アルティメット千早な僕が765プロのオーディションに落ちた件 (やんや)
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アルティメット絶望

1話目は短めに日記風で


○月×日 晴れ

今日から日記を始めることにした。

ようやく自由に動ける時間ができたのだから、これを機に色々と記録を残すのも良いかなと思った末の行動だ。

しかし、日記と言っても何を書けば良いのやら……。

齢三歳のこの身が経験した事を書き記したところであまり面白味もないだろう。まあ、日記とは本来記録であって娯楽要素を求めるものでもないのだけれど。

とにかく、せっかく前世の記憶などという余分な物を持って転生しなのだ。文字の書き方を忘れないように日記を続けるのもありかも知れない。

 

 

 

○月▽日 晴れ

重要なことを書き忘れていた。

昨日の日記を読み返したところ、何の気なしに”転生”という言葉を使ってしまっていた。

別に隠しているわけではないのだが、積極的にばら撒きたい話でもない。

当然こんな事を口に出して言えば正気を疑われるだろう。三歳児なら戯言としてスルーされそうだけども。

 

 

 

○月◇日 晴れ

だから転生の話だって。

どうにもこの体になってから意識を覚醒させ続けることが辛い。

幼児の脳で小難しいことを考えた弊害が睡魔として襲ってくるわけだ。

それももう少し成長すれば改善が見込まれるはず。

まず始めに、僕は転生者である。

よく創作物で取り扱われるアレだ。謎の存在Xや青髪の残念女神に出会うことは無かったものの、産まれた直後から前世なんてものを覚えており、何となくこれが転生なのだと自覚していた。

記憶に無いが、どうやら何らかの契約の下に僕は転生を果たしたらしい。どのような存在が何のため僕を転生させたのかは判らない。しかし僕を転生させた存在がいることは確かだ。そうでなければ転生した理由も、このチート能力を自覚している理由も無いからだ。

ちなみにそのチート能力とは、

 

 

 

△月Δ日 晴れ

昨日は途中で力尽きてしまった。

やはり幼児の頭ではそう長く物を考えられないらしい。すぐにオーバーヒートを起こして気絶するように眠ってしまう。

ただ眠るだけなら良いのだけど、この日記を書いている途中に眠るのはマズい。親に見られたりしたら大変だ。最悪化物扱いされて捨てられてしまうだろう。

ただでさえ今世の両親は僕に対して淡白な扱いをする予定なのだから。可能な限り幼いうちは普通に過ごしておきたい。

 

 

 

△月×日 晴れ

少しだけ書ける量が増えたと思い調子に乗ってしまった。また意識のブレーカーが落ちてしまった。

僕の力については、安全のためにここに書かない方が良いのかもしれない。でも後々忘れた時に読み返せたら便利だろうし、何ができるのかきちんと把握できたら詳細を書くことにしよう。それまでに自分の将来について考えておく必要がある。

さて、どうしようかな。

 

 

 

△月○日 晴れ

とりあえずサインの練習とかしてみたり。特に意味はない。

日記の表紙にすら書かなかった正真正銘の初めてのサインだ。

 

如月千早

 

それが今の僕の名前だ。

 

 

 

×月●日 晴れ

昨日書いた通り、僕の名前は如月千早だ。

女の子みたいな名前だと思う。実際この身の性別は女なので名前通りではあるのだけど、逆に中身が名前に伴っていないことになる。

前述した通り、僕は転生者だ。そして元男でもある。

外側が女で中身が男の歪な存在ということで、転生してすぐは色々と戸惑った。何せ長年連れ添った息子がさよならバイバイしていたのだから、そのショックはかなりの物だった。

しかし、途中から前世を思い出すタイプの転生ではなく、産まれた時から自覚するタイプの転生だったため、赤子時代に体験するお約束めいた不自由さが逆にこの身に慣れるきっかけとなった。今では体に違和感が出ることはほとんどなく、自分が女であることを受け入れられていた。

と言っても、ふとした瞬間に前世を思い出すかのように男的な行動が出ることもある。一度トイレを立ったまましようとしてあわや大惨事ということもあった。

それと男を恋愛対象にできるかと言えば絶対無理だと答えられる。

体は女でも恋愛対象は女のままだった。

テレビに出てくるアイドルを可愛いと思えるし、性的な目で見ることだってできた。実はまだまだ若い今世の母親との触れ合いにドキドキしたのは内緒。

逆に男に対しては一切ときめかない。イケメンの俳優を見てもイケメンだなって思うだけでそれ以上は何も感じない。一時期預けられていた保育園にいた男の子にも何も感じなかった。いや、感じたら感じたで色々とヤバかった。端的に言ってショタコンということになるからね。

むしろ幼いということで無防備に肌を晒す女の子達にこそドキドキしたものだ。

端的に言ってロリコンであった。

 

 

 

×月◎日 晴れ

ロリコンじゃないよ。

子供に混じって素肌を晒すことに抵抗があっただけだし。ドキドキ感も元男と言えど恥ずかしいと思ったからだから。

その時は周囲の子供の不思議そうな顔を無視してこっそり着替えたりしてことなきを得た。未来の大スターである如月千早の肌をこんなところでお披露目するなんてありえないからね。

未来の大スター。

何故僕がこんなことを言うのか?

それはこの身が如月千早だからに他ならい。

ようやく話が本筋に戻って来れた。

まず何度も言うように、僕は転生者だ。

そして転生先は如月千早だった。

この如月千早という少女はサブカルネタを少しでも齧ったことのある人間ならば耳にしたことはあるだろう、アイドルマスターという作品に登場するキャラクターである。

765プロダクションというできたばかりの零細アイドル事務所のメンバーの一人で、アイドルでありながら歌のみに固執する尖がったアイドルだ。

本来明るく朗らかな性格だったが、幼い頃に弟が交通事故に遭って死亡したことにより性格が一変、暗いものとなった。家族との間にも隔意が生まれ、それも性格を変える要因になったらしい。

そんな如月千早は当初協調性がやや乏しく、アイドルの仕事も歌のみに特化しており、かなり扱い辛いキャラだった。

それが765プロのメンバーとプロデューサーとの絆を深めることで最後には明るい性格をある程度取り戻したみたいなキャラクターである。

そんな如月千早に転生した僕なのだが、自分の名前を聞いても最初はアイドルマスターの如月千早と自分を結びつけることはなかった。

転生したとしても、まさかアニメやゲームの世界に産まれ落ちるとは思っていなかったのだ。ただし、名前を聞いて千早と一緒かと少しだけテンションを上げてはいた。まあ、その時は自分が赤ん坊になっていることと女の子呼ばわりされていることに気を取られていて喜んでいる余裕なんてなかった。

そんな僕が自身を如月千早だと認識できたのは弟が生まれたからだろう。

如月優。

それが僕の弟の名前。そして如月千早の死んだ弟の名前だった。

母に弟ができると聞かされた時にまさかと思っていたが、その弟の名前が優だと教えられた瞬間に気付かされた。ここはアイドルマスターの世界だと。

それまで何となくアイドルが前世に比べて優遇されているなぁ程度に世の中を見ていた僕は、改めて世間に意識を向けてみた。すると出るわ出るわ、前世で耳にしたアイマス関連の情報が。

それら集めた情報をまとめ、導き出した結果が自分がアイドルマスターの世界に如月千早として転生したという答えだった。

 

 

 

×月▼日 晴れ

つい先日母親共々病院から退院して来た弟のおしめを換えていると頭に思い浮かぶことがある。

この如月千早は大スターになれるのかと。

その疑問の理由は弟にあった。

物語では弟の死により歌に対する想いが強まり、千早のストイックさが生まれた。特技をトレーニングと言い切れるのはどこかおかしいのだ。

だがそのストイックさがあったから千早は歌において格別の力を得たのも事実。過去の回想シーンでは幼少期は歌が上手いという描写はなかった。むしろやや音痴に表現されていた気もする。

そこから歌姫となるにはどれほどの努力が必要だったのだろう。いや努力という言葉で済ませられないのか。謂わば妄執とも呼べる歌への想いが如月千早を形作ったのだろう。

その一方で弟の死は千早の歌にリスクを与えてもいた。

弟の事故の記憶により喉に負担をかける歌い方になっているとか、声が出にくくなっているなど、長く歌に関わるならばマイナスになる要素を弟の死は千早に与えている。

そしてその事故を週刊誌に載せられたことで千早は歌えなくなった。歌おうとすると声が出なくなる。アイドルとして致命的だった。

それにより一時期はアイドル活動を休止せざるを得なかったが、765プロの仲間の献身により再び歌を取り戻したというのがアニメのお話である。

 

泣ける!

 

で、この世界ではどうかというと、さすがに大成するために弟を見殺しにするような真似をしようとは思えなかった。

当たり前だ。弟の命なのだ。大切に決まっている。

……決まっているのだ。

いや、ここで白状しておこう。僕は一度弟が死ぬことを許容しかけた。

原作がそうだからという理由で。弟が死ぬのを受け入れかけた。

今思えば愚かの極みとも言える思考だった。命をなんだと思っているのか。でも最初の頃の自分は確かにそんな考えを持っていた。それが僕という人間の本性だった。

そんな屑めいた考えを改めることになった理由は他の何物でもない、弟本人だった。

まだ産まれたばかりの弟は病室のベッドで横になる母の隣で眠っていた。この世に汚いものなど無いと言わんばかりの平和ボケした寝顔だった。

これからの短い人生を精一杯生きておくれなどと無責任かつ非情な思いで眠る弟を見ていると、パチリと目を開いた弟と目が合った。

まだろくに目も見えていないのか焦点の合わない目をくりくりと動かしている。なんとも滑稽な姿だと思った。

だから、それは不意打ちだったのだ。

ふわりと弟が笑った。

無邪気に笑った。

汚いものなどこの世にないと。

目に映る全てが綺麗なのだと。

目の前の千早()を見て笑ったのだ。

その瞬間、僕の中にあった弟が死ぬ未来は吹き飛んだ。

自分の考えがとても愚かしいものだと気付かされた。

弟は生きていた。いや、生きている。

目の前で生きているのだ。

無意識に震える手を弟へと伸ばしていた。

指先でその小さな掌へと触れる。きゅっと指を掴まれた。

限界だった。

気づけば僕は泣いていた。

生まれ変わってから一度として泣いたことなどなかった自分のどこにこんな量の涙があったのか?

むしろこれまで溜まっていた何かが、今涙として溢れた気さえした。

突然泣き出した僕に両親はひどく狼狽えていたが、しばらくすると優しく頭を撫でてくれた。

思い返してみれば、生まれてこの方、この親に頭を撫でられたことがあっただろうか?

何度か撫でようと手を伸ばして来たことはあったのだが、それを僕が避けていた。どうせ疎遠になる相手なのだから馴れ合う必要はないだろうという思いで。

どこか前世の親と比べていたのかもしれない。どちらも親であることに違いはないというのに。

そんな諦観にも似た感情は涙とともに消えてなくなった。

弟の笑顔のおかげだ。

だから僕は弟に感謝している。この子のためにできることは何でもしようと思った。

 

ところで、僕が失ったモノを当然の様に弟は持っているわけだ。

女に生まれて早数年。しかし無いことに慣れ始めた自分を自覚している。

このまま心まで女になってしまうのかと不安に思いながら弟のそれを見ていると、横で洗濯物を畳んでいた母親が変に神妙な顔で何を見ているのかと尋ねて来た。

何をというかナニをというか。元気にちんちんと答えればよいのか。

何となく、弟のこれを見ていると自分が女であると自覚するみたいなことを言ったらおしめを換える役を取られてしまった。やたら焦った顔で「早熟過ぎる」とか「まさか実の弟に」とか意味不明なことを呟いていたがアレはなんだったのだろうか。

 

 

 

◇月凸日 晴れ

弟がしゃべった。

しゃべったあああ!(ファストフード感)

これまでダーダーとしか言わなかった弟が初めて意味のある言葉を発した。育児本からすればそろそろだとわかっていたが、やはり実際にしゃべるのを聞くと驚きと感動が押し寄せて来る。

しかも第一声が「ちひゃー」である。

パパでもママでもなく僕の名前を呼んだのだ。嬉しさが天元突破した。

お姉ちゃんとかでないのは誰もお姉ちゃんという単語を弟の前で使わなかったからだろう。両親とも僕のことは千早と呼ぶし。たぶん二人が使う言葉のうち一位と二位は優と千早だったとも要因と言える。

千早。僕の名前だ。それを呼ぶのは弟!

その幸福に浸っていると両親が慌てたようにお姉ちゃんと呼ばせようと弟にお姉ちゃんと連呼しているのに気付いた。

そんなインコやオウムじゃあるまいし。

両親の謎の拘りに呆れていると、圧力に怯えたのか弟が泣き出してしまった。何をやっているのだろうか。

赤ん坊の話す内容に必死になり過ぎでしてよ(上から目線)。

別に僕は千早呼びでもいいんだけどな。お兄ちゃん呼びが叶わない今生なら名前呼びは妥協点だと思うし。

しかし僕が名前呼びでいいと伝えると両親はさらに慌てて弟にお姉ちゃん呼びを迫るのだった。

え。新手の虐待ですか?

 

 

 

○月○日 晴れ

今日は夏祭りの日だ。

年齢的に今日が弟のデッドエンドの日かもしれない。

細かな年齢がわからないが、千早が六、七歳の頃だと思うので今日がデンジャラスデイで危ないのは確定的に明らか。

ああ、頭が回らない。

こんな日に限って風邪をひいてしまった。何という不運。

祭りが始まるまでに熱を下げないと。弟が祭りに行ってしまう。

頼りの親は僕なんぞの看病のために残ると言っている。ならば弟も残って欲しいと言ってもまともに取り合ってくれない。

どうやら親の代わりに弟のクラスメイトの親御さんが付き添いを買って出てくれたそうだ。迷惑すぎる。

こうなったら前世について話してみようかなどと無謀なことを考えもしたが、熱に頭がやられたと思わるのが落ちだ。

何とか弟の事故を防がないと。

弟が死ぬ。

嫌だ。

何とかしないと。

何とか

 

 

 

○月×日 晴れ

 

せーふ

 

 

 

○月▲日 晴れ

弟生存。

良かった。

未だ風邪の治らぬまま布団に寝転がる僕の横で弟が心配そうな顔でこちらを見ていることに安堵する。

どうやら夏祭り行きを断念してくれたらしい。しかも弟本人からの申し出とのこと。親も弟本人が言うものだから無理に送り出すことは躊躇われたそうだ。

よくやった弟よ。そして不甲斐ない姉で申し訳ない。

せっかくお友達とのお祭りをご破算にしてしまったのだ。この埋め合わせはする。絶対する。

まだ微熱の続く頭であれこれと埋め合わせについて考えていると、隣の部屋で両親が深刻そうに話し合っているの声が聞こえた。

断片的だけど「独占欲」とか「嫉妬」とか聞こえた。意味はわからないが、僕が弟を独占していて両親のどちらかが拗ねているとかだろうか。

まあ、どうでもいいか。何はともあれ良かった。弟が生きている。今はそれだけで十分だろう。

弟の生存を確認するために弟に抱き着いたところ、隣の部屋から親がすっ飛んできて引き離された。

そうだね、風邪が感染ったら大変だったね。

 

 

 

凸月凹日 晴れ

中学校に進学した。

小学生の弟とは離れ離れである。寂しいよおおお!

でも通学路は途中まで一緒なので、分かれ道までは毎日一緒に登校している。

できれば小学校まで付いて行きたいところだが、それは両親と何故か小学校の元担任に全力で止められた。

僕はただ弟と一緒にいたいだけなのに。え、それが駄目だって? 解せぬ。

中学生になって以来、授業を受けながら思い浮かべるのはもっぱら弟のことだった。

授業自体はぶっちゃけ受ける必要がないくらい簡単なので上の空でも余裕なので、その間弟のことを考える時間に当てている。

帰ったら弟と何をしようかなんて妄想を浮かべ、授業中にニヤついている奴が居るとしたらそいつは僕です。

 

 

 

凸月×日 晴れ

弟に将来の夢を語った。

将来アイドルになりまーす。イエーイピースピース。

そんな劇高テンションで宣言したところ、弟は素直に喜んでくれていた。

両親はどうかと言うと、意外にも賛成してくれた。と言うか異常なほど喜んでいた。

何だろう、末期患者で余命幾許も無いと思っていた相手が突然快復したみたいなテンションの上がり様は。

将来が心配だったとか言われても、一応これでも学校では成績優秀で通っているのですが。決して優等生と言われないところがミソだ。

とにもかくにも僕の夢はアイドルになることだ。

もちろん入るアイドル事務所は765プロ一択。それ以外眼中に無し。

約束された勝利の事務所以外に入っても意味ないってことよ。

 

 

 

凸月♦日 晴れ

一応、アイドルになるための準備はしている。まあ、この身体に一般的な努力というものは不要なのだけどね。

実は結構前から僕が所謂チートキャラだってことが判明していた。今の今まで説明するタイミングも使う場面も無かったので死蔵されていたのである。

 

──消しゴムで消した跡──

 

これらのチートにより超絶強化された如月千早、名付けてアルティメット千早はまさにアイドルになるべくして生まれたと言っても過言ではない。

あとは765プロに入ってしまえばトップアイドルまで一直線って話である。

トップアイドルになった暁には、印税で儲けて弟と両親に楽させてあげる。これが僕の野望であった。

 

 

 

△月▲日 晴れ

中学三年生になった。

少し前から受験シーズンでクラスメイトがピリピリしている。

僕も受験生に他ならないのだけど、ある意味進路がアイドルで決まっているのであまり進学先は気にしていない。

近ければいいかな程度だ。その近いというのが家からか765プロの事務所からかは考え中である。

家から近ければ通学は便利だ。原作の千早が一人暮らしだったのに対して家から通えるというのは非常に恵まれた環境と言える。

しかしこの家から765プロの事務所はやや遠い。春香程ではないが毎日通うとなると結構厳しい距離だ。

ならば事務所から近い学校がいいのかも知れないけど、そうなると今度は弟と離れて暮らさなければならない。

自他共に認める弟マイラブな自分からすれば弟と離れて暮らすのは正直キツい。今なら千葉のエリートぼっちな少年の気持ちがわかるというものだ。

いっそのこと弟と一緒にアパートでも借りて二人暮らしでもしようかとも思ったのだが、両親に軽く相談したところ全力で反対されたので断念した。

高校ならばともかく、まだ小学生の弟を自分の都合で学区外に転校させるのはいけない。

弟が転校先で馴染めずに孤立した末、いじめに遭うなどという結果になったら大変だ。その時は自分の浅慮さを大いに悔いたものだ。

そんな思いから弟との二人暮らしを撤回すると両親は異常なほど安堵していた。

何やら小声で「間違いが起きたら」とか「禁忌が」とか言っていたのも弟の転校先での問題をいち早く気づいたからだろう。そこまで頭が回るなんて、やはり親というのは偉大だと思った。

 

 

 

X月♦日 晴れ

今日は記念すべき日だ!

出だしからテンションが上がっていて後で読み返した時に恥ずかしい思いをしそうだけども、今日この時ばかりは仕方がないと言える。

今日僕は765プロのオーディションを受けて来たのだ!

いよいよ僕のアイドル人生が始まったのだ。テンションを上げないでどうする。

公式設定では如月千早は765の社長にスカウトされて入ったとあるが、それが具体的にいつどこでというのが分からなかったのでスカウトでの事務所入りは断念した結果である。つい最近まで意味もなく町中を徘徊していたのは内緒だ。

なかなかスカウトされないことに不安を抱いていたところに765プロが新人アイドルを募集するという情報を手に入れたので徘徊は中止。そのオーディションを受けることにした。

どうせ入るのならばスカウトだろうがオーディションだろうが関係ないだろう。

要は入ってしまえばいいのだから。その後はゲーム版なのかアニメ版なのか探りつつ、判明次第ルートを選定、原作知識を活かしてアルティメット千早として765プロでも一際輝くスターになるって寸法よ!

まさに完璧。いやまだ何も始まっていないので油断は許されないか。原作知識も日記に書いた事柄以外は十数年経った今では細かな箇所は曖昧になっている。仮にゲーム版だったとしたらどの作品かによって難易度変わるしね。

だが僕はやり遂げよう。765プロ最大のピンチである弟の死のスキャンダルは回避済みなのだからわりとイージーだよね。というかアレが重すぎるだけで、アイドルマスター自体はライトな世界観だしね。リアル世界のアイドル事情の方がエグいでしょ。

 

で、実際に受けたオーディションなのだが、さっそく原作キャラに会ってしまったわけだ。

765プロの新人アイドルオーディション会場(というか事務所)に彼女──天海春香が居た。

事務所前。ゲームでもアニメでもよく見た、それこそ親(前世)の顔より見たとも言えるあの扉の前に真剣な顔をした春香が立っていた。

精一杯のおめかしなのだろう。どの原作知識にも無い程に気合の入ったお洒落をして扉の前に突っ立っていた。

真剣な顔の天海春香とか珍しいというかいつものと言えばいいのか。どちらにせよ生で見るのは初めてであった。

て言うか入らないのだろうか?

そんな疑問も合わさってか、思わず声を掛けてしまった。

春香は突然声を掛けられたことに驚いたのか「うぇ、へぃわ!?」という珍妙な叫び声を上げるとビビっと体を震わせていた。

アニメとかで見ると普通でも、こうして生で見ると何と言うか違った印象を受けるね。ここまでリアクションが大きいのはアニメだから許容できるのであって、実際に目の前でやられると釣られてビクっとしてしまう。

驚いた天海春香に僕が驚いたことに天海春香が驚いて……もう書いていて意味がわからないよ。とにかくお互いに驚き合った出会い方だった。

 

しばらくして落ち着いた春香が自己紹介をして来た。突然声を掛けた相手に誰だテメェ的な態度を一切とらずに自己紹介ができるのはさすがアイドルオブアイドルと言える。素直に感心した。

彼女に倣い僕も自己紹介を返した。

如月千早です。本日オーディションを受けに来ました。

僕の言葉を聞いた春香は「あ、私もオーディション受けに来たんだよ」と当然のことをとても嬉しそうに語ってくれた。

嬉しそうな彼女に僕も釣られて嬉しくなってしまい無駄にテンションを上げて何か色々と意気込みを語ってしまった気がする。

とりあえず春香に対する第一印象は悪くなかったと思う。原作の千早がどんな態度で天海春香に接していたか不明だが、今僕が春香に見せた態度よりは堅い物だったに違いない。

その不器用とも不愛想とも言えであろう千早の態度が天海春香の庇護欲を誘った可能性も無くはないが、それを狙って原作の性格に無理やり近づける真似はしなかった。ぶっちゃけ面倒臭い。

今世の如月千早は僕が中に入っているため原作の千早よりは明るいはずだ。少なくとも暗いとかおとなしいという評価を周りから受けたことはなかった。

この時はあえて無理にアイドルらしい性格を演じいる部分もあったが、その甲斐あってか春香とスムーズに打ち解けられたと思う。

できればアドレス交換とかしたいところであるが、さすがに出会ってすぐに言い出すのは躊躇われた。どうせ後日事務所で他のメンバー共々交換することになるだろうし、その時にすればいい。

当たり障りの無い会話を交わしながら未来の予定表にアドレス交換と心の中で記入した。

 

オーディションはその後しばらくして始まった。

ピヨちゃんこと音無小鳥が受付として対応してくれた。名前と履歴書を渡したら順番に呼ぶので社長室で面接を受けるよう言われた。待ち時間は事務所側のソファに座って待つよう言われたので、先に面接のある春香を見送った後、促されるままにソファへと座った。

面接までの時間は結構あったと思う。

春香の面接が長引いたのだ。かなり話しが盛り上がっているのが社長室から漏れ出る笑い声から窺えた。

社長の声と春香の声、あと一人秋月律子の声が聞こえた。

さすが春香だ。出会ってすぐの二人とあれだけ打ち解けられるのだから。そんなこと、僕にも千早にも無理にだろう。

まあ、僕はそこで勝負を賭けるタイプでないと自覚しているので特に焦りはしなかった。如月千早の武器はあくまで歌なのだから。

やがて面接を終えた春香が社長室から退室して来たので労いの言葉を掛けた。すると春香はホッとしたのかふにゃりとした笑顔を浮かべるとありがとうと返して来た。なんだかんだで緊張はしていたらしい。それにしてはやけに盛り上がっていた気がするけど。

色々と突っ込みたいところだが、今度は僕の面接の番となったので話を切り上げると面接を受けるために社長室へと向かった。

後ろから小さく頑張っての声が掛けられたので、振り返らずにピースサインを返しておいた。

面接は特に面白みがある内容ではなかった。春香程盛り上がるわけがないと思っていたけど、まさかここまで平凡な内容になったのは意外だった。

社長からは家族構成や好きな歌を聞かれ、秋月律子からは特技や習い事について聞かれた。どれも履歴書に書かれている以上の中身はないのだけれど……。

そんな感じで千早の胸並みに起伏の無い面接は終わった。

謝辞を述べて退室すると事務所に春香が残っていた。

何か忘れ物でとしたのかと不思議に思っていると、何と僕を待っていてくれたらしい。会って間も無い僕の面接が終わるまで待つなんて、女神か。もしくは暇人か。

とりあえず音無小鳥から結果は後日連絡するので今日のところは帰るよう言われた。

765プロからの帰り道、春香と並んで歩きながらお互いの話をした。

春香の話によると、色々とオーディションを受けてはいたが全てに落選していたらしい。

意外な事実にまじまじと彼女の顔を見てしまった。

その視線をどう受け取ったのか、あははと笑う春香。次に少し落ち込んだ表情をしたかと思うと、「私アイドルの才能がないのかな」なんてことを呟いた。

耳を疑うような台詞だった。

あの天海春香がこんな弱音を吐くなんて。

映像として天海春香が一人のシーンで弱さを見せる描写は見たことはあるが、それを人前に晒すというのはかなりレアだ。トキワの森でピカチュウに遭遇するくらいレア。

でもそれ以上にありえないという思いの方が強かった。

こんなの天海春香じゃない。

そう思うほど天海春香を偶像化してはいないけど、何となく精神的にタフという印象があったので少なからずショックを受けた。

何と答えるべきかわからず喉が詰まってしまった。

その僕の反応を見て自分の失言を悟った春香は「ごめんね急に変な事言っちゃった」と笑った。そのまま少し歩調を早める姿はこの話を無かったことにしたいように見えた。

でも僕にはこの話をここで終わらせる気にはなれなかった。

だって僕は天海春香という普通の少女がトップアイドルになることを知っていたから。

予感でなく、希望でもなく、予言より強固なイメージで僕の中には天海春香がアイドルをする姿が残っていた。

前世の知識だからじゃない。モニター越しでも、二次元の存在だったとしても、僕にとって天海春香という少女はいつだってアイドルだった。

でもそれを上手く伝えられないのがもどかしい。この時ほど全てを伝えられないことを辛く思ったことはない。

でも諦めたくない。なんとか伝えなければならない。何故かこの時は自身の全てを賭けてこの少女に自身を持たせなくちゃと思ったのだった。

そして必死に絞りだした僕の言葉は、

 

貴女は天海春香だ。

 

精一杯の勇気と心ばかりの誠意の結果がその言葉を吐き出させた。

他の何者でもない。この目の前の少女が天海春香だから僕は信じられた。

この少女は将来必ずトップアイドルになる。僕はそれを知っている。

だから伝えたかった。貴女が天海春香である限り貴女はアイドルであると。

その気持ちが十全に伝わったかはわからない。こうして日記にその時の様子を書き出している今この時も、春香に僕の意図が伝わったか確証は持てない。

それでも、僕の言葉を受けた春香が一瞬だけ目を見開いた後笑顔を浮かべたことだけは確かだった。

 

最寄り駅で春香と別れた後はまっすぐ家に帰った。

別れる時に今度は事務所でお互いにアイドルとして会おうと約束した。

結果が来るのは遅くとも三日くらい先だそうだ。実際に事務所に行くとなるともう少し後になるだろう。

今から彼女と過ごす765プロでのアイドル生活に胸が躍る。胸無いけど。

さて、長々と書いたがもういい時間だ。そろそろ寝ようと思う。

合否については特に不安はない。僕が如月千早である時点で受かるのは確定事項なわけだしね。

むしろ明日これを読み返して布団の中でジタバタしないかの方が心配だ。

なんてね。

 

 

 

X月♦日 雨 

 

落ちた

 

なんで

 




社長「ティンと来なかった」


千早ちゃん落ちちゃいましたね。
千早になれたからといって調子に乗った結果が落選の二文字。
まあ、調子に乗っただけが落ちた理由ではないのですが、今は千早の舐めた態度がマイナス評価だったということで納得していただけたらと思います。
実際1話目では終始噛ませ犬めいた性格なので人を見る目がある社長や律子のお眼鏡叶わなかったのでしょう。面接中ずっと如月千早というキャラを見せていただけですし。弟以外に自分を見せることはせず、弟以外は同じ人間ではなく、キャラクターとしか認識していません。最後の最後に春香に対して仮面を脱ぎ捨てたわけですが、時すでに遅し状態でした。

今作のコンセプトは本来噛ませ犬になるような地雷転生者が原作キャラ憑依という勝ち確からの挫折により失墜するところから始まり、そこから這い上がるようなサクセスストーリー風の何かを目指しています。
そのため一度千早には落ちるところまで落ちてもらいます。それが苦手な人は二話以降は読まれないことを推奨いたします。ライトにシリアス。ヘヴィに居た堪れないので。と言っても腐ってもアイマス世界なのでゆるいですが。
それから、この作品は基本的に転生チート物です。如月千早の俺TUEEEと俺NASAKENEEEの高低差に耳キーンなるのを楽しむ作品です。それ以上のクオリティを求めてはいけない。

次回からは普通の文体になります。


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アルティメットニート生活

冒頭のくだりはほとんどアイマス関係ありません。
完全に作者の趣味に走っております。

そして二話目は合間ということで短め。軽い千早責め。


失敗した。失敗した。失敗した。

失敗した。失敗した。失敗した。

失敗した。失敗した。失敗した。

 

僕は失敗した。

 

『準備はいい?』

 

仲間の”声”に慌てて返事を返そうとして失敗する。焦った所為で上手く言葉が出ない。

待って欲しい。準備なんてできていない。

チームメンバーが各々の言葉で準備完了済みと答える中で、唯一僕だけが未完のままだった。

 

『皆さんのご無事を祈っています!』

 

オペレーターの少女がこれから死地へと向かう僕たちに精一杯の声援を送っている。

ここまで言われるともう後戻りできない。つまり僕は今の不完全な状態で戦場へと送り出されるわけだ。

冗談じゃない!

そんな馬鹿な話があってたまるか。何で僕だけがこんな目に遭うんだ。リーダーもリーダーでちゃんと全員が返事をしてからGOサインを出すべきじゃないのか。

クソ。クソ。クソ。

ここまで来て、こんなオチが待っているだなんて……!

どうしてここぞって所で僕は失敗するのだろう。

嗚呼、失敗した。

失敗した。

僕は失敗した。

こんな──。

 

『レアブ忘れて来たあああ!』

『乙w』

『やっちまいましたな』

『だからあれほどアイテム管理はしっかりしろと』

『誰だーこのうっかりさんを作った料理人はー!』

『やつはワシが育てた』

 

そんな僕の全力の”叫び”はチームメイトのネタ台詞とカウントダウンの表示によりログの彼方へと消えてしまった。

 

 

────────────

 

『おつー』

『おつっつん』

『おーつ』

『見事な赤箱ですた』

『乙w俺も赤ばっかww』

 

緊急クエストを終えた僕達は普段たまり場にしているロビーに集合しながら先程まで参加していた緊急クエストの感想を言い合っていた。

僕が参加していたのは今全国的に人気のオンラインゲーム【ファンタジーアーククエスト2(略してFAQ2)】の公式イベントだった。

大人数参加型の巨大ボス討伐イベントで、普段手に入らない貴重なアイテムが手に入るとあってプレイヤーなら誰しも参加するコンテンツだ。特に今日のボスは現状最強の武器を落とすとあってトッププレイヤーから新人まで血眼になって殺しに掛かっている。僕も当然狙っていたが結果はお察し状態だ。さすがは最高レアアイテム。出るわけがなかった。

本来ならばこうした緊急クエスト後はレアアイテムのドロップ報告会になるはずが、今回は参加者全員がレアの抽選に漏れたので報告もとい自慢して来る者は居なかった。

僕も他のメンバーに倣うようにレアアイテムは落ちなかったわけだけど、決してレアドロップ率アップのアイテムを倉庫に忘れて来たのが原因ではない。絶対にないはずだ。ぐすん。

このアイテムを使ったか使っていないかで結構アイテムの量が変わるので、こうしたイベント時には必須アイテムと言える。それを忘れる僕っていったい……。

ドロップ率250%アップの未使用は正直痛かった。レアドロップ以外にも確定で入るコレクトファイルのゲージ量もアイテム使用時には加算対象なのだ。これが溜まり切ると最強から一段下のアイテムが確定ゲットできる。最強までの繋ぎとしては優秀なシステムだ。

今回使用しなかったおかげで結構前から組んでいたコレクトゲージのスケジュールが狂ってしまった。これは夜中以外にも朝の緊急クエストも出るしかないか?

 

キョウ:『おーい、チハヤ~』

 

睡眠を犠牲にする覚悟を決めた僕にフレンドの【キョウ】が個人チャットで話しかけて来た。

いつでもオープンチャットで話しかけてくるこいつにしては珍しい。ちなみに個人チャットとはお互いにしか聞こえない(見えない)チャットをやり取りする機能のことで、オープンチャットは周囲全員に聞こえるチャットのことである。

キョウは緊急クエスト以外でも絡みがある知り合いだった。レベル上げやレアアイテム堀りなどでも長時間付き合ってくれる頼れる相棒的存在とも言える。あと【チハヤ】というのは僕の使用キャラの名前だ。

キョウに合わせるために個人チャットのコマンドを起動させる。

僕は基本的に緊急時の呼び出し以外で個人チャットを使用する機会はない。しかも大抵一方的に呼び出されるだけなので、こちらから個人チャットで発言する操作に多少手間取った。

ガチャガチャとキーボード操作に手間取っていると僕のキャラクターの周りをキョウがくるくると回り出した。

キョウの使うキャラクターはリアルではまず居ないタイプの青髪クール系のスレンダーな美少女キャラで、アップで見ると冷めた目が戦闘のプロみたいに見えなくもない。

彼女(たぶん中身はおっさん)はライフル銃で遠距離から攻撃するタイプのクラスを主に使用しており、敵の弱点を的確に狙い撃つ所は容姿にぴったり合っていた。

そんなクールキャラ(見た目だけ)が手を水平に伸ばした格好で「キーン!」とか言いながら走り回る姿は何だか滑稽だった。しかも無表情クールキャラだし。

対して僕のキャラはと言うと、これも現実には存在しないであろう金髪ツインテールのロリキャラだった。

主に近接戦闘を好む僕は自キャラにわざわざバカでかい大剣を持たせていた。僕はロリっ娘が自分の身長以上の武器をぶんぶんと振り回す姿にときめくタイプなんだ。

で、今の絵面って金髪ロリキャラの周りをスレンダークールキャラが走り回っていることになる。

ぶっちゃけシュールすぎやしないかね。

僕以外の者も同じ感想を持ったのかそれまでレアドロの報告をし合っていたチームメイトが遠巻きにこちらを見ている。これは軽く引かれているね!

中にはわざわざエモーションで「やれやれだぜ」と頭を振っている時を止めそうな学ラン姿の奴とかも居たが、だいたいの人間は僕らと関わり合うことを避けているように思えた。

仕方ないことだけどさ。

 

チハヤ:『何か用?』

 

いい加減周りをくるくる回られるの困るので返事を返す。

僕が反応したためキョウは走り回るのを止めるとわざわざ僕の前まで移動して来た。三人称の俯瞰視点タイプのこのゲームでキャラの前に移動する意味は無いのだけども、そういう細かいところで拘るところがキョウらしい。

 

キョウ:『お、まだ落ちてなかったかー。いつも630(回線落ち)と戦っているチハヤのことだから居ながらにして回線落ちしてると思ったよ』

 

何を言うのかと思えば失礼な。僕だって回線落ちしないこともあるよ。

……いや、落ちることが異常なので胸を張ることじゃないけどさ。しかもエラー起こさないの一週間に一回くらいだし。

 

チハヤ:『おおん? 喧嘩売ってるなら買うよん? バトルアリーナでアリーヴェデルチしちゃうよん?』

キョウ:『うぇ、相変わらず沸点低すぎー。チハヤは装備は良いくせにPS低いんだからアリーナとか鬼門でしょ』

チハヤ:『くっ……僕の右手に宿った暗黒竜が終末(カタストロフ)現世(アストラルサイド)顕現(マニフェステイション)させようと……これさえなければ今頃アリーナ覇者に!』

キョウ:『はいはい、邪気眼オツオツ』

チハヤ:『(つд⊂)エーン』

 

僕がエモーションで闇を宿した右手を押える所謂邪気眼な動きをするとすかさずキョウから厳しめの突っ込みが入る。

同時にモニター越しにキョウがげんなりした顔が浮かべた気がするが、実際にキョウの素顔を見たことないのであくまで想像でしかない。なのでキョウが実際にキャラを僕から遠ざけているのはたぶんラグによる位置ズレ修正なんだ。

……なんて、リアルでやれば引かれるようなこともゲーム内では結構やれる。しかも気心の知れた相手ならばなおさら色々と晒け出せる。

出しちゃいけないものまで出したのは黒歴史。

ある意味この”チハヤ”こそ僕の素に一番近いのかもしれない。転生してから家族にすら一度もそういう姿を見せたことないから。

でもキョウにはそんな素を出してもいいと思える気安さがあった。枯れ木の様な僕を人並みの精神構造に戻してくれたのもこいつだ。本当に感謝しても仕切れない。

やはり同じニート仲間というのが大きいのかな。ニートでありながら、そこに誇りを持っているところが大物感だしているんだよね。このゲームのプレイ時間は僕に比べて少ない方だけど、その分腕で補っているところはさすが廃ゲーマーを自称するだけはある。

キョウは今時のゲーマーがやるスタイルで一日のうち色々とゲームを渡り歩いているらしく、このゲームには主に夕方から深夜にかけてログインしてくる。夕方から夜中にイベントが多いこのゲームでは効率的と言えた。

対して僕は基本一日中ログインしっぱなしである。他のゲームはやらないこともないけど、スマホゲーをクエストの間にやる程度でがっつりやるのはこのゲームくらいだ。

それでいて個人チャットでの会話がほぼ初というのは何なのだろうね。常にオープンで電波垂れ流してるからですねわかります。

 

キョウ:『泣くなよー』

チハヤ:『泣いてないやい。これは心の汗が目から涙として出てるだけだよ』

キョウ:『泣いてんじゃん』

チハヤ:『こんな時どんな顔をすればいいかわからなくて』

キョウ:『泣けよ』

チハヤ:『アァンマァリダアアア!』

 

僕が叫ぶとすかさずキョウが【組み手】エモーションで殴って来た。僕はこのエモーションを持っていないので”受ける”ことができずに一方的に殴られることになる。

モーションキャプチャで再現されたそれは割と鋭いので、殴られている【チハヤ】は物凄く痛そうだ。当然ロビーは非戦闘エリアなのでダメージはない。そもそもエモーションにダメージはないのだが。

 

チハヤ:『今日のキョウは当り強くない?』

キョウ:『いやーいつも通りだと思うけど?』

チハヤ:『いやいや、強いって。何かちょっと前からやけに強いけど。前はエモで攻撃とかしてこなかったじゃん』

 

キョウは突っ込みこそ鋭いが無駄な動作をしないタイプだった。しかし最近になって突っ込みが過激になることが増えた。

凝った動きをしてくる分、逆に親密度が上がったようで密かに嬉しいと思っているのは内緒だ。

 

キョウ:『あー……まあ、そうかもねー。何て言うかその姿に変わってから加減できなくなった、みたいな?』

チハヤ:『酷い! こんな可愛い子になんてことを! 酷いわ! 酷いのだわ! こんなに可愛いのに!?』

キョウ:『うあーやめてよー何かゾワゾワするー』

チハヤ:『え、本気でひどくない? そんなにダメかなこれ』

 

今のチハヤの姿は少し前にいじっていた。このゲームの売りの一つにキャラメイクの多様さがあるのだけども、つい最近色々とキャラのパーツを買い揃えてキャラのエディットをいじったのだ。

その結果生まれたのがニューチハヤであり、金髪ロリっ娘なのだ。

それにダメ出しされるのはちょっとショックだぞ。まあ、いい年したおっさん(キョウにはそう思われている)がロリキャラ使ってるのはぶっちゃけ気持ち悪いとは思うけどさ。

 

キョウ:『キャラメイクに問題はないけど。問題がないことが問題というか。て言うか、なんでそんなに作るの上手いかな』

チハヤ:『キャラメイクガチ勢だからね』

キョウ:『ガチ勢。やはりガチ勢半端ない。無駄なクオリティの高さに脱帽だよ』

チハヤ:『ハハッ、僕の嫁は世界一可愛いからね!』

キョウ:『気持ち悪い』

チハヤ:『貴様、僕のチハヤに何てことを』

キョウ:『いやチハヤには言ってないよ?』

 

あ、中身に言ったんですね。わかります。確かにゲームのキャラを嫁とか言うのは気持ち悪かったか。

でも仕方ないじゃないか。現実ではあらゆる意味でお嫁さんなんて貰えないんだから、ゲームの中でくらい好みのキャラを嫁にさせろ。

そういうキョウだって理想のタイプってことで【キョウ】を作ったくせに、人のこと言えないだろ。

 

チハヤ:『で、結局何の用なのさ。僕こう見えて忙しいんだよね』

キョウ:『自分で振っておいて雑に切らないでよ。まあいいけど。あとチハヤの忙しいって結局ゲームじゃん』

チハヤ:『舐めるなよ。今僕は人理修復のために力を貯めているんだから』

キョウ:『ゲームじゃん。しかも力を貯めるって、この間ガチャ爆死したくせにまたガチャやるの?』

チハヤ:『やめてよ』

 

やめてよ。

 

チハヤ:『金星の女神が僕にもっと貢げとうるさいんだよ』

キョウ:『大丈夫?』

チハヤ:『おう、女神の加護があるからね』

キョウ:『いや、幻聴が聞こえるとか大丈夫?』

チハヤ:『泣くぞ』

 

前世込み換算で成人済みの大人が泣くぞ。泣かないけど。

 

キョウ:『あーごめんごめん。今度余ったスクラッチ品のアイテムあげるから泣かないでよ』

チハヤ:『で、何の用? 暇だから聞いてあげるよ』

キョウ:『熱い掌返しすぎる!』

 

こんなアホなやりとりもキョウ相手にしかやれない。

リアルの僕は本当に酷いことになってるから。ネットだけの知り合いでしかないはずのこちらを慮ってくれるキョウの存在は僕にとって救いだった。

若干依存しかけているのは意識しないようにしている。

 

キョウ:『実はちょっとログイン時間が変わりそうなんだよね。だから報告をしておこうかなって』

チハヤ:『え、なになに、深夜から明け方に変更とか?』

キョウ:『いや、どちらかと言うとイン時間自体減りそう』

 

それはまた唐突な話だ。一瞬何か言いそうになるのをぐっと堪える。この会話がキーボード入力でよかった。通話だったら即何か口に出したかわからない。まあ、出ないんだけども。

僕はキー入力故の考えてから発言できるという恩恵を受け慎重に言葉を選んだ。

 

チハヤ:『何か新しいゲームでも見つけたとか? 良ければ紹介しておくれよ』

 

これまでもゲーム内の知り合いが別ゲーに浮気することはあった。今ハマっているスマホのゲームだってそうした別ゲーに浮気した奴からの紹介で始めたものだし、キョウがこのゲームのログイン時間を減らしてでもやりたいゲームがあるならそっちと並行してやるくらい問題はなかった。なんだかんだ一定のログイン時間を維持していたキョウを結構信じていたのかも知れない。

今この時までは。

 

キョウ:『いや。別ゲーじゃないよ』

 

え?

 

キョウ:『今度さ、働くことになったんだよね』

 

「っーーー」

 

思わずリアルで声が出そうになった。

いや出ないけども。

代わりに指が高速でキーを叩いた。

 

チハヤ:『働かないのがポリシーじゃなかったの?』

キョウ:『そのはずだったんだけどね』

チハヤ:『大丈夫? 壺?』

キョウ:『詐欺ではないかな。いや、ある意味詐欺? あんだけキツいとは思わなかったし』

チハヤ:『じゃあ働かなければいいじゃん』

キョウ:『そうもいかないんだよね。目的もできちゃったし』

チハヤ:『一生働かないって言ってたじゃん』

キョウ:『うーん……言ってたとは思うけど』

チハヤ:『言ってたっしょ?』

チハヤ:『言ってたよね?』

キョウ:『まあ、希望としてはそうだったよ』

チハヤ:『だったら貫くべき』

チハヤ:『最後まで諦めたないのがキョウの良さ』

チハヤ:『キョウの働いたら負けって言葉が世界を照らすと信じてる』

チハヤ:『キョウのかっこいいとこ見てみたい』

キョウ:『ちょっとちょっと』

 

会話のキャッチボールを無視して一方的に発言し続ける。

 

チハヤ:『働いて社畜化するなんてキョウらしくないよ』

チハヤ:『信じて送り出した仲間が立派な社畜になって戻って来ちゃう!』

チハヤ:『働かず怠惰に生きようと桃園で誓い合ったじゃないか』

チハヤ:『あの誓いは嘘だったの?』

チハヤ:『嘘なの?』

 

この時の僕はおそらくまともな思考をしていなかったのだろう。しかしそれに気づいた時にはすでに遅かった。

 

キョウ:『もーうるさいなぁ!』

 

その一言に途中まで入力していた入力を止める。

モニターの中ではキョウが無駄に凝ったエモーションを使って怒りを表現していた。

しまった、またやり過ぎてしまった。キョウ相手にこうなるのは今までなかったことだから。それは僕がこうなる前にある程度空気を読んでくれていたキョウのおかげだ。時折失礼な言葉を吐く僕に「仕方ないなぁ」といった雰囲気で流してくれていた。そのキョウが流さなかったということは今回のこれはキョウにとって大切なことだったのだ。それを僕は蔑ろにした。

後悔先に立たず。僕の焦りから生まれた言葉はキョウの許容量を超えていたらしい。

慌てて謝ろうとキーを叩く。

 

キョウ:『もういいよ』

 

でもその前にキョウから返って来た言葉に指が止まる。

違う、まって、そうじゃないんだ。

 

キョウ:『チハヤなら解ってくれるかなって期待してたのにな』

 

期待……?

期待、してくれていたの?

こんな僕を。誰の期待にも応えられなかった僕を。

キョウは期待していたと言う。

どうしてだろう。なんで期待したんだろう。こんな失敗ばかりの僕にどこに期待できたと言うのだろう。

 

キョウ:『あと、しばらく忙しくなるからイン自体できないよ』

 

唐突過ぎる。

せめて最後に伝えなくてはならない。

お願いだから聞いて。

 

キョウ:『バイバイ』

 

カチっとエンターキーを押す。

 

エラー:対象が非ログイン状態のため《見捨てなないで》は送信されませんでした。

 

「……」

 

目に映るシステムメッセージから目を逸らし、席を立った僕はふらふらとした足取りでベッドへと向かった。

何故か無性に眠い。

何で眠いんだっけ?

ああ、そう言えば丸2日眠っていないんだった。今日はキョウが朝からインするからって昨日徹夜明けだってのに起き続けていたのだった。眠い目を擦りながらキョウとクエスト周回をして1日を過ごした。そして先程の緊急クエストからのキョウの就職報告に暴走気味に引き止めてしまった。

僕と違ってキョウは社交的で誰とでも仲良くなれる奴だった。やろうと思えばいつだって仕事に就けるというのは理解していた。キョウが仕事に就けたことは何ら不思議じゃなかった。

問題はキョウが就職しようと思ったことだ。ずっと同じようなドロップアウト組だと思っていたから。キョウが社会復帰”できてしまった”ことがショックだったのだ。

キョウとの付き合いは二年弱程度だが、結構な時間を過ごして来た気がする。会話だけなら家族よりも多いかも知れない。だから、あいつとなら十年二十年と怠惰で無為な時間を過ごせると勝手な同族意識から信じ込んでいた。そんなわけないのにね。

そうして勝手に信じた絆を身勝手に振りかざした結果が喧嘩別れである。いや、あれを喧嘩別れと呼べるか微妙だ。愛想を尽かされただけじゃないか。

喧嘩できる類の仲じゃなかった。友達でもなんでもなく、あくまでシステム上のフレンドだった。その勘違いの結果がこれだ。一方的に裏切られたと思い込み責めるようなことを言って関係を切られてしまった。

僕はあのゲームでキョウ以外のフレンドが居ない。友達ではなくフレンド登録した相手が居ないのだ。

ネトゲですらぼっちとか……。

泣きたい。泣けないけど。

ベッドの上で無意味にごろごろと転がってみる。当然こんなことで気分が晴れるわけもない。思い切って外でスポーツでもしてみようかと思うも、次の瞬間には外で爽やかにスポーツに励む自分を想像して吐きそうになる。

今更爽やかキャラもないだろうに。自嘲の声すら出やしない。しばらく自分以外生き物がいない空間にはごろごろとベッドで転がる音が響いた。

しかし三十分ほどごろごろしているとさすがに飽きて来たので転がるのを止めた。何を無駄に体力を使っているのだろうか。無尽蔵と言える体力を持つ僕からすればこの程度どうってことないのだが、精神的に虚しくなったので止めた。

意識を無理やり切り替えようと思い何かしようとするもゲーム以外に趣味も無いので何もすることがない。

今はネトゲをやる気分にもなれなかった。今やればきっとキョウのことを思い出して辛くなる。

暇だ。

次の緊急クエストは明日の朝七時だ。たかだか数時間で気分が切り替えられるか?

でも出ないとゲームスケジュールが狂うし。ならばそれまで何をしようか。もう少し転がっていようか。いや飽きたからいいか。

暇だ。

ケータイのゲームもAP(行動値)切れしているので回復するまでやれることはない。

暇だ。

 

「……」

 

二年前までは空いた時間にはアイドルになる努力をしていたので暇を感じたことはなかった。

歌と踊りを体に馴染ませるために反復練習したり、鏡の前で千早らしい笑顔作りを模索したり、本当に色々とやっていた。

でも今はそれらを一切行っていない。やっても意味がないからだ。無駄なことをしても時間の無駄だ。

無駄だった。

 

「っ……」

 

無駄だった。

全部無意味だった。

あの日765プロから届いた「不合格」の知らせは、僕の中にあった何かを確実に砕いた。

生まれた時から続けて来た如月千早(努力)が無駄になったと知った瞬間、求めた千早(未来)が虚構になったと気づいた。

あれだけ欲しかった仲間(宝物)は一生手に入らないと手に持った紙が告げていた。

その日から僕の生活は一変した。

それまで毎日続けていた歌も踊りも笑顔の練習も全部止めた。

家族がうんざりするほどにアイドルになった後の展望を聞かせていたのに、アイドルという単語すら出さなくなった。

その豹変ぶりに家族は色々と相談に乗ると言ってくれた。でも僕が返したのは拒絶だった。

ずっと語った夢物語が本当に夢になったこと、自分の言葉が嘘になったことが恥ずかしくて情けなくて何も言えなかったのだ。

僕が何も答えずにいるとやがて両親は何も聞かなくなった。得てして、それは原作の千早と両親の関係に似たものになった。こんなところだけ似なくてもいいのにね。

両親は僕から手を引いたが、弟はその後もしつこく僕に干渉して来た。

ずっと弟の前だけで歌と踊りを見せていたのだが、何かにつけそれを見せて欲しいとせがんで来るようになった。そんなこと今まで一度も言ったことなかったのに。

今更何を見せるというのだろうか。アイドルになるために見せていた歌と踊りと笑顔だ。それが無意味になったのに見せる理由がない。

そんなことを言って拒否しても弟はしつこくしつこく歌って欲しいと言って来た。それが当時の僕にはストレスでしかなく、毎日飽きもせず歌を強請る弟を次第に鬱憤が溜まって行った。

そしてある日爆発した。

いい加減にしろと叫んだ。お前に何が解るのかと何も知らない弟を責め立てた。完全な八つ当たりでしかない、自分の失敗の怒りや情けなさや悔しさを弟にぶつけてしまった。

そしてソレを言ってしまった。決定的な一言を僕は弟へと叩きつけた。

それが何だったのかは覚えていない。そこだけすっぽりと記憶から抜け落ちていた。ただ一つわかるのは、ソレが僕にとって致命傷だったということ。

致命的な何かを言った。それだけは覚えている。

幸いなことに、それで弟が僕を見捨てるということはなかった。自分を傷つけたであろう屑な姉を許したのだ。ただ、それ以来僕に歌を求めることはなくなった。何か色々と諦めたのだろう。

そして、その日以来、僕は声を失った。言った側の僕が致命傷だったというオチだ。

声だけじゃない。笑うことも、怒ることも、泣くこともできなくなった。それが弟を傷つけた代償だった。

医者曰く、短時間のうちに極めて強いストレスを受けた結果情動が表面に出なくなったとのこと。

それから今日まで僕は感情が表に出せないままだ。一応カウンセリングは受けているが経過は芳しくない。ストレスの根源が解消されない限り治らないと言われており、その根源が不明のままでは治療を受ける意義は薄かった。そのカウンセリングも今はほとんど行っていない。

学校も中学を卒業したっきりで、高校には進学していない。今は両親の勧めから家を出て安いアパートを借りて一人暮らしをしている。家賃や光熱費は親持ちだ。

そうやってあらゆる復帰の機会を何もかもを切り捨てていった結果が今の僕だった。

リアルに友達は居らず、両親とも疎遠になった僕は先程ゲームの友人すら失った。

全て失った。

かつてこの身を満たしていた自信も誇りも綺麗さっぱり失ってしまった。この身を焼いていたトップアイドルになるという野望は現実という名の風に燠火すら残さず吹き消された。

目的を失った僕は毎日一人でゲームをするか眠るだけの生活をしている。

親の金でアパートを借り、ゲーム代も出して貰っている。課金代が足りなくなれば親へとせびり、それでも足りなくなったら食費を削る。

まったく笑ってしまうくらいの転落人生だ。笑えないけど。

しかし両親は何も言わずに今の生活を続けさせてくれている。こんな欠陥品になった子供を見捨てずに養ってくれている彼らを一時期でも下に見ていた昔の自分が恥ずかしかった。そんな自分が申すわけなくて親とはずっと顔を合わせてすらいない。

両親に恵まれている。それだけで千早よりも幸せではないのか。千早は弟が死んだ上に両親とも隔絶した環境で孤独に生きて来た。それに比べて僕は幸せなはずだ。両親とはやや疎遠だけど、弟はたまに遊びに来てくれる。だったらそこで満足するべきなんだ。幸せなくせに今よりも上を求めて現状に価値無しと切って捨てた僕ははっきり言って屑だった。

なら屑は屑らしく部屋の隅で静かにしていればいい。何もしなければ何も失わなくて済むから。

そっと瞳を閉じる。お休みを言う相手も、返してくれる相手もいない。

今日も僕は独りぼっちだ。

 

 

────────────

 

 

ピン──ポーン。

 

来客を告げるチャイムが鳴ったのは翌日の朝のことだった。

部屋に響く軽快な音とまぶた越しに刺さる陽の光に脳が刺激され目がさめる。最近では夢も見なくなったのでベッドで転がっていた時から次の瞬間に明るくなっている感覚だ。

微睡みの中から浮上する意識に合わせてベッドから起き上がると、のそのそとした歩みで玄関へと向かった。

玄関に着くと扉の魚眼レンズから外を覗き見る。するとそこには弟──優の姿があった。

 

「っ!?」

 

そうだった、今日は優が遊びに来る日だった。数日置きに弟が様子を見に来てくれる。親はここに来ないので負担を掛けていると知りつつ弟に頼っている僕だった。

こうでもしないと絶食をしてしまう僕を優が心配しての行動だ。こんな僕の世話を焼いてくれるだなんて、やはり優は天使に違いない。

それにしても、今日はいつもより早い到着だ。いつも学校に行く前に寄ってくれているので登校時間に被るのだが、今は朝練のある学生くらいしか通学しない時間帯だぞ。

しかし優を待たせては悪い。慌てて扉のロックを外し飛び出そうとして、チェーンロックにより動きが制限された扉に勢い良く顔面をぶつけた。

 

「───ッ!?」

 

あまりの痛さにその場でのたうち回りそうになる。しかし狭い玄関では僕が横になる空間すらない。無言で蹲りぷるぷると震えることしかできなかった。

 

「お姉ちゃん? 何か今凄い音がしたけど大丈夫?」

 

痛みに震える僕の耳に優の心配する声とノックの音が聞こえる。

扉越しにもわかる優の美声に耳が幸せになるも、未だ顔面に走る鈍い痛みに返事を返せない。

 

「大丈夫? 返事……は、出来ないか。だったら何でもいいから反応して!」

 

その少し焦っているような声とノックに急かされ、何とか扉を数度ノックすることで返事の代わりにした。このノックは言葉が出ない僕と何とか意思疎通を図ろうと優が考えた合図だった。これが思いのほか便利で、多用しているうちに今では強弱や回数で何となく察してくれるようになった。

反応があったことに安堵したのか優からのノックは止んだ。こちらを気遣う言葉のみが聞こえる。弟にここまで心配を掛ける自分に涙がでそうだった。出ないけど。

その後も痛むが引くまで優の気遣いに感謝と申し訳なさを感じ続きた。

 

 

復活した僕は何事も無かったふりをしながら優を部屋へと招き入れた。

その時の優のこちらを見る目が若干呆れを含んでいたのは見て見ぬふりをする。現実逃避は僕の特技だ。

気の利いた持て成しなどできる部屋ではないが、優が来た時のためにジュースくらいは常備していた。僕は基本的に水しか飲まないので完全に優専用になっている。昔から優はこのジュースが好きだったから。最近ではこのジュースを買うか課金用のネットマネーを買うかくらいしでしか外出してない気もする。食事は基本的に出前か弟の持ってくるコンビニのお弁当くらい。

こんな食生活を続けても身体を悪くすることはない。寝不足と食生活が崩壊していても体型が崩れることもないし、吹き出物一つ出ない。我ながらチートだと思う。本来こういう使い方をするものではないんだけどな。

まあ、本来の用途に則して使うことは今後ないから精々便利に使わせてもらうまでだ。

こんなものがあったから調子に乗ったわけだが、こんなものがあったからこそ何とか死なずにいられるのも事実。まさに痛し痒し。可愛さ余って憎さ百倍。どちらも違うか。

さて、話がどんどん逸れて来てしまったぞ。

弟を大切にしている僕が、優がいるというのにこんな無駄な思考を続けているのは何故か。

それは今優が手が離せない状況だからに他ならない。

なんと優は今僕のために料理をしてくれているのだ。

僕のために。

手料理を。

ヘブン?

今年から中学生になった優だけど、自分の中ではまだ子供という印象が強かったので、材料持参で手料理を振舞うと告げられた際は思わず頬を抓った。めっちゃ痛かったので夢ではない。

くあー生きてて良かった。優の手料理を食べられるなんて恐れ多すぎて想像すらしていなかったぞ。

当然エプロンなんてこの部屋にはないのでそれも優が持参したものだが、青色の無地のエプロンが優の清廉さと合わさって良く似合っている。先ほどエプロン姿をお披露目された時などしばらく無言で凝視してしまったほどだ。だって目の前に天使がいるんだもん。その天使がエプロン着て手料理作るっていうんだよ。夢心地になったっていいじゃない。だから苦笑いを浮かべた優がキッチンへと消えるまでガン見し続けた僕は悪くない。

出来上がった料理はオムライスだった。

出来栄えは控えめに言って……最高である。

弟が作ったというだけで最高なのに、それに加えてケチャップで綺麗に「チハヤ」と書いてくれているのだ。これは神だね。さらにハートマークが書いてあったならば、某大航海海賊漫画の最後に手に入るであろうお宝がこれであったとしても僕は一向に構わないよ。

 

「食べないの?」

 

おっと、あまりの感動にトリップしていたようだ。せっかくの優の手料理が冷めたらまったいない。

両手を合わせていただきます。

 

「うん、どうぞ召し上がれ」

 

コンビニ弁当の余ったプラスチックスプーンを手に取りオムライスへ突き刺す。ふんわり卵がとろっと溶けていき、中の真っ赤なケチャップライスが顔を出した。

慎重にライスと卵を掬って万が一にもこぼさない様に慎重に口へと運ぶ。

一口食べる。途端に卵の甘さとケチャップライスの甘辛さが口の中で広がる。想像を絶する美味さだぞ。多分に弟補正が掛かっているのは自覚しているけど、それを抜きにしてもこれは美味い。

いつの間にこんなスキルを手に入れたんだ優よ。ちょっとお姉ちゃんと同棲して毎日料理作ってくれないかな?

……などとは二重の意味で言えないので静かに続きのオムライスを口へと運ぶ。

やっぱり美味しい。幸せ過ぎて心がぴょんぴょんしそうなんじゃー。しないけどー。

 

「美味しい?」

 

優の質問にオムライスを咀嚼しながら勢い良く頷く。同時にテーブルをコツコツとリズムよく叩く。良い意味の肯定の意味だ。

本気で美味しい。これを不味いと言う奴なんているのだろうか、いや居ない。て言うか仮にそんな奴がいたら僕が許さないわ。たとえお天道様が許したとしても、この桜吹雪が許さない。

僕は美味しいと声を出して言えないのがもどかしい。代わりに何度もコツコツすることしかできない。

優を見れば何やら微笑ましい物を見る目でこちらを見ている。何だか無性に恥ずかしくなってしまった。

汚く見えないように丁寧にオムライスを食べ進める。どうしよう、いくら食べても飽きが来ないぞコレ。はっ、まさかこれは魔法のオムライス!?

うまうま。

もぐもぐ。

 

「あ、あのさ、お姉ちゃん……」

 

んぐんぐ……おん?

躊躇いがちに声を掛け来た優の声に食べる手を止める。

そう言えば、いつもはお弁当を貰ったらそのまま学校に向かう優がいつまでも部屋に留まるのは珍しい。てっきり手料理を作るために早く来たと思っていたのだが、どうやらここからが本題のようだ。

何となく嫌な予感を覚える。脳裏に過るのはキョウの就職報告についてだ。あれからまだ数時間しか経っていないため鮮明に思い返すことができる。

まさか、優も就職を!

……んなわけないか。優はまだ中学一年生だ。少卒で就職とかどこの骨の超越者だよ。

でも似た報告かも知れないし油断はできない。彼女ができたよとか、部活始めたんだとか、親にここに来るなとか。……最後のを言われたとか報告されたらやばい。死ぬ。

自然と呼吸が荒くなるのを感じる。

 

「実はお姉ちゃんに渡そうと思うものがあって」

 

あ、な、なーんだ。そっちかー!

も~そうならそうと言ってよね。アレでしょ、一足早いクリスマスプレゼントとかでしょ。

ほっと安堵の息を吐く。無意識に力んでいた肩から力を抜いた。

手料理だけではなくプレゼントまで用意してくれるなんて本当にできた弟だよ。お姉ちゃん嬉しさで今なら空も飛べそうだよ。飛べるけど。

 

「……ちょっと待っててね、今出すから」

 

そう言って優はオムライスの材料を入れていたバッグを漁り始めた。どうでもいいけど食材とプレゼントを全部同じ袋に入れるのは感心しないぞ。これ今日の料理が青魚系の物だったら大変なことになってたって。まあ、プレゼントの方も生ものだって言うなら問題ないけども。

そんなことを考えている間に優は贈り物を袋から取り出した。

 

「喜んでくれたら良いんだけど」

 

優から贈られた物なら何だって嬉しいよ。例えそれが蜜柑の皮だって額縁に飾っちゃうよん。

しかし、ハードルを下げに下げた僕の目に映ったのは、限界まで下がったハードルをさらに潜るような物だった。

 

『346プロダクション シンデレラオーディション 二次選考概要』

 

……え?

