王子と姫と白い仔猫 (ほしな まつり)
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王子と姫と白い仔猫・1

映画公開まであと約一ヶ月。
皆様のワクワクを更に盛り上げられたら(!?)、という思いで投稿させていただきます。
「ゆるあま」な恋物語なので、お気楽に読んでください。



ガヤムマイツェン王国の王子、キリトことキリトゥルムライン・カズ・ガヤムマイツェンはひとり、ひたすらに目的地へ向けて馬を走らせている。

自国の中心である王城の執務室の前室で使者が恭しく差し出した書状を取り次ぎの従者が受け取り、すぐさま自分の手元へと渡ってきた短い文章に目を走らせるなり、控えていた使者へ詰め寄って事情を聞いたが要領を得る答えは出てこず、それならば、と取るものも取りあえず執務室から飛び出して早馬に跨がり馬にとっての最低限の休息をとるだけで丸一日走り続けた。キリトにとってはほぼ不眠不休の状態といっていい。

だが、そのお陰で既にここは隣国であるユークリネ王国の王宮のすぐ近く。

この森を抜ければ目指す王宮は目の前に現れる距離だ。

一番の近道である王都の中心を貫く主道を回避したため道は綺麗に整備されているとは言いがたかったが、その分通行量はほとんど無いに等しく、思い切り馬のスピードを上げることが出来る。

もう少しだけ、頑張ってくれ……心の中で馬を気遣いながらもはやる気持ちは抑えきれなかった。

婚礼まであと一ヶ月。

三日後には挙式の準備の為に一旦ガヤムマイツェン王国を訪れる予定だった自分の婚約者がいきなり訪問時期を延ばして欲しいとの書状を送ってきたとあっては頭の中は混乱するばかりだった。

しかもその理由については一切記されてもいなければ、その書状自体が彼女の筆ではなかったのだから。

悪い想像がいくつも頭をよぎり、使者を問い詰めてみても知らぬ存ぜぬの一点張り。

いてもたってもいられなくなり、引き留めようとする従者達を振り切って強引に城を出立した事に後悔はなかった。

直接顔を見て、声を聴くまでは痛いほどに焦る気持ちを静める術はなく、ややもすればすぐに「大丈夫だから」「一人で平気だから」と自分を抑えて、頑張ってしまう彼女の悪い癖を知っている身としては一刻も早く婚約者のそばにいかなければ、という思いしかない。

彼女のほわわんとした笑顔を思い浮かべて少しでも気を紛らわそうとした時、もうすぐ森の終わりにさしかかろうと言う所で前方斜め上の樹中から攻撃的なカラスの鳴き声が耳に入ってきてキリトは顔をしかめた。

ただでさえ気が急いているというのに、耳障りなカラスの声はよけいに心を苛立たせる。

それと同時に彼女に初めて出会った時もこんなカラスの鳴き声がきっかけだった事を思いだし、キリトは自然と馬の手綱を締めた。

馬も限界に近かったのだろう、その指示に素直に従ってスピードを緩める。

ちょうどカラスが鳴きわめいている樹の真下にさしかかった時、それまでカラスの声にかき消されていたもう一つの小さな鳴き声が聞こえてきた。

 

「みぃ〜……、みぃ〜……」

 

馬を止めて見上げてみれば、すぐ手の届く枝の上に真っ白い仔猫がうずくまっている。

生まれて間もない程の大きさの仔猫で、母猫から巣立ったとは到底思えず、キリトは眉根を寄せた。

まだまだ親の保護を必要としている時期のはずだが、その首には既に真っ赤な首輪が付けられている。

 

(無理矢理、親猫から引き離されたのか?)

 

しかしそんな疑問を悠長に抱えている間に、カラスは一旦キリトを見て退いたものの、すぐに舞い戻ってきて、仔猫をつつこうとくちばしを勢いよく突き出そうとしていた。

その気配に仔猫の声が一層高くなる。

 

(ああっ、もう、こんな事をしてる場合じゃないってのに)

 

そう思いながらもキリトは両手を仔猫に伸ばしていた。

 

「ほらっ、早くこっちに来いって」

 

その自分の言葉に一気に記憶が蘇る……。

 

 

 

 

 

ユークリネ王国は友好国である隣国のガヤムマイツェン王国と比べれば領地は五分の一ほどといった小国だが、自然が多く、気候は温暖で動植物に溢れた土地だった。それほど穏やかな土地なら移住者も増えそうなものだが、あまりにも緑が多い為、主要道路周辺に古くから点在する村や町をそれ以上居住地として広げるには山や森の木々を伐採しなければならず、それはあまりにも困難と判断されたせいで移住希望者の殆どは諦めるしかない、という決断をする状態だっだ。要するにユークリネ王国は昔も今も人口の変動が少ない国なのである。

それでも真面目な国民気質のお陰か、人々は日々の生活に欠かせない必需品の流通をまめに行い、各自、家の裏に畑を開墾して慎ましい毎日の生活を送っていた。

そう、ユークリネ王国には貴族という身分が存在しない。この国に住まうのは民か王族なのだ。

だから王族と言えど優雅な生活を送ってはいられない。

最小限、生活を補助してくれる侍従や侍女はいるものの、多いとはいえない国民の中から王宮に働きに来てもらうわけだから、特に侍女に限っては勤務期間が長期になる事はなく、どちらかと言えば比較的裕福な家の子女の行儀見習いという色が濃かった。

そんなユークリネ王国は周辺諸国から見れば脅威にもならなければ、攻め入る程旨味のある国でもないという認識のお陰で細々とではあるが静かで平穏な歴史を重ねてきたのである。

そのユークリネ王国を初めてキリトが訪れたのは彼が六歳の時だった。

 

(随分とカラスが騒いでるなぁ)

 

キリトが行儀良く座っているのはユークリネ王国の端も端、一山越えればすぐ自国のガヤムマイツェン王国という場所にあるユークリネ国王の離宮の応接室の主賓席。

ガヤムマイツェン王国にとって友好国のひとつであるユークリネ王国の姫が療養の為に離宮にやってきているとの情報が入り、父である国王が王子を療養見舞いと称して送り込んだからだ。

ところが、キリトが到着しても客間に通されたまま、いつまで経っても誰もやってこない。

当の姫は病床なのかもしれないが見舞いの品を受け取ってくれる侍従長さえ現れず、出された紅茶はすっかり冷めている。

時折、廊下をパタパタと移動する気配はするものの誰もキリトの事など忘れてしまったかのようだった。

王族としての振る舞いをたたき込まれているとは言え、そこはまだ六歳の好奇心旺盛な男児である、暇を持てあまし、とうとうふかふかのソファからピョンッと飛び降りるとタタタッと歩いて窓辺に近寄り、そこから中庭の様子を眺め始めた。

少し前からやたらとカラスの鳴き声が部屋の中にまで響いていたからだ。

窓から外を覗くと、ちょうど正面に見える木の枝にカラスがとまって「カァーッ、カァーッ」と鳴きながら何かをしきりと突いている。

よくよく見ればその木の根元の地面にははしごが横たわっており、すぐ隣に片方だけの小さな靴が転がっていた。視線を上げれば枝葉のすき間からぷらぷらと靴下を履いた小さな足が揺れている。

一瞬、我が目を疑ったキリトだったが、すぐさま窓を開けて窓枠によじ登り、外へと飛び出した。

すぐに目的の木の下まで来ると、カラスの声にまじって涙混じりの可愛らしい声が耳へ忍び込んでくる。

 

「ふえっ、ふぇっ……あっち、行って!……うぅっ……痛いってば……ふええっ」

 

見上げた樹葉の間を目をこらして慎重に観察すれば、小さな女の子が大きなはしばみ色の瞳に涙をめいっぱい貯めて必死に枝にしがみついていた。

カラスは彼女がハーフアップにしている髪留めが気になるようで、しきりとくちばしでもぎ取ろうとしている。

女の子は髪をつつかれても両手で枝を抱え込んで身体を支えているため口で応戦するしか手立てがないのだろう、とにかく枝から落ちるまいと身体を固くして、ただただカラスを追い払おうと懸命に桜色の唇を動かしていた。

状況を把握したキリトは素早く倒れていたはしごを木の幹にかけると、ぐいっ、ぐいっ、と登って女の子に向けて手を伸ばす。

 

「ほら、早くこっちに来いって」

 

突然かけられた声に少女はビクリッと身体全体を揺らすと、声の主の方へゆっくりと顔を上げた。

 

「だ……だれ?」

「いいから、早く。オレの手を掴め。引っ張ってやるから」

 

これ以上は伸びないというほど彼女に向けて伸ばした手の先には怯えていてもどこか愛らしい顔がある。

突然現れた男の子にビックリしたのか、見開いたままの瞳から堪っていた涙がコロリ、とこぼれ落ちたが、それ以上あふれ出すことはなかった。

 

「だ、大丈夫……平気……」

「ぜっんぜん、大丈夫そうに見えないぞ」

「一人で……なんとかする……から」

「なんとかって……どうするんだよ」

 

なんとか出来るのならとっくにしているだろう事は六歳のキリトにだってわかる。

それでもプルプルと首を横に振り続ける彼女の意図がわからず、キリトは怒ったように声を荒げた。

 

「ならっ……オレが木から下りられないんだよっ。下りるの手伝えって」

「ふえっ?」

「だからっ、下りるのに手を貸して欲しいんだってば」

 

ぱちくり、と音がしそうなほどにはしばみ色の瞳を覆う瞼が数回往復運動をする。

今にも折れそうな枝にプルプルと震えながらしがみついている自分と、目の前には丈夫なはしごにのって平然とこちらに手を伸ばしている男の子だ、どちらが危機的状況にあるのかは一目瞭然だった。

意固地になっている自分に、それでも諦めずにいてくれる彼が頬を少し赤らめながら「助けて欲しい」なんて思ってもいない言葉を口にしてくれている。

ふわふわとこみ上げてくる名前もわからない感情に包まれた女の子は今度こそ素直にコクンと頷くと、そっと色白の手を枝から離しバランスを取りながら男の子の手に重ねた。

その動きに刺激されたのかカラスが強烈な一撃を彼女の髪留めに向け、くちばしを振り下ろす。

 

「カァーッ!」

 

今までで一番大きな鳴き声が頭上から降ってきて、女の子は「きゃーっ」と大きな悲鳴を上げた。

カラスのくちばしが髪留めに届こうかという瞬間、重なった手をキリトが力いっぱい引っ張る。

自分とさほど変わらない体格だと思っていたが、女の子は羽が生えているように軽かった。

ふわり、と胸の中に飛び込んできた感触に思わず手が震え、顔がカァーッと熱くなる。

 

(な、なんだよ、これ。ふわふわで柔らかくて……それに、すごくいい匂いが……)

 

はしごの上である事も忘れ、その長い栗色の髪に鼻を押し付けそうになる自分をグッと堪えてカラスの目から髪留めを隠す為にその小さな頭を抱え込んだ。

腕の中の少女は未だ恐怖が忘れられないのか小刻みに両肩を震わせている。

カラスの方は突然目の前から消えた髪留めを探してキョロキョロと頭を動かしていたが、しばらくすると諦めたのか空に飛び立っていった。

その羽音が聞こえなくなったのを確認してからキリトはふぅっ、と息を吐き出す。

その息づかいを感じたらしく腕の中の彼女の肩からも力が抜け、ゆっくりと下がるが言葉を発することはなく、未だ縋るようにキリトに身体を預けたままだ。

さて、これからどうしようか、と思った時、彼女の悲鳴を聞きつけたのか、屋敷の中から侍女や従者達がわらわらと「姫様ー!」と仰天顔で駆けつけてくれて、たくさんの手がキリトと少女をはしごから慎重に支え下ろしてくれたのだった。

 

 




お読みいただき、有り難うございました。
さあ、ちび同士の「ちびイチャ」の始まりデス(苦笑)


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王子と姫と白い仔猫・2

中庭に集まってきた侍女や従者に囲まれたかと思うやいなや、キリトは若い従者に抱き上げられた。

驚いて「歩ける」と言えば、相手は苦笑いを浮かべて困ったようにキリトの全身に視線を巡らせる。

そこでキリトも自身の身なりを見てようやくその惨状に気づき、再び頬を赤らめた。

はしごを使ったとは言えかなりの大木に登ったのだ、シャツやズボンは所々すり切れ、折れた小枝や葉っぱが至る所にくっついている。

礼節を重んじる口うるさい親父に知られたら大目玉だな、と思いこっそりと舌をだした。

同じように侍女に抱きかかえられた少女を見ればは、カラスにつつかれたせいで髪はぼさぼさに乱れ、自分と同じようにその栗色の髪に色々な自然の髪飾りがちりばめられている。

服は同様にほつれや破れが点在していたが、そりより腕や足の引っかき傷が痛々しかった。

色白の肌せいで少しの血の滲みもくっきりと浮き出ている。

それでも本人は痛そうな顔ひとつせず、しきりと周囲の者達に「ごめんなさい」と謝っていた。

侍女達は優しく笑いかけて「いいんですよ」「でも驚きました」「痛くないですか?」と口々に彼女に声をかけている。

中庭とをつなぐテラスの入り口までくると先頭の侍従が立ち止まった。

それに倣って全員が戸惑ったようにその場で足を止めたのを不思議に思ったキリトは身体を捻って進行方向を見る。

集団の前には、その進行を阻むように一人の少女が腰に手を当て仁王立ちで立ちはだかっていた。

赤みがかった茶色い髪は肩の上で緩くカールしていて、頬には僅かだがそばかすがある。

彼女はジロリ、と侍女の腕の中の少女を睨み付けたかと思うと、おもむろに片方の人差し指だけを突き出し、狙いをその少女に定めてからスウッと息を吸い込み眉を跳ね上げた。

 

「いい加減にしなさいっ、アスナ!」

「ひぅっ」

 

自分と同年代であろう少女に一喝され、アスナと呼ばれた少女は栗色の髪がぶわっとを広がるほどに身体全体を揺らす。

ところが怒れる少女は侍女の腕の中で一層縮こまったアスナの姿を目にしても一向に勢いを緩めることなく人差し指をビシッ、ビシッと突きつけてきた。

 

「アンタは病人なのよ。療養でここに来てるのに、なんでベッドで大人しく寝ていられないのっ」

 

あまりの剣幕にじわり、と涙が湧き出てくるアスナだったが震える唇をどうにかこじあける。

 

「も……もう……治ったわ」

「嘘おっしゃい。まだ熱があるはずよっ」

「これくらいのお熱、平気」

「熱があって平気な子供なんていないの!」

「私は、大丈夫だもん」

 

頑なに病人であることを受け入れようとしないアスナの態度に我慢ならなくなったのか、人差し指を振る少女は同時に片足で地団駄を踏む。

 

「あーっ、もーっ、そうやって熱があるくせにベッドから起き出すは、勉強を始めるは、挙げ句の果てにはいつの間にか中庭の木によじ登って一体何をしてたのよっ。私達がどれだけ探し回ったか、わかってるの!」

 

さすがに黙って部屋からいなくなった事は反省しているのだろう、下を向くと小さな声で「ごめんなさい、リズ」と告げれば、リズと呼ばれた少女は片手でおでこを押さえて軽く頭をひと振りしてから、わざとらしく大きな溜め息を吐き出した。

 

「いくらユークリネ王国の国民の生活が地味だって言ってもね、どんな小さな村だって子供が熱を出したら親はきちんと薬を与えて休ませるわよ。国王様だって王宮にいるとアスナがゆっくり休めないからここに来させたんでしょう?」

「それは、違うよ。私が寝てばかりで父様や母様、兄様の役に立たないからだよ。今頃みんな一生懸命お仕事してるもん。だから私も早く王宮に帰ってお手伝いしたい」

「アースーナー!」

 

リズの眉毛が再びつり上がった時だ、比較的年配の侍女が困り笑いをしながら「まあまあ、リズちゃん」と割って入る。

 

「姫様も見つかったことだし、とりあえず中に入れてもらえるかしら?」

 

その言葉に渋々といった表情でリズがせき止めていた場所を譲った。

そこでようやくキリトの存在に気づいたらしく、珍しい動物でも眺めるように近づいてきて、抱き上げられている少年を下から見上げると物怖じもせずに声を掛けてくる。

 

「アンタがアスナを見つけてくれたの?」

 

アンタ呼ばわりに目を瞬かせたキリトだったが、すぐさま「ああ」と答えると、リズは何の濁りもない瞳を真っ直ぐに向けて、にこりと笑った。

 

「ありがとうっ、大事な友達を見つけてくれて。私の事は『リズ』って呼んで」

 

その言葉にキリトもニヤリと口の端を上げる。

 

「オレは『キリト』だ」

 

その後、離宮内に控えていたガヤムマイツェン王国の従者がキリトの元に駆け寄り、その身を受け取ると今までキリトを抱いていた従者とキリトの従者は互いに「申し訳ありませんでした」と何度も代わる代わる頭を下げた。

 

 

 

 

 

幸いにもキリトに傷らしい傷は見当たらなかったので従者の手を借りて着替えを済ませた後、再び応接室へと案内された。

新しく入れなおしてもらった紅茶に口をつけていると、ノックの音が響き、続いて「失礼します」と侍女が扉を開ける。

扉の向こうには、やはり着替えを済ませケガの治療も終えたアスナが淑やかに立っていた。

浅黄色の爽やかなドレスを着て今度はちゃんと両足にベンガラ色のエナメル靴を履いている。

控えている侍女の前をゆっくりと歩いて室内に入ってくると、キリトの前でスカートを両手でつまみ腰を落とした。

 

「は、初めまして。ユークリネ王国の王女、アスリューシナ・エリカ・ユークリネです」

 

綺麗な所作に目が釘付けになっていたキリトが我に返って「ぷっ」と息を破裂させる。

 

「『初めまして』じゃないだろ」

 

その言葉を聞いた途端、頭を下げたままみるみるうちに顔全体を真っ赤にしたアスナは、パッと顔を上げギュッと固くつぐんだ唇を震わせ始めた。

まるで自分が虐めたような気分になったキリトが慌てて何か言わないと、と頭の中をフル回転させていた時、アスナの後ろから部屋に入ってきたリズがひょこり、と顔を出す。

 

「アンタって王子だっのね、キリト……で、今の挨拶は勘弁してやって。アスナったら他の国の王族にひとりで対面するの、初めてなのよ」

 

納得を示す為にキリトは口を尖らせて高速で顔を数回上下させると、スタッと椅子から降りてアスナの前に立ち片手を胸に当てて腰を折った。

 

「ならオレも……初めまして、オレはガヤムマイツェン王国の第一王子、キリトゥルムライン・カズ・ガヤムマイツェンだ」

 

顔を上げて不敵な笑みでアスナを見れば、何やらアスナは難しそうな顔をして人差し指を小さな唇に当てている。

 

「……キリトゥ……ム……ムラ……ランさま?」

 

がくり、とキリトが肩を落とした。

アスナは己の失敗に気づき、俯いて身を縮込ませている。

二人の対面を見守っていたリズがまたもやピシリッと人差し指をキリトに突き出した。

 

「ん゛〜っ、キリトっ、なら、アンタはアスナの名前をちゃんと言えるのっ」

 

背後からの友の援護にアスナは振り返ってオロオロと「リズ、指で指したらダメだよ」と両手を上げて諫めている。

方やキリトはその本人からではない挑戦状にふふん、といった表情で応じると堂々と胸を張った。

 

「いいか……アシュシューシナ……あれ?」

 

さっそく噛んだ自分に照れよりも驚きと不思議さのあまり頭をひねりつつ再挑戦を試みる。

 

「アリシュー……アシリューシナ・エリカ……」

「アスリューシナだもんっ」

 

堪りかねたようにアスナが両手をグーにして叫んだ。

後ろのリズがなだめるようにアスナの肩をポンポンと叩いている。

決まりが悪そうな表情に転じたキリトがポリポリと頬を掻くと開き直ったようにアスナの目の前まで歩み寄り、未だグーに固まっている手を取ってその甲に唇を落とした。

そして実際はほとんど変わらない身長なのに、何やら上から目線で言い放つ。

 

「オレの事は『キリト』でいい。その代わり、オレも『アスナ』って呼ぶから」

 

そして付けたすように「これでもアスナの名前は馬車の中で何回も練習してきたのになぁ」と小さく零している。

少し頬を染めながらもごもごと言い訳じみた言葉を口にしているキリトをポカーンと見つめたまま、少年の手の中から自分の手を取り戻すことさえ思い至らずにアスナは固まったまま徐々に顔を茹で始めた。

真っ赤に染まり切ると頭がクラクラして、目がグルグル回る。

足下さえおぼつかなくなってふらり、と身体が傾ぐ……と、手を取っていたキリトが慌てて樹上の時の同じようにグイッと引き寄せれば、ぽふんっ、と腕の中にアスナが収まった。

その一瞬、僅かにキリトの口元が緩む。

しかしそれを見て仰天したのはリズだ。

 

「アスナっ、大丈夫!?」

 

すぐさま後ろからアスナの両肩を掴んでベリッとキリトから引き離し、おでこに手を当てて「あついっ」と騒ぎ出す。

うっかり手を離してしまったキリトはリズの一言でまたもやわらわらと入室してきた侍女達を前にどうしていいか分からず呆然と突っ立ったままだ。

一人の侍女が素早くアスナを抱き上げ、隣の侍女が彼女の熱を確認する。もう一人の侍女が手をとって脈を測り、戸口に近い侍女は廊下にいる侍女達に「寝室の準備をっ。氷水とタオルと着替えを用意してっ」と指示を飛ばした。

見事な連係プレーを当たり前のように聞き流しながらリズはアスナを侍女達に任せるとキリトに向かってその鼻先にお得意の人差し指を突きつける。

思わず姿勢を正してしまったキリトの耳にとんでもない言葉が飛び込んで来た。

 

「キリト、アンタ、責任とんなさいよ」




お読みいただき、有り難うございました。
おチビさん達……言いにくい名前でゴメンね(汗)


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王子と姫と白い仔猫・3

(責任……責任……責任……ってどうすればいいんだ?)

 

またもやひとり、応接室で置いてきぼりをくらっているキリトはついさっきリズに命じられた言葉を頭の中でこねくり回していた。

 

(でも、やっぱりアスナの熱はオレのせい……だよな)

 

自らを支えきれずにキリトの胸の中に倒れ込んできた彼女は、やっぱり軽くて、そしてキリトの元を訪れる前にお風呂に入ってきたのだろう、石鹸の匂いとケガの治療の為の消毒液の匂いに混じって今度もいい匂いがして……いや、熱のせいか更に強く匂い立っていた気がして、思い出した途端、知らずに唇が弧を描く。

だがその表情も侍女に抱きかかえ上げられたアスナを思い出せば一転して険しいものへと変わった。

「友好国である隣国の姫が国境のすぐ近くの離宮に療養に来ている。歳はお前とひとつしか違わないから話も合うだろう。お見舞いに行ってきなさい」と父である国王から言い渡されたキリトはハッキリ言って見舞いという目的より初めてひとりで国を出られる嬉しさの方が強かった。

普段から傍に置いている数名の従者と一緒にちょっとした旅が出来る。

だが国力の大きさにかかわらず、自分と同じ子供とは言え相手も一国の王女だから、と出発までの短い時間の中で挨拶の仕方をたたき込んできたのだ。

 

(とりあず名乗るところまではちゃんと出来たと思う)

 

オレにしては上出来のレベルだ、とキリトはひとり頷く。

 

(手の甲のキスだって初めてにしては悪くなかったはずだし)

 

相手の手がグーだったのは想定外だったが、これでも従者の手で何回か練習したし、最後には嫌がる妹姫に一回だけ練習に付き合ってもらったのだ。

その時の妹姫は「くすぐったいっ」と言ってケラケラと大口を開けて笑ったが、「アイツはまだまだお子様だからな」と自分とひとつしか違わない妹姫の感想はとりあえず良い感触として受け止める。

しかしアスナはキリトからのキスを受けてすぐに熱を上げたのだ。

結局自分の何がいけなかったのかわからないまま時間は過ぎていった。

しかも段々と頭の中は自分の行為を振り返る事よりぐったりとしたアスナの顔を思い浮かべる事にすり替わっている。

 

(大丈夫かなぁ……アスナ)

 

その時、再びトントンと扉がノックされた。

しかし何の声かけもなくいきなり扉がガチャリと開く。

扉の隙間から赤みを帯びた茶色い髪の毛がニョキッと入ってきた。

 

「あ、いたいた、キリト」

 

(いたいた、って……オレはこの離宮に来てからほぼずっとここに居っぱなしだぞ)

 

素直な感想は表情に出すだけに留めて「なんだ?」と問いかける。

 

「悪いんだけど、アスナの私室まで一緒に来てくれない?」

「うえ゛っ?」

 

予想外も甚だしい要望に声を詰まらせた。

いくら子供同士とは言え王女の私室に他国の王子が足を踏み入れていいとは思えない。

 

「ちょっと、それは……」

 

「マズイんじゃないのか?」と続けようとした時だ、キリトの言葉を遮ってリズがキリトの前で両手を合わせる。

 

「お願いっ……マズイのはわかってるわよ。でもこうでもしないと、アスナったら熱があるのに無理してでもアンタんとこに行くってきかないの」

 

「侍女の了解はとったから」と言うリズを前にキリトは首を傾げた。

 

「なんでオレんとこに?」

 

熱が上がったんなら寝てた方がいいぞ、と視線で訴えてみる。

だいたい病人の見舞いに来たのに、その病人が無理をして見舞い人の元にやってこれらてはこっちの立場がない。

リズは拝むような手を解くと、やれやれと言った風に息を吐いた。

 

「さっきアンタの前で倒れたでしょ。それを王女にあるまじき失態だって落ち込んで、落ち込んで、とにかくアンタに謝らなきゃってベッドから起き出そうとしているのを、今、侍女達が一生懸命押しとどめているところよ」

「ああ……だからオレの方からアスナの所に行けば、って事か」

 

うんうん、と頭を上下させるリズはほとほと困った様子で頬に手を当てる。

 

「まったく、『王女』である自分に厳しい子だから」

「そうだな。さっきの木の上でだって『自分でなんとか出来る』って言い張ったんだぞ」

「そうそう、ちょっと考えれば無理だってわかりそうなものなのに……周りに頼れない性格なのよね」

「同じ王女でも……オレにも一つ下に妹がいるけど、何かって言えば『助けてー』だの『代わりにやってー』って言いまくってるけどな」

 

妹姫が自分を頼ってくる時の顔を思い出して苦笑いを浮かべた時だ、リズが小さな声で「そっか」と妙に納得した様子で頷いた。

 

「ガヤムマイツェン王国も王子一人に王女一人だったわね」

「うん、よく知ってるな、リズ」

「うちはユークリネの王都で結構手広く商売してるの。だから父さんにくっついてアンタの国にも行ったことあるわよ」

「へぇぇっ」

 

感心したように目を見開けば、気をよくしたリズがちょっと自慢げに鼻を膨らませる。

そこでリズが商家の娘と知ったキリトは改めて国の違いを口にした。

 

「ガヤムマイツェンだったら王女の友達相手は貴族の令嬢でないとなれないからなぁ」

「そもそもユークリネ王国には貴族がいないしね。私は家が王宮に出入りをしている縁でアスナと同い年だから国王様から遊び相手にってお願いされたの」

「だから王女を呼び捨てなのか……」

 

それもガヤムマイツェン王国ではあり得ない事なのだろう、庶民が面と向かって王族を呼び捨てにした日には不敬罪で投獄間違いなしだ。

 

「友達なんだから当たり前でしょ。きっかけは国王様だけど、私は頼まれたから友達を続けてるわけじゃないのよ」

 

その潔い口ぶりにキリトの口の片端が上がる。

 

「オレのこともずっと呼び捨てでいいぞ」

「よかった。私がアンタの事を呼び捨てにしてるの、アスナがすごく気にしてるから」

「なら、そろそろ、そのアスナのとこに行くか」

「そうね。侍女達もアスナ相手じゃ本気で叱れないし。ホントにユークリネの国民は王族のみんなが好きだからアスナにも甘々なのよ」

 

リズとキリトは並んで部屋のドアに向かって歩きながら会話を続けた。

 

「慕われてるんだな」

「王族が国を守るために頑張ってくれてるの、知ってるもの。貴族がいないから、国民全員が王の領民みたいなもんだしね」

「ふーん……ユークリネ王国ぐらいの領土と民の数ならなんとか可能ってところか」

 

とてもではないがガヤムマイツェン王国の規模では無理な話だ。

各地の領土を管理する貴族がいて、その貴族を国王がまとめるか、国王自らが国土全体を統べるか……どちらも難業であることにかわりはないだろう。

廊下にでると扉の両脇に控えていた従者がキリトとリズの前後に移動して二人を守るようにアスナの私室まで付き従う。

従者の目を気にする事無く、リズはキリトにユークリネ王家の話を続けた。

 

「そんなわけだから、国王様はもちろん、王妃様や王子のコーヴィラウル様もいっつもお忙しくされててね。みんな揃って王宮にいる日なんてほとんどないわ」

 

それを聞いてキリトは自国の王城内を思い出していた。

自分より幼い妹が常に城にいるのはもちろんだが、母である王妃が城を空けるのは月に一回あるかないかだ。自分達の傍にいなくとも訪れる貴族達の相手をしたり、他国からの使者をもてなす為に父王の隣で会食の席に着いたり、貴族の夫人方を招いてお茶会を開いたりと城内で忙しくしている。父王に至ってはそれ以上の忙しさで執務をこなしていた。母は病院や孤児院の慰問という慈善活動で城から出る事はあるが、父が城を出るなど建国記念で城下町をパレードする時しか見たことがない。

それがガヤムマイツェン王国という大国の王というものなのだろう。

 

(だから今回はオレ一人でも他国に行くチャンスをくれたのか……)

 

父王の思いの一旦に触れた気がした時だ、キリトの隣を並んで歩くリズが思い出したように溜め息をつく。

 

「だからね、余計にアスナは自分も役に立たなくちゃって思ってるのよ」

 

いつも王宮に……アスナの傍にはいられない王や王妃、王子の兄をいつもアスナはどんな気持ちで迎えて見送っているのだろうか。

寂しくても大丈夫、怖くても我慢する、だって家族はユークリネ王国の民の為に一生懸命お仕事をしている。

自分はユークリネ王国の王女なんだから、自分も父様や母様や兄様のようにみんなの役に立たなくちゃいけないの。

早く一人で色んな事が出来るようにならなくちゃ……。

アスナはいつも呪文のように「一人で大丈夫、一人で平気、一人で出来る」と心の中で唱えていた。




お読みいただき、有り難うございました。
リズちゃんはいつでもどこでもしっかり者で面倒見のいい、アスナのことが
大好きな女の子です(笑)


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王子と姫と白い仔猫・4

キリトを連れたリズがアスナの私室の扉をノックした。

扉の両脇にはやはり従者が一人ずつ配置されている。

だが、これはついさっきアスナが一人で部屋から抜け出したからであって、普段はいないのだとリズはキリトに耳打ちした。

 

「アースーナー、入るわよー」

 

まるで近所の子供が遊びに来たように王女の名前を呼び、返事を待たずに扉を開ける。

王宮のアスナの部屋ならば居室の更に奥に寝室が設けられているのだが、ここは離宮なので入ってすぐに応接セットがあり、隣に本棚と勉強机が置かれ、その奥の壁際にはクローゼットとベッドがしつらえてあった。

リズが迷うことなくベッドを見れば壁側を除いた三面に侍女が立ち、腕組みをしてアスナを監視している。

ベッドの中でクッション数個を背中にあてて上体を起こしているアスナはシルクの子供用ナイトドレスを着てお腹の上までかかっている布団の端を両手で掴んでいた。

リズが自分の名を呼び入室してきた途端、助けを請うように視線ですがってくる。

そんな懇願の瞳をさらりとかわしたリズは部屋に入るとすぐに振り返ってもう一人の入室を促した。

 

「ほらっ、入って」

 

そう言われても妹姫以外の女の子の部屋など覗いたこともないキリトはなかなか踏ん切りがつかず、とりあえず顔のみを扉の隙間から忍び込ませる。

 

「……ようっ」

 

突然ぶっきらぼうな声が耳に飛び込んで来たアスナがはしばみ色の瞳を目一杯開き、口をパクパクと動かした。

顔を突っ込んだままのキリトにリズが呆れた声をあげる。

 

「何やってんのよ。早く入って来なさいってば」

 

部屋の入り口に向かって手招きをしている友に、アスナがその名前を連呼した。

 

「リズ、リズ、リズ、リズ!」

「はいはいはいはい、何度も呼ばなくても聞こえてるわよ」

 

再び振り返って今度はベッドのアスナに声をかける。

やっと自分と視線を合わせてくれたリズにアスナはチラチラと扉の方向を気にしながら焦り顔で睨み付けた。

 

「どこに行っちゃったのかと思ってたら……」

「だってこうするしかないでしょ……って、アンタはさっさと入ってくる!」

 

再び振り返り、やっと身体半分を室内に入れたキリトに指令を飛ばす。

ひっきりなしに顔を180度くるっ、くるっ、と降ってそれぞれに対応していたリズだったが、それを何回か繰り返した後、二人の相手に疲れきってガクリと首を落とした。

 

「ちょっと休憩させて……」

「だ、大丈夫?、リズ」

「大丈夫か?」

 

奇しくも同時に両端の二人から気遣いを示され「そう思うなら協力しなさいよ」と不穏な声を発する。

リズの様子を見て観念したようにベッドサイドまで近寄ってきたキリトに侍女が椅子を用意した。

それに腰掛けてからようやくアスナを見て「熱、あるんだろ?」と問う。

一方アスナの方はキリトが近づくにつれて俯く角度が鋭角となり、彼が椅子に座った時にはすっかり真下を向いて布団を握っている自分の手を見つめるばかりだ。

キリトからの問いにふるふると首を振って否定すれば、幾分復活したリズが小さく「アスナー」と批難めいた声を上げる。

リズの言葉にそろそろと顔をあげると頬を淡く染めたままもう一度首を振った。

 

「違うよ……お熱はあるんだけど……でも……そうじゃなくて……」

 

上手く言葉が見つからないのか途切れ途切れに、でも懸命に話そうとしているアスナを見てキリトは思わず手当の跡のある彼女の手に自分の手を重ねた。

そっと甲を撫でてから自分の手より細い指をふわりを覆う。

 

「アスナ」

 

手に触れられた時も名を口にされた時も心臓がドキンッと跳ねたが、それは一回だけで、それから後は手から伝わる温もりのせいか、優しく愛称を呼ばれたせいか、焦っていた気持ちがどんどんと鎮まって自分でも驚くほど落ち着いてくる。

すっかりいつもの穏やかな表情に戻ったアスナは最後の仕上げに細く息を吐き出すと、改めてキリトへと視線を向けた。

 

「さっきはご挨拶の途中で倒れてしまってごめんなさい。それと、倒れた時に助けてくれてありがとう……キ……キリトさま」

 

ありがとう、と微笑みながらも最後はやっぱり恥ずかしそうに目元を赤くしたアスナを見て、キリトも僅かに顔を赤らめる。

その幼い王子と王女のやりとりをベッド囲んでいる侍女達が微笑ましく見守っていた。

リーダー格と思われる侍女がキリトの後ろにやってきて頭をさげる。

 

「キリトゥルムライン殿下、うちの姫様がベッドから抜け出さないよう、しばらくそうしていていただけますか?」

 

侍女の視線が自分達の重なっている手に注がれている事に気づいたキリトは「任せとけ」と言い放って握る手にほんの少し力を込めた。

それを見て取った侍女が再び礼を取ってから最低限の人数を残して侍女達の退室を視線で促す。

その指示に従って侍女が出て行こうとすると最後の一人を手で制しておいてから、アスナに優しく問いかけた。

 

「姫様、殿下からお見舞いの品として珍しい果物をいただいております。召し上がりませんか?」

 

侍女からの提案にキリトも思い出したような口ぶりで瞳を輝かせる。

 

「そうだった。ユークリネ王国は割とあったかいから、ここよりもっと寒い場所で育つ果物を持って来たんだ」

「へぇー、それは私も見てみたいわ」

 

自信に満ちたキリトの黒い瞳とリズの後押しでアスナは「なら、少しだけ」と侍女に答えた。

にっこりと微笑んだ侍女が扉の手前で待たせていた侍女に向かって頷けば、その侍女も心得たように「ただいま、お持ちしますね」と言って部屋を辞する。

人の出入りが落ち着いたのを見計らってアスナが再びはしばみ色の瞳をキリトに向けた。

 

「キリトさま……リズが無理を言ったんじゃ……」

「失礼ね、アスナ。アンタがどうしても謝りたいって言うから連れて来てあげたんじゃない」

「謝る相手を自分の所に呼んだら……」

「だってアスナは病人なのよっ」

 

言う端々からねじ伏せられてアスナが情けなく眉根を寄せた時だ、やりとりを黙って聞いていたキリトがクスクスと笑い出す。

 

「アスナの私室にまで乗り込んできたオレの方が謝んなきゃだろ」

 

その言葉にプルプルと首を横に振るアスナの様子に安堵したキリトは改めて室内を見回した。

「他の国の王女の部屋なんて、初めて入った」と呟けばアスナも「私もお部屋に男の子がいるの初めて」と返す。

「それに……」と続けてから視線をキリトの手がかぶっていない方の自分の手に移した。

 

「手の甲の……キ……キス……も……初めて……で……」

 

一種の爆弾発言にキリトが固まる。

手の甲へのキスなんて挨拶なのだから王城にいれば貴族や王族内で普通に交わされている場面を幾度となく目にしてきた。

自分は面倒くさいから、という理由で言葉の挨拶だけで済ませてきたが真面目なアスナが面倒くさがるとは到底思えない。

なら、今までは王族としてどんな対応をしてきたんだ?、と頭の中がハテナマークで満たされた。

と、そこまで考えて、ハッと気づく。

ユークリネ王国には貴族が存在しないことに……。

自国の城内のように常に大臣や司政官、貴族の令嬢や令夫人があふれている環境ではないのだ。

 

(なら、アスナの手に挨拶したのってオレが初めて?)

