ターニャとレルゲンがらぶらぶちゅっちゅする話 (佐藤9999)
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ターニャとレルゲンの爽やかな朝

朝のらぶらぶちゅっちゅ


ターレル(ターニャ×レルゲン)の気運の高りに堪えきれず書きました。
あなたもターレル沼にはまってみましょう。皆ではまれば怖くない。




 エーリッヒ・フォン・レルゲン中佐はエリートである。

 彼は、若くして少佐、中佐と昇進し、いずれは将官へと成り上がることが約束されている男である。それは彼の才能と努力と実績に裏打ちされた正当なる評価だ。

 泥と血と汚物に塗れながら浅い眠りに落ちた所を敵弾の音によって強制的に目覚めさせられる生活を送っている前線の将兵達とは違い、エリートたるレルゲンの朝は実に優雅なものだ。

 

 

 朝、レルゲンはいつも決まった時間に起床する。

 元々彼は己を律することに長けた人間だ。初めて軍人を志した時より1度たりとも寝坊などという失態を犯したことはない。

 最近、同居人の小さな手に揺り動かされて目覚めるようになってからは分単位でのズレすら無くなった。

 

 起床の後、手早く洗顔と更衣を終えて朝食をとる。

 どこで得た知識なのか、レルゲンの同居人はいささか独創的な料理を作ってくれることがあるが、どれもうまい。贅沢に食材を使うわけでは無いが、暖かく、ちゃんと味があり、風味がある。

 芋を適当に煮転がしたりソーセージを焼いたりしただけではない、昨今の情勢ではおいそれとは望むべくもない上等な家庭料理である。

 食事には漏れなくコーヒーがついてくる。これもやはりうまい。レルゲンの同居人はコーヒーに対してなかなかの情熱を持っているらしく、豆や淹れ方に拘りがあるのだ。

 丁寧に淹れられた代用品でない本物のコーヒーは、なるほど「嗜好品」と呼ぶに値するだけの味わいがある。

 

 食器が洗われる音を聞きながら、香り高いコーヒーを嗜む。そうして一通り新聞に目を通し終えるころには家を出る頃合いになる。

 参謀本部付きの高級将校に与えられる送迎が訪れ、玄関の呼び鈴が鳴らされる。

 軍服に袖を通し、玄関で靴を履くと、同居人が食器の片付けを中断して見送りに来てくれる。

 少し濡れたエプロンを身につけた同居人は、レルゲンに微笑みかける。

 

「いってらっしゃい。エーリッヒさん」

「ああ、行ってくるよ。ターニャ」

 

 屈んで頬を差し出すと、柔らかい感触がそっと触れる。

 

 以上のルーチンをもってレルゲンの一日は始まる。

 

 

 

 

 家の前にはワーゲンが待機しており、レルゲンが乗り込むとすぐに走り出す。

 乗り心地はお世辞にも良いとはいい難い。しかし、徒歩や自転車に比べれば時間が節約出来るし、遥かに格好がつく。まあ、格好がつくとはいえ、一々乗車のたびに優越感を感じたりはしないくらいには慣れてしまったものだが。

 

 職場へと続く見慣れた景色が窓の外を流れるのを眺めながら、無意識にレルゲンは己の頬を指でおさえた。小さな同居人の唇が触れた場所だ。

 

 レルゲンは呟いた。

 

 

「どうしてこうなったんだ…」

 

 

 小さな同居人が彼の家に来てからもう暫くの時間が経つが、未だに折に触れて思う。

 いや、一日に何度も思う。

 

 なぜ、かつて化物とまで呼んだターニャ・フォン・デグレチャフが自分の家に居て、まるで新妻かなにかのように振る舞っているのだ…

 

 

 ターニャ・フォン・デグレチャフ少佐は、エーリッヒ・フォン・レルゲン中佐と同居しており、互いに名前を呼び合う仲である。あまつさえ、ターニャはレルゲンの頬に毎朝口づけをしている程である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「さて…」

 

 同居人を見送ったターニャは、レルゲンの頬に口づけした唇を右腕でごしごしと拭う。

 初めてレルゲンに「行ってらっしゃいのキス」をした時にはかなりの決心を要したが、今となっては慣れたものだ。

 ターニャは玄関の鍵を閉めると、台所に戻って食器を片付ける作業を再開した。

 

 ターニャは自分がおおらかな人間であるとはちっとも思わない。そして、レルゲンは見るからに神経質な部類の人間である。暮らし始めたばかりの頃、やはり二人は互いにすぐには馴染めなかった。特にレルゲンは二人の共同生活に強い違和感を感じていたらしく、二人の間で交わされるコミュニケーションは随分とぎくしゃくしていた。

 リビングでも玄関でも軍人のような会話が繰り広げられたし、名字と階級で互いを呼ぼうとしたり、果てはつい敬礼までしてしまったりする始末だった。

 

 正直なところ、当初ターニャとしてはその程度の事態は想定の範囲内だったので、特にその状況に不満を抱いていなかった。そもそもターニャは山ほどの事情を抱えており、家に転がり込んだだけでもレルゲンには十分な迷惑をかけている。そう思って、敢えてそれ以上迷惑をかけないように距離を置くように接していたのだ。

 しかしある日、ふと気づいた。

 レルゲンの生活をターニャの存在が乱しているのだと考えると話は変わってくるのではないだろうか。

 レルゲンには居候をさせて貰っている上に、他にも様々な世話を焼いてもらっている。何より、この生活はターニャが望んでレルゲンに乞うた結果実現したと言っても過言ではない。

 この上さらに彼の生活を乱し続けるなどということが許されると思う者は集団生活に向いていないとターニャは考える。少なくとも塹壕では生き残れない。

 つまり、二人の関係は改善されなければならない。そして、それはターニャが主体となって取り組むべき課題だったのだ。

 課せられた課題を見逃し続けた己の怠慢に気づき、ターニャは青ざめる思いだった。

 

 課題を解決するにあたって、ターニャは日課となっている礼拝(呪詛)の際に教会のシスターにアドバイスを求めてみた。餅は餅屋。人生の悩みといえばシスターと相場が決まっている。

 親ほども年の離れた同居人とうまくいっていないという特殊な状況を分かりやすくするために、ターニャは仮に「養父」という言葉を使って説明した。

 

 ターニャの説明を聞いたシスターは「ターニャが他人行儀に接しているのではないか。だとしたらそれが問題だろう」と端的に指摘した。

 ターニャとしては図星を突かれた思いだった。

 確かに上官だった延長のように接していたことは否定できない。レルゲンはターニャにとっては大恩人であり、節度を欠いた接し方をするのには強い忌避感がある。ターニャが節度を守った調子で接する。すると、レルゲンもそのように対応する。ターニャはそれで二人の関係がうまくいっていると思っていた。

 しかし、シスターはそれが間違っているのだと言う。

 節度を守り続けるということは、別の言い方をすれば他人行儀であるということだ。レルゲンがもしターニャが他人行儀に接してくるのに違和感を覚えていたのならば? シスターの説明は理にかなっていた。

 そうなのだとしたら、ターニャの個人的な感想など二の次にして早急に状況を変えなければならない。ターニャは課題の根本的な部分を理解するに至ったと確信した。

 

 しかし、気を使って接することが許されないことなのだとしたら、人でなしを自認しているターニャにはもうどうしていいのか皆目見当もつかない。

 頭を悩ませるターニャに、シスターは解決策も提示してくれた。

 曰く「家族のするように甘えてみろ」とのことだった。その一例として挙げられたのが「行ってらっしゃいのキス」だったのだ。

 ちなみに他にもいくつかの例が挙げられ、ターニャはそれらも実践できる範囲で実践してみたが、決定的と言えるほどの効果は得られなかった。

 

 最後に残された選択肢を前に、ターニャは悩んだ。

 ただでさえ「行ってらっしゃいのキス」などというのは一大決心を要する作業だというのに、それが的外れだったとしたら、もうターニャはレルゲンの持つピストルを奪って自分の頭を撃ち抜くしかない。

 

 ターニャは悩みに悩んで、本当に悩んだ。

 不審に思ったレルゲンが何事かと尋ねてくるくらいにターニャは悩んだ。

 

 そして悩んだ挙句、ターニャは結局実行した。

 

 

 ある朝、ターニャは家を出ようとするレルゲンを引き止め、屈むように指示した。

 そして訝しげなレルゲンの顔を右手で掴み、その頬に自分の唇を押し付けた。

 その時に多少の問答はあったものの、その出来事から確かにレルゲンの態度が目に見えて軟化した。

 

 それ以来、毎朝ターニャはレルゲンの頬に口づけをしている。

 多少怪しいと思っても人の助言は真面目に聞くものだとターニャはしみじみと思った。

 

 レルゲン中佐が精悍で清潔な男だったという事実はターニャにとって幸いだった。

 ターニャは不衛生な孤児院で育ち、そして汗と尿とたまに吐瀉物の臭いの立ち込める塹壕生活を何度も経験している。

 レルゲンに恩を返すために必要な手続きだと思えば、彼の頬に唇をつける程度のことならばターニャにとっては許容範囲内だった。

 ついでに言えば、レルゲンはロリコンやペドフィリアでもなかった。これも大事な要件である。

 ターニャはレルゲンを信頼している。彼が非常にまともな理性と感性を持った良い大人であると信じている。もしかしたらレルゲンはターニャがこの世界で最も信頼している相手とも言えるかもしれない。だからこそ彼の頬に口づけなどということができるのである。

 そうでなければ彼の家に転がり込んで暮らすなどという発想自体浮かぶはずもない。

 

 

 

「ふう…」

 

 食器をすっかり片付け終えた後、ターニャは一息ついて、ひとりごちた。

 

「しかし、慣れるものだな」

 

 ターニャは布巾で水気を拭った右手を使ってエプロンを外すと、リビングを通るついでに自分の椅子の背もたれにぞんざいに被せた。自身が発した言葉の通り、慣れた手つきだった。

 初めて作業に従事したときよりも、ずっと手際よく済ませることができるようになっている。

 

 悪くない。そう思いながら部屋を出ようとする…が、机に左肘がぶつかり、ガンと大きな音をたてた。慣れたと言ったそばから。

 左肘はジンジンとした痛みを発し、肘以外の余計な部分まで猛烈に痛くなってきたような気がした。

 

「………」

 

 些細なことで上がった気分は、些細なことで急降下する。

 むすっとした表情で鼻を鳴らし、ターニャはレルゲンが読み残していった新聞を引っ掴むと書斎へ向かった。

 

 

 書斎はレルゲンの性格が現れたようにきっちりと整頓されており、中々雰囲気がある。この場所はターニャのお気に入りだった。

 

 書斎の主の椅子は幼女の身には大きい。クッションを放り込んでからターニャは腰掛けた。

 そのまま新聞を読もうとするが、ふいに左目のあたりに不快感を覚えたため、左目を覆っている布を外して右手で左目のあたりを拭った。ずっと覆われたままになっていたせいで多少汗ばんでいる気がした。

 この作業は一日の中で数回繰り返されるが、そのたびにターニャは自分の行動が中断されたように思えて口惜しい気分になる。

 

 実に忌々しい。ただでさえ視力がほとんど無いのだから、不潔にして眼病にまでなっては堪らない。そう思ってつとめて常に清潔に保つようにはしているが、それにも限度がある。

 そうでなくてもたまに呻き声を我慢できない程の痛みを発することがあるのだ。この左目はターニャにとってこの上なく不愉快な存在だ。

 とはいえイライラしていても始まらない。深呼吸して一息ついた後、ターニャは布を付け直した。

 

 気を取り直し、ターニャは机に置いた新聞を左肘でおさえながら開いた。

 一度開かれた新聞は閉じなおしてもおさまりが悪いものだが、几帳面なレルゲンは後で読むターニャの事を考えてくれているのか、きちんと折り目を合わせた状態で読み終えてくれる。実に有り難い。このような些細な気遣いが共同生活を送る上で大切になるのだ。ターニャは少し気分が回復するのを感じた。

 

 新聞を眺める限り、相変わらず帝国の戦況は芳しくないらしかった。

 半ば退役に近い形で軍を離れ、直接的に戦争に関われる立場ではなくなったターニャにとって、帝国の戦況は常に憂鬱の種である。ターニャの考えるままに事が進めば、帝国は勝ち目のない戦いへと挑んだ挙句、無残な敗北を喫することになるだろう。

 ターニャには数年間のお勤めで稼いだ金があり、これからも銀翼突撃章に付随する年金や傷痍恩給が収入として手に入る予定なわけだが、これらは帝国が戦争に敗北すれば紙クズに変わってしまう。

 特に傷痍恩給など、第二次世界大戦後の日本では大いに配給が滞って社会問題になっていた。当たり前だ。社会的弱者に心配りをしてやれる余裕など敗戦国にあるわけがない。帝国でも同じ事が起こるということは想像に難くない。

 

 ターニャは右手で頬杖をついてため息を漏らしながら、肘から先の服の布地がだらりと垂れ下がった己の左腕を眺める。

 ため息混じりにターニャは呟いた。

 

 

「どうしてこうなった…」

 

 

 

 

 

 

 ターニャ・フォン・デグレチャフ少佐は、エーリッヒ・フォン・レルゲン中佐と同居しており、互いに名前を呼び合う仲である。あまつさえ、ターニャはレルゲンの頬に毎朝口づけをしている程である。

 

 そしてもう一つ。

 

 ターニャ・フォン・デグレチャフ少佐は傷痍軍人である。

 このことは、ターニャがレルゲンの家に居候することになった経緯と密接に関わっている。

 

 

 

 

 

 




 本当になぜこうなったのか。
 ほとんど説明がないまま終わります。

 もし続くようだったら次話以降で色々説明したいと思います。


 自爆して墜落したターニャが1ヶ月くらいしたらもうピンピンして軍の仕事をしているなんて、ライヒの医療技術は世界一! といったところですが、流石に腕がもげたら治せないんじゃないかなぁ。
 でもターニャは腕がもげても可愛い。眼帯でも可愛い。だから大丈夫。
 レルゲンさんもきっと同意してくれる筈。


 それではまたいずれ…


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ターニャとレルゲンの麗らかな午後

あれ、今回はちゅっちゅしてない…?

いや、している。
猛烈に、とろけるほどにちゅっちゅしている。
私の目には確かに映っている。
そうだろう?



 魔導を利用して発展させたこの世界の医療技術は素晴らしい。本来であれば肢体に欠損どころか死んでいなければおかしいほどの負傷をした筈のターニャが本日も生を謳歌することができるのだ。

 野戦病院に運び込まれた時、ターニャの左半身は至近で食らった爆裂術式によってこれでもかとばかりに破壊されていた。後で聞けば、腕は跡形もなく吹き飛び、脇腹は抉れ、目は潰れ、という状態だったらしい。その惨状を見せられた軍医は、手ひどくやられた死体が運ばれてきたとしか思えなかっただろう。

 それでもなんとか生きのびることができたのだから、医療技術の発展には深く感謝せねばなるまい。

 

 

 ターニャが前線で派手に撃墜されてから1ヶ月近く経つ。

 左腕の肘から先が無いのと、左目の白い眼帯がトレードマークになってしまったのを除けば、今やターニャの身体は外見上は元通りにまで修復されていた。たまに傷痕が猛烈に痛むが、ひとまず人並みの生活は送れているとターニャは考えている。

 右手一本で炊事、洗濯、掃除などの家事をするのも慣れたものである。右手一本といっても実際には左手も肘まであるので、できることは多い。前世の知識を要所に織り交ぜつつ作るターニャの料理はレルゲンにも好評である。まあ、あの「常在戦場の食堂」での食事に慣れた人間からしてみれば、まともなレシピと材料で作られた料理はすべからく感謝すべきものに思えるかもしれないが。

 

 さておき、現在ターニャが深刻に不自由に思うようなことは実際何も無かった。退院して以来、リハビリの名目で軍務からすらも開放されている。

 ターニャに与えられた日々の仕事はたった一つ。居候として、家主であるレルゲンに恩を返すべく尽くすことのみである。これが意外と張り合いがあり、リハビリにもなる一石二鳥の仕事だった。

 以前は隻腕のターニャに家事をさせるのを気遣われてしまったものだが、最近のレルゲンはターニャが何かをすれば素直に感謝の言葉を返してくれる。ちゃんと恩を返せている…ターニャ好みの言葉で言うならば「職務を遂行できている」と実感できるのはとても気分がいいものだ。

 意味のある作業に、正当な評価。実に素晴らしい!

 職場環境もこの上なく良好である。ターニャは勤労意欲を存分に満足させた。

 

 仕事以外の時間も充実している。家事を手早く終わらせればその分余暇も増えるが、当然ターニャはそれを無駄にはしない。レルゲンの書斎を漁ったり、これまで時間が足りず腰を据えて取り組めなかった論考に勤しんだりと、非常に有意義な時間を過ごしている。

 この生活が始まって以来、ターニャは既に論文をひとつ完成させている。これは少し寝かせてからレルゲンに添削を貰い、正式に提出しようと思って楽しみにしている。

 

 ターニャはこの世界に生まれてから最も心休まる日々を送っていた。軍大学時代のそれと比較しても同等と言えるほどの満足度だった。

 しかし、何も不安がないというわけでもなかった。

 さしあたって金銭面で困窮することはないにせよ、それがいつまで続くかはわからないのだ。軍務に復帰するべきか、このまま退役するべきか。いずれ遠くない内に選択を迫られるだろう。

 亡命するという選択肢もあるが…

 

 

 

(そう、亡命)

 

 つまり、己の進退と今後の展望について。

 ある日の午後、ターニャはトコトコと帝都ベルンを歩きながらそのことを考えていた。

 一週間おきに義務付けられた検査とリハビリテーションのために帝国軍病院へと向かう途中だった。レルゲンの家から軍病院まで、路面電車を利用すればさほども歩かないで済むのは幸運だとターニャは思う。

 

 戦争の激化と戦況の悪化を受けてか、街の人通りや喧騒はかつてターニャが過ごしていた頃に比べてだいぶ減っていた。かつてといってもターニャが軍大学に所属していた頃のことだから2年も経っていないのだが。

 現代の戦争は、人も物も際限なく、国庫や軍の備えだけではまかないきれないほどに消費していく。そして、そのしわ寄せは当然の帰結として全て国民へと向かう。

 国家総力戦。ターニャがかつて前世の知識に基いて提唱した通りの事態が帝国に降り掛かっていた。

 ほんの僅かのうちに、帝都の活気は陰りを見せていた。

 

(軍の有能無能以前に、あまりに状況が悪い)

 

 色が褪せたかのような光景を横目で見ながら、ターニャは帝国の行く末を思う。こうした状況を見るにつけ、亡命が非常に現実的な選択肢であることを認めざるをえない。ターニャが軍への復帰を先延ばしにしている最大の理由はそこにある。

 

 亡命するべきか、否か。

 もしするならば、新天地での活動を見据えて周到な準備が必要だ。いつ、どこへ。何をどれだけ準備すればいい。考える事はいくらでもある。

 何より、レルゲンへの借りはどうなるか。これほど親身に接してくれた彼に対して、自分は一体何を返してやれるのだろうか。

 

 つらつらと考えるうちに軍病院へとたどり着く。ターニャは思考を中断した。

 

 

 

 

 

 ターニャはあっという間に検査を終えた。既に傷は治っている以上、検査するべき事は殆ど無いのだ。通院は基本的にリハビリのためのものだと言ってもいい。

 体温や血圧などの基本的なデータを記録し、最後にいくらか形式的な問診をする。

 

「ふむ。いつもの通りですな」

 

 そして問診の後、ターニャの主治医であるドクトルは事も無げに言った。

 

「いつもの通り、ですか」

「そう。経過を観察しつつの治療を要します」

 

 それはターニャの予想していた通りの言葉であった。

 

 ターニャは「ドクトル」という言葉には嫌な思い出がある。忘れもしない、存在Xに魂を売った憎むべきMADもドクトルだった。ただ、同じドクトルでもあちらは博士でこちらは医者だ。そして、こちらのドクトルはターニャにとって益をもたらしてくれる存在だった。彼の書く診断書があるからこそ、ターニャはこうして呑気に暮らしていられる。

 ターニャが通院を始めて以来、ドクトルの診断書の内容は毎度似たり寄ったりだ。

 基本的には以下のようなものだ。

 

「運動機能良好なれど残痕 疼痛発すること著しく、軍務の遂行の妨げとなることが懸念される。さらなる治療の必要を認める」

 

 分かりやすく言うなら「ケガはもう治ってるけど、幻肢痛がひどくて仕事にならないだろうからしばらくお休みをとってリハビリをして過ごすべき」といったところだ。

 ドクトルの自信に満ちた筆致であるが、常にあるわけではない幻肢痛を理由に軍務の一切を一括りに困難とするかどうかは、実は診断書を書く医者の裁量によるところが大きい。なにしろ軍隊にだってデスクワークは存在するのだ。 

 ターニャはさほど問題なく日常生活を送れているのだから、医者によっては後方勤務なら可能と判断してもおかしくないはずなのだが、ドクトルは毎度問答無用で「無理。休ませろ」と書く。

 

 ターニャはこんななりでも少佐という高い立場の人間である。体調的に復帰できそうかと確認しようとすらしてこないのは普通では考えられない。直接確かめたわけではないが、恐らくレルゲンからの指図があるのだろう。復帰の意思を尋ねられればターニャは「もちろんある」と答えるしかないのだから、これは有り難い心遣いである。

 こうしてターニャは医者のお墨付きを得て、大手を振って療養休暇をとることができる。

 

 とはいえ、幻肢痛には反吐が出る思いなのもまた事実だ。

 存在しない癖に電気ショックよろしく痛む左腕。何も問題ないと診断されている筈なのにハンマーで叩かれているかのように痛む左目。不定期に襲いくるこれらには全くもって辟易する。なにしろ本当に痛い。戦場で四肢を穴だらけにしてみたり、MAD監修のもと手を吹っ飛ばしたりしてみたことのあるターニャでも堪えるほどの激痛である。