 

「いや、さ。この間ネットとか見てたら広告バナーに書いてあって調べてみたんだ。今度346プロでアイドルのオーディションがあるんだって」

 

待って。

 

「それで、お姉ちゃんの写真を送ってみたんだ。写真は今のじゃなくて中学時代のになっちゃったけど」

 

え?

え、え?

何、優、それ、私、初耳。初耳だから。新しく聞いたやつだから。新聞だから。

 

「一次選考は写真だけなんだって。二次選考までは時間があって、この書類に課題が書かれているから好きなものを選ぶらしいよ」

 

笑顔で事情と書類の説明を続ける優だが、今の僕はそれどころではなくなっていた。

唐突に自分の体調が悪くなっているのに気づいたのだ。

僕の表情に出ないのと説明に夢中のため優がそれに気付くことはない。

決して物理的な影響で起きた症状ではない。精神的にダメージが入っている。

 

「今のままだと難しいかも知れないけど、これを良い機会だと思って色々と練習してみるとか……」

 

優は無邪気に信じ込んでいる。優がまだ僕がアイドルを目指していると思っていたのだ。僕はとっくにアイドルになることを諦めているのに。終わっているのに、そのことに気づいてない。

いや、優が僕の気持ちに気づいていない以上に重要なことを僕が気付いてしまった。

これまで僕は優はどんな僕でも大切にしてくれていると思っていた。アイドルを目指さなくなって、駄目人間になっても変わらず接してくれているのだと。

それが嬉しくて僕も無邪気に優に甘えていた部分があった。どんな僕でも優は受け入れてくれると信じていた。

でも今回優はアイドルのオーディション話を持って来た。何も伝えていないということは、優にとって僕は二年前から何も変わっていないということ。そういう僕だと認識しているのならば。

それは、つまり、優は……。

 

「お姉ちゃん?」

 

アイドルである(如月千早)を望んでいるということだ。

 

「──ぅっ!?」

「お姉ちゃん!?」

 

突然込み上げて来た吐き気に口を押える。

先程と同じく心配そうに声を掛けてくる弟を無視してトイレへと駆け込んだ。

 

「っ……ぅぇぇ!」

 

ぎりぎりでトイレに覆いかぶさるようにしながら胃の中の物をぶちまけた。

一回では楽にならず、何度も吐いてしまう。

先程食べた弟作のオムライスが便器の中へとぶちまけられる。「ああ、もったいない」と思ってしまうのは日本人的感情というよりは弟作だからだろう。

せっかく作ってくれたのに。初めての弟の手料理だったのに。

 

「大丈夫……?」

 

気遣わしげな弟の声が背後に聞こえる。心配してくれるのは嬉しいけど、今の姿はあまり見られたくない。ゲロゲロだし。

それ以上近づかない様に後ろ手に扉を閉める。

 

「お姉ちゃん……」

 

さすがに意図は伝わったのか扉を開けてくることはなかったけども、トイレの前で陣取られるのはやめてほしい。

これからもうしばらくゲロゲロするのであんまり聞かれたくない。それが弟相手であったとしても。

 

「ねぇ、背中摩ろうか?」

 

優しい弟の声に何も返せない自分が情けなかった。

そしていきなり嘔吐する姉相手にこんな優しく接せられる弟はやはり天使に違いない。

天使の羽が生えた弟を想像して一瞬だけ幸せになる。が、すぐに吐き気を思い出し嘔吐する。

天使が駄目だったのかも知れない。天使は吐き気の使いなんだ。ならばここはひとつ新たに小悪魔的弟というジャンルを開拓すべじゃないか。

 

「ぉぇ……」

 

駄目でした。オロロロロ……。

すでに食べた分は全て出し切ってしまった。しかし吐き気は精神的な物が原因のため楽にはならない。胃液混じりの何かをえずき続ける。

 

「お姉ちゃん、本当に大丈夫? もしかして卵が痛んでたとか……」

 

いやそれは無い。て言うか卵が腐っていた程度で僕の胃がおかしくなることはない。

この身は鋼にも劣らぬ頑強さゆえに。心は硝子だけども。

大丈夫という意味を込めて軽く扉を叩く。これを機にモールス信号でも覚えようかと真剣に検討中。

 

「まだ苦しい? お母さん呼んだ方が──」

「っ!」

 

衝動的に扉を叩いてしまった。

本当は大丈夫って意味で叩いたつもりなんだけど、思ったよりも力が入りすぎたらしく「ドガン!」と凄い音が鳴った。

すまぬ弟よ、手加減は苦手なんだ。そして親はもっと苦手。一度疎遠になってしまって以来直接顔を見せるのが辛い。

 

「ごめんねお姉ちゃん。僕良かれと思って……お姉ちゃんがこうなるって知ってれば」

 

しばらく自分を責めるようなことを言う弟に居た堪れなくなる。必要のない自責の念を弟に抱かせてしまった。

弟は悪くないのに。悪いのはこの程度でゲロる精神紙装甲の僕だ。だから気にしなくていい。

そういう意味で扉を数度叩くと弟は自分を責めることはやめてくれた。扉越しにこちらを窺う気配は残っているが。

少しのことで動揺して心を痛める自分が情けなかった。弟に心配される自分が嫌いだった。弟が大好きな自分は好きだ。

しばらくゲロゲロし続ける。もうすぐ優が学校に向かわなければいけない時間になる。それまでに落ち着いて、しっかりと先程の態度を謝りたい。

 

「ごめんね……僕帰るね」

 

しかし無情。時間切れとなってしまった。

帰ると言う優を咄嗟に引き止めてしまいそうになるが僕の口から静止の声は当然出ない。

待って。

行かないで。

そんな一言すらこのポンコツな喉からは出ない。まあ、言ったところで真面目に学校に通っている弟を本気で止められるわけがないのだが。

しばらくして部屋の扉が閉まる音が聞こえた。優が出て行ったのだ。

 

声が出ない。

 

笑えない。

 

泣けない。

 

あの日失った物はどれもアイドルとして必須の物だ。

歌えない上に愛嬌すら振り撒けない人間にアイドルなんでできっこない。

優が僕のそんな症状を治すきっかけになるようにとオーディションの話を持って来てくれたのはわかっていた。「今もアイドルになろうとしている」姉に何か目標でもあればまともになるのではないかと考えての行動だろう。

あまりの馬鹿馬鹿しい考えに違う意味で反吐が出そうだった。

結局のところ優にとっての如月千早はアイドルを目指している人間ってことじゃないか。意識的にしろ無意識的にしろ結論は変わらない。

ならば、アイドルを諦めた今の僕は、優にとって大切にする価値はあるのだろうか?

 

「ぅ……っ」

 

涙は出ない。どんなに悲しくても情動から涙する機能は僕から無くなっている。

だからこれは嘔吐による反射行動なのだ。決して哀しくて泣いているんじゃない。

 

 

────────────

 

 

しばらくして落ち着いたのでトイレから出ると当然ながら優の姿は無かった。

ラップをされた食べかけのオムライスがテーブルの上に置かれている。

せっかく優が作ってくれたオムライスだったのに、最後まで食べてあげられなかった。しかも食べた分は全部嘔吐しちゃったし。

今からでも残りを食べて、後でメールで感想を言おうと思いテーブルへと向かうとそれが視界へと入った。

優は律儀(?)にもオムライスの横に横に例のブツを置いて行ったらしい。持って帰ってくれればよかったのに……。

それだけで完全に食欲が失せてしまった。

テーブルに向かいかけた足を止め、逆方向へと向かう。

向かった先はあまり使わないソファだった。

乱暴に体を預けるように座り込む。こんな雑な扱い方をしてもこの身体が痛むことはかった。この程度の揺らぎでは”如月千早”に変化はないという証左だった。

壁掛けの時計を見ると針は八時過ぎを指していた。そう言えばすっかり緊急クエストを逃していたことを思い出す。今更ゲームをする気にもなれなかったのでどうでも良かったが。

代わりにソファに置きっぱなしだった埃が被ったリモコンを手に取り珍しく、本当に珍しいことに久しぶりにテレビを点けた。

少しの間をあけてテレビに朝のニュースが流れ始める。ちょうどアイドルを取り扱ったニュースが始まるところだった。

適当にチャンネルを回すもどれもこれもアイドルの話題ばかり。人々の関心も、世の中の中心も全てアイドルと言っても過言ではないくらいだ。

少なくとも前世ではここまでアイドルというものが重要視されることはなかった。精々有名なアイドル事務所のトップメンバーが週に一回程度何かしらネタを提供する程度だった。

しかしこの世の中はずっと前からアイドルブーム真っ最中のため、どの番組も一日一回はアイドルについて報道する。さらに765プロの大頭により最近はさらにアイドルブームに拍車がかかっているらしい。

 

「……」

 

ふと目に映る番組や広告に765プロの話題が入ることは多い。その度に取り扱うメディアを切って行った。

街の電子掲示板。電車の中吊り広告。雑誌。テレビ。

そうやって切り捨てて切り捨てて、逃げて逃げて逃げて逃げて、逃げ続けて、最後に辿り着いたのがゲームの世界だった。

それも完全ではなく、たまにゲーム内で765プロの話をしているプレイヤーを見かけるとその場から立ち去った。

それが未練がましい行為であることは知っていた。意識しない様にして逆に意識している。矛盾した心が悲鳴をあげている。

だがその悲鳴は自分にしか聞こえていない。いや自分にすらさほど聞こえてはいないのだろう。本当に聞こえてしまっていたら、きっと自分は正気ではいられない。

僕が如月千早である限り、この身体は”如月千早”であり続ける。だから僕は狂うことすらできないでいる。

それだけだ。

 

そんな風に、諦観にも似た考えを続けていると番組は一周し、最初のチャンネルへと戻った。

テレビから一つのニュースが聞こえて来る。

 

『765主催のミニライブでアイドル同士が接触し転倒事故が発生したそうですね』

 

何、だと──。

慌ててテレビに集中する。

画面では丁度ミニライブ中らしき映像が流れており、そこではよく知った顔が映っていた。……765プロのメンバー。実は春香以外この世界でまともに顔を見るのは初めてだったりする。

今の765プロならばもう少し大きなステージでやっていてもおかしくないと思うのだが、今映っている会場は少し小さく思えた。それに反してメンバーが浮かべる表情は少し強張っていた。アイドルになりたての頃ならともかく、今の皆ならミニライブ程度どうってこと……。

 

「?」

 

そこで気づいた。765プロのメンバー以外にも画面に映っていることに。

明らかに765プロ以外の人間が同じステージで踊っている。どこかの事務所とコラボでもしたのか?

 

『今765プロの皆さんの後ろで踊っているのがアイドルスクールの子達だそうです』

 

なるほど、このバックダンサー達はスクール生なのか。スクールのアイドルだからスクールアイドルとでも呼べばいいのかな?

何かの企画でスクール生が765プロとミニライブでアイドル体験とか、そんな企画だろうか。ま、関係ないか。

で、そのアイドルの卵とでも言う子達の表情は765メンバー以上に強張っていた。

明らかにライブ慣れしていない……。いや慣れていないとかのレベルじゃないぞこれ。初ライブと言われてもいいくらいだ。

ステップもずれているし、位置取りもおかしい。プロデューサーか秋月律子か知らないけど、このライブの配置をあの二人のどちらかが考えたとしたらこの位置取りは間違っている。

バックダンサー同士が近すぎるのだ。このままではぶつかるんじゃないか。

そう思った瞬間、オレンジ色っぽい明るい髪色の子と薄灰色のツインテールの子が接触し、オレンジ髪の子が転倒した。息が詰まる。

 

『ああっと、危ないですね。怪我とかなかったんですか?』

『幸い怪我はなかったようですが、ステージは一時中断になったそうです』

 

ほっと息を吐いた。

ステージ中断は残念だが、怪我がないのは良かった。失敗は挽回できるけれど、怪我はそこでアイドル人生が終わる可能性すらあるから。

などと、見知らぬアイドル候補生を心配している自分に気づき顔が熱くなるのを感じた。

何本気で心配しているんだよ。相手はモブキャラだろ。765プロの誰かが怪我したわけでもないんだから。

仮に765プロの誰かが似たようなことになったら、もっと僕は取り乱していたかも知れない。逆に何も思わないかも知れない。

どちらにせよ、ミニライブの失敗を喜ぶ自分が居なかったことに怪我人が出なかったこと以上に安堵していた。

 

だが、次のニュースキャスターの言葉に再び呼吸が止まった。

 

『765プロは近いうちにアリーナライブも控えていますから、これからスクールの子ともども踏ん張って欲しいところです』

 

……え?

……アリーナ?

 

ナニソレ。

 

アリーナ、ライブ?

 

聞イタコトガナイ場所ダ。

 

『今回バックダンサーを務めた子達もアリーナライブに参加するそうですね』

 

アリーナライブに出る?

誰が?

765プロの皆が。

それは良い。

良いよ。きっとそういう”お話”があるのだろうから。

それは、イイ。でも。

でも……、なんでスクールの子達が?

 

『はい、そのために今は765プロの事務所に仮所属しているそうですよ』

『なるほどー。では彼女たちは将来の765プロアイドルの候補生でもあるわけですね』

 

何で765プロじゃない子達が皆と一緒に居るの?

 

765プロにいるの?

 

何で──。

 

 

……。

 

 

『次のニュースです。346プロダクションでアイドルの──』

 

リモコンをテレビに向け画面を消す。

そこまでが限界で、手から力が抜けた。そのままリモコンは自由落下を始め、やがて床へと落ちて硬い音を響かせる。

重力に従う様にリモコンを持っていた手も下がる。だが下がるだけでそれ以上体が動くことはない。

目は開けているはずなのに何も見えてないように目の前が暗い。

耳の奥でゴーゴーと音が鳴り響いて他の音が聞こえない。

喉が酷く乾く。

 

どこかで、自分の価値に誰かが気付いてくれるんじゃないかって期待していたのだろう。

如月千早という重要人物が存在しない765プロなんてありえないのだから。そんな自惚れで思考が止まっていたらしい。

 

自分の居ない765プロなんて765プロじゃない。自分の価値と千早の価値を混同していた。

自分の居ない765プロが成功するわけがない。自分の存在が成功の鍵だと思っていた。

自分の居ない765プロは失敗するに決まっている。彼女達の力を一段下に見ていた。

 

だからアリーナライブと聞いて、彼女達の成功を知って、心乱しているのだ。

自分なんていなくても彼女達だけの力で未来を作り出せたことが受け入れられないため動揺している。

そして、スクールの子達の存在だ。

765プロはあの狭い事務所の中であれだけのアイドルを育てた。大手事務所に比べたら圧倒的に小さい事務所と少ないアイドルだ。それ故に結束力があった。それはゲームでもアニメでも描写されていた。

そこに誰かが加わるなんて想像していなかった。その可能性を完全に意識から消し去っていた。

結局自分は諦めてしまっていたのだ。

皆と同期で居られないから、と。そこで終わっていたのだ。

メンバーの増員がある可能性に気づいていれば、落ちた後もチャンスを窺っておけば。そんなもしもを考える。

あのミニライブでバックダンサーをしていたのは自分だったかも知れない。皆と一緒にアリーナライブに出られたかも知れない。

いや、それは無理だとすぐに思考を改めた。あの時の僕に後輩でもいいから皆と一緒にいたいという気持ちは持てなかっただろう。如月千早()が彼女達より下に居てはいけないと決めつけて後輩というポジションを許容できなかったはずだ。

どんなコミィニティでも少なからず存在する上下関係を765プロの皆と持ちだしたく無かったなんてのは言い訳でしかなく、結局のこところ自分が一番だという自信と傲慢さがあっただけだった。

原作知識というありもしない正解を信じて、全てを知っているつもりになって、現実を不正解と否定した。

僕は知らない。

アニメ後の世界なんて知らない。アリーナライブなんて知らない。後輩なんて知らない。

 

リアルの765プロメンバーなんて知らない。

 

もうこの世界は僕の知っているアイドルマスターの世界じゃない。

いや、そもそも最初から「僕が知っている世界」なんて存在しなかったのだ。

世界に決まりなんて無いから。僕が765プロに入らなければいけない決まりだって無かった。それに気づくのが遅かった。

二年だ。二年も経っている。原作の千早がアイドルを始めた歳が十五歳。今の僕はもうすぐ十七歳になる。

 

この二年間、僕は何をしていたのだろうか……?

 

いや、分かりきっている。

 

”何もしてこなかった。”

 

何も。何もしていない。

 

歌っていない。

踊っていない。

笑っていない。

泣けていない。

 

何も無い。何も残っていない。

 

「……ぅ、ぅ」

 

泣けない。涙が出ないから。

 

「ぅぅ……っ」

 

涙が出ない。心が止まっているから。

 

「ぁ、ぁ、ア──」

 

心が動かない。諦めているから。

 

「ア──」

 

諦めている。声が出ないから。

 

声が出ない。出ない。出ない。出ない。出ない。

 

 

 

 

誰か──。

 

 

 

「ぁー……」

 

 

 

 

 

助けて。




2年間ニート生活。
765プロに落ちたことでアイデンティティを喪失して廃人一歩手前。
一人暮らしで部屋に閉じこもってゲームして弟に介護されている状態。
ほとんど人生の崖っぷちである。もうあと数年で自殺しそう。弟に見捨てられたらその瞬間死にそう。
本気でぎりぎりの人生の中、最悪のタイミングで自分の間違いに気づいてしまった。取り返しのつかない無駄な時間。
2年間で765プロは無名からトップになれたのに、自分は2年間何もしていなかったという事実に心ぶっ壊れ状態。

次回、765プロ編最後。千早は輝きの向こう側に行けるのだろうか。765プロ編といいつつまったく765と絡んでないけども。
※このお話はサクセスストーリーです。

補足
本作の千早はアニメ版アイドルマスターまでしか知りません。映画発表前に転生済みのため、アニメ26話以降の話は無し。デレアニも知識にないです。時期的にミリオンライブは知っている可能性はありましたが無いとしました。


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アルティメットな出会い

今回で765編最後。
3話目にして1度目の覚醒回。

最初に言います。ぐだぐだで申し訳ない。


あれから一月程が経ち、季節はすでに秋に差し掛かっていた。

あの日以来僕の引きこもり体質は拍車が掛かり、前は週一で外に出ていたところを今では一度も外に出なくなっている。

外に出るだけの気力が湧かないというのもあるが、外に出るのが怖かった。これまで必死にシャットアウトして来た765プロの今を外に出ることで知ってしまうのが怖かった。

この部屋ならば何も見聞きせずに済む。テレビはあれ以来観ていないし、パソコンはゲームどころか電源を入れることすらしてしなかった。

あの日、予期せず現在の765プロを取り巻く事情を知ってしまった。その内容は僕の止まった心を抉るのに多大な成果を出すに至った。

僕がこれまで頑なに信じていた「765プロにとっての正解」が間違いだったと教えられたからだ。

誰か特定の人から告げられたわけでもなく、テレビのニュースで知ったことがダメージを膨らませている。

無関係なキャスターが語るどこか他人事めいた言い様が、そのまま僕と彼女達の関係を揶揄しているかの如く上滑りして聞こえた。

つるつると滑るキャスターの言葉がするりと耳へと入り込み、一気に脳幹の奥まで侵入した。

遠くに聞こえる765プロの話がそのまま彼女達との距離に感じられた。

そんな現実が僕に残されていた人間らしい感情にトドメを刺したのだ。

今では食事すらまとまに摂れていない。優が前よりも頻繁に訪ねて来るようになり、その時に何かしらを食べさせてくれている。そんなことをしなくても餓死なんてしないのに。もはや空腹すら感じないくらい、僕は人間を辞めかけている。

全てを失った僕に生きている意味はあるのだろうか?

千早になれなかった僕に存在価値はあるのだろうか?

そう自問自答するも、答えなんて分かりきっていた。

こんな欠陥品のポンコツの屑に価値などあるはずかない。

もう何度目になるかわからない自虐的な結論を自分に下したところで部屋にアラームが鳴り響く。

これは優がセットしてくれたもので、ご飯を食べる時間になると報せてくれるのだ。本当は食欲が湧かないので食べたくないけど優が決めた時間なのだからご飯を食べないといけない。

ベッドから起き上がるために四肢に力を込める。

両の手足から脳へと伝わる信号はぴりぴりとした痺れと共に血の滞留を訴え掛けて来る。しかし肝心の脳が体を動かそうとしない。

一日のうちほとんどを不自然な体位でベッドに寝転がり微動だにしない僕の姿は自分でも気味が悪いと思う。寝返りすらまともに打つ気力がない。ずっと同じ姿勢を続ける。動くのは優が来た時だけだ。

もし優が見たら何と言うだろうか。きっと「アイドルを目指すなら、そんなことしちゃ駄目だよ?」とか言うに違いない。

同じ体勢を取り続けると骨格が歪むと言うし、優が駄目と言うのも頷ける。優が言うのならそうした方が良い。

そこまでの思考に至ってようやく身体が動き始めた。手足に意識を集中させ、動けと念じる様に四肢の神経に意思を通す。腕と足を指先から順に、親指から小指を一本ずつ馴らす様に曲げる。

半日もの間ほとんど動かしていなかった筋肉はそれだけで悲鳴を上げ、先程までの動けという命令を反故にしろ言わんばかりに引き攣る。それを意思の力でねじ伏せ無理やり動かした。

 

「───っ!?」

 

身体の至る箇所からビキビキと筋繊維が引き千切られる音がする。

凄く痛かったけど、痛いだけなので我慢はできた。人生にはもっと辛くて痛いことがある。僕の人生とか。

馬鹿な思考と身体の痛みは無視する。しばらくの間全身の筋肉を解すために体を動かし続けた。

本当に優の存在は僕を窮地から救ってくれるね。想像の中ですら金言を与えてくれるなんて、やはり優は僕の救世主だ。むしろ優の存在そのものが僕の生命線と言っても過言ではない。

凝り固まっていた筋肉は一通り解すとすぐに健常な状態に戻った。たったこれだけの処置で十全な状態に戻るって我ながらチートだと思う。

さて、今日は何を食べようか。昨日は確かお肉だったから今日はパンにしようか。麺でもいいかも知れない。まあ、何でもいいか。食べられたらそれでいい。

ベッドがから立ち上がるとふらふらとした足取りで冷蔵庫へと向かう。丸一日何も口にしていないせいでエネルギーが足りない。それでも無理やり動かす僕にはベッドから冷蔵庫までの距離すら遠く感じられた。まじガンダーラ。孫悟空とかなしで天竺に行く感じ。

何とか冷蔵庫まで辿り着く。中に何があるかなと冷蔵庫のドアを開けて中身を確認すると見事に何も入っていなかった。

おかしいな、昨日までは確かにご飯が入っていたのに。あ、腐っていると言って優が捨てたんだった。腐っていても問題ないのにね。

それにしても、困ったぞ。食べる物が無いと何も食べられないじゃないか。

お腹は空いてないけれど優にアラームが鳴ったらご飯を食べる時間だと言われているからなぁ。

何か食べないと。

でも何も冷蔵庫の中に無いし。

あれ、そもそも何で食べないといけないんだっけ。……ああ、そうだった。優に言われたからだった。

でも何も冷蔵庫の中に無いよ。

うーん……。

しばらく冷蔵庫の前で首を捻っているとケータイの着信音が響いた。

優からだろうか。優からしか来ないから無意味な疑問だった。

冷蔵庫の中を確認するのを一旦止めてケータイの置いてあるベッドまで戻る。軽快な音色を奏で続けるケータイは二年以上前の物とあってすっかり型落ちしてしまったが、優からの連絡を受ける用の端末になっているため特に支障はない。

着信が切れる前に何とか出ることが来た。

 

『お姉ちゃん?』

 

優の声が電話の向こうから聞こえる。当たり前のことだが、その当たり前が嬉しい。

 

『ちゃんとご飯食べた?』

 

食べてる食べてる。

もりもり食べて最近だと大食い選手権に出られるくらいだよ。

 

『嘘吐き。今冷蔵庫の中身空っぽでしょ』

 

凄い、さすが優だ。エスパーかな?

天使かも知れない。

 

『実は今日はお昼作りにそっちに行けなくなっちゃって』

 

……。

 

『お姉ちゃん?』

 

うん、大丈夫大丈夫。

仕方ないね。優にだって自分の生活があるんだから、僕にばかり構っているわけにはいかないよ。

むしろ今ですら過剰な世話を焼かせているわけだし、もう少し頻度を落としてもいいくらいだね。本当にそうされたら泣きそうだけど。

 

『ごめんね、お姉ちゃん。その代わり夕方に顔を出すから』

 

大好き。

今日は寝ないで優を待っちゃおうかな。あ、でもそれだと待つ時間が長くなるから今から夕方までまで眠るとか。

 

『今から寝るのは無しだよ』

 

はい。

何故わかったし。と言うかよく会話成り立ってるよねこれ。僕まだ一言もしゃべってないんだけど。やはりエスパーか。

 

『今日は僕の代わりに違う人がそっちに行くから、ちゃんと部屋に上げて、相手してあげてね』

 

うん、わかった。

……ん?

 

『じゃあ、また後でね』

 

待って待ってウェイウェイ。ステーイ。

他の人って何?

優以外の人が来るとか聞いてないよ。そのパターン今までになかったよ。優以外を部屋に上げたことないんだけど。いや、そういう問題じゃなくて、優以外の人と会うとか無理なんだけど。

こういう時だけ僕の言いたいことを察することはせず、無情にも優との通話は切れてしまった。

 

「……」

 

どうしようこれ。えー、本当に誰か来るの?

未だ嘗て優以外に誰も招いたことがないマイルームだぞ。未対応で未実装だぞ。

……居留守使おうかな。

でも優に入れてあげろって言われたから駄目だ。優に言われたなら入れるしかないね。仕方がないね。

そうこうしているうちにチャイムが鳴った。早いよ。まだ心の準備も持て成しの用意もしてないから。

しかし今から客を持て成すと言っても何も出す物がないぞ。冷蔵庫の中身空だし。

あ、ご飯を食べないと。でも冷蔵庫空だし。じゃなくてお客……ご飯。

とりあえずいつまでも部屋の前で放置し続けるのは駄目だよね。優に相手してあげろって言われたから最低限の応対はしないと。

嫌々ながら玄関へと向かい何の躊躇いもなく扉を開いた。

すると、そこに立っていたのは。

 

「千早……ちゃん」

 

春香だった。実に二年ぶりの再会である。

 

「……」

 

なんでさ。

 

 

 

──────────────────

 

 

 

カッチコッチと時計の音が部屋に響く。

今僕と春香はテーブルを挟んで対面に座っている。

お互いに会話は無く、顔も上げていない。僕は声が出ないので会話が成り立たないのは仕方がないのだけど、お互いに顔を見ないのは何となく気まずい。

部屋の前に立っていた春香は僕を見ると暫し呆然とした顔をした後に笑みを浮かべ僕の名前を呼んだ。「千早ちゃん」という、初めて会ったあの時の呼び方で。

二年も前に一回会っただけの相手にそんな馴れ馴れしい呼び方をするのは僕にはハードルが高い。それができる春香はさすが体育会系アイドルだ(錯乱)。

と言うか、何で春香がここに居るのか説明を受けていないんだけど。優が言ってたのは春香のことだっていうのはわかった。大方実家の方に春香が行って優にアパートの場所を聞いたのだろう。

じゃあ、なんで春香は家に来たの? 僕に会いに来たの?

それとも優と知り合いで今日はお家デートだったの?

もしそうなら衝撃的な事実過ぎて目玉飛び出そうなんだけど。トップアイドルが熱愛発覚。相手は僕の弟。ヤバ……。

確かに優は可愛い。年上の女性にモテると思う。現に小学校時代も上級生に可愛いと言われていた気がする。同じく年上の春香が優を好きになっても違和感はない。

……いや、そろそろ沈黙が辛くなって来たのでふざけてみたわけなのだけど。希望的観測から考えると春香は僕に会いに来てくれたわけだよね。

何の用だろうか。用件くらい言って欲しいのだけど。

僕って静かなのは慣れてるし。優以外と肉声で会話しないし。その会話すら優の話を僕が聞くだけだから、沈黙って僕にとっては何てことないから延々沈黙してても問題ないよ。

ただし気まずく空気は無理。

沈黙は大丈夫でも気まずいのは無理だったよ。

さっきから春香が何かを言いたそうにしてこちらをチラチラ窺って来るのも気まずさを加速させている。しかし僕と目が合うと「アハハ……」と笑ってから目を逸らしてしまう。

もうアレですか、これは僕が尋ねないと終わらないやつですか。むしろ始まらないまである。

このままほぼ他人同士による耐久沈黙レースをしても良いけれど、居座られて不利なのは自分の家にいる僕の方だからね。春香側は他人の家とかむしろアウェーだからこそ排水の陣的な耐久力を見せそう。

ここは下手に長引かせて不利になる前に一気呵成に攻めたて話を切り上げるのが良いだろう。

そうと決まれば春香に今日は何の用件があって来たのかと聞こう。

喋れないから無理だけど。

開始早々に詰んでるじゃん。

今の僕の心境って某爆弾男のゲームの対戦で開幕直後に爆弾を置いちゃったくらい出鼻挫かれてるから。こんなの死ぬしかないじゃない。

しかし死んだら優に会えなくなるのでもう少し足掻いてみよう。

確か冷蔵庫の中に新しいノートと筆記用具があったはずだ。それを使っての筆談を申し出てみよう。字とかしばらく書いてないから漢字とか忘れてないか不安だ。簡単な漢字も書けなくて恥ずかしい思いをしたらどうしようか……。などと色々と不安を覚えながら冷蔵庫を開ける。

見事に何も入ってないな。さっき確認したばかりだけども、調味料すらないとか改めて僕の家やばいわ。最悪マヨネーズ舐めてれば生きられるわけだし、今度調味料だけでも補充しよう。何かしら食べないと優に心配掛けちゃうし。

……あ、そう言えばご飯食べないと。すっかり忘れていたけどアラームが鳴ったからご飯食べないと。

でも冷蔵庫の中は何もないし。

うー?

 

「お腹空いたの?」

 

僕がいつまでも冷蔵庫の前から動かないからか春香がこちらまでやって来た。確かに冷蔵庫の中身を覗き込んでじっとしていたらそう見えなくもなくなくないか。お腹は空いてないけども。ただ僕は優に食べるよう言われたから食べようとしただけだから。今更食いしん坊キャラとか設定追加されても扱いに困るから。

そんな僕の無言の抗議は当然ながら春香に伝わるわけがなかった。伝わるのは優くらいだ。やはり優は天使なんだ。

あ、優と言えばご飯食べないと。

 

「えっ……と」

 

背後から冷蔵庫の中を見て軽く絶句する春香の声が聞こえた。

まあ、その反応はわからなくもない。この新品かと思うくらい伽藍堂の冷蔵庫を見ればそうなるだろう。

一応ノートと筆記用具は入っているから空っぽではないんだけどな。

 

「お料理とかは……しないの、かな? あ、あはは……」

 

春香は絶句したことを誤魔化すように笑いつつ遠慮がちに僕の料理スキルについて訊ねて来た。調理……。その質問にあえて答えるならば、コンビニがあれば人は生きられると返そう。そのコンビニにすら一人では行けない僕は優とチートがなければ生きていないことになるが。

それよりも優に言われたから何か食べないと。

 

「お買い物に行こっか。材料さえあれば私が作れるし……どうかな?」

 

タイミング良く提示された春香の申し出に思わず頷いてしまう僕であった。

 

 

 

お外怖いお外怖いお外怖い。

お外思ったよりも怖い。

春香の誘いにホイホイと付いて来たはいいけど、想像以上に外が怖くて部屋からなかなか出られなかった。

春香に宥めすかされ、手を引かれ、最後に腕を引かれて何とか外に出られた。引っ張り合いをすれば確実に僕が勝つのだが、春香の有無を言わさぬ態度に僕が折れた。この身に沁み込んだ如月千早が春香に逆らうことを拒絶しているとでも言うのだろうか。単純に僕が流されやすいだけだった。

家に来た時の春香は例のファン舐めてんのかってくらい適当に見える変装をしていたのだけど、今はその変装道具は僕に装着されている。ハンチング帽と眼鏡姿になることで視界が塞がり心持ち安心できたのも外に出る敷居を下げていた。

その恰好で春香の腕にしがみ付き、なるべく周りを見ないようにして歩く。まるでお化け屋敷を怖がる子供みたいで情けないが、怖いものは怖いのだから仕方がないじゃない。

一か月ぶりに出る部屋の外は下手なお化け屋敷よりも怖かった。

何と言ってもお外でかい。空が高い。風が吹いている。人の視線が集まる。

自分の住んでいるアパートの一室がどれだけ安全地帯なのかわかった。お家が恋しいよ。

 

「大丈夫だよ千早ちゃん。私が付いているから、ね?」

 

春香が優しく励ましの声を掛けてくるが僕はそれどころではなかった。

万が一にも春香から離れるわけにはいかないので腕を掴む力を強める。あまり強すぎると春香の肩から先がさよならバイバイするので可能な限り加減はするけども。

今の僕は外の怖さに戦々恐々内心ビクビク常時仰天状態。傍に春香が居てくれるから何とかなっているけど、これ一人だったら絶対無理だったわ。

そもそも一人だったら外に出ないけどね。じゃあ誰が僕を外に連れ出したの。春香です。その春香に助けられています。これマッチポンプじゃない?

酷い、犯人が優しくしてくるなんて。ストックホルム症候群になったらどうしてくれるんだ。こうして抱き着いても拒絶せずに受け止めてくれている時点で若干発症しかけている僕が居る。

若干嬉しそうにしている春香の反応も謎だ。僕に抱き着かれて喜ぶ要素ある? 僕が春香の立場だったら引いてると思うけど。そう思いつつ僕の方から離れられないのであった。

だって怖いんだもの。さっきから道行く人が僕達を見てくる。その視線に含まれる物が好奇心を刺激された人間特有のいやらしさを感じて身が竦む。二年前、声の出なくなった僕に対して口では「心配している」と言いつつ何でそんなことになったのか知りたがる友達を名乗る女子連中の目がまさにそれだった。

嫌だよ。そんな目で見ないでよ。僕は何も答えられないから。答えなんてないから。君達の好奇心を満たすことは言えないんだ。原因を忘れちゃったから。優に何を言ったのか忘れちゃったから。忘れたから何も言えないんだ。言えない。何も。言えないから。許してよ。

 

「大丈夫だから」

 

そっと体を包み込む感触に我を取り戻す。同時に自分がひどく震えていることに気付いた。

身体が震える。外の怖さにではない。誰かの視線が怖い。好奇の目が怖い。

 

「大丈夫だから」

 

その声に顔を上げると笑顔の春香と目が合った。先程と何も変わらない笑みを直視してしまい、慌てて顔を俯けると今度は春香の僕を抱く力が強まる。

春香は大丈夫と言うが、そんなことでこの絶望的な不安感は拭えない。まるで崖の上から夜の海を覗き込んでいるかの様で、いつ誰に突き落とされるかわからない恐怖と危機感を募らせる。ほんの少し押されただけで海へと叩き落されそのまま二度と浮上できない自分を幻想する。

 

「千早ちゃんは大丈夫だよ」

 

大丈夫大丈夫と、何を根拠にそんなことを言うんだよ。何も知らないくせに。如月千早を知らないくせに。

僕の二年間を知らないのに。このゴミみたいな停滞した時間を見たことがないくせに。

今の僕を客観的に見れば駄々っ子の様なものだ。どうしようもないことを受け入れられずに他者に当たる子供そのもの。

春香だって本当は聞きたいはずだ。僕がこうなってしまった理由を。何があったのかを。

それでも春香は何も聞かずに変わらぬ笑顔を向けてくれる。こうして抱いてくれている。

それがどれだけ救いなのか、頭では理解できていても感情が受け入れられない。

子供だ。どうしようもなく僕は子供だ。理性では理解でているはずのことを受け入れられない。

子供の感情がぐずる姿を大人の理性が冷静に観察している。僕って本当に情けないなぁ。

自分の情けなさに春香の腕の中で落ち込んでいると春香に頭を撫でられた。突然のことでびっくりしたけど不思議と心が落ち着いて来る。

 

「あの日、私を助けてくれた千早ちゃんはすっごく強い子だから」

 

助けた?

春香は何を言っているのだろうか。僕が春香を助けたことなんてあったっけ。

あの日僕は春香に何をしてやっただろうか。日記を読み返したとしても、たぶん細かい内容は書かれていないだろうし。そもそも日記は今実家の僕の机にデスノート方式で封印中なので簡単に読み返せないのだが。

だが僕の行動の何かが春香の心を動かしたらしい。まったく自覚のない成果に戸惑いを覚える。

 

「私が知ってる千早ちゃんなら大丈夫。今からでも遅くないよ、千早ちゃんなら絶対アイドルになれる。私はそう信じてる」

 

……それは前提が間違っている。春香のそれは勘違いだ。僕が今もアイドルをやりたがってると勘違いしている。

だからそんな笑顔で大丈夫なんて言えるんだ。信じていると言えるんだ。

春香は勘違いしている。声が出ないこととアイドルをやらないことはイコールじゃないのに。

僕の声が出ないこと。僕が絶望していること。僕がアイドルを目指すのを諦めたこと。それらは出発点は同じでも原因はすべて違うのだ。

そして、それは765プロのオーディションに落ちたことが原因じゃない。それは理由の一つだけれど、元凶とは違う。

僕はずっと──。

 

「またそうやって無責任にアイドルに引き留めるつもり?」

 

その声は肌寒い秋空の下にありながら、なお寒気を感じる程に冷えていた。

突如その場に現れキツイ言葉をぶつけて来た謎の声の正体。それを僕が本当の意味で知るのはまだ後の話。

 

 

 

その少女こそ、この先何度もすれ違いその度に傷つけ合うことになる相手だった。

時に交差し、時に平行線を辿る僕達のキセキは最後まで点以外で触れ合うことはなかった。

お互いがお互いの運命を狂わせた加害者であり被害者である僕達二人。

 

”渋谷凛”と”如月千早”の物語。

 

そんな僕達の”今回”の出会いは有り体に言えば最悪だった。

まあ、今の僕には彼女が何者なのかすら知らなかったわけで……。

だからこの時の僕は最初今のこの状況を他人事の様に見ているだけだった。

 

「……?」

 

誰だろう、知らない子だ。突如声を掛けて来た少女を春香の腕の隙間から確認する。

長い黒髪とスレンダーでありながら均整のとれた姿が魅力的な十五、六歳くらいの少女がこちら──春香を厳しい目で見ていた。

台詞からして春香の知り合いっぽいけど、それにしては春香を見る目が何か責めている感じがするぞ。ただの釣り目?

あとあのセリフ。またアイドルに引き留める? どういう意味だ。

 

「凛……」

 

春香がばつが悪そうに少女の名前らしきものを口にする。やはり春香の知り合いだったか。名前は凛というらしい。

でも知り合いならば凛のあの目は何なのだろうか。元から釣り目がちな目っぽいけど、それ以上に不機嫌オーラが相手の子を攻撃的に見せている。

 

「可奈のこと、引き留めてるって聞いた」

「可奈ちゃんも今は整理が付かないだけで……きっと、可奈ちゃんも戻りたいって思ってる、はずだから」

 

僕が居ると知りながら突然春香へと本題をぶつける凛。春香も少女の言葉を無視できないのか会話を受けてしまい僕のことは後回しのようだ。

そうやって僕の頭越しに言葉の応酬を始める春香と凛から完全に僕は居ないもの扱いをされている。別にいいけど。

いや春香は顔が見えないのでわからないが、凛の方は隠れている僕が気になるのかチラチラと時折こちらに目線を向けているが誰なのかと問い質す程の興味はなさそうだ。それよりも春香との問答に集中したいらしい。

存在を忘れられるならそれでいい。下手に巻き込まれても困る。それに忘れられることには慣れているし。

 

「そう可奈が言ったの?」

「それは……直接そう言われたわけじゃないけど」

「言われてない、じゃない。そうじゃないよ。それは春香の願望でしょ。可奈本人はアイドルを諦めるって聞いてる」

「それは違うよ! 可奈ちゃんはアイドルを諦めるって言った! でも、それは可奈ちゃんの本心だとは思えない。まだ私は可奈ちゃんから本当の気持ちを聞いてない!」

「だから、それは春香が勝手に思っているだけで、可奈本人の気持ちはとうに出ているでしょ。可奈はアイドルを辞めたいと言った。それが答え。違う?」

「違うよ。違うんだよ凛! それじゃ駄目なんだよ……。今可奈ちゃんは悩んでる。アイドルを目指すこと、アイドルを続けること、辛いことがあるって知って戸惑って、自信を失くしちゃってるだけ」

「それは一か月も練習を休んで良い理由にはならないよ」

 

可奈ってあのミニライブに出ていたバックダンサーの子か。確かニュースで言ってた転んだ子の名前が可奈で……ああ、なるほど。

話を聞いただけでは全貌は見えないけど、どうやら可奈って子はあのライブでの失敗で挫折してしまったらしい。よくある話と言えばそれまでだが、当人にとっては十把一絡げにされたくはないことだろう。

可奈って子にとってはあのライブでの失敗は自分に絶望するくらいには大きなものだったのだ。僕の絶望だって他人からしたら鼻で笑う程度のものかも知れない。でもそれを実際に大したことじゃないと言われたくはなかった。だから可奈の絶望を僕は否定しない。

そんな可奈を春香はアイドルに引き留めているらしい。それはどんな理由からはさすがに読み取れないが、春香にとって可奈の脱落は許容できるものではないらしい。

 

「確かに可奈ちゃんは練習を休んじゃってるけど……でも、今ならまだ間に合うし、踊りのフォーメーションだって可奈ちゃんのポジションを残してやってるでしょ、だから」

「それはどの程度のレベルの話?」

「え?」

「一人欠けた状態の練習でどれだけの糧になるの? 私には今の練習に意味があるようには見えない。私、達ならできるよ? ライブに竜宮小町が遅れたあの時の経験が活きてるから。その後も誰かしら足りない状況っていうのはあったし、私達は慣れたから」

「だったら」

「それをスクールの皆に求めるの?」

「あ……」

「それができるのは私達がそれだけの経験を積んで来たからだよ。でもスクールの子達は違う。春香は知ってた? 百合子と杏奈がフォーメーションの練習中不安そうにしていたってこと。あのいつも明るかった奈緒ですら誰も居ないところでは暗い顔をしてたってこと。志保が練習後もずっと一人で練習し続けて明らかにやり過ぎてること。他の子達の今の状態を知ってた?」

 

少し考えればわかることだった。スクールのメンバーは可奈一人ではないことに。

可奈以外にも同じ”アイドル未満”の子達は居る。今の765プロのメンバーと比べれば未熟過ぎるその子達は、果たして居ない人間を想定したフォーメーション練習で上達するのだろうか。仮に可奈を抜いたフォーメーションを練習するにしても、元のフォーメーションと合わせて覚えることが増えたらその分負担になる。それは未熟なスクールの子達に対応できるものだろうか。

その答えは凛と春香の反応が物語っている。

春香は口に手を当て声も出せずに瞳を揺らしていた。今その問題に気づいたと言わんばかりの春香の態度に凛の目つきが目に見えて険しくなった。

 

「春香は今回のライブのリーダーなんだから、ちゃんと皆を見なきゃいけなかったはずでしょ」

 

春香がリーダーだったのか……。それで全体が見えていなかったというのは責められる理由にはなる。

そもそも春香をリーダーに据えた者の選択ミスと言いたいところだが、それは当事者達が決めたことなので今ここで聞いただけの僕がとやかく言えることではない。

 

「星梨花は泣いてたよ。あの時可奈とぶつかったのはあの子だから。可奈を傷つけたって自分を責めてた。あれは事故で、誰が悪いとかじゃないって言ってもあのライブに居なかった私じゃ上手く伝わらない」

「星梨花ちゃん……」

「……ねぇ、春香。それを本来やらなくちゃいけなかったのは誰?」

「っ!」

 

今度こそ春香の顔から色が失われる。目に見えて顔色の悪くなったということは春香は気づいたらしい。

この場合、その可奈とぶつかったという星梨花のフォローをするのはプロデューサーか律子の両名、またはリーダーである春香の仕事だろう。あくまで一回のライブのリーダーでしかない春香にメンバー全体のケアまで求めるべきかは微妙なところだ。聞いた感じでは初リーダーっぽいし。でも常に人手不足の765プロの状況ならば、メンバーへのフォローを含めてのリーダー選別だったのかも。人数が増えたことでケア役としてリーダーが選抜されたという考えはあながち間違ってはいないと思う。少なくとも春香か凛かと問われれば前者の仕事だ。

 

「今回のアリーナライブを乗り越えたら765プロは実力が認められるってプロデューサーは言ってた 。もっと大きな仕事も来るようになるって……そうすれば、皆が今よりも輝けるって言ってたから。私は皆にもっと輝いて欲しい。この間のライブみたいに、最近は私の仕事が増えて皆と一緒にライブができないことも増えたけど、それでも私は皆と同じステージが良い」

「凛……」

「プロデューサーがアメリカに行くって聞いて、これが最後のライブだからって、今回のライブは色んな意味で絶対に失敗できないはずなのに…… 春香は可奈一人のために皆のライブを台無しにしかけてる!」

 

あのプロデューサーがアメリカ行き? どんな話の流れだという僕の疑問は当然誰も答えてくれない。

まあ、この際それは置いておくとして、凛の言い分と春香の気持ち、どちらが正しいのか僕にはわからない。他のメンバーがどう感じているのかも知る術がない。所詮僕は他人だから、当事者同士の意見のぶつかり合いに関わる権利はない。たとえ関わったとしても最後まで関わり切る自信がなかった。だから僕はここでは傍観者でしかない。

 

「……早くここまで来てよ……じゃないと、私……もう止まっていられないよ」

「……」

「私は皆と一緒でよかった。皆で輝きたかった。私だけが先に行っても意味ないから……!」

「……」

「皆が私に追いつくためには、今可奈一人のためにこの機会を潰しちゃいけないと思ってる」

「……凛、私は、それでも可奈ちゃんと一緒に」

「一緒に失敗するの?」

「っ」

「一緒に失敗して、機会を潰して、それで誰が責任をとるの? 春香がとるの?」

「そ、それは……私、だけじゃ」

「そうだよね。765プロ全体の問題だから。それは春香一人でどうにかなる問題じゃなくなる。たとえ春香一人が責任をとってどうにかなるわけないし、皆が春香一人に押し付けるわけない」

「……」

「春香にとってこのアリーナライブって何? 皆に負担を掛けて、自分の我儘を言い続けることは正しいの?」

 

重ねる様に投げつけられる凛の問いかけに春香の答えは弱く煮え切らない物になっていた。春香自身分かっているのだろう、今のままではライブが失敗しかねないことを。

失敗した時に誰が責任をとるのか。自分ひとりでそれができるなどと春香は思っていないはずだ。そこまで現実を見ていない少女ではない。

 

「可奈のことで手一杯だって言うのはわかる。可奈と一緒にライブを成功させたいって春香の気持ちもわかってる。でも……だったら! どうして無関係な人と関わってるの!?」

 

無関係。

その一言は他人事を貫いていた僕によく刺さった。

確かに今この時も自分には関係がない話だと春香の腕の中に隠れてやり過ごそうとしている僕は関係者とは言えないだろう。

しかし、他人の口から無関係とばっさりと言われると正直辛かった。

 

「春香が可奈を連れ戻したいって言うなら、そんな無関係な人に関わっている暇なんてないはずだよ!」

「無関係じゃない! 千早ちゃんは私にとって──」

 

だが春香にとって今の凛の発言は看過できるものではなかったらしい。彼女の中で僕はずっと無関係ではなかったのだ。

しかし春香よ……僕のことを無関係じゃないと言ってくれたのは感謝しよう。でも、今こうやって矢面に曝そうとするのは止めていただきたい。

この目つきの鋭い少女に僕まで敵意を向けられたらどうしてくれるのか。

いや、もう遅いか。すでに春香は行動に移っていたのだから。

凛に見せるためか、春香は僕を前へと押し出しその姿を晒させた。その勢いで帽子が落ちてしまい僕の髪が広がる。

されるがままに姿を見せた僕を果たして凛がどういう目で見てくるのか不安で仕方が無かった。思わず顔を伏せてしまう。向けられるであろう凛の目を見れない。

 

「え……」

 

しかし、覚悟していた反応は凛から返って来ることはなかった。

初めてこちらをまともに認識できたのか、僕を見た凛が声を漏らす。それは吐息の様な意外なものを見た様な謎の声だった。

思わず顔を上げると初めて凛とまともに目が合った。凛の目がまっすぐに僕を見つめる。その瞳に映る感情を僕は想像することはできなかったけれど、凛という少女にとって僕はこの瞬間春香よりも優先するに値するものであったらしい。

その証拠に、凛の顔からはそれまで喧々していた雰囲気は一掃されており、代わりに愕然とした表情をしていたのだから。

 

「嘘……なんで」

 

凛から敵意をこれっぽっちも感じない。先程の春香を追い詰めていた時に見せた険しい表情も、強い意志の籠った目も今は消えている。

まるで親犬に見捨てられた子犬が一人で震えているような、そんな絶望を凛から感じた。今度は凛が追い詰められている。

理由は分からない。僕が原因なのは確かなのに、僕に彼女がこうなる理由が思い浮かばなかった。

僕の何が凛をここまで追い詰めた?

 

「今更……どうして、今になって貴女なんですか。なんで、貴女が『千早ちゃん』なんですか」

 

やがて絞り出された声は、それまでの凛の印象とは真逆の酷く弱々しいものだった。

凛は両の拳を握り、何かに耐えている。

僕が何をしたと言うのか。僕と彼女は初対面だ。今この時に出会っただけの、赤の他人のはずだ。それなのにこの反応はいったい何だ。まるで僕が絶望的なまでに彼女を裏切ったみたいじゃないか。

知らない。僕は凛なんて少女を知らないぞ。なのに何でこいつは僕をそんな目で見るんだよ。

 

「結局、私が進む先には……光は無いってことなんだ。今更だよね……本当に」

 

やがて彼女は一人で何かを納得したらしく、噛み締めるように言葉を紡いでいった。

たぶん凛の心にあるそれは諦観だ。何かが彼女の希望を打ち砕いた。いや、絶望に追い打ちを掛けた。

追い込んでいる。今僕がこうしてこの場に居る、たったそれだけのことが彼女を追い込んでいた。

 

「凛は、千早ちゃんのことを知っているの?」

 

当然の疑問を春香が口にするも、凛はそれに答えることはなかった。

 

「……ごめん。人違いだった」

 

それが嘘というのは僕にも春香にもわかった。しかしそれを問い質す権利はこちらには無い。僕の場合声が出ないので物理的にできないが、例え声が出たとしても先程まであれだけこちらを責めていたのが嘘だったように落ち込んでいる凛に掛ける言葉は無かっただろう。

凛は何かを堪えた顔で自身の体を抱くように腕を組んでいる。その姿は身を守るためというよりは内側から溢れ出す何かを抑えつけようとしてるように見えた。

 

「凛、私……」

「可奈のことはもういいよ。春香がリーダーなんだから春香が決めたことに従うよ。それでいいでしょ」

「凛! 私は!」

「じゃあ、私は仕事があるから」

「凛!」

 

言いたいことだけを告げると凛は逃げるようにその場を走り去って行った。

咄嗟に追いかけようとする春香だったが、すぐに僕が居ることを思い出すと進めようとした足を止めた。僕が一人残された場合のことを考えての行動だろう。その気遣いを嬉しいと思いつつ、同時に凛を追いかけなかった春香の選択を失敗だと思う僕が居た。そんなことを思う権利、僕には無いのに……。

 

「ごめんね、千早ちゃん」

 

どういう意味を込めているか不明だが春香に謝られた。

その後は無言で歩き始めた春香に半ば引きずられて買い物を続けた。

 

 

 

────────────────

 

 

 

一通り買い物を済ませアパートへと戻った。

買い物中はお互いに無言だった。僕はしゃべれないし、春香は何も語ろうとしない。お互い無言なのに、見た目だけは腕を組んで仲が良さそうにしていた僕達は周りからさぞ奇異に映ったことだろう。

今更だけど、有名人である春香とこうして歩いていて問題なかったのかと思い出す。僕は女なのでスキャンダルと言うほど重大な問題にはならないだろうけど、顔を隠した変な女と歩いていたというのはダメージになるんじゃないかな。

そんな心配をしながら買った食材で日持ちする物と使わない調味料は冷蔵庫へと入れた。

台所を見れば春香が暗い顔のまま食材を切っている。一度何か手伝うことは無いかと身振り手振りで伝えたのだが、やんわりと断られてしまった。僕に遠慮したというよりは料理スキル皆無の僕に指示するのが億劫だったように思える。

明らかに先程までの春香と様子が違う。さっきまでは作り物であったけど笑えていた。引き攣った笑みであっても明るい天海春香を演じられていた。絶望していても天海春香だった。今はそれが一切できていない。

それは凛に言われたことがショックだったからか。自分のリーダーの資質に疑問を持ってしまったからか。

リーダーを任された春香の重圧を推し測ることは僕にはできにない。春香に圧し掛かるリーダーの重圧とは765プロがこれまで積み重ねて来たものに等しいからだ。765プロと無関係でそもそもアイドルですらない僕には想像すらできなかった。

一人黙々と料理を続ける春香を僕はただ見ることすらできない。気休めの言葉一つ掛けてあげられない。

ついさっきまで他人事を決め込み、春香が凛に責められても傍観に徹していた僕が今更何をって感じだが、今の春香を放っておくのは何となく躊躇われた。

今の春香は迷子の子供の様だ。自分の進むべき道どころか今どこに立っているのかすらわかっていない。

何を言えばいいのか適切な言葉を探してみるも、春香の料理が終わっても答えなんて出なかった。

 

料理を食べ始めても僕たちの間に会話は無かった。会話をしても春香が一方的に話すだけになるから意味ないけど。愚痴を聞くくらいはできる。

 

「……」

「……」

 

……何も言わないならそれでもいいけど。他人の僕が首を突っ込んでいい話でもないだろうし。でも何か今の春香は気になるんだよね。

言葉にできない既視感と焦燥感を覚える。何でだろう?

気にしても無駄だから今は料理を食べよう。優にご飯食べるように言われてるしね。

春香が作ってくれたのはパスタだった。簡単ながら奥深い料理だと思う。固めにゆでられた面と手作りのソースが良い感じだ。僕の好みぴったし。これなら空腹じゃなくてもお腹に入るよ。

思わずいつもの癖でコツコツとテーブルを叩いてしまい春香に不思議そうな顔をされてしまう。慌てて何でもないと首を振った。

だがそれは良い感じに話を始めるきっかけになったようだ。

 

「今日は弟さん……優君に言われて来たんだ」

 

優に言われて?

やはり春香と優は……くっ、可愛い弟が世の春香ファンに毎日命を狙われる!?

 

「私が千早ちゃんに会いに行った時に家に優君が居て、千早ちゃんがこっちに一人で住んでるって教えて貰ったんだよ」

 

あ、ふーん。本当に僕に会いに来たんだ。何で? もっと意味わかんない。

 

「その時優君から千早ちゃんが悩んでいるって聞いて、だったら今度は私が千早ちゃんを励まそうって思ったの」

 

会いに来た理由は教えないのか。

あと二年も前に会ったっきりの相手のために、わざわざ励ましに来てくれるなんてどれだけお人好しなんだ。

少し行き過ぎじゃないかと思う。765プロの仲間相手ならともかく、僕みたいな部外者相手にそこまで気を遣う必要はないだろうに。

 

「でね、実際に会ってみたら……」

 

予想以上にヤバイって思ったんだね。わかるわー。

二年ぶりに会った知り合いが引きニートになってる上に言葉が話せなくなっているとか、悲惨過ぎて何も言えないだろうよ。

普通の人間だったらその時点で回れ右して帰っている。大して仲良くもない相手のここまで重い話を前に関わろうとした春香が特殊なのだ。

だが僕は天海春香という少女を少し甘く見ていたらしい。だから続く言葉に絶句することになる。

 

「ごめんなさい。二年間も気付いてあげられなくて……」

 

何故かごめんなさいと謝られた。

これには僕も混乱せざるを得ない。この少女は一体全体何に謝っていると言うのだろうか。

僕と春香の関係なんて、あの日少し話しただけのものだろうに。その相手がその後どうなろうが春香にとっては他人事だろ。どうして関わろうとする。そこまで春香を駆り立てる物とは何だ。

 

「今更だけど、二年も見ないふりをした私が何をって思うかも知れないけど、私は千早ちゃんを助けたい」

 

助けたい。……助けたい?

それこそ何でだと問いたい。助けるとは何だ。この状況から何を助けると言うんだ。

声が出るようにしてくれるとでも言うのだろうか。

無理だよ。これは春香がどうにかできる問題じゃないんだ。こんな状況になってしまった時点で終わってるんだ。

出会ったことが間違いだった。出会ったことが勘違いだと思って忘れてくれればいい。如月千早なんていなかったって、そうやって僕を記憶から消して欲しい。

 

「私はあの日千早ちゃんと出会えてよかったって思ってる」

 

それは春香が誰にも語ったことが無い、誰も知らない天海春香の物語だった。

 

「実は私ね、アイドルを目指すのはあのオーディションで最後にしようって思ってたんだ。今の私を知ってる人はたぶん信じてくれないだろうけど、あの時の私って結構ネガティブになっちゃってて、もういいかなーなんて……我ながら自分らしくないことを考えていたんだよね」

 

二年前のオーディションの日に春香がそんな気持ちで居たなんて知らなかった。アイドルに向いていないんじゃないかとネガティブなことを言ってはいたけれど、それが「これが最後」と思うまでのものだとは思っていなかった。僕は春香の問題を軽く考えていた。

 

「765プロのオーディションもどうせ落ちるんだろうなって思って、勝手に決めた”ここまで”が本当になっちゃうんじゃないかって考えたら逃げちゃいそうになって。……でもその時千早ちゃんが声を掛けてくれたから私はあそこに残れた。最初は同じオーディションを受けるライバルなんだって身構えちゃってたけど、千早ちゃんの方はそんな風に私を見てなくて、何だか同じアイドルって仲間を見るような目で見ていてくれたよね。……嬉しかったなぁ」

 

それはそうだろう。僕には原作知識として天海春香は千早と一緒に765プロでアイドルをやると知っていたから、そこにライバルという感情が芽生えるはずがなかった。ある意味僕の思い込みでしかなかったのに、その態度は春香を勇気づける一助になったらしい。

 

「千早ちゃんがアイドルを目指した理由とか、アイドルになったらやりたいこととか、そういう前向きな話を聞かせてくれた時に思ったんだ。私がアイドルになりたいって思った理由。眩しいステージと一杯の声援、大勢のファンの人が声援を送ってくれて、そこで輝く私を想像して……ああ、やっぱり私はアイドルになりたいんだって思い直したんだよ」

 

それ僕が一方的に野望を語って聞かせちゃった黒歴史なんですけど。捕らぬ狸の何とやらをリアルでやった奴でしかないんだけど。何でか春香の中では良い記憶に変換されていたらしい。

 

「だから今度は私が千早ちゃんを助けたいって思ったんだ。私が助けられたように、今度は私が千早ちゃんが考える”ここまで”から引っ張りたいの」

 

”ここまで”。

それは果たして僕にとってどこのラインを指しているのだろうか。春香に言われて改めて考えてみる。

そして結論を出す。僕にとっての”ここまで”はたぶん765プロのオーディションに落ちたことだ。それは春香が言っていた”ここまで”と状況だけ見れば一緒と言える。

しかし春香の”ここまで”と765プロに落ちるかどうかは関係ない。分水嶺であっても目標ではない。春香はあくまでアイドルを目指していたのだから。その手段として765プロのオーディションを受けた。それだけだ。

対して僕の”ここまで”は765プロのアイドルになれるかどうかだった。他のアイドルからすれば異端とも言える思考だろう。アイドルになることは二の次なのだから。

同じラインでも決定的なまでに僕と春香は違った。きっと春香ならばどの事務所でも天海春香になれた。彼女の輝きは事務所の違いで変わる程小さくない。僕はそう思っている。

でも僕は駄目だ。僕の目標は『765プロ所属の千早』になることだった。如月千早()を千早にすることだった。そのためには絶対に765プロに入らなければならかった。

だから落ちた時点では僕は”ここまで”と諦めたのだ。諦めてしまえたのだ。驚くくらいアイドルに未練が湧かなかったから。

アイドルになることに意味がないから。

……ああ、そうか。そうだった。何となく気付いてしまった。そうか、僕の中にあった違和感はこれか。

僕はずっとなりたかったんだ。成り代わりたかったんだ。

 

僕は千早になりたかった。

 

それが僕を転生させた神との契約だったから。

そのために優を見捨てようとした。千早の弟は死んでいるからという理由で一度は見捨てかけた。千早になるために優が死ぬ必要があったから。

それと同じ思考で僕は765プロのアイドルを目指した。それだけだった。僕の中にあるアイドルへの思いなんて最初から一欠けらも存在しなかったんだ。

やっぱり無理だよ春香……。貴女では僕を救えない。

僕がアイドルに挫折しているなら、また目指すことで救われることはあっただろう。春香の輝きで照らしてくれたら、アイドルをもう一度目指す未来もあった。それだけ天海春香の光は強い。

でもそれは無理だ。これはそうじゃない。

他人に成ることに挫折した人間の救い方なんて存在しない。

千早になれないならば、他の何かになればいいなんて話にはならないから。僕は如月千早だから、千早以外を目指す意味がない。

だから無理だ。

 

「ダメ、かな……? 私じゃ千早ちゃんを助けられないかな?」

 

僕は何も答えない。言葉が出ない云々ではなく、春香に返すべき言葉が思い浮かばない。

もはや春香の顔を見ることすらできない。申しわけ無さと情けなさで春香を直視できない。言葉で拒絶ができない僕は顔を伏せて意思を示すしかない。

しばらく無言の時間が続いた。

 

 

 

 

「やっぱり、私じゃ無理かぁ」

 

 

 

 

やがて春香の口から漏れ出たのは、諦めとも嘆きともとれる言葉だった。

その声に違和感を覚える。春香の声に張りが感じられない。あのいつでも明るい、悪く言えば少々抜けているような声が無くなり、代わりに擦れたような低い声になっている。

春香の声に含まれる感情が読み取れなかった。僕は気になって思わず顔を上げてしまう。

そして絶句した。

 

「私は何もできないのかな」

 

笑おうとして失敗したような、泣きそうになりながら何故自分が泣きそうなのか理解できていない、そんな顔が春香の顔に貼り付いていた。

 

「今度765プロの皆でライブするんだ……アリーナライブ」

 

表情を変えずに春香が語り始めた。

 

「大きなライブになるからって、試しにリーダーを決めることになってプロデューサーさんが私にリーダーをやらないかって言ってくれたんだ。最初は驚いたけど、せっかくプロデューサーさんが勧めてくれて、皆も良いって言ってくれて、だからやってみようって思ったの」

 

春香がリーダーになったのはプロデューサーに言われてだそうだ。その時の実力や人間関係を考慮しての春香だったのだろうけど、今の春香を見る限りその選択は間違いだったのではないかと思えた。

 

「それでね、今回スクールの子達もバックダンサーとして参加することになって。……皆良い子達なんだ。その中に可奈ちゃんって子が居てね……私のことを憧れだって言ってくれた。765プロでも私が一番ダメダメなのにね。その可奈ちゃんが、この間のミニライブでちょっと失敗しちゃって……そのことで他の子達と揉めちゃって、それ以来レッスンに来なくなって……」

 

あのミニライブでの出来事か。可奈って子はあの事故以来レッスンをサボって、いや来づらくなったのか。

可奈の気持ちは分からなくもない。憧れの先輩とのライブで失敗したというのは辛いだろう。

だがそういう”失敗”をして来なかった僕は何も言うことがなかった。

 

「私じゃなくても良かったかなって。おかしいよね。最初はプロデューサーさんにリーダーを任されて嬉しいと思ったのに。やる気だって十分で、また皆とライブができるって喜んだのに。皆と一緒にライブで輝きたい。皆と一緒が良い。そういう私の考えで可奈ちゃんを引き留めた。その所為で皆の練習が遅れちゃうってわかっていたのに。私は自分の我儘を優先させた。私にリーダーを勧めてくれたプロデューサーさん。それに賛成してくれた皆。付いて来てくれたバックダンサーの子達。皆の期待が私に集まっているって思って、絶対にライブを成功させるんだって……皆と一緒に、やるんだって。でも……私がやったことは可奈ちゃんを引き留めたことだけ。その間の皆のケアとか凛に言われるまで何にも考えてなかった。ダメだよね、こんなのがリーダーやるなんて。私以外の皆ならもっと上手くできたのかなって考えちゃう」

 

僕は何も言わない。

 

「伊織はしっかりしてる。やよいは優しい。雪歩は気配りができる。真はかっこいい。あずささんは大人。美紀はキラキラしてる。響ちゃんは実は努力家。貴音さんは不思議な雰囲気が魅力。亜美と真美はいつも元気。そして凛は誰よりも才能がある。皆実力も実績もある。でも私には何も無い。何も無かったんだよ……」

 

皆の良いところを挙げながら春香の声のトーンが段々と落ちて行く。きっと彼女達の良いところは同時に春香にとって見たくない自分の欠点らしい。嫉妬、とは少し違うのだろうけど。

 

「さっき会った凛はね、最初から凄い子だったんだよ。765プロに入った頃はまだ中学に入りたてくらいなのにしっかりしてて、歌も踊りもすぐ覚えちゃって、天才だって言われてた。竜宮小町よりもちゃんとしたデビューは早かったんだよ。765プロでも一番に売れてそれからずっと一番なんだから」

 

今更765プロに知らない人間が居るくらいじゃ驚かないけど、僕の代わりに存在する人間をそこまで褒められるとちょっとヘコむ。いやかなりヘコむ。ボコボコである。

しかしそれ以上に今の春香が傷付いているように見えた。だから僕は何も言わない。

 

「その凛に言わるまで私はダンサーの子達が悩んでいることに気が付かなかった。皆でって思っていた私が一番皆のことを考えてなかったんだなって気づいた。リーダーは私じゃなくても良かったんだよ」

 

僕は何も言わない。

 

「私は何をしていたのかな」

 

僕は何も言わない。

 

「私はどうすればよかったのかな」

 

僕は何も言わない。

言えない。

何も言ってあげられない。こんな状態の春香に何も言ってあげられない。

何をしていた765プロの連中は。プロデューサーはどうした。律子は。この状態の春香にリーダーを任せていたのか!?

