アリアのアトリエ~ザールブルグの小さな錬金工房~ (テン!)
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プロローグ

 基本的に一話完結型の日常を積み重ねていくお話になります。
 原作沿いですが、「原作の横でこういう人達がいたかもしれない」をコンセプトに書いてますので、原作キャラが登場することはそこまで多くはありません。お気をつけください。

 


 

 

 

 シグザール王国の首都ザールブルグ。大きなその街の片隅に、ちいさなアトリエがありました。

 赤い屋根をしたそのちいさなアトリエには、一人の錬金術士見習いが住んでいました。

 

 三つ編みにした長い黒髪に藍色の目をした彼女の名前はレイアリア・テークリッヒ。

 親しい人は彼女のことをアリアと呼びます。

 彼女は今年、晴れて錬金術アカデミーに入学し、このちいさなアトリエで暮らしながら錬金術の勉強をしていくことになりました。

 

 見習いとはいえ錬金術士のお仕事は大変です。

 今日は調合、明日は採取。家事も自分でしなくてはいけませんし、夜寝る前にはアカデミーで学んだことを予習・復習と休む暇もありません。

 

 まだまだ入学したばかりの彼女では、どんな怪我でも治すことのできる伝説のエリキシル剤やどんな魔物も一撃で倒すことのできるメガフラムなんてとうてい作れません。

 彼女が作ることができるのは、本当にいくらかの基本中の基本の調合物だけ。

 だからお金を稼ぐのも難しくて、家計はいつも火の車!

 

 でも彼女の藍色の瞳が、その程度の困難で曇ることはありませんでした。

 ただ前を向いて、少しずつ少しずつ努力を重ねて自分のできることを、作ることができるものを増やして行きました。

 …………あくまで、彼女なりに。

 

 そのアトリエにはちいさな看板がありました。

 看板にはこう、書かれています。

 

 

 

 

 

 アリアのアトリエ~ザールブルグのちいさな錬金工房~

 

 

 

 

 

 パンッ

 

 と大きな音を立ててシーツを伸ばす。物干し竿にシーツをかけると、汚れのついていない真っ白なシーツが雲ひとつない青空に映える。

 洗濯物を洗うのは重労働だが、天気の良い時に干すのは清々しく、アリアの好きな家事の一つだ。

 

 ただ、これだけに時間をかけていてはいけない。

 

 手早くひと通りの家事を終わらせると、アリアはアトリエの壁にかけたボードを見て本日の予定を確認する。

 先日、『飛翔亭』の依頼を終わらせたばかりなので、今日は特にするべきことは何もない。

 

 つまり、今日は好きに調合しても良いということだな。すばらしい。

 

 思わず拍手喝采したくなるほど、内心ははちきれんばかりの喜びで満ち溢れているが、アリアの表情は固く変わらない。

 どうにもこうにも昔から表情が動きにくく、他人からは無表情で無感動な人間と思われがちだ。

 

 たいそう失礼なことだ。無表情はその確かにその通りだが、無感動ではないぞ、とアリアは思う。

 

 今とてアリアの内心では喜悦の情がたいそうめまぐるしく沸き上がってきているのだ、決して無感動な人間ではない。そうアリアは固く信じていた。

 

 無表情のまま、アリアは先日までの忙しさを思い出す。

 今回は何件かの依頼が重なったので、自分の思い通りに調合を行うことができない日々が続いてた。

 これを機会にちょっとハメを外そうかと、アリアは机の上にある帳簿を手にとり、今アトリエに在庫のある素材の数を確認する。

 

 現時点で素材に不足はなく、これなら問題なく調合ができそうだ。

 

 何を調合しようか、アリアが悩んでいた時だった。

 

 コンコン、と控えめに扉を叩く音がした。

 

(ふむ、この叩き方は……)

 

 思い浮かんだのはただ一人。

 

「あの、すみません。アリアさんはいらっしゃいますか?」

「はい、今いますよ。どうぞ入ってきてください」

 

 失礼します、と少し小さな声と共に扉を開けたのは、豊かな金色の髪をもつ少女であった。

 空の色を写しとったかのような青の瞳が不安で揺れているが、それすらも他人の庇護欲をかきたてる。美しく可憐な少女であった。

 

「すみません、今おじゃまでしたか?」

「いえ、ちょうど今日は何をしようか迷っていたところでしたので……。ユリアーネさんは、今日も依頼ですか?」

「ええ、ちょっと青の中和剤を分けていただきたくて……」

 

 そう言うと、金髪の少女――ユリアーネははにかんだように微笑んだ。

 汚れ一つない白を基調とした錬金服も相まって、教会のステンドグラスにある天使のようだ。

 

(「可憐」という言葉がこれほどぴったりな人もいないだろうな……)と他愛もないことを考えながら、アリアは帳簿のページをめくった。

 

「…………青の中和剤なら余裕があります。いくつご入用ですか?」

「今回は少し多めで、六つほど頂きたいのですが……」

「……、わかりました。それなら大丈夫です」

 

 備蓄はなくなるが、それはまあ仕方がない。また調合すればいいだけのことだ。

 

 調合品置き場から青色の液体――中和剤(青)を持ってくれば、礼の言葉とともに頭を下げられた。

 

「いつものことながら、品質・効力共に良い品ですわ。これはお礼です」

「ありがとうございます。まあ中和剤は授業で一番に習うものですし、これくらいは……」

 

 中和剤の代金を受け取りながら、アリアは答えた。

 

 中和剤は錬金術において基本の調合品だ。これくらい朝飯前にできなくては、次の段階に進むことも難しい。

 だからこそアリアはこの中和剤の調合を何度も練習し、ようやく納得のいくものを作り上げることができるようになった。

 けれども何かが足りないのか、品質・効力を上げる余地はまだ残っている。それがアリアには不満であった。

 

「けど中和剤の品質や効力を、ここまで高めている人はなかなかいませんよ」

 

 褒められるのは嬉しいが、少し照れくさい。アリアはごまかすように、曖昧な笑みを浮かべた。

 

 

 その後、ユリアーネは他愛のない話を二つ三つしてから帰っていった。

 

 外を見てみれば日はまだまだ高く、落ちきるまで時間はたっぷりあるだろう。

(今日は青の中和剤と何を作ろうか)、他愛のないことを考えながらもアリアの手足は動き、素材置場から透明度の高い水――ヘーベル湖の水を引っ張りだす。

 

 さて、今日も頑張ろうか。

 

 かちゃり、とアリアの手の内にあるガラス器具が触れ合い、音を立てる。

 

 窓からは明るい太陽の日差しが差し込んでいる

 

 どこまでも高い秋晴れの空が、絶好の調合日和を告げていた。



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第一話  中和剤とアカデミー

 ガンッガンッガンッガンッ

 

 アトリエの中で何かを叩きつける音が響く。

 それは槌で魔法の草と呼ばれる草を、アリアが叩き潰している音だ。ある程度の広さがあるとはいえ、外に音が漏れないよう小窓さえも閉めきった室内では音が響く響く。その騒音がどれだけのものか、推して知るべし。

 

「『緑の中和剤を作るには、まず満遍なく叩き潰し汁を絞りやすいようにする。できるだけ丁寧に叩き、汁を飛び散らせないようにすること』」

 

 アリアは参考書の内容を口の中で反芻しながら、その手を休ませることなく動かし続けている。壺の中に入れた細長い緑色の草は、みるみるうちに叩き潰され、もはや原型をとどめていない。

 額には汗が浮かび、黒髪が張りつく。

 

「ふう……」

 

 魔法の草もだいたい叩き終わり、作業に一区切りがついた。アリアは一息入れ、額の汗を拭う。

 ここで壺の中に汗を落としたら一巻の終わりだ。せっかくの調合物が使い物にならなくなるので、汗を拭うだけでも注意しなくてはいけない。

 

 次に魔法の草の残骸をきれいな布で濾し取り、力を込めて一気に絞る。ボタボタと緑色をした草の汁が、壺の中へと落ちていく。

 壺の中に緑色の液体が満杯までたまると、アリアは布を開き中の――もはや元は何だったかよくわからない残骸をゴミ箱に捨てた。

 

「さて、ここからが大切だ」

 

 液体の中に細い棒を突っ込み静かにかき混ぜる。

 このかき混ぜる速さが重要で、早すぎても遅すぎても質が悪くなる。

 そしてなによりも重要なのが……。

 

 ゆっくりとアリアの持つ棒から淡い光がつたって液体へと落ちていく。それを、混ぜ込むようにかき混ぜるとゆっくりと液体自身も輝きはじめる。

 淡い光が完全に緑の液体に移れば完成だ。

 

「よし、今回も成功したな」

 

 中和剤(緑)の完成である。

 

 

 

 

 

 

 中和剤(緑)を容器に移し替え、コルクでふたをする。

 中にゴミが入らないよう密封すれば、中和剤は劣化しないので半永久的に保つ…………らしい。さすがに試したことがないので、本当なのかどうかわからない。参考書に書いてあるので、おそらく本当に保つのだろうが、もったいないし試したくはなかった。

 

(さて、次は……)

 

 中和剤(緑)を一箇所にまとめて、他の調合品の様子を見る。

 

 大気中の魔力を吸収するように、壺に入れて魔法陣の上に置いておいたヘーベル湖の水は、程よく魔力を吸い込み、微かにだが光を放っている。時間にしてあと一刻もかからずに出来上がるだろう。

 

 カノーネ岩という赤くて燃える石をすり潰しとろ火で煮込んだ鍋からは、泡が浮かんでは消えている。かき混ぜてみると、カノーネ岩の欠片はすでに溶けきっており、一片足りともみつからない。

 それを確認してから、アリアは鍋を火の上から降ろした。

 これを常温で冷ませば完成だが、よく沸騰していたそれが冷めきるまで、まだ時間がかかるだろう。

 

 はてさて、どうしようか。ぽっかりと時間が空いてしまったぞ。

 

 今日は中和剤の備蓄がつきてしまったので、この中和剤が出来上がるまで他の調合はできない。中和剤は錬金術の基礎中の基礎だ。これがなければ他の調合はできないほど、中和剤は様々な調合に使われる。

 

 調合もできないし、掃除も洗濯も終わらせてしまったので、今するべきことは何もない。

 今から採取? そんなの論外だ。第一、今日今すぐ雇えるそんな都合の良い冒険者などいない。採取というものは数日、もしくはどれだけ早くとも準備に一日はかかる。冒険者を雇うのも同じ事だ。

 

(なら、丁度良い。あそこに行くか)

 

 そうと決めたらアリアの行動は早かった。

 簡素な財布を持ち、筆記具をまとめると足取りも軽くアトリエの外へと飛び出していった。

 

 

 

 この街、シグザール王国の王都ザールブルグには錬金術アカデミーと呼ばれる学問所がある。

 

 本来ならば、高度な教育を受けることができるのは、貴族か経済力のある商人もしくはその子供達くらいなものだ。

 これはこのシグザール王国だけではなく、他国においても同じことである。

 

 だが、錬金術アカデミーは違う。ここでは一定以上の能力を持つものなら、身分の貴賎を問わず、金の有無を問わず受け入れる。そして、錬金術という高度な学問を学ぶことができるのだ。

 騎士団と並び錬金術アカデミーが庶民栄達の場と呼ばれるようになったのも故無きことではない。

 

 しかしながら、錬金術アカデミーに入学するためには生半可な努力では足りない。

 十二分に学ぶための環境が整っている貴族の子息子女ですら、入学困難と言われているのだ。ましてや、学ぶ環境が整っていない――せいぜい読み書き計算を教会で学ぶくらいしかできない庶民の人間では一体どうすれば入学できるというのか。

 

 方法は二つある。

 一つは市井にいる錬金術士の弟子になること。

 市井の錬金術士の弟子となれば、先生が良ければ入学までに必要な知識を得ることは不可能ではない。もちろん人並み以上の努力は必要となるが、それでも闇雲に勉強するよりは遥かに入学しやすくなる。

 

 そしてもう一つがアトリエ生になることである。

 これは錬金術士のコネもなく、錬金術の知識を持たない生徒に向けての救済策である。

 錬金術の知識以外では成績優良なもの、またなにか一芸に秀でているものは、総合では落第点であってもアトリエ生になる道を示される。

 

 しかしながら、その待遇は寮生に比べるともちろん劣っている。

 寮や実験室といった一部の設備が利用できないだけでなく、素材の提供といったアカデミー生の特権もない。調合器具や参考書も自力で集めなくてはいけないし、途中退学した者は調合器具・参考書の類を一式返却する必要がある。

 

 またこうした待遇差から、寮生とアカデミー生の間には深い溝が存在していた。

 

 

 

 錬金術アカデミーの外観は、質実剛健と言えば聞こえはいいが、実際には質素極まりないものである。味も素っ気もない漆喰の壁に、実験用に最低限の整備しかされていない敷地。時間を告げる鐘だけは立派だが、これは日々使うものだからこそ良い物にしたのだろう。

 見た目で舐められないためにか最低限は整えられているが、アリアには広く大きいことにだけ特化した建物としか見えなかった。

 

 しかし、マイスタークラスのものがそこに一歩でも足を踏み入れれば、どれだけ機能的に造られたのか一目瞭然だろう。

 

 窓の位置は素材や調合品を傷めないよう斜光の角度から考えられて配置されており、実験室はたとえ調合に失敗しても大丈夫なよう壁は頑丈で分厚い。机の位置や高さまで調合ただそれだけのために計算され尽くした位置取りをしており、見る者に執念すら感じさせる。

 

 徹底的に余分なものを排し、実用性のみを追求し尽くしたその様には、ある種の感動すら覚えるほどだ。

 

 しかしながら、アリアにはまだそこまでの知識はない。

 だからどうしてもアカデミーを見るたび、あまりの質素さに「錬金術アカデミーなのにこんなものなのか」という拍子抜けしたような感覚をいだいてしまう。

 

 そのかわりと言っては何だが、教室や実験室の並びは規則的で、アリアにとってとても覚えやすい。ここにきた回数はまだ数えるほどだが、今のところ道に迷ったことはない。

 

 今回のアリアの目的地は錬金術アカデミーの図書館だ。

 錬金術アカデミーには図書館が二つ存在する。

 

 一つは入学したばかりの新入生でも使用出来るもの。

 二つ目は一定以上の実力を持つものだけが入ることを許されると言われているもの。後者には、錬金術の中でも特に高度な調合が記されており、全てを理解できるのは校長一部の優秀な教師陣のみと言われている。

 

 もちろん、錬金術アカデミーに入学したばかりのアリアでは、後者の図書館のカードキーなど持っているはずがない。彼女が向かうのは、一般の学生でも普通に使用出来る前者の方だ。

 たしかに、そちらに所蔵されている図書は錬金術士にとっては基礎的なものばかりであり、そう価値の高い書籍はない。

 しかしながら、アカデミーに入学したばかりのアリアにとって、そこにある知識は皆、初めて見る貴重なものばかりであり、暇があればできるだけ訪れるようにしている。

 

 元々アリアは実際に行動する前に、事前に出来るだけの準備をしておく慎重派の人間だ。実際に調合する前に、ある程度の知識を得ておくのは当然とも言える。

 

 しかしながら、それ以上に楽しいのだ。新しい知識を目の前にすると、歳相応の少女のように気が逸って仕方がない。他人に何度も動じにくい人間だと言われているにもかかわらず、だ。

 けれど、それも仕方がないことだ。本の一ページをめくるごとに、自分の中に新たな知識が増えていく快感は、筆舌に尽くしがたいものがある。

 だから多少気が逸っても仕方がない。

 

 そう自分に言い訳するアリアの足取りは、軽やかで淀みのないものであった。

 

 

 ここで話は変わるが、レイアリア・テークリッヒという少女は実はかなり目立つ人物である。

 とはいえ、特に容姿が優れているとか、見るだけで不快に感じるほど醜いわけでもない。

 三つ編みにした黒髪に藍色の目は多少珍しいといえば珍しいが、移民の多いザールブルグでは探せばみつかる程度の特徴だ。

 

 では、彼女の何が人目を引くのか。

 

 答えは単純、背が高いのである。

 

 平均的な男性とほぼ背丈は変わらず、女性の中にあっては頭半個分は大きい。

 しかもいつも背筋を伸ばして姿勢がいいので、傍目からはさらに大きく見える。

 

 人混みの中でも歩いていると目立つのだ。人のまばらなアカデミーの廊下では言わずもながである。

 

 もともと黒髪に青系統の色をした目は、かの王国最強の騎士エンデルクと同様に、北国出身の人間の特徴である。そして、北国の人間はどうも長身になりやすい傾向がある。

 アリア自身はザールブルグ生まれのザールブルグ育ちだが、彼女の父はカリエルのさらに北から来た移民である。

 その血を引くアリアは黒髪に藍色の目、しかも女性にしては長身と見た目だけならザールブルグ人というよりは北方の人間のほうが近い。

 

 だからどこにいても妙に目立つのだ。しかしながら、逆を言えば彼女を探している人間にとって、彼女ほどみつけやすい人間はいない。

 

「あら、アリアさん」

 

 声をかけられ、アリアが振り向くと、そこには真っ白の錬金服を翻し、早足でアリアに歩み寄るユリアーネがいた。

 アカデミーの廊下では走ってはいけないと、足早に歩くユリアーネ。

 こういう時に見せるユリアーネの生真面目さが、アリアの目にはなんとも好ましく映る。

 ただし、その感情が表に出ることは極めて少ない。

 今もわずかに目尻が下がっている程度。真正面に立った人間でも、その変化に気づく者はほとんどいないだろう。

 

「ごきげんよう、アリアさん。今日はもしかして図書館にご用事ですか?」

 

 アリアが手に持っている筆記具を見ながら、ユリアーネは尋ねた。

 まさしくそのとおりだったので、アリアは首肯する。

 

「私も丁度図書館に行こうと思っていたところでしたの。良ければご一緒させていただいても?」

「いいですよ」

 

 我ながら無愛想な受け答えだとアリアは思うが、一緒に行く、という事実だけで嬉しいのか、笑顔でアリアの隣にユリアーネが並ぶ。

 

 最初の講義で手を貸してから、どうにも懐かれたようだ。

 

 とはいえ、素直に好意を向けられて、迷惑に感じるほどアリアの感性はひねくれていない。

 好意を向けられたら、素直に自分の方からも好意を返したくなるのが人情というものだ。

 年頃の乙女としては無愛想極まりない応対かもしれないが、アリアなりに好意は好意で返していた。

 

「…………」

 

 ちらりと横目でユリアーネの姿を見れば、純白の錬金服が細い体を包んでいる。アリアの地味な紺色の錬金服とはまさに対照的だ。

 

 白の服というものは、実はあまり実用的ではない。汚れやすいし、一度汚れてしまえば落とすのも大変だし目立つのだ。同等の服を何着も持っていなければ、とてもではないがすぐに着潰してしまうだろう。

 そんな白い服を、調合などで汚れやすい錬金服としてユリアーネは使っている。しかも、飾り気は少ないが要所要所の意匠は凝っており、アリアの手には届かないほど高価な品であることは想像に難くない。

 

 つまりそれだけ高価な品を惜しげも無く使えるほど、ユリアーネの実家は裕福なのだ。

 豪商か貴族か、それは分からないがどちらにせよアリアとユリアーネの身分差は大きい。

 

 もともとアトリエ生ということで、周囲の目線は優しいものではなかったが、ユリアーネと一緒に過ごすことが多くなってからは、時々「身の程知らず」と陰口を叩かれることもある。

 

 別にそんな事実で今更態度を変えるほど、アリアの精神の糸は細くないが、「こうしてられるのもアカデミー卒業するまでだな」程度のことは考えている。

 

 貴族の地位を金で買えるシグザール王国は、他国に比べて身分差の垣根は低い。だが、それどもやっぱり身分差というものはあるし、貴族の方に近づけるほど錬金術で大成できる、などとアリアは自分を不相応に過信してはいなかった。

 どちらにせよ、アカデミーを卒業した後で互いの道が重なるとは、アリアは思えなかった。

 

 だけど、それも当然のことだ。

 

 もともと、出会うことすら奇跡とでも言うべき間柄だ。

 いつか離れていくのは当たり前で、そんな当たり前のことで頭を悩ませるのは正直性に合わない。

 

 たった四年間、短くとも長い時間を互いに忘れがたい思い出で埋めていけばいい。

 そして将来、こんなこともあったな、と笑顔とともに思い起こせればそれでいいのだ。

 

 だからこのアカデミーで過ごす間は、ユリアーネはここでできた初めての大切な友人だ。

 それでいいのだと、アリアは思う。

 

 

 

 けれど、思っていてもなかなかうまくいかないのが人生というもので……。

 

 静かであるべき図書館で、ちいさなヒソヒソ声が聞こえる。

 横目で声の発信源に目線を向けると、そこには数人の生徒が寄り集まりアリア達の方を見ながら何やら仲間内で耳打ちをしていた。

 

 ……ちょっと……アトリエ生よ。

 なんでこんな……。場違い…………。

 あの人もなんで…………付き合って……。

 

 とぎれとぎれに聞こえてくる言葉から、おそらくあまり良いことは言われていないだろうな、と思う。――が、正直「よくもまあ人の悪口を楽しむ時間があるなぁ。暇なんだな」と思うくらいで、アリアの精神上には何の痛苦ももたらさない。

 

 アリアの精神の綱は類を見ないほど図太いものだった。

 

 けれども、誰しもが彼女のようにあれるわけではない。

 

「えっと、初等薬品の参考書は……」

「…………」

 

 ただその数少ない例外の中にユリアーネは入っていたようだ。

 優雅に完璧に、内緒話をする女子達を無視して、彼女はお目当ての本を探している。

 いや、ただ単に気がついていないだけなのかもしれない。

 

 けれどまあ、これはこれで一安心か。

 

 そう独りごちると、アリアもまたそびえ立つ本棚の群れに向かい合った。

 

 この一般生徒用の図書館には講義の参考書として使われている図書の他に、まだまだ腕が未熟な錬金術士の卵向けの参考書も置いてある。ただ、後者の場合は、生徒の順当な成長には調合方法が不適当だったり、授業で調合させるにはコストの面で向いていなかったりするものばかりなため、アカデミーの購買では取り扱っていない。

 もし自分用の参考書が欲しいのなら写本を願い出れば専門家が一から作ってくれるとのことだが、通常の購買で販売されている参考書の何倍もの値段がつくため、アリアの経済力では買うことができない。

 

 もちろん“本”という高価なものをアカデミーの外に貸し出すことは、流石に錬金術アカデミーでもおこなっていない。寮内のみなら貸出を許しているが、期限内に返却されなかった場合、厳罰を課されることとなる。なので、アリアのように所持金が少ないアトリエ生は、読みたい本があればこの図書館まで来るか、頑張って写本するしかない。

 

 

「アリアさんは何の参考書を探していらっしゃるのですか?」

 

 お目当ての本を探し終わったのか、そのほっそりとした腕に何冊かの本を抱え、小声でユリアーネが話しかけてきた。

 特に隠すものでもないので、無言で本の表紙を見せる。

 

「“製鉄の歴史”ですか……?」

「そうです」

「もしかして金属の調合に興味がおありで……」

「ええ、まあ一応」

 

 正直に言えば興味どころではないのだが、それを正直に伝えるのは何やら気恥ずかしいものがある。が、じっとユリアーネの大きな目で見つめられると、まあしょうがないか、という気分になってくる。

 

「父が鍛冶屋だったものでして、こちら方面にを勉強してみたいと思いまして……」

「あら、そうなのですか。良いお父上でしたのですね」

 

 羨ましそうなユリアーネの口調に、父親の姿が思い出される。

 

 アリアの父親は、アリアよりもずっと寡黙で、一日の大半は工房で槌を振るっているような人だった。おかげで、娘であるアリアも父と話した記憶は少ない。

 けれどその分、無言で語りかけてくる、そんなところのある人だった。

 

 慣れない料理で四苦八苦する姿、無言でアリアの頭を撫でてくれたそんな父の姿を思い出す度、寡黙ではあったがいつもアリアに語りかけてくれていたように思える。

 

 そして、一番雄弁だったのが、熱せられた鉄に槌を振るう姿だ。

 子供心に、父が仕事をしているときは鉄とお話しているのだと、本気で思っていた。

 それほどまでに、父が鉄と向かい合う姿は全てをさらけ出していて、そして何よりも真剣だった、……ように思う。

 

「そうですね、良い父だったと思います」

「羨ましいですわ。そんなお父上がいらっしゃったか、もうすでに学びたいことが決まっているのですね」

 

 本気で羨ましそうに言われ、何やら少々照れくさい。

 そんなアリアを見て、溜息混じりにユリアーネは口を開いた。

 

(わたくし)なんてまで何を中心に学びたいのかまだ決まってなくて……。今回選んだ本も、全部系統が違いますの」

 

 なるほど、確かにユリアーネの腕にある本は、薬学・装飾品・化粧品と全てジャンルが違う。

 だけど、まだ新入生でアカデミーに入ったばかりなのだ。

 普通は、興味の方向性が決まっている人間のほうが少ないのではないだろうか。

 

 そう正直に告げれば、ユリアーネは困ったような苦笑するような何やら曖昧な笑みを浮かべた。

 

「たしかにそうですわね、けどやっぱりこうしたことはできるだけ早く決めたい、そう思いますの」

 

 そう言われれば、アリアに反論するすべはない。

 できることといえば慌てて決めることはしないよう、一言釘を刺す程度だ。

 

 

 

 ユリアーネは寮生であるため、いくつかの本を借り部屋へと戻っていった。

 

 アリアの仕事はここからだ。

 今から必要な部分を抜粋し、紙に落としこんでいかなくてはいけない。

 まだマシなのは、“製鉄の歴史”に載っている程度の知識なら、大部分はすでに知っていることだ。こういう時、父が鍛冶屋ということはありがたい。製鉄や、他の金属の精製、加工について一定の知識を得ることができたからだ。

 

 とはいえ、傍目から見ていただけと書物から正確な知識を得ることは違う。やはり記憶の齟齬もあり、それを修正して紙に書き込んでいくと、すべてが終わった時にはすでに日が落ちかけていた。

 

 一度伸びをして、肩の筋肉をほぐす。

 やはり何時間も机に向かっていたからか、肩を動かすとバキバキと嫌な音がする。

 手にもインクがそこかしこについていて、黒く汚れている。早く手を洗いたいが、手洗いが出来る場所は図書館の外だ。

 

 手についたインクを原本につけないよう気をつけて返却し、アリアは足早に図書館の外に出た。

 

 

 外に出ると、赤く染まった夕日が遠くに見える山の間に沈んでいくところであった。

 

 もう、一日が終わる。

 

 今日も悪くない一日だった、落ちゆく夕日に背を向け、アリアは手洗い場へと急ぐのだった。。




 リリーのアトリエの参考書である「製鉄の歴史」では、本来「鉄」のレシピを知ることはできません。
 ですが、「製鉄」とタイトルについているのに「鉄」のレシピがわからないのはおかしい。ゲーム初期で手に入る「ドルニエ理論」に「鉄」のレシピが載っているため、「製鉄の歴史」における「鉄」のレシピがデータから削除されたのではないか、と考えこの作品では「製鉄の歴史」を読むと「鉄」のレシピが分かる、という設定にしました。
 どうかご了承願います。


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第二話  鉄とチンピラとジプシーの乙女(上)

 


 部屋の中央にある竈には、大きな鍋が置かれていた。その鍋の中では、ことことと音を立てて、水が沸騰している。少しずらされた蓋からは熱い水滴が落ち、下には目盛りのついたガラス瓶――ビーカーが置かれてそれを受け止めていた。

 

 蓋とビーカーはきっちり洗いこまれているが、それでも何回か調合を中断して洗い直しを行う必要がある。

 少し冷まさなければ熱すぎて持つことすらできないので、どうにも手間がかかる。

 それ故に、作業の単純さの割にこの調合は時間がかかって仕方がない。それに加えて、作業の進度を定期的に見なくてはいけないので、他の作業を並行して行うのも今はまだ難しい。

 

 けれど、この鍋の中の水が全部なくなれば、今までの苦労は報われる。

 

 そう「蒸留水」の完成、という事実によって。

 

 

 

 

 

 

 

 アリアにとって鍛冶屋というものは馴染みの深い場所だ。彼女の父親が鍛冶を生業にしており、その背中を見て育った。

 そしてそれだけではなく、まだアリアがまだ幼かった頃には、彼女の父親は大きな製鉄所で働いていた。産まれてすぐに母をなくしたアリアは、よく父の仕事場に連れて行かれ、そこで長い時間を過ごした。

  

 アリアが生きてきた十五年間は、鍛冶というものと切っても切り離さないほど密接につながっている。

 

 

 

 ガチャン、ガチャンと木箱に入れた蒸留水の容器が、歩くたびに揺れて音を立てる。

 ガラス容器なので、落として割れたら一巻の終わりだ。持ち運ぶときは細心の注意を払わなくてはいけない。

 

 アリアにはとあるコネから、錬金術アカデミー入学したばかりにもかかわらず、お得意先を一つ持っている。

 まだあまり多くの品を調合できないこともあり、納品するのは中和剤(青)や蒸留水といった簡単なものばかりだ。ちなみに、アリアが納品した品は見習いの人たちの練習材料となる。一応見習いの方たちの完成品は、割安で販売するらしく、依頼の採算はとれているとのことだ。

 こうした事情もあり、納品した品は格安で売っているが、「飛翔亭」で仕事をとるときのように仲介料が発生しないので、もらった代金は全てアリアの懐に入る。

 まだまだ金のないアリアにとって、この収入は貴重かつ重要なものだ。

 

 この依頼自体はアリアへの好意によるものだ。アリアの腕前に対する評価ではない。

 もちろん好意自体はありがたいが、いつか自分の力量で評価されたいというのが本音だ。

 だからこそ、向こうからの依頼は最優先で受けるし、一片足りとも手を抜かない。少しずつ信頼を積み重ねて、好意からの依頼だけではなく実力で依頼をもぎとるのが今後の目標だ。

 

 そのためにも、今回はこの依頼を無事に終わらせよう。

 

 そう考え、アリアは依頼人の実直さを示すような素朴だが丈夫な扉に手をかけた。

 

 

「すみません!」

 

 カラン、カラーンと扉についたちいさなベルが鳴る。

 アリアは声を張り上げるが、どこまで伝わったか自信がない。

 なぜなら、アリアの声に負けないくらいその建物の中は騒音で溢れかえっていたからだ。

 

 豪快に鉄を叩く音、拍子をとる男の声に火が燃え火花を散らす音。

 全てが渾然一体となって、些細な音は全て飲み込んでしまう。

 

 ここはザールブルグでも一、二を争う規模の製鉄所だ。

 毎日その炉には火がともされ、槌を振るう音が止まることはない。

 

 一度扉を開けるとまるで喧騒の濁流だ。耳に痛い。

 

 

 どうやら先程アリアが張り上げた声は誰にも聞こえなかったようだ。

 誰も彼もが製鉄作業に夢中となっていて、こちらを見もしないし声も返ってこない。

 

 仕方がない。もう一度だ。

 

「すみません!!」

「はーい!! ちょっと待ってておくれよ!!」

 

 ようやく返事が返ってきた。

 溌剌とした気風の良い女性の声だ。

 

 その声にアリアは聞き覚えがあった。

 小さい頃からよく聞いていた声だ。聞き間違えることはない。

 

「悪いね、ちょっと待たせたようだね」

「いえ、お気になさらず。こちらが依頼の品の青の中和剤です」

 

 木箱を渡せば、「お、もうできたのかい。早いね」とその赤毛の女性は、豪快に笑った。

 

 年の頃は四十前後だろうか。ザールブルグの女性にしては珍しく、燃え立つような赤毛を短く切り揃え、男物の服を製鉄所の熱気の中でぴしりと着こなしている。

 

「こちらこそ、いつもありがとうございます。カリンさん」

 

 そう返せば、この製鉄所の主カリン・ファブリックはその日焼けした顔を破顔させたのであった。

 

 

 アリアの父はもともとカリンの製鉄所で働く一介の職人であった。

 幼い頃は父について製鉄所に何度も来ていたので、とてもよく覚えている。

 

 時間の空いた時には、幼いアリアの相手をカリンや職人たちがしてくれたこともある。

 危ないところには近よらない、との約束で鍛冶場を見せてもらったこともある。

 掃除などのお手伝いをした時には、甘いはちみつを内緒でくれたこともあった。

 

 大人たちが仕事で忙しいときは、近所の子供達と遊ぶこともあった。

 あとで思い返すと結局一番一緒に遊んでいたのは、同じように親に製鉄所の職人を持つ少年だったように思う。

 

 その後父は腕を認められて独立したが、その後も交流はつづき、アリアは製鉄所と父の工房を行き来する毎日であった。

 

 

 アリアにとってカリンは、そんな父の後ろについてまわっていた頃のことを知る古くからの知り合いだ。

 昔から可愛がられ、今なお仕事でお世話になっているこの人には、どうにもこうにも頭が上がらない。

 

「うん、今回の品も悪くないね。この調子なら、もうちょっとすれば職人の方にもあんたの品を回せそうだ」

 

「そしたら、もうちょっと高く買い取ってあげるよ」と今まで品質を見ていた中和剤(青)から目線を外し、カリンはなんでもないことのようにアリアに告げた。けれど、その言葉はアリアにとってこの上なく嬉しいものであった。

 

 カリンの製鉄所は、数少ない錬金術の手法を金を払って買入れた製鉄所だ。

 

 実は錬金術の金属精製の手法と、長年ザールブルグ中の鍛冶屋が行なってきた伝統的な金属精製の手法にはそこまで違いがない。

 最も大きな違いが、中和剤(青)と蒸留水の使用であり、そこさえ変更すれば長年の技術を蓄積したまま、錬金術の生成物に共通した高い品質が約束される。

 高い技術力を維持したまま、錬金術の技術を取り入れたことにより、カリン製鉄所で生成される金属は、質・効力共に他の工房の追随を許さない。

 既存金属の精製技術だけなら、アカデミーの講師であるイングリドや校長であるドルニエにすら勝つことができるとのもっぱらの噂だ。

 

 そして、その噂は事実だ。

 

 今やカリンの製鉄所は、名実ともにザールブルグ一の製鉄所となっていた。

 

 

 当たり前だが、そこまで発展すると鍛冶の際に使う材料も一流どころを求めるようになる。

 カリンの製鉄所で使う材料の大半は、錬金術アカデミーから卸されているものだ。ただ、このままでは経費がかかりすぎるので、市井の錬金術士に中和剤(青)や蒸留水の作成を依頼したり、コネを増したりすることにより、少しでも安くすませようと、今なお活動を続けている。

 

 ちなみに、アリアから中和剤(青)や蒸留水を買い取っているのも、そうした活動の一環である。

 

 今までアリアが作ってきた中和剤(青)や蒸留水は、カリンからの好意で鍛冶見習いの人たちの練習材料として提供している、という扱いになっている。見習いを卒業した本職用、つまり商売用の原材料にはならない。

 つまり、アリアの納品したものに品質にバラけがあったり、最悪使い物にならなかったりしても問題が無いよう、あらかじめ予防線を張った上で、カリンはアリアから調合品を買い取っていたのだ。

 

 もちろんカリンにとってもこれは商売だ。

 職人見習いの人達が作ったものは、全てカリンのものとなるし、アリアの側にも十分利益がでているとはいえ、一般的なものよりもはるかに安い金額で錬金術の調合品を購入している。例えアリアの作る品の質が多少悪くても、使う人間が職人見習いでしかも鍛冶練習として使うことが前提だとしても、最低限採算が取れるように取引をしてくるところは、さすが年の功というべきだろうか。

 

 だが、アリアが調合に失敗したり、職人見習いの人たちがとても売りには出せないような失敗作を作ったりしてしまった時には、カリンが全部のババを引くように裏で手を引いている。

 つまり、アリアや職人見習い達はカリンという存在に守られた上で、失敗を許される機会を与えられたことになる。

 

 アリアがカリンに恩を感じるのは当然といえよう。

 

 そんな恩ある人が、アリアの作った品を本職の人に回そうか検討してくれているのだ。

 

 自分の力を認められた。

 しかも恩人に。

 

 これほど喜ばしいことがあるだろうか。

 

 なかなか表情が動かないアリアも、この時ばかりは笑みを浮かべて喜んだ。

 

 少し勢い込んで「本当ですか!?」と聞き返す姿は、普段の飄々とした態度からは想像できないほど歳相応の少女らしく見えた。

 

「ああ、ほんとうだよ」

 

 そんなアリアの姿を見て、カリンは微笑ましげに薄い青色の目を細めた。

 

 

 

「そういえばさ」

 

 そうカリンがアリアに話しかけたのは、蒸留水の代金をもらい帰りかけたその時であった。

 

「最近はディルクと話しているかい?」

「…………いいえ」

 

 カリンの口から出てきた名前は、アリアもよく知るものであった。

 ただ、カリンの問いかけにはNein(いいえ)と答えることしかできない。

 

 その答えを半分予測しながら、けれども出来れば否定してほしくはなかったのだろう。

「やっぱりね」とカリンは、苦々しい溜息とともに言葉を吐き出した。

 

「まったく、あの馬鹿息子にも困ったもんだ。顔を合わせづらいからって、避けててもどうしようもないってのに……」

 

 ディルク、正式名ディルク・ファブリックは正真正銘カリン・ファブリックが腹を痛めて産んだ一人息子である。

 もちろんアリアとも面識がある。面識があるどころか、製鉄所を遊び場にしていた二人は互いの歳が近いこともあり、幼馴染といっても差し支えのない間柄だ。

 

 少し前まではその間柄に相応しく普通に話していた。おそらく今回のようにアリアが納品に来た時など、なんやかんや言いながらついでに顔を見せるくらいはしていたであろう。

 しかしあることがあってから、アリアはディルクの方から一方的に避けられるようになってしまった。

 

「まあ、さすがに今すぐは会いにくいでしょうから、私は何も気にしていませんよ」

 

 実際、アリアはさほど気にしてはいない。

 ディルクがアリアと向い合って話すのを気まずく思うのは、まあ仕方のない事だと理解している。

 

 とはいえ、一方的に避けられるのはやはり気分が悪いので、普通に話せるようになった暁にはケツの一つでも蹴飛ばしてやろうとは思っている。が、精々その程度だ。

 

 それを正直に告げれば、カリンは腹を抑えて笑い転げた。

 

「そいつはいいや、その時はあの馬鹿息子に思う存分やってやんなよ!」

「ええ、もちろんです」

「ま、けどね」

 

 思う存分笑い続けてようやく発作が治まり、目尻に溜まった涙を拭いながら、カリンは口を開いた。

 

「そう言ってもらえると助かるのはほんとうだけどさ、いつまでもこのままって訳にはいかないからね。この製鉄所を継ぐあいつには、大切な取引先になる予定のあんたとは良好な関係のままいて欲しいんだよ」

 

 だからこそできる限り早く今の状況を改善したいのだろう。

 こういう問題は、放置しておくとそのままズルズル長引くこともある。

 

「だからさ、ちょっとあいつらを護衛として雇ってみるつもりはないかい? 格安でいいからさ」

「……………………は?」

 

 とはいえ、彼女の口から発せられた提案は、アリアの予想をはるかに超えてしまっていた。

 

 

 

 

 アリアのように自らアトリエを運営し、自活するものは調合するための材料も自分の足と財力で集めなくてはいけない。アリアの家計は、アカデミーに通うようになってからやれ参考書やら、実験器具やらで出費が重なり、常に火の車だ。

 必然的に、彼女が調合の材料を集めるには、ザールブルグの外に出て自分の足で集めるより他にはない。

 

 もちろんザールブルグの外には、魔物や盗賊などが住み着いているので、護衛は必須だ。

 材料を採取している時に背後から襲われれば、アリアのような一般人などひとたまりもない。

 自らの安全のため、戦う術の乏しいアリアは採取の時には常に護衛を雇っていた。

 

 その護衛費も、素材を全部自分で賄うよりははるかにマシだが、アリアにとって手痛い出費であることは否定できない。

 だから今回のように人格・腕共に信用が持てて、その上護衛費が安いと聞いて飛びつかずにいられるか。

 

(無理だな)

 

 こんな美味しい話、裏がないとわかれば誰だって飛びつくに決まっている。

 

 たとえ……。

 

「ちくしょう、あんのクソババアが……っ!」

「………………えっと、あの、あなたがレイアリアさんですよね?」

 

 凄まじく気まずい相手が護衛だとしても、である。

 

 

 

 カリンのもとに中和剤(青)を納品してから数日後、朝も早くからザールブルグの城壁の外で待っていたアリアのもとにやってきたのは、一組の男女であった。

 

 男の方はカリンと同じく赤い髪を短く刈り揃え、額の上に汗避けか濃い色のバンダナを巻いている。

 なかなか精悍な顔立ちをしているのだが、今その顔は不機嫌そうに歪められており、どこか近寄りがたい空気を発している。

 

 女のほうは銀色の髪に若草のように明るい翠眼をしていた。服装はザールブルグでも見慣れたものだが、肌は浅黒く彼女がジプシーの出であることを告げていた。

 

 男の名はディルク、女の名はエマといい、今回の採取でアリアが雇った護衛である。

 

 

「まったく、なんでおれがこんなこと……っ」

「ちょっとディルク、雇い主の前で失礼な態度を取らないの! ごめんなさいね、レイアリアさん。これが失礼な態度を……」

「いえ、こいつがこんなんなのはいつものことですし、頭を上げてください」

「うるせぇぞ、てめえら!!」

 

 そこらのチンピラと同レベルの態度に、エマが頭を下げるが、アリアはディルクと幼馴染なのだ。こいつの態度の悪さくらい昔からよく知っている。

 たとえ凄まれたとしても、全く怖くはない。

 むしろ滑稽だ。

 

 それより、こいつの態度が腹ただしい。

 勝手に罪悪感を持って、一方的に避けられ、強制的に面を合わせる舞台を整えられたと思ったら今度は喧嘩腰だ。

 

 いいだろう、そちらがその気ならこちらとて相応の態度で返して差し上げよう。

 

 おとなしそうな外見に反して、アリアは意外と売られた喧嘩は買う人間であった。

 カーンと、どこかで戦闘開始の鐘がなった。

 

「何を言う。君の態度が態度だからエマさんが困っているのだぞ。女性に頭を下げさせるとは、いやはや情けない。もう十七なのだから、もう少し落ち着いたらどうだ。今のままでは、そこらのチンピラと変わらない」

「ぐ、てめえは本当にあいかわらず口だけは達者なやつだな!」 

「いやだな、そんなにほめられると照れてしまうではないか」

 

 表情を一片足りとも動かさないまま、わざとらしく照れたような仕草をすれば、向こうからは絶句するような雰囲気が伝わってくる。

 

 ばかめ、そんなんだから、こちらにいいようにからかわれるのだよ。

 

「それにしても、大切な女性の前で他の女性を褒めるなんて……。本当に君は女心というものがわかっていないな。見捨てられても文句は言えんぞ」

 

「そうでしょう」とエマに同意を求めれば、勢いに押されたのか「え、ええ」と困惑するように返事が返ってきた。

 

「ほれみたことか。エマさんとて私に同意してくれているぞ」

「…………ああ、そうだったな。てめえはそういう奴だったよ」

 

「てめえに遠慮していた俺が馬鹿だった……」と肺の奥から絞り出すような声で、疲れたようにディルクはうなだれたのだった。

 

 勝った、とアリアは勝利を確信したのであった。

 

 

 

 アリアとディルクは小さい頃からの幼馴染だ。

 そして、周囲からは将来一緒になるものと思われていた。

 

 とはいえ、何か強制力のある制約を結んだわけではない。

 精々、口約束程度。将来、有力な相手が見つからなかった場合に備えて、あらかじめ親同士が手を打っていただけのこと。婚約、と名付けるのもおこがましいレベルでのお話にすぎないし、その程度の話ならこのザールブルグではいくらでも転がっている。互いに親しみはあっても恋愛感情はまったく存在しなかった。

 だが二人にとっても、この周囲の反応は好ましかった。

 

 もともとディルクは街で一,二を争う製鉄所の跡継ぎ。口は悪いが、仕事に関しては真面目で、小さい頃から将来を有望視されていた。これで女が寄ってこないはずはない。

 将来を約束された相手がいる、という効果は覿面だった。アリア以上に良条件の女性でなければ、ディルクの嫁になることは難しいと誰もがわかっているのだ。そして鍛冶屋という面だけならば、アリアほどの良縁はなかなかいなかった。

 

 アリアは、工房持ちの一人娘である。

 次男以降が彼女の家に婿入りするもよし、長男でも彼女が二人以上子供を産めば問題なし。また小さい時に母親をなくしているので家事労働も十二分にでき、その上製鉄所に足しげく通っていたおかげで、鍛冶仕事にも理解がある。親世代の大半とも面識があった。

 

 本気でアリアを自分の息子の嫁に!という人が多かったのだ。しかも、仕事上の付き合いのある家から、同時に複数打診される羽目になったのだ。この時、アリアはまだ十歳である。

 父親の苦労が伺われよう。

 

 この状況を相談されたカリンからしてみれば、棚からぼた餅どころの話ではなかった。

 アリアを息子の嫁にすれば、労せずして一つの工房がカリンの傘下に収まるのだ。アリアの実家にしても、ザールブルグ一の製鉄所の血を引く子供が跡継ぎとなる。

 

 周囲にもはっきり分かるほど、二人が家計を持つことは互いの家にとって利益しかなかった。

 そしてその事実は、はっきりと約束してないにもかかわらず、二人の関係を後押しするものとなっていた。

 

 

 そんなこんなで、アリアとディルクは年頃の男女にしては、比較的仲が良かった。

 互いに運命の出会いとか何かしら他の問題がなければ、そのまま家庭を持っていただろう。

 

 この時代、恋愛感情で婚姻する男女は、庶民であってもそう多くはない。特に女性は結婚適齢期である十代の間に恋愛を成立させきり、結婚までこぎつけなければ、その後の一生を「嫁ぎ遅れ」と周囲の白眼視の中で生きていかなくてはならない。

 恋愛という夢をみるには、現実は厳しすぎる。

 

 結婚相手は、たいてい家の事情や、家計の状況によって相手は決まる。結婚は子を産み、家の跡継ぎを作るために行うもので、余程の才覚がなければ結婚しないまま過ごすことはできない。

 

 友人同士や幼馴染による婚姻はまだましな例で、最も数が多い。

 アリアとディルクも、そのままいけばその最も数の多い事例の一つに数えられていただろう。

 

 そう、アリアの父の死とエマという女性の存在がなければ……。

 

 

 

 二人の少女と一人の青年がストルデル川を遡るように、街道を歩いていく。

 川に近く砂利も多いので歩きやすいとは言いがたいが、三人とも闊達とした足取りで先を行く。

 周囲を警戒する仕草から旅慣れているのは、浅黒い肌と薄い銀色の髪を持つジプシーと思わしき少女だけとわかる。

 残りの二人は純粋に体力があるのだろう。それなりに長い時間を歩いているにもかかわらず、疲れた様子は微塵も見えない。それどころか、時折軽口を叩き合う余裕すらある。

 

 街道を行くのはアリア達だ。

 

 すでに最初の気まずい雰囲気は払拭され、特に危うげなく足を運んでいる。

 

 もともとディルクの罪悪感など、アリアにとっては屁でもない一方的なものだ。

 勝手に思い悩み、ドツボにはまっていただけのことにすぎない。

 旅立ち前の一方的すぎる口喧嘩で、そんなもの持っているだけ馬鹿馬鹿しいことに気がついたディルクは、すでにかつての気安さを取り戻していた。

 

 悪くない傾向だ、とアリアは思う。

 けれど、とも思う。

 

 アリアの目線の先には、一文字に口元を引き結んだエマがいた。

 

 それはそうだ。

 元婚約者が自分の恋人と親しく話をしていて、それを喜ぶ女性がいるものか。

 

 エマとディルクが恋仲になったと聞いた時には、なによりも先に「あのチンピラ相手に恋愛を成立させきるとは、蓼食う虫も好き好きというのは本当だな。ありがたいことだ」という言葉が出てしまったほどだ。

 この時の婚約破棄がなければ、アカデミーに入学することもできなかっただろう。婚約破棄をされたというのに、怒りや悲しみを覚えず、むしろ安堵や相手方を祝福する気持ちでいっぱいだった自分には、やはりもともと恋愛感情などなかったのだと、この時アリアは自分の気持ちを再確認していた。

 

 しかしながら、そんなアリアの感情などエマは知る由もない。

 

 思わず天を仰ぎたくなるが、そんな思いをアリアの鉄面皮はおくびにも出さない。

 こういう時には、あまり動かない表情筋の固さがアリアにはありがたかった。

 

(さて、こういう時はどうしたものか)

 

 ぶちゃけディルクの時は、アリアが真正面から相対すれば事足りる問題であった。

 もともとの婚約とて、子どもたちに良い相手が現れたらすぐさま破棄しよう、と親同士でも決めていたのだ。好きな相手ができたなら、それはそれで祝福すべきことで、相手方になにか言うのはお門違いであると、アリアは本気で思っていた。

 

 だからこそ、一度真正面から話をするだけで、アリアとディルクの間の問題は解決したのだ。

 

 しかしながらアリアとエマの間にある問題は違う。

 昔からある程度親しい間柄であったアリアとディルクとは違い、エマはアリアにとって幼馴染の恋人という、ほとんど他人に等しい間柄だ。

 正直に言って、どう対処すればわからない。

 

 エマの態度からして、アリアがディルクの元婚約者であることは絶対に知っているだろう。

 というより、直接顔を合わせたことはなかったが、婚約破棄時にちょっとした騒動になってしまったので、その時恋仲であったエマが知らないわけがない。

 

 レイアリア・テークリッヒ、御年十五歳。

 初恋すらまだな彼女にとって、この問題はあまりにも難しい、難しすぎる問題であった。

 

 

 

 朝から歩き続け、そろそろ日が陰り始めた頃に、ようやくその場所は見つかった。

 それは、森の手前で整備された旅人用の宿舎だ。

 ストルデル川沿いの街道は人の往来が多いので、大体一日歩くごとに宿舎を見つけることができる。定期的に兵士が見回りに来るので、わざわざ宿舎の近くで事を起こす盗賊もいない。

 旅人にとって、安心して休むことのできる憩いの場だ。

 

 屋根はないが風よけ用の粗末な囲いがあり、工夫をすれば雨よけとしても使うことができる。

 休憩スペースを確保して、火を起こせばようやく人心地がついた。

 

「ちょっと水汲んでくるわ」

「え、ならあたしも手伝うわ」

「いらねぇ。いいからお前は休んどけ」

 

 エマの申し出をすげなく断り、ディルクは鍋を担いで一人川辺に向かった。

 

 まったくもって言葉が足りないと、アリアは思う。

 案の定、少しエマの雰囲気が暗くなっている。あそこまですげなく断られるとは思ってもいなかったのであろう。

 

「エマさん、今日は本当にありがとうございました」

「え? あ、護衛のこと? それならあたし達はあなたに雇われたのだもの、これくらいは当然よ」

 

 堅苦しくなるので敬語はやめて欲しいと伝えたからか、その口調は気安い。「むしろ魔物も出なかったし、今のところただついていってるだけね」と軽快に話す姿に嘘は見当たらない。けれど、やはり見た目通りだけではない。

 

「いえ、でもお礼くらい言わせてください。あなたは、魔物がいつ出てもすぐに気づけるよう、常に周囲を気にしてくれていた。ここまで安全に来れたのは、やっぱりあなたのおかげです」

「あら、気づいていたのね」

「気づいたのは私じゃないです」

 

 そう、アリア一人だけではエマの様子に気づくことはできなかっただろう。

 残念ながら、アリアは旅をすることに関してはド素人だ。

 普通の女性よりも鍛えているので健脚で体力があるだけ。

 ただそれだけだ。

 

「気づいたのはディルクです」

「…………っ!? ……そう」

 

 アリアがそう告げると、エマは嬉しさと悲しみが交じり合った複雑な表情を浮かべた。

 

「ディルクはなんていったの?」

「エマさんが無理してるから、ちょっと注意してくれと。ただそれだけです」

「………………」

 

 事実、アリアの言う通りであった。

 たった数日の行程とはいえ、まともに旅をしたことがあるのは自分だけなのだと、普段より気を張っていたからか、エマはいつも以上に疲労を感じていた。

 

「先程、自分一人で水を汲みに行ったのも、あなたを休ませるためだと思います。言い方には問題しかありませんが」

「確かにね、それは認めるわ」

 

 くすっ、と小さく笑う姿は、異国情緒のあふれる見た目とも相まって、どこか妖艶だ。

 沈みゆく太陽の陽を浴びて、銀色の髪が朱色の光を放つ。

 

「けれど、あなたにはそれを言うのね。ちょっと焼けちゃうわ」

「あのチンピラは変なところで意地っ張りですので。あなたに直接『心配している』というのが恥ずかしかったのでしょう」

 

 面倒なやつだと呟けば、ようやくエマはコロコロと笑ってくれた。

 それはどこか大輪の花を思い浮かべる、どこまでも鮮やかな笑みだった。

 

「そういうところがかわいいのよね」

「そうなのですか?」

「そうなのよ。……けっこうあなたも子供なのね」

「まだ十五ですから」

 

「そうね」とエマは呟いた。「忘れていたわ」という声が聞こえたが、アリアは聞こえないふりをした。

 

「ねえ、レイアリアさん」

「アリアでいいですよ」

「……え?」

「アリアでいいです、私のほうが年下ですので」

 

 レイアリアとフルネームで名前を呼ばれることには、違和感しかない。

 出来れば愛称で呼んで欲しいといえば、エマは猫のような目をぱちくりと瞬かせた。

 

「あなた、変わってるって言われたことない?」

「しょっちゅう言われますが、なにか?」

 

 それが一体どうしたというのだろう、そういう気持ちを込めて小首を傾ければ、「なんでもないわ」とエマは疲れたように首を振った。

 

「なんだか、片意地を張っていたあたしが馬鹿みたいだわ」

「なら、あなたに片意地を張らせていたあのチンピラはもっと馬鹿ですね」

「あなたって辛辣ね。それに結構喋るのね」

「必要のない時は、ずっと黙ってますよ」

「極端なのね」

「ええ、その通りです」

 

 その後、二人の間に流れたのは沈黙であった。

 けれどそれは初めて会った時のように刺々しいものではなく、どこか穏やかで優しい沈黙であった。

 

 それは、ディルクが戻ってくるまで、二人の間に横たわり続けた。

 




 二話目にして前後編です。
 出来れば一話で収めたかったのですが、話に一区切りがついたのと文字数が一万字を超えてしまったことで諦めました。
 
 アリアのマイペースさが表現できていたら嬉しいな。
 批評募集中ですので、一言でもいただけると嬉しいです。


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第三話  鉄とチンピラとジプシーの乙女(下)

 今回も私の拙い小説を呼んでいただき、本当にありがとうございます。
 エマさんとディルクの紹介回がようやく終わったので、ちょっとホッとしています。

 次からはもうちょっとほのぼのしたいなー。
 できたらいいなー。


 

 

 ストルデル川。

 ザールブルグの東にその大河は流れている。

 この川の支流の一つはザールブルグの穀倉地帯にまで伸び、人々の日々の糧を提供する畑を潤している。

 

 またこの川の上流では、未だ人の手が入っていない場所も多く、ガッシュの枝やレジエン石といった豊富な資源で満ち満ちている。

 

 この地の恵みは尽きることはなく、今日も人々の生活を根底から支え続けている。

 人がその恩恵を忘れても、そして再び思い出したとしても、ただ川は流れ続ける……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ザールブルグを出て二日目にして、ようやくアリア達はストルデル川の上流にたどり着いた。

 

 音を立てて流れる水が、岩にぶつかり白い泡となって宙を跳ねる。高く広がる秋晴れの空と同様に、この場の空気は澄んでおり、空中に散った水滴のおかげか清らかな涼風が辺りを包んでいた。

 時折漂ってくるガッシュの香りには、目の覚めるような鮮烈さがある。しかし、燻製された代物に比べて、その香りはまだ穏やかなものであり、不快なものではない。むしろこの鮮烈さがストルデル川の印象をより深いものにしている。

 

「ようやく到着かよ」

 

 げんなりした表情を隠そうともせずに、ディルクがジトリとした目で辺りを見渡した。少々目付きが悪いので、その程度の仕草でも妙な迫力があった。

 風光明媚な光景だが、ディルクは特に感慨らしい感慨もなかったのか、周囲を一瞥しただけで目の届く場所に荷物を下ろし始めた。

 

「ちょっと、もうちょっと何かないの?」

「あぁ? 何かって何を言えばいいんだよ。景色でも褒めろってか?」

「あら、わかってるじゃない」

 

 そう軽口を叩き合う恋人同士の姿は、見ていて微笑ましい。

 若いとは良いことだ、と思うが、改めて考えれば、ディルクとエマは十七歳、それに比べてアリアは十五歳と実はアリアがこの中で一番年下だったりする。

 

「すみません、エマさん。ちょっと川の中に入りたいので、護衛をお願いしたいのですが……」

「ええ、いいわよ。ディルク、あなたは火でも熾しといてちょうだい。それと、こっち見ちゃダメよ」

「あほか、見ねぇよ」

 

 律儀にもアリアたちに背を向け、薪を探しに行くディルク。

 それを確認して、エマは腰に吊り下げていた細身の剣を引きぬいた。

 

「さて、こちらはいつでも大丈夫よ。いったい川の中で何を探すのかしら?」

「今回は、レジエン石という石をメインで採取を行う予定です」

「レジエン石、ねぇ……。石ってことは重いわよね。あなた帰りは持てるの?」

 

 心配してくれるエマに向かって、腕まくりをしながらアリアは応えた。

 

「いざとなったらディルクに運んでもらうので、大丈夫です」

「悪い子ねぇ、あなた」

 

 そう言いながらも、エマの顔はいたずらを思いついた子供のように、どこか邪な気配を漂わせていた。

 おもしろがっているのだろう。

 

 昨日二人きりで話してから、エマから発せられていた張り詰めた空気が和らいだようだ。

 気安く話しかけてくれるし、時には冗談も織り交ぜてくるようになった。

 

 恋敵になりえないと気づいたからだろう。

 その認識は正しいので、どうかそのままでいてほしいものである。

 

 

 紺色の錬金服の袖を二の腕まで捲り上げ、長いスカートの裾を膝のあたりで固定する。

 いざというときにすぐ反応できるよう、エマには川岸で待っていてもらい、一人川の中を進む。

 

 すでに秋も深まり冬が近くなってきたからか、川の水はキンッと冷たく、流れも早い。

 気をつけなければ、足を取られて転んでしまうだろう。

 

 けれどその代わりというべきか水は澄んでおり、川底までたやすく見通せる。

 さほど川岸から離れずして、アリアの探し物はみつかった。

 

「あった、これだな」

 

 それは鈍く光る灰色の鉱石であった。

 大きさは拳二個分といったところか。大きさに相応しい重量が、手にずしりとした実感を伝える。

 

 レジエン石。

 

 それがその鉱石の名前だ。

 

 鉄や雨雲の石の素材であり、ザールブルグではストルデル川をさらに遡った東に大きな鉱山がある。

 採掘量は多く、その鉱山だけで国中の大半の鉄がまかなえる。それ故か、シグザール王国では鉱山以外で採れるレジエン石の扱いは雑で、ストルデル川で取れるレジエン石は国ではなく、拾った当人のものになると定められている。

 

 

 シグザール王国は鉄だけではなく銀山も豊富で、自然も豊かと改めて考えれば恵まれた環境にある国だ。

 ただ全てが完璧というわけではなく、隣には豊かな国土を持つシグザール王国を狙う大国ドムハイトが控えている。鉱山の質と量の割に金山は全くなく、何十年も前、僅かに作られたきりのシグザール金貨が、シグザール王国唯一の金貨という有様である。

 

 国が豊かな現状、問題は表面化していないが、流通用の貨幣が銀貨しかないというのは貿易の面でも不利であり、出来れば国内の金量を増やしたいと代々の国王は願っていた。

 そんな中、唯一まっとうな手段で金を作り出すことのできる錬金術という技術が重要視されるのも当然といえよう。わずか二十年で新興技術である錬金術が、アカデミーを設立し国の主要産業の一つにまで上り詰めたのには、こうした背景も存在していた。

 

 

「見た目はあんまり綺麗じゃあないわね」

 

 少し残念そうにエマが呟いた。

 

 あいにくだが、原石なんてそんなものである。

 宝石とて磨かなければ、そこらの石っころと変わらないのだ。当然、鉄の元となる石なんてソレ以下であってもおかしくない。

 

 けれどアリアにとっては見た目など関係ない。

 わざわざレジエン石を探すために、ストルデル川までやってきたのだ。今の彼女にとって、鈍色に光るこの石は、金の塊よりも重要なものだ。

 

 そしてこの場所を軽く見渡せば、そんなお宝がごろごろ転がっていた。

 

 ただこれは今日は採らない。

 

 日の高さを確認すれば、今はまだ明るいが、あと幾らもしないうちに空が赤らみ始めるだろう。

 今わざわざ採集を行うよりも、今日は採るものの場所を確認し、明日の朝一気に行動するほうが効率的だ。

 それに、今日のうちに軽く採取するものを確認しておけば、質のよいものと悪いものをふるい分けることもできる。焦って下手なものをとるよりは、そちらの方がはるかに良い。

 

 どうせこの時間だと、今日中に帰路につくことはできないのだ。急ぐ必要はない。

 まずは川縁を見てみようと、アリアは足を向けた。

 

 

 川縁には、穂先が槍そっくりの形のした草がいくつも生えている。ズフタフ槍の草だ。

 この草には眠気を誘発する成分が含まれており、下手に穂先についている黄色い花粉を吸い込むと、そのまま眠りこけてしまうこともあるほどだ。

 そのため、このズフタフ槍の草は、安価な睡眠薬として昔から使われてきた。

 

 形の良い物を一、二本ナイフで切り取り、花粉が外に漏れないよう袋に入れて口をしっかりと縛る。

 この袋は、もうズフタフ槍の草専用にしよう、と決めた。

 他の素材に、ズフタフ槍の草の花粉なんてつけたくないからだ。

 

 

 次に足元を見てみれば、普通の砂利に混ざって白味の強い小石がある。

 アリアは手にとり、持ってきていた図鑑でその石を確認した。

 

 思ったとおり、その石はフェストという石だ。

 

 フェストは表面のサラリとした質感の割に固く、砕くのも一苦労な鉱石だ。

 しかしながら、フェストを砕き磨り潰してできた粉は、これ以上ないほど質の高い研磨剤となる。

 その事実が知れ渡ってから、ザールブルグで使われる研磨剤は、全てフェストから作られるようになったほどだ。

 

 

 最後に川近くの岩肌を見てみれば、こちらはもう一目瞭然だ。

 先に赤い色の花をつけたガッシュの灌木が岩肌の割れ目から、ところ狭しといくつも顔を出している。

 根本には白地にピンク色の斑点があるちいさなキノコが、いくつも生えている。

 

 近づけば、その鼻を刺す独特の強い匂いがする。一本折ってみれば、更に香気が強くなり、アリアは顔をしかめた。しかし、この匂いが虫よけとしてとても重宝するのだ。

 これから採集活動をするたびに、このガッシュの枝にはお世話になるだろう。

 

 アリアは少し多めに採っていくことに決めた。

 

 

 白地にピンクの斑点のあるキノコは名前をケムイタケという。

 これはガッシュの根元に生えるキノコであり、ガッシュのある場所でしかとれない。

 ガッシュと一緒に生えているキノコとは思えないほど、キノコ自体に香りはない。だが、これを燃やすと大量の黒い煙が出てくる。

 あまりにたくさん出るので、昔は狼煙を上げるときにも使われたという。それゆえについた名前がケムイタケ。

「安直な名前ね」とエマには大変不評だった。

 

 

 

 ストルデル川の色が、沈む夕日で赤く染まり始めたころ、ようやくアリアは採取するものの目星をつけ、エマを伴いキャンプ地へと戻ってきた。

 

 キャンプ地では、火はすでに赤々と燃え、鍋がかけられていた。火の周りには長めの木串に挿した魚が等分に並べられており、じゅうじゅうと魚の油が音を立てて落ちる。脂は鍋の中に落ちるよう調節されていた。油が落ちるたびにちいさな火花が、ぱちりと音を立てて跳ねた。

 よく見れば、腹の部分が横に一文字に綺麗に切られており、内臓が取り出されている。

 

「あら、美味しそう。相変わらずマメねえ」

「うるせぇよ」

 

 口ではなんと言いながらも、エマが嬉しそうにしているためかディルクの機嫌は悪くはない。

 

 口調はそこらのチンピラと同レベルだが、育ちが良いためかディルクは基本真面目でマメな性格だ。頼まれた仕事はきっちりこなすし、女二人組が疲れて戻ってくることを予想してか、こうして野宿の準備も整えてくれる。

 仕事も丁寧で、魚には内臓の欠片すら残っていない。

 

 これで口調や態度がまともなら……、と干し肉を炙りながらアリアは思ったが、丁寧な口調のディルクなどもはや悪夢である。背筋がゾッとしない。 

 

 丁重に脳裏から排除し、アリアは炙った干し肉を削ぎ落し、鍋に入れていく。味が出てきたところで、採取の下調べついでに取った野草を入れる。

 いくつか自生していたハーブもみつけたので、それも鍋にいれると香草の良い香りがあたりに広がった。

 香りが飛ばないよう煮立て過ぎないところで、火からおろし互いの椀によそう。

 

 単純な野営料理だが味は悪くない。

 軽く干し肉を炙ったことで油が出ており、鍋の中に落とした魚の油と混じりあい、複雑な肉の旨味を味わえる。

 単純にそのまま煮込んだだけでは、肉や魚のくさみが出ていただろうが、さわやかな香草の香りがくさみを吹き消し、さらには口の中に残った脂も野草の渋みが洗い落としてくれる。

 

 調味料は僅かな塩だけだが、素材の味がそのまま舌に伝わるので、これもなかなか乙なものだ。

 素材も調理器具も足りない中で、これだけのものができたというのは褒めても良いだろう。

 

「あら、おいしい。これだけ作れるならいいお嫁さんになるわよ」

「ありがとうございます」

 

 社交辞令かもしれないが、褒められるのは素直に嬉しい。

 ディルクは無言だが、こいつは味が悪いと頭で考えずにすぐさま悪態が口に出る。

 何も言わないということは、特に文句もないのだろう。

 

 食事とともに、夜は暮れていった。

 

 

 

 翌朝の天気はあいにくの曇りであった。

 もう秋も深まった今の時期だと、日差しがなければかなり肌寒い。

 雨の前特有の湿った風は吹いていないので、しばらく降ることはないだろうが少しばかり気分が悪い。

 

「おはよう」

「おう」

 

 夜明け前の見張りを担当していたディルクに声をかける。

 最初の見張りを担当していたエマは、まだ夢のなかだ。

 空の様子からはわかりづらいが、夜が明けたばかりなので起きていなくても当然だ。

 

 アリアは見張りを担当していない。

 雇用主、ということもあるが、旅慣れていない上に今日の採取はアリアが中心になって行う。下手に見張りにたって、本来の目的である採取が振るわなかったら事だと、エマが判断したのだ。

 それに下手に見張りを担当して、気づかないうちに眠り込んでしまったらそちらのほうが大変だ、というのもある。

 

 これからも採取を行うことはあるだろうし、見張りなどの仕事は慣れた頃にすこしずつやっていけば良い。

 そういう判断の末に、アリアの見張り当番は免除されることとなった。

 

 川辺で顔を洗って目を覚まそう、とアリアが寝起きの重い体をもぞもぞと動かしている時だった。

 

「なあ、アリア」

 

 ディルクが話しかけてきたのは、そんな時だった。

 

「おまえは、俺を恨んでるか?」

「………………」

 

 ディルクが聞いたのは、ただそれだけだ。

 ただそれだけで、あとは沈黙が二人の間を流れた。

 

 やはりこいつは馬鹿である。

 アリアは心の中で断言した。

 

「君は本当に馬鹿だな。何故私の幼馴染はここまで脳みそがスッカラカンなのだろう。神様の理不尽さを感じるな」

「おい、てめえ人が珍しく真面目に聞いてやったと思ったら……」

 

 しみじみと、自らの幼馴染の馬鹿さ加減を嘆いていると、米心に青筋を立ててディルクが凄んできた。けれど全く怖くはない。

 特にエマを起こさないようわざわざこんな時にも小声を保つ姿に、笑いすら沸き上がってくる。

 

「確かめるが、君が聞いているのは私達の間にあった“婚約もどき”の破棄についてだな? 君気づいているのか?」

「何をだよ……?」

「ソレを肯定するということはだ、私が君に対して恨みに思うような要素を持っていたことになるのだぞ。つまり、私が君に対して恋愛感情を持っていたことになるな。どんな自惚れ君だ」

 

 自分で言っていて鳥肌が立ちそうになる。

 ディルクの反応も似たようなものだ。石のように固まっている。

 

 さもありなん。

 

 アリアとて口に出してこれほど気持ちの悪いことはない。

 このチンピラに対して恋愛感情? 自分が? ないないない、全力で拒否する勢いである。

 

 ソレはディルクとて同じだろう。

 

 互いに幼馴染である。

 これだけは間違いない、と変な信頼感が二人の間には存在していた。

 

「というか、今回は何故こんなにしつこかったんだ? 私達にとってお互い別の道に進むことは、歓迎すべきことであって、いちいち悩む必要なんてないだろうに」

「うるせぇな」

 

「わかってんだよ」とディルクは舌打ちと共に先を続けた。

 

「こっちだってな、別にそれ自体はどうでもいいんだよ。お前だって、相手ができたら同じことしただろうしな! 俺が言いてぇのは別のことだよ」

「ほう、それはなんだ?」

「…………親父さんだよ」

「…………ああ、なるほど」

 

 なるほど、ようやく合点がいった。

 

 アリアの中で、点と点が線を結び、ようやくひとつの絵を描いた。

 

 アリアの父はすでに亡くなっている。

 そして不運にも彼女の父が亡くなったのは、婚約を解消してから数日後のことであった。

 

「君は、本当に面倒くさいな。父が亡くなったのはただの事故で、君には何の責任もないだろうに」

「黙れや、この鉄面皮。普通の人間はな、それでも責任を感じるもんなんだよ」

「鉄面皮がどうした、チンピラ」

 

 ポンポンと錬金服のスカートから埃を払い、立ち上がる。

 せっかくの朝なのに時間を食ってしまった。

 

「とりあえず、この話題はこれで終いだ。エマさんにも失礼だからな。もうこれ以上は私達の間ではなし、だ」

「……ああ」

「私は顔を洗ってくるとしよう。…………ああ、そうそう」

 

 顔を拭うための布を持ち、少し離れたところで振り返る。

 

「エマさんへの説明は、君に任せた。恋人なのだから一から十までしっかりとするように。私は馬に蹴られたくないので、一切関わらない。じゃあ、よろしく頼む」

「え……!?」

 

 スチャッと、無駄のない動作で片手を上げ、アリアは川辺にかけ出した。

 彼女が最後に見たもの、それはディルクの後ろでニコニコと満面の笑みで微笑むエマの姿。

 その笑顔がどこか空恐ろしいのは気のせいではないだろう。

 

 つんざくような男の悲鳴がアリアの耳に届いたのは、そのすぐ後のことであった。

 

「恋人同士の痴話げんかに巻き込まれるほど、馬鹿馬鹿しいことはない……」

 

 帰路につく時には、荷物を全部ディルクに持たせてやろうと、アリアは決めた。

 

 ストルデル川で、何も知らない脳天気な魚が、小さくパシャリと跳ねた。

 

 

 

 

 事前に採取するものを目星をつけておいたからか、採取にはさほどの時間はかからなかった。

 かごいっぱいに採取物をつめ込む。

 

 使い道が現段階ではさほど多くないケムイタケは少なめだが、レジエン石やフェスト、ガッシュの枝にズフタフ槍の草は採れるだけ詰め込んだ。

 今回はレジエン石やフェストといった鉱石が多いので、かごの重量が重い。

 さすがのアリアでも持ちあげるので精一杯だ。

 

「ディルク、あとはよろしく頼む」

「おい、おい」

 

 これはないだろう、と言いたげな目線で見つめられるが、それをアリアは丁重に無視をする。

 朝の意趣返しが入っているのは、想像に難くない。

 

 早々にディルクは抵抗することを諦め、渋々とだがその重いかごを背負う。

 

 ただ、そこはさすがに鍛冶仕事を何年も続けている男というべきか。

 アリアでは持ち上げることで精一杯だったそれも、ディルクは危なげなく一人で背負い込んだ。

 さすがに重いのか、顔は渋面であったが。

 

「おい」

「んどうした」

「さすがにここまで重いもん持って戦闘には参加できねぇからな」

 

 一応ディルクの腰には、細身の剣が吊り下げられていたが、確かにずしりと重いかごを背負った状態では振るうどころか、鞘から抜くことすら一苦労だろう。

 

「安心したまえ。私とてその状態で戦わせるほど鬼畜じゃあない」

「こんなもん背負わすのは鬼畜の所業じゃねぇってか?」

「雇用主として当然の権利」

 

 そう嘯けば、ディルクは反論する気力も無くしたのか、もう何も言わなかった。

 

 

 

 ストルデル川の周囲には木々が生い茂り、一つの森となっている。

 これはザールブルグ近郊まで途切れることはなく、下手に足を踏み入れると、熟練者でも迷うことがあるほど深い。

 

 ストルデル川の支流は数も少なく、また大本がはっきり分かるほど隔絶した大きさをしているので、下手に森の中をいくよりも川沿いに歩くほうが道はわかりやすい。

 ただ、晴れならば何も問題はないが、雨の日が続けば川の水が増水し、川沿いを歩くのは一気に危険となる。その時は、街道を行く旅人の数も減り、流通も少なくなる。

 ストルデル川を行く道は、まさしく天気に左右される道でもあった。

 

 

 どんよりと曇った灰色の空の下、アリア達は無言でストルデル川の側を歩いていた。

 先程までは軽口を叩き合っていたのだが、今やそれもない。

 

 先頭を行くエマが、周囲を視線だけで見回す。

 茂みに隠れているのか姿は見えない。

 けれども彼女にはそこにいる何者かの存在を、肌で感じていた。

 

 足を止め、腰にかけていた曲刀を抜く。

 優美な曲線を描くその細剣はシャムシールと呼ばれるもので、よく研がれているのか刃こぼれ一つない。それもそのはず、その剣はザールブルグ一の製鉄所、その跡継ぎであるディルクが自らの手で打上げたグラセン鋼製の一品だ。切れ味鋭く、そして持ち主の実の軽さを殺さない軽さを誇るそれは、すでに名剣の風格を醸し出していた。

