アルティメット千早な僕が765プロのオーディションに落ちた件 (やんや)
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アルティメット絶望

1話目は短めに日記風で


○月×日 晴れ

今日から日記を始めることにした。

ようやく自由に動ける時間ができたのだから、これを機に色々と記録を残すのも良いかなと思った末の行動だ。

しかし、日記と言っても何を書けば良いのやら……。

齢三歳のこの身が経験した事を書き記したところであまり面白味もないだろう。まあ、日記とは本来記録であって娯楽要素を求めるものでもないのだけれど。

とにかく、せっかく前世の記憶などという余分な物を持って転生したのだ。文字の書き方を忘れないように日記を続けるのもありかも知れない。

 

 

 

○月▽日 晴れ

重要なことを書き忘れていた。

昨日の日記を読み返したところ、何の気なしに”転生”という言葉を使ってしまっていた。

別に隠しているわけではないのだが、積極的にばら撒きたい話でもない。

当然こんな事を口に出して言えば正気を疑われるだろう。三歳児なら戯言としてスルーされそうだけども。

 

 

 

○月◇日 晴れ

だから転生の話だって。

どうにもこの体になってから意識を覚醒させ続けることが辛い。

幼児の脳で小難しいことを考えた弊害が睡魔として襲ってくるわけだ。

それももう少し成長すれば改善が見込まれるはず。

まず始めに、僕は転生者である。

よく創作物で取り扱われるアレだ。謎の存在Xや青髪の残念女神に出会うことは無かったものの、産まれた直後から前世なんてものを覚えており、何となくこれが転生なのだと自覚していた。

記憶に無いが、どうやら何らかの契約の下に僕は転生を果たしたらしい。どのような存在が何のため僕を転生させたのかは判らない。しかし僕を転生させた存在がいることは確かだ。そうでなければ転生した理由も、このチート能力を自覚している理由も無いからだ。

ちなみにそのチート能力とは、

 

 

 

△月Δ日 晴れ

昨日は途中で力尽きてしまった。

やはり幼児の頭ではそう長く物を考えられないらしい。すぐにオーバーヒートを起こして気絶するように眠ってしまう。

ただ眠るだけなら良いのだけど、この日記を書いている途中に眠るのはマズい。親に見られたりしたら大変だ。最悪化物扱いされて捨てられてしまうだろう。

ただでさえ今世の両親は僕に対して淡白な扱いをする予定なのだから。可能な限り幼いうちは普通に過ごしておきたい。

 

 

 

△月×日 晴れ

少しだけ書ける量が増えたと思い調子に乗ってしまった。また意識のブレーカーが落ちてしまった。

僕の力については、安全のためにここに書かない方が良いのかもしれない。でも後々忘れた時に読み返せたら便利だろうし、何ができるのかきちんと把握できたら詳細を書くことにしよう。それまでに自分の将来について考えておく必要がある。

さて、どうしようかな。

 

 

 

△月○日 晴れ

とりあえずサインの練習とかしてみたり。特に意味はない。

日記の表紙にすら書かなかった正真正銘の初めてのサインだ。

 

如月千早

 

それが今の僕の名前だ。

 

 

 

×月●日 晴れ

昨日書いた通り、僕の名前は如月千早だ。

女の子みたいな名前だと思う。実際この身の性別は女なので名前通りではあるのだけど、逆に中身が名前に伴っていないことになる。

前述した通り、僕は転生者だ。そして元男でもある。

外側が女で中身が男の歪な存在ということで、転生してすぐは色々と戸惑った。何せ長年連れ添った息子がさよならバイバイしていたのだから、そのショックはかなりの物だった。

しかし、途中から前世を思い出すタイプの転生ではなく、産まれた時から自覚するタイプの転生だったため、赤子時代に体験するお約束めいた不自由さが逆にこの身に慣れるきっかけとなった。今では体に違和感が出ることはほとんどなく、自分が女であることを受け入れられていた。

と言っても、ふとした瞬間に前世を思い出すかのように男的な行動が出ることもある。一度トイレを立ったまましようとしてあわや大惨事ということもあった。

それと男を恋愛対象にできるかと言えば絶対無理だと答えられる。

体は女でも恋愛対象は女のままだった。

テレビに出てくるアイドルを可愛いと思えるし、性的な目で見ることだってできた。実はまだまだ若い今世の母親との触れ合いにドキドキしたのは内緒。

逆に男に対しては一切ときめかない。イケメンの俳優を見てもイケメンだなって思うだけでそれ以上は何も感じない。一時期預けられていた保育園にいた男の子にも何も感じなかった。いや、感じたら感じたで色々とヤバかった。端的に言ってショタコンということになるからね。

むしろ幼いということで無防備に肌を晒す女の子達にこそドキドキしたものだ。

端的に言ってロリコンであった。

 

 

 

×月◎日 晴れ

ロリコンじゃないよ。

子供に混じって素肌を晒すことに抵抗があっただけだし。ドキドキ感も元男と言えど恥ずかしいと思ったからだから。

その時は周囲の子供の不思議そうな顔を無視してこっそり着替えたりしてことなきを得た。未来の大スターである如月千早の肌をこんなところでお披露目するなんてありえないからね。

未来の大スター。

何故僕がこんなことを言うのか?

それはこの身が如月千早だからに他ならい。

ようやく話が本筋に戻って来れた。

まず何度も言うように、僕は転生者だ。

そして転生先は如月千早だった。

この如月千早という少女はサブカルネタを少しでも齧ったことのある人間ならば耳にしたことはあるだろう、アイドルマスターという作品に登場するキャラクターである。

765プロダクションというできたばかりの零細アイドル事務所のメンバーの一人で、アイドルでありながら歌のみに固執する尖がったアイドルだ。

本来明るく朗らかな性格だったが、幼い頃に弟が交通事故に遭って死亡したことにより性格が一変、暗いものとなった。家族との間にも隔意が生まれ、それも性格を変える要因になったらしい。

そんな如月千早は当初協調性がやや乏しく、アイドルの仕事も歌のみに特化しており、かなり扱い辛いキャラだった。

それが765プロのメンバーとプロデューサーとの絆を深めることで最後には明るい性格をある程度取り戻したみたいなキャラクターである。

そんな如月千早に転生した僕なのだが、自分の名前を聞いても最初はアイドルマスターの如月千早と自分を結びつけることはなかった。

転生したとしても、まさかアニメやゲームの世界に産まれ落ちるとは思っていなかったのだ。ただし、名前を聞いて千早と一緒かと少しだけテンションを上げてはいた。まあ、その時は自分が赤ん坊になっていることと女の子呼ばわりされていることに気を取られていて喜んでいる余裕なんてなかった。

そんな僕が自身を如月千早だと認識できたのは弟が生まれたからだろう。

如月優。

それが僕の弟の名前。そして如月千早の死んだ弟の名前だった。

母に弟ができると聞かされた時にまさかと思っていたが、その弟の名前が優だと教えられた瞬間に気付かされた。ここはアイドルマスターの世界だと。

それまで何となくアイドルが前世に比べて優遇されているなぁ程度に世の中を見ていた僕は、改めて世間に意識を向けてみた。すると出るわ出るわ、前世で耳にしたアイマス関連の情報が。

それら集めた情報をまとめ、導き出した結果が自分がアイドルマスターの世界に如月千早として転生したという答えだった。

 

 

 

×月▼日 晴れ

つい先日母親共々病院から退院して来た弟のおしめを換えていると頭に思い浮かぶことがある。

この如月千早は大スターになれるのかと。

その疑問の理由は弟にあった。

物語では弟の死により歌に対する想いが強まり、千早のストイックさが生まれた。特技をトレーニングと言い切れるのはどこかおかしいのだ。

だがそのストイックさがあったから千早は歌において格別の力を得たのも事実。過去の回想シーンでは幼少期は歌が上手いという描写はなかった。むしろやや音痴に表現されていた気もする。

そこから歌姫となるにはどれほどの努力が必要だったのだろう。いや努力という言葉で済ませられないのか。謂わば妄執とも呼べる歌への想いが如月千早を形作ったのだろう。

その一方で弟の死は千早の歌にリスクを与えてもいた。

弟の事故の記憶により喉に負担をかける歌い方になっているとか、声が出にくくなっているなど、長く歌に関わるならばマイナスになる要素を弟の死は千早に与えている。

そしてその事故を週刊誌に載せられたことで千早は歌えなくなった。歌おうとすると声が出なくなる。アイドルとして致命的だった。

それにより一時期はアイドル活動を休止せざるを得なかったが、765プロの仲間の献身により再び歌を取り戻したというのがアニメのお話である。

 

泣ける!

 

で、この世界ではどうかというと、さすがに大成するために弟を見殺しにするような真似をしようとは思えなかった。

当たり前だ。弟の命なのだ。大切に決まっている。

……決まっているのだ。

いや、ここで白状しておこう。僕は一度弟が死ぬことを許容しかけた。

原作がそうだからという理由で。弟が死ぬのを受け入れかけた。

今思えば愚かの極みとも言える思考だった。命をなんだと思っているのか。でも最初の頃の自分は確かにそんな考えを持っていた。それが僕という人間の本性だった。

そんな屑めいた考えを改めることになった理由は他の何物でもない、弟本人だった。

まだ産まれたばかりの弟は病室のベッドで横になる母の隣で眠っていた。この世に汚いものなど無いと言わんばかりの平和ボケした寝顔だった。

これからの短い人生を精一杯生きておくれなどと無責任かつ非情な思いで眠る弟を見ていると、パチリと目を開いた弟と目が合った。

まだろくに目も見えていないのか焦点の合わない目をくりくりと動かしている。なんとも滑稽な姿だと思った。

だから、それは不意打ちだったのだ。

ふわりと弟が笑った。

無邪気に笑った。

汚いものなどこの世にないと。

目に映る全てが綺麗なのだと。

目の前の千早()を見て笑ったのだ。

その瞬間、僕の中にあった弟が死ぬ未来は吹き飛んだ。

自分の考えがとても愚かしいものだと気付かされた。

弟は生きていた。いや、生きている。

目の前で生きているのだ。

無意識に震える手を弟へと伸ばしていた。

指先でその小さな掌へと触れる。きゅっと指を掴まれた。

限界だった。

気づけば僕は泣いていた。

生まれ変わってから一度として泣いたことなどなかった自分のどこにこんな量の涙があったのか?

むしろこれまで溜まっていた何かが、今涙として溢れた気さえした。

突然泣き出した僕に両親はひどく狼狽えていたが、しばらくすると優しく頭を撫でてくれた。

思い返してみれば、生まれてこの方、この親に頭を撫でられたことがあっただろうか?

何度か撫でようと手を伸ばして来たことはあったのだが、それを僕が避けていた。どうせ疎遠になる相手なのだから馴れ合う必要はないだろうという思いで。

どこか前世の親と比べていたのかもしれない。どちらも親であることに違いはないというのに。

そんな諦観にも似た感情は涙とともに消えてなくなった。

弟の笑顔のおかげだ。

だから僕は弟に感謝している。この子のためにできることは何でもしようと思った。

 

ところで、僕が失ったモノを当然の様に弟は持っているわけだ。

女に生まれて早数年。しかし無いことに慣れ始めた自分を自覚している。

このまま心まで女になってしまうのかと不安に思いながら弟のそれを見ていると、横で洗濯物を畳んでいた母親が変に神妙な顔で何を見ているのかと尋ねて来た。

何をというかナニをというか。元気にちんちんと答えればよいのか。

何となく、弟のこれを見ていると自分が女であると自覚するみたいなことを言ったらおしめを換える役を取られてしまった。やたら焦った顔で「早熟過ぎる」とか「まさか実の弟に」とか意味不明なことを呟いていたがアレはなんだったのだろうか。

 

 

 

◇月凸日 晴れ

弟がしゃべった。

しゃべったあああ!(ファストフード感)

これまでダーダーとしか言わなかった弟が初めて意味のある言葉を発した。育児本からすればそろそろだとわかっていたが、やはり実際にしゃべるのを聞くと驚きと感動が押し寄せて来る。

しかも第一声が「ちひゃー」である。

パパでもママでもなく僕の名前を呼んだのだ。嬉しさが天元突破した。

お姉ちゃんとかでないのは誰もお姉ちゃんという単語を弟の前で使わなかったからだろう。両親とも僕のことは千早と呼ぶし。たぶん二人が使う言葉のうち一位と二位は優と千早だったとも要因と言える。

千早。僕の名前だ。それを呼ぶのは弟!

その幸福に浸っていると両親が慌てたようにお姉ちゃんと呼ばせようと弟にお姉ちゃんと連呼しているのに気付いた。

そんなインコやオウムじゃあるまいし。

両親の謎の拘りに呆れていると、圧力に怯えたのか弟が泣き出してしまった。何をやっているのだろうか。

赤ん坊の話す内容に必死になり過ぎでしてよ(上から目線)。

別に僕は千早呼びでもいいんだけどな。お兄ちゃん呼びが叶わない今生なら名前呼びは妥協点だと思うし。

しかし僕が名前呼びでいいと伝えると両親はさらに慌てて弟にお姉ちゃん呼びを迫るのだった。

え。新手の虐待ですか?

 

 

 

○月○日 晴れ

今日は夏祭りの日だ。

年齢的に今日が弟のデッドエンドの日かもしれない。

細かな年齢がわからないが、千早が六、七歳の頃だと思うので今日がデンジャラスデイで危ないのは確定的に明らか。

ああ、頭が回らない。

こんな日に限って風邪をひいてしまった。何という不運。

祭りが始まるまでに熱を下げないと。弟が祭りに行ってしまう。

頼りの親は僕なんぞの看病のために残ると言っている。ならば弟も残って欲しいと言ってもまともに取り合ってくれない。

どうやら親の代わりに弟のクラスメイトの親御さんが付き添いを買って出てくれたそうだ。迷惑すぎる。

こうなったら前世について話してみようかなどと無謀なことを考えもしたが、熱に頭がやられたと思わるのが落ちだ。

何とか弟の事故を防がないと。

弟が死ぬ。

嫌だ。

何とかしないと。

何とか

 

 

 

○月×日 晴れ

 

せーふ

 

 

 

○月▲日 晴れ

弟生存。

良かった。

未だ風邪の治らぬまま布団に寝転がる僕の横で弟が心配そうな顔でこちらを見ていることに安堵する。

どうやら夏祭り行きを断念してくれたらしい。しかも弟本人からの申し出とのこと。親も弟本人が言うものだから無理に送り出すことは躊躇われたそうだ。

よくやった弟よ。そして不甲斐ない姉で申し訳ない。

せっかくお友達とのお祭りをご破算にしてしまったのだ。この埋め合わせはする。絶対する。

まだ微熱の続く頭であれこれと埋め合わせについて考えていると、隣の部屋で両親が深刻そうに話し合っているの声が聞こえた。

断片的だけど「独占欲」とか「嫉妬」とか聞こえた。意味はわからないが、僕が弟を独占していて両親のどちらかが拗ねているとかだろうか。

まあ、どうでもいいか。何はともあれ良かった。弟が生きている。今はそれだけで十分だろう。

弟の生存を確認するために弟に抱き着いたところ、隣の部屋から親がすっ飛んできて引き離された。

そうだね、風邪が感染ったら大変だったね。

 

 

 

凸月凹日 晴れ

中学校に進学した。

小学生の弟とは離れ離れである。寂しいよおおお!

でも通学路は途中まで一緒なので、分かれ道までは毎日一緒に登校している。

できれば小学校まで付いて行きたいところだが、それは両親と何故か小学校の元担任に全力で止められた。

僕はただ弟と一緒にいたいだけなのに。え、それが駄目だって? 解せぬ。

中学生になって以来、授業を受けながら思い浮かべるのはもっぱら弟のことだった。

授業自体はぶっちゃけ受ける必要がないくらい簡単なので上の空でも余裕なので、その間弟のことを考える時間に当てている。

帰ったら弟と何をしようかなんて妄想を浮かべ、授業中にニヤついている奴が居るとしたらそいつは僕です。

 

 

 

凸月×日 晴れ

弟に将来の夢を語った。

将来アイドルになりまーす。イエーイピースピース。

そんな劇高テンションで宣言したところ、弟は素直に喜んでくれていた。

両親はどうかと言うと、意外にも賛成してくれた。と言うか異常なほど喜んでいた。

何だろう、末期患者で余命幾許も無いと思っていた相手が突然快復したみたいなテンションの上がり様は。

将来が心配だったとか言われても、一応これでも学校では成績優秀で通っているのですが。決して優等生と言われないところがミソだ。

とにもかくにも僕の夢はアイドルになることだ。

もちろん入るアイドル事務所は765プロ一択。それ以外眼中に無し。

約束された勝利の事務所以外に入っても意味ないってことよ。

 

 

 

凸月♦日 晴れ

一応、アイドルになるための準備はしている。まあ、この身体に一般的な努力というものは不要なのだけどね。

実は結構前から僕が所謂チートキャラだってことが判明していた。今の今まで説明するタイミングも使う場面も無かったので死蔵されていたのである。

 

──消しゴムで消した跡──

 

これらのチートにより超絶強化された如月千早、名付けてアルティメット千早はまさにアイドルになるべくして生まれたと言っても過言ではない。

あとは765プロに入ってしまえばトップアイドルまで一直線って話である。

トップアイドルになった暁には、印税で儲けて弟と両親に楽させてあげる。これが僕の野望であった。

 

 

 

△月▲日 晴れ

中学三年生になった。

少し前から受験シーズンでクラスメイトがピリピリしている。

僕も受験生に他ならないのだけど、ある意味進路がアイドルで決まっているのであまり進学先は気にしていない。

近ければいいかな程度だ。その近いというのが家からか765プロの事務所からかは考え中である。

家から近ければ通学は便利だ。原作の千早が一人暮らしだったのに対して家から通えるというのは非常に恵まれた環境と言える。

しかしこの家から765プロの事務所はやや遠い。春香程ではないが毎日通うとなると結構厳しい距離だ。

ならば事務所から近い学校がいいのかも知れないけど、そうなると今度は弟と離れて暮らさなければならない。

自他共に認める弟マイラブな自分からすれば弟と離れて暮らすのは正直キツい。今なら千葉のエリートぼっちな少年の気持ちがわかるというものだ。

いっそのこと弟と一緒にアパートでも借りて二人暮らしでもしようかとも思ったのだが、両親に軽く相談したところ全力で反対されたので断念した。

高校ならばともかく、まだ小学生の弟を自分の都合で学区外に転校させるのはいけない。

弟が転校先で馴染めずに孤立した末、いじめに遭うなどという結果になったら大変だ。その時は自分の浅慮さを大いに悔いたものだ。

そんな思いから弟との二人暮らしを撤回すると両親は異常なほど安堵していた。

何やら小声で「間違いが起きたら」とか「禁忌が」とか言っていたのも弟の転校先での問題をいち早く気づいたからだろう。そこまで頭が回るなんて、やはり親というのは偉大だと思った。

 

 

 

X月♦日 晴れ

今日は記念すべき日だ!

出だしからテンションが上がっていて後で読み返した時に恥ずかしい思いをしそうだけども、今日この時ばかりは仕方がないと言える。

今日僕は765プロのオーディションを受けて来たのだ!

いよいよ僕のアイドル人生が始まったのだ。テンションを上げないでどうする。

公式設定では如月千早は765の社長にスカウトされて入ったとあるが、それが具体的にいつどこでというのが分からなかったのでスカウトでの事務所入りは断念した結果である。つい最近まで意味もなく町中を徘徊していたのは内緒だ。

なかなかスカウトされないことに不安を抱いていたところに765プロが新人アイドルを募集するという情報を手に入れたので徘徊は中止。そのオーディションを受けることにした。

どうせ入るのならばスカウトだろうがオーディションだろうが関係ないだろう。

要は入ってしまえばいいのだから。その後はゲーム版なのかアニメ版なのか探りつつ、判明次第ルートを選定、原作知識を活かしてアルティメット千早として765プロでも一際輝くスターになるって寸法よ!

まさに完璧。いやまだ何も始まっていないので油断は許されないか。原作知識も日記に書いた事柄以外は十数年経った今では細かな箇所は曖昧になっている。仮にゲーム版だったとしたらどの作品かによって難易度変わるしね。

だが僕はやり遂げよう。765プロ最大のピンチである弟の死のスキャンダルは回避済みなのだからわりとイージーだよね。というかアレが重すぎるだけで、アイドルマスター自体はライトな世界観だしね。リアル世界のアイドル事情の方がエグいでしょ。

 

で、実際に受けたオーディションなのだが、さっそく原作キャラに会ってしまったわけだ。

765プロの新人アイドルオーディション会場(というか事務所)に彼女──天海春香が居た。

事務所前。ゲームでもアニメでもよく見た、それこそ親(前世)の顔より見たとも言えるあの扉の前に真剣な顔をした春香が立っていた。

精一杯のおめかしなのだろう。どの原作知識にも無い程に気合の入ったお洒落をして扉の前に突っ立っていた。

真剣な顔の天海春香とか珍しいというかいつものと言えばいいのか。どちらにせよ生で見るのは初めてであった。

て言うか入らないのだろうか?

そんな疑問も合わさってか、思わず声を掛けてしまった。

春香は突然声を掛けられたことに驚いたのか「うぇ、へぃわ!?」という珍妙な叫び声を上げるとビビっと体を震わせていた。

アニメとかで見ると普通でも、こうして生で見ると何と言うか違った印象を受けるね。ここまでリアクションが大きいのはアニメだから許容できるのであって、実際に目の前でやられると釣られてビクっとしてしまう。

驚いた天海春香に僕が驚いたことに天海春香が驚いて……もう書いていて意味がわからないよ。とにかくお互いに驚き合った出会い方だった。

 

しばらくして落ち着いた春香が自己紹介をして来た。突然声を掛けた相手に誰だテメェ的な態度を一切とらずに自己紹介ができるのはさすがアイドルオブアイドルと言える。素直に感心した。

彼女に倣い僕も自己紹介を返した。

如月千早です。本日オーディションを受けに来ました。

僕の言葉を聞いた春香は「あ、私もオーディション受けに来たんだよ」と当然のことをとても嬉しそうに語ってくれた。

嬉しそうな彼女に僕も釣られて嬉しくなってしまい無駄にテンションを上げて何か色々と意気込みを語ってしまった気がする。

とりあえず春香に対する第一印象は悪くなかったと思う。原作の千早がどんな態度で天海春香に接していたか不明だが、今僕が春香に見せた態度よりは堅い物だったに違いない。

その不器用とも不愛想とも言えであろう千早の態度が天海春香の庇護欲を誘った可能性も無くはないが、それを狙って原作の性格に無理やり近づける真似はしなかった。ぶっちゃけ面倒臭い。

今世の如月千早は僕が中に入っているため原作の千早よりは明るいはずだ。少なくとも暗いとかおとなしいという評価を周りから受けたことはなかった。

この時はあえて無理にアイドルらしい性格を演じる部分もあったが、その甲斐あってか春香とスムーズに打ち解けられたと思う。

できればアドレス交換とかしたいところであるが、さすがに出会ってすぐに言い出すのは躊躇われた。どうせ後日事務所で他のメンバー共々交換することになるだろうし、その時にすればいい。

当たり障りの無い会話を交わしながら未来の予定表にアドレス交換と心の中で記入した。

 

オーディションはその後しばらくして始まった。

ピヨちゃんこと音無小鳥が受付として対応してくれた。名前と履歴書を渡したら順番に呼ぶので社長室で面接を受けるよう言われた。待ち時間は事務所側のソファに座って待つよう言われたので、先に面接のある春香を見送った後、促されるままにソファへと座った。

面接までの時間は結構あったと思う。

春香の面接が長引いたのだ。かなり話しが盛り上がっているのが社長室から漏れ出る笑い声から窺えた。

社長の声と春香の声、あと一人秋月律子の声が聞こえた。

さすが春香だ。出会ってすぐの二人とあれだけ打ち解けられるのだから。そんなこと、僕にも千早にも無理にだろう。

まあ、僕はそこで勝負を賭けるタイプでないと自覚しているので特に焦りはしなかった。如月千早の武器はあくまで歌なのだから。

やがて面接を終えた春香が社長室から退室して来たので労いの言葉を掛けた。すると春香はホッとしたのかふにゃりとした笑顔を浮かべるとありがとうと返して来た。なんだかんだで緊張はしていたらしい。それにしてはやけに盛り上がっていた気がするけど。

色々と突っ込みたいところだが、今度は僕の面接の番となったので話を切り上げると面接を受けるために社長室へと向かった。

後ろから小さく頑張っての声が掛けられたので、振り返らずにピースサインを返しておいた。

面接は特に面白みがある内容ではなかった。春香程盛り上がるわけがないと思っていたけど、まさかここまで平凡な内容になったのは意外だった。

社長からは家族構成や好きな歌を聞かれ、秋月律子からは特技や習い事について聞かれた。どれも履歴書に書かれている以上の中身はないのだけれど……。

そんな感じで千早の胸並みに起伏の無い面接は終わった。

謝辞を述べて退室すると事務所に春香が残っていた。

何か忘れ物でもしたのかと不思議に思っていると、何と僕を待っていてくれたらしい。会って間も無い僕の面接が終わるまで待つなんて、女神か。もしくは暇人か。

とりあえず音無小鳥から結果は後日連絡するので今日のところは帰るよう言われた。

765プロからの帰り道、春香と並んで歩きながらお互いの話をした。

春香の話によると、色々とオーディションを受けてはいたが全てに落選していたらしい。

意外な事実にまじまじと彼女の顔を見てしまった。

その視線をどう受け取ったのか、あははと笑う春香。次に少し落ち込んだ表情をしたかと思うと、「私アイドルの才能がないのかな」なんてことを呟いた。

耳を疑うような台詞だった。

あの天海春香がこんな弱音を吐くなんて。

映像として天海春香が一人のシーンで弱さを見せる描写は見たことはあるが、それを人前に晒すというのはかなりレアだ。トキワの森でピカチュウに遭遇するくらいレア。

でもそれ以上にありえないという思いの方が強かった。

こんなの天海春香じゃない。

そう思うほど天海春香を偶像化してはいないけど、何となく精神的にタフという印象があったので少なからずショックを受けた。

何と答えるべきかわからず喉が詰まってしまった。

その僕の反応を見て自分の失言を悟った春香は「ごめんね急に変な事言っちゃった」と笑った。そのまま少し歩調を早める姿はこの話を無かったことにしたいように見えた。

でも僕にはこの話をここで終わらせる気にはなれなかった。

だって僕は天海春香という普通の少女がトップアイドルになることを知っていたから。

予感でなく、希望でもなく、予言より強固なイメージで僕の中には天海春香がアイドルをする姿が残っていた。

前世の知識だからじゃない。モニター越しでも、二次元の存在だったとしても、僕にとって天海春香という少女はいつだってアイドルだった。

でもそれを上手く伝えられないのがもどかしい。この時ほど全てを伝えられないことを辛く思ったことはない。

でも諦めたくない。なんとか伝えなければならない。何故かこの時は自身の全てを賭けてこの少女に自身を持たせなくちゃと思ったのだった。

そして必死に絞りだした僕の言葉は、

 

貴女は天海春香だ。

 

精一杯の勇気と心ばかりの誠意の結果がその言葉を吐き出させた。

他の何者でもない。この目の前の少女が天海春香だから僕は信じられた。

この少女は将来必ずトップアイドルになる。僕はそれを知っている。

だから伝えたかった。貴女が天海春香である限り貴女はアイドルであると。

その気持ちが十全に伝わったかはわからない。こうして日記にその時の様子を書き出している今この時も、春香に僕の意図が伝わったか確証は持てない。

それでも、僕の言葉を受けた春香が一瞬だけ目を見開いた後笑顔を浮かべたことだけは確かだった。

 

最寄り駅で春香と別れた後はまっすぐ家に帰った。

別れる時に今度は事務所でお互いにアイドルとして会おうと約束した。

結果が来るのは遅くとも三日くらい先だそうだ。実際に事務所に行くとなるともう少し後になるだろう。

今から彼女と過ごす765プロでのアイドル生活に胸が躍る。胸無いけど。

さて、長々と書いたがもういい時間だ。そろそろ寝ようと思う。

合否については特に不安はない。僕が如月千早である時点で受かるのは確定事項なわけだしね。

むしろ明日これを読み返して布団の中でジタバタしないかの方が心配だ。

なんてね。

 

 

 

X月♦日 雨 

 

落ちた

 

なんで

 




社長「ティンと来なかった」


千早ちゃん落ちちゃいましたね。
千早になれたからといって調子に乗った結果が落選の二文字。
まあ、調子に乗っただけが落ちた理由ではないのですが、今は千早の舐めた態度がマイナス評価だったということで納得していただけたらと思います。
実際1話目では終始噛ませ犬めいた性格なので人を見る目がある社長や律子のお眼鏡叶わなかったのでしょう。面接中ずっと如月千早というキャラを見せていただけですし。弟以外に自分を見せることはせず、弟以外は同じ人間ではなく、キャラクターとしか認識していません。最後の最後に春香に対して仮面を脱ぎ捨てたわけですが、時すでに遅し状態でした。

今作のコンセプトは本来噛ませ犬になるような地雷転生者が原作キャラ憑依という勝ち確からの挫折により失墜するところから始まり、そこから這い上がるようなサクセスストーリー風の何かを目指しています。
そのため一度千早には落ちるところまで落ちてもらいます。それが苦手な人は二話以降は読まれないことを推奨いたします。ライトにシリアス。ヘヴィに居た堪れないので。と言っても腐ってもアイマス世界なのでゆるいですが。
それから、この作品は基本的に転生チート物です。如月千早の俺TUEEEと俺NASAKENEEEの高低差に耳キーンなるのを楽しむ作品です。それ以上のクオリティを求めてはいけない。

次回からは普通の文体になります。


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アルティメットニート生活

冒頭のくだりはほとんどアイマス関係ありません。
完全に作者の趣味に走っております。

そして二話目は合間ということで短め。軽い千早責め。


失敗した。失敗した。失敗した。

失敗した。失敗した。失敗した。

失敗した。失敗した。失敗した。

 

僕は失敗した。

 

『準備はいい?』

 

仲間の”声”に慌てて返事を返そうとして失敗する。焦った所為で上手く言葉が出ない。

待って欲しい。準備なんてできていない。

チームメンバーが各々の言葉で準備完了済みと答える中で、唯一僕だけが未完のままだった。

 

『皆さんのご無事を祈っています!』

 

オペレーターの少女がこれから死地へと向かう僕たちに精一杯の声援を送っている。

ここまで言われるともう後戻りできない。つまり僕は今の不完全な状態で戦場へと送り出されるわけだ。

冗談じゃない!

そんな馬鹿な話があってたまるか。何で僕だけがこんな目に遭うんだ。リーダーもリーダーでちゃんと全員が返事をしてからGOサインを出すべきじゃないのか。

クソ。クソ。クソ。

ここまで来て、こんなオチが待っているだなんて……!