一瞬、765プロへの怒りが湧き上がる。が、それは見当違いなものであると理性が激情を抑え込んだ。僕に彼らを責める権利はない。

僕も気付いてやるべきだった。だって僕は原作を知っているのだから。春香のこの状況を僕は知っていた。だから本来春香に再会した時に気付けたはずだった。

ずっと春香は苦しそうにしていた。記憶の中に残る、あの輝かんばかりの笑顔は陰りを見せていたのに。

でもそれを気のせいだと思ってしまった。だってこんなの知らないから。終わったはずだったから。春香のこれはもう終わっていて、その後のライブも成功していて、その先のお話が今なんじゃないのか。それなのに何で今春香は苦しんでいるんだ。

だって、これは、この春香の顔はあり得ないはずなのに。

その顔をする人間は泣いてなければいけない。そんな絶望的な表情を浮かべるならば泣いて叫ばなければならない。決して笑おうなどと”努力”する場面じゃない。

春香の心と表情が解離してしまっている。

僕はこの状態の春香を知っていた。

アニメ版最後を締めくくるライブ回……その前に起きた精神的に追い込まれた春香が壊れる事件。いわゆる闇落ち回だ。その時に追い詰められた春香が見せた表情こそ、今彼女が浮かべているものだった。

春香の問題はアニメ版で終わっているはずだと何度も自分に言い聞かせる。だがずっと泣き笑いの様な顔で語り続ける春香の姿が終わっていないと僕に告げている。背中を嫌な汗が流れる。あり得ない。

アレはたぶん去年とか、それくらいに終わっているイベントじゃないのか?

何で今更発生しているんだよ。

 

「私は……どうしたかったんだっけ?」

 

自問する様な春香の言葉を聞き、僕はようやく自分の思い違いを認めることにした。そのフレーズが春香から出てしまった意味を知っているから。

春香はずっとリーダーを続けられるか悩んでいたんじゃない。そんな今回限りの一過性の問題に悩んでいたのではなかった。

それは想像以上に深刻な問題だった。僕が最初思っていた、これまで成功してきたのだから一回くらい失敗してもいいんじゃないかという突き放した考えは見当違いなものだった。

そんな生易しい問題ではなかったのだ。春香が抱えていた闇は天海春香の根底を揺るがす程の重いものだった。アニメと同じどころではない。それよりも状況が悪化している。アニメの問題と今の問題が同時に春香を蝕んでいる。

春香の問題は何も解決していなかった。

 

「私はどうしたかったのかな……わからないよ」

 

そこでようやく春香の目から涙が零れ始めた。ずっと我慢して居たものが決壊したように泣いていた。

 

「もう、わからないよ」

 

わからないと繰り返しながら、はらはらと涙を流し続ける春香に掛ける言葉が思い浮かばなかった。

 

 

 

 

 

「ある時にね、ふと思っちゃったんだ。私が目指したアイドルって何だったのかなって」

 

一頻り泣いた後、春香は再び話し始めた。それは僕に聞かせるためというよりも、自己確認にも似た独り言に近い。

僕は黙ってそれを聞くだけだ。

 

春香はずっと悩んでいた。

自分が目指すアイドルとは何なのか。

それまで凛と竜宮小町を中心に仕事を回していた765プロは昨年のニューイヤーライブ以降他のメンバーにもれぞれ仕事が舞い込むようになった。しかし同時にメンバー全体での仕事は目に見えて減って行った。

今回のアリーナライブをやるにあたり、合同で練習がとれる時間と言うのは限られている。合間にミニライブを挟んだのはライブを使った練習という意味もあったらしい。

本来ミニライブであろうとも練習というものは必要だ。だが今回765プロはそれを練習の場に使用した。その結果があの事故の直接の原因とは限らないけど、あんな不安そうな表情をしていた理由は理解できた。

それ以上にファンに対する誠実さはどこへ行ったのか。ミニライブであってもファンはそれを目的にわざわざ来てくれている。どれだけ小さいステージでも、自分たちを見に来てくれたファンに練習を見せるのは違うんじゃないか。

それこそプロデューサー達の考えなんて理解できない僕が言えた義理じゃないが。でも結果として可奈の長期離脱を招いたことには違いがない。結果は結果、この件の責任はプロデューサー側にある。

だから自分を責める必要なんてない。そう春香に言ってやりたかった。

今更春香に何を言えたというのだろうか。慰めのつもりだろうか。本当、未だにこんな感情が自分の中に残っていたことに驚いた。僕は今でも春香を気に掛けているらしい。驚愕だよ。

 

「誰にも相談できずに一人で考えた。考えて考えて、考え続けて、それでも答えが出なくて。何となく皆と一緒にライブをすることが楽しいのかなって無理やり納得させて来たんだ」

 

アニメで春香が辿り着く答え。”皆で楽しく”、それがアイドル天海春香の根幹となるものだ。

確か、春香がアイドルを目指した理由って歌のお姉さんに憧れたからだっけ。アニメでは語られてないけど、ゲームのイベントでそんな話があった気がする。

皆と一緒にライブをすることが楽しいって気付いたのに、春香はその答えで天海春香を取り戻せなかった。

原作との解離がこんなところで起きているなんて。しかも最悪のタイミングで発生している。

アニメの天海春香の闇は自分で答えを得て乗り越えたものだ。765プロは最後の一押しをしたに過ぎない。でも、その一押しがあったからこそ春香は仲間との絆を確信できたのだ。

 

「でもね、私のこの想いは皆と一緒なのかなって思ったらまた怖くなっちゃった。皆それぞれ仕事を貰って、どんどん一緒の時間が減って。でもそれで良いんじゃないかって。皆が頑張っている姿を見て思ったんだ。皆がそれでいいなら私もそれでいいやって。だから私も頑張ろう。皆みたいに頑張ろう。一人でも頑張ろう。お仕事だって、リーダーの仕事だって。頑張れば……頑張ったら、また皆と一緒に……」

 

仲間が自分と同じ気持ちなのか、その確信が得られなかった。その所為で春香は一度得た答えを自分のエゴではないかと思ってしまった。

原作を知っている僕はそれが春香の思い違いだと知っている。ちゃんと765プロのメンバーは春香と同じ気持ちだと知っている。

知っているのに、僕にはそれを伝える術がない。原作知識という僕だけが知る”真実”は誰とも共有できるものではないからだ。

 

「皆と一緒に、そうすれば私の悩みも晴れるんじゃないかって思ったんだ……でも、それって最初から無理だったんだよね」

 

春香はまっすぐに僕を見ている。

その目の奥にあるのは後悔か絶望かはわからない。あんなに輝いていたであろう春香の瞳は暗く濁っており、その底にある何かを覆い隠していた。

そんな暗い目をした春香がじっと僕を見続ける。

 

「だって居ないんだから」

「────っ」

 

ああ、春香……。

貴女は、まさか……。

いや、そんな馬鹿な話があるはずがない。あってはいけないだろう。いくら春香でも、あの天海春香でも、そんなちっぽけな理由が根本の原因なんて、そんな話はないだろ。

必死で願う。頼むからそうであってくれるなと。春香が悩む原因が”それ”ではないのだと。この時ばかりは役に立たない神に本気で祈った。

しかし、その願いが聞き入れられることはない。

だって、

 

「千早ちゃんが765プロに居ないんだから」

 

春香にとって僕も”皆”の中の一人だったから……。

 

何て残酷な話だろうか。

天海春香という名のアイドルは始まった瞬間から破綻していたのだ。

あの日、別れ際に交わした今度会う時はお互いにアイドルとして会おうという約束。僕にとっては確定した未来の話を語っただけの、約束とも呼べないただの言葉を春香は覚えていてくれた。

事務所でアイドルとして再会するという約束を覚えていてくれた。

僕を覚えていてくれた。

たった一度会っただけの如月千早を覚えていてくれた。その事実は何も身構えていない僕の心を見事に抉った。

春香、その言葉は僕にとって致命的に効くよ。僕が一番思っていたことだから。この二年間毎日思っていたもしもだったから。

千早が居た世界を知っている僕からすれば、今の世界はとても歪んでいると言える。765プロに僕は居らず、代わりに凛という少女が存在する。

その違和感をこの世界で僕だけが知覚し続けるストレスは誰にも理解できない。僕が居ないことが当たり前のこの世界では僕こそ異端だ。だから僕だけが違和感に苛まれていると思っていた。

それを春香も感じていたというのは僕の心を大いに乱すことになった。

ずっと僕だけだと思っていた。765プロに千早がいないことを良しとしない人間は僕しかいないと思っていた。

両親は「一つ落ちたくらいで何だ。落ちたのなら違う事務所を受ければいい」なんて言って来た。でも僕はそれでは意味がないと拒絶した。

周りからすれば僕の765プロへの執着は異常に見えただろう。弱小どころかできたばかりの何の実績も無い、ビルの一室に小さく存在するプロダクションに拘る理由は無い。

でも僕は千早になりたかったから765プロ以外の自分を許容できなかった。

そんな僕の拘りは僕だけで完結していると思った。だから諦められた。僕が諦めさえすればこの違和感を忘れられると思ったから。

春香が忘れていないなんて思わなかったんだ。

 

「千早ちゃんと一緒だったら、私は今も天海春香でいられたのかな?」

 

春香の語るもしもに僕は答えることはできない。

挫折する前の僕が考えていた如月千早の成功には原作で起きた鬱イベントの回避というのはあった。その中に春香の闇を早めに取り払うというのはあった。

だけど当時の僕に本当の意味で春香の悩みを理解し、解消することができたか今となってはわからない。

あのまま765プロに入っていたら、僕は絶対に増長し全てが思い通りになると思い込み、一人で突き進んでいただろうから。その時原作知識があっても春香の闇に気付けたかはわからない。

 

「ねえ、千早ちゃん……」

 

何か言わなくては。

何でもいい。天海春香が終わる前に何か伝えなくては。

何でもいいから。一言でいいから声を出せ。

 

「千早ちゃん……」

 

声を出せ。

 

「お願いだよ。何か言ってよ……」

 

出せ。

出せ。

出せ。出せ。出せ!

今出さなくていつ出すんだよ!

今なんだ。今ここで伝えないと春香はきっと救えない。

僕が居ないことで春香が答えを得るチャンスを失った事実は何をしても戻ることはない。

それでも!

最後の一歩を引き留めることだけは僕がしなくちゃいけない。

だから出ろ。

頼むから……!

 

「助けて」

 

春香が助けを求める様に僕へと手を伸ばす。

僕はその手を──、

 

 

……。

 

 

パタリ、と目の前で閉じる扉を玄関から無言で見送る。

春香は部屋を出て行った。

限界だった。その場に座り込む。足に力が入らない。

春香はこれから765プロに行ってプロデューサーにリーダーを降りることを伝えると言っていた。たぶん春香の様子からして辞めるのはリーダーの仕事だけではないだろう。

原作通りならアイドルの仕事すら放りだしかねない。……今更原作も何もあったものじゃないが、春香の様子を見たら外れてはいないだろう。

さすがにアイドル自体を辞めることはないと信じたい。それでも今回のアリーナライブはめちゃくちゃになるのは確実だった。

 

「……」

 

結局僕は何も言えなかった。

縋る目で僕を見る春香に僕は応えることができなかった。

一言で良かったはずだ。その一言さえあれば、春香を救えたかもしれないのに……!

僕の喉は慰めの言葉も励ましの言葉も紡ぐことができなかった。

何もできなかった。

僕はまた何もできなかった。

何も。

何も。

何も。

「大丈夫」のたった一言すら言えないのか。

何だこの生き物は。少女一人救えない屑が。 こんな奴がのうのうと生きているなんて、馬鹿な話があるか。

こんな欠陥品が人間のふりして生きている。気持ち悪い。

春香は何でこんなのに助けなんて求めたんだ。

もっと居るだろう。苦楽を共にした765プロの仲間が。信頼できるプロデューサーが。何故選りにもよって僕を選んだ?

たった一度会っただけの相手だ。何となく約束を交わしただけの、赤の他人と言っても良いくらい遠い存在だろ。

僕の何にそこまで拘ったんだよ。

春香の求める答えなんて僕にあるわけないじゃないか。だって僕には何もないんだから。積み上げた実績も、輝かしい地位も、仲間も、友達も、何も無い。

何も。

何も。

何も。

何も言えない。

何で僕は何も言えないんだ。

 

「────」

 

こんなもの。

 

「────」

 

こんな……。こんな壊れた部品は要らない。

 

「────」

 

拳を握る。

この身を焼く怒りと絶望を込める。

少しでも威力を高めるように。

 

「────」

 

春香の期待を裏切った僕にはこれくらいしかできないから。

 

「────」

 

一気に”部品”へと叩きつけた。

 

「──っ!」

 

衝撃とともに呼吸が止まり口から息が漏れ出す。

呻き声一つ出ないなんて。ここまでして声が出ないなんて本当にゴミだな。こんな物が自分の一部であることが許せない。

一撃で足りなけばもう一度だ。

先程と同じように拳を叩きつける。

 

「──っ!」

 

二回目も声は出ない。音もなく空気が漏れ出るだけだ。

 

「──!」

 

三回目。出ない。

 

「──っ!」

 

四回。出ない。

 

「──っ!」

 

五回。六回。七回。

何度も何度も殴り続ける。

それでも声は出ない。悲鳴一つ出ない。

本当にポンコツな喉だな。これだけ殴っているんだからそろそろ何か叫べよ。

 

その苛立ちすら込めるように僕は自らの喉を殴り続ける。

 

何回殴っても出るのは空気と途中から出始めた血だけだ。

何回目かに口の中を切ったのか咥内が鉄の味で満たされる。それ以上に喉からも出血しているらしい。さっきから喉を流れるどろりとした感触が不快だった。

でも止めるわけにはいかない。これくらいやらなければ終われない。

”如月千早”というチート能力は死ぬ気でなければ終わらせられない。

殴って殴って殴り続ければいつか終わるのだろう。終わらせられるのだろうか。

終われ。

殴る。

終われ。

殴る。

終われ。

殴る。

終われ。

 

殴る。殴る。

 

殴る。殴る。殴る。

 

殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。

 

殴っても殴っても殴っても殴っても声は出ない。

声がでないならせめて終わってくれ。

誰かこの如月千早(地獄)を終わらせてくれ。

 

「ーーちゃん!」

 

あと何回壊せば、僕は戻れるのだろうか。

 

「お姉ちゃん!」

 

あと何回死ねば。

 

「お姉ちゃん!」

 

パシンと頬に軽い衝撃が走った。

それは喉を焼く傷の痛みとは違い、今の僕にはさしたるダメージも与えない程に弱い一撃だ。でも意識を外側へと戻すには十分だった。

だって、その痛みは優が与えたものだから。

 

「何、してるのさ……!」

 

目の前に優が居る。

拳を握った僕の腕にしがみ付いて、泣いている優が居る。

何で優が……?

 

「なんで、こんな……何で!?」

 

優はこれまで見たことがないくらい怒っていた。僕を睨み、目に涙を一杯に溜めている。

あ……。

怒られた。

嫌われた?

誰に?

優に怒られた。

あ……あ、ああ!?

怒られた。優に怒られた。怒られてしまった。優に。

ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。

慌てて優へと頭を下げる。床に頭を打つける勢いで何度も下げ続ける。

理由はわからないけれど、僕は優に怒られることをしてしまったらしい。

とにかく謝らないと。

許して貰わないと。

そうしないと優に嫌われてしまう。また失ってしまう。

嫌だ。優に嫌われるのだけは嫌だ。優だけには嫌だ。優だけしかもう僕には無いんだ。

だから許して。謝るから。許してお願いだから。お願いします。何でもするから。

死ぬから。優が言うなら死んでみせてもいいから。だから──、

 

「理由もわからないまま謝らないでよ!」

「っ!?」

「こんな……こんなに血を出して、怪我して、辛そうなのに、そんな態度おかしいでしょ!」

 

おかしい?

優におかしいと言われた。

でも、こうしないといけないから。おかしいかも知れないけど、必要なことなんだよ?

こうやって壊さないと。壊して直せば元通りになるし。なるはずだよね?

だって僕は如月千早だから。

優にとって何か不快にになることがあるみたいだけど、もうすぐ終われるから。もう少しだけ待ってて。

拳を握る。

 

「駄目だよ!」

 

しかし優が腕に抱き付いてくる。これでは殴れない。下手に殴ると優が怪我をしてしまう。

ふるふると腕を振って離すように伝えても優はお返しとばかりに勢いよく首を振るだけで離そうとしてくれない。

なんで邪魔をするのかな。

壊さないといけないのに。終わらせないといけないのに。

 

「やめてよ」

 

離して欲しいのだけど。

 

「やめてよ! もうやめてったら! 止めて、どうして!」

 

優が泣いている。何度もどうしてと繰り返しながら泣き叫ぶ。

ごめんね、優が何で泣くのか僕にはわからないんだ。

 

「どうして自分を傷付けるのさ!? 」

 

だって僕は欠陥品だから。

だから終わらせないといけないんだ。終わればきっと次があって、次の人生ではもっと上手くできるから。きっと次の人生なら。

だからね、優。

死なせてよ。

 

「嫌だ!」

「っ!?」

 

力任せな優の手によって押し倒される。床に背中をぶつたけど不思議と痛みは感じなかった。

優の顔を見る。目の前に泣いてる優の顔があった。どうして泣いているのだろう。

優だってこんな姉邪魔でしょ。僕じゃなくて千早が良かったはずだよ。トップアイドルの千早が良かったに決まってる。

それが居なくなるんだから喜んでいいじゃないかな?

 

「僕はお姉ちゃんが死んじゃうのは嫌だ」

 

どうしてさ。

欠陥品だよ。

 

「僕はお姉ちゃんを要らないなんて思ったことない」

 

歌えないし踊れないし笑えないんだよ。

 

「どんなお姉ちゃんでもお姉ちゃんだよ」

 

初めて作ってくれた手料理に美味しいって言ってあげられないんだよ。

 

「何も言ってくれなくても、ずっと僕に伝えようとしてくれたじゃないか。ずっとお姉ちゃんは僕に伝えてくれていたから」

 

千早になれなかったのに。

 

「僕のお姉ちゃんはお姉ちゃんだけだよ。如月優の姉は如月千早だけなんだ」

 

アイドルじゃないのに……。アイドルになれなかったのに。優が頑張れって言ってくれたアイドルになれなかったのに。

 

「お姉ちゃんの絶望を僕は知らない。それがアイドルになれなかったことを悔やんでいるんじゃないってことは知ってた。でも、僕にとってお姉ちゃんがなろうとしてた何かは重要じゃないんだ。お姉ちゃんにとってそれがどれだけ大切だったかわからないけど! 僕はいつだって、僕に聴かせてくれるお姉ちゃんの歌が好きだったんだから!」

 

思い出した。

あの日あの時、僕は優に言ってしまったのだ。絶対に言ってはいけない言葉を言ったのだ。

感情の赴くままに。隠すことない憎悪を見せて。

優はただ僕に歌を聴かせてくれと言っただけなのに。一言も「アイドルになれ」なんて言ってなかったのに。

「お前なんて助けなければ良かった」って言ったんだった。

理不尽な怒りに曝された優はどんな顔をしていただろうか。泣いたかも知れない。怒ったかも知れない。

でもその時僕は気付いてしまった。優のことを僕に唯一残された「千早が手に入れられなかったモノ」として見ていたことに。まるで優を”賞品”か何かのように思っていた自分を自覚した。

その瞬間の僕の感情を正確に名付けることはできない。しかしこの感情を仮に絶望と言うならば確かに絶望だった。僕が望んだ未来、如月千早が望んだ幸せな未来が絶たれたと本当の意味で知ったから。

その時から僕は声が出なくなっていた。最後に残った千早としての僕が抜け落ちてしまったから。

優に酷い言葉を浴びせ掛け、優を否定した自分を無かったことにしたくて。そうすれば放った言葉が無かったことになると思って声を封じた。優への贖罪とこれ以上嫌われないために何も言わないことを選んだ。

それ以来僕は優に嫌われることを恐れた。これ以上嫌われたくなかった。最低よりも少しだけ上であればよかった。

 

「お姉ちゃんが苦しむ姿を見たくないよ」

 

どうして優は僕の傍に居てくれるのだろう。あんな酷い言葉を言ったのに。優の信頼を裏切ったのに。何で貴方は僕の傍に居てくれるの?

優の涙に濡れた瞳を見ながら何かを期待してしまう。それが叶ったのならば自分は変われる気がした。しかしそれが何か言葉にできない。

答えの得られないもどかしさに脳が熱くなる。必死で考えても僕の心を満たす答えは見つからない。

僕では答えを見つけられない。

 

「僕はお姉ちゃんには幸せになって欲しい」

 

どうしてそんな優しさを向けてくれるの。

だって、優は。

 

「だって僕はお姉ちゃんが大好きだから」

 

 

あ──、あ──、

 

 

「ぁ……ぁあ」

 

溢れ出す涙に合わせ喉が震えだす。

視界は滲み喉の痛みを感じ始めた。

体が熱くなる。心が動き出す。

”如月千早”が戻って来る。

 

「あ、う……うぅ」

 

痛みよりも喉の苦しさよりも、それらを感じる自分に戸惑いを覚えて震えた。

今更人間らしい感覚を思い出しても仕方ないのに。

こんなにも欠陥だらけのガラクタなのに。

それでも、優は僕を好きだと言ってくれた。

 

「う、う……う」

 

縋る様に手を伸ばす。

あの日優を初めて見た時の焼き回しみたいだ。

触れることすら躊躇われるくらい尊い物に自分みたいなモノが触れる資格があるのか。

その考えすらあの日と一緒だった。

己が手を見れば吐血により手は赤く染まっていた。柔らかい喉相手でも力を込めすぎたからか殴った手も傷付いていた。指の付け根の皮膚は破れて出血しているし、指も何本か折れている。

こんな汚れて壊れた手で触れていい存在じゃない。

そう思い手を引っ込めようとすると、その手を優は逆に掴んできた。いや、掴むと言うよりも両手で包み込むように触れたと言うべきか。

 

「あ……」

 

その手の温かさに声が出る。

本当なら優の手を僕の血で汚さないために振り払うべきだ。でも何故かそれができない。優の手の温もりから逃げられない。

 

「お姉ちゃんの手は汚くない」

 

優しい、それでいてしっかりとこちらへ言い聞かせようとする声で優が言う。

僕の手を。血と傷で汚れた、欠陥品の、屑の、手なのに……。

 

「僕はお姉ちゃんが好きだ。だから、そのお姉ちゃんの手が汚いなんて思うわけがない。どんなに傷付いていても、血が流れていても、お姉ちゃんの手は汚くなんてない」

「あ……あ、あ」

 

涙が止まらない。

我慢しようとしても止まらない。一度流れ始めた涙が空いた方の手で拭っても後から後から溢れて来る。

もう、限界だった。

 

「も…………いや、なんだ……」

 

久しぶりに聞いた千早(自分)の声は、思った以上に酷いものだった。

長い間使われていなかった声帯はへたっている上に先程の行為によりズタズタに切れている。

それでも微かに、息が漏れる程度であっても声が出た。

 

「おねえちゃ……今、声が」

 

優が涙を散らせる勢いで目を見開き僕を見る。

声が、出た。

ようやく、と言えばいいのか。

今更、と言えばいいのか。

 

「ゆ、う……」

「お姉ちゃん……」

「も、う……いや、なんだ」

 

さっきよりもしっかりとした声が出た。

この瞬間にも僕の喉と手の傷は治り始めている。殴打の痕もないし咥内の傷もほとんど消え失せている。

 

「いや、だ」

「お姉ちゃん、言って。何が嫌か。何を怖がって、何に後悔しているのか、全部言って。僕は全部聞くから」

 

治った僕の手を握りながら優が言う。全部聞いてくれると。僕の中にずっとあった後悔と絶望を。優が聞いてくれる。

ずっと言いたかったこと。

ずっと嫌だったこと。

それを僕は吐き出した。

 

「ほんとうは……ひとり、ぐらしなんて嫌だった。みんなと一緒に…いた、いたかった」

 

勧められるままに一人暮らしを始めた僕。最初は親に見捨てられたのかなって思ってたけど、親も僕との距離の取り方がわからなかったのだろう。他人が近づくだけ僕は不安定になっていたから。昔の自分との違いを知られるのが怖かった。

それでもやっぱり僕は家族と居たかった。

 

「キョウとも……離れたくなかった。あんな終わり方。嫌だった」

 

キョウとリアルで会ってお互いの身の上話とかして、ゲームみたいな馬鹿なやり取りをリアルでもやりたかった。結局僕がキョウの成長を受け入れられなかった所為で終わってしまったけれど。

やっぱり僕はキョウとは本当の友達になりたかった。

 

「春香にも、もっと真っすぐに向き合いたかった」

 

春香が僕を覚えていてくれた。

嬉しくて、同時に情けなくて、でもどこか誇らしく思えた。

春香の縋る手を優が僕にしてくれたように掴みたかった。

声が出ないことを言い訳にして、たったそれだけのことすら放棄した僕に春香に覚えていてもらう権利なんてないのかも知れない。

でもやっぱり僕は春香を助けたかった。

 

「嫌だ……!」

 

もう嫌だ。もう嫌われるのは嫌だ。距離を置かれるのは嫌だ。忘れられるのは嫌だ。

そして何よりも──、

 

「もう失うのは嫌だああああああ!」

 

心からの叫びが喉から迸る。

ずっと、ずっと抱えて来た感情が爆発した。

 

「嫌だ! もう失いたくない! 嫌だ嫌だ嫌だ!」

 

駄々っ子みたいに暴れる僕を優はきつく抱きしめてくれている。

嫌だと繰り返す僕の頭を優しく撫でてくれる。

 

「ようやく言ってくれたね」

 

頭を撫で続ける優の声は嬉しそうだった。

 

「ずっとお姉ちゃんが何かを言いたそうにしていたの僕は知ってた。でも聞こうとするとお姉ちゃんは逃げちゃうし。追いかけてお姉ちゃんに嫌われたらどうしようって思って。また怒られたら嫌だったし」

「ちが、う……僕が、悪い。優はずっと歌を聴いてくれていたのに。また聴きたいって言ってくれただけなのに」

「ううん、それでも僕はお姉ちゃんに訊かなくちゃいけなかったんだよ。そうしなくちゃいけなかったんだ。ごめんね」

「違うから。優は悪くないからっ……」

 

ずっと優は待っていてくれたんだ。

僕が抱える闇に気付いてた。諦観で覆って心の内に隠していた絶望に気付いていた。気に掛けて、知ろうとしてくれていた。何も言わない僕に辛抱強く付き合ってくれていた。

優のそんな献身を知って申し訳なさと感謝の気持ちにまた涙が溢れる。

 

「ごめんね、お姉ちゃん。そして、ありがとう。お姉ちゃんの気持ちを聞かせてくれて。辛かったよね。ずっと言えなかったんだもん。僕だったら十年も秘密になんてできないよ」

「優は素直だから……正直で、嘘なんて吐かない良い子だから」

「それは買いかぶりすぎだって。僕だって嘘くらい言うよ。悪い言葉だって使うし、良い子でもないよ」

「良い子だもん!」

「お姉ちゃん……」

 

抱き着いて優の言葉を否定する。優は良い子だ。だって僕をずっと支えてくれていたから。ずっと信じていてくれたから。だから良い子なんだ。

駄々っ子と思われても良い。情けなくても構わない。優は良い子なんだ。

 

「……わかったよ。それでいいって。お姉ちゃんって変なところで頑固だよね。いつもは流されやすいのに」

「自覚はしてる」

「あ、してたんだ」

 

言われるがままに転生するようなやつが流されやすくないわけがない。

まったくの別人に生まれ変わろうなんて、前世に絶望した奴か僕みたいに何となく言われたからする奴だけだ。

 

「自覚くらいしてるよ。優は僕を何だと思っているのさ?」

「面倒な人」

「ごふっ」

「冗談だよ。大好きなお姉ちゃんです」

「……何か急に優がいじわるになった気がする」

「こういう僕は嫌い?」

「大好き!」

 

タイムラグ無しで優に抱き着く。弟が嫌いな姉っておるん?

て言うか、やっぱり優は小悪魔系もありだね。小悪魔天使とか新ジャンルすぎて聖と魔のバランスが崩れちゃう。

失いたくない。この温もりすら失ったら、僕はもう如月千早じゃいられなくなる。

 

「お姉ちゃんはずっと失くすことを怖がってたんだね」

「うん。怖かった。ずっと怖かった。お父さんもお母さんも優もキョウも春香も……普通の人よりも少ないけれど、僕には失いたくないものがあったんだ。でも、失いたくないって気持ちが強すぎて結局全部だめになっちゃった」

 

何かを失う度に如月千早(自分)が削られていく気がして、それがたまらなく怖かった。

いつしか失わないために関わらないことを選んだ。

近づかなければ失わない。手に入れなければ失わない。覚えられなければ失わない。何もしなければ失わない。

そうやって色々な物を捨てて来た。失う前に捨てることで無かったことにしたのだ。結局失うことに代わりはないのに。

でも僕はそれしか失わない方法を知らなかった。

声が戻った瞬間に気付いた。

僕はずっと恐れていたのだ。

嫌われること、距離を置かれること、忘れられること。そうやって人との繋がりを失うこと。それをずっと僕は恐れて来た。

でも僕はそれらを恐れながらも正反対のことをして来た。

両親から嫌われることを恐れて距離を置いた。キョウから距離を置かれないように詰った。春香に忘れられたくなくて拒絶した。

矛盾した行為を最良の手段と思い込み、結果として恐れていた事態に嵌っていった。

両親とはもう拗れに拗れているから関係の修繕は無理だ。何をしようとも今の僕が二人と関係を戻せることはないだろう。

キョウとはゲーム以外で連絡を取り合うことは不可能だ。今更ゲームでの関係を本物の関係にするには時間が経ちすぎた。

 

「でも、天海さんとはまだやり直せるんじゃないかな?」

「……春香?」

 

春香は……。

春香とはどうなのだろう。

僕は春香の縋る手を振り払った。

彼女が無言で発していた「助けて」の言葉に気付かないふりをした。

そしてようやく口にした「助けて」すら拒絶して裏切って忘れようとした僕に今更彼女に掛ける言葉があるのだろうか。

そんな考えが再び僕の心を侵す。

今更だ。

今更何を言えばいいのか。

もう終わってしまった。春香と繋がっていた最後の糸はさっき切れた。

僕が断ち切った。春香にとっては、それこそ地獄に垂れた一本の蜘蛛の糸の様なものだったろうに。

 

「でも、今更何を言ってあげたらいいかわからないよ。僕は春香の手を取らなかったんだから」

「”今更”なんて無いよ。それはその人がそこで諦めちゃっただけ。諦める理由を今更だって言い訳してるだけだよ」

「今更なんて、無い?」

「そうだよ。お姉ちゃんは今更って言うけど、その時できなかったなら、今からしてあげればいいんだよ。僕がお姉ちゃんの手を握った様に、お姉ちゃんが今度は天海さんの手を取ればいい。まずはそこから始めたらいいじゃないかな」

 

手を取ることから始める。

声を掛けることはできなかった僕でも、春香の手を取ることはできたんじゃないだろうか。そんなことを思った。

それこそ今更だ。

今更で。

今更だけども。

まだ失っていないならば、諦めちゃいけないんだ。

失わないために何もしないことは間違っている。失わないためには関わる覚悟が必要なんだ。

僕はもう失いたくない。春香を失いたくない。

 

「まだだ……」

 

まだ間に合う。

まだ終わってない。

天海春香は終わってない。

 

僕が、終わらせない。

 

「……行かなくちゃ」

「お姉ちゃん」

 

立ち上がろうとすると優が上からどいてくれた。そう言えば僕ずっと優に押し倒されてたんだよね。姉と弟でも何かイケナイことをしているみたいでドキドキするわ。まあ、優の方がそんなこと一ミリも考えてないだろうけど。

先に立ち上がった優に手を引かれ僕も立ち上がる。その時優の顔が自分の顔と同じ高さにあることに気付く。いつの間にか背が追いつかれてしまったらしい。そんなことすら今の今まで気づけなかったなんて。僕は本当に気付くのが遅いね。

いつの間にか優は立派に成長していたのだ。あの頃の小さな男の子はもうどこにも居ない。原作で写真と千早の記憶の中にだけ存在した男の子は立派な男の子になっている。そのことが嬉しい。そしてその男の子を助け、今度は自分が助けられたことが誇らしい。

千早にできなかったことを僕はずっと前からできていたんだね。

 

「優……ありがとう」

 

ありがとう。一緒に居てくれて。

優が僕の歌を聴いてくれていたあの日々がどれだけ尊いものだったのか本当の意味で気付くことができた。

ありがとう。生きていてくれて。

優が死んでいたら僕も死んでいただろう。僕はたぶん千早よりも弱いから。

ありがとう。

貴方が僕の弟で良かった。

 

「お姉ちゃん……ううん、僕の方こそ、ありがとう」

「それは……何のお礼?」

「内緒。それよりも、行くんでしょ? 天海さんはこの後765プロの事務所に行くらしいよ。あ、これは知ってるのかな?」

「あっ、うん……えっと」

 

先程からこちらの事情を全て把握しているらしい優の態度に戸惑う。

それが表情に出ていたのか優は軽く笑って言った。

 

「優、エスパー?」

「違うからね? 天海さんにここを教えたのは僕だよ? その時話の流れで765プロに行く用事があるって聞いただけ」

「優は何でも知ってるんだね」

「なんでもじゃないけど。お姉ちゃんにとってあの人が特別だってことはわかるよ」

 

特別って、何かそう面と向かって言われると恥ずかしいな。別に春香に対しては恋心とかそういうのは抱いていないんだけども……。

あ、僕女だったわ。なら優が恋心云々を勘違いするわけがないか。純粋に友情的な何かと思っているのだろう。

 

「お姉ちゃんはあの人を助けたいんでしょ?」

「うん。僕は春香を助けたい。だって春香は二年も僕を待ってくれたから。僕を信じてくれたから。如月千早()を覚えていてくれたから。今度は僕が天海春香を思い出させてあげたい」

 

優相手にこの僕を見せるのは初めてのことだ。しかし優は特に驚くことはせず、僕を受け入れてくれている。

本当なら疑問に思うべきなのだろうけど、今の僕にはそれ以上に春香を助けたいという想いの方が強かった。

 

「絶対に助けてあげてね。僕を助けてくれたお姉ちゃんなら大丈夫だって信じてるから」

「うん、絶対に助けるよ。僕は春香を助ける! 優、ありがとう、愛してる!」

 

優と約束を交わすと僕は部屋を飛び出した。

 

 

 

────────────────

 

 

 

で、愛する弟との感動的なシーンから一転、僕は悪態吐きそうになりながら全力で走っていた。

電車賃持って来なかった! 馬鹿なのかなー!?

お金が無いことに気付いたのは駅に着いてからだった。そう言えばお金とかリアルで見たのいつ以来だろう。そんなことを頭の隅で思い浮かべながら足を全力で動かす。

一度アパートに戻って優にお金を借りる手もあったが、今から戻っても優が残っていなかったら時間をロスしてしまう。あとあんな大見え切って出て来た手前、今更お金無いと言って帰れないという理由もある。それをやったらもう僕は恥ずかしくてお部屋から出られなくなっちゃう。

こんな時に限ってケータイ持ってないんだから僕って本当にやることなすこと上手くいかないよね。

ここまで来たら引き返すより春香を追った方が早い。たぶん春香は電車で765プロの事務所に向かっているはずだ。駅前でタクシーを拾う可能性もあるが、経費で落ちないだろうし電車に乗ったと仮定する。

春香が765プロに着いてしまったら終わってしまう。

ここから765プロの最寄り駅まで三十キロメートルほど。確か電車でも三十分くらいかかるはずだ。

つまり僕は三十キロを三十分弱で走り切る必要があった。 普通なら走って向かうなど無謀と言わざるを得ない距離だ。体力には自信があったが、二年間の引き籠り生活とこの一か月の寝たきり生活の所為で僕の心肺機能は全盛期の半分以下にまで下がっている。この状態で走り切ることは不可能だった。と言うかすでに息が上がって足がもつれだしている。たった数キロ走っただけでこの様だ。

だがこの身は曲がりなりにもチートでできている。

かなり無謀だ。でも電車で追っても追いつけないなら電車よりも早く移動するしかない。幸い路線は緩やかにだがカーブを描いている。直線距離ならば僕の方が近い。

それに、こういう時に使ってこそのチートだろう。

 

「つまり、一分で一キロ走るのを三十回繰り返せばいいだけだ……」

 

自分でも無茶苦茶なことを言っている自覚はある。でもやるしかないだろう。

三十……いや、四十と少しくらいかな?

久しぶりに使うチートの数を冷静に計る。 数を間違えるわけにはいかい。少なすぎれば途中で力尽きるし、逆に多すぎたら今の僕なら一瞬で廃人だ。

今になって頭の中の冷静な部分が春香のためにそこまでする必要があるのかと問うてくる。自分の命を賭ける程に春香が大切なのかと頭の中の僕が皮肉混じりに訊くのだ。そして不思議そうに言うのだ、「所詮赤の他人だろう」と。

そんな他人のために命を張るのは傍から見れば馬鹿に見えるだろう。きっと昔の僕なら同じ意見を持ったはずだ。自分だけで世界が完結していた時の僕ならば春香を見捨てていただろう。

でも今の僕は違う。千早を目指していた僕はもう居ない。

春香が大切かって?

その誰とも知れない相手の質問に僕は笑って答えてやった。

 

「大切じゃないものなんてない!」

 

だから黙ってろ。僕はこれから如月千早を始めるんだ。

覚悟は決まった。あとは実行するだけだ。一旦走るのを止めるとその場で意識を集中してチートをコールする。上手く動いてくれよと念じながら冷静に”如月千早”を探す。

必要なのは速さだ。持久力よりも瞬発力が欲しい。長距離よりも短距離に秀でた”如月千早”が必要だった。

 

「見つけた」

 

次の瞬間、それまで体に纏わりついていた疲労と息苦しさが嘘のように消えた。節々に感じていた痛みも、身体の芯に残っていた倦怠感も全て消え失せている。

 

「っ……よし、行ける!」

 

恐れていたチートの暴走による暴発はしなかった。まあ、明日あたり反動で精神疲労で大変なことになるとは思うが。

今は気にしないで走ることに集中しよう。

僕は呼吸を止めると全力で走り出した。それまでの有酸素運動のランニングから無酸素運動のダッシュへ。後先など考えない全力ダッシュを体力の続く限り続ける。

もし今の僕を短距離走でオリンピックを目指す人間が見てしまったら、きっと努力が馬鹿らしくなってしまうだろう。ちゃんとしたトレーニングも受けていない、フォームもバラバラのただ走っているだけのド素人が百メートルを六秒台で走っているのだから。その速さを維持して走り続ける。百メートルを越えて二百三百と速度を落とすことなく走り続ける。

これもチートの一つ。四十七のチートを並列に発動させた副作用だ。

しかしそれもやがて限界が訪れる。一キロ走ったところで段々と速度が落ちていった。いくら瞬発力と持久力を常人の数倍に上げてもどうしても限界が来る。呼吸という枷から人は逃れられない。無酸素運動を続けられる時間には限界があり、酸欠で頭が朦朧としはじめる。普通ならここで呼吸と体力回復のために一旦速度を落とすところだ。

そう、普通ならば。

 

「っぅらああッ!」

 

だが僕は普通ではない。

走りながらすぐ隣に見えた電柱へと右手を叩きつける。僕の拳が当たった電柱のコンクリ部分が吹き飛ぶ。

当然そんなことをすれば硬いコンクリートの柱に叩きつけた拳は怪我をする。ゴキン、という音が手から聞こえ同時に血が噴き出し指の骨も何本か折れた。

激痛に顔が歪む。痛みで意識が飛びかける。

だが、それでいい。

 

「……ふぅう」

 

次の瞬間には”如月千早”が発動して怪我は治っており、同時に体力も元通りになっていた。

こうやって疲れる度にある一定以上のダメージを負えば”如月千早”が傷とともに疲労も回復してくれる。

これもチートの軽い応用だった。残りのチートの数が四十六になったが、これが無くなるまでに春香に追いつければいいだけだ。

そうやってチートを駆使し全力疾走を維持しながら時に自傷行為で回復し全力で走るのを繰り返す。こうすれば延々と無酸素運動で走り続けられる。無茶を超えて無謀なチートの連続使用にすでに体が悲鳴を上げ始めている。だが、それくらいしなければ春香には追い付けない。

もう二年も先を行かれたのだから。周回遅れどころの話ではない。もう一秒でも止まっていられない。

ここで追いつかなければ、僕は一生春香に追いつけない。

その思いを胸に僕は走り続けた。

 

春香。

本当のことを言うと、僕は貴女が何を悩んでいるのか正確には理解できていない。

僕と違って今もキラキラと輝いている貴女が何を思い、何を感じ、何を背負っているのか僕には理解できない。

僕はアイドルではないし、春香でもない。アイドルの天海春香は知っていても、アイドルの春香を知らない。

僕が知っているのは、二年前に見たアイドルになろうと頑張っている春香と、今さっき見たアイドルを辞めようとしている春香だけだ。

その間を僕は知らない。何が彼女を追い込んだのか、原作を知っているだけの僕はこの世界の春香の足跡を知ることはなく想像もできない。

だってそこに僕は居なかったから。

如月千早が居ない765プロで皆はどう進んで行ったのだろう。アリーナライブなんてできるまで出世したんだ、きっと頑張ったに違いない。

その時春香はどうしていただろうか。原作の様に笑っていただろうか。それとも一歩引いて見ているだけだったろうか。

皆の中心で笑顔を浮かべていただろうか。皆の輪から離れて沈んだ気持でいただろうか。

僕はそれを知ることはない、これからも知る機会なんてないだろう。

でもそれで良いと思う。僕は765プロの如月千早ではないから。そこを知らなくたって構わないんだ。

重要なのは、春香が765プロの春香を知らない僕を頼ったってことだ。

他の誰でもない。僕を頼ってくれたことだ。

だったら僕は原作知識に頼らずに春香と向き合わなければならない。

天海春香にとっての千早はどこにも存在しない。この世界に生きているのは春香にとっての如月千早だから。

僕は今日までたくさんの大切なモノを失ってきた。

アイドルの自分。

両親との関係。

弟との暮らし。

キョウ。

それ以外にもたくさん失った。二年間という時間は決して短くない。無名だった春香達がトップアイドルになるくらいの時間だ。短いわけがない。

でも、それは千早の人生とは違う。彼女は彼女で辛い人生を送って来たけれど、僕だって結構悲惨な人生歩んでいると思う。多分に自業自得な面が強いが。

千早は千早で僕は僕なのだから。失った時間は僕のものだ。僕が失っただけだ。だから、僕の人生は僕が責任を持たなくちゃいけないんだ。

それに気づいた今、僕はもう何も失わないと決めた。 何一つ、失ってなんかやるものか。

だから、間に合え。

冷静に、冷徹に、冷酷に、また一つ”如月千早”を切り捨てながら僕は走り続けた。

 

 

 

────────────────

 

 

 

「春香!」

 

春香に追いついたのは結局765プロの前だった。もうすぐ陽も落ちる時間だ。予想よりも時間が掛かってしまった。

今まさに事務所の扉に手を掛けた春香が見える。奇しくも、あのオーディションを受けた日と似た構図になった。

あと少し遅かったら、春香はこのまま事務所へと入り、そこで天海春香を終わらせていただろう。

これはぎりぎりセーフ、でいいのかな?

間に合ったこととチートの連続使用により力が抜けそうになるのを寸でのところで両足を踏ん張ることで耐える。さすがに四十回以上生き返るのはしんどいわ。

震える膝に活を入れ何とか立て直す。できれば一回ほど死んでおきたかったけど、春香の目の前でやるわけにもいかないのでそのままだ。

春香は呼び止められたため声の方を振り返り、それが僕だと知ったため驚いていた。

 

「千早ちゃん、どうしてここに……あっ、声が!」

 

僕が声を出せることに驚く春香。

良かった、春香が純粋に驚いてくれている。これが何を今更みたいな顔をされていたら僕の心はその時点で折れていただろう。心は硝子だぞ。

 

「寝坊助の喉を殴って叩き起こした」

「喉を殴って? ……え、千早ちゃん、大丈夫なの。って、それ血?」

 

春香の疑問に雑に答えつつゆっくりと春香へと近づいて行く。

と言うか、今の僕はそういう細かいことを気にしている余裕がなかった。実はチートの副作用で結構体にガタが来ているみたいだ。もう一度同じことをやれと言われても無理だ。たぶん死ぬ。あれ、帰りどうしよう。

今はそういった諸々は意識から無理やり追い出して忘れる。

 

「何でそんな無茶なこと……じゃなくて、手当しないと!」

 

僕がまだ怪我をしていると思ったのか、春香が慌ててこちらへと駆け寄って来る。

今気づいたけど僕って全身血まみれじゃないか。吐血したため服は胸元まで血に染まっているし、両手の袖部分は電柱や壁を殴った時の血と汚れでボロボロだ。幸い暗い色のセーターのためよく見なければ血だとわからないけど、中に着ているシャツの襟の血や袖の解れはごまかしようがない。こんな状態の女が走っている光景は実にホラーだなと思った。実際この後しばらく口裂け女の目撃情報が巷を賑わせることになるのだが、今それは関係ない。無いったら無い。

 

「春香のため」

「え……?」

「って言いたかったけれど、本当は自分が情けなくて殴っただけ。でもそのお陰で声も出るようになったから」

 

精神的な物は確かに優のおかげで払拭できたけど、長年使わずに弱った喉が全盛期まで戻ったのは一度壊した後に再生したからだ。

そこまでしようと思えたのは春香のおかげだ。春香を助けたいという思いが僕の停滞した心を再び動かしたのだ。まさに怪我の功名、いや棚から牡丹餅? 何でもいいか。

そのお陰で間に合ったのだから何でもいいや。

今度は間に合った。常に手遅れで、文字通り後悔し続けて来た僕が今度は間に合った。それが涙が出るくらい嬉しい。

 

「春香、私の話を聞いて欲しいの」

 

僕の傷を確認しようとする春香の手を掴みお願いする。

優と違い春香には”私”と言う。さっきは混乱していたから優の前で僕って言っちゃってたけど、今になって女で僕は違和感があると気づいたのだ。

優にだってあの僕は見せたことなかったのに。優に変に思われなかっただろうか。あ、優の前で変なのは今に始まったことじゃないね。……後でフォロー入れておこう。

 

「でも、千早ちゃん傷が……手当しないと」

「見た目ほど怪我してないから。と言うかもう治ってるから治療は必要ないよ」

 

心配してくれるのは嬉しいけど、本当に傷一つないから大丈夫だ。

 

「本当に大丈夫だから。何なら触ってみても良いし」

「えっ、いいの? じゃなくて、本当に大丈夫なの?」

「うん。本当。じゃないとこうして家から走ってこれなかったしね」

「走って来たんだ!?」

 

そう言えば三十分くらいで三十キロ弱を走って来たことになるのか。

 

「……春香、さっきの話の続きがしたい。今度は私の言葉で春香に答えたい」

「それは……」

「今更って思うかも知れない。でも、私はこれを今更で終わらせたくない。我儘だっていうのはわかってる。あの時の春香の手を取れなかった私が今更何をって思うのは当然だから。でも、それでも、私は春香と話がしたい」

「私は……」

「お願い春香。少しでいいから」

 

僕の言葉に躊躇いがちに目を逸らす春香に焦りを覚える。

拒絶される?

やはり遅かったのだろうか。春香の中では答えが出ていて、今更僕が何を言ったところで意味がないのだろうか。

でも僕は春香を諦めたくない。

 

「ねぇ、春香──」

「ちょっと、貴女何ですか!?」

 

さらに言い募ろうとしたところで思わぬ邪魔が入った。

声がした方を見ると事務所の中から出てきたのだろうか、事務所前から律子が険しい顔でこちらを見ている。今日は睨まれる星の巡りなのかな。

 

「うちのアイドルに何か用ですか?」

 

こちらへと早足で向かって来る律子から出たのはまるで初対面の相手に向けるような台詞だった。

いや、実際彼女にとって僕は初対面の相手なのだろう。たとえ一度面接を担当した相手だとしても忘れていて当然だ。僕なんて秋月律子にとってはその程度の存在でしかない。

一瞬だけ、瞬きの間だけ胸が痛んだがすぐに余計な思考と合わせて他所へと捨てた。

対して春香の顔はショックを受けたように歪んでいる。

春香がそんな顔をする必要ないのにね。僕は別に気にしてなんかいない。秋月律子にとって僕は覚えるに値しない程度の存在だっただけだ。それはどうでもいいことだ。

改めて今の状況を見ると、僕は血が付着した恰好でアイドルに絡む不審者だ。あるいは殺したての殺人鬼。

そんなのが自分の事務所のアイドルの手を掴んで思いつめた顔をしているのだ。こんな顔を向けられても仕方ないね。ごめんなさい、貴女の態度は正常だったわ。

 

「えっと、私は……」

 

何て説明をしようかともごもごと口の中で言葉を転がしていると春香と僕の間に割り込まれた。

身体張りすぎでしょ。勘違いの可能性や逆に自分が危険な目に遭う可能性だってあるのに、そのリスクを無視して彼女は春香の前に出て来た。その事実を羨ましいと感じるのは僕の未練だろうか。

 

「律子さん、千早ちゃんは765プロを」

「春香」

 

春香が僕が何者かを説明しようと止める。

765プロのオーディションを受けたことがある人間だ。そう説明して何になる。

オーディションに落ちた人間。その情報で秋月律子が何を納得するのだろうか。最悪逆恨みした頭のおかしい女扱いだ。

 

「千早ちゃん……」

 

僕の静止の意味を察した春香が言葉を止める。だがそれで納得できないのは秋月律子の方だろう。

 

「春香、事情を説明して貰えないかしら? この子は誰で、どうしてこんな格好でここに居るのか。場合によっては私はプロデューサーとして対処しないといけないわよ?」

 

納得できなければ警察でも呼ぶってことか。過激だ。でもそれは裏を返せば納得できれば何も言わないということでもある。

甘いのか、春香を信頼しているのか。これが前世だったら問答無用で人を呼ばれても文句は言えない。アイドルが優遇される世界なのに前世の方が過保護って不思議。

 

「彼女は……」

 

秋月律子の問い掛けに春香が口を開く。果たして春香は何と説明するのだろうか。

僕と春香の関係なんて二年前に一度会っただけの他人だ。僕はオーディションに落ちて、春香はアイドルになった。それだけの関係のはずだ。

僕がオーディションを受けた人間という説明はできない。自分で止めておいて無責任な話だけど、春香に任せるしかない。

春香は何と説明するのだろうか。最悪知らない人扱いされる覚悟をしておこう。

 

「千早ちゃんは──」

 

春香は。

 

「私の友達です」

 

秋月律子に真っすぐ答える春香に涙が出そうになった。

春香は僕を友達と言ってくれるのか。

裏切って、見捨てた僕を友達と呼んでくれた春香に何だか心の中から熱いものがこみ上げてくる。

 

「ごめんなさい、律子さん。私は千早ちゃんと話があるので」

「あっ、ちょ、ちょっと春香?」

「行こう、千早ちゃん」

 

急に積極的になった春香に手を引かれる形で僕はその場を離れることになった。

その際困惑気味にこちらを見る秋月律子と目が合ったが、合っただけで特に何か反応はなかった。

何かを思い出したなんて反応は無かった。

それで良い。

春香が秋月律子から大切にされていると知れただけで僕は満足だから。

 

 

────────────────

 

 

春香に連れられて辿り着いたのは事務所近くの公園だった。

アニメでもゲームでも見慣れた公園だ。あまり描写されることはなかったが、オフィス街に設けられているとあってお昼や休日には結構人が居るのだろう。

しかしすっかり日の落ちた今は通行人が一人二人居るだけなので話をするには適している。

 

「律子さんのことだけど……」

「別に、気にしてないから大丈夫。受けた人間全員を覚えているなんて無理だろうし。ましてや落ちた人間なんて何人も覚えていられるわけないよ」

 

あの時何人受けたのかは知らないけど、受かった人間と同じだけ落ちた人間が存在するとはよく言うもので。社長の目に留まらなかった僕みたいなのを秋月律子が覚えているなんて期待し過ぎだ。

 

「えっと、あのオーディションって、広告代もあまり出せなかったらしくて……受けた人そのものが少なかったんだって」

「えっ!?」

「ほとんど定員割れに近かったって律子さんが言ってた」

「ファっ!?」

 

ちょっと待って、それ初耳だよ。

確かに春香と僕しか居なかったけど。あれってオーディションの日程をずらしていたとかじゃなくて、それだけ受けた人間が少なかったってことか。

 

「ま、まさか、その受けた人間の中で落ちたのって……」

 

震える指で自分の顔を指差す。違うと言って欲しかった。

 

「た、たぶん」

 

遠慮がちに首を縦に振る春香。

 

「……」

 

つまり何だ、あのオーディションで受かったのが今のメンバーなのではなく、受けた人間で落ちたのが僕だけだったってこと?

なにそれ怖い。それしか受験者居なかった765プロもヤバいけど、それに落ちた僕はもっとヤバいんじゃないか。

あー、本当に僕って駄目だったんだな……。僕の方こそアイドルの才能無かったわ。かーっ、辛いわーアイドルの才能ないの辛いわー。

い、いや今はそれどころじゃない。落ち着け僕。大丈夫だ、あの頃の僕はもう居ないんだから。……よし、トラウマが再発しそうだったけど何とか抑え込めた。優、僕頑張ったよ褒めて。

気を取り直して春香に本題を切り出す。

 

「さっき貴女は何をしたかったのかわからないと言った」

 

誰よりもアイドルに憧れた天海春香は誰よりも脆い女の子なのだと僕は知った。

悩み苦しみ涙を流す春香を見て、自分だけが苦しんでいるという勘違いに気付いた。

 

「そうだよ。私はもう自分が何をしたかったのかわからない。楽しかったアイドルのお仕事がいつの間にか辛いと思うようになって……笑うのが、笑い続けることが辛くなった」

 

今の春香にとって、アイドルであり続けることは苦痛でしかないのだろう。周りの重圧や仲間とのすれ違いが春香の中の楽しいアイドル像に陰りを作っている。

皆で楽しく歌うという答えを支えに頑張った。でも、それを確認する勇気が持てなかった。万が一それを仲間から否定されたら自分を保てないから。そうやってずるずると答えを先延ばしにした結果、今になって限界が来た。

 

「春香……あの日、貴女は自分にアイドルの才能がないのかもと言った」

 

今でもあの時の衝撃を覚えている。

天海春香というアイドルを知っていた僕に春香の弱音は信じられるものではかった。

 

「うん、そう思ったよ。千早ちゃんが励ましてくれて、一度は思い直せたけど、今はまた同じように思ってる。私にはアイドルは向いていないんじゃないかって。皆と違って何の才能もない私はアイドルを続けられるのか。ずっと不安だった」

 

あの時アイドルに向いていないと言う春香の言葉を反射的に否定しまったのは、たぶんアイドルじゃない春香を想像できなかったからだ。

アイドルマスターという物語の登場人物だからではない。原作知識があっても、春香が本当に何も持たない少女だったのなら僕は「そういうものだ」と受け入れていた。

でも目の前に居る少女がアイドルにならない未来は想像できなかった。だって、何度オーディションに落ちてもアイドルになることをを諦めなかったんだから。何度もオーディションに落ちたと言いながら、楽しそうにアイドルの話をする春香に僕は夢を持つことの光を見た。義務感で千早を目指した僕には春香の夢が眩しく映ったから。

 

「私ね、貴女に会って初めてアイドルになりたいって思ったんだ」

「えっ……? でも、アイドルになるためにオーディションを受けたんだよね?」

 

春香のそれは当然の疑問だろう。アイドルになるためにオーディションを受ける。春香にとってはそれは当たり前のことだった。でも世の中には僕みたいにアイドルにならなければならない者も居る。春香の様にアイドルになりたいからアイドルになる人間ばかりじゃないんだ。 僕のはイレギュラー過ぎるけど、親に言われて嫌々なんて子も中には居るのだ。誰もがアイドルをやりたくてアイドルを目指しているわけじゃない。まあ、それを今春香に諭す必要はないが。

 

「うん。私はアイドルになるためにオーディションを受けたけど、それって手段でしかなかったんだよね。そういう意味ではアイドルになりたいと思ったのは確かなのかな。でも、アイドルの仕事を楽しいと思えるかはわからなかった。だから私には貴女が輝いて見えた。天海春香という女の子が夢見るアイドル像を素敵だと思った。貴女の夢に光を見た。私の思い描いたアイドルが霞むくらいに、綺麗に見えた。私に夢を見させてくれた」

「夢……?」

「そう、夢。義務感でも無い、契約でもない、私がアイドルを目指してから初めて抱いた夢」

「千早ちゃんの、夢。それって」

「それは……うん、その前に私のこれまでを少しだけ聞いて欲しい。良いかな?」

「うん」

 

頷く春香に僕はこの二年間の話を語った。

春香と違い語る内容なんて全然無いけれど、春香には知っていて欲しかった。

 

「私はあの日、オーディションに落ちた時から止まっていた。自分の中にあった自信とか、輝かしい未来とか、できるだろう仲間とか、そういうキラキラした私の中の希望はこの両手から零れて消えて世界は色褪せた。アイドルじゃない自分はきっと如月千早である資格が無いと本気で思った」

 

僕にとって千早になることは絶対だった。絶対になるものだと思っていたし、絶対ならなければいけなかった。それが叶わなかったことで僕の心は一度壊れた。

 

「貴女達は先に行くのに、私だけ止まったまま。それがとても辛くて情けなくて、いつの間にか切り捨てていた」

 

世界が色褪せても、春香達の輝きは目に入って来た。灰色の世界でも色鮮やかに映える彼女達の姿は濁った僕の目には眩し過ぎた。だから耳を塞ぎ、目を閉じた。

 

「世界に自分の居場所なんてないと思った。だから虚構の世界に逃げて、それで満足できると思った。でも……そこでも上手くいかなくて」

 

今でもキョウと別れた日のことを思い出す。

あの時僕は前に進むキョウを応援してあげられなかった。自分が置いて行かれると思い、見捨てられたと感じて一方的に詰ってしまった。

本当はキョウの成功を喜んであげるべきだった。喜びたかった。よく頑張ったって、言ってあげたかった。

 

「本当の本当に何も無いんだなって思った。私がずっと求めて来た未来は全部嘘なんだ。この世界のどこにも私の居場所は存在しないんだ。私が生きる理由なんてない、生きて来た意味がない、そう思って全てを投げ出しかけた」

 

あと少し春香が僕の前に現れるのが遅かったら僕は死んでいただろう。いくらチートがあっても生きる意志の無い者を生かし続けることはできない。僕のこれはそういうタイプのチートじゃない。段々と心が摩耗し、腐るように死に果てたはずだ。

今回は僕が物理的に終わろうとしたから何とかなっただけ。優が止めずとも物理的なダメージで僕が死ぬことはないのだから。

 

「でもね……貴女が私を覚えていてくれた。それは私にとって救いだった。如月千早()を覚えていてくれたことで救われた」

 

春香が僕を覚えていてくれたことは救いだった。

アイドルじゃない如月千早()を覚えていてくれたことが「如月千早()如月千早()のままでいい」と肯定された気がしたから。

僕の死にかけていた心は再び熱を持ち始めた。結果として暴走して自傷行為に走ってしまったけど、心は確かに生き返ったのだ。

 

「貴女に覚えていてもらえた。気にしてくれていた。それがどれだけの救いになったか貴女はきっと解らないと思う」

 

誰も如月千早()を覚えていない。それがたまらなく嫌だった。忘れられることが怖かった。

だから春香が覚えていてくれたと知って嬉しかった。

 

「私は確かに救われたから。だから、自信を持って欲しい。貴女に想われるということは幸せなことだって。貴女の存在が皆の幸せになるって知って欲しい」

 

僕は如月千早だ。千早にはなれずとも、如月千早として生きていくことはできる。

春香の言葉で僕はそれに気付くことができた。

 

「だって、今日貴女に会って、私は夢を思い出せたから」

 

ようやく言える。僕が千早になるために目指したアイドルじゃない。僕がなりたかったアイドルの夢を。それはもう叶わないかも知れないけど、僕が持った夢だった。

 

「私がアイドルになりたいと思った理由。私の夢」

 

それは他愛もない。それでいて今の僕にとって絶対に叶うことが無い夢だった。

でも願ったんだ。春香を見て僕がアイドルになったその先を夢見たんだ。

 

「貴女とアイドルの仕事がしたい。貴女と楽しく歌いたい。それが如月千早()の夢だよ」

 

感極まった、と言って良いのだろうか。

僕の言葉を聞いた春香が涙を流し始める。それはさっき見た絶望の涙ではなかった。

 

「千早ちゃん……! 私も……私も千早ちゃんとっ、アイドルやりたかった……一緒に、やれたらってずっと、ずっと思ってたから!」

「私もこの二年間ずっと思ってたよ。貴女と過ごす765プロでの生活はきっと輝いていたと思うから」

「うん……うん!」

「そうだったら、春香の悩みとかちゃんと聞いてあげられたのにね。何だったら今からでも聞くけど?」

「うう~、千早ちゃぁん」

 

しばらく泣き続ける春香をあやし続ける。泣き続ける春香の口から時折思い出したようにいつも感じていた不安や仕事の愚痴を聞く度に、こういう話をする相手が居なかったんだなと春香の765プロでの様子を心を痛めた。

自分が765プロに居れば、なんて自惚れるつもりはなかった。春香にはああ言ったけど、僕が居てもきっと春香の悩みに気付いてあげられなかった。挫折して、自信を失って、夢を諦めていた今の僕だからこそ春香の悩みに向き合えた。だったらこの二年間も無駄じゃなかったと思える。

あと一歩だ。あと一押しの勇気を春香に取り戻させなくちゃいけない。

少しだけでいい、春香に未来を信じさせたい。

どうすればいい?