 共同生活が始まったばかりのころ、ターニャが雄々しく耐える様子を目撃したレルゲンが血相を変えて介抱してくれたことがあるくらいだ。

 他者の例と比較するに、どうやらターニャは「特別重い」タイプらしい。休暇がとれるのはそのおかげもあるのだと思うと複雑な思いだが、ひとまずターニャは真面目にリハビリに取り組むことにした。

 

 

 

 

 

 

 

 ターニャが軍病院でリハビリに取り組んでいた頃、奇しくもレルゲンはターニャの事と、ターニャの主治医への対応について考えていた。

 参謀本部にある己の執務室にて、レルゲンは大してうまくもないコーヒーを口に運ぶ。丁度作業が一段落したところだった。

 

 レルゲンはターニャの主治医と面識があった。面と向かって接したのは一度だけだったが、二人が互いの存在を忘れることは決してない。

 ターニャの予想通り、レルゲンは、ターニャを軍務に復帰させないで済ませるために可能な限り工夫して診断書を作るようドクトルに依頼していた。

 もちろんそれは明言する訳ではなくそれとなく匂わせるような言葉で行われたが、いずれにせよ軍の規則や常識に照らし合わせるまでもなく不適切な行為である。

 もし明るみに出ることがあれば、破竹の勢いで昇進を重ねるターニャへの嫉妬のために彼女の復帰を阻んだのだと解釈されてもおかしくない。レルゲンにとってはある種賭けにも近い行為である。

  しかし、生え抜きの軍医ではなく民間から召集されて軍病院に配属されたドクトルは、年端もいかないターニャの身体に刻まれた傷痕のあまりの大きさに憤り、一も二もなくそれを受け入れた。

 それ以来、彼はレルゲンの期待した通りに行動し続けてくれている。

 

 レルゲンはもう一口、カップに口をつけた。悪くはない味だった。

 しかし、物足りない。かの少女の淹れるものに比べたら…

 

 レルゲンは残された時間について考える。

 ターニャの患った症状が問題ない程度に治癒するまでに平均的にかかるとされる時間を考えれば、まだ猶予はある。しかし、その猶予が尽きる日はそれほど遠くないだろう。

 ターニャが手塩にかけて育て上げた魔導大隊は、彼女が不在のまま再編をじきに終える。しかし、ゼートゥーア閣下を始め、参謀本部の者たちは彼女の才覚をまだ見捨ててはいなかった。彼らがターニャの療養の長さに疑問を覚える前に、彼女は身の振り方を決めなければならない。

 そして、それはレルゲンにとっても同じことだった。

 

 己は彼女にどうなることを望んでいる。レルゲンは自問した。

 

 レルゲンは、未だにターニャ・フォン・デグレチャフ少佐…いや、ターニャ・デグレチャフという少女のことをはかりかねている。

 ただ、あの日、病床で彼女の見せた儚さがレルゲンを狂わせたことだけは確かだった。

 

 

 ふいに、また無意識の内に自分の指が頬を触れていることに気づいて、レルゲンは自嘲の笑みを浮かべた。

 

 

 

 




つづいちゃいました
どれくらいかはわかりませんが、さらに続くつもりなので表示を連載に切り替えました


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ターニャとレルゲンの過去話①

ターニャとレルゲンがいかにしてちゅっちゅする関係になったか、その馴れ初めの部分です。なので残念ながららぶらぶしてません。

なんか書いてるうちに長くなっちゃったので二分割しました。

1話を分けてしまったのでこの話もちょっとまとまりがありません。
多少あれなところもあるかもしれませんが、どうか次話まで読んでいただけると幸いです…



 ターニャ・フォン・デグレチャフ少佐は作戦行動中に撃墜された。

 何の事はない。ついにターニャの運が尽きただけのことだった。

 

 

 二〇三航空魔導大隊は即応部隊として常に「援軍が必要なほど厳しい」だとか「緊急に対処しなければならない」というような戦線に参加することを宿命付けられている。本来はそんな後ろ向きな用途だけのために作られた訳ではないはずなのだが、実質的にはそういう使われ方ばかりをするようになってしまっている。

 往々にして組織というものは、安定と成長をリスクの天秤にかけ、常にぎりぎりの状態で居たがる悪い性質がある。そして、即応部隊という存在は、ぎりぎりを攻めるための最後のひとさじとしてぴったりだった。つまるところ便利屋だったのだ。

 

 かつてレルゲン中佐がターニャの人格に深刻な懸念を抱く原因のひとつになったほど苛烈に鍛え上げられた人員。それに加えてターニャによる徹底したリスクマネージメント。これらを兼ね備えていたからこそ、二〇三航空魔導大隊は過酷な任務を可能とした。

 

 部隊長であるターニャ自身の戦闘能力も大きな要因だった。

 ターニャの所持するエレニウム95式は「自称"神"」が「聖遺物」として太鼓判を押すほどのアイテムである。それを操るターニャは、魔導師としてもはや無敵の領域にあった。最高到達高度に始まり、魔導障壁の堅牢さ、敵からの捕捉を逸らす特殊な能力、燃費、魔力量。全てにおいてターニャは一般的に考えうる魔導師の水準を遥かに超越している。

 最強の部隊に、無敵の指揮官。それが二〇三航空魔導大隊だった。

 

 しかし、それでも駄目な時は駄目なのだ。

 

 即応魔導大隊という構想の有効性自体は、もはや既に誰にも否定し得ないほどに証明されている。だが、有効さにかまけて参謀本部はそれを使い潰した。

 

 

 全くもってひどい戦場だった。

 

 まず、敵軍の数が多く練度も十分という事前情報が知らされたその時点で、既にターニャの苦悩は始まっていた。

 続いて、その中にあって、ターニャ達二〇三航空魔導大隊が撤退の許されない任務に従事しなければならないということが判明した時、ターニャは手に持っていた書類を床に叩きつけたいという衝動と戦わなければならなかった。

 

 ターニャには予感があった。同じような任務はこれまでにも何度か経験してきたが、これはそれらすらもこえる困難な任務だと。

 実際に戦場に立った時、その認識は実感となって降り掛かった。

 

 今にも障壁を突き破って肉体に突き刺さらんとする砲弾に、いくら戦えどもどこからか沸いて出て来る敵魔導師部隊。刻一刻と数を減らす大隊員の中、ターニャはついに己の死を強く懸念するまでに至った。

 

 かつて無い最大の窮地は、これまで生き延びるために様々な工夫をこらしてきたターニャに、ついに奥の手を使うことを決断させた。

 それはすなわち、戦線離脱である。

 撤退許可があろうがなかろうが、部隊員が戦闘中の負傷により後退することは当然の権利として認められている。ターニャは、うまく怪我を負うことで死地から逃れようと考えたのだ。

 かつてターニャが銀翼突撃章を受賞したときに用いた手段。一度実戦で効果が証明された確実な方法だ。

 

 しかし、あの時と現在では違う点があった。当時、ターニャは単独で飛行している時に敵勢力に出くわしたが、今のターニャは部隊の長である。ターニャが戦線離脱した後、おそらくヴァイスが指揮を引き継ぐことになるであろう大隊はどうなるか。ターニャが「もうだめだ」と判断するほどの戦いの中で、ターニャを失った大隊が果たして任務を完遂し得るかは大いに疑問だった。

 そして、大隊規模の戦闘集団の瓦解は戦線そのものの崩壊に繋がる。ともすると、ターニャは己の保身のために戦線をひとつ崩壊させることになる。

 まさかわざとそうしたなどと考える者は誰も居るまいが、ターニャのキャリアには予測不可能な規模の痛手となる。

 

 そもそもわざと撃墜されるという行為自体に死の危険が潜んでいる。

 以前は敢えて自分が死なないで済む程度の威力に調整して自爆することができたが、今回はそうはいかない。いかなる状況下であったとしても大隊長が任務の途中で自爆するのはおかしい。前回と違い、ターニャは敵弾によって撃墜される必要があった。

 

 結局、撃墜の自演など、とり得る手段としては下の下としか言いようがない。

 だが、それでもターニャはそれを選んだ。もはや他に選択肢は無かった。

 果敢に戦った結果、継戦能力を失って離脱。ここまでやって敵前逃亡と言われることはあるまい。あとは結果がどうあれ、生還した暁には「まだ戦えます」「次はうまくやります」と真顔で言う。もはやそれしかない。

 

 決意した瞬間から、ターニャは魂を削るような鬼気迫る戦いを演じた。自分の離脱を補助する人員を確保できるうちに被弾するために。そして、自分が去った後の戦況を少しでも良くしておくために。

 ターニャは限界を超え、狂気に取り憑かれたかのごとく戦い抜いた。

 そしてついに、意図した上でのことか自分自身でも判然としないほどのタイミングで敵弾に身を晒した。

 

 

 

 ターニャが意識を取り戻した時、ターニャの身柄は既に前線ではなく帝都の帝国軍病院にあった。

 

 目覚めは全く心地よいものではなかった。

 ぼんやりとした意識の中、得体の知れない不快感が身体を覆っていた。その不快感の源が己の左半身だと理解した瞬間、不快感は激痛に変わり、自分のあげた呻き声でターニャは目を覚ました。

 

 ナースコールなど存在しない病室だったが、幸いと言うべきか、ターニャが目覚めてすぐに看護婦が現れ、彼女が連れてきた軍医によって鎮静剤が投与された。

 ひとまずの落ち着きを取り戻したターニャは、意識の確認のための簡単な質問にいくつか答えた後、現状の説明を受けることになった。

 

 まず、現在の日付は記憶のものよりもさらに数日が経過していた。

 作戦行動中に撃墜されてから今に至るまでターニャは長い昏睡状態に陥っており、その間に身柄は前線から帝都の帝国軍病院に送り返されていた。

 そして、それに付随してターニャは己の身体がいかなる状況にあるのかを知った。

 

 ターニャの左上半身は、徹底的に破壊されていた。

 意識を失っている間に実施された治療により、生死に関わるような損傷はある程度修復されていたものの、未だにターニャの身体には生々しい傷痕が刻み込まれていた。特に重大なのが、左前腕と左目に負ったダメージだった。

 現代医学の粋を集めた治療をもってしても、跡形も無く失われた左腕を取り戻すことはできなかった。そして、潰れた左目はなんとか再生には成功したが、眼圧が正常ではないだとかのために未だ治療を要する。悪くすれば失明の可能性もあるということだった。

 薬物の投与によってはっきりとしない意識のままだったが、気遣わしげな表情をした軍医の言葉はなぜか明瞭に理解できた。

 

 説明を聞きながら、ターニャの脳裏を様々な情報が駆け巡った。

 肢体の欠損。これは相当にショックなことだったが、覚悟していたことでもあったからなんとか受け入れることができた。

 何十、何百と敵兵を葬っておきながら、自分は絶対に無事でいられるなどと考えられるほどターニャはおめでたい人間ではない。可能な限り己の安全を最優先にしようと思いつつも、その危惧は常に視野の中にあった。

 己が取り返しのつかない傷を負ったという衝撃よりも、ターニャの思考はさらにその先へと向かった。

 この戦いの結果を受けて、今後自分は一体どうなるか。そのことに思い至った瞬間、ターニャは思わず軍医の言葉を遮っていた。

 

 ターニャが従事した作戦は成就したのか。そしてターニャの二〇三航空魔導大隊はどうなったか。それは今、自身の怪我などよりもよほど重要なことだった。

 気づいてしまうと、他のことに意識を割く余裕がなくなる。ターニャは矢継ぎ早に軍医に尋ねた。

 軍医は渋い顔をして少々躊躇った後、口を開いた。

 

 

 端的に結論を言えば、ターニャの率いた二〇三航空魔導大隊は全滅。

 そして、それほどの被害を受けながらも敢行した作戦は、結局失敗に終わったとのことだった。

 

 

 全てを語り終えないうちに、軍医の言葉はターニャの耳には届かなくなった。

 人目の前で取り繕うことすら忘れ、ターニャは青褪めた顔で茫然自失していた。

 命こそ拾ったが、それと引き換えにターニャはあまりにも多くのものを失っていた。

 

 参謀本部肝いりで編成された大隊を自分の指揮下で溶かした挙句、従事した作戦は失敗に終わる。挙げ句の果てに、かろうじて生き残りこそしたが片腕と目を失った。

 それがターニャの得た戦果だった。

 これも覚悟していたことではあった。最悪の場合こうなる。そう思いながらターニャは撃墜された。しかし、本当にその最悪が己の身に降り掛かってきた時、流石にターニャは平静ではいられなかった。

 命あっての物種とは言うが、本当に命だけを拾って、そして後はどうすればいい。

 

 ターニャの尋常ではない様子を見て、軍医は慌ててターニャと二〇三航空魔導大隊がいかに勇敢に戦ったか、いかに戦線に貢献したかという伝聞を語って聞かせてくれたが、それらの言葉は全て耳を素通りしていった。それらの情報はターニャにとっては何の慰めにもならなかった。

 かつて、前世では大企業の人事部で人の進退を取り扱っていたターニャは、人の犯す失態と、それがその後のキャリアに与える影響について人一倍敏感だった。

 たとえ実行可能性の低い難題を与えられたからだとしても、経過の中で十分な貢献ができていたとしても、最終的に失敗であれば駄目なのだ。

 

 これまでに積み上げてきた実績をもってしても到底カバーし得ない損害。いかなる形でかはともかく叱責は避けられないはず。

 もしそれがもろに自分に降り掛かってきたとしたら。それを想像した時、ターニャは比喩ではなく震え上がった。

 

 上司、つまり参謀本部が庇ってくれるか否かが、己の運命を決める分水嶺となる。人事に携わる者として培われたターニャの勘がそう告げていた。

 

 

 

 そのわずか数時間後、まさに己の運命を握る者…参謀本部に所属するレルゲン中佐が突然目の前に現れた時、ターニャの動揺は極限に達した。

 

 

 

 




病床のターニャの元に突如現れたレルゲン中佐。
彼は言った。
「結婚しよう」


とかだったらいいなぁ


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ターニャとレルゲンの過去話②

前話と今回は2つで1セットです。
おかげで前話は文章としてバランスが崩れたように思えますが、色々考えてやはり2つに分けました。

今回は幼女戦記の醍醐味である勘違いと、この話のテーマであるターレルを醸し出すことができたのではないかと思っております。



 大規模作戦の未完遂という悲報を受けて、レルゲン中佐を含む参謀本部の将校達は大わらわの日々を過ごしていた。

 

 

 検討段階では、勝算は十分と考えられていた。しかし、結局不測の事態によって作戦は中止を余儀なくされた。おかげで、作戦が成功した暁に得るはずだったものが得られず、無くさずに済ませるはずだったものが失われた。その補填をするために彼らは寝食を忘れて頭を悩ませる羽目となった。

 ただ、悪いニュースばかりではなかった。

 作戦は失敗ではなく未完遂だったと参謀本部は表現している。それは、作戦は完全に失敗に終わったわけではなく部分的には成功をおさめていたからだ。その影には、まさしく英雄的と呼ぶに値する獅子奮迅の戦いを繰り広げ、最後には全滅した二〇三航空魔導大隊の活躍があった。

 

 軍事用語として考える場合、全滅や壊滅という言葉は日常的に用いられる時とは異なる意味を持つ。戦闘能力を喪失した部隊は、たとえ人員が残っていたとしても戦力には数えられない。軍隊においてはこの状態を「全滅」「壊滅」と表現するのだ。

 兵科によっては3割程度の人員の損耗でも「全滅」と表現される場合もある。航空魔導大隊においては、部隊人員の半数の喪失が全滅のおおまかな目安である。

 

 魔導師の集団としては当代一の戦上手である二〇三航空魔導大隊は、全滅と表現されるほどの被害の中にあって尚、比較的多くの者が生還した。しかし、余力を残して生還したものは一人も居なかった。前線への復帰が難しいほどの傷を負った者も多い。

 ターニャ・フォン・デグレチャフ少佐も、その中のひとりだった。

 

 

 常にも増して不夜城と化した参謀本部を後にし、レルゲンは軍病院へと向かっていた。眠気による不快感だけではなく、ついには参謀本部に立ち込める煙草の煙に激しい頭痛と目眩を感じ始めたため、一時撤退を敢行したのだ。

 ろくなものも食べておらず、随分と長いこと寝ていなかった。

 多少の寝不足や疲労程度のことで判断を誤らないように参謀は教育されている。しかし、当然のことながら体調が悪くてはパフォーマンスは落ちる。レルゲンは気分転換のために少しでいいから離れた場所に行きたかった。

 軍病院という選択は、頭痛薬を貰うとでも言えば申し訳も立つだろうとの考えからだ。

 

 しかし、軍病院についてからレルゲンは多少後悔した。病院は薬臭く、そして何より患者で溢れかえっていた。

 

(…参ったな。こんな簡単なことに思い至らなかったとは、相当やられている)

 

 帝国は戦争をしているのだし、先日また厳しい戦いを終えたばかり。病院が盛況なのは当然だ。

 レルゲンは顔をしかめて頭を振った。やはり外に出てきて正解だった。

 そして、ふいに気づいた。

 

(傷痍軍人と言えば、先日、彼女もここに入院したのだったな)

 

 彼女とは、ターニャ・フォン・デグレチャフ少佐のことだ。

 

 「"白銀"ターニャ・デグレチャフ少佐」が意識不明の重体で前線から送り返されてきたと聞いた時の、度肝を抜かれる思いをレルゲンははっきりと覚えている。殺しても死なないと誰もが思っていたあのデグレチャフ少佐が、瀕死の傷を負い、あまつさえ戦線を離脱したというのだ。

 

 デグレチャフ少佐のことを思い出し、興味と言えばあまりにも下世話な表現だが、レルゲンは彼女が今どうしているのか無性に気になり始めた。

 しばし悩んだ結果、レルゲンは自身の頭痛もさておいて院内の受付をしていた者に尋ねた。

 

「ターニャ・デグレチャフ少佐がこちらに入院しているはずだが、どうしているだろうか」

「デグレチャフ少佐ですか? ええ、つい数時間前に意識を回復されたようですが」

 

 デグレチャフ少佐は院内でも有名人だったのか、受付の者もその動静を知っていた。レルゲンの階級章をちらりと見ると、すぐに答えてくれた。

 

「そうか。…そうだな。もしよければ、面会はできるだろうか」

 

 参謀本部に所属する自分にとって、参謀本部直属の大隊の指揮官はいわば同僚である。その容体を気にするのはおかしなことではない。レルゲンは何かに言い訳するように心中で呟いた。

 

 

 

 デグレチャフ少佐を治療した軍医は、面会の要請を聞いてあまり良い顔はしなかった。

 曰く、「身体に不具を得て動揺していたようだから、あまり刺激しないで欲しい」とのことだった。聞けば、片腕を失い、片目も未だ治療中で治るかわからないという。

 

 レルゲンは軍医の言葉を聞き、心の何処かで「あのデグレチャフが」と懐疑的な思いを抱きつつも、やはり哀れみを感じた。レルゲンにとってデグレチャフ少佐は得体の知れない苦手な人物だったが、最大限いたわってやらなければと素直に思った。なにしろ指の一本や二本が無くなる程度のことではないのだ。

 彼女の大隊の奮戦により、帝国軍は困難な戦局をついに最後まで瓦解させることなく戦うことができた。彼女はまさしく英雄だった。大隊の戦果と、それに対する参謀本部の評価を伝えてやることはせめてもの慰めになるだろう。

 

 

 

 怪我人はそれこそいくらでもいたが、流石に重症の佐官とだけあって、デグレチャフ少佐の病室は個室だった。

 レルゲンはデグレチャフ少佐の病室の扉をノックした。すると、しばしの間をおいて、気の抜けたような声が小さく聞こえた。

 

「……はい」

 

 その声を聴き、レルゲンは違和感を覚えた。一瞬デグレチャフ少佐の声のように聞こえたが、それにしてはあまりに弱々しく張りに欠ける声だった。

 扉を開けてみると、ベッドの上以外に人影はなかった。聞き間違えではなく、先程の声は間違いなくベッドの主のものだった。

 

 部屋をちらりと見まわした後、レルゲンはベッドの上で背を起こした人の姿を目の中に収めた。

 軍服と勲章ではなく、病人服と包帯に身を包まれたその人物は、大人用に誂えられたベッドの大きさとも対比されて意外なほどに小さく見えた。

 そしてレルゲンはしばし瞠目した。

 

 そこには、虚ろな目でぼんやりとどこかを見つめる少女の姿があった。

 

 少女…デグレチャフ少佐は、レルゲンが現れて少ししてからやっと侵入者に気付いたかのようにはっと表情を変えた。

 

「っ…レルゲン中佐殿…」

「…体調はあまり芳しくはないようだな。デグレチャフ少佐」

「…いえ……」

 

 彼女らしくもない切れの悪い返事だった。

 デグレチャフ少佐は慌てて敬礼しようとしたが、すぐに傷が痛んだのか顔をしかめた。

 

「…っ…」

「無理はしなくていい。傷が痛むのだろう」

 

 レルゲンは制したが、デグレチャフ少佐は歯を食いしばって敬礼を続けた。

 敬礼は目上が答礼を終えるまで手を下げることができない。早く終わらせてやろうと手早く答礼をしながら、レルゲンは複雑な思いを覚えた。

 なるほど、確かに彼女は弱っている。しかし、彼女らしい融通の効かなさは健在だとも感じる。彼女が飽くまでも軍人であろうとするならば、己も軍人としてその態度に最大の敬意を払うべきだ。

 

 レルゲンは部屋の隅に置かれた椅子を見つけ、それをベッドの横に置いて腰掛けた。

 デグレチャフ少佐はどこか緊張した面持ちだった。それを見て、レルゲンはつとめて穏やかに語りかけた。少しでも彼女が安心するように。

 彼女と、彼女の大隊の活躍が大いに評価されていることを教えてやろう。大隊の人員の生き残りが多い事も彼女にとっては喜ばしい知らせの筈だった。

 

 しかし、現実はレルゲンの思いとは裏腹だった。

 

「貴官の部隊は、作戦では多大な貢献をしたと聞いている」

「………!」

「参謀本部は……っ、どうした、デグレチャフ少佐!」

 

 いたわるためのレルゲンの言葉。なのにどうしてか、それを聞くにつれて目の前の少女は青褪め、身体を震わせ始めた。

 レルゲンは思わず咄嗟に自分の言葉を思い返した。しかし彼女をこれほどまでに動揺させる何かがあったとは到底思えなかった。まさか彼女に限って、戦場でのことが心的外傷になったなどということも無い筈だ。

 

 デグレチャフ少佐の様子は明らかに尋常ではなかった。何かのはずみで急激に容態が悪化したに違いないと思い、レルゲンは椅子から半ば腰を浮かせた。

 しかし、小さな手がレルゲンの腕を掴み、それを引き止めた。

 

 デグレチャフ少佐が必死の形相でベッドから身を乗り出していた。

 

 

 

 ――このとき、レルゲンはデグレチャフ少佐がどれほど正常な精神状態になかったかまるで理解していなかった。そして、正常ではないデグレチャフ少佐にとって、自分が口にした言葉がいかに曲解され得るものだったかという事に、全く考えが及んでいなかった。

 

 デグレチャフ少佐は、レルゲンがここまで口にした言葉全てが自分に対する叱責だと捉えていた。

 

 体調は、あまり芳しくはないようだな

 …軍務はもう無理そうだな?