どうしてここぞって所で僕は失敗するのだろう。

嗚呼、失敗した。

失敗した。

僕は失敗した。

こんな──。

 

『レアブ忘れて来たあああ!』

『乙w』

『やっちまいましたな』

『だからあれほどアイテム管理はしっかりしろと』

『誰だーこのうっかりさんを作った料理人はー!』

『やつはワシが育てた』

 

そんな僕の全力の”叫び”はチームメイトのネタ台詞とカウントダウンの表示によりログの彼方へと消えてしまった。

 

 

────────────

 

『おつー』

『おつっつん』

『おーつ』

『見事な赤箱ですた』

『乙w俺も赤ばっかww』

 

緊急クエストを終えた僕達は普段たまり場にしているロビーに集合しながら先程まで参加していた緊急クエストの感想を言い合っていた。

僕が参加していたのは今全国的に人気のオンラインゲーム【ファンタジーアーククエスト2(略してFAQ2)】の公式イベントだった。

大人数参加型の巨大ボス討伐イベントで、普段手に入らない貴重なアイテムが手に入るとあってプレイヤーなら誰しも参加するコンテンツだ。特に今日のボスは現状最強の武器を落とすとあってトッププレイヤーから新人まで血眼になって殺しに掛かっている。僕も当然狙っていたが結果はお察し状態だ。さすがは最高レアアイテム。出るわけがなかった。

本来ならばこうした緊急クエスト後はレアアイテムのドロップ報告会になるはずが、今回は参加者全員がレアの抽選に漏れたので報告もとい自慢して来る者は居なかった。

僕も他のメンバーに倣うようにレアアイテムは落ちなかったわけだけど、決してレアドロップ率アップのアイテムを倉庫に忘れて来たのが原因ではない。絶対にないはずだ。ぐすん。

このアイテムを使ったか使っていないかで結構アイテムの量が変わるので、こうしたイベント時には必須アイテムと言える。それを忘れる僕っていったい……。

ドロップ率250%アップの未使用は正直痛かった。レアドロップ以外にも確定で入るコレクトファイルのゲージ量もアイテム使用時には加算対象なのだ。これが溜まり切ると最強から一段下のアイテムが確定ゲットできる。最強までの繋ぎとしては優秀なシステムだ。

今回使用しなかったおかげで結構前から組んでいたコレクトゲージのスケジュールが狂ってしまった。これは夜中以外にも朝の緊急クエストも出るしかないか?

 

キョウ:『おーい、チハヤ~』

 

睡眠を犠牲にする覚悟を決めた僕にフレンドの【キョウ】が個人チャットで話しかけて来た。

いつでもオープンチャットで話しかけてくるこいつにしては珍しい。ちなみに個人チャットとはお互いにしか聞こえない(見えない)チャットをやり取りする機能のことで、オープンチャットは周囲全員に聞こえるチャットのことである。

キョウは緊急クエスト以外でも絡みがある知り合いだった。レベル上げやレアアイテム堀りなどでも長時間付き合ってくれる頼れる相棒的存在とも言える。あと【チハヤ】というのは僕の使用キャラの名前だ。

キョウに合わせるために個人チャットのコマンドを起動させる。

僕は基本的に緊急時の呼び出し以外で個人チャットを使用する機会はない。しかも大抵一方的に呼び出されるだけなので、こちらから個人チャットで発言する操作に多少手間取った。

ガチャガチャとキーボード操作に手間取っていると僕のキャラクターの周りをキョウがくるくると回り出した。

キョウの使うキャラクターはリアルではまず居ないタイプの青髪クール系のスレンダーな美少女キャラで、アップで見ると冷めた目が戦闘のプロみたいに見えなくもない。

彼女(たぶん中身はおっさん)はライフル銃で遠距離から攻撃するタイプのクラスを主に使用しており、敵の弱点を的確に狙い撃つ所は容姿にぴったり合っていた。

そんなクールキャラ(見た目だけ)が手を水平に伸ばした格好で「キーン!」とか言いながら走り回る姿は何だか滑稽だった。しかも無表情クールキャラだし。

対して僕のキャラはと言うと、これも現実には存在しないであろう金髪ツインテールのロリキャラだった。

主に近接戦闘を好む僕は自キャラにわざわざバカでかい大剣を持たせていた。僕はロリっ娘が自分の身長以上の武器をぶんぶんと振り回す姿にときめくタイプなんだ。

で、今の絵面って金髪ロリキャラの周りをスレンダークールキャラが走り回っていることになる。

ぶっちゃけシュールすぎやしないかね。

僕以外の者も同じ感想を持ったのかそれまでレアドロの報告をし合っていたチームメイトが遠巻きにこちらを見ている。これは軽く引かれているね!

中にはわざわざエモーションで「やれやれだぜ」と頭を振っている時を止めそうな学ラン姿の奴とかも居たが、だいたいの人間は僕らと関わり合うことを避けているように思えた。

仕方ないことだけどさ。

 

チハヤ:『何か用?』

 

いい加減周りをくるくる回られるの困るので返事を返す。

僕が反応したためキョウは走り回るのを止めるとわざわざ僕の前まで移動して来た。三人称の俯瞰視点タイプのこのゲームでキャラの前に移動する意味は無いのだけども、そういう細かいところで拘るところがキョウらしい。

 

キョウ:『お、まだ落ちてなかったかー。いつも630(回線落ち)と戦っているチハヤのことだから居ながらにして回線落ちしてると思ったよ』

 

何を言うのかと思えば失礼な。僕だって回線落ちしないこともあるよ。

……いや、落ちることが異常なので胸を張ることじゃないけどさ。しかもエラー起こさないの一週間に一回くらいだし。

 

チハヤ:『おおん? 喧嘩売ってるなら買うよん? バトルアリーナでアリーヴェデルチしちゃうよん?』

キョウ:『うぇ、相変わらず沸点低すぎー。チハヤは装備は良いくせにPS低いんだからアリーナとか鬼門でしょ』

チハヤ:『くっ……僕の右手に宿った暗黒竜が終末(カタストロフ)現世(アストラルサイド)顕現(マニフェステイション)させようと……これさえなければ今頃アリーナ覇者に!』

キョウ:『はいはい、邪気眼オツオツ』

チハヤ:『(つд⊂)エーン』

 

僕がエモーションで闇を宿した右手を押える所謂邪気眼な動きをするとすかさずキョウから厳しめの突っ込みが入る。

同時にモニター越しにキョウがげんなりした顔が浮かべた気がするが、実際にキョウの素顔を見たことないのであくまで想像でしかない。なのでキョウが実際にキャラを僕から遠ざけているのはたぶんラグによる位置ズレ修正なんだ。

……なんて、リアルでやれば引かれるようなこともゲーム内では結構やれる。しかも気心の知れた相手ならばなおさら色々と晒け出せる。

出しちゃいけないものまで出したのは黒歴史。

ある意味この”チハヤ”こそ僕の素に一番近いのかもしれない。転生してから家族にすら一度もそういう姿を見せたことないから。

でもキョウにはそんな素を出してもいいと思える気安さがあった。枯れ木の様な僕を人並みの精神構造に戻してくれたのもこいつだ。本当に感謝しても仕切れない。

やはり同じニート仲間というのが大きいのかな。ニートでありながら、そこに誇りを持っているところが大物感だしているんだよね。このゲームのプレイ時間は僕に比べて少ない方だけど、その分腕で補っているところはさすが廃ゲーマーを自称するだけはある。

キョウは今時のゲーマーがやるスタイルで一日のうち色々とゲームを渡り歩いているらしく、このゲームには主に夕方から深夜にかけてログインしてくる。夕方から夜中にイベントが多いこのゲームでは効率的と言えた。

対して僕は基本一日中ログインしっぱなしである。他のゲームはやらないこともないけど、スマホゲーをクエストの間にやる程度でがっつりやるのはこのゲームくらいだ。

それでいて個人チャットでの会話がほぼ初というのは何なのだろうね。常にオープンで電波垂れ流してるからですねわかります。

 

キョウ:『泣くなよー』

チハヤ:『泣いてないやい。これは心の汗が目から涙として出てるだけだよ』

キョウ:『泣いてんじゃん』

チハヤ:『こんな時どんな顔をすればいいかわからなくて』

キョウ:『泣けよ』

チハヤ:『アァンマァリダアアア!』

 

僕が叫ぶとすかさずキョウが【組み手】エモーションで殴って来た。僕はこのエモーションを持っていないので”受ける”ことができずに一方的に殴られることになる。

モーションキャプチャで再現されたそれは割と鋭いので、殴られている【チハヤ】は物凄く痛そうだ。当然ロビーは非戦闘エリアなのでダメージはない。そもそもエモーションにダメージはないのだが。

 

チハヤ:『今日のキョウは当り強くない?』

キョウ:『いやーいつも通りだと思うけど?』

チハヤ:『いやいや、強いって。何かちょっと前からやけに強いけど。前はエモで攻撃とかしてこなかったじゃん』

 

キョウは突っ込みこそ鋭いが無駄な動作をしないタイプだった。しかし最近になって突っ込みが過激になることが増えた。

凝った動きをしてくる分、逆に親密度が上がったようで密かに嬉しいと思っているのは内緒だ。

 

キョウ:『あー……まあ、そうかもねー。何て言うかその姿に変わってから加減できなくなった、みたいな?』

チハヤ:『酷い! こんな可愛い子になんてことを! 酷いわ! 酷いのだわ! こんなに可愛いのに!?』

キョウ:『うあーやめてよー何かゾワゾワするー』

チハヤ:『え、本気でひどくない? そんなにダメかなこれ』

 

今のチハヤの姿は少し前にいじっていた。このゲームの売りの一つにキャラメイクの多様さがあるのだけども、つい最近色々とキャラのパーツを買い揃えてキャラのエディットをいじったのだ。

その結果生まれたのがニューチハヤであり、金髪ロリっ娘なのだ。

それにダメ出しされるのはちょっとショックだぞ。まあ、いい年したおっさん(キョウにはそう思われている)がロリキャラ使ってるのはぶっちゃけ気持ち悪いとは思うけどさ。

 

キョウ:『キャラメイクに問題はないけど。問題がないことが問題というか。て言うか、なんでそんなに作るの上手いかな』

チハヤ:『キャラメイクガチ勢だからね』

キョウ:『ガチ勢。やはりガチ勢半端ない。無駄なクオリティの高さに脱帽だよ』

チハヤ:『ハハッ、僕の嫁は世界一可愛いからね!』

キョウ:『気持ち悪い』

チハヤ:『貴様、僕のチハヤに何てことを』

キョウ:『いやチハヤには言ってないよ?』

 

あ、中身に言ったんですね。わかります。確かにゲームのキャラを嫁とか言うのは気持ち悪かったか。

でも仕方ないじゃないか。現実ではあらゆる意味でお嫁さんなんて貰えないんだから、ゲームの中でくらい好みのキャラを嫁にさせろ。

そういうキョウだって理想のタイプってことで【キョウ】を作ったくせに、人のこと言えないだろ。

 

チハヤ:『で、結局何の用なのさ。僕こう見えて忙しいんだよね』

キョウ:『自分で振っておいて雑に切らないでよ。まあいいけど。あとチハヤの忙しいって結局ゲームじゃん』

チハヤ:『舐めるなよ。今僕は人理修復のために力を貯めているんだから』

キョウ:『ゲームじゃん。しかも力を貯めるって、この間ガチャ爆死したくせにまたガチャやるの?』

チハヤ:『やめてよ』

 

やめてよ。

 

チハヤ:『金星の女神が僕にもっと貢げとうるさいんだよ』

キョウ:『大丈夫?』

チハヤ:『おう、女神の加護があるからね』

キョウ:『いや、幻聴が聞こえるとか大丈夫?』

チハヤ:『泣くぞ』

 

前世込み換算で成人済みの大人が泣くぞ。泣かないけど。

 

キョウ:『あーごめんごめん。今度余ったスクラッチ品のアイテムあげるから泣かないでよ』

チハヤ:『で、何の用? 暇だから聞いてあげるよ』

キョウ:『熱い掌返しすぎる!』

 

こんなアホなやりとりもキョウ相手にしかやれない。

リアルの僕は本当に酷いことになってるから。ネットだけの知り合いでしかないはずのこちらを慮ってくれるキョウの存在は僕にとって救いだった。

若干依存しかけているのは意識しないようにしている。

 

キョウ:『実はちょっとログイン時間が変わりそうなんだよね。だから報告をしておこうかなって』

チハヤ:『え、なになに、深夜から明け方に変更とか?』

キョウ:『いや、どちらかと言うとイン時間自体減りそう』

 

それはまた唐突な話だ。一瞬何か言いそうになるのをぐっと堪える。この会話がキーボード入力でよかった。通話だったら即何か口に出したかわからない。まあ、出ないんだけども。

僕はキー入力故の考えてから発言できるという恩恵を受け慎重に言葉を選んだ。

 

チハヤ:『何か新しいゲームでも見つけたとか? 良ければ紹介しておくれよ』

 

これまでもゲーム内の知り合いが別ゲーに浮気することはあった。今ハマっているスマホのゲームだってそうした別ゲーに浮気した奴からの紹介で始めたものだし、キョウがこのゲームのログイン時間を減らしてでもやりたいゲームがあるならそっちと並行してやるくらい問題はなかった。なんだかんだ一定のログイン時間を維持していたキョウを結構信じていたのかも知れない。

今この時までは。

 

キョウ:『いや。別ゲーじゃないよ』

 

え?

 

キョウ:『今度さ、働くことになったんだよね』

 

「っーーー」

 

思わずリアルで声が出そうになった。

いや出ないけども。

代わりに指が高速でキーを叩いた。

 

チハヤ:『働かないのがポリシーじゃなかったの?』

キョウ:『そのはずだったんだけどね』

チハヤ:『大丈夫? 壺?』

キョウ:『詐欺ではないかな。いや、ある意味詐欺? あんだけキツいとは思わなかったし』

チハヤ:『じゃあ働かなければいいじゃん』

キョウ:『そうもいかないんだよね。目的もできちゃったし』

チハヤ:『一生働かないって言ってたじゃん』

キョウ:『うーん……言ってたとは思うけど』

チハヤ:『言ってたっしょ?』

チハヤ:『言ってたよね?』

キョウ:『まあ、希望としてはそうだったよ』

チハヤ:『だったら貫くべき』

チハヤ:『最後まで諦めたないのがキョウの良さ』

チハヤ:『キョウの働いたら負けって言葉が世界を照らすと信じてる』

チハヤ:『キョウのかっこいいとこ見てみたい』

キョウ:『ちょっとちょっと』

 

会話のキャッチボールを無視して一方的に発言し続ける。

 

チハヤ:『働いて社畜化するなんてキョウらしくないよ』

チハヤ:『信じて送り出した仲間が立派な社畜になって戻って来ちゃう!』

チハヤ:『働かず怠惰に生きようと桃園で誓い合ったじゃないか』

チハヤ:『あの誓いは嘘だったの?』

チハヤ:『嘘なの?』

 

この時の僕はおそらくまともな思考をしていなかったのだろう。しかしそれに気づいた時にはすでに遅かった。

 

キョウ:『もーうるさいなぁ!』

 

その一言に途中まで入力していた入力を止める。

モニターの中ではキョウが無駄に凝ったエモーションを使って怒りを表現していた。

しまった、またやり過ぎてしまった。キョウ相手にこうなるのは今までなかったことだから。それは僕がこうなる前にある程度空気を読んでくれていたキョウのおかげだ。時折失礼な言葉を吐く僕に「仕方ないなぁ」といった雰囲気で流してくれていた。そのキョウが流さなかったということは今回のこれはキョウにとって大切なことだったのだ。それを僕は蔑ろにした。

後悔先に立たず。僕の焦りから生まれた言葉はキョウの許容量を超えていたらしい。

慌てて謝ろうとキーを叩く。

 

キョウ:『もういいよ』

 

でもその前にキョウから返って来た言葉に指が止まる。

違う、まって、そうじゃないんだ。

 

キョウ:『チハヤなら解ってくれるかなって期待してたのにな』

 

期待……?

期待、してくれていたの?

こんな僕を。誰の期待にも応えられなかった僕を。

キョウは期待していたと言う。

どうしてだろう。なんで期待したんだろう。こんな失敗ばかりの僕にどこに期待できたと言うのだろう。

 

キョウ:『あと、しばらく忙しくなるからイン自体できないよ』

 

唐突過ぎる。

せめて最後に伝えなくてはならない。

お願いだから聞いて。

 

キョウ:『バイバイ』

 

カチっとエンターキーを押す。

 

エラー:対象が非ログイン状態のため《見捨てなないで》は送信されませんでした。

 

「……」

 

目に映るシステムメッセージから目を逸らし、席を立った僕はふらふらとした足取りでベッドへと向かった。

何故か無性に眠い。

何で眠いんだっけ?

ああ、そう言えば丸2日眠っていないんだった。今日はキョウが朝からインするからって昨日徹夜明けだってのに起き続けていたのだった。眠い目を擦りながらキョウとクエスト周回をして1日を過ごした。そして先程の緊急クエストからのキョウの就職報告に暴走気味に引き止めてしまった。

僕と違ってキョウは社交的で誰とでも仲良くなれる奴だった。やろうと思えばいつだって仕事に就けるというのは理解していた。キョウが仕事に就けたことは何ら不思議じゃなかった。

問題はキョウが就職しようと思ったことだ。ずっと同じようなドロップアウト組だと思っていたから。キョウが社会復帰”できてしまった”ことがショックだったのだ。

キョウとの付き合いは二年弱程度だが、結構な時間を過ごして来た気がする。会話だけなら家族よりも多いかも知れない。だから、あいつとなら十年二十年と怠惰で無為な時間を過ごせると勝手な同族意識から信じ込んでいた。そんなわけないのにね。

そうして勝手に信じた絆を身勝手に振りかざした結果が喧嘩別れである。いや、あれを喧嘩別れと呼べるか微妙だ。愛想を尽かされただけじゃないか。

喧嘩できる類の仲じゃなかった。友達でもなんでもなく、あくまでシステム上のフレンドだった。その勘違いの結果がこれだ。一方的に裏切られたと思い込み責めるようなことを言って関係を切られてしまった。

僕はあのゲームでキョウ以外のフレンドが居ない。友達ではなくフレンド登録した相手が居ないのだ。

ネトゲですらぼっちとか……。

泣きたい。泣けないけど。

ベッドの上で無意味にごろごろと転がってみる。当然こんなことで気分が晴れるわけもない。思い切って外でスポーツでもしてみようかと思うも、次の瞬間には外で爽やかにスポーツに励む自分を想像して吐きそうになる。

今更爽やかキャラもないだろうに。自嘲の声すら出やしない。しばらく自分以外生き物がいない空間にはごろごろとベッドで転がる音が響いた。

しかし三十分ほどごろごろしているとさすがに飽きて来たので転がるのを止めた。何を無駄に体力を使っているのだろうか。無尽蔵と言える体力を持つ僕からすればこの程度どうってことないのだが、精神的に虚しくなったので止めた。

意識を無理やり切り替えようと思い何かしようとするもゲーム以外に趣味も無いので何もすることがない。

今はネトゲをやる気分にもなれなかった。今やればきっとキョウのことを思い出して辛くなる。

暇だ。

次の緊急クエストは明日の朝七時だ。たかだか数時間で気分が切り替えられるか?

でも出ないとゲームスケジュールが狂うし。ならばそれまで何をしようか。もう少し転がっていようか。いや飽きたからいいか。

暇だ。

ケータイのゲームもAP(行動値)切れしているので回復するまでやれることはない。

暇だ。

 

「……」

 

二年前までは空いた時間にはアイドルになる努力をしていたので暇を感じたことはなかった。

歌と踊りを体に馴染ませるために反復練習したり、鏡の前で千早らしい笑顔作りを模索したり、本当に色々とやっていた。

でも今はそれらを一切行っていない。やっても意味がないからだ。無駄なことをしても時間の無駄だ。

無駄だった。

 

「っ……」

 

無駄だった。

全部無意味だった。

あの日765プロから届いた「不合格」の知らせは、僕の中にあった何かを確実に砕いた。

生まれた時から続けて来た如月千早(努力)が無駄になったと知った瞬間、求めた千早(未来)が虚構になったと気づいた。

あれだけ欲しかった仲間(宝物)は一生手に入らないと手に持った紙が告げていた。

その日から僕の生活は一変した。

それまで毎日続けていた歌も踊りも笑顔の練習も全部止めた。

家族がうんざりするほどにアイドルになった後の展望を聞かせていたのに、アイドルという単語すら出さなくなった。

その豹変ぶりに家族は色々と相談に乗ると言ってくれた。でも僕が返したのは拒絶だった。

ずっと語った夢物語が本当に夢になったこと、自分の言葉が嘘になったことが恥ずかしくて情けなくて何も言えなかったのだ。

僕が何も答えずにいるとやがて両親は何も聞かなくなった。得てして、それは原作の千早と両親の関係に似たものになった。こんなところだけ似なくてもいいのにね。

両親は僕から手を引いたが、弟はその後もしつこく僕に干渉して来た。

ずっと弟の前だけで歌と踊りを見せていたのだが、何かにつけそれを見せて欲しいとせがんで来るようになった。そんなこと今まで一度も言ったことなかったのに。

今更何を見せるというのだろうか。アイドルになるために見せていた歌と踊りと笑顔だ。それが無意味になったのに見せる理由がない。

そんなことを言って拒否しても弟はしつこくしつこく歌って欲しいと言って来た。それが当時の僕にはストレスでしかなく、毎日飽きもせず歌を強請る弟を次第に鬱憤が溜まって行った。

そしてある日爆発した。

いい加減にしろと叫んだ。お前に何が解るのかと何も知らない弟を責め立てた。完全な八つ当たりでしかない、自分の失敗の怒りや情けなさや悔しさを弟にぶつけてしまった。

そしてソレを言ってしまった。決定的な一言を僕は弟へと叩きつけた。

それが何だったのかは覚えていない。そこだけすっぽりと記憶から抜け落ちていた。ただ一つわかるのは、ソレが僕にとって致命傷だったということ。

致命的な何かを言った。それだけは覚えている。

幸いなことに、それで弟が僕を見捨てるということはなかった。自分を傷つけたであろう屑な姉を許したのだ。ただ、それ以来僕に歌を求めることはなくなった。何か色々と諦めたのだろう。

そして、その日以来、僕は声を失った。言った側の僕が致命傷だったというオチだ。

声だけじゃない。笑うことも、怒ることも、泣くこともできなくなった。それが弟を傷つけた代償だった。

医者曰く、短時間のうちに極めて強いストレスを受けた結果情動が表面に出なくなったとのこと。

それから今日まで僕は感情が表に出せないままだ。一応カウンセリングは受けているが経過は芳しくない。ストレスの根源が解消されない限り治らないと言われており、その根源が不明のままでは治療を受ける意義は薄かった。そのカウンセリングも今はほとんど行っていない。

学校も中学を卒業したっきりで、高校には進学していない。今は両親の勧めから家を出て安いアパートを借りて一人暮らしをしている。家賃や光熱費は親持ちだ。

そうやってあらゆる復帰の機会を何もかもを切り捨てていった結果が今の僕だった。

リアルに友達は居らず、両親とも疎遠になった僕は先程ゲームの友人すら失った。

全て失った。

かつてこの身を満たしていた自信も誇りも綺麗さっぱり失ってしまった。この身を焼いていたトップアイドルになるという野望は現実という名の風に燠火すら残さず吹き消された。

目的を失った僕は毎日一人でゲームをするか眠るだけの生活をしている。

親の金でアパートを借り、ゲーム代も出して貰っている。課金代が足りなくなれば親へとせびり、それでも足りなくなったら食費を削る。

まったく笑ってしまうくらいの転落人生だ。笑えないけど。

しかし両親は何も言わずに今の生活を続けさせてくれている。こんな欠陥品になった子供を見捨てずに養ってくれている彼らを一時期でも下に見ていた昔の自分が恥ずかしかった。そんな自分が申しわけなくて親とはずっと顔を合わせてすらいない。

両親に恵まれている。それだけで千早よりも幸せではないのか。千早は弟が死んだ上に両親とも隔絶した環境で孤独に生きて来た。それに比べて僕は幸せなはずだ。両親とはやや疎遠だけど、弟はたまに遊びに来てくれる。だったらそこで満足するべきなんだ。幸せなくせに今よりも上を求めて現状に価値無しと切って捨てた僕ははっきり言って屑だった。

なら屑は屑らしく部屋の隅で静かにしていればいい。何もしなければ何も失わなくて済むから。

そっと瞳を閉じる。お休みを言う相手も、返してくれる相手もいない。

今日も僕は独りぼっちだ。

 

 

────────────

 

 

ピン──ポーン。

 

来客を告げるチャイムが鳴ったのは翌日の朝のことだった。

部屋に響く軽快な音とまぶた越しに刺さる陽の光に脳が刺激され目がさめる。最近では夢も見なくなったのでベッドで転がっていた時から次の瞬間に明るくなっている感覚だ。

微睡みの中から浮上する意識に合わせてベッドから起き上がると、のそのそとした歩みで玄関へと向かった。

玄関に着くと扉の魚眼レンズから外を覗き見る。するとそこには弟──優の姿があった。

 

「っ!?」

 

そうだった、今日は優が遊びに来る日だった。数日置きに弟が様子を見に来てくれる。親はここに来ないので負担を掛けていると知りつつ弟に頼っている僕だった。

こうでもしないと絶食をしてしまう僕を優が心配しての行動だ。こんな僕の世話を焼いてくれるだなんて、やはり優は天使に違いない。

それにしても、今日はいつもより早い到着だ。いつも学校に行く前に寄ってくれているので登校時間に被るのだが、今は朝練のある学生くらいしか通学しない時間帯だぞ。

しかし優を待たせては悪い。慌てて扉のロックを外し飛び出そうとして、チェーンロックにより動きが制限された扉に勢い良く顔面をぶつけた。

 

「───ッ!?」

 

あまりの痛さにその場でのたうち回りそうになる。しかし狭い玄関では僕が横になる空間すらない。無言で蹲りぷるぷると震えることしかできなかった。

 

「お姉ちゃん? 何か今凄い音がしたけど大丈夫?」

 

痛みに震える僕の耳に優の心配する声とノックの音が聞こえる。

扉越しにもわかる優の美声に耳が幸せになるも、未だ顔面に走る鈍い痛みに返事を返せない。

 

「大丈夫? 返事……は、出来ないか。だったら何でもいいから反応して!」

 

その少し焦っているような声とノックに急かされ、何とか扉を数度ノックすることで返事の代わりにした。このノックは言葉が出ない僕と何とか意思疎通を図ろうと優が考えた合図だった。これが思いのほか便利で、多用しているうちに今では強弱や回数で何となく察してくれるようになった。

反応があったことに安堵したのか優からのノックは止んだ。こちらを気遣う言葉のみが聞こえる。弟にここまで心配を掛ける自分に涙がでそうだった。出ないけど。

その後も痛むが引くまで優の気遣いに感謝と申し訳なさを感じ続きた。

 

 

復活した僕は何事も無かったふりをしながら優を部屋へと招き入れた。

その時の優のこちらを見る目が若干呆れを含んでいたのは見て見ぬふりをする。現実逃避は僕の特技だ。

気の利いた持て成しなどできる部屋ではないが、優が来た時のためにジュースくらいは常備していた。僕は基本的に水しか飲まないので完全に優専用になっている。昔から優はこのジュースが好きだったから。最近ではこのジュースを買うか課金用のネットマネーを買うかくらいしでしか外出してない気もする。食事は基本的に出前か弟の持ってくるコンビニのお弁当くらい。

こんな食生活を続けても身体を悪くすることはない。寝不足と食生活が崩壊していても体型が崩れることもないし、吹き出物一つ出ない。我ながらチートだと思う。本来こういう使い方をするものではないんだけどな。

まあ、本来の用途に則して使うことは今後ないから精々便利に使わせてもらうまでだ。

こんなものがあったから調子に乗ったわけだが、こんなものがあったからこそ何とか死なずにいられるのも事実。まさに痛し痒し。可愛さ余って憎さ百倍。どちらも違うか。

さて、話がどんどん逸れて来てしまったぞ。

弟を大切にしている僕が、優がいるというのにこんな無駄な思考を続けているのは何故か。

それは今優が手が離せない状況だからに他ならない。

なんと優は今僕のために料理をしてくれているのだ。

僕のために。

手料理を。

ヘブン?

今年から中学生になった優だけど、自分の中ではまだ子供という印象が強かったので、材料持参で手料理を振舞うと告げられた際は思わず頬を抓った。めっちゃ痛かったので夢ではない。

くあー生きてて良かった。優の手料理を食べられるなんて恐れ多すぎて想像すらしていなかったぞ。

当然エプロンなんてこの部屋にはないのでそれも優が持参したものだが、青色の無地のエプロンが優の清廉さと合わさって良く似合っている。先ほどエプロン姿をお披露目された時などしばらく無言で凝視してしまったほどだ。だって目の前に天使がいるんだもん。その天使がエプロン着て手料理作るっていうんだよ。夢心地になったっていいじゃない。だから苦笑いを浮かべた優がキッチンへと消えるまでガン見し続けた僕は悪くない。

出来上がった料理はオムライスだった。

出来栄えは控えめに言って……最高である。

弟が作ったというだけで最高なのに、それに加えてケチャップで綺麗に「チハヤ」と書いてくれているのだ。これは神だね。さらにハートマークが書いてあったならば、某大航海海賊漫画の最後に手に入るであろうお宝がこれであったとしても僕は一向に構わないよ。

 

「食べないの?」

 

おっと、あまりの感動にトリップしていたようだ。せっかくの優の手料理が冷めたらまったいない。

両手を合わせていただきます。

 

「うん、どうぞ召し上がれ」

 

コンビニ弁当の余ったプラスチックスプーンを手に取りオムライスへ突き刺す。ふんわり卵がとろっと溶けていき、中の真っ赤なケチャップライスが顔を出した。

慎重にライスと卵を掬って万が一にもこぼさない様に慎重に口へと運ぶ。

一口食べる。途端に卵の甘さとケチャップライスの甘辛さが口の中で広がる。想像を絶する美味さだぞ。多分に弟補正が掛かっているのは自覚しているけど、それを抜きにしてもこれは美味い。

いつの間にこんなスキルを手に入れたんだ優よ。ちょっとお姉ちゃんと同棲して毎日料理作ってくれないかな?

……などとは二重の意味で言えないので静かに続きのオムライスを口へと運ぶ。

やっぱり美味しい。幸せ過ぎて心がぴょんぴょんしそうなんじゃー。しないけどー。

 

「美味しい?」

 

優の質問にオムライスを咀嚼しながら勢い良く頷く。同時にテーブルをコツコツとリズムよく叩く。良い意味の肯定の意味だ。

本気で美味しい。これを不味いと言う奴なんているのだろうか、いや居ない。て言うか仮にそんな奴がいたら僕が許さないわ。たとえお天道様が許したとしても、この桜吹雪が許さない。

僕は美味しいと声を出して言えないのがもどかしい。代わりに何度もコツコツすることしかできない。

優を見れば何やら微笑ましい物を見る目でこちらを見ている。何だか無性に恥ずかしくなってしまった。

汚く見えないように丁寧にオムライスを食べ進める。どうしよう、いくら食べても飽きが来ないぞコレ。はっ、まさかこれは魔法のオムライス!?

うまうま。

もぐもぐ。

 

「あ、あのさ、お姉ちゃん……」

 

んぐんぐ……おん?

躊躇いがちに声を掛け来た優の声に食べる手を止める。

そう言えば、いつもはお弁当を貰ったらそのまま学校に向かう優がいつまでも部屋に留まるのは珍しい。てっきり手料理を作るために早く来たと思っていたのだが、どうやらここからが本題のようだ。

何となく嫌な予感を覚える。脳裏に過るのはキョウの就職報告についてだ。あれからまだ数時間しか経っていないため鮮明に思い返すことができる。

まさか、優も就職を!

……んなわけないか。優はまだ中学一年生だ。少卒で就職とかどこの骨の超越者だよ。

でも似た報告かも知れないし油断はできない。彼女ができたよとか、部活始めたんだとか、親にここに来るなとか。……最後のを言われたとか報告されたらやばい。死ぬ。

自然と呼吸が荒くなるのを感じる。

 

「実はお姉ちゃんに渡そうと思うものがあって」

 

あ、な、なーんだ。そっちかー!

