現れたのはルプスレギナ・ベータ。彼の病気を治癒できれば雇用されるという約束を交わしたが、その病気は治癒魔法が効かなかった。ンフィーレアから聞いた野蛮な医術の研究家を訪ねた彼女は目的のためその男に人体実験の場を提供する。
(本文が千文字以上ないとこのあらすじを投稿できないのでここからは文字数稼ぎ)
なるべくオーバーロードの話と矛盾しないように書いたんですけど、「新しいアイテムや設定をでっち上げないと話が始まらないし進まない!」ということが多く、特にルプスレギナ編は面倒臭かったです。
キャラの性格的に「こいつはこういう行動とるか?キャラ崩壊してないか?」とか何度も考えたんですが、特にソリュシャン・エントマがきつい!善意がないからデレさせることができず全体的にギャグ路線になっちゃいました。
ナーベラルは善意もないけど悪意もないので比較的簡単。
ユリ!君は女神のように話を作りやすかったぞ!シズ!君はまだオーバーロードであまり出番がないから性格が掴めない。人間のことをどう思ってるんだ?泣いてる子供がいたら少し気にするくらいの情はあるのか?
ルプスレギナは当初「バカだから話を作りやすい」とタカをくくっていたが、そんなことはなかった。デレない事は絶対遵守事項だったけど、ほんと性格が掴めない。嘘が多いけど、実はナザリックを裏切るキャラだったりしないよな?
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ナーベラルの王国語学習帳(挿絵あり)
「ナーベ、ナーベ、ナーベ・・・と」
広い室内に小さな声が響き、再び静寂が戻る。いや、聴覚の優れた者なら硬いものが紙の上をカリカリと滑る音が聞こえるだろう。聡い者なら同じリズムの音が繰り返されるのを聞いて「同じ単語を何度も書いているな」と想像できるかもしれない。その通りだった。ナーベラル・ガンマはエ・ランテルの宿にて筆記の練習をしている。もちろん王国語のである。
戦士モモンと魔術師ナーベとして人間社会で偽装身分を作った二人はいくつかの活動によりアダマンタイト級冒険者にさっさと昇進し、名声と信頼と収入を獲得し、計画は順調であった。しかし、アインズには不安があった。二人ともこの世界の文字が読めないことだ。小さな村ならともかく、都市内の識字率は高い。自分達が南方国家の出身という設定を差し引いても、文盲である事がばれると信頼が失墜しかねない。それを恐れるアインズは時間があれば文字を覚えるようナーベラルに命じていた。
「だいぶ上手くなった……と思うけど」
ナーベラルは紙の上に何度も書いた自分の字を見て羊皮紙に記された文字と比較する。その羊皮紙は自分達に贈られてきたアダマンタイト級冒険者になったことへ対する祝い状だ。
同じ内容のものが貴族や商家のようないくつかの高い身分の人間から送られてきた。相手はコネクション作りや部下としての引き抜きを狙っていると彼女は聞かされたが、正直、よく理解していない。羊皮紙の文字と見比べ、自分の名前だけは綺麗に書けるようになったことに彼女はわずかな満足感を覚える。しかし、自分の名前を見ていつも疑問に思うことがあった。
(どうしてナーベが3文字じゃないの?)
ナーベラルは王国語の基礎さえわからないので不思議に思う。そう。基礎さえわからない。これが大問題だった。
(他の単語は一体どういう意味なの?)
ナーベラルは羊皮紙に何が書かれているかさっぱりわからなかった。何枚もの紙に羊皮紙の単語を書き連ね、その長さや配置から「ひょっとしたらこの言葉はこういう意味なのでは?」と想像したりもするが、答え合わせのしようがない。王国語の勉強というより未知の暗号を一切手がかりなく解読するような作業であった。
彼女は自分の名前を練習した紙の下から別の紙を出す。そこにはおよそ数十種類の文字が書かれていた。王国語の文字を全て書き出したアルファベットのようなものだ。羊皮紙から抜き出したのだが、その正しい順番はわからないし、本当にこれで文字が全て揃っているかもわからない。自分が書いた王国文字の一つ一つを眺め、彼女は机に突っ伏した。
「あああ……」
ナーベラルは思わず疲労を声に出した。いつもは鋭い目じりが下がり、ポニーテールもへにょりと曲がっている。
「せめて辞書があれば……」
ナーベラルは存在しないものをつい求める。この世界にも国語辞典のようなものは存在するらしいが(非常に高価らしい)、彼女がほしいのは「ユグドラシル言語/王国語」の辞書である。存在するはずがない。
「それとも家庭教師……ありえない。死んだほうがマシよ」
ナーベラルは首を振った。多くの理由によりそれは論外だった。彼女が現状を変える方法をあれこれと考えていると、ドアを誰かがノックした。
「誰?」
この高級宿には門番がおり、不審者が入って来ることはないが、人間は全て害虫としか思っていないナーベラルは警戒した。
「掃除に参りました」
「……少し待って」
念のため、ナーベラルは防御魔法を使う。物理攻撃対策、魔法攻撃対策、状態異常攻撃対策。並みの魔術師ならもはや過剰といってもいいだけの魔法をかけ、最後に勉強中の紙を羊皮紙の下へ隠し、ナーベラルは入室を許可する。
「いいわよ」
「失礼します」
入ってきたのは若い女性の従業員だ。容姿もなかなか整っているが、今だけは相手が悪い。
「早く済ませて」
ナーベラルは机の羊皮紙を読む振りをした。
従業員はてきぱきと部屋の掃除をこなす。といっても、箒で掃いたり布で磨いたりはしない。魔法を使うのだ。これはナーベラルも真似できない事だった。生活に関する魔法が発達しているこの世界では炊事、洗濯、商売に到るまで魔術師の出番は多い(無論、上流階級に限るが)。彼女は掃除係であるが、食材の保存や毒感知などの魔法も任されているとナーベラルは知っている。ひょっとしたら攻撃魔法の一つくらい使えるかもしれない。
(いいのよ。掃除なら私もできるし、戦闘になれば私の方が遥かに強いのだから)
自分が使えない魔法を使う従業員に面白くない感情を抱きつつ、ナーベラルは早く終わることを願う。長時間の勉強で脳が疲労し、万が一の攻撃にも警戒しているので精神的にきついものがあった。従業員は最後にくずかごのゴミを回収し、失礼しましたと言って部屋を出ていった。
ナーベラルは羊皮紙の文字から目を離し、再び机に突っ伏す。頭の中では王国語がぐるぐると回っていた。
どれほど時間が流れただろうか。彼女は再び王国語と戦う決心をし、羊皮紙に書かれた単語を解析しようとする。その時、胸騒ぎがした。何か大事なことを忘れている。そんな気がする。
(なんだろう?)
彼女は部屋を見回し、空になったくずかごを見る。
「ああ!」
ナーベラルは部屋を飛び出した。
ナーベラルはさきほどの従業員を見つけ、声をかける。
「ちょっといい?」
「ナ、ナーベ様!どうかなさいましたか?」
声をかけられた従業員は驚き、不安そうな顔をする。掃除について文句を言われると思ったのかもしれない。
「あなた、さっき持っていったゴミはどこへやったの?」
「え?あれは焼却して処分することになっていますが?」
ナーベラルは安堵する。燃やされるなら何の問題もない。くずかごにあったのは彼女が勉強のためにあれこれと王国語を書いた数枚の紙だ。あれを見られたら魔術師ナーベは字が読めないとばれるかもしれない。それともう一つ大きな問題があったため、掃除係が来る前に自分で紙を処理するつもりだったが、忘れてしまった。勉強疲れは言い訳にならないだろう。
「焼却したのね?」
「い、いいえ、私は焼却炉まで運ぶだけで、あとはあちらの者が燃やすことになっています」
本当に燃やされたか確認した方がいいとナーベラルは思った。
「ひょっとして、大切なものが入っていましたか?」
従業員の顔が青くなる。相手はこの宿にとっても都市にとっても最重要人物の一人だからだ。
「いいえ、少しも重要なものじゃないわ。ただ、些細なものが入っていて、回収できるものなら回収しようかと思っただけよ。本当に少しも重要じゃないけれど」
重要じゃないことをナーベラルは強調する。ここで騒ぎになって大勢があれを探しに行く事態は避けたかった。
「そうですか。でしたら……」
《人間種魅了《チャーム・パーソン》》
ナーベラルは無詠唱で魔法を使用した。女性の瞳に幕がかかり、顔から表情が消える。
「私が捨てた紙の内容を読んだ?」
「いいえ、読んでいません」
ナーベラルは安堵し、従業員から焼却炉の場所を聞き出した。
焼却炉はすぐ見つかった。やや太目の男が炉の前に立っており、その脇には空になった布袋がいくつか置いてある。どうやら全て燃えたようだとわかり、ナーベラルは安堵する。
「おや、どうかされましたか?」
男はナーベラルに驚いて声をかけた。
「いいえ、ゴミが全部燃やされたか確認したかっただけよ。全部燃えたのなら問題ないわ」
こいつもあの紙を読んでないか魔法で確かめたほうがいいだろうとナーベラルは考えた。しかし、男の様子が少し変だった。
「全部……」
男の顔に不安の色が見えた。
「どうかしたの?」
「あ、いえ、なんでもありません」
男が一瞬目をそらしたのをナーベラルは見逃さなかった。この男は何かを隠している。彼女は躊躇なく魅了の魔法をかけた。
「私が捨てた紙を読んだ?」
「いいえ」
「私に何を隠しているの?」
「ゴミの一部は子供が持っていきました。全て燃やしたわけじゃありません」
「なぜ持っていかせた?」
ナーベラルは怒りを向けるが魅了のかかった男は目をとろんとしたままだ。
「あいつは孤児なんです。金になりそうなものがないか探しに来るので。こんな場所で孤児がウロウロしてたらうちの評判が落ちるから追い出せと言われてるんですが、可哀想だから見て見ぬ振りをしてます」
くだらない。ナーベラルは心底そう思った。お前達のやることは全て意味や価値などない。お前達が気を払うべきことはただ一つ。私達を不快にさせないこと。それを守っていれば少なくとも私は殺さないでやる。なのになぜこうも不快にさせるのか。殺意の芽がみるみる成長し、巨木になる。この男を焼却炉に入れてやりたいと彼女は思うが、そういうわけにもいかない。
「そいつは私が捨てた紙を持っていったか?」
あんな紙切れの集まりを持っていくわけがない。ナーベラルはそう期待した。
「わかりません。ただ、あまり汚れていない紙はいつも持っていきます」
ナーベラルの中で巨木に雷が落ちた。足元がふらつく。
「そいつはなぜ紙を持っていく?」
「知りません」
「そいつはどこに住んでいる?」
「知りません。ただ、貧民街のどこかでしょう」
さっきまで煮え滾っていた心が冷え切り、重たいものがナーベラルの心に広がる。ああいう場所には行くなと命令されている。もはや至高の御方に失態を報告し、指示を仰ぐしかない。一般市民を殺すなという命令があり、そして責任は主に自分にあると理解しているため、ナーベラルは拳を握り締めてその場に立ち尽くした。
「まず言うが、お前がその場所へ子供を探しに行ってはならない」
アインズは伝言《メッセージ》を通じて言った。ナーベラルは跪いて自らに下る審判を待つ。
「別の問題が起きるかもしれない。シャドウデーモンたちに探させて、お前も巻物の千里眼《クレアボヤンス》で調べろ。子供の風体は聞いているな?」
「はい」
「私は忙しくてそちらへ行けない。お前達で探すのだ」
「アインズ様、此度の失態について私に何卒罰を」
「今回は不運もあったが、確かにお前の失態だな」
ナーベラルは首に冷たいものを感じる。処刑用の刃が当たる幻覚だ。恐怖はない。命令があれば自分の手でその刃を引くだけだ。
「後日、罰を決めて言い渡す。今はその紙の回収が先だ。それにはお前の名前を書いてあるのだな?」
「はい。何箇所か名前があります。羊皮紙にあった単語も多く書いてあるので紛れていますが」
「そしてその単語の意味はわからないと」
「申し訳ありません」
「そこを謝る必要はない。私もわからないのだ」
アインズはそう言うが、ナーベラルはひたすら頭を下げる。
「孤児なら字は読めないだろうし、仮に読めるものがいても意味がわからないかもしれない。ただ、万が一にもアレを誰かが理解したらまずい」
アレとはユグドラシルの文字のことだ。これが「魔術師ナーベは字が読めない」とは別にあの紙を人に見られてはならない理由だった。ナーベラルが勉強に使った紙には王国語についてナーベラルが推測したことや思ったことをユグドラシルの文字であれこれ書き込んである。「魔術師ナーベが字が読めない」それだけを誰かに気付かれるだけなら、実を言えばそんなに危機ではない。この都市で名声を高めた戦闘のプロについてそんな噂を流す勇気のある者がいると思えないし、仮にいても周囲は戯言と思ってくれるだろう。しかし、もしもユグドラシルのプレイヤーがあの紙とナーベの名前を見たら、余程の馬鹿でない限り「ナーベはユグドラシルから来て、王国語を勉強中なんだな」と思うはずだ。もちろん相棒のモモンの正体も察しがつくだろう。ナーベラルのミスは非常に危険なものだった。
「ロケートオブジェクトが使えないのは残念だな」
「申し訳ありません」
アインズの呟きにナーベラルは何度目かの謝罪をする。特定物品を探索する魔法ロケートオブジェクトは簡単に曲がったり折れたりする形状が不安定なものを探索できない。これが事態をさらに面倒にしていた。
「いや、できないことに愚痴を言っても仕方ない。すぐに捜索にかかれ」「はっ」
ナーベラルは部屋に潜む者達に指示を出した。
「はあ」
アインズはため息をついた。ナーベラルの失態は責められて当然のものだったが、話を聞く限り、王国語の勉強に一所懸命だったために起きたミスだ。アインズもそれがどれだけ大変かは知っており、かつ、自分が少しも王国語を勉強していないことに対して後ろめたさがあるため、あまり責めたくない気持ちがあった。
「いや、仕方ないんだ。時間がなさすぎて……」
アインズの仕事量は膨大だった。戦士モモンとしてのエ・ランテルでの活動。これだけで一日の半分以上は潰れる。そこで作った資金の管理、アウラが建設している偽ナザリックの進行度の確認、セバスたちが送ってくる王都情報の確認、ナザリックでのアンデッド召喚、そしてシャルティアを精神支配した未知の敵への備え。食事も睡眠も必要としない体ではあるが、時間はどれだけあっても足らなかった。
「王国語で自分の名前だけは書けるようになったが、それ以上はなあ……」
元のオツムが鈴木悟であるため、異世界文字の習得などどれだけ時間がかかるかわからない。それに、この世界でのアインズの仕事の優先順位として文字の習得はそれほど上位に来るわけでもない。最悪、アイテムや魔法で代用できるのだから。しかし、無視できることでもない。いつ戦士モモンとして人間の見ている前で文字を読む必要性に迫られるかわからないから。そんな時に脇に控える魔術師ナーベが文字を読めれば非常に心強い。自分に時間がない以上、ナーベラルに王国語の習得を任せるしかなかった。
「いっそ
アインズは禁断の方法を考える。ワールドアイテムの効果を除けばおよその願いをかなえてくれる超々レアアイテム。緊急事態に備えるために一切使っていないが、時折、その誘惑に駆られる時があった。
「待てよ。どうせなら文字を読めるより頭脳自体を強化してもらう方がよくないか?」
アインズは少し考える。
「支配者としての品格があって、頭脳明晰で、行儀作法を身につけていて、あらゆる分野に精通している。そんな存在に……」
そこまで呟いてアインズは頭を抱えた。
「それってもはや俺じゃないだろ」
アインズは自分のありもしない脳みそを交換する光景を想像し、自分の案を却下した。今はまだ自分を捨てないで、努力を続けようと決める。支配者失格であることが確定するその日までは。
「ご苦労さん」
若者は子供の頭を撫でる。子供も彼も服装はみすぼらしいが、不潔というほどではない。
「髪が伸びてきたな。そろそろ切るか」
「いいよ、ホーマ。俺、伸ばしてみたいんだ」
子供は小さな反抗をし、彼は笑った。
「馬鹿を言うな。不潔っぽくて印象が悪くなるんだ。俺だって短いだろ?格好で同情は誘いたいが、シラミや垢があると途端に嫌われる」
自分の茶色い短髪を指差してホーマと呼ばれた若者は言った。彼は4人の孤児達に金の稼ぎ方を教え、悪事を働かないよう注意しつつ、成長を見守っていた。彼らを養っているなどとホーマは言うつもりはない。子供達も働いているのだから。今日も一人の子供が同情を誘えた店のゴミから役に立ちそうなものを持って帰り、彼がその仕分けをするところだった。
彼は子供が持ち帰ったゴミやガラクタを順番に渡され、それらがいくらになるか考える。何かの製品に使ったであろう布や木、汚れた紙。食べ物は食あたりが怖いので食べるかどうかは慎重に決めなければならない。木やクズ紙は鍛冶屋などへ薪代わりとして売れる。破れた服などあれば大収穫なのだが、それは高級宿でもそうそう捨てられるものではない。
「一度着た服は二度と着ないなんて貴族もいるらしいが、この宿にそいつは泊まってないかね。ん?」
彼は子供が最後に渡した数枚の紙束に目を引かれた。
「ずいぶん質がいいな」
彼は紙の白さに驚いた。まあまあ状態の良い紙は漉き返して質の劣った紙、つまり再生紙にするための原料としても売れる。それともう一つの理由のために孤児達に機会があれば集めさせているが、その紙の雪のような白さは貴族が手紙を書くのに使いそうな一級品だった。折り目はなく、表面は滑らかで何かの処理を施しているのか光沢まである。新品で買えばかなりの値段になるはずだ。ひっくり返すといろんな単語がかなり汚い字で書かれ、それと一緒に見たこともない文字も書かれている。
「こいつも王国語の勉強中か?」
高級宿の客に異国からの旅人でもいるのだろうとホーマは想像する。片面だけを使って捨ててしまうことはありがたいような勿体無いような複雑な気分だった。
「うーん、これをそのまま商品として売れたらいいんだが」
「字を消したら売れない?」
子供は無邪気に聞いた。
「ああ、俺達がやってるみたいにか。無理だな」
ホーマは苦笑した。木炭で書いた文字なら腐ったパンで擦れば文字をいくらか消せることを彼らは経験上知っている。しかし、綺麗には消せないし、この紙のようにインクで書かれたものはどうにもならない。木炭もインクも綺麗に消せるのは魔術師の魔法だけだ。そして、そんな依頼を魔術師に出せば大金がかかる。赤字どころではない。
「こんな高級紙は初めてだ。惜しいなあ。でも、いつもどおり勉強用に使って、あとで古紙と一緒に売る以外には……」
「げえ、また字の勉強するの?」
子供は嫌そうな顔をした。これがホーマが紙を集めさせるもう一つの理由だった。貧民街にしては珍しく、彼は文字を読める人間だった。子供達に読み書きを教えるため、状態が良かったり余白の多い紙は持って帰るように言っていた。
「読み書きはできるようになったほうがいい。字が読めれば必ず職につけるとは言わないが、きっと役に立つ」
ホーマは真剣に言った。彼はいろいろと計算して子供達に貧しい格好をさせて市民から同情を誘っているが、彼らが大きくなればその効果はなくなる。文字が読めれば何かの職につけるかもしれないと期待していた。それに、子供に施しをしてくれるのは神殿や優しい市民だけではない。裏仕事をする人間に小金で雇われて悪事を手伝う。そんな孤児が大勢いる。もちろん人生は綺麗ごとばかりでは渡れないし、自分の意志で裏社会へ行くならそいつの勝手だと彼は思っている。しかし、自分が使い捨てと知らずに利用され、衛兵に捕まる子供達は哀れだった。
「綺麗な字が書けるともっと良いんだ。ああいうところで相手の価値を計ってる人がいて……ん?」
ホーマは再び文字の書かれた面を見たが、ある部分を読んで背筋が寒くなった。横棒に斜線、横棒、曲線に点が二つ。謎の異国文字で書かれた単語の意味はわからない。しかし、その下に自分達の言葉でナーベと書いてある。その名前は彼でも知っている。美姫という二つ名を持つ魔術師。この街で絶対に怒らせてはいけない住人の一人だ。
権力者、富豪、暴力者、戦闘者、敵に回したくない相手はいろいろいるが、魔術師を怒らせると何をされるかわからない恐怖がある。透明化や転移もそうだが、部屋から一歩も出ずに相手を殺せる魔法もあると聞く。その魔術師の中でこの都市最強と噂される人物の名前がなぜ書かれているのか。書かれているいくつかの単語から推測するに何かの祝い状から単語を書き写したらしく、王国語の基本的な仕組みがわからず、必死に解読しようとしていることが推測できた。
「そういえばあの宿に泊まってるんだっけ」
最高位の冒険者チームがこの都市最高級の宿に泊まっているのは彼も知っている。そのおかげであの宿は現在「この都市で最も安全な場所」と言われている。そこから拾ってきたこの紙にナーベの名前があることをふまえると彼の中で一つの推測が生まれた。魔術師ナーベは王国語の勉強をしているのではないか。しかもまだぜんぜん読み書きができないのでは。
「ねえ、どうかした?」
ホーマの不安な顔が子供にも伝染している。
「いや、なんでもない」
ホーマは笑顔を作りながらも自分がまずいものを見た気がした。この紙を彼が持っているなど本人は知るはずもないし、捨ててあったのだから何も問題ないはずだ。彼はそう自分に言い聞かせたが、不安は濃いインクのようにべっとりと心についたまま落ちなかった。
「アインズ様、発見しました」
ナーベラルは伝言《メッセージ》で報告した。シャドウデーモンがそれらしい子供を発見し、彼女が巻物の魔法で確認したところ、粗末な建物の中に5人の人間がおり、目的の紙もあった。なんと机の上に堂々と置かれていた。
「男が1人。子供が4人。やはり貧民街でゴミを拾い集めて生活しているようです」
「ふむ。5人か。どうするべきか」
「殺すべきだと思います」
ナーベラルは即答した。
「子供の方は字をどの程度読めるかわかりませんが、男の方は確実に読めますし、私のことに気づいている可能性が高いです」
彼女がそう言うのは当の男が子供達に字を教えている最中だからだ。読めないわけがない。
「子供のほうも念のために殺しましょう」
野菜を切りましょう。そんな言い方で彼女はさらりと言う。
「アインズ様がわざわざお出になられて、あれらの記憶を消される必要はございません」
「うーむ」
アインズの声には不満の色があった。
「そいつらはゴミを集めて、たまたまお前の紙を持ち帰っただけだろう?そいつらの不注意ではないし、私やナザリックに対して悪意や不敬があったわけでもない。お前の失態の責任をそいつらに負わせるのは理不尽じゃないか?」
「わ、私の失態を否定するつもりはありません!」
ナーベラルは慌てて言った。
「私はいかなる罰も受けます。ただ、この人間達が消えたところで問題はないと申し上げました」
「ナーベラル、一応聞くが、殺すと問題がある人間はどういう者か理解しているか?」
「それは……」
ナーベラルは答えあぐねた。彼女にとって人間は等しく無価値で、アリの階級をなんとも思っていないように人間の役職や階級などなんとも思っていないからだ。
「だろうな」
アインズの声に失望の色があり、ナーベラルの身が震える。
「地位の高い者とは可能な限り良い関係を築きたい。都市長や貴族などがそうだな。冒険者や魔術師も利用価値があるからなるべく殺したくない」
「では、この者たちは殺しても問題ないのでは?」
ナーベラルは恐る恐る聞いた。
「それは早計だ。裏社会の犯罪者なら消えても誰も探さないだろうが、貧民とはいえ一般市民が5人も消えたら騒ぎになるだろう?衛兵が動いて思わぬ余波が起きるかもしれない。それに、こいつらがどんな才能や異能の力を持っているかわからない。ンフィーレアがそうであるように、この5人の誰かがナザリックの役に立つかもしれないだろう?」
「……はい」
ナーベラルは渋々と同意した。
「殺すことはいつでもできるし、費用もかからないが、復活は誰でもというわけにはいかない。理解したか?」
「はい。では、この者達は記憶の消去だけで済まされるのですか?」
「そうだな。とりあえずはお前が行って、その男がどこまで気づいていて、何人がそれを知っているかを確認しろ。もちろん移動は転移で行え。子供達と一緒にいると面倒になりそうだからその男が一人になった時を狙え」
「はっ」
「転移すれば未知の敵に奇襲される心配はないと思うが……。一応、むこうにシャドウデーモンを何体かやって、あれも待機させるか」
アインズはいくつかの用心を考えた。
4人の孤児は勉強が終わると再び出かけていった。遊びに行くのではない。彼らは稼ぎに行く。貧乏暇なしだ。ホーマもここでじっとしているわけにはいかない。その前に、彼は自分の机、といっても木材を組み合わせただけの不細工なものだが、の上にある白い紙束を再び手に取った。紙自体は裏面をいつもどおり子供用の練習帳にしてよいだろう。そのあとは古紙や燃料として売らず、自分で燃やしたほうがいい気がした。では、その情報はどうすべきか。もちろん彼にこのことを誰かに話す気はない。冒険者の頂点を怒らせるほど馬鹿でも命知らずでもない。ただ、自分がこの秘密を知ってしまったという事実が小心な彼を苦しめていた。
(魔術師ナーベが俺のところへやってきたりして……。いや、そんなことはありえない……)
彼は自分に言い聞かせる。そんなことが起きるわけがないと。しかし、現実は非情であった。
「それが何か気付いてる?」
氷のような声にホーマが振り返ると彼の心臓が止まりかけた。ローブを着た女が部屋の入り口に立っている。彼はその女と会ったことはなかったが、誰かはすぐにわかった。わかってしまった。この世に二つとない美貌だったからだ。白く輝く肌。それとは逆に闇が輝く瞳と長髪。理想的な形をした鼻梁と唇。噂どおり、いや、噂どころではない美の極致。間違いない。彼女が魔術師ナーベだ。アダマンタイト級冒険者、漆黒の英雄モモンのパートナー。
普段のホーマなら見惚れて春めいた夢でも見ただろうが、今は最も会いたくない人物だ。扉を開けた音はなかったが、どうやって入ってきたのか。しかし、ここへ来た理由はわかった。
「あなた、気付いてるでしょう?」
ナーベはまた言った。
「いや……」
彼はとぼけようと試みた。
「悪いが、何のことかわからない。君は誰だ?いつ入ってきた?」
「魔法で聞くからすぐわかる」
その言葉だけでホーマは全てを諦めた。魔術師が魔法で他人を尋問するのは法律で禁止されているらしいが、証人がいなければ衛兵も捕まえられないし、この人を衛兵が捕まえるわけがない。
「わかりました」
彼は肩を落とし、衛兵に罪を告白する罪人のように喋り始めた。
「ナーベさんですね?たぶん、あなたの思ってる通りです。俺は知ってはいけないことを知ってしまったんでしょう?」
本当に字が読めないんですか、とは恐ろしくて聞けない。どうしてここがわかったのかも聞かない。たぶん魔法で見つけたのだろう。彼女ならそれくらいできるはずだ。
「一つだけ聞かせてください。あの子はこれを盗んできたんですか?俺は盗みを許していないんですが、もしそうなら俺の責任です。本当にすみません」
「子供達もそれが何か気付いているの?」
ホーマはその質問に恐怖を感じた。この魔術師はモモンと違って温かみのある人物という評判はなく、時に苛烈な行動をとると有名だ。殺されはしないと思いたいが、相手のまずい情報を握っているため、断言できない。
「いいや、あいつらはまだ字が読めません。早く覚えてほしいと思ってたけど、今は読めなくてよかったと思ってます」
ホーマは心底そう思った。
「そう」
ナーベは信じているのかいないのか、表情からは全くわからない。
「それで、返してくれる?」
「返しますが、これは盗まれたわけじゃないんですか?」
ホーマはそこを確認したかった。
「いいえ、間違って捨ててしまったものよ」
そこで彼は少し安堵した。子供が盗んだわけではなかった。自分の躾は行き届いているようだ。
「とにかく返してもらうわ」