 

「さすがに、帰り道も何も出ないってことは甘い考えだったようね」

 

 口調に余裕をにじませて剣を構えるエマを見て、アリアもまた腰に下げておいた杖を手に取る。

 木でできたその杖は護身用としては心もとなく見えた。

 

「おい、油断すんなよ」

「あら、あたしの腕が心配?」

「あほ、俺より強い女をどう心配しろってんだ」

 

 背にある荷物のせいで一人戦闘に参加できないディルクは、それでもなお余裕であった。

 心配する必要など何一つないとでも言いたげなその様子は、ふてぶてしくすら見えた。

 

「じゃあ、アリアちゃんあたしに合わせてね」

「ええ、タイミングはそちらで教えて下さい」

 

 そうアリアが言うと同時に、木の杖の先が青く輝きはじめる。

 

 それは魔力の光。

 

 魔法を発動する前動作。

 

 

 それを阻止しようとしたのか、それとも偶然か。

 藪の中から青やピンク色をした球体の魔物が三匹も飛び出してきた。

 

「今よ!」

 

「ハーゲル・ツェーレ!」

 

 狙い違わず。

 空気中の水分が凝固し、礫となってその魔物たちに襲いかかった。

 

 

 

 ぷにぷにという魔物がいる。

 

 プニプニしたゼリー状の体を持ち、その触感からついた名前が「ぷにぷに」。

 湿地や水辺を好み、体全体が水気を帯びているため水属性の攻撃に強く、炎属性の攻撃に弱い。

 魔法防御も殆ど無いため、簡単な魔法さえ使えれば戦いの素人でも楽に倒すことができる。

 

 ただその弱さとかわいい外見に反して、餌の食べ方はエグい。

 その酸性を帯びた体内に獲物を取り込み、じっくりと溶かしていくのだ。

 下手に意識があると、地獄の苦しみを味わって死ぬこととなる。

 

 だからこそ、ぷにぷにはその弱さに反して、みつけたらすぐさま逃げるか、迅速に殲滅するよう教えられる。

 

 魔法での攻撃は、魔法防御のよわいぷにぷにの殲滅に、これ以上なく向いている。

 

 そう、普通はそうだ。

 

 

 アリアの放った氷の礫が、ぷにぷにたちに襲いかかる。

 が、一瞬怯みはしたものの、その弾丸は弾力のあるぷにぷにたちの肌に弾き飛ばされ、そして幾ばくかはそのまま中に取り込まれ、傷らしい傷を負わせることはなかった。

 

「あ、やっぱり」

 

 アリアの魔法属性は水。

 奇しくもぷにぷにたちの耐性属性に合致してしまっていた。

 

 しかし、一瞬怯めば彼女にはそれで十分だった。

 

「はあっ!!」

 

 気合一閃。

 銀の軌跡が青いぷにぷにを縦一文字に切り裂き、一瞬でその命を奪う。

 エマのシャムシールだ。

 

「一!」

 

 懐に手を入れ、投擲用のナイフをつかむ。

 投げれば吸い込まれるようにしてピンク色の、通常のものよりも幾分か耐久性の強いぷにぷにの眉間に、過たず突き刺さる。

 

 声無き絶叫。

 

 それに耳を貸さず繰り出されたエマの追撃は、無慈悲にもぷにぷにの命を刈り取った。

 

「これで二!」

「後ろだ!」

 

 仲間の敵討ちにか、ピンク色のぷにぷにを倒すために背を向けたエマに向かって、魔物の攻撃が迫る。

 

「この程度でどうにかなると、本当に思っているの?」

 

 けれど、それはエマのほうが一枚上手だった。

 華麗な脚さばきでぷにぷにを倒した勢いを殺さず、くるりと一回転。

 振り向きざまに、先程まで自分のいた場所に剣を滑らせれば、それで事は終わり。

 

「これで最後、ね」

 

 自分のつけた勢いのままエマの剣で切り裂かれた魔物が、ベシャリと地面に叩きつけられて潰れた。

 

 あまりにも一方的、あまりにも圧倒的。

 そこには、戦闘者として生きてきた者の格の違いだけが存在していた。

 

 一撃すらまともに食らわせられなかった自分とは大違いだなと、アリアは冷静に自らとの違いを感じていた。

 

 

 残念ながらぷにぷにたちから得るものは何もなかったが、帰り道で他の魔物に合うこともなく、無事ザールブルグ近郊の街道まで戻ることができた。街道まで戻れば、治安の問題もなく、それほど気を遣うこともなかった。

 気苦労は少しあったが、数カ月来の問題も解決し、有力な冒険者のツテも得ることができた。

 今回の冒険は、アリアにとって大成功といえるだろう。

 

 とりあえず、城門で解散する予定だったが、意外と人のよいディルクは、結局最後まで荷物運びを手伝ってくれた。さすがにそのまま帰すのは気分が悪いので、賃金はいくらか上乗せしておいた。銀貨ではなくレジエン石による現物支給だが、そこは鍛冶屋見習いの人間である。銀貨よりもよほど嬉しそうだった。

 

「じゃ、次がないことを祈ってるぜ」

「あらあら、そんなことを言っちゃって。あたしはいつでも呼んでくれていいからね、アリアちゃん」

「ありがとうございます。今回は助かりました」

 

 ペコリと頭を下げると、エマは手を振って、ディルクはそのまま背を向けて帰っていった。

 

 彼らを見送ると、アリアは一人で現場整理。

 素材の詰まった荷物を整理しながら、帳簿に数を記入していく。

 冒険の疲れは残っているが、保存状態に気をつけなければならない素材もあるため、本日中に整理を終わらせなければいけない。

 

 全てを終えた頃には、もうすでに外は薄暗くなっていた。

 さすがにこの時間から夕飯を作る気力はなく、野営生活の延長で干し肉をかじるだけで終わらせた。

 アカデミーに入学してから、日々の暮らしがどんどんと不健康になっていくのが分かる。けれど、それをやめる気はない。

 

 意外とそれを楽しんでいる自分がいた。

 

 ベッドに倒れるように潜りこみながら、それでもアリアは充実していた。

 

 

 

 鉄。

 レジエン石という鉱石から生成され、その丈夫さ頑丈さから主に武器や防具に使われる金属である。

 鍛冶屋・武器屋において最も基礎的な金属だが、同時に加工する人物の腕前により良品にも悪品にもなりえる。 鍛冶屋の腕前を見たければ鉄の品を見ろ、とはザールブルグでまことしやかに囁かれている言葉である。

 

 

 この「鉄」をアリアは調合してみたかった。

 そのためにわざわざストルデル川くんだりまで赴いたのだ。

 アリアが幼いころ――父の工房の経営がまだまだ大変だったころ、少しでも経費を削減するために父は何度かストルデル川まで足を運んでいた。

 その場所を、父の秘蔵の地図に記された場所をこの目で見たかった。

 

 図書館で一から書物を学んだのも調合を万全なものとするためだ。すでに知っていることなのに、それでもこれで失敗することだけは避けたかった。

 父が「鉄」を打つ姿は、何度も何度も見たことがある。

 だからその手順も、やり方も父のものならすでに全部頭のなかに入っていた。

 

 さあ、さっそく挑戦してみるとしようか。

 

 まず中和剤(青)と蒸留水を一対一の割合で混ぜ合わせる。

 混ぜあわせたら今はまだ使わないので、地下室に置いて冷やしておく。

 

 次に取り出すはレジエン石。

 そしてトンカチ、やっとこだ。

 

 レジエン石の表面に中和剤(青)を塗り、魔力の伝導率を良くする。

 この作業をしてからレジエン石を熱すると、温度が低くても溶かすことができるし、石の温度が下がりにくくなる。これは本からではなく、父から学んだ手法だ。

 このアトリエはさすがアカデミーの施設というべきか、ちいさな炉も完備されている。十二分にレジエン石を熱することができる。

 

 石を熱するときにやっとこを使わず、家にある火バサミでも十分用をたせる。

 けれど、やっとこのほうが便利だし、そして何よりこのやっとこは、アリアの父が彼女のために遺してくれたものだ。

 使わないという選択肢は、どこにも存在しなかった。

 

 熱されて赤くなったレジエン石を、手早く火から降ろす。

 そしてすぐさまトンカチで叩くのだ。

 

 この作業でレジエン石に含まれた不純物を取り除き、形を整えるのだ。

 

 何度も何度もトンカチを叩きつけ、温度が下がってきたらもう一度炉で熱する。

 繰り返す作業。

 少しずつ少しずつ形が様になっていく。

 

 手早く、丁寧に。

 それだけを考えて、トンカチを振るう。

 けれど作業はなかなか進まない。

 

 叩く回数が男性よりも多い。力が弱い。

 汗が滝のように額を流れる。体力がない。

 

 やればやるほど分かることがある。

 この作業は、鍛冶という仕事は女性には向いていない。

 

 アリアは力には自信がある。体力も同じように。

 鍛冶屋の娘で、その仕事の補助を小さい時からしていたのだ。普通の女の子よりも、よほど力や体力に恵まれている。

 

 けれど、それは女の基準だ。

 鍛冶屋の基準ではない。

 

 男の中に混じって、そしてタメを張れるカリンは例外だ。

 

 自信のあった腕力も、体力も鍛冶屋の男たちと比べれば象と蟻だ。

 基準値にも満たない落第点。

 例外にすがりつくだけの能力もなく、才能もない。

 そのまま諦めるのが当然で、自分も周囲もそう思っていた。

 

 別の道をみつけたのはそんな時だ。

 これは直接、鍛冶に携わる道ではない。

 けれども、少し遠くから関わることはできる。

 

 それが研究者としての道。

 金属の作り方、素材を吟味し、論理的に合理的に仕組みを解き明かす。その研究の果てに、きっと何かがあると信じて、アリアはアカデミーの門戸を叩いたのだ。

 

 

 カーン、カーンと鉄を叩く音が、小さな工房中に響きわたる。

 その日、夜になっても工房の明かりが消されることはなかった。

 

 普通の人の何倍も時間をかけて、丸一日時間をかけて。

 その日、アリアは「鉄」の調合に成功した。

 




 


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第四話  アルテナの水とアトリエの少女

 ザールブルグシリーズには「うに」というアイテムがあります。
 これは栗のことで、攻撃アイテムとしても使える調合素材です。

 この小説では原作に準拠して、栗のことを「うに」と表記します。
 ご留意お願い致します。


 朝起きると同時に刺すような寒さが骨身にしみる。

 慌てて上着を羽織ると、アリアは足早に暖炉へと向かった。

 

 火が灯る。

 ちいさな種火に用意しておいた枯葉を加え、火の勢いが強くなってきたら乾いた薪を配置する。

 この時、空気が入るよう、そして火の勢いが強くなり過ぎないように、適度に空気を遮断するよう薪の位置を調節するのが火を長持ちさせるコツだ。

 

 大きくなってきた火に手をかざすと、かじかんだ手を暖かい空気が包み込む。

 ほうっ、とアリアは一息ついた。

 

 最近は朝起きるのも辛いほど、寒さが厳しくなってきた。

 すでに秋も終わりかけ、もうすぐ冬がやってくる。

 雪が降り、このザールブルクが一面の銀世界に覆われた時、それが冬の到来を告げる時だ。

 

 冬の前にやるべきことを終わらせておこう、とアリアは帳簿の一ページを捲った。

 

 

 

 

 

 

 

 アルテナの水という薬がある。

 これはアカデミーで学ぶ基本的な薬剤で、簡単な怪我ならこれ一本で事足りる。もちろん、簡単な病気にも効く。中和剤や蒸留水とは違い、傷や病を癒すという目に見える効果のある品なので、アカデミー生の大半が最初に調合する薬剤として選択する品だ。

 

 アリアもまたその例にもれず、中和剤・蒸留水の次にアルテナの水の作成を行った。

 

 最初のうちは何回も失敗してしまったが、回数をこなすうちにアルテナの水を作ろうとして産業廃棄物を作り出すこともなくなった。今ではもう、採集の時には常に欠かさず常備している品だ。

 

 ちなみに、アルテナの水の作り方そのものは簡単だ。

 まず乳鉢で徹底的に砕いたほうれん草を、グズグズに煮溶けるまで蒸留水で煮込む。煮溶けたのを確認すれば火から降ろし、ろ過器で不純物を濾し取る。その後、熱が冷めたらゆっくりと中和剤(緑)を注ぎ入れながら、手早く一気にかき混ぜる。これで完成だ。

 

 この時一番難しいのがやはり中和剤(緑)を加える時だ。

 中和剤(緑)をゆっくりとできるだけ静かに注ぐ必要があるのにもかかわらず、逆の手で早く一気にかき混ぜなくてはいけない。しかもこの時、かき混ぜながら調合物に魔力を注ぐ必要まである。つまり、三つの行程を同時に行う必要があるのだ。

 

 この同時に行う、という行為がなんとも難しい。

 中和剤を注ぎ入れるのに夢中になるとかき混ぜる手がおろそかになるし、ならかき混ぜることを意識すれば、今度は魔力の集中を切らしてしまう。

 ようやくコツを掴み、品質は悪いながらも完成品と呼べる代物を作れるようになった頃には、すでに産業廃棄物の数は五つを数えていた。しかも他には何も使えない、クズ中のクズである産業廃棄物Aであった。

 もちろんその日は貫徹で、出来上がりを確認すると同時に、アリアはベッドに寝転がり爆睡したことは言うまでもない。

 

 さすがにあの時の五連続失敗は堪えたと、アリアはしみじみ思う。精神的にではなく経済的に。

 

 アルテナの水の調合に使うほうれん草一束分の値段は銀貨十枚ほど。

 五回失敗をしたので、その時無為に使ったお金は銀貨五十枚分にものぼる。

 

 こう聞くと少なそうだが、ザールブルグでは一日生きていくのに銀貨五十枚もあればお釣りが出る。切り詰めれば、もっと少なくてもなんとかなる程だ。銀貨十枚さえあれば、パンを買うこともできるし、ベルグラド芋も買えるのだから当然である。一食には十分すぎる金額だ。

 つまりこの日、アリアは一日の生活費を一気に消費してしまった計算となる。

 無為に消費した金額分切り詰めるために、次の日の食事が三食茹でたベルグラド芋一個になってしまったのには、なんともひもじい思いをしたものである。

 もう二度とゴメンだ。

 

 ただ、この失敗も全部が全部無駄に終わったわけではない。

 調合のコツを掴むこともできたし、いくらか薬品調合の基礎も身についた。

 それと……。

 

「じゃあ、今日も一つ持って行くとしようか」

 

 アリアが開けた戸棚の中には幾つもの瓶が並んでいた。

 それの多くは緑色の液体で満ちていた。――アルテナの水だ。

 

 その後も調合の練習を続けたことにより、アリアはアルテナの水のストックを数多く作っていたのだった。

 

 そのアルテナの水を一つ腰のバッグに入れ、アリアはかごを背負う。かごの幅は背丈に合わせて腕も長いアリアがようやく一抱えできる程度、高さは彼女の腰から方ほどまで。

 かなり大きなかごだが、その分たくさんの荷物を背負うことができるので採取の時には、とても役に立つ。

 アカデミーの特別製でもあるので、丈夫さも折り紙つきである。アリアがかごの上に乗っかってもびくともしない。

 

 

 さて、今日も採取だ。

 

 アトリエの看板についた鐘が、小さく音を鳴らした。

 

 

 

 

 ザールブルグには日帰りできる近郊に「近くの森」と呼ばれる小さな森がある。

 子供の足でも鐘が鳴ってから次の鐘が鳴る前に、行って帰ってくることができる距離にあり、うにやキノコにハーブといった食料品も採ることができる。そのためここに足を踏み入れる人は多い。

 

 アリアもまた、その「近くの森」昔からお世話になってきた人間の一人である。

 

 そして今日もまた、アリアは「近くの森」へと向かう。

 けれどそれは昔と同じ目的ではない。

 

 今日彼女が「近くの森」に行くのは、食料品や薪を採るためではない。

 

 錬金術士の卵として冬になる前に、秋の素材を採取しに向かうのだ。

 

 

 

 ガサガサと茂みの中をかき分け、その奥を覗き見る少女の姿が一人。

 頭を藪の中に突っ込んでいるためその表情を見ることはできない。

 ただ、その痩せているが縦に伸びた体を包む紺色の錬金服と、首の後から腰のあたりまで伸びた黒髪の三つ編みが特徴的だ。

 

「よし、あった」

 

 音を立てて藪から顔を引きぬいた少女の顔は、ところどころ枝で切ったのか赤い筋が幾本もついている。黒髪にも葉っぱがついており、今の状態を見て彼女があの有名な錬金術アカデミーの生徒であると分かる人は少ないだろう。今の彼女をはたから見ていると、どこか間の抜けた印象を抱かせる。

 

 その手には赤地に白の斑点といった毒々しい色合いをしたキノコを掴んでいた。

 何も知らない人間なら、「それは毒キノコだよ」と善意で忠告しそうな光景だ。

 だが、その少女――アリアはそのキノコの名前も効果も、そこらの一般人よりもよほど詳しく知っていた。

 

 彼女が持つキノコの名前は「オニワライタケ」という。

 このキノコは何もせずにそのまま食べれば、しばらく笑いが止まらないという毒性がある。が、このキノコをじっくり熱して調理すれば、ワライキノコとしての効果はなくなり、食べることも可能だ。しかし、渋みが強いので結局のところ食用には向かない。

 

 ただこのキノコには強い滋養強壮作用があり、栄養剤の良い材料となる。

 アカデミーの参考書にも基礎の栄養剤の材料として、しっかり記載されている程だ。

 

 このオニワライタケは、特に季節を問わず採集をすることが可能なのだが、さすがに冬だけは採れない。

 寒くなると胞子を作るために体の組織を変質させるので、栄養剤の調合には向かないのだ。だが、そうした問題点も、一度乾燥させれば関係なくなる。多少、質は悪くなるが、一度乾燥させたオニワライタケは寒さにも強くなり、長持ちするのだ。

 冬の間も栄養剤を作るためには、秋の間にオニワライタケを採り溜めしておくのがザールブルグに住む錬金術士の鉄則である。

 

 だが、無闇矢鱈と取り過ぎるのも問題がある。

 一つの株に生えているオニワライタケを一度に全部採ってしまうと、来年以降その場で採ることができなくなってしまうことがある。最低でも一つ、五つ以上同時に生えているのなら最低でも二つ残すのがマナーである。小さいキノコが生えているなら、それも残すようにしたい。

 

 多少効率は悪いが、キノコ採りの鉄則を守りながら近くの森を散策するアリア。

 歩き慣れているので、どこに何が生えているのかよく知っているのだ。オニワライタケだけではなく、魔法の草や、ちょっと強い衝撃を与えると針を飛ばして弾けるニューズという実も一緒に集める。

 これらも錬金術の材料となるのだ。

 一緒に採っておいて損はない。

 

 

 日が空の真ん中に達する頃には、カゴが半分近くまで採取物で埋まっていた。

 

「ふぅ」

 

 竹で作った水筒から水を飲み、一息つくアリア。

 長時間歩き回ったせいで、肌寒い季節だというのに体が火照って仕方がない。

 さすがに時間が経ったせいで生ぬるくなっているが、それでも疲れた体に水分はありがたい。

 

 切り株に腰掛けて、風に吹かれるのんびりとした時間。

 背丈の短い草や、木々の葉が風に吹かれて音を立てる。

 

 長閑な光景である。

 けれど、のんびりするのももう終わりだ。

 

 水筒を腰に吊り下げ立ち上がる。

 

 カゴを確認し、再び周囲を確認しながら、アリアは歩き始める。

 

 出来れば今日中にもう少しオニワライタケを集めたい、と考えながら探し続ける。

 だが、朝っぱらとは違い今度はなかなかオニワライタケの姿が見つからない。

 採られた後、と思わしき株のあとは見つかるのだが、肝心の白い斑点を持つ赤いキノコは根こそぎ採られている。

 

 どうやら今いる場所は、他の人が採っていってしまったようだ。

 錬金術の材料になるものはおろか、薪になる枯れ枝も見つからない。

 それどころか、生木を折ったあとすら見える。

 中の緑地があらわとなった木の枝ぶりが痛々しい。

 

 マナーが悪いな、とアリアは嘆息する。

 

 時折「近くの森」に来ると、今日のようにマナーの悪いお客様の残していった跡が目に付く。

 あまり快い風景ではない。

 

 もう少し奥に行こうか行くまいか迷っていると、少し離れた場所に黒色のイガが落ちていた。

 

「うに」だ。

 

「うに」はザールブルグの近隣でよく採れる木の実で、固く鋭い刺の生えたいがの中に、焦げ茶色の殻を持つ木の実が二、三個入っている。殻をむいても生のままではとてもではないが食えたものではない。しかし、茹でたり焼いたりするとほっこりと甘くなりとても美味しい。ただし、殻をむくのは大変だ。

 適当に焚き火の中に入れておくだけでも十分調理できるので、子供のおやつとしても食べられる。

 アリアも小さい頃から食べてきた森のおやつだ。

 

 ちょうどいい、ついでに拾っていこう、とその黒いイガに手を伸ばした。

 

 

「あ、こんにちはー。あなたもここに採取に来たの?」

 

 

 明るい声がアリアの耳に届いた。

「うに」のイガをつまみながら、声のした方に振り向くと、そこにいたのは一人の少女であった。

 

 肩口で切りそろえた明るいはしばみ色の髪と同じ色の目。

 体のラインにピッタリと沿った錬金服は、優しい橙色。

 同色の丸型の帽子を頭にちょこんと乗せ、子供のように無邪気に笑みを浮かべるその様は、どこかあどけない。

 

「初めまして、だよね。私の名前はエルフィール、長いからエリーって呼んでね! あなたのお名前は?」

 

 エルフィール・トウラム、通称エリー。

 彼女はアリアですらその名を知っている有名な生徒だ。ただしそれはあまり良い意味ではない。

 なぜなら、アリアが彼女について知っていたのは、アカデミーに最下位の成績で入学した補欠入学生である、というこの事実だけだったからだ。

 

 

 

 

 パチパチ、と焚き火の火から金色の火花が爆ぜる。

 燃えにくいまだ乾ききっていない枯れ木で焚き火の木を崩せば、炭になった薪の下から少し大振りうにの実が顔を出した。

 

 うむ、適度に殻が焦げてきて良い塩梅だ。

 

 うにの実を焼く時は、じっくりと中まで火が通るように焼くのがコツだ。

 殻が硬いので、火が通りづらく少しの焦げ目くらいでは中の実まで全然火が通っていない。

 焦げ目が大きくなってきた頃が、丁度良い頃合いなのである。

 

「うん、いい具合に焼けたな。もういいよ、エリー」

「うわぁい、ありがとうアリア! さっそく頂きまーす!!」

 

 手慣れた手つきでうにの殻をむき(その際に、熱くなった殻に少し苦戦していたが)、さっそく頬張るエリー。

 同じように、アリアもまた焚き火からうにを引き上げ、自分の分を剥く。

 

 ナイフで切れ込みを入れ、地面と枝で押しつぶすように力を込めると、パチリと威勢のよい音がして、殻が割れる。この時力加減や力の入れ方を間違えると、そのまま押しつぶしてしまうので注意しなくてはいけない。

 まあ、すでに何百回と同じ作業をしているアリアにとって、これくらいは朝飯前というものだ。

 

 焼きうにはザールブルグの秋の名物だ。

 これを食べたことのないザールブルグ人は、いない。

 秋なら少し城壁の外に出れば、誰だっていくらでも採れる。季節外れの時ですら、偶然それまで誰にも見つからなかったのか、それとも秋の間にリスが埋めていたのか、結構目にするのだ。

 金のない庶民にとってこれほど嬉しいものはない。

 

 焦げ茶色の殻から、ベルグラド芋よりも黄色味の強い中身を取り出す。

 殻とは違い柔らかい身は、少し力を込めればほっこりと二つに割れた。よく火が通っている。

 甘やかな香気の中に、ちょっぴりついた焦げ目の香ばしい匂いが混ざる。

 

 無言で頬張れば、当然のことながら熱い。

 熱さが口中に広がり、つい「ほっほっ」と息を吐く。

 熱が収まってくると、次に口の中に広がるのは優しい甘さだ。ザラメを舐めた時のような鮮烈な甘みもいいが、こうした素朴な甘いおやつのほうが、普段食べるぶんには向いている。

 ほこほことしたやわらかな食感が、中まで十分に火が通っていることを、アリアの舌に伝えてくれる。

 果物のように汁気はないが、冬に近い今の季節にはこのほっこりとした食感のほうが、食べ物の熱をより感じるような気がする。季節の食べ物といった感じで、アリアはこの焼きうにを大層好んでいた。

 

 隣ではエリーが、「おいしーい!」と歓声を上げながら、うにを次々と頬張っている。

 今回焼いているうにの大半はエリーが採ったものだ。ただで相伴するのも気がとがめるので、いくつか今回採ったオニワライタケをおすそわけしている。

 

 エリーは「えー、別にいいよー?」と最初は遠慮したのだが、おすそわけの交換ということで納得してもらった。

 納得すると、すぐになんのてらいもなく笑顔で受け取ってくれた。

 

 切り替えの早い子である。

 いや、邪気がないというべきか。

 

 こういう無邪気に好意の感情をすぐ表に出す子は、わかりやすくてアリアは好ましく思う。

 幼馴染が鬱陶しいほど感情的に不器用、というか捻くれているので、素直な良い子はなんというか安心するのだ。ユリアーネに対する感情も、このエリーという子に対して抱いたものとよく似ている。

 

 つい、頭をポンポンと撫でてあげたくなるのだ。

 

 現実ではもちろんしない。

 しかも、そんなことを思っているなど傍目では全くわからない。鉄壁の表情筋は今なお健在である……。 

 

 

 

 何故、先ほど出会ったばかりの、初対面を済ませたばかりの二人が焚き火を囲んで、うにの実片手に談笑しているのか。

 

 簡単にいえば、エリーがアリアを誘ったのだ。

 今日の採取は、欲を言えばもう少し量がほしいところではあったが、十分量はすでに採ってある。

 せっかくの同級生のお誘いを断ってまで急ぐ必要はない。

 

 むしろ、「丁度お昼の時間でもあったことだし、少し長めの休憩をとった後、二人で少し森の奥まで行こう、と誘おう」と画策している。

 

 近くの森の浅場なら、アリアでも一人で散策するくらいどうということはない。

 だが、深部に進むとなると一人では無謀である。

 

 近くの森でも深くまで進むと、ぷにぷにやウォルフといった魔物が出現する。

 どちらも水属性の魔法に耐性があり、特にぷにぷにはアリアの天敵だ。全くもって魔法でダメージを与えられない。

 一匹なら殴り殺すことも可能だが、さすがに有効な攻撃手段がない状態で一人で奥に進むのは危険すぎる。

 

 だが浅場にある採取物は、もう見えるところにあるものは採り尽くしている。

 この後、浅場で探すとなるとグンと採取効率は下がるだろう。

 

 これはアリアのミスだが、本格的に採取を行うならしっかりと護衛を雇うべきだったのだ。

 現在の採取量は最低目標量を達成してはいるが、理想量には程遠い。

 冬の間、これだけの量のオニワライタケで過ごすには、栄養剤の調合をかなり切り詰めなくてはいけないだろう。今調合できるものの中では支払いがかなり良い方なので、それだけは避けたい。

 

 浅場で日が落ちるまで探し回るか、丁度そんなことを考え始めている時にエリーと出会ったのだ。

 

 エリーはアリアと同じアトリエ生だ。

 話してみれば、すでに何度も採取に外に行っているとのことだし、戦力的にも不足はない。

 頼めば二つ返事で、快く採取に同行してくれることと相成った。

 それどころか、「私にとっても渡りに船だよ。ありがとうね、アリア!」とこちらの方がお礼を言われてしまった。

 さすがに魔法は使えないとのことだが、「魔物を殴るのは任せて! そのかわり魔法はお願いね!」となんとも心強いお言葉を頂いた。

 

 いやはや、まさにこれこそ神の思し召しというやつだろう。

 たいして信心深くもないのに、神様に対してつい感謝の念を送ってしまったほどだ。なんともめぐり合わせが良い。

 

 気分が良い。

 

 高揚する気持ちのままに、うにの殻を焚き火の中に投げ入れた。

 

 

 

 

「あ、またみーっけ。ほら、ニューズ!」

 

 近くの森の奥地、エリーが歓声を上げる。

 その手にはニューズが乗っていた。周囲にもたくさんのニューズが落ちている。

 

「おお、大量だ。エリーは採取物を見つけるのが上手だな」

「えへへ~」

 

 アリアが褒めれば、エリーは照れて頭に手をやった。

 ただ少しそのニューズを持つ手が危なっかしい。

 

「けど、持ち方には気をつけたほうがいい。そんな持ち方をしていると……」

 

 パンッと乾いた音が鳴り、エリーの手の中にあったニューズが弾け飛ぶ。

 

「あっ、いったー……」

「潰れて弾けるぞ、と遅かったか……」

 

 硬い種と針が飛び出し、エリーの手に赤い線を引いた。

 たらりと垂れる真っ赤な血が痛々しい。

 

 見ていられないと、アリアは腰に下げたちいさなポーチから瓶を一本取り出した。

 

「ほら、これで早く治しなさい。痛々しくて見ていられない」

「え、けどこれってアルテナの水じゃない!」

「そうだが、それが?」

「こんな高価なものなんてもらえないよ!」

 

 そう言われて気づいたが、このアルテナの水一杯分で最低でも銀貨百枚分はする。

 売るとこに売ればもう少し値上がりするほどだ。

 

 そういえばこれ私達から見れば高級品だったな、とのんきにアリアはアルテナの水を見る。

 作りすぎてそういう意識が薄れていた。アトリエに戻れば、まだまだ予備が棚の中にあるので、どうにも銀貨百枚の品だという感覚がない。

 

 いかん、経済感覚がずれ始めている、と改めて錬金術の生成物を恐ろしく思う。

 

 こんなまだ未熟な生徒が作るものでも、十分すぎるほどの値がつくのだ。

 それじゃあ、沢山の人達が入学しようとあくせくするわけだ。

 

「ね、だからそれはいいよ。アトリエに戻れば私も作れるし」

「それで化膿したらどうする。別にこれ一つくらい私は気にしない」

「けど~」

「じゃあ、オニワライタケのお礼ならどうだ。どうせなら、さっきみつけたニューズでもいい」

 

 気後れするなら物々交換だ。

 エリーのみつけた採取物は数多く、アリアの見つけた物の数を圧倒している。

 物々交換はアリアにとっても都合が良い。

 

 その後、エリーは少しの間「あー」だとか「うー」だとか唸りながら逡巡していたが、結局アリアのアルテナの水を受け取った。

 

 一気にそれを煽ると、淡い光とともにエリーの手についた傷が消えていく。

 さすがアルテナの水、とアリアも感嘆する。

 

「うー、ありがとう。本当にごめんね」

「気にするな。それにアルテナの水でこれだけのものと交換したんだ。私のほうこそお釣りが来るほどだ」 

 

 それは全くの本音だった。

 

 アリアはかごにいれたオニワライタケ一房を見ながら、嘆息した。

 

 先程からエリーはアリアを圧倒する勢いで、近くの森に落ちている採取物をみつけている。

 アリアがこの近くの森の深部に来てからみつけたものは、オニワライタケ三房にニューズ五つ、うにが一袋分。それだけだ。

 エリーがみつけたものは、魔法の草八本にニューズ十七個、オニワライタケにいたっては群生地をみつけたので、後で正確な数を数えなければいくつ採ったかわからないほどだ。オニワライタケは「いや、私だけで独占するのもちょっと~……」とエリーが言うのでご相伴させていただいた。

 さらに合間合間にうにを拾っているので、採った採取物の合計はもうあまり考えたくない数に上っている。

 ちなみにアリアは、あまり採りすぎても使い道がないので一袋分確保したあとはうにを全部エリーに譲っている。一人だと食べられる量にも限りがあるし、うには意外と実が詰まっていて重い。参考書にもうにを使った調合品など載っていないので、あくせく採る意味がないのだ。

 

 もうエリーのカゴはパンパンだ。

 エリーのおこぼれを頂戴したアリアのかごも、半分以上埋まっている。 

 さらに先ほどのアルテナの水との交換で、オニワライタケが追加されるのでアリアのかごは限界ギリギリだ。

 もうこれ以上は入らない。

 

「これも一種の才能だな」

「ん~、そうかな? 私の故郷じゃあ、これくらい普通だったと思うよ」

 

 じゃあ、エリーの住んでいた村がすごいのだろう。

 そう、アリアは自分の内で結論づけた。

 

 エリーの採取物に対する嗅覚は異常だ。

 アリアは、経験を重ねてもエリーの領域にいけるとは、とうてい思えなかった。

 それだけエリーの採取物に対する勘は突出している。

 

 アリアが気づかないような木や岩の陰、草むらの中というみつけにくい場所から採取物をみつけだし、採取行為そのものも手馴れているのか手早く正確だ。

 話を聞けばエリーの故郷はロブソン村という山奥の片田舎で、年がら年中食べ物を探したり、獲物である山の獣を探したりで山や森の中を駆け回っていたらしい。

 木陰の影や草むらの中から食べるものや役に立つものをみつけるのは、得意中の得意とのことだ。

 

 ああ、つまり昔から鍛えられているわけか。

 なるほどな。

 

 事情を聞けば、存外納得のいくものであった。

 

 少し羨ましいが、同じような生活ができるかと聞かれれば即答はしかねる問いである。

 エリーのように生きる。根っからの都会ものであるアリアには、たしかにちょっと難しいかもしれない。

 

 柔らかい秋の日差しに、アリアは手をかざした。

 まだまだ日は高く、思いの外早くに採集活動が終わったことをアリアたちに知らせていた。

 

 よっこらせ、と掛け声をかけてカゴを背負い直す。

 

「そろそろ戻ろう」と声をかけると、「はーい!」とエリーは元気よく返事を返してくれた。

 エリーの明るい声は聞いているだけで小気味が良い。

 こちらまで元気になってきそうだ。

 

 足取りも軽やかに、二人は帰路についた。

 

 

「ねえ、アリア」

「ん、どうした?」

 

 帰り道の途中で、エリーがポツリと言葉を落とした。

 

「今日はありがとうね。友達と一緒に採取するのって初めてですっごく楽しかった!」

「さっそく友達認定とは嬉しいな。私以外の人とは採取にはいかないのか?」

 

“初めて”と言うエリーの言葉に引っかかり、聞き返せばエリーの顔に僅かな苦味が帯びた。

 

「んー、冒険者の人とは良く行くよー」

「それは私だって同じだ。そうじゃなくて、アカデミーの友人と、だ」

「アカデミーの友達かー……。実はまだないんだ」

 

「誘いたいんだけどね」と、エリーは少し寂しげに呟いた。

 

「なんかね、ノルディスとかアイゼル――あ、この二人は私の友達なの。それで、この二人なんだけどね、なんだか一緒にいると、最近周りの人にいろいろ言われるようになっちゃって、ちょっとまだ採取に誘えてないんだ」

 

「なんだか気後れしちゃって」と、気まずげに笑うエリー。

 

 言葉は少ないが、だいたい事情はわかった。

 

 その友人がアトリエ生ならそんなやっかみを言われることなどありえない。大半の寮生にとって、アトリエ生など十把一絡げの存在だ。

 いくら友人づきあいをしていようと、何かを横から言うなどありえない。

 

 けれど、その友人が寮生ならどうだろうか。

 寮生の大半は貴族か、それに準ずる経済力を持つ裕福な家の子供だ。同じアカデミーに通う生徒とはいえ、寮生とアトリエ生の間には見えない壁がある。

 そんな壁を越えた付き合いをしているエリーを見て、周りの人間がどう思うのか。想像することは難くない。

 

 普通のアトリエ生なら、アトリエ生であると公言しなければアリアのように寮生の人間と友情を育むこともそう難しくはない。アトリエ生の顔を覚えようとする奇特な生徒は少ないし、黙っていれば三百人近くいる生徒の中に埋没することはそう難しくはない。

 

 だがエリーは最下位入学生だ。

 その名をアリアですら知っていたように、よくも悪くも有名なのだ。

 寮生でも彼女を知っている人間は少なくない。

 

 つまり、成績を飛び越えた付き合いをしているせいで、周りからやっかみを受けているらしい。

 そのせいで、どうやらアカデミーに入学してからできた友人たちとは、疎遠になり気味とのことだ。

 

 あまり好ましい状況ではないな。とアリアはエリーの状況を評した。

 

 

 最下位入学生であるエリーと行動することに抵抗はないのか?周りの人に見られたらどう思うのか?

 

 そんな些細なことアリアは気にしない。もちろんその逆もだ。

 

 正直、誰がどんな悪口を言おうと、隔意をエリーに抱いていようとも、アリアには関係ない。ぶっちゃけ成績の悪さならアリアも同等だ。

 

 今は多少エリーのほうが成績は下だが、アリアとてアトリエ生という補欠入学した生徒には違いない。立場は一緒だ。むしろこの成績の差は、エリーが地方の出身であることを考えれば、当然のこと。ザールブルグより地方の田舎のほうが、アカデミーの情報は入りにくいし、勉強できる場など限られている。これでエリーを嘲笑えば、目糞鼻糞を笑うどころの話ではない。

 

 そしてこれはアリアとエリーだけの話ではない。

 他の学生にとっても同じだ。

 

 エリーはアカデミー入学生の中でも特に環境に恵まれていなかった。

 周囲の人間環境という意味ではなく、錬金術という学問を学ぶ上で、だ。

 

 それでも努力で乗り越え、たとえ最下位とはいえ彼女はアカデミーの入学試験を突破した。

 胸を張って良い成果だ。

 

 エリーと同じように生まれ育って、アカデミーに入学できる人間がどれだけいるというのか。

 地方出身の庶民がエリーだけ、という現状を考えれば、どれだけエリーの出した結果が大きなものか、簡単に想像できる。

 

「別に気後れする必要はないと思う。私はね」

「そうかな?」

「そうだと思うよ」

 

 十分以上エリーは頑張っていると思う。

 既に成果は出ている。あとはもう少し、周りの認める結果を出すだけだ。

 

 けどそれまでの間、遠慮するのは少し違うのではないだろうか。

 

「んー、そうだね。ちょっと気後れしすぎたかな?」

「そう君が思うのならそうなんだろうさ」

「なにそれ~」

 

 ケラケラと笑うエリーに、先程までの影はない。

 

 そちらの方がらしいと思うのは、アリアの気のせいだろうか。

 だが、気のせいだろうがなんだろうが、彼女の気が晴れたのならそれでいいとアリアは思っていた。

 

 少し、この子の背を押せたのならそれも良い。

 

 そう自然と思える秋の日和であった。

 




 原作の登場人物が出ることは少ないといったが、決して出ないとは言っていない。
 ある程度は出しますよ。多分四、五話に一度程度ですけど。


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第五話  ポテトスープと行き倒れ

 メインオリキャラこれで全員出し終わったー!!


 灰色に薄暗い曇天の空。

 重苦しい色合いの空から、舞い散るように雪が降っていた。

 

 冬。

 

 すでに季節は移り変わり、凍えるように寒い冬がこのザールブルグにもやってきた。

 

 はあ、と吐く息が白い。

 手に息を吹きかけ暖をとるが、この程度ではかじかんだ手は温まらない。

 

 少しでも早く帰ろうと、買ったベルグラド芋を入れた袋を抱え直した。

 

 

 雪が薄っすらと積もった道は歩きにくい。

 ビシャビシャ、と溶けかけた雪が靴や服の裾に泥と一緒に飛ぶ。

 

 最近乾きにくいのに、これは洗うのが大変だ、と内心ため息を吐いた。

 

 どうにも憂鬱な冬のある日。

 

 それがアリアの目に入ったのは、そんな時であった。

 

 

 ふと目をやると、アトリエの前に人がいた。

 

 雪が薄っすらと積もった髪は濃い焦げ茶色。

 顔立ちは少し見えにくいのでよくわからない。だが、体型と服装から男の人であることはすぐに分かった。

 鍛えているのか体にはしっかりと筋肉がついており、腰に下げられた剣も鉈のような妙な形をしているが、大きく重そうだ。背には荷物であろう、大きな背負い袋があり、中にはたくさんの荷物が入っているのかパンパンに膨れ上がっている。

 

 そして、背中全体に薄っすらと雪が降り積もっている。

 

 そう、雪が降り積もっているのだ。

 頭にではなく、全身に。

 

 その男は五体投地で、全身を溶けかけた汚い泥雪の上に投げ出していた。

 ピクリとも動かない。

 

 倒れた男から、盛大な腹の虫の鳴き声が聞こえる。

 どこからどう見ても立派な行き倒れだ。

 

「………………なんだこれは」

 

 それが、家の前で倒れている物体を見たアリアの第一声であった。

 

 

 

 

 

 

 

 ポテトスープという料理がザールブルグにはある。

 その名の通り、ベルグラド芋を中心に使った料理で、お腹も膨れる料理だ。

 パンと一緒に食べて一食にするもよし、夜食にするもよし。

 作り方も簡単で、そのうえおいしい。なのでアリアは昔からよくポテトスープを作っていた。今ではもう、彼女の得意料理の一つとなっている。

 

 ただ、今回はいつもの作り方とは少し異なる。

 従来のものよりも、今回試してみるレシピのほうが状況に即しているからだ。

 

 ザクリザクリ、と手慣れた手つきで、アリアはベルグラド芋を一口大に切っていく。

 あまり大きく切り過ぎると、火が通るのに時間がかかるので、少し小振りに切るのがコツだ。

 切り終わったら、汲みたての綺麗な井戸水にさらしておく。

 こうしておけば、芋が黒ずみにくくなり、芋の表面に出てくる粉っぽい汁もとれるのだ。ベルグラド芋で料理をする際の基本的なテクニックである。

 

 この後、水を換えて煮込み、芋が柔くなってきたところで炒めたマッシュルームと小麦粉、それに動物のお乳――この辺りだとシャリオミルクが有名だがこれは高いので、妥協して別のものを使うことが多い――を加え、とろみが出てきたら完成だ。

 

 これが本来のレシピだが、今回作るものは少し違う。

 アリアは錬金術士の卵である。どうせなら、錬金術士の手法でポテトスープを作ってみようではないか。

 

 錬金術士用ポテトスープのレシピも、実はザールブルグに実在している。

 聞いた話では、二十年ほど前にザールブルグにやってきたある女性が、もともとあったポテトスープのレシピから作り上げたのだとか。その女性はアカデミーの創設者の一人らしく、アカデミーの開設を見届けると同時に、ザールブルグから旅立ったのだと言われている。

 その時にアカデミーと提携し、多くの技術・レシピを市井の放出したらしい。このポテトスープのレシピもその一つとのことだ。

 

 錬金術の材料を全く使わないポテトスープは、ザールブルグの郷土料理として庶民の間で愛されている。

 そして、錬金術の手法を使ったポテトスープは、その素朴さに反して傷や体力を回復する効果を持ち、さらに材料に中和剤(緑)という錬金術の産物を使うことから、少しお高めの食事処でよく出されている。

 病人食としても一部では使われていると聞く。

 

 今回アリアが作るのは後者のほうだ。

 

 棚から取り出した中和剤(緑)を片手鍋にいれ、そこに切ったベルグラド芋を落とす。

 そこで、少し弱めの火を焚いた竈に吊るして、煮立たせる。

 時折焦げないようかき混ぜながら、芋が柔らかくなるまで待つ。

 

 その間にもう一方のご用意ということで、マッシュルームと小麦粉を棚から取り出す。

 

 マッシュルームと小麦粉を軽く炒め、香ばしさと香りを引き出す。

 この時、小麦粉を炒め過ぎたり玉になったりしないよう気をつけなくてはいけない。

 小麦粉を炒めすぎれば焦げ臭さに直結するし、玉になってしまえばスープの滑らかさが損なわれる。

 丁寧に、手早く作ることが美味しくなる秘訣なのだ。

 

 芋が柔らかくなったのを見計らって、炒めた小麦粉とマッシュルームを片手鍋に投入する。

 鍋をかき混ぜるごとに、中和剤の緑色が薄れていく。そしてだんだんと、小麦色の淡く黄色がかった白色が現れ始める。

 完全に緑色がなくなったらできあがりだ。

 

 取り皿に一口分よそい、試し飲み。

 

 柔らかく煮崩れる直前のベルグラド芋が、口の中に入った途端にホロホロと崩れていく。

 滑らかなスープが胃の中へとするりと落ちていく。時折噛み締める肉厚のマッシュルームから旨味がにじみだし、口中に広がる。

 

 うまい。

 

 魔法の草から作った中和剤(緑)を使ったために青臭くなるかもと心配だったが、どうやら余計な心配だったようだ。

 魔法の草独特の青臭さも渋みも全く無く、小麦粉の旨味とミルクのような、けれど少し何かが違う柔らかな甘味が味蕾を刺激する。

 

 そのうえ、芋や小麦粉をふんだんに使っているにもかかわらず、とても食べやすい。

 さすが、錬金術で作ったポテトスープというところか。

 体力回復作用や体力増強作用だけではない、この食べやすさがあるからこそ病人食としても使われているんだな、とアリアは納得した。

 

 木の椀にできたばかりのポテトスープをよそい、お盆にのせる。

 暖かな湯気がスープから立ち上る。

 茶色の椀とほのかに黄色がかった白色のコントラストが、なによりも食欲をそそる。

 

 さて持って行くか。

 これならあの行き倒れさんが、多少体調が悪くても食べられるだろう。

 

 アリアの足は彼女の工房の奥へと向かっていった。

 

 

 

 コンコンとドアを叩くと、一拍おいて「どうぞ」という声が返ってくる。

 躊躇することなく開けると、困惑を顔中に描いた青年が、アリアのベッドの上で上体を起こしてすでに目を覚ましていた。

 

 その青年は、まさしくアリアのアトリエの前で倒れていた人間その人であった。

 

 体は鍛えられているが、顔立ちは朴訥としており、体格の割に威圧感はない。それなりに人好きのしそうな人間である。

 

 ただし、行き倒れだ。まったくもって迷惑極まりない。

 

「あの、君は……」

「体に異常はありませんか?」

 

 まずは相手が何かを言う間を与えることなく、アリアが問いかける。

 明らかに「え? あ、うん……」と戸惑った様子がこちらにもありありと伝わってくる返事が返ってきたが、それは華麗に黙殺する。

 

「あ、あの自分を……」

「お腹は空いてませんか? あなたをみつけた時、とても大きなお腹の音がなってましたが……」

「え、あ、はい。空いてます。多分……」

「ならこれをどうぞ。早く食べないと冷めてしまいますよ」

「あ、はい……」

 

 何かを言いかけた青年の言葉を遮り、問答無用でポテトスープを手渡す。

 少し悩ましげにアリアとスープの間を、青年の視線が行き来した。その間、ずっと青年を凝視し続ければ、根負けして一口、口に運んだ。

 

 反応は劇的だった。

 

 硬直したと思ったら、次の瞬間にはものすごい勢いでポテトスープをかっこみ始めた。

 みるみるうちに椀になみなみと注いだスープは量を減らしていき、あっという間もなく食べ尽くされた。

 

 健啖家だな、とアリアは感嘆する。

 これはどうやら心配する必要は無さそうだ、と存外に青年の元気そうな様子に、アリアは息をつく。

 心配して損したな、とも思うがそんなことはおくびにも出さない。

 

 ポテトスープを食べ終わり一息ついたのか、青年が何かを問いたげに口を開いた。

 

「えっと、多分確認する必要もないと思うけど、おれをここに連れてきてくれたのは君でいいかな?」

「ええ、そのとおりです」

「そうか。あー、なんというか……」

 

 そこで青年はアリアにしっかりと向き合い、姿勢正しく頭を下げた。

 

「ありがとうございます。行き倒れていたところを助けていただいたばかりか、飯までごちそうしていただき、本当に助かりました」

「…………」

 

 律儀な人間である。

 

 ここまできっちり礼を言われるとは思わなかった。

 アトリエの前に倒れていた時は、本当にどうしようか悩んだものだが、まあこれなら助けたことの後悔はない。

 

「そうかしこまらなくて結構ですよ。それより、あなたは――ええと……」

「あ、おれの名前はザシャだよ。シグザール王国の南にあるアリズ村のザシャ・プレヒトさ」

「ザシャさんですか。私の名前はレイアリア・テークリッヒといいます。……それで、あなたは何故あんなところで倒れていたのですか?」

 

 途端に苦笑いの顔になり、言いにくそうに口をつぐむ青年――ザシャ。

 ただ、さすがに助けてもらったアリアに黙っているのは難しかったのか、渋々とではあるが語りはじめた。

 

「恥ずかしいことだけどね、村からザールブルグまでの間、必要な食料の量を間違えてね。途中までは野草を採ったり動物を狩ったりしてなんとか食いつないできたけど、ここ数日は何もみつからなくてほぼ飲まず食わずだったんだよ。ようやくザールブルグに着いたことで安心して、まあそのままばたんきゅーしてしまったと、そういうわけさ」

「……なんというか」

 

 かなり間抜けな理由で行き倒れていたらしい。

 さすがにアリアの顔も少し引きつる。

 

 それに気がついたのか、ザシャの苦笑も深まる。

 

「あー、いいよ。正直に言ってくれて」

「ならお言葉に甘えて。正直、お間抜けな理由ですね」

「だよねー」

 

 頭を抱えて落ち込むくらいなら聞かなければいいのに。

 

 そう思うが、落ち込んでいる人にさらなる追撃を食らわせるほど、アリアも鬼ではない。

 黙したまま食べ終わった椀を片づける。

 

「とりあえず、明日まではここで休んでいってください」

「え、いやこれ以上お世話になるのは……」

「もう夜ですよ。さすがにこの寒空の下、そのまま放り出すほど私は血も涙もない人間ではありません。素直に人の好意を受け取ったほうが、あなたのためにも良いと思われますが?}

 

 曇天の裏にあった太陽もすでに落ちたのか、外はすでに夜の闇に包まれている。

 雪はまだ降り続いている。

 

 こんな天気の中、行き倒れていた人間を外に放り出すのは気がとがめる。

 倒れた理由が自業自得極まりないものとはいえ、だからといって一度倒れた人間を見捨てるのはあまりにも気分が悪い。

 

 多少、お馬鹿な行為に呆れを感じているため、もしかしたら態度が硬くなっていたかもしれない。

 それを敏感に感じ取ったのか、ザシャの顔も曇る。

 

「では、ゆっくり休んでいってください」

「ちょっと待って!」

 

 椀を下げて、部屋を出ようとしたらザシャから焦ったように声をかけられた。

 

「なにか?」

「えっと、君の寝床はどうするんだい? ほら、今おれがベッドを使っているし」

「屋根裏部屋があるので、そこで寝ます。ベッドはもうひとつあるのでご安心ください」

「ああ、そうか……」

「お話はそれだけですか?」

 

 さすがにベッドが一つしかないのなら、こうも簡単に貸すわけがないだろう。

 今の季節は冬だ。

 きちんとした寝具がなければ、風邪を引いてしまう。

 

「ああ、そうだ。何かおれにできることはないかい? さすがにここまでしてもらってなにもなし、は気がとがめるからね」

「なら水汲みと薪拾いか薪割りをおねがいします」

「……それだけかい?」

「行き倒れていた人に頼む仕事としては、これだけでも十分すぎるほどでは?」

 

 水汲みも薪割りも、女の手では重労働だ。

 男手とはいえ、病み上がりで体仕事を任せるアリアのほうがどうかしているのに、「それだけ」と言われればそれ以上返す言葉はない。

 

 よほど体力に自信があるのか、それとも恩を返すこと以外に何も考えていない義理堅い人間なのか。

 どちらにせよ、お馬鹿さんではあるが、悪い人間ではないようだ。

 

 旅に必要なものの量を間違えたことは、言い訳のしようがない行為ではあるが……。

 

「以上ですか? ではおやすみなさい」

「ああ、おやすみ」

 

 部屋を出て行くアリアの背に、ザシャの言葉が届いた。

 後ろ手に扉を閉めながら、彼女は思った。

 

 そういえば、家で「おやすみ」なんて言われたのも久しぶりだな、と……。

 

 

 

 

 ザシャ・プレヒトがアリズ村を旅立ったのは、秋も終わりかけの冬の到来が間近に迫った日のことであった。

 

 本来ならもう少し早くに村を出る予定であったのだが、今年は山の獣も少なく、村人全員分の食料を男手全員で確保している間に、ここまで日にちが押し込んでしまったのだ。

 何人かは「村のことはいいから早く出なさい」と言ってくれたのだが、それをザシャは拒否した。

 

 村一番の――では残念ながら違うが、それでも有数の戦士であり、狩人であるザシャが、村の現状を放置してザールブルグに向けて旅立てば、確実に何人かは冬を越せないことがわかっていたからだ。

 

 だからこそザシャは、ギリギリまで村に残り、山の獣を狩り続けた。

 それでも足りない分は、彼がためたザールブルグまでの道中用の食料といざというときの銀貨を置いていくことで、なんとか解決した。

 

 おかげで、ザールブルグに到着した途端に空腹で倒れてしまったが、まあ、無事に何とかなったことだし後悔はない。

 

 黙って置いていったので、里帰りした時には師や兄に殴られるだろうが、その時は甘んじて受けるつもりである。

 

 ただ、まあ……。

 

「他人に迷惑かけちゃいけないよなぁ……」

 

 カコーン、カコーンと小気味良く自前の鉈剣で薪を割りながらザシャは自嘲する。

 

 ザールブルクの雪降る寒空の下、倒れたザシャはレイアリアと名乗る少女に保護された。

 ベッドを貸してくれた上に料理までご馳走となった。味だけではなく滋養もある料理だったらしく、長い間空腹と雪風に耐え続け削られ続けたザシャの体力が、一晩でいつものように薪割りが片手でもできるほどまで回復している。

 あの女の細腕で、筋肉もついて重いはずのザシャを一人で運び、色々と世話をしてくれたのだ。どれだけ大変だったのだろうか。

 

 一宿一飯の恩義でも足りない。

 あのまま、誰もザシャに気づかなければ、いや気づいていても助けてくれる人がいなければ、空腹のまま寒風に吹かれ続け凍死していたかもしれない。

 

 レイアリアはまさしく、ザシャの命の恩人なのだ。

 

 水汲みや薪割りで恩が返せたとは到底思えない。

 なんとかしたいのだが、恩返しの押し売りは絶対に違うという思いがある。

 そんなもの、さらに迷惑の上塗りにしかならない。

 

 今の時点でこれ以上ないほど迷惑をかけているのに、これ以上重ねるのは人としてダメだ。

 ダメったらダメだ。

 

「ま、地道にやっていくとしましょうかね」

 

 どうせ長いことザールブルグにいることになるのだし、恩を返す機会はきっとあることだろう。

 

 最後の薪を一刀両断しながら、ザシャは初めての都会で生きていく未来に思いを馳せた。

 

 

 

 

 アリアの朝は早い。

 

 母のいなかったアリアの家庭では、家事労働はアリアの仕事だったため、朝早くから起きて仕事をする習慣が見に染み付いている。

 同じように朝早くから家事をしている近所のおばさん達の中でも、朝に強いことはアリアの密かな自慢だった。

 

 けど、それが今日覆された。

 

 カコーン、カコーンと気持ちのよい音が窓の外から伝わってくる。

 寝ぼけ眼を擦りながら、屋根裏部屋にある唯一の窓から庭を見下ろす。

 

 雪が積もり真っ白に染まったアトリエの庭。

 そこにいたのは、濃い茶色の髪をした青年。

 昨日アリアが行き倒れていたところを拾ったザシャ・プレヒトの姿があった。

 

 ザシャは庭にある切り株の上で、昨日頼んだ薪割りの仕事をこなしていた。

 すでに薪の残り数は少なく、後もう少しで終わりそうだ。

 

「…………」

 

 無言で窓から踵を返し、アリアはすでに着慣れた錬金服に手早く着替える。

 着替え終えると、梯子をつたい階下に降りる。

 

 裏手の台所には、桶いっぱいに水が汲まれていた。

 すでに昨日頼んだ仕事は終えた後のようだ。

 

 仕事が早い。

 思ったよりも頑張り屋な人のようだ。

 

 桶から木のコップに水を汲み入れ、汗を拭くための布を用意する。

 

 さすがにずっと肉体労働をしていて汗をかいているだろう。

 少しくらい労ってあげてもバチは当たらない。

 

 アリアは、ザシャのいる庭への扉を開けた。

 

 

 アリアが来た時には、すでに薪割りも終わっていた。

 ザシャの額には汗が滝のように流れていたが、その顔に疲れは殆ど見えない。

 

 体力があるのだな、とアリアは感嘆の念を覚える。

 少し羨ましい。

 

 アリアは女性にしては体力はあるが、鍛えられた男性には到底かなわない。

 悔しいことに。

 

 扉が開く音に驚いたのか、アリアが来たことに驚いたのか、あるいはその両方か、ザシャは目を丸く見開いた。

 もともと素朴な顔立ちをしているが、そんな表情を浮かべるとなんだか幼く見える。

 

 内心の思いを全く見せず、アリアは水と布をザシャに差し出した。

 

「良ければどうぞ。のどが渇いているでしょう」

「え、ああ、いいのかい? なら、ありがたくいただくよ」

 

 アリアから受け取った水をザシャは音を立てて飲み干し、綺麗な布で汗を拭いた。

 布にすぐさま汗が染み込み、少し濃い色に染まる。

 

 渡した布を受け取りながら、アリアは尋ねた。

 

「体に異常はありませんか?」

「ん? ああ、まったく。君のおかげだよ、ありがとう」

「それはよかった」

 

 やはりあのポテトスープが良かったのだろう。

 錬金術で作ったポテトスープはアルテナの水と同じく簡単な怪我や病気なら治す効果があるし、体力も回復する。

 どんなに丈夫な人でも何日も飲まず食わずで寒風吹きすさぶ中を歩き続ければ、体を壊すものだ。

 今、何も体に不調がないのなら、ポテトスープを食べたことによる結果だろう。

 うまくできたようで少しホッとした。

 

「今から朝食を作りますので、少し待っていてください」

「え? いや、朝食までとか、そこまで迷惑は――」

 

 ぐうううううううぅ、と盛大な腹の音が、庭に響き渡る。

 

 なんとも素晴らしいタイミングだ。感動的なほどだ。

 

「……食べていきますね?」

「………………はい」

 

 簡潔なアリアの問いに返ってきたのは、絞りだすようなザシャの返答であった。

 

 なんとも締まらないな、と呆れ返ったアリアは空を仰いだ。

 

 空に目を向ければ、曇天の切れ間から青空が見えていた。

 太陽の光が、階段のように地上に降り注いでいる。

 

 ああ、そういえば。

 今日は雪が降っていなかったな。

 

 空に手を差し出しても、雪が手の熱で溶ける慣れた感覚がないことに、ようやく気づいた。

 

 今更気がつくとは、私もなんとも締まらないな、とアリアは苦笑をこぼした。

 そう、たしかに彼女は、笑っていたのだ。

 

 今日も、一日が始まる。

 

 アリアのアトリエに、今日もまた火が点いた。

 



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第六話  ズフタフ槍の水と没落子爵家の子供

 今回の話はオリジナル設定ばかりとなっております。原作では全くわからない部分を勝手に捏造しておりますので、公式設定とは全くの別物です。
 貴族制度も適当にいじくっていますので、現実のものとも原作のものとも齟齬が出ていますが、気にしないでください。

 ていうか、原作エリーのアトリエの貴族制度ってどうなってんでしょう?
 知っている方がいらっしゃいましたら、ぜひご指摘お願い致します。
 絶対原作と違うと思いますし……;
 お金で貴族の地位が買えるのはわかってるんですけどね。

 ちなみに今回はアリアが主軸ではなくユリアーネ視点のお話です。


 

 アカデミーの長い廊下を一人の少女が歩いている。

 その少女は、稀代の名工が素材から厳選し、一手一手魂を込めて彫り出した大理石の像のように完璧な美貌をしていた。

 

 彼女の名はユリアーネ。

 正式名称はユリアーネ・ブラウンシュバイクという。

 

 ブラウンシュバイク家は、シグザール王国の南方、ドムハイト王国に近接する場所に自領を持つれっきとした貴族の家柄だ。国境線上、という重要な場所に領地がある故に、ブラウンシュバイク家はドムハイト王国からの侵略行為があった場合、先鋒を務めると同時に国境線を守りぬくという重大な役割を持っている。その役割故に、辺境伯という地位を王家から賜っていた。

 

 そう、賜っていた、だ。

 

 現在のブラウンシュバイク家を一言で表すと、斜陽の一族だ。

 かつてドムハイト王国との戦争で、シグザール王国の領土に一歩たりとも敵兵を通さず、南方を守りぬいた南の雄たるブラウンシュバイク家。

 

 しかし、当時のブラウンシュバイク家とその領土を守りぬいた南方の守護神である四代目ブラウンシュバイク家当主ヴィルヘイム・フォン・ブラウンシュバイクはすでに遠い昔の話と成り果て、代々の暗愚な当主が身代を食いつぶし、今や子爵家にまでその爵位を落としている。

 辺境伯の役割もその爵位の降格とともに違う家に奪われ、すでに昔日の面影はない。

 

 ユリアーネが生を受けたのは、そんな落ち目の家の長女としてだった。

 

 そして彼女が、アカデミーに通うのもそこに理由がある。

 

 ユリアーネが錬金術士を目指したのは、没落した実家の再興のため。

 錬金術士として大成し、自らが生み出した調合品により火のついたブラウンシュバイク家の家計を潤すこと。

 ただ、そのためであった。

 

 

 

 

 

 

 パラパラと本を捲る音だけが響く空間。

 人のざわめきは今日はなく、ただ静かに時だけが流れる。

 

 窓の外に目をやれば、久方ぶりの雲の切れ間が覗く冬晴れの日であった。

 ここ最近は雪の日が多かったことだし、こんなに綺麗に晴れた日は外に出て、散策や買い物などをしたくなるのが年頃の女の子というものだ。

 

 都合の良いことに今日はアカデミーの休講日。

 殆どの生徒はこの偶然に感謝し、せっかくの休みの日を使って羽を伸ばしていることだろう。

 

 だが、ユリアーネは行かない。

 

 気晴らしに時間を使うくらいなら、一冊でも多くの本を読みたい。

 参考書を読み、調合を行い、知識をため、自分の腕を磨きたいのだ。

 ほんの僅かな時間すら、無駄にはしたくない。

 

 時折、他の学生が羨ましくなる時もある。

 もっと気楽に、好きなように錬金術を学べたら、と思う時もある。

 

 詰め込むように知識と経験を積み重ね続けるのは、時々水に溺れたような息詰まった感覚を覚える。

 

(あの人のように、“これを作りたい”と思えるような何かに出会えたら……)

 

 そう思うのだが、それを探す時間すらもったいない。

 少しでも早く、僅かでも早く、一人前の錬金術士になりたい。

 自分の好きなことをするのはその後でも良い。“何か”を探すのはすべてが終わった後で、それで良いのだ。

 

 ユリアーネは自分に言い聞かせるように、羽ペンを持つ手に力を込めた。

 

 

「おや、ユリアーネも来ていたのですか」

 

 

 静謐な声が、空気を揺らした。

 

 その声には聞き覚えがあった。

 それは今一番会いたい人の声であった。

 

 先程まで読んでいた参考書から目を上げると、はたしてそこにいたのは予想通りの人物であった。

 

「あなたも参考書を読みに?」

 

 それはユリアーネの憧れ(アリア)の姿であった。

 

 

 

 

 ユリアーネはアカデミーに入学して以来、憧れている人がいる。

 

 その人の名はレイアリア・テークリッヒ。ユリアーネがアカデミーに入学して初めてできた友人だ。

 

 彼女はまさしく、ユリアーネが漠然と抱いていた理想が形をとった存在であった。

 

 ユリアーネの家系は、今は寂れ廃れきったとはいえ、もともと武門の家系だ。

 彼女もまた、幼いながらも枕物語の一つとして語られたヴィルヘイム・フォン・ブラウンシュバイクのお話に、胸を躍らせたものだ。

 

 ユリアーネの価値観は幼いころから武門のそれであり、それ故に華奢で柔らかな女らしい自らの顔かたちをあまり好いてはいなかった。それは他人や自分の性情、物品に対する価値観にも及ぶ。

 

 彼女が好ましく思うのは、絢爛豪華な細工がふんだんに施されてはいるが、実用性が全く考えられていない身を飾る銀細工の品ではなく、「我は斬るためにある」と無言で存在感を放つ飾り気の無い剣や無骨な職人たちが使うどこまでも使用することだけを考え、作られ、手入れを施された職人道具だ。

 実用性を追求し、機能美にまで昇華したものにこそ、ユリアーネは美や感動を覚える。

 

 そしてアリアは、ユリアーネが憧れる要素をすべて持った初めての同い年の女の子であった。

 

 背はスラリと高く、体躯は細いがその腕回りや足回りには、蝶よ花よと育てられた貴族の子女とは一線を画する量の筋肉がついている。

 

 むろん、女性でも冒険者のような戦いを生業にしているものからすれば、アリアの力などさしたるものではない。筋量もそこらの庶民の娘よりはついているかな? といった程度だ。

 しかしながら、その程度だからこそ初夏に伸びる若枝のように伸びやかな姿形を保っている。

 

 ユリアーネも、戦いを生業とする本物の女冒険者や女騎士と会ったことはある。

 ただ、彼女たちとユリアーネは全く別の生き物だ。淡い尊敬の念をいだいても、憧れはない。

 ユリアーネは貴族の子女だ。ユリアーネには肉体的に強くあることは許されない。夫となるものを立て、支えるためには脆弱な貴族の男を威圧することになる強さなど不要でしかない。

 だからこそ、ユリアーネは冒険者や騎士として生きる彼女たちとは結びつかないし、触れ合わない。遠い世界の存在として、少しだけ思いを馳せるだけだ。 

 

 けれどアリアは違う。たしかにアリアは庶民の人間だ。貴族という枠組みの中にいるユリアーネとは、本来会うことすらできない人間だ。

 けれど、彼女は自力でここまできた。

 庶民でも栄達が許されるアカデミーという場所に、アリアは自力で立ったのだ。

 

 そしてユリアーネは憧れ(アリア)をその目に映すことができた。

 

 彼女は冒険者でも騎士でもない、弱い庶民の人間だ。

 

 けれどもだからこそユリアーネは憧れを許される。

 彼女は戦いを生業にするもののように強くなることは許されない。それは彼女の役割とは違うからだ。

 

 けれど、戦いを主とせずとも、最低限肉体を鍛えることはできる。

 それを、ユリアーネは初めて知ることができた。

 

 それは生きることを目的とした、一つの美としてユリアーネの目には映った。

 

 アリアは確かに、ユリアーネが立つ場所で許される彼女の理想だったのだ。

 

 

 一度そうした目で見ると、ユリアーネの目にはアリアのすべてが好ましく見えた。

 いや、もともとアリアのすべてがユリアーネの好みと合致していたのか。今ではどちらなのかもうわからない。

 

 ただ、女性にしては高い背に、細い割には脆弱さを感じさせない範囲で筋肉がついている体。黒髪碧眼というおとなしい色合いも相まってか、どこか凛とした清澄な印象を人に与える容貌。変わりにくい表情もあってか、一種独特の迫力がある雰囲気。

 

 全てが、ユリアーネの理想になった。

 

 そしてアリアが見せた何気ない優しさに、あとはもう転がり落ちるばかりとなった。

 

 初めての調合実習で、腕力が足りずなかなか魔法の草が潰せなかったユリアーネを助けてくれたのがアリアだった。

 彼女は、魔法の草を潰すことを手伝ってくれただけではなく、どうすれば効率良く潰すことができるのか、魔法の草を簡単に絞る方法といったその時ユリアーネに必要だったことを、一つ一つ細かく詳細に教えてくれたのだ。

 

 凛としていて、それでいて優しい人。

 

 可憐と評されるも、威圧感など欠片もない容姿。

 貴族だというのに、すぐに動揺し考えが表に出る性質。

 自分のことに精一杯で、周りのことに目を向ける余裕すらない。

 

 そんな自分とは大違いだと、ユリアーネは自分に対する劣等感の反動か、アリアに対して強い憧れと好意を抱いていた。

 その好意を素直に示せば、アリアもまた好意を返してくれる。

 

 この良循環に、ユリアーネは夢中になっていた。

 

 

 ちなみにアリアもまた、ユリアーネのつい守ってあげたくなるような可愛らしい容姿や、すぐに色々と表情の変わる感情豊かな性質、何事にも懸命に努力する姿勢といった部分に強い好意を抱いている。

 

 ある意味、似たもの同士と言えるかもしれない。

 

 

「それにしても休みの日まで勉強とは……。勤勉ですね」

 

 しみじみとアリアに言われて、ユリアーネの頬に血が上る。

 ほめられるのは嬉しいのだが、少し気恥ずかしい。

 特に憧れている人から言われれば、なおさらだった。

 

「そ、そんなことないですわ。それにアリアさんだって今日は勉強しにいらしたのでしょう?」

 

 誤魔化すように「今回はどんな参考書を?」とアリアに話題を振れば、いつもと変わらぬ調子でユリアーネに持っていた参考書を見せてくれた。

 

「『自分で作れる薬』ですか。今回は薬品についての参考書なのですね」

「ちょっと依頼で必要になったので」

 

「後日きちんと買うつもりです」と言い置いてから、アリアは参考書に没頭していった。

 時折、メモをとるカリカリという音が、図書館に響く。

 ユリアーネも同じように、参考書の世界へと沈み込んでいった。

 

 それにしても依頼か、と参考書の文字を目で追いながら、ユリアーネは今聞いた内容を反芻する。

 

 前にチラリと聞いたのだが、アトリエ生は自活していくために、いろいろな仕事を受けてお金を稼いでいるらしい。錬金術で作り上げた産物を、仲介などを通して売り払うのが主な仕事とのことだ。

 

 興味が無いといえば嘘になる。

 

 アリアがアカデミーに通うのは、傾き続ける実家の身代を立て直すためだ。

 もともと学費くらいは自分で何とかしたい、とユリアーネは考えていた。

 依頼を受けるようになれば、アカデミーで淡々と学び続けるのに比べて、学費だけでなく実家に小金ともいえども仕送りをすることもできるし、将来的に実家に戻った時、依頼をこなした経験があればすぐさま錬金術の技能を生かし、家のために邁進することも可能だ。

 

 メリットしかないように見えるが、しかしながら物事には良い面が悪い面も存在する。

 メリットが有るということはデメリットも存在するということだ。

 

 当然のことだが、ユリアーネが依頼を受けるようになれば、講義を受ける時間が減る。

 講義は知識の宝庫だ。錬金術士として力をつけるためには、調合するだけではなく講義を受け、基礎からじっくりと積み上げていくのが何より肝心だ。

 傍目からは好き勝手に講義を受けて、ほとんどの時間を調合に費やしているようにみえるアトリエ生とて、必要最低限の講義は受講するように教師から厳命されている。

 

 勉強熱心なアリアは、色々な講義に自主的に参加している。そのおかげか、アリアはアトリエ生の中でも順調に力をつけていっている数少ない生徒の一人だ。講義に参加し基礎的な知識を得た上で、図書館で細かいレシピを調べ、その上で調合に臨んでいるアリアはかなり慎重な方だ。だが、その慎重さが歩みはゆっくりではあるが、確かで堅実な成長に繋がっていた。アリアと同じように順調に学習を進めている生徒は、実はアトリエ生の中では数少ない。

 

 大半の生徒は講義を必要最低限まで減らしすぎたため、実践に必要な知識をなかなか得ることができず、調合の回数だけ増えるばかりで実際の実力に結びついていないように見える。

 知識が足りないが故に、失敗の原因を探りだすことが難しく、ただ闇雲に調合に手を出す生徒が多すぎるのだ。おかげで無駄な失敗を繰り返すばかりで成長がない。

 

 ユリアーネがアリアに依頼を頼むのは、何も彼女が友人だからだけではない。アリアほど信頼して仕事を頼むことの出来る人材が、ユリアーネくらいしかいないからだ。

 他のアトリエ生では実力面で足りない人物が大半だし、実力的に不足のない人はツテがない。

 当然だが、寮生に頼むのは不可能だ。依頼を受ける生徒自体がいないし、寮生の調合したものは使った素材がアカデミーから提供されたものなので、アカデミーに全部提出しなくてはならない。

 まともな寮生で、外の依頼を受ける人間など皆無だ。

 

 余談だが、アカデミーの学費は王立の学習機関の中でも飛び抜けて安い。それは、学生の調合物を原料費だけだして無料で徴収しているためだ。これは、殆どの学生が知っている事実だ。

 ちなみに一部の優秀な生徒は、あまりにも調合物を大量に納品したためか、学費を完全免除されるようになったという。嘘か本当かはわからないが、少し気になる噂である。

 

 次の問題点として時間の調整が難しいことがあげられる。

 講義は単位制なので時間の調節は可能だが、それでもアトリエ生であるアリアのように好きな時に好きなだけ採取や調合を行える訳ではない。

 依頼を受けるならどうしても授業の片手間にやることとなるだろうし、そうなれば稼げる額も知れている。むしろ初期は、深窓の令嬢であるユリアーネの護衛を雇う費用で、赤字となることを覚悟しなければいけないだろう。

 

 それで採算が合うのか、というのもわからない。

 正直、相場も何もわからないのでやってみるまでどれだけの利益を上げられるのかは、想像もつかない。アリアの話を聞いても、想像の補強が出来るだけで、根本的な問題解決にはならない。アリアとユリアーネでは立場が違いすぎるのだ。

 

 そして最大の問題点が、依頼を受け取る場所も依頼の受け方も何も知らないということだ。

 これはもう、ユリアーネの立場からすれば、アリアを頼るより他にはない。教師陣から話を聞く、という手もあるが、直接依頼のやり取りをしているアリア以上の適任が存在するのか、と問われれば「Nein(いいえ)」と答えるしかない。

 

 つまりは、どうあってもいきあたりばったりにしかならないのだ。

 しかもアリアに頼りきった状態で、である。

 

 気が引けるどころの騒ぎではない。

 一方的に人に、しかもちょっと憧れている、出来れば良いところばかりを見せたい人に頼りきりの状態がどれだけ嫌なことか。

 

 けれども、だからといって何もせずにそのままというのも嫌なものだ。

 最終的には手を出さないと決めたとしても、それまでに色々と試してはみたい。出来れば話しくらいは軽く聞いておきたい。

 

(ちょっとくらい世話話をするくらいでしたら……)

 

 それくらいなら普通の世間話の範囲内ではなかろうか。アリアに迷惑をかけることもない、頼るわけでもない。ただ少しだけ、何の気なしにお話をするだけ。

 どうせなら、この書きものが終わるまでの間少しだけ……。

 

 ぱたん、と分厚い参考書を閉じる音がした。ハッとする。つい自らの考えに夢中になっていた。

 ぱんぱん、と幾枚かの紙を揃える音もユリアーネの耳に届いた。

 

 顔を上げてみてみると、もう参考書の内容を紙に書き写したのか、紙の角を机で叩き上下を揃えているところであった。

 いつの間に時間が経っていたのか、アリアはもうすでに自らの作業を終わらせていた。

 

「あら、もう終わりましたの?」

「ええ、あなたは?」

「私も、もう少しですわ」

 

 実際にそうだ。

 ユリアーネの仕事はアリアが来る前に、そのほとんどを終わらせていた。

 まだ終わっていないのは、たんに自らの頭の中に沈み込んでいたからに他ならない。

 

 考えに没頭しすぎて、時間を無駄にしすぎた。

 今はこんなことで時を浪費している場合ではないでしょう。反省しなくては、とユリアーネは頭を振り気持ちを切り替える。 

 

「あとは、これだけで………………できましたわ」

 

 手早く最後の文章を書き終えると、インクを吸うための捨紙を数秒間紙にかぶせ、すぐさま元の位置に戻す。多少、雑に重ねたからか、少し滲んでしまった箇所がある。もう少し丁寧にすればよかったと後悔したが、読むのは結局のところ自分だけだ。

 

 読めれば問題はありませんわ。見た目は二の次にいたしましょう、とユリアーネは自分に言い聞かせる。

 

 アリアと同じように角を揃え、参考書を持ち立ち上がる。

 ユリアーネが終わったのを確認して、アリアもまた席を立った。

 

 自然と合わせてくれたが、ユリアーネはアリアを待たせてしまったことに、少し心苦しく思う。 

 

「そういえば、アリアさん。依頼で必要になったお薬は一体どのような品なのですか?」

「ああ、こちらです」

 

 気を紛らわせるように話を向ければ、アリアもまたそれにのっかってくれた。

 少しホッとするが、顔には出さずにアリアの差し出してくれたレシピを覗きこむ。

 

「“ズフタフ槍の水”ですね。あら、睡眠薬も依頼で取り扱っているのですね」

「魔物を眠らせるために使うらしいですよ。聞いた話だと、冒険者の方が結構使っているようです」

「あら、自分で使うわけではないのですね」

 

 そういえば、どこかで聞いたことがある。

 どこかの狩人は、獲物を捕まえるために眠り薬入りの撒き餌を使うらしい。

 魔物といえど、眠らせてしまえば捕獲するのも退治するのも思いのまま、ということか。

 

「どの魔物にも絶対に効くというわけではないらしいですが。中には効きにくい奴もいるらしいですよ」

「それは大変。効かなかったら一大事ですわ!」

「その場合は腕節が重要ですね。まあ、使い方を間違えない限り絶対に効く、といった程度には効力を上げるつもりですのでご安心を。仕事に手を抜く気はございません」

「あらあら」

 

 責任感の強い方ですわね。

 知らず知らずのうちに、ユリアーネの赤い唇が弧を描く。

 

「良ければ、あとでアリアさんの作った“ズフタフ槍の水”を見せて下さいね。どれだけの品か、とても興味がありますわ」

「じゃあ、ユリアーネさんのも見せて下さいね。交換条件です」

「あら、比べっこですわね。もちろんよろしくてよ」

 

 ユリアーネは寮生だ。残念なことだが、アトリエ生であるアリアに比べて勉強の進度は進んでいる。もちろん“ズフタフ槍の水”も調合したことがある。

 まともに勝負をすれば、アリアが勝てるわけがない。

 

 それでも比べ合いをするということはなにか自信があるのか、他に何かあるのか。

 ユリアーネとて異存はない。アリアが何をするつもりなのか、少し興味がある。

 

「いつお持ちいたしましょうか?」

「材料はすでに揃っています。明後日は?」

「うふふ、問題ありませんわ」

 

 そうと決まったなら、(わたくし)も全力でお相手しなくてはいけませんわね。

 

 とユリアーネは内心牙を研ぐ。

 大人しげな外見に他人は惑わされがちだが、ユリアーネは武門の娘。

 勝負事というものが大好きであった。

 

 

 

 アリアと別れてから、ユリアーネは自らの部屋にまっすぐ向かった。

 実験室で調合するという手もあるが、寮生の部屋にも調合を行うための最低限の設備はあるし、調合室の一角を借りる手間が面倒だ。

 “ズフタフ槍の水”程度なら部屋で調合することも可能なので、逆にそうした手間が本当に煩わしいのだ。

 

 ズフタフ槍の水はザールブルグでは古くから伝わる睡眠薬で、錬金術の技法を使わないのなら、そこいらの子供でも作ることは可能だ。

 もちろん、錬金術の技法を使ったほうが薬の効力を引き出すことができる。ただ、それでも薬の中では簡単に作ることができるものであることは間違いない。

 

 まず蒸留水の中にズフタフ槍の草を浸し、そのまま潰して草の汁をだす。

 黄色の穂先も一緒に入れて、しっかりと花粉ごと蒸留水の中に落としこむ。満遍なく潰し終わったら、液体が黄緑色に染まる。そこでズフタフ槍の草を入れたまま、中和剤(青)を混ぜるのだ。

 

 少し中和剤(青)は混ざりにくいのだが、ここで決して泡立てるほど強くかき混ぜてはいけない。

 ゆっくりとしっかりかき混ぜると、だんだん緑色が薄くなりなぜか少し赤みがかった黄色になる。

 

 この状態までいけばほぼ完成なのだが、最後の仕上げとしてろ過器を使い不純物を取り除く必要がある。

 大きなズフタフ槍の草の残骸はピンセットで取り除き、小さいものはろ過器に頼る。

 ここで面倒だからといって、素手でズフタフ槍の草を取り除くといったことはしてはいけない。どれだけ綺麗にしていても、手についた汚れなどのせいで、品質に問題が出るからだ。

 最悪、そのまま失敗してしまう。

 

 ゆっくりとゴミが入らないようにだけ気をつけながら、ろ過を終えれば仕上がりだ。

 

「これくらいでしょうか」

 

 品質効力共にB+。まずまずの出来だ。

 何度か調合した品なので、出来上がりの質はすでに安定している。

 

「アリアさんの調合したものは、一体どれだけの品でしょうね」

 

 見る時が楽しみだ。

 

 カーテンの隙間から外を見ると、すでにとっぷりと暮れ、闇の中にザールブルグの町並みが沈んでいる。

 少し夢中になりすぎたようだ。就寝時間はとっくの昔に過ぎている。

 

 お気に入りのネグリジェに着替えてから、煌々と部屋を照らすランプの灯を消し、柔らかい寝床に潜りこむ。 

 

 ああ、明後日が楽しみですわ、と約束した日を待ち望みながら、ユリアーネは夢の世界へと旅立っていった。

 

 

 

 

 翌々日の講義が終わった後、さっそくユリアーネはアリアに話しかけたのであった。

 

「“ズフタフ槍の水”はいかがでしたか?」

「ええ、良い出来ですよ」

「うふふ、(わたくし)もですわ。じゃあ、さっそく見せ合いっこをいたしましょう」

 

 アリアの言葉は真正直だ。彼女が良い、と言うのなら、本当にその出来はとてもうまくいったのだろう。

 ぱかり、と瓶のフタを開ける。

 

(あら……?)

