fate/stay night_Short long days (のんべんだらり)
しおりを挟む

■Equisetum arvense

気力が溜まったときに続きます。


|

 

穂群原に『花咲かじいさん』がいる。そんな噂が流れたのは、3年ほど昔のことだ。

 

その《太陽の手》で育てられた植物は芸術のように麗しく咲き誇り、土壌さえも変わってしまう。植物にとってまさに神のような存在。

神出鬼没で、弱っている草花があればふらりと現れてさっと元気にさせてしまう。

だが、10年前の火事で公園となった焼け野原に未だ雑草の1つさえ生えない現実に、いつしか噂は迷信となり、『花咲かじいさん』はおとぎ話の中に戻っていった。

 

 

 

 

 

 

「神城ー?いるかー?」

「……一成?」

 

聞き覚えのある友人の声に、神城顕悟は作業の手を止めた。

自由気ままに伸びた黒髪、その合間から覗く眠そうに垂れた半眼。極めつけは、吹けば飛ぶようなひょろりとした体型をした彼を、みなこう呼ぶ。穂群原の《土筆ん坊》、と。

 

「むっ、急に顔を出すものでないぞ。この辺はただでさえ、視界が悪いのだ」

 

顕悟の目の前に立っている制服を律儀に着こなす生徒会長――柳洞一成は黒縁の眼鏡を押し上げた。

その仕草に隠されている動揺を見つけ、顕悟は首からかけていたタオルで汗ばんだ額を拭った。

 

「というか、師走だというのにこの発育具合はいささか腑に落ちん。……生徒会で除草作業を提案するべきか?」

「既にコレ、委員会の仕事だから」

 

穂群原学園の裏手、それも弓道部道場の奥にある林は日中でも薄暗く割に雑草まみれになる。夏は虫の宝庫、冬は不気味な密林となるので寄り付く生徒はまずいない。

この一帯を活動地域としている美化委員であっても敬遠する場所だった。

 

「季節関係なく枯れるどころか増殖するしね。さすが、雑草。ど根性」

「……笑えんぞ。そもそも、神城ひとりでどうにかできる状態ではないだろう。他の者はどうした」

 

生徒会質に張ってある委員活動予定表に記帳されていたはずだ。

規制もなく集会も少ない美化委員は、部活や遊び盛りの生徒たちにとって人気のある委員会であったと一成は記憶している。

 

「みんな用事があるって欠席。白鳥センセも適当に切り上げていいってさ」

「美化活動する者の心としてなんと貧しいことか」

「毎度の通過儀礼だろ、目くじら立てなさんな」

 

倍率の高い激戦をくぐり抜いた勝者は、初日にして最後の委員会の顔合わせで草むしり活動(現実)を知る。そして回を重ねるにつれ、なにかと理由をつけて休む生徒が増えていき誰もいなくなる。だがそれも去年までの話。

 

「まぁ、それならそれでこちらとしては都合がよいが」

 

周囲を見回し警戒する一成を前に、顕悟は気が利かなくて悪いとばかりに手を打つ。

 

「一成、トイレなら右後方の茂みまで行って。この辺、トゲのある葉が多いから刺さるよ?」

「たわけッ!わざわざ排尿するために来たわけではないわ!」

「え?外でする方が気が楽って言ってなかったっけ」

「いつの話をしておるかッ!」

 

顕悟は一時期、一成の家で衣食住をともにしていた。

一成とはそのときより10年に渡る仲であり、お互いの恥ずかしい話は筒抜けである。

 

「冗談だよ。ご老樹のことでしょ?」

「……ここのところの冷え込みのせいか、根に霜が下りているようでな」

「例年より寒波が早いからね」

 

一成の実家でもある柳洞寺のある円蔵山。古いだけあってここに見劣りしない森林地帯だ。

その中で一番背の高い巨木は、一成の祖父の先代の頃からその地を守っている大老。

とはいえ、一度も花を実らせたことがないので、顕悟が調べるまで何の木かもわかならないまま放置されていた。

 

「藁って、まだ残ってる?」

「抜かりはない。既に手配し、寺務所に置いてある」

「なら湿気の心配はないか。あそこ隙間風すごいし。おっけー、ここ片付けたらそっち帰るから校門で待ってて」

「ふむ。よろしく頼む」

 

颯爽として帰っていった一成の後、顕悟がその場を離れたのは30分経った後のことである。

 

 

顧問に挨拶を終えた顕悟は、職員室を後にする。

せっかちな一成のことだ、痺れを切らして迎えに来るかとも思ったが、玄関口まで来て合点がいった。

落ち着きのない様子の一成の後姿とその隣にいる見覚えのある影に気づき、ゆっくりとした足取りで顕悟は近づく。

 

「あら?柳洞くんの待ち人って神代くんだったんですね。休日登校する物好きは衛宮くんくらいだと思ってましたが」

 

穂群原の制服の上に赤いコートを羽織った少女――遠坂凛。

容姿端麗、文武両道、才色兼備の三拍子が揃った優等生であり、学園人気トップに君臨する生徒。男女ともに憧れる者が多く、告白された回数は数知れず。

そんな彼女は、一成と顕悟の中学からの同級生だ。

 

「似たようなものだよ。恒例の草刈りだから」

 

あれか、とわずかに遠坂凛の顔が引きつったように見えたが、慣れたもので顕悟は笑い流した。凛の表情が崩れることに対してか、草刈りと聞いて返される反応に対してか。

はっきりしている事実として、さすがの学園一の優等生であっても忌避すべきイベントらしい。

確かに腰が痛いとか、肌が荒れるとか虫が気持ち悪いとか女生徒が不満を並べていた。気高く生きる彼女がそういった理由で作業を敬遠するとは思えないが、やはり――

 

「遠坂は女の子か」

「……どういう意味かしら、それ」

「どうもこうもそのままの意味だけど?」

 

ずいと一歩近づいてきた凛の心情など意に介さず、顕悟は首を傾げる。

遠坂凛の容姿は自他共に認める端麗さ。それが目と鼻の先にあるというのに土筆んぼうが顔色1つ変えないため、凛も距離感を計り違えていた。

この格好だけを見れば、鈍感な彼氏に詰め寄る彼女に見えなくもない。

 

「ええい!女狐め。色気づくなら他を当たれ。友人として、単純な神城を貴様の毒牙にかけるわけにはいかん」

「ぐえっ」

 

そんな2人の間を割いたのは今まで黙していた一成だった。

凛は息が触れあうほどまで近づいた不注意を恥じ、背後から襟首を引っ張られた顕悟は咽た。

 

「ほら、貴様も物好きの類いなのだろう?さっさと用件を済ましに行ったらどうだ」

 

しっしっ、と忌々しそうに一成は追い払う仕草を向けた。ここで悪霊退散と唱えないほどには、中学時代に比べて成長したといえる。

荒れていたときはその場で読経を始め、校内に持ち込んだ粗塩を容赦なく振りまいていたのだ。後の掃除をさせられていた顕悟が他でもない証人である。

元は生徒会長、副会長で全校を仕切っていたコンビの見る影もなかった。

 

「言われなくても行きます。私はそれほど暇ではありませんので」

 

挨拶代わりに赤いリボンで結ばれたツインテールを払い、凛は校内に向かっていく。その足取りに迷いはなく、瞬く間に小さくなる背中。見えなくなる頃には喉の調子も回復していた。

 

「なんとふてぶてしい態度……帰り次第、塩で清めねば!」

「……あんまり変わってないかな」

「なんの話だ?」

「ん、2人は仲がいいなって思っただけだよ」

「――――」

 

あまりのおぞましさに呼吸を忘れてしまった、と世の終わりを告げられたような顔をした一成の愚痴を聞きながら、校門を後にする。

顕悟は誰もいなくなった校舎玄関を一度だけ振り返った。

 

背中に感じていた視線はもうない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

10年前。神城顕悟には何もなかった。

生まれた町も知らなければ、生みの親の顔さえ覚えていない。

あるとき山に捨てられていたという事実と、不確かな名前が刻まれた紙切れ一枚。それが自分だった。

 

学校帰りの一成の兄――零観が聞き逃していれば、寒さに凍えて散っていた産声。

 

そして生死を彷徨ったせいか、寺に引き取られたせいなのか。

気がついたら"みえる"ようになっていた。

 

始まりは墓参りに来た誰かが落とした、一本の百合の花だった。

茎が白く発光し、花びらが蛍火のように瞬いていた。思わず手を伸ばすと、こつ然と光は失われてしまった。

残されたのは茎を折られた白百合とそれを握り潰している少年。彼は"彼女"の生命を奪ってしまったのだと瞬時に悟る。

そしてそれが万物全てに流れている"根源"のエネルギーであることを。

 

その後、雨上がりの草花、枯れた古木、落ち葉、季節ごとに移り変わりゆく自然を観察するうちに、それがどのように成長していくのか、幼い顕悟は理解した。

ときにはなだらかに、ときには雄雄しく、個性豊かに流動的であるそれらは、環境を変え、物理的に手を加えることで微量ではあるがエネルギーを強くできることも学んだ。

 

そして、知った。命あるものには、終わりが存在していることを。

 

 

 

 

柳洞寺から頂上に向かって3キロほど登ったところに拓けた高台。

山桜や山つつじ、秋には色づく広葉樹が多い、小さい頃から顕悟のお気に入りの場所だ。

名残を惜しみつつ通り過ぎる。

そこから更に数百メートル奥に進んだ場所が目的地。背丈の不揃いの木々が枝を広げ、空を見上げている。

 

「これって……」

 

問題の樹木を前に顕悟は眉を顰めた。

不自然なエネルギーの減少。先月確認したときは幹を覆うほどあった光が、今や半分に縮小していた。

そればかりか、ところどころ黒い斑点がついている。まるで、なにかに噛み付かれたように。

 

「どうだ、神城」

「この分なら藁を敷けば問題ないよ。ただ――」

 

見た目には目立った変化は出ていない。一成が心配する凍結も、今から防寒処置をすれば充分間に合う。

ただ、顕悟が()()()()問題はそうはいかない。これは園芸の域を超えている。

 

「ちょっと元気がないから、明日詳しく調べたい」

「親父殿には伝えておくから好きなようにしてくれ。神城は樹木たちにとって医者みたいなものだからな」

「よせやい。照れるぜ」

 

擦った鼻を黒くしたとは気づかないまま顕悟一成が並べ始めた藁を紐で固定していく。

例年の仕事なのでお互い慣れたものだった。

日が暮れる前に作業を終え、余った材料を手分けして寺へと運ぶ。

 

道具類をしまい、寺務所から出てきたときには空に月が出ていた。外灯がない境内を美しく照らし、神聖さを醸し出している。

 

「あ、葛木先生だ。お帰りなさい」

 

そんな神秘とは程遠い長身の男が、山門をあがってきた。

百段以上はある階段を息1つ切らさず、登りきる葛木宗一郎。柳洞寺に住み込んでいる教師である。

硬派であると印象付けるかのような黒縁の四角い眼鏡。無表情で堅実、と顕悟は担任を評していた。

よもぎ色のスーツはたまたま手元にあった服がそれだったという理由だけで着ているようなチグハグ感。

まさかその下に鍛錬した肉体が隠されているとはほとんどの生徒は知らない。

 

「神城か。今日はご苦労だったな」

「好きでやってることですから。あと、明日は山に篭るので学校には行けないです」

「承知した。白鳥先生には私から伝えておこう」

 

手短な業務連絡を済ませ、三人で宿坊に当たる家屋の仕切りを潜る。

自室へと一旦引き上げる宗一郎と別れ、2人は居間に続く廊下を歩く。

 

「……日曜も登校する予定だったとは、衛宮と同種なり」

「ブラウニーと一緒にしないで。僕は委員会の仕事なんだから」

 

衛宮士郎。頼まれたことは断らない。生徒会の注文で備品の修理をボランティアしている偽用務員。

またの名を、穂群原のブラウニー。

一成に紹介されて何度か話したことはあるが、顕悟はあそこまでお人好しではないとむくれた。

 

「それでも好き好んで行っていることに差はあるまいて」

 

お互い同じことを思っているとは一成のみ知ることである。

幸い、襖を開けた瞬間に一成の母から熱烈歓迎を受けた顕悟には聞こえていなかった。

 

「もう、顕くんたら滅多に帰ってきてくれないから寂しいわー」

「――ふがっ」

「母上、それでは神城が喋れません」

「あらまぁ」

 

ようやく抱擁から解放された顕悟は、この隙にそそくさと用意されたご膳の前に着席した。次いで一成も。

正面には既に食前酒を開けている零観に挨拶がまだだったと居住まいを正す。

 

「こんばんは、零観さん」

「おう、元気そうでなによりだな」

「そちらも変わらずですね」

 

にかり、と歯を覗かせて笑う命の恩人。その横の酒瓶でわかるように豪放磊落な生臭坊主である。

 

「顕くん。今日は泊まっていくでしょ?」

「そりゃあ、三芳爺さんのとこで任されてるんだから無理だろう」

「零観はお黙り」

 

ぴしゃりと発言を封じられた零観は、やれやれといった表情でお猪口を煽った。

 

顕悟が自立を決意してからまず困ったのが、住居だった。当時中学生の身分で家賃と生活費を稼ぐのは不可能。

そんなときに零観から柔道の師の友人が放置してある物件があるがどうだと推薦があった。

その友人が屋敷の所有者である三芳鋼三郎だった。

高齢な自分に代わって管理をしてくれるならば、家賃はタダという破格の好条件。

悩む性格でもない顕悟はその場で決めてしまったのだが、これが後に波紋を呼んだ。

 

「あんたはいいわよね、そのあともなんだかんだと一成連れて遊びに行ってたんだから」

 

この手の話になると口を出す暇を与えられなかった柳洞夫婦は長男に対して実に冷ややかになるのだ。

 

「ハッハッハ。師匠の頼みは断れまい」

「そんなこという子には、お酒はやれん」

「なんと!ハッハッハッ!」

 

可愛さ余ってなんとやらだ。母親からの恨みがましい視線を豪快に笑い飛ばしていた零観の笑顔が強張る。

効果は抜群だ。

 

「……今宵は賑やかだな」

 

静かに席に着いた宗一郎を加え、柳洞家の食卓の夜は過ぎていった。

 

 

 

 

 

 

 

宴が終わった夜は、物静かに。

月明かりに見守られ、顕悟はひとり家路につく。

 

見えてきた日本屋敷。三芳が所有し、顕悟の仮初の家だった。

木でできた大門の横にある小口扉を開ければ、塀に守られていた日本庭園が広がっている。

水池や、苔、桜や紅葉など季節別の区画に整えられた樹木。始めは荒れ地で似る影もなかった庭も、顕悟の自信作に仕上がっていた。

 

「ただいま、変わったことはなかったみたいだね」

 

ここまでに達するに2年を要した。

緑と触れ合うことを趣味とする顕悟にとって、それを苦労と表すことは不適切。

そして神城顕悟、堪忍袋は頑丈な方である。ちょっとやそっとでは解れもしない。

無賃で150坪はあろうかという敷地に住まわしてもらっているのだ、これ以上の贅沢はない。

 

――ただ、彼が唯一誤算だったと思うのは。

 

瑞々しさに溢れた庭を堪能し、屋敷の入ろうと顕悟は止まっていた足を進める。

玄関を通り過ぎ――ただの壁を手の甲でノックした。すると、くるりと現れた回転扉が閉まりきる前に隙間に身体を忍ばせる。

 

そして腰を落とし――頭があった位置を矢が射抜く――

前方右斜めの方角に前転跳び――半径一メートル四方の床が抜け落ち――

すぐさま体勢を整え――背後から迫る脅威に備え――

長い廊下の突き当りまで一目散に駆け抜ける――近づく地鳴りで距離を測り――

目前に迫る壁を蹴り上げ――風圧を首筋で感じる――

胸に重心を移し――鉄の塊が髪を掠り――

後方へ宙返り――壁に子供の背丈ほどの鉄球がめり込んだ――

この間、およそ5秒。

 

「さて、と。明日の準備をしないと」

 

そうして何事もなかったかのように顕悟は廊下を曲がる。一度発動すれば朝までは安全は確保される。

 

 

顕悟が未だに早まったかなと思う、ただ1つの問題。

 

それは――この屋敷が忍者屋敷だということだった。

 




柳洞一家の口調に悪戦苦闘。

『土筆』
向上心、意外、驚き、努力


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

■Marguerite

|

午後は生憎の雨だった。

 

 

天気が崩れたら山に入るな。

柳洞寺に住み着いてから、最初に教えられた自然のルールだった。

 

それはそれ、とばかりに青い合羽をリュックサックから取り出した顕悟は大樹の元に向かっていた。

彼は天気に左右されるタイプではなかった。

 

「……昨日よりも拡大してる」

 

しとしとと降り続く中、見に来て正解だった。山の異変は確実に進行している。

大樹一本だけに留まっていた斑点は、山の土地にも侵食している。まるで、木々の血が流れているかのように。

 

「雨に上書きされる前に流れを読み取らないと……」

 

合羽のフードを僅かに深く被る。雨粒が目に入らないように注意し、目蓋の下で眼球に力を込めて刮眼し跡を追う。

彼の他に誰かがこの場にいたならば彼の虹彩が変わっていることを指摘できたのだが、不幸にも目撃していたのは口のない植物のみ――。

 

寺の者でさえ足を踏み入れない領域を躊躇無く踏み越え、顕悟は山へと入っていく。

彼にとって庭のようなものだ。迷うことはない。

終着点は早くにやって来た。

 

「あーあ、遅かったか」

 

林の中で痕跡が途切れていた。念のために周囲を確認してみたが特に目立ったものはない。

この先にあるのは鉱山の入り口だった洞窟くらいで、随分昔に埋められたと聞いたことがある。行っても瓦礫の山だろう。

正直、納得はいかないが、これ以上調べることは難しかった。

 

「風も出てきたし、晴れた日にもう一回……ん?」

 

林の隅で揺らめいた影に、諦めかけた身体を動かす。

そして臭いにしわを寄せた。

 

「うわ……これ、血かな」

 

動物の死体だろうか。

濃い紺の布きれは雨以外の液体でところどころ濡れている。

せめて弔いをしようと触れ、

 

「え――」

 

ごろりと転がった物体の顔が顕わになった。

日本では珍しい薄い青色をした髪。血の気のない白い肌。

まるで、おとぎ話から出てきたお姫様だのようだと、顕悟は不謹慎にも見惚れた。

 

強くなってきた雨足に頬を叩かれて、我に返る。

 

「――っ!」

 

弱りきった女性を背負い、泥濘に足は取られそうになりながら野山を駆け下りた。

それは必要最低限の動きで、洗練されていた。伊達に、忍者屋敷で過ごしていない健脚ぶりだ。

無論、下山で走ってはならない、という自然のルールその2も黙過した。

 

雪崩込むようにして寺に上がり、顕悟が以前使わせてもらっていた部屋に運ぶ。

いつでも泊まれるようにと干していてくれた一成の母に感謝しながら布団に女性を横たえる。

 

目に見えて弱くなっていく彼女の生命力。

スタイルのよい体に張り巡らされた、本来ならば輝いているだろう体内のパイプは、黒く塗りつぶされている。

顕悟の見慣れた、ソレ。エネルギーの尽きた物質は造形を保てない。草花であれば枯れ、人であれば――死。

 

いてもたってもいられず、顕悟は再び雨天の中へ身を投じた。

 

 

 

 

 

 

意識を覚醒させた彼女が最初にしたのは、未だ消えていない我が身への自嘲だった。

傍らの花瓶には枯れかけた花が活けてある。嫌がらせか、と突っ込んだ。魔力は尽きかけているが、これを置いた人間の顔を拝んでから消えるのも遅くはない。

 

「あ、目が覚めた?」

 

来訪者は外に出ていたのか、頭からずぶ濡れだった。記憶では青い合羽を着ていたはずだが。

 

「僕は神城顕悟。山の中で倒れていたキミを見つけて、ここまで連れてきた。名前を聞いてもいいかな?」

「……キャスターよ。一応、礼は言っておくわ」

「どういたしまして。っと……はいこれ、身体の足しになるといいんだけど」

 

白い薔薇を差し出され、キャスターは眼を瞠る。

僅かながらも花にはマナの凝結があった。量はサーヴァントにとっては砂漠に垂らした水滴でしかない。

同時に花摘み少年を嫌がらせの犯人と認定し、その指に目を留めた。

 

「花もいいけど――」

 

擦り寄るようにその手からを薔薇を抜き取り、魔力に変える。予想通り瞬時に塵となった。

瞳孔を広げている坊やの手首に指を這わし、血の滴る親指を口に含む。

 

「こちらの方が好みだわ」

 

丁寧にもリップ音を残し、ごちそうさまと唇を舐める。

 

「え、うあ……」

 

単純に驚いているだけなのか、ぽかんと間抜けな顔にキャスターは気をよくした。

彼の血をもっと、と身体が叫ぶ。――貪れ。そうすれば魔力は満たされるぞ。

ぷっくりとした珠のような血が膨れ上がっている親指の腹にもう一度口付けようとして、唐突に思考の違和感に気づいた。

 

「(うそ……私、興奮している?)」

 

冗談じゃない。キャスターは魔女であって吸血鬼ではない。拙劣な淫欲を怒りで握りつぶした。

 

「とりあえず、体調はよくなったみたいで安心したよ。なんにもない寺だけど、ゆっくりしていって。着替えは僕のお古だけど我慢してもらえると助かる」

 

そこでようやく彼女のシーツ一枚である格好に顕悟は気づいた。己の愚鈍さを猛省し、ぎこちない態度で畳から離された顕悟の腰は――

 

「――待ちなさい」

 

元の位置に戻された。キャスターより畳一枚距離を取って。

 

「えっと、何かな?」

 

そんな男の事情を見透かした上で彼女は恥じらいもせず、一挙一動を観察していた。

やり場に困りながらも視線をキャスターに合わせる姿は好感が持てる。

 

「(見かけによらず気骨はあるようね)」

 

彼に何を求めての評価なのか気づかないまま、キャスターは話を進めた。

 

「なぜ、私を助けたのかしら?」

「それは――」

 

返答次第では殺すつもりで。

そんな彼女の胸中など計りようのない顕悟はへらりと笑みを浮かべた。

 

「助けることができたから。そこにキミがいて僕がいた、だけ。あとは山で拾われたよしみ?」

 

疑問符をつけて帰ってきた答えに嘘はない。

下心もなくこの少年は、犬猫を拾う気軽さで彼女を抱えてきたのだ。キャスターは痛み出した米神を押さえたい衝動にかられた。

 

「質問を変えるわ。あなた、私を助けたいの?」

「そうだね。僕のできることであるならば」

「なら、私を抱きなさい」

「なぜそうなる」

 

呆れるあまり顕悟は即答した。

キャスターはそれを拒否と判断する。

 

「それができないなら私に関わらない方が身のためよ、坊や」

「極端に飛躍してない?あー、つまり、キミをこの場で抱かなければ殺せ、そう言ってる?」

「話が早くて助かるわ」

「なら、答えはノーだよ。抱くつもりも殺す気もない」

 

――偽善ね。時間を無駄にしたわ。

興ざめしたキャスターは、この場で八つ裂きにしてやろうと魔力を集める。

そして告げられたのは――

 

「だってキミ、処女だから」

「――なっ」

 

冗談じゃない。この身は当の昔に穢れている。

そんなキャスターの心を読んだかのように、顕悟は首を振った。

 

「確認した限り、()()()()はそういうことはしてないと思ったんだけど?それとも、ここに来る前に関係を持ってた人がいるの?」

 

誰があんな下種と――頭に血が上ったキャスターは、無防備な細い首を掴み上げていた。

ぽた、と畳に染みができる。

飛びかかった拍子にシーツが乱れたが、今の彼女には気にもならない。

 

「――今の発言は取下げなさい。さもなければねじ切るわ」

「……うん、キミへの侮辱だった。ごめん」

 

殺気を向けても、震えることなく顕悟は眼を逸らさない。調子が狂う。

素人のくせに、妙にクセがある。

 

「けど意見は変えない。会ったばかりの人間に身体を安売りしてはダメだ」

 

年下の少年に倫理感を説かれてしまった。

 

「その体調ならどこかに消えるということはなさそうだ。キャスターが望むくらいの猶予はあるよ」

「あなた、一体――」

 

何者なの?

尋ねようとしたとき、障子に人影が差し込んだ。

 

「神城!帰ってるなら一言かけてくれればいい、ものを――?」

 

威勢よく襖を開けた人物――一成はぴしりと石膏と化した。

 

一枚のシーツの下で、女に押し倒されている男。一成の位置からは女性の胸元は隠れているが、何も身に着けていないことは顕わになっているきめ細かい肌で一目瞭然。つまり、2人がナニをしていたのかくらい修行の身といえ健全な男の子である一成にだって理解できた。

 

「一成、寒い。入るなら入って?」

 

そんな絶賛混乱の最中、不満そうにかけられた声が石化を解く呪文となったようだ。

 

「――煩悩退散煩悩退散煩悩退散っ!キエェー!!」

 

眼鏡がズレ落ちそうになりながら走り去った一成にため息をつきながら、顕悟はひんやりとした冷気と室内を切り離す。涼しい顔したメディアもシーツを纏い直して、布団の上に戻っていた。

 

「まったく、せめて開けたなら閉めて行ってくれればいいのに。急き心は一成らしいけど」

「彼、いいの?」

「うん。あれでもここの次男坊だから危険はないし」

 

誤解させたままでいいのかと意味なのだが。わざわざ訂正することでもないか、とキャスターは放置した。

 

「それでさっきの話に戻るけど、他に方法はないのかな?」

「――そうね、さっきの花が何千何万とあるなら話は変わってくるかしら。あなたを殺して、さっきの早とちり少年の童貞を奪うのも楽しそうだけど」

 

キャスターとて無理難題を口にしている自覚はあった。

マナを摂取できる霊場など早々ない。ほとんどが教会やセカンドオーナーが所有していると与えられた知識が囁く。

 

人間から吸収する方法もあるが、それは願い下げだった。

とはいえ、本気であの生真面目な眼鏡の少年に身体を許す気もない。断じて、ある意味生娘だと指摘されたからではない。

であるならば、消えゆく運命を受け入れるのみ。そもそもこうなるだろうことは、下種男を殺したときに覚悟したこと。

それが偶然にも僅かに伸びただけ――諦観に似た感情を疼かせキャスターは、咲き誇った微笑みとかち合う。

 

「よかった、それなら案内できる」

 

なんで先に言ってくれなかったんだ、と剥れるような響きさえ伴って、いとも簡単に彼は手を差し伸べた。

 

「って、キミの服は乾燥中だったっけ。ちょっと待ってて、荷物まとめてくるから」

「私が言うのもなんだけど――あなた、用済みになったら裏切られる可能性は考えないのかしら?」

「それならキミが起きたときにそうなってるだろ。ここだって力を維持できないわけじゃないし、キミの言ったとおり一成を誘惑すればなんとでもなる。それでもこうして話していられるってことは、切迫するほどの事態は脱していて、キミにとって僕を生かす価値があるってことじゃない?」

 

ただの能天気かと思えば、なかなか端的な分析だった。

 

「それに、キミはそういうだまし討ちは嫌いだろ?」

「……バカらしい。私の何を知った気でいるのかしら?」

「さあ?キミがどうして血だらけで倒れていたのか、どこから来たのかは知らない。僕を抵抗なく殺せることはさっき身をもって体感したし」

 

それならばなぜ?

疑いが尽きないキャスターは面食らう。微かに陽だまりの香りが漂った。

 

「裏切るって言ったときにキミは全身に力を込めた。やりたくないことをやらなければいけないとき、人がする反応だ」

 

不覚にも、毒気を抜かれてしまった。

土くさい少年は泥だらけになる覚悟があるようだ。ならば、せいぜい利用させてもらうのみ。

 

「……あなた、後悔するわよ」

 

そうかも、とわかっているようでわかっていない顕悟の手をキャスターは取った。

 

 

 

 

 

 

報告のため、一成を捉まえたときのことである。

 

彼はなぜか記憶に空白があった。山で迷っていた女性を保護したので街まで送っていくと説明し、キャスターのことを深く尋ねられないように簡単な挨拶で済ませてしまったが、顕悟はしきりに首をかしげていた一成が気がかりだった。

疲れが溜まっているのだろう。説明の途中では鼻血を垂らしていた。

次来るときは肉料理でも差し入れやろうと、柳洞寺の方向に手を合わせる。

 

 

そうして、三芳邸の敷地に足を踏み入れたから立ちっ放しのキャスターに振り向いた。

 

「どうかな。居心地は」

「最悪ね」

 

どこか不機嫌な面持ちで、キャスターははき捨てた。

顕悟が彼女の身体を視るも、彼女の生命力に消耗はない。

 

だが、キャスターにしてみれば、文句も言いたくなる心境であった。

魔術に仕う高級品種はないものの、これほどマナを内包した植物はキャスターが生きていた時代でも滅多にない。

どれほど希少かと聞かれれば、ここにあるマナを全て蒐集すれば、魔力が半分回復する。

今までの悩みはなんだったのとある種、横暴を感じる。

 

そしてなにより、のほほんと平和ボケした脳内お花畑男が成しているという事実。あまつさえ自覚がないことが異常に腹立たしい。

 

「……あなた魔術師なの?」

「まじゅつし?ああ、メディアみたいな身体の細部まで光っている人のことか。僕は一般人だよ」

「でしょうね、魔術回路が見当たらないもの。けれど一般人でこれほどマナを効率よく集めるなんて」

「マナ?ああ、そういうこと」

 

ボタンの掛け間違いに気づいた後のようなしまらない顔をした顕悟が手招きする。足元にある花壇を覗き込むようにして、キャスターも膝を折る。

 

「僕はただ、彼らの生命力がみえて、それを最大限に活かす方法を知っているだけ。例えば、この子。キャスターからはどう見える?」

 

周囲に圧されて縮こまっている小振りなマーガレットがあった。マナはほとんど感じない。

素直な意見を伝えると、唐突に顕悟はシャベルで掘り出し、日当たりのよい場所に植え替えた。

そんなことをしてどうなるのか。キャスターの問いかけに応えるように、マナが主張し始める。

 

キャスターが確認した限り、最も多い部類と遜色がない。

 

「信じられないなら、他の子も実演するけど」

「……結構よ」

 

こんなこと、何度も見せられてたまるもんですか。

未練がましく花壇に視線を残しながら手を洗う顕悟に、キャスターはため息をついた。

 

「それじゃあ、キミの話を聞こうか」

「そうね。立ち話もなんですから、家に入りましょう」

 

この景色は毒だ。キャスターの精神的に限界だった。戸に手をかける。

 

「あ」

 

そんな呟きを漏らしたのは果たしてどちらか。

玄関口を開け放ったメディアか。その先にある未来を哀れんだ顕悟か。

 

だが、結果は同じ。鈍い音の発生源を抑えてしゃがみこむメディアの姿があるのみ。

 

引き戸を開けた先にあったのはただの壁だった。ご丁寧に室内の絵まで描かれている。

信じらんないとばかりに、涙を滲ませるメディア。

 

「玄関はダミーなんだよ。本物はこっち」

「先に言いなさい。次は殺すわ」

 

本気だった。

 

「あ、あったあった」

 

意に返した風でもなく、壁にある突起を押すと顕悟。

垂れてきた一本の綱を掴み、そのまま二階ほどの高さにある窓まで身軽に上っていく。まさか同じことを要求されないでしょうね、と引き攣りながら眺めていたキャスターの前に縄梯子が下りてきた。

 

「お待たせ、どうぞ」

 

なんなのこの家。この根無し草について来たのは早まったのかもしれない。キャスターはめげそうになった。

だが、彼女の不運は終わらない。

 

 

 

「(……歩き方は綺麗ね)」

 

それが、木偶の坊の後をついてまわっていたキャスターの感想だ。

意味もない観察をするつもりは毛頭なかったが、廊下を進む暇つぶしとして他にすることがなかったのだから仕方ないとキャスターは自分に言い聞かせた。長い廊下が悪いのだ。八つ当たり気味の踵に床が悲鳴をあげた。

 

「……それにしても長いわね。もう10分は歩いているわよ」

「迷った」

「は?」

 

思わず、聞き返す。エルフである彼女の尖った耳が我慢の限界とばかりに、ピクピクしていた。

 

「二階は侵入者対策に迷路になっていてね」

「どうして別の入り口に案内しなかったのよ!?」

「来客用はあそこしかないんだ。滅多に人なんて来ないから油断してた」

「ふふふ……私、言ったわよね?次は殺すって」

「待ってキャスター。そこは」

 

発信源は一歩踏み出したキャスターの足元だった。

嫌な予感が過ぎりつつ、そろりと引いた足の下に、丸いボタンがあった。

 

「キミってドジっ子属性があったりする?」

「……」

 

家にあるまじき、振動と機械音が今か今かと重奏している。発動までのカウントダウンだ。

 

「時にキャスター。潰されるか、落下か、どっちがいい?」

 

笑顔で勧告された。

 

 

 

 

 

 

「いや、まさか、落下先が居間とはねー。さすが、三芳爺さんの仕掛け。手が込んでる」

 

あのあと、疾走しているとぽっかりと空いた穴に吸い込まれるように落ちた顕悟とキャスター。

ソファーのクッションに受け止められ、しばし呆然としていた意識も落ち着きが戻ってきていた。

 

「……ふぅ」

 

となれば、どこまでもどこふく風でお茶を飲んでいる能天気に、現実を教える時間だ。

ハプニングもあり思わぬ時間を食ってしまったが、ようやく仕切りなおせる。

 

「この話を貴方が信じようと信じなくとも構わない。けれど、後戻りは許されないわ」

「うん」

「本当にわかってるのかしら?日常では生きられないのよ?」

「おかしなことを言うね。もしかしたら僕が生きていた生活が非日常であるかもしれないのに」

 

確かに。マナやオドが目視でき、こんな仕掛けだらけの屋敷で暮らし続けてきた異端に日常を求める方がどうかしている。

らしくない気遣いだった。それも無下に一蹴されたけれど。

 

「……貴方の返事はもう聞かないわ。質問は最後にして頂戴」

 

そうして、キャスターは自分が呼ばれた聖杯戦争について語り始める。

魔術師と英霊、7組に別れての殺し合い。勝ち残った、たった一組だけが聖杯を手に出来、願いを叶えることができる。クラスは、セイバー、アーチャー、ランサー、ライダー、バーサーカー、アサシン。キャスターもそのクラスの1つ。

現界したときに得た情報を出し惜しみせずにした説明を聞いた顕悟は、

 

「なるほど。道理で、キミの身体は人よりも光の許容量が大きいわけだ」

 

しきりに頷いていた。

 

「それだけ、なの?」

「ああ、そっか。キャスターはマスターを探す必要があるんだよね。キャスターのように身体に巡らせるようなエネルギーを持っている人物には心当たりがあるよ」

 

でも、既にマスターの可能性もあるのか。困ったな。と悩み始める顕悟にぎりと歯噛みする。

 

「……あなたでもマスターになることは可能よ。もちろん、性行為以外の方法もあるわ」

「いや、僕はマスターにはならない。キャスターの話を聞いた後じゃ、尚のこと」

「あら、怖気づいたの?」

「そうだよ。だって、いくらキャスターが強くてもマスターが素人じゃ、キャスターの願いを叶えてあげられないだろ」

「――――」

 

正確に、聖杯戦争の本質を見抜いていた。キャスターは、子供のような年頃だと風貌だけで侮っていたのだ。

 

「僕はマスターにならない代わりに、キミがマスターを見つけるまで手伝うし、それまではここにいてくれて構わないから。約束する」

「悪いけど、根拠のない約束は信じないことにしているの。ここが戦場になる危険性だってある。そうなったら私はあなたを迷うことなく見捨てるわ」

「いいんじゃない?それくらいの担保は必要でしょ?」

 

見殺しにすると突きつけられているのに、この万年草は真剣な顔1つしない。

 

「(……これじゃ、気にしている私が馬鹿みたいじゃない)」

 

冷めた日本茶を口にする。すぐに注ぎ足された。

 

「む……」

「ん?まだ何かある?なければ部屋を案内するけど」

 

自分の分の湯のみを片付け始めた顕悟に、キャスターは釈然としないものを感じつつ、お茶請けに出されていた羊羹を一口でほお張る。

 

「そういえば、僕が協力を拒否したらどうするつもりだったの?」

「そのときは記憶を奪って、霊場だけ頂いていたわ」

「キャスターって結構ちゃっかりしているよね。なんか似てる」

 

誰にとは言わない。

その友人も、魔術師であろうと当たりをつけている候補者の1人だ。魔術師ってみんな似たような性格なのだろうか。

近いうち会うことになるだろう未来に、顕悟は静かに疲れた笑みを浮かべた。

 

 

 




『木春菊』
恋を占う、貞節、誠実、心に秘めた愛、真実の友情


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

■Adonis ramosa

|

ひょんなことから、キャスターと同居生活が始まって1ヵ月が経っていた。

その間、彼女のマスター探しに奔走したある男の行動をここに記しておこう。

 

 

 

 

●とある赤い優等生の場合

 

 

もうすぐ終業式を控え、長期休暇に浮き足立った2-A教室。冬休みには大晦日に初詣というイベントが控えている。

どう過ごすかで生徒たちが盛り上がる中、アルトの声が綺麗に響いた。

 

「遠坂」

 

彼女が男子生徒から声をかけられるのは珍しいことではない。

入学して二年の月日が流れているにも関わらず、未だに月一度のペースで告白をされていることはクラスメートならば暗黙のうち。

見慣れた風景のワンシーンよりも、お喋りと食欲の方が思春期の高校生にはよほど貴重だった。

――その男子生徒が、穂群原の土筆もとい神城顕悟でなければ。

 

「今時間あるかな?」

「なんでしょう、昼食のお誘いですか?」

「うん。できれば二人きりがいいんだけど……屋上に行かない?」

 

わざわざ寒空の下をチョイスする間抜けさが彼の女っ気のなさを象徴している通り、道端にポッと咲いているような素朴な顕悟が学園のアイドルである遠坂凛に興味を示したことなどない。

それがどうだ、2人きりでランチとは。

 

「……ええ、いいですよ」

 

瞬間、音が消えた。

周囲の囁きを相手にもせず、お弁当箱の入った袋を手にして少女が席を立つ。

 

出て行った2人の姿が扉に閉ざされてから、教室内が騒々しくなったのは言うまでもない。

 

 

 

 

 

当然というか、冬の外気は寒い。

凛が誘いを断らなかったのは、単に『優等生』だからだ。体裁が保たれさえすれば、わざわざ身を震わせて長居をする理由もない。

 

「神城く――」

「こっち。少しはマシだよ」

 

出鼻を挫かれた凛は給水塔まで腕を引かれていく。

手際よく、ビニールシートが敷かれてブランケットを渡された。なんというか、至れり尽くせり。

 

「……ありがとうございます。それで、用件はなんですか?」

「その前に、ご飯にしようよ。腹ペコなんだ」

 

嬉しそうに包みを解いていく顕悟に渋々、凛も取り出そうとして袋に入れたその手をとめた。

弁当派である彼女ではあるが、今日に限ってうっかり寝坊をしてしまったため、袋の中身は空であった。

 

「(……しまった。つい持ってきちゃったけど、重さで気づきなさいよ私)」

 

よくお昼を共にする女友達の前でやらかして、からかわれる心配がなくなったのはいいが、この男経由で小坊主に知られるのもよろしくない。

葛藤する凛の目の前で、気前のいい屋台の亭主の如く顕悟は包みの中身を並べていく。一段、二段、三段目に差し掛かったところで、凛は待ったをかけた。

 

「……神城くん。いつもこんなに食べるの……ですか?」

「え?今日は特別だよ。遠坂の分もあるから」

 

五段目を広げ終えた顕悟から、赤い箸を差し出される。

 

「遠慮しないでどうぞ。話を聞いてもらう代金とでも思ってくれればいいよ。……いただきます」

 

色違いの箸を合わせた手に持ち、几帳面にお辞儀をする顕悟。

その言い方に引っかかりを覚えるが、遠慮なく空腹を満たすことにしよう。なんだかんだで2食抜くのは凛としても限界だ。

蓋を開けてみれば、洋食メインのラインナップ。

寺で育った顕悟のことだから、蕗《ふき》の薹《とう》とか、オクラとか侘しいだろうと予想していたのだが、なかなかどうして。

 

「ああ、これ?最近、洋食の要望が多くてさ」

 

箸が使えるようになるまでは魚も封印なんだよね、と遠い目をしていて喋る顕悟の話を、凛はキツネ色したコロッケを齧りながら聞き流した。カニクリームがふんわりと口の中でとろける。……これは些か分が悪い。

 

だんだんと目つきが変わってきた凛を、ほわわんとした顕悟が眺める。

 

「……なんですか?」

 

ようやく視線が自分の布袋にあると気づいた凛は箸を止めた。

 

「私のお弁当はあげませんよ」

「それは残念」

 

箱の中身にエネルギーがないのは声をかけた時点で顕悟は気づいていた。

だが、視える能力は誰にも話さない方が身のためと釘を刺すキャスターの助言に従い、視線だけに止めていた。

見透かされているとは知らない強気な凛に、顕悟は更に笑みを深くして一口ほお張る。

 

そして、出し抜けに本題をぶつけた。

 

「ときに遠坂。キミは戸籍のない人を1人養えたりしないかな?」

「は?」

 

ただでさえ、忙しい時期だというのにそんな余裕はない。家賃を払ってくれるなら考えなくも――そこまで思考した凛は、真面目に応えようとしている自分に気づいた。

言葉だけでなく表情も崩した凛を気にするでもなく、それが彼女の本来の姿とわかっているかのように返事を待つ顕悟があまりにも自然で異常だった故の失態。まさしく心の贅肉だった。

 

「そういうことは、もっとお世話好きな人に頼んだらいかがですか?」

「そう?遠坂も相当だと思ったんだけど。無理だと誤魔化さないところが、キミの良さだと僕は思う」

「……褒め言葉と受け取っておきます」

 

いつの間にか、重箱弁当は空になっていた。

体重計の針が動いた気がしたが、凛は強制的に排除する。

そんな乙女の葛藤など知らぬ存ぜぬのマイペースな顕悟は、水筒からなにやら注いで凛に手渡した。

仄かなハーブの香りが鼻に抜けていった。缶ではなく持参する心意気の分は差し引いてやろうと、凛は僅かに気持ちを上昇修正する。

 

「仕方がない、別の人を探してみるよ」

「そうしてください」

 

冷たくなった手を温める凛。しっかりとおかわりまで頂いて、彼女は教室に戻っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

●とあるお人好しな友人の場合

 

 

年越し準備で賑わう道のりを買い物袋を片手に歩いていた顕悟の前方で、見知った顔が窓を拭いていた。

 

「ん?神城か。珍しいところで会ったな」

「今日の店番は衛宮なのか。ネコさんは?」

「配達中だ。神城が抜けたせいで、ってぼやいてたぞ」

 

冬木の酒屋コペンハーゲン。

昔は寺のお遣いで出入していたのだが、一人暮らしをするようになって初めてバイトとして雇ってくれたのがこの店だった。件のネコ――本名、蛍塚音子は店の一人娘。性格は、当時中学生であった顕悟の顔1つで酒瓶を売ってくれるという父親の気前の良さを受け継いでいた。

 

「代わりに衛宮がいるなら問題ないよ」

 

丁度入れ替わるように辞めたため、実際、店で会ったのは数えるほどしかない。

新旧のアルバイターは、ここにいない上司を通して親交を深めていく。

 

「ごめんごめん。つい、立ち話しちゃって」

「いや、俺の方こそ引き止めて悪かった。買い物の途中だったんだろう?」

「揃えるものは揃えたから、あとは帰って蕎麦茹でるだけ。下拵えは済んでるから」

 

胸を張る顕悟が持つ手さげ袋の中身は1人分としては材料が多い。

主夫である士郎にとって、食材から人数を逆算することなどわけないことだった。

衛宮家は人数は2人であっても食材は4名分を必要となるため、精確性に欠ける目分ではある。

とはいえ、どこかの虎のような大食いを抱えることのない家計にしてみれば、充分2人で足りる量だ。

 

士郎の指摘に、はにかんだ顕悟はマイバックに視線を落とした。

 

「せっかく日本にいるんだから、日本文化を満喫しないと勿体ないからね」

「なんだ。誰か、遊びに来ているのか?」

「うん、結構長く滞在する予定らしくて。あ、そうだ。」

 

にこにことしていた笑みが、深くなった気がして士郎は僅かに身構えた。

そしてこの人懐っこい同級生を見て、そんな必要はないと弛緩させる。

一成を通した友人ではあるが、クラスが別である顕悟とは数えるくらいしか話したことがない士郎は知らぬ間に、肩を張っていた。

士郎としては珍しい反応だ。憧れの遠坂凛と顕悟が親しいという噂を聞いたからせいか、意識しているのかもしれない。ブラウニーとて1人の男の子なのだ。

 

だが、士郎の葛藤なぞ、風の向くままに任せる土筆ん坊には関係がない。関係があったとしても気にしないからこその名の所以でもある。

そしてそのマイペースぶりは、この場でもいかんなく発揮された。

 

「衛宮の家って、洋室があったりする?」

「え…ああ。掃除する必要はあるけど、泊まるのは構わないぞ」

 

少し前まで男2人暮らしであったというのに、部屋数は和室含めて十倍はある。無駄に広くて埃は堪る一方だ。

貸し部屋にでもするつもりだったのか、大家族計画を立てていたのかは、故人のみぞ知る。

そんな養父の事情を真面目に考えていた士郎を見る顕悟のそれは、同情に近い。だが、思案に耽る士郎は視線も、含まれた意味にも気づくことはない。

 

「ありがとう。そのときは連絡するよ」

「了解した」

 

予約だと称して八百屋でおまけしてもらった大根を士郎に渡すと、顕悟は軽い足取りで立ち去っていく。

士郎が抱いた感想としては――

 

「……気さくな奴だな」

 

手にした雑巾と大根を見比べ、妖精はぺんぺん草をそう評価した。

一先ず、大掃除に洋室を加えようと、窓拭きに戻ったのであった。

 

 

 

 

 

さてさて。顕悟が詳しい説明もせず――彼としては強引に――宿泊の取り決めを進めたのは、前夜の一本の電話が原因であった。

連絡してきた相手は三芳鋼三郎。顕悟の雇い主でもあり、屋敷の所有者だ。

 

同居人をためらいなく認め、あまつさえ避妊はするんじゃぞなどとスケベ根性丸出しの発言をする元気なじいさんである。因みにそのことはキャスターには話していない。

もしものときは危険もあるという事情さえも二つ返事で了承してくれたでかい器の持ち主でもあるのだが、キャスターとの相性は微妙である。彼女は再三、屋敷の仕掛けについて文句を言っているのだ。

 

――それはともかく。

言葉を切った鋼三郎はただ1つ、忠告を残した。

 

「今日電話したのはのぅ。いいか、顕悟郎。《決して押してはならないボタン》は押してはならんぞ」

 

なにその、押してほしいと言わんばかりのフリは。キャスターが聞けば、迷わず突っ込んでいただろう。

だが、悲しいかな土筆ん坊は、風の吹くままに身を揺らすだけ。

名前の間違いを指摘することもなく、わかったと返事のみで詳細を深く尋ねることはしなかった。これが後ほど禍根を呼ぶ要因になるのだが、今は語るまい。

 

なによりこのときの顕悟は、忘れていたのだから――。

 

 

 

 

 

 

●とある内気な後輩の場合

 

 

年が明け、新学期。

突き刺さるような早朝の冷気に身を縮ませながら、顕悟は登校した。委員会の仕事、花壇の整備のためである。

といっても冬の草花は少なく、活動は彼のみ。

 

委員会での彼への評価は「物好き」と定着して久しい。

真面目な態度には頭が下がる思いではあるが、自分も同じことができるかと言われて頷ける者は少ない。

よって、その姿を目にすれば、己の怠惰さが浮き彫りになり、物言えぬ罪悪感に苛まれる。そうして草花の世話をする彼に声をかえる学生はいなくなる。一部を除いて。

 

「あ、神城先輩……」

 

部活の朝練習を終えた間桐桜はその一部の人間だった。

運動後で体温が高い自分とは違って、静かに作業をする上級生は制服のまま。だが、草花と向かい合う彼の集中力は桜のか細い呼びかけくらいでは乱れない。

手にしていたダッフルコートを広げ、その背中にかける。そこまで接近してようやく、顕悟は桜の存在に気づいた。

 

「おー、いつも早いね、桜後輩」

「……あの、その呼び方どうにかなりませんか?」

「間桐と呼ぶのは兄だけで充分だよ。キミには桜という素晴らしい名前があるのだから、これは譲れない」

「えと、そういう、ことではなくてですね…」

 

後輩とつけることを指摘したいのだが、でも呼びつけにされるのはもう1人の先輩だけにしたいようなそんな乙女心が桜の声を奪う。

困ったように頬を染める後輩の姿に、やっぱり桜の名前がとても映えていると親でもないのに再確認した顕悟は、弄っていた土から手を離した。

 

「もういいんですか?」

「うん。桜後輩に風邪をひかせるわけにはいかないからね。…っと」

「器用ですね、先輩」

 

立ち上がった拍子にずり落ちそうになったコートを手を使わずに直そうとしている仕草がおかしくて、桜は小さく笑みを零した。顕悟にしてみれば、土のついた手で触れるわけにもいかない上での精一杯な思いだが、それが一層子供っぽく映った。

長身の肩から落ちそうになったコートをかけ直そうと後輩の手が伸びる。桜も平均よりは身長がある方であるが、顕悟の身長は平均以上。片側を抑え、背中に落ちてしまったそれを掴もうと踵を上げる。顕悟は顕悟で少しでも彼女のやりやすいようにと背中を丸めた。離れていた視線の高さが合わさり――

 

「おい、なにしてるんだ!」

 

そのままの姿勢で顕悟は背後を振り返る。

 

「え、兄さん?」

 

肩をいからせて間桐慎二が向かって来ていた。目は吊りあがり、鼻息は荒く、まるで自分の所有物に手を出された暴君の如き。これ桜と兄妹であるというのだから、世の中わからないことばかりである。

 

「なにをしていたのかって聞いてんだ、答えろよ!」

「桜後輩にコートを貸してもらっただけだよ」

「嘘をつけ!全部わかってるんだからな!」

 

慎二の有無を言わせない勢いに桜は俯き、土筆ん坊はただ首を捻る。全部わかっているなら、どうしてわざわざ尋ねるのだと純粋な疑問を浮かべていた顕悟は、正面からの衝撃にたたらを踏んで後退する。

パサッと乾いた音と共に、背中を包んでいた温かさも消えた。

 

「間桐」

「な、なんだよ。僕が悪いって言うのかよ、お前は知らないから平気な顔してられるんだぞ!」

 

泥がつくからと触れることを控えていた躊躇を捨て、顕悟はコートを拾う。大切なものを扱うかのような丁寧さに、今度は慎二が足踏みをした。

大きくなる慎二の声に登校する生徒の目が増え始めていた。背にしている慎二は気づいていないようだが、注目されることに羞恥を覚える桜にとって耐えるしか方法がなかった。

怒りに任せた兄の言葉を聞くまでは。

 

「お前が手を出すのは勝手だけどね、神城。こいつはとっくに僕の――」

「やめてください!」

 

草花を相手にしていた笑みと打って変って、真剣な面持ちの顕悟を庇うように桜が一歩前に出た。

妹からの応戦に先に目を背けたのは、慎二だった。

 

「……ふん。せいぜい、ごっこ遊びでもしていればいいさ!」

 

そこかしこで当り散らす慎二の声が、生徒の雑踏に消えていく。その姿を見送ることもせずにいた桜の身体は、小刻みに揺れていた。

胸を突き破りそうな恐怖と羞恥と不安を、ただ震わせることで打ち消していたその背中が、大きな何かに包まれた。

温かさを感じたかと思うと、重く垂れていた頭が数回上下する。それまでとは違った重みをそのままに振り向いた桜は、唇を引き結んだ。

 

「よしよし、頑張ったね。桜後輩」

 

完璧、子ども扱いをされている自覚はあった。けれど異を唱えようと開いた口からは、嗚咽交じりの震えが飛び出るばかりでどうしようもない。

そんな彼女に向けられる視線に顕悟は意識を向けた。赤い残像が窓に映っているだけで姿はない。

 

「(……?)」

 

そうして、チャイムによって離されるまで顕悟は薄紫色のキレイな髪を撫でていた。

 

 

 

 

 

 

――という3つの報告をキャスターは一言で片付けた。

 

「――それで?」

「え、それだけだけど」

 

大きな花柄のエプロンを身に着けた唐変木は、なにかおかしいところがあったかなと真剣に考えるほどに噛みあわなかった。

ほどよく煮込んだビーフシチューのお肉を見習ってほしい、とキャスターは心底思う。

 

「あなたね、肝心な話は何一つしていないじゃない。魔術うんぬんの話抜きには、いくら交渉したって意味がないでしょう」

「そうだけど、物事には順序があるじゃないか。どんなに魔術師として優秀であっても信頼できない相手に、キミを渡すつもりはないよ、僕」

 

まずはその人柄を観察して来たんだ、とにこやかにのたまう天然草。

 

「(なんでこういうときばかりストレートなのかしら)」

 

行き場の失った感情をぶつけるように彩りで添えられていた緑の葉っぱを彼に見立てて、憎しみを込めて齧りつく。

英霊の立場も肉体的年上の優位性もいとも簡単に取っ払われてはどうにも苦々しい。

 

「って、セロリは抜いて頂戴って言ったじゃない」

「大丈夫だよ、それバジルだから」

「くっ、坊やのクセに生意気ね」

 

いつの間にか形勢が逆転しているようで、ちっとも面白くない。

 

顕悟の一生懸命さは、キャスターとて承知している。

キャスターの話を鵜呑みにするだけでなく、自分で考え、判断し、それでも協力している。そして自分の範疇に負えない場合はこうして正直にキャスターの意見を求める。

 

「(これで魔力があれば、坊やの意志関係なくマスターにしてるところだわ)」

 

だがそれは顕悟自身が拒否している。それがキャスターのため、といったふざけた理由で、である。

屋敷に住むようになって1ヵ月。

そのほとんどを篭城の準備にまわし、彼女はしょんぼりと頭を垂れている同居人の話は二の次にしてきた。それでも食事は三食欠かさず出てきたし、顔を合わせれば進捗状況を嬉しそうに話してくる。