 

 無理はしなくていい。傷が痛むのだろう

 …貴様はもはや敬礼などしなくて良い

 

 貴官の部隊は、作戦では多大な貢献をしたらしいな。

 …部隊が全滅するまで果敢に戦った中で、翻って貴様は何をしていたのか。

 …貴様が呑気にもとっとと撃墜され、こうして後方の手を煩わせている間に作戦は失敗に終わった。その責任をどう取る?

 

 追い詰められていたデグレチャフ少佐にとって、突如現れた自分の命運を握る男が口にした言葉は、強烈な皮肉以外のなにものでもなかった。

 レルゲンの知るデグレチャフ少佐は、溢れんばかりの狂気をたたえながらも常に理性の鎧を身にまとっていた。まともな状態のデグレチャフ少佐ならば、これほどまでに深刻に言葉の意味を取り違える事は無かっただろう。

 しかし、痛みと薬物で朦朧とした意識。それに加えて、部隊を全滅させ、自分自身も肢体を失ったという事実は、レルゲンが想像するよりも遥かにデグレチャフ少佐を動揺させていた。

 

 

 

 

「まだ、たたかえます」

 

 レルゲンは、目の前の少女が自分の服の袖を掴みながら言った言葉が信じられなかった。

 

「…なに、を」

「てきを前にのこしながら撃墜されておめおめと戦線をりだつし、あげくの果てに部隊をかいめつさせるなど、恥じ入るしだいです」

 

 その勇ましい言葉とは対照的に、レルゲンの目の前に居るのは、声を震わせ、手を震わせ、必死に言葉を絞り出す満身創痍の少女だった。

 今の彼女の状態を見て戦いに耐えられると思う人間はいるまい。仮に居たとしたらその者は正常な判断力を有していない。

 この期に及んで「戦える」などと嘯くデグレチャフ少佐は、一体何を考えている? レルゲンは心の底から理解できなかった。

 

「つぎこそは、ぐ……っ、ぅ…」

 

 言葉の途中で、耐えかねたように呻きながら崩れ落ちる。レルゲンは咄嗟にデグレチャフ少佐の身体を支えた。支えた瞬間、その思いもよらない程の軽さと薄さにレルゲンは息を呑んだ。

 しばし荒い息を漏らした後、デグレチャフ少佐は呼吸を整えつつ顔をあげた。

 

「…失礼、しました。傷が、痛んだ、だけです」

 

 返答しようとして、レルゲンは言葉を失う。

 彼女の包帯に覆われていない右目から、一筋の涙が溢れていた。

 それは痛みによる生理現象だったかもしれないが、それでもレルゲンの心をどうしようもなく揺さぶった。

 

「デグレチャフ少佐…貴官は、なぜ戦いを望む」

 

 レルゲンは、デグレチャフ少佐の肩を掴んだ手を離すことも忘れたまま問うていた。

 

 ずっと不思議に思っていた。一体何が彼女をこれほどまでに戦いに駆り立てる。その答えを、今、この場で明らかにしなければならないと思った。

 

 デグレチャフ少佐の反応は、レルゲンが想像だにしないものだった。

 

 レルゲンの言葉を聞き終え、その言葉を咀嚼するに従い、デグレチャフ少佐の表情は違う色に染まっていった。

 デグレチャフ少佐は歯を剥き、きっと目を見開きレルゲンを睨みつけた。その視線に込められた憤怒は迫真のものだった。

 そして、憎悪すらこもる声を叩きつけた。

 

 

「戦いを望んだことなどッ!!…」

 

 

 激昂は一瞬だった。

 デグレチャフ少佐は全てを口にする前に、自分の行動の意味に気づいたかのように言葉を切った。

 しかし、彼女の激情は何よりも雄弁にその言葉の続きを語っていた。

 

 戦いを望んだことなど一度たりともない。

 

 その切実な言葉のもつ意味を認識した瞬間、今度こそレルゲンの頭の中は真っ白になった。

 激昂とともに自分の胸ぐらを掴もうとして空を切り、空中をさまよっているデグレチャフ少佐の手を意識する余裕すらなかった。

 彼女の発した言葉の意味は判る。しかし、それが他ならぬデグレチャフ少佐の口から出てきたことが理解できなかった。

 彼女は、戦いを、戦火を欲していたのではなかったのか?

 

 数瞬、二人は静止したまま見つめ合った。

 狼狽、怯え、苦悩、悲哀、そんな幾つもの感情によって歪められたかのようなデグレチャフ少佐の表情を、レルゲンは間近で見た。

 右目から溢れたもう一筋の涙がその上をつたって落ちるのを、呆然と眺めた。

 

「…っ、うぐ…」

 

 再度俯いたデグレチャフ少佐が漏らした声は、苦痛の呻きか、嗚咽か。

 

 二人が動きを止めてから、10秒か、あるいは20秒かが経った。

 レルゲンが自分の感情を整理しかねているうちに、呼吸を整えたデグレチャフ少佐はレルゲンからそっと身体を離した。

 

 再びデグレチャフ少佐がレルゲンに顔を向けた時、そこには仮面のような無表情が貼り付いていた。

 

「戦いを望んだことなどありません。しかし、ライヒの栄光のためにそれが必要ならば、小官は迷うこと無く身を投じます」

 

 取り繕われたその言葉。

 以前のレルゲンならば、底知れない薄気味悪さと共に受け止めたことだろう。

 しかし、デグレチャフ少佐の見せた激情を知った今、それは違う意味をレルゲンに感じさせた。

 

 仮に、もし本当にデグレチャフ少佐が戦いを望んでいないのだとしたら。だとしたら、それはあまりにも悲壮な言葉だった。

 これまでの経緯を考えればそんなことは到底あり得ない。そう思いつつも、彼女の見せた涙は無視し得ないほどの衝撃をレルゲンに与えた。

 

 この時レルゲンは、自分が初めてターニャ・デグレチャフという人間に対して正面から向き合ったのだということを知った。

 

 

 

 

 

「デグレチャフ少佐。私は…」

 

 

 

 

 




最後、レルゲンがターニャに何を言ったかはお好きにご想像してください。


…銀翼突撃章を持ってるものはたとえ上官が相手だったとしても先に敬礼しなくていいってどこかに書いてあった気がするんだけど、その記述が見つからなかったので今回はこのような形になりました。
まあ、病人服に徽章はついてないので、どちらにせよセーフでしょうか。





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ターニャとレルゲンの温かいお風呂① ウーガ少佐のお見舞い

今日もよいターレルがありますように(挨拶)
ちょっと長いことかかりましたが、まだまだやってないことは多いので続きます


 若く有望な士官を全軍から選りすぐり、2ヵ年の教育を通して次代の帝国軍を担うべき人材を育てる。それが帝国軍大学である。帝国軍大学を卒業した者達は帝国軍のあらゆる方面、領域へと散らばり、与えられた場所で中枢へと組み込まれる。

 ターニャが軍大学に籍をおいていた頃、既に戦争の本格化をうけてその教育課程は半分にまで圧縮されていたが、その役割は変わらない。

 

 軍大学に所属するにあたって、ターニャは軍大学の真価は士官教育だけではなく、人脈の造成にも役立つという点にもあると考えていた。

 帝国軍を代表する若きホープ達は、卒業後、各々の与えられた場所で躍進を続け、いずれはそれぞれの立場で再会を果たすことになる。その時、相手がどれだけの能力をもったどのような人物であるかということを互いに知っているということは、間違いなく組織運営の上で利点となる。

 参謀本部での勤務を夢見ていたターニャにとって、そのいずれというのはさほど遠くない未来の筈だった。

 ターニャは在学中、有望な同期と、なるべく良好な接触を保つことに腐心した。そして、一部の相手とは卒業後も定期的に交信を取り合っていた。 参謀本部鉄道部に配属されたウーガ少佐はその相手の一人だ。

 ウーガ少佐は帝国軍大学12騎士の一翼として大いに将来を託望され、今では同期一番の出世頭となっている。それなりに偉くなる見込みがあり、しかも人情家で融通のきく彼は、ターニャにとってはとても望ましい知己であったと言える。

 

 

 

 ターニャは自室…つまりレルゲンの家で割り当てられた一室で、ベッドの上に寝そべってぼんやりとしていた。

 時刻は夜。レルゲンも帰宅し、夕食と片付けも済んであとは寝るだけだ。おやすみのキスも済んだ。

 レルゲンはまだ暫く起きて何か作業をするようだが、ターニャは一足先に己の部屋に入った。朝食の準備のために早く起きなければならないため、いつもターニャのほうが早く就寝するのだ。

 自分をコントロールする術に長け、戦場では昼も夜も無く過ごしていたターニャは、その気になればいくらでも夜更かしできる、しかし、せっかく寝ていて問題の無い環境なのだ。ターニャは、しっかり睡眠時間を確保するという贅沢を存分に満喫している。

 軍大学の座学を受講していた時期のようなごく一時の例外を除いて、ターニャは常に寝不足か栄養失調、もしくはその両方で過ごしてきたが、レルゲンの家に来てからは劇的に生活環境が改善した。このごろは肉付きが多少良くなってきたように自分自身でも感じている。

 

 寝ることに関して余裕ができて以来、就寝前の曖昧な時間にターニャは取り留めもなく何事かを思うことが増えた。

 今日の思考は、自分が入院していた頃、ウーガ少佐が見舞いに訪れた時の事だった。

 

 

 ターニャが軍病院に入院し、意識を取り戻してから初めて見舞いに訪れたのはレルゲン中佐だった。そして彼との対話の中で平静を失ったターニャは、その日のあとの面会を全て拒んだ。

 翌日からはぽつぽつと同じく軍病院に入院していた大隊の部下達が病室を訪れたが、それらを除くと、レルゲン中佐の次にターニャの病室に駆けつけたのはウーガ少佐だった。

 

 ウーガ少佐の存在を忘れていたわけではないが、彼の訪れをターニャは意外に思った。

 彼もまた参謀本部に勤めている以上、作戦失敗のあおりを受けて忙しい時間を過ごしていた筈なのだが、ウーガ少佐はいかなる縁でかレルゲン中佐からターニャが目を覚ましたという情報を聞きつけ、仕事の合間を縫って訪れた。彼はターニャが思っているよりもずっとターニャのことに関心を寄せてくれていたらしい。

 

 病室に現れたウーガ少佐は、ターニャの未だ包帯の取れない左半身と、左肘から先の布が垂れ下がった病人服を見るなり、やるせない表情で「ああ、神よ…」と呟いて深くため息をついた。

 いわゆる『oh my god』 帝国風に言うなら『oh mein Gott』

 

 静かに目頭を抑えるウーガ少佐。

 慣用句だということは分かっているのだが、しかし、ウーガ少佐の言葉を聞いてターニャは思わずにはいられなかった。

 

(おい。私の病室に来ておいて、まず話しかけた相手が『神』か)

 

 だいたい、その「神よ」の後に続く言葉は何なんだ。

 ターニャの感性からすれば、恨み言以外にはあり得ないのだが。

 その時には、目覚めてから数日が経過していた。ウーガ少佐に気づかれないように冷ややかな視線を送れる程度にはターニャは回復していた。

 

 最初こそ首をかしげるような事を言ってくれたが、ウーガ少佐はすぐに正気を取り戻した。ウーガ少佐は流石にターニャの軍大学同期の中でも出世頭とだけあって、ターニャを楽しませる知的な会話を披露してくれた。

 見舞いとは病人を慰めるためにするものだ。自分が慰められるべき立場にあると思うと多少複雑な気分を覚えないでもなかったが、部下たちの見舞いとは違うひとときはターニャにとって良い気晴らしになった。

 

 しばし談笑した後、ウーガ少佐は時間を確認すると腰を上げた。やはり彼も多忙な身分だった。

 去り際に彼が言った言葉がターニャには印象的だった。

 

「…貴官は、まるで憑き物が落ちたようだな」

「……は?」

 

 ターニャは、彼が何を言っているのか理解できなかった。

 憑き物が落ちるなどという形容をされるいわれが自分にあるとは考えもしなかったからだ。

 むしろ、何かに取り憑かれたような心持ちを覚えているくらいだったのだ。

 

 己の行く末に絶望し、レルゲン中佐の前で散々に醜態を晒した事は未だ記憶に新しかった。

 ターニャとて人間だ。人前で取り乱したことくらいある。しかし、あの日ほど無様な姿を他人に見せたことは無いと断言できる。数日もすれば平然とした顔を装えるようになったが、退院してしばらくたった今でもその時の事を思うと胃が締め付けられるような気持ちになる。

 だいたい、当時のターニャは多少未来に希望を持てる心持ちになったところではあったが、それでも一寸先は闇の状態だった。

 客観的に見て、ターニャは間違っても肯定的な表現をされるような精神状態ではあるはずがなかった。ウーガ少佐の言葉は、咄嗟に反駁の言葉が出てこないほどターニャの認識を超えていた。

 

 ターニャの狐につままれたような顔を見て、ウーガ少佐は一滴の苦味が混じったような笑みを浮かべ、「私の手が必要ならばいつでも頼ってくれ。必ず出来る限りの事をすると約束する」と言って去っていった。

 

 

 

 あの時、ウーガ少佐は「憑き物が落ちたような」と言った。

 

 一先ず安心のできる場所に腰を落ち着け、あれこれ考える余裕のできた今更になって、ターニャはその言葉を実感し始めていた。

 

 静かな暗闇の中で、温かい毛布に包まれながらターニャは思う。

 

(憑き物が落ちた、というのは彼の優しさからきた言葉だ。私は、腑抜けているのだ)

 

 撃墜、目覚め、そしてレルゲンとの邂逅。一連の出来事はターニャの精神に変化を与えていた。

 絶望のあまり心が歪んだ、とは思っていない。そうだったとして、それを素直に認められるほどターニャという人間のプライドは低くない。

 ただ、立場や身体を含めた環境の変化は、軍人としてのターニャの行動原理を消極的な方向へと歪めたことは明らかだった。

 ウーガ少佐は、当時ターニャ自身も自覚していなかったそれを察して「憑き物が落ちた」と表現したのだ。

 精神の変容と言えば、かつてターニャはそれをウーガ少佐の中に認め、利用してやろうかと考えたものだが、今度はターニャのほうがウーガ少佐からそれを指摘されようとは、皮肉なものである。

 

 

 ターニャはごろんと寝返りをうち、うつ伏せになって枕に顔を埋めた。

 清潔な石鹸の香りが鼻腔を満たした。

 

 自動洗濯機も洗濯用洗剤もなく、電気式アイロンも存在しないこの時代では、洗濯は家事の中でも突出した重労働だ。レルゲンは当然のごとく全てを洗濯屋にまかせており、ターニャもそれに習っていた。

 おかげでターニャも少女の細腕一本でひととおりの家事をこなし、さらにいくらかのゆとりを得ることができるというものである。

 自分が明日こなすべき仕事と、それを処理する算段を無意識の内に心のなかに思い浮かべ、ターニャは満足感を覚えた。

 

 

「………」

 

 

 しばし無心の時が流れる。

 数秒ほど心身の動きを止めてから、枕から顔を剥がしターニャは横を向く。そして大きくため息をついた。

 

 ターニャとレルゲンの共同生活が始まってからまだそれほど長くは経っていないのだが、ターニャはもうこの生活が気に入っていた。

 

 敢えて明言する。正直なところ、ターニャは今の穏やかな日々がずっと続けばいいと真面目に思っている。

 しかし、軍との関わりや将来への不安を一切棚上げした状態の上に今の生活が成り立っている以上、それは到底叶わない望みだということもターニャは理解している。

 

 いずれ遠くないうちに決断を迫られる日が来る。

 だが、ターニャは未だに明確な行動の方針をたてられていなかった。

 

 それは、良く言えば様子見。悪く言えば…

 

(怠惰。私としたことが…なんたる腑抜けか)

 

 ターニャはもう一度ため息をついた。

 

 苦境ゆえの停滞だ。

 

 以前のターニャには、目的に向かって脇目もふらず進んでいくようなある種の必死さがあったが、目的を見失ったターニャにはそれが無かった。

 かといって、焦ってもどうにもならないと知っているから、焦るわけでもない。

 今、ターニャには不思議な余裕と暇があった。

 その状態をウーガ少佐は「憑き物が落ちた」と肯定的に表現し、ターニャは「腑抜け」と否定的に表現した。

 

 ターニャは何かをしなければならないことはわかっていたが、目の前に用意された道はどれも正解であるようには思えなかった。

 復帰、退役、あるいは亡命。いずれにしても乗り越えることが可能かわからないほどの苦難が待ち受けている。

 

 軍に復帰することそれ自体は難しいことではないだろう。レルゲンもそれは保証してくれているし、現在までターニャが軍籍を維持していられることそのものが復帰の可能性の証明に他ならない。

 しかし、今のターニャには軍への決定的な不信感があった。

 より具体的に言えば、ターニャは今更軍に戻ったところで、ターニャの望むような扱いをうけられるとは思えなかったのだ。

 

 復帰に対して、退役することも比較的容易なはずだ。

 志願兵であること、いくつもの機密を知る身であること、練達の魔導師であること。ターニャを軍に縛り付けようとする材料はいくつかあった。だが、かつてターニャの部下には食中毒で退役した者が居たくらいなのだ。それを考えれば、ここまでの傷を負ったターニャが退役を妨げられることは流石にないだろう。

 おそらく、監視をうけた上ではあるが、ターニャは普通の一般人としての生活を送れるはずだ。

 しかし、その後の展望が無かった。

 ターニャはもともと己の才覚を信じていない。才能に乏しく、努力も得意とは言えないし、人格に至っては全く劣っていると己を評価している。それが事実であるか否かはさておき、ただでさえ敗戦の気配の漂うこの国で、しかも不具の少女。ターニャは少しも希望を見いだせなかった。

 

 だからといって、亡命しようかと思うとこれはそもそも難しい。

 天涯孤独のターニャが他国で頼れる相手など当然おらず、軍の機密を知る身で国外への脱出など許されるはずもない。相手国に保護を求めるのに十分なだけの手土産は用意できないことはないとは思うが、実行は命がけだ。

 …何より、それはここまでしてくれたレルゲンへの裏切りになる。

 真に命に危機が迫るときが来ればターニャは迷わないだろうが、しかし今はその時ではなかった。 

 

 結局、結論は出ない。

 ひとつため息をつく。

 

「ああ…温かい風呂に浸かりたい」

 

 ターニャは堂々巡りの思考をやめて意識を闇へと投げた。

 




ターニャの当初の予想を裏切って軍大学12騎士に残留した挙句、出世頭にまでなってしまった出来る男のウーガさんですが、アニメ版だとそれなりのおっさんで、漫画版だとイケメンです。
このお話で彼がどちらの容姿かは皆さんのお好きなご想像におまかせします。


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ターニャとレルゲンの温かいお風呂② 二人の朝

お風呂ってタイトルなのにまだお風呂の話にたどり着かない…

PS:書き忘れていましたが、ここからはアニメ未収録エピソードについての具体的な言及もありますので、気にされる方はちょっと注意


 朝日を浴びて、ターニャは寝床からむっくりと体を起こした。

 そしてぽつりとつぶやいた。

 

「……シャワーを浴びたい」

 

 夢見は最悪だった。

 寝汗でへばりつく肌着の冷たい感触を感じながら、その一日は憂鬱に始まった。

 

 

 目覚めが最悪でもターニャのやるべき仕事に変わりはない。

 身だしなみを整えると、てきぱきと朝食の準備をして、レルゲンを起こす。そして朝食を皿に盛っている間に洗顔を終えたレルゲンが現れる。いつものルーチンだ。

 朝食のメニューはトーストとコーヒーを中心とした、これまたいつもの。

 

 ターニャはレルゲンと食卓を囲みながら、己の作った料理を無感動に胃に収める。

 起きてすぐに身体を拭い、肌着も寝間着とともに着替えていたが、ターニャの頭の中にはじんわりと不快な余韻が残っていた。

 

 

 おかしな夢を見るのは、昨夜寝る前に余計な事を考えていたせいだろうか。

 夢の中でターニャは軍法会議を受けていた。

 ターニャは一度軍法会議を経験したことがある。夢の情景はその際の記憶を再現しており、それなりにリアルだった。

 だが、舞台以外は少しもリアルではなかった。

 

 夢というものは突飛な設定がまかり通る。軍法会議の判事は法務担当士官ではなくレルゲンだった。そして、なぜか周囲にはたくさんの見知った顔があった。

 

 ヴァイス中尉やセレブリャコーフ少尉、203魔導大隊のメンバー。

 ゼートゥーア閣下やルーデルドルフ閣下、参謀本部の知人達。

 ウーガ少佐、軍大学の同期達。

 シュワルコフ中尉、戦線を共にした軍人達。

 

 彼らが見守る中で、ターニャは自分がいかにこれまで滅私の態度で無理難題をこなし軍に貢献してきたか、恥も外聞もかなぐり捨てて必死に訴えていた。ただそれだけの夢だった。