 

恥ずかしさより、満足げな笑みが自然と浮かぶ。

キリトの表情を横から盗み見ていたリズがボソリと言った。

 

「アンタはあっちこっちでしてそうね」

「オッ、オレだって手の甲にキスしたのは本番はアスナが初めてだぞっ」

 

慌てて妙な言い回しでリズに言い返せば、すぐ傍から「ホント?」とか細い声が聞こえる。

少し首を傾げたアスナが不安げに見つめてくるので、コクコクと勢いよくキリトが頷けば、ふわりと彼女が微笑んだ。

その笑顔に後押しされてキリトはもしかして、と思っていた言葉を口にする。

 

「倒れたのって……オレが……キス……したからか?」

 

言われた途端、アスナが身体を硬直させて応接室でキスした時を彷彿させる赤に顔を染め上げた。

その反応で自分の憶測が確信に変わったキリトはニカリ、と笑うと「よかった」と言ってから「オレ、何かアスナが嫌がる事、したかと思ってた」と胸の内を明かす。

アスナが真っ赤な顔で再び顔をプルプルと振っていると、扉をノックする音がして侍女が入ってきた。

手にしているトレイにはキリトが持参した果物が盛りつけられた皿がのっている。

少し名残惜しそうにキリトの手を離したアスナは目の前に差し出された皿を受け取り、綺麗に並んだ果物を見て嬉しそうに頬を緩ませた。

 

「すごいっ、真っ赤」

「今のアスナみたいだな」

 

からかわれたのがわかり頬を膨らませてキリトを睨むと横からリズが「何て名前なの?」と聞いてくる。

 

「『イチゴ』。ヘタは食べられないから……」

 

そこまで言うと、今、まさにフォークでイチゴの中心を突き刺そうとしていたアスナの目の前から真っ赤な一粒をさっとかすめ取り、ヘタの部分を持って彼女の口元に持って行った。

一瞬、何を意味するのかわかりかねた様子のアスナだったが更にイチゴが口元に近づいてきて、やっとキリトの意図を理解し、未だ頬を染めながらも嬉しそうに小さく口を開ける。

アスナの唇が自分の指先に触れそうになるギリギリの位置でイチゴを止めると、彼女がゆっくりと口を閉じた。

すぐに果汁が口の中に広がったのだろう、驚いたように目を見開いて「甘いっ」と漏らす。

キリトが安心したように微笑んでから食べ方のレクチャーをした。

 

「上品にフォークで食べるならあらかじめヘタを切り落とすんだ。けどヘタが付いてた方が色味はいいよな」

 

それを聞いた侍女が恐縮したように頭を下げるのを見て「ウチの従者がちゃんと伝えなかったんだろ」と助け船をだす。

 

「オレはいつもなってるのをそのまま手で取って食べちゃうから」

 

笑って言えば侍女はもちろん、アスナもリズまでもが呆れた顔を浮かべた。

しかしすぐにアスナは自分もイチゴを手に取って「リズ、リズ」とリズに向かって口を開けるようせがんでいる。

珍しく照れ顔でアスナの前に顔を出したリズは友の手からイチゴを口にすると、同じように「ホントに甘い」と驚いていた。

二人の少女が満足げにイチゴの美味しさを認めた後、仕切っていた侍女が安心したように息を吐き出す。

 

「よかったですね、姫様。今日は朝から何も召し上がって下さらなかったのでホッと致しました」

 

侍女の安堵の表情とは裏腹にその場は凍り付いた。

 

「朝からっ!?」

「朝からですって!」

 

キリトとリズが同時に声を荒げる。

何とかリズを誤魔化していたのだろう、アスナが頬を引きつらせているとキリトとリズは更にアスナに接近して交互に彼女の口にイチゴを運んだのだった。




お読みいただき、有り難うございました。
公式設定ではないと思っていますが、アスナの「イチゴ好き」ネタを
随所で目にしているので、のっかってみました。


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王子と姫と白い仔猫・5

アスナがふう、ふう、と息を吐き出しながら「もう、食べられないよぅ」とイチゴを手にしている鬼の形相のリズとキリトに告げると、やっと納得してくれたのか、リズはアスナのベッドの上についていた手をどけた。

 

「まあ、このくらい食べられれば、いっか」

「こんな少しでいいのか?」

 

未だ納得できない表情のキリトが諦めきれずに持っていたイチゴでつんつん、とアスナの唇をつつく。

 

「こらこら、キリト。無理に餌付けすると嫌われるわよ」

「え゛っ」

 

アスナのぷるんっ、とした唇ばかりを見つめていたが、そっと視線を上にずらせばはしばみ色の瞳にはじわり、と涙が滲んでいる。

 

「キリトさま……も、無理……」

 

息をするのも苦しいといった様子でイチゴののっている皿を侍女に渡すと、アスナは自分のお腹をさすって、ふぅっ、と息を吐いた。

本当にこれ以上は食べられないんだな、と認めたキリトがようやく浮かしていた腰を椅子に落ち着ける。

ふと自分の手にあるイチゴを見て、皿に戻す事など考えも付かなかった勢いで、パクリ、と己の口に放り込んだ。

持参した見舞い品を自ら頬張りながら「アスナ」と呼びかけるのとほぼ同時に、お腹に手をあてていたアスナから「ごちそうさまでした、キリトさま」と御礼の言葉が紡がれる。

アスナの言葉にキリトの眉間に皺が寄った。

 

「それ、それ」

「え?」

「オレの事は『キリト』でいいって。さっきから気になってたんだ」

「でも……」

「リズが呼んでるんだからいいだろ」

「しょうよ、あしゅな……」

 

リズもキリトと同様に持っていた最後のイチゴを自分の口の中で堪能中のようだ。

二人からの要望にアスナが言いよどむ。

 

「なら……、なら……」

 

そこまで言って目をギュッと瞑り、必死に何やら考え込んでいる。

アスナの脳裏にはついこの前、この離宮に近くの村から食材を運んで来てくれた農夫と子供達の姿が浮かんでいた。

離宮が物珍しくて付いてきたのだろう、兄妹ではなさそうな男の子の名前を女の子が親しげに呼ぶ声が蘇る。

 

「キ……キリト……くん……」

 

今まで耳にしたことのない呼称に一瞬驚いた表情のキリトだったが、すぐに満足げな笑みに変わった。

唯一、アスナだけが口にする自分への呼び方……否を唱えるはずもなく「うん、それでいいよ」と笑えば、アスナも安心したように頬を緩ませる。

しかしアスナはすぐに表情を引き締めると目の前の二人に向かって背筋を伸ばし、元来の生真面目さを発揮した。

 

「でも、みんながいる所では『キリトさま』って呼びます。リズもだよ」

 

そう釘を刺すように言われたリズはボソボソと「私が公衆の面前でキリトの名前を呼ぶことなんてないわよ」ととぼけた口ぶりだ。

三人のやりとりを黙って聞いていた侍女が「ふふっ」と笑ってアスナに顔を近づける。

 

「では、今回の離宮の中では黙認いたしますね」

 

味方になってくれる言葉に嬉しくなってアスナは笑顔で侍女を見上げると「うん、ありがとう」と声を弾ませた。

「ああ、それと」と思い出したように侍女は言葉を続ける。

 

「明日、シノンちゃんが来るそうです」

「えっ?、シノのんが?」

 

アスナの驚きに、リズがふうっ、とため息をついた。

 

「もうアスナの薬がなくなる頃だもの。当たり前でしょ」

「……まだ、お薬、飲まなきゃダメ?」

 

途端に眉をハの字にしたアスナが上目遣いで侍女に尋ねれば、困ったように笑う侍女は一言「はい」と答える。

 

「もう飲まなくても大丈夫だと思うの。ちゃんと大人しく寝てるから。シノのんだって大変だよ」

 

何とか侍女の説得を試みるが、侍女は意見を変える気はない事を無言で示していた。

基本、アスナに甘い侍女達のことだ、出来る事なら彼女の願いは叶えてやりたいに違いない。

違いないのだが……こればかりは王女の健康に関わること、と心を鬼にしてアスナの願いを申し訳なさそうな笑顔で拒んでいる。

何も答えてくれない侍女をジッと見つめているアスナに痺れを切らしたリズが口を開いた。

 

「アスナ……平熱でいる事の方が希なんだし、無理よ。それに食欲だってないんでしょ。オマケに部屋から抜け出して木登りしてるんだから、薬飲まないと悪化するわよ」

 

脅しでもなんでもないのだ、と真剣な眼差しで言い聞かせれば音がしそうなくらいにシュンッと気落ちしたアスナが項垂れる。

その様子に再び、ひとつため息をついたリズが首を傾げた。

 

「だいたい木によじ登って何してたのよ」

「……ヒナが……」

「ヒナが?」

 

木霊のように問い返せば、アスナはこくん、と首肯してから再び口を開く。

 

「お部屋の窓からお庭を見てたら、木の根元に鳥のヒナがいたの。きっと木の上の巣から落ちたんだと思って……」

「それで助けに行ったってわけ?」

 

もう一度アスナが頷けば、それを見たリズが今度こそ深く深く「はあああーっ」と息を吐き出した。

 

「ヒナもだけど、アスナ、アンタに何かあったらどうするのよ。普段は『自分は王女なんだから』ってしつこい程言ってるくせに。だいたい侍女が侍従に頼めばよかったでしょ」

「一人でなんとか出来ると思ったんだもん」

「それ……木の上でも聞いたセリフだな」

 

遠い目をしたキリトが口をはさむ。

挽回するように「はしご、一人で運んだんだよ」と言えば「それを片付けたのは私よっ」とリズが言い返した。

 

「それで挙げ句の果てに木から下りられなくなって、キリトに助けてもらったんでしょう」

「……その前に、カラスに突つかれているのを助けてもらったの」

 

初めて知った真実にリズと侍女達が「えっ!?」と頬をひくつかせる。

 

「アスナー!」

「姫様ー!」

 

その後は大変だった。再びアスナの元に集った侍女達が「どこっ、どこですかっ、どこを突かれたんですかっっ」と口々に言いながら顔を覗き込み、栗色の髪の毛を次々と一房ずつ持ち上げて頭皮を確認した。

リズはリズで「アンタって子は、アンタって子はーっ」と要領を得ない言葉を繰り返すばかりだ。

きょとんっ、とされるがままだったアスナはハッと我に返ると「大丈夫、大丈夫だから」と何回も訴えた後、頬を軽く染めてポソポソと「キリトくんが守ってくれたから」と告げれば、その言葉にキリトはあの時のアスナの感触や匂いを思い出したのか同じように頬をポンッと赤くする。

二人の反応に侍女達が「あらあら」「あらまぁ」と含み笑いをしながらアスナから身を離せば、アスナは少しボサボサになった髪のままキリトを正面から見つめた。

 

「あの……木の上でも、助けてくれて、ありがとう」

「うん」

 

照れたように一言だけで返してから手を伸ばして乱れたアスナの髪をゆっくりと梳く。

 

「ホントに大丈夫なのか?……痛がってただろ?」

「髪留めを突かれてたから、直接は……でも突かれると金具が頭に当たって痛かったの」

 

安心させるように笑うアスナを見て「ふーん」と返事をすると、キリトは髪留めのあった後頭部を優しく撫でた。

止まらないキリトの手の感触にアスナの顔が徐々に赤みを増す。

それに気づいたキリトが「あれ?、また熱が上がったか?」といぶかしんで撫でていた手を彼女の額に移動させた。

途端、一気に顔を赤くしたアスナを見てリズが「やっぱりシノンに来てもらわなくっちゃ」とこぼす。

リズの呟きを聞いていたキリトが「さっきから言ってるシノンって?」と聞けば、リズは少し間を空けてから答えた。

 

「王都にいる調薬師見習いの子よ」

「私達よりちっちゃいのに、ちゃんと一人でお勉強やお仕事してるの」

 

常日頃から『一人で出来るようになる』を目標に掲げているアスナにとっては年下であろうと尊敬に値する人物なのだろう、なぜか少し自慢げに「いつもお薬を王宮まで持って来てくれるの」とか「とっても良く効くのよ」とキリトに話しているが、その度にリズが「まだ見習いだから王宮までおつかいに出されてるのよ」とか「薬を調合してるのは師匠だけどね」と解説を挟んでくる。

その言いように堪りかねたのかアスナが声を荒げた。

 

「リズっ、シノのんは頑張り屋さんのいい子だもんっ」

「誰もシノンが怠け者の愚か者だなんて言ってないわ。ただちょっとばかり愛想がなくて無口でとっつきにくいけど」

「大人しくて少し口べたで人見知りするだけだよっ」

「うん、そうね。だからアスナが気にしてる王都の様子なんかもシノンが事細かに教えてくれる事はないわね」

「リズぅ〜、いぢわるぅ〜」

 

何度目かわからない程、はしばみ色の瞳にじわり、と涙が浮かべばキリトがポンポンとアスナの頭を軽く叩いてよしよしとなだめる。

リズもいい加減にしとけよ、と視線で諫めれば、ひょいっ、と肩をすくませてその視線をかわしたリズが、んべっ、と舌を出した。

 

「でもどうして王都が気になるんだ?」

 

キリトの問いに答えたのはリズだ。

 

「アスナはまだ一人でユークリネ王国の地方まで視察には行かれないの。だから王宮のお膝元の王都には頻繁に行って国民の様子を色々と気遣っているってわけ。王都に来られない時は私が報告してあげるんだけど……」

「今回はリズも一緒に離宮まで来てもらっちゃったから……ゴメンね、リズ。お家に帰りたいよね」

「別にいいわよ。店の手伝いしなくてすむもの」

「ウソっ、リズってばいつもお店のお仕事のこと、嬉しそうに話してくれるもん。お手伝い、好きなんでしょ」

「まあ、あっちこっち行かれるのは楽しいわね……あっ、ならキリトに話してもらいなさいよ」

「オっ、オレ!?」

「ガヤムマイツェン王国の事、アスナ、聞きたいわよね?」

「うんっ」

 

期待に満ちた瞳で見つめられ、うぐぐっ、と唸るキリトだった。




お読みいただき、有り難うございました。
ご本家(原作)さまの設定通り、シノンはアスナやリズより三歳年下の
女の子です。


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王子と姫と白い仔猫・6

アスナからうるうると懇願の瞳で見つめられたキリトはすぐさま国元に使いを出した。

結果、ユークリネ王国離宮での滞在を「数日なら」と国王から許しを得て、その夜は大急ぎで用意された客室のベッドに身体を横たえる。

翌朝、連れてきた従者に起こされて身なりを整え食堂に行ってみれば、そこには既にリズの姿があった。

 

「おはよう、キリト」

「ああ、おはよう、リズ」

 

キリトの着座を待って給仕の侍女達がスープを運んできた。

 

「よく眠れた?」

「うん、最初は夜行性の鳥や動物たちの鳴き声が気になったけど、いつの間にか寝てたな」

「ならよかった」

「……アスナは?……朝食は一緒に食べないのか?」

「ああ……アスナね……うん、あの子はいいのよ」

「王女だからって一人で食べてるなら、違うと思うぞ」

「そうじゃないんだけど……」

 

どう言おうか、とリズが思案顔になっていると、後ろに控えていた侍女が一歩踏み出して「リズちゃん」と声をかけた。

 

「キリトゥルムライン殿下は姫様の為に離宮に留まっていただいているのですから、正直にお話したら?」

 

その助言に後押しされたようにリズが背筋を伸ばし、改めてキリトの顔を見つめる

キリトもその表情から何かを察して手にしていたスープスプーンを静かに皿に戻した。

 

「アスナはね……夜半からまた熱が上がったの」

「えっ」

 

動揺が手からスプーンに伝わり、カチャッとスープ皿の縁を引っ掻く耳障りな音が響く。

驚いたキリトに向け、ほんの少し困ったように笑うリズは軽く手を振りながら「毎日なのよ」と言うと、目の前のスープを口に運んでから「アンタも温かいうちに食べなさい」と食事を促した。

 

「最初に言っておくわ。アスナは病気療養ってことでココに来てるけど、周りの人間にうつるような病気じゃないから安心して」

 

その言葉にキリトは素直に頷く。

うつるような病気だったらアスナの私室に入ることなど出来ないだろうし、そもそも父王が王子である息子を見舞いには行かせないだろう。

 

「あの子ね、王宮にいた時から夜中になると熱を出してたの。でもあの性格でしょ。周りの人間には言わずに我慢してて、でもそんなの隠し通せるはずないじゃない。それでしばらくは王宮で様子を見てたんだけど、家族は王族としての仕事をしてるのに自分は具合が悪くて寝ているのがいたたまれないみたいで……」

「そんなの、病人なら当たり前だろ」

「本人もそう思ってくれれば私達も助かるんだけどね」

 

焼きたての香ばしいパンの匂いに我慢出来なくなったのか、キリトがそのひとつに手を伸ばしながら「それで」と話の先を請う。

 

「元々アスナは自分が役立たずだって思い込んでるところがあって、それで勉強も人一倍してるし、王都に出向いたりしてみんなの生活ぶりを観察したりもしてるし、私から見れば十分やってると思うんだけど本人は全然納得してないの……だから熱の原因はストレス。自分の一日を他の王族の一日と比べて、まだまだだって思っちゃうのね。だから国王様が家族の様子が気にならないよう離宮での療養を言い渡して下さったんだけど、こっちに来ても気持ちが焦るばかりで」

「それで夜になると熱が上がるのか?」

「そう、その日一日を反省して、悔やんで、落ち込んで……とまあそんな感じなのかしらね。だから朝はベッドの上で軽く食事を摂って薬を飲むのが毎日なのよ」

 

そこまで説明してからリズは握っていたスプーンをプルプルと震わせて「でも、まさか昨日は何も食べずに木登りまでするとは思わなかったわ」と怒りを再燃させている。

怒りにまかせてリズもむんずとパンを掴むとちぎりもせずにあむあむと口に押し込んだ。

キリトはふわふわのオムレツをパクリと食べてから「ならさ」と行儀悪く食べながら話しかける。

 

「今日、王都から来るっていう調薬師見習いの……なんて名前だっけ?」

「シノン」

「そう、そのシノンが持ってくる薬は?、飲んでも治らないのか?」

「薬は熱を抑える為よ。飲めば熱が出なくなるなんて薬、あるわけないでしょ」

「……そうだよな」

 

リズが呆れた顔で「キリト、アンタって王子なのにバカなの?」と口にした時は、さすがに控えている侍女が小声で「リズちゃんっ」と窘めた。

リズは侍女に言い返したいようだったが、ぺろっ、と舌を出すだけにとどめて話を戻す。

 

「だからアスナの病気が治るようにキリトも協力してよね」

「協力って?」

「とりあえず、これ以上頑張らなくていい、とか、十分努力してる、とかはダメ」

「な……なるほど」

「無理のない程度に頑張らせて、自信をつけさせてやって欲しいの」

「うーん……要はアスナがしたいって事をさせてやればいいんだろ」

「ま、病人がしていい範囲でね」

「りょーかい。ならさっさと食事を済ませてアスナに会いにいこうぜ」

 

キリトは皿に残っていたミニトマトをパクッと口に放り込むと、そのままにやり、と笑った。

 

 

 

 

 

コンッ、コンッとノックをして、昨日とは違いリズを後ろに従えたキリトが「アスナ、入るぞ」と声を掛けてからガチャリ、と扉を開ける。

ベッドサイドには一人の侍女が座っているだけだ。

アスナに読み聞かせていたのか、枕元のすぐそばにある椅子から本を閉じて立ち上がった侍女はキリトに一礼をしてその場を彼に譲る。

当然のようにアスナに最も近い場所に身を置いたキリトはうすぼんやりと瞳を開けている彼女に「おはよう、アスナ」と声をかけた。

彼女の唇の僅かな隙間からは短めの息が薄く吐き出されている。

顔全体が火照ったように淡い朱に染まっているが、それは羞恥や怒りからくる色ではなく持てあました感情がジワジワと彼女自身を炙っているかのようだった。

キリトの声に反応したアスナが顔を動かして漆黒の双眸を見つけると、徐々に瞳に光を宿して嬉しそうに弱々しく微笑む。

 

「お……はよう、キリトくん」

 

少し掠れ声ではあったがしっかりとした物言いに安心したキリトは微笑み返してから片手をアスナの額にあてた。

 

「今日はちゃんと朝食食べたか?」

「うん……キリトくん……は?」

「食べたよ。オムレツが美味(うま)かった」

「近くの人達が……朝、卵、届けてくれるの」

「新鮮なんだな。食後の薬は?」

「飲んだ……よ」

 

そこまで会話をしてから額の上の手を優しい手つきで左右に動かす。

 

「アスナ……苦しい?」

「うううん……平気」

「アスナは、強いな」

「うん……王女……だもん」

 

二人のやりとりを聞いていた侍女がリズの分の椅子を用意しながら痛ましげな表情でこっそりと耳打ちをした。

 

「今朝はお薬の効きが悪いみたいで、なかなか下がらないの」

「耐性がついちゃったのかしら。そのこと、伝えてある?」

 

侍女が頷いたのを見て「なら今日持ってくるシノンの薬に期待するしかないわね」と呟く。

これ以上は手立てのないことを背後から聞き取ったキリトが「アスナ、手、出せるか?」と尋ねた。

首までしっかりとアスナを包んでいる布団がゴソゴソと動いて脇からほっそりと白い手がでてくる。

昨日のお転婆のせいで未だ数カ所に傷があるが、どれも軽く触れる程度なら痛みは走らないだろうと判断してキリトはそっと握った。

 

「アスナ、頼みがある。アスナが頑張って頑張って、それでも動けなくなったらオレが手を引っ張ってやる。そのかわり、オレが困った時はアスナがオレを引っ張って欲しい」

「……昨日の……木の……上の時……みたいに?」

「そう」

「うん……わかった」

 

キリトの手の中でアスナがゆっくりと握り返す。

自分の隣に椅子を持ってきたリズが座るのを確認してから、キリトは「じゃあ約束通り、ガヤムマイツェン王国の話をするか」と言って静かにアスナに問いかけた。

 

「何が聞きたい?、王都の事か?」

「王都も……だけど……昨日、食べた……イチゴが……なってる所の……お話……」

「いいよ。オレも二、三回しか行った事がないけど、そこはガヤムマイツェンの王都よりほんの少し北にあって……」

 

そうして途中でリズの質問にも答えながらキリトが自国の話を披露する間、アスナはうんうんと時折頷くだけで静かに話に聞き入っている。

キリトが知っている限りの事を話し終えると、アスナがふぅっ、と息を吐いた。

聞いているだけでも身体が辛いのだろうか?、とキリトの表情が心配げな色を帯びると、それを否定するようにアスナがふわり、と笑う。

 

「キリトくんは……色んな場所に……行ったこと……あるの?」

「そうだな、ガヤムマイツェンの国内なら」

「国の中だけでも相当な広さだものね」

 

リズが以前にガヤムマイツェンの王都まで行った時はユークリネ王国の首都から馬車で5日かかったと言えば、アスナは目を細めた。

 

「いいなぁ……私も……行ってみたい」

「来いよ。オレがアスナを案内してやる」

 

アスナの願いにすぐさま応じたキリトはその未来を想像したのか、キラキラと黒い瞳を輝かせている。

しかしそこに水を差したのはリズの一言だった。

 

「無理よ」

「なんでだよ」

「知らないの?、王女はたとえ外交目的でも自分の国から出たらダメなの。唯一出られるとしたら他国にお嫁に行く時ね」

「お嫁……」

 

無意識にアスナの手を包んでいたキリトの手にキュッ、と力が入った。

 

「そっ。ユークリネ王国には貴族がいないからアスナが降嫁する事はまずないでしょ。多分友好国のどこかの王子のお嫁さんになるんじゃないかしら」

 

リズの言った『王子のお嫁さん』の部分でキリトの手に包まれているアスナの指がそっと絡んでくる。

それに気づいたキリトが愛おしそうにアスナを見つめれば、アスナは熱ねせいではなく頬の朱を深くした。

 

「まっ、アスナがお嫁に行く頃には、私もウチの商売の規模をもっと大きくしてアスナの嫁ぎ先の国にも自由に出入りできるくらいにしてみせるから」

 

目の前の王子と王女の密かなやりとりなど吹き飛ばす勢いでリズが胸を張って「絶対、会いに行くからね」と宣言すると、アスナはその心強い言葉に「うん」と嬉しそうに頷く。

友好国からやり手の女商人がガヤムマイツェン王国で手広く商いに勤しむ姿を想像していたキリトの耳に廊下から入室許可を求める侍女の声が飛び込んできた。

 

「姫様、シノンちゃんが到着しました」




お読みいただき、有り難うございました。
手をつないでいるだけでも立派にイチャコラできる「ちびイチャ」
さすが「キリアス」と言うべきか……。


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王子と姫と白い仔猫・7

侍女が開けた扉の向こうに立っていたのは、ここにいる誰よりも幼い少女だった。

青みを含んだ鈍色のショートヘアを両サイドの一房だけゆるく縛って鮮やかな空色のリボンを付けている。

髪色よりも濃い墨色のローブをすっぽりと纏っており、裾からは足首どころか靴しか見えていない。

細い黒縁のメガネをかけた顔をペコリ、と下げてからシノンは臆することなくトコトコとアスナのベッドサイドまでやってくると、木箱を両手で大事そうに抱えたままボソリと呟いた。

 

「アスナ、薬持って来たわ」

 

(ユークリネ王国の国民はみんな王女を呼び捨てなのかよっ)

 

訴えるように睨み付けてくるキリトの視線の意味するところを正確に理解したリズが「あははー」と笑って解説をする。

 

「シノンはね、初めて王宮に来た時、私がアスナを呼ぶ所に居合わせちゃったのよ。だから私と同じように『アスナ』って呼ぶの」

 

その行為を当然といった風でアスナがうんうん、と首を二回、縦に振った。

理由を聞いても、ヒナ鳥の刷り込みじゃないんだから、といきり立つキリトを安心させるように「それ以外の人間はちゃんと『姫様』とか『アスリューシナ様』って呼ぶわよ」と付け足せば「それが当たり前だろ」とあきれ顔で返してくる。

キリトへの説明をリズに任せたアスナが枕に頭を預けた状態のまま「ありがとう……シノのん」と御礼を言うと、その息づかいがさも気に入らないといった様子でシノンの眉間に皺が寄った。

 

「アスナ、熱、下がってないのね」

「今日はね……たまたま……いつもは、ちゃんと……下がるよ」

「ウソ、下がっても平熱まではいかないって聞いてるわ」

 

その幼い体格と面差しには不相応の物言いにキリトが唖然としていると、当のシノンがキッとキリトを睨み付けてくる。

 

「とりあえず、そこ、どいてもらえる?、アスナの様子を診て師匠に報告しなきゃいけないの」

「そういう事言う前にちゃんと自己紹介しろよ」

 

アスナやリズから目の前の少女が調薬師見習いのシノンという名前である事は聞いていたが、初めて会った人間には自ら名乗るのが最低限の礼儀だとキリトは食ってかかった。

その言葉を少し面倒くさそうに受け取ったシノンがゆっくりと口を開く。

初対面の二人の言い合いを呆気にとられた様子で見ていたアスナとリズが同時に「アッ!」という顔をしたが、時、既に遅しだ。

シノンが自分の名前を口にした。

 

「私は魔術師見習いのシノンよ」

「へっ?」

 

聞き慣れない単語にキリトの表情が固まる。

アスナが慌てて繋いでいた手をブンブンと横に振った。

 

「あ、あのね……違うの、キリトくん……」

 

オロオロと瞳を揺らめかせているアスナとは正反対に冷静なシノンの言葉が響く。

 

「アスナ、興奮しないで」

「シーノーンー、魔術師見習いってバラしたらダメでしょ」

「ああっ……リズまで……言っちゃってる……」

「魔術師……見習い?」

 

口にしたシノンより明らかに困った顔のアスナはキリトの手をギュッと握ると「キリトくん」と呼びかけた。

 

「お願い……シノのんの事……他の人には……言わないで」

 

慌てたせいか先刻より息を荒げたアスナに見つめられたキリトはお願いの意味を完全に把握する前に目元を赤くして「わかった」と頷く。

キリトの返事にアスナが安堵の息を吐き出すと同時にリズがシノンに向け例の如く人差し指を彼女の鼻先に突き出した。

 

「シノンっ、他の国の人に魔術師見習いだって名乗ったらいけないって師匠に言われてるわよね」

 

リズの人差し指を気にも止めずにシノンは静かに口を開く。

 

「この人、他の国の人なの?」

「そうよっ、キリトはガヤムマイツェン王国の王子なのよ」

「ふーん。でも私は他の国の人だなんて知らなかったもの」

 

四人のやりとりをあわあわと見ているだけしかなかった侍女がようやく「リズちゃん」と声を挟んできた。

 

「ごめんなさい、早く姫様にお薬を、と思って、シノンちゃんに詳しい説明をしないまま案内してしまったみたい」

 

しかし侍女の言葉に納得するリズではない。

 

「それでもよっ。とにかく知らない人には調薬師見習いだって言いなさい。それだって間違いじゃないんだから」

 

ピシッ、ピシッとリズの人差し指が繰り出す指突き攻撃を邪魔くさそうに手ではらうと「わかったわ」とポソリ言う。

その不機嫌な表情にピンッときたリズが「ははーん」と途端に表情を崩しながら手で自分の顎をさすった。

 

「わかったわ。シノン、アンタ、キリトがアスナの手を握ってるのが面白くないんでしょ」

「はぁっ?」

「ふぇっ?」

 

リズの発言にキリトとアスナが同時に短く驚声を上げると、シノンは珍しく「ちっ、違うわよ」と声を詰まらせて下を向く。

 

「アスナをキリトに取られちゃったと思ったのかしらー?」

「だからっ、違うって」

 

メガネの奥のシノンの瞳が焦りと羞恥で揺れているのを感じたアスナが握っていたキリトの手をふわりとさすってからシノンの方へと手を伸ばす。

キリトも目を細めて軽く頷き、椅子から腰を上げた。

 

「シノのん、いつもみたいに……傍に来て」

「ほら、どけばいいんだろ」

 

キリトに椅子を譲られたシノンは自分が要求した場所だと言うのに、抱えていた箱を侍女に預けると恐縮したように浅く腰掛けて伸ばされたアスナの手をそっと両手で包む。

 

「アスナの手、あつい……それに、脈も少し早いわ」

「うん……でも、シノのんが……お薬持って来てくれた……から、大丈夫」

「日によって効きむらがあるって、聞いたから、師匠が成分と配合を少し調整したって」

「ありがとう……あと……そのリボン……」

「うん、アスナが……くれたリボン」

 

嬉しそうに頬を染めるシノンなどアスナの前でないと拝めないことをよくわかっているリズは冷やかしたいウズウズを飲み込んで侍女が箱から取り出した薬を受け取った。

 

「シノン、今、飲んでいいんでしょ?」

 

リズの言葉に振り返ったシノンは既にいつもの冷静な表情に戻っていて、こくん、と一回頷く。

リズが持っているガラス瓶の中は見るからに怪しげな深緑色だ。

それをアスナの傍まで持ってくれば、シノンが急いで椅子から立ち上がり侍女がアスナの身を起こそうと近づいた。

侍女の動きよりも早くキリトが「オレにつかまって、アスナ」と言って脇にどいたシノンの場所に入り込む。

驚きで口をあんぐりと開けているアスナに向かいキリトが「なんだよ、嫌なのか?」と眉根を寄せて聞けば「だって……みんな……見てるよ」と小さく漏らす。

 

「別にオレに抱き起こされるのが、嫌ってわけじゃないんだな?」

 

上から覗き込んでくるキリトに逃げ場を失ったアスナが小さく「うん」と返事をすると、すぐさま笑顔になったキリトが諭すように言った。

 

「ここでオレがアスナを支えなかったら男としても王子としても失格だろ」

「えっ、そうなの?」

 

驚いたアスナが急に素直に両手を伸ばしてくる。

アスナの脇の下から腕を入れ背中に回してしっかりと抱きしめたキリトが頬をひたり、とくっつけて「起こすぞ」とアスナの上半身をベッドから引き上げた。

待ち構えていた侍女が素早く王女の背中にクッションを詰める。

そうっ、と腕を離せば、カチンコチンに緊張していたアスナが「ふぅっ」と息を吐き出しながらクッションに身体を預けた。

 

「はい、アスナ」

 

すかさずリズが薬の入ったガラス瓶を差し出してくる。

しかしそれを見たキリトが「あれ?」と声を上げた。

 

「その瓶、うちの親父が時々飲んでる胃薬のと同じだ」

「ガヤムマイツェン国王も、うちの師匠の薬、買ってくれてるもの」

 

暗に師匠の薬の素晴らしさを自慢した気なシノンが「ふふん」と鼻を鳴らしながら答えた。

すると続いてちょっと得意気にリズが両腰に手をあてて説明を加える。

 

「ちなみに毎回瓶が割れないための梱包材と、ユークリネ国王からの贈り物として外包の組み木細工箱を用意してるのはウチの店よ」

 

ユークリネ王国の調薬師でもある魔法師が作る薬は評判が良く、どうやら密かに他国の王族や宰相クラスの御用達となっているらしい。

自国の薬より他国の薬を服用しているとは見聞が悪いので、表向きはユークリネ国王からの献上品という形になっているが、その実、ちょっとした国の収益になっている。

 

「って事は、親父はユークリネ王国の魔術師の存在を知ってるんだな」

「そうよ、でもそれは友好国内でのトップシークレットなの」

 

リズが少々大げさに得意の人差し指を今回ばかりは自分の顔の前に立てた。

んぐっ、と一気に薬を飲み込んだアスナが瞳に涙を滲ませながら「でも……どうして……なんだろね」と小首を傾げる。

お世辞にも飲んでみたくなる色、とは言えないシノンが持参した薬を飲み干したアスナにリズもキリトも同情の視線を注いでいると、シノンが当たり前とでもいいたげな軽い口調で真実を明かした。

 

「だって魔術師は、ユークリネ王国にしかいないもの」

 

その言葉に驚きで見開かれているのははしばみ色だけで、リズはうすうす勘づいていたのか「やっぱりねー」と呟き、キリトは残念そうに「そうだよなぁ」と項垂れた。

控えている侍女に至っては苦笑いを浮かべているだけだ。

同年代二人の感想に裏切られたような気分になったのか、アスナが震える声で問いただす。

 

「二人とも……知ってたの?」

「知ってたって言うか、他所の国の行く時は毎回うるさいほど父さんに口止めされたし……」

「オレだって六歳とは言え、ガヤムマイツェンの王子だからさ。そんなヤツがいたら耳に入ってるだろうし……」

 

そこでアスナは再び瞳を瞬かせた。

 

「キリトくんって……六歳……なの?」

「へっ?……そう……だけど」

「年下……だったんだ……」

「年下っても、ひとつだろっ」

「う……うん」

「なんだよ、ひとつでも年下だとダメなのかよ」

「ダメ……じゃ……ないよ」

「ならいいだろ」

「うん」

 

なにやら話の論点が完全に二人だけすり替わっている事に気づいていないやりとりを聞いて、周囲の視線が生温かくなってくる。

しかしそんなぬるさなど気にも止めないキリトが「もう横になった方がいいぞ」と再びアスナを寝かせるべく抱きかかえると、今度はアスナも迷い無くしっかりとキリトの首にしがみついた。

侍女がクッションを取り払い、キリトに大事にベッドへ下ろしてもらうとアスナが安心したように微笑む。

いつの間に薬が効いたのか、アスナの頬は熱を溜め込んだ赤ではなく、恥じらいを混ぜた嬉しさの赤になっていた。




お読みいただき、有り難うございました。
何が「ダメなのかよ」で、何が「いいだろ」なのか……私にはさっぱり
わかりません……。


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王子と姫と白い仔猫・8

薬が効いて火照りが落ち着いてくると熱が下がらなかった時の体力消耗も手伝って、アスナがうとうととまどろみ始める。それに気づいたリズがそっと声を潜めてキリトとシノンにソファセットへの移動を提案した。

そこならアスナの様子もわかるし、という事ですぐさま三人は足音を忍ばせて場所を移す。

侍女が用意してくれたお茶を飲んで一息つくとキリトが思い出したように少し決まりが悪い顔つきで「シノン」と話しかけた。

 

「悪い、オレがちゃんと自己紹介してなかったな。ガヤムマイツェン王国の王子、キリトゥルムライン・カズ・ガヤムマイツェンだ。アスナやリズみたいに『キリト』でいいよ」

 

キリトからの申し出に躊躇いも見せずシノンはすぐさま大国の王子を呼び捨てにした。

 

「……キリトは、なんで、ここにいるの?」

「オレはアスナの見舞いに来たんだ。それでアスナからガヤムマイツェン王国の話が聞きたいって言われて、だからここに滞在してるのさ」

「ふーん……アスナと、随分、仲良くなったのね」

「まあ、そうかな」

「アスナを、ちゃんと、大事にしてくれる?」

「もちろん」

 

一も二もなく承知するキリトにシノンがほんの少しだけ口元を緩ませる。

 

「なら……いいわ」

 

ちょっと悔しそうな口調でキリトを認めたシノンを見て、リズが安心したように「いい子ね、シノン」と褒めると一気に冷めた視線を送ってきた。

その視線に一瞬たじろいだリズは慌ててお茶をゴクリと飲んでから「どうしてアンタはアスナ以外だとそうなのよ」と肩を落とす。

それから、ふと気づいたようにシノンに向けて身体を乗り出した。

 

「まさかっ、アンタ師匠にもそんな態度なわけ?」

「私は、いつも同じ」

 

シノンの返事を聞いたリズが「うそ、信じらんない」と驚きで目を見開いている。

 

「アンタの師匠は魔術士の中でいっちゃんエラくてスゴい先生なのよっ。だから王族の薬も作ってるんでしょ」

「知ってる。私の師匠の薬、よく効くもの」

「親父まで世話になってるくらいだからな」

 

うんうん、と頷くキリトを無視してリズはお決まりの人差し指をぴくぴくと動かし始めた。

 

「その師匠にその態度っ。敬意を払いなさいっ。あんな高価な薬を作り出せる魔術士なんてそうそういないんだからねっ」

「うぅっ……んっ……」

 

声を荒げたリズが思いっきり人差し指を突き出そうとした瞬間、ベッドの中からアスナの小さな息づかいが聞こえるとキリトはカタン、と僅かな音を立て椅子から立ち上がり、急いでアスナの枕元に駆け寄る。リズは人差し指のみならず全ての指を広げて自分の口を抑え、シノンは眼光鋭く、侍女は仰天の表情で二人揃ってリズに向けシィ〜ッ、と声ならぬ声を吹きかけた。

両手の平をぴたり、と合わせて上下に振り、シノンと侍女に代わる代わる謝意を表しているリズには気にも止めず、再び安らかな寝息に戻ったアスナを見てキリトがホッ、と安堵の息を吐く。

ゆっくりと音を立てぬよう元の椅子に戻るとキリトは腰を降ろしながらリズを睨み、声を潜めてシノンに問いかけた。

 

「魔術士って薬を作るのが仕事なのか?」

「そうね」

 

端的な答えにリズが補足を添える。

 

「メインは薬を作る事と子供達に勉強を教える事。だから両方の意味を込めて『先生』って呼ばれてるわ」

 

それからこっそりと自慢の人差し指を鼻にくっつけるようにして立て「他にも魔力を込めた小物なんかも作ってるけど、これはさすがに秘密すぎて私もよく知らないの」と打ち明ければ、キリトが感心したように「へぇぇっ」と唸った。

 

「いいなぁ。オレも魔術士に会ってみたい」

 

ぽそり、と本音を漏らすとシノンが涼しげな顔で口を開く。

 

「結構あっちこっちに、いるわよ」

「へっ?」

「ああ、まあ、シノンの師匠でなくていいなら、割と簡単に会えるわね」

「ええっ!……どういう意味だよ」

 

魔術士だの魔力だのといった言葉からキリトが想像していたのは人嫌いで滅多に会えない貴重な人物というイメージだった。

驚いているキリトの顔を見つめていた二人の少女達は珍しく同様の不敵な笑みをフフッ、と浮かべた後、リズが説明を請け負う。

 

「だから、ユークリネ王国内なら大きな街には必ず数名、小さな村なら二つ、三つをまとめて一人か二人で担当する魔術師がいるから会おうと思えば会えるのよ。ただし調薬士と名乗ってるから知らない人は魔術士だってわからないけど」

「街や村の人が『先生』って呼んでれば、その人が魔術士よ」

「だからか……昨日、リズが『どんな親だって子供に薬を与える』って言ったのは」

「そう。この国では薬が手に入らない、なんて事は起こらないの。お金がなくても魔術士は薬を分けてくれるから」

「その代わり、日々の生活は、街や村の人達の助けて、もらってるし」

「……すごいな、この国は」

 

魔術士の存在と民との関係を知れば知るほどユークリネという国の認識が変わっていく。

 

「そんな魔術士がガヤムマイツェンにも居てくれればいいのに……」

 

羨ましさも手伝ってこぼれ落ちた言葉にリズが申し訳なさそうに微笑んだ。

 

「残念だけど……それは、無理ね」

「なんで?」

 

僅かな期待すら抱かせない返答にキリトの眉尻が下がる。

その表情を真っ直ぐに見つめながらリズが「私も父さんから聞いただけなんだけど……」と前置きをしてから話し始めた。

それは遙か遠い昔の話。

ユークリネ王国以外にもまだ魔術士が点在していた頃の話だ。

王や貴族に奴隷のように召し抱えられた者もいれば、村人から石を投げつけられた者もいた。

隠れるように住んでいた場所を兵士に追われた者達もいて、次第に彼らはユークリネ王国へと逃げ延びてきたのだ。

もとより厳しい自然の中で魔力のある者、ない者の区別なく寄り添うように暮らしていたユークリネ王国の民は諸外国からやって来た彼らを笑顔で迎え入れた。

そうしてこの国の民としてそれぞれの土地に居を構え、家族を作り、歳を重ね、代を重ねてきた彼らにとって今更先祖を虐げてきた諸外国に移ろうなどと考える者がいるはずはなかった。

 

「それに、今は、環境的にも、無理だわ」

 

シノンの言葉にキリトがリズから視線を移すが、それ以上を説明する気がないのか口を開く気配は一向にない。

リズが小さく「もうっ」と文句を言って続く言葉を引き受ける。

 

「薬作りの材料がね、ユークリネ王国は知っての通り自然が豊でしょ。だから他の国では手に入らない植物を調薬に使ってるの」

「……そうかぁ……」

 

未練の残っている口ぶりだが、肝心の薬の材料が手に入らないのでは住み慣れた土地や親しい人達と別れて他国に来る魔術士などいないに違いない。

ユークリネ王国では寒冷地域の植物は入手出来ないが、それはリズの家が頑張って入手ルートを開拓している。通常手に入る植物の種類で言えばこの国ほど豊かな国はないのだ。

 

「でも、魔術士って家系で続いてるのか?」

「もとはそうなのかもしれないけど、今は婚姻を重ねてるせいか魔術士の子供が魔術士ってケースはほとんどないわ」

「なら、どうやって?」

「魔力のある子を魔術士が見つけて、シノンみたいに弟子にするの。まあ、魔術士になる、ならないは本人の自由だけど、なりたがらない子はまずいないわね」

「だろうな。でも魔力のある子供を見つける方法は……」

「忘れたの?、魔術士が子供達に勉強を教えてるって」

「あ、そうか」

「小さな村を幾つか担当してる魔術士だと勉強をみて、薬も作ってるけど、大きな街や王都だと学校で勉強を教える魔術士と薬を作る魔術士は別々に仕事をしてるの。でもシノンの魔力に最初に気づいたのはアスナだったから、ちょうど王宮専属の調薬士をしている魔術士の長にシノンを預けたってわけ」