 

 少しユリアーネは疑問をいだいた。

 ユリアーネの調合したズフタフ槍の水は赤みがかった黄色なのだが、アリアのものは色がだいぶ濃い。かなり赤みが強く、もはや黄色ではなく、橙色といったほうがピッタリだ。

 

 ここまで違いが出るものだろうか、と疑問に思うが、総合ランクはBとユリアーネよりは低いがそれなりの値を叩き出している。

「良い出来だ」と言っていたので、もう少し高いかと思っていたのだが、少し残念だ。

 まあ、アトリエ生と寮生の差を考えればこの程度だろう。むしろこの値はアリアの優秀さを示している。アトリエ生であるにもかかわらず、入学して数ヶ月で、寮生に張り合えるだけの実力をつけているのだ。

 

(わたくし)もうかうかしているわけにはいきませんわね)

 

 少し気合を入れ直し、改めて品質と効力を泉温の道具を使い調べてみる。

 

「…………え?」

 

 思わず声が出てしまった。

 けれどそれも仕方がない、アリアの作った“ズフタフの槍の水”の品質・効力があまりにも異常な値を示していたからだ。

 

 アリアの調合した“ズフタフ槍の水”は品質こそC-とあまりにも低い数値だったが、その効力が異常であった

 

 効力A+。

 

 後一歩で、効力の最高ランクがつくという手前まで来ていたのだ。

 

 この落差はあまりにもありえない。

 何かをしたのだ、アリアは。

 その何かは、ユリアーネには全く想像がつかなかったが。

 

「どうやって、この効力を引き出せたのですか?」

「ふむ、いや別にそこまで特別なことをしたわけではありません」

 

 いつもの様に淡々と言葉を連ねるアリア。

 けれど、その言葉の端々に「してやった!」という感情が見え隠れするのは、ユリアーネの気のせいだろうか?

 

 アリアは口元に人差し指を当て、正解を口にした。

 

「ただ、少しズフタフ槍の草をレシピのものより多めしてみただけです」

「多めに、ですか?」

「はい」

 

 ズフタフ槍の水は、いわゆるズフタフ槍の草の効力を抽出し、引き出したものだ。他の素材は蒸留水・中和剤(青)である。ズフタフ槍の草をなじませたり、より効力を引き出すためにあえて混ぜ合わせた不純物だ。

 単純に考えれば、ズフタフ草の割合を増やせば効力が増すのは当然といえる。

 

「まあ、品質も下がってしまいましたし、結局昨日の間に成功したのはそれ一つです」

 

「失敗は三回くらいしましたね。今日もまたご飯はベルグラド芋ですよ」とアリアは簡単に言うが、よくもまあこんなことを自力で成功させたものだ。

 

「天秤は使ったのですか?」

「……アカデミーで売っているものは銀貨八百枚と高いのでまだです。今回は少し使いたかったですね」

 

 アカデミーで販売されている天秤の精度は通常のものよりも高く、後々高度な調合を行うなら必須の品だ。今はまだ要らないが、それでも比率を変えて調合するのなら、精度の良い天秤は必要だ。

 よくもまあ、自分の手や目で大雑把にとは言うが、素材を測れたものだ。

 

 その分失敗も多く、総合ランクではユリアーネに負けているが、成功例があるだけ十分な成果だ。

 

「よく挑戦してみようと思いましたね。確かに聞いてみればできそうですけど」

「思いついたらできそうだったので、つい。一度目から反応は悪くなかったですし」

 

「それに昔からこう言うでしょう」と、アリアは小さく口の端を上げた。

 

「やってみなければ分からない、と」

 

 

 

「それではこの“ズフタフ槍の草”を依頼に出してきますね。今回見せていただいのは良い基準になりました。これなら大丈夫そうです」 

 

「ありがとうございます」と一言残し、アリアは講堂から出て行った。

 残されたのはユリアーネただ一人。

 

「残念ですわ」

 

 ポツリと、ただ一人だけの講堂で、ユリアーネの声が響いた。

 

「今回は(わたくし)の負け、ですわね」

 

 負け、と口にする割りにその顔は晴れ晴れと、清々しいほどに晴れ渡っていた。

 そしてユリアーネもまた、講堂から出て行った。

 

 残るは誰もいない。

 冬の西日が、明るく中に差し込んだ。

 




 普通は天秤がなければブレンド調合はできません。あと、イングリド先生から教えて貰う必要モアあります。

 けど物によっては、特に初期の調合品なんかは「これ少し多くしたら効力上がりそうだよね」ていうものがすごくわかりやすいです。
 アルテナの水のほうれん草とか、栄養剤のオニワライタケとか。濃縮すれば効力上がりそうな調合品は、マジでそのまんま比率を上げれば効力が上がります。

 多分気づく人は気づくんじゃないかなーというのが、筆者の考えです。
 一度試してみたら結果は出るわけだし。天秤がなくてもある程度、適当な分量を測ることは可能だし。


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第七話  竜の化石と鹿角ナイフ

 十二月三十日。

 今日は一年最後の日。

 明日からは新しい一年が始まる嬉しさか、ザールブルグの町並みを歩く人々の顔は、どこか空気の寒さに反して明るい。

 

 時には道端で露天を広げるものもおり、ザールブルグの外から持ってきたものなのか、見慣れない物珍しい品をところ狭しと並べていた。

 物珍しさから手をとるものは多いが、実際に役に立つ物はどれだけあるのだろうか。

 

 アリアもまた寒風吹きすさぶ中、いつもとほとんど速さが変わらない歩き方で、露天の間を歩いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 寒い、と手に抱えた品を抱え直しながら、アリアは人混みの間を縫うように歩いていく。

 しゃがみこんで露天を見ている人はもちろんのこと、そこらの女子供、そして一部の男性よりも背の高いアリアにとって人混みの間を歩くことはそこまで苦ではない。

 向こうから避けてくれることもあるし、隙間を上からみつけることもできるからだ。

 

 人より少しだけ広い視界を十全に活用して、アリアは歩きながら露天見物を行なっていた。

 時折、興味を惹くものがないわけでもないが、わざわざ露天のそばにしゃがみこんで、見物するほど気が惹かれるものはなかった。

 

 それよりも、早く依頼を終えようと、そちらばかりに意識がいってしまう。

 抱えた調合品を落としたくない、という気持ちもある。

 

 アリアの手の内にあるのは、この前調合したばかりの“ズフタフ槍の水”だ。

 この前ユリアーネと見せ合いっこをしたあの品である。

 

 ただ、アリアの手の内にある瓶の数は全部で五本。

 本当は年末までに仕事を終えるつもりだったのだが、一本目に調合しユリアーネに見せた品に匹敵するものを、と熱心に試し返し調合していたら、いつの間にか一年最後の日となっていたのだ。

 

 さすがにまだ依頼の期限は残っているものの、新年まで持ち越すのは不本意極まりない。

 それに、十分依頼に提出できる品が揃っていたので、今日持っていくことに決めたのだ。

 もう少し質を上げたかったとは思うが、それはアリアのわがままにすぎない。

 まあ、今日持って行くと決めたのもアリアのわがままだが、新年に持ち越すことに比べたらあちらとしてもまだましだろう。

 

 そんな取りとめもないことを考えながら、冬の大通りをアリアは歩いていた。

 

 

 見えたのは、見覚えのある木肌のように色の濃い茶色の髪。

 他の露店の商人のように、いやそれ以上にどこか鬼気迫る有様で客引きを行う青年の姿。

 冬のはじめに、たいそう迷惑なことにアリアのアトリエの前で行き倒れていたザシャであった。

 元気そうで何より、とつい目線がそちらにいってしまう。

 

(おや、あれは…………)

 

 品に目を向ければ、露天の中に鈍く光る品々がアリアの目に入った。

 遠目では一体何の品か、よくわからない。

 

(少し見に行ってみようか)

 

 自然と、その足はその露店の方へと向かっていた。

 

 白い吐息が、アリアの方向転換に合わせて軌跡を描く。

 空からはひらりひらりと、雪が舞い散り始めた。

 

 

 

 

(ああ、雪まで降ってきたよ……)

 

 空から降り始めた白い塊を憎々しげに見つめながら、ザシャは客引きで汗をかいた額に手を当てた。

 見れば、露店に並べられた品物で売れたものは少なく、ほとんどまだ売れ残っている。

 

(折角村の皆が持たせてくれたものなのに……)

 

 出稼ぎに出る時、村の人々が少しでも生活費の足しになるよう、ザシャに持たせてくれた村の特産品や手作りの工芸品。

 物珍しさで少しは売れるだろう、出来れば生活費にするんじゃなくて少しは村の仕送りに使えるんじゃないか、と考えていたが甘かった。

 

 全く売れない。

 冒険者の仕事のおかげで何とか食ってはいけているが、まだまだ仕送りはままならない。

 今回の露店で物が売れなければ、今月も村に仕送りをすることを諦めなくてはいけないだろう。

 

(それだけは嫌だ!)

 

 けれど、ザシャに現状を打破する手段はない。

 途方に暮れて頭を抱えていた。

 

 そんな時だった。

 トコトコ、と軽い足音が自分の露店に近づいて来るのが聞こえたのは。

 

(お、誰か来てくれたのか?)

 

 このチャンスを絶対モノにしてやる。

 顔に満面の笑みを作り、ザシャは腹に力を入れた。

 

「いらっしゃいませ! 商品を見て行きませんか! ザールブルグでは見られないような珍しい品ばかりですよ!」

「ふむ、たしかに物珍しい品ばかりですね」

 

 あ、っと思った。

 その姿、喋り方には覚えがあった。

 

 いや、覚えがあったどころではない。

 ザシャにとって、とてもではないが忘れることなどできそうにない人だった。

 

「お久しぶりですね、たしかザシャさん、といいましたか?」

「……ああ、そうですよ」

 

 三つ編みにした黒髪は腰にまで届き、女性にしては上背のある肢体を紺色の地味な錬金服が包んでいる。

 目の色は濃い藍色。夜明け前の、いっとう闇が濃くなる時の色だ。

 

「お久しぶりですね、レイアリアさん。あの時はどうも」

「ええ、どういたしまして」

 

 しんしん、と雪が周りの音を吸いながら空から舞い降りる最中に、淡々と静かに声が紡がれる。

 小さくも、けれども大きくもない声。だがその声は、何よりも明瞭にザシャに届いた。

 

 ああ、らしいな、とザシャは思う。

 

 彼女――レイアリア・テークリッヒの話し方は、なぜだか彼女にとても良く似合っていると感じた。

 

「で、なにか一つでも売れましたか?」

「いえ、なにも売れておりません………」

 

 そしてすぐさま、えぐりこむように急所を的確に撃ちぬく言動も、とても彼女らしいものだと思う。

 言われた方は内心きついけれども。

 

 人知れず、ザシャは心の中で滂沱の涙を流すのであった。

 

 

 

 

 わかりやすく落ち込むザシャをちらりと見て、アリアは視線を外す。

 とてもわかりやすい人間だ。隠すということを知らないらしい。

 

 視線を落とすと、露店広げられた商品が目に入る。

 隙間一つなく布の上に並べられたそれらは、売りに出している商品がほとんど売れていないことを示していた。

 

 繊細さの欠片もない荒々しい細工しか施されていない工芸品。中には装飾の一つすらなく、素材の質感をそのまま前面に押し出した品もある。

 一つも売れていないとのザシャの言を聞き、アリアはさもありなんと内心頷いた。

 

 もう少し面白みがなければ、物がたくさんあるザールブルグでは売れない。

 見た目だけなら類似品はたくさんあるのだ。わざわざ、こんな露店で質も何もよくわからない品を買う人は少ない。

 おそらく買っていく人間は、空気に浮かれきった人間か、物珍しさでつい財布の紐が緩んでしまったお調子者か。

 

 いないわけではないだろうが、今まで一人として現れなかったということは、これからの時間を費やしても厳しいだろう。

 

 ただ……。

 

「…………」

 

 商品の一つを何気なく手に取る。

 

 先ほどアリアが見た鈍い光の商品はこれだ。よく研がれた刃が薄暗い曇り空の下、ぎらりと鈍く光る。

 

 刃先の鋭いちいさなナイフ。それがアリアの見たものの正体だ

 ナイフの柄は人の手にあわせて少し曲がっており、意外と握りやすい。

 そして木の肌とは違うこのなめらかな質感。

 何かの動物の角か牙か。

 

 よく見れば、刃もただの鉄ではない。少し質が悪いのか、研ぎが悪いのか、鈍い銀色に光るそれはところどころ黒ずんでいる。だが、錆ではない。

 というより鉄とは明らかに違う。全く別の金属だ。

 

 なんだろう、これは。少し興味が湧く。 

 

 よくよく注意して見ていると、とある一つの金属が思い浮かんだ。

 

 なんだろう。すごく聞きたいが、答えを知るのが怖いこの感覚は。

 いや、だがおそらくこのナイフの金属は……。

 

 一旦、ナイフを置いておいてもうひとつ気になった品を手に取る。

 

 琥珀色のちいさな塊の中に、骨のようなものが入っている。

 それはザールブルグでは有名な品だ。

 お金が集まるお守りとして有名な「竜の化石」だ。

 

 ふと視線を感じた。

 

 目を上げると、何やらニコニコと締りのない顔でこちらを見ているザシャの姿があった。

 夢中で遊んでいる子供を見守る大人のように微笑ましげな目。不愉快ではないが、何やら少し居心地が悪い。

 

「それらが気に入ったのかい?」

「ええ、まあ……。少し気になったところがありまして」

 

 子供に話しかける大人のような口調で、ザシャが尋ねてくる。そこまで子供らしい行動だったかと思うが、振り返れば周りの様子を来にせずに、ナイフ一本を返す返す舐めるように見つめているさまは、確かに子供っぽい振る舞いだっただろう。

 反省するべきだ。

 

「このナイフの材料をお聞きしても?」

 

 けれど、それよりも今は好奇心を満たすほうが先だ。

 

「ん、それは鹿の角で作ったナイフだよ。おれの住んでたところの山だと結構出るんだ」

「いえ、私が聞きたいのは柄ではなく刃のほうです」

「ん? ああ、刃のほうか。そいつは……」

 

 思いもかけず、柄の材料も聞くことができたが、今一番聞きたいのはそちらではない。

 重ねて聞けば、ザシャは簡単に何も気負うものがない様子で口を開いた。

 

「銀だよ」

「…………は?」

「いや、だからただの銀だよ、銀。本当は鉄のほうがいいナイフができるんだけど、あいにくおれの住んでいるところだと鉄は出なくて、銀を使ってるんだよね」

 

 そこまでは聞いていない、と言いたくなったが、そこはグッと我慢をする。

 

 そういえば南の地方は銀の産地だ。

 一般人では立ち入ることのできない国営の鉱山だけではなく、すでに廃棄され立ち入りを禁じていない廃坑もあるらしい。しかも、そんな廃坑も採掘の採算が合わなくなっただけで、今なお銀が採れるところはかなり多いとのこと。

 

 銀がありふれたものであってもおかしくない。

 

「で、このナイフは一本おいくらで? あ、あとこちらの琥珀色の欠片も」

「ああ、そうだな。まあ、だいたいどちらも銀貨百枚で売ってるよ。ナイフは手入れも悪かったのか黒ずんでるしね。そちらの「竜の化石」は五百枚くらい、かな?」

 

 標準的なのものより少し小さいとはいえ、一個銀貨千枚以上はする「竜の化石」が銀貨五百枚。

 古びているとはいえ、銀のナイフが銀貨百枚。しかも柄は正真正銘の鹿の角で作られた一品物。

 

 このザールブルグでは銀の価値は他国よりもかなり低い。銀山が多く、採っても採り尽くせないほどの量が、毎年発掘されるからだ。

 通貨の基本は銅貨ではなく銀貨で、しかも銀貨十枚もあれば一日の食事に事足りる。

 

 ただ他国より価値が低いとはいえ、価値がないというわけではない。

 当たり前だが、銀は貴金属の一つだし、他国に輸出する用の銀細工を作る職人などもたくさんいるので、一定の価値は保たれているのだ。

 

 銀のナイフならヴァンパイアや一部の魔物にとても効果的な武器になるし、柄はただの木ではなく鹿の角だ。銀貨百枚はありえない。

 最低でも銀貨五百枚。値が張れば銀貨千枚いくかもしれない。

 

(これは安すぎて偽物だと思われたな)

 

 売っている人間もとっぽい田舎者だ。

 嘘は付けなさそうだが、騙されてつい買ってしまったものをそのまま売っている、と思われたのかもしれない。

 

 他の商品も見てみると、ガラクタにしかならないものもかなり多い。このガラクタの多さも、店の物をまともに見てもらえない遠因だろう。

 おそらく鹿の角であろう工芸品や銀が使われた品、それに見た目でわかりやすい竜の化石がいくらかあるのにもかかわらず今まで売れていないということは、たぶんそういうことだ。値がつきそうなものだけ集めれば、結構な額になるだろう。

 

 そんなことも露知らず、のんきに笑っている田舎者がアリアの前に一人。

 

「……なんですか?」

「いやー、本当にその二つが気に入ったんだと思ってね」

「まあ、悪くない品ですね。黒ずんだところも磨き直せば何とかなりそうですし。こちらの竜の化石は錬金術の材料として何かに使えそうですし」

 

 銀の鹿角のナイフなんて使ったことはないが、握りは良い。意外と使いやすそうだ。

 鉄のナイフとどちらが切れ味が良いか、細工にはどちらが向いているのか。比べてみるのも面白そうだ。

 

「竜の化石」は今は何に使えるのかわからないが、鱗や牙が様々な道具に使うことのできる竜の一部が中に入っているのだ。

 将来的に何か作るのに使うことは十分可能だろう。

 というよりいつか使ってみたい。

 

「気に入ったんなら持って行きなよ」

「……………………はぁ?」

 

 思いもかけない言葉に、一瞬時が止まった。

 

 何を考えているのだろうこの人は。頭は大丈夫だろうか。

 

「君にはお世話になったからね。これくらいで返せるとは思わないけど。ま、お礼代わりってやつさ。そのナイフぐらいならいくらでも持って行きなよ。さすがに竜の化石は高いから無料(ただ)では無理だけど」

「……………………」

 

 開いた口が塞がらないとはこのことか。

 ただ、いくら無料(ただ)でくれると言質をもらったとはいえ、さすがにそれは図々しすぎる。物の値段を知っているからなおさらだ。

 

 仕方がない。さすがに財布が厳しすぎるので、適正値段をそのまま払う訳にはいかないが、ある程度こちらが譲ってあげよう。

 というより、この二つをまともに買うと、最悪銀貨二千枚ほどはいくだろう。

 うまくいけばそれを千枚以下で買えるのだから、大儲けだ。相手が告げた値段だし、そこを引くつもりはない。

 知らないザシャが悪いのだ。むしろ適正値段を教えてあげるのだから、こちらに感謝して欲しいほどだ。

 

 無論、教えるのは買い上げた後だけれど。

 

「ナイフと竜の化石、二つ一緒で銀貨二百枚。いかがですか?」

「え!? いや竜の化石も買ってくれるのは嬉しいけど、さすがに二百枚はないよ! 下げても四百五十!!」

「三百。今まで一つも売れていないのでしょう。まとまった金額を手に入れる機会を逃すべきではないと思いますが?」

「うう、そりゃそうだが……。けど、もともと竜の化石はもうちょい高いはずだろ? 下げても四百。これで決まり!」

「三百五十で。竜の化石を拾った場所を教えてくれるのなら、冒険者として雇いましょう。これでいかがですか?」

「売った!! まいどありい!!」

 

 そこまで雇って欲しかったのか、即決である。

 なんだ、冒険者の仕事が欲しかったのか?

 何にせよ、全く良い買い物をしたものである。

 アリアは自らの買い物にご満悦だ。

 

 さてそれでは親切な私は適正値段を教えてあげるか、とナイフを手渡されたところで、意地悪くアリアは口を開いた。

 

 

「そうそう、最後のお教えしますがこのナイフ、あなたは銀貨百枚とおっしゃいましたが、その程度の値段ではありませんよ」

「え、もうちょっと安い? やっぱりただのナイフに銀貨百枚は高すぎた?」

「なんで逆にいくんですか。その程度じゃないって言ったでしょう」

 

 すっとぼけたことをザシャがのたまってくれたので、ピシャリと言葉を叩きつける。

 

「最低でも銀貨五百枚。うまくいけば銀貨千枚はいきますよ」

「ははは、冗談がうまいね」

「冗談じゃありません。本当です。ここらでは珍しい鹿の角が使われた意匠に、銀製のナイフ。普通それくらいします。良ければ他のお店でも聞いてみますか?」

「え、いや、…………マジ?」

「マジです」

「……………………え?」

 

 絶句である。

 大口を開けてポカーンとしている姿は、たいそう間抜けである。

 

「えええええええええええ!!?」

 

 そして絶叫。

 驚くのはわかるが、うるさい。耳に痛い。

 

「え、いやいや、ちょっと、待って! おれんちの村で普通に使われてるものが銀貨、千枚!? うそだろおおおおお!!?」

「現実です。てか、周りの目をもう少し気にしましょう」

 

 ハッとあたりを見回すザシャ。

 だがもう遅い。周囲の露店を見ていた人たちは、何事かとこちらに注目している。

 

 声を潜め、周りの人達に聞こえないような声量でアリアは言った。

 

「知らなかったのなら仕方ありませんが、こんな高価なものをぽっと人に渡すのは感心しませんよ。さすがに無料(ただ)でいただくのも悪いのでお金を払いましたが、追加で出すものはなにもないですよ」

「え? ああ、なるほど。いや、いいよ。それは君のだ」

 

 きょとんと見返すアリアに、ザシャはニヤリと笑い返した。

 

「もともとそのナイフは君にあげるつもりだったしね。まあ、だいぶ安くなってしまったのは痛いけど、それはこっちの手落ちだ。後になってグダグダ言うつもりはないよ。銀貨三百五十枚でナイフと竜の化石はお買い上げだ」

「……良ければ、私の知っているそれらの品を買い取ってくれる場所をお教えしましょうか?」

「な、いや、そこまでしてもらうのも…………」

 

 言いよどむザシャに、アリアは言葉を連ねる。

 

「このままだとこれらの品はまともに売れませんよ。まあ、私がお教え出来る場所も、普通の商家とは違い多分手数料などが差っ引かれると思いますが、ここで無駄な労力を尽くすよりは遥かに金になると断言いたしましょう。それとも貴方は……」

 

 指をさす。ザシャが広げている商品に向けて。

 

「これらの品をただ無駄に朽ちさせるつもりですか?」

「……ああ、たしかにそれは嫌だな」

 

 吹っ切れたのか、カラリと晴れ渡った笑みをザシャは浮かべた。

 そして思い切り良く、その頭を下げた。

 

「おれの村の工芸品どこで売ればいいのかどうぞ教えて下さい!」

 

 思い切りが良いにしても良すぎだろう。土下座せんばかりの勢いでたのみこむザシャを見て、アリアが思ったことはただひとつ。

 

 仕方がない。

 助けてあげなければ、どこまでもドツボにはまりそうだ。

 

 そう思った時点で、アリアの負けだ。

 

「では、行きましょうか。案内しますので、私についてきてください」

「わかったよ。どこに行くんだい?」

 

 アリアがザシャに案内できる場所はただ一つ。

 

「『飛翔亭』です」

 

 冒険者の集う場所。

 ザールブルグの唯一の酒場「飛翔亭」である。

 

 

 

 

 

「飛翔亭」という酒場がザールブルグにある。

 元冒険者として名を馳せたディオ・シェンクが、一代で築き上げた彼の城だ。

 

 ザールブルグ唯一の酒場である彼の店は、毎日多くの冒険者が行き来し、様々な噂話や依頼が到来する。それは金を生み、時には多くの人々の生活を潤す。

 

 ザールブルグに拠点を持つ冒険者が避けては通れない場所。

 それが「飛翔亭」。

 

 ザールブルグの名士・ディオの誇る、彼の牙城であった。

 

 

 

 ざわざわと人のざわめきが、酒場の中に満ち満ちている。

 お酒の匂いが時折香るが、酒自体の質がいいのか不快感はない。アルコールの強い香りの中に、果物の甘い香りやホップの香りが漂っている。

 

 中には食堂として利用している人もいるのか、こんがりと狐色に焼けた肉にかぶりついている人もいる。香ばしい香りの中に交じる、柑橘系の匂いが爽やかでいくらでも食べられそうだ。おそらくソースにでも使っているのだろう。相変わらず手の込んだ料理だ。

 

 アリアの後ろで、きょろきょろと田舎者丸出しで酒場――「飛翔亭」の中を見回しているザシャを先導し、視力を矯正する丸眼鏡をかけた厳つい顔の中年男性の前のカウンター席に座る。

 男性もこちらに気づいたのか、手に持って拭いていたコップをカウンターに置き、アリアに向き合った。

 

 男性の名はディオ。この酒場「飛翔亭」のマスターである。

 

「久方ぶりだな。依頼はもう終わったのか?」

「ええ、今回の依頼の品はこちらです」

 

「いつものことながら、期限にはしっかり間に合わせるな」と、ディオはその厳つい顔をわずかに歪めた。

 

 アリアは手に持っていた袋を置き、中に詰め込んでいた瓶をカウンターに並べる。

 その瓶一つ一つ蓋を空け、ディオは中の薬品を真剣な様子で吟味する。

 

 この時はいつも緊張してしまう。

 自分の調合したものが評価をくだされる瞬間というものは、たとえ自信がある品であっても多少の不安をいだいてしまうものだ。

 

 ようやくディオがアリアの“ズフタフ槍の水”から目を話した時には、見た目は全くの無表情ではあったが喉がカラカラに乾いてしまった。

 落ち着くために一杯の水を口に含む。

 そんなアリアの様子を見て、意地悪気にディオは口の端を持ち上げた。

 

「お前さんでもまだ慣れないか」

「そう簡単に慣れるものでもないと思います」

「違いない」

 

 憮然とした調子で言い返せば、ディオの笑みはさらに深まる。

 これなら評価は悪くなかったのだろう。ただ、からかわれているようで少し気に障る。

 

「安心しな。今回の品も悪くない。まあ、少しくらいなら色を付けてやってもいい」

「ありがとうございます」

 

 宣言通り、本当に僅かではあるが予定の金額よりも多めに銀貨をもらうことができた。

 ずっしりとした袋の重みに、ついほくそ笑んでしまう。

 

「で、だ。なんでお前さんとそのザシャの坊主が一緒にいるんだ?」

「あ、名前覚えていてくれたんですね」

「当たり前だろう。何年酒場のマスターをしていると思っているんだ。新人の名前くらいは把握しておかんとな」

 

 嬉しそうに頭をかくザシャに、ディオからの追撃が来る。

 

「まあ、冒険者になろうっていうのに、鉈を装備しているような馬鹿者なんざ忘れようにも忘れられんよ」

「剣なんて上等なもんなくて…………。これが一番まともだったんですよー!!」

「さっさとまともな剣くらい一本買え。というか、冒険者をやるつもりなら街に来てからすぐに買え」

 

 腰に刺してある剣は鉈のような剣だと思っていたのだが、どうやら正真正銘ただの鉈だったらしい。

 よくもまあ、そんな装備で冒険者なんてやろうとしたものだ。あきれ果てて言葉も出ない。

 

「それでお前さんら今日は一体何のようだ? というより、お前さんらいったいつ会ったんだ。接点なんてないだろ?」

「会ったのは偶然ですね。まあ、お構いなく。今回のご用事はコレです」

 

 ザシャにいくつかの工芸品を出すように促す。

 本当はどこぞの商売人に渡すほうが効率が良いのだが、さすがに商人相手に渡りをつけられるほどアリアのツテも広くない。

 せいぜい「飛翔亭」が限界だ。

 

 幾つかザシャが村から持ってきた工芸品をカウンターに置くと、ディオの目の色が変わった。

 真剣に――特に鹿角ナイフを見定めている。

 

「こいつは……」

「えっと、これらはおれの村の特産品で、露店じゃなくてここに持ってくれば売れるからとレイアリアさんに教えてもらったので……」

「確かに、これくらいのもんになってくると露店では、な。もうちょい手馴れてるやつならまだしも、お前さんなら売っても偽物と思われてしまいだろう」

 

 実際そのとおりだったので、ザシャはぐうの音も出ない様子だ。

 しげしげとナイフや鹿の角で作った工芸品を検分するディオ。

 

 もう自分の役目は終わったと、アリアは二人を尻目にのんびりと頬杖をつく。

 

 カタン、と何かが置かれる音がした。

 見るとちいさなコップが置かれている。

 白く湯気が立っていて暖かそうだ。

 

「少し時間がかかりそうだからコレでもどうぞ」

「フレアさん」

 

 そこにいたのはやわらかな桃色の髪を青いリボンでまとめた女性、ディオの娘であるフレアであった。

 世の男性を魅了する暖かな笑顔がたいそう眩しい。

 

「ホットワインよ。体があたたまるわ」

「ありがとうございます。いただきます」

「どういたしまして」

 

 ホットワインにははちみつでも混ぜてあるのか、ほんのりと甘くておいしい。

 熱で酒精を飛ばしているとはいえ、やはりまだアルコールが残っているのか体がぽかぽかとあたたまる。冬には嬉しい一品だ。

 

「えっ、そこまでもらえるんですか!?」

「そこまで、とお前さんは言うがな。こちらは専門の商売人じゃないからかなり差っ引いてるぞ」

「いや、これで十分すぎますよ。ありがとうございます!」

 

 どうやらあちらも取引が終わったようだ。

 横目で見てみると、確かにディオの言うとおりアリアが予想した額よりも幾分か代金が差っ引かれている。

 

 手数料として考えれば当然か。

 ただ、これだけあれば冬を越えることは難しくない。

 むしろお釣りが来るほどだ。

 

「ま、これでお前さんも装備を整えろ。さすがに今以上の依頼を受けたいなら、鉈使いの冒険者なんぞ推薦できん」

「というより、今まで依頼を受けたことがあったんですね。鉈なのに」

「そう言うな。身なりはこんなんだが、意外とこいつの腕は悪くない」

 

 ほう、とアリアは少し感心する。

 ディオさんは他人に対する評価は厳しいが、その目は確かだ。

「腕は悪くない」と評するのなら、確かにザシャは冒険者としてなかなか期待できる人材なのだろう。

 

 これは次雇う機会は期待できる、とアリアは内心ザシャの評価を引き上げる。

 

 ただ、鉈というところを考えるとどうなのか。

 まあ、お金のない冒険者には、あり得ること、……なのか?

 

 冒険者の事情には詳しくないので、どうしても頭に疑問符がつく。

 ただ今まで見てきた冒険者で、鉈を装備している人は誰一人としていなかったような……。

 

「大丈夫ですよ。さすがに今回のお金でまともな剣を買いますから。さすがにこの鉈も結構傷んできたし」

「痛むほど使ってる時点でどうかと思うぞ。そしてそれで生き残ってるおまえさんもな」

 

 全くもってディオの言うとおりである。

 ホットワイン最後の一すすりを喉の奥に流し込みながら、アリアは出てくるため息を噛み殺すのであった。

 

 

 

「飛翔亭」を出てからの帰り道。

 雪はまだ降り止まず、ザールブルグの町並みを白く染め上げていた。

 

「今日は冷えそうだなぁ」

 

 ザシャが呟く。

 確かに今日の夜は冷え込みそうだ。

 

「レイアリアさんは、もう帰るのかい?」

「ええそのつもりです」

「だったら、おれが送るよ。さすがに女性を一人帰らせるのは危ないしね」

「ザールブルグでそこまで心配する必要はないと思いますが、お申し出はありがたく受け取ります」

 

 ザールブルグの治安は良い。

 下手に路地裏にでも行かない限り、女性が一人帰路につこうとも襲われる心配は特にない。夜も更けてくるとその限りではないが。

 

 深々と積もりゆく雪のためか、それとも別の理由があるのか。

 大通りというのに歩く人影は少なく、まるで二人きりでザールブルグを歩いているようだ。

 

「えらく人が少ないなぁ。飛翔亭にいく前は結構な人が歩いていたのに」

「多分武闘大会が始まっているからですよ。毎年年末にはザールブルグ最強の人間を決めるために、武闘大会が開かれていますから」

「へぇ、そんなお祭りがあったのか。そりゃ、楽しそうだ。今から飛び入りは……無理、か」

「無理ですね。たしか参加するのには事前申請が必要だったはずです」

「そりゃ残念。なら、来年参加してみようかな」

「鉈で、ですか?」

「さすがに鉈はもう買い換えるからね! 普通の剣持つからね!!」

 

 慌てて否定するザシャの姿はどこか滑稽だ。

 少し鉈を魔物相手に振るう姿を見てみたかったのは、内緒にしておこう。

 一体どうやって打ち倒すのか見てみたかったのだが、さすがにそれは全力で拒否をされそうだ。

 

「ああ、もう着きましたね」

 

 話しているといつの間にか距離を歩いていたのか、アリアのアトリエの前に着いていた。

 ちいさなアトリエだが、こじんまりとしていて過ごしやすい我が家だ。

 

「ああ、今日はありがとう。ほんとうに助かったよ。これで田舎への仕送りも何とかなりそうだ」

「それは良かった」

「ああ、本当にレイアリアさんのおかげだよ」

「レイアリアですか……」

 

 自分の名前なのだが、その長い呼ばれ方はどうしても慣れない。

 それとももう一つの呼ばれ方に慣れきってしまったのか。どちらなのかはすでにわからない。

 

「アリアでいいですよ。そちらのほうが慣れてますし。それと敬語も不要です。貴方のほうが歳上でしょう?」

「え、そうかい? 正直そちらのほうが助かるよ。敬語には苦手だからさ」

「わかってます。すでにいくらか崩れてましたからね」

「ですよねー」

 

 指摘をすれば、幾らかは本人も気づいていたのだろう。頭を抱えてしまっていた。

 というより、あれでも気にしていたのか。ほとんど敬語らしい敬語なんて使えていなかったのに、無駄な努力をする人だ。

 

「では失礼致します。また今度」

「ああ、また」

 

 別れの挨拶はお互いに短いものだった。

 雪舞う夜空に消えていく背中を見送り、アリアはアトリエの扉を閉めた。

 

 寒い。

 暖炉の火を消していったためか、体の芯から凍えそうなほどアトリエの中は冷えきっていた。

 

 慌てて暖炉に火を灯す。

 音を立てて燃え始めた薪にかじかんだ手をかざす。冷たくなった手にじんわりと炎の熱が伝わり、ほっと一息をつく。

 

 ぱちぱちと燃える炎を見つめているとなんだか落ち着いてくる。

 

 ふと思いつき、ポケットに入れておいた竜の化石を取り出す。

 竜の化石越しに炎を覗きこむと、赤い色ではなく明るい琥珀色に踊る火が見える。

 その柔らかな色合いはずっと見つめていたいほど、アリアを惹きつけた。

 

 調合の材料になる、珍しい代物。そうしたものとは関係なく、ただこれを買ってよかったと、何故か自然にそう思えた。

 

 ただ静かに、夜は更けていった。



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第八話  水飴と神の家

 ついノリノリで神父様に説法をさせてしまった。
 正直、アルテナ教の教義なんてリリーで出たちょっとだけしかわからないので、かなりオリジナルが入っています。
 原作との齟齬? こまけぇことはいいんだよ! の精神でどうかよろしくお願い致します。


“神よ、汝が恵み、汝が憐れみにより生きるこの日々を感謝します”

 

 朗々とした聖句が、聖堂に力強く響き渡る。

 言葉の一つ一つが意思を持ち、何かを伝えようと信徒たちの鼓膜を揺らす。

 

“子らよ地を歩み、空を見よ。ここ彼方にあるすべてのものに神の恩寵は宿り、我らは神の愛を知りうる。汝らが神の子であるがゆえに”

 

 それは肯定する聖句だ。

 万物に神の愛は宿り、その愛は私達生きとし生けるものに向けられていると謳っている。

 

“あるがままに受け入れよ。さすれば道は開かれん”

 

 だからこそ、神の愛を受け入れその愛に沿って生きていきなさいと、その祈りは締めくくる。

 神の恩寵がすべてのものに宿っているのだから、それを受け入れ生きていけば万事がうまくいくと。

 

“すべてのものに我らが神・アルテナの恩寵が賜れしゆえに”

 

 それは全て神が人に与えた恩寵であると、その祈りは説いていた。

 

Amen(エイメン)

 

 

 

 

 

 

 

 

 美しく荘厳に神の形を象るステンドグラス。

 色とりどりの光を映すそれは、見る人の中に宿る神の御姿を思い起こさせる。

 敬虔な信徒ではないアリアも、このステンドグラスを見るとつい跪いて祈りを捧げたくなるくらいだ。とても良くできているステンドグラスだ。作った職人もこの出来栄えには満足しているだろう。

 

「また、罰当たりなことを考えているな」

 

 朗々とした低い声が、アリアの鼓膜を震わせる。

 

 そこにいたのはすでに五十をいくらか超えているだろう初老の男性だ。

 その白い神父服(カソック)に包まれた身体は、初老の男性とは思えないほど頑強で若々しい。 昔は神官兵の一人として戦場にも立ったという話もあるくらいだ。そこらの若造では束になってもかなわない重厚な存在感が、彼にはあった。

 

「少しはまともに神へ祈りを捧げたらどうだ。この不心得者が」

 

 白髪一つない黒髪に、曇りのないダークグレーの目。

 その顔には幾らかの年輪のように太い皺が刻まれ、彼の生きてきた年月を伺わせる。しかしその瞳は爛々と光り、年月を経てもなお失われぬ意志の強さを、今なお周囲に示している。

 

 アルテナ教司祭フーゴ。

 ザールブルグ職人通りに面するアルテナ教教会の司祭であり、いざというときには製鉄所のカリンに並び立つ名士として敬われている人物である。

 ただし大人たちからは名士として敬されているが、子供たちからはそこらの職人の頑固親父よりも怖い人物として有名だ。

 厳格で、規律に厳しく、そして何より神父とは思えないほど顔形に迫力がある。彼を見るだけで、中には泣き出す子供もいるほどだ。

 

「まあ、いい。今日は一体何の用でここに来た」

「いつも通りお菓子の差し入れです。子どもたちにでもあげてください」

 

 アリアの手の内にあるバスケットの中身は水飴や果物をザラメにつけたものだ。

 果物をザラメにつけたお菓子は、ここらでよく食べられる伝統的なお菓子だ。ドライフルーツよりも甘く日持ちもするそれは、ちょっと高価でおいしいお菓子として子どもたちにも大人気だ。

 昔は差し入れにはドライフルーツばかりだったのだが、アカデミーで学び始めてからは、錬金術の調合品がかなり高く売れるため、これくらいの贅沢なら時折できるようになった。

 

 水飴は錬金術で作り上げた特別製だ。

 こういった水飴などのお菓子も、錬金術で作ることができる。ただ、購買で売っている講義内容に沿った参考書にはレシピが載っておらず、図書館をあさるはめになったのは大変であったが。

 

「ふむ、ありがたくいただこう」

「あの子たちは喜んでくれていますか?」

「安心し給え。子供たちはお前の差し入れを指折り数えながら待っているほどだ」

「それは良かった」

 

 あの子たちとは、この教会に住む孤児の子供たちのことだ。

 昔この教会に文字を学ぶために通っていたアリアは、孤児の子供たちとも面識があった。お菓子を週に一度届けているのは、そうした縁があるからだ。

 

「礼を言うのはこちらの方だ。こうした贅沢品は教会ではなかなか手に入らんのでな、子供たちには長い間わびしい思いをさせていた。お前たち親子の行動には私も感謝しているのだよ、アリアよ」

「それはそれは、光栄なことです」

 

 子供たちにお菓子を配るのは、アリアの父の代から行なっていた善行だ。

 もともとは父がザールブルグに移民してきた時に、お世話になったフーゴ神父への恩返しが主であったと聞く。

 

 アリアの場合は、文字を習うため教会に通っている間に、孤児の子供たちと顔見知りになったが故だ。父の行いを自分の代で途切れさすのは忍びなかったし、この程度の骨折りで喜んでもらえるのなら満更でもない。

 それに学のない鍛冶屋の娘に一から文字を、計算を教えてくれた神父様に、こんな些細な行動で役に立てるなら悪くはない。

 

 本人に言えばもう受け取ってくれなくなるのはわかりきっているので、子供たちのためと嘯いているが、本当は毎回お菓子を持って教会に来るのは神父様へのご恩返しのためだ。

 

「これでお前が我らが神の信徒であれば更に良いのだがな」

「残念ながら私は正直者ですので」

「自らの心に誠実なのは認めよう。神に対する忠誠心が芽生えぬから信徒にはなれない、とはな。お前の父も『信仰もしていないのに建前上とはいえ信徒になる訳にはいかない』といつも言っていた。まったくよく似た頑固者たちだ。さすがは親子だな。そういうところばかり似ずともよいだろうに」

 

 何かを思い出しているのか、目を細めアリアを見つめる目は、その凄みすらある迫力に反して柔和で優しげなものだった。

 

 厳しい神父様として隣近所では有名なお方とは思えないほどだ。

 だが、こういう面もあるからこそ、「厳しい、怖い、なんか迫力がある」と、ちょっと神父としてどうなんだという評判で有名な人間でありながら、いざというときは名士として頼りにされているのだろう。

 

「まったく、お前ほど手の焼かされた生徒は私の長い人生の中でも他におらん」

「なんとひどい。近所でも優秀で素直なお嬢さんと評判でしたのに」

「優秀で素直な生徒、と言えば聞こえはいいが、正確には頭は良いがこまっしゃくれた子供だったろうに。カステラの大きさで喧嘩をしている子供たちを尻目に、ちゃっかり水飴を一番多く確保していたことを今でもよく覚えているぞ」

「皆さんカステラに夢中になっていて、水飴なんかいらないのかと思いまして」

「そういうところがこまっしゃくれているというのだ」

 

 もう何年も前のことをよく覚えているな、とアリアは思う。

 

 確か、教会に通い始めてそこまで経っていない時期の話だ。

 アリアと同じように教会に通っていた子供たちにと、どこかの親御さんたちが自分たちで作ったカステラや水飴といったお菓子を差し入れてくれたのだ。その後は、まあよくある話というわけで、やれお前のカステラが大きい、やれ自分のカステラが小さいと、よく見なければわからないような小さな差で、子供たちの喧嘩が始まったのだ。

 

 アリアはその喧嘩に参加しなかった。アリアとてカステラは欲しかったが、水飴もあるのだ。わざわざ喧嘩してまで得るものには到底思えなかった。

 こうして、喧嘩もせずにカステラを同輩に譲って水飴をねだった良い子なアリアは、他の子よりも多めに水飴をもらうことができた。

 

 喧嘩のせいでおやつ抜きになった子からは、恨めしげな目を向けられたが、そんなことは知っちゃこったない。喧嘩するほうが悪いのだと、水飴を分けてはあげなかった。

 

 まあ、その筆頭が当時ワルガキであったディルクだった、というのも大きいかもしれない。

 遠慮もなかったし、色々とあったので自業自得という感情もあった。

 

 確かにちゃっかりしていたな、当時を振り返ればそのとおりだ。

 厳しい見た目とは裏腹に、子供たちをよく見ている。喧嘩をせずにカステラを譲ってあげた良い子、と褒めてくれた他の親御さんたちとは、見ているものが違う。

 

 アリアは心のなかだけで、うんうん、と頷いた。

 

 ただこの人は基本、善性の人間だ。だからこそ人に信頼される。

 

 親たちに信頼されているからこそ、今なお多くの庶民の子供達が文字や計算の基礎を学ぶために、この教会に訪れている。

 教会というものは定期的に市民に基礎的な学問を教えるための教室を開いているものだが、アリアはフーゴ神父の青空教室ほどしっかりと子供たちに知識と躾を教えこむものは見たことがない。

 

 あの跳ねっ返りのディルクですら、フーゴ神父の前では頭が上がらず、借りてきた猫のように大人しくなる。そのうえ、フーゴ神父はアリアに比べて遥かに読み書きの習得が遅かった幼馴染にすら、完璧に基礎的な読み書き計算を叩き込んだのだ。

 

 あのカリンさんが、息子の成長ぶりに泣いて喜び、フーゴ神父に直接お礼を言っていたのを、製鉄所の面々は皆知っていた。もちろん幼馴染であるアリアもである。

 

「それにしても神父様は変わりませんね。私は一応錬金術士になったのですが?」

 

 アカデミーに入学した時、もしかしたらもう教会に立ち入ることは許されないかもしれないと、アリアは危惧していた。

 その時は神父様の迷惑にならないよう、もう通うことはやめようと考えていたのだが、予想に反してアリアがアカデミーに通い始めてからも、フーゴ神父はアリアを教会に招き入れてくれる。

 

 ありがたいが、それがどうしても疑問であった。

 

「アルテナ教の教義のことかね?」

「ええ、“あるべきものあるべきままに”。これは自然のものを組み合わせて新たなものを作る錬金術士の有様と相反します。だからこそアルテナ教と錬金術士は相容れない」

「くだらぬことだ」

 

 敬虔なる神の信徒は、馬鹿馬鹿しいとアリアの言を一蹴する。

 つい、ぱちくりとアリアは目を瞬かせた。

「よいか」とフーゴ神父はいつもの説法と同じ口調で先を続けた。

 

「“あるべきものをあるべきままに”、物事は自然の状態こそが最も調和がとれ美しい姿である、とアルテナ教の教義では説いている。では聞くが、アリアよ“自然な状態”とは何かね?」

「それは、……そのままであること、ではないでしょうか。人の手が入らない平原や森では草々が生え、木々が立ち並び、動物達が気ままに生きています。この状態がアルテナ教の言う“自然な状態”であると私は考えていますが」

「模範的な回答だな。ではもう一つ質問をしよう。我ら人間が生きる“自然な状態”とは何かね?」

 

 これには少しアリアも頭を悩ませた。

 はじめアリアが思い浮かべたのは、ザールブルグで生きる毎日の生活そのものだ。

 しかしながら、高い城壁の中で草原を埋め立て、木々を切り倒して家を作り、動物たちを狩って日々の糧とするこの生活が、先程述べた自然な状態と同じものであるとは到底思えない。

 

 けれども、ならば他に人間の生き方として自然なものがあるのか。

 過分にして思い当たらない。多少頭の出来に自信があろうと、アリアはただの街娘にすぎない。そのちいさなおつむに蓄えられた知識は、その狭い世界相応のもので、自分の把握できる世界の外にあるものを想像することはあまりにも難しい難題だった。

 

 フルフルと首を横に振るアリアを見て、フーゴ神父は子供に教え聴かせるように答えを教えた。

 

「簡単なことだ。それは、今我々がこのザールブルグで営む日々そのもの、だ」

「私が先ほど答えたものとまったく違いますが?」

「アリアよ、鳥が空を飛び生きるように、魚が海を泳ぎ生きるように、種族により自然な生き方とは違うのだ。我ら人間が鳥のように空の上で生きられるか? 魚のように海の底で生きられるか?」

「……無理ですね」

 

 単純に考えてそんなことできるわけがない。

 フーゴ神父もそれには大きく頷いた。

 

「その通り。不可能なのだよ」

 

 大仰に両手を広げ、フーゴ神父は語りかける。

 信徒に神の言葉を伝えるように。神に讃歌を捧げるように。

 

「生きとし生けるものにはそれぞれの領分というものがある。我ら人の世が、進歩の積み重ねによりここまで来たのなら、人間の自然な状態とは“発展”そのものであると言えるのではないかね。ならば錬金術という“発展”もまた否定するものではなく、肯定するものだ。そうは思わんかね」

「極論ですね。けれど、私にとっては好ましい極論です」

 

「そこは素直に賛成しておけ」と怒られるが、思ったことをそのまま口にしただけだと、アリアもまた悪びれずにのたまった。

 

「けれど良かった。これからも水飴をお持ちしても良いのですね」

「持ってきてもらわねば、こちらが困る。そちらの好意によるものだから強制はできんが、言っただろう。子供たちも楽しみにしていると。私とて子供たちを悲しませるほうが不本意だ」

「私も嫌ですね。そうそう、よければ水飴以外にも必要な物はありますか? さすがにこちらは依頼という形になりますが、私で良ければご用意いたしますよ」

「当たり前だ。好意を超える恩情は、こちらとてお断りだ。そのようなもの双方にとって不幸にしかならん。――それで、一体どんなものが用意できる?」

 

 今調合できるもの、栄養剤やアルテナの水、面白いところではズフタフ槍の水や鉄などが作れることを素直に伝える。

「ふむ」とフーゴ神父は顎に手を当て、少し考えてから口を開いた。

 

「私が今欲しいのはアルテナの水だな。簡単な怪我人や病人ならあれでなんとかなるからな。予備も含めて、数は十もあれば十分だ。期間は一月。できるな?」

「もちろん、可能です。……もしかして今までも使ってましたか?」

「当たり前だ、アルテナ様は医療の女神だぞ。その神を祀る教会で、不十分な治療しか施せずして病人を外に放り出せるか。

 “あるべきものあるべきままに”、これは自然の調和を称えるだけではなく、運命をありのまま受け入れ、そしてその状態で最善をつくすように教える言葉でもある。病めるものを救う手段があるというのに、自らの怠惰でそれを放棄するような愚か者など神はけして救いはせんよ。たとえそれが自らの司祭であろうともな」

 

 アルテナ教の司祭様がそれでいいのだろうか。疑問がアリアの頭の中に浮かぶが、フーゴ神父だからと納得する。

 

 良くも悪くも強い人だ。

 まだまだ子供にすぎないアリアでは、フーゴ神父を案じるなど荷が勝ちすぎる。

 

「だが、誰もが私と同じ考えをしているわけではない」

「…………」

「アリアよ、いつか大きな仕事を頼むやもしれん。むろん、無理なら断ってもらっても構わん」

「……依頼なら望むところです。断る気はございません」

 

 きっぱりと否定する。

 自分がフーゴ神父の依頼を断るはずがない。頼まれた以上、完璧にこなしてみせる、そうアリアは宣言した。

 

 そんなアリアを見て、フーゴ神父は「気の強いことだ」と笑った。

 

「大きな仕事なら報酬を期待してもいいのでしょう?」

「ふっ、安心し給え。私の権限を持って十分以上の見返りを約束しよう」

 

 その言葉だけで十分すぎる。

 フーゴ神父は絶対に嘘はつかない。今までの経験から、アリアは彼の言葉を誰よりも信用していた。

 

「では、皆に会ってから帰りますね。次に来る時にはアルテナの水も一緒に持ってきます」

「たった一週間で依頼を終わらせるときたか。大きく出たな」

「ええ」

 

 腰掛けていた長椅子から立ち上がり、フーゴ神父と真正面から向かい合う。

 

 まったく、本当に昔から変わらない人だ。

 

 初めて会った時から、父と匹敵するほど背中の大きな人だった。

 父とは正反対に饒舌な人ではあったが、言葉の重々しさは変わらない。

 それはきっとこの人の生き様から来ている言葉だからだろう。経験に基づいた言葉は、重い。

 

「楽しみにしていてくださいね」

 

 でも、いつまでもその重々しさに潰されるだけの子供ではない。

 いつか子供は、それを跳ね返せるだけの力を得るものだ。

 

 

 

 

 アトリエに戻ったアリアがまず行ったことは、戸棚に保管していたアルテナの水の確認であった。いくつか過去に予備を作っていたので、まったくのゼロから依頼をこなす必要はない。足りない数を補完し、新たに水飴や果物の砂糖漬けを作り足せば良いだけだ。

 

「アルテナの水は五つ、か。十分だな」

 

 ほうれん草を煮こむ間に他の簡単な作業を行うこともできるし、一週間という日数は十分すぎるほどだ。

 

 さて、さっそく作業を始めるとするか。

 紺色の錬金服の袖をまくり、アリアはさっそく作業に取り掛かった。

 

 まずは買ってきた果物を適度な大きさに切る。皮はそのまま残しておく。

 今回は冬でも買えるリンゴがメインだ。

 

 種を取り除き、適度な大きさにざく切りしたら、果実とザラメを交互に瓶に詰め、しっかりと口を閉じる。

 このまま三日ほどそのまま放っておけば完成だ。

 手間もなく簡単に作れるので、最初に準備をしておく。あとはただ待つだけだ。

 

 

 次は水飴だ。ここで日も沈み始めたので、ランプに火を灯す。アカデミーで購入した特別製なので、火は安定した様子で燃えている。明るく力強い火は、調合机の上を照らし、これなら支障なく調合を続行できそうだ。

 油をさしながら、アリアは満足気に頷いた。

 

 水飴を作る時、最初にベルグラド芋をしっかりと蒸さなくてはいけない。

 少し時間がかかるので、この時アルテナの水の準備も同時に進めておく。乳鉢でほうれん草を砕き、別の容器に移し替えてから乳鉢をしっかりと洗っておくのだ。

 乳鉢はベルグラド芋を潰すのにも使うので、ここでしっかりと洗っておかなくてはいけない。ベルグラド芋にほうれん草が一欠片でも混じり込んだら失敗してしまう。

 

 ベルグラド芋を蒸かし終わったら、しっかり粘り気が出るようすり潰す。この作業が結構な重労働で、意外と時間が掛かる。粘り気が出始めたらしめたもので、あともう少し頑張ればこの大変な作業も終りを迎える。

 

 粘り気がベルグラド芋の全体に広がったら、次は用意したザラメを緑の中和剤に浸す。

 ここでザラメの粒を全部溶かし、完全な液状にしなくてはいけない。溶け方が不十分だと、うまくベルグラド芋と混ざらない。

 ここで最後に少し温めておくと、ベルグラド芋の粘り気をさらに引き出してくれる。

 

 最後にベルグラド芋とザラメの溶けた中和剤(緑)を混ぜておしまいだ。

 

 しっかりとかき混ぜ練りこめば、どこからどう見ても立派な水飴の出来上がりである。

 

 実はこの水飴だが、錬金術の技法はほとんど使っていない。昔からあるレシピと大部分は一緒なのだ。

 魔力も練り込んでいないし、違いといえば本来なら水を使う箇所で水替わりに中和剤(緑)を使っただけだ。

 

 そのためか、この水飴は調合によって作ったものなのに、食べても特にこれといった効果はない。おいしいことはおいしいが、錬金術を使わずに作ったものと味もそこまで変わらない。

 

 では、中和剤(緑)を使った意味があるのかと問われると、これはしっかりと意味がある。

 

 中和剤(緑)を使うことにより、この水飴には魔力との親和性が生まれ、飴や他のお菓子を錬金術で作る際にとてもよい材料の一つとなるのだ。

 ただの水飴では他の材料の効能・効果を引き出すことができず、材料として使うことができない。

 

 いわば、錬金術で作った水飴は、他の調合品を作るための踏み台にすぎない。

 けれども踏み台といえどおろそかにする訳にはいかない。中和剤と同じく、調合の基礎となるもののこそが、実は何よりも大切なのだから。

 

 だが不思議なことに、図書館で探しだした参考書には様々な調合品の材料になると記載されているのにもかかわらず、水飴は購買で売られている正規の参考書――アカデミーに通う四年間で最優先で学ぶべきものとして採用されたものばかりが載っている図書――には載っていない。

 

 他の調合品を作るのに必要となるのなら、水飴のほうが調合の優先度が高いのではないか、と思うが現実は変わらない。

 

 なぜか?

 

 そういえば、前に調合した鉄もそうだった。

 あれも他の調合品の材料になるにもかかわらず、正規の参考書には載っていない。図書館の片隅でようやくみつけた一冊に載っていたきりだ。

 

 一応それらしいことは聞いたことがある。

 たしか父が言っていた。

 

「今カリン製鉄所で使われている製鉄の方法は、アカデミーから買い取った技術が使われている」と。

 アカデミーが製法を売り払ったから、教えなくなったのか?

 

 いや、それはない。

 レシピを他の組織に売り払ったからといって、自分たちが作ってはいけないという法律はない。

 

 では他に理由があるのか?

 

 わからない。まったく、想像もつかない。

 アリアは重い吐息を胸の奥から吐き出した。

 

 残念なことだが、考える材料があまりにも少なすぎる。このまま一人で悶々と考え続けていても、答えは出ないだろう。

 

 それよりも、こんな想像で考えを持て余している暇があるのなら、調合の続きをするべきだ。

 

 

 そこまで考えていたところで、窓の隙間から日差しが差し込んできていることに気づく。

 嫌な予感がして、木戸を開けてみると、城壁の向こうから太陽が昇り始めていたところであった。

 

 気づかない内に徹夜をしてしまっていたのだ。

 

 鶏の鳴き声がどこからか聞こえた。

 黄金色の光が、ザールブルグの町並みを明るく照らす。

 あまりにも綺麗な光景に、アリアはがっくりと肩を落とした。

 

(徹夜をするつもりは、なかったんだがな……)

 

 変に考えこまなければよかった、と後悔するが、すでに後の祭りであった。

 

 

 

 

 誤って徹夜をしてしまった初日以外は、水飴とアルテナの水の調合はとても順調にいった。

 もともと何回も調合し、作り慣れた品である。想定外の事態さえなければ、調合にどれだけの時間がかかるのかすでに把握しているし、調合の失敗ももうほとんどない。

 今回もまた、調合に失敗することなくすべての品物を完璧に揃えることができた。それも一週間以内に、である。

 

 少し、ではあるが、腕に自身もついてきた。

 これからはもう少し難しい依頼に挑戦するのも良いだろう。

 

 ただ、かき混ぜるものや練り込むものが多かったため、肩や腕が痛い。筋肉痛である。

 寝る前にマッサージを行い、手の平も指も丹念にほぐしていたため肉刺はできていないが、それでも傷ついた筋肉が鈍い痛みを伝えてくる。

 

 軽く肩を叩き凝りをほぐすが、これくらいでとれるような軽いものではない。

 

 帰ったら風呂屋にでも行こう、と計画を立てながら、アリアは職人通りの近くまで来ていた。

 

 そこには小さな教会があった。

 

 質素な白い壁に赤い屋根の小さな教会。

 庭の片隅では畑もある。今はまだ冬なので、育てているものはないが、春になればここから青々とした芽が芽吹くのだろう。

 

 教会では幾人かの子供たちが庭で遊んでいた。

 その中にはアリアの見知った顔もある。

 

 孤児の子供たちだ。

 

 だが彼らの顔には、溌剌とした生気だけが満ち、親のいない子供特有の影はない。

 フーゴ神父の育て方が良かったのだろう。このまま憂いなく育つことを祈るばかりである。

 

「あ、アリアねーちゃん。きょうも来てくれたの?」

 

 孤児の一人がアリアに気づき、声をかけてくる。アリアの持ってくるお菓子を楽しみにしていたのか、その視線は彼女の持つバスケットから外れない。

 

「ああ、レティ。神父様はいるかい?」

「うん、おいのりの場にいるよ。よんでこようか?」

「いや、いい。自分で行くよ」

 

 できる限り柔らかく言うと、「わかったー!」と元気の良い返事が返ってくる。

 友人の間に駆け戻る子供の背中を少しの間見つめ、アリアはいつもの様に聖堂へと向かった。

 

 樫の木で作られた扉は丈夫だが重い。

 アリアはまだいいが、もう少し非力なものがこの扉を開けようと思えば、体重をかけて少しずつ開けなければいけないだろう。

 ここの教会の責任者が非力なシスターだったなら、この扉を開けるだけでも重労働だったに違いない。

 

 扉を開け放てば、アルテナ様の姿をかたどったステンドグラスがまず目に付く。

 太陽の光を透かし、複雑な色を空から降らすそれには、いつもいつも目を奪われる。

 

「きたか」

「ええ、先週ぶりですね」

 

 聖壇の下で祈りを捧げていた白衣の男性が立ち上がる。

 白い神父服(カソック)にそれに反する黒い髪。

 見慣れたその姿はこの教会の主であるフーゴ神父であった。

 

「で、先日依頼をした品はもうできたのかね?」

「ええ、もちろんです」

 

 胸を張ってアリアは答えた。

 

「アルテナの水といつものお菓子をお持ちしましたよ」

 

 アリアの持つバスケットの中には、緑に揺れるアルテナの水と赤いリンゴの砂糖漬け、そして琥珀色に輝く水飴がところ狭しと並んでいた。



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第九話  フラムとひと月間の死の行進(上)

 春。

 それは一年のうちで最も華やかな季節。

 

 凍てつく冬の大地も穏やかな東風に吹かれ溶け行き、大地に透明な清流をもたらす。

 草々は黒色の大地から緑の新芽を芽吹かせ、木々は我先にと枝を空へと伸ばす。

 色とりどりの花々は人々の心を和ませ、長い冬に眠りについていた動物たちも寝ぼけ眼を開き、春の草原を駆け行く。

 

 春。

 美しき春。

 命溢るる春。

 

 だが、春の到来は何も良いことばかりではない。

 

 冬の間冬眠をしていた猛獣たちも起きだし、人を襲うようになるし、雪に道が閉ざされ身動きがとれなかった盗賊団も活動を再開する。

 目を覚ました彼らの目の前には、春の訪れでたっぷりと新芽を食んだ動物たちや、同じように冬の間にできなかったことを、と動き出した人間たちが、テーブルの上に並べられたごちそうのように広げられているのだ。

 

 これで、彼らが襲わぬと甘えた考えをする奴がいようものか。

 

 春、すべての命が芽吹く季節である同時に、戦いの始まりを告げる季節でもあるのだ。

 

 

 

 

 

 

 シグザール王国王室騎士隊。

 そこはまさしく戦場と化していた。

 

「おい、俺の槍はどこだ!!」

「すみません、こちらの品はどこに!?」

「聖騎士殿の鎧が破損しているぞ! 担当はどこのどいつだ!!」

「はやいとこ、今月の補充状況を書類で送ってくれ! 期限は今月末までだってことわかってんだろうな!!」

 

 端々で怒声が響き、下っ端の兵士だけではなく、騎士の位階を持つ人間ですら書類や、武器や食料といった補充品を片手に廊下を走り回る。

 

 雑然とした光景だが、これはすでに毎年の風物詩。

 四月。春が到来してから少し、この国では騎士隊が主体となり、ザールブルグ周辺、及び去年特に魔物や盗賊の被害が多かった地域で、魔物や盗賊の討伐を行うのだ。

 その準備のため、春になれば騎士団はどこもかしこも爆発的な忙しさとなる。

 

 それでも年齢がいっているものはまだまだ余裕はあるが、今年入ったばかりの新兵や騎士の位階を賜ったばかりの若造には余裕など遠い彼方にあるものにすぎない。ただ、目の前に山積みされた仕事を手当たり次第にこなしていくしかないのだ。

 

 去年聖騎士になったばかりの若き青年、ダグラス・マクレインもまたそうした仕事の嵐に追われている人間の一人である。

 

「嘘だろー!? なんでこんな時にフラムが不足してんだよ!!」

 

 在庫物資の確認を命じられた彼は、倉庫で天を仰いでいた。

 そのとなりでは、倉庫番らしき少年が肩を縮こませて怯えている。

 

「も、申し訳ございません! こ、こんな基本的な間違いをしてしまい……」

 

(まったくだ……!)

 

 思わず悪態が口をついて出そうになったが、それを意思の力で抑えこむ。

 

 倉庫番の仕事には不審人物が倉庫に侵入しないよう見張るだけではなく、保管された物資の管理も含まれる。

 消費されたもの、補充されたものを逐一記録し、今倉庫に何がどれくらい残っているのか、不足はないか、物資に不足があれば補充を上役に届け出るのも倉庫番を任された人間の大切な業務の一つだ。

 

 しかし、今回その報告が為されなかった。

 結果、魔物の討伐において使用されるフラムと呼ばれる爆弾が、通常よりもはるかに少ない数しか在庫が残っていなかったのだ。

 

 数の計算を間違えたのか、報告を忘れていたのか。

 どちらにせよ、もはや理由は関係ない。四月の討伐期間を控えた今の時期に、最も使用率が高く、そしてそれゆえに最も重要な物資が不足している。

 早急に、どこからか補充しなければならない。

 

 事情を知らないものからすれば、「足りないのなら補填すればいいだけではないか」と思うかもしれないが、これはそう簡単にいく問題でもない。

 

 三月と九月は、一年のうちで最もフラムが品薄となる季節だからだ。

 それに伴い、フランの値段も上がっている。通常の二、三倍の値がつくことすらざらにある。

 いくらヴィント国王の指導のもと、資金が潤沢にある騎士隊とはいえ無駄に使って良い金があるわけではない。

 こんな馬鹿げたことに大金を浪費するわけにはいかないのだ。

 

 本当は、あまりにも厄介な問題を引き起こしてくれた目の前の少年を、感情のままに怒鳴り散らしてやりたい。

 やりたいが……。

 

「いいから、とりあえずお前はエンデルク隊長を呼んでこい」

「エンデルク隊長、ですか……?」

「そうだ。はやくしろ」

「は、はい!!」

 

 低い低い、押し殺したような声で命じると、その兵士は全速力で倉庫を飛び出していった。

 

 その後姿を見送り、ダグラスは額に手を当て天を仰いだ。

 見えるのは、薄汚れた倉庫の天井。ぽつりぽつりと斑点状にできている天井のシミが、なんとも陰鬱だ。

 つい眉根にしわが寄ってしまう。

 

(ああ、嫌な予感しかしねぇ……)

 

 ダグラスは聖騎士という地位についているとはいえ、騎士隊で働き始めてまだ一年と少ししか経っていない。

 聖騎士は、シグザール王国における騎士の最高峰である。本来なら文武に優れた騎士の中の騎士、シグザール王国が誇る精鋭中の精鋭のみしか選ばれない地位なのだが、ダグラスは「唯一シグザール王国最強の男であるエンデルクと剣の腕で渡り合うことができる」という、エンデルクを除いた他の聖騎士すら追随を許さない武勇で、聖騎士の証たる蒼い鎧を着ることを許された。

 

 そして武張った益荒男の宿命か、彼は書類畑の仕事を大変苦手としていた。

 

 今回の備品の確認とて、騎士隊の仕事に慣れるために命じられたものであって、本来の業務ではない。彼自身の責任ではまったくないが、失態の当事者の一人として事件の渦中に巻き込まれてしまった。

 

 ダグラスの第六感はビンビンと警鐘を鳴らしていたのだが、逃れるすべは最初からない。

 

 残念なことに彼の予感は、的中してしまうのであった。

 

 

 

 

 

 ティーカップを傾けると、口の中いっぱいにハーブの独特かつ爽やかな香りが広がる。

 少し鼻から抜けるようなツンとした感覚があるが、アリアはこれが嫌いではない。ただ、人によってはこれが苦手な者もいるので、ザールブルグではお手軽な飲み物なのに常飲している人は少ない。

 

 味は極めて単純。

 少しの酸味と渋味。少し甘みがあったほうがおいしいかな、という味である。

 

 肩口にかけた長い黒髪の三つ編みを揺らして、アリアは首を傾げた。

 

「お味はいかがですか、ユリアーネさん」

 

 アリアが尋ねたのは彼女の前に座って、同じようにお茶を飲む金髪の少女。

 白の錬金服がなんとも初々しいユリアーネという名の少女である。

 

 ユリアーネは少しその麗しい顔を顰めて、言葉を吟味しながら口を開いた。

 

「あ、あの、なかなか独特で個性的なお味ですわね!」

「すみません、苦手なら苦手と素直に言っていただいて大丈夫ですから」

 

 正直、その残念そうな顔で評価は一発で分かる。

 

「そうですね。正直に言いますと香りが少し強すぎですわ。普通のミスティカティーだと、ここまで鼻にくることもありませんし……。味も雑味がありますわ。ミスティカの香気がなければ、(わたくし)もこれがミスティカティーの元になるミスティカの葉だとは思わなかったでしょうし……」

 

(そこまで違うか……)

 

 ミスティカの葉から直接淹れただけのお茶と、ミスティカの葉をガッシュの木炭やヘーベル湖の水を使って淹れあげた最高級のお茶、ミスティカティーとは味も香りも何もかも違うとは聞いていたが、ここまではっきり違うと断言されるほどとは思ってはいなかった。

 

 ミスティカの葉を調合してみたので、ミスティカティーとどれだけ違うのか一度聞いてみたかったのだが、利き茶を依頼したユリアーネには悪いことをしたと思う。

 これではまずいものを飲ませただけではないか。

 

「すみません。まさかミスティカティーとそこまで違っているとは思ってもいなくて……。いえ、これは言い訳ですね。下手なものを飲ませて申し訳ありません」

「いえ、そんな、謝っていただかなくても……っ。これはこれで味がありますし!」

 

 そこで必死にフォローされるのも、それはそれでくるものがあるのだが、それは黙っておく。

 

「ありがとうございます。そう言っていただけると助かります。ですが、やはり他のだれかに味の評価をしてもらいたいですね」

「そうですわね。(わたくし)ではどうしてもミスティカティーとの味比べになりますし……」

「それはそれで得がたい分析なのですがね」

 

 さて、誰に頼もうか。

 のんびりと知り合いの顔をアリアが思い浮かべていた時だった。

 

 

 ドンドンドンドンッ!!