「これを返して、それで終わりにしてくれるんですよね?」
ホーマは紙を人質のように扱う気はなかったが、返した瞬間にとんでもないことが起きそうで、思わず聞いてしまった。ナーベの瞳が横へ逸れる。隣には誰もいないし、何かを考えているのだろうとホーマは思った。しかし、何かを小さく喋っている。
「では、まずは魅了で確かめてから……はい、そのあとに……」
伝言《メッセージ》という魔法をホーマは思い出す。短い会話がしばらく続いた。
「では、さっそく」
ナーベはそう言うと彼の方を見た。何かが始まるとホーマはわかったが、できることはない。命の危機を感じる。その時、外から足音が近づいてきた。
「誰?」
ナーベは冷たい視線と質問をホーマに向けた。彼にもわからないが、見当はついた。
「たぶん、ギャリーかな?金をとりに来たんです」
「私は消えてるからさっさと話を済ませなさい。もちろん私の事は言わないように」
ホーマの目の前からナーベの姿が消えた。
二人の男が部屋に入ってきた。
「よお、ホーマ」
眠そうな目で声をかけた男は長身を上から下まで黒づくめの服で統一し、やや長い金髪をしていた。麻薬中毒患者のような暗い目で、本人は麻薬なんてやらないと言っているがホーマは怪しんでいる。裏社会で生きる男、ギャリーだ。後ろに控えるもう一人は革鎧を来て、腰に剣を下げた坊主頭。長身のギャリーより頭一つ分高い大男だ。ギャリーの仲間であり用心棒であるらしいが、ホーマは名前を聞いたことがなかった。
「やあ、ギャリー。いつものだろ?」
ホーマはポケットから金の入った袋を取り出し、相手に渡す。ギャリーは中を見て、半分ほど硬貨を取り出す。みかじめ料の徴収だ。
「儲からないか?」
「いつも通りさ」
ホーマは笑った顔を作る。相手の職業も今やってる事も少しも好きではないが、この男は無意味に暴力を振るう馬鹿ではないし、子供達にある程度の安全を保証するために必要な相手だった。衛兵は頼まれてもこんなところには来ないからだ。
ホーマは現状をどう打開するか考える。ギャリーをこのまま帰すべきか。あえて引き止めてナーベを牽制するか。しかし、無駄な抵抗をしているとナーベに思われて、本来なら殺すつもりはなかったのに、機嫌が悪くなって殺そうと決めるかもしれない。
(この二人がいたところであの人に勝てるはずないだろうしな……)
ナーベの言ったとおり、ギャリー達を早く退出させようと彼は決めた。強者を前にして弱者は財産を差し出すか、慈悲を願うしかない。
「大変だな。お前は期日前にきっちり金を払ってくれるから俺は助かるよ。たまに逃げたり、上がりを誤魔化したりする奴がいるからな」
袋を返し、ギャリーは笑って言った。
「俺だって利き腕がなくなるのはご免だよ」
ホーマは右手をひらひらと振る。彼のグループを騙した者は利き腕を切断される決まりだ。そしてホーマは右利きだが、左手でも字が書けるよう練習をしている。切られた時のためだ。ギャリーの言っていることは事実で、ホーマは子供達と一緒に得た儲けを誤魔化していた。彼もやりたくはなかったが、子供達や自分が病気になった時に備えるため仕方なかった。儲けを正直に言えばみかじめ料が上がり、神官への治療費が払えなくなる。
「頼むから誤魔化さないでくれよ。決まりとはいえ、俺だって腕を切るなんてしたくない。もしもの時はお前の腕も小さい連中の腕ももらうと仲間の一人は言ってるが、まあ、それはさせないつもりだ」
「よくわかってるよ」
ホーマは怯えを必死に隠した。彼の集団は効果的に相手を恐れさせる方法を知っているらしい。
「それじゃあ、次回も頼むな」
「ああ」
無駄に世間話をする気もないのだろう。ギャリーは帰ろうとする。ホーマは相手に帰ってほしいような欲しくないような複雑な気分だった。少なくともギャリーと話している間はナーベの「審判」を受けずに済むからだ。その時、ギャリーの目が部屋のあるもので留まった。なんだろうかと彼が見てみると机の上にある例の紙束だった。
「そこの紙、ずいぶん色が良いな」
「ん?」
こいつ目敏いにも程があるぞとホーマは思う。しかし、言われてみるとこの殺風景な部屋であの純白さは異常に目立つ。ナーベという突然の来訪者がいなければ、その程度の予想はでき、他のボロ紙の下に隠すなり、服の下にでも隠していたかもしれないが、そんなに気が回る状態ではなかった。ナーベが消えた時、彼はとくに考えもせず机の上に紙を置いた。その結果がこれだった。
「ああ……、高級店でチビたちが拾ってきたやつだ。紙を買う金なんてないのは知ってるだろ?」
「……ああ、そうだったな。文字を教えてるんだっけか」
ギャリーは無表情に言った。頼むからあれに興味を持たないでくれとホーマは祈る。
「どこかでたくさん紙を手に入れる方法って知らないか?チビどもがすぐ使い切るんだよ」
ホーマは話題を変えるためにその質問をした。しかし、それが仇となった。
「今、話題を変えようとしたな?」
ギャリーがホーマの目を見て言った。
「え?」
ホーマは演技力を総動員してとぼけるが、ギャリーは何かを感知したらしい。他人の弱みや秘密を探って生活しているような男だ。その嗅覚は極めて鋭いのだろう。一歩前に踏み出し、再びホーマの目を見る。
「ホーマ、あれはただの紙か?」
ホーマは大きく息を吐いた。ギャリーは完全にあの紙を怪しんでいる。ここから話題を変えるのは不可能だ。こいつは馬鹿でないと思っていたが、ここまでとは。どうして裏社会の仕事などやめて衛兵に転職しないのだろうと彼は思う。頭のよい犯罪者をどんどん捕まえてくれるだろうに。
「あれはチビたちが拾ってきた。これは本当だ。ただ、内容がまずいものなんだ」
思いつく嘘がないため、ホーマは正直に話す。自分がじわじわと崖に近づいている感覚がした。ギャリーはつかつかと歩き、その紙に手を伸ばす。その手が止まった。紙にホーマの手が置かれたからだ。
「ギャリー、これは見なかったことにした方がいい」
ホーマは初めてギャリーに敵対的ともいえる行動をとった。彼は真剣に目で訴えながら考える。おそらくギャリーは自分がまずい手紙か資料を手に入れてしまったと考えているのだろう。それは紛れもない事実だったが、ギャリーに見られると事態がますます悪くなることくらいは彼にもわかった。
「それほどのネタか?」
ギャリーは少し驚く。
「ああ」
ギャリーは馬鹿ではない。王国軍の幹部や役人のように、脅すには危険すぎる相手がいると知っている。ホーマは相手が察してくれることを願った。これは自分だけのためではなく、ギャリーの身の安全のためでもあるのだと。
「店の裏帳簿ってわけじゃなさそうだな。軍か、それとも役人の不正の証拠か?」
答えを知ったらこいつはどんな顔をするか。ホーマは苦笑したくなった。
「ギャリー、頼む」
「まあ、お前はいつも上がりを期日までに収めてるし、何度か頼みを聞いてもらったこともあったな……」
「そうだろう?」
引いてくれるか。ホーマは淡い期待を抱いた。
「腕と引き換えでどうだ?」
「腕?」
ホーマは思わず聞き返した。
「お前の腕一本と引き換えにその紙を読まない。その覚悟があるか?」
ギャリーはつれてきた用心棒に視線を送り、相手は腰から剣を抜いた。どちらもその目は冗談を言っていない。ギャリーとはいくらか冗談を言い合える仲になったと思っていたが、すべて勘違いだったとホーマは思い知る。
「お前の覚悟を確かめたいんだ。俺は覚悟のある奴には敬意を表する。切った後でやっぱりその紙を見せろなんてふざけたことは言わない」
ホーマは必死に考える。落書き帳といってもいい数枚の紙切れのために腕を犠牲にするなど馬鹿げている。それにギャリーが腕を切ったあとに約束を破って紙を見る可能性もあるではないか。だが、この紙を見せた場合、ギャリーも自分も命をとられるかもしれない。4人の子供達は誰が世話するのか。真っ白な紙を見るがそこに解答が書かれているはずもない。しばらく時間が流れ、彼は決断した。
「わかった。一応聞くが、どうせ利き腕だろ。上手く切ってくれよ」
ホーマは最悪よりマシな方を選んだ。ギャリーは馬鹿ではなく、自分を殺しはしないだろう。それに対してナーベは未知だ。どこまでするのか全く読めない。最良のケースは自分が腕を切られ、ギャリー達が帰り、ナーベに紙を渡して話が終わることだ。それ以外のケースでは自分は死ぬ可能性がある。絶対に腕を切られる道と死ぬかもしれない道。どちらもろくでもないが、選ぶ道は明らかだ。本当に運が悪いとホーマは思った。しかし、運が尽きたわけではなかったらしい。
「その話、待ってくれる?」
氷の声が部屋に響いた。
話は聞かせてもらったわ、とばかりに入り口にナーベが立っているが、最初からいたことをホーマは知っている。振り返ったギャリーと用心棒の顔は見えないが、その表情は簡単に想像できる。
「それは私のものなの。返してもらえる?」
「あんたは……」
ギャリーの声には驚きと困惑があった。
「返してもらえる?」
ナーベの顔には何の感情も窺えない。怒っているわけでも焦っているわけでもなさそうだ。ホーマにはそれが逆に不気味だった。
「いや、落し物は落とし主に返すのが決まりだ。これはあなたのものなんだね?じゃあ、返すよ。いいだろう、ギャリー?」
ホーマはむこうに加勢することに決めた。正直、したくはないが、抵抗するより協力して機嫌をとるほうがいい。やはり弱者は強者に慈悲を願うしかないのだ。
「ああ、そうだが……」
ギャリーは一瞬何かを考えたらしい。
「これは捨ててあったものと言ってただろう、ホーマ?都市法ではゴミを拾っても持ち主に返す義務はないはずだが?」
やめてくれとホーマは言いたくなった。おそらくギャリーはそれが魔術師ナーベの何らかのまずい手紙だと推測したのだろう。ある意味、それは当たっている。もちろんギャリーも相手を本気で怒らせる気はないはずだ。一人で軍に匹敵する存在と戦って勝てるはずがない。だからここは相手がどこまで怒るかを計りつつ、法律を盾にとって情報の確保に動いているのだろう。彼から見ればギャリーが法律を盾にとるなどふざけた行為ではあるが。
「……そう」
部屋に霜が下りそうな声にホーマは鳥肌が立つ。
「ギャリー、これは俺が拾ったものだ。俺がどうしようと問題はないだろう?」
「いや、その理屈は通らないぞ」
ギャリーは反論した。
「お前の子供達がゴミを回収できるのは俺達が保護しているからだ。そこを否定するならこれから先俺達は一切協力しないってことでいいのか?」
板ばさみだとホーマは思った。彼は二匹の獣の口に引っ張られる状態になった。戦力的にはナーベに加勢したいが、ここでギャリーに恨まれると自分も子供達もロクな未来が待っていない。彼は救いを求めるようにナーベを見た。彼女は一瞬視線を外す。また、誰かと話をしているな、と彼は思う。
「じゃあ、買い取るわ。いくら払えばいいの?」
これはホーマにとって意外な発言だった。最悪、この場の全員を殺して紙を奪い返すんじゃないかと恐れていたが、むこうも穏便に解決する気はあるらしい。同時に、これはギャリーの望んだ展開だろうとも思う。結局のところ、彼らは金しか求めていない。紙の内容を見なくても金になるならそれで良いのだ。
「そうだな」
ギャリーは顎に手をやった。おそらく頭の中では相手の経済状態を考え、猛烈な勢いで計算が行われているだろう。いくら吹っかける気か。ホーマは固唾を呑む。
「金貨百枚」
ホーマは死を覚悟した。
「冗談だ。金貨1枚」
その言葉にホーマは安堵しつつ、ナーベの様子を見る。彼らの収入が噂通りなら金貨1枚など小銭だろう。だが、ナーベは気づいているだろうか、と彼は不安になる。問題は紙そのものより情報だ。ギャリーがここで引いてもあとで自分から情報を聞き出そうとするはずだ。魔術師ナーベは読み書きがまだできない。その情報でどんな利益が得られるかはわからないが、決して知られたくはないだろう。
(ということは、やはり紙を回収したあとに俺の口封じを……)
彼の心に重たいものが広がる。しかし、ナーベが口にした言葉は意外なものだった。
「金貨百枚ね。いいわよ」
ホーマとギャリーは一瞬石になる。
「いや、百枚は冗談で……」
ギャリーはありえない金額に動揺したようだ。
「百枚じゃ少ない?じゃあ、千枚」
ありえない金額が十倍に増え、ギャリーは言葉を失う。
「二千枚。五千枚。一万枚」
ナーベは数を増やしてゆく。
「十万枚。百万枚。一千万枚。一億枚」
「わかった!もういい!」
ギャリーは絞首台に立たされた人間のように叫んだ。
「この件からは手を引く。二度と口に出さない。約束する」
「……そうなの」
ナーベは無表情のまま言った。ホーマはギャリーに遅れて彼女の発言を理解した。あの値段はギャリーの命の値段なのだ。取引が成立すれば殺され、あの世で金を受け取ることになる。そう言われていることをギャリーはすぐに理解したのだ。
(これが強者のやり方なのか)
ホーマは思った。ギャリーは本当に口が上手く、交渉の席についたら最高位冒険者でも苦労するだろう。しかし、ナーベはそんなことをしなかった。圧倒的強者は交渉のテーブルに座らず、それをひっくり返して剣を振りかざす。それで話を終わらせることができる。最初に交渉に乗る振りをしたのはナーベか彼女と魔法で話をする何者かの遊びだったのだろう。一個で軍に匹敵する存在だからこそできる解決法に彼は驚嘆した。
「そこの男に二度と近づかない?」
ホーマを指してナーベは言った。
(ああ、俺から話を聞き出さないようにするためか。とすると、俺は殺されないのか?)
ホーマの中で小さな希望が生まれた。といっても、すぐに状況が変わるかもしれず、決して楽観的にならないように努める。
「ああ、約束する。殺されたくないからな」
ギャリーは怯えた顔でそう言い、すぐに部屋から去った。
「行かせてよかったのですか?」
ナーベラルは小さな声で聞いた。
「ちょっと待て。……うむ。良し。あっちの男達の問題は解決した。しかし、そいつはなかなか大したやつじゃないか」
アインズは楽しそうに言い、その声はナーベラルの頭の中だけに響く。
「お前の秘密を知られないためにあそこまでするとは」
「腕一本など大した事ではありません」
ナーベラルから見れば腕を切り落とすなど大した事ではない。ルプスレギナやペストーニャなら簡単に治癒できるからだ。
「人間の世界では手足の再生はかなり高位の魔法らしい。大金も必要だとか。こいつの身分を考えれば一生治せないことを覚悟してああ言ったのだと思うぞ。簡単に治せる立場の者とは言葉の重みが違う」
それなら少しは認めてやろうかとナーベラルが思ったかはわからない。ただ、反論はしなかった。
「では、さきほどは中断されましたが、あれに魅了の魔法をかけますので、そのあとは……」
「待て、ナーベラル。紙を回収すればユグドラシルの文字が他所へ流れる危険は消える。そいつの記憶消去もユグドラシルの文字の部分だけにしようと思う。もちろん他にお前の秘密を知ってる人間がいないかを聞いてからだが」
「記憶を全て消さなくてもよろしいのですか?」
ナーベラルは不思議そうに聞いた。
「そいつがお前のことを口外する勇気はないだろう。もちろん魅了で確認するがな。それより、そいつの利用法を思いついた」
「この人間に、ですか?」
ナーベラルは目の前で立ちすくむ汚い格好の人間を見る。こちらが会話の最中であり、邪魔すると命が危ないとわかっているのだろう。相手は不安を顔に出したまま審判を待っている。
「それとナーベラル、お前の今回の失態への罰を考えていたが、今、それも決めた」
「はっ、この命で謝罪を」
「いや、その必要はない。ナーベラル・ガンマ。そいつの利用法でもあるのだが、お前には一つの屈辱を与えよう」
アインズは審判を告げた。
ギャリー達は貧民街を歩いてゆく。路地にいる大人も子供も彼が来たとわかると怯えを見せ、すぐに身を隠した。彼のグループが貧民街を仕切っているからだ。以前まではある傭兵団に属する者達がこの辺りを支配しており、彼らはそこまで幅を利かせていなかった。しかし、ある日からその一派は全く姿を見せなくなった。ついに王国軍か冒険者に追われて討伐されたか、遠い土地へ逃げたのだろうと彼は想像している。その瞬間的なポストの空きを彼は見逃さず、仲間達と素早く入り込み、貧民街の次の支配者に納まった。その時、やっと運が向いてきたと彼は思った。しかし、今、彼は最悪の気分であった。
「クソ」
ギャリーが普段つかない悪態が口から出た。
「ナーベは思ったよりずっと知恵が回りますね」
彼の仲間であり用心棒であるガリクソンが言った。
「ああ、クソ。本当にそうだ。こっちのペースに引き込まれなかった。交渉なら上手いこと誘導できる自信があったが、むこうはそんなものを無視して武力をちらつかせてきた。それで正解だ。本当に賢い女だ」
ギャリーはその事実に苛立っていた。手紙に金貨1枚という価格をつけたのは本当に金貨1枚がほしかったからではない。相手が怒らず、応じそうな金額として彼は提示した。ナーベがそれに応じた場合、相手の怒りのレベルを計りつつ、細かい条件を確認して話を引き伸ばし、会話の中で手紙の所有権がホーマではなく自分達にあると認めさせる気だった。そして当然のこととして手紙の内容を確認する。その企みはナーベの冗談交じりの恫喝であっさり消滅した。
「それで、ホーマから話を聞くつもりは……?」
ガリクソンは恐る恐る聞いた。
「ないに決まってるだろ」
ギャリーはガリクソンの目を見て何度か目をしばたたかせ、自分の耳をぽりぽりと掻いた。サインだった。
「……そうですか」
ガリクソンにも意味は伝わったらしい。盗み聞きに警戒しろという意味が。
「この件はもう忘れよう。それよりジャイロの件だが、あいつの口は必ず割らせるぞ」
「……ああ、あいつですね。わかりました」
ジャイロなどという名前は今初めて口にしたが、ガリクソンもそれがホーマのことだと理解したようだ。ギャリーは満足する。この件を二度と持ち出さず、ホーマにも近づかないという約束は全くの嘘だった。顔に怯えを出し、即座に逃げ出すことでこちらはあきらめたとナーベに信じ込ませる。うまくいったはずだと彼は思う。怯えていたのは事実なのだから。
しかし、念のためにここでも演技を続け、別人の名前で会話を進める。魔術師なら占術の魔法で相手の状況や会話を知ることができるだろうし、家の外では誰が聞いてるかわかったものではない。
「ジャイロの持ってたブツ自体はもう手に入らないでしょう。証拠がなくても話だけでネタになりますかね?」
「ジャイロに話を聞いてみないとわからん」
二人は架空の人間の話をしながら歩く。
「ジャイロは俺達より……えーと、アイツの側につくんじゃないですか?聞いても答えないかも」
アイツ。もちろんナーベのことだ。
「答えるかじゃなくて、答えさせるんだよ。それに、あいつは俺達に大きな借りがある。そこを突けば口を割るはずだ。あいつは痛みより不義を持ち出すほうが操りやすい」
ギャリーのいう大きな借り。ガリクソンにもそれが何かはわかっている。ホーマが儲けを誤魔化していることだ。ギャリー達はとっくにそのことに気づいていたが、あえて放置していた。いざという時に大きな要求を飲ませるためだ。今回がまさにその時だった。
「ただ、ジャイロから話を聞き出せるかはまだわからない。奴が殺されたら不可能だからな」
「アイツに消されるってことですか?」
ガリクソンは驚いた。
「可能性はある。俺達が来たから奴を消さないかもしれないが、あれくらいの上位者になると気にせず殺すかもしれない。衛兵も怖くて調べないだろう」
「なんて奴らだ。衛兵なら街の平和をきっちり守ってほしいもんです」
「全くだ」
彼らを良く知る者がこのセリフを聞けば呆れ果ててものも言えないだろう。
「待ってください。ホ……ジャイロが殺されたらそれをネタにできませんか?」
「馬鹿を言うな。証拠を残すはずがないし、どんなに間接的にやっても俺達が関わってると丸わかりだ。大急ぎで殺しにかかってくるぞ。アイツがやって来たらお前が戦ってくれるのか?」
「す、すいません」
ガリクソンは謝った。
ギャリーは何度も言っていることをすぐ忘れる仲間の愚鈍さに苛立つが、自分を抑える。中途半端に賢いのも困るからだ。
「衛兵や役人のような強者の弱みを握ってもあからさまな強請りなんてできるか。むこうが武力に頼ったら終わりだ。こっちが弱みを握っていることにも気づかれちゃならない。そういう意味ではアイツと接触したことで俺達はすでに失敗してる」
「大丈夫ですかね?」
ガリクソンは不安そうに聞く。今回は衛兵や役人より遥かに恐ろしい相手だから。
「いつも以上に慎重にやる必要がある。俺達二人はアイツとその相棒の前には絶対に出られない。接近させるなら別の奴にさせよう。気を引き締めろ。手順を間違えたら俺達は行方不明にされるぞ」
ギャリーは弱みを握った相手がある程度の武力や財力を持っていた場合、決してその人物に恨まれないように行動し、なおかつ利益を引き出していた。彼が最も気に入っているのはある商店の不正行為を知ったときの仕事だ。役人にばれたらしばらくの期間は営業停止になる。本来はその程度のネタだった。店の主人はそれを某人から隠すために汚い工作を行い、それを隠すためにさらに汚い工作を行い、最終的に懲役刑になる罪と借金を抱えるようになった。そこの娘は両親を助けるために健全な酒場で働き始め、そこから不健全な酒場へ代わり、麻薬と賭け事を覚え、最後は娼館で働くようになった。どちらも仲介したのはギャリーであり、すべては彼が巧妙に誘導していたのだが、本人達は陥れられたと今も気づいていない。利用されたことにも気づかせない。大型の獣に寄生虫のように取り付き、養分をすする。それが彼の強者に対する戦い方だった。ただし、この巧妙な犯罪には欠点もある。あからさまな強請りや脅迫と違い、時間がかかることと協力者が多いために分け前が減ることだ。それでもギャリーはこのやり方が自分の性に合ってると考える。強者に恨まれたり、衛兵に追われるのはご免だったから。
「やはり俺達がどう動くかはアレの内容次第だな。全く想像ができない。犯罪の証拠ってわけじゃないだろうが」
「どうしてです?あれだけ脅してくるってことはやばい内容じゃないですか?」
「お前なあ」
ギャリーは周囲に注意しつつ、相手に小声で聞く。
「お前はやばい事を書いた紙をそのまま捨てるのか?自分で燃やすだろう?」
「ああ、確かにそうですね」
ガリクソンは理解した。
「そこまで危険な内容じゃないはずだ。かといって無視できるようなものでもない」
ギャリーはあの紙の内容について考えを巡らせた。
(紙は5枚あった。手紙にしては長すぎる。折り目がついてないからどこかから送られてきたんじゃなく、ナーベ自身が書いたんだろう。何かの下書きじゃないか?それを一度捨てたが、誰かに盗み読みされるのが怖くなって回収しに行った。そしたら孤児が持っていったと聞かされ、慌てて探しに行った。そんなところか?どうやって手紙の場所を見つけたかはわからないが、魔術師なら難しいことじゃないんだろう)
「もう少し俺達が来るのが早かったら……クソ。過ぎたことを考えるのは馬鹿のすることなのにどうしても考えちまう」
ギャリーは頭をかいて苛立つ。逃した魚はそれだけ大きかった。
「ジャイロが俺達のところへブツを持ってきてくれたら最高だったんですがね」
「おいおい、ジャイロは臆病だから俺達に従ってるんだ。アイツを敵に回す勇気なんかあるわけない。ブツを処分して一生黙っているつもりだったはずだ」
ホーマは本当に馬鹿な奴だとギャリーは思っている。奴は子供達を守ってもらっていると思い込んでいるだろうが、もっと知恵があればギャリー達に渡す金を使って自分の武器を買うなり、子供達を自衛させるなりするだろう。どんなに才能が不足しても人は努力すればそれなりの強さを得られる。必死になれば冒険者の金クラスまで強くなれるはずで、そこから先は才能の世界だと彼は思っている。それをあきらめて他人に戦いを任せたり、慈悲にすがるのは馬鹿だ。貧民街は馬鹿の集まりだ。ここでいくら幅を利かせても自分はネズミの王様だ。だからこそ早く上に行きたいと彼は思っている。それにはもっと金が要る。
(しかし、何かの下書きだとして、一体何が書かれている?)
ギャリーは金銭目的もあるが、魔術師ナーベが隠したがる秘密に強く興味を引かれた。ガリクソンに言ったとおり、その内容は大犯罪というわけではないはずだ。しかし、見られて平気なほど小さなものでもない。あの雪のような頬が赤く染まるような秘密なのだろうか。
5枚。彼はそこがどうしても引っかかった。何度も書き直している。南方から来た才能ある若い魔術師が何度も書き直すようなこと。書き直すことで彼に思い浮かぶのは詩人の創作くらいだが、それはないとすぐに判断する。詩を書くような趣味なら失敗作の処分も手馴れているはずだ。書いていたのは慣れないことだ。魔術師。南方から来た。何度も書くこと。練習。練習。練習?ギャリーに一つの天啓が訪れた。
「練習、か」
「え?」
急に立ち止まったギャリーをガリクソンが訝しむが、今は話しかけるなとギャリーは言い、思考に没頭した。
「ありえるな」
まだ可能性の段階であるし、ガリクソンはそれほど鉄仮面ではなく、隠し事が顔に出るタイプなので今は話せない。しかし、魔術師ナーベは読み書きの練習中であるという推測にギャリーは自信を持ち始めた。彼の脳が高速で計算を始める。もしも文字の読み書きができないなら、ああも必死に紙を回収する理由もわかる。この都市で文盲が軽んじられるというだけではなく、冒険者としての登録にも法律上の問題が出てくる。字が読めないなら契約書の内容も確認しようがないからだ。実際には文盲に近い冒険者も少なからずいるだろう。小さな村の出身なら珍しくもなく、仲間が読めるのだから勉強を後回しにする者や怠け者もいるはずだ。しかし、そこは問題ではない。ナーベがそれを隠したがっていることが重要なのだ。それを隠すために危険なことまでしようとする。ならばそれを利用してやればいい。
(例えば、ナーベが利用する店を探す。店員を買収するか脅して商品の受取書に見せかけた書類にナーベの署名を求める。その内容を利用して経歴に小さな汚点を作る。それを隠すために裏工作をするように誘導して、そのままずるずると……)
ギャリーの中で陰険な企みが無数に生まれてくる。彼は非常に賢かった。与えられた少しの情報から真っ白な紙の裏側に書かれたものへたどり着いたという点では賞賛されるべきだろう。しかし、彼の知能は考える方向を全く間違っていた。彼があれこれと企み、それがまとまりかけた頃、ふとガリクソンの気配がないことに気づいた。
「ガリー?」
彼は左右を見る。ガリクソンの姿はない。
「ガリー?」
彼に何も言わずに行ってしまうはずがない。来た道を振り返ったがやはりいない。誰もいない暗い路地。そこにいるのはギャリーだけだ。
「おいおい……」
彼は何が起きたのかを瞬時に理解した。ガリクソンは襲われた。透明化の魔法を使う何者かに。血痕がないから刃物は使ってない。形跡を残さないためか、気絶させて尋問する気か。彼は脱兎のごとく駆け出した。しかし、3歩も行かぬうちに何かが彼の体を抱きしめた。
「え?」
ギャリーは腕が動かせなくなり、自分の体を見るも何も見えなかった。透明化の魔法。それを思い出すが、その何かは足と首にもその腕なのか触手なのかを巻きつけた。巨大な蜘蛛が後ろから絡みつくような感覚だった。
「が……あ……!!」
ギャリーは叫ぼうとするが、声が出ない。直立して口を大きく開けるその姿はそばで誰かが見れば道化のようで滑稽だっただろう。しかし、見る者はいない。みんな彼を恐れて逃げてしまった。
(透明化したモンスター?この都市内で?召喚された?)
ギャリーは氷のように冷たい声と目を持つ魔術師を思い出す。
(あいつだ……。俺があきらめてないと見破った……。違う!そうじゃない!)
彼の思考の中に火花が散った。これもまた彼に降りた天啓だった。
(念のためだ!念のために殺しておく!俺があきらめるかなんて関係ない!)