 

その時の光景を思い出したのか、シノンが苦しそうに顔を歪めた。

 

「私の、魔力が暴走した時、アスナ、ずっと手を握ってて、くれた」

「あの時は大騒ぎだったわねー」

 

腕組みをして、うむうむ、と頷いていたリズはそっと身体をキリトの方に傾け口元を手で隠して声を潜ませる。

 

「この子、これで既に次期魔術士長って言われてるくらい魔力強いのよ」

 

リズからもたらされた意外な事実にキリトが目を丸くしていると、自分自身には頓着がないのか、当のシノンは平然とした面持ちで「そうだ」と独り言のように話を切り替えた。

 

「リズ、私、アスナにパジャマ、持って来たの」

「また!?、あんたこの前も結構な枚数、持ち込んだわよね」

「だって、王都のおばちゃん達が、アスナに渡してくれって」

「そんなに貰ったって、アスナの性格知ってるでしょ。贅沢に取っ替え引っ替えなんて着ないわよ」

「でも、おばちゃん達が……」

「あー、はいはい。ごめん、私が悪かったわ。あのおばちゃん達、言い出したら聞かないものね。あとね、シノン。パジャマじゃなくてナイトドレスね」

「寝る時に着るの、パジャマでしょ」

「そうだけど、違うの」

 

二人の会話を聞いていたキリトは、そう言われれば、と先程のアスナの姿を思い出す。

さすがは王女の装いと言うべきが光沢のある生地はとても滑らかな手触りで、袖口や襟元には二重三重のレースという手間をかけた仕上がりになっていた。

また、所々に縫い付けられたリボンはドレスの生地と同じ色合いだったが、素材が違うために光の反射が異なっていて上品なだけでなく遊び心も織り込まれている。

あれをシノンの言う「王都のおばちゃん達」が用意したのなら、よほど腕の良い仕立て屋を知っている裕福な家の女主人なのだろうと思い「豪商のおかみさんなのか?」と聞けば、リズにつられたようにシノンまでもが「ぷぷっ」と笑いを漏らした。

 

「まさかっ、普通に王都で暮らしてるおばちゃん達よ。アスナが療養で王宮に不在なのを知って何やかやと世話を焼きたがってるだけ」

「だって、アスナのナイトドレス、デザインも素材も上等だったから。庶民が手に入れられる物にしては……」

「何言ってるの、あれは、おばちゃん達の手製よ」

「手製!?……そのおばちゃん達って腕のいいお針子とか?」

 

そこまでのキリトの反応を見てリズは「ああ、そっか」と合点がいったように頷いて、恒例の人差し指を左右にぴっ、ぴっ、と振り「キリト、あんた、知らないのね」と哀れむ瞳で告げる。

 

「なっ、なにがだよっ」

「ユークリネ王国の女衆の針仕事なんてみんな小さい頃から当たり前にやってるのよ」

「……そうなのか?、木工技術の高さは知ってるけど」

「それは男衆の得意分野ね。この国では農閑期になると女は絹糸で機織りもすれば刺繍にレース編みは朝飯前。男は木材で家具を作ったり、細かな作業が得意な人は寄せ木細工で工芸品を……って、それはガヤムマイツェン国王様に届けてる薬箱で知ってるでしょ?」

 

リズに言われて、キリトは時折届く見事な細工を施した木箱を大事に抱えている父王を思い出した。

あれは中身ももちろんだが、外箱も貴重で母が小物入れにしたり、妹が宝箱にしたり、時には臣下に、と毎回誰かに下賜され喜ばれている。

 

「だから言ったでしょ。あの箱を用意しているのはウチの店だって。みんなが作った品をうちが仲介取り引きして寒期の収入になってるの。他国の業者に任せると国民に無理な品数を要求してくるのよ。品質も信用も落ちるし、みんなの負担にもなるから絶対任せられないわっ」

 

過去にユークリネ国民の生真面目さを利用した悪徳商人が他国から入り込んできて事件になったらしく、それ以来ユークリネ王国の特産物は一手にリズの店が取り仕切っているのだそうだ。

 

「そんなわけだから普通のおばちゃん達でも王女のナイトドレスを作るのなんて、家で夕飯をこしらえるのとおんなじ感覚ね」

 

アスナに請われてガヤムマイツェン王国内の話をしたが、小国とはいえユークリネ王国も知ってみると色々と驚かされる事があるのだと気づいたキリトは、いつかアスナ自身からこの国の話を聞かせて欲しいと願いを抱いた。




お読みいただき、有り難うございました。
「ちびイチャ」皆無でごめんなさいっ。


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王子と姫と白い仔猫・9

ガヤムマイツェン王国の王子が離宮にやって来て数日が経ったある夜……朝日が顔を出すにはまだ少し時間がかかろうかという頃、キリトは暗い部屋の中でぱちり、と目を覚ました。

寝起きと物覚えに関しては胸を張って「自信ないぞ」と言い切っている彼にしては珍しいことだ。

そのまま少しの間、何かを考えていたがむくりと起き上がって寝台を抜け出すと、物音に気づいたのか続き部屋に控えている優秀な従者がコトリ、と仕切りの扉を開けた。

キリトが起き出している事に驚いた様子で「どうかなさいましたか?」と問いかけてくる。

曖昧な笑みを浮かべたキリトが「ちょっと目が覚めた」と言った後「少し屋敷内を散歩してくる」と廊下に続くドアノブに手をかければ「お供させていただきます」と背後からキリトにガウンを羽織らせた。

特に目指していたわけでもないのだが、足は自然とアスナの私室に向く。

夜更けに熱が上がる、と聞いていたのを思い出し部屋の前で足を止めると、不意に中からカチャリ、と扉が開いた。

部屋の中から出てきた侍女は目の前の小さな存在に一瞬驚いて持っていた水盤の水をはねかせたが、すぐさま「キリトゥルムライン殿下でしたか」と安心したように肩の力を抜く。

 

「この様な時間に、どうされたのですか?」

「アスナの熱は?」

 

侍女の言葉に答えるより一番心を占めている気がかり事を尋ねると、侍女は少し困ったように笑ってから「大丈夫ですよ」と告げる。

手にしている水盤の水を替えに行くのなら熱があるのは間違いなく、侍女の答えに不満げな瞳で見返すと彼女は改めて詳細を話した。

 

「熱はありますが、以前よりはずっと軽いのです。これなら明け方には落ち着くかもしれません。少しずつですが良くなってます」

 

その言葉を疑うわけではないが、キリトは不作法と知りつつも我慢出来ずに願いを口にする。

 

「部屋に入っても……いい?」

「今は眠っておられますが」

「構わない。顔を見たいだけだから」

 

日中にキリトがアスナの部屋で過ごす事は当たり前になっていたが、深夜に部屋を訪れるのはさすがに外聞がよろしくない。

侍女が思わずキリトの後ろにいる侍従を見れば、彼も苦笑いを浮かべるだけで王子を止める気はないようだ。

 

「でしたら、少しの間だけですよ」

「うん、ありがとう」

 

侍従は侍女に対して深々と頭を下げると扉の横で直立不動の姿勢をとった。

王子が部屋から出てくるまでそこで待つつもりらしい。

侍女は再び室内へと引き返し、水盤を置くと小さな声で「どうぞ、殿下、お入り下さい」と導いた。

燭台のローソクに灯る僅かな明かりを頼りにベッドサイドまで辿り着いたキリトは、想像していたより安らかな寝顔のアスナにホッ、と息を吐く。

椅子を勧めてくる侍女を手で断ってそっとアスナの枕元に立った。

髪に額に、頬に触れたい気持ちを抑え、その分を視線に込めてジッと彼女を見つめたまま静かに言葉を落とす。

 

「オレ、アスナに嫌われたのかな?」

 

見なくとも傍にいる侍女の驚く気配を感じた。

 

「どうして……その様に思われるのですか?」

「だって、いきなり、もう国に帰った方がいいって」

 

力のない声で泣きそうな顔の王子が何を思ったのかがわかり、侍女はすぐさま「違いますよ」と優しく言った。

 

「他の侍女から聞いております。昨日、姫様にキリトゥルムライン殿下が日頃どのようにお城の中で過ごされていらっしゃるのか、お話くださったそうですね」

 

頷くだけのキリトに侍女は言葉を続ける。

 

「昨晩、姫様がおっしゃっていたそうですよ。この離宮にお引き留めしている事でガヤムマイツェン王国の国王様や王妃様、それに何より妹姫様が寂しがっておいでなのではないか、と」

 

キリトは唖然とした表情で侍女を見た。

 

「な……んで……なんでアスナが会ったこともないオレの妹のことを気にするんだよ」

「なぜだと思います?」

 

侍女ば少し悪戯を仕掛けるように笑ってキリトに問いを返す。

 

「アスナが……優しいから?」

 

それはこの数日で身に染みて感じたアスナという少女を表す言葉だった。

 

「そうですね、それもあります」

 

それだけではないのだと気づき、キリトは考え込む。

 

「なら……オレの妹が幼くて人の手ばかりアテにしてるって話したから……心配になった……とか?」

 

僅かに目を見開いた侍女が「そうなのですか?」と言ってから少し可笑しそうに目を細め、「可愛らしい方なのですね」と抱いた妹への感想をキリトはブルブルと首を振って否定した。

 

「可愛くなんてないぞ。今回の事だって、出立の時『お土産期待してるね』して言ってなかった」

 

きっと帰城した途端に「おかえりない」の前に「お土産は?」と聞いてくるに違いない。

それに人を惹きつける明るい性格と、人を振り回すので手がかかる、という理由もあって妹の周りは常に人が溢れている。

侍女はもちろんだが、遊び相手として貴族の子女がしょっちゅうやってくるのだ。

中でも同い年の子爵の令息は来る度に妹姫に泣かされて帰るくせに、なぜかよく通ってくる。

気が合っているとは思えない間柄に見えるのに妹も毎回相手をしてるのだから、あの二人は謎だ、とドングリのような顔つきにやっぱりドングリのような目をもつ子爵の息子を思い出しているキリトに侍女はそっと声をかけた。

 

「それも、あるかもしれませんね」

「だから、妹は寂しがってなんかいないって」

 

必死に否定しようとした時だ、侍女が「お忘れですか?、殿下」と僅かに声を揺らす。

 

「アスリューシナ様もユークリネ王家の中では妹姫様なのですよ」

 

その言葉でキリトは全てがわかった気がした。

どうしてアスナがキリトの家族の話を聞いて、帰りを待っているのではないか?、と思ったのか。

妹姫がいると知って、キリトの不在を寂しがっているのではないか?、と思ったのかを。

 

「アスナが……アスナが、いつも王宮で家族の帰りを待ちわびているから?、家族の不在を寂しいと感じているから?……だからオレに城に帰れって言ったのか?」

 

キリトの答えにようやく侍女が首を縦に振った。

 

「でも……そんな事、姫様はお認めになりませんけどね。『寂しくなんかないわ』『一人で大丈夫よ』ってご自分はおっしゃるくせに、私達使用人には今回の離宮同行で家族と離してしまってごめんなさいっておっしゃるんですよ」

 

侍女は頬に手を当てて、ふぅっ、と息を吐くと「本当に困った姫様です」とリズのようなセリフを口にする。

 

「私達なんて普通なら入ることも出来ない離宮に来られてちょっぴり喜んでいるくらいなのに。うちの姫様は周りを頼ってくれなさすぎです。もっとアレやって、とか、コレして、とおっしゃってくださればいいんですが……」

「リズも同じ事、言ってたな」

「そうですね、お友達のリズちゃんにもそんな感じですから、侍女の私達にお願い事などしてくれませんね」

 

寂しく笑う侍女にかける言葉が見つからず、キリトが気まずそうにしていると「でも」と侍女は仕切り直すように弾んだ声をあげた。

 

「願いを言ってくれなくても姫様が私達を大事に思って下さっているのはわかってますから。キリトゥルムライン殿下も大丈夫ですよ、嫌われてなんていません」

「うん……わかった」

「では、そろそろお休みください。明日は朝食後にご出立されるのでしょう?」

「そうだな、仕事の邪魔をして悪かった」

 

キリトの謝辞に「とんでもありません」と首を横に降る侍女から視線をアスナの寝顔に戻す。

起きている時より幾分あどけなさを纏う寝顔をキリトは笑顔で見つめてからそっと傍を離れた。




お読みいただき、有り難うございました。
ガヤムマイツェン王国の王女の元へ通ってくる子爵の令息くん……王女の事を
情けない声で「リーファちゃーん」と呼んでます(苦笑)
不敬罪に問われないのかな?


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王子と姫と白い仔猫・10

離宮の正面玄関にはガヤムマイツェン王国の紋章が入った二頭立ての箱馬車と護衛の従者が乗る馬達が出立の時を待っていた。

その馬車の前に立つキリトを見送ろうとリズを始めとして手の空いている侍女や侍従が大勢集まっている。

離宮滞在中に王子、王女だけでなく、その従者達も親交を深めたようで、キリトの後方では別々の王家に仕える者達が別れの言葉を交わし合っていた。

そんな様子を嬉しく思いながらリズと喋っていたキリトが屋敷内に視線を移し、問いかける。

 

「リズ、アスナは?」

「んー、もう来ると思うわ」

 

そのリズの言葉通り、エントランスの奥から侍女に手を引かれたアスナがやってきた。

侍女の斜め後ろを俯きながら歩いてくる様子はいつものシャンッと背筋を伸ばし、前を見て真っ直ぐ歩くアスナの姿とかけ離れていて、思わず心配そうにキリトが駆け寄る。

そっとアスナと繋いでいる手を離してキリトに一礼をしたのは、昨晩、彼女の世話をしていた侍女だった。

 

「お待たせして申し訳ありません。キリトゥルムライン殿下をお見送りするのに姫様のお支度が少々手間取りまして」

 

その言葉にキリトが「意味がわかんないんだけど?」と言う顔で侍女を見ると、彼女は困ったような笑顔でアスナに視線を移す。

見送る側が何の支度をするというのだろう?、それとも深夜にこっそり寝顔を見に行った時はそれほど体調が悪そうには思わなかったが、あれから熱が上がって一人で歩くのも大変な状態なのだろうか?、と不安になったキリトは未だ俯いたままの彼女の両手を自分の手に取って、気遣うように「アスナ?」と名を呼ぶ。

触れた手から平常値以上の体温は感じなかったが、顔を上げないアスナに再び「大丈夫か?」と問いかければ、やっと目の前の少女がゆっくりと視線をキリトに合わせた。

その顔は……どう見ても今さっきまで泣きじゃくっていたのを無理矢理抑え込んできたような状態で、キリトが驚いて目をまん丸くしていると「コホン」と侍女が軽く咳払いをしてから説明を始める。

 

「キリトゥルムライン殿下とお別れするのがよほどお辛いようで……」

「サタラっ」

 

途端にアスナが隣に立つ侍女に顔を向けて焦り声で名前を口にした。

 

「先程から涙が一向に止まらず……」

「違うってば」

 

必死な形相にキリトが堪らず「ププッ」笑うと気恥ずかしそうにアスナがキリトに向き直り、もう一度「違うのに」と重ねる。

体調が悪いのではないとわかり、キリトが安堵と同時に嬉しさの息を落とす。

 

「アスナ……鼻、赤くなってる」

「ううっ……突然たくさんくしゃみが出たの」

「そっか」

「ひゃっ」

 

アスナの鼻の頭にキリトがキスをした。

 

「それに、目元も……随分こすっただろ」

「目にっ、目にゴミが入ったんだもん」

「ふーん」

「ひゃぁっ」

 

未だ涙の滲んでいる両方の目元に口づけると、きつく瞳を閉じたアスナの目尻から僅かに残っていた涙が押し出されて、それをぺろり、とキリトが舐め取る。

侍女や侍従達からの視線を一身に浴びて逃げ出したいアスナだったが、両手をしっかりとキリトに握られているため首をすくめることしか出来ない。

そのまま瞳を固く閉じているとすぐ耳元から小さな声で「ごめん、アスナ」とキリトの声が聞こえ、驚いて目を見開けばちょっと悲しそうなキリトの顔が目の前にあった。

 

「本当はちゃんと治るまで傍にいたかったけど」

 

その言葉に慌ててアスナが首を横に振る。

 

「いいの、私なら大丈夫よ。もうお熱だってあまり上がらなくなったし。きっともう少しで私も王宮に戻れるわ。だから平気」

 

アスナが話している間、なぜか益々悲しそうな顔になっていくキリトを見て「どうしたの?、キリトくん」と問いかけると、コツンとキリトがアスナとおでこを合わせた。

 

「あんまり大丈夫とか、平気って言うなよ」

「なんで?、本当に平気よ」

「なら……アスナはこれからオレにずっと会えなくても、平気?」

「っ……」

 

出てこない言葉の代わりに、じわじわと瞳から涙がにじみ出る。

 

「……へっ……平気……じゃない……」

「アスナ」

「また……会いに……来て……くれる?」

「アスナが望んでくれるなら」

「お、お願い、キリトくん……また、会いにきて」

「うん、必ず行く……アスナ、王宮でも一人で頑張らないで、そうやってリズや侍女達にもお願いしろよ」

「わ……かった」

 

安心したキリトがアスナのおでこから離れれば、再びあふれ出したアスナの涙に横からハンカチを押し当てる侍女がにこり、と微笑んでキリトに頭を下げた。

それから繋がっているアスナの両手をキュッと握ってキリトは黒い瞳を輝かせる。

 

「アスナ、オレ、一人で馬に乗れるようになる」

 

誓いめいた言い方に鼻をすすりながらアスナが首を傾げると、キリトは「今だっていちを乗れるんだけどさ」と前置きをしてから自分の考えを披露した。

 

「もっとちゃんと馬を扱えるようになれば馬車より早く移動できるし。そうすればユークリネの王宮までだって、すぐに行かれるだろ」

 

その発言に後方のガヤムマイツェン王国の従者達はギョッとした表情になったが、当のキリトとアスナは満面の笑みでうなずき合っている。

キリトは笑顔になったアスナのおでこに再び自分の額を押し当てると、周囲には聞こえないようそっと囁いた。

 

「だから……あの約束、ちゃんと守れよ」

「うん」

「辛くなったらオレを呼ぶこと」

「うん」

「その代わり、オレもアスナのこと、あてにしてるから」

「うんっ」

 

未だ瞳に涙を滲ませながら、精一杯の笑顔で頷くアスナの柔らかい頬に少し長めのキスをしたキリトはパッ、と顔を上げると彼女の手を離し「じゃあな」と笑ってアスナに背を向ける。

早足で馬車まで戻ってくるとパタパタという小さな足音が背後から近づいてきてピタリ、と止まり「キリトゥルムラインさま」と鈴を転がすような声がした。

従者に手を取られ、まさに馬車に乗り込もうとしていたキリトが驚いて振り返るとドレスの両端をつまんだアスナが深々と頭を下げてからふわりと微笑む。

 

「今回は本当に有り難うございました。ガヤムマイツェン国王様にもアスリューシナが御礼を申し上げていたとお伝え下さい。ま……また、お会いできる日を心からお待ちしております」

 

キリトは従者の手を押し戻すとアスナと正面から向き合い、同様に「アスリューシナ姫」と名を呼んだ。

 

「くれぐれも身体には気をつけて。オレも次に会える日を楽しみにしている」

 

互いに見つめ合ったのは一瞬で、すぐさまキリトが馬車に乗り込めば従者達がそれぞれの配置に着いた。

馬車の小窓からキリトがアスナに目をやると、安心させるように笑顔で応じる。

ほどなくして馬車が動きだし、離宮の従者や侍女達が頭を下げている中、アスナだけはその姿がかすむまで馬車を見送り続けた。

 

 

 

 

 

それからキリトは宣言通りに度々ユークリネ王国の王宮にいるアスナの元を馬で訪れるようになる。

王宮の門番にはすっかり顔を覚えられてしまい、身分を明かさなくても「ようこそいらっしゃいました」と出迎えられる始末だ。

いつだったか、あまりに簡単にアスナの元まで案内されたキリトは王女の警護について不安を口にしたが、たまたま同席していたリズがふふっ、と意味ありげな笑みを浮かべて「問題ないわ」と言い切った。

 

「王宮を担当してるのは魔術士長よ。怪しいヤツは入れない仕組みになってるの」

 

その時、リズの瞳がやけに怪しく輝いたのでその仕組みについては深く聞かない方がいいんだろうな、と背筋を走ったゾクゾクに従ってキリトは納得する。

そうしてその後もキリトはアスナの「会いに来て」という願いと、自らの「会いたい」という願いを叶えを続けたのだった。

 

 

 

 

 

 




お読みいただき、有り難うございました。
これで「ちびイチャ編」(!?)は終わりです。
こんな感じで六歳の頃からアスナ姫を溺愛するキリト王子って……
どうなんでしょう?


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王子と姫と白い仔猫・11

そうして月日は流れ、始めて二人が離宮で出会った日から八年が経ちキリトが十四歳、アスナは十五歳になっていた。

 

「それで?、なんだってわざわざ王太子が来たんだよ」

 

明らかに不機嫌な表情と声でキリトは隣に座るアスナを睨み付けるが、睨まれた方は一向に気にするそぶりも見せず、いつもの様にほわんほわんと優しい笑顔で応対する。

 

「うーん、どうしてだろうね?、少し政務の手が空いたんじゃないかな?」

「そんなわけないだろ、あの国だってガヤムマイツェンと肩を並べる大国だぞ」

「なら、きっと周りの人達がとっても忙しかったんだよ」

「あのなぁ、アスナ。子供の使いじゃないんだから、忙しいから代わりに行ってきて、なんて王太子に言うかっ」

「なら……なら……」

 

そこまで言ってアスナは自分の唇に人差し指をあて、考え込んでいる。

小さい頃からの癖が抜けていないその仕草を見ると初めて離宮で会った時の面影を感じるが、そんな思い出に浸っている場合ではないとキリトは頭を振った。

ユークリネ王国の友好国とは言えガヤムマイツェン王国と同等の大国がなぜ国王の親書を届けるだけの目的にわざわざ王太子を遣わしたのか、理由など考えるまでもない。

ここ数年でユークリネ王国の第一王女アスリューシナの成長は周囲の者ですら目を瞠るようだった。

今では王宮での国王の名代をひとりでしっかりと勤め上げる程だが、成長は内面だけに留まらず、むしろ外面であるその容姿こそ幼い頃からの愛らしさに加え、周辺諸国一の美姫と謳われるほどに聡明な輝きを纏うようになっている。

王女が国外に出られない為にこぞって他国の王子や上級貴族の令息達がユークリネ王宮にやって来ているという噂は何度もキリトの耳に届いていた。

真の目的がわかっていないのは当事者であるアスナくらいなものだ。

 

「くそっ、怪しいヤツはこの王宮に入れないんじゃなかったのか?」

「キリトくんてば……各国の王子様方は怪しいヤツじゃないでしょ」

「オレ以外は入れないようにしてくれないかな……」

「もうっ、これは大事な王女のお仕事なんだから、そんな事言ったらダメだよ」

 

今度はアスナがキリトを睨み付けた。

そんな視線を無視してキリトがジッと漆黒の瞳でアスナを見つめ、一段と低い声を放つ。

 

「でも……仕事でも挨拶はするだろ」

「それは、もちろんするわね」

 

そっとアスナの膝の上に行儀良く並んでいる手の片方を握ると、キリトは自分の顔に引き寄せた。

 

「手の甲へのキスも?」

「あ……挨拶だもの」

 

答えた途端、アスナの手の甲にキリトの唇が押し付けられる。

思わず「ふひゃっ」と声を上げてしまったアスナはいつまで経っても手を離してくれないキリトに焦り始めた。

 

「キ、キリトくん?、挨拶はさっきしたでしょ」

 

アスナの言葉通り、王宮に到着したキリトはいつものように出迎えてくれたアスナの手を恭しく取り、誰にでもしている挨拶のキスをとうに済ませている。アスナの私室で改めて彼女の手を取る必要はないはずだ。

僅かに甲から唇を離したキリトが目を細める。

 

「ああ、だからこれは挨拶のキスじゃなくて……」

 

言うやいなや王女の手の甲をペロリ、と舐めるとグイッと更に腕ごと引き寄せた。

 

「わけのわかんないヤツにされたキスの消毒と……」

 

そのまま唇でアスナの頬に、鼻先に、額にと触れ、キスの雨を降らせる。

 

「親愛のキス」

「ひゃっんっっ」

 

いつの間にかしっかりと腰までホールドされたアスナはキリトの言う「親愛のキス」を受け続けた。

こんなキスはあの離宮で数日間を過ごした時から当たり前になっている。

けれどやはり人払いをしておいてよかったとアスナは内心で思いつつ、このキスの意味を考えて心が重くなった。

キリトがこんな風にキスをしてくる時は決まってこの先、しばらくユークリネ王国に来られないとわかっている時だ。

やっと彼の抱擁が解かれるとアスナはキリトに向け、寂しそうに微笑んだ。

 

「また……忙しくなりそうなの?」

「忙しいって言うか……」

「身体、気をつけて……ちゃんと食事はとってね」

「ごめん、アスナ……今度は結構長いんだ」

「どれ……くらい?」

「……二年」

「……っ!!」

 

息を飲むと同時にゆっくりと視界が霞んでくる。

今までなら長くとも半年を待たずにキリトはアスナの元に来てくれていた。

二年という期間は途方もなく長い時間に感じられる。

瞳に滲んだ涙を見せまいとアスナはキリトの胸元に額をつけた。

そんな意図はお見通しのキリトが追求することなくふわりとアスナを腕の中に閉じ込めてゆっくりと背中をさする。

 

「親父が……この二年でオレの見聞と知識を深める為に諸外国を回ってこいって。親善大使を兼ねた留学って感じだな」

 

腕の中のアスナは身動きもせずキリトの言葉を聞いていた。

 

「だからさ、留学先の国に厄介になってるのに他の国の王女のとこに遊びに来るわけにはいかないだろ」

 

当然だと言うようにすぐにコクリ、とアスナが首肯する。

堪らずにキリトがその栗色の髪に頬を寄せた。

 

「でも、手紙くらいなら……」

 

途端にアスナがプルプルと頭を横に振る。

ガヤムマイツェン王国の王子を迎え入れてる側としては王子の生活面は常に細かく管理するだろう。

差し出す手紙も送られて来る手紙にも他の人間の目が通るに違いない。

第三者の目を気にして手紙のやりとりはしたくはなかったし、そもそも留学中に他国の王女と手紙を交わすなどキリトの立場も悪くしかねない行為だ。

 

「へ、平気……大丈夫よ……二年くらい……」

 

アスナの常套句に思わず溜め息の漏れるキリトは彼女を包んでいた腕にギュッと力をこめた。

 

「平気なんて言われると結構傷つくな」

「…………平気じゃないけど…………我慢……する……」

「ごめん、アスナ。今回だけは……この二年だけは……そのかわり、オレからも親父に約束を取り付けたから」

 

腕の中から小さくくぐもった声で「約束?」と聞こえたキリトはアスナの頭に密やかな声を落とす。

 

「この二年、ちゃんと役目を果たせたらオレには王太子の称号が授与される。その時、ちょっとだけアスナに手伝って欲しいんだけど、いいか?」

 

キリトからの願いを聞いてアスナがそうっ、と顔を上げた。

 

「私が?……いいよ。何を……」

 

問い返そうと目の前の少年を見上げた時、アスナの目には悪巧みが成功したかのようにニヤリ、と笑うキリトの顔。

続いて出てきたのは思いもよらない言葉だった。

 

「よかった。なら、王太子の授位式に一緒にでてくれよ。オレの隣に立って、妃としてさ」

「ふぇっ?!」

 

これ以上はない位はしばみ色の目を見開き、ついでに口もポカンと開けたアスナの顔を嬉しそうに眺めながらキリトはわざとらしい安堵の息をはいた。

 

「助かった。こればかりはアスナに了承してもらわないと、オレひとりじゃどう頑張っても無理だし」

「なっ……どっ……どーゆー事っ」

「だって昔、言っただろ。オレが困った時はアスナをあてにするって」

「それはっ……そうだけど……でも、妃って……」

「イヤなのか?」

 

塵ほども疑っていない漆黒の双眸に覗き込まれて、アスナはうぐぐっ、と口を噤んだ。

もう随分と前から、もしかしたら離宮で出会った日から、いつか自分が彼の隣に立ちたいという気持ちは常に心のどこかにあった気がする。

それでもこんな形で告げられるとは想像もしていなかった。

嬉しい反面、ほんの少しの悔しさもあってアスナはキリトの胸をぽすぽす、とグーで叩く。

 

「……ずるい…………ずるいっ、ずるいっ…………もっと……ちゃんと……言ってくれると……思ってた」

「悪い…………でも、オレらしくていいだろ?」

 

プロポーズを受け入れたくせに、顔を真っ赤にして叩いてくる彼女の反応が可愛らしくて、照れながらもクスクスと笑い声を漏らしたキリトは、その手を捕まえて甲に口づけをした。

アスナのグーの手に唇を落とすのはこれで二度目だ。

 

「だからもう、これは挨拶のキスじゃなくて、親愛よりも深い……」

 

そい言うなりつかんでいた手を引き寄せてアスナの唇を塞ぐ。

今まで散々キリトからキスは受けてきたが、口づけをされたのは初めてだった。

どうしていいのかわからずに固まっているアスナの唇を啄むようなくすぐったいキスが何度も落とされる。

それも終わると今度は唇同士を触れ合わせてアスナの上唇を軽く食み、驚いたアスナが「ふゃっ」と目を瞑ると同時に漏らした声と入れ替わりにキリトの舌が素早く侵入してきた。

縮こまるアスナの舌をそっと舐めてほぐしてやり、ゆっくりと絡め合う。

慣れない行為にアスナの息が苦しくなってきたところで名残惜しそうに口づけを解くと抱え込むように華奢な身体をギュッと閉じ込めた。

 

「これから二年は他の男共から挨拶のキス以外触らせるなよ」

 

苦しいほどに抱きしめられているアスナは腕の中で僅かに頷く。

 

「ああ、でもこの話はオレが留学から戻ってから申し込むことになってるから、今はアスナの胸の裡に留めておいてくれ。と言ってもユークリネ国王には随分前から何度も願い出てるから今更だけどな」

 

父王がこの話を知っていると聞いて朱に染まっている頬のまま顔を上げると、キリトは苦笑いをしながら「ウチの親父がさ、こういう順番はうるさいんだ」と告げてから「でも」と続けた。

 

「これだけオレが人目もはばからずにアスナの元に通ってるっていうのに、それでも他国からアスナ目当てでやって来るヤツがいるってわかったら安心して二年なんて待ってらんないだろ」

 

再び不機嫌な口調に戻ったキリトを見てアスナは首を傾げる。

 

「私、目的?……みなさん、お仕事でみえてるんだよ?」

 

アスナの言葉を聞いた途端「ほんと、勘弁してくれ」と呟きながらぽすんっ、と王女の艶やかな栗色の髪の上に頬をのせたキリトはそうしてすりすりとしばらく彼女の感触を堪能したのだった。




お読みいただき、有り難うございました。
正確には周辺諸国一の天然美姫、アスリューシナ王女です。
そして、これでやっと過去のお話も終了で現在へと戻ります。


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王子と姫と白い仔猫・12

ユークリネ王宮への道すがら、樹枝の上の真っ白な仔猫を助けるべく伸ばした手は毛並みに触れるより先にそのフワフワが丸ごと勢いよく降ってきてキリトは思わず叫声をあげた。

 

「ふがゃっ!」

 

仔猫は差し出されたキリトの手を華麗にスルーしてその先の顔にぴょっん、と飛び移ったのだ。

 

「うわっ、うわっ」

「みゅぅぅぅっ」

 

いきなり顔面を覆った白い柔らかな毛並みにパニクったキリトは仔猫を引き離そうともがくが、自分が暴れれば暴れるほど仔猫が振り落とされまいとしがみついてくるので、一旦、深呼吸をして仔猫を顔に張り付けたまま自分を落ち着かせる。

キリトを乗せている馬は長旅の疲れからか背中の上の主人と仔猫のじゃれ合いには無関心を決め込んでいた。

「ふぅっ」と息を吐いてからそっと仔猫の柔らかな脇の下に手を差し入れる。

 

「お前を置いていったりしないから、ちょっと顔からどいてくれよ」

 

仔猫のうぶ毛が口に入らないようもごもごと話しかけてから抱いた手に力を入れると、あれほど必死にキリトの顔にひっついていた仔猫が言葉を理解したように「みゅっ」と返事のような声をあげて抱き上げられるままに顔から離れた。

赤ん坊を高い高いするように持ち上げてみると仔猫の残り香に不可思議さを覚えてキリトの眉がうねる。

自分の手の中に大人しく収まった仔猫を見上げて、その首に付いている首輪の一点に気づき、更に表情が固まった。

 

「……どうやら一緒に王宮まで行くしかなさそうだな」

 

真剣な瞳で仔猫を見つめながらそう呟けば、反対に仔猫は嬉しそうな表情で「みゃんっ」と短く鳴き声をあげる。

キリトは上着のボタンをひとつはずすとゆっくりと自分の服の中に仔猫を入れ「しばらくここで我慢しててくれ」と告げ、胸元の仔猫が落ち着いたのを確認してから再び馬を走らせたのだった。

 

 

 

 

 

二年間の留学前なら笑顔で出迎えてくれた王宮の門番も今回ばかりは先触れも出さずいきなり現れたキリトに目を見開いたが、すぐさま歓迎と安堵の表情へ転じる。

一旦馬を止めて「アスリューシナ姫は?」と早口で問うと顔見知りの門番は心配そうに眉尻を下げた。

 

「それが……三日ほど前からお姿を拝見しておりません。婚礼のお支度が忙しいのだと聞いておりますが、それにしてもこれほどお顔をお見せ下さらないのは初めてで、もしや体調を崩されているのでは、と我々も心配していたところです」

「そうか、ありがとう」

 

固い声で短く礼を告げて王宮内へとそのまま馬を走らせる。

正面玄関に近づくと扉はすでに開いており、今まさに知らせを受けたばかりといったふうの侍女や従者達がばたばたと出迎えの為、列を整えていた。

そこへ不作法にも騎乗したまま近づき、ひらり、と馬から飛び降りるとそのまま馬丁に手綱を預け、頭を垂れて整列しおえたばかりの王宮仕えの者達の間をずかずか歩き、建物内へ踏み込む。

いつもならこの左右の列の中央にアスナが満面の笑みでキリトを出迎えているのに、今日に限ってはその姿がない。

その現実が知らずにキリトの表情を厳めしいものへと導いていた。

列の一番奥に控えていた侍女へ「アスリューシナ姫は?」と門番に投げた同じ問いを繰り返せば、顔をあげた侍女はオドオドとした様子で視線も定まらないまま「えっと……あの……」を三回繰り返してからキュッ、と目を閉じ掠れた声を絞り出す。

 

「只今……姫様は……王宮を離れておりましてっ……それで……」

「そんな事、門番は言ってなかったけどな」

 

軽い言い回しで侍女の言葉を遮ったが、キリトの声は低く彼女の言葉を信じていないのは明かだった。

王子の声音で更に一回り身体を縮込ませた侍女は耐えきれずに下を向き、既に涙声で「とっ、ともかく、キリトゥルムライン殿下は応接室に、おっ、お越し下さい」と、そこまでを言うとカタカタと震えながら一向に頭をあげる気配がない。

よく見れば隣の侍女も、その隣の侍女もキリトを恐れるように両肩を固くしている。

そんな侍女達の姿を見て、これ以上は何を聞いても無駄と察したキリトは「いつもの応接室でいいんだな」と確認を取ると先導も付けずに一人ですたすたと歩き始めた。

ユークリネ王宮を訪ねた時は出迎えてくれたアスナに挨拶をしてから彼女の手をとり一旦応接室に向かうのがお決まりだ。

そこで侍女達が用意してくれたもてなしを受け、アスナと互いの近況などを教え合ってから、彼女の私室へと移動する。

私室に入れば、アスナはいつも人払いをしてくれたから、いつもの呼び名を使い、くだけた口調でお喋りを楽しむ……時にはお喋りだけに留まらない時もあったが……そんな事を思い出しつつすっかり覚えてしまった応接室への廊下を一人で進んでいると、傍らにいるはずの存在が恋しくなって知らずに拳を握れば、胸元に潜り込んでいる小さな熱量がもぞもぞと動いてその存在感を主張した。

ひとまず応接室に入室してソファに腰掛け、一息ついていると、さほど時間を置かずにノックの音に続いてガチャリと扉が開く。

入って着たのは待ち望んでいたアスナ、ではなく茶器を手にした侍女の姿だった。

侍女はサイドテーブルに茶器を置くと、キリトゥルムラインに向かい深々と頭を下げる。

 

「ようこそいらっしゃいました、キリトゥルムライン殿下。お出迎えの際には若い侍女が失礼をしたそうで、改めてお詫び申し上げます」

 

ゆっくりと顔をあげた侍女は二十代後半の落ち着いた振る舞いで、強張った表情もみせずスッと背筋を伸ばしてキリトと相対していた。

侍女の顔立ちにどこか懐かしさを感じたキリトが「お前は……」と言いつつ、記憶の扉をいくつも開けていると、侍女は少し微笑んで自らを名乗る。

 

「アスリューシナ様付きの侍女達のまとめ役をしております、サタラとお呼び下さい」

「えっ?、サタラって……」

「覚えていてくださいましたか?、キリトゥルムライン殿下。十年ほど前に姫様の療養先の離宮でお目にかかっております。夜中に姫様の寝顔を見ながら殿下と少しお話しさせていただきました。また、お見送りの際にも姫様の手を引いていたのが私でございます」

「ああ……ああ、よく覚えてる。でも、なんで……」

「はい、あれから一旦侍女のお役目を辞して家庭を持ったのですが、子供は家の者が面倒を見てくれますし、主人が王宮の料理人をしているものですから、一年ほど前にもう一度ここの侍女として雇っていただきました」

「そうか……オレが留学中に……」

「留学からお戻りになられて、この王宮にいらした時もお側に控えていたのですが、とてもお気づきになるご様子ではありませんでしたものね」

 

その時の二人を思い出したのか、サタラの目が優しく笑った。

一方、キリトはと言えば、思い返せばかなり大胆な事をしでかした自覚はあったので、ほんのりと頬を染める。

 

「仕方ないだろ、全く会えず、手紙も交わせず二年だぞ」

「そうでございますね」

「ア、アスリューシナ姫だって珍しく……その……」

「はい、私達侍女や従者が控えている前でしたのに……殿下がいらした途端、本当にあの時のように涙が止まらなくなってしまわれて」

 

そうなのだ、二年という留学期間を終え、無事に役目を果たしたとガヤムマイツェン国王から賞賛と労いの言葉を受けたキリトは父王に自分との約束事を確認すると、すぐさまユークリネ王国にやってきた。

先程よりはるかに大勢の侍女や従者達が出迎える中、中央に静かに佇んでいたアスナはキリトの姿を見た途端、駆けだして泣きながらその胸に飛び込んできたのである。

周囲の目など意識に入っていない二人は固く抱きしめ合い、キリトはアスナの背中をゆっくりと摩りながら次から次へと溢れてくるアスナの瞳に何度も唇を落としてその涙を吸い上げた。

いつまで経っても離れない二人に向けコホンッと咳払いをした侍女はサタラだったのだろう。

その後通された応接室でも二年前なら給仕後、部屋の隅に控えている侍女達がその時に限って全員退室したのはサタラの指示に違いない。

お陰でひたすら「キリトくん、キリトくん」と彼女だけに許した呼称を口にしながら自分から離れないアスナを思う存分抱きしめることが出来た。

もう離れることは出来ない。

同じ道を共に歩む為にあの二年間を耐えたのだ。

アスナはちゃんと元気なのか、本当にこの王宮にいないのか、何より今になって婚礼準備の訪問時期を延ばしたいと言っているのは本当に彼女の意志なのか、それとも別の誰かの思惑なのか、この侍女ならば正直に答えてくれるだろうと信じてキリトは正面からサタラを見据えた。




お読みいただき、有り難うございました。
どうしてもサタラさんの旦那様は料理人にしたいらしいです、私。
(『漆黒に……』でもこっちでも出番ないのに)


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王子と姫と白い仔猫・13

ひとまずサタラはキリトの為に紅茶を煎れ茶菓子と共に王子の前に供した。

それを一口、口に含んでゆっくりと飲み下し、そう言えば最後に食べ物を口にしたのはいつだったかな、と思い出しつつ、ふぅっ、と息を吐き出す。

しかし二口目を口元に運ぶことなくカップを受け皿に戻すと「それで」と話を切り出した。

 