どうすれば春香は信じられる?

春香に未来を見せたい。

今の僕ができることはたった一つ。百の言葉を尽くすよりたった一つの可能性を春香に見せる。

だったらやることは一つだ。

 

「春香。貴女が取り戻してくれたこの声で貴女に可能性を見せたい。貴女が今日私にしてくれたことが、どれだけ価値があったのか、それを知って欲しい」

 

原作の千早は言っていた。

人の心に幸せを届けることできる人がアイドルならば、自分の歌でそれができるようになりたいと天海春香に語って聞かせていた。

ならば如月千早()はどうだろうか。

原作の千早と如月千早()は別人だ。中身が僕だから当たり前だ。しかし、如月千早()が目指したアイドルと千早が目指したアイドルは同じ物ではなかっただろうか。

僕が自身を如月千早だと自覚した時から、ずっと僕は自分の歌に自信を持っていた。

人の心に幸せを届けること。人の心を幸せにすること。多少の違いはあっても、僕の思い描く千早の歌とはそういうものだったはずだ。

僕は千早ではないけれど、千早という少女が思い描いたアイドルを彼女を通して目指していたのだから。

だったら、今それをやらなくちゃいけない。今がその時なんだ。

 

「私はアイドルじゃないから。春香と一緒にアイドルをすることはできない。でも──」

 

今なら言えるよ。

 

「貴女に歌を届けることはできる」

 

本当に、もっと早く気付けていればよかった。それこそ、オーディションの前に気付けて夢を持てていたら、僕は今春香とアイドルをやれていただろうか。歌を届けるだけではなく、一緒に歌えていただろうか。

……いや、それこそ夢だったね。

夢はいつか覚めるものだ。目が覚めた僕は現実を見なくちゃいけない。

 

「私は貴女とアイドルはできない。でも、こうして歌うことはできる。765プロの千早にはなれなかったけど、如月千早として貴女に歌を届けることができる。だから貴女には聴いて欲しい、私の(可能性)を。私の可能性()を知って欲しい」

「千早ちゃん……うん、聴かせて千早ちゃんの歌を。私は、見たい! 千早ちゃんの可能性を!」

「ありがとう、春香」

 

春香の言葉で覚悟は決まった。

僕は意識を集中すると再びチートをコールする。今この時に最も適したチートを呼び寄せる。

度重なるチートの使用により全身ボロボロだけど、あと一回くらいは使えるはずだ。いや、使ってみせる。

春香に歌を聴かせたい。春香に可能性を見せたい。春香を助けたい。

だから力を貸して欲しい。僕に”如月千早”の力を使わせて欲しい。

そんな僕の願いが通じたのか、この場に最も適したチートが発動する。

これは、この世界に存在しない歌。

765プロの皆が千早のために作った歌。

絆の歌。

決してこの世界では歌われることがないそれを、今僕は歌う。

千早を目指した如月千早()の最初で最後のステージライブは光り輝くステージではなく、何てことはない公園の中だけど、今の僕にはちょうど良かった。

 

「春香」

「千早ちゃん……」

(如月千早)のライブ。ちゃんと観ててね?」

 

曲は無い──道行く人が奏でる喧噪が聞こえる。

スポットライトも無い──夜空に輝く星と月明りと公園の照明だけだ。

観客はたった一人──春香が僕を見ている。

 

……何て贅沢なステージなのだろうか。

 

誰かが自分の歌を聴いてくれる。それがどれだけ恵まれた環境なのか僕はようやく実感できた。

嬉しい。春香が歌を聴いてくれる。あの春香に、(如月千早)の歌を届けられる。

気付いてしまえばなんてことはないのだろう。

 

結局のところ、僕は歌が好きだったのだ。

 

今更だけど。

改めて春香を見る。春香は真剣な顔で僕を見ていた。一瞬でも僕を見逃さないようにと、瞬きもせずに僕を見てくれている。

それだけで僕は歌える。

マイクが無い代わりに組んだ手を祈るように顔へと寄せる。

この歌は生まれなかった如月千早()に贈る別れの歌だ。

この歌は新しく生まれた(如月千早)に託す祝福の歌だ。

同じ歌でありながら二つの意味を込めて僕は歌おう。

そして何よりも、この歌を目の前の彼女に聴いて欲しい。

 

春香。

 

ありがとう。助けてくれて。

大丈夫、僕はもう歌える。貴女と優が取り戻してくれたこの声で、精一杯歌って見せる。

ありがとう。信じてくれて。

僕の可能性を見て欲しい。そして春香自身の未来を信じて欲しい。僕の歌がその助けになるならば僕は何度だって歌ってみせるから。

 

「この歌を、大切な人達と……出会うことがなかった、出会えなかった仲間達に……捧げます」

 

僕の初めてのライブを始めよう。

聴いて欲しい。これが(如月千早)(未来)だ。

 

 

 

「 約束 」

 

 

 

 

 

 

 

 

歌い終わった瞬間、春香に抱き着かれた。慌てて春香を抱き留めるも不意打ちに近かったので少したたらを踏んでしまう。

歌い始めてから今さっきまでの記憶が曖昧だ。薄ぼんやりと覚えてはいるんだけども何だか実感が持てない。

 

「千早ちゃん……千早ちゃん!」

 

しかし、涙を流しながら僕の名前を何度も呼ぶ春香を見る限り、上手く歌えたのだろう。それは何となくだけど覚えていた。

 

「凄いよ! 凄い! 千早ちゃんの歌を初めて聴いたけど、こんなに凄いなんて想像もできなかった!」

 

春香は何度も凄いと繰り返し僕の歌を褒めてくれた。

 

「あ、こう言うと何か期待していなかったみたいだけど、千早ちゃんが凄いってことは何となくわかってたけど改めてって言うか」

「いいよ。家族以外に歌ってみせたのはこれが初めてだし。二年くらい歌ってなかったから私も自信無かったもの」

「えっ!?」

「ん? どうかした?」

「い、いや、初めてでアレって……二年って……あ、あはは、違う意味で自信失くしそう……」

 

何やら凄くダメージを負ってるように見えるんだけど大丈夫だろうか。違うトラウマ植え付けてないよね?

 

「ありがとう、千早ちゃん。……また、助けられちゃったね」

「私は口下手で上手く言葉で伝えることができないから、歌うことだけしかできないから。これで助けになれたら良いんだけど」

「ううん、私は確かに千早ちゃんに助けられたよ。千早ちゃんの歌で、私がなりたかったアイドルを思い出せたから」

 

春香のなりたかったアイドル。

皆で一緒に楽しく歌うこと。

それを春香は思い出したのだ。嬉しい。春香が思い出してくれたことが嬉しい。僕の歌がそれを思い出すきっかけになってくれたことが嬉しい。

 

「今も、昔も。あのオーディションの日、私は千早ちゃんに助けられたの。だから、ありがとう。私のことを助けてくれて。天海春香()を覚えていてくれてありがとう」

「春香……私の方こそありがとう。助けてくれて。如月千早()を覚えていてくれてありがとう」

「そっか、私は千早ちゃんの助けになれたんだ……助けてあげられたんだね」

「うん。春香は私を助けてくれたよ」

 

春香は僕を助けてくれた。春香の言葉がなければ僕はきっと心を曝け出すことはできなかったろう。たとえ優に言われたとしても、僕は自分の想いを吐露することは無かったはずだ。誰よりも優にだけは言えない気持ちだったから。

優しか話し相手が居ないのに、その優に伝えられないストレスは僕をずっと苛んだ。優に言ってしまった言葉を僕は認めたくなくてずっと心の奥底にしまい込んで無かったことにした。それを思い出せたのは春香のおかげだ。だから春香は僕の恩人だ。

 

「春香は今でも可奈って子をアイドルに引き留めたい?」

「可奈ちゃんのことは……諦めたくない。これ以上は可奈ちゃんを傷つけちゃうかもしれない」

「その子の意に反してアイドルに引き留めることが不安? その所為で他の皆に迷惑をかけるのが嫌?」

「うん、私のやっていることって、可奈ちゃんにとって迷惑なんじゃないかなって思うと深く踏み込めない。皆にだってこれ以上迷惑かけたくない」

「私はその可奈って子を知らない。でも、アイドルを諦めたらきっと後悔すると思う。アイドルを諦めたことよりも、何かを諦める自分を嫌いになると思う。だから助けてあげて。春香がやりたいと思ったことを大切にして」

「私がやりたいと思ったこと……。いいのかな? もしかしたらそれよりも上手くやり方があるんじゃないかな。そっちの方がいいって皆も思ってるかも知れないよ?」

「そうかも知れない。可奈を諦めて、残った人間でやる方がいい結果になる可能性だってある。……それでも貴女は最後まで諦めちゃいけないと思う。今ある物を諦めちゃいけない。今ある全てが貴女の未来に繋がっているって信じて欲しい。他の誰でもない、貴女だから諦めちゃいけない」

 

挫折は誰にだってある。どうしようもなくて、夢を諦める時というのは誰にだって訪れるものだ。でも、自分から投げ出したら駄目だと思う。それをすると、ずるずると全てを諦めるようになってしまうから。

僕は可奈にアイドルを諦めて欲しくなかった。これは可奈のためではなく、春香に可奈を諦めて欲しくなかったから。酷く利己的で嫌になるが、やっぱり僕は春香には笑顔でいて欲しいから。

 

「だって、貴女は天海春香だから」

 

僕の知っている天海春香は、皆で楽しく歌うことが大好きな女の子だから。誰のことも諦めて欲しくない。たとえ皆の中に僕が居なくても。

 

「千早ちゃん……うん。そうだね。私、最後までやってみるよ! 可奈ちゃんには嫌われるかも知れないし、皆には迷惑かけちゃうかも知れないけど。でも最後まで諦めたくないんだ。皆でライブをしたい。今ある全部でライブを成功させたい」

 

昼間に言った言葉と同じものなのに、今春香が見せる表情はまったく別のものだった。

自信に溢れ、熱意に燃え、笑顔を浮かべるその姿は原作の天海春香の様にキラキラと輝いていた。

いや、もう春香は春香として輝いている。765プロのアイドル春香がそこに居た。

 

「だって、私は天海春香だから!」

 

良かった。本当に良かった。春香は答えを得たのだ。

さすが主役……なんて捻くれたことは思わない。今この時に答えを得たのは春香なのだから。天海春香(キャラクター)と同じ存在でも春香は春香以外の何者でもない。

 

「うん……安心した。春香がちゃんと未来を信じられて良かった。私ももう少しだけ未来を頑張れると思う」

「千早ちゃんの未来……? それって……また、千早ちゃんが……アイドルを目指すってこと?」

「あー……うん、そうかも。いや、そうだね。意外なことに私はアイドルを諦められてなかったみたい。春香の前で歌ってたら気づいた」

「意外じゃないよ! 意外なんかじゃないよ……だって、前に千早ちゃんが聞かせてくれたアイドルになった後のこととか、聞いてて凄いなって思ったもん! それだけの想いを持っていた千早ちゃんが諦めるわけないって信じてた!」

「それは黒歴史だから忘れて」

 

頼むからそれだけは忘れて欲しい。春香に語って聞かせたアイドルの話は中二病時代に書いた自分設定のノートくらい闇に葬り去りたい過去だから。

本当にお願いします。何でもしますから。わりとマジで。

 

「……ねぇ、千早ちゃん。一つだけ私の我がままを聞いてくれないかな?」

「何?」

「私たちのライブを観て欲しいの」

 

ライブ……。

それは当然アリーナライブのことだよね。

観たいか観たくないかと言われたら観たい。断る理由なんてまるでない。て言うかここまで関わったなら結末は自分の目で確かめないと気が済まないまである。

 

「でも今からチケットとか取れるかわからないけど」

「ライブのチケットは私が用意するから! アリーナ席のいっち番いいやつ! 千早ちゃんには一番近くで見ていて欲しいの。私の、私達のライブを!」

 

今からそんなチケット用意するとか無茶過ぎるだろ。それとも、こういうのって関係者にある程度優先的に回されたりするのだろうか。

 

「うん……観るよ。春香達のライブ。見せて欲しい、春香達の可能性を」

「ありがとう!」

 

笑顔でお礼を言う春香の表情には一切の不安も焦りも無かった。

それが僕の歌だけで起こした奇跡だとは思えない。きっとそれ以外にも春香の心を動かす何かはあったのだろう。それでも、自分の歌が少しでも春香の力になれたならば僕は満足だった。

僕は千早にはなれなかったけど、如月千早として手に入れたものは確かにあった。

優と春香。二人が千早ではなく僕によって救われたのというのならば、それは僕がこの世界で生きている証に他ならない。

今なら分かる。

春香は天海春香を知らない。でも天海春香になれた。

僕は千早を知っている。でも千早にはなれなかった。

でもそれで良いんだ。僕は千早にはなれない。それは仕方がないことだから。

だって僕は如月千早だから。

僕は僕として、如月千早として、自分の人生を生きればいいんだ。春香を見てそれに気付くことができた。

そういう意味でも春香には感謝しないとね。

ずっと心の奥で誰にも見て貰えなかった僕を照らしてくれた。千早という光から生まれた影で真っ黒く染まった如月千早を春香は照らしてくれた。

ありがとう春香。本当にありがとう。

 

貴女は僕のアイドル()です。

 

 

 

 

────────────────

 

 

 

それからのことを少しだけ語ろうと思う。

精神的に吹っ切れたことで僕は人間らしい生活に戻ることができた。鬱屈した精神はすっかり治っており、今では心身ともに健康体である。

いや、治ったという表現は少しだけ違うか。

僕は生まれた時から病んでいたのだ。千早でなければならないという強迫観念によりいつしか視野狭窄と異常な執着を持つに至った。千早と自分との違いに悩み、それが精神的ストレスとなって常にSAN値が下がり続けていたところで765プロのオーディションに落ちたことで発狂したというわけだ。

僕は如月千早ではあるが、必ずしも千早の人生を追う必要はないと気付いたことで正気に戻ったというのが本筋だと思う。

神と名乗る存在と何を契約したのか細かなところは思い出せていない。千早になることが重要だったことはわかるけど、それ以外はさっぱりだ。しかし、ここまで追い詰められるくらいだ、重要な何かだったのだろう。

それを破ったことでどんなペナルティがあるかはわからない。最悪僕という存在を無かったことにされる可能性もある。突然自分が居なくなった世界を想像して怖くならないと言えば嘘になる。僕は死ぬのは怖い。でも怖がって何もしないことで後悔をするのだけは嫌だ。あのまま絶望の中で生き続けよりも如月千早として生きる方がずっと良い。

まあ、この件についてはいずれまた考えるとしよう。今の僕にはやらなければならないこと、やりたいことがたくさんあるのだから。

とりあえず目の前の問題から解決して行こう。

 

「まっずーい! 本気でピーンチ!」

 

今日は春香達765プロのアリーナライブ当日だ。そんな大切な日の朝から僕はアパートでどたばたと暴れている。何故かと言うとライブに着て行く服を用意していなかったのだ。今慌てて服を押し入れから引っ張りだしている真っ最中。

服が無いことに気付いたのは昨日のことだった。我ながら遅すぎると思う。でも言い訳をするならば、色々と身の回りの整理をしていて服にまで気が回らなかったんだ。

いざ服を着る段階でまともな外行きの服が無いと気づいた僕の絶望たるや、戻れない状態でボス戦前でセーブしちゃったくらいの絶望感って言えば伝わるかな。

いや、待てよ? 別に僕がステージに立つわけでもないのだから服なんて何でも良いんじゃないか。それこそ普段出掛ける時に着る地味な色のやや男っぽい服とかでも良い気がして来た。原作の千早もズボン姿が多かったから問題ないと思うんだけど。

そもそも、こういったライブに行く時の正装って何が正解なの?

働いたら負けTシャツとかラブ765法被とか?

アニメとかのライブシーンで観客が着ていた服ってどんなだったっけ。さすがにそこまで細かい描写なんて覚えてないよ。

だったらジャージとかでもいいじゃないかな。もうジャージで行こうか。

とか思っていたら突然電話が掛かって来た。優からだ。

 

「良いところに電話をありがとう! と言うわけで、優ヘルプ! ライブに着ていく服がないのー!」

 

通話開始と同時に開口一番助けを求める。

頼れるのは我が愛しの弟ラブリー優だ。世界一可愛い優の世界一のセンスに僕は賭けるぜ!

 

『えっと、お姉ちゃんの部屋のクローゼットの右端に一式あるよ』

 

即答で解が返って来た。

頼っておいてアレだけど、マジで用意してあるとか意味不明なんだけど。

もしかしたら、僕の弟はエスパーなのかも知れない。もしくはタイムリープしてるとか。嘘やろ、僕は電子レンジを改造とかしてないよ。

 

『お姉ちゃんは自分で思ってる以上に分かりやすいからね。どうせ今回も服とか用意してないと思って、お母さんが買っておいてくれたんだよ』

「お母さんが……」

『今度お礼言いなよ?』

「うん。ちゃんと会って、言うよ。これからのことも含めてね」

 

あの日、春香と別れた僕はまっすぐ家に帰った。走って。お金無いって辛いわー。

家に着いたらまず優に電話するつもりでいた。絶対心配しているだろうし。しかし戻った僕は家に優が居て驚くことになった。ずっと待っていてくれたらしい。

優は僕の顔を見て上手くいったと察したのか「お疲れ様」と言って笑顔で迎えてくれた。

詳細を語って聞かせると優は凄く喜んでくれた。僕が自分から誰かのために動いたことが嬉しかったと言われのだが、そこだけ切り取ると僕がめちゃくちゃ冷血漢に見えるね。

何よりも僕の声が出たことが嬉しいそうだ。春香に歌ってみせたと言ったらさらに喜び「今度僕にも聴かせてね」と言ってくれた。

しかし、その後優から両親にも声が出たことを報告するべきだと言われて戸惑った。今更僕の声が出たからと言って両親が喜んでくれるとは思えなかったからだ。

それでも病院のこととか、生活のこととかあるので報告は必要だろと思い実家に電話を掛けたところ、まずオレオレ詐欺を疑われた。酷いや。

それまで一言も口がきけなかった娘から電話が掛かって来たのだから疑うのは当然と言えば当然だけど。まあ、すぐに声から本人だってわかってくれたので良かったが、今度はもの凄く喜ばれたことに驚くことになった。

てっきり「ふーん、そう、で?」くらい軽い返答だけかと思っていたので、このリアクションには面食らった。

電話越しに涙ながらに喜ぶお母さんと、会話を聞いていたお父さんの喜ぶ声が聞こえて、自分がどれほど親不孝だったのか知ることになった。

ずっと気を遣われていたことに今更ながら気づいた。原作で千早から離れていった二人とこの両親を混同していた自分をとても恥じた。

ところで優が今僕の部屋に居り、もう夜も遅いため今日のところは泊まらせるつもりだと言ったところ即迎えに行くと言われた。翌日は休みなのだから問題無いと言ったのだけど、「大問題だ」と逆に諭される結果になった。なんでだ。

優に理由を尋ねても苦笑いするだけで教えてくれなかったし。何か両親からの僕の扱いってよくわかんないんだよね。

まあ、優を迎えに来たお父さんをアパートに入れた結果なし崩し的に両親とも会うようになったので結果オーライと思うことにしよう。

その時にお父さんから実家に戻らないかと提案された。嬉しいと思う反面、出戻りみたいで恥ずかしいので回答を濁してているとお父さんは必死に戻るように言って来て戸惑うことになった。何でも優から僕の生活内容を聞いて気が気でなかったらしい。あまりに必死に言い募る親の姿に引いていると優が庇ってくれた。本当に優は逞しくなった気がする。何か男の子から男って感じになりつつあるね。僕を庇う優があまりに頼もしくかっこよかったので「優かっこいい、抱いて!」とかふざけて言ったわけだが。

何故か僕の一人暮らしが継続することになった。何でだ。

そんな感じに僕の一人暮らしは継続中だけど、お母さんがよく来るようになったので生活水準は若干上がった。お父さんも会社帰りにお土産片手に顔を見せてくれるようになった。

まだまだお互いにぎくしゃくとしているけど、少しずつ家族らしさが戻っている気がする。

 

「ところで、どうしたの今日は。まだ待ち合わせまでの時間はあるよね。私遅刻してないよね?」

『それは大丈夫だよ。電話したのは天海さんからお姉ちゃんにメールしたのに返事が無いからちゃんと読んでって伝言を言うためだよ。服のことも伝えるつもりだったけどね』

「えっ、メールなんて来てたかな? うーん、後で見ておくよ」

『できるだけ早く見たほうがいいよ。かなーり気にしてたから。千早ちゃんは大丈夫かなとか、部屋で倒れてないかなとか、メールしすぎて嫌われてないかなとか』

「春香は私のオカンか何かかな?」

『オカン属性かはともかく、ユニークな人だとは思うよ。お姉ちゃんって面倒な人に好かれやすいからね』

「んぅ?」

『じゃあ、僕も準備があるから切るね』

 

不穏な発言を残して優の電話が切れた。

優に言われた通りにクローゼットを確認すると外行き用の服が一式掛かっていた。その下には服に合った靴が置いてある。

靴まで用意してくれるなんて、本当にお母さんには頭が上がらないよ。

だが下がスカートなのは何でですかね。学校の制服は許せても普段着にスカートは未だに抵抗があるんだけどな。中学卒業とともにスカートの呪縛から逃れられたと思っていたのに。

うー、でも今から他の服を用意する時間もないし。何よりお母さんがせっかく用意してくれた服を着ないのも悪いし。

……仕方ないから着よう。

いそいそと部屋着から着替える。少し特殊な服でも千早が着たことがあるタイプならば何となく着込むことができる。今日もチートは絶賛大活躍中だ。

春香の前で歌ってからチートの精度というか適用範囲が広がった気がする。おかげで今の僕は昔目指した如月千早以上に千早だった。今のこれを知ってから昔の僕がチートチートと騒いでいたのを鼻で笑うレベル。

服を着こむとクローゼットから引っ張りだした姿見で全身確認してみる。

二年前から変わらぬ如月千早が女の子らしい服装に包まれていた。

薄い水色のワイシャツに大きめの襟が特徴的な紺のジャケットと紺色のスカート。あまり女の子女の子した格好ではないものの、普段着に比べたらかなり可愛い系のこれはぱっと見ギャルゲのヒロインみたいな服装だ。この世界を現実と理解し始めてはいても、こういう服装に関してはたまに現実離れしたものがあるから感覚が狂うね。

最後にリボンも着けるみたいだけど、さすがにリボンは恥ずかしいので一度解いてからネクタイの様にゆるく巻いてみた。

出来上がりは上々だと思う。少なくともジャージ姿よりは良いはずだ。

会場で春香に会うことはないだろうけど、春香の友人としてやはり恥ずかしい恰好はできないよね。

そうそう、春香とは友達になった。

あの日から数日して可奈の問題が解決したと報告しに来た時に友達になった。春香曰く初めて会った時から友達だと思ってくれていたらしい。今回改めて友達になろうと言って来た時は若干泣きそうになったそうだ。それは申し訳ない。前回言い出せなかった連絡先の交換もその時やった。

可奈の件も解決できて良かったと思う。あのままアイドルを諦めていたらきっと後悔しただろうからね、可奈も春香も。きっとアイドルってものは簡単に諦められるものじゃないんだ。僕が諦めたのは千早になることで、アイドルになろうと本気で思っていたわけじゃなかったけど。それを春香と接して気づくことができた。

春香はこの人生で初めての友達だ。小学校からリアルな友達なんて作れたためしが無かったので春香には感謝している。

アイドルになったら忙しくなるから友達なんて不要と切って捨てていたから。どうせ765プロの皆と仲良くなるし。そんな考えから友達一人作らなかったおかげでニート時代に無意味に干渉して来る輩は存在しなかったけど、今になってもったいないことをしていたと思っている。

春香とは暇な時間にメールしたり、夜に電話したりと結構頻繁に連絡を取り合っていた。

春香はメールをすればすぐ返してくれるし、翌日仕事があるというのに長電話に付き合ってくれたりと僕のリハビリ(?)に彼女の存在は大きく関わっていた。まあ、さすがに仕事の前日に長電話は悪いと思い自重するようにしたが。

友達の居ない僕を気遣ってか春香は何気ないことでも連絡をくれる。時間も場所も問わずにね。ライブのチケットが取れた時なんてその場で電話してくれたらしい。どういう場面で電話を掛けたのか不明だが、プロデューサーと秋月律子の声が聞こえたということは仕事中だったんじゃないかと不安になった。いくら気を遣っているとは言え少し頻度と場所を考慮した方がいいかも知れない。あとやたら長文なのも頑張り過ぎな気がする。

そんな感じに生真面目にも連絡を取り続けてくれた結果、事務所で僕とメールしている姿を765プロメンバーに見られて双海姉妹から彼氏かとかおちょくられたそうだ。その時は曖昧に回答を濁したらしいが。……いや何故あえて濁したし。すっぱり否定しておけよアイドル。

プロデューサーがハリウッドに一年間研修に行っている間にスキャンダルでアイドル引退とか止めてよね。実際はメール相手が女って時点で疑いも晴れるだろうけど、そういう話題って後を引くからなぁ。

後を引くと言えば、あの凛との関係は表面上落ち着いたらしい。あれだけ春香を責めていた凛が矛を収めるとは思わなかったが。可奈の問題が解決したことで気が変わっただけならいいんだけど。何か燻ってる気がするんだよね。

 

「っと、そうだメールメールっと」

 

春香からメールが来ているんだった。

あまり返事が遅くなると悪いからね。ケータイを取り出してメールを確認する。

 

「……へあ?」

 

何か春香からもの凄い量のメール来てるんだけど。ひぃふぅみぃ……二十から数えるのは止めた。

内容はライブ楽しみって短文から始まり、次のメールで今忙しいのかという質問からだんだんと分量が増えていき、最新のメールでは二十行くらいの長文になっている。

筆まめなのかな?

とりあえず返す文面は当たり障りなく『今日着て行く服のコーデに迷って反応が遅くなったの。ごめんなさい』とでもしておこう。

送信っと。……すぐにメールが返って来た。早いよ。

内容は『無事だったらいいんだよ。ごめんね、長々とメール送っちゃって。今日のライブに千早ちゃんが来てくれると思うと楽しみで気が逸っちゃった』というものだった。

これ見ると普通の文面なんだけど、送信してから返信まで一分くらいだったんだよね。速記検定持ちなのかな。

ライブ前に何度もケータイをいじらせるわけにもいかないので『本番前にケータイで遊ばないように。ライブ楽しみにしてるから頑張って!』と送っておいた。

その後『うん! 今からちゃんとするよ。千早ちゃんには最高のライブを見せるからね!』とだけ返って来たので春香の方は大丈夫だろう。

さて、僕もそろそろ出かけるとしようか。

最後に姿見で全体を確認する。特に問題はないのでよしと一回気合いを入れた。何せ今日のライブは優と見るのだ。気合いの一つくらい入れたくなる。二人分のチケットを用意してくれた春香には感謝してもし切れないね。

アパートの玄関を潜りながら優のことを考える。

今回僕が自分の内面を吐露し春香を追いかけることができたのは優のおかげだ。優が居なければ僕は春香を追うことはできなかった。それ以前に声を出すこともなかった。

原因を辿れば僕が優へと暴言を吐いたことがきっかけだが、それを含めて今こうして如月千早として生きていられるのは優のおかげと言っても過言ではない。

ずっと僕のことを支えてくれていた優を僕は前以上に大切に想っている。それは千早の弟だからという理由ではない。僕の弟だからという理由で優を大切に想うのだ。その気持ちは千早でも如月千早でもなく僕自身の気持ちなのだと自信を持って言える。

優とは前以上に仲良しになった。千葉か八王子だかの兄妹が嫉妬するくらい……は少し言い過ぎかもだけど、前よりも仲良しなのは確かだ。

あの日以来、優が僕の世話を焼きに来ることは無くなった。僕が断ったのだ。ずっと優に助けられて来た自分から脱却するために決めたことだ。

まあ、その代わりと言っては何だが、ちょくちょく家に遊びに来てもらったり、こうしてお出掛けに付き合ってもらうようになったので一緒に居る時間は逆に増えた。

昔ならばいざ知らず、今の僕は優の姉として一応体裁は整えられているのだから、外で一緒でも問題ないのだ。

今日の服装だって一時期の芋女ファッションとは違ってまともだし。優も隣を歩いて恥ずかしいなんてことはないはずだ。

本音を言えばスカートじゃなくてズボンを履きたいんだけども、優曰く「お姉ちゃんもせっかく女として生まれたんだからもっとお洒落すべき」なのだとかで、最近はスカートを履く機会が増えた気がする。別にお洒落とか今更しても仕方ない気がするんだけど。

と言うか今の僕って大丈夫なのか?

お母さんの買ってくれた服をほぼそのまま着ただけだが、この世界のお洒落とかその辺りの感覚がわからないから良いのか悪いのかわからないぞ。自分としては悪くはないと思うし、何よりせっかくお母さんが見繕ってくれた服だから文句もスカートなこと以外特に無い。

……そのはずなんだけど。アパートを出てからずっと周りの視線が痛いんだけど。道ですれ違う人々が僕を見ている気がする。

なんだよ、そんな見ても面白い物なんてないぞ。アイドルの千早ならともかくここに居るのはただの僕だ。

謎の居心地の悪さに背中を押される形で早足になっていたのか、優との待ち合わせ場所には少しばかり早く着いてしまった。

わざわざ外で待ち合わせした理由は、単純にアパートと実家の距離から考えて外で待ち合わせるのが効率がいいと判断した結果だ。

ここからだと実家の方が遠いので優が後になるのは当然だ。と言うかそれがなくとも僕の方がお姉さんなんだから僕が先に着くべきだ。今回はちょっと早く来すぎたかも知れないが。

ケータイで時間を確認すると、待ち合わせまで三十分以上ある。あ、春香からメールだ。『今ライブの最終調整中だよ』って、調整に集中しろし。『集中、大事』とだけ返しておこう。

今度は優からだ。『もう着いた? 僕はもう少し掛かりそう』だって。慌てさせちゃ悪いから『私ももう少しー』と返しておこう。

ちゃんと連絡して来るなんて、さすが優だ。紳士過ぎて尊い。優が将来恋人とか作ったら絶対優しくするよね。相手は年上だろうか、しっかり者の優なら年下もありだろう。優を尊重して大切にしてくれる人なら歳は気にしない。ある日突然優に恋人を紹介されたらどういう反応をすべきだろうか。笑顔で歓迎する? それとも一旦ツンツンした態度をとってから後でデレて「優が選んだ相手だもの、認めるわ」とか言ってみるか。まあ、優が選ぶ相手に間違いとかあるわけないんだけどね。マジ優尊い。愛してるわー。

そんな優の恋人に僕はなんと紹介されるのだろうね。

「自慢の姉」なら花丸。

「不肖の姉」なら当然。

「不遇の姉」なら涙目。

「姉……知らない存在ですねぇ」なら死亡。

普通に考えて中卒引きニートの姉とか地雷過ぎて紹介できないわ。そう思うと僕って優の人生にとってお荷物だよね。思春期特有のニキビ以上に邪魔臭い存在じゃないかな。いや優の顔にニキビなんてできるわけがないんだけどね。優の肌は綺麗だから。舐めても平気なくらい綺麗だから。舐めたことないけど。

しかし恋人に紹介してもらうとなると、僕もまともな職に就く必要があるんじゃないだろうか。ちょっと人生設計を真面目に考えてみる必要があるかも。

とりあえずアルバイトでもしながら通信で高校にでも通うとかどうだろう。両親も安心するし、家賃を自分で払えたら負担も減ると思う。

高卒認定を取ったら大学にも行きたい。一流とはいかないまでもそこそこの大学に入って、サークル活動したり、就職に有利そうなゼミに入ってコネ入社を……コミュ障だから無理か。サークル活動とかも女子同士の軋轢とかありそうで無理だわ。サークル活動するくらいなら今から適当なスポーツのプロ選手を目指す方が建設的だって話。マラソン選手ならこの瞬間にでも世界狙えると思う。今のフルマラソンの世界記録って何分だっけ? 四十分くらい?

とにかくまともな生活を送って家族を安心させたかった。アイドルを目指すかはその後ゆっくり考えて行こうと思う。

二次選考まで進んでいた346プロダクションのオーディションは結局受けていない。

と言うか受けられなかった。

理由は単純。二次審査が終わっていたのだ。さすがに一か月も放置していればそうなるよね。

まあ、一次審査は中学時代の写真で通ったものなので、二次審査を受けたとしても落ちていただろう。きっと審査員には別人としか映らないはずだ。

確かに僕は声を取り戻した。歌も歌えるようになった。ダンスだって踊れる。でも笑顔まではそうはいかなかった。

僕はもうあの頃のように笑えない。

長い間使わなかったからか、僕の内面が変わってしまったためか、二年前まで簡単にできていた笑顔が今はまったく作れないのだ。

薄く笑うことはできても満面の笑みというものを作れない。優は前の笑顔よりも好きだって言ってくれるけど、自分の中ではこのことを消化しきれなかった。あれだけ頑張って練習したエヘ顔ダブルピースはどこへ行ってしまったのか。

笑顔なんて、笑うなんて誰でもできることだ。アイドルにとって基本スキルとさえ言える。歌が下手でも踊りが下手でも笑顔があればアイドルは輝ける。そう思う僕にとって笑顔を失ったのは痛手だ。

でも前程絶望はしていない。少しずつでも笑顔を練習していけばいい。一度駄目になったくらいで諦めない。それにこの一次審査だって優に出してもらっものだし、今度は自分の意思でオーディションを受けよう。

千早になることを諦めた僕だけれど、それ以外のものを何一つ諦めないと決めたんだ。アイドルにだっていつの日かなってみせるさ。

それはそうと優はどうしただろうか。メールがあってから結構経った気がするけど。

 

「あの……せめて、お話だけでも」

 

優を捜すために意識を外へと向けると、目の前に見知らぬ男性が立っていることに気付いた。

今の台詞からして、どうやらずっと僕に声を掛けていたらしい。あまりに集中していたためスルーしていたようだ。

悪いことをしたと思い謝ろうとしたところで気づく。それまで同じように待ち合わせをしていた周りの人達がごっそりと消えていた。唯一残っているのが今僕に声を掛けて来た人だけ。

何だこれ。集団消失事件か何か?

突然の超常現象に戸惑った僕はろくな反応もせずにもう一人の顔を見る。って背が高いな。

相手の男性は軽く見上げる必要があるくらい背が高かった。少し首を傾けて相手の顔を見ると、やけに鋭い目と合う。ぱっと見脛に傷持つタイプのご職業の人に見えなくない。

これ、人が去ったのこの人の所為じゃないか。もしかして僕は逃げ遅れたのかな?

しかしよく見ると落ち着いた空気を纏う生真面目な人だとわかる。こういう直感的に善人か悪人かわかるのは元の世界と比べてこちらが単純にできているからだろうか。ある意味メタ的な物の見方ができるのは転生者の特権なのかもね。

 

「……私、ですか?」

 

僕しか居ないけど、万が一僕以外の人に話しかけているパターンもあるから一応尋ねてみる。

これで違うとか言われたらこの人やばい人だったわで終わるのだが、やはり男の目的は僕だったらしく短く「はい」と言われてしまった。僕が反応を返したことに安心したのか、男の表情が若干ほっとしたものになった。

 

「何か御用ですか?」

 

僕が再び尋ねると、男が今度はただでさえ鋭い目付きをさらに釣り上げる。

ぶっちゃけ怖いんですけども。さっきは善人か悪人かわかるとか言ったけど、善人でもやばい奴とか居るから。某神父みたいに「暴力を振るって良い相手は悪魔(バケモノ)共と異教徒共だけです」とか言う輩も善人に属されるので油断できない。

よく見ると遠巻きにこちらを窺っているいる人が何人か居た。中にはケータイ片手にどこかに通報しようとしている人までいる。そこまで必要とは思えないけど、無関心を装って見て見ぬふりをしないのはポイント高いよ。

一応今の僕ならば一般人程度腕力のみで挽き肉にできるから、仮にこの人が何かして来ようとしても特に危機感を抱くことはない。むしろこの場で猟奇殺人めいた罪を犯すわけにもいかないので、どう処理するかの方が問題だった。

できるとしたら「チヒャー……ぼ、防御たのむ」とか言った後に心臓抜き取るくらいか。いや、殺してるじゃん。

そんな馬鹿な考えを僕がしていると、男は一度唾を飲み込んだのか喉をごくりを鳴らし用件を告げた。

 

「アイドルに興味はありませんか?」

「……はい?」

 

時計の針が進む音が聞こえた。

 




千早覚醒完了。
ここからは346プロ編。つまりアイドルマスターシンデレラガールズ編となります。ようやく本編はーじまーるよー。
絶望して投げ出して諦めて、それでもやっぱり捨てられなかったものを拾い上げて、必死で希望をつかみ取ったことで千早は変わることができました。
でも如月千早0歳児はまだ前世を引きずって失敗するし、千早と自分を比べて情けない思いをするかもしれません。それでも何も諦めないと誓った心は絶対に折れることはないでしょう。
今後とも千早ちゃんのサクセスストーリーをよろしくお願いいたします。

※凛については色々と考えましたが、現状つんつんしてるだけのキャラになってもらいます。これは設定改変というよりは、とある人物の行動の結果生まれた選択肢の一つとして書いています。
 凛も不穏な感じですが、春香の方も実は何も問題が解決していません。その他CPメンバーとの関係等、この千早はアイドル活動よりも人間関係で苦労するタイプ。



えー、以下色々とあとがきにて書きたかったことがあります。
各キャラの設定とか、原作との違いとか、そういうあれこれを書きましたが、ネタバレを含んでしまうので泣く泣く全カットしました。
意味深なセリフとやり取りは別視点での補足説明という形にいたします。
今のところ別視点があるのは、優、春香、武内Pをそれぞれ1シーンずつ、1話にまとめたもの。凛は1話まるまる。それぞれの千早の印象を幕間の物語として出したいです。
一般人(優)、アイドル(春香)、プロデューサー(武内P)、???(凛)から見ると千早がどう映るのかというのがわかるような短編にしたいです。たぶんそれぞれまったく違う人間に見えることでしょう。

今回のお話で千早がアイドルを始めるためのプロローグ終了です。
本当は1話目でプロローグは終わる予定でしたが、千早がどういう人間か掘り下げているうちに3話分になりました。
1話目1万文字、2話目2万文字、3話目にして5万8千文字です。アホです。
4話目からはなんとか長さを調整したいと思います。5万文字は超えないように。

長々とプロローグを書きましたが、乱雑になりすぎたので簡単に千早の変化を書くと以下になります。
転生したぞ→どうやらアイマスの千早に転生したらしい→何故かわからないけど千早にならないと(強迫観念)→弟が死なないと千早になれない→弟は現実に生きているから死ぬなんてだめだ→千早以上の千早になるぞ→765プロ落ちる→千早以外の生き方を知らないから何もできない
二年経過
千早のいない765プロが成功なんて無理じゃろ→アリーナライブ?バックダンサー?千早いらないじゃん僕要らないじゃん(アイデンティティの喪失)→みんな僕を嫌う。僕を忘れてしまう。→優「お姉ちゃん好き」春香「私は覚えてるよ」千早「やったー!千早ちゃん大勝利!」

以上。登場キャラ屈指のチョロインでした。


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アルティメットな笑顔

346編開始。
間を開けてしまいました。遅筆で申し訳ありません。

4話はアニメ第1話の時期にあたります。原作同様に導入部ということで特に山場はありません。相変わらず千早がぐだぐだするだけです。

今回文字数を少なくするよう頑張りました。
前回のあとがきで文字数を少なくするという約束でしたので・・・。


 春。

 それは出会いの季節。

 進学や進級を経て新しい学友を得る人。就職戦線を乗り越え社会人として世に羽ばたく人。これからの期待と不安が混ざりながら新たな人の繋がりが生まれる季節。

 春。

 それは別れの季節。

 卒業を機に友達と別の道を歩くことになる人。親元を離れ一人暮らしを始める人。これまでの絆の深さがそのまま別れの悲しみになる人の繋がりの儚さをしる季節。

 喜びと悲しみが同時に存在する矛盾した季節。

 出会いがあれば別れがある。当然のことだ。

 ほら、ここにも一つ別れのシーンが……。

 

「優、行かないで! 優が居なくなったら私は!」

 

 倒れそうになりながらも必死で優へと手を伸ばす。冷たい床に膝が当たり痛みが走るが気にしている余裕はない。

 

「お願い、お願いだから……考え直して!」

 

 何とかギリギリで優の足へと抱き着いた僕は必死に思い直すよう懇願した。

 優がそっと僕の手を解こうとするので必死で抵抗する。この手を離さないと誓ったんだ。

 お願いだから行かないで。優が居ないと僕は……。

 

「ごめんお姉ちゃん。僕、行かないと」

 

 でも優が僕の願いを聞き入れる様子はない。

 申し訳なさそうにしながらも確固とした決意で僕の腕を引き剥がそうとする。

 僕はそれに抗おうと腕の力を強めた。しかしその前に優が上手く自分の足と僕の腕の間に手を入れることで牽制して来た。それだけで僕は力ずくで優を引き付ける術を失った。こうすれば僕が優の手を潰さないため力を入れられないとこの子は知っているのだ。

 優に思い留まって欲しいのに。力を入れてしまえば優を傷つけるかもしれないから本来の力を僕は発揮できない。

 現実の無情さに僕は涙する。この時点で僕の敗北は決定しているのだ。今はそれを引き延ばしているに過ぎない。優の意思は変えられない。僕はこの子を引き留められない。

 優が居なくなる。

 嫌だ……そんな、せっかくここまで来れたのに。

 

「優、優優! お願いだから……!」

「ごめんね、お姉ちゃん……僕」

 

 行かないで!

 僕の必死の願いが叶うことはなかった。優が僕の手から足を引き抜き一歩下がる。支えを失った僕は前のめりに倒れた。

 そんな、優……。

 

「さすがにこの歳で一緒にお風呂に入るのは無理だから」

「なんでええええ!」

 

 脱衣所から出ていく優に手を伸ばすが無情にも僕の目の前で扉が閉じられた。

 そんなあっさりと閉めないでよ。もう少し名残惜しそうにしてよ。

 約束された栄光が目の前で儚く散った現実に僕は脱力した。

 

「床がキンキンに冷えてやがるよー」

 

 もう春なので大して冷たくもないんだけどね。今の僕は下着姿のため床に触れる肌面積が広い。おかげでひんやりとした床の感触を直に感じられる。

 せっかく優とお風呂に入れると思ったのに。こんなのあんまりだぁ。

 

 

 今日は優が初めてアパートに泊まる記念すべき日だった。

 実は一人暮らしを始めてから今まで優が泊まったことは一度もない。何度となく優に泊まってくれるようお願いしていたのだけど、あの子が首を縦に振ってくれなかった。どうやらお母さんからお泊りを強く禁止されていたらしい。

 いくら中学生の息子が心配だからって、実の姉のアパートに一晩泊まるくらいの冒険は許すべきじゃないかな。泊まってくれたなら僕は優をたくさん可愛がるのに。そう必死で訴えかけても両親が首を縦に振ることはなかった。むしろこの話をしたことで、余計頑なになった気がするんだけど。

 しかし僕は諦めなかった。両親への説得を繰り返し、時にお願いし、たまに甘えたりして懐柔し続けていった。特にお父さんへの甘え攻撃は効果的だった。ちょっと甘えた声でお願いし続けたら僕の味方になってくれた。ちょろいわー、うちの父親ちょろいわー。

 後は優本人の説得だけだったが、こちらは意外にも簡単に達成した。前は渋っていたのに、今回に限ってすんなり了承してくれた。

 あとは三対一でお母さんを説得したところ、根負けしたお母さんから優のお泊りの許可が下りた。

 優が泊まりに来る。そのことに僕のテンションは上りに上がった。優が泊まりに来る前日から部屋の掃除を念入りに行い、優の好きなジュースやお菓子を買い込んだりして優を迎え入れる準備を整えた。

 当日のお昼過ぎに優がアパートにやって来た。その手にはお菓子が入った袋を持っている。こちらでも買うから必要ないと言っておいたのにわざわざ買って来てくれるなんて、やっぱり優は世界一良い子だと感動した。こんな良い子を弟に持てた僕は幸せものだ。

 優が持って来たお菓子と用意しておいたジュースで乾杯する。その瞬間アパートの一室が高級ホテルのスウィートルームになったみたいに華やいで見えた。優が部屋に居る。ただそれだけのことが嬉しい。優と過ごす時間は僕にとって何ものにも勝る。本当に幸せ過ぎて実はこれは夢なんじゃないかと頬を力いっぱい抓っても起きる気配はないので現実だとわかる。確認する時に頬の肉がちょっと取れかけたけど問題ない。

 ここが現実世界だと確認した後はお菓子とジュースを楽しみながら優とお互いの近況を報告し合った。

 優は今年中学二年に進級する。この一年で背が伸びた優は僕の身長をすでに追い越している。十五歳から成長が止まっている僕を見下ろす日もそう遠くないだろう。弟の成長がこんなに嬉しいだなんて、生まれ変わらなければ味わえない感覚だった。大好きな弟がどんどん男の子から男に成長していく姿を見るのは言葉にできない感動を僕に抱かせる。きっとこの気持ちは姉というよりも母親の感覚に近いのだろう。あんな小さかった優が立派になって僕も鼻高々だった。具体的にどれくらい成長したのか知りたいくらい。

 そう言えば優と最後にお風呂に入ったのはいつくらい昔だったろう。思い返してみると優がまだ小学校に入ってすぐの頃は一緒に入っていた気がする。確か僕が優の体を全身くまなく洗っていると知った両親が止めるよう言って来たんだっけ。まだその時小学生だった僕と二人っきりだと不安だったのかもね。だからといって両親と入るのもお風呂場のスペース的に辛い。何より年齢的に親と入るという羞恥プレイは避けたかった。それから今日まで両親の監視下にあったため優とお風呂に入ることは封印されていた。しかし今は違う。うるさい両親は居ない。お泊りはオーケー。だったら一緒にお風呂に入って弟の成長をこの目でしっかりと確認しよう。これも姉の仕事だよね。

 

 ……そう思っていたのに、蓋を開けてみれば今こうして優からの全力の拒否を受けてしまい撃沈している。

 久しぶりに背中でも流して労ってあげたかったのに。きっと姉にお風呂で世話になるのが子供っぽくて嫌だったんだね。そういうところが逆に子供っぽくて可愛いと思う。

 仕方ないので一人で入ろう。

 

「あー! 優と一緒にお風呂入りたかったなー!」

「部屋中に響く声で恥ずかしいこと言わないでよ」

 

 扉越しに優がこちらを窘めてくる。ごめんね、無駄に通る声でごめんね。

 

「ごめんね、声大きかったね。ごめんね、嫌わないでね?」

「ううん、別にそこまで大きいわけじゃないから大丈夫だよ。嫌わないって」

「優が優しいよおおお! 大好きだああああ!」

「声が大きいよ」

 

 今のは駄目だったようだ。加減が難しい。

 

「ねー、一緒に入ろうよ」

「無理だよ」

「今なら全身綺麗に洗ってあげるサービス付きだから」

「それが無理だから言ってるんだけど」

 

 うーむ、全身洗うだけじゃサービスが足りないと申すか。昔は洗ってあげるっていうと喜んで一緒に入ってくれたのに。あー、楽しかったな優の体洗うの。石鹸を大量に泡立て全身を泡だらけにしてあげると無邪気に喜んでくれたなー。

 洗ってあげるだけで釣れるのは小学生までか。だったら中学生の優向けのサービスを新たに考える必要がある。

 でも何をすれば優が釣れるかわからない。わからないなら直接優に訊いてみよう。案外アイス一個でいけるかもしれないし。

 

「じゃあ優が好きなサービスつけるから。何でも言っていいよ? 私にできるサービスなら何だってしてあげるから」

「……」

 

 あれ、優からの反応がない。気配は扉の前から移動していないので、そこに居るのは確かなのに……。

 ハッ、もしやサービスについて色々と考えてるのかも!

 考えているということは、考慮に値するということ。つまりもうひと押しでいける?

 

「ん? アイス? アイスかな? 今なら二段アイスにしちゃうよ!」

「……お姉ちゃんってさ、たまに本当に十七歳なのか不思議に思うくらい精神年齢がアレだよね」

 

 優の言葉にドキリとする。

 僕の精神年齢は前世含めると結構高い。一度リセットされているとはいえ、前世の記憶の分同い年の子達より心は成熟しているはずだ。

 まさか今のやり取りで優に僕の精神年齢の高さが見抜かれてしまったのだろうか。

 さすが優だね。慧眼だよ。どうやらアイスは選択肢として失敗だった。

 ここはもう少し十七歳らしいものを言うべきだった。

 たい焼きとか……。

 

「い、いやだなー! 優ったら何言ってるの? 私は身も心も十七歳だよ。逆に十七歳じゃなかったら何歳かってくらい十七歳だし。……ゆ、優から見ても十七歳だよね?」

「んー……十歳?」

「なんでええええ!?」

 

 まさかの年下扱いを受けていた事実に驚愕です。

 何てことだ。今までお姉ちゃんとして接していた優から逆に年下扱いを受けていただなんて。

 ずっと僕がお姉さんだと思っていたのに、優の中では僕の方が妹だったということか。道理で体を洗われるのを嫌がるはずだよ。

 そうだよね、妹にお風呂で世話になるのはお兄ちゃんとして恥ずかしいものね?

 僕を妹として見ていたなら仕方がない。ここはひとつ大人として優に合わせてあげるとしよう。

 

「しょうがないなー。お兄ちゃんがそこまで言うのなら、洗う側に回っていいよ?」

「いや、言ってないから」

「あっれー?」

 

 おかしいなぁ。洗われるのが嫌だから洗う側ならどうかと思ったのに。優には魅力的に映らなかったようだ。

 

「何を言われても無理なものは無理だから。お姉ちゃんも、風邪ひかないうちにお風呂に入っちゃいなよ? その後僕も入るんだから」

 

 優が扉の前から離れるのを感じる。

 声だけを聞けば今の優からは拒絶しか感じなかっただろう。しかしそれは大きな勘違いなのだ。優も内心では僕とお風呂に入れずに残念がっているのはわかっている。大方両親からここに来る前に一緒のお風呂は止めるように言われていたのだろう。本当に余計なことをする親だな。優が一人でお風呂にも入れない駄目な大人になるとでも危惧しているのだろうか。優はそんな軟弱な子じゃないのに。

 優の気持ちももっと考えてあげないといけないんだぞ。その点僕はちゃんと把握できている。

 今も優の心理を把握済みだ。

 扉越しに聞こえる優の筋肉と関節の音、あと衣擦れの音から優がかなり前のめりになって歩いているのがわかる。これはアレだね。僕とお風呂に入りたかったけど、親に言われているため断らざるを得なくて、肩を落としているという感じだね。

 そんな落ち込むくらいなら一緒に入ればいいのに……。

 という、優が親の言いつけをきちんと守る良い子というエピソードであった。

 

 

 お風呂から出ると優から意外そうな目を向けられた。

 何だろうね。そんなに僕のパジャマ姿はセンスないのかな。

 

「何かなー?」

「……お風呂上りにちゃんと服は着るんだね」

 

 いやだな、いくら僕だってお風呂上りに全裸や下着姿で歩き回るわけないじゃない。

 

「そんなはしたないことするわけないでしょ? もー、優ったら私を何だと思ってるのさ」

「……」

「あれ、何で目を逸らすのかな?」

 

 優の中の僕の評価ってどうなっているのかな。一度お互いの認識のすり合わせをしたいのだけど。あ、やっぱり怖いからやめておこう。

 僕の中の優の評価?

 そんなの世界一可愛くて純真無垢な小悪魔系大天使に決まっている。世に弟選手権があったらぶっちぎりで優勝間違いなしなほど優は弟レベルが高いのだ。

 

「前にお客が来てた時にバスタオル姿で出ちゃったことがあって」

「え、それ大丈夫だった?」

 

 優が心配そうな顔で訊いて来る。僕はその反応に心が温かくなるのを感じた。僕の身を心配してくれる姿が愛おしい。

 弟に心配させないために事情を説明しておこう。

 実はそのお客というのは春香だった。765プロの事務所から家までが遠い春香は、事務所での仕事が長引いた日には自分の家に帰らずに僕の部屋に泊まりに来ることがある。

「つい打ち合わせに熱が入っちゃう」というのは春香の言だけど、やけにその頻度が高い。泊まること自体に問題はないけど、春香の体が心配だ。

 アイドルに夢中になる春香の姿を見るのは嬉しい。でもそれで体を壊したら意味がない。僕の家に泊まるようになる前は終電間際の電車に長い間揺られていたと思うと春香の忍耐力に感心させられる。同時にその忍耐力の所為でいろいろと溜めてしまっているのだろう。僕の家に泊まることで少しでも彼女の負担が減るならばいくらでも泊まってくれていいと思う。

 と、前に春香に伝えたところ、顔面の筋肉が全部切れちゃったのかと思うくらい緩んだ笑顔になっていた。よほど通勤時間が長いのが辛かったんだね。今度また労ってあげよう。

 

「うん、そのお客が春香だったんだけどね、春香に驚かれちゃったから、それからは着て出るようにしてるんだよ」

「え!? それ大丈夫だった!?」

 

 何で同じことを訊いたのかな。しかも最初よりも必死さが段違いなんだけど。相手は春香なんだからそんな必死になる必要なくない?

 

「春香は女の子だから問題ないでしょ。さすがに私だって男の人相手にそんな恰好しないよ」

「いや、そういう意味じゃなくて、何かされなかったかと心配で」

「別に春香もそれくらいで怒る子じゃないから大丈夫だよ。心配し過ぎだって」

「ぎりぎりでチキンになるタイプだったか」

「にわとり?」

 

 優の言っている意味がよくわからなかったけど、何やら納得しているところを見ると優の中ではこの一件は問題なくなったようだ。

 

「あ、それからバスタオル一枚で出るのは止めなよ? 天海さん相手でもやめてね」

「うん、わかってるよ。やるとしても優が居る時までにしておくよ」

「やめてね?」

「はい」

 

 バスタオル一枚で出るのを窘めると優はお風呂場に向かった。当然着替えは持って行った。

 僕はそれをソファの上から黙って見送る。ここで一緒に入ろうと言っても断られるだけだと知っているから。

 まだ一緒にお風呂に入るのを諦めていない僕は次善の策を展開する。優が中へと消えたのを確認した僕はそっと足音を消しつつお風呂場の扉に近づき、

 

「覗いたり乱入して来たら駄目だよ?」

 

 速攻でバレたのでソファに駆け足で戻った。次善の策失敗。

 まあ、いいさ。一緒にお風呂作戦は失敗したけど、まだ僕にはミッションが残っているのだから。お風呂イベントくらいくれてやろう。

 

 時間は飛んで、いよいよ就寝時間となった。

 お泊りイベントと聞いてから僕が待ちに待った瞬間である。この時のためにベッドを端から端まで掃除したくらいだ。むしろ買い替えた方が早かったんじゃないかなと思えるくらい念入りに掃除した。お金ないから買い換えとか無理だけど。

 

「じゃあ、そろそろ寝よっか!」

「これから眠る人のテンションの高さじゃないよね?」

 

 僕のテンションに優が若干引いているが今の僕は気にしない。

 

「こんなものだよ! だってこれから優と寝るんだから!」

「いや、寝ないけど……」

「えっ……夜更かしは体に悪いよ?」

「徹夜でゲームしていたお姉ちゃんにだけは言われたくないけど……そうじゃなくて、お姉ちゃんと一緒には寝ないってこと」

「アメリカ語はさっぱりで」

「日本語です」

「なんでええええ、どうしてええええ」

 

 嘘でしょ?

 一緒に寝ないとか、だったら僕は何のために今日この日を迎えたと言うの。優と寝るためだけに生きて来たと言っても過言ではないくらいなのに。

 優と一緒に寝られると思ったから一緒にお風呂に入るのを我慢できた。だと言うのに一緒に寝ることまでスキップされたら僕はどうしたらいいの?

 

「お風呂の時もそうだったけど、この年で姉と一緒に寝るってあり得ないでしょ」

「そんなことないよ。仲の良い姉弟は一緒に寝るくらい当然のようにするよ。私と優は仲が良いんだから一緒に寝るくらいするよ」

「しないよ」

「なんでええええええ」

「それはもういいから」

 

 楽しみにしていたイベントが無慈悲なスキップにより無かったことにされる。それを許すわけにはいかないと何度も優に一緒に寝ようとお願いしても優は首を縦に振ってくれず、さっさと来客用の布団を敷いていた。くっ、こんなことなら布団を捨てておけば良かった。

 

「なんでー? ねー、なんでなんでー?」

「幼児化しないでよ……。真面目な話、僕だって男なんだから、お姉ちゃんと一緒に寝たらどうなるかわからないでしょ」

 

 理由を訊ねるとそんなことを言われた。

 優が?

 

「無い無い」

「その無いはどれのことを言ってるのかでお姉ちゃんの僕に対する認識が変わるんだろうけど……男ってところに掛かってたら僕は真面目に傷付くからね?」

「優は男です。優のおしめを替えていた私が言うのだから間違いない!」

「その証明の仕方は何か嫌だ」

 

 可愛かったなー。小さい頃の優は可愛かったなー。もちろん今も現在進行形で可愛いけどさ、この頃は格好良い要素が入って来たから素直に可愛いって言い辛いんだよね。僕も元男だから男が可愛いと言われても微妙だってのはわかる。僕は優を理解できている。元男だからね!

 

「そうじゃなくて、お姉ちゃんは……その、弟の僕から見ても美人なんだから、一緒に寝たら……わかるでしょ?」

「……?」

「わかってない顔だこれ」

「……はっ、優に美人って言われたヤッター!」

「姉の純真無垢さが今は恨めしい」

 

 優に美人って言われて嬉しい。僕って容姿を褒められたことが少ないから優に美人と言われると胸がキュンキュンする。

 今でもたまに男として生まれて格好良いと言われる自分を想像することはある。でも、こうして女の子として生まれたからには女としての評価を蔑ろにはできない。だからこうして女としての自分を褒められると嬉しいと思えるのだ。それが優相手ならなおさらだ。

 

「だから、僕がお姉ちゃんに何かエッチなことしたら大変でしょって意味だよ!」

 

 自棄っぱち気味に優がそんなことを告げて来た。

 不思議なことを言うね。優が僕にエッチなことをするだなんて。

 僕達は血の繋がった姉弟なのだからそんなことになるわけないのに。僕は優を弟としか見てないし、優だって僕を姉としか見ていないはずだ。

 それとも優は違ったのだろうか。優にとって僕は女だったとでもいうのだろうか。

 嘘。

 そう思った瞬間、カッと頬が熱くなるのを感じた。胸が高鳴って心が弾む。全身の血が勢いよく流れだすような錯覚を覚える。

 

「優は、その……私にエッチなことしたくなるの?」

 

 もし優が僕をそういう目で見ていたとなったら僕はどうすればよいのだろうか。正直いきなり過ぎて思考回路がショート寸前だよ。

 いや、その前に優の本意を確かめないと。

 緊張しながら優の答えを待つ。

 

「えっ、い、いや、その、なー……らないけどさ。ほら、万が一って」

「ならないなら大丈夫だね!」

「最後まで聞いて!?」

 

 もー、驚かせないでよね。優が否定したことで先程までの熱さは一瞬で引いてくれた。冷静に考えればそんなことあるわけないってわかるのにね。僕もつい動揺して変な気分になっちゃったよ。

 優みたいに優しくていい子がそんなことするわけないじゃない。何度も言うように僕と優は姉と弟なのだから気にすること自体間違っている。

 きっと優は将来僕が男の人から酷い目に遭わないようにって、あえて自分を貶めることで僕を気遣ってくれているのだ。本当に優しい子だと思う。

 でも少し心配し過ぎだと思うんだ。仮に男の人が僕に何かしようとしても、僕の場合純粋な腕力で対処可能だもん。通常モードで握力二百キロあるからブチリと捩じ切ってお終いなのに。殴ってから何かしようとする輩の不意打ちだって神速のインパルス持ちの僕なら余裕で対処できる。そして万が一攻撃がヒットしても一瞬で治るから即対応可能だ。つまり僕に危害を加えることは不可能。

 それは優も見て知っているはずなのに。

 おそらく素手喧嘩(ステゴロ)で僕に勝てる人間はこの地球上に存在しない。僕とまともに戦いたいなら世紀末覇者でも連れて来いと言いたい。それで勝てるかは別問題だけどね。

 

「そんなに私のベッドで寝るの嫌?」

 

 そう、そこが一番肝心なところなのだ。僕の男性への対処とかは今この時はどうでもいいんだよ。優が僕を心配してくれるのは嬉しいけど、それは今度話し合うとして今は一緒に寝るのが嫌どうかが知りたいんだ。

 

「嫌って言うか、恥ずかしいと言うか……」

 

 布団の上で正座姿の優がもじもじと体を捩っている。何か言いたそうにしているのに中々それを言おうとしない。そんな優のはっきりしない態度を見て自分の目付きが鋭くなるのを感じた。

 

「何この子可愛い」

「その顔で出る台詞がそれって。知らない人が見たら怒ってるように見えるよ?」

 

 目つきが悪いのは気にしていることだ。元から冷たい印象を与えやすい千早の顔だけど、今の僕だと少し目つきを鋭くするだけで相手を威圧してしまう。優や春香は僕を理解してくれているからいいけど、僕を知らない人からすると怒っているように見えるらしい。

 一度コンビニに行く途中に僕の不注意から知らない女の子とぶつかってしまったことがある。僕は体幹をスポーツ選手並みに鍛えているためほとんどよろめかなかったけど、相手の子は足をもつれさせて転んでしまった。慌てて助け起こそうと手を伸ばしたものの相手の子が僕の顔を見るや泣き出してしまったのだ。

 差し出した手の行き先に困った僕が困っていると、どこからともなく現れた女性がやけに喧嘩腰で割り込んで来た。様子からして僕が少女をいじめていると勘違いしたらしい。言い訳をしようにも事実泣いている子が目の前に居るので信じて貰えない気がした。特攻服姿のくせに正義感の強そうな女性の剣幕に押されたというのもあって何も言えないでいると、当の泣いていた少女が僕と特攻服少女の間に入って事情を説明してくれたので事なきを得た。

 その時意外だったのは素直に特攻服さんが謝って来たことだ。てっきり誤解を受けるようなことをするなと言ってくるかと思っていた僕は驚かされた。失礼を承知で訊いてみると「誤解をされる辛さがわかるから」とのこと。見た目怖そうな女性だったのでこの人も見た目から色々と謂れのないことを言われてきたのだろうと察すると同時に、僕自身も相手を見た目で判断していた節があると自分を戒めた。

 特攻服さんが立ち去った後、改めてぶつかった少女に謝ると自分も前を見ていなかったからと謝って来たためその場はお互いの不注意ということで収まった。

 そこだけ見れば大団円に見えるのだけど、相手の子が最初から最後まで決して僕と目を合わせようとしなかったのは何でだろうね。地味に傷付いたんだけど。それ抜きに見れば庇護欲をそそられる大変可愛らしい子だったんだけど。

 そんな感じに、最近の僕は色々と誤解されがちなのだった。

 

「もー、じゃあ優は布団で寝ればいいでしょ!」

「最初からそのつもりだよ」

「で、私も布団で寝れば万事解決」

「何も解決してないじゃないか! 迷宮入りだよ!」

「大丈夫、私が優の布団入りするから」

「何も上手いこと言えてないからね」

 

 ベッドで寝るのが嫌なら布団で寝ればいい。とてもシンプルかつ最適な答えだと思ったのに、優にとってはよろしくなかったらしい。

 どうすれば優は僕と寝てくれるのだろう。

 何とか説得できないかと頭をフル回転させている僕の前で優はさっさと布団を被って寝に入ってしまった。

 こうなるとどうしようもない。優と寝るのを諦めた僕は仕方なく電気を消すとベッドに横になった。

 

「あー、優と寝たいなー! あーあーあー」

 

 優と寝たかったな。

 

「あー……優と寝たかった! 超寝たかった! あー優……あっあ~」

 

 この悲しみを歌に込めて歌うよ。急に歌うよ。せめてこの歌が優の安眠に繋がればいいなと思って。

 

「寝られないよ……」

 

 優の抗議が入った。ちょっと声が大きすぎたみたいだね。少し声量を落とそう。

 小声で歌うよ。

 

「あー、優、あっあっ優……あー優ーあっあ~」

「人の名前呼びながらあーあー言わないでよ」

 

 これは優の趣味に合わなかったか。歌に関して僕が外れを引くだなんて……。

 こっちはどうだろうか?