人の命などなんとも思っていない。恐ろしい考え方にギャリーは窒息感と四肢を締め付けられる苦痛を感じながらも身が凍った。彼は人を殺したことはなかった。それだけは避けていた。
(こんな奴が最高位冒険者だと……ふざけるな……誰か……)
ギャリーの意識は闇の中に沈んでいく。最後に頭に浮かんだのは世にも美しい魔術師の顔だった。その日からギャリーとガリクソンの姿を見たものはいない。直後に彼を探す者ならいた。彼の仲間達だ。しかし、彼らもまた行方不明になった。以後、彼らを探す者はいなかった。
「物が男性か女性か中性か。それで冠詞の形が変わるんです」
「どうして?」
魔術師ナーベは苛立って聞く。
「そもそも物に性別があるなんておかしいでしょ?生き物じゃあるまいし、家や家具に性別があるの?」
「王国語はそういうものなんです」
ホーマは辛抱強く言い聞かせる。場所はホーマの部屋であり、ナーベは椅子に座ってホーマから王国語の授業を受けていた。ギャリーが去った後、ホーマは一瞬記憶があいまいになった。おそらくは魅了の魔法を使われたのだろうと彼は推測している。自分が紙の内容を誰かに話していないか。そして、その情報を悪用するつもりがないか。この2つを確かめたのだろう。魅了とは隠し事がある場合には恐ろしい魔法だ。しかし、潔白を証明するには都合がいい。悪用する意志がなかったおかげか、ナーベも命まで取る気はないようで、ホーマが例の紙束を返した後、一つの提案をした。魔術師ナーベに王国語を教えることだった。給金も出すらしい。そう言う彼女の顔は引きつっており、どうみても自分から望んで提案しているわけではなさそうだったが、その裏に何があるのかを彼は考えないことにした。この仕事の依頼を拒否したらどうなるのか。それも考えないことにした。
「そもそもこの冠詞というのは何のためにあるの?必要ないでしょ?」
「チビらも同じことを聞いたことがありますけど、そういう決まりとしか言えません」
「どういう基準で物の性別が決まるの?見分け方は?」
ナーベはさらに聞く。
「見分け方はほとんどないですね。女性が使うものでも男性名詞だったりしますし、やっぱり覚えるしかありません」
ホーマは子供達に教えるよりずっと丁寧にナーベに教える。彼女の短気っぷりは4人の孤児達を遥かに凌駕するからだ。
「廃止しなさい」
ナーベは憤然として言った。
「それは国王に言ってもらわないと」
ホーマは苦笑して言った。この人なら本当にそうするかもしれないと彼は思う。ナーベの第一印象は冷酷な女だったが、しばらく話してみるとそう悪い人間ではないと彼は思う。いや、これっぽっちも温かみはないし、傲慢ここに極まれりという態度や物言いはある。他の人間を虫のようにしか思っていない。
(そういえば王族は平民を動物のように思っていて、裸を見られても気にしないって話があったな)
美姫という二つ名のとおり、本当にどこかの大国の姫君なのかもしれないと彼は思う。そうでないとここまで傲慢な性格の説明がつかない。
(いや、傲慢とはいえないかもしれないぞ)
ホーマのような貧乏人でも馬車を乗り降りする豪商の娘や貴族の令嬢を遠くから見ることはあった。確かに美しく輝いていたが、それは高価な宝石や衣装のおかげであって、ナーベのように質素なローブで身を包めばただの市民に紛れてしまうだろう。その身だけで光り輝き、最高位冒険者としての実力と実績もあるのなら傲慢は傲慢でなくなる。
「国王に言えばいいのね。わかった」
「ほ、本気で言うつもりですか?」
ホーマは焦った。自分のせいで王国に波乱が起きるかもしれない。
「ノミの作った決まりにどうして従う必要があるの?」
ここまで言えるならもはや褒めるしかないと彼は思った。
「いや……すごいですね。ナーベさんは」
「は?」
「国王をノミ呼ばわりするなんて俺にはできません」
「国王じゃなくてあなたたち全員のことよ」
住む世界が違うと彼は思い知る。ギャリーも自分も国王も変わりはない。圧倒的強者から見ればそうかもしれない。
(変わりはない?)
ホーマの中に疑問が生まれた。アダマンタイト級冒険者に比べれば大半の衛兵やゴロツキなど市民よりほんの少し強い程度のものだ。では、自分が彼らを恐れたり、ギャリーに金を払ってきたのはなぜだろう。
(そういえば本当にギャリー達が来なくなったな)
あれだけ脅されたら無理もないかと彼は思った。ギャリーと縁が切れたので子供達を守る別の手段が必要になる。誰に頼むべきかを彼は考えていた。
(頼む?どうして誰かに任せるんだ?)
「ナーベさん」
「は?」
「変なことを聞きますけど、俺が他の人に報酬を払って身を守ってもらうように頼むのはおかしいと思いますか?」
「当たり前でしょう」
ナーベは世界の基本法則のように言った。
「コメツキムシがひれ伏すべきなのは私達だけよ。それ以外にひれ伏してどうするの?」
ホーマは相手の言いたいことを考える。頼るなら真の強者に頼り、そこらの自称強者に頼るなということだろうか。
「ナーベさんにひれ伏したら助けてもらえます?」
「助けるわけないでしょ」
彼女は一度だけため息をつき、虫の屍骸を見るように、つまりいつもどおりの目でホーマを見た。
「あなた、自分がひれ伏すことや差し出す物に価値があると思ってるでしょう?なんの価値も意味もないのよ」
この言葉はホーマに衝撃をもたらした。強者の前に跪いて財産を差し出し、慈悲を願うしか弱者にできることはない。そう思っていた。だが、それは何の意味もないとナーベは言った。
「
下級市民がすり寄る姿はそういう風に映るのかとホーマは思った。しかし、それを認めるしかなかった。自分達が払える報酬など僅かであるし、ひれ伏すだけならタダだ。それで強者にどんな保護を期待していたのだろう。本当の危機が訪れたときにギャリーが命がけで守ってくれると思ったのだろうか。
「ちょっと?これって何の話?」
ナーベがキレかかっている。まずいと彼は思った。
「あ、すみません」
ホーマは深々と頭を下げる。
「それで、冠詞とかいうもの以外は?他は同じなんでしょう?」
「いいえ、動詞の形も主語の種類によって変わります。多いと40通りくらいありますね」
「は?」
ナーベは自分の耳を疑ったらしい。
「大丈夫です。動詞は語幹さえ覚えればだいたいの意味は……」
ホーマは王国語の授業を進めながらも、これまで続けてきた自分の生き方を考え直し始めた。
王国語の授業は何度か続き、そして、終わりの時が来た。
「これが授業料?」
渡された謝礼を見てホーマは寒気がした。それほどの金額だった。
「俺は今から殺されるんですか?」
「殺すならお金を渡さないでしょう?」
ナメクジ程度の知能もないの、とナーベは付け加えた。
「言うまでもないけれど、口止め料でも手切れ金でもあるわ。誰にも今日のことを言わないこと。約束を破ったらどうなるかはわかる?」
「はい、わかります。ただ、手切れ金ってことはもう会うことはないってことですか?」
ホーマは残念そうに言った。
「会う理由がないでしょう?」
「そう……ですか?」
ホーマは美姫が住まう王城の壁に梯子をかけてみた。
「会いに来たら殺す」
「あ、はい。わかりました」
城の窓から火炎瓶が降ってきた。文字を教えている間にホーマの中で芽生えていた何かが消えてゆく。馬鹿げた夢だった。
「じゃあね」
「あ、待ってください」
ホーマは持っていた小冊子を渡した。
「これは?」
「王国語の文字一覧と文法の仕組みを書いてます。俺は学者じゃないからあちこち不完全だろうし、ナーベさんの国の文字がわからないから辞書にもなりませんが、良かったら使ってください」
ナーベは受け取った冊子を見た。表情は変わらない。再びホーマの目を見る。
「そう。ありがとう」
彼女はそう言うと転移の呪文を唱え、その姿は消えた。名残を惜しむ時間などなかった。剣の達人に斬られた相手がしばらくそれに気づかないように、ホーマは少し経ってから別れが終わったことに気づいた。周囲を静かな時間が流れる中、彼は手に持っている金を見る。
「これまで消えないよな?」
これで金も消えたら、自分が見たのは全て夢だったと信じるだろう。ジャラジャラと音を鳴らし、重さを確かめる。消えないらしい。これだけ金があれば数年は暮らしてゆける。
(いや、それじゃだめだ)
ホーマは思う。まずは戦い方を習おう。引退した冒険者の中には個人道場を開いている者がいる。金さえ払えば自分が留守の間だけ子供達を任せられる者もいる。戦い方を覚えたら子供達にも教えよう。4人の子供達の誰かに武術か魔術の才能があるかも確かめたほうがいいだろう。自分に武の才能が全くなければ商人組合に金を払って職人に弟子入りする道もあるが、それは確かめてから考えればいいことだ。武術剣術がいくらかものになりそうなら冒険者の道も考えよう。冒険者。その頂点に君臨し、さきほどまでそこにいた女性の顔を彼は思い浮かべる。
「ナーベさん、か」
呟きは部屋にかき消え、再び静寂が戻る。それを破るものがあった。子供達の喧騒だ。帰ってきたらしい。彼は世にも美しい夢を頭から消し去り、現実を歩き出した。
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ユリとシズの帝都姉妹旅情(挿絵あり)
「その鏡、見せてくださいますか?」
女性が商人に声をかけた。
「はい、ど……」
彼はにこやかに応じようとしたが、相手があまりの美貌だったため言葉を忘れるという初歩的なミスをした。商売の初歩を学び始めたばかりの頃にやった失敗だ。師匠から「商人が黙るな!」と殴られた時の痛みを彼は思い出す。
「どうぞ……」
手鏡にしてはやや大きすぎるそれを恭しく渡す。女性が受け取るときにその手に精巧な彫刻が施された指輪があることを彼は見逃さない。女性はそれを眺め、彼も目の前の客を観察する。服装は一般的な旅人という感じだが、首に巻かれた大粒の宝石をつけた装飾品がそれを徹底的に否定していた。
帝都の住人でないことは即座にわかった。こんな美人がいたら噂にならないわけがない。大きな瞳は塗れた黒玉のように光を反射し、鼻梁は美の神が掘ったかのような一品、その下の唇はあらゆる男を虜にする世界の花弁だ。"茶色"の髪を纏め上げ、彼の知らない結い方をしている。
気付けば隣にいるストレートの髪の少女もいくら称賛しても足りない容姿だ。こんな美人二人がどんな理由で旅をしているのか、他に連れがいるのか、彼はいろいろ聞きたくなったが、その衝動を抑える。重要なことは彼女らの素性ではない。懐具合だ。
装飾品から見てかなり裕福であるはずだが、貴族ではない。貴族なら自分で買い物になど行かず、商人を呼びつけるからだ。裕福な家の接客女中が休暇をもらって同僚と旅をしている。そんなところだろうか。
(銀貨2枚でいけるか?)
彼は鏡の値段をいくらに設定するか考える。彼女が持つ鏡は持ち運ぶには大きすぎ、家で使うには小さすぎる中途半端なものだ。細かな装飾はあるが流行りではないし、奇妙な刻印もあった。はっきり言って「変な鏡」なのだが、人の趣味は様々だ。手にとったなら興味があるということで、貴族の所有していたなどと言えば高い値段で買うかもしれない。
「これ、おいくらでしょう?」
美女は商人の目を見て聞いた。
「銀貨2枚です。高いと思うかもしれませんが、それは由緒ある……」
「わかりました。買います」
彼が作り話を述べる前に女性は即決した。
「え?」
「買います」
女性は財布から銀貨を出した。
(しまった!こんなに緩い客ならもっと高い金額を吹っかけておけば……)
商人は後悔したがすでに遅かった。彼はすでに売値を述べている。自分が口にした額を後出しで上げるのはご法度だ。
「どうかなさいましたか?」
「い、いいえ」
(まさか俺が価値を見誤ってるわけじゃないよな?)
商人は相手がまったく値切らないことで不安になった。美術品としての価値はないと思っていたが、遠い国で名のある一品なのだろうか。
(あるいは、魔法がかかっているとか?)
マジックアイテムという考えを彼はすぐに否定する。知り合いの魔術師に魔法探知をしてもらったことがあるからだ。また、魔法探知でマジックアイテムを市場から見つける発想は昔からあり、この市場でも試した魔術師は大勢いるはずだ。露天商は自分の言い値で商品を売れたにもかかわらず、しばらく思考の渦に沈んだ。
「…………姉様、どう?」
戦闘メイドが一人、CZ2128・Δ、通称シズ・デルタは歩きながら姉に聞いた。普段はユリ姉と呼ぶが今はその名前を使えない。
「面白い鏡だわ。短い距離だけど周囲を覗けるマジックアイテムよ。第3位階の魔法がかかってる」
ユリ・アルファはそう言うと鏡を無限の背負い袋に仕舞った。
「魔法のかかった武器は同じ重さの黄金と同じ価値があるそうだけど、これも金貨1枚2枚よりは絶対に高いはず」
「…………お買い得」
シズがさっきの商人を笑っているとユリにはわかる。
「でも私たちも普段なら気づかないから仕方ないわ。全ては”これ”のおかげよ」
ユリはいつもの伊達メガネと違う”それ”を指した。
「…………さすがはア……あの御方」
「そうね」
ユリはくすりと笑う。
今、ユリがかけているメガネはアインズから貸与されたマジックアイテムである。その効果はアインズも使える
アイテムが魔法を帯びているかどうかは通常なら探知魔法で判明し、鑑定魔法でその効果も判明するが、それらを回避する隠蔽魔法も存在する。魔法の罠を隠す、盗難を防ぐ、諜報活動のためなど様々な理由で使われるが、所有者がそのことを伏せたまま死亡するか何らかの理由でそれを手放せば、誰も本来の効果を知らないままアイテムが他人の手に渡ることがある。
正確に言えば高位の魔術師はその隠蔽を看破できるが、逆に言えば低位の魔術師は看破できないということ。そこにアインズは注目した。本来の価値を誰も知らない隠れマジックアイテムが市場に流通しているかもしれず、その中には強力な効果を持つアイテムもあるかもしれない。看破できるアイテムを渡すからまずは帝都を調べてきてほしいという命令にユリ・アルファとシズ・デルタは恭しく頭を下げた。至高の御方からの勅命。嬉しくないわけがない。
「…………でも、第3位階なら大したことない」
「そうね」
ユリもそこは認める。ナザリックでは「で?」と言われるレベルの魔法だ。これまで帝都で見つけた隠れマジックアイテムの品々も大したものではない。1日1度だけ相手に魅了をかけるレンズ、毒感知の皿、精神魔法への抵抗を増すお守り、弱いモンスターを1匹だけ封印する壷。どれもナザリックで役立つレベルには程遠い。
しかし、二人は落ち込んでいるわけではない。隠蔽魔法を解いて通常のマジックアイテムとして売却すれば人間社会での資金源になるからだ。
「ところで、どう、シズ?中央市場というのは本当に賑やかでしょう?」
「…………うん」
シズは素直に肯定した。
ユリもシズもナザリックにおいては珍しく人間を蔑視していない。ユリにいたっては彼らは良い面もある生き物だと思っている(ナザリックに敵意を持つなら容赦なく殺すけれど)。帝都の中央市場は数十万点の商品で溢れ返っており、服や装飾品や食品を買わないかと叫ぶ売り子や店主、買値を次々に叫び合う競り市などナザリックには決してない賑やかさがある。仲間たちが下品で下劣と形容する場所で彼女はなかなか楽しい時間を過ごしていた。
シズは具体的な感想を述べていないが、ぬいぐるみを売っている露店でナザリックにいるペンギン、エクレアに少し似た商品をじっと見ていたのをユリは見逃さなかった。いつか機会があれば買ってあげようかと考える。
芋を洗うような混雑の中、ユリのバッグに後ろからすっと手が伸びた。ピシャリという音が鳴り、腕が引っ込む。
「でも、これだけは本当に鬱陶しいわね」
ユリが言った。その手にはいつどこから取り出したのか教鞭があった。
彼女が手を振るとそれは消える。
「…………始末する?」
「よしなさい」
彼女はシズを諌めた。中央市場にはよくスリが出る。事前に注意されていたが、これで3度目だった。
シズはガンナーであるが、アサシンの職業も持っている。スキルの一つを使えば誰にも気づかれずスリを殺すことは容易だ。自分たちの所持金の本来の所有者を考えればシズの主張もわからなくはないが、こんな場所でその能力を披露してほしくない。
「目立つ行為は厳禁よ」
ユリは注意する。
二人は帝都内に魔法で転移してきた。はっきりいえば密入国である。彼女たちは1ヶ月ほど前にナザリックに謝罪のため訪れた皇帝やその側近と顔を合わせており、今はいくらか変装しているが、騒ぎを起こして彼らの一人に見つかればおそらくばれるだろう(万が一ばれたら観光だと言い張れと言われている)。
「あの御方のお言葉は?」
「…………絶対」
「よろしい」
ユリは妹の言葉に満足する。
「それじゃ今度はシズが探してくれる?」
ユリはそう言って自分のメガネを差し出した。
「…………いいの?」
「ええ」
ユリは微笑む。
妹もマジックアイテムを探したいと思っていることはわかっていた。シズは万が一の戦闘に備えての護衛でもあるが、それは起こりそうもなく、見ているだけではやり甲斐がないだろう。
シズはメガネを受け取るとそれをかけた。
(うーん、似合わない……)
その感想をユリは押し殺す。
「普通のマジックアイテムと間違わないように注意して。隠蔽されてるとオーラの濃さが違うから」
「…………わかってる」
シズは人の波を掻き分けながら店の商品をチェックしてゆく。
5分ほど歩いたとき、彼女は目的のものを発見した。
「…………あった」
シズは露天商が敷物の上に並べた多くの指輪の中から一つを指した。
「あの指輪ね。買いましょう」
ユリはその指輪をよく見る。マジックアイテムの指輪はたいてい錆や破損を防ぐために金や銀、白金などの貴金属で作られるが、例外もある。今回はその例外である銅製のものだった。大した魔法はかかっていないのだろう。
「…………これ、ほしい」
シズは露天商に言った。
「はい!いらっ……しゃい……」
対応したのは店主にしては若すぎる少年のものだった。あまりにも若いので店主の息子か弟子が店番しているのだろうとユリは考える。色恋には早すぎる年齢だが、これ以上ないであろう美貌を見て顔に赤みが差している。
「…………これ、ほしい」
シズはまた言った。
「……あ、すみません!こちらの指輪ですか?えっと、2銅貨でどうです?」
少年は少し考えてから値段を言った。
「…………うん、それでいい」
「はい!」
言い値で売れたことが嬉しいのだろう。子供店主は頬を緩める。
「…………銀貨でいい?」
シズは財布を見てから言った。
「うーん、本当は困るんですけど、ないなら構いませんよ?」
シズは銀貨を一枚出し、少年の手の平に乗せた。
その時だった。
小さな黒い影がシズと店主の間を横切り、天高く舞い上がった。そのクチバシに銀貨を加えて。
クアランベラト。キラキラと光って動くものを集める習性のあるこの鳥が時々こうやって人々の所持品を掻っ攫うことをユリとシズはこの時初めて知った。二人とも本来なら鳥に奪われる前に対応できただろう。それが遅れたのは無数の群衆から来る視線、そして先ほどからそれに紛れるスリに警戒していたためだ。
「……ああ!」
少年は遅れて悲鳴を上げた。
シズがユリを見る。その目は射殺の許可を求めているが、彼女は首を横に振って「駄目よ」と伝える。シズがあの鳥を撃ち落すことは容易だが、これほど目立つことはないだろう。自分が飛行のマジックアイテムを使って追いかけることも同様だ。彼女は自分の足元に向かって小さく「追いなさい」と告げた。ユリとシズにだけわかる気配が鳥の飛んでゆく方へ向かっていく。
少年は頭を抱えた。
「うああ……師匠に……殴られる」
ユリは少年に少し同情する。普通の人間にあれを防ぐ事は不可能だろう。
「…………ごめんなさい」
シズは申し訳なさそうに言った。
「いいえ、今のは私も不注意だったわ」
ユリも自分を叱りたかった。
「あの……今のは……」
少年は恐る恐る聞いた。
理屈で言えば彼の手に硬貨を置いてから盗まれたのだから店の責任といえるだろうが、銀貨1枚を弁償しろといえば「お客さんの渡し方が悪かった」などと言い出して面倒なことになるかもしれない。だが、ユリにそんな気はなかった。
「いいえ、今のはこちらの不注意でした」
ユリはシズに目で告げる。彼女はもう一枚銀貨を出して少年に渡した。
「え、いいんですか?でも……」
「構いません」
どうせ銀貨は戻ってくるから、とは言わない。
「その代わり、ご店主。私たちは帝都に来たばかりであまりここに詳しくありません。不思議な言い伝えや噂のある品物をご存知なら教えていただけますか?」
「不思議な言い伝えや噂、ですか?」
少年はきょとんとする。こんな事を聞かれたのは初めてなのだろう。
「はい、私たちの主人がそういった物の収集家なのです。面白い噂があれば聞きたいのですが」
ユリはそういう言い伝えを持つ品物に実は魔法がかかっている可能性を考えた。せっかくなのでこの小さな店主から隠れマジックアイテムの噂でも聞けたら儲けものと思ったのだ。
ユリ・アルファは意外にちゃっかりしている。
「えーと、少し待ってください」
少年は先ほどの罪悪感があるらしく、顎に手を当てて真剣に考え始めた。
シズがユリの方をじっと見る。目に謝罪と後悔がこもっており、彼女は微笑んで妹の頭をなでた。
「願いを叶える指輪?」
ユリとシズが顔を見合わせたのは少年からいくつか話を聞き、水の神殿にあるという指輪の話に差し掛かった時だった。
「はい、あそこの指輪にそういう言い伝えがあります」
ユリの頭にすぐ浮かんだのは至高の御方が所有するという超々レアアイテム、
「…………胡散臭い」
「こら、シズ」
ユリは窘めたが彼女自身も単なる御伽噺だろうと思った。そんな超希少アイテムが一般に公開されるはずがないし、隠蔽魔法でそんな強力な魔法を隠せるかという疑問もある。
「いいですよ。僕も祈ったことがありますが、まだ叶っていませんから」
少年は笑った。
(アインズ様はご存知なのかしら?)
ユリは考える。そしてすぐに知らないはずだと結論する。知っていれば最初にそこを調べるように指示を出したはずだから。2人がモモンとナーベとして帝都を見学した期間は短く、しかも中央市場や北市場に重点を置いていた。二人の耳にこの話が届いていなくてもおかしくはない。
「…………それは誰かが魔法で鑑定しないの?」
ユリに浮かんだ疑問をシズが代弁してくれた。
「神殿が禁止してるんです。神を疑ってはいけないって」
うまい理屈ね、とユリは思う。
「その場所を教えていただけますか?」
おそらく無駄骨に終わるだろうが、万に一つの可能性を考えて確認しに行くことにした。
「…………うわあ」
シズのつぶやきを横で聞くユリも同じことを言いたかった。水の神殿には長い行列ができていた。長い長い行列が。多くは観光客なのだろうか。傷病人らしき人々もいくらか混ざっている。彼らは自分の回復を祈るのだろうか。それは神官の仕事なのだから指輪に願うのは奇妙だが、本人たちの勝手かとユリは思った。
「これに並ぶのは気が引けるわね。指輪を見たいだけなのに」
行列は非常に長く、なかなか進んでいない。今から並べばどれだけ時間がかかるかわからず、おそらくはガセであろう指輪をそこまで時間をかけて見るべきかユリは悩んだ。
「見るだけならば方法がありますよ」
その声にユリが振り向くとどこかの家の使用人らしい服装の男が立っていた。白い服を着た幼い少女が彼の手を握っている。少女は笑えば天使のようだと言われる年齢だが、どういうわけかその顔には心労が濃い。
「あちらに神官がいますでしょう?彼に銀貨5枚以上の寄付をすれば神殿を見学させてもらえます。あの指輪を見たいと言えば見せてもらえると思いますよ」
「そうなのですか?」
思わぬ解決法にユリは驚く。
「はい。立ち聞きするつもりはなかったのですが、話が聞こえてしまいましたもので。ご不快に思われましたら申し訳ありません」
「いいえ、大変助かりました」
ユリは頭を下げ、シズもペコリと続く。その程度の出費なら許容範囲だ。
男は微笑み、少女をつれて列に並んでゆく。良い身なりだが、少女の表情を見る限り願いはかなり深刻なものだろうと彼女は思った。
「…………姉様、行こう」
「ええ」
そう言って神殿に入ろうとしたユリだが、ピタリと足を止めた。
「…………姉様?」
「シズ、悪いけど一人で行ってきてくれる?ここは神殿だから念のためにね」
ユリは小声でそう言い、シズが理解するのを待つ。
「…………あ」
シズもわかったようだ。ユリはアンデッドであり、探知系魔法を阻害するマジックアイテムを装備することで正体が露見しないようにしている。しかし、指輪は種族特性や弱点を消すわけではない。もしも神殿内でアンデッドに有害な魔法が発動していれば面倒なことになる。
「…………わかった。見てくる」
シズが神殿に入り、男に言われた神官に声をかけるのをユリは見守る。いくらかやり取りがあり、シズが寄付を払うと奥へ導かれた。万が一のことが起きた場合、彼女にもシャドウデーモンが控えているし、転移用のアイテムを持っているから問題ないだろうとユリは考える。
行列に並んだ者たちがシズを目で追う。それは容姿のためか、寄付を払える身分のためか。ユリは神殿を出入りする人々を観察する。やはり神殿なので信者らしい人々が多いが、傷病人やその家族らしい人々もちらほらと見える。
「はあ……」
ユリはため息を漏らした。呼吸を必要としないアンデッドでもそれくらいは出る。神殿から盲いた子供が杖をついて出てくるのを見たからだ。人間の習得できる魔法はほとんどが第3位階までであり、あれを治せる魔法がないか治療費が払えないのだろう。哀れなことだと彼女は思う。自分の妹、ルプスレギナなら一瞬で治せるのに。
しかし、そんなことは起きないと彼女はわかっている。命令されるなら別として、あの妹が人間を治療したいなどと思うはずがない。治ると言って喜ばせ、「やっぱり無理っすわー」と絶望の底へ突き落とすようなことを言うだろう。
「はあ……」
またため息。
そこで彼女は一つのアイデアが浮かんだ。魔導国が世界を征服した後、神殿で治せない患者をこちらで治したらどうか。神殿でも治せない怪我や病気を治せば人間は魔導国に敬服し、忠誠を誓うのではないか。
その思い付きを彼女はすぐ引っ込める。そう上手くいくはずがない。アンデッドを憎む神殿はそれを敵対行動と捉え、戦いを挑んでくるかもしれない。他にも無数の問題が出てくるだろう。そもそもナザリックに貢献できるほど優秀な人材ならともかく普通の人間を治療しても利益がない。
もっとナザリックに利益があり、人間達も幸福になれる方法はないものかとユリが考えていると背後の影に別の影から何かが移り込んだ。あの銀貨泥棒を追わせたシャドウデーモンだ。銀貨を回収してきたのだろうと彼女は思ったが、それはゆるりと伸びてひそひそと耳打ちした。
「……そう、わかったわ」
彼女は銀貨の行き先を知って眉をひそめる。
ちょうどその時、神殿からシズが出てきた。
「…………姉様、行かなくて正解だった」
「え?」
「…………神殿の奥の部屋が浄化されてた」
「ああ、そういうこと」
アンデッドにとって聖なる力を帯びた水や空気は酸のように作用する。ユリが死ぬことはありえないが面倒なことになっただろう。やはり神殿とは相性が悪いと彼女は思う。
「行かないで良かったわ。ということは、指輪はやっぱり?」
「…………ただの指輪だった」
「でしょうね」
超位魔法を宿すマジックアイテムがこんなところに置かれているわけがない。わかっていたことだが、彼女は少し落胆する。
「じゃあ行きましょう。銀貨の場所がわかったわ。少し面倒な所にあるけど取り戻さないと」
「…………うん」
ユリは去り際にあの親切な使用人と少女に目をやる。行列はほとんど進んでいない。そしてその先に待っているのは魔法などかかっていないただの指輪。哀れなことだ。先ほどのお礼に何かしてあげようかという考えが浮かんだ自分を戒める。これで面倒事を背負い込んだらセバス様の二の舞だと。
二人はその場を立ち去った。
一人の男が建物の屋上で酒を飲んでいた。
空から一匹のクアランベラトが彼の肩に舞い降りる。
「おお、よしよし」
彼はそのクチバシから収穫を受け取る。
「なんだ……」
落胆の声。鳥が持ってきたのは金色のスプーンだった。本物の金なら素晴らしいが色はくすんでおり黄銅のメッキだとわかる。ほとんど価値はない。
彼はそれをポケットへ入れた。今日の収穫物はいくつかの指輪、ネックレス、食器、そして銀貨だった。
「もう一回行ってこい」
彼はそう言って鳥を飛ばした。
男の名前はドリー。職業はドルイドであり、1ヶ月ほど前まではグリンガムというワーカーが率いるパーティの一員であった。仕事に行ったリーダー率いる仲間が全滅したため、静養していた残りのメンバーはすぐに解散した。元々、性格に問題のあるメンバーばかりで、強い指揮力のあるグリンガムが死んだ今ではパーティの維持は不可能だとお互いに認めたためだ。
ドリーもまた大部分のワーカーと同じく将来設計ができず、普通ならドルイドとしていくらでも働き口があるにも関わらずまともに働いていない。酒と女に溺れ、博打による借金を抱えていた。
「今日は上手くいかないなあ」
彼は愚痴を言う。
魔法の
「宝石をつけた女でもいないか……」
彼は建物から路上を眺める。高貴な身分の者は馬車で移動するとわかっているが、何気なく口にしたことだった。
そこへ後ろから美しい声がした。
「いるわよ」
「え?ぎゃあ!」
振り向く前に後頭部に激痛が走った。
視界が一瞬白くなり、次に真っ暗になる。
「うああ……あ?」
ドリーは振り返ったが、視界は黒いままだ。袋でも被せられたのかと頭に触るが、何もなかった。
「え?え?」
「貴方はもう何も見えないわ」
美しい声がまた聞こえた。
「さて、盗んだ銀貨を返してもらえる?何のことかはわかるでしょう?」
「うああ……わ、わかった!」
ドリーはポケットから手探りで銀貨を出すと宙に差し出した。それが手から離れるのがわかった。
「さて、彼をどうする?」
美しい声が誰かに尋ねた。
「…………殺すべき」
別の美しい声が聞こえた。それには激しい憤怒と殺意が篭っていた。
「待ってくれ!金は全部やる!だから見逃してくれ!」
彼は懐から財布を出して前に置くと、跪いて額を床にこすりつけた。
「もう絶対にしない!頼む!許してくれ!」
「こう言ってるけど、どうする?」
「…………殺すべき」
先ほどとまったく同じ雰囲気の声。
「そうね。都合のよい時だけ善人には戻れないわ」
もう一人も同意した。
「貴方の盗んだお金が誰かの大切な治療費だったら、と考えたことはある?自分の軽い出来心で誰かがもの凄く苦しむとか、そういう可能性を考えたことがないでしょう?」
「ひいいいいい!頼む!頼むから!」
ドリーは震えて懇願した。この計画には少しの危険があるとは思っていた。冒険者や魔術師、あるいは裏社会の誰かの所持品でも盗めば危ないと。しかし、それでも鳥が殺されるだけで、まさか自分を発見する者などいないと思っていた。しかし、いたのだ。目の前に二人。美しい声を持つ何者かが。
「貴方、本当に反省している?」
最初に聞こえたほうの声が優しく言った。
「もちろんだ!」
「今だけ反省してまた同じ事を繰り返すつもりじゃない?」
「もうしない!神に誓う!」
彼は自然神を信仰しているが、善神や平和の神を信仰しているわけではない。しかし、今だけは真剣に彼らに誓った。神様、もう悪いことはしませんと。
はあ、というため息が聞こえた。
「どうする?」
「…………殺すべき」
(どうしたらこいつは許してくれるんだ!!)