「アスナは?」

 

サタラならば差し支えないだろう、と判断して王女の名をいつもの呼称で問いただす。

十分予想していたキリトからの問いにサタラはひとつ礼をすると難しい表情で答えた。

 

「姫様は王宮にはいらっしゃいません。ですがこれは王宮内でも一部の者しか知らない事なのです」

「国王様や王妃様は?」

「コーヴィラウル殿下を含め、お三方ともキリトゥルムライン殿下と姫様のご婚礼に向け、ご政務の調整の為ここ一週間は王宮にお戻りになりませんので、姫様のご不在をまだご存じではありません」

「なら……オレの所に届いたあの書状は……」

「僭越ながら私の独断でしたためさせていただきました。ですが、これ程早く殿下が行動を起こされるとは……」

 

僅かに困り顔で微笑んだサタラが小さく「いえ、こうなると予想すべきでした」と呟く。

どうやら本当にアスナが王宮にいないのだと納得したキリトは、ガヤムマイツェン王国への訪問延期の理由より何よりも一番の心配事を口にした。

 

「なら、アスナは今、どこにいるんだ?」

 

びくっ、とサタラの肩が揺れる。

そのまま時が止まってしまったように動かないサタラにキリトがじれて身を乗り出した時だ、胸元の服がごそごそと動き息苦しさから解放されたような「ぷみゃっ」と空気を吐き出す声と共に襟元からひょこりと仔猫が顔をだした。

そしてすぐさま口を大きく開けてあくびをしている。

 

「ああ、やっぱり寝てたのか」

 

いまだ目を瞑ったまま寝ぼけた声で「ふみゅぅぅっ」と鳴く仕草が可愛らしくて、キリトが幾分視線を和らげて上から仔猫の頭にキスを落とした時だ、サタラが仔猫を見て「ヒィッ」と声を詰まらせた。

 

「ヒィッ、ヒィッ」

「ああ、悪い。王宮に来る途中で見つけて……どうしても離れなくてさ……それに、少し気になる……」

「ヒッ」

「サタラ?」

「ひっ……姫様ーっ!」

 

サタラの絶叫に驚いたのはキリトだけではなかった。

ぱっちり、と目を開け、脱兎の勢いでキリトの頭によじ登った仔猫は再びぎゅぅぅっ、と王子の頭にしがみつく。

 

「姫様っ、姫様っ、姫様っ、よかった、いくらお探ししても見つからず、私達がどれほど心配したことか」

 

言いながらキリトの目の前まで駆け寄ってきたサタラは王子の頭にへばりついている仔猫を抱き上げようと脇腹に手を差し入れた。

 

「ふみゃっ、ふみゃっ」

「ささ、姫様、いらしてください」

「みゅぅぅっ」

「ててててっ、爪!、爪たててるっ」

 

サタラの引っ張りに負けまいと仔猫がますます力をこめれば、その爪がキリトの頬やこめかみに食い込む。

懸命に仔猫を抱き上げようとしているサタラはそれに気づかず、つかんでいる手に思わず力を込めたその時だ。

 

「みーっ!」

 

ひときわ大きく仔猫が悲鳴を上げると、キリトが「いい加減にしろ!」と苛立ちを隠さずにサタラを怒鳴りつけた。

アスナの元を訪れる時はいつも穏やかな笑顔のキリトの怒号に驚いて、サタラが思わず手を離すと、慌てて仔猫はキリトの後頭部に身を隠す。

 

「仔猫が……怯えてる」

 

キリトの言葉にハッと我に返ったサタラは王子の頭の後ろからこっそりと顔の半分を覗かせている仔猫を見つめた。

心なしか瞳は潤み、小さい身体はぷるぷると震えている。

 

「姫様……私が……おわかりにならないんですね」

 

肩を落とし一瞬悲しげな瞳を見せたサタラが深々と頭をさげた。

 

「キリトゥルムライン殿下、取り乱し、大変失礼たいしました。ですが……その仔猫は…………間違いなく姫様なのです」

「うん、オレももしかして、と思ってた」

「信じて……下さるのですか?」

「魔術士が笑って暮らしている国だしな。この仔猫を見つけた時、最初はアスナと同じ綺麗なヘイゼルの瞳だと思ったんだ。それから仔猫の匂いが……その、アスナと一緒で……それに首輪に……」

 

そこまで言ってからキリトが優しく「アスナ、おいで」と声をかけると仔猫は恐る恐るといった足運びで頭を下りて肩の上に移動する。

その小さな頭を指で軽く撫でてから片手で仔猫を抱き上げて、自分の膝の上にのせた。

サタラに見えるよう、真っ赤な首輪を少し回すと隠れていた黒い石が現れる。

 

「この石……ブラックスターなんだけど、オレが留学する前、最後にアスナに会いに来た時、渡した物だ」

 

キリトの言葉にサタラは涙をこらえながら何度も頷いた。

 

「はい、はい、そうです、姫様がとても大切にされていた石です。常に身につけておられて、どんなドレスにも合うようにとシノンちゃんに台座の細工をしてもらい……ああ、姫様、やはり姫様です」

 

今度は仔猫を驚かせないよう、静かにキリトの膝元に近づくと、サタラは腰を落として顔を近づけ「姫様」と優しく言葉をかける。

ところが仔猫は「みゃう」と小さく一声鳴くと身体を丸めてしまった。

 

「あらあら、姫様、眠いのですか?」

 

様子を観察していたキリトが険しい顔つきになって「サタラ」と侍女の名を呼んだ。

 

「アスナが仔猫になったのはいつだ」

「三日前でござます」

「まずいな。多分それ以来ろくな食事をしてないんだ。だからこれは眠いんじゃなくて体力が限界に近いん……」

 

最後までキリトの言葉を待たずに素早く立ち上がったサタラは、くるりと身体の向きを変え部屋の扉を開けると廊下に向けて指示を飛ばす。

その変貌ぶりにキリトがぽかん、と口を開けているとほどなくしてたくさんの料理が運ばれてきた。

テーブルに並んだ料理を確認してサタラが再び頭を下げる。

 

「先に不行儀をお詫びいたします。本来なら応接室ではなく場所を移すべきですが姫様のご負担を考え、こちらにご用意させていただきました。詳しい説明はひとまず置いて、キリトゥルムライン殿下もどうぞお召し上がりください。そのご様子ではお食事、なさっていないのでしょう?」

 

食事どころかまともな休憩すら取っていないことはお見通しのようだ。

サタラは小さく笑ってから小声で「ご留学中もお食事をちゃんとされているのか、姫様がとても心配されてました」と教えてくれる。

それから腰をかがめて仔猫にそっと手を伸ばし、その背をゆっくりとさすった。

 

「姫様、姫様、お食事です。姫様の好物もありますよ」

 

その声に反応して仔猫が徐に顔を上げ、サタラを見て「ふみゃぁぁっ」と力のない細い声で鳴く。

キリトが抱き上げてテーブルの上に乗せてみるが、仔猫はそれらの料理の匂いをくんくんと嗅ぐだけで一向に口を付けようとしなかった。

心配そうに首をかしげるサタラの横でキリトがうんうん、と納得の顔で再び「サタラ」と侍女を呼ぶ。

 

「きっとアスナとしての意識はでていないんだ。サタラの事もわからなかったしな。だから仔猫が口に出来る物を用意してくれないか」

「仔猫、と言いますと……ミルクでしょうか?」

「そうだな。温めたのがいい」

「承知致しました」

 

すぐにホットミルクが用意された。

ミルクの入っている小皿を目の前に置かれ、軽く鼻を動かした仔猫はゆっくりと口を近づける。

ひと舐め、ぺろり、と舌でミルクの表面をすくった途端「みゃっ」と高い鳴き声をあげて皿から離れた。

その様子を食事に手を付けず見守っていたキリトは苦笑いをしながら泣き出しそうな表情の仔猫を抱き上げる。

 

「……ああ、猫舌だもんな。まだ熱かったのか」

 

そう言いながら仔猫を膝に乗せると自分のスープスプーンを持ち「これ、使っていいか?」と尋ねてから、仔猫に用意されたミルクをすくい、ふーふー、と息を吹きかけ温度を下げた。

それを、そうっ、と仔猫の前に持っていくと、今度は美味しそうにぴちゃぴちゃとミルクを飲み始める。

すぐそばで「はあっ」と安心したように息を吐き出したサタラがすぐにもう一本、スプーンを用意させて欠けたテーブルセットを埋めてから「殿下、代わりましょうか?」と声をかけるが、首を横に振ったキリトは「オレがやるからいいよ」と答えて、仔猫がお腹いっぱいになるまで何度もミルクをすくったのだった。




お読みいただき、有り難うございました。
さあ、キリトと仔猫との「猫イチャ」の始まりデス(苦笑)


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王子と姫と白い仔猫・14

キリトと仔猫の食事が終わり、テーブルの上が茶器だけになるとサタラは次の提案を告げた。

 

「殿下、湯浴みの用意ができておりますが?」

 

仔猫はすっかりお腹を膨らませてキリトの膝の上で顎の下をくすぐられている。

その言葉を聞いたキリトは手を止め、改めて自分のくたびれた服装をしげしげと眺めた。

とても王宮の応接室に腰を降ろしていい格好とは言えない有様だ。

 

「あ……すまない」

 

この姿で王宮に乗り込んで来た事、そのまま応接室に入り込んだ事、あまつさえ食事まで済ませた事……思い返せば謝罪しなければならない事が次から次へと浮かんでくる。

 

「いえ、殿下が謝罪をする事などひとつもございません。あの書状をご覧になってすぐに馬を走らせてくださったのですね。姫様への想いの深さを感じ、今回の事件を知る者達は殿下のお心に感服いたしております。大国に嫁ぐ姫様を心配する者もいたのですが、皆、安心いたしました」

 

サタラからの言葉を受け、照れたように頬をポリポリと掻いたキリトは「じゃ、風呂、もらうかな」と言えばニッコリと微笑んだサタラは「はい」と返事をした。

 

「では、姫様をこちらに……」

 

サタラの手が伸びてくると仔猫はパッと起き上がってキリトの腕にしがみつく。

仔猫の態度に、ふぅっ、と軽く息を吐き出したサタラは視線をキツくして顔を近づけた。

 

「姫様、ダメですよ。さあ、こちらにいらしてください」

「ふみゃっ、ふみゃっ」

 

自分の腕から必死の形相で離れようとしない仔猫の姿に今度はキリトが苦笑いで鼻から息を抜く。

 

「どうやらオレから離れる気はないようだな」

「どうしてでしょう……姫様の意識は現れていないはずですのに……」

 

心底不思議そうに首を傾げるサタラへ、キリトが頬を染めつつも誇らしげに言い放った。

 

「そこは、まあ、本能でもオレの傍にいたいんだろ……だから、風呂へは一緒に連れて行く」

「いけませんっ」

 

即座にサタラが反対する。

 

「なら、どうする?、アスナをオレから無理矢理引き離すのか?」

 

さっきの泣き叫ぶような仔猫の悲鳴が脳裏に蘇り、知らずにサタラの顔が歪んだ。

 

「でしたら、せめて姫様のお身体は侍女達が清めます」

「……オレの入ってる風呂場に侍女達も入って?」

「っ……それならば侍従を……」

「アスナを侍従に触れさせるなんて冗談じゃないぞ」

 

言うキリトの口元は楽しそうに弧を描いているが、細められた目は全く笑っていない。

それから腕に短い尻尾まで巻き付けて離れまいと頑張っている仔猫に視線を落とし「アスナ」と優しく呼びかけてから片手で抱き上げると、キリトは立ち上がって「だから二人で風呂に入る。誰も邪魔するなよ」と言い応接室の扉へと向かった。

 

 

 

 

湯浴みを済ませた一人と一匹は両者ともくたくたにくたびれていた。

客室に案内されたキリトはくたり、と膝の上で脱力している仔猫同様、ソファにだらしなく座り背面に両腕と頭をもたれさせている。

 

「……いかがなさいました?」

 

見た目は随分とさっぱりして石鹸の良い香りを漂わせている一人と一匹だったが、その疲労感の滲む姿に疑問を覚えたサタラがおずおずと問いかけた。

 

「いかがも何も……アスナが風呂を嫌がって嫌がって大暴れだった」

「姫様が?、あの湯浴み好きの姫様が、ですか?」

 

にわかには信じられない、といった口調でサタラが繰り返せば、糸が切れたようにキリトがカクンッ、と頭を落とし、肯定の意を示す。

 

「そこは猫なんだな」

「ああ……そういう事でございますか」

「洗うのは大変だったけど湯船に浸かった時は大人しくしてたから、そこは気持ちよかったらしい」

「……姫様用に簡単な入浴桶でも用意しましょうか?」

「少しずつ慣れるだろ」

 

とは言え、この状態がいつまでも続くのは問題だ。

アスナと風呂に入る……密かに生まれていた不埒な気持ちも風呂場での悪戦苦闘で見事に消え去っていた。

仔猫でも猫は猫、当人ならぬ当猫にその気がなくとも暴れた拍子に爪が牙が当たれば痛くないわけがない。

力で抑え込むことは簡単だったが、キリトが小さな存在を完全に仔猫と割り切ることなど出来るはずもなく、結果、いたるところに小さな生傷を作りながらの入浴となったわけである。

自国からの疲れを取るために入ったはずの風呂が、余計に体力を使った気がする、と溜め息をつきそうになれば、自分の膝の上で更にふわふわの毛並みになった仔猫が安心しきった様子で丸くなっているのが目に入り、途端に顔が緩んでしまうのは惚れた弱みというのだろうか。

無意識に顎の下を指を入れ、そっとさすると寝ているはずの仔猫がうっすらと目を細めゴロゴロと喉を鳴らした。

そのとろん、とした表情を見ているだけでこちらまで眠気に襲われる。

仔猫を構いながらもキリトの頭が不安定に揺れ始めたのを見たサタラは「殿下」と声をかけた。

 

「今日はもうベッドでお休みください。詳しいお話はまた明日に」

 

頭ではそうのんびりとしている場合ではないとわかっているのだが、いかんせん目を開けている事さえ困難な状態になってきたキリトは「うん」と素直に頷いて仔猫を抱き上げると奥に続く寝室に入りバタリ、とベッドに身体を投げ出す。

そして片手でしっかりと仔猫を抱きしめ、もう片方で上掛けをたぐり寄せるとすぐさま意識を手放した。

居間に残ったサタラが寝室に消えたキリトの後ろ姿を見送った後、少々不満げに「当たり前のように姫様を連れて行ってしまわれましたわね」とぽつり零したのも知らずに。

 

 

 

 

 

真っ白い霧がキリトの周辺を覆っていた。

右を向いても左を向いても視界は全て白ばかり、もちろん上下を向いても白しかない。

しかしどこを見ても霧しか見えないというのに不思議と不安はなく、その霧はなぜかとても明るかった。

まるで自分の周囲が霧の薄い膜で覆われていて、そのすぐ外側は光で満ちているのではないか、と思えるほどに。

だが手を伸ばしてみても、何かを掴むことは出来ず、何にも触れることもなかった。

手で霧をかき混ぜるように動かしてみるが、対流を産み出す気配もなければ、かき混ぜた先に何かが浮かぶこともない。

だいたい霧に触れているのかどうかさえも感覚がないのだ。

このまま動かずにいた方がいいのか、一歩を踏み出した方がいいのか、悩んでいるキリトの耳に小さな、小さな声が届いた。

あまりにも小さな声は人のものなのか、動物のものなのかもわからない。

だが、唯一感覚を刺激するその声にキリトは迷わず足を向けた。

霧は行く手を阻むことなくその道を譲る。

一歩、また一歩と歩く度にその声がハッキリと聞こえ、声の源に近づいている確信を得てキリトは足を早めた。

すると、突然、霧が晴れる。

そしてキリトの視線の先には膝を抱えて小さく身体を丸めているアスナの姿があった。

白いドレスの上に長い栗色の髪が広がり、肩を振るわせて「ひっく、ひっく」としゃくり上げている。

声の主を認めた途端、彼女が泣いているのだとわかった途端、キリトは「アスナ!」と叫んだ……はずだった。

彼女の元へ駆け寄ろうと足を動かした……はずだった。

だが、口からは何の声も出ず、足は全く動かない。

「アスナ!、アスナ!、アスナ!」と何度も彼女の名を呼ぼうと口を動かすがキリトの耳が自分の声を聞くことはなかった。

びくともしない足に苛ついて、手でいくら叩いても足は言う事をきかず、それどころか痛みさえ感じない。

焦るキリトのすぐ目の前でアスナは泣き続けるばかりだ。

少しでも、ほんの少しでも顔をあげてくれたらオレの姿が見えるのに、と思ってみてもアスナは同じ姿勢のままただ泣くばかりで、その泣き声だけがキリトの耳に入ってくる。

「アスナが動けなくなったらオレが手を引っ張ってやる」そう約束した日の彼女の笑顔を思い出し、キリトは自分の爪が食い込むほどに拳を握りしめた。

全身が焦りとも自身への怒りともわからない感情で打ち震える。

キリトはあらん限りの力を振り絞って彼女の名を呼んだ。

 

「アスナーッ!」

 




お読みいただき、有り難うございました。
キリト、起きていても、寝ていても大変だね。


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王子と姫と白い仔猫・15

「アスナーッ!」と彼女の名を叫んだキリトの頬にぺろり、ぺろり、と小さくて柔らかい感触が何度も往復して、そのくすぐったさに首をすくめた拍子に目が覚める。

寸前まで見ていた夢のお陰で気分は鉛を飲み込んだように重かったが、ずっと頬を舐め続けてくれる仔猫の存在に気づくとそれも幾分か和らいだ。

驚かさないよう、小さく「アスナ」と呼ぶと、舐めるのを止めた仔猫は目を細めて「ふみゃぁ」と答える。

 

「よかった。ここにいてくれて……」

 

ガラス細工に触れるように、そうっ、と両手で仔猫を抱き上げ身を起こすと、キリトは静かに愛しい存在をふわりと胸に抱きしめた。

キリトの腕の中で優しく抱かれている時「ドンッ、ドンッ、ドンッ」と寝室の扉を叩く音が響き、仔猫の耳がぴくんっ、と立ち上がる。

 

「殿下っ、キリトゥルムライン殿下っ、どうかなさいましたか?」

 

珍しく声を荒げているのは侍女のサタラだった。

 

「サタラ?」

 

小さく首を傾げて呟く侍女の名が分厚い扉の向こうまで聞こえるばすもなく、サタラは続けて強く言葉を発する。

 

「先程、姫様の名を呼ぶお声が聞こえたとっ」

 

それで納得したキリトは仔猫を抱いたまま寝室の扉を開け、安心させるように穏やかな声で弁解をした。

 

「すまない、それ、寝言なんだ」

 

自分の顔の高さまで仔猫を持ち上げて無事を確認させ、申し訳なさそうに眉尻を下げて笑う。

サタラと同じ目線の高さになった仔猫もはしばみ色の瞳をクルクルッとさせて、可愛らしい鳴き声を上げ、なんでもない事をアピールした。

 

「寝言……で、ございますか……安心いたしました。控えていた侍女から殿下のただならぬお声がしたと連絡がはいり、もしや姫様に何かあったのではと、無礼を承知で扉を叩き……申し訳ございません」

 

侍女としてあるまじき行為にサタラが畏まって深々と頭を下げれば、慌ててキリトがそれを手で制する。

 

「いや、オレが悪かったんだ……それにしても、すっかり寝過ごしたみたいだな」

 

居間の窓に視線を移せば、陽の光はすでに真上近くから差し込んでいた。

抱き上げられたままの仔猫がキリトに顔を寄せて「みゅっ、みゅっ」と何やら訴えてくる。

 

「ん?、どうした?……あっ、お腹空いたのか」

「お食事はこちらでお召し上がりになりますか?」

 

間髪を入れずにサタラが伺いを立てれば、少し考え込んだキリトは「そうだな」と言って「頼む」と言い残すと着替えをするために再び寝室へと引き返した。

 

 

 

 

 

昨日の応接室とは違い食事用の丸テーブルにキリトの為の料理が用意されると、そのすぐそばに脚立のような高さの椅子が設置された。

そうっとキリトがその上に仔猫を乗せれば不安そうな視線が縋ってくるが、すぐ隣の椅子に腰を降ろすと、安心したように尻尾をゆらり、と揺らす。

続いて目の前に昨日より冷ましたミルクを置くと、その匂いをひと嗅ぎした後で仔猫はジッとキリトを見つめた。

仔猫の行動に納得いかないサタラが横から覗き込む。

 

「どうされました?、姫様。今日のミルクは熱くありませんよ」

「ふみっ」

 

短く反抗的な鳴き方にわけがわからず眉根を寄せるサタラを見て、キリトも心配そうに声をかけた。

 

「アスナ、お腹、空いてるんだろ?」

「みゃっ」

「だったらちゃんと飲めよ」

「ふみっ」

「……なぜ会話が成立するのか、理解できません」

 

更に眉間の皺を深くしたサタラがこめかみを指で押さえながら呟けば、仔猫は「ふみゃ、ふみゃ」とキリトに向け鳴き続ける。

 

「あー、そういうことか」

 

やれやれ、と言った風に溜め息をついてからキリトは昨日と同じくスープスプーンを手に取った。

 

「ほら、あんまりこぼすなよ」

 

乳白色のミルクをすくって仔猫の口元まで運んでやると、満足そうな笑顔で口をつけるその姿にサタラがあんぐりと口を開ける。

 

「まあ、まあ、姫様が甘えてっ」

「猫の本能って言うより、アスナの本能の部分じゃないのか?」

「……そうですわね、普段はなかなか素直に甘えてくださいませんから。本当はこんなふうにしたい時もあったのでしょう」

「ほら、アスナ。焦らなくても誰もとったりしないから、ゆっくりでいいよ」

 

口の周りについたミルクをキリトに拭いてもらいながら「まだ飲むのっ」と訴えるように仔猫が「ふみゃ、ふみゃ」と鳴き声を上げていると、ふいに部屋の扉をノックする音が聞こえた。

控えている侍女が取っ手に手をかける前に、すぐさまバタンッと勢いよく扉が左右に開き、同時に少女の声が室内に響き渡る。

 

「アースーナー!」

「みゃーっ!」

 

その声を聞いた途端、仔猫が尻尾の先までをびりびりと震わせて、すぐさまキリトの膝の上に飛び移った。

 

「うわっ」

 

ミルクの入ったスプーンを手にしていたキリトが突然の事に慌ててスプーンを握り直す。

中身をこぼさずに済んだことにホッとしていると、すぐ目の前に仁王立ちの少女が現れた。

 

「こらっ、アスナ。のんびりミルクなんて飲んでっ。どれだけみんなを心配させたかわかってるのっ」

 

見覚えのある人差し指が丸くなって顔を隠している後ろ向きの仔猫の背中にビシッと焦点を合わせている。

 

「……リズ……か?」

 

唖然とした表情で少女を見上げれば、少しそばかすの残っている顔を笑顔全開にして「久しぶり、キリト」と元気な声が降ってきた。

 

「そして、またもやアスナを見つけ出してきたのはキリト、アンタなのね」

「あ……ああ」

「それにしてもよっ。本当にこの子はいつまで経っても自分ひとりで抱え込んでっ。ちょっと聞いてるのっ、アスナ。こっち向きなさいっ」

 

リズの声に仔猫が丸めていた尻尾をそうっ、と持ち上げてイヤイヤ、を示すように左右に揺らすと更にリズは顔を近づけて「アースーナー」と親友の名をゆっくりと呼ぶ。

それで観念したのか、仔猫はおずおずと顔をあげ、震えながら振り返った。

途端、その鼻先に人差し指がピッとくっついて、思わず「みゅっ」と仔猫が声を漏らす。

そのまま頭から食べられてしまうのでは、と思うほどリズの顔が迫ってきて完全に仔猫が固まると、鼻に押し付けられていた人差し指が離れて、そのかわり優しい手が頭に下りてきた。

 

「ん、無事でよかった」

 

泣きそうなほどに顔をくちゃくちゃにしてリズが微笑みながら仔猫の頭をよしよし、と撫でくり回す。

 

「ふみゅぅぅ、みゃぁ、なぁあぅ」

「なに?、それで謝ってるつもり?」

「リズちゃんの事がわかるのかしら?」

「いやいや、これは動物の本能的に逆らっちゃいけない相手だと認識した声だろ」

「なによ、それ。失礼ね、キリト」

「みゃぅ、みゃぅ……みゃ……」

「リズ、それくらいにしてやってくれ。アスナの首がもげそうだ」

 

サタラやキリトと会話を交わしながらもひたすら仔猫の頭をぐりぐりしていたリズが「あっ」と慌てて手を離せば、その勢いのまま頭で円を描いた仔猫がよろめいた。

完全に目を回した仔猫がぱたり、と倒れ込む前に「おっと」と言ってキリトがその身体を片手で支える。

そのまま静かに自分の膝の上へ横たえると、仔猫は食事後の眠気も手伝ってか静かに瞳を閉じた。

仔猫の様子を気にしながらも自分の食事にとりかかったキリトは向かいの椅子にリズを促す。

その指示に素直にしたがったリズはサタラから「お食事は?」と問われて「大丈夫、お茶だけちょうだい」と言って、改めて正面のキリトを見つめた。

 

「で、森の中でアスナを見つけたんですって?」

「中っても、王宮のすぐ近くだけどな……樹の上でカラスに突かれそうになってた」

「またっ!?」

 

リズも十年前の出来事を忘れてはいなかったのだろう。

呆れ顔で問われて、キリトも少々苦笑いで頷く。

ふぅっ、と一息吐いてからリズは自分の知っている事をキリトに話した。

 

「アスナが仔猫に変化(へんげ)した途端、王宮から逃げ出したのが三日前……じゃなくて今日で四日目ね」

「それから仔猫の姿のまま、森まで移動したのか。どこに行くつもりだったんだろうな」

「どこって言うか……そもそも姿を変えたのも突発的な感じでアスナの意志かどうかも疑わしいの」

「なんだって?」

「その場にいた侍女の話によるとね、いきなりポンッ、と仔猫になって、驚いたように窓から飛び出して行ったって」

「仔猫になった時点でアスナの意識が封じられていたら、ただの仔猫だしな。そりゃあ逃げ出すか」

「私も一週間ほど前に会ったけど、その時は待ち遠しそうにガヤムマイツェン王国へ赴く支度や、自室の片付けをしてたから、訪問の日程が延びる事を望んでいたとはとても思えないのよ」

「アスナ……嫌がったり……寂しそうにして……なかったか?」

「当たり前でしょ」

「そうですよ、殿下。何より殿下に見つけていただいて以来片時もお側を離れようとしないのは姫様自身のお気持ちでもあるのではないですか?。もしかしたら殿下が駆けつけて下さると信じて森の道まで迎えに行かれたのかもしれません」

 

彼女の親友と信頼を置いている侍女からの揺るぎない言葉を聞いて、自国の執務室で書状を読んだ時から心に巣くっていた不安が和らぐ。

それでも今朝方に見た夢の中のアスナの姿を思い起こしてキリトは膝の上の小さくて温かい背をそっとさすった。

 

「その場に居合わせた侍女達はアスナの仔猫姿を知っているから、今まであっちこっちに出向いてアスナを探していたの。昨日、キリトと一緒に王宮に帰ってきたって知らせが飛んでるから何人かはもう戻ってきてるわ。ただ、変化する前、一番最後に近くにいて言葉を交わした侍女はまだ帰ってきてないから、詳しい話は彼女から直接聞いたほうがいいわね」

 

キリトは最後のお茶を飲み終わるとサタラに視線を移す。

 

「なら、アスナが仔猫になった場所を教えてくれ」

 

キリトに向かってサタラは黙って頭を下げ、その願いを受諾した。




お読みいただき、有り難うございました。
仔猫でもリズには頭のあがらないアスナです(笑)


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王子と姫と白い仔猫・16

確かに昨日より王宮内の侍女や従者の数が増えているな、と廊下を移動しながらキリトは思った。

事情は一部の者しか知らないとは言え、その人数だけでいなくなった王女……もとい仔猫を探し出せるはずもなく、王宮に仕える者の多くが「大切な仔猫を見つける」という一見王宮仕えとは何の関係もなさそうな指示に奔走していたわけだ。

加えてその張本人ならぬ張本猫が無垢な寝顔で自分の腕の中に収まっているとなれば、自分に礼を尽くしてくれる周囲の侍女や従者達に対し、いたたまれなさを覚える。

少々、肩身をすぼめてサタラに従って歩いていくと、アスナの私室からそう遠くない部屋の前で彼女の足が止まった。

 

「こちらでございます」

 

サタラが扉を開けてそのまま横に控えたのでキリトが先頭で部屋に足を踏み入れると、そこは特別な衣裳部屋だった。

 

「姫様がお輿入れの際にガヤムマイツェン王国へご持参いただきたい、と王都をはじめ国内各地から届けられたドレスです」

「これ……全部がか?」

 

キリトはその量の多さに目を瞠る。

しかもそれら全てが細やかな手の入った愛情溢れる仕上がりだ。

 

「はい、ご存じの通り我が国では小さな村の女達でも縫い物の腕は職人並みですので」

「あ……そうか……そうだったな」

「ひと針、ひと針、ひと編み、ひと編み、嫁ぐ姫様へお祝いの気持ちがこもっているのですわ。そして、これが……」

 

そう言ってサタラはトルソーにかかっているヴェールを慎重な手つきではいだ。

 

「……っ!」

 

声にならない驚きで動けずにいるキリトに向けニコリ、と微笑んだサタラは恭しく言葉を紡ぐ。

 

「姫様の婚礼衣装……ウェディングドレスでございます」

 

キリトの視線の先には一見すると純白の豪華なドレスが静かにその時を待っていた。

しかし近づいてみれば、その色はふんだんに使われているレースの白も、滑らかな光沢のリボンの白も、ドレス本体のホワイトシルクと僅かに色を違えており、総じて深みのある白へと融合を遂げている。

更に至る所に縫い込んである刺繍は銀糸だろう、十年ほど前に離宮でアスナのナイトドレスを見た時も子供心に繊細なデザインだと感心したが、目の前のそれは遙かに凌ぐ精巧さでちりばめられた真珠と共に立体的な存在感を放っていた。

 

「すごいでしょ。素材も全て最高級品よ。お針子さんも希望者がもの凄い数でね、その中で腕を競ってもらって選んだの。ちなみにその真珠、遠方の国から取り寄せるの大変だったんだから」

「と言うことは……」

「もちろん、うちの店が手配した献上品よ」

 

後ろから満足げな笑みを浮かべているリズへと振り返ったキリトは半眼になって「そう言えば」と口を開く。

 

「随分とうちの国で商売の手を広げてるよな。報告は入ってる」

「当然。前にも言ったでしょ。アスナの嫁ぎ先の国には積極的に商売するって」

「輿入れした後もアスナに会う為、だろ?」

「友達だもの」

「オレんとこなら別に普通に会わせるぞ」

「あー、ダメダメ、そういうの嫌なのよ。王太子と知り合いだからって理由で王城に入れてもらうの。ガヤムマイツェン王国内でちゃんと存在を認められた上で正規に入城許可証を手に入れたいの」

「……リズらしいな」

 

キリトがニヤリ、と片口を上げれば同様の笑みをリズが返してきた。

再び視線をウェディングドレスに戻し、改めて感嘆の息を漏らした後、キリトはこのドレスを纏った最愛の人の姿を想像する。

その存在が自分の隣に並んでくれる未来を信じてキリトは気持ちを引き締めた。

 

「でも、オレが見ちゃってよかったのか?」

 

素朴な疑問にサタラが答えてくれる。

 

「構いと思います。まだ仕上がっておりませんから。ですが姫様が袖を通されたお姿は当日までお見せするわけには参りません」

「だろうな。それにしても、これで完成じゃないのか?」

「はい、少々サイズの微調整が残っているのです。姫様は国王様の代行をお勤めになりながら、ご自身の婚礼準備を進めていらしたので、仮縫いの時より幾分お痩せになり……」

 

それを聞いて腕の中で可愛らしい寝息を立てている仔猫の背をキリトはやさしく撫でた。

仔猫はくすぐったそうにもぞり、と身体をうねらせる。

 

「……アスナ」

「それでも、毎日嬉しそうにご準備なさっておいでてしたよ」

 

つい数日前の光景のはずなのに、随分と時が経ってしまったように感じるアスナの笑顔を思い返してサタラは目尻をそっと拭った。

その時だ、ウェディングドレスの裾に隠れるように落ちている小さな何かに気づいたリズがスッと近づき手を伸ばす。

 

「これ……は……魔具?」

 

細い氷柱のような透明な石が幾重にも組み合わさって複雑な立方体を形作っていた。

しかし、内部から破裂したように数カ所が部分的に崩れていて、原型がどんな形なのかは想像もできない。

リズの手の中の石を見たサタラも同様に驚きで目を見開いていた。

 

「確かに、これは魔術士が作った針水晶の魔具ですね。申し訳ございません、殿下、姫様の捜索ばかりに気を取られ、この部屋をきちんと調べなかった私の落ち度です。姫様はここでウェディングドレスの試着をなさる時、突然姿を仔猫に変えてしまわれたのです。きっと変化(へんげ)の力の源はこの魔具ですわ」

「なら、今回の事はその魔具を作った魔術士の仕業、ということか?」

「ですが、あの場に魔術士はおりませんでしたし、侍女が持ち込む、というのも腑に落ちません」

「そうね。こんな事になって喜ぶ侍女なんて一人もいないわ」

「オレとアスナの婚姻を快く思わない他国の者が侍女を騙して、とか」

「それにしても仔猫に変えてどうするのよ。どっちかって言うと仔猫になってアスナってばキリトに甘えまくりじゃない。アンタもデレッ、デレに溺愛しちゃってるし」

「そ、それは……そうだな」

 

口元を隠しながら目元を赤くしたキリトはリズから視線をずらす。

その反応にリズがうんざり口調になった。

 

「それって……どの部分の肯定なの?」

「へっ?」

 

更に自ら墓穴を掘る発言だったと自覚した時には遅く、サタラまでもが引きつった笑みでキリトを見ている。

甘ったるい空気を蹴散らす勢いでリズが「とにかくっ」と話を戻した。

 

「こうなってくるとますます魔術士への相談は慎重にしなくちゃいけないわね」

「そうですわね。昨日、殿下が姫様を見つけて下さらなかったら、さすがに魔術士の手を借りようと思っていたのですが……」

「うっかり相談した相手がこの魔具を作った本人だった、なんて事になったらマズイし……」

「でも魔具を使って術を掛けた者なら解術方法も知っているかもしれません」

「だとしてもその魔術士が誰なのかを探るのが先でしょ」

「一番信用がおけて、問題の魔術士を判定して下さるほど実力があるのは、あの方ですが……」

「あの子を見つけるのは仔猫になったアスナを探すのと同じくらいやっかいよ……」

「困りました……」

「困ったわねぇ」

 

キリトの前でやりとりを交わしていた二人が同時に黙り込む。

話の見えないキリトが様子を窺うように、そうっと「その魔術士って?」と二人の間に疑問を流し込むと、ハッ、としたように顔をあげたサタラがすぐさま頭を下げた。

 

「すみませんっ、殿下。ついリズちゃんとの会話に集中してしまい……」

「それはいいから、その信用できる魔術士って、会えないのか?」

 

気分を害した様子もなく再び問えば、今度はリズが「そうね」と話し始める。

 

「今現在、全魔術士の中で最大級の魔力を持っている人物なんだけど、人付き合いが苦手でねぇ。相変わらず口べただしねぇ」

 

その人となりを表す言葉に記憶を刺激されたキリトが「えっ?」と短く零した。

 

「長(おさ)の座に就いてるくせに全然人前に出てこないのよ」

「それって……」

「もちろん専属となっている王宮には定期的に訪れてるけど、それ以外で呼び出せるのは国王様とあと一人だけ」

「もしかして……」

「大好きなアスナが頼めば、出て来るんだから、ほっんといい性格してるわよねぇ」

「シノン?」

「そうっ、覚えていてくれて嬉しいわ。今はあのシノンが魔術士長の座に就いてるの」

「へえっ、シノンか……懐かしいな」

 

十年ぶりに聞いた少女の名前に、あの離宮でアスナにもらったというリボンを付けて嬉しさを恥ずかしそうに隠していた幼い姿を思い出す。

 

「居場所がわからないのか?」

「んー、王都内のどこかに隠れ住んでるのは確かだけど、あの子ったら目くらましをかけて見つからないようにしてるのよ」

「さすが、長だな。そんな感じで王都の民衆から反感を買ったりはしないのか?」

「まあ、王都には数人の魔術士がいるから本当にあの子でなきゃ、って時だけ使い魔が現れて住処まで案内してくれるらしいわ」

「国王様の帰還を待っている時間はないしな。アスナに頼みたくても……これじゃあなあ」

 

よほどキリトの腕の中の居心地が良いのか、先程からスヤスヤと眠り続けている仔猫に三人の視線が集まった。

その寝顔を睨み付けているリズの手がそっと仔猫の顔に近づく。

 

「なんか、段々と腹が立ってきたわね」

 

言うやいなや細くて短いヒゲをピンッと指で弾いた。

途端に「みゃんっ」と飛び起きてはしばみ色の瞳を大きく開けたビックリ顔の仔猫が、慌ててキリトの腕を駆け上がり、肩まで移動してビクビクとリズを警戒している。

うっかり肩から落ちないようキリトが「大丈夫か?、アスナ」と言いながら手を添えてやると、その手に縋るように顔を寄せてくる仔猫に我慢出来ず、首を伸ばして小さな頭に唇を押し付ければお返しとばかりにキリトの鼻を仔猫が舐めた。

一人と一匹に当てられっぱなしのリズがうんざりした顔で「いい加減にしなさい」と窘めると、仔猫の顎を下からなでていたキリトが視線だけを寄越して笑顔で言い放つ。

 

「なら、明日、アスナと一緒に王都へ行って、直接シノンを探してくるよ」

 




お読みいただき、有り難うございました。
これで懐かしい名前が出そろったかな。


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王子と姫と白い仔猫・17

気がつくとキリトはまた白い霧の中にいた。

耳を済ませば、すぐに昨日と同じアスナの泣き声が聞こえてくる。

キリトは何の迷いもなく、すぐにアスナの元へと向かった。

すぐさま霧は晴れて、その先には昨日と全く同じにアスナが白いドレス姿で膝を抱えて泣いている。

ゆっくりと近づいてみると昨日は動かなかった足が、今日は何の抵抗もなくアスナのすぐ隣まで辿り着いた。

驚きと嬉しさで「アスナ」と名を呼ぶ……いや、呼ぼうとした。

しかし口はパクパクと動くだけで、声は全く出てこない。

ならば、と自分に気づいてほしくて彼女に触れようと手を伸ばす……いや、伸ばそうとした。

手はピクリとも動かない。

それどころかさっきまで動いていた足も身体も全く言う事をきかなくなっていた。

すぐ隣にキリトがいるというのに、アスナには足音も気配すらも届いていないのか、ただ一人肩を震わせるばかりだ。

彼女の隣にただ突っ立ったまま、キリトは彼女の泣き声を聞き続けた。

 

 

 

 

 

なんだか鼻がむずむずとしてキリトは「っくしゅんっ」と発した自分のクシャミの音で目が覚めた。

いや、覚めたはずの目の前が真っ白だった為、まだ霧の中なのだろうか?、と思いつつ、ぼんやりとした意識の中でその白を見ていると、それがもぞもぞとうごめき、その動きに合わせて再び自分の鼻が刺激され、その原因の白がふわふわの毛並みだと判明した瞬間「アースーナー」とリズ口調で仔猫の名を口にする。

寝る前は腕の中に収まっていたはずの仔猫がいつの間にかキリトの目と鼻を覆う位置にまで移動していたのだ。

キリトのクシャミと自分を呼ぶ声で目覚めたらしい仔猫が「ふみゅ?」と寝ぼけたような声をだす。

キリトはベッドの上で仰向けになり、両手で仔猫の両脇をすくい上げるとめいっぱい腕を天井に向け、伸ばした。

前足と後ろ足がぷらーんと垂れ下がる。

このままだと再び寝てしまいそうなくらい細い目の仔猫を愛おしそうに見つめると、キリトは腕を曲げて仔猫を引き寄せ「おはよう、アスナ」と言いながらその鼻先にチュッとキスを贈った。

その途端、驚いて目をパッチリと開いた仔猫が恥ずかしそうに「みゅぅぅぅっ」と消え入るような声で鳴くと、クックッと笑ったキリトは「早くちゃんとアスナにキスがしたい」と小さく零してから、ガバッと仔猫を抱えて上半身を起こす。

 

「さあっ、今日は一緒に王都へ出てシノンに会わないとな」

 

その言葉に仔猫も「みゃっ」と気合い十分で答えたのだった。

 