も~そうならそうと言ってよね。アレでしょ、一足早いクリスマスプレゼントとかでしょ。

ほっと安堵の息を吐く。無意識に力んでいた肩から力を抜いた。

手料理だけではなくプレゼントまで用意してくれるなんて本当にできた弟だよ。お姉ちゃん嬉しさで今なら空も飛べそうだよ。飛べるけど。

 

「……ちょっと待っててね、今出すから」

 

そう言って優はオムライスの材料を入れていたバッグを漁り始めた。どうでもいいけど食材とプレゼントを全部同じ袋に入れるのは感心しないぞ。これ今日の料理が青魚系の物だったら大変なことになってたって。まあ、プレゼントの方も生ものだって言うなら問題ないけども。

そんなことを考えている間に優は贈り物を袋から取り出した。

 

「喜んでくれたら良いんだけど」

 

優から贈られた物なら何だって嬉しいよ。例えそれが蜜柑の皮だって額縁に飾っちゃうよん。

しかし、ハードルを下げに下げた僕の目に映ったのは、限界まで下がったハードルをさらに潜るような物だった。

 

『346プロダクション シンデレラオーディション 二次選考概要』

 

……え?

 

「いや、さ。この間ネットとか見てたら広告バナーに書いてあって調べてみたんだ。今度346プロでアイドルのオーディションがあるんだって」

 

待って。

 

「それで、お姉ちゃんの写真を送ってみたんだ。写真は今のじゃなくて中学時代のになっちゃったけど」

 

え?

え、え?

何、優、それ、私、初耳。初耳だから。新しく聞いたやつだから。新聞だから。

 

「一次選考は写真だけなんだって。二次選考までは時間があって、この書類に課題が書かれているから好きなものを選ぶらしいよ」

 

笑顔で事情と書類の説明を続ける優だが、今の僕はそれどころではなくなっていた。

唐突に自分の体調が悪くなっているのに気づいたのだ。

僕の表情に出ないのと説明に夢中のため優がそれに気付くことはない。

決して物理的な影響で起きた症状ではない。精神的にダメージが入っている。

 

「今のままだと難しいかも知れないけど、これを良い機会だと思って色々と練習してみるとか……」

 

優は無邪気に信じ込んでいる。優がまだ僕がアイドルを目指していると思っていたのだ。僕はとっくにアイドルになることを諦めているのに。終わっているのに、そのことに気づいてない。

いや、優が僕の気持ちに気づいていない以上に重要なことを僕が気付いてしまった。

これまで僕は優はどんな僕でも大切にしてくれていると思っていた。アイドルを目指さなくなって、駄目人間になっても変わらず接してくれているのだと。

それが嬉しくて僕も無邪気に優に甘えていた部分があった。どんな僕でも優は受け入れてくれると信じていた。

でも今回優はアイドルのオーディション話を持って来た。何も伝えていないということは、優にとって僕は二年前から何も変わっていないということ。そういう僕だと認識しているのならば。

それは、つまり、優は……。

 

「お姉ちゃん?」

 

アイドルである(如月千早)を望んでいるということだ。

 

「──ぅっ!?」

「お姉ちゃん!?」

 

突然込み上げて来た吐き気に口を押える。

先程と同じく心配そうに声を掛けてくる弟を無視してトイレへと駆け込んだ。

 

「っ……ぅぇぇ!」

 

ぎりぎりでトイレに覆いかぶさるようにしながら胃の中の物をぶちまけた。

一回では楽にならず、何度も吐いてしまう。

先程食べた弟作のオムライスが便器の中へとぶちまけられる。「ああ、もったいない」と思ってしまうのは日本人的感情というよりは弟作だからだろう。

せっかく作ってくれたのに。初めての弟の手料理だったのに。

 

「大丈夫……?」

 

気遣わしげな弟の声が背後に聞こえる。心配してくれるのは嬉しいけど、今の姿はあまり見られたくない。ゲロゲロだし。

それ以上近づかない様に後ろ手に扉を閉める。

 

「お姉ちゃん……」

 

さすがに意図は伝わったのか扉を開けてくることはなかったけども、トイレの前で陣取られるのはやめてほしい。

これからもうしばらくゲロゲロするのであんまり聞かれたくない。それが弟相手であったとしても。

 

「ねぇ、背中摩ろうか?」

 

優しい弟の声に何も返せない自分が情けなかった。

そしていきなり嘔吐する姉相手にこんな優しく接せられる弟はやはり天使に違いない。

天使の羽が生えた弟を想像して一瞬だけ幸せになる。が、すぐに吐き気を思い出し嘔吐する。

天使が駄目だったのかも知れない。天使は吐き気の使いなんだ。ならばここはひとつ新たに小悪魔的弟というジャンルを開拓すべじゃないか。

 

「ぉぇ……」

 

駄目でした。オロロロロ……。

すでに食べた分は全て出し切ってしまった。しかし吐き気は精神的な物が原因のため楽にはならない。胃液混じりの何かをえずき続ける。

 

「お姉ちゃん、本当に大丈夫? もしかして卵が痛んでたとか……」

 

いやそれは無い。て言うか卵が腐っていた程度で僕の胃がおかしくなることはない。

この身は鋼にも劣らぬ頑強さゆえに。心は硝子だけども。

大丈夫という意味を込めて軽く扉を叩く。これを機にモールス信号でも覚えようかと真剣に検討中。

 

「まだ苦しい? お母さん呼んだ方が──」

「っ!」

 

衝動的に扉を叩いてしまった。

本当は大丈夫って意味で叩いたつもりなんだけど、思ったよりも力が入りすぎたらしく「ドガン!」と凄い音が鳴った。

すまぬ弟よ、手加減は苦手なんだ。そして親はもっと苦手。一度疎遠になってしまって以来直接顔を見せるのが辛い。

 

「ごめんねお姉ちゃん。僕良かれと思って……お姉ちゃんがこうなるって知ってれば」

 

しばらく自分を責めるようなことを言う弟に居た堪れなくなる。必要のない自責の念を弟に抱かせてしまった。

弟は悪くないのに。悪いのはこの程度でゲロる精神紙装甲の僕だ。だから気にしなくていい。

そういう意味で扉を数度叩くと弟は自分を責めることはやめてくれた。扉越しにこちらを窺う気配は残っているが。

少しのことで動揺して心を痛める自分が情けなかった。弟に心配される自分が嫌いだった。弟が大好きな自分は好きだ。

しばらくゲロゲロし続ける。もうすぐ優が学校に向かわなければいけない時間になる。それまでに落ち着いて、しっかりと先程の態度を謝りたい。

 

「ごめんね……僕帰るね」

 

しかし無情。時間切れとなってしまった。

帰ると言う優を咄嗟に引き止めてしまいそうになるが僕の口から静止の声は当然出ない。

待って。

行かないで。

そんな一言すらこのポンコツな喉からは出ない。まあ、言ったところで真面目に学校に通っている弟を本気で止められるわけがないのだが。

しばらくして部屋の扉が閉まる音が聞こえた。優が出て行ったのだ。

 

声が出ない。

 

笑えない。

 

泣けない。

 

あの日失った物はどれもアイドルとして必須の物だ。

歌えない上に愛嬌すら振り撒けない人間にアイドルなんでできっこない。

優が僕のそんな症状を治すきっかけになるようにとオーディションの話を持って来てくれたのはわかっていた。「今もアイドルになろうとしている」姉に何か目標でもあればまともになるのではないかと考えての行動だろう。

あまりの馬鹿馬鹿しい考えに違う意味で反吐が出そうだった。

結局のところ優にとっての如月千早はアイドルを目指している人間ってことじゃないか。意識的にしろ無意識的にしろ結論は変わらない。

ならば、アイドルを諦めた今の僕は、優にとって大切にする価値はあるのだろうか?

 

「ぅ……っ」

 

涙は出ない。どんなに悲しくても情動から涙する機能は僕から無くなっている。

だからこれは嘔吐による反射行動なのだ。決して哀しくて泣いているんじゃない。

 

 

────────────

 

 

しばらくして落ち着いたのでトイレから出ると当然ながら優の姿は無かった。

ラップをされた食べかけのオムライスがテーブルの上に置かれている。

せっかく優が作ってくれたオムライスだったのに、最後まで食べてあげられなかった。しかも食べた分は全部嘔吐しちゃったし。

今からでも残りを食べて、後でメールで感想を言おうと思いテーブルへと向かうとそれが視界へと入った。

優は律儀(?)にもオムライスの横に横に例のブツを置いて行ったらしい。持って帰ってくれればよかったのに……。

それだけで完全に食欲が失せてしまった。

テーブルに向かいかけた足を止め、逆方向へと向かう。

向かった先はあまり使わないソファだった。

乱暴に体を預けるように座り込む。こんな雑な扱い方をしてもこの身体が痛むことはかった。この程度の揺らぎでは”如月千早”に変化はないという証左だった。

壁掛けの時計を見ると針は八時過ぎを指していた。そう言えばすっかり緊急クエストを逃していたことを思い出す。今更ゲームをする気にもなれなかったのでどうでも良かったが。

代わりにソファに置きっぱなしだった埃が被ったリモコンを手に取り珍しく、本当に珍しいことに久しぶりにテレビを点けた。

少しの間をあけてテレビに朝のニュースが流れ始める。ちょうどアイドルを取り扱ったニュースが始まるところだった。

適当にチャンネルを回すもどれもこれもアイドルの話題ばかり。人々の関心も、世の中の中心も全てアイドルと言っても過言ではないくらいだ。

少なくとも前世ではここまでアイドルというものが重要視されることはなかった。精々有名なアイドル事務所のトップメンバーが週に一回程度何かしらネタを提供する程度だった。

しかしこの世の中はずっと前からアイドルブーム真っ最中のため、どの番組も一日一回はアイドルについて報道する。さらに765プロの台頭により最近はさらにアイドルブームに拍車がかかっているらしい。

 

「……」

 

ふと目に映る番組や広告に765プロの話題が入ることは多い。その度に取り扱うメディアを切って行った。

街の電子掲示板。電車の中吊り広告。雑誌。テレビ。

そうやって切り捨てて切り捨てて、逃げて逃げて逃げて逃げて、逃げ続けて、最後に辿り着いたのがゲームの世界だった。

それも完全ではなく、たまにゲーム内で765プロの話をしているプレイヤーを見かけるとその場から立ち去った。

それが未練がましい行為であることは知っていた。意識しない様にして逆に意識している。矛盾した心が悲鳴をあげている。

だがその悲鳴は自分にしか聞こえていない。いや自分にすらさほど聞こえてはいないのだろう。本当に聞こえてしまっていたら、きっと自分は正気ではいられない。

僕が如月千早である限り、この身体は”如月千早”であり続ける。だから僕は狂うことすらできないでいる。

それだけだ。

 

そんな風に、諦観にも似た考えを続けていると番組は一周し、最初のチャンネルへと戻った。

テレビから一つのニュースが聞こえて来る。

 

『765主催のミニライブでアイドル同士が接触し転倒事故が発生したそうですね』

 

何、だと──。

慌ててテレビに集中する。

画面では丁度ミニライブ中らしき映像が流れており、そこではよく知った顔が映っていた。……765プロのメンバー。実は春香以外この世界でまともに顔を見るのは初めてだったりする。

今の765プロならばもう少し大きなステージでやっていてもおかしくないと思うのだが、今映っている会場は少し小さく思えた。それに反してメンバーが浮かべる表情は少し強張っていた。アイドルになりたての頃ならともかく、今の皆ならミニライブ程度どうってこと……。

 

「?」

 

そこで気づいた。765プロのメンバー以外にも画面に映っていることに。

明らかに765プロ以外の人間が同じステージで踊っている。どこかの事務所とコラボでもしたのか?

 

『今765プロの皆さんの後ろで踊っているのがアイドルスクールの子達だそうです』

 

なるほど、このバックダンサー達はスクール生なのか。スクールのアイドルだからスクールアイドルとでも呼べばいいのかな?

何かの企画でスクール生が765プロとミニライブでアイドル体験とか、そんな企画だろうか。ま、関係ないか。

で、そのアイドルの卵とでも言う子達の表情は765メンバー以上に強張っていた。

明らかにライブ慣れしていない……。いや慣れていないとかのレベルじゃないぞこれ。初ライブと言われてもいいくらいだ。

ステップもずれているし、位置取りもおかしい。プロデューサーか秋月律子か知らないけど、このライブの配置をあの二人のどちらかが考えたとしたらこの位置取りは間違っている。

バックダンサー同士が近すぎるのだ。このままではぶつかるんじゃないか。

そう思った瞬間、オレンジ色っぽい明るい髪色の子と薄灰色のツインテールの子が接触し、オレンジ髪の子が転倒した。息が詰まる。

 

『ああっと、危ないですね。怪我とかなかったんですか?』

『幸い怪我はなかったようですが、ステージは一時中断になったそうです』

 

ほっと息を吐いた。

ステージ中断は残念だが、怪我がないのは良かった。失敗は挽回できるけれど、怪我はそこでアイドル人生が終わる可能性すらあるから。

などと、見知らぬアイドル候補生を心配している自分に気づき顔が熱くなるのを感じた。

何本気で心配しているんだよ。相手はモブキャラだろ。765プロの誰かが怪我したわけでもないんだから。

仮に765プロの誰かが似たようなことになったら、もっと僕は取り乱していたかも知れない。逆に何も思わないかも知れない。

どちらにせよ、ミニライブの失敗を喜ぶ自分が居なかったことに怪我人が出なかったこと以上に安堵していた。

 

だが、次のニュースキャスターの言葉に再び呼吸が止まった。

 

『765プロは近いうちにアリーナライブも控えていますから、これからスクールの子ともども踏ん張って欲しいところです』

 

……え?

……アリーナ?

 

ナニソレ。

 

アリーナ、ライブ?

 

聞イタコトガナイ場所ダ。

 

『今回バックダンサーを務めた子達もアリーナライブに参加するそうですね』

 

アリーナライブに出る?

誰が?

765プロの皆が。

それは良い。

良いよ。きっとそういう”お話”があるのだろうから。

それは、イイ。でも。

でも……、なんでスクールの子達が?

 

『はい、そのために今は765プロの事務所に仮所属しているそうですよ』

『なるほどー。では彼女たちは将来の765プロアイドルの候補生でもあるわけですね』

 

何で765プロじゃない子達が皆と一緒に居るの?

 

765プロにいるの?

 

何で──。

 

 

……。

 

 

『次のニュースです。346プロダクションでアイドルの──』

 

リモコンをテレビに向け画面を消す。

そこまでが限界で、手から力が抜けた。そのままリモコンは自由落下を始め、やがて床へと落ちて硬い音を響かせる。

重力に従う様にリモコンを持っていた手も下がる。だが下がるだけでそれ以上体が動くことはない。

目は開けているはずなのに何も見えてないように目の前が暗い。

耳の奥でゴーゴーと音が鳴り響いて他の音が聞こえない。

喉が酷く乾く。

 

どこかで、自分の価値に誰かが気付いてくれるんじゃないかって期待していたのだろう。

如月千早という重要人物が存在しない765プロなんてありえないのだから。そんな自惚れで思考が止まっていたらしい。

 

自分の居ない765プロなんて765プロじゃない。自分の価値と千早の価値を混同していた。

自分の居ない765プロが成功するわけがない。自分の存在が成功の鍵だと思っていた。

自分の居ない765プロは失敗するに決まっている。彼女達の力を一段下に見ていた。

 

だからアリーナライブと聞いて、彼女達の成功を知って、心乱しているのだ。

自分なんていなくても彼女達だけの力で未来を作り出せたことが受け入れられないため動揺している。

そして、スクールの子達の存在だ。

765プロはあの狭い事務所の中であれだけのアイドルを育てた。大手事務所に比べたら圧倒的に小さい事務所と少ないアイドルだ。それ故に結束力があった。それはゲームでもアニメでも描写されていた。

そこに誰かが加わるなんて想像していなかった。その可能性を完全に意識から消し去っていた。

結局自分は諦めてしまっていたのだ。

皆と同期で居られないから、と。そこで終わっていたのだ。

メンバーの増員がある可能性に気づいていれば、落ちた後もチャンスを窺っておけば。そんなもしもを考える。

あのミニライブでバックダンサーをしていたのは自分だったかも知れない。皆と一緒にアリーナライブに出られたかも知れない。

いや、それは無理だとすぐに思考を改めた。あの時の僕に後輩でもいいから皆と一緒にいたいという気持ちは持てなかっただろう。如月千早()が彼女達より下に居てはいけないと決めつけて後輩というポジションを許容できなかったはずだ。

どんなコミィニティでも少なからず存在する上下関係を765プロの皆と持ちだしたく無かったなんてのは言い訳でしかなく、結局のこところ自分が一番だという自信と傲慢さがあっただけだった。

原作知識というありもしない正解を信じて、全てを知っているつもりになって、現実を不正解と否定した。

僕は知らない。

アニメ後の世界なんて知らない。アリーナライブなんて知らない。後輩なんて知らない。

 

リアルの765プロメンバーなんて知らない。

 

もうこの世界は僕の知っているアイドルマスターの世界じゃない。

いや、そもそも最初から「僕が知っている世界」なんて存在しなかったのだ。

世界に決まりなんて無いから。僕が765プロに入らなければいけない決まりだって無かった。それに気づくのが遅かった。

二年だ。二年も経っている。原作の千早がアイドルを始めた歳が十五歳。今の僕はもうすぐ十七歳になる。

 

この二年間、僕は何をしていたのだろうか……?

 

いや、分かりきっている。

 

”何もしてこなかった。”

 

何も。何もしていない。

 

歌っていない。

踊っていない。

笑っていない。

泣けていない。

 

何も無い。何も残っていない。

 

「……ぅ、ぅ」

 

泣けない。涙が出ないから。

 

「ぅぅ……っ」

 

涙が出ない。心が止まっているから。

 

「ぁ、ぁ、ア──」

 

心が動かない。諦めているから。

 

「ア──」

 

諦めている。声が出ないから。

 

声が出ない。出ない。出ない。出ない。出ない。

 

 

 

 

誰か──。

 

 

 

「ぁー……」

 

 

 

 

 

助けて。




2年間ニート生活。
765プロに落ちたことでアイデンティティを喪失して廃人一歩手前。
一人暮らしで部屋に閉じこもってゲームして弟に介護されている状態。
ほとんど人生の崖っぷちである。もうあと数年で自殺しそう。弟に見捨てられたらその瞬間死にそう。
本気でぎりぎりの人生の中、最悪のタイミングで自分の間違いに気づいてしまった。取り返しのつかない無駄な時間。
2年間で765プロは無名からトップになれたのに、自分は2年間何もしていなかったという事実に心ぶっ壊れ状態。

次回、765プロ編最後。千早は輝きの向こう側に行けるのだろうか。765プロ編といいつつまったく765と絡んでないけども。
※このお話はサクセスストーリーです。

補足
本作の千早はアニメ版アイドルマスターまでしか知りません。映画発表前に転生済みのため、アニメ26話以降の話は無し。デレアニも知識にないです。時期的にミリオンライブは知っている可能性はありましたが無いとしました。


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アルティメットな出会い

今回で765編最後。
3話目にして1度目の覚醒回。

最初に言います。ぐだぐだで申し訳ない。


あれから一月程が経ち、季節はすでに秋に差し掛かっていた。

あの日以来僕の引きこもり体質は拍車が掛かり、前は週一で外に出ていたところを今では一度も外に出なくなっている。

外に出るだけの気力が湧かないというのもあるが、外に出るのが怖かった。これまで必死にシャットアウトして来た765プロの今を外に出ることで知ってしまうのが怖かった。

この部屋ならば何も見聞きせずに済む。テレビはあれ以来観ていないし、パソコンはゲームどころか電源を入れることすらしてしなかった。

あの日、予期せず現在の765プロを取り巻く事情を知ってしまった。その内容は僕の止まった心を抉るのに多大な成果を出すに至った。

僕がこれまで頑なに信じていた「765プロにとっての正解」が間違いだったと教えられたからだ。

誰か特定の人から告げられたわけでもなく、テレビのニュースで知ったことがダメージを膨らませている。

無関係なキャスターが語るどこか他人事めいた言い様が、そのまま僕と彼女達の関係を揶揄しているかの如く上滑りして聞こえた。

つるつると滑るキャスターの言葉がするりと耳へと入り込み、一気に脳幹の奥まで侵入した。

遠くに聞こえる765プロの話がそのまま彼女達との距離に感じられた。

そんな現実が僕に残されていた人間らしい感情にトドメを刺したのだ。

今では食事すらまとまに摂れていない。優が前よりも頻繁に訪ねて来るようになり、その時に何かしらを食べさせてくれている。そんなことをしなくても餓死なんてしないのに。もはや空腹すら感じないくらい、僕は人間を辞めかけている。

全てを失った僕に生きている意味はあるのだろうか?

千早になれなかった僕に存在価値はあるのだろうか?

そう自問自答するも、答えなんて分かりきっていた。

こんな欠陥品のポンコツの屑に価値などあるはずかない。

もう何度目になるかわからない自虐的な結論を自分に下したところで部屋にアラームが鳴り響く。

これは優がセットしてくれたもので、ご飯を食べる時間になると報せてくれるのだ。本当は食欲が湧かないので食べたくないけど優が決めた時間なのだからご飯を食べないといけない。

ベッドから起き上がるために四肢に力を込める。

両の手足から脳へと伝わる信号はぴりぴりとした痺れと共に血の滞留を訴え掛けて来る。しかし肝心の脳が体を動かそうとしない。

一日のうちほとんどを不自然な体位でベッドに寝転がり微動だにしない僕の姿は自分でも気味が悪いと思う。寝返りすらまともに打つ気力がない。ずっと同じ姿勢を続ける。動くのは優が来た時だけだ。

もし優が見たら何と言うだろうか。きっと「アイドルを目指すなら、そんなことしちゃ駄目だよ?」とか言うに違いない。

同じ体勢を取り続けると骨格が歪むと言うし、優が駄目と言うのも頷ける。優が言うのならそうした方が良い。

そこまでの思考に至ってようやく身体が動き始めた。手足に意識を集中させ、動けと念じる様に四肢の神経に意思を通す。腕と足を指先から順に、親指から小指を一本ずつ馴らす様に曲げる。

半日もの間ほとんど動かしていなかった筋肉はそれだけで悲鳴を上げ、先程までの動けという命令を反故にしろと言わんばかりに引き攣る。それを意思の力でねじ伏せ無理やり動かした。

 

「───っ!?」

 

身体の至る所からビキビキと筋繊維が引き千切られる音がする。

凄く痛かったけど、痛いだけなので我慢はできた。人生にはもっと辛くて痛いことがある。僕の人生とか。

馬鹿な思考と身体の痛みは無視する。しばらくの間全身の筋肉を解すために体を動かし続けた。

本当に優の存在は僕を窮地から救ってくれるね。想像の中ですら金言を与えてくれるなんて、やはり優は僕の救世主だ。むしろ優の存在そのものが僕の生命線と言っても過言ではない。

凝り固まっていた筋肉は一通り解すとすぐに健常な状態に戻った。たったこれだけの処置で十全な状態に戻るって我ながらチートだと思う。

さて、今日は何を食べようか。昨日は確かお肉だったから今日はパンにしようか。麺でもいいかも知れない。まあ、何でもいいか。食べられたらそれでいい。

ベッドから立ち上がるとふらふらとした足取りで冷蔵庫へと向かう。丸一日何も口にしていないせいでエネルギーが足りない。それでも無理やり動かす僕にはベッドから冷蔵庫までの距離すら遠く感じられた。まじガンダーラ。孫悟空とかなしで天竺に行く感じ。

何とか冷蔵庫まで辿り着く。中に何があるかなと冷蔵庫のドアを開けて中身を確認すると見事に何も入っていなかった。

おかしいな、昨日までは確かにご飯が入っていたのに。あ、腐っていると言って優が捨てたんだった。腐っていても問題ないのにね。

それにしても、困ったぞ。食べる物が無いと何も食べられないじゃないか。

お腹は空いてないけれど優にアラームが鳴ったらご飯を食べる時間だと言われているからなぁ。

何か食べないと。

でも何も冷蔵庫の中に無いし。

あれ、そもそも何で食べないといけないんだっけ。……ああ、そうだった。優に言われたからだった。

でも何も冷蔵庫の中に無いよ。

うーん……。

しばらく冷蔵庫の前で首を捻っているとケータイの着信音が響いた。

優からだろうか。優からしか来ないから無意味な疑問だった。

冷蔵庫の中を確認するのを一旦止めてケータイの置いてあるベッドまで戻る。軽快な音色を奏で続けるケータイは二年以上前の物とあってすっかり型落ちしてしまったが、優からの連絡を受ける用の端末になっているため特に支障はない。

着信が切れる前に何とか出ることが来た。

 

『お姉ちゃん?』

 

優の声が電話の向こうから聞こえる。当たり前のことだが、その当たり前が嬉しい。

 

『ちゃんとご飯食べた?』

 

食べてる食べてる。

もりもり食べて最近だと大食い選手権に出られるくらいだよ。

 

『嘘吐き。今冷蔵庫の中身空っぽでしょ』

 

凄い、さすが優だ。エスパーかな?

天使かも知れない。

 

『実は今日はお昼作りにそっちに行けなくなっちゃって』

 

……。

 

『お姉ちゃん?』

 

うん、大丈夫大丈夫。

仕方ないね。優にだって自分の生活があるんだから、僕にばかり構っているわけにはいかないよ。

むしろ今ですら過剰な世話を焼かせているわけだし、もう少し頻度を落としてもいいくらいだね。本当にそうされたら泣きそうだけど。

 

『ごめんね、お姉ちゃん。その代わり夕方に顔を出すから』

 

大好き。

今日は寝ないで優を待っちゃおうかな。あ、でもそれだと待つ時間が長くなるから今から夕方までまで眠るとか。

 

『今から寝るのは無しだよ』

 

はい。

何故わかったし。と言うかよく会話成り立ってるよねこれ。僕まだ一言もしゃべってないんだけど。やはりエスパーか。

 

『今日は僕の代わりに違う人がそっちに行くから、ちゃんと部屋に上げて、相手してあげてね』

 

うん、わかった。

……ん?

 

『じゃあ、また後でね』

 

待って待ってウェイウェイ。ステーイ。

他の人って何?

優以外の人が来るとか聞いてないよ。そのパターン今までになかったよ。優以外を部屋に上げたことないんだけど。いや、そういう問題じゃなくて、優以外の人と会うとか無理なんだけど。

こういう時だけ僕の言いたいことを察することはせず、無情にも優との通話は切れてしまった。

 

「……」

 

どうしようこれ。えー、本当に誰か来るの?

未だ嘗て優以外に誰も招いたことがないマイルームだぞ。未対応で未実装だぞ。

……居留守使おうかな。

でも優に入れてあげろって言われたから駄目だ。優に言われたなら入れるしかないね。仕方がないね。

そうこうしているうちにチャイムが鳴った。早いよ。まだ心の準備も持て成しの用意もしてないから。

しかし今から客を持て成すと言っても何も出す物がないぞ。冷蔵庫の中身空だし。

あ、ご飯を食べないと。でも冷蔵庫空だし。じゃなくてお客……ご飯。

とりあえずいつまでも部屋の前で放置し続けるのは駄目だよね。優に相手してあげろって言われたから最低限の応対はしないと。

嫌々ながら玄関へと向かい何の躊躇いもなく扉を開いた。

すると、そこに立っていたのは。

 

「千早……ちゃん」

 

春香だった。実に二年ぶりの再会である。

 

「……」

 

なんでさ。

 

 

 

──────────────────

 

 

 

カッチコッチと時計の音が部屋に響く。

今僕と春香はテーブルを挟んで対面に座っている。

お互いに会話は無く、顔も上げていない。僕は声が出ないので会話が成り立たないのは仕方がないのだけど、お互いに顔を見ないのは何となく気まずい。

部屋の前に立っていた春香は僕を見ると暫し呆然とした顔をした後に笑みを浮かべ僕の名前を呼んだ。「千早ちゃん」という、初めて会ったあの時の呼び方で。

二年も前に一回会っただけの相手にそんな馴れ馴れしい呼び方をするのは僕にはハードルが高い。それができる春香はさすが体育会系アイドルだ(錯乱)。

と言うか、何で春香がここに居るのか説明を受けていないんだけど。優が言ってたのは春香のことだっていうのはわかった。大方実家の方に春香が行って優にアパートの場所を聞いたのだろう。

じゃあ、なんで春香は家に来たの? 僕に会いに来たの?

それとも優と知り合いで今日はお家デートだったの?

もしそうなら衝撃的な事実過ぎて目玉飛び出そうなんだけど。トップアイドルが熱愛発覚。相手は僕の弟。ヤバ……。

確かに優は可愛い。年上の女性にモテると思う。現に小学校時代も上級生に可愛いと言われていた気がする。同じく年上の春香が優を好きになっても違和感はない。

……いや、そろそろ沈黙が辛くなって来たのでふざけてみたわけなのだけど。希望的観測から考えると春香は僕に会いに来てくれたわけだよね。

何の用だろうか。用件くらい言って欲しいのだけど。

僕って静かなのは慣れてるし。優以外と肉声で会話しないし。その会話すら優の話を僕が聞くだけだから、沈黙って僕にとっては何てことないから延々沈黙してても問題ないよ。

ただし気まずく空気は無理。

沈黙は大丈夫でも気まずいのは無理だったよ。

さっきから春香が何かを言いたそうにしてこちらをチラチラ窺って来るのも気まずさを加速させている。しかし僕と目が合うと「アハハ……」と笑ってから目を逸らしてしまう。

もうアレですか、これは僕が尋ねないと終わらないやつですか。むしろ始まらないまである。

このままほぼ他人同士による耐久沈黙レースをしても良いけれど、居座られて不利なのは自分の家にいる僕の方だからね。春香側は他人の家とかむしろアウェーだからこそ排水の陣的な耐久力を見せそう。

ここは下手に長引かせて不利になる前に一気呵成に攻めたて話を切り上げるのが良いだろう。

そうと決まれば春香に今日は何の用件があって来たのかと聞こう。

喋れないから無理だけど。

開始早々に詰んでるじゃん。

今の僕の心境って某爆弾男のゲームの対戦で開幕直後に爆弾を置いちゃったくらい出鼻挫かれてるから。こんなの死ぬしかないじゃない。

しかし死んだら優に会えなくなるのでもう少し足掻いてみよう。

確か冷蔵庫の中に新しいノートと筆記用具があったはずだ。それを使っての筆談を申し出てみよう。字とかしばらく書いてないから漢字とか忘れてないか不安だ。簡単な漢字も書けなくて恥ずかしい思いをしたらどうしようか……。などと色々と不安を覚えながら冷蔵庫を開ける。

見事に何も入ってないな。さっき確認したばかりだけども、調味料すらないとか改めて僕の家やばいわ。最悪マヨネーズ舐めてれば生きられるわけだし、今度調味料だけでも補充しよう。何かしら食べないと優に心配掛けちゃうし。

……あ、そう言えばご飯食べないと。すっかり忘れていたけどアラームが鳴ったからご飯食べないと。

でも冷蔵庫の中は何もないし。

うー?