そのツケが回ったと思えば、キャスターとしては考えを打ち出しておくべきタイミングだった。

 

「あのね、魔力のある人間に拘る必要はないのよ。魔術師であっても、マトウとかいう男は願い下げだもの」

「あー、うん。気持ちはわかる」

 

流石に思うところがある顕悟としても、キャスターに話しかけた瞬間に慎二の首が飛ぶ未来が想像できた。

友人を守るためにも、彼女と引き合わせてはならないと決意を固めたところだ。

気品あるキャスターは軟派な男を嫌う傾向がある。

ならば硬派ならどうかと知り合いの顔を思い浮かべ、とある強靭な肉体を持つ教師の眼鏡が光った。

 

「魔力なくてもいいなら、1人いる。キャスターと外見年齢が同じ人が」

 

一度背負ったならば墓場までを地で行く堅い男だ。顕悟としても信頼できるし、キャスターの好みから外れていない。

 

「そうね、なら今度連れてらっしゃい」

「え、ここに?」

「マスターがいない私が外を易々と出歩けるわけないでしょ」

「あ」

 

失念していました、と消沈して食べ終えた食器を片付け始めたその姿はまさしく日の光を失ってしな垂れた草そのものである。

そもそもキャスターはそれほど切羽詰っていない。

マナだけは一等地のクセにまっさらな地脈が、三芳邸の敷地の特徴だった。作り手の性格を受け継いだのか、聞き分けのいい霊脈を自分好みに変えるのは容易かった。つまり、ここほどキャスターの能力を活かせる場所はないのだ。わざわざ、手放す必要もない。

 

「つまらないことで悩むくらいなら花を世話していなさい。その方がよっぽど生産的よ」

 

その言葉が今後の運命を左右することになるとは、キャスターも顕悟も知る由もなかった。

 

 

 

 

 

 

 

聖杯戦争の準備に部屋へと閉じこもったキャスターを見送り、洗い物を片付けた顕悟は外に出ていた。

 

綺麗な月だ。これなら月光を好む植物も喜ぶ。

いくつかお詫びの印に、摘んでいこうかと花壇まで足を伸ばす。

 

キャスターの言うとおり、顕悟が助けになるとしたら草花たちを懸命に育てることだけだ。

マスター不在の彼女にとっての命綱でもあるのだ。主人探しで時間を潰すよりも集中しろと叱られて、らしくもなく顕悟は落ち込んだ。

だが、ただでは起きないのがこの男。反省会のはずが、夜に咲く花の種を植え始めていた。

 

少しでもキャスターの役に立とうとする彼なりの行動だった。

種を保管してある納屋に回りこみ、

 

「あれ、珍しい。閉め忘れたのかな」

 

()()()()()だった戸口を施錠した。

本来エネルギーの気配に敏感であるはずの彼にしては、それは失態。

急きたてるように草木がさざめき――

 

 

「――よう。坊主がキャスターのマスターか?」

 

 

非日常と日常の狭間である時間は、唐突に終わりを迎える。

青い影が、すぐそこまで忍び寄っていた。

 

 

 




『福寿草』[毒草]
回想、思い出、悲しき思い出、幸福、幸せを招く、永久の幸福


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

■Matricaria recutita

|

1 

 

 

 

――青い狼。

月を背にした鋭い眼光の男を、顕悟はそう評した。

 

無駄なく鍛え上げられた体躯を極限まで活かせる外套。彫刻のような肉体美は引き立て役に過ぎないとばかりに一本の真っ赤な槍が猛々しく天を穿つ。使い手、武器共に内包されたエネルギーは異常。

視覚を通じて情報の行き届いた脳が、最大の警報を鳴らす。流石の土筆ん坊でも、アレが己の心臓を狙っていると理解できた。

 

「こんなもやし野郎がマスターねぇ…現代の魔術師は外見だけじゃ判断できねぇな」

 

棒立ちとなっている獲物を、狩人は圧倒的余裕を(たた)え見下している。

本気でないとはいえ、男の殺気に気圧されず正面を見据える少年の姿勢は若き戦士といえた。

 

「(ほう……こりゃ、やっぱり外見だけじゃわかんねぇもんだな)」

 

言うなれば、転がったボールを追いかける犬のような些細な興味が生まれた。

しかし、比喩はあくまでも犬の場合である。

英霊と崇められる屈指の戦士とただの草食系男子では、一瞬で勝負はつく。

 

「ほら、さっさとサーヴァント呼びな。気概は認めてやるが、出し惜しみしてると死ぬぜ?」

 

挑発したものの、男は疑念を抱いていた。この少年は、本当にマスターなのか、と。

魔力がなくともマスター登録が可能であることは聖杯から得た情報で認識している。足を踏み入れて体感した霊脈の大地を住処としている。ひょろりとした小僧に魔力がないのであれば、誰の手によるものか答えは絞られる。

 

「(しかし、たとえ一時の主従関係であろうともマスターの危機に駆けつけないもんかねぇ…)」

 

罠を警戒するが、それらしい動きは感じられない。

 

「(あー、めんどくせぇ)」

 

殺してしまえばわかるというものだと狼は舌なめずりをした。もとより頭を使うよりも身体を動かしている方が男の気質に合っている。

対して、絶対的劣勢である野草は、天然に一つまみ分の真剣みを加えた程度の冷静さを保つのに必死であった。

 

「(……狙いはキャスター、だ)」

 

男から発されるエネルギーは、正直だった。活性化して暴れ出しそうな闘争心を必死に抑えているように視え、顕悟は己の仮説が正しいことを確信に変える。

次に問題となるのは己の発言である。ここでマスターではないと否定しても獣が見逃すことはなく、肯定すればキャスターに不義理となる。それならば――

 

「……なんのことかわからない。ここには、キミと僕しかいないけど?」

 

万年草は演じる。

目視する限り、男の武器は槍のみ。キャスターの説明にあった槍使い(ランサー)であると推定し、キャスターの()()()()は不敵に笑う。

 

「ハッ、その余裕――後悔させてやるぜッ」

 

軽口を叩いていた男の雰囲気が変容し、死への現実味を帯び――飢えた獰猛な狼が放たれた。

 

――それは、弾丸。鞭のようにしなる腕によって繰り出された、赤い閃光。

待てを解かれた狼は嬉々として塀から上空に身を躍らせ、獲物の心臓を一突きせんと赤い()が空気を裂く。

 

しかし、ランサーの敏捷さは把握しているとばかりに、顕悟の足が地面を蹴り上げた。

後ずさるでもなく、横に飛び退くでもなく、前へ進み出る。

彼はあくまでも目的への最短距離を選んだだけに過ぎなかったのだが、それは奇しくも決着が着くはずだった一撃からの唯一の逃げ道であった。

 

「チッ」

「ぐ―ッ!」

 

だからといって無傷といかない結果が、2人の力の差を歴然と証明していた。

ためらいのない的確な初動に射程距離を調節させられた槍は、右上に逸れ肩口を抉る。それでも痛みに慣れていない一般人にとってみれば、絶叫を上げずにはいられないほどの衝撃。

焼かれるような肩の痛みに立ち止まりたい痛覚と、死から逃れたい防衛本能がぶつかり合い、足がもつれる。

 

しかし、踏まれても斬られても根さえ残っていれば、何度でも立ち上がる。それが雑草である。

 

崩れかかった上体を右足一本で踏ん張り、体勢を持ち直す精神力は敵ながらランサーの口端を吊り上げた。

過去の英雄の前では幼子が立ち上がるようなものではあるが、不屈の態度は見ていて清清しくもある。

 

「だからといって、容赦はしねぇけどなっ!」

 

我武者羅に走る顕悟の延長線上――池を挟んだ向側には、建物の入り口らしき扉が見えた。中に立て篭もるつもりなのだろうが、ランサーにとって数メートル離れていようが射程圏内である。

 

「――ッ」

 

前進力を刈り取るべく、風が唸り声をあげた。

 

残像しかない足払いは、もはや斬撃。鎌のように弧を描き、顕悟の両足を絡めとる。

下半身がもぎ取られるような方向転換に腰がグキッと抗議するが、宙に浮いた顕悟にとって一瞬の出来事。

そのまま表面に張っていた氷を突き破り、池からしぶきが上がった。

 

水浸しになった地面をカミツレの花びらが無残にも流されていく。

ランサーはブーツが汚れることも厭わず、相手の呼吸が続かなくなる瞬間を牙をむき出しにして待っていた。

 

「――チッ」

 

数々の死地をくぐり抜けた。守った命は数多く、そしてそれ以上に奪った命は数知れず。そんなランサーだからこそ、先の足払いの軽すぎる手ごたえに気を引き締める。

手加減をしたとはいえ、ただの人間が背後からのサーヴァントの攻撃にタイミングを合わせるなぞ、奇矯(ききょう)の極み。

 

揺れていた水面に落ち着きが戻っていく。

一分、二分と経過する中、遊びから本気に集中力を高めた英霊は波紋1つ見逃さないとばかりに槍先を固定した。

監視されているとは知らず、にょっきり顔を出した暁にはその人物の頭は割けることだろう。

 

ただ幸運にも、今宵は、そのような犠牲者は1人も出ることはない――。

 

 

 

2

 

 

 

ランサーが池を睨みつけている頃、三芳邸で異変が起きていた。

 

三芳鋼三郎が仕掛け以外で最もお金をかけたという浴室は、顕悟の手によって――キャスターが来てからは毎日――掃除されている。檜でつくられた浴槽は2人入っても足を伸ばせる広さであり、入浴剤がなくとも木の香りで満たされるリラクゼーション空間である。

 

それがどうであろう。浴室内は水の腐ったような生臭さで溢れ、ピカピカに輝いていたタイルはぬめっとした透明なコーティングをされて鈍い光を反射するだけ。ところどころカビと見紛うような緑色の藻が張り付いている惨状に、河童が湯ぶねに浮かんでいた。キャスターは軽い目眩を起こした。

 

「このまま沈めてやろうかしら……」

 

三芳邸に住むことになって、日本の和の文化ともいえる檜風呂を唯一の楽しみとしてきた彼女の声には憎悪が込もっていた。

ともかく、鼻が曲がりそうな悪臭の根源をどうにかするべきである。

礼服であるローブを脱ぎ、キャスターはお湯と水が混じりあったぬるま湯に浮かんでいる水草男に手をかける。

餌がもらえると勘違いをして吸い付いてくる淡水魚を追い払い、意識のない顕悟を脱衣所に敷いて置いたタオルの上に寝かせた。

張り付いた服を破いて現れた、キャスターの想像よりも鍛えられている身体への感想は鼻を鳴らすだけで済まされた。

 

「……まったく、バカな坊やだこと」

 

向ける視線は熱く、顔は悲痛に歪み、抉れた肩に触れる手つきは聖母のように優しい。

矛盾だらけのキャスターの口から流暢な呪文が紡がれると、見る見るうちに顕悟の傷は元通りになった。

顕悟に意識があったならば、『魔法の手』に目を丸くしたことであろう。されどキャスターが行った神秘は魔法ではなく魔術――完璧ではない。失った血液は戻すために増血剤でも飲んでもらうことにする。

 

そして冷え切った心臓部へ陶器のような白い手が移動し、勢いよく叩き付けられた。

 

「げほっ、げほっ……キャス、ター…?」

「夜遊びは控えるべきだったわね、坊や」

 

はてさて、なぜ庭でランサーと戦っていた彼が三芳邸で介抱されているのか。

答えは明察。ここは三芳お手製の忍者屋敷――庭の池と浴室が水路で繋がっているのである。

あるいはと思っていたキャスターは予想的中を喜ぶよりも寧ろあきれ返った。

通路を塞いでいる栓のレバーが錆びていたことなど知る由もない彼女は、偉業に近い無呼吸時間を記録した彼など眼中にない。

 

「……傷口は塞いだわ。あとは逃げるなりなんなりして頂戴」

 

癒えたばかりの肩をペタペタ触っている顕悟から離れ、キャスターは血のついたタオルをゴミ袋に詰める。

一部始終、ランサーとのやり取りを覗き見しながらも我関せずだったキャスターがこの場に辿り着いたのは、単にエルフの耳が聴力に長けていたからに過ぎない。

掃除係の生死など知ったこっちゃないと切り捨てた彼女だが、物音の発生場所である憩いの場所に水死体があっては今後の入浴に差し支える。それは乙女の嗜みとして捨て置けない。

 

「(そう、坊やを助けたのではなく、これは優雅なバスタイムのための労働よ)」

 

キャスターは心の内で反芻(はんすう)する。

 

「(大人しく、坊やさえ逃げていれば余計な手間もなくて楽だったのに)」

 

未だにガサゴソ腕を動かしている同居人を鏡越しに一瞥し、手に付着した血生臭さと共に鬱憤も洗い流す。

治癒で魔力を消費させてしまった分、勝ち目は当初よりも低くなった。後の祭りであるとわかっていても文句を並べずにはいられない。

戦略をシュミレートしながらタオルで水気を拭い、振り返ったキャスターは既視感に捉われた。

 

「――キャスター」

 

痛みに顔を歪ませるでもなく、陽だまりですくすく成長する植物のような柔らかさを感じさせる少年が、カミツレを差し出していた。濡れた髪や衣服、困ったようにも見える下がり眉は出会った日の再現のようだ。

 

「(……私も随分、気を許したものね)」

 

同じようでいてあの日とは違うと彼の破けた肩袖がキャスターを責める。湯張りで水温が中和されたとはいえ、寒中水泳をした彼の顔色は青白く、唇も紫色のまま。

なにより瑞々しかった茎は水に浸かっていたせいでしな垂れ、白かった花弁はまばらに赤く染まっていた。

 

「あ、ごめん。血がついちゃってるや」

「……」

 

無言のままそれを灰に変え、用は済んだでしょと視線を厳しくするキャスターの意図など素知らぬ顔をして土筆ん坊はのたまう。

 

「それで、あいつを倒すために僕は何をしたらいいかな?」

 

――絶句。

人あらざる存在に信頼を向ける少年に抱いた彼女の感情は『憐れみ』だった。

 

「――そうね、あなたは親切心を無碍にする常習者だったわね」

 

愚かな発言は想定内であった。共同生活をする中で、彼の観察を欠かしたことは無い。無論、情などで観察眼を曇らせるほど彼女は子供ではなく、まして知略の魔女は『善』ではない。

 

「キャスター。僕はこの屋敷を残して逃げるつもりはないし、約束は守る」

「約束……?」

 

キャスターは頭1つ分、離れた位置にある能天気な顔を訝しむ。

 

「キミのマスターを見つけるって話だよ」

「……根拠のない約束は覚えていないわ」

「なら、ここで約束する。キャスターがマスターを見つけるまで僕は逃げないし、キミが生き残るために手伝う。それが妨げになるなら、彼よりもキミの手で殺してほしい」

 

命を助けたばかりの人間に殺せとは、酷なことを言う。

 

「それに、彼はまず僕を殺しに来ると思う」

「――ちょっと待って、どういうこと?」

 

停止していたキャスターの思考が動き出す。

確かに、一般人に等しい顕悟に目の前で逃げられてはサーヴァントの面子も丸つぶれである。

私欲を優先するとは思えないが、まだ見ぬキャスターよりも顕悟をランサーが強く意識していることは否定できない。

 

「僕をキャスターのマスターだと勘違いしてた」

 

ランサーとの状況は覗き見ていたキャスターであるが、まさかそんな会話をしていたとは寝耳に水である。

 

「大丈夫。否定も肯定もしてないから、嘘はついていないよ。ちょっと挑発はしたけど」

「……それが、認める態度だって気づいてるかしら?」

 

魔術世界の住人は裏を読んで三流。相手の思考を掴んだ上で策を仕掛けて二流、結果を出して一流とされる捻くれものの世界だ。のほほんと実直だけが取柄の土筆ん坊が手の内を明かしたところで、曲がって伝わるのは必然。

今頃、相手のマスターは勿論、観戦しているだろう監督者にも知れ渡っていることであろう。

 

「はぁ……とことん事態をややこしくしてくれるわね」

 

己の立ち位置を危うくしているとは全く気づいていない顕悟に、何度ため息を吐けばよいのやら。

頭の重さに反して胸に巣くっていた靄が晴れたとは露知らず、キャスターはぼけっとした頬を引っ張った。

 

「ふぁにふゆんだひょ」

「うるさいわね。身長が離れているんだから話しづらいでしょう」

「……一言言ってくれれば屈むのに」

 

すごすごと膝を折った顕悟は、拗ねたように横を向く。若干涙目だった。

だが、それくらいがなんだとキャスターは跳ねつける。

魔力切れのタイムオーバーを避けられずにいた何千通りの難題を、魔力のないたった一人にひっくり返されたのだ。

一般人としての認識が強い余り、彼を囮にする選択肢を無意識に除外していたキャスター自身の失策は棚に上げた。

 

「手伝うからには失敗したらどうなるか、わかっているわね?ふふふ」

「も、勿論。バクラヴァで手を打つよ」

「その発言、忘れないことね」

 

キャスターをご機嫌にさせた『バクラヴァ』とは生地を何層も重ねてナッツを包み、シロップをしみ込ませたパイのようなデザートだ。ギリシャ出身だと聞いて振舞ったお菓子に、ものの見事に彼女は虜となった。

俄然やる気を見せる表面とは裏腹に、彼女はあくまで作戦の成功率は見込みレベルであることも念頭に置いていた。

敢えて話す必要もないと判断し、相槌をうつ彼には伏せておくことにして。

 

 

 

 

「――つまり、キャスターはここ1ヵ月で三芳じいさんの仕掛けを乗っ取ったのか」

「人聞きが悪いわね、再利用しただけよ」

 

ものは言い様である。

来たばかりの頃に比べてキャスターの悲鳴が減ったわけだ、と万年草の納得するポイントがずれているのは通常通りであった。

 

「調べていくうちに見つけたのだけど、地下に随分と古い仕掛けがあるわ。規模も家全体に及ぶ一大装置よ」

 

稼動した形跡が一切ないため、一度限りのものであるとキャスターは睨んでいる。

 

「(……はて、なにやら似たような話を聞いたような)」

 

血が足りずにぼんやりする頭を働かせようとも閃きはない。

話の腰を折る必要もないと自己完結した土筆ん坊は、黙ってキャスターの説明に耳を傾けていた。

 

「解析を完全に終えていない不安要素は残るけれど、捕縛と撃破に関係するだけわかっていれば充分。凶暴な野良犬であっても、檻に閉じ込めてしまえば吼えるしかできないでしょう」

「身動きできなくなったところをトドメさす、と。うん、性格が出てるね」

「余計なお世話よ。……大半はあなたのせいだし」

 

竜骨兵を扱うほどの余力もなければ、宝具解放などもっての外。

 

「(まさかマスターも宝具もなしに、聖杯戦争に挑むことになるなんて。皮肉なこと……)」

 

だが、後悔は一片たりともない。

結果次第では最弱の称号は返上してやろうと、キャスターは密かに闘志を燃やす。

 

「ある程度時間を稼いだら私の部屋に向かいなさい。脱出経路を残しておくからそこから外へ出て。0時5分きっかり、一秒でも遅れたら閉じ込められるわよ」

「了解した」

「仕掛けの配置は坊やの方が詳しいから任せるけれど、できるだけ発動は控えて頂戴ね。魔力の節約になるから」

「……善処するよ」

 

脱衣所での作戦会議はこうしてお開きとなった。

 

 

 

3

 

 

 

仕掛けを発動させるため、地下に向かったキャスターと別れてから数分。

狭い廊下を滑走する獣を待ち構える顕悟は、薄手のトレーナーにジャージという動きやすい格好になっていた。

頭髪や身体はシャワーで流しただけのため、彼が動くとなんとも魚くさい。

着ていた服はこんもりとした三角巾コーナーを見る鬼姑のようなキャスターの視線によって洗濯機からゴミ袋へと進路変更となっている。

 

「……準備運動でもしておこう」

 

庭で全力疾走をしておいて今更な発言であるが、彼の無頓着ぶりは今に始まったことではない。

屈伸運動に入った体操に待ったをかけたのは、ガラスの割れた音だった。

 

身をチリチリと焼かれる感覚に大きく息を吐き出した顕悟の前に、青い狼が再び現れた。

 

「よぉ、坊主。会いたかったぜ」

 

ランサーは相当殺気立っていた。みすみす逃した獲物――それも人畜無害のとろそうな少年に逃げおおせられたとあっては心中察する。

 

「夜も遅いし、僕としてはこの辺で諦めて帰ってくれると嬉しいんだけどな」

「生憎、手ぶらで帰れるほどウチのご主人は優しくねぇんだ。個人的にも、首を持ち帰りてぇ気分だしな」

「……そっか。それは残念」

 

ごく自然に踵を擦らせた足元からカチリ、という音がランサーにも聞こえたようだ。

 

「テメェ――」

 

生憎、反論は電動音にかき消された。

 

「うわー」

 

現れた仕掛けはランニングマシーンと化した廊下であった。しかしそのベルト回転は足を乗せたら最後、もぎ取られる想像が過ぎる殺人マシーンに流石の顕悟も萎えた。それはもう茹でられたほうれん草の如くしんなりと。

 

三芳お手製の作品に魔術を組み込んだ罠は早々に突破できるものではないとはいえ、顕悟の命を守る防波堤としての強度は未知数を通り越し、命を奪うダークフォースとなっている。巻き込まれてはたまったものではない。

とはいえ、超人的な身体能力を持つサーヴァントにとっては子供だましに映るのも事実。

 

「坊主、錬金術師か……」

「……さぁ、どうなんだろう」

 

想像を凌駕した変容にただただ目を丸くしていた土筆ん坊だが、その態度はランサーをけしかける致命的な隙であった。

腰を落とし、青い狼が跳躍したその瞬間、

 

「っ!?」

 

天井から飛び出てきたハンマーに出発地点へと打ち返された。それが合図であったかのように、魔力刃が一斉放射され、たまらずランサーの足が踊る。

壁や床に穴が開いたりするが、顕悟は1つ頷くだけで流した。意外に図太い少年なのである。

 

「(よし、今のうちに――)」

 

本日二度目の逃走を図るべく、全速力で駆け出した。

キャスターと迷子になった教訓を活かし、倉から仕掛け紐解きの忍法というただのネタ明かし本を読んだ顕悟に恐れはない。魔改造を施されているとはいえ、ルートの識別方法は変わっていないようで安心である。

 

「っ!」

 

そうしてキャスターの部屋を目指していた顕悟は、唐突に倒れこんだ。

扉までは10メートルと離れていない。

悲鳴をあげている心臓を宥め、身体を起こそうとした顕悟は、()()()の足に気づいた。

 

「え――」

 

太腿に赤い牙が噛み付いていた。焼けるような熱さが滴り、吸水性の高いジャージを染め上げている。

――彼に油断はなかった。

一度成功したからと言って、二度目があるとは思ってはいない。ただキャスターの後押しが、恐怖に打ち勝つ勇気を与えていただけのことである。

 

天井を仰ぐ顕悟の太腿に喰らいついているソレを、ランサーは満足そうに引き抜く。

 

「へっ、誇れよ坊主。健闘した方だぜ」

 

頭を打ち付けたショックで、視界は靄がかかっている。血液不足も拍車をかけて、彼の意識を白けさせていく。

おぼろげながらも立ち上がろうとした顕悟は、ランサーが分身して見えていた。

 

「う、あ……行か、ないと」

 

現実の出来事なのか、夢うつつなのか。

呂律も回らず、判断のつかない頭にぼんやりと浮かんだのは、薄紫色した女性だった。

 

 

 

* * *

 

 

 

キャスターを案内したあの日から、顕悟が彼女の部屋に入ることはなかった。

その戒律を土筆ん坊が破ったのは、年に一度のイベントのためだった。

 

「……失礼しまーす」

 

律儀にもノックをして入室した顕悟は、女性らしい清楚さと魔術師らしい禍々しさが両立されている内装に一瞬言葉を失った。

楚々とした洋服箪笥(たんす)と天井まで届く本棚が、キャスターの世間知らずと重厚ある迫力を絶妙に受け継いでいる。持ち主に似るとはよく言ったものだ。

神妙の空間の中で唯一、三角巾にエプロン、はたきと掃除機にバケツを手にした掃除夫が滑稽であった。

 

「うわ…難しそうな本ばっかり」

 

外国語で書かれたタイトルが几帳面に並んでいる書籍は、古書図書館から切り取ってきたような風格があった。隣の棚に並んだどぎつい色素の液体瓶は見なかったことにしたようである。

食う寝る以外には草花の世話しかしていないと思われがちな土筆ん坊だが、実は読書家でもある。ジャンルを植物に限るならば、子供用の図鑑から海外論文まで手当たり次第に読み漁る研究心は並ではない。

ただ、そんな外国語表記の図鑑を見ることのある顕悟でも、キャスターの愛読本は読み取れる文字が少なかった。

 

「ドイツ語?いや、ギリシャ語、かな。……ん?」

 

――分厚い本の間にそれはあった。

肩身狭く、潜んでいた日本語表記を手に取る。

 

「……ああ。キャスターが持ってたんだ」

 

大掃除で倉に保管されているはずの三芳の種明かしシリーズである。

顕悟が拝借した個々の仕掛けの詳細ではなく、全体の構造を記した設計図だった。

 

地下の大部分は配管や配線で埋め尽くされ、ぽっかりと空いた一箇所に『三』と仕掛けを表すスタンプが押されている。

思い返せば、大晦日を境に掃除に乗り気になったキャスターに首を傾げたものだった。倉に入る回数の割りに埃の量が変わらなかった理由もこれならば説明がつく。

 

「やっぱり、ちゃっかりじゃないと魔術師は無理なのかな」

 

ぺろりとお手製弁当を平らげた赤い優等生しかり。

偏った魔術師像を作り上げている顕悟は背後に気づかない。そして、本を元の位置に戻した彼は――身体を硬直させた。

 

いつだって、彼女は見通したように現れる。

 

 

 

* * *

 

 

 

屋敷を振るわせる低い鐘の音に、意識が過去から引き戻される。

 

(ああ……時間だ……)

 

音の主――居間にある大時計は毎晩0時を告げる仕事と、仕掛けを巻き戻す大役を与えられている。

前の音の震動が収まってから次の鐘が鳴る仕組みとなっており、12回鳴り終わるまでに5分はかかる。その精確さは時間指定に使ったキャスターのお墨付きが出るほど、質実かつ忠実。

 

今もいつまでも寝転んだままの悠長なぺんぺん草を急きたてるように、警鐘を鳴らしている。

 

(起き、なくちゃ……)

 

そう思っても、身体からの反応はない。

せめて目蓋だけでもと抉じ開けた視界に、濃紫のローブが翻った。

 

 

 

4

 

 

 

時は少しばかり遡る。

 

目当ての機械を細工したキャスターは美麗な顔に消耗を滲ませていた。

 

「……さて、どうしようかしら」

 

幸い、マメなペンペン草が窓際のちょっとしたスペースにお仲間を飾っていたお陰で、ランサーを仕留めるくらいは使えると魔女は笑う。

それでも広範囲の仕掛けを動かすために魔力をごっそり持っていかれた彼女の顔は、血の気が失われている。

 

地下と一階を繋ぐ出入り口は、一つしかない。

袋小路の地下が戦場となれば敏捷なランサーに軍配が上がる。魔力のない魔術師など一般人と大した違いがない。

歴然とした差をひっくり返すための強化した仕掛けは、唸りを上げて稼動を始めている。

放って置かれていたたブランクを取り戻そうとはりきっているのはいいが、ときどき油の切れたノイズが微かに彼女を不安にさせる。

それを裏付けるかのように――脳髄まで響く鈍い鐘が鳴き始めた。

 

『――起動を―認し――。実行準備―移――じゃ』

「?」

 

ノイズ交じりの聞いた覚えのあるしゃがれた声が流れた。途切れ途切れになったせいか、余計に哀愁を誘う。

古時計にはまだまだ負けんと繰り返す老いぼれアナウンスに、耳をそばだてる。

 

「んん?」

 

得た情報を反復し、今一度キャスターは手元の地下図面を眺めた。およそ2ヶ月三芳邸で暮らしてきた彼女は、仕掛けの規模及び仕掛け人の性格、そして魔力の上乗せ効果を換算し、一つの予測を弾き出した。

 

『起動を確認したぞい。実行準備移行中じゃよ。三芳号発射まであと4分じゃ』

 

三芳鋼三郎は幼い顕悟によく話していたという。将来の夢は――宇宙飛行なんだ、と。

 

「冗談、じゃないわっ!」

 

いきり立ち、キャスターは脇目も振らず、走り出す。

彼女の聴覚は、3つ目の鐘を数え上げたばかり。

 

自室への最短ルートを抜ける。

残りの魔力を右腕にかき集め、壁に向けて構えた。

 

「――ッ」

 

魔力の出し惜しみなど、無関係となっていた。

 

 

 

 

 

普段のしおらしさなど微塵もなく、壁をぶち抜いて現れた彼女はちらりと蹲っている顕悟を一瞥した。

 

「――キャス、ター?」

 

かろうじて意識は保っている顕悟を背後で感じつつ、キャスターの頬に一筋の汗が伝う。

時間の猶予もなく、かといって策もなく突っ込んでしまった己の過ちを猛烈に恥じていた。

鐘は5つ目の余韻が響いている。

瓦礫と共に吹き飛ばされた青影との距離は数メートル。

 

「やっとお出ましか」

「ふふ、待った時間で男は度量が計られるのよ」

「なら、俺は合格ってとこかい」

 

じり、と肌を撫でる殺気。後ろには怪我をした障害物、横は幅50センチずつほどしか余裕はない。得物の長いランサーにうってつけの条件だ。

 

「それなのだけど、今日は忙しいのよ。出直して頂戴」

「おいおい、ふざけてんのか?」

「あら、初対面のサーヴァントとはやり合わないのが、そちらの方針ではなくて?――それにこの家、打ち上げ準備を始めているわ。逃げないと私もあなたも無事では済まないわよ」

「……舐められたもんだな。てめぇら2人を片付けてからだって間に合うぜ」

「心中するなら構わないわ。矛を収めた方がお互いのためじゃないかしら?」

 

残り時間、3分を知らせるゴング。

そうして〈もう一つの仕掛け〉が動き出す。

 

「んだぁ、気色悪ぃ!!?」

 

ネジを巻かれるかのように、作動した仕掛けがただ一つを除いて逆再生(リセット)される。崩れた瓦礫は再び壁となるべく、独りでに動き出す。――その上にいたランサーを巻き込んで。

ランサーの手から槍が落ちる。

豪腕には既に土壁がくらいついている。キャスターの魔術も練りこまれている。

あれでは腕も振り回すことはできない。

 

「ふぅ、時間稼ぎに付き合ってくれて助かったわ。――今夜は引き分けね」

「チッ――」

 

舌打ちを了承と取ったキャスターは、脱出に苦戦しているランサーをしり目に背後の荷物を肩にかける。

 

「(止血したところで力尽きたのね、このお荷物)」

 

上着を太ももに巻きつけ、上半身はランニングシャツ一枚。ダイレクトに伝わる彼の体温はキャスターよりも低い。

置いていくという意思はキャスターにはなかった。

 

顕悟を引きずり、自分に宛がわれている部屋に入る。図体だけは大きい顕悟。ただの女性ほどの力しかないキャスターにとってそれだけで一仕事だ。

無造作に雑草を放り、畳を引き剥がしにかかる。

 

9回目の鐘が鳴った――。タイムリミットは鐘の鳴り終える瞬間だ。

体力を消耗し、珠のような汗が浮かんでいる。ようやく入り口を開け、捨て置いた顕悟に手を伸ばし――通り抜けた。

 

「……こっちのタイムオーバー、とはね」

 

慰めの鐘が響く。

透けた腕では抱えることは不可能。できることといえば、まだ無事な足で蹴飛ばすくらい。

肉体強化する魔力もなく、身体だけは頑丈な顕悟を動かせるだろうか。

頼みの綱である草花も、既に消費してしまっている。

 

消える予兆の出始めた足で立っていられるはずもなく、キャスターはその場に座り込んだ。

放り落としたときの衝撃で目覚めたのか、傍らが身じろぐ。

 

「キャス、ター……」

「なにかしら――っ」

 

巻き込んだ結果の遺言くらいは聞いてやろうと振り向いた鼻先に――キャスター以上の脂汗を浮かべた少年の力の抜けた微笑があった。

 

「(なに、やり遂げた顔してるのよ……)」

 

生温く、鉄の匂いが鼻をつく。ソレが何であるか知覚するよりも早く、喉が溜飲した。

途端に身体が活性化する。

 

「(まず、い…)」

 

理性も吹き飛びそうになるほどの甘美さを、唇を噛みしめて耐える。ぷつ、と口の中に残るわずかに異なる鉄分が混ざり合っていく。

――詠唱を省略し、回路に魔力を通す。既に11回目の鐘は鳴り終えている。

 

12回目――ガキンと撃鉄が落ちる音がした。

 

 

 

5

 

 

 

ぺっと三芳邸の玄関――に見せかけた壁の上から吐き出された2人が、受身を取り損なってしばらく。

痛みが治まってきたキャスターは隣で転がる少年に声をかける。

 

「……無事?」

「…………かろうじて」

 

強がりであることは明白であった。唇は青紫色に染まり、体温が下がった身体に夜風が吹き付ける。

星空を眺めている彼女の隣で、ごそごそと衣擦れがした。

 

「庭がぐしゃぐしゃだ…」

 

槍兵の八つ当たりと風圧により半壊した庭園にしんみりした顕悟を尻目に、もっと他に気にする事柄があるだろうとキャスターは思う。

家がロケットのように打ち上げられて放心しない方がおかしい。つまり、顕悟が異常なのだ。

 

「っしゅん」

 

そして、お空のお星様となった三芳邸。

ランサーは無事に脱出できたのだろうか。命のやり取りをしたとはいえ敵の身も心配してしまうほどにキャスターは放心していた。

一夜にして住居不在となった不幸を、嘆かずにはいられない。同時に生き残った喜びを噛み締めていた。

 

だが、強気な彼女であっても限界はある。

 

「ごめん、なさい。少し、眠るわ」

「…うん」

 

腕に凭れてきた衝撃を、顕悟は苦笑と共に抱きとめた。

普段から警戒心が強く、一歩引いた態度を貫いてきたキャスター。彼女が無防備な姿を曝け出すまでに魔力の消費と疲労が重なっているのだろうと、限りなく正解に近い予測をしていた。

 

「よいしょ、っと」

 

ローブで眠り姫の身体を包み、背負う。鉄分が不足している。視界が揺れた。

穴の塞がれた足はふらつくものの、彼女の体温に励まされる。今度は彼が踏ん張る番だ。

 

派手な爆破に野次馬も引き寄せられる。長居は無用だった。

サイレンが近づいてくる中、顕悟は7年過ごした敷地を後にした。

 

 

 




一万字を超えてしまった…。

加密列(カミツレ)
逆境に耐える、逆境の中の活力、親交、仲直り


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

■Linum usitatissimum

|

 

1

 

夜明けを知らせる朝日が、室内を照らす。

 

六畳間のフローリング。備え付けの家具の一つである寝台に突っ伏して眠る男がいた。

長身を折りたたんで見るからに窮屈な格好で、寝息一つ零さず倒れている姿はまるで屍。

 

たとえ彼が死体であろうとも、太陽は等しく光を差し伸べる。

じりじりと顔面に日光が当てられてしばらく。むずむずと眉が動き、ゾンビの上半身が起きあがる。

開いているのか閉じているのかわからないくらい薄く瞼に隙間ができ、首ごとまわして辺りを見渡している姿は実に不気味であった。

亀のごとき速度であった旋回が、ある一点で停止する。

 

男が凭れていたベッドに横たわっている、白雪のような肌白さを持つ女性。

堰を切ったように流れ出す昨夜から今まで(きおく)に一瞬、時間が跳んだ。

 

「(そっか、ここは…)」

 

散漫な頭に記憶が蘇った頃、顕悟の視界は麗しい眠り姫から見慣れない天井に変わっていた。

貧血による眩暈に加えて筋肉に区分される全ての運動器官が悲鳴を上げている現状、立ち上がることは諦める。

打ち付けた後頭部と気だるい肉体の不快を紛らわせるため、彼の思考は回想に沈められていった――。

 

 

 

 

 

午前2時過ぎ――。

 

ランサーの襲撃。三芳邸の打ち上げ。キャスターを背負っての深夜徘徊。

辿りついた先は、忍者屋敷に劣らぬ武家屋敷だった。

 

三芳邸とは違って見た目どおりの玄関を恨めしく叩き続けて数分。

隣家から苦情が殺到する勢いに家主はついに降伏した。廊下に動くエネルギー(士郎)を感じた顕悟は片手で支える彼女を抱え直した。

 

「今晩は、衛宮。アポなしなんだけど、いいかな」

「……神城?」

 

突然の訪問にも関わらず、彼は二つ返事で招き入れた。

 

「どうしたんだ、こんな夜更けに――」

 

竹刀を持ち出しての歓迎だったが、顕悟とキャスターの風貌を見て士郎は血相を変える。血まみれの服を着た男がぐったりとした女性を担いでいるのだ。質問の一つや二つは覚悟した。

だが、キャスターの状態を背中で感じている顕悟が欲するのは、言葉よりも行動だ。

それが伝わったのか、口を閉ざした士郎は、

 

「こっちだ」

 

迷いない足取りで、廊下を先導する。

衛宮家は話に聞く以上に、用途不明な広さだった。母屋に別棟。道場に土蔵と、一人暮らしには贅沢すぎる。

敷地を囲う塀にはキャスターと似た独特な光が張り巡らされているが、士郎の()()と比べて些か強いエネルギーで組まれたようだ。だが、キャスターならともかく、効果までは顕悟には視えない。

玄関の敷居を跨いだときに――キャスターに反応して――家中に響いた警告(おと)がソレであったのだが、土筆ん坊は〈変わったチャイム〉で終わらせている。

音の意味を知る士郎は、疑わしきより信ずるを無意識に選び取っているお人よしである。脅威よりも困っている人を優先し黙殺していた。

せっかくの魔術もこの天然コンビにかかれば、形無しだった。

 

ともあれ、侵入者対策がされていれば尾行されていない限りランサーに居場所が見破られる可能性も低い。

 

 

 

建物の造りが和式から洋風に変わる。一番手前の部屋にキャスターを運びいれた。

冬空を散歩しただけあってベッドにおろした英霊の体温に、背筋がひんやりとする思いがした。

 

(眠ってた分、体温が落ちてる)

 

顕悟の背中とくっついていた心臓の温かさが救いであった。

包んでいたローブから彼女の身体を引っ張り出し、そのまま独特の服に手をかけたところで背後から息をのむ声が聞こえ、中断する。

 

「ちょ、ちょっ待っ」

 

真っ赤になってなにやら意味なき言語を呟くブラウニーに、土筆ん坊は首を傾げる。

 

「なんで脱がすんだ!?」

「だってこのままだとベッドを汚しちゃうし、寝苦しいでしょ」

「そ、そうだけどさ……」

 

顕悟にしてみれば、この工程は二度目だ。

慣れた手つきに男としての甲斐性を見せつけられた気がした士郎であったが、白く艶やかな女性の素肌を直視できずに背を向けた。

毛布にくるまったキャスターは、小さい呼吸を繰り返している。

()()限り、前回よりも消耗はしていない。

 

「(やっぱり、血液であっても魔力を回復するんだ)」

 

家を失う代償に彼女を手伝う新たな手段を発見したと思えばそれも善き(かな)と流せる器は、大成なのか欠陥なのか。

床に散らばったキャスターの服を丁寧にたたみ、ハンガーにかけて干したところで、

 

「……入ってもいいか?」

 

廊下から家主の控えめな声がした。

 

「どうぞ。自分の家に遠慮する必要ないよ?」

 

恐る恐る扉を開けた士郎の顔はまだ赤い。

年上の女性の裸を意識してしまう思春期男子のどぎまぎは、さほど反応を示さない鈍感さを前に徐々に落ち着いていく。

ほっとしたような残念なような気持ちがない交ぜになりながら、士郎は手にしていた衣服を顕悟に渡した。

 

「俺の服はサイズが合うかわからなかったから、爺さんの着物を持ってきた。風呂も沸かしたけど、どうする?」

「お言葉に甘えさせてもらうことにする。風邪で倒れるわけにはいかないし」

 

一度だけベッドで眠るキャスターを振り返り、電気を消して士郎と共に部屋を出る。

 

底冷えする真冬の夜。

いくら根気強い土筆ん坊といえど、鼻先が赤くなっている。前を歩いていた士郎が立ち止まる。

 

「ついたぞ、タオルとかは中に用意しておいたから」

「ありがとう。明日がきつくなるだろうし、衛宮は寝てくれ」

「……悪い。そうさせてもらう」

 

ドタバタとしてしまったが、ようやく感覚が通常に戻ってきた士郎の欠伸を顕悟は見逃してはいなかった。

自室へ戻っていく彼の背中を見送り、

 

「衛宮」

「ん?残り湯はそのままにしてくれて構わないぞ?」

 

主夫丸出しの会話に苦笑する。

 

(違和感ない僕も大概だけど……)

 

律儀に足を止めて待つ士郎に親近感を覚えた。だからというわけではないが、するりと言葉が自然に出ていた。

 

「――なんでもない。お休み」

 

ああ、と返事をした彼は、最後まで顕悟たちのしてきたことについて質問することはなかった。

 

 

 

 

(思い返してみても、衛宮はお人よしすぎるなぁ)

 

昨晩の押しかけ騒動を改めて回想した感想が、コレである。

一成あたりが聞いたら脳天チョップするような考えを倒れたままの脳内で繰り広げている土筆は寝ても起きてもブレない。

 

ふと、床にくっついているくせっ毛が、わずかに震動した。誰かが部屋に向かって歩いているようだ。

 

この日、衛宮家に出入りしている人物は3人いた。

当然のことながらこの家で暮らしている衛宮士郎と、穂群原の英語教師でもある藤村大河だ。

士郎の姉貴分にして隣の藤村組の一人娘は、学校でもよく「士郎の御飯ー…」と零している姿がもはや名物。貪欲な食欲が有り余りすぎる故、居間以外に陣取る姿は想像つかない。

3人目は顕悟も顔見知りの後輩――間桐桜である。あることが切欠で、お詫びとして通っていると学園で噂が立っている。

 

とはいえ、衛宮家の事情にあかるくない顕悟は、士郎以外の人間が朝早くから他人の家に上がりこんでいるとは夢にも思わない。――お互い様である。

 

ノックに応じるとドアが開き、冷えた空気が室内に滑り込む。

ひょっこり顔を出したのは士郎だった。寝不足に鳴れているのか、睡眠時間が短い割りにさっぱりとした顔つきだ。

 

「朝飯、つくったんだが――って、神城?」

「下だよ……起こしてもらえると嬉しいな」

 

そうして、ようやく天井一択の視界から解放されるのであった。

 

 

 

 

 

居間に入ってようやく、ここは他人の家なんだと顕悟の中でようやく現実味を帯びてきた。

6人掛けのちゃぶ台。テレビは一人で観るに大きめのファミリーサイズ。十畳はある畳の上では、それらも小さく思える。

台所から漂う魚の香ばしさが、和の雰囲気を仕上げていた。

 

「衛宮はもう済ませたのか?」

「ああ。だから気にせずに食べてくれ」

 

1人分の配膳をして、メインのおかずである鮭を取りに台所へ士郎は戻り、寝癖がついたままの顕悟は揃えられている箸の前に着座する。借り物とはいえ着物姿がなかなか様になっている。

 

「悪いな、ギリギリになっちまって。本当はもっと早く呼びに行く予定だったんだが……」

 

暴れる虎と片付けを申し出る健気な後輩をなんとか先に送り出し、もう1人分の朝餉を拵えたときには思った以上に時間がかかっていた。

 

「いや、気を遣ってくれて感謝してる。特にほうれん草のおひたし、染み入ります」

 

マイペースに箸を動かす土筆ん坊であるが、意外にも進みは早い。

並べられたばかりの鮭も、キレイに骨と皮だけになっている。その箸捌きは士郎も目を瞠る。

 

「ごちそうさま。うー、流石に一気に食べ過ぎた……」

「お粗末様でした。ところで神城、学校はどうするんだ?」

「んー?」

 

食器を流し台に移す士郎を尻目に、猫のように軽く目を瞑って上半身を伸ばしていた顕悟はずり落ちてきた着物の袖を肩にまくり上げた。傷を受けた肩口はキャスターのおかげで、痛みも痕も残っていない。急激な運動はともかく、日常生活する分には問題はなさそうだと、判断する。

 

「食事したらマシにはなったし、のんびり歩くよ」

「一人で平気か?肩くらい貸すぞ。お互い遅刻はまずいだろ」

「あー…そういえば一限は藤村先生の英語だったっけ」

 

食卓にある食後の緑茶を啜る。

 

「なら急ごう。チャイムの五分前がデッドラインだぞ」

「そっちは担任だもんなぁ、苦労するね」

 

準備を終えしだい玄関に集合とし、士郎は自室に、顕悟はキャスターが眠る洋室に向かった。

部屋を出たときと変わらない景色は土筆ん坊の胸に小さな穴を空けるような錯覚をさせる。

最悪の事態を免れているとはいえ、彼女の生命の()()は不安定だ。このまま彼女についていた方がよいのではないだろうか。

 

「……思いあがりか。僕がいても役に立たないじゃないか」

 

逃げ回るだけで結局彼女のお荷物になった昨夜の顕悟(じぶん)を朝、省みたばかり。

後ろ髪を引かせているのは己の弱気な甘えであるとして、顕悟は夜のうちに街路の植樹帯から引っこ抜いておいた亜麻を活けた花瓶にメモを挟む。

 

「……行って来ます」

 

退出する際、三芳邸での生活と同じ挨拶を投げかける。

いつものように、声のない返事に(まつげ)を伏せ、顕悟はドアを静かに閉めた。

 

 

因みに、この後の玄関でひと悶着あったりするのだが割愛する。

 

 

 

 

2

 

 

A組担任の葛木宗一郎は、必要以上のことに時間をかけない。

連絡事項を通達したならば、生徒から質問がない限り、感情のない顔で職員室に戻っていく。

その分自由時間が増える生徒にしてみれば歓迎ものであった。

特に、凛のような一枚隔てて生活しているような()()()や、自由気ままな風の赴くままにフラフラしている土筆ん坊にとっては、相性がいい教師だった。

 

そうして、担任が早々に引き上げたAクラスに、土筆ん坊はかつてないほどに撃沈して現れた。

ホームルーム前に虎が教壇にいるというイレギュラーに直面した士郎ならいざ知らず、顕悟が気落ちする原因はやはり草花関係でしかない。

弓道場と生徒玄関の丁度間にある花壇に植えていた花が全滅していたのだ。

(しお)れているだけなら顕悟の手にかかればすぐに息を吹き返すのだが、グズグズに腐ってしまっては手の出しようがなかった。

 

(昨日まではなんともなかったのに……)

 

彼の()をもってしても原因不明な事態に茫然自失し、植物が歩いたらこういう状態であろうという千鳥足で二階まで辿りついたときには、授業開始10分前であった。

 

(――ん?)