 

 

 

 

サタラから適当な服を持ってきてもらい、散々「護衛を」と迫ってくる侍女や従者達を押しのけて王都まで一人と一匹でやってきたキリトは歩き疲れて座り込んだ広場の木製ベンチでふぅっ、と息を吐き出した。

ここは王都でも飲食店や雑貨店が建ち並んでいる区画で、目の前を行き交う人達が耐えることはない。

昨日、人通りの多い場所、という条件で王都で暮らしているリズが教えてくれたのだから間違いはなかった。

ところが手当たり次第にあちらこちらで聞き込んでみたものの、シノンの存在は皆が知っていたが、その居場所となると首を横にふる者ばかりだ。

中には数名、他国から帰ってきた旦那が原因不明の熱病にかかった時、使い魔がやって来てシノンの元まで薬をもらいに行った事のあるおかみさんや、王都の外れで馬車が河に落ちそうになった時、使い魔と一緒にシノンが現れて助けられた経験のある商人など、シノンと直接会ったことのある者もいたが、全員がどこに行けばシノンに会えるのかは不思議な事にすっかり忘れてしまっていると言う。

その話を思い出したキリトは「さすが、長だな」と、昨日と同じ言葉を繰り返した後、「そこまで無駄に魔力を使う余力があるんだもんな」と付け足した。

一方、肩の上の相棒は興奮気味にキョロキョロと視線をせわしなく動かし、王都見物を満喫しているばかりで全く何の役にも立ってくれない。

アスナならシノンを呼び出す事が出来るとリズから聞いたキリトは、仔猫と一緒に王都へ出向けば使い魔がやって来てくれるのではないか、という淡い期待を抱いていたのだが、それもこの数時間の徒労で跡形もなく消え去っていた。

さて、これからどうしよか、と思っていた矢先、広場にお昼を告げる鐘の音が響く。

その音で時刻を知った途端、空腹を自覚したキリトはそろそろと立ち上がり「とりあえず昼食でも食べてから考えるか」と仔猫に告げ、ふらふらと通りを歩き始めた。

広場からほど近い場所で、店の外の通りまで賑やかな声が漏れている食堂をみつける。

その繁盛ぶりと店から出てくるお客が皆一様に満足そうな笑みを浮かべているのを見て、期待できそうだ、とふんだキリトは『風林火山』と看板のかかっている食堂に足を踏み入れた。

入ってすぐ近くにいた店の男に肩にのっている仔猫を見せて「いいか?」と軽く尋ねる。

男は何でもないといった風に頷いて「じかにテーブルに乗せなければ犬でも鳥でも何でもありっすよ」と笑って答えてくれた。

活気溢れる店内はお客と従業員でごった返していたが、運良く二人掛けの空席をみつけ、そこに座るとすぐさま頭に臙脂色の布を巻いた若い男が水の入ったコップを持って現れる。

 

「いらっしゃい。お兄ちゃん、見かけねぇ顔だな。旅の人か?」

「まあ、そんなとこかな」

「へぇぇっ、そんなべっぴんさんな仔猫ちゃんと一緒に旅とは羨ましいぜ」

 

人なつこい笑顔でキリトの前にコップを置くと、そのまま肩にいるアスナへと手を伸ばしてきた。

 

「みゃっ」

 

慌てた仔猫がキリトの反対側の肩へと飛び移り、その手を回避する。

ぴとり、とキリトにしがみつく姿に男性店員は「ほぇっ?」と意表を突かれたような顔になったが、途端に手をひっこめて笑い出した。

 

「すまなかったな、別に驚かすつもりじゃなかったんだけどよ」

「いや、こっちこそすまない。どうもオレ以外には懐かなくて」

「へぇっ、ぞっこん惚れられてるってわけだ」

 

ニヤニヤとキリトを見つめる男の顔は不思議と不快な印象はなく、キリトも自然と気を許したのか、ニヤリと笑ってから「この店のおすすめは?」とメニューを尋ねる。

 

「うちは看板の絵の通り、辛いもんが売りだけどよ、他にも色々とあるぜ」

 

それを聞いてキリトは店の外の看板を脳裏に浮かべた。

言われてみれば『風林火山』の字の上には噴火している火山の絵がでかでかと描かれていたな、と思い出す。

 

「オレは辛くても大丈夫なんだけど、出来ればア……仔猫にも……」

 

そこまで言うと店の男が合点承知とばかりに自分の拳で手の平を打った。

 

「おうっ、まかしとけ。店の勝手口にも毎日野良猫がエサを貰いに来るからよ。いやいや、気にすんなって。どうせアイツらの為に取ってあるんだ。それを分けてやるからちょっと待ってな。あと、お前さんには辛口の自慢料理を持ってきてやるよ」

「えっ?……あっ……ちょっと……」

 

キリトが呼び止める間もなく頭の布の先をひらひらとなびかせて男は厨房へと消えてしまう。

後に残されたキリトとアスナは唖然とした面持ちで人の話を最後まで聞かない男が入っていった厨房のドアを眺めていた。

 

「あれ、大丈夫なのか?」

「なぁぁぅ」

 

不安な予感のする仔猫の鳴き声は数分後に的中することとなる。

 

 

 

 

 

とんっ、とんっ、どんっっ、と置かれた皿を見回してキリトはもちろん、仔猫までもが頬を引きつらせた。

キリトの目の前には真っ赤なスープの上にたっぷりの野菜と肉の煮込みがのった深皿がある。

中に麺が隠れているというこの店自慢の一品はいいのだ、辛味だけではない香辛料の深い香りが空腹のキリトの嗅覚と胃を激しく刺激している。

問題はその隣に置かれた小さな二つの皿の中身だった。

ひとつは煮込んで出汁を取ったのだろう、僅かに身のついている頭付きの魚の骨がのっている。

もうひとつは茹でた麺のすくい残しとぐちゃぐちゃに煮崩れた野菜の切れ端を混ぜた物がべちゃっ、と盛ってあった。

 

「べっぴんな仔猫ちゃん、遠慮しねーで食えよ。おかわりもあるからな」

 

少し得意気に笑う男に対して、仔猫は今にも泣きそうな瞳で尻尾をふるふると振りながらキリトに訴える。

 

「みゃうっ、みゃうっ、みゃうっ」

「うん……さすがに、これは……ちょっと……無理だよな」

 

安心させるようにキリトは肩の上の仔猫の頭を二本の指で優しく撫でた。

一方、お世辞にも喜色満面といった表情ではない仔猫の様子に疑問を覚えた店の男が首を傾げる。

 

「どうしたんだ?、野良猫共は喜んで食うぜ」

「折角用意してもらって悪いんだが……食べられない、と言うか……」

 

どう説明したものか、と悩んでいると、腑に落ちたとばかりに再び男が手の平を打った。

 

「そうか、そうかっ、オレ様としたことが……こーんなちっちゃな仔猫ちゃんだもんなぁ、まだミルクしか飲めねぇか」

「あっ……ああ、そうっ、実はそうなんだ。なんせ、仔猫なりたてだから……」

「おいおい、それを言うなら『生まれたて』だろうがよ」

「そっ、そうだな」

 

乾いた笑いでキリトが失言を誤魔化していると、仔猫用の皿を引き上げてくれた男がほどなくして温めたミルクを持ってくる。

意外にも気働きのいいことに、頼むまでもなく大きめのスプーンも添えてくれた。

そこで仔猫はキリトの膝の上に移動して、いつものようにスプーンですくってもらったミルクを堪能したのである。




お読みいただき、有り難うございました。
「風林火山」の「火山」って、そーゆー意味じゃないからっ(焦っ)


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王子と姫と白い仔猫・18

「アスナ、お腹いっぱいになったか?」

「みゃぁぅっ」

 

満足げに鳴く姿に頬を緩めたキリトだったが、小さな動物の世話などしたことのない自分にとってはこれで十分なのかどうか判断がつかない。

昨日、サタラから聞いた「幾分お痩せになり」の言葉を思い出して、そっと背中やお腹を撫でてみるが、仔猫の体型ではわかるはずもなかった。

キリトに撫でられたお陰で気持ちよくなった仔猫はそのまま膝の上で丸くなる。

大人しく食後の睡眠を取り始めたらしい仔猫を認めてからキリトは自分の料理の器を手に取った。

真っ白な毛並みをちらちらと見ながら、キリトは店員オススメの自慢料理を口に運ぶ。

それは期待以上の味で確かに繁盛するのも納得だと思いながら夢中で食べ進めつつ、自国にも支店を出してくれないだろうか、とか、それが無理ならどうにかリズの店を経由して仕入れる方法はないだろうか、などと思っていると、麺をすくい上げた拍子に真っ赤な汁がピョンッと跳ね、真っ白な仔猫の背中に着地した。

うわぁぁぁっっっっ……、と声にならない声がキリトの口から吐き出されるが、仔猫は気づいた様子もなく、ピクッとも動かない。

キリトの頭の中では猛烈なスピードで様々なシチュエーションが展開される。

にも関わらず、はじき出された結論の行動は……テーブルの上の布巾にそぅっ、と手を伸ばし、すすすすすーっ、とそれを引き寄せ、仔猫の背中を撫でるような手つきで実は汚れを拭き取る、というお粗末なものだった。

今までも寝ている間に優しい手が自分の背中や頭を撫でてくれたのは知っている仔猫だったが、いかんせん今の触れ方には違和感を感じて耳をびょこっ、と動かす。

続けて店内中に漂っている少々きつい香辛料の匂いがなぜか自分の背面からより強く発していることに疑問を感じて「みゅ?」と声を漏らしながら鼻をくんくん、と動かした。

それでも自分の背中をゴシゴシと摩り続ける手つきに、ついに我慢が出来なくなり顔を上げてキリトを仰ぎ見る。

しかし、そんな仔猫の声や動きに気づかない程キリトは真剣な目つきで何かに集中していた。

白い毛並みに落ちたたった一滴の香辛料たっぷり汁は布巾をも赤く染めたが、仔猫の背中から綺麗に消えることはなく、幾分色が薄まっただけでむしろ面積は広がっている。

既に撫でている、という偽装をするほどの余裕はなく、懸命に仔猫の背中を布巾でぎゅっ、ぎゅっ、と拭いていたキリトは鋭い視線を感じて、恐る恐る仔猫の背中から視線を移動させた。

 

「あっ……アスナ……」

 

完全に不審者を見る目つきでキリトを捉えているはしばみ色がじいぃぃっ、と射貫くように揺るがない。

 

「こっ、これは、決してわざとじゃない。信じてくれ」

「ふみっ」

「ほんのちょっとだから。一滴なんだ」

「ふみみっ」

「結構落ちたんだぞ。これなら気にするほどじゃないし」

「ふみーっ」

「今夜、ちゃんと風呂で綺麗に落としてやるから」

 

要は結局いくら擦ってみても完全には落ちなかったのだ。

キリトがことある毎に「真っ白でふわふわだな」と褒めてくれる自慢の毛並みに汚れが……しかも赤はお気に入りの首輪の色であって、決して汚れの色であってはならないのに……仔猫は細い眉を吊り上げてぷいっ、とキリトから顔を背けた。

 

「アスナァ〜」

 

情けない呼び声にも仔猫は一向に反応しない。

すると、つんっ、と顎をキリトとは反対の方向に突き出していたアスナの鼻が急に何かに反応したようにぴこっ、と動いた。

そしてキリトの存在など忘れてしまったかのように、たまたま開きっぱなしになっている厨房へのドアの向こうをジッと見つめている。

中では料理人達がまるで合戦のように声を張り上げ、互いに段取りや注文を確認しながら料理を仕上げていた。

 

「ア……アスナ?、アスナさん?」

 

自分の呼びかけを無視され続けている大国の王子は弱り切った表情で仔猫に向かい無駄に手をばたつかせている。

しかし仔猫はキリトの声に一切耳を傾けずしばらく厨房に視線を送り続けていたが、中の料理人の一人が裏の勝手口の扉を開けた途端ぴょんっ、と膝から飛び降りて一直線に厨房へと駆けだした。

 

「えっ?、アスナ?」

 

一瞬遅れて立ち上がったキリトは慌てて仔猫を追いかけようと椅子を押しのける。

先程キリトと仔猫の食事を用意してくれた店の男がそのただ事ではない様子に気づき「おいっ、どうしたんだ?」と声をかけ、後ろから追って来たが説明している余裕はなかった。

仔猫を追いかけながらキリトは懐から料理の代金を取り出し、追いかけてくる男に投げるように渡す。

もの凄い勢いで厨房の中に入ってきたほぼ真っ白い仔猫に続いて細身で黒髪の少年、そのすぐ後ろに従業員の男、といきなりの乱入者に料理人達が驚いて手を止めるが、それも一瞬で仔猫がその人混みの中を素早く駆け抜けて裏口から外へ飛び出すと、彼らは再び何事もなかったかのように調理に戻った。

厨房内に被害がでていないのであれば、この戦場で余計な詮索をするほど暇な料理人はひとりもいないのだ。

アスナがひとりで外に出たのを見たキリトはその後ろ姿が視界から消えた瞬間血の気を失った。

森のはずれで出会ってから、文字通り片時も離れずに自分の傍らにいた存在を失う、その恐怖にもつれそうな足をどうにか立て直して走る。

ところが、ガタンッ、と裏口の扉に手をついて外に出た途端、すぐ目の前に佇んでいる小さな仔猫に気づいてキリトは不覚にもふにゃふにゃとその場にへたり込んだ。

 

「なんだよ、アスナ、どうしたんだ?」

 

しかし目の前にはほぼ真っ白い仔猫の他にもう一匹の大人の猫がいた。

そして、その見知らぬ猫に対し仔猫は嬉しそうに顔をすり寄せている。

キリトがその光景に言葉を無くして座り込んでいると、すぐ後から店の男も勢いよくやって来た。

 

「っと、なんだ?、どうしたんだ?……ああ、べっぴんな仔猫ちゃんの本命はそっちってわけか」

「そんな……アスナ、そいつ、誰なんだ」

 

力のないキリトの言葉に店の男が軽快に答える。

 

「誰って、見りゃわかんだろ。猫だよ。真っ黒な毛並みのな」

 

大正解、とでも言いたいのか仔猫はすっかりご機嫌になって「みゃぁっ」と鳴き声をあげた。

黒猫もまんざらではないのか、すり寄られても嫌がる素振りもみせずに、されるがまま仔猫からのスキンシップを受け入れている。

いまだ座り込んで項垂れているキリトに店の男は何かを悟ったような口調で諭した。

 

「まあな、飼い主としては微妙なところだろうけどよ。いくら頑張っても猫だしな。そんなら立派な相手を見つけてきた自分の猫を褒めてやるのが飼い主の度量の大きさってもんなんじゃねえか?」

 

ひとり悦に入ってうんうんと頷いている男の言葉はキリトの耳に届いておらず、それどころか二匹の仲むつまじい様子を凝視していると、ゆっくりと黒猫が歩き出す。

それに付き従うように仔猫も歩き出した。

自分の後ろで何かを言い続けている男を置いて、キリトも急いで立ち上がり、後を追う。

黒猫は時折、後ろの仔猫とキリトの様子を窺うように振り返りながら王都の街中の細い道をどんどんと進んでいった。

どれだけの角を曲がっただろうか、既に王都のはずれまで来てしまったのではないかと思うほどの距離を歩いているが黒猫は歩みを止めようとはしない。

しかし段々と仔猫の足取りがおぼつかなくなってきたのに気づいたキリトは「アスナ」と名を呼んでから腰を屈めて出会って時のように両手を伸ばした。

考えてみれば普通の仔猫だったとしてもまだまだ長い距離を歩くのは無理な幼さだし、キリトに保護されてからはほとんどの時間を彼の腕の中で過ごしてきた仔猫にとってこの距離は体力の限界だった。

優しく抱き上げられると仔猫は抵抗せずにすんなり手の中に収まったが、未だ顔をキリトに向けようとはしない。

 

「まだ怒ってるのか?」

 

機嫌を取ろうとキリトが仔猫に顔を近づければ、足下から「にゃぁ」と催促するような鳴き声がする。

 

「ああ、悪かったよ、立ち止まって。それにしてもどこまで行くんだ?」

 

その問いに再び「にゃぁ」と答えた黒猫は、早く着いてこい、と言いたげに黒くて長い尻尾をゆらり、と一回揺らした。

仔猫とのやり取りを邪魔されて面白くはなかったが、腕の中の仔猫も「ふみゅ、みゅっ」と促すような声を出すのでキリトは「どうやらついて行くしかなさそうだな」とひとつ息を吐き出してから渋々黒猫の後ろを歩き始める。

そうやってどれくらい歩き続けただろうか、人通りが全くない路地裏でついに黒猫は一軒の家の玄関前で立ち止まった。

左右を確認するように視線を巡らせてから、少し空いているドアの隙間へ身体を滑り込ませる。

黒猫の後に続いてキリトは仔猫を片手で抱いたまま、ドアノブを掴んでゆっくりと家の中へ足を踏み入れた。

その瞬間、薄い水のカーテンをくぐったような感覚が全身を通り過ぎる。

そして気がつけば、自分と仔猫は何かの作業部屋のような空間の隅に立っていた。

目の前には様々な物が乱雑に乗っている大きな机の上で椅子に座っているらしい小柄な体つきの人物が俯いたまま作業を続けている。

その人物は顔も上げずにいきなりしゃべり出した。

 

「おかえり、ヘカテート」

 

その声から小柄な人物が少女であるらしいと推察する。。

机の影でわからなかったが、机のすぐそばにはあの黒猫が行儀良く座っており、少女の声に反応してすぐさま「にゃぁ」と返事をした。

するとキリトの腕の中の仔猫が懸命に鳴き声をあげる。

 

「ふみゃっ、ふみゃっ」

 

黒猫以外の猫の声に気づいたこの家の主らしき少女が作業の手を止めて顔をあげた。

青色がかった鈍色の短い髪がさらり、と動いて顔が露わになると黒縁のメガネがどこかの光を反射させてキランッと光る。

 

「あら?、ヘカテート、友達を連れてきたの?」

 

そして今の今まで気づかなかった一人と一匹の珍客を見て一瞬レンズの奥の目を見開いた後、怪訝な顔で冷静な声を発した。

 

「アスナ、なんで猫になってるの?」




お読みいただき、有り難うございました。
『漆黒に……』では鳩だったヘカテート、こっちでは猫ですよん。


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王子と姫と白い仔猫・19

机に向かっていた少女が椅子から立ち上がり、こちらに向かって歩いてくる。

彼女は羽織っている墨色のローブを翻して真っ直ぐキリトの前までやって来ると、腰を曲げて彼の手の中にいる小さな白い存在に鼻がくっつく程に顔を寄せてクン、クンと匂いをかいでから首輪に付いている石を確かめた。

 

「……やっぱり、アスナね……と言うことは……」

 

そう言って顔を上げ、上目遣いで仔猫を抱いている少年の顔を見上げる。

 

「キリト?」

「えっ?……あっ……もしかして……シノンか?」

 

この国で自分のことを「キリト」と呼ぶ人間はリズ以外にあと一人しかいない。

目の前の少女は十年ほど前を彷彿させるように言葉を発することなく頭を軽く降るだけで肯定を示した。

 

「ああーっ、よかった。シノンを探してたんだ」

「ふみゅっ、みゅっ、みゅっ、ふみゃあうっ」

 

安心したように力を抜いたキリトとは反対に手の中の仔猫はシノンに向かって何かを必死に話し始める。

 

「アスナが仔猫の姿になった原因が魔術士の作った魔具だってリズと侍女のサタラが言ってて……」

「みゅーっ、みゅーっ、みゃうっ、みゃうっ、みゃんっ」

 

キリトが事の次第を説明し始めても仔猫は変わらずシノンに鳴き声を上げ続けた。

 

「でも、その魔具を作った魔術士がわからないんだ」

「みにゃっ、みい、みいぃ」

 

二人からの訴えを聞いていたシノンが眉根を寄せ、全く興味のなさそうな顔でうんざりといった風に息を吐く。

その主人の表情を足下から見上げていた黒猫のヘカテートが「にゃおーん」とひと鳴きした。

シノンはしゃがみ込んでヘカテートの頭を撫でると「そう。お前はアスナに可愛がってもらってるものね」と呟くとおもむろに立ち上がって腕組みをする。

 

「王都の中心部でアスナと会ったから連れてきたってヘカテートは言ってるけど、アスナの言ってる事はなんだか要領を得なくて……」

「シノンっ、お前、猫の言葉がわかるのかっ」

「あのねキリト、ヘカテートは私の魔力で猫の姿をしてる使い魔よ。それにアスナだって魔力で猫の姿をしているんだから、どっちも厳密には猫じゃないわ」

 

そう言ってからキリトの腕の中で縮こまっている仔猫の背中を見つめて再び軽くため息をついた。

 

「アスナは毛並みの赤く染まってる所、すごく気にしてる」

「ええっ!、さっきから鳴いている内容はこの汚れの事なのかっ」

「そう。自慢の毛並みが汚れて、これじゃあ誰もお嫁に貰ってくれないって……」

「は?」

「仔猫の部分とアスナの部分が混同してるわね」

「そんな……アスナの意識は封印されてるはずじゃ……」

「みぃ、みぃ、みゃぁぁ」

 

自分の腕の中で悲しそうに鳴く仔猫にゆっくりと視線を落とすと、キリトはそのまま顔をすり寄せた。

 

「大丈夫だよ。アスナはちゃんと……その……有り難く、オレが……貰いマス」

 

最後の方になって恥ずかしくなったのか照れた顔を隠すようにアスナから視線を逸らして断言すれば、仔猫はちょっと驚いたような声で反応する。

 

「ふみゅ?」

 

キリトの言葉の真偽を尋ねているようだ。

 

「うん、本当に」

「みゃぁぁっ」

 

安心した声でひと鳴きすると仔猫は目を細めてキリトの頬をぺろり、と舐める。

それをくすぐったそうに受けてからキリトは再び視線をシノンに戻した。

 

「でもな、この汚れの原因はオレだぞ。それにアスナが見た目をそこまで気にするなんて……」

「……アスナはその姿になって何日目?」

「えーっと……五日目、かな」

「生まれたての仔猫並みの知能と判断力、そこに十七歳のアスナの感情が混ざり合ってるのね」

「だけど、今までアスナの感情なんて全く感じられなかったんだ。だから仔猫としての意識しかないと思っていたのに……」

「五日も経ってるなら魔力なんてほとんど残ってないわ。どんどんアスナの部分が大きくなってくるはずよ」

「なんでわかるんだ?」

「だってアスナを猫に変化させた魔具、私が作って渡したんだもの」

 

ちょっと言い忘れていた蛇足を告げるような軽い口ぶりにキリトは唖然として無表情に近い面立ちのシノンを見つめた。

言うべき言葉も見つからないままパクパクと口だけを動かしてみるが、そんな姿さえ気にもかけずにシノンは語り続ける。

 

「渡した、と言っても十年近くも前よ。アスナから漏れている僅かな魔力の残り香が私の物だから思い出したの。どうりでヘカテートがためらわずにここまで案内したわけだわ」

 

そのシノンの話を聞いてキリトは首を傾げた。

 

「十年近くも前に渡した魔具なのか?」

「ええ、あの頃はアスナが王女として自分を必要以上に追い込んでいたでしょう?」

 

確かに、と思いキリトは頷く。

 

「だからアスナがちょっとでも自分が王女だという事を忘れられる時間が必要だと思って作ったのよ」

「忘れられる?」

「そう、魔具を持って『王女なんて嫌だ』って強く思えば少しの間だけ人間だって事を忘れて動物に変化できるの」

「お前なぁ……」

 

なんて人騒がせな魔具を作り上げたのか、とキリトは少しの敬畏と大きな困惑の混ざった声を苦笑いにピクピクと跳ねる口元から漏らした。

 

「所詮四歳児の魔法士見習いが考えた浅知恵よ、かわいいもんじゃない」

「そんな子供があんな魔具を作るのかよ」

「作れたんだから仕方ないでしょ」

「アスナのため……か」

 

そうだ、いくら魔力が強かろうが、小さな子供が自分以外の人間の為にそこまで努力をするには必ず理由がある。

確かに連日熱を出して苦しそうな姿を見ればアスナを大好きなシノンのことだ、効力の内容には疑問を覚えるが、多分一人で一生懸命考えて頑張って魔具を作り上げただろう事は容易に想像ができた。

 

「なら……オレの所に嫁ぐのが嫌で猫になったわけじゃ、ないんだな……」

「まあ、それはないわね。さっきのアスナの様子を見てわかったでしょ」

「ああ。でも、そうなると原因と解決方法は……」

 

その疑問を聞いてさすがのシノンも眉間に皺を作る。

 

「引き金は私の魔具だけど、そんな昔の物をまだ持っていた事にも驚きだわ」

 

シノンの口から出た「昔の物」という言葉を聞いてキリトは昨日、サタラから聞いた話を思い出した。

仔猫に変化(へんげ)する前、ドレスの試着をする為にあの衣裳部屋へ行く寸前までアスナは自室で部屋の片付けをしていたのだと。

サタラとアスナ付きの侍女の二人でアスナとお喋りをしながら楽しく思い出の品などを整理していたらしい。

その時にアスナが懐かしそうに取り出したのが「宝箱」だった。

侍女が中身を問うと、アスナは少し恥ずかしそうに頬を染めながら「小さい頃、お友達にもらった大切な品を色々しまってある箱なの」と説明したと言う。

結局中身は教えてもらえず、侍女とサタラはドレスの試着の時間が迫っている事に気づき、箱の中身を見つめていたアスナを慌てて衣裳部屋へと急かしたのだと言っていた。

 

「多分、その箱に入っていたんだ」

「箱?」

 

キリトの呟きに不思議そうな眼差しを返してきたシノンへ、自分の考えを説明すると、シノンは困ったように、それでいて嬉しそうな瞳で、ふっ、と息を吐き出すと仔猫の頭をそっと撫でた。

 

「私が作った魔具、宝物にしてくれてたのね」

「みゃぅ」

 

当然とばかりの鳴き声を上げる仔猫を見て、珍しくシノンが微笑む。

 

「きっとサタラ達に急き立てられて、たまたま手にしていた魔具を持ったまま移動したんだろ。問題はなにが原因でアスナが王女である事を否定したか、だ」

「そうね、五日経ってもまだ人間の姿に戻らないなんて、これは既に魔具に込めた魔力じゃなくてアスナ自身の強い意志のせいよ」

「なら……その原因を突き止めるしかないな」

 

キリトは自分の腕の中で機嫌良く座っている仔猫を見ながら、複雑な思いを抱いていた。

このままならアスナは仔猫としてキリトの保護の元、しばらくはのんびりと暮らしていけるだろう。

事情を知ればユークリネ国王は政務の為に王宮に戻ってくるだろうし、キリトとの婚姻の話は少し先延ばしにすればいいことだ。

ここまで自分を追い込んでいるアスナを王太子の授位式に出て欲しいという自分の願いを理由に、無理に原因を暴くことを彼女が望むだろうか、とキリトが沈痛な面持ちになった時、シノンがまるで問題は解決したかのような軽い口調で言い放つ。

 

「なら、あとはキリトがなんとかするとして……私は忙しいの。もう帰ってくれない?」

「ええっ、ちょっと待てって……もし、もしもだぞ、アスナにとってこのままの方が……」

「いいわけないでしょ」

 

そんな事もわからないのか、と侮蔑の混じった声がまっすぐキリトに届く。

 

「さっきも言ったけど、既にアスナの本能に近い感情は仔猫の意識と混ざって表面化してきてる状態よ。その仔猫がお嫁に行けないって言って悩んでたの。アスナのこと、大事にしてくれるんでしょ?」

 

そうだ、十年前、シノンは初対面のキリトにも同じように聞いてきたではないか……「アスナのこと、大事にしてくれる?」と。

 

「ペットみたいに可愛がってもらいたいわけじゃないのよ」

 

眼鏡の奥の瞳が冷たく光った。

 

「そうだ……そうだったな。ゴメン」

「わかってくれたならいいの」

 

そう言いながらシノンは既にキリトに背を向けて、元いた机に向かうと椅子に腰掛けて作業の続きを始める。

大好きなアスナに対して、どこか腑に落ちないシノンの態度にキリトは思ったままを口にした。

 

「今作業してる、それって……魔具を作ってるのか?」

「そうよ」

 

シノンは顔を上げずに端的に答える。

そして早く追い出したいのか、自ら説明をしてくれた。

 

「王宮ならすぐに連絡が取れるんだけど、ガヤムマイツェン王国の王城までは少し距離があるから」

「……あるから?」

「早く仕上げないと、あと一ヶ月もないでしょ」

「……なにが?」

 

からかうような合いの手の言葉に苛ついたのか、ガバッとシノンが顔を上げ、キリトを睨み付ける。

 

「アスナが嫁ぐまでに渡したいのっ、だから急いでるのよ、わかったでしょうっ」

「えーっと……やっぱり、それって……アスナがガヤムマイツェン王国にいてもシノンと連絡が取れる魔具……とか?」

「そうよっ、なんか文句あるのっ」

「……ないです、お邪魔しました」

 

小さくそれだけを告げて仔猫をしっかりと抱き直すと、キリトはシノンの前からそろり、そろり、と後ずさりをし、いつの間にか足下にやってきていたヘカテートの案内で王都の中心部まで戻ったのだった。




お読みいただき、有り難うございました。
きっとシノンはアスナから勧められたのと、王族(アスナ)の専属に
なれるから魔術士長をやってるんだと思いマス(苦笑)
ちゃんと魔術士長のお仕事もしてますよ、だってアスナが
褒めてくれるから……。
昔も今もアスナの事が一番好きなシノンでした。


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王子と姫と白い仔猫・20

夜、いつものようにユークリネ王宮内に借りている客間の寝室で仔猫と一緒に眠りについたキリトは霧の中にいることを認識した途端、待ちかねたとばかりに歩き出す。

今宵も目の前に現れたアスナは小さくなって泣いていた。

慣れた足取りでゆっくりと近づく。

アスナの隣に片膝を付いて姿勢を低くしてから、もしかして、と少し躊躇うように「アスナ」の三文字を口にした。

自分の耳にさえ届かない声、もちろん彼女に届くはずもない。

小さい頃から重ねてきたあまり多くない逢瀬の日々の中、常に自分に向けて様々な感情を見せてくれた彼女が今はただ、ひとりぼっちで背中を丸めている。

もしかしたら自分が留学していた二年間の間には、こんな光景があったのかもしれない。

いや、それよりもっと前から、自分が傍にいない時にだって王女としての責務を重く感じていた彼女にはあの綺麗なはしばみ色の瞳に涙を貯めるような事があっただろう。

それでも周囲の者達には「平気」だと、「自分は大丈夫」だと言ってきたに違いないのだ。

もう、そんな事はさせたくなくて……いや、そんな時には自分が隣にいたくて彼女を求めたはずなのに……。

 

(アスナ、なにをそんなに泣いてるんだ……)

 

自然と伸ばした手はそのまま彼女の小さな頭に届く。

彼女に触れることが出来た驚きや喜びはほんの一瞬で、何の反応も返ってこない事実に思わず表情が歪んだ。

今のアスナはキリトの声も聞こえず、触れられた手を感じることも出来ず、その存在を認めることさえ拒んでいるように思える。

それでも手を引く事や、彼女の傍から離れることはキリトの選択肢にはない。

一体何が彼女をそこまで追い込んでいるのか……。

 

(そんな時はオレを呼べって約束したのに)

 

アスナに伝わることはないとわかっていても、キリトはその艶やかな栗色の髪を優しくなで続けた。

 

 

 

 

 

いつものように目覚めて自分にくっついて寝ている真っ白い仔猫に「おはよう」と言ってから両手で抱き上げてキスをする……と、そこまでを終えてからキリトはくたり、と力の抜けている仔猫に気づき顔を強張らせる。

 

「アスナ?」

「みぅ……」

 

なんとか反応はするものの、声には全く力がなく、顔も上げようとしない。

慌てて顔を覗き込めば、幾分苦しげな表情で瞳を開ける気配は一向になかった。

 

「どうした?」

「みぃ……」

 

消え入るような声を絞り出すように落として、仔猫は全く動かなくなる。

急いで侍女を呼んで事情を説明すると、ほどなくしてサタラともう一人、幼さが残る面立ちの侍女がやって来た。

 

「姫様っ」

 

キリトの膝の上で丸くなっている仔猫を心配そうに覗きこむサタラの横で、もう一人の侍女が慣れた手つきで仔猫の顔や身体を触り始める。

普段ならばキリト以外の人間の手には警戒する仔猫だったが、その気力もないのか身体のあちらこちらを探ってくる手に構うそぶりすらない。

最後に侍女は「ちょっと舌を見せてくださいね、姫様」と言って両頬をむぎゅっ、と指で挟んで口を開かせる。

ぱくり、と開いた口から中を覗き込んだ侍女はふむ、ふむ、と頷いて仔猫を元に戻した。

その侍女の手つきを見ていたキリトが不思議そうに声をかける。

 

「随分と手慣れた感じがするけど……」

 

見知らぬ侍女のいきなりの行動に面食らった様子のキリトに気づいたサタラは一礼をしてから彼女を紹介した。

 

「あ、ご挨拶もせずに申し訳ありません、殿下。この子は姫様の身の回りのお世話係をしておりますシリカという侍女です」

「はじめまして、殿下。シリカと申します」

 

飴色の髪をツインテールに結んでいるシリカは、その髪先を揺らしながらペコリ、と頭を下げると、それからそうっ、とキリトを盗み見るように顔を上げる。

その仕草にサラタはこほんっ、と咳払いをしてから「行儀が悪いですよ、シリカ」と窘め、更に彼女について語った。

 

「シリカはあの時、姫様のお部屋で私と一緒に片付けをしていた侍女です」

 

その言葉だけで「あの時」という意味に気づいたキリトが、頷いて理解を示す。

 

「姫様の婚礼が決まってから採用した最後の侍女達なので……その、殿下のお人柄をあまり存じ上げておりません。不躾な視線をお許しください。それと、シリカもそうですが姫様を探しに出ていた者達が昨晩、無事に全員帰宮いたしました。早速にでも姫様と最後に言葉を交わした侍女と話をしていただきたいのですが……」

 

サタラの視線が仔猫に落とされると同時に隣のシリカが意見を述べた。

 

「まず姫様のご容態を落ち着かせるのが先だと思います」

「そうね」

「そうだな」

 

二人から同意を得られたことでシリカは少し笑顔になって言葉を続ける。

 

「やっぱり仔猫の姿でいる事で色々と負荷がかかってるんだと思いますが、とりあえず症状は風邪に似てますからそれを和らげましょう」

 

そう言うとはりきった様子で「蜂蜜入りのショウガ湯を作ってきますっ」と言って部屋を出て行った。

その後ろ姿を見送ってからキリトは仔猫の背中をさすりつつサタラへ問いかけるような視線を送る。

 

「ああ、シリカは動物の扱いに慣れている子なので任せて大丈夫です」

「へぇ……それにしても、具合を悪くしたアスナと付きそうサタラにオレの三人って、あの時の夜みたいだな」

「そうですね」

 

少し肩の力を抜いて微笑むサタラにキリトは眉尻を下げて告白した。

 

「オレ……また、アスナに嫌われたのかと思ったんだ……オレとの婚姻が嫌になったのかもって」

 

最初は手元に届いた書簡を見た時だった、次はアスナが仔猫に変化(へんげ)したとわかった時、そして夢の中では未だに声すらかける事が出来ずにいる。

キリトの情けない声を聞くのは二度目となるサタラが、困り笑いを零してからふと思い出したように話題を変えた。

 

「ガヤムマイツェン王国の妹姫様も随分と成長された事でしょう。あの頃は人の手ばかりをアテにしている、と殿下は評されておいででしたが……」

「うん、今もたいして変わってないな」

「それでは、変わらずに可愛らしいままのお方なのですね」

「だから、それ違うって」

 

キリトも少し笑ってから、ふうっ、と息を吐く。

 

「でも、シノンに会えて、アスナの言葉がわかって……こんな風にオレの手の中で弱っている姿を見たら、オレが何とかしてやらないと、って思った。それがアスナとの約束だから」

 

夢の中で立ち上がることすら出来ずに縮こまっているアスナの手をひっぱってやれるのは自分だけなのだと、そう心に決めてキリトがいつものように仔猫の顎の下を撫でていると再びシリカが入室してきた。

 

「お待たせ致しました、姫様。さあ、飲んでください」

 

シリカの声に反応したのか、はたまたその手元の液体の匂いに反応したのか、のろのろと仔猫が重そうに頭を上げる。

 

「み?」

「これを飲めば元気になりますよ」

「ふみっ」

 

あらん限りの力で弱々しく首を横に振る仔猫にシリカは無言の笑顔で迫った。

蜂蜜入りのショウガ湯をスプーンですくい口に付けるが頑として仔猫は口を開かない。

業を煮やしたシリカがなんとか口に流し込もうとスプーンの端をぐりぐりと押し付けてみるが、仔猫もギュッと顔全体をしかめてそれを拒んだ。

見かねたキリトがそっと声をかける。

 

「シリカ、ちょっと替わってもらっていいか?」

 

シリカからスプーンを受け取り、反対の手の指で軽く仔猫の頭を撫でながら「アスナ」と呼びかけると、仔猫が仕方なさそうな表情で細目を開けた。

 

「飲めば具合が良くなるってさ」

「みゅぅ」

「元気になったら何したい?」

「みゃぁ」

「一緒にガヤムマイツェンに行こうか」

「みゃん」

 

心なしか嬉しそうな鳴き声を上げた仔猫に優しく微笑んでからそっと口元にスプーンを持っていけば、そろり、と小さな舌が出てきてペロペロとショウガ湯を舐める。

 

「姫様ったら、やっぱり行きたいんですね、ガヤムマイツェン王国」

 

ちょっと寂しそうに、それでいて安心したように笑うシリカに見守られながらスプーン一杯分のショウガ湯を舐めきった仔猫は今度はスヤスヤと落ち着いた寝息を立ててキリトの膝の上で丸くなったのだった。




お読みいただき、有り難うございました。
やっぱり出ました「ショウガ」料理……料理かな?