 

「お腹空いたの?」

 

僕がいつまでも冷蔵庫の前から動かないからか春香がこちらまでやって来た。確かに冷蔵庫の中身を覗き込んでじっとしていたらそう見えなくもなくなくないか。お腹は空いてないけども。ただ僕は優に食べるよう言われたから食べようとしただけだから。今更食いしん坊キャラとか設定追加されても扱いに困るから。

そんな僕の無言の抗議は当然ながら春香に伝わるわけがなかった。伝わるのは優くらいだ。やはり優は天使なんだ。

あ、優と言えばご飯食べないと。

 

「えっ……と」

 

背後から冷蔵庫の中を見て軽く絶句する春香の声が聞こえた。

まあ、その反応はわからなくもない。この新品かと思うくらい伽藍堂の冷蔵庫を見ればそうなるだろう。

一応ノートと筆記用具は入っているから空っぽではないんだけどな。

 

「お料理とかは……しないの、かな? あ、あはは……」

 

春香は絶句したことを誤魔化すように笑いつつ遠慮がちに僕の料理スキルについて訊ねて来た。調理……。その質問にあえて答えるならば、コンビニがあれば人は生きられると返そう。そのコンビニにすら一人では行けない僕は優とチートがなければ生きていないことになるが。

それよりも優に言われたから何か食べないと。

 

「お買い物に行こっか。材料さえあれば私が作れるし……どうかな?」

 

タイミング良く提示された春香の申し出に思わず頷いてしまう僕であった。

 

 

 

お外怖いお外怖いお外怖い。

お外思ったよりも怖い。

春香の誘いにホイホイと付いて来たはいいけど、想像以上に外が怖くて部屋からなかなか出られなかった。

春香に宥めすかされ、手を引かれ、最後に腕を引かれて何とか外に出られた。引っ張り合いをすれば確実に僕が勝つのだが、春香の有無を言わさぬ態度に僕が折れた。この身に沁み込んだ如月千早が春香に逆らうことを拒絶しているとでも言うのだろうか。単純に僕が流されやすいだけだった。

家に来た時の春香は例のファン舐めてんのかってくらい適当に見える変装をしていたのだけど、今はその変装道具は僕に装着されている。ハンチング帽と眼鏡姿になることで視界が塞がり心持ち安心できたのも外に出る敷居を下げていた。

その恰好で春香の腕にしがみ付き、なるべく周りを見ないようにして歩く。まるでお化け屋敷を怖がる子供みたいで情けないが、怖いものは怖いのだから仕方がないじゃない。

一か月ぶりに出る部屋の外は下手なお化け屋敷よりも怖かった。

何と言ってもお外でかい。空が高い。風が吹いている。人の視線が集まる。

自分の住んでいるアパートの一室がどれだけ安全地帯なのかわかった。お家が恋しいよ。

 

「大丈夫だよ千早ちゃん。私が付いているから、ね?」

 

春香が優しく励ましの声を掛けてくるが僕はそれどころではなかった。

万が一にも春香から離れるわけにはいかないので腕を掴む力を強める。あまり強すぎると春香の肩から先がさよならバイバイするので可能な限り加減はするけども。

今の僕は外の怖さに戦々恐々内心ビクビク常時仰天状態。傍に春香が居てくれるから何とかなっているけど、これ一人だったら絶対無理だったわ。

そもそも一人だったら外に出ないけどね。じゃあ誰が僕を外に連れ出したの。春香です。その春香に助けられています。これマッチポンプじゃない?

酷い、犯人が優しくしてくるなんて。ストックホルム症候群になったらどうしてくれるんだ。こうして抱き着いても拒絶せずに受け止めてくれている時点で若干発症しかけている僕が居る。

若干嬉しそうにしている春香の反応も謎だ。僕に抱き着かれて喜ぶ要素ある? 僕が春香の立場だったら引いてると思うけど。そう思いつつ僕の方から離れられないのであった。

だって怖いんだもの。さっきから道行く人が僕達を見てくる。その視線に含まれる物が好奇心を刺激された人間特有のいやらしさを感じて身が竦む。二年前、声の出なくなった僕に対して口では「心配している」と言いつつ何でそんなことになったのか知りたがる友達を名乗る女子連中の目がまさにそれだった。

嫌だよ。そんな目で見ないでよ。僕は何も答えられないから。答えなんてないから。君達の好奇心を満たすことは言えないんだ。原因を忘れちゃったから。優に何を言ったのか忘れちゃったから。忘れたから何も言えないんだ。言えない。何も。言えないから。許してよ。

 

「大丈夫だから」

 

そっと体を包み込む感触に我を取り戻す。同時に自分がひどく震えていることに気付いた。

身体が震える。外の怖さにではない。誰かの視線が怖い。好奇の目が怖い。

 

「大丈夫だから」

 

その声に顔を上げると笑顔の春香と目が合った。先程と何も変わらない笑みを直視してしまい、慌てて顔を俯けると今度は春香の僕を抱く力が強まる。

春香は大丈夫と言うが、そんなことでこの絶望的な不安感は拭えない。まるで崖の上から夜の海を覗き込んでいるかの様で、いつ誰に突き落とされるかわからない恐怖と危機感を募らせる。ほんの少し押されただけで海へと叩き落されそのまま二度と浮上できない自分を幻想する。

 

「千早ちゃんは大丈夫だよ」

 

大丈夫大丈夫と、何を根拠にそんなことを言うんだよ。何も知らないくせに。如月千早を知らないくせに。

僕の二年間を知らないのに。このゴミみたいな停滞した時間を見たことがないくせに。

今の僕を客観的に見れば駄々っ子の様なものだ。どうしようもないことを受け入れられずに他者に当たる子供そのもの。

春香だって本当は聞きたいはずだ。僕がこうなってしまった理由を。何があったのかを。

それでも春香は何も聞かずに変わらぬ笑顔を向けてくれる。こうして抱いてくれている。

それがどれだけ救いなのか、頭では理解できていても感情が受け入れられない。

子供だ。どうしようもなく僕は子供だ。理性では理解でているはずのことを受け入れられない。

子供の感情がぐずる姿を大人の理性が冷静に観察している。僕って本当に情けないなぁ。

自分の情けなさに春香の腕の中で落ち込んでいると春香に頭を撫でられた。突然のことでびっくりしたけど不思議と心が落ち着いて来る。

 

「あの日、私を助けてくれた千早ちゃんはすっごく強い子だから」

 

助けた?

春香は何を言っているのだろうか。僕が春香を助けたことなんてあったっけ。

あの日僕は春香に何をしてやっただろうか。日記を読み返したとしても、たぶん細かい内容は書かれていないだろうし。そもそも日記は今実家の僕の机にデスノート方式で封印中なので簡単に読み返せないのだが。

だが僕の行動の何かが春香の心を動かしたらしい。まったく自覚のない成果に戸惑いを覚える。

 

「私が知ってる千早ちゃんなら大丈夫。今からでも遅くないよ、千早ちゃんなら絶対アイドルになれる。私はそう信じてる」

 

……それは前提が間違っている。春香のそれは勘違いだ。僕が今もアイドルをやりたがってると勘違いしている。

だからそんな笑顔で大丈夫なんて言えるんだ。信じていると言えるんだ。

春香は勘違いしている。声が出ないこととアイドルをやらないことはイコールじゃないのに。

僕の声が出ないこと。僕が絶望していること。僕がアイドルを目指すのを諦めたこと。それらは出発点は同じでも原因はすべて違うのだ。

そして、それは765プロのオーディションに落ちたことが原因じゃない。それは理由の一つだけれど、元凶とは違う。

僕はずっと──。

 

「またそうやって無責任にアイドルに引き留めるつもり?」

 

その声は肌寒い秋空の下にありながら、なお寒気を感じる程に冷えていた。

突如その場に現れキツイ言葉をぶつけて来た謎の声の正体。それを僕が本当の意味で知るのはまだ後の話。

 

 

 

その少女こそ、この先何度もすれ違いその度に傷つけ合うことになる相手だった。

時に交差し、時に平行線を辿る僕達のキセキは最後まで点以外で触れ合うことはなかった。

お互いがお互いの運命を狂わせた加害者であり被害者である僕達二人。

 

”渋谷凛”と”如月千早”の物語。

 

そんな僕達の”今回”の出会いは有り体に言えば最悪だった。

まあ、今の僕には彼女が何者なのかすら知らなかったわけで……。

だからこの時の僕は最初今のこの状況を他人事の様に見ているだけだった。

 

「……?」

 

誰だろう、知らない子だ。突如声を掛けて来た少女を春香の腕の隙間から確認する。

長い黒髪とスレンダーでありながら均整のとれた姿が魅力的な十五、六歳くらいの少女がこちら──春香を厳しい目で見ていた。

台詞からして春香の知り合いっぽいけど、それにしては春香を見る目が何か責めている感じがするぞ。ただの釣り目?

あとあのセリフ。またアイドルに引き留める? どういう意味だ。

 

「凛……」

 

春香がばつが悪そうに少女の名前らしきものを口にする。やはり春香の知り合いだったか。名前は凛というらしい。

でも知り合いならば凛のあの目は何なのだろうか。元から釣り目がちな目っぽいけど、それ以上に不機嫌オーラが相手の子を攻撃的に見せている。

 

「可奈のこと、引き留めてるって聞いた」

「可奈ちゃんも今は整理が付かないだけで……きっと、可奈ちゃんも戻りたいって思ってる、はずだから」

 

僕が居ると知りながら突然春香へと本題をぶつける凛。春香も少女の言葉を無視できないのか会話を受けてしまい僕のことは後回しのようだ。

そうやって僕の頭越しに言葉の応酬を始める春香と凛から完全に僕は居ないもの扱いをされている。別にいいけど。

いや春香は顔が見えないのでわからないが、凛の方は隠れている僕が気になるのかチラチラと時折こちらに目線を向けているが誰なのかと問い質す程の興味はなさそうだ。それよりも春香との問答に集中したいらしい。

存在を忘れられるならそれでいい。下手に巻き込まれても困る。それに忘れられることには慣れているし。

 

「そう可奈が言ったの?」

「それは……直接そう言われたわけじゃないけど」

「言われてない、じゃない。そうじゃないよ。それは春香の願望でしょ。可奈本人はアイドルを諦めるって聞いてる」

「それは違うよ! 可奈ちゃんはアイドルを諦めるって言った! でも、それは可奈ちゃんの本心だとは思えない。まだ私は可奈ちゃんから本当の気持ちを聞いてない!」

「だから、それは春香が勝手に思っているだけで、可奈本人の気持ちはとうに出ているでしょ。可奈はアイドルを辞めたいと言った。それが答え。違う?」

「違うよ。違うんだよ凛! それじゃ駄目なんだよ……。今可奈ちゃんは悩んでる。アイドルを目指すこと、アイドルを続けること、辛いことがあるって知って戸惑って、自信を失くしちゃってるだけ」

「それは一か月も練習を休んで良い理由にはならないよ」

 

可奈ってあのミニライブに出ていたバックダンサーの子か。確かニュースで言ってた転んだ子の名前が可奈で……ああ、なるほど。

話を聞いただけでは全貌は見えないけど、どうやら可奈って子はあのライブでの失敗で挫折してしまったらしい。よくある話と言えばそれまでだが、当人にとっては十把一絡げにされたくはないことだろう。

可奈って子にとってはあのライブでの失敗は自分に絶望するくらいには大きなものだったのだ。僕の絶望だって他人からしたら鼻で笑う程度のものかも知れない。でもそれを実際に大したことじゃないと言われたくはなかった。だから可奈の絶望を僕は否定しない。

そんな可奈を春香はアイドルに引き留めているらしい。それはどんな理由からはさすがに読み取れないが、春香にとって可奈の脱落は許容できるものではないらしい。

 

「確かに可奈ちゃんは練習を休んじゃってるけど……でも、今ならまだ間に合うし、踊りのフォーメーションだって可奈ちゃんのポジションを残してやってるでしょ、だから」

「それはどの程度のレベルの話?」

「え?」

「一人欠けた状態の練習でどれだけの糧になるの? 私には今の練習に意味があるようには見えない。私、達ならできるよ? ライブに竜宮小町が遅れたあの時の経験が活きてるから。その後も誰かしら足りない状況っていうのはあったし、私達は慣れたから」

「だったら」

「それをスクールの皆に求めるの?」

「あ……」

「それができるのは私達がそれだけの経験を積んで来たからだよ。でもスクールの子達は違う。春香は知ってた? 百合子と杏奈がフォーメーションの練習中不安そうにしていたってこと。あのいつも明るかった奈緒ですら誰も居ないところでは暗い顔をしてたってこと。志保が練習後もずっと一人で練習し続けて明らかにやり過ぎてること。他の子達の今の状態を知ってた?」

 

少し考えればわかることだった。スクールのメンバーは可奈一人ではないことに。

可奈以外にも同じ”アイドル未満”の子達は居る。今の765プロのメンバーと比べれば未熟過ぎるその子達は、果たして居ない人間を想定したフォーメーション練習で上達するのだろうか。仮に可奈を抜いたフォーメーションを練習するにしても、元のフォーメーションと合わせて覚えることが増えたらその分負担になる。それは未熟なスクールの子達に対応できるものだろうか。

その答えは凛と春香の反応が物語っている。

春香は口に手を当て声も出せずに瞳を揺らしていた。今その問題に気づいたと言わんばかりの春香の態度に凛の目つきが目に見えて険しくなった。

 

「春香は今回のライブのリーダーなんだから、ちゃんと皆を見なきゃいけなかったはずでしょ」

 

春香がリーダーだったのか……。それで全体が見えていなかったというのは責められる理由にはなる。

そもそも春香をリーダーに据えた者の選択ミスと言いたいところだが、それは当事者達が決めたことなので今ここで聞いただけの僕がとやかく言えることではない。

 

「星梨花は泣いてたよ。あの時可奈とぶつかったのはあの子だから。可奈を傷つけたって自分を責めてた。あれは事故で、誰が悪いとかじゃないって言ってもあのライブに居なかった私じゃ上手く伝わらない」

「星梨花ちゃん……」

「……ねぇ、春香。それを本来やらなくちゃいけなかったのは誰?」

「っ!」

 

今度こそ春香の顔から色が失われる。目に見えて顔色の悪くなったということは春香は気づいたらしい。

この場合、その可奈とぶつかったという星梨花のフォローをするのはプロデューサーか律子の両名、またはリーダーである春香の仕事だろう。あくまで一回のライブのリーダーでしかない春香にメンバー全体のケアまで求めるべきかは微妙なところだ。聞いた感じでは初リーダーっぽいし。でも常に人手不足の765プロの状況ならば、メンバーへのフォローを含めてのリーダー選別だったのかも。人数が増えたことでケア役としてリーダーが選抜されたという考えはあながち間違ってはいないと思う。少なくとも春香か凛かと問われれば前者の仕事だ。

 

「今回のアリーナライブを乗り越えたら765プロは実力が認められるってプロデューサーは言ってた 。もっと大きな仕事も来るようになるって……そうすれば、皆が今よりも輝けるって言ってたから。私は皆にもっと輝いて欲しい。この間のライブみたいに、最近は私の仕事が増えて皆と一緒にライブができないことも増えたけど、それでも私は皆と同じステージが良い」

「凛……」

「プロデューサーがアメリカに行くって聞いて、これが最後のライブだからって、今回のライブは色んな意味で絶対に失敗できないはずなのに…… 春香は可奈一人のために皆のライブを台無しにしかけてる!」

 

あのプロデューサーがアメリカ行き? どんな話の流れだという僕の疑問は当然誰も答えてくれない。

まあ、この際それは置いておくとして、凛の言い分と春香の気持ち、どちらが正しいのか僕にはわからない。他のメンバーがどう感じているのかも知る術がない。所詮僕は他人だから、当事者同士の意見のぶつかり合いに関わる権利はない。たとえ関わったとしても最後まで関わり切る自信がなかった。だから僕はここでは傍観者でしかない。

 

「……早くここまで来てよ……じゃないと、私……もう止まっていられないよ」

「……」

「私は皆と一緒でよかった。皆で輝きたかった。私だけが先に行っても意味ないから……!」

「……」

「皆が私に追いつくためには、今可奈一人のためにこの機会を潰しちゃいけないと思ってる」

「……凛、私は、それでも可奈ちゃんと一緒に」

「一緒に失敗するの?」

「っ」

「一緒に失敗して、機会を潰して、それで誰が責任をとるの? 春香がとるの?」

「そ、それは……私、だけじゃ」

「そうだよね。765プロ全体の問題だから。それは春香一人でどうにかなる問題じゃなくなる。たとえ春香一人が責任をとってどうにかなるわけないし、皆が春香一人に押し付けるわけない」

「……」

「春香にとってこのアリーナライブって何? 皆に負担を掛けて、自分の我儘を言い続けることは正しいの?」

 

重ねる様に投げつけられる凛の問いかけに春香の答えは弱く煮え切らない物になっていた。春香自身分かっているのだろう、今のままではライブが失敗しかねないことを。

失敗した時に誰が責任をとるのか。自分ひとりでそれができるなどと春香は思っていないはずだ。そこまで現実を見ていない少女ではない。

 

「可奈のことで手一杯だって言うのはわかる。可奈と一緒にライブを成功させたいって春香の気持ちもわかってる。でも……だったら! どうして無関係な人と関わってるの!?」

 

無関係。

その一言は他人事を貫いていた僕によく刺さった。

確かに今この時も自分には関係がない話だと春香の腕の中に隠れてやり過ごそうとしている僕は関係者とは言えないだろう。

しかし、他人の口から無関係とばっさりと言われると正直辛かった。

 

「春香が可奈を連れ戻したいって言うなら、そんな無関係な人に関わっている暇なんてないはずだよ!」

「無関係じゃない! 千早ちゃんは私にとって──」

 

だが春香にとって今の凛の発言は看過できるものではなかったらしい。彼女の中で僕はずっと無関係ではなかったのだ。

しかし春香よ……僕のことを無関係じゃないと言ってくれたのは感謝しよう。でも、今こうやって矢面に曝そうとするのは止めていただきたい。

この目つきの鋭い少女に僕まで敵意を向けられたらどうしてくれるのか。

いや、もう遅いか。すでに春香は行動に移っていたのだから。

凛に見せるためか、春香は僕を前へと押し出しその姿を晒させた。その勢いで帽子が落ちてしまい僕の髪が広がる。

されるがままに姿を見せた僕を果たして凛がどういう目で見てくるのか不安で仕方が無かった。思わず顔を伏せてしまう。向けられるであろう凛の目を見れない。

 

「え……」

 

しかし、覚悟していた反応は凛から返って来ることはなかった。

初めてこちらをまともに認識できたのか、僕を見た凛が声を漏らす。それは吐息の様な意外なものを見た様な謎の声だった。

思わず顔を上げると初めて凛とまともに目が合った。凛の目がまっすぐに僕を見つめる。その瞳に映る感情を僕は想像することはできなかったけれど、凛という少女にとって僕はこの瞬間春香よりも優先するに値するものであったらしい。

その証拠に、凛の顔からはそれまで喧々していた雰囲気は一掃されており、代わりに愕然とした表情をしていたのだから。

 

「嘘……なんで」

 

凛から敵意をこれっぽっちも感じない。先程の春香を追い詰めていた時に見せた険しい表情も、強い意志の籠った目も今は消えている。

まるで親犬に見捨てられた子犬が一人で震えているような、そんな絶望を凛から感じた。今度は凛が追い詰められている。

理由は分からない。僕が原因なのは確かなのに、僕に彼女がこうなる理由が思い浮かばなかった。

僕の何が凛をここまで追い詰めた?

 

「今更……どうして、今になって貴女なんですか。なんで、貴女が『千早ちゃん』なんですか」

 

やがて絞り出された声は、それまでの凛の印象とは真逆の酷く弱々しいものだった。

凛は両の拳を握り、何かに耐えている。

僕が何をしたと言うのか。僕と彼女は初対面だ。今この時に出会っただけの、赤の他人のはずだ。それなのにこの反応はいったい何だ。まるで僕が絶望的なまでに彼女を裏切ったみたいじゃないか。

知らない。僕は凛なんて少女を知らないぞ。なのに何でこいつは僕をそんな目で見るんだよ。

 

「結局、私が進む先には……光は無いってことなんだ。今更だよね……本当に」

 

やがて彼女は一人で何かを納得したらしく、噛み締めるように言葉を紡いでいった。

たぶん凛の心にあるそれは諦観だ。何かが彼女の希望を打ち砕いた。いや、絶望に追い打ちを掛けた。

追い込んでいる。今僕がこうしてこの場に居る、たったそれだけのことが彼女を追い込んでいた。

 

「凛は、千早ちゃんのことを知っているの?」

 

当然の疑問を春香が口にするも、凛はそれに答えることはなかった。

 

「……ごめん。人違いだった」

 

それが嘘というのは僕にも春香にもわかった。しかしそれを問い質す権利はこちらには無い。僕の場合声が出ないので物理的にできないが、例え声が出たとしても先程まであれだけこちらを責めていたのが嘘だったように落ち込んでいる凛に掛ける言葉は無かっただろう。

凛は何かを堪えた顔で自身の体を抱くように腕を組んでいる。その姿は身を守るためというよりは内側から溢れ出す何かを抑えつけようとしてるように見えた。

 

「凛、私……」

「可奈のことはもういいよ。春香がリーダーなんだから春香が決めたことに従うよ。それでいいでしょ」

「凛! 私は!」

「じゃあ、私は仕事があるから」

「凛!」

 

言いたいことだけを告げると凛は逃げるようにその場を走り去って行った。

咄嗟に追いかけようとする春香だったが、すぐに僕が居ることを思い出すと進めようとした足を止めた。僕が一人残された場合のことを考えての行動だろう。その気遣いを嬉しいと思いつつ、同時に凛を追いかけなかった春香の選択を失敗だと思う僕が居た。そんなことを思う権利、僕には無いのに……。

 

「ごめんね、千早ちゃん」

 

どういう意味を込めているか不明だが春香に謝られた。

その後は無言で歩き始めた春香に半ば引きずられて買い物を続けた。

 

 

 

────────────────

 

 

 

一通り買い物を済ませアパートへと戻った。

買い物中はお互いに無言だった。僕はしゃべれないし、春香は何も語ろうとしない。お互い無言なのに、見た目だけは腕を組んで仲が良さそうにしていた僕達は周りからさぞ奇異に映ったことだろう。

今更だけど、有名人である春香とこうして歩いていて問題なかったのかと思い出す。僕は女なのでスキャンダルと言うほど重大な問題にはならないだろうけど、顔を隠した変な女と歩いていたというのはダメージになるんじゃないかな。

そんな心配をしながら買った食材で日持ちする物と使わない調味料は冷蔵庫へと入れた。

台所を見れば春香が暗い顔のまま食材を切っている。一度何か手伝うことは無いかと身振り手振りで伝えたのだが、やんわりと断られてしまった。僕に遠慮したというよりは料理スキル皆無の僕に指示するのが億劫だったように思える。

明らかに先程までの春香と様子が違う。さっきまでは作り物であったけど笑えていた。引き攣った笑みであっても明るい天海春香を演じられていた。絶望していても天海春香だった。今はそれが一切できていない。

それは凛に言われたことがショックだったからか。自分のリーダーの資質に疑問を持ってしまったからか。

リーダーを任された春香の重圧を推し測ることは僕にはできにない。春香に圧し掛かるリーダーの重圧とは765プロがこれまで積み重ねて来たものに等しいからだ。765プロと無関係でそもそもアイドルですらない僕には想像すらできなかった。

一人黙々と料理を続ける春香を僕はただ見ることすらできない。気休めの言葉一つ掛けてあげられない。

ついさっきまで他人事を決め込み、春香が凛に責められても傍観に徹していた僕が今更何をって感じだが、今の春香を放っておくのは何となく躊躇われた。

今の春香は迷子の子供の様だ。自分の進むべき道どころか今どこに立っているのかすらわかっていない。

何を言えばいいのか適切な言葉を探してみるも、春香の料理が終わっても答えなんて出なかった。

 

料理を食べ始めても僕たちの間に会話は無かった。会話をしても春香が一方的に話すだけになるから意味ないけど。愚痴を聞くくらいはできる。

 

「……」

「……」

 

……何も言わないならそれでもいいけど。他人の僕が首を突っ込んでいい話でもないだろうし。でも何か今の春香は気になるんだよね。

言葉にできない既視感と焦燥感を覚える。何でだろう?

気にしても無駄だから今は料理を食べよう。優にご飯食べるように言われてるしね。

春香が作ってくれたのはパスタだった。簡単ながら奥深い料理だと思う。固めにゆでられた麺と手作りのソースが良い感じだ。僕の好みぴったし。これなら空腹じゃなくてもお腹に入るよ。

思わずいつもの癖でコツコツとテーブルを叩いてしまい春香に不思議そうな顔をされてしまう。慌てて何でもないと首を振った。

だがそれは良い感じに話を始めるきっかけになったようだ。

 

「今日は弟さん……優君に言われて来たんだ」

 

優に言われて?

やはり春香と優は……くっ、可愛い弟が世の春香ファンに毎日命を狙われる!?

 

「私が千早ちゃんに会いに行った時に家に優君が居て、千早ちゃんがこっちに一人で住んでるって教えて貰ったんだよ」

 

あ、ふーん。本当に僕に会いに来たんだ。何で? もっと意味わかんない。

 

「その時優君から千早ちゃんが悩んでいるって聞いて、だったら今度は私が千早ちゃんを励まそうって思ったの」

 

会いに来た理由は教えないのか。

あと二年も前に会ったっきりの相手のために、わざわざ励ましに来てくれるなんてどれだけお人好しなんだ。

少し行き過ぎじゃないかと思う。765プロの仲間相手ならともかく、僕みたいな部外者相手にそこまで気を遣う必要はないだろうに。

 

「でね、実際に会ってみたら……」

 

予想以上にヤバイって思ったんだね。わかるわー。

二年ぶりに会った知り合いが引きニートになってる上に言葉が話せなくなっているとか、悲惨過ぎて何も言えないだろうよ。

普通の人間だったらその時点で回れ右して帰っている。大して仲良くもない相手のここまで重い話を前に関わろうとした春香が特殊なのだ。

だが僕は天海春香という少女を少し甘く見ていたらしい。だから続く言葉に絶句することになる。

 

「ごめんなさい。二年間も気付いてあげられなくて……」

 

何故かごめんなさいと謝られた。

これには僕も混乱せざるを得ない。この少女は一体全体何に謝っていると言うのだろうか。

僕と春香の関係なんて、あの日少し話しただけのものだろうに。その相手がその後どうなろうが春香にとっては他人事だろ。どうして関わろうとする。そこまで春香を駆り立てる物とは何だ。

 

「今更だけど、二年も見ないふりをした私が何をって思うかも知れないけど、私は千早ちゃんを助けたい」

 

助けたい。……助けたい?

それこそ何でだと問いたい。助けるとは何だ。この状況から何を助けると言うんだ。

声が出るようにしてくれるとでも言うのだろうか。

無理だよ。これは春香がどうにかできる問題じゃないんだ。こんな状況になってしまった時点で終わってるんだ。

出会ったことが間違いだった。出会ったことが勘違いだと思って忘れてくれればいい。如月千早なんていなかったって、そうやって僕を記憶から消して欲しい。

 

「私はあの日千早ちゃんと出会えてよかったって思ってる」

 

それは春香が誰にも語ったことが無い、誰も知らない天海春香の物語だった。

 

「実は私ね、アイドルを目指すのはあのオーディションで最後にしようって思ってたんだ。今の私を知ってる人はたぶん信じてくれないだろうけど、あの時の私って結構ネガティブになっちゃってて、もういいかなーなんて……我ながら自分らしくないことを考えていたんだよね」

 

二年前のオーディションの日に春香がそんな気持ちで居たなんて知らなかった。アイドルに向いていないんじゃないかとネガティブなことを言ってはいたけれど、それが「これが最後」と思うまでのものだとは思っていなかった。僕は春香の問題を軽く考えていた。

 

「765プロのオーディションもどうせ落ちるんだろうなって思って、勝手に決めた”ここまで”が本当になっちゃうんじゃないかって考えたら逃げちゃいそうになって。……でもその時千早ちゃんが声を掛けてくれたから私はあそこに残れた。最初は同じオーディションを受けるライバルなんだって身構えちゃってたけど、千早ちゃんの方はそんな風に私を見てなくて、何だか同じアイドルって仲間を見るような目で見ていてくれたよね。……嬉しかったなぁ」

 

それはそうだろう。僕には原作知識として天海春香は千早と一緒に765プロでアイドルをやると知っていたから、そこにライバルという感情が芽生えるはずがなかった。ある意味僕の思い込みでしかなかったのに、その態度は春香を勇気づける一助になったらしい。

 

「千早ちゃんがアイドルを目指した理由とか、アイドルになったらやりたいこととか、そういう前向きな話を聞かせてくれた時に思ったんだ。私がアイドルになりたいって思った理由。眩しいステージと一杯の声援、大勢のファンの人が声援を送ってくれて、そこで輝く私を想像して……ああ、やっぱり私はアイドルになりたいんだって思い直したんだよ」

 

それ僕が一方的に野望を語って聞かせちゃった黒歴史なんですけど。捕らぬ狸の何とやらをリアルでやった奴でしかないんだけど。何でか春香の中では良い記憶に変換されていたらしい。

 

「だから今度は私が千早ちゃんを助けたいって思ったんだ。私が助けられたように、今度は私が千早ちゃんが考える”ここまで”から引っ張りたいの」

 

”ここまで”。

それは果たして僕にとってどこのラインを指しているのだろうか。春香に言われて改めて考えてみる。

そして結論を出す。僕にとっての”ここまで”はたぶん765プロのオーディションに落ちたことだ。それは春香が言っていた”ここまで”と状況だけ見れば一緒と言える。

しかし春香の”ここまで”と765プロに落ちるかどうかは関係ない。分水嶺であっても目標ではない。春香はあくまでアイドルを目指していたのだから。その手段として765プロのオーディションを受けた。それだけだ。

対して僕の”ここまで”は765プロのアイドルになれるかどうかだった。他のアイドルからすれば異端とも言える思考だろう。アイドルになることは二の次なのだから。

同じラインでも決定的なまでに僕と春香は違った。きっと春香ならばどの事務所でも天海春香になれた。彼女の輝きは事務所の違いで変わる程小さくない。僕はそう思っている。

でも僕は駄目だ。僕の目標は『765プロ所属の千早』になることだった。如月千早()を千早にすることだった。そのためには絶対に765プロに入らなければならかった。

だから落ちた時点では僕は”ここまで”と諦めたのだ。諦めてしまえたのだ。驚くくらいアイドルに未練が湧かなかったから。

アイドルになることに意味がないから。

……ああ、そうか。そうだった。何となく気付いてしまった。そうか、僕の中にあった違和感はこれか。

僕はずっとなりたかったんだ。成り代わりたかったんだ。

 

僕は千早になりたかった。

 

それが僕を転生させた神との契約だったから。

そのために優を見捨てようとした。千早の弟は死んでいるからという理由で一度は見捨てかけた。千早になるために優が死ぬ必要があったから。

それと同じ思考で僕は765プロのアイドルを目指した。それだけだった。僕の中にあるアイドルへの思いなんて最初から一欠けらも存在しなかったんだ。

やっぱり無理だよ春香……。貴女では僕を救えない。

僕がアイドルに挫折しているなら、また目指すことで救われることはあっただろう。春香の輝きで照らしてくれたら、アイドルをもう一度目指す未来もあった。それだけ天海春香の光は強い。

でもそれは無理だ。これはそうじゃない。

他人に成ることに挫折した人間の救い方なんて存在しない。

千早になれないならば、他の何かになればいいなんて話にはならないから。僕は如月千早だから、千早以外を目指す意味がない。

だから無理だ。

 

「ダメ、かな……? 私じゃ千早ちゃんを助けられないかな?」

 

僕は何も答えない。言葉が出ない云々ではなく、春香に返すべき言葉が思い浮かばない。

もはや春香の顔を見ることすらできない。申しわけなさと情けなさで春香を直視できない。言葉で拒絶ができない僕は顔を伏せて意思を示すしかない。

しばらく無言の時間が続いた。

 

 

 

 

「やっぱり、私じゃ無理かぁ」

 

 

 

 

やがて春香の口から漏れ出たのは、諦めとも嘆きともとれる言葉だった。

その声に違和感を覚える。春香の声に張りが感じられない。あのいつでも明るい、悪く言えば少々抜けているような声が無くなり、代わりに擦れたような低い声になっている。

春香の声に含まれる感情が読み取れなかった。僕は気になって思わず顔を上げてしまう。

そして絶句した。

 

「私は何もできないのかな」

 

笑おうとして失敗したような、泣きそうになりながら何故自分が泣きそうなのか理解できていない、そんな顔が春香の顔に貼り付いていた。

 

「今度765プロの皆でライブするんだ……アリーナライブ」

 

表情を変えずに春香が語り始めた。

 

「大きなライブになるからって、試しにリーダーを決めることになってプロデューサーさんが私にリーダーをやらないかって言ってくれたんだ。最初は驚いたけど、せっかくプロデューサーさんが勧めてくれて、皆も良いって言ってくれて、だからやってみようって思ったの」

 

春香がリーダーになったのはプロデューサーに言われてだそうだ。その時の実力や人間関係を考慮しての春香だったのだろうけど、今の春香を見る限りその選択は間違いだったのではないかと思えた。

 

「それでね、今回スクールの子達もバックダンサーとして参加することになって。……皆良い子達なんだ。その中に可奈ちゃんって子が居てね……私のことを憧れだって言ってくれた。765プロでも私が一番ダメダメなのにね。その可奈ちゃんが、この間のミニライブでちょっと失敗しちゃって……そのことで他の子達と揉めちゃって、それ以来レッスンに来なくなって……」

 

あのミニライブでの出来事か。可奈って子はあの事故以来レッスンをサボって、いや来づらくなったのか。

可奈の気持ちは分からなくもない。憧れの先輩とのライブで失敗したというのは辛いだろう。

だがそういう”失敗”をして来なかった僕は何も言うことがなかった。

 

「私じゃなくても良かったかなって。おかしいよね。最初はプロデューサーさんにリーダーを任されて嬉しいと思ったのに。やる気だって十分で、また皆とライブができるって喜んだのに。皆と一緒にライブで輝きたい。皆と一緒が良い。そういう私の考えで可奈ちゃんを引き留めた。その所為で皆の練習が遅れちゃうってわかっていたのに。私は自分の我儘を優先させた。私にリーダーを勧めてくれたプロデューサーさん。それに賛成してくれた皆。付いて来てくれたバックダンサーの子達。皆の期待が私に集まっているって思って、絶対にライブを成功させるんだって……皆と一緒に、やるんだって。でも……私がやったことは可奈ちゃんを引き留めたことだけ。その間の皆のケアとか凛に言われるまで何にも考えてなかった。ダメだよね、こんなのがリーダーやるなんて。私以外の皆ならもっと上手くできたのかなって考えちゃう」

 

僕は何も言わない。

 

「伊織はしっかりしてる。やよいは優しい。雪歩は気配りができる。真はかっこいい。あずささんは大人。美希はキラキラしてる。響ちゃんは実は努力家。貴音さんは不思議な雰囲気が魅力。亜美と真美はいつも元気。そして凛は誰よりも才能がある。皆実力も実績もある。でも私には何も無い。何も無かったんだよ……」

 

皆の良いところを挙げながら春香の声のトーンが段々と落ちて行く。きっと彼女達の良いところは同時に春香にとって見たくない自分の欠点らしい。嫉妬、とは少し違うのだろうけど。

 

「さっき会った凛はね、最初から凄い子だったんだよ。765プロに入った頃はまだ中学に入りたてくらいなのにしっかりしてて、歌も踊りもすぐ覚えちゃって、天才だって言われてた。竜宮小町よりもちゃんとしたデビューは早かったんだよ。765プロでも一番に売れてそれからずっと一番なんだから」

 

今更765プロに知らない人間が居るくらいじゃ驚かないけど、僕の代わりに存在する人間をそこまで褒められるとちょっとヘコむ。いやかなりヘコむ。ボコボコである。

しかしそれ以上に今の春香が傷付いているように見えた。だから僕は何も言わない。

 

「その凛に言わるまで私はダンサーの子達が悩んでいることに気が付かなかった。皆でって思っていた私が一番皆のことを考えてなかったんだなって気づいた。リーダーは私じゃなくても良かったんだよ」

 

僕は何も言わない。

 

「私は何をしていたのかな」

 

僕は何も言わない。

 

「私はどうすればよかったのかな」

 

僕は何も言わない。

言えない。

何も言ってあげられない。こんな状態の春香に何も言ってあげられない。

何をしていた765プロの連中は。プロデューサーはどうした。律子は。この状態の春香にリーダーを任せていたのか!?