 

教室に入った瞬間、チリと首の後ろが痛んだ。

開扉と同時に一斉に集まった視線は来訪者が顕悟だとわかるとすぐに散漫している。ホームルームをサボって草弄りをしている常習者なのだ、珍しくもない。

 

(……気のせい、かな)

 

興味を失った生徒たちは既に雑談に戻っている中、顕悟はうなじを擦りながら友人と談笑中のツインテールを見遣る。

凛だけは一切、視線を向けることはなかった。それが逆に顕悟の注意を惹きつけることになった彼女は、常時よりもエネルギー――魔力(オド)にムラが感じられた。

 

(体調、良くないのか。遠坂の徹夜癖も相変わらずだなぁ)

 

横目で彼女の様子を眺めつつ、窓際の席につく。

凛が聞いたらにっこりとして誰もが見惚れる完璧な笑顔に加え、額に青筋を浮かべることであろう。そしてその直後、昔から徹夜明けの様子を覚られていた事実に気づいて悶絶するだろうが、その瞬間はいつかあるかもしれない未来に預けることにする。

なにより、顕悟には人の心配をしている暇はなかった。

 

「――ほほう、土筆にもとうとう春の到来か?」

「どれどれ、お相手は――げぇ、美綴かよ。趣味悪ぃな」

 

感心するような声をほぼ無表情で呟く、腰まで伸ばしたロングヘアーにメガネが印象的の少女、氷室(ひむろ)(かね)

隣の席には――名前を挙げられた綾子にしてみればとばっちりな暴言を吐く――日焼けした小麦肌につり目が特徴の蒔寺(まきでら)(かえで)がいる。

 

「違うぞ、蒔の字。そう見せかけて、本命は遠坂嬢で候」

「あー、そういや、この前も2人っきりで手作り弁当食べあってたしなー」

 

ニマニマとした鐘が確信犯であるのは明白だが、楓はわざとなのか天然なのか判断のつきにくい。微妙なニュアンスの違いこそあれ、間違っていないところを突いてくるえげつなさは、《穂群の黒豹》の名に恥じない。

間違っていないがどう修正したものか考えあぐねた結果、土筆ん坊はタイミングを逃した。

 

「……遠坂に限らず、マキとだってたまに一緒に食べてるじゃないか」

「いや、あれは土筆のおかずを蒔の字が盗み食いをしているだけと見える」

「うまいもんは皆で分け合う、これ常識」

 

そもそも、どうしてその辺にでもいるノッポに冷静沈着でスタイルも整ったクールでソリッドな美人《氷室女史》や、運動神経抜群かつ黙っていればまぁそこそこ――と思いたい――な暴走女《マキジ》と注目度の高い女子らが、親しげにしているかというと、

 

「あの、おはようございます。神城くん」

「おはよう、三枝」

 

自由な空気が彼女らの親友――戸惑いがちに声をかける三枝(さえぐさ)由紀香(ゆきか)に似ているからという一方的な理由で絡まれたからだったりする。

新学期になり、コンビに彼女を含めた陸上部三人娘に、囲われる形の席順となってからはその頻度は上がる一方だった。

 

「にしても、その格好はギャグか?1人だけサマータイムなんて寒すぎるぜ、ブフーッ」

 

意地の悪い笑みを浮かべ、楓はオーバーリアクションで後ろ指をさし、腹を抱えた。

薄手のYシャツにウールのベストというなんとも涼しげな格好をした本人は、乾いた笑いを浮かべる。

 

「いろいろあって、友達の夏服を借してもらったんだ」

 

裾が足りていないズボンが失笑を誘う。

玄関に着物姿で出てきた顕悟に取るものとりあえずと替えの夏服を引っ張り出したまでは良かったが、そこはブラウニーと土筆ん坊。気質は似ている2人でも、身長ばかりは埋められない。

つんつるてんの足元を見て、涙する士郎が復活するまでに5分は消費したと顕悟はしきりに頷いた。

 

「あの、蒔ちゃんも神城くんも、そろそろ授業の準備をした方がいいよ?」

「やべっ」

 

静かにも説得力のある由紀香の助言に楓は慌てて前へ向き直り、机を漁り始める。それに習って顕悟も手を入れ――身を固まらせた。

今更であるが、教材がなかった。

 

「そもそも鞄も持たずに登校とはこれいかに」

「わかりきったことを指摘してやるなよー、メガネのくせに」

 

既に準備は終えている鐘と、発掘し終えた楓の突っ込みが冴え渡る。

 

「……三枝、教科書みせてー」

「あ、うん。どうぞ」

 

席をくっつけ合って、間に英語の教科書を置く。

 

「ついでにノートと書くものを貸してほしいんだけど……」

「まぁ、聞きまして奥さん。この男、全部女に頼るつもりですわよ」

「うむ、これが所謂ヒモ男ってやつですかな」

「……マキと氷室も寸劇よりカンパお願い」

 

力の入れすぎで折れたと思わせるいびつな形をした白い塊――――本体ではなく分離した小さい方――と、親指ほどまで摩耗した鉛筆を手に入れた。どちらだ誰からとは言うまい。

 

「おっはよー!!今日も元気にEnglish Lessonしちゃうぞーー!!」

 

そうして、チャイムと同時に突撃して来た英語教師の授業が始まる。

 

 

 

 

3

 

 

順調に時間は進み、昼休み。

 

「まったく、学校に何しにきたのかね、あの男は」

 

まるで糸が切れた人形のように、午前中の授業を寝て過ごしたクラスメートに美綴(みつづり)綾子(あやこ)は呆れの籠った視線を送る。

大抵は彼を囲って弁当を開ける三人娘もお目当ての顕悟の弁当(ブツ)がないと知り、放置をされていた。由紀香のみは時折、心配そうにちらちら意識を向けている。

 

「あの虎の咆哮でも起きないなんて、あの草ボンボンも意外と大物だねぇ。先生、最後の方泣いてたし……。まぁ、小テストがお破産になったのは有難い――…………遠坂?」

 

いつもなら同意見とばかりに、容赦ない口撃が続く好敵手(ライバル)の沈黙に、綾子も思わず閉口する。

朝は全く興味を示さなかった優等生はまるで親の仇のごとく、眠りこけている旋毛を睨みつけていた。

凛の()()を理解した上で付き合いのある綾子としては、存在感の薄い、けれどインパクトのある万年朴念仁に感情を向ける友人を量りかねていた。

 

(しかも、この顔……マジだね。ったく、一体何をしたのさ、神城は)

 

仲良く昼食する仲であるかと思えば、これだ。

その件をネタにしてからかうと薮蛇になるとした綾子は、自分の視線にも気づかないほど外界を優先している凛を肩肘をついて眺める。

 

(ま、傍観する分には楽しいからいいけどね)

 

凛の友人をしているからには彼女もしたたかであった。

もしものときは、顕悟と仲のいい生徒会長にでも聞けばわかるかと考え――

 

「――失礼する。神城はいるか?」

 

本人が登場した。

 

「ん?なんだ美綴、人の顔をジロジロと。所詮、女狐と同じ類なれば礼節もわからぬようになるか」

「早々に失礼だね、生徒会長さま。ずいぶん気が立っているようじゃないか」

 

眼鏡の奥の苛立ちを隠せず、眉間に皺を寄せている一成。

彼といい、凛といい、虫の居所を悪くさせる土筆の胞子でも蔓延しているのだろうか、とバカバカしい考えを綾子は嘲る。

 

「ほんと珍しいですね、柳洞くんがA組に来るなんて」

(あ、復活した)

 

平常運転の彼女がそこにいた。その証拠に一成の顔が嫌々しげに歪められる。

 

「俺だって物の怪のねぐらになど来たくはない。だが今は、時間が惜しいのだ――――喝ッ!!」

 

流石に坊主の念仏修行をしているだけあって、一成の声はクラス中に響き渡った。

前触れもなく唐突な大声に、ある者は咀嚼途中のもの放射し友人の顔を塗れさせ、ある者は飲み物をぶちまけ制服を濡らし、苦しげな咳や罵声に悲鳴あふれるカオス空間に陥った。

間近でくらった綾子と凛はたまったものではない。

 

「柳洞、あんたね――」

 

耳鳴りを顔をしかめて耐える綾子の抗議をすり抜け、一成は窓際の机の前に立った。

 

「んん?……なんだ、また一成が叱られたのか」

「たわけ!いい加減にこの世に意識を戻さぬか!」

「あたっ!?」

 

そして虎さえもなしえなかった偉業を誇ることもなく、寝ぼけたままの顕悟の襟を掴む。

 

「ほら、しっかり歩け。お主には聞かねばならぬことが山ほどあるのだ」

 

拉致されていくクラスメートを綾子は瞑目で送り出した。

間違いない、一成もまた土筆の胞子に狂わされた被害者なのだ。

 

 

 

 

 

そうして引き摺られた先の廊下で、顕悟は士郎と再会した。

A組に突撃する一成を見かけ、様子を窺っていたらしい。時間も勿体ないのでとそのまま男三人で生徒会室に移動し昼食会となった。

 

一成の精進弁当の横で、士郎から渡された緑色の包みを広げる。

 

「ほんと助かるよ。お金もないし、お昼抜きを覚悟してたんだ」

「まぁ、残り物を詰めるだけだったしな」

 

一成の無一文字に結ばれた口が、ひくひくと動いている理由が士郎の手作り弁当が羨ましいからだと顕悟も士郎も知らない。

まさか幼馴染が女性顔負けの主夫ときゃっきゃうふふとおかず交換をしているとは、顕悟とて想像がつくまい。

彼は彼で楓や由紀香と和食談義と称した交換イベントをこなしているのだが、男同士での絵面に比べればまだ華やかだ。

 

「それで、どういう経緯なのだ。三芳邸が一夜にして消失した理由は?」

 

事情を全く知らない士郎は、一成の切り出しに目を丸くしていた。

姿や格好から分けありだとは思っていたが、まさかそんな――いやでもそれくらいではければ、とうんうん唸りだしたお人よしを余所に、顕悟は肩をすくめて答えた。

 

「隠されてた仕掛けが発動して、家が空に飛んで行ったんだよ。打ち上げられる前に脱出はできたけど、身のみ着のままで放り出されて今に至るってわけ」

「ふむ」

「……………え、それだけか?」

 

第三者の立場である士郎からしてみれば、簡潔過ぎて納得ができる要素はない。

だが、三芳鋼三郎の人となりを理解し、仕掛けの犠牲者である顕悟や一成にしてみればそれ以上に合点が行く言い方もない。

 

「なにを驚いておるのだ、衛宮よ」

「家がロケット発射したんだろ?もっとこう、衝撃的な何かを感じるところじゃないのか?」

「いや、だって三芳じぃだし」

「うむ、三芳殿だしな」

 

聴取終了。

もっとこう突っ込みどころはあると思うのだが、聞き込み役が納得して話は次に移る。

士郎は言葉の代わりに卵焼きを飲み込む。中がふんわりとして味も染み込んでいると料理の自己評価して溜飲を下げることにした。

 

「家が消失した理由はあいわかった。だが、何故すぐ連絡を寄越さなかったのだ。父母は当然ながら、兄ともに気を揉んでいたのだぞ?」

 

近隣の住民たちも普段ならば発生源が《三芳》と知れば、「ああ、またか」と顔を見合わせて誤魔化すような笑みと力の抜けた溜息で済ませる話だった。だが、流石に昨晩のマッハ噴射の騒音と風害はただ事ではないと警察騒ぎにまで発展し、当然、偏屈爺と交友のある柳洞寺にまで連絡が入る。

 

「抜けているお主のことだから、忘れていただけであろうが……気に掛けている者もいることを忘れるでないぞ」

「……うん、ありがと」

 

わかればいい。口にはしなくとも、息を一つ吐き出した一成の顔がそう物語る。幼馴染が不器用なほど真面目であると熟知している顕悟は、それが話が終わった合図であると受け取った。

 

「それにしてもなぜ衛宮の家なのか。ウチに来ればよいものを」

「仕方ないじゃないか、三芳の客人も一緒なんだから。先方に都合は前に納得したでしょ」

 

無論、それは三芳邸の庭で女を見たという霊観の目撃証言に対する言い訳として使用した()()なのだが、一成が引き下がるには丁度いい理由になったようだった。

 

「それに衛宮宅にいつまでもお世話になるわけにもいかないし、お金の見通しができ次第安アパートでも借りるよ」

「……と神城は言うが、いかがか衛宮よ」

「ウチはいてもらって困らないぞ。事情が事情だしな」

「まったく、衛宮も甘くて困る」

 

弁当箱の米を掻き込みながら、まだ足りない小言をくどくど説教する一成に顕悟は微笑んで付き合っていた。

なんだかんだで仲はいいのだ。

小さい頃からずっとそうしてきた友情の形を前にした士郎は、2人の子供時代が容易に浮かび、なんとなく自分まで幼くなったような気がして頬を緩めた。

 

生徒会室の外の廊下には、放課後に柳洞一家へ顔を見せる約束を顕悟に取り付けさせて、満足そうに笑う生徒会長の声が響いていた。

 

 

 

 

4

 

 

柳洞寺の居住スペースの一室。

寺であるだけあって造りのしっかりした和室は、年頃の少年が使っていたとは思えないほど物が少ない。

 

それでも、無一文かつ持ち物ゼロの顕悟にしてみれば、雑貨全てが生活の糧となる。

身長が伸びて七分丈になってしまったズボンであっても貴重なのだ。

幸い、栄養の考えられた弁当と学校を寝て過ごした分、体力は回復している。作業の進みは早かった。

 

「顕ちゃん、どう?鞄に入りきる?」

「平気だよ、必要なものだけにしたから」

 

ひょっこりと顔を出した和風美人から顕悟は視線を微妙にずらして、まとめた荷物を肩にかける。

生徒会の仕事がある一成を置いて、柳洞寺の長い階段を上り終えた顕悟は一成の母からの熱烈抱擁で迎えられた。

涙声で名前を呼ばれ、胸元で小さく震える女性に母を知らない土筆ん坊は反応に困り、ただただ頭を垂れた。いい薬だと笑っている幼馴染の幻影が見えたが、素直にされるがままに甘んじた先刻。

 

「こっちはもういいの?なら運んでしまいましょう――っ」

 

荷物を抱えようと屈んだ柳洞夫人の身体がふらりと揺れ、額を抑えた。倒れはしないものの、軽い立ちくらみを起こしたようだ。

 

「大丈夫?重いから無理しないで」

「運動不足かしらね。昔はこれくらい旦那と張り合ってたんだけど……それに比べて、やっぱり男の子ね。力あるわ」

 

廊下に出して置いた旅行鞄を一成の母の手から奪い、そのまま玄関へ並んで歩く。

霊観もその父親も出張でいないときの力仕事は昔から顕悟の担当だった。

在宅していた男性陣は、一成からの連絡を受けて仕事をギリギリまで遅らせて待っていたらしく、顔を見て安心したと笑ってから転がる勢いで階段を降りていった。つくづく、顕悟は己の不手際を呪った。

 

靴を履き、降ろしていた鞄を両肩にかける。

そっと背負いやすいように手を添えていた良妻賢母は、三人目の息子に封筒を差し出した。

 

「はいこれ、お小遣い。色々、年ごろの男の子には入用でしょ?」

「そんな、受け取れないよ」

 

一成でさえ、お小遣い制度はないのだ。いくら特殊な状況にいても、柳洞家に返しきれないほどの恩を受けている顕悟は拒むように茶封筒を見つめ返した。

 

「士郎くんがお世話焼きと言っても顕ちゃんのことだから、食費を出すつもりなんでしょ?いくら貯金があるからって、通帳の再発行まで時間がかかるんだから遠慮せずに持っていきなさいな」

「……あ」

 

両手が塞がっていることを理由に渋っている顕悟を、仕方がないわねと微笑ましく思う彼女はパンパンに膨れた旅行鞄の隙間にねじり込んだ。こういうときは、押し切ってしまった方が彼の優しい性格を傷つけることはない。それは10年以上、顕悟を見てきた養母としての経験だった。

 

「……ありがと」

「三芳さんのお客様にもよろしく伝えてね。今度連れてらっしゃい」

「話しておくよ。それじゃ、また来るね」

 

そうして山岳部顔負けの装備量で、参道を下っていくのであった。

 

 

 

荷物の重みから普段より速度が落ち、街の近くまで来る頃には日が暮れていた。

 

(さて、どうしたものかな)

 

山から街へ進むにつれ、通行人から凝視されることも多くなり、疲労もたまっていた。

このまま人通りの多い商店街を抜けていけば衛宮の家に近く、人目の少ない住宅街を迂回すれば遠回りとなる。

吹き飛んだ三芳邸も後者の順路にある故、家庭用品はなくとも栽培道具は回収できる。

普段であれば悩むことのない土筆ん坊の選択だが――この日ばかりは二の足を踏ませる訳があった。

 

それは柳洞寺に赴くより前――。

放課後に一成に一声かけ、生徒会室から一階に降りようとしたときのことである。

 

「遠坂……?」

 

屋上に出ていたのか、階段の上りから夕陽を背にした彼女が見下ろしていた。

強い瞳だった。

志高く、己の望みを渇望し、努力を惜しまずに生きている少女――否、神秘的あるその情景は、戦場に舞い降りる戦女神――がいた。

 

「――神城くん」

 

金縛りをかけた女神は視線を逸らさず、最初から彼だけを見ていた。

見初められている男はただ、呆け顔を晒している。

 

引き締められた唇からは、どんな祝福が、絶望が、発せられるだろう。

琴線に触れた男は抗う術もなく圧倒的な力を前に倒される運命。所詮、女神を前に人は人でしかない。

それならば、せめて――傷つく()()に、手向ける言葉は人であろうと男は願う。

 

「ああ……体調は、平気みたいだね」

「……なんですか、それ。授業を全て居眠りする自分の心配をした方がいいですよ」

 

ぶっきらぼうになる凛の物言い。それが照れ隠しであると見抜けるほどには、顕悟と凛はクラスメート三年連続という千切れそうで切れない奇妙な関係が続いている。

 

既に幻想は霧散し、階段で立ち話をする穂村原学園の2-Aの遠坂凛と神城顕悟がそこにいた。

興味を失い、呆れた顔の凛が赤い()()をはためかせ、階下に降りていく。

そのお嬢様然とした後姿が、小さい女の子のような儚さを秘めていた。

 

――……あまり夜は歩かないで。

 

いつもより弱弱しく、けれど芯が籠った言葉だった。

こちらの彼女の方が顕悟は力強く感じ、聞こえないはずの忠告に大きく頷きを返したのであった。

 

 

 

そんな凛のおかげか。

 

(種一式と道具を回収は、明日にしよう)

 

時間を忘れるほど没頭するガーデニング魂が僅かに変化をみせた。持ちきれないという重量過多(オーバー)は彼にはない。植物の世話のためなら火事場の馬鹿力は常に発揮できるのが、穂村原の《土筆ん坊》なのである。

 

(あれ、珍しい……どこの子だろ)

 

三芳邸から離れ、商店街を通り抜けていく途中、反対方向から銀髪の少女が1人で優雅に歩いていた。

どこかのお嬢様のように紫の帽子で頭を寒さから守り、高そうなコートを着こなした少女の周辺には現実離れした空気が存在している。

 

目に見えない威圧を目視できる彼は、不思議な心地だった。

 

少女の内なる魔力(エネルギー)は巨大で人の形が見えなくなるほど。ただ、自然体でいる土筆ん坊からしてみれば、息苦しさを感じる圧力に堪らず顕悟の右目から水がこぼれた。

あたふたと両肩の荷物に苦労しながら、拭き取った顕悟は顔を上げ――反射的に()()を見る。見てしまった。

 

「――っ!?」

 

アレは、なんだ。

人の性が、全身で拒絶する。

少女の隣で揺らめく空間――あらわになる巨漢。人間の数倍はある背丈に、野太い腕は顕悟の頭などトマトのように潰すことなど容易い。

つい最近も同じような異に遭遇したが、あれの比ではない。力も意志も()()()()も。

――それは狂っていた。

 

「ふふっ、驚いた。――あなた、視えるのね」

 

雑踏に紛れることのない、鈴を転がしたようなソプラノにどくん、と心臓が掴まれた。

おもちゃを与えられた子供のように無邪気で、艶やかな大人びた微笑みを持つ少女が棒立ちとなった男とすれ違う。

残ったのは汗だくになった身体に反して、凍りつくほどに冷たくなった心だった――。

 

その後、居候中の衛宮邸に到着するまでの道中を、顕悟は覚えていない。

 




またもや…
2万に届きそうな気配を察知し分割。

亜麻(アマ)
あなたの親切に感謝します


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

■Deutzia gracilis

|

 

1

 

 

普段から空っぽの頭の中を更に真っ白に染め上げ、神城顕悟は玄関をくぐった。

 

「あら、遅かったわね」

 

出迎えてくれた女の子に辛うじて巻かれていたゼンマイが切れてしまう。

年齢にして8歳前後だろうか、肩口までの髪を両サイドで一房ずつ編み、日本人離れした高い鼻に聡明な眼光。

――咄嗟に思い浮かんだ銀髪を振り払う。

両脇に鞄をぶら下げたまま、靴を脱ぐこともできず、棒立ちになっているやじろべえに子供が眉を顰めた。

 

「お、神城、おかえり」

 

そこへ、居間から顔を出した衛宮士郎。似合いすぎるエプロン姿である。

 

「丁度よかった、士郎くん。これ運ぶの手伝ってくれない?」

 

士郎と見知らぬ少女の自然な対応に置いてきぼりをくらう男がひとり。

正体不明のもやもやが胸中を過ぎったやじろべえであったが、背伸びをして肩から鞄を下そうとしている小さい背丈に反射的に膝を折る。

 

「うわ、重っ。よく一人で運んできたな」

「ほんとよね、見かけは優男なのに」

 

両肩、両腕のバッグが少女から士郎の手に渡っていき、残ったのは長身で細身の土筆のみ。

重みで痺れる手を少女が恨めしそうに擦っている。

顔つきやしぐさをみれば昨日まで一つ屋根の下で同居していた女性と似ているのだが、いかんせん今の顕悟の感覚は麻痺している。

「誰、この子」と視線で訴えるも士郎は屋敷の離れに荷物と共に消えてしまった。

衛宮の妹かな――とズレにズレまくった納得を見透かしたように、少女は憂いを吐き出した。

 

「まったく……子供(この)姿も疲れるわね」

 

冷めた流し目で、白いワンピースの端を摘んでいる。それが彼女の趣味ではないことは表情で見て取れる。

 

「つかぬ事を聞くけれど……キャスター、だったり?」

「ええ、そうよ」

 

少女は年不相応の笑みを浮かべ、さも当然と肯定した。

 

「……縮んだ?」

「その一言で済ませられる自分が、神経構造特殊だって気づいてるのかしら?」

「いやだって、エネルギー構造は変わらずに量が減っているっていうか、ミニマム化したように見えるから」

「……間違ってはいないけど、言い方が気に障るわね」

 

元々の身長差があった顕悟としては、首の角度を変えるだけなのだ。むしろ、膝を折れば視線が同じ高さにあたる分、対応がわかりやすくて今の方が楽とも言える。

 

「話は夜にするわ。あ、それと、頑張って頂戴ね」

「え、うん」

 

半分以上理解していない頭が上下するのを見て、それじゃ、と一足先にちびキャスターは居間へと戻っていく。曖昧な顕悟の顔に気づかなかったのは、単に炬燵の誘惑に負けたせいではあるのだが、残された者が知る由もない。

荷物を運び終えた士郎に呼ばれるままに返答して、泥だらけのスニーカーが女性の履物とローファーの横に並んだ。

 

 

 

 

2

 

 

夕飯のかぐわしい匂いが、徐々に感覚を戻していく。

 

並べられたカレーライスは五人分。皿の前に全員が揃ったところで、代表して藤村大河はスプーンを手に取った。

 

「いただきまーす!」

 

金属が食器を叩く音が勢いよく響く。流し込んでいるとしか思えない速さを誇る虎の扱いに鳴れたもので、士郎は喉を詰まらせた用の水の準備を怠らない。

そんな甲斐甲斐しい給仕は目の前に、ズイと突きつけられた影に苦笑を浮かべる。

 

「……士郎、おかわり!」

「はいはい」

 

最初は手抜きだと文句を垂れていた大河であるが、蓋を開けてみればものの数分で平らげてみせた。その勢いにあやかる間桐桜も静かに器を持って席を立つ。

開始早々の大食い競争から蚊帳の外に置かれた他はというと――

 

「……」

 

夢うつつの状態で機械的に手を動かしていた。

いくら食べやすく千切られているレタスであろうともスプーンでは取りにくいだろうに。

帰ってきてから様子のおかしい雑草の隣に座っている小さな女の子がため息を吐いている。まるでだらしのない兄の面倒を見切れないといった妹のようだ。

 

おかわりが届くまでの間、手持無沙汰となった虎の興味は夕食を共にしている教え子とその知り合いの子へ自然と向けられていた。

 

「――ケンゴ。フォークに持ちかえるか、カレーにするか、どちらかにしなさい」

 

年下の子供を注意する口調は、随分大人びていて感心する。

幼い外見と成熟した内面のギャップを持った少女に大河は不思議と親近感が芽生えた。

こういう勝気な誰かと、別の世界で暴れているような――

 

「お待たせ。福神漬け山盛りにしておいたぞ」

「わーお!士郎ってば太っ腹もぐもぐもぐもぐ」

 

瞬間的にどこかのロリブルマが垣間見えたが、届いたおかわりによって打ち消された。まさしく、好奇心よりも食欲が勝るが虎である。

 

記録は大河が5杯、桜が3杯、士郎が2杯と記しておこう。

 

 

 

 

食後の番茶を飲み終え、定番のお笑い番組も堪能し終えた虎の顔は満ち足りていた。

これで太らない体質なのだから相当燃費が悪い。

 

「さてと、そろそろ帰る時間ね」

 

チャンネル権を独占し、親父くさく寝そべっていた教師は身軽にしゅたっと立ち上がった。

大食い次点である少女もそれに続き、見送りに士郎が席を立つ。

 

「さよーなら」

 

軽い会釈で済ませるキャスターと、軽く手を振る顕悟。2人の間には、1つのリモートコントローラー。自由になったテレビ選局を小競り合いへと発展した居間へ、虎が舞い戻ってくるのに時間はかからなかった。

スパンと、廊下と居間を繋ぐ障子が開け放たれ、

 

「どうして神城くんたちがいるのーー!!」

「ふ、藤ねぇ!!ちょ、待――」

 

残念ながら靴を履いた後だったようだ。廊下には無数の足跡が残され、士郎は手と膝をつきひしがれ、桜に励まされている。

 

 

そして再び、居間にて顔をつき合わせる一同。

それまでのだらけきった顔ではなく、一応は教師のそれだ。

 

かくかくしかじか。

昼間と同じく繰り返す家なき子の説明を、瞑目し腕組をしながら重々しく聞き取る大河はきちんと教職者たる威厳が出ていた。

破天荒ぶりが先に立って相殺されるが、藤村大河は生徒想いの教師である。性格的にはアレだがという心の声は、命が惜しければ声にしてはならない。

 

「神城くんはわかったけど、その子は?ま、ままままさか、誘拐――!?」

「はーい、藤ねぇ、自重しようなー」

「ハッ、この香りは岩骨亭の至高の一品――」

 

出されたお茶請けに、鬼の形相は途端に弛緩した。ロリ疑惑がかけられていた顕悟は絶妙な操縦法をみせた士郎の手腕にほぅと息を漏らす。

安心ついでに、大河が手放しで褒める一枚に手を伸ばした。バリッという音と醤油の風味を嗅ぐわせる横で、正座していたキャスターが一礼する。

 

「三芳様の家にお世話になっておりました、キャスターと申します」

 

よく見れば、米神がヒクついているのだが、気づかなければならない保護者は煎餅に夢中だった。

 

「これは礼儀正しくどうも。――じゃなくって、吹き飛んだ三芳さんちはともかく、ここよりも柳洞寺の方が安心でしょ?士郎も神城くんも日中は学校があるんだから」

 

尤もな指摘に、一同はぽかんとしてしまった。居候を了承した士郎もそこまで考えに至らず、口をだらしなく開けている現状。

注目を集まっている虎は、なにを勘違いしたのか照れていた。

 

「それはそうなんですが、わたしクリスチャンなのでお寺はちょっと」

「そう、それなら仕方がないわね」

 

納得しちゃうんだっ!?という士郎と桜のツッコミは顔だけに止まった。口が塞がっており、話せる状態ではないのだ。

そう、たとえ少なくなっていく残数に不安を感じた大河が、早く話を切り上げて自分の分を確保するがためだとしてもキャスターにとってその方が都合がいいのだ。

 

「ふっふっふ、残りはこの私頂いた、手出し無用なりッ!」

「先輩、棚に残ってませんか?」

「ああ、これで全部なんだ」

「……固焼き、うまい」

 

だから、キャスターの分が一枚も残っていなくても、誰も、怒り、は、し、な、い。

 

「えっと、キャスターちゃん……その、食べる?」

「あら、よろしいのですか?」

 

大人気なく器を抱きかかえて占領していた暴君から、一枚を譲り渡されるほどに少女の笑顔は美しかった。

 

 

 

そうした茶番も蚊帳が降ろされ――

 

「桜後輩」

 

靴の踵をトントンと調節していた桜は振り返る。ほわっとした雰囲気ではなく、病気の草花を世話しているときの真剣みと気遣いを孕んだ表情だった。

ふわ、と桜の額を隠している前髪が浮かされた。

 

「……やっぱり。ちょっと熱あるね」

「神城せん、ぱい?」

 

ごく自然に、額に添えた手が冷たくて気持ちがいい。桜と違って節々が無骨な手に遮られて半分になった彼女の視界の中で、土筆ん坊は駄々をこねる子供に手を焼いてますというように眉をハの字に下げていた。

 

桜の異変に顕悟が気づいたのは食事のときだ。

体内エネルギーが普段よりも活性化しているのを呆けていようと顕悟はきちんと判別していた。

微細な変化だが、幸い、魔力の高ぶりで身体の調子を崩す例は何度も見てきている。

ただ、同級の彼女と違って、桜が体内バランスを崩した場面を見たことがなく、声をかけるタイミングを逃していただけである。

体調が悪いのに、あの食欲って――などという疑問は乙女の事情のために伏せておく。

 

「どうした、桜。体調が悪いのか?」

「へ、平気です、ただの風邪ですから」

 

顔色を覗き込むようにして近づいた士郎から、桜は一歩退く。その拍子に顕悟の手も離れ、生温くなった温度だけが額に残る。

 

「微熱があるんだから平気じゃないよ」

「士郎、送ってあげなさい。神城くんはお留守番してキャスターちゃんの面倒を見てあげること」

「そうだな。鍵は持っていくから玄関は閉めておいてくれ」

「了解」

 

玄関脇にかけられていたコートを引っ掴み、士郎も土間に降りる。

一連の流れるような展開に口を挟めなかった桜は、熱に浮かされた頭の愚鈍ぶりを他人事のように感じていた。押しに弱い彼女は意中の相手が玄関を開けようとしているときに、ようやく精一杯の謙虚さで声を張り上げた。

 

「せ、先輩?わ、私はひとりで大丈夫ですから――きゃっ」

 

突然、視界が黒く染め上げたソレを桜は押し上げる。

柔らかい手触りで、頭から耳まですっぽりと収めてしまう毛糸で編まれた帽子。丁度モミアゲの辺りに垂れ下がったボンボンは桜の髪の色と同じだった。

柳洞寺の部屋から得た戦利品はノッポの男が被るには不釣合いなキャラクターが側頭部にステッカーされているが、桜ならば可愛らしいで済む。

 

「頑張り屋なのはキミの美点だけど、弱っているときは甘えてもいいんじゃないかな」

「そうだぞ、桜。風邪は引き始めが肝心なんだぞ」

 

観念したニットの帽子頭が小さく頷く。

 

「それじゃ、衛宮。桜後輩のことよろしく」

「おう、任せろ」

 

ぽんぽんと毛糸に包まれた頭をあやし、土筆ん坊は送り出した。

 

 

 

 

3

 

 

玄関の戸締りをして風呂の準備を終えた顕悟は、眉を吊り上げたキャスターの部屋に連れ込まれていた。

キャスターが使っているのは別棟の洋室にあたる。搬送した部屋がそのまま、彼女の部屋として宛がわれていた。

使い慣れている和室を所望した顕悟は、士郎の隣の部屋を借りることになった。

 

「これからについて話ておくわ」

 

ランサーのマスターは顕悟をマスターと勘違いしたまま。狙われることになる。

魔力消費を抑えるため、幼児化したキャスター。

 

「桜は魔術師ね、それも優秀な。――だけど」

 

魔力に影が見える不思議。

 

「……キャスター?」

「なんでもないわ。それに比べて、士郎くんは半人前ね」

「そういえば、その士郎くんって?キャスターにしては砕けた呼び方だね。衛宮はキャスターの姿に驚く素振りもないし」

 

子供のように唇を尖らせて純粋な疑問を尋ねた顕悟は、珍しく拘っていた自身に気づくことなく首を傾けた。

ああ、それ。と興味なさげに流し目を向けた少女は、朝露の一滴ほどの変化を見落とす。

 

「魅了魔術で記憶操作したのよ。初めからこの姿だったと思わせたの」

 

弱った自分でも簡単に進みすぎて拍子抜けしてしまったキャスター。彼の魔術師としての将来が心配になる。

因みに、部屋割りに関して離れに小さい子を1人で放置していいのか、とフェミニストぶりを発揮した士郎を黙らせたのも同じ手段らしい。決して説得が面倒になったわけではないとキャスターは力説する。

 

ただ、目が覚めてから観察すればするほど士郎が顕悟と同じ属性だとわかってしまった。割り切った方が、精神的に楽であることは経験から嫌というほど学んでいた。

それよりも、キャスターには気になることがある。

 

「彼、令呪の兆しがあったわ。本人は痣程度に思っているでしょうけど、明日辺りには模様が浮き彫りになるでしょうね」

 

衛宮士郎はマスターに選ばれている。

召喚したサーヴァントがキャスターの用心棒となれば助かるが、こればっかりは相性や気性が大きく左右する。引いてみなければわからないとはいうものの、早くもキャスターはげんなりした。

マスター不在のせいか、Eランク表示となった己の幸運に頼らなくてはならない現状は、頭痛の種でしかない。

そしてもう一つの大きな誤算。

 

「それと彼、聖杯戦争について何も知らないみたいよ」

 

記憶を弄るときについでに探りをいれたけれど知識はゼロだった、と悪びれもせずに立腹する魔女。

別の収穫はあったが、それを顕悟に伝える必要はないだろう。慌てずとも士郎が召喚した日にわかることなのだから――。

 

「早いうちに話した方がいいわね。彼のサーヴァントにバッサリなんて笑えないわ」

「わかった。今夜は遅くなるだろうから、明日話す」

 

友人が死ぬかも知れないと忠告しているのにも関わらず、順延するなんてやはりどこか異常だ。

魔術に関わっている時点で正常な精神構造とは到底思えないが、日常に近いと()()()()()()()土筆は案外、魔術(こちら)の世界の方が肌に合っているのかもしれない。そしておそらく赤髪の少年も――。

難しい顔をしたキャスターを余所に、士郎の話題とは一転して心配を豊かに表情とした顕悟は話を進める。

 

「桜後輩はどうだった?マスター、かな」

「可能性としては充分にあり得るけれど、見た限りでは確認できなかったわ。あなたこそ、そういうの視えないの?」

「よくわからない。人によって魔力量の変調はあるだろうし。バランスは崩していたみたいだけど……」

「それでもあれほどの魔力があるなら、警戒して損はないわ」

 

状況が変わった今、もう1人の遠坂の情報も集めておいた方がよさそうだ。

 

「(全く、少年少女ばかりが候補なんて随分作為的な聖杯だこと)」

 

独り言を口の中で転がしながら、キャスターは隠さすに大口を晒している頬を張った。

 

「……痛い」

 

赤く咲いた小さなもみじを擦りながらの呟きを聞かなかったフリをして、

 

「いいかしら?冬木が舞台になる以上、誰に襲われるかわからないわ。今後、無闇な外出はしないで」

「……わかった」

 

妙に聞き分けのいい土筆ん坊に訝りつつ、キャスターは話を閉じる。

そそっと準備しておいた子供用の服――元は顕悟のお下がりは見る影もなくバッサリと裁縫し直された――を手に、幼女は席を立つ。昨日は眠り続けて堪能できなかったキャスターの期待は大きい。

ルンルンと鼻歌に混じって高速神言を紡ぎそうになるほど、上機嫌だったキャスターの足を阻むのはやはり天然男。

 

「あ、そうだ。明日の午後、買い物に行こうよ」

「……あなた、私が言った言葉、聞いていたのかしら」

 

額に青筋を浮かべる異国の少女は、なんともシュールだった。

大人のキャスターが不動明王だとすれば、子供のキャスターは毘沙門天。怒気に大した差はない。

馬鹿にされていると理解してぶー垂れる長身の男は、あんまり可愛くなかった。

 

「聞いてたよ。だけど、キャスターの子供サイズに合わせた日用品がないと、不便じゃないか」

「それは、そうだけど」

 

スキルとして道具作成を保持するキャスターであっても、歯ブラシなど消耗品まで手を出すわけにもいかない。やれと言われればやるが。

恥らうように悩んでいたキャスターは幼い外見に似合わず、慣れた仕草でため息を零した。

彼女が、できるならこの世界の物に触れたいという願望を持っているといつからか感じていた顕悟はイタズラが成功したように微笑む。

 

結局、キャスターが折れることで進むのが、2人のパターンなのだから。

 




姫卯木(ヒメウツギ)
秘密


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

■Typha latifolia L.

|

 

1

 

 

土筆ん坊こと神城顕悟は毎日決まった時間に目を覚ます。

起き抜けに作動する仕掛けをいなしていた忍者生活より前――柳洞寺に引き取られた翌日から続いている習性だった。

どんな場所でも眠った時間に左右されることなく、時刻になるとまるでスイッチが入ったように起きる目覚ましいらずの男である。

 

衛宮家に居候して二日目の朝。

電球一個で支えられている心もとない廊下に擦れる音を響かせ、顕悟は宛てがわれた部屋を出た。

仕掛けにいつでも対応できるようにと三芳邸では素足であったせいか、足の裏の慣れない摩擦に()を置いてきぼりさせること三度(みたび)。ようやくスリッパというものに慣れてきた。

 

「うーん、移動式廊下とはまた違ったクセがあって奥が深い」

 

室内用の履物で歩行トレーニングを行える仄かな感動を踏みしめ、隣室の和室――家主の存在を感じられない襖を一瞥して居間に向かう。

 

「(衛宮、結局土蔵で寝たんだ……)」

 

顕悟が士郎の抜け出す()に気付いたのは、夜風で冷えた体を風呂で温めた士郎とそれぞれの部屋の前で別れた後――顕悟が寝入った頃合いを見計らったような間を置いてからのことであった。

音も気配も消す足運びに無駄はなく、去年まで在籍していた弓道部での腕前が覗える。

半人前であろうと魔術は秘匿するべし、と細心の注意を払う士郎の努力は大抵の人では気付かない隠遁(いんとん)だった。

ただ誤算とすれば、壁一枚隔てた先に寝起きしているのが″自然人間″であり、気配を悟らせないスキルにおいて妖精(ブラウニー)の上がいたということだ。

そうして遠ざかっていく魔力(オド)を確認しながら魔術師の夜行性に目を瞑り――そこまでが顕悟の記憶である。

因みに彼だけでなく、士郎が帰宅する前に就寝した――子供は眠くなるの早いんだねとの指摘に弁慶の泣き所を蹴り上げてみせた――キャスターも察知しているのだが半人前が知るにはまだ数日ほど足りない。

 

「(ま、凍死してたらキャスターにお願いしよう)」

 

……植物以外にはクールな男である。

電気を点け、暖房のリモコンを探していたところで、反対側――縁側に近い襖が開けられた。

 

「ん、神城か……今日は早いな」

 

赤茶の髪をわずかに跳ねさせた無愛想な男の口から白い息が吐き出される。

寝起き特有の緩慢さを除けば顔色は至って健康。一成からも皆勤賞の常連だと聞かされるほどに強靭な身体とはいえ、流石に零度近い二月に土蔵で眠ればクシャミの一つくらい飛び出しそうなものだが。

 

「衛宮って、妖精の加護でも受けているんじゃないの?」

「はぁ?」

 

暖房を操作した士郎を見て、顕悟は己が掴んでいたソレ――どうにも見覚えがあると思ったキャスターと取り合いをしたテレビ用リモコン――をちゃぶ台の上にそっと置いた。

 

「無茶することで有名な衛宮が元気すぎるから、ふと」

「それを言うなら神城だって同じだろ」

「え、なんで?」

 

似たもの同士「?」を浮かべ、首を捻り合う。

茶の間が一気に不可思議な空間になり下がった。

 

「っと、すまん。俺は朝飯用意するから神城は寛いでいてくれ」

「でも今日明日と桜後輩はお休みでしょ?手伝うよ」

「……助かる。ここのところ、桜と分担してたから正直時間配分が少し不安だったんだ」

 

桜というところだけ、寒さだけではない赤みを孕んだ士郎の頬が僅かに緩む。

穂群原のブラウニーのまさかの反応に同校生であれば食いつく――それこそ赤いアクマが微笑む――絶好の瞬間を、

 

「どういたしまして。それで、献立は?」

 

土筆ん坊は軽く流した。

 

「そうだな、逆にリクエストはあるか?キャスターの好みも知っておきたい」

「洋食に親しみがあるようだけど和食に興味もあるみたいだし、わりとなんでも食べてくれるよ。箸を使う難易度高いものはまずパスだけど……僕としては久しぶりの焼き魚は捨てがたい」

 

冷蔵庫の中身は既に確認済みである。

台所スペースに揃って移動しながら、男二人はあーでもないこーでもないと食材と栄養バランスを組み立てていく。

 

「それならほぐし鮭にしたらどうだ?大きめにほぐせば箸に慣れてなくても掴みやすいぞ」

「おかずを一品増やして彩りにすれば見た目も綺麗にまとまる……うん、いいかも」

 

鍋に火をかける顕悟の横で、戸棚から赤味噌を手に取った士郎は差し出されたおたまに適量を掬いつける。

桜が見ていたならばハンカチを噛み締めそうな阿吽の呼吸は、奇遇にもほぼ同じ時間を家事に費やしてきた男たちの歴史であった。

そうして和気藹々(あいあい)とした朝餉(あさげ)の準備も半ば――。

 

「そういえば、彼女は起こさなくていいのか?」

 

豆腐の味噌汁の味見を終えた主夫一号の前後の脈絡ない問いかけに、主夫二号はテレビの上に掛けられている年季ものの時計を振り返る。針盤は7時を回ったところだ。

 

「もう少ししたら来ると思うよ」

 

三芳邸の暮らしであれば、ちゃぶ台に頬杖をついて朝一番の緑茶を啜りながら朝番組を見ている時刻だが幸い、朝から芸能ネタにかじりつく小学生といったシュールな光景はまだない。

 

「けどさ、今日は俺たちと一緒に出るんだし、そろそろ支度しないと間に合わないぞ」

「あー……」

 

そういえばそんな話だった、と顕悟は渾身の出し巻き卵を摘んでいた菜箸(さいばし)を持ったまま唸る。

 

「あれくらいの歳の子が1人で身支度するの大変だろ?あとは俺がやっとくから神城は行ってあげてくれ」

「でも、キャスターだしねー」

 

実は人体詐称していますなどと事情を話しては本末転倒。彼女の魔術(いのち)も無駄になる。

そもそも策略タイプの彼女は隙を見せることを嫌っている。

色深き瞳は自力で行おうとする意志を宿し、利用する他人(モノ)に頼るなんて真っ平御免。それは彼女の過去がそうさせているのだが、契約(パス)のない顕悟にはまだ()()は視えていないため、漠然とした拒絶を感じるに留まっている。

 

悩んだ末、曖昧にしてしまおうと浮かべた微笑みは――脳裏に甦った血の気が失せて横たわる薄青により未遂に終わった。

 

「ほらみろ、そんな心配そうな顔してたら説得力ないぞ」

「……面目ない」

 

記憶をつくり変えられている士郎は、彼女が丸一日寝込んでいたことを憶えていない。

キャスター(たにん)を思いやる彼の言動はあくまで、幼い子供を無碍(むげ)にしない"正義の味方"のあり方を忠実に具現しているだけ。

――たとえそれが実現した先で矛盾を生じさせる"理想(みらい)"だとしても、このときは顕悟の背中を押すには充分だった。

 

 

そんな親切心の押し売りに送り出され、キャスターの部屋を前にして佇む障害物が出来上がったわけである。

ノックをしようと手を上げては下げる挙動不審人物は土いじりや家事をするときとは打って変わった見た目通りの木偶の坊ぶりを晒している。

――理由は単純。

 

「(寝ている女性の部屋に入るのって失礼なんじゃないかな……?)」

 

キャスターは魔力の関係で子供化しているとはいえ本来、成人女性。

昨日までは微塵も気にしていなかった彼だが、そこは看護の義務感によって完璧に線引きされていた。二度も女の肌を見ておいて今更な反応に論議は絶えないが、尻込みしている現状は覆らない。

既に起床している望みにかけ、顕悟は汗を握りしめる。

 

「キャスター……起きてるー?」

 

――返事はない。

だからと早合点してドアを開け放ち、読書をしていた冷ややかな視線に晒された経験を持つ長身を屈めて、少しばかり開けた扉の隙間に片目を押し付けて覗き見る。

 

「わぁ、模様替えするの早いなぁ」

 

視界に飛び込んできた本棚を呆然と見上げてしまうのも無理はない。昨日まで――正確には8時間と39分前までは存在していなかった家具がどういう原理で運ばれたのか顕悟の頭では理解できないが、天井まで届く重厚な棚が三芳邸にあったキャスターの所有物だということはわかる。

寝る前に魔力代わりと採血された男は自らの血液がこのような使われ方をしているとは気づかずに、失くしたと思っていた玩具がひょんなところから出てきたことを喜ぶ子供の如く胸を明るくしていた。

 

そして、それを成したベッドの小さな膨らみに視線を流し、また別の意味で視線が縫い付けられた。

 

「ん……」

 

あどけない表情を晒して眠る少女は一体、どのような夢を見ているのか。

膝を折り、口元にかかっていた絹のような美しい藍青のひと房を顕悟はそっと摘む。わずかに頬に触れた無骨な手をむずかる柳眉が動いた。

返ってくる生きた反応にくすぐったくなった土筆ん坊の表情が弛緩し、

 

「妹って、こんな感じかも」

 

キャスターが聞いていれば、抗議する気もバカバカしくなるほどに呆れた台詞をのたまう。奇遇にも昨晩の虎と同じ見立てである。

考えなしの大根役者が独り言を呟いたところで起きる様子がない彼女に、丁度いい機会だと顕悟は目を瞑り、意識を集中させる。

目を開けていても目視できるが、視覚を遮断した方が部位までの詳細エネルギーを感じ取るためには都合がいい。

穂群原学園の七不思議――音程のズレた鼻歌交じりに剪定(せんてい)バサミ振り回す盲目のコロボックルの正体がここにあるとは露と知れず。

余談はともかく。

 

(消耗は変わらず……基盤回路はそのままだけど無理した分だけ、魔力の流れに不整脈ができてる……)

 

早いところ魔力のあるマスターと契約を結ばせてあげたい、と顕悟は心の底から願う。

もう一度キャスターからマスターになってほしいと頼まれれば熟考するくらいに、彼はこの純粋でかつ傷ついた気高い心を放っておけなくなっている。

だが、その選択は気軽に申し出たところで《本来》の彼女の願いを叶えるために最たる悪手であると自覚している。

土筆はただ、彼女の魂が輝く瞬間――喜び、幸せを掴むその瞬間を眺めるだけでいいのだ。

 

(有力候補は衛宮だよね。魔術の腕はともかく、キャスターと相性もいいみたいだし……主従は逆転しそうだけど)

 

マスターに選ばれている令呪という確証もある。

次点で凛、そして桜といった魔術師、そして葛木といったところか。

三芳邸があんなことになってしまったため、また一から身を守る神殿をつくらねばならないと零したキャスターが作業に没頭できるためにも、顕悟は率先して動くつもりでいた。

 

(ランサーだけでなく、他のマスターも集まってくるし……)

 

士郎の承諾なしに、流石のキャスターでも衛宮家を改造はできない。否、断られようとも事後報告でなんでもやってしまうだろうが、もし士郎が召喚した場合、サーヴァントの機嫌を損ねる原因にも成りうる。士郎がイニシアチブを取れるならば話は別だが、考えるまでもない。

 

(――よし、決めた。衛宮にマスターになってもらえないか頼んでみよう)

 

思考と調整を終えた顕悟はすっきりとして瞼を上げ、ぱっちりとしたアイスブルーの瞳があった。

 

「――――」

 

ここで一度、二人の格好を整理しておこう。

花を愛でるときのように真剣であった顕悟の顔はキャスターの鼻先に近づいており、更には体内に巡る魔力(オド)の滞りを解していた顕悟の手はいつの間にか、瞼まで覆い隠すほど小さい額から薄い生地の下にある発展途上の膨らみ近くにまで下がっていた。

寝込みを襲われているという状況に絶賛思考停止しているキャスターに、顕悟はにこりと笑いかける。

 

「おはよう、キャスター。ずいぶんよく眠ってたね」

 

なにもこんなときにまで発揮されなくてもいい土筆節に、止まっていたキャスターの感情が吹き荒れたのは言うまでもない。

 

 

 

 

2

 

 

「(……なんでさ)」

 

(いろどり)とバランスの優れた和食は、食に通じた者であれば一言物申さずに箸は進まない。

そう絶賛していた士郎は目の前で広がる殺伐とした空気から視線を逸らし、頼みの虎に合図を送る。

 

「……(ササッ)」

 

新聞紙で防御する大河に行儀の悪さを注意したくとも、気軽に声を発せられない重苦しさが歯がゆい。

珍しく静かに登場したから腹でも下したかと思っていた士郎は、席に着いてようやくその理由に気づいた。

 

「……」

 

発信源は、綺麗な正座をして箸を使う少女と世界中の呪詛を背負っているのではないかと疑うくらいに薄幸な男。

一見、顔には柔和に緩んだ微笑みだが、それがかえって湿っぽい演出を利かせている。

まるで最後の晩餐だ。士郎はやや濃いめに仕上げたはずの味付けを全く感じなかった。

 

『いやだからね、人間は記憶を都合のいいように書き換えてしまう生き物なんですよ』

 

殺伐とした雰囲気の中に唯一の人の声が聞こえ、張り詰めていた士郎の心が体温を取り戻す。

今ほど文明の利器の存在がありがたく感じたことはない。

 

『ですが、ここ最近は市内で不審な目撃証言も多く寄せられています。そのことはどうお考えですか?』

『高層ビルを飛び回る男なんて大方ビルの影でも見間違えたんじゃないの?都市伝説も人が作為的につくった眉唾ものだろう』

 

不謹慎に茶化すコメンテイターのしゃがれた声も、今は天使の美声に聞こえる士郎は末期であった。

 

『はは、手厳しいですね。――では次のニュースです。冬木市都市部でガス漏れが――』

 

だが、現実逃避も束の間。油の乗った中年男性が並ぶスタジオから画面が住宅地の密集する地帯に切り替わる。

 

「…………」

 

再び、無言地獄に陥る。

しかし、確実に変化はあった。

幸薄い少年の虚ろな目がテレビを見つめ、異国の少女も震える箸先から視線は逸らさないものの耳から入る情報に意識を向けている。

そして――

 

「……物騒ね」

 

朝食開始以来、初めて口を割る落ち着いたソプラノ。

思いもよらぬ救世主(ニュース)に士郎も興味がひかれたが、再びスタジオで中年男性が下品な笑い声を上げていた。士郎は天使と一瞬でも思った己の失態からそっと目を逸らした。

 

「キャスターちゃんは難しい言葉を知ってるのねぇ……あ、新聞読む?」

 

いつの間にか紙の防壁が折りたたまれ、箸を置いたキャスターに手渡される。

危険は去ったと敏感に察知した途端に活動を開始する虎は流石と言わざるを得ない。

 

「出かけるときは気をつけるのよ、キャスターちゃんは美少女なんだし。あと夜のバイトしてる士郎は寄り道しないこと!これ、お姉ちゃん命令」

「わかったわかった。気をつけるさ」

「むむっ、気のない返事とみた。私がお爺ちゃんに呼ばれて来られないからって破目を外す気だな?」

「なんでさ。バイトも休みだし、せいぜい買い出しぐらいだって」

 

今まで話ができなかった分、勢いの乗った大河を苦笑してやり過ごし、士郎は食器を回収して台所に退散する。

次に虎の毒牙はマンドラゴラの根から土筆へとようやく戻りつつある草食系に向けられた。

 

「それはそうと神城くん。教材の用意はできた?昨日みたいな授業態度は先生、認めませんからね」

「ノートと筆記用具は一応揃えました。教科書は別クラスの衛宮や一成に貸りるつもりです」

 

制服も零観のお古を調達したため、クラスメイトの笑いものにされた二の舞はない。

どのみち、あと二ヶ月で進級である。大河もあまり煩くは注意するつもりもなく、

 

「それなら授業もきちんと受けられるわね。英語の科目では金輪際、居眠り禁止だからねっ!」

「あ、はい」

 

それって神城限定、だよな……?と、事情を知らぬ生徒にとってはとばっちりな口約束を交わす教師と生徒代表に、絶賛睡眠が不足している士郎の背中を嫌な予感が走った。

教科書を衝立しようとも肘をついて際どい俯きを保っていようとも、ご自慢の野生の勘の前では迷彩にならない。

また、堂々と突っ伏せているものなら、課題や小テストやら他クラスとの兼ね合いなどそっちのけの難易度を盛る虎である。どんなに寝不足で疲れていても英語の時間だけは寝まいと心している生徒は大勢いる。

 

「(今日、居眠りしたものなら血を見ることになるぞ……)」

 

虎の目尻にきらりと光るものがあったことは弟分として胸の内にしまいこみ、士郎は睡魔に抗うことを一層固く誓ったのであった。

 

 

 

 

「神城」

 

登校準備を整え、広い玄関でこれまた掘り出してきた革靴に苦戦していた顕悟は首だけで振り返る。小さな金属が弧を描き、ワックスのついたタオルに落下した。

 

「これ……鍵?」

 

拾い上げた際に鼻をつく匂いはご愁傷様である。

 

「複製したから噛み合わせは悪いが、開錠は確認したぞ。キャスターは神城と一緒だと思って用意してないけど……」

「構わないよ、ありがと」

 

店でコピーしたと思いきや、土蔵に篭っていたのはこれを作るためであったのは士郎の秘密だ。

ふと、変哲もない鉄製の鍵――衛宮邸のフリーパスをカバンにしまう顕悟の横で羨む視線が漏れていた。

 

「いいなー、いいなー。お姉ちゃんにはないのかなー?」

「何言ってんだ、藤ねぇにだって渡してあるだろ。すぐに失くすからって最後の一個は藤村の親父さんに預かってもらってるじゃないか」

 

累計5個が行方不明のおかげで、一人暮らしとなった初期は泥棒に入られる不安で士郎は眠れぬ夜を過ごしたものだ。

鍵を付け替えてからは、藤村組に置いてある一本と士郎の分と顕悟に渡したコピー、そして桜が持っている4本のみ。

 

「ふーんだ。お姉ちゃんを除け者にすると後が怖いんだから!――まぁ、考えてみれば士郎がいない家に用事はないから必要もないんだけどねー」

 

ごねていた弓道部顧問は一転して、朝練の様子を確認するため一足先に飛び出ていく。

続いて門口の外へ出ていた土筆ん坊はみるみる内に小さくなる大河の後ろ姿をほのぼのと眺めていると、士郎が戸締りを終えた。

 

「まったく、藤ねぇは相変わらずだ」

「でもそれが藤村先生でしょ。賑やかなところは周りを助ける明るさだと思うよ」

 

置いてきぼりをくらった弟分はまんざらでもなく、「……まぁな」と鼻先をかいていた。

 

「ところで、照れている衛宮に相談があるんだけど……長くなるからできれば今日の夜とか、時間ないかな?」

「生徒会の手伝いで少し遅くなると思うが、それでもいいか?」

「僕たちも買い物してくるから、その方が都合がいいよ」

 

強くなった下からの視線に顕悟は苦笑し、腰の辺りに位置する薄青の頭に手を乗せた。

途端に眉が跳ねたことは後方に位置する彼に言わぬが花というものだ。

 

「じゃ、僕はキャスターを預けてくるから、先に行ってて」

「そうか。じゃ、また後でな」

 

士郎が角を曲がった直後、抗議の声が上がる前に土筆ん坊は玄関を開錠させ、その腕を通り抜けるようにして少女だけが敷居を跨ぐ。

 

「それで、今夜でいいのね?」

「うん。桜後輩もいないし、藤村先生も用事があるみたいだから。キャスターもそのつもりでよろしく」

「……ええ。念のため、召喚儀式の準備でもしておくわ」

 

冬木に潜む魔力を感じる彼女であっても残っている札名までは範疇に届かない。だが、伏せられているだけで一枚は確実に手元にある。どのように扱うかはキャスターたる頭脳次第だ。

思案する小さな魔女の高さまで、腰をかがめた土筆ん坊は、

 

「でも午後は買い物が先だからね。学校が終わったら一旦戻ってくるから、街を案内するよ」

「…………呆れた。アレ、本気だったの」

「当然」

 

こともなげに魔術師の世界観を吹き飛ばす()()をぶつけられ、キャスターは降伏した。

 

「ってわけで、いってくるね。キャスター」

 

返事は期待していなかった。

ただ、顔を合わせて挨拶ができる喜びで満足するお手軽な土筆ん坊は少女のかすかに強張った姿など見向きもせず、その眼は一往復しただけの通学順路の確認に勤しむ。

 

「――――」

 

そして、マフラーに半分埋もれた耳だけが玄関戸が閉まるよりも速く聞き逃さなかった。

だが、土筆が空を見上げている間に施錠は完了し、気配は遠ざかってしまった。

ましてやわざわざ確認するなど野暮なこと。いくら唐変木とはいえ、手にしたばかりの鍵の使いどころくらい弁えている。

 

「……うん」

 

歩き出した顕悟は、眠そうに垂れた眼をより細くして――形を変えて流れゆく灰色がかった雲を眺める。

雪が降り出しそうな空模様も今の彼の心境をして見れば、なんのその。

 

「今日はいいことありそうだ」

 

 

 

 

 

などと、通常の二割増しの呑気さで校門を抜けた土筆ん坊は、ふと眉を寄せた。

生徒玄関にも近いお馴染みの花壇の前に人だかりができている。

 

「(あれじゃ、お日様遮っちゃうじゃないか)」

 

つくづく植物中心だった。とはいえ時折、人の雑踏から漏れ聞こえてくる言い争う声には聞き覚えがある。

背伸びをして生徒の壁から頭一つ分飛出し、

 

「やっぱり。衛宮と間桐だ」

 

整髪用の香水を漂わせるウェーブがかった紺色と頑固な性格が如実な直毛の赤茶が見えた。

慎二が士郎に難癖をつけているいつもの風景に興味を失った生徒たちが少しずつ時間を気にし始め、人の層が薄くなったところでようやく慎二の後ろに控え、肩身を狭くさせた妹の姿が表れた。

それは彼だけではなく、彼女も同じく。

 

「神城先輩っ!」

 

片やお坊ちゃんで女子にも人気のなんちゃってセレブ、片や何を考えているかわからない無愛想な真面目男。注目を集める二大広告塔であると同時に男子限定で関わり合いたくない面子であるせいか、オロオロする桜を見て見ぬふりで未だ誰も傍に寄ろうとしない。

だが、そこは同じ穴の狢――

 

「話はわからないけど、病み上がりの桜後輩を困らせてまですること?」

 

土筆ん坊は乱入する。

校内でつるむことのない3人にそこかしこから囁きが飛び交うが、それを心地よく浴びる者は慎二しかない。そして彼は注目される度合いによって態度を変え、どこまでも着飾ることができる稀有な性格でもある。

 

「勘違いしてもらっちゃ困るね。桜が世話になってるから兄として挨拶していただけさ」

 

そうなの?と尋ねる視線に桜は頭を上げず、士郎は首肯した。

その様子から嘘は言ってないようだが、釈然としない話だ。

 

「でもまぁ、今日の僕は機嫌がいいから許してあげるよ、神城」

 

にこにこして立ち去る慎二の後を取り巻きの女子たちは団体移動していき、桜も一礼をして思うところがある兄を追いかけていった。

残された土筆ん坊とブラウニーは、お互い粘り気のない納豆を見たような目で見合う。

 

「どうしたの、あれ」

「いや、なんとも……わからん」

 

一方的に絡まれていた士郎にわからないことがわかるはずもない、と顕悟はさっさと考えることを放棄した。

紫の残り香には、まだ気づかない。

 

 

 

 

3

 

 

不気味な慎二以外、特別なこともなく土曜授業が終業した。

隣のクラスは――士郎の予想を察するべし。

ホームルームで葛木から速やかな下校を言い渡され、降って沸いた午後の自由時間に部活組の生徒たちがそこかしこで予定を話し合う声が溢れている。

陸上部トリオも例外でなく、顔を寄せ合って内緒話をしており、隣のクラスに教材を返却しに向かったときは机に弛れていた楓が真っ黒い豆のような頭を由紀香に押し付けていた。

 

「え、ちょ、由紀っち、マジか!」

「マキちゃん、声が大きいよぅ」

 

慌てて口を押さえる楓の失態は、遊び盛りのクラスメートにとって些細なことであったようだ。

顔を向けはするものの、すぐに話に戻っていく彼らは俯いてしまった由紀香の顔色が青ざめていることに気がつかない。――お隣さんを除いて。

 