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王子と姫と白い仔猫・21

昼を過ぎても眠り続けている仔猫に侍女達は心配そうな表情で代わる代わる様子を見に来ていたが、動物に詳しいというシリカが「大丈夫です。自己治癒に集中しているだけですから」と太鼓判を押せば、確かに表情も柔らかく気持ちよさげにキリトの膝の上で丸くなっている姿を見て、これ以上は邪魔をしないでおこう、と次第に部屋を訪れる人数も減っていった。

侍女達が平常業務に戻ったのを認めて、サタラは愛おしげに仔猫の背を撫でているキリトに声をかける。

 

「キリトゥルムライン殿下、姫様と最後に言葉を交わした侍女を呼んでもよろしいでしょうか?」

 

真っ白い毛並みを梳くように動かしていた手がぴくり、と止まった。

「ああ」と短く応えると、既に扉の向こうに控えていたようで、すぐさま一人の侍女が入室してくる。

ちらり、とキリトを見る目はどう見ても好意的とは思えず、初対面であるはずの侍女に何かしただろうか?、と不思議に思っていると、やはり同様に侍女の視線に気づいたサタラが呆れと憤慨を織り交ぜた息を短く吐き出した。

 

「本当に申し訳ありません、殿下。ご存じのようにこの王宮で働く者は皆姫様を慕っておりまして……」

「うん、それは知ってる。この王宮どころか国のみんなが王族に信頼を寄せているのは」

「有り難うございます。そして特に姫様付きの侍女は行儀見習いの色が濃いものですから長期に渡って仕える者がおりません。私のように再勤仕する者はごく僅かです。しかもこの二年、殿下は留学の為にユークリネをご来訪なさっておりませんので、殿下と姫様のご様子を知る者が少ないのです」

「……それって、結局どういう意味なんだ?」

「はっきり申し上げますと……殿下と姫様の仲むつまじいご様子を目にした事のない者が大半なのです、今の侍女達は」

 

サタラも口にするのは勇気が必要だったのか、わずかに顔を赤らめているが、それはキリトの比では無かった。

 

(仲むつまじいって……)

 

むつまじくしている時はちゃんとアスナが人払いをしてくれていたはずなのだが、と思ってはみてもそこはお年頃ばかりが揃っているアスナの侍女達だ、キリトが王宮にやってきた時にアスナだけを見つめる熱い眼差しや、挨拶のキスを受けるアスナの蕩けた表情だけでも十分にむつまじさを感じていたのだろう。

 

「それで、ですね……」

 

更に言いづらそうな口調のサタラが、わずかに躊躇いながらもキリトの顔をしっかりと見つめて真実を告げる。

 

「若い侍女達はガヤムマイツェン王国の王子が周辺諸国一の美姫と言われる姫様を手に入れるために大国の権威を振りかざしたのなんだのと……」

「はっ?」

「本当に、本当に申し訳ございません、殿下。そんな事はないと何度も窘めてきたのですが、この子もその噂を信じている侍女の一人のようで……」

「ええっと……」

 

何と言えばいいのか言葉が見つからずキリトが言いよどんでいた時だ、不満げな顔を隠そうともせずサタラの斜め後ろに立っていた侍女が「だって」と口を開いた。

 

「私、ちゃんとガヤムマイツェン王国からやって来た人に聞いたんです。うちの姫様との婚姻が決まったら、すぐにガヤムマイツェン王国の王子殿下が国内の貴族のご令嬢達ともお見合いを始めたって」

「控えなさい」

「それって、他国も羨む器量良しの姫様を手に入れたから次は国内の有力貴族のご令嬢を妃に迎えて権力を万全にするって事ですよね。うちの姫様は数多(あまた)いる側妃のひとりでしかないんですよね」

「いい加減になさいっ。無礼にもほどがあります」

「いやですっ、私達の大事な姫様が……っうう……」

 

サタラの叱責にも怯まずついには泣き出してしまった侍女はそれでも震える唇を噛みしめてキリトを睨み付けている。

想像もしていなかった侍女からの言葉にキリトはしばらく表情を無くしていたが、黙って手元の仔猫に視線を移し包むように添えていた両手で身体全体をひと撫でしてから顔も上げずにゆっくりと低い声を発した。

 

「それを……今の話を、アスリューシナに?」

 

キリトがアスナを正式名で呼ぶ。

その声に瞬間ぎくり、と肩を振るわせた侍女だったがすぐに眉を吊り上げて涙も拭わずに言葉を返した。

 

「もちろんですっ。この話、衣裳部屋担当の侍女達は全員知ってます。だから衣裳部屋にみえた姫様に『侍女達はみんな姫様を応援してますから』ってお伝えしましたっ」

「なっ、なんと言うことを……」

 

毎回、衣裳部屋でウェディングドレスの完成に時間を費やしている時は未婚の侍女達と一緒の方がその場も華やぐだろう、と席を外していたサタラが目眩を覚えて顔をおさえる。

 

「そうしたら姫様が『応援って?』とお聞きになったので『これだけ素敵なウェディングドレスを纏えば側室のお妃様が何人いようと絶対姫様が正妃様になれます』って言ったんです。そうしたら姫様がひどく驚いたお顔をなさって……だから王子殿下がお見合いをしている事をお伝えしました。だって嫁いでみたら側妃様が大勢いらっしゃったなんてショックじゃないですかっ……」

 

既にサタラの開いた口からは何の言葉も出てこなかった。

勢い込んで喋り続けた侍女が不意に話を途切れさせたので不振に思い、それまで黙って聞いていたキリトが顔をあげて怒りに満ちているのか悲しみに満ちているのかわからない声で短く「それで?」と促す。

 

「いっ……いきなりっ、ぽんっ、て姫様が仔猫になってしまって……」

 

そこまで言ってポロポロと本格的に泣き出してしまった侍女に対するサタラの怒りはもの凄いものだった。

普段、どんな失敗をしても声を荒げることなく、冷静に諭すような口調で過ちを指摘し、最後には元気づける言葉までかけてくれる侍女達のまとめ役であるサタラがこれほどまでに変貌するのかと、後々、侍女達の間で語りぐさになった程だ。

キリトに怒られたのであれば、立場上渋々でも謝罪をし、心中納得などしなかっであろう侍女だが、アスリューシナ姫が幼い頃も侍女を務めていたサタラにそこまで自分の行動を叱責されたとあっては、さすがに敬愛する自国の姫が仔猫に変化したのは大国の王子のせいなのだと信じ切れなくなってくる。

既に流れるはずだった涙もサタラの剣幕に驚いてすっかり枯れてしまい、それどころか自分の話を聞いても言い訳どころかずっと仔猫を見つめ、心底大事そうに抱いているキリトの態度を見ていて沸騰していた頭からも急速に熱が引いていった。

もしかしたら、自分はどこかで何かを間違えたのだろうか……、ふと新たな思いが小さく生まれた時だ、ゆっくりとキリトが顔をあげ、漆黒の双眸が侍女を射貫く。

途端に指先ひとつも動かせず、先程の饒舌さが嘘のように言葉がでてこない。

怒りをぶつけられたわけでも、言葉や態度で脅されたわけでもない、ただ、ひたすらに真摯で真っ直ぐな視線が侍女を捉えた。

 

「わかった。もう下がっていいよ」

 

冷たい熱を孕んだ言葉に全く反応できずにいる侍女にかわってサタラが「ですが、殿下……」と声を発したが、それを遮りキリトは続ける。

 

「ひとつだけ。事の真相はまずアスリューシナに説明したいから今は話せないが、オレは自国の令嬢達と見合いなんかしていないし、妃は彼女一人だけと決めている」

 

その言葉がその場限りの適当な発言でないことを侍女は全身で感じ取っていた。

石のように固まって動かない……いや、動けない侍女へ向け冷静さを取り戻したサタラがきっかけを与える。

 

「わかりましたね、もう下がりなさい。衣裳部屋担当の侍女達には後で私から説明します」

 

サタラに促されてようやく身体を動かせるようになった侍女は震えながらもキリトに向かって深々と頭を下げると、両肩を落として静かに部屋から出て行った。

再度、謝罪をすべく口を開きかけたサタラをキリトは手で制し、少し考え込んでから「後でガヤムマイツェンに書簡を届けてくれ」とだけ告げると、そっと仔猫を抱き上げデスクへと移動する。

何か書き物を始めてしまったキリトを見て、サタラは首を傾げたものの、それ以上は邪魔にならぬよう自らも音を立てずに部屋を辞した。




お読みいただき、有り難うございました。
猪突猛進型の侍女さんは完全にオリジナルです。
衣裳部屋担当の娘(侍女)さん達が皆さんこんな感じだったら……
恋バナ、噂話をキャーキャー言いながらお仕事していそうですね。


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王子と姫と白い仔猫・22

夕方、一通の書状を託した使者を自国へ遣わせるとキリトは未だ少しだるそうにしている仔猫と一緒に食事を済ませ、風呂に入って寝室へと向かった。

体調が戻りきっていないのか、寝室へと移動する途中で既に仔猫はキリトの腕の中で微睡み始めている。

ベッドに腰掛けた頃にはすっかり夢の中となってしまった仔猫を見ながら、キリトはそれまでの笑みを消して抱き上げた仔猫の額に自分のそれを押し付けた。

 

(今からちゃんと説明をしに行くよ)

 

そう念じて仔猫と一緒にベッドに横になる。

いつもより強く抱きしめれば、その温かいぬくもりがキリトをすぐさま夢の世界へと誘った。

 

 

 

 

 

気づいた時には既に目の前にアスナがいた。

これまでと同じ、白いドレスに身を包み、うずくまって泣いている。

しゃくりあげる度に跳ねる肩へと両手を伸ばし、正面から彼女をふわり、と包み込んだ。

それでも彼女が顔を上げることはない。

かまわずに豊かな栗色の髪に唇を落とす。

これほどの距離にいるというのに彼女の髪の香りは感じられず、ただ泣き声だけが耳に入ってくる。

彼女の頭に頬をすり寄せて目を瞑り、キリトはゆっくりと問いかけ始めた。

 

「アスナ……何を泣いてるんだ?……また、カラスに突っつかれたのか?……オレを呼ばないのはなんで?」

 

肯定の反応も、否定の反応もみせない。

 

「泣いている原因が……オレだから?」

 

触れている肩がぴくり、と震えた気がしてキリトは話し続けた。

 

「アスナの他に妃を娶るって聞いたから?……他の側室の妃達と正妃の座を争わなくちゃいけないから?」

 

キリトの頬が密着している小さな頭がゆっくりと左右に揺れる。

それからくぐもった声でまるで自身に言い聞かせるような言葉が聞こえてきた。

 

「……わかってるの……ちゃんと、わかってる……キリトくんの国は大きいもの。安穏とした国を維持する為に王族との婚姻で国政が安定するなら妃だって何人も娶るって」

「……アスナ……」

「王族なんだから……キリトくんは王子なんだから……そして、私は王女なんだから……そんなの当たり前だって、ちゃんとわかってる」

「アスナ……だったらなんで泣いてる?」

 

小さい頃のような苦しい言い訳すら出てこず、アスナはただ頭を横にふるばかりだ。

 

「相変わらず意地っ張りだな……全然大丈夫じゃないんだろ?……オレがアスナ以外に妃を迎えて……平気なのか?」

「……へっ……平気……じゃない……でも……平気じゃなくても……」

「自分は王女なんだから、我慢する?……そういうの、やめろ、て言ったのに……アスナは本当に、もう……」

 

駄々をこねる子供をあやすように更に身体を引き寄せて、背中をぽふぽふと叩き、すりすりと頬で頭を撫でる。

それでもアスナは顔をあげないまま、ぽそり、と零した。

 

「王女じゃなかったら……我慢しなくていいのかな」

「アスナ?……ああ、それでか……王女が嫌になった?」

 

けれど、その問いの答えなのか、自身の言葉を払いのけるようにアスナは頭を振る。

 

「でも、私……王女だもの」

「そうだな。留学中、あちこちの国を巡って何人もの王女に会ったけど、アスナほど誇りを持っている王女も、国民から慕われている王女もいなかったよ……そんなアスナが一時でも王女である自分を否定したんだな……」

 

いきなりキリトはうずくまったままのアスナをぎゅっ、と強く抱きしめ「ごめん、アスナ」と囁いてから片手でゆっくりと栗色の髪を梳き始めた。

 

「それでも、オレが王子じゃなかったら、アスナが王女でなかったら、出会うことはなかったかもしれない。オレは王女であるアスナを丸ごと大事にしたいんだ。だから、アスナ……戻ってきてくれ、ユークリネ王国の王女として、それから未来のガヤムマイツェン王国王太子妃として……」

 

 

 

 

 

ここ数日、目覚める時に自分の傍にあって安らぎを与えてくれる小さくて温かい存在が、今は全身で感じられ、大好きな甘い香りがいつもより濃く漂っていることに疑問を覚えつつキリトは両手で抱いているぬくもりをそっと引き寄せた。

すると頬に当たるはずの感触がふわふわの毛並みではなく柔らかく滑らかな人肌である事に気づき、途端にぱちっ、と音がする位の速さで瞼が上がる。

と同時に自分のすぐ近くから「ふぅ……んっ……」という声が耳に届くやいなや、キリトは思い切り笑顔になって両手に力を込めそのたまらなく愛しい存在を包み込んだ。

 

「アスナ……おかえり」

 

途端に目の前の長く整った睫毛が二、三度、ふるるっ、と震えるとスローモーションのように瞼が持ち上がりはしばみ色がぼんやりとこちらを見つめる。

しかし、すぐにその色をハッキリと濃くすれば、今度は驚愕で更に大きく見開かれた。

 

「ふえっ?……えっ?、なにっ?、キリトくんっ?」

「うん、アスナ、おはよう」

 

いつものように鼻先に、と思ったキリトは寸前で場所を変えて、少し下の桜色の唇に軽くキスをする。

 

「んっ、なにっ?、なんで?」

 

完全にパニック状態のアスナに向け、キリトはニコリ、と微笑んでから順番に答えを口にした。

 

「『おはよう』のキス。一緒に寝るようになってから毎朝してるだろ。覚えてないのか?」

 

どうやら仔猫に変化(へんげ)していた時の記憶は残っていないらしい。

真っ白なナイトドレスを着ている彼女はそれこそあの時の仔猫が人間に変化したような容貌だったが、キスを受けるとすっかり恥じらいを纏ってしまい、それがかえってキリトにとってはアスナらしさを実感できる反応だった。

求めた返答から納得や安心を得られず、頬を染めたまま更に混乱したアスナへキリトはますますいたずらっ子のような笑みを深めていく。

 

「アスナが嫁いで来てくれたら、毎朝こんな感じなんだな」

 

キリトの言葉を聞いて、もしも仔猫の耳が残っていたら途端にへにょん、と伏せてしまったであろうほどにアスナの意気が沈んだ。

 

「嫁ぐ……うん、そうだね。もうすぐキリトくんのお嫁さんになれるんだよね」

「ああ、たった一人のオレの大事な妃だから」

「えっ?」

 

視線を下げていたアスナがいきなり顔をキリトに向け、確かめるようにジッと見つめてくる。

 

「そういう仕草は仔猫の時と一緒だよなぁ」

 

ひとり楽しそうに笑うキリトにわけがわからず、そのまま彼を見続けていると直接言葉を届けるように額を合わせてきた。

 

「そう、オレの妃はアスナだけだよ」

 

その言葉に自然とアスナの瞳から涙が溢れてくる。

 

「うそ……だって……お見合いしたって……」

「だから、それ、見合いなんかじゃないんだって」

「留学中だって、他の国の王女様達とすごく仲良くしてたってみんな言ってて……」

「ああ、やっぱりその勝手な噂、ここにも届いてたか」

「ユークリネ王国と婚姻関係を結んでもガヤムマイツェン王国には何の得もないから……」

「どこのどいつだよ、そんな事言ったの…………あと聞きたい事は?」

「だって……だから…………ほっ、本当に?」

 

一旦、額から離れると二つの漆黒の眼がまっすぐに潤んだはしばみ色を捉え、溶かし、内に入り込むように熱を注ぐ。

 

「本当に……アスナしかいない……アスナしか欲しくないし、アスナでなきゃダメなんだ…………だから、オレの隣に来て、アスナ」

 

答えの代わりにアスナが泣き濡れた顔をキリトに押し当てる。

しがみついてきたその身体を優しく受け止め、夢の中と同じように髪を梳き、背中を摩った。

夢と違うのは、もう悲しげな泣き声は聞こえず、白い霧ではなくアスナの甘い香りがキリトを包む。

その香りを胸一杯に吸い込んでからキリトはもう一度小さく囁いた。

 

「おかえり、アスナ」

 

それから彼女が落ち着くのを待って「それにしても」と口を開く。

 

「アスナ、手、見せて」

 

その真意を測りかねた様子のアスナだったが、素直に両手をキリトの目の前に持って来ると、左手の手首には黒い石がはめ込まれた赤いブレスレットが輝いていた。

 

「ああ、こっちの腕か。仔猫の時は首輪だったけど、元に戻ったんだな。このブレスレット、シノンに作ってもらったんだろ?」

「そう、よくわかったね」

「それにオレが渡したこの石、意味知らなかったのか?」

「えっ?」

「ガヤムマイツェン王国の王族が自分の瞳と同じ色の石を贈る相手はひとりしかいないんだ」

「それって?」

「自分のパートナーと決めた相手だよ。だから最初からアスナには正妃として授位式にでてもらうつもりだったのに……」

「ええーっ、じゃあ私が悩んでた事って……」

「まあ、オレも側妃なんて考えもしてなかったからわざわざ『正妃』とも言わなかったけどさ。でも、先の事を考えて授位式の誓文に一文を加えるよう指示を出しておいた」

「一文?」

「王太子としてただひとりの妃を娶り共に国に尽くす、って……これなら他に妃を押し付けられた場合、オレは誓いを破ることになるから王太子の位は返上することになるだろ。王太子でなくなったオレに嫁いでも利はないから、結局アスナ以外、妃が増える事はないよ」

「キリトくん……」

「だから安心してオレの所に来て、アスナ」

「うん」

 

再び互いにきつく抱き合うとどちらからともなく唇を重ねる。

互いの気持ちを確かめるように深く長く口づけた後、再びキリトの腕の中に身を預けたアスナは静かに目を閉じるとやがて穏やかな寝息を立てたのだった。




お読みいただき、有り難うございました。
夢の中でキリトの言葉がアスナに届いていたのか、独白なのかは……ご想像に
お任せします。
そしてやっとちゃんとした「イチャコラ」になりましたー(笑)


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王子と姫と白い仔猫・23

再び一つのベッドでまどろみを味わった後、キリトはいまだ変化(へんげ)の影響で体調が戻りきっていないアスナをベッドに残し、サタラを呼んで王女の存在を明かした。

話を聞いたサタラがすぐさま寝室に飛び込んでうれし泣きの声をあげたと思ったら、慌て顔で出てきて廊下の侍女達へと威勢の良い指示を飛ばす。

その指示の内容を聞いて「そうだった」と納得したキリトが眉尻を下げて薄く笑った。

 

「仔猫の時は三日間の絶食の後、ミルクしか飲んでないんだっけ」

「そうなんですっ、何はともあれ、今はしっかりとお食事を摂っていただかなければ」

「国からイチゴでも持ってくればよかったな」

 

キリトの言葉にサタラは懐かしそうに微笑んで「そうでごさいますね」と添える。

その後、事情を知る侍女達が王女の顔を見たさにキリトの寝室を訪れ、その度に運び込まれる料理の数にアスナが眼を白黒させていると、続いてキリトがベッドサイドに陣取って自ら料理をアスナの口に運ぼうとする。

仔猫に変化していた間、ずっとキリトの傍を離れず、キリトからしか食べ物を摂らず、一緒にベッドで寝ていた事をサタラから聞いたアスナは恥ずかしさに耳まで赤くして「ありがとう、キリトくん。迷惑かけてごめんね」と上掛けで顔を半分隠しながら感謝を伝えたが、キリトの方は「それより、ほら、口開けろよ」と食べさせる気満々だ。

実際、上体を起こしているだけがやっとで食器に伸ばした手の震えを隠しきれなかったアスナが部屋の隅に控えている自分付きの侍女達の目を気にしながらも観念して小さく口を開くと、幼い頃、イチゴを食べさせた時のようにキリトは嬉々としてその口へ料理を運ぶ。

途中、ゼーゼーと息を切らしながら飛び込んできたリズもアスナの元気な姿を確認すると、すぐに「店に戻らなきゃ」と言って名残惜しそうな笑顔で再び王都へと帰って行った。

そうして、やはり「もう食べられないよ」と言うまでキリトはせっせとアスナの世話を焼いたのである。

あの衣裳部屋担当の侍女達もアスナの食事が終わる頃にはすっかり二人の雰囲気に当てられ、顔を赤らめつつ必死に苦笑いを堪えていたので王女の食事が終わった途端、この空間には居られないとばかりに空になった食器と食べきれなかった料理をもの凄いスピードで片付けて退室した。

寝室に残ったのはサタラと、食後のお茶を運んできたシリカ、そしてキリトとアスナの四人だけ。

お茶に口をつけたアスナがほうっ、と穏やかな息を吐き出し眼を閉じると、すっ、とキリトの手が伸びてきて彼女の栗色の前髪を整え始める。

驚いたアスナがすぐに眼を開ければ、その反応に気づいたキリトが「ああ、ごめん。くせになってるな」と笑ってその理由を口にした。

 

「食事をした後、寝ちゃったアスナの毛並みを梳いてやると、すごく気持ち良さそうにしてたから……」

 

そしてもう一度「ごめん、驚いたんだろ」と問えば、僅かに頬を染めたアスナがこくり、と頷いてから上目遣いで「でも……」と続ける。

 

「仔猫じゃなくても……気持ちいいよ」

 

アスナの言葉に今度はキリトが驚いて眼を見開いたが、すぐに笑顔になって手を伸ばし長い栗色の髪を何度も梳いた。

そんな二人の様子を見ていたシリカがはぁーっ、と長い息を吐く。

 

「ほんっと、仲良しなんですね」

「だから何度もそう教えたでしょうに。殿下はご自分の国の権力をお使いになる必要なんてないんですよ。お二人は出会った頃からああなんですから」

「だって、殿下のお見合いの話、色んな人がしてたじゃないですか」

「そんな話、お二人を知っている者なら信じるわけがありません。殿下はうちの姫様ひとすじのお方ですもの」

「……みたいですねぇ」

 

考え込んでいるシリカが「だったら何であんな噂が……」とブツブツ呟いていると、侍女達二人の会話が耳に届いていたのだろう、髪を梳き終わったキリトがベッドの端に腰掛けたままアスナの手を握って「それはさ……」と説明をし始めた。

ちらり、とアスナに視線を落としてから話を進める。

 

「アスナがガヤムマイツェン王国に輿入れする時、侍女をひとりも連れて来ないって言っただろ」

「ええ、うちの姫様はユークリネ王国に家族を残して自分に付き添わせたらまたもや侍女達が可哀想だとおっしゃって……」

「当たり前よ、私は……その……新しい家族が出来るからいいけど……」

 

その言葉にキリトはアスナの手をぎゅっ、と握り直すと、もう一度彼女を見つめた。

 

「だから慣れない国で話し相手くらい欲しいんじゃないかと思ってさ。何人かの貴族の令嬢と会ってみたんだ」

「それを、周囲の者達はお見合いだと勘違いしたのですね」

「ああ……まあ、中にはアスナに近づいてそのままオレに気に入られれば、みたいな令嬢もいたけどな」

「まぁっ、そんなっ」

 

憤慨の声を上げたサタラの目の前で僅かに眉をハの字に下げたアスナの額にキリトが唇を落とし「心配しなくていいよ」と囁く。

 

「それで、どなたか姫様の話し相手になってくれそうなご令嬢はいらしたのですか?」

 

こんな睦み合いには慣れっこのはずのサタラでも僅かに二人から視線を外して尋ねると、キリトはニヤリ、と笑って頷いた。

 

「双子の令嬢がね……アスナとは四つほど歳が下だけど、妹の方はちょっと不思議な雰囲気の令嬢で、男みたいにサッパリとした物言いで芯がしっかりしていた。姉はそんな妹を穏やかに見守っていたけど話してみたら意外なほど見識があってさ。彼女達ならアスナも妹のように接することが出来ると思う」

 

キリトが微笑むとアスナも安心したように口元を綻ばせ「お会いするのが楽しみ」と期待に満ちた声で返す。

するとシリカが逆に沈んだ声音で俯きがちに「姫様、本当にお嫁に行っちゃうんですね」とぽつり、零した。

 

「ランベントライトもきっと寂しがります」

「シリカちゃん……」

 

シリカの言葉に何者かを思い出したのか、華やいでいたアスカの表情が一気に萎む。

しかし、慌ててシリカはアスナの気持ちを上げようと明るい声を出した。

 

「でもっ、あの子ならガヤムマイツェン王国のお城までひとっ飛びですから。姫様が会いたくなったら、すぐに会えますよ」

「ええっ、そんなのダメだよ。テリトリーがあるんでしょ。ガヤムマイツェン王国の竜さん達に怒られちゃう」

 

ぷるぷるとアスナが首を横に振りながら発した言葉にサタラが「はっ?」と漏らし、キリトが「竜?」と首を傾げる。

先に片手で頭を抑えて悲嘆に満ちた声を出したのはサタラだった。

 

「魔術士の時といい、姫様はどうしてそうなのですか」

「そう、って?」

 

意味がわからず首を傾げたままのキリトの隣でアスナが細いおとがいに指をあて、考え込む。

 

「ですから……」

「それより竜ってなんだよ」

 

我慢出来ずに割り込んできたキリトがアスナに顔をずいっ、と寄せた。

 

「竜は……竜でしょう?、ね、シリカちゃん……あっ、そうだ。キリトくん、シリカちゃんは竜使いのお家のお嬢さんなの」

 

更にわけのわからない単語が増えたキリトの隣でアスナはしきりと「だからシリカちゃんは竜のこと、よく知ってるのよ」と話を進めているが、すでに話の入り口でキリトは立ち往生だった。

 

「私が小さい頃から仲良しの竜もシリカちゃんのお家でお世話してる竜でね……」

 

どんどん話が先に進んでしまいそうな所でキリトが「待った!」とアスナの口を封じる。

 

「悪いけど最初に戻ってくれ。そもそも『竜』って……あの物語に出てくる『竜』なのか?」

 

当たり前だと言うように、アスナもシリカもうんうん、と頷く中、サタラだけが不出来な姉妹を嘆くように二人を交互に見ながら大きな溜め息をついた。

 

「我が国の自慢の王女と竜使いの家の娘が……全く以て信じられない事態です」

 

少し不満げにシリカが唇を尖らせる。

 

「さっきから何がご不満なんですか?、サタラさん」

「いいですか、姫様、シリカ……竜はこのユークリネ王国にしか存在しません。少なくとも周辺諸国には生息していないのです。ですから我が国以外の人達は本物の竜を知りません」

「う……そ……」

「私が嘘を言ってどうするのです。そうですよね、殿下」

「ああ、オレもガヤムマイツェンで見たことはないし、いるって話を聞いたこともない。留学先の国々でも目にしたことはないな」

「「ええーっ」」

 

二人の驚きの叫び声が寝室いっぱいに響き渡った。




お読みいただき、有り難うございました。
「おとぎ話」のような物語、ですからね……魔術士だって、竜だっています。
そしてお祝い投稿なので、ご本家(原作)さまの設定とは異なりますが
双子の姉妹は元気にガヤムマイツェン王国でアスナとお友達になるでしょう。


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王子と姫と白い仔猫・24

「キリトくん、竜……知らないの?」

「いや、本で読んだことはある……けど」

「本物、見たことも、触れたこともないんですか?」

「それは……ないな」

「背中に乗せてもらったことも?、一緒に空を飛んだことも?」

「ないない、ないデス」

 

珍獣でも見るかのようなふた方向からの視線にいたたまれなくなったキリトは、思わずサタラに救援の瞳を向けた。

その要請を受けてサタラはやれやれ、と首を振ってから「お二人とも……」と二人を制する。

 

「ユークリネ王国外ではそれが普通なのです。殿下が困っていらっしゃるでしょう」

「えっ?、あ……ごめんなさい、キリトくん」

「申し訳ありませんでした」

「いや、わかってもらえたのなら、うん」

 

少々引きつった笑みを浮かべているキリトに二人が頭を下げて謝っていると寝室のドアをノックする音に続き、外側から「サタラさん、少しよろしいでしょうか?」の侍女の声に呼ばれサタラが部屋から出て行った。

そうなるとストッパーの存在がいなくなったシリカは竜についてあれこれと話し始める。

 

「……姫様と一番の仲良しはランベントライトという『光竜』なんです。飛行速度がとても速くて攻撃もピンポイントで正確なのが特徴ですね。広範囲の攻撃に長けているのは『火竜』ですけど、私の相棒の『水竜』もなかなかですよ。防御力にも優れてますし。逆に攻撃より防御を得意とするのが『地竜』や『風竜』です。竜の種類についてはこんな感じでしょうか?」

「そうだねシリカちゃん」

 

シリカの『初心者向け・竜の種類と特性について』講座を神妙な面持ちで聴いていたキリトがうんうん、と頷いたのを見てアスナもその説明をした竜使いの侍女に大きく頷いた。

すると好奇心旺盛な王子が身を乗り出してシリカに質問をする。

 

「大きさなんかは?」

「種類によって結構ばらつきがあります。飛行が得意な光竜や風竜は翼を広げるとかなりの大きさですが、身体の大きさで言えば地竜が一番ですよ……うーん、と……農耕馬くらい?」

「うん、そのくらいかも。ランベントライトはもう少し小柄かな。女の子のせいかほっそりしてるし」

「一緒に育った姫様と似てますよね」

「そう?」

「ガヤムマイツェン王国に嫁ぐ時はランベントライトに乗って行くんですか?」

「うううん、普通に馬車だよ。国境までガヤムマイツェン王国のお迎えの方が来て下さるから……それに竜だとあっという間に移動しちゃうでしょ。それなら馬車で……ちゃんとユークリネ王国のみんなにお別れしながら行きたいの」

 

自国を離れる日を想像したのか、アスナの瞳にほんの少し影が差した。

すかさずキリトがアスナの手に自分の手を被せ、その憂いを拭うように甲をさする。

シリカは王女の言葉を聞いてその綺麗な顔を覗き込むように近づき、自らが泣き出しそうな声を発した。

 

「姫さまぁ……お別れだなんて言わないで下さい」

「そうだよ、アスナ。隣国なんだし里帰りくらい出来るさ」

「キリトくん……」

 

不安が消えないシリカは両手を固く握りしめ、請うような視線をガヤムマイツェン王国の王子に送る。

 

「キリトゥルムライン殿下、本当にホントですか?、もうこれっきり姫様に会えないなんてこと、ありませんか?」

「大丈夫。友好国なんだし、王太子妃になれば他国を訪問しても構わないだろ」

 

安心させるようにアスナに微笑みかけ、次にシリカに向かって頷くと二人の表情が見る見るうちに晴れていく。

 

「よかったですね、姫様……そうだっ、ガヤムマイツェン王国のお城からランベントライトを呼べばすぐに迎えに来てくれますよ」

「もうっ、シリカちゃんたら……それに竜はユークリネ王国の領地から外には出ないでしょ」

「んー……それは、そうですけどぉ……大好きな姫様が呼べばランベントライトなら行くと思うんだけどなぁ」

 

可能性を捨てきっていないシリカのうぬぬ顔を見てキリトが思わず口を挟んだ。

 

「竜はユークリネ王国の外には出ないのか?」

「はい、そうです」

「なんで?」

「なんで……でしょう?、姫様……」

「えーっと……今までは他の国の竜さん達との住み分けだと思ってたけど……なんでだろ?」

 

そこにちょうどサタラが戻ってきた。

 

「姫様、湯浴みの準備が整いました」

 

その言葉に途端、アスナのはしばみ色が輝き出す。

 

「お風呂っ……ありがとう、サタラ」

「ご入浴後はそのままご自分をお部屋にお戻り下さい」

 

キリトの眉がピクリ、と動くがアスナは少し考えてからこくり、と納得の意を表した。

 

「そう……だよね、ここ、キリトくんが使ってる客間だし……うん、そうする」

 

不満げに半眼でサタラを睨んでからアスナに振り返ったキリトは彼女の長い髪を一房、指にからませるとニヤリ、と笑う。

 

「じゃあ、いつものように一緒に入るか」

「ふぇ?」

 

何の事を言っているのかわからないアスナが目を丸くする。

すぐにサタラが「殿下」といさめるが、キリトは手にしている髪を離さずにそのまま口元に持っていくと、スッと香りを嗅いでからわざとらしく微笑んだ。

 

「だってずっと二人きりで入ってただろ、風呂」

「ええーっ」

「いつもオレがアスナを洗ってやってたし」

「あ、あ、洗って……って……」

 

みるみるうちに顔全体を真っ赤に染めたアスナがぷるぷると震え始める。

その様子を冷静に見ていたサタラがアスナに近寄り手を差し出した。

 

「落ち着いてください、姫様。殿下と一緒に入っていたのは仔猫の時ですから」

 

わざわざ誤解を招くような言い方をして姫様の反応を楽しんでいらっしゃいますね、とチラリ、キリトに視線を向けたサタラの意図を読み取ったキリトが、こちらもちょこん、と舌をだす。

アスナはキリトの手にある一房を少々乱暴に取り戻してからサタラの手をとりベッドから立ち上がると、顔を染めたままキリトに向かって目を吊り上げた。

 

「キリトくんのいじわるっ。絶対一緒にお風呂には入りませんっ」

 

そう勢いよく言い残してキリトの寝室から出て行くと、すぐにシリカが後を追うように飲み終わった茶器をトレイにまとめて足早に出口へと向かう。

キリトとすれ違う時に、にこり、と微笑んで「本当に仲良しさんですね」とお辞儀をしてからパタパタと王女の後を追ったのだった。

 




お読みいただき、有り難うございました。
ランベントライトがアスナに懐いているワケは……幼生の頃、飛行中にうっかり
王宮の尖塔にぶち当たり、目を回して庭に落下した所を救護されたから……とかとかとか。
今はきっと白くて綺麗な竜に成長してるんだろうな。


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王子と姫と白い仔猫・25

部屋にひとりになってしまったキリトは気が抜けたように、ほぅっ、と息を吐き出し、今までの話を整理する。

ここ、ユークリネ王国では当たり前のように魔術士や竜が暮らしているという事実は少なからず彼に衝撃を与えていた。

しかし、これで納得できる部分もある。

ガヤムマイツェン王国の国王である自分の父がなぜアスナとの婚姻をあれほど渋ったのかという理由だ。

反対もしなければ賛成もしない、賢王とよばれる父王にしては随分と歯切れの悪い態度にキリトは長い間困惑していたのだ。

最初はガヤムマイツェン王国から見たユークリネ王国の価値からくるのでは、と思っていた。

なにせユークリネ王国は友好国とは言え、他の友好国と比べればその国土は狭く、特にこれといった資源や特産物があるわけでもない。

絹織物や染め物、レースといった服飾関連の技術や、寄せ木細工などの木工技術は高いが生活必需品ではないから、是が非でも交流を深めたい相手、という扱いにならないのは当然だった。

更に国民の少ないユークリネ王国には貴族制度に加えて軍隊制度もない。

と言うことは嫁いできた王女から内部機密が漏れて攻め込まれる、といった危険がない代わりにガヤムマイツェン王国が他国からの侵略にあった場合でも、かの国からの援軍は全く期待できないという事だ。

これでは姫を迎え入れてもガヤムマイツェン王国にとっては薄害薄利で旨味が少なすぎる。なにもわざわざ小国の姫を選ばずとも、と言われるのを覚悟していたキリトだったから、逆に婚姻に対するそういった反対理由の言葉が父王から出なかったことが不可解だった。

やはり、それほどまでに魔術士が調合した薬は違うのか、と本気でユークリネ王国から薬を買いたいがために反対できずにいるだけなのかも、と思っていたくらいだ。

だが、魔術士に加えて竜の存在でその疑問の答えが見つかった気がする。

多分、ユークリネ王国の魔術士と竜の存在は周辺諸国のトップしか知らない内密事なのだろう。

ひとつの国のみを安寧の場所として定めた強大な力の持ち主など、その有り様を知らない一般の民衆が知れば、パニックになるに違いない。

だからユークリネ王国は他国から侵略もされず、ひっそりと穏やかに生き続けてこれたのだ、それこそ魔術士や竜達のように。

ヘタにちょっかいをかけて返り討ちにあったり、最悪、自国を滅ぼされるくらいなら、友好国としてほどよい距離で接していた方が都合が良い。

国土を広げようとする野心的な王家でないことは、ユークリネの国民性を見てもわかる。

 

(要は触らぬ神に祟り無し、ってわけか……)

 

ところがその神のような者達にとって大切な存在である王女を欲しいと言い出した王子がいた。

友好国として軽い気持ちで息子である王子をユークリネ王国の王女の見舞いに差し向けたガヤムマイツェン国王は頭を抱えたことだろう。

かの国とのこれ以上の太いパイプは脅威にもなりかねない。

もしも、嫁ぎ先であるガヤムマイツェン王国で王女が不快な思いをしたら……何がきっかけで祟りを引き起こしてしまうかはわからないのだ。

 

(竜がユークリネ王国から出てこないのは本当なのか……)

 

であれば、少なくとも竜が我が国にやってくる事はないだろう。

逆に魔術士長はすぐにでも現れそうだが……、と考え込んでいるキリトの耳がノックの音を拾う。

シリカが閉め忘れたドアのすぐそばにサタラが立っており「殿下」と声を掛けてきた。

 

「あれ?、アスナの世話は?」

「姫様の湯浴みは他の侍女に任せました」

「で、わざわざどうしたんだ?」

「少し……殿下にお話がございまして……」

 

そう言って一礼してから部屋に入ってきたサタラは「こうしてゆっくり殿下とお言葉を交わす機会は、もう、そうないかと思いましたので」と言い、いつもの笑顔を消す。

 

「竜の話、シリカはどうお伝えしましたか?」

「竜には五つの種があって、それぞれに特性が異なること。あと、竜達はこのユークリネ王国から外に出ることはないって……」

 

その真偽の程を確かめようと言葉を続けるキリトに向かい、サタラが「そうですね」と遮った。

 

「確かに竜はこの地から出ることはない、と言われております。この自然豊かなユークリネ王国が気に入っているのでしょう。国民とも良い関係性を保っておりますから。この事は周辺の国をまとめていらっしゃる方々もご承知のことでこざいます」

「なら……」

 

少なくとも竜に対する脅威は考えなくていいと言えるのだろう、と口にしようとした時だ、またもやサタラが言葉を挟む。

 

「ですが……それを確かめた者はおりません」

 

(そうか……)

 

少なくともガヤムマイツェン王国の歴史書にはユークリネ王国に攻め入った事も、かの国が他国と衝突した記録も残っていなかった。

歴史的にみれば二国とも古くから続いている王国である、これまで本当にそのような事態になった事がないのか、はたまた記載されていないだけなのか……。

 

「ですから、諸外国の方々は未だその真偽を疑い、この国を自国から静観し続けているのでしょう」

 

ユークリネ王国が他国から侵略されずに連綿と歴史を重ねてこられた真の理由がそれだった。

キリトは知らずに緊張のせいか、ゴクリ、と唾を飲み込む。

 

「で、本当のところは……どうなんだ?」

 

核心に触れた問いをゆっくりと吐いた時だ、サタラがふいに目を細めて冷たく笑った。

 

「殿下、考えてもごらんください。貴族のいないわが国ですから今までも歴代の姫様方のほとんどは他国に嫁いでおります。そこに魔術士や竜が現れたらもっと皆の記憶に残っているはずではないですか?」

 

なるほど、とキリトは唸った。

確かに嫁ぎ先でのトラブルで魔術士や竜が乗り込んでくれば、その存在は広く、皆が知ることとなるだろう。

 

(だったら、やはり竜がこの国から出てこないというのは……)

 

「魔術士も竜もこの国を出た姫君の事まで気にかける事はしないのでしょう……ですが、アスリューシナ姫様においてはその限りではないかもしれない、と私は思っております」

「えっ……」

「あくまで私の個人的な考えとしてお受け取りください。少なくとも現魔術士長のシノンちゃんは姫様が呼べばすぐにでも駆けつけることでしょう」

 

(……だよな)

 

キリトの脳裏に、懸命に魔具を制作しているシノンの姿が浮かんだ。

わずか四歳の身でアスナのことを思ってあれほどの魔具を作り上げた魔術士は、今やその頂点に身を置くほどの実力者へと成長している。

 

「そして成竜となるまでこの王宮で姫様と共に暮らしていたランベントライトもシノンちゃんと同じく、姫様のためなら文字通り光の速さで殿下の国まで飛んでいく事もあり得ると思うのです」

 

アスナの為に遙か遠方にあるガヤムマイツェンの王城に一瞬で現れる最強魔術師と光竜……その光景を想像してキリトは無理に笑顔を作りながら額に汗をにじませた。

 

「で、でも、オレが傍にいるから。アスナがシノンや光竜を頼るようなことにはならないって」

「そうでね、殿下。私も姫様のお相手はキリトゥルムライン殿下以外には考えられないと思っております。ですがっ」

 

突然、更に熱の籠もったサタラの声がキリトの耳に圧をかける。

 

「常に殿下と共に、というわけにはいきませんでしょう。特に身の回りをお世話させていただく侍女達は全てガヤムマイツェン王国の女性ですし……殿下、女性の世界は色々とあるのです。小国から嫁いできた世間知らずの王女などとうちの姫様を軽んじる侍女が万が一いたとしても、姫様のご性格上、殿下に何か申し上げる事はしないでしょう」

 

サタラの言いたい事がわかって、キリトはうーむ、と顎を片手で支え俯き加減で考え込んだ。

 

(確かに、オレの気づかない所でアスナが心を痛めるのは我慢できないし、その事で他の者を頼られるのはもっと嫌だ)

 

「殿下、よくよくお心に留め置いてください。姫様がガヤムマイツェン王国の城で一言、ご自分の状況を嘆けば……ふた呼吸もしないうちに王城には光の穴が空き、同時に姫様はシノンちゃんと一緒にこの城に戻ってきていることに……」

「ええっ!」

 

サタラの言葉に驚いて顔を跳ね上げると、サタラは今度こそ満面の笑みを浮かべて「なるかもしれません」と言い切った。




お読みいただき、有り難うございました。
一番怒らせてはいけない存在……それはサタラさん……かも(苦笑)


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王子と姫と白い仔猫・26

ガヤムマイツェンの王城へアスナが正式に入城した翌日、王太子の授位式と婚礼の儀が同時に執り行われた日の夜だ。キリトはようやくシャワーを浴びて寝衣に着替えると、今日から新たに使う寝室へと足を踏み入れる。

そこには既にアスナが昼間のウェディングドレス姿を彷彿させる純白のナイトドレスにガウンを纏ってキリトを待っていた。既に夢うつつのような表情でソファに腰を掛けていたが、キリトの姿を見ると数回、ぱちぱちと瞬きをして眠気を散らし、ふにゃり、と微笑んで立ち上がってキリトの元へ駆け寄る。

とんっ、と腕の中に飛び込んで来た真っ白いアスナを受け止めてキリトはその甘い香りを吸い込んだ。

 