ドリーは涙を流し始めた。
都合のいい時だけ善人には戻れない。その言葉がよみがえる。
「ねえ、一度だけチャンスをあげましょう?もう彼の目は見えない。それを代償として真面目に生きていく気はある?」
「え?」
治してくれないのか?
彼の口からその言葉が出かかった。
「何の代償もなく解放されると思ったの?」
優しい声にも冷たいものが混ざった。
「私も彼女も貴方を殺すことに些かの躊躇もないわ。やっぱり反省してないのね。それじゃ、さようなら」
殺意が二つに増えた。
「ひいいい!わかった!このまま生きていく!だから命だけは!」
男はガタガタと体を震わせて慈悲を請う。
「……だそうよ?どうする?私は一度だけチャンスをあげようと思うけど」
「…………姉様がそう決めたなら」
「ありがとう」
ドリーの心に光明が差す。
「貴方が再び悪事を行った時、私たちはまたやってくる。いいわね?」
「はい!」
二つの気配が消えた後もドリーは平伏し続けた。
やがて一匹のクアランベラトがその肩に止まり、「かあ」と鳴いた。
「金貨150枚。けっこうな値段になったわね」
集めたマジックアイテムを魔術師協会で査定してもらったユリは言った。
「…………アインズ様、お喜びになる?」
周りに人がいないのでシズは尊い名前を口に出す。
「ええ、きっと」
ユリは微笑んだ。
強力なアイテムこそなかったが、それは始めから期待していない。しかし、普通のマジックアイテムは当初「1つもなくても驚かない」と言われていたので総数18個、金貨150枚という結果は至高の御方を喜ばせるものだろうと彼女は思った。アダマンタイト級冒険者への報酬に比べればそこまで大金というわけではないが、半日歩いただけでこの収入であり、他の都市でも見つかる可能性はある。
マジックアイテムはまだ売却していない。魔術師協会とは別にマジックアイテム専門の商人もいると市場で聞き、買取額に違いがあるか確かめたいからだ。より高い値がつく品はそちらへ売ればよい。
「…………最後のお店、けっこう遠い」
「そうね」
シズの珍しいぼやきにユリは同意する。距離的に転移アイテムを使いたかったが、あれは見たことのない場所へは使えない。店の場所を聞き、治安のいい高級住宅街を通るので問題ないだろうと彼女は判断した。
しかし、今日に限っては違っていた。
「離して!」
ユリの耳に幼い声が届いた。敷石舗装された道の先を見れば男が屋敷から小さな少女を抱え、馬車に乗せようとしている。
ユリは怒りを覚えつつ、次に少女の顔を見て驚く。神殿で出会った少女だった。その子供を抱える男はどう見ても家族が雇った使用人には見えない。良くて山賊だ。
(まさか誘拐?)
ユリは足に力をこめるがすぐに感情を押し殺して利害を考える。ナザリックに利益がない限り目立つ行動をとるべきでない。では、利益があれば?
少女の身なりの良さを見てユリは一つの考えが浮かび、行動を決めた。
「ユリ姉!」
シズが発した言葉は遥か先のユリの背中へ向かう。地面を蹴って真横に跳躍する高速移動スキルだ。50メートル以上の距離をユリは5歩で詰める。
「おわっ!」
一瞬で馬車の前に現れ、進路を塞いだユリを見て男は驚く。
「失礼ですが、貴方がしていることは合法的なことですか?」
ユリはまず質問した。事情もわからないのに暴力はまずい。
「助けて!」
少女が助けを求めた。ユリの心に細波が立つ。足音で後ろにシズが追いついたのがわかった。
「な、なんだ、お前ら?」
男は数歩下がる。普通なら女の一人二人など凄んで追い払いそうな風体だが、ユリの動きが普通でなかったため警戒している。
ユリは屋敷の敷地内を見る。4人の人間がいた。最初に観察したのは夫婦らしき中年の男女だ。夫は額縁に入れて「破滅した男」と題名をつければ映えそうな絶望の表情をとっている。妻らしき女のほうは泣いており、そして神殿で出会った使用人の男が悲痛な顔で女性の肩を押さえている。全員が何かを諦めたような表情で、突然の暴力で家族を奪われる風ではない。
(誘拐じゃなさそうね)
まずいと彼女は思う。誘拐なら両親に恩を売り、高級住宅街に住む人間なら所有しているだろう調度品や装飾品を見せてもらおうと考えていたからだ。宝石や貴金属品に隠蔽されたマジックアイテムが紛れている可能性があった。
ユリは3人とは別にいるもう1人の人物を見る。絶望する夫の傍にいる山賊風の男その2だ。おそらく娘を連れて行こうとした男は部下で、この男が上司だろうと彼女は推測する。
「……ん?どうした?なんだ、お前ら?」
男はユリの顔を見て一瞬恍惚となったが、すぐに自分たちの邪魔をしてると理解し、危険な表情に変わった。
「邪魔する気か?」
「これは誘拐なのですか?」
ユリは違うだろうと思いながらも聞いてみる。
「お前らには関係ない。怪我する前に消えろ」
リーダーはユリの方へ歩き出す。攻撃性を剥き出しにし、今すぐ退かなければ襲い掛かるといわんばかりだ。
しかし、ユリから見れば子犬が威嚇するようなものだ。おそらくこちらの出方を試しているのだろうと思う。
ならばどうすればよいか。
こちらもちょっと威嚇してあげよう。
「消えろと言って……」
そこまで言って男の口と足が止まった。
少女を捕まえていた男も彼女を手放して「ひい!」と声を上げた。
残りの者は何が起きているかわかっていない。
「お……おお……」
彼の体が震え始める。顔に汗が噴き出し、すぐに顎から滴った。冒険者、ワーカー、騎士、犯罪者、様々な危険人物を彼らは相手にしてきた。格上の相手もいたし、危険な瞬間もあった。しかし、それらとは次元の違う恐怖が彼らを包んでいた。
(ウズルスどころじゃねえ!)
金貸し屋、ジョマは断頭台に立たされたように震えながら思った。彼が出会った中で最も危険な人物はウズルスというワーカーだった。自分の仲間と一悶着あり、相手の性格を見るために凄んでみたのだが、逆に暴風のような殺気を浴びてすぐに平伏した。謝罪が少しでも遅れていたら首が飛んでいただろう。
しかし、あれが可愛いと思えるレベルの猛者が目の前にいた。人間というよりモンスター、それも災害級モンスターに睨まれているような感覚だった。
「これは合法的なことですか?」
ユリは静かに聞いた。
「そ、そうだ……お、俺たちは、ほ、ほ、法に則ってる……」
彼は震えながら答えた。
ユリはちらりと少女を見る。
「そうは見えませんが?」
「ほ、本当だ!奴らに聞いてくれ!」
彼は懇願するように叫んだ。
ユリは使用人のほうを見る。彼はすぐ理解した。
「旦那様は彼らに借金をなさっているのです。支払いの期限が来たため、屋敷の財産は差し押さえられ、経済的に養えなくなったお嬢様は彼らのご好意により知り合いの夫婦の家に養子に出される
ユリはすぐに意味を察した。借金のカタというやつだ。少女の行く先はろくな場所ではないのだろう。帝国でも王国でも人間の奴隷制度はなくなったので無茶苦茶な要求はできないという話だが、法ができて犯罪が消えるなら苦労はしない。セバスの救った人間がよい証拠だ。
同時に、ユリは自分が彼女を救う手段がないことも理解する。相手は合法的に事を進められるように根回ししてるはずで、帝国法など知らないユリに止める方法はない。相手は今は恐怖で凍り付いているが、こちらも違法な事はできないと気づけばすぐに仕事に取り掛かるだろう。
ユリは母親の元へ走って戻った少女を見る。怯えた目をし、小さな手が母親の服を必死に掴んでいる。この手を離したら奈落の底へ落ち、二度と上がれないと理解している者の目だ。
「屋敷の財産はもう没収したのですか?」
「いいや……」
男は怯えたまま言った。
ユリは相手の恐怖が消えないうちに話を進めようと考えた。
「なら、ちょうどよかった。私達は美術品を見て回っています。屋敷にあるものを見せて頂けますか?良いものがあればこの場で買い取りますから」
「そ、それは……」
男はどうするべきかを考え出した。相手は得体の知れない怪物であり、さっさとあの子供を運んでしまいたいというのが本音だろう。
「良い品があれば即金で買い取ります。そちらも買い手が今見つかるなら都合が良いでしょう?」
ユリは財布を開ける。中にあるのは黄金の輝き。それを見て男の表情が少し変わった。その横では借金に苦しむ家族が羨望に満ちた顔をする。
「び、美術品の業者ってことか……?」
「まあ、そんなところです」
彼女は微笑んだ。
「…………姉様」
シズが不安の声を出した。
「心配ないわ。ここに良い品があるかもしれないでしょう?それならあの御方も喜ばれるでしょう。すぐ済むことだし」
ユリがそう言った相手はシズだけではない。自分自身に対してもだった。
自分は隠蔽されたマジックアイテムを見つけるために屋敷を見て回るだけ。それだけだ。もしかしたらその最中に
そう、これはナザリックのためだ。
決してあの少女のためではない。
そうではない。
そうであってはならないのだ。
玄関に入ると多くの美術品が出迎えた。ガラス細工、陶磁器、金属器。貴族がこういう美術品や調度品で身分や財力を誇示するのは理解できるが、それにしても多いなとユリは思った。普通ならもっと空間にゆとりを持たせるはずだ。見た瞬間こそ豪華だが、狭々しく落ち着きがない。
「ずいぶん多いのですね」
「ああ……」
借金取りのリーダーは恐る恐るユリとシズを案内する。
「ここの方は貴族なのですか?」
「元、貴族だ。あの男は。称号を剥奪されてから異常なくらいこの屋敷を飾りだした」
虚飾という言葉がユリの頭に浮かぶ。
「なあ、一つ聞かせてくれ。本当に良い品があったら買い取ってくれるんだよな?」
男は不安な顔で聞いてきた。
「もちろんです」
「そうか。信じるぜ。商売なら俺もしっかりやるよ。俺はジョマっていうんだ。金貸しや美術品のことなら相談に乗るから今後ともご贔屓に」
ジョマの目から恐怖が薄れ、商売用の表情になった。
「さっきは早く縁を切りたいと思ったが、話が通じるなら仲良くやりたいもんだ。気になる品があったら言ってくれ。応接間はこっちだ」
(切り替えが早いわね……)
ユリは少し感心した。こちらの強さに気づいて萎縮したが、すり寄って味方にできれば心強いと思ったのだろう。
応接間は玄関より遥かに多くの美術品が飾られていた。客人にそれを見せびらかすための空間なのだから当然ではあるが、それにしても多すぎる。店か倉庫のようで、ユリの美的感覚からすれば醜悪といえるほどだった。
「もっと整理すればいいのに」
ユリはつい呟いた。
「貴族位を失った奴はたいていこうなるんだ。同じ事をする客をもう一人知ってるよ」
ジョマが言った。
「領地と
「どうして?力をつけて位を取り戻せばいいのでは?」
仕事に関係ないことだが、ユリは聞いてしまった。
彼はどう説明したらよいか悩んだ風だった。
「つまりな、連中は自分が働く側になるなんて想像もしてないんだ。下々の者を監督してれば税を納めてくれる。普通は領主がいくらか無能でもある程度は部下が補ってくれる。しかし、我らが皇帝陛下は無能な領主を許さない。より有能な人間がいたら首を挿げ替える。軍の指揮官として教育された人間が急に歩兵になってまともに戦えると思うかい?」
ジョマは二人にすり寄るためか饒舌に喋った。
「位を剥奪されてもしばらくは蓄えや恩を受けた人間がいるから暮らせる。その間にどこかの商会に入ったり、商いでも始めたらひょっとしたら返り咲けるかもしれないが、そんな有能な奴はそもそも位を剥奪されないだろ?。あの父親も他の顧客も下り坂を転げ落ちるべくして落ちてるんだ」
「なるほど……」
ユリはなんとなく理解した。
「あいつらは皇帝を誰かが排除すれば貴族に戻れるって馬鹿な夢を見ながらこういう屋敷に閉じこもるのさ」
彼は両手を広げて部屋全体を示す。
「…………貴方達はその夢を応援しながら残った財産を搾り取る」
シズがさらりと言い、彼は「うっ」と呻いた。
「…………それはあの皇帝の計算のうちなのだろうけど」
「え……?なんだって?」
彼がシズに聞き返した。
「…………位を剥奪した者達が反乱を起こすと困るから蓄えた財力を奪いたい。でも全てを没収する理由がないだろうし、強く恨まれる。だから自分で散財するように仕向けているんだと思う。元貴族に貴方達が接触するよう皇帝が促してるのだと思ったけど、違うの?」
(あの皇帝ならやりそうね)
ユリはナザリックで会った皇帝を思い出す。上辺だけ見れば好意的な態度や喋り方だったが、相手の好意を搾り取ろうという計算が透けて見えた。
「そういわれると……」
彼は少し考えた。
「俺のボスは元貴族が越してくるとすぐに嗅ぎ付けるし、そいつらの趣味や家族構成にものすごく詳しいんだよ。あいつらから金を取り立てる時に限って騎士団がうるさく言ってこないし、いつも不思議だったんだが……そういうのってまさか……?」
シズはたぶんと呟いた。
「マジかよ?前からヤバい人だと思ってたが、すげえな……」
彼は奈落の底を覗き見たような顔をした。
「あんたらも恐ろしいが、皇帝の恐ろしさはそういう所なんだよなあ。そういう意味じゃあんたらよりずっと敵に回したくねえ」
「本当に?」
「え?」
彼は聞き返したがユリは「いえ、なんでも」と言った。
「…………姉様、良い品はある?」
「ええと、良い品は……ないわね」
百はあろうかという調度品を見ながらユリは言った。魔法がかかった品なら数点ある。花瓶に花を長持ちさせる保存魔法がかかっていたり、香炉や琴に精神安定の魔法がかかっていたりするが、隠蔽されてるわけではない。
「…………じゃあ、もう出よう」
「待って。他の部屋にも調度品があるのでしょう?」
ユリは借金取りに聞いた。
「ん?ああ……」
彼女達は1階を見て回る。細かい細工のされたガラスの置物。風景の描かれた絵画。ちらほらと高級そうな品が置かれているが、マジックアイテムですらない。
ユリはその間にナザリックにとってあの家族に利用価値がないかを考える。
何も思いつかない。
借金で破滅しかけた愚かな家族の利用価値などそうそうない。
食堂や居間、使用人ホール、キッチンまで見て回り、2階へ上がろうとした時、ユリは階段に敷かれた絨毯を見た。
「これは……」
「おっ、わかるのか?普通は乗った後に気づくんだが」
男は不思議そうに言った。
「第1位階の浮遊魔法ですね」
「そうだ。乗せた物の重さを軽くする魔法がかかってる。その絨毯を敷いた『疲れない階段』ってやつさ。貴族の家にもたまにある」
「へえ……」
ユリは少し感心した。といっても、アンデッドである彼女は疲労しないのだが。
「興味あるかい?10金貨でどうだ?」
商魂たくましいわね、と彼女は言いたくなった。
「いえ、興味はありません」
「そうか……」
男は残念そうに言って疲れない階段を上がる。
「もしも気が変わったら北市場に行って俺を捜してくれ。差し押さえたマジックアイテムはそこで売るから」
「ええ……」
適当に返事をした時、ユリは男の言葉が少し引っかかった。しかし、どこがどう引っかかるのか自分でもわからなかった。
2階には衣裳室、執事室、家政婦室、寝室などがあった。もちろん目当てのものは何もない。
その後に入ったのは子供部屋だった。あの少女の部屋は花が溢れ、人形がたくさん置かれている。もちろん隠蔽されたマジックアイテムなどない。
ユリは逃げるようにその部屋から去る。やはりあの家族の利用価値は思いつかない。本当に何もないのでは、と思い始める。
「この部屋は?」
最後に残った部屋についてユリは尋ねる。
「この家の長男の部屋だ。最近、死んじまったが」
「そうなのですか?」
「ああ。貴族位を剥奪されたといっただろ?それからはその兄貴が働いて家族を養ってたんだ」
ユリが部屋を開けると整頓された空間が出迎えた。古い杖と魔法に関する書物があり、調度品は何もない。
「杖がありますが、魔法詠唱者だったのですか?」
「そうだ。普通の奴にあの放蕩夫婦を養えるもんか。哀れな男だったぜ。稼いでも稼いでも親が使っちまう。馬鹿な親を持つと苦労するってことだな。ここもフルトの家も……」
彼は知らない名前を呟いたが、ユリはそこに興味はない。
ただ、彼女はその男の表情を奇妙に思った。
「貴方でも他人を哀れむことがあるのですか?」
「おいおい、俺だって鬼じゃないさ……」
男は心外だという表情に変わった。
「だが、金を貸して取り立てるのが俺達の仕事なんだ。あの小さい妹のことだって可哀想とは思うが……」
男はそこで言いよどむ。
「俺達にはボスがいて、そのボスは俺を信頼してこの仕事を任せてくれてる。だからしっかりやりたいんだ。情にほだされて仕事ができない、なんて言えない」
男の目が真剣なものに変わった。
「あんたが恐ろしく強いのはわかってるが、俺はあの娘はきっちり連れて行くぜ?それが今日の俺の仕事なんだからな」
「……ええ」
この時、男は気づかなかった。自分が遥か格上の強者を少し動揺させたことに。
ユリは机の引き出しを開ける。魔術師なら何らかのマジックアイテムが残っているかと思ったが、何もない。
「よほど貧弱な魔術師だったのね……」
彼女はつい呟いた。
「ん?いや、かなりの腕だったぜ」
男が訂正する。
「魔法学院では上位の実力だったと聞いてる。家族を養うためにワーカーになったんだが……」
「……え?」
ユリは聞き返した。
「ワーカー?」
「ああ。パルパトラって爺さんが率いるワーカー集団にいたんだが、知ってるか?一ヶ月くらい前に腕利きのワーカー達に声がかかって、何かの調査を命じられたらしい。そしてどのチームも全滅したって……どうした?」
表情の抜け落ちたユリに男は尋ねた。
「……いいえ」
ユリは一つの光景を思い出していた。矢で射られた愚かな魔術師の姿を。
彼女は踵を返して部屋を出る。その時、かすかな呟きが彼の鼓膜を震わせた。
なんて愚かな……という呟きが。
彼女は部屋を出ると陰鬱な気分と戦わなければならなかった。哀れに思っていた家族の一員がまさかあの侵入者の中にいたとは。その男に哀れみなどない。死んで当然だと思う。自分たちはワーカーたちを殺し尽くしたが、相手が強ければ自分たちにも被害が出ていたかもしれないのだから。かつて第8階層まで侵入してきた者達のように。
とはいえ、とユリは思う。その愚かさの代償は命で支払った。親や兄弟姉妹にまで責任を取らせようと思わないし、そういう命令も出ていない。
はあ、と深いため息が出た。
「…………姉様、もう行こう。商人に査定してもらうんでしょ?」
シズが諭すように言った。
「ええ、もう……」
ここでする事はない。
ユリはそう言おうとしたが、頭の中で引っかかっていた借金取りの言葉がシズの言葉と繋がった。
「一つ伺いたいのですが……」
ユリは借金取りに聞く。
「貴方達は差し押さえたマジックアイテムを専門の商人や魔術師協会に売らないのですか?」
「え?ああ、北市場で売るつもりだ。むこうだと大した売値にならないだろ?」
「そうなのですか?」
「そりゃそうだろ?うまくいけば奴らに売った時の倍以上の値段で売れる」
「2倍、ですか?」
ユリは驚く。
「品にもよるがな。協会とかはその場で金が入るのが魅力だが、自力で売ったほうが儲かるのは当然だろ?中間業者に取られないんだから」
もしかしたら、とユリは思う。
「不躾な質問ですが、ここの家族の借金はいくらですか?」
「え……?」
男は質問の意図がわからなかったが、答えて損はないと判断したらしい。
「利子を含めて金貨210枚だが?」
よくもそんなに借りたものだ、とユリは言いたくなった。
「差し押さた財産分を差し引くと?」
「えーと、全部で……160枚だ。だから……」
「金貨50枚。それがあの子供の値段というわけですか」
「いや、それは……」
男は口ごもる。
ユリの考えはこうだった。
自分たちは長く帝都に滞在できないため魔術師協会か商人にマジックアイテムを即金で売却しようとしている。しかし、この家族の借金50金貨を肩代わりし、代わりに彼らに北市場でマジックアイテムを販売させたらどうか。報酬に50金貨は多いかもしれないが、口止め料も含んでいると考えればよい。もしも150金貨の倍の300金貨で売れるなら報酬を差し引いても自分たちは250金貨が手に入る。
もちろんこれは絵に描いた餅だ。実際に2倍で売れるとは限らず、時には値引きが必要になるだろうし、盗難をどう防ぐか、などの諸問題はある。そこに自分なりの解決策を加えつつ、彼女は計画全体を眺めた。悪い考えではないと思う。
どうするか。
これを至高の御方に進言してみるべきか。
怖い、とユリは思う。
とても恐ろしい。
ナザリックの利益を考えてはいるが、それは建前とも言い訳ともいえるもので、自分の感傷から提案しているのは紛れもない事実だ。
それでも……。
ユリは覚悟を決めた。
「すみません。少しだけ2人にしてもらえますか?」
「え?」
「お願いします」
ユリは微笑みつつも威圧して彼を1階へ追い払う。
「シズ、相談があるんだけど……」
ユリは伝言の魔法も巻物も使えないため、シズに連絡してもらうしかない。そのためにはまず彼女に自分の計画を伝えようとした。
しかし、その前にシズが口を開いた。
「…………姉様、今考えてる事は絶対にしては駄目」
それは冷たい声だった。
「え?」
ユリは思わず聞き返した。
「…………あの家族にマジックアイテムを売らせようとしている。違う?」
「そのとおりだけど……」
シズがなぜ絶対に駄目とまで言うのかユリにはわからなかった。
「…………その約束をしたらアイテムが全て売れるまであの家族と付き合うことになる。それが半年になるか1年になるかわからない」
「確かにそうよ。でも……」
自分たちは今すぐ資金を必要としているわけではないと彼女は言おうとした。
その前にシズが続ける。
「…………皇帝が元貴族達の散財を促してると言ったのを姉様は覚えてる?あの家族が大量のマジックアイテムなんて売り始めたら間違いなく皇帝の関係者が調査する。もしも姉様が関わってる事と姉様の性格に皇帝が気づいたらこの事を最大限に利用するはず。違う?」
「それは………」
ユリは反論できなかった。今は一応変装しているが、顔は嫌というほど目立つ。彼らを強く口止めしてもいずれ手練手管を弄する役人に話してしまうだろう。あの借金取りの男も間違いなく喋る。自分達はマジックアイテムの回収や売却自体に法的問題はないと思っているが、あの皇帝なら何らかの理屈をこねて問題にするか、それはなくてもユリ・アルファの性格を見抜き、あの家族を使って情を揺さぶるはずだ。
世の中には情に縛られる者と情を利用する者の2種類がいる。自分は前者。皇帝は後者だ。あの皇帝は可能な限り情報を搾り取りつつ、様々な貸しを無理やり押し付けてくるだろう。メイドといえどナザリックで低からぬ地位にある者が借りを作ったとなれば後々の交渉で響いてくる。
「……そのとおりだわ」
自分の進言でシズが言うような結果を迎えれば申し訳が立たない。いや、そもそも至高の御方はその危険を予想しているからマジックアイテムを即売却する判断をしたのではないか。きっとそうに違いない。
ユリは自らの浅慮が情けなくなった。
「…………それとは別に、姉様はここの家族を根本的に誤解している」
「誤解……?」
ユリは意味を理解しようとした。
「…………姉様、あの使用人の話を思い出して。屋敷の財産を差し押さえられたと言ってたでしょう?屋敷自体は差し押さえられてない。あの父親は屋敷を売れるのにあえて売らないんだと思う」
「そんな馬鹿な……」
ユリは唖然とした。
「あの男に聞けばわかる」
二人は借金取りの所まで行った。
「……え?ああ、そうだぜ」
彼はあっさりと言った。
「この屋敷を手放して安い所を借りれば娘どころか財産の一部も残せる。最初、俺はそうするだろうと思ったが、あいつは屋敷じゃなく娘を持っていけと言ったんだ」
ユリは呆れて何も言えなかった。この家族は何もかも失って破滅しかかっていると思い込んでいたが、実際は借金以上の財産を持っていたのだ。自分たちが立っているこの屋敷という財産を。
「あの父親は死んでも自分の屋敷は手放さないと言ったよ。実際はもう失ってるんだけどな。ここは別邸で、没収された領地に自分の屋敷があるんだから」
貴族とは本来そうである。領地にある本邸に住み、領民を保護監督するのが彼らの責務であり、帝都にある別邸は議会や催しで一時的に宿泊する施設に過ぎない。領地と領民を失っている時点でそれは貴族ではない。あの父親は別邸に閉じこもることで辛うじて自分はまだ貴族であるという幻想を見ているのだ。
なんと幼稚で愚かなのだろうとユリは思った。
「…………今ここで借金が消えてもあの父親はまた借金をする。あの子供の行き先は変わらない。それとも姉様もペットを飼うつもり?」
シズのその言葉に彼女は背筋がぞわりとした。
セバスの失態のことだ。あの少女を救うには誰かが引き取るしかないだろう。自分がそうするのか?セバスのように?できるはずがない。
「…………姉様、私はそんなことを報告したくない」
シズのすがるような、責めるような目を見て彼女は心から後悔した。妹はずっと不安の視線を送っていた。ユリがこの家族にこれ以上執着するようならシズもナザリックに忠誠を誓うものとしてソリュシャンのように密告せざるを得なくなる。自分が感傷から赤の他人を気遣っている間に妹は苦しんでいた。
「いいえ、その必要はないわ。ごめんなさい」
ユリは謝り、妹の頭をなでた。
「もうここに用はないわ。行きましょう」
玄関から外へ出るとユリは少女の手を握る母親の元へ行った。このままあの家族を無視して去ることも出来たが、それはしたくなかった。彼らは変な期待を持っているだろう。何らかの奇跡が起きて娘は連れて行かれないのではないかと。それは自分のせいなのだから自分で否定すべきだ。ただ、あの父親と話す気にはなれなかった。
「お屋敷を拝見させて頂きました。どの美術品も素晴らしいものだと思います」
ユリは屋敷を褒める。大嘘だが、真実よりはずっと救いがある。
「ですが、私たちの主人が求める品とは趣が異なるようです。私は単なる興味本位で屋敷を見て回りましたが、それが皆様に奇妙な期待を抱かせたのでしたら申し訳ありません」
ユリは深く頭を下げた。
「私たちはもう行かねばなりません」
「わざわざありがとうございました」
使用人だけが礼を言った。
ユリは少女の目を見た。
お姉ちゃんは私たちを助けてくれないの?