「三枝、どうかしたの?」

「あ、神城くん……」

 

無駄にある背丈のせいで座高も高い土筆ん坊。

机に腕をついて前かがみ気味になることでようやく、小柄な由紀香と視線があう。

 

「由紀香の家の近くで、事件があったそうだ」

 

顕悟の向いから鐘がヒソヒソと囁いた。雰囲気づくりというよりは敏感になっている親友に配慮した行動である。

 

「……それって、例のガス漏れ?」

「うへぇっ!?土筆っちが旬の話題を知っているなんてついに来るか世紀末ーーっ!!」

 

驚愕された理由は楓自ら説明。

ちなみに、ガス漏れの件とは無関係だよと由紀香に申し訳なさそうに否定された。

 

「まったく。脱線させるな、薪の字」

「んあ?わりぃわりぃ。んでよぅ、由紀っちの家って、近いんだけどさ」

「うんうん」

 

修飾語をすっぱり省略して話す楓に、曖昧に返事をする土筆ん坊。これで『由紀香の家が郊外付近にある』と通じているのだから不思議である。

 

「ほら、あの辺、放置されている洋館があるじゃん?明治初期にイギリスから移設してきた1800年代の――」

「『TATARIタタリ』じぁああ!」

「うぎゃああああっ」

 

このまま歴史の知識豊富な楓の熱弁に突入かと思いきや。未然に食い止めてみせた鐘はホラー映画のレーベルが出してくる辺り、楽しんでいた。

土筆ん坊が草むしりのしがいのある土地を思い浮かべている間に、全身を震わせてうわ言を呟き出した楓に代わって彼女が「それでだな――」と引き継ぐ。

 

「その洋館なのだが、どうやら殺人事件があったらしい。詳しい話は――――由紀香?」

 

友人の肩に手を置き、そのままぐらりと倒れそうになった体を鐘が慌てて支え直した。

耳元で役者さながらの臨場感で叫ばれた楓はもちろん、至近距離から白目を剥いた鐘の顔を見てしまった由紀香は目を開けたまま気絶していた。

 

「こほん。――というわけで、質問は受け付けない」

 

正確には回答者がいない。

とはいえ、土筆の頭を巡るのはやはり斜め上の気がかりである。

 

「……洋館といえば遠坂だけど大丈夫かな」

 

生憎、一人暮らしの彼女は欠席していた。

珍しいことあるものだと中学から知る人間としては首を傾げるが、凛には凛の事情があるのだろう。魔術師の不自由さは士郎しかり桜しかり、近頃見る機会も増えて顕悟の判断基準は以前よりも寛大になった。

 

「土筆の言うガス漏れもあれば、10年前は大火災。……不穏なものだ」

「……そうだね」

 

滅多に見られない市長の娘の顔は憂いで曇っている。

顕悟は窓から空を見上げた。冬木の空はしばらく晴れそうになかった。




(ガマ)
従順、素直、慌て者、慈愛、無分別、救護


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

■Corydalis incisa

|

 

1

 

 

食後のティータイムとは、西洋では文化である。

朝、昼、夕方、夕食後と回数に限りはない。カップから茶葉、茶菓子などこだわりは尽きない。

古くから王族や貴族にとって、窮屈な公務から息をつける優雅な一時である。

 

窓際の端で、コルキスの王女は慣れた手つきで、甘く香る真っ白な陶器を持ち上げる。

白いワンピースにライムグリーンのカーディガンを羽織り、太腿までの丈の下から動きやすさをとったパンプス。ひざ近くまであるおろしたてのブーツは、平べったい靴底が多かった生前時代の履き物に比べ、お洒落でそれなりに彼女も気に入っている。

いくらその可憐な顔が退屈に歪められていようと、見た目は麗しい美少女。

憂いを帯びた息を吐き出したならば、お忍びでやってきたどこかの令嬢に見えるキャスターは()()()を空にして戻す。

 

「ケンちゃ~ん、三番テーブルにラズベリータルトとレモンチーズ、七番さんにはスペシャル苺とマロマロモンブランよろしくネェ~」

「了解です」

 

マークの入ったエプロンを身に付け、注文のスイーツをせっせと用意する土筆ん坊に待ちぼうけをくわされていた。

 

 

 

 

 

 

今思えば、迷わず足を進める顕悟に案内を任せきったことがそもそもの発端であった。

 

資金援助をしてくれた一成の母に感謝しつつ、雑貨屋と子供服売り場を巡った土筆ん坊と小さな魔女は、小一時間も立ちっぱなしだった足を休めるため商店街から離れた通りを散策していた。

 

「道一つ違うだけで、雰囲気ががらりと変わるわね」

「まぁね。みんなこっち側にはお店を持ちたがらないから」

 

立ち並んでいるのは民家ばかり。それも平屋や古い木造建築が多い。

趣ある閑静と言えなくもないが、生気がないと表現した方がしっくりくる。

 

「あらら……」

 

道が続く先にあるだだっ広い公園の方角を見ていたキャスターは横から聞こえた失笑に意識を戻された。

着いた先はこじんまりとしているがシックな外装の喫茶店。

西欧の田舎を意識したレンガと木を組み合わせた入り口扉の近くに掲げられた看板の文字を、少女は流暢に読み取る。

 

「ここは随分賑わっているのね。《gouter(グテ)》……なかなかの洒落好きじゃない」

 

フランス語で「楽しむ」や「味を見る」の他にも「3時のおやつ」という使われ方もしている名の通り、寒空の下に広げられたオープンテラスにも女性客がコートの襟を重ねて合わせて話に花を咲かせていた。

日本文化の炬燵と友好関係を築いているキャスターにしてみれば微塵も共感できないが、味の保証はされたも同然。

ただ問題はその予備軍――密かな人気を持つ開店10年の店に並ぶ長い列だった。

 

「別のところにしようか?」

「そうね。待っているだけで日が暮れそうだもの」

 

雰囲気は好みだけど仕方がないとキャスターが零したとき、扉に付けられたカウベルが鳴いた。

 

「あらぁ?あらあらあらあら、そこにいるラブリーな子連れはケンちゃんじゃなくてっ!?」

 

見たものを悲しくさせるほどにパティシエ服を突っ張らせる筋骨隆々の肉体。反面、尖った喉仏を通ってやや低めの女性口調が悲鳴混じりに飛び出した。喫茶『gouter』の店長である。

 

「あ、店長」

「いいところにいてくれたわ。もうほんっと、ケンちゃんがいないとワタシ、ダメみたいなの」

 

気さくにあげた土筆ん坊の手を身体全体で握りしめるように、オネエ店長がまつ毛をびっしりと反らせた瞳を潤ませていた。

本名、伊集院(いじゅういん)正男(まさお)。グロスで光るたらこ唇が動き――髭を剃った跡をきれいに青く残したガチでムチな男、だけど心は乙女な――金切声が顕悟のコートを濡らす。

 

「一生のお願いよぅ!一時間でいいから手を貸して頂戴!!」

 

逡巡する暇なく逞しい腕に抱えられていく”ケンちゃん”の後を、溜息をついてキャスターがあとを追い――蓋を開けてみれば、顕悟のバイト先で急遽助っ人を懇願されたという話である。

 

 

 

 

約束を30分ほど超過して、香水と熱気の籠った店内の空気もようやく落ち着きを戻していた。

窓の外の長い行列は既になく、ショーケース内にも売り切れが目立つ。商品がなくなれば客足も減るのは自然の流れであった。

しかし、忙しくとも暇であろうともキャスターには腑に落ちない疑問が残されている。

 

(いえ……信じがたいというべきかしら)

 

女性受けのする花咲く笑顔で接客する顕悟は危なっかしくもおっとりした雰囲気に反して、立ち振る舞いは整然としており、集中しているときは頼りがいがある――ように見えなくもない。

ともあれ、認めざるを得ない。

 

「サマにはなっているのよ、不可解なことに」

 

「可憐な美少女はケーキ食べ放題よぅ!」としなをつけて宣言されたものの、二個が限度であったキャスターの皿はとっくに空となっている。他にすることもなく家の外での土筆の生態を観察をしていたキャスターの評価としては好印象といえる。

 

「ん?何が?」

「……あなたも社会で人並みに働けるのね、と感心していただけよ」

 

静かに置かれたカップから立ち上る湯気に、茶色の双眸が瞬いた。

向かいの椅子に自分用のケーキとカップに手をつける顕悟の笑顔は、彼女がよく知るものだ。先ほどまで若い女性たちに振りまいていたソレとは種類が違う()()()()に気づいてしまう己に何故か負けたような気分になった。

 

「それよく一成にも言われるけど、どういう意味?そんなに身嗜みが悪いかな」

「格好の問題じゃないから、服の皺を直すよりも食べたらどう?」

 

理解が追いつかない顕悟は首を傾げるが、それもシフォンケーキを口に含むまでのことだった。

 

「んー、労働の後は格別だよね、やっぱり。キャスターのチーズタルト、どうだった?」

「サッパリとした甘さで美味しかったわ」

「だよね!クリームにヨーグルトの酸味があるから、二個目としてはおすすめなんだ」

 

植物以外には興味ない土筆ん坊であるが、仕事関連だけあって洋菓子にも詳しい。

 

(ほんと……子供そのもの)

 

それは口の端にクリームをつけている顕悟に呆れてか。

ともかく、労いを込めてキャスターは紅茶一杯分は我慢して付き合うことにした。

 

「こっちは今月の新作なんだけど、なんとこれチョコに見せかけたベリージャムでね――」

 

この後、ひと段落した店長も参戦してのスイーツ談議は適当に返事をしていたキャスターが、良かれと紅茶を注ぎ足していた朴念仁に気づくまで続くこととなる。

 

 

 

 

2

 

 

「今日はすっごく助かっちゃったわ。また、時間ができたら来て頂戴ネ」

「うん、店長も頑張って」

 

キャッ、ケンちゃんに応援されちゃった!と年甲斐もなく(はしゃ)ぐ本名、伊集院(いじゅういん)正男(まさお)39歳独身。

照れて腰をくねらせるプロテインの塊に、笑って対応する土筆ん坊。僅かな尊崇(そんすう)の念がキャスターに芽生えた瞬間である。

 

店の外まで店長に見送られ、喫茶店を後にした2人はまた荷物を抱える。

 

「あ、そうだ」

「ダメよ」

「……まだ、何も言ってないんだけど」

 

両手を荷物で塞いでいる土筆ん坊の頭だけが下がる。

なにも手ぶらのキャスターが扱き使っているのではなく、体格的に彼が荷物持ちをかってでただけなのであるが、すれ違う人は妹のご機嫌取りをする兄を微笑ましく眺めて過ぎていく。

 

「ならはっきり言いましょうか?三芳の家は諦めなさい。だいたいもう”家”そのものがないのだし、庭だって見るに堪えない惨状でしょうに」

 

命の保障がなくてもいいならどうぞご自由に、と鼻を鳴らすキャスターの後ろを荷物がすごすごとついていく。

三芳邸の打ち上げられた家屋はともかく、納屋には植え替えの肥料や球根、園芸用具などがそのまま残っている。

持ち出せたのはほんの一部にしか過ぎず、草いじりが三度の飯代わりにもなり兼ねない顕悟にとって断腸の思いであった。が、この植物の虜である男はキャスターの知略でさえも牛耳(ぎゅうじ)れない土筆である。

 

「…………わかった。キャスターを危険に晒すわけにはいかないし我慢する。でも学校帰りに土壌だけは手入れしておいたからキャスターが思ってるほどじゃないよ、安心して」

 

ようやくわかったか、この天然男と胸のすく思いであったキャスターの米神がすぐさま引きつる。

(げん)ずるよりも早く撤回させられるとはこれいかに。

 

「それでさ、代わりに寄りたいところがあるんだけど」

「……もう、好きになさい」

 

もはや聖杯戦争の存在が(かすみ)かかるほどの能天気ぶりに、ただの少女となったキャスターは無力感に苛まれるしかない。

 

 

 

 

一か所だけと妥協した結果、温かみのある喫茶とは正反対の広々とした無機質なコンテナの看板をくぐることなった。

 

「ちょっと待ってて」

 

一言告げたきり、友人――キャスターは女性と睨む――の誕生日に送るプレゼントを引き取りに顕悟は店の奥へと消えていく。

チャイムくらいでは来客に気づかないこの店の主人はかなりの年輩であり、三芳の友人で顕悟とも顔見知りらしい。御影石から宝石まで石に関するものならなんでも取り扱っている老舗で、三芳庭の池石もここのものだと来るまでの間キャスターは聞かされていた。

 

「……あら?」

 

やさぐれていた心の琴線が馴染みある感覚に触れ、その一つを手に取る。

紫水晶(アメジスト)と呼ばれる天然石である。

発掘し放題の時代で希少価値に関係なく見かけたものだが、年月とともに紛い物や秘められた魔力の低下が顕著になったと与えられた知識が囁く。礼装のローブに似たその色合いはキャスターの持つ魔法石とは比べ物にならないが、純度には僅かに目を引くものがあった。

 

「(強度もそれなり……秘められた価値の割に値段もリーズナブルね)」

 

宝石を扱う魔術師が血眼になって求める穴場に、唐変木がいとも簡単に出入りしていると知られようものなら命の保障はできない。

赤い誰かが詰問するであろう現場に居合わせる近い将来があったとしてもキャスターに庇う気はさらさらない。顕悟といるだけで常識に罅を入れられる一番の被害者は彼女なのだ。

 

奥の方で石屋の主人と話し込んでいた土筆ん坊が戻ってくる前に、キャスターは棚にアメジストを戻す。

 

「お待たせ。気になる()はいた?」

「確かにあなたが勧めるだけあってマナが強いのは認めるわ。かえって贈り物としては危険じゃないかしら?石の扱いに長けていないと逆に厄を招くわよ」

 

友人に送る理由が「石が好きみたいだし、お守りにと思って」などと浅すぎる。

天然石といえば、地面に転がっている石ころの延長に聞こえるが、無造作に並べられているのは透明度が高ければ高いほど価格も上がる宝石の類だ。

もし、相手が多感な年ごろでかつ自意識過剰の初心な女心を持っていたら誤解されかねないが、それはそれで愉しそうだと魔女は愉悦する。

 

「大丈夫だよ、その辺わかってるだろうから。はいこれ」

 

手にしていた小さな袋はキャスターに、プレゼントはポケットにしまっていると土筆はジャケットを示す。

胸を張る子供の催促に負けて開封すると、中から海色の石がキャスターの手のひらに転がり落ちた。

 

「…………アクアマリン」

 

青色の緑柱石、別名を水宝玉。薄いブルースカイはAAランクの宝石クラスだ。

ちなみに宝石はAAAクラスほど透明度と値打ちが比例して高くなる。

 

「仕入れたばかりの”とっておき”だって。どうかな」

 

薦める店主の自信も頷ける一品であった。

だが、多感で自意識過剰でもないキャスターは土筆ん坊の単純思考から来る単純行動に舞い上がることはない。

 

「花たちに比べて変化は遅くてもここの石たちはみんな素直だから。キャスターを助けてくれるよ、きっと」

「そうね。連れまわされた報酬としては不十分だけれど」

 

内包する魔力の重みがキャスターの手を通して確かに存在を主張している。

いつものように灰に変えてしまおうか、と海の水が揺らめいた。

 

「気が済んだのなら帰りましょう。今夜の準備に取り掛かりたいわ」

 

大小の影が夕日を浴びて伸びていく。

小さい歩幅の回転率を上げる彼女のポケットから海の波音が微かに流れた。

 

 

 

 

3

 

 

「日が随分短くなったなぁ」

 

衛宮家の門を我が物顔で開けたキャスターは、荷物の呑気な呟きを置いてさっさと戸口に手をかける。

どこぞの屋敷と違って普通の玄関のため、その動作に躊躇はない。

だが、扉は動かない。即ち、キャスターも動けない。

 

「あれ、衛宮まだ帰ってないんだ」

「……いいから早く開けなさいな」

 

出番となったスペアキーで開錠し、居間に上がるが家主の帰宅した痕跡はない。荷物を運び終えたキャスターと顕悟は、再び居間で顔を合わせる。

一成に連れられて校内を徘徊していた士郎を見かけた限り、半日使う作業とも思えなかった土筆だが焦ることもなく、壁にかけられていた士郎のエプロンを違和感なく身につけた。

 

「食事の用意するけど、なに食べたい?」

「軽めでいいわ。あまりお腹すいてないもの」

「それなら、煮込みうどんにしよっと」

 

整理された使い勝手のいい台所で意気揚々と支度を始める背中に、人の家である遠慮は一切ない。

顕悟が用意したお茶を片手に乳酸の溜まった足を投げ出してテレビのチェックをするキャスターも同様である。

 

但し、今夜はそんな三芳邸と似て余りある生活に再び変化が起きる運命の夜――。

 

 

 

それは、食器洗いを終えた顕悟が手を拭い、キャスターが視聴している武士と姫の恋愛ドラマがコマーシャルとなったときにやってきた。

廊下に忍ぶ足音が途絶え、一拍を置いて障子が横に動き、

 

「うおっ!?な、なんだなんだ、2人してそんな待ち構えて――」

 

コートの下の学生服を先日の誰かのように赤黒く染めた士郎がいた。

 

「衛宮」

「お、おう」

 

士郎がたじろいでしまうほど真面目な顔をしてその全身を()()土筆ん坊。

 

「おかえり」

「っ!?あ、ああ――ただいま」

 

可もなく不可もなく。何があったかはわからないが、何かあったことはわかる。そして顕悟も最近体験した相手であると、士郎の胸の穴が教えていた。

心臓部分に開けられた穴、血の気の薄い顔色、そして僅かに漂う赤と青の魔力。

生還を喜ぶ男2人の傍ら、冷静な少女が口火を切った。

 

「坊や、あなた……学校を出て真っ直ぐに帰ってきたのかしら?」

「え、ああ……だいたい30分前くらいに出たから、そうなるな」

 

雰囲気の異なるキャスターに気圧されつつ、自分の血だまりを掃除する奇妙さを思い出した士郎は失笑を漏らす。

一度()()()身を誤魔化し、どう説明しようかという士郎の無駄な悩みは小さな手に制された。

 

「説明する間も惜しいから省くけれど、ランサーがここに向かっている。私はこの坊やを使って召喚させるから――」

「うん。できるだけ早くでお願いするよ」

 

サーヴァント相手に稼ぐなど先日の一戦で身を以て、土筆が役目を果たさないことは体験している。

役に立たない駒を知略でもってこそ使うが策士(キャスター)を語る英霊。どんな低能であっても使い捨てならば最低一度は使える。そして、目の前の駒は捨てても捨てても生き延びる雑草。

困った顔など微塵もなく、信頼のみを向ける能天気へ伸ばされた小さい手が無造作な前髪を払いのけ、

 

「――ευλογα(賛美を)

 

小さな祝福の風が額を撫でた。

口から涎が零れそうなほど呆ける顕悟という壁によって魔術を見逃した半人前魔術師は、しきりに首をひねっていた疑問をようやく言葉にする。

 

「というか、二人ともあいつのこと知ってるのか?」

 

彼にしてみればもっともな点だが、生憎切羽詰まった状況は止まってはくれない。時間は等しく有限である。

 

「説明してる時間はないって言ったでしょう。工房に行くわよ」

「こ、工房ってなんのことだ?それに神城を置いては――」

「あなたが夜な夜な魔術の練習をしているガラクタ置き場よ。失敗続きの三流魔術師なのはわかっているからさっさといらっしゃい!」

「は、はい!」

 

今日一番の関係者でありながら事態を全く飲み込めていない士郎と先導するキャスターの姿が土蔵の扉で閉ざされた。

サンダルを履くよりも靴下のままを選択し、庭に出た顕悟が転がっていた物干し竿を拾いあげたところで、青い狼が目を光らせていた。

 

「ほぅ、殺した人間が生き返るなんて面倒くせぇと思って来たが……こんなところで逃した獲物と会うとはな」

「巻き込んだにしても巻き込まれたにしても、友人を見捨てて逃げる気はないからね」

「はん、友思いってのは泣かせるねぇ」

 

ここには三芳の仕掛けも地の利もない。蹂躙される結末は、ランサーの気まぐれで早いか遅いかが決まる。

だが、それでも顕悟が動ける。視える。

その手にするは洗濯の必需品、物干し竿のみ。

 

「お前らは二度目だ。制約なしで()れるってわけだ!」

 

赤い一閃が目視できぬ速さで突き出され――来たる死よりも速く――

迎える構えは遠投、否。撃ち合い、否。

地面を穿った棒に全体重をのせ――死者の如く空を舞え――

 

「しゃらくせぇぇ!」

 

鞭のような赤が骨を砕く。

 

「ぐッ――」

 

しかし、それでいい。まだ心臓が動いていることが最高の成果。

一秒でも長く鼓動を繰り返すしか土筆に道はない。

地面を這いつくばっていた影は真っ二つになった竿を構え、前を向く。どれほどに身体が傷んでいようと、成さなければ閉ざされる。

 

ただもう一つ、彼が生きる運命があるとしたならば――それはランサーが振りかぶった槍よりも(はしこ)く。

 

割って入った()が姿を現し――金色の少女が槍兵と対峙することだ。

 

 

 

× × ×

 

 

 

時間軸は、士郎が引き摺られてきた土蔵に巻き戻る。

 

ガラクタと称される道具や材料一式が積み上がっていたはずの床に、見覚えのない青白い模様が描かれていた。

その中央。キャスターに誘導されるままに、かび臭い室内で直立不動となった士郎は未だに事態の把握ができずにいた。

 

「な、なぁ。これって一体、どういうことなんだ?」

「魔術の召喚の儀よ。魔術師なら聞いたことくらいあるでしょう?」

「使い魔の契約をってヤツか。でも、なんでそんな高等な魔術がウチにあるんだ?そもそも俺、召喚なんてできないぞ」

 

養父が魔術の才能のない己に説明するのを省いた可能性を士郎は片隅で考えつつ、魔方陣の途切れがないかを入念に確認していた薄青の少女から呆れ顔を返された。

 

「愚問ね。言われるまでもなく、半人前以下の魔力回路に期待はしていないわ。あなたは何もできなくても、その左手さえあればいいの」

「俺の価値は左手以下……」

 

手の甲に浮き上がっている変な痣をまざまざと士郎は眺める。

ただの怪我であると思っていたとは、ここで言わない方が身のためだ。

 

「いいかしら。外のお友達を見捨てるつもりがないならば、おとなしく復唱なさい」

「……わかった」

 

頷く半人前を前に、キャスターの魔力を通した魔方陣が発光を始める。

 

「――――――告げる」

 

――――告げる。

汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。 聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ。

誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者。

されど汝はその眼を混沌に曇らせ侍るべし。汝、狂乱の檻に囚われし者。我はその鎖を手繰る者――

 

「汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ―――!」

 

一字一句、間違うことのないよう紡がれた士郎の叫びに呼応して、薄暗く埃っぽいガラクタ部屋に降臨したのは――金色の少女だった。

 

「サーヴァント、セイバー。この身はマスターのために」

 

甲冑を月光で照らし、金髪を結い上げた神秘的な少女に向けられた第一声は、マスターと呼ばれた士郎ではなく薄青の少女の不満だった。

 

「呼ばれて早々、少女に物騒な剣を向けるのは感動の場面に水を差すのではなくて?」

「黙れ、メイガス。最弱のサーヴァントが待ち伏せとは相変わらずの策略だな」

「待ち伏せもなにも、あなたとそこの坊やの召喚の儀を行ったのは私。恩を仇で返すつもりかしら、英雄様?」

「そうだぞ、えっと……」

 

言いよどむ士郎に凛とした少女は振り向かず、扉をにらみつけた。

 

「確かに。弱っている貴方よりも優先すべき相手がいるようですね」

「……言ってくれるわね」

 

キャスターの補佐もありパスは順当、弱っているキャスターよりもランサーを脅威にしたセイバーが飛び出していく。

 

 

 

× × ×

 

 

 

撃ち合う青と金の影。その残像はまるで光の交差。

サーヴァントの戦いを地に伏した顕悟は、縦横逆転の視界での鑑賞となった。吹き飛ばされたのが幸いして、巻き込まれない配置になっているせいか、小石で切った額の痛みも忘れるほどに見入っていた。

それほどまでに、槍と剣の技は美しかった。

だが、一瞬のようでもあるその戦いにも、幕は下げられる。

 

刺し穿つ死棘の槍(ゲイ・ボルク)!」

 

因果を捻じ曲げた必中必殺の魔槍を胸に受け、それでも剣を引かない少女は獰猛な狗を退けるに値する覇気があった。

 

「真紅の槍に神速の腕前……アイルランドの光の皇子か」

「ちっ、宝具を出してこれかよ。長居はできねぇか……引かせてもらうぜ」

 

俊敏に塀を飛び、屋根を跳ねていく青い影。手負いとはいえ彼女ほどの手練れが相手を見逃すはずもなく、胸に開いた甲冑の穴がみるみる修復されるよりも早く、駆け出していた。

 

「逃がしはしない!」

 

ランサーに続き、少女が軽々と塀を飛び越えていった後の庭に受け身を取り損なったまま地にひれ伏している男が一人。

なんとなく彼女を追いかけなくてはいけない、と使命感のようなものが沸き上がり、身体を起こす。たらりと垂れてきた生ぬるい液体を袖で拭ったところで、士郎が土蔵から転がり出てきた。

 

「神城!こっちに鎧姿の女の子が来なかったか!?」

「ランサーを追いかけて外に行ったよ。……こっちはいいから追って。彼女、一人にしちゃだめだ」

「すまん。……すぐ戻るから!」

 

意識ははっきりしている土筆をそのままに、外から響く金属が撃ち合う音に向けて士郎は走る。

 

 

 

門までの距離がまどろっこしい。広大な敷地を掃除以外で恨みに思ったのは初めてだった。

 

近づくにつれ、相手が青い槍兵でなく、赤に見えようが士郎にとってはどうだってよかった。セイバーの手が不可視の凶器が、人を傷つけようとしていることだけわかれば十分だ。

一際大きく、音が跳ねあがった。

それは、白髪の赤ずくめの男が今まさに斬られた場面だった。赤兵を斬り伏せ、進撃はそのままに。

 

「やめろ、セイバーーーッ!!」

 

半透明になって消えゆく赤兵の背後――そのマスターの喉笛を噛み切ろうとした獅子が制止した。

見えないはずの刃先は、首の皮一枚隔てて微動だにしない。己の意思とは異なる動きに狼狽するセイバーの体が、震えているのは怒りか、力の反動か。

 

「剣を下してくれ、セイバー。俺はそんなこと望んじゃいない」

「正気ですか、令呪まで使用するとは。……わかりました、サーヴァントには痛手を負わせただけでも良しとします」

 

セイバーの意思で、不可視の剣が鞘に収まる。

そうして、寸で命拾いしたマスターが街灯の下に素顔を表した。

 

「ふぅ、ようやく話がわかるマスターが出て来たわね。――では改めて。こんばんは、衛宮くん」

「遠、坂……?」

 

学園のマドンナが月夜を背に不適に笑う魅力は文句なしだった。

 

「積もる話もあるだろうから、家に上がらせてもらうわよ」

 

だが、純情な男子の反応など慣れているのか鈍いのか気に留めない凛は家主を置き去り、門を潜っていく。

そして、開けられた戸口に次いで、悲鳴が上がった。

 

「遠坂!?」

「くっ」

 

主従が駆け込んだ衛宮家の玄関には、僅かに上気した呼吸を整える凛と仰向けに伸びている顕悟がいた。

顔を血に染めて迎えた大木に、反射的に手が出ていた己は悪くないと後に彼女は弁解することになる。

 

 

 

 

 




紫華鬘(ムラサキケマン)
あなたの助けになる、助力、喜び

読み方は【ムラサキケマン】。
何度見ても「ムラサキマン」と読むのをどうにかしたい……


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

□Insert□□□Paeonia suffruticosa 01

遠坂凛の三日間。


◆一月三十一日◆

 

 

それは、今から十年前の話。

 

背が高く、彫りの深い顔立ちで冗談なんて口にするものかと頑なに拒む仏頂面の紳士がいた。

洋館に住まうに相応しい気品と人格を兼ね揃えている振る舞いだが、子供の扱いは少々不慣れだった。

家宝から始まり大師父から伝えられる宝石のことまで、そして洋館地下の管理の仕方であるとか、おおよそ10歳の少女にする話とは思えない事務的な事を矢継ぎ早に説明した男は立ち上がる。

 

「――いずれ聖杯は現れる。アレを手に入れるのは遠坂の義務であり、魔術師であろうとするのなら避けては通れない道だ」

 

他に言うことをしらないとばかりに眼光鋭く、男は言った。

少女が行儀よく、はいと返事をする。

師の言いつけに逆うものなら、死の方がマシに感じるほどの苦痛さえ体験するのが魔術の世界だ。故に己の感情は不要。たとえ――そう教えた男がもう二度と帰って来ないと感じていようと、弟子は引きとめてはならない。

齢1ケタであろうと魔術師の家系に生まれた幼子は渡されたばかりの日誌を両腕に抱え、それっきり振り返らずに戦いに赴く魔術師の背中を見送る。

 

 

それが、遠坂時臣と遠坂凛の、師弟として親子としての最後の別れであった。

 

 

 

 

 

 

SchlieBung.(ロック)Verfahren,Drei(コード3)

 

言葉が紡がれ、カチリと小さな音が続く。

遠坂流による施錠は、泥棒はおろか野良猫さえ侵入する気配すらない厳重な警備を一瞬でつくりあげられる。冬木市の管理者である遠坂にとって、指を振るだけの初歩的な魔術など朝飯前である。

目覚ましが30分遅れるといった突発的な事情があるときなどは、鍵を出し入れする必要もなくお手軽で、幼き頃からものぐさのきらいがあった凛は重宝している。

 

「……これならちょっと遅いくらいの時間で間に合うか」

 

足運びの速度計算は無論、のんびり歩いて、である。

間違っても優等生の鑑が走るなどという愚行をおかすわけにもいくまい。

 

「それにしても静かだわ。風邪でも流行っているのかしら」

 

七時半であれば、建ち並ぶ住宅から朝の騒々しさが漏れ聞こえる時間帯だが、屋敷からさらに坂を上っていく道中に通勤するサラリーマンや通学生徒の姿はない。

ついには朝の冷え込みが人を寝坊させているのだと、どこかずれた赤い少女が校門に着くまで人っ子ひとりすれ違うことはなかった。

 

(さすがに何かあるわね)

 

不吉な予感が凛の胸を占めていた。

そう、まるで一族の呪いが発動したときのような焦燥に急かされるような。

 

「おや?今朝は一段と早いね、遠坂」

「……やっぱりそうきたか」

 

冬のインターハイを控えた運動部がもそもそと動き出したばかりの静かな校庭の前で突っ立ったままだった凛は声をかけてきた聞き覚えのある声に振り返った。

 

「――おはよう美綴さん。つかぬ事を聞くけど、今何時だかわかる?」

「六時半を過ぎたところだね。まったく一月も終わるってのに身の引き締まる寒さだわ」

 

髪色と同色のトレンチコートの袖から腕時計を覗き込んでいた美綴綾子は赤くなっている手をすり合わせる。武術で鍛えている身体でも、寒さは平等のようであった。

ともあれ、綾子のお蔭で正確な時間を把握した凛は白い息を吐き出した。

 

(……思い当たる原因なんてアレしかないし。地下室からペンダント持ち出したのがいけなかったのかな)

 

今朝から襟の中でぶらさがっている赤い宝石になにができるということなかれ。

百年単位の魔力が込められている魔力石があれば、ほぼ不可能はない。リビングの柱時計も自室の目覚まし・猫型、ベル型、アラーム型を含めた軒並みの時計が今日に限って早く時を刻んでいた理不尽など、簡単に実現させてしまう代物なのだ。

 

(いや、ただの魔力の塊はスイッチに過ぎないか。となると、持ち主であった人物――父さんね)

 

魔術を組み込んだ張本人は既に故人。心の内で恨み言を消化するしかない、と気持ちを切り替えた矢先に追撃が響く。

 

「それはそうと朝弱いアンタがなんでいるの?部活もないのに朝早く登校するのはてっきり草ボンボンくらいなもんだと思ったよ」

 

そうでしょうね、と本心を溜息に変える。

生徒玄関に視線を送る綾子の意図は簡単に察せる。霜が下りている土の状態を見て回っている物好きの姿が安易に浮かび、アレと同類扱いされているかと思う優等生の眉間に力が加えられた。

 

「……たまには気分を変えてみようと思っただけよ。誰もいない学校ってのも清々しいじゃない」

「遠坂にしてみれば滅多にない経験だろうね。アタシにとっちゃ慣れたもんだけど」

 

数少ない友人であり本気を出し合えるライバルに強がったところで、意味をなさないのだが気持ちの問題である。

 

「せっかくなら弓道場の見学をしていかない?今ならお茶もついてくるよ。教室に行ったって時間持て余すだけでしょ」

「それは有難いけど、部外者が立ち入っては練習の邪魔にならない?」

「こんな朝早くから準備するような生真面目は部を離れてるからね。もし部員がいたとしても遠坂ならいい活性剤になるし」

 

仮にも鍵を任されている主将としてどうなのかと凛としては思う。――が、時は金なり。目に見えない金ではあるが金目に五月蠅い彼女の答えは決まっている。

 

 

 

昔から武道に力を入れてきた地域性なのか、穂群原には道場が多い。

――その一つの弓道場は、見学に来た進学志望生徒が武術が本業なのかと誤解するほど広々とした平屋として敷地内に幅を利かせていた。

部活で使うには勿体ないほどの立派な設備は校舎や他の道場と少し離れた場所である以外、苦情が出ていないほど充実している。

とはいえ、それは部活以外に用途がないためであると呆れている生徒も多い。その筆頭が中学から引き継いでいる腐れ縁の片割れ、柳洞一成だ。

公共施設を弓道部が私物化しているとして運動部の優遇を問題視し、予算削減を打ち出した質素倹約の生徒会長と頭脳明晰で品行方正の校内一優等生が生徒会で論議する風景はなかなかの事件であった。

 

過ぎたる(いさか)いはさておき。

 

「どうぞ。上がって」

 

冬の弓道場にはまだ誰もいない。

かれこれ一件以来ぶりの射場に足を踏み入れ、暖房を入れたばかりの床に座布団を突き合わせる。

 

「はい、熱いから気を付けて」

 

綾子が淹れた日本茶に素直に礼を述べ、湯呑(ゆの)みを手に取ろうとして断念する。ティーカップと違って取っ手がない分、縁が熱くて持てずにいる凛は恨みがましく浮かんだ茶の茎を見下ろした。

 

「で、調子はどうなのよ。相棒は見つかった?」

「どうと言われても相変わらずよ」

 

綾子が単刀直入に話始めるのは今に始まったことではなく、慣れるほどには付き合いのある凛は友人兼ライバルの目当てを悟る。

 

「そっちはどうなの?尋ねるくらいだからそれなりに順調なのかしら」

「ノーコメント。それよりとぼけずに、学園一憧れの的の遠坂さんに進展があったって噂の真相を知りたいね」

「そんなの、貴女なら聞くまでもないでしょう」

 

それもそうか、と豪胆な少女はあっけらかんと納得した。

こうして朝のお茶会をする仲である綾子相手に隠し事しても見抜かれるだけだ。

下手をすれば凛以上に凛のことを熟知しているのではないだろうか。思わず、柳眉が困ったように下がる。

ちなみに噂の相手は、誰も気にも留めない花壇でしゃがみ込んだきり、弓道部に向かう凛と綾子に見向きもしなかった。

 

「でもまぁ、賭けを忘れたわけじゃないみたいで安心したよ」

「ええ、美綴さんがなんでも言うこと聞いてくれる日が楽しみだもの」

「聞き捨てならないね。遠坂を一日言いなりにできる権利なんて早々ないから本気でいくよ?」

「ふふ、望むところね」

 

三年になる前にどちらが先に恋人ができるか、なんて他愛ない言い合いから売り言葉に買い言葉で青春ならではの甘酸っぱさに発展した賭けではあるが、勝ち負けのある決め事である以上、お互いに負ける気は皆無。穂群原のいわくつき美少女たちは似た者同士なのである。

 

「――って女同士で火花散らしても埒があかないわ、やめよやめ。……あーあ、どっかにいい男が転がっていないかねぇ」

 

なにぶん相手の必要な勝負だ。

重苦しく溜息をつく綾子は男嫌いと言われているが、凛にしてみれば武術一筋で単に興味がなかっただけで実は恋愛初心者なだけではないかと思える。――無論、それは凛自身にも当てはまるが。

目的のために猫を何匹でも被ってもはや別人格な似非優等生と、その化けの皮を見事見破ってのけた武道万能の弓道部主将だが、恋愛については団栗(どんぐり)の背比べである。

 

「あなた好みの男性は卒業しない限り無理ね」

「違いない。この学園はどういうわけかブラウニーやら坊主やら草食系が多いからね」

 

慎二もあれで肉食系に見えたチャラ男で男気から一番遠いようなヤツだし、と綾子は笑い飛ばす。

部活でも慎二と付き合いのある彼女にとって、手のかかる弟に毛が生えた程度にしか見えないようだった。

 

「草っていえば、遠坂って神城と中学で同じクラスだって聞いたんだけど、あいつの誕生日いつ?」

「……好戦的な熱い男がタイプなんて言って、本命は彼なわけ?」

「あっはっは、そりゃないわ。……いやね、フラフラしてて草花まっしぐら男だけど、顔はそこそこいいし大らかな物腰だとかで一年の女子に人気なんだよ。あたしゃ、てっきり花壇にいつも突っ立っていて近寄りがたいからクラスメートのよしみでどうにかしてくれって頼みかと思ったんだけど、ところがどっこい手紙を渡されたわけ。もちろんラヴなやつね」

 

深く他人に立ち入らないスタンスの凛とは違い、綾子の人脈の広さが覗える相談内容だ。

 

「後輩には自分の気持ちは自分で伝えな、って返したのはいいものの……神城の誕生日の日に告白したいとかで誕生日を教えてもらえませんか、とこうきたわけよ」

「それはそれは。ご愁傷さま」

 

自分の恋もわかっちゃいないってのに愛のキューピット役なんて勘弁してほしいね……、と遠い目をして語る彼女の背中には影があった。

運動部の顔のような存在で面倒見の良い人物として慕われている彼女は断り切れなかったようだ。

綾子を根負けさせるなんて相当骨がある一年だこと、と高みの見物を決めた凛は感嘆する。

 

「で、いつなんだ?引き受けたからにはきちんと応援はしてやりたいからね」

 

綾子の恋愛経験値はさて置いて、後輩に頼られるサバサバとした姉御肌は凛が好ましく思う綾子の性格でもある。

学力テストから果ては体重まで。競い合う水と油のような仲だが、生徒会との一件のように協力できるところはがっちり手を組むのが2人の友情の形。凛も協力したいと思うが――

 

「あいにく、私も知らないわ。柳洞くんに聞いた方が早いわよ、きっと」

「生徒会長さまは答えてくれないんだよ。……あからさまな嘘をつく男じゃないからそれ以上は突っ込めなくてさ」

「それなら本人に聞くしかないんじゃないの?」

「あー……そうなんだけどね」

 

一成の頑なな態度に思うところがあったのか、歯切れの悪い綾子は機会があったら聞いてみると話題を締めくくった。

夕日を背後に屋上でひょろりとしたノッポが小柄な下級生の真摯な告白を受けてどう答えるのか見ものではある。

 

(……私には関係ないけど)

 

そうして、ほんの些細な興味は空になった湯呑みと一緒にお盆に置き去る。

タイミングよく向かってくる足音に腰をあげ、

 

「ごちそうさま。丁度、部員も来たみたいだから私は先に行っているわね」

「ああ。また後でね」

 

後片付けをする綾子を置いて出た凛は、ふと視線を外す。

既にその顔は綾子と談話していた自然さから完璧なものに変わっており、霜が溶けている土の一区画を通り過ぎていく。

 

――そう。

凛から彼に話しかけることなど、今までもなければこの先もない。

魔術師なるこの身は、一般人と交じることはないのだから。

 

 

 

 

 

 

そして――夕刻。

幼き頃からの魔術師の考えを肯定するように、自宅に兄弟子からの留守番電話がはいる。

 

『――席は残り二つだ。マスターの権利を放棄するというのなら今日中に連絡をしろ』

 

本題を簡潔に述べるだけの一分にも満たない再生記録。

 

「……ふん、言われなくても」

 

参戦か、リタイアか。引き伸ばしも最後通告された今、限界であるが戦う準備は整っている。

あとは殺し合いの切符を得るだけ。

 

「聖杯戦争……何百年も前から伝わってきた聖杯の儀式、か」

 

握り締めた受話器が大きな音を立てて収まった。

 

 

 

 

 

◆二月一日◆

 

 

聖杯戦争に参加する条件。

それは、サーヴァントと呼ばれる使い魔を召喚し契約すること。

 

まもなく午前二時となる。

長年待ち続け、自分の代では望みが薄いとさえ思った千載一遇のチャンスを前に凛は万全を期して地下室に降り立つ。

父からの遺言を受け、着々と準備してきた魔術師に余念はないとはいえ、魔術師のお祭りともいえる聖杯戦争は凛であっても緊張で手が汗ばむ。

 

「素に銀と鉄。 礎に石と契約の大公。 祖には我が大師シュバインオーグ。降り立つ風には壁を。 四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉路は循環せよ」

 

呪文も召還陣も完璧。それでこそ遠坂。

遠坂家に召喚用の触媒は残っていなかったがそこは才能でカバーする。それでこそ遠坂凛。

受け継がれてきた遺産が皮膚を透かして発光し、参加資格である令呪がくっきりと刻印された腕をかざす。

 

閉じよ(みたせ)閉じよ(みたせ)閉じよ(みたせ)閉じよ(みたせ)閉じよ(みたせ)。繰り返すつどに五度。ただ、満たされる刻を破却する」

 

幾度となく残された()()を重ね、10年前――『遠坂』を継ぐと決めたときに覚えた。

解読したのは昨晩だが、兆しが見えてから二日で看破したのだから凛の才能は、彼女自身がもっとも認識している。

凛の中身がかちりと、音を立てて入れ替わる。

 

「―――――Anfang(セット)

 

望むは、クラス『セイバー』。

最高の魔術師に相応しきは最強のカード。

信じて疑わない瞳が、集中のため閉じられる。

 

「――――――告げる」

 

暗記された長い召喚呪文を(うた)いあげた途端、凛が全身で燻らせていた魔力が吹き荒れる。

そして、文句のない手応えを感じた凛の頭上で、嵐のごとく霧散し――怒号のような爆発音が遠坂家を揺るがせた。

 

「な、なんで!?」

 

もしや代々魔術刻印と一緒に受け継がれている”うっかり癖”が出たのか。様々な考えをぐるぐる巡らせ、発生源であるリビングまで駆け上がった凛は顔を覆った。

 

「……嫌な予感満載だわ、これ」

 

だが遠坂凛は失敗だろうと成功だろうと目をそむけない。そう、たとえ不恰好に変形した扉を蹴り飛ばす以外に開けられなくなるほど歪んだ我が家があったとしても。

兄弟子に習った中国拳法でもって突破してみせるのが彼女だ。

――そして。

 

「――ふむ、ようやくマスターのお出ましか」

 

豪快に蹴破った少女に興味なさげな胡乱(うろん)な視線が向けられる。

倒れた食器棚に腰掛け、白髪の赤い外鎧を纏った男がふんぞり返っていた。

部屋は瓦礫で埋まっているというのにえらく様になった光景のせいで、用意していた文句が尻つぼみになる。と同時に反骨精神のような腹立たしさが凛に沸き上がってきた。

 

「……アンタ、なに。いや待って、マスターって私のこと呼んだわよね?貴方、わたしのサーヴァント?」

「やれやれ。魔力のパスが繋がっていることくらい確認したらどうだね。こちらは乱暴な召還で状況が掴めていない上に馴染んでいない」

 

指摘されて初めて、身体の芯から契約による魔力の流れを感じ取り、意識を集中させていた凛は眉を寄せた。

確かに生意気な男はサーヴァントだということはわかった。わかったが、ここで舐められてはマスターとして権威もなにもない、と。

主従関係は初めが肝心であると、再び開けられた凛の瞳は挑戦的に吊り上げられていた。

 

そう、その関係をはっきりさせるためだけに令呪の一つを消化させ、結果的に優秀な魔術師だと認めさせたとしても――それでよかったと言い切って見せる。

 

「で、クラスは?セイバーかしら、セイバーよね、セイバーでしょ」

「落ち着きたまえ、マスター」

 

目に見えて強引に認めようとしない凛に一息つき、赤の騎兵は押しとどめる。

 

「――アーチャーだ。意にそぐわなくて悪かったな」

「なに拗ねてるのよ。そりゃセイバー以外考えてなかったけど、あんたは私が喚んだサーヴァントよ。最強に決まってるじゃない」

 

触媒もなくセイバーを呼び出そうとした己の甘さが招いた事態である。ただし、それを勝てない理由にせず寧ろ勝因にしてしまうのが凛の優秀さであり、強さだ。

 

「よろしくね、アーチャー」

「――ああ」

 

すったもんだの末――赤い魔術師と赤の弓兵の主従はここに結成された。

 

「それじゃ、早速だけど最初の仕事をお願いするわ」

「よかろう。何なりと言うといい」

 

好戦的な青の視線に応じるは不敵の英霊。

それじゃ遠慮なく、と赤い悪魔がほくそ笑む。

 

「――ここの片付けしておいて」

 

ピシリとニヒルな笑みに罅が入った。

 

「主従となったからには主のわがままを受け止めるのが従者の役目よね。()()()()の私の()()を、()()()()()()のあなたが」

 

令呪の縛りに反論を閉ざされた弓兵は悟る。――このマスターあってこそ、捻くれた我が身なり。

 

「じゃ、詳しい方針は明日にしましょ。私は部屋に戻るわ」

 

一矢報いて満悦な凛は寝室に向かいかけ、ふと、鈍い魔力に足を止める。

通常の彼女ならば迷うことすらない異変は、

 

「アーチャー……今――」

「なんだマスター」

 

手際のよく働いていたアーチャーが振り返ったことで飲み込まれた。

いつの間に着替えたのか三角巾にエプロンをした掃除夫は、弓矢に代わって箒と塵取りを装備していた。

むしろお前がバーテンダー(ますたー)だと突っ込み根性を凛は堪えに堪えた。

 

「――その格好お似合いよ。掃除は朝までに終わらせてね」

「……地獄に堕ちろ、マスター」

 

否、耐え切れずに皮肉が零れた。

従者の呪い言を欠伸の片手間に聞き流し、召喚でごっそり奪われた魔力と体力の回復を優先するべく、凛は今度こそリビングを後にした。

 

 

 

× × ×

 

 

 

その六時間後。

 

未だに疲労が残る気だるい身体を引きずり、凛は学校にいた。

身体は休みを訴えていたが、目が覚めてしまったものは仕方がない。

かけられるクラスメートの挨拶に優雅に微笑みを返し、授業の準備を行う動作が気持ち緩慢であるなどと気づく者は綾子や楓といったくらいだろう。

 

「では、以上で朝の連絡を終わる」

 

そして定刻通りに退室する担任、雑談をする生徒。

 

(平和なものね。アーチャーが随分しつこく、学校にマスターがいるなんて突っ込むから構えちゃったけど)

 

聖杯戦争が開戦され、冬木が戦場になるなど露知らぬ一般世界はなんら変わらない。

強いて変化があったと言うならば、無機質な担任の連絡事項に「神城」が加わっていたぐらいだった。

 

「草ボンボンのことだ、また草いじりでもしてるんだろうね」

 

綾子の見立てはクラス共通であり、土筆ん坊が遅刻していようと誰も気にした素振りはなかった。中学から続く悪癖だと割り切っている凛でなくとも、机を半年並べていればそうなる。

とはいえ担任の葛木はともかく、被害が個人に留まらない英語の遅刻は止めていただきたいものだと虎の天敵とされている綾子のぼやきには凛も同感だ。

綾子の愚痴が届いたのか開始ギリギリでやってきたその気配に、しかし、遺産を刻んだ左腕が粟立った。

 

「あらら。重役出勤の割にはずいぶんやつれてるね、あれ」

 

観察する友人の言葉が右から左に抜けていく。

 

「――――」

 

(はや)る心臓の鼓動を押し殺し、凛は腕を抑える。

――魔術刻印が反応した。知らないふりはできない。

 

 

 

 

下校時刻。

昼休みに生徒会室へ張り付かせていたアーチャーから聞いた内容を整理した凛が出した結論は、

 

「……限りなく灰色に近い白ってとこかしら」

 

つまるところ現状維持であった。

魔術関係者の疑いがかけられていた男は丸一日呑気に居眠りをしており、休み時間の度に前席の陸上部三人娘にイタズラされていた。気を揉む凛など知らずにいい気なものだった。

そんなマスターの憤慨を感じ取ったのか、姿なき弓兵は注意を呼びかける。

 

「実際に現場を見ないで判断するとは怠慢ではないかね、マスター」

「もちろん今夜街の案内も兼ねて調べに行くわよ。家が飛び立つなんて機械仕掛け、真っ先に聖杯戦争関係だと疑沸ない方がおかしいもの」

「……まともな思考を持つマスターで何よりだ」

 

鼻を逸らすアーチャーの顔が思い浮かび、凛は感情を殺す。

 

「本当は魔力が回復するまでは様子見するつもりだったけど、仕方ないわね。関係者に会うかもしれないから準備だけはしておいて。バッサリと斬られたら捨て置くわよ」

「心得ておこう」

 

アーチャーと相談しながら階段を降りたところで、件の男が生徒会室から出て来た。

 

「……遠坂?」

 

凛が名前を呟くと、きょとんとしていた土筆ん坊は途端にふんわりとした笑みを浮かべる。

 

「ああ……体調は、平気みたいだね」

「……なんですか、それ。授業を全て居眠りする自分の心配をした方がいいですよ」

「そうかも」

 

三年経っても変わらない天然に調子を崩されまいと凛は仮面を深くする。

どうも由紀香と言い、こういった偽りのない人畜無害は自分を剥がされるようで凛の苦手の部類だ。癒し系統の男女が揃って同じクラスとは、そろそろ苦手を克服せよと言われているように思えてならない。

 

「それはそうと、大変だったみたいですね」

「うん?……ああ、もしかしてまだ残ってる?薪は一応水性ペンで描いたって言うんだけど、なかなか消えなくて」

 

毛先の濡れた前髪をあげ、額をぐるぐるとなでつける土筆。いたずら書きされた文字の代わりに、力を込めて擦りすぎて赤くなっていた。

 

「……急いでいたようですけど、いいんですか?」

「そうだった、これから柳洞寺に行くんだった。急げば三芳にも寄れるかなぁ」

「お忙しいところ、時間を取らせてしまったようですみません。それでは」

 

手ぶらの土筆ん坊はそのまま玄関に、凛は鞄の置いてある教室に颯爽と足を進める。

遠坂、と立ち止まったままだった顕悟は思い出したように。

 

「キミが元気そうでよかったよ」

 

余計なひと言だった。

負けじとすれ違いさまに凛も忠告を手向けたが、彼が気づこうが気づくまいが凛にとってはどちらでもよい。発言自体が無駄なものなのだから。

 

「マスター、キミはもしや――いやよそう」

「何よ、言いたいことがあるなら言いなさい」

「……凛、キミは優秀な魔術師だ。だが、その甘さを捨てなければ足元を掬われるぞ」

 

言われなくてもわかっている、と無言で語る己がマスターの背に従う弓兵。

霊体化したアーチャーにちらりと向けられた土筆ん坊の視線に気づかないほど頭を余計なもので埋めている凛に、赤い男はやれやれと肩を落とした。

 

 

 

 

 

◆二月二日◆

 

遠坂凛にとって神城顕悟という男は、平穏の象徴だった。

親どころか拾われた子供として中学のとき、噂が広がったときでも奇異の視線を意に介さず、どこ吹く風でほにゃりとした笑みで手を土で汚していた。

敵意の一切ない自然体を地で行く顕悟は、わかりやすく毛嫌いしてくる一成とはまた異なった微妙な距離感だった。

 

だがそれは、あくまで魔術とは無縁の遠坂凛が送るはずだった日常生活での話だ。

魔術師の時間になれば、それまでの現実は夢へと変わる――。

 

 

 

「ん……もう、朝……?――――げ」

 

ヘッドサイドにある目覚ましに手を伸ばしたまま、凛の口から乙女らしからぬ声が飛び出した。

連日の疲れが目覚ましの音を無視させたようだ。時計の針はすでに九時を回っている。

成績優秀な凛にとって単位の心配など無縁であるが、それとは別の問題が明晰な頭脳を悩ませていた。

 

「……どうせなら昨日寝過ごした方がマシだったわ。……あー、頭痛い……」

 

なまじ魔力も回復しつつあるため、体調不良はいい訳にはできない寝坊だった。

それもこれも三芳邸が空振りであったせいである。

 

「散々歩いて収穫もないし、新都の焼野原公園の方に行けばよかった」

 

眺めのいい庭園と由緒ある屋敷風情というよりただの空き地のような跡地には、争ったような残骸はあるものの大きな魔力は感じられなかった。

結局、聖杯戦争が関係するような事件とは判断しがたく、赤い皮肉屋に散々グチグチ責められた凛の胸中は灰色のどんより模様で曇り、雷雲へと発達する勢いだ。

 

「ああもう、今日は休む!そうと決めたらたっぷり休んでやるんだから!」

 

そうして被りなおした布団の中で逆に冴えてしまった意識をもてあまし、階下に降りた凛の矛先は茶坊主に向かうことになる。

 

 

 

――このときの少女は知らない。それが戦いの前のほんの休息だと。

 

 

 

胸から下げる赤いペンダントトップも定位置に。

日が暮れてから街の散策に繰り出した赤の主従は、後をつけていた気配と学園の校庭にて刃を交えることとなる。

 

 

 

深夜の校庭で想像でしかなかった聖杯戦争が現実となって繰り広げる赤と青の(せめ)ぎあいに凛の心が穿(うが)たれ――

 

暗い学び()で始末された目撃者の顔を刻むために近づく冬木のセカンドオーナーが、暗闇の中に横たわる男を助け――

 

――満身創痍(まんしんそうい)で散財したショックに(もだ)える凛がサーヴァントに己の失念に気付き、衛宮家に駆けつけるまで。

 

 

最も長い夜の始まりを、彼女もまだ知らずにいた。

 




牡丹(ぼたん)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

■Phlox paniculata

|

 

1

 

かくして、半人前と血統ある魔術師、そして居合わせの一般人が揃った。

 

七人目のマスターの隣には弓兵を一閃した剣兵が甲冑を脱ぐこともせず陣取っている。平和ボケしたマスターとは違い、警戒を怠らずにいる厳しい眼光はまさしく歴戦を生きた英雄のものだ。

人智では抗い得ない圧倒的な迫力は意思に関係なく凛の身体を歓喜に震わせる。

これぞ、間違いなく待ち望んでいた聖杯戦争の狼煙(のろし)

 

と、ここまではいい。

たとえ最後のマスターがショバ代未納のはぐれ魔術師の弟子で、簡単なガラスの復元さえもできないお粗末な半人前だろうとも、令呪とサーヴァントを得たということは聖杯に選ばれたということだ。文句はあるが、殺しあう相手に言うべきではないと凛は判断する。

 

「――で、どうしてあなたがいるの?」

 

問題は――そう。凛と士郎の中央でのほほんとお茶を(すす)っている神城顕悟の存在である。

 

「衛宮の家に居候してるんだ。昨日、言わなかったっけ」

 

――言ってはいないが、偵察兵から聞いている。

盗み聞きを白状するわけにもいかず、凛はダンッとテーブルを叩いた。

 

「キャスターと一緒にいる理由を聞いてるのよ!」

「……なんで遠坂怒ってるの?」

 

これだからお花畑頭は……ッ、と青筋を浮かべた凛はすぐさま正気になり、「常に優雅、常に優雅」と自己暗示をかける。沸騰剤にしかならない男を視界から締め出した。

出会いがしらに殴った手前、渋々ながら唱えた凛の不得意な治癒魔法では彼の頭の回転速度まで上げることはできなかったようだ。令呪もない一般人がサーヴァントと肩を並べている異常は、戦闘を二度経験しただからこそ納得がいく問題ではない。

 

(喚び出した魔術師が別にいる……いや、いたと言うべきね)

 

鼻息は荒くとも魔術師の頭脳が冷静に思考する。

既に現存しているサーヴァントならば一般人でもマスターになる方法は案外簡単だ。ましてやキャスターのサーヴァント、抜け道の一つや二つ知っていても不思議ではない。

問題が生じるのは契約後である。魔術の家系で無数の魔力回路を持つ凛とは違い、サーヴァントを維持する魔力を保有していないマスターでは、外部からそれを補わなければならない。つまりは、ないものはあるところから持って来ればいいという物理論理。

 

「あー……話の途中で悪いんだけどさ。神城もその、マスターなのか?」

 

かわるがわるお茶を()ぎ足してまわっていた士郎に視線が集まる。

 

「俺、変な事聞いたか……?」

「……はぁ」

 

その場を代表してこぼれた溜息に顔を向けかけた注目の的は、それがキャスターだと知るや慌てて逸らされた。

セイバーの抗議によって改ざん記憶を元に戻された純情少年にとって、美女の素肌を見た夜がつい今しがたのようにフラッシュバックしてしまったのは甲乙付けがたい誤算であった。が、それは士郎のみの秘密である。

 

「てっきり衛宮くんも気づいた上で黙ってるのかと思ってたけど……あなた、本当に半人前なのね」

「む」

 

仕方がないわね、とあからさまに見せつけられ、不満そうな士郎がとり残される。

 

「神城くんはマスターじゃないわ。魔力を持っている一般人もいるけれど、彼からはそれすら感じない。……無関係ではないでしょうけど?」

 

疑惑をかけられていることすら気づいていない平和な顔を凛は睨み付けた。

その横で、これまた他人事のように静観している幼い子供を見遣る。

 

「単刀直入に聞くけど、その姿のために何人を手に掛けたの?」

「さあ、どうだったかしら。覚えていないわ」

 

真っ向からの仕掛けに、薄青の魔女は興味のなさ気にさらりと答えた。

片方は負傷中とはいえ、サーヴァント2体に挟まれた状況でとぼける余裕は流石だ。

 

「そうね。でも、人間を害してはいないわよ」

「……嘘じゃないでしょうね?」

「わざわざ(うそぶく)くのも面倒ですもの」

 

他人の生命力を摂取していれば、魔力に淀みができる。弱体化しているキャスターからそれらが感じられないのは見抜きつつ、凛がカマをかけた理由は別にあった。

 

(……このボケ男が人様の生命力を摂取させるような真似、見過ごすわけないか)

 

疑うことすらバカバカしいと一刀両断した。

ならばどうやって土筆ん坊はサーヴァントを現存させているのか――。つらつらと考えて、とある供給方法に思い当たった凛の耳が赤く染まる。

 

「ちょっとそこの耳年増なお嬢ちゃん?貴女が想像するような魔力収集もしてないわ。安心なさいな」

「言われなくとも、可能性を考えていただけよ」

「あら、そう?」

 

すぐさま、己の切り替えしが失敗したと悟った。くすくす笑う上品な声が蒸気した頬を逆撫でする。

魔術師2人の会話に口を挟めずにいた半人前と一般人は顔を見合わせる。

そんな中、硬い表情を崩さぬ少女が空気を引き締めた。

 

「――膨大な魔力を必要とするキャスターが何もしないなどと到底信じられません。子供の姿とはいえ、マスターの記憶操作をした前科もある」

「そうだな、あれは驚いた」

 

しきりに同意しつつ些細(ささい)改竄(かいざん)の体験者は、ヤカンに呼ばれて台所に消えていく。目を合わせた瞬間、切り伏せられる幻視を見せる殺気からの素早い離脱だった。

 

(……逃げたわね、衛宮くん)

 

暴れ出す寸前である獅子の手綱を放り出した持ち主に、凛は冷ややかな目を向けた。

 

「何と言われようと私がマスター不在で現存していることは事実。それとも、最良のサーヴァントクラスはこうして生かすも殺すも一瞬の姿を(さら)す理由を直接説明しなければならないような鈍い頭脳なのかしら?」

 

肌が痺れるほどの威圧を軽くいなすキャスターもまた子供の風貌とはいえ英霊の一人。

それに、と幼き魔女は微笑む。

 

「魔術師のルールに乗っ取れば等価交換でしょう?貴女のマスターは相応のものを持っているのかしらね」

「ふん、それくらい我がマスターならば――」

 

縋るように戻ってきた士郎をセイバーは見上げる。

 

「ん?うちには高価なものないぞ」

 

期待も空しく、士郎が手にしているのは急須のみ。

 

「確かに、現状の理解で手いっぱいの衛宮くんには何もないわね。というか、既に借金状態だもの」

 

そもそもキャスターの助けを借りて、召喚されたセイバーとしては文句を言う立場でもない。

口戦で敗北を記した剣兵は崩れ落ちる間際にすっと湯呑みを差し出すことを忘れない。

 

「でも、衛宮くんにはなくても私にはあるわ」

 

魔女の興味が、憮然としたセイバーから凛へと移る。

 

「……そうね。貴女には条件をつけさせてもらおうかしら」

「いいわ、聞こうじゃない」

 

含まれた愉悦を感じ取った現代の魔術師が促す。

 

「――私をサーヴァントにする気はないかしら?」

 

ある程度キャスターの状態を見て予想していた提案に、凛は僅かに焦りを感じた。

敢えて直球でくるなんて流石古代の魔女、腹の探り合いに長けている。

 

「契約をしてもらえるなら、そこの坊やを含めてすべて話しましょう」

「……そっちの要求は?」

「ふふ。サーヴァントが望むことは一つでしょう?そちらの白髪の彼と貴女がどうしても叶えたい願いがあるというのなら話はおしまいね」

 

凛はふむと唸った。

キャスターの考えは読みきれないが、凛の相棒はセイバーに一閃されたおかげで全力では戦えない。ならば、少なからずメリットはある。否、虚勢は止めよう。メリットしかない、まさしく棚から牡丹餅である。

アーチャーの傷さえ回復すれば、近距離戦闘もそこそこできる前衛(アーチャー)後衛(キャスター)で陣営は不動のものになるだろう。後衛2札でもいい。

悩むべき選択ではない。故に、凛は慎重になっていた。

 

(――どう思う、アーチャー?)