 

「ん、ん~……優、んっんっんー」

「わざと? わざとやってるのかな?」

「?」

「無自覚!?」

 

 がばりと布団を跳ね除けて優が上半身を起こす。せっかくの子守歌だったのだけど、優が起きたので無駄になってしまった。

 

「お姉ちゃんさ……」

 

 あ、子守歌はやり過ぎだったか。フェイバリット心が広い優でも幼児扱いされたらいい気分じゃないよね。

 失礼なことをしたと思い顔を伏せる。ごめんね、ここはアニソンだったね。

 

「ごめんね、子守歌は幼稚過ぎだよね」

「子守歌のつもりだったんだ……道理で無駄に上手かったわけだよ。そうじゃなくて、何かあった?」

「え?」

 

 唐突にこちらを慮る様な声で訊ねてくる優に顔を上げる。

 優の端整な顔がこちらに向けられている。その表情は心配そうにこちらを覗うもので、それを見た僕は喉が詰まりそうになった。

 心配させてしまっている。

 またやってしまった。

 

「お姉ちゃんがこうやって僕に構ってくる時ってさ、何かしら悩んでいる時が多いよね。別に僕の勘違いだったらいいんだけど、もし何か悩んでいるなら聞くよ?」

 

 好きだ!

 思わず叫びそうになるのをぐっと我慢する。素直に自分の欲望を口にして失敗して来たが、ここでそれは許されない。

 優は真面目に僕の悩みを聞いてくれようとしているのに、ふざけたことを言うわけにはいかなかった。いや、僕が優を好きだってのは本当のことなんだけどさ。

 

「悩み……聞いてくれる?」

 

 代わりに口から出たのは弱音だった。

 自覚はしていた。自分の中の不安定な感情が暴走しかけていることに。

 もしかしたら、今日優が泊まってくれたのも僕のそんな雰囲気を察したからなのかも知れない。優が言うには僕って凄くわかりやすい人間らしいから。

 

「もちろん」

 

 優から返って来た答えはとてもシンプルなものだった。

 だから僕は優が好きなんだよね。

 

「私が最近していることって知ってる……?」

「うん」

 

 話の切り出すにあたり、まずはここ最近の僕の話をすることにした。

 僕が何をしているか、それを把握しているかで話す内容が変わるのだけど、当然の様に優は知っていてくれた。説明が楽になる以上に知っていてくれたこと自体を嬉しく感じる。

 

「アイドルのオーディションにね、また落ちたの」

「……そっか」

 

 言葉にしてしまえば簡単な内容だった。オーディションに落ちた。それだけなのだから。

 でも内容自体は簡単な話ではない。オーディションに落ちたことが重要ではない。”また”落ちたということが重要だった。

 

「ようやくあの頃の心の傷も癒えて。アイドルを再び目指そうと思い立ったのに、結果はこの様だよ。悲惨過ぎて笑えないよね?」

 

 まだまだ完全とは言えないまでも、今の僕はあの頃と違って過剰な自信もプライドも無い。常に自分を底辺に据えオーディションを受ける時は、未だ見ぬライバル達を全員格上と考えて一切手を抜かないようにしている。それでも合格を貰えていないという事実に自分は無駄なことをしているんじゃないかと思いかけている。

 自分には才能が無いのではないか? まだ終わってもないのにそうやって諦めかけている自分が嫌だ。まだ僕は終わっていない。終わっていないのに、終わる理由を欲している自分が頭の片隅に居るのを自覚している。

 もう少し経ったら、今は存在を感じる程度の駄目な自分が完全に表に出てきてしまうのではないか。不安を感じ始めていた時に優が泊まってくれると言ってくれたのは本当に救いだった。救われるついでに現実逃避のため優に必要以上に絡んでしまったのは反省している。

 あれだけ頑張ると言ったのに、こんな風にやる気減衰中の僕を見たら優も呆れるだろうと思ったのだけど、返って来た反応は意外なものだった。

 

「僕にはオーディションのことはよくわからないけど。昔のお姉ちゃんならともかく、今のお姉ちゃんがオーディションに落ちるなんて信じられないんだよね。断然今のお姉ちゃんの方が凄いわけだし」

 

 優は心底不思議だという顔で首を傾げると信じられないと答えた。いやいや、信じられないと言われても事実こうして落ちているからね。

 あと昔の僕ってあの声も出なかった一番やばい時の僕のことだよね? それと比べて良いとか言われても自信持てないよ。

 それとも優には何かそう言うだけの確信があるとでもいうのだろうか?

 

「お姉ちゃんってさ、カラオケの点数って普段何点だっけ?」

 

 しかし優が重ねるように質問をして来たため確信について問い質すことはできなかった。

 訊かれたからには無視することはできず、意図がわからないまま答える。

 

「……初めて歌う曲以外は基本百点だけど」

「この間観た天海さん達のライブの踊りって、もう踊れる?」

「踊れるよ」

「全部?」

「うん。全部。全員分」

「……やっぱり、落ちる理由がわからないよ」

 

 そうだろうか。優の言葉に今度は僕の方が首を傾げる。

 カラオケでいい点を取れたとしても、それで相手を感動させられるかは別だ。心に響かせる技術は単純な点数で表すことはできない。

踊りだって真似ているだけで実際にライブで踊って盛り上がるかはわからないのだ。その場の空気を感じて合わせるにはライブの経験が必要になる。

 どちらも今の僕にあるのか自信がない。アクティブ系のチートを使えばできなくはないだろうけど。

 

「カラオケで百点とってもアイドルとして上手いかは別なんだよ。心に響かせることは点数で表せないから。踊りだって一回しか見れてないから、ただ再現しているだけのモノマネだし。盛り上がるとは思えない」

「前半は理解できなくもないけど、後半は明らかにおかしいこと言ってるからね?」

 

 僕の説明では優は納得しなかったようだ。

 おかしいな、優も一緒に観たからあのライブの凄さは理解できていると思っていたんだけど。あそこで見せた春香達765プロのパフォーマンスはこれは純粋に観客として観た優とアイドル志望者として観た僕の違いなのかな。

 

「審査員の人は何て言ってたの?」

「え?」

 

 優の言葉を咀嚼するのに少し時間がかかった。

 審査員が何と言っていたか……?

 あ、そういうことね。理解すると同時に優と僕で認識違いが起きていたことに気付いた。

 

「……」

 

 理解してしまえば話は単純だった。優の考える僕の問題は大したものではなかった。僕を過大評価している優にとって、今の僕の状況は想像の埒外に違いない。

 優がそう認識しているというならば、真実を語るのは憚られる。

 

「僕にも言えないこと?」

 

 そんな風に言われると困る。優に言えないことなんて前世の話くらいだと思っていたのに。それ以外は全て話したって良いと思っていたのに。今になって”話したくない”ことができるだなんて。

 悩みを聞いてくれると言った優に対して黙り込むのは気が重い。優には僕の全てを知って貰いたいから。でも、こればっかりは無理だ。申し訳無さに顔を優に向けられない。

 

「仕方ないね」

 

 僕が何も言わないでいると、優が痺れを切らしたらしく話を打ち切って来た。

 仕方ないね。こればっかりは僕が悪い。いくら天使の様に心が広い優でも聞いてとお願いしておいて黙るのは無しだよね。自分の不義理さに気落ちする。

 だが我が大天使の慈愛は僕の矮小な想像を遥かに超えていたのだった。

 

「今回は僕から何か言うことはやめておくよ。代わりに最近頑張ってるお姉ちゃんがもっと頑張れるようにご褒美をあげる」

「……ご褒美?」

 

 ご褒美と聞いて顔を上げる。

 何だろう。優からだったら何を貰っても嬉しいよ。

 意地汚いと思いつつ優の言う”ご褒美”にワクワクしていると、優は自分が寝ている布団を捲った。

 

「一緒に寝てあげる」

 

 想像を絶する破壊力だった。

 弟が、優が、一緒に寝てくれると言うのだ。心が歓喜に震える。それ以上に体が震えてしまう。

 拒む理由も断る意味もない。一も二もなくベッドから飛び降りると勢いのまま優の布団へと体を滑り込ませた。

 

「優の布団の中あったかいナリ~」

「喜んで貰えたなら良かった」

 

 喜ばないわけないでしょ。優と寝られるんだから満足しないわけがない。同じ布団で優と寝る。十年ぶりくらいの偉業達成に千早グランプリの審査員も満場一致で満点を提示したよ。これは殿堂入り確定ですわ。

 

「優の匂いがする。温かい。最高」

 

 すぐ傍に優を感じる。優の体温と匂いに包まれる感覚が心を落ち着かせてくれる。

 もっと優を感じようと思った僕は両手を優の首に回し、両足でしっかりと優の腰を挟み込んだ。これで一晩中優を感じていられるね。

 

「!? ……これは早まったかも。あの、お姉ちゃん悪いんだけど、もう少し離れてくれないかな?」

「お休みグッナイ」

「今までの流れを全て断ち切る程の寝つきの良さを見せないで」

 

 意識が闇へと沈んでいく。もう少しこの感触を楽しんでいたかったけど、眠気には勝てなかったよ。

 

「お姉ちゃん? あの、ねぇ……本当にこのまま朝まで? え? 嘘でしょ?」

 

 お休み、優……。

 

 

 ────────────

 

 次の日。

 優を抱き枕にしたためか、目覚めはとても良かった。こんな寝起きが良いのは優の小学校の入学式の朝以来じゃないだろうか。半ズボン姿の優が緊張した面差しで式場(体育館)を歩く姿を見た時は、そのあまりの尊さと可愛さに涙を流したものだ。周りからはドン引きされたけど。

 そんな爽やかな思い出と未だ感じる優の温もりに二度寝したくなる。今この時が最上なんだ。

 

「お姉ちゃん、起きたなら悪いんだけど放してくれないかな?」

 

 と思ったら優も起きていたようだ。若干眠そうな顔を僕へと向けてそうお願いして来た。

 

「だが断る」

「断らないで」

 

 こんな最高の環境をそう易々と手放せるわけがない。いくら積まれてもだ。

 

「ちょっと。僕トイレ行きたいから」

「あっ、それはごめん」

 

 さすがにトイレと言われたら離すしかない。優だって中学生でお漏らしなんてことになったら恥ずかしいもんね。

 素直に離すと優はのそのそと布団から這い出ると立ち上がり、若干猫背気味にお手洗いへと向かった。

 眠そうな顔といいダルそうな歩き方といい昨夜はあまり寝られなかったのかな。枕が変わると眠れないタイプとか? まさか僕の寝相が悪かったのか?

 うむむ、無理して一緒に寝て貰った身としては愛する弟を寝不足にしてしまったのは失態だった。これは何か別のことで挽回しなければ。

 そこでタイミング良くケータイが鳴ったので通知画面を見るとお母さんからのメールが入っていた。

 内容は『何か問題はなかった?』というものだった。問題は特になかったのでそのまま返そうとするが、そこで先程の挽回の機会がやって来たと気づいた。優が寝不足であるため実家に帰った時に気を遣ってもらおうと『夜に無理させ過ぎたせいで優が寝不足みたい』と返信した。

 お母さんからの返事は来なかった。

 

「うん……うん、大丈夫だから。何も無かったから。お母さん達はお姉ちゃんを誤解してるよ。そんな考えお姉ちゃんにあるわけないでしょ? あのお姉ちゃんだよ?」

 

 トイレから戻って来た優がお母さんと電話している。僕にはメールだけなのに優には電話するなんてお母さんは少し不公平じゃないかな。

 会話の内容はよくわからないけど、優が必死にお母さんを説得しているみたいだ。会話の端々に溢れる僕への信頼に心が温かくなるのを感じた。これからも優から信頼される自分であり続けようと密かに誓うのだった。

 しばらくお母さんと話していた優は通話を終わらせると大きく息を吐いた。

 

「僕に何か言うことはない?」

 

 優に言うこと? 何かあるだろうか……。

 

「優の抱き心地は最高でした!」

「それを誰かに言ったら二度と泊まりに来ないからね」

 

 そんな! 今すぐにでも全世界に自慢したいと思っていたところなのに。掲示板にスレ立て自慢したかったのに。タイトルは”【弟】一晩中弟を抱いてたけど何か質問ある?【最高】”とかで。

 でも優が秘密にして欲しいって言うなら仕方ないね。そういう二人だけの秘密とかって憧れてたから嬉しい。秘密基地みたいで童心に帰った気になるね。

 

「……うん、わかった。昨日の夜のことは二人だけの秘密だね。誰にも言えない弟との夜……」

「なんでだろう。内緒にして貰えたのに逆に泥沼に足を突っ込んでいる気分になる」

 

 その後は優が作ってくれた朝ご飯を二人で食べた。その間も昨夜の話について優は触れないようにしてくれている。僕が言うまでは待ってくれるということだろう。何年も僕を待ってくれていた優を再び待たせることに罪悪感を覚えるけど、もう少しだけ待っていて欲しい。これを乗り切れたら笑い話として話せるから。

 お昼前に優を家から送り出した僕はポストに封筒が一封入れられているのに気付いた。少しだけ期待してそれを手に取るも、その薄さに期待は霧散し代わりに溜息が漏れた。

 封筒には地味な色合いの文字で大きく『876プロダクション オーディション』と印字されている。その下に小さく企画の名前が書いてあったが今ではどうでもいいことなので意識しないことにした。

 この封筒はこの間僕が受けた876プロオーディションの結果が入っている。結果は確実に落選だった。封筒の薄さでわかってしまう自分が嫌になる。

 念のため中身を確認するとやはり落選と記載されていた。僕はその”一次選考”の結果を慣れた手つきで封筒にしまい直し部屋へと戻った。

 玄関で靴を脱ぐとそのままクローゼットへと近づき扉を開いた。中には手にある封筒と似たものが重ねて置いてある。どれも落選通知の入った封筒だった。

 その数およそ五十枚。

 あり得ない数だった。国内に存在する目ぼしいアイドル事務所のほとんどに応募したかもしれない。876プロもその中の一つだ。それでも合格が一つもないのはありえない。それ以上にこれだけの数落ちてまだアイドルを目指していることがありえないだろう。

 一次選考は書類審査のみで、そこで大多数が篩に掛けられ落とされる。百人受けたら残るのは十人も居ないだろう。分母はわからないが受験者の九割が写真の印象だけで落とされるのだ。一応履歴書の方も審査対象になるが、そんなもの二次選考以降の面接で聞く内容だろう。僕は履歴書も大真面目に書くタイプだった。写真に問題がある僕にとって履歴書の方で審査員の目に留まるように頑張るのは当然のことだった。

 しかし一次選考はあくまで第一印象だけが審査対象なのはどのプロダクションも変わりない。どれだけそれ以外を頑張っても意味はなかった。

 普通だったらアイドルになるのを諦めていてもおかしくない。実際僕も何度心折れかけたかわからない。でもアイドルになると決めたから。やれるところまでやり切りたい。

 これが優に言えなかったことだ。五十回以上オーディションに落ちているという事実を優に言うのが怖かった。そして五十回落ちてもアイドルを諦めていないことを知られたくなかった。これを知った優から「さすがに諦めたら」と言われるのが怖かったのだ。

 クローゼットの中に乱雑に重ねられた不合格通知の横に最近まで毎日のように書いていた履歴書用の証明写真の残りが散らばっている。その中の一枚を手に取り、写っている自分の顔を確認する。どれも全て同じ表情をしていた。

 

「不細工な顔……」

 

 自嘲を多分に込めて呟く。

 写真に写った僕の顔は笑顔を作ろうとして失敗した様な、酷く歪んだ表情をしていた。仮にもアイドルオーディションに使用していいものではない。

 笑顔が上手く作れない。

 そのことに気付いたのは春香の前で歌った翌朝のことだった。

 その時の僕は声が戻ったことに浮かれていた。夢も思い出し春香も助けられた。何一つ文句がない状況に小躍りしたくらいである。

 引きこもりニート時代は煩わしく感じていた陽の光も今だけは僕を祝福している気がした。締め切っていたカーテンを開けて太陽光を部屋に取り入れようとしたところ、それが目に入った。

 一切表情の変わらない自分の顔だった。

 あれだけ喜びに溢れていた心が一気に冷え込んだ僕は慌てて洗面所へと駆け込み鏡で顔を確認すると、やはりそこには無表情の僕が映っていた。

 震える手で顔を押さえ、無理やり笑顔を作る。むにょりと歪になった顔パーツの所為で奇怪な表情が出来上がったが今はそれどころではない。そのまま顔に力を入れ状態を維持しようとして恐る恐るその手を離す。しかし次の瞬間には形状記憶合金のように元の無表情に戻ってしまった。

 その後も何度か同じ行為を繰り返してみても無表情から変わらない。

 声は戻っても笑顔は戻らなかった。

 いや、薄く笑うことはできた。でもそれは笑顔とも呼べない程度の微笑でしかなかった。

 原因は今になっても不明のまま。笑顔の作り方だけがすっぽりと抜け落ちてしまっている。

 全てを取り戻したと思い込んでいた分この事実はショックが大きかった。

 一応感情が表にまったく出ないというわけではないのが救いだった。鉄面皮ではあっても表情が無いわけではない。優と春香が言うには嬉しい時に薄く笑っているらしい。あいにく僕はそれを確認できていないが二人が嘘を吐くわけがないので完全に無表情というわけではないらしい。笑えないわけではないということに希望を見出した僕はそれ以降笑顔を練習している。一度はできたアイドルらしい笑顔作りをもう一度習得するために日夜研鑽を欠かしていない。結果は芳しくないが。

 それと並行してのオーディション参加だったんだけども、書類審査すら通れない有様だ。

 僕が笑顔を取り戻すまでどれだけかかるか分からない。その間にも時間だけは過ぎ去って行く。そんな焦りから生まれた数撃てば当たる戦法は失敗に終わった。

 結局二次選考まで進めたのは一つだけ。優が出してくれた346プロのシンデレラプロジェクトのオーディションだけだ。それも時間切れで二次は受けられていない。もったいないことをしたと思うも嘆いたところで時間は元には戻らない。過去を振り返るのは無駄な時間だ。それよりも未来のことを考えよう。

 もしかしたら街を歩いているとアイドルプロダクションの社長に声を掛けられるとかあるかもしれないじゃないかとか夢見たり。

 部屋に置かれた姿見の前に立つ。

 両手の人差し指で口の端を持ち上げ、可能な限り目尻を下げる。最後に体を横に傾け体重をかけていない方の足を上げる。

 

「エヘ!」

 

 今できる渾身の笑顔とポーズをキメる。

 でも出来上がったのは顔面神経痛にでもなったのかと思うほど歪んだ笑顔だった。

 無理やり目尻を下げ、口角を上げたことで笑顔とも呼べない何とも不気味な顔が鏡に映っている。

 

「駄目だこりゃ」

 

 指を離すとすぐにいつもの無表情に戻った。

 何度練習しても上手く笑えない。

 三歳から毎日練習していた笑顔。年季だけで言えば歌以上に自信のあった笑顔は今では不気味な顔芸に成り下がっていた。

 何度試しても変わらない。

 しばらく手であれこれと顔をいじって笑顔の練習をしたものの、結果は顔芸のレパートリーが増えただけだった。

 今日の笑顔のレッスンはそれで終わった。

 

「もうこんな時間か」

 

 時計を確認するといい感じの時間になっていた。二時間以上顔をこねくり回していたらしい。集中すると時間の流れが早く感じる。

 僕は部屋の隅に雑に放置されていた荷物を持つとアパートを出た。

 

 

 夕方の街並みはどことなく寂しく見えるのは何でだろうね。

 行き交う人々が変わるわけでもないのに、何でこんなにも悲しくなるのだろう。などと無意味なノスタルジーを感じながら日の傾き掛けた道を歩く。

 今僕が歩いているのは最寄りの駅へと続く商店街の中だ。この時間帯は人通りが多い。手を繋ぎ歩く母子の姿や部活帰りの学生の姿をよく見かける。彼らまたは彼女らはこれから家へと帰るのだろう。逆に僕は今出かけ始めたばかりだ。一時期の昼夜逆転生活とはいかないまでも、世の中のほとんどの人と違う時間帯に活動をする自分が時折無性に寂しい存在に思える。僕だけが世の中の流れから取り残されたような錯覚を覚えるのだ。そして、それは遠くない将来錯覚ではなくなる。今だけが僕が他人と解離していると”錯覚”できる時間だ。いつかそれが”現実”になる前に僕は色々と折り合いをつけなければならない。

 これからやることを前に気分が暗くなりすぎてしまった。気分転換をしようと試しに周りを見渡す。

 視線を向けた先に大きな看板が見えた。

 看板には765プロの皆が赤で統一された衣装姿横一列に並んでいる写真が掲載されている。近々発売されるニューアルバムの宣伝広告だった。看板には大きく『765 PRO ALL STARS』と書かれている。

 しばらく発売されなかった765プロのアルバムとあって、765ファンどころか大勢のアイドルファンまでもが期待していると話題だ。

 あのアリーナライブのオープニング曲『M@STERPIECE』が収録されているということもあり、予約開始時点から売上一位を何週間もキープし続けている。僕も当然予約済みだ。

 最近までメンバー個々のシングルやアルバムは発売されていたが、765プロ全体となると本当に久しぶりになる。

 理由はメンバーの活動内容が増えたことで全体曲のレコーディングのスケジュールが合わなかったからだそうだ。今回全員のスケジュールを秋月律子が調整したことで全体曲のレコーディングができたらしい。

 というのを春香から聞いている。最近春香から765プロの情報が枝葉末節関係なく流れて来る。メンバーの個人情報に触れそうなものまで教えて来そうだったのでさすがにそれは止めた。僕にそれを聞かせてどうしようというのか。僕が悪人だったら記者なり出版社なりに情報を売ったかもしれないのに。

 その辺りの注意とともに個人情報保護の大切さを春香に説いたのだが、彼女からの返答は『千早ちゃんがそんなことするわけないって信じてる。それよりも私達のことを知って欲しかったから』という何とも反応に困るものだった。

 春香からの信頼は嬉しいが、それによって万が一でも彼女の立場が悪くなるのは避けたい。少なくとも765プロメンバーからの信頼を失うようなことにはなって欲しくはなかった。しかし真っ当に言いくるめようとしても聞く耳を持って貰えないため、せめて春香個人の情報だけにして欲しいと伝えたわけだが……そこは何故か二つ返事で了承が貰えた。どういう基準で素直になるのか僕わからないよ!

 それ以来メンバーの情報は当たり障りがない程度に抑えられ、代わりに春香本人の情報ががっつり送られて来るようになった。

「今日の朝ご飯は目玉焼きだよ」というメール文とともに目玉焼きが乗ったお皿を持ったパジャマ姿の春香写メとか。

「みんなと一緒にお昼ご飯」というメール文とともにお弁当箱を持ったジャージ姿の春香の写メとか。

「お仕事で失敗。少し落ち込んでます」というメール文とともに衣装姿の春香の写メとか。

「新しい下着買ったんだけど似合うかな?」というメール文とともにわりときわどい下着姿の春香写メとか。

 そんな風に事あるごとにメールを送ってくれるのは嬉しいけれど、ちょっと最近画像が危険だと思う。パジャマやジャージはともかく、発表前の衣装とかは拙いんじゃないかな。こういうのって守秘義務の範囲なんじゃないのかと春香の立場を心配する。

 ちなみに下着姿はもう何か送られ過ぎて逆に見慣れた。たぶんこの世界で春香本人の次に春香の下着を見た回数が多いんじゃないかな。将来彼氏か夫に追い抜かれるとはいえ、向こう数年は負ける気がしない。どんだけ下着買ってるのさ……。

 

 商店街を抜け駅近くの広場まで来た僕はすぐに適当な空きスペースを探し始めた。

 この辺りはストリートミュージシャンが通行人相手に歌を披露してることで有名なスポットだ。まだ初々しい少年が慣れないギター一本で歌う姿や青春よもう一度な中年男性のグループが懐メロをメドレーで流す姿など、音楽に携わる人間が多種多様に集まっている。

 その中でも人気のある者は固定ファンが付くらしく、前見た時は人垣を作っているスペースもあった。そういう人気者が芸能プロダクションからスカウトを受けるなどしてデビューしたという話をよく聞く。ここはそういったスカウト待ちの人間にとって登竜門的な場所だった。 お互いが同じ趣味を持つ仲間であるとともにライバルでもあるわけだ。切磋琢磨する相手がいると成長も見込める。特に同じレベルの相手ならばなおさらだろう。

 中には純粋に歌を聴かせたいだけの者もいるが、そういう人は端の方で歌っていたりする。ある意味一番歌を楽しんでいるのは彼らみたいな人達なのかもしれない。ちなみに僕の場合は前者の意味が強かった。モデル志望の人が渋谷や原宿を歩く感覚に近い。

 オーディションが駄目ならスカウトでのアイドルデビューも視野に入れるしかない。そもそも原作の千早もスカウト組だしね。もしかして僕にとってオーディションは鬼門なのかな。

 

 歌う場所はそれほど時間を掛けずに見つけることができた。今日はやけに人が少ないため選り取り見取りだ。

 ここで歌い始める前は毎日ところ狭しと歌う姿を見せていたストリートミュージシャン達だったが、最近はその姿がめっきり減ってしまった。

 僕がここを使い始めるまでは繁盛していたのにね。これでは人気者のお零れを頂こうという僕の計画が成り立たない。我ながら小物染みた考えだけど、僕みたいな無名の小娘には三下めいた策が必要なのだ。形振り構っていられる程の余裕なんて僕には無い。早く春香達に追いつくためにもこういうチャンスに賭けなければならない。

 居ないなら居ないで良い場所を貰おう。僕は良い場所から物色し始めていたのでこの場所はすぐに見つけることができた。この辺りは元は古参や人気者が独占していたスペースだった。早く場所をとるために場所取り役のパシリの人がお昼くらいから居座っていることもある人気の場所で、毎度人気者同士で激しい場所取り勝負が繰り広げられていた。たまにやり過ぎる人達もいたけれど、それも含めてここの名物だった。しかし今は歌う人間が居なければ場所取りの人もいない。ぶっちゃけ寂れている。

 しかし人通りは多いし、そこかしこにストリートミュージシャン待ちの人間の姿が確認できる。常連の誰か待ちみたいだけど、今日のところは僕の観客になってもらおう。

 持参したギターケースからクラシックギターを取り出す。このギターは昔お父さんが学生時代に使っていたものだ。僕が楽器が欲しいと言ったところ押入れから引っ張り出して来てこれをくれた。ギターの知識はないため良し悪しはわからない。お父さん曰く本来ガットギター(クラシックギター)は出さないメーカーのものらしいが、それが良いのか悪いのかは他のギターと聞き比べなければ判断できないだろう。

 軽く弾いてみて目立つ違和感もなかったので悪いものではないはずだ。年季が入っているがまだまだ現役で使えそうなのでありがたく使わせてもらうことにした。

 ちなみにその時お父さんから何時ギターを練習したのかと訊かれたので正直にしていないと答えたらしばらく反応がなくなった。

 ギター演奏が得意な”如月千早”が居たので練習時間は実質ゼロ秒だから正直に言ったのだけど失敗だった。今度聞かれた時はもう少し努力したアピールをしよう。

 

 ギターの弦を軽く弾きながらチューニングする。やはり古いためか少し弾かないだけで半音ずれてしまっていた。ペグを少しずついじりながらA=440ヘルツに調整する。お父さんはピアノと合わせていたらしいので442ヘルツにしていたらしいけど、僕はギターソロしかしないので440ヘルツにしていた。一度どちらがいいかお父さんに確認したけどまたもや絶句されて以来訊いていない。

 僕がチューニングを始めると何をやるのかと興味を引かれた人間が注目し始める。

 特に人が集まるまで待つような真似は常連くらいしかやらないので僕は構わず歌い始めた。

 

「 遠い音楽 」

 

 曲名を告げ、静かにギターを弾きだす。

 この曲は物静かな曲調がクラシックギターに良く合う。

 出来ればピアノの伴奏で歌いたいけどピアノを持ち運ぶわけにはいかないし、キーボードはお金が無いので買えない。バイトでもして購入してみようか。

 まあ、汎用性の高いギターがあればいいかな。それにギターは静かな曲に合う。今の僕にはアップテンポな曲や明るい歌は合わないからちょうどいいのだ。

 十秒ちょっとの伴奏が終わり僕は歌い始めた。

 その瞬間、僕は自分の世界へと入り込んだ。

 外界からシャットアウトされ自分だけで完結した世界に僕一人だけが立っている。

 そこで僕は音色に歌詞を乗せて歌として外に送り出す。送り出した後の結果を僕は知らない。手は勝手にギターを弾き続け、僕はただ歌うだけだ。

 そうやって自分だけの世界で歌うこと一曲分。数分の間だけ僕は歌うことに浸っていられる。この時だけは全てを忘れていられる。

 未来への不安を頭から追い出せる。

 何度もオーディションに落ちて自分を慰めるように街頭で好き勝手に歌う日々に対してこんなことを続けて果たしてアイドルになれるのだろうかと疑問を抱きつつ止められない。

 歌っていれば、歌ってる間だけは忘れられるから。

 

 やがて歌が終わり、自然と意識が現実へと戻って来る。

 何度体験しても歌っている間のこのトランスは良いものだ。やばい薬をキメているわけでもないのに完全にトリップする感覚が素晴らしい。まじオクレ兄さん状態で癖になる。

 そこで周囲を見回すと何時の間にか僕の周りに人垣ができていることに気付いた。

 拍手なり歓声なりの反応が貰えたら出来栄えを把握できるのだけど、そういったリアクションは周りからは一切上がらない。

 盛り上がらなかったということは、あまり良い評価は得られなかったということだ。聴衆からすれば他に歌う人間がいないから試しに聴いてみたが内容は……といったところだろうか。常連が普段使う場所だということで期待値だけは無駄に上がっていたみたい。

 笑顔一つない人々の顔を見てそう自己評価を下した僕はこっそりと溜息を吐いた。今日も歌で人を笑顔にすることはできなかった。

 聴衆の期待に沿えなかった人間が次にとるべき行動は一つだ。

 ギターをケースへとしまうとすぐにその場を離れる。つまり退場処分ということだ。この場合自主退場というやつだね。その日聴衆ウケが悪かった者は自主的にその場を立ち去る。ここでの暗黙のルールのようなものだ。そうやって順番待ちや場所取りをしている人間に席を譲るというお行儀のよいシステムだった。例に漏れず僕も自主退場というわけである。

 聴衆も慣れたもので、僕が通ろうとするとすぐに人垣が左右に割れてくれた。軽く頭を下げると逃げる様に僕はその場を立ち去るのだった。

 

「今日もだめだったかぁ……」

 

 帰り道を歩きながら僕は今日の結果を独り言ちる。

 自分として生きると決めてから二か月。その間色々なプロダクションのオーディションに応募して来た。大手から弱小と呼ばれる事務所まで新人アイドルを募集しているところは片っ端から受けた。

 そしてその全てに落ちている。

 毎日送られてくる不合格の通知。決まって書かれているのは「如月千早様のより一層のご活躍をお祈り申し上げます」という一文。活躍なんて本当に祈っているなら合格させてくれと思う。

 オーディションに落ちた日には街頭で歌う。そんなルーチンができたのは何時からだろうか。

 確かあの日も不合格の通知を貰ったっけ。気分転換に外を散歩できる程度には落ちた後の切り替えが上手くなっていたと思う。十回を超えたあたりからペラペラの不合格通知を貰ってもあまり気落ちしなくなったから。

 特に目的もなく歩いていた僕の耳に遠くから誰かが歌う声が聴こえた。こんな町中で映像や街頭CMでもない生歌が聴こえることに興味を引かれた僕は歌のする方に向かった。

 歌に導かれるように歩いて行くと駅から商店街へと続く道に面した広場に出た。

 そこで目にしたのは老若男女問わず色々な人達が好き勝手に歌や演奏をする姿だった。

 皆楽しそうに歌っている。上手い下手はあっても、皆思い思いに歌を口ずさみ、曲を奏でている。その姿が何だか自由で楽しそうに見えた僕は「これだ」と思った。

 ここならばスカウトし易いに違いない。

 謎の確信を持つに至った僕はこの集まりに参加することを決めた。

 その日はここの決まり事などを把握することに努め、次の日から歌を披露し始めた。

 最初は端の方でこっそりと歌っていた。誰も聴かなくても歌っている間は気が楽になったから。しかし慣れてくると今度は誰かに聴いて欲しいと思うようになり、ちょっと本気で歌うようになった。この時くらいにギターを取り入れたのだ。

 そうやってオーディションに落ちる度に歌いに通っていたのだけど、ある時期から段々と端のスペースに隙間ができるようになった。それまで近くで歌っていたギター歌手志望っぽいお兄さんや懸命に歌っていた女性とか、端のスペースを主に使用していた人達が居なくなり、やがて端からはごっそりと人が消えてしまった。

 最初僕は今がたまたま人が少ないだけで、すぐに皆戻ってくると思っていた。新参者の僕の知らない人の増減周期があるのだと。ここで下手に中央の人気スペース側に行こうものならどんな難癖をつけられるかわかったものじゃない。それだけスペース取りに皆必死だった。

 だから僕は一人ぽつんと誰もいないスペースに取り残されることになっても暫く端スペースを使っていた。

 しかし、いつまで経っても人が戻る気配はなかった。仕方なく消えた人達により空いたスペース分を詰めることにした。

 新しく訪れた中央寄りのスペースでは端の人達よりも明らかに上手い人達が集まっていた。皆歌い慣れている感じがして、中には固定ファンみたいな人達が付いている人もいる。そんな風に身内のような固定ファンを獲得している人の横で歌うことに多少気後れしつつ歌うことにした。

 数日するとそのスペースからも人が消えてしまった。明らかに異常事態なのだけど、残った人達はあまり深刻にとらえていないように見えた。たぶん広場を訪れる人間の数が前よりも増えたからだと思う。歌う人間が減ってもそれ以上に聴きに来る人間が増えれば寂れることがないという考えなのだろう。

 僕もその頃は良い場所を狙う人間の一人になっていたので人が減ったことは気にしなくなっていた。

 そして今日はとうとう僕以外誰も居なくなってしまった。それでいて観客は前より増えているんだから不思議である。

 この間まで一番いいスペースを陣取っていた人達はどうしたのだろうか。今日は見かけなかった。あれだけ固定ファンが居たのに急に来なくなったらファンが悲しむだろうに。何か退っ引きならない事情でもあったのかな。よくわからないけど。

 こういうのを栄枯盛衰というのだろうか? いかに人気のスポットでもいつかは廃れてしまうものだ。あれだけファンの多かった人気グループが消えるのだから世の中何があるかわからないね。

 そうなると固定ファンも居ない新参者でしかない僕があそこに通う意味はもはや無いだろう。

 せっかく見つけた場所だったのに残念だ。もう少し早く参加していればもっと長く歌っていられたのだろうか。まあ、ああいう場所は流行り廃りが激しいって言うし、今回は運が悪かったと思って別の場所を探すとしよう。しかしただ新しい歌い場に移るのは芸がないと思う。

 さて、次からはどうやってオーディション落選の気分転換をしようか。

 いや、そもそもオーディションを新たに受けるのも難しいか。もうほとんどのプロダクションを受け終えてしまっている。今後はプロダクションを探すことすら困難になってくるだろう。

 こんなことなら346プロの二次選考を受ければよかった。そう今になって後悔している自分を自覚して嫌になる。

 二次選考はどうやったって受けられる状況ではなかった。二次選考の期限は丁度僕が最大級に落ち込んでいる時だったのだから悔いる意味がなかった。

 

「こんなことなら……はぁ」

 

 こんなことなら?

 今自分が呟いた言葉に憤りを感じる。

 何を今更言っているのだろうか。僕が今こうしているのは自業自得だろう。僕が選んだのだ。今の状況は僕が作った。

 全てはあの日のスカウトが発端だ。

 あの日、春香達のアリーナライブの日に僕に声を掛けて来た男性は自身を346プロのプロデューサーと名乗った。しかもシンデレラプロジェクトのプロデューサーだと言う。出来過ぎな話過ぎて一瞬裏を疑うレベルだった。

 株式会社346プロダクションと言えば、美城の一族が経営する老舗の芸能プロダクションと聞いている。軽くネットで調べたところオフィス街の一画に馬鹿でかいビルを建てそこに丸々一個会社が入っている。社内自体に撮影設備やトレーニングルームが完備されているとかで、765プロとは比べるべくもないほどの巨大プロダクションである。

 そんな大手の346プロのプロデューサーがわざわざ自分で外回りしてスカウトするという話は正直言って信じ難い。もっと言うと胡散臭い。初対面では誠実そうな人に見えたけど、一般的な感性からすると怪しい風体の男が突然自分は大手芸能プロダクションのプロデューサーだけどアイドルに興味ない? とか話を持ちかけて来たら百パーセント怪しむ。僕は一般人なので当然怪しんだ。

 しかし差し出された名刺は本物に見えるのでとりあえず話半分に信じることにした。仮に本物であった場合、プロデューサーから直々にスカウトされたというのはチャンスに他ならない。その時の僕は素直に喜んだ。 後の話になるけど346プロの公式サイトにプロデューサーとして顔写真付きで登録されていた。

 一度は時間切れで受けられなかった346プロのオーディションだったけど、プロデューサー本人からのスカウトというショートカットに内心浮かれた。これで春香達を追い掛けられるとその時は無邪気に喜んだのだ。

 しかし、プロデューサーからの話を聞いている間に僕のテンションは下がって行った。下がったというかドン底に落ちたと言うべきか。それまでの熱に浮かされた頭に冷水を浴びせかけられた気分だった。それはプロデューサーの、あの男が放ったたった一つの言葉が原因だった。

 それが理由で僕は男の誘いを断った。一度は受け取った名刺も突き返した。

 最初は乗り気だった僕が突然断ったことに男は驚き、何で急に態度が変わったのかと訊かれたが僕はそれに答えず、遠目にこちらへと向かってくる優を理由にその場から立ち去った。

 良い話だと思った。僕みたいな人間をスカウトしてくれた男に感謝もしていた。

 でも、だからこそ、僕は彼の話を断った。

 だって──。

 

「え……」

 

 相手のことを考えたからだろうか。こんな偶然あり得るのだろうか。

 あの男が居た。相変わらず遠目からでもわかる高身長だ。僕もあのくらいの身長が欲しいと思う。もちろん男として生まれていたらだけど。

 横断歩道を渡った先、久しぶりに見た男は初めて会った時と同じ不器用な人間特有の無表情になり切れていない硬い動かない顔で歩道の上に立っている。

 彼の目はまっすぐにこちらへと向けられていた。

 ……何で渡らないんですかねぇ?

 まるで待ち構えるように立ち尽くす男に胡乱げな視線を向ける。

 

「……」

 

 いや、まだ僕に用があるとは限らない。たまたま歩道に立ちたいお年頃なのかも?

 どちらにせよもうすぐ信号が切り替わるので渡り切らないと。

 僕はそのまま歩みを進めると歩道を渡り切り、無視する形になるが何も言わずに男の横を素通りした。

 

「如月さん」

 

 やっぱり僕かい。

 呼び止められたからには立ち止まるしかない。甚だ不本意だが相手は大手プロダクションのプロデューサー。しかもそこそこ偉い人。アイドルを目指す人間にとってこれ以上にない肩書だ。そのまま無視するわけにはいかない。

 僕はさも今存在に気付きましたという態度で男へと顔を向けると軽く会釈をした。相手も釣られたように頭を下げて来る。こんな小娘に律儀なものだ。

 ついこの間まで毎日のように見た男の顔を改めて観察する。一度断った僕に対して何度もアプローチを繰り返し、出向く先で何度もスカウトを繰り返してきた男の顔は相変わらずの強面だった。

 最初の頃は男の顔に少しビビっていたのだけど、定期的に会っているうちに慣れてしまった。今では少しだけだが感情の波を読み取れるくらいになっている。

 最近ぱったりとスカウトに来ることがなくなったので不思議に思っていた。いや気にしていたわけじゃないんだけどね?

 

「……お久しぶりですね」

 

 前言撤回。わりと気にしていたらしい。我ながら寒々とした声が出たと思う。自分はこんなにも他人に冷めた態度をとる人間だっただろうか。今の自分の態度を省みながらそんな疑問を抱く。

 僕は基本的に誰にでも平等に接するタイプと思っている。優に対して我を忘れるのはノーカウントだ。身内は別腹。

 僕の平等は平等に無関心というものである。初対面の相手や好意を抱けないと感じた相手にはあっさりとした態度をとる。決してこの男に対するようなツンケンしたものは僕の中に無かったはずだ。

 

「何か私にご用でもありましたか?」

「いえ、本日は近くの養成所に顔を出す用事がありましたので」

 

 勘違い恥ずかしい!

 まるで自分を待っていたのではないかと勘違いした自分をこの場で十回シバキたい。

 羞恥のせいで顔が熱くなる。

 そんなはず無いのに。何を期待しているんだか。

 ……うん? 期待?

 はて、僕は何で期待していたのだろう。

 何を期待していたのだろう。

 そもそも期待をしていたのかすら曖昧なのに。何か、もやもやする。

 そんな僕の内心を知らない男はぎろりと目を僕が手に持つケースへと向ける。

 

「その手にあるものは……ギター、でしょうか?」

「そうですが」

「ギターを弾かれるのですね。もしや駅近くのストリートミュージシャンの方々が集まると言う場所で?」

 

 さすが大手芸能事務所のプロデューサー。こういう素人の集まるスポットの情報も持っているのかと感心する。

 だがすぐに何を好印象を持っているのかと自分を戒めた。危うく絆されそうになってしまった。

 

「そうですが、それが何か?」

 

 意識的に突き放した言い方をする。「貴方に何か関係がありますか」という皮肉を込めた拒絶だった。男にとってはまったくの八つ当たりでしかないのに。無駄に引かれてしまっただろうか。

 しかしこの男は僕が思っていたよりも数段図太い性格をしていたらしい。

 

「大変興味がありますので、一曲お願いできませんでしょうか?」

「はいぃ?」

 

 男の言葉に思わず素が出てしまった。

 この男は何を言ってるのだろうか?

 今さっきまで養成所に顔を出していたと言ったではないか。養成所と言うとアレでしょ、アイドルの卵がいる学校みたいなところでしょ。そこでアイドル発掘に勤しんでいたというならば、嫌ってほどアイドルの卵から歌と踊りを披露されただろうに。その後でまだ聴きたいと言うのか。

 僕の歌を。

 

「お断りします」

「そこを何とか」

 

 ぐいぐい来るなぁ!?

ちょっと第一印象にあった落ち着いた慎み深い一歩引いたスタンスの人はどこに行ったんですかね。僕の勝手な思い込みで最初からこういう強引な人だったのかも知れないけど。

 

「何故そこまで聴きたがるんですか……養成所にも通っていない、素人の曲ですよ?」

「貴女の才能を改めて見てみたい、と言ったら納得いただけますか?」

 

 力強い声だった。真っすぐ僕を見る目も一切揺らいでいない。この人から嘘が感じられない。

本気だ。この男は本気で僕の曲を聴きたがっている。リップサービスでも建前でも興味本位でもない、本当に僕を知りたがっている。

 何となくだけど、それが真理だと思えるくらい僕は目の前の人間から本気を感じた。

 

「……一曲だけですよ」

 

 その意気に負けたとでも言うのだろうか。

 気付いた時にはそんな妥協染みたことを言っていた。

 まあ、聴きたいというのなら聴かせればいいだけだ。それだけならば今の僕でも可能なのだから。

 

 曲を披露するのは近くの公園ということになったので二人して移動した。

 一時期に比べ日が長くなった気がする。西日が公園に残り、舞い散る桜を赤く染めていた。

 

「桜の花びらが散るのを見て、春が来たと思う人と春が終わると思う人の違いって何だろう」

 

 桜の散る姿を見て自然と言葉が零れた。

 

「……春を常に意識している方は桜の終わりと重ねて春が終わったと思い、意識していなかった方は桜の花びらで春を思い出しその到来を感じるのでしょう」

 

 別に答えを求めていたわけではないのに、男が自分なりの解釈を言って来た。

 僕の何気ない呟きに律儀に答えてくれたことがくすぐったく感じる。自分と似た解釈なことが少々癪だったけども。

 

「じ、時間が無いのでさっさと終わらせますよ」

 

 ちょっと気恥ずかしくなった僕は誤魔化す様にギターケースを広げる。

 その時ちょうど強く風が吹いた。

 

「っ」

 

 冬を思い出したかのような冷たいそれに体が震える。

 意識すれば暑さ寒さを感じなくできるとはいえ、常にそれでは人間性を失っていくと気付いてからできるだけ外部からの刺激を遮断しないようにしている。

 しかしずっと刺激に鈍感になっていたため、今の僕はふとした瞬間の刺激に弱くなっていた。

 もう一枚多く着てくるべきだったかな。

 つい昨日まではスプリングコートを着ていたのに、今日になってセーターに変えたのが裏目に出てしまった。風邪をひくことは無いにしても寒いという感覚はあるのでこの時間帯は少し辛い。

聴かせると言った手前帰るわけにもいかず、微妙な寒さの中で演奏することになる。

 寒さで指が悴んでしまわぬように手に息を吐きかけていると横の男が微妙に立ち位置をずらしたことを感じる。

 その位置が風から僕を守る位置になっていると気付いて顔が熱を持った。女の子扱いされている気がして恥ずかしくなってしまったのだ。

 こういう扱いを受けたことが少なかったので新鮮に感じる。記憶を辿っても優とお父さん以外の男性に優しくされた記憶が無かったからこういう時反応に困る。

 お礼を言えばいいのか、余計なお世話と怒ればいいのか、僕には判断がつかなかった。

 結局特に何も言わずにギターを取り出す。また勘違いかも知れないと自分に言い聞かせて。たまたま立ち位置を変えただけかもしれないのに。

 期待しちゃいけない。

 

「リクエストはありますか?」

「そうですね…………では、『蒼い鳥』をお願いしたいのですが」

 

 意外な選曲に何度か目を瞬かせる。

 男もそれは自覚しているらしく、右手で首の後ろを押さえながら眉をハの字に下げていた。

 

「変、でしょうか」

「ええ……いえ、ただ意外だなと思いました」

 

 確かに、どうにもこの目の前の男がリクエストするタイプの曲とは違う気がした。

 何か理由でもあるのだろうか。

 

「この曲に思い入れでもあるんですか?」

「いえ、ただ……その、何と言いますか」

 

 先程まで言いたいことを好きに言っていた男とは思えない歯切れの悪さに眉を寄せる。

 リクエストに意味が無ければ嫌と言うほど”芸術家”ぶるつもりはないけれど、はっきりしない態度をとられるのも何となく気持ちが良くない。無いならば無いでいいのに。変に気を遣われる方が困る。

 訊いておいて申し訳ないけど、質問を取りやめようと口を開きかけたところで男が突然答えを出した。

 

「貴女に合いそうだと、そう思ったもので」

「……」

 

 数秒だけ呼吸を忘れる。

 ジーンと耳の奥で低音の耳鳴りが響き、寒さ以上に指先を震えさせる。言葉一つでそれまで取り繕っていた仮面が剝がれかけた。

 ごくり、と喉が鳴った音が頭によく響く。この人は何も知らないはずだ……。なのにいつも僕の弱いところを的確に突いてくる。

 良い意味でも悪い意味でも。

 今回のこれがどちら側かはあえて言わないけど。

 

「お願いしておいて訊くのも失礼とは思いますが、この曲は問題ありませんか?」

「どういう意味でしょうか?」

「あまりメジャーな曲というわけでもありませんので。レパートリーの中に無ければ他のものにしますが?」

 

 そう言われて、この曲の知名度はリアルと違ってこの世界では微妙なことを思い出す。

 アイドルマスターという作品では有名だとしても、この世界の中ではまだ無名だった千早の持ち歌の一つでしかない。

 あれ、そう言えばこの歌ってこっちだとどういう扱いになっているんだろう。僕の持ち歌でないならばどうやって世の中に出たのか。

 

「如月さん?」

「あ……はい、初めて歌いますが問題ありません」

 

 思考が逸れてしまった。慌てて問題がないと答える。

 

「……そうですか」

 

 一瞬男の目が細められた気がしたが気のせいだろうか。

 まあ、どうでもいいことだ。

 無駄な思考はとりあえず排して今は歌に集中しよう。と言っても曲が曲だけに難しいが。

 蒼い鳥。

 それは初期の千早を象徴するような歌だ。

 アニメのエンディングと劇中歌として披露された、まだ765プロの皆と打ち解けていない時の歌だ。

 千早が作る他人との壁を意識させる描写に使われているため、千早にとってはマイナスなイメージを持たせる歌である。

 それが僕に合うと言われて正直複雑な気持ちになった。でも千早の歌だ。千早が歌っていた歌だ。

 何となく、嬉しいと思う自分がいるのも事実で……。それが未練だというのは理解している。

 大丈夫、僕は如月千早として歌える。

 

 ゆっくりと曲を弾き始める。

 物悲しい曲調は最初一人の寂しさや孤独に耐える小鳥の境遇を想起させる。だがそれを小鳥は強がりと虚勢で耐え続けるのだ。

 そしてサビでは一人で飛ぶことの覚悟と強さを聴く人間に伝える。

 それは僕にはない強さだ。僕は一人で飛べる人間ではないから。蒼い鳥に僕はなれない。

 僕はこの曲に共感はできない。一人の寂しさを耐えて飛び続けることはできない。だから共感はしない。

 でも、この鳥の強さを否定はしない。一人で飛び続けた鳥の強さを僕は尊敬する。そんな想いを込めて歌った。

 

「……ふぅ」

 

 あまり歌に集中できなかったけど、ちゃんと歌い切れたことに安堵の溜息を吐いた。

 

「どうでしたでしょうか?」

 

 歌い終わってからも何も言わない男に感想を求める。ちょっと緊張している自分がいた。

 ずっと黙って聴いていた男は丁寧に拍手を送ってくれた。相変わらずの落ち着いた表情で。

 

「大変お上手だと思います」

「……ありがとうございます」

「ギターの方はいつからお弾きに?」

 

 来たな、その質問。

 僕は二の轍は踏まないタイプの人間だ。お父さんには練習していないと答えて失敗したので、ちゃんと練習期間を設けていると思わせないと。

 

「一月ほど前からです」

 

 どうよ、完璧な回答でしょ。実際始めたのは一ヶ月前なので嘘じゃないしね。

 

「……これを……一月で?」

「え、はい」

 

 しかし返って来た反応は期待したものとは違っていたため内心首を傾げる。

 

「一日の練習量は? どなたかに師事を? 猛特訓の成果ということでしょうか?」

 

 男の矢継ぎ早に繰り出される質問に何か雲行きが怪しいと気づく。

 まさかこの人、僕がギター大好き少女で毎日ギター弾いていると勘違いしてる?

 ギターを毎日引く程ギター好きというのはキャラ付けとしては王道だが見栄えはいいだろう。

 しまったな、この人には変に興味を持たれたくなかったんだけど。ここは努力を匂わせつつ熱意は無い感じに訂正しておこう。下手にギターに全力だと思われても困る。

 

「特に毎日練習するようなことはしていません。弾きたい時に弾いているだけです。誰かに教えて貰ったことはありません。今の曲も勘でやっていただけですので」

 

 これで軌道修正できたかな?

 

「……」

 

 何か反応が悪い。顔が引き攣ってるけど大丈夫だろうか。

 大方ギター弾ける系のキャラかと思ったらにわかだったと知って落胆したってところか?

 残念でしたね、ギターキャラじゃなくて。にわかギタリストが調子に乗って街頭で弾いていたと知って驚いたでしょ。

 

「ご満足いただけましたか?」

「はい、改めて参考になりました」

「? そうですか」

 

 言い方に多少の引っ掛かりを覚えつつ、相手もこれで満足しただろうとギターをケースへとしまう。

 そう言えば気になっていたことを訊いてみることにした。

 

「蒼い鳥ですが、この歌ってどなたが歌っているんでしたっけ?」

 

 僕としては何となく口にした質問でしかなかった。

 質問内容もギターをしまう間のちょっとした世間話程度の認識でしかない。しかし、彼にとってはそれは意外な質問だったらしい。

 

「ご存知無かったのですか」

「え、はい。歌だけ知っていたので」

 

 男から意外……いや、異質な存在を見るような目を向けられてちょっと身を引いてしまった。どうやら僕のこの質問は相当ありえないものらしい。そうでなければ付き合いの短いながらも根っからの真面目人間だと確信できるこの男がこんな目で見てくるわけがない。

 それ程までに僕のこの質問はありえなかったようだ。

 

「この歌は”あの”渋谷凛さんの物です」

「──っ」

 

 渋谷凛。

 春香と僕の前に現れ、春香にリーダーの責任を問い質した少女。僕が居ない代わりに765プロに存在するアイドル。

 そうか、蒼い鳥は彼女の持ち歌だったのか……。

 僕の代わりに765プロに入った凛の持ち歌が蒼い鳥であることに少しも思うところがないと言えば嘘になる。でもそれは恨みだとか嫉妬だとか、そういう負の感情ではないはずだ。少なくとも凛に対して恨みがあるかと訊かれたら迷わず無いと答えられる。何と言えばいいのか、 たぶん僕が彼女の存在をいまいち認識し切れていないからだ。

 それに、あのメンバーの中で蒼い鳥を持ち歌にできるのは彼女しかいないというのも確かだしね。死蔵されるよりは世に広まってくれた方が嬉しい。

 だから彼女が765プロに居ることはどうでもよかった。

 もし彼女がいなければ僕が代わりに……なんて思考は無駄なものなのだ。

 

「……」

 

 ギターをしまう手を止めて黙っていると視線を感じたので顔を上げる。男がじっとこちらを見下ろしていた。真っ直ぐに僕を見つめる瞳に含まれた感情を読み取ることはできない。だけど、次に何を言われるのかは予想できた。

 

「如月さん、何度でも言います。今一度シンデレラプロジェクトに」

「私が了承したのは一曲お聴かせすることだけです」

 

 続きを言わせないように強い口調でばっさりと切り捨てる。

 

「如月さん、どうかもう一度お話だけでも聞いていただけませんでしょうか。それで考えが変わるかもしれません」

 

 考えが変わる?

 あは、何を言うかと思えば……変わるわけがないだろう。

 僕の考えは変わらない。変わるとすれば貴方の方だ。変わるなら貴方の方だ。僕の考えは変わらない。変えられない。

 今のままで僕をシンデレラプロジェクトに誘おうなんて無駄な努力でしかないのだから。

 

「私には貴方の求めるモノがありません。シンデレラプロジェクトに参加する資格がありません」

「如月さん」

「失礼いたします」

 

 それ以上男が言葉を重ねる前にその場を立ち去った。

 僕には参加資格がない。最初にそう言ったのは貴方だろう。だったらもう誘わないでよ。期待させないで。また駄目と言われた時に余計惨めになるから。

 惨めになるのはもう嫌だった。

 さすがにあんなはっきりと拒絶したためか、男が追ってくるようなことはなかった。

 ……なんだ。

 

 

 家への帰り道ではどうにも歩みに力が入らずゆったりとした足取りになった。歩き慣れた道だというのに何とも足元が覚束ない感じがしてなかなか前に進まない。

 手に馴染んだギターケースの取っ手が今日に限ってはよく滑る。何度持ち直してもすぐ手からするりと抜け落ちそうになって、その度に慌てて持ち直すというのを繰り返した。

 ふと目の端に入った道に落ちている空き缶を拾い上げる。近くにゴミ箱は見当たらない。周囲を見渡せば道路の反対側に自動販売機があり、その横の空き缶入れが見えた。わざわざ反対側まで渡ると拾った空き缶を捨てるとからんと缶同士のぶつかる音が虚しく響く。

 

「……」

 

 しばらく缶を捨てた姿勢でフリーズした。何故自分はこんなボランティアみたいなことをしているのだろうか?

 自分に問いかけるも答えは出ない。仕方なくその場を立ち去る。

 その後も目についた看板の文字を目で追ったり、目の前を横切った猫に触ろうとして逃げられたり、近所の子供が描いたたくさんの円でけんけんぱしたり。とにかく無駄な時間を使う。自分のこの衝動を名付けるどころか正確に把握することもせず、ただ時間を無駄に浪費した。

 そんなことをして時間を無駄にしたためか、アパートの前に着いた頃にはすっかり日が暮れていた。いつもならもう少し早くに家に辿り着くのに。あの人に歌を聴かせたことよりも、そこから家までの道を牛歩の如く時間を掛けて歩いたことが遅くなった原因だった。そう考えると夕闇以上に自分の心が暗くなるのを自覚した。

 自分の部屋のある階まで上り慣れた階段を一段一段ゆっくりと上がる。ゆらゆらと揺れるケースの底が何度も階段とぶつかりコツンコツンと音を立てた。

 階段を上りながら今日のことを考える。

 今日の僕は無駄な一日を過ごさなかっただろうかと。

 優が帰ってからオーディション用の履歴書を書いて、笑顔の練習をして、駅近くで歌って、あの男に曲を聴かせた。今日僕がやったことを挙げればこれだけしかない。

 履歴書を書いて別のオーディションの結果を見て落胆し、笑顔の練習をして落ち込み、何となく歌いに出る。それが最近の僕のルーチンワークだ。優とあの人の件は本当に特殊なイベントだっただけで、いつもの僕はこの繰り返しで一日を生きている。

 

 僕はギターを部屋の隅に適当に置くと、ケータイを取り出し短縮ダイヤルに登録した番号を呼び出した。

 数コールの後、相手が電話に出る。

 

『もしもし、お姉ちゃん?』

 

 電話の相手は優だった。

 今朝会ったばかりだというのに優と会話したのが遥か昔のように思える。

 

「優の声が聞きたくてぇ」

『そうだったんだ』

「今大丈夫? 忙しいなら後にするけど?」

『大丈夫だよ。ちょっと宿題してただけだから。夕ご飯も食べ終わったから時間もあるよ』

「そっかー、良かった。でも宿題があるならあんまり長引かせちゃ悪いよね! それにしても優はちゃんと宿題をやるなんて偉いなー!」

 

 僕なんて中学時代宿題を一度としてやって行かなかったからね。テストで満点取れば文句ないだろってスタンスだったから。我ながら舐めた態度だったと思う。

 授業もまともに聞いていなかったので一度数学教師にキレられたことがある。それでも態度を改めない僕に業を煮やした教師が「この問題が解けなかったら授業を真面目に受けろ」と言って数学の問題を黒板に書いたわけだけど。僕が最低限の途中式込みで三十秒くらいで答えを書いたところそれ以降何も言わなくなった。

 そんな僕は成績は優秀だが不真面目な奴として教師から扱われていたわけだけど。そんな黒歴史な僕の中学時代と比べて優はとても真面目に過ごしているようで感心する。

 

『そんなことないよ。普通だって』

「私と比べたら真面目だよ」

『……お姉ちゃんと比べたら誰でも真面目扱いになるよ』

「ん? よく聞こえないぞー。優の素敵な声が聞こえないよー?」

『ごめんね、電波が悪かったのかも』

「そっかー!」

 

 優の美声を妨げるなんて悪いケータイだな。後で電池パック抜いてやる。

 あ、そうすると優からのメールに気付かないかも知れないから止めておこう。命拾いしたな。

 

『最近はご飯ちゃんと食べてる? お母さんも心配してたよ。自分が行かない日はどうしてるのかなって』

「ちゃんと食べてるよー」

『本当? コンビニ弁当だけじゃだめだよ。昨日だって部屋にお弁当の箱がたくさん捨ててあったし』

 

 あちゃ、片づけたと思ってたのに優にはバレてたか。今度はちゃんとゴミ出しもしておこう。

 お母さんがご飯を作りに来ない日はだいたいお惣菜かコンビニ弁当だからゴミが溜まるんだよね。燃えないゴミの日に限って予定が入って捨てられないから余計溜まって困っている。

 だがそれも最近少しだけだが改善されて来た。当然僕が料理を覚えたとかそんな奇跡は起きていない。

 

「最近はねー、春香が泊まりに来た時に作ってくれるんだよ?」

『天海さんが?』

「うん。終電逃したーって言って765プロから家に来るんだよ。泊めて貰うだけじゃ悪いからって、その時ご飯作ってくれるんだ」

『……胃袋から攻めて来たかぁ』

「んっんっ? また聞こえないよ。電波?」

 

 そろそろケータイを買い替えようかな。最近はスマートフォンというのが主流らしいし。

 今僕が使っているケータイってガラパゴスケータイとか呼ばれているらしい。略してガラケー。そのガラケー全盛期でもあり得ないくらい古い型だったのでシーラカンスケータイと呼ぼうか。

 

『その料理変な味とかしてないよね?』

「大丈夫だよ、春香の料理は全部美味しいもん。それにせっかく春香が作ってくれた料理だから、多少おかしいくらいで残せないよ」

『一度信用したらとことん信じられるのはお姉ちゃんのいいところだよね』

「えへへ、優に褒められちゃった」

『とりあえず、天海さんが作った料理で変な味がしたものがあったら躊躇わず吐き出すこと』

「どういうアドバイス?」

『いいね?』

「あ、はい」

 

 ちょっと強めの念押しに思わず了承した。

 そんな感じに優との話が弾んだ。ところどころ電波が悪くなったり、優からの謎のアドバイスに戸惑ったりはしたけれどそれも含めて優との電話は僕にとって心休まる時間だった。

 本当ならもっと話したいし、できれば実際に会ってお話したい。でも今日のところは優も宿題があるからそんなに長話はできない。実際に会うにも優が学校があるからなかなか時間がとれないのだ。

 優不足が深刻化する前に何とか会えないかな。できれば休日にお出かけとかしたい。可能ならそのままお泊りしたいな。

 

「ありがとう。優と会話できたから元気でたよ!」

『そう、なら良かった。僕で良ければいつでも話し相手になるからね』

「優がぁ、優しくてぇ、生きるのが辛いぃぃびぇええん」

『唐突に泣くのはやめて欲しいかな』

「あい。ずびびっ」

『あと鼻も』

 

 最近優限定だけど涙脆い気がする。これは優の中学校の卒業式に参加したら涙と鼻水で脱水症状起こすレベルだわ。僕の目と鼻の穴は涙と鼻水でガバガバだわ。

 

「優のせいで私の両の穴はガバガバだよ~!」

『お願いだから、それをお母さん達に言うのだけは止めてよね。本気で』

「うん、よくわからないけどわかった」

『不安だ……』

 

 優は最近不安なことが多いよね。心配だな、僕でよければ力になるのに。でも優は僕に気を遣ってか何が不安なのか教えてくれない。お互いに世界で唯一の姉と弟なんだから、もっと頼って欲しい。

 

「優が不安になるなんて駄目だね。私に言ってくれたらその不安の原因をプチっと潰してあげるから、遠慮なく言ってね!」

『自殺教唆になるからいいよ』

「電波悪い?」

『……お姉ちゃんのことだから聞いてないふりとかできないだろうね。そろそろ本当に買い替え時じゃないかな。今時お年寄りでもそんな古いの使ってないよ』

 

 本当にねー。最近メールの受信もメールセンターに問い合わせしないと届かないし、電池の持ちも悪いから不便で困ってるんだよね。携帯充電器もこの型のとか存在しないし。

 

『何なら今度一緒にスマホ買いに行く? 僕も新型の見たいし』

 

 そ、それってもしかして!