そんなことを言いたげな瞳を彼女はまっすぐ見た。
ええ、そうよ、と心の中で言う。
ユリとシズは屋敷の外へと向かった。
その時、屋敷の門から入ってくる男がいた。革のズボンにチョッキ。そこらを歩く市民にしか見えない。しかし、このタイミングでふらりと現れた男はまるで窮地に妖精が出現したような神秘性があった。
「すみませんがワーカーをされていたベイルさんのお屋敷はこちらですか?」
おそらくあの魔術師の名前だろうとユリは思った。
「そうだが、あんたは?」
なぜか家族の代わりに借金取りが答えた。
「鼠の尻尾亭という宿の経営者です。ベイルさんを含め、彼のチームが全員行方不明になったのはご存知ですね?」
「ああ、それは知ってるが……?」
「規定の期日が過ぎましたので、私たちは彼らが死亡したとみなします。そこで、宿にお預かりしている彼らの資金についてなのですが……」
「そんなものがあったのか?」
借金取りが驚いた。
「はい、チームとしての共同資金を預かっておりました。彼らはもしも全員が死亡した際は資金を等分してそれぞれの遺族に渡すことに決めていました」
「そ、そりゃあいくらだ?」
「いくらなのだ?」
借金取りと父親は同時に聞いた。
「チーム資金は金貨250枚。よってベイル様のご遺族にはそのうち50枚をお渡しすることになります」
「あの子が……」
母親は地面に膝をつき、泣き出した。借金の不足分とまったく同じという偶然を妹想いの兄から届いた最後の介助と捉えたのだろう。彼女は嗚咽混じりに息子の名を呼んだ。
「つきましてはベイル様の死亡届を出していただけますか?そうすれば手続きを開始できますので……」
「だめ!」
一人の少女が小さく叫んだ。
「お兄さまは死んでなんかいない!」
その少女を見て、誰もが顔を背けたくなった。そんな表情をしていたからだ。
「お兄さまは帰ってくるわ!私、神殿でちゃんとお願いしたんだから!」
彼女は幼い声で必死に訴えた。
誰も何も言えなかった。
「そうだ……」
弱弱しい声がどこかから漏れた。
「あいつは……帰ってくる……死んでなどおらん……」
父親だった。
息子の死を否定するのは自分が破滅したことへの拒絶か。それとも自分の放蕩が息子を殺したことからの逃避か。あるいは両方か。
「あの子は聡明だ……必ず仕事を終えて帰ってくるはずだ……」
父親に言葉をかける者はいない。
いや、一人いた。
「帰ってきません」
ユリの声だった。
「その人は仲間と一緒に死にました。もう帰ってきません」
彼女ははっきりと言った。そんな妄言を許すわけにはいかなかった。ナザリック地下大墳墓は許可なく入ってきた無礼者を許可なく出したことはない。これまでも。これからも。
「違うわ!お兄さまは帰ってくる!」
少女はぼろぼろと涙をこぼし、敵意の目でユリを見た。
彼女は静かにその目を見返した。
「何もそこまで言わなくても……」
そう言ったのはあの借金取りのジョマだ。
「事実ですから。その人はお金のために汚い仕事をして死んだのです」
ユリは元凶となった父親を冷たい目で見た。
「では、さようなら」
ユリは優雅に歩き、屋敷を後にする。続けてシズも。
善意は打ち止めだった。
これ以上は関わらない。
これ以上関われば妹と大事な仕事を裏切ってしまうから。
「…………ユリ姉」
屋敷を出てしばらく歩き、少女の泣き声が聞こえなくなってからシズが口を開いた。
「なにかしら、シズ?」
「…………ううん、なんでもない」
「そう」
ユリは思う。あの家族は50金貨を相続することでしばらくは救われるだろうが、未来は確定している。またあの父親は借金を頼み、あの男も金を貸すだろう。
だが、ユリの知ったことではない。あの子を引き取ってどこかで暮らさない限り、彼女は救われない。ユリにそんな慈善事業をする気はなかった。帝国にも王国にも孤児は無数におり、悲劇は無数にある。今回の件で誰が悪いのかと聞かれれば愚かな父親は当然として長男も悪かったとユリは答える。他人の住まいに上がりこんで金銭を奪うなど言語道断だ。ましてや至高の御方のお住まいに。それがどれほど罪深いことか教える者がいなかった。
(子供の頃から教えていれば……)
ユリは少し考えた。魔導国が他の国を支配するのは時間の問題であり、その中で子供や孤児はどう扱われるのだろう。子供たちを教育する機関を設けてはどうか。優秀な子ならナザリック強化に繋がるだろうし、優秀でない子でも知識と技術を与えてやればやはりナザリックの強化へ結びつくのではないか。神殿で思いついた怪我人や病人の治療よりずっと良い案だと思う。もちろん自分が内政に関われるとは思わない。しかし、もしも……もしも自由に意見を述べよとあの御方に命じられたら、今考えたことを言ってみようか。
ユリの耳に再び悲鳴のような声が届いた。今日はやたら縁があるらしい。道の反対側で顔の良く似た二人の少女が馬車に乗せられるところだった。
「クーデリカ!ウレイリカ!」
母親が屈強な男たちに阻まれながら娘たちの名前を叫んでいる。
「行きましょう、シズ」
「…………うん」
ユリとシズはそこを素通りする。
悲劇などそこらじゅうにあるのだから。
庭師はいつもどおり芝生と草木に異常がないかを確認する。剪定は昨日終えたばかりだが、植物とは成長が遅いのに枯れ萎れはあっという間だ。美しい庭だからこそ草木の色が少しでも変われば目立つ。不調があればドルイドを呼んで治癒してもらわなければならない。1週間ほど前に盲目のドルイドに治してもらった樫の木の状態を確認している時、庭師は外から声をかけられた。
「すみません」
彼が振り向くとこの世のどんな花でも例えられない美貌がそこにあり、しばらく声を出せなかった。彼は夢から這い上がり、やっと返事をする。
「は、はい、なんでございましょう?」
そのとき、彼はようやく美貌の主が上等なメイド服を着ていることに気づいた。首には大粒の宝石をあしらった装飾品が輝いている。
「あちらのお屋敷は誰もお住まいになってないようですが」
女性はそういって示した先には剪定どころかいかなる管理もされていない荒れた屋敷があった。庭は雑草が生い茂り、この庭師からすれば屋敷や庭と呼ばれる資格がない。
「以前にお住まいになっていたご家族はどうされたのでしょう?」
「ああ、あのお屋敷ですか……」
庭師は記憶をさかのぼる。かつてある貴族が所有していたものだ。数年前まではそこの長男が使用人と住みながら魔法学院に通っていた。父親が貴族位を剥奪されてからは家族全員でそこにしばらく住んでいたが半年ほど前から明かりもつかなくなり、完全に放棄されたとみなされている。庭師の仕える貴族一家はそこが貴族でなくなった瞬間に付き合いも興味もなくなった。貴族とはのし上がるか廃れるかの2つしか道はない。利用価値のなくなった敗者を気にかけたりしない。
「半年ほど前から誰も住んでいないようです。ご家族がどこへ行かれたかはわかりかねます」
「そうですか……」
美貌の主は丁重に礼を言うと歩き去ってゆく。途中、彼女はその屋敷の前にさしかかると足を止め、荒廃した屋敷を見た。庭師は理由もわからずその光景に胸を締めつけられた。
涼風が吹いた。
彼は幼い少女の笑い声を聞いた気がした。きっと帝国雀の鳴き声だろう。
彼の思ったとおり、一羽の小さな帝国雀が荒れた庭で鳴いており、そこへもう1羽がやってきた。2羽は楽しそうに戯れ、やがて大空へ飛び去った。
メイドは再び歩き出す。庭師は影すら美しいその後姿を眺めていたかったが、自分を叱り、作業に戻った。彼には彼の仕事があり、手を抜いてよい理由など一つもなかったからだ。
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"激風"ニンブルの受難(挿絵あり)
人の波が右へ左へうごめく中央市場はスリにとって格好の稼ぎ場である。友人や店員、あるいは商品に意識を集中させている者のポケットやバッグから金品を盗み出す作業は素人が思うほど難しくはない。今日も一人のスリが女性のバッグに狙いを定め、手を伸ばしている所だった。
その手を鍛え上げられた別の手がつかみ、ぎりっと握力を加えた。
「ぎゃあ!」
尋常でない握力に彼は悲鳴を上げる。冗談ではなく潰れてしまう。
スリがその手の主を見ると性悪そうな顔に驚きと後悔が浮かんだ。
顔と実力は誰もが知る帝国最強の騎士の一人ニンブル・アーク・デイル・アノックであったからだ。こんな雑踏でなければ必ず気づき、近寄らなかっただろう。
「なんであんたがこんな場所に……!」
スリの質問に美男の騎士は答えず、相応しい言葉を送った。
「クズめ。こいつを連れて行け」
男がそう命じると傍にいたもう一人の男がスリの首根っこを捕まえ、連れて行った。
はあ、と男は息を吐く。
「申し訳ありません。帝都は治安がよいのですが、こういった場所は人が多すぎて騎士の巡回が間に合わないのです」
「構いません」
美しい声がニンブルの鼓膜を揺すった。
その相手は彼が見たどんな女性より美しく、また、妖しい雰囲気をまとっていた。
後ろから見るだけでも凹凸がはっきりした体と黄金のような髪にどんな美女かと確かめたくなるだろう。そして、神々が作り上げたような美貌を見てこの世のどんな男も彼女のためなら財産をすべて投げ出し、人も殺すと誓うはずだ。
「感謝します、ニンブル・アーク・デイル・アノック様」
「アノックで結構ですよ、ソリュシャン・イプシロン様」
彼はソリュシャンとその隣にいるメイド、エントマ・ヴァシリッサ・ゼータに微笑んだ。
他国からやってきた単なるメイドにフルネームで様付けなどありえないが、相手もその国も普通でないのだから仕方がない。しかも相手がやめるよう言ってこない。
「私如きが貴方の護衛を務めるなど滑稽だと思われるでしょうが、これは陛下から私への厳命です。ご容赦ください」
「私如きなどとご謙遜を。恐縮ですわ」
ソリュシャンは妖艶に微笑んで言った。
(自分が強いことは否定しないか……)
ニンブルは脳内のノートにその事を書き留めた。
4騎士の一人"雷光"バジウッドが言うには、彼がナザリックで出会った時、メイド達からはデスナイト以上の強者の雰囲気を感じたらしい。普通なら一笑に付すことだが、命のやり取りを繰り返した戦士の勘はどんな理屈よりも当てになる。ニンブルはこのメイド達が強いとほぼ断定していた。だが、論理的根拠を得たことで緊張が増す。
「本当にこちらでよろしいのでしょうか?帝国魔法学院や歴史館などをご覧になりたいのでしたら仰ってください。本来は手続きが必要ですが、お二人なら不要です」
「いえ、こちらで結構です」
ソリュシャンは丁重に断った。
手続き省略によって貸しを作ることが嫌なのかと彼は思う。外交官だったら当然警戒することだ。些細なことでも金銭的援助や政治的援助を受けて相手に貸しを作ると後の交渉で「あの時に助けてあげただろう?」と言い出される。
「どこかご覧になりたい物がありますか?宝石類や貴金属を売る店ならご案内します」
ニンブルは聞いてみる。そういう高級品は市場ではなく一見の客など入れない店にあり、たいていは客のほうから商人を呼び付ける、などとは言わない。とにかく二人を中央市場から引き離したいからだ。先ほどのスリもそうだが、雑踏の中では警備が難しい。
「いえ、具体的には。このまま適当に歩くだけでも楽しいですわよ。ねえ、エントマ?」
「はい、楽しいですぅ」
エントマは表情こそ変わらないが楽しそうな声で言った。
ソリュシャンとエントマは優雅に歩き出し、ニンブルとその部下たちは周囲に警戒しながらついてゆく。
(いったい何が目的なんだ?)
彼は周囲を警戒しながらも二人の会話や仕草を真剣に観察する。
ニンブルは必死だった。自分の仕事が護衛というのは建前で、実質的には外交であり諜報であり監視なのだから。魔導国が二人を"観光"に行かせた目的を考えねばならない。
話は1時間ほど遡る。
帝都の検問をしていた騎士たちは余にも美しい美女二人がふらりと徒歩でやってきたことでまず警戒した。最も近い都市からでも徒歩で移動する者などおらず、女性二人というのは尚更ありえない。彼女たちが魔導国から来たことを伝えると一人の魔術師がメッセージの魔法で帝城に連絡し、誤報でないことを証明するために騎士が馬を走らせた。魔導国の関係者やその疑いがある者を見かけたら即刻報告しろと厳命されていたからだ。
帝城では皇帝と側近たちがテーブルを囲み、「観光目的で来ました」と言ってやって来たメイドたちの真の目的について論を交わしていた。
「裏の裏を書いて誰かと会う可能性を忘れるべきでないだろう?」
「それなら密入国しているはずだ。ドラゴンの一件でこの国の防衛機能は通じないと証明されているからな。おっと、皇室空護兵団を批判するわけでないぞ」
「騒ぎを起こしてこちらの責任問題にする可能性は?」
「大いにありうる」
「二人のメイドは陽動で、別働隊がいるかもしれません」
「陽動ならもっと人手のかかる事をするはずだ」
「とにかく監視する者を送りましょう。そのメイドと接触して情報を引き出すべきです。可能なら褒美をちらつかせて勧誘し……」
「それこそが狙いなのでは?こちらに偽情報を送るか二重スパイになるつもりで……」
「ならばなおさらだ。魔導国の情報が少なすぎる。嘘でも分析すればいい」
「同意する。3重スパイに仕立てることも可能だ」
側近たちが論を交わしているのを皇帝ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクスは眺める。
彼が選んだ優秀な部下たちであり、発言にもなかなか意味がある。こちらがメイドに接触することが狙いだという発言を彼は支持する。相手はわざわざ検問で身分を知らせ、自分たちがここに集まって討論することを予想しているはずだ。そして、こちらがそれに気づくことも予想している。では、こちらはその先を予想するか?しかし、相手もその先を予想しているはずで、ならばさらにその先を…………。
切りがない。考えるほどに思考の迷路に入ってゆく。
(揺るぎない事実を踏まえるべきだ。魔導国は帝国と同盟を結んだばかりで、今すぐ滅ぼす気はない。軍事的にも他の観点からもすでに圧倒的に有利なのだからこちらを陥れる必要はない。メイドへの対応を見たいのか?)
ジルクニフは考える。普通に考えれば未知の国の内情にそれなりに詳しいであろう人物がやってくれば誰でも接触したがる。相手に軍事力がないなら違法な行為に誘導して逮捕する手さえ考慮するだろう。無論、魔導国にそんな真似はできない。では、何もしなければよいか?それも悪手だ。こちらが臆病者か無能と思われかねない。突然やってきた「餌」に欲張らず恐れず対応できるかをアインズ・ウール・ゴウンは確かめているのかもしれない。ならば、ならば絶妙な加減をとって帝国の有能さを見せるべきだ。有能な駒と思わせれば簡単には捨てられない。
(賓客なら私が対応するのだが……クソ)
ジルクニフは悪態代わりに手を強く握る。相手が外交官の類なら城に招いて接待し、いくつも異性や品を見せて欲を刺激したり、酒を交わしながら密談もできるが、相手はただのメイドだ。しかも観光で来たと言っているので皇帝や側近は出られない。身分を隠して接触するのは露骨すぎて無能を曝すことになる。
かといって、下級役人では話にならない。ナザリックで出会ったメイド、ユリ・アルファと同じくらいの美貌を持つ彼女達もアインズの寵愛を受けている可能性はある。ダークエルフの双子たちや側近ほどの権力はないだろうが、低からぬ立場であるはずだ。人間でないという話だが、近種族か、少なくとも人間に近い思考を持っているのは間違いない(でなければ人間の接客などできない)。十分に話の通じる相手を放っておく手はない。
「接触するのは当然だ。問題は誰がやるかだ」
ジルクニフの発言に周囲は一瞬静かになり、それぞれが候補になりそうな名前をあげる。
しかし、彼は別の名前を呼んだ。
「"激風"。困難な仕事は好きか?」
「はい!私が大好きなものです!」
激風ことニンブル・アーク・デイル・アノックは迷わず応じた。他の部下がいる手前で躊躇や怯えなど見せられない。しかし、内心は動揺していた。自分は戦いだけが取り柄の男ではないが、それでも謀略が格段に上手いわけではない。皇帝の前にいる高官たちのほうが得意だろう。だが、皇帝が彼を呼ぶ以上それが最善手であることを疑わない。
「部下を5人連れてソリュシャン・イプシロン嬢を護衛しろ。騎士4人、魔術師1人だ。もちろんエントマという女性もお守りしろ。どのような性格かわからないが、繊細な人物なら"それに応じた対応"をとれ」
情報を得るのはソリュシャンを優先しろ、ただしエントマが御しやすい性格なら標的を切り替えろという意味だとニンブルは理解した。なるほどと彼は思う。護衛という建前ならあちらも断る理由はないはずだ。断ったら特別な任務があるということで、別の監視手段をとればよい。皇帝を守る4騎士の一人がメイドを護衛するなど本来ありえないが、それだけ魔導国を重要視しているといえば相手も悪い気はしないだろう。
「畏まりました!」
「これを貸してやる」
ジルクニフはジャラリと音を立てて一つの装飾品を投げて寄越した。
「これは……!」
ニンブルが受け取ったのは精神系魔法を無効化するメダルだった。皇帝を守る重要な品であり、誰かに貸し出したことはない。
「よろしいのですか?相手の狙いがそこである可能性も……」
「わかっている」
ジルクニフは忌々しそうに言った。
「だが、なんの危険も冒さない者は何もできない。二人の"護衛"をしっかり頼むぞ」
「は!」
ニンブルは自分に任された仕事を考える。護衛はもちろんだが、二人のメイドからできるかぎり多くの情報を引き出し、貸しを作り、可能ならこちらの陣営に引き込む。そんなところだろう。直接の指示を出さないのは魔法で尋問された時のためだ。皇帝から貸与された首飾りは精神系魔法を無効化するが、力ずくで外されたら終わりである。あのメイド達ならそれが可能なはずだ。
「陛下の護衛は任せろ。そっちもしっかりやれよ」
戦闘以外が不得意な4騎士"雷光"バジウッドが鼓舞する。
「わかっている」
困難な任務だがやるしかないとニンブルは腹をくくった。
「あまり肩に力を入れ過ぎるな」
ジルクニフが忠告する。
「成功するものもしなくなる。一応言っておくが、あのメイドに惚れた惚れられたなどという展開は勘弁してくれよ?私は卒倒するぞ」
その冗談に部屋は軽い笑いに包まれ、少しだけ朗らかな雰囲気になった。
こういう部分も皇帝の素晴らしい能力だとニンブルは思った。だが、同時に彼はジルクニフの冷たい目が告げる裏の意味にも気づいた。あの美人に誘惑されるなという忠告。そして可能なら誘惑しろという命令だ。色はいつでも武器になる。
ニンブルは任務の難易度を最上位に設定した。
"激風"ニンブル・アーク・デイル・アノックは皇帝の忠告を軽んじていたと痛感した。任務の難易度は最上位どころではなかった。二人のメイドは普通の観光客のように店を回っているが、その美貌で周囲の男たちは老人も子供も恍惚状態になってゆく。弦楽器を鳴らして美に関する歌を歌っていた吟遊詩人は彼女たちを見て何も歌えなくなった。女も同じであり、時折、人生でいくつも賞賛を浴びてきただろう普通の美女達が敗北感に打ちのめされる。ニンブルも恍惚になる男たちの一人になる寸前だった。
彼は結婚していない。身分ゆえに美しい花嫁候補は無数にいるし、独身にこだわっているわけではないが、この人こそと思える相手に会えないのだ。そんな男もあれら美の極地を見ていると変な魔法にかかりそうになる。特に、無表情のエントマと違い、ソリュシャンという女は官能的な微笑みが凹凸ある体と相まって男の本能を強烈に刺激している。
(表情豊かなソリュシャンの方が心を読みやすいから彼女を優先しろと陛下は判断されたのだろうな。確かにそうだが、これほど妖艶な女は初めてだ……。いかん!あれらは人間ではないぞ!)
彼は首を振る。
「どうかなさいましたか?」
ソリュシャンが聞いた。その瞳に彼は吸い込まれそうになる。
「いいえ、なんでもありません。何も買われていないようですが、帝都の品ではお気に召すものはありませんか?より高級な品でしたら店を知っていますが、さすがにゴウン陛下のお屋敷の品々と比べれば石ころのようなものでして……」
彼は全くの真実を言う。帝国のどんな宝物もあれらには及ばない。
「いいえ、この市場も十分に楽しいですわ」
「そうですか。よろしければ、あれらの美術品はどちらで手に入れられたのか教えていただけませんか?」
ニンブルは恐る恐る世間話を兼ねた探りを入れてみる。
「遠いところから、ですわよ」
彼女は微笑みと共に言った。
「そうですか」
(話す気はなしか)
彼は別の話題を投げてみることにした。
「ところで、ロウネ・ヴァリミネンはそちらで上手くやっていますか?」
「あら?ヴァミリネン様ではなかったのですか?」
彼女は不思議そうに言った。
「あっ!申し訳ありません!ヴァリミネンという名前の高官もいまして、よく混同するのです」
彼は恥ずかしそうな顔を作って言った。
「そうですか。ふふ。確かに紛らわしい名前ですわね」
彼女は楽しそうに笑った。
(頭の良いメイドだな……)
ニンブルはそう思った。今、彼はわざと名前を間違えた。皇帝にかつて聞かされた性格分析法だ。相手が知っている事のうち細かな部分をわざと間違え、相手が間違いを訂正すれば記憶力がよく、神経質な性格かもしれない。訂正しなければ記憶力が悪いか、大雑把、あるいは知ったかぶりをする性格だ。
(あの王が馬鹿を寄越すはずがないか。当然だが、これでは情報を引き出すのは難しいな)
「ヴァミリネン様は良い仕事をされていますわ。ご心配なく」
ソリュシャンはそう言ったが、良い仕事の意味を考えてニンブルは陰鬱になった。
彼がその話題を続けるか次の話題に移るか迷っていると、ソリュシャンが先に口を開いた。
「あら、良い匂いがしますわね」
ソリュシャンは美しい鼻梁を少し上げる。姫君が庭園の花を香るような仕草で周囲の男達は恍惚となる。だが、実際には果物とパンの匂い、そして油と肉の焼ける匂いが混ぜこぜになって漂い、かなり胃の腑を刺激するものだった。
「ここからは食料品が多く売られています」
ニンブルの言ったとおり、食料品が多く売られている区画に彼らは入っていた。熟れた果実や野菜、焼かれた肉や魚、焼いたばかりのパン、それを使った惣菜があちこちに並び、売り子や店主が威勢よく呼び込みをしていた。
「いかがでしょう?ナザリック地下大墳墓とは比較になるはずもありませんが、戯れと思ってご賞味されては?」
ニンブルは断るだろうと思ったが誘ってみた。万が一にも興味を持てば儲けものだ。帝国に少しでも好意を覚えてもらいたいし、同じものを食べて胃が満たされれば緊張が緩み、心に隙ができるかもしれない。貴族が行う昼食会や夕食会にはそういう目的がある。酒に酔って口が軽くなれば最高だが、さすがにそこまでは期待しない。
「そうですわね。どれにしようかしら」
ソリュシャンは店を選び出した。
「え、本当に食べるのか?」という驚きが顔に出そうになり、ニンブルは堪える。まさか誘いに乗ってくるとは思わなかった。
「ソリュシャン、私はぁ、あの店がいいなぁ」
エントマが指した先には行列のできた店があり、背の高い男が鉄板の上でひき肉を炒めていた。
「ミミシュですか……」
ひき肉をソースと絡め、薄く延ばして焼いた生地で包む帝国料理の一つだ。
ニンブルは店を観察する。帝国が許可した店しかないので衛生面で問題はないはずだが、たまに無許可営業する不届き者がいる。
「いいわね。美味しそうだわ」
ソリュシャンも同意した。
ここでニンブルは考える。自分が料金を払うのが無礼なのか、それとも払わないのが無礼なのか。後者だと彼は判断する。彼女たちは皇帝の指示により検問で税を免除されており、そこで頑なに払おうとしたという報告はない。
「私が買ってきましょう。お二人はこちらでお待ちください」
ニンブルはなるべく爽やかな雰囲気を出して言った。
「あら、そうですの?お願いしてもよろしいかしら?」
ソリュシャンの微笑にニンブルは呪文抵抗するように耐え、部下達に「お二人を頼むぞ」と目で伝えて店に行った。部下に買いに行かせようかと思ったが、確認したいことがあった。
「店主、営業許可証を確認したのだが?」
行列を無視して現れた"激風"の問いに店主は一瞬ぎょっとなったが慌てて許可証を出した。
「こ、こちらにあります」
「ふむ……、問題ないな。」
彼は店自体にも問題がないか確認する。店主は清潔な身なりであるし、食材は氷の入った箱に保存されており、食中毒の心配はなさそうだ。
何人分を注文しようかニンブルは迷った。二人と同じものを食べれば雰囲気は和むだろうが、料理で手がふさがるのはまずい。
「すまないが、帝国にとって重要な客人がいる。2人分用意してくれ」
「は、はい」
店主は急いで二人分の料理を作り、ニンブルに手渡した。
行列の客たちは怪訝な顔をしたが、その客人らしき美女達を見て恍惚となる。
「お待たせしました」
駆け足で戻った彼はハンカチを敷いて長椅子に座った二人に料理を手渡す。
「ありがとうございます。お幾らでしたか?」
「いえ、どうかここは私に払わせてください。陛下に叱られますので」
ソリュシャンがそう言う横でエントマは口元を隠しながら料理を食べ始めた。こちらのメイドは食欲旺盛と彼は脳内のノートに書き込みながら、切実な顔を作った。
「うーん……」
ソリュシャンが軽く眉をひそめたが、それはすぐ終わった。
「では、皇帝陛下にお礼を申し上げておいて頂けますか?」
「はい、必ず!」
彼は安堵の息をつきたくなった。
「おいしいですぅ」
エントマが口元を隠しながら嬉しそうに言った。
ソリュシャンもミミシュをこれ以上ないというほど優雅に食べる。
彼女の口が動き、唇をちろりと舐める瞬間、周囲の男達は体の奥底が熱くなるのを感じた。
(あれは人間でない)
ニンブルは神官の祈りのように唱える。相手は王国軍を虐殺した魔導王の部下なのだ。彼は魔法の首飾りが純粋な美や淫靡さに対して効果がないことを悔やんだ。
「まあ、これは美味しいですわ」
「それはよかったです」
ここで彼は自分が二人を誘惑することなど可能かを考える。皇帝ほどではないにせよ、彼も女性の扱いは知っている。相手をとにかく褒め、好きな話を振り、共通の話題を見つけて運命を感じさせる。そんなところだが、彼女たちの種族はどうなのだろうか。近種族でもエルフと人間では常識が違ったりする。扱いを間違えれば危険だ。
しかし、皇帝の言葉を思い出す。なんの危険も冒さない者は何もできない。
「ソリュシャン・イプシロン様はご趣味などおありですか?」
彼女は口内のものを飲み込むと楽しげな顔をした。
ひとまず落とし穴は踏まなかったようで彼は安堵する。
「そうですわね……。動物の観察、など好きですわ」
「おお、それは奇遇ですね!私も鳥や小動物が好きなのです」
ニンブルはこれ以上の幸福はないという顔を作って言った。
彼は嘘は言っていない。彼の趣味は紅茶探しや茶会だが、どんな話題でも最低限の会話ができるように教育を受けている。文学、歴史、芸術、武術、商売、地理。一般教養として動植物の知識もあるし、それらが嫌いなわけではない。
「鳥の観察ですか?私の屋敷にも帝国雀やヤマワタリが来ますよ。妹もあれらが好きなのです」
「いえ、鳥ではないのですが……」
ソリュシャンは少し言いよどむ。
「というと……?」
ニンブルの問いにソリュシャンはミミシュを口に運ぶ。
「……犬、いえ、豚のようなものでしょうか」
「豚のような?」
彼はつい聞き返してしまった。豚のような生き物ならそれは豚以外にあるのか。
「魔導国に生息する動物ですか?それなら私の知らない生き物なのでしょうね」
「ええ、まあ……」
ソリュシャンが始めて困ったような顔をした。
このまま追求すると機嫌を損ねそうなのでニンブルは話題を変えようとしたが、彼女は別のことを言った。
「この料理のお肉、なんという動物なのですか?」
「え?豚だと思いますが?」
彼は奇妙な質問に面食らった。ミミシュは普通なら豚肉しか使わない。
「ねえ、エントマ。変わった味だと思わない?」
「うん、不思議な味だよねぇ」
ニンブルは眉をひそめた。食べ物に難癖をつけて問題を起こす気だろうかと不安になる。
ソリュシャンは残った料理を食べ終わると屋台のほうへ歩き出した。ニンブルもそれに続く。
彼女は行列を当たり前のように無視して店主の前に立った。
「ご店主、このお肉はなんという動物か聞いてもよろしいかしら?」
「へ?」
店主はなんともいえない表情を取った。
「ぶ、豚ですが……?」
「いえ、そうではないと思いますわ。味がぜんぜん違いますもの」
「ソリュシャン・イプシロン様、あの料理に何か問題がありましたか?」
彼は相手の意図を必死に考えたがわからなかった。
しかし、同時に店主の表情がおかしいと気づく。変化がなさ過ぎる。言いがかりをつけられたなら不安や怒りなどが顔に出るはずだ。やましいことがあって表情に出すまいとしている。そんな感じだ。
「店主、何か心当たりがあるのか?」
「いいえ、まさか!」
店主の顔にやはり不自然さを感じたニンブルは保存用の箱からひき肉を出した。肉屋の知識はないので何かおかしな点がないか調べる。しかし、異物が混ざってるわけでも異臭がするわけでもない。痛んだ肉を使えば罰金と営業停止処分なのだが。
「ねえ、ご店主?」
「はい……?」
ソリュシャンは息がかかるほど顔を近くに寄せる。店主の顔に赤みが差し、次に顔中の筋肉が緩んだ。とろんと。
あんな美貌が目の前に来れば当然だと人々は思ったが、ニンブルだけは違う。
(あれは魅了の魔法にかかった時に似ている……)
「ご店主、何を隠しているのか教えてくださらない?」
ソリュシャンは優しげに言った。
「お、お、おれは……一昨日、女房を殺しました……」
周囲にいくつか女の悲鳴が上がった。
「殺したあとはどうなさったの?」
店主は虚ろな眼をしたまま恐ろしい答えを放った。
「大きくて運べないのでひき肉にしました……」
周囲の者は静かになった。聞こえるのはじゅうじゅうという肉が焼ける音。
「それが今日の料理ということね?」
「はい………」
じゅうじゅう。
じゅうじゅう。
その音と胃の腑を刺激する匂い、そして目の前で焼かれている物の正体を理解し、行列に参加した者達は今度こそ男女問わず悲鳴を上げ、逃げ出した。途中で多くの者が耐え切れず嘔吐する。
ニンブルだけが必死にそれに耐え、自分が手に持った被害者の一部を見た。
彼はほんの少しだけ安堵していた。これを食べていたら自分もあの中の一人だっただろうから。
「申し訳ありませんでした!」
最高級宿の一室でニンブルは謝罪する。あの現場には騎士団を呼び、店主を緊急逮捕した後で自宅の捜索が行われた。彼の証言どおり、解体された妻の遺体の一部が見つかった。
「貴方の責任ではありませんわ」
エントマがベッドで「うーん」と唸ってる横でソリュシャンは穏やかに言ったが、そんなわけにはいかない。魔導国にとんでもない負い目ができたことになる。税金と昼食代を奢った貸しが吹き飛び、巨額の借金ができたようなものだ。
ニンブルはあの事件が魔導国の犯行だと断定していた。少なくとも店主の犯行をあらかじめ知っていたはずだ。あまりにもタイミングが良すぎる。しかし、店主は言い争いから衝動的に妻を殺してしまい、死体を処分するために自分の仕事を利用したと証言している。帝国の魔術師が男を調べたし、皇帝から貸与された首飾りもかけてみたが、魔法で支配されているわけではなかった。
(アインズ・ウール・ゴウンはどういうつもりなんだ?)