(あまりにも出来過ぎているな。……だが、傍にいる少年を操ってはいないようだ。発言の大筋は事実だろう)

(それだけキャスターは切羽詰まってるってことよね、微塵も出さないけど。……一度断って出方を見るってのもありかな)

 

聞こえは真っ当な慎重論だが、主の性格を初日に嫌というほど染み込ませた弓兵にはわかった。主はからかわれた仕返しを企んでいる、と。

だが、何事も上には上がいるというもの。悪戯心を見抜いたキャスターが凛の天秤を大きく揺らす。

 

「それから、こちらに回す魔力は彼の半分――いえ、三分の一で結構よ」

「なん、ですって……!」

 

括目(かつもく)するのも無理はない。

時計台(ロンドン)に進路が一択の凛にしてみれば、現代の魔法使いクラスに値する稀代魔術師に学べるなんて喉から手が出るほどのビッグチャンスだ。()()の切り札として破格である。

条件としてこの万年草を保護する必要はあるのだけれど……、と独り()ちたキャスターの疲れた笑みは、瞳を$通貨で計算中の凛には届かない。

口を挟むべき彼女の従者は見えた結果に溜息をつき、もう一人は遠坂がマスターならば全く問題ないとお茶で息をつく。

蚊帳の外に置かれたきりの士郎は給仕に徹し、セイバーは黙している。

そうして、瞳の回転が止まった。

 

「――おっけー、その話乗るわ」

「持ちかけておいてなんだけど……わかりやすいわね、貴女」

「チャンスは逃さない、それが常勝の秘訣だもの。拾いものがキャスターなら申し分ないわ」

 

一人暮らしが長く金銭的に苦労していた身にとって、真名は聞いてはいなくともキャスタークラスは言わばダイアモンド級。みすみす捨てるなんて愚策を選べはしないのだ。

軽はずみだとなじるならば、凛を節制生活に漬け込ませた遠坂の遺伝と兄弟子にこそ、責任があるというもの。

 

(ってわけで監視は任せるわよ、アーチャー。どーせ、回復中で暇でしょ?)

(……キミは一言多く言わずにはいられないのかね)

 

簡単な打ち合わせを済ませ、詰めていた緊張を吐き出す凛にキャスターの笑みが深くなる。

 

「それじゃ、さっさと済ませちゃいましょうか。この後の予定も詰まってることだし」

 

決めたらすぐ行動をモットーとする優等生は、学校で見ない溌剌(はつらつ)とした表情で立ち上がる。

 

「……予定?」

「お風呂掃除のことかな?」

 

おうむ返しに尋ねた士郎はともかく、合いの手を打つような天然発言を凛は無視する。

キャスターから聞き出す魔術リストを構築させている上機嫌な彼女はそんなことくらいで心をささくれ立たせはしないのだ。

 

「今の衛宮くんに必要なのは情報でしょ。セカンドオーナーとして、聖杯戦争の管理者のところに案内してあげるわ。それで命を救ってもらった借りはなしだから」

「あ、ああ……」

 

笑顔の眩しさに目をやられた士郎の頭上にある時計は、23時を回っている。

聖杯戦争の開戦から立て続けに魔力のぶつかり合いがあったのだ。まだ起きているはずと凛はいけ好かない管理者を思い浮かべる。寝ていたとしても叩き起こせばいい。

契約の準備をしながら、赤い悪魔は隠しきれない喜びを漏らしていた。

 

 

 

 

2

 

 

日本では珍しい土葬形式の墓地をもつ言峰教会は、寺にとって鬼門であった。育てられた環境による宗派の違いもあり、顕悟にしても用事がない限り近寄りたくない場所だ。

 

ともあれ。個人のわだかまりは捨て置き、マスターに間違われたままランサーに殺されても目覚めが悪いと夜の散歩に同行させられた顕悟は、凛と士郎に数歩遅れて真夜中の教会に足を踏み入れた。

 

「綺礼、いるんでしょ?最後のマスターを連れてきたわよ」

 

無人の礼拝堂に凛の声が反響する。

初めて入った教会は荘厳と言うより、不気味だった。時間帯がそう感じされるのかもしれないが、顕悟は珍しく嫌悪に近い感情を抱く。ここには長くいたくない。

それは士郎も同じく、難しい顔をして落ち着きなく辺りを見回していた。

 

「ちょっと、大丈夫?具合悪そうだけど」

「……うーん、なんか胃のあたりがぐるぐるする。衛宮は?」

「全身、針に刺されてる感じだ」

「ふーん、ここも冬木の霊場の一つだし、初めて来た人にとってはそんな感じなのかもね」

 

神父を親しげに呼ぶ凛はグロッキーな男連中を置いて、月明かりだけを頼りに勝手知ったる礼拝堂をすいすいと歩いていく。

 

「夜目が利くなんて、猫みたいだね」

「慣れてくれば結構見えるぞ?」

 

士郎の助言をもってしても、膝をあちこちの椅子にぶつけている顕悟では到底追いつくことはない凛は最前席の手前で足を止めた。

 

「こんな夜更けに訪問するとは、礼儀のない妹弟子だな。何用だ、凛」

 

長身の無表情の神父がいつの間にか、台座に立っていた。

 

「うっさい。セカンドオーナーとしての仕事よ」

「いつから子守を引き受けるようになった。転職祝いは必要か?」

「いいから、さっさと聖杯戦争の説明してやって。それが役目でしょ」

 

凛から顔をしかめていた士郎を見た際に僅かに頬を動かした言峰は、その後ろにひょろりとした土筆を見定める。

 

「それはいいが、どちらがそのマスターなのだ。保護にしても、わざわざ消す記憶を増やすなど非効率だと思うが?」

「あっと、そうよね。神城くん、悪いんだけど」

「うん、終わるまで外にいるよ。頑張ってね、衛宮」

「お、おう」

 

がたいのいい神父の登場に怖気づいてた士郎の肩を叩き、顕悟は足取り軽く扉へ向かう。

 

「――ちょっと待ちなさい」

 

そのまま戻る気のない背中を、凛は見逃さない。

 

「あなた、保護受ける気ないの?何のためにここに連れて来たと思ってるのよ」

「記憶を消して安全に生活するためだと思ってたけど違うの?」

「……そうよ」

 

彼女から耐えるような硬さを感じ、顕悟は眉尻を下げた。それはやんわりと拒絶を示していた。

 

「――少年、キミは自殺願望でもあるのか」

 

真意を理解できずにいる()()に、言峰は口端を吊り上げる。

それが褒め言葉だとわかるのは、まどろっこしい皮肉と長い付き合いの凛くらいだろう。

 

「あのね、神城くん。一般人のあなたが魔術を知ったまま生きるのは苦痛しかない。聖杯のあるこの土地は監視もついているし、もし秘匿に厳しい機関に見つかれば命を狙われるわ」

「それは困るなぁ。冬木から離れる気はないし」

 

深くに根ざした土筆は、易々と動けるものではない。

いつまで経っても軽い調子に反して、凛の声に力がこもっていく。

 

「離れる離れないの問題じゃないのよ、殺されたら意味ないじゃない」

「でも僕が忘れたって遠坂や衛宮たちはこの先も続く。何度忘れたってきっとまた魔術と出会うよ。それに衛宮の家追い出されたら僕、帰る家ないし」

「そんなの、柳洞寺が――」

 

ハッとして凛は口を噤む。

寺が五本指に入る霊場でのほほんと生活していて巻き込まれない確率の方が低い。

結局はどこも彼にとってリスクは同じだ。それほどまでに聖杯戦争の渦中に潜り込んでしまった稀有な男。そして不幸なことに、彼はその覚悟をとうに終えていた。凛や外野が忠告したところで、聞く耳はとっくに切り捨てている。

 

「というわけで、保護は辞退します」

 

傍観していた言峰は見出した歪にほう、と感嘆でのどを鳴した。

 

「――じゃ、僕は出てるね」

 

古びた扉がギィと鳴きながら、閉じていく。

まるで断末魔のような悲鳴のようだと、誰かが呟いた。

 

 

 

 

 

ぶらりと教会を後にした土筆ん坊が敷地に放置されていたベンチに腰掛けてから、しばらく。

 

「遠坂と衛宮、なかなか来ないね」

 

傍目から見れば街灯に照らされている影は一人分。丑三つ時に近い時間帯、誰もいない教会で独り言を呟くイタい不審人物となっていた。

 

「教会なのに花がないなんてあるまじき。ハッピー感が足りないのはそのせいだ」

 

とはいえ昼間であっても何にもないさびしい雰囲気は変わらないだろう。

遮蔽《しゃへい》物がないせいで、丘を下ったところにある墓地の十字架が遠めに映る。寧ろ、薄暗い夜が本来の顔とばかりに生きた空間に視えた。

 

「その辺、どう思う?」

 

と、明滅を定期的に繰り返す外灯は投げられた話題についに根を上げた。

 

「……やはり、見えているか」

 

寄り掛かるようにして眉を寄せていた姿なき声(アーチャー)が、答える。

 

「なるほど。魔眼の類ですか、ならばキャスターが手放さないのも頷ける」

 

今度は、教会に顕悟たちを見送ったままの姿勢でいる(セイバー)が木霊した。

 

「キャスターが言うには魔眼ほど強力じゃないみたいだけどね。霊視、に近いのかな。もしかして、確かめるために2人とも黙ってたの?」

「素直に聞いてまともな答えがあるとは思えなかったのでな」

「はぐらかされるだろうと推測してました。キャスターがあの態度でしたので」

 

聖杯戦争の管理者であるならば危険もない、と双方口を揃えて建物の外で霊体化して待機していたアーチャーとセイバーだが、当初一方的に話しかけてくる一般人の扱いに戸惑っていた。

キャスターの関係者である以上、警戒を怠ることなく観察していたそれぞれのサーヴァントの疑心は徒労に終わるとも知らず、人畜無害相手にありもしない秘密を探っていたのだ。

 

「えっと……ご苦労さま?」

 

逆効果を与える(ねぎら)いに、剣と弓は息をついた。

片方は、いないはずの存在を、片方は態度に虚偽がないかを警戒していたのだが、意識しても疲れるだけだと割り切ることにした。

 

「他にも気になることあれば答えるよ?」

「キャスターのいない間が、好機というわけですね」

「というより、キャスターを助けてくれたキミ達に隠す必要もないし」

「――――」

 

聖杯によって選ばれただけの偶然。期間限定の過去(サーヴァント)に対して信頼を寄せ、見返りなく尽くす人間に絶句する。

 

「アーチャーはともかく、敵対する可能性のある段階で早計だと思いますが?」

「じゃあ、ランサーを追い払ってくれたお礼」

 

セイバーは若干、コレと一緒に生活していたというキャスターを見直した。

 

「ふっ、言い包められては英霊も形無しだな」

「その英霊に瞬く間に伏したのはどなたですか」

「剣の撃ち合いで弓が勝っては立つ瀬があるまい」

「……ほう。それは再戦の申し入れですか」

「怪我人相手に振るうのが、キミの剣かね?」

 

徐々に険悪になっていく雰囲気だが、あくまでも声のみ。

唯一の見物人は仲のよさに口を挟むのも野暮(やぼ)とし、音声の応酬(おうしゅう)は士郎たちが戻るまで続いた。

 

 

 

 

3

 

 

士郎が参加の決意表明し、それぞれの誤解も解け、帰り道は和やかな空気となっていた。

それが一変したのは、T字路に差し掛かったときのことだ。

 

「それじゃ、ここまでね。明日からは自力で頑張りなさい」

「ああ、ありがとう。遠坂」

「帰り、気をつけてね」

 

挨拶を済ませ、ちょっぴり逞しくなった士郎についていこうとした顕悟の身体がつんのめる。

 

「アンタはこっちよ」

「え」

 

くい、と凛が顎で指す道は衛宮家ではなく、学校の方角。遠坂邸に分岐する進路である。

全て話す事情の中に含まれてるのを忘れたわけじゃないでしょうね?と念押しされて、顕悟は反射的に頷いた。

 

「キャスターはもらっちゃったんだし、アンタだけ放り出すわけにはいかないの。ったく、素直に保護されていればよかったのにとんだオマケよ」

「いやいや待とうよ、遠坂。深呼吸」

「そ、そそそうだぞっ!落ち着いて考える選択だと思うぞ!」

「まずは衛宮くんが落ち着きなさい。……大げさね。部屋は余ってるし、家賃さえ払ってくれれば問題ないわ」

 

 

確かにキャスターと同居していた土筆ん坊なら間違いも起きなければ、実質他二名も同じ屋根の下にいるのだから凛の発言に無理はない。が、凛と顕悟は同級生であり、かつ、士郎の憧れの相手であるからして。歳相応の問題が大有りだった。

 

「一つ質問があるんだけど」

「なによオマケ」

「……支払いは月末でいい?」

「おおい、神城!?」

 

そうじゃないだろ、と叫ぶ士郎にようやく合点がいったと顕悟が振り向く。

 

「大丈夫。三日分の宿代は衛宮にも払うつもりだから」

「それは有難い――じゃなくてだなっ」

 

太刀打ちできる正当な理由もなく、士郎は言葉に詰まる。抵抗する己の原因を自覚しているが、告げるにはまだ不確かで形にならない。

だが今宵は正義の味方(えみやしろう)の願いが叶う、始まりの日。

歩き出しかけた凛は動きを止め、捕捉されている顕悟もつられるままに、悶々と考え続ける士郎の背後を注視していた。

 

「――――ねぇ」

 

鈴を転がすような楽しみを押し隠した声が、街の音を消していく。

 

「お話しは終わった?」

 

深夜に似つかわしくない無邪気な子供に、2メートル以上ある巨漢が脇に控える。

 

「こんばんは、お兄ちゃん。また会ったね」

 

坂の上に、白い少女が英霊を従えて立ちふさがっていた。

 




草夾竹桃(クサキョウチクトウ)』 別名:花魁草(おいらんそう)
協調、合意、あなたの望みを受けます、同意、温和、一致


次回は戦闘かぁ……うーん


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

□Insert□□□Calendula officinalis 01

魔女の契約。


|

 

 

使い魔であるサーヴァントが現世に留まる方法は、幾通りか存在する。

 

まず一つ、人間の魂に含まれる生命力を吸引すること。

一般人に内包されているエーテル量は魔術師と比べて少ないため、肉体保持のためならともかく、戦闘を行うとなれば百人規模の数を必要とする。

人が一人死ねばで大げさに騒ぎ立てる現代社会では、殺さずに摂取しなければすぐに正義に燃える魔術師に足がついてしまう。

必要とする数も跳ね上がり立ち回りも大きくなり、得られる量は良くてイーブン、悪くてマイナスである。

 

二つ、魔力のこもったものから生命力を抽出すること。

血液や唾液など人の体液や女性の髪といった命の危険そのものはないが、取り分も少なくなる。

宝石や食物など魔力を含むものならなんでも構わない反面、貯蔵にバラつきがあるため、運頼みの難点をもつ。当初、キャスターがもち掛けたまぐわいや、土筆お手製の植物などはこれに該当する。

ほぼ毎日摂取しなければ追いつかないため、手軽に用意できるものが望ましい。

 

そして三つ。魔術回路を有する魔術師から供給を得ること。

聖杯戦争の補正があるとはいえ、使い魔として破格の英霊を保持するための魔力は全て魔術師が負担する。相応の鍛錬を積んでいなければ、召喚直後に意識を失う者もいれば身動き不能になる者もいる。

そのためリスクと勝利を秤にかけ、上記の方法を併用する魔術師もいる。

今回、キャスターと凛が結んだ契約も漏れることなくこの条件を満たしているわけであった。

 

 

 

「どう?状態は?ちゃんと繋がったと思うんだけど」

 

二体目を手に入れたホクホク顔は、捲り上げていた服を直す。

体調を崩す様子のない彼女はキャスターほどとは言わないまでも、参加しているマスターの最有力候補だけある。

 

「……ええ、問題ないわ」

 

神経を使う作業のためとはいえ、他の面子を容赦なく庭に追い出した凛とキャスターの相性は悪くない。主に性格的に。

己を喚び出した最初の魔術師に比べ、清純で潤いある生命力は申し分なく、ただ――気分が優れない。

理由はわかっていた。

穢れなき清らかな花は、ときとして罪だらけの魔女を毒す。

遠い昔、擦り切れた記憶の残像に映る悲劇の王女が儚げに微笑んだ。

それでも、国に追われた王女は――戻る場所などない。そう、変わらない後押しをする厄介な男から逃れるためにも踏み入れる。

 

「――この時よりこの身は、あなたの杖として仕えさせて頂きますわ、マスター」

 

二度目になる誓いは、思ったよりも高い声となった。

まだ恋も、愛も、男も、女も、魔術も、死も、裏切りも、醜さも知らなかった小娘のようで――

 

(……バカバカしい)

 

唐突に夢は醒めた。

幼い容姿のせいで、心まで引き摺られるようになっては末期である。

 

「堅苦しくなくていいわよ。さっきまでのふてぶてしさを見せられちゃ、むず痒いわ」

 

こちらが本来の素なのだが、真名をまだ知らぬ凛はきっぱりと断る。

内情を知られずに済んだのはいいが、お転婆マスターにため息が零れる。土筆男により広げられた包容力をもってすれば可愛いものに見えるから不思議である。

 

「それで、話してもらえる?――人払いした理由は気付いているんでしょ?」

 

ぺんぺん草や半人前ならいくら騙せようと、血統書つきの魔術師は契約に優れていれば同時に破棄の手段の知識も備えている。

土筆ん坊と出会う以前の説明を避けたキャスターの思惑に気づいた上で、新たなマスターは裏切りの因子を持つ魔女を敢えて抱え込んだ。そこには、キャスターではなく傍にいた人物への信頼があるのだろう。

先ほどの茶化すような雰囲気と打って変った凛に、キャスターは居住まいを正す。

 

「ご想像通り、私は召喚した魔術師を殺しています。そのことで釈明はありません。少しでも我が身が従うことに後悔があるのでしたら、契約の撤廃を」

「本気で言ってるなら侮りすぎだわ、キャスター」

 

強気な視線は微塵も揺らぎはしなかった。

ここで引くくらいなら最初から話に乗ることも、こうして話し合いの場をつくるなんて無駄を嫌う彼女が時間を割きはしない。

 

「――そう。それなら既に殺めた事実を知って尚、彼が協力していると気付いているのね」

「確証はなかった。けど、あなたが主人殺し(つみ)を自白したってことは、神城くんもそれを知っているから、でしょ。天然が傍にいて隠し通すためには、誰にも言わないことが一番安全だもの」

 

人の口には角を立てられない。己一人が抱えていなければならない秘密を話した時点で、隠す必要がそもそもないのだと、凛は的確に情報戦を心得ていた。

実戦は初めてにしては、心理の掌握に長けている。筋はいい、と弟子になるかもしれない主人(マスター)をキャスターは見定める。

 

「知ったところであのマイペースぶりなんだから、ある意味大した胆だわ。……いや、あのボンクラだし、考えなしってこともあり得るか」

「あるもんですか。そうみたいだね、なんて一言で終わらせたわよ彼」

 

苦労のしわ寄せを経験した者たちのため息が重なる。

その辺の雑草を見るように目を伏せた凛に対してキャスターは共感が芽生えた。

いくら目を離そうとも気付くとひょっこり顔を出す土筆ん坊は、相手の都合など無視する生き物なのだ。分別はあるが、すくすくと伸びやかに、周りに同調することを知らない独自のノロさが神城顕悟改め根無し草のあり方である。

漂う哀愁に似た諦めを振り払うように凛が顔を上げる。

 

「ともかく、おかげで同業者(まじゅつし)を信じる担保を確認できたわ」

 

イタズラの成功を喜ぶ不敵な面構えの所以であるキャスターは、なるほど、と相槌をうつ。

改めて、年若い魔術師の評価をキャスターは変更せざるをえないようだ。

本性を計るためにわざわざ護衛を外し、内容次第ではキャスターを庇うであろう土筆ん坊を遠ざけてまで神代の魔術師を試したわけである。

なんとも勇ましいお嬢さんだこと、と紅に光る唇が弧を描いた。

 

「……それで、結果はどうなのかしら?」

「ギリギリ合格ってところね。真名から技能まで根掘り葉掘り確認するのは、面倒事を片付てからでも遅くないって思うくらいには信用してるわ」

 

合理的な判断に首肯する。

だが、そもそも素人同然の士郎に世話を焼く事態そのものが合理性から嫌われた所業であるのでは、と懐疑していたキャスターの口は、意に反して頑として動かない。

まるで少年少女の関係が万年草と魔女に重なる、なんて幻覚が金縛りのように彼女の意思を断絶させていた。

 

「でもま、なんだかんだで毒されてるんだから、むしろキャスターも被害者よね」

 

そして、更に聞き捨てならない台詞が奈落に突き落とした。

ピシリと固まった幼い淑女に我が意を得た手ごたえを感じたいじめっ子は、どこ吹く風で待ちぼうけの面子に話が終わった旨をジェスチャーで伝えていた。

それはコートを首まで着込んだ長身の影を呼ぶように手招きしているように見えた。

 

「――さて、そろそろ行きましょうマスター」

「くくっ、そうね」

 

故にエルフの敏感な聴力は、少女の揶揄(やゆ)をばっさり消去した。

間の悪いことに、庭から縁側の戸口近くまでやってきていた彼のくしゃみが青髪から覗く彼女の耳を(くすぐ)る。

 

「そうそう、キャスター――」

「……なにかしら」

 

真っ赤なコートを羽織る背中越しの呼掛けに、従者は律儀に応じる。

冷やかしの類いならばすぐに霊体化できるように構えて。

 

「私がマスターである限り、()()無関係な人間への手出しは許さないから」

 

そこでようやく、魔女は主人(マスター)の本当の目的を悟った。

厄介な男を引き離そうとしていたのは、なにも自分だけではなかったのだと。

 

 

 

 

 

 

 

 

そうして、一時間後には初仕事を任されていた。

霊体化しているとはいえ、幼き魔女が嘆きを隠さずにはいられないほどに事態は拗れていた。

 

(……確かに、これは厳しいわ)

 

だが、それを感じ取れたのは肉体を持たないサーヴァントのみ。属性に善をもつセイバーは勿論、白髪の皮肉男さえも入室を遠慮するほどに言峰教会の霊場は特殊といえた。

霊場に馴染んでいる赤い魔術師では気づかないほどに巧妙に隠された気配に、キャスターは自嘲した。

 

(案外、保護を断ったのは正解かもしれなくてよ、坊や)

 

つい今しがた外気を閉ざした扉は無言のまま。

この場に最も相応しくなかった人物の遠ざかる足音を追いかける聴覚に反応して、彼女の尖った耳が上下に跳ねるも、それを目視できる人物は出ていったばかりだ。

教会には、魔術師のみが残されている。

 

「では、始めよう。まず、君の名前を聞いておこう」

 

言峰綺礼と名乗った神父の興味は、既に七人目へ向かっていた。

 

「衛宮士郎だ」

 

関心がすぐさま、敵意に変わる。

どろりとした泥のような感覚は独特な教会の霊脈と似通っていた。

士郎の後ろに浮かんでいたからこそ、三日宿の縁しかないキャスターも気付けた微弱で明確な意思は殺気だけを感じたところで、首の後ろをさすっているだけの士郎と同じく、不快感を感じるに留まるだけであろう。

 

(……彼本人に聞いても仕方ないわね。気付いていないマスターは論外)

 

人間関係で苦労した生前であるからこそ、引っかかった程度の違和感を士郎が理解できるとも思えない。

思考よりも会話から情報を得る方が得策とした魔女は、以後口を慎む。

 

入れ代わるように衛宮、と小さな嘲りを神父は口ずさんだ。

 

「君はセイバーのマスターで間違いはないか?」

「それは違う。確かに俺はセイバーと契約したけど、聖杯戦争とかてんでわからない」

 

サーヴァントの戦闘に居合わせ、キャスターに睨まれるままにセイバーの召喚をしただけの彼は自宅では口に出来なかった本音を吐露した。

見物を決め込んだ六人目と透明の少女の眉が跳ね上がりそうになるが、まだ堪忍できるレベルだとして痙攣(けいれん)にとどめられる。

 

「なるほど、これは重症だな」

「でしょ?」

 

士郎の頭の中を覗いたキャスターを除き、頭を痛める事態であった。

 

「聖杯とはなにか、そこから説明せねばなるまい」

 

聖杯――聖者の血を受けたという杯。

響く言葉だけであれば、伝説や伝記が作り出した幻想として終わっていただろうソレは、数ある聖遺物の中でも最高位。手にしたものは奇跡を行うことができるというのが、喚ばれたサーヴァントに与えられる前知識であり、先祖から引き継ぐ冬木の魔術師の常識である。

繰り返して聞かせるように演技がかった語り部は続く。

 

「聖杯は自ら持つに相応しい人間を選び、戦わせ、ただ一人の持ち主を選定する。選ばれ、手に入れるために殺しあう降霊儀式――それが聖杯戦争」

「俺には戦う理由なんてない。セイバーを召喚したのだって、神城を助けたかっただけだ」

 

重々しく語り出されるのは、繰り返される戦争の歴史。

だが、偶然が重なっただけと無自覚に他人のせいにするようにも取れる主張にとって、それは血生臭さしかない悲劇だった。

人を救う正義の味方は殺し合いの中に築かれる未来(みち)ではないと、確固たる約束が決して士郎を怯ませない。

 

「それに俺なんかより、もっと優秀な魔術師はいる。それだけの大掛かりな儀式なら代わってもらった方がいい」

「残念だが、マスターというものは他人に譲れるものではない。その腕に令呪が刻まれた者はたとえ何者であろうとマスターを辞めることはできない」

 

更には参加資格の令呪は聖痕である。

都合が悪いからといって放棄することはできない。逆を言えば、放棄させることも難しい。

故に、薄青の淑女は返り血を浴びて再び魔女となった。彼女の事情を聞かされておらず、増してやマスターになる公算が潰えている士郎がその辺りを慮《おもんぱか》るなど土台無理な話である。――この先知る機会もない。

 

坦々(たんたん)と事実だけを並べた説明に、七人目は顔を怪訝に染めていた。

 

「なんだよ、それ。そんなあるかどうかもわからない物のために、殺しあうなんて――」

「無意味だ、と?」

 

ちっぽけな苦情は、魔術の世界に入りたての新米についてまわる葛藤だ。

人から魔術師になるために乗り越えるべき壁は、魔術に髄を埋めてきた側にとってみればほんの些細な駄々に過ぎない。そしてどれほど馬鹿げた発言をしたのか、本人が思い至るまでに時間がかかるからこそ半人前、と先人は呼ぶ。

 

「過去の英霊を呼び出し使役する。否、既に死者の蘇生に近いこの奇跡は魔法といえよう。物の真贋(しんがん)など、その事実の前には無価値」

「――――――」

 

とはいうものの、()()()物は七百以上も存在していれば、その一つである精巧なレプリカは教会でも保管してあるのだが、と監督役は子供をあやす様に(わら)った。

 

「……聖杯についてはわかった。だけど、それとサーヴァントが関係あるのか?」

「あのね、衛宮くん」

 

それまで腕を組んで耐えていた聞き手が、片目を開けて問うた。

 

「聖杯は霊体である以上、降霊するしかないの。勿論、私たちでも呼び出すことはできるけど」

「……霊体には霊体しか触れられない。だからサーヴァントが必要なのか」

 

ご明察、と凛は魔術師らしい言葉を初めて発した半人前に称賛を送る。

 

(……聖杯だろうとつくった者が人間ならば必ず綻びはあるもの。裏があるわね)

 

その背後で魔女はたかだか数百年前の人間が練り上げた理論を静かにあざ笑う。

聖杯なるものの製作者の捻れ切った性根には虫唾が走るが、輪廻の中に組み込まれている以上顔を合わすことができない。会ったら八つ裂きにしてやると豪語する彼女が二百年前へうっかりによって跳躍しないことを祈り、再び神父の声に耳をそばだてる。

 

「ここまで言えばわかるだろう。サーヴァントを最も早く倒す方法は、そのマスターを殺すことだ」

「なっ――」

 

最も効率的な手段は、士郎に気に入られなかったようだ。

だが、体内の魔力が尽きるまで現世にとどまれるとはいえ、血液を抜かれるような底冷えは体験した者にしかわからないだろう。

 

「だからこそ、殺し合いになるのだよ。サーヴァントを失ったマスターに令呪がある限り権利は残り、再契約はいくらでも可能になる」

「ああ、遠坂とキャ――」

 

スターのようにか、と安易に動こうとした軽い口を背後に潜んでいたゼロ距離の呪い(ガント)が封じる。

高速で振上げられた凛の拳を回避できたのだから、感謝して頂戴ねと見当外れな方向へ抗議している恨めし気な視線に護衛は嘆息する。

そっか、いたんだっけと慌てて手を引っ込めた凛に、もう一つ追加させた魔女は再び気配を闇に消した。

 

「と、ともかく、わかったでしょ?マスターってのはサーヴァントと契約できる魔術師であり、令呪の有無にかかわらず命を狙われるの」

「……令呪、の有無って……使う以外に、なくなるものなのか?」

 

脂汗を浮かべた士郎は崩れ落ちそうになっている膝についた左手を見下ろした。

その甲には赤い刻印が二つ色づいている。

 

「聞いたことない?身体を傷つけずに患部を取り除く魔術師」

「霊媒医師、だったか……手品みたいなもんだと思っていたんだが」

「ま、間違ってはないわね」

 

霊体を繕う事で肉体を治療する、特殊な魔術師。

メス一つ入れずに腫瘍(しゅよう)を取り除く”呪術”でもあり、未開の地で使われる外道と肩身の狭い魔術であったと士郎は記憶している。

 

「綺礼はこう見えて、その霊媒魔術使いなの。だから、監督役なんて任されてるんでしょうけどね」

「……どういう意味だ?」

 

戻りかけてきた体調を整える時間を引き伸ばそうと思っての質問を、なんとなく自慢気にしている神父の弟子は真っ当に受け止め、自身の刻印を示した。

 

「もっとも剥がすだけなら他にも方法はいくらだってあるわ。腕を切り落とすなり、それこそ令呪を使って擬似的な令呪を作成するとか」

 

所詮、令呪は魔術回路神経と繋がっている。神経ごとぶった切るか、引っこ抜けばいい話。

なんにせよ神経を直接弄られるわけであるから、痛みは半端なものではない。

 

「令呪を残したまま保護を申し出れば、それを取り除かない限りマスターであり続けるじゃない」

「そうか、令呪の除去が仕事でもあるわけだな。なら、監督役ってみんな霊媒医師なのか?」

「いいえ。教会の秘蹟(ひせき)使いでもごく一部しか扱えないし、綺礼ほどの腕は早々いないわよ」

「――そこまでにしておけ、凛」

 

本人は思うところがあるのか、嬉しくない話題のようだった。

 

「霊媒は肉体に依存する接触治療にすぎない。肉体に依存しない存在証明である魂そのものに触れられる奇跡にはほど遠い」

 

クセがある神父であっても、やはり魔術師である。

求めてやまない根源までの距離において謙遜が止むことはない。

 

「マスターでなくなった魔術師の保護をするのが最優先事項の職務としては、頼りになるが」

 

魔術を一般社会で使用を罪悪とする以上、病院や警察に駆け込んだところで解決できる問題ではない。医療に長けた魔術師が監視役であることは、殺し合いの最期の良心なのかもしれないと、半人前は漠然と捉え、

 

「――っ」

 

背筋を襲う敵意に再び汗を噴出させていた。

 

「此度は最短周期の聖杯戦争、なにが起きても不思議ではない。この街に潜む第四次聖杯戦争の爪痕もある。衛宮士郎ならば規模は想定できると思うが?」

 

――死傷者500余名、焼け落ちた建物は百件を超え、未だかつて原因不明。

ベンチの設置や保養の植林はされているが気配は10年前からさして変化はない公園――焼け野原での唯一の生き残りは降りかかる重圧に奥歯を噛み締めた。

 

「……十年前のアレも、そうなのか?」

「参加した人間が言っているのだ、嘘はあるまい」

「なっ……アンタは、まさか」

 

前回のマスターは、憂いとも似つかない空虚を帯びて忠告する。

 

「戦いを回避した男には、聖杯など手に入らなかった」

 

その身は脱落し、空の聖杯を前に絶望し、抜け殻となっていた。

悔恨。侮蔑。嫌悪。

自らを傷つける感情を味わい、聖職者とは正反対の(いびつ)は愉悦を我慢する。

 

「聖杯を手にする資格がある者は、サーヴァントを従えたマスターのみ。――意思をここで決めねば結果は同じこと。いま一度、尋ねるとしよう」

 

何度目かの質問。

焼き直しのような問いかけに応えようとする意思は打って変って静かであった。

 

「衛宮士郎、君はセイバーのマスターで間違いないか?」

 

突きつけられた選択は、決まっていた。

 

「――――ああ。俺はセイバーのマスターとして戦う」

「結構」

 

長い溜めを要した士郎の決意への反応は呆気なく。

 

「今回の聖杯戦争は受理された。――これより、マスターが残り一人になるまで、この街における魔術戦を許可する。各々が自身の誇りに従い、存分に競い合え」

 

無意味な宣言は、手探りの衛宮士郎に向けてか同門であり弟子である遠坂凛に向けてか。

傍観者であるキャスターの前で十字を切る神父を付き合いの長い少女は胡散臭そうに眺め、(きびす)を返す。

 

「凛。今後、教会に足を運ぶことは許されない。次に来ることがあるならば――」

「保護を願う場合のみ。ええ、わかってるわ」

 

素っ気無いやりとりを済ませ、用が無くなった教会を後にする。

傍若無人の振る舞いで挨拶もせずにさっさと外へ出て行く凛に姿なき従者はついていき、士郎だけが、扉をくぐる前に足を止めることになる。

 

「――喜べ少年。君の願いはようやく叶う」

 

投げられた祝福によって。

意味などなかった。ただ、その神託は彼自身もまだ知覚できない胸の奥に突き刺さっていた。

 

 

こうして世界は一変する。

殺し殺され、奪い奪われる。冬木という土地全てにおいて等しく、その関係から抜け出すことは許されない。何人(なんびと)たりとも――例外はいない。

 

 




金盞花(キンセンカ)


◆ステータス情報が追加されました。
クラス キャスター
真名 
マスター 遠坂凛 new!
属性 中立・中庸 new!
筋力E 魔力A++ 耐久D 幸運D 敏捷C+ 宝具C


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

■Paphiopedilum

前話(インサート)を今月分にして、来月のストックにまわす心算が投降していたという。
あくまで目標……サボるなってことですかね。


 

1

 

()()を口に出して表現するには、死を乗り越える必要があった。

 

「バーサーカー……」

 

気圧されていた己を恥じながら赤い魔術師は、怪物の登場に歯切りした。

人体の極限まで隆起させた筋肉は、鋼鉄であろうと人形の如く容易く千切る(たくま)しさ。()にしてみればこの世の物質はなんと呆気なく、(もろ)いのかと不満を残すだけである。

圧迫する敗北感がじわじわと、凛の空気を乾燥させていく。

ソレは使い魔などと可愛らしいものでも、他のサーヴァントクラスより以前の問題――破綻は(ぎょ)せるものではないと、魔術回路が悲鳴を伝えてくる。視覚からの情報過多に脳が焼けるように熱をもった。

 

「こんばんは。私はイリヤスフィール・フォン・アインツベルン――っていえばわかるよね」

「アインツベルンですって……?」

 

純粋な少女は怯える獲物に唇を吊り上げ、服の裾を摘んでいた。

体温を守るためだけの帽子とコートに包まれた白兎。その赤い瞳が、恍惚と夜に輝く。

――アインツベルン。冬木の聖杯をつくりあげた御三家の一つの令嬢。日本では小学生ほどの背格好でしかない少女の実力を、唯一凛だけが精確に見積もっていた。

だが、有能な魔術師など歯牙にもかけずイリヤスフィールの興味は一つ。

 

「ちゃんと喚びだせたんだね、お兄ちゃん」

「え……」

 

赤い眼光が狩猟者の如く衛宮士郎に向けられた。

養子になる前はともかく、一人っ子である士郎は寝耳に水な妹に逆らえず、勘違いを正すことはできなかった。

その狐に抓まれたような顔を見れば、喜び爛漫な少女の大人びた顔は不満に歪んだことであろうが、幸いにも士郎を隠すように彼の前方には壁が立っていた。

 

「……あれ、あなた……」

 

獲物を遮っている土筆に少女が気づく。

憂いが過ったように見えた赤い瞳に意識を向けた瞬間、

 

「――ッ」

 

――理性を血に、肉に、脊髄に代価させた存在に狂わされていた感覚が()ぜた。

幻想から現実に唐突に引き戻された肉体が忘れていた呼吸を再開させ、冷たい酸素が一気に肺を満たす。顕悟はたまらず咳き込んだ。

 

「……そっか、リンの仲間だったんだ」

 

名だけの知り合いの凛でもなくお兄ちゃんと慕われる士郎でもなく、顕悟を見てイリヤスフィールは嘲笑する。

 

「ま、関係ないか。どうせ、ここでみんな死んじゃうんだし」

 

殺し(あそび)方を選ぶ素振りで、兎は新しい玩具のに可愛らしく笑い声をあげる。

その隣でちっぽけな人間の恐怖を見下ろす怪奇に満ちた異形はただただ静かに、白い少女の命令を待つ。

それはまるで、小さなお姫様に忠義を尽くす不恰好な野獣。

 

「アーチャー、傷は――そう、なら本来の戦い方で援護して。私はキャスターと後方支援にまわるから」

 

流れるような呟きが耳朶を打ち、飛ばされていた意識が異国の囚われ姫から掴まれていたままの腕へと切り替わる。

 

「衛宮くんは――」

「セイバーと戦うって決めたんだ。残る」

「――ってわけで、神城くん。やっぱりさっきのなし。このまま衛宮くんの家に帰りなさい」

 

英語の授業でも聞いたことがない綺麗な流暢な優しさに焦りを押し隠し、繋がっていた体温が離れていく。

ここで戦力の差を明言したとしても無意味。怪物を形どっているどろりとした濃厚な魔力が視神経へ刻まれてしまっている顕悟は、凛や士郎以上に鮮明な一方的な暴力(みらい)を幻視する。

 

「挨拶は済んだ?なら――やっちゃえ、バーサーカー」

 

先手は狂い墜ちた英雄――。

剣と称するにはおこがましい棍棒(こんぼう)を振上げて、その下にいた剣兵を叩き割る。

 

「――セイバーッ!」

 

大柄な身体を盛り上げている筋肉は、腕力だけでなく速度も軽く光を超えていく。

だが、それよりも(はや)く――、主の声に応える光の剣聖が技術で迎え撃つ。得物がぶつかり合う火花も、金属のような耳障りな音も全てが、遅い。

最初から狙いに定められている自覚があった剣の使い手は、真っ向から赤く染まった戦闘狂と撃ち合う。全てが狂った男であってもやはり剣に惹かれる意地があるのか。

 

「■■■■■■■■■■!!」

 

叫びともつかない雑音が空気を切り裂き、拮抗していた剣兵を弾き飛ばした。

 

「――ッ」

「逃がさないで、バーサーカー!」

 

地面に跳ね飛ばされていく的を追ってそのまま、主人を肩に乗せたバーサーカーは巨体を駆動させる。

人間など最初から存在していないとばかりに、凛たちに背中を向けて。

 

「くっ、セイバーッ」

「あのバカ!行くわよ、キャスター!!」

「――ええ」

 

自身のサーヴァントの窮地に士郎が駆け出し、セイバーだけでは手に余ると直感で感じる2人も移動していく。

そして、ポツン、と土筆だけが罅割れたコンクリート道路に残された。

 

凛から提示された逡巡することもないわかりきった選択。逃げるのならば絶好の機会だった。

行動理由であったキャスターが無事に凛と契約した以上、戦闘によって散らす命は彼女達の自己責任となった。

サーヴァントの存在意義である聖杯戦争を止める気もなければ、戦うなと邪魔する気も顕悟にはない。できるなら彼女達には生き残ってほしいと願うが、それだけだ。

――なんてことはない。神城顕悟は人の生死に淡白すぎた。

そんな無情な感慨が動くとしたならば、やはりそれは薄情なめぐり合わせ。

 

「鍵、持ってきてないんだけどな……」

 

身も蓋もない日常の延長で、最後に残っていた顕悟もまた彼女らについて行き、

 

「――ッ」

 

――唐突に後悔することになった。

 

「ちょっと、なんでついて来てるのよッ!」

 

切羽詰ったような声に腕を引かれて、背ばかりの土筆は地面にしたたか腰を打ちつけた。

 

「帰れって言ったのに衛宮くんといい、なんだって独断行動する奴ばっかりなの!!」

 

墓地中央では死者の数だけある十字架を挟んで、聖剣と狂気が斬り合っていた。

理性を欠いた暴撃は遮蔽物があろうとなかろうと意に介さず弾き飛ばしていく。腕を振るう赤と金のオッドアイは敵以外見えていない。見る必要もない。

コンマ数秒に満たない斧剣の速度が劣る恩恵を受けているセイバーはともかく、周囲は溜まったものではない。

敷地の入り口付近で破壊物から身を守っている凛は文句を垂れる筆頭だ。

あのブラウニーでさえ、入り口から数十メートル離れた大きめの墓標に隠れるようにして剣戟に魅入っている。

つまり土筆のように棒立ちになっていれば、粉砕されている墓の破片という弾丸のいい的になる、という話である。

 

「……ごめ、ん」

 

怒り心頭の怒鳴り声に顕悟は、精一杯の謝罪をする。

鍵を忘れたため入れないから、という帰るに帰れなかった事情は、胃からせり上がってくる嘔吐感をやり過ごすために閉口せざるを得なかった。

 

「――神城くん、あなた……」

 

月明かりに照らされた顔は、凛の急接近でもってしても青白いまま。息も荒く、尋常でない発汗。

自らの状態が異常であることは土地に足を踏み入れたときから認識していた土筆であるが、なんとも情けない姿に笑うしかない。

 

「……すぐに治まるから。ここまで盛大な墓荒らしに驚いた、だけ……」

 

慣れれば治まる感覚的な症状とはいえ、マグマが噴射するように十字架という蓋を奪われた死人の恨みが吹荒れている戦場は二重の意味で苦痛を与える。

まだ壊れていない墓石に身体を預けぐったりとした土筆ん坊から凛はプイ、と顔を背けた。

 

「ま、いいわ。あの様子ならセイバーだけでなんとかなるでしょうし、ここにいる限り一応は安全よ」

 

凛の言葉通り、先陣では既にセイバーの優勢に変わっていた。

そして、決定打となる不可視の剣が、巨漢の首を刈り取り――

 

「――なっ」

 

驚愕は目撃者全てに等しく伝わった。

 

「アーチャー、援護!」

 

情勢の変化を見逃さずにいた魔術師から従順な弓へ。彼女自身も懐にしたためていた宝石をここぞとばかりに投げつけるが効果はない。

見向きもされない宝石魔術に交錯するように、どこからか放たれた流星が――首を落とされたバーサーカーの振上げられた右腕、その下敷きからセイバーを逃がす。

 

「――■■■■■■■■■■!!!」

 

ごろりと転がった頭と全く同じものが、咆哮した。

そればかりか、スピードも筋力も上昇したかのような鋭さが混乱の抜けきらないセイバーに襲い掛かる。

 

「っ――」

 

驚愕に染まる猶予さえ与えず防御もろとも剣兵を吹き飛ばした斧剣だがしかし、続く二撃目は出し抜けに止められた。戦術に割く理性などかなぐり捨てている戦闘狂が敵の駆逐を制止する理由は一つ。

 

「へぇ……バーサーカーの首を一つ取るなんて、セイバーってそこそこ戦えるんだね。せっかく頑張ったんだし、ご褒美にバーサーカーのこと教えてあげる」

 

付き従うマスターの命令のみ。

戦闘の渦中において、わざわざ手を休め、情報を敵に差し出すなど愚の骨頂。

だが、圧倒的な戦闘力の前に(ひざまず)く勝利を欠片も疑わない無防備な振る舞いは、巨体への絶大なる信頼があるからこそ成立する。

 

「私のバーサーカーはね、ヘラクレス。ギリシャの最強の英雄なんだよ」

「……ヘラクレスって、英霊の中でも最強に近い存在じゃない」

 

――ヘラクレス。

その能力はクラスに囚われることなく、バーサーカークラス特有の付加として理性と引き換えにステータスを超えた強化を施された大英雄。心技体に優れ、あらゆる武具を使いこなすその技量は、剣・槍・弓矢等、何を取っても百発百中の腕前を誇る。そして、その身は不死とされている。

 

「そんな化物、どうやって倒すのよ……」

「……英霊でも人として生きたのなら弱点はあるんじゃない?」

「首墜とされても平気な奴相手に?だいたい、それがわかったら苦労しないっての!」

 

うがーっとがなり立てる凛に優等生の優の字も見る影はない。土筆が学園の高嶺の花を求めるだけのクラスメートであれば、肝心なところで余裕を失う彼女の新たな一面に動揺しただろう。

しかしこの土筆ん坊、一筋縄では逆上せない。感情を波立たせることもなく、皮の剥がれ落ちた本性にも臆せず意見を述べる。

 

「復元したときに僅かだけど、()の循環が止まってた。たぶん、致命傷を与え続ければいつかは枯渇するんじゃないかな」

「連続攻撃……キャスター」

「――ええ。もっとも、筋肉ダルマの魔力耐久によって効果は変動するとは思いますが」

「構わないわ。こっちの魔力全部もっていって」

 

ここで出し惜しみしてはならないと囁く直感のままに赤い魔術師は啖呵を切った。

残量がスッカラカンになったところで死ぬわけじゃなし、寝れば回復する。問題ないと負けず嫌いの彼女は気前よく譲渡した。

 

「合図は任せましたよ、マスター」

 

すぅっと上空に雲のように浮かび上がった紫のローブが、闇夜に塗れる。

 

「そうと決まれば、ちっともこっちに気付きもしないあのバカを冷静にさせて作戦を伝えないとね」

 

膝に手をついた凛は齧りつく様にしてセイバーを一挙一動に魅入っている士郎との距離を目分する。直線距離にして10メートル、全力で駆けて2秒。だが、第二戦を繰り広げているバーサーカーとセイバーの余波を掻い潜って抜けるは危険地帯。