「疲れたか?、アスリューシナ」

「いいえ、キリトゥルムライン王太子殿下こそお疲れ様でした。広間のお客様方のお相手はもうよろしいのですか?」

 

今日一日、互いを正式名称で呼び合っていた口調が抜けていないことに軽く苦笑いをしてキリトは栗色の髪に顔を埋め、甘えた声を紡ぐ。

 

「間違えた……お疲れ様、アスナ」

 

キリトの優しい声で愛称を呼ばれると知らずに強張っていたままの心が一瞬で溶け、本当の意味で緊張が抜けたアスナが今度こそ綻ぶような笑顔を見せた。

 

「うううん、キリトくんこそお疲れ様。広間のお客様達のお相手はもういいの?」

「ああ、きりがないからな。オレが早くアスナの元に行きたがってるのを承知で引き留めるから、親父に押し付けてきた」

「キリトくんたら……でも、あんなに大勢来てくださって……それに昼間の王都のパレードでも人が多くてびっくりしたよ」

 

階下の大広間では今回の招待客が夜通しの勢いで祝いの宴を続けている。

そんな喧噪も王太子夫婦の寝室までは届かず、侍女達も王太子妃が湯浴みと着替えを済ませると、すぐに気を利かせて退室した。

 

「特にキリトくんが留学中に知り合ったって挨拶をしにきて下さった皆さん、気さくで面白い人達ね」

「ふぬっ!、あいつらいつの間に……何か変な事、言われなかったか?」

「あ……えーっと……」

「アスナ」

 

少々強めの語気で名を呼ばれ、未だキリトの胸に顔を押し付けたままのアスナが言葉を選ぶようにゆっくりと口を動かす。

 

「キリトくんが留学中にその国の王女さまやご令嬢方と随分仲良くしてたから……その……私が結婚相手で驚いた……とか」

 

途端に自分の背中に回っていたキリトの両腕が震えだしたのを感じ、アスナはそうっ、とキリトを仰ぎ見た。怒りも露わに冷たい半眼の瞳でジッと自分を見下ろしている夫の表情に、思わず冷や汗が流れそうになった時だ「誰?」と地を這うような低い声が耳にぞわり、と侵入してくる。

 

「ふぇ?」

「だから……誰が言ったんだ」

「んー……」

 

考え込むように口を閉ざすと再び「アスナ」と低く呼ばれた。

 

「実は……何人かの人から言われたから……忘れちゃった……かも」

 

わざと軽くそう告げてから「私なら大丈夫だよ。皆さん酔ってたし、悪気はないんだってわかってるから」と付け足すと、いきなりぎゅぅっ、とキリトがアスナを目一杯抱きしめる。

 

「ひゃっ……んんっ……キ、キリトくん……ちょっと……いたい」

 

するとキリトは腕の力を弱めて、それでも回した手を解かずに耳元に囁いた。

 

「痛い思いさせてゴメン……でも、これからは『痛い』時はそう言って。アスナの『大丈夫』はオレが『痛い』」

「うん……わかった……」

「だいたい仲良くしてたって言っても親善の範囲内だぞ。それを勝手に……」

「でもその噂、ユークリネ王国まで届いてたよ」

「ああ……そうだったな……」

 

確かに仔猫の変化(へんげ)が解けた朝も涙声でそんな事を言われたっけ、とキリトは思い返す。

その弁明を後回しにしてきたのには理由があって、出来ればアスナに本当の事を打ち明けたくなかったからだ。しかしこの状態でそれは無理だろうと覚悟を決め「実はさ……」と重い口を開く。

 

「留学する時の条件だったんだ」

「条件?」

「正確には留学を終えてアスナを娶るために親父を納得させる為の条件って言うか……」

「国王さまを?」

 

そうしてキリトはアスナの身体に腕を回したまま留学を承諾した時の話を始めた。

最初に二年という留学期間を言い渡された時、キリトは猛烈に反発した。周辺諸国を数ヶ月から半年単位で移動するなら、その都度帰国しても構わないだろう、と。しかし父であるガヤムマイツェン国王は「二年間国を出て頭を冷やしてこい」と言い、取り合ってはくれなかったのだ。

丸々二年間の帰国を禁じたのには理由があった。

国に帰ってくればキリトは必ず時間を作って馬を飛ばし、隣国のユークリネ王国へ赴くことはわかりきっている。留学の目的のひとつにはキリトゥルムラインとアスリューシナ姫との間に冷却期間を設ける国王の思惑があったからだ。なにせ、キリトがアスリューシナ姫を娶りたいと言い出したのは昨日、今日のことではない。

十年前、ユークリネ王国の離宮で病気療養のアスリューシナ姫の見舞いから帰ってきたその日にキリトは父王に向かって「お嫁さんにするならアスリューシナ姫がいい」と願い出たのだ。

それまではたまに城にあがる歳の近い貴族の令嬢と会っても最低限の言葉しか交わさず、つまらなさそうにしていた王子のいきなりの変貌ぶりに父王は驚くと同時に興味を持った。

 

「キリトゥルムライン、お前はいつも女の子はうるさいし、面倒だし、弱いと言っていたね」

 

父王の言葉にキリトは素直に頷いた。

自分の妹にしても、時折遊び相手として連れられてくる貴族の子供達にしても、それまでキリトの周りの女の子と言えば自分の事ばかりを口にして、自分の話を聞いてくれと言い、少しでもキリトが鬱陶しそうにすれば機嫌を悪くして泣き出すという始末に負えない生き物だったからだ。

 

「アスリューシナ姫はうるさくないのかい?」

「アスリューシナ姫は優しく喋るからうるさくない。いつまでだって話してられるしオレの話を楽しそうに聞いてくれる」

「アスリューシナ姫は面倒じゃないのかい?」

「アスリューシナ姫は色んな事を自分でしようとしてる。オレはそれを手伝ってやりたいんだ」

「アスリューシナ姫は弱くないのかい?」

「弱いよ……でもアスリューシナ姫はとっても強い姫だから、ずっと一緒にいたい」

「ふうむ、アスリューシナ姫はとても素敵な姫なんだね」

「うんっ、だから……」

「それで、アスリューシナ姫はお前のお嫁さんになりたいと言っているのかい?」

「あっ……」

 

十年前の会話はそこで終わった。

 




お読みいただきり、有り難うございました。
キリトですからね、留学中にフラグたてまくったんでしょうね。
無自覚に……。


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王子と姫と白い仔猫・27

思い返す度にキリトは十年前の自分の暴走っぷりに顔から火の吹き出る思いだ。

当時六歳だったキリトは今と変わらず他の相手など考えられないほどアスリューシナを想っていたし、同時に彼女も同じなのだと疑いもしなかったが、それを確かめる術を知らなかった。一方、ガヤムマイツェン国王はそこまで息子の意志を聞いておいても、幼子の一時の気持ちなのだろう、と重くは受け止めず、むしろこれを機に他の令嬢達や他国の王女達への態度が変わるのではないかと期待したほどだ。

しかし父王の思いに反してそれから後もキリトは馬術の腕をあげ、本当に一人でユークリネ王国を訪れるようになり、まずは父王の許可が欲しいから、とことある毎に「アスリューシナ姫を我が国に迎え入れたい」と請い続けた。

キリトが初めて父王にアスリューシナ姫を求めてから七年の月日が経った頃、さすがに国王もこのままではいけない、と思い始める。

これは本当にアスリューシナ姫への想いなのか、自分の願いが通らない事への意地なのか……そもそもガヤムマイツェン王国としてはユークリネ王国の強力な二つの存在を考慮して、王女を迎え入れる事に諸手を挙げて賛成するわけにはいかなかったのだ。

悪くはない、その人となりは美しい容貌を含め周辺諸国にも理想の王女として名をとどろかせている。

しかしこちらは大国ガヤムマイツェンである、どうしてもユークリネ王国の王女でなければ、という事でもない。

そこで国王は留学中の二年間、しっかりと他国の令嬢、及び王女達と交流を深め、それでもなおユークリネ王国の王女を選ぶというのなら、その時は正式に王太子妃として迎え入れよう、とキリトに告げたのだ。

かくしてキリトは二年の間、王女達に対してはもちろん親善大使としても父王が納得できるだけの交流をはかった後、帰国したその日に「これでアスリューシナ姫と婚儀をかわしてもいいですね」と不敵な笑みさえ浮かべて言い放ったのである。

その言葉に父王がやれやれ、と笑いながら肩をすくめ「では、お前の瞳色の石を用意せねばな」と了承の意を示した途端「既にアスリューシナに渡してありますっ」と言いざま、謁見の間を飛び出して行った息子の後ろ姿をガヤムマイツェン国王は唖然とした目で見つめ、キリト付きの従者達がクスクスと忍び笑いを懸命に堪えていたのは当のキリトは知らぬ事だ。

 

「要するに留学中、アスナと離れて他の王女や令嬢とも親交を深め、冷静な判断力で今一度本当にアスナを欲するのか、自分自身に問えって言われて、だったらちゃんと交流をもたないと親父が納得しないだろ」

 

今までの経緯をキリトの腕の中で静かに聞いていたアスナがちらり、と様子を覗うと、幼い日の自分の言動を告白した為か、照れた朱で頬を色づかせたキリトが優しい眼差しで自分を見ていた。

 

「アスナへの気持ちを確かめる為の時間なんて無駄だったけどな。留学前に石は渡してあったし、ユークリネ国王にも散々打診しておいたから」

「お父様ったら……そんな事、私には一言も……」

 

自分が知らないうちにキリトと父王が随分と前から交流を深めていたらしい事実にアスナは拗ねたように唇を尖らせる。

 

「まあ、実際オレの親父が首を縦に振らないことにはどうしようもない話だったしさ。オレとしては留学中の二年間、アスナに縁談話を持ちかけないでくれただけで感謝だよ」

 

確かにユークリネ国王としてなら姫の意向に沿わずとも他国へ嫁ぐよう言い渡すことは出来るのだから、それをせずにいてくれただけでもキリトに協力的と言えるだろう。

昨今、周辺諸国の有力者の中には積極的にユークリネ王家と関わりを持つべきと考える者も少なくないのだ。

 

「だから……不安にさせてゴメン、アスナ」

 

キリトの言葉にアスナが無言でふるふる、と首を横に振る。

その仕草に彼女の本意が測れず、キリトは不安げに眉をひそめた。仔猫だった時の方が素直に感情が表れていた気がして、これからの過ごす日々を思いキリトは殊更真剣な表情でアスナをジッ、と見つめる。

 

「今日からはオレが傍にいるけど、サタラ達がいないんだ。何かあったらちゃんと言えよ」

 

その言葉を嬉しそうに受け取ったアスナが微笑みを返す。

 

「うん、でも、ここの侍女の皆さんもすごく優しくしてくれるから」

「よかった。そのへんは特に慎重に選んだんだ。城での生活が落ち着いたら王都を案内するよ……見たいんだろ?、王都」

「いいの?」

 

途端に嬉しさを隠さずパッと花が咲いたように笑顔になったアスナの唇をキリトが軽く啄む。

 

「もちろん、今日からアスナの国でもあるんだしな」

「有り難う、キリトくん。でもまずはお城の中だね。役職に就いていらっしゃる貴族の方々やその従者の皆さんの顔を覚えないと。あっ、でも今日の授位式の前に十年前、離宮に来てくれたキリトくんのお供の方に声をかけてもらえて、嬉しかったよ」

 

心の底から喜びを表しているアスナの声に反し、キリトが目を大きくして口をわなわなと震わせ始めた。

 

「はああぁ……誰っ?」

「えっ?、誰って……あの時一緒に来てたんだからキリトくん付きの従者の人だよね」

 

本当に名前まではわからないのだろう、ちょんっ、と小首を傾げて「『お久しぶりです』って言ってくれて……」と振り返り、その時の言葉を思い出して更に嬉し恥ずかしそうにほんのりと頬を染める。

 

「『お二人がこの日を迎えられるのをずっと信じておりました』……って……」

 

十年前、キリトの供でユークリネ王国の離宮を訪れた者の一人ならばあの時の二人の姿を見て、ずっと応援してくれていたに違いない。

キリトの腕の中で幼い日、初めて出会った時の様子を思い出してアスナがこっそりと口元を緩めていると、自分の温かな気持ちとは反対の声が降ってくる。

 

「ったく……なんでみんな勝手にアスナに声をかけるんだよっ」

「勝手にって……従者の人だってガヤムマイツェン王国の国民なんだから私に声をかけても別に……」

「ああーっ、アスナはガヤムマイツェン王国に嫁いできたんだけど、その前にオレの所に嫁いで来たんだから、まずはオレのもんだろっ」

 

がばっ、と腕の中に花嫁を閉じ込めて、これ以上は誰の目にも触れさせない勢いでキリトは子供じみた心中を吐露するとその所有権を主張するように栗色の髪に何度も唇を落とした。それから片手でアスナの前髪を梳き上げこめかみにもキスをする。

幼い日の離宮での別れの時を彷彿させるように閉じられた瞼の上を経由し鼻の頭をかすめた後、最後にそのふっくらと柔らかい唇を塞いだ。昼間の儀式とは違いアスナの後頭部を支えてすぐさま彼女の中まで差し入れる。

自分の内からこみ上げてくる幸福感に従って優しく撫でれば、アスナも同様の思いでそれを受け入れた。そうして飽くことなく互いの想いを交差させてどれほどの時が経っただろうか、喜びと羞恥と少しの息苦しさで袖を掴んでいたアスナの手が震え始めたのに気づいたキリトが名残惜しそうに離れると、ふらり、と彼女の身体が傾ぐ。

咄嗟に後頭部と腰に当てていた手に力を込め、再び自分の胸元に抱き寄せたキリトはその華奢な身体をしっかりと閉じ込めたのだった。




お読みいただき、有り難うございました。
さて、次は【おまけ編】が入ります。
「王子と姫と白い仔猫・27と1/2話」です……が……すみませんっ、
初夜話(R−18)なので全く「ゆるあま」ではありませんから
別枠でアップします。
苦手な方は一日お待ちくださいっ!
明後日に28話を投稿させていただきますが、もちろん話は
繋がりますし、おまけ編を読んでなくとも問題はありませんので
ご心配なく。


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王子と姫と白い仔猫・28

王太子の授位式、及び婚儀を済ませた翌日、すっかり日が昇って王太子夫妻の私室周辺以外では既に城内でいつものように慌ただしく人々が己の仕事を遂行している中、のんびりと腕の中の温もりをキリトが味わっていると、その視線を感じたのか、もぞもぞとアスナが身じろぐ。

早くそのはしばみ色を目にしたくて「アスナ」と小さく呼びかければ、ゆっくりと瞼が開いてキリトを認めた途端、ふわっ、と微笑んだ。その表情に思わず彼女の腰に回していた手に力が入る。

互いに一糸まとわぬ身で密着度が増せば、その人肌はさらに温かさを伝え合って、その心地よさにキリトは自らの顔を寄せて彼女の額にキスをした。

 

「おはよう、アスナ」

 

こんな朝を迎えることを何度思い描いただろう、だが、実際は想像を遙かに超えて幸福に満ちたものだった。ところがキリトの笑顔に反して目の前のはしばみ色の瞳はぱちぱち、と瞬きを繰り返すとじわりと涙を湧かし、その周りが瞬く間に朱に染まる。

 

「えっ?……アスナ?」

「あ……あの……」

「どうしたんだ?」

 

アスナはその問いに答える気配さえ見せず、素早く自分が掛けていたシーツを顔の上まで引っ張り上げた。こっそりと目元だけを覗かせて涙目で何かを訴えているようだが、その内容がさっぱり思い当たらないキリトはむむっ、と眉根を寄せる。

もう一度「どうしたんだ?」と聞けば、シーツの中からぽそり、「どうしよう」と返ってきた。

体調が悪いのかと思い、熱を測ろうと今度は額同士をくっつければ、「んっ」とやはりシーツの中から短い吐息が聞こえて、その声だけでぞくり、と背中に痺れが走る。再び名を呼ぶと、盛大に眉毛をハの字にゆがませ、潤んだ瞳でキリトをじっと見つめてきた。

 

「……すっごい……お寝坊しちゃった……」

 

窓からの陽光で既に朝とは呼べない時刻だと知ったらしいアスナの告白に体調は関係ないのだと、ホッと息を抜く。額をつけたたまま軽く笑ってから「大丈夫」とだけ告げれば、すぐにはしばみ色が大きくなった。

 

「婚儀の翌日だぞ。今日はオレもアスナも予定はなにもなし。ゆっくりできるよ」

 

安心させるように触れていた額を頬同士に移して摺り合わせる。柔らかな感触を思う存分味わっていると、キリトの頬に触れそうな位置でアスナが唇を動かした。

 

「うん、それは知ってたけど……ちゃんと起きてみなさんにご挨拶しなきゃと思ってたから……」

「みなさんって?」

「招待客の方々とか」

「昨晩のあの勢いじゃ、招待客だって昼過ぎまでは起きてこないんじゃないか?」

「だったら、これからお世話になる城内の皆さんとか」

「それは、おいおいでいいだろ」

「なら……」

 

寝坊した自分が許せないのか、しきりと起きるべきだった理由を探すアスナにキリトが「相変わらずだな」と困り笑いを浮かべる。

 

「どうせこれから嫌でも色んな人間との顔合わせで忙しくなるんだ。今日くらいずっとオレの傍にいて……」

 

顔の角度をほんの少しずらして軽く唇を触れ合わせると、キリトはがばっ、と素早くベッドを抜け出しシーツごとアスナを包んで抱き上げた。突然、宙に浮いた驚きで「ひゃっ」と短く声を上げたアスナは思わずキリトの首にしがみつく。悪戯が成功した時のように、くっくっ、と笑い「そうそう、ちゃんとつかまってろよ」と声を掛けながらどんどんと扉へ向かって歩き出した。

アスナを抱きかかえたまま器用に目的の扉を開けるとそこには決して豪華ではないが一般的には十分に広いといえる浴室が現れる。湯船にはお湯が満々とたたえられており清潔なタオルやバスローブが何枚も常備されていた。バスオイルはもちろん髪用、顔用、身体用とソープ関連も数種類が用意されている。

 

「浴槽、広めにして正解だったな」

 

アスナが抵抗するよりも早くシーツをはぎ取って浴槽に入り、抱き合ったまま自分の膝の上に彼女を下ろせば、いきなりの事であわあわとしていたアスナの唇からふぅ、と息が吐き出されてしがみついていた腕の緊張が緩んだ。お湯の温かさと触れ合う素肌の感触にうっとりとした表情でこてん、とキリトの肩に頬をつける。

 

「寝室からそのまま浴室って贅沢だね」

「そうか?、アスナが居間や寝室の調度品に全然希望を言わないから、ならせめて好きな風呂くらいいつでも入れるようにとしつらえたんだけど」

「希望って言うか……折角だからガヤムマイツェン王国らしくってお願いしたら……びっくりするくらい高価な品々を運び込もうとするから……」

 

婚儀の準備期間としてガヤムマイツェン王国に滞在していた時、自分の私室となる部屋の内装を侍女達とあれこれ楽しく相談していた時に何人もの従者達が置物や絵画などを持ってやってきた時の光景を思い出し、アスナの目がまん丸くなった。

 

「気に入ったのだけ受け取っておけばいいんだよ」

「でも、私のために、って持ってきてくれた物なのに、それを選り好みするのも……」

「まあ、アスナのため、ってのもあるだろうけど、皇太子妃の部屋にあることで商品の価値をあげたいってのもあるんだ」

 

昨晩の晩餐会途中で聞いた報告によれば、日中のパレードで婚礼衣装を纏ったアスナを目にした民衆達の間では既に王太子妃ブームが起こりつつあると言う。王太子妃愛用の品や私室にある調度品と同じ物を買い求める客がこれから増えるに違いない。商人達にとっては絶好のチャンスなのだ。

 

「アスナのドレスを見て、これからますますユークリネ王国に織物やレースの買い付け業者が訪れるぞ」

「ふふっ、リズの張り切る姿が目に浮かぶようだね」

「まったくだ」

 

多分、大手を振って堂々と正面からこの城を訪れる日も遠くないだろう、と思い、アスナとキリトは同時に笑い声を漏らす。

 

「だったら定期的にお部屋の模様替えをした方がいいかな」

 

そう呟きながらあれこれと考え込んでいる肩の上のアスナを見ていたキリトがさっきまでの笑顔を消して彼女の額に頬を寄せた。

 

「今はまだ、考えなくていいだろ。それより……」

 

支えているアスナの腰を労るようにやさしく撫でる。

 

「身体……辛くないか?」

 

ゆっくりとさすってくれる気遣いの心地よさにアスナが顔をあげて微笑んだ。安心させるように「うん、大丈夫……」と静かに告げると、ぴくり、とキリトの眉が動いたことに気づき、すぐさまアスナも眉尻を下げて「思っていたよりは……」と正直に言葉を足す。

やっぱり、と言いたげな溜め息をついて困り笑いのアスナをじっ、と見つめた。

 

「アスナが頑張りすぎて無理をしないよう傍に付いていてやりたいのに……まあオレの傍に引き寄せた事で余計な頑張りを増やす結果になったけどさ……でも昨晩は純粋にオレが原因で無理をさせたわけだから……その……」

 

僅かな逡巡の後、小さく「ごめん」とアスナに謝れば、彼女がふるふる、と頭を横に振り、そっと両手をキリトの首に回して言葉ではなくぬくもりで想いを伝えようとする。思わぬアスナからの抱擁に一瞬、目を見開いたキリトだったが、すぐさま目を細めると口の端を僅かに上げ、彼女の腰に触れていた手をそろそろと前に移動させた。

 

「そんな風にされるとまた我慢できなくなるんだけど?」

 

言葉の意図を瞬時に理解して、ぱっ、と身を起こすと、その空間に素早くキリトの手が入り込み昨晩からの行為ですっかり手になじんだ柔らかな膨らみのひとつを手中に収める。

 

「だっ、ダメだったら!」

 

ゆっくりともみほぐされると、いけないと警鐘を鳴らす理性の上を快感に覆い尽くされそうで、アスナは慌てて身をよじった。しかしキリトは支えていた腰に更に力を込めて引き寄せ、必死に自分から距離を取ろうとするアスナの横顔めがけて顔を近づける。入浴中のせいか、自分の身を拘束されているせいか、はたまたキリトからの刺激を受容しているせいなのか、既に真っ赤に色づいているアスナの耳を、はむっ、と甘噛みすれば、途端にアスナが「ひゃぁっ」と啼いて全身を震わせた。

 

(あ、仔猫の時と同じ反応……)

 

そのまま耳朶をぺろり、と舐めたり唇で挟んで甘噛みを続けていると、すっかり力の抜けたアスナが息も絶え絶えの涙声でキリトの名を呼ぶ。

 

「キ……リトく……ん……なん……で?」

「ん?……アスナが仔猫になってた時さ、風呂を嫌がって大暴れするから試しに耳を噛んでみたんだ。そしたら急に大人しくなったから、同じかな?、って思って……」

「ふぅぇぇっ」

 

自分すら知らなかった自分の弱点を暴かれて、すっかり力が入らなくなったアスナはそのまま浴槽の中でキリトからの刺激を受け続けるはめになってしまったのだった。




お読みいただき、有り難うございました。
えっ!?、これも厳密には別枠ですか?(苦笑)
いえいえ……この位は……ねぇ……完全に私基準ですけど。
24話でアスナが「一緒にお風呂には入りません」宣言をしたので、
キリトならリベンジ(?)するだろうなー、と。
そしていよいよ明日は《オーディナル・スケール》の公開日ですねっ。
早かったような……やっと、のような……(って、私はまだまだ観に
行かれませんが……くぅっ、早く観たいっ)


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王子と姫と白い仔猫・29

アスリューシナがキリトゥルムラインの元へと嫁ぎ、ガヤムマイツェン王国の王太子妃となって半年が経ったある日……。

 

 

 

突然、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッと王太子執務室の扉を連打する音が響いて、控えていた従者が慌てて立ち上がると「失礼しまーすっ」と乱暴に扉が開くのと同時に護衛服姿の男が転がり込んで来た。

ぜぇっ、ぜぇっ、と見苦しい程に息を荒げたまま汗のせいで額に張り付いた前髪を無造作にかきあげると、目を見開いたまま咎めようともせず突っ立ったままの従者の前をツカツカと通り過ぎ、控え室を抜けて王太子の執務室へと躊躇いもせず足を踏み入れる。室内の中央にどっしりと構えている執務机の前に倒れ込むように現れ、両手をついて崩れそうな身体を支える汗だくの男を机の反対側から座したまま何の興味もなしに見上げたのは、それまで明らかに気乗りのしない表情で机上の書類を眺めていたこの国の王太子、キリトゥルムラインだ。

しかしその男の護衛服を見るなり、あり得ない物でも目にしたようにギョッとしてからすぐに顔をしかめる。

声を発するより息を整える事に専念している男をジト目で睨みながら、面倒くさそうに声をかけた。

 

「なんなんだ、その格好は……」

 

思いっきり不審者を見る目つきだが、それでも随分と親しげな口調で疑問を口にすると、汗だくの男は困ったように「へへっ」と笑ってから掠れた声を途切れ途切れに吐き出す。

 

「まぁ……そこは……ちょっとした……遊び心って……感じで……」

 

言いながら、机の隅に置いてある水差しを人差し指でちょん、ちょん、とつつき、許可を求めるように首を傾げると、意図を理解したキリトが手をひらひらと振って了解を示した。

 

「いただきますっ」

 

王太子の為の水にためらいもせず口をつけ、ごくごくと一気にあおると「はぁーっ、生き返った」と満足げな笑みを浮かべる。

目の前の男がまともに口がきけるようになったとを判断したキリトは手にしていた書類を机の脇にどけ、改めて男を睨み付けた。

 

「お前、今日、休みだったよな」

「おや、よくご存じですね、殿下」

 

遠慮無く二杯目の水をコップに注ぎながら、武器にもしている人畜無害そうな笑顔で王太子に向け、にこり、と返す。

水差しの中身を全て飲み干す気のようで、従者が気を利かせておかわりの水を取りに部屋を出て行くと、二人きりとなったところでキリトは真っ黒い瞳を半眼にして幾分怒気の籠もった声を男に浴びせた。

 

「……もしかして……その格好……護衛隊にまぎれて……」

 

悪戯がバレた子供のように、王太子の推測を舌を出すことで肯定した護衛服の男はそれでも最後のあがきとして「いやいや、ちゃんと王太子妃様の護衛もしましたよ」と再び満面の笑みをキリトに送った。

 

「だいたいお前、剣さえ持ってないだろ」

 

その笑顔には騙されないぞ、とばかりにつれなく言い放てば、随分と息が落ち着いてきた男は仕事上では絶対に見せないだろう、不遜にも挑みかかる鼻息で「ふふんっ」と口の端を上げる。

 

「オレは、オレ自身を盾にしてアスリューシナ王太子妃様をお守りする覚悟ですからっ」

「……それ、お前の仕事じゃないし。お前は外交士なんだから交渉話術を駆使してこの国を守れ」

 

とは言え、この男の仕事が外交ばかりに限った事でないことをキリトは十分に承知していた。現に数刻前にも男を捜して自分の執務室にまでどこかの部署の補佐官がやって来たばかりだ。

 

(オレの所でサボるのも城内では知れ渡ってるからなぁ)

 

とにかくこの男は口がうまい。その才を買われて自分と同じ歳で既に外交部の重要な交渉事のほとんどは彼が担当している。

その話術は仕事に限らず周囲の人間さえも虜にしているようで、とにかく人付き合いが良いのだ。

お陰で本来の仕事以外の範疇の交渉事まで頼まれることもしばしばで、対応しきれない数の交渉依頼が舞い込んでくると王太子の執務室に逃げ込んでくるのだが……それも既に城内では周知されているらしい。

さきほどの補佐官がやって来た時も、王太子の従者は慣れた調子で「本日、ササシャウルは公休です」と彼のスケジュールを告げていた。

かくいう自分もガヤムマイツェン王国の外交の要とも言えるササシャウルという男の口八丁にはまり、臣下の中ではかなり親密な間柄を築いているのだから周りの奴らの事を笑えないな、とキリトは、ふぅっ、と軽く息を吐き出す。

 

「で?、アスリューシナの王都視察に同行してたんだろ?」

 

ほぼ確信している事をぶつけてみれば、実は密かに結成されているという『王太子妃様を遠くからお慕いする会』の会員であるササシャウルはとぼけた調子で「ええっと……」と王太子から視線を外し「たまたま……たまたまですよ」と打ち明けた。

 

「どの辺がたまたま、なんだ?」

「ですから……たまたま公休の日に……たまたま近くにあった護衛隊の制服を着てみたら……たまたま王都へ視察に行かれる王太子妃様と城門のところでお会いしたのでご一緒した、という……王太子妃様も『是非に』とおっしゃって下さいまして、ですね……」

 

仕事モードに切り替えればキリトがぐうの音も出ないくらい立派な筋書きを披露できるはずなのに、ササシャウルにとってもキリトはただの自国の王太子というだけではないらしく、必死の思いで自らの正直な気持ちを見え隠れさせながら説明をする姿は滑稽を通り越して可愛らしくさえある。

また、ササシャウルの口八丁が通じない相手であるアスナも彼の本質を見抜いているらしく、ガヤムマイツェンの城で初対面を果たした時は「言葉を武器として使うばかりでは疲れてしまいませんか?」と気遣いの眼差しで聞かれ、その場で彼が堕ちたのは有名な話だ。

もぞもぞと自身の行為の偶然性を訴えている臣下を面白そうに眺めながらキリトは、ならば、と新たに問いかける。

 

「視察に同行していたお前がここにいるって事は、アスリューシナも戻ってきてるんだよな?」

 

キリトからの言葉に本来の使命を思い出したササシャウルは「うわぁぁっ」と叫ぶと、手にしていたコップをドンッと机に置き、両手をついて身を乗り出し王太子の鼻の先まで顔を近づけた。

 

「忘れてました、殿下……王太子妃様を抱きかかえる許可を下さい」

「…………却下だ」

「そこを何とか」

「理由を言え」

「ご納得いただける理由なら許可してもらえるんですか?」

「ないな」

 

キッパリと拒絶の返答を聞いてササシャウルは崩れ落ちるように床に座り込む。うなだれたまま背を丸めブツブツと「こんな交渉、最初から無理だろ……」とぼやいているのを気配と共に感じたキリトは机の向こう側に姿を消した外交士へ「とにかく」と言葉をかけた。

 

「一体、どういう状況なんだ?、どうしてお前がアスリューシナを抱きかかえるんだよ」

 

王太子の問いかけにとりあえず事の次第を説明せねば、とササシャウルはのろのろと立ち上がる。

 

「言っておきますけど、王太子妃様を抱きかかえたいのは俺じゃありませんよ。俺はあらかじめ殿下からその許可を貰った方がいいんじゃないか?、と言われて来ただけで……」

「誰に……」

「王都のおっちゃんやおばちゃんやじいさんばあさん達からです」

 

ますます訳が分からないとキリトが眉根を寄せ首を傾げると、ササシャウルは大きく「はぁっ」とため息をついてから本格的に解説を始めた。

 

「アスリューシナ様は我が国に輿入れされてから半年で、すっかり王都の民衆の人気者ですからね」

 

ササシャウルの言葉にキリトは同意を示すようにひとつ頷く。

このガヤムマイツェン王国に嫁いできたアスナは当初予定されていた王太子妃教育の期間をほぼ半分で終わらせ、教育係を驚かせた。もともと外政に関しては自国で国王の名代を勤め上げていたことから既に対外的なふるまいに関してはほとんど問題はなかったが、危惧されていたのは内政に関してだ。ユークリネ王国には存在しない貴族制度にアスナが対応できるようになるのはかなりの時間を要すると思われていた。

しかしその点に関してもアスナは元来の真面目さと頑張りを発揮して、ほとんど全ての貴族の名前を覚えて輿入れをしてきた事を知った時にはさすがのキリトもぽかん、とだらしなく口を開けたまま数秒間固まったものだ。

婚儀の夜に「まずは顔を覚えないと」と言ったアスナの言葉は覚えてきた名前と顔を一致させる、という意味だったと知ったキリトは教育係が同室しているにもかかわらず、恥ずかしがって暴れる自分の妻を随分と長い間抱きしめたのである。




お読みいただき、有り難うございました。
そして「劇場版ソードアート・オンライン『オーディナル・スケール』」
ついに公開日を迎えましたっ、おめでとうございます!!!!!
さて、こちらではここにきて《かさ、つな》のオリキャラ「佐々井くん」登場です。
「佐々井・喋る・うるさい」……で「ササシャウル」
交渉事が得意な人(キャラ)はあっちこっち(の作品)で重宝されますね(苦笑)
そしてラスト1話ですっ。


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王子と姫と白い仔猫・30(最終話)

ササシャウルは何やらを思い出して頬を緩ませている王太子を無視し言葉を続ける。

 

「それで少し前から定期的に行われている王太子妃様の王都視察なんですけどね。とにかく王都の民衆が大歓迎なんですよ」

 

城の生活に慣れたら王都を見てみたい、と言っていたアスナの希望は王太子妃となってふた月を待たずに実現した。

これはひとえにガヤムマイツェン王国へ輿入れをする前からアスナが王太子妃としての勉強に励んでいた為と、キリトが妻の人となりをよく理解していた事から早い段階で関係各所へ話を通しておいたからだ。

王太子授位式と婚礼の儀の後のパレードでアスナの姿を見た民衆達はその美しさに一目で魅了された。そして視察が行われるようになると気取らない態度や慈愛に満ちた眼差しで王都の人達にかける心を砕いた言葉により、民衆達は一層王太子妃への好意を深めたのである。

「そう言えば……」と先日、アスナの公務補佐をしている女官から聞いた話をキリトは口にした。

 

「次の視察はいつ頃なのか、といった問い合わせや視察地としての来訪要請が頻繁に届いているそうだな」

「はい、はい……それについては王太子妃さまも色々とお忙しいんで無理のないよう調整してるみたいですけどね、要は行く先々で老若男女、みんながハイテンションで出迎えてお祭り状態らしく……」

 

そこまで盛り上がっているとは思っていなかったキリトが思わず片頬をひくつかせた。

 

「そ、それはまた随分大事になってるんだな。……でもアスリューシナは毎回嬉しそうに報告をしてくれるが……」

「そうなんです。護衛隊の話によると、城に戻るまで疲れた顔一つ見せずに笑顔で対応しているらしく、その姿に隊員達の心も鷲づかんでるようですから」

 

その後、こっそりと「お慕い申し上げる会の会員が増えましたしね」と呟いている。

妻の視察先での様子を聞いたキリトは少しじれったそうに話を戻した。

 

「で、それとアスリューシナを抱き上げる事がどう繋がってくるんだ?」

「ですから、本日、王太子妃様が視察に来られるのを待ちきれない王都の悪ガキ……いえ、子供達数名が、視察順路の途中にある『風の時計塔』の展望回廊に守番の目を盗んで登ったんです」

「『風の時計塔』の展望回廊?……確かあそこは今、柵の改修工事中じゃなかったか?」

「おっしゃるとおりで。全面、柵を取り外しているので立入禁止になってます」

「おいっ」

「ご心配なく。すぐさま守番と王都の警備隊に見つかって塔から下ろされました」

「なら……」

「全員下りたと思ったんですけどね……先に登った悪ガキ……あ……ああっ、もう悪ガキでいいですか?、いいですよね。悪ガキ連中の一人にちっちゃい妹のいるヤツがいまして、その妹が兄貴を追いかけて同じく展望回廊に登っちゃってたんです。それに気づかなかった兄は妹を置いて仲間の悪ガキ連中と一緒に下まで追い立てられ、残された妹はあまりの高さに回廊に座り込み、ちょうどその下を視察に訪れた王太子妃様が偶然にもその子を見つけて……」

 

そこまでトントン、と説明をしていたササシャウルの目の前にキリトの手の平が現れた。

 

「わかった」

「……わかりました?」

「妹の方は無事に下りたんだろうな?」

「ご心配なく、アスリューシナ様が傍らに寄り添って笑いかければ恐怖の震えもピタリと止んで、ほっぺた真っ赤にしてすぐさま警備隊に抱きかかえられ……」

「そこでようやくアスリューシナは自分の居場所を自覚したというわけか」

「なんですよねぇ。もともと展望用の場所なので座り込んでいらっしゃる今現在、差し迫った危険はないですけど、どうもあの高さで竦んでしまわれたようで、いちを護衛隊の連中が手を差し伸べたのですが、しゃがみ込んだまま『平気です』と震えるお声でおっしゃるばかりで……そうこうしているうちに事態が時計塔を取り囲んでいた民衆にもバレまして、腰の曲がったじいさんまで『わしがお助けするっ』と息巻くし……大騒ぎになってます」

 

ササシャウルに突き出した手の平をキリトはそのまま自分の額にあて深く息を吐き出した。

どうしてこうも彼女は高所に登りたがるのだろうか……そして下りられなくなるというお決まりのパターンだ。

しかしそんな時に彼女に手を伸ばすのは自分以外許せるはずもなく……。

キリトが素早く立ち上がると、いつの間にか傍に控えていた従者がスッ、と上着を広げる。無駄のない動きで外出の身支度を調えながらキリトはササシャウルとの会話を続けた。

 

「それでアスリューシナを抱き上げて移動させるしかなくなり、オレに許可を求めに来たってわけか」

「はい、誰が抱き上げるか、これまた護衛隊の中でも激論が交わされている最中に、時計塔を取り囲んでいた民衆達から『勝手に王太子妃様を抱き上げたら首が飛ぶんじゃないのかい?』『王太子様ならやりかねないかもねぇ』と、そりぁもう的確なアドバイスが投げかけられまして」

 

首が飛ぶ……言葉の綾なのか物理的な状態を指すのかは言及しない方針で一瞬にして護衛隊は口をつぐんだ。王太子の王太子妃への溺愛ぶりは城内のみならず王都内はもちろん、国内中に知れ渡っている。

 

「それで交渉術に長けたお前が使いに出されたのか……懸命な判断だが、こればかりは交渉の席に着く気さえないぞ」

「でしょうね……一縷の望みをかけて、いちをその場にいた連中の中で可能性があるなら、で俺が選ばれただけでハナから交渉が成立するなんて期待しちゃいませんよ。要は俺に殿下を呼んで来いって言うのが本当のところでしょう」

 

そう言ってからササシャウルは苦笑いを浮かべて「最初からそれ言っちゃったら護衛隊の面目丸つぶれですからね」と言えば「確かにな」とキリトが同意を口にした。

そもそもササシャウルが言うところの悪ガキ連中の妹を守番なり警備隊なりが見つけて速やかに保護すれば事はこれほど大事にならずに済んだのだ。更に言うならなぜアスナが展望回廊へ辿り着く前に護衛隊が何とかしなかったのか……王都の警備隊はもちろん、これは護衛隊も鍛え直しだな、とキリトは心に決めて執務室から出ると「これじゃあ、城に光の穴があく前にオレの胃に穴があきそうだ」と独り言を零しつつササシャウルを置いて駆けだした。

 

 

 

 

 

時計台の下に馬で乗り付けたキリトは恐縮しまくっている護衛隊長の言葉などに耳も貸さず部下を全員回廊から下りるように短く指示を飛ばす。

指示はすぐさま伝達され、登っていくキリトに道を開けた護衛隊員が自分達に向けて放たれている不穏なオーラに冷や汗を流しながら直立不動で王太子を見送った。

立入を拒むロープをくぐり一歩回廊に踏み出すと『風の時計台』の名の通り、下からの突風でコートが煽られる。その風音に負けぬよう「アスナ」と呼びかけると、少し離れた場所に縮こまっていた王太子妃が固くつむった瞼をそろそろと持ち上げ、同時に首をこちらに動かした。

 

「キ……キリト……くん」

 

キリトの姿をヘイゼルの瞳に映した途端、じわじわと涙が湧き出してくる。

十年前と同じく猛烈に庇護欲を刺激されるその表情だけでも護衛隊の連中に見られなかったのは良しとしよう、とキリトは軽く息を吐き出した。

「ほら」と言って手を伸ばす。

またもや「平気」と返してくる事を予想して、次にどう言葉をかけようか、と思案しながらアスナへと近づく……が、その予想を覆しアスナは小刻みに震える両手をゆっくりと伸ばしてきた。

自分の意志で歩み寄っているはずなのに、その両手に引き寄せられるようにアスナの元へ跪いたキリトは縋るように伸ばされた両手を掴むことなく両腕ごとその華奢な身体を抱きしめる。今度こそ唯一自分に向けられた彼女を受け止め、決して離すまいとキリトは満面の笑みでアスナを包み込んだ。

途端に地上から歓声とも悲鳴ともとれる多くの叫声が時計塔の上をめがけて飛んでくる。それらの勢いに何事かと肩を震わせてアスナだったが、キリトとの体制を認識すると、小さく「あっ」と声をあげて安堵の表情が一転、羞恥へと変わった。それでも自分をしっかりと抱き寄せてくれている腕を押しのける事が出来ず、困ったように視線を上げればどこか愉しげな黒い双眸に辿り着く。