 

「ごめん、アリアいる!? エリーなんだけど、ちょっといいかな!?」

 

 長閑な午後の時間をぶち壊すように、激しくアトリエの扉が叩かれる。

 

 声の主には聞き覚えがある。

 これはおそらく、同じアトリエ生であるエリーの声だ。

 

 何か急ぎの用事かと、ユリアーネに断りを入れて扉を開いた。

 

「どうした、エリー?」

「いたー!! よかったー、いてくれなきゃどうしようかと思ったよ……」

 

 扉を開けると、心の底から安堵した様子で、エリーが立っていた。

 何か用事かと尋ねると、息せきって語りはじめた。

 

「あ、あの。ごめん、こんなこと頼むのはダメだって思うんだけど、もう頼めるのアリアくらいしかいなくて……」

「どうどう、ちょっと落ち着きなさい。ユリアーネさん、申し訳ないがミスティカのお茶を一杯淹れていただけないか?」

「わかりましたわ」

 

 客人を顎で使うのは申し訳ないが、今はエリーを落ち着かせるほうが先だ。

 ユリアーネも心得たもので、お茶は飲みやすいように少しぬるめに淹れてあった。

 

「あ、お客様いたんだ。ご、ごめん。お邪魔だったかな……」

「変に遠慮する前に、これでも飲んで少し落ち着きなさい」

「うん、ありがとうアリア」

 

 素直にミスティカの葉で淹れたお茶を口に含むエリー。

 ミスティカの香りにはリラックス効果があるので、混乱している人や慌てている人に最適なのだ。

 

 エリーもまた少し落ち着いてきたのか、ホッとした様子でお茶を飲んでいる。

 

「それで、今日は一体どうしたんだ?」

「うん、あのね、ちょっと協力してほしいことがあって……」

 

 そしてエリーはぽつりぽつりと、語りはじめた。

 

 

 

 それが、これからひと月続く修羅場の始まりであった。

 

 

 

 

「フラムの調合依頼、だと……? この時期に?」

「まあ…………」

 

 エリーが協力を依頼してきたのは、フラムという爆弾の調合であった。

 しかも依頼の量が多い。ひと月でフラム三十個というとんでもない個数が依頼されている。

 

 ただ依頼の量が多いからか報酬はかなり破格だ。

 通常の買取価格よりも、三割ほど割増されている。

 

 しかしながら、依頼の時期が悪い上に依頼期間があまりにも短すぎる。

 はっきり言って、この量をひと月でしかも一人でこなすのは物理的に不可能だ。

 

 今は三月の初旬。

 奇しくも、騎士隊で討伐隊が編成されるひと月前であった。

 

「討伐隊をあてにしていたから、カノーネ岩をまだ採りに行っていないのが痛いな。まだフラムを調合してもいないし……」

「あ、やっぱりアリアも? あたしも同じ。前にヴィラント山に行って逃げ帰ってきたことがあるから、今回は時期を見て行くつもりだったんだ」

 

 というより、失敗したとはいえ一度ヴィラント山に挑戦したのか。

 あまりの無謀さに、まじまじとアリアはエリーの顔を見つめてしまう。

 

「だ、大胆な方ですわね……」

「よく行ったものだな」

「えへへ、討伐隊があるってこと前は知らなくて……」

 

 ヴィラント山はザールブルグの周辺にある採取地の中でもとびっきり危険な難所である。

 魔物も強くそのうえ多く、足元も悪い。

 だが、このヴィラント山では、カノーネ岩やコメートの原石、そして固いうえに軽く、武器を作る上で最高の鉱石と名高いグラセン鉱石といったたくさんの鉱物を採ることができる。

 

 危険だが、それ以上の見返りを見込める場所でもあるのだ。

 

 話は変わるが、フラムの材料の一つに「燃える砂」と呼ばれるものがある。これはカノーネ岩という名の可燃性の岩石を慎重にすり潰し、岩石の状態よりも燃えやすくなおかつ他のものに加工しやすく調合したものだ。

 

 カノーネ岩はヴィラント山や、その周辺といったあまりにも調達が難しい場所にしか豊富にないため、このザールブルグでは一つ銀貨二百五十枚という暴利で売られている。

 

 つまり、フラムを調合するためにはヴィラント山に行きカノーネ岩を調達するか、一つ二百五十枚という金を払い手に入れるか、そのどちらかしかない。

 

 そのカノーネ岩が比較的楽に調達できる期間が、ザールブルグには一年のうちで二度ある。

 それは四月と十月。王室騎士隊から討伐隊が編成されたあとひと月、この間は盗賊や魔物がザールブルグ全土から激減し、比較的楽に旅や採集活動を行うことのできるひと月なのだ。

 アカデミーの学生、特にアトリエ生にとってそのひと月は千金に値する。ヴィラント山に魔物の心配をすることなく足を踏み入れ、そこの地に眠るたくさんの鉱物を採って帰ってくることができるのだ。

 

 アトリエ生であるアリアやエリーにとって、四月や九月を狙って特に危険度の高い場所に赴くことは当然のたしなみと言えた。

 

 だが今回エリーが依頼された仕事をこなすためには、もうすぐやってくる四月という安全期間までにヴィラント山という最も危険な場所に赴き、カノーネ岩を手に入れる必要がある。

 

 一体どこのどいつがこんなたわけた依頼を頼んだんだ。

 エリーが言うには、まだ依頼を正式に受けてはいないらしいが、これは相手に対して怒ってもいいほどだ。さすがに、アカデミーに入学して一年も経たない学生に、そのうえこの時期に頼む依頼ではない。

 

「うん、いつも護衛をしてくれるダグラスに頼まれて……。今度の討伐隊編成の準備でかなりの量がいるらしくて。どう考えも一人じゃ無理な量だし、ダグラスも出来る限りたくさんの錬金術士に協力を依頼して欲しいって……」

「ダグラス? まさか、あのダグラス・マクレインか?」

「うん、その人。なんでも王室騎士隊のフラムが不足してるってことで、あたしのところにもってきたらしくて……」

 

 その言葉がエリーの口から出た瞬間、言ってくれて助かった、とアリアは無表情の鉄仮面の下で、人知れず安堵した。

 

 ダグラス・マクレインの名前が出てきた時点で予想できていたことだったが、やはり王室騎士隊からの依頼か。

 

 まだ正式には引き受けていないということだったので、断ることも視野に入れていたのだが、これは断れない。というより、断ってくれなくて助かった。

 自分たちの去就が、王室騎士隊の今後にも関わってくるのだ。ザールブルグで生きる以上、出来る限り協力をしていくしか道はない。彼らの失態は、ザールブルグの治安に直接関わってくるのだ。

 もしまかり間違って、今回の討伐隊が失敗をすれば、四月のご褒美期間がなくなることも考えうる。

 

 それに、発想を逆転すればこれは良い機会だ。これ以上おいしいコネもない。王室騎士隊とのコネなんぞ、望んでも得られないものだ。それが手に入ると考えれば、この依頼がアリアのもとに来たことはものすごい幸運ではないだろうか。

 依頼自体は軽く修羅場になることも考えなければならないが、エリーと協力し合えばできないことはない。大変ではあるが、この依頼は受けの一択だ。

 

「これは断れない」

「うん、ダグラスは無理なら言ってもらって構わないって言ってくれたけど、いつもお世話になっているからあたしも断りたくなくて……」

「あの、エリーさんでしたか、そちらではありませんわ」

「ふぇ?」

 

 どうやら事の大きさをまったく理解していなかったらしく、ただ知り合いが困っているから依頼を引き受けたようとしただけらしい。

 だが、断らなかっただけで十分すぎる。 

 

「安心しろ、今回の依頼は私も全力で協力させていただこう」

「本当!? ありがとうアリア!!」

 

 飛び上がらんばかりに喜ぶエリー。

 だが、ここで喜んでばかりもいられない。

 

「喜んでばかりもいられないぞ、エリー。そうと決めたらさっそく動き始めなくてはな」

「うん、わかった! 採取と調合だね」

「あと、できるだけ私達以外の人員も集めたい。ユリアーネ、もし手が空いていた……」

「ご安心くださいませ。(わたくし)にとっても騎士隊とのコネはありがたので。今回の依頼は喜んでお手伝いいたしますわ」

 

 ただ、講義がありますので、それがない日に限りますが、と釘を差されるが、それは予測の範囲内だ。

 ユリアーネは寮生なのだから、アカデミー生であるアリアやエリーほど自由に時間を使うことはできない。

 

「エリーは誰かあてはあるか?」

「うん、アイゼルとノルディス。実はもう頼んであるんだ。……けど、二人だとヴィラント山の採取は無理って言われたから……」

「ああ、だから私のところに来たのか。良い判断だ。褒めてあげよう」

「うん! ありがとう!」 

 

 同級生の同い年にほめられてそんなに嬉しいものだろうかとアリアは疑問に思うが、そこは心の片隅に棚上げする。

 

「それにしてもエリーさん、アイゼルさんやノルディスさんと知り合いだったのですね」

「うん! ユリアーネ、でよかったっけ? 二人はもう大切な友達だよ」

(わたくし)が言うのもなんですけれど、よく接点がありましたわね。寮生とアトリエ生はなかなか会う機会そのものが無いと思うのですけれど……」

「うーん、そんなものなの? 私の場合は……。あ、そういえば、ノルディスが直接アトリエまで来たんだった。アイゼルもノルディスと一緒にいたら仲良くなったんだよ」

「……ノルディスさんが?」

「うん!」

 

 ユリアーネもエリーも相性は悪くないようだ。

 問題なく話している二人の姿を見て、アリアは人知れず胸をなでおろした。

 これなら一緒に仕事をすることになっても支障は無さそうだ。

 

 期間はひと月。その間に全てをこなさなくてはならない。

 

 採取・調合、採取には護衛も必要だし、調合には新しい機材もいるかもしれない。

 参考書も新しいものが必要だ。

 

(報酬の前借りはできるだろうか……)

 

 それも視野に入れておいたほうが良いだろう。

 正直、かなり支出の多い依頼だ。

 

 だが、それ以上に実入りの多い仕事でもある。無理をすることにはなるが、その分見返りは多いのだ。

 

(まずは調合レシピの確認。材料の調達ルートの選定。ああ、あと護衛も雇わなくては)

 

 なんともやるべきことが多いことだ。

 だがこれも仕方がない。今アリアがやるべきことは、一つ一つ自らの仕事をこなしていくことだ。

 

「さて、ではさっそくお仕事を始めるとしようか」

 

 初めての共同作業、そしておそらく初めての修羅場に突入する依頼だ。

 しっかりと経験を自分の血肉にしなくては。

 

「まずは、みんなでレシピの確認か。模写をする時間はないから参考書を買わなくては、な」

 

 さっそく大きな支出だ。

 だがこれも必要経費のうちだ。

 

「さて、さっそく行くとするか。ユリアーネ、エリー」

 

 アリアが呼びかければ、談笑をしていた二人が彼女へと振り向く。

 

「最初は購買部に行こう」

「うん!」

「レシピの確認ですわね、わかりましたわ」

 

 心得たようにユリアーネとエリーは頷いた。

 

 うららかの春の日差しの下、三人の少女は共に同じ道を歩いて行く。

 彼女たちの後ろで東風が暖かな風を運んでいった。



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第十話  フラムとひと月間の死の行進(中の一)

 期限はたったのひと月。

 その間に魔物や盗賊が跋扈する土地で採取を行い、更には帰ってからフラム三十個もの調合と時間はいくらあっても足りない。

 

 だが、だからといって兵士の方々のように巧遅よりも拙速を尊ぶ訳にはいかない。

 遅くてはいけない。それと同じくらい仕事が雑でもいけない。

 自分たちの作り上げる作品が、他人の進退に関わってくるのだ。中途半端な仕事は絶対に避けねばならない。

 

 慎重に手早く、丁寧に迅速に、相反する要素を天秤にかけながら、自分のできる最大限を尽すのだ。

 

 いやはや、なんとも大変なことだ、とアリアは肩をすくめた。

 

 

 ああ、けどこれだけ大きな仕事を持ち込まれたのも、今回が初めてだな。

 初の大口取引か。そういえば皆との共同作業もこれが初めてだ。

 

 

 そこまで思い至ると、アリアは口の端を笑みの形に持ち上げた。

 

 

 そう考えると、今回の仕事はなかなか燃えてくるものだな。

 

 

 目の前に立ちふさがるデスマーチ(死の行進)を見据えて、アリアは不敵に笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 カッカッカッ。

 

 黒板の上を白いチョークが叩く。

 黒板は壁の一面を占めるほど大きく、隅には小さくすでに終わった依頼のメモ書きが「済み」の一言共に書かれていた。

 

 この黒板は、アリアがアトリエに住む前からあったもので、今後の予定や調合の行程をメモ書きするのに使い勝手が良く、思いの外役立っていた。

 よく使っているためか、チョークを黒板の上ですべらせる手によどみはなく、一定の拍子をとって黒色の板に白い軌跡を描いていくそれは、見る者に小気味の良さを感じさせるほどだ。

 

 カッカッ……。

 

 よどみのない動きがピタリと止まる。

 アリアはチョークを黒板の横に置くと、しっかりと手についた粉を払ってから後ろを振り向いた。

 

 アリアの目線の先にいたのは、橙色の錬金服をきた錬金術士見習いが一人。エリーだ。

 ユリアーネはフラムの作り方を参考書で確認した後、今後の調合準備のために寮へと帰っていった。今、残っているのはアリアとエリーのみだ。

 

 ちなみにエリーは子供のようにキラキラした目で、黒板の前に立つアリアを見つめている。

 自分も共同で依頼をこなす予定だが、一応メインはエリーなのだから仕切れば良いのに、とアリアは無表情の下で思うが、まあこれも役割分担というものだろう。

 きっちりこれから何をすべきか決めてから行動しないと、エリーの場合「分かった、頑張るね!」と言ってアトリエから空に放たれた矢のように飛び出して行きかねない。

 というか、やりかけた。

 

 素晴らしい行動力である。即断即決とは素晴らしい。

 あとはもうちょっと計画性を持てば完璧である。

 というか、持とう。傍で見ている此方のほうがヒヤヒヤする。

 

「さて、これが参考書で確認した、今回の調合に必要となる素材の数だ」

 

 黒字の板の上には、白い字で

 

 魔法の草……三十個

 蜂の巣……三十個

 

 そしてひときわ大きな文字で

 

 カノーネ岩……九十個

 

 と書かれていた。

 

「見れば分かると思うが、数が多い上に今回初めて取り扱うものもある。特にカノーネ岩はまっとうな数じゃあない。馬鹿正直にかごを背負って採集に行ってたら、一回では絶対に必要数を採ってくることはできない」

「一回じゃあ無理なら、二回行けばいいのかな?」

「残念ながらそんなことをすれば、今度は時間が足りない」

 

 エリーが口にしたことは実にまっとうな手段だが、それを実行するにはあまりにも時間が足りなさすぎる。ヴィラント山の採取地までザールブルグから往復十二日もかかるのだ。とてもではないが、二回行って、それから調合する余裕はない。

 

 もし期限内に依頼を終わらせるつもりなら、採取を行う人員をもう一組用意する必要があるだろう。

 カノーネ岩以外にも蜂の巣や魔法の草も必要だ。こちらも持ち帰るための人手がいるし、これだけでアリアかエリーのどちらかが潰れる。

 魔法の草は備蓄があるため、そうあくせくと集める必要はないのだが、蜂の巣だけでもかなりの量となる。持ち帰り用に人員が一人潰れるのは、今の時分でも想定できることだ。

 

 護衛の人間を荷物持ちに使うこともできるが、それは護衛能力の低下を意味する。ぷにぷに程度しか出てこないような採取地ならまだしも、ヴィラント山のように魔物がたいそう強い場所で護衛を使い潰すのは、馬鹿のやることだ。

 

 ならば、荷物持ちを別個で用意するのか。背に重い荷物を持ち、まともに戦闘できない人間を無事にザールブルグまでつれて帰るには、護衛の人間を更に追加する必要があるだろう。

 そんな金と護衛役を引き受けてくれる冒険者のコネが、アリアやエリーにあるのか。

 

「さすがにないな」

「私もハレッシュさんやロマージュさんにダグラスくらいしか頼めないし、ちょっと無理だよ……」

「……まて、聖騎士のダグラス・マクレインを護衛に雇えるのか?」

「うん、今回の依頼のためにいつでも護衛に入れるようにしておくって」

 

 そう言って、エリーはにへら、と相好を崩した。

 緩みきったその表情は、その相手を憎からず好意を持っていることを雄弁に告げていた。

 

「『無茶を頼んだせめてもの詫びだ』……だってさ」

「…………」

 

 どうやら、エリーと聖騎士のダグラスは、アリアが想像していたよりも深い仲であったらしい。

 それが、恋慕の情かただの友愛かは分からないが、わざわざそこに首を突っ込むのは野暮というものだ。

 

 これでもアリアはそれなりに空気は読める質だ、時折読んだ空気を関係ないとばかりに無視して行動するだけで、鈍感ではない。わざわざ下手にちょっかいを出して、間をこじれさせるのは趣味ではない。

 

 個人的にはどうやって知り合ったのか聞いてみたいものだが、それは今後に期待というところか。

 

「まあ、私の方も護衛には二人ほど当てがある。私達二人だけなら採取になんら問題はない」

「んーと、なら一回の採取で、私達二人で全部の素材を集めればいいってこと? できるかなぁ……」

「使う道具がカゴだけなら不可能だろう。だけど、エリー。別にカゴしか使ってはいけない、なんてだれも言ってはいないぞ」

「カゴ以外のものってこと? ええっと、てことは……」

「つまりだ」

 

 生徒にものを教える教師のように、先回りしてアリアは正解を口にした。

 

「今回の採取にはは台車と馬を使う」

「ああ、なるほど」

 

 台車とそれを引っ張る馬があれば、一度に持ち運べる荷物の量は増大する。

 馬に与える飼料の問題は、特に考えなくていい。なぜなら、よく使われる採取地沿いの街道には、一日分の距離ごとに宿場かもしくは小さな村があり、そこで休息したり飼料を買ったりすることができるのだ。

 

 元々は小さな村が街道のそばに偏在しているだけだったのだが、討伐隊の行軍やアカデミーで素材を集める時に補給施設があれば便利、ということで国とアカデミーが合同で出費して、宿場を整備したという話だ。

 

「さすがに馬は買えないが、台車は今後も使う機会はある。さすがに一から作ってもらう時間はないから、既成品を置いてあるところに買いに行かなくてはいけないがね」

「買いに行くところはやっぱり鍛冶屋さん?」

「ああ、今回は私の知り合いのところに買いに行くつもりだ」

 

 こういう時、自分が鍛冶屋の娘で助かったとアリアは思う。

 もし、彼女の親が家事を生業にしていなければ、既成品を売り出している店を一から探さなくてはいけなかっただろう。

 

 実は、このザールブルグでも既成品、特に台車のように作るのに手間がかかるうえに買い手が限られている商品は、あまり既成品が売られていない。

 買う人間があまりいないので、既成品を用意してもなかなか売れない上に、適度に整備が必要なので、商品の状態を保つだけでも小金がかかるのだ。

 それ故に、普通は注文があってから作り上げるのが常識だ。

 

『飛翔亭』で渡される依頼が、意外と期間があるのも同じ理由だ。既成品がある場合が少ないので、あらかじめ作るための時間を念頭に置いて依頼するのが当たり前だからだ。そうした前提条件をすっ飛ばすと、依頼の受け手がまったくつかないか、依頼料を釣り上げられる羽目となる。

 

 ただ、もちろん数は少ないが、既成品を売りに出しているところもある。アリアのアトリエでも、いくつかの基本的な品――アルテナの水や栄養剤、面白いところでは鉄などを備蓄している。

 ただアリアのような錬金術の店とは違い、店で置いてある台車などは既成品の場合だと中古品が多く、新品を買うのは、まあ難しい。

 

「じゃあさっそく鍛冶屋さんに行こうか!」

「まてまて、最初に行くのはそこじゃあない」

 

 ノリ気なエリーをなだめるように、エリーの目の前に人差し指を指す。

 

 そう、今回最初に行くべき場所はそこじゃあない。それよりももっと重要度の高い場所が一つだけある。

 

「えっと、ならどこに行くの?」

「それはもちろん」

 

 どこが得意げに、姉が下の子に物を教えるように、アリアは答えた。

 

「『飛翔亭』だよ」

 

 

 

 

 

 扉一枚隔てただけで、どうしてここまで空気が変わるのだろうか。

 幾度と無く頭に思い浮かんだ疑問にも顔色を変えず、アリアはぐるりと首を動かして酒場――『飛翔亭』を見渡した。

 

 真昼間から幸せそうに酒を飲み、恰幅の良い腹回りと福々と肉付き豊かな赤ら顔を周囲に見せつけるおじさま。

 

 広報誌だろうか、丸まった大きな紙を壁に貼ろうと悪戦苦闘している歳若い兵士もいる。

 

 壁のところで何やら互いに話し合っている男たちは冒険者であろうか。兵士のものとは思えない安物の革鎧を身に着けているし、片方は大きな刀傷が鎧に残っている。

 

 カウンターで気の良い笑い声を上げているのは、アトリエに移る前に住んでいた家のご近所さん、エレナおばさんではないか。どうやら何か依頼していたらしく、『飛翔亭』名物の看板娘フレアさんから依頼品をその手で受け取っていた。

 帰り際にすれ違ったので頭を下げれば、「あれ、アリアちゃんじゃないか。元気そうで安心したよ。またこちらにも顔見せなよ」と、一声こちらにかけて帰っていった。

 

「知り合い?」

 

 とエリーが後ろから聞いてきたので、肯定の意を返す。

 

「アリアってそういえば、ザールブルグの人だったよね? いいな~、知り合いの人がたくさんいて」

「ああ、そういえばエリーはロブソン村の出身だったか?」

「そうそう! さすがにあそこから来てるのは私くらいだから、ザールブルグに来たばかりの頃は大変だったよ。知り合いもいないし、右を見ても左を見てもわかんない場所ばっかり!」

 

 そういうエリーは文句を愚痴っているはずなのに、その表情は口から出る言葉と相反している。

 本当に心の底から幸福な思い出と認めることを語る人間は、太陽に向けて花弁を綻ばせる花のように鮮やかな笑みを浮かべるのだ。

 エリーのよく動く口よりも、そのくるくるとよく変わる表情の方が、雄弁に心の中を教えてくれる。

 

(まったく、良い経験を積んできたんだな)

 

 その顔を見ていれば、ザールブルグで過ごしてきた日々がエリーにとって大切なものであるとひと目で分かる。

 少し羨ましいほどだ。口にだすことはないが。

 

 隣の芝は、どれだけ自分の庭の芝が青々と美しいものであっても青く見える。

 けれどアリアとて、アトリエで営んできた日々は誰にはばかることなく胸を張れるものだ。それを自分で否定する気は毛頭ない。

 

 けれど、まあ。

 

「大変という割には楽しそうなことだ」

「あ、やっぱりわかる?」

「口元がにやけているぞ。分り易すぎるくらいだ」

「え、えへへへ」

 

 少しからかうくらいは許されるだろう。

 

 少し手慰みにエリーをからかいながら、アリアはカウンターの席に座る。

 

「お久しぶりです。ディオさん」

「あ、こんにちは!」

「ああ、よく来たな二人共」

 

 珍しい組み合わせだな、と『飛翔亭』のマスターであるディオは、薄く目を細めた。

 

 同じアトリエ生ということで、アリアとエリーは友人と称することの出来る関係だが、どちらかというとその関係はアカデミー内のものであり、アカデミーの外でそれを傍目に見せたことはない。

 機会がなかっただけなのだが、今回初めて一緒にいるところを見たディオにとっては確かに物珍しい組み合わせだろう。

 

「アリアは私とおんなじアトリエ生で、一緒によくお話しするんですよ!」

「ほう。親しい友人同士、といったところか。ま、それはいいとしてだ、なにか注文はあるか?」

 

 忙しげに机とカウンターの間を飛び回るフレアを目の端にとどめながら、こちらはこちらで目の前の人物に飲み物を注文する。

 

「今回は果汁の絞り汁二つお願いします」

「わかった。今の季節なら苺か早めのランドーあたりが入ってきているぞ」

 

 注文を受けたディオは、手間がかかる割に値段の安い果実水を嫌な顔一つせず承り、懇切丁寧に仕入れている果実も教えてくれる。

 

 ここで質の悪い料理屋なら、果物の種類を客に確認せず、作り置きしてある果実水を適当に持ってくることもあるので注意が必要だ。

 店の片隅においておいた果実水など腐りやすいことこの上ない。一定の良識を持つ店なら、お客の前で直に絞るのが当然だ。

 生鮮物を長持ちさせる冷蔵装置など一部の富豪くらいしか持っていないし、ここ『飛翔亭』ですら、井戸水で冷やすのがせいぜいだ。

 

 とはいえ、それでも十分すぎるほどおいしいので、この『飛翔亭』で頼める品の中では、アリアお気に入りの一品である。

 

「でしたら私はランドーで。エリーはどうする?」

「えっとー、じゃあ私は苺で!」

「わかったランドーと苺だな。少し待ってな」

 

 そう断りを入れると、ディオはこなれた手つきでランドーと苺を等分に切り分け、手際よく二種類の果物を絞り始めた。

 もののいくらもしないうちに、色が殆ど無い乳白色の絞り汁と、赤く色づいた絞り汁が出来上がる。前者がランドーで後者が苺だ。

 

 ランドーの絞り汁を飲むと、アリアの口の中に少しだけ酸味の混じった強い甘味が口いっぱいに広がる。

 ランドーはザールブルグの西方から来た果物で、赤い皮の下に白色の果肉が潜んでいる。甘みがザールブルグで作られている他の果物よりも強いが、強い甘みのわりに舌に残ることはなく、意外とあっさりとした味わいである。

 それ故に、果実の小ささも相まって、いくらでも食べられる果物として有名だ。

 特に夏場は、その爽やかな味故に人気がある。

 

(とはいえ、普通は酒場で頼むものではないな)

 

 酒場に来たらなにか一品頼むのが礼儀だから、毎回果実水を頼んでいるが、本来ならお酒を一杯引っ掛けるのが当然だ。メニューで記載されているとはいえ、普通酒場で頼むものといえばお酒と相場は決まっている。

 

「お酒が苦手な人もいるし、仕事中の人はお酒をを飲みたくない人もいるでしょう」と、ディオを説得し、酒類以外の飲み物をメニューに乗せてくれたフレアには素直に頭がさがる。

 

 アリアは今年十六になる。王国法で厳密に決められているわけではないが、良識としてお酒は十六からというのが、ザールブルグでの暗黙の了解だ。アリアは今はまだ十五と歳若いため、酒を頼むとあまりいい顔をされない。元々お酒が好きな人間でもないし、子供舌なのか果実水のほうがおいしいと素直に思うので、酒以外のものがあるのはありがたいのだ。

 

「で、今回は何の用だ。依頼か?」

 

 アリアが果実水で一息ついた頃を見計らって、ディオが尋ねてくる。

 ディオからすれば、依頼を受けてくれたほうが嬉しいのだろうが、残念ながら今回は違う用事で来た。依頼はまた今度に期待していただこう。

 

「残念ながら違います。今回は情報を買取に来ました」

「情報か……。何が欲しい?」

「蜂の巣が採れる採取地の情報とその道筋の二つです」

「なるほどな。それなら一人あたり銀貨百枚ってところだ。エリー嬢ちゃんも入用なんだろ? 二人同時に払ってもらわにゃ、こちらも教えられんぜ」

「妥当ですね。私たちが後で情報を共有したらそちらは目も当てられませんから。では、こちらがお代の百枚銀貨です。エリー」

「うん、コレですよね」

 

 エリーが財布代わりの小袋から取り出したのは、普通の銀貨よりも一回りほど大きい銀貨であった。

 

 ザールブルグは銀貨の枚数が通貨の基礎単位となっているが、さすがに一枚銀貨ばかりだと銀貨何百枚やら何千枚やら使う取引だと手間ばかりがかかってしかたがないので、一枚で銀貨十枚分の価値がある十枚銀貨や、一枚で銀貨百枚分の価値がある百枚銀貨も流通しているのだ。

 昔は銀貨千枚分の価値がある「シグザール金貨」も作られていたのだが、国内の金の産出量が少なくいつの間にか廃れていってしまった。今、「シグザール金貨」を再興できる可能性があるのは、金を作り出せる錬金術アカデミーだけなので、重要視されるのもむべなるかな、といったところか。

 

「たしかに。蜂の巣が採れる採取地だったな。なら、このザールブルグ近辺ならヘウレンの森がお前さんらの要望に一番合っている。あそこは蜂の巣だけでなく、竹やらヤドクタケといったものも取れるんでお前さんらの仲間さん達は重宝しているようだぞ」

「場所は、……地図で確認するとヘーベル湖のその向こうといったところですか」

 

 地図にはザールブルグの東側のすぐとなりにある大きな湖(すぐ近くとはいえ徒歩なら二日ほど歩く距離にある)から更に東にある森に大きな印が付けられていた。

 

「片道はだいたい四日ほどだ。昔はメディアの森という場所がもうちょい近くにあったんだが、土地開発やら何やらでものが採れなくなっていってな。今では殆ど使われていない。……このヘウレンの森も同じような目にはあわさんでくれよ」

「……肝に命じておきます」

 

 土地開発とディオは言葉を濁してくれたが、メディアの森が衰退していったのは錬金術士による乱獲が原因なのだろう。

 確かに、同じ事が二度も起こるのは御免被る。

 

「さて、今回聞きたいことはこれで終わりか?」

 

 アリアは首を立てに振り、肯定の意を返した。

 実際、他に聞くことは別にない。

 

「あ、ちょっと待って!」

 

 そこに待ったをかけるものが現れた。エリーである。

 

「マスター、カノーネ岩が採れるのってヴィラント山以外にありますか? あそこ魔物が強くって……」

「おいおい、まさかあそこに行ったのか!? 無謀極まりないぞ」

「え、えへへ……」

 

 笑って誤魔化すエリーに、ディオは深い深い、肺の臓腑から絞り出すようなため息をついた。

 

「ないことはない。まったくそんな馬鹿なことをする前に聞きに来い。金は貰うが教えてやったというのに」

「あ、あるんですね。やった! だめもとだったけど聞いといてよかったよ!」

 

(聞いてくれて助かった……!)

 

 ヴィラント山以外ではカノーネ岩が採れないというのがザールブルグでの常識だ。

 フラン・プファイルが住み着いていたかの山は、魔物の苗床となっている。その魔物たちを越えてこそカノーネ岩が手に入る、そう思っていたのだがどうやら手間はいくらか小さくなりそうだ。

 

「場所の名前はエルフィン洞窟。ヴィラント山の麓にある洞窟だ。小さいが、カノーネ岩やヴィラント山では採れないものもいくつかある。ここで我慢して、ヴィラント山に行くのは四月まで待て」

 

 ザールブルグからの距離はおよそ三日ほど。

 片道六日はかかるヴィラント山に比べれば、半分ほど行程が短くなる計算だ。

 

(これはいい)

 

 アリアが願ってもないことである。

 今は少しでも時間がほしい。

 

 印のついた地図をもらい、アリアは目的が予想以上の成果をあげたことを知った。

 追加でお金はかかったが、手に入れたものはそれ以上だ。

 

「ああ、それとディオさん一つ頼んでいいですか」

「ん、なんだ?」

「はい、ある冒険者に渡りをつけて欲しいんです」

「ああ、いつものあれか。いいぞ。誰に話をつけておけばいいんだ」

 

 ここ『飛翔亭』では護衛を求めてくる人への冒険者の斡旋も行なっている。

『飛翔亭』から紹介される冒険者の質は良く、安心して任せることができるのだが、今回はこちらから指名を行う。

 

「ザシャでお願い致します」

「あいつか。わかった、今日中に話を伝えとこう」

「よろしくお願いいたします」

 

 この前仕事が無いと嘆いていたし、問題なく雇い入れることができるだろう。

 予定が合わなかったら、その時は改めてディオに他の冒険者を紹介してもらえばいい。

 その時はその時である。

 

 

 

 

 エリーに馬の確保と知り合いの冒険者を雇ってくるように頼み、アリアは一人職人通りを歩く。

 残りは台車の確保と冒険者を雇うことの二点。

 台車はそこまで難しくない、アリアの知り合いの店――製鉄所にいけば良いだけだ。

 

「というわけで、馬一頭で引ける大きさで荷物ができるだけ多く乗る台車はありませんか?」

「いきなりだねぇ、あんた。もう少し余裕を持って仕事は頼みなよ」

「あいにく今回は急ぎだったもので」

 

 赤毛の女性――カリンは少し呆れたように肩をすくめた。

 

「まあ、いいけどね。中古品で良ければいくつか余ってるよ。あんたの要望に全部が全部、合致するものはちょっと厳しいけどね」

「ええ、それで構いません。もともと万事が全て上手くいくとは考えていませんので」

「さっきのは交渉に移る前の牽制かい? 十五にしてはホントあんた強かだよねぇ。もう少し可愛げがあってもいいんだよ」

「可愛げがあればお安くなりますか?」

「それとこれとは話が別、ってやつさ」

「ならこちらも一つご同様に」

 

 互いに言葉遊びを交わしながら、製鉄所の裏手に回る。

 今回頼んだお仕事は、製鉄所にとって本業ではないし、中古品の取り扱いは新品の物をいちから作るよりも金にならないので、表通りには置いてない。所謂、知る人ぞ知る特別商品というやつだ。

 

 裏手には台車以外にも馬車や馬や牛に引かせる農耕機も置いてあった。

 数は少ないが、きちんと整備されているのか錆一つ浮いていない。

 アイヒェという名の木が使われている部分も、腐りもせず割れもせず、板の継ぎ目に隙間もない。良い出来だ。

 

 まったく惚れ惚れする仕事ぶりである。

 

「で、どいつを買うか決まったのか?」

「ええ、この中ではやはりこちらですね」

 

 アリアが選んだ台車は、想定していたよりも多少小振りの台車であった。

 馬一頭で引くならもう少し大きなものでも構わないのだが、他の台車だと大きすぎたり小さすぎたりして、使い勝手が悪い。

 少しくらい小さいものであっても、最低カノーネ岩の必要数を確保出来ればいいのだ。それくらいなら十分すぎる大きさがある。

 

 また、車輪や部品同士の繋ぎ目で青銅をしっかりと使ってあるのが良い。今回は重いものを運ぶので、出来る限り丈夫な台車が求められる。

 アリアが選んだ台車は、全てが全てベストではないが、残っているものの中では目的に最も沿っている一品であった。

 

「いつもながら、目利きは悪くないねぇ。一応軽くこちらでも見といてあげるよ」

「それは助かります。お引取りは明日で?」

「これくらいなら今日中に終わるよ。他にも用事があるんなら、それが終わったらもう一度来てくれればいいさ」

「ありがとうございます。また一度よりますね」

 

 これで台車も準備万端だ。

 

 残りは冒険者の確保だが、今回製鉄所に来たのは台車を買うだけではない。冒険者を雇うのも目的のうちだ。

 

「ああ、あとエマさんは今日いらっしゃいますか?」

「ああ、いるよ。なんだい、冒険者としてあの子を雇うつもりかい?」

「ええ、そのつもりです」

「なら、あたしから伝えといてあげるよ。断らないと思うけど、もう一度あんたがここに来た時に答えるよう言っておけばいいよね」

「十分です。それで構いません」

「なら商談成立だね。まいどあり!」

 

 銀貨を渡し、製鉄所を出る。

 

(エマさんに渡りをつけるのは終わったことだし、あとは行く前に食料や細々したものを買ってくるか)

 

 最後の一人にも心あたりはある。

 問題なく雇うことができたなら、近日中に予定を合わせて出発するだけである。

 

(ああ、今回は順調だったなぁ)

 

 紺色の長い錬金服の裾を翻し、アリアは人混みの中へと消えていった。

 

 

 

 

 二日後の早朝。

 アリアはザールブルグの中央広場で、台車を持ってきて人を待っていた。

 

 まだまだ朝早いためか、人通りは少ない。

 いつもとは違う閑散とした風景は、何やら侘しいものがある。

 

 まだ人が起きだしたざわめきもない静寂の中、石畳を叩く音がアリアの耳に入った。

 

「久しぶり。集合場所はここでいいんだよね」

「ええ、ここですよ。今回はどうぞよろしく」

「こちらこそ。今回は雇ってくれてありがとう」

 

 朴訥とした田舎の好青年といった顔立ちを破顔させて、ザシャがやってきた。

 腰には新品の剣が下げられており、この前会った時から幾許かも経たぬうちに買ったのだということがよく分かる。

 

「ええっと、今回はおれともう一人でエルフィン洞窟に行くんだっけ?」

「そうです。北門から街道沿いに北上し、ヴィラント山の手前で道から外れて洞窟を探します」

「ん、わかったよ」

 

 了承の意を示すためか、ザシャは何度もうなずき腕を組む。

 

 そうこうしているうちに、少し離れた場所からアリアの名が呼ばれる。

 声の方向に目を向ければ、エリーやエマ、そして見知らぬ鎧をつけた二人の男たちがこちらに向かっていた。

 

 どちらもアリアが今まで会ったことのない人物であったが、片方の男性だけは名乗られずともその名がわかった。

 

 抜けるような傷ひとつない蒼い鎧。

 それはこの国では聖騎士の地位につくものだけが身にまとうことを許されたもの。

 

 エリーが言っていたダグラス・マクレインその人であろう。

 

 けれど、そちらに気を取られる間もなく、話しかけてきたのはエマであった。

 

「おはよう、アリアちゃん。今日はよろしくね」

「ええ、エマさん。こちらこそよろしくお願いします」

「そちらのお兄さんが、今回一緒に行く人かしら?」

「ええ、ザシャといいます。実力派未知数ですが、ディオさんが言うには期待していいかと」

「あらそう。なら頼らせてもらおうかしら」

「いやいやいや、おれなんてまだまだですから!頼ってもらえるのは嬉しいけど、そんな期待するようなもんでもないですから!」

 

 からかうように真意を見せない笑みを浮かべてのたまうエマ。

 それに焦るはザシャばかり。

 

「おいおい、謙遜するもんじゃあないぞ。自分の実力に自信があったから、冒険者なんてヤクザな仕事についてるんだろ? だったらもう少し胸を張った方がいい」

「ええっと、そういうあなたは?」

「ああ、俺の名前はハレッシュだ。今回エリーに雇われてな、一緒にやってきたのさ」

 

 ザシャの肩を叩きながら豪快に笑うのは、今回集った人物の中で最も背の高いハレッシュという冒険者であった。

 

「おはよう、アリア。頼まれたとおりお馬さんを連れてきたよ!」

「ありがとう、エリー。その子ですか?」

「うん!」

 

 エリーが指さしたのは、聖騎士であるダグラス・マクレインが連れてきた、黒々とした毛並みが美しいどこからどう見てもたくましい軍馬であった。

 

「おい、こいつはその台車に繋げばいいのか?」

 

 ダグラスに尋ねられたので頷く。

 

「ええ、そうです。あの、その子軍馬ですよね。よく連れてこれましたね」

「んあ? ああ、こいつは騎士隊の馬だからな。今回無理を頼むわけだから、こっちもこれくらい融通は効かすぜ。毎回は無理だけどな」

 

 騎士隊の馬ということは質はまったく問題無いだろう。

 嬉しいことに、緊急の依頼を受け入れてくれた謝礼ということで、今回は馬のレンタル料は要らないとのことだ。

 台車の購入費などで地味に財布が痛手を受けていたので、これは嬉しい。

 

「では、この馬は私たちが借りていきます。戦力の都合上、私たちがエルフィン洞窟に向かうほうが良いので」

「ま、そりゃそうだな。ここでお前らがヘウレンの森に行くって言ってたら全力で止めてるところだったぜ」

 

 ディオに確認をとっていたのだが、魔物の強さはヘウレンの森のほうが強く、特に魔法などが効きづらいクノッヘマンがよく出没するらしい。その代わり物理防御力は紙なので、剣や槍の攻撃に優れているダグラスとハレッシュを連れたエリーがそちらに向かうことは、事前の打ち合わせの通りだ。

 

 別にエマの腕が悪いわけではないのだが、冒険者として名が売れているハレッシュや聖騎士であるダグラスに比べると分が悪い。悪すぎる。

 ザシャは腕がどれだけ良くとも、まだまだ新人だ。実力も未知数だし、経験不足なところがあることは否めない。

 

 だから事前情報で比較的出てくる魔物が弱いと聞いたエルフィン洞窟にはアリアが向かい、強めの敵が現れるヘウレンの森には最強戦力を連れたエリーが向かうことに取り決めたのだ。

 

「では今回はよろしくお願いします。エリー、蜂の巣は頼んだ」

「うん、任せといてよ!」

 

 元気の良い返事がなんとも頼もしいことである。

 引き連れた護衛の者たちも一流どころばかり、これでは心配するほうが難しいというものだ。

 

 それよりもこちらのほうが気合を入れていかねばならない。

 

 改めて自分とともに行く面子を見て、アリアは気持ちを新たにする。

 信じていないわけではないが、エリーと一緒に行く二人よりもこちらのほうが腕で劣っているのは否めない。

 

 台車を引く馬を制御する、という役割があるとはいえ、アリアもまたこの中では大事な戦力なのだ。遊んでいる余裕はない。

 

「では、私たちも行こうか」

「ああ」

「ええ」

 

 力のこもった返事。それを耳にして、アリアは第一歩を踏み出した。

 

 アリアとエリーは、彼女たちの冒険者を引き連れて、それぞれ北門と東門からザールブルグを旅立っていった。

 

 今回の冒険でどんな試練が彼女たちを襲うのか、何を得るのか。それはまだ誰にもわからない。

 

 



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第十一話 フラムとひと月間の死の行進(中の二)

 剣を横にし、峰の部分で腹を狙い撃ち抜く。

「ぎゃあ」と潰れたカエルのような不愉快な悲鳴を上げ、人がふっとばされる。

 

 気絶して動かないのを確認し、次へ。

 剣の柄を強く握り、柄頭で敵の頭を撃ちぬくと、糸が切れた人形のようにその場に倒れ伏した。

 

 後ろから襲ってきた相手には、振り向きざまに蹴りをお見舞いしてやる。

 グニュリとした嫌な感触が足の裏に伝わる。

 

 思わず顔が歪む。

 

 けれど体は、日々の鍛錬で染み付いた動きを繰り出していた。

 

 蹴りの反動で体を正面に向け、相手の胸ぐらをつかむ。

 そのままふらふらとおぼつかない足取りの相手を地面にたたきつけるのは、片手だけでも簡単なことであった。

 

 ピクリとも動かない盗賊たち。

 

 ここに雌雄は決した。

 

 

 

 

 

 

 

 パチパチパチ

 

 軽い拍手の音が荒野に響く。

 手を叩いているのは褐色の肌を持つ美女、エマだ。

 

「よくできました。新人さんの割りには、なかなかやるわね」

「そうですか? 他の冒険者さんらがどれくらいのもんか知らないで、よくわからないんですが……」

「冒険者になったばかりの素人同然の人達だと、ここまで鮮やかに倒せないわ。自信を持ってもいいわよ」

「はは、そう言ってもらえると嬉しいですね」

 

 縄目のしっかりした荒縄で盗賊たちの手足を縛りながら、ザシャは朗らかに笑う。

 盗賊たちの数は全員で四人。一人はエマが倒したが、残りは全部ザシャの剣働きによるものだ。

 

(なるほど)

 

 思案げにアリアは顎に手を添える。

 

 確かにザシャは強い。

 さすがディオが太鼓判を押すだけのことはある。

 

 特に剣筋が早い。

 

 アリアは別に武術に造詣があるわけではない。剣に関してはド素人に過ぎないし、将来剣を振る機会もないだろう。目が特に肥えているわけでもない。

 だから、彼女にザシャの剣の腕がどれほどのものかはまったくわからない。

 

 ザシャの動き一つとっても目が追いつかなかった。

 ただ、目を白黒とさせてエマの後ろで馬を抑えているのが精一杯。元々訓練を受けている馬だからか、抑えるのもたいして労力を必要としなかった。荒事にも慣れている。

 馬は臆病な生き物なので、戦闘状態に入るだけでパニックを起こす危険性があるのだ。アリアのように騎乗の技術が未熟だと、さらにその危険性が上がる。

 馬がよく訓練されていたのでその危険性はなかったが、聖騎士御用達の軍馬でなければエマにも一緒に馬を見ていて貰う必要があったかもしれない。

 

 運の良いことに、そんな事態に陥ることもなく、今回アリアは、本当にただ見ていただけである。

 

 そして、じっくり戦いの経緯を見ていてわかったのは唯一つ。

 

 ザシャの武威はアリアの把握できる範疇を超えている、その事実だけである。

 

 まあ、それだけわかれば十分である。つまり、ザシャはものすごく強いということだ。

 護衛を任せるのに憂いはない。

 人の良いどこか抜けたところのある田舎者としてだけではなく、ザシャは有用な冒険者としてこれからも継続的に仲良くしていきたい相手と、太線でアリアの脳内に書き込まれた。

 

「これで全員か」

 

 盗賊たちを馬に引かせた台車に詰め込む。

 四人もいるので、台車は重さに抗議の軋み声を上げるが、それを引く馬は平然と台車を引いている。

 さすが軍馬ということか。なんとも力強いことである。

 

「さすがだねぇ。これくらいならびくともしないか」

「聖騎士様御用達のお馬さんだものねぇ。あたしが今まで見てきた馬とは大違い」

「ん? 馬をそんなに見てきたことがあるのかい?」

 

 エマの褐色の肌と銀色の髪を見てザシャはしみじみと呟いた。

 クスリと、口元だけで笑いエマが言葉をつなげた。

 

「ええ、あたし達の一族は馬車で街から街へと旅をする流浪の民ですもの。遊牧の民程ではないけど、あたし達とて馬の扱いはお手のものなのよ」

「ふーん、そうなんだ。おれの村に来たジプシーの人らは馬なんて連れていなかったけどなぁ……」

「それは多分一族が違うと思うわ。あたし達ジプシーわね、一族が違えば流儀がガラリと変わるのよ。馬車を使うものもいれば、ずっと徒歩にこだわる一族もあるし、中には馬を手足と同じように扱う一族もあるわ。あれには遊牧民も顔負けなんじゃないかしら」

「へぇ、そいつは知らなかったなぁ」

「外の人がジプシーのやり方を詳しく知ってたら、そちらのほうがすごいわよ」

 

 和やかに話し込むエマとザシャ。

 初対面同士というのに、すでに意気投合している。

 

 良いことである。

 

 冒険者同士の仲を心配しなくて良いのは、雇用者として安心できる要素の一つだ。

 

「さて、そろそろ二人共行きますよ。今日中には宿舎に着きたいので、これ以上時間を無駄に使う余裕はありません」

「そうねぇ、あたしも野宿よりは宿舎でのんびりしたいし、急ぐのは賛成だわ」

 

 それもそうだろう。

 誰が好き好んで野宿をしたいと思うものか。できるだけ、屋根のある場所でベッドの上で夜を明かしたいと思うのは人の常だ。

 そして、出来ればベッドの布団は柔らかく清潔ならなおよし、だ。

 

「あれ、宿舎? この先、ヴィラント山っていうすっごく魔物の出る山があるんだろ? そんなところに宿舎なんてあるのか?」

「ああ、そういえばここらへんにはきたことがありませんか」

 

 ザシャはザールブルグの人間ではない。エマのように旅慣れた人種でもなし。近隣の情報に疎いところがあるのは当然である。

 

「逆ですよ。そんな危険な場所だからこそ、不用意に人が行かないよう、そして魔物が人里に降りてこないよう見張りが必要とされます。

 さてここで一つ質問ですが、常時見張りが必要とされるような場所で、見張り役の人員をずっと野宿させて、無駄に疲労を溜めさせるような上司がまともな神経をしていると言えますか?」

「あー、そんなことしたらいざという時に疲労で使い物にならなくなる。というか、見張りの仕事すら失敗するようになる、か。俺達だって、狩りで山篭りすることはあるけど、せいぜい長くて数日だし、見張り役は何回にも分けて交代してるもんなぁ」

「その通り。飲み込みが早くて助かります」

 

 近年、採取を目的とした錬金術士がヴィラント山に向かうことが増えてきたため、宿舎を増設したという経緯もある。

 宿舎が使えるのは錬金術士にとってもありがたいが、宿舎の使用料も当然のことながらとっている。もちろん大半は国に渡さなくてはいけないが、幾らかは兵士の懐に入ってくる。見張り役の兵士にとっても小金稼ぎとなり、良い収入源となっているのだ。

 

 砂利の混じった道だからか、台車からガラガラと音がする。

 その音を耳にしながらアリア達は、ときおり他愛のない話をしながら歩いていく。台車の上で呻く盗賊たちが少々耳障りだが、宿舎に付けばさっさと引き渡せば良い。

 盗賊を倒したということで、微々たるものではあるが報奨も出るので、それも楽しみだ。今回の護衛費を埋め合わせることができたら最高なのだが、それはさすがにアリアの期待し過ぎか。

 

「あら、あれじゃないかしら」

 

 そう指差すエマの指先には、石で作られた建物があった。

 少し古ぼけているが、おそらくあれがアリア達の目指している宿舎で間違いはないだろう。

 

「あともう少しですね。皆さん、がんばってください」

 

 返ってきたのは、元気の良い声が二つと馬の嘶きが一つ。

 それが少し光が柔らかくなり始めた陽光に溶けて消えていった。

 

 

 

 

 宿舎のすぐそばにまで寄って行くと、その建物の全貌がよく分かる。

 今まで歩いてきた街道は建物の前まで続いており、宿舎の中を通らなければ先に行くことができない作りとなっていた。

 簡単な関所がわりに使っているのだろうが、他国に行くときとは違い、通行手形は必要ない。

 こんなところで、ヴィラント山に行く人間を把握しているということは、ヴィラント山に行く人間の数は制御したいといったところか。それとも、下手な人間がヴィラント山に行き魔物を刺激するのを防ぐためか。

 

 見張りの塔は二塔。今役割についている人間だろうか、鈍い銀色の鎧を着込んだ兵士が塔の上にいるのが見える。

 同じように人の背丈を超える大門の前には、鎧を着込んだ兵士が見張りを行なっていた。

 

 アリアたちが今回向かうのはヴィラント山ではなく、その麓にある洞窟――エルフィン洞窟だが、この宿舎は丁度良い位置にあるので、今日はここで休む予定だ。

 明日、一日歩けば特に何事もなければ無事にエルフィン洞窟に着くだろう。

 

「すみません、兵士さんですか。私たちはヴィラント山麓での採取を目的としている錬金術士と冒険者です。本日一泊をお願いしたいのですが……」

 

 礼儀として紺色の帽子を取りながら兵士に話しかければ、彼は驚いたように眉根を跳ねあげた。

 

「ヴィラント山ですか? 今の季節に?」

 

 彼の疑問も最もだ。

 今の季節は三月。あとひと月待てば一年の中で最も安全に旅や採取活動を行える四月となる。

 今わざわざヴィラント山に向かうのは、自殺行為に近い暴挙である。

 

 今回は場所がずれているのでそこまで問題ではないが、普通なら善意で止められているだろう。

 

「正確にはヴィラント山の麓にある洞窟が目的です。ちょっと急に入用なものができたので」

「そうですか……。まあ、詳しくは聞きませんよ。礼儀に反しますからね」

「助かります」

 

 兜のためか顔はよく見えないが、この兵士はどうやら少し茶目っ気のある性格のようだ。

 きっと兜の下では片目をつぶって笑っているだろう。

 隙間から見える口元も、綺麗な三日月形だ。

 

 ただ、あまりにもそっけないアリアの返事のせいか、少し口元がひきつっている。

「何だこいつ?」と思われているかもしれないが、幼い頃からこういう性格だったので、もはや直し方がわからない。

 それ以前に、矯正しようという気もない。別に、あからさまに悪意をぶつけられるわけでもなし、昨日今日会って別れるだけの人の印象がどうなろうとアリアはまったく気にしない。

 ぶっきらぼうかもしれないが、礼儀は守っているし、何よりアリア自身こちらの方が気が楽だ。やりやすい。

 

「今の時期は人も少ないので、宿舎は好きに使ってください。厨房もありますんで。あ、ただし、料金はいただきますよ」

「それは当然ですね。おいくらですか?」

 

 宿泊料は思ったよりもかなり安かった。

 やはり人がいないからか、それとも元々安いのか。

 どちらにせよ、アリアにとって助かったことには変わりはない。素直に胸中で感謝させていただくとしよう。

 

 盗賊たちを引渡し、鍵をもらう。

 

 当てられた部屋は二部屋。それも二人部屋と一人部屋だ。

 女二人用に男一人用、というのがありありと分かる配置だ。

 

「じゃあ、あたしは先に部屋に言ってるわね。ちょっと剣の手入れもしたいし」

「ええ、私は少し厨房を見てきます。良さそうなら軽く夜食でも作ってきますよ」

「あら、それは楽しみね。期待してるわ」

「ご期待に添える代物かどうかはわかりませんが、私の腕をかけて作らせて頂きますよ」

 

「それで十分よ」と一言残して、エマは一人宿舎の奥に消えていった。

 その場に残ったのは、厨房に向かう予定のアリアと何やら手持ち無沙汰なご様子のザシャの二人。

 

「なにか?」

「え、いやぁ。なんかさ、まだ日が高いのに休むのも変な気がするもんだなぁ、って思ってさ」

 

「部屋に行って休むのもなんだかなぁ」とザシャは頭の後ろをかく。

 なんとも子供っぽい仕草である。

 

「とはいえ、今からでは日が落ちるまで大して時間はありません。ここで下手に無理するよりは、今日は野宿を避けて体力を温存するのが最善だと……」

「あ、いや、うん。それはわかってるんだ。ただ……」

 

 窓枠に手をつきザシャは、なだらかな稜線を描く山間を見つめる。

 山々は訪れた春の息吹を感じてか、青々と明るい新緑色の葉でその身を彩っている。

 

「何もせずにぼーっと過ごすのが苦手なんだよ。こんな時間があるならなにかしたいなーって思っちゃってさ。ははっ。ま、おれが貧乏症ってだけなんだろうけどさ」

「貧乏性、ですか……」

「そ、貧乏性。おれにとっちゃあ日が登ってから落ちるまで働くのが普通だったからなぁ。ちょっと休むっていうのに慣れていないのさ」

「たしかに貧乏症ですね」

 

 せっかく贅沢に休む時間があるのだから、浪費してしまえばいいのにそれをしない、する気もないのだ。

 これを貧乏症と言わずしてなんと言う。

 

「暇でしたら私の夕食作りを手伝ってくれませんか? もし、薪がなければ割っていただきたいのですが……」

「それくらいならお安いご用さ。朝飯前にできるよ」

「そうですね。何しろ……」

 

 そこでアリアは意地悪く言葉を区切った。

 

「わざわざ鉈を剣代わりに使うような御人ですしね」

「ごめん! そこでおれの過去を抉るようなことを言わないで!」

 

「あれしか持ってなかったし、仕方なかったんだよ―!!」と、打てば返すような返事が返ってくる。

 まったく、からかいがいのある御仁である。

 

「事実は事実として粛々と受け入れるべきですよ。人は過去をなかったことになどできないのですから」

「字面はかっこいいけど、それずっとそのことに突っ込まれ続けるってことだよね!?」

「人生諦めが肝心ですよ」

「当人が言う!?」

 

 そこでザシャは諦めたように、深い深い溜息をついた。

 

「あー、もういいや。それよりおれは何を手伝えばいいんだい? 順当に薪割りかな?」

「まずは厨房に行きましょう。話はそれからです」

 

 先程までの言葉の応酬を忘れたかのように、ザシャは晴れ渡った夏の空のごとくカラリと笑った。

 

「ん。まあ、力仕事は任せてくれよ。男なんだからそれくらいは率先してするさ」

「頼りにしてますよ」

 

 二人は並び立って宿舎の奥に向けて歩いて行った。

 和気藹々とした話し声は、いつまでも途切れることはなかった。

 

 

 

 

 こんがりと焼けた黒パンの上には、淡黄色のとろりとしたチーズ。狐色に焦げ目のついたそれは、一口食べるごとに香ばしい香りが口いっぱいに広がる。

 その後、舌に広がるのは乳の旨味。チーズのやわらかな食感が、黒パンの噛みちぎるのも難しい硬さを中和しながら、独特の匂いや酸味が穀物の味を引き立たせる。

 

 合間に食べるスープもまた格別だ。

 塩だけで味付けした単純なものだが、燻製肉から引き出した肉の旨味と味をキリリと引き締めるハーブの風味によって、簡素ながらも味わい深いものになっている。

 

 パンをスープにつけて食べるのもまたおいしい。

 硬いパンが水気を含み柔らかく食べやすくなるし、香ばしいパンと旨味がたっぷり含まれたスープの相性もこれまた最高だ。

 お互いの味を互いに引き立たせ、得もいえぬ調和を生み出している。

 

 美味い。

 

 語彙の乏しい田舎者が言葉に出せたのは、たった三文字の簡素な言葉。

 だがその中には、万の言葉を詰め込んでもなお足らぬほどの思いが詰め込まれていた。

 

「そこまで言うか」

「たしかにアリアちゃんの料理はおいしいけど、貴方のそれは言いすぎだと思うわぁ」

 

 ただしザシャの感想は、女性陣にはたいそう不評ではあったけれども。

 

「いや、本当に美味しくて。この黄色いのチーズっていうんですよね? 村にもこんなんがあればなぁ」

「ああ、そういえば辺境の村出身でしたっけ?」

「そうそう。だから凝った料理っていうのは少なくてねぇ。今日のご飯だって、おれの村じゃあごちそうだよ、ごちそう」

 

 一体ザシャはこれまでどんな食生活を送ってきたのだろうか。アリアは疑問が湧き出てくるのを止められなかった。

 

 アリアにとって今回作った料理は手抜き料理だ。材料も少なく、工夫する余地も少ない。ザールブルグでなら、もっと手の込んだ、もっと美味しい料理を作ることも容易い。

 

 それを「美味しい、美味しい」と言って食べてもらえるのは嬉しいが、少し胸がいたい。

 

「これくらいなら、いくらでも作れます。護衛に雇った時くらいなら、まあできるだけ作ってあげましょう」

「え、本当かい! そりゃ嬉しいなぁ!」

「ああ、もうがっつかないの。男の子でしょ」

 

 そうなだめるエマの手も、止まることはない。

 アリアの作った料理を美味しいと思ってくれているのだ。その行動一つで分る。

 

(まあ、喜んでくれるのなら悪くはないな)

 

 今度もここに来る機会があるなら、その時はもう少し良い物を作ってみるか。

 

 そう、アリアは決意するのであった。

 

 

 

 

 

 

 エルフィン洞窟。

 

 ザールブルグから徒歩で三日ほど、ヴィラント山の麓にある軍の宿舎から歩いて一日かかる場所にあるそれなりに大きな洞窟である。入り口はアリア達三人だけではなく、あと五,六人程なら一緒に入っていけるほど大きく、それ相応に中も広い。奥に行けば狭い場所もあるかもしれないが、入口近くなら馬で引いた台車も難なく入っていけるほどだ。

 

 洞窟だから日の入る場所は入り口から十数歩ほど。

 それより奥に行くには松明が必要だ。

 あらかじめ準備をしておいた松明に火をつける。

 赤い火が燃え上がり、同口の奥を照らす。光から逃れるように、足元を這いずりまわっていた虫達が、洞窟の奥へと逃げていく。

 岩陰などはどうしても光が届かないので薄暗い。そこから魔物が襲ってきたらことだが、傍を通り過ぎるときだけ気をつけていれば問題はない。

 

 ここではヴィラント山の頂上付近ほどではないが、良質なカノーネ岩が採れる。

 少し目を凝らせばこの洞窟を住処にしている蛇のものであろうか。脱皮して脱ぎ捨てた蛇の皮が、地面に散らばっている。大抵のものは魔物にでも踏み砕かれたのだろうか。使いものにならないほど微塵に砕かれている。

 形のしっかりしている幾つかは使い物になりそうだ。あまり場所も取らない小さなものなので、幾つかは採って自分の腰に下げた袋に入れておく。

 

 奥には地底湖もあり、その水は錬金術に使うこともできると聞いたが、今回はよほど時間に余裕が無い限り採ることはない。今回はカノーネ岩の採取を目的としてやってきたのだ。それ以外に目を向けるのは、あまりにも非効率だ。

 

「………………」

 

 無言で地面に手をつくアリア。

 ぱっぱっと砂を払いのけ、下半分が地面に埋まった赤い石を地面からのぞかせる。

 

 持ってきていた「初等錬金術講座」を開く。

 少し重いが、実物の確認にはこうした参考書が大層役に立つ。

 

 見た目には問題なし。

 軽く松明の火を近づけると、石だというのに火が音を立てて燃え移った。

 

 慌てず騒がず、被せ物をして火を消すと少し焦げ目ができてしまったが、正真正銘のカノーネ岩がアリアの眼の前にあった。

 

「これを九十個、か」

 

 地面から掘り出しながら、アリアは呟いた。

 残念ながらヴィラント山の頂上とは違い、エルフィン洞窟ではカノーネ岩はそのままの形で、地面の上に転がっていることは少ない。

 たいていは今のアリアのように、掘り起こして手に入れるしかないのだ。

 

 一人で採取をしていては時間だけがかかって仕方がない。

 

「すみません、お二方。今回は採取も手伝ってもらっていいですか?」

「あら、一体何かしら? 内容にもよるわよ」

「サラリと釘刺すなぁ……」

 

 冒険者とは本来そういうものだ。

 何でもかんでもホイホイ受けるザシャのほうがおかしいというのに、それを理解しているのだろうか。

 

 ……あまり理解していなさそうである。アリア考えることを放棄した。

 

「私一人だけだと十分な量のカノーネ岩を地面から掘り起こせません。どちらか片方だけでも、掘り起こすのを手伝って欲しいのですが」

「それならおれの方が適任かな。スコップかなんかある?」

 

 特にこだわりがないのか、躊躇なくザシャが挙手をした。

 流れるようにアリアから小さなスコップを借りると、アリアの教えたカノーネ岩を掘り出していく。さすが男の筋力というべきか、アリアが一つ掘り出す間にザシャは三つは地面から採っている。それも悠々と。

 

 なんとも羨ましい限りである。妬ましいくらいだ。

 

「じゃあ、あたしは周囲の警戒をしているわ。こんな所ですもの、どんな魔物が現れるかわかったものじゃないしね」

「すみません。よろしくお願いします」

「いいわよ。これくらいなら仕事の範囲内だわ」

 

 松明をエマに渡し周囲の警戒に移ってもらう。

 手元が少し暗くなるが、それはもう諦めるしかない。

 

 ザクザクと土を掘る。

 地面に少し出ている赤い石を目安にスコップで掘ると、こぶし大のカノーネ岩が出てくる。

 中には残念なことに調合に使えないほど小さかったり、掘り出せないほどでかい物もある。その時は涙をのんで諦めるしかない。

 

 ある程度大きさのあるものを中心に、二人は黙々と採取を続けるのであった。

 

 

 汗が流れ落ちる。息が弾む。

 少し赤みが指しているであろう頬を抑えると、手の平にじんわりと熱が伝わる。

 

 かなり掘り続けたので、どうにも疲労が溜まっているようだ。体のふしぶしが重く、倦怠感が前身を包んでいる。

 

 それも当然か、アリアの周囲にはもうカノーネ岩の姿が見えない。それほどまでに掘り返し続けたのだ。

 一箇所でカノーネ岩を探していると、その場にあったものは採り尽くしてしまったのか、新しいものが見つかりにくくなってきてしまった。もう少し奥に行かなくては、効率よ採集を行うことができないだろう

 

「少し奥で探してきますね」

「あら、そう。ならお馬さんも連れてくるからちょっと待ってて頂戴」

「はい、わかりました」

 

 素直に返事をして、軍馬のもとに駆け寄るエマを見送るアリア。

 ザシャは先程のやり取りに気づいていないのか、黙々と地面を掘っている。時折鼻歌まで聞こえてくるほどだから、機嫌は悪くないのだろう。

 それとも体を動かすのが純粋に好きなのか。

 どちらにせよ妬ましいほどの体力だ。八つ当たりに背中を蹴飛ばしたくなるほどだ。

 

 手持ち無沙汰になったので、少し周囲を見回してみる。

 見えるのは代わり映えしない灰色の岩肌。それと時折顔をのぞかせる赤い鉱石くらいなものだ。

 

「…………あ」

 

 そんな中少し気になるものをみつけた。

 少し奥に行ったところに、赤い拳大よりも一回りほど大きな赤い石が、岩陰のすぐそばに落ちている。

 あれだけ大きければ、カノーネ岩二個分はあるだろう。しかも幸運なことに、地面に埋まっている様子はない。

 

(おお、運がいいな、今日は)

 

 しかし最悪なことに、ずっと硬い地面を掘り続けたことでアリアには疲労が溜まっていた。

 常の判断力が鈍り、いつもなら絶対にしないような短絡的な行動をとってしまう。

 

 すなわち、護衛から離れての行動。

 ただ目に映るものを反射的に取ろうと、足を進める。

 

 そして運の悪いことは重なるのか、アリアが近寄った岩陰には一匹の魔物が隠れ潜んでいた。

 

 その魔物は、別に獲物を待ち伏せしていたわけではない。

 丁度良い休憩所として、自らの居心地の良い場所で体を休めていただけだ。

 

 その魔物の名は「吸血コウモリ」。

 その名の通り、人を襲い血を啜る魔物である。

 

 そして「コウモリ」である以上、その魔物には共通の弱点がある。

 

「光」である。

 

 そしてアリアの手元には一本の火のついた松明。

 いきなり弱点にさらされた魔物が取る行動は唯一つ。

 

 すなわち、脅威の排除である。

 

「…………っ!?」

 

 岩陰から飛び出し、アリアに牙を向ける吸血コウモリ。

 

 まったく予想もしていなかった、思ってもみなかった場所からの急襲。

 戦いの素人であるアリアに反応するすべはなし。

 

(つ、杖を……)

 

 腰に下げた魔法媒体にもなる杖。

 しかし焦りか疲労か、彼女はその最後の命綱を取り落としてしまう。

 

(あっ…………)

 

 カラン、と軽い音を立てて地面を転がっていくアリアの杖。

 その音を耳にしてようやく事態に気づいたのか、エマがこちらに向かってくるのが見えるが、遠い。

 

 絶対に間に合わない。

 

「…………くっ」

 

 せめてもの抵抗で、腕を顔の前で交差する。

 

 咄嗟の判断。

 

 少しでも、急所を避けようという本能での行動。

 

 襲い来る痛みを覚悟して、アリアは目を閉じた。

 

 

 

 

「………………?」

 

 しかし、痛みはいくら待ってもやってこない。

 不審に思い、恐る恐るまぶたを持ち上げる。

 

 そこには…………赤く染まったスコップ片手に仁王立ちするザシャの姿。

 彼の足元にはぐしゃぐしゃに潰れたコウモリの死体が一つ。

 

「おいおい、気をつけなきゃいけないじゃないか」

 

 あくまで爽やかに、どこまでも誠実にアリアを諭す姿は、どこからどう見ても近所の好青年といった風情である。

 

 片手に持つ血塗れのスコップさえなければ……。

 

(剣が無くてもいいんじゃないかな、この人……)

 

 あまりの絵面の酷さに笑えばいいのか、スコップで魔物を撲殺したという事実に恐れて泣けばいいのか。

 

 さすがのアリアも、この時どうすればわからず、二の句を続けることができなかった。

 そんなアリアの様子を不思議に思い、首を傾げるザシャ。

 

 薄暗い洞窟の中、微妙な空気を含んだ沈黙だけが彼女たちの間に広がった。

 その微妙な空気は、エマが軍馬を引き連れて戻ってくるまで、二人の間に流れ続けたのであった。

 

 ちなみに、戻ってきたエマにアリアがこっぴどく叱られたのは言うまでもない。

 

 

 

 余談だがこの三日後、全てのカノーネ岩は無事に集まり、アリア達三人はザールブルグへの帰路についたそうな。

 その時の彼女たちの様子は、まあ言わぬが花というやつだろう。



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第十二話 フラムとひと月間の死の行進(下)

 砂埃で灰色に薄汚れた外套が、風に揺れてはためく。

 細かい粒子が風に跳ねて顔に飛ぶ。目に入る埃で流れる涙が止まらない。

 顔についた砂埃も涙で流れ落ち、女とは思えないほど斑で歪な化粧と成り果てている。

 下手に顔をこすれば手についた汚れで、インクを塗りつけたように顔が黒く染まる。目にもゴミを押し付けることになるので、涙を拭うことすらできない。

 

(ザールブルグに戻ったら、お風呂屋に行きたい……)

 

 それは年頃の娘として当然な、そして切実な望みであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アリアがザールブルグに帰り着いた頃には、もはや三月の中旬に入りかけていた。

 多少調合に失敗しても大丈夫なように、予備も含めてカノーネ岩を採ってきたのが仇となったか、予定と比べていくらか押し込んでしまったのだ。

 おかげで、採取地が離れているエリーのほうが、アリアよりも一足先にザールブルグに帰りついていた。

 

 約束していたエリーのアトリエまでザシャとエマの力を借りてカノーネ岩を運んでいったところ、すでに荷物降ろしを始めているエリー達の姿を見て、アリアは目を剥いたものだ。

 鼻の差であったので、調合の予定に支障はないが、もう一日帰りつくのが遅れて入れえば、エリーたちを無駄に待ちぼうけさせるハメとなっていただろう。

 

 見通しが悪すぎた。エリーの採取能力を甘く見積もり過ぎていたのだ。

 一度近くの森で、エリーの採取物に対する鋭敏な嗅覚を目にしていたというのに、それでもどこか見くびっていた。

「採取地にかかる日数も考慮すると、ザールブルグに先に帰還するのは自分たちだろう」と、そう考えて疑いもしなかった。

 

 まさかまさか、わずか一日で蜂の巣を必要数集めきるとは!

 

 称賛の念を覚えるほどの採取能力だ。惚れ惚れするほどに。

 

 採る時に蜂に襲われる可能性があるので、蜂の巣は採取にコツがいる。燻したりなんやりする必要があるので、どうしても時間がかかり採取効率は悪くなりやすい。

 アリアでは、たとえ逆立ちをしてもエリーと同様のことを行うのは不可能だろう。

 

 もしかしたら、なにかアリアの知らない方法で蜂の巣を採取していたのだろうか?