動きが鈍いセイバーを時折援護するアーチャーの射撃が地面を容赦なく抉り、先ほど以上に荒れ模様となっていた。

 

「……援護は期待できないか」

 

彼女の後ろにいるのは、魔術に専念しなければならないキャスターと何も出来ない土筆ん坊。

遠坂凛は魔術師だ。

魔術師には善も悪もない。ただその道にあるのは自分と他者のこぼす血だけなのだ。

 

「神城くんはここにいて」

「……遠坂?」

 

いくら同じクラスで授業を受けていようと凛は戦いの道に身を置き、顕悟は平凡に暮らしている一般人。巻き込まれた時点で怪しくなったが、まだ一線は越えてはいない。

人あらざるものと人らしくない人。凛と顕悟――2人を分かつ違いは、それだけ。

決定的な凛と顕悟の境界線であり、もともと別れていたものが明確に分かれるだけのなんの変化も必要としない距離だ。

だから、たとえ背中を向けた赤いコートの袖を掴んだ腕があったとしても、それを良しとしない男がいただけの話である。

 

「ちょっと――」

 

腕を支点にして、立っている者と座っていた者がすれ違う。地面に尻餅をついた少女は、半ば呆然と墓石を飛び越える背中を見送った。

 

 

 

 

 

2

 

 

――皮膚を抉るように、横殴りの瓦礫が掠っていく。

回避は最小限に前進力を殺ぐ障害だけを視野からカットする。脳裏にイメージする道筋は絶対不可侵。

飛来物を避けるのではなく、物が()()()()()()空間に己を忍ばせる。

考えるよりも早く、思いつくよりも速く、視るよりも疾く――。

 

「――ッ」

 

守られていた防壁から戦地に降りた土筆ん坊とて、闇雲に行動したわけではない。

彼は彼なりに、回避行動だけであるならば凛以上の能力をいかんなき発揮できると独自の計算の上で走者を代わった。

ほんの三日前まで毎日休むことなく積み重ねた空論。それは魔術師が聞けば鼻で笑う微々たる練磨による過信。

だが、既に彼は走り出している。正論から遠ざかり、軽率な飛び出しであろうと議論は役に立たない。今は、夢見がちな爺の趣味が人外の域に適応できるか否かが彼の命を握る。

 

酸素を求めて下がりそうになる顎を狙った右斜め下からの飛来物に、肘を突きたて身体を捻る。

全身の骨に響く痛みが肺に残っていた空気を根こそぎ奪い、呼吸だけでなく足首を掴んで離さない。

――ならば。

 

「――――ぐッ」

 

いっそ痛覚を捨てる。苦痛を味わう分の酸素は他に回せばいいと傾いたまま地面に両手をつく。

イカれた右ひじに体重が乗るよりも早く、片腕で側転を補助。真ん中から折られた十字の刑具を跳び越え――尖った杭がコート越しに腹を撫でる。

着地寸前の宙に浮いた身体に、休む暇など皆無と横殴りの投石が迫る。だが、土筆は避けられない襲撃に身を固めることもなければ気にも留めない。なぜなら――

 

「―――Vier Stil Erschiesung……!」

 

背後からの閃光が、その必要はないと背中を押しやる。

一斉に塵にかえてしまう魔力の塊。触れれば一溜まりもないソレらは、顕悟のいる軌道を把握しているかの如く正確無比。

なにやら必要以上の力が込められていたが、振り返ってはいけない気がした土筆は目標だけを見据えて頭から飛び込んだ。

 

「衛宮――!」

「ぐぼらっ!?」

 

そして、勢いよくタックルされたブラウニーともども転がった。

衝突した頭を押さえて悶えている士郎を待つ間に、顕悟もまた息を整える。

 

「な、なな、神城!?」

「……遠坂から伝言。キャスターが広域魔術を使うから遠坂の合図でセイバーを下げさせて、だって」

「お、おう」

 

仕事を果たし、伝令は満足げに笑いかける。達成感に浸り、仰向けに倒れている額のタンコブがなんとも格好がつかないが、血が上っていた士郎の頭を冷却するには充分だった。

 

「神城――悪い」

「いいよ、別に……キミはそのままでさ」

 

不自然に曲がっている左腕から士郎は気まずそうに視線を逸らした。今までセイバーの安否しか気にしていなかった己を恥じているのか、握られた拳は震えている。

だが、土筆は笑って許す。

一生懸命な眼差しは誰かを惹きつける。一つのことに夢中になれることが魅力の一つなのだ、と閉じた視界に見知った顔がいくつか浮かんでは消えていく。

 

「それより遠坂を見てないとタイミング逃がすよ?」

「いや、それが……さっきから、すごい目つきでこっち睨んでるんだが」

「……なんでだろね」

 

土筆のとばっちりを受けているとは知る由もない士郎は親の仇と言わんばかりの眼光に、取り戻した余裕を一気に消費する。

殺気立つ赤い悪魔の合図とセイバーの戦況確認の板ばさみで定まらない視点が――本来なら見過ごしていた伏兵に気付く。

 

「なッ、アイツ――」

「……どうかした?」

 

その外鎧(がいとう)は、正義の色に攻撃性を秘めた活力を(なび)かせていた。

士郎にとって憧れの形を表現したような一点の赤。よって彼は遠くに潜む弓兵に気付くことができた。

そして、衛宮士郎だからわかる。構えている複合長弓(ちょうきゅう)は、使い手の状態など関係なく射抜ける代物であり――弦を引き絞る矢は、異常であった。

()の造形は特殊かつ独特。中央が最も太く、両端にいくにつれてだんだん細くなる――空気抵抗を受けた際の震動率がよく、遠くまで威力を弱めにくく飛ぶ『麦粒(むぎつぶ)』に似て非なるその()は剣の如く甘美で――。

 

「まずい!!」

 

惚れ惚れするほどの矛先が、バーサーカーだけでなくこの場にいる全てに向けられているものだと士郎は知る。

そして機運にも、弓兵の嗤いとほぼ同じくしてキャスターの準備も整った。

凛はタイミングを計り、キャスターは魔術の行使に集中し、セイバーはギリギリまで標的を食い止め、皆がそれぞれの役割に徹していた。それほどまでに、この一手に重きを置いていた。

 

「衛宮――ッ!?」

 

故にセイバーに向かって飛び出す士郎に気付いたのは傍にいた顕悟のみ。だが、彼は動けない。

両足の腱は傷つき立ち上がることもままならず、かろうじて無事な左腕は緩慢でせいぜい身体の向きを変えるくらい。

 

「――――――ぐッ」

 

即ち、届かないとわかっていながら咄嗟に伸ばされた腕が空を切るのは想定内であり、反動で物陰から上半身が転がり出たとしても不思議ではない。

捨てたはずの痛みを拾い直した右半身を地面に伏せたままの格好で、顕悟はサーヴァントに抱き着く士郎を目撃した。

――刹那。

 

小さな魔女が、大地をひっくり返さんと暴力的なまでの魔力の塊をスコールのように降らせ――

幽かな殺意を孕んだ弓矢が一帯を穿つために放たれ――

狂気に染まった英雄が迎え撃つために斧剣を掲げ――

それぞれの思惑が全て集約した。

 

一瞬にして、永遠。

体感速度に翻弄されるままに余波を受け、覆いつくせない輝きに――顕悟の世界が半分暗転した。

 

「――――――――――!!」

 

残響に掻き消された悲鳴は己の耳にさえ届かず。

無様に顔を泥で汚している男に残ったのは、赤い世界。

赤い赤い赤い赤。どくどくどくどく、と動悸と共に指の間から生温かい液体が吹き零れ、反射的に押さえつけていた手のひらに柔らかい弾力が落ちてきた。真っ赤な液体に溺れるようにして、ごろり、と生温かい球体が顕悟を見上げていた。

 

「――――ッ」

 

誰かが、叫んでいた。

誰かが、嗤っていた。

 

生理的な衝動に任せるままに、四肢を丸めて嘔吐(えず)く。

泥だけでなく吐しゃ物にもまみれ顔は色を失い、触覚だけが鋭くなっていく。

 

「……うぁ……ぅ」

 

悲鳴のような嗚咽を垂れ流すままに這い(つくば)り、握り締めている己の眼球を無意識に潰さずにすんだのは薄倖か。

 

「――神城くん!?」

「……とお、さ……か……?」

 

赤黒く染まった世界に、不安げな少女の声が鳴り響く。

色々なものでベタつく顔を見せるのは忍びないというトンチンカンな意地は、汚れを拭おうとしたところで掴まれた。

 

「やめておきなさい。雑菌が入るわ」

 

引き絞るようなくぐもった声が、倒れたままであった土筆の頭の横にしゃがみこむ。

 

「視神経の復元なんてこれまた難易度が高い……一日で二度なんて今すぐ学費全額免除されたってお釣りがくるわね」

 

がさごそと衣擦れの後、出てきたのは舌打ちだった。

 

「……こんなことならもっと貯蔵品持ってくるんだった」

 

閉じた瞼の上から撫でるように凛は触れる。

泣きそうな少女が呟く。

 

「……ごめんね」

 

――謝罪の意味を問う間もなく、彼の脳は活動を停止した。

 

 

 

 

 

3

 

 

キャスターが乱入者に気付いたのは、全ての魔力を注いだ後のことだった。

 

紫の雨を掻い潜って愚鈍な人間ではなく、大地を割る宝具級の発動。

それは、人を殺すための一射だった。

負傷した状態で威力の劣る進撃が真に鋼の肉体に通用するはずもない。――つまり、狙撃手にとって本命はバーサーカーではなかったとキャスターは意図を弾きだす。

考えようによっては、潔癖のきらいがある主を裏切るような行為。

故に、剣錆(さび)になった傷を抱えながらも一矢報いた彼に称賛を送るべきか否か魔女は迷った。

 

「――驚いた。あなたのアーチャーやるじゃない、リン」

 

だが、バーサーカーのマスターは素直に感服するに至っていた。

蒸気を全身から噴出させているバーサーカーも同意するように、唸り声を上げる。

 

「セイバーはいらないけど、あなたのアーチャーには興味が湧いたわ。……だから、今日のところは見逃してあげる」

「あら、怖気づいたの?」

「ふふふ、殺すなら万全状態じゃなきゃ意味ないじゃない。欲張りすぎるとすぐに負けちゃうよ、リン?」

 

サーヴァントを二体保持する魔力不足を暗に示すイリアスフィールは、意味深にブーツを鳴らした。

当初の執着が既に失われている視線が瓦礫の一山に向けられたかと思えば、

 

「――また遊んでね、お兄ちゃん」

 

上品な一礼と共に、白い少女と怪物は去っていく。

残されたのは荒れ果てた墓地と、肉が焼けた異臭。結局、凛の注文通りスッカンピンになってまで放った攻撃は、層になった筋肉をミディアムにしただけだった。

 

「(……これだから、筋肉ダルマは嫌だわ)」

 

鼻に皺を寄せてキャスターは吐き捨てる。

……まったくもって(こじ)れた戦争になったものであるが、そもそも抉れていなければ戦争など起きはしない。

人が存在する限り歴史に波乱がついてまわるのは常。散々、闇に染まってきた魔女にとってはさして変わり映えもない風景で興ざめる。

 

さておき、今は忌々しい過去や去ったばかりの危機を蒸し返すよりも、安否の確認が求められる時である。

逸早く殺意に気付いた赤茶の半人前は、サーヴァントを庇って背中に破片を生やしていた。キャスターの位置から窺うに、脊髄を損傷する深さだ。だが悠長に会話ができる様子からも大事はない。

治癒に関してセイバーの恩恵があるのだろうと洞察する。

 

「(あちらは……放っておきましょう)」

 

そもそも痴話げんかに関わりたくはない。セイバーに容赦なく引き抜かれた元気な悲鳴がキャスターの見立てを証明している。

優先すべき赤を探して視線を彷徨わせ、

 

「――キャスター、ちょっと来て」

「どうしました?」

 

マスターに示されるままに降り立ったローブが鮮血に触れる。

瓦礫の影に投げ出されている肢体。その顔面は鮮血が皮膚に張り付き、血の仮面を被っているよう。抜け落ちた眼部だけが不自然に凹んでいる。

 

「――これは、一体……」

「……わからないわ。見つけたときにはもう……神経損傷を止めるために仮死状態にしたまではいいんだけど」

 

真っ赤な手から取り上げた隻眼。

材料は揃っていて手を拱いている理由は想像がついた。

 

「残念だけど、私の残っている魔力では手が出せません」

「そうよね、こっちが空っぽなんだし。……手持ちの宝石は使い切っちゃったし、あーもう、なんだって今日に限ってこんなに出費がかさむわけ!?」

「宝石……?」

 

ふと、キャスターは虚ろな土筆のコートを漁る。ところどころ破けていたり解れているものの、穴は空いてはいなかったポケットには確かな手ごたえがあった。

手のひらサイズの見覚えのある包装紙の封をキャスターは戸惑うことなく切る。

転がり出てきたのは翠珠――エメラルド。

 

「マスター、これを」

「そんな大した魔力もない小粒――って、待った」

 

有するコレクションに比べて見劣りはするが、魔力に申し分はない。

外界魔力(マナ)内界魔力(オド)に変換させる魔術を凛はもたないが、隣にいるのは神代の魔術師。それ以前に――

 

「なにこれ、自然霊がここまで形成してるなんて信じられない!」

 

魔力を通そうと思うだけで形を変える純粋性を保っていた。

途端に眼の色を変えた凛に小さな魔女は俯いた。

昼間の嬉しそうな土筆の顔が、どうしてか正直に伝えることを咎めさせる。

 

「治療を優先させましょう。右腕と足の治療は一先ず後回しに」

「……いいわ。この件についても後で聞かせてもらうわよ」

 

補助にまわるキャスターは弛緩した目蓋を押し上げ、ぽっかりと空いた穴に眼球を嵌め込んだ。

差し出された宝石を握りしめ、赤い魔術師が仮死体の目元にあてる。

 

「……ふぅ。我ながら上出来ね」

 

しばらく視力は衰えたままで不自由でしょうけど、と意識のない怪我人にかけた仮死を解く。

包帯の代用としてハンカチを広げ交互に破き、細長い布きれを巻きつけるキャスターの横で、勤労者は凝った首を鳴らす。

 

「さっさと帰って、全身の疲れをきれいさっぱり洗い流したい……」

「そうね。あちらも一段落したようですから」

 

傷がほぼ癒えた士郎を背負ったセイバーがこちらに向かっていた。

それを確認した今宵の引率者は、一つ増えた荷物を担ぐ人手を呼びつけるのであった。

 

 




常葉蘭(トキハラン)
優雅な装い、変わりやすい愛情、気まぐれ



【サーヴァント陣】
近距離
セイバー、契約が正常のため、原作より若干パワーアップ。
中-遠距離
アーチャー、負傷により、低ステータス。
キャスター、魔術によるバックアップ。魔力が充分ではないため、力は半分以下。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

■Magnolia quinquepeta

できるときにできるところまで、という結論に至りました……。


1

 

長い夜が明けた二月三日。

せっかくの日曜にも雲は多く、どことなく湿った南寄りの風が吹いている。生乾きの洗濯物と戦う主婦たちを憂鬱にさせる天候だった。

だが、天気など衛宮家の庭の隅で背を丸めている土筆には無縁。

 

ただ平常と違うとすれば、鼻歌を歌う彼の右目を塞いでいる包帯だ。花に現を抜かす朴念仁でも昨晩の記憶までは忘れてはいない。その上で、意識を失った己に出せる答えはないと、起きたときから暗く閉ざされていた片目について深く考えることを放棄していた。

ここのところ刺激的な日々に変な耐性がついていた。否、それに限らず、億劫な思考を棚上げしてこそ土筆ん坊である。

幸いにして変化した平衡感覚は、(くわ)が空ぶること幾たび、近くに放置されていたママチャリを犠牲にすることで――彼の名誉のために述べるならば壊す前に壊れていた――ようやく慣れてきた。

 

「……ふぅ」

 

額から流れる汗を軍手を嵌めた手が拭い取る。

かねてより、休日は丸一日かけて衛宮家の庭弄りをすると決めていた土筆ん坊の顔は言うまでもなく、満ち足りていた。土の性質を掌握した庭師に敵うものはいない。

 

「抉れていた穴も埋めたし、土壌は良好」

 

これで三芳に劣らない敷地の広さにも関わらず雲泥の差がある緑の量に、痛めていた胸の閊えが取れたと庭師は誇らしげに頷く。

植物はキャスターの沐浴しかり、心の保養の必需品。そう豪語するだけあってただの平凡な庭は日本庭園となり秩序が生まれていた。――やりたい放題である。

赤い魔術師は家の中の修繕はしたが、庭は放置していた。それに対して家主は叶わぬ恨み言を溢していたが、顕悟してみれば感謝御礼である。ガラスの破片が混じる心配もなく、土に触れるのだから。

 

「あとは、松の剪定と砂利を敷き詰めてあげればいいかな」

 

塀と平屋に映えている針葉樹に、次の標的を定められた。

そのままハシゴを取りに土蔵へ向かいかけた足に、見学していたため息が我慢の限界とばかりに大きく零れた。

 

「……ほんと、いつも通りね」

「あ、キャスター」

 

嬉々として背中を伸ばした土筆を縁側から薄青の少女が半眼で眺めていた。

三芳邸ではほぼ毎日目にしていた光景ゆえに、光に反射してマナが輝いてみえる幻視は黙殺する。

 

「もうお昼よ。作業に没頭するのもいいけど、食事してからにしてはどう?」

「あれ、衛宮起きたの?」

「いいえ。彼はしばらく起きられないでしょうね」

 

顕悟が起きたときは隣の部屋から物音はなく、僅かに開いていた襖から金髪が見え、空気を読んでそのまま過ぎた今朝方。

衛宮が寝坊なんて珍しい、と昨晩の半人前の状態を知る前に意識を飛ばした土筆は小さく首を傾げた。

 

「え、もしかして、お昼ってキャスターが作ったの?」

 

土筆と同じ時間帯には起きる主夫の欠勤。即ちそれは、料理人の不在である。

純粋に驚く言外に余計な気配を感じ取った小さな少女は、眉を寄せる。

 

「安心しなさい、マスターよ」

 

大人の姿ならともかく10歳児の背丈では料理も一苦労だわ、とすぐさま添削して返された。その薄ピンクの唇が尖っているように視えるのは気のせいか。

 

「……遠坂?」

「彼女は昨夜泊まったのよ。意識のない貴方たちを放り出すわけにもいかなかったようよ?」

 

てっきり運ぶだけ運んで帰宅するかと思い気や、顕悟ならずセイバーのマスターまで世話を焼くとは。ブツブツともう1人の従者に文句を言われながらも、ベッドを陣取った赤い魔術師の照れ隠しは同性としてキャスターは秘密にしておく。

 

「……というより、ここを通ったと思うんだけど、気付かなかったのかしら?」

「全然」

 

時間を忘れるくらいの顕悟が気付くはずもない。

朝限定のとある諸事情がある凛も凛で、学校で見かける姿となんら変わり映えのない土筆を自然とスルーしていた。

どっこいどっこいの間抜けさにキャスターは痛む頭を抑えた。様になるポーズではあるが、姿は子供のままではいまいち苦労が煤けている。

 

「私はこのままセイバーを呼びに行ってきますから、マスターを怒らせないためにもあなたはまず清めて来なさいな」

「わかった」

 

スニーカーを脱ぎ、開けられていたガラス戸から廊下にあがる。

靴を打ち合い、底に付いた土を落とす危なげのない仕草を、キャスターは顎に手を置き凝視する。

 

「……どうしたの、キャスター?あ、この眼?」

「ずいぶん楽しそうね」

「だってこういうハンディ、三芳でトラップにかかったとき以来だからなんか懐かしくて」

 

両目を隠されて生活していた過去がある彼の逞しさを嘆くべきか、ある意味生活する上で危険な仕掛けがあった三芳邸を打ち上げた己を褒めるべきか――。

キャスターが真剣に悩むほどに、顕悟は隻眼に馴染んでいた。

もっと一夜にして溶け墜ちた眼球が復活した衝撃とか、感動とかそういう諸々はないのだろうか――……そう冷淡に振舞う彼女が行った治癒魔術に慣れたためだという苦言は控えることにする。

 

「せいぜい、マスターに礼を忘れないことね」

 

とうとう、キャスターも説明責任を主治医に丸々投げた。

 

「うん、ありがとう」

「……私は貴方のマスターになったつもりはなくてよ?」

 

それはそうだ、とニコニコとした形の崩れない笑みを前に、露骨に嫌そうな顔をしたキャスターは身構えてしまう。

 

「もちろん遠坂には直接言うよ。けど、キャスターも心配してくれたでしょ。だからありがとう」

 

臆面もなく放たれる素の言葉は、いくら防ごうと凍らせたところで確実に蝕んでいく。

だからこそ、魔女は優れた耳を塞ぐ。

 

「……悠長にしていてマスターだけでなくセイバーに叱られても知りませんよ」

 

靴下に泥が入っていないか足の裏を確認しはじめた顕悟を尻目に、薄青の魔女は早々に和室へ向かった。

 

 

 

 

はてさて、キャスターの忠告のままに洗面台にそのまま直行した土筆ん坊であるが。

 

「あ」

 

そんな間抜けな声を合図に捻った蛇口から勢いよく、水が弾かれる。

飛び散った雫は服だけにとどまらず、鏡にも跳ね、眉を下げた包帯男の鏡像を映していた。

 

「……水つけたくらいじゃ、落ちないか」

 

(おお)われた顔の半分についた擦りむいたような茶色の傷跡を撫でる。

土を起こしているときに付着したのだろう。湿った土が包帯の清潔感を損なわせている。

綺麗に巻かれていたそれを解きながら、

 

「キャスターも教えてくれればよかったのに」

 

土筆は注視されていた勘違いを上塗りした。

起床時に走った痛みは今まで触れずに庭に出ていたせいか収まっている。とはいえ、勝手に包帯を取ったら凛しかりキャスターしかり、女性陣が怒りそうな予感がする。

 

「……巻き直すのも不衛生だし」

 

もういっそ回復していればいらないのでは、と開眼に再び挑戦した土筆の左右の()()が細められた。

 

「……あれ?」

 

鈍い翠色に光ったように見えた目との距離を縮めるように、身を寄せた。

あっかんべー状態の左右逆転した男たちが見詰め合う。そこには白目を充血させた、日本人らしいブラウンがかった瞳があるのみだ。

 

「見間違い、かな」

 

瞼を解放し、乾き始めていた目に潤いを戻す。

瞬きを繰り返すも本来のこげ茶色は痛みもなく、先日キャスターの仕立てで購入したセーターとジーンズとカジュアルな格好に着替える。動作に支障はなかった。

 

「……うん、やっぱり光の加減のせいだったんだ」

 

そうして、真新しいごわつきに揉まれながら廊下を歩いていると、玄関にある電話が鳴った。

逡巡することなく、古いタイプの受話器に手を伸ばした土筆は名乗り、

 

「はい、神城で――」

『おぉ!顕悟朗、ついに我が家の秘密に辿りついたのぅ!わしは嬉しいぞ!』

 

開口一番の呼び名違いに、名乗らずとも相手はすぐに判明した。妻に先立たれ、世界を放浪している三芳鋼三郎その人である。

そもそも、電話帳に掲載されている番号の横には「衛宮」とあるはずなのだが、一度も彼らの会話には挟まれることはない。もはや土筆と道楽爺にかかれば家主の預かり知らぬところで公衆電話と化していた。

 

「よく僕がいるってわかったね。お寺から聞いたの?」

『いんや。適当に数字を押しただけじゃ――なんての、衛星をはっきんぐしただけじゃがの』

 

鋼三郎の連絡先は不定期で変わるため、こちらから連絡のつけようがなかった。

事情も知らずに野生の勘で居場所を探り当てる三芳鋼三郎はやはり、土筆を育てた忍者屋敷の設計者である。そう、ハッキングなんて言葉は存在しなかった。

 

『家のことは心配いらんぞ!衛星を追ってみたが、大気圏に突入する寸前でバラけたわい』

 

丁度、鋼三郎が入国していたアラスカ上空にその破片が降り注いだらしく、ニュースにもなったそうだ。国際問題になりかねない裏事情を処理して、ようやく身柄を解放されたとスリリングな体験を誇らしげに報告された。

 

「でもまぁ、三芳じぃが元気そうで良かった」

『元気なもんかい!ロケットの形状改革会議に参加させられて、図面と向き合う日々なんてわしぁもう飽き飽きじゃ。もちっと老体を労ってもらわんと』

 

老体とは思えない内容の愚痴に顕悟が付き合うことしばらく。

電話口から英語に似た響きの外国語が聞こえたかと思うと、三巡回目に突入した洞窟探検の土産話がピタリととまる。

 

『――むぅ、もう見つかってしもうたか。そういうわけじゃ、金はわしがなんとかしてやるぞ顕悟朗!』

 

心強いエールを最後に、思わぬ要人との国際通話がぶつ切れた。

土筆は何事もなかったように受話器を静かに置き、電話機さえも何も聞いておりませんとばかりに澄ました沈黙を守った。

腹の虫が鳴き始めた腹ペコ王による催促が飛んだのは、その直後のことであった。

 

 

 

 

2

 

女性三名と昼食を終えた午後。

家主はダウンしている。彼が起きるまでは面倒を見ると律儀な凛はキャスターと部屋に篭っており、傷の癒えぬアーチャーは見張り、セイバーは士郎の護衛をしている。

結局のところ、午前の予定とそう変わらない時間を求めて散り散りになった。

 

だがしかし、真っ先に庭に駆け出すと思われた土筆はまだ厨房に滞在していた。

冷蔵庫を覗き込んで取り出したるは、二つの容器。

左には濃厚な赤と紫の彩りあるボールを、右にはチーズの香りが漂うカスタードを。

 

「うん、甘さも丁度いい」

 

ぺろりと指に付いたを試食した土筆は、オーブンからの合図を待つ。

それもこれも、用意しておいたプレゼントを紛失してしまったことに起因する。

今から買いなおす予算など家なき土筆にはなく、一定水準以上の衛宮家の台所まわりの設備を前に急遽変更を余儀なくされた。

破片くらいはあるのではないかと保管場所を漁ろうとした土筆の淡い望みは、肩から鳩尾にかけてバッサリ裂けている無残さが容赦なく打ち砕いた。むしろ、この冬はコートなしで越さねばならなくなった現実に土筆は若干しょ気た。

だが、1ヵ月分のバイト代が散財を割り切った土筆の復活は早かった。

 

「ん?……なにこの甘い匂い」

 

そこへ丁度、件の少女が鼻を利かせてくる。

昼までは制服だった彼女は私服へと着替えていた。貴重な学園の高嶺の花の姿であろうと、土筆は舞い上がることもなく淡々と。

 

「丁度良かった。遠坂、味見してくれないかな」

 

水洗いしたばかりの瑞々しい苺が乗せられ、その上から白に近いレモンイエローのクリームがホイップされた一口大の生地を差し出した。ティータイムに摘むには丁度いいサイズだ。

バニラエッセンスも仄かに香り、スペースの空いた小腹を刺激する。同時に質量を計る秤も刺激していた。

 

「まぁまぁじゃない?」

「そう、よかった」

 

神城君にこんな趣味があったなんてね、とクールに呟きつつ本音は大騒ぎであった。

先月、昼食を共にしたとき重箱弁当を相伴したときと似たような印象を抱いたが、メインとデザートの比重は異なる。

自制心の強い凛ならばともかく、これが陸上部トリオであったならば毎日たかられること必須であろう。今からでも身体研磨して体重を落としておこうかしら、と辛口な評価をした年頃の少女は本気で考えた。

ともあれ、腕が認められた顕悟はいそいそと盛り付けに取り掛かっている。

 

「キャスターとはどう?うまくやれそうかな」

「まぁね。関係は悪くはないわ。知識も豊富だし、こちらが弁えれば意外と付き合いも悪くないし……って、なによ?」

「いや、なんだかキミには助けられてばかりだなって思って」

 

こんがり焼けたタルト生地にたっぷりとカスタードクリームを流し込む。そして、冷蔵庫で冷やしてあったベリーや柑橘系フルーツが彩っていく。

 

「治療のことなら散々聞いたわよ」

「はは、そうだね。おかげさまで視力を失わずに過ごせてる」

 

礼よりも治療費をよこせ、と三度目のお礼の際に彼女の口から飛び出していた。

ならばと、部屋に飾るために摘んできたパンジーを差し出した土筆もなかなかに一筋縄にはいかない。

 

「だいたい、アンタの情報は丸々買い取ったんだから、お礼はいらないわよ」

「等価交換、だよね。眼を治してもらった代わりに僕の所有権を遠坂に移す、だったっけ」

「所有って……ま、いいわ」

 

土筆の生死さえも凛が握っている話に発展しているが、あながち間違ってはいないため、訂正はしない。

 

「神城くんがそうなったのって、いつから?」

「んー、お寺に拾われてからだから10年くらい前かな」

「……そう。なら中学のときは視えてたのね」

「説明のしようがないから一成にも言ってないけどね」

「そう、よね」

 

視線を伏せた赤い魔術師の胸中に、言葉にならない寂寥が渦巻いた。

最後の仕上げに取り掛かっている顕悟が、その歪む表情に気付くことはない。

 

「キャスターは花たちを育てていればいいって言うけど、他にも手伝えることはあると思うんだよね」

「……あなた、サーヴァントもないのに本気で関わるつもり?巻き込まれるならともかく、自分から踏み込むなんて綺礼も言ったけど自殺行為よ」

「知ってる。キャスターを助けた時点で戻れないって彼女に言われてる。戻れない道を戻ったら、迷子になるだけだから」

 

正論に見せかけた子供の屁理屈だと一蹴してしまえれば、凛とて楽できた。

どんな環境にいようと変わらない平和ボケした顔が、凛の子供の部分を逆立てる。

そこまで言うならやってみせてみなさいよ、という高見の見物(ちっぽけなプライド)。できもしないとわかりきっている未来をあざ笑う常識。

 

「……今後については衛宮くんが起きてからにしましょ。それまでに神城くんなりの考えを纏めて置いて」

 

逸らされた迷いは、魔術師になりきれない人の弱さだった。

 

「邪魔したわね……私はこれからまたキャスターの部屋にいくから」

「待って、遠坂」

 

それとタルトを食べるときは呼ぶこと、と釘を刺した凛を出迎えたのは、ずっしりとした完成したばかりのフルーツタルト。

 

「もっていってよ。砂糖は控えめにしたからカロリーは高くないし」

 

確かに『アーネンエルベ』並みの味をただで食べられるなんて魅力的だけど……。

ぐらりと傾いた魅力的な誘いを体重計の針が蹴り飛ばす。

顔を抑えて、ぶつぶつと一人の世界に入り込んでしまった凛もまた、甘味好きな少女であった。

 

「だからって丸ごと渡されても困るわ。せめて切り分けたらどうなの?人数だってそこそこいるんだから」

「遠坂がそうしたいならそうする。でもその前に一度、このままを受け取ってほしいんだ」

 

それほどまで私を肥やしたいのか、お前は。

ぎろりとした睨みにも、ホールケーキを支える腕はここぞとばかりに持ち上げられた。

ふわっとフルーツの香りと甘いカスタードが鼻腔をくすぐる。準備のいいことに、横には凛が持ち込んだティーセットが置かれている。アールグレイを選択する辺り、顕悟のセンスはいい。

 

「誕生日おめでとう、遠坂」

 

凛は硬直した。

言われた祝いの意味が、頭に到達するまでしばしの時間を必要とする。

 

「う……あ……」

 

一人になってから、祝われることなんて数えるほどだった彼女は、理解と同時に思考が停止した。学校での友人関係も希薄にしていた猫かぶりは、浅い付き合いのプレゼントをもらうことはあっても、手作りのケーキで祝ってもらうのは母親が生きていた頃以来――

父も母も妹もいて、無邪気に笑っていられた返らぬ過去が、そこにあった。

 

「はい、気をつけてね」

 

呆然としたまま、気づけばその腕にケーキとティーセットをしっかりと受け取っている。

 

「わ、悪いわね……」

 

思い返してみれば、この能天気は中学の頃から毎年やれ花だハーブだと贈りものをしてきた気がする。余計なものを思い返したと凛は慌てて打ち消した。

 

「……ありがと」

 

誕生日だと忘れていたとは、ついぞ口には出せなかった。

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

「おかえりなさい。嬉しいことでもあったのかしら?」

 

思わぬお土産を持ってキャスターの部屋に戻った凛はまず、出迎えた少女の顔を見ないように努めた。見ずともわかる。その視線は意地悪さと冷やかしに塗れている。

 

「……いいから付き合いなさいよ。こんなの一人で食べきる量じゃないわよ」

「せっかくのプレゼントでしょう?独り占めしたって咎めませんよ」

 

処置のためとはいえ、勝手に使った顕悟の翠石がプレゼントであったことはキャスターによって明かされている。バツが悪い気持ちに苛んだものの、謝罪は喉を通らなかった。なぜなら、何を隠そう彼が渡そうとしていた相手は己であったのだと――ホール大のフルーツタルトを抱えて歩く内に気付いた凛の顔は苺のように赤くなっていた。

 

「神城くんの能力が神殿造りに必要な理由はわかったわ。むしろ管理しないとダメだわ、アレ。悪用され放題じゃない」

 

本人に自覚がないせいで殊更骨が折れる。

そう、もぐもぐと菓子を咀嚼(そしゃく)しながら製造人を扱下ろす凛とて、人の家を興味本位で徘徊したわけではない。増してやオヤツほしさに台所に顔を出したはずがない。

キャスターの言葉の真偽を確かめるため、整備された庭に出て結界内のマナを量っていたのである。

結果、根城を変える案に異論はなかった。

 

「それじゃ、続きといきましょうか――()()()()?」

「……あまり、その名は連呼しないでほしいのだけれど」

 

一夜を明かした仲は、同性ということもあってか主従の距離を縮めていた。

そこには高圧的な姿勢は既にキャスターにはなく、主に忠実を誓ったサーヴァントがいるのみ。

 

「――で、正直なところどう思う?」

 

だからこそ、凛はざっくばらんに話を振った。

本来なら赤騎士がいるべき場所に佇んでいるは、薄青の魔女。真名を明かした今でこそ座していられるのは、(ひとえ)に、凛が魔術師としての意見を欲しているがため。

 

「まず、貴女の再生は完璧でした。後遺症もなく、以前の視力と変わらず機能しています」

「にも関わらず、瞳というか視神経に魔術回路ができてた。父さんが残してくれた文献は読み漁ったけど、こんなケース聞いたことないんだけど?」

「――考えられる原因は二つあります。マスターの送り込んだ魔術と視神経が癒着し、新たな回路を作成した。これは魔術師にとっての刻印の贈与に当て嵌まりますが……」

「ウチの家系にそんなのないわ。そもそも神経の復元をして進化するなら、どんなへっぽこでも魔法使いになれるっての」

 

やや壊れている凛に苦笑して、キャスターは続きを繋げる。

 

「でしたら、二つ目――錆び付いていた回路の復活です」

 

もともとあったものをそのままに復元したとすれば、筋は通る。つまり、凛の意図せぬところでなんらかの理由で閉じられていた回路まで修復したのだ、完璧に。

 

「だいたい霊体やらマナを目視できる時点でおかしいのよ。瞳系の魔術っていったら魔眼だけど彼の場合、対象物に働きかけているわけでもなく視えているだけのようだし」

「ええ、それは私も確認しました」

 

どちらにせよ知ってしまった以上、はいそうですかと野に放つわけにいかなくなった。

魔術協会に知られてしまえば、後ろ盾もない土筆は体のいい実験台にされ使い捨てられるだけだ。それがわかるから、キャスターとて、凛が信頼できるマスターとなったときに口を開いた。でなければ裏切りの魔女の二の舞になる。

そんな女の事情を、赤い悪魔はすかさず見抜いた。

 

「――ふぅん。結構、純情なとこもあるんじゃない」

「……なんのことでしょう?文句を並べながらバースデーケーキを残さず食べ切る貴女のことかしら」

「うふふ、面白いこというのね、メディア?」

 

赤い悪魔と魔女が笑い合う。

ひとしきり睨みあいを続けていた魔術師たちの空気が弛緩する。ママゴトの延長のような不毛な言い合いは無益と悟ったようである。

 

「話を戻すけど……これは、しばらく衛宮くんたちと共闘した方がいいかもね。バーサーカーの件もある以上、回復と情報収集が最優先だわ」

 

未だに士郎が目覚めぬうちに、庭も取り巻く環境も外堀を埋められていく。早く起きろバカ、と屋根の上からの秘かな焦りなど、誰も知る由もなく事は進められていく。

 

「そっちはいつ頃、整いそう?」

「魔力は二日、神殿は1週間というところでしょうか」

「なら戦闘はあの皮肉屋に任せて専念して。といってもアーチャーもまだ本調子じゃないし、しばらくは様子見だけど。昨日のような相手のときは参加してもらうから」

 

是、を表して魔女は頭を垂れる。

 

「それと今晩から魔術鍛錬に参加してね。忌憚(きたん)ない意見をお願い」

「構いませんが、ここで行うには準備が足りないのではないかしら……?」

「大丈夫よ。着替えと一緒にアーチャーに取りに行かせたから」

 

この通りと、膨らみきった旅行鞄を凛が示す。魔女の知らぬ間に運び込まれていたようである。

雑用扱いを受けるアーチャーに同じサーヴァントであるキャスターは涙するでもなく、薄ら寒くなる冷笑をその少女の顔に貼り付けた。

……着実に弓兵のヒエラルキーが降格していた。

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

おぞましい寒気に、色黒い肌があわ立った。

霊体であるサーヴァントは風邪をひくことはない。いらぬ心配だと、アーチャーは頭を振る。

 

「……まったく、飽きずによくやる」

 

その男は、人使いの荒い命令を遂行した赤い運送者が西洋屋敷との2往復目から戻ったときには既に剪定(せんてい)を再開していた。

建物と同時期に植えられた松に話しかけるようにハシゴから身を乗り出して、高枝まで届く柄のにぎりが長い剪定(せんてい)ばさみを操るバランスを支えるのはハシゴを挟む足のみ。よくぞ落ちないものだと関心を持ったのが見物する切欠であった。

 

労いの言葉もなく見張り番を申しつけた主人に聖杯の天罰がくだることを本気で(いの)った彼に暇つぶしの類いはなく、庭師を見下ろす。

墓場での滑走にしても土筆は見かけよりも実際の身体能力は高い。それこそ、考えなしにサーヴァントを庇う男以上に肉体は鍛えられていると弓兵の観察眼が光る。

 

「カミシロケンゴ、か……」

 

初めて聞く名は、感慨もなく、また見出すこともない。

瓦の上に胡坐をかいた眼下は、日が暮れても手を動かす速度のせいでみるみるうちに整えられてしまった。植えられている草木は変わらないというのに、葉の一枚一枚に艶がのっている。なんとも視力のいい眼が(あだ)となった。

 

「――ふむ」

 

パス越しに聞いた凛とキャスターの会話の内容を思い出し、アーチャーの眉間に刻まれた皺は深くなるばかりだった。

顕悟の目視能力は所詮、さして取り得のない凡兵には一生かかっても届くことのない幻想。

彼が一般人ではなく魔術世界の住人に近いことは、一目見た瞬間に理解していた。だからたとえ、せいぜい土筆風情が頭角を現したところで、英霊となったアーチャーにとって痛くも痒くもない。

 

本人が理解している以上に日常からはみ出した土筆はただただ土を弄っている。

それがマナそのものだと、魔女や凛は既に気づいている。だが、それ以上の可能性を映し出した鷹の目を閉じ、弓兵は呟く。

 

「……もし、障害になるようなら――」

 

警戒の抜けきらない硬い声は、しゃがみこんだ泥だらけの男に届くよりも早く。

木枯らしと共に空へと消えた。

 

 




木蓮(モクレン)
自然への愛、持続性


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

■Castanea crenata

1

 

 

寝坊者の叫び声が上がったのは、日が暮れてからであった。

 

枕元に正座していた精練したセイバーに士郎が驚愕してから時間を置くことなく、全員を居間へと呼びつけた凛は中央に腰をつける。隣には薄青の少女を侍らせ、その奥にほんわかした長身の茶坊主が控えている。

最後に、昼の五目炒飯に胃袋を征服されたセイバーが士郎を支え、他陣営のマスターの命令に逆らうことなく席に着いた。

 

「これで、全員揃ったわね。あ、アーチャーは見張りで屋外にいるけどちゃんと聞こえてるから」

「あ、ああ……」

 

食卓についている穂群原の優等生に感じる違和感を、長い眠りから覚めたばかりの士郎は理解しきれない。

まどろんだ反応を見て、察しのいい凛はすかさず疑問を諌めにかかる。

 

「あんまり無理しない方がいいわよ。傷は塞がっていても、召喚した分の魔力までは回復してないでしょうから」

 

前夜とは代わって配膳するのは土筆。凛とキャスターにはダージリンを、士郎とセイバーには緑茶を差し出す。完璧な好みの分かれ目である。

和洋が融合する卓袱(ちゃぶ)台にこれまた変な感じがするが、カップに口をつけた凛の表情に緊迫が走ったため、士郎は発言を控えた。

 

「……76点。今後も精進しなさい」

「うん、了解」

 

ハーブティで茶葉の扱いには寝れている顕悟であったが、紅茶はこれが二度目。まだまだこだわりの舌を唸らせるまでには届かず。

やはり、バイト先の筋肉店長の見様見真似では限界がある。顕悟は改善点の見直しに取り掛かった。

 

「って、いきなり脱線させるんじゃないわよ、もう!」

 

味見に一番真剣であった人物は、慌てて咳払いをする。

 

「それで、話ってなんだ?」

「ええっと……あーもう、考えてた順序が逆になっちゃったじゃない」

 

アンタのせいよ、と憎憎しく睨みつけられても、末席に座っているお茶だし係は自分に向けられているはずはないとばかりの自信に溢れた爽やかさ。

免疫のあるキャスターは(はな)からそ知らぬふりで、ミルクを入れたティーカップを傾けた。

 

「提案なんだけど。私と共同戦線、組む気ない?」

「俺と遠坂が、か?」

「他に誰がいるのよ」

「いや、そりゃあ俺は有難いけど遠坂、いいのか?」

「こっちからもち掛けてるんだから、いいに決まってるでしょ。変な衛宮くん」

 

憧れの女生徒に見つめられた士郎がサーヴァントに助けを求めるも、そこにはお茶請けに出されたカステラを頬張る美少女しかいない。

居間から離れにかけて漂っていた甘い香りを嗅ぎつけたセイバーの要望で、余った材料で焼いた土筆印の和菓子は騎士から鎧を見事に剥ぎ取ってみせていた。但し、眼光だけは狩人のソレであり、手を付ける様子を全く見せない凛の皿にまで食指を動かしている。もし気付かれでもしたら怒られるのは自分だと士郎は別の意味でハラハラした。

(しつけ)がなってない、と言われない内に半人前はセイバーの意識を菓子から外させることにした。

 

「えっと……セイバーはどうだ?俺は受けてもいいと思うんだが」

「ちょっと、そういうの私たちがいる前でフツー聞いちゃう?」

「む。いいだろ、別に。聞かれて困る話はしてないんだから」

 

間抜けな問いに思わず突っ込みが入るも士郎は応じない。

その子供じみた態度に口を挟む気がないキャスターさえもため息をこぼす始末だ。凛が呆然と言葉を失うのも無理はない。

 

「で、どうだセイバー」

「私は問題ありません。リンの人柄は好ましい。――それに、これほどの腕前を手放すには余りにも惜しい」

 

それって遠坂の魔術師としての腕のことだよな、と士郎は己が剣をただただ信じる。彼女が発する本気の気配はカステラを催促してのことではないと、台所に切り分けに行った顕悟を心の内で制止した。無論、その瞬間、背中に這いずり回った寒気によって思考を中断させられた。

 

「不本意ですが、キャスターにも恩があります。バーサーカーを倒すまで、ということならシロウのためになるでしょう」

「……そうか。けど、俺としては最後になったとしても遠坂とは戦いたくない」

「呆れた……まだそんなこと言ってるの」

 

昨日の引率と戦闘から何を学んだのか、と赤い魔術師は半人前をなじる。これならまだ、土筆の方が物分りが良いような気がしないでもない。大方、多分、恐らく。

 

「――――(もぐもぐもぐもぐ)」

「――――(サッサッサッ)」

 

徐々に喪失していく信用に気付かぬ顕悟は、セイバーへと献上したそばから消える焼き菓子をトングで追加していた。

果たして、剣兵の腹を満たすのが先か、菓子の貯蔵が底をつくのが先か――。そんな野外戦を繰り広げつつ、話は魔術に戻る。

 

「……それで、そろそろ返事聞かせてくれる?」

「ああ。その話、受けさせてもらう。よろしく頼む遠坂」

 

超一級とへっぽこの凸凹関係ががっちりと握手を交わしたところで、双方の皿からお茶請けが消失したのをキャスターのみが目撃していた。カステラ争奪の軍配はセイバーに上がったようである。

 

「それじゃ早速、ボンクラについての話し合いといこうじゃない」

「ボンクラ……って、もしかして神城のことか?」

「そうよ。基本的には人員の割けるこっちで守るようにする代わりに、住まいはそっちで提供してくれる?」

「ああ、それはいいけど……」

 

凛の提示は現状の延長である。士郎としては全く問題ない。むしろ洋館に住み込まれるよりは断然いい。

無銭飲食する組の孫娘とは違って、顕悟は雀の涙ほどではあるがお金を入れてくれている。律儀でかつ家事まで手が回る人手は、広大な衛宮家にはいくらでもいてほしいものである。

 

「問題は、聖杯戦争にどこまで参画させるかってとこね」

「そんなの決まってる。神城は魔術師じゃないんだ、わざわざ巻き込むことないだろ」

「――って、衛宮くんは言ってるけど、本人はどうなの?」

 

興味のなさそうな、それでいて一瞬の隙も見逃すまいとする凛の視線が物語る。できるならここで引け、と。

だが土筆は土筆の存意がある。ここで表明せよ、と静まり返った居室(きょしつ)はただ一人の言葉を待ち続ける。

 

「僕はキミ達みたいに戦うことはできないし、足手まといにしかならないのもわかってる。――だけど、知らん振りして生きるくらいなら、僕は僕にできることをしたいって思う」

 

少なくとも草花の育成や採血は、キャスターの役に立っていた。他にも、凛や士郎の助けになる支援ができると顕悟は不思議なほどに揺るがない。

 

「あいにく、まだ方法がはっきりとわからないけど……マスターとかサーヴァントとか関係なく、大切な人たちを失わないためにできることをやり尽くすよ」

「……それは――」

 

まるで誰かの、ヒーローのあり方であった。

衛宮士郎が渇望し憧れた姿の一面でしかなく、完璧な理想像からかけ離れかつ最も近い何かがあった。

正義の味方を夢見る男の胸に響いた軋み――。本来ならばもっと先の未来で交わる予兆。

存在するはずのない透明で繊細な調べはどこまでも澄んでいる。

 

「道半ばで倒れても、死ぬ以上の苦痛があったとしても。それを含めて人生だって思えるから」

 

後悔だけはしない選択を望み、修羅に踏み入れる。寧ろ今までが仮の世界だったとそう言う日も近いと、その場にいない者だけが嘲りを手向けた。

 

「…………はぁ。やっぱり、こうなるか」

 

お手上げとまではいかずとも手を焼くことになる展開に、お人好しな彼女の疲労は溜まる一方である。

 

「反論があるなら言っといた方がいいわよ。こいつ、これで言い出したら頑固だから」

「……いや」

 

中学からの付き合いの太鼓判には芯が篭っていた。決意と覚悟に共鳴していた士郎がまごつかずに返答できただけでも褒められよう。

本人が命をかえるといってるのだから外野が言うべき助言はない。せいぜい、骨を拾う約束を交わす程度である。

 

「そ。なら、ここまではいいわね」

 

温くなった紅茶を飲み干し、進行役は僅かに息をつく。

これからが面倒になるといわんばかりの間を置いてから、再び。

 

「衛宮くんはともかくセイバーなら気付いていると思うけど、神城くんはマナやオドを視覚しているわ。アーチャーと連れて歩くつもりだけど、必要なら手隙のときに本人に掛け合って」

「――なるほど、そういうことですか」

「……何がだ?」

 

二手三手先を見越した物言いは、半人前には高度すぎた。

 

「霊体化した彼らを確認できる、即ち――キャスター」

 

未熟度にも眉一つ揺るがない魔女の清楚な白いシャツに海のようなスカート姿が消える。

 

「……え?」

 

きょろきょろと見回す士郎を見かねて、凛は肘で微笑んでいる朴念仁を突いた。

 

「衛宮、後ろ向いて」

 

土筆に促されるままに士郎が真後ろに振り向くと、収納箪笥(たんす)しかなかった視界にキャスターが現れ、元いた場所に戻る。

 

「ま、こんな調子でサーヴァントを連れ歩いてる(あるじ)を見つけやすいってこと。篭城している場所の偵察にはもってこいなのよ」

「……すごいな」

 

感心するも束の間。

一緒に感嘆している土筆には覆しようのない欠点があった。

 

「……ん?でもそれって神城が前線にいないと意味なくないか?」

「更に言えば正当な戦い方をする相手ならいいけどそうじゃない奴らにとっちゃ、一番邪魔な存在ね」

「……ああ、だから護衛が必要ってわけか」

 

いつの間にか指名手配に上がり、暗殺されるなどさもありなん。

おかわりを奉仕しているお気楽人がそうなるとは思えないが、未来とはわからないものである。

 

「外出するときは私か衛宮くんのどちらかと行動してもらうことにはなるわね。ランサーを通してマスターだって勘違いされているらしいから、抑止力は働いていると思うんだけど……」

 

その辺りは臨機応変に対応することにしましょ、と凛はざっくばらんに纏めた。

 

「うん、僕はそれで構わないよ」

 

言われ続けてきた魔女の忠告とほぼ同じ内容に朗らかに頷くお尋ね者候補はどこまでも気楽であった。(そら)んじるような返事の先をキャスターのみが予言視する。

だが、幸運なことにソレを常々言い聞かせてきたキャスターは凛のサーヴァント。今後火の粉が降りかかるだろうマスターの方針に口出しなどもってのほかであった。――いらぬお喋りは災いの元である。

待ち望んだお役目交代は、たとえ聖杯と引き換えにされようとも譲る気はない。

 

兎も角も、うっかりで先見の目を曇らせた失態(りん)は魔女に拍手喝采され、話題を変えていく。

 

「神城くんについてはこれくらいかしら。次は、衛宮くんよ」

「お、俺?」

 

名指しされるとは思っていなかった士郎は向けられた瞳にあたふたと居住まいを正す。

 

「今晩からあなたの魔術見せてもらうから。協力関係なんだし、秘匿義務はお互い白紙にしましょ……昨日みたいな戦い方してたら、命がいくつあっても足りないわ」

「それは助かるけど、あんまり遅くなるのはマズイんじゃないか?夜道は危険だぞ」

「私の絶好調が深夜なの。別に結界内なんだし、サーヴァントが三体もいるココを襲撃する猪突猛進は流石にいないでしょ」

「深夜って……それじゃあ遠坂、移動が大変じゃないか」

「はぁ?大した距離じゃないわよ」

 

眉を顰めた士郎の懸念に怪訝そうにしている凛では解決の糸口はない。

どこか噛みあわない会話に終止符を打つべく疲れたようにキャスターが口を開く。

 

「彼は貴女の帰り道を心配しているのではないかしら?」

「ああ、なんだ、そういうこと」

 

あらゆることをそつなくこなす彼女にしては合点がいくまでに遅れた誤差は、真心からの言葉に弱い面が表立ったからであったが凛自身が自覚することはまだない。

 

「その心配は無用よ。私も今日からここに住むから」

「は?」

 

三時のおやつを平らげた後、消化運動がてらにキャスターの部屋の正反対になる洋室――母屋から最も離れた奥部屋を掃除していた凛である。アーチャーに命令したために実際は彼女の手によるものではないが、それは本題ではない。

ちゃっかり部屋は押さえてある上での発言及び抜かりのなさだけ、伝わればよい。

 

「保護対象の神城くんがここにいるんだから、私が住んでも別におかしくないでしょ」

「いやいや、おかしいっていうか困るっていうか、そういうことじゃなくてだな――」

「ふぅん?女の子と共同生活なんて衛宮くんなら慣れていると思うんだけどー?」

 

朝晩通う後輩の顔が浮かび、納得しかかった士郎はかぶりを振る。それとこれとはまた別の話であった。

人数が多いと楽しいよね、と修学旅行のノリに流されている土筆は言わずもがな。

 

「セイバーもいるんだし、ひとりふたり増えたって変わらないでしょ」

「……はぁ。わかった。世話になる量はこっちの方が大きいだろうしな」

 

どうにも、男女間の力関係には覆しえない差があるようである。士郎が魔術師として生きるのであれば、こればかりは諦めるしかなかった。

 

 

 

 

 

2

 

 

そんなこんなで、会議が終了した頃には巷で夕食の時間帯となっていた。

カステラに埋められた空腹感や、活動を開始して間もない腹時計が狂っていた主夫たちは冷蔵庫と相談の結果、鍋という選択を下した。

 

「土鍋とコンロ、先に持っていくな」

「任せるよ。こっちは切り終えた野菜から渡せるようにしとく」

 

士郎の手伝いで台所に立った顕悟を除いて、解散したままの女性たちは食卓で雑談を咲かせていた。世間一般と男女の役割が逆転していようと、おいしいものを食べられれば問題はないのである。

そこへまた一人。

 

「私は帰って来たーーっ!!」

 

やるときはやるけどやってもやらない方がまだマシな料理の腕前が転がり込む。

毎度毎度、出来上がった瞬間を嗅ぎつける嗅覚の感度を持つ大河はだらしなくふやけていた。

 

「今日初めての士郎のご飯だよー、むふぅ~いい匂い」

「はいはい、まだ生だから手を出すなよ」

 

大所帯の食卓にガスコンロを二つ設置し終えた士郎は飢えた虎に催促されながら、顕悟から運ばれてくる具材を入れていく。

しばらくして、煮込み完了とほぼ同じく、急きたてられながらも恙無(つつがな)く粒だっている白米が湯気を立てた。茶碗と卵がいきわたった、鍋の前にそれぞれ赤茶と黒の鍋奉行が陣取る。

 

「それじゃ、いっただっきまーす」

 