 何もかもが不愉快な夢だった。

 ターニャはあまり夢を見る人間ではなかったが、軍病院で目覚めて以来、時折こういった夢を見ることがあった。

 

 

 かつてレルゲンの前で我を見失ったあの時、ターニャは己が軍法会議にかけられ、投獄、悪ければ処刑される可能性すら考えていた。

 ゼートゥーア、ルーデルドルフ両閣下は中央軍のメインストリームである。これは客観的な事実であり、ターニャの主観でも、二人はそれにふさわしい十分な能力を持っていた。しかし、軍という巨大な組織の中ではこの二名をもってしてもその立場は盤石というわけではない。

 今回の作戦失敗の責任を追求する中で、流れによっては二人がその立場を揺らがせる可能性は大いに考えられた。そしてそのしわ寄せの最終地点が、ゼートゥーア・ルーデルドルフ派閥の末端とも言えるターニャへと定められたとしたら。

 蜥蜴の尻尾切り。その時、ターニャをかばうものが居なくなるどころか、ターニャをかばうべき者こそがターニャを陥れる敵へと変わる。

 

 ターニャはあの戦いでそれなりに成果をあげたし、それまでに積み上げてきた確固たる軍功があるのだから、そんなことは無いはず。現実的には考えられない。理性と理屈の上ではそう思いつつも、ターニャはその想像を完全に否定する事ができなかった。

 五体満足だったならまだしも、もはやターニャの身体は以前のような戦いには耐えられない。参謀本部にとってターニャの利用価値は消滅した。それを加味すれば、ターニャという人間の思考の基盤となった「企業の人事」では、蜥蜴の尻尾切りは十分にあり得る。

 わざと撃墜されて戦場から逃げたという負い目もあった。

 完璧に偽装した、もっと言えば、十分に己の職責を果たした上で撃墜されたのだから文句を言われる筋合いはどこにも無いとターニャは心の底から思っていたが、それでも瑕疵には違いないのだ。

 

 そこにきて、レルゲンだった。

 

 何の前触れもなく病室に現れたレルゲンは、ターニャが見たことの無いような態度で、突き刺すような言葉を投げかけてきた。これがターニャにとって止めとなった。

 参謀本部は自分を許すつもりがない。レルゲンの態度を見て、ターニャは確信した。

 今にして思えば、あの時、心優しいレルゲンは、傷ついた幼い少女を更に絶望へと陥れる陰謀に苦痛を感じていたに違いない。彼の態度が不自然だったのはそのせいなのだろう。

 

 そこから先はもはや見るに堪えない有様だった。

 「まだ戦えます」「次はうまくやります」と、用意していた台詞を咄嗟に絞り出したが、それは自分でも判るほどに支離滅裂な言葉だった。

 そして、困惑したレルゲンが「貴官はなぜ戦いを望む」と問いかけてきた時、ついにターニャの精神は限界に達した。その遠慮がちな言葉はなぜか、追い詰められたターニャの自制心をどうしようもなく綻ばせた。

 

 「なぜ戦いを」 それと同じ言葉で、ターニャの心の隅には常に煮えたぎる思いがあった。

 なぜ私が戦いになど行くのか。そんなことは私が聞きたい。まるで私が好き好んで殺し合いをしているとでも言いたげじゃないか。私は行けと言われたから仕方なくずっと戦っているだけなのに。

 それ以外に選択肢がなかったから軍に志願した。以来、必死で役目を果たしながら過ごしてきた毎日だった。

 偉くなれば死ななくて済むかと思えば、余計に危険な目に合わせられる。命の危険を感じたことも、絶望を覚えたことも、数え切れないほどあった。多少の良いこともあるにはあったが、すぐにそれを塗りつぶしてあまりあるほどの苦難が用意されていた。

 

 ターニャは文字通り「神を恨んで」今日まで生きてきた。

 その末路が、さんざん貢献してきた筈の軍から見捨てられるという状況なのかと思った瞬間、それまで味わってきたありとあらゆる痛みと苦しみが走馬灯のように脳裏をめぐり、無意識の内にターニャはレルゲンに掴みかかっていた。

 

 その後はあまり記憶がなかった。

 レルゲンが何か言っていた気がするが、いまいち判然としない。

 

 

 あの時、追い詰められたターニャのしようとしたことは、結局八つ当たりだ。己の進退を告げに来たレルゲンに対して怒声を浴びせ、手をあげようとした。それは、前世で己を殺めた無能と同種の行いに他ならない。

 内容は全く違うし、ターニャはすんでのところで踏みとどまったが、しかし関係ない。己の矜持に自ら刃を突き刺すようなその行いは、ターニャを失意の底に陥れた。

 レルゲンとの衝撃的な邂逅から心の整理をつけるまでにターニャは一昼夜を要した。

 

 

 

 

 

「…ターニャ。どうした?」

 

 ふいに声をかけられて、ターニャは自分が意識を飛ばしていたことに気付いた。

 レルゲンが食事の手を止めてターニャの顔をのぞき込んでいた。

 

「いえ…」

 

 対面していながら相手が視界に入らないほど緊張を緩めていたことに気付き、ターニャは驚きと羞恥を感じた。

 そして同時に、己の意識が軍隊から遠ざかっていることを再認識した。

 

「多少夢見が悪く、ぼんやりしていました」

「…そうか。傷は痛むか?」

「大丈夫です。今朝は調子が良いようです」

「ああ。辛いことがあればいつでも言ってくれ」

「はい。ありがとうございます」

 

 気遣わしげな表情のレルゲン。その台詞は既にターニャがこれまでに何度も聞いたものだった。

 

 ターニャは時折困惑を覚える。大して深い縁があったわけでもないのに、どうしてこうも飽きずに彼は世話をしてくれるのかと不思議に思う。

 世話になる以上できる限り気は使っているつもりだが、それでもやはり自分は傍に置いていて気分がいい類の人間ではないだろう。

 人を楽しませる人柄でもないし、身体の障害以外にもいろいろな事情を抱えている。

 

 一応、建前上の理由は知っている。

 年端もいかない少女に過酷な戦いを強いた挙句、その体に深刻な傷を負わせたことに責任を感じていると、かつてターニャが尋ねた際に彼自身が答えた。

 まあ、理屈は理解できる。

 

 レルゲンは何度か病床のターニャの見舞いに現れ、ターニャに対して「どうして軍人になったのか」に始まり、様々な質問を投げかけてきた。

 その時のレルゲンは妙な迫力を纏っており、ターニャは先日の失言と矛盾を生じさせないために、結局特に隠さなければならない部分を除いて、ほとんど自分の今生の人生すべてを包み隠さず語る羽目になった。

 別に同情をひこうなどと考えたことは無いし、嘘をついたわけでもなかったのだが、なるほど我ながら悲劇的なストーリーだったとターニャは思う。

 

 要点は3つだ。

 帝国という国と、帝国軍という組織の構造上、ターニャは軍人になるしかなかった。

 戦争など早く終わればいいと思いつつも戦いに行かねばならなかった。

 攻撃的な態度や効率を最重視する姿勢を見せたのは、ただひたすら「模範的な軍人」であろうとした結果だ。

 

 この話はよほどレルゲンの琴線に触れたらしかった。

 その結果、彼はターニャを破滅させんとする参謀本部の陰謀の矛先をどこかに逸らし、しかも軍籍を維持したまま傷病休暇をもぎ取り、行き場の無いターニャを己の家に招いてくれた。

 どんなマジックを使ったのかそれとなく尋ねてみたが、レルゲンは「参謀本部は君の卓越した功績をちゃんと評価している」などと嘯くばかりだ。

 凄まじい男だ、とターニャは畏怖を覚えたのを記憶している。

 

 しかし、やはりレルゲンもそれ相応のリスクは負ったはずだ。

 だいたい、普通に考えれば、彼自身が戦いを命じたわけでもない以上、ターニャの負傷を彼がそこまで深刻に思う必要はない。一人の大人として責任を感じるにしても、ここまで親身にしてくれる理由にはならない筈だ。参謀本部の怒りを鎮めてくれただけでも十分なのに、身を削ってまでその後のアフターケアをしてくれるのはある種異常だ。

 恐らく彼自身にしか分からない何らかの理由があるのだろう。

 気にはなる。だが、彼から話さない以上、それはターニャから踏み込むべき領域ではなかった。

 助けてくれるというのだから助けてもらうまでだ。そこに何の文句も不満もない。

 

 しかし、こうまで親切にされては、本当にこの家にいつまでも居ついてしまいそうだった。

 そんな思いから、ターニャはつい不用意な軽口をたたいた。

 

「あまり甘やかさないでください。一人で立てなくなってしまう」

 

 微笑を添えての言葉だったが、レルゲンは一瞬表情をこわばらせた。

 そして、真面目そのものの表情でレルゲンは答えた。

 

「…その時は、君が立てるようになるまで面倒を見るだけだ」

 

 私はその覚悟の上で君を家に招き入れた。そう言って、レルゲンはカップの残りのコーヒーを飲み干した。

 ターニャは、その言葉への答えとして適切な言葉を咄嗟に思い浮かべられなかった。そして言葉を探した挙句、下手な返事をひとつして沈黙した。

 

 自分の冗談のセンスに問題があるのか、それとも彼が深刻に考えすぎているだけなのか。

 朝食を食べ終わるまでの間、ターニャは多少居心地の悪い時を過ごした。

 

 

 




ターニャは強い人間なのでこんな優しい言葉を貰ったことがないのではないかと思います。仮にあったとして、かつてのウーガ大尉の「軍を辞めた方がいい」みたいなターニャからしてみれば見当違いな話で、白い目で見返したことでしょう。

しかし、ここにきてターニャは誰かが助けてくれるような都合のいい展開を心の奥底で本当に欲していて、レルゲンはそれを惜しみなく与えようとしています。
キュン…!(ターニャの乙女心が疼く音)

レルゲンさんが何を考えているかはまたいずれ…


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ターニャとレルゲンの温かいお風呂③ 自問自答

今回は少々短い上に説明じみていますが、どうかご容赦ください。
今話に限っては、面倒だと思ったら読み飛ばして頂いても結構です。

今更ですが、話の中で触れている帝国の文化は、1910~1940のドイツ文化を都合よく抜き出してモチーフにしています。(幅のある情報しかリサーチできかったとも言う)
なので「これは1910年台だけどこれは1940年台じゃないの?」という風に異なる時代背景が混ざっている可能性がありますが、広い心でお許しください…

PS:コミック版5巻(2017/03/26現時点では未発売)ではターニャが家(宿舎?)でバスタブに入っている描写がありましたが、今作ではそれは無かったことにしてください…




 

 

 朝から微妙な気分させられたが、いつまでもそれを引きずっているわけにはいかない。

 

「いってらっしゃい。エーリッヒさん」

 

 気を取り直し朝食を終えたターニャは、いつものように食器を片付け、いつものようにキスをして、笑顔でレルゲンのお見送りをした。

 

「ああ、行ってくる。留守を頼んだ」

 

 目の間で扉がとじ、ターニャは少し間を置いてからそっと扉の鍵を閉める。

 

「よし」

 

 レルゲンを見送る時、ターニャは必ず鍵を閉める音がレルゲンに聞こえないように気を使っている。なんでもないことのようだが、この細やかな気配りが大事なのだとターニャは考えている。

 他にもターニャがレルゲンの家に居候するにあたって気をつけていることは多岐にわたる。流石のレルゲンも日々の中でそれらの心配りの全てには気づいていないかもしれないが、さぞかし気が利く女だと思ってもらえていることだろう。

 

「……ん?」

 

(女…? いや、現在私の性別は確かに女なのだが、その言葉で褒められるのは複雑な気分だな…)

 

 ふいに思い浮かんだ疑問を振り払うように、頭を振りながらターニャは台所へと戻っていった。

 

 

 ターニャはレルゲンを見送った後、食器を片付け、新聞を読み、掃除をする。その後必要ならば洗濯屋に衣類を出したり、食材を買い出しに行ったりする。そして最後に夕食の準備をしてレルゲンの帰宅を待つ。これらの作業の合間合間がターニャの自由時間だ。

 自由時間には、己の趣味として書物を読んだり論文を書いたり、物思いに耽ったりして過ごす。いずれの場合も軍事や政治などが題材となることが多く、この時間で得た知見が夕食後にレルゲンと語らう時間の材料になったりする。

 

 今日のターニャは、少し考え事をしたい気分だった。

 ただ、そのテーマは決して高尚なものなどではなく、ターニャの頭の中を占めていたのは「風呂」の二文字だった。

 

 湯船につかりたい。シャワーを浴びたい。そう、風呂に入りたい。

 昨夜、眠る前に「風呂に浸かりたい」と思って以来、なぜか風呂のことがターニャの頭から離れなかった。

 

 朝に寝汗をかいたが、それは結局シャワーではなく濡らした布で身体を拭って済ませた。それが余計に拍車をかけたのかもしれない。なぜだかわからないが、今、ターニャは猛烈に湯船に浸かりたかった。温かい湯の中で、体がふやけるほどのんびりしてみたかった。

 

 一通りの仕事を終え、書斎の立派な椅子に腰かけたターニャは真剣に考える。

 家でゆっくりと湯船に浸かるにはどうしたらいいか。

 以前ならばそのような思いは些事として頭の中から排除されていただろうが、今のターニャには余計なことを考える余裕があった。

 

 

 前世の西洋と酷似した文化を持つ帝国では入浴という行為は一般的ではないが、その概念と文化自体はちゃんと市井にまで浸透していた。

 かつて前線でセレブリャコーフ少尉が「シャワー浴びたい」などと愚痴をたれていたのをターニャは見た事があるが、身体を拭ったり水を浴びたりするだけで過ごすより、偶には入浴したほうが衛生上効果的であるということは帝国では広く一般に知られている。

 帝国はもともと温泉を多く持つ国であり、温泉での保養という文化さえ存在するのだ。

 しかし、ならば風呂に入るのは簡単かというとそうでもない。

 風呂という文化はあれど、自宅に入浴できる設備を持っている家は殆ど無い。バスタブは高級品だし、浸かるほどの湯を大量に沸かしてしかも使った後に捨てるなど、庶民の発想ではなかった。

 今朝、ターニャが汗を拭うだけで済ませたのも、居候の身分で朝から湯を沸かしてシャワーを使うのは憚られたからだ。

 前世の日本では、無駄に、惜しげもなく使うという意味で「湯水のように使う」という言葉があったが、そのような恵まれた環境ですら「人の家で優雅に朝シャン」というのは気が引ける行為である。ましてや、シャワーも給湯器もやっと家庭に普及しはじめたようなこの時代だ。ちょっと汗をかいたからといって朝からシャワーを浴びるのは、慎み深い日本人の魂を宿すターニャの感性ではあり得なかった。

 

 金の問題と言えば、多少の贅沢…具体的に言えばバスタブを購入し、設置し、湯をためてやれるくらいの貯金をターニャは持っていたが、無駄遣いが許容できるような立場ではない。

 

(無駄遣い…家で風呂に入ることは……いや、無駄か…しかし…しかし公衆浴場だけは…)

 

 アームレストに肘を置き頬杖をついてぼんやりと中空を見つめていたターニャは、大きくため息をついて目を閉じた。

 

 実は帝国には風呂屋が存在する。

 自宅で入浴するということは、帝国では富裕層や貴族だけに許される贅沢だ。ならば一般市民はシャワーしか使わないのかというとそういうわけでもなく、入浴設備を家に持たない者は、家ではなく公衆浴場にて入浴するのが一般的だった。

 個人で風呂に入るのが難しいのならば、よそに入りに行くのだ。

 帝国では国民の衛生という観点から政策として公衆浴場が作られており、都市部には風呂屋が存在した。当然、ターニャの暮らす帝都ベルンにも公衆浴場は複数存在する。

 

 ターニャももちろん公衆浴場の存在は知っていた。

 だが、これまで足を運んだことは一度も無かったし、今でも足を踏み入れるのには躊躇していた。

 帝国の公衆浴場は「銭湯」と呼ぶには抵抗があるほど日本のものとは異なっている。その違いがターニャには受け入れがたかったからだ。

 

 

 帝国式の公衆浴場のメインは浴槽ではなくサウナであり、基本的に混浴だった。

 よりにもよって混浴。しかも、水着などの着用は基本的に許されず、タオルで体を隠しもしない。

 

 

 国や時代が変われば生活も変わるというのは当たり前のことだ。文化には培われた土壌というものがあり、それを外側から見た価値観で頭から否定するのは傲慢な過ちであるとターニャは知っている。

 宗教などという非科学的な基準にもとづいて異種文化を否定した結果ヨーロッパは文明を大きく後退させ、数百年にも及ぶ暗黒期を迎えたのだ。現代戦争においても「イデオロギーの対立」という概念を避けて通ることができないのは言うまでもない。

 しかし帝国の裸文化について知ったとき、ターニャは「なんと野蛮な」と頭を抱えずにはいられなかった。

 

 ここ1世紀の間に帝国は急速な近代化を遂げたが、それに対する反発が強くなった結果、自然志向が高まったという。そして生まれたのが、リラックスするべき場所では衣服を全て取り払って最大限の開放感を得ようというこの思想だ。ターニャに言わせればまさしく野蛮への回帰である。

 これは近代化とともに勃興した思想であり、歴史はさほど深くないのだが、その割に国内にはそれなりに根付いてしまっている。

 もとより禁欲的な態度をよしとする帝国の精神性が開放感を求めていたのと同時に、敢えて裸体を晒しながらそれを性的欲求と切り離すことで禁欲的な姿勢が強調される。それが帝国国民の気質とマッチしたのではないかとターニャは考察しているが、そんなことはどうでもいい。

 

 前世が男性であるターニャは、裸の女性が何人も至近距離をうろついていては落ち着けない。かといって、現在ターニャは女性なわけで、裸の男性が至近距離をうろついているのはもっと落ち着けない。それらが両方セットとくれば、もはやリラックスして湯に浸かるどころではないのだ。

 

 そうでなくてもターニャは隻腕である。衣服を着用できない浴場ではターニャの左腕はさぞかし目立つことだろう。

 そろそろ忘れられている頃だろうとは思うが、新聞や映像などに映ったこともあってそれなりに顔が知られている身分でもある。「あのターニャ・デグレチャフ」が戦傷により不遇をかこっていると宣伝するようなことになれば、今後ターニャが始末されるようなことは無くなるかもしれないが、同時に軍の怒りを煽る可能性もある。

 やはり公衆浴場に行くというのはターニャには考えられない選択肢だった。

 

「……………」

 

 

 試したことはないが、演算宝珠がなくても湯を沸かすことくらいならできるのではないか。だとしたら燃料代は節約できる。

 幸いにも体が小さいことだし、湯船もバスタブではなく大きいタライなんかだったら懐も痛まない。しかし、それではあまりにわびしいし、何より人間の入れるサイズのタライをシャワールームに置くなんて、家主のレルゲンにどう説明すればいいのか。

 ああ、前世の日本ならば、家でゆっくり湯船に浸かりたいと言ってもまさか無駄とか我儘などと非難の対象にされたりはするまいに。

 

 

 どうしたら風呂にゆっくり浸かることができるか、ターニャは様々な方面からあらゆる可能性を検討し続けた。相対した敵だけでなく、味方である帝国参謀本部のエリート達をも唸らせ続けた明晰な頭脳が最大回転し、答えを模索する。

 

 

 

 

 しばしの間を置いてターニャは、ふ、とため息をついた。

 

 

「くだらん」

 

 

 そして一言つぶやき、思考を打ち切った。

 

 

 その日、ターニャは夕食の買い出しの際につい余計なものをいくらか購入した。

 

 

 




 
文中にある帝国の裸文化、混浴文化というのは、実際に1900年台初頭に生まれ、今なお実在するドイツ特有の文化だそうです。
決してやましい気持ちで混浴だとか全裸だとか言っているわけではないんです…ただ、調べていく内にいつのまにか……


ちなみに「シャワー浴びたい」というのはアニメ版3話からです。
そして娘TYPEという雑誌には、大浴場で入浴を堪能するセレブリャコーフ少尉と、その肢体を複雑な表情で見つめるターニャという構図のピンナップポスターが存在するらしいですぞ?


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ターニャとレルゲンの温かいお風呂④ 贖罪と我儘

今回は少々長いです。
レルゲンさんの長い独白です。

前回の長かった説明の分、たっぷりのレルゲンさんの思い込みの激しさと、互いの複雑な勘違いをお楽しみください。

 


 

 

 病床のターニャを見舞った日、レルゲンがターニャという少女の内面に踏み込むことを決意したのは無意識下でのことだった。つまり、レルゲンとしてはあまり認めたくないことだが、有り体に言えば「その場の雰囲気と勢いにまかせて」だ。

 あの日、震え、涙を流す小さな少女を前にして、レルゲンは目の前の少女を守るべき存在であると直感的に認識してしまった。ターニャの見せた激情と数滴の涙には、すべての過程や背景を排除してレルゲンにそう思わせるだけの悲壮な感情が込められているように見えたのだ。

 

 

 物事を深く考えずに決断すると後悔する。その決断が重大であればあるほど後悔は大きくなる可能性がある。

 その翌日、レルゲンは既に後悔していた。

 

 

 まず、レルゲンは己の見たものが何かの間違いだったのではないかと真剣に自分の記憶を疑った。「あのデグレチャフ少佐」が涙を見せた。それは本当にあった出来事なのか?

 もし、もし仮に、レルゲンが見たものが事実であったとしても、彼女が誰かの庇護を必要とするほど弱ることなどあり得るだろうか?