 疑問に思い直接尋ねてみると、エリーは何の変哲もない少し大きくて目の細かい網をアリアの眼前に差し出した。

 

 エリーが言うには、この網に松脂をつけ二本の棒に括りつけ網を広げた状態で、人の身丈の倍はある長い棒の先で蜂の巣を叩けばいいとのこと。そうすると、蜂はわんわんと騒ぎながら松脂の付いた網に突撃し、くっついて身動きがとれなくなってしまうらしい。

 

 ただもちろん、十分に離れていても網からそれて蜂がこちらを襲う可能性もあり、多少の危険はある。しかし、蜂の巣が採れるようになるまでの所要時間は、巣を燻して蜂の動きを鈍らせるよりもはるかに短い。しかも、方法も手軽だ。

 

「燻したほうが時間はかかるけど、確実かなぁ……?」

 

 首をひねりながら言っていたので、エリーにもどちらの方法が安全か確信をもって言えるほど詳しくはないようだ。

 

 あまり良く知らない方法を躊躇なくやるものだと口に出せば、「村の若衆のお兄さん達に教わった方法だからね」と腰に手を当て、胸を張るエリー。

「えっへん!」と口に出したわけでもないのに、声が聞こえてきそうな態度である。

 

 それを丁重に無視をして――無視をされたエリーは肩透かしを食らったのか少ししょんぼりしていた――アリアは手渡された網を引っ張った。

 軽く引っ張っただけでよく分かる。この網はザールブルグではなかなかお目にかかれないほど、丈夫に作られていることが。

 

 さすが田舎の村出身というべきか。

 持っている知識や技術が実践的だ。素直に感嘆の念が首をもたげるが、同時に悔しさも覚える。

 

 自然と役割分担がそうなったからとはいえ、頭脳役として採取計画と調合計画を立案した以上、計画性の不備はすべてアリアに帰する。

 アリアはエリーに確認すべきであった。どうやって蜂の巣を確保するつもりなのか、どれくらいの日数で必要数が手に入るのか。それを全て確認した上で、採取計画を立てるべきだったのだ。

 

 今回の件、間に合ったのは運が良かっただけにすぎない。

 一歩間違えればぎりぎりの時間しかない中で、無駄な日を作り出していたかもしれない。実際には大丈夫だったが、可能性があった以上アリアは反省せねばならない。

 

 自分では慎重に計画した行動でも、実際に事にあたるとその不備を露呈させてしまう。

 

 まだまだ未熟者なのだ。

 

 だが、いつまでもケツの青い子供でいるつもりは、アリアにはない。

 

 今回の状況はアリアにとって奇貨だ。

 計画をたてること、計画通りに実行すること、いざ失敗した時の対処法、全てがこれからのアリアにとって得がたい経験となる。

 反省すべきところは反省し、認めるべきところは自ら認める。そうすることで自らの成長につながるのだと、アリアは固く信じて疑わなかった。

 

「ちょっと、エリー。いつまでその子と無駄話をしているのかしら? 早く荷物を下ろしてくれないと調合ができないわよ」

 

 ぷりぷりと、怒気をにじませた声でエリーを呼ぶのは濃い紅色(べにいろ)の錬金服を着た少女だ。

 アイゼルと呼ばれたその少女は、咲き誇る大輪の薔薇のように、見る人に艶やかな印象を与える少女だった。少し釣り気味の深緑の瞳は、彼女の気の強さを表しているようで、陽の光を浴びて宝石のように輝いている。

 髪は黒檀。黒色を帯びた茶の髪は真っ直ぐ艶やかに彼女の背を覆っている。

 シミひとつない肌は健康的な白に照り輝いている。頬と唇の赤みがなんとも対照的で鮮やかだ。

 

 綺麗な人である。

 単純であるがそうとしか表現できない。

 

 怒る姿すら愛らしく、彼女の魅力を損なっていない。

 笑えばもっと可愛らしいのにな、とアリアは少し残念に思った。

 

「まあまあ、アイゼル。そんなに怒らなくても……」

 

 アイゼルという少女をなだめるのは、茶色の髪に茶色の目を持つ平均よりも整った容姿を持つ少年だ。

 優しげで所作が整っているからか、どこか育ちの良さを感じさせる少年である。

 

 ただ、地味だな。とアリアはにべもない評価を下す。

 アイゼルのように容姿が飛び抜けて優れているわけでもなく、エリーのように表情豊かなわけでもなく、小奇麗にまとまりすぎていてどうにも印象に残り辛い容姿をしている。

 言動からにじみ出る人の良さもあるのだろう。垢抜けしすぎて、アクがないのだ。

 

 だが、アリアはこの少年のことを覚えていた。

 なぜなら、彼こそがアリアの同期の中で最も有名な人間だったからだ。

 

 アカデミー新入生一位入学者、ノルディス・フーバー。

 この人の良さげな彼こそが、二百八十一人いる新入生の中で頂点に立つ男であった。

 

 

「ごめーん!」とアイゼルに泣きつくエリーを横目に、アリアは「うーん」と気の抜けた声を発しながら、首を傾げた。

 

 まったく接点の掴めない三人組だったからだ。

 

 エリーは、下から数えたほうが早いほど成績の悪いアリアよりも更に下、最下位アカデミー入学者だ。

 成績最上位のものと成績最下位のもの。顔を合わせることすら稀であろう二人がどこをどうして出会うことになったのか。

 

 そしてさらに不思議なのは、エリーとアイゼルだ。

 優しげなノルディスとは違い、このアイゼルという少女は見た目からして気が強そうだ。それに引き締まった口元には、生来のプライドの高さも見て取れる。

 進んでエリーのような――付け加えるならアリアのような――落第生と付き合うような人種には見えない。普通なら、エリーが例えアイゼルの目の前に立っていたとしても、路傍の石のようににべもなく立ち去るだけであろう。

 

 仕立ての良さからおそらく貴族であろうこの少女には、それが当たり前のはずだ。

 

 だから不思議だ。常識から外れているからだ。

 

 まあ、それは……。

 

「おかえりなさい、アリアさん。お待ちしておりましたわ」

 

 こちらも同じ事なのだけれども。

 

 そこに立っていたのは、百合のように清廉で麗しい少女であった。

 アリアの学友であるユリアーネ。彼女がそこで微笑みながらアリアを待っていた。

 

「ええ、只今戻りました」

 

 アリアの表情は変わらない。けれどもその声色は、何よりも親しみに溢れたものであった。

 

 

 

 

 アカデミーからアトリエ生が借り受けるアトリエは、大部分の作りは一緒だが間取りや位置取りなど細部がかなり違う。

 アリアのアトリエとエリーのアトリエもそうだ。部屋の方角、窓の位置、個人個人の私物まで含めれば違う箇所は数え切れないほどだ。

 

 だが、最も違うのはその広さだ。

 別にアリアのアトリエが狭いわけではない。だが、確実にエリーのアトリエはアリアのものよりも広かった。

 アリアのアトリエでは、今回のように五人も集まればかなり手狭に感じただろうが、エリーのアトリエでは五人全員がアトリエの中に入っても、まだ余裕がある。

 少し羨ましいが、本人はのんきなことに「掃除が大変なんだよ~」と嘆いている。

 

 宝の持ち腐れにも程がある。

 

 まったくもって微々たるものではあるが、アリアの口元に苦笑が浮かぶ。

 

 エリーの言動はのんきではあるが、どこか微笑ましいのだ。

 あるいは、こんなのんきな人間だから少しはしゃんとしろと、あえてこんな広めなアトリエをエリーに渡したのかもしれない。

 だとしたら先生方も人が悪いことだ。せっかくなので、もっとやることをおすすめする。

 

 口には出さないが思うだけなら自由だ。

 案外、アリアは性格が悪かった。

 

「で、あなた方お二人は?」

 

 いったいだれよ? と、アイゼルの緑の目が痛いほどに言葉を伝えてくる。

 それはこちらもなのだが――アリアも彼女のことはエリーが言っていた上の名前しか知らない――、質問に質問で返すのはあまりに礼儀違反であろう。

 素直に名前を告げる。

 

「レイアリア・テークリッヒといいます。私もエリーと同じくアトリエ生です」

(わたくし)の名はユリアーネですわ。ユリアーネ・ブラウンシュバイクと申しますの。あなたは、確か……」

「アイゼル・ワイマールよ。覚えておいてちょうだいね」

 

「覚えておいて」と口では言うが、どう考えても自分の名が忘れられるとは思ってもいない口調である。

「それにしても」と呟きながら、アイゼルは真っ直ぐにアリアと向かい合った。

 

 キッと眦をしかめるが、アリアの方が頭半個分は高いのでどうしても上目遣いとなる。

 上目遣いで睨んでも全然怖くはない。むしろ、意地っ張りな子供のようでどうにも可愛らしい印象ばかりが先立つ。

 

「あなたもアトリエ生なの? 寮生である私ですらそう何度も調合したことのないものを、あなたのような人が作れるのかしら?」

 

 とはいえ、その口調はあからさまにきつい。

 ほとんど詰問しているのと同じような調子だ。

 

 アリアの第一印象通り、どうもこのアイゼルという少女は少し気が強い高飛車な性格のようだ。

 

 ただ、アリアの面の皮の厚さとて負けてはいない。

 内心と同じように平然と、むしろふてぶてしくすらある態度でアイゼルの言葉を受け止めている。周囲のほうが二人の様子を見てあたふたとしているほどだ。

 

「仕事である以上やり遂げるだけです。受けたのなら、できないというのは言い訳にすらなりませんから」

「ふーん。まあいいわ。せいぜい私やノルディスの足を引っ張らないことね」

 

 そう言い捨てると彼女はくるりとアリアに背を向ける。

 もう話すことはない、とその背中が雄弁に語っていた。

 

「ごめんね、彼女ちょっと話し方がきついけど、悪い人じゃないんだ」

 

 次に話しかけてきたのは、不動の学年一位であるノルディス・フーバーだ。

 ハの字になった眉が、優しげな容貌に影を落としている。

 

「いえ、気にしてはいませんので」

「そう? それならいいんだけど……」

 

 ホッとしたようにノルディスは息をついた。

 

「ところで、あなたは?」

「ああ、僕の名前はノルディスだよ。確か君はレイアリアっていったっけ?」

「ええ、その通りです。よくご存知で」

「さっきアイゼルと話していたのを聞いていたからね」

 

 知ってはいたが礼儀として名を尋ねれば、素直に返答が返ってきた。

 手を差し出されたので握手で応じれば、そこにソプラノの高い声が割って入った。

 

「二人共、そろそろ喋っていないで調合を始めましょう。レイアリアっていったわよね。今回のお仕事はあなたとエリーが主体ってこと忘れてないわよね。私達はあくまであなた達があまりに無謀なことに手を出しているから、しょうがなく手を貸しているにすぎないのよ」

 

「おわかり?」と、子供に諭すように問いかけるはアイゼルだ。

 つまりさっさと手を動かして仕事をしろということか。

 口調は嫌味だが、言っていることはまったくの正論である。

 

 これ以上何かを言われる前に、さっそく調合を始めるとしますか。

 

 アリア達は互いに無言で頷き合い、自分の調合台へと向かい合った。

 目線だけ動かしてユリアーネを見ると、いつも通り柔らかな微笑を浮かばせていた。

 じっと見ていると、こちらに気づいて笑い返してくれたので、こちらも軽く口の端を上げて返礼とする。

 

 まあ、今はそれよりも調合だ。

 調合台の上にはアリアがかき集めたカノーネ岩がある。

 

 さてまずは、とアリアは頭のなかを切り替える。

 一瞬の後、そこにいたのは錬金術士の顔をしたアリアの姿。

 

 まずは、燃える砂だ。

 

 アリアは使い慣れた乳鉢と今回初めて調合に使うカノーネ岩を手にとった。

 

 

 

 

 

 今回依頼された品、フラムは錬金術で作り上げた爆弾だ。

 カノーネ岩を加工した燃える砂という可燃性の物質をロウで固め、衝撃もしくは魔力による反応で爆発するように作り上げる。

 

 調合時に気にかける点は唯一つ。燃える砂の扱いだ。

 その名の通り、燃える砂は砂状なのに火がつく火気厳禁の品で、空中に飛散している時に火をつけると大爆発を引き起こす。

 湿気りやすくもあるので、調合に使う時以外はしっかり密閉するのも忘れてはいけない。下手に放置すると砂が水分を含み、もう一度乾燥させても従来の可燃性や爆発力を発揮できなくなるのだ。

 

 燃える砂を調合するときは、下手に急がず火花が出ないようゆっくりと丁寧に調合することが肝要と参考書には記してある。

 ただ、実際にそれを行うとなると、これが案外難しい。

 

 意外と脆いのでそこまで力はいらないが、まずカノーネ岩を叩いてある程度の大きさになるまで砕く必要がある。ここでトンカチを使って勢い良く砕いていくと、火花が出て砕いたカノーネ岩全部に引火しかねない。

 乳棒でゆっくりと確実に砕いていかなくてはいけないのだ。

 そうしなければ――。

 

「うわっ!?」

「エリー!?」

 

 ぼわっとエリーの調合台から火柱が立ち上る。調合の失敗だ。

 

 顔を青ざめて慌てて――それでも錬金術士らしく、その手に持っていた調合器具と加工中の調合品は丁寧に机の上に置いていた――アイゼルがエリーに駆け寄る。

 急いでエリーの状態を確認するアイゼル。特に怪我らしい怪我もなく、彼女はほっと安堵の息をついた。

 

 エリーは燃える砂の調合中であった。急いで調合していたためか、砕いた時に出た火花が燃える砂に引火し火柱を立ち上らせたのだ。

 幸いなことに一瞬で燃え尽きたので、エリーの前髪が少し焦げた程度ですんだ。

 

 ただ、砕いていたカノーネ岩は真っ黒に炭化し、もう使い物にはならない。

 

 それを見て、アイゼルはキッと眦を釣り上げる。

 

「あなた何をしているの! 燃える砂を調合する時にはいつもの十倍は気をつけなさいって口を酸っぱくして教えたでしょう。まったく、本当どんくさいわね!」

「うえ~ん、ごめ~ん!」

「泣く暇があるならさっさと片付けなさい! 時間がないって私とノルディスに泣きついたのはどこのどなただったかしら!?」

 

 怒りからか心配した照れ隠しか、アイゼルの言葉には容赦のよの字すらない。

「まあまあ」とノルディスになだめられて、ようやくその舌鋒を緩めたが、エリーはいつもの様子が嘘みたいにしおれていた。

 

 仕方がない。

 

 アリアはそれと分からない程度に肩をすくめた。

 

「はい」

「あ、ありがとう。アリア」

 

 新しいカノーネ岩と予備の乳鉢をエリーの前に差し出すと、彼女は弱々しくそれを受け取った。

 

「肩を落とすな。失敗は誰にだってあるものだ。反省しないのは論外だが、あまり気にしすぎるのも問題だぞ」

「うん……。そうだね」

 

 とはいえ、その顔色は暗い。「気持ちを切り替えてきた方がいい」と、失敗の成れの果て廃棄物を片付けるよう命じると、エリーは肩を落としたままアトリエの奥へと消えていった。

 

 重症である。

 

 ジトリとした目で原因のお一人を見つめると、わかりやすくたじろくがすぐに胸を張りこちらを見返してきた。

 

「何よ?」

「いえ、何も」

 

 簡潔にそう返せば、アイゼルは逆に訝しげにこちらを見返してきた。

 何か言われるとでも思ったのだろう。

 

 逆だ、なにも言うことはない。どう考えても「言い過ぎた」と顔に大きく書いてある彼女に、わざわざ言うことがなにかあろうか。いや、ない。

 

 下手なことを言って仲をこじれさせるほうが面倒だ。

 

「ふうん。……まあ、そうよね。私が言ったことは全部当然のことですもの」

「……本当にそう思っておりますの?」

 

 そこで口を挟んだのはユリアーネだった。

 アイゼルの形の良い眉が、キリキリと危険な形に跳ね上がる。

 

「ええ、そうよ。当然でしょ。この私がわざわざ忠告してあげたのに、それを無視して無様な調合をするから、あんなあり得ない失敗をするハメになるのよ」

「たしかに彼女が失敗したのは事実ですわ。ですが、気をつけていても失敗することは誰にだってあります。それをあげつらって責めるのはいかがなものでしょう?」

「あなたに説教をされる筋合いはないわ。私は当然のことを言ったまでよ」

 

 傲然と言い放つアイゼルに、ユリアーネは溜息とともに小さな声で呟いた。

 

「心配なら心配したとそう素直にお伝えすればよろしいのに……」

「誰が心配した、よ! 勝手なことを言わないで頂戴!!」

 

 だが、その赤く染まった顔は、ユリアーネの行った言葉が図星であることを何よりも雄弁に告げていた。

 

 アリアは何やらその光景に見覚えがあった。同じ立場にたった人間は違えど、それは彼女が幼い頃から見てきたものの一つ。

 

 思い出した。

 

 ぽん、とアリアの手を叩いた間抜けな軽い音が、アトリエ中に響いた。

 他の三人の視線が集中する中、アリアはまったく意に介する事無くその口を重々しく開いた。

 

「照れ屋さんなんだな、アイゼルは」

「いきなり何素っ頓狂なことを言っているのよ、あなたは!?」

 

 何を言われるのだろう、と構えていたアイゼルにとってその言葉は、なんとも拍子抜けするものであった。

 ユリアーネは横から全部をかっさらっていったアリアに呆然としている。

 

 ぷりぷりと肩を怒らせて――とはいえ華奢な女の子なのでどうにも迫力がないが――調合台に戻っていくアイゼルを見ながら、アリアは心のなかで呟いた。

 

(やっぱり、少し似ているな)

 

 どうにもこうにもあの意地っ張り具合と不器用な性格が、彼女の知り合いと少し似ていたのだ。

 そう、男の意地と見栄とそれを素直に出せない不器用な性格のアリアの幼馴染。彼とアイゼルは、どことなく似ている部分があった。

 

 片付けの終わったエリーが調合室に戻ってきたのはそんな中であった。

 あまりに変化した空気に、エリーは小首を傾げるが、わざわざ彼女に何があったのか伝えるものは誰もいなかった。

 

 

 

 

 

 ロウの調合は案外体力がいる。

 蜂の巣に含まれている蜜と蜜ロウが、完全に分離するまでずっと遠心分離器を回し続けなければいけないからだ。湯煎で溶かした蜂の巣は熱く、回しているだけで熱気で額に汗をかく。

 当然の役割分担として、体力に自信のあるアリアとエリーが遠心分離器を回し続ける訳に選ばれたのは、燃える砂の調合を終わらせた十日後のことであった。これはユリアーネ達三人は授業を受けながらの数字だから、かなり早い。

 

 蜂の巣を入れて遠心分離器を回していると、最初は蜜と蜜ロウの混ざり合ったものが出てくる。

 これを根気よく全部絞り出してから遠心分離器の中を見てみると、底や壁面にびっしりと潰された蜂や幼虫の死骸がくっついている。

 見た目からして愉快なものではないのだが、これを定期的にへらでこそげ落とさないと遠心分離機からの出が悪くなるし、蜜と蜜ロウに虫の死骸が混じってくるのだ。そうなると物の質も悪くなり、値も下がる。

 面倒かつ精神的にも嫌な作業だが、必要不可欠な仕事でもあるのだ。

 

 へらで死骸を落とすと、もう一度蜜と蜜ロウの混ざった液体を遠心分離機にかける。

 そうすると余分な蜜が遠心分離機から排出され、残るは見事な蜜ロウだけとなる。

 これを取り出し、中和剤(緑)と燃える砂を練り混ぜれば完成だ。

 

 蜜ロウに燃える砂を混ぜることで火の勢いを強くし、中和剤(緑)を混ぜることによりどれだけ火が熱くなろうと溶けにくいロウになる。

 この錬金術のロウで作り上げたろうそくは、明るく溶けにくいということで値段も高めだが人気もある。

 

 

 琥珀色の蜜を最後の一滴まで絞り出したことを確認し、蜜と蜜ロウを分けておいておく。蜜ロウは三人に渡し、蜜は疲労をとるためのおやつとして使う。なかなかの味で売ることも可能だが、これには魔力が含まれていないので、錬金術の産物である「はちみつ」ほど明確に疲労を取る効果はない。

 

「はちみつ」を錬金術で作るためには、遠心分離機にかける時に魔力を込める必要があるのだが、そうすると蜜ロウの大部分も溶かしてしまう。

 それゆえに、「はちみつ」と「ロウ」を錬金術では一緒に作り上げることはできない。錬金術でなければ、「はちみつ」と「ロウ」は同時に出来上がるものだというのにだ。

 

 少し不経済だな、とアリアは息をついて額の汗を拭いた。

 玉のように汗が流れ落ちるので、拭いても拭いてもきりがない。

 

 一息つくと口の中がカラカラに乾いていることに気づく。先程まで作業に集中していてまったく気づいていなかったが、一度気がつくとのどが渇いて乾いて仕方がない。

 手身近にあった水差しから横着してビーカーに水を入れ、一気に煽る。視界の隅でアイゼルが不快げに眉をしかめたのがわかったが、厨房からコップを取りに行くことすら億劫だった。

 

 遠心分離器を回しすぎて腕が痛い。

 軽く腕を揉み込み、筋肉のこわばりを解くが効果は微々たるものだ。しっかり休まなければ、この疲労は採れないだろう。

 

 他の面々も見ていると、どうにも疲労の色が濃い。

 ここは一度休憩を入れるべきだ。

 

 エリーにアイゼルとノルディスを任せ、アリアはユリアーネのもとに向かう。

 この三人は明日も授業があるので、早い目に切り上げさせなければならない。

 

 流れ作業が功を奏したのか、すでにロウは半分近く出来上がっている。

 

「後半分ですね。かなり良い塩梅だ」

「そうですね。材料も余裕がありますし、後はミスさえなければ、どうにかなりそうですわ」

 

 そう言って笑うユリアーネに、いつもの精彩はない。

 通常なら華のように美しい笑みも、どこか陰りがある。

 

「ユリアーネさん、明日は休みましょう」

「え、そんな、私は大丈夫ですわ」

 

 大丈夫ではないから言っているのだ。

 眼の下には軽くくまが浮いているし、いつもなら完璧に整えている身繕いも最近は必要最小限になっている。アリアでも髪や肌の手入れが若干疎かになっていることが分かるほどだ。

 

「明日は授業でしょう。無理したら倒れますよ。それに今回は私たちが無理して頼んだことですから、あなた方にまで無茶をさせるつもりはありません」

 

 断固として休むよう命じると、ユリアーネは不満気にしていたが、結局は渋々ながら頷いた。

 

「けれど、そうですわ。明日は休みますけれど、その代わり(わたくし)のお願い聞いてもらえますか?」

「私にできることなら」

「ならお願いですわ。……敬語をやめて(わたくし)のことをユリアーネと呼んでくださいませんか?」

 

 アリアは目を瞬かせた。

 そんな些細な事でいいのかと、首を傾げた。

 

「わかった、ならユリアーネと」

「ええ、ええ! それでいいですわ!」

 

 ただそれだけのことで、ユリアーネは飛び上がらんばかりに喜んで帰っていった。

 その後姿を見送りながら、アリアは「あれだけ喜ぶのならもっと早くに呼んであげればよかった」と、そう考えていた。

 

 ユリアーネたちが帰った後、アリアとエリーは夜中まで作業を続けた。

 途中まではアリアも遠心分離器を回していたのだが、単純作業の持続力はエリーが圧倒しており、作業の半場でアリアは蜜ロウに中和剤(緑)と燃える砂を練り込む作業に移った。

 

「ロウは明日で完成しそうだね」

 

 まだまだエリーには余裕がある。口調には張りがあるし、遠心分離器を回す手は力強い。

 

「この調子ならフラムも間に合いそうだ」

 

 ロウが出来上がりはじめた頃から、最も繊細な作業に向いているということで、ノルディスがフラムを作り始めていた。

 まだ二,三個ほどしか出来上がっていないが、明後日にもなれば全員でフラムの調合に移れそうだ。

 

「今回はありがとうね。あたし一人じゃあ、絶対に間に合わなかったよ」

「なに、この仕事はこちらの益にもなる。礼を言うのはこちらの方だ」

「それでも、ありがとう。えへへ、せっかくだから言わせてよ」

 

 それならば素直に受け取っておこう、とアリアは返した。

 二人の作業は夜中まで続いた。

 

 その日、彼女たちのアトリエから火が消えたのはすでに街中が寝静まったあとだったという。

 

 

 二日後

 

 一日休んだからか、ユリアーネ達の作業にも張りが戻ってきた。

 やはり疲労が溜まっていたのだろう。それがありありと分かる。それほどまでに、今日は三人の作業が見違えていた。

 

 フラムを作る時には、一度固めたロウをもう一度湯煎で溶かし、よく練りあげてから燃える砂を混ぜ込んでいかなくてはいけない。

 一度放置して熱をとらないと、どうもフラムの安定性が悪くなるようだ。二度手間であるが仕方がない。しっかり冷やしてからまた溶かし、三回に分けて燃える砂を練り込んでいく。いっぺんに燃える砂を混ぜれば爆発してしまうので、面倒だが分ける手間を惜しんではいけない。

 

 三回目に燃える砂を混ぜ込む時に、ロウを一部取り芯を作る。

 燃える砂の含有量を多くし、中央の爆発力を強めるのだ。この芯を中心として、燃える砂を混ぜたロウを固めていく。

 形を整形し、乾かせば完成だ。

 

 すべての作業を爆発させないよう精密かつ繊細に行わなければいけない。少しでも作業に狂いが生じれば、爆発の危険性があるのだ。常に気を抜くことはできない。

 

 ユリアーネ達三人の手つきは繊細かつ大胆であった。

 爆発しないよう丁寧に燃える砂を扱いながら、湯煎で溶けたロウが固まらないうちに燃える砂を練り込む手際は手早い。

 

 あまりこんな作業に慣れていないアリアは二度、少し不器用なところがあるエリーなど三度ほど湯煎し直したが、ユリアーネ達はそんなことをせずともフラムを作り上げていった。

 

 夕刻まで時間をかけて、ようやく湯煎をし直さずともフラムを作り上げるまで腕を上げたが、その時には調合した数の差で圧倒的に負けていた。

 

 ユリアーネ達は間に授業があるので、アリアたちほど時間がとれないのだが、ここに来て地力の差が出てきたのだ。

 

 やはり成績上位者はさすがだな、とアリアはもうため息しか出ない。

 なんとか失敗せずにすんでいるので、足手まといにはなっていないが、本来ならこの依頼はアリアとエリー――特にエリーが主体となるべきものだ。あまり不甲斐ない姿は見せたくない。

 

 せめて少しでも作業進度が追いつくよう、この日は夜が明けるまで火が消えることはなかったという。

 

 

 

 

 朝が来た。

 

 ちゅんちゅんと、鳥の鳴き声が聞こえる。

 

 いつの間に眠ってしまっていたのか、もうすっかり日が昇っている。

 

 慌てて調合台の上を確認すると、昨日のうちに調合していたフラムがきちんと整形用の型の中に入っていた。

 軽く叩いて取り出すと、もうすっかり乾いて固まっており、今すぐ使っても問題がない出来だ。

 

 震える手でフラムを手にとり、納品用の箱に詰める。

 

 できた。

 

 脳内にあるのはただその一言のみ。

 

 数を確かめる。箱のなかには三十個のフラムがきちんと揃っていた。

 

 もぞもぞと、アリアの後ろで人の動く気配がする。

 エリーだ。

 アリアが起きだしたので、エリーも目がさめたのだろう。

 

 調合台の上に上半身を投げ出していたエリーが起き上がり、こちらに寝ぼけ眼で顔を向ける。

 

「おはよー、アリア。どうしたの?」

「ん、ああようやくフラムの最後の一個が完成したんだよ」

「んー、そうなんだー。…………え、本当!?」

 

 緩慢な動きでもう一度寝直そうとしていたエリーが、ガバっと起き上がる。

 猫のように俊敏な動きでアリアの隣まで来たかと思うと、次の瞬間には箱のなかに顔を突っ込まんばかりの勢いで覗きこみ、数を数え始めた。

 

 一度数え終わると、ゆっくり二度確かめた後、エリーは後光が指しているかのごとく顔を輝かせ、アリアに飛びついた。

 

「やったよ、アリア! ようやく、ようやく完成したんだー。良かった、本当に良かった!」

 

 全身で喜びを表現するエリーが落ち着くまで、幾らかの時間を要した。

 アリア自身も見た目にはわかりにくくとも、たしかに喜んでいたので為すがままにしていたということもある。

 

 ゆっくりとアリアに抱きついたエリーが離れた後、アリアはいたずらを思いついた子供の顔で提案した。

 

「さて、ユリアーネ達が来るのを待とうか。どうせなら全員で納品しないか」

「あ、それいいね!あたしは賛成!」

 

 朝もやに包まれた町並みに、少女たちの明るい笑い声が響く。

 

 資金はかなり消耗したが、今回の報酬で充分に黒字となる。

 少し贅沢をして、どうせなら飛翔亭で祝うことにしようと、アリアは思った。ユリアーネ達がどれくらい喜んでくれるかは分からないが、それでも今日くらいは喜びを分かち合ってもいいだろう。

 

 一月間のデスマーチの終わりの日、彼女たちは初めての大仕事を成し遂げたのだ。

 

 

 コンコンと扉を叩く音が聞こえる。

 アリアとエリーは顔を見合わせた。

 

 きっとおそらく、あの扉の外には待ち望んだ人達がいる。

 

「はーい、今開けまーす!」

 

 のうてんきなエリーの声がアトリエ中に響く。

 長い間の修羅場のせいで汚れに汚れたアトリエを見渡しながら、アリアは思った。

 

 まずは、掃除だな、と。

 

 あまりにものんきな思考に、苦笑が漏れる。

 

 まあ、今くらいはいいだろう。

 

 そう自分で自分を許し、アリアは立ち上がった。

 彼女もまたアトリエの入り口へと向かう。

 

 さて、それでは今日を始めるか。

 

 彼女たちは二人でアトリエの扉に手をかけた……。



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第十三話 クラフトと妖精さん

 コンコン、という控えめなノックの音でアリアは目を覚ました。

 

 昨日、ひと月ほどの時間をかけて終わらせた依頼の成功を祝し、ちょっとした慰労会を行なったからかいつもよりも頭が動いていない。

 夜の遅くまでどんちゃん騒ぎをしていたからだ。まだ若年なのでお酒は飲んでいないが、夜更かしをしたので頭が重い。

 

 アリアはのそりとベッドの上から上体だけを起こし、周囲を睥睨(へいげい)した。

 

 物の少ない、良く言えば控えめで落ち着いた、悪く言えば地味で面白みのない内装の見慣れた部屋。女性の部屋らしく見た目は小奇麗に取り繕ってあるが、棚の上にあるきちんと手入れのされた鍛冶道具が異色である。下の棚には、この前興味を惹かれてつい購入してしまった竜の化石と鹿角ナイフがある。

 

 棚にはまっとうに簡単な化粧品も置かれていた。小瓶の中の化粧水はいくらか目減りしており、アリアが定期的にそれを使用していることがわかる。髪を梳く櫛は奮発したのか、庶民のものとしてはちょっとお高めの良い品だ。長年使ってきているのか、飴色に色が変わってきている。

 白粉(おしろい)やら口紅といった身を着飾る化粧品は見当たらないが、いろいろな小道具の存在が女性として最低限の(たしな)みを身につけていることを示していた。

 

 何度も見てきた、見慣れたアリアの寝室だ。

 

 それを寝ぼけ眼でぼーっと見つめながら、さっき聞こえた音を思い起こす。

 

 先ほどの音がお客様の来訪を告げる音だとアリアが気づくのに、たっぷり数秒の時を要した。

 

「しまった……」

 

 外を窓から見てみると、もうすでに日が高い。

 いつもなら朝の家事を終わらせ、調合や勉強に取り掛かっている時間だ。お客様が訪れるのにも良い時間帯である。

 

 完璧な、寝過ごしだ。

 

 慌てて起き上がると、階下からもう一度コンコンと扉を叩く音がする。

 

 催促する音に「ただ今参ります!」とひと声かけて、アリアは手早く身づくろいをする。

 お客様をおまたせするのはダメだが、見苦しい格好で出て行くのはもっとダメだ。

 

 最低限の身なりを整え、急いで――外見上はとても急いでいるようには見えなかったが。今日も鉄壁の鉄面皮は健在である――入口の扉を開ける。

 

「おまたせいたしまして申し訳ございません。ご用件は…………おや?」

 

 扉の向こうにいるであろう、と当たりをつけていたお客様の姿が見当たらない。

 首を左右に振って見回すが、どうにもこうにもそれらしい人影も見つからない。

 

 まさかイタズラか、とアリアが思い始めたその時だった。

 

「お姉さん、こっちこっち」

 

 子供らしい可愛らしい声が、アリアの眼下から聞こえた。

 ようやくアリアが目線を下に下げると――。

 

「あ、やっと見てくれたね、お姉さん。僕の名前はポックス。今日はね、お姉さんに贈り物があって来たんだ」

「………………はぁ?」

 

 そこにいたのは、緑色の服を着た四、五歳程度の子供。

 

 これがアリアと自らを「妖精さん」と名乗る一族との初対面であった。

 

 

 

 

 

 

 

 それを指先で弾くとカチーン、と金属特有の高い音が鳴った。

 けれど、触ってみるとその質感は金属というよりも、木のそれに等しくどことなく暖かみがある。

 

 不思議な腕輪である。

 

 あの子供から「妖精さんの腕輪」として渡されたそれは、アリアの知るどの金属にも当てはまらない特徴を持っていた。

 もしかしたら、何かの木材なのかもしれないが金属のような木などアリアの知識にはない。

 

「妖精さん」、それはアリアも名前だけなら知っていた。

 人間の仕事の手伝いをしてくれるという妖精さん。雇うのにお金はかかるが、その仕事量は小さな背丈の割に大人顔負けのものだという。腕が未熟な者もいるが、その分賃金は破格とのことだ。

 

 あのぱっと見では人間の子供が物珍しい服を着ているようにしか見えない存在が「妖精さん」だとはにわかには信じがたいが、この腕輪を見ていたら信じてみたくなってくるから不思議である。

 アリアは大まじめに頷いた。

 

 地図を広げてみるとザールブルグの南東に、まだ乾ききっていないインクで丸が書かれていた。

 この丸の場所が「妖精さん」がアリアに告げた妖精の森の場所だ。

 そこに行けば、妖精さんを雇うことができるらしい。

 

(人手、か……)

 

 ちょっと考えれば分かることだ。最近は仕事も増えてきて、先日などひと月でフラム三十個という大型取引を行う羽目となった。あれはまったくもって想像の範囲外ではあったが、これからどんな依頼がやってくるかわからない。

 王室騎士隊からの依頼をこなしたということで名声も少しは広まっただろうし、大口の取引もこれから増えるだろう。万々歳ではあるが、その分人手を増やさないといつかやってくる仕事に対処できなくなるだろう。

 

 今ですら家事と調合の両立がけっこう大変なのだ。

 今回の訪問は良い奇貨と言えるかもしれない。

 

 都合の良いことに、すでに月は四月を数えている。

 今日から王室騎士隊がザールブルグで討伐隊を盛大に繰り広げる。今日からひと月は女子供一人で街道を歩いていても、ほとんど危険らしい危険はないだろう。

 

 まあ、撃ち漏らしの魔物がいたら大変なので護衛はつけるが。

 魔法が使えるといえど、アリアは戦闘に関して一素人にすぎない。自分の実力を過信するのはあまりにも怖すぎた。

 

 慎重さというのは、結局のところ臆病さと紙一重なのだ。

 アリアはそれを実感と共に知っていた。

 

「はてさて、さてはて。そうと決めたなら、準備するとしようか」

 

 どうせなら準備は完璧なものとしたい。

 完全に完璧は不可能だが、完璧に近づけることは可能だ。そのためには努力をすればいい。手段も道具もアリアのアトリエには何もかもがきっちり揃っている。

 

 帳簿を確認すれば材料も余っている。素晴らしい、まったくもって素晴らしい。

 

「まずは調合、だな」

 

 昨日までフラムの調合を鬼気迫る勢いで行なっていたくせに、今日もアリアは嬉々としてアトリエに立つ。その姿は、もはやすでに一端の錬金術士と言えた。

 

 

 

 今回調合するのは木の実爆弾ことクラフトだ。

 これはフラムと同じく「火薬のしくみ」という参考書に載っていた調合品で、フラムよりも簡易な爆弾である。

 

 材料も近くの森に行けばいくらでも採ることの出来るニューズ。このニューズという木の実が少し厄介で、少し衝撃を与えるだけで弾け飛び、刺を飛ばすのだ。ニューズ単体なら威力も弱いのでそこまで深い傷はできないが、痛いものは痛い。

 自分の身の安全に直結するので、調合するときは慎重に行わねばならない。

 

 まずニューズの針の部分を全て切り落とす。この針はまた後で使うので、大切に残しておく。

 針を全部取り終わったら、皮の部分に切れ込みを入れ中の果肉と種を取り除く。種は使わないので捨てておく。大切なのは果肉の部分だ。

 

 この果肉は熟していくと腐ってもいないのに実がやせ細り、針や種を飛ばすためのガスを発するようになる。ただし腐るとなぜかガスを発さない。

 腐っていない証として、熟してやせ細った果肉を食べても腐ったもの特有の酸っぱい味はしないし、腹も壊さない。その代わり青臭い上に味自体はほとんど無味に近いので、まっとうな感性を持つ人間ならとてもではないが食べられた味ではない。

 

 この果肉を魔力を混ぜながら乳鉢で潰しそのまま置いておくと、加工しないものよりも大量のガスを発するようになる。最終的に潰した果肉は全部消え去り、跡形も残らない。加工しない果肉だとカスはいくらか残るので、加えた魔力が何らかの反応を引き起こしているのだろう。

 

 参考書を見てみると、なぜこのような現象が起こるのか、具体的な理論は載っていない。

 魔力をニューズの果肉に混ぜると、ニューズ内のガスを生成する成分が過剰反応し、本来なら残るような果肉すらも原料としてガスを作り出すのではないか、と記述されている。

 

 つまり殆ど仮説の域を出ない推論でしかない、ということだ。

 錬金術はそういうことがかなり多い。できることが多すぎて、それの原因が何なのか、何がもとでそんな反応が起こるのか、理論がわからないまま放置している部分があまりにも多い。

 

 喉元に小骨かなにかが引っ掛かったような感覚がする。

 仕方がないとはいえ、わからないものをわからないまま放置するというのはあまり気分が良いものではない。

 

 だが、今のアリアでは教科書に載っていることをそのまま使用することしかできない。なぜそうなるのか、理論を調べようにも何から手を付けるべきなのか一歩目から皆目検討もつかないからだ。

 手当たり次第に調べてみる、という方法もあるがこれは論外だ。アリア程度が思いつくようなものなら、アカデミーの先生方が試していないはずがない。

 

 つまり、調べてみても徒労に終わる可能性が高すぎる。そんなものに時間を割いている余裕などありはしない。

 

 必然、調合に集中するしかない。

 フラムほどではないが、クラフトも危険性の高い調合品だ。集中するにこしたことはない。

 

 丈夫だが小さな皮の袋に切った針を詰めていく。

 隙間には先ほど潰した果肉を塗り固める。隙間なく詰め込み、針が動かないよう固定出来れば半分出来上がりだ。

 

 あとはこれを日向において果肉の反応を進めれば完成だが、丈夫な皮の袋といえど、針の位置に気をつけなければガスで押し出されて突き破る可能性がある。

 袋に穴が空けばそこからガスが漏れ出てしまい、とてもではないが使い物にはならない。つまりは失敗だ。

 

 そんな事にはならないよう針の位置に気をつけて組み立てていけば、五個中四個は無事に完成した。一つだけ針が袋を突き破ってしまったが、まあ初めての調合で失敗が五個中一個なら及第点だ。

 針の詰め方のコツはもう覚えたし、次からは全部成功させることも夢ではないだろう。

 

 ツンツンと針の形に膨らんだ袋を箱に入れて棚に置いておく。誤爆しないように間に綿を詰めて保管することにした。

 

 

 

 

 旅という行為は大なり小なり人に開放感をもたらす。

 未知の土地に未知の風景。そこにどこまでも高い、手の届かない青空が広がれば完璧だ。

 未知は自らの狭い価値観を打ち崩し、透けるような青空は視覚を通じて自分を縛るものなどないことを教えてくれる。

 

 たとえ数日間だけの短いものでも、旅というものはなかなか快いものだ、とアリアは気に入っていた。

 

「あー、気持ちのよい青空だねぇ。昼寝とかに丁度よさそうだ」

 

 脳天気なことを木の抜けた声でのたまってくれるのはザシャであった。

 今回の旅――妖精の森までの道の護衛としてアリアが雇った唯一の人間である。

 

 今回の旅は四月ということもあり、しっかりかっちり冒険者を雇う必要はない。

 一人もいれば十分だが、何が起こるかわからない以上ある程度の腕利きは確保したい。できるだけ安い値段で。

 

 そうしたわがままな条件を兼ね備えたのが、ザシャであった。

 剣の腕前は前回の冒険でとくと教えてもらったし、雇用費も腕に見合わず破格のお値段だ。ザシャが個人的にアリアに対して恩義を感じているのもあるが、まだ冒険者になってから日が浅く実績も少ないので高い賃金を要求すると誰にも雇ってもらえないのだ。

 

 あまりにも安い値段にアリアですら少し色を付けてやろうか、と考えたほどだ。

 けれども、それはザシャによって拒否をされた。一度決めた値段を不当に吊り上げる気はない、と。

 

 そして「どうせ色を付けてくれるんなら、働きぶりを見てから決めてほしいね」と不敵に笑う姿に呆れながらも同意したのだった。

 

 まあ、それだけ自分の腕に自負があるのなら、それはそれで構わない。口先だけじゃない実を伴った自信は、見ていてなんとも快い。

 純朴そうな見た目の割りに、中身は存外しっかりしたものを持っている、とアリアはザシャの評価を新たにした。

 

「残念ですが昼寝をしている時間はありませんよ。できるだけ今日中に距離を稼いでおきたいですし……」

「いやぁ、本気じゃないから。さすがに魔物が普通に出るような場所で寝っ転がるほどのんきもんじゃないからね」

「そんなことをするようなら頭の中身を疑います。おが屑でも詰めておいたほうがまだましでは?」

「はは、まったくもってその通りだ」

 

 カラカラと笑う顔に影は欠片も見当たらない。

 脳天気に締りのない顔をだらしなく破顔させている。

 しかしながら、その笑い方が素朴な顔形をしているザシャにはこの上なく似合っていた。

 

「ま、寝るなら夜だ。それより今は腹いっぱい食べることのほうが重要だな」

「携帯食料だけでは足りませんか?」

 

 そう尋ねると、ザシャは大きく頷いた。

 

「うん、足らないな。だから鹿でも兎でも何でもいいから出てきて欲しいもんだよ。獲物は大事な食料だしね」

「猪や熊が出てきたら?」

「そいつはちょっと厄介だな。狩れないことはないけど、君を守りながらやるのは骨が折れそうだ。戦わなきゃいけない状況ならまだしも、今日のところは君を抱えてケツまくって逃げたほうが良さそうだ」

「おや、私はお荷物になればよろしいので?」

 

 荷物のように肩で担ぎ上げられるさまを想像してアリアが一言のたまった。

 それに返すは「当然だろ」とでも言いたげなザシャの顔。

 

「だってそっちの方が速いだろう?」

 

 それ以外に重要な事柄など無い、と真面目くさった顔でザシャは宣言した。

 

 たしかにその通りである。

 前回雇った時の動きを思い出せばすぐに分かることだ。

 

 あの脚さばきに速さ。どう考えても、アリアに真似できるものではない。下手に競争なんぞすれば、あっという間にその背中を見失うことだろう。

 

「そうですね。私ではあなたの足の速さには勝てませんから」

「そりゃあ冒険者なんてヤクザな商売をやってる人間だからね。一般人に身体能力で劣ってちゃあ食ってなんていけないよ」

「おやおや、もう何度も外で採取活動をしている私が一般人ですか……」

「違うのかい?」

 

 答えがわかりきっている問いを尋ねるかのようにザシャが聞いてくる。

 まったく――。

 

「違いませんね」

 

 まったくもってその通り。いくら旅慣れたとはいえ、一般人とそう大差のない身体能力しかアリアは持っていない。

 冒険時には彼のように戦い慣れたものの力を借り受けなくてはいけない。

 

「ですので今回は頼りにさせて頂きます。まあ、四月ですのでそうたいした危険性はないと思いますが、せっかくお金を出して雇ったのですから賃金分は働いて頂きます」

「はいはい。この程度のお金じゃ足りない、って君が思うくらいの働きをお見せいたしますよ。それでいいかい?」

 

 少し気取ったふうに会釈をするザシャを見て、アリアの口角が僅かに上る。

 よろしい。ならばそれが口だけではないところを見せていただこうではないか。

 

「上等です。私の評価は辛口ですので、厳しい結果に終わっても泣かないでくださいね」

「泣かない泣かない。おれだって男の子だしさ、きっついこと言われてもそれを次に活かす糧にしてやる、くらいの気概はあるよ」

「おやおや、それなら手心はいらないというわけですね」

「手心なんて加える気があったのかい? その時点で疑問なんだけどさ……とっ!」

 

 一閃。

 

 流れるような動作でザシャが腰に指していた小ぶりのナイフを、茂みの中へと投げつけた。

 茂みを揺らした音で驚いたのか、近くに潜んでいたトリたちが一斉に空へと飛び立った。

 

 何をしたのか、アリアは一瞬わからなかった。

 ガサガサと藪をかき分けザシャが茂みの中に屈みこんだことで、ようやくそこに何かいたことがわかった。

 

 屈みこんでいたザシャが、右手に何やら白いものを持ち、こちらに手を振る。

 

「おーい、今日のご飯が増えたよ―!」

 

 彼の右手に掴まれた白い塊、それは頭にナイフが刺さった一匹の兎であった。

 

 呆気にとられ、アリアは目を丸くする。

 一体いつ兎の存在に気づいたのか。

 

 手際よく首の血管を切り、血抜きをするザシャ。

 木の棒に両足を括りつけて吊り下げる手つきにもまったく淀みがない。慣れているのだ。

 

「まったく、宣言した直後にコレですか……」

「ははは、まあどうだい。おれの働きっぷりは?」

 

 ニカッと大口を開けてザシャは笑った。

 そんな邪気のない姿に、アリアは呆れて何も文句をつけることもできない。

 

 溜息一つ。

 

 仕方がない。

 

「ええ、そうですね。褒めて差し上げます。これでよろしいですか?」

「ああ、うん。十分だ。その言葉だけで十分すぎるほどだよ」

「それはそれは。恐悦至極」

 

 まったくもって、安い男である。

 この程度の言葉で満足するなど、もう少し要求しても良いというのに。

 

 けれどその喜色で溢れた顔が、彼の話す言葉が嘘偽りのないものだということを何よりも雄弁に語りかけてくる。

 

(欲のない人間だ……)

 

 実績には正当な評価を下せねばならない。

 相手の働きにきちんと報いてやらねば、いつか自分に跳ね返ってくるものだ。

 よく言うではないか、「正直は最善の策」と。下手に理屈をこねくり回して一時の利益を得ても、長期的に見れば自分の信用を切り崩して売っぱらっているにすぎない。

 それなら信用の貯蓄をして、いざというときにつぎ込んだほうがよほどましだ。貯蓄とはそういうものだ。

 

 だから……。

 

(今回の旅が無事にすんだら、少しは賃金におまけを付けてあげよう。もちろん、狩りで獲物をとってくることは必須だがね)

 

 毎回はさすがに無理だろうが、少しは期待させてもらっても良いだろう。

 自分の考えに、アリアは口元を隠しながらほくそ笑むのであった。

 

 

 

 

 本当に豊かな森とは、物語にある魔の森のように鬱蒼と木が生い茂り、人も動物もすべてを飲み込み自らの養分とする不吉で不穏なもの、――ではない。

 

 木々は麗しく天へと伸び、その薄い翡翠色の葉の隙間から木漏れ日が降り注ぐ。

 土色のたくましい根本からは赤・黄・白といった色とりどりの花々が慎ましく咲きほころび、人の目を楽しませる。

 時折聞こえてくる木を叩く音は啄木鳥であろうか。忙しなく木を突っついているのか、ココココッとくちばしを木に打ち付ける音が止むことはない。

 

 うららかで気持ちのよい森だ。

 ザールブルグに近ければお弁当をもってピクニックと洒落こむのも楽しそうだが、この森まで片道四日分も離れている。とてもではないが小洒落たピクニックなんてできやしない。

 

 アリア達がたどり着いた妖精の森。それは、街から離れているからこそ自然の美しさを残したまま保たれた神秘の森なのかもしれない。

 

「はてさて、さてはて。地図上ではもうすでに目的地にありますが、妖精さんとやらはどこにいるのでしょうか。あなたは知りませんか?」

「いやあ、おれもここに来たのは初めてだからね。さすがにわからないなぁ」

 

 頭を掻きながらのたまうザシャ。

 最初から期待はしていなかったが、身勝手ながら少しだけ落胆する。

 

「それは残念。非効率的ではありますが、探して歩きまわるしかないでしょうね」

「ま、散歩にはちょうど良さそうな森だし、たまにはのんびりするのもいいんじゃないかな」

「貧乏暇なしとも言いますからね。今まであなたにはまともな休日はありましたか?」

「聞かないで……。お願い……」

 

 貧乏暇なしだったのはアリアも同じだが、それを教えず一方的にからかってやる。

 大の大人が肩を落としてとぼとぼと歩く姿はどことなく哀愁ただようものがある。見ていて笑える、となにか意地悪な気持ちが沸き起こる。

 

 それを振り払うように、アリアは言葉を紡いだ。

 

「まあ、そんなどうでもいいことは横に置いておいて、今は妖精さんを探さなくては。呼べば出てくるでしょうか?」

「妖精さーん! てかい?」

「はーい!!」

 

 すぐそばから聞こえてきた幼い声に驚く。

 二人は声の方向に――自らの足元に目を向けると、そこには緑色の服を着た四、五歳程度の子どもがいた。

 

 アリアは知っている。彼が妖精さんだと。

 

「ポックス?」

 

 なぜなら、彼女のアトリエにやってきた妖精さんと名乗った子どもとまったくの瓜二つだったからだ。

 

「ざーんねん! 僕の名前はピピン。人間さんは本当に僕らの見分けがつかないんだねぇ」

「人違い――いやこの場合は妖精さん違いでしたか。礼を失した振る舞い失礼しました」

「いいよ、いいよ。そんな馬鹿丁寧にしなくても。僕らはそんなことでいちいち目くじらを立てるほど狭量じゃないよ」

 

 子供な外見に似合わず難しい言葉を知っている。

 こんな森奥深くに一人でいることといい、この言動といい、ただの子供ではありえない。

 

 認めようか、この小人にように見える生き物は本当の「妖精さん」であると。

 

「お姉さんその腕輪はポックスからもらったんだよね? ならいいよ。僕が案内してあげる」

「それはそれご丁寧に。ではどこに案内していただけるので?」

 

 腰に手を当て、その妖精さんは大人ぶって答えた。

 

「もちろん、僕らの長老様のところに、だよ!」

 

 

 

 

「大きいなぁ~」

 

 気の抜けたザシャの声。けれどこの時アリアは内心素直に同意していた。

 

 それは見たこともないほど大きな木であった。

 胴回りは大人五人分はあるだろうか。幹には幾つものツタが絡まり、緑のカーテンとなって茶色の樹皮を彩っている。

 

 たくましい枝ぶりが地上からもよく見える。

 翡翠細工のように美しい緑の葉は風にそよぎ、さやさやと優しい音楽を奏でている。

 

「いらっしゃいお客人。今日はなんの用で来られたかな?」

 

 年老いたしゃがれ声をかけられたのは、威風堂々とした大木に目を奪われている時だった。

 

 声はアリアの足元から聞こえてきた。

 目を向けると背丈は四、五歳の子供程度だが、豊かな白髭をもつ年老いた翁が杖をついてそこに立っていた。

 

「あなたが妖精さんの長老様ですか?」

「いかにも。そういうあんたはどなただね?」

「これは失礼いたしました。ザールブルグのレイアリア・テークリッヒと申します。こちらの青年はザシャ・プレヒト。私の護衛です」

「ザシャ・プレヒトです。えっと、よろしくお願いします」

 

 二人同時に頭を下げると、長老はふむふむと頷き、白髭をなでつけるように手で触れた。

 

「レイアリア殿にザシャ殿か。それで、今日はなんの用で来られたのかのう?」

「はい、こちらで妖精さんを雇うことができると聞きましたので、私の調合を手伝って頂きたいと思いここまでやって参りました」

「ふむ、なるほどのう。でしたら――ピピンや。今この森にいる働き手たちを呼んできておくれ」

「はーい、長老様ー!」

 

 長老の言葉に従い、ピピンと呼ばれた妖精さんが森の木立の中へと消えていく。

 

 とても足が速い。

 

 まるで風のように馳せる。

 

 ピピンが他の妖精さんを連れて戻ってくるまで、いくらも時間はかからなかった。

 

「さて誰を雇うのかのう。今この森にいるのはここにいる八人だけじゃ」

 

 そう言って長老が指をさすのは色とりどりの服を着た八人の妖精さん達。

 

 紺色、青色、緑色、黄色、橙色、赤色、茶色、黒色といったなんとも目に鮮やかな色合の服装をしている。

 

「仕事の力量ごとに切る服が決まっておってのう。俺等妖精さん一族の中でも優秀なものは紺色の服を、逆にまだまだ腕が未熟なものは黒色の服を着ることになっておるんじゃ。もちろん、かかる賃金も力量相応のものをもらうぞい。さて、お前さんは誰を雇うかのう?」

「なるほど」

 

 そう言われて少し悩む。

 妖精さんにランク付けがあることまでは知らなかったので、誰を雇うかなどは考えてもいなかった。

 

 じっと妖精さんたちを見つめると、ランクの高い妖精さんはこちらを見返すように胸を張り、ランクの低い妖精さんほどおどおどと自信無さげにこちら覗き見てくる。

 

「雇っている間に妖精さんのランクが上がることはあるのですか?」

「もちろんじゃ。一定の成果を上げた者は随時地位を上げていくことになっておる。ああ、じゃが安心しておくれ、雇っている途中で妖精さんのランクが上がっても、払う賃金は変わらんぞい。未熟な者をそこまで育ててくれたお礼というやつじゃ」

 

 ふむ、とアリアは顎に手を当て考え込んだ。

 幾らかの時を経て彼女は顔を上げ、迷いなく八人の中から二人を選び出した。

 

「では、この二人を雇わせて頂きます。よろしいですね」

「うむ、かまわんよ。では、またおいで」

「ええ、またいつか寄らせていただきます」

 

 アリアが選んだ二人は紺色と黒色の服を着た妖精さんであった。

 

「あなた方お二人の名は?」

「僕の名前はピコ。僕を選ぶとはお姉さんもお目が高いね!」

「ええっと、ぼ、ぼくの名前はポポロっていいます! こ、これからよろしくお願い致します」

 

 堂々として軽口を叩く余裕すらあるピコに、色々と一杯一杯なポポロ。

 まったくもって対照的な二人だ。

 

「そういや、なんでこの子たち二人を選んだんだい?」

 

 余計な口を出さないよう先程まで黙りこくっていたザシャが疑問を口に出す。

 

「一言で言えば期待できるからです」

「え?」

 

 期待という単語に疑問を抱いたのか、ポポロがつい声を出してしまう。

 それを黙殺して、アリアは一方的に言葉を紡いだ。

 

「ええ、ピコは私の助手として働いてくれることを期待しています。私一人では手が回らない時に仕事の一部を任せられる人材としてピコを選びました」

 

 そこまで説明すると、えっへんとピコがアリアの足元で胸を張った。

 そこまで言われたからには役割を全うしようという意志が感じられる。

 

「ポポロは賃金が安いということもありますが、一番は将来性への期待です。一番ランクが下ということは成長の余地が一番あるということですから。頑張ってできるところまで育て上げて見せますよ」

「それは、けっこう大変だよ」

「望むところです」

 

 ポポロがどれだけ上にいけるかわからないが、それは全部アリアの責任だ。

 人一人――この場合は妖精さん一人か――預かる以上、全力を出すのが礼儀というものだ。

 

 アリアの言葉が何をもたらしたのか、ポポロはじっとアリアを見上げて目線を外さない。

 先程までのおどおどとした様子が嘘のようだ。

 

 まあ、呆然としているだけなのだが、目線を逸らされるよりはよほどましだ。

 

「さて、帰りましょうか。いえ、違いますね。この場合はこう言うべきだ」

 

 硬い表情を緩ませて、彼女はゆるゆると笑みの形を作った。

 

「私のアトリエにようこそ。小さな妖精さん達」

 

 それは確かに彼女が紡いだ歓迎の言葉。

 身内として招き入れることへの宣言であった。

 

 彼女の優しく微笑んだ姿を、ただ三人だけが見ていた。

 

 

 数日後、アリアのアトリエで二人の妖精さんが働く姿が見られるようになったという。

 彼らの服の色は紺色と黒色。

 彼らの姿はアリアのアトリエが閉められるその時まで、ずっとそこにあった。アリアがいなくなるその時まで、彼らはアリアとともに時を過ごしたと言われている。



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第十四話 ハーブティーとスミレのシロップ

 このお話の中ではザラメ=粗糖を使った赤ザラメでお願い致します。
 ザラメ(白双糖)や黄ザラメ(中ザラ)はすでに精製されているもので、世界観やこのお話にはちょっと合わないので;

 今回はオリジナル調合回です。
 とはいえ、原作のオリジナル調合とはまた別物です。ゲームのオリジナル調合はまた別のお話で詳しく説明するつもりなので、そういう認識でよろしくお願い致します。


 最近のアリアの朝食は少し豪華だ。

 

 少し前までならパン一切れに焼いたチーズを乗せて終わり。たまに果物で作ったジャムや、飲み物に朝市で買ったミルクが付く程度だった。

 

 金が無い時はオーツ麦の粥の粥で腹を膨らませたこともあった。

 このオーツ麦の粥だが、あんまり美味しくはない。本当に空腹を避ける、程度の価値しかない。

 ある程度手をかければ美味しくなるのだが、金がない時にそんな手がかけられるかというと、推して知るべしというやつである。

 

 更に金がいない時は、ベルグラド芋を焼くか蒸すかしてそのまま丸かじりだ。

 あれはあんまりにもあんまりすぎる貧弱な食事であった。

 

 もう、二度と、やりたくはない。

 

 けれども、また調合に失敗する日が続けば、嫌でも繰り返すこととなる。材料が無駄になるし、その分経費がかかるからだ。

 調合にも気合が入るというものだ。

 

 貧弱な食生活を続けていると気力が萎えるし、食事という楽しみが苦痛に変わる。栄養摂取の機会を楽しみではなく義務に変えると、食べること自体が面倒になるし、食べる量も減る。そうなると健康にも影響が出てくる。

 

 なんという悪循環。

 

 この悪しき螺旋から抜け出すためにも、日々の食事というものは量だけではなく質も考えなくてはいけない。というのがアリアの持論である。

 

 まあ、アリアはその許容出来る最低限の範囲が広いからか、ベルグラド芋一個という情けないにも程がある食事に耐えられたのだが……。

 

 けれど、粗食に耐えられるからといってアリアの舌が貧しいわけではない。

 むしろ料理の腕前を考えると彼女の舌は、なるほど確かなものだ。

 

 面倒だから適度に手を抜くだけで、美味しいものが食べられるのならそちらのほうが良いに決まっている。

 

 だからか最近のアリアは、少し機嫌がいい。

 食いざかりの子供が増えたからか、手を抜くのも何やらしのびなく、必然的に料理に割く労力が増えている。

 面倒ではあるが、自分の作った料理を他人が食べるとなると張り合いが出てくるというものだ。一人だとどうしても労力の面で手を抜いてしまうのだが、他の人間がいると、手を抜いた料理など出して落胆させたくはない、という欲望が出てくる。

 

 その分、材料費も高くつくようになったが、まあ許容範囲だ。調理の仕方と生ゴミの再利用を駆使して、材料は限界ギリギリまで使っているため、高く付くようになったとはいえいきなり食費が二倍三倍になったわけではない。

 

 さて、今日も美味しいご飯を作ってあげるとするかね、とアリアは朝の太陽に背を向けた。

 

 

 

 

 

 

 アトリエは以前に比べてだいぶ賑やかになった。

 アリア以外の住人が増えたからだ。

 

 お手伝い妖精のピコとポポロ。

 見た目は子供。性格もまた子供な彼らは、いるだけでアトリエの雰囲気を明るくする不思議な存在感を持っていた。

 

 子供に甘くなる人間は多いが、アリアもまた大多数に属する人間であった。

 どうにもこうにも、あの妖精さんたちに甘い自分がいて困ってしまう。

 一番の難点は、それを改める気が全くない自分自身だ。

 

 今日も今日とて、朝から気合を入れて朝食作りである。

 

 卵に小麦粉に、高いシャリオミルクの代わりたる牛のお乳。全部混ぜてパンケーキの生地を作る。 卵で黄色がかった生地はさらりさらり、とへらから落ちる。甘みのない少しとろみが付いた程度のゆるい生地だが、これで十分。

 

 生地は横においておいて、先によーく燻した薄切りの豚の燻製肉を炒める。

 香りづけにはズユース草をひとつまみ。清々しさの中に仄かに香る甘やかさが火の熱で立ち昇る。

 独特の舌を刺激する辛味と僅かな渋みが肉にとても良く合うハーブだ。

 

 軽く炒めてハーブの香りが肉に移ったところで、生地を投入する。

 黄色い生地にふつふつ、と穴が空いてきたところでひっくり返せば、綺麗な狐色に焼き上がっていた。

 

 良い出来だ、とアリアは自画自賛する。

 

 焼きあがったパンケーキを三等分にして皿に盛り付けると、焼けた肉の脂の香りとアクセントに混ぜたズユース草の芳香が鼻をひくつかせる。

 

 食欲をそそる素晴らしい香りだ。

 これはなら味にも期待できるだろう、と思うが、味見もせずに他人に料理を出す趣味はない。

 端の方を一口分ちぎり、自らの口の中へとアリアが入れようとしたその時だった。

 

「うわぁ、それが今日のご飯? 相変わらず美味しそうだねぇ」

 

 子供らしい透けるような高い声が、アリアの足元から聞こえてきた。

 

 一体いつの間に来たのであろうか。まったく気づかなかったアリアは少し驚き、目を丸く見開いた。

 

 平静を装い、首を床の方へと傾ければそこには紺色の服をした子どもと黒色の服をした子どもが二人。よく似た色合いの服装に、双子のようにそっくりな顔立ち。

 だが紺色の服を着た子供は白色の肌に焦げ茶色の髪、黒色の服を着た子供は少し日に焼けた飴色の肌に白髪と、服以外の色合いはなんとも対照的だ。

 

 やれやれ、とピコ――紺色の服を着た妖精さん――が首をすくめた。

 

「お姉さんノリが悪いよー。もう少しくらい驚いてくれてもいいのにさ」

 

 ちぇ、とどこか残念そうに、けれどもどこか楽しげにこちらをうかがう姿は、まさしく生意気盛りの子供といった風情だ。

 

 しっかりと驚いていたのだが、動きの悪い表情筋のおかげかピコにはこちらの驚愕が伝わっていなかったようだ。

 

 良いことである。

 どうもこのピコという妖精さんは、人が弱みを見せるとそこにつけこんでからかう悪癖がある。子供らしい可愛らしい稚気に溢れたものばかりではあるが、大人として雇用主として情けない姿は見せられない。

 

 隙を隠せるのならそれにこしたことはない。

 

「ぴ、ピコ、お姉さんをからかっちゃダメだよ……」

 

 弱気な声で反論するのは黒服のポポロだ。

 

 声にも態度にも迫力のはの字もないが、精一杯肩を怒らせて上位者に反論する姿は健気ですらある。

 思わず頭を撫でたくなるほどの可愛らしさだが、そこをぐっとこらえて表情を取り繕う。雇用主が雇ったものに対してデレデレしていてはいけない。

 

「ポポロ、私は気にしていない。それよりもナイフとフォークを出しておくれ。冷めるとまずくなってしまう」

「あ、はい……」

「はいはーい。もう用意してるよ―!」

 

 ポポロの返事を遮るように、ピコが元気よく大きな声を上げた。

 その手には三人分のナイフとフォーク。

 

 まったくもって用意の良いことだ。

 感激するほどだ。

 

 けれどポポロにとってはそうではない。

 せっかく与えられた仕事――お手伝い程度の軽いものだが――を横からかっさらわれたのだ。

 がっくし、と肩を落としている。

 

 まったくもって、からかうのはいいが度が過ぎるのはいけない。

 ピコにとってポポロは体の良いからかい相手のようだが、あまりからかいすぎるとそれはもういじめだ。

 

 今はまだ微笑ましいレベルだが、将来的には程度というものを教えないといけないな、とアリアは思った。

 

 自分の思考回路に思い至り、アリアはなんとなく憮然とする。

 

 これはもう、子供を持った母親みたいではないか。

 まだまだそんな歳ではないのだがなぁ。

 

 アリアは額を手のひらで抑えるのだった。

 

 

 

 朝食のパンケーキはなかなかうまくできていた。

 味付けのない薄いパンケーキに、濃い塩味の燻製肉はよく合っており、いくらでも食べられそうなほどだ。

 

 柔らかいパンケーキに、香ばしく炒めた燻製肉。パンケーキの生地には燻製肉の脂が染みこんでおり、噛めば噛むほど旨味が口の中に溢れてくる。肉の弾力も歯に心地よく、噛むのが楽しいほどだ。

 もともと臭みの少なかった豚肉だったというのもあるだろうが、一緒に合わせたズユース草が肉の臭みを切れに吹き飛ばしており、一口食べるごとに甘みを含んだ爽やかな香りが口中を駆け抜ける。

 加えてズユース草のかすかな渋みが、単調になりがちなパンケーキの味をキリリと締めており、程よいアクセントとなっている。

 

 アリアだけではなく、ピコとポポロも夢中になって食べていた。

 美味しいという言葉だけではなく、そうした態度で伝わるものもある。下手なお世辞よりも、嬉しいものだ、と朝食を終えたアリアは、遠心分離器を回しながら顔色を変えずにほくそ笑む。

 

「お姉さん、何をしているの?」

「ん? ああ、これはザラメを精製しているのだよ」

 

 ピコがアリアの手元を覗き込みながら尋ねる。

 その手に持つのは緑がみずみずしい魔法の草。先ほどアリアが頼んだ中和剤(緑)を作っているのだ。

 

 ちなみにポポロには、ヘーベル湖でヘーベル湖の水を採取してくるように頼んだ。

 帰ってくるのは七日後になるという。

 帰ってきた時にはポポロの好きなものを夕飯にしてあげようと、アリアは脳内で計画を立てる。

 

「ふーん、わざわざ精製するんだぁ」

「今回の依頼で必要なのでね。甘いお菓子で色合いも美しく、となるとザラメを白く精製しなくては色が濁ってしまう」

 

 乳鉢で砕いたザラメを温水に溶かすと、少し茶色に色づいた液体が出来上がる。

 この温水で溶かしたザラメを遠心分離機にかけ不純物を取り除くと、色のなくなった透明な砂糖水が出てくる。

 

 これを乾かすと、白く美しい砂糖が出来上がるのだ。

 

「最低でも明日までは乾ききらないな」

「ふーん、じゃあこれからどうするの? 休む?」

 

 ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべるピコ。

 

「まさか。そんな時間を溝に捨てるようなことを私がするとでも?」

「えー、いつも頑張り通しじゃあ疲れちゃわない?」

「ご安心を。これでも体力には自信があるし、適度な休息もとっている。まだまだやることが多いこの時期に休んでいる暇はないというだけのこと」

 

 そう言ってアリアが倉庫から取り出してきたのは、緑の葉に白い小さな花が可愛らしい香草――ミスティカ。それと白い花びらの中心に黄色い小花が集まってできた可憐な花――カモミールだ。

 

 葉を破らないよう細心の注意を払いながら、茎から葉柄をちぎり、葉だけをザルの中へと集めていく。

 ちぎり、葉の汁が溢れるたびに清涼感のあるミスティカ独特の香りが辺り一面に広がる。

 

 この葉を一口食べてみれば、胸がすくような特徴のある香りが鼻から喉へと通って行く。

 これがミスティカの特徴なのだが、少し刺激が強すぎるのかよく使われるハーブの割に苦手という人が割合存在していた。

 

 なんでも食べる良い子なアリアは、ミスティカを使った料理も気にせず食べることができる。

 あの独特な芳香も、慣れれば癖になるというものだ。

 

 玉ねぎとバターで味を整えたミスティカソースをたっぷりかけた鶏肉のソテー。これは、なかなか乙な味である。

 今日の夕飯はこれにしよう、と考えながらアリアは一山分のミスティカをちぎり終えた。

 

 次はカモミールで、これは花の部分のみを一山分とる。

 リンゴのような甘やかな香りがなんとも特徴的だ。

 

 ハーブティーとしても親しまれている花で、特にそのリンゴに近い甘酸っぱい香りが女性には大人気だ。少し早咲きのそれは、少し味が薄いがそのかわりに若々しい活力のある匂いをしている。

 

 アリアも女性の例にもれず、カモミールのお茶を好んでいる。

 ただ、甘みがあり穏やかな味わいで飲みやすいのは良いのだが面白みがない。ミスティカを加えると少しさっぱりとした飲み心地のお茶となり、こちらのほうがアリアの好みに合致していた。

 

 このカモミールの花をミスティカと混ぜ込む。

 生花をそのまま淹れたほうがアリアとしては好きなのだが、保存することを考えると一緒に加工してしまったほうが長持ちする。

 

 今度ミスティカの葉を単独で調合した時にでも、カモミールの花を生花で混ぜるとしよう。

 

 カモミールの花をミスティカの葉に満遍なく混ざるよう混ぜながら、そんなことを考えるアリアであった。

 

 緑色のミスティカの葉の間からカモミールの白い花が見える。

 手袋をつけて、ぷにぷにとした感触が面白いぷにぷに玉を取り出した。

 黄色やら桃色やら青色やら、なんとも様々な色をした玉がところ狭しと瓶の中に閉じ込められているが、これを一粒手にとり押しつぶす。 

 ぷにぷにとした弾力があるので、なんとも潰しにくい。だが、一度力を込めて押しつぶすと皮膜が軽く破裂し、中に詰まった液体のようなものが垂れてくる。

 

 これを先ほどちぎったミスティカとカモミールの混ぜ物に満遍なくふりかけ、手でもみこむ。

 すると、驚いたことにみるみるうちにミスティカやカモミールの花から水分が抜け、何日も日の下で干した葉のようにカラカラに乾いていった。

 

 ただ、これでも乾き具合が足らないので、陽気な陽のもとで天日干しを行う。

 半日ほど日で干した後、中和剤(緑)をかけ、それが乾くまでまた日の下で干せば完成となる。

 

 これがミスティカとカモミールのブレンドティーである。

 

 ミスティカの葉単独ならばガッシュの木炭などを使い、特殊な製法で淹れるとミスティカティーと呼ばれる最高級のお茶となる。

 このミスティカの葉はただのお湯で淹れただけでもある程度の味となる。ただ、これだけだと雑味もあるし、ミスティカ特有の鼻にくる清涼感も強いので、苦手な人も一定数存在する。

 それゆえに、ミスティカの葉を基本として他のハーブや果実などを混ぜて飲むことが多い。

 

 まあ、本当に一般庶民がミスティカのお茶を楽しむだけなら、ぷにぷに玉のような高価な品を使い調合する必要はない。せいぜい、葉をちぎって天日干しにしておくだけで十分だ。

 

 ミスティカの葉を調合するのは、ミスティカティーのためだ。どうにも、ミスティカの葉に高純度の魔力が含まれていないと淹れる時に使用するガッシュの木炭などがうまく反応せず、ミスティカティー特有の気品ある香りや湖面に吹き抜ける風の様に爽やかな味わい――ちなみにこれは参考書の原文そのままである。どれだけこの著者はミスティカティーが好きなのか。べた褒めにも程がある――が再現できないらしい。

 ただ干しただけのミスティカでは魔力なんて含まれていないので、どれだけ頑張ってもミスティカティーを淹れることは不可能、ということだ。

 

 ちなみに今回調合した茶葉も似たようなものだ。

 このミスティカとカモミールのブレンドハーブティーは、ぷにぷに玉と中和剤(緑)を加えて調合したことにより茶葉に魔力が含まれている。

 しかし、どれだけ茶葉に魔力が含まれていても意味が無い。どうにもこうにも、カモミールとガッシュの木炭の相性が悪いのだ。下手にミスティカティー同じ淹れ方をしても、味や香りをぶち壊してしまうだけで、とてもではないが美味しいとはいえない代物となってしまうらしい。

 大半のハーブや茶葉はガッシュの木炭との相性が悪く、例外はミスティカなど本当に極一部のもののみということだ。

 

 それなのにこのブレンドハーブティーを作ったのは、まあアリアの趣味のようなものだ。

 茶葉にするだけなら、ほとんどのハーブで代用可能と参考書に書かれていたので試してみたくなっただけのことにすぎない。

 一個銀貨二十五枚もするぷにぷに玉を消費したことは少し痛いが、調合のための必要経費だ。仕方がない、仕方がない。

 

 それにしてもだ、ミスティカの葉の味や香りを引き出すガッシュの木炭が、ハーブが違うだけでまったく逆の作用をしてしまうとは、なんとも錬金術というものの妙を感じるものだ。

 ガッシュの木炭自体、かなり匂いがきついので常識的に考えればそれも当然かもしれないが、なんと手強い。難しい学問だこと。

 

 だからこそ胸が踊る。

 

 茶葉一つとっても、色々と改良の余地がある。挑戦のしがいがあるというものだ。

 何でもかんでも簡単にできてしまうのはつまらない。これくらい難しいほうが終の研究には相応しい。

 

 最近は、色々と忙しかったので横道の研究ばかりしてきたが、そろそろ本道に戻るのも良いだろうと、本棚から引っ張りだした帳簿を開き、文字を指先でなぞりながらアリアは目を細めた。

 

 彼女の指先が追った文字、それは鉄と黄金色の岩であった……。

 

 

 

 

 翌日。

 

 アリアは近所の野原に来ていた。

 野原というが、そこかしこに春の花が咲いており、昼中になると小さい女の子が花冠を作りに訪れることもある。

 

 アリアが主に摘んでいるのは、紫色の小さな花――スミレだ。

 可憐な小さい花は香りが良く、生のまま料理の最後に散らすとその香りと見た目で鼻と目を楽しませてくれる。

 

 昔は簡単な薬代わりにも使われていたことがある花だが、錬金術の台頭により最近は使われることが少なくなってきた。

 こんな小さな花よりもよほど効果のある薬が広まってきたのだから、それも当然か。

 

 だが、今回アリアはこのスミレを薬として摘みに来たわけではない。

 この紫色の花を使うのはまったく別の目的のためだ。

 

 一輪摘んで目の前でくるくると手慰みに回してみる。

 可愛らしい花だが、それだけだ。

 これが銀貨に化けるのだから、まったく世の中何が必要とされるかわからないものだ。

 

 小さな手提げカゴが、スミレでいっぱいになるまでそう時間はかからなかった。

 

 

 

 砂糖に色がついているとどうしても発色が悪くなる。

 色が濃くなればなるほど、どうしても材料の元の色は出にくくなってしまうのだ。

 だから、スミレ色の美しいシロップを作るためには、白い砂糖が必要不可欠となる。

 

 昨日の間に遠心分離器を必死こいて回していたのもこのためだ。

 天日干ししたことで、更に不純物が浮かび上がる。それを取り除くと、キラキラと日の光を受けて白く輝く砂糖の出来上がりだ。

 

 かごの中のスミレを半分ほどを使い、紫色のシロップを作る。

 スミレに砂糖と水を少々加えて、シトロン*1の汁を数滴落とす。このシトロンの汁がスミレの紫を更に鮮やかなものとする。後は焦げ付かないように煮立たせるだけ。なんとも簡単なことだ。

 ただ、少しでも焦げると一巻の終わりだ。スミレの良い香りが焦げ臭さで全部飛んでしまい、カラメルにするしか使い道はない。

 

 今回はスミレのシロップを求められているのだ。カラメルなんて持って行ったら、雷が落ちるどころの騒ぎではない。

 

 もう一つはスミレの砂糖漬けだ。

 うんと砂糖を濃く混ぜた蒸留水にスミレを漬け込み、甘く味付けしたお菓子だ。

 あまり日にちをおくと花の形が崩れるので、明日には持っていかなくてはいけない。

 

 このどちらもお菓子の飾り付けとして依頼された品だ。

 

 アリアはお菓子職人ではない。なのに、なぜこんな依頼が彼女のもとにやってきたのか。

 

 答えは簡単。ザラメを精製することのできる者が、この国には少ないからだ。

 

 ザラメ自体はかなり昔から存在するが、そこから白い砂糖を作り出したのはこのザールブルグにやってきた錬金術士だという。

 白い砂糖を作り出すために必要不可欠な遠心分離器、それをこのザールブルグで使うのは錬金術士くらいなものだ。

 