 

「民衆の期待には応えないとな」

 

言うなりアスナの頬に唇を押し付けると、一段と下からの叫声が高く、大きくなった。

驚きも通り越してフニャフニャと言葉も出てこない唇だけを動かしているアスナに対し、「もしかして、口づけの方がよかったのか?」と悪戯めいた笑顔で問いかけてくるキリトが回していた腕に更に力を込める。

 

「ほら、一緒に……立つぞ」

 

そうアスナの耳元で囁けば、何を勘違いしたのか地上から再び叫声があがった。

どうにかキリトの腕に捕まりながら腰を上げたアスナを見て、次はその手を引いて塔の中へ移動しようと彼女の背中に回していた腕を外そうとすると、立ち上がった事で視界が開けたアスナが再び震える手でキリトの腕を掴む

 

「は……離さない……でね」

 

その言葉を受けて、展望台の上で改めてアスナに向き合ったキリトがそれまでの笑みを消してヘイゼルの瞳を覗き込んだ。射貫くように見つめられたアスナも緊張や恐怖感より違う感情に心が支配されて、いつしか下から噴き上げてくる風も人々の声も届かなくなっている。

キリトがゆっくりと一歩、アスナへと足を踏み出し、顔を近づけた。

 

「ああ、誓っただろ。もう離さないよ、ずっと一緒にいる」

 

そして今度こそ、その桜色の唇へと優しく重ねたのだった。




最後までお読みいただき、有り難うございました。
ご本家さまの映画化を祝っての短期集中連載という事で、公開日までの
投稿予定でしたが、なぜかズルズルと公開日を過ぎても投稿し続け、結局
一ヶ月もお付き合いいただいてしまいましたが、いかがでしたでしょうか?
劇場版への期待と共に、更にワクワクを増やして楽しんでいただけたのなら、
こんなに嬉しいことはありません。
では、ガヤムマイツェン王国で末永い二人の幸せを願いながら……
(このあと完結を記念して「打ち上げ」を「活動報告」で行いたいと思います)


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王子と姫と白い仔猫【番外編】

劇場版SAO『オーディナル・スケール』Ble-ray & DVD 発売を記念しまして
【番外編】をお届けします。
舞台はキリトゥルムライン王太子の元へアスリューシナ姫が嫁いできて
一年近くが経った頃のガヤムマイツェン王城内です。


ガヤムマイツェン王国の王太子妃であるアスリューシナことアスナの私室の居間で微かに言い争うような声が扉のこちら側、寝室にまで漏れ聞こえてくる。

途切れ途切れに届く会話の中、王太子妃付きの筆頭侍女ルルーラが少々苛立ちを含めて「王太子殿下っ」と声を飛ばすと、その声を振り切るようにノックの音も省いて王太子妃の寝室の扉が勢いよく開いた。

 

「アスナッ」

 

寝室の中にその主を求める声が飛び込んでくる。

この国で唯一、アスリューシナを「アスナ」と呼ぶガヤムマイツェン王国王太子であり、アスナの伴侶であるキリトゥルムライン……キリトだ。広大な国土を統治している王族の一人として、次代の国王として、はるか遠地の国境付近まで視察に出ていたキリトは、旅仕様の姿のまま帰城したその足で最愛の妻が休んでいる彼女の寝室へ乗り込んできたらしい。

城を留守にしていた半月の間、馬車を使わず常に騎乗で移動を続け一刻も無駄にせず公務をこなしてきたのだろう、どう贔屓目に見ても寝室を訪れる前に浴室に押し込みたい状態の王太子の後ろを未だ尖った声で「そのような格好でアスリューシナ様の寝室に入られては困りますっ」と言いつつ付き従ってきたルルーラは「せめてマントだけでもお外し下さいっ」と更に声を張り上げた。

アスナの元へと一直線に突き進んでいたキリトは、そこでようやく自らの格好を自覚したのか、ピタリ、と足を止め、徐に目線を下げてマントの汚れを視界に入れると、カチャリ、と金具をはずしてその場でマントを脱ぎ捨て、少々身軽になったせいか更に足早に妻が横になっているベッドへと向かう。

マントが脱ぎ落とされた場所でルルーラが「殿下っ」と叱責の声を上げながらそれを拾い上げるが、それに気を止めることなくもう一度呼び寄せるように「アスナ」と目の前まで距離を縮めた彼女の名を口にすれば、ベッドで大量のクッションに上半身を預けていたアスナが柔らかな笑みを浮かべて「キリトゥルムラインさま」と答えた。

続いてベッドから起き上がろうと身体をよじると、すかさず「そのままで構わない」とキリトの手が妻を制する。

それでもクッションから身を起こしたアスナは豊かな栗色の長い髪をサラリ、と揺らして「お帰りなさいませ、キリトゥルムライン王太子殿下。お出迎えも出来ず、申し訳ありません」と頭を下げようとすれば、その動作を遮るようにキリトがベッドに腰掛け、アスナを腕の中に包み込んだ。

 

「そんな言葉はいらない。半月ぶりなんだぞ、いつもの様に呼んで欲しい」

 

請われた言葉をアスナは腕の中で小さく贈る。

 

「おかえりなさい、キリトくん。お疲れさま」

「ただいま、アスナ……身体の調子はどうだ?…………痩せたな。まだ食べられないのか?」

 

指摘された通り、半月前、夫が城から離れた時より更に細くなってしまった自分の腕を彼の背中に回しながら「うん」と肯定したアスナは「でも、大丈夫だよ。順調だから」と安心させるように、とんとん、と抱きついた手でキリトを軽く叩いた。

少し身体を離して妻の顔色を確かめてから、覗き込むようにして自らの額で彼女の熱を測り終えるとアスナがせがむように頬をすり寄せてくる。

妻が甘える仕草ですんすん、と鼻を鳴らした所で自分の汚れっぷりを思い出したキリトはぼそり、と呟いた。

 

「あ、ごめん、アスナ。オレの臭いで気分が悪くなるかも……」

 

するとすかさずアスナは否定を表すと同時に久々の夫との抱擁を深める為、密着させていた頬を更にふにふにと擦り合わせる。

 

「うううん、大丈夫。こうしてるとキリトくんの匂いだなっ、て安心するの」

「オレの臭いって砂埃や土煙の臭いなのか?」

「違うよ。お日様の下で草むらに横になってお昼寝したくなっちゃうような匂い」

「……オレなんかよりアスナの方がよっぽどいい匂いだけどな」

 

そうやって互いに目を瞑って抱き合いながら相手の存在を全身で感じ取っていた時だ、ごほんっ、とわざとらしい咳払いが寝室内に響いた。

小さく溜め息をついたキリトがゆっくりと瞼を押し上げ、離れがたくもアスナを閉じ込めていた腕の力を弱めて振り返る。そして「空気を読んでくれ」と不満げな視線を伸ばした先にはアスナのベッドの脇にセッティングされたテーブルセットに腰掛けている三人の女性の姿があった。

 

「ほんっと、相変わらずねアンタ達はっ」

「そうなんですよ。アスリューシナ義姉様がお輿入れしてきてから、兄様の執着っぷりはずっと変わらずで」

「要は成長してないってことね」

 

扉が開いてから一連の様子をただ黙って見ていた三人にも我慢の限界がきたようで、ぽんぽん、と遠慮の無い言葉をキリトに浴びせ始める。

それに応じるようにキリトは一人一人を順々に睨み返した。

 

「リズ……今はアスナの体調が落ち着くまで誰も面会を取り次がないよう言っておいたはずだが、なんでここにいるんだ」

 

その疑問に答えたのは寝室の戸口付近まで下がって控えていたルルーラだった。

 

「それは妃殿下がお望みになったからでございます。両陛下のお許しも得ており、ずっと寝室に籠もりっきりのアスリューシナ様の気分転換になれば、との事でこざいます」

 

その言葉を証明するかのようにアスナがこくこくと頷く。

ならば、とキリトはリズの隣でクッキーを頬張っている自分と同じ漆黒の髪を持つ女性に不可解さを込めた視線を送った。

 

「なら、なんでお前はここで午後のお茶をしてるんだ?、リーファ」

「えー?、妹が姉の体調を心配するのは当たり前でしょ?、義姉様の傍にいられない兄様の代わりだもん」

 

そう言いながらテーブル中央に置いてあるクッキーに手を伸ばす妹の姿を見て、キリトは諦めたように視線を次へと移す。

 

「この部屋に来るまでに確認したけど、今日のアスナへの面会希望者はリズベット一人のはずだ。どうやってここまで辿り着いた?、シノン」

 

ちゃっかりとシノンの目の前にもティーセットが給仕されているところを見ると今日が初犯ではないのだろう。自国の王城内の、しかも自分の妻の筆頭侍女との間に知らないうちに随分と良好な親密関係を築いていたと思われる隣国の魔術士にキリトは少々語気を強めて問いかけた。

しかし、そんな棘の先端が顔を出している口調に頓着も見せずシノンは香り高い紅茶を一口含んでから何でも無い事のように哀れみの眼でこの国の王太子に顔を向ける。

 

「どうやってって?、普通に、魔術でよ」

 

その返答にキリトは片手に自分の額に乗せ、肩を落とした。

 

「悪いがこの国で魔術は全然普通じゃないからな…………まさか、アスナに何かあって呼ばれたのかっ?」

 

途端に表情が一変する。

自分の留守中、出来るだけ頼れる者を多くと望んだキリトは妻の侍女達や部屋の外に配置している護衛の従者の他にも、アスナには身近な人間で対処できない場合はシノンを呼んで構わないと伝えていた。

一瞬で不吉な想像を膨らませたキリトは急いでアスナに振り返るが、それを柔らかい笑顔が否定する。と同時に初めて会った時から変わらない淡々とした声がキリトの耳に無遠慮に侵入してきた。

 

「今日は届け物があったからこの部屋に来ただけ。そうしたら偶然ここでリズと鉢合わせしたの」

 

それは、つまり、アスナの祖国であるユークリネ王国から直接ガヤムマイツェン王城内の王太子妃の寝室に勝手にやって来たという意味なのか?、という驚きと呆れが入り交じった顔でかの王国の筆頭魔術士を見ていると、落ち着きを取り戻したキリトに一ヶ月ほど前の記憶が蘇ってくる。

 

「ちょうどいい、シノン、聞きたいことがあったんだ。先月、オレが隣国から夜中に帰って来た時、アスナの寝室に入ろうとしたらなぜか扉の前で弾かれたんだが……」

 

その意味を薄々感じ取ってはいるが、確認せずにはいられないと言った顔のキリトに向かって、涼しげな表情のままシノンは正解を口にした。

 

「でしょうね。だってアスナが寝室に一人の時は、怪しい人間は入れないようにしてくれ、って頼んできたのはキリトですもの」

 

やっぱりか、とキリトのこめかみが痙攣を始める。

確かに以前、ユークリネ王国の城に施したのと同じよう、夜、自分が妻と一緒にいられない時は安全の為に寝室全体に魔術をかけて欲しいと頼んだが……なぜオレが弾かれるっ、と視線で訴えると稀代の魔術士は当然といった面持ちで言葉を紡いだ。

 

「術が発動するくらいアスナが安全でいられない思いをキリトが抱いていたってことよ」

 

あの時の己の心境について、そういう言い方で表現されるほどには彼女を求めていた自覚はあったので途端に吊り上げていた眉尻を下げたキリは口ごもった後に視線を床に落として「……隣国の往復に十日もかかったんだぞ……」とか「……折角夜中も馬を飛ばして帰ってきたんだ……一刻も早く会いたいだろ……」などと、誰に聞かせるわけでもない胸の内を漏らしている。

小声であるにも関わらず、戸口付近のルルーラにまでしっかりと届いてしまった言葉に、筆頭侍女はこれ見よがしの溜め息をついた。

 

「全く、王太子妃殿下へのご寵愛は喜ばしい事ですが、いかんせん度が過ぎます。こちらに嫁がれてまだ一年も経っておりませんからアスリューシナ様もまだまだ不慣れな環境なのですよ。王太子妃としてのお勤めだけでも大変ですのに、早々にご懐妊とは……ですから散々、王太子妃様のご負担をお考え下さいっ、と殿下には進言してきたのですが、全く聞き入れていただけず、もしかして殿下はお耳がお悪いのかと医師団の手配を考えたくらいですっ」

 

王太子妃の筆頭侍女としては婚姻の儀の翌日からアスナの着替えを手伝う度にキリトからの寵愛の印を毎日見続けてきた身だ、毎夜、彼からの深く熱い想いをその細い身体で受け入れつつ日中は公務に励む姿を目にしているルルーラとしてはとにかくその体調が心配でならなかった。幸いにも、と言うか、当然の結果と言うべきか、王太子妃が色々な意味での激務に倒れる前に懐妊したわけだが……確かにアスナを娶ってから、このルルーラには常々苦言を呈されてきたのでキリトとしては耳が痛い。

それでもここは王太子としての威厳を保たねば、と殊更感情を抑えた声で静かに「ルルーラ」と呼びかける。

 

「オレはこの国の王太子だし、何よりアスリューシナの夫だよな」

 

そのオレに対する忌憚のない物言いはもう少し控えてくれてもいいんじゃないのか?、と続けようとすれば、先んじてルルーラが当然とばかりに頷いた。

 

「承知致しております。ですが、私がアスリューシナ様の筆頭侍女の任を賜った時、殿下はおっしゃいました。何よりも妃殿下の身を優先せよ、と。それはいついかなる場合でも例外はなく、国王夫妻や王太子である自分よりも妃殿下を第一に考えて欲しい、と」

 

アスナには聞かせたくなかった自分の言葉にキリトは気まずそうに頬をかく。案の定、身体を寄せていた王太子妃が、つんつん、と王太子の袖を引っ張った。袖を掴んでいるアスナの手の上に自分の手を重ね、今の話は二人きりの時に、の意味を込めて握ってやれば、気持ちが通じたらしく彼女の手が大人しくなる。

ひとまずアスナへの弁明は後回しにして、キリトは王太子妃の筆頭侍女の説得を試みた。

 

「それは有事の際を示したわけで、普段はそこまでじゃなくても……」

「いいえっ、私はお役目だけで申し上げているのではございません。アスリューシナ様のお側でお仕えするようになって、妃殿下が『ユークリネ王国の掌中の珠』と言われるほど国の民に愛されている意味を身を以て得心したのです。我が国に嫁ぎ、健やかにお過ごしいただかなくてはユークリネ王国国民の皆様にも申し訳が立ちませんっ」

「んな、大げさな……」

 

うっかりと口を突いて出てしまった不用意で軽い物言いにルルーラの眉が更につり上がる。

 

「とにかくですっ、只今アスリューシナ様はご懐妊中であり、ようやく安定期に入ったばかりでございます。ご自分が寂しいからと伏せっている妃殿下に我が儘をおっしゃるのは我慢していただかなくてはっ」

 

大げさでも見間違いでもなく、最後にはルルーラの瞳がキラリーンッと光った……その光線が真っ直ぐに両目に刺さったキリトが眩しさのあまり下を向いて「アスナの侍女達を選定する時、かなり広く深く親類縁者を調べたはずだけど、もしかしてサタラの親戚筋なのか?」とボソボソと呟いていると、自分の服の袖をつかんでいたはずのアスナの手がぱたり、と離れた。

キリトが慌てて振り返ると、ぽふんっ、と大量のクッションに身を沈めたアスナが肺の中の空気を全て吐き出すようにゆっくりと深く呼吸をしている。

 

「ごめんね、横になってもいい?」

 

キリトの支えがなくては身を起こしているのも辛かったのだろう、気づかず無理をさせていたのかとキリトの顔が苦しげに歪むと、今度はシーツの上にある彼の手に自分のそれを重ねてアスナは微苦笑を浮かべた。

その隙にパッとシノンが立ち上がり、ローブの中から小さな紙の袋を取りだしてアスナの枕元にやってくる。

 

「アスナ、これ、あまり食べられない時、飲んで。滋養の薬だから母体にも胎児にも悪い影響、ないから」

「うん、有り難う、シノのん」

「それと、今日持って来たパジャマ、ルルーラさんに預けておいた。お腹がゆったりしてるやつ。それと、今、王都の皆は産着縫ってる」

 

アスナの代わりにシノンから紙袋を受け取ったキリトは、飛び出てきたシノンの言葉に大きく口を開けた。

 

「なっ、なっ、なんで、うちの国民にも公表してないアスナの妊娠をユークリネの国民が知ってるんだっ」

「こっちにしてみれば、なんで公表してないの?、って感じなんだけど」

 

じとっ、とキリトを見つめるリズは続けて呆れ声をシノンに移す。

 

「あとシノン、ナイトドレスだからっ、パジャマって言わないっ」

 

リズからの勢いのある忠告もシノンはそよ風のごとくかわして「パジャマって言われたもの」と責任を転嫁させていた。

相変わらずの二人のやりとりを微笑ましく見ていたアスナがもう一度「有り難う」とシノンに告げ、「ユークリネの皆にも御礼、伝えてね」と頼めばほんの僅か口元を綻ばせたシノンが無言で頷く。

アスナだけに対するシノンの変わらずの態度を、やれやれと言った風でありながらも嬉しそうに見てからリズはこの国の王太子に少し怒ったように唇を尖らせた。

 

「アスナの妊娠をガヤムマイツェンの国民が知らないのはなんでなの?」

「ったく、こっちは必死で隠してるっていうのに……どこから漏れた……誰に聞いたんだ?、リズ」

 

急に真剣な顔つきとなったキリトの気迫に押され、不機嫌な表情を崩したリズは眉間に皺を寄せ、目を閉じてしばらくウンウンと唸ると、ゆっくりと口を開く。

 

「……確か……情報の出所は……シリカあたりだったかなぁ……」

「シリカ?!……シリカって、あの竜使いでアスナの侍女だった?」

「そう……アスナの妊娠話が王都で広まったのはもう三ヶ月以上前で……」

「ちょ、ちょっと待て、そんなに早く? オレが知るより早いんじゃ……」

「そうなの?……でも多分、時期はそのくらいのはずよ」

 

そこまで黙って話を聞いていたアスナが「あっ」と小さく声を上げた。

 

「アスナ?」

 

更に具合が悪くなったのかと、キリトが急いで顔を近づけると、困ったように笑うアスナが「もしかしたら」と戸惑いがちに自分の推測を口にする。

 

「数ヶ月程前、最後にランベントライトに会った時、しきりと私の身体の匂いを嗅ぐように鼻を寄せてきたから、どうしたのかな?って思ってたんだけど……」

 

そこでシノンとリズが納得したように同時に頷いた。

 

「龍は聡いから。アスナが気づく前に、新たな命が宿ってる事、気づいたかも」

「なるほどね、それでシリカの家からその情報が発信されたんだわ」

 

アスナがガヤムマイツェン王国に嫁いできてもこっそりと新月の闇に紛れてユークリネ王国からアスナを尋ねてきた光龍について、最初は驚きと緊張で全身を強張らせて対面したキリトだったが、アスナを慕う純粋な瞳と嬉しそうに彼女にすり寄る姿に警戒を解き、ガヤムマイツェンの城を訪れるのは闇夜の晩だけと約束させて密会を許可したのだ。

しかし、その密会がユークリネ王国に懐妊を知らしめる発端だったとは……とキリトが項垂れると、リズが片手をパタパタと振って「あー……、まあ、大丈夫よ」と慰めの言葉をかける。

 

「多分、その辺の経緯は国王様も当たりを付けてたみたで、すぐに他国の者に対する箝口令をしいたから」

 

そのあたり、ユークリネ王国のみんなは口が固いのだと言うリズの言葉に、未だ龍や魔術士の存在に気づかれず安穏とした生活を続けているかの国を思えば信用せざるを得ない。

しかし「その代わり、国内では皆、うっきうきではしゃいでるけどね」と内情を知らされると、数ヶ月後に誕生するだろう我が子には一体何枚の産着が届けられるのか、と有り難い反面、自然と片頬がひくつく。そんなキリトの表情から心の内を読み取ったのか、リズは心得たように片目を瞑った。

 

「それにアスナの懐妊が発表されれば、きっとガヤムマイツェン国内はもちろん国外からもお祝いは山のように届くでしょ?、出産すればしたで同様だろうし、きっと祖国であるユークリネ王国の上質な生地で出来た商品を買い求めてくれる高貴なお客さんが大勢いると思って、今、作ってるのは贈答用の産着よ。王都のおばちゃん達は『どうせすぐに着れなくなるんだから』って、月齢に合わせた服も作り始めてるから、多分、出産祝いはそっちをシノンが届けるわ」

 

リズの商魂たくましい話を聞いて、キリトゥルムラインは目眩を覚える。ユークリネ王国の布製品の販売を取り仕切っているリズはガヤムマイツェン王国の王太子妃の懐妊・出産に際して国内外から贈られる祝いの品の注文に対応するため産着等の生産を進めているらしい。どういう経緯にしろ、アスリューシナの手元に届くのならユークリネの国民達は気合いを入れて縫うだろう。

「お祝いも出来るし、国民の収入にもなるし、一石二鳥ね」と胸を張る妻の親友に、かける言葉もみつからないキリトは、こっそりとアスナを振り返った。

幼い頃から友として傍にいてくれた彼女の本質は熟知しているのか、アスナもキリトの物言いたげな視線を微笑で受け止めるだけだ。そこに、少しじれったそうな声でリズがキリトに問いかける。

 

「だから、こっちも色々と都合があるの。いつになったら公表するのよ、キリト」

「アスナの体調がもう少し落ち着くまではダメだ。オレとしては可能な限り引き伸ばしたいと思ってる」

 

キリトの笑顔を消した返答にベッドに身を任せているアスナが眉尻を落とした。

 

「そうもいかないよ。ここ一ヶ月、体調を崩してますって寝室から出ずにいるけど、そろそろ限界でしょ?、皆さん、心配して下さってるみたいだし」

「アスナは自分の身体の事だけ考えてればいいから」

「キリトくんはいつもそう言ってくれるけど、私だって外の空気、吸いたいし、身体も適度に動かさないと……」

 

言葉を遮るようにベッドの上の彼女の手を両手で包み込むと、それに答えるように軽く頭を左右に振ってからアスナがふわり、と微笑んだ。

 

「大丈夫だよ、キリトくん。お部屋から出る時はちゃんと皆に付いて来てもらうから」

 

すっ、と視線をキリトの後ろに移せば、部屋の隅に控えているルルーラがアスナの信頼を受けるとように深々と頭を下げる。アスナを第一と心得ている筆頭侍女の頼もしささえ漂う姿に、振り返ったキリトもゆっくりと頷くと再び妻に視線を合わせた。

 

「まあ、オレも今回の視察を最後に関係各所には長期で城を空ける政務は入れないよう、あいつに交渉させたけど」

「なら心配ないでしょ?」

「うーん……」

 

事情も分からず煮え切らない態度にリズが痺れを切らす。

 

「さっきからキリトは何を心配してるわけ?」

 

その言葉にテーブルの面々を見れば、三人共一様に意味がわからない、といった表情で眉間に皺を寄せていた。リズやシノンは仕方ないとして、我が国の王女であるリーファもなのか!?、とキリトが瞠目していると、その反応に気づいたアスナがクスリ、と笑って「リーファちゃんは大事にされてるからね」と微笑む。

軽く溜め息をついた王太子が「それにしても、だ」と自分の妹姫の脳天気な疑問顔を沈痛な面持ちで見返してから事の説明を始めた。

 

「ユークリネ王国には貴族が存在しないからわかりにくいだろうけど、王族の一夫多妻制を施行している国だと王、ないし王子は外政の面から他国の王女を娶り、内政の面から自国の貴族の令嬢を娶る事が通例で……けど、オレは王太子になる授位式で妃はアスナ一人だと宣誓しているから、そんな事情もあってアスナをこの国に迎え入れる時は貴族達の反発も結構あったんだ。でも国の行く末を憂いての者達はアスナ本人を知って好意的な意見に替わったからいいんだけど……ほんのごく少数、自分の血族を王族に入れたがっている一部の貴族達が未だ存在しててさ、時間をかけて大掛かりな事を企むより短期決戦を狙って直接的な行動を起こさないとも限らない。今はこっちも色々と情報を集めている時だから、ここでアスナの懐妊が知られると思い切った暴挙につながるかもしれないだろ」

「それって……つまり……」

 

聞きたくない続きを予期したようにリズがひくり、と片方の口を歪めると、アスナがさらり、と答えを披露する。

 

「次の王位継承者候補がこの世に誕生する前に私と一緒に排除して、たった一人と決めているキリトくんの隣に新しいお妃さまを迎えさせようってことだよね」

「ったく、オレは妃を一人と決めてるわけじゃなくて、妃はアスナ一人だと決めてるって事がわかっていないバカ共だな」

 

うんざりと澱んだ瞳に向け、同じ漆黒の瞳を持つ姫が「貴族、こわっ」と素直な感想を漏らすと、その言葉に脱力した兄が妹に現実を突きつけた。

 

「お前も国内の貴族に降嫁するつもりなんだろ。だったらもう少し貴族社会でうまく渉っていけるよう知識を蓄えないとダメだぞ。それとも親父の判断でどこかの国に嫁ぐか?」

 

なぜか自分の嫁ぎ先問題に飛び火したリーファはあたふたとしながらも最後は小声で「えっと……降嫁の方向で……」と願いを零す。その義妹の朱に染まった頬を見ながらアスナは口元を綻ばせ、義妹の胸の内を代弁してから爆弾を投下した。

 

「ふふっ、リーファちゃんにはもう心に決めたお相手がいらっしゃるものね。でもね、キリトくん、だったら逆にわざとその問題の貴族さん達に私を襲ってもらえば手っ取り早いんじゃないかな?」

 

その発案にキリトはこれでもか、という程鋭い視線でアスナを睨み付ける。

 

「絶対、却下だ」

「またアンタはバカな事を……」

「アスナ、時々おばかさん」

「アスリューシナ義姉様、兄様の胃に穴が空くからやめて下さい」

 

ルルーラからもギリギリと痛いほどの視線を受け、アスナはベッドの中で身を縮ませた。その場にいる全員から強烈な制止の言葉と視線をもらい居心地の悪さで身体がギュッと圧縮されたような気持ちになった時だ、寝室の扉をノックする音が突き刺さるような空気を割り響いた。すぐさま近くにいたルルーラが扉を開け、外側に居た侍女が差し出したトレイを受け取る。トレイの上の小皿の中身に見当がついていたのかキリトが「こっちに持って来てくれ」と言えば、ルルーラが落ち着き払った動作で運んで来た。小皿の中身が気になる三人がテーブルから離れてアスナの傍までやって来る。

いち早く正体に気づいたリズが「あらっ」と驚きの中にも楽しそうな声を上げた。

その声を聞いて「リズも覚えてたか」と呟くキリトも嬉しそうで、目線の位置が低いアスナだけが未だ小皿の中身が見えずにいる。

添えられていたフォークで目当ての物を刺すとキリトは「城に帰ってくる途中で取ってきたんだ」と説明しながら、アスナの目の前にその正体を近づけた。

 

「イ……チゴ?…………キリトくん、これ…………イチゴ!」

 

目が寄りそうなほど近くにある真っ赤な果実とキリトを交互に見ながら、興奮したアスナが頬を紅潮させて幼い頃に離宮で食べた以来の思い出深い果物の名を口にする。その笑顔を満足げに見つめるキリトはアスナの口元までヘタの取ってあるイチゴを持って行くと、ツンツンと懐かしい仕草で妻の唇をつついた。

照れも戸惑いも忘れてぱくり、とアスナの口がイチゴを迎え入れる。

ゆっくりと味わうように咀嚼していくうちに頬が緩み、こくんっ、と飲み込めば目が弧を描いて「甘くて美味しい」と言葉が口をついて出てきた。

 

「有り難うっ、キリトくん。わざわざ取ってきてくれたの?」

「まあ、帰路の途中になっている場所があったからさ、アスナ、これなら食べられるかと思って」

 

そこへ王太子の後ろに控えていたルルーラが安心したように「よろしゅうございました」と笑顔になる。

 

「今日は朝からなにもお召し上がりになれず、心配しておりましたので……」

 

その言葉にリーファだけが「なにもっ!?」と驚声をあげるが、シノンは片方の眉をピクツ、と動かすだけ。リズとキリトにいたっては、またか、と遠い目をした。

 

「ほら、アスナ。もう一つ、食べられるか?」

「うんっ」

 

新たにフォークに刺さったイチゴを頬張って嬉しそうにもぐもぐと口を動かしているアスナをこの部屋にいる全員が暖かい眼差しで見守っている。中でも彼女の隣を当然の如く自分の居場所と決め、世話を焼くキリトの笑顔は穏やかで底なしに柔らかかった。

 

 

 

 

 

アスナの私室でのお茶会がお開きとなり、リーファは自分の私室へ、リズベットは最後の最後までシノンに「魔術で城下の宿屋まで送ってよ」と頼んでいたが正式な手続きをふんで入城した為、きちんと退城も記録せねばならず、泣く泣くそのまま親友の部屋を後にする。シノンは「また来るわ」と一言告げると一瞬で姿を消し、キリトとアスナの苦笑を誘った。

その後、軽く汗と汚れを落としたキリトがアスナに請われて彼女の私室で今回の視察の成果を語りながら晩餐を取り終えると、徐に立ち上がり、横になっている妻の枕元へと移動する。

腰を屈め、栗色の髪を整えるように撫でながら問いかけた。

 

「アスナは食事、いいのか?」

「うん、さっきイチゴ食べたから。あれで十分」

「食べたって言っても三個だろ。そんなに食欲がなくて身体が大丈夫なのか心配になるけど……」

「いつものことなのですよ、殿下」

 

食器の片付けを他の侍女に任せたルルーラが少し困ったような笑みを浮かべ二人の会話に割って入る。何を言わんとしているのかを悟ったアスナが素早く「ルルーラっ」と発言を留まらせようとするが、それよりも先にキリトが「いつも?」と筆頭侍女の言葉を繰り返した。

 

「はい、今回に限った事ではなく、妃殿下は殿下が城を空けられますと一週間を過ぎたあたりから食欲がぱたり、と落ちてしまわれるのです。まあ空元気が一週間しか持たない、とも言えますが……。なので原因は悪阻だけではございませんから、殿下がお戻りになられたので明日からはまた少しずつお召し上がりいただけるでしょう」

 

にわかには信じられず、アスナに確かめようと振り返ると当の王太子妃は両手でシーツを引っ張り上げ、目元までを覆い隠している。僅かに覗く目元から額まではほんのりと赤みを帯び、瞳には羞恥の涙が溜まっていた。

言葉で問わずともルルーラの話が事実であると確信してしまったキリトは堪らずに、クッと笑いを漏らすと一層アスナに顔を近づけて涙を唇で吸い取ってから「アスナ」と優しく声をかける。

 

「気分はどうだ?、吐き気は?」

「……大丈夫。最近、吐き気はおさまってきたから。お風呂に入ると気分もスッキリするし……」

「なら、風呂から上がったらこっちの寝室に来て。今夜は一緒に寝てくれるだろ?」

 

キリトが王太子としての政務で城を留守にしている時はもちろんだが、城内にいても激務でなかなか寝室に戻れない夜は広い夫婦の寝室を使うより落ち着くだろう、とアスナの私室には居間の隣に彼女用の寝室が用意されていた。今日まではいつ戻ると知れないキリトを待つ間、私室の寝室を使っていたのだが……さすがに数刻前に城に戻ったばかりのキリトは疲れているだろう、と、アスナは隠していた顔をそうっ、と出す。

 

「でも……キリトくん、疲れてるでしょ?、一人でゆっくり休んだ方が……」

「アスナと一緒の方が安心して休めるんだよ」

 

こめかみから耳元にかけてゆっくりと髪を梳かれ、漆黒の瞳に覗き込まれて「この半月、一緒にいられなくてずっと心配ばかりしてたし、あのベッドに一人なんて逆に落ち着かない」と言われれば、嬉しさに目を細めて頷くしかない。「待ってるから」と念を押されて寝室から出て行ったキリトを見送ったアスナは少しふらつく身体を起こして湯浴みをしようと、立ち上がる為に筆頭侍女の名を呼んだ。

 

 

 

 

侍女達から丁寧に身体を磨いてもらい、少し温めの湯船にゆったりと浸かった後、シノンが持って来てくれた真新しいナイトドレスに身を包んで夫婦の寝室へと続く扉を開ければ、既にキリトはベッドに腰掛けてなにやら書類に目を通していた。扉の開く音が耳に届くやいなや立ち上がり、待ちかねたように口元を緩ます。

アスナの元へと駆け寄る途中で手にしていた数枚の用紙を無造作にテーブルに放り投げ、空いた両手で妻を抱きしめた。

 

「いいよ、寄りかかって。食が細くなって立っているだけでも危なっかしいとルルーラから聞いた。貧血で突然目眩も起こすからいつもルルーラに手を添えてもらって歩いてるって?」

「うん、でもさっきシノのんが持って来てくれたお薬飲んだし、お風呂も入ったから気分はいいの。ただちょっと身体に力が入らないかなって感じで……」

「そんなんでよく囮になるなんて言い出したな」

「私がもっと王太子妃としてちゃんと貴族の皆さんに認めてもらえていれば起こらない問題だったかも、と思うと……」

 

胸元から聞こえてくる妻の言葉にキリトの顔が険しくなる。

 

「それは違う」

 

ハッキリと言い切ってからキリトは更に華奢になったアスナの身体を抱きしめた。

 

「オレの元に嫁いできて一年も経ってないのに親父達やリーファを始め城中の皆がアスナを心から受け入れてる。国民はもちろん、貴族連中からだってその大半の支持を得てるんだぞ。こんな短期間にここまでを成し遂げるなんてアスナにしか出来ない事だよ。反発している一部のバカ共はアスナだから認めていないんじゃない。結局自分達の利になる妃しか認めようとしない輩なんだ」

 

身を屈めて目線を合わせ「だからアスナが気にする必要なんて全くないからな」と全身で伝えてから「だいたい婚儀をかわして一年もしないうちに懐妊なんて、こんな出来た妃はいないだろ」と目を細めれば、ぽわりっ、とアスナの顔が茹で上がる。そんな姿も愛おしくてたまらないと、もう一度腕の中に閉じ込めて湿り気の残る栗色の髪に顔を埋めれば、風呂上がりも手伝って彼女の香りがより一層濃くキリトの鼻を刺激した。

 

「あー……、ふわふわで柔らかくて、それから……アスナの匂いだな」

 

くんくんと鼻を押し付けてくる感触が擽ったいのか、「ひゃっ」と言いながら身をよじる妻を素早く抱き上げてベッドまで移動し、慎重に身重の身体を背中からベッドに着地させる。

 

「顔色は悪くないけど、横になっていた方が楽だろ」

 

そう言ってアスナに先に寝るよう促してから傍を離れようとすると、夜着の裾が何かに引っかかったのか僅かな抵抗を感じて振り返れば、あからさまにしょんぼりとした瞳の妻の手が自分を引き留めていた。

 

「お仕事、あると思うけど……今日くらいは早く寝て、身体を休めた方が……」

 

あくまでキリトの身体を気遣っての言葉であって、決して自分が寂しいわけではないのだ、と言いたいのだろうが、微かに突き出た唇にハの字の眉、そして何より瞳がキリトを強く求め焦がれていて、その色を認めた途端、知らずにこくり、とキリトの喉がなる。

当初の予定では帰城するのは数日先のはずで、ならば今夜くらい初めての懐妊で心細く過ごしていただろう妻の願いを聞き入れてもいいのではないか、と王太子としての責務にしばし休息を与える判断をしたキリトは裾を握りしめている細い指をゆっくりとはずした。

 

「灯りを消してくる。その代わりアスナが誘ったんだからな、しっかり責任とれよ」

 

からかうように言うと「ふぇっ!?」と驚きの表情に転じた顔が見る見るうちにバラ色に染まる。くるりっ、とキリトに背を向け、頬を両手で挟んで唸っているアスナを置いて、キリトは最低限の光量を残して室内の灯りを消していった。

ベッドの上で未だ背中を向けたままのアスナの隣に潜り込み、そうっ、と両手を妻の腰に回して抱え込む。別段、嫌がりも身体を強張らせることもないと確認してから、軽く引き寄せて更に身体を密着させ、キリトはちょうどアスナの肩口にふぅっ、と息を吐いた。

 

「オレが城を空けていた間、何も起こらなくてよかった」

 

腰に回された手にアスナの手が触れる。

 

「うん、皆が守ってくれてたから。それに、私にはお守りがあるし……」

「お守り?」

 

自分の手に触れていたアスナの手が離れ、胸元をごそごそといじっていたかと思うと、少し体勢をこちらに向けた彼女が「これ」と言って見せてくれたのはナイトドレスの襟ぐりから取り出したネックレスチェーンだった。薄明かりの中、目を凝らせば彼女の指がチェーンの先にあるひとつの指輪をつまんでいる。そしてその指輪には闇よりも深い黒い石が輝いていた。

 

「ブラックスター?」

「そう、キリトくんがくれた石。キリトくんと離れていた二年間、ずっと一緒だったから私にとってはお守りなの」

 

それから「嫁いで来る時、指輪にしたんだけど、最近、ちょっとサイズが合わなくなっちゃったから……」と、か細い声が聞こえて……多分、指も細くなってしまったから装着していても抜け落ちてしまうのだろう、それほどに体調を崩しながらもお腹の中の我が子を守り、周囲に明るく振る舞うアスナの折れてしまいそうな程細い身体をキリトは背後からきゅっ、と抱きしめた。

 

「オレが……オレが絶対に守るよ」

「うん、私も、キリトくんの事、守るね」

「んー……それはちょっと休憩だな」

「どうして?」

 

振り返ろうとするアスナの背中を、肩を、強く自分の身体に押し付けて、耳元まで唇を寄せて睦言のように囁く。

 

「今はオレ達の子を守ってもらってるから。オレはこうして子を宿してるアスナごと守るからさ……だから囮なんて考えないで、しばらくは大人しく守られていてほしいんだ……」

 

全てを言い終わるかどうかというタイミングで、はむっ、とアスナの耳に甘噛みをすると色香を含んだ声が「ひゃんっ」と響いた。

 

「やっぱり大人しくさせるなら、ここが一番反応がいいよな」

 

はむはむ、と何度も唇で悪戯をしかけては時折、舌でぺろり、と舐めればアスナの全身がぷるぷると震え始める。「ふえぇっ」と半泣きの状態で見上げてくるはしばみ色の瞳は羞恥と戸惑いだけに見えるが、その奥は熱を帯びていて、それがキリトの双眸を煽った。

 

「具合が悪くなりそうだったら言って、すぐにやめるから」

 

既に荒くなりつつある呼吸のアスナがこくり、と首を縦にふる。その仕草でさらり、と髪が流れ、露わになった細い首にキリトが吸い付いた。「んんっ」と耐えるような鼻声に「アスナ?」と問うが拒絶の言葉はなく、腰に回していた手が徐々にナイトドレスの内側へと侵入する。

 

「無理はさせない。ゆっくりアスナに触れたいんだ」

 

言葉通り、労りさえ感じさせる触れ方で少しずつ少しずつ官能を引き出され、その度に耳元で「ここは?」と問われ続ければ、ついに意識下では何の反応も返せないほど感覚は溶けきって、ドキドキと脈打つ鼓動が自分の物なのか背中に重なっている彼からの物なのかも判別できない。小さな水飛沫ひとつ上げないよう静かに、それでいてゆらりゆらりと翻弄されながらキリトの想いに包まれ、彼の奥底に段々と沈んでいく心地よさに身を委ねてアスナは最後にふわり、と微笑んだ。

翌朝、体調は崩さなかったものの体力を使い果たした王太子妃の久々に安心しきった寝顔を堪能した後、居間で待ち構えていたルルーラにキリトがお小言をもらうはめになったのは当然の結果だろう。




お読みいただき、有り難うございました。
この場をお借りして少し「ウラ話」をしますと、この【番外編】の内容は既に本編連載中に
構想済みだったのですが、予告よりも長くなった本編に続いて更に【番外編】を投稿するのは
どうか?、と思いまして、一回はお蔵入りになったお話です。
それがこうして日の目を見る事となりました……嬉しい限りでございます。
【番外編】オリキャラのガヤムマイツェン王城でのアスナの筆頭侍女ルルーラさんですが
二人が暮らす場所……と言う事でご本家(原作)様のアインクラッド二十二層の主街区名
「コラル」からもじらせていただきました。
さて、本編連載終了から約七ヶ月経ちました……久々の『王子と姫と白い仔猫』いかがでしたで
しょうか?
また、いつか、ひょっこり投稿した時は、是非お立ち寄りください。


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