 

 かつて、レルゲンにとってターニャ・デグレチャフ少佐とは実に恐るべき人物だった。

 不思議なほど隙が無く、強靭な人格。そしてどこまでも冷徹に人を「管理」することができる精神。それを10歳ちょっとという幼さで備えているのだから、あまりに常軌を逸している。かつて彼女が士官学校の1号生だった頃、2号生に対して刃を振り上げた時の酷薄な笑みは今をもって忘れられないほどだ。

 しかも、その少女は帝国軍内部において頭角を現し、それなりの発言力を持ち始めていたというのだから、レルゲンの恐怖はもはや本能的なものだった。

 その当時、ターニャ・デグレチャフという人間の見せる異常性は、彼女が狂気の世界の住人であるがゆえのものだとレルゲンは解釈していた。理解を超えた存在を前に、「理解する余地の無いものだから理解できないのだ」と己に言い聞かせていたのだ。

 今にして思えばそれは愚かしい程に安易な結論である。しかし、そうでもなければレルゲンはターニャの存在に納得できなかった。

 

 レルゲンは状況を慎重に解きほぐしていくことにした。

 何度もターニャの病室を見舞い、1つずつ丁寧に問いかけることによってターニャ・デグレチャフという人間の正体を探った。

 病床という状況が二人の対話を後押ししたのは確かだ。何しろ邪魔する者がおらず、逃げる場所もない。

 最初、ターニャは己の心中を問うような質問には判で押したような答えしか返さなかったが、レルゲンは彼女の見せた感情の片鱗を確かに覚えていた。

 繰り返し問う内に、ターニャは苦悩を飲み干すかの如き表情を浮かべ、そして、ついに観念したように己の胸の内を語り始めた。

 彼女の口にした内容は、どれもレルゲンにとっては衝撃的なものだった。

 

 

 徴兵のために、仕方なく軍人になった。

 どうせ孤児の身でろくな仕事が与えられることは無かっただろうから、そのこと自体に不満は無かったが、やはり一刻も早く偉くなって命の危険のない後方で勤務したいと切に願っていた。

 これまでの一挙手一投足は全てそのための布石のつもりだった。

 

 

 殆ど感情を交えず、淡々と語られたターニャの言葉。その全てを咀嚼し終えた時、レルゲンは己の足元が欠片も残さず崩れ落ちるような心地を覚えた。

 これまで彼女の見せてきた狂気と好戦的な態度の数々、それらが彼女の本心ではなかったなどということがあり得るのか。感情ではそう思いつつも、頭の片隅では、彼女の話は「筋が通っている」ことを認めてしまっていた。

 レルゲンはわけの分からない焦燥に突き動かされるままに、自分がターニャに対して不信を抱いた最大の原因たる出来事の真意を問いただしていた。即ち、士官学校にて2号生を処刑せんとしたあの凶行のことを。

 

 

「処刑…?」

 

 

 不思議そうに首を傾げ、ターニャは言い放った。

 

「あの時、自分は2号生を殺害するつもりも、拷問するつもりもありませんでしたが」

 

 その言葉はあまりに自然で、ひと欠片ほどの嘘や誤魔化しも含まれているようには見えなかった。

 

 仮にも上官にあたる1号生に対しての度を超えた暴言。しかも現行犯。

注意などという段階は飛び越えており、いかに処分を下すかを判断しなければならない状況。あの場面は、以後自分が2号生を取りまとめる事が可能か否かのターニングポイントと考え、一歩たりとも引かない心構えで臨んだ。それ故に、多少過激に見えたかもしれない、と彼女は語った。

 そして、かかる状況にあって、彼女の選んだ選択肢は…

 

「軍規に則れば銃殺は免れないと考えましたが、それではあまりに忍びない。彼に精神疾患ないし、何らかの異常があることを証明できれば彼を殺さずに済みますし、皆の面目が保たれるはずだと思い、あのように処置しようとしました」

 

 それはつまり…

 

「まさか…威圧することで2号生を錯乱させ、免責しようとしたと……?」

 

 レルゲンはつい口にしていたが、それは彼女には答えようのない質問だった。

 軍規を恣意的に解釈し、利用しようとしたなどと軽々に口にするほど彼女は迂闊ではない。

 

「…いいえ、飽くまで彼の異常の原因を検証するため、です」

 

 彼女は当時と同じ事を言ったが、その意図はもはや明白だった。

 あの時彼女に見た狂気もまた、演じられたものだったのだ。そう解釈するのが「筋が通っている」ことをレルゲンは理解せざるを得なかった。

 

 この時レルゲンには既に殆ど結論が見えていた。

 しかし、それはあまりに救いが無く、呪わしいまでに苦渋に満ちた結論だった。

 

 レルゲンは何かにすがるようにして最後の問を投げかけた。

 己の思いとは裏腹に戦いに行かされることが辛い、と誰かに訴えようと思った事はなかったのか。

 その問に対する答えが、今度こそレルゲンにとどめを刺した。

 

 

「…軍人に、それが許されるのでしょうか?」

 

 

 きょとんとした表情で言う彼女の言葉に、反論の余地は一寸たりとも無かった。

 

 嫌がっても誰かの心象を悪くするだけ。ならば、せいぜい喜んでみせるまで。そう言って付け加えられた言葉まで含めて、彼女は全くもって正しいと、レルゲンの理性が理解し、納得してしまった。

 彼女は、飽くまで原則に沿って、理想的な軍人として行動していただけ。弱音を吐かなかったのも、軍はそれが許される場所でなかったから。

 航空魔導師は、数ある兵科の中でも最も「銃弾から離れられない」職だ。一刻も早く前線から逃れたかった彼女が神経質なまでに己の有能さをアピールしようとしていたとして、一体誰が責めることができるだろう。

 少佐にまで上り詰めた彼女が、それでも尚戦場では先陣を切って銃弾の中に飛び込んでいかなければならない立場にあったのだ。早く、もっと偉くならねば己の命が危ないと彼女が考えたのは当たり前のことだ。

 

 だとすれば、自分は一体何に対して恐怖を覚えていたというのか?

 答えは明白である。レルゲンの抱いていた恐怖の根拠は「なんとなく」以外の何ものでもない。

 

 こうしてレルゲンの罪は明らかになった。

 

 つまり、わずか10歳程の少女が生き延びるために必死に足掻いている様を見て、あろうことか、レルゲンは「なんとなく気味が悪い」と感じてそれを化物と呼び、あまつさえ恐れていたという事だ。

 己の所業に気づいた時、レルゲンは視界が閉ざされたような錯覚さえ覚えた。

 

 もし、自分がターニャという少女の本質にもっと早く気づいていたとしたら、彼女が過酷な戦いに身を投じ、身体に取り返しのつかない傷を負うことも無かったのだろうか。

 

 その瞬間からレルゲンの贖罪は始まった。

 

 

 

 

 

 夜の帳はすっかり下りて、時刻は既に夜中。ガス灯に照らされて朝とは表情を変えた帝都の町並みを横目に、レルゲンはワーゲンに揺られて家路を急いでいた。

 朝、ターニャに告げた帰りの時間を既にだいぶ過ぎていた。

 彼女に限って一人を寂しいだとか思うようなことはあるまいが、あまり待たせるようなことはしたくない。今日は「外で夕食をとる」とは告げておらず、あの律儀な少女は夕食を食べずにレルゲンの帰宅を待っているに違いないのだ。

 程なくしてワーゲンは自宅の前に到着し、レルゲンは運転手に礼を告げて車を下りる。

 家の扉を開けると、家の前でのエンジンの駆動音を聞きつけたのか、既にそこにはターニャが待っていた。

 

「おかえりなさい。エーリッヒさん」

「ああ、ただいま」

 

 微笑みを浮かべたターニャに対して、レルゲンも思わず微笑みを返す。

 帰りを迎えてくれる人がいるという事は喜ばしい事なのだと、ここしばらくの生活でレルゲンは教えられた。

 

 レルゲンが家につくやいなや、ターニャは手早く料理を温めて二人分の夕食を用意してくれた。やはりターニャは夕食をとらずに待っていたらしい。

 帰宅が遅れたことを詫びつつ、先に食事をしていてくれても構わないと伝えるが、ターニャは頑として譲らなかった。この類の問答は今までにも何度かあったが、ターニャは最後には真面目な表情で「気を使っているのではなく、私がそうしたいのです」と言う。そうなると、レルゲンは何も言い返せなくなる。

 ターニャはレルゲンの家に来て以来、献身的なまでに家事に精を出していた。

 それは彼女なりのレルゲンへの感謝の表し方であるのと同時に、まるで新たに見つけた己の居場所を懸命に守ろうとしているかのようで、折に触れては胸を締め付けられるような気分をレルゲンは覚える。

 己は感謝されるに値するような人間ではないのだ。ターニャを己の家に招き入れたのも、善意などという崇高な動機ではなくただの罪滅ぼしなのだから。

 しかし、己の浅はかさを彼女に打ち明けても自分の罪悪感が満足するだけだ。このあたりのことには既に折り合いはついていた。レルゲンは己のプライドのためではなく、ターニャのために、「一人の大人として責任を感じたためにターニャを保護した」という耳当たりの良い建前を押し通すと決めていた。

 複雑な思いを飲み込み、レルゲンはターニャの料理に舌鼓を打った。己の感情に目をつぶれば、自宅で温かい料理を食べられることは素直にありがたいことだった。なにより、ターニャの作る料理は美味い。

 自立した生活を送る内に身に着けたのだろうか、ターニャはその年齢と経歴には不釣り合いなほど料理ができた。もちろん本職たる主婦や料理人とは比べるべくもないが、少なくともレルゲンが日々の食事に不満を抱いたことが無い程度には達者に料理をこなした。

 

 夕食後、ターニャがコーヒーを淹れると、ダイニングルームはにわかに芳しい香りに包まれた。

 

「どうぞ」

「ああ、ありがとう」

 

 ターニャが差し出したカップを受け取り、レルゲンはその香りを楽しんだ。

 ターニャのコーヒーを淹れる腕前は並のものではない。カップからは、プロが淹れたものとも遜色ない芳醇な香りが漂っていた。

 レルゲンとターニャはコーヒーカップを片手にテーブルを囲む。夕食後のひと時、こうして語り合うのが二人の習慣だった。幼いターニャが夜分にコーヒーを嗜むのはどうかとは思うが、コーヒーは彼女にとって前線にまで持ち込んだ数少ない趣味だということはレルゲンも知っているから、あまりあれこれ言う気にはなれない。

 

 いつもはコーヒーだけなのだが、今日は珍しく、ターニャはキッチンから皿をひとつ持ってきてテーブルの真ん中に置いた。その皿の上には、指先につまめる程度の大きさのブロック状の包みがいくつか載せられていた。

 その包みからは、ほのかに特徴的な甘い香りが感じられた。

 

「エーリッヒさんも、よろしければどうぞ」

「これは、チョコレートか?」

「はい。今日、買い物に行った時にたまたま目に入って」

「ふむ。頂こう」

 

 レルゲンは少し意外に感じた。

 日々の生活費は「大人として」全てレルゲンの懐から支払われており、ターニャはそれに遠慮して、あまり余計なものを買うことはなかったのだ。今どき、チョコレートのような菓子は高級品であり、ターニャが買わないはずの余計なものの一つだった。

 レルゲンが包みを開いてチョコレートを口に放り込むと、ターニャも一つ口にした。

 

「…久しぶりに口にしたが、美味いな」

「疲労には甘いものが良いと言います。お体が糖分を求めていたのかもしれませんね」

 

 レルゲンはその言葉を聞いて、ターニャは軍務に疲れた自分のためにチョコレートを用意してくれたのだろうかと感じた。もしそうだとしたら、嬉しいが、同時に寂しく、残念だとレルゲンは思った。

 たまに嗜好品を買うことがあったかと思えば、それは彼女自身のためではなく飽くまでレルゲンのためなのか。

 どうして? レルゲンがそう思うほどに、彼女は頑ななまでにレルゲンに遠慮しながら日々を過ごしている。

 彼女は代用品でない本物のコーヒーを常備している。これも高級品であり、嗜好品だが、もしレルゲンが特段それを好まない人間だったとしたら、彼女は果たしてそれを買っただろうか。

 

 

 今朝、今と同じ場所でターニャと交わした問答をレルゲンは鮮明に覚えている。

「あまり甘やかさないでください。一人で立てなくなってしまう」

 その言葉と共にターニャが浮かべた自然な微笑み。それを見てレルゲンは、彼女は未だにいつでも「一人で立てる」つもりで居るのだということを直感した。

 いずれ、いつでもこの生活が終わってもいいように。ターニャはそう考えているのだ。だから、レルゲンは「君が立てるようになるまで面倒を見る」と答えた。

 私はいつまででも君を見捨てない。だからもっと頼っていいんだ。レルゲンの言葉にはそんな思いが込められていた。

 しかし、彼女が見せた表情は戸惑いだった。

 

 

「エーリッヒさんは、軍用チョコレートを食されたことはありますか?」

「軍用チョコレートか。私は食べたことは無いが…あれは確か、わざと味を落として作っていたはずだな」

「ええ。私も後から知ったのですが、確かに、美味しいものが前線にあっては無駄に消費されてしまうと危惧するのは当然です」

 

 ターニャの表情は屈託が無く、空いた包み紙を指先で弄る仕草は、かつて彼女が軍服を纏っていた頃からすれば想像できないほどにリラックスしていた。

 しかし、それでも彼女は一人で立っている。

 未だ孤独に、その傷ついた身体で一人、立っているのだ。

 

「それにしても、私自身、航空魔導師用の高カロリーチョコレートを食べたことがありますが、あれは酷い代物です」

「魔導師は大量のエネルギーを要するらしいからな。普通の軍用チョコレートに輪をかけて味は二の次になっているのかもしれないぞ。災難だったな」

「ええ。まあ理屈は理解できます。しかし、私自ら骨を折って手に入れた物資が部下に喜ばれてないと知った時は流石にむっとしたものです」

「ふ、それはさぞかし君の部下たちも肝を冷やしたことだろう」

 

 レルゲンにとって、ターニャを一人養う程度の金銭や手間は少しの負担でもない。多忙な独り身でどうせ金は余らせているし、ターニャは全く手がかからず、逆にレルゲンがその恩恵を享受する始末だった。

 レルゲンは真摯に思う。彼女が心を預けてくれたのならまだしも、それさえ無いのだとしたら、自分は彼女に一体何をしてやれているというのだろうか。

 困らせてくれてもいい。くだらない我儘を言って欲しかった。それがレルゲンの贖罪なのだから。

 そう。「気を使っているのではなく、私がそうしたいのです」というターニャの言葉を、レルゲンもまた胸に秘めていたのだ。

 

 

 だから、会話が一段落した後、レルゲンは今一度改まってターニャに問いかけていた。

 

「最近何か不都合に感じたことはないだろうか」

「何か、とは…」

 

 ターニャは思いがけないことを言われたというような表情だった。

 

「服が欲しいだとか、何かやりたいことがあるという事でもいい。君は少々手がかからなすぎる」

 

 いつもの調子であれば、ターニャは「こうして家に置いて頂いているだけで十分です」というような事を言って、結局何も自己主張することなく終えていた筈だった。

 レルゲンも半ばそれを覚悟してターニャに問いかけていた。しかし、ターニャの反応は、それとは異なっていた。

 

「………」

 

 数瞬の間を置いて、すぐにターニャは「しまった」という顔をした。

 何も欲しいものが無いのであれば、すぐに「無い」と口にしていた筈だ。彼女はそういう人間だ。しかし、そうではなかったということは、即ち彼女が何かを欲しているということの証拠だった。

 

「何かあるのか?」

「いえ……」

 

 始め、ターニャはなんとか誤魔化せないかとばかりに口ごもっていたが、それをじっと見据えるレルゲンを見て抵抗の無駄を悟ったのか、とうとう口にした。

 

 

「…風呂に入ってみたいと、最近、少し思うことがありました」

 

 

 それは恐らく彼女がレルゲンの家に居候してから初めての我儘で、なんとも子供らしく、可愛らしい我儘だった。

 

 




 
ちなみにターニャは
「よぉし挑発したら2号生が絡んでくれたぜボコボコにして見せしめにしてやる」
とか考えていただけです。

でもこのレルゲンさんは「ターニャが何をしても否定的に捉える」という原作とは逆で
「ターニャが何をしても肯定的に捉える」ようになってしまっているので安心です(台無し)


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ターニャとレルゲンの温かいお風呂⑤ キスと煩悶

  
お忘れかもしれませんが、これはターニャとレルゲンがちゅっちゅする話なんです。
 
 



 

 

 旧約聖書曰く、「神」は6日間の内に天地を創造し、その後7日目に休息をとったという。人々もそれに習い、7日間をひとつの区切りとし、その最後に休息日をもうけるようになったとか。

 ターニャは「神」などというものは信じていないが、この休日という制度は良くできていると評価している。ちなみに、自称神であるところの「存在X」は悪魔か何かだと考えている。

 さておき、休日だが、パフォーマンス向上につながる休息を義務とすることの利点は当然として、特定の曜日に様々な業務を一斉に停止しようというのは実に効率的な発想で、ターニャの好むところである。

 おおよそ殆どの仕事というものは単体で完結することは殆ど無く、多くの場合何かの仕事にはその前段階の仕事が存在するわけで、セクションごとに好き勝手に休息をとっていては至る所で組織の血流がストップすることになる。ならばいっそ、皆で休んでしまえばいいのだ。

 合理的なことが大好きな帝国では世界に先駆けいち早く労働時間を管理する法律が生まれ、しかもそれが確かな実行力を持って存在している。

 

 しかし、何事にも例外は存在する。

 休日にこそ必要となる業務や、休日でも関係なく停止できない業務はその恩恵に預かることはできなかった。畜産業などは後者の好例である。休みだからといって家畜達の世話をやめるわけにはいかない。

 軍隊も同じだ。「協商連合の豚共」だとかいう台詞は前線ではよく聞いたものだが、軍隊もまた、いつ世話が必要になるとも知れない家畜共を相手にしなければならない仕事なのだ。

 

 

 ある日の夕食後、コーヒーを片手に雑談を交わす時間の中でレルゲンが言った。

 

「明日は安息日だが、久しぶりに終日休暇がとれた」

 

 それを聞いた時、ターニャは思わず彼を労っていた。

 ターニャの知る限り、ターニャがレルゲンの家に居候するようになってからひと月近くの間、休みらしい休みというものは存在しなかった。少し帰りが早い日が何度かあったくらいで、レルゲンが丸一日を休暇として使用できた日は一度も無い。労働法も何もあったものではない。

 最近のレルゲンは顔色が悪いことも多い。前線では休みどころか朝と夜の区別も無く出動させられていたターニャとしては、実に身につまされる思いだった。

 

「参謀の戦いの場は前線ではありませんが、体力勝負なのは同じです。ゆっくり休まれて下さい」

「…ああ。そうさせてもらおうかな」

 

 数瞬、レルゲンはターニャの言葉に何か含むような間を置いてから同意した。

 何か失言をしたかと一抹の不安をターニャは覚えたが、特に不審な点も見つからず、その場はそれだけで終わった。

 

 

 翌朝、ターニャは定刻通りに目覚めた。

 世の中には安息日には少したりとも仕事をしてはいけないとまで突き詰める過激な発想も存在するらしいが、家事に安息日は存在しないのだ。

 ターニャはいつもの通りの時間に起きて、身支度を終え、新聞をとってきて、朝の用意をし、しかる後にレルゲンの寝室に侵入する。朝、レルゲンを目覚めさせるのもターニャの仕事の一つだ。

 

 軍人にとって時間通りの行動は当然のことであり、寝坊などという失態は万死に値する。この時代、このような寝坊の許されない者のために「目覚まし屋」と「目覚まし時計」という二通りの手段が用意されているが、どうやらレルゲンはどちらも好まないらしい。

 目覚まし屋とは、依頼を受けた家の窓を定刻に叩くことで起床を促す商売のことである。

 そして目覚まし時計とは、まさしく前世では老若男女問わず大勢がお世話になっていたであろう、あの目覚まし時計である。高価なためにあまり普及してはいないが、この時代、既に目覚まし時計は存在していた。

 

 レルゲン曰く、目覚まし屋を雇うのはどうにも落ち着かないため、目覚まし時計を購入して設置していたという。しかし、目覚まし時計で乱暴に起こされるのもまた不愉快なものだとか。

 それを聞いたターニャは共感を覚えた。そして当時、ターニャは居候として家主に貢献できる仕事を探している真っ最中だった。

 朝の準備をしようと思えばどうせレルゲンよりも早く起きなければならないのだから、ついでにレルゲンを起こす程度のことは全く手間ではない。

 ターニャが手ずからレルゲンを起こす事を提案したのは、二人の共同生活が始まってすぐの頃のある朝のことだった。

 

 ターニャの価値観から言えば、毎朝自分の寝室に他人が侵入してきて起床するという事態は考えられない。それに則ればレルゲンにそれと同じことをしようなどという提案は生まれない筈だったのだが、当時のターニャは比較的、そう、比較的必死だった。庇護してくれたレルゲンに穀潰しだと思われるわけにはいかないと、真剣に悩んでいた。

 そんなターニャの思いを知ってか知らずか、レルゲンは遠慮する素振りを見せつつも結局それを許可した。以来、ターニャは毎朝欠かさずにレルゲンを起こしている。

 

 

 

 ターニャはレルゲンの寝室の扉をノックし返事がないことを確かめると、扉をあけて部屋を覗き込む。レルゲンはノックの音や寝室の扉を開ける気配だけで起きることもままあるが、今日はその様子は無かった。

 いくら起こすと約束したとはいえ、ターニャを全面的に信頼して何のてらいもなく眠りこけるほどレルゲンは不用心な男ではない。しかし、今日に限っては起きる必要がないのだ。深い眠りに落ちているのかもしれないとターニャは思った。

 

「ふむ…」

 

 ターニャは部屋の中に入ってベッドを覗き込む。それでもレルゲンが起きる気配は無かった。

 男の寝顔など見ても面白いものではないし、失礼にあたるから今まで注視してみたことはなかったが、その寝顔は普段よりもどこか油断しているように見えた。

 その肩に手を置き、揺り起こすために腕に力を込めようとして…

 

 

「………」

 

 

 ふとターニャは動きを止めた。

 

 果たして、今レルゲンを起こすのは正しい選択なのか?

 今の彼は明らかに過労の状態だ。めったに無い休日、その朝くらい寝坊をしてもいいのではないか?