 よっぽど気合を入れた料理人なら使っているかもしれないが、普通は砂糖を作り出すためだけに銀貨九百枚もする器具を買うはずがない。

 自分たちで作るくらいなら、技術を持っている人間に外注するほうが効率が良いし手っ取り早い。

 つまりはそういうことで、今回のように白い砂糖が必要なお菓子を作る時には、錬金術士に外注する者が大半を占めている。

 

 しかも見た目を気にするような菓子を作る店、となるとそれだけ高級な商品を扱う店であることが多い。ということは、依頼の割もかなり良い。

 アリアが今回受けた依頼もこの例外に漏れず、うまくいけばかなりの金額をもらうことができる。

 

 正直、手間はかかるが調合自体はかなり簡単、というかそんなに技量を必要としないものでここまでお金を頂いてよいものか。少々、罪悪感が湧くほどである。

 まあ、くれるものを拒否するほど愁傷な性格はしていないので、ありがたく頂くが。

 

 ただ、この依頼を受けるのはこれっきりにしよう、とアリアは誰に言うこともなく自分の中だけで決定した。

 

 たしかに、これは割の良い仕事である。

 こういう仕事ばかり受けていれば生活は安定するだろうし、貯まったお金で老後も安心だろう。

 

 けれど、なんというか調合が簡単過ぎて自分の技術が上がった気がしない。気を使う必要はあるので、ずっと見ていなくてはいけないが、作業自体は単調極まりない。

 こんな仕事を続けていれば、今は良いだろうが腕も錆び付いていくような気がしてならないのだ。

 

 もうそろそろアリアがアカデミーに入学して一年が経とうとしている。

 それ相応に成長はしてきたが、まだまだ一番下の学年にすぎないし、それに成績優秀とは言いがたい。アリアも八月に行われる一斉テスト――学年末コンテストでは頑張るつもりだが、上を見れば彼女以上の腕前を持つ人間など五万と存在する。

 

 はてさてさてはて、どこまで行けるのやら。

 

 肩をすくめるしかない。

 

 そう、今は自分の腕前を磨く時期だ。簡単で割の良い仕事だからと、こんな仕事に傾倒していては怠惰の海に沈んでしまう。

 

 嫌だ嫌だ。なんともゾッとしない。

 ついアリアは自らの腕をさすった。

 

「お姉さん、腕を擦ってどうしたの?」

 

 それを見ていたピコが「風邪?」と心配そうにこちらを見てくる。

 

 普段は生意気な言動が目立つピコだが、その性根には子供らしい単純さと率直な優しさがある。

 こういう時に垣間見せる素直な心根が、あどけなくどうにもこうにも憎めない。

 

「いや、大丈夫だよ。だが、そうだ。今日の夕飯はジンジャーをたっぷりいれた煮込みものでもしようか」

「ふふん、お姉さんの料理ならなんでも食べるよ。ポポロもかわいそうに、黒妖精だから外に行くばかりで毎日お姉さんのご飯が食べられないのは、本当にかわいそうだよ」

 

 声の調子は軽いが、いたずらっこじみた笑みというには少し影のある顔で、ピコは言った。

 

 まったくいじらしいことだ。

 言葉はなんとも小憎たらしいものだが、本当にポポロを案じているのだろう。

 こういういじらしさが生意気な言動とも相まって、なんとも可愛らしい。生意気盛りの子供、といった風情だ。

 

「毎日帰ってくることが出来る方法でもあれば良いのだがな」

「一応、フェーリング陣ていうのがあるからそれを使えばできるよ。けどあれ、使える回数にも限りがあるから、黒妖精が毎日使うとなると雇用賃金が高くなるよ」

「大体いくらだ?」

「今のざっと三倍かな? これでも勉強して、だね」

「ふぅん、そうか」

 

 淡々と、いつもの様に返せば、これで話は終わりとでも言うかのように、ピコはアリアに背を向けた。

 

 おやおや、こちらはまだ何も言っていないというのに。

 方法がないから今までは向こうでご飯をとらせていたが、あるのならば話は別だ。

 

 妖精さんとはいえ、子供は子供。子供の面倒を見るのは大人の役目というものだ。

 

「三倍になるだけなのだな。まあ、元の値段が安いし、その程度なら許容範囲内だ」

 

 そう告げれば、ピコはバッと音がなりそうな勢いでこちらを振り向いた。

 

「今度帰ってきたら言ってあげると良い。手段があるなら毎日でも帰ってきなさいと。まったく、君たちが何も言わないから、そういった手段はないものとばかり思っていたんだぞ」

「え、え!? け、けど……」

「けどもだってもない。私は君たちの雇用主だ。雇用主は君たちの生活と健康を見守る義務がある。そして君たちは雇用主たる私の言うことは絶対、違うかな?」

 

 上から目線で告げれば、呆れたような視線が返ってきた。

 

 まったく、失礼極まりない。

 

「お姉さん、僕たちは子供のように見えるけどさ、こう見えても立派な成人なんだよ」

「大人扱いをするのと、一生懸命働いてくれる人にできるだけ便宜を図ることを両立させてはいけないのかな? 私としては、この程度なら労働力に対する正当な対価にすぎんよ」

「ああ言えばこう言う~」

 

 口を尖らせながら、ピコは破顔した。

「んじゃ、ポポロが帰ってきたら仕方ないから僕から伝えてあげるよ~」といつもと変わらぬ口調で生意気な口を利く。

 

 子供扱いをしていることは否定しないが、それをわざわざ言ってやる必要性は皆無だ。

 頑張って働いてくれる子供にできるだけ報いたいと思うのは、人間として当然の感情であろう。その本能の赴くまま、好き勝手にやっているだけだ。誰にも文句をつけさせる気はない。

 

 スミレ色のシロップを瓶に詰めると、小さな花の甘い香りがアトリエ中に広がる。

 しばらくはこの香りがアトリエから消えることはないだろうな、と余ったスミレの花を見ながらアリアは思った。

 

 紫色に色づいた甘いシロップが、とろりと瓶の中へと落ちていった。




*1 シトロン=レモンの近縁種

 世界観の参考にしている中世~近世のドイツにレモンが入ってきているかわからないので、多分確実にあるシトロンに登場して頂きました。
 まあ、レモンも大航海時代にはあったと思うので、そう時代的に離れてるわけじゃないんだけどね。
 確証が持てないし、雰囲気を出すためにドイツっぽい名前を出してみました。その程度の小道具です。


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第十五話 鋼と夏至祭

うに=栗です。
ゲームでは一年中とれるので、夏ですが今回も登場していただきました。

ちなみにシュネーバルはドイツの伝統的なお菓子です。

今回未成年の飲酒シーンが有りますが、良い子は絶対に真似しないでください。



 ギラギラと最近の太陽はとにかく仕事熱心だ。

 照りつく光がジリジリと肌を焼き、夏だというのに暑苦しい袖の長い服を着なければ、肌が真っ赤になってしまう。

 髪もまた同じだ。長い黒髪はすぐに日の光で熱され、パサパサに日焼けしてしまう。

 つばの広い麦わら帽子の中に長い三つ編みをまとめて入れて、ようやくアリアは夏の日差しの中を歩くことができる。

 

 まったく面倒なことだ、とアリアにしては珍しく辟易とした雰囲気を隠そうともしない。

 袖の長い服を着ていると、どうにもこうにも蒸れて暑苦しい。今すぐ脱いで外の空気に肌を晒したいくらいだが、北方人の血が強いアリアは下手に日に焼けると、日焼けをして肌が黒くなるのではなく、肌が赤くなりヒリヒリと痛むのだ。最悪、水膨れし下手なやけどよりもよっぽどひどい状態となってしまう。

 夏になると季節に逆行したかのような服装でないと、安心して外に出られないのだ。

 

 そういえば、錬金術の調合品の中には日に焼けなくなる薬もあるらしい。

 いつか絶対に調合してやる、と鼻息荒く決意する。

 

 そんなアリアの様子とは裏腹に、彼女の手は精確極まりない。プチリプチリと無情なほど戸惑いのない手つきで、丈の低い低木の木の実を摘んでいく。

 

 赤に黒に青、かごにある色とりどりの木の実は、旬を迎えたばかりの種々のベリーとスグリ。

 赤のラズベリーに、黒のブラックベリー、深い青色はブルーベリー。それに可愛らしい赤のスグリが薄茶色のかごを彩る。

 

 これらの木の実は、甘酸っぱい夏の味覚だ。

 

 そして夏至祭に作る、ベリーのトルテを美しく飾る主役となる。

 

 

 

 

 

 夏至祭はその名の通り夏至の日に行われる祭だ。

 奇しくもザールブルグでは夏至の直前、六月十八日に毎年日食があるため、復活し最盛期を迎えた太陽を祝うこの祭りは、王宮をあげての盛大なものとなる。

 

 国庫を開けて民衆に酒も振舞われるため、大人であってもこの日を楽しみにしている人も多い。

 

 街のあちらこちらや家々の扉には花が飾られ、明日の祭りに備えている。

 大半の家は可愛らしい野の花でリースを作りそれを飾っているが、中には大輪の薔薇をいくつも使い豪華な花輪で周りを圧倒している家もある。他には見目ではなくハーブを中心に使い、香りで他の家に差をつけている家もある。

 花輪ではなく、小さな花束を作りそれをそのまま家の扉に飾っている家もある。

 

 家々ごとに趣向が違ってなんとも面白い。

 この時期は目が飽きるということがない。色や香りが街中に満ち溢れて、まるで花々が洪水を起こしたかのように街を覆い尽くす。

 

 アリアもまた自分のアトリエの扉に大きな花輪を飾っている。

 客商売なので、こういう時に手を抜くと余裕が無いとみられ、足元を見てくる客が出てくるのだ。商売でなめられるは面白く無いので、手慰みに中途半端なものを作るのではなく、きちんとした花輪を時間をかけて作る。派手ではないが白と青色で綺麗にまとまったリースを小器用さだけが売りの手で作りあげた。

 合間に仄かに甘い香りがするアニスを混ぜると、遠目では分からないが近寄るとふわりと芳香が広がるなんとも趣深いリースとなった。

 

 これで使った花が、矢車草ともう一つがベルグラド芋の花とはいえ文句をつける奴もいないだろう。

 食べ物の花というだけで使わないのはもったいないくらい、ベルグラド芋の花は形といい色といいそして大きさといい花輪に使うのにピッタリだ。一輪これだけでも見目は悪くない。

 まあ、使う人が少ないので逆に目立てるという利点があるのだ。滅多なことは言わないようにしよう、とアリアは口をつぐむ。

 

 

「ただいま。良い子にしていたか、ピコ?」

「もちろんだよ~」

 

 カランカラン、と手のひらに乗るくらい小さな鐘のついた「アリアのアトリエ」と書かれた看板が、扉を開けると音を鳴らした。

 

 アトリエでは、いつもの様にピコが頼んだ調合を行なっていた。

 夏至祭に備えてハチミツの調合を頼んでいたのだが、彼の周りの壺の数を数えるともう十分量はできているようだ。

 

 よきかな、よきかな。

 

「ピコ、そろそろ休みなさい。ハチミツはそれで十分だ。明日の祭りを楽しむためにも、疲れを残すのはやめておいた方がいい」

「お、お姉さんてば、太っ腹ー! もちろんポポロも……」

「もちろんだとも。帰ってきたら、今日はもう休むように伝えてあげるといい」

「やったー!!」

 

 子供のように無邪気に歓声を上げるピコ。

 それを見ていたアリアの目尻はゆるやかに下がっていた。

 

 

 

 

 残念なことではあるが、妖精さんたちとは違いアリアにはまだ仕事がある。

 休むのはそれからだ。

 

 最後の仕事に臨み、アリアは一人アトリエに立つ。

 

 アリアの脳内に浮かんでいる調合物は、様々な武器・防具に使用される金属。鉄よりもなお高価で、それに見合った鋭さと硬さ、そして丈夫さを持つ一つ上の代物。

 その名を「鋼」といった。

 

 

 

 アリアのアトリエには父の遺産、というべき道具がいくつかある。

 アリアの父は鍛冶屋であり、もとは錬金術と長年受け継いできた製鉄技術を組み合わせた技術で有名なカリン製鉄所の出身だ。

 

 そのおかげでアリアは他のアトリエ生なら大金を出して買わなくてはいけない道具を、いくつか無料(ただ)で手にしていた。

 それに加えて、彼がアリアに残した鍛冶道具は全て錬金術の使用に耐えうるものであり、また長年人の手で細かな調整をされてきたからか、使い勝手もなかなかのものだ。

 

 トンカチにやっとこ、ふいご、それに細工道具。これだけでも銀貨二千枚はかたいのだが、それ以上にお金がかかるものがアリアのアトリエにはすでに設備されていた。

 

 それはアタノール、別名反射炉と呼ばれるものだ。

 三段構造をしており、下の段が炉となっていてここで物を過熱する。上の段は反射板となっており、下の段で生じた熱を逃さないように内部を加熱し続ける、といった仕組みになっている。

 

 これを使えば、通常の炉ならなかなか温度が上がりにくく加工しにくい金属も、高温で一気に溶かすことが可能となる。

 

 今までこのアタノールを使うことになるほど高度な金属加工をアリアはやってこなかったが、今回とうとう使うことになる。

 

 そう、今回調合する「鋼」によって、ようやくこのアタノールに初めて火が点されるのだ。

 

 ようやく、ようやく父の残した遺産を十全に使う日がやってきた。

 その事実に、アリアは静かにしかし確かに胸を高鳴らせたのであった。

 

 

 ふいごを足で踏みながら炉の火を高まらせる。

 たちどころに燃え上がった苛烈な赤い炎が蛇の舌のように反射炉を舐め、内部の熱を高まらせる。

 中で熱した鉄がたちどころに溶けていき、ドロドロの鈍色の液体と化す。

 

 ここで取り出したるは中和剤(赤)で溶かし、余分な上澄みを取り除き純度をあげた黄金色の岩だ。成分の純度を上げたためかもともと持っている卵が腐ったような異臭が、耐え難いほどきつくなっている。

 口元、鼻元に匂いよけの布を巻いているが、それでも臭い。後でお風呂に入らなければ、服や長い髪に異臭が染み付いて酷いことになるだろう。

 

 この黄金色の岩だが、アリアが四月の討伐隊が編成された時期にヴィラント山で採取したものだ。時期が良かったおかげでヴィラント山の強力な魔物は一匹も出現せず、あのヴィラント山での採取だというのに、誰一人とて怪我することなく、安全に帰ってくることができた。

 

 王室騎士隊さまさまである。

 

 熱せられた鉄が赤く熱を発する頃を見計らい、中和剤(赤)で溶かした黄金色の岩を流しこむ。

 

 じゅわり、と蒸気が舞い上がり、とたんに濃くなった臭気がアリアを襲う。

 鼻にくるその香りに涙が(にじ)むが、幸いなことに暴力的なその匂いは一瞬で収まった。

 

 手早くふいごを止め、一気に温度を下げていく。

 アタノールを覆い尽くさんばかりに燃え盛っていた炎もその火勢を弱め、ちろちろと下部分を舐めるだけとなる。

 

 鉄と黄金色の岩が混ざり合った物体も温度を下げ始め、だんだんと固まっていくがその前にかき混ぜて鉄と黄金色の岩を混ぜあわせなくてはいけない。

 ここで使うのが、最初の時に錬金釜とともに渡されたかき混ぜ棒だ。一体どんな素材で作られたのか。熱が伝わることも少なく、更にどれだけ熱しても燃えないその棒は金属を混ぜ合わせるのにピッタリだ。

 おそらくこういった調合のために作られたであろうその棒で、溶けた金属をかき混ぜる。

 

 あっという間に金色に輝く黄金色の岩が鉄の中へと溶けていく。

 まったく姿が見えなくなった後も、アリアは慎重に反射炉の中で溶けた鉄をかき混ぜる。

 

 だんだん温度は下がっていっているが、正直暑い。

 熱せられた鉄のせいで部屋の温度が上がり、まるで茹だるような暑さだ。いつも着ている錬金服にはアリアの汗がぐっしょりと染みこみ、紺色の服が黒に近い色へと変色してしまっている。

 

 かき混ぜ終わった後は椅子に座り込み、もはや指一本すら動かせないほどであった。

 それでもなんとか気合で足を動かし、水差しから一杯の水を汲み入れ喉を潤す。

 

 汗をかいた体に水が染みこむようにいき渡っていく。

 はしたないが、音を立てて水を飲むたびに生き返るようだ。

 

 一気に二杯ほど水を飲み干し、アリアはようやく息をついた。

 一度休憩をいれたからか、汗を吸い込んだ服に不快感が湧く。けれど、冷えた鉄と黄金色の岩にもう一度火を入れる作業が残っている。

 

 またすぐ汗をかくというのに、着替えてもう一着使うのはなんとも不経済だ。洗う回数が多くなればなるほど服の痛みは早くなる。いくら丈夫な錬金服とはいえ、その原則から外れることはない。

 

 仕方がない、もう少し我慢するか、とアリアは重い溜息をついた。

 

 鉄と黄金色の岩の混合物に焼きを入れながら形を整えていく。

 柱の形、少し細長い形に整えながら、何度も何度もトンカチで叩く。

 

 三度焼きをいれたところで、もう十分だろうと火から降ろす。

 そこには鈍色に輝く鋼の柱が出来上がっていた。

 

 とびっきり上等な鋼の柱だ。アリアの持てる技術を駆使したそれは、総合評価でB+という数値をたたき出していた。

 これなら錆びる心配もなければ、木の柱のように折れることもないだろう。

 夏至祭の花柱として使うのに、まったく問題はない。

 

 夏至祭の当日には、大きな広場の中心に一本の花柱が立てられる。

 普通は木を花で飾り立てられた花柱を使うのだが、今回の依頼人は何年も使い続けるために鋼の柱を依頼してきたのだ。

 少し離れた地区からの依頼であったため、アリアがその柱の晴れ舞台を見ることはないが、花で飾り付けられた鋼の柱はきっと美しいだろう。

 

 良い仕事をしたものだと素直に思える。

 

 その代償が汗でベタベタとなった全身だ。

 

「お姉さん、汗臭いよー」

 

 そんなことはこちらの方がよくわかっている。

 余計なことを行ってくれたピコには、頬をつねることでお返しをしてあげた。

 これで少しは言葉を選ぶようになれば良い。

 

「ただいまー」

 

 と気の抜けた声で、ポポロが帰還を告げたのは、そんな午後の長閑な時間であった。

 

 

 

 朝が明けて夏至祭の当日がやってきた。

 

 夏至祭は基本的に午後から行われる。

 太陽が一番輝く時間に皆がお菓子や料理、そしてとびっきりのお酒を持ち合い、日が落ちてまた日が昇るまで歌い踊り明かすのだ。

 

 アリアが持ち寄るのはこの時期に採れるベリーの類をふんだんに使ったベリートルテだ。

 バターをたっぷり使ったさくさくとした生地にクリームを乗せ、甘酸っぱく煮詰めたベリーをところ狭しと並べたなんとも豪勢なお菓子である。

 ベリーは採ってくることができるが、他の材料は買わなくてはいけない。お金を出し惜しみしていては味が落ちるので、普段から作ることのできるものではない。まさしくこの時期限定のアリアの秘蔵っ子なのだ。

 

 ベリートルテのレシピはアリアが考えだしたものではない。代々、母方の家系が作ってきたものをアリアが受け継いだのだ。

 だが、アリアには母親との思い出は一つもない。彼女の母親は産後の肥立ちが悪く、アリアを産んですぐに亡くなったからだ。

 

 けれども受け継いだものは確かにある。

 母がよく歌っていたという父から聞いた歌は、我が家のベリートルテの作り方を歌詞に乗せた童歌だった。これにより、アリアは母のベリートルテを作ることができるようになった。

 

 受け継いだものは確かにあったのだ。

 

 

“市場へ買いに行きましょう。砂糖、バター、小麦粉に牛乳。森の影では恋人たちが恋を歌う”

 

 前の時に作りおきをしておいた砂糖に、買ったばかりのバターと小麦粉と牛乳。

 それを台所に並べ置く。

 

 

“ミュルベタイクを作りましょう。砂糖、バターに小麦粉。一つはあなたのために、二つは家族のために、三つは恋に溺れた私のために”

 

 砂糖一、バター二、小麦粉三の割合で混ぜ合わせ、ひとまとまりになるまでこね合わせる。

 これをかまどで焼けば、口の中でホロホロと崩れるクッキー生地――ミュルベタイクとなる。

 

 

“クリームを作りましょう。砂糖、バター、小麦粉に牛乳。甘い甘いクリームで私の気持ちをあなたに伝えましょう”

 

 牛乳を鍋にかけ、小麦粉と砂糖をふるい、固まってきたらバターの一欠片を入れる。

 甘い甘いクリームはお菓子なら何にでも合う魔法のクリームだ。

 

 

“フィリングを作りましょう。ラズベリー、ブラックベリー、ブルーベリーにスグリ。あなたが応えてくれたなら、きっと甘酸っぱい恋の実が実るでしょう”

 

 ラズベリー、ブラックベリー、ブルーベリー、スグリ。先日採ってきた木苺は、全部まとめて煮込んでとろみを出す。木の実を味を引き出すように、砂糖は最小限にしか使わない。

 甘酸っぱいこの味が甘いクリームと絶妙に合い、いくらでも食べられそうだ。

 

 

“ベリートルテを作りましょう。ラズベリー、ブラックベリー、ブルーベリーにスグリ。恋の実で作ったベリートルテ、夏至の日に共に食べましょう”

 

 最後にミュルベタイクにクリームを乗せ、その上から果物のフィリングをかける。このままでも美味しいが、最後に軽く焼きあげるとそれぞれの味が一つにまとまり、見事に調和する。

 

 夏至の日に相応しい甘酸っぱく甘いお菓子の出来上がりだ。

 

 それにしても、とアリアは父から伝え聞いた菓子を改めて思い返す。

 どう考えても、お菓子のつくり歌と言うよりも恋唄そのものである。

 歌そのものは節といいリズムといい悪くはないのだが、どうにも歌詞がこっ恥ずかしいのでアリアはあまり歌ったことがない。

 ベリートルテを作るときも、頭の中で思い浮かべるだけだ。

 

 これを母は、夏至祭の時にはいつも歌いながらベリートルテを作っていたというのだから驚きだ。

 きっと自分とは違い、優しく気が細やかで女らしい人だったのだろう。

 もしかしたら父に聞かせるつもりで、いつも歌っていたのかもしれない。

 ぜひその光景を見てみたかったものだ。

 あのいつも仏頂面だった父がどんな顔をして、この真正面から愛を告げる歌を聞いていたのだろうか。

 

 母と父が二人でいちゃついている横で、アリアがニヤニヤと意地悪く笑いながら、けれどどこか微笑ましげに調合をしている情景が脳裏をちらついた。

 

 溜息一つ。

 

 まったく、とアリアは口の中だけで呟いた。

 

 まったく、未練がましいことだ、と……。

 

 

 

 

 味見と朝ごはん代わりに一切れずつピコとポポロに食べてもらうと、止める間もなく一切れをぺろりと平らげてしまった。

 聞くまでもなく味の具合がわかる。これなら夏至祭に持って行っても大丈夫そうだ。

 

「こ、こんなにもらっても、いいんですか?」

 

 夏至祭には屋台も数多く立ち並ぶ。買い食い用に幾らかの小遣いをもたせれば、ポポロが戸惑ったように聞いてきた。

 せいぜい子供の小遣い程度の金額だ。まだまだ買いたいものが多いので節制はしなくてはいけないが、錬金術の産物で稼いでいるアリアにとっては痛くも痒くもない金額である。

 

 いつも頑張ってくれているのだ。

 このくらいのご褒美は当然だと思っていたのだが、どうやらポポロはそう思っていなかったようだ。

 

「ああ、今日は楽しんでおいで」

「…………」

 

 そう言えば、ポポロは目を白黒とさせていた。

 

「ポポロ、ポポロ。お姉さんもそう言ってることだし、今日は楽しめばいいんだよ。こんな機会なんてめったにないんだしさ」

「けど、お仕事が……」

「あー、もう。今日はお仕事はお・や・す・み! お祭りなんだから余計なことは考えない。いいね!」

 

 少し渋るポポロをピコが説得する。

 

 なんだ、立派にお兄さんをしているじゃあないか。

 

 この調子ならポポロはピコに任せて大丈夫そうである。

 

「さて、二人共。そろそろ職人広場に行こうじゃあないか。きっともう人が集まってきているだろう」

 

 丁度良く昼前を告げる鐘の音が街中に鳴り響いた。

 カランカラーン、とアトリエの小さな鐘が澄んだ音を鳴らしたのは、そのすぐ後のことであった。

 

 

 

 ザールブルグの街には職人通りと呼ばれる通りがある。

 ここはその名が示すとおり、鍛冶屋やパン屋といった職人達が運営する店がところ狭しと並んでいる。

 ここで売られている品は、他の通りの品よりも一段質が良く、離れた地区の者がわざわざここまで買い付けに来ることすらあるほどだ。

 

 アリアのアトリエがある場所は、本来この職人通りの地区からは少し離れているのだが、アリア自身が職人通りの人々と縁が深いため、わざわざこちらにやってきたのだ。

 そのためか、本来ならすぐ近くにアトリエを構えているエリーの姿がここでは見当たらない。

 おそらく、本来アトリエがある地区の祭りに行っているのだろう。

 

 はちみつが入った壺を載せた重い台車を押すアリアの足元では、二人の妖精さんがそわそわと落ち着きが無い。

 気もそぞろで、離れないようにとスカートを掴んでいる手も、今にも放してしまいそうだ。

 

 これ以上我慢させるのも可哀想だ。

 

 軽く背中を叩いて、「行っておいで」と耳元で囁く。

 つぶらな目を瞬かせ、ピコとポポロはアリアを見上げた。

 

 頷き一つ。

 よく似た顔を破顔させ、二人はアリアを一人残し弾かれたように駆け出した。

 

「日が落ちたら花柱の下で落ち合うように!」

 

 二人の背中が人混みの中に紛れ込む前に呼びかけると、「はーい!」という元気の良い声が返ってきた。

 

 やれやれ、子供は元気の良いことだなぁ、とアリアは片手で日を遮りながら、花柱を眺める。

 

 この地区の花柱はアリアが作った柱のように金属ではなく、伝統的な木製のものだ。

 それも枝を打ち払っただけの単純な加工しか施されておらず、木肌もまだ残っている。職人通りの花柱とは思えないほど、単純で技工の欠片も見当たらない。

 

 しかし、主軸の柱に木肌を残すことで、美麗な外見に地に根付いた重厚な力強さを与えている。

 更に面白いのは、どうやったのか、上から下にかけてだんだんと大きくなる花輪を柱にくぐった状態で固定し、花で咲き乱れた樅の木のように見せかけている。

 

 木肌の残した木材は、本物の木に見せかけるための小道具だったのだ。

 これを考えだしたのはどこの誰であろうか。なんとまあ、面白いことを思いつく者もいたことだ。

 

「ようやく来やがったか」

 

 品位の欠片もない気だるげな声。

 口調は乱暴で、どこぞのごろつきのようなしゃべり方だ。

 

 もう少しどうにかならないものか。幼馴染として頭がいた。

 

「ええ、約束通り太陽が正中に昇りきる前に。約束通り、太陽が、正中に昇る前に」

「いちいち強調しなくても聞こえてるつーんだよ!」

「時間をしっかり守った相手に、『ようやく』なんて人聞きの悪いことを言う方が悪い」

 

 ほら、これが頼まれていた品だ、と赤髪の幼馴染――ディルクに昨日、ピコに調合してもらったハチミツとアリアの作ったベリートルテを押し付ける。

 よろけもせずに飄々と受け取るさまがどうにも小憎たらしい。

 思わず、ふんっ、とアリアは鼻を鳴らした。

 

 こちらがえっちらおっちら運んできたものをこうも軽々と受け取られるとはな……。

 

「私のベリートルテは崩さないように。もし一欠片でも崩したり、ベリーを落としたりしてみろ。カリンさんに頼んでお前のトルテもハチミツも無しにしてもらうから覚悟しておけ」

「なんでお前はそんなに高圧的なんですかねぇ!?」

「チンピラ相手に気を使うのも馬鹿らしいだろう。チンピラにはチンピラに相応しい対応をしたまでのこと」

「だから! だれが! チンピラだ!!」

「お前」

 

 一刀両断。

 一言で切り捨てれば、「ふざけんな!!」と耳に痛い絶叫が返ってきた。

 

「俺のどこがチンピラだ! この鉄面皮女が!!」

「はっ」

 

 自分で自分のことがわからないとは、これだからチンピラは嫌なのだ。

 粗暴な言葉遣い、やる気の見えない態度、つり上がった目とバンダナで逆上げた髪に着崩した服装という見た目。全てが全て「私はチンピラです」と言っているのに、自分だけがわからないとは。

 あまりにも可哀想な頭の出来に、嘲笑が漏れるというものだ。

 

 実際には、固い表情筋のせいで蔑みの視線で見下げはてただけだったけれども……。

 

「てめぇ……」とディルクの右手がギリギリと嫌な音を立てるが、グッとこらえてその右手を下げた。

 こうなると、アリアもまた舌鋒を緩めるのが互いの暗黙の了解だ。

 

 アリアは自分のずるさを自覚している。ディルクは態度も粗暴で、言葉遣いも悪いどうしようもない馬鹿だが、人としての一線は決して越えない。

 女である自分を決して殴ることはないと知っているから、いくらでも言葉の槍を投げつけることができる。

 相手の人格に甘えているのだ。だからこそ、こちらもまた最後の一線を踏み越えさせてはいけない。怒りをこらえているところで、さらにそこで口撃を加えるのは火に油を注ぎこむようなものだ。

 

「やめだ、やめだ。今はてめぇにかかずらってる時間はねぇんだよ」

「ふむ、見たところもうほとんど夏至祭の準備は終わっているようだが。今更急ぐ必要があるのか?」

 

 背を向けたディルクに問いかけるアリア。

 彼女の見たところ、残るはアリアの持ってきたハチミツを卓ごとに配り、いくつかの持ちより料理を分配するくらいなものだ。

 花柱も見事に立っているし、もうするべきことはパッとは思い浮かばない。

 

 それにそろそろ祭りも始まる時間帯だ。

 その証拠に人が集まり始めているし、中には男性にエスコートされて広場に来ている女性の姿もある。恋人同士が夏至祭に来る時は、男性が女性をエスコートするのが伝統だ。

 

 幸せそうな恋人同士を見ると、こちらまで嬉しくなってくるから不思議だ。幸福というものはどうにもこうにも周囲に伝播するものらしい。

 なんとまあ、素晴らしいことではないか。

 

 そこでハッとしてアリアは広場中を見回した。

 思ったとおり、お目当ての人の姿は見当たらない。

 

「ああ、なるほどそういうことか」

「おい、てめぇ今何を思い浮かべやがった?」

「いや何、あの近所でも有名な悪餓鬼ディルクが存外可愛らしいことで頭を悩ませているのだなぁ、と思ったものでね」

「うるせぇんだよ、ボケが!」

 

 そうは言うものの、図星を突かれたのか声に精彩がない。

 顔を真っ赤にして怒鳴る姿は滑稽ですらある。

 

 いやはや、いやはや。まさかあのどうにもこうにも手の付けられない悪童ディルクが、恋人をどう迎えに行くか、どうエスコートするかで頭を悩ませる日が来ようとは。

 子供時代には考えられなかったことである。

 

「そう怒るな。どうせなら助言の一つでもあげようか?」

「てめぇの助言?」

「女性のことは同じ女性がよくわかっているものだよ」

 

 胡乱げな目線を向けられるが、それを無視して広場に飾られている花を一輪、二輪と引きぬく。たくさんあるので、数輪程度なら大体の人はお目こぼしをしてくれる。

 大輪の赤薔薇を中心に、いくつかの見目麗しい花で揃えた花束は小振りだが、十二分に美しい。それをディルクに押し付けるように渡した。

 

「迎えに行くのなら、花をお贈りするのが礼儀というものだろう。女性はいくつになっても美しいものには目がないものだ」

「お、れにそれを渡せ、ってか?」

「お前の羞恥心とエマさんの喜ぶ顔。どちらの方が重要か考えてみたらすぐわかることだろう?」

 

 何も言い返せないディルクは、無言でアリアの手から小さな花束を奪い取った。

 

「……礼は言わねーぞ」

「ご心配なく。そんなもの、最初っから期待していない」

 

 あの花束を受け取った時のエマさんの反応を想像するだけで十分すぎるほどだ。

 

 赤薔薇の花言葉は「あなたを愛します」。

 

 はてさて、さてはて。いったいどうなることやら。

 今から楽しみで仕方がない。

 

 一人でアリアは広場の隅に立ちながら、ディルクの背中を見送った。

 

 

 

 

 夜。

 

 夜が来た。

 

 夏至祭の夜。

 

 星降る夜だ。

 

 満天の星空の下、火が煌々と焚かれ麗しの花柱が闇の中から、ぼうと光る。

 頭や服を花で飾った女性たちが、物語の羽が生えた妖精のように軽やかに踊る。スカートの裾が翻るたびに花びらが舞い散り、燐光のように彼女たちを彩るのだ。

 

 その手をとる栄誉を与えられたのは、彼女の恋人たち。

 赤く照らされたその横顔は、男神のように凛々しく力強い。

 

 踊る彼らを輪になって囲い、やんややんやと囃し立てる祝福の声。

 甘やかな恋歌とそれに添える楽器の音色。

 

 年に一度の夏至祭は、今や最高潮に達していた。

 

 

(お、あれはエマさんだな)

 

 聴衆の一人となり、持ち寄ったごちそうをつまむ。混じり物のないふわふわの白いパン、ローズマリーやズユース草を擦り付けて焼き上げた肉汁の溢れる鳥肉のロースト、チーズをたっぷりとかけたベルグラド芋と厚切りベーコンのグラタン、デザートはベーリーのトルテに焼いたうに、粉砂糖で白い雪球のようなシュネーバル、壺いっぱいのハチミツ。

 料理を黙々と口に運びながらアリアは幸せそうな恋人たちを一人で見つめていた。そこに知った顔を見つけて、遠目ながらまじまじと見つめてしまう。

 

 頭に赤い薔薇を中心とした花飾りをつけ、幸せそうに笑いながら彼女は恋人と共に人垣で作られた舞台の上で踊っている。

 その傍らには仏頂面をした野暮男の姿。

 

 少しは愛想を振りまけ、と思うが、まあ今日くらいは勘弁してやろうではないか。

 ディルクの横顔は、炎で照らされただけではすまないほど真っ赤に染まっていた。

 

 つい、と目線を逸らせばとろけるような笑顔で料理を頬張る妖精さん達。

 特にお菓子の類が好きなのか、甘いお菓子を口いっぱいに頬張っている。

 

 アリアは一人で祭りを見物し、いくつかの家族を見やる。

 子供たちは手に手に花を持ち、珍しいごちそうの数々で腹がはちきれそうだ。

 それを暖かな眼差しで見つめる父親と母親。

 

 祭りを楽しむ人々。

 その顔には喜色だけが溢れ、明日への憂いなど欠片も見あたらない。

 

 良い光景である。幸せな風景である。

 

 

 ……けれど、それが遠い。

 見えない膜で遮られたかのように、輪から外れ一人立つアリアのもとには祭りの幸福な熱気が届かない。

 目の前にあるのに、そこに入っていけない。

 

 今まではそうじゃなかった。

 めったに食べられないごちそうでお腹をいっぱいにして、花柱の周りで踊り狂う人を見るだけで十分楽しかった。それで、十分だった。

 

 隣を見る。

 

 いない。

 

 父さんがいない。

 

 仏頂面でちびりちびりとお酒を飲みながら、一緒に祭りを見物していた父さんは、もういないのだ。

 

 よく焼けた鳥のローストを口に運ぶ。

 もそもそとかみ砕くが何の味もしない。毎年、食べるのを楽しみにしていたごちそうなのに、紙を食べているようだ。

 

 祭りの華々しさが、人々の熱気が、逆にアリアが一人になってしまったという事実を浮き彫りにする。

 

 寂しい。

 

 夏なのに、すきま風で体が冷えたように冷たい。

 

 もう、ここにいるのは嫌だった。

 

 熱気を冷やすために涼みにいくのだ、と赤み一つ差していない頬のまま、誰かに言い訳するかのように……。

 能面のような無表情で、アリアは酒瓶とコップを一つ手に持ち広場を後にした。

 

 

 

 

 

 広場から離れると、闇夜を照らす光源がないからかとても良く星空が見えた。

 街の外れまで行くと、夜風に吹かれてさやさやと丈の長い草が揺れている。

 

 誰もいない。まあ、祭りの最中にこんなところに来る人間などいるはずもない。

 

 一息つく。

 誰も居ないという事実が、ありがたい。楽に息をすることができる。

 一人なら、他に誰もいなければ、自分が一人になったことを思い知らされなくてすむ。

 

 服が汚れるのも厭わず草の上に腰掛けると、手の平にチクチクとした感触が伝わる。

 

 持ってきたお酒をコップに注ぐ。

 

 これは父さんが好んでいたお酒だ。

 目についたので思わず持ってきてしまったが、これはこれで良かったかもしれない。

 

 大人はお酒を飲んで嫌なことを忘れるものだという。

 お酒に酔えば、こんな嫌な気持ちで悩まされることもないかもしれない。

 今日という日を、楽しんで終わらせることができるかもしれない。

 

 琥珀色の液体を、ぐいっと煽る。

 

 瞬間。

 

 喉から火が迸った。

 

「~~~~っ!?」

 

 口を抑えて悶絶する。

 

 辛い。

 

 喉が焼ける

 

「ゴホッ、ガハッ」

 

 意地と根性で吹き出すことだけは避けたが、おかげで変なところに入ったのか咳が出て止まらない。

 生理的な涙が目尻に浮かぶ。

 

 咳が落ち着き、大きく息がつけるまで幾らかの時間を要した。

 

 ゼー、ゼーと肩で息をするアリア。

 

 まさか、ここまでお酒がきついものだとは思わなかった。

 

 後悔するアリアだが、彼女の感想も当然である。

 アリアは知らなかったが、彼女の飲んだお酒は火酒とも称されるほど強いもので、酒豪と言われるような人間でも一杯で酩酊するという代物である。

 

 それを一口分とはいえ飲んでおきながら、まったく酔った気配のないアリアは確かに酒豪の素質を持っていた。

 

 コップを傍らに置き、アリアは四肢を草原に投げ出した。

 

 まったく、ままならない。

 

 笑い出したくなるほどうまくいかない。

 自分自身に振り回されてしまっている。

 

 それがどうにも不甲斐なくて腹ただしい。

 けれど、今戻っても先ほどのように一人であることを思い知らされそうで、足が萎える。

 

 こんなに自分は情けない人間だっただろうか。

 

 零れ落ちそうなほどキラキラと光る星に手を伸ばしながら、アリアは自問した。

 

「何やっているんだい?」

 

 そんな時、上から降ってきたのは純粋に疑問だけを詰めた声だった。

 

 宵闇の下では黒髪にも見える色の濃い焦げ茶色の髪、純朴な田舎者といった風情の素朴な顔立ち――ザシャ・プレヒトが草原に横たわるアリアの顔を覗きこんでいた。

 

 

 

「そういうあなたは?」

「おれ? おれかい。おれは宿に帰るところだよ。その途中で君を見かけてね。ま、様子を見に来たってとこ。で、君は?」

「私ですか。私は……」

 

 さああぁ、と風が吹き、草々を揺らす。

 アリアの額の髪を撫でつけ、首筋を流れる汗を吹きさらしていく。

 

「そうですね。夏至祭の熱気に当てられて、少し涼みに来ました」

「……それ絶対、今考えた言い訳だよね?」

「……いけませんか?」

「いけないわけじゃあないけどさ……」

 

 早く帰ってほしいと適当に答えれば、しかたがないなぁ、とでも言いたげにザシャは肩をすくめて、アリアの横に腰を下ろした。

 

「……なに座っているのですか?」

「ん、君が動くつもりがないなら、ここで待とうかと思ってね」

「余計なお世話です。さっさと帰ったらいかがですか?」

「あのさぁ……」

 

 一人になりたかったのに邪魔をされて、冷たく言い放てば少し怒ったようにザシャは眉根を寄せた。

 

「こんな夜遅くに女の子を一人ほっておくなんて、まともな良識を持っている人間だったら絶対にやるわけ無いだろ。常識的に考えてさ」

「…………」

「何があったかは知らないけど、見つかったのが運の尽きだと思っておれに送られなさい。どうせ明日だって大した仕事はないんだ。夏の夜に月見と洒落込むのも悪くはないさ」

 

 そう言って、「もらうよ」とザシャはアリアの持ってきた酒に手を伸ばした。

 

「どうぞ」

 

 どうせもう飲むつもりのなかった酒だ。

 いくら飲まれても何も惜しくはない。

 

 ザシャが瓶から酒を一口、口に含んだ。

 

 

 ブゴゥッ、と何かが破裂するような音がした。

 

 何事!? と驚いて上体を起こしたアリアが見たものは――ゲホゲホッと咳き込みながら、口と鼻から飲んだ酒をこぼすザシャの姿。

 

 あわあわ、とあんまりといえばあんまりな事態に泡を食うが、ついついいつの間にかむせて跳ねる背中をなだめるように擦っていた。

 

 何度が咳き込む内に、変なところに入った酒が全部出たのか、ようやくザシャの息が落ち着いてきた。最後に何度か大きく深呼吸をし、キッとザシャはアリアと向き直る。

 

「よ、よくこんな度の強い酒飲めたね!?」

 

 そこまで強いお酒だったのか、と知らず知らずのうちに火酒を持ってきてしまったアリアは目を白黒とさせる。

 口元は少しも動いていないが、目は零れそうなほど真円に見開き、その驚きの深さを如実に知らしめている。

 

「私も、それは一口しか飲んでいなかったのですが……そんなにきつい代物だったのですか?」

「うん、かなり……。これ、一口飲めるだけでもすごいんだけど……」

「ふぅん……」

 

 手が緩んだ隙を見計らい、アリアは再び酒瓶を取り返す。

「あ……っ」と言う間もなく、瓶に口をつけ酒を嚥下する。

 

 熱い。

 

 辛い。

 

 苦い。

 

 最初に感じたのはこの三つ。

 とてもではないが、美味しいとは感じられない味。

 

 覚悟していたので、むせることはなかったが飲みなれない強烈な味にしかめっ面となる。

 

「ちょ、何一気に飲んでるの!?」

「…………まずい」

「いや、まずい、じゃないから!? おい、大丈夫か!? 酔ってはいないか!?」

 

 あたふたと慌てるザシャの姿に笑いがこみ上げてくる。怒るでもなく、こちらを心配する姿はどこか間が抜けていて滑稽だ。

 気がつくとアリアは声を出して笑っていた。

 

 大きく口を開けて、星空の下誰にもはばかることなく。

 

 それは酔いの力もあったのか、それともそれほどザシャの間の抜けた姿がツボにはまったのか。アリア自身にもわからなかった。

 

 長いこと笑い続け、ようやくアリアが冷静になった時には、すでにザシャは憮然とした顔を隠そうともしていなかった。

 けれど、地顔がどうにもこうにも朴訥とした迫力に欠けるものなので、全然全く怖くない。

 むしろ、笑いを誘う。

 

 無表情が地顔のアリアをここまで笑わせるとは大したものである。

 本人にそのことを伝えても、絶対喜ばないだろうが。

 

 唐突にアリアは服についた草や埃を払い、立ち上がる。

 

「そろそろ、戻ります」

「ん、そうかい。んじゃあ、送ろうか」

 

 憮然とした顔をいつもの好好青年といった顔に戻して、ザシャがのたまう。

 少し意地悪を言いたい気持ちになり、つい問いただす。

 

「嫌だと言ったら?」

「広場まで手をとってエスコートされたいのならそれでもいいけど?」

「それはご遠慮したいですね。噂をされるのは恥ずかしいので」

 

 星降る夜に、祭りの夜に二人で誰もいない街並みを歩いた。

 

 いつの間にか、胸の中に巣くった寂しさは消えていた。

 

 そんな夏至祭の夜。

 花に囲まれたザールブルグの一夜だった。



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第十六話 ガッシュの木炭と学年末コンテスト(上)

 夏至祭も終わり、夏が燃え盛る七月にアリアは十六を迎えた。

 とはいえ、たかだか一つ歳が増えた程度のこと。

 多少手足の骨も伸び、背丈が更に高くなったが、若竹のように伸びる男性と比べれば微々たるもの。気づくものすらほとんどいない、些細な変化にすぎない。

 

 その程度で背丈の成長が止まってくれたのは、アリアにとっては行幸である。

 下手に男どものようににょきにょきと伸びれば、高い高い錬金服を仕立て直さなくてはいけない。

 空の彼方へと飛んで行く銀貨の枚数を思えば、まさしく悪夢である。

 丁度良い時期に終わりが見えてきた成長期には、感謝をしてもし足りない。アカデミーに入学をしてから伸び始めていたら、と考えるとぞっとしないものがある。

 

 しかし、そんな呑気な考えも吹っ飛ぶ行事がとうとうやってきた。

 

 来る八月。

 それはアカデミーの一大イベント、アカデミー中の学生全員が阿鼻叫喚の渦に巻き込まれる学年末コンテストが開催される月である。

 

 

 

 

 もうすぐコンテストが近いからか、アカデミーの図書館は連日学生達で溢れかえり、満員御礼の有り様である。目当ての本を探すだけでも一苦労で、図書館に来る間にアトリエで勉強したほうが効率が良いのではないか、と頭を悩ませるほどだ。

 本棚も寮生が借りていったためか、所々歯抜けのように本が抜けており、探しても探しても目当ての本がないことすらある。

 

 色々と自由に調合や勉強のできるアトリエ生だが、やはり立場としては寮生より一段低い。

 寮生ならば制約はあるものの図書館の本を借り受けて自室に持ち込むことができるというのに、アトリエ生は本を借りることすらできない。図書館内で読むか、写本をするしかないのだ。

 アトリエ生が本を持って図書館を出ようとすると、たちまち捕まり窃盗罪で騎士隊の詰め所に押し込まれた上、アカデミーも退学となる。

 

 厳しい対応かもしれないが、これは仕方のない面がある。

 本というものは一冊一冊手書きをせねばならず、表紙には上等の皮を使わなくてはいけない。有り体に言えば本というものは高価なのだ。

 寮はアカデミーの敷地内にある。アカデミーの内側で本が移動するだけならまだ寛容に対することもできるが、外に持ち出そうとすると極めて厳格に判定するか、そもそも持ち出さないようにするかのどちらかしかない。盗まれてからでは遅いのだ。

 

 アトリエ生にだけ風当たりが強い、と第三者が見たら思うかもしれないがそれも仕方がない。

 アトリエ生は基本的に補欠合格生――つまり寮生から見れば落第生レベルの点でアカデミーに入学したものばかりであり、庶民をアカデミーに受け入れるため、実験的に創った枠にすぎない。

 当然立場は寮生に比べれば弱いし、下手にアトリエ生が不祥事をおこそうものならそれが原因でアトリエ生というものすらなくなりかねないのだ。

 

 普段は寮生との接触も少ないので――ユリアーネは例外だ。普通の寮生はアトリエ生を路傍の石同然の存在と思っているのか、話しかけてくることすら稀である。――どうにもこうにもアトリエ生と寮生の立場の違いというものを自覚することは少ないが、テストが近づいてくるとにわかにそれが噴出した。

 

 歯抜けとなった本棚の前で、アリアは憮然とした顔を晒し隠そうともしない。

 テスト勉強に必要な、基本的な調合が載っている参考書ほど残っていないからだ。

 

 まったく何日も何日もこの状態だ。気が長いと定評のあるこの私でもこの状況は嫌になる。

 

 憮然とした表情のまま、腕を組み本棚を睨みつける。

 アリアは普段が無表情なためか、こうした表情をしていると不可思議な迫力が出る。

 関わりになりたくない、と彼女の姿を見た学生は、そそくさと退散するほどだ。

 

 まったく嫌になる、とアリアは何の収穫もないままアカデミーの図書館を辞した。

 

 

 こういう時は、普段は自由を謳歌できるアトリエ生という立場が、ことさら恨めしくなる。

 

 少し荒れた足取りでアカデミーの廊下を歩きながら、アリアは思考する。

 

 だからといって寮生になりたいわけではない。一応、成績優秀なアトリエ生が寮生となることは不可能ではない。もちろん、アリアもまた今の成績では無理であるが、将来はわからない。

 けれど、それとこれとは別だ。銀貨を山というほど積まれても拒絶するだろう。

 

 たしかに、寮生ともなればいろいろな図書館や実験室のような施設をもっと自由に借りることができるし、調合用の素材もアカデミーの方から都合してもらうこともできる。

 錬金術師、という立場から見れば至れり尽くせりだ。まったくなんて素晴らしい!

 

 けれど、その分講義や課題に時間を取られるし、成績優秀者ともなれば課題の一環として先生方の研究の一部を任されるようになり、自分の研究の時間が取れなくなるものも出てくるようだ。

 これもいろいろな研究に触れ、生徒自身の興味・関心を育てるための一環なのだろうが、「金属」という研究したい対象が既にあるアリアからしたらたまったものではない。

 

 気負いも衒いもなく、将来成績優秀者に入ることを当然と考えて思考しているのはなんとも図々しい思考回路だが、アリアにその自覚はない。

 たとえ自覚したとしても「そうか」の一言で終わらせる人間なので、仮定すら無意味でしかないが。

 

 それは横においておくとして、彼女が寮生という立場を嫌っているのは他にも理由がある。

 何よりも簡単で、とてもわかりやすいその理由。

 それは……。

 

 アリアがアトリエ生という立場を、この上なく気に入っている、ただそれだけである。

 

 自らの足で素材を探しだし、一つ一つ宝物をみつけるように吟味し分類する手間や、仕事の前の交渉で大の大人と行うひりつくような駆け引き。

 そして調合、調合だ。

 

 錬金術士の醍醐味とも言える調合。

 素材から選び抜き、過程の一つ一つに気を張り詰め、その結果アリアの手ずから生み出される調合品の数々。それを見た瞬間は、いつでも新鮮な感動に包まれ飽きることがない。

 アリアが特に好んでいるのは、素材から完成品の姿が想像できないほど両者の姿形に隔たりのあるものだ。

 

 こんな石っころから、こんな滑らかな鈍色の金属が生まれるのはなぜだろうか。

 こんなどこにでもある草一本から、色鮮やかな薬が生まれるのはなぜだろうか。

 

 理論や調合手順を参考書で呼んで知ってはいても、物の姿が移り行き最終的にはまったく違う姿へと変わってしまうこの過程を見ていると、いつも不思議に思う。

 そして、不可思議な感慨が湧き出てくるのだ。

 

 これを生み出したのは私だ、という思いが。

 

 そして、知りたくなる。そして、作りたくなる。

 なぜ、こんな不思議な現象が起きるのか。もっと他にも面白い反応をする調合品があるのではないか。

 

 好奇心が疼くのだ。

 それは決して嫌な感覚ではない。むしろ、もっともっとと求めてやまないものだ。

 

 そんな至福の時間を、課題やら講義やらで縮めるのは、アリアにとって不本意極まりないことである。

 却下、却下の大却下、というやつだ。

 

 だからこそアリアは、寮生よりも自由に時間を作ることのできるアトリエ生であることを望む。

 依頼をこなし、自分の食い扶持を自分で稼ぎ、何もかも自分自身で考えて行動しなければいけないのは、大変だ。時には失敗もある。

 だが、その程度でこの立場を捨てようなどとは微塵も思わない。

 

 ただ時々、本当に時々だが、……辛い時もある

 

「久方ぶりに夕飯が貧相になるな……」

 

 腕に抱えた本の重みと、それに反比例する財布の軽さ。

 テスト用の参考書のために飛んでいった銀貨を思い出し、外に浮かべる表情とは裏腹にアリアの心のなかでは大雨が降っていた。

 

 アトリエ生の支出は自らの自己責任によるもの。それがたとえテスト用の参考書のためとはいえ、例外はない。

 アトリエ生は最終的に購買で発売されている本を全部買わなくてはいけない、という噂は本当のことだったと、羽のように軽くなった財布片手にアリアはアカデミーの門をくぐって帰還の途についたのだった。

 

 

 

 アリアのアトリエは主人のもつ空気に反して、明るく溌剌とした生気にあふれた雰囲気がある。

 これはアリアの手柄ではない。ひとえに彼女が雇った妖精さん達のおかげだ。

 和気藹々と常に元気の良い笑い声を絶やさない妖精さん達は、いるだけでその場の雰囲気を明るいものとする。

 

 うるさいのは勉強の邪魔だが、暗すぎる空気はそれはそれで気が重くなる。

 こちらの状態を察してか、適度の場を温めてくれる。

 時折アトリエを覗いてみれば、頼んだ仕事を雑談しながらこなしている。

 さすがに依頼を受ける暇などないので急ぎの用事はないが、その代わりとして日持ちのするものの調合を頼んでいるのだ。

 

 中和剤や研磨剤はいくらあっても困らない。こういう時に作り溜めするに限る。

 

 机の上で参考書の一ページを捲る。

 大体は一度調合したものだ。内容はそう対して難しいものではない。

 目新しいものは少なく、どれもこれも見たものばかり。

 しかしながら、参考書という道具がなければ確認するのもまた一苦労であっただろう。新たに読みこめば忘れていることも数多く、読めば読むほど、書けば書くほど頭の中に刻まれていく。

 

 少し拍子抜けするほどだ。

 まあ、一年目のテストはこんなものだろう、と調子よく勉強を進めていくアリア。

 

 けれども、なんだろうか。

 勉強は調子よく進んでいるというのに、この消しきれない不安は。

 

 嫌な予感で脈打つ胸を、アリアは右の手で押さえた。

 

 その不安をかき消すように、少女は勉強に没頭した。

 けれどそれで消すことができるほど、彼女の不安は生易しいものではない。

 それでもアリアは、ただ勉強するしかなかった。

 それしか方法はなかったのだ……。

 

 

 

 

 鐘の音がなる。朝を告げる一の鐘だ。

 どうにも緊張のためか目が冴えて仕方がなかった。おかげでいつもなら朝の一の鐘を聞いてから起きているというのに、一の鐘を聞く前に目が覚めてしまった。

 

 幸いな事に緊張感のためか眠気はない。

 あとはこれを今日一日維持するまでのこと。

 

 徹夜などは最近ではそう珍しくもなくなってきたし、そう難しくはないだろう。

 最後は気合だ、気合。

 

 と軽く顔を叩きながら、汲みおいた水を入れておく水瓶から、生ぬるい水を小さな桶に汲み入れる。うっすらとかいていた寝汗を水に浸した布でふくと、気持ちのよい清涼感がアリアの肌の上を撫でる。

 

 アリアは寝間着から袖の長い白のワンピースに着替え、その上から紺色の錬金服を羽織った。

 いつものことながら、きっちり着込んだ服装に崩れは見当たらない。

 結い直した三つ編みにもほつれは見当たらない。

 

 十六の小娘とは思えないほど、堅苦しい着こなしだ。

 その姿はあまりにも隙がなさすぎて十ばかり年齢のサバをよんでいるのではないか、と他人に思わせるほどである。

 

「いよいよか」

 

 天気は晴れ。

 全くもって気持ちのよい戦日和である。

 学生たちの戦――コンテストに相応しい天気だ。

 

 胸に巣食う嫌な予感は晴れない。

 けれどもそれだけではない。

 

 はてさて、さてはて。今日のコンテストはどんな結果となるのやら。

 

 けれども確かに、自分の実力が一体どんなものか試すことができる。

 そういった楽しみも、この清々しい朝のおかげで生まれてきた。

 

 さて、それでは行ってこようか。

 

「お姉さん、頑張ってね」

「は、はい、これ!」

 

 ピコとポポロが簡単な軽食を渡してくれる。

 今日の昼用のご飯だ。

 

 まったく、良い子たちだ。

 この子たちのためにも、悪い成績はとれないな。

 

「ああ、行ってくるよ」

 

 カツカツ、とアリアのブーツの踵が石畳を叩く音が、朝の空気の中、小気味良く鳴り響いた。

 

 

 

 

 早めにアトリエを出たのが功を奏したのか、指定された教室に人は少なく、かき分ける必要もなく席に座ることができた。

 時間が経つごとに人は増えていったが、そこにユリアーネの姿は見つからない。

 

 これは違う教室になったかな、と考えていると時間間際になってエリーが飛び込んできた。

 走ってでもきたのか、息が荒く頬は紅潮している。

 

 エリーと一緒か、と改めて周りの人間を見回すと見覚えのある顔がちらほらいる。

 どうも同じアトリエ生の生徒ばかりが集められているようだ。

 アトリエ生だけでは人数も足らないし、見慣れない人間もいるのでおそらく似たような成績の人間がひとつの教室に集められているのだろう、とアリアは推測する。

 そしてその推測は間違ってはいない。

 アリア達の集まった教室は、成績下位の者を中心に集められていた。

 

 エリーがこちらに気づいたのか手を振っている。こちらも礼儀と振り返せば、何が嬉しいのか満面の笑みが返ってきた。

 何かを話そうとしたのか、こちらに近づいてくるエリー。だが、その後ろからは担当の先生が音もなく教室に入ってきていた。

 席に付くように顎で促すと、エリーは先生がやってきていたことにようやく気づいたのか、慌てて自分の席に着席した。

 その時、一瞬先生の目がエリーの方を向いたように思えたのは、アリアの勘違いだろうか?

 一瞬だったのでよくわからない。

 

 それにしてもきれいな人だな、とアリアは教室の壇上に立った先生の顔を見つめる。

 

 若草色の髪に、色の違う双眸。

 強い意志を示すかのように引き締められた口元は、その白皙の美貌と混じりあい、どこか近寄りがたい印象を他人に与える。

 色の違う両目も中で炎が燃え盛っているかのように、意思のきらめきで輝いている。

 

 人に親しみを感じさせる容貌ではないが、背筋をピンと伸ばした姿といい、決して緩めぬ眼光といい毅然とした美しさを感じる。

 冴え冴えとした、けれどどこか冷たさだけではなく火のように熱情の持った美しさだ。

 

「それでは只今より学年末コンテスト、学力試験を始めます」

 

 声もまた綺麗だな、と呑気なことを考えながら、アリアは前から回ってきたテスト用紙を受け取ったのであった。

 

 アリアたちの担当教師の名はイングリド。

 アカデミーの双璧とも謳われる最も若く、そしてもっとも在籍年数の長い教師である。

 

 そういえば、とアリアの頭の片隅で疑問が浮かんできた。

 

 なんで、イングリド先生のようなアカデミーでの地位の高い人が、こんなアトリエ生が集まる教室を担当しているんだ?

 

「始め!」

 

 その疑問は、凛としたイングリドの疑問により遮られた。

 そして、もう二度と思い至ることはできなかった。

 

 よく彼女を見ていれば気づいただろう。

 緑髪の教師の瞳。それは橙色の錬金服を着た生徒に向けられていた。

 

 

 ペーパーテストの内容は予想通りのものであった、……半分は。

 基本的な調合物の素材や調合時に必要とされる道具、調合レシピなどきちんと復習していれば点が取れる問題であった。中には、調合品の名前を問う問題もあり、あまりの簡単さにこれはサービス問題だな、と思うものもあった。

 

 ただ残り半分は――。

 

(難しい……)

 

 無意識の内に口元に左手が伸びる。

 額や背中に、暑さとは関係のない汗が伝う。

 つーっ、と額から頬に流れる汗が不快だ。――不愉快極まりない。

 

 残りの半分。

 悔しくなるほど難問ばかりだ。

 ただ漠然と暗記するだけでは決して解けない。

 

 調合品ごとに必要とされる素材の特に効果が高いとされる部位とその理由。

 魔物から採取できるアイテムの採取方法などはまだましな方だ。

 

「アルテナの水はどんな病状の患者に使えばよいのか。具体的に全部記せ」という問題なんてあまりにも当てはまる症例が多すぎる。アルテナの水は初級治癒薬だ。たいていの病状には問題なく効く。

 この一問を答えるだけで書くことが多すぎてテスト時間が終わってしまうほどだ。答えられるか!

 

 どう考えても前半の簡単な問題は足切り用だ。

 ここで無様な点をとった生徒は、いわゆる落第対象というやつだろう。

 努力でとれる点をとらなかった。とれなかったではない、とらなかった(・・・・・・)

 そんな生徒を在籍させておくほど、アカデミーは生温いところではない。

 

 本当の実力を測るのは、後半の問題――難易度が急激に上がった応用問題の数々。

 これが、本当の生徒たちの実力を測るための問題だ。

 

「お前たちに、この問題が解けるのか?」と挑まれている。試されているのだ。

 

「……面白い」

 

 隣の席の人間にも聞こえないほど小さな声で、アリアは呟いた。

 

 面白いではないか。

 ここまであからさまに試されて、燃え立たないのは馬鹿だ。

 

 アリアはドラゴンに挑みかかる戦士のごとく、一枚のテスト用紙に立ち向かった。

 終了を告げる鐘の音が鳴り響いた時、彼女のテスト用紙は黒インクの文字で埋め尽くされていたという。

 

 

 

 草一本生えていない砂地の校庭にアカデミーの生徒たちが集まっている。

 多くの者は静かにその場で黙って先生の言葉を待っているが、やはり人数が多いためか、これから何があるのか不安なのか、小さなヒソヒソ声が聞こえる。

 それでも、本当にわずかにすぎないことが、このアカデミーに集う生徒の良識の高さを教えてくれる。下手な学問所だとざわめきが大きくなりすぎて、隣の人でもなければまともに話せなくなる人数だ。

 

「すっごい人数だね~」

 

 隣にいたエリーが、小さな声で感嘆する。

 同じ教室だったため、次のこの会場に来るまで一緒に行動していたのだ。

 

「たしかに」

「ねえ、次の試験は何だと思う?」

 

 それはアリアもまた気になっていたところだ。

 くるりと辺りを軽く見渡す。

 

 こういう時背が高いのは良い。

 エリーと比べて頭一つ分は高いので、遠くの方までよく見ることができる。

 

 見えたのは白い布で覆われた調合台の数々に、机いっぱいに積まれた素材の数々。

 そして、見慣れた金髪の少女の姿。

 

「あっ」と思っている間に、彼女の方もアリアに気がついたのか、一瞬驚いたように目を見開くと、すぐに顔をほころばせてこちらに近寄ってきた。

 

「アリアさん、それにエリーさん。お久しぶりですわ。ここにいらっしゃいましたのね。(わたくし)探しましたのよ」

「それは、手間を掛けさせたようで申し訳ない」

「うふふ、よろしくってよ。そういえばエリーさん、あちらでの前でアイゼルさんとノルディスさんが探していらっしゃいましたよ」

「えっ、本当!?」

「ええ」

 

 パッと顔を輝かせるエリーに、ユリアーネは茶目っ気の含んだ笑みを浮かべる。

 そして、内緒話でもするかのように顔を寄せた。

 

「アイゼルさんは探していない、と言い張っていましたけれど……。開口一番にエリーさんを見たか、と尋ねられましたから……。きっと姿が見えなくて心配していらっしゃるのだと思いますわ。早く元気なお顔をお見せしたほうが、アイゼルさんも喜ばれると思いますわ」

「う、ん。そうかな? アイゼル、喜んでくれるかな?」

「ええ、きっと。あの方は少し素直に気持ちを出すのが苦手なように見受けられましたから、少し風当たりのきつい言葉もいくらか引いて考えたほうがよろしいかと。……さあ、早く行って差し上げなさいまし」

「うん、それじゃあアリア、ユリアーネ。行ってくるね」

 

 そう言うと、エリーは人だかりの中を風のように走り抜けていった。

 あのギチギチに詰まった人の隙間を縫うように走り抜けるさまはまったく見事なものである。

 つい惚れ惚れしてしまうほどだ。

 

「元気の良い方ですわね~」

 

 ユリアーネもまたどこか微笑ましげにエリーを見ている。

 

 その気持ちはアリアにもわかる。

 少々子供っぽいところもあるが、見ていて嫌いになれない人柄だ。

 

「そういえば、アリアさん。次の試験はなにか聞いていらっしゃいますか?」

「いや、聞いてはいない。だが、あの準備を見れば推測はできる」

「たしかにそのとおりですわね。あれなら、私の聞いていた噂とも一致しますし……」

「噂?」

「ええ」

 

「これは先輩の方から聞いた話なのですけれど……」と前置きをしてから、ユリアーネは話し始めた。

 

「なんでも毎年、ペーパーテストのあとは調合試験を行うようですわ。実際調合台や調合用の素材も用意されてありますし、まず間違いないかと。さすがに何を調合するかまでは、その方から聞くことはできませんでしたが」

「そこら辺は、用意された素材から類推できるかと」

「ええ、ですので(わたくし)も先ほどまで素材を確認しておりましたの。見ればすぐに分かりましてよ」

「……なるほど。中和剤の赤、燃える砂、ガッシュの枝、か」

「うふふ、目が良いのですね。ええ、これらの素材から推測できる調合品は唯一つです」

 

 ガッシュの木炭。

 おそらくそれが今回の課題である。

 

 ガッシュの木炭は匂いの強いガッシュの枝を炭化させることにより、木炭を折らない限り匂いが外に漏れないよう使いやすい形に調合した品である。

 匂いが木炭化した時にでも凝縮したのか、そのままにしておけばあの強烈な香りがだいぶ薄まっているのだが、一度木炭を折ればそこいら一帯にあの目が覚める匂いが更に強くなった状態で広がり、寝た子すら飛び起きて火がついたように泣き出すという。

 その代わり気付け薬としてはこれ以上ないほど有用なのだから、一定の需要はある。アリアも調合したことがある。燻している間は匂いがいくらか外に漏れてしまうので、あまり調合したい品ではない。

 

「……匂いがきつそうだな」

「今回の試験、女性にはキツイでしょうね」

 

 まったくだ、とアリアは頷いた。

 

 そこで、頭に何か引っ掛かった。

 

 あれ、ガッシュの木炭は調合するのに確か三日程……。

 

 生徒たちの前へと、緑髪の教師――イングリドが歩いてきたのはそんな時だった。

 

 

「これより、調合試験を始めます。まず今回の試験について説明します」

 

 イングリドが目元に力を入れると、それだけで生徒たちの背中が伸びる。

 だれた姿を見せるだけでどれだけの叱責が降ってくるのか、迫力がありすぎて怖いほどだ。

 

「今回の調合品の課題はガッシュの木炭です。今日の試験が全部終わるまでに完成させるよう各自調合するように。質問はありませんか?」

 

 ちょっと待て、これで説明は終わりなのか。

 

 あまりにも簡潔すぎる説明に、アリアは戸惑った。

 何か聞くべきなのだとは思うのだが、咄嗟に行動することができない。

 

「ではこれより……」と、イングリドが質問を打ち切ろうとした。

 

 待ってくれ、これではさすがに調合をするにも……っ!?