一瞬、765プロへの怒りが湧き上がる。が、それは見当違いなものであると理性が激情を抑え込んだ。僕に彼らを責める権利はない。

僕も気付いてやるべきだった。だって僕は原作を知っているのだから。春香のこの状況を僕は知っていた。だから本来春香に再会した時に気付けたはずだった。

ずっと春香は苦しそうにしていた。記憶の中に残る、あの輝かんばかりの笑顔は陰りを見せていたのに。

でもそれを気のせいだと思ってしまった。だってこんなの知らないから。終わったはずだったから。春香のこれはもう終わっていて、その後のライブも成功していて、その先のお話が今なんじゃないのか。それなのに何で今春香は苦しんでいるんだ。

だって、これは、この春香の顔はあり得ないはずなのに。

その顔をする人間は泣いてなければいけない。そんな絶望的な表情を浮かべるならば泣いて叫ばなければならない。決して笑おうなどと”努力”する場面じゃない。

春香の心と表情が解離してしまっている。

僕はこの状態の春香を知っていた。

アニメ版最後を締めくくるライブ回……その前に起きた精神的に追い込まれた春香が壊れる事件。いわゆる闇落ち回だ。その時に追い詰められた春香が見せた表情こそ、今彼女が浮かべているものだった。

春香の問題はアニメ版で終わっているはずだと何度も自分に言い聞かせる。だがずっと泣き笑いの様な顔で語り続ける春香の姿が終わっていないと僕に告げている。背中を嫌な汗が流れる。あり得ない。

アレはたぶん去年とか、それくらいに終わっているイベントじゃないのか?

何で今更発生しているんだよ。

 

「私は……どうしたかったんだっけ?」

 

自問する様な春香の言葉を聞き、僕はようやく自分の思い違いを認めることにした。そのフレーズが春香から出てしまった意味を知っているから。

春香はずっとリーダーを続けられるか悩んでいたんじゃない。そんな今回限りの一過性の問題に悩んでいたのではなかった。

それは想像以上に深刻な問題だった。僕が最初思っていた、これまで成功してきたのだから一回くらい失敗してもいいんじゃないかという突き放した考えは見当違いなものだった。

そんな生易しい問題ではなかったのだ。春香が抱えていた闇は天海春香の根底を揺るがす程の重いものだった。アニメと同じどころではない。それよりも状況が悪化している。アニメの問題と今の問題が同時に春香を蝕んでいる。

春香の問題は何も解決していなかった。

 

「私はどうしたかったのかな……わからないよ」

 

そこでようやく春香の目から涙が零れ始めた。ずっと我慢して居たものが決壊したように泣いていた。

 

「もう、わからないよ」

 

わからないと繰り返しながら、はらはらと涙を流し続ける春香に掛ける言葉が思い浮かばなかった。

 

 

 

 

 

「ある時にね、ふと思っちゃったんだ。私が目指したアイドルって何だったのかなって」

 

一頻り泣いた後、春香は再び話し始めた。それは僕に聞かせるためというよりも、自己確認にも似た独り言に近い。

僕は黙ってそれを聞くだけだ。

 

春香はずっと悩んでいた。

自分が目指すアイドルとは何なのか。

それまで凛と竜宮小町を中心に仕事を回していた765プロは昨年のニューイヤーライブ以降他のメンバーにもれぞれ仕事が舞い込むようになった。しかし同時にメンバー全体での仕事は目に見えて減って行った。

今回のアリーナライブをやるにあたり、合同で練習がとれる時間と言うのは限られている。合間にミニライブを挟んだのはライブを使った練習という意味もあったらしい。

本来ミニライブであろうとも練習というものは必要だ。だが今回765プロはそれを練習の場に使用した。その結果があの事故の直接の原因とは限らないけど、あんな不安そうな表情をしていた理由は理解できた。

それ以上にファンに対する誠実さはどこへ行ったのか。ミニライブであってもファンはそれを目的にわざわざ来てくれている。どれだけ小さいステージでも、自分たちを見に来てくれたファンに練習を見せるのは違うんじゃないか。

それこそプロデューサー達の考えなんて理解できない僕が言えた義理じゃないが。でも結果として可奈の長期離脱を招いたことには違いがない。結果は結果、この件の責任はプロデューサー側にある。

だから自分を責める必要なんてない。そう春香に言ってやりたかった。

今更春香に何を言えたというのだろうか。慰めのつもりだろうか。本当、未だにこんな感情が自分の中に残っていたことに驚いた。僕は今でも春香を気に掛けているらしい。驚愕だよ。

 

「誰にも相談できずに一人で考えた。考えて考えて、考え続けて、それでも答えが出なくて。何となく皆と一緒にライブをすることが楽しいのかなって無理やり納得させて来たんだ」

 

アニメで春香が辿り着く答え。”皆で楽しく”、それがアイドル天海春香の根幹となるものだ。

確か、春香がアイドルを目指した理由って歌のお姉さんに憧れたからだっけ。アニメでは語られてないけど、ゲームのイベントでそんな話があった気がする。

皆と一緒にライブをすることが楽しいって気付いたのに、春香はその答えで天海春香を取り戻せなかった。

原作との解離がこんなところで起きているなんて。しかも最悪のタイミングで発生している。

アニメの天海春香の闇は自分で答えを得て乗り越えたものだ。765プロは最後の一押しをしたに過ぎない。でも、その一押しがあったからこそ春香は仲間との絆を確信できたのだ。

 

「でもね、私のこの想いは皆と一緒なのかなって思ったらまた怖くなっちゃった。皆それぞれ仕事を貰って、どんどん一緒の時間が減って。でもそれで良いんじゃないかって。皆が頑張っている姿を見て思ったんだ。皆がそれでいいなら私もそれでいいやって。だから私も頑張ろう。皆みたいに頑張ろう。一人でも頑張ろう。お仕事だって、リーダーの仕事だって。頑張れば……頑張ったら、また皆と一緒に……」

 

仲間が自分と同じ気持ちなのか、その確信が得られなかった。その所為で春香は一度得た答えを自分のエゴではないかと思ってしまった。

原作を知っている僕はそれが春香の思い違いだと知っている。ちゃんと765プロのメンバーは春香と同じ気持ちだと知っている。

知っているのに、僕にはそれを伝える術がない。原作知識という僕だけが知る”真実”は誰とも共有できるものではないからだ。

 

「皆と一緒に、そうすれば私の悩みも晴れるんじゃないかって思ったんだ……でも、それって最初から無理だったんだよね」

 

春香はまっすぐに僕を見ている。

その目の奥にあるのは後悔か絶望かはわからない。あんなに輝いていたであろう春香の瞳は暗く濁っており、その底にある何かを覆い隠していた。

そんな暗い目をした春香がじっと僕を見続ける。

 

「だって居ないんだから」

「────っ」

 

ああ、春香……。

貴女は、まさか……。

いや、そんな馬鹿な話があるはずがない。あってはいけないだろう。いくら春香でも、あの天海春香でも、そんなちっぽけな理由が根本の原因なんて、そんな話はないだろ。

必死で願う。頼むからそうであってくれるなと。春香が悩む原因が”それ”ではないのだと。この時ばかりは役に立たない神に本気で祈った。

しかし、その願いが聞き入れられることはない。

だって、

 

「千早ちゃんが765プロに居ないんだから」

 

春香にとって僕も”皆”の中の一人だったから……。

 

何て残酷な話だろうか。

天海春香という名のアイドルは始まった瞬間から破綻していたのだ。

あの日、別れ際に交わした今度会う時はお互いにアイドルとして会おうという約束。僕にとっては確定した未来の話を語っただけの、約束とも呼べないただの言葉を春香は覚えていてくれた。

事務所でアイドルとして再会するという約束を覚えていてくれた。

僕を覚えていてくれた。

たった一度会っただけの如月千早を覚えていてくれた。その事実は何も身構えていない僕の心を見事に抉った。

春香、その言葉は僕にとって致命的に効くよ。僕が一番思っていたことだから。この二年間毎日思っていたもしもだったから。

千早が居た世界を知っている僕からすれば、今の世界はとても歪んでいると言える。765プロに僕は居らず、代わりに凛という少女が存在する。

その違和感をこの世界で僕だけが知覚し続けるストレスは誰にも理解できない。僕が居ないことが当たり前のこの世界では僕こそ異端だ。だから僕だけが違和感に苛まれていると思っていた。

それを春香も感じていたというのは僕の心を大いに乱すことになった。

ずっと僕だけだと思っていた。765プロに千早がいないことを良しとしない人間は僕しかいないと思っていた。

両親は「一つ落ちたくらいで何だ。落ちたのなら違う事務所を受ければいい」なんて言って来た。でも僕はそれでは意味がないと拒絶した。

周りからすれば僕の765プロへの執着は異常に見えただろう。弱小どころかできたばかりの何の実績も無い、ビルの一室に小さく存在するプロダクションに拘る理由は無い。

でも僕は千早になりたかったから765プロ以外の自分を許容できなかった。

そんな僕の拘りは僕だけで完結していると思った。だから諦められた。僕が諦めさえすればこの違和感を忘れられると思ったから。

春香が忘れていないなんて思わなかったんだ。

 

「千早ちゃんと一緒だったら、私は今も天海春香でいられたのかな?」

 

春香の語るもしもに僕は答えることはできない。

挫折する前の僕が考えていた如月千早の成功には原作で起きた鬱イベントの回避というのはあった。その中に春香の闇を早めに取り払うというのはあった。

だけど当時の僕に本当の意味で春香の悩みを理解し、解消することができたか今となってはわからない。

あのまま765プロに入っていたら、僕は絶対に増長し全てが思い通りになると思い込み、一人で突き進んでいただろうから。その時原作知識があっても春香の闇に気付けたかはわからない。

 

「ねえ、千早ちゃん……」

 

何か言わなくては。

何でもいい。天海春香が終わる前に何か伝えなくては。

何でもいいから。一言でいいから声を出せ。

 

「千早ちゃん……」

 

声を出せ。

 

「お願いだよ。何か言ってよ……」

 

出せ。

出せ。

出せ。出せ。出せ!

今出さなくていつ出すんだよ!

今なんだ。今ここで伝えないと春香はきっと救えない。

僕が居ないことで春香が答えを得るチャンスを失った事実は何をしても戻ることはない。

それでも!

最後の一歩を引き留めることだけは僕がしなくちゃいけない。

だから出ろ。

頼むから……!

 

「助けて」

 

春香が助けを求める様に僕へと手を伸ばす。

僕はその手を──、

 

 

……。

 

 

パタリ、と目の前で閉じる扉を玄関から無言で見送る。

春香は部屋を出て行った。

限界だった。その場に座り込む。足に力が入らない。

春香はこれから765プロに行ってプロデューサーにリーダーを降りることを伝えると言っていた。たぶん春香の様子からして辞めるのはリーダーの仕事だけではないだろう。

原作通りならアイドルの仕事すら放りだしかねない。……今更原作も何もあったものじゃないが、春香の様子を見たら外れてはいないだろう。

さすがにアイドル自体を辞めることはないと信じたい。それでも今回のアリーナライブはめちゃくちゃになるのは確実だった。

 

「……」

 

結局僕は何も言えなかった。

縋る目で僕を見る春香に僕は応えることができなかった。

一言で良かったはずだ。その一言さえあれば、春香を救えたかもしれないのに……!

僕の喉は慰めの言葉も励ましの言葉も紡ぐことができなかった。

何もできなかった。

僕はまた何もできなかった。

何も。

何も。

何も。

「大丈夫」のたった一言すら言えないのか。

何だこの生き物は。少女一人救えない屑が。 こんな奴がのうのうと生きているなんて、馬鹿な話があるか。

こんな欠陥品が人間のふりして生きている。気持ち悪い。

春香は何でこんなのに助けなんて求めたんだ。

もっと居るだろう。苦楽を共にした765プロの仲間が。信頼できるプロデューサーが。何故選りにもよって僕を選んだ?

たった一度会っただけの相手だ。何となく約束を交わしただけの、赤の他人と言っても良いくらい遠い存在だろ。

僕の何にそこまで拘ったんだよ。

春香の求める答えなんて僕にあるわけないじゃないか。だって僕には何もないんだから。積み上げた実績も、輝かしい地位も、仲間も、友達も、何も無い。

何も。

何も。

何も。

何も言えない。

何で僕は何も言えないんだ。

 

「────」

 

こんなもの。

 

「────」

 

こんな……。こんな壊れた部品は要らない。

 

「────」

 

拳を握る。

この身を焼く怒りと絶望を込める。

少しでも威力を高めるように。

 

「────」

 

春香の期待を裏切った僕にはこれくらいしかできないから。

 

「────」

 

一気に”部品”へと叩きつけた。

 

「──っ!」

 

衝撃とともに呼吸が止まり口から息が漏れ出す。

呻き声一つ出ないなんて。ここまでして声が出ないなんて本当にゴミだな。こんな物が自分の一部であることが許せない。

一撃で足りなけばもう一度だ。

先程と同じように拳を叩きつける。

 

「──っ!」

 

二回目も声は出ない。音もなく空気が漏れ出るだけだ。

 

「──!」

 

三回目。出ない。

 

「──っ!」

 

四回。出ない。

 

「──っ!」

 

五回。六回。七回。

何度も何度も殴り続ける。

それでも声は出ない。悲鳴一つ出ない。

本当にポンコツな喉だな。これだけ殴っているんだからそろそろ何か叫べよ。

 

その苛立ちすら込めるように僕は自らの喉を殴り続ける。

 

何回殴っても出るのは空気と途中から出始めた血だけだ。

何回目かに口の中を切ったのか咥内が鉄の味で満たされる。それ以上に喉からも出血しているらしい。さっきから喉を流れるどろりとした感触が不快だった。

でも止めるわけにはいかない。これくらいやらなければ終われない。

”如月千早”というチート能力は死ぬ気でなければ終わらせられない。

殴って殴って殴り続ければいつか終わるのだろう。終わらせられるのだろうか。

終われ。

殴る。

終われ。

殴る。

終われ。

殴る。

終われ。

 

殴る。殴る。

 

殴る。殴る。殴る。

 

殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。

 

殴っても殴っても殴っても殴っても声は出ない。

声がでないならせめて終わってくれ。

誰かこの如月千早(地獄)を終わらせてくれ。

 

「ーーちゃん!」

 

あと何回壊せば、僕は戻れるのだろうか。

 

「お姉ちゃん!」

 

あと何回死ねば。

 

「お姉ちゃん!」

 

パシンと頬に軽い衝撃が走った。

それは喉を焼く傷の痛みとは違い、今の僕にはさしたるダメージも与えない程に弱い一撃だ。でも意識を外側へと戻すには十分だった。

だって、その痛みは優が与えたものだから。

 

「何、してるのさ……!」

 

目の前に優が居る。

拳を握った僕の腕にしがみ付いて、泣いている優が居る。

何で優が……?

 

「なんで、こんな……何で!?」

 

優はこれまで見たことがないくらい怒っていた。僕を睨み、目に涙を一杯に溜めている。

あ……。

怒られた。

嫌われた?

誰に?

優に怒られた。

あ……あ、ああ!?

怒られた。優に怒られた。怒られてしまった。優に。

ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。

慌てて優へと頭を下げる。床に頭を打つける勢いで何度も下げ続ける。

理由はわからないけれど、僕は優に怒られることをしてしまったらしい。

とにかく謝らないと。

許して貰わないと。

そうしないと優に嫌われてしまう。また失ってしまう。

嫌だ。優に嫌われるのだけは嫌だ。優だけには嫌だ。優だけしかもう僕には無いんだ。

だから許して。謝るから。許してお願いだから。お願いします。何でもするから。

死ぬから。優が言うなら死んでみせてもいいから。だから──、

 

「理由もわからないまま謝らないでよ!」

「っ!?」

「こんな……こんなに血を出して、怪我して、辛そうなのに、そんな態度おかしいでしょ!」

 

おかしい?

優におかしいと言われた。

でも、こうしないといけないから。おかしいかも知れないけど、必要なことなんだよ?

こうやって壊さないと。壊して直せば元通りになるし。なるはずだよね?

だって僕は如月千早だから。

優にとって何か不快になることがあるみたいだけど、もうすぐ終われるから。もう少しだけ待ってて。

拳を握る。

 

「駄目だよ!」

 

しかし優が腕に抱き付いてくる。これでは殴れない。下手に殴ると優が怪我をしてしまう。

ふるふると腕を振って離すように伝えても優はお返しとばかりに勢いよく首を振るだけで離そうとしてくれない。

なんで邪魔をするのかな。

壊さないといけないのに。終わらせないといけないのに。

 

「やめてよ」

 

離して欲しいのだけど。

 

「やめてよ! もうやめてったら! 止めて、どうして!」

 

優が泣いている。何度もどうしてと繰り返しながら泣き叫ぶ。

ごめんね、優が何で泣くのか僕にはわからないんだ。

 

「どうして自分を傷付けるのさ!? 」

 

だって僕は欠陥品だから。

だから終わらせないといけないんだ。終わればきっと次があって、次の人生ではもっと上手くできるから。きっと次の人生なら。

だからね、優。

死なせてよ。

 

「嫌だ!」

「っ!?」

 

力任せな優の手によって押し倒される。床に背中をぶつけたけど不思議と痛みは感じなかった。

優の顔を見る。目の前に泣いてる優の顔があった。どうして泣いているのだろう。

優だってこんな姉邪魔でしょ。僕じゃなくて千早が良かったはずだよ。トップアイドルの千早が良かったに決まってる。

それが居なくなるんだから喜んでいいじゃないかな?

 

「僕はお姉ちゃんが死んじゃうのは嫌だ」

 

どうしてさ。

欠陥品だよ。

 

「僕はお姉ちゃんを要らないなんて思ったことない」

 

歌えないし踊れないし笑えないんだよ。

 

「どんなお姉ちゃんでもお姉ちゃんだよ」

 

初めて作ってくれた手料理に美味しいって言ってあげられないんだよ。

 

「何も言ってくれなくても、ずっと僕に伝えようとしてくれたじゃないか。ずっとお姉ちゃんは僕に伝えてくれていたから」

 

千早になれなかったのに。

 

「僕のお姉ちゃんはお姉ちゃんだけだよ。如月優の姉は如月千早だけなんだ」

 

アイドルじゃないのに……。アイドルになれなかったのに。優が頑張れって言ってくれたアイドルになれなかったのに。

 

「お姉ちゃんの絶望を僕は知らない。それがアイドルになれなかったことを悔やんでいるんじゃないってことは知ってた。でも、僕にとってお姉ちゃんがなろうとしてた何かは重要じゃないんだ。お姉ちゃんにとってそれがどれだけ大切だったかわからないけど! 僕はいつだって、僕に聴かせてくれるお姉ちゃんの歌が好きだったんだから!」

 

思い出した。

あの日あの時、僕は優に言ってしまったのだ。絶対に言ってはいけない言葉を言ったのだ。

感情の赴くままに。隠すことない憎悪を見せて。

優はただ僕に歌を聴かせてくれと言っただけなのに。一言も「アイドルになれ」なんて言ってなかったのに。

「お前なんて助けなければ良かった」って言ったんだった。

理不尽な怒りに曝された優はどんな顔をしていただろうか。泣いたかも知れない。怒ったかも知れない。

でもその時僕は気付いてしまった。優のことを僕に唯一残された「千早が手に入れられなかったモノ」として見ていたことに。まるで優を”賞品”か何かのように思っていた自分を自覚した。

その瞬間の僕の感情を正確に名付けることはできない。しかしこの感情を仮に絶望と言うならば確かに絶望だった。僕が望んだ未来、如月千早が望んだ幸せな未来が絶たれたと本当の意味で知ったから。

その時から僕は声が出なくなっていた。最後に残った千早としての僕が抜け落ちてしまったから。

優に酷い言葉を浴びせ掛け、優を否定した自分を無かったことにしたくて。そうすれば放った言葉が無かったことになると思って声を封じた。優への贖罪とこれ以上嫌われないために何も言わないことを選んだ。

それ以来僕は優に嫌われることを恐れた。これ以上嫌われたくなかった。最低よりも少しだけ上であればよかった。

 

「お姉ちゃんが苦しむ姿を見たくないよ」

 

どうして優は僕の傍に居てくれるのだろう。あんな酷い言葉を言ったのに。優の信頼を裏切ったのに。何で貴方は僕の傍に居てくれるの?

優の涙に濡れた瞳を見ながら何かを期待してしまう。それが叶ったのならば自分は変われる気がした。しかしそれが何か言葉にできない。

答えの得られないもどかしさに脳が熱くなる。必死で考えても僕の心を満たす答えは見つからない。

僕では答えを見つけられない。

 

「僕はお姉ちゃんには幸せになって欲しい」

 

どうしてそんな優しさを向けてくれるの。

だって、優は。

 

「だって僕はお姉ちゃんが大好きだから」

 

 

あ──、あ──、

 

 

「ぁ……ぁあ」

 

溢れ出す涙に合わせ喉が震えだす。

視界は滲み喉の痛みを感じ始めた。

体が熱くなる。心が動き出す。

”如月千早”が戻って来る。

 

「あ、う……うぅ」

 

痛みよりも喉の苦しさよりも、それらを感じる自分に戸惑いを覚えて震えた。

今更人間らしい感覚を思い出しても仕方ないのに。

こんなにも欠陥だらけのガラクタなのに。

それでも、優は僕を好きだと言ってくれた。

 

「う、う……う」

 

縋る様に手を伸ばす。

あの日優を初めて見た時の焼き回しみたいだ。

触れることすら躊躇われるくらい尊い物に自分みたいなモノが触れる資格があるのか。

その考えすらあの日と一緒だった。

己が手を見れば吐血により手は赤く染まっていた。柔らかい喉相手でも力を込めすぎたからか殴った手も傷付いていた。指の付け根の皮膚は破れて出血しているし、指も何本か折れている。

こんな汚れて壊れた手で触れていい存在じゃない。

そう思い手を引っ込めようとすると、その手を優は逆に掴んできた。いや、掴むと言うよりも両手で包み込むように触れたと言うべきか。

 

「あ……」

 

その手の温かさに声が出る。

本当なら優の手を僕の血で汚さないために振り払うべきだ。でも何故かそれができない。優の手の温もりから逃げられない。

 

「お姉ちゃんの手は汚くない」

 

優しい、それでいてしっかりとこちらへ言い聞かせようとする声で優が言う。

僕の手を。血と傷で汚れた、欠陥品の、屑の、手なのに……。

 

「僕はお姉ちゃんが好きだ。だから、そのお姉ちゃんの手が汚いなんて思うわけがない。どんなに傷付いていても、血が流れていても、お姉ちゃんの手は汚くなんてない」

「あ……あ、あ」

 

涙が止まらない。

我慢しようとしても止まらない。一度流れ始めた涙が空いた方の手で拭っても後から後から溢れて来る。

もう、限界だった。

 

「も…………いや、なんだ……」

 

久しぶりに聞いた千早(自分)の声は、思った以上に酷いものだった。

長い間使われていなかった声帯はへたっている上に先程の行為によりズタズタに切れている。

それでも微かに、息が漏れる程度であっても声が出た。

 

「おねえちゃ……今、声が」

 

優が涙を散らせる勢いで目を見開き僕を見る。

声が、出た。

ようやく、と言えばいいのか。

今更、と言えばいいのか。

 

「ゆ、う……」

「お姉ちゃん……」

「も、う……いや、なんだ」

 

さっきよりもしっかりとした声が出た。

この瞬間にも僕の喉と手の傷は治り始めている。殴打の痕もないし咥内の傷もほとんど消え失せている。

 

「いや、だ」

「お姉ちゃん、言って。何が嫌か。何を怖がって、何に後悔しているのか、全部言って。僕は全部聞くから」

 

治った僕の手を握りながら優が言う。全部聞いてくれると。僕の中にずっとあった後悔と絶望を。優が聞いてくれる。

ずっと言いたかったこと。

ずっと嫌だったこと。

それを僕は吐き出した。

 

「ほんとうは……ひとり、ぐらしなんて嫌だった。みんなと一緒に…いた、いたかった」

 

勧められるままに一人暮らしを始めた僕。最初は親に見捨てられたのかなって思ってたけど、親も僕との距離の取り方がわからなかったのだろう。他人が近づくだけ僕は不安定になっていたから。昔の自分との違いを知られるのが怖かった。

それでもやっぱり僕は家族と居たかった。

 

「キョウとも……離れたくなかった。あんな終わり方。嫌だった」

 

キョウとリアルで会ってお互いの身の上話とかして、ゲームみたいな馬鹿なやり取りをリアルでもやりたかった。結局僕がキョウの成長を受け入れられなかった所為で終わってしまったけれど。

やっぱり僕はキョウとは本当の友達になりたかった。

 

「春香にも、もっと真っすぐに向き合いたかった」

 

春香が僕を覚えていてくれた。

嬉しくて、同時に情けなくて、でもどこか誇らしく思えた。

春香の縋る手を優が僕にしてくれたように掴みたかった。

声が出ないことを言い訳にして、たったそれだけのことすら放棄した僕に春香に覚えていてもらう権利なんてないのかも知れない。

でもやっぱり僕は春香を助けたかった。

 

「嫌だ……!」

 

もう嫌だ。もう嫌われるのは嫌だ。距離を置かれるのは嫌だ。忘れられるのは嫌だ。

そして何よりも──、

 

「もう失うのは嫌だああああああ!」

 

心からの叫びが喉から迸る。

ずっと、ずっと抱えて来た感情が爆発した。

 

「嫌だ! もう失いたくない! 嫌だ嫌だ嫌だ!」

 

駄々っ子みたいに暴れる僕を優はきつく抱きしめてくれている。

嫌だと繰り返す僕の頭を優しく撫でてくれる。

 

「ようやく言ってくれたね」

 

頭を撫で続ける優の声は嬉しそうだった。

 

「ずっとお姉ちゃんが何かを言いたそうにしていたの僕は知ってた。でも聞こうとするとお姉ちゃんは逃げちゃうし。追いかけてお姉ちゃんに嫌われたらどうしようって思って。また怒られたら嫌だったし」

「ちが、う……僕が、悪い。優はずっと歌を聴いてくれていたのに。また聴きたいって言ってくれただけなのに」

「ううん、それでも僕はお姉ちゃんに訊かなくちゃいけなかったんだよ。そうしなくちゃいけなかったんだ。ごめんね」

「違うから。優は悪くないからっ……」

 

ずっと優は待っていてくれたんだ。

僕が抱える闇に気付いてた。諦観で覆って心の内に隠していた絶望に気付いていた。気に掛けて、知ろうとしてくれていた。何も言わない僕に辛抱強く付き合ってくれていた。

優のそんな献身を知って申し訳なさと感謝の気持ちにまた涙が溢れる。

 

「ごめんね、お姉ちゃん。そして、ありがとう。お姉ちゃんの気持ちを聞かせてくれて。辛かったよね。ずっと言えなかったんだもん。僕だったら十年も秘密になんてできないよ」

「優は素直だから……正直で、嘘なんて吐かない良い子だから」

「それは買いかぶりすぎだって。僕だって嘘くらい言うよ。悪い言葉だって使うし、良い子でもないよ」

「良い子だもん!」

「お姉ちゃん……」

 

抱き着いて優の言葉を否定する。優は良い子だ。だって僕をずっと支えてくれていたから。ずっと信じていてくれたから。だから良い子なんだ。

駄々っ子と思われても良い。情けなくても構わない。優は良い子なんだ。

 

「……わかったよ。それでいいって。お姉ちゃんって変なところで頑固だよね。いつもは流されやすいのに」

「自覚はしてる」

「あ、してたんだ」

 

言われるがままに転生するようなやつが流されやすくないわけがない。

まったくの別人に生まれ変わろうなんて、前世に絶望した奴か僕みたいに何となく言われたからする奴だけだ。

 

「自覚くらいしてるよ。優は僕を何だと思っているのさ?」

「面倒な人」

「ごふっ」

「冗談だよ。大好きなお姉ちゃんです」

「……何か急に優がいじわるになった気がする」

「こういう僕は嫌い?」

「大好き!」

 

タイムラグ無しで優に抱き着く。弟が嫌いな姉っておるん?