 

 休日を身体の静養にあてるのと、なにかしらの有意義な活動に使うのと、レルゲンは果たしてどちらを望んでいるのか。

 判断に窮したターニャは、レルゲンの肩に手を置いて寝顔を覗き込んだまま、しばしその静かな寝息を聞いた。

 

(……まるで『休みの日のお父さん』だな)

 

 結局、ターニャはレルゲンを起こすのをやめた。

 

 

 レルゲンの寝室を辞したターニャは、一先ず朝食を完成させるのは後に回し、新聞を読んだりして時間を潰すことにした。

 レルゲンのことだから、放っておいてもその内起きてくるだろう。もし大幅に寝過ごすことがあったとしても、それはレルゲンがそれだけ疲労を溜めていたという証拠になる。やはり休ませてやるべきだったということだ。

 

 しかし、昨日のうちに今日の予定を聞いておくべきだった。

 新聞を広げながら、ターニャはぼんやりと考える。

 

 普段の休日、レルゲンはいつ起きるのか。そして何をして過ごすのだろうか。休日にはゆっくり起きて趣味をして過ごすものと相場は決まっているが…

 そういえば、レルゲンは何を趣味としているのだろう。家の中には特に趣味の品は見当たらない。料理の好みや、コーヒーと煙草を嗜むことは知っているが、それは趣味とは言い難い。

 立派な書斎を持っているのだし、やはり読書家なのだろうか。

 

 つらつらと思考する内にターニャは、自分が「休日のレルゲン」との付き合い方を知らないことに気づいた。それどころか、彼の趣味さえ知らない。同じ屋根の下に暮らし、毎朝レルゲンを起こしているというのに。

 

「………」

 

 相応に距離をおいて極力邪魔にならないように、という他人行儀な考えは改めたつもりだった。

 だから彼の名前を呼び始めたし、朝と夜にキスだってする。自分の貯金を使って物を買うのも控えている。日々の会話も互いに力を抜いて臨めていると思う。

 しかし、それだけでは足りなかったということか。

 

(思えば、彼も私の事をどれだけ知ってくれているというのか。…………?)

 

 

 

「……あっ…」

 

 

 

 朝の音…街の生活音や鳥の鳴き声に半ばかき消されるような小さな声が、意図せずターニャの喉から漏れた。

 

 ターニャは思わず新聞から手を離し、右手で己の顔を覆った。

 その瞬間ターニャは、とある事実に思い至った。

 ターニャは、ある事象について己がずっと非常に主観的な態度をとっていたことに気づいてしまった。

 それはすなわち…

 

 ターニャは殆ど毎日2回レルゲンにキスをしている。しかし、しかしだ。レルゲンの方からターニャにキスをしたことはというと、一度も無かった。

 今までそのことに疑問を抱いた事は無かった。ターニャも無意識の内に「してくれなくていい」と思っていたが、果たして本当にそうだったのか?

 

 それは恐らく些細な事なのだろう。これまでそれが問題になったことは全くなかったのだから。

 彼がターニャにキスをするほど親しみを感じていないというならば、それもまたそれでいい。いや、あまり良くはないが。

 しかし、もしや何か含むところがあるのではないかと思うと、喉に刺さった魚の小骨のように気にせずにはいられない。

 

 そして何より。

 

(『どうしてエーリッヒさんは私にキスをしてくれないのか』…だと……!!!??)

 

 その言葉の字面そのものがターニャにとってはあまりにショッキングだった。

 

(お、お、おのれ…存在X……っ…!! 私が、女でさえなければ…このようなこと…!!!)

 

 まるで自分がそれを望んでいるかのようではないか!

 ターニャは顔を覆って悶えながら、久しぶりに「存在X」に対して恨み節をぶつけた。

 

 …その姿はまるでターニャが左目の眼痛に耐える姿とそっくりであり、そしてターニャはその姿を人に見られていたということに気づいていなかった。

 

「…ターニャ、どうした!」

「…っ!」

 

 ふいに浴びせられた声に対して、ターニャは弾かれたように顔をあげた。

 ダイニングの入り口を見ると、先程まで自室で就寝していた筈のレルゲンがそこに立っていた。

 レルゲンは真面目な表情を浮かべてターニャのもとへと大股に歩み寄ってくる。

 

「エ、エーリッヒさん…! いえ、なんでもありません!」

「…何でもないということはないだろう。傷が痛むんじゃないのか?」

 

 訝しげな表情で顔を覗き込んまれるが、悶えていた理由など説明できるわけがない。

 当の本人にその様を見られるとは、何たる失態か。きびきびと答えながらも、ターニャは己の頬が熱くなるのを自覚した。

 

「いえ、痛むわけではないですし、全く問題ありません」

「…ならば、重ねては問わないが…」

 

 幸いレルゲンはすぐに引き下がってくれた。心中でほっと胸をなでおろしながら、ターニャは開いていた新聞を畳んで立ち上がった。

 早いところ話題を変えるべきだった。

 

「おはようございます。折角の休日にいつもと同じ時間でよいものか判断しかねたので起こして差し上げなかったのですが、大丈夫だったでしょうか」

「ああ、構わない。気を使わせたようで済まないな。朝食もまだなのだろう?」

「いえ、いつもと殆ど変わらない時間です。すぐに作りましょう」

 

 ターニャはごく自然にダイニングを去ることに成功した。

 ただ、その背中をレルゲンが難しい表情で眺めていることには気づかなかった。

 

 

 一悶着あったものの、それから何事もなく二人は朝食を終えた。

 調子を取り戻したターニャは、食器を片付けつつレルゲンに今日の予定を尋ねた。レルゲンの動向によってはターニャの予定も変わってくる。

 レルゲンは「私もそのことを話そうと思っていた」と言って答えた。

 

「昼は書斎で本でも読んでゆっくりする予定だが、夜に少し出かけようと思っている」

「夜ということは、夕食はどうされますか」

「ふむ…外で食べるとしようか」

 

 レルゲンの言葉を聞いて、ターニャは家の中にある食材を思い浮かべた。

 

(ならば夜は一人か。適当に質素なもので済ませよう。こういう時、カップ麺でもあれば楽なんだが…)

 

 身体は小さいし、軍務を退いてから食べる量も減った。なんとなれば夕食を抜いてしまってもいいくらいだ。

 しかし、レルゲンはそんなターニャの考えを否定する。

 

「夜は君も一緒に来て欲しい」

「私も、ですか?」

「君の体調が良ければなんだが…」

 

 そう前置きして、レルゲンは言った。

 

「今日は風呂屋に行こうと思っている」

 

 

 




 
ターニャはレルゲンさんがちゅーしてくれないから不安になってしまったようです。
これは男の見せ所ですよ。


次回、お風呂!!!!!!!!!!!!!!


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ターニャとレルゲンの温かいお風呂⑥ 夜のデート

 
長らくお待たせしました。
今回はなかなか難しくて、やたら時間がかかってしまいました。

(漫画版4巻の発売を受けて今一度注意書き)
・この話の中ではバスタブは高級品で、ターニャは生まれて以来湯船に使ったことは一度もない、あるいは幾度もないという体裁ですすんでいきますのでよろしくお願いいたします…
 



 

 

 ついに、ターニャは風呂にたどり着いた。

 

 水の響く音と、立ち込める湯気、湯の香り。念願の浴場を目の前にして、ターニャは堪らない懐かしさを感じていた。

 日本の温泉を知るターニャにとって、帝国の公衆浴場は湯船が浅く、温度もぬるい。しかし、日本人として風呂を好む心はターニャの魂に刻まれている。

 サウナを見向きもせずに、ターニャはひたすら眼前の「風呂」を五感で噛み締めた。

 その傍らには、眉間に皺を寄せたレルゲンが立っていた。

 

 

 

 朝食後、ターニャを連れて公衆浴場に行くなどとレルゲンが言い出した時、ターニャは自分でも理解できないおかしな焦りを覚えた。

 

 レルゲンが風呂を好むという話は聞いたことはない。先日自分が軽はずみに漏らした言葉がレルゲンの提案の根底にあるのは明らかだった。それはターニャにとって、なぜか受け入れがたいことだった。

 だから、レルゲンの言葉を咀嚼し終えたターニャは、思わず尋ねていた。

 

「…それは、先日の私の発言をうけてのご提案でしょうか」

 

 その問を予想していたのか、レルゲンはダイニングの椅子に腰掛けたまま無造作に肯定した。

 

「否定はしない」

「っ……あの時にも言いましたが、ねだるようなつもりでお話ししたわけではありません。それに、私が公衆浴場に行かない理由もお伝えした筈です」

 

 平然と返された簡潔な言葉に、なぜだか苛立ちにも似た感情が湧くのを感じて、ターニャは早口でレルゲンに言い募った。

 しかし、それは決して彼への不満の発露ではない。なぜなら、彼ほどの男がそれでも尚ターニャを連れて行こうと言う以上、それらの問題全てを解決する腹案があるに決まっているからだ。

 彼の提案には何ら不安を抱く必要などないはず。ターニャはそれを理解していた。だというのに、ターニャはなぜか隠しきれないほどの動揺を感じていた。

 しかし、そんな曖昧な感情でレルゲンの提案を曲げることなどできる筈がない。

 

「もし、私のためとお思いになっているのであれば、もっと有意義な…」

「ターニャ」

「っ!」

「私はそんなに気の利かない男に見えるだろうか」

 

 冗談めかした口調だったが、それをレルゲンの口から言わせてしまったことをターニャは後悔した。

 

「っ、決して…そのような…」

 

 焦りのままに迂闊な言葉を口にした。忸怩たる思いにかられるターニャを尻目に、レルゲンは椅子から立ち上がると、立ち尽くすターニャの前で片膝をついて目を合わせた。

 

「ターニャ。もちろん君に可能な限りの配慮をする。だから、今夜、私の気晴らしに付き合ってくれないか」

 

 レルゲンの浮かべた穏やかな表情に、静かな声。

 ターニャは頷くしかなかった。

 

 

 ターニャがレルゲンの提案を受け入れがたいと感じたのは、ある種身勝手な考えからだった。

 そのことにターニャが気づいたのは、二人が会話を終えて、ターニャが食器の片付けをすっかり終えてからだった。

 

 ターニャはレルゲンに大きな借りがあって、彼の身の回りの世話をすることで恩返しをしている。その尽くしようは自分でもよくやっていると思う程だ。

 しかし、恩返しと言えば聞こえはいいが、実際のところ、ターニャが求めていたのは自分がレルゲンの家に居候し養われることを正当化する免罪符である。

 自分は彼に対して貢献できる。だから彼に養われる権利がある。不完全ながらも、無意識のうちにターニャの中ではそう理屈の筋道が立てられていた。

 

 前世から続く確固たるエリート意識を行動原理とするターニャに、手放しで他者の好意に甘えるという発想は存在しない。つまり、レルゲンから与えられた恩とターニャの奉仕とは、いわば取引なのだ。その視点から考えれば、レルゲンの提案はターニャにとって新たな恩の発生、すなわち負債の増加に他ならなかった。

 そして、その負債を返すあてがターニャにはなかった。現在ターニャにでき得る最大限の奉仕は、養われることに対する対価として既に使われている。

 

 取引の不釣り合いは、自分がレルゲンの庇護下にあることの正当性を揺らがせる。ターニャは無意識のうちにそれを理解し、恐れた。

 もはやターニャにとって今の生活は、いずれ失われるモラトリアムと呼ぶにはあまりに惜しいものとなっていた。それが自分の納得できる基盤の上に無いと思った時、ターニャは「漠然とした」ではなく明確な不安を覚えた。

 

 だが、己の心中とは裏腹に結局ターニャはレルゲンの提案を拒否することができなかった。レルゲンに考えを改めるつもりは無く、申し出を固辞するわけにもいかなかった以上、ターニャには受け入れる以外の選択肢は存在しなかった。

 最終的に「どうせ逃れられないならせいぜい楽しんだほうが精神衛生上良いし、不満げな態度ではそもそもレルゲンに失礼だ」と開き直るまで、日中、ターニャは気をもむような心持ちで時を過ごした。

 

 

 

 多少押し付けがましかったとはいえ、この恩はいずれの機会に必ず返す。そんなターニャの決意を知ってか知らずか、レルゲンは宣言通り日中は家の中でのんびりと過ごし、そして夜にはターニャを見事にエスコートした。

 

 指定した時間になると、いつの間に用意したのか、家の前にはハイヤーが待っていた。そうして連れられるままにたどり着いたのは、それなりに高級そうだがドレスコードは無いレストランだった。

 隻腕のターニャを慮ってのことか、案内された席は店内の奥の個室のような場所で、料理もご丁寧にナイフを使わないで食べられるサイズにまでカットされていた。

 湯気を放つスープに、瑞々しい野菜に、肉汁を滴らせる肉。程よく柔らかそうなパンに、たっぷりのバター。香りを鼻腔に吸いこむまでもなく、視覚に飛び込んでくる情報だけでも十分に食欲を刺激する豪勢な料理にターニャは舌鼓をうった。

 考えてみれば、かつてターニャはライン戦線にて「撃墜スコア50の恩賜休暇を使って存分に美味しいものを食べてゆっくりしてやる」と部下に語ったことがあったが、あれからそれが満足に実現した覚えはついぞ無かった。それに対して、現在ターニャは軍務から解放されているし、当時の夢がついに実現したことになる。ただ一つ問題があるとすれば、それらは己の力で手に入れたものではなく、全てレルゲンによって与えられたものだったということだが。

 

 夕食を終えた後、二人はいつものようにしばし語らったが、普段よりも多少饒舌に会話を交わしたようにターニャには思えた。

 酒精の助けもあった。少なくともターニャの知る限りレルゲンはあまり酒を飲まない人間だが、今日はワインを嗜んでおり、ターニャも食前酒を少しだけ口にしていた。

 なお、この時ターニャは「生まれて初めて」アルコールを味わった。ただ、幼女の舌はコーヒーの味はわかるというのに酒の味は理解できなかったらしく、誠に残念なことに10数年ぶりの酒はあまりうまいとは思わなかった。

 酒を口に含んで思わず僅かに顔をしかめたのをレルゲンに微笑ましそうに観察されたのは、ターニャにとっては一生の不覚だった。

 

 

 そして、本日の主目的たる風呂だった。

 

 ターニャはこの期に及んで「人が居ては落ち着けない」という要望がどう取り扱われるのかを知らなかったが、その疑問を敢えて尋ねることはせず、黙ってレルゲンについていった。開き直ったターニャは、レルゲンが如何にしてその問題を解決するのか、ある意味期待すら抱いていた。

 

 結論から言えば、レルゲンは営業時間後の公衆浴場を貸し切ることによって状況を達成した。

 

 いつの間にそんなことをしていたのか、レルゲンは事前に、営業時間の後に利用できるように浴場の管理者と交渉をしていたのだ。しかも、入浴代金は通常の金額で構わないという。

 それは、あまり多くない選択肢の中でも最もスマートな部類の解答だった。

 家にバスタブを設置するのは当然論外。

 帝都内のそこそこのホテルに行けばバスタブも置いてあるだろうが、旅行でもないのに大人の男が少女をホテルに連れ込むという絵面はよく考えてみれば明らかにまずい。

 ターニャはレルゲンに金を使わせることも厭うているが、その点、レルゲンの選択は多少の手間に目を瞑れば使う金銭も少なくて良い。むしろ、これ以上の方法は考えられなかった。

 燃料の節約のためもあり、休日とはいえ浴場はあまり遅くまでは営業していないらしかった。夕食で時間を潰して浴場の営業終了を待つという計画も悪くない。

 自分が逆の立場であったとして、同じことができたかは定かではない。改めて、ターニャはレルゲンという男が至って有能であることを認識した。

 

「お待ちしておりました。中佐殿」

「世話になります。この度は無理な願いを聞いて頂き、ありがたく思います」

「いえ、中佐殿たち軍の方々が日々ライヒのために戦って下さっているのを思えば、この程度のことはお安い御用ですとも」

 

 レルゲンといくらか会話を交わし、ターニャに向かってニコリと笑みを見せて去っていく浴場の主人を見て、やはり無理に断らなくてよかったとターニャは思った。

 ハイヤーに始まり、レストランも、浴場も、考えるまでもなく全て事前に予約や交渉をしていたに違いなかった。それを無に帰したとしたら、レルゲンをどれだけ落胆させたことか。

 

 

 ただ、いざ風呂に入ろうという段になって、一悶着あった。

 

 脱衣所の前まで来る頃には、ターニャは自制しながらもどこか浮足立っていた。

 そんなターニャに対して、レルゲンは微笑みながら声をかけた。

 

「ゆっくりしてくるといい」

 

 それに「はい」と応えて、しかし、ターニャは若干の違和感を覚えた。

 

「…エーリッヒさんは入られないのですか?」

「ん? 私も少しサウナを使おうと思うが」

 

 レルゲンはなんでもないことのように言ったが、ターニャは思わず呆気にとられた。「気晴らしに付き合え」と言って公衆浴場に連れてきておいて、自分はサウナを少ししか使わないというのか。

 気晴らしという言葉がターニャを連れ出すための言い訳だということは明らかだったが、だからといってそれを隠そうともしないのは彼らしくもない事だった。もしかすると、彼は風呂が嫌いだったのだろうか。だとしたら…

 雲行きの怪しくなりつつあるターニャの心中を察したのか、レルゲンは難しい表情を浮かべた。

 

「君は……いや、君は、自分の身体を見られることを厭うのだろう? 幸い浴場はサウナと湯船に分かれている。君の目的は湯船ということだから、私はサウナに行こう。そうすれば君も安心できるだろう」

 

 レルゲンの言葉にターニャは納得した。確かにそのような表現をした記憶があった。だが、いくらか解釈に違いがあった。

 実際には嫌だというよりは「そのような状況ではリラックスできないから風呂に入るメリットが無くなる」という程度のことである。身体を晒すのも、不特定多数の人間ではなくレルゲンだけならさほど気にはならない。進んで見せたいものでは決してないが、どうせ見られて減るものでもないのだ。

 レルゲンが小児性愛者だというならば話は全く異なってくるが、そんなこともない。

 だいたい、早々にあがったレルゲンを待たせながら長風呂を楽しめるほどターニャは無神経ではなかった。

 

「いいえ。エーリッヒさんなら大丈夫です」

 

 ターニャは1から説明する手間を省いて要点を一言で言い表した。

 

「っ…そうか…」

 

 それを聞いたレルゲンはなぜか僅かに動揺を見せたような気がしたが、ターニャとしてもこの一線は引くつもりはなかった。

 ここまで来た以上はレルゲンにも風呂に入って欲しい。そうでなければ困るのだ。ターニャはレルゲンを押し切って脱衣場に飛び込んだ。

 

 浴場は共用でも、さすがに脱衣所は男女別だった。レルゲンの目の届かない場所に来ると、ターニャは自分の頬が緩むのを我慢できなかった。

 脱衣所特有の湿り気のある空気を感じながら手早く服を脱ぐと、浴場へと続く扉を開けた。それと同時にゆったりとした湯気が立ち込め、ターニャの身体を包む。ターニャは一つ深呼吸をして湯気と湯の香りで鼻腔を満たした。

 ほのかにランプで照らされた浴場は石造りで、日本の銭湯とさほどかけ離れていない雰囲気だった。

 

 しばしその場に佇んでいると、ターニャが出てきたのとは別の脱衣所の扉が開く音がした。音の方向を見やると、少し顔を背けながら、ひたひたとターニャへと歩み寄ってくるレルゲンの姿が見えた。

 あまりターニャのほうに顔を向けないようにしようという紳士な心遣いを感じつつも、ターニャは何のてらいもなくレルゲンを視界の中央に据えた。

 ヴァイス中尉達のような鍛え抜かれた前線の兵士には流石に及ばないものの、ひたすらデスクワークで不健康な生活をしている参謀本部にしてはなかなか筋肉質な体つきをしていた。しかし、その目元に険しい表情が浮かんでいるのに気づくと、ターニャはたじろいだ。

 なぜかレルゲンは眉間に皺を寄せ、目を細めていた。

 

「…どうした?」

「い、いえ…」

 

 ターニャは彼の機嫌を損ねただろうかと必死な思いを巡らせかけたが、彼の声はあまりに普段通りだった。ならば何が、と考えて、すぐにターニャはレルゲンが眼鏡をかけていないことに気づいた。

 

 航空魔導師に相応しく抜群の視力を持って生まれたターニャだったが、前世では眼鏡を愛用していた。湯気と明かりの加減で視界不良の浴場である。このような環境で眼鏡の人間がどのように振る舞うか、ターニャは思い出した。

 目が悪いというのなら視線を気にする必要が無いからなお都合が良い。それだけのことだ。嫌な動悸を刻む心臓をなだめながらターニャは己に言い聞かせた。

 レルゲンはそんなターニャの胸の内に気づいた様子はなく、同じ表情のまま一通り浴場を見回した。

 

「私はしばしサウナに行ってくるとしよう」

「はい。ごゆっくり」

「ああ。君も存分にゆっくりするといい」

 

 去っていくその背中を眺めながら、いくらか冷静になったターニャはちくりと胸に引っかかるものを感じた。

 

(…やはり多少は気を使わせてしまうか)

 

 しかし、すぐに一つ頭を振りって考えることをやめる。あの目つきのせいで余計に気になるだけだ。

 

 気を取り直して、ターニャは丁寧に髪と身体を洗い流してから湯船に入った。それが帝国のマナーに即しているかは知らない。どうせ見ている者は居ないのだから構わなかった。

 湯船は多少ぬるかったが、全身を包む湯の心地よさを感じてターニャはため息をついた。不本意ながら、水かさは低かったものの、幼女の身には十分な水量があった。

 

「…はぁ~」

 

 …やはり風呂はいい。

 

 目を閉じて、ターニャはその温もりと、懐かしい水の圧迫感に身を委ねた。

 

 

 

 




 
 
(お風呂はもうちっとだけ続くんじゃ)
 


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ターニャとレルゲンの温かいお風呂⑦ おやすみ

 
 また期間があいてしまいました…
 でも、その分文量は多いですぞ
 



 

 

 

 病院での邂逅以来、レルゲンはターニャ・デグレチャフという少女の様々な表情を見た。

 それこそ、共に暮すようになってからはさらに色々な一面を知ることとなった。

 