 

「お泊りデート!?」

『お泊りでもないしデートでもないよ』

「うぇへへ、優とデートだぁ」

『くっ、本当にいい仕事するね電波!』

 

 その後はどこでスマホを買うか等の予定を話し合って優との会話を満喫した。

 通話を終えると早速春香にメールを送ることにした。この喜びを誰かに聞いて貰いたいという衝動が僕を突き動かしている。

 送るメールの内容は、昨日優が部屋に泊まってくれて色々してくれたことと、今度デートするというものだ。前々から春香には優とのことを相談に乗って貰っていたからその報告も兼ねている。

 

「……あれ」

 

 いつもなら送信して一分もしないうちに返信があるはずなのに、今日はいつまで経っても返事がない。

 普段僕からメールを始めることはないので春香は驚くかなとちょっと期待していたのだけど残念だ。ちなみに僕からメールをしないのは、春香が忙しい時にメールをして邪魔をしたくないからである。

 タイミングが悪かったのかも知れないね。最近の春香は人気が鰻登りなのである。一皮剝けたと言えばいいのだろうか、春香が見せる「私毎日楽しんでます」って顔で明るく仕事をする姿はお茶の間でも評判が良いらしい。

 そんな春香にメールをしてもすぐに返せるわけがないよね。つい何時もの感覚で送ったから戸惑っちゃった。

 まあ、後にでも読んだら反応を返してくれるだろう。僕は特に気にすることはせず、ケータイを枕元に放った。

 

 その日春香からメールが返って来ることはなかった。

 

 

 ────────────

 

 

 次の日のこと。

 コンビニにお昼を買いに行く僕の前にあの男が現れた。

 何時の間にそこに居たのか、僕の横に立った男の手にはシンデレラプロジェクトと書かれた封筒がある。男は無言でそれを僕に差し出した。

 一言あっても良いんじゃないかな。無言で突き付けられても反応に困るから。

 

「……何かご用でしょうか」

 

 理由なんて判り切ってるのにあえて皮肉を込めて男に問いかける。

 僕の態度から歓迎されていないのは理解できているだろうに、男は律儀にシンデレラプロジェクトと印字された分厚い封筒を僕の目に入りやすいように差し出して来るのだった。これワザとやってたらかなり大物だよね。もしくはこちらを舐めているか。この人の性格的に”絶対に”真面目に勧誘して来ているのだろうけど。だからこそ厄介な相手だった。

 僕は真面目に物事に当たる人間に強く出られないタイプの人間だ。これは僕がずっと不真面目な人間だったことの反動である。きっと僕の心の奥底では真面目に生きてこなかったことに罪悪感が根付いてしまっているのだろう。だから真面目な人を見ると申し訳ない気持ちになってしまうのだ。

 だからと言ってこの人の差し出す封筒を素直に受け取るかは別問題。断固とした態度で断るつもりであった。

 

「あの、私はお断りさせていただいたはずですが。何故今も勧誘されているのでしょうか?」

「せめて名刺だけでも受け取っていただけないかと」

 

 そう言って封筒の代わりに今度は名刺を取り出してきた。微妙に僕の質問からずれた回答だ。これこそあえてやっているんじゃないかと思う。今ので僕が断る対象が曖昧になってしまった。僕は勧誘について訊いたのに名刺を受け取れと言う。それにより『まあ、それくらいなら』ととりあえず受け取らせようという魂胆だろう。営業マンがよく使う手だ。さすが大手事務所のプロデューサー、何の策もない真っ向勝負で玉砕するほど馬鹿じゃないか。いくら実直そうな男でもこの手度の搦め手は使うか。

 多少の引っ掛かりを覚えつつ相手のやり方を冷静にそう分析した。

 

「何度も申し上げたように、私はシンデレラプロジェクトに参加するつもりはありません」

「……理由をお聞かせいただけませんか?」

 

 ここで答える義理はないと突っぱねることは簡単だ。でもそうすると今度は理由を聞くために付き纏われかねない。大の大人が子供みたいに「ねー、なんでー、なんでーねーねー?」と周りをうろちょろするのは嫌だった。

 どうせ話したところで問題にはならない。ここで完全に希望を断ち切るためにも説明しておいた方がいいだろう。

 

「私は──」

「君かね、少女に付き纏っているという不審者は」

 

 説明しようと男に顔を向けると、男は制服姿の警察官に腕を掴まれ職務質問を受けていた。

 なんでだよ!

 今僕が説明しようとしてたでしょ。それがたった数秒でお縄頂戴されかけているのさ。

 

「最近この辺りに不審者が出没するという通報があったんだよ」

「いえ、私はただ彼女に名刺と企画の書類を……」

「まあ、詳しくは署の方で聞かせて貰うので」

「ですから、私は」

「あの!」

 

 あれよあれよと言う間に警察官に連れて行かれそうになる男を見て思わず割って入ってしまった。

 その時彼の手にあった名刺を受け取ってしまう。これだけは受け取らないようにしようと思っていたのに……。

 

「この人は……その、知り合いです」

 

 だから、僕は真面目な人間が不遇な目に遭うのがダメなんだってば。同情心を誘うとかずるいだろ。

 

「知り合い、ですか?」

 

 警察官の視線が男と僕の間を行ったり来たりする。その目は「どんな知り合い?」という疑問が含まれていた。

 まあ、僕みたいな少女と強面の男が知り合い同士と言われても、まずどんな関係か察せる人間は居ないだろう。当の僕が男との関係を言い表せないのだから他人に察せという方が酷だ。

 

「……」

 

 とりあえず警察官の方もいきなり男に任意同行を求めるのは止めたらしい。しかし完全に納得したというわけでもないみたいだ。

 改めて僕と彼がどんな関係かと問われたらすぐに答えられそうにない。警察官に問われる前にここは戦略的撤退をするべきだ。

 何か手はないだろうか?

 まだこちらを疑っている警官の視線からどうやって逃げようかと視線を彷徨わせていると一件の喫茶店が目に入った。ここはあそこに逃げ込むしかない。僕は男の腕を掴むと喫茶店へと向かって歩き出した。

 

「あの、如月さん……手が」

 

 しかし男の方が何やら後ろでごちゃごちゃと言ってなかなか歩こうとしない。

 体格差から逆に引っ張られて後ろに倒れそうになった。

 

「あっ、大丈夫ですか?」

 

 倒れそうになった僕を男が慌てて抱き留める。僕の小柄な体躯がすっぽりと男の腕の中に納まってしまった。

 思っていた以上にたくましい胸板だと場違いな感想を持ってしまう。

 だがすぐに男の行動の所為で再び鋭くなる警官の視線に慌てた。

 仕方がない。僕は一時的に筋力を増強させると男の手から逃れ、引っ張られないように男の腕を抱え込んで無理やり男を歩かせた。僕の力の強さに驚いたのか男が一瞬体を硬直させていたが僕は気にせずに歩き続ける。

 

「き、如月さん、その……当たって」

「黙って付いてきてください!」

 

 もう男が寡黙なのか無駄口が多いのかわからん。

 僕はそのまま男を連れ喫茶店へと入った。

 

「いらっしゃいませ、何名様ですか?」

 

 喫茶店の中は僕一人では絶対に入らないであろうお洒落な造りをしていた。

 店員さんもアルバイトにしてはなかなかにあか抜けた感じである。近所にこんなところがあったのかと状況も忘れて少しの間店内を見回した。

 

「あの、如月さん……そろそろ離していただけると助かるのですが」

「あ、ごめんなさい」

 

 何故か非常に申し訳なさそうな声音で男が指摘して来たので慌てて腕を離す。さすがに警察官も店内まで追ってくることはないだろう。

 ようやく落ち着いたので僕はお暇したいところなのだけど、最後に男に皮肉の一つでも残してやろうかと我ながらいじわるな感情が芽生える。

 

「いえ、私の方こそ、ありがとうございます」

 

 律儀に感謝を述べて来る男に気勢がそがれる。

 別に助けたのは相手が貴方だからではなく、僕が誤解や勘違いで誰かが可哀想な目に遭うのが嫌いなだけだ。だからそんな風に感謝の念を込めた目で見ないで欲しい。

 そもそもこうして話を持ってくるのも、僕がいつまでも曖昧に断っている所為なのだから。男がしつこいという点を抜きにしても多少はこちらを責める姿勢を見せてもいいんじゃないかな。

 まあ、この人はそんなことを思いもしないのだろうけど。

 

「あの、お客様……」

 

 と、そこで店員さんを待たせていたことに気付く。

 男の方はともかく、僕は警察官をやり過ごす必要はない。この人を置いてお店から出ようと思い躊躇いがちに声を掛けて来た店員さんに連れではないと説明しようとする。

 

「二名で」

「ちょっ」

 

 だが僕が何かを言う前に男の方が答えてしまった。しかも二名って……。

 これは巻き込まれた感じ?

 若干胡散臭そうにこちらを見始めた店員さんの案内に従い、僕達は奥の方の席に腰かけた。

 

「申し訳ありませんでした」

 

 席に着くと開口一番先程の件の謝罪を受けることになった。

 今思えば律儀に同席する必要も無かったと今になって気付く。今更だけど。

 

「いえ、気にしないでください。私も無関係というわけではありませんでしたから」

 

 一応建前としては知人である男を助けるのは当然だろう。あのまま連れて行かれていたらどうなっていたかわからない。最悪大手プロダクションのプロデューサーが淫行疑惑で検挙なんてスクープが世をにぎわせかねないのだから。

 そうなったらアイドル業界の世間の風当たりが強くなる。こちらの世界でも芸能界というのは一般人からすると謎の多い世界だ。何が火付け役になるかわかったものではない。さすがの僕も大炎上している芸能界に飛び込みたいわけじゃないからね。

 だから別に貴方のためじゃないんだからね?

 

「先程もお尋ねいたしましたが、なぜお受けいただけないか理由をお聞かせいただけませんか」

 

 実はここまでの一連の流れが男の戦略なのではないかと思った僕は悪くない。先程までと違い喫茶店という逃げられない空間に誘い込むための巧妙な罠だったのではないか。

 さすがにあり得ないか。僕を追い込むためだけにそこまでの捨て身の攻撃をするわけがない。自分のプロデューサー人生を賭ける価値が僕にあるとは思えなかった。

 しかし男からは丁寧ながらも有無を言わせない迫力を感じる。少なくとも今この時は本気で僕に向き合ってくれているのは確かだ。

 一度スカウトした相手が断ったから躍起になっているという印象は受けない。相手もプロなのだからそんな理由でしつこく話を持って来たりはしないだろう。

 だったら何で僕に構い続けるのだろうか?

 

「あの、それにお答えする前に、改めて確認させていただきたいのですが」

「何でしょうか」

「どうして……私なんでしょうか。前にこのお話を頂いた時から時間が空いています。それが今になってまたお話を持って来ました。それをするだけの理由がそちらか私にあったということでしょうか?」

 

 初めてこの人にスカウトされた時は春香達のアリーナライブの日だった。その時に一応だが断っている。なのにしばらく男から勧誘を受け続けた。結構しつこかったのを覚えている。

 だがある日を境にぱったりと姿を見かけなくなった。さすがに諦めたかと思ったところで、また今になって現れたのだ。意味が解らない。男の行動の理由を知りたいと思うのは不思議ではないだろう。

 もしかしたら、もしかするのかも? そうやって期待する僕が居た。

 

「理由は幾つかあります。まず、シンデレラプロジェクトに欠員が出たため、その補充という意味です」

「欠員……」

 

 始まる前から欠員が出るとか大丈夫かその企画。大手プロダクションと言っても外れ企画というのはあるということだろうか。

 でもそのアイドルだって何か事情があったのかもしれないし。シンデレラプロジェクトの定員は十名以上らしいからその中の一人くらいならあり得るだろう。事故や家の事情ならば仕方がないことだ。

 ふと、空いた枠のおかげで僕にこうして話が貰えたことを喜ぶ自分が居た。浅ましい考えに顔も知らない相手に心の中で謝る。

 

「その補充として如月さん達にお声を──」

「ちょっと待って下さい」

 

 今聞き捨てならない言葉を聞いたぞ。

 

「はい? 何でしょうか」

「今、”達”と言われました?」

「はい」

 

 如月さん達──つまり、僕以外にも声を掛けていたということか。

 ちょっと上がりかけていたテンションが一気に萎んでいくのを感じる。

 なんだ、僕だけに声を掛けてくれたわけじゃないのか。

 

「あの、如月さん?」

 

 期待が大きかった分、気落ちする勢いも激しかった。何故だか男に裏切られた気分になる。完全に的外れな感情のはずなのに。

 僕以外に候補がいたことを残念に思っているわけではなかった。僕も補充……スペアの候補の一人でしかないことも納得しきれないけど呑み込むことはできる。

 でも僕以外にいるというならその人と比べられるということは拙い。それはどうしても許容しにくい。他の補充要員と何を比べ合うのかわからないけど、もしもそれが僕が危惧する物であった場合、僕は競い合うこともできずに敗北することになる。ならば予め確認しておかなければならない。

 わずかな希望を胸に問いを発した。

 

「……今回、私を補充要員として選んだ理由を聞かせていただけませんか?」

「ええ、もちろんです」

 

 唐突に話を振ったにも関わらず男は気分を害した様子もなく頷いてくれた。

 その態度が僕を安心させようとしてくれてるように見えて少しだけ心が落ち着く。期待が高まる。

 もし今度は違う選考理由だったならば、僕はこの人を信じてもいいと思った。

 

「笑顔です」

 

 その希望はたやすく手折られてしまったが。

 結局それだったか。

 僕は少しの失望を感じるとともに席を立ちあがった。

 

「……さようなら」

「っ、如月さん」

 

 何かを言いかける男を無視して僕は逃げる様に店を出た。まだ注文も何もしていないので別にいいだろう。

 

「何だよ。結局またそれかよ」

 

 また笑顔が理由か。

 笑顔。

 それは僕が失くしたものじゃないか。

 アイドルになるために練習した努力の結晶はあの日砕け散った。今この手には欠片しか残されていない。それは僕に残った千早の残滓だ。千早を目指していた時の僕が必死で磨いた自分だった。

 その笑顔を必要としていると言われて平常心を保てるわけがなかった。

 あの人は知らないのだ。僕が笑えないことを。だからあんな残酷なことを真っ正直に言えるのだ。

 店を出てからもしばらく走り続けていた足を止める。

 隣を見ればショーウィンドウに自分が映っていた。

 

「……」

 

 試しに笑ってみる。顔に力を入れると微かに目尻が下がり、心持ち口角が上がった気がした。

 だが出来上がったのはやはり不格好な、笑顔とも呼べない変な顔だった。

 笑顔が採用条件とあの男は言った。

 でも僕はその笑顔を彼に見せたことはない。あるとすれば優が出した一次選考の書類だけ。あれが世に出た唯一の僕の笑顔だ。プロジェクトのプロデューサーならば書類に目を通すくらいあるだろう。

 つまり、彼はたまたま目に止まった僕の中学時代の写真を見て笑顔を理由に話を持って来ただけなんだ。

 だから、彼が笑顔だと言った時に僕はシンデレラプロジェクトの誘いを断った。

 本当ならその時笑顔のことも言うべきだった。でも僕は正直に告げることができなかった。万が一にも彼の口からほかの事務所のプロデューサーに僕の話が行き、僕が笑顔が作れないと広まるのを恐れたからだ。誰彼構わず他人の事情を言いふらすタイプには見えなかったけど、業界の横の繋がりを侮ってはいけない。765プロの社長と961プロの社長に交流があるのだ。本来あり得ない繋がりというのはある。人同士の繋がりは常識では測れない。

 その結果ズルズルと時間ばかりを無駄にさせてしまった。欠員補充のためにも一日だって無駄にできないだろうに、こんな頻繁に僕のところに来る余裕があるはずがない。それでもこうして足を運んでくれている彼に申し訳なさと微かな喜びを感じている。

 

「……ん?」

 

 はて、僕は何を喜んでいるのだろうか?

 突然自覚した自分の心境に自分で首を傾げる。

 喜んでいる。何を僕は喜んだ。喜ぶ要素があっただろうか。しつこく付き纏われたことが嬉しいのか。何度もスカウトされたことで自分の才能を他人が認識していることが嬉しいのか。

 それとも期待されて嬉しいとでも言うのだろうか。

 ……馬鹿馬鹿しい。期待など受ける理由がない。仮に期待しているとしたら、その期待は相手の勘違いでしかないのに。裏切ることを前提とした期待を持たせるなんて不義理過ぎる。

 やっぱり理由をきちんと話して、絶対に僕はシンデレラプロジェクトに参加できないことを知ってもらおう。ずるずると無駄な時間を使わせるのは彼に悪い。大手事務所のプロデューサーをこんな小娘一人のために拘束するのはいけないことだ。何より彼が集めているという他のアイドルに悪い。

 欠員が補充されない限りプロジェクトは始動しないというならなおさらだ。参加する意思の無い僕が曖昧に断り続ければ、それだけ彼女達の活動開始時間が遅くなる。

 いつから止まっていたかは知らないけど、僕が最初に声を掛けられた時が二ヶ月前にと考えると最低でもそれだけの間待機させていることになる。そんな簡単なことすら気づかずにいた自分が嫌になった。

 名前も顔も知らないアイドル達に僕は心の中で盛大に頭を下げる。ごめんなさい、今すぐ君達のプロデューサーには理由をきちんと話して断るよ。

 気が変わらぬうちにすぐにでも男へと真実を告げようと踵を返す。

 だが、僕はそこから一歩目を踏み出すことができなかった。

 目の前に知った顔があったから。

 

「渋谷……凛」

 

 僕の前に凛が立っていた。

 オフの日なのか、私服らしい青のシャツと紺色のスラックス姿で足元には飼い犬だろうリードに繋がれた小型犬を連れている。

 奇遇というにはやけに凛の距離が近い。明らかに僕に用があるとしか思えない距離感だった。

 凛の顔からは春香相手に睨みを利かせていた時とは違い幾分険が取れているような気がする。ライブの時に遠目に見る機会があったけど、こうして普通の表情をしているとやはり綺麗な顔をしていると思った。

 

「貴女に呼び捨てにされる理由はないと思うけど?」

 

 しかし返される声は冷たい。見た目が穏やかな顔をした美少女である分、形の良い小さな口から放たれた言葉を一層冷たく響かせている。

 凛の僕に対する感情が冷めていることに嫌でも気付かされた。

 周りに人がいるから表面上そうやって取り繕っているだけなのだ。今も凛に気付いた通行人達が驚いた顔でこちらを振り返っている。

 

「失礼いたしました、渋谷さん」

 

 確かに言われてみれば僕は彼女と友達でもなんでもない。いきなり呼び捨ては失礼だった。

 あの時もまともに挨拶をしなかったし、もしかしたら僕の無礼な態度が彼女の冷たい態度の原因になっているのかと思った。

 

「っ……丁寧になる必要はないよ。別に後輩でもなければ……先輩でもないんだし」

 

 そう言ってくれるのは助かるけど。

 先輩でも後輩でもないと言った時、彼女が泣きそうになったのも、ギュッと拳を握った手が震えていたのを僕は見ないふりをした。

 

「春香が最近調子が悪いみたいなんだけど……」

 

 この話題は触れない方がいいみたいだ。凛自身も触れられたくないのか、別の話題を振って来る。もしかしたらこちらの方が本題だったのかな。

 それにしても春香が?

 何だろうか。ここ数日はメールと電話しかしてないから直接様子を見られたわけではないけど、文面や声から悩んでいる印象は受けなかった。

 春香は溜め込むタイプだから今度会った時にでも悩みが無いか聞いてみよう。

 

「そう」

 

 僕はあえて何でもないかのような反応を返した。

 765プロのメンバーで春香が思い悩み限界を迎えかけたことを把握していた人間は少ないそうだ。

 最初から知っていた者、後から知らされた者、事情を把握できていない者、年齢と性格を考慮して765プロ内で情報規制が施されているそうだ。

 誰がそれに該当するか僕は把握していないけど、凛が事情を知らないグループだった場合に余計な情報を伝えるのはよろしくないと思ったからだ。

 

「そうって……何その反応」

 

 でも凛にとっては僕の今の反応は望んだ物ではなかった。僕の考えや春香との付き合い方を知らない者からすれば今の僕は「自分には関係ない」と言っているように見えたことだろう。

 

「春香が悩んでいるのに、その態度はないんじゃない? 友達……なんでしょ?」

 

 ちょっと必死になり過ぎだ。一度クールダウンして欲しい。トップアイドルが往来で少女一人に声を荒げているというのはよろしくない状況だ。周りの目もある。

 自分が責められているというのに僕は凛の心配をしている。僕の言い方が悪かったとはいえ、理不尽に憤りをぶつけて来る凛に怒りを覚えない。

 たぶん僕は無意識に凛と自分を重ね合わせていたのだろう。それに気付いたのは結構後のことだけど、今この時は理由もわからずに凛の態度を許容しているのを自覚していただけだった。

 そんな風にどこか凛の態度を微笑ましく思ってしまったからだろうか、僕は凛に落ち着いて貰いたいがために無謀にも愛想笑いを浮かべようとした。

 

「何、その顔」

 

 当然愛想笑いなんて高等技術を今の僕ができるわけがない。結果として凛に変顔を晒すことになってしまった。

 やだ、こんな顔優にも見られたことないのに恥ずかしいわ。

 

「……笑顔、のつもり……ですけど、一応」

 

 自信がないため段々と声が小さくなっていく。自分でも今の顔はやばいってのは自覚していた。凛の瞳を鏡に自分の作り笑いが見えてしまったから。

 

「笑顔……? それが? 嘘でしょ?」

 

 当然凛から好意的な反応は返って来ない。むしろ馬鹿にされたとでも思ったのかこちらを睨んでくるありさまだ。

 そんな怖い顔をしないで欲しい。

 

「本当、ですけど……。私はこの笑顔しか作れません」

 

 必要性を感じないまでも、一応僕は嘘吐きだと思われたら回りまわって春香に迷惑がかかる可能性があるため、何とか凛に納得してもらえないかと言葉を探す。

 こういう時に口下手な自分が恨めしい。目の前の怒れる少女を納得させる言葉が浮かばない。結局事実をそのまま言うことしかできなかった。

 

「嘘だよ……嘘でしょ? 嘘だよね!?」

 

 何度も念を押すように凛が問いかけて来るが、本当に僕はこの笑顔しか作れないんだよ。そんな嘘嘘と言われても困る。

 そもそも凛の前で笑顔を見せたのはこれが初めてなんだから、何の証拠もなく嘘吐き扱いは止めて欲しい。必死すぎでしょ。さすがに抗議の一つくらい言ってもいいよね。

 実際に口にすることはできなかったけど。

 

「嘘だ!」

「ちょっ!?」

 

 突然凛が叫んだかと思うと両の肩を手で掴まれ、そのまま背後のショーウィンドウへと押し付けられる。その時凛が持っていたリードが手から落ちたが、凛の方はその事に気付いていない様子だ。

 僕の方もいきなりのことに反応が遅れてしまう。人間を超えた反応速度を持っていても、こうしてありえない行動をとられると精神が一般人の僕の場合対応が遅れるらしい。今知っても意味ないけど。

 と言うか何で凛はそんなに必死になっているの?

 今の彼女からは余裕が感じられない。先程まで取り繕っていた平静さが微塵も感じられない。こんな場所で、人通りのある場所で声を荒らげるなんて。

 周囲の人間が何事かとこちらを見ている。

 

「あの、落ち着いて……」

 

 僕は周囲を目で見回すことで周囲の目があることを凛に伝えようとする。頼むから気付いてくれと願いながら。

 でも今の凛にそんな余裕はなかった。

 

「私のことが気にくわないから笑わないだけだよね? そうでしょ?」

 

 周りの目など気にすることもせず、僕へと顔を寄せる凛。彼女の綺麗な顔が目の前まで迫り一瞬ドキリとする。思わず顔を逸らすと僕の目に凛が連れていた子犬が映った。突然の主人の豹変に戸惑ってるのか、リードが離されたというのに彼女の足元から離れようとしない。

 今は動かなくてもいずれ子犬が逃げ出すかも。場違いにも犬の心配をした僕は注意をするために凛へと向き直る。そして息を呑んだ。

 凛の両目の瞳孔が完全に開いていた。

 息が荒く、興奮しているはずなのに僕の肩を掴む両手は血の気が失せ逆に冷え切っていた。明らかに異常な状態と言える。

 何かに動揺している?

 何に? 僕が笑えないことに?

 それだけでこんな激しい反応を見せるなんて。疑問を込めて凛の瞳の中央、開ききった瑠璃色のそれを見返しても、こんな時でも無表情な僕の顔が映っているだけで思考までは読み取れない。

 

「この前春香に強く当たったのは謝るから……春香ともあの後和解したし、だから……ね?」

 

 明らかに様子のおかしい凛が的外れなことを言って来るも、僕は何も言い返せない。何故こんなことになっているのか理解できないから適切な対応がとれない。

 凛は何をそんなに動揺しているんだ。そして僕にどんな答えを期待している。

 笑えばいいのか?

 凛が望む笑顔を作れたら彼女は満足するとでもいうのだろうか。

 だったらすでに詰んでいる状態だった。僕に凛が望む笑顔は作れない。

 

「ごめんなさい……笑えません」

「っ!」

 

 だから僕は正直に言い続けるしかない。僕は笑えないと。

 それで納得してくれるわけがないと知っていても愛想笑いの一つもできない僕は真実を告げることしかできないのだ。

 

「なんで……貴女はそんな風に……」

 

 凛の口から漏れ出た言葉の意味はわからない。

 

「私の知っている如月千早はそんな笑顔じゃなかった!」

 

 凛は足元の子犬を乱暴に掴みあげると、初めて会った時と同じ様に僕に背中を向け走り去ってしまった。

 呼び止めることはできない。彼女に掛ける言葉が無かった。

 言いたいことだけを言って、逃げる様に去って行った凛。そのこと自体にはどうでも良かった。いや、どうでもいいと言うのは言い過ぎか。優先順位が低かったと言った方が正確だ。

 僕はただ、彼女が去り際に放った言葉が気になったていた。

 如月千早の笑顔って何だ?

 そんなもの凛に見せたことはないのに……。

 答えを知る本人の姿はすでに雑踏の中に消えていた。

 

 

 ────────────

 

 

 凛との一件は僕の中で後に引いた。

 とてもじゃないが男の元へ戻って説明する気力なんて湧くわけもなく、僕はそのまま家に帰ることにした。昨日と違い帰路を進む歩調は速い。余計な道草を食うこともせず真っすぐに家に帰る。

 僕は凛の期待を裏切ってしまったのだろうか。家に着くまでの短い間に何度も繰り返し考える。

 あの時の僕に正直に答える以外の選択肢はなかった。適当に誤魔化す術も無い。あるとすれば凛が嫌いだから笑顔を見せなかったという彼女の誤解を肯定することだけだった。そんな嘘で誤魔化せたとは到底思えないけど。

 家に帰ったところでそう言えば喫茶店にお弁当を置き忘れていたことを思い出した。

 わざわざもう一度買いに行くのも面倒だ。一食くらい抜いてもいいか。そう思うと同時にお腹の虫が鳴いた。

 ここ最近はまともな食生活を続けていたためお昼になると普通にお腹が空く。

 前みたいに一週間絶食なんて無茶は出来なくなっている。今でもやろうと思えばできなくもないのだけど、絶対に優から止められるのでやらない。そもそも絶食生活はゲームの課金代のために食費を削っていたからであり、ゲームをしなくなった僕にはそこまでする必要はない。

 そう言えば最近ゲームをしていない。昔は一日中パソコンの前に居たというのに、今ではプロダクション探しのために使っている程度だ。最新型のグラボを二枚刺ししておいて、やってることがネットサーフィンという無駄遣いっぷりである。

 久しぶりにゲームでもやろうかな?

 何となくご無沙汰だったネトゲをやってみようという気になった。

 パソコンの前に座って電源を入れる。SSD搭載のため起動は早い。二十秒ほどでデスクトップ画面が現れた。

 見慣れた優の顔の壁紙と目が合う。写真の中の優も格好いいよね。

 優の顔の左目の下あたりの配置されたゲームのショートカットアイコンをダブルクリックすると専用のランチャーが立ち上がり、すぐに別の小さな窓が表示された。

 

「そっか、アップデートかぁ……」

 

 長らく起動していなかったためにゲームのアップデートが掛かっていたらしい。公式サイトすら見ていなかった僕は知らなかったが、小窓にトピックとして大型アップデートがあったと記載されていた。

 残り時間を見ると軽く二時間は掛かりそうだった。完全に当てが外れた僕はゲームを放置しながら検索エンジンを別窓で開きネットサーフィンで時間を潰すことにした。

 何か面白い動画か記事はないだろうか、期待しながら動画サイトを物色する。

 そう言えばこういう動画を投稿できるところでは素人が自分の歌を投稿したりするんだよね。歌や演奏を録音して投稿し、それを視聴した人達がコメント付けたり評価したりするらしい。ある意味あの広場に集まっていた人達に近いわけだ。

 試しに僕もやってみようかな。顔出しでやる勇気はないから、歌だけ録音してそれを投稿してみるとかどうだろう。

 ネットならお世辞を言ったりすることもないだろうし、忌憚のない意見が貰えるはずだ。多少の酷評は今の僕ならば問題なく受け止められると思う。

 そうと決まれば録音機器を調達しよう。

 優にメールで家に録音に使える何かが無いか確認する。

 お父さんあたりが持ってたら借りたいところだ。

 優の返事を待つ間に近場で録音が可能な場所を探す。スタジオなんかを借りるお金も意味も無いから普通にカラオケ店でいいかな。一人で入っても恥ずかしく無い場所がいいなぁ。あと周りの音とかが入らないとこがいいけど、それは高望みしすぎか。とりあえず試しに録音して投稿できればいいだけだし。

 

「おっ、あったあった!」

 

 ちょうどいい事に駅前の近くに良さげなカラオケ店があった。値段も手頃だし、広さもなかなかだった。楽器の持ち込みがありなのも良い。

 録音場所はここで決定だな。

 と、そこでケータイにメールが届いた。送信元は優からで、今学校だから帰ったら確認してみると書いてある。そう言えば今日は平日だったなと曜日感覚の無くなっている自分に呆れる。前はネトゲの定期メンテで曜日を把握していたのに、今はゲームから離れているため完全に曜日感覚が狂っていた。

 そうなると優が泊まりに来たのは土日になるわけだ。今度から土日は泊まりに来てもらうとかどうだろう。後で提案しておこう。

 ゲームのアップデート状況を確認するとまだ二割も終わっていなかった。結構大きな仕様変更が入ったのかな。気になるけど公式サイトで確認するほどではない。ログインすれば必要な情報だけ表示されるしね。楽しみは後にとっておこう。

 アップデートまで時間が掛かるだろうし、その間にカラオケ店の下見でもして来るかな。お昼も割高だけどカラオケのメニューを適当に摘まむとしよう。

 こういうフットワークの軽さは昔から変わっていない気がする。引きニート時代前の僕は結構アグレッシブだったのだ。「よし、近所の暴走族潰そう」と思ったその日に族の集会に殴り込みを掛けるくらいにはアクティブでバイオレンスだった。碌な奴じゃないな、中学時代の僕って。それでも引きこもりに比べたら百倍ましだよね……?

 やんちゃしていた時代と比べて幾分丸くなった僕はカラオケに行くくらいが関の山だ。平穏って失ってみて初めてその大切さがわかるよね。

 被害者側の話だよ。

 アップデートを続けるためにパソコンは点けたままにサイフを手に取るとアパートから出た。

 

 

 

 ──────────

 

 

 どうしてこうなった。

 

「私、島村卯月っていいます!」

 

 眩しいくらいの笑顔を携えて現れた少女──島村卯月を前に僕は自分のタイミングの悪さを呪っていた。

 昼間の陰鬱な気持ちを払うためにカラオケ店で心行くまで歌った僕は意気揚々と帰路に就いた。帰った頃には放置していたゲームのアップデートも終わっているだろうし。今日は久しぶりに徹夜でゲームかな? なんて足取り軽く歩いていたのだけど、駅前から商店街に差し掛かった交差点で男と島村卯月に遭遇してしまった。

 彼女の背後には当たり前のようにあの男が立っている。一日二度の遭遇なんて今までになかったから完全に油断していた。

 まさか再アタックしてくるとは。しかも今度は第三者を使っての搦め手まで用意して来るなんて。あまり他人の助けを借りないタイプと思っていたので、こんな年端も行かない少女を連れて来たことに驚いた。

 

「こんな所で奇遇ですね」

 

 島村に対応するのを後回しにして僕は男へと声を掛ける。本当に奇遇なのか分からないけど、昨日の件があるので予防線を張る意味でも言い方が刺々しくなってしまった。

 結果として無視された形になった島村がしょんぼりとしているのが視界の片隅に映る。悪いことをしたと思ってもこの男と一緒に居たという時点で向こう側の人間だ。早々簡単に仲良くできるわけがなかった。

 自分が面倒臭い奴だというのは自覚している。こんな女と好き好んで付き合ってくれる人なんて普通はいない。優と春香が良い人だから僕はぼっちにならなくて済んでいるに過ぎないのだ。

 二人が良い人だから成り立っている関係に胡坐をかき続けていた僕に一般的なコミュニケーションは難しい。特に島村のような初対面から好感を示してくる相手への適当な返しが思い浮かばない。まだ凛の様な攻撃的な性格の方が受け止め易いとさえ言える。

 

「彼女は島村卯月さんです」

「はぁ」

 

 僕の皮肉に答えることはせず、男は僕に島村を紹介した。

 本人が名乗ったというのに、改めて紹介する意味がわからなかったので曖昧に頷く。しかし続く男の言葉を聞いて意図を察した。

 

「この度、島村さんにはシンデレラプロジェクトで出た欠員者の代わりにプロジェクトに参加して頂く予定です」

 

 そういうことかと男の話を聞いて理解する。

 なんだ、引導を渡そうとしていたのは僕だけじゃなかったのか……。

 

「島村さんは以前シンデレラオーディションをお受けになっていた方で、今回の再選考時に真っ先に名前が挙がりました」

 

 島村は僕とは違ってきちんとオーディションを受けた側の人間らしい。やはりスカウトよりもきちんとオーディションを受けた人の方が信用できるってことかな。確かにこうして見ると島村の容姿はそこいらの女の子よりも格段に良いことがわかる。養成所に通っていたということは歌と踊りも素人ってことはないだろうし。そうなれば僕みたいなぽっと出の奴と違い即戦力として採用されるのは当然と思えた。

 それ以上に僕は断っているのだから比較対象にすらならないんだけどね。

 

「そう言えば、昨日養成所に用があったと言われてましたが……もしかして」

「はい、彼女はそこの養成所に通っています」

 

 それって昨日の時点ですでに決まっていたってことじゃないか?

 いや、僕が昨日と今日に断ったことで島村に確定したという可能性もあるか。はたまた昨日聴かせた歌が最終判断の材料になったということもあり得なくはない。

 どちらにせよシンデレラプロジェクトの補充要員は島村で決定なのだ。今更僕の方から断る必要はない。笑顔のことを言わずに済んだと気が楽になる反面、やはり見限られたという事実は心に来るものがあった。自分で拒絶しておいて、いざ捨てられたら傷付くなんて僕は本当に自分勝手だ。

 

「……」

「……」

 

 しばらく無言が続く。お互いあまり口数が多いタイプではないので一度黙り込むと無言の時間が続いてしまうのだ。そうやって時間切れを起こし僕が立ち去るというのが最初の頃のお約束だった。

 

「あ、あの! ここで立ち話も何ですから、移動しませんか?」

 

 今回は島村という第三者が居たことで時間切れは免れた。

 だからどうしたって感じだけど。

 

 

 

 この時間はどのお店も混んでいるということで、近くの公園に移動することになった。ここは昨日男に歌を聴かせた公園である。昨日と違ってまだ日が出ているので少し暖かい。僕と男はともかく、制服姿の島村には夕方の寒さは辛かろう。何を話すことになるかはわからないけど、それまでには話を終わらせたいところだった。

 公園に着くと男はとりあえず僕と島村の二人っきりで話して欲しいと言った後に遠くのベンチの方へと去って行ってしまった。今更男と話すことなどないので構わない。でも初対面の島村と二人っきりというのも気まずい。

 

「あの、お名前を聞いてもいいですか?」

 

 二人っきりになると、卯月は名前を尋ねて来た。てっきり聞いているものだと思ったので少し戸惑ってしまう。

 

「えっと、駄目……でしょうか?」

 

 僕の戸惑いが渋っているように見えたのか、卯月が明らかに気落ちした顔をする。

 名前も教えない奴に見えたのかな。あ、しょっぱなに無視したね僕。なら仕方ないね。

 

「如月千早です」

「如月さんですかー!」

 

 名前を教えると島村はすぐに満面の笑みを浮かべた。立ち直りが早いのか計算なのか、表情がころころとよく変わる子だ。

 あと何となくだけど島村からリア充の空気を感じる。

 リア充だからなんだって話だけど、リア充が持つ独特の馴れ馴れしさはちょっと苦手だった。

 これが春香とかだったらまた違うのだろうけど。

 春香のそれが世の中の侘び寂びを知った後に掴んだ距離感だとすると、この島村という少女の距離感は子供が持つ好奇心の暴走によって偶発的に生まれた距離感だ。言うなれば春香がアウトレンジから様子を伺いつつ、ここぞで決めるフィニッシュブローで、島村がノーガードで殴り合いに来る感じに近い。

 これまで殴り返して来る相手が居なかったから何とかなっていただけで、一度でも相手がその気だったらこの少女の心は酷く傷つけられていただろう。

 彼女が何歳かは知らないけど、十代も半ばまで生きて来てこの性格を維持できるのは奇跡だ。いや、悪夢なのだろうか。

 この性格の子が果たしてアイドルの世界で輝きを保てるのか……。

 って、僕には関係のない話だった。どうせ僕はシンデレラプロジェクトに参加しない。その僕が彼女の未来を案じても無駄なことだ。

 

「あの! 如月さん!」

「はい?」

「あの……如月さんはアイドルになりたいとか……そういうの思ったことないですか?」

 

 アイドルになりたいと思ってるよ。何時だってね。

 でも今の僕にはそれが難しい。そんな簡単に笑える貴女にはわからないだろうけど。

 

「思っていたとしたら、どうなのかしら?」

「でしたら、一緒にアイドルやりませんか!」

「無理」

「ええー!?」

 

 いちいちリアクションが大きい。何かなこの子、実はアイドルじゃなくて芸人志望か何か?

 あと一緒にアイドルやらないかというのは皮肉か何かかな。僕の代わりに補充枠に収まった島村に言われると他所のアイドル志望の子に言われるよりキツいんだけど。

 今の会話だけでわかってしまう。僕と島村は致命的に噛み合わないって。

 相手に初手から深く踏み込めるのは島村の強みであると同時に弱点だ。こちらの都合なんてお構いなしに突撃するスタンスは奥手な人間には有効かもしれない。でも僕みたいな絶対に触れてほしくない物がある人間にはある種無遠慮とも言える島村の態度はよろしくないものに見える。無意識にこちらの急所を抉って来る感じは許容できない人間も少なくないだろう。

 僕と島村が表面上会話が成り立っているのは僕が抉られ慣れているからだ。それすら何とか取り繕えているだけに過ぎない。だから絶対にいつの日か島村のコレは火種になると思った。

 こうして偉そうに語ってる僕も無意識に他人を傷付けているのだろう。でもそれを僕は自覚している。自分が会う人間全員に好かれるなんて思っちゃいない。誰かしらの恨みを買ってるという覚悟はしている。それこそまったく自覚もないまま凛に嫌われている例があるのだから。

 でも島村はどうなのだろう。自分の存在が誰かを傷つけるという可能性を考えたことはあるのだろうか。

 まあ、それは島村本人の問題であって僕には関係がないことだ。いつか気付くかもしれないし、気づかずに生涯を終えるかもしれない。全ては島村次第だとその時の僕は他人事として考えていた。……後になってこの時島村に何かしら言っておくべきだったと後悔するのだけど、今の僕にはそこまで彼女を気遣う精神的余裕はなかった。

 

「せっかくアイドルになれるのに……」

 

 僕の考えていることなんてわからない島村は純粋に残念そうにしていた。

 

「貴女はどうしてアイドルになりたいと思ったの?」

 

 ふと気になった僕は島村へと質問を投げかけた。

 特に島村自身のことを知りたいと思ったわけではない。何となく他の人がアイドルになる理由が気になっただけだ。言ってしまえば誰でも良かった。

 

「アイドルって言ったら、ほら、アレですよ! キラキラした衣装を着て大勢のファンの前で歌って踊るんです!」

「知ってます」

「憧れませんか?」

「ええ、まあ……それなりに」

 

 そう言えばそっち方面でアイドルに憧れたことって無かったと島村に言われて気付く。僕はただ楽しく歌えればそれで良いかなと漠然と思っていたから、衣装とか大勢のファンとかの副次的な物は意識していなかった。

 今回島村に言われてその辺を考えるのも良いかもしれないと思った。やりたいことを考えるというのもモチベーションの維持に繋がるからね。

 

「それが貴女がアイドルを目指した理由?」

「えっと、それだけじゃないんですけど……でも、夢なんです」

 

 夢?

 島村の夢とは何だろう。今まで何となく上辺だけのやり取りを心掛けていた僕だったけど、彼女が言った夢という単語に思わず興味を引かれた。

 この少女にも夢というものはあるか。当然と言えば当然だけど、多くの人が各々夢を持っているということを僕は失念していた。それはまるで自分だけが夢を持ち、その夢の実現に苦労しているような悲劇のヒーローを気取っていたような、傲慢さがまだ僕の中にある証拠だろう。

 

「夢っていうのは……アイドルになること? それが貴女の夢?」

「はい!」

 

 アイドルになることが夢だと言う島村。その迷いない態度が僕には眩しく映った。僕の『春香達と楽しく歌う』という夢は叶わなかったから、今この時に夢を持っている島村はなおさら輝いて見えた。

 僕も新しい夢を持ちたいと思っている。アイドルになった後の夢を持ちたいと。……アイドルになることすらできていない僕が、その後を考えるというのもおかしな話だった。

 

「……ずっと私はキラキラした何かになりたいと思ってました。スクールに入って、同じ研究生の子達とレッスンを受けて。私以外の子達が皆辞めちゃって……私だけが残ったスクールで、一人レッスンを続けながら、それでも私は待っていました」

「……」

「そしたらプロデューサーさんが私に声を掛けてくれたんです」

 

 あの人が声を掛けた。

 そのフレーズを聞いた僕は、一人っきりで踊り続ける島村に声を掛ける彼の姿を夢想した。

 一体どんな態度で接したのだろうか。僕の時と同じ様に単刀直入にプロジェクトに誘ったのだろうか。それとも世間話から入って小粋なジョークの一つでも飛ばしたのか。それはないか。

 どっちでも良かった。ただ素直に島村の夢が叶う取っ掛かりができたことを喜ばしいと思う僕が居た。

 

「プロデューサーさんは私を見つけてくれたから。きっと私はこれから夢を叶えられるんだなって……それが嬉しくて!」

 

 キラキラと輝く彼女の笑顔にはたくさんの幸せな未来が見えた。それは卯月が持つ幸せが前面に出ているためだ。きっと彼女の笑顔を見た人は彼女を通して自分の幸せを見ることになるのだろう。だからこそ彼女の笑顔は不思議な説得力を持っているのだった。

 そしてその笑顔は昔僕が求めていたものだった。

 自分と相手を同時に幸せにする魔法の笑顔。ずっと練習して来たのに終ぞ習得ができなかった笑顔。”如月千早”が内包する可能性には存在しない笑顔。

 それを当たり前のように振りまく卯月の姿に僕は敗北感を覚えたのだった。

 

「私は貴女が羨ましいわ」

 

 自然と口を突いて出た言葉に自分で驚いた。

 でも同時に納得している自分が居た。

 そうか……僕は彼女が羨ましいのか。素直に笑える彼女が、アイドルになることが夢と言える彼女が、あの人に選んでもらえた彼女が羨ましかった。

 

「羨ましい、ですか?」

 

 コテンと首を傾げる島村。今のは僕がやっても似合わないだろう。そういうところも羨ましいと思う。

 

「アイドルになることが夢だと言える貴女が羨ましい。今もアイドルを目指しながら、その先にある何かを求めて必死にもがいている自分が情けなくなるくらいにね」

 

 僕はアイドルになって何をしたいのだろう。漠然と昔に思い描いていた夢は二度と手の届かない場所へと消えてしまった。

 765プロで叶えたかった夢は水泡に帰し、今更掴もうとしても指の隙間を擦り抜けて遥か彼方へと去っている。

 僕の中のキラキラとした何かは未だ新しい形を成してはいなかった。漠然とした”何か”は思い浮かんでも、それを具体的な形にできない。

 そんな状態でアイドルを目指したところで虚しいだけだった。

 僕にも欲しい、何か一つだけでもアイドルになった後に待っている光を信じたい。島村の夢を聞いてしまったことで、忘れていた気持ちが蘇ってしまった。

 僕がアイドルになる意味って何だろう?

 

「もしも──」

 

 声に振り替えると、男がいつの間にか僕達の近くまで来ていた。

 

「貴女がアイドルになった後の夢を持ちたいと思うなら……どうか、私にそのお手伝いをさせて下さい」

 

 素直に嬉しいと思った。

 僕が求める光をこの人なら一緒に探してくれるかもしれない。思っちゃいけないのに、彼の優しい声が僕の心を動かしてしまいそうになるのが怖い。

 手伝ってくれるという甘い言葉に乗るわけにはいかない。

 優しいこの人をこれ以上僕に関わらせてはいけないんだ。

 だって、僕は彼が望むアイドルになれないから。

 

「……笑えないんです」

 

 ようやく言うことができた。

 初めて彼のスカウトを断った時から二ヵ月経って、今ようやく告げることができた。

 肩から重しが取れたような感じがする。ずっと感じていた期待を裏切ることへの恐怖や苦しさから解放されたからだろう。

 

「笑えないとは、どういう意味でしょうか?」

「ある時期から私は笑顔が作れなくなったんです。どんなに練習しても、何をしても、笑えないんです……」

 

 男の問いに優とのことは言及せずに端的に答えた。

 目を見開く男と背後で息を呑む島村の気配が胸を締め付ける。余計な罪悪感だとわかっていても、わざわざ今日こうして時間を割いた二人にこの事実を告げるのは辛かった。

 特に男にとっては到底許容できる話ではないだろう。だって二ヵ月も僕のために時間を使ってくれたのだから。それが全て無駄だったと知ったならさすがに「そうですか」で済ませられるわけがない。

 

「私は貴方が求めるアイドルを持っていません。笑顔が作れませんから」

 

 そう、だって僕は──、

 

「欠陥品だから」

 

 ずっと見ないふりをしていた。たとえ笑えなくてもアイドルはできると。

 歌さえあれば、僕はアイドルとしてやっていけると思っていた。でも笑えないなんて致命的な欠陥を抱えた人間がアイドルをやろうだなんて土台無理な話だったのだ。

 何度誤魔化しただろうか。何度言い訳を繰り返しただろうか。

 笑えなくても大丈夫なんて、取り繕って自分を騙して、無駄な努力を続けていた。

 あの広場に通っていたのだって気分転換なんかじゃなかった。切り替えなんて出来ていなかった。僕はずっと待っていたのだ。目の前のこの人が僕の歌を聴いて笑顔以外を求めてくれるんじゃないかと期待していたのだ。

 期待したから笑えないことを黙っていた。

 でも、この人が僕を選んだ理由を笑顔だと言う度に心が悲鳴を上げた。笑顔なんて作れないのに、笑顔を求めてくるこの人を一時期は遠ざけようとした。でも、結局この人しか僕を求めてくれそうな人がいなかった。

 どんなオーディションに応募しても返って来るのは不採用だけ。町中を歩いていてもスカウトの一つも受けられない。

 この人だけだった。僕にアイドルをやらないかと言ってくれたのは。

 

「ごめんなさい。ずっと言おうと思ってました。でも、言ったら本当に終わってしまうと思ったら言えなくて……」

「如月さん……」

「貴方の時間を無駄にしているとわかっていながら、私は黙ったままでいました。貴方に失望されたくなかったから」

 

 笑えないと知られて見限られるのが嫌だった。

 他のプロダクションの一次審査に落ちても気にならなかったのに、この人に期待外れと思われるのは嫌だった。

 たぶん、それはつまらない相対評価の結果でしかないのだろう。

 僕が再びアイドルを目指してからこれまでの間、僕に声を掛けてくれたのはこの人だけだったから。

 これが未練だというなら正しくその通りだろうし、刷り込みと言われたら確かにと納得できる。

 だから僕は試していたのだ。本当にこの人だけなのか。この人だけが僕にアイドルとしての可能性を感じてくれたのか。だから僕は履歴書を書き続けたし、駅前の広場に通い続けた。ただ試したいがために。

 そうやって試し続けた結果が五十七回の落選だったわけだけど、その数がより一層彼に期待する結果に繋がってしまった。

 この人しかいない。僕に期待してくれるのは。

 この人しかいないのに、この人が求めるアイドルに僕はなれない。それが苦しくて申し訳なくてーー悲しかった。

 顔も知らない相手に何度落とされようと構わない。ただ一人僕に声を掛けてくれたこの人の期待を裏切り続けたことが悲しかった。

 でも、それも今日で終わりだ。

 彼が僕に付きまとう理由はなくなった。笑顔がない僕に拘る理由はないのだ。

 それにこの人は見つけてしまった。本物の笑顔を持った少女を見つけたのだから、僕は要らないだろう。

 この先僕に声を掛けてくれる人なんて現れはしないだろう。

 

「長い間、お時間を頂いてしまい申し訳ありませんでした」

 

 男に向け深々と頭を下げる。

 

「何を言ってーー」

 

 男の困惑混じりの声が聞こえるが僕はそれを意識的に聞こえないようにする。また何か話を聞いてしまったら躊躇ってしまうから。

 いつまでも引きずっては駄目だ。未練なんて持ってちゃいけない。

 

「また、何かの機会があれば……その時は」

 

 定型文の様なお決まりの台詞が寒々しく聞こた僕は最後まで言いかけた言葉を死ぬ気で飲み込んだ。これはもう必要ない。次の機会なんてない。

 

「さようなら」

 

 代わりに出たのは別れの言葉だった。

 また、なんて言わない。シンプルな言葉だ。

 

「如月さん!」

 

 何かを言われる前に走り出す。

 これ以上は要らない。期待したくない。

 僕は脚力を強化するとその場から一目散に立ち去った。

 背後で僕の名を呼ぶ男の声が完全に聞こえなくなるまで走り続けた。

 

 この人だけ、だったのになぁ……。

 

 

 

 ──────────

 

 

 

 今僕の目の前には二枚の履歴書が置いてあった。

 片方は近々行われるアイドルをメインに据えたオーディション番組の参加用の履歴書。そこそこ売れているお笑い芸人がMCを務め、素人からアイドルの卵を見つけ出そうとか、そういう企画だったと思う。

 ローカルテレビ局が企画する深夜帯の番組だが、審査員にはそこそこの事務所のプロデューサーが参加するらしい。まあ、一般的なアイドル事務所だけでなく所謂グラビアメインの事務所も参加するためかなりカオスな番組となるだろう。

 もはやこういうイロモノ企画に便乗するしか僕のアイドルの道は残されていないという現実に自嘲の笑みすら浮かばないよ。元から笑えないけど。

 もう片方はアイドルとは関係のない会場設営等の力仕事系のアルバイト応募用だ。

 ……別に、アイドルを諦めたわけではない。ただいつまでもこのままではいけないと思っただけだ。

 今の僕は世間一般では中卒のニートという大変不名誉な肩書きになっている。アイドルを目指していると言えば格好が付くかと言えばそんなわけもなく。どちらかと言えば現実を見ていない痛い奴に思われるだろう。

 現実……。やはり、どこかでこの世界をフィクションか何かと思っていた節があるのかもね。物事が勝手に良い方に流れると勘違いしていた。無駄な努力と意地を張り続けたために、もしかしたらそこらに落ちていたチャンスを幾つも取りこぼしていた可能性だってある。

 無駄な時間を過ごした。最初から高望みなんてせず手近な企画に参加していればよかった。そうしていれば、どんな形であっても今頃はアイドルをやれていたのだろうか。

 そんな下らないもしもを考える。

 アイドルになりたい。その気持ちは今も変わらず僕の心の中で生き続けている。

 でも今の僕にアイドルになる力はあるのだろうかとすぐに弱気になってしまう。

 歌には自信がある。歌だけならば現役アイドルの中でもトップレベルだと自負している。

 踊りも上手い方だと思う。一目見ればどんな踊りだって再現可能なのは強みだろう。盛り上がるかはともかくとして。

 容姿は……正直わからない。その辺りの正確な判定を貰ったことがないから。

 そして笑顔。これはまったく自信がなかった。

 もしも笑えていたら……。

 

「それこそ下らない話だ」

 

 笑えていたら。

 そうだね、簡単に笑顔が作れたならば今こんな惨めな思いをしなくても済んだよね。

 で? だから?

 そのもしもを考えることに意味ってあるの?

 

「意味はないよね」

 

 そう、意味なんてない。これが現実だ。

 笑えない僕が今の僕で、アイドルのオーディションに落ち続けたのも僕で、あの人から逃げたのも僕だった。

 最後なんて言うつもりだったのかな?

 とても良い言葉を貰えるとは思えなかった。無駄な時間だった。期待外れだった。そんな残酷な言葉を浴びせられたら僕は果たしてどうなってしまうだろう。

 想像しただけで寒気がする。失望されることがこれだけ恐ろしいものだったなんて知らなかった。期待も失望もなかった前世のツケが今になって回ってきた。

 誰かに期待されるってこんなに重いものだったんだ。だから失望された時にこんなにも胸が痛むのだ。

 こんなことなら知らなければよかった。期待されなければ失望されないから。

 この胸にぽっかりと空いた喪失感を埋める方法を僕は知らない。

 誰か教えて欲しい。僕はどうすれば良かったのかを。

 衝動的にケータイを手に取った。

 慣れた手つきで目当ての相手に電話を掛ける。求めた相手はすぐに出てくれた。

 

「優……今いいかな?」

『うん、大丈夫だよ』

 

 僕が頼った相手はやはり優だった。

 春香の方は何やら忙しそうなので今回は選択肢から外しておいた。こんな時に頼る相手の選択肢が限られているのは迷わなくて済む。

 

「あのね、この間のことなんだけど……」

『この間と言うと、僕が泊まった日に言いかけていたやつ?』

「うん」

 

 たったこれだけで伝わったことに驚く。そして覚えていてくれたことが嬉しい。優が僕との会話を大切にしてくれていたことに心から喜びが湧き立った。やっぱり優は天使なんだ。

 

「あのね、私ね……最近たくさんのオーディションを受けてたんだ。それで全部に落ちてるの」

『たくさんってどれくらい?』

「五十七」

『……』

 

 電話越しに優が絶句しているのがわかった。今更この反応に戸惑うことはない。あり得ない数字に絶句されるくらい予想の範疇だ。

 

『それは……この短い期間によく受けられたね。面接だけでも相当時間取られるでしょ?』

「ううん。全部一次選考の書類審査で落ちてるから面接は一つも受けてないよ。さすがに面接も受けてたら身体が足りな」

『ちょっと待って』

 

 珍しく僕の話に割り込んで来た。

 優はなんだかんだ僕の話を聞いてくれるから、途中で区切って来たのは意外だった。

 

『え、一次? 書類審査で落ちてるの? お姉ちゃんが?』

「そうだけど?」

 

 あんまり念押しされると情けなくて涙出ちゃうからやめて。うそー、全部一次落ちとかありえないわーとか優に言われたら僕は窓から飛び降りる。

 

『ありえないでしょ』

 

 よし飛び降りよう。

 

『お姉ちゃんが落ちるなんて』

 

 え、そっち?

 てっきり優に馬鹿にされたと思っちゃったよ。窓枠に掛けていた手を離す。

 

「でも落ちてるものは落ちてるもの」

『審査した人がよほど無能なのかな? それとも男性アイドル向けのオーディションに間違えて送ってたとか?』

 

 さすがの僕でも男性向けのオーディションに応募する程アホではない。優の中の僕はやるタイプに見えるのかな?

 

『僕はてっきり、いつものお姉ちゃんのキャラで面接を受けたから落ちたのかと思ってたよ』

「どういう意味それ」

『あれ、電波が仕事してくれてない?』

 

 何か聞いてはいけない優の本音を聞いてしまった気がする。小悪魔優が降臨してるのかな? 可愛いから何でもいいけどね。

 

『お姉ちゃんが一次で落ちるってどんなレベルのオーディションなんだろう。全国美少女コンテスト優勝者ばかり参加してるとか? それでも落ちるとは思えないけどね』

「それはどんな修羅のコンテストなのかな。私の容姿でそんな激戦に参加するわけないでしょ。私は分を弁えてるからね。仮にそんなオーディションに参加した場合……良くて中の下くらいだよ」

『いや、無いから』

「否定早すぎませんかね!?」

 

 僕は自分の力量もわからないような自信過剰野郎じゃないよ。優は僕を無謀な戦場に赴く猪武者だと思ってるの?

 

「昔ならともかく、今の私は自分の評価をちゃんと理解してるって。見た目だけじゃなく、歌も踊りも他人からどう映るのか自覚できてきたし」

 

 書類審査で自分の容姿の評価が悪いことは自覚できている。原作千早のようにもっとシュッとしてパッとした美人さんならよかったのに。

 歌と踊りの評価は例の広場のお通夜みたいな空気からだいたい察している。僕のパフォーマンスは盛り上がらない。これはクール系の歌ばかりを歌っているからだろう。

 もっとアイドルらしい曲を歌ってみたいところだけど、笑顔の無い僕には静かな曲かクールな曲しか歌えない。

 キャピキャピした曲は抵抗あるけど可愛い系の曲を歌えるアイドルは少し憧れる。765プロのビジョナリーとか歌ってみたい。

 

『……正直に言うとさ、中学時代のお姉ちゃんがアイドルを目指すと言って来た時、僕はちょっとだけ不安だったんだよね』

「不安?」

 

 中学時代のパーフェクトだった僕を優が不安に感じていた?

 どういう意味だろうか。

 

『お姉ちゃんはあの頃凄く自信家だったよね。自分は何でもできるって思ってて。実際何でもできちゃうから余計自信満々だった感じだね』

「それは……まあ、中学生特有のイタイ万能感って言うのかな。一過性の中二病みたいな?」

『今も中二病でしょ』

「はい」

 

 たまに右の魔眼が疼いたり、左手に封じられた暗黒龍がざわめくんだよね。あれ、僕中二病じゃなくて邪気眼系じゃないか。余計痛いぞ。

 

『あのね、僕が泊まった日に言った言葉覚えてる?』

「うん。全部覚えてるよ。一字一句間違えずにテンポまで復唱できるくらい」

『想像以上に凄くてちょっとびっくりした……まあ、覚えているならいいんだ。その時僕は前のお姉ちゃんよりも今のお姉ちゃんの方が凄いって言ったよね』

 

 言ってた。昔よりも良いって。でもそれは比べる対象が酷すぎるよ。引きニート時代の僕と比べたら何だって凄く感じるって。

 

『僕が言った前のお姉ちゃんっていうのはね、この間までのお姉ちゃんのことじゃないよ』

 

 へ? この間の僕じゃない?

 ちょっと優の言っていることが理解できなかった。

 

「え? でも、じゃあ前っていうのは」

『僕が言ったのは中学時代のお姉ちゃんだよ。僕は中学時代のお姉ちゃんよりも今のお姉ちゃんの方が断然良いと思う』

「嘘」

 

 嘘でしょ。あの完璧人間だった頃と比べて今の方がいいなんてありえない。あの頃の僕は完璧だった。歌も踊りも笑顔も、何一つ弱点がないパーフェクトな千早だった。

 

『嘘じゃないよ。さっきも言ったけど、あの頃のお姉ちゃんって自信家だったでしょ。何でもできる。全て簡単。自分最強って。……そういう考えが全部透けて見えてたよ』

「マジか」

 

 自分としては謙虚に振舞っていたつもりだったんだけど。やはり優には全てお見通しだったということか。さすが優だね。

 

『いや、たぶん周りの人皆気付いていたと思うよ? お姉ちゃんわかりやすい人だったから』

「マジでか!」

 

 中学時代の僕めちゃくちゃ痛い奴じゃん。

 

『それに、あの頃のお姉ちゃんの笑顔ってさ……』

「うん」

『胡散臭かったもの』

「はうあっ!?」

 

 ぐさっと来た。今物凄く心にダメージが来たよ。優に胡散臭いと言われるなんて本当にキツいわ。畳みかけるような優のダメ出しに僕の心はブレイク寸前です。

 と言うか胡散臭かったのか僕の笑顔は!

 

「う、胡散臭い……?」

『うん。胡散臭い。あ、僕に向けてくれる笑顔は別だよ? 余所行きの笑顔が作り笑いだなって感じがして、何となく怖かったかも』

「優に怖いとか言われたわ。よし死のう」

『死なないでね!』

 

 優に怖がられていたなんて知らなかったよ。優以外への笑顔が作り物めいていたと言われて凄くショックだ。自分としてはアイドル向けの謙虚かつ愛に溢れた笑顔だと思ってたのに。

 救いがあるとすれば、優に向けていたものは本物だったと言われたことか。

 

『お姉ちゃんって実は顔に思っていることが出やすいんだよ? あの状態のお姉ちゃんの笑顔なら自信満々の俺様笑顔だね』

 

 優の責めが強いよー。優に言葉攻めされるのは辛いよ。まだ殴られるほうがましだよ。僕はマゾじゃないんだぞ。

 

『だから僕は今のお姉ちゃんの笑顔が好きだよ』

 

 優の愛が強いよー。

 

『お姉ちゃんは作った笑顔じゃなくて、本当の笑顔だけ見せればいいと思う』

「本当の、笑顔?」

 

 優と春香が言っていた、たまに僕が浮かべるという笑みのことだろうか。

 

「でも、どうやれば本当の笑顔になるかわからないよ」

『それは……ごめん、具体的な方法となるとよくわからないかな』

「ううん、謝らないで。優が私の笑顔が好きって言ってくれただけで十分だから」

 

 昔の笑顔よりも今の笑顔の方が好き。優がそう言ってくれるならば、僕は今の僕の笑顔を探そう。

 

「ありがとう、優。まだ上手く笑顔が作れないけど、きっと私の笑顔を見つけてみせるから」

『うん。お姉ちゃんなら大丈夫だと思うよ。だって僕のお姉ちゃんは無駄に天才だからね』

 

 優の期待に応えたい。僕の中にある本物を見つけたい。

 未だ昔の笑顔より今の笑顔が良いと信じられない僕だけど、優が期待してくれるならいつかそれを手に入れようと思う。

 これからは笑顔の特訓内容も見直さないとね。

 

「優のおかげで元気出た! 今なら族の一つや二つ殲滅できる気分!」

『それはもう止めてね?』

 

 まあ、今の僕ならば軍隊の一つや二つ殲滅できちゃうんだけどね?