て言うか、やっぱり優は小悪魔系もありだね。小悪魔天使とか新ジャンルすぎて聖と魔のバランスが崩れちゃう。

失いたくない。この温もりすら失ったら、僕はもう如月千早じゃいられなくなる。

 

「お姉ちゃんはずっと失くすことを怖がってたんだね」

「うん。怖かった。ずっと怖かった。お父さんもお母さんも優もキョウも春香も……普通の人よりも少ないけれど、僕には失いたくないものがあったんだ。でも、失いたくないって気持ちが強すぎて結局全部だめになっちゃった」

 

何かを失う度に如月千早(自分)が削られていく気がして、それがたまらなく怖かった。

いつしか失わないために関わらないことを選んだ。

近づかなければ失わない。手に入れなければ失わない。覚えられなければ失わない。何もしなければ失わない。

そうやって色々な物を捨てて来た。失う前に捨てることで無かったことにしたのだ。結局失うことに代わりはないのに。

でも僕はそれしか失わない方法を知らなかった。

声が戻った瞬間に気付いた。

僕はずっと恐れていたのだ。

嫌われること、距離を置かれること、忘れられること。そうやって人との繋がりを失うこと。それをずっと僕は恐れて来た。

でも僕はそれらを恐れながらも正反対のことをして来た。

両親から嫌われることを恐れて距離を置いた。キョウから距離を置かれないように詰った。春香に忘れられたくなくて拒絶した。

矛盾した行為を最良の手段と思い込み、結果として恐れていた事態に嵌っていった。

両親とはもう拗れに拗れているから関係の修繕は無理だ。何をしようとも今の僕が二人と関係を戻せることはないだろう。

キョウとはゲーム以外で連絡を取り合うことは不可能だ。今更ゲームでの関係を本物の関係にするには時間が経ちすぎた。

 

「でも、天海さんとはまだやり直せるんじゃないかな?」

「……春香?」

 

春香は……。

春香とはどうなのだろう。

僕は春香の縋る手を振り払った。

彼女が無言で発していた「助けて」の言葉に気付かないふりをした。

そしてようやく口にした「助けて」すら拒絶して裏切って忘れようとした僕に今更彼女に掛ける言葉があるのだろうか。

そんな考えが再び僕の心を侵す。

今更だ。

今更何を言えばいいのか。

もう終わってしまった。春香と繋がっていた最後の糸はさっき切れた。

僕が断ち切った。春香にとっては、それこそ地獄に垂れた一本の蜘蛛の糸の様なものだったろうに。

 

「でも、今更何を言ってあげたらいいかわからないよ。僕は春香の手を取らなかったんだから」

「”今更”なんて無いよ。それはその人がそこで諦めちゃっただけ。諦める理由を今更だって言い訳してるだけだよ」

「今更なんて、無い?」

「そうだよ。お姉ちゃんは今更って言うけど、その時できなかったなら、今からしてあげればいいんだよ。僕がお姉ちゃんの手を握った様に、お姉ちゃんが今度は天海さんの手を取ればいい。まずはそこから始めたらいいじゃないかな」

 

手を取ることから始める。

声を掛けることはできなかった僕でも、春香の手を取ることはできたんじゃないだろうか。そんなことを思った。

それこそ今更だ。

今更で。

今更だけども。

まだ失っていないならば、諦めちゃいけないんだ。

失わないために何もしないことは間違っている。失わないためには関わる覚悟が必要なんだ。

僕はもう失いたくない。春香を失いたくない。

 

「まだだ……」

 

まだ間に合う。

まだ終わってない。

天海春香は終わってない。

 

僕が、終わらせない。

 

「……行かなくちゃ」

「お姉ちゃん」

 

立ち上がろうとすると優が上からどいてくれた。そう言えば僕ずっと優に押し倒されてたんだよね。姉と弟でも何かイケナイことをしているみたいでドキドキするわ。まあ、優の方がそんなこと一ミリも考えてないだろうけど。

先に立ち上がった優に手を引かれ僕も立ち上がる。その時優の顔が自分の顔と同じ高さにあることに気付く。いつの間にか背が追いつかれてしまったらしい。そんなことすら今の今まで気づけなかったなんて。僕は本当に気付くのが遅いね。

いつの間にか優は立派に成長していたのだ。あの頃の小さな男の子はもうどこにも居ない。原作で写真と千早の記憶の中にだけ存在した男の子は立派な男の子になっている。そのことが嬉しい。そしてその男の子を助け、今度は自分が助けられたことが誇らしい。

千早にできなかったことを僕はずっと前からできていたんだね。

 

「優……ありがとう」

 

ありがとう。一緒に居てくれて。

優が僕の歌を聴いてくれていたあの日々がどれだけ尊いものだったのか本当の意味で気付くことができた。

ありがとう。生きていてくれて。

優が死んでいたら僕も死んでいただろう。僕はたぶん千早よりも弱いから。

ありがとう。

貴方が僕の弟で良かった。

 

「お姉ちゃん……ううん、僕の方こそ、ありがとう」

「それは……何のお礼?」

「内緒。それよりも、行くんでしょ? 天海さんはこの後765プロの事務所に行くらしいよ。あ、これは知ってるのかな?」

「あっ、うん……えっと」

 

先程からこちらの事情を全て把握しているらしい優の態度に戸惑う。

それが表情に出ていたのか優は軽く笑って言った。

 

「優、エスパー?」

「違うからね? 天海さんにここを教えたのは僕だよ? その時話の流れで765プロに行く用事があるって聞いただけ」

「優は何でも知ってるんだね」

「なんでもじゃないけど。お姉ちゃんにとってあの人が特別だってことはわかるよ」

 

特別って、何かそう面と向かって言われると恥ずかしいな。別に春香に対しては恋心とかそういうのは抱いていないんだけども……。

あ、僕女だったわ。なら優が恋心云々を勘違いするわけがないか。純粋に友情的な何かと思っているのだろう。

 

「お姉ちゃんはあの人を助けたいんでしょ?」

「うん。僕は春香を助けたい。だって春香は二年も僕を待ってくれたから。僕を信じてくれたから。如月千早()を覚えていてくれたから。今度は僕が天海春香を思い出させてあげたい」

 

優相手にこの僕を見せるのは初めてのことだ。しかし優は特に驚くことはせず、僕を受け入れてくれている。

本当なら疑問に思うべきなのだろうけど、今の僕にはそれ以上に春香を助けたいという想いの方が強かった。

 

「絶対に助けてあげてね。僕を助けてくれたお姉ちゃんなら大丈夫だって信じてるから」

「うん、絶対に助けるよ。僕は春香を助ける! 優、ありがとう、愛してる!」

 

優と約束を交わすと僕は部屋を飛び出した。

 

 

 

────────────────

 

 

 

で、愛する弟との感動的なシーンから一転、僕は悪態吐きそうになりながら全力で走っていた。

電車賃持って来なかった! 馬鹿なのかなー!?

お金が無いことに気付いたのは駅に着いてからだった。そう言えばお金とかリアルで見たのいつ以来だろう。そんなことを頭の隅で思い浮かべながら足を全力で動かす。

一度アパートに戻って優にお金を借りる手もあったが、今から戻っても優が残っていなかったら時間をロスしてしまう。あとあんな大見栄切って出て来た手前、今更お金無いと言って帰れないという理由もある。それをやったらもう僕は恥ずかしくてお部屋から出られなくなっちゃう。

こんな時に限ってケータイ持ってないんだから僕って本当にやることなすこと上手くいかないよね。

ここまで来たら引き返すより春香を追った方が早い。たぶん春香は電車で765プロの事務所に向かっているはずだ。駅前でタクシーを拾う可能性もあるが、経費で落ちないだろうし電車に乗ったと仮定する。

春香が765プロに着いてしまったら終わってしまう。

ここから765プロの最寄り駅まで三十キロメートルほど。確か電車でも三十分くらいかかるはずだ。

つまり僕は三十キロを三十分弱で走り切る必要があった。 普通なら走って向かうなど無謀と言わざるを得ない距離だ。体力には自信があったが、二年間の引き籠り生活とこの一か月の寝たきり生活の所為で僕の心肺機能は全盛期の半分以下にまで下がっている。この状態で走り切ることは不可能だった。と言うかすでに息が上がって足がもつれだしている。たった数キロ走っただけでこの様だ。

だがこの身は曲がりなりにもチートでできている。

かなり無謀だ。でも電車で追っても追いつけないなら電車よりも早く移動するしかない。幸い路線は緩やかにだがカーブを描いている。直線距離ならば僕の方が近い。

それに、こういう時に使ってこそのチートだろう。

 

「つまり、一分で一キロ走るのを三十回繰り返せばいいだけだ……」

 

自分でも無茶苦茶なことを言っている自覚はある。でもやるしかないだろう。

三十……いや、四十と少しくらいかな?

久しぶりに使うチートの数を冷静に計る。 数を間違えるわけにはいかい。少なすぎれば途中で力尽きるし、逆に多すぎたら今の僕なら一瞬で廃人だ。

今になって頭の中の冷静な部分が春香のためにそこまでする必要があるのかと問うてくる。自分の命を賭ける程に春香が大切なのかと頭の中の僕が皮肉混じりに訊くのだ。そして不思議そうに言うのだ、「所詮赤の他人だろう」と。

そんな他人のために命を張るのは傍から見れば馬鹿に見えるだろう。きっと昔の僕なら同じ意見を持ったはずだ。自分だけで世界が完結していた時の僕ならば春香を見捨てていただろう。

でも今の僕は違う。千早を目指していた僕はもう居ない。

春香が大切かって?

その誰とも知れない相手の質問に僕は笑って答えてやった。

 

「大切じゃないものなんてない!」

 

だから黙ってろ。僕はこれから如月千早を始めるんだ。

覚悟は決まった。あとは実行するだけだ。一旦走るのを止めるとその場で意識を集中してチートをコールする。上手く動いてくれよと念じながら冷静に”如月千早”を探す。

必要なのは速さだ。持久力よりも瞬発力が欲しい。長距離よりも短距離に秀でた”如月千早”が必要だった。

 

「見つけた」

 

次の瞬間、それまで体に纏わりついていた疲労と息苦しさが嘘のように消えた。節々に感じていた痛みも、身体の芯に残っていた倦怠感も全て消え失せている。

 

「っ……よし、行ける!」

 

恐れていたチートの暴走による暴発はしなかった。まあ、明日あたり反動で精神疲労で大変なことになるとは思うが。

今は気にしないで走ることに集中しよう。

僕は呼吸を止めると全力で走り出した。それまでの有酸素運動のランニングから無酸素運動のダッシュへ。後先など考えない全力ダッシュを体力の続く限り続ける。

もし今の僕を短距離走でオリンピックを目指す人間が見てしまったら、きっと努力が馬鹿らしくなってしまうだろう。ちゃんとしたトレーニングも受けていない、フォームもバラバラのただ走っているだけのド素人が百メートルを六秒台で走っているのだから。その速さを維持して走り続ける。百メートルを越えて二百三百と速度を落とすことなく走り続ける。

これもチートの一つ。四十七のチートを並列に発動させた副作用だ。

しかしそれもやがて限界が訪れる。一キロ走ったところで段々と速度が落ちていった。いくら瞬発力と持久力を常人の数倍に上げてもどうしても限界が来る。呼吸という枷から人は逃れられない。無酸素運動を続けられる時間には限界があり、酸欠で頭が朦朧としはじめる。普通ならここで呼吸と体力回復のために一旦速度を落とすところだ。

そう、普通ならば。

 

「っぅらああッ!」

 

だが僕は普通ではない。

走りながらすぐ隣に見えた電柱へと右手を叩きつける。僕の拳が当たった電柱のコンクリ部分が吹き飛ぶ。

当然そんなことをすれば硬いコンクリートの柱に叩きつけた拳は怪我をする。ゴキン、という音が手から聞こえ同時に血が噴き出し指の骨も何本か折れた。

激痛に顔が歪む。痛みで意識が飛びかける。

だが、それでいい。

 

「……ふぅう」

 

次の瞬間には”如月千早”が発動して怪我は治っており、同時に体力も元通りになっていた。

こうやって疲れる度にある一定以上のダメージを負えば”如月千早”が傷とともに疲労も回復してくれる。

これもチートの軽い応用だった。残りのチートの数が四十六になったが、これが無くなるまでに春香に追いつければいいだけだ。

そうやってチートを駆使し全力疾走を維持しながら時に自傷行為で回復し全力で走るのを繰り返す。こうすれば延々と無酸素運動で走り続けられる。無茶を超えて無謀なチートの連続使用にすでに体が悲鳴を上げ始めている。だが、それくらいしなければ春香には追い付けない。

もう二年も先を行かれたのだから。周回遅れどころの話ではない。もう一秒でも止まっていられない。

ここで追いつかなければ、僕は一生春香に追いつけない。

その思いを胸に僕は走り続けた。

 

春香。

本当のことを言うと、僕は貴女が何を悩んでいるのか正確には理解できていない。

僕と違って今もキラキラと輝いている貴女が何を思い、何を感じ、何を背負っているのか僕には理解できない。

僕はアイドルではないし、春香でもない。アイドルの天海春香は知っていても、アイドルの春香を知らない。

僕が知っているのは、二年前に見たアイドルになろうと頑張っている春香と、今さっき見たアイドルを辞めようとしている春香だけだ。

その間を僕は知らない。何が彼女を追い込んだのか、原作を知っているだけの僕はこの世界の春香の足跡を知ることはなく想像もできない。

だってそこに僕は居なかったから。

如月千早が居ない765プロで皆はどう進んで行ったのだろう。アリーナライブなんてできるまで出世したんだ、きっと頑張ったに違いない。

その時春香はどうしていただろうか。原作の様に笑っていただろうか。それとも一歩引いて見ているだけだったろうか。

皆の中心で笑顔を浮かべていただろうか。皆の輪から離れて沈んだ気持でいただろうか。

僕はそれを知ることはない、これからも知る機会なんてないだろう。

でもそれで良いと思う。僕は765プロの如月千早ではないから。そこを知らなくたって構わないんだ。

重要なのは、春香が765プロの春香を知らない僕を頼ったってことだ。

他の誰でもない。僕を頼ってくれたことだ。

だったら僕は原作知識に頼らずに春香と向き合わなければならない。

天海春香にとっての千早はどこにも存在しない。この世界に生きているのは春香にとっての如月千早だから。

僕は今日までたくさんの大切なモノを失ってきた。

アイドルの自分。

両親との関係。

弟との暮らし。

キョウ。

それ以外にもたくさん失った。二年間という時間は決して短くない。無名だった春香達がトップアイドルになるくらいの時間だ。短いわけがない。

でも、それは千早の人生とは違う。彼女は彼女で辛い人生を送って来たけれど、僕だって結構悲惨な人生歩んでいると思う。多分に自業自得な面が強いが。

千早は千早で僕は僕なのだから。失った時間は僕のものだ。僕が失っただけだ。だから、僕の人生は僕が責任を持たなくちゃいけないんだ。

それに気づいた今、僕はもう何も失わないと決めた。 何一つ、失ってなんかやるものか。

だから、間に合え。

冷静に、冷徹に、冷酷に、また一つ”如月千早”を切り捨てながら僕は走り続けた。

 

 

 

────────────────

 

 

 

「春香!」

 

春香に追いついたのは結局765プロの前だった。もうすぐ陽も落ちる時間だ。予想よりも時間が掛かってしまった。

今まさに事務所の扉に手を掛けた春香が見える。奇しくも、あのオーディションを受けた日と似た構図になった。

あと少し遅かったら、春香はこのまま事務所へと入り、そこで天海春香を終わらせていただろう。

これはぎりぎりセーフ、でいいのかな?

間に合ったこととチートの連続使用により力が抜けそうになるのを寸でのところで両足を踏ん張ることで耐える。さすがに四十回以上生き返るのはしんどいわ。

震える膝に活を入れ何とか立て直す。できれば一回ほど死んでおきたかったけど、春香の目の前でやるわけにもいかないのでそのままだ。

春香は呼び止められたため声の方を振り返り、それが僕だと知ったため驚いていた。

 

「千早ちゃん、どうしてここに……あっ、声が!」

 

僕が声を出せることに驚く春香。

良かった、春香が純粋に驚いてくれている。これが何を今更みたいな顔をされていたら僕の心はその時点で折れていただろう。心は硝子だぞ。

 

「寝坊助の喉を殴って叩き起こした」

「喉を殴って? ……え、千早ちゃん、大丈夫なの。って、それ血?」

 

春香の疑問に雑に答えつつゆっくりと春香へと近づいて行く。

と言うか、今の僕はそういう細かいことを気にしている余裕がなかった。実はチートの副作用で結構体にガタが来ているみたいだ。もう一度同じことをやれと言われても無理だ。たぶん死ぬ。あれ、帰りどうしよう。

今はそういった諸々は意識から無理やり追い出して忘れる。

 

「何でそんな無茶なこと……じゃなくて、手当しないと!」

 

僕がまだ怪我をしていると思ったのか、春香が慌ててこちらへと駆け寄って来る。

今気づいたけど僕って全身血まみれじゃないか。吐血したため服は胸元まで血に染まっているし、両手の袖部分は電柱や壁を殴った時の血と汚れでボロボロだ。幸い暗い色のセーターのためよく見なければ血だとわからないけど、中に着ているシャツの襟の血や袖の解れはごまかしようがない。こんな状態の女が走っている光景は実にホラーだなと思った。実際この後しばらく口裂け女の目撃情報が巷を賑わせることになるのだが、今それは関係ない。無いったら無い。

 

「春香のため」

「え……?」

「って言いたかったけれど、本当は自分が情けなくて殴っただけ。でもそのお陰で声も出るようになったから」

 

精神的な物は確かに優のおかげで払拭できたけど、長年使わずに弱った喉が全盛期まで戻ったのは一度壊した後に再生したからだ。

そこまでしようと思えたのは春香のおかげだ。春香を助けたいという思いが僕の停滞した心を再び動かしたのだ。まさに怪我の功名、いや棚から牡丹餅? 何でもいいか。

そのお陰で間に合ったのだから何でもいいや。

今度は間に合った。常に手遅れで、文字通り後悔し続けて来た僕が今度は間に合った。それが涙が出るくらい嬉しい。

 

「春香、私の話を聞いて欲しいの」

 

僕の傷を確認しようとする春香の手を掴みお願いする。

優と違い春香には”私”と言う。さっきは混乱していたから優の前で僕って言っちゃってたけど、今になって女で僕は違和感があると気づいたのだ。

優にだってあの僕は見せたことなかったのに。優に変に思われなかっただろうか。あ、優の前で変なのは今に始まったことじゃないね。……後でフォロー入れておこう。

 

「でも、千早ちゃん傷が……手当しないと」

「見た目ほど怪我してないから。と言うかもう治ってるから治療は必要ないよ」

 

心配してくれるのは嬉しいけど、本当に傷一つないから大丈夫だ。

 

「本当に大丈夫だから。何なら触ってみても良いし」

「えっ、いいの? じゃなくて、本当に大丈夫なの?」

「うん。本当。じゃないとこうして家から走ってこれなかったしね」

「走って来たんだ!?」

 

そう言えば三十分くらいで三十キロ弱を走って来たことになるのか。

 

「……春香、さっきの話の続きがしたい。今度は私の言葉で春香に答えたい」

「それは……」

「今更って思うかも知れない。でも、私はこれを今更で終わらせたくない。我儘だっていうのはわかってる。あの時の春香の手を取れなかった私が今更何をって思うのは当然だから。でも、それでも、私は春香と話がしたい」

「私は……」

「お願い春香。少しでいいから」

 

僕の言葉に躊躇いがちに目を逸らす春香に焦りを覚える。

拒絶される?

やはり遅かったのだろうか。春香の中では答えが出ていて、今更僕が何を言ったところで意味がないのだろうか。

でも僕は春香を諦めたくない。

 

「ねぇ、春香──」

「ちょっと、貴女何ですか!?」

 

さらに言い募ろうとしたところで思わぬ邪魔が入った。

声がした方を見ると事務所の中から出てきたのだろうか、事務所前から律子が険しい顔でこちらを見ている。今日は睨まれる星の巡りなのかな。

 

「うちのアイドルに何か用ですか?」

 

こちらへと早足で向かって来る律子から出たのはまるで初対面の相手に向けるような台詞だった。

いや、実際彼女にとって僕は初対面の相手なのだろう。たとえ一度面接を担当した相手だとしても忘れていて当然だ。僕なんて秋月律子にとってはその程度の存在でしかない。

一瞬だけ、瞬きの間だけ胸が痛んだがすぐに余計な思考と合わせて他所へと捨てた。

対して春香の顔はショックを受けたように歪んでいる。

春香がそんな顔をする必要ないのにね。僕は別に気にしてなんかいない。秋月律子にとって僕は覚えるに値しない程度の存在だっただけだ。それはどうでもいいことだ。

改めて今の状況を見ると、僕は血が付着した恰好でアイドルに絡む不審者だ。あるいは殺したての殺人鬼。

そんなのが自分の事務所のアイドルの手を掴んで思いつめた顔をしているのだ。こんな顔を向けられても仕方ないね。ごめんなさい、貴女の態度は正常だったわ。

 

「えっと、私は……」

 

何て説明をしようかともごもごと口の中で言葉を転がしていると春香と僕の間に割り込まれた。

身体張りすぎでしょ。勘違いの可能性や逆に自分が危険な目に遭う可能性だってあるのに、そのリスクを無視して彼女は春香の前に出て来た。その事実を羨ましいと感じるのは僕の未練だろうか。

 

「律子さん、千早ちゃんは765プロを」

「春香」

 

春香が僕が何者かを説明しようと止める。

765プロのオーディションを受けたことがある人間だ。そう説明して何になる。

オーディションに落ちた人間。その情報で秋月律子が何を納得するのだろうか。最悪逆恨みした頭のおかしい女扱いだ。

 

「千早ちゃん……」

 

僕の静止の意味を察した春香が言葉を止める。だがそれで納得できないのは秋月律子の方だろう。

 

「春香、事情を説明して貰えないかしら? この子は誰で、どうしてこんな格好でここに居るのか。場合によっては私はプロデューサーとして対処しないといけないわよ?」

 

納得できなければ警察でも呼ぶってことか。過激だ。でもそれは裏を返せば納得できれば何も言わないということでもある。

甘いのか、春香を信頼しているのか。これが前世だったら問答無用で人を呼ばれても文句は言えない。アイドルが優遇される世界なのに前世の方が過保護って不思議。

 

「彼女は……」

 

秋月律子の問い掛けに春香が口を開く。果たして春香は何と説明するのだろうか。

僕と春香の関係なんて二年前に一度会っただけの他人だ。僕はオーディションに落ちて、春香はアイドルになった。それだけの関係のはずだ。

僕がオーディションを受けた人間という説明はできない。自分で止めておいて無責任な話だけど、春香に任せるしかない。

春香は何と説明するのだろうか。最悪知らない人扱いされる覚悟をしておこう。

 

「千早ちゃんは──」

 

春香は。

 

「私の友達です」

 

秋月律子に真っすぐ答える春香に涙が出そうになった。

春香は僕を友達と言ってくれるのか。

裏切って、見捨てた僕を友達と呼んでくれた春香に何だか心の中から熱いものがこみ上げてくる。

 

「ごめんなさい、律子さん。私は千早ちゃんと話があるので」

「あっ、ちょ、ちょっと春香?」

「行こう、千早ちゃん」

 

急に積極的になった春香に手を引かれる形で僕はその場を離れることになった。

その際困惑気味にこちらを見る秋月律子と目が合ったが、合っただけで特に何か反応はなかった。

何かを思い出したなんて反応は無かった。

それで良い。

春香が秋月律子から大切にされていると知れただけで僕は満足だから。

 

 

────────────────

 

 

春香に連れられて辿り着いたのは事務所近くの公園だった。

アニメでもゲームでも見慣れた公園だ。あまり描写されることはなかったが、オフィス街に設けられているとあってお昼や休日には結構人が居るのだろう。

しかしすっかり日の落ちた今は通行人が一人二人居るだけなので話をするには適している。

 

「律子さんのことだけど……」

「別に、気にしてないから大丈夫。受けた人間全員を覚えているなんて無理だろうし。ましてや落ちた人間なんて何人も覚えていられるわけないよ」

 

あの時何人受けたのかは知らないけど、受かった人間と同じだけ落ちた人間が存在するとはよく言うもので。社長の目に留まらなかった僕みたいなのを秋月律子が覚えているなんて期待し過ぎだ。

 

「えっと、あのオーディションって、広告代もあまり出せなかったらしくて……受けた人そのものが少なかったんだって」

「えっ!?」

「ほとんど定員割れに近かったって律子さんが言ってた」

「ファっ!?」

 

ちょっと待って、それ初耳だよ。

確かに春香と僕しか居なかったけど。あれってオーディションの日程をずらしていたとかじゃなくて、それだけ受けた人間が少なかったってことか。

 

「ま、まさか、その受けた人間の中で落ちたのって……」

 

震える指で自分の顔を指差す。違うと言って欲しかった。

 

「た、たぶん」

 

遠慮がちに首を縦に振る春香。

 

「……」

 

つまり何だ、あのオーディションで受かったのが今のメンバーなのではなく、受けた人間で落ちたのが僕だけだったってこと?

なにそれ怖い。それしか受験者居なかった765プロもヤバいけど、それに落ちた僕はもっとヤバいんじゃないか。

あー、本当に僕って駄目だったんだな……。僕の方こそアイドルの才能無かったわ。かーっ、辛いわーアイドルの才能ないの辛いわー。

い、いや今はそれどころじゃない。落ち着け僕。大丈夫だ、あの頃の僕はもう居ないんだから。……よし、トラウマが再発しそうだったけど何とか抑え込めた。優、僕頑張ったよ褒めて。

気を取り直して春香に本題を切り出す。

 

「さっき貴女は何をしたかったのかわからないと言った」

 

誰よりもアイドルに憧れた天海春香は誰よりも脆い女の子なのだと僕は知った。

悩み苦しみ涙を流す春香を見て、自分だけが苦しんでいるという勘違いに気付いた。

 

「そうだよ。私はもう自分が何をしたかったのかわからない。楽しかったアイドルのお仕事がいつの間にか辛いと思うようになって……笑うのが、笑い続けることが辛くなった」

 

今の春香にとって、アイドルであり続けることは苦痛でしかないのだろう。周りの重圧や仲間とのすれ違いが春香の中の楽しいアイドル像に陰りを作っている。

皆で楽しく歌うという答えを支えに頑張った。でも、それを確認する勇気が持てなかった。万が一それを仲間から否定されたら自分を保てないから。そうやってずるずると答えを先延ばしにした結果、今になって限界が来た。

 

「春香……あの日、貴女は自分にアイドルの才能がないのかもと言った」

 

今でもあの時の衝撃を覚えている。

天海春香というアイドルを知っていた僕に春香の弱音は信じられるものではかった。

 

「うん、そう思ったよ。千早ちゃんが励ましてくれて、一度は思い直せたけど、今はまた同じように思ってる。私にはアイドルは向いていないんじゃないかって。皆と違って何の才能もない私はアイドルを続けられるのか。ずっと不安だった」

 

あの時アイドルに向いていないと言う春香の言葉を反射的に否定しまったのは、たぶんアイドルじゃない春香を想像できなかったからだ。

アイドルマスターという物語の登場人物だからではない。原作知識があっても、春香が本当に何も持たない少女だったのなら僕は「そういうものだ」と受け入れていた。

でも目の前に居る少女がアイドルにならない未来は想像できなかった。だって、何度オーディションに落ちてもアイドルになることをを諦めなかったんだから。何度もオーディションに落ちたと言いながら、楽しそうにアイドルの話をする春香に僕は夢を持つことの光を見た。義務感で千早を目指した僕には春香の夢が眩しく映ったから。

 

「私ね、貴女に会って初めてアイドルになりたいって思ったんだ」

「えっ……? でも、アイドルになるためにオーディションを受けたんだよね?」

 

春香のそれは当然の疑問だろう。アイドルになるためにオーディションを受ける。春香にとってはそれは当たり前のことだった。でも世の中には僕みたいにアイドルにならなければならない者も居る。春香の様にアイドルになりたいからアイドルになる人間ばかりじゃないんだ。 僕のはイレギュラー過ぎるけど、親に言われて嫌々なんて子も中には居るのだ。誰もがアイドルをやりたくてアイドルを目指しているわけじゃない。まあ、それを今春香に諭す必要はないが。

 

「うん。私はアイドルになるためにオーディションを受けたけど、それって手段でしかなかったんだよね。そういう意味ではアイドルになりたいと思ったのは確かなのかな。でも、アイドルの仕事を楽しいと思えるかはわからなかった。だから私には貴女が輝いて見えた。天海春香という女の子が夢見るアイドル像を素敵だと思った。貴女の夢に光を見た。私の思い描いたアイドルが霞むくらいに、綺麗に見えた。私に夢を見させてくれた」

「夢……?」

「そう、夢。義務感でも無い、契約でもない、私がアイドルを目指してから初めて抱いた夢」

「千早ちゃんの、夢。それって」

「それは……うん、その前に私のこれまでを少しだけ聞いて欲しい。良いかな?」

「うん」

 

頷く春香に僕はこの二年間の話を語った。

春香と違い語る内容なんて全然無いけれど、春香には知っていて欲しかった。

 

「私はあの日、オーディションに落ちた時から止まっていた。自分の中にあった自信とか、輝かしい未来とか、できるだろう仲間とか、そういうキラキラした私の中の希望はこの両手から零れて消えて世界は色褪せた。アイドルじゃない自分はきっと如月千早である資格が無いと本気で思った」

 

僕にとって千早になることは絶対だった。絶対になるものだと思っていたし、絶対ならなければいけなかった。それが叶わなかったことで僕の心は一度壊れた。

 

「貴女達は先に行くのに、私だけ止まったまま。それがとても辛くて情けなくて、いつの間にか切り捨てていた」

 

世界が色褪せても、春香達の輝きは目に入って来た。灰色の世界でも色鮮やかに映える彼女達の姿は濁った僕の目には眩し過ぎた。だから耳を塞ぎ、目を閉じた。

 

「世界に自分の居場所なんてないと思った。だから虚構の世界に逃げて、それで満足できると思った。でも……そこでも上手くいかなくて」

 

今でもキョウと別れた日のことを思い出す。

あの時僕は前に進むキョウを応援してあげられなかった。自分が置いて行かれると思い、見捨てられたと感じて一方的に詰ってしまった。

本当はキョウの成功を喜んであげるべきだった。喜びたかった。よく頑張ったって、言ってあげたかった。

 

「本当の本当に何も無いんだなって思った。私がずっと求めて来た未来は全部嘘なんだ。この世界のどこにも私の居場所は存在しないんだ。私が生きる理由なんてない、生きて来た意味がない、そう思って全てを投げ出しかけた」

 

あと少し春香が僕の前に現れるのが遅かったら僕は死んでいただろう。いくらチートがあっても生きる意志の無い者を生かし続けることはできない。僕のこれはそういうタイプのチートじゃない。段々と心が摩耗し、腐るように死に果てたはずだ。

今回は僕が物理的に終わろうとしたから何とかなっただけ。優が止めずとも物理的なダメージで僕が死ぬことはないのだから。

 

「でもね……貴女が私を覚えていてくれた。それは私にとって救いだった。如月千早()を覚えていてくれたことで救われた」

 

春香が僕を覚えていてくれたことは救いだった。

アイドルじゃない如月千早()を覚えていてくれたことが「如月千早()如月千早()のままでいい」と肯定された気がしたから。

僕の死にかけていた心は再び熱を持ち始めた。結果として暴走して自傷行為に走ってしまったけど、心は確かに生き返ったのだ。

 

「貴女に覚えていてもらえた。気にしてくれていた。それがどれだけの救いになったか貴女はきっと解らないと思う」

 

誰も如月千早()を覚えていない。それがたまらなく嫌だった。忘れられることが怖かった。

だから春香が覚えていてくれたと知って嬉しかった。

 

「私は確かに救われたから。だから、自信を持って欲しい。貴女に想われるということは幸せなことだって。貴女の存在が皆の幸せになるって知って欲しい」

 

僕は如月千早だ。千早にはなれずとも、如月千早として生きていくことはできる。

春香の言葉で僕はそれに気付くことができた。

 

「だって、今日貴女に会って、私は夢を思い出せたから」

 

ようやく言える。僕が千早になるために目指したアイドルじゃない。僕がなりたかったアイドルの夢を。それはもう叶わないかも知れないけど、僕が持った夢だった。

 

「私がアイドルになりたいと思った理由。私の夢」

 

それは他愛もない。それでいて今の僕にとって絶対に叶うことが無い夢だった。

でも願ったんだ。春香を見て僕がアイドルになったその先を夢見たんだ。

 

「貴女とアイドルの仕事がしたい。貴女と楽しく歌いたい。それが如月千早()の夢だよ」

 

感極まった、と言って良いのだろうか。

僕の言葉を聞いた春香が涙を流し始める。それはさっき見た絶望の涙ではなかった。

 

「千早ちゃん……! 私も……私も千早ちゃんとっ、アイドルやりたかった……一緒に、やれたらってずっと、ずっと思ってたから!」

「私もこの二年間ずっと思ってたよ。貴女と過ごす765プロでの生活はきっと輝いていたと思うから」

「うん……うん!」

「そうだったら、春香の悩みとかちゃんと聞いてあげられたのにね。何だったら今からでも聞くけど?」

「うう~、千早ちゃぁん」

 

しばらく泣き続ける春香をあやし続ける。泣き続ける春香の口から時折思い出したようにいつも感じていた不安や仕事の愚痴を聞く度に、こういう話をする相手が居なかったんだなと春香の765プロでの様子を心を痛めた。

自分が765プロに居れば、なんて自惚れるつもりはなかった。春香にはああ言ったけど、僕が居てもきっと春香の悩みに気付いてあげられなかった。挫折して、自信を失って、夢を諦めていた今の僕だからこそ春香の悩みに向き合えた。だったらこの二年間も無駄じゃなかったと思える。

あと一歩だ。あと一押しの勇気を春香に取り戻させなくちゃいけない。

少しだけでいい、春香に未来を信じさせたい。

どうすればいい?