 

 なにかないか、なにかないか、と質問事項を探しあぐねたその時だった。

 

「はい!」

 

 と場違いなほどに明るい声が会場中に響いた。

 最前列から天へと伸ばされた橙色の錬金服に包まれた腕。――エリーだ。

 

「はい、エルフィール」

「はい! ええっと、今日って三つの試験があるんですよね? で、今は二つ目。てことは、三つ目の試験が終わるまでにガッシュの木炭を完成させればいいんですか?」

「ええ、その通りです」

「じゃあ、三つ目の試験の間にガッシュの枝を窯で燻せばいいんですね! 提出はどうすればいいんですか?」

「各自、自分の釜から調合品を取り出し、最後の鐘がなるまでに担当教員に提出するように。最後の鐘がなるまでに提出できなかった生徒は失格となります。良いですね」

「はい、わかりました」

 

 ありがとうございます、とエリーが下がる。

 口火を切ったのが功を奏したのか、次々と手が上がる。

 

 そんな中、アリアはただ一人、静かにことの推移を眺めていた。

 何も考えていなかったわけではない。ただ、彼女は思い出していた。

 参考書の一文。ガッシュの木炭の項。

 

 ガッシュの木炭を作る際には、ランプを使って火をつけ、そのまま三日間放置する。

 三日間放置する(・・・・・・・)……。

 

「あっ!」

「はい!」

 

 アリアが閃いたのと、ある少年の手が上がったのは同時であった。

 その少年は柔らかい茶色の髪に、穏やかそうな顔をしていた。

 

 学年主席のノルディスである。

 その顔色は良くはない。血の気が引き、青白くなっている。

 

 アリアも自分の顔色が良くないことは自覚している。

 もしかしたら。彼もまたアリアと同じ結論に達したのかもしれない。

 

「はい、ノルディス」

「あの、すみません。たしか、調合は今日中にということでしたが、あの、ええっと……」

 

 歯切れの悪いノルディスの言葉に、イングリド教師の形の良い眉がピンッと跳ね上がる。

 

「ええ、その通りです。ノルディス・フーバー。あなたは何が言いたいのですか?」

「あ、はい! あの、ガッシュの木炭は作成するのに三日程時間が必要なはずです。今日中に調合することは、ふ、不可能ではないかと!」

 

 最後は勢い込んだのか、会場中の生徒が聞こえるほど大きな声であった。

 しーん、と誰もが静まり返る。

 何も話さない、話せない時間が一秒、二秒と過ぎていく。

 

 ようやくイングリドが口を開いたのは、たっぷり十は数える頃になってのことだった。

 

 そして彼女の口から発された言葉は、

 

「ええ、それがどうしましたか?」

 

 生徒たちの希望を打ち砕くものであった。

 

「私は今日中に完成させるようにと既に通達しました。教科書では三日かかる? もう一度言いましょう。それがどうしましたか? その程度のこと、私たち教師陣が考慮しなかったとでも?」

 

 ぐるり、と色の違う双眸が生徒たちをねめつける。

 誰も、何も、言うことができない。

 

「安心しなさい。私たち教師陣営はその程度のことなら、何も問題がないと判断し、今回の試験に踏み切りました。あなた達が今すべきことは、本来なら三日かかる調合を今日中に終わらせる、その方策を全力を持って考え、実行すること。それだけです」

 

 そう言い放つと、イングリドは壇上に置いておいた小さな鐘を手に持った。

 

「質問はありませんね。なら、次の鐘がなると同時に調合をやめ、次の会場へと移動します。準備はいいですね? では、始めます」

 

 カラーン、と彼女の手に持った小さな鐘が澄んだ音を響かせた。

 

 まったく……。

 

 思わず空を仰いだアリア。

 夏の空の上では太陽がギラギラと輝き、熱された光を人の上に降り注いでいる。

 

 大変な試験になったなぁ……。

 

 三日かかる調合を一日、いやそれよりも短く縮める。言うのは簡単だが、行うのはあまりにも難しい。

 

 はてさて、さてはて。どうすべきか。

 

 試験はまだ始まったばかり。

 これからどうすればいいのかさっぱりわからないが、それでもやらねばならない。

 

 それが、錬金術士というものなのだろう。

 

「ユリアーネ、行こう」

「え? え、ええ」

 

 動揺激しいユリアーネに声をかけて、アリアは駆け出した。

 

 まずは、何が何でも素材を確保しなくてはいけない。

 考えるのはそれからだ。

 

 いち早くかけ出した数人の生徒と同じように、アリアは素材置場の中から厳選して選び出し、ランプと調合台を確保する。

 その生徒たちの中には、エリーの姿もあった。その後ろには、釣られたのかノルディスとアイゼルの姿もある。

 

 時間は刻々と過ぎていく。

 これは、時間と生徒たちの戦いであった。

 

 



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第十七話 ガッシュの木炭と学年末コンテスト(下)

 学年末コンテスト・調合試験。

 課題は『調合に三日かかるガッシュの木炭を一日で調合せよ』というもの。

 まったくもって難題である。

 

 ガッシュの枝に中和剤(赤)、燃える砂と材料を揃えてみたが、なにから手を付けるべきか……。

 何も思いつかない。

 

 はてさて、さてはて。これからどうしようか、とアリアが首をひねったその時だった。

 

 ボゴォッ、と聞こえちゃいけない音が会場中に響き渡った。

 それは何かを殴り壊す音――破壊することが目的のそれ。

 その最悪の不協和音を奏でていたのは、錬金術士用の杖を大上段に振りかぶる橙色の錬金服をした少女――エリーであった。

 

 その地味だが愛らしい顔を気合できりりと引き締め、睨むは粘土で作られた炭焼き窯の一つ。

 先ほどの音の正体は唯一つ。エリーが自らの杖で会場中に連立した炭焼き用の窯をぶちのめす音だった。

 

「やあっ!!」

 

 振り下ろされる杖。ビュンと空気を切る音。

 ドゴォッ!、という先程よりも大きな音がなり、窯の壁が抉れる。かなり丈夫にできているのか、抉れるだけでまだ壁に穴は空いていない。

 

「よぅし、もう一丁!」

「もう一丁、ではありません!!」

 

 大音声一喝。

 大気がビリビリと震える。

 とっさに耳を抑えたものの、あまりの怒声の大きさに耳が痛い。

 

 一番近くで受けたエリーなど、衝撃で握りしめていた杖を取り落とし、足元がふらふらしている。

 

「エ、ル、フィールゥ!」

「え、あ、は、はい!!」

 

 けれどもその一喝が耳に入れば、エリーは背筋を伸ばしハーメルン、イングリドに向き合った。

 

「あなたは、いったい、なにを、しているのですか!?」

「はい! ちょっとこの窯じゃ物足りないので、一度壊して改造します!!」

 

 それは素晴らしく見事な笑顔だった。

 何もやましいことはありません、と全身全霊で主張しているような、こんなに頑張ってます。ほめてほめて、とご主人様にしっぽをふる犬のような、まったく憂いのない、こちらまで元気になってくる、そんな笑顔だった。

 

 ただし、それは……。

 

「窯を改造しています、じゃあありません!! エルフィール、改造したいからといって、許可も取らずにいきなり窯を杖で殴りつける馬鹿がありますか!! もう少し考えて行動しなさい!!!」

「あ、そっかー」

「そっかー、じゃありません!!」

 

 それはまさしく生徒たちの心の声の代弁であった。

 エリーの突拍子のない行動で驚いた全ての生徒たちの心は、この時一つとなった。

 

 すなわち、「イングリド先生、よく言った!」と。

 

「エルフィール・トウラム、減点です」

「ええええええええ!?」

「えええ、じゃありません! 今回は許しますが、次に許可を取らず同じことをしてみなさい。コンテスト参加資格を剥奪です。いいですか、これからはいきなり突拍子のないことをせずに、まず許可を取りなさい。許可を!」

「はい、わかりました……」

 

 がっくりと肩を落とすエリーは、隣から見ていても気の毒なほど落ち込んでいる。くたびれてしおれきったホウレン草のようだ。

 少し励ましてあげようか、そんな慈悲の心がアリアから湧き出てくるほど、なんとも哀れな様だった。

 

 けれども――。

 

 パンッ、と乾いた音が夏の空気を切り裂く。

 エリーが自らの頬を叩いた音だ。

 少女らしい丸みを帯びた頬が、赤く染まり痛々しい。

 

 だが、その目はしっかりと前を向いていた。

 先ほどのイングリド先生とのやりとりで、すっかり落ち込んでいた娘と同じ人物とは思えないほど、エリーはわずか数瞬の内に立ち直っていた。

 

「うん。次だ、次にいこう。ぜっったいに、ガッシュの木炭を完成させてやるんだから!」

 

「えいえいおー!」と、鬨の声を上げるエリー。

 くすり、と口の端に笑みが浮かぶ。

 

「あれなら、心配はなさそうだな」

 

 心配をして損をした、とは言わないが、自分の心配など不要だったようだ。

 雨に打たれても風に吹かれても花を咲かせる野の花のように不屈の精神を持つ少女だ。敬意すら抱く。

 

「なら、私も頑張らねばな」

 

 ガッシュの枝に中和剤(赤)、それと燃える砂。この三つを前に佇むアリア。

 

「さあ、始めようか」

 

 彼女もまた、目の前にそびえ立つ難問へと挑みかかった。

 絶対解いてやる、と心を燃え立たせて。

 

 鐘は未だ鳴らない。

 

 

 

 

 

 

 ガッシュの木炭。

 それはガッシュという灌木の枝を焼き、炭にしたものだ。

 炭にすることにより、ガッシュの枝が持つ鼻につく匂いを内に閉じ込め、いざ使う時に炭を折れば、ただの枝であるときよりも強烈な香りを放つようになる。

 

 人によっては、近くにあることすら嫌がるほど途方もない匂いだが、これはガッシュの枝が持つ浄化作用の証である。

 事実、洗ったガッシュの木炭を水につけておけば、その水から有害な物質を吸着し、そのまま放っておくよりも長持ちする。もちろん泥水のろ過にもよく使われる。

 意外とガッシュの木炭が庶民にも売れるのは、こうした浄化作用によるものが大きい。ものや水が腐りやすい夏場には、本当に役に立つのだ。

 

 そしてこのガッシュの木炭の調合方法だが、実はかなり簡単である。

 ガッシュの枝に中和剤(赤)を塗り、その上から満遍なく燃える砂をかけ、そのまま窯に入れて三日放置するだけなのだ。ガッシュの枝に燃える砂がついているので、多少火力調整に気をつけなくてはいけないがそれだけである。数をこなし、コツさえ掴めば誰にだって作ることができるものだ。

 その証拠に、参考書には素材の一つである燃える砂よりも多少難しい程度、との評だ。素材と同レベルの調合技能ですむあたり、どれだけ容易い調合なのか想像がつくというものである。

 

 調合行程が容易いものには、大きく分けて二つの種類ある。

 極力まで無駄を省き、徹底的に機能性を追求した結果行き着いたもの。そして、まだ研究が不十分故に調合行程の見直しが行われておらず、結果として最も単純なレシピを今でも使い続けているものの二種類だ。

 この前者が三種の中和剤であり、そして後者の代表こそがガッシュの木炭である。

 

 やろうと思えばガッシュの木炭のレシピはいくらでも改善の余地があるのだ。

 窯から改造しようとしたエリーもまた、アプローチの手段としては間違ってはいない。

 だがここに、まったく違う方向から調合レシピの改善を行うものがいた。

 

 

 サラサラ、と中和剤(赤)に燃える砂を加える。アリアである。

 アリアの額には緊張により、うっすらと汗をかいていた。

 

 しっかり燃える砂を沈殿させたところで、均等になるよう丁寧に、繊細な手つきでかき混ぜる。ここで油断すると、燃える砂が発火する危険性があるからだ。緊張もひとしお、というものだ。

 中和剤(赤)の素材も元は、燃える砂と同じく可燃性の物質であるカノーネ岩。この二つを混ぜるのだ。下手なことをすると、指の一つや二つ吹っ飛びかねない危険性がある。

 

 そしてこの危険な香りのする液体に、葉を打ち払ったガッシュの枝を漬ける。

 燃える砂を入れた中和剤(赤)にガッシュの枝を漬けることで、内側まで燃える砂と中和剤(赤)の成分を行き渡らせることが目的だ。これなら従来のものよりも、燃える速度が上がるのではないだろうか。

 

 ただ、これだけではやはり不安である。

 アリアとしては、あと二つ三つ工夫したいところである。

 

 思いついた方法は二つ。

 一つはとても簡単で、アリアとて躊躇はない。この程度ならいくらでもする。

 

 だが、二つ目の方法は、とても危険な行為をすることとなる。

 先ほど行った中和剤(赤)に燃える砂を混ぜる、という行為よりも遥かに危険だ。一歩間違えれば、手の平が大火傷をしてしまうだろう。

 それでいて効果の程はどれほどあるものか。まったくもって検討がつかない。

 

 だが、それでも――。

 

(やろう)

 

 アリアは断行することに決めた。そしてそれからのアリアの行動は早かった。

 

 中和剤(赤)に漬けたガッシュの枝をつまみ上げてよく水気を切り、調合台の上に置く。

 ここで取り出したるは、またもや燃える砂だ。調合レシピ通り満遍なく振りかけ――そして革手袋をつけた手で、赤ちゃんを撫でるように優しい手つきでガッシュの枝に擦り込む。

 

 丁寧に、一手一手細心の注意を払って擦り込む。

 カノーネ岩はその発火性の高さから、火打ち石として不適当とされている。それを加工した燃える砂の危険性など、もはや語るまでもない。爆弾の素材、という時点で想像できることだ。

 革手袋をつけて作業をすることは、もはや必須だ。いざというときには、これでも不十分だろう。下手に火花が飛べば、触っているガッシュの枝全体に火が回るだろう。革手袋で防備しているが、心もとない事この上ない。

 直接手で燃える砂を触っていないだけましだろうが、それでも肝が冷える思いだ。

 

 

 バチッ。

 

「ひっ!?」

 

 赤黄色い光。

 一瞬飛んだ火花に、思わず手が竦む。

 

 だが、運の良いことに火花が燃える砂やガッシュの枝に引火することはなく、一瞬にして調合物が火だるまとなる事態は避けられたようだ。

 

 運が良かった、とアリアは詰めていた息を吐く。

 さすがにこれ以上、危険行為を試すのも怖いので、燃える砂をもう一度満遍なくガッシュの枝に振り仕上げとする。

 これであとは窯に入れて、焼けば完成だ。

 

 けれども、あともう一つ。

 よく火が通るためにもう一工夫だ。

 

 窯にランプの灯で火をつける前に、枯れ葉や枯れ草で火種を作る。

 その上に加工したガッシュの枝を組み、うまく燃えるように隙間を作ることも忘れない。

 

 そこで取り出したるは、もはや使いすぎてマンネリの感がある燃える砂である。少し使い過ぎかもしれないが、それも仕方がない

 やっぱり火力調整をするならこれが一番なのだ。

 

 燃える砂を火種から少し離したところにうっすらと撒く。

 直接火種に撒くと、火をつける時に危険だし、火力が強くなりすぎるかもしれない。

 適切な火勢になるよう、できることは全部するべきである。

 

「そして最後に火をつける、と」

 

 ぱちぱちと火種に火が燃え移ったところで、窯の蓋を閉める。

 次の試験が終わるまでに完成していれば、アリアの勝利だ。

 今回の試験における関門を一つ突破したことになる。

 

 けれども、今はただ――。

 

「さて、あとは出来上がりを待つとするか。最後の試験を受けながら、ね」

 

 パチリパチリ、と小さな土饅頭のような窯の中から、物が燃える音がする。

 黒い煙が小さな排煙口から出てくる。

 

 カラーン、カラーン、と少し遠くの方で鐘の音が鳴る。それは試験の終わりを告げる音だった。

 

 

 

 

 

 

「ようやくこれで最後、ですわね」

 

 げっそりした顔でユリアーネが言う。

 まさしく疲労困憊といった風情で、顔色も悪い。

 

「ユリアーネ、大丈夫か?」

「大丈夫、ですわ。この程度のことでへばっていては、錬金術士として大成できませんもの。(わたくし)のことは心配しなくても結構ですわ、アリアさん。あなたはあなたで、自分のことに専念してくださいませ」

 

 そう言われれば、アリアとしては引き下がるしかない。

 ただ、アリアとは違ってユリアーネは、貴族のお嬢様だ。顔色を見れば一目瞭然だが、まだまだ余裕のあるアリアと体力を比べれば、月とすっぽんである。勝負にすらならない。

 

 アリアが、それとなく様子を見ているか、と決めたのも当然といえよう。

 

「さて、皆さん。本日はよく頑張りました、これで最後の試験となります」

 

 イングリド先生の凛とした声が、生徒たちの耳を打つ。

 静まり返った空の下、決して大きくない声量にもかかわらず、その声はすべての生徒に届いた。

 

「最後の実技試験、一年生のものは毎年変更はありません。例年通り実地します」

 

 その時、アカデミーの寮生の一角で動揺が走った。

 おそらく耳聡い生徒たちの集団だ。例年通りということは、先輩たちから試験内容を聞いておけば事前に知ることができる。

 アトリエ生であり、生徒同士のつながりが薄いアリアではできないことだが、知り合いが上の学年にいる寮生なら簡単なことだろう。

 

 事前準備ができるというのは、なんとも羨ましいことだ。

 試験にも有利になるし、いいこと尽くめではないか。

 

 なのになぜだろうか?

 

 アリアは一人首をひねった。

 

 なぜあんなに、例年通りという言葉を聞いて動揺しているのだろうか。

 

 アリアの目線の先には、イングリド先生を前にしているというのに、未だざわめきが収まらない生徒たちの集団があった。耳聡いと有名なその集団は、こちらから見てもそれとわかるほど、はっきりと動揺していた。

 

 遠目で確かではない。

 だがそれでも、アリアは見えた気がした。

 

 イングリドの赤い唇の端が、わずかに上がるのを――。

 

「最後の試験を通達します」

 

 それを疑問に思う前に、イングリドが宣言した。

 

「本日の最終試験はザールブルグ近郊での採集活動です。採った素材の数及び質によって得点とします。また魔物から剥ぎ取った素材を持ってきた生徒は加点対象となるので留意しておくように」

 

 だめだ、という三文字がアリアの脳裏に浮かび上がった。

 恐る恐る隣を振り向いてみれば、顔面蒼白となったユリアーネの姿。

 

 だめだ、ユリアーネを一人にさせたら絶対にこの試験を乗り越えられない。

 

 だが、アリアがいたとして何になるのか。

 確かにユリアーネを手助けすることはできるだろう。だが、アリアの身体能力は普通の少女からそう逸脱しているものではない。

 普通の街娘に体を鍛える機会が合わさって、普通よりも少しそちらに自信がある程度。

 本当の田舎で野山を駆け巡って過ごしてきたエリーと比べれば、簡単に負けるだろう。その程度しかない。

 勝算もなく同情でユリアーネの手助けをすれば、最悪ただの共倒れで終わってしまうだろう。

 

 自分の採ってきた素材を分ける?

 絶対に「Nein(ダメ)」だ。試験である以上、下手な同情は決してしてはいけない。協力ならまだしも、一方的な利益の享受はたとえ友人であっても、いや友人だからこそしてはいけない。

 それは彼女に対する侮辱である。

 

「アリアさん、(わたくし)のことは放っておいてくださいね。大丈夫、これくらいの疲労なんて栄養剤を飲めばどれほどのものでもありませんわ」

 

 だからといって友人の危機的状況に何もせず平然としていられるほど、アリアは冷血漢ではない。

 そしてそれは、生徒たちの間からすっと天に差し伸べた手によって示した。

 

「イングリド先生、すみません。二つほど質問してもよろしいですか」

「レイアリアですね。どうぞ、お好きなように」

「ありがとうございます」

 

 上げた手を降ろし、イングリドに向き直る。

 

「一つ目は道具の使用の有無です。そして二つ目ですが――」

 

 目を見る。

 色の違う一対の目がアリアを見定めん、とばかりに強い眼光を投げかけてくる。

 

「二つ目の質問は護衛を雇っていいかどうか、です。ザールブルグの近郊でも危険な場所が有ります。そこまで行くとなると、冒険者を雇わなくては心もとないことこの上ありません」

「なるほど、その二つですね」

 

「ふむ」とイングリドは一息ついて、アリアの質問に答え始めた。

 

「道具の使用の有無については答える必要もありません。あなたは錬金術士でしょう? そのことを考えれば答えは自ずと分かるはずです」

「確かにその通りです。愚問でした」

 

 確かにイングリドの言う通りである。

 錬金術士なら道具の使用は当たり前。禁じる方がおかしい。

 

「そして護衛を雇って良いか悪いか、ね。もちろん雇っても構いません。ですが、冒険者との交渉は生徒自らの手で行うように。――他に質問はありませんね」

 

 誰の手も上がっていないことを確認して、イングリドは一つ頷いた。

 

「只今より最終試験を開始します。日が落ちるまでに戻ってくるように。では、解散」

 

 弾かれるように、多くの生徒達が駆け出した。

 

 

 ただ、何名かの生徒は残っている。ただ出遅れてまごまごしている生徒もいるが、互いに集まり何かの相談をして者もいる。

 アリアもまた、そうした少数派の生徒に含まれていた。

 

 アリアが校庭を見回すと、エリーもまた友人であるアイゼルやノルディスの傍に駆け寄っているのが見えた。

 

 この試験、確実に採集活動になれているアトリエ生の方が有利である。

 採取に慣れていない、それどころか一回も採取をしたことのない寮生を鍛えるためか、それともふるい落とすためなのかはわからないが、よくもまあこんな試験を事前通達もないまま敢行するものだ。

 絶対後日、寮生からは不満の声が上がるだろうに。

 

 だが、今はそんなことよりも採取の準備だ、準備。

 一度アトリエに戻って、アルテナの水やクラフトなどの護身用の道具とかごを用意しなくてはいけない。

 それと、あとはユリアーネだ。

 

「ユリアーネ、私は今からアトリエに戻るつもりだ。これは交渉だが、私から調合品を買い取る気はないかね?」

「あら」

 

 そう、これは提供ではない。交渉だ。

 もちろんアリアはしっかりとお金をとる気は満々だ。切羽詰まっているユリアーネの状況はわかっているので、ぼったくる気はないが絞りとる気はある。

 

「あらあら、こんなところでご商売ですの。うふふ、いいですわ。(わたくし)にとっても渡りに船ですもの。もちろんお受けいたしますわ」

「それでは、交渉を始めましょうか」

「よろしくってよ。では、兎にも角にも……栄養剤、いただけませんか?」

「……アトリエにしかないので、そこまで着いて来てもらっても?」

「それくらいなら、なんとか……」

 

 なんとも締りのない二人であった。

 

 

 

 今日中に行って帰ってくることのできるザールブルグ近郊の採取場所と問われれば、アトリエ生なら誰でも答えることができる。

 そう、近くの森だ。西門近くにあるその森では、オニワライタケや魔法の草といった様々な植物性の素材を採ることができる。

 

 北門や南門、そして東門のすぐ側で素材をあさることも可能だが、採ることのできる素材など限られているし、採取効率も劣悪な事この上ない。

 アトリエ生で、近くの森以外の場所を選ぶ人間などいないだろう。

 

 ただ寮生は違う。

 ごく僅かではあるが、近くの森ではなくまったく違う方向に向かっている寮生の姿を、アリアは何度か見かけた。

 ちなみにその時にはユリアーネと別れていた。

 護衛の当ては、家のつてで直ぐ様呼び出すことができるのだとか。さすが貴族である。アリアとは状況が違いすぎる。

 

 それでも少し心配だったので、ユリアーネには近くの森の場所を教えてあげたが、さすがにまちなかで走り回っている寮生を呼び止めて親切に教えてやる義理はない。

 呼び止めて教える時間がもったいなさすぎる。

 今回は運がなかったと諦めてもらうとしよう。まあ、時間を費やして効率の良い採取場所を調べる気がない時点で、その程度だった、ということでもあるのだろう。

 

 魔法の草を根本から摘みながら、アリアはそんな益対もないことを考えていた。

 

「おーい、こっちにもきのこがあるよ。これは使えるかい?」

「それは……残念ながら普通のきのこですね。使えません」

「ありゃ、そりゃあ残念」

 

 今回アリアが急遽雇った護衛は――いつも通り貧窮していたザシャである。

 近くの森への護衛など小遣い稼ぎにしかならないが、その程度の仕事でも飛びついてくるのだからどれだけ困窮しているのかわかりやすい。

 日雇い仕事はやっていないのか、と聞けば、見た目が平々凡々なのでなかなか割の良い仕事が回ってこないのだという。

 

 さもありなん。

 日雇いの仕事で割の良いものといえば、やはり冒険者なら冒険者の技術が必要とされるものだ。

 だれでも良い仕事、というものは本当にその日しのぎくらいにしかならない。

 

 そして冒険者に最も求められるもの、といえば武力。これに尽きる。

 大抵の場合、雇う時にいちいち実力を見ている時間などない。ならば、何を見て実力を測るのか。

 

 答えは簡単、見た目である。

 見た目からして強そうな人間は冒険者向けの仕事だと人気がある。

 他には格好が洒落ている人間も引く手あまたとなる。見た目が洒落ている、ということは生活に余裕がある証でもあるので、それだけ仕事の達成率が高い、つまり実力のある人間だと思われやすい。

 

 ザシャはそのどちらの条件からも外れている。

 見た目は野暮ったい好青年といった風で、どこからどう見ても「強そう」という印象を受けない。むしろ、見た目だけなら本当に冒険者か疑われる人間だろう。

 

 哀れである。仕事をコツコツこなしていき、評判が広まらないことにはこの状況から逃れることはできないだろう。

 そのおかげで、アリアが雇えたというのだからなんとも皮肉である。

 

 近くの森で素材がよく採れる場所では、魔物も出る。いくら採取で外の活動に慣れているとはいえ、アリアとてうら若くか弱い乙女だ。一人くらい護衛はほしい。

 その分時間は食ったが、安全を確保する上で当然のことだ。それに護衛が一人いれば採取に集中することができる。下手に一人で周りを警戒しながら採取するより遥かに効率的だ。

 

「オニワライタケは赤地に白の斑点があるきのこです。他にこんな目立つきのこなどないので、あったら教えて欲しいですが、お仕事は忘れないように。私の護衛に集中していただければ十分ですから」

「そちらは大丈夫さ。周りの警戒を忘れることはないよ」

「なら、お任せしますよ」

 

 多少の軽口は、気晴らしにもなるし、気安い冒険者を雇えたアリアは僥倖であった。

 採取も順調だし、もしかしたら今回の学年末コンテストでは良いところまでいけるかもしれない、そんな期待で胸を膨らませていた、そんな時だった。

 

 がさり、と草むらの揺れる音がした。

 

 ばっとザシャがアリアの前に立ち、剣を抜く。

 

「誰だ? 出てこい!」

 

 鋭い誰何の声。

 

「出てこい、ですって!?」

 

 それに応じるは少し甲高い女性の声。

 

「この(わたくし)に出てこいとは、身の程知らずにもほどがありましてよ!」

 

 草むらから出てきたのは、巨漢の護衛二人を引き連れた赤毛の女性。

 小奇麗で飾りの多い錬金服といった服装、高飛車な言葉遣い、どこを見ても間違えようのない正真正銘のお貴族様であった。

 

 厄介だな、とアリアはそれとわからないほど眉根をしかめる。

 

「え、女の、子? あ、ご、ごめん。失礼なことを……」

「ザシャ、ここは私に……。申し訳ありません。私の護衛が失礼をしました」

「あら、あなたの護衛でしたの。護衛の教育はしっかりしていただかないと困りますわ。……あら、あなた、その服装はアカデミーの生徒で相違なくって? あなたのような方、(わたくし)見た覚えがないのだけれど……」

 

 それはそうだろう。アリアの前に立つ少女はどう考えても寮生だ。

 アトリエ生であるアリアとの接点なんぞあるわけがない。それがたとえ同学年であってもだ。

 

「私はアトリエ生ですので、直接会ったことはないかと……」

「あら、あなたアトリエ生でしたの。それなら合点がいきましたわ」

「……何がですか?」

 

 アトリエ生、と告げた途端に目の前の少女の目に蔑みの色が浮かぶ。

 なんともわかりやすい。いっそ清々しいほどである。

 

「寮生ならその程度の礼儀もなっていない護衛を連れているわけなどありませんものね。共にいる人間を見れば、その人の人となりがわかるというのは本当のようですわ。先人も含蓄深い言葉を残してくれたものです」

「なっ!?」

 

 いきなり喧嘩を売られてしまった。

 何がしたいのだろうかこの人は。

 

 呆れるが、だからといって何も言い返さないのは性に合わない。

 自分だけならまだしも、きちんと仕事をしているザシャまで貶めるのはいただけない。貴族だからといって、アカデミー内なら対等だ。へりくだってやる必要など毛頭ない。

 

「ええたしかにそうですね。その人の人となりを見たければ周りの人間を見よ、とはよく言ったものです」

「あら、あなたはよく自分というものを知っていますのね。良いことですわ。庶民なら庶民らしくあるのがかしこい生き方というものですものね」

「あ、あんた……!」

「ザシャ、私に任せてくれ」

「けど……!?」

 

 憤るザシャを押し留める。

 こうも真正面から馬鹿にされて怒りたい気持ちもわかるが、貴族相手に暴力はいけない。

 さすがにそこまでいくと、いくら身分の垣根が低いザールブルグでも一線を越えてしまう。

 こういう時は、言葉なら言葉で返してやるのが上等なのだ。

 

「ええ、本当に。近くにいる気配すら読めず、ぼーっと突っ立っている護衛しかいない人など、あまりにも人材がお粗末過ぎて哀れみすら湧いてくるほどです。本当に可哀想!」

「なっ!? あ、あなた……っ」

「おや、どうしましたか? 私はあなたのことなど一度たりとも口の端には登らせていないのですが」

 

 空とぼけてやればあまりにも呆気なく、貴族のお嬢様は怒りで顔を真っ赤にする。

 なんとも単純。なんとも短絡的。

 この程度で怒りを顕にするとは、ちょろい、ちょろすぎる。

 

「ふ、ふん! 庶民の遠吠えなど痛くも痒くもありませんわ。お前たち、行きますわよ」

「おや、もう行かれるのですか。では、お互いに試験を頑張りましょう」

「…………っ!?」

 

 ギッ、とこちらを睨みつけてくるが、何も怖くはない。

 こういう時、無表情というものは助かる。内心を相手に悟らせることがない。

 

「では、ごきげんよう」

「……一つ忠告してあげますわ。そんな態度を繰り返していたら、あなたいつか痛い目にあいますわよ」

 

 よほど腹に据えかねたのだろう。

 一方的に捨て台詞を言い残し、赤毛の貴族のお嬢様は森のなかへと消えていった。

 

 残されたのは、アリアと呆然と成り行きを見守っていたザシャのみ。

 

「……アリア」

「ん、どうしましたか?」

 

 先ほどまでの口喧嘩の余韻を残すことなく、既に採集活動に戻っているアリアを見てザシャの一言。

 

「君、よくあんなに口が回るね」

「……何が言いたいんだ、あんたは?」

 

 敬語も忘れて、つい胡乱げな目を向けてしまったアリアを責めるものはいかばかりか。

 溜息一つ。脳天気な顔から目線をそらし、採った素材を入れたかごを見る。

 

 かごの中には素材がうず高く積まれている。

 それを見れば、先ほどまでの不快な人間など一瞬で忘れ去るくらい些細な事だ。

 かごを背負い直し帰路につく。

 今年のコンテストの結果を期待して、アリアはザシャを引き連れアカデミーへと戻っていった。




 試験結果は来週までお待ち下さい。
 
 最終試験はなぁ、主人公がアトリエ生で採取を何回もしているので楽勝でしかないんですよね。
 前編のほうが、よっぽど内容難しかっただろうなぁ。けど一年生の時くらいしか実技試験で採取をする、なんて試験出せないし。
 二年目以降の試験はもう少し難しくなるよう、脳汁振り絞ります。

 また読みにきてください。それでは、失礼致します。


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閑話 その一 イングリドの思惑

 今回のお話にはアリアは名前しか登場しません。
 題名にもなっているイングリドメインのお話です。


 

 カリカリカリ、と紙をペンでひっかく音が、それなりに広さのある部屋の中に満ち満ちていた。

 良い年をした大人たちが机の上にある紙に真剣な表情で向い合い、無言でひたすら赤い色のインクで丸やらバツやら数字やらを書き込む姿は、傍から見ると異様である。

 お伽話に登場する悪魔召喚をする魔女達のようなおどろおどろしさが、そこにはあった。

 

 カラン、と何かが転がる硬い音がした。

 

「終わった……」

 

 全ての痛苦から開放された聖人のように穏やかな顔が、そこにはあった。

 それも仕方がない。 

 机の上にある紙の束と転がる羽ペン、それと目の下に刻まれた分厚い隈が、彼の今まで行ってきた苦行を物語っていた。

 

 すなわち――数日間にも及ぶテスト採点である。

 

 

 彼を皮切りに、部屋中から次々とパタリ、カラリと手を机に置く音と、持っていたペンを机の上に投げ出す音が聞こえる。

 穏やかだが、どこか生気の抜けた顔。疲れ果て、上体を机の上に投げ出している者もいる。

 他人には見せられない醜態だが、今この瞬間だけは誰もがそれを自分に許していた。

 

 日昼夜を問わず敢行し続けたテスト採点に、指先が痛み、目の前で星がまたたく。

 単純に成否を判断するだけなら簡単なのだが、中にはレポート並みの記述を必要とした問題もあり、生徒たちも大変だったろうが、採点する教師陣の精神力をガリガリと削ってくれる。酷使し続けた頭は鈍い鈍痛を訴えかけてくるほどだった。

 

 パンパン。と手を叩く音。

 

 風が吹き抜ける草原のように目にも鮮やかな若草色の髪。

 色の違う双眸は氷のように冷たく鋭い。

 

 アカデミーの“双璧”イングリド。その人が、書類が高く積み上げられた上座の席から立ち上がり、その白魚のような手を叩いていた。

 

「皆さん、ご苦労様。これで、今期の仕事は終了です。しばらくは講義もないので、教師の皆さんもこの休日を使って骨休めしてください。では、解散」

 

 わあ、と歓声が上がる。

 

「失礼します」とイングリドにひと声かけてから、皆好き好きに帰っていく。

 ドアの向こうから「今から飲みに行くか」「あの店はなかなか……」と、思い思いに喋る声が聞こえる。

 

 その張りのある声からは、先ほどまでの疲労は見えない。

 それほどまでに休日、という事実が精神に活力をもたらしたのだろう。

 おそらく明日は、勢いで飲み過ぎて潰れる教師も多いだろう。自己責任ではあるが、アカデミーの名を貶めるようなひどい良い方をした時には、それ相応の対応が待っているので、我を忘れるようなひどい飲み方をする愚か者はほとんどいない。

 

 それでもいた場合は……。

 

「まあ、その時はその時ね」

 

 赤い唇を不快げに歪ませて、イングリドはアカデミーが誇る教師陣営のしごとぶりを確認する。

 彼らが死人のような有り様になりながらもこなしていた仕事は、先日行われた学年末コンテストの採点だ。

 

 四年生、上の学年から成績と生徒の名前を確認するが、あまり面白みはない。それまで順当に結果を出してきた人物が、順当に上位を占めている。

 そして下位の者は、順当に落ちぶれている。特にアトリエ生の成績がひどい。二,三年生で半分の生徒が既に退学を勧告すべき段階にまできてしまっている。四年生は、既に九割方退学となっており、なんとかアカデミーの末席に残った一割も、とてもではないがこのまま卒業させるわけにはいかない。ただ、このまま留年させたとしてもどれだけ無事に卒業できるのか。

 頭の痛い問題に、イングリド目眩がしてきた。

 

「無様な結果ね」

「…………何か用かしら」

「ふん、気づいていたのね。相も変わらず嫌な女」

「嫌味をいう暇があるなら早く用件を言ったらどうなの。私も、あなたの陰険な声をこれ以上聞いていたくないのよ」

 

 声がしたのはイングリドの真後ろからだった。

 足音もなく、気配もなく忍び寄ったその女を、イングリドは見もせずに気づいていた。

 

 闇から這いずり出てきたような瘴気に塗れた声。

 けれど、どこか蠱惑的で男の背を粟立たせるような甘やかな声。

 

 髪は薄い紫色。イングリドと同じ、色の違う二つの目。

 

「ヘルミーナ」

「……ふん。それはこちらだって同じことよ」

 

 イングリドと並び立つ女傑、“魔女”の忌み名で知られるアカデミーのもう一人の“双璧"。

 ヘルミーナがそこにいた。

 

「私の要件はこれよ。リリー先生からあなたへのお手紙」

「な、それならそうとさっさと言いいなさい!」

 

 勢いに任せてひったくるように……、ではなくあくまで破らないように細心の注意を払って、ヘルミーナの手からその簡素な手紙を受け取る。

 ヘルミーナも下手に意地悪をするでもなく、素直にイングリドに手紙を受け渡した。

 

「まったく、リリー先生のこととなったら、あなたまるで犬ね。人目もはばからず尻尾を振って、みっともないったらありゃしない。私のように淑女らしくした方がいいんじゃないかしらねぇ?」

「……あなたにだけは言われたくないわね、ヘルミーナ。リリー先生の手紙だと、あなた会った途端に抱きついて離れなかったそうじゃない。淑女の名が泣くというものよ」

「な!? う、うるさいわねぇ、この堅物イングリド! 都合が悪くなったらすぐ話をそらそうとする。そんな単純な手に引っかかるのは、馬鹿な子供ぐらいなものよ。いい加減学習したらどうなの!」

「お黙り! この陰険ヘルミーナ! あなたこそ人の悪口をいつまでもグチグチ、グチグチと! そんなことだから、あなたの部屋には不気味がって生徒が寄り付かないのよ! 嫌味しか言えないような口なら、糸で縫い付けておいたらどうなの!」

 

 ガルル……ッ、と面と向かい合いながら唸る二人。

 けれど、それは二人がふいっ、と顔を背けあったことですぐ終わる。

 

 この程度の喧嘩は昔からのことだ。

 いちいち取り上げて、グダグダ長引かせるようなものではない。

 

「それで、リリー先生の手紙にはなんて書いてあるの?」

「……さすがリリー先生ね。見てみなさい、ヘルミーナ。私達にとって、最も必要な情報がここにはあるわ」

「ふーん、どれどれ」

 

 ヘルミーナが目を通している間に、イングリドは先程まで読んでいたリリーの手紙を思い出す。

 

 まずは季節のあいさつとイングリドの体調を心配する言葉。

 季節の言葉も堅苦しいものではなく、「もうすぐ夏も終わりね。秋が来たら、錬金術の素材や料理の材料がたくさん採れるようになるのが嬉しいわ。けど、まだ暑さが厳しいから無理しちゃダメよ」という、温かい人柄が文章にまでにじみ出ているものだった。

 

(まったくリリー先生らしいものね……)

 

 いつもは固く引き締まった表情を崩さないイングリドも、つい穏やかな雰囲気を醸し出すような、そんな温かいもので溢れた文章であった。

 

 それはさておき、その後に続いている、「イングリドは大丈夫だったけど、ヘルミーナはいつもこの時期に体調を崩していたから、よく面倒を見てあげてね。特に体調が悪いと食欲もなくなってくるから、少しでもいいから食べさせるようにしてね」という文章には、さすがのイングリドも閉口した。

 

 イングリドの横では、ヘルミーナがリリーからの手紙だというのに珍しく苦虫を噛み潰したような顔をしている。

 

 この仲の悪い二人にしては珍しいことに、心の声が一致した。

 

 すなわち、

 

(リリー先生、あなたは私たちのことをいくつだと思っているのですか……)

 

 と。

 

 それでも、脱力するような内容だったのは、そこまでであった。

 そこから先にはごくごくまっとうなことばかりが書かれている。

 そしてそこに書かれているものの中で最も重要な事は、リリーの研究成果。庶民教育における経過と成功及び失敗事例の数々。異国の地で、新たなアカデミーを築こうと奮闘してきたリリーの軌跡の数々。

 

「なるほどね。たしかにあなたには必要な内容でしょうね。あなたには(・・・・・)

「……含みのある言い方ね、ヘルミーナ」

「それはそうよ。あなただってわかっているのでしょう、イングリド。私は反対したはずよ。アトリエ生の登用は時期尚早だ、って」

 

 切り捨てるような言い方。イングリドは鼻白むが、言い返しはしない。ヘルミーナの言い方にいちいちケチをつけていたら、話が進まないからだ。

 それにヘルミーナの言にも分がある。彼女が、アトリエ生の登用に反対していたのは事実だからだ。

 

 アトリエ生の登用は平民に対して門戸を開くことに等しい。

 

 アトリエ生という枠を作る前から、アカデミーは貴族であっても平民であっても平等に入学を許す、と豪語していたのだが実態はその真逆をいっていた。

 原因は、平民による受験率の悪さと学力の低さによる。自由に学ぶことのできる貴族や裕福な商人の子弟とは、まさに雲泥の差があったのだ。数少ない平民受験者で、一年目の試験を突破した者の数は零。そしてこの状態が数年間続くこととなる。

 そしてあまりの平民合格者の少なさに、さらに受験を希望するものが減る、という悪循環にさらされることとなってしまった。

 

 本来なら、イングリド達首脳陣はこの自体を予測してしかるべきであった。

 アカデミー設立までの長い期間、イングリド達はザールブルグの市井で暮らしてきたのだ。庶民の平均的な学力くらい把握して当然のことである。

 

 だが、そう責めるのはあまりにも酷というものだろう。

 イングリド達がアカデミーの中心に立ったのは、わずか十代の頃であった。その頃から女傑の片鱗を伺わせていたものの、当時はまだまだケツの青い若造でしかない。ここまでアカデミーを盛り立てられた事だけでも、只人と比べて異常なのだ。万事が万事うまくいくわけがない。

 

 イングリドが悪循環の構造に気づいた時には、既に入学希望者の数すらも零に等しくなっていた。

 

 しかし、神はイングリド達を見放してはいなかったのか、一人の救世主を与えた。

 アカデミー史上最悪の落第生、マルローネ。彼女こそが、この停滞した状況を打ち破る鍵となった。

 

 もともとアカデミーはマルローネの入学を許すつもりはなかった。

 資産家であるドナースターク家が後見人についている娘とはいえ、入学時の学力はお世辞にも高くはなく、合格水準を満たしてはいなかった。このまま入学しても、無事に卒業できるはずがなく、入学するだけ無駄である、と誰しもが思っていた。

 

 しかしながら、ドナースターク家の現状がそれを許さなかった。

 ドナースターク家の一人娘、シアが不治の病にかかったのである。

 

 この時の診察の結果、シアの病を治すことができる薬は、エリキシル剤のみであることが判明していた。

 だが、エリキシル剤はその絶大な効果と当時調合可能な人物がわずか三名という希少性により、市場に出回る数が王室から制限されており、値段も一資産家程度では到底手にできるような代物ではなかった。

 

 だが、ドナースターク家はそんな手詰まりの状況の中、一つの方策を考えだした。それは、自らの子飼いの人物をアカデミーに送り出し、その人間にエリキシル剤を調合させる、という方法である。

 だが、エリキシル剤はその調合の難解さだけではなく、調合時の絶大な消費魔力も問題であった。ドナースターク家が用意できる人材で、調合時に必要な魔力を保持している者。それは、当時十分な知識を持っているとは言いがたかったマルローネただ一人であった。

 

 アカデミーはその裏側にある事情を鑑み、マルローネの入学を許可したが、彼女の成績は振るわなかった。

 

 マルローネの意欲や姿勢に問題があったわけではない。「居眠り姫」というあだ名が額面通りのものなら、イングリドは五年間の再試験を許さず、退学を厳命していた。

 問題だったのは、平民出身故に劣る学力と繊細な調合を必要とする錬金術とは相反するようなガサツで大雑把な性格、そしてその性格に由来する体力任せの非効率的な勉強法。徹夜で勉強をしても、授業で寝ていてはまったく意味が無い。

 

 けれど、彼女には意志と目的があった。

 シアの病状は、彼女自身が望んだのかマルローネには知らされていなかった。だが、それでもマルローネは知っていた。親友の病状が決して良いものではないと……。

 

 親友を救いたいという思い故にか、マルローネはどれだけ失敗しようとも諦めることはしなかった。「居眠り姫」と口がさない連中が嘲ろうとも、常に真正面を向き続けた。

 

 その強さに、マルローネが持つ心の強さにイングリドは賭けた。

 たとえどれだけ反対するものがいようとも、マルローネが十分な成果を挙げられなかった時はいけ好かないヘルミーナにアカデミーを任せることになろうとも、それでもこの後の教師人生を賭けるならここだ、とイングリドは確信していた。

 

 信じていたからだ。そして、信じたかったからだ。

 マルローネの可能性を。マルローネの意志を。

 

 そして、彼女は賭けに勝った。

 

 マルローネは五年間の再試験を経て、伝説の人となった。

 エリキシル剤の調合を成功させ親友を救い、ザールブルグで五人目の賢者の石を調合した人間となった。

 

 マルローネが再試験中に叩きだした結果により、アカデミーは「平民に対してもう少し裾野を広げるべきではないか」という論調に進み始める。イングリドもマルローネの結果を鑑みて、アトリエ生の登用を提案した。

 

 だが、ここで待ったがかかった。

 ヘルミーナ一派の反対である。

 

 ヘルミーナはもともと選民主義なところがある。

 とはいえ、彼女の考え方の根底にあるものは、貴族的な伝統や歴史を重視する保守的なものではなく、「錬金術という学問にふさわしき学識と技術を持ったものにこそ、アカデミーの門戸は開かれるべき」という、実力主義が極まった、極まりすぎて偏った思想だ。

 ヘルミーナは平民の登用自体に反対はなかったのだが、いきなり実力の足りない者を補欠合格させるのではなく、アカデミーの前身となる平民向けの学院を併設し、その中から優秀な成績を得たもののみアカデミーに入学させるよう動いていくべきだと主張したのだ。

 

 イングリド派とヘルミーナ派の戦い。それは、イングリド派の勝利で幕を終えた。

 決め手となったのは、マルローネであった。彼女が結果を出した再試験。灯明のない荒れ地に道を作るより、例え獣道とはいえ既に人の足が入った道になびくのが人の常というものだ。

 この結果、ヘルミーナは一時的にアカデミーから離れることとなった。さすがにこれはイングリドも望んではいなかったので、数年の間、ヘルミーナを呼び戻すために敵対派閥の長が尽力する、というなんともおかしな事態が発生することとなる。

 

 

「今までまともに学ぶことを――出来なかったとはいえ、してこなかった連中が、目先の欲に捕らわれず研究に邁進できるはずがないわ。妥協の産物で集めた人材じゃあ、リリー先生が作り上げたアカデミーの名を貶めるだけよ。そんなこと、許容出来るわけないでしょ」

 

 そう、アカデミーを旅立つ時にヘルミーナは言い捨てた。

 

 彼女の言葉には一理ある。いや、一理どころではない。二理も三理もある。

 今のアトリエ生の現状は、まさしくヘルミーナが憂慮したものそのままだ。

 

 調合の産物は、通常の物品よりも遥かに高値で取引される。今までの品よりも遥かによく効く医薬品、魔物を一撃で打ち倒す爆薬、果てには金銀宝石までもが調合可能と聞けば、普通の人間なら目の色を変えてもおかしくはない。

 その結果が、錬金術という学問を修めようという気概はなく、錬金術を利用し金銭を得ようとするものが大半なアトリエ生。それが、学び続ける原動力となるのなら許容もできるが、そんなある意味愁傷な生徒はいない。

 

 大半の――というよりほぼすべてのアトリエ生は、平均よりも裕福な生活が保証される領域まで腕を上げれば、そこでポッキリとその先へと進む意欲を失くしてしまう。よく売れる、人々の生活に関わる物品を調合することが多い一、二年生の期間をすぎれば、「これ以上は学ぶ意味があるのか?」と言わんばかりに、極端なまでに成績が下がるのだ。

 生きていくだけなら、その程度の知識と技術でも十分すぎるからだ。ここで、学ぶ内容が一気に難しくなるのも遠因だろうが、それでも情けない。

 

 正直、ヘルミーナの言ではないが、イングリドも失望を禁じ得ない。

 学問の徒としては、アトリエ生は質が悪すぎるのだ。寮生とてたちの悪いものがいないわけではないが、比率を見ればアトリエ生よりもよほど少ない。

 寮生ともなると貴族や裕福な商人の子供ばかりなので、生活自体に不安はない。寮生でここアカデミーにやってくるのは、それ以上の目的意識を持っている人材ばかり。目標の高さが根本的に違う。

 

 だが、これはアトリエ生だけの問題ではない。彼らに目標を示すことのできないイングリドを含めた教師陣の力不足も問題だ。

 嘆くだけでは、問題を押し付けるだけでは解決なんぞできるわけがない。

 

 幸いなことに、ようやく、ようやくマルローネに続く、かもしれない人材がアトリエ生に現れた。

 一年生の成績を確認したイングリドの口元が綻ぶ。

 そこには二人の女子生徒の名が記されていた。

 

 彼女たちを観察し、分析し、次の世代のアトリエ生の教育につなげる。

 それこそが、今のアカデミーに求められていること。そしてそのためなら、努力を惜しまない。

 

 アカデミー生は二年生になれば、自らの担当教員を得る。

 担当となった生徒の教育や面倒を見ることは、教師の役割だ。

 

「ヘルミーナ、アカデミーのために協力しなさい。私はこの生徒を担当するから、貴方はもう一人の教育をお願いするわ」

「あら、私がなんであんたなんかに協力しなくちゃいけないのかしらねぇ。しかも、アトリエ生の教育を反対派だった私が? とうとうボケたのかしら、イングリド?」

 

 ねっとりとした嫌味混じりのヘルミーナの声。

 いつもながら苛立たしい声だが、いつものように喧嘩腰にではなく、真正面から見据える。

 ひたり、と合わせられた色の違う二対の目。逸らすのは、互いのプライドが許せない。

 

「ボケてもいないし、私は一度たりともあなたに“私に協力しろ”といった覚えはないわ。聞こえていなかったの、ヘルミーナ? 私はアカデミーのために(・・・・・・・・・)協力しろ、と言ったのよ。リリー先生のアカデミーのためによ」

「ふん、そんな言葉で私が頷くとでも?」

「ええ、貴方は首を縦に振るわ。貴方も私と同じリリー先生の教え子ですもの。そうじゃなくって?」

「…………本当に嫌な女。いつかこの借りは熨斗をつけて返してあげるから、首を洗って待ってなさい」

「ええ、期待せずに待っててあげるわ」

 

 イングリドから手渡された資料を、常人とは比べ物にならない速さで読み進めるヘルミーナ。

 ものの数分で読み終えた彼女の眉根には、深い渓谷が刻まれていた。

 

 ヘルミーナが持つ資料に記載されていたものの名は、「レイアリア・テークリッヒ」。今回の学年末コンテストの成績は五十七位。

 アトリエ生であり、入学時の二百番代という成績を考えれば驚異的な飛躍とみなすこともできるが、ヘルミーナが担当を受け持つ生徒は少なくとも上位二十位には入る優秀な人間ばかりである。そんな優秀な人間ばかりを揃えても、例年ついていけなくなる生徒が何人かは出てしまうというアカデミー随一の難易度を誇るヘルミーナのクラス。

 そこに、生活のために自活する必要があるアトリエ生、しかも成績は他の者と見比べても見劣りする五十七位という成績で入れるのは、少し無謀と言えるだろう。

 

「ふーん、たかだか五十七位を私が担当することになろうとはね。確かにアトリエ生としては破格の成績だけど、この程度の成績じゃあ私の授業についていけるかどうか怪しいわよ」

「その時はその時よ。その程度の子だった、と見る目のない私をいくらでも嘲ればいいわ」

 

 嘲るように笑うヘルミーナを、鼻で笑いあしらう。

 

「私が貴方に望むのは、その子の常識を打ち砕くこと。発想そのものは悪くないものを持っているのだけれど、どうにも慎重派で常識的な考え方が散見される子ですからね。このままだと、安定して成績は取れそうだけど、どうにも小さく纏まりそうな雰囲気があるのよ」

「……まあいいわ。けど、私はこんな子のために配慮なんてしてあげないわよ。私が貴重な時間を消費してアカデミーの教鞭をとっているのは、より優秀な人材を排出するため。アカデミーで教える用に手加減した内容でついてこれなくなるような子だったら、そのまま見捨てるわ。そこのところわかっているんでしょうね?」

「もちろんよ。さっきから言っているでしょう。その時はその時。そんなことになったら、私を嘲ればいい、と」

「ふん、ならそうならないように祈っていればいいわ」

 

 イングリドの言葉に面白くなさそうに鼻を鳴らすヘルミーナ。

 資料を再読する彼女は、レイアリアの学年末コンテストの結果を見て嫌そうに顔を歪めた。

 そして、呆れを含んだ視線をイングリドへと向けたのだった。

 

「まあけど、こんな簡単な試験――生徒用に調整した調合試験で失敗するような生徒じゃ、期待もできないでしょうけど」

「さあ、それはどうかしらね」

 

 レイアリアの第二試験――ガッシュの木炭の調合試験の結果は調合失敗という結果に終わっていた。

 

 原因は燃える砂の使いすぎ。

 ガッシュの枝を漬け込んだ中和剤(赤)に混ぜ、更にはガッシュの枝に擦り込んだあとさらにまぶし、火力を上げるために窯の火にまで加えていた。

 レイアリアの使用した燃える砂は通常の五倍にまで上り、その結果、彼女の調合したガッシュの木炭は炭化どころか灰と化し、まともに使用できるものではなかった。

 

 第三試験――実技試験である採取の結果は学年三位という結果を出していたが、この調合試験の結果が足を引っ張った。第一試験である学力試験の結果も平均より上ではあったが、それでも実技試験に比べれば低い。

 それが、試験の一つで学年三位をとっておきながら、総合は五十七位という結果に終わった原因である。

 まあ、実技試験は他の試験よりも配点が低いので、この結果も致し方ない部分がある。

 

「それで、あんたが担当するのは一体全体どんな子なの?」

「ええ、この子よ」

「…………何よこの子。調合試験で窯を壊した?」

「ええ、面白い子でしょう」

 

 イングリドの手にある資料。そこには「エルフィール・トウラム」の名が記されていた。

 彼女も同じく調合試験の結果は失敗。

 原因は窯を一から直した事による時間の浪費。試験時間を考慮していなかったエルフィールは、窯を直し終えたところで時間切れとなってしまったのだ。一応、彼女の作りなおした窯は従来のものよりも出来が良かったので、わずかではあるが点はとれた。そこから減点されたので、ほぼ零点に近い成績ではあったが……。

 

 学力試験はケアレスミスが多く、ぎりぎり平均点に届くかどうかという微妙なもの。

 しかしながら、実技試験である採集活動の結果は素晴らしく、団子状態である二位以下を引き離してのダントツの一位である。

 

 これによりエルフィールの成績はギリギリ百番台を切り、九十三位という成績に終わった。

 

「わざわざ成績の悪い方をとるなんて、あんたも物好きねぇ」

「好きに言いなさい。この子に必要なのは、貴方のように破天荒とも言える発想ではなくて、堅実に考え計画的に行動する安定性と判断したまでのこと。成績の如何で判断したわけじゃないわ」

「あらそう、なら学年主席が貴方のところにいっているのはなぜかしらね、イングリド?」

「!? ……見たわね、ヘルミーナ。人の資料を盗み見るなんてはしたないことね」

「あら、人に隠して自分の都合の良いように物事を進める人がはしたないなんてよく言えたことだこと」

 

 そう言って、ヘルミーナが片手に持つは「ノルディス・フーバー」という名が記された資料であった。

 すべての試験が高水準でまとまっており、調合試験はマイスタークラスで新たに生み出されたレシピそのままの手順――燃える砂の濃度を変えた中和剤(赤)に、薄い順からガッシュの枝を漬け込み、枝の奥まで燃える砂の成分を染み込ませる、という方法で調合に成功していた。

 

 最後の最終試験は、アトリエ生の多くに遅れを取るものの、うまく自分の能力不足を補う冒険者を雇っており、寮生の中では高い成績を誇っていた。

 エルフィールとともに採取を行うこともあるということだから、その時の経験とコネをうまく活かしたのだろう。この結果は畑違いの分野でも、経験さえあればそれを応用し、一定の成果を収めることができる能力があることを示している。

 少し線の細いところが心配だが、将来有望な錬金術士の卵である。

 

「貴方がノルディスをもらうなら、私はアイゼルをもらうわ。当然、いいでしょうね?」

「……いいわ。もちろん許可しましょう。けれど、意外ね。その子、今回の学年末コンテストでは六位よ。十分良い成績だけど、貴方なら二位の子をとりそうなものを……」

「冗談じゃないわ。あんないい子ちゃん、つまらないったらありゃしない。それに比べてこのアイゼルって子は、なかなか面白そうよ。気が強そうだし、なによりホムンクルスに興味があるところがいいわ。なかなか仕込みがいがありそう」

 

 ふふふ、と小さく笑う姿は、まさしくおとぎ話の悪い魔女、だ。

 善良という言葉からは程遠い。

 イングリドはヘルミーナに気に入られたアイゼルという少女に同情した。

 

 成績は六位と高いが、特に突出したところはなく、どの成績も極めて高い水準でまとまっている。

 彼女もまたエルフィールとともに採取活動をした経験からか、実技試験の成績も高い。

 

 興味深いのは調合試験だ。

 アイゼルは火属性の魔法の使い手からか、自らの魔法で一気にガッシュの枝を焼き上げ、残りの時間で窯を使い、最後の調整を行っている。錬金術士としてはあまり褒められた方法ではないが、使えるものはなんでも使うという姿勢は見どころがある。

 

 そういった部分がヘルミーナに気に入られたのだろう。

 同情はするが、自業自得でもある。

 

「ならいいわ。いつも通り、残りの十位までの子たちは他の先生達とも協議して平等に振り分けます。いいわね、ヘルミーナ」

「ええ、あとは勝手にしなさい」

 

 もう興味はなくなったとばかりに、音もなく部屋を出て行くヘルミーナを見送り、イングリドは溜息をついた。

 

「……宙に浮いてしまったわね」

 

 自分かヘルミーナで分け合うつもりだった学年次席の資料を目を通し、イングリドは眉間を押さえた。

 

 残念だが、この生徒はイングリドとヘルミーナ以外の教師が担当することとなるだろう。

 一位から十位までの生徒は、他の担当を持つ教師と平等に分け合うのが慣例だ。いつもなら、一位と二位はイングリドとヘルミーナで分け合うのだが、今回は極々稀によくあるヘルミーナの気まぐれによって、他の教師陣の元へいくこととなる。

 

 彼らは喜ぶだろう。

 いつもなら三位以下の人材しか手にはいらないのに、今回は二位の人材が自分の教室にはいる可能性があるのだ。

 

「まあ、いいわ。あの人達も期待の星に変なことはしないでしょうし……」

 

 生徒たちの資料をまとめ、イングリドもまた部屋を出て行った。

 これから、この資料を使い生徒たちの振り分け会議がある。僅かではあっても時間を無駄にはできない。

 

 足早に、イングリドも廊下の先へと消えていった。

 

 イングリドの手の内にある学年次席の資料。そこには「ユリアーネ・ブラウンシュバイク」と書かれていた。

 

 




 ゲームシステム上、やろうと思えば一年目から学年末コンテストで一位をとることは可能です。
 けどさ、たったの一年で学年最下位が学年トップに踊り出るなんて不自然極まりないと思うんだ!
 なのでアリアとエリーの成績は、一年目はかなり微妙なものにしてあります。アトリエ生の中だと一、二を争う成績なんですけどね。


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閑話 その二 ディルクの日常

 カンカンカンッ

 

 小気味良く一定のリズムで、赤く焼けた鉄を叩く。

 固く、鋭く、ただひとつの目的のために最適な形を鉄の中から見出し、整える。

 

 叩く、叩く、叩く、叩く、叩く、叩き、冷やす。

 

 ジュッ、という音を立て白い蒸気が上がる。熱い熱気が顔に吸いて気をつける。

 首にかけた手ぬぐいで顔を拭くと、汗と煤で真っ黒になってしまった。焼きを入れた時に飛んだ煤だ。

 黒くなった手ぬぐいをもう一度首にかけ、冷やした鉄棒をアカデミーで買い取ったというゲヌーク壺の出す水の力で常に回転し続ける研削砥石へと持っていく。

 

 研削砥石で表面を磨く。

 サリサリ、と鉄棒の表面が削れていく音が鳴るたびに、その表面が鏡のように澄み渡っていく。

 表面全てが磨きぬかれた時、それをただの鉄の棒と称するものは誰もいないだろう。

 

 それは一本の剣。

 磨きぬかれた鈍色の刃。

 力の象徴たる鋼の剣が、そこにはあった。

 

 

 

 

 

 バシャバシャ、と音を立てて汲み置いた水で顔を洗う青年の姿。

 今まで仕事をしていたのか、体中が煤で真っ黒に汚れており、顔を洗うたびにインクのように黒い水が顎からぽたりと垂れる。顔を拭う手ぬぐいも既に黒く汚れて、顔を拭く隙間がない。

 それでもなんとか顔から汚れを落とし、額に汗止め用のバンダナを付ける。使い始めてまだ間もないというのに、吸い込んだ汗のせいで色が落ち始めている。ところどころ、煤で汚れてもいる。

 

「あー、たく。仕事をするとすぐこれだ。手ぬぐい一つでも無料(タダ)じゃねぇってのによ。まったく嫌になるぜ」

 

 口では悪態をついているが、少し縫い目の拙いバンダナを扱う手つきは、火傷の痕や固く盛り上がったマメで武骨な見た目とは程遠い繊細さだ。

 

 それも当然だ。

 このバンダナは青年の恋人が、仕事に打ち込む彼にと精一杯考えて手縫いしてくれたものだ。乱暴に扱ったらバチが当たる。

 

 顔の煤を落とし、先ほどと比べてこざっぱりとした身なりになった青年は、多少目つきは鋭いが、なかなか精悍な顔立ちをしている。火のように赤い髪色と相まって、どこか野性的で女が好みそうな風貌だ。色街にでも行けば、青年に声をかけようと娼婦や酒場の女達が我先にとやってくるだろう。

 性格上、決して行くことはないだろうが。

 

 青年の名はディルク。ザールブルグ一と謳われる製鉄所の女主人であるカリンの一人息子であり、自他ともに認めるただ一人の跡継ぎだ。

 

「おう、ディル坊。一仕事終わったんか?」

「ああ、おやっさんか。一応な。昼からは金物打ちだ。いつも通り、たんまりたまってやがる」

 

 ディルクに野太い声で声をかけたのは、真っ白に染まった髪とふさふさと豊かな白いひげを持つ初老の男。年齢に似合わぬ筋骨隆々とした体格を持つ、工房一の古豪だ。

 カリン工房の中でも、経験に裏打ちされた打ち筋で若手からベテランまで幅広い層の尊敬を集めている。

 

 カリン工房に持ち込まれた修理待ちの金物や武器防具は、種別分けして仕事場の隣にある倉庫に積み上げられている。

 毎日どこからか持ち込まれるので、倉庫の中が空になることはない。

 

「ま、ここには職人通り中のカカア共が底の抜けた鍋を持ち込んでくるからなぁ。しゃあねぇってもんさ」

「嫌になるが、これが飯の種だからな。手ぇ抜かずにきっちり直してやんよ」

「カカカッ、ディル坊が直すってんならカカア共も喜ぶってなもんさ。おめぇは顔に似合わず真面目だかんなぁ。若いのにいい仕事をする。こりゃあお嬢も安心だな」

「おふくろをお嬢なんて言えるのは、おやっさんくらいなもんだぜ」

「まあな。なんてったって、俺はこの工房一の古株だからな。おめぇさんどころか、カリンお嬢がこ~んなにちっさい頃から知ってるからなぁ」

 

 そう言って、わずかに親指と人差指の間を広げるおやっさんの顔つきは、工房一の古強者とは思えぬほど稚気に満ちている。

 

「そんなちいせぇ子供なんていねぇよ。たくっ、おやっさんに付き合ってたら休み時間が無駄に過ぎちまう」

「おおっ、そりゃいけねぇなぁ。この仕事は体力勝負だ。一食抜くのもことってもんさ」

「無駄に時間食わせたのは誰だと思ってんだ……。んじゃ、俺は飯に行ってくるわ」

「おう! ま、ゆっくりしてきな」

 

 返事をする代わりに、背を向けながら手を降ることで応える。

 

 工房の外はカンカン照りだった。

 今日もお天道さまは絶賛仕事中らしい。

 

 それでも火で炙られる仕事場よりはマシだ、と思いながら、ディルクはザールブルグの雑踏の中を歩き始めた。

 

 

 

 昼ぐらいになると、職人通りには昼休憩に入った職人達を目当てに車引きの屋台が、我先にと押し寄せる。

 客寄せのためか、屋根を目立つ色に塗ったり、派手な傍を屋根天井にくっつけたりしていて目にチカチカする。

 

 そんなどうでもいいところに金をかけるくらいなら、飯のタネの腕前を上げやがれ、とも思うが口には出さない。どうせそんな見た目だけ取り繕って、中身が底辺な店はすぐに客が来なくなる。

 職人通りの昼場で稼ぐためには、とことん商品の値段を安くするか、ねだん以上に美味くするかのどちらかだ。

 

 剣と一緒だ。

 どんだけ見た目を彫り飾りや宝石で美々しく飾り立てても、肝心の刀身がなまくらならケツを拭く紙以下の価値しかない。

 

 むしろてめぇのきたねぇケツを拭けるだけ、尻紙のほうがマシってもんだ、とディルクは心の内で舌を出す。

 

 それでもいくつかの店は、肉の焼ける匂いやとろけるチーズの匂いがなんとも美味そうで、腹の虫を騒がせる。

 できれば安くて美味く、なおかつ腹の膨れる飯がいい、となんとも贅沢なことを考えながら、車引きの間をくぐり抜けていくディルク。

 

 ウマそうに肉の挟んだパンを食う職人達。あちらには、きのこたっぷりのシチューをむさぼるように食っている労働者の姿。

 少し値段はお高めだが、白いソースをたっぷりとかけたグラタンを取り扱っている店もある。焦げたチーズの匂いが、鼻の穴の奥を突っついてたまらない。

 安いことは安いが、デロデロのオートミールを出す店なんかじゃあ足元にも及ばない。何を食べようか迷うほどだ。

 

 地元民らしく無駄にきょろきょろと首を振らず、目だけで店の様子をディルクは見て回る。

 

 そんなディルクの目を引いたのは、色を塗った屋根もない、派手にはためく旗もない一際地味な車引きの店だ。

 その店には見覚えがあった。年季の入った女主人が出している店で、なかなか美味いものを出す。だが、そのかわりかなんなのか、店を出す頻度は少ない。

 女主人からすれば、本業の傍らやっている副業なので、暇な時くらいしか店を出さないのだ。

 その分、他の店にはない飯を出してくれるので、男どもの食いつきはいい。

 店が地味なので、どこに店を出しているのか見つけにくいが、一度見つければ客が蟻のように群がってきて食い尽くしてしまう。

 

 今日はまだ誰も来ていない。

 運がいいじゃねぇか、と店の前に置かれた簡易イスに腰掛ける。

 

「久しぶりじゃねぇか、ばーさんよ。最近ご無沙汰だったじゃねぇか」

「まったく、女の扱いがなってない坊やだねぇ!」

 

 ガンッ、と威勢よく簡易竃に片手鍋を叩きつけるは、恰幅の良い女人であった。

 おおらかな顔立ちとは正反対に、服装は細やかな仕立てと汚れ一つ無い清潔さを保っている。本来であればシワ一つ無いよう整えた服を、躊躇なく腕まくりしており、仕事に対する繊細さと大胆さを見るものに感じさせる女主人だ。

 その気風のよさは折り紙つきで、どこかディルクの母親であるカリンに通じるところがある。

 

 典型的なザールブルグ女、といったところか。

 

「いい年したレディにばーさんはないだろ、ばーさんは!」

「へいへい、俺が悪うございました、と。で、ばーさんよ。今日はどんな飯を出してんだ?」

「まったく、口の減らない坊やだねぇ。一体誰に似たんだか……、こりゃあカリン嬢ちゃんも手を焼くってもんさ」

「……おふくろを嬢ちゃんって呼んでる時点で年齢が知れる、ってもんだろうがよ」

「……なんか言ったかい?」

「いんや、何にも」

 

 聞こえないようにディルクが口の中で呟いた言葉にも耳ざとく反応する女主人。

 見事な地獄耳である。

 

「まあ、聞かなかったことにしてあげるよ。感謝するんだねぇ、坊や」

「ああ、そりゃどうも」

「よしよし、素直なのはいいことだよ。そんな良い子にはあたし特製のパイをあげようじゃないか。ただし……」

「お代はきっちりいただく、だろ」

 

 ディルクとて、この店の常連と言っても良い客の一人なのだ。

 この女主人の言いそうなことくらい予想はつく。

 

 それ以前に、ここいらに住む人間は互いに顔見知り同士であることが多い。

 井戸や広場など共同の場で顔を合わせることも多く、互いに何くれと世話になったり世話をしたりすることが多いからだ。

 

 ディルクもまた、この女主人に子供の頃は何かとお世話になった人間の一人だ。

 今も、客の一人として店の売上に貢献すると同時に、安くてうまい飯で舌鼓を打たせてもらっている。ちょっと関係性は変わったが、お世話になっているのは変わらないのだ。

 

「けどパイか。だからそんな簡易竈なんて用意してんのか」

「そうさ。これは錬金術士の先生に依頼をした特注品だよ。いい値はしたが、おかげで外でもいろんな料理が作れるようになったしねぇ。錬金術士さまさま、ってやつさ。さ、ちょっとだけお待ちなよ。あとは焼けばいいだけだからね」

 

 ディルクが来る前に用意していたのだろう。

 小麦粉とバターで作ったクリーム色の生地。中身は外からでは見えないが、竈に入れると焼けた生地の香りと一緒になって、ハーブや濃いミルクの香りが鼻の中に飛び込んでくる。

 一番強くて食欲をそそるのは、焼けた魚の香りだ。ここらで捕れる魚といえばマスが有名だ。

 

 マスのパイ包か、たしかに美味そうだ。

 

 その期待通り、竈から出てきたパイはきれいな狐色をしており、かぐわしき香りを周囲の人間を誘うように発していた。

 

 ナイフとフォークといった上等なものは、車引きの店にはない。さくり、と軽い音を立てて切り分けたそれを、手づかみで食べる。これがこういった場のマナーのようなものだ。上品振るのは場に合わない。

 

 大口を開けてかぶりつくと、まず舌に感じたのがマスの油が混じったミルクのソースの味。最近有名になってきた、牛のミルクと小麦粉とバターを贅沢に使って作る白のソースだ。それが旨みのあるマスの油をたっぷりと吸い、火傷するような熱さとともに口の中に広がるのだ。

 これだけでも贅沢な品だが、これはまだ小手調べにすぎない。

 

 マスの身にも塩とハーブでしっかりと味付けがされており、ソースの味にまったく負けていない。

 しかも、使っている塩はまったくエグみがないことから、西にある海辺の町カスター二ェから来た上物だということが一目瞭然だ。

 使っているハーブもこれは一種類だけではない。ズユース草にローズマリー、オレガノと三種類ものハーブを混ぜあわせ、マスの旨みを引き出すと同時に複雑な味と香りを加えている。

 

 強烈な旨みを包み込むはサクッとパリッと絶妙の火加減で焼き上げたパイ生地と、蒸かしたベルグラド芋を潰して作ったマッシュポテトだ。

 ベルグラド芋は白のソースとマスだけでパイ生地の中を埋めるとカネがかかりすぎるので、代用品及びかさ増し目的で使ったのだろうが、それが見事に白のソースとマスの味に合っている。

 

 満足も満足、大満足の出来だ。

 ガツガツとむさぼるように食べ進めると、あっという間に八つに切ったパイをまるまる全部食べてしまった。

 量も多く、健啖家であるディルクも全部食べきれば満腹になるというものだ。

 

 そして腹がいっぱいになったなら、さっさと席を立つのがこういった店のマナーである。

 

「ばーさん、今回の飯はいくらだ?」

「んー、そうだね。銀貨十枚もあれば十分だね」

「おいおい、えらく安いな」

 

 さすがにあまりにも安すぎるので色を付けて渡す。

 良い物にはそれなりの対価があってしかるべき、というのがディルクのポリシーだ。場末の車引きでもそれは変わらない。

 

「まったく、変なところで律儀だねぇ」

「別にいいだろうが。で、なんでこんなに安いんだ? 普通、ここまでもん作ってたら銀貨十枚じゃあ元とれねぇぞ」

「ところがどっこい。これで十分すぎるほどなのさ。……ディル坊、あんたあたしがある錬金術士の先生と懇意にしてることは知っているだろう?」

「ああ、まあな」

 

 今日持ってきた簡易竈から見ても分かる通り、ここの女主人は度々錬金術士の世話になっている。

 過去には他の調理器具を作ってもらったこともあるらしい。

 

「その先生さんがなんか色々実験をしていたらしくてねぇ。――植物栄養剤の生育実験だとか塩の元だとか言ってたけど、まああたしには関係のないことさ。で、そのせいか塩とかベルグラド芋とかが、なんか大量に余ったらしいんだよ。それを親切なあたしが腐らせるのももったいない、ということで格安で引き取ったのさ」

「ふぅん、運が良くて結構なことじゃねぇか」

「だろう。けど、その先生さんはもうこのザールブルグを旅立っちゃってねぇ。この竈はなんとか作ってもらえたけど、次に会えるのはいつになるのやら」

 

 やれやれと肩をすくめる女主人。

「他にもほしい調理器具があったんだけどねぇ」とつぶやく姿はどこか寂しげだ。

 

「ま、友人の結婚式にかこつけて帰ってきてただけだったらしいからねぇ。用事が終わればすぐに旅の空さ。この竈作ってもらえただけでも御の字、ってところだろうね」

「ま、そんなもんだろ」

 

 人生そうそう都合の良いことが続くわけではない。

 いつかは運の切れ目がやってくるというものだ。

 

「んじゃ、俺はもう行くわ。ばーさんも今からの時間が書き入れ時だろ。きばれや」

「何年この仕事をしてきてると思ってんだい? 言われなくてもわかってるよ、坊や。けどまあ、礼は言っといてあげるよ」

 

 店を辞して石畳の道を歩き帰路につく。

 製鉄所まで少し距離があるが、この距離が腹ごなしにちょうどいい。

 

 製鉄所に着く頃には、膨れた腹がちょうど良い塩梅に落ち着いていた。

 

 

 

 職人通りに建ち並ぶ店には、どこも例外なく看板をつけている。

 看板には簡易ではあるが絵が彫られており、絵によってその店が何を専門としているのかひと目で分かるようになっているのだ。

 

 カリン製鉄所の看板は、トンカチに金属のインゴットというわかりやすいが、見た目に華がないものだ。

 武器屋であれば、これがトンカチに剣という見た目に工夫の余地ができるものとなるのだが、トンカチにインゴットだと飾り彫りをする訳にはいかないし、どうにも見た目は地味になってしまう。

 ディルクとしては、外側だけを美々しく飾り立てるのは性に合わないので、これで十分なのだが、若衆の中にはやはり派手好きな面々もいるので、この地味な看板は評判が良くない。

 

 そんな評判が芳しくない看板だが、一緒につけてある客の来訪を告げる鐘の音は良い金属を使っているので、澄んだ高い音がする。

 これだけでも製鉄所の面目躍如というものだ。

 

「おう、今帰ったぞー」

「あら、おかえりなさい、ディルク」

「ああ、今日の店番はお前か、エマ」

「ええ、お義母様に頼まれてね」

 

 製鉄所の店番に立っているのは、飾り気の少ない清楚な服に身を包んだ褐色の肌と銀糸の髪が特徴的な美女――エマであった。

 彼女が店番をしていると、助平心を出した男どもがよく釣れるので、この製鉄所の女主人であるカリンによく頼まれるのだ。

 

 何かあればすぐさま奥にいるディルクを含んだ屈強な男たちが出張るので、エマの身に危険はないが、それでも少し心配だ。ここは製鉄所なので、近所の女どもが底の抜けた鍋などを持ってくることもあるが、主軸は屈強な冒険者や国相手の仕事である。荒くれどもも、時と場合を選ばずやってくるのだ。

 万が一があるかもしれないし、できれば奥にいて欲しいのだが、それを言うと「あら、こう見えてもあたしの方があなたよりも武術の心得があるのよ。心配してくれるのは嬉しいけど、ちょっと専門外じゃないかしら」と反論されるので、最近では何も言わないようにしている。エマは元冒険者だ。実はそういった荒事は、鍛冶屋一本で生きてきたディルクよりもよほど長けている。

 まあ、万が一の事態があってもなにか起こる前に殴り飛ばせばすむことだ。それよりも早くエマが蹴り飛ばしそうだが、それはそれだ。

 

「それはそうとして、ディルク。店の営業中に表から入ってくるのはやめなさい。お客様に失礼でしょ」

「あのな、この時間帯にどんな客が来るってんだ。せいぜい、近くに住むばーさん達くらいだろうが」

「残念、今日は違うお客様がきているのよ。だからもう少し――」

「エマさん、別に構いません。こいつが礼儀のれの字も知らないチンピラ野郎だっていうことはよーく知っていますので」

 

 思わずディルクは「げっ」と声が漏れそうになった。

 エマに話しかけたお客様は、ディルクは嫌になるほど見覚えがあった。

 

 嫌いではないが苦手な人物の筆頭。

 女にしては頭一つ分は高い背丈に、三つ編みにしてなお腰まで届く長い黒髪。瞳は服装と同じ藍色。その藍色の目は、冴え冴えとした冷たい光を湛えている。

 

「まったく。エマさんに迷惑をかけないように、少しは自重するか事情を正直に話したらどうだ」

 

 腕組みをして説教臭いことを言ってくるのは、ディルクの幼馴染であるレイアリアであった。

 少し縮めてアリアと呼ばれる少女は、常に変わらない声色に呆れの色をわずかに乗せて先を続けた。

 

「前まではきちんと裏手から帰ってきていただろうに。わざわざ裏手に回らず、表から帰ってきたのだって、店番をよくしているエマさんを――」

「おい、それ以上言うんじゃねぇ」

 

 隠していることを暴露されそうになり、慌てて言葉を遮るがもう遅い。

 

 もともと察しの悪くないエマはそれだけでディルクの真意を悟ったのか、「あらまあ」と頬をわずかに赤く染めて照れている。

 

 実際、ディルクはよく店番をするようになったエマが心配で、帰りは店の方に顔を出すようにしていたのだが、それをわざわざ白日の下に出すような真似をしなくてもいいだろうに。

 

 人の隠しておきたい意地や見栄を、空気を読まずに人前にさらしてくれるアリアという幼馴染を、ディルクはこれ以上ないほど苦手としていた。

 厄介なのはわざとではあっても相手に悪意が欠片もなく、言葉の足りないディルクの助けになることが多々あることだ。

 文句をつけようにも、ディルクの感情的なものしか反論の材料がなく、その上口喧嘩ではいつも負けてしまう。女に手を挙げるなど男の風上にも置けない、と思っているディルクだと、いつも負けっぱなしで終わってしまうので、話しているとどうにもこうにも苛立ちが溜まるのだ。

 

 まさしく天敵である。嫌いきれない分、質が悪い。嫌いきるには、幼馴染の腐れ縁がじゃまをするのだ。性根は悪く無い奴と知って入る分、なおさらである。

 

「で、今日は何のようだよ」

「ん? ああ、これだ」

 

 話題を変えようと要件を聞けば、底の抜けた鍋を渡された。

 何のことはない。ただの鍋の修理か、とディルクは嘆息する。

 それだけのことなのに、なんだか無駄に神経をすり減らした気がするのは彼の気のせいだろうか。いや、気のせいではない。

 

「この程度なら明日の夕方には直ってる。置いとくから、また取りに来いよ」

「あと、この程度なら修理はだいたい銀貨……、このくらいね。痛み具合によってはもうちょっとかかるかもしれないけど、その場合はまた言うわ」

 

 ディルクの言葉を受けて、エマが大体の値段を提示する。

 鍋などの修理はほぼ一律で代価をとっているのだが、時折えらく全体が傷んでいたり、見た目ではわからないほど穴が大きかったりして、追加の金がかかることがある。

 まあ、その程度の目利きができないようでは一人前には程遠い。

 そしてディルクの腕前は、既に若手の中では頭ひとつ飛び抜けている。今さらこの程度の目利きで間違いなどあるわけがない。

 

「で、他に何か要件はあるか?」

「では、あと一つだけ。今の銀の買い取りはいくらになっている?」

「銀か……」

 

 無言で机を指で叩けば、打てば響くように百枚銀貨を差し出してくる。

 こういう時、ものの道理を知っている人間は楽だ。何も言わずに察するからだ。

 

「相場ならインゴット一つで二百ってとこだ。錬金術士が作ったとなりゃあ多少値は増すがな。ま、それもここ以外の話だが」

 

 カリン製鉄所は、錬金術アカデミーから技法を買い取り、まったく同じ手順で金属の精錬を行っている製鉄所だ。

 そのおかげで、カリン製鉄所で精錬された金属は錬金術士が調合したものと同じように魔力が含まれ、普通のものと比べても質が高く、錬金術の調合にも使用することができる。むしろ、職人達の連塾した技量と合わさり単純な金属の質ならば、かの有名なイングリドやヘルミーナですら、カリン製鉄所に匹敵するものを調合することはできない。

 おかげで、かなり多くの錬金術士――果てはアカデミーすらも顧客に抱えているほどだ。

 

 そのためか、他の工房や製鉄所――アカデミーから技術を買い取らなかったところに比べて、金属の買い取り値は低い。わざわざ買い取らなくても、自分達の手で作り上げることができるからだ。

 むしろ、それこそが本業である。

 

 製鉄所という名を冠しながら、鉄以外の金属も取り扱っているのは、それはそれ、これはこれというやつだ。

 