――熱き奪い合いの始まりを告げる銅鑼(どら)が鳴った。

 

「あら、ダシがおいしく出てるじゃない」

「坊やの仕込みね、これ」

「うん。白味噌ベースだから口当たりいいでしょ?」

 

比較的和やかに鍋を突く遠坂陣営。

ご飯を遠慮せざるをえなかった凛も白菜やきのこに舌鼓(したづつみ)を打ち、猫舌のきらいがある薄青少女は取り皿に息を吹きかけて温度を冷ます。

なんとも微笑ましい光景を前に、菜箸(さいばし)を取る土筆は全く頓着することなく鍋を仕切っていた。はふはふする美少女よりも鍋の世話に気を割くこの男――その実、大食らいなだけである。

鍋とは弱肉強食。彼のように胃袋に余裕がある者にとって、いかに早く目当ての品を拾いあげるかが満腹への道となる。

それを証明するかのように隣では、

 

「――――くっ」

「へへーん、お肉いっただきー!あふあふっ」

「――――せいっ」

「あー!育てていた私の()()()()()ー!?」

「熱っ!?2人とも汁が飛び散ってるって!!」

 

こおばしい飛沫(しぶき)を上げる大接戦となっていた。

 

「ふッ、なかなかやるわね――しかぁし!この千手の箸さばきを真似できるた者はいないわ!」

 

茶碗に山盛りの白米を猛然と大河は掻き込んでいく、残像さえ見せる勢いはしかし、ピタリと時を止め――

 

「って、なんか増えてるぅー!?」

「うぎゃあっ!?」

 

アツアツの飯粒がそのまま士郎の顔面に乱射された。

澄ました顔で席についている遠坂しかり、敵の隙を逃さず箸を動かすセイバーしかり。布巾を取りに向かった顕悟以外、誰も彼を案ずる者はいなかった。

 

 

 

しばし休題の後――。

 

「……士郎」

 

しっかりと残った汁でうどんまで平らげた自称大黒柱が腕を組んで、新参者を流し目で見る。

 

「どうして遠坂さんがこんな時間までいるの?」

「えっと、それはだな……」

 

困りきった視線が顕悟、キャスター、そして凛に巡回していく。

 

「我が家は今、全面改修工事をしていまして。私はホテル暮らしでもよかったんですが、神城くんからこちらを紹介されたんです」

「……確かに、学生でホテル生活は勉学に支障がでるでしょうけど」

「ええ。なんでも神城くんも最近、家を無くされたとかで。苦労するからと親身に相談に乗ってくれて……」

「まあ大変よね、家がないっていうのは」

 

家庭事情を聞いている大河としては強く出られない顕悟の事情。故に、まことしやかな誘導をされていると気付くことはない。それは既に魔術師の手中に落ちていることを意味する。

そうだったっけ、という土筆の呟きは正面からの渾身の笑顔に封じられた。

 

「ええ、ですからこちらにお世話になることにしようと思い直しまして。衛宮くんも心よく了承してくれましたし」

「……そうなの、士郎?」

「まぁな。話を聞いた以上、放り出すわけにはいかないだろ」

 

ぐぅ、と縞模様の長袖を着たひき蛙が鳴いた。

 

「でもでも、遠坂さんは女の子なのよ?男子2人、それも同学年の家に住まうなんて……先生、不純異性行為は許しません!」

「こちらにはキャスターちゃんもいますし、衛宮くんも神城くんもそういったことをする人柄ではないと思います。それとも、先生は2人を信じていらっしゃらないのですか?」

「そんなことないもん!士郎も神城くんも、真面目な子だもん!」

「でしたら問題ありませんよね」

 

言い包められたと大河が気付くも後の祭り。

故に、負け虎はどんでん返しに望みをかけて、もう1人の新顔へと半泣きとなりつつある両目を向けた。

 

「それなら、そっちの子はどうなの!そんな美人さん、学校では見たことありません」

「彼女はセイバー。私の親戚です。外国から訪ねてきてくれたのですが、間の悪いことに滞在期間と工事が重なってしまって」

「キャスターの友達になってもらえればって、それも含めて勧めたんです」

 

すんなりと続いた顕悟に、フォローされた凛が一番驚いた。

使えるものは使うのが魔術師であり優等生を演じ続けている彼女の定石であるが、手を加えていない万年草が立ち回るなど吉凶ではないかと疑いもした。

だが杞憂の外では、子供思いの教師に渾身の一撃をお見舞いしている。

 

「もぉ、勝手に決めて。いつからここは学生寮になっちゃったのよー……」

 

時として、本心からの発言は人の心を動かすものである。たとえ、本心だからこそ滑稽な発言であったとしても、大河の気持ちを傾けるに充分な働きをした。

優等生と英語教師。弁による対戦の勝者は図太く振舞い、敗者は膝をつく。

 

「ということで、よろしくお願いしますね。藤村先生」

 

その勝利に浸る顔が(しか)められるまでもう間もなく。

気配は土筆の隣から。音になるかならないかの僅かな身じろぎが証拠となる。

 

「桜ちゃんが悲しむんだからね、士郎!」

 

しかし、弟分に詰め寄る大河も本気の泣きが入った姉にたじろぐ士郎もそれどころではない。

 

「ほ、ほら!語学に多彩な遠坂がいた方が不慣れな異国で不安なキャスターも安心できるしな」

「なに言ってるのよ、キャスターちゃん日本語ぺらぺらじゃない」

 

意外と鋭い。

 

「それでも男より同性の方が話やすいってのはあるだろ」

「ぐぬぬぬぬ……」

 

陥落間際に追い詰められた虎は悔し泣きという唸り声をかみ殺し、流石に可哀相に思えてきた士郎がその肩に手をかけようとした瞬間、

 

「それなら、私も今日からここに住むーーーー!!」

 

最後の最後に、咆哮を響かせたのであった。

思わぬ乱入により魔術鍛錬は順延とされ、お泊り会に発展した夜はそうして更けていく。

 

 

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 

――唐突に、風が吹荒れた。

まるで北極にいるかのような吹雪の中、影が揺らめいている。蜃気楼のように消失を繰り返しているそれはまるで亡霊のようだ。……否。はためく影は人であり、背格好だけを見るに男のようであった。

 

持ち物などない。悪天候に荷物を失ったのか、それとも休むことを考えていないのか。

どちらにせよ、立ち止まっては凍死するのみ。

 

故に、男は足を動かしていた。そうしなければ失う命があるからだ。

 

だが、それは男のものではない。

抱えていると表現するにはおこがましい、寒さで固まった腕に置かれた布包み。

唯一無二、とうに感覚を失った男が感じられる体温。

 

「もう、少し……だ」

 

凍りかけた頬が、かすかに動いた。

包まれた中にいるソレに向けてか、朦朧(もうろう)としている自身に対してか。男は励ますように、残り僅かな酸素を吐き出す。

 

「もう少しで、お前は自由になれる」

 

不鮮明だった世界に、その男の顔が現れる。

 

――それは、まさしく。

 

 

 

 

 

「――ッ!」

 

布団を跳ね除けるようにして、顕悟は覚醒した。

全身の毛穴から汗が噴出すも、凍りついたように身体は冷たさを残していた。

時刻はまだ、丑三つ時。

下手に起き出して隣人を起こすのも悪いと、大の字に寝そべったまま不調を甘んじて受け止める。

 

「久々にこれかぁ……」

 

もう見ることもないと思っていた。

柳洞寺に拾われて三芳邸で生活するようになるにつれて薄れていった不可解な夢は、こうして再び顕悟の睡眠を奪うべく現れた。

 

未開人や古代人の間では、睡眠中に肉体から抜け出した魂が実際に経験したことがらが夢としてあらわれるのだという考え方が広く存在している。

だが、凍りかけの男は軽く成人している体格であり、降雪が多い冬木であっても遭難者が出るほどまでに積もった過去はない。

普段の生活で抑圧され意識していない願望などが如実に現れるケースも多く、また興味がある現象について夢を見やすいともいわれているが、雪山に対して特別な思い入れもなければ、行ったこともない。強いていえば、雪に埋もれた木々を心配するくらいである。

 

つまるところ、ただの夢と言えばそれまでの他愛無い幻覚。

 

「……寒い」

 

それでも彼は、ありありと身を刺すような凍えを覚えている。

神経が麻痺して徐々に自分が自分でなくなっていく感覚。それは死の擬似体験。

 

内容や分析は意味不明の顕悟であるが、夢を見るおおよその原因はわかっていた。

――狂気と交戦した墓場で刺激されたのだと。

そういった死に近いモノに()()()と夢見が悪くなるのは、神城顕悟として生まれたときからだと漠然と記憶していた。

故に、柳洞寺で寝泊りするときは決まって(うな)され、零観の豪快ないびきや一成の神経質な歯軋りに助けられる夜も多かった。また、その体質が寺を出る切欠になったことを顕悟は否定できない。

 

「出歩いたら怒られるよね、やっぱり……庭の手入れはやり尽くしちゃったし」

 

苦い笑いを浮かべる顕悟の頭上――閉め忘れた障子窓の隙間から月明かりが照らす。

 

「今夜は満月かぁ……」

 

ならばおやつはカステラじゃなくてお団子にするべきだった、と真剣に悩み始める顕悟にようやく血の巡りが戻ってきた。

自由の利くようになった身体に蹴り飛ばされていた布団をかけ直した彼は、眠れぬ夜を月見で過ごすことにした。

 

月影を捉える双眼が閉じられるまで――夜空は輝く片翠を優しく見守っていた。

 

 




(くり)
私を公平にせよ、満足、豪奢(ごうしゃ)


3/3一部修正。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

■Physalis angulata

1

 

 

虎の乱入による騒動により、宿泊準備に勤しんだ士郎の起床はいつもよりも早かった。

一つ屋根の下に憧れの少女が眠っている現実は、規則正しい生活が鉄則の士郎をなかなか寝つかせないほどの刺激があった。

凛だけでなく、金髪の麗人も一緒であることが鉄壁の理性に皹を入れた原因でもある。

 

「……夢じゃ、ないんだよな」

 

かじかむ素足を朝日に照らされながら、士郎は人の気配をかすかに感じさせる廊下でじっと胸を抑える。一晩たっても消えることのない鼓動が熱い。

 

――聖杯戦争。

たったの一日で全てが変わり、始まった。

脳裏に焼きついている月夜に照らされた神秘的な少女。白銀の甲冑を纏い、不可視の剣を振るう彼女が追い求めているのは、己の理想だけ。

ただただ、見惚れるしかなかった。その剣技にも、背中にも。だが、何もできなかったからこそ、どこか張り詰めているように士郎は感じた。

 

「おはよー!しっろーう!」

「おはよう。藤ねえにしては珍しく早いな」

「修学旅行の日しか早起きしないと思ったら大間違いなんだから!私だってできるときはできる!これが年長者の示しってもんよ。……むしろ旅行前日は一睡もできないんだけど」

「セイバーはとっくに起きて道場に行ったけどな」

「――士郎。セイバーちゃんは年齢を詐称してるのよ。なぜならこの私が勝てないんだから」

 

まるで可哀相な人を見る目で、大河本位の論理をのたまった。

就寝前にひと悶着があった口ぶりだが、敗北の歴史は語りたくない大河はすぐさま話題を変える。

 

「それじゃ、隣の家に挨拶して着替えてくるから、それまでにご飯の準備よろしくねー」

「あれ?藤ねえ、着替えなら昨日取りに行ったんじゃなかったっけ」

 

肩には道着のように小さいボストンバックが担がれている。三日分にしては量が少ないとは思っていたが、家も近いからと士郎は気にしていなかった。

 

「やぁねー、士郎。お泊り会はお開きになったら解散なんだぞ」

「いや、そうだけどさ、藤ねえ――」

「それともなにかなー?お姉ちゃんがいないと士郎は淋しいのかなー?」

「あー、はいはい。そうですねー」

 

いつもの調子に戻り、軽く流す。

そうして口だけの年長者は一旦家に戻っていきかけた足を止め、

 

「士郎」

 

滅多に見ない真面目な顔を向ける。

 

「やるからには最後まで頑張ること」

「ああ……そのつもりだ」

「よしよし、いい返事。だからって女の子を襲っちゃダメよ」

「ぶっ!?襲うか!」

 

悪戯の成功した小僧のように逃げ足早く、鼻歌を歌いながら去っていく後姿は決して侮れはしない。

 

「まったく……」

 

詳細な説明などなくとも感じあうほどの家族が士郎は誇らしくもあり、申し訳なくもあった。

 

「――彼女、大したものね」

「うおっ!?な、なんだ、キャスターも今日は早いな」

「坊や、いいかしら。あなたが立ち話している間もこの世界は平等に時が過ぎているのよ」

 

キャスターの呆れも尤であると、普段通りの位置に時計針があった。むしろ人数が増えた分、支度に遅れをとっている。

虎のいぬ間にちゃぶ台に陣をとったキャスターは頬杖をつき、完全にテレビ放送傍観姿勢に入っていた。

そのアンバランスな背中に家主はなんとなく遣る瀬無さが過ぎったが、感情の行く先を台所に託すことにし、決意を新たに三角巾を結ぶ。

 

「おはようございます、先輩……どうかしました?甘柿と渋柿を食べ間違えたみたいな顔してますけど」

 

言い得て妙な複雑な心境だ、と士郎は思わず苦笑する。

 

「いや、ちょっとな。桜こそ具合はもういいのか?」

「はい。ご心配おかけしました」

「気分が悪くなったら無理しないですぐに言うんだぞ?」

 

桜のはにかんだ笑みから耐え切れず小さく声が零れ、士郎は首を捻った。

 

「俺、なにか変なこと言ったか?」

「いえ、来る途中に藤村先生と全く同じこと言われたので……お2人の仲の良さはちょっと妬けちゃいます」

「……そんな微笑ましいものじゃないぞ」

 

隣家から戻ってくるまでに配膳が終わっていなければ、盛大な鼻息かつ声量の武力行使か回りくどい仕返しをされるに決まっている。

くすくすと鈴を転がすような笑い声から逃れるように、士郎は視線を手元に落とし、準備に集中した矢先――問題に気付いた。

 

「しまった。茶碗が足りない」

「神城先輩のでしたら食器棚にありますよ。出しますか?」

「そうか、神城の分があったか。いやそれでも一つ、足りない」

 

虎の絵柄とサクラの花びらの模様が描かれた茶碗に、一回り大きい有田焼。客人用が二つ。数え直したところで数は変わらない。

指折り数える士郎と向かい合っていた、桜の視線がふと見開かれる。

 

「おはよー……」

 

暖簾をくぐって、数え違いの原因の片割れが現れた。

おどろおどろしいソレが冷蔵庫から取り出した牛乳の一気飲みを始めところで、硬直状態だった台所に朝が戻る。

 

「と、遠坂……目が死んでるぞ」

 

半ばに下がった瞼。うっすらと黒くなった隈がわかるほどに青白い顔色。トレードマークのツインテールも心なしが垂れ下がり、穂群原の制服がなければ士郎とてそれが遠坂凛であるとわかりようがなかっただろう。

外野など見ざる聞かざる知らざるとばかりに生きた屍は一心不乱に買ったばかりのパックを傾けたまま停止している。ご丁寧にも手は腰に、後ろから見ただけでわかる彼女のスタイルのよさのせいか、ポーズは見事に様になっている。

それが余計に遭遇した者としては悲しい。

 

「……どうして、遠坂先輩が……」

「いや、その、だな」

 

未だに混乱が抜け切れていない桜の呟きに、納得させられる説明を士郎は持ちえていない。

しゃもじを片手に右往左往する主夫を見兼ねたのか、「……はぁ、仕方ないわね」と雰囲気で救世主がようやく復活し、開口一番。

 

「それはね、私も昨日からここに住んでるからよ」

 

――悪魔であると改めさせられた。

 

「……どういう、ことですか?」

「どうもこうも衛宮くんはもとより藤村先生の許可も円満に頂いているし、後輩の間桐さんが口を挟む問題ではないでしょう」

 

薄紫の髪で顔を隠した桜を真っ直ぐに見据え、凛は簡潔に反論を封じた。

 

「わかる?部外者であるあなたが立ち入る場所ではないの。見ての通り、人手は足りているからしばらくここに来る必要もないわ」

「遠坂、なにもそんな一方的に」

「衛宮くんは黙ってて」

 

彼女の論理でいけば、桜の行動を制限する権限もまた凛にはない。ただ、指摘を許さないほどの重みが桜にはなくて、凛にはあっただけのことである。

それに邪魔者を追い払うだけにしては迫力がありすぎる、と一睨みで黙らせられた家主は不思議な金縛りにかかったまま成行きを見つめた。

 

「……わかりました……わたし、帰りますね」

 

最後まで凛の目を見ることなく、桜は出て行った。

玄関が閉まりきった後、遅れて駆けて行く足音が聞こえ、身体に自由を取り戻した士郎はいても立ってもいられずに拳を握り締めた。

 

「あんな言い方しなくたっていいんじゃないか?桜だってきちんと話せばわかってくれる」

「だったら、私が来る前に済ませておけばよかったじゃない。忘れていた上に助けを求めた衛宮くんが言える台詞じゃないと思うけど?」

 

どこまでも彼女の言は正論だった。

冷ややかな視線が子供じみた責任の押し付けだと士郎の思考を批難する。

 

「……でも、そうね。フォローは任せる」

 

小さく、彼女は発言を修正した。

それはまるで真っ直ぐに桜を思う士郎のあり方から顔を背けるように。自分よりもよっぽど――らしい態度を直視できるほど、まだ彼女は心を殺せない。

もし、この場に人畜無害の土筆でもいればこんな空気にはなり得なかったのかもしれない。

と、頬を叩いたところでその男をまだ見ていないことに凛は思い至った。

 

「そういえば、神城くんは庭にいるの?」

 

まだ寝ているという選択はない。

睡眠よりも植物に触れる時間を大切にする男の性格を知らぬ振りができるほど、顔をつき合わせてきた時間は短くない。

 

「いや、20分くらい前に出たぞ」

「……よく聞こえなかったみたい。もう一度言ってくれるかしら?」

 

想定していたもののうっかり無防備だった桜との遭遇でそれなりに精一杯だった彼女の頭には、すんなりと内容が入らなかったようだ。

 

「だから神城なら学校へ――ぐはッ」

 

凛の聞き間違いであってほしかった願望は打ち砕かれた。

ついでに答えの途中であった伝言人の頬も打たれた。

口をへの字に結ぶ彼は、手を出したことさえ気付かずにぶつぶつと連ねられている呪詛を前にして抗議を諦める。

幸い、彼女が正気に戻るのに時間はかからなかった。

 

「なんで止めなかったのよ」

「美化委員会の仕事なんだから危険はないだろ?」

「……ちょっとそれ本気で言ってる?」

 

至極当然とする態度に凛は米神を押さえた。

そもそも幽霊委員だらけの自主活動に仕事などない。ただの趣味の延長で、彼が独断で続けているようなボランティアだ。

 

「……ごめんなさい。衛宮くんも似たようなものだったわね」

「それとなく憐れまれているように聞こえるんだが」

 

ご名答である。

昨日の取り決めはなんだったのか。すっぽり抜けている赤茶頭に捲くし立てる寸前で自制を間に合わせた凛は、唯一話が通じるであろう――テレビを惰性で眺めている薄青の少女に矛先を変えた。

 

「――キャスター」

「言われてませんもの」

 

にべもなかった。

ついでに我慢も限界だった。

 

「~~~~~~っ、ほんと信じられないあのボンクラ!」

 

周囲構わず、感情を顕わに凛は離れの洋室に向かう。

 

「なんであんなに怒ってるんだ、遠坂のやつ」

「……他人事でいられるのも今だけの特権ね」

 

謎めいた予言に士郎が首を捻っていると、数分も立たずに荒々しく廊下に足音が戻ってきた。

 

「悪いけど、用事ができたから先に行かせてもらうわ。衛宮くんもできるだけ早く来てくださいね」

 

満面の笑顔の穂群原一の美少女は、返事を待たずにさっさと姿を消した。

そして、出て行き様に摩り替わった般若は見なかったことにして、士郎は配膳に没頭するのであった。

 

 

 

 

 

2

 

 

はてさて一方。

どの部活生よりも早く登校した土筆ん坊は、その活用性のない長身を校門前で晒していた。

 

仕切られた校門のレール、一歩出前でぼーっと立っているのは通行妨害の何者でもない。

だが、今回ばかりは躊躇う正当な理由が存在している。

学校の敷地内を染め上げる桃紫。蔓延した禍々しい色彩は意志を持つ生き物のような蠢きは、視界に収めるだけで気分を悪くさせる。

 

「これ……新型の花粉、かな」

 

だとしたら大発見である。

校門を越えて不用意に伸ばされた手にすかさず付着する。

 

「――!?」

 

あっという間に腕が桃紫に変色し、微かな痛みと視界がぐらりと傾いた。

途端にむせ返るような甘美な匂いが鼻腔に潜り、到達した脳に幻視を魅せていき、

 

「――――朝っぱらからそんなとこで棒立ちして電柱か、アンタは」

「……美、綴?」

 

快活な声になんとか踏みとどまる。

腕にまとわりついていた粉は霧散し、もう寄り付きはしない。

そして、校内の()()()()は綾子には見えていないようである、と判断した顕悟は警戒を引き上げた。

 

「早くからご苦労様。今日も弓道部が一番乗りみたいだね」

「神城には負けるけどね。……で、誰か待ってんの?遠坂とか?」

 

衛宮に下宿している事情を知りつつ、訊ねる綾子も人が悪い。しかし、敵はさるもの引っ掻くもの――ブラウニーと競い並ぶ土筆ん坊である。

 

「遠坂ならまだ寝てたよ」

 

なにやら聞き捨てならない含みを、「いやいやまさか、大人の階段であるはずがない」と先入観の鬼気迫る働きにより綾子の耳はそのまま聞き流す。

突っ込んだら負ける。……色々と。

 

「ま、いいや。ならちょっと付き合ってよ」

「……あ」

 

腕を引いて校庭に足を踏み入れようとした美綴が、動かない木偶の坊を怪訝そうに振り向く。

 

「なんだい、アタシの誘いには乗れないってか?」

「まさか。元気な美綴といると清清しくなるし」

「そりゃ嬉しいね。アンタも背丈だけはあるんだし、武道でもやったらもう少し快活になると思うけどねぇ」

 

足元ばかり気にしている顕悟を引っ張るくらいの腕力もまた、幼き頃からたしなむ武道の賜物である。一歩、会話に止まっていた綾子の足が校門を通り抜ける。

 

「――っ」

 

踏み入れた片足が桃色の胞子に捕捉される。

が、それも一瞬。付着と同時に役目を果たしたとばかりに消え、それ以降は顕悟と同様、綾子に張り付く様子はない。

ただし、それが視認できたのは顕悟ひとり。

当事者にしてみれば貧血を起こした程度の体感でしかない。

 

「大丈夫?美綴」

「へ?あ、ああ」

 

どんなに綾子が鍛えていようと意識を飛ばした一瞬に身体を支えるのは無理がある。

それが、固い地面に倒れることもなく保っていられるのは――当然、支えが必要だ。

傍目から見て後ろから抱きかかえられているようにも見えなくもない格好に、芳しくなかった綾子の顔色に赤みが差す。それを見ていた土筆は安堵に頬を緩めた。

 

「怪我がなくてなによりだ」

「っ!わ、わるかったね」

 

逆さまとはいえ、至近距離で見上げていた綾子は突き飛ばすように体勢を立て直す。

気にした風もなくぼやぼやとしている土筆をちらちら見遣るなど、ライバルに見つかれば腹を抱えて笑われる乙女な反応。

自覚しているが故に、綾子の火照りは収まることがない。

 

「それで、弓道場まで行けばいいの?」

「いや、いい。なんかもう疲れたし聞くこと聞いてさっさと一人になりたい気分」

 

咳払いをする綾子が呼吸を整える時間をぼんやりと土筆は待つ。

大したことじゃないんだけどさ――そう、投げやりのように、照れ隠しのように一息に訊ねようとした綾子は口を開く。

 

「アンタの誕生日っていつ?」

 

――拍子抜けしたような無言の時を数瞬、要して。

 

「たしか9月、だったと思う」

「そりゃまた随分頼りないね。日にちは?」

「うーん、いつも山が紅葉する頃だから月終わりかな?」

「……なるほどね、こりゃあ生徒会長様も渋るわけだ」

 

生まれた日を四季折々の季節で覚えるとはやはり土筆は土筆である。来年の彼の誕生日は気温の変動や雨量によって1週間ずれ込むことであろう。

そんなバカバカしい予報にあきれ返った彼女が、普段の彼にしては強張った声音に気付くこともなく。

 

「一応これでいいのかねぇ……」

 

なんとも締りが緩かったが、本人が覚えていないなら仕方がない。

 

「気になるなら葛木先生に聞いてみようか?たぶん、入学書類には記載されてると思うけど」

「よく考えりゃ、その手があったね」

 

だが、わざわざ教師に生年月日を調べてもらうほどの動機がない。

そして何より綾子を動かしていた責任感と興味は既に落ち処を見つけて、乗り気を失っていた。

 

「あーあ、アタシもついに土筆菌に感染か」

「胞子が飛ぶにはまだ早いよ」

 

とりあえず、少しでもときめきかけた先の出来事は土筆を踏んづけた程度に記憶を改竄しておこうと綾子は決めた。

そうでなければ色々面倒なことになりそうだ、と土筆の後方の人影を見止め、盛大に顔を引きつらせた。

 

「――あらあら、朝早くからひとりで登校して美綴さんとデートですか?神城くん」

 

ぞわっと逆立った二の腕を必死に擦る綾子とは対照的に土筆は朗らかに片手を上げて挨拶するも、

 

「遠坂。早かったね」

「ふふ、ふふふふ」

 

笑顔の裏に青筋あり――。

だが本気に近い凛の怒りであっても、彼はぶれない。綾子などいつでも逃げられるように後ずさりしているというのに。

――つまるところ、呑気に挨拶をしている時点でそれに気付く敏さなど土筆には皆無である。

噴火寸前のマグマのような怒気を出した凛に詰め寄られようとも、声が届かなかったのかともう一度大きめに挨拶をするお気楽加減はもはや手遅れだ。

 

「美綴さん、せっかく良い雰囲気をお邪魔して申し訳ないのですが彼、お借りしてもよろしいですか?」

 

副音声に「勝手に連れて行くけど文句は言わせないわよ」と自動変換された申し出は首肯するほかない。幸いにして綾子には部室を開錠せねばならない義務があり、既に彼への用は済んでいる。

 

「どうぞどうぞ。返す必要もないよ」

「え?」

 

綾子が両手を差し出すより早く、腕を拘束されて校舎裏に連れて行かれる。

有無を言わさず大の男を引き摺る腕力に、ようやく彼は小さい同居人と似た逆らいがたい雰囲気を感じ取るが遅すぎた。

――彼はこうなる運命だったのだ。そう思い、綾子は努めてのんびりと2人が消えた方向から遠回りをするように歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

「――で?」

 

美綴の憐憫の視線も消え、部活や登校する生徒からの視界にも入らない校舎と部室棟の狭間で、連行犯である赤い少女はそれまでの雰囲気と一転して落ち着いた表情で土筆に意見を求めた。

 

「校内の異変。気付いているんでしょ?」

 

腕を組む姿勢はセオリーなのか。様になりすぎて彼女の感情を計るための判断材料にはならない。

 

「それはそうだけど……遠坂、怒ってたんじゃないの?」

「――進行形で怒ってるわよ。けれど、来てみたらいつの間にか濃密な結界張られてるし優先すべきことを弁えてるだけ」

 

そう、焦らずとも目くじらを立てられる理由さえわからずにいる朴念仁には利子をつけていじり返す算段が遠坂凛である。

いじめっ子の赤影に忍び寄られているとは知らず、賃借人は感心したように息をこぼした。

 

「……なによ?キョロキョロして」

「さっきから周りにある桃紫の花粉が遠坂にくっつく前に薄碧っぽい壁に当たって弾けてて、花火みたいって思って」

「ふぅん、結界内の魔力も神城くんにははっきり見えるってわけね。……私の場合、魔力耐性の術式――あなたの言う”壁”があるから精気を吸われないけれど、レジストできない生徒にとっては辛いはずよ」

「うん、美綴が意識を失いかけたくらいだしね」

「あなたの一般人の基準って綾子なわけ?だとしたらハードル高いわよ、ソレ」

 

どんな武道娘であっても魔術に太刀打ちはできないだろうが、剣道、柔道、合気道などの心得がある体育会系が一般人、と言っていいものやら。

 

「そうかな。全く影響受けないわけじゃないんだし、美綴だって辛さは同じじゃないかな。ただ……それを隠すのがうまい、というか気付くのが苦手なんだと思う」

「――ずいぶん、知った風に言うのね」

 

それは、憤りに近い感情だった。

彼の言葉を否定することで、なにかを否定しようとしていることに凛は気づかない。

 

「綾子に気でもあるの?さっきまで抱き合っていたみたいだし」

 

……そういう話だったっけ?と土筆の内心の指摘通り、いつの間にか話題が脱線しているが、それを正すべき赤い魔術師はなりを潜めている。穂群原の生徒が校舎裏で向かい合っているだけだ。

 

「友人を気にするのは当たり前だよ。それに、美綴はわかりやすいから」

 

見ていればわかる、と。

凛自身も気付かぬ棘を、土筆はいともなげに一言で片付けた。

 

「……はぁ。なんで毎度忘れるかな、私。こいつはこういう奴だって」

 

――顕悟の言葉を深読みするならば。

――綾子よりも早く彼と出会っている人物がいるならば。

視てきた時間が長ければ長い相手ほど手に取るように心の根源を理解できるのだ。

だが、憑き物が取れたようにどこかさっぱりした凛は、知る必要がない。――今はまだ。

 

「とにかく、生命力の弱い人でも命を奪われる心配はないのが救いね」

「それでも対処は早いに越したことないよ。これって、どうやったら解けるもんなの?」

 

こうした余談も結界魔術が発動する前だからこそ。

放置した未来にある死の危険について凛は論を()たず、また感覚で識っている土筆は彼女の説明を促す。

 

「大抵の結界には支点――神城くん的に表現すれば花粉を撒き散らしている花弁があるの。私が感知できるだけでも10箇所はあるみたいだけど……潰しさえすればこの鬱陶しい効果も消えるわ」

 

どうせなら人の縄張りを好き勝手やってくれた奴を引き摺りしてやる、と不穏な呟きも続いていたが、それはそれとして。

 

「ま、人一倍負担が大きい神城くんにとっては朗報でしょ」

 

墓地とは違い、明確な意思が働く魔術結界では威力の差は量るまでもない。

普段以上にしまらない顔はやせ我慢でしかない。額には凛に引っ張られてきた運動量だけで、汗が滲んでいた。

 

「……そっか、遠坂には見られてたっけ」

「そういうこと。はいこれ」

「?」

「そのボケッとした身体に下げておきなさい。少しはマシになるわ」

 

差し出された赤い宝石のついたペンダントトップ。

魔力がスッカラカンになったといっても腐っても家宝。お守り代わりには機能してもらわないと困る、と凛は素っ気無く突き出した。

 

「……やっぱり、キミは相当に面倒見がいいよ」

 

押し付けられた鎖を首から下げる顕悟は微笑む。

さらりと聞き流した凛は良くなった彼の顔色を確かめることもなく、そっぽを向いたままだ。

 

「それじゃ行きましょうか。検知器も無事確保したし」

「……それ、もしかして僕のこと?」

 

あわよくば裏庭に向かおうとしていた考えを見透かしたように、凛はにやりと口角を吊り上げる。

 

「当然でしょ。なんのために宝石渡したと思っているのよ」

 

凛の小言につられてシャツの下に隠れてしまったペンダントが虚しく揺れた。

どうやらこれは仕置きの一つらしい、と意地悪く笑う凛を見てようやく検知器――改め土筆は観念した。

 

「……せめて花壇の前を通らせて」

「あんまり人目につく場所は避けたいんだけど……ま、いいでしょ」

 

土筆と並んでいるところを誰に見られようと別段、凛は気にしない。見られたところで一般人にはわかりはしない。――ただ、誤解されるのは面倒だと妙な遠慮があった。

だからといって人払いの魔術を使うほどでもないというのが彼女の貧乏性である。

――そしてこのときの凛は、いるだけで男子の羨望を集める端麗な高嶺の花(トオサカリン)の存在を低く位置づけていた。

 

「あれ、遠坂じゃん」

「……げ」

 

最悪、といわんばかりのため息だった。

 

「朝から会うなんてやっぱり僕らは通じるものがあるね」

 

あったとしてもそれは悪縁にしか繋がりえない糸くずだ、と片や歯の浮く台詞に凛は顔を顰める。

言い回しも気に食わなければ、慎二の色づけした視線も彼女の気高さには相容れない。

 

「珍しいね、間桐も朝練習?」

「なんだ、いたのか神城」

 

まるでウドの大木を見るような目。方向性は間違っていないのだが、慎二の視線にはあからさまな嫌味と蔑みが上乗せされている。

 

「僕はね、練習なんか必要ないんだ。そんなくだらないことで僕たちの時間を奪わないでくれよ。なぁ、遠坂」

「そうですね。間桐くんはお忙しいようなので私たちも移動しましょう」

 

にこり、と他人行儀な会釈をした凛の前に、慎二は繕っていた態度を崩した。

 

「おいおい待てよ。そんな草男といてもつまらないだろ?遠坂には似合わないぜ」

「私が誰といようと間桐くんには関係ないと思いますけど。でも、少なくともあなたよりは有意義に過ごしているのは確かです」

「なっ――」

 

慎二のプライドを刺激する侮辱。何の役にも立たない木偶の坊以下だと言われたも同然であった。

 

「ふ、ふん……素直じゃないな。そうやって僕の気を惹こうとしているんだろ?」

 

なんという自意識過剰。

いっそ天晴れ。そこまで自信たっぷりにいえる慎二は大物である。劣等感で歪んだ性根であろうと押し通し続ければ、そこそこの生活を送れるだろう。……魔術師(りん)のいない一般人の世界で。

 

「……そうね、あなたには率直に伝えた方がいいみたい」

「そうだよ、キミを理解できるのは同じ家柄の僕だけ――」

 

すぅっと凛の瞳が鋭さを増した。

止せばいいのに馴れ馴れしく彼女の肩に手をかけようとした慎二は、

 

「間桐くん。私、あなたみたいに努力する人を見下したり陰口を叩く人が嫌いなの」

「え」

 

言われた拒絶も振り払われた手も理解できないのであろう。ポカンと地べたに尻餅をついたまま動けない。

 

「わかったらもう近づかないでくれる?この先考えが変わることもないし」

 

一瞥すらせずに凛は踵を返す。彼女を追ったのは、顛末を見守っていた顕悟だけだ。

 

「……よかったの?」

「言い足りないくらいよ。いい加減、付きまとわれても面倒だったし」

 

気持ちはわかる。

だが、それは逆効果ではないだろうか。少なくとも、自分に対する敵意は強くなったようだと顕悟は静かに垂れてきた汗を拭った。

 

 




鬼灯(ホオズキ)
心の平安、頼りない、半信半疑、いつわり、欺瞞(ぎまん)、私を誘って下さい、不思議、自然美


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

■Rafflesia arnoldii

1

 

 

人間尊重の精神と生命に対する畏敬の念に基づき、青年期における自己形成と人間としての在り方生き方について理解と思索を深めさせるとともに、人格の形成に努める実践的意欲を高め、他者と共に生きる主体としての自己の確立を促し、良識ある公民として必要な能力と態度を育てる。

 

――以上が高等学校において倫理を学ぶ理由欄に羅列された長文である。

要するに、「生きるとはどういうことなのか」と人類にとって永遠の疑問を過去の偉人の生き方を頼りに学ぶ時間であり、毎日をガムシャラに生きる学生にとって、日ごろの己を顧みる大変貴重な授業である。

 

蒔寺楓然り――。

我武者羅を通り越して奇想天外な暴走児も、机に立てた教科書を食い入るように凝視していた。

授業終了10分を切った頃から異変を感じ取っていた隣席から胡散臭がる視線を注がれても、身動き一つしない。――さながら、じっと耐えて時を待つサバンナの肉食獣だ。

 

「本日の授業を終了する。日直」

 

間延びした号令に従い、思い思いに生徒たちがお辞儀する中、

 

「むふっ」

 

100度近く下げた頭を脇の間から覗かせ、運動部らしい身体の柔らかさを見せつける楓からくぐもった声が漏れる。その鋭い猛禽類の眼光は疲労困憊で動きの緩慢な獲物を捉えていた。

ついに壊れたか、と親友の好感度と引き換えにが手にした情報は大きい。

 

確実に勝利するために標的から意識を逸らさず、チャイムを狙い済ましたようにスーツ姿が教室を出ていく瞬間に合わせて――振り向きざまに手をしならせた。

 

「もらったぁぁ!!」

 

戦利品を突き上げた楓の意気揚々とした宣言だがしかし、奇人変人たちの所属するA組は受け流す技術が培われていた。わざわざ声をかけることなどしない。それが薪寺楓(マキジ)なら殊更。

勢いづいて使い込まれた感のある黒鞄を吹き飛ばした挙句、緩めのロックが外れて中身を撒き散らした惨状であったとしても。

 

「さっさと片付けとけよ神城ー」

 

実行犯はとことん無慈悲であった。

 

「まったく。何を企んでおるかと思えば……ただの弁当泥棒か」

「待てこら。コイツをただの呼ばわりは聞き捨てならねーな」

 

掛けられた名詞を分断させる楓の国語力はスルーされた。突っ込んでも本人が首を傾げるだけだと鐘は黙認する。

 

「いいか、鐘やん。この中途半端にでかい箱にはな、和食の数々が眠っている」

「……それはまた、見たような口ぶりだな」

「ったりめぇよ!三限目から食欲そそる匂いがすきっ腹にケンカ売ってんだ」

 

包みの近くを嗅いでみたものの、鐘にはわからなかった。早弁を済ませた者にしか嗅ぎ分けができない類いではないだろうか。

どっかりと腰かけ、食べる気満々で蓋に手を掛けた黒豹を穏やかな声が阻んだ。

 

「でも、神城くんのお弁当だよ」

 

せっせと机を動かしてスペースをつくっていた献身的な三枝由紀香である。流石の楓も良識溢れる注意に反省の色を浮かべ――

 

「ああ、由紀っち。わかっちゃいるけど神城なき今、この弁当は食べられることもなく持ち帰られて無残にも三角コーナーへポイされる運命……そして隅っこで燃えるゴミの日まで待つだけだ」

「そんなっ、もったいない……」

「そうだ、そんな横暴許しちゃいけない……あたしはな――コイツを救ってやりたいんだよ」

「蒔ちゃん……」

 

言葉巧みに由紀香に洗脳を施していた。

そもそも件の被害者がはっきりと意思を伝えれば終わる話なのだが、生憎とどこを向いても桃紫一色の視界と気だるさで精神的磨耗が著しく、楓に絡む体力もない。机を支えに長い体を折りたたんでいる。

故に、確信に純粋さが加わった暴走を止めるのは鐘の役目であった。

 

「由紀香、眼を覚ませ。蒔の字のソレはただの食い意地の張った妄言だ」

「えっ、そうなの?」

「――ほっほほーう、土筆の晩飯はズバリ鍋!羨ましいな、ちくしょう!」

 

シリアスな影をかなぐり捨てた楓は既に箸をつけていた。

和食限定で肥えた舌を駆り立てる何かが、その箱には詰まっていた。そしてそれは瞬く間に彼女の腹に詰まっていく。

もはや制御不能と判断した鐘は、スペース確保を中断している由紀香を手伝うことにした。

 

「ど、どうしよう……」

「放っておけ。病気(アレ)は今に始まったことでもあるまい」

 

弁当箱には一粒も残らぬことであろうが、と冷静に未来予測をする女史の憐れみが萎れた土筆に降り注ぐ。

 

「それに奪われた本人がこの調子。大げさに騒いで張り合いのなさを誤魔化しているのだ、触れてやるな」

「聞こえてんぞ!そこのメガネ!!」

 

文句は言っても食事を止めない暴走マキジ。ご飯粒だらけの口まわりは八つ当たり気味に掻き込んだ結果に見えなくもない。

 

「でも、神城くんだって育ち盛りなんだからしっかり食べないと」

 

楓が大騒ぎしても起きない男が反応するものかと半分諦めていた鐘とは違い、純粋な善意が土筆の肩を揺らす。

 

「起きてください、神城くん」

「うー……」

「返事なのか寝息なのか、判断に迷うな」

 

既にない探し物を求めて手だけを緩慢に動かしている状態は完全覚醒と程遠い。

 

「由紀っち、そういうときは右斜めからの手刀って決まりだろ」

「ええ?」

「――蒔の字、これ以上由紀香の純真さを弄ぶなら許さんぞ」

「な、なんだよ!マジな顔して。嘘じゃねーって。走りこみでぶっ倒れた軟弱な後輩どもを数々と復活させてきた優れものだぞー」

 

記憶を一時的に失う陸上部員が続出していた理由がここに判明した。楓のスパルタ指導が原因ではないかと睨んでいた前部長の読みはある意味正しい。

 

「まぁ見てな、スナップを効かせるのが塩だ」

 

おそらくミソと言いたかった現部長が構えをとる。

武道の真似事を捩ったのであろう、ドジョウ掬いを失敗作したようなポージングは失笑ものであるが、冗談でも手加減する女ではない。

 

「待て――」

 

流石にまずいと感じた鐘の制止より早く。クラス一の喧騒から離れた閑静な優等生の椅子が大きな音を立てた。

 

「――んあ?」

 

楓とは異なり、クラス中がしん、となり、発生地点に注目する。

 

「…………」

 

視線を集める要因の一つである美麗な顔は硬く、陸上部トリオを一瞥して出て行った。

 

「……ちょっと騒ぎすぎちゃったかな」

「気にすることはない。遠坂嬢とて虫の居所が悪い日もあるだろう」

「そうそう、おすまし優等生はあれが平常なんだろ。本当は混ざりたいけど素直になれないってキャラづくりなら可愛げがあるけどなー」

 

抑えることのない大声は廊下まで筒抜けである。

 

「不機嫌な姫よりも、今はメシだメシ!ほら由紀っち、巾着餅やるから元気だせって」

「わぁ、ありがとう薪ちゃん」

「ふむ、つくねも美味であるぞ」

「てめっ……一点ものチョイスとかわざとか?わざとなのか!?」

「こういうのは早い者勝ちで候」

 

持ち主を除けて展開される争奪戦が、昼の喧騒に塗れていく。

 

「……うー……」

 

結局のところ、陸上エースコンビが由紀香に頼んでうんうん唸る土筆ん坊を起こしたのは、空になった弁当箱をしまってからのことであった。

 

 

 

 

 

2

 

 

顕悟が屋上に到着したときには、ご立腹な待ち人が仁王立ちしていた。

 

「――遅い」

 

既に半分近く休憩を消費しているのだ、これで笑って許せる大らかさは凜の持ち合わせにはない。

ましてや、冬の風に目を細めている遅刻者に悪びれた様子などなかった。

 

「衛宮は来てないの?」

 

所有権利を預けている顕悟が手伝うのは当然として、魔術関係の問題ならば共闘者も取り組むべき事案である。

 

「一応声はかけたけど……危機感がないなら、どーせいてもいなくても一緒よ」

 

それがわかっている凛の反応は素っ気無い。左右にまとめた髪を払い、落下防止のフェンスに向かって歩きだす。士郎への無能宣言はともかく、彼女らしからぬ話題の逃げ方に首を傾げるも訊ねるまでの動機にはならずに土筆は閉口した。

否、せざるを得ないほど、彼女の向かう先から魔力の蜜が溢れていた。

 

「ラフ、レシア……?」

 

校舎へ降りる出入り口と正反対の網がけフェンスの下。濃厚な芳香をかもし出す源。

桃色を通り越して黒に近い紫の花弁を咲かせる――ラフレシア。

まだ蕾ではあるが、死肉に似た質感の花弁と便が混ざりあったような腐臭は植物のソレに瓜二つ。

凛が一歩近づく度に、送粉者を誘いこもうと臭いが一層きつくなる。

 

「ふぅん、ずいぶん陰湿な趣向ね」

 

赤い魔術師が指を立て、どこか聞き覚えのある単語を詠唱する。

 

「Λουλοδιτηψευδκατηγοραστοδαφο《かれた、かれた、えんざいのはなよ、だいちにかえれ》」

 

魔術式を足元に従えた魔術師の周囲の重力が変化していく。結われた黒髪とスカートが人工発生した風に浮かされ宙を泳ぎ、上まであるハイソックスまで垣間見えるほどに風力が強くなる。

男児たるや赤面ものであるはずの光景に土筆はただただ惚けていた。

――思えば、魔術というものを意識がはっきりしたままに見たのは初めてであった。

仄かな感傷を責めるように左眼が()んだ。

 

「――ッ」

 

じくじくからぎちぎち、と。神経が捻れるような感覚。咄嗟に悲鳴を喰いしばった。

 

――視るんだ(ミルナ)

 

力をこめ過ぎた顎から耳へと雑音が聞こえた。

傍目からも集中をしている彼女の邪魔にはなりたくない意地につけ入っていく痛みはじわりじわりと脳へと侵攻していく。耳鳴りは大きくなり、意志をもって木霊する。

 

――逸らすな、直視しろ(ミルナ、ミルナ、ミルナ)

 

低い唸り声のようでいて女の嬌声のような不協和音が徐々に感覚を狂わせていく。

すでに頭痛と目眩で揺れる世界は、2本の足で立っているのかさえ曖昧だった。たった数メートルの距離にいる凛の背中はとうに行方知らずだ。

 

――オマエがオマエであるために(オマエがオマエでなくなるぞ)

 

言葉とは裏腹に、愚鈍な肉体は世界から切り離されていく。そして心の臓より()へと、奥深く引きずりこんでいく。

 

――おいで(クルナ)

 

この先に迷い込んでしまったならば、意識は二度と身体に戻らない。だが、顕在を許されているちっぽけな意思で抗える類いのものではないことも承知していた。

消えゆくのみの自我はなすすべもないまま――唐突に。

 

声以外の音がない世界に、パキ、と乾いた亀裂が入った。

 

 

 

 

 

「よし、まずは一つ」

 

(かざ)し続けていた赤い魔術師は確かな手ごたえを拳で握る。密だった死臭は嘘のように掻き消えていた。

 

「ずいぶん、アッサリね。隠匿に魔力を使い過ぎじゃないの、これ」

 

裏を返せば、全てを探し出してしまえ脅威にはならない。明るい見通しにしかし、美麗な小顔はむくれていた。

ぽっと出の同級生の視認が凜の探知よりも上回っている揺るぎない事実は真に、心から癪である。長い睫を伏せ、杞憂を振り払うように凜は息を吐き出した。

 

「調子はどうかしら?これで少しはよくなったと思うけど」

 

背後から返事はない。

神秘に反応する特異体質には厳しかったか、と労りと気遣いと僅かな妬みを含んだ足は思ったよりも早く動いた。

 

「神城く――」

 

そして、急ぎ近寄った耳に「………………くー」と、なんとも平和な寝息が掠めた。

 

「~~~~このッ、起きろ駄顕悟(だけんご)!」

 

焦点の定まりきらない瞳が、そろそろと凛を見下ろす。

 

「……あ、れ?もう、終わった?」

「ええ、貴方が寝ている間に。念のため確認してくれる?」

 

一撃の入った鷲色の頭がかぶりを振り、頷く。

 

「――うん、大丈夫。ラフレシアはもういない」

「貴方の視え方って植物に変換される仕様なわけ?まぁ、わかりやすくていいけど」

 

視たまま、というよりは魔力の本質にフィルターを通して視覚しているのかも、と凛は片隅で考える。

なんにせよ、判断を下すには情報が未知数だ。解剖させてもらえれば話は別であるが。

 

「はぁ、遠坂の魔術あんまり見られなかったな……」

「……見慣れない方が身のためよ。さっきのは正確にはキャスターのだけど」

 

言われてみれば聞き覚えがある言語だと思い至る。

 

「結界魔術は彼女の得意分野だもの。とっくに情報共有して解析も終わらせてあるに決まってるじゃない」

 

キャスタークラスに召喚される英霊は魔力量が最も高いアドバンテージとされているが、戦いにおいて真価を発揮するのは魔力ではない。人智を超えた知識の恩恵だ。

魔術師(キャスター)と称しても、現代からしてみれば魔法使いレベル。それを正しく引き出し活用できる魔術師(マスター)だからこそ、段取りも早くなってくる。

当然、五大元素使いがその括りから漏れることなく、統合した情報をほぼリアルタイムで護衛担当のアーチャーにも流す仕事ぶり。

悪く言えば人使いが荒い、とは赤いサーヴァント談である。

 

「あとは真名がわかれば言うことなしだけど、さすがに望みすぎか」

 

異変の詳細を告げたマスターに対し、キャスターから伝えられた内容は簡素だった。

解除の魔術式と詠唱。そして、仕掛けた相手が同郷の可能性。

凜の中でその信憑性は高まっているが、キャスターはいい思い出のない生前の話を拒絶する節がある。これ以上の詮索に意欲的とは思えない。

ともあれ、術式と起点発見器を手にしてだけで鬼に金棒、凛に金もたす、である。

 

「遠坂、携帯電話持ってるんだね」

「……持ってるけど、使ってない。そもそもサーヴァントとは記憶の共有や思念会話くらい可能なんだからケータイなんて使えなくたって問題ないわ」

「へー」

 

機械を扱いきれない女子高生の悩みもさることながら、持ち合わせてさえいない男子高生が察することもない。

 

「残りは放課後にする?」

「そうね、誰かのせいで時間もない上に日中は人避けの魔術も使えないし。夕方になれば人手も増やせるから、一気に潰してまわりましょ」

 

士郎への説明は繰り越しになったが、概ね予定通りである。

 

「ふぅ、これでようやく落ち着いて食事ができるわ」

「もしかしてここだけ壊したのって場所確保のため、だったりする?」

「……悪い?結界のせいで教室で食べる生徒は多いし、人目を気にしないでいられる空間は貴重なんだから」

 

主に金銭的なことに纏わる精神的理由で、滅多にお世話になることがない購買印のサンドウィッチを凛は頬張る。彼女の中で土筆の視線は屋上を飾る針葉樹と見なされているようである。

 

「もちろん解決策を試す意味もあったわよ」

 

遅れて冬木の管理者はのたまうが、建前の比重が大きいように感じられた。

その証拠に、顕悟と対面しているどこか挑戦的で己を曲げることのない信念に満ちた眼差しは、遠坂凛――彼女だけのものだ。

魔術師であることを隠して学校生活を送る凛の気苦労など、風に吹かれる土筆ん坊には無縁の代物である。存在しないものを分かり合うことはできない。だが――

 

「そうだね、キミがキミでいられる時間が増えるのはいいことだ」

 

「うんうん。人間やっぱり自然体が一番」などと人道にまで昇華してしまった凛の我侭は、子供のように小さくされてしまった。

その仕返し、というわけではないが、凛は予てからの連絡事項を告げる。

 

「その分、貴方の時間は減るでしょうね。しばらく美化活動は休業してもらうから」

「――――」

 

喜びから一転。笑みが固まった。

 

「……大丈夫。大地はみんな繋がっているんだから」

 

ひとしきり止まっていた土筆に、ほわりと笑顔が戻る。

校内活動を禁じられた分、衛宮家の庭いじりに精を出すことで心の帳尻を合わせたようだ。

結局、土と水と日光があればこの男に文句はない。

 

「そのうち光合成で栄養補給できるようになったとか言い出さないでよ」

「試してみたけど、3日で一成の泣きが入るんだ。絶食修行のトラウマみたい」

「……」

 

冗談に実体験が返され、今度は凜の動きが止まる。

 

「遠坂?」

「……はぁ。長い付き合いしてきた柳洞くんには同情するわ。――で、今日はその日なの?」

 

一部始終を見聞きしていた凛は当然知っている犯人を伏せて訊ねた。

 

「……気付いたら空だった。鞄も弁当も」

「来る途中で買ってくれば良かったでしょうに」

「余計な出費するくらいなら衛宮に渡すよ。それに食欲もないし……」

 

顕悟のいつもの食べっぷりを見れば異常であるが、強がりで言っているわけでもなかった。

事実、朝よりも顔色が悪く、相当負荷がかかっている身体は食欲よりも休息を欲していた。

だが、結界を解くまでは血色の悪い顔で過ごす他ない。

 

「ちょっと、放課後まで倒れないでよね」

「善処する……」

 

とはいえ、校内で安全となった場所の魅力は抗えにくく、うつらうつらと瞼が下がりつつあった。

 

「……あのね、私だって鬼じゃないんだから条件次第で付き合ってあげるわよ」

 

交換条件を出す時点で鬼と似たようなものだが、という弓兵の呟きは霊体からの発信である故に伝わることはない。

 

「ああ、等価交換の鉄則だっけ……?」

 

揺れていた頭が凜の向きに固定され、意思を確認するように傾いた。

 

「ご明察。神城くんは魔術師じゃないからサービスしてあげる。――そうね、貴方がひいきにしている石屋に案内しなさい」

「それは構わないけど……いいの?」

「これ食べきるまでのせいぜいあと数分だもの。対価としてはイーブンでしょ」

 

さもどうでもよさそうに凛はサンドイッチを一口頬張る。パサパサとしたパンの食感を紅茶で洗い流すようにして飲み込む頃には、土筆ん坊は寝息を立てていた。

 

「ったく、ホントに眠るなんてどういう神経してるのかしら。周りが基点だらけなの忘れてるわけじゃないでしょうね、この駄ケンゴは」

 

そっと横目で流し見る。

遠坂の隣(ここ)ほど安心できる場所はない、とばかりに寝顔は無防備だ。

 

凛が食事を終えたのは、予鈴一分前であったと記しておく。

 

 

 

 

 

3

 

 

相次ぐ不穏なニュースが続きで下校時間が早められた校庭で走りこんでいる部活生はいない。ちらほら見える影は下校する生徒たちばかり。時折、寄り道を注意する教師の声が響いていた。

 

本来ならば花壇の隅で帰宅を促される側であった土筆は、進路相談室を背につけてぼーっと校庭を眺めていた。

扉がガタガタと揺らされ、土筆がその大きい背丈を離した。

 

「たてつけが悪いと思えば……無駄な力を使わせないで頂戴」

 