どうすれば春香は信じられる?

春香に未来を見せたい。

今の僕ができることはたった一つ。百の言葉を尽くすよりたった一つの可能性を春香に見せる。

だったらやることは一つだ。

 

「春香。貴女が取り戻してくれたこの声で貴女に可能性を見せたい。貴女が今日私にしてくれたことが、どれだけ価値があったのか、それを知って欲しい」

 

原作の千早は言っていた。

人の心に幸せを届けることできる人がアイドルならば、自分の歌でそれができるようになりたいと天海春香に語って聞かせていた。

ならば如月千早()はどうだろうか。

原作の千早と如月千早()は別人だ。中身が僕だから当たり前だ。しかし、如月千早()が目指したアイドルと千早が目指したアイドルは同じ物ではなかっただろうか。

僕が自身を如月千早だと自覚した時から、ずっと僕は自分の歌に自信を持っていた。

人の心に幸せを届けること。人の心を幸せにすること。多少の違いはあっても、僕の思い描く千早の歌とはそういうものだったはずだ。

僕は千早ではないけれど、千早という少女が思い描いたアイドルを彼女を通して目指していたのだから。

だったら、今それをやらなくちゃいけない。今がその時なんだ。

 

「私はアイドルじゃないから。春香と一緒にアイドルをすることはできない。でも──」

 

今なら言えるよ。

 

「貴女に歌を届けることはできる」

 

本当に、もっと早く気付けていればよかった。それこそ、オーディションの前に気付けて夢を持てていたら、僕は今春香とアイドルをやれていただろうか。歌を届けるだけではなく、一緒に歌えていただろうか。

……いや、それこそ夢だったね。

夢はいつか覚めるものだ。目が覚めた僕は現実を見なくちゃいけない。

 

「私は貴女とアイドルはできない。でも、こうして歌うことはできる。765プロの千早にはなれなかったけど、如月千早として貴女に歌を届けることができる。だから貴女には聴いて欲しい、私の(可能性)を。私の可能性()を知って欲しい」

「千早ちゃん……うん、聴かせて千早ちゃんの歌を。私は、見たい! 千早ちゃんの可能性を!」

「ありがとう、春香」

 

春香の言葉で覚悟は決まった。

僕は意識を集中すると再びチートをコールする。今この時に最も適したチートを呼び寄せる。

度重なるチートの使用により全身ボロボロだけど、あと一回くらいは使えるはずだ。いや、使ってみせる。

春香に歌を聴かせたい。春香に可能性を見せたい。春香を助けたい。

だから力を貸して欲しい。僕に”如月千早”の力を使わせて欲しい。

そんな僕の願いが通じたのか、この場に最も適したチートが発動する。

これは、この世界に存在しない歌。

765プロの皆が千早のために作った歌。

絆の歌。

決してこの世界では歌われることがないそれを、今僕は歌う。

千早を目指した如月千早()の最初で最後のステージライブは光り輝くステージではなく、何てことはない公園の中だけど、今の僕にはちょうど良かった。

 

「春香」

「千早ちゃん……」

(如月千早)のライブ。ちゃんと観ててね?」

 

曲は無い──道行く人が奏でる喧噪が聞こえる。

スポットライトも無い──夜空に輝く星と月明りと公園の照明だけだ。

観客はたった一人──春香が僕を見ている。

 

……何て贅沢なステージなのだろうか。

 

誰かが自分の歌を聴いてくれる。それがどれだけ恵まれた環境なのか僕はようやく実感できた。

嬉しい。春香が歌を聴いてくれる。あの春香に、(如月千早)の歌を届けられる。

気付いてしまえばなんてことはないのだろう。

 

結局のところ、僕は歌が好きだったのだ。

 

今更だけど。

改めて春香を見る。春香は真剣な顔で僕を見ていた。一瞬でも僕を見逃さないようにと、瞬きもせずに僕を見てくれている。

それだけで僕は歌える。

マイクが無い代わりに組んだ手を祈るように顔へと寄せる。

この歌は生まれなかった如月千早()に贈る別れの歌だ。

この歌は新しく生まれた(如月千早)に託す祝福の歌だ。

同じ歌でありながら二つの意味を込めて僕は歌おう。

そして何よりも、この歌を目の前の彼女に聴いて欲しい。

 

春香。

 

ありがとう。助けてくれて。

大丈夫、僕はもう歌える。貴女と優が取り戻してくれたこの声で、精一杯歌って見せる。

ありがとう。信じてくれて。

僕の可能性を見て欲しい。そして春香自身の未来を信じて欲しい。僕の歌がその助けになるならば僕は何度だって歌ってみせるから。

 

「この歌を、大切な人達と……出会うことがなかった、出会えなかった仲間達に……捧げます」

 

僕の初めてのライブを始めよう。

聴いて欲しい。これが(如月千早)(未来)だ。

 

 

 

「 約束 」

 

 

 

 

 

 

 

 

歌い終わった瞬間、春香に抱き着かれた。慌てて春香を抱き留めるも不意打ちに近かったので少したたらを踏んでしまう。

歌い始めてから今さっきまでの記憶が曖昧だ。薄ぼんやりと覚えてはいるんだけども何だか実感が持てない。

 

「千早ちゃん……千早ちゃん!」

 

しかし、涙を流しながら僕の名前を何度も呼ぶ春香を見る限り、上手く歌えたのだろう。それは何となくだけど覚えていた。

 

「凄いよ! 凄い! 千早ちゃんの歌を初めて聴いたけど、こんなに凄いなんて想像もできなかった!」

 

春香は何度も凄いと繰り返し僕の歌を褒めてくれた。

 

「あ、こう言うと何か期待していなかったみたいだけど、千早ちゃんが凄いってことは何となくわかってたけど改めてって言うか」

「いいよ。家族以外に歌ってみせたのはこれが初めてだし。二年くらい歌ってなかったから私も自信無かったもの」

「えっ!?」

「ん? どうかした?」

「い、いや、初めてでアレって……二年って……あ、あはは、違う意味で自信失くしそう……」

 

何やら凄くダメージを負ってるように見えるんだけど大丈夫だろうか。違うトラウマ植え付けてないよね?

 

「ありがとう、千早ちゃん。……また、助けられちゃったね」

「私は口下手で上手く言葉で伝えることができないから、歌うことだけしかできないから。これで助けになれたら良いんだけど」

「ううん、私は確かに千早ちゃんに助けられたよ。千早ちゃんの歌で、私がなりたかったアイドルを思い出せたから」

 

春香のなりたかったアイドル。

皆で一緒に楽しく歌うこと。

それを春香は思い出したのだ。嬉しい。春香が思い出してくれたことが嬉しい。僕の歌がそれを思い出すきっかけになってくれたことが嬉しい。

 

「今も、昔も。あのオーディションの日、私は千早ちゃんに助けられたの。だから、ありがとう。私のことを助けてくれて。天海春香()を覚えていてくれてありがとう」

「春香……私の方こそありがとう。助けてくれて。如月千早()を覚えていてくれてありがとう」

「そっか、私は千早ちゃんの助けになれたんだ……助けてあげられたんだね」

「うん。春香は私を助けてくれたよ」

 

春香は僕を助けてくれた。春香の言葉がなければ僕はきっと心を曝け出すことはできなかったろう。たとえ優に言われたとしても、僕は自分の想いを吐露することは無かったはずだ。誰よりも優にだけは言えない気持ちだったから。

優しか話し相手が居ないのに、その優に伝えられないストレスは僕をずっと苛んだ。優に言ってしまった言葉を僕は認めたくなくてずっと心の奥底にしまい込んで無かったことにした。それを思い出せたのは春香のおかげだ。だから春香は僕の恩人だ。

 

「春香は今でも可奈って子をアイドルに引き留めたい?」

「可奈ちゃんのことは……諦めたくない。これ以上は可奈ちゃんを傷つけちゃうかもしれない」

「その子の意に反してアイドルに引き留めることが不安? その所為で他の皆に迷惑をかけるのが嫌?」

「うん、私のやっていることって、可奈ちゃんにとって迷惑なんじゃないかなって思うと深く踏み込めない。皆にだってこれ以上迷惑かけたくない」

「私はその可奈って子を知らない。でも、アイドルを諦めたらきっと後悔すると思う。アイドルを諦めたことよりも、何かを諦める自分を嫌いになると思う。だから助けてあげて。春香がやりたいと思ったことを大切にして」

「私がやりたいと思ったこと……。いいのかな? もしかしたらそれよりも上手くやり方があるんじゃないかな。そっちの方がいいって皆も思ってるかも知れないよ?」

「そうかも知れない。可奈を諦めて、残った人間でやる方がいい結果になる可能性だってある。……それでも貴女は最後まで諦めちゃいけないと思う。今ある物を諦めちゃいけない。今ある全てが貴女の未来に繋がっているって信じて欲しい。他の誰でもない、貴女だから諦めちゃいけない」

 

挫折は誰にだってある。どうしようもなくて、夢を諦める時というのは誰にだって訪れるものだ。でも、自分から投げ出したら駄目だと思う。それをすると、ずるずると全てを諦めるようになってしまうから。

僕は可奈にアイドルを諦めて欲しくなかった。これは可奈のためではなく、春香に可奈を諦めて欲しくなかったから。酷く利己的で嫌になるが、やっぱり僕は春香には笑顔でいて欲しいから。

 

「だって、貴女は天海春香だから」

 

僕の知っている天海春香は、皆で楽しく歌うことが大好きな女の子だから。誰のことも諦めて欲しくない。たとえ皆の中に僕が居なくても。

 

「千早ちゃん……うん。そうだね。私、最後までやってみるよ! 可奈ちゃんには嫌われるかも知れないし、皆には迷惑かけちゃうかも知れないけど。でも最後まで諦めたくないんだ。皆でライブをしたい。今ある全部でライブを成功させたい」

 

昼間に言った言葉と同じものなのに、今春香が見せる表情はまったく別のものだった。

自信に溢れ、熱意に燃え、笑顔を浮かべるその姿は原作の天海春香の様にキラキラと輝いていた。

いや、もう春香は春香として輝いている。765プロのアイドル春香がそこに居た。

 

「だって、私は天海春香だから!」

 

良かった。本当に良かった。春香は答えを得たのだ。

さすが主役……なんて捻くれたことは思わない。今この時に答えを得たのは春香なのだから。天海春香(キャラクター)と同じ存在でも春香は春香以外の何者でもない。

 

「うん……安心した。春香がちゃんと未来を信じられて良かった。私ももう少しだけ未来を頑張れると思う」

「千早ちゃんの未来……? それって……また、千早ちゃんが……アイドルを目指すってこと?」

「あー……うん、そうかも。いや、そうだね。意外なことに私はアイドルを諦められてなかったみたい。春香の前で歌ってたら気づいた」

「意外じゃないよ! 意外なんかじゃないよ……だって、前に千早ちゃんが聞かせてくれたアイドルになった後のこととか、聞いてて凄いなって思ったもん! それだけの想いを持っていた千早ちゃんが諦めるわけないって信じてた!」

「それは黒歴史だから忘れて」

 

頼むからそれだけは忘れて欲しい。春香に語って聞かせたアイドルの話は中二病時代に書いた自分設定のノートくらい闇に葬り去りたい過去だから。

本当にお願いします。何でもしますから。わりとマジで。

 

「……ねぇ、千早ちゃん。一つだけ私の我がままを聞いてくれないかな?」

「何?」

「私たちのライブを観て欲しいの」

 

ライブ……。

それは当然アリーナライブのことだよね。

観たいか観たくないかと言われたら観たい。断る理由なんてまるでない。て言うかここまで関わったなら結末は自分の目で確かめないと気が済まないまである。

 

「でも今からチケットとか取れるかわからないけど」

「ライブのチケットは私が用意するから! アリーナ席のいっち番いいやつ! 千早ちゃんには一番近くで見ていて欲しいの。私の、私達のライブを!」

 

今からそんなチケット用意するとか無茶過ぎるだろ。それとも、こういうのって関係者にある程度優先的に回されたりするのだろうか。

 

「うん……観るよ。春香達のライブ。見せて欲しい、春香達の可能性を」

「ありがとう!」

 

笑顔でお礼を言う春香の表情には一切の不安も焦りも無かった。

それが僕の歌だけで起こした奇跡だとは思えない。きっとそれ以外にも春香の心を動かす何かはあったのだろう。それでも、自分の歌が少しでも春香の力になれたならば僕は満足だった。

僕は千早にはなれなかったけど、如月千早として手に入れたものは確かにあった。

優と春香。二人が千早ではなく僕によって救われたのというのならば、それは僕がこの世界で生きている証に他ならない。

今なら分かる。

春香は天海春香を知らない。でも天海春香になれた。

僕は千早を知っている。でも千早にはなれなかった。

でもそれで良いんだ。僕は千早にはなれない。それは仕方がないことだから。

だって僕は如月千早だから。

僕は僕として、如月千早として、自分の人生を生きればいいんだ。春香を見てそれに気付くことができた。

そういう意味でも春香には感謝しないとね。

ずっと心の奥で誰にも見て貰えなかった僕を照らしてくれた。千早という光から生まれた影で真っ黒く染まった如月千早を春香は照らしてくれた。

ありがとう春香。本当にありがとう。

 

貴女は僕のアイドル()です。

 

 

 

 

────────────────

 

 

 

それからのことを少しだけ語ろうと思う。

精神的に吹っ切れたことで僕は人間らしい生活に戻ることができた。鬱屈した精神はすっかり治っており、今では心身ともに健康体である。

いや、治ったという表現は少しだけ違うか。

僕は生まれた時から病んでいたのだ。千早でなければならないという強迫観念によりいつしか視野狭窄と異常な執着を持つに至った。千早と自分との違いに悩み、それが精神的ストレスとなって常にSAN値が下がり続けていたところで765プロのオーディションに落ちたことで発狂したというわけだ。

僕は如月千早ではあるが、必ずしも千早の人生を追う必要はないと気付いたことで正気に戻ったというのが本筋だと思う。

神と名乗る存在と何を契約したのか細かなところは思い出せていない。千早になることが重要だったことはわかるけど、それ以外はさっぱりだ。しかし、ここまで追い詰められるくらいだ、重要な何かだったのだろう。

それを破ったことでどんなペナルティがあるかはわからない。最悪僕という存在を無かったことにされる可能性もある。突然自分が居なくなった世界を想像して怖くならないと言えば嘘になる。僕は死ぬのは怖い。でも怖がって何もしないことで後悔をするのだけは嫌だ。あのまま絶望の中で生き続けよりも如月千早として生きる方がずっと良い。

まあ、この件についてはいずれまた考えるとしよう。今の僕にはやらなければならないこと、やりたいことがたくさんあるのだから。

とりあえず目の前の問題から解決して行こう。

 

「まっずーい! 本気でピーンチ!」

 

今日は春香達765プロのアリーナライブ当日だ。そんな大切な日の朝から僕はアパートでどたばたと暴れている。何故かと言うとライブに着て行く服を用意していなかったのだ。今慌てて服を押し入れから引っ張りだしている真っ最中。

服が無いことに気付いたのは昨日のことだった。我ながら遅すぎると思う。でも言い訳をするならば、色々と身の回りの整理をしていて服にまで気が回らなかったんだ。

いざ服を着る段階でまともな外行きの服が無いと気づいた僕の絶望たるや、戻れない状態でボス戦前でセーブしちゃったくらいの絶望感って言えば伝わるかな。

いや、待てよ? 別に僕がステージに立つわけでもないのだから服なんて何でも良いんじゃないか。それこそ普段出掛ける時に着る地味な色のやや男っぽい服とかでも良い気がして来た。原作の千早もズボン姿が多かったから問題ないと思うんだけど。

そもそも、こういったライブに行く時の正装って何が正解なの?

働いたら負けTシャツとかラブ765法被とか?

アニメとかのライブシーンで観客が着ていた服ってどんなだったっけ。さすがにそこまで細かい描写なんて覚えてないよ。

だったらジャージとかでもいいじゃないかな。もうジャージで行こうか。

とか思っていたら突然電話が掛かって来た。優からだ。

 

「良いところに電話をありがとう! と言うわけで、優ヘルプ! ライブに着ていく服がないのー!」

 

通話開始と同時に開口一番助けを求める。

頼れるのは我が愛しの弟ラブリー優だ。世界一可愛い優の世界一のセンスに僕は賭けるぜ!

 

『えっと、お姉ちゃんの部屋のクローゼットの右端に一式あるよ』

 

即答で解が返って来た。

頼っておいてアレだけど、マジで用意してあるとか意味不明なんだけど。

もしかしたら、僕の弟はエスパーなのかも知れない。もしくはタイムリープしてるとか。嘘やろ、僕は電子レンジを改造とかしてないよ。

 

『お姉ちゃんは自分で思ってる以上に分かりやすいからね。どうせ今回も服とか用意してないと思って、お母さんが買っておいてくれたんだよ』

「お母さんが……」

『今度お礼言いなよ?』

「うん。ちゃんと会って、言うよ。これからのことも含めてね」

 

あの日、春香と別れた僕はまっすぐ家に帰った。走って。お金無いって辛いわー。

家に着いたらまず優に電話するつもりでいた。絶対心配しているだろうし。しかし戻った僕は家に優が居て驚くことになった。ずっと待っていてくれたらしい。

優は僕の顔を見て上手くいったと察したのか「お疲れ様」と言って笑顔で迎えてくれた。

詳細を語って聞かせると優は凄く喜んでくれた。僕が自分から誰かのために動いたことが嬉しかったと言われのだが、そこだけ切り取ると僕がめちゃくちゃ冷血漢に見えるね。

何よりも僕の声が出たことが嬉しいそうだ。春香に歌ってみせたと言ったらさらに喜び「今度僕にも聴かせてね」と言ってくれた。

しかし、その後優から両親にも声が出たことを報告するべきだと言われて戸惑った。今更僕の声が出たからと言って両親が喜んでくれるとは思えなかったからだ。

それでも病院のこととか、生活のこととかあるので報告は必要だろと思い実家に電話を掛けたところ、まずオレオレ詐欺を疑われた。酷いや。

それまで一言も口がきけなかった娘から電話が掛かって来たのだから疑うのは当然と言えば当然だけど。まあ、すぐに声から本人だってわかってくれたので良かったが、今度はもの凄く喜ばれたことに驚くことになった。

てっきり「ふーん、そう、で?」くらい軽い返答だけかと思っていたので、このリアクションには面食らった。

電話越しに涙ながらに喜ぶお母さんと、会話を聞いていたお父さんの喜ぶ声が聞こえて、自分がどれほど親不孝だったのか知ることになった。

ずっと気を遣われていたことに今更ながら気づいた。原作で千早から離れていった二人とこの両親を混同していた自分をとても恥じた。

ところで優が今僕の部屋に居り、もう夜も遅いため今日のところは泊まらせるつもりだと言ったところ即迎えに行くと言われた。翌日は休みなのだから問題無いと言ったのだけど、「大問題だ」と逆に諭される結果になった。なんでだ。

優に理由を尋ねても苦笑いするだけで教えてくれなかったし。何か両親からの僕の扱いってよくわかんないんだよね。

まあ、優を迎えに来たお父さんをアパートに入れた結果なし崩し的に両親とも会うようになったので結果オーライと思うことにしよう。

その時にお父さんから実家に戻らないかと提案された。嬉しいと思う反面、出戻りみたいで恥ずかしいので回答を濁してているとお父さんは必死に戻るように言って来て戸惑うことになった。何でも優から僕の生活内容を聞いて気が気でなかったらしい。あまりに必死に言い募る親の姿に引いていると優が庇ってくれた。本当に優は逞しくなった気がする。何か男の子から男って感じになりつつあるね。僕を庇う優があまりに頼もしくかっこよかったので「優かっこいい、抱いて!」とかふざけて言ったわけだが。

何故か僕の一人暮らしが継続することになった。何でだ。

そんな感じに僕の一人暮らしは継続中だけど、お母さんがよく来るようになったので生活水準は若干上がった。お父さんも会社帰りにお土産片手に顔を見せてくれるようになった。

まだまだお互いにぎくしゃくとしているけど、少しずつ家族らしさが戻っている気がする。

 

「ところで、どうしたの今日は。まだ待ち合わせまでの時間はあるよね。私遅刻してないよね?」

『それは大丈夫だよ。電話したのは天海さんからお姉ちゃんにメールしたのに返事が無いからちゃんと読んでって伝言を言うためだよ。服のことも伝えるつもりだったけどね』

「えっ、メールなんて来てたかな? うーん、後で見ておくよ」

『できるだけ早く見たほうがいいよ。かなーり気にしてたから。千早ちゃんは大丈夫かなとか、部屋で倒れてないかなとか、メールしすぎて嫌われてないかなとか』

「春香は私のオカンか何かかな?」

『オカン属性かはともかく、ユニークな人だとは思うよ。お姉ちゃんって面倒な人に好かれやすいからね』

「んぅ?」

『じゃあ、僕も準備があるから切るね』

 

不穏な発言を残して優の電話が切れた。

優に言われた通りにクローゼットを確認すると外行き用の服が一式掛かっていた。その下には服に合った靴が置いてある。

靴まで用意してくれるなんて、本当にお母さんには頭が上がらないよ。

だが下がスカートなのは何でですかね。学校の制服は許せても普段着にスカートは未だに抵抗があるんだけどな。中学卒業とともにスカートの呪縛から逃れられたと思っていたのに。

うー、でも今から他の服を用意する時間もないし。何よりお母さんがせっかく用意してくれた服を着ないのも悪いし。

……仕方ないから着よう。

いそいそと部屋着から着替える。少し特殊な服でも千早が着たことがあるタイプならば何となく着込むことができる。今日もチートは絶賛大活躍中だ。

春香の前で歌ってからチートの精度というか適用範囲が広がった気がする。おかげで今の僕は昔目指した如月千早以上に千早だった。今のこれを知ってから昔の僕がチートチートと騒いでいたのを鼻で笑うレベル。

服を着こむとクローゼットから引っ張りだした姿見で全身確認してみる。

二年前から変わらぬ如月千早が女の子らしい服装に包まれていた。

薄い水色のワイシャツに大きめの襟が特徴的な紺のジャケットと紺色のスカート。あまり女の子女の子した格好ではないものの、普段着に比べたらかなり可愛い系のこれはぱっと見ギャルゲのヒロインみたいな服装だ。この世界を現実と理解し始めてはいても、こういう服装に関してはたまに現実離れしたものがあるから感覚が狂うね。

最後にリボンも着けるみたいだけど、さすがにリボンは恥ずかしいので一度解いてからネクタイの様にゆるく巻いてみた。

出来上がりは上々だと思う。少なくともジャージ姿よりは良いはずだ。

会場で春香に会うことはないだろうけど、春香の友人としてやはり恥ずかしい恰好はできないよね。

そうそう、春香とは友達になった。

あの日から数日して可奈の問題が解決したと報告しに来た時に友達になった。春香曰く初めて会った時から友達だと思ってくれていたらしい。今回改めて友達になろうと言って来た時は若干泣きそうになったそうだ。それは申し訳ない。前回言い出せなかった連絡先の交換もその時やった。

可奈の件も解決できて良かったと思う。あのままアイドルを諦めていたらきっと後悔しただろうからね、可奈も春香も。きっとアイドルってものは簡単に諦められるものじゃないんだ。僕が諦めたのは千早になることで、アイドルになろうと本気で思っていたわけじゃなかったけど。それを春香と接して気づくことができた。

春香はこの人生で初めての友達だ。小学校からリアルな友達なんて作れたためしが無かったので春香には感謝している。

アイドルになったら忙しくなるから友達なんて不要と切って捨てていたから。どうせ765プロの皆と仲良くなるし。そんな考えから友達一人作らなかったおかげでニート時代に無意味に干渉して来る輩は存在しなかったけど、今になってもったいないことをしていたと思っている。

春香とは暇な時間にメールしたり、夜に電話したりと結構頻繁に連絡を取り合っていた。

春香はメールをすればすぐ返してくれるし、翌日仕事があるというのに長電話に付き合ってくれたりと僕のリハビリ(?)に彼女の存在は大きく関わっていた。まあ、さすがに仕事の前日に長電話は悪いと思い自重するようにしたが。

友達の居ない僕を気遣ってか春香は何気ないことでも連絡をくれる。時間も場所も問わずにね。ライブのチケットが取れた時なんてその場で電話してくれたらしい。どういう場面で電話を掛けたのか不明だが、プロデューサーと秋月律子の声が聞こえたということは仕事中だったんじゃないかと不安になった。いくら気を遣っているとは言え少し頻度と場所を考慮した方がいいかも知れない。あとやたら長文なのも頑張り過ぎな気がする。

そんな感じに生真面目にも連絡を取り続けてくれた結果、事務所で僕とメールしている姿を765プロメンバーに見られて双海姉妹から彼氏かとかおちょくられたそうだ。その時は曖昧に回答を濁したらしいが。……いや何故あえて濁したし。すっぱり否定しておけよアイドル。

プロデューサーがハリウッドに一年間研修に行っている間にスキャンダルでアイドル引退とか止めてよね。実際はメール相手が女って時点で疑いも晴れるだろうけど、そういう話題って後を引くからなぁ。

後を引くと言えば、あの凛との関係は表面上落ち着いたらしい。あれだけ春香を責めていた凛が矛を収めるとは思わなかったが。可奈の問題が解決したことで気が変わっただけならいいんだけど。何か燻ってる気がするんだよね。

 

「っと、そうだメールメールっと」

 

春香からメールが来ているんだった。

あまり返事が遅くなると悪いからね。ケータイを取り出してメールを確認する。

 

「……へあ?」

 

何か春香からもの凄い量のメール来てるんだけど。ひぃふぅみぃ……二十から数えるのは止めた。

内容はライブ楽しみって短文から始まり、次のメールで今忙しいのかという質問からだんだんと分量が増えていき、最新のメールでは二十行くらいの長文になっている。

筆まめなのかな?

とりあえず返す文面は当たり障りなく『今日着て行く服のコーデに迷って反応が遅くなったの。ごめんなさい』とでもしておこう。

送信っと。……すぐにメールが返って来た。早いよ。

内容は『無事だったらいいんだよ。ごめんね、長々とメール送っちゃって。今日のライブに千早ちゃんが来てくれると思うと楽しみで気が逸っちゃった』というものだった。

これ見ると普通の文面なんだけど、送信してから返信まで一分くらいだったんだよね。速記検定持ちなのかな。

ライブ前に何度もケータイをいじらせるわけにもいかないので『本番前にケータイで遊ばないように。ライブ楽しみにしてるから頑張って!』と送っておいた。

その後『うん! 今からちゃんとするよ。千早ちゃんには最高のライブを見せるからね!』とだけ返って来たので春香の方は大丈夫だろう。

さて、僕もそろそろ出かけるとしようか。

最後に姿見で全体を確認する。特に問題はないのでよしと一回気合いを入れた。何せ今日のライブは優と見るのだ。気合いの一つくらい入れたくなる。二人分のチケットを用意してくれた春香には感謝してもし切れないね。

アパートの玄関を潜りながら優のことを考える。

今回僕が自分の内面を吐露し春香を追いかけることができたのは優のおかげだ。優が居なければ僕は春香を追うことはできなかった。それ以前に声を出すこともなかった。

原因を辿れば僕が優へと暴言を吐いたことがきっかけだが、それを含めて今こうして如月千早として生きていられるのは優のおかげと言っても過言ではない。

ずっと僕のことを支えてくれていた優を僕は前以上に大切に想っている。それは千早の弟だからという理由ではない。僕の弟だからという理由で優を大切に想うのだ。その気持ちは千早でも如月千早でもなく僕自身の気持ちなのだと自信を持って言える。

優とは前以上に仲良しになった。千葉か八王子だかの兄妹が嫉妬するくらい……は少し言い過ぎかもだけど、前よりも仲良しなのは確かだ。

あの日以来、優が僕の世話を焼きに来ることは無くなった。僕が断ったのだ。ずっと優に助けられて来た自分から脱却するために決めたことだ。

まあ、その代わりと言っては何だが、ちょくちょく家に遊びに来てもらったり、こうしてお出掛けに付き合ってもらうようになったので一緒に居る時間は逆に増えた。

昔ならばいざ知らず、今の僕は優の姉として一応体裁は整えられているのだから、外で一緒でも問題ないのだ。

今日の服装だって一時期の芋女ファッションとは違ってまともだし。優も隣を歩いて恥ずかしいなんてことはないはずだ。

本音を言えばスカートじゃなくてズボンを履きたいんだけども、優曰く「お姉ちゃんもせっかく女として生まれたんだからもっとお洒落すべき」なのだとかで、最近はスカートを履く機会が増えた気がする。別にお洒落とか今更しても仕方ない気がするんだけど。

と言うか今の僕って大丈夫なのか?