 どうやら僕は中学時代の僕を女々しくも引きずっていたようだ。笑顔一つで今よりも昔の方が勝っていると思い込んでいた。たった一つが上手くいかないだけで全てが駄目になったと勘違いしていたんだ。

 チートだけを見ても今の僕の方が昔の僕よりも勝っている。それに今の僕は友達もいるし、優とお泊りしたし……えーと、つまり最強ってことだよ。

 思ったよりも勝ってる項目が少なくてちょっと気弱になりかけた。

 

「ありがとね、優超愛してる」

『ふふ、ありがとう。僕もお姉ちゃんのこと愛してるよ』

 

 これは相思相愛だわ。僕達の姉弟の愛は本物だったんだ。もはやこのままエンディングに向かってもいいんじゃないかな。これ一つで中学の僕とか雑魚扱いしていいと思う。奴は千早四天王の中でも最弱。いや最弱は引きニート時代か。

 

「ああああ優がああああああ可愛いよおおお!?」

『いきなり発狂しないでよ』

 

 発狂してないよ。愛を叫んでいるだけだよ。

 優との電話は僕に新しい道を開いてくれた。昔を取り戻そうとしていた僕は無駄な努力をしていたんだ。

 これからは新しい僕を見つけていかなければいけないんだと気づかされた。

 本当に優には感謝してもしきれないね。

 

「また、今度……泊まりに来てね? その時には優の好きな笑顔を見せられるようにするから」

『うん。楽しみにしてるよ』

 

 優が楽しみにしていると言った。

 楽しみにしてくれるということは、つまり優は僕と寝たいと思ってくれていたということに等しいわけだ。

 そうか、そうか……。

 

「ぐへへ」

『その笑い顔は見せないでね?』

「優の寝顔……むふふ」

『感情が表に出やすいというのも考え物だよね』

 

 しばらく優との楽しい会話は続いた。

 

 

 

 ────────────

 

 

 

 優に言われて覚悟は決まった。やはり僕には選ぶべき道は一つしかないんだ。

 履歴書を郵便ポストに出すために駅前へと歩きながら自分の中で渦巻いていた思いを反芻する。

 あの人は言った。僕の可能性を信じていると。僕の中にある何かを信じたいと言ってくれた。

 果たして、僕はあの人を信じただろうか。

 勝手に『期待外れ』と見限らなかっただろうか。期待してくれたことを喜んでおきながら期待されることを重荷に感じて、それが嫌になったら勝手に投げ出してしまった。

 失望される前に自分から真実を告げたのはただの逃避じゃなかったか。期待されることよりも、彼に期待することが辛かったのではないか。

 きっと僕は期待されるよりも期待することに耐えられなかったのだ。

 裏切ってしまうことよりも裏切られることを恐れていたのだ。

 島村は言った。これから夢を叶えられると。自分が目指したキラキラした何かをあの人が与えてくれると。だから信じられると。

 どうして会って間もない相手をそこまで信じられるのか。島村の考えが僕にはわからなかった。盲目的に信じているだけではないのか。とりあえず差し伸べられた手を掴んで信じたつもりになっているだけではないか。そんな八つ当たりにも似た感情を島村へと向けてしまう。

 島村に羨ましいと言ったのはまさしくその通り、僕は彼女が羨ましかった。素直に笑えることが、アイドルになることが夢と言えることが、あの人に選んでもらえたことが。

 そして何よりも、あの人を信じられる彼女が──羨ましかった。

 

「本当の本当に八つ当たりだよね」

 

 島村は何一つ悪いことはしていない。むしろずっとこちらを気遣ってくれていたのに、僕はそれを頑なに無視し続けた。

 悪いことをしたと思う。子供じみた態度だった。今度何かで会う機会があれば謝ろう。通っているスクールがこの近くなら案外ばったり出会うかもね。

 少なくともあの人に会うよりはましだ。

 あの人とは最後までまともに会話をしてあげられなかった。相手は大手事務所のプロデューサーで僕はアイドル志望の娘でしかない。本来簡単に話ができる相手ではないのだ。それでも彼の方から歩み寄ろうとしてくれた。ただの子供だと侮らずに同じ目線に立とうとしてくれていた。

 

「もう少しだけ早く断っておけばよかったかな……?」

 

 その努力を無駄にしてしまったことが唯一の心残りだった。

 駅前のポスト前まで来た僕は手に持った封筒を投函しようとする。この行為も五十八回目にもなると最初の頃にあった期待などすでに抱くこともなく機械的な動作になる。

 そうだ、もう期待なんてするだけ無駄なんだから。

 この先あの人と会う機会はないだろう。万が一僕がアイドルになり、どこかの職場で顔を合わせることになったとしても、その時は簡単に声を掛けることはできない。それだけ僕とあの人の立場は違い過ぎる。

 一度だけでいいから呼んでみたかったな。

 

「如月さん!」

 

 ポストへと履歴書の入った封筒を投函する直前に声を掛けられ手を止める。

 まさか、という思いで胸が高鳴った。

 あり得ない。だって、僕は……。

 恐る恐る声の方を振り返る。

 目の前にあの男が居た。

 いつもの冷静な雰囲気の彼はそこには居らず、肩で息をして、顔中汗だらけで疲労困憊といった姿で僕を見ていた。

 

「なん、で……」

 

 終わったはずだ。笑えないと真実を伝えた。無駄な努力だったと切って捨てた。終わったはずなのに。だって、僕は。

 

「如月さん……貴女はまだ終わっていません」

「っ!」

 

 僕が自分に言い聞かせていた言葉を彼が否定する。心の中を読んだわけでもないのに、的確に否定された。

 終わったって思わせてよ……。もう期待させないでよ。

 辛いよ。貴方に期待することが辛い。

 

「これを」

 

 男の手には一枚の紙が握られていた。折れ曲がって、汗に濡れたそれはよく見ると履歴書だった。

 優が出した、中学時代の僕の写真が載った履歴書だった。

 何で今更そんなものを持っているのさ。

 

「これは、貴女の履歴書です」

 

 そんなことは知っている。中学時代の僕の写真を使ったイカサマの履歴書だ。

 

「これには貴女の写真が貼られています。今より少しだけ幼い、貴女の写真が」

「はい、それは……二年前の写真です。私がまだ笑えた頃の、写真です」

 

 自分の罪を突き付けられた気がして、僕はまともに彼の顔が見れなくなった。

 だってこんなズルは許されないから。優は今の笑顔が良いって言ってくれたけど、この人が選んだ笑顔はその写真のものなのだから。

 

「ごめんなさい。騙すつもりではなかったんです。その写真を見て私に声を掛けていただいたとわかっていたのに、なかなか言い出せなくて……その」

 

 それが無意味だと理解しながらも口から出るのは誠意の欠けた謝罪と虚しい言い訳だった。

 騙していた時点で何をどう取り繕っても無駄なのに。

 

「……」

 

 男からの言葉は無い。彼はただ無言で僕を見続ているだけだ。何も言わないこと、それが端的に答えを表しているように思えた。

 どう考えても好意的に思われているわけがない。そんなの当たり前じゃないか。

 視線に耐えられなくなった僕は少しでも男の目から隠れたいという衝動に駆られ、無駄な努力と知りつつ体を捩った。

 その時、体の後ろに隠していた封筒が男の目に止まってしまう。彼は無言のまま僕へと近づくと手から封筒を奪い取った。

 

「えっ?」

 

 本当に意外な行動だ。この人は間違ってもこういう強引な行動はとらないと思っていた。

 でも封筒に書かれている”テレビ番組の企画名”を見られたからにはその行動も納得できるというものだ。

 結局僕はオーディションを選んだ。目の前の安定ではなく、果ての無い届くかどうかもわからない光に手を伸ばし続けることを選んだ。

 彼からすれば自分のスカウトを蹴っておいて別の番組のオーディションを受けたというのは面白くないだろう。

 

「あ、それは……」

 

 何と言えばいいのかわからず最後まで言い切ることができない。

 これは何かと問われて答えられる気がしなかった。ただ申し訳なさと気まずさだけが僕の心を占めている。

 

「この番組は貴女向きではないと思います」

 

 しかし、男の口から出たのは意外な台詞だった。

 何でそんなことを言うのだろうか。自分のプロジェクトの方が勝っているから……という感じではないみたい。

 僕を責めるでもなく、ただ向いていないと、純粋にアドバイスみたいなことを言って来る男の真意がわからなかった。

 

「……貴方には関係のないことです」

 

 こんなことしか言えない自分が嫌になる。建前やお礼の一つでも言えたなら可愛げがあるというのに。口から出るのは突き放したような言葉だけだ。

 ぎょろりと男の目が僕へと向く。さすがに気に障ったか。すでにスカウト対象でもない少女相手に我慢する必要がないと思ったか。

 

「あの、ご、ごめんなさ──え」

 

 反射的に謝ろうとした僕は男に腕を掴まれ謝罪の言葉を途切れさせた。

 

「あの、え? え?」

「こちらへ来てください」

「あっ──」

 

 突然のことに混乱している僕に構わず男はそのままどこかへと歩き出した。

 力強く手を引かれた僕は筋力の強化も忘れて男のされるがままに付いて行くしかない。周りの人々が何事かという目で見てくるものの、男の鬼気迫る顔を見て完全に他人事を貫くつもりらしく全員顔を背けていた。僕の位置からは見えないけど、目の前の男は今どんな顔をしているのだろうか。通行人がモーゼの様に左右に分かれていくとかどんだけだ。

 

「ちょ、ちょっと離して下さい。何なんですか! もう放っておいて下さいよ!」

 

 僕がいくら抗議の声をあげても男は構わず歩き続ける。つい先ほどまでの一歩引いた態度が無い。これまでの二ヵ月間、本当に一瞬だけ見せた強引さ全力の姿を見せていた。

 何をそんなに必死になっているのさ。男の行動の意味がわからない僕はただ男のなすがままに歩き続けるしかなかった。

 やがて辿り着いたのは駅前に設置されている証明写真ボックスだった。ボックスの前まで来ると、男が入り口のカーテンを捲り中を示す。

 

「これで写真を撮って下さい」

「嫌です」

 

 有無を言わさない強い口調で写真を撮れと言われた僕は反射的に拒絶を返した。

 男の意図がわからない。分かりやすいと思っていた相手の気持ちが今はまったく理解できない。そのことが何だか怖かった。

 しばらく続く沈黙。

 いつもはここで僕が耐えられなくなって立ち去るのだが、今日はその前に男から動きがあった。

 

「如月さん。私は貴女に伝えていなかったことがあります」

「伝えていなかったこと?」

 

 何だろう。

 それを聞けば解放してくれるとでもいうのだろうか。放っておいてくれるのだろうか。僕に関わらず、こうして期待させないでいてくれるのだろうか。

 そんな”期待”を込めて男を見返せば、それ以上に強い視線でもって彼がこちらを見ていることに気付く。

 

 

 

 

「私には貴女が必要です」

 

 

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 ……。

 

 ────、は?

 

「は?」

 

 ちょっとの間だけ意識が飛んでしまっていた。

 今……この男は何と言った?

 僕が必要?

 え、はい、え?

 何言っちゃってるの。嘘を吐くにしても、もうちょっと現実味のあるものにしてよね。それとも誰かに唆されたとか?

 でもこんな真面目な人が誰かに言われたくらいでこんな恥ずかしい台詞を言うだろうか。仮に言うとしたら何か弱みを握られているとしか思えない。何故か胡散臭い笑みを浮かべた守銭奴そうな女性の顔が頭に浮かんだ。混乱の極みに至った僕が見た白昼夢だろうか。

 でも真っすぐに僕を見つめて恥ずかしい台詞を吐いた彼からはとてもではないが言わされているといった印象は受けない。言いそうにないってイメージを抜きに見れば彼の言葉は本心に思えた。

 と言うか、この台詞ってどちらかと言うとプロポーズのように聞こえるんだけど。実際はプロデューサーとしてってことだろうし、僕も誤解するようなタイプではないから問題ないけど。僕以外の女の子に言ったら勘違いするんじゃないかな。気を付けて欲しいものだ。男の僕ですらドキリとしのだから。

 周囲の通行人達が僕達をやけに微笑ましげに見ているのが視界の端に映る……深くは考えないことにした。

 

「私は今日初めて履歴書の写真を見ました」

「……え?」

 

 僕が脳内で大混乱を起こしていることなど気にもせずに男が話し始める。展開に追いつけないんですけど。

 と言うか今何て言った?

 初めてその写真を見たと言わなかっただろうか。

 

「え、だって、その写真を見たから、私の笑顔をって……?」

 

 僕はてっきりこの人は僕の履歴書の写真を見て僕をスカウトしたと思っていた。

 でもこの人の言うことが嘘じゃなかったら、その前提条件がおかしくなる。

 

「私は一次の書類審査に携わっていません。いえ、正確には参加できません。時間が取れませんので」

「嘘……」

 

 この人クラスになると一次選考は部下とかに任せて自分は二次や三次から参加するという感じなのか。確かに何百人といる人間を全員見られる程暇があるわけないよね。僕を追いかける時間はあるみたいだけど。

 でも、じゃあ何でこの人は僕を選んだ理由を笑顔だと言ったのだろう。

 

「嘘ではありません。私は写真に写っていた取り繕ったものではない、本当の貴女の笑顔を見てスカウトを決めました」

 

 嘘だ。だって僕は貴方の前で笑ったことがないよ。

 どうせ適当なことを言ってその気にさせるつもりなんでしょ?

 期待だけさせて、最後の最後でやっぱり駄目でしたって裏切るんでしょ?

 だったら最初から期待させないでよ。

 

「それを証明するために、写真を撮っていただきたいのです」

「写真を……」

「さあ、こちらに」

 

 再びボックスの中を示された僕は今度は素直にカーテンの中へと入ると備え付けの椅子に座った。

 男の言葉を信じたわけではない。写真を撮ることで何がわかるかなんて知らない。でも、その時の僕は男の”指示”に従うことが自然なことのように思えた。

 僕が椅子に座ると男は顔だけをボックス内へと入れカーテンを閉める。周囲からは大男が首だけ中に突っ込んでいる異様な光景があるのだろう。ちょっと想像して怖かった。

 僕の代わりに機械の操作をする男の顔を眺める。

 どうしてこの人は僕に構おうとするのだろう。もうプロジェクトメンバーの補充は終わっているのに。アイドルが集まったのなら本格的にプロジェクトが始動するはずだし、だったら今こうして僕のために無駄な時間を使う暇なんてないはずだ。

 

「準備ができました」

 

 僕の視線に気付いていただろうに、男はそれをまったく意に介さずに準備が終わったことを告げる。

 男が頭をひっこめてカーテンを閉める。

 聞き慣れた機械音が響くと写真撮影が始まった。

 撮れた写真を確認画面で見ると写った僕の顔は無表情になっている。今回変顔を作る暇すらなかったのでデフォルトの無表情になってしまった。

 

「どうでしょうか?」

「それが、その……」

 

 僕が言いにくそうしていると男は確認画面を覗き込んだ。

 

「……なるほど」

「すみません、こんな顔しかできなくて」

 

 変顔よりはましとはいえ、この無表情も結構やばい気がする。何を考えているのかわからない冷たい表情だ。少しでも目尻が上がれば不機嫌に見えるオプション付き。

 

「謝る必要はありません。……そうですね、今度は何か楽しいことを思い浮かべながら撮ってみましょうか」

「楽しいことですか?」

「はい。何でも良いので楽しいことを考えてみましょう」

 

 楽しいこと。

 僕が楽しいと思うこと……。

 それは歌を歌うこと。歌っている時間が僕は楽しくて好きだ。

 

「歌……歌を歌ってる時は楽しいです」

「でしたら、その時のことを想像してください。自分が歌っている時のことを」

 

 歌っている時の僕?

 歌っている時の僕ってどうしてたっけ。いつもトリップしてから実はよくわからない。自分の中に引き籠ってただ歌うだけの僕は外側の自分を意識したことがなかった。

 とにかく男の指示通りに歌っている時の自分を想像しようとするけど、なかなか上手くいかなかった。焦れば焦るほど”僕”がどうしていたかわからなくなる。

 

「あ、あの私歌っている時の自分がよくわからなくて、そもそも歌っているときはたぶん無表情で」

「落ち着いてください」

 

 てんぱってしまった僕は男の声ですぐに平静を取り戻した。二十七個に並列展開していた思考群が彼の一言で一斉に方向を揃える。こういうのを鶴の一声と言うのだろうか。

 

「一つ一つ順に思い浮かべましょう。まずは目を閉じて。私の声に耳を傾けてください」

「はい」

 

 言われた通りに目を閉じる。

 

「場所は……そうですね、昨日私に歌を聴かせてくれた公園にしましょうか」

「公園……」

「貴女は公園に立っています。桜の舞い散る春の公園です」

 

 真っ暗な視界の中で男の低く落ち着いた声が耳に入りこむ。すると彼が言った情景が頭に浮かんだ。

 想像の中の僕は公園に立っていた。桜がとめどなく舞い落ちる幻想的な世界に僕は居る。

 不思議と詳細にそれらが頭の中に思い浮かぶ。

 

「貴女の歌を聴く人間がいます。どなたか思い当たる方はいらっしゃいますか?」

「弟と……友達、あと……いえ、その二人だけです」

「……では、そのお二人が貴女の歌を聴くために公園のベンチに座っています。貴女はお二方の前で歌います」

 

 本当はこの人も思い浮かんだけどあえて言わないことにした。こっそり想像の中だけに追加する。

 優と春香が男を左右に挟んで狭いベンチに座っている情景が思い浮かぶ。二人とも男の強面にびびって顔が引き攣っていた。よく見ると愛嬌のある顔をしているのだけど、初対面ならそんなものだよね。

 

「貴女が歌い始めるとそれを聴いた方々は笑顔になります。貴女の歌がとても素晴らしいからです」

「っ」

 

 不意打ちで男から歌を褒められてどきっとする。想像の中の話なのに、褒められていると思うと嬉しいと思えた。

 言われた通りに歌っている自分を想像する。三人は僕の歌を笑顔で聴いてくれた。

 男の笑顔が想像できないので相変わらずの強面のままだけど、それでも楽しそうにしている姿を精一杯想像した。

 

「どうでしょうか。想像の中の貴女は楽しんでいますか?」

「楽しんでいます。凄く……楽しいです」

 

 たぶん、これが僕が一番楽しいと思うことだ。歌を歌い、誰かに聴いてもらう。ただそれだけのことが僕には何よりも楽しく感じられた。

 

「では、そのまま……合図とともに目を開けてください」

 

 サッと音がして男がカーテンを閉じたのがわかる。

 僕は言われた通り歌い続ける想像を続けた。

 やがて撮影開始の合図が流れるとゆっくりと目を開ける。その瞬間写真が撮られた。

 

「……」

 

 撮れた写真を確認画面で見る。

 これって……。

 

「如月さん」

 

 カーテンを開いて男が顔を出し。その手には今撮ったばかりの写真を持っていた。

 

「貴女は笑顔が作れないと言いました」

 

 男が履歴書から写真をはがす。優が言うところの胡散臭い笑みを浮かべた僕の写真が地面へと落ちた。

 次に彼は今撮った証明写真から一枚を剥がし、そのまま写真欄へと貼り付ける。

 

「私にはこの顔は笑顔に見えます。素直に楽しいものを楽しいと感じている、素敵な女の子の顔です」

 

 そう言って男が見せてくれた写真には、薄っすらと、本当に微かにだけど笑みを浮かべている僕が写っていた。

 

「……私は」

 

 笑っている。写真に写った僕はほんのちょっぴりだけど確かに笑っていた。

 ようやくそこで、この人はこれを見せたかったのだと理解した。

 

「笑顔を作る必要はありません。貴女には必要がありません。貴女には自分の感情を素直に表現する才能があるのですから。昨日、私に歌を聴かせてくれていた貴女は笑顔でしたよ」

 

 そうだったのか。

 言われるまで僕は気付かなかった。歌っている時の僕は笑えていたのか。

 

「私は笑えるんですね。歌だけじゃなかったんですね」

「その通りです。もちろん、歌も素晴らしいと思っています。是非シンデレラプロジェクトに参加して欲しいと思えるくらいに」

 

 今更言わないでよ。

 最初にそう言ってくれていたら、こんな風に悩む必要もなかったのに。

 だから凄く残念だった。もっと早くこうして笑えることを知りたかった。そうすれば貴方の手を取ることができたのにね。

 

「本当にありがとうございました。私でも笑えると知れたことはこれからの役に立つと思います。私なんかのためにお時間をいただいて、その……」

 

 何と言ってこの気持ちを伝えればいいだろう。無関係な相手のためにここまで尽力してくれた人に言うべき言葉が僕には見つからなかった。

 でもその言葉は不要だったらしい。

 

「まだご納得していただけませんか?」

「納得?」

「私は今でも貴女にシンデレラプロジェクトに参加していただきたいと思っています。その気持ちは最初から変わりありません」

「え、でも、もう島村さんで決まりでは?」

「はい、島村さんも再審査による補充要員の一人です」

「一人」

「補充枠は三名居るんです」

「……んへぁ」

 

 三人……だと?

 じゃあ何か、僕はずっと無駄に枠争いをしていたのか。無意味な一人相撲を演じていたのか。

 いや、でもまさか三人分も欠員が出ているなんて思わないじゃないか。普通こういうのって一人だろ。

 それよりも今度島村に謝らないと。勝手にライバル扱いして必要以上に冷たい態度をとってしまった。ライバルじゃなくて同期になるってことじゃん。ごめん、本当にごめんなさい。

 

「如月さん」

「あ、はい?」

「私と一緒に歩んではいただけませんか?」

「え」

「後悔は絶対にさせないと誓います」

「あ、いや」

「私は貴女が欲しい!」

「ちょ、ちょっと待って待って!」

 

 何かおかしい流れになって来たぞ。貴方そういうキャラじゃないだろ、いったい誰に吹き込まれた。本人はいたって真面目に言っているのがわかるから質が悪い。この人にこれを吹き込んだ人間は絶対に”ワルイヤツ”だ!

 

「如月さん、私は」

「わかりました! いいです、もう結構ですから!」

「受け入れていただけるまで私は何度でも貴女にこの想いを伝え続けます」

「ひいぃぃ! さらに重くなった!? いや、ちょっと、本当に入れ知恵した人後でひっぱたくわ!」

 

 傍から見ると十代の少女に強面の男が全力で愛の告白をしているように見える。

 事案だ。誰がどう見ても通報物である。その証拠に先程まで微笑ましい目をしていた人達が心配そうな顔でケータイを取り出している。

 あ、これ最初に会った時と同じパターンのやつだ。

 

「わかりました! OKです! 貴方に付いて行きます、これで満足ですか!?」

 

 これは受け入れるしか選択肢がないではないか。元より断る理由は無いけど。

 この人は僕を必要だと言ってくれたのだ。歌と拙い笑顔の僕を欲しいと言ってくれた。付いて行く理由はそれで充分だ。

 

「本当ですか。ありがとうございます!」

 

 くぅ、そんな無邪気に嬉しそうな顔で喜ばないでよ。変な台詞に聞こえている僕が汚れてるみたいじゃないか。

 証明写真ボックスに備え付けの鏡で顔を見れば僕の顔が真っ赤になっているのが見える。

 この程度のことで顔に出るだなんて。誰だ僕が無表情だなんて言った奴は。僕だったわ。

 

「この履歴書は私の方でお預かりさせていただきます。スカウト枠として私の方から上に提出いたしますので」

「あ、はい。よろしくお願いいたします」

 

 もう一度履歴書を書かずに済んで良かった。あ、でも、僕が自分で書いた履歴書の特技欄よりも内容が薄いかも?

 僕が書いた方の特技欄には握力が200kgとか神速のインパルスとかちゃんと書いてあるから、できればそっちを持って行って欲しかったけど。ま、いっか、受かれば何でもいいし。

 

「あの、最後にもう一度だけ訊いてもいいでしょうか?」

「はい、なんでしょうか」

「貴方にとって、私の良いところは何ですか?」

 

 ”昨日の歌は貴方の心に届きましたか?” 本当はそう訊きたかったけど、それはまた今度にしよう。

 男は僕の問い掛けに対して、あの時と同じくまっすぐな目を向けて言った。

 

「笑顔です」

 

 うん──。

 信じてみよう、この人を。

 僕を信じてくれたこの人を信じよう。この人が僕の良さを笑顔だと言ってくれるならば、僕はこの笑顔で頑張ろう。

 貴方が僕を必要だと言ってくれる限り僕は貴方のために笑おう。

 僕は姿勢を正すと手を両の太ももへと当て、上半身を傾けると深くお辞儀した。

 やはりここはあれを言うしかないだろう。

 ずっと呼んでみたかったんだよね。

 

「これからよろしくお願いします。プロデューサー」

 

 僕はこの日アイドルになった。




ああ、それと前話のあとがきで1話ごとの文章量を減らすと約束したな?

──アレは嘘だ。



まさかの3話よりも文字数多いという謎。7万文字って。これでも二万文字以上削ったのに・・・。
4話をお読みいただいた方々はお気づきかもしれませんが、今回は武内Pに「I need you」を言わせたかっただけです。その一言のためだけに7万文字があります。千早がぐだぐだ無駄に考えたり逃げたり寄り道した全てが「I need you」で解決しちゃったわけです。
4話なんてやろうと思えば3行でまとめられます。

千早「私は駄目人間なんです」
武P「I need you」
千早「はい」(トゥンク)

即落ち3コマ。最後千早が武内Pの言うことに素直だったのは落ちてるからです。昨今の少女漫画ですらもう少し頭の良いヒロインが出てくるでしょうよ。まじチョロイン。
あとは色々と千早の現状というか、どう環境と性格が改善&悪化してるか紹介しようとしたらこんなことに。
こうやってぐだぐだ1話を長くするよりはもっと展開を早めに流していきたいです。無理ですけどね!
1話を3万文字くらいに短くまとめられる人を尊敬します。
次こそは短くしようと思います。5万文字は切りたい。できれば半分くらいにしたいです。


以下あとがきという名の補足と雑記。あまり読む意味はありません。

さて、今回でようやく346編が始まりました。前回の引きでいきなりアイドルデビューするかと思っていた方々には申し訳ない思いです。本編始まってもまだニートだったという衝撃的事実。
スカウトされたんだからそのままアイドルやればいいのにね。そう思ってもこの千早は面倒臭い奴なので紆余曲折を経ないとゴールできません。
前回の主題が「今更なんてない」ならば今回は「無駄なものなんてない」でしょうか。千早とPの無駄な駆け引きを描いただけとも言えますが。これをやったことで千早がPに依存してくれました。やったね。美希とまゆと凛足して3で割らなかったら千早になるよ。
Pは本当に頑張ったと思います。死ぬほど面倒臭い女のために裏であれこれ頑張る姿は涙なくしては語れないでしょう。彼視点でのお話では是非「千早この野郎。めんどくせー女だなw」と思ってやってください。
今回のお話を書くにあたり、千早の心理描写と並行してPの心理描写(ただし三人称)を副音声で脳内再生していました。千早の態度や言葉がどうPに映っているかを想像しながら千早の行動を書くというのは苦労しました。
だって千早クソめんどくさい奴なんだもの。話聞いてないし。勝手に悪い方に解釈するし。豆腐メンタルだし。学校行ってないから行先読めないし。逃げ足だけは人外だし。歌と楽器演奏は他人の心をへし折るレベルなのに自己評価が低いとか予想できんわ。
Pからすればクール系の天才少女をスカウトしたつもりが、実際は精神パッションでチートにより自己評価が低い難聴系主人公なんだから悪夢です。
P本人としてはよかれと思ってやったことが全て裏目に出ていますので本当にかわいそう。笑えているのに本人が笑っていないと思い込んでるとかわかるわけがない。同じ再審査仲間の卯月を連れていってみたら逆効果とか予想できるか。
それでも千早の才能を諦めきれなかったPは7話の未央や24話の卯月にしたような積極性を見せます。一話目にして歯車やめちゃってるよこの男。千早大好き勢だからね。仕方ないね。二か月もストーキングしたからね。仕方ないね。仕事放棄し過ぎて部長とちひろさんからめちゃくちゃ怒られたからね。仕方ないね。
Pがなぜそこまで千早の”才能”と”笑顔”を確信していたかはデレアニを見ていた方なら予想できると思いますが、P視点までは一応内緒です。

千早大好き勢と言えば春香が何やら不穏に見えます。でも安心してください。ちゃんと不穏です。
本当は春香襲来シーンを一話目に入れる予定でしたが、今回の話の中で完全に浮いている上に一万文字プラスされるためばっさりカットしました。4話で時間飛んでる?と思ったシーンがそこに該当します。
まあ、春香襲来シーンなんてあっても意味ないので5話以降で適当に回収します。お風呂に二人で入ったり、そこでキャッキャウフフするだけです。

もう一人の千早大好き勢の優君ですが、前回から引き続き千早のサポートに回っています。姉への扱いがぞんざいになりつつありますが、最初からこんな感じです。千早フィルタが掛かっているから天使に見えるだけです。実際はわりと普通の男の子です。
ここに自分のことが大好きで言えば何でもしてくれるし何しても許してくれる上に超美人な姉と同じ布団に寝て、全身密着状態のまま一晩何もしないでいられる普通の中学二年生が居るぞー!
彼はこれからも千早のために動き回り、姉の意味深な台詞に悶々としてもらいます。胸以外ハイスペックな姉を持ったせいで同級生の女子のほとんどが芋女に見える。今作で二番目に不憫なキャラです。

876プロ等のほかの事務所のオーディションに落ちた理由は変顔の写真が主な理由ですが、特技の欄を素直に書きすぎたのも敗因です。嘘は書いていませんが嘘臭い内容に冷やかしと思われてます。神速のインパルスとか。握力200kgとか。本人は大まじめに書いていますが失敗ですね。
奇蹟が起きて二次審査に進んでいた場合、歌でも歌えば二次の時点で採用されていました。

次回は写真撮影。
・・・の前にまたもやひと悶着。だって千早ちゃんまだアイドルじゃいもんね。
「僕はこの日アイドルになった(キリ)」


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アルティメットなアイドルの卵その1

長らくお待たせいたしました。
今回はアニメの2話目くらいのお話です。
今まで切りのいい場面まで書いてから一気に投稿していましたが、投稿予定文字数が10万文字を超えてしまったため分割投稿する形にいたします。
一旦投稿終えた後に統合するなどの対応を考えております。(まだ書き途中ですが)

また、開始時点でとあるイベントの描写が飛んでおります。
そのため前の話から繋がらない箇所がありますが、そちらは後の話で描写いたします。
本来1話の中で描き切る予定でしたが、分割投稿のためこの話だけ見ると疑問点が少なからずあると思いますが、そういう構成ということで


 あるところに、一匹の怪物がいました。

 その怪物には名前がありません。

 世界でただ一匹だけのその怪物に人のように名前は必要なかったからです。

 怪物も自分に名前がないことを不思議に思いませんでした。

 

 その怪物はとても心優しい生物でした。

 自分よりも劣った生物がいたとしても、決して食べようなどとしませんでした。

 なぜなら怪物には食事が必要なかったからです。

 必要がないから怪物は他者を食べることはしませんでした。

 

 怪物はとても美しい生物でした。

 怪物ではあっても化物ではないからか、見た目も人とそう変わりありませんでした。

 だから自分と同じ姿をした人を怪物は愛しました。

 

 でも怪物は知りませんでした。

 人は自分と同じ姿をしているだけで、それ以外の全ては同じではないことを。

 怪物は自分が強いことを知りませんでした。

 それ以上に、人が弱いことを知りませんでした。

 自分の言葉が人にどれほど残酷に聞こえるか、怪物は理解することはできませんでした。

 

 怪物が見る世界は怪物が見たいものでできていました。

 その世界で怪物は独りよがりの愛を口にします。

 それは残酷な言葉として人には聞こえます。

 でも一番残酷なのは、怪物が自らを怪物と自覚していないことでした。

 

 怪物は自分を人だと思っていたのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──その日、一匹の怪物が生まれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今日僕はアイドルになった。

 目指した未来に少しだけ近付いた。

 自分が千早に転生したと知ってから、十年以上アイドルを目指して来た。苦しい時間が長く続いた分その嬉しさたるや言葉では表現し尽くせない。

 ずっとアイドルになるための努力はして来たつもりだった。自分ならば簡単にアイドルになれると思い込んでいた。でも765プロのオーディションに落ちたことで夢を見られなくなって、そうやって二年間も燻り続けた。

 色々な人に迷惑をかけた。心配して来た人を傷つけたりもした。

 不都合な現実から目を逸らし、聴きたくない言葉に対して耳を塞ぎ、自分の失言を理由に声を失った。

 辛くて惨めな日々が続いた。自分の求めていた未来が消え、自分自身すら消えてしまいたくなるような気持ちだった。

 でも、そうやって自分の殻に閉じこもってしまった僕を支え助けてくれた人達が居た。

 優が僕を支えてくれた。

 春香が僕を助けてくれた。

 一人でふさぎ込んでいた僕は再びアイドルを目指せるようになった。

 そして、そんな僕をプロデューサーが見つけてくれた。

 それは諦めかけていた夢が突然かなったようなものだ。

 だから、なのだろうか。

 アイドルになったことで心に余裕が生まれた今になって疑問を抱いてしまう。

 

「アイドルってなんだろう?」

 

 ……いきなり何を言っているのかと思うかもしれないけれど、何も哲学的な問いを投げかけているわけではない。

 ただ、アイドルになったのだと思った瞬間、アイドルになるというのはどういうことなのかと疑問に思ってしまった。

 もっと深く言うと、何をすればアイドルなのだろうかと考えてしまったわけだ。

 事務所に所属すればアイドルなのか。

 曲を出せばアイドルなのか。

 雑誌に載ればアイドルなのか。

 テレビに出演したらアイドルなのか。

 ライブに出ればアイドルなのか。

 僕の中にあるアイドルの定義があやふやなせいで、何をしたらアイドルなのかわからなかった。

 曖昧な定義は自分が立つ位置を不安定にさせる。確固とした自己の確立が人より不得手なな僕にとってそれは出口の無い袋小路に迷い込んだのと同じだった。答えの出ない問答を延々と繰り返す壊れたパソコンみたいにアイドルとは何と問い続ける。

 そんな曖昧であやふやで不安定な自己分析にも似た問い掛けは、ふとした瞬間に終わりを迎えた。

 それはアイドルという存在を特別な生き物と考えていた僕には衝撃的な解だった。

 それはありふれたものだった。

 誰もが当たり前に持つ答えだった。

 アイドルも人だと思えばこそ、それを当たり前と言えるわけだ。

 でも、僕はアイドルを特別な存在と思っていたからそこに行き着かなかった。

 何度も答えは見えていたのに、それを答えと認識せずに、存在しない別の答えを求めてしまっていた。

 いや、きっと別の答えというものは存在するのだろう。それこそ人によってはもっと俗物的な理由だって答えに成り得るのだから。

 ……印税が貰えたらアイドルとか。

 まあ、そこまで俗っぽい物を言う人間はいないだろうけれど、世のアイドル達はきっと何かしらの答えを得ているのだ。

 そして僕の答えはそれ(・・)だった。

 それだけだ。

 きっとその一つだけあれば僕は自身をアイドルと名乗ることができるだろう。

 たとえこの先どのような苦難が待ち受けていようとも、その一つがある限り、僕はアイドルとして立っていられる。

 

 だから、今回の話は僕がアイドルになった話ではない。

 これだけ語りはしても、それは蛇足でしかない。僕がアイドルになった話はおまけ程度に聞いてくれれば良いんだ。

 本題はそれからの話。

 僕がアイドルになった……そう錯覚していた日から数日後の、そのまた数日後からこの話は始まる。

 

 

 

 

 身体が重い。チートの反動が今も僕の身体を蝕んでいる。

 最終審査を終えた僕は今、家の帰り道を満身創痍で歩いている。

 上手く動かない手足を気力で無理やり動かしている状態だ。少しでも気を抜けば、一度でも立ち止まればもう二度と歩きだせないと思えるほどに全身が不調を訴えかけてくる。

 関節を動かすだけでザクザクと刃物が突き刺さってくる様な激痛が走り、一瞬意識が薄れかけのを歯を食いしばって耐える。そうやって何度も襲い来る激痛の波をやり過ごしながら歩き続ける。

 まさか”如月千早”との完全同期がここまで負担になるなんて……。

 確かに人間一人分の人生を背負うわけだから、その負担が大きいのはわかっていた。でも、まさかここまで酷い状態になるなんて思ってなかったんだ。

 反動で上手く動かない手足を必死に引きずる不便さと合わさって自分の考えの浅さに腹が立った。

 

「身体が重い……こんな気持ちで帰宅するなんて初めて。もう、何か全部怖い」

 

 これでもだいぶ良くなった方だろう。

 チートを使用してからまだ三時間程度しか経っていないけれど、ようやく人心地着いたと言った感じだ。

 使用直後は本当に辛かったからね。これに比べたら前に自分の喉を殴り潰した事なんてどうってことないと思える。

 今はまだ日も高い時間帯のため人の目がそこかしこにある。そんな中、ゾンビみたいなぎこちない歩き方をする女が居たら絶対変な目で見られる。これからデビューを控えている身で変な噂を立てられるわけにはいかない。

 だから僕はなけなしの気力を振り絞り「なんてことは無い」という顔を作り、精一杯の虚勢を張って歩いた。

 

 

 

 ようやくアパートまで辿り着けた。

 やはり自分の家が見えると幾分心に余裕が生まれるものだ。

 早く部屋に入ってベッドに横になって眠りたい……。

 プロデューサーは次の月曜日に346の事務所に来るように言っていた。その日が仕事始めとも教えてくれた。

 今日は土曜日だから、今から寝れば二日間休める計算になる。それまでにはこの身体の不調も治っているはずだ。

 万が一治らなければ、本当は嫌だけれど、チートを使って乗り切るしかない。治り切っていない身体でチートを使用するのは身体への負担を考えると正直避けたいところだ。でも、ふらふらの身体で初仕事に臨むよりはマシだ。

 何せアイドルとして初仕事になるなのだから無様な姿は晒せない。プロデューサーだって見てくれているんだ。アイドルらしく振舞わなければならない。

 

「アイドル……」

 

 そう、だよね。

 僕はアイドルになったんだよね?

 今になってようやく実感が湧いてくる。

 僕でいいのかな?

 こんな欠陥品のなり損ないがアイドルになってよかったのかな?

 最終審査の問い掛けを思い返して胸へと手を添える。

 僕にアイドルをやる覚悟はあるのか。僕以外にもアイドルになりたい人はたくさん居る。今回のシンデレラオーディションだってたくさんの応募者が居たはずだ。

 その中から最終審査に残った人間は二人。その二人の内の片方が掴みかけた椅子を僕が横から奪った。

 その事実を聞いた僕は揺れた。765プロに落ちた僕と同じ絶望を今度は僕が与える側になるなんて。敗者になるのと同じくらいに勝者にも痛みが伴うなんて僕は知らなかった。

 でもプロデューサーは僕を選んだ。

 プロデューサーは僕をアイドルにしたいと思った。その誰かよりも僕を選んだんだ。

 プロデューサーが僕を選んでくれたから……。

 だから、今の僕はアイドルなのだろう。

 さっきは緊張とチートの反動で意識していなかったけれど、今になって自分が本当にアイドルになった実感で喜びが込み上げてくる。

 

「アイドル……アイドル!」

 

 ああ、なんて素晴らしい響きだろうか。

 自分がアイドルだと名乗れる日が来るなんて。諦めなくて良かった。足掻いてよかった。惨めでも、情けなくても、指一本分の希望が残っているならと絶望という名の谷に向かって落ちなくて良かった。

 今から月曜日が楽しみだ。

 浮ついた気分で家へと帰った僕は、しかし部屋の前にたどり着く前にその足を止めることになった。

 

 部屋の前に春香が立っていた。

 

 春香は眼鏡と帽子という、変装という言葉に真っ向から殴り合いを仕掛けて行く何時ものスタイルで薄く笑みを浮かべながら部屋の扉を見つめて居る。

 まだ夕方にもなっていない。いつもみたく終電を逃したから寄ったにしてはだいぶ早い時間だ。いつもの打ち合わせが長引いたパターンではないみたいだけど……何か用でもあるのかな?

 春香の予想外の訪問に暫く突っ立っていると、春香が部屋のインターホンを押した。

 小さくピンポーンという呼び出し音が聞こえる。当然僕は外に居るため部屋から誰かが出てくることはない。なるほど、ちょうど春香が来た時に僕は戻って来たわけだ。

 春香にインターホンを無駄押しさせたことに軽く罪悪感を覚えつつ、声を掛けようと口を開く。

 

「春……」

 

 春香がインターホンを押した。

 再び音が響く。

 春香は変わらぬ笑みを浮かべている。

 

「……」

 

 またインターホンが押される。

 音が響く。

 春香は笑っている。

 そうやって何度も春香はインターホンを鳴らしていた。

 いや、僕居ないからね。

 

「春香」

 

 ご近所迷惑になるので止めるためにも春香に声を掛ける。

 春香の反応は早かった。

 ぐるんと音が鳴るのではないかと思うくらい勢い良く頭を振りこちらへと振り返る春香。

 

「千早ちゃん!」

 

 僕に気付いた春香がこちらへと歩み寄ってくる。先程までの薄ら笑いではなく満面の笑みを顔に浮かべて。

 あのくらいの笑顔ができたら僕ももう少し歌のレパートリーが増えるのにな。

 

「部屋の中に居るのかと思ってピンポンし続けちゃった」

「ずっとインターホン鳴らしてたの? ケータイにメールくれればよかったのに」

「えー、ずっとメールしてたよ。電話もしてたし」

 

 うそん。春香に指摘されてケータイの着信履歴を確認する。

 だが履歴欄には新着情報はない。

 まさかと思いすぐにメールセンターに問い合わせをする。

 次の瞬間画面が大量の電話とメールの着信履歴で一杯になった。

 日付により五分ごとにメールと電話をかけ続けたことがわかる。なんと春香は二時間前から数分ごとにメールと電話をしていたらしい。

 

「……」

 

 着信メールの数に自然と背中を汗が流れた。

 恐る恐るケータイの画面から顔を上げる。

 すぐ目の前に笑顔の春香の顔があった。

 顔が近い。どちらかが微かにでも動けば鼻先がぶつかるくらいの距離だ。

 当然そんな近くに立たれたら嫌でも色々と情報が入ってくる。

 まずは匂い。今の僕の壊れた嗅覚でもわかる程の甘い香りが鼻孔へと入って来た。香水のような無機質な香りではなく、シャンプーと春香自身の体臭とかが混ざり合った匂いだ。

 僕はあまり制汗スプレーの臭いが好きではない。たまに居る逆にスプレー臭い女の子とかいると思わず顔を顰めてしまうくらいだ。そんな話を前にメールのやり取りの中で春香に言ったことがあるけれど、春香からそういった臭いがないということは彼女もあまり使用しないようだ。

 でもスプレー臭くない代わりに、春香の襟元から漂う汗の匂いは女性に慣れていない僕にとっては刺激が強い。それが春香みたいな可愛い子ならなおさらだ。興奮とまではいかないまでも、十分にドキリとさせられる。

 

「千早ちゃん」

 

 春香の声は優しい。

 とても二時間近く待たされた後に出せる声ではない。

 怒りや不満が見えない春香の笑みはまさしくアイドルとして完璧なものだと思った。

 春香、貴女って子は……。

 二時間待たせても笑って許してくれるだなんて、何ていい子なのだろう!

 春香の聖母のごとき優しさに涙が出そうになった。

 そんな心優しい友人の汗の匂いにドキドキした僕は一度死ねばいいと思うよ。

 

「ごめんなさい! メールセンターで止まってて、メールとあと電話に気づかなかったの……」

 

 春も終わりを迎えようという季節であっても、夕方頃になると少しだけ肌寒い。そんな中で待っていた春香に申し訳ない気持ちになる。

 

「もちろん私は信じてたよ? 千早ちゃんがわざと私を無視するわけないって」

「当たり前でしょ! 大好きな春香を無視なんてありえないもの」

 

 こんなに優しくて色々と僕を気に掛けてくれる春香を無視なんてするわけがない。

 

「えっ、大好き……?」

「ええ、大好きよ春香」

「えへへ、そっかー、大好きかー……うん、うん……良かった!」

 

 もちろん友達としての好きだけど。

 すでにこの人生で恋愛を諦めて居る僕には春香相手に友情以上の感情を持つことはないだろう。

 今でも僕の恋愛対象は女の子だと思うから、なおさら春香は友達だと思い込む必要があった。ほら、女の子同士のスキンシップって男からすると激しいからさ。女の子にとっては何気ないスキンシップでも、男にとってはドキドキさせられたりするでしょ。

 春香も何かあれば抱きついてくるし。お尻や胸に触って来るし。キスして来るし。

 一度やり過ぎではないかと言ったらこれくらい普通と言われてしまった。むしろこれくらいやらないと友達ではないらしい。強く言い聞かせるように言われたら、春香以外に友達がいない僕は納得するしかない。逆に春香から何でそんなこと訊くの? みたいな顔をされて慌てて誤魔化したくらいだ。

 まあ、僕が誰かを好きになったとして、その相手が女の子なら相手がレズでもない限り恋愛に発展することはないだろう。どこかその辺に居ないかな。

 

「とりあえず、部屋に上がった方がいいわ。いつまでも外に居たから冷えたでしょ?」

「そうだね。あ、でもさっきので熱くなったかも……」

 

 何気なく吐かれた春香の言葉にギョッとする。

 身体が熱いって……それは風邪じゃないか?

 僕が早く帰らなかった所為で春香が体調を崩したなんてことになったら大変だ。大切な友達を自分の不注意で辛い目に遭わせるなんて許されない。

 

「春香!」

 

 慌てた僕は春香の体温を確認しようと彼女の顔に両手で触れた。

 しかし僕の手に春香の体温が伝わることはない。今の僕は触覚が麻痺しているため、春香の体温が手で触れた程度ではわからないのだ。

 体温を感じ取るために自分と春香のおでこを合わせる。

 しかし、それでも春香から熱を感じることはできないため、他の部位——頬とか首で春香触れる。

 

「え? えっ? えええ?」

 

 春香の方は状況がいまいち飲み込めないのか目を白黒させている。

 今この時にも春香の顔は赤くなり体温も上昇してしまっている。明らかに熱があるってわかるのに、ポンコツな僕の体はそれを感じ取れない。

 それにしても、春香は自分の不調に気付かないなんて……。

 僕は春香の忍耐力を友達として誇らしく思うとともに、その忍耐力が彼女を苦しめていることに心を痛めた。原作でも自分を拒絶した千早を見捨てず最後まで説得し続けた春香の根性はこの世界でも変わらないと知っていながら、こうして彼女が無理をする事態を回避できていない。

 せっかく春香が友達と呼んでくれているのに、これでは友達の意味がないじゃないか。僕は本当に春香を傷付けてばかりいる。それでも僕と友達を続けてくれる春香に今度何かお礼をしよう。日頃の感謝を込めるのだから、僕ができることなら何でもしてあげようと思った。

 っと、その前に春香を安静にさせなくちゃ。春香の様子を見ると、顔を真っ赤に染め息を荒くしていた。目を開けているのも辛いのか、両目を閉じている。足元も何かふらふらと揺れていおり、僕が手で頭を支えていなければこちら側に倒れ込みそうだ。

 

「春香、すぐに部屋に上がりましょう」

 

 とにかく部屋の中に居れて安静にさせなくては。

 

「え、へ、部屋?」

「そうよ。外じゃ何もできないでしょう?」

「ふあっ!? そ……そうだね! さすがに外じゃ無理だよね! 人の目もあるかも知れないし」

 

 病人が人目を気にする必要はないと思う。でもアイドルならば体調不良一つとっても、ニュースのネタにされることがあるのかもね。春香みたいなトップアイドルならばなおさらだ。

 アイドルに付き纏うパパラッチという存在を忘れていた僕は自分の失策に気付いた。今もこの瞬間に春香の特ダネを狙う記者が居るかもしれないのだ。僕は慌てて春香に覆いかぶさるようにして陰になりつつ、彼女を監視しているパパラッチが居ないかと周囲を確認する。原作で千早も世話になった、あの三下パパラッチ男が居たら大変だ。『体調管理もできないプロ意識の欠けたアイドル』などという記事を書かれかねない。まあ、そんなものを書いたら僕の秘密技”人だけコプター”で空を不自由に飛んで貰うつもりだけど。

 

「ち、千早ちゃん、お部屋に入ってからって話じゃ……」

 

 腕の中で春香が何か言っているが、今はちょっとそちらを聞いている余裕がない。

 僕は躊躇いなくチートを発動させた。と同時に再び身体を激痛が襲うが歯を食いしばって耐える。先程よりも痛みがましに感じるのは二回目だからなのか、そもそも痛覚が馬鹿になっているからなのか。後者でないことを祈りつつ知覚能力を上げる。

 僕が今やっているのは先程最終審査会場でやった様にチートによる聴覚強化だ。犬よりも鋭敏になった聴覚により半径五十メートル以内の音を無差別に拾い上げる。春香の声はカット。

 当然僕の平凡な脳では範囲内の音全てなんて処理しきれない。そもそも音が混ざって雑音に聞こえてしまう。そこで脳内で複数展開した”如月千早”にそれぞれ割り振った音だけをピックアップさせ必要な音だけを抽出する。その音を加算平均処理することで雑音を濾し取ることでようやく僕が理解できる音へと変換できた。

 

『おかーさんお腹すいたー』『膝に矢を受けてしまってな』『チェケラッイエェ』『さっき味噌食べたばかりでしょ』『私はまだアイドルを諦めたくない!』『青色サヴァン』『ばあさん、ワシのぶらじゃぁ知らんかね』『ちくわ大明神』『死ネ死ネ 死ネ死ネ 』『これが幻想の最果てだ!』『おじいさん、ぶらは今着けてるでしょ』

 

 ……どうやら知覚範囲内でそれらしき話声やシャッター音等の記者が発するような音は発生していないようだ。多少不穏な台詞が聴こえたような気がするけど、僕達には関係ないだろう。

 とりあえず安心できたのでチートを切る。一瞬だけとはいえチートを発動したため身体が痛んだが、春香の安全のためと思えば安い代償だった。

 改めて春香の様子を窺う。

 腕の中の春香は先程よりも顔が赤かった。耳どころか首の下の方まで真っ赤に染まってしまっている。

 

「あ、あの……私、どうせなら、その……はじめてなら千早ちゃんの部屋がいいなって。あっ、千早ちゃんがどうしてもって言うなら外でもいいけど……」

 

 しかも言ってることが支離滅裂になっているじゃないか。この短い間にこんなにも悪化しているなんて。春香を部屋に上げてから周囲を確認するべきだった。

 

「ごめんなさい。気が急いてしまって、春香のことを考えていなかったわ……」

「ううん! い、いいの、千早ちゃんも我慢できないことってあると思うし」

「そう言ってくれると助かるわ。改めて部屋に上がりましょう」

「うん。えっと、いいの?」

「もちろんよ。外よりも部屋の中の方が色々とできることがあるもの」

「色々っ!? そっ! ……うだね!」

 

 そうだ、中の方が看病しやすい。当たり前だよね。

 僕は突っ立ったままの春香を抱きしめたまま部屋の中へと入った。その時春香が「やった、勝った」と呟いていたけど意味はさっぱりわからなかった。病人の譫言だもんね。

 

「お、おじゃ、お邪魔しま~す!」

 

 部屋に上がる時に律儀にそんな挨拶を言う春香にこんな状況だというのに感心する。親御さんの教育が良いんだね。

 意識もしっかりしているみたいだし、案外大丈夫な気がして来た。

 

「いや、むしろただいまって言うべきなんじゃ。そしたら千早ちゃんがお帰りって」

 

 あ、やっぱり駄目だわ。自分が今どこに居るのかも曖昧になっているぞ。春香は熱の所為で僕の家を自分の家と勘違いしているんだ。

 

「春香、すぐにお布団を敷くわ」

「えっ、お風呂にする? ご飯にする? それとものくだりは!?」

 

 ちょっと何を言ってるかわからないですね。

 春香を一度ソファに座らせた後に布団を取り出すために押入れを開けて中を漁る。

 この間優が使ったのと同じ布団だが、きちんと干した後にケアしてあるから大丈夫だろう。

 

「あ、あと、ちょっと汗かいてるから先にシャワーに」

「シャワーなんてとんでもない!」

「えええええっ、いや、でも、汗とか流した方がいいと思うんだけど」

「私はそう思わないわ。むしろ浴びない方がいいくらい」

「マニアック!?」

 

 病人なのにちょっと騒ぎ過ぎである。これ以上騒いで悪化したらいけない。

 とにかく春香には安静にして貰わないと。

 布団を床に敷くと僕は春香へと近付いて行った。

 

「千早ちゃんになら何をどうされてもいいけど、できれば綺麗な私を見て欲しーー」

「まどろっこしい」

 

 ソファでモジモジと体を動かしている春香を横抱きに持ち上げる。所謂お姫様抱っこというやつだ。

 

「きゃっ。わ、わ、千早ちゃん力持ち!?」

「春香が軽いだけよ」

 

 驚く春香を適当にあやしつつ布団へと運ぶ。実際春香は軽い。ちゃんと食べているのか心配になるくらいに。

 腕の中で暴れる春香を宥めながら部屋を移動して布団まで辿り着くと、その上に春香を優しく下した。

 

「千早ちゃん、私こういうの慣れてなくて……」

 

 普段元気な春香のことだ、風邪を引いたこと自体少ないのだろう。だからこうして看病されることに慣れていないんだね。

 

「大丈夫、全部私に任せてくれたらいいわ。こう見えて私慣れてるの」

「え……慣れてる?」

「優相手に何度もしてるから」

「……ふぅん、へぇ」

 

 あれ、春香の目が据わった気がするぞ。さっきまであれだけ輝いていた瞳がドロドロに濁っているように見える。この風邪は長引きそうだ!

 

「優君とこういうことしているんだ?」

「そうね。弟のことだもの、当然だわ」

「当然って……こういうのって普通姉弟ではやらないよ」

 

 まあ、確かに普通は親がやるよね。でもうち共働きだからニートの僕がやるのは当然なんだよね。母親が専業主婦で一人っ子の春香には違和感あるのかもね。

 

「優もそう言っていたわ。でも、他に適任がいなければ私がやるしかないじゃない。あの子気を遣って断るのよ。終いには自分でやるからいいって言うの」

「自分で……そ、そう言ってくれるならお言葉に甘えてもいいんじゃないの?」

「まさか! 優が苦しそうにしているのに一人でさせるなんてできないわ。だからほとんど私が無理やりしている感じね」

「無理やり!? え、千早ちゃんの方からしてるってこと?」

 

 病人が自分で身の回りのことをするのは難しいことだ。 だから僕が代わりにしてあげるって言っているのに、それを優ってば断わるんだから困るよ。

 飲み物用意したり、冷却シート貼り替えたり、お手洗いに連れて行ったり、身体拭いたり……。僕ができる範囲でやってあげようとすると全力で嫌がるのだ。最後は力尽くでやるけれど。

 

「優も恥ずかしくて自分から言えないんでしょうね。もしくは気を遣ってくれているのかも……優しい子だから」

「優しいというか、自分から言い出したらやらしいと言うか」

「だから優もね、最初は何かと理由をつけて断って来るのだけれど、最後の方は諦めて抵抗せずにいてくれるわ」

「千早ちゃんに無理やり……抵抗心を奪われて……」

「あの子のお世話をしていると、凄く心が満たされる気がするの。いえ、これは不謹慎ね」

「お世話……千早ちゃんのご奉仕」

「でも遣り甲斐があるのは確かよ。いつも二人にはお世話になっているのだもの、春香の看病くらいどうってことないわ」

「千早ちゃんの看病…………かんびょう?」

「ええ、そうだけど」

「看病」

「看病」

「なんで看病?」

「何でって……風邪を引いたから私が看病するという話でしょう? さっきからずっと顔が赤いし、様子がおかしかったから……違うの?」

「………… …… 風邪じゃないよ」

「そうだったの? 私てっきり風邪だとばかり……」

「え、じゃ、じゃあ、無理やりっていうのは」

「看病のことだけど?」

「……」

「春香?」

「あふん」

 

 春香は後ろにばたりと倒れると布団を頭まで被ってしまった。

 布団の端から見える手は真っ赤で、激しく震えているのが布団を被っていてもわかる。

 

「ちょ、ちょっと春香? 本当に大丈夫?」

「うん……ちょっと、ごふんだけ……落チ込マセテクダサイ」

 

 何で最後ちょっとだけカタコトなんだ。

 風邪じゃないと言うならいいんだけど。先程までの挙動不審な態度はちょっと普通ではなかったと思う。アレで風邪ではないというならもっと別の病気なんじゃないかと不安になる。

 それ程までに春香は尋常じゃない様子だった。

 いったい何が原因だったのだろう……?

 

 

 それから、きっちり五分後に春香は復活した。

 気分はすっかり良くなったそうだ。

 むしろ元から何ともなかったから大丈夫と言われてしまった。気を遣われているのだろう。無理していないか心配だ。

 

「本当に調子が悪かったら遠慮なく言って? 私にできることなら何でもするから」

「何でも? ……ハッ、ううん! 大丈夫だよ!」

 

 先程から春香の挙動がおかしい。僕の言葉をいちいち繰り返したり、意味を一瞬理解できないような素振りを見せる。やはり熱で思考能力がおかしくなっているのではないだろうか。

 

「本当に風邪ではないのよね?」

「うん。本当に大丈夫だよ。ちょっと疲れが出ちゃってぼーっとしちゃっただけだから。あ、でも少し横になったからもう大丈夫だよ?」

「それならいいのだけど。春香が辛そうにしているのを見るのは私も凄く辛いから……。私は春香のことを本当に大切に思っているの。その春香が苦しんでいたら力になりたいと思うのは私の我儘かしら」

「ふぐっ!?」

 

 突如呻き声をあげて倒れる春香に慌てる。

 

「え、大丈夫!?」

 

 慌てる僕の前で春香はまたしても布団を被ってしまった。その姿は何かに耐えているように見える。その証拠を掴む指先が震えていた。

 やがて布団越しに春香の声が聞こえた。

 

「……罪悪感で死にそう」

 

 その声は病人のように弱々しいものだった。

 

 

 

 予想通り最近の春香は多忙だったそうだ。そのためメールもろくに返せなかったのだと説明を受けた。その際大袈裟に謝罪して来たので逆に慌ててしまった。アイドルとして忙しいことは良いことだ。それを喜びこそすれ、責めることなんてするわけがなかった。むしろ春香の頑張りが認められたように思えて嬉しい。

 そう伝えたところ突如春香が自らの胸を押さえて倒れてしまった。やはり何かしらの病気なのかと慌てた僕に春香は何ともないと言ったけれど、それにしては何かに耐えるようにプルプルと震えているのは見ていて不安になる。

 大丈夫と言われても、小声で「天使」とか「耐え」とか「尊い」とブツブツと呟いている姿はとても平気には見えない。本当に病気じゃないんだよね?

 

「春香に何かあったら耐えられないわ」

「大丈夫、私はまだ耐えられるから」

 

 会話になってないよね。

 

「貴女に何かあったらきっと泣いてしまうわ」

「千早ちゃんをなかせる……」

「これからも春香と付き合っていきたいと思っているもの」

「千早ちゃんとつきあう」

「春香が思っている以上に私は春香が好きだから」

「ハネムーン!」

 

 あの、聞いてくれてます?

 わりと真面目なシーンのはずなんだけど、物凄くギャグ空間が広がっている気がする。

 自分がシリアスになり切れないのは自覚している。さらに相手が春香ともなれば真面目な空気なんて長く維持できるわけがなかった。

 でも、それで良いと思う。張り詰めた空気の中で居るよりも、ほんわかとした空気の方が良い。

 本音を言えば身体の芯から訴えて来る疼痛のせいで今すぐにでも倒れてしまいたい気分ではあったけれど、春香と過ごす時間の方が優先された。

 

「あ、そうだ! 私千早ちゃんにお祝いがあるんだった!」

 

 意識がそれていた僕を春香の声が引き戻した。まあ、春香の方も何やら独り言でブツブツと呟いていたのでお互いに心ここにあらずという感じだったが……。

 やっぱり少しでも気を抜くと意識が薄れてしまう。千早の意識と混線……混戦したせいだ。今後このチートの使用は控えようと思う。下手をすると僕の自意識が死ぬ。

 それはともかく、春香の言うお祝いとは何だろうか。

 春香の誕生日はこの間祝ったばかりだし。……そもそも自分の誕生日祝いを他人に送ることはないか。

 

「お祝い? 何かあったかしら……」

 

 不思議に思って訊ねる。

 

「アイドルデビューのお祝いだよ。おめでとう、千早ちゃん!」

 

 笑顔で返された春香の答えに僕は目をしばたたかせた。

 はて、僕は春香に最終審査に受かったことを教えていただろうか。

 

「あ」

 

 と思ったけれど、よく思い返せば春香にアイドルになったと伝えていた事実に気付いた。しかし、それは今日のことではない。プロデューサーにアイドルになること告げた日のことで今日のことではない。

 あの時はまだアイドルではなかったのだけど、プロデューサーのスカウトを受けた時点でアイドルになったと勘違いして家族と春香にアイドルになったと連絡してしまった。あの時の僕は自分がアイドルになれたと舞い上がりテンション高くメールしていたと思う。

 その時期は春香からの連絡が一時途絶えていたので今まで忘れていたけれど、春香の方はそんな僕のテンションを見てわざわざ来てくれたのだ。

 僕が色々な事務所のオーディションを受けては落ちてを繰り返していた時期に相談に乗ってくれていたのも春香だった。僕の愚痴混じりの近況報告を嫌な顔せずに聞き、自分の体験談を交えたアドバイスをしてくれたのだ。春香自身も765プロに受かる前はたくさんの事務所のオーディションに落ちていたということもあり、共感性を持ったアドバイスはとてもためになったことを覚えている。

 アイドルのお仕事で忙しかっただろうに。最近だってメールする暇もない程に忙しかったはずだ。それでも僕の勘違いの結果を祝うために家に来てくれた春香の義理難さに涙が出そうになる。

 今日の最終審査に受かって良かった。これで落ちていたら忙しい中来てくれた春香に申し訳が立たなかった。

 

「ありがとう……春香に祝わって貰えて嬉しい」

 

 勘違いの部分は説明せず、代わりに心からの感謝を述べた。

 改めて言うけれど、僕の表情は基本的に真顔だ。今の台詞も真顔で言っている。当然感謝の言葉を口にする時も真顔になってしまうため、知らない相手からは淡泊に見えてしまうのだった。

 一度お店の店員さんに同じように感謝を伝えたところ、泣きそうな顔で謝られた時は自分の感謝は一周回って怒っているように見えるのかと泣きそうになった。

 そんな感じに僕がどれだけ心を込めても相手に伝わらないことが多々ある中、きちんと真意を読み取ってくれる春香はストレートに気持ちを伝えられる相手だ。希少で貴重な大切な存在だった。

 

「本当はすぐにメールで返した方が良いかなって思ってたんだけど、やっぱりちゃんと向き合って言いたかったから……」

 

 春香のその言葉に目頭が熱くなった。気を抜くと泣いてしまいそうだ。友達の前で泣くのは恥ずかしいので必死で堪えたけど、嬉しいと感じた気持ちは本当だった。

 ずっと友達もできずにいた僕にここまで言ってくれる友達ができた。その相手が春香だというのは僕が千早だから……ではないと信じたい。運命であっても必然であって欲しくなかった。

 春香と千早だからという理由で僕達は友達になったのではない。もっと大きくて、純粋で、清らかな感情によって僕達は友達になったのだと信じたい。

 

「春香、私は春香のことが大好きよ。ずっと一緒に居たいくらいに」

 

 春香も同じ想いでいてくれたら嬉しい。

 

「……これが優君の言っていた千早トラップか」

「今何か言った?」

「何でもないよ! 私も千早ちゃんとずっと一緒に居たいと思ってるよ!」

 

 春香……。

 これはもう行けるんじゃないだろうか。

 春香の態度から「もしかしたら」と思っていたのだけれど、今の言葉で確信に変わった。

 僕達は友達を超えた関係になれる。

 

「私は春香とは友達を超えた関係になれると思ってる」

「唐突にチャンス到来」

「私達、親友になれないかしら」

「と思ったらこっちもトラップか」

「春香……駄目かしら?」

「そんなことないよ! 私も千早ちゃんと親友になりたい!」

 

 春香が僕と同じ気持ちだと言ってくれた。つまり僕達は今この時をもって親友になったのだ。

 友達ができただけでも幸せなだったのに、まさか親友まで持つことができるなんて……。

 こんな偉業は少し前の僕だったら考えもしなかったことだ。少し前の僕には親友どころか友達すらいなかったのだから。その僕が春香と親友になる。素敵な話だ。

 

「嬉しい。春香と親友になれるなんて、本当に嬉しいわ」

「千早ちゃん! 私もーー」

「この友情は一生変わらないのね。何があろうとも親友という関係に罅が入らないように私頑張る」

「ーー涙が出そうだよ!」

 

 春香の目に涙が浮かんでいるのを見て今度は貰い泣きしそうになった。泣くくらい喜んでくれるなんて、親友になろうと言って良かった。

 あとで優に報告しないと。お姉ちゃんに初めての親友ができましたって言おう。きっと優も喜んでくれるよね?