ニンブルは必死に相手の狙いを考えた。中央市場の信用を失墜させて彼らに得るものがあるのだろうか。ない。こんなに遠回りで規模の小さい貸しを作ろうとするとも思えない。アンデッドだから生者である自分たちが困り果てるのを見て楽しんでいる。それくらいしか目的を思いつかなかった。
「少し体調は悪いですが、私もエントマも休めば治ります」
「必要なものがありましたらすぐに仰ってください」
彼は誠実さと真剣さが伝わるように言った。どこまでが演技か彼自身にもわからない。
「お優しいのですね」
「は?……いえ、これが私の仕事ですので」
ニンブルは警戒する。好意的反応を得られたなどと思わず、皇帝に忠告されたことを疑ったのだ。
(まさか俺を引き抜こうとしているのか?)
彼は考えた。ロウネ・ヴァミリネンという側近を手に入れ、次は4騎士の一人、そしてじわじわと皇帝の駒を盤上遊戯のように取ってゆく気なのでは。だとしたら絶対に魅入られてはならない。
「それでも、ですわ。皇帝陛下は素晴らしい部下をお持ちですわね」
「恐縮です」
彼は鎧の突起部分に手を押し付け、痛みによって正気を保つ。それでも、相手の美貌に心を乱されそうになる。魔導国の恐ろしさを知り、皇帝の忠告を胸に刻んでもこれなのだ。何も知らない者ならとっくに心を奪われているだろう。
ソリュシャンは自分のベッドに腰をかけて両手をつき、上体を少し後ろへ傾ける。このまま押し倒してしまっていいと告げられているようだった。
彼は本気で精神安定薬を飲もうと思った。ああいう薬は戦闘が始まった時に体の反応が遅れてまずいのだが、このままでは自分の職務が危うい(首飾りは魔法的効果しか防がない)。
「失礼します。部屋の外におりますのでいつでもお声を」
ニンブルは部屋から脱出した。
「さあ、エントマ。仕事よ」
「はーい」
ベッドで唸る演技をやめたエントマは起き上がり、大きな白い布を取り出す。薄く透けたそれを頭にかけるとメッセージで至高の御方に連絡を取った。
布は盗聴を防ぐための防音マジックアイテムである。魔法による透視透聴なら対抗魔法で防いでいるが、ナーベラルのように魔法で聴力を強化した者がいたり、部屋に伝声管が仕掛けられている可能性を考慮した結果だ。
「アインズ様、エントマです」
「おお、エントマ。例の件はどうなった?」
「無事に終了しました。店主は逮捕され、妻の死体も発見されたようです」
「そうか。それは良かった」
満足そうな声がエントマの耳に届く。
「実に回りくどい教え方だが、本当のことを言うわけにはいかないからな……」
アインズは残念そうに言った。
皇帝たちが聞けばどう思うだろうか。アインズは帝都を魔法で覗き、たまたま男が人間の死体でミンチを作るところを目撃してしまった。しかもその男は肉を料理に使うことで証拠隠滅を図っていた。同盟国のよしみもあり、こんな猟奇的事件を放置するのは流石にまずいだろうと思ったアインズだが、帝国に教えるとどうやってそれを発見したのか説明しなくてはならない。そこで偶然を装って犯行を露見させることにしたのだ。
「それともう一つ報告がございます。4騎士の1人、ニンブル・アーク・デイル・アノックが私たちに接触してきました」
「おお、残りの一人か。お前たちから見てどうだった?」
アインズは興味深そうに聞いた。
「単なる雑魚かと」
エントマは躊躇なく言った。
「そうか……」
「何か懸念されることがおありでしょうか……?」
エントマは恐る恐る聞いた。
「いや、他の3人より遥かに強い帝国の切り札みたいな存在だったらまずいと思ってな。4騎士のうち一人はマーレが殺して、二人はデスナイトに怯えていたらしいから単なる雑魚と思ったが、皇帝がニンブルという男だけ我々の前に出さないのが少し気になったのだ……。いや、お前たち、ご苦労だったな。もう帰ってもよいが、帝都を見学したいならもうしばらくいても良いぞ?」
「畏まりました。ソリュシャンと相談した上で決定致します」
そう言ってエントマは魔法を終了した。
エントマはソリュシャンを薄布の中に招いて密談を始めた。
「……そう、あの人間にアインズ様が警戒を」
ソリュシャンが不思議そうに言った。
「強そうな感じがしないよねぇ。あっ、アインズ様が街に興味がないならもう帰ってもいいと仰ってるけどぉ、どうするぅ?」
「まあ、いいのかしら。エントマ、私は一人で街をこっそり回ってみたいの。誰か来たら貴女が対応してくれないかしら?魔法で私の幻を作れるでしょう?」
「いいけどぉ、ソリュシャンってこの街が気にいったのぉ?」
「まあね……」
ソリュシャンは妖しく笑った。
宿にはニンブルとその部下、そして皇帝が指示した騎士や魔術師がネズミ一匹漏らさぬ監視体制を敷いていたが、ソリュシャンは誰にも気づかれずにあっさりそこを抜け出した。
彼女は他人の陰に潜みながら街を観察する。そこらじゅうを美味しそうな"食料"が歩いており、ソリュシャンの欲を刺激する。若々しい女、筋肉をつけた男、手を繋いで歩くカップル、子供を連れた母親、どれも元気で希望に満ちた目をしており、彼女は賞賛したくなる。
素晴らしい家畜小屋だと。
エントマは人間を単なる食料としか見ていないが、彼女は違う。人間は食べられる娯楽品だ。彼らが肉体や精神に苦痛を感じている時ほど面白いものはない。あの市場の人間たちなどなかなか良かった。料理を投げ捨て、嘔吐する男女。子供の口に指を入れ、必死に吐かせようとしている両親。口角が上がらないようにするのが大変だった。
とはいえ、見るより溶かす方がずっと楽しい。味と感触、悲鳴と悶えを同時に感じられる。その対象が無垢な者ならこの上ない喜びだ。いずれナザリック地下大墳墓が世界征服を進める過程で良い働きを見せれば、再び人間を与えて頂けるだろう。仕事の結果次第では無垢な者たちでさえ……。
ソリュシャンはその時に備えて今から品定めをしておきたかった。
(あのニンブルという男は活きが良さそうね……)
ソリュシャンはあの騎士について少し考える。無垢な赤子こそ最高だが、彼らの欠点は長く遊べないことだ。すぐ死んでしまう。まっすぐな瞳と丈夫そうな肉体を持つあれなら長く遊べるのではないか。帝都に入って以来、ニンブルより強そうな人間には出会っていない。騎士や冒険者などとすれ違うが、どれも弱そうだった。
(あら、この男は……)
彼女は影から影に移っている間に一人の面白い男を見つけた。
年齢は40歳ほどだろう。容姿ははっきり言えば良くない。石を叩きつけられてつぶれたカエルのような顔だ。だが、発達した筋肉、腰に下げた長剣と数本の短剣は非常に様になっているし、歩き方と気配から長い実戦経験を感じさせた。
ニンブルと同じくらいの強さ。ソリュシャンはそう判断し、彼の影に忍び込んだ。男は歩道を何分か歩き、一つの建物に入っていく。そこは酒と香水の香りが店内に満ち、男女の淫猥な声と音が小さく聞こえてくる。娼館だった。
「いらっしゃい」
「ドロワーはいるか?」
対応した店員に男は料金を払いながら聞いた。
「はい、一番奥の部屋です」
男は店内を歩く。通り過ぎるいくつかの部屋はドアがなく、中ではそれぞれの娼婦が仕事の真っ最中であるため声と音が筒抜けだった。何の仕切りもないのは娼婦の身の安全のためだというのはソリュシャンの知らないことだ。
それらを通り抜けるとドアのついた部屋があり、男はそこへ入った。
「遅かったわね、ダリューシャ」
濃い化粧をし、紫のドレスを着た女は酒の入ったグラスを傾けながら言った。ドレスは非常に薄く、その下に何も身につけていないことがわかる。
「もっと早く来たかったが、市場で騒ぎがあったせいで騎士たちが増えてた。誰かが人肉を混ぜた料理を売ってたらしい」
「貴方が来る日に限って事件?」
ドロワーという女は怪訝な顔をした。
「何か気づかれてるんじゃないの?」
「大丈夫だ。それより銀行は?」
「一番左手の一番奥にいる男。時刻は2時よ」
はあ、と男はため息をついた。
「それを知るためにずいぶん待たされたぞ」
「私だって大変だったのよ?」
ドロワーは憤慨した。
「私が何人の男におべっか言って足を開いたと思ってるの?感謝してよ。それで、いつやるの?」
「今日だ」
女は目を点にした。
「今日?え……?今日やるの?」
「時間が延びるほど予想外の事が起きる。市場に騎士が多いなら銀行周囲は少ないかもしれないしな。お前もこれが終わったらすぐに準備しろ」
男は服を脱ぎだした。
「え?ちょっと。今から私とする気?銀行を襲うんでしょ?」
「時間はある。お前に会うために金も払ってるんだ。やらなきゃ勿体無いだろう」
男はそう言ってドロワーの服を脱がせにかかった。
「ああ、もう。男ってのは。ちょっと待って。灯りを消すから」
「おいおい。そんなに顔を見るのが嫌か」
「文句言わないでよ。そのぶんサービスしてあげるから」
部屋の照明が消えるとやがて他の部屋と同じ淫猥な声が響き始めた。
「アインズ様、ご報告したいことがございます」
「む?ソリュシャンか」
アインズは予定にいない報告に少し戸惑った。
「お許しください。ご報告するに値するかわかりかねましたが、念のためにお伝えしようと思いました。帝都を見学中にたまたま銀行強盗の計画をする者達の話が耳に入ったのですが、いかが致しましょうか?」
「ん……?」
アインズは少しの間答えに窮した。銀行強盗。別にナザリックは正義の使者でも警察でもないのだから犯罪が起きるたびに帝国に教える義務はない。中央市場はあまりに特殊な事件だったから教えてやっただけで、ただの殺人なら見なかったことにしただろう。銀行強盗はそこまで特殊とはいえない。
しかし、ソリュシャンは続けた。
「アインズ様、私が見つけた男は人間の中でそれなりの強者のようです。これを操ってニンブルの力量を確かめてみてはどうかと愚考致しました」
「ほう、何か考えがあるのだな。面白そうだ。聞こうではないか」
ソリュシャンは自分の計画を話し始めた。
「私はぁ、趣味とかないですねぇ」
エントマはテーブルを挟んでニンブルに言った。
「そうですか」
彼は可能な限り爽やかな印象を持てるよう表情と声を調節した。飲み物を持ってきたという口実で再びメイドたちの部屋に入ったニンブルはソリュシャンがベッドで眠っているのを見てやはり体調が悪くなったのかと心配した。代わりに起きていたエントマが心配ないというので彼は今度は彼女から情報収集を試みることにしたのだが、ソリュシャンとは別の意味で苦労していた。
(このメイド、表情がまったく変わらないぞ……)
彼はそれなりに貴族社会で揉まれ、自分の表情を操り、相手の表情に気をつける習慣がついている。特に重要な表情は喜びと恐れだ。その2つで相手の欲と弱点がわかり、倒したいならそこを執拗に突けばよい。しかし、エントマ・ヴァシリッサ・ゼータというメイドは眉や目どころか腹話術でもしてるかのように口さえ動かない。マジックアイテムを使っている可能性を彼は疑う。
「では、お休みの日は何をなさるのですか?」
ニンブルは軽く質問をする。ソリュシャンには動物が好きと言ってあるが、エントマの答え次第ではそちらも好きと豪語するつもりだ。趣味が一つであるなどと言った覚えはない。
「お休みですかぁ?そんなのありませんよぉ」
エントマは声だけ不思議そうにして言った。
「ない?休日がないのですか?」
「そうですよぉ」
「一度も、ですか?」
「そうですぅ」
エントマは口元を隠して飲み物を飲む。
それはずいぶんハードな勤務だなとニンブルは思った。帝国では労働者に休日や休憩時間を与えるよう定めた法律がある。絶対に遵守されているわけではないが、それでも休日がない仕事などありえない。そんな激務なら不満を持っている者が必ずいて、帝国の陣営に組み込めるのではないかと彼は期待した。
「それはとても大変ではありませんか?」
「なんでですかぁ?ご主人様のために働けるんですよぉ。幸せに決まってますぅ」
「幸せに決まってる……」
彼はそれが本心かを疑った。確かにニンブルも自分の職務に誇りを持っているし、皇帝と帝国のために死ぬ覚悟もある。しかし、それは主人が自分の人生や家族のことを考えてくれるからこそ尽くせるわけで、何も与えられないのでは奴隷と一緒だ。
「それでは、主人から意味のない危険な任務を与えられても構わないのですか?」
それはさすがに、とエントマが返すと彼は思っていた。
しかし、彼女は何の躊躇もなく言った。
「当たり前じゃないですかぁ」
その声は演技と思えなかった。一瞬の迷いもなかったからだ。まるで物が上から下へ落ちるような、夜が過ぎれば朝が来るような、まさに当たり前の事という響きがあり、ニンブルの方こそ間違っているのではないかと一瞬思ってしまった。
(そこまでの忠誠心があるというのか……)
ニンブルは動揺を覚え、このまま相手のペースに引き込まれることを恐れて別の話題を出すことにした。
「なるほど……。そういえば、その紅茶はどうです?ヒュロラという品種なのですが、お口に会いましたか?」
「実を言うとぉ、あんまり美味しくないですぅ」
エントマは彼自慢の一品に対して遠慮なく言った。
「そうですか……」
彼はエントマの性格に「遠慮がない」と付け加えた。
これなら重症覚悟でソリュシャンと話したほうがよいかもしれない。彼が暗澹たる気分になっていると後ろから声がかかった。
「アノック様」
彼は一瞬驚いたが、すぐに気分を切り替えた。
「ソリュシャン・イプシロン様、ご気分はいかがですか?」
彼は立ち上がって光り輝く美貌に声をかける。
「ええ、もう大丈夫です。寝顔を見られてしまいましたわね。恥ずかしいです」
ソリュシャンは眉を僅かにひそめ、恥じらいの表情をとる。どんな男も落とせるものだが、皇帝の許可を得て精神安定薬を飲んでいるニンブルはわずかな揺らぎで済んだ。
「いいえ、今日ほどこの職に就いて良かったと思う日はありません」
「まあ、意地悪な御方ですわ」
互いの演技を終えるとソリュシャンは一つのお願いをした。
「アノック様、できましたらもう一度帝都を案内していただけますか?」
「はい、どこへでもご案内します」
ニンブルは微笑みつつ、一つの不安を抱いていた。
まさか薬を飲むことさえ計算のうちではないだろうな、という不安だった。
帝国銀行は正面に二人の重武装した騎士がおり、敬礼した彼らの横を通り過ぎると清潔な空間が出迎えた。
「あれで換気をしていますのね」
ソリュシャンは天井を見上げていった。
「はい、ご賢察の通りです」
ニンブルは武芸大会の優勝者を褒めるように言った。
銀行内は石の床が鏡のように磨かれ、白亜の壁や柱は清潔感と高級感を提供していた。天井には5つの魔法のシャンデリアが輝き、その照明の根元では羽根が回転して換気を行っている。田舎者がこの銀行に来ると羽根の意味がわからず、それを銀行員達に聞けば喜んで説明してくれるのだが、今日来た者達はそんなことをしない。
(なぜここに……?)
ニンブルが帝都案内をしてると急に二人が帝国銀行を見たいと言い出し、目的はわからなかったが了承した。予め言っていれば他の騎士に連絡して先回りさせるのだが、提案が突然だったために間に合っていない。
何人かの職員がぎょっとし、近づこうとするのを彼は手で制した。
「帝都内の商売は全てここで生まれると言っても過言ではありません。有望な商人や商会がいればむこうが資金を求める前にこちらから貸付に行きますから」
ニンブルは自分が運営しているかのように誇り高く言ったが、メイド達に特に反応はない。
「この部屋に警備の方がいらっしゃらないようですが、正面にいたお二人だけなのですか?」
この問いにニンブルは微笑んだ。
「まさか。警備の都合上詳しくは申せませんが、様々な対策が取られています」
銀行内には魔法的な警報が仕掛けられ、別の騎士達も待機部屋におり、銀行員の一人が魔術師であると彼は聞いていたが、そんなことを二人には言わない。魔導国が銀行強盗などという小さな企みをするとは思っていないが、相手に与える情報は少なければ少ないほど良い。
「特に金庫室はあらゆる対策が取られています」
「強盗は難しいということですわね?」
「もちろんです」
やけにこの話題に食いつくなとニンブルは思った。せっかくなので同じ話題を振ってみることにする。
「ナザリック地下大墳墓にもそういった部屋があると思いますが、万全の警備がとられているのではありませんか?」
「ええ、確かにそうですわね……」
ソリュシャンはそれ以上しゃべらない。
「金庫室をご覧になりますか?本来なら賓客であろうと許可することは難しいですが、お二人ならば可能です」
貸しを大きくするためにニンブルは難しいことを強調する(実際には中央市場で背負った大借金の返済なのだが)。
「いいえ、結構ですわ。二階は何をされるところかしら?」
「商談と事務的な仕事です。ご覧になりますか?」
「ええ、是非とも」
「私も見たいですぅ」
(金庫室ではなく……?)
ソリュシャンとエントマの楽しげな声に彼は困惑しつつ、二人を案内した。
二階でいくつかの部屋の前で立ち止まって説明しながらニンブルはソリュシャンの表情を窺う。興味深そうな顔で、時折、質問をはさんでいるが、彼にはそれが本気であるように思えなかった。銀行の経営や財政について細かなことを聞いてこないからだ。明らかにそちらの専門家ではない。
(何が狙いなんだ?まるで時間を稼いでいるような)
ニンブルがそう思った時、1階から悲鳴が上がった。続いて剣戟の音。
それが聞こえた瞬間、ニンブルと4人の騎士は剣を抜く。
「各員警戒!エルネオ、魔法で騎士団へ応援要請を!ホルンスト、1階を見てこい!」
ニンブルに命じられた部下達はすぐに行動を開始した。
「何があったのかしら?」
「わかりかねます」
のほほんと聞いたソリュシャンにニンブルは苛立ちを隠しながら言った。1階の悲鳴には間違いなく二人が関わってると感じた。
「敵4人!」
1階へ降りた部下が情報を大声で伝え、続いて剣が打ち合う音が一度聞こえた。
その直後、階段を上がってきたのは血に塗れた剣を持ったカエルのような男。そして部下らしき2名。1名は金庫室に行ってるとニンブルは推測した。
ニンブルたちは知らない。2時にこの銀行にかけている警報の魔法が一度切れ、魔術師がかけなおすことを。その隙を狙って強盗4名が建物内に入り、その魔術師をナイフの投擲で殺したことを。
「む?」
リーダーの男と部下たちは廊下で剣を構える5人の騎士に眉をひそめた。
「計画が漏れた……いや、その表情だと違うな。よほど運が悪かったか」
「兄貴、どうする!?」
「あいつ、"激風"ニンブルだ!やばいぜ!」
部下たちは慌てたがリーダーは冷静なままだ。
「お前たちはそこにいろ。俺があいつらを斬る」
「お二人を守れ。飛び道具に警戒。エルネオ、強化魔法を」
ニンブルの決断は迅速だった。部下との剣戟の音は一度しか聞こえず、敵が階段を上がってきたのはすぐだった。その根拠とは別に彼の勘が「あれは強い」と教えてくれた。
(おそらく互角……)
ニンブルは敵の力量を自分と互角に設定した。実際、それに近いはずであり、わずかに上ならそれを意識しないほうが良い。怯んだら勝てるものも勝てなくなる。精神安定薬のせいで動きが鈍っていることは思考から排除する。
「俺ばかり見ていいのか?女が危ないぞ」
わかりやすい誘導に彼はかからない。
男はそれを嬉しそうに見て、一気に距離を詰めた。
「はあっ!」
上段からの一撃。しかも神速の。
(受けるのはまずい!)
ニンブルは剣を押し下げられヘルムごと頭部を叩き割られる未来を予感し、斜めに構えて受け流す。
「むんっ!」
受け流した敵の剣は夢だったかのように消え、真横からの二撃目が受け流しで空いた脇に迫る。
武技:即応反射を相手が使ったことにニンブルは驚かず、自分も同じ武技で体勢を強制的に戻して攻撃を受け止めた。
「ほう」
男は再び距離を取り、「面白い」という顔をした。
「さすがは"激風"か。」
「お前はダリューシャだな?顔は違うが」
ニンブルは相手の太刀筋から手配書に書かれている一人の犯罪者の名前を言った。実は半分カマをかけたのだが、相手がにやりと笑ったので正解だと確信する。
「この男が!?」
「あの騎士の面汚しですか!?」
部下たちが嫌悪と怖気をこめて叫んだ。
「初手の上段攻撃が得意だったと聞いたが、武技で進歩したか。だが、ここで引導を渡してやる」
ニンブルのこめかみに青筋が立っている。
ダリューシャ・ケノン。かつて騎士団で「なかなかの腕」と評価されていた男が隠れて物資の横流しをしていたことに先代の皇帝が気づき、騎士10人が捕縛にかかった。彼はその10人のうち6人を斬り殺して逃亡に成功するという離れ業をやってのけ、当時の皇帝は「その実力を見せていれば昇給したものを!」と叫んだ。
「やれやれ。せっかく骨を潰して顔を変えたというのに。今より不細工にならなきゃいかん」
笑ったカエルがそこにいた。
「兄貴、長引くとまずいぜ」
「おっと、そうだった。本当はもっとやりたいんだが……」
ダリューシャは名残惜しそうな顔をしたが、あごをしゃくり、部下の一人が黒い球体を床へ投げつけた。煙幕だった。
「まずい!風を起こせ!」
ニンブルは即座に部下の魔術師に指示した。相手が逃亡してくれるならいい。自分達の任務は護衛なのだから。だが、ダリューシャの顔に逃げる意志が見えなかった。むこうに煙幕を可視化できる手段があるなら一方的な勝負になる。
ひゅっと空気を何かが切る音がした。
ニンブルは首と顔を守るが、その何かは真横をかすめ、「ぎゃあ!」とニンブルの背後で魔術師の悲鳴が上がる。
その直後、殺気が目の前に迫った。勘を信じて上段からの一撃に対応する。
勘は当たった。しかし、軽い感触。
上段は囮。
そう理解した瞬間、頭部に強い衝撃が加わった。
ダリューシャが放ったのは回し蹴りだった。ぎりぎりで武技:要塞を使ったが相手も何らかの武技も使ったらしく、ニンブルの体が吹き飛ぶ。生身なら首が折れていただろう。
意識が朦朧とする中で彼の耳に部下たちの悲鳴が聞こえた。
(あの二人は!?)
ニンブルはメイド達が殺されるとは思わなかったが、何かあれば帝国と4騎士の威光が失われると思った。
「きゃあ」
「あーれー」
メイド達の声が聞こえた。
「お二人とも!?」
「ははは、良い女だな。"あの人"が喜ぶだろう。頂いていくぞ」
ダリューシャの勝ち誇った声が遠ざかってゆく。
ニンブルは立ち上がろうとしたが、足がもつれて再び倒れた。
混濁する意識の中で彼は考えた。
魔導国はいったい何がしたいのだろうか。
帝国銀行からは金貨二千枚が強奪された。門番の二名と待機部屋の二名、そして所属の魔術師が殺され、銀行員が魅了で操られてしまったからだ。この事件は帝国銀行の歴史上最大の汚点となった。
実際には犯人たちは地下下水道を歩き、帝都を脱出していた。
「遅かったじゃないの。ちょっと……そいつらは誰よ?」
ダリューシャに情報を提供した娼婦、ドロワーは地下下水道から出てきた知らない女たちを見て怪訝な顔をした。
「仕方ないだろ。超のつく美人がいればさらってこいと"あの人"に言われてる」
ダリューシャは当然のように言った。
「あの人?」
彼女は意味がわからなかった。この危険な儲け話はダリューシャの発案であり、部下は3人だけのはずだ。
「誰のことを言ってるの?」
「あの人だよ。なあ?」
ダリューシャは仲間たちに言った。
「ああ、あの人だよ。あの……」
「ほら……えーと、名前はなんだっけ?」
「そういや名前を知らないな……」
異常な会話だった。
「あのぉ、気にしないでいいですよぉ」
シニョンの髪形をした女が言った。ドロワーが嫉妬から顔を切り裂いてやりたいと思うほどの美人だ。
「貴方達の役目はここまでね」
今度は金髪の美女がそう言うと男たちの首に順番に指を当てて言った。
指を当てられた男たちはビクッと体が痙攣し、手を放した後の杖のように地面に倒れた。
(この女たち……なんなの……?)
ドロワーは後ずさる。
「さて、エントマはこの女がいいでしょう?」
自分を指され、彼女はびくりとする。
「あー、やっぱりわかるぅ?」
エントマと呼ばれた女がくすくすと笑った。
「女の肉は久しぶりでしょうからね。私はこの男よ。丈夫だから長く遊べそうだもの」
金髪の女が目をうっとりさせてダリューシャを見た。
(なに?なんの話をしてるの?)