 料理が出来る。コーヒーが好き。

 週に何回も教会で熱心に祈りを捧げる信心深さがある。

 外出しなかった日でも毎日欠かさずシャワーを浴びる程に清潔を好む。

 そして、時折見せる無邪気な表情。初めて頬に口づけしてきた時の、怒ったようにはにかむ仕草。

 

 ターニャは化物などではなく、一人の人間だった。

 その事実を知っていたつもりでいて、真に理解してはいなかったレルゲンは、ターニャの見せる新しい一面に心を動かされながら日々を過ごした。

 

 逆に、当初の印象と変わらず、それがかえってどきりとさせられることもあった。

 恒例で夕食後に催される討論はレルゲンにとって非常に刺激的な時間だ。

 その日ごとに異なる様々なテーマについて会話を交わす中で、ターニャは時折既存のものとは全く異なる発想を見せる。ターニャの小さな頭脳から出てくるそれらの思想はどれも奇抜でありながら、不思議な説得力を持っていて、そのたびにレルゲンはかつて自らが恐れた化物の片鱗を彼女の中に見る。

 

 結局、ターニャ・デグレチャフという少女は、他の何者でもない、ターニャ・デグレチャフという少女だった。冷酷な姿も、穏やかな表情も、恐るべきほどに理知的な光を放つ瞳も、どれも彼女を構成する一要素に過ぎず、それら全てを含めて彼女という人間なのだ。

 ありのままのターニャという少女を知った時、レルゲンは彼女に対してどこか不思議な魅力を感じ始めていた。

 ターニャが入院していた頃、彼女の部下たちがかわるがわる病室を訪れていたことをレルゲンは知っている。彼女はあれほど苛烈でありながら部下から慕われていたのだ。

 

 

 

 熱せられた石に水をかけると湯気が立ち上る。しかし、その勢いはさほど強くない。本来の営業時間を過ぎた後であり、木造の内装を施されたサウナはゆるい熱気と蒸気で満たされていた。

 汗を流すには少々物足りないが、長居するには丁度良さそうな塩梅だった。

 

 レルゲンは腰掛けに座り、天井を見上げて大きくため息をついた。

 慢性的なだるさ、頭痛、目の疲れ。働き詰めの不健康な生活で溜め込まれた疲労が、その一息の中に溶けて身体の中から出ていくような気分だった。

 充実した休日もこれで終わり、明日からまた軍務が待っている。

 

「………」

 

 しばし放心した後、レルゲンは物思いに耽りはじめた。レルゲンが思うのは、やはりターニャのことだった。

 

 今日、レルゲンはかつて無いほど沢山の時間をターニャと共有した。

 そして、レルゲンの記憶の中のどの場面を切り取っても、ターニャは険のない、柔らかい表情を浮かべていた。

 レルゲンと暮らすに従って、ターニャは急速に「普通」に近づいている。いや、努めて「普通」を取り戻そうとしている、と表現するべきか。

 

 レルゲンがそう考えるようになったのは、ターニャが朝と夜のキスをし始めたのがきっかけだった。

 

 

 ターニャが初めてキスをしてきた時、レルゲンは強い動揺を覚えた。

 単純に、予想だにしていなかったというのもあるが、それ以上に、ターニャのその行為は、レルゲンにとって特殊な意味を想像させたからだ。

 

 ――結果論ですが、こうして戦争が始まった以上、やはり孤児院で過ごしていたところでろくな仕事などなかったことでしょう。私が顔を見知っている院の少女達は今頃まさに、妾か娼婦か、選択を迫られているやもしれません。

 

 「軍属以外の選択」について、かつて病床のターニャにレルゲンが尋ねた時、彼女が語った言葉だ。その衝撃的な内容とは裏腹に、ターニャの声は自明の理を語るかのように静かなものだった。

 その時、レルゲンはターニャの言葉を否定できなかった。

 帝国という国は富めるものと貧しい者との差がはっきりしており、今の御時世、確かに孤児院の出の少女に与えられる仕事などそう多くはないだろう。妾か、娼婦か。それが全てではないにせよ、孤児にとってそれらの選択肢は常に視界の中にあった筈。

 

 作り物の笑顔と品のない言葉で男に媚を売り、はした金をせびって生きる? これほどの英邁が?

 その想像が脳裏をよぎった瞬間、レルゲンは吐き気を催した。

 

 当時、レルゲンはまだターニャを忌避する感情と完全に折り合いをつけられていたわけではなかった。しかし、ターニャの事を恐れる一方、レルゲンはターニャの能力を認めていたことは確かだった。レルゲンにとって、ターニャはまさしく恐れるに足る存在だったのだ。

 彼女ほどの才能があれば、何かしらの別な道があった筈だとは思う。しかし、ひとつボタンをかけ間違えれば、そうなっていたのかもしれない。

 その日の会話は、消えないわだかまりをレルゲンの胸に焼き付けた。

 

 仕事に出る男の頬に娘がキスをする。ありふれた朝の風景である。しかしレルゲンの知る限り、ターニャはそのようなことをする人物ではない筈だった。ならば、ターニャがその行為に及んだ意味とは一体何か。

 レルゲンが嫌な胸の痛みを思い出したのは当然の成り行きだった。

 

 レルゲンはターニャを世話し、養っている。その事実を彼女が「そのように」解釈しているのだとしたら。そうであるのなら、一刻も早く誤解を解かなければならない。

 焦燥にかられつつも、レルゲンは努めて冷静を装いながらその行為の意図を問いただした。

 すると、レルゲンの胸中など知る由もなかったであろうターニャは、まるでデリカシーのなさを責めるかのような目でレルゲンを見据え、その透き通るほどに白い頬をわずかに紅色に染めながら言った。

 レルゲンは、呆気にとられた。

 

「…シスターがっ、言っていました。 親しく共に暮らす人とは、こうするものだと」

 

 その言葉と表情には、少しの卑屈な気配も含まれていなかった。それは、レルゲンの心配がまるで的外れなものだったということを証明していた。

 ならば、その唐突な口づけの正体は何か。

 それはまさしく、与えられるべき愛情を与えられず血と硝煙にまみれて生きてきた少女の、なんとも不器用な愛情表現に他ならなかった。

 

 「お嫌でしたら、もう二度としません」とどこか焦ったように言うターニャにあわてて弁解しながらも、レルゲンは全身の力が抜けるような感覚を味わったのをよく覚えている。

 あの時、レルゲンはついにターニャ・デグレチャフという少女の正体を見つけたのだ。

 

 それ以来レルゲンは、少しずつ変わっていくターニャという少女を見つめ続けた。

 

 ターニャは、まるであの年頃の普通の少女が家族に対してするように振る舞うようになった。それは何でもないことのようであって、特別なことだった。

 

 ターニャは毎朝、そっと揺り動かしてレルゲンを起こしてくれるようになった。

 ターニャはレルゲンを「エーリッヒさん」と呼ぶようになった。

 ターニャはレルゲンを笑顔で見送り、出迎えてくれるようになった。

 ターニャは朝と夜にレルゲンの頬にキスをするようになった。

 そして先日、ターニャはついにささやかな我儘を漏らした。

 

 それはまさしく、明らかに特別な存在だった彼女の「平凡への願い」。それが一つずつ花弁を開くように姿を表していく過程なのだとレルゲンは理解していた。

 戦いを厭い、死を恐れた少女は、恐る恐るながらも望むものを一つずつ手にしている…

 

 

 

 額から流れた汗が瞼の上を横切り睫毛に絡む感触で、レルゲンは意識を浮上させた。

 汗が目に入る前に腕で拭う。ずいぶんとぼんやりしていた気がした。

 強い湿気でいまいち判然としないが、全身がじっとりと汗ばんでいるような感触があった。

 

(…これ以上は長居になるか)

 

 浴場で汗を流し、少し湯に浸かってから上がろう。

 レルゲンはのっそりと腰を上げた。

 

 開放した扉から流れ込んでくる浴場の空気は湿気と熱気を帯びていたが、サウナに比べれば涼しく爽やかなものだった。

 サウナを出たレルゲンは、軽く湯を浴びて、湯船を目指す。レルゲンは無意識のうちに、浴場内にターニャの姿を探していた。風呂を前にしてそわそわとしていた彼女のことだ。まだ湯に浸かっていることだろう。

 彼女から近すぎず、遠すぎない距離に。レルゲンは意識にとめないほど自然にそう考えていた。レルゲンはターニャにうっかり近寄ってしまわないよう、遠くから湯船を眺めた。

 

 ターニャは人に身体を見られる事を良しとしないらしい。

 古式ゆかしい貞淑な貞操観念を持っているのか、あるいは傷を見られることを厭うのか、それとも単に注目を集めるのが嫌なだけか。ターニャは教会つきの孤児院で育てられた人間で、不用意に肌を晒す事は決してなく、そして、衣服をまとわない浴場では彼女の姿が人目につくことも確かだった。

 あまり深く追求することは憚られたため、ターニャが実際のところどう考えているのかはわからない。しかし、だからこそ、脱衣所の前でターニャが言い放った一言の意図がレルゲンには測りかねていた。

 

「エーリッヒさんなら大丈夫」

 

 その言葉には一体どれほどの信頼が込められているのだろうか。嬉しくもあり、不安でもある。

 レルゲンはターニャの嫌がることはしたくない。しかし、そこまで言わせたからには、ある程度は並んで湯船に入る姿勢を見せなければ彼女に対する礼を失することになる。

 

 視界が悪いとはいえそもそもが狭い浴場の中の事である。レルゲンは難儀しながらも、すぐにターニャの姿を探し出した。

 レルゲンはひとつ目をこすった。

 レルゲンが見つけたのは、湯船の片隅で、浴槽のふちに小さな頭をもたげている姿だった。

 

「…っ!」

 

 その脱力した姿勢は、くつろいでいるというよりは、もっと違う意味をレルゲンに感じさせた。

 

 極稀にだが、風呂やサウナでは人が倒れると聞く。

 レルゲンは己の心臓が嫌な鼓動をひとつ刻んだのを感じた。

 

 ただ、それが杞憂であることはすぐに分かった。

 近づくと、無造作に寝かされたターニャの頭が、丁寧に畳んだタオルを枕にしていることにレルゲンは気づいた。そして、湯船側にまわってその顔を覗きこんでみれば、ターニャは実に穏やかな表情を浮かべて目を閉じていた。

 湯船はサウナをあがったばかりのレルゲンの体には想像以上にぬるく感じられた。この分なら、のぼせ上がって倒れたということもない。

 

 肘から先のない、か細い左腕が視界の端に映って複雑な気分を覚えたが、レルゲンはそれを飲み込む。

 

「…ターニャ。おい、大丈夫か」

「………」

 

 肩を軽くゆすると、ターニャはすぐに瞼を開いた。そして、なぜ目の前にレルゲンが居るのか理解できていないかのように目を瞬かせ、すぐに声をあげた。

 

「もっ、申し訳ありません…っ」

 

 慌てふためくその様子を見てひとまず安堵を覚えながら、レルゲンは新鮮な気持ちになった。ターニャのこれほど無防備な姿を見るのは初めてだった。

 思えば、そもそも彼女の寝顔を見るのも初めてのことではないだろうか。

 

「体調に問題はないか」

「は、はい」

 

 尋ねながら、レルゲンはターニャをじっと観察した。

 肌は湯の熱気でほのかに赤みを帯びていたが、正常の範疇だった。おかしなな発汗もなく、呂律も十分回っているように見えた。

 この分あらば、本当に体調不良ということもないだろう。

 

「居眠りをしていただけで、何も問題は…」

「ならいい。…全く、驚かせないでくれ」

 

 彼女が偽りの申告をしていないことを確認すると、レルゲンは膝立ちになっていた湯船の中に腰を下ろす。ターニャと並んで湯船に浸かり、レルゲンは一つため息をついた。

 

 今更敢えて遠くに陣取るのも不自然だ。近すぎず遠すぎずなどと考えていたが、計画がすっかり狂った。

 

「しかし…」

 

 心地よくない沈黙が二人の間に満ちるそうになるのを感じ、レルゲンは湯船のふちに背をもたれながら再び口を開く。

 

「居眠りをするほど気に入ってもらえたなら、こうして君を誘った甲斐もあるというものだな」

 

 喋りながら、自分の言葉を聞いたターニャが僅かに身構えたのをレルゲンは見た。

 

 近頃気づいたことだが、彼女は些細なことで不安を覚える人間だったらしい。ことにレルゲンが関わる事ではそれが顕著だった。

 人の言葉に対する過敏な反応。そうやって他愛もない失点すら潰していくことが、幼い彼女が軍内で立場を確保するために身につけた処世術だったのかもしれないとレルゲンは思う。あるいは、その原点は孤児院での生活にまで遡るのかもしれない。利口な子は孤児院ではさぞや重宝されたことだろう。

 しかし、ターニャはもはや孤児院の子供ではないし、軍服を身に纏っているわけでもない。

 …レルゲンに気に入られようと躍起になる必要もない。そのような気遣いは、家族には要らない。

 

 だから、ターニャが何かを不必要に負い目に感じようとしているのを察したレルゲンは、先手を取ってそれを否定することにした。

 

「君に喜んでもらえれば、私も嬉しい」

「……っ」

 

 曲解のしようのない直接的な言葉に、ターニャはまごまごと落ち着かない様子を見せた。ターニャはレルゲンの顔色を気にするくせに、レルゲンからの好意や善意を受け止めるのは下手だ。

 

(まあ、今はそれでいい)

 

 ターニャの自責を押し込めたのを見てとり、レルゲンは話題を変えようと思って、ふと思いついたことを口にした。

 

「…思えば、君を起こすのは初めてかもしれないな」

「そうでしょうか…」

 

 急に話の内容を変えたからか、ターニャの相槌には訝しむような気配が含まれていた。だが、レルゲンは敢えてそれを気にとめない。

 湯につけた手を上げて、「ほら」とレルゲンは言う。

 

「君は朝が早いから、いつも私が起こされる側だろう?」

「…そうですね」

 

 からかうような色も含んでいたレルゲンの言葉だったが、それに対するターニャの切り返しは思わぬものだった。

 

「朝にエーリッヒさんを起こすのは大事な私の仕事ですから」

 

 レルゲンはわずかに目を見開いた。

 何気なく口にされたその言葉は、すなわち彼女が心からそう思っているということの証明だった。

 大事な仕事。その言葉に込められた感情は…

 

(…いや)

 

 即座に追求を始めようとする心を押しとどめ、レルゲンは頭を振った。今は素直にターニャの言葉を喜ぼうと思った。

 

「ありがとう」

「…!」

「私はいつも、君に感謝している」

「………」

 

 ターニャはレルゲンの発言を少し吟味するようなそぶりを見せた後、ふいに観念したように言った。

 

「エーリッヒさんに喜んでもらえれば、私も嬉しいです」

「……ふ、言うじゃないか」

 

 

 

 

 それからレルゲンはターニャと他愛もない会話を交わした。

 温かな湯に身を委ねてどこか弛緩した気分の二人の口からは、普段二人が話すような小難しい題は出てこなかった。大した話題もない。しかし、不思議と話すことは尽きなかった。

 いい加減長湯だと風呂から上がっても、帰りの車の中で。果ては家に帰り着いてからも、二人は時間の許す限り話を続けた。なぜだか、そういう気分だった。きっとターニャもそうだったのだろう。

 二人の止めどもない会話は、夜もふける頃、ターニャが就寝の準備のために部屋へと下がったことによってようやく終わりを迎えた。

 

 ダイニングでターニャと別れてから、レルゲンは書斎で一人、ぼんやりと煙草を咥えて、開いた本を読むともなしに眺めながらくつろいでいた。咥えているといっても、煙草に火はついていない。そもそもターニャが家に来て以来、レルゲンは家の中で煙草を吸ったことはない。

 

 レルゲンは思う。今日一日でどれだけターニャと触れ合ったことだろう。

 

 普段、レルゲンがターニャと接する時間は実は短い。1日の大半が軍務のために外出しており、休暇も今日が初めてなのだから当然といえば当然だが。

 おかげで、この一日だけでもまたターニャの新たな表情を見つけることができた。

 

 ターニャが浴場で居眠りしていた時の事をレルゲンは思う。

 あの時は意識にあげるだけの余裕はなかったが、ゆっくり思い返してみれば、その寝顔は実に年相応な無垢で愛らしいものだった。

 それに、ワインを口にした時の何とも言えないがっかりしたような顔…

 

 レルゲンが己の記憶に浸っていると、書斎にノックの音が響いた。

 

「…エーリッヒさん」

「ん…入っていいぞ」

「失礼します」

 

 続いて聞こえてきた声に返事をすると、寝間着に着替えたターニャが部屋に入ってきた。

 レルゲンと違って片目でも十分な視力のあるターニャに見つからないよう、レルゲンは指の間に挟んでいた煙草を左手の掌の中に隠した。

 ターニャの視線が手元を追うように動いたが、特に疑問を持つこともなかったのか、追求されることはなかった。

 

「そろそろ良い時間ですし、寝ようと思います」

「ああ」

 

 言いながら、ターニャは書斎机を回り込んでレルゲンへと歩み寄ってくる。ターニャの背丈は、椅子に座ったレルゲンとさほど変わりない。ターニャが目の前に来ると、二人は同じ目線の高さで向き合うことになった。

 ここでターニャがレルゲンの頬にキスをして、おやすみなさいと言って寝室に帰るのがいつもの習慣だ。

 レルゲンはその時を待った。

 

「………」

 

 しかし、レルゲンの前まできたターニャはいつもとは異なり、足を止め、そのまま動かなくなった。その瞳には、何かを思い出し、ためらうかのような色が浮かんでいた。

 

「…どうした?」

 

 何か障りがあったか。そう尋ねると、ターニャは僅かに口ごもりながらもターニャは何かを決意したように息を吸い込んだ。

 そして、いつかの日の朝、レルゲンが玄関で見たのとよく似た表情を浮かべて言った。

 

「エーリッヒさんからは、していただけないのでしょうか」

「……!」

 

 何を、とは問い返さなかった。この状況ですることと言えば一つなのだから。

 確かに、レルゲンからキスをしたことは無かった。その理由は、ターニャが初めてキスをしてきた時にレルゲンが覚えた危惧と無関係ではない。

 

 それはひとえに、ターニャを守ろうという思いが故のことだった。しかし、それが彼女を不安にさせていたのだとしたら。

 レルゲンは目の前の少女の蒼い瞳を見つめた。

 

 僅かな時間が二人の間をすり抜けた。

 レルゲンは必死に何かを考えているつもりでいて、何も思考が働いていなかった。受け入れるべきか、それとも形はどうあれ拒否するべきか、全くもって決め兼ねていた。

 しかし。

 ターニャが再び口を開こうとするのを認識した瞬間、レルゲンの右腕はそれを阻止するために無意識の内に動いていた。

 

「…っ」

 

 抵抗する間もなく己の頬に添えられた指に、ターニャは目を見開いた。この期に及んで、ようやくレルゲンは己のしたことと、すべきことを理解した。

 

 覚悟を決めたレルゲンは、ターニャの頬に添えた指を離さないまま椅子から立ち上がり、腰をかがめ…そして、指を添えたのとは逆の頬にそっと唇で触れた。

 ぴく、とターニャの体が跳ねるのを感じた。

 

 レルゲンが体を離すと、ターニャはレルゲンの唇が触れた場所に手で触れながら、また「初めて見せる表情」を浮かべていた。

 

 

「…おやすみ」

「お、…おやすみなさい」

 

 

 

 

 

 扉が閉まり終えてから、レルゲンは唇を手でおさえながら、どさりと椅子に座り込んだ。

 まだ指と唇に感触が残っていた。

 その感触を振り払おうとして、己の唇に触れているのがターニャの頬に触れていた右手の指だということに気づき、はっとしたようにどける。

 

 レルゲンは頭をがしがしと掻きながら、机の木目を睨みつけた。

 今の今まで左手で握りしめていた煙草が崩れて机の上に散らばった。

 

(くっ…頬へのキス程度のことで、私は一体何を動揺しているんだ…!)