 

「春香、改めてお礼を言わせて欲しいの」

 

 そして春香には改めて言わないといけないことがあった。

 本当ならばもっと前に、親友になろうと言う前に言わなければいけないことだった。春香に会うことができなかったというのは言い訳だ。言うだけなら何時だって言えたはずだ。それこそ親友になろうと提案する前に言ってもよかったんだ。

 でも、こうして順番が逆になってしまったのは僕に勇気が無かったから。拒絶されるという怖れは無い。拒絶されることを恐れるなら親友になることを拒絶される方を恐れるべきだ。

 ただ、僕はこの言葉を春香が重く受け止めてくれるだろうかということが不安だった。春香にとって何てことはない、どうでもいい事柄だと軽く受け止められないか、それが怖かった。

 居ずまい正してまっすぐに春香に目を向ける。

 僕の本気さが伝わったのか、春香も布団から起き上がり対面へと座った。

 

「春香、ありがとう」

 

 春香に対して頭を下げる。感謝の言葉とともに、これが僕の精一杯の誠意なのだと伝わるように。

 

「今まで春香が支えてくれたから、私はアイドルになることができた。私が心を閉ざして殻に閉じこもっていた時、春香がここに来てくれて、助けてくれたから今があると思うの。だから、ありがとう……」

 

 僕は笑うことができない。喜びを表に出せない。見た目でそれを伝えられない。

 だから何度でも言葉を重ねるのだ。ありがとうの言葉を何度も口に出して、頭を下げることしか僕にはできないから。

 ありがとうよりもこの感謝の気持ちを伝えられる言葉があればどんなに良いことか。でもそんな言葉が存在しないというならば、せめて言い続けるしか僕にはできない。

 

「ありがとう、春香……アイドルになれたよ」

「千早ちゃん……」

 

 春香が僕へと腕を伸ばすのが気配でわかる。

 僕なそれに対して何もしない。この後春香がどうするのか半ば知っているとしても、結果が出る瞬間まで顔を上げることはしない。

 もしも、僕の勘違いだったら……。

 ふと湧き上がった怖れは、身体に回された春香の腕の感触により消し飛んだ。

 春香が優しく抱きしめてくれている。それが分かった瞬間、今度こそ涙が零れそうになった。

 良かった……。この気持ちが、感謝の言葉がきちんを受け止めて貰えた。

 何でも無いことだと言われてしまったら、これまでの僕の人生が全て軽くなってしまうのではないかという不安があった。だから春香には本当に感謝してるということを理解していて欲しかったのだ。それがどれだけ自分勝手な物なのだとしても。

 でも僕の不安は杞憂に終わったようだ。春香はきちんと僕の想いを理解してくれていた。

 さすが春香。伊達に主人公を張ってはいないね。

 

「私が千早ちゃんの力になれて良かった」

 

 耳元で聞こえた春香の言葉で流れそうになる涙を目を瞬かせて我慢をする。

 泣きたければ泣けばいいと思うかもしれない。でも、僕自身が春香の前で泣くことを拒絶している。男児たるもの……なんて古臭い理由ではなく、単純に僕の中の男の部分が女の子の前で泣くことが恥ずかしいと訴えかけるのだ。

 だから僕は春香の前では泣かないようにしようと思う。その分優の前で泣いてばかりいるけれども。そこは身内特権ということで。

 

「春香……」

 

 春香との熱い抱擁が続く。

 今日の朝から出かけて帰って来るまで締め切っていた室内は少しだけ暑い。春の陽気が差し込んでいるのも室温を上げている理由だろう。

 その中でこうして人間二人が抱き合っているとそこそこ温かくなる。しかも春香が僕に覆いかぶさるように抱き着いているため密着度は高い。

 

「……」

 

 抱擁自体に文句はない。春香からの思い遣りの証拠ということで感動すら覚える。

 

「あの、春香……?」

 

 抱き締めて貰っておいて何か言うのも心苦しいので極力待とうと思っていたのだけれど、かれこれ十五分近く抱き合っているのは少し長いんじゃないかなと思うわけで。

 

「あったかい、千早ちゃんあったかい……いい匂い」

 

 さらに僕の髪の毛に春香が顔を埋め何やらブツブツと言っている状態は何々なのだろうか。

 髪の毛を貫通した春香の鼻息が頭皮に当たっているのもくすぐったいので出来れば止めて欲しいところだ。

 

「春香、ねぇ、春香? もう、そろそろ……ね?」

「はぁぁ…………あっ」

 

 今度は僕が春香のことをあやす様に背中を軽く叩くことで、ようやく春香が気付いてくれた。

 それだけ気持ちが込められていたということなのだろう。春香の友を想う気持ちの強さを心の中で称賛するのだった。

 やがてどちらともなく離れ──何故か春香はとても渋っていたが──僕達は対面に座り直した。

 

「春香と親友になれて、その親友からお祝いの言葉を貰えるなんて思ってもみなかったわ。こうして祝われたことで改めて自分がアイドルになれたんだって実感できた。本当に今日はありがとう」

 

 改めて春香へと感謝を伝える。

 しつこいように思えるかもだけれど、僕としては春香にお祝いを言って貰えたことは最高のプレゼントだったから、何度言っても言い足りなかった。

 あまり言い過ぎてもしつこいかなと思い、とりあえずこの話はこれで終わりにするつもりだった。

 しかし春香の方ではまだ話は終わっていなかったらしい。

 

「実は言葉だけのお祝いだけじゃなくて、ちゃんとプレゼントを持って来たんだよ」

 

 そう言って春香は立ち上がると、ソファの上に置いてあった鞄へと近づき中を漁り出した。

 歩いている時の足取りは軽く、どうやら体調不良というのは本当に僕の勘違いだったのだと安堵する。春香の言葉を疑うわけではないけれど、僕に気を遣って体調不良を誤魔化しているという可能性もあったからだ。

 やがてお目当ての物が見つかったのか、春香がこちらへと振り返る。

 

「じゃじゃーん!」

 

 ジャジャーンという効果音が聞こえそうな勢い、と言うか実際に口で言いながら春香が取り出したのは一枚のチケットだった。

 

「……スイーツフェスタ?」

 

 ロゴや店名、吹き出しなどでごちゃごちゃとデコレーションされている上に遠いのでよくわからないけれど、チケットに書かれている情報を集約して言えばスイーツの食べ放題の前売り券とあった。

 春香がこれを僕に見せたということは、これがプレゼントということだろうか?

 

「春香、これは……?」

「今人気のスイーツ店の食べ放題チケットだよ。あまりの人気に完全予約制になったくらいで、チケットを買うところから競走が起きているくらいんだから」

 

 胸を張りながら「小鳥さんに無理言って取って貰ったの」と言う春香は一欠けらの邪気すら感じられないほどに爽やかな笑みを浮かべていた。しかし765プロの日常をアニメと春香からの雑談から間接的にとはいえ知っている僕には、その裏で繰り広げられたであろう春香と音無小鳥のやり取りがリアリティを持って想像できた。一体今度はどんなネタで釣られたんだろうね?

 まあ、いつものことだから良いのだろうけれども。

 それはともかく、チケットには一つ気になることが書かれていた。

 

「これ……指定した日付は日曜日なのね」

 

 チケットには予約日が記載されていた。それが日曜日、つまり明日になっている。

 

「うん。あっ、もしかして……明日から仕事始めだったりする?」

「いえ、そういうわけじゃないけれど……」

 

 仕事始めは来週の月曜日からだ。だから日付だけなら問題はない。

 しかし僕の今の体調でスイーツの食べ放題というのは些か辛いものがあった。元々省エネで少食のため食べ放題自体あまり向いていない。それに加えて今の僕の体調は最悪と言っていいだろう。明日になればいくらか復調している気はするものの、甘い物をたくさん食べられる気はしなかった。絶対吐く自信がある。

 でも、せっかく誘ってくれた手前、ケーキをひとつふたつ食べておしまいというわけにもいかないだろう。

 

「えっと、お祝いって名目で持って来たのは確かなんだけど、本当は前から千早ちゃんとこういうお店に行ってみたかったの……嫌、かな?」

「嫌じゃないわ。むしろ大歓迎よ」

 

 思わず頷いていた。上手い言い訳を考える暇すらない、まさにゼロタイムの即答。僕じゃなかったら見逃しちゃうね!

 いや、春香にこんな風に言われたらOKするしかないじゃないか!

 わざわざ僕のために苦労してチケットを取ってくれた春香の努力と気遣いを無駄にはできないでしょ。彼女の厚意を無下にしたら自分で自分を許せなくなる。

 ああ、それにしても……「嫌、かな」って訊く時に上目遣いで、不安そうな顔で言う春香の破壊力は凄まじかった。見慣れた顔のはずなのに思わずドキリとさせられた。まったく予期していなかったため衝撃度が尋常じゃない。例えるならドラゴンボールでラディッツの戦闘力が53万あるくらいの衝撃だ。想定外過ぎて死ぬ。

 この表情は媚びているというわけではないのだろうけど、とてもでないが男に見せてはいけないやつだ。僕が男だったら「実はこいつ僕のこと好きなんじゃね?」って勘違いするレベルだ。自分の性別が女ということが悔やまれる。いや、男だったら春香にこんな顔向けて貰えないか。

 とにかく、春香のこの誘いに乗るのは僕の中では確定事項だった。断る理由が無い。

 

「仕事始めは月曜日からだから、明日は一日空いているわ」

「本当!? やったー!」

 

 春香のこの笑顔を曇らせないためにも明日は死ぬ気でスイーツを食べよう。食べられないまでも、せめて楽しそうにしなくてはきっと春香が傷つく。

 死ぬ気で食べるのではなく、死ぬつもりで明日に臨む。それが僕の覚悟だ。

 覚悟はできているか?

 僕はできている!

 

 

 

 その後、明日の待ち合わせ時間と場所を決めると春香は帰って行った。まだ日も高いので泊まる程の時間ではないからだ。

 帰ったらすぐに明日の準備をするそうだ。そんな準備する必要があるのだろうかと訊ねると「だって、せっかくの千早ちゃんとデートだもん」と言われてしまった。

 たまに春香の冗談は心臓に悪いから困る。本人からすれば同性に対する気安さからなのだろうけれど、中身が男の僕からすれば十分動揺させられるのだ。

 それにしたって、デートって……。

 

「僕達は女同士だろうに」

 

 きっとそういうのを気にしているのは僕の方だけで、春香にそんなつもりは微塵も無いのはわかっている。

 千早である自分と春香である彼女が親友としていられるのは女同士だからだ。もし僕が男だったら今の関係は成り立っていなかった。そもそも出会ってすらいなかった。

 だから今の関係に不満はない。

 それでも──。

 

 

 

 

 自分が千早()であることを疎ましく思うのは我儘なのだろうか。




久しぶりの投稿です。
あれから一年以上空いての投稿とあって緊張とともにこのあとがきを書いています。
前話までの千早が見せた葛藤や見せ場は今回の話(アニメ2話時点)で描くことは正直難しい。
さらに序盤は導入部とあって盛り上がり要素はありません。
その状態で投稿して、果たして読者の方に楽しんでいただけるのか。
クオリティ不足という不安により長らく分割投稿に踏み切れておりませんでした。
今回評価の上下を無視して投稿に踏み切ったのは今も続きを待っていて下さる読者の方々の声でした。
良い物を投稿するというのは確かに大事ですが、そのせいで投稿間隔が空き、長い間何も成果を生まず、そのままエタってしまってはこれまでの千早の物語とそれを楽しんで下さった方々に申し訳ない。
そんな思いからの更新に踏み切りました。

時間をかけても良い物を、という意見は確かにあるとは思います。
しかし、作者は時間をかけても今書いた分のクオリティを上げられる程の腕は無く、ただただ量を書くだけが能の物書きが趣味なだけの人間です。
このお話を「この世界の千早がどんな奴なのか」を読者に紹介する物語だと思って読んでいただけると助かります。
もちろんクオリティの維持・向上は命題として毎話心掛けております。
それ以上に埋もれない忘れられないように続けていくことを心がけようと思います。

本当のあとがきは今回の話。もう本章と言った方がよいでしょうか…数話にわたって送る千早の初お仕事後に語ろうと思います。

ではまた次回。


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アルティメットなアイドルの卵その2

今回出て来る新キャラ二人の絡みがアルティメットなアイドルの卵編で一番悩みました。
正直なくてもいいシーンなので飛ばしてしまっても問題ありません。


 翌日の土曜日。

 僕は春香との待ち合わせ場所へと向かっていた。

 予報では一日中晴れとのことで天気は気にしなくて良さそうだ。気温も四月にしては暖かいとのこと。

 天気予報を信じた僕はいつもより薄着で家から出てきていた。チートの副作用で寒さに鈍感になっているとはいえ、あまり季節感に合わない服装をするのは周りから奇異な目を向けらることになるからね。今日が暖かいと言うならば薄着をする程度の常識はある。

 それに今日見て回る場所は流行の最先端と言えるお洒落な街ということもあってその辺りはいつもより気を遣ってしまう。道行く人々も地元と違いがっつりと着飾っているように見えるのは決して僕の思い違いではない。

 道行く人々が、買い物をする客が、カフェで語らうカップルが、皆お洒落に見えてしまう。流行に疎い僕でも彼ら彼女らが着る服がお洒落だというのはわかった。

 対して僕の恰好と言えば、いつも通りの地味なファッションだ。いや、これをファッションと呼んでいいのかと疑問を抱くレベルのアレさである。つまるところダサい。

 寒色系のパンツに七分丈のワイシャツ。そこに枯色のベストを着ている。原作でも千早が着ていたようなやつだ。

 今更千早を意識しているつもりはない。この服装を選んだのもスカート類やふりふりの服を避け続けた結果行き着いただけだから。元男としてはやはり女の子っぽい服を着ることに抵抗があるんだよね。むしろ最初から女であった原作の千早がこの服装をしていたということこそおかしいと思うわけで。

 つまるところ僕は悪くない。……なんて、どこぞの最弱少年めいたことを言ってみるけれど、他人どころか自分自身すら説得できる気がしなかった。そもそも言い訳できる程のファッションセンスも無い。

 だが、そうやって心の中で一人言い訳をしたのにも理由がある。

 それは周りからの視線だ。

 さっきから周りの人間の視線が気になって仕方がない。

 道行く人々が、買い物をする客が、カフェで語らうカップルが僕を見ている気がするのだ。

 今もすれ違ったサラリーマン風の男性がすれ違いざまにこちらを見て来た。

 これは僕が自意識過剰というわけではないはずだ。真正面から見返したわけではないけれど、横目で見ただけでも何人もの人間が僕へと目を向けているのがわかる。他人の視線に特に敏感な僕にとって隠す気もない視線は声を掛けられるよりも敏感に察知できる。

 やはりお洒落な街に僕みたいなダサい服装の女が居たら目立つよね?

 僕もね、自分のダサさは自覚してるんだよ。でも前世ですらお洒落に気を使うことなんてなかった僕が千早に似合う服装なんて分かりようがないじゃないか。ちなみに唯一のお洒落着の服はとある事情により今日着て来るわけにはいかなかった。

 それにしても僕がただ道を歩いているだけで、ここまで注目を集めるだなんて……。

 オシャレ街って僕みたいなダサい奴にはこんなにも居心地が悪い所だんだね。前世では特に用事がなければ来ない系統の街だから知らなかったよけれど、その場合もこんな風に居心地悪くなったのかな。

 こんなお洒落な奴らがいる場所に居られるか。僕は家に帰らせてもらう。そうやって回れ右して家に帰りたかった。春香が待っているからしないけどね。

 仕方なく周りの目から逃れるように早足で歩く。それしか今の僕にはできないから。

 少しでも早くこの場から去りたかった。

 

 

 

 待ち合わせ場所まで着くと春香の姿が見えた。

 早く来たつもりが待たせてしまったらしい。ここまで早足で来たのだけど、それでも春香より前に着くことはできなかった。

 貴重なオフの日に付き合ってくれた相手を待たせてしまったという罪悪感から足早に春香へと近づく。

 人混みで微妙に身体が隠れていて見えなかった春香の姿が近付くにつれて明らかになる。周りには春香同様に人待ちをしている人が結構な数が居た。その誰もがスマホの画面を覗き込んでいる中、春香は何も持たずにただそこに立っているだけだった。

 だからそれなりに遠くにいた僕にすぐに気付けたのだろう。

 

「あ、千早ちゃん!」

 

 春香が僕に気付き、名前を呼び手を振ってくれた。

 スマホ片手に待つことを特に悪い事だとは思わない。待つ間の時間潰しや、この後の話題作りのためにニュースを見ている人だっている。だから、それが悪い事だなんて思わないし、これからも思わないだろう。

 でも、逆にスマホを持たずに待っていてくれたらどうだろうか。

 持つことは悪いことではない。

 ならば持たないことは悪いことかと言われたらそんなことは絶対にない。

 そもそも善悪の区別をつける類の話ですらない。ただ持っているかいないかの違いだ。

 それだけだ。

 それだけのことで……。

 それだけのことが、とても嬉しかった。

 まるで僕を待つことは暇ではないのだと言われている気がしてしまう。もちろん春香にそんな意図なんて無いのだとしても、遠くから僕に気付き、満面の笑みで迎えてくれることを喜ぶのは間違っていないはずだ。

 自分の中で一つの価値観に結論付けると、弾む心を表すように春香へと小走りで駆け寄った。

 まずは遅れたことを謝らないと。

 

「遅れてごめんなさい!」

「ううん! 私も今来たところだから。それにまだ待ち合わせ時間前だよ」

 

 時間を確認するまでもなく、春香の言う通りまだ待ち合わせの時間にはなっていない。しかしこういうのは後に来た時点で申し訳ない気持ちになってしまう。

 

「くふふ」

「何かおかしかった?」

「ううん。ただ、今のやり取りって何だか恋人同士みたいだなって」

 

 あー、確かに台詞だけ抜き取ると待ち合わせ時の定番みたいに聞こえなくもないね。実際は女同士の会話なので色気もあったものじゃないけど。

 

「何でこういう時の台詞って決まっているのかしら。オリジナリティを求めているわけではないけれど、誰もかれもが同じやり取りっていうのも変よね」

「そこは、ほら、これを言っている自分達はデートをしていると思い込むためなんじゃないかな」

「なるほど。確かにそう言われるとデートしていると思えてくるわね」

 

 春香の言ったのは面白い見解だ。シチュエーションと台詞を使ってデートを疑似体験するなんて。つまりその気がない相手でもこのやり取りをさせることでデートだと思わせられるってことだよね。

 統計でもとってデータとして纏めればちょっとした論文になるんじゃないかな。

 本気でどうでも良かった。

 

「晴れてよかったねー」

「そうね、せっかくのお出かけだもの。雨だったら困るわ」

「違うよ千早ちゃん」

「ん? 何が違うのかしら」

「お出掛けじゃないよ、デートだよデート!」

 

 ぶっちゃけお出掛けもデートも同性なら同じな気がするんだけれど、春香にとってはその辺りの機微は重要な物であるらしく訂正が入ってしまった。

 僕の方は別にデートでもお出掛けでもどちらでもいい。だが、どちらでもいいということは、デートでもいいということだ。ここは春香に合わせてデートでも良いだろう。

 実際春香みたいな可愛い子とデートできるというのは中身が男の僕にとっては嬉しいことなのだから、わざわざ否定する理由はない。

 

「確かに……デートね」

「えへへー、だよね!?」

 

 二人して笑い合う。実際僕は笑えていないのだけど、心の中では笑えていた。

 

「まだ予定まで時間があるから、どこか見て回ろっか!」

「そうね、そうしましょうか」

 

 スイーツフェスタは予約制の上に時間指定まで必要な店だった。春香が予約したのは十二時からなので今はまだ一時間以上時間に余裕があった。

 実は今日出かけるにあたって、スイーツフェスタに行く以外何をするかはノープランだったりする。これは春香の希望だった。何でも、僕とウィンドウショッピングがしたかったのだとか。街をぶらぶらと目的もなく二人して歩き回る。なかなかにオツな時間の使い方に僕も乗っかった。

 普段買う物がある時は確実に売っている場所を決め打ちして、目的の物を買ったらすぐ帰るという”男の買い物”に慣れている僕には少しハードルが高い。

 でも、それ以上に春香と過ごす時間が持てると思えばどうってことはなかった。

 

「まずはどこから見て回る?」

 

 二人並んで歩き始めたところで、春香が要望を訊いて来た。目的は無いとは言っても、完全にノープランで歩き回るというわけにもいかないから何かしら指針があった方が良い。

 

「うーん、そうねぇ……」

 

 特に見て回りたい場所というのは無かった。あくまで僕の目的はこの場に辿り着くことだったのだから、現在進行形で叶っている今、別に目的と呼べる物はなかった。

 

「何か買いたいものとかあるかな?」

 

 何となく春香から気を遣われている気がする。

 ただ歩き回るだけの予定のはずが僕の買いたい物の話になってしまっていた。

 優先されるべきはチケットを用意して今日誘ってくれた春香の方なのに。

 でもここで僕が春香を優先させれば彼女は断る。それはこの短くない付き合いの中で知っていた。それは原作知識以上に信頼できる。

 この場合、僕がとるべき選択は自分の目的を早急に済ませて後の時間を春香に付き合うことだ。

 

「実はひとつだけ……」

「何かな? 売り切れちゃう物なら先に見に行く?」

「いいえ、売り切れることはないと思うわ。ジャージだもの」

「ジャージ? あ、もしかしてレッスンとかで着るトレーニングウェアかな?」

 

 えっ、ジャージとトレーニングウェアって違うの?

 春香の言い方からしてどうやらそれら二つは違う物のようだ。

 ジーパンとジーンズくらいの違いかと思ってたのに。確かプロデューサーさんからはトレーニング用の服を持ってくるように言われていたから、この場合はトレーニングウェアの方が正しいのかな?

 

「ジャージとトレーニングウェアって違う物なの?」

「え? えっと、ジャージって、ジャージ生地のことなんだよ。だから普通ジャージって言うとジャージ生地のトレーニングウェアってことになるのかな」

 

 なるほど、ジャージって生地の名前だったのか。と言うことは、トレーニングウェアではあるんだよね。だったらジャージでいいか。

 

「ジャージを買うわ」

 

 スポーツ用品店とかで売ってるやつでいいかな。

 

「ちょ、ちょ、ちょっと待って」

 

 予め予習しておいたこの辺りのお店情報を頭に思い描きながら歩きだしたすと慌てた様子の春香あら待ったが掛けられた。

 何だろう。

 いつもは僕のやることに対して謎の全肯定を見せる春香であったが、今回に限って言えば見過ごせないという顔で引き留めて来ていた。

 しかし、その顔は僕に対して不満があるという感じではない。どちらかと言うと「大丈夫?」とこちらを心配しているような表情だ。

 

「いやいや、千早ちゃん。そこはトレーニングウェアを買う流れじゃないのかな?」

「だからジャージを買うのよ」

「あれ、私今違いを説明したよね?」

「ええ、とても分かりやすかったわ。ジャージはジャージ生地のトレーニングウェアなのよね?」

「そうだよ」

「ならジャージを買うわ」

「なんでー!?」

 

 僕の見解に再び春香から待ったが掛かった。

 春香の様子からして、僕が間違った解釈をしているのは分かる。

 

「ごめんなさい、春香が何に慌てているのかわからないわ」

 

 ここは素直に理由を訊ねてみることにした。聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥って言うし。まあ、訊いたことで何年もネタにしていじって来る輩もいるので一概には言えないが。その点春香はそういう意地悪はしないタイプなので安心して訊けた。春香ならば馬鹿にせずに答えを教えてくれるに違いない。

 結果から言えば、僕の予想は半分正解し、半分間違っていた。

 

「千早ちゃんって……」

 

 言いかけた途中で言葉を区切った春香の顔を例えるならば、残念な子を見る時のそれだろうか。

 口を押さえ、言葉を最後まで続けなかったのは彼女なりの優しさと思っておく。だが続きは言わなくても理解できた。結構前からそうなんじゃないかなって思ってたんだよね。今の春香の顔と雰囲気から察した。

 何のことかと言うと、僕の服のセンスがダサいということだ。

 自分でも自覚はあったけど、こうして他者から改めて言われると結構ショックだったりする。

 原作の千早も芋い恰好が多かったと記憶している。それと比肩するレベルで今の僕もダサかった。

 今生では小学校まで母親が用意してくれていた服を着ていた。当然スカートである。中学に進んでからは優に選んで貰っていた。その頃からズボンを愛用するようになり、スカートを履くのは制服の時だけになった。

 それはアイドルになった今でも変わらず、外出の際はズボン姿が基本になっている。

 アイドルを目指すならばお洒落にも気を遣うべきだとは思う。でもセンスが無いので諦めている。早々に自分の分を理解したせいで女の子らしい服装という物が今でもよくわかっていない。

 外に出る様になって、周りの視線から何となく察していたのだけれど、今こうして春香から指摘されたため確信に変わった。

 僕はダサい!

 

「あっ……ご、ごめん、千早ちゃん!」

 

 はっとした顔をした春香が謝って来た。僕は特に気にしていないのだけれど、何故か言った春香の方が落ち込んでしまっている。

 直接言われたわけではなくても、春香からダサいと思われたのは結構ダメージがでかい。センスあると思われるなんてこれっぽっちも思ってないけれど、せめて一緒に歩いて恥ずかしくない程度にはお洒落というものを勉強しておくべきか。

 

「いえ、謝る必要はないわ。むしろ言ってくれて助かったくらい」

 

 実際僕がダサいのは言い訳の仕様もないほどに事実なのだから、春香が気にする必要はない。むしろ、こうして指摘してくれたことで自覚できたので感謝したいくらいだ。

 

「……この際、一度確認しておくけど、千早ちゃんは自分が、その……ってことは何となくわかってはいるんだよね?」

 

 ダサいってことは自覚している。と言うかさっきので自覚した。今までは心のどこかで「いや、でも、千早なら割とアリなのでは」なんて無謀な幻想を抱いていたのだけど、春香にダサいと指摘されたことで、その幻想はブチ殺された。

 あと気を遣ってくれるのは嬉しいけれど、わざわざ伏せて言わなくてもいいよ。逆に辛くなるから。

 

「何となくそうじゃないかって自覚はあったのだけれど、こうして誰かから指摘されることが無かったから。今こうして春香から指摘されてようやく自覚が持てたわ」

「そうなんだ……ちょっと意外かな。弟君がその辺言ってくれそうなイメージがあったから」

「優はそういうことは言わないわ。言って欲しいと思うのだけれど、言い辛いのかも」

「確かに、実の姉に言うのは勇気が必要かもしれないね。特に弟君の場合はもっと言い難いと思うし」

「今の私ならともかく、昔の私だったら優にそんなこと言われたら大変なことになっていたわ」

 

 仮に優からお姉ちゃんってダサいよねとか言われたらショックで首が取れる自信がある。

 

「でもね、やっぱり誰かが言わないといけなかったと思うよ? 今更言われても千早ちゃんは困っちゃうかもだけど、そういうのをきちんと自覚して、相応に振舞っていれば困ることもなかったと思うし」

 

 そうだったのか!

 ダサいことで損……たとえば、スカウトの目に留まる機会を逸したりとかしていたということか。

 うわ、それは確かに損したと言って良いかもしれない。

 どうしても千早はお洒落は二の次で歌が一番というイメージがあったため、お洒落をしていればもっと早くアイドルになれていたという春香の言葉は衝撃だった。

 もう少し僕が服装を気にしていればもう少し早くアイドルになれていたかもしれないわけだ。

 いや、もしかしたらあの時765プロにだって……。

 

「千早ちゃん?」

 

 春香のこちらを気遣う声を聞き、考えそうになったもしもを無理やり掻き消した。

 今更それに思い至ったからと言ってどうしろと言うのだろう。

 765プロが僕を選ばなかったのはお洒落がどうという話では無いのだ。

 きっと。

 そう思わねばやっていられない。

 

「……私の無自覚がこんな枷になっていたなんて」

「千早ちゃんが悪いわけじゃないよ。むしろ、私がもっと早く教えられていたら……ごめんなさい」

「そんな、謝らないで。春香は今こうして言ってくれたじゃない。誰も言わなかったことを言ってくれた。そのおかげで私は周りからどう見られているのか自覚できたんだもの。感謝こそすれ、春香が謝る必要なんてどこにもないわ」

 

 今まで両親や優を含め、誰からも指摘されなかった僕がダサいという事実を春香は言ってくれた。僕が怒ったりする可能性すらあったというのに、それでも僕のためを思って指摘してくれた春香の優しさと思い遣りに感動していた。

 春香にここまで言わせてしまったのならば、ここはジャージ改めトレーニングウェアはダサくない物を買わなければ。

 

「あの、春香……実はお願いがあって」

「うん! 任せて! 千早ちゃんに似合う物を選んであげるから!」

 

 打てば響くとは正にこのことだろう。

 僕が春香にトレーニングウェアを見繕ってくれるようお願いしようとしたら、全てを語る前に春香は内容を察して引き受けてくれた。

 これが親友力というやつなのか!

 

「じゃあ、さっそくお店に行こうか。実はお勧めの場所が近くにあるんだよ!」

「そうなの? それじゃ、そこに行ってみようかしら。案内をお願いしてもいいかしら?」

「もちろん、きっと千早ちゃんも気に入ると思うよ。付いて来て!」

 

 そう言って歩き出す春香。その淀みない無い歩みはこの辺りを熟知した者の足取りであった。

 さすが春香だ、頼りになるね。

 春香には悪いが、ここは下手に僕の意見を出さずに任せておくのが正解かもしれない。きっと僕に似合うトレーニングウェアを選んでくれるはずだ。

 本当、頼りになる親友である。

 

 

 

 そう思っていた時期が僕にもありました。

 

「これなんかどうかな? 千早ちゃんに似合うと思うんだけど」

「……」

「あ、それよりもこっちと合わせた方が良いかな?」

「……」

「今度はこっちも着てみて!」

「……」

 

 次々と手渡される服を僕は黙って受け取る。

 今の僕は全自動服受け取りマシーンだ。春香が渡してくる服を受け取るだけの機械。それが僕だ。

 おかしい、僕はトレーニングウェアを春香に見繕って貰うつもりだったのに、連れてこられたのは僕が普段絶対に入らないようなお洒落な服ばかりの洋服店だった。

 それでも最初はこういうところでトレーニングウェアも買えるのかと思っていたのだけれど、店の中にそれらしき服は見られなかった。

 店を間違えていると指摘しようとした僕だったが、春香は僕の言葉を聞かずに何やら服を物色し始めたので口を噤んだ。何か春香の方で気になる服があったのかもしれないと思ったからだ。だったら邪魔しては悪いと何も言わずに待っていると、春香は何着かの服を掴み試着室へと向かった。

 僕の手を引きながら。

 試着室に着くと春香から服を手渡され、これに着替えるように言われた。その時になって初めてこれが僕のために選んだ服だと気付いた。てっきり荷物持ち役かと思っていたので驚いてしまい、背中を押す春香にろくな抵抗もできずに試着室の中へと入ってしまった。

「着替えたら声掛けてね」と言うとカーテンを閉めた春香に何か言うべきなのだが、勢いに乗せられたとはいえここまで来てしまった手前、今更断れる気がしない。

 まあ、一着くらい良いかなと諦めた僕は渡された服に着替えるために服を脱いだ。

 渡された服は白を基調としたレースブラウスと水色のスカートだった。

 これを着る、だと……?

 露出過多と言うほど布面積が少ないわけではないけれど、普段着ている服に比べたら十分派手なデザインだ。今からこれを着るのかと思うと苦い顔にならざるを得ない。

 でも春香が選んだ服なのだから着ないわけにもいかない。

 親友からの期待と自分の中の羞恥を天秤に掛け、親友をとった僕は覚悟を決めお洒落着に袖を通すのだった。

 

 

 

 

 着替え終えるとすぐにカーテンを開いた。こういうのは溜めるよりも一気にやり終える方が傷は浅い。

 春香は試着室の前で出待ちをしていた。

 

「ど、どうかしら……」

 

 キラキラとした瞳でこちらを凝視する春香に感想を訊いてみる。自分では微妙な気がした。露出以上にこんな派手な服は僕に似合わない気がしたからだ。選んでくれた春香には苦笑いされそうだ。

 しかし、僕の自己評価の低さに反して春香の反応は劇的だった。

 

「可愛い!」

 

 店内に響く春香の声に何事かと店員と客の視線がこちらへと集まる。

 オシャレ街のメインストリートに面したお店とあって客の数は多い。そんな所で大声を出して注目を集めた春香が慌てて周囲の人に謝っているのを僕は現実味が無く見ていた。

 可愛いって言われた……。

 これまで容姿を褒められたことが無い僕には春香の言葉は衝撃的だった。

 可愛いだって?

 それは服のデザインがってことだろうか。

 確かに服は可愛い系のデザインと言えるけれど。

 

「こういう服って着たことが無いのだけれど……確かにとても可愛いデザインだわ」

 

 服の裾を軽く摘んで見せる。

 可愛いという表現から離れた容姿をしている僕が着ても可愛らしさを失わないデザインを褒めた。

 僕だったらこんな服を選んだりしない。下手すると男物を手に取ることさえある。

 

「服もって言うか……」

 

 春香の方は何か言いたげに身体を揺らしている。彼女にしては珍しく煮え切らない態度で言葉を途切れさせていた。

 しかし何かを決意したのか一度頷くとおもむろに僕へと近づいて来た。

 何事かと身構えるようなことはしない。

 彼女が僕に何かするわけがないと知っているため自然体で立ち続けた。

 僕の目の前まてやって来た春香は手を挙げると、少し躊躇うように空中で手を彷徨わせた後にそのまま僕の両肩へと手を置いた。

 

「千早ちゃんが可愛い」

 

 未だ嘗て、これ程までに真剣な顔の春香を見たことがあるだろうか。

 たぶん無い。

 アニメで引きこもった千早に放って置かないと啖呵切った時に勝るとも劣らない圧を今の春香からは感じる。

 そんな名シーンの再現をこんな場所でやる意義とは……!

 

「そ、そう、なの……?」

「そうだよ!」

 

 僕を可愛いと言う春香の言葉を否定しようにも、あまりにもガチな顔に春香の本気度が伝わって来るため否定の言葉が出せない。

 目は口ほどに物を言うとは言うものの、こんな自己主張の激しい目ってある?

 若干引いた僕だが、春香の押しは止まることはなかった。

 

「千早ちゃんは元が良いから何を着ても似合うんだけどそれでもやっぱり可愛い服を着ればそれだけもっと可愛くなるんだからもっと可愛い服を着て私に見せればいいんだよ」

 

 ごめん早口過ぎて何言ってるかわからない。巻き戻し再生してもいいけど、たぶん聞き直しても中身無さそうだから止めよう。

 

「とにかく、千早ちゃんはもっと可愛い服を着るべきなんだよ?」

「はい」

 

 結局纏めるとダサさを改善するにはとにかく色々と着てみてセンスを養うしかないってことらしい。

 本当にそんな話だっただろうか?

 まあ、春香の言うことだから間違いはないのだろう。少なくともダサい僕が下手に改善策を考えたとしても上手く行くはずもない。だったら春香に全幅の信頼を寄せて頼む方が良いはずだ。

 

「そうね、春香の言う通り色々と着てみてセンスを養うのが良さそう。これからもお願いできるかしら?」

「もちろん! 千早ちゃんのために色々選ぶね!」

 

 そう言って自信満々に笑う春香に頼もしさを感じる。

 しかし今後春香とでかける際はこうして服を見てもらえるとしても頼りっきりは良くない。自分でも勉強しなくては。

 これまでは一般人という言い訳をして目を背けてきたオシャレの世界に自ら飛び込む。その重圧に今から心が折れそうだ。でも僕はアイドルなのだから、嫌なことから逃げ続けるわけにはいかないんだ。

 そうやって自分を奮い立たせた僕であったが、目の前から春香が消えていることに気付く。

 

「あれ、春香? どこに……」

 

 視線を巡らせ春香を探すと、彼女は先程とは別の服のコーナーに居た。

 いつの間に移動したんだと自分の知覚能力を超えた隠密行動をした親友に心の中で冷や汗をかく。

 僕の目には春香が新しく服を選んでいるように見えた。

 

「……春香も何か試着するの? ここ使う?」

 

 もしかしたら春香も試着がしたかったという希望は無言で服をこちらへと差し出して来る春香によって断たれた。

 

「あの、春香……私」

「きっと似合うよ!」

「はい」

 

 その後は冒頭の通り春香から服を受け取っては試着するのを繰り返すことを強いられた。

 途中から自分が何を着せられているのか把握できていない。ただ渡された服を着て、それを春香に見せる。褒められる。それの繰り返し。

 やがて僕はそれだけに特化したナニカになった。

 

 

 そんな感じに春香の着せ替え人形と化していた僕の耳に、初めて春香以外の意味のある言葉が入って来た。

 

「お姉ちゃん、早く早くー!」

「もう、そんなに焦らなくても服は逃げないって」

 

 声の方に顔を向けると、中学生くらいの女の子が高校生の姉らしき女の子の手を引きながら店に入って来るのが見えた。

 どちらも派手な髪色をしており、妹の方は金色で姉の方はピンク色をしていた。二人とも最近の女子中高生って感じで垢抜けていて何だかキャピキャピ(死語)している。

 僕もあんな風にすればダサいと言われずに済むのかな?

 自分の青い髪を一束摘み、毛先を軽くいじりながら現実逃避気味に考える。

 

「どうかしたの?」

 

 あれからさらに何着か見繕ったのか、両手に服を抱え込んだ春香がやって来た。まさか、それ全部僕に着せるつもりじゃないよね?

 ファッションショーじゃないんだから試着するにしても二桁超えたら駄目なんじゃないかな。あと明らかにフリフリでシャラシャラな服も混ざっているように見えるのだけど。さすがにそこまで可愛い服は着られないかな。

 別に今更女の子の服に抵抗を覚えるほど前世の性別に拘りを持っているわけじゃない。でもフリフリはなぁ……今の僕としても着たくはない種類の服なんだよね。いや、だって、似合わないじゃない?

 菊池真ほどではないにしても、放送事故ってレベルじゃない何かになるだろこれ。

 

「ええと、新しく入って来た子達がお洒落だなーと思って見ていただけよ」

 

 何とか話題を逸らすためにもちょっと目の前の姉妹には話のネタになって貰おう。見ず知らずの他人を話題に挙げるのはあまり気が進まないのだけど、背に腹は代えられない。このままでは春香の謎のプッシュにより僕は延々と着せ替え人形にさせられてしまう。それは阻止したかった。

 ごめんね、名前も知らない君達。僕のためにちょっとの間だけネタなってくれ。少しだけでも春香の注意を引いてくれるだけでいい。その間に僕は撤退の道筋を考える。

 

「あれって……城ヶ崎美嘉ちゃんじゃないかな?」

 

 と思ったら予想以上に春香の食いつきが良いぞ。どうやら知っている相手のようだ。

 どちらが城ヶ崎美嘉かはわからないけど、春香の知り合いなら年齢が同じくくらいの姉の方かな?

 

「知り合い?」

「ううん。前に雑誌のモデルで現場が一緒になったことがあるだけだよ。話す機会も無かったし。……ちなみに、城ヶ崎さんは元はファッション雑誌のモデルだったんだけど、今はアイドルをやってるの」

「……知らなかったわ」

 

 ファッション雑誌なんて普段読まないから城ヶ崎なんて僕は知らない。でも春香の反応からしてそこそこ有名人のようだ。

 知らないのは拙いレベルで有名だったらどうしよう。

 今後は有名人の情報も少しずつ覚えていった方がいいのかな……。

 

「千早ちゃんはファッション雑誌とかは……」

「読まないわね」

「だよねー……」

 

 わかっていたけどね、という顔で項垂れる春香に少しだけ罪悪感を覚える。

 雑誌なんて、ゲーム情報誌しか買ったことがないよ。

 二年前に引き籠り始めてからゲームの情報が載っている雑誌を買うようになったのだけど、あの胡散臭い新作ゲームの点数とか毎度わくわくするよね。

 あと特典コードが付いてるのもグッド。最近ご無沙汰なFAQ2内で使用できるアイテムコード目的で雑誌を買うこともあった。対してファッション雑誌とか何が付いてるよ。鞄とか要らないからね。

 僕はこれまでファッション雑誌を買ったことがない。アイドルを目指しておきながら、ファッションをおざなりにしていたことに、今でこそ違和感を覚えるものの、昔の僕はそれをおかしなことだと思ってはいなかった。

 それは千早はお洒落に疎いという固定観念があったからだ。

 歌だけあればいいと千早が思っている。そう僕が思い込んでいたために、そういった雑誌を手に取ることすらしなかったのだ。あと未来のアイドル活動を妄想したり、その日優と何して遊ぶかを考えるので忙しかった。

 おかげで学校で女子生徒がするお洒落話にまったく付いて行けず、中学時代にクラスで孤立した過去がある。

 僕自身はお洒落に関心が無く、またクラスメイトにも毛程の興味も無かったので気にしていなかったのだが、僕の地味さと冷めた態度が生意気に映ったのか一部の女子から目を付けられることになった。

 そのグループはクラスでも流行に敏感な女子が集まった一団で、所謂クラスの中心グループと呼ばれる存在だった。

 当時の僕は髪は伸ばしっぱなしで目が隠れており、中学生がする程度の化粧っ気もなく、制服も規定通りに着ている様な地味な少女だった。

 そんな地味でクラスから孤立していた僕はその子達にとって恰好のいじり相手だったのだろう。何かあれば地味だ根暗だと揶揄され、クラスメイトからは笑われていた。

 今思えばいじめに発展してもおかしくない環境だった。興味が無かった僕が徹底的に無視していたのと、そのグループだけが盛り上がっていたため深刻な事態までは行かなかったのは不幸中の幸いだった。

 そんないじられ生活も、ある日を境にぴたりと収まった。受験を控えていたから彼女達も暇ではなくなったのだろう。

 僕も765プロのオーディションのために準備を始めていたので丁度良かった。

「前髪くらい切りなよ」と優に言われたので、どうせならと必死で頼み込んだ末に優に切って貰ったのは良い思い出だ。髪で隠れていた視界が晴れて見えた仕切りの無い世界はとても明るく見えたものだ。

 この明るい世界が僕の未来を暗示していると思い、晴れ晴れとした気分になったのを今でも覚えている。

 まあ、その後オーディションに落ちて見事に引き籠ったわけだが……。

 今でも化粧はしていないものの、髪の方は優に切って貰っているので前髪目隠しは卒業している。

 まあ、今でもファッション雑誌を買うくらいなゲーム雑誌買うと思うので、人間そうそう変わらないということだろう。

 

「じゃあ当然城ヶ崎さんのことは……」

「まったく知らないわね」

 

 当然僕は城ヶ崎なんて人間を知らない。

 ここ数年アイドルの情報を意識的にシャットアウトして来たためか、最近デビューしたアイドルを僕はよく知らない。

 たぶん僕の知ってるアイドルって日高愛が最新情報のまま止まってる気がする。

 そういうこともあり、春香には正直に知らないことを伝えたのだが……。

 

「あのね、千早ちゃん……城ヶ崎さんって346プロ所属だったはずだよ」

「え!?」

 

 衝撃の事実が返って来た。

 346プロ所属のアイドルとか、僕の先輩じゃないか。ファッション雑誌がどうとか以前に同じプロダクションの先輩を知らないのは拙いわ。と言うか何で僕知らないんだよ。あ、興味無かったからか。

 危ない危ない。失礼なことを言う前に城ヶ崎が有名だと知れて良かった。有益な情報をくれた春香には感謝だ。

 

「良い情報を聞けたわ。ありがとう、春香。そんな相手を知らないなんて大っぴらに言えないわね。危うく無知を晒すところだったわ」

「ち、千早ちゃん……」

「何かしら?」

 

 様子のおかしい春香に気付く。何かしまったって顔になっている。

 いや、まさか?

 嫌な予感を確かめるために春香の視線の先を追う。

 

「むー……」

 

 そこには先程の金髪の少女ーー城ヶ崎妹が頬を膨らませながらこちらを睨んでいる姿があった。

 どうやら今の会話を聞かれていたらしい。

 城ヶ崎がどの程度有名なのかはともかく、アイドルの姉なんて妹にとっては自慢のタネだろうし、その姉を知らないと堂々と言った僕は敵に見えても仕方ないね。

 ただし、睨んでいる顔が可愛いので威圧感はまったくと言っていい程無かった。

 と言うか本気で可愛いぞこの子。猫っていうか、子ライオンというか、小動物っぽい可愛さがある。精一杯の不機嫌顔を作っているつもりなのか、ふくらました頬を指で突きたくなる。

 金髪ツインテールとか、僕のツボを押さえた姿を晒すなんて僕をどうするつもりなのかと問い詰めたい。

 

「こーら、莉嘉! そんな顔しないの。相手の子が困ってるでしょ」

 

 慌てた様子の城ヶ崎がやって来て妹を嗜めている。

 金髪の方は莉嘉というらしい。やはりピンク髪の方が美嘉で合っていたか。

 城ヶ崎美嘉も妹に劣らず……ぶっちゃけ勝っているくらい今時の女子高生らしいオシャレな格好をしていた。

 髪の色はピンク色で奇抜な印象を受ける。しかし、それもまたオシャレに見え決して下品な感じがしない。上手くコーディネートに組み込んでいた。

 お洒落であっても派手派手しいという印象は受けず、どことなく上品さが細やかな所から受け取れるコーデ。これは何と言えばいいのか……そう、カリスマ性があった。

 僕なんて地味な上に男物ばかり着て、さらに髪が青色だぞ。戦隊物で言えば終盤くらいに死にそうな色だぞ。

 お弁当で例えると城ヶ崎姉はカラフルな色使いで男心と食欲を刺激するオシャレ弁当。対して僕は煮物とかでくすんだ色をした地味弁当だ。仮に頑張ってお洒落っても何故かキャラ弁になるタイプのお弁当だ。

 そう言えば中学時代に男子が僕のことを煮物女と呼んできたことがある。当時は意味がわからなかった上に男との接触を避けていたので無視したが、彼が言いたかったのはこういうことだったのか。

 てっきり校外学習や体育祭のお弁当が煮物ばかりだったからそう言ったのかと思っていた。

 まあ、中学の行事でお弁当なんて食べたことがないのであり得ないんだけどね。

 基本的に校外学習関連は欠席したし、体育祭のお昼の時間は校内を適当にぶらついて時間を潰すのが恒例だったし。

 ああ、一度でいいから優が作ってくれたお弁当食べたかったな……。

 

  「だって! あの人、お姉ちゃんのこと知らないって言うんだもん!」

 

 僕が過去へと意識を向けている間に姉妹の言い合いが始まっていた。

 突然知らない相手に絡み始めた妹を窘める城ヶ崎姉に対して城ヶ崎妹はよほど僕にご立腹なのか、姉を知らないと言った僕を指差し窘めた姉に抗議していた。

 こらこら、人を指さしちゃいけないんだぞ。間違って相手の秘孔を突いてしまったらどうするんだ。昼間のオシャレ街で突然人が「ひでぶ」と破裂したら大惨事だぞ。人体には無害な爆砕点穴ならセーフ。

 それにお姉ちゃんの方はは気にしていないみたいだし、あまり大事にしない方がいいんじゃないかな。加害者の僕が言うのもアレだけども。

 これってある意味「私のために争わないで」ってやつだよね。違うか。

 

「だからって睨まないの。アタシだって皆が皆、アタシを知っているなんて思ってないんだから」

 

 自分は有名人なのだから皆が知っていて当然と勘違いする人間はいる。

 特にこの世界ではアイドルに多いパターンだった。デビューもろくにしていない若手が「私アイドルだから」といって無駄な自意識過剰さを見せる。そして謎の変装で街に繰り出すという光景は珍しくない。

 前世よりアイドルが巨大なムーブメントを起こしているこの世界で、ただデビューしただけのアイドルがそこいらを歩いていたところで話題になることはない。春香レベルのトップアイドルなら変装無しで歩き回るなど自殺行為でしかないが。

 城ヶ崎姉の有名度合いを知らないので何とも言えない。でも自分で自分が超有名人と思い込んでるタイプの人間ではないことは今までの様子でわかった。

 

「髪青いし」

 

 それ本題から逸れてない?

 順々に僕を責める言葉が出て来るかと少し身構えていたのに、二つ目にして髪の色と来た。

 悪口のボキャブラリー少ない良い子なのかな?

 

「それは個性でしょ。アタシはピンクだよ」

 

 でも貴女、それ染めてるでしょ?

 僕のこれは地毛だよ。

 終ぞ教師には地毛であることを信じて貰えなかったのも今では良い思い出だ。

 

「服だってダサいし」

「それは……そうだけど」

 

 そこは同意しちゃうのか。回数だけなら妹の方が失礼なこと言ってることになるんだけど、一発の威力は姉の方が高かった。同年代からダサいと言われると辛いってよくわかる。

 あとダサいのは放っておいてくれませんかね?

 

「千早ちゃんはダサくてもいいんだよ?」

 

 春香が城ヶ崎姉妹の視界から隠れるようにして話しかけて来る。さすがに正体がバレるのは拙いと思ったらしく小声だった。春香の摩訶不思議変装術なら知り合いでも無ければ正体がバレるなんてないと思うのだけど、用心深いのは決して悪いことではないので何も言うつもりはなかった。

 ただ……ちょっと春香の顔が近い気がする。軽く耳に唇が触れている程度なので特に注意するほどでもない。

 あとダサいことは全肯定なんだね。

 

「いや、ダサいのが良くないからここに来たわけだけど……」

「そ、そのダサさが千早ちゃんの良さなんだから」

 

 何時の間にか持っていた服を戻して、フリーになっていた手を僕の両肩に置く春香。

 先程と同じシチュエーションなのに、春香の顔が若干キョドってるせいで説得力はなかった。

 

「それフォローになってないわ」

「私はそんな千早ちゃんも好きだもん!」

「フォロー?」

 

 さっきから春香に名前を連呼されててヤバイ。城ヶ崎姉に名前覚えられたらどうしようか。あ、顔を見られた時点で遅いか。

 

「ゴメンね? 妹が絡んだみたいで」

 

 僕が先輩との関係悪化に悩んでいると、いつのまにかこちらへとやって来た城ヶ崎姉が謝って来た。

 両手を合わせてかわいくお祈りポーズ(?)をした謝罪スタイルはあざとさ増し増しで今時の女子高生っぽい気がした。

 僕もこれをやれば女子高生っぽくなるのかな。「ごめーんね!」とあざとく謝る千早の姿を想像して、誰がこんなんで許すんだと妄想をかき消した。

 しかし、見た感じ妹の方はともかく、城ヶ崎姉の方は今の話をあまり気にしてないようだ。

 城ヶ崎姉の纏う空気に怒りの要素は感じない。そのことに少しだけ安心した。

 

「それじゃ、改めて。アタシ、城ヶ崎美嘉! ヨロシク!」

 

 しかも知らないと言った僕に笑顔で自己紹介までしてくれた。良い人かよ。

 仮にも有名人の自分を知らないと言う相手だぞ。さらに城ヶ崎姉からすれば僕は名も知らぬ一般人でしかない。そんな相手にこうして笑顔を向けられる城ヶ崎姉はアイドルの鑑だと思った。アイドルの先輩としてそういう所を見習って行きたい。

 

「如月千早です」

 

 あちらから名乗られたからにはこちらも名乗るほかはない。

 僕からすれば相手は事務所の先輩なのだから礼儀正しくするのは当然のことだ。

 後々僕が後輩だと知られるのは避けられない未来なわけだし、今更だけど評価を下げないように対応するしかない。

 見習いたいと思った直後にこの打算めいた考えが我ながら醜く感じる。

 

「その、先程は失礼なことを言って申し訳ありませんでした」

「え? ああ、いいよー別に。妹にも言ったけど、アタシだって全員が全員自分のことを知っていると思ってたわけじゃないしね」

「いえ、単純に私がそういう物に疎いだけで……一般的には城ヶ崎さん程の著名人は知っていて当然の方のはずです」

「著名人って言われるほど立派なものでもないけど」

「いえ、城ヶ崎さんは立派な方だと思います」

 

 自分でもこれは無いなと思った。

 現役アイドルに向ける評価ではない。もっと言い方というか、アイドルらしいフォローの仕方というものがあったはずだ。これではアイドルとしてまったく評価していないのに等しい。その証拠に言われた当人である城ヶ崎姉も若干引き気味に見える。

 でも城ヶ崎姉が立派だと思ったのは本当だった。

 僕が城ヶ崎姉の立場で仮に誰だお前と言われたら穏やかでいられる自信はない。ましてや相手を気遣うなんて絶対に無理だ。そこまで僕は心が広くない。

 

「あはは……あ、ありがとう? 立派なんて言われ慣れてないから……既視感スゴいかも」

 

 逆に城ヶ崎姉に気を遣わせてしまったことに内心落ち込んだ。こういう時表情に申し訳なさが出ればもう少し人間関係が上手くいくと思うのだけど、よほど僕に詳しい人にしかその変化に気付けない。僕の表情筋は日本人特有のなあなあとした対応を取りたがらないらしい。

 笑えないくせに申し訳なさそうにもできない。できるのは怒った表情のみ。ポンコツ過ぎて泣きそうになる。泣けないけど。

 

「重ね重ね申し訳ありません。ちょっと、私は言動がアレで……自分で言っても嘘臭いとは思いますが、悪気は無いんです。本当です」

 

 無駄とは思ってはいても、何とか誤解されないように必死で言い繕う。

 

「大丈夫、知ってるから」

 

 意外にも城ヶ崎姉は信じてくれた。

 苦笑、というよりは若干呆れ顔に近い表情を浮かべた城ヶ崎姉は、こちらへの理解を口にすると僕の肩を軽く叩いて来た。その手の感触からこちらへの害意は感じないので安心した。

 この滲み出るダメ人間臭が僕に悪意が無いことを証明してくれた感じか。僕のポンコツ臭もやればできるじゃないか。

 城ヶ崎姉の好感度がこれ以上下がることはないだろう。

 

「うー……」

 

 対して、彼女の後ろで先程から威嚇するのを止めてくれない妹の方の好感度は今も降下中のようだ。下手に姉が友好的に接したことで不満が消化不良を起こしているのかな。

 一度こうして拗れてしまったのだ、ちょっとやそっとでは解消できそうにない。

 同じアイドルの姉はともかく、妹とは直接関わる機会もないだろうし別にいいだろう。城ヶ崎姉の方だけ相手しておけばいいよね。妹は無視しちゃおう。

 僕個人としては、こんな感じに解り易い子は嫌いではないので嫌われてしまったのは残念だけどね。でも、今みたいに素直過ぎてすぐに噛み付いてくるのは勘弁願いたい。こういう子供子供した性格の子ってどう扱えばいいのかわからないから困る。

 優なんてずっと素直で優しい良い子だったから、なおさら城ヶ崎妹の様に喧々諤々した態度を見せる子供は苦手に感じる。本当優は天使だわ。

 

「なんか、本当にごめん。普段はこんなに絡む子じゃないんだけど、今日は虫の居所が悪いみたいで」

「いえ、気にしていませんから」

 

 先に失礼を働いたのは僕の方だと言うのに、こうして逆に気を遣ったくれた城ヶ崎姉の優しさが心に沁みる。

 むしろこっちが謝りたいくらいだ。でも「知らなくてごめんなさい」と謝るのも何か違うと思い具体的に何と謝ればいいかわからない。

 すでに謝罪をしているため、これ以上何か言うことで藪蛇になるのが怖かった。

 中学時代は僕が何か言うだけで教室の空気が絶対零度まで下がり、いつの間にか僕が悪者にされてハブにされるなんてざらにあったからね。こうして他人から気を遣われるというのはひどく新鮮だった。

 だが待って欲しい。

 ふと気付いたのだけれど、僕の失礼な態度をスルーしてくれたのは僕のことを一般人だと思ったからじゃないかと気付く。後で僕が後輩だと知ったら妹と同じく攻撃的になるんじゃないか……?

 同じプロダクションの先輩からの不評を買わずに済んで良かったと思いきや、実は何の解決もしていないと気付き血の気が引く。

 

「え、ちょっと顔色悪いけど大丈夫?」

 

 突然顔色が悪くかった僕を城ヶ崎姉が心配してくれる。

 その優しさすら後の反動に繋がるんじゃないかと思うと素直に喜べない。人から優しくされるのって難しいんだね。優の無償の優しさが恋しいよ。

 

「えっ? 千早ちゃん気分悪いの……?」

 

 背中に春香の心配そうな声を受けた僕はすぐにチートを発動させ顔色を元に戻した。

 春香に心配させてしまうのが嫌だったからだ。

 彼女は今日を楽しみにしてくれていた。それなのに僕が体調不良と知ったことで気落ちして欲しくない。

 

「ええっ?」

 

 城ヶ崎姉が驚きの声をあげる。

 彼女から見たら突然僕の顔が別人に変わった様に見えたことだろう。それはある意味正しい認識だった。

 文字通り別人なのだから。

 

「いいえ、体はいたって健康よ」

 

 証拠を見せるために春香へと振り返る。今の僕の顔は十時間睡眠をした後みたいに晴れやかに見えるはずだ。まるで生まれ変わったかのように体の不調は消し飛んでいる。

 誰がどう見ても今の僕は健康体だ。身体の中身は悲惨なことになっているが。

 

「本当? 無理しないでね? 気分が悪いなら今日の予定だってキャルセルでいいんだから」

 

 こちらを気遣ってくれる春香のためにも決してボロは出せないな。

 僕は今健康だ。そうやって自分を騙してでも春香に何でもないことを見せなければならない。

 こんな時自分の無表情さがありがたい。

 

「えっと、実はこの後私達は予定がありまして……」

 

 僕の豹変を見られてしまった今、いつまでも城ヶ崎達の相手をするのは避けたい。後日この件が尾を引いたとしても、今この時は春香の追及をかわすことを優先したかった。

 実際スイーツフェスタまでは時間があるので当然ここから逃れるための方便でしかない。

 

「ん? うん、引き留めるようなことしちゃってごめん。莉嘉のことも改めて、ね?」

 

 空気を読んでくれた城ヶ崎姉はあまり追及することはなかった。

 しかも、律儀に妹のことで謝罪までされてしまい、城ヶ崎姉に対して罪悪感を覚えてしまう。

 本当はここで良好な関係を築いておきたかった。でも、春香を優先したい僕にはその選択肢をとることはできない。

 

「あの、失礼いたします」

 

 最後に頭を下げて逃げる様に城ヶ崎姉の前から立ち去る。

 

「あ、千早ちゃん! えっと、失礼します。千早ちゃん待ってー!」

 

 慌てた春香が追いかけて来るのを背中に感じながらも、僕は足を止めることはしなかった。

 後ろ髪引かれる思いとはまさにこのことだろう。

 少し話しただけでわかる。城ヶ崎姉はたぶん良い人だ。しかもかなり世話焼きで面倒見がいい。

 そんな人との繋がりをこの時点で作れる機会なんて早々ない。本来なら何を置いても城ヶ崎姉とのコネ作りを優先すべきだったろう。

 でも僕はそれをしなかった。同じ事務所の先輩でななく、違う事務所の春香を優先した。

 それは春香が親友だから……だと思いたい。765プロのアイドルだからなんて理由であって欲しくなかった。

 

 お店を出ると解放感があった。広い店内であっても閉鎖空間というのは気が滅入るものだ。

 春香が追いつくまでの残り少ない時間を使い、気分を落ち着かせるために空を見上げる。

 

「……あー」

 

 見上げた先には看板広告があった。

 おそらくこの街で最大の大きさを誇ると思われる大きさのそれには346プロ主催のライブ告知が掲げられていた。

 かなり大規模なライブなのだろう、煌びやかなステージ衣装を着た五人のアイドルがまっすぐ上へと指差してポーズをキメている。

 そのセンターポジションにはつい先ほど会話していた相手、城ヶ崎姉が写っていた。

 こんなでかでかと掲げられている看板に今まで気づかなかったなんて。しかも相手はセンターを務める程の実力と人気の持ち主なのだ。興味が無いでは言い訳が立たない。

 先程の会話を思い返す。少し話しただけで城ヶ崎姉のアイドルとしてのレベルは高いと感じられた。笑顔一つとっても、妹とのことで申し訳なさそうにする顔ですら僕とは違って”らしさ”があった。

「歌だけあればいい」と面接官の前で大見え切った手前、それで自分がアイドルとして不十分だと言うつもりはない。

 だけど、今の僕は765プロのメンバーや春香以前に、数多くのアイドル達よりも遅れていることを自覚するべきだと思った。

 看板との距離以上に城ヶ崎姉と自分に差を感じる。

 

「千早ちゃん」

 

 しばらく看板を見ていると、春香が僕の手を取った。

 

「うん、ごめんなさい……行きましょう」

 

 そのまま手を春香に引かれながら僕は自分の立場を改めて確認する。

 本当、僕って何も見えてないんだな……。




クラスメイトの女子の心「ベキッ!」

芋娘かと思ってからかっていたら、ある日超絶美少女になって登校して来るクラスメイトを見て心の折れる女子達。
「誰あれ!?」「転校生?」「え、如月さんの席に座った?」と教室が騒然とする中、まったく我関せずで優日記を書き続ける姿を見て「如月さんだと!?」と認識される。
男子はこれまでの態度から掌返しクルーだけど、これまで千早を相手にしてこなかったので会話のとっかかりがない。そして千早本人もクラスメイトと会話するつもりが無いので絶縁状態は変わらず。
担任教師は中学生がするにはやりすぎなメイクだと千早を注意しましたが、それがノーメイクだと知ってしまい心が折れました。年齢的にその担任は立ち直れませんでした。
二次元キャラ特有の真っ新な肌を現実に適用し、なおかつ少しでも荒れたら細胞レベルで自動修復するノーメイク美少女とか心折れますわ。
ちなみにいじって来た女子たちは直接手をだすようことはして来ませんでした。仮にやってたらもっと早く折れていたことでしょう。心以外が。
あと千早の髪色はゲームやアニメでは青色ですが、実際は黒髪って設定なのですよね。この世界の千早は青髪ですが。

今回登場した城ヶ崎姉妹のキャラは千早視点だとこんな感じになりました。
城ヶ崎姉から優しくされていると思っている千早ですが、姉妹の千早に対する第一印象はともに最低です。姉を知らなかったという一点のみの評価なので、妹の方が若干高めに見ているかも。と言うか実際そこまで千早に暗い感情は持っていない感じでしょうか。
姉の方が深刻です。
ただ姉の方も実際に千早と会話したことで彼女がどんな人間か察し始めたため評価が上がっています。それでも第一印象が最低過ぎて、まだまだアンチ側ですね。
というか武P関連のアイドルはほとんどが千早アンチ勢です。765プロのアイドルが黒井社長に対するくらいのアンチ姿勢です。
知らないところで先輩方から嫌われているとか、千早の対人関係ルナティック過ぎますね。
半分くらい千早の自業自得ですが。
もう半分は武Pのせい。
千早は初対面の相手からの友好度は最低値から始まります。最初から千早に好意的な人間は作品を通しておそらく三人しか出て来ません。(身内を除く)
武Pですら初対面時は「なんだこの妙に馴れ馴れしい幼女は」と千早を疎ましく思っていたので、この嫌われ体質はもはや呪いと言ってもいいでしょう。



次回もデート編です。


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