彼女は背筋が寒くなった。目の前の女たちは自分が想像もつかない恐ろしい話をしている。そんな感じがした。
「残りの3人はどうするぅ?3人じゃ半分こできないけどぉ」
「あら、できるじゃない?上と下で半分に分けましょう」
「あー、そっかぁ。さすがソリュシャン。姉妹だからやっぱり分け合わないとねぇ」
「ええ、そうね。姉妹ですもの」
二人はフフフと笑った後、一緒にドロワーを見た。
2対の目。それは卸す前の家畜を見るような目だった。
逃げないと殺される。そう確信した彼女は用意した馬車に走った。仲間が盗んできた金貨のことなど考えもしなかった。
その首にチクリと何かが刺さり、彼女は地面に倒れる。
動けない。意識はあるのに指一本動かせない。
「それではぁ、いただきまー……」
「こら!血が出ちゃうでしょう。食べるのは仕事が終わってからよ」
「あ……そうだったぁ」
体が麻痺した中でドロワーは「食べる」という言葉の意味を考え、文字通りの意味だという結論を必死に否定した。そんなわけがない。あの女たちが私を食べるなんて嘘だ。私は娼館でひたすら男たちに媚びて足を開いてきた。もっと報われていいはずだ。この犯罪で損をするのはクソッタレな金持ち連中だけ。ダリューシャに抱かれながらそう言われた時、この話に乗ろうと決めた。
そうだ。私はもっと報われていい。あいつらはもっと割を食っていい。人生は平等であるべきだ。
「いいや、生物の世界とはこういうものなんだよ」と彼女に教えるように、ドロワーの目の前で一匹の蜂のような虫が毒で麻痺させた獲物を巣穴へ運んでいった。
帝都の外で不審な馬車を発見したという
「魔法の罠は?」
彼は荷車の傍に降り立つと周囲を包囲している部隊の一人に聞いた。
「ありません。ですが、これも陽動かもしれません。ご注意を」
魔術師が言った。
ニンブルは幌を握り、物理的な罠がないかを確かめると一気に引き払った。
「これは……」
荷台にはロープでグルグル巻きにされたソリュシャンとエントマが座っており、その隣には金貨二千枚を詰めた複数の袋が置かれていた。
「ソリュシャン・イプシロン様……?」
彼はいぶかしんだがとりあえず彼女の拘束を解いた。
「ああ!恐ろしかったですわ!」
彼女はロープが解かれるなりニンブルの胸に抱きついた。
「うっ」と彼は身構えそうになる。
周囲の者は羨望と恍惚の混じった目をしているが、ニンブル自身は決していい気分ではなかった。彼女たちは間違いなくあの強盗団と関わりがあり、誘拐されたなど演技に決まっている。しかし、それでもなお美貌と演技に「この人は関係ないのでは」と思いたがる自分がいるとわかり、恐ろしくなったのだ。
「ソリュシャン・イプシロン様、犯人はどうなったのですか?」
「あの方々は
「……そうですか」
「きっと貴方方が魔法で連絡したせいで計画が崩れたのでしょう」
「……なるほど」
彼は少しも信じていなかった。
「本当にどうなることかと思いましたわ。けれど、貴方が助けに来てくれると信じていました」
妖しい微笑み。
「そ、そうですか」
彼は目をそらす。
「あ、そうでしたわ。私たちは帝国銀行まで見せてもらいましたのでもう満足です。今日の観光はこれで終わりにしようと思います」
「は?」
「帰りは転移で帰りますのでお気になさらず。エントマ、行きましょう」
「了解ですぅ」
二人はそう言うとさっさと転移の準備に入る。
「いや……あの……事件についてできれば聴取を……」
「あら?私たち、ひょっとして帰れませんの?」
ソリュシャンの悲しそうな目。
「いいえ!そのようなことはありません!」
帝国が難癖をつけてメイド達を拘束した。そう言って攻め込まれたら終わりだとニンブルは思った。彼は帝国のために死ぬ勇気こそあったが帝国を滅ぼした男になる勇気はなかった。
「よかったですわ」
ソリュシャンは一転して花のように笑った。
「それでは、皆様、またいつの日かお会いしましょう。あっ、一つ忘れていました」
ソリュシャンはニンブルの前に立つ。
上体を少し前に出し、そして離れた。
「今日のお礼ですわ」
彼女はそう言うとエントマと共に帰っていった。
「いったい……何がしたかったんだ……」
それはニンブルのセリフであり、後のジルクニフのセリフでもあった。
「そうか。銀行と騎士団に死者が出たか……」
アインズは少し残念そうに言った。
「はい。しかし、銀行の死者は初めから予定されておりましたし、奪われるはずだったお金は戻ってきたのですから、皇帝は感謝こそすれど不満など持つべきではないかと」
ソリュシャンは跪きながら意見を述べた。
「うむ……そうだな……。ニンブルが単なる雑魚という事も判明した」
(まあ、強盗団がいた事は事実なんだし、たまたま鉢合わせしたってことでいいよな?盗まれるはずだった金が返ってきたんだし、そこで許してもらおう……)
アインズはジルクニフが真相に気づかないことを祈った。
「ところで、褒美はあれらでよかったのか?」
連れて帰った強盗団のことだ。
「もちろんでございます!2.5人ずつ人間を拝領し、私もエントマも感無量でございます」
ソリュシャンは心からの感謝の言葉を述べた。
「2.5人……まあ、良かったな」
下がるがよい、という言葉を得て彼女は退室した。
「ソリュシャン、どうだったぁ?」
エントマが口をシャキシャキと言わせながら聞いた。
「アインズ様はご満足なさっていたわ。私も大満足よ」
「私もぉ、久しぶりの女の肉だから味わって食べたよぉ」
「貴女、あっという間だったじゃない……。もっと味わってほしいわね。私なんて今も」
ソリュシャンはそう言うと微笑みながらお腹をさすった。
「ふふ、元気に動いてる……」
「なんかぁ、知らない人が聞いたら勘違いしそうなセリフぅ」
「そうね」
彼女は笑う。
「でも、悪人は言うことが決まっててそこが退屈ね。許してくれとかごめんなさいとか。善良な人間ならいろいろと面白いことを言うのよ」
彼女はニンブルという男を思い出し、あれもいつか褒美に頂こうと決めた。ツバは付けておいたのだから。
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狼と踊る羊たち(挿絵あり)
蒸気がしゅうしゅうと上がっている。
それと共に何かが回転する音。
そして一定の周期でバチッと火花が上がる音。この音が最も大きい。
近所の家から離れているおかげで苦情こそ来ないが、近くを通った村人は「また錬金術師が奇妙なことをやってるぞ」の視線を彼に与えてくれる。
彼は装置の横に置かれた奇妙な瓶の前へ移動する。長い金属の棒が付属しており、容器の内と外は薄い金属で覆われていた。
蒸気を止めて奇怪な音の数々を終了させると彼は皮手袋をはめて小さな金属片を持ち、瓶の上部へ近づける。
パチッと小さな火花が上がった。
「やっぱり何かあるな」
「何がっすか?」
真後ろから聞こえる声に彼が振り返ると気を失いかけた。目が覚めるような美人は会ったことがあるが、目が潰れるような美人は初めてだった。
「ついにお迎えが来たな」
「へ?」
黒い服をまとった女性は片眉を上げて困惑を表現した。
「天使じゃないのか?」
「は?いや、私はワ……わあああああ!」
女性は慌てて口を手で覆った。
あっぶねー、とその口から漏れる。
「ギャグみたいな失敗を……。あー、気にしないでほしいっす。さて、私はルプスレギナ・ベータという者なんすけど」
ルプスレギナという女はコホンと咳払いをする。
「おめでとうございます、コニール・グリエル。いと尊き御方、アインズ・ウール・ゴウン様はあなたの価値を認めてくださいました」
彼女は真面目な顔になり、武功を上げた騎士を称えるようにぱちぱちと拍手する。
「あなたが今行っている研究にアインズ様は興味がおありなので、その研究を支援したいと考えておられます」
「……はあ」
彼はなんとも言えなかった。
「金属に電気を伝えさせて遠くへ信号を送る……でいいっすよね?」
彼女は軽い口調と軽薄な顔に変わる。
「いや、今は少し違う」
彼は訂正する。
「変な現象が起こってて原因を調べているんだ。空気の間を何かが伝わっていくようなんだけど、その正体を確かめてる。この現象が解明できれば金属どころか空気中に信号を飛ばして情報をやり取りできるかもしれない」
「それって……伝言《メッセージ》の魔法みたいな?」
ルプスレギナは首をかしげながら訊いた。
「そうだよ」
「ほっほー」
「この凄さがわかるかい?」
「いや、さっぱりわかんないっす。それ、魔法で良くね?」
それを聞いて彼は肩を落とした。
「まあ、内容は置いといて」
ルプスレギナは荷物を脇に置くジェスチャーをする。
「あなたが研究するための道具と金銭を援助しようとアインズ様が言われたんすよ」
「いや、別にいいよ」
彼はそう言うと先ほどの装置をいじり始める。
「……は?ちょっと。聞いてたっすか?」
「僕の支援者になるって話だろう?別に要らないよ」
「えー、何で?領主に支援を求めたんじゃなかったんすか?」
よく知ってるなと彼は思った。確かに一度ここの領主に情報を電気で伝える話をしたが理解してもらえなかった。そして必要な予算を言った瞬間に追い出された。詐欺師の類と思われたのだろう。
「僕は成功したら技術を公表するという前提で領主様に話を持っていたんだ」
それがなくても結果は変わらなかっただろうけど、と彼は心の中で言った。
「そちらの支援の条件は技術を公表しないことだろう?」
そこでルプスレギナという女性は「へえ」という顔になった。
「よくわかるっすね」
「ここの領主は理解こそしてくれなかったけど、民のために尽くしてくれる善人だ。そういう人に技術を渡したい」
そういう人物だからこそ彼は追い出されても怒りや不満など感じなかった。装置を完成させれば理解してくれるはずだと思って研究を続けている。といっても、謎の現象により目標が変わっているのだが。
「良い話っすよ?どんな領主も出せない予算でバックアップしてくれるんすから」
「正直に言うと僕は魔導王をあまり信じていないんだ」
彼がはっきり言うとルプスレギナの表情からすうっと感情が消えた。
「どうしてか聞かせてもらえる?それと、陛下をつけなさい」
その声は奈落の底から響くようだった。
彼は掌に汗を感じる。
「魔導王陛下はどうして王国軍を壊滅させたんだい?」
「あー、あれは自分の領土を守るためっすよ」
またがらりと雰囲気が変わる。
「あなたの領主も誰かが攻めてきたら同じ事をするんじゃないっすか?」
「かもしれないね。でも、今の君を見てますます怖くなったよ。僕はこの話を断ったら行方不明になるんじゃないかい?」
「あれ?なんか勘違いしてないっすか?」
彼女は弱った顔になった。
「それは命令されてないし、アインズ様は人の意志を尊重される御方っすよ」
「じゃあ、僕の家に忍び込んだのは何故?」
ルプスレギナの目が一瞬揺らいだ。
「僕は記憶力が良くてね。昨日、家の道具がほんのわずかに動いてた。君だろう?何を探していたのかな?」
「……正直、ちょっとナメてたっすね」
彼女はそう言うとにやりとした。
「研究ノートでも探してたのかな?記録は全てここだよ」
彼は自分の頭をトントンと叩いた。
「ごめんっす!」
ルプスレギナは両手を合わせて頭を下げた。
彼の知らないジェスチャーだが謝罪の意味なのだろうと思った。
「そこはホント謝るんで機嫌直してほしいっす」
大きな目を瞬かせ、愛らしい顔をして彼女は言った。
「いや、錬金術師って詐欺師も多いじゃないっすか?家の中にもいろんな器具があったら真面目に研究してる証拠だって言われたんす。どうしたら協力してもらえるっすかね?待遇だったら期待していいっすよ。どんな国でも手に入らない最高の……あれ?」
彼女は目の前でうずくまるコニールにやっと気づいた。
「どうしたんすか?」
「いや、いつものやつだ……」
彼は胸を押さえながら言った。
相手は自分の噂は聞いてもこの病については知らなかったらしい。
「……ひょっとしてなんかの病気っすか?」
この時、彼はルプスレギナがどんな顔をしているか見なくてもわかった。相手の最も弱い部分を知った時に人間が抱く暗い湿った感情。それが声に混ざっていたからだ。
しかし、彼もまた苦しみながら少し笑った。ルプスレギナという女性が考えているであろうことは上手くいかないとわかっていたからだ。
「あれ~~~?」
困惑し切った声を出したのはルプスレギナだった。
「本当に良くならないんすか?演技じゃなくて?演技だったら耳を引きちぎるっすよ?」
「本当に治らないんだよ……」
物騒なことを言うルプスレギナに彼は告げた。
彼女は相手を観察する。顔は青白く、呼吸は荒い。汗もかいている。呪文抵抗を行ったとしても自分の魔法がまったく効かないとは考えにくい。
ならば結論は一つだ。
治癒魔法が効いていない。
彼が発作で苦しみ始めてからルプスレギナは病気を治す見返りに魔導国に忠誠を誓うかと持ちかけた。「治せたらね」と彼は応じ、すぐさま治癒の呪文を唱えた。
その結果がこれだった。何も良くならないのだ。
ルプスレギナはとりあえず彼を家のベッドまで運んでやった。部屋には奇妙な装置が無数に置かれており、少し金属のにおいがする。
「この病気は生まれつきなんだ。治癒魔法は生まれつきの体の異常を治せない。そうだろう?」
「あー、そういえばそういうじ……そうっすね」
そういう実験もした、という言葉を彼女は飲み込んだ。
人間の歴史を遡っても生まれつきの病を治せた例はなく、当初は低位の治癒魔法を使うせいかと思っていた。しかし、これはナザリックに幽閉した人間に高位の治癒魔法をかけても同じだった。仮に生まれつき指の一本がうまく動かない人間の腕を切り落とし、そこに新しい腕を魔法で再生させたとしても指の異常はそのままだ。生まれた時からそうあるべく設計されているものは変えられない。寿命を魔法で変えられない事と同じだと人間の神官たちは考えているらしい。
「それって重い病気なんすか?」
「ああ、だんだん悪くなってる。両親より先に逝かずに済んだのはほっとしてるけどね」
彼は少し笑った。
「うーん……」
ルプスレギナは腕を組んでどうするか考え始めた。
そして一つの解決法を思いつく。
「ねえ、吸血鬼になって生きる気はないっすか?」
「いやだよ」
彼は即答した。
「顔だけは満点な吸血鬼がいるんすよ。胸が非常に残念っすけど」
「いや……」
「実は巨乳好きっすか?そこは勘弁してほしいっすね。あっ!知能が低下したら意味ないか。どのくらい知能が残るんだっけ?この話は保留っす!」
勝手に話を進め、勝手に保留にするルプスレギナ。
彼女はその後あれこれと考えた挙句、「対策を練るから死なないように頑張るっすよ」と言い、出て行った。
部屋に残された男は「はあ」とため息を漏らした。
「それは困ったな……」
報告を終えたルプスレギナに対してアインズは言った。
「我々に協力する気がないというのが第一の問題だ。そうか。忍び込んだのがばれたか……」
「申し訳ありません!」
脳内でルプスレギナの謝罪の声が響く。
「お前が謝罪することではない。指示したのは私なのだ」
「強硬手段に出ますか?」
「却下だ」
アインズは即答した。
「可能な限り友好関係を築きたい。それに、話のとおり心臓の病ならそいつは激しい痛みやストレスを受けると死ぬかもしれないだろう?」
「あっ、確かに……」
ルプスレギナは納得した。
「しかし、電線ではなく電波を使った通信をすでに考えているのか。まだ構想の段階とはいえ本当にできたらすごいな」
「アインズ様、その技術はそれほど重要なのでしょうか?」
伝言の魔法と何が違うのか、と彼女は考えているらしい。
アインズはここをしっかり説明する必要があるなと思った。
「よく聞け。まず我々と違って人間の魔術師が使う伝言の魔法は距離が離れると聞き取りにくくなり、信用性も低い。我々にとって大きなアドバンテージの一つだ。そこを克服されるとまずい。ここはわかるか?」
「はい」
「それに、我々自身もその発明があれば非常に便利だ。魔法も巻物も使えない者が緊急時に連絡できないのは正直なところ辛いのだ」
アインズはシャルティアが精神支配を受けた件を思い出していた。あの時の浅慮への後悔は今も消えない。もちろんあの魔法を使用できる者を同行させれば解決するが、その者の強さ、隠密性、機動性などを考慮する必要があって不便だ。その不便さを解消してくれる技術があるなら是非とも入手し、秘匿したい。
「仰せのとおりです。愚かな質問をお許しください」
ルプスレギナは謝罪した。
「錬金術……いや、科学か。私たちでは研究しようがないからな」
アインズは頭が痛くなる。
彼は思う。この世界にも人工衛星や電子機器や核兵器みたいなものが現れれば大きな脅威となる。ルプスレギナとは別の者には火薬がどの程度開発されているかをすでに調べさせているが、幸いにも大砲や銃という発明はまだないようで、それらしい薬品は錬金術師たちの「危険な粉」どまりになっている。鉱山では岩石を軟化させるドルイド系の魔法があるからダイナマイトが必要ないように、この世界では人間の発想が根本的に違うのかもしれない。
しかし、いずれ科学技術が発展するのは確実だ。NPCたちには説明できないが、アインズは科学技術の素晴らしさも恐ろしさもよく知っている。とはいえ、自分が研究することは不可能だった。この世界で自分たちは料理のスキルがなければ料理できないように専門分野の知識は理解することも応用することもできない。人間にやらせるしかないのだ。
「それでは、あの男はとにかくなだめすかして勧誘するという方向でよろしいでしょうか?」
「ああ、金や女に目がくらむようなら金貨の百枚や二百枚は使って構わん。弱みがあるなら徹底的に利用しろ」
「では、もしも……」
彼女は少し言いよどんだ。
「もしもあの男が私に好意を持った場合はどの程度まで致しましょうか?」
「ん?」
アインズは言いたい事を理解するのに少し時間がかかった。
「ああ、そういうことか。何もしなくていい。いや、絶対にするな。しつこいようなら殴っていいぞ」
友達の子供のような存在であるNPCたちにそんな真似をさせたら彼らに合わせる顔がないと思い、アインズは厳命した。
「ありがとうございます!」
ルプスレギナの声には感謝と感動があった。
「さて、第二の問題はその男の病気だ。治癒魔法が効かないか……」
「吸血鬼にするのはまずいでしょうか?」
「うーむ……本人が拒絶してるからな」
知能が劣る下級吸血鬼ではなく普通の吸血鬼にするなら知能は通常レベルのはずだ。しかし、まったく知能が下がらない保証はない。また、忠誠心は絶対なのか。いくつかの要素をアインズは考える。
「やはり却下だ。強制させるのはまずい。とすると……万病を治すという薬草が確かンフィーレアのところにあったな?」
「はい」
ルプスレギナもその事は覚えていた。
「おそらく効かないだろうが、まだ残っているなら試してみろ」
「畏まりました」
アインズはルプスレギナとのつながりが消えると頭を抱えた。
「電波、電磁力……。フレミングの左手の法則だっけ?右手だったか?」
アインズは両手の骨の指を3本立てていろいろ形を変える。
「電気。磁気。あとなんだっけ?あれだけ機械に囲まれて暮らしてたのに仕組みが全然わからん……。オームの法則とかいうのもあったような……」
必死に記憶をひっくり返すが何も出てこないことでアインズは考える。
これはNPCと同じく科学者のような職業を持たないシステム上の問題か。それともプレイヤーである自分が人間だった頃の記憶は例外で、思い出せないのは単に自分が……。
「いや、きっとシステムのせいだな!」
勉強しなかった後悔に浸りたくないためアインズはそういうことにした。
「あの薬草も効きませんでしたか」
ンフィーレアが残念そうに言った。
以前に研究用として渡された幻の薬草のことだ。万病に効くといわれ、どのような方法で入手したかは不明だったがポーションの研究に大いに役立った。それが一部必要になったと言われたのは2日前のことだった。
「万病に効くとかいいながら効かないとか詐欺っすよ」
ルプスレギナは不機嫌そうに言った。
「まあ、あくまで言い伝えですから」
ンフィーレアが苦笑する。誰に何のために薬草を使ったのかを彼は聞かない。はぐらかされるのはわかっているからだ。
「魔法も駄目。薬草も駄目。心臓の病気っぽいんすけど、何か方法ないっすかねー」
ルプスレギナは答えを期待して呟いたわけではない。ただなんとなくだった。
しかし、ンフィーレアがしばらく考えた後、口を「あ」の形にしたことを彼女は見逃さなかった。
「なんか心当たりあるんすか?」
「あ、いえ……」
彼は何かを躊躇しているようだったが、すでに狼の口に入った子兎のようなものだ。
「あー、私に教えてくれないんすかー?私とンフィーちゃんの仲じゃないっすかー」
ンフィーレアの服の袖をぴょこぴょこと引っ張るルプスレギナ。
「トロールから守ってあげたことを忘れたんすか?エンちゃんに内緒であんなことまでしたのに……」
「何を言ってるんですか!?」
ンフィーレアが絶叫した。そしてエンリやゴブリン達が近くにいないかを確認する。
「僕たちは何もしてませんよ!」
「まあまあ。そこは冗談っすけど」
そこでルプスレギナはにやりとした。
「話してくれないなら村中にそういう噂が流れることもなきにしもあらんずんば、みたいなー」
彼女の大きな瞳の中にンフィーレアの絶望した顔が映る。
「ああもう!」
彼は頭を押さえた。そして少ししてから話し始めた。
「心当たりというか、可能性の一つとして聞いてください。神官の治癒魔法とは別に、かなり乱暴な方法で病気や怪我を治そうという考えがあるのは知ってますか?」
「手術というやつっすか?」
彼女はすぐに話の方向を理解した。
「ええ、神殿関係者の前では出せない話題ですけどね。といっても、冒険者や一般市民も神官がいない時に応急手当として傷口を縫ったりするでしょう?その延長として人体の構造を調べて病気や怪我で人が死ぬ理由を探り出そうとする人々がいるんです。僕もその考え自体は決して異常なものじゃないと思うんです。僕だって薬草が体のどこにどう作用するのか興味はありますから」
「その人たちなら魔法でも治らない病気を治せるかもってことっすね?」
「ええ、まあ……」
彼は一瞬視線をそらした。
「ンフィーちゃんは隠し事が下手っすねー」
ルプスレギナは笑う。
「え?」
「その治療法を研究してる人も知ってるんじゃないっすか?」
ンフィーレアは降参を示した。
「ばれましたか」
「ばればれっすよ。それで、どこの誰なんすか?」
「あの……その人の所に行くんですよね?神殿に引き渡されたり、彼の立場がまずいことになったりしませんか?」
「それは心配ないっすよ」
ルプスレギナは微笑んで言った。
何の根拠もない。というか、どうでもいい。
「ある人を治療できないか頼んでみるだけっす」
ルプスレギナは考える。この人間は真実を知ったらどんな顔をするだろうか。ナザリックが利用すると決めた人間。その人間は利用されるしかない。彼らの事情や意志などに意味はない。
使われる命と書いて使命と読む。彼らには使命があるのだ。私たちの玩具になるという使命が。
「ささ、早く教えてほしいっす」
その笑顔にンフィーレアはゆっくりと知人のことを話し始めた。
木のドアをノックする音が3度した。
応答はない。
さらに三度すると「誰だ?」という太い声が聞こえた。
「優しい神官さんが来たっすよー」
楽しげな声は暴力的なドアの開放音で迎えられた。
「ついに来やがったか、神殿の野郎ども!俺を捕まえようって気なら……ん?」
大きな棒を持って出てきたひげ面の男は玄関に誰もいないことで口を止めた。
「どこだ?ガキの悪戯か?」
「ここにいるっす」
先ほどの美しい声は今度は背後から放たれ、彼は凍りついた。
そして振り向くと今度は顔が赤くなる。魔法による恍惚状態のように。
「だ、誰だ?」
「ンフィーレアから話を聞いたんすけど。ジェイはあなたっすか?」
その言葉に彼は目を見開いた。
「あいつが俺を売ったのか?」
「紹介したんすよ」
彼女は訂正する。
「勘違いしてるみたいだけど、私は神殿の関係者じゃないっす。あなたの研究してる手術で治してほしい奴がいるから来た依頼人っすよ」
「手術の依頼だと?」
ジェイは周囲を見た。
「中に入りな」
彼はルプスレギナを中に入れると持っていた棒をドアにかける。
閂だったらしい。
彼女はわずかな薬品の臭いを嗅ぎ取った。
「あいつから何を聞いた?」
彼は乱暴に椅子へ座ると相手に椅子を勧めることもせず聞いた。
「あなたが死体を掘り起こして人体の研究をしてると聞いたっす。それで心臓の病気を治せないっすか?」
彼女は二重の目的で質問した。一つは文字通りある人間を治すため。もう一つはこの人間の価値を知るため。治癒魔法を超える技術をすでに身につけている、あるいはそうなる兆候があるなら隔離したほうがいいかもしれない。
「心臓だと?」
ジェイは狂人を見る目をした。
彼は立ち上がり、棚の横に移動すると体重をかけてそれを押す。その向こうにはいくつも紙束とガラス瓶が保管されていた。瓶の中には心臓、肺、肝臓などが液体に浸かっている。薬品臭の原因はこれだろう。
「俺のところに来るってことは生まれつきの病気だろう?」
当たりっす、とルプスレギナは答えた。
「心臓の病なら何度か死体で見たことがある。こういうのだ」
彼が紙束の一つを広げると詳細に描かれた心臓の絵が現れた。あちこちの角度から全体像や解剖図が描かれ、彼女の読めない文章がいくつも書き記されている。この世界の常識からいえば狂気の絵だがルプスレギナはなんとも思わない。
「こいつはこの弁の形がおかしい。官の内側が詰まったり、膨らんだりするタイプもあるが生まれつきの病気は心臓の形が普通と違うんだ。この2つの血管が……」
「えーと、結局治せるんすか?」
ルプスレギナは要点だけを訊く。
「無理に決まってるだろ」
男は怒って言った。
「他の臓器なら切るなり繋げるなりできるはずだが、心臓は動いてるんだぞ?動いてる時に切ったら血が噴き出して終わりだ。かといって心臓を止めたら人間は死んじまう。人間の体で一番手が出せない場所だ」
「時間の無駄だったっすね……」
彼女はため息をついた。
「ちなみに、他の生まれつきの病気なら治せるんすか?」
「治せるかもしれねえ。やったことがないからわからん」
「は?何のために研究してるんすか?」
ルプスレギナの呆れた顔がジェイの怒りを増した。
「文句は神殿に言え!あいつらのせいで死体の解剖もおおっぴらにできねえし、見捨てられた病人もここに来ねえ!」
彼は手に握った紙を握り締めた。
「体を切り開くのが野蛮だと?本を開かず中を読めるか?森に入らず森のことがわかるか?少しは考えろっての!」
テーブルを殴る音が部屋に広がった。
「じゃあ、たくさん解剖すれば治せるようになるっすか?」
「……は?」
「生きた人間でやれば技術の向上も早いっすよね?」
「……え?」
ジェイは意味不明という顔をした。
ルプスレギナは怪しい笑みを浮かべ、大きな瞳の中で闇がゆらゆらと動き出した。
ジェイは暗い獄舎の前にいた。
あの美しい女はルプスレギナ・ベータと名乗り、好きなだけ人間を解剖できる場所があると申し出た。生きた人間でさえ解剖できると。
もちろん彼は一度断った。自分は人間を幸福にするために活動しており、何人死ねば何人助かるなどという神様気取りの算数をする気はなかった。たとえ100万人が助かろうと無実の命を奪っていい理由はない。美貌の魔女に対して彼はそう宣言した。
しかし、ルプスレギナはある場所へ彼を連れて行った。
いかなる魔法によってかエ・ランテルから遠く離れた場所へ彼と転移し、大勢の人間が閉じ込められた建物へと入った。ここがどこなのかについて話すことは禁じられた。
「ここにいる人間は何の罪を犯した?」
ジェイは恐る恐る聞く。
もはや自宅にいた時の慇懃無礼な態度は取れなかった。魔法が使えるというだけでなくこんな場所を顔パスで通れるのだからかなりの地位にいるはずだ。
「八本指って組織の構成員っすよ」
その名前は彼も知っている。世情にあまり詳しくない彼でもその悪名を何度も聞いていた。
「文句なしの重犯罪者ばかり。これを使って大勢の命を救えるなら問題ないっすよね?」
ルプスレギナはにっこり笑った。
「いや……裁判があるだろ?法律はどうなる?市民に知らせずそんな事をして許されるわけがない」
彼は反論した。
「えーと、あそこにいる男はお金のために3人家族を殺したんだっけ?ばれないよう樽の中に両親の死体を詰め込んで、赤ん坊は生きたまま入れて蓋を閉めたと言ってるっす」
牢の向こうに座る一人の男を指して彼女は言った。
「あっちのは孤児2人を嬲り殺した罪っすね」
ルプスレギナは次々と囚人の罪状を説明していった。死刑以外はありえない罪ばかりであった。
「彼らが反省してると思う?」
彼女の口調が変わった。
「彼らに何の生産性もない死を与える?それとも罪のない人々が救われるように活用する?どちらが正しいかしら?」
悪魔の誘惑。ここで引き受けたら自分も悪魔になる。
彼の倫理観が悪魔を祓おうと言葉を紡ぐ。
「それはただ自分を正当化して……」
「あなたは自分を正当化していないの?」
悪魔は耳元で囁き続ける。
「安全地帯から一歩も出ずに口を動かすだけ。人の命を救う?今まで何人くらい救ってきたのかしら。あなたの倫理とやらは他人のため?それとも自分のため?」
その言葉は呪文のようにジェイの心を縛る。
彼は3人兄弟の末弟だった。2人の兄は病で死んだ。決して治せない病気ではなかったが治療費が払えなかった。彼は神殿が治療費を取ることで独立機関として活動できるという理屈は理解していたが、心は納得できなかった。薬師から知識を学び民間療法師として貧しい者を治してきた始まりはそこだった。彼は人体を研究するために夜な夜な墓場へ出かけ、時にはスコップや聖水を武器として動く死者と戦いながら知識を増やしていった。