ただでさえ非力なクラスであり、小柄な体型となったキャスターはその幼い姿を校舎に晒していた。

敵の陣中に弱体化した姿を見せるのは最後まで気が進まなかったが、戦闘の際に敵に知られるよりは誤魔化しが利く。不本意ではあるが、幼児化は周囲からの警戒を緩和してくれる。それが異国の美少女となれば、悪意を持って近づく人間は性犯罪者か、魔術関係者だ。

 

「お疲れ様、キャスター。任された分は今のでおわりだよ」

「そう。なら、マスターたちが終わるまで待ちましょうか」

 

室内に戻り、入り口付近の椅子に優雅に腰かけるキャスターに、ぼんやりと立ったままの木偶の坊が続く。

土気色だった肌も赤みが戻ったとはいえ、憔悴は隠せていない。地味に力仕事の多い園芸と三芳の趣向で鍛えられた体力であっても魔術には太刀打ちできない。

 

「そういえばキャスター、なんか雰囲気変わったね。言葉遣いのせいかな」

「忠誠を誓ったのだからそれなりに身の振り方だって変わるものよ」

「じゃあ、それが本来のキャスターってことだ」

「……どうしてそうなるのか、理解に苦しむのだけれど」

 

机越しに土筆は微笑む。

 

「今できる振る舞いは、過去にも経験した証明でしょ」

「哲学的な解釈ね。嫌いじゃないわ、そういうの」

「だと思った」

「それで誰の入れ知恵かしら?」

「今日の倫理の授業。案外、キャスターって葛木先生と気が合うのかも」

 

教室で学ぶ制服姿の魔女を想像して、顕悟の喉から笑いが漏れた。

 

「葛木って寺に住んでいる方だったかしら?」

「うん。今度紹介するよ。口数は少ないけど、なんていうかキャスターと波長が似てる人だよ」

「……そう」

 

魔女はそっと瞼を落とす。

 

「”現在(いま)の証明のために過去がある”……変わったのは、私だけではないのでしょうね」

 

どこか憂いを含んだ嘲りは届人に渡ることなく――

 

「――――」

 

階下からの悲鳴に引き裂かれた。

 

 

 

 

 

 

 

床に描かれていた図式がパリンッ、とガラスのように砕け散る。

一日かかった起点潰しも日が暮れる前に全て終え、凛は煙のように消えた紫の術式を見下ろしていた。キャスター組と二手に分かれて行動しただけあり、30分ほどで学校全体を覆っていた胸糞悪い気分にさせる結界は全壊したことになる。

 

「それにしても私がいると知っていて仕掛けるなんてよっぽど自信あるのね。それとも力量を計れないお粗末くんかしら」

「この学校に遠坂の知らない魔術師がいるってことじゃないか?」

 

説明がてら組みした士郎の問いに凛は眉を寄せる。

 

「……そうね。衛宮くんの例もあるし可能性はまぁ、なくはない」

「心当たりあるのか?」

「……いいえ。随分昔に魔力が枯れているし、あり得ないわ」

 

ならば外部の者か。教会の要請で参加する魔術師も過去多くいると聞く。だが、霊脈の優位性も考えずにわざわざ学び舎に罠を張る考えなしだろうか。

とにかく、所場代を後できっちり請求してやるんだからと凛は確固たる決意を灯した。

 

「それで、衛宮くんは何でまたサーヴァントを連れてこないわけ?どうやって身を守るつもり?」

「セイバーを連れて来たら大騒ぎになるだろ」

「本末転倒じゃない、それ。帰ったらセイバーに謝りなさい、衛宮くん。気づいていないかもしれないけれど、あなたの言葉は彼女に対する侮辱よ」

 

なんでも半人前、サーヴァントも連れずに登校していた。それはもう殺してくれと言っていることと同義である。

キャスターが声をかけても不満げな少女騎士は「マスターの命令ですから」の一点張りで衛宮家から出ようとしなかったらしい。直接的な戦闘に最も頼りになるセイバーは留守番中である。想定していた以上に使えない。

更に使えないのは、昼間から音信を絶って独断行動している弓兵だ。「どこをほっつき歩いているのよ、あの腐れサーヴァント」と凜の悪態もいよいよ怪しい。あと一押しで何かがキレてしまいそうな――

 

「心配はありがたいけど、自分の身は自分で守るさ」

「守る、ね……本気で言ってるのよね、それ」

 

ぷつ、と凛の右腕に光が走る。

 

「なら、衛宮くん――私からも守れるってことよね」

「――え?」

 

足を止めた士郎の鼻先を、黒い風が突き抜けた。

 

「な、な、なな!?」

「大丈夫。簡易の呪い(ガント)だから死ぬこともないし問題ないわ。金槌で殴られるような頭痛と脱水症状に近い倦怠感だけだから」

「問題大有りだ!」

 

凜の指先に集まりだす黒い塊を尻目に、士郎は駆け出す。それはもう全速力で。

 

「同盟組んでいるんだから、戦う必要ないだろッ!?」

「これは教育的指導よッ!!」

 

呪いの弾丸が機関銃のように、士郎に降りかかる。

 

「呼び出しをすっぽかしたこと根に持ってるだけじゃ……!?」

 

咄嗟に右に避けた士郎のいた場所から、煙が上がっていく。

 

「いいから黙って今日一日のストレス発散になりなさいよ!」

「ストレス発散!?」

 

ついに零れた本音に士郎は意地でも足を止めるわけにはいかなくなる――が。

そんな不毛な追いかけっこは、鬼が足を止めたことで終わる。

 

「キャスター、今取り込み中ッ!!――――え?」

 

連絡を取り合う凜のただならぬ様子に、士郎も遅れて足を止める。

 

「わかった、すぐ行く」

「なにかあったのか?」

「……行けばわかるわ、嫌でもね」

 

苦虫を潰したような声色を最後に、凜の口は目的地まで開かれることはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

一階昇降口の影に隠れるように、女生徒が横たわっていた。

血の気がなく、呼吸も浅い。最後の力を振り絞って叫んだ後、意識を失ったようである。

悲鳴と症状の時間差にかすかな違和感がよぎった。

戦いにおいて顕悟の感覚は一般人のソレと変わらない。恐らく弓道部部長の方がよっぽど鋭いだろう。

故に確かに感じた、不確かな齟齬(そご)は密かに身を潜めている。

 

「――状況は?」

 

遅れて凜と士郎が駆けつけ、瞬時に現状から驚愕と後悔で表情を引き締めた。

見覚えのない下級生だが、誰であれ一般人を巻き込んだ相手に腹が立ち、それを許した己の不甲斐なさが一層、赤い魔術師を硬くさせていた。

 

「できる処置はしました。どこか休めるところに運んであげなさい」

「任せろ」

 

士郎が抱え上げようと手をかける。

緊急事態において冷静にあたるためには、相応の訓練が必要である。体調、配置、諸々の条件を揃えていかなる状況に於いても対応できる布陣を築き、事に臨む。

もしくは――過去に異常を目にした者であるか。

該当する衛宮士郎は気付く。だが、両手を塞がれていた。

かろうじて体を捻り、彼女を庇った。

 

「――――っ」

 

衝撃だけで身の毛がよだつ。

 

「――え」

 

片手を突き出した格好で、士郎は近くにあった凜の怪訝な顔を眺めた。

穴が開いた腕の感覚はなく、ぼたぼたと落ちていく血液がまるで現実味を帯びていない。

体勢が傾きかけた士郎は慌てて抱えなおそうと試み、そのまま膝をついた。

 

「あれ、全然力が入らないな」

「喋らないで横になってなさい!」

 

士郎の腕にあった温かさが、凜によって奪われる。手際よく止血したキャスターが傷口に触れようとした手を、

 

「待って」

 

それまで黙っていた顕悟が掴んだ。

 

「このままじゃ、傷は塞がらない」

 

突き刺さった――不可視の凶器に手をかける。

 

「衛宮、舌を噛まないようにね」

「ああ――ッ!!」

 

その後は、顕悟が手を出せる事態ではない。植物を育てることしか能がない土筆ん坊にできることはせいぜい、邪魔にならないように離れているくらいだ。

引き抜いた透明の杭をぎりと握りしめる。

これは狙撃ではなく捕獲のための武器――刺した者へと辿り着く鎖糸だ。士郎の腕を貫き、遠坂凜の心臓を狙った者を逃すわけにはいかない。

顕悟だけが目視しているその鎖の持ち主を求めて視線を上げた瞬間、目が合った。

 

後ろには、厳しい顔で施術を行う凛とキャスターがいる。

向きを変えようとした首は曲がることはなく、鉄に似た固さと味に封じられた口からはかろうじて呼吸音が零れる。

 

「(…………っ)」

 

半開きだった外扉が風に揺れてかすかな悲鳴をあげた。そこにノッポの影はない。

 

 

 

 

 

 

 

 

――美化委員でさえ、立ち入り許可の取れない敷地奥。

一本の杉の木に顕悟は括り付けられていた。鎖で締め付けられ傷つく樹皮に心を痛む。

 

「なんだ、釣れたのは神城か」

 

落胆しつつ、木の陰から現れた見慣れた制服。間桐慎二だった。

 

「ま、いいや。無関係ってわけじゃないしな――神城がキャスターのマスターなんだって?」

「――――っ」

「そうだよな、じゃなきゃ遠坂がお前みたいなのといるわけないか」

 

鎖に喉を掴まれた顕悟はただただ講釈を聞くためだけに縛られている。

反論は許されない。

 

「遠坂はお前を利用しているだけさ。現に衛宮と組んで神城はのけ者にされているじゃないか。まったく見てられないよ」

 

その内情を知っている顕悟としては滑稽なのは慎二の方であった。

 

「――柳洞寺にいる魔女に立ち打ちできないだろ、そんな様じゃ」

 

ここにきて初めて、意志が灯った。

 

「ああ、その状態じゃ話せないか。ライダー、解いてやれ」

 

ジャラ、と窮屈だった喉につめたい空気が沁みた。

肺を空にする勢いで咳き込む。

 

「……っ、はっきり言ったらどう?間桐」

「そうがっつくなって――――神城、僕と組めよ」

 

絞り出す前に、再び声を封じられる。

ふふっと女性の艶やかな息が耳たぶをくすぐった。答えを拒ませたのは慎二の指示ではないようだ。

 

「まあいい。今日は挨拶代わりさ」

 

痛みを植え付けていた鎖が、肌を撫でるように離れていく。

いい返事を期待しているよ、と笑い声と共に慎二の姿は影に消えた。

 

 




『屍臭花』
夢現(ゆめうつつ)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

■Magnolia kobus

1

 

 

――柳洞寺。

古くから山奥に鎮座している墓守であり、冬木の土地において三大霊場の一つである。

根付いている魔術師にとって危うさも恩恵与えるが、新米であればどちらも手に余る。

 

「――うっさんくさ」

 

それが顕悟が手に入れた情報に下された凛の決断だった。

 

「情報が中途半端すぎるのよ。そもそも情報提供者があの間桐くんだし」

 

価値がないと一刀両断である。

 

「けどさ、慎二って遠坂の予想に反して学校にいたもう一人の魔術師なわけだろ?しかもサーヴァントを連れているならあながち嘘とは限らないんじゃないか」

 

もっともな指摘に土筆も首肯する。

む、と口を曲げた赤い魔術師の恨みがましい視線がすぐさま反論に出た。

 

「だったら尚のこと、情報に惑わされないで慎二をとっちめる方が早いじゃない」

「もしもがあるかもしれないだろ」

 

士郎とて頭では理解している。

可能性に過ぎなくともその誰かが、よく知っている生徒会長であるなら余計だ。

 

「なぁ、二手に分かれるのはどうだ?遠坂たちが学校の結界で、俺とセイバーが柳洞寺の調査とか」

「それこそ相手の思うつぼよ。セイバーならまず問題ないだろうけど、衛宮くん。あなた真っ先に殺されるわ」

「いや、慎二でもさすがにそこまではしないだろ」

「彼が全校生徒職員にしていることをお忘れかしら。アレの完成形は人体を液状化させるまで貪るわよ」

 

倒れていた女子生徒を抱えたときの「死」の感覚は、未だに腕に絡みついている。

突きつけられた事実を感情で否定することは憚られた。

 

「だいたい衛宮くんの怪我だって治ったからいいものの、普通に重傷よ。それに」

 

続きを言わずままに、凛はちらりと口を挟まずにいる顕悟を見た。彼の襟首から黒紫の痣が覗いている。

当の本人はあまり気にしておらず、トレーナー姿で庭を眺めているところに出くわしたキャスターが頭から被せたタートルネックであっても、鎖の形がわかるほど濃い痣は消せない。未だ彼の頸を締め上げているようだ。

絞められた喉はしゃがれた声と痛みを残し、療養として夕飯までの沈黙を幼き魔女から言い渡されていた。

痣から逃げるように視線を外した士郎は、己の金糸の騎士の真っすぐな眼とかち合った。

 

「――シロウ」

 

葛藤する主を、ライムグリーンの炎が静かに照らした。

 

「まず目の前の脅威に集中すべきです。無暗に人を襲う輩を野放しにはできません」

「柳洞寺だって放っておけない。危険な状態かもしれないだろ」

「ならば、貴方は死が明確な命より他の命を優先する理由を告げるべきだ」

「それは……」

「私は貴方の剣だ。貴方の決断に従います。ただし、それが騎士の誇りを穢す行為ならばマスターにも覚悟を求めます」

 

令呪を使用しろ、と剣の英霊の瞳に宿る強い意志が告げていた。

それは士郎の稚拙な感情を瞬く間に跪かせる。

 

「――そろそろいい? お二人さん」

 

第三者の声が二人の世界を霧散させた。

 

「結論、聞かせてもらえる?」

「すまない。遠坂。まずは慎二とそのサーヴァントで、異論はない」

「そう」

「だからって諦めたわけじゃないからな」

「わかってるわよ。明日、柳洞くんの状態をみて決めましょ。異変が起きていれば、なんらか影響が出ているはずよ」

 

色よい返事に赤い魔術師の口角がわずかにあがっていた。

サーヴァントに窘められたとはいえ、衛宮士郎は魔術師として前を向いている。かろうじて及第点である。

 

「学校の結界張ってるあいつのサーヴァントって、どんなヤツなんだ?」

「ああ、それは……両目を隠した紫の長髪、長身の女性らしいわ」

 

襲われた被害者が頷き、発言の代わりに人差し指と中指を立てた。

 

「……Vサイン?」

「武器の数よ。鎖のついた杭」

「2本ってことか」

 

こくりと、と土筆は返事をする。

 

「衛宮くんが刺されたのが一つ、あと神城くんを縛ってたやつね。衛宮くんの余っていた鎖で彼の首に巻き付けた可能性もあるけど」

 

かぶりを振って土筆は否定した。

 

「ま、よっぽど長い、もしくは伸縮自在だとしても全く動かさずに操るのはどんな武人でも無理でしょうね。たとえできたとしても、貫通していた衛宮くんに振動は伝わる」

 

痛みでそれどころじゃなかったとは思うけど、と付け足されたが説得力としては十分だった。穴の塞がった腕をたまらず押さえた士郎を責める者はいない。

 

「……まるで蛇みたいだな」

 

答えを必要としていない比喩が室内に驚くほど響いた。

 

「それは、的を射ているかもしれません」

「あら、ようやく知り合いについて話す気になった?」

「……その前に一度整理しておきましょう」

 

赤い魔術師の傍にいた寡黙な従者は沈黙を解いたものの、幼くなった身体は心情を隠せていない。

張り詰めた緊張が顔を強張らせている。

この場にいる誰よりも莫大な情報を蓄え、容易く捌ける頭脳の持ち主は挑戦的な主の視線を前に静かに話はじめた。

 

「学び舎に施された結界の術式は古代ギリシャのもの。私の生前の時代と、おそらくそう変わりはないと思います」

 

自身の発言が発端とはいえセイバー陣営に出身を露呈させてしまう結果に凛は頬をひきつらせたが、キャスターの冷静さに罅は入らない。

ギリシャ神話には英霊が多い。時代がわかった程度で特定は難しいだろう。

 

「まず、武具による特定は省きます。宝具や武具は英霊の一部――聖杯の加護の対象なので、その英霊の知名度で変動するため正直あてにはなりません」

「ですがランサーの宝具(ゲイボルク)はクランの猛犬以外にありえません」

「無論、宝具は英霊の縁そのもの。切り札であり、決定的な情報でもありますから引き出させてしまえば、真名を辿ることはたやすいでしょう。生還が必須条件ですけれどもね」

「なら名乗るまで待つのか?」

 

士郎の疑問を、凛が鼻で笑う。

 

「敵前で馬鹿正直に漏らすなんてよっぽどの間抜けよ。身内なら戦術上の基盤になるけど、弱点晒すようなものなんだから」

「でもこの前の女の子、堂々と言ってたぞ。ヘラクレス、だって」

「……アインツベルンは別格。悔しいけど真名がわかったくらいじゃ揺るがない絶対的優位があるのよ」

 

そんなものか、と生返事を返した半人前と感心している土筆ん坊は、どこか憎めない白銀の少女を思い浮かべる。

 

「バーサーカーのマスターのような特例は除き、宝具に次いで判断基準となるのが英霊自身の性格や趣向、戦闘スタイルです。死後とはいっても、私たちは生前の因果を引きずりますから」

 

それこそ受肉をして新しい運命に縛られない限り影の如くついてまわるものだ。

故に、名も限られてくる。

 

「その上で挙げられる名は一つ――――μδουσαです」

 

本場の発音が全員の耳を擽り、聞き取れた者のみが息をのんだ。

 

「メドゥーサですって――」

 

凛の唸るような復唱で男二人はようやく、人の名前であったと知る。

 

「はい。目を見た者を石に変えてしまう話はこの時代でも有名でしょう。彼が見た両目を覆っていた様相も、視界封じが魔眼の制御のためと考えれば、筋は通りますわ」

「……思ってたより面倒な相手だわ」

 

まだ見ぬ空枠(クラス)は、ライダー、アサシン。

どちらであっても不思議ではない可能性を凛はしかと胸に刻んだ。

 

「衛宮くん、明日はセイバーと一緒に登校しなさい」

「な、なんだよ、藪から棒に。そんなの無理に決まってるだろ」

「校舎裏の林なら人目につかずに待機できるでしょ、あいつだって潜んでいたくらいなんだから。あとで神城くんに聞いておいて。……のこのこ登校するバカはもう充分なんだけど、容赦する義理もないし」

「ちょっと待ってくれ!ちゃんと説明してくれないとわからないぞ、遠坂」

 

あら、言ってなかったかしらと可愛らしく首を傾げる黒髪の麗しき美少女は、とたんに物騒な顔つきに豹変する。

 

「――明日中に、慎二を潰すから」

 

 

 

 

 

2

 

 

定められた運命の刻限で、未来は変わる。

順じたならば時間に押し流され決められた未来を生き――抗ったならば、命を賭して己で未来を築く。

非常にわかりにくくあるが、彼の()()は後者であった。

 

夜の帳は、薄ら寒い沈黙を保っていた。

塀を乗り越えて、街灯に照らされない位置で灰色の影がコンクリート道路に物音立てずに降り立った。

すぐさま影は、暗闇に同化せんと音無き歩みを開始した。――小さなくしゃみに止められるまで。

 

「――遠坂」

「声の調子はよくなったようね、神城くん」

 

ただ確認のためだけに足を止めた彼は灰色のコートに隠されて微動だにしない。コートというよりは布を巻き付けたように、身体の部位を覆っていた。普段の陽だまりのような柔らかい眼は、月光の下で鈍い緑青を灯している。視線は交じらず、赤い少女の人をくったような笑みが影を射抜いた。

 

「一応聞くけれど、こんな夜更けにどこへ行くのかしら?」

「…………」

「返答次第じゃ、考えなくもないわ」

 

嘘だ。綺麗な笑顔だが、目尻は一切動いていない。

彼女の考えは意識を保ったまま連れ戻すか、意識を奪って連れ戻すかの違いしかない。

 

「柳洞寺を曖昧なままにしておけないよ。明日のためにも」

「なら、私が万全で臨むためにも眠ってもらえる?」

 

ここぞとばかりに赤い優等生は愉しんでいる。

熱くなりやすい衛宮士郎でなく、温和な態度を崩さなかった神城顕悟の行動だが、彼女にとってひどく納得のいく状況だ。

士郎でさえ食い下がったのだ。寺で育てられた顕悟が何もしない方がおかしい。まして半人前と違ってサーヴァントのストッパーはない。

凛は赤いコートの首元を引き寄せるようにして息を吐いた。

 

「手間を増やさないでくれると助かるわ。ただでさえ一般人に魔術関連で被害が出ているってのに」

「なら一人増えたところで、()()()は揺るがないよね。処理する神父の手間が増えるだけで」

「へぇ……試してみる?」

 

バチ、と黒い火花が跳ねた。笑みを邪悪なものに変えた凛の左腕が青白く、浮かぶ。

科学を超越した異変は群青と駆け抜けた運命の日と似ていた。

顕悟とて、決して、数日前に繰り広げたばかりの刺激的な夜を忘れたわけではない。

 

彼女の赤い相棒の姿は見えない。だが、アーチャーの不在は、どこからでも狙っている証でもある。

いくら三芳の忍者屋敷で生活していたとて、人間の域を出ない身体能力では太刀打ちできないのは、既に骨身に叩き込まれている。

だからこそ、土筆は全神経を見知った少女に固定する。

目の前の魔術師を顕悟は知らない。だが土筆の知る、真っ直ぐ前を見続ける遠坂凛なら――自らの力で真正面からねじ伏せる。

 

「――――ッ」

 

彼女の細く長い指が動く。

飛来する魔力の塊を追うことなく、右方へ――飛び出しかけて顕悟は咄嗟に身を引く。

 

「っ」

 

鼻先を通過しただけで、重力を倍加する負荷に呼吸がとまりかける。

神城顕悟の体質は二度、彼女の前で露呈している。当たらずとも、あとは勝手に呪いが吸い込まれると知った上でコントロールを捨てていた。

近隣の建造物はむろん、被害甚大だったが、そんなこと知ったことか、と威力の変わらない発砲が続く。

もしものときはアーチャーが器用に撃ち落とすなりなんなりすると凛は思っていた。むしろしろ、と傲慢になるほどに頭に血が上っている。

そして――吹き荒れる黒い弾丸がフードで隠れた顔面の真ん中を突き抜け、頭を地面に射落とした。

 

「え?」

 

無防備にも黒く光る指先は転がっている物体に向けて逸れたまま、次の瞬間には、空気の抜けたような音と同時に白い粉が吹き出した。

 

 

 

 

思うに勝敗の分かれ道は、夕飯の支度中に付き合った士郎の愚痴にあった。

そのお陰で顕悟は事前に遠坂凛のガンドを知ることができ、対策をうみだせた。

とはいえ、どんな競技であっても人体の急所の狙い撃ちは反則である。人形とはいえ、身代わりの首がもげたことは実に遺憾であった。

もし、遭遇した時点で風でも吹いてフードの中身が人形だと彼女が知ってしまったなら、弾け飛んでいたのは間違いなく本物の頭だ。

しかし、塀の上を腹這いで進んでいた顕悟は下の様子に感心すらしていた。何事も遠坂凛は容赦がない。

 

白い粉末に包まれてやや色落ちした赤は未だ沈黙している。フードを失った灰色の布の中身がビニール袋にパンパンにつまった小麦粉であると彼女が判断する時間はとうに経過していた。肌を焦げ付かせるような気配が顕悟の前進力である腕を重くさせ、微動だにしないクラスメートの背中に糸で縫い付けられたように視線を固定させていた。

そして、彼女はゆっくりと夜天を指し、横たわる袋詰めに振り下ろす。

 

「がんどがんどがんどがんどがんどがんどがんどがんどがんどがんど」

 

あたり一面、粉末が弾け、空中に漂った粉を次の弾丸が吹き飛ばす。その繰り返しを経て、その場に残ったのは白い粉塵に揺らめく赤だった。

 

「…………よし」

 

よもや影は潜伏を止め、本能のままに駆け出す。

まもなく、日付が変わろうとしていた。

 

 

 

純粋にこれは、遠坂凛と神城顕悟の根比べである。

明言していない以上、凛はアーチャーの手を借りることはしない。それはフェアじゃない。

 

「あの昼行灯。衛宮くん以上の大馬鹿だわ!」

 

動くとは思っていたが、子供じみたイタズラまで用意しているとは予想していなかった。

草花が絡むと非合理的になることはあれど、こと人間関係においてここまで彼が我を通すことは記憶に乏しい。

できる、とは思っていた。

ランサーとの鍔迫り合いをした日について、キャスターの証言はにわかに信じられないと笑ったものだが、サーヴァントの戦闘中の死線を走り抜いた異常性を見せつけられたからこそ、凛は待ち伏せを選択した。

 

「あーもう、うろちょろと鬱陶しい!」

 

一定の距離を保って屋根伝いに逃げていく身軽さが腹立たしい。射撃台である腕を振り回す毎にお気に入りのコートから粉がふるい落ちていく。叩いたくらいでは繊維に入り込んだものまで取れないだろう。路上を走りながら、クリーニング代をもぎ取ってやると心のうちで呪っておくことを忘れずに、標的に照準をあわせる。ライフル射撃というよりマシンガンになりつつあるガンドが無差別に虚空へ消える。少しばかり力が入りすぎている呪いは、既にフィンの一撃の域になりつつあるが、お空の星となるならば被害も少なかろう。

 

「後ろに目でもついてるんじゃないでしょうね!?」

 

愚痴を溢すのも無理はない。サーヴァントに比べれば赤子のような足並みの土筆に掠りもしないのだ。

ただの人間ひとり、すぐに止められると驕っていた自身は既に修正した。それ以上の要因が神城顕悟にあるのだ。

 

――リン、頭を冷やせ。これではキミが格好の的だぞ。

 

そんなことはわかっている。

小麦粉塗れになった当初より幾分か冷静になった赤い少女は、呆れ果てているサーヴァントのため息に眉を寄せた。

 

――そっちこそ、誘い出た尻尾、見逃したらただじゃ置かないから。

 

街にはアインツベルンのマスターや、間桐慎二、まだ見ぬサーヴァントが潜んでいる。

これだけ暴れて食いついてこないならば、高校生にもなって全力で追いかけっこをした黒歴史が残るだけである。

 

しかし、それは幸いにして、飛び移ろうとした屋根を土筆ん坊が踏み外したことで未遂となった。

朝から生気を奪われ続け、昼休み放課後と学校を歩き回り、挙句木に吊るされた消耗の末路として、それまで疾駆していた影は地に墜ちた。

凛が駆けつけると、運よくゴミ収集場所に落下したらしく、顕悟のゴミ袋の合間から四肢が飛び出していた。

 

「ちょっと、大丈夫?」

「全然大丈夫じゃない。みてこれ、燃えるゴミが捨ててある」

 

明日は燃えないゴミの日なのに、と身体を起こした土筆に怪我は見当たらない。小言を言えるくらい余裕でいられるのは日時を守らない住人たちのクッションのおかげであるのだが、主夫魂が勝っているらしい。

凛はわずかに逡巡し、分別を始めそうな土筆の肩からバナナの皮を叩き落とした。

 

「……立てる?」

「うん、背中がちょっと痛いけど」

「なら、移動しましょ」

 

顕悟は衛宮の家から道路事情を無視し、ほぼ一直線に柳洞寺を目指していた。家屋が並んでいる市街地を抜けると家は疎らになり、山への道を点々と街灯が照らす道路が伸びている。顕悟が凛に追いつかれたのは、まだ中間地点よりも手前だ。

 

「……遠坂?」

 

赤いコートを翻した先を向いたままの同級生の足並みに迷いがないことが、更に土筆のぼんやり頭に揺さぶりをかけた。

 

「なにもたもたしてるの。怪我してるなら正直に言いなさいよ」

 

身体ごと向き直った凛の視線は純粋な心配だ。生臭さに顔をしかめることはあっても、他意ある行動には見えない。

 

「そっちは衛宮の家と逆方向だよ」

「知ってるわ」

「遠坂は僕を連れて帰るために追ってたんだよね?」

「わかってるなら、さっさとついてきなさいって」

 

白い息を吐き出した少女は、ゴミ袋の中から抜け出さない土筆を無視して薄暗い山陰へと向いた。

 

「様子、見に行くんでしょ。柳洞くんの」

 

ぽつり、と吐息交じりに顕悟の耳に入った。

 

「また走らされても疲れるし……なによ、行かないの?」

「行く」

 

土筆の足は正直に動いた。凛の背中、数歩離れて夜の街をのんびりと歩いていく。

 

「……別に騙して、撃ったりはしないわよ」

 

疑いなど微塵もなく鴨のごとく、歩いていた土筆は首をひねる。

 

「後ろからひたひた歩かれたら気になってしょうがないじゃない」

「だけど、ほら。臭いがついちゃうよ」

「おかげさまで既に手遅れよ。どうせ洗濯するんだし」

「遠坂、衣服に染みついた臭いを侮っちゃいけない」

 

独り暮らしをしてまもなくの頃、屋敷のトラップに落ちて納豆の中に沈んだことがある土筆は、頑として譲れない想いがあった。

洗濯機で洗ったくらいでは臭いの元を絶てず、クリーニング店の店主にコツを教わり、染み抜きと手洗い、三度の天日干しをして、ようやく新品同様になるのだ。

 

「クリーニングすれば平気でしょ」

「それなら僕が洗う。気になるし」

「はいはい、もーそれでいいわ。お気に入りなんだから台無しにしたら許さないわよ」

「もちろん」

 

せめて彼女の風下なるように、灰は赤と並んで歩き出す。

顔を顰める様子もなく、いつも通り颯爽と前を見据えている凛は、お人よしだと改めて思う。

 

「……一成のこと気にしてくれてありがと、遠坂」

 

士郎や凛に心配される幼馴染は幸せ者だと土筆がしみじみしている横で、寒さだけじゃない顔の赤みを彼女は襟を立てて隠した。

慎二を貶し、散々士郎に釘を指していながら、認めはしないが友人想いな少女は、またしても土筆のオマケ付きとなり夜道を歩く。雑草のしぶとさを考えれば見張れる位置に置けたことは御の字だ。

 

「そういえばよく、衛宮が留守番役で納得したね。別行動は控えるんじゃなかった?」

 

結果として引き離す役目をした張本人はそうのたまった。

それは彼が単独で外出した理由でもあり、数時間前の凛自身の発言であったが魔術師は優しくはない。

 

「半人前の衛宮くんじゃ危険ってだけで、私は偵察できないとは言ってないわよ」

「……それ、衛宮、絶対誤解してる」

「だってそう仕向けたもの」

 

セイバーも承諾済みよ、と士郎が聞いていたならば「アカイアクマ」と命名する所以を彼女は涼しい顔で暴露した。

回復中とはいえ赤の従者は戦地を身軽に駆け回り、偵察の精度が生存を決める弓兵だ。適材適所ってやつ?と凛の巧みな説明を受けたセイバーが反対するはずもない。

士郎も安眠していることだろう――赤い魔術師と腹心の剣が手を組んでいるとも知らず。

 

「で、柳洞くんが心配で居てもたってもいられなくなって出てくる貴方を待ち構えてたってわけ」

「……騙された」

 

でも同行できることになったしまあいいか、と落ち込んでいた頭はすぐに元の高さに戻った。風向きのように気持ちを切り替える男である。

ふと、気まぐれな頭はまたもや考えの方向を変えた。ならば阻止する手段も時間もいくらでもあった凛が、寒い夜空で待つ理由はなんだったのか、と。

 

「遠坂、最初から僕を連れていくために待ってたの?」

 

赤い一歩が、若干遅れた。

手の内を明かさずに霊体化しているサーヴァントを見つけるには、土筆の眼は役に立つ。

アーチャーとキャスターまでいる索敵に死角はないが、魔女と言われるからには隠遁に優れているはずだ。魔力以外の違和感まで気づく可能性は、出入りしている顕悟に分がある。

 

「仕方ないでしょ、前もって話そうにもさっさと部屋に戻ってたし」

「訪ねてくれて良かったのに」

「……休んでると思ったのよ」

 

結果、凛の配慮はせっせと袋詰めする時間を許し、小麦粉ケンゴを誕生させてしまった。

未だに白い粉を降らせる赤いコートの下からすらりとした黒いソックスが一足前に出る。

 

「それを相談もなくノコノコと!」

 

どうやら土筆の態度におかんむりだったうっかりさんは、事情説明を小麦粉人形と一緒に吹きばしてしまい、今に至っているらしかった。

 

「え? 相談したよ、遠坂と衛宮が土蔵に行く前に」

「聞いてないわよ」

「だって声出すなって止められてたし」

 

ぐっ、と言葉に詰まった拍子に凛の脳裏は記憶を辿る。

言われてみれば廊下ですれ違うときに、手足を上下させる土筆がいたような気がする。

移動に邪魔なのっぽを退かすために適当にあしらった、凛がいたような気もする。

 

「そもそも、衛宮くんに言ったことはマスターと思われているあなたにもそのまま当てはまるんだから単独行動は論外よ!」

 

苦しい言い訳であったが、半人前以下のド素人は気にしたそぶりもなく、相づちを打った。

 

「まあ実際、僕じゃないからね」

「だ、か、ら、余計に厄介なんでしょうが!」

「僕が狙われたら情報が入るし、やられてもアーチャーたちは消えない。ばっちりだ」

「それは護衛ある前提でしょ。全然、わかってないじゃない」

「出入りは見張りの二人に知られるんだから時間差はあるけど、利用できる」

「それ囮のつもり?道を戻れなくなったからって、自分のことより人助けってわけ?」

「まさか。犠牲は何も生まないよ」

 

そう、小麦粉ケンゴと共に木っ端微塵となった、箪笥から拝借した士郎のコートが残すものは何もないのだ。

 

「大丈夫、僕じゃサーヴァントや魔術師に太刀打ちできないって理解してる。衛宮じゃあるまいし」

「どうかしら。同類じゃないの?」

 

まるで意外なことを言われたとばかりに土筆は目を瞬くと、珍しくむっとしたようで抗議を始めた。

無論、凛は黙殺した。風の音が強くなったせいにして。

街灯の間隔もだんだんと遠くなり、この先は月明かりが頼りだった。

 

「衛宮とは違うよ、僕は」

 

それっきり沈黙して、草木では手が届くことのない空を見ながら土筆は歩き、凛は返事を期待しない呼びかけに答えなかった。

景色が、造りのしっかりした檀家の並びから林に変わった。

記憶ではそうかからずに標識が見えてくるはずだと冬木の魔術師は従者に警戒を促した。

 

――――きっと、心の中心がズレているんだ。

 

ひとえに、かき消されそうな声量が呼びかけの続きだと彼女が思えたのは、風に煽られた髪を抑えるために左を向いたからだった。

毎日命がけで全てが生きているこの世界に触れる神城顕悟にとって、コロシアイは当り前に起きえることの一つでしかない。

その程度のことだ、と。

 

「さ、あと少しだね」

 

枯れそうな声で土筆は笑った。

 

 




辛夷(コブシ)』 別名:田打ち桜
友情、歓迎、信頼、愛らしさ


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

■Erica

今回はやや短め。
その分次話が長くなりそうな気がするので帳尻は合うよね的な。



読む専用さん、誤字報告ありがとうございました。



 

1

 

 

柳洞寺の参道入口に踏み入った足音が、丑三つ時の深い静けさに響く。

雑草一つない石畳が百段近く、境内までの長い道のりを支え、一段ごとに黄泉へと近づいている錯覚を訪問者に与える。寺なのであながち間違ってはいない。

今のところ異変はない。あったら土筆になんらかの変化があるだろうと、警戒は崩さずに魔術師たる少女は中学の頃は何度か足を運んだことがあ石段を踏みしめる。

登り切ったところで、寒々とした風だけが参拝者を歓迎してくれた。息一つ乱さない凛の横で、通い慣れている土筆は額から汗を垂らし、目を閉じて呼吸を整えるように息を吐き出した。

そんな彼を懐かしがるように風が、火照った熱を冷ましていく。

 

「うん、大丈夫」

 

柳洞寺に魔女の面影はない。そもそも魔女と言われて真っ先に思いつくキャスターは子供服が似合うサイズになり、魔女と言うより魔女っ子だ。

保護された場所で秘密裏に陣地を敷いているかと過ぎったが杞憂のようだ。契約を通して流れる魔力の質は善ではないものの、凛自身も本気で疑っていたわけではないが。

凛は、胡散臭い彼の情報を敵味方の判断材料としてではなく、勝敗に関わる鍵としての価値に変えた。

 

「相変わらず、正体不明の自信ね」

「山が教えてくれた」

「冗談でも山と話したとか言わないでよ」

「この前から遠坂は僕を木の精霊かなにかと間違えてるんじゃないの?」

 

呆れ気味な土筆の顔面に無性に拳を叩き込みたい衝動に駆られたが、脳裏から相次いだアーチャー、キャスター両名からの異常なしの報告で踏みとどまる。

だが、凛が与えた僅かなその隙に、すかさず階段を降りかけ帰り支度する顕悟にさすがに魔術師は拍子抜けしてしまった。

 

「てっきり、中も確認するのかと思ったけど」

 

確認する気があるならアーチャーに行かせるわよ、と従者をこき使う口調が定着している凛にやんわりと土筆は断りを入れた。

 

「お寺は9時消灯だからどっちにしても会えないよ。寝ている一成の顔見る趣味ないし」

 

私だってない、とアーチャーの頑なな同意は主人により黙殺。

建物の構造を把握し忍び込むことなど容易いと自覚している土筆は、忍者じゃあるまいしと含みのある言い方とともに二度目の苦笑を向けた。

 

「だからって屋根から落ちて死にかけてまでやって来て顔も見ずにすごすごと帰るわけ?労働に対する対価が軽すぎじゃない?」

 

屋根から落ちたのも、魔力弾の圧力で意識を飛ばしかけたのもだいたいが赤い少女のせいであるが、気に入らないと表情にありありと浮かべている凛の怒る理由が顕悟にはわからない。

彼女に迷惑はかけていない、はず……と若干不確実な己の所業を土筆は何遍も思い返してみる。

無駄な体力を使わせてしまったかもしれないが、これで気兼ねなく法螺吹き(慎二)をなぶることができると邪悪な微笑みをたたえたアカイアクマが言っていたのだから、矛先は既に慎二に移っている。ならば、感情を仮面で隠すことなど容易い彼女が露わにする嫌悪とはなんなのか。

 

「異常がないってわかったんだから成果はちゃんとあるよ」

 

凛の言わんとする本質とは違うとわかりながらも、顕悟は反論にもならない異論を延べた。

 

「いいえ、それは慎二の偽情報に対する結果。神城くんの行動原理の報酬じゃないわ」

「僕はなにかがほしくて心配しているわけじゃないから」

「でもね神城くん。命かけて見に来た心配を、ちょっと確認したくらいで満足してる姿は正直不信を抱くわ。”ねぇ、あなたホントに柳洞くんが心配だったの?”」

 

無事だとわかればそれでいい?そんなのまるでつり合っていない。

自然と棘のある声にさすがに土筆が困惑を訴えるが、うっかり癖はあっても徹底的に調べてこそ、という完璧を求める意志は揺るぎなく、薄紫色に変わってしまった少女の想い出をもった遠坂家の当主は止まらない。。

引き離されて、魔術師の取決めだと正当化して縛りつけていくら納得させたところで気になって気が気でなくて、無駄な心の贅肉なのに無駄と切り捨てられない。認めよう、己が己であるからこそ己であっても誤魔化しきれるはずがない。そう、たとえ頭でどんなに理解しても刻まれた未練が残っている。

だが、このノッポのすっとこどっこいは、一欠片の曇りもなく清々しくただ在るのだ。

あれだけ大切に思う存在がありながら、一瞬で一切の執着を切り捨てる神城顕悟は――詰問に乱されることもなく、そう思われることさえも許容した上でやはりただ在るだけである。それがたまらなく煩わしく、凛の胸の奥が引き絞られたようにつっぱり、荒れ狂う。

今は苛立つ程度の()()だが、放っておけば確実に世界と確執を起こす。神託に似た確固たる声が己を討ち立て囃した。――遠坂凛は決して神城顕悟を容認してはならない。

そうして、離れた距離が永遠に埋まらないような、少年少女の間に赤い壁が割って入る。

 

「アーチャー、どきなさい」

 

主人の命に背き、能力の低下の呪いを負いつつも弓兵は不動を貫く。

 

「そうだぜ、邪魔はしてやるなよ野暮ってもんだ」

 

もう少しでコロシアイになってたのによ、と上機嫌な口笛を交えながら舞い降りたローブの()――否、ローブを被ったように幻視させる神城顕悟だったモノが人をくったような顔つきで喉を震わせていた。

 

「殺し合い?誰にもの言ってんのよ、一方的な蹂躙でしょ」

「そうかぁ?」

「外から眺めただけで満足している無欲さに、自分は強欲だって気づかされただけで殺すかっての」

「そのわりには苦戦してたみてぇだったけどな」

 

暗に凛と顕悟の追いかけっこを知っているかの口ぶりに舌打ちを隠さず、役割に徹している赤い盾の横に並ぶ。

並行して相手の位置を把握し、遠坂家の魔術師は事態を考察していく。

 

「アンタもバカね。そんな木偶の坊を操ったって勝てないわよ」

「けど、一番安全だろ?」

「虫唾が走るくらいにね」

「イイ顔するねぇ。いっそこのまま殺しちまえよ。こいつ、アンタの言いたいこと死んでもわからねぇだろうし」

 

サーヴァントも始末できて一石二鳥じゃね?と砕けた口調と表情のカミシロケンゴは、ケタケタと似ても似つかない笑い声をあげた。

 

「ずいぶん口がまわるじゃない。で、()()はどこにいるって?」

「華奢な小娘のナリしてても優秀だねぇ。慧眼の通り、本体じゃねぇけどこのまま殺せばソレなりにダメージは被るんだぜ?」

 

無論、アサシンが挨拶がてら借りた喋る案山子も運命共同体にして。

 

「他人の形貌で挨拶なんてしつけがなってないのね」

「欲張りなオンナだなぁ……アサシンって知られるリスク背負って教えに来てやってんのに」

 

言い触らしてるやつとは大違いだ、と凛たちを呼び出すために使われたあわれな男をアサシンは嘲笑った。

 

「魔力が閉経した男と違って簡単になびく女じゃないのよ。だいたい、アサシンのくせに魔女?図々しいわね、誇張にも限度ってもんがあるわ」

「俺は名乗った覚えねぇのにな、勝手に早とちりしたんだろ。あいつ、早漏っぽいもんなぁ」

「ふん、白々しい。心理操作はお手の物ってわけ。いいわ、言うこと言ってとっとと消えてくれる?じゃなきゃ、死なない程度に殺してあげるわよ」

「おお怖っ」

 

大袈裟におどけたアサシンがへらへらと笑う。その顔はいつも土筆の気の抜けた笑い方と同じくして、全くの異形。

 

「アンタさぁ、いつまで遊んでいる気だい?」

 

雑草などに拘ったところで百害あって一利もない。そんな無駄なことに時間を使うなよ魔術師。望みは聖杯――そして積み上げる勝利だろう、と。

暗殺者の発言が額面通りならば、それは逆効果である。先の会話から慮れば、無駄と言いながら断ちきれない凛に関わらせようと誘導しているようにも取れる。

 

「もう三日も死人がいない。脱落者出してもらわねぇとさ、ほら、盛り上がらねぇじゃん」

 

せっかくの大儀ある殺人なのにさぁ、と続けた恍惚は冗談か軽口に混ぜだ本音か。

魔女なみに癖のある相手に少女は優雅に微笑みで対峙する。生憎、ホンモノの魔女の手ほどきは受けている凛に死角はない。

 

「言われなくとも。アンタをぶちのめす方法しか考えてないわ」

「へぇ……こりゃあ、ずいぶんと高貴だぁね。ヒィヒィ鳴かせて欲に溺れさせてやりてぇなぁ」

「性癖さらしてんじゃないわよ、この色ボケ」

 

暗殺者は心底愉快そうに二ィ、と口元を歪めて。

 

「気が変わった。出血サービスで俺の能力を披露しちゃおうかねぇ」

 

できれば戦闘は控えたかった赤い魔術師は不機嫌の極みであった。

己の従者の名を呼べば、命令を待っていた弓兵は瞬時に両手に色違いの剣を携えていた。

 

「ヒュゥ!カッコいいねぇ、にいさん。二刀流は男のロマンさね」

 

口の減らないサーヴァントね、と凛はなじりながらもピリリと緊張した背筋を伸ばしたまま。

身体は土筆であるがアサシンがどんな仕掛けを隠しているかわからない。利用されているとはいえ、皮肉屋の名無しと言えど英霊の一撃は確実に土筆を肉片と化すだろう。

暗殺とは不意打ちだからこそ必勝。故に防御は不要、謀殺の武器はあらゆる謀略を張り巡らせる怜悧な頭脳。か弱きその身をさらした時点で敗者は定まっていた。

 

「いいわ、アーチャー。全力でやって」

 

返事は予備動作なくされた投擲(とうてき)だった。

ランサーと拮抗した撃ち合いを三大騎士でもない、増して一般人の身体を借り受けた凶手が受け止めるなど笑止。弓の冠を授かっている英霊が制止している標的に当てるなど造作なく、それは必中の一矢である。

血管一本隔てた急所を射抜く弾丸となった双剣は寸分の狂いもなく、カミシロケンゴの愚策にも受け止めようとした掌を貫き、胴体に吸い込まれるように突き刺さった――はずであった。

 

「あちちちち、火傷しちまったよ」

 

頬をリスのように膨らませて掌に息を吹きかけている様子は、ふざけているとしか思えない。

 

「……奇術使いか?」

「伊達に刺客(アサシン)を名乗っているわけじゃないんでねぇ。ネタばらしはしねぇよ?白けちまう」

 

軽薄な態度の奥に隠れて獰猛な獣のような牙を剥き出して笑うアサシンを、五大元素使いは冷静に分析していた。

深追いは赤い従者では差し支える。待機している群青の魔女のカードを切るほどの相手ではないと即座に判断。

 

「うんうん、アンタがその調子ならまた会うだろ。なんたって俺、運命感じちゃったし」

 

不敵な挑発にわずかにたじろいだのは、乙女の危機だからか、アサシンが解放しつつあった土筆の顔が覗いたからか。

 

「最後まで残ってたら、俺の手でオンナの悦びを教えてやるよ」

 

こうして魔女に似て飄々としたアサシンとの会遇は帳を下ろす。

 

 

 

2

 

 

弓と暗殺の鍔迫り合いとも呼べぬ、陳腐な衝突のあくる日。

 

「それじゃ、あとよろしくな」

 

小さな魔女に戸締りを任せ、登校組として最後に玄関をくぐった士郎は待たせている面子を見渡し、額を抑えた。

頭二つ分ほどひょっこり出たるは、一週間ほど前に家を失くした同級生。料理も掃除もよく気が利く働き者で、彼のお陰で士郎が放置していた庭の植木は瑞々しくよみがえり、家の酸素が濃くなったような気さえする。

珍しく寝ぼけているのか、朝から鴨居に前髪の生え際をぶつけたり敷居に小指を引っかけたりして、隣に並んでいる艶やかなツインテールの持ち主が呆れたように注意を促していた。こちらも数日前から家に住み込むようになった密かに焦がれている才色兼備の少女だが、先日、その美しい顔の裏に少年の甘酸っぱい青い実を躊躇なく踏み砕き、挙句からかい倒すアカイアクマの片鱗を見た。とはいえ、普段は美人で上品な少女を朝っぱらから理由もなく見つめることはやはり気恥ずかしい。

そしてもう一人。金糸の髪を後頭部でまとめ上げ、ブラウスに青いスカートの現代風の服装の上からなぜか雨合羽を被った西洋美人がいる。

 

「なぁ、セイバー。ホントに行くのか?」

「もちろんです。道中、脅威がないとはいえません」

「うん、まぁ、そうだろうけどさ」

 

その恰好で、という意味は通じずに士郎はうな垂れた。

どうにもこの剣のサーヴァントは生真面目といえばそうだが、過保護なきらいがある。それを口にすれば最期、「シロウ、貴方の認識の甘さを叩き直してあげましょう」と物理的に修正される宿命を内心にとどめながら、力関係の逆転を痛感する剣の主は通い慣れた道のりがこれほどまでに過酷だと思った日はない。

なんだかんだでこういった場面で説得してくれる同盟相手はニマニマと遠巻きに楽しむばかりで、人間てるてる坊主を連れ立って登校しようが歯牙にもかけていない。

頼みの綱となる同じ男児たる土筆も、論点が明後日の方向に失踪しそうで不安が残る。良識ある男だが、稀に今日の友は明日の敵のような予想外の切り返しをする天然なのだと共同生活で培った。

 

「シロウ。思うことがあるならば隠さず言ってください。私は貴方の剣と告げたはずです」

「……その、慎二たちがどこで見ているかわからないし、あんまり目立つのはどうか、と思うんだが」

「だからこそ目を引かぬように防御性の低いけれど隠遁に適した服装にしたのではありませんか」

 

不本意です、と全身で物言うサーヴァントを傷つけないようにどう説明したものか。

 

「少し離れて歩くとか……」

「それでは護衛の意味がなくなります」

「そうなんだけどさ、周囲から誤解されるのが、困ると言いますか……」

「警戒させるのは好都合ではないですか」

 

士郎の脳内で他人の視線を気にするはじらいたちが必死な反証もむなしく、白旗を上げそうになっていた。

 

「衛宮くんは、セイバーのような女の子が傍にいて照れているのよ」

 

いけしゃあしゃあと述べる学園の優等生も等しくその対象であるとわかっておいでなのか。士郎の恥じらいたちが盛んに騒ぎ立てる。

 

「じゃあ、僕と先に行く?そのまま林を案内できるし、少しなら立地を見て回る時間もあるよ」

「む」

「え」

「ですが、士郎の護衛が……」

「遠坂にはアーチャーがついてる。同盟の衛宮も遠坂と一緒に居れば一応安全だよ。ほら遠坂って一度口にしたことは守る主義だから」

 

大事なマスターを託すほど赤い陣営は信頼に値するのか――騎士の審判が白日の下にさらされる。

全てをかけた戦いに身を置く戦士にとって、微塵も疑っていない土筆はさぞ滑稽に映ることであろう。だが、意外にも剣兵は首を縦に振った。

 

「わかりました。貴方の助言に従いましょう、ケンゴ」

 

そういって颯爽と歩いていった二人に、慌てたのが残された者たちである。

 

「どういうことよ衛宮くん。なんでアイツがあんなにもセイバーから信頼されてるの?下手したら衛宮くんより上じゃない」

「し、知らないぞ」

 

騎士王の直感スキルゆえの判断であるが、マスターたちは口々に突拍子もなくころりと絆されたセイバーに異を唱えた。

 

「なんかあるでしょ、思い出しなさい」

「急に言われたって、神城はここんとこ、作り置きしているお菓子の数が合わないってぼやいていたくらいで」

「それよ」

 

あっちゃーと言わんばかりに仰ぎ、凛は目を覆った。

冗談半分で話した主夫仲間との雑談に、大真面目な同意が裏付けられる。

 

「神城くんが自分の分をセイバーに与える現場見たの、一度や二度じゃないもの。……はぁ。まさか最優サーヴァントが餌付けで奪われるなんて」

「神城の作る洋菓子は甘いものが苦手な俺でも別格だってわかるけど、あのセイバーが?」

 

であれば、士郎のつくる和食メインの料理や凛の本格中華であっても剣兵の評価は等しくあらねばならない。

やっぱり一緒に仕留めとくべきだったわ、などと不穏な雰囲気を醸し出すアカイアクマに、のけ者にされた半人前はそっと怒りを終息させる。

朝からおかしいのは()()()()の態度ではない。

 

「なぁ、柳洞寺は問題なかったんだよな?」

「……全部見せたでしょう」

 

文字通りキャスター視点で記録された昨夜の出来事は、説明が不要なほど鮮明に直接その場にいなかった者たちの脳に共有されている。

 

「別に置いていかれたことを責めてるわけじゃなくてだな。いや、相談がなかったのは物申したいとこだけど」

 

トイレットペーパーの買い置きが切れたついでのごとく報告された一時はむくれたが、士郎自身、雲の上の存在であった超一級の宝石魔術師に拝み倒してあの高潔な剣の隣で戦うための処方を受けて一日でチョモランマを登りきるような夜を過ごしていたのだから不服はあれど文句はない。

土筆と優等生の両名と数日とはいえ寝食を共にしていたからこそ気づいた僅かな溝に、半人前は足を踏み入れる。

 

「神城のあの翠の目、あれも魔術なのか?」

「植物ばっかり見てるヤツだし、光の加減で葉でも移り込んだんでしょ」

 

翠というよりは青と黒を混ぜ合わせた濃さが、一日で薄まったことは流石の半人前でもわかる。

そして、何事もはっきりと周回遅れにして勝負をつける魔術の師が、うっすら隈のあるはんなり顔を直視しないように位置取りしている裏事情。

本人のいないところで聞いていいものか、悩んだ末、むしろ本人のいない場でなければ、半人前の師は口を開かないのではないかと思った。

 

「さすがに無理がある言い訳だと思うぞ。目の治療をしていた遠坂が知らないはずないだろ?」

 

木々を見守るときにふとした細める瞳がにわかに発光を帯びているのだ、己よりも知識が豊富で優秀な魔術師は気づく。もし見落としたなどととぼけるつもりならば、未熟な魔術師に未来はない。生き残り夢の悲願のために師弟は解消すべきだ。

 

「等価交換」

 

それを言われると困ってしまう。

仏頂面で言葉短く告げた以上、彼女にこれ以上の譲歩はない。

 

「ってことは魔術が関係しているんだな、やっぱり」

 

しまった、と口の前に手をあてた赤い少女は描いたような柳眉を下げて一つため息をこぼす。隠すつもりはないの、とでも言いたげな。

 

「……すぐにわかるわ、嫌でもね」

 

なぜなら此程、勉学を勤しむ校舎は戦場と化す。

ブラウニーからの憂慮(ゆうりょ)と完璧な優等生からの疑惧(ぎく)を、玄関の戸の傍から離れる気配のない少年少女の影を見兼ねたキャスターに現時刻を通達されるまで送られているとは土筆は与り知らない。

 

 




孤独、謙遜、休息、心地よい言葉、博愛

(紫)閑静 (白)幸せな愛を (アワユキエリカ)協力、無欲さ


目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
一言
0文字 ~500文字
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。