「だが、ワリィがここはここはほとんど銀の買い取りはしてねぇぞ」

「…………そうだったか?」

「銀貨の造幣は国の仕事だしな。銀なんて買うのは銀細工専門の工房くらいなもんだ。銀の精錬ならしているが、ここで銀細工なんて繊細なもん作ってると思うか?」

「……銀製の武器を作っていたと思うが」

「あれはもとの金属を持ち込んだ奴だけにしかやってねぇよ。それだって一月に一度くらいしか持ち込まれねぇしな」

 

 銀というものは本来は武器に向く金属ではない。

 しかしながら一部の魔物、亡霊であるゲシュペンストなどには銀製の武器はよく効くので、本当に一部の冒険者や極々稀に聖職者が仕事を頼みに来ることがある。

 カリン製鉄所で作った銀は全て国が買い取るので、持ち込みがなければ作らないことにしている。

 

 銀細工――これは完全に専門外である。

 これを買い求めるなら、それ専門のアクセサリー店や工房に行ったほうが早いし、質の良い物が手に入る。わざわざ、カリン製鉄所に持ち込むなど、愚の骨頂としか言いようが無い。

 

「一応金はもらったから口利きくらいはしてやってもいいぜ。錬金術士が調合したとなりゃあ、喜んで買い取る奴らは…………まあ、五分五分ってとこか」

「……買い取っても扱いきれる人間は少ないからな」

「そういうことだ」

 

 錬金術で調合した銀といえど、見た目はそこらの銀と大差はない。

 護符としての効果を付加せず、ただのアクセサリーとして銀細工の品を作るのならば、普通の銀のほうが安上がりですむ。

 また錬金術で調合した銀は魔力が含まれているからか、扱いがどうにも難しいのだ。錬金術士の作った中和剤や研磨剤がなければ加工するのも一苦労で、それでも強引に形を整えても成形がうまくいかず、結局のところ銀貨一枚分にも満たないクズ以下の品となってしまう。

 そのかわりきちんと手順を踏めば、護符としても使える品を作ることができる。そういった品は、当然のことながらただのアクセサリーよりも遥かに高く売る事ができる。その代わり、ここまで出来るのは錬金術士か、一部の銀細工職人のみだ。

 銀細工を手がけている人間全員ができるわけではない。

 

「むしろお前なら自分で加工したほうが儲からねぇか?」

「……その通りだが、身も蓋もないな。お金、返してもらってはダメか?」

「きちんと相場は教えただろーが。むしろ口利きまでしてやってもいいって言ってんだぜ。銀貨百枚分じゃあ安いほどだ」

「むぅ、仕方がないな。今回の分は勉強料と思っておくとしよう」

 

 あっさりと引くアリア。

 まあ、「金返せ」はだめもとだったのだろう。

 こちらとて約定はしっかりと守っているのだ。金を返す義理はない。

 

「それにしても、お前近々銀が手に入る仕事でもあんのか?」

「ちょっとレッテン廃坑まで足を伸ばすつもりだ」

「ああ、あそこか」

 

 レッテン廃坑はその名の通り廃坑となった洞窟だ。

 銀が採れることで有名だったのだが、岩盤が脆く崩落事故を繰り返したことで廃坑となったのだ。その代わり、銀鉱石である日影石は今でも数多く残されており、冒険者が小遣い稼ぎに立ち寄ることもあるとかないとか。

 

「大丈夫なの、アリアちゃん? あそこかなり崩落事故が多いって噂よ。魔物や盗賊も住み着いているって話だし、危険だわ」

「地元民の護衛も雇えましたし、危ないところに入るつもりもありませんから大丈夫です。長居もするつもりはありませんしね。危険だと思えば、さっさと逃げ帰ってきますよ」

「そう、それならいいのだけど……」

 

 アリアを気に入っているエマは少し心配そうだ。

 元冒険者とはいえ――いや、だからこそと言うべきか、エマは危険と噂の場所に行くことを忌避するところがある。護衛に近場に詳しい人間がいることを聞かなければ、もっと強く反対していたであろう。

 

「ま、銀を持ってきたら新しい杖くらいなら打ってやるよ。そこらの木の杖よりはいい魔力媒介になるぜ」

「打撃力も上がるしね。あら、なかなか良いじゃないの」

「ふむ、悪くない提案ですね。次の機会には持ってきますよ」

 

 さすがに今のまま木の杖では装備も不安なのか、アリアも色好い返事を返してきた。

 

「ではまた明日」

 

 と一言残し、アリアは帰っていった。

 

 その場に残ったのはディルクとエマの二人。

 

「これからあなたは仕事よね?」

「ああ、そうだが?」

「早く終わらそうとして気張り過ぎないようにね」

「…………」

「多少遅くなってもあたしは構わないから」

 

 そう言って片目をつぶるエマの姿には、歳相応の茶目っ気があった。

 

 これだから女というのは厄介だ。察しが良すぎる。

 

「へいへい。せいぜい適当にやってやんよ」

「そう言っておいて、仕事には手を抜かないくせに……」

 

 呆れたようにエマがつぶやくが、それがディルクの性分というものだった。

 仕事に手を抜くことだけはどうしても許せないのだ。そしてそれを表に出して見せびらかすのも嫌だった。どうにも性に合わないのだ。

 

 仕事場は暑かった。

 熱気と焼けた鉄を冷やす水桶の水蒸気。それらが混じりあい、仕事場に入ったばかりだというのに額から玉のような汗が吹き出す。

 

「あー、あちぃなぁ」

 

 愚痴を一つこぼして隣の物置から底の抜けた鍋を取り出す。

 地味な上に金にならない仕事と嫌うものも多いが、それでもこれはこのカリン製鉄所に持ち込まれた仕事の一つ。せいぜい全力を尽くしてやりますか、と金槌を持ち上げる。

 

 仕事場にカーン、カーン、と小気味の良い音が響き始めた。



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第十八話 栄養剤とブレンド調合

 学年末コンテストから一ヶ月が経過した。

 学年末コンテストを終えてから九月までの間は、すべての講義が休講となる。

 いわゆる夏期休暇というやつだ。

 そのため、寮生はこの休みを利用して実家に帰るものも多い。貴族のご子息ご息女様も多いので、ザールブルグではなく近郊都市出身の者もいくらかいるのだ。

 

 寮生ではないアリアにとっては半分他人ごとであるが、アリアの友人であるユリアーネは、ザールブルグの外から来た生徒であった。

 アカデミーに行くたびに話していた人の姿が、影も形も見えなくなるというのはなんとも物寂しいものだ、とアリアは思う。

 いつもユリアーネがいたアリアの右隣から、すきま風が吹いてくるようだ。

 

 ただ時折吹き抜ける寒風も、いつもの様に過ぎていく忙しい日々が忘れさせてくれた。

 

 忙しくとも、アリアの日々は充実していた。

 調合に没頭するアリアからは、コンテストの前までは見られなかった自負のようなものが発されていた。

 

 彼女の変化は、精神的なものが大きい。

 学年末コンテスト、全校生徒の学年順位を決める試験でアリアは五十七位という順位をとった。

 アリアを含む一年生の人数は二百八十一名。アトリエ生でありながら、平均を大幅に上回る高順位を得ることができたのだ。

 

 順位の張り出しを見た瞬間、飛び上がらんばかりに喜んだのはアリアだけの秘密だ。

 無表情と無感情が合わさって、外面からはまったくわからないものだったが、彼女は彼女なりに喜んでいた。

 

 ただ、このコンテストの結果、アリアは喜びと同時に困惑も得ることとなる。

 

 二年進級時の担当教諭の割り振りは、コンテストの結果と同時に貼りだされた。

 アリアの担当教諭はアカデミーでも名高きヘルミーナ女史であった。

 

 ヘルミーナ女史のクラスに選ばれる生徒は、学年内で二十位以内に入っている優秀な者ばかりである。これはただの噂ではなく、事実である。

 それなのに、まったくわけがわからないことに学年で五十七位という順位のアリアがヘルミーナ女史のクラスに選ばれてしまったのだから、これは大変である。

 番狂わせも甚だしい。

 

 おかげで最近アリアがアカデミーに行くたびに、ヒソヒソ、ヒソヒソと内緒話が鬱陶しいこと、鬱陶しいこと。

 

 少し考えればわかることだというのに、「どんなコネを使ったのやら」やら「さすが下々の人は媚を売るのがお上手だこと。私も見習いたいものですわ」とか言わないでほしい、とアリアは内心溜息をつく。

 

 一般庶民がアカデミー上層部とのコネを持っているわけがない。

 ついでに、ヘルミーナ先生は最近までアカデミーから離れていたんだぞ。どうやって媚を売れと言うんだ。物理的に不可能だろうが。

 

 あまりにも小うるさい陰口に、アリアは辟易としていた。

 表面上は涼しげに受け流しているが、アリアの精神力は常人と何ら変わらない。少し面の皮が厚いだけで、傷つく時は傷つくのである。

 この程度で傷つくような柔な心は持っていないが。

 

 まあ、真正面から文句をつけるわけでもなく、陰口を言うしか能のない人間の言葉で傷ついてやる義理などありはしないのだ。

 顔周りでブンブンうるさい蝿と一緒だ。気になると煩わしいが、結局はその程度の存在である。丁重にこちらが無視して差し上げれば害はない。

 その程度のことで、今回のコンテストの結果がケチつけられるわけではない。自分の実力を出し切った結果と、胸を張ればいいだけのことである。

 

 アリアの精神力は常人と同レベルかもしれないが、図太さは一段ずば抜けていた。

 

 

 

 

 

 九月の初日、アリアが二年生に進学して初めての講義がある日だ。

 運がいいのか悪いのか、それともあるいは当然というべきか。初日の講義――アトリエ生も参加せねばならない必須講義――は担当教師が講義に当たるらしい。

 つまりアリアはヘルミーナ女史が担当するクラスに行くこととなる。

 

 

 アカデミーは数日前の閑散とした様子から様変わりし、一月前の人で溢れた賑やかな様相を取り戻していた。

 初日の講義ということで、いつもより人が多いように感じるのは、アリアの気のせいではないだろう。

 

「それにしても、お久しぶりですわね、アリアさん。休暇の間はいかがお過ごしでしたか?」

「いつもとあまり変わりはなかったよ。アカデミーが休みとはいえ、私は日々の生活費を稼がなくてはいけないから、やはり仕事仕事だ」

 

 アリアに話しかけるのはユリアーネだ。

 いつものようにアリアの横で共に歩き、頭一つ分は高い位置にある顔を見上げるように覗き込む。

 歩みに合わせて肩に柔らかく落ちた金色の巻き毛が、さらさらと背に靡く。

 

 アリアの言葉を受けて、伏目がちに憂いを帯びた表情もまた麗しい。

 

「そうでしたの……。やはり、アトリエの方は大変ですのね」

「その分やりがいがある。私としてはこちらの方が自分に合っていると思っている。あまり心配しなくても大丈夫だ」

「あら、(わたくし)は何も心配しておりませんわ。アリアさんでしたら大丈夫だと知っておりますもの」

「……そうか。これは一本取られたな」

 

 顔を見合わせ、二人は笑った。

 アリアはかすかに口角を上げて、ユリアーネは鈴の音のような声でコロコロと。

 傍目では対照的だが、共有した感情は同一のものだ。

 

「それにしても残念ですわ。(わたくし)とアリアさんの担当の方が一緒でしたら、これほど喜ばしいことはありませんでしたのに。本当に、残念ですわ」

「そうそう、なにもかも都合よくとはいかないものだ。お互いに……というか、私が無事に進級できただけでも御の字というものだろう」

「もう、そういうことは言うものではありませんわ」

 

 ぷりぷりと腰に手を当ててユリアーネが怒ったふりをする。

 

「今のアリアさんの知識や調合の技量は十分にアカデミーでも通用するものです。謙虚なのは良きことですが、自分を卑下するのは良きことではありませんわ」

「そうか、ならこう言い直そうか。“私たちが今ここにいるのは当然のことだ”とね」

「そうそう、その調子ですわ」

 

 そう他愛ない話をしている内に、目的地である教室の前に着いていた。

 

「あらもう着きましたのね。では(わたくし)はこれで。また貴方のアトリエにお邪魔しますわ」

「ああ、ユリアーネなら歓迎させてもらおう」

「ふふふ、楽しみにしてますわ」

 

 そう言うと、ユリアーネは純白の錬金服を翻し、去っていった。

 彼女も自分の教室へと向かったのだ。

 

 その場に残ったのは、アリアただ一人。

 

 仕方がない、覚悟を決めるか、とアリアは教室の扉に手をかけた。

 

 開けると同時にザッと視線がアリアに集中した。

 

 視線、視線、視線。まるで視線の抱擁だ。

 アリアの全身、余すところなく教室にいた十名ほどの生徒に見回される。

 お行儀が良いことに本人を前にして陰口を叩くことはないが、そのねめつくような視線が何よりも雄弁に彼らの内心を語っていた。

 

「なんでお前のようなものがここにいる」という声なき声が。

 

 エリート中のエリートが集まるヘルミーナ女史の教室に、アトリエ生、しかも順位はたかだか五十七位の生徒が入ってきたのだ。

 声に出すかはともかく、内心は不満でたらたらだろう。

 

 だがそんなもの、言葉にしなければ聞こえるわけでもないし、悪意を含んだ視線など見なければいい。真正面から来ることがあれば、その時はその時だ。アリア自身は自分はただまっとうに勉強し、努力してきただけ、身の内に何ら疚しいところなど無いと自負している。

 もし、自分がここにいることに文句をつけてくる輩がいれば、真正面から応対してさしあげよう、となんとも勇ましいことを考えていた。

 

 ただ、アリアの覚悟はほとんど杞憂に終わる。

 結局のところ、アカデミーの生徒はとてもお行儀が良い(・・・・・)のだ。自分は自分、他人は他人と良い意味でも悪い意味でも割りきっており、内心ではどう思っていようが特別問題を起こさなければ、自分から波風を起こすような危険な火遊びが趣味の輩もいない。いわゆる、事なかれ主義、というやつである。

 その傾向は、成績が上のものほど、つまり頭の良い生徒ほど強い。

 そのかわり、自らの能力には絶対の自信を持っている者も多いのが、難点である。事なかれ主義だが、決して我が弱くはないのだ。見くびれば、がぶりと反撃される。

 

 そして、例外というものはたいていどんなところにもいるものである。

 

 

 自らに集中する視線をきれいに無視して、観衆の視線の中を堂々と横切り、自らの席に座るアリア。その間、全く表情を変えないところがふてぶてしい。

 そしてそのまま講義の用意を始めるアリア。

 

 そんな彼女の前に一筋の影が差した。

 アリアが顔を上げるとそこにいたのは――。

 

「あら、あなた部屋を間違えているんじゃないの? ここはヘルミーナ先生の教室よ。あなたのような人が来る場所じゃあないわよ」

 

 黒に近い茶色の髪。目は両目とも明るい緑色。

 白い透き通るような肌を包むは濃紅色の丈が短い錬金服。

 言葉の端々に刺が見える彼女の名はアイゼル・ワイマールという。

 

 アイゼルはアリアの友人であるエリーの友達である。またアリアとはエリーを通じて知り合った過去がある。

 仲は正直良くはない。

 アリアの不用意な一言でアイゼルを怒らせてしまったことがあり、それ以降も積極的に交流をしていないからだ。アリア自身はそんなに悪印象は持っていないのだが、アイゼルの方はアカデミーで見かけるたびに鼻を鳴らして顔を背けてくるのが現状である。どう甘く見積もっても嫌われている。

 互いにヘルミーナ女史が担当であることは知っていたが、アリアの方から接触を持つつもりは全くなく、話しかけることすらするつもりはなかった。

 

 まさか向こうの方から声をかけられるとは、アリアは考えてすらいなかったのだ。

 少しの間呆けてしまい、なにも言わずにアイゼルの顔をただじっと見つめてしまうアリア。

 しかしその地獄のような無表情のせいで、ただ呆けているのではなくまったく別の何かと勘違いされることが多い。

 そして、今回もまたそうであった。

 

「な、なによ。この程度で睨みつけなくてもいいでしょ!」

「ああ、いや。睨みつけたつもりはないのですが……」

「ふん、どうだか」

 

 無表情のせいで睨みつけたと勘違いさせてしまったが、なぜだかアイゼルはアリアのもとから立ち去ろうとはしない。

 アリアならそんな対応をされれば、無言でその場から離れるだろう。特に嫌ってる相手ならなおさらだ。

 だというのに、アイゼルは何かを言いよどみながら、この場を離れようとはしない。なにか話したいことでもあるのだろうか?

 

「…………なにかあるのですか?」

「べつに。あなたに話すようなことなんてなにもないわ」

「はあ、そうですか」

「ええ、そうよ。あなたのような人と言葉を交わすくらいなら、エリーの田舎臭いおしゃべりでも聞いていたほうがましよ」

 

 悪態混じりではあるが、エリーのことを話す時、わずかではあるがアイゼルの表情が柔らかなものとなる。その表情こそが、彼女とエリーの友人関係が確かなものであることを、何よりも雄弁に教えてくれた。

 

「エリー、か……」

「……そうそう、そういえば最近エリーを見ていないわね。あなた、なにか知ってる?」

「…………は?」

 

 いきなりの話題転換に一瞬言葉に詰まるアリア。

 けれども、アイゼルは逃さないとばかりに眼光鋭く、アリアを睨みつけてくる。

 きれいな顔な分、そうした顔をすると普通の人よりも迫力がある。

 

 いつもなら顔を見ることすらしないアリアに自分から声をかけるという奇行。唐突な話の切り替え。そして、あきらかに質問の答えを催促する態度。

 そこに寮生という立場――アトリエ生とは時間の都合やら生活環境の違いやらでお互いの予定が食い違いやすい、という事情を考慮すれば、答えは自ずと分かる。

 

 ああ、なるほど。そういうことか、とようやくアリアは合点がいった。

 つまり何ということはない。アイゼルの目的はエリーだったのだ。エリーが調合に没頭してしまったのか、それとも採取に行ってしまったからなのかは知らないが、この休暇の間、ほとんど二人は会うことがなかったのだ。

 アイゼルがエリーのアトリエを訪ねれば、それだけで済んだだろうし、気に入らないアリアに尋ねる必要性などなかったのだが、どうにもプライドの高そうなアイゼルである。自分から折れるということがどうしてもできなかったのだろう。厄介な御仁である。

 だが、だからといってアリアでも全部が全部、質問に答えられるわけではない。

 

「申し訳ありませんが、私も最近はエリーと会っていないので、今何をしているかは知りません」

「ちょっとまちなさい。あなた、エリーと同じアトリエ生でしょう?」

「同じアトリエ生だからですよ」

 

 お互いにアトリエ生の方が予定は合いにくい。生活のためにも依頼を定期的にいれねばならないし、採取で何週間も外に出る事もザラだ。まだアリアは経験していないが、学年が上になってくれば、月単位でアトリエを空けるものもいるという。

 そして合間合間に予習復習、調合の練習に講義の参加、家事とけっこう予定がギチギチに詰まっている。

 寮生は休み期間中以外はアカデミーにいることが多いので、講義にさえ行けばついでに会うこともできる。アトリエ生とアトリエ生よりも、アトリエ生と寮生のほうが実は会う頻度は高いといえるだろう。

 

 アリアとエリーは友人関係を築いているが、互い違いに採取に向かい、一ヶ月もの間顔すら見合わせることがないのもよくあることなのだ。

 今回の夏休みの間も、アリアはまったくエリーの姿を見かけなかったが、「いつものこと」とろくに考えもしなかった。

 学年末コンテストに備えて依頼を控えていたので、終わったと同時に焦げ付き始めた家計を立て直す必要があったのも原因の一つだ。そのおかげで依頼が立て込み、充実はしていたがいつも以上に忙しく、エリーのことを気にしている余裕が全くなかったのだ。

 

「あなたそれでもエリーの友達なの? 一月も顔を合わずにいて気にはならないのかしら?」

「採取とか入ってくればザラなことでしたので……」

 

 正直、いちいちそんなことで心配していたら、日々の大半を相手の心配で浪費しなくてはいけない。アトリエ生同士なら、あえて気にしないことも時には必要なのだ。

 

「そんなに心配だったら、直接会いに行けばいいのに……」

「誰が誰を心配してるですってぇ!? もういいわ。あなたに聞いた私が馬鹿だったようね!」

 

 肩を怒らせながら席に戻っていくアイゼルを見送り、アリアは嘆息した。

 

 なんともかんとも、面倒な性格だなぁ、と素直になれないアイゼルという少女の怒りで赤く染まった耳元を見つめた。

 図星を指されたからといって怒鳴らなくてもいいだろうに。まあ、それを改めて突っ込むのは野暮というものか、とアリアは小さく肩を竦めたのであった。

 

 

 

 アカデミーで最も有名な教師は誰か、と問われればその答えは決まりきっている。

 それは校長であるドルニエではなく、最初期からアカデミーの経営に携わり三十代で幹部陣の筆頭に立つアカデミーの女傑、イングリドである。

 彼女の錬金術の腕前は教師陣の中でも群を抜いており、錬金術に自らの全知全能を捧げているドルニエに匹敵する。アカデミーの経営、王宮との交渉等様々な汝と関わりながら、である。

 

 そしてアカデミーには、そのイングリドと真っ向から向かい合う女傑がもう一人存在する。

 魔女と呼ばれし錬金術士、ヘルミーナである。

 

 外見は魔女という異名がつくのもある意味納得だ。

 このザールブルグでは珍しい左右で色の違う目。薄紫の髪にそれに合わせてか、服は常に濃い紫色。似合って入るのだが、常に湛える蠱惑的な笑みのために、紫という色が持つ神秘的な意味合いを真っ向から打ち消し、不気味でおどろおどろしい印象を他人に与える。

 一度そう見ると、並大抵のことでは印象を覆せない。白磁の肌も赤い唇も美人に対する褒め言葉ではなくどこか陰鬱なものとなり、死体のように白い肌やら血のように赤い唇と称される。

 如何ともし難いのは、本人がその評を受け入れてしまっていることだ。文句をつけるものが誰も居ないのだ。

 

 そのうえ、本人の性格もその評価を後押ししてしまっている。

 他者と馴れ合うことを好まず、天才的な才能を持つ人物としてはよくあることだが、実力の劣るものに対する評価も厳しい。気に入らなければ真正面から侮蔑の言葉を吐くことも珍しくはない。自分というものを縛るのが、とことん嫌いな人間なのだ。

 

 ホムンクルスの第一人者ということも外聞が悪い。命の創造というものに忌避感を持つものは、同じ錬金術士であっても数多い。

 それ故に、彼女の悪評は絶えず、イングリドに対抗しうる存在でありながら、その傘下に就く人間は極めて少ない。しかしながら、数が少ないからこそ彼女のもとにいる人間は粒揃いだ。アカデミーを卒業してもなお旗色をヘルミーナに向ける人間は、まさしく彼女の秘蔵っ子と言っても過言ではない。

 そしてそれだけの質が揃っているからこそ、数は少ないながら彼女はイングリドと真正面から向かい合う派閥の長に立っているのだ。

 

 

 教室の壇上にヘルミーナが立つと、何やら部屋中が薄暗くなったような気がする。

 もちろん気のせいではあるが、ヘルミーナもまた人に影響を与える空気を持っていた。

 

「私の授業では錬金術の神秘と深淵を、あんた達の軽い頭に叩きこむわ。ついてこれないものは容赦なく置いていくから覚悟なさい。まあ、精々頑張りなさい」

 

 いきなりの毒舌に生徒たちは軽く目を見開くが、そこはそれ、エリート揃いのヘルミーナクラスである。ざわめき一つ起こさず、教壇に向かい合う。

 

「今回の講義はブレンド調合について。二年になると同時に全生徒に教えられる調合方法よ。まあ、一定の成績を修めた生徒は、事前に教えられることもあるけどね。私のクラスに来る生徒でこれを教えられていないものはいないだろうから、さっさと先に進むわ」

「あの、申し訳ありません。私はまだなのですが……」

 

 手を高く挙げ、臆することなく事実を伝えるアリア。

 周りの目が集中するがそんなことは気にならない。

 一応予習はしてあるのだが、しっかりと内容は教えてもらってはいないので、それを真正直に言う。

 

「ふーん、で?」

 

 それはまさしく路傍の石を見る人間の目であった。

 血の通った人間を見る目ではない。興味のないもの(・・・)を見る目であった。

 その目を見ただけでアリアは悟った。

 

 あ、これは教えてはもらえないな、と。そして同時に、予習をしておいてよかった、と「高等錬金術講座」という参考書の表紙をなでた。

 これを持ってこなければ今回の講義、訳がわからないまま終わってしまっただろう。

 

「話したいことはそれだけ? そんなつまらないことで私の講義を止めるとはいい度胸ね」

「申し訳ありません。私が軽率でした」

「へぇ、自分の非を認める程度の知能はあるわけね……」

 

 努めて冷静に返したのだが、なにが琴線に触れたのかヘルミーナの眉が、危険な角度にピンッと軽く跳ね上がった。

 一瞬アリアの背筋に震えが走ったが、それをおくびにも出さず色違いの瞳を見返した。

 

「いいわ。レイアリア・テークリッヒといったわね。ブレンド調合というものがどういった調合か説明してみなさい。まさか、予習すらしてきていない、って馬鹿なことを言うつもりはないでしょうね?」

「……いえ、予習は終えています」

「なら問題ないわね。早くしなさい。時間は有限なのよ」

 

 一体どういった心境の変化かわからないが、怒らせるのも面倒だと、アリアは間髪入れずに口を開いた。

 

「ブレンド調合とは、調合する際の材料の配分を参考書のレシピ通りではなく、自分で自由に決めて行う調合のことです。調合品の品質・効力を高める際に有用ですが、事前に天秤がなければ細かい配分の調整ができません」

「ふぅん、確かに通り一辺倒の説明は知っているようね。じゃあ、一つ質問をしようかしら。なぜ参考書のレシピには、ブレンド調合で最適とされた配分が載っていないのか、あんたにわかる? この二十年の間にブレンド調合の結果、最適と思われるレシピはいくつも発見されてきた。なのにその調合比率は参考書に載っていない。さて、この問題があんたに解けるかしら?」

「それは……」

 

 そんなことわかるはずもない。

 だがここで何も答えられなければ、どうにも機嫌が悪くなりそうだ。

 

 破れかぶれだが仕方がない。ブレンド調合には天秤が必要だ。つまりはそういうことではないだろうか。

 

「ブレンド調合には天秤が必要だから。それもかなり精度の良い、錬金術用に調整されたものが。ですが錬金術用の天秤は高く、普通の人では用立てできない。だからこそ通常の天秤でも調合することのできる平易なレシピが参考書に載せられるようになった。……違いますか?」

「…………」

 

 楽しげにニヤニヤと、獲物をいたぶる猫のように加虐的な笑みを浮かべるヘルミーナ。

 人が悪いなぁ、とどこか諦めの境地に達しているアリア。

 

「面白い意見だけど、違うわね」

「……ああ、そうですか」

 

 まあ、これは予想がついたことだ。適当に思いついたまま理論を組み立てただけで正解したら、逆に驚きである。

 

「参考書に乗っているレシピは、一番成功率が高いものを採用しているのよ。初めてその調合に挑戦する人間でも、一定の成功率を確保できるように、ね。まったく、そんなつまらない理由で最適解を乗せないなんて非効率的だと思わない? あの女もつまらないことをするものよねぇ」

「申し訳ありません。私には答えかねます」

 

 さすがにそんな無茶ぶりをされても、アリアでは困惑するしかない。

 その面白みのない返答に少し気を悪くしたのか、ヘルミーナは鼻を鳴らして顔を背けた。

 

「まあ、いいわ。今回ブレンド調合を行うのは栄養剤よ。これを通常のレシピで調合するものよりも、品質・効力が高くなるように調合しなさい。ヒントは、栄養剤の主軸となる素材を一度考えること。そうすれば自ずと正解に近い答えが得られるわ。さあ、天秤はそれぞれの机に用意してあるわ。ブレンド調合の肝は正確な配分比率。ちょっとでも間違えたら、そこからケチがつく。大胆に配合比率を決め、細心の注意をはらい天秤で量り取りなさい。グズグズしている時間はないわよ」

 

 

 栄養剤の調合はそう対して難しいものではない。

 必要とされる調合の技量は基本的な調合品であるアルテナの水とそう対して変わらず、調合方法も似通っている。

 

 まずオニワライタケをざく切りにし、ぐつぐつと鍋で煮込む。この時使う水は事前に調合しておいた蒸留水を使う。オニワライタケはその名の通り、人を笑わせるという効果の毒があり、食べると一日中笑い続けることとなる。

 その毒を抜くために、蒸留水でしっかりと煮こむ必要があるのだ。ここで、蒸留水以外の水を使うと不純物で上手く毒が抜けず、栄養剤を飲んだ人が笑い転げる羽目となる。

 

 しっかりと毒抜きをしたら、毒を含んだ蒸留水を捨て、中和剤(緑)で軽く沸騰するまで煮こむのだ。この間、焦げ付かないようにかき混ぜながら魔力を注ぎ込まなくてはいけない。

 混ぜながら魔力を注ぎ込む、という手法がアルテナの水と似ているが、それよりはよほど作る手間がかからない。

 アルテナの水はかき混ぜ、魔力を注ぎ込み、さらに中和剤(緑)も一緒に加えるという三つの工程を同時に行わなくてはいけない。そちらのほうがよほど大変だったので、栄養剤を調合するほうがまだ楽なのだ。

 

 そして一度沸騰したら火から降ろし、冷めるまで待つ。触っても問題がないくらいまで温度が下がれば、ろ過器で残ったオニワライタケの欠片や繊維を濾し取り、瓶に詰めて完成だ。

 

 改めて参考書見て手順を確認するが、間違っているところは何も無い。

 問題は……。

 

「素材をどういった比率で調合するか、だな」

 

 栄養剤の基本レシピは、蒸留水が二にオニワライタケが二、中和剤(緑)が一とされている。

 ここからどう材料を増減させるか、それが今回の問題だ。

 

 まず考えるは栄養剤の主軸となる材料・オニワライタケだ。

 基本的に栄養剤の主要な成分はオニワライタケから抽出したものだ。蒸留水はオニワライタケの毒抜きにしか使われていないし、中和剤(緑)は煮溶けたオニワライタケの効果を引き出すために使う。基本となるのはオニワライタケなのだ。

 なら、単純に考えればオニワライタケの量を多くすれば、より効果の強いものが出来上がる、と考えて間違いないだろう。

 

 そして次に量を増やすべきは蒸留水だ。オニワライタケの量を増やしたなら、より多くの毒が出るのもまた必然。その分、蒸留水を増やし、毒をしっかり抜かなければ、お客様に渡せない代物と成り果てる可能性がある。

 

 逆にそう対して量を変える必要がないと思われるのが中和剤(緑)だ。オニワライタケを増やした量に合わせて、少し加えたほうが良いかもしれないが、中和剤(緑)はオニワライタケの効果を引き出すものであり、魔力をなじませる触媒にすぎない。あまり増やしすぎれば、逆にオニワライタケの成分を薄めることとなり、せっかく増やした分を意味のないものにしてしまうだろう。

 

「ふむ、ではこれでいこうか」

 

 頭の中で計算した比率を簡単にメモにとり、アリアは早速天秤を手にとった。

 

 

 

「…………うむ、良い出来だ」

 

 最後の一滴まで瓶に注ぎ込み、アリアは瓶の口を閉める。

 茶色の瓶の中、緑色の液体がちゃぽんと揺れる。

 

 品質と効果を確かめてみれば、アリアの調合した栄養剤はどちらの値もA+という評価が出ていた。

 紛れも無い成功である。鼻が高い。

 

 だか、アリアと共に教室に残っている生徒の数は少ない。天秤の扱いにアリアは慣れていなかったので、余計な時間を食い、ほとんど最後まで居残る羽目となった。

 だが、その分成果は出した。

 気難しいヘルミーナであっても、アリアの調合した栄養剤を認めないなんてことはないだろう。

 

 アリアは意気揚々と、教壇で待つヘルミーナのもとに栄養剤を持っていった。

 

「ヘルミーナ先生、栄養剤の確認をお願いします」

「ようやく来たわね、遅いわ。もっと高度な調合品ともなると、調合時間が重要になってくるものもあるわ。もっと手際よく調合するように」

「…………」

「なに突っ立っているのよ。もう帰ってもいいわ」

「え、もう終わりなんですか?」

「栄養剤ごとき、一目見れば大体の質が分かるわ。あんたの栄養剤は一応及第点ね。ブレンド調合に必要な考え方は身に付いてるようだし、これ以上なにかを言う必要もなし。わかった? ならさっさと帰りなさい」

「……わかりました。では、失礼します」

 

 少し釈然としないが、ヘルミーナ先生がそう言うならそういうものなのだろう。

 頭をかしげながら、アリアは教室を後にした。

 

 

 

 一日の授業が終わったからか、アカデミーの廊下は人の数が少なく、とても静かであった。ユリアーネのことが頭の隅にちらついたが、もうすでに寮に戻っているだろう。ユリアーネはアリアよりもよっぽど優秀だ。アリアのように天秤の扱いに手間取り、時間を浪費するような間抜けなことはしないだろう。

 

 早く家に帰ろう、とアリアが夕日が差す廊下を歩いている時だった。

 廊下の反対側からだれか急いで走ってくるのが見えた。

 茶色の髪に柔らかな黄色の錬金服と赤色のマント。

 走ってくる男子生徒はノルディスであった。

 

 けれど、様子がおかしい。ノルディスは廊下を走るような生徒ではないのだが。

 もしかしたら、何か緊急事態があったのかもしれない。アリアはノルディスに声をかけることに決めた。

 

「ノルディスさん、何かあったのか?」

「あ、君はたしかアリア、だよね? うん、ちょっとエリーが……」

「エリーに何か?」

 

 何かあったのかもしれない、とは思ったがそれがエリーだとはまったく予想もしていなかった。いつも元気なエリーに何があったというのだろうか?

 そういえば、最近顔も見ていなかった、とアリアの胸中に暗雲が立ち込める。

 

「うん、エリーが疲労で、その、倒れて……」

「な!? ……それでエリーの容態は?」

「幸い、ただの過労だって。僕は先生を呼んでくるからアリアもエリーのことを頼んでもいいかな? アイゼルが見ててくれてるけど、一人だとやっぱり心配だから」

「そうか……。ならひと安心ですね。わかりました。私も看ています。エリーがいるのは医務室ですか?」

「うん、そうだよ。それじゃあお願いするよ」

 

 そう言うと、ノルディスは来たときと同じように走っていった。

 アリアもまた急いで医務室へと向かう。

 頑張りすぎは体に毒だぞ、とエリーのことを思いながら。

 

 

 医務室まではそうたいして離れていない。

 ノルディスと別れてから大して時間をかけることなく到着した。

 アリアが扉にてをかけたその時であった、小さな声が聞こえてきたのは。

 

「まったく、あなたときたら人に心配をかけるだけかけて、こんなところでぐーすか寝てるなんて。いい身分ね、うらやましいほどね」

 

 その少し気取ったしゃべり方は、アイゼルのものだった。

 

「あなたが倒れるなんて明日は雨かしら? それとも槍でも降るのかしら? どちらでも青天の霹靂であることには変わりないわね」

 

 嫌み混じりのその話し方。

 いつものように、普段と変わらぬ様子で話しているつもりだろうが、その声には張りがない。萎れた花のように、どこかくたびれている。

 

「ああもう、あなたが元気ないと調子が狂うのよ! 私が手ずから作った栄養剤あげるから、すぐにいつものように能天気に笑ってなさいよ! いい? これは命令よ!」

 

 医務室のドアの前で立ち尽くしながら、アリアはあごに手を当て考えた。

 

 今、この中に入って行くのはあまりにも空気が読めていないな、と。

 ここにいたこともばれるのは、自分にとってもアイゼルにとっても歓迎出来ないことだろうな、とアリアは嘆息した。

 

 仕方がない。約束やぶりになるが、ここはアイゼルに任せるとするか。

 アリアはせっかく来た道を戻っていった。

 ノルディスになんて言い訳しようか、と考えながら。

 

 アリアの影が夕日の差す廊下に長く、長く伸びていた。



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第十九話 シャリオチーズとホッフェンの花束(上)

 ガタゴトと馬車が揺れる。

 作りが良いのか街道を走る幌馬車よりも揺れが少なく、下にひいたクッションのおかげか揺れで腰を痛める心配もない。

 あまりの座り心地のよさに、逆に尻が落ち着かないほどだ。

 

 アリアが馬車の窓から外を見ると、涼風が顔を撫ぜる。

 赤く色づいた山々が、秋の深まりを教えてくれる。道の端々には野花が咲き、風に揺れている。

 時折聞こえるのは鳥の声。

 なんとものどかな光景だ。いつまでも見ていたいほどに。

 

 けれども意を決して、アリアは馬車の中へと視線を戻した。

 

 内装もどこにも手を抜いていない。

 どうやったのか、白い革張りの腰掛けに天井。

 足元には何の動物か、ふわふわの白い毛皮。

 窓枠には丁寧に意匠が施され、一枚の絵画のように流れ行く風景を切り取る。

 

 豪奢というよりも上品で優雅な内装である。

 どれだけ金がかかっているのか、アリアは考えたくもなかった。

 

 そんなアリアの隣には、ガチガチに緊張したザシャが座っている。

 これで使い物になるのか不思議に思うほど、お高い馬車の中で気後れして全身が強張っている。

 

 アリアの前にはにこやかに笑うユリアーネ。

 全身から「一緒に旅できて嬉しい」という空気が発されている。

 

 そのユリアーネの隣りに座るは、仏頂面で目を閉じている銀色の鎧をまとった。女騎士の姿。

 ユリアーネと同じ金髪碧眼。その深い青の瞳は、今は瞼の裏側に隠れているが、頭の上でまとめられている見事な金髪は隠しようがない。

 美しい女性だが、れっきとした騎士の地位を持つユリアーネの護衛である。「お嬢様とご学友の談笑をおじゃまするつもりはありませんので」と言ってから、言葉通り一言も喋っていない。

 どうにも空気に刺が隠されているような気がするのは、アリアの気のせいだろうか?

 

 なぜこんなことになったのか、アリアは事の発端を思い返す。

 それは一月前のこと。

 九月に入りしばらくした頃のことであった。

 

 

 

 

 夏の暑さが和らぎ始め、生命力で満ち満ちていた深緑の葉が赤や黄色の衣をまとい始めていた。

 

 季節の移り変わりを日々目にしながら、アリアはいつものように鉄を打ち、アルテナの水や栄養剤といった薬を調合し、はちみつや水飴といったお菓子を作る。そんなありふれた一日であった。

 少し違ったのは、それは数少ないユリアーネがアリアのアトリエに遊びに来る日だったということか。

 

 ユリアーネはアリアのアトリエを訪ねる時には、たいてい何かしらのおみやげを伴ってやって来る。

 アリアとしてはユリアーネだけでも大歓迎だが、このおみやげもまた好ましい。

 ザラメから雑味を取り除いて作った砂糖をふんだんに使ったお菓子は、上品な甘さでいくら食べても食べ飽きない。

 モカパウダーという珍しい食材を使ったお菓子は、甘さの中にほろ苦さがあり、それが得も言えぬ美味を引き立たせている。

 

 こうした作り手の妙を感じさせるお菓子も嬉しいが、最近ではカステラやはちみつといったちょっと庶民向けのお菓子も持ってきてくれる。このどちらも参考書に載っている錬金術で調合することのできる品だ。

 つまり、貴族であるユリアーネが慣れないながらも手作りしてくれた品というわけだ。これ程嬉しい品があろうものか。

 心なしかアリアもまた、一流の料理人が腐心して作り上げた芸術品のようなお菓子よりも、ユリアーネが作った品のほうが美味しく感じる。

 

 それを正直に伝えれば、ユリアーネはその日一日中顔を真っ赤にして俯いていた。

 

 素直に賞賛しただけだというのに、そんなに照れるようなことだろうか、とアリアは思ったが、それを言えば「アリアさんが男性でなくてよかったですわ……」と困ったように微笑まれた。

「どういう意味だ?」と問いかければ、呆気にとられたように口を開きポカーンとしていた。そしてこらえきれない、とでも言いたげに突然笑い始めたのだった。

 

 そんなに変なことを聞いただろうか、と自分で自分を疑問に思うアリアだったが、そんなアリアにようやく笑いの発作を収めたユリアーネはただ一言、「そのままの意味ですわ」と意味深な返答を残すばかり。

 

「ううむ」とアリアは首をひねる。

 何の影響か、最近ユリアーネは出会った頃よりもずいぶん図太くなってきたように感じる。

 まあ、最初の頃の小動物のような様相も可愛らしかったが、のびのびと自分を出しているユリアーネもまた好ましい。

 

「ところで話は変わるのですが……」

 

 アリアのアトリエに置いてあるものの中ではとびっきりの上物であるティーカップを上品に傾けながら、ユリアーネは切り出した。

 

 一応上客が来た時用にと奮発して買った値打ち物なのだが、生粋の貴族であるユリアーネの前では半端なものだと形無しだ。

 色といい形といいなかなか趣きのある代物なのだが、ユリアーネ相手では分が悪い。位負けも甚だしい。

 

「十月にレッテン廃坑をお訪ねする予定だと、この間耳にしたのですが」

「はてさて、さてはて。確かに十月はこの時期を利用して採取に行くつもりだが、一体全体どこで噂雀のさえずりを聞いたのかね?」

「雀、というよりも可愛らしい子犬さん、といったところでしょうか。アカデミーで見かけたのですが、ちょっとお尋ねすれば色々と教えてくれましてよ」

「……ふむ」

 

 答えを明言しないようにか、答えをはぐらかすユリアーネだが、そこまで言えばもう答えを教えているようなものだ。

 

(十中八九エリーだな)

 

 同じようにティーカップの中のお茶を楽しみながら、アリアは心のなかで断言する。

 アリアとユリアーネの共通の知り合いで、子犬じみたところがある人物など彼女以外に存在しない。

 人懐っこいところといい、いつも元気にアカデミーやザールブルグ中を駆け巡っているところといい、どうにもこうにも犬っぽい。 

 

 ところで、一体ユリアーネはどのような提案をしてくるのだろうか、ちょっと、いやかなり興味がある。わざわざ話題を変えて切り出した、ということは何かしらの提案、もしくは要請があるはずだ。

 

 一番確率が高いのは、一緒にレッテン廃坑に行きたい、というものだろうか。

 とうとうユリアーネも採取に行く気になったか、とアリアとしては何やら感慨深いものがある。

 

 ただ、ユリアーネからの提案はアリアの予想の斜め上をいった。

 

「良ければ(わたくし)と一緒に、ちょっと寄り道してみませんか?」

「……ふむ」

 

 寄り道、寄り道ときたか。

 

(なかなかこじゃれた言い回しだな。……だが、はてさて、さてはて。一体どうしたものか……)

 

 そういうユリアーネの顔には何の衒いもない。

 どうしたもの、と頭を悩ますが、この場はユリアーネが機先を制した。

 

「もちろん、(わたくし)の方から護衛も出しますわ。それに南方には(わたくし)の実家もありましてよ。多少回り道をすることになりますが、レッテン廃坑に行く前に立ち寄れば、邪魔な荷物を全部降ろしてから行くこともできますわ。アリアさんが残していかれたお荷物は、我がブラウンシュバイク家が責任をもってお届けしますのでご心配なく」

「…………すごくいい条件だな。対価は?」

「採取のコツを手取り足取り。よろしくって?」

「……うん」

 

 話だけ聞いていれば、なんとも破格の条件である。これで断るのはただの阿呆だ。

 もちろん報酬を釣り上げるのも。

 

 護衛は先日のコンテストで雇った、というかもともとユリアーネの護衛の人だろう、それ。護衛も給料のうちだから、元値は無料に近いだろう。とか、荷物はブラウンシュバイク家がわざわざ届けてくれるらしいが、それって結局ユリアーネが採取したものと一緒に送り届けるだけだから、手間賃が多少上乗せされるだけですむよね。とか、新しい採取地を教えてくれるとはいえ、それって地元だからもともと知っていた場所だろうが。とか、裏を見ればほとんど金をかけずにノウハウを絞るとるつもりが満々である。

 だが、先述した通り相手の事情が透けて見えるからといって、この破格の条件で報酬を釣り上げるのは、愚行という他ない。

 

 ぶっちゃけ、アリア程度が保有する採取のノウハウなど、そうたいしたものではない。

 やろうと思えば他のアトリエ生でも雇えばいいし、市井の錬金術士も数は少ないが存在している。

 

 特にユリアーネも知っているエリーなどはこの依頼に適任だ。

 採取に関して抜群の適性があるうえ、本人の攻撃能力も高い。杖でウォルフを殴り殺すな。

 

 新しい採取地というのも、エリーにとっては喜ばしい報酬だろう。

 アリアとて、それだけでこの依頼を受けても良いと思わせる見返りだ。

 とはいえ、この報酬が価値を持たない輩も多い。錬金術士であっても、採取自体に興味が無い寮生や新しい調合品を開拓する気のない、もしくはその実力がないアトリエ生では底値で原価割れもいいところだ。

 

 見事、という他ない。

 最低限の支出で、相手にも相応以上の見返りを与えておきながら、自分も支出以上の成果を上げる手腕は褒め言葉しか出てこない。

 

「十分すぎる、な」

「では、交渉成立ですわね」

 

 頷くアリアを見て、してやったりと微笑むユリアーネ。

 ここに、交渉は成立した。

 

 

 

 

 

 そう、ここまでは問題がなかった。

 まったく問題はなかったのである。

 

 頭を抱えたのは約束をした当日、つまりは昨日のこと。

 ユリアーネ達がアリアのアトリエを訪れたその時であった。

 

 

 

 

 

 ぐるんぐるん、と遠心分離器を回すアリア。

 

 中の物が固まり始めたのか、少しずつ取手が重くなっていく。回すのがそろそろきつくなってきた時に蓋を開ければ、並々と溜まった黄色い油と、底に沈殿した油よりは少し白い物体。原料であるシャリオミルクが分離したのだ。

 

 これをまとめてろ過器にかける。少し量があるので何回かに分けてろ過をする。

 ろ過を終えれば、だいたい瓶の半分ほどの油と手の平一杯分の白い物体――シャリオチーズのもとが出来上がった。

 このシャリオチーズのもとを型に詰め、魔力を込めながら一度かき混ぜればアリアの行うべき作業は終了だ。

 時間を置いて発酵させれば、シャリオチーズの完成だ。

 

「へぇ、これがシャリオチーズになるのかぁ……。見た目は普通のチーズとそこまで変わんないなぁ」

「さすがにしないとは思いますが、触らないでくださいね。完全に固まるまでに下手なことをすれば、そのまま失敗になることもありますので」

「いや、さすがにそんなことはしないよ。けどすごいなぁ。本当にレンネットも使わずにチーズが作れるんだなぁ」

 

 興味津々といった様子で、型に詰め込まれたシャリオチーズの前段階をしげしげと見つめるのはザシャである。

 錬金術の作業工程を初めて見るのだから、この反応も当然だろう。

 

「とはいえ、レンネット無しでチーズを調合できるのは、現時点ではシャリオミルクだけです。おかげで、レンネットを使っていないのに値段は結構なものがしますよ」

「シャリオミルクなんだ!? あれって普通のミルクよりもかなり高いよねぇ……」

「一本銀貨五枚しますからね。普通のミルクなら銀貨一枚でもお釣りが来るほどなんですが……」

 

 紛れも無い事実である。

 チーズを作るためには普通、仔牛や仔山羊の胃袋から取り出したレンネットと呼ばれる素材が必要となる。作るために貴重な仔牛を潰すこととなるので、チーズの値段はかなり高い。

 

 ただ、シャリオミルクを使えば、錬金術士が作り手ならばという注釈がつくが、仔山羊を潰さなくてもチーズを調合することができる。原理はまだ証明されていないが、油分を分離したシャリオミルクに魔力を加えると凝集し始めるのだ。

 これによりレンネットを使わなくてもチーズを作ることが可能なのだ。

 ただし、元の素材が普通のミルクよりも何倍も高いうえに、錬金術士の手が必要なので、お値段は相応のものとなる。

 

 結局のところ、そうした事情も相まって普通のチーズとそう対して値段は変わらなかったりする。

 

 まあ、そんなチーズについての講釈は、今は関係ない。

 それよりも――。

 

「ザシャさん、なぜ今ごろ。約束していた時間にはまだかなり早いはずですが?」

「あはは……、ええっと、その~……」

 

 アリアとしては別に構わないことではあるが、質問をすれば何故かザシャが言い淀む。

 

(あ、冷や汗)

 

 ザシャの額から汗が一筋、零れ落ちるのが見えた。だらだらと滝のように流れる汗。

 

 沈黙が流れる。

 無言でザシャを見つめるアリア。その視線から逃げ出そうと、目線を彷徨わせるザシャ。

 アリアからすれば単に疑問に思ったから口に出しただけである。待ち合わせまでの時間つぶしに寄っただけ、と言われても「まあ、いいか」で流すつもりであった。

 ここまで口ごもられるとは思いもしなかった。

 そして黙り込まれると、ついつい聞きたくなるのが人情というものである。

 

 そして無表情が標準のアリアは、完全に黙りこむと妙な威圧感がある。

 まるで「黙らず全部喋れ」と責めてたてているかのように。当然、本人にその気はまったくない。

 

 そしてそれに対するザシャの返答は――。

 

「すみません! 朝飯たからせてください!!」

「…………は?」

 

 腰を見事九十度に曲げ、勢い良く頭を下げた。

 空気を読んだのか、タイミング良くザシャの腹の虫が、特大の鳴き声を響かせる。

 ぐるるる、ぐごごご! と、どこの魔物の鳴き声か、と言いたくなるような轟きである。

 

 アリアは頭が痛くなった。

 

「……うん、ちょっと待って下さい。ご自宅に食料品は?」

「…………昨日夕飯にしたベルグラド芋が最後です」

「どうやったらそこまで追い込まれるほど無駄遣いできるのですか?」

「ええと、ほ、ほら装備とかに金かけちゃって……」

「見た目、まったく変化していませんが」

 

 バッサリと切り捨てるアリア。

 数カ月前に購入した剣以外、ザシャの格好は出会った頃と何ら変わっていない。

 装備に金をかけたというが、かけるべき金すらかけていないのが現状だろうに。それでも並みの冒険者よりはよほど強いうえに、新人であることとお上りさん丸出しの見た目から賃金がとても安いのでアリアは好んで雇っているが、正直なところ、出会い頭のもろもろやその後の妙な縁がなければ絶対に使ってはいなかっただろう。断言できる。

 

 それほどまでに、ザシャは見た目に気を使っていなかった。どこからどう見ても強そうな冒険者には見えない。

 数カ月前からそのまんまで、装備に金を浪費したとはあまりに苦しい言い訳だ。そこらの子供のほうがよほどマシな嘘をつくというものだ。

 

 今度は「正直に喋れ」という意思を込めてアリアはザシャを睨みつける。

 ザシャは往生際悪くごまかそうと「あー」だの「うー」だの言葉にならない声を発していたが、まったく目線を逸らさないアリアに根負けしたのであった。

 重々しく口を開く。

 

「……ごめん。ちょっと見栄張って、仕送り奮発しちゃって……。仕事あれば大丈夫とか思ってたけど、その仕事自体がなくて……」

「君は馬鹿か?」

 

 アリア、思わず敬語をかなぐり捨てて一言。

 年上とはいえ、もはや敬語を使う気にもなれない。

 

「仕送りをしているのは立派だとは思うが、生活費くらいは残しておくのが常識だろうに……。あと冒険者の仕事なんて水物極まりないものだろうに。一年間冒険者をやっていてそれくらいわからなかったのか?」

「あ、あははは……」

「笑い事ではないだろう。……まあ、いい。簡単なものでよければ朝ごはんくらいなら用意してあげよう」

「え、本当!?」

「ただし」

 

 さすがに仕事中に倒れても困るので、ご飯を出すくらいならアリアとしても異存はない。

 ただ、食事代とて無料ではないのだ。

 

「今回の朝食分、賃金から引かせてもらう。ちょっとは反省しなさい」

「いや、うん、今回は本当にごめん……」

「謝る暇があるなら食器棚から皿を出す。働かざるもの食うべからず、だ」

「そうだね、たしかにそうだ。じゃあ、馬車馬のように働かせてもらいますかね」

「まったく……」

 

 呆れながらも、アリアの手は動きパンを厚めに切る。

 これに燻製肉の炒めものと卵でもつければ朝食としては十分だ。

 

「あ、臭い消しにズユース草を使わないと……」

 

 燻製肉にちぎったズユース草をふりかけ、油が出てきたところでといた卵を注ぐ。

 焼きながらかき混ぜ、卵を広げる。ある程度固まったところで一巻きにすれば燻製肉のオムレツの出来上がりだ。

 中まで火が通ったことを確認して火から上げれば、朝食の完成である。

 

 男性には量が少ないかもしれないが、それくらいは我慢してもらおう。

 何を作るかはこちらの勝手だ。

 

「ほら、できたぞ。お皿はどこだ?」

「ん、こっちだよ」

「ありがとう」

 

 安い木の皿に、軽く焦げ目のついた黄色い卵をふんわりと乗せる。

 卵は半熟が美味しいという人もいるが、しっかり火を通さないと腹を壊す人が結構いる。

 運が悪いとそのまま……、という人もなきにしもあらず。ちょっと固くなるが中まで火を通したほうが安全なのだ。

 

「あれ、君の分は?」

「私はもう食べた。じゃなきゃ朝っぱらからシャリオチーズを作っているわけないだろう?」

「あ、そうか」

「君は馬鹿だ」

 

 もはや断言である。

 ザシャの前に、燻製肉入りのオムレツが乗った皿とパンが乗った皿を差し出す。そして同じようにザシャの目の前の席に座るアリア。

 ザシャは食事の前に祈りの言葉を唱えてから、フォークをもって食べ始めた。

 がつがつ、とまったくもってみている此方のほうが気持ちよくなるような食べっぷりだ。

 

「私のアトリエには妖精さんもいるのだぞ。子供を空きっ腹のままで放置する保護者がいるものか」

「妖精さんが子供か……。あの子たちは見た目通りの年齢じゃないけど?」

「それは知っている。けどあの外見とあの子供っぽい仕草で子供扱いするな、というのは無理がある」

「ふーん。ま、たしかに、そういうもんか」

「そういうものだ」

 

 あぐあぐ、と口いっぱいにパンを頬張るザシャ。

 一応、口の中に物を含んでいる時は喋らないので、食べ方はそこまで見苦しいものではない。マナーといった点では結構めちゃくちゃだが。

 

 最後の一欠片まで食べきり、ザシャはフォークを置く。

 

「満足したか?」

「うん、十分すぎるほどだ」

「なら、今回はみっちりと働いてもらうとしよう。……そろそろ時間だ。待ち合わせ場所である南門に行こう」

「了解」

 

 互いに席を立ち、アトリエの扉を開ける。

「アリアのアトリエ」と書かれた看板についた小さなベルが音を立てる。

 

「じゃあ、行ってくるよ。お留守番よろしく」

「はーい」

 

 妖精さん達の声を背に、アリアはザシャを連れ立ってユリアーネとの待ち合わせ場所である南門へと向かった。

 

 

 そしてそこで二人が見たものは――。

 

「…………」

「…………ええ~」

 

 黒塗りの下地に、ところどころ金細工の意匠が施されている馬車。

 成金趣味のようにごてごてと飾り付けるのではなく、あくまで上品にそれでいて豪奢に見えるよう計算されつくされた黄金比率。

 

 そんな馬車を引くのは二頭の白馬。

 物語の中から出てきたかのように黄金色のたてがみをなびかせ、太陽の光で毛を輝かせる。

 そんなに当の馬を制御するは小洒落た格好をした御者。けして派手ではないが、ザールブルグでも人気の流行服を小粋に着こなしている。

 

「あ、アリアさん。いらっしゃいましたのね」

 

 そしてそんな金のかかっている馬車から出てきたのは、白い錬金服をドレスのように翻した金髪碧眼の少女。

 おとぎ話のお姫様がそのまま抜け出してきたかのような美しい乙女、ユリアーネであった。

 

「お嬢様、どうぞ御手を」

 

 そしてそんなユリアーネの手を取り、馬車から降りるのをエスコートするのはユリアーネと同じく金色の髪に深い青の瞳を持った女性。

 銀色の鎧に彫られた紋章から、その女性が騎士の地位を持っていることがわかる。ザールブルグの王城に勤めている騎士の人たちと比べて細部が少し違うが、それはおそらく地方貴族であるユリアーネ――もしくはその家族に仕えているためだろう。

 

 そして、そんな女騎士の手を何の躊躇もなく取るユリアーネ。

 

 この時、アリアとザシャの心の声は奇跡的にも一致した。

 

 つまり「なに、これ?」と――。

 

 ただし立ち直りの速さは違った。

 まあ、ユリアーネは貴族だし、これくらいは当然か、と自分を納得させたアリアは、外に動揺を晒すことなく自らを立ち直らせることに成功する。

 ザシャは残念ながら馬車を見上げてポカーン、としていた。大口をあげて呆然としている姿は間抜けである。田舎者丸出しと言っても過言ではない。

 

「お久しぶりですわね、アリアさん。もしかして、そちらの方が……?」

「ああ、この人が私の用意した護衛だ。……ザシャ?」

「……え? あ!」

 

 呆然と馬車を見上げていたザシャは一瞬反応が遅れた。

 ついでに、すでにさん付けすらはずされていることにすら気づかなかったが、気づいても文句をいうような人間ではない。

 

「え、ええと。アリアの護衛のザシャです。あー、ヨロシクオネガイシマス?」

「なぜ疑問形なんだ?」

「いや、なんというか……」

 

 ちろり、とザシャの目線がユリアーネの斜め後ろに控えている女騎士に移る。

 

 清廉とした容姿を持つその女騎士は、隙のない所作から見て生半な腕前ではない。

 そこらの魔物程度なら一人で対処してしまいそうだ。

 

「ああ、そういえば紹介を忘れておりましたわ。アリアさん、こちらは(わたくし)の護衛で、名はベアトリス・ベネディクタですわ。(わたくし)の家に代々仕えてくれている騎士の家の出ですの」

「ベアトリス・ベネディクタです。今日はお嬢様のご学友とお会いでき光栄です」

「いえ、こちらの方こそ」

 

 顔色をまったく変えずに、こちらに頭を下げる女騎士の様子からはまったく何も読み取れない。

 感情も思考も、全てその無表情の仮面の下に隠してしまっている。

 

(わかりやすい人だなぁ)

 

 だが、無表情ならアリアの方にこそ一日の長がある。しかもアリアの無表情は自らがそうと知って装ったものではなく、混じりっけ無しの天然モノだ。

 意図して感情を塗りつぶした時の不自然さすら浮かばない。ただ感情が表に出にくい、それだけの代物だ。

 

 そしてそんな自らの顔を見慣れているアリアは、無表情の下にあるものを読み取るのが実は得意だ。

 

 だからこそわかる。この人は自分という存在を好んでいない、と。

 

(まあ、いいところのお嬢様とどこの馬の骨かわからない庶民の娘が一緒にいて、良い顔をする護衛がいるわけ無いか)

 

 それを表に出さないだけ、この人は良い人なのだろう。

 ユリアーネとアリアの身分差を考えれば、「身の程知らず」と面と向かって嘲られても仕方がない。

 

 そうした機微には気づいていないのか、それともわかっていながら流しているのか、いつもの様に穏やかな笑みを浮かべながらユリアーネがアリアの手をとった。

 

「さあさあ、どうぞ乗ってくださいな。一度我が館にご案内いたしましょう」

(……あ、あれに乗らなければいけないのか)

 

 ここでようやく目をそらしていた事実に思い至った。

 

 黒塗りに金細工の馬車。どう考えても身分相応しいとはいえない代物に乗って、数日間旅をしなくてはいけないのだと。

 アリアの隣では、ザシャがガクガクブルブル、と瘧のように震えている。

 そして前には、ニコニコと微笑むユリアーネの姿。

 

(逃げられないな、これは)

 

 アリアはすべてを諦め、内心で溜息をついた。

 そして半分やけくそになりながらも、そのお金のかかった馬車に乗り込むのであった。

 

 

 

 

 

「………………」

 

 なぜこうなったのか、思い出したところで現実は変わらないし、変えられない。

 アリアが何かしたからこうなったわけでもなし。

 

 馬車に乗るほうが目的地には早く着くし、グダグダ考えるの早めにしよう、とアリアはもう思考を完全に放棄した。

 既に馬車に乗ってから一日経っているし、今更のことすぎる。

 

 馬車の中の様子も、ふかふか過ぎて落ち着かないクッションのことも忘れ、アリアは窓から外の景色を眺める。

 

 ストルデル川よりも南方の地域には初めて来た。

 植生やら光景やらがザールブルグの近辺とは少し違うように思う。

 

「ああ、アリアさん見てください。ようやく着きましたわ」

 

 ユリアーネが指差す方向に顔を向けるとそこには、晴天の空の下、木に囲まれた石造りの建物が遠目に映った。

 

「あれが我がブラウンシュバイク家の屋敷ですわ」

 

 あれが、と風になびく黒髪を押さえながら、アリアは近づいてくる屋敷をじっと見つめていた。



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IF END エリーver 究極のケーキ屋さん

 アリアのアトリエ終了時にエリー側も一定の区切りをつけます。
 これは没になった方のエリー側EDです。
 没になったけど私個人は結構気に入ってました。なので書きたいな~、と思いながら没にしちゃったしなー、と悶々としていましたが、その時テン! に天啓がはしった!

「逆に考えるんだ。書きたいのなら書いてしまえばいい。本編じゃなくIFにしちゃえばいいんだ」と。

 そのままノリと勢いで書きました。
 反省はしていますが、後悔はない。
 すっごく楽しかった。


 長くて短い四年間が過ぎ去った。

 

 本当に濃い四年間だったわ、とイングリドは穏やかな表情で自らが担当した生徒たちの顔を思い出す。

 

 そう、「恩人に会いに行きます!」と置き手紙だけを残し、二ヶ月もの間行方不明になった生徒もいれば、どんな失敗をしたのかゲヌーク壺を暴走させ、自分のアトリエだけでなく周りの家々まで水没させかけた生徒もいた。

 アカデミーに無許可で死にまねのお香を国王陛下に渡し、国王陛下の訃報と同時に死んだはずの当人から感謝状がアカデミーに届くという前代未聞の大珍事を引き起こした生徒もいれば、今度は半年間ふらりと何処かに行っていたと思ったら、カスターニェの洋上にいたフラウ・シュトライトを討伐しケントニスから火の玉娘・マリーを連れて凱旋を果たした生徒もいた。

 

「………………全部一人の生徒がやらかしたことのはずよね?」

「……………………お願い、私にも少しくらい現実逃避をさせて頂戴」

 

 先ほどまでの表情を一転させ、宿敵と呼んでも差し支えのないヘルミーナ相手に懇願するイングリド。

 乾ききった笑い声と濁りきった瞳が実に痛々しい。

 

「…………」

 

 ライバルのあまりの惨状にヘルミーナはそれ以上何も言うことはなく、無言でミスティカティーのカップを傾けた。

 その顔には、本当に、本当に珍しいことに哀れみの情が浮かんでいた。

 

 

 

 アカデミーの双璧、この二人がいるからこそ今のアカデミーがある、と謳われし女傑達。

 その二人が苦悩する、苦悩せざるを得ないとんでもない生徒がアカデミーにはいた。

 

 その生徒の名はエルフィール・トウラム。

 

 最下位の成績から四年間で学年トップに上り詰め、さらにはアカデミーだけではなく錬金術の本場であるケントニスでも数少ない賢者の石調合成功者となった。

 

 それだけなら良かった。それだけならイングリドは純粋に彼女のような教え子を持てたことを誇りにできただろう。

 たとえその行動がどんなに破天荒であっても、「まあ、マルローネに比べれば……」と自分を納得させることができた。たとえそれが爆弾と発火油――どちらもとんでもない危険物――のどちらが安全か、を比べるような不毛な行為であろうと、自分を慰めることができた。

 

 それなのに――。

 

「なんで、なんであの子は最後の最後でやらかすのよ……っ!?」

 

 ドンッと、イングリドの叩いた机が悲鳴をあげる。

 イングリド、魂の叫びである。

 

「………………」

 

 もはや何も言うことができず、ヘルミーナは同情を含んだ眼差しで机の上に突っ伏してしまったイングリドの背を眺めていた。だが、とうとうその背中が小刻みに震え始めたので、丁重に視線を外した。とてもではないが、見ていられない。

 

 時折聞こえる、嗚咽に近い音を聞いた端から削除しながら、ヘルミーナはカップの横に置いてあったケーキを手に取る。

 

 蠱惑的なほどに白く美しいそのケーキの名は…………。

 

 

 

 

 

 

 ケーキの端をフォークで切り取り、落とさないように気をつけて口の中に入れる。

 

 まず感じるのは特有の酸味と優しい甘味。

 舌先で潰れるほど柔らかなそれが、口の中でほどけ確かな余韻を残して消えていく。

 シャリオチーズの味がしっかりと味蕾を刺激するそれは、普通のケーキとは違うコクを感じさせるというのに、意外とあっさりしていていくらでも食べられそうだ。

 

 下部分のタルト生地は甘さ控えめで、さくさくと歯ごたえが面白い。

 上等の小麦粉と雪のように白くなるまで丁寧に精錬された砂糖を贅沢に使い作り上げたビスケット。それを一度砕き、最上級のシャリオミルクとバターでつないだそれは、主役たるケーキの味をひきたてる脇役として、完璧な働きぶりを見せている。

 まるで黙々と自分の仕事をこなす一流の職人のような奥ゆかしさだ。

 

 白い白いケーキの儚さをひきたてるは、情熱の赤に輝く野苺の砂糖漬け。

 甘酸っぱいその味が、ケーキの甘みを更に強く感じさせる。

 その相乗効果は、空へと駆け上る無限の螺旋。

 これこそが、食べたものを天なる楽園へと導く神の食物(チーズケーキ)

 

 今ここに、神の国が顕現した!

 

「……ふう」

 

 最後に、ミスティカティーで舌を休める。

 ランクSの品とはいえ、この神餐(チーズケーキ)の前では明らかに格が落ちるが、それでも湖面から飛び立つ白鳥のように優雅なる芳香が口の中を吹き抜ける。

 

 至高のチーズケーキを最後の一片まで堪能し、その余韻で頬を緩ませながら、アリアはゆっくりとティーカップをソーサーの上に置いた。

 

「見事だ」

「ふふん。当然でしょ」

 

 艶然と微笑むアイゼル。そこには自分のこと以上にケーキを褒められて喜ぶ少女がいた。

 

「けど、あの子にも困ったものだわ。チーズケーキが好きだからって、わざわざこ~んな店まで開いちゃって……」

 

 やれやれ、と肩をすくめるアイゼル。

 字面だけをとれば出来の悪い子供に対する物言いそのものだが、ゆったりと目を細めこの店の店主を暖かく見守るその眼差しはまったく正反対のものである。

 子供が精一杯頑張る姿を見守る母親の目そのものだ。

 

「確かに、あの人の実力を考えますと少々もったいないですわね。やろうと思えばいくらでも上を目指せましたのに……」

「まったくもってその通りよね。ま、あの子らしいと言えばそれまでだけど」

 

 憂いを湛えた顔で、ユリアーネが溜息をつけば、アイゼルが首を縦に振り同意の意を示す。

 ツンとすました顔でチーズケーキを頬張るその姿は、まったくアイゼルらしいものだった。

 

「たしかにそのとおりだね。僕も初めて聞いた時は驚いたけど、意外とすんなり納得しちゃったし」

 

 追随するようにノルディスが自分の意見を述べる。

 いつもと変わらない優しげな好青年といった笑みを浮かべて、店内に目を向ける。

 

 その目線につられて、他の三人も思い思いに店内を見回した。

 

 

 温かい秋の陽光が差し込む店内は、季節に合わせてか少し落ち着いた色合いでまとめている。

 だが、ところどころに置いてある小さな花かごや小物には、明るい色合いのものが使われており、店長の人柄を感じさせる。

 落ち着いてのんびりすることも、明るく賑やかにおしゃべりを楽しむこともできる、そんなお店。

 けれど、その程度のことこのお店にとっては何の価値もないこと。

 

「……みんな笑っているな」

「ええ、そうですわね」

 

 一口食べれば皆笑顔になり、二口食べれば皆顔を蕩かせる。

 一瞬で魔法のように笑顔と幸せを振りまくチーズケーキのお店。

 

「ま、どんくさいあの子にしては上出来じゃない?」

「最後まで一番反対していたのは、アイゼルではなかったか?」

「うるっさいわね! それは当然でしょ! あの子が錬金術士を辞めるなんて、才能をドブに捨てるようなものじゃない」

 

 けど……。とアイゼルはティーカップを片手に、働く親友の姿を翡翠の目に映した。

 キラキラと宝石のように輝くその瞳には、明るい笑顔を周囲に振りまく親友――エリーの姿があった。その笑顔につられて、お客様たちはさらに笑みを濃くする。

 誰もが簡単に笑顔になれるお店。誰もが手軽に幸せになれるお店。

 それこそが彼女の作り上げた「エリーのチーズケーキ屋さん」

 

「けど、あの子は今でも錬金術士よ。反対する理由なんてその時点で無くなっているわ」

「さしずめ、笑顔と幸福の錬金術士、といったところかね?」

「恥ずかしい台詞ね、それ。……けど、概ね同意してあげるわ」

 

 片手にチーズケーキを持ったエリーがアイゼル達に気づいたのか、軽い足取りでこちらに近づいてくる。

 その顔には満面の笑みが咲き誇っていた。会えて嬉しいと、来てくれて嬉しいと、その全身で訴えてくる。

 

「みんな、来てくれてありがとう!」

「せっかくの新店なのにお客様が少なかったら可哀想、と思っただけよ。まあ、思ったより盛況な様子だし、あなたにしては頑張ってるんじゃない?」

「えへへ、そうかな? アイゼルが褒めてくれるなんて嬉しいな」

「あらそう。それは良かったわね。――私に勝ったあなたが選んだ道だもの、もう文句はないわ」

「アイゼル……」

「けど――」

 

 キッと目を怒らせて、アイゼルはエリーの顔を睨みつける。

 

「中途半端でやめたら容赦しないわよ」

「……大丈夫、絶対にしない」

 

 にへらと笑顔を崩してエリー。

 

「私の取り得は諦めが悪いことだもん。始まったばかりの私の夢、こんなところで止まってなんかいられないよ」

「そう、なら精々精進しなさい」

「うん!」

 

 アイゼルの言葉に頷いて、エリーは笑った。

 野に咲く花のように、大輪の花のように。

 どこまでも純朴に、どこまでも素直に咲き誇る。そんな笑顔だった。

 

 その笑顔につられて、皆で笑う。

 

「みんな、私の『エリーのチーズケーキ屋さん』にようこそ!」

 

 店の看板が太陽の光を反射する。

 その看板にはこう書かれていた。

 

『エリーのチーズケーキ屋さん』

 

 

 

 

 

 あるところに一人の女の子がいました。その女の子の名はエルフィール・トウラム。親しい人にはエリーと呼ばれています。

 エリーは、自分の病を治してくれた錬金術師に憧れ、一人ザールブルグに上京することにしました。錬金術の学校に通うために。

 

 錬金術について何も知らなかった女の子。しかしその努力の成果か、はたまた運が良かったのか最下位ではありますが、錬金術の学校に無事合格します。

 

 けれどもそれからが大変!

 毎日勉強に調合と最下位で入学したエリーにはやることがいっぱいあって寝る暇もありません。

 

 けれどそれでも、彼女はへこたれませんでした。

 持ち前の明るさと取柄の元気のよさで常に明るい笑い声が響くエリーのアトリエには、いつの間にかたくさんの人達が集まるようになりました。

 

 そしてたくさんの努力と、沢山の人の協力を得て、彼女は自分の命を救ってくれた恩人と再会したのです。

 

 一つの目標を達成したエリー。けれど、一つの目的が終わった程度で、彼女は歩くのを止めませんでした。

 そして彼女は見つけます。彼女が一生をかけて打ち込むべきものを。

 

 その名はチーズケーキ!

 

 錬金術に打ち込んでる間に、彼女はチーズケーキの魅力に取りつかれ、全てを差し置いて至高のチーズケーキを作り上げることに全知全能を費やします。

 たとえマイスタークラスに進学できると言われようと、例え賢者の石の作成に成功しようと彼女にとっては些細な事に過ぎません。精々、至高のチーズケーキを作り上げるための踏み台に過ぎませんでした。

 

 そして彼女は作り上げます。

 

 一口食べれば誰もが笑顔になり、二口食べれば誰もが笑顔を蕩かせるそんな究極にして至高のチーズケーキを。

 

 そんな彼女は、周囲の引き止めも意に介さず、錬金術の学校を卒業したあとはチーズケーキのお店を開きます。

 そんな彼女のことを一部の人は「錬金術の道を捨てた」と言いますが、彼女を知る人はみんなみんな笑って否定します。そして口をそろえてこういうのです。

 

「エリーは今でも錬金術師だ」と。

 

 

 ザールブルグの片隅に、小さな可愛らしい家があります。

 その家では毎日、とてもおいしいチーズケーキを何個も何個も焼き上げます。

 誰もが一口食べるだけで幸せになる魔法のチーズケーキ。

 そんなチーズケーキを作り上げる彼女のことを、みんなはこう言います。

 

 笑顔と幸せの錬金術師、と。

 

 今でも彼女はチーズケーキを片手に笑っています。

 笑顔と幸せを町の人々に振りまきながら……。




「究極のチーズケーキ屋さんED」達成条件。

・ザールブルグの錬金術師ED条件を四年目までに達成。
・錬金術レベル及び冒険者レベル五十達成。
・賢者の石調合済み。
・四年目終了までにチーズケーキのランクをSにし、ストックを九十九個とする。


 


 うそです!

 これはひどいと思われるかもしれませんが、思いついちゃったもんは仕方がねぇ! と投稿してみました。
 面白かった!という方はどうぞ「これはひでぇ!」と突っ込んでください。
 面白くなかった!という方も「これはひでぇ!」と突っ込んでください。

 ぶっちゃけアリアよりもアイゼルが目立ってますが、これは仕様です。
 作者はエリーとアイゼルのイベント大好きです。ぶっちゃけツンデレ属性ってライバル系のキャラに付けたほうが美味しいよね! というタイプです。
 ノルディスふっ飛ばしてアイゼルと仲良くなるのがデフォな人間です。
 仲良くなりすぎて、栄養剤イベントぶっ飛ばしちゃったのも一度や二度ではありません。
 エリーとアイゼルLOVE!! と全力で宣言できます。ですのでエリーとアイゼルは全力で贔屓します。
 どうかご了承ください。

 けど私は信じています。絶対同士は多いと!


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