しかし、人体の解剖図が増えてゆくにつれて不安も大きくなった。この知識はいつ役に立つのだろうか。いや、自分は役立てる気があるのか。ずっと神殿の責任にしてきたが彼らと戦うことはしなかった。
「道具や薬はあなたが望むだけ用意するわ。大勢の人を救いたくない?」
彼は目の前の囚人たちを見た。
やがて死刑になる人間たち。彼らにもし正気が残っているならせめて医療の進歩に役立ちたいと言うのではないか。それさえ嫌というならもはや人間ではない。
「俺が…大勢を救う……」
「そうよ」
ルプスレギナは嗤った。
理由は二つ。彼女が述べた囚人たちの罪は出鱈目であること。そして彼には初めから選択肢などないこと。ここで断るなら彼をエ・ランテルの自宅に帰したりしない。強制的に研究させるだけだ。自らの意志でやってくれるほうが効率が良いので唆したに過ぎない。
「……やる……やってやるさ」
彼は目の前にぶら下がった黄金の糸を掴んだ。
その後、この男は切り裂き魔のジェイと建物内の人間から呼ばれることになる。
灰色の空から白い筋が降りた。
その筋は増え続け、世界をしとどに濡らしてゆく。
屋根を打つ水滴の音楽を聴きながらコニールは天井をぼうっと見ていた。
「ちわーっす」
天井が絶世の美女の顔に化けた。
「まだ生きてるっすね」
顔を覗かれた彼は自分の胸に手を当てる。
「そうらしいね」
心臓はまだ動いている。しかし、止まるのは時間の問題だった。
二人が出会ってからそれほど月日は経っていないが、以前は1日に1度か2度だった発作の回数が今では10倍以上に増えていた。発作が続く時間も長くなっている。まるで神々がナザリックと彼の結託を許さぬと言うかのように、彼の病気は急激に悪化していた。
それに対抗すべく彼女たちも手を打っている。
「
ルプスレギナが治癒魔法をかける。
少しは緩和するかもしれないという考えからだ。治癒魔法ではナザリック最高位といえるペストーニャにも魔法を試してもらった。ナザリックから特別な効果のある料理も運んでいる。しかし、どれも効果は現れない。神々との戦いは時間と共にナザリック地下大墳墓の敗色が濃くなっている。
「どうっすか?」
「少し良くなったかも」
はあ、と彼女はため息をつく。
嘘が見え見えだ。
「あれ、考えてくれたっすか?」
ルプスレギナは単刀直入に尋ねる。
「後任のために実験を書き残す?すまないが、興味ないよ」
彼はつまらなそうに言った。
「僕は治療されたら協力すると約束した。今は少し後悔してるけど、約束は約束だ。君たちのいう手術とやらも準備ができたら受けよう。でも、その約束はしてない。そもそも僕を治そうとしてるのに死んだ時の事を考えてるっておかしくないかい?」
「いやあ、それを言われるとつらいっす」
知らね。さっさと書かないといろんな骨を折るっすよ。
そう言えたら楽なのに、とルプスレギナは思う。
手術を任せようとしてる人間には必要な道具と薬を与え、不眠不休で研究できるようマジックアイテムも貸している。しかし、技術はそう簡単に進歩しない。間に合わない場合も考慮してこの男の頭脳にある情報をすべて書き残させたいとアインズは希望した。
普通なら強制的にやらせるが、負荷を与えるといつ死ぬかわからない人間を相手に荒っぽい事はできない。魅了や支配の魔法も時間制限がある。身体を治せれば強制できるが、そもそもそれができたら強制させる必要がない。
ルプスレギナは「面倒っす!」と叫びたくなった。
「歴史に名を残そうとか思わないんすか?」
彼女は名誉欲を突いてみる。
「いや、外部には公表しないんだろう?名前は残らないじゃないか」
「魔導国には残るっすよ。アインズ様のお役に立てた錬金術師として名が残るなんてこれ以上の名誉はないっす」
これに対して彼は首をかしげるだけだ。
「前に言ってたじゃないっすか。空気じゃなくて金属を伝った信号装置……だっけ?それなら完成させられるって」
「言ったよ」
彼曰く、頭の中でもう完成しているらしい。あとは材料を用意して装置を組み立てるだけだと。大きな費用をかければ他の都市まで信号を送ることができるという。しかし、そちらの実験は興味がないと彼は言った。今やっているほうが難しく、そして面白そうだからだと。
「簡単な方の装置だけでも完成させる気はないっすか?」
「ない」
彼は即答した。
「今、考えてる方がもっと便利になる。金属線を敷く必要がないんだから。今のままでは強力な電力が必要になるが、改良する方法があるんだ」
「だから、このままだと死ぬかもしれないんすよ?生きた証しを立てたいとか思わないんすか?」
「正直に言えば、立てたいかな」
「じゃあ……」
「君たちが善い目的のために使うとわかればすぐに協力するよ」
結局これか、とルプスレギナは思う。
この人間は自分たちを信じていない。
それは正解であるのだが、面と向かって信用できないといわれると心穏やかではない。かといって、ここで怒っては今までの苦労が水の泡だ。
彼女は別の手を打つ。
「どんな報酬なら協力する気になるんすか?美味しいもの?綺麗な女の子?あっ、まさか私っすか?」
ルプスレギナは最後を冗談で言ったが背中の武器を意識する。本当にそう言ってきたら至高の御方に言われたとおり殴る気だ。
「いや、君だってそこまでしたくないだろう?」
「当然っす。いや、ご命令があれば自害でもなんでもやるっすよ?でもねー」
彼女はアインズからかけられた暖かい言葉を思い出し、頬が緩む。あの御方から自分たちの身を案じる言葉をかけられた。その事実は抗い難い歓喜を生む。
「偉大にして慈悲深き至高の御方……」
コニールはその顔をじっと見た。
「あっ、なんでもないっす」
彼女は笑顔で煙に撒く。
その時、ルプスレギナは急に立ち上がり、背筋を伸ばした。
「はい、アインズ様!」
彼女は天井に向かって答える。
伝言の魔法だと目の前の男もすぐ理解した。
「…………よろしいのですか?……はい、畏まりました」
彼女はそう言うと今まで見たこともない真剣な顔になった。
「今から尊き御方がここへ来られるわ。絶対に無礼のないように」
彼が何かを言う前に空間が歪み、闇が現れた。
黒ではなく闇だ。
闇のオーラとこれもまた闇色の外套をまとった存在。
闇の中には白と赤があった。
蝋よりも白い骨。そして眼窩に灯る赤い光だ。
「平伏し――」
「構わん」
圧倒的な力を持った声がルプスレギナの言葉を止めた。
「そこで横になったままでよい。お前が病人であることは知っているし、ここはお前の家だ。私は客人の分をわきまえよう」
強大な存在は部屋を見回すと魔法で玉座を創り出し、そこへ座った。
「貴方が……」
「そうだ。お前が信用に足りぬと考えている魔導国が王、アインズ・ウール・ゴウン魔導王だ」
アインズは皮肉そうに言った。
「といっても、これは公的な訪問ではなく、私的な訪問ですらない。お前が見た夢幻の出来事と思え。では、話してもらえるか?なにゆえ私が信用に足りぬと考える?私が自らの国民に虐殺を行っているとでも聞いたか?」
「……いいえ」
緊張に満ちた声が答えた。
「私が理由もなくどこかへ戦争をしかけたか?王国軍と戦争はしたが、あれは我々が無抵抗のまま蹂躙されるべきだったと思うのか?」
「……いいえ」
「では、なぜだ?」
赤い光が彼を見つめる。
「……ある偉人がこう言い残しています」
声は不安に満たされながらも強い意志を持っていた。
「悪用できる力を得た者はいずれ悪用する。善良な者はその力を辞退する、と」
「ほう。では、お前もまた自分の力を悪用するのではないか?」
「仰るとおりです、魔導王陛下。私もまた悪用しうるでしょう。私が権力を持っていれば被害はさらに大きくなります」
「お前は無政府主義者なのか?」
王は諧謔気味に聞いた。
「いいえ、王が国を統べる事も幾らかの犠牲が出ることも現実では仕方がないと考えております。しかし、王が権力と武力だけでなく知識まで独占すれば誰がその過ちを止めるのでしょうか?もちろん――」
最後の言葉が顎門を開いた王の反論を止めた。
「もちろん全員が同じ知識を持った場合もまた過ちは起きるでしょうが、権力と武力を持つ王が数人の過ちによって斃されることはないはずです。王が斃されるのは民衆の多くが王に対する信頼を喪失した場合のみです」
「ほほう、これはなかなか聡明な男だ」
王は嬉しそうに言った。
「お前が言っていることは正しい。しかし、同時に間違っている」
「それはつまり……?」
強い意志を持った声に困惑が加わった。
「前提だ。権力と武力を持つ王が数人の過ちによって斃されることはないという前提が事実ならば正しい。そしてそれは全くの誤りなのだ」
「そんなことが……」
「可能なのだよ」
王は力強く言った。
「たった一人でも可能なのだ。知識。技術。道具。それらも要は力の一種だ。たった一人で、短時間で、容易に、都市や国家を滅ぼす力は存在するのだ。私もいくつか所有している。一つの魔法で王国軍を壊滅させたという噂は事実だ」
その言葉に彼の目が大きく見開かれた。
「私はそれらの存在も使用法も秘匿してきた。自らと民全てを守るためだ。無論、私がそれらを悪用する可能性はゼロではないだろう。だが、私は数百年間そんな考えを持ったことはない。お前の言うように全ての民とそれらを共有した場合、世界はどれだけ平和でいられる?」
彼は言葉を返せなかった。
「お前が想像している力は非常に低次元のものだ。伝言の魔法を皆が使えるようになる程度に考えているのだろう?だからこそ知識を皆で共有すべきだと?それなら私も独占しようなどと思わん。だが、お前の知識は別の知識と組み合わせることで極めて危険なものになる」
「別の知識……ですか?」
彼はそれを想像しようと試みているようだ。
しかし、王はそれを待たない。
「詳しくは言えん。だが、大量の種族を殺せる武器がいくつも誕生すると断言する。その武器を皆が所有する世界がお前の望みか?」
神々が警告するかのように雷が鳴った。
雨音も彼の返答を遮ろうとするかのように激しく鳴る。
「人間は……」
彼はか細い声で言った。
「人間は知恵の実を持つ資格がないということでしょうか?」
「そうは思わん。今はまだ幼いというだけだ」
王の声が少し穏やかになった。
「奴隷制度を撤廃したように人間も少しずつ理性を獲得している。いずれは武力による争いなど完全にやめるかもしれないが、今はまだ時期尚早だ」
「……百年、いえ、千年経てば人間は理性的になるでしょうか?」
「かもしれん。私が確認しよう」
彼は王が不死であることを思い出した。
「若い錬金術師よ、私は戦いを一切起こさないなどと約束しない。自分の民に危険が迫れば兵を動かすだろう。誰かが強力な武器を生み出せば、使用しないという可能性にかけて民の生殺与奪の権利を渡すことはしない。その武器を防ぐ方法を見つけるか、それができないなら奪取または破壊する。善でも悪でもなく、王の務めとして。しかし……」
王は少しの間を空ける。
「お前が協力してくれるなら危険な武器を防ぐ方法を編み出せるかもしれん。繰り返すが、私はすでに人間を滅ぼせる手段をいくつか所有している。お前に兵器開発をしてほしいのではない。戦いを回避する手段を得るために協力してほしいのだ」
「陛下、私は……」
流石はアインズ様、と傍に控えたルプスレギナは思った。英知と力を兼ね備えた絶対支配者にかかれば愚かな人間の信条を変えるなど容易いことだと。
しかし、神々はどうしてもこの結託を止めたいらしい。
コニールは再び発作を起こした。
ルプスレギナが廊下を歩いていると先のドアが開き、女が出てきた。
そこらを歩く町娘より化粧が濃く、服装も派手だ。
二人の目が合う。不可視化は使っていないのだ。
相手の顔には驚愕が貼りつき、それが剥がれると劣等感と嫉妬が残った。人間の中ではなかなかの美人だが、今は宝石を前にした道端の石と変わらない。相手はルプスレギナを避けるように歩き去った。
「研究は順調っすか?」
彼女はジェイの部屋に入ると酒と薬品、そして男独特の匂いを嗅ぐ。
強すぎる匂いに急いで鋭敏嗅覚の特技をカットするが、不快さは消えなかった。
「おお、美人の姉さん。久しぶりだな」
酒で顔を赤くしたジェイは言った。
ルプスレギナが解毒の魔法を使用すると顔の赤みが消える。
「どうなんすか、研究は?」
彼女は再び訊く。
「薬品も手術法もかなり改良できた。錬金術師が作った薬品の一つに患者を眠らせて痛みを消す効果があるとわかったんだ」
「おお、それはすごいっすね」
彼女は素直に驚いた。魔法による睡眠や麻痺などは痛みを感じるのでそれを薬品でどうにかできないかという研究だ。普通の実験体は好きなだけ痛がればいいが、コニールのような持病持ちはそれでは困る。
「燃えやすい薬品だから火気厳禁だが、すごい効き目だ。あと、あんたの部下たちも凄く役に立ってる」
「私のじゃないっすけどね」
彼女は訂正する。
デミウルゴスの提案により彼に治癒魔法を使えるモンスターを貸し出していた。囚人も無限にいるわけではないので薬や手術実験も本来なら回数が限られる。しかし、解毒と治癒魔法で死ぬ直前の個体を実験前の状態に戻すことで実験し放題になった。しかもそのモンスターたちは拷問官という職業のおかげで実験の助手をいくらか務めることができるというおまけ付きだ。拷問と治療は真逆にして近い存在らしい。
「心臓は治せそうっすか?」
「それはまだだ。時間をくれ」
彼は酒をグラスに注ぎながら言う。
「薬と冷却で一時的に心臓を止める方法がわかった。これも画期的な発見だ。時間との勝負だが、危なくなったら治癒魔法で戻すって前提ならやれる。ただ、問題は相手の心臓がどうなってるかだ。小さな穴が開いてる程度なら……おい」
グラスをルプスレギナに取り上げられ、彼は抗議した。
「今から例の人間を運んでくるから頼むっすよ」
「は?今から!?」
彼は目を剥いた。
「そうっす」
もはや時間はなかった。コニールという人間は会談中の発作で症状が一段と悪化している。構想を本に書けなどと言っていられない状態だ。一か八かで手術するしかない。
「もう少し待ってくれよ」
「何千回も練習したじゃないっすか?」
「そうだが……」
ジェイは少し躊躇して言った。
「失敗したら俺は消されるのか?あるいは、成功したらもう用済みってことになるのか?」
ルプスレギナは笑いを堪え切れなかった。
「はは、お馬鹿っすね。ここまで手間をかけて育てた人間を殺すと思うんすか?これからも私達のために知識と技術を磨き続けてもらうっす」
「本当か?それならいいんだが」
ジェイの目から不安が消えた。
「じゃあ、今から連れてくるからよろしくっす」
「待ってくれ!準備があるんだ。3時間くらい時間をくれ」
「1時間の間違いっすよね?」
「……ああ」
ジェイはうなだれた。
「ちゃんと仕事すればご褒美はあげるから元気出すっすよ」
床に転がった酒瓶を見ながら彼女はこの人間を励ます。よく知らないが食事も酒も娼婦もこの都市で最高のものを提供されているはずだ。知識欲だけで動くフールーダと違い、こういう飴を与えないとこの男は仕事が進まないらしい。
「褒美……」
ジェイはその言葉に反応した。
その視線がルプスレギナの美貌から肢体へ移動する。
「なあ……もし治せたらあんたに……あがああああ!」
彼は下あごを押さえながら地に伏した。押さえた手からボタボタと鮮血が滴っている。
「調子に乗りすぎっす」
武器を背中に戻しながらルプスレギナは言った。
身の程を知らないというのは実に面倒だと彼女は思う。酒の中毒は魔法で治せるので問題ないが、飴ばかり与えず鞭による支配に切り替えたほうがいいのでは。
あとでそう進言しようと彼女は決めた。
ルプスレギナが治癒魔法をかけて部屋から出た後、部屋で座り込んでいた男はよろよろと立ち上がり、誰にというわけでもなく呟く。
「あんな女が抱けたら死んでもいいぜ」
ジェイは手術室へ向かった。
そして目的の部屋へ入って数秒後、その部屋は爆音とともに吹き飛んだ。
「わけがわからないっすよ」
ルプスレギナは言った。
ジェイは爆発で死亡してしまった。もちろん蘇生できない。
念のために監視させていたシャドウデーモンの説明は要領を得なかった。ジェイが何もしていないのに部屋が爆発したというのだ。テロや関係者の裏切りの可能性もあり、徹底的に調査が行われている。
実はジェイが監視の目を欺くような手段で自殺したという線も考えたが、そういう兆候はなかった。褒美にも満足していたはずだ。
彼女は皆目見当がつかなかった。
「……部屋の薬品に火がついたんじゃないかな?」
話を聞いたコニールはベッドで寝たまま言った。
今まででもっとも弱弱しい声だ。
助かる唯一の可能性は少し前に爆発で吹き飛んだ。もはや望みはない。
なぜこの男に事の次第を話したかといえば、手術中止を伝えた際に男が爆死したと聞いてやけに興味を示したからだ。また、原因が専門的なものならルプスレギナには解決不可能という理由もある。
「火がつくものは持ってなかったらしいっすよ」
「火気厳禁の薬品を使うから気をつけていただろうね。それなら……」
彼は目を閉じる。
それから十秒ほど経って目を開けた。
「ああ、そうか。電気かも」
彼は呟いた。
「電気?」
「君も経験ないかな。雪の精が噛んだって僕のところでは表現するけど、寒い時に金属を触ると指先がバチッとなるやつだよ」
「ああ、あれっすか」
彼女もすぐ思い出す。ダメージはないが鬱陶しいやつだと。
「どういうわけか人間の体は僕が使う実験瓶のように電気を溜めることがあるんだ。服の素材やいろいろな条件で決まるんだけど、その状態で金属に触ると小さな火花が上がる。その死んじゃった人はガスのたまった部屋でそれが起きたんじゃないかな?」
「えーと、つまり……」
ルプスレギナは嫌な予感がしつつ結論を求めた。
「つまりね、その爆発は単なる事故だと思う」
「事故……っすか……」
未知の攻撃や魔法ではなく事故。
あれだけ時間と手間をかけた男が死亡した理由が事故。
そのくだらなさにルプスレギナは大きな徒労感を味わった。シャドウデーモンには万が一に備えてジェイの裏切りや逃亡、自殺も止めるように命じておいたが、運命の気まぐれまでは防げなかったということだ。
「今まで同じことが起きなかったのは数日前から急に冷えてきたからだろうね。今度からはその薬品の扱いに気をつけたほうがいい。部屋にガスがたまらないようにして、関係者は部屋に入る前にどこかへ触って電気を逃がすといいよ。役に立ったかな?」
「……まあ、うん、そうっすね」
原因不明のままになるよりマシかと彼女は思った。
これから注意すればいいことだ。
「ありがとっす」
彼はそれを聞いて少し笑うと胸を押さえる。
「ああ……そろそろ来るな」
「あー、そろそろっすか」
ルプスレギナもその意味はわかる。発作だ。
「今度こそアウトっすかね。じゃ、さよならー」
彼女は立ち上がった。
「帰るのかい?」
「アインズ様に協力する気がないし、もう助からないっすから」
手を左右にひらひらさせて部屋から出て行くルプスレギナ。
ドアが閉まる音がすると部屋にぽつんと病気の男が残った。
彼は天井をぼうっと見る。
再びドアが開いた。
「いやいや、『死にたくないからやっぱり吸血鬼にしてください!』って泣きついてくる所じゃないっすか?雰囲気的に」
「そんなことはしないよ」
彼はさらりと言った。
その様子にルプスレギナは「はあ」とため息を漏らし、先ほどまで座っていた椅子に戻った。
「帰らないのかい?」
「吸血鬼化する意思を最後まで確認するのが仕事っすから。ねえ、なんでそこまで拒否するか聞いてもいいっすか?宗教上の問題?」
彼女は訊く。
人間がアンデッドになることを嫌う理由はどれも馬鹿馬鹿しいものだ。この人間も人間の尊厳や神の教えなどという戯言を口にするのだろうかと思った。
「僕はそういうものを信じてない。ただ、母さんが神官だったんだ。信仰系魔法も少し使えた」
彼は天井を見ながら言った。
「え?自分は信じていないんすか?」
「ああ、信じてない。神の力を使うっていうけど、それが神だという証拠がない。なんらかの現象なのかもしれない」
ほほう、とルプスレギナは思う。
人間は神の加護を受けていると信じるほど馬鹿じゃないらしい。
「じゃあ、吸血鬼になっていいじゃないっすか?」
「僕個人はね。でもね……」
彼はルプスレギナを見る。
「母さんが死ぬ前に言ったんだ。『弱い体で生んでしまってごめん。善なる神を信じられないかもしれないけど、どうか信じて』と。そう願われたからそうする。理屈ではいないと思ってるけど」
「願われたから?」
彼女は訊く。
「そう。母さんが僕に何かを求めるなんてそれまで一度もなかった。僕に何度も治癒魔法をかけて、治らないからいつも謝ってたよ。僕に何かを願ったのはその時だけだ。だから願いを叶えたい」
「もういないんすよ?」
「君だったらどうする?」
彼は訊きかえした。
「自分を生んでくれた人がたった一つを願いをしたらどうする?」
それは質問という名の挑発だった。
「親という言い方は不遜っすけど」
ルプスレギナはそう前置きする。
「ええ、必ず願いを叶えるわ。聖母になれと願われてたらそうしてた」
「そのころころ変わる顔。どっちが本当の君なんだい?」
「いや、それ誤解っす」
彼女はまた切り替わる。
「たまに猫かぶってるって言われるけど、少し心外なんすよね」
彼女は自分の胸に手を当てる。
「これも私」
優雅で気品ある声。
「んで、これも私っす」
軽薄で陽気な声。
花のように笑う顔は死の穴に落ちてゆく男にも微笑をもたらした。
「最後にお願いがあるんだけど」
彼の額にじんわりと汗が浮かんできた。
発作が始まっているのだろう。
「何っすか?」
「僕の家、かなり散らかってるだろう。死ぬ前に片付けようと思ったけど、結局できなかった。もしよかったら……」
「いや、めんどいっす。死んでも嫌っすよ」
沈黙が生まれた。
「引き受けてくれるところじゃない?雰囲気的に」
「そんなことはしないっす」
彼が先ほど言った言葉を返すルプスレギナ。
「私はアインズ様と至高の御方々だけのメイド。だから、それ以外のためには働きたくないっす。死に際の頼みだから聞いてもらえると思ったんすか?そんなキャラじゃないっすよ」
「君らしいなあ。まあ、いいか」
彼がそう言うと本格的な発作が始まった。
ルプスレギナは吸血鬼化の意思を確認した。最後まで。
彼は拒否した。最後の最後まで。
世の中は何が起こるかわからねえ。もしものためにこの手紙を書いておく。読んでるのは美人の姉さんかい?だったら嬉しいねえ。あんたのおかげで夢のような体験をさせてもらった。人の道に外れたことだが、数百年分の医療実験をさせてもらったよ。しかも美味い飯や酒や女まで奢ってもらった。欲を言えばあんたも……やめておくか。地獄から連れ戻されそうだ。
最初、俺は貧しい連中のために手術を開発していたが、今じゃその気持ちもだんだん湧かなくなった。この贅沢な暮らしから抜け出せそうもない。これはあんた達の望みどおりの展開なんだろ?人の弱みがよくわかってるねえ。だが、俺は長く生きられないはずだ。こんな実験をしておいて長生きできるはずがねえ。神様がいるかは知らないが、世の中ってのは釣り合いが取れるようにできてる。そういう仕組みなのさ。悪いやつは必ず相応の目にあう。
なあ、命を見続けてきた俺から一つだけ言わせてもらえるか?あんたらは永遠に続く栄光を目指してるみたいだが、それは考えもんだぜ。どんな人間もいつか死ぬ。不死の種族だって滅びがある。国だってそうさ。世界の始まりから続いてるものなんていないだろ?命ってのは永遠を目指すものじゃないのさ。命ってのは―――
ルプスレギナはそこで解読用アイテムを仕舞った。
部屋に紅の光が踊り、焦げた匂いが広がる。
「どうかしましたか?」
若い男が訊いた。
「なんでもないっす。さあ、ここがあなたの新しい職場っすよ。あっ、これが食事も睡眠もなしで働けるマジックアイテムっす。高価だから失くしちゃ駄目っすよ?」
「わかりました」
男は緊張してそれを受け取った。
「ということは食事をしてはいけないのですか?」
「いや、そんなブラックな職場じゃないっすよ。成果さえ出せばここの人間に頼んでお酒や女の子も頼んでいいっす。ただし……」
そこで彼女は表情を変える。
「成果を必ず出すこと。情報の偽りや隠蔽があった時は……わかるわね?」
「は、はい!」
若き研究者は背骨を氷柱で貫かれたように感じ、この女性を絶対に怒らせてはならないと理解した。
誰かがこれを読んでいるということは僕は死んだのだろう。読んでいる相手はルプスレギナ・ベータ嬢だろうか?その可能性は低いと思うが、ここからは彼女が読んでいると思って書こう。
やあ。僕の家を掃除してくれている最中にこれを見つけてくれたならすごく嬉しい。僕は君たちに協力する気になれなかった。魔導国にはわかりやすい非道な振る舞いこそなかったが、勢力を拡大しようという意図がはっきりとある。たとえば帝国に頼まれたという形で行った王国軍への大量殺戮。あれはとても賢いね。帝国に責任を転嫁したうえで示威行為ができる。魔法の実験という目的もあったのかな。
魔導王の英知には感動したし、敬服もする。だけど、彼の意見は理屈こそ通っているが心が通ってない。人間が愚かゆえに知識を取り上げることを悲しんでいると思えなかった。むしろ人間にはそのまま愚かでいてほしいと思っているのではないだろうか。
君も人間に好ましい感情を持っていないと知っている。君は表情がころころ変わるが、その目には暗く禍々しいものが常にあった。しかし、希望もある。僕が陛下と会う直前に君が「偉大にして慈悲深き至高の御方」と言った時。あの時の目だ。あの時だけ君はどこまでも優しい目をしていた。
あんな目ができるなら希望はある。君にそこまで思わせる魔導王にも。ルプスレギナ、君達の大事な人への想いをほんの少しだけ他人に分けてやってくれないか?無限の想いのほんの一部を。そうすれば世界はもっと善くなるだろう。世界に必要なのは力でも英知でもなく心だと僕は信じている。
ああ、わかってるとも!
君はそんな事をしない。
死んでもするものか。
狼が草ではなく肉を食らうように君は君であり続けるだろう。
ならば存分に踊るといい。
君の舞踏会を。
終わりの鐘が鳴るまで。
それでも僕の最後の願いを聞いてくれることを願いつつ、嘘を告白しよう。実は僕は思いついた構想や理論を本に書き残している。僕自身は覚えられるから不要だけど、研究を引き継がせたい人が現れるかもしれないからね。僕の机の一番下の引き出しを引き抜いて底の板を外してごらん。あっただろう?君達が知識を悪用しないことを切に願う。もしよければ僕の墓に花を飾ってくれ。
ここからは手紙を読んでいる相手が彼女でない場合のために書く。君は僕の後任の学者だろうか。それとも家の掃除を任された誰かか。この手紙に書いてある場所に彼らの求めている本がある。君がそれを使って研究しようとも彼らに渡そうとも君の自由だ。この手紙を見なかったことにしてもいい。僕はルプスレギナや魔導王にも世界をより善いところにする可能性はあると思うが、君がそう思わないならやめておけばいい。奇妙な決断を迫ってすまない。自分の心に従ってくれ。
結局、生きるとは自分の心に従い、進む道を決める事だ。
僕の道はここで終わりのようだが。
コニールが息を引き取ってから1週間後、その家には新しい住人がやってきた。彼はそこで働く美人のメイドから家の中を案内され、以前の住人が使っていた装置をさっそくいじり始める。
メイドは家の外へ出ると庭へ移動した。
「反応はどうっすか?」
姿なき声がメイドに聞いた。
「装置にとても興味を抱いています。以前の研究者が残した資料はないかと聞かれましたが……」
「あー、それはないっすよ。書かせようといろいろ苦労したんすけどねー」
声に不快な感情がこもり、メイドは足を震わせる。
「あっ、あなたに怒ってるわけじゃないっすよ。で、あなたに興味を持ってる感じっすか?」
「は、はい。それなりに好意を持ってくれているかと」
メイドは元々そういう仕事をしていたので男を誘惑する自信はあった。服も普通よりやや露出が多い。
「それならOKっす」
声は機嫌が良くなった。
「好意を持たせるのはいいけど、すぐに抱かせたら駄目っすよ」
「はい。研究の成果を一刻も早く出すように誘導します」
「そうっす。そしたらあとはご自由に。子供作っても構わないっすから」
「はい……」
優秀な人材がほしいから。そして逃亡や裏切りの気配があった時に人質として使えるから。その2つが理由であることを彼女は知っている。自分の人生は彼らの計略のために使われるのだ。それでも彼女は仕事を引き受けた。報酬が破格だったこともあるが、あのまま娼婦として薬品臭い男やその同類に抱かれて金を貰うよりずっと希望のある人生になりそうだから。
「それじゃ、あとはよろしくっす」
「はい!あっ、お待ちください」
彼女は勇気を出して一つだけ質問した。
「ん?」
「ここで亡くなった御方ですが、お墓はどちらに?」
「そんなのないっすよ」
女はさらりと言った。
「珍しい病気だったから標本になったっす」
「標本……」
「それがどうかしたんすか?」
「……いいえ」
「もう用はないっすね。じゃ」
声と共にぼんやりした気配もなくなる。
彼女はその場に立ち続け、本当にあの女がいなくなったことを確信すると家に戻る。手紙に書かれていた所へ行き、机を調べるとその本はあった。
彼女は手紙と本を持って居間へ行く。
そして燃え盛る暖炉へそれらを投じた。
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