 

 

 触れたその頬は、柔らかく、すべらかな絹のようだった。

 

 

 




 
レルゲンさん視点はまるで少女漫画のようですね?
長かったお風呂編も名残惜しいですが今回で終わりです。 
ご満足いただけたでしょうか… 
 


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レルゲンの不在① ぼんやり


またしても遅くなりました…もはや次こそは早くなどとは言いませんが、ちゃんと完結はさせますのでどうか気長にお待ち下さい。
 


 

 

 穏やかな夜。レルゲンは己の書斎にて古ぼけた本を開いていた。

 

 指先でひとつページを捲ると、紙の擦れるかすかな音が耳に届く。

 年季の入った紙面の上には、平易で格式を感じさせない言葉が印刷されている。それはいわゆる大衆向けに書かれた娯楽小説だった。

 内容はサイエンスフィクション。児童文学というほど幼稚ではなく、しかし子供にも親しめる程度には噛み砕かれている。

 かつて、遠い昔、レルゲンはこの本を愛読していた。

 初めてそれを手に取った時、その内容を読み解くにはレルゲンはまだ幼かった。しかし、少し背伸びしながらもその本を読み終えたという経験は、大きな感動と達成感を伴うものだったことをレルゲンは覚えている。読書、ひいては勉学の楽しみを知った原体験だ。

 成長するにつれ、下らない本を好んだものだと恥じることもあったが、それでも手放したりすることはなかった。今ではなんとなく読み直してみることもある。そんな本だった。

 

 ふいに、レルゲンは己の住処に招いた少女のことを思う。この本を初めて読んだ当時の自分と、軍へと志願した時の彼女とは、同じ年齢だった。

 自分が他愛もない物語を読み解いて喜んでいた頃、彼女は大人の中にあって尚ひときわ優秀な成果を挙げていた。今更敢えて言うまでもなく彼女の異才は明らかである。

 しかし。レルゲンは考えずにはいられない。

 彼女の人生はいまだ短く、そしてそのほとんどが戦火に彩られている。果たして彼女は心震わせるような体験をしたことがあるのだろうか。

 

(…きっと、無い)

 

 レルゲンは椅子の肘掛けに肘を置き頬杖をつきながら、小さくため息をついた。

 幼年期を孤児院で過ごしそのまま軍属となった彼女の世界は徹底的に閉じている。常に何かに餓え、脅かされながら生きてきた中で、いかなる喜びや感動が存在しただろうか。少なくとも彼女がそれを口にしたのをレルゲンは聞いたことがない。

 仮にその機会があったとして、それを理解できる感性は彼女の中には恐らく存在しないのだろう。なにしろ、育まれることがなかったのだから。

 こうして考えてみれば、かつてレルゲンが忌避していた彼女の気質は、まさしくその生い立ちから形作られたものに他ならない。ここにレルゲンの過ちと後悔がある。

 レルゲンは、衣食住などの即物的なものだけではなく、もっと彼女の心を満たせる何かを与えてやりたかった。休日を共に過ごしたのをきっかけに、その思いはますます強くなっていた。

 

「………」

 

 レルゲンは視界の中央に据えられた文章を再認識した。いつの間にかレルゲンの意識は完全に本から離れていた。結局、本を開いてからほとんど読み進めていなかった。

 まあ、どうせ真剣に読もうと思って手に取ったわけでもない。自分自身に言い訳をするように思いながらレルゲンは本を閉じた。そしてしばし表紙を見るでもなく眺めた後、本を机の上に置いて椅子から腰を上げた。

 その時、ふいに部屋にノックの音が響いた。

 

「エーリッヒさん」

 

 扉越しに聞こえてくるくぐもった声を聞き、レルゲンは、そんな時間だったか、と思った。

 返事をすると扉が開き、先程までレルゲンの思考を占領していた少女が部屋に入ってくる。用件は言わずとも互いに理解していた。就寝する前の挨拶だ。

 規則正しく生活している彼女はおおよそ決まった時間に現れることをレルゲンは知っている。

 

 寝間着をまとった少女はレルゲンと向かい合う位置に立つと、青い瞳で見上げてくる。レルゲンは腰を屈めると、その頬に指先で触れた。

 挨拶の一環として頬に口付ける行為は二人の間ですっかり習慣となっていた。以前は少女からレルゲンにする一方だったが、今は朝と夜でどちらからするのかが決まっている。夜はレルゲンの番だった。

 指先に伝わる感触の心地よさについ指を滑らせると、少女はくすぐったそうにぴくりと首を動かした。相変わらず白い肌だったが、また少し肉付きがよくなった。それを嬉しく思いながら、レルゲンはそっと反対の頬に口付けた。

 レルゲンが体を離すと、緊張がとけたように少女の体から力が抜けるのがわかった。自分がされるのにはまだ慣れないらしい。微笑ましい気持ちを覚えながら、レルゲンは夜の挨拶を告げる。

 すると、少女は僅かに頬を染めながらなんとも言えない表情でレルゲンを見上げていたが…ふいに、柔らかい笑顔を浮かべた。

 

「……おやすみなさい」

 

 その満足げな笑みは、どうしてかレルゲンをどきりとさせた。

 

 波紋に満ちたレルゲンの胸中をよそに、少女はひらりと身軽に部屋を後にする。

 レルゲンはしばし立ち尽くしてから、また椅子に腰掛けた。即座に就寝前の身支度を始める気にはなれなかった。

 僅かに紅色に染まった少女の頬を思い返し、レルゲンはどうしてか、自分の頬が熱を帯びるのを感じた。

 いつも少女は恥ずかしがってかそそくさと去っていってしまうのだが、今日は違った。レルゲンからキスをして少女があのような表情を浮かべたのは初めてのことで、そのことがやけにレルゲンを動揺させていた。

 

 

 

 

 

 ふと気づくと、レルゲンはうっすらと煤煙の香る部屋の中に居た。

 すぐ傍の窓から見える景色は目まぐるしく流れていく。レルゲンは自分が汽車に乗っていたことを思い出した。

 

 それと意識すると、座席を揺らす振動や線路を走る車輪のけたたましい音が体に伝わってくる。

 小脇に抱えた鞄がちゃんと元あったように存在するかを無意識に確認して、レルゲンは一つため息を付いた。

 

(…夢、か。なんという夢だ)

 

 他に乗客のほとんどいない汽車の客室。レルゲンは見るともなしに周囲を一度見まわしてから視線を窓の外へと戻した。しかし薄暗くなり始めている風景には何の感慨も見いだせず、その脳裏には夢の中で見た少女の顔が浮かんでは消える。

 

 レルゲンは上からの命令によって帝都を離れ、方面軍司令部へと赴いている最中だった。

 帝都の家には留守を任せたターニャが一人。気が進まないとは思っていたが、夢にまで見るとは。

 軍属である以上、指令があればその通りに行動するのは当然だ。しかし今回の旅行に関しては、レルゲンもいささかもやもやと煮え切らないような思いを感じざるを得なかった。

 

 ターニャは並の大人をも軽く凌駕するだけの知性を持っている。しかし、演算宝珠を取り上げられたその体は、不具を抱えた幼い少女以外の何ものでもない。体調が思わしくないというのは彼女が軍務から離れるための言い訳だが、それも真っ赤な嘘というわけではなかった。

 はっきり言って、レルゲンは自分の目が届かないところにターニャを置いておくことに不安を感じていた。

 しかし、だからといって彼女を任せられる場所に心当たりなど無かった。原則を考えれば病院に預けるというのが筋だろうが、一度退院しておきながら今更病院に戻すというのも手続きが不審だし、下手を打てば彼女の正確な病状を軍に把握されてしまう可能性もあった。

 …それにレルゲンには、ここでひとたび手を離せばもうターニャは二度と自分の元には戻ってこないのではないかという予感があった。

 結局、レルゲンはターニャを一人家に残して帝都を発った。

 

「………ふん」

 

 レルゲンは自嘲するような思いでひとつ溜息をついて目を閉じた。

 寝ても覚めてもターニャのことばかりを考えている。そのことが急に滑稽に思えた。ターニャという存在は、もはやそれほどまでにレルゲンの奥深くまで根を下ろしていた。

 

(どうせ汽車を下りるまではまだしばらく時間がある。寝てしまおう)

 

 考えるのをやめようと思いながらも、レルゲンは思う。

 そういえば、かつてこれほど誰かのことを親身に想ったことなど、一度たりとてあったろうか。

 

 

 

 

 

 

 その朝、ターニャはいつも通りの時刻に目覚めた。

 

 朝の眩しい陽光と鳥のさえずりを感じながら、大きく伸びをして体をほぐし、いつものように手早く服を着替えて部屋を後にした。

 これだけならばいつもと同じ朝だが、心持ちは全く違っていた。レルゲンが居ないのだ。

 

 レルゲンが数日がかりの出張に出たのが、昨日の昼の事だった。

 

 元々レルゲンは参謀本部所属ではあったが帝都に居ないことの多い軍人だった。ターニャ自身も彼と何度か前線で顔を合わせた記憶がある。参謀本部人事部として各方面軍にも顔が利く若手で、それなりのプロジェクトを任せて単独行動をさせても問題のない有能な男だ。さぞかし便利に使われることだろう。

 ターニャがレルゲンの家に転がり込んでからひと月近くの間レルゲンが家を離れたことは一度もなかったが、この度与えられた指令によって、レルゲンは数日間の出張を命じられた。

 家主の不在という事態に一体どうなることかと気をもんだターニャだったが、幸いと言うべきか、ターニャはレルゲンの信用を得られていたらしく、彼の出張中にも家を使って良いとの言葉をもらうことができた。

 家主の居ない家に居座るのもそれはそれで気が引けるが、今更どこかへ行けと言われても困る。ターニャはありがたく家に居座らせてもらうことにした。

 留守を任せると言ってくれた彼の信頼を裏切らないよう、ターニャは完璧に留守番をこなして見せると決意した。

 そうして迎えたのが、この朝だった。

 

 レルゲンが出張に行って人が一人少なくなっただけのはずが、家事はと言えば一人分以上に減るのだということを昨夜ターニャは痛感した。

 考えて見れば当然のことである。レルゲンのために丁寧にしていたものが自分一人が過ごせればいいとそこそこで済ませるようになるのだから、かける時間が全く変わってくる。

 レルゲンの家に居候して以来、日々ターニャの日常は家事と共にあると言ってもよい。家事のない空き時間もそれなりにはあるが、飽くまでそれらは家事の間にあるものだった。しかし、その家事がそもそもなくなったとなると、途端にターニャのスケジュールは色合いが変わる。昨夜からターニャはこのことに頭を悩ませている。

 

 ターニャは自分の置かれた立場を理解している。今はレルゲンの庇護によってモラトリアムを得ているが、いずれそう遠くはないうちに己の身の振り方を決めなければならない日が来る。全ての空き時間は己の将来を少しでも良くするために使うべきであり、それをわかっているからこそ、ターニャは日々読書や論文の執筆に励んでいた。これはもはや義務であると言っていい。

 重ねて言うと、レルゲンのために時間を使う事もまたターニャにとっては義務である。

 すなわち、ターニャの1日は殆どが「すべきこと」で埋め尽くされている。そしてターニャはこれに満足を覚えていた。

 真の幸せは義務の甘受のなかにあると、とある飛行機乗りの文豪は語ったという。ターニャはこの言葉を自分なりの人生観に当てはめ、真理であると考えている。

 ターニャにとって人間とは組織の中にある精密な歯車であり、その克明な働きを過不足なく評価されていくことこそが人生だった。

 

 しかし今、ターニャはその「人生の幸福」に綻びを感じていた。

 

 論文の執筆にせよ読書にせよ、自己研鑽というのはそれなりの体力を要する作業だ。休息なしに長時間続けるのは効率が悪く、今のターニャの体力を考えれば実質無理と言っていい。

 そしてこのような状況になって初めて気づいたが、ターニャにとって家事や対話を含めたレルゲンのために使う時間は、義務でこそあったが、同時に良い息抜きとなっていた。

 つまり、レルゲンが居ない今、ターニャは自分の意志で作業を中断し、さりとて他に何かすることがあるわけでもない無為な休息を得る必要がある。それはすなわち不本意にも義務から開放される瞬間である。

 それを認識した瞬間、ターニャの胸の中に、ここ暫く蓋をしていたはずの焦りという感情が顔を覗かせた。

 

 

 朝の準備を程々に済ませると、ターニャはぼんやりと考えごとをしながら、適当に作った朝食を何の感慨もなくもそもそと口に運んだ。

 料理は美味くも不味くもなかった。そのように作った以上、当然のことである。

 

「………」

 

 こんな日に限って、失くした腕の傷がしくしくと痛んだ。

 それは猛烈に痛みというわけではなかったが、いかにも不愉快な痛みだった。

 

「痛い」

 

 どうせ誰も聞いていない。試しにターニャは口に出してみた。しかし、何かが変わることもなかった。

 ターニャはため息をついた。

 

「あぁ、いたい…」

 

 

 

 

 




 
  
夫が出張に行ってしまって寂しい新妻です。


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レルゲンの不在② コーヒーブレイク

今回は少々退屈かもしれません
テーマの導入はどうしてもこうなってしまう…

ところでアニメ版帝国軍の階級章は上向きの肩章しかないから、ターニャの身長だと目の前の人間の階級が全くわからないんじゃないかと思っているのは自分だけでしょうか
 
 


 

 

 食料の買い出しに行く必要がある。

 レルゲンが家を出て3日目。朝食の片づけを終えたターニャは、右手を顎に添えながらすっかり寂しくなった食料庫を眺めていた。

 

 

 生鮮食品とはつまり魚や肉や野菜のことだが、その備蓄が底をついた。

 というのも、冷蔵庫が満足に普及していないこの時代、生鮮食品の保存方法は、加工してしまうか、さもなければ「涼しくて虫やネズミのたからない場所に置いておく」という原始的な手段しか無く、あまり買い置きすることができないのだ。

 それらを食卓に並べたければ基本的には逐一市場で入手しなければならないわけだが、3日間家に閉じこもっていたターニャは順当にそれらを使い切った。

 

 およそ一週間に及ぶレルゲンの不在中、外出は必要最低限にとどめるべきだとターニャは考えている。しかし同時に、生鮮食品を手に入れるために一度だけ外出することも当初から心に決めていた。それは、ターニャが生鮮食品の摂取にこだわっていたからだ。

 

 レルゲンが帰ってくるまでターニャが一歩たりとも家から離れずに過ごすことは、実は可能である。

 日持ちのする、野菜の漬物と腸詰の燻製、すなわち帝国自慢の保存食ザワークラウトとヴルスト(ソーセージ)さえ食べていれば人間簡単には死なない。どこの文化でも伝統食と呼ばれるものは伝統になりえるだけの素養というものがあるのだ。他にも発酵食品や、缶詰、瓶詰め、油漬けなどの保存を目的とした加工食品は沢山流通している。

 にも拘わらず生鮮食品にこだわるのは、一言でいえば栄養のためだ。

 軍で生活していた頃は不摂生も仕方なしと諦めていたが、今は食事を選べるのだから、思う存分体によいものを摂取しようというわけだ。

 ターニャは前線から退いて以来、栄養というものについて並々ならぬ関心を寄せていた。

 

 そもそもターニャは元より己の体格に大きな不満を感じていた。

 演算宝珠の補助があればよく鍛えられた軍人とも比肩できるだけの身体能力が得られたから、任務で苦労することは無かった。だが、それでもやはり体格を理由に侮られることはあったし、身長が足りずに不自由することも多かった。

 翻って今、ターニャは身体に欠損を負い、演算宝珠を取り上げられた。超一流の魔導師とはいえ、演算宝珠を持たないターニャは「少女という枠組みの中で言えば多少優れている」程度にすぎなかった。その上で身体のことを加味すれば、ターニャの運動力は己の理想である健康な成人男性などとはもはや比較自体が成り立たないほどに劣る。

 年齢的に女子の身長が最も伸びる時期もいつのまにやら過ぎようとしているのだ。いまさら前世と同程度の体格になりたいなどとは言わないが、せめて同性の中で中柄程度にはなりたい。ターニャは真剣に悩んでいた。

 これからの人生をどう生きるにせよ、可能な限り体格には恵まれていたほうがいいにきまっているのだから。

 

 

 

 

 市場は小さな店舗が林立し、活気のなくなっている帝都の中でも多少は人気があった。

 

 店舗と人の間を縫うように歩き、ターニャは複数ある目的の店を廻っていった。

 ターニャは市場があまり好きではない。市場の雑然とした雰囲気自体元々好まなかったが、今となってはますます得意じゃなかった。現在の立場になって以来、市場に来るたびに必ず何かしらの不満を抱いた。この日もそうだった。

 

 大柄な男がぼんやりと周囲を見回しながら前から歩いてくる。何か探しものでもしているのか、ターニャのことが視界に入っていないらしく避ける素振りはない。

 男をするりと避け、ターニャは肩からかけた鞄の位置を直しながら口の中で舌打ちをした。

 

 ここが戦場であれが私の部下なら、死ぬ前に殺してやっているところだ。

 

 「………」

 

 まあ、戦場に赴くことなど、もう二度とないのだが。

 ターニャは、ふんとため息をついた。

 死ぬだの殺すだの、他者と暴力を交わすことを誰かに命じられることも無い。

 

 今更のように思う。ターニャは軍隊が嫌いだったが、同時に好ましくも感じる部分があった。

 なにしろ軍隊は何もかもが整然としていた。所属する者はすべからく選別と訓練を経ており、共通した流儀を持っていた。何より、厳格な規律と、その規律を守らせる強制力があった。もちろん例外はあったが、人間を歯車にしてできている組織をシステマティックに運営するのには限界がある以上、多少は許容しよう。

 己の命の危険さえなければ、もしかしたら軍隊はターニャにとって天職だったのかもしれない。

 それに引き換え、この市場の混沌たるや。

 

 ターニャの目の前で、肉屋の店主が注文された品を取り出し、取り分け、包装し、会計をしている。その手際はそれなりに良かったが、それでも前世のスーパーマーケットに比べればなんとも遅々とした買い物風景だった。

 ほとんど売り場ごとに数人の店員が居て、そのくせ手間は多くしかも遅い。なんという無駄の多さか。

 これが気に入らないのだ。ターニャは顔をしかめる思いだった。

 

 スーパーマーケットでは、品物は全て既に包装が済んだ状態で陳列されていた。さらに、野菜でも肉でも、すべての会計を一つの会計所(レジ)で済ませることができた。その気になれば一度も口を開かずに買い物を終えることができたというのも、今となっては人と接するのが億劫なターニャにとってはいささか羨ましいことだった。

 

 帝国には未だスーパーマーケットは存在しない。ターニャの知る限り合衆国や連邦でも同様だった。

 ならば新たな小売の形態を世界に先駆けて開発してやれば、と考えた事も当然ある。軍を離れて以来このような種類の知識もこっそりと論文にまとめていた。しかし、これは未だにレルゲンにも教えていない、ターニャの最高機密だった。

 前世を持つターニャにとって知識は非常に重要なアドバンテージだが、知識とは形がないものであるが故にたやすく奪われ、しかも取り返せない。己がまとめた論文が悪意ある誰かの肥やしになるくらいならば暖炉にくべたほうが遥かにマシだと確信しているターニャは、誰にもその存在を伝えていない。

 …まあ、たとえ形あるものだったとしても今のターニャにそれを守る力は無いのだが。

 いずれにせよ、ターニャは書いた論文を死蔵していた。

 次世代の小売業に関する概念はうまく活用することができれば億万長者にもなれる値千金の知識なのだが、ターニャにはそれを実現するために必要な元手も後ろ盾も無かった。軍を離れるまでこの類の情報を論文にまとめることすらしなかったのは、どうせ無駄だと考えていたからに他ならない。

 レルゲンに相談しようかと考えたこともこのごろ何度かあったが、どうしても踏み出せなかった。彼の人格や能力にはそれなり以上の信用を感じていたが、軍人と経営者では必要な知識が全く違うし、何より現時点ではどう工夫しようともターニャが矢面に立てない。ターニャにとって、自分が主体となって計画を運営できないというのはそれだけで到底許容できないリスクだった。 

 今更というにもあまりに遅すぎるが、参謀本部の兵站部あたりでそれなりの立場についていれば終戦後にそのような手も十分考えられたのだが…

 

 

 とりとめのない思考がウーガ少佐にまで及んだ頃、ようやくターニャの買い物は終わった。

 

 市場を抜け出してターニャは一息ついた。大した運動ではなかったはずだが、全身に疲労感があった。歩きだしてすぐに視界の端に喫茶店を見つけてしまうのは、きっとそれと無関係ではないはずだ。

 

(ああ、ここでコーヒーの一杯に軽食でもつまめたらどれほど良かっただろうか)

 

 詮無きことと知りつつも、もやもやとした気分を抱えながらターニャは喫茶店の前を通り過ぎる。レルゲンが家を出て以来コーヒーを飲んでいないターニャは、コーヒーに飢えていた。

 しかし仕方がない。コーヒーは嗜好品なのだ。普段はレルゲンが居るからこそ申し訳もたつが、彼が飲む訳でもないのに淹れるわけにはいかない…

 

「………いや、待てよ…?」

 

 そこまで考えて、ふいにターニャは足を止めた。

 『なぜ今、目の前のカフェに入ってはいけないのか?』ひとつの疑問がターニャの脳裏をよぎった。

 

 普段ターニャが外食をしない理由は明快だ。レルゲンの夕食の準備をしなくてはならないし、受け取った金で生活している以上節約しなければならないからだ。

 しかし今、そのレルゲンが不在である以上、料理を用意する必要はない。

 そして何より、軍人として数年間働いてきたターニャはちゃんと己の貯金をもっている。

 ターニャがレルゲンから生活費を受け取って生活しているのは、それがレルゲンたっての要望だからにすぎない。彼が居ないならば、義理立てすることもなく好きに自分の金を使って食事をすればいいのではないか?

 

 自分がカフェに入ることがどれだけ目立つか。先程買った食材でただちに持ち帰らなければならない食材は無かったか。

 数秒間立ち止まって考えた後、ターニャは踵を返した。

 

(…豆もそろそろ品薄になってきているし、いずれはカフェからも姿を消すかもしれない。そうなる前にプロの淹れたコーヒーの飲み納めをしておかなければな)

 

 そう考えればこの機会は絶妙なタイミングだったのかもしれない。

 前線で飲んだことのある、タンポポか何かの根っこを煮て作られた代用コーヒーは全くもって度し難い。今日のコーヒーはよく味わって飲んでおこう。

 

 自分に言い訳をするようなつもりは無かったが、ターニャは胸中で肯定的な言葉を並べたてた。

 その足取りは軽く、ここ数日燻っていた欝々とした気分はすっかりどこかへと消え去っていた。

 早い話が、ターニャは浮かれていたのだ。

 しかし、

 

 

「あ、あの」

 

 

 その声が自分に対してかけられているものだとターニャは理解すると同時に視線を動かし…そしてここ数年のうちにすっかり見慣れてしまった深緑色を捉えた瞬間、自分でも意外なほど機敏に体を動かした。

 それは見まごうはずもない帝国軍の軍服だった。

 

「っ」

「やっぱり、デグレチャフ少佐殿…」

 

 ターニャに声をかけたのは、航空魔導士徽章を身につけた女性士官だった。

 

「セレブリャコーフ…中尉」

 

 久方ぶりに見る、長らく戦場を共にしたターニャの副官だった。

 ちらりとその肩章に目配せをし、それが己の記憶しているものとは異なっていることをターニャは認識した。

 ターニャの声を聞くと、セレブリャコーフはあいまいな表情で敬礼をしてきた。僅かに考えて、ターニャも答礼をする。

 

「………」

「………」

 

 敬礼を終えた二人は、しばし見つめ合った。

 思いがけない人物に出会った。互いにそう思っているのは明らかだった。

 

 セレブリャコーフは何かを言いたげな表情で、しかし何も口にはしなかった。道行く街の人間が、二人を振り返りながら歩いていく。

 様々な情報がターニャの頭の中を駆け巡った。

 

 最後にちらりとカフェを横目に見て、そしてターニャは口を開いた。

 

「…中尉、時間はあるか?」

 

 

 

 




 
  
夫が出張に行っている間、こっそり外食しちゃう新妻です。


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