お母さんの買ってくれた服をほぼそのまま着ただけだが、この世界のお洒落とかその辺りの感覚がわからないから良いのか悪いのかわからないぞ。自分としては悪くはないと思うし、何よりせっかくお母さんが見繕ってくれた服だから文句もスカートなこと以外特に無い。

……そのはずなんだけど。アパートを出てからずっと周りの視線が痛いんだけど。道ですれ違う人々が僕を見ている気がする。

なんだよ、そんな見ても面白い物なんてないぞ。アイドルの千早ならともかくここに居るのはただの僕だ。

謎の居心地の悪さに背中を押される形で早足になっていたのか、優との待ち合わせ場所には少しばかり早く着いてしまった。

わざわざ外で待ち合わせした理由は、単純にアパートと実家の距離から考えて外で待ち合わせるのが効率がいいと判断した結果だ。

ここからだと実家の方が遠いので優が後になるのは当然だ。と言うかそれがなくとも僕の方がお姉さんなんだから僕が先に着くべきだ。今回はちょっと早く来すぎたかも知れないが。

ケータイで時間を確認すると、待ち合わせまで三十分以上ある。あ、春香からメールだ。『今ライブの最終調整中だよ』って、調整に集中しろし。『集中、大事』とだけ返しておこう。

今度は優からだ。『もう着いた? 僕はもう少し掛かりそう』だって。慌てさせちゃ悪いから『私ももう少しー』と返しておこう。

ちゃんと連絡して来るなんて、さすが優だ。紳士過ぎて尊い。優が将来恋人とか作ったら絶対優しくするよね。相手は年上だろうか、しっかり者の優なら年下もありだろう。優を尊重して大切にしてくれる人なら歳は気にしない。ある日突然優に恋人を紹介されたらどういう反応をすべきだろうか。笑顔で歓迎する? それとも一旦ツンツンした態度をとってから後でデレて「優が選んだ相手だもの、認めるわ」とか言ってみるか。まあ、優が選ぶ相手に間違いとかあるわけないんだけどね。マジ優尊い。愛してるわー。

そんな優の恋人に僕はなんと紹介されるのだろうね。

「自慢の姉」なら花丸。

「不肖の姉」なら当然。

「不遇の姉」なら涙目。

「姉……知らない存在ですねぇ」なら死亡。

普通に考えて中卒引きニートの姉とか地雷過ぎて紹介できないわ。そう思うと僕って優の人生にとってお荷物だよね。思春期特有のニキビ以上に邪魔臭い存在じゃないかな。いや優の顔にニキビなんてできるわけがないんだけどね。優の肌は綺麗だから。舐めても平気なくらい綺麗だから。舐めたことないけど。

しかし恋人に紹介してもらうとなると、僕もまともな職に就く必要があるんじゃないだろうか。ちょっと人生設計を真面目に考えてみる必要があるかも。

とりあえずアルバイトでもしながら通信で高校にでも通うとかどうだろう。両親も安心するし、家賃を自分で払えたら負担も減ると思う。

高卒認定を取ったら大学にも行きたい。一流とはいかないまでもそこそこの大学に入って、サークル活動したり、就職に有利そうなゼミに入ってコネ入社を……コミュ障だから無理か。サークル活動とかも女子同士の軋轢とかありそうで無理だわ。サークル活動するくらいなら今から適当なスポーツのプロ選手を目指す方が建設的だって話。マラソン選手ならこの瞬間にでも世界狙えると思う。今のフルマラソンの世界記録って何分だっけ? 四十分くらい?

とにかくまともな生活を送って家族を安心させたかった。アイドルを目指すかはその後ゆっくり考えて行こうと思う。

二次選考まで進んでいた346プロダクションのオーディションは結局受けていない。

と言うか受けられなかった。

理由は単純。二次審査が終わっていたのだ。さすがに一か月も放置していればそうなるよね。

まあ、一次審査は中学時代の写真で通ったものなので、二次審査を受けたとしても落ちていただろう。きっと審査員には別人としか映らないはずだ。

確かに僕は声を取り戻した。歌も歌えるようになった。ダンスだって踊れる。でも笑顔まではそうはいかなかった。

僕はもうあの頃のように笑えない。

長い間使わなかったからか、僕の内面が変わってしまったためか、二年前まで簡単にできていた笑顔が今はまったく作れないのだ。

薄く笑うことはできても満面の笑みというものを作れない。優は前の笑顔よりも好きだって言ってくれるけど、自分の中ではこのことを消化しきれなかった。あれだけ頑張って練習したエヘ顔ダブルピースはどこへ行ってしまったのか。

笑顔なんて、笑うなんて誰でもできることだ。アイドルにとって基本スキルとさえ言える。歌が下手でも踊りが下手でも笑顔があればアイドルは輝ける。そう思う僕にとって笑顔を失ったのは痛手だ。

でも前程絶望はしていない。少しずつでも笑顔を練習していけばいい。一度駄目になったくらいで諦めない。それにこの一次審査だって優に出してもらっものだし、今度は自分の意思でオーディションを受けよう。

千早になることを諦めた僕だけれど、それ以外のものを何一つ諦めないと決めたんだ。アイドルにだっていつの日かなってみせるさ。

それはそうと優はどうしただろうか。メールがあってから結構経った気がするけど。

 

「あの……せめて、お話だけでも」

 

優を捜すために意識を外へと向けると、目の前に見知らぬ男性が立っていることに気付いた。

今の台詞からして、どうやらずっと僕に声を掛けていたらしい。あまりに集中していたためスルーしていたようだ。

悪いことをしたと思い謝ろうとしたところで気づく。それまで同じように待ち合わせをしていた周りの人達がごっそりと消えていた。唯一残っているのが今僕に声を掛けて来た人だけ。

何だこれ。集団消失事件か何か?

突然の超常現象に戸惑った僕はろくな反応もせずにもう一人の顔を見る。って背が高いな。

相手の男性は軽く見上げる必要があるくらい背が高かった。少し首を傾けて相手の顔を見ると、やけに鋭い目と合う。ぱっと見脛に傷持つタイプのご職業の人に見えなくない。

これ、人が去ったのこの人の所為じゃないか。もしかして僕は逃げ遅れたのかな?

しかしよく見ると落ち着いた空気を纏う生真面目な人だとわかる。こういう直感的に善人か悪人かわかるのは元の世界と比べてこちらが単純にできているからだろうか。ある意味メタ的な物の見方ができるのは転生者の特権なのかもね。

 

「……私、ですか?」

 

僕しか居ないけど、万が一僕以外の人に話しかけているパターンもあるから一応尋ねてみる。

これで違うとか言われたらこの人やばい人だったわで終わるのだが、やはり男の目的は僕だったらしく短く「はい」と言われてしまった。僕が反応を返したことに安心したのか、男の表情が若干ほっとしたものになった。

 

「何か御用ですか?」

 

僕が再び尋ねると、男が今度はただでさえ鋭い目付きをさらに釣り上げる。

ぶっちゃけ怖いんですけども。さっきは善人か悪人かわかるとか言ったけど、善人でもやばい奴とか居るから。某神父みたいに「暴力を振るって良い相手は悪魔(バケモノ)共と異教徒共だけです」とか言う輩も善人に属されるので油断できない。

よく見ると遠巻きにこちらを窺っているいる人が何人か居た。中にはケータイ片手にどこかに通報しようとしている人までいる。そこまで必要とは思えないけど、無関心を装って見て見ぬふりをしないのはポイント高いよ。

一応今の僕ならば一般人程度腕力のみで挽き肉にできるから、仮にこの人が何かして来ようとしても特に危機感を抱くことはない。むしろこの場で猟奇殺人めいた罪を犯すわけにもいかないので、どう処理するかの方が問題だった。

できるとしたら「チヒャー……ぼ、防御たのむ」とか言った後に心臓抜き取るくらいか。いや、殺してるじゃん。

そんな馬鹿な考えを僕がしていると、男は一度唾を飲み込んだのか喉をごくりを鳴らし用件を告げた。

 

「アイドルに興味はありませんか?」

「……はい?」

 

時計の針が進む音が聞こえた。

 




千早覚醒完了。
ここからは346プロ編。つまりアイドルマスターシンデレラガールズ編となります。ようやく本編はーじまーるよー。
絶望して投げ出して諦めて、それでもやっぱり捨てられなかったものを拾い上げて、必死で希望をつかみ取ったことで千早は変わることができました。
でも如月千早0歳児はまだ前世を引きずって失敗するし、千早と自分を比べて情けない思いをするかもしれません。それでも何も諦めないと誓った心は絶対に折れることはないでしょう。
今後とも千早ちゃんのサクセスストーリーをよろしくお願いいたします。

※凛については色々と考えましたが、現状つんつんしてるだけのキャラになってもらいます。これは設定改変というよりは、とある人物の行動の結果生まれた選択肢の一つとして書いています。
 凛も不穏な感じですが、春香の方も実は何も問題が解決していません。その他CPメンバーとの関係等、この千早はアイドル活動よりも人間関係で苦労するタイプ。



えー、以下色々とあとがきにて書きたかったことがあります。
各キャラの設定とか、原作との違いとか、そういうあれこれを書きましたが、ネタバレを含んでしまうので泣く泣く全カットしました。
意味深なセリフとやり取りは別視点での補足説明という形にいたします。
今のところ別視点があるのは、優、春香、武内Pをそれぞれ1シーンずつ、1話にまとめたもの。凛は1話まるまる。それぞれの千早の印象を幕間の物語として出したいです。
一般人(優)、アイドル(春香)、プロデューサー(武内P)、???(凛)から見ると千早がどう映るのかというのがわかるような短編にしたいです。たぶんそれぞれまったく違う人間に見えることでしょう。

今回のお話で千早がアイドルを始めるためのプロローグ終了です。
本当は1話目でプロローグは終わる予定でしたが、千早がどういう人間か掘り下げているうちに3話分になりました。
1話目1万文字、2話目2万文字、3話目にして5万8千文字です。アホです。
4話目からはなんとか長さを調整したいと思います。5万文字は超えないように。

長々とプロローグを書きましたが、乱雑になりすぎたので簡単に千早の変化を書くと以下になります。
転生したぞ→どうやらアイマスの千早に転生したらしい→何故かわからないけど千早にならないと(強迫観念)→弟が死なないと千早になれない→弟は現実に生きているから死ぬなんてだめだ→千早以上の千早になるぞ→765プロ落ちる→千早以外の生き方を知らないから何もできない
二年経過
千早のいない765プロが成功なんて無理じゃろ→アリーナライブ?バックダンサー?千早いらないじゃん僕要らないじゃん(アイデンティティの喪失)→みんな僕を嫌う。僕を忘れてしまう。→優「お姉ちゃん好き」春香「私は覚えてるよ」千早「やったー!千早ちゃん大勝利!」

以上。登場キャラ屈指のチョロインでした。


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アルティメットな笑顔

346編開始。
間を開けてしまいました。遅筆で申し訳ありません。

4話はアニメ第1話の時期にあたります。原作同様に導入部ということで特に山場はありません。相変わらず千早がぐだぐだするだけです。

今回文字数を少なくするよう頑張りました。
前回のあとがきで文字数を少なくするという約束でしたので・・・。


 春。

 それは出会いの季節。

 進学や進級を経て新しい学友を得る人。就職戦線を乗り越え社会人として世に羽ばたく人。これからの期待と不安が混ざりながら新たな人の繋がりが生まれる季節。

 春。

 それは別れの季節。

 卒業を機に友達と別の道を歩くことになる人。親元を離れ一人暮らしを始める人。これまでの絆の深さがそのまま別れの悲しみになる人の繋がりの儚さをしる季節。

 喜びと悲しみが同時に存在する矛盾した季節。

 出会いがあれば別れがある。当然のことだ。

 ほら、ここにも一つ別れのシーンが……。

 

「優、行かないで! 優が居なくなったら私は!」

 

 倒れそうになりながらも必死で優へと手を伸ばす。冷たい床に膝が当たり痛みが走るが気にしている余裕はない。

 

「お願い、お願いだから……考え直して!」

 

 何とかギリギリで優の足へと抱き着いた僕は必死に思い直すよう懇願した。

 優がそっと僕の手を解こうとするので必死で抵抗する。この手を離さないと誓ったんだ。

 お願いだから行かないで。優が居ないと僕は……。

 

「ごめんお姉ちゃん。僕、行かないと」

 

 でも優が僕の願いを聞き入れる様子はない。

 申し訳なさそうにしながらも確固とした決意で僕の腕を引き剥がそうとする。

 僕はそれに抗おうと腕の力を強めた。しかしその前に優が上手く自分の足と僕の腕の間に手を入れることで牽制して来た。それだけで僕は力ずくで優を引き付ける術を失った。こうすれば僕が優の手を潰さないため力を入れられないとこの子は知っているのだ。

 優に思い留まって欲しいのに。力を入れてしまえば優を傷つけるかもしれないから本来の力を僕は発揮できない。

 現実の無情さに僕は涙する。この時点で僕の敗北は決定しているのだ。今はそれを引き延ばしているに過ぎない。優の意思は変えられない。僕はこの子を引き留められない。

 優が居なくなる。

 嫌だ……そんな、せっかくここまで来れたのに。

 

「優、優優! お願いだから……!」

「ごめんね、お姉ちゃん……僕」

 

 行かないで!

 僕の必死の願いが叶うことはなかった。優が僕の手から足を引き抜き一歩下がる。支えを失った僕は前のめりに倒れた。

 そんな、優……。

 

「さすがにこの歳で一緒にお風呂に入るのは無理だから」

「なんでええええ!」

 

 脱衣所から出ていく優に手を伸ばすが無情にも僕の目の前で扉が閉じられた。

 そんなあっさりと閉めないでよ。もう少し名残惜しそうにしてよ。

 約束された栄光が目の前で儚く散った現実に僕は脱力した。

 

「床がキンキンに冷えてやがるよー」

 

 もう春なので大して冷たくもないんだけどね。今の僕は下着姿のため床に触れる肌面積が広い。おかげでひんやりとした床の感触を直に感じられる。

 せっかく優とお風呂に入れると思ったのに。こんなのあんまりだぁ。

 

 

 今日は優が初めてアパートに泊まる記念すべき日だった。

 実は一人暮らしを始めてから今まで優が泊まったことは一度もない。何度となく優に泊まってくれるようお願いしていたのだけど、あの子が首を縦に振ってくれなかった。どうやらお母さんからお泊りを強く禁止されていたらしい。

 いくら中学生の息子が心配だからって、実の姉のアパートに一晩泊まるくらいの冒険は許すべきじゃないかな。泊まってくれたなら僕は優をたくさん可愛がるのに。そう必死で訴えかけても両親が首を縦に振ることはなかった。むしろこの話をしたことで、余計頑なになった気がするんだけど。

 しかし僕は諦めなかった。両親への説得を繰り返し、時にお願いし、たまに甘えたりして懐柔し続けていった。特にお父さんへの甘え攻撃は効果的だった。ちょっと甘えた声でお願いし続けたら僕の味方になってくれた。ちょろいわー、うちの父親ちょろいわー。

 後は優本人の説得だけだったが、こちらは意外にも簡単に達成した。前は渋っていたのに、今回に限ってすんなり了承してくれた。

 あとは三対一でお母さんを説得したところ、根負けしたお母さんから優のお泊りの許可が下りた。

 優が泊まりに来る。そのことに僕のテンションは上りに上がった。優が泊まりに来る前日から部屋の掃除を念入りに行い、優の好きなジュースやお菓子を買い込んだりして優を迎え入れる準備を整えた。

 当日のお昼過ぎに優がアパートにやって来た。その手にはお菓子が入った袋を持っている。こちらでも買うから必要ないと言っておいたのにわざわざ買って来てくれるなんて、やっぱり優は世界一良い子だと感動した。こんな良い子を弟に持てた僕は幸せものだ。

 優が持って来たお菓子と用意しておいたジュースで乾杯する。その瞬間アパートの一室が高級ホテルのスウィートルームになったみたいに華やいで見えた。優が部屋に居る。ただそれだけのことが嬉しい。優と過ごす時間は僕にとって何ものにも勝る。本当に幸せ過ぎて実はこれは夢なんじゃないかと頬を力いっぱい抓っても起きる気配はないので現実だとわかる。確認する時に頬の肉がちょっと取れかけたけど問題ない。

 ここが現実世界だと確認した後はお菓子とジュースを楽しみながら優とお互いの近況を報告し合った。

 優は今年中学二年に進級する。この一年で背が伸びた優は僕の身長をすでに追い越している。十五歳から成長が止まっている僕を見下ろす日もそう遠くないだろう。弟の成長がこんなに嬉しいだなんて、生まれ変わらなければ味わえない感覚だった。大好きな弟がどんどん男の子から男に成長していく姿を見るのは言葉にできない感動を僕に抱かせる。きっとこの気持ちは姉というよりも母親の感覚に近いのだろう。あんな小さかった優が立派になって僕も鼻高々だった。具体的にどれくらい成長したのか知りたいくらい。

 そう言えば優と最後にお風呂に入ったのはいつくらい昔だったろう。思い返してみると優がまだ小学校に入ってすぐの頃は一緒に入っていた気がする。確か僕が優の体を全身くまなく洗っていると知った両親が止めるよう言って来たんだっけ。まだその時小学生だった僕と二人っきりだと不安だったのかもね。だからといって両親と入るのもお風呂場のスペース的に辛い。何より年齢的に親と入るという羞恥プレイは避けたかった。それから今日まで両親の監視下にあったため優とお風呂に入ることは封印されていた。しかし今は違う。うるさい両親は居ない。お泊りはオーケー。だったら一緒にお風呂に入って弟の成長をこの目でしっかりと確認しよう。これも姉の仕事だよね。

 

 ……そう思っていたのに、蓋を開けてみれば今こうして優からの全力の拒否を受けてしまい撃沈している。

 久しぶりに背中でも流して労ってあげたかったのに。きっと姉にお風呂で世話になるのが子供っぽくて嫌だったんだね。そういうところが逆に子供っぽくて可愛いと思う。

 仕方ないので一人で入ろう。

 

「あー! 優と一緒にお風呂入りたかったなー!」

「部屋中に響く声で恥ずかしいこと言わないでよ」

 

 扉越しに優がこちらを窘めてくる。ごめんね、無駄に通る声でごめんね。

 

「ごめんね、声大きかったね。ごめんね、嫌わないでね?」

「ううん、別にそこまで大きいわけじゃないから大丈夫だよ。嫌わないって」

「優が優しいよおおお! 大好きだああああ!」

「声が大きいよ」

 

 今のは駄目だったようだ。加減が難しい。

 

「ねー、一緒に入ろうよ」

「無理だよ」

「今なら全身綺麗に洗ってあげるサービス付きだから」

「それが無理だから言ってるんだけど」

 

 うーむ、全身洗うだけじゃサービスが足りないと申すか。昔は洗ってあげるっていうと喜んで一緒に入ってくれたのに。あー、楽しかったな優の体洗うの。石鹸を大量に泡立て全身を泡だらけにしてあげると無邪気に喜んでくれたなー。

 洗ってあげるだけで釣れるのは小学生までか。だったら中学生の優向けのサービスを新たに考える必要がある。

 でも何をすれば優が釣れるかわからない。わからないなら直接優に訊いてみよう。案外アイス一個でいけるかもしれないし。

 

「じゃあ優が好きなサービスつけるから。何でも言っていいよ? 私にできるサービスなら何だってしてあげるから」

「……」

 

 あれ、優からの反応がない。気配は扉の前から移動していないので、そこに居るのは確かなのに……。

 ハッ、もしやサービスについて色々と考えてるのかも!

 考えているということは、考慮に値するということ。つまりもうひと押しでいける?

 

「ん? アイス? アイスかな? 今なら二段アイスにしちゃうよ!」

「……お姉ちゃんってさ、たまに本当に十七歳なのか不思議に思うくらい精神年齢がアレだよね」

 

 優の言葉にドキリとする。

 僕の精神年齢は前世含めると結構高い。一度リセットされているとはいえ、前世の記憶の分同い年の子達より心は成熟しているはずだ。

 まさか今のやり取りで優に僕の精神年齢の高さが見抜かれてしまったのだろうか。

 さすが優だね。慧眼だよ。どうやらアイスは選択肢として失敗だった。

 ここはもう少し十七歳らしいものを言うべきだった。

 たい焼きとか……。

 

「い、いやだなー! 優ったら何言ってるの? 私は身も心も十七歳だよ。逆に十七歳じゃなかったら何歳かってくらい十七歳だし。……ゆ、優から見ても十七歳だよね?」

「んー……十歳?」

「なんでええええ!?」

 

 まさかの年下扱いを受けていた事実に驚愕です。

 何てことだ。今までお姉ちゃんとして接していた優から逆に年下扱いを受けていただなんて。

 ずっと僕がお姉さんだと思っていたのに、優の中では僕の方が妹だったということか。道理で体を洗われるのを嫌がるはずだよ。

 そうだよね、妹にお風呂で世話になるのはお兄ちゃんとして恥ずかしいものね?

 僕を妹として見ていたなら仕方がない。ここはひとつ大人として優に合わせてあげるとしよう。

 

「しょうがないなー。お兄ちゃんがそこまで言うのなら、洗う側に回っていいよ?」

「いや、言ってないから」

「あっれー?」

 

 おかしいなぁ。洗われるのが嫌だから洗う側ならどうかと思ったのに。優には魅力的に映らなかったようだ。

 

「何を言われても無理なものは無理だから。お姉ちゃんも、風邪ひかないうちにお風呂に入っちゃいなよ? その後僕も入るんだから」

 

 優が扉の前から離れるのを感じる。

 声だけを聞けば今の優からは拒絶しか感じなかっただろう。しかしそれは大きな勘違いなのだ。優も内心では僕とお風呂に入れずに残念がっているのはわかっている。大方両親からここに来る前に一緒のお風呂は止めるように言われていたのだろう。本当に余計なことをする親だな。優が一人でお風呂にも入れない駄目な大人になるとでも危惧しているのだろうか。優はそんな軟弱な子じゃないのに。

 優の気持ちももっと考えてあげないといけないんだぞ。その点僕はちゃんと把握できている。

 今も優の心理を把握済みだ。

 扉越しに聞こえる優の筋肉と関節の音、あと衣擦れの音から優がかなり前のめりになって歩いているのがわかる。これはアレだね。僕とお風呂に入りたかったけど、親に言われているため断らざるを得なくて、肩を落としているという感じだね。

 そんな落ち込むくらいなら一緒に入ればいいのに……。

 という、優が親の言いつけをきちんと守る良い子というエピソードであった。

 

 

 お風呂から出ると優から意外そうな目を向けられた。

 何だろうね。そんなに僕のパジャマ姿はセンスないのかな。

 

「何かなー?」

「……お風呂上りにちゃんと服は着るんだね」

 

 いやだな、いくら僕だってお風呂上りに全裸や下着姿で歩き回るわけないじゃない。

 

「そんなはしたないことするわけないでしょ? もー、優ったら私を何だと思ってるのさ」

「……」

「あれ、何で目を逸らすのかな?」

 

 優の中の僕の評価ってどうなっているのかな。一度お互いの認識のすり合わせをしたいのだけど。あ、やっぱり怖いからやめておこう。

 僕の中の優の評価?

 そんなの世界一可愛くて純真無垢な小悪魔系大天使に決まっている。世に弟選手権があったらぶっちぎりで優勝間違いなしなほど優は弟レベルが高いのだ。

 

「前にお客が来てた時にバスタオル姿で出ちゃったことがあって」

「え、それ大丈夫だった?」

 

 優が心配そうな顔で訊いて来る。僕はその反応に心が温かくなるのを感じた。僕の身を心配してくれる姿が愛おしい。

 弟に心配させないために事情を説明しておこう。

 実はそのお客というのは春香だった。765プロの事務所から家までが遠い春香は、事務所での仕事が長引いた日には自分の家に帰らずに僕の部屋に泊まりに来ることがある。

「つい打ち合わせに熱が入っちゃう」というのは春香の言だけど、やけにその頻度が高い。泊まること自体に問題はないけど、春香の体が心配だ。

 アイドルに夢中になる春香の姿を見るのは嬉しい。でもそれで体を壊したら意味がない。僕の家に泊まるようになる前は終電間際の電車に長い間揺られていたと思うと春香の忍耐力に感心させられる。同時にその忍耐力の所為でいろいろと溜めてしまっているのだろう。僕の家に泊まることで少しでも彼女の負担が減るならばいくらでも泊まってくれていいと思う。

 と、前に春香に伝えたところ、顔面の筋肉が全部切れちゃったのかと思うくらい緩んだ笑顔になっていた。よほど通勤時間が長いのが辛かったんだね。今度また労ってあげよう。

 

「うん、そのお客が春香だったんだけどね、春香に驚かれちゃったから、それからは着て出るようにしてるんだよ」

「え!? それ大丈夫だった!?」

 

 何で同じことを訊いたのかな。しかも最初よりも必死さが段違いなんだけど。相手は春香なんだからそんな必死になる必要なくない?

 

「春香は女の子だから問題ないでしょ。さすがに私だって男の人相手にそんな恰好しないよ」

「いや、そういう意味じゃなくて、何かされなかったかと心配で」

「別に春香もそれくらいで怒る子じゃないから大丈夫だよ。心配し過ぎだって」

「ぎりぎりでチキンになるタイプだったか」

「にわとり?」

 

 優の言っている意味がよくわからなかったけど、何やら納得しているところを見ると優の中ではこの一件は問題なくなったようだ。

 

「あ、それからバスタオル一枚で出るのは止めなよ? 天海さん相手でもやめてね」

「うん、わかってるよ。やるとしても優が居る時までにしておくよ」

「やめてね?」

「はい」

 

 バスタオル一枚で出るのを窘めると優はお風呂場に向かった。当然着替えは持って行った。

 僕はそれをソファの上から黙って見送る。ここで一緒に入ろうと言っても断られるだけだと知っているから。

 まだ一緒にお風呂に入るのを諦めていない僕は次善の策を展開する。優が中へと消えたのを確認した僕はそっと足音を消しつつお風呂場の扉に近づき、

 

「覗いたり乱入して来たら駄目だよ?」

 

 速攻でバレたのでソファに駆け足で戻った。次善の策失敗。

 まあ、いいさ。一緒にお風呂作戦は失敗したけど、まだ僕にはミッションが残っているのだから。お風呂イベントくらいくれてやろう。

 

 時間は飛んで、いよいよ就寝時間となった。

 お泊りイベントと聞いてから僕が待ちに待った瞬間である。この時のためにベッドを端から端まで掃除したくらいだ。むしろ買い替えた方が早かったんじゃないかなと思えるくらい念入りに掃除した。お金ないから買い換えとか無理だけど。

 

「じゃあ、そろそろ寝よっか!」

「これから眠る人のテンションの高さじゃないよね?」

 

 僕のテンションに優が若干引いているが今の僕は気にしない。

 

「こんなものだよ! だってこれから優と寝るんだから!」

「いや、寝ないけど……」

「えっ……夜更かしは体に悪いよ?」

「徹夜でゲームしていたお姉ちゃんにだけは言われたくないけど……そうじゃなくて、お姉ちゃんと一緒には寝ないってこと」

「アメリカ語はさっぱりで」

「日本語です」

「なんでええええ、どうしてええええ」

 

 嘘でしょ?

 一緒に寝ないとか、だったら僕は何のために今日この日を迎えたと言うの。優と寝るためだけに生きて来たと言っても過言ではないくらいなのに。

 優と一緒に寝られると思ったから一緒にお風呂に入るのを我慢できた。だと言うのに一緒に寝ることまでスキップされたら僕はどうしたらいいの?

 

「お風呂の時もそうだったけど、この年で姉と一緒に寝るってあり得ないでしょ」

「そんなことないよ。仲の良い姉弟は一緒に寝るくらい当然のようにするよ。私と優は仲が良いんだから一緒に寝るくらいするよ」

「しないよ」

「なんでええええええ」

「それはもういいから」

 

 楽しみにしていたイベントが無慈悲なスキップにより無かったことにされる。それを許すわけにはいかないと何度も優に一緒に寝ようとお願いしても優は首を縦に振ってくれず、さっさと来客用の布団を敷いていた。くっ、こんなことなら布団を捨てておけば良かった。

 

「なんでー? ねー、なんでなんでー?」

「幼児化しないでよ……。真面目な話、僕だって男なんだから、お姉ちゃんと一緒に寝たらどうなるかわからないでしょ」

 

 理由を訊ねるとそんなことを言われた。

 優が?

 

「無い無い」

「その無いはどれのことを言ってるのかでお姉ちゃんの僕に対する認識が変わるんだろうけど……男ってところに掛かってたら僕は真面目に傷付くからね?」

「優は男です。優のおしめを替えていた私が言うのだから間違いない!」

「その証明の仕方は何か嫌だ」

 

 可愛かったなー。小さい頃の優は可愛かったなー。もちろん今も現在進行形で可愛いけどさ、この頃は格好良い要素が入って来たから素直に可愛いって言い辛いんだよね。僕も元男だから男が可愛いと言われても微妙だってのはわかる。僕は優を理解できている。元男だからね!

 

「そうじゃなくて、お姉ちゃんは……その、弟の僕から見ても美人なんだから、一緒に寝たら……わかるでしょ?」

「……?」

「わかってない顔だこれ」

「……はっ、優に美人って言われたヤッター!」

「姉の純真無垢さが今は恨めしい」

 

 優に美人って言われて嬉しい。僕って容姿を褒められたことが少ないから優に美人と言われると胸がキュンキュンする。

 今でもたまに男として生まれて格好良いと言われる自分を想像することはある。でも、こうして女の子として生まれたからには女としての評価を蔑ろにはできない。だからこうして女としての自分を褒められると嬉しいと思えるのだ。それが優相手ならなおさらだ。

 

「だから、僕がお姉ちゃんに何かエッチなことしたら大変でしょって意味だよ!」

 

 自棄っぱち気味に優がそんなことを告げて来た。

 不思議なことを言うね。優が僕にエッチなことをするだなんて。

 僕達は血の繋がった姉弟なのだからそんなことになるわけないのに。僕は優を弟としか見てないし、優だって僕を姉としか見ていないはずだ。

 それとも優は違ったのだろうか。優にとって僕は女だったとでもいうのだろうか。

 嘘。

 そう思った瞬間、カッと頬が熱くなるのを感じた。胸が高鳴って心が弾む。全身の血が勢いよく流れだすような錯覚を覚える。

 

「優は、その……私にエッチなことしたくなるの?」

 

 もし優が僕をそういう目で見ていたとなったら僕はどうすればよいのだろうか。正直いきなり過ぎて思考回路がショート寸前だよ。

 いや、その前に優の本意を確かめないと。

 緊張しながら優の答えを待つ。

 

「えっ、い、いや、その、なー……らないけどさ。ほら、万が一って」

「ならないなら大丈夫だね!」

「最後まで聞いて!?」

 

 もー、驚かせないでよね。優が否定したことで先程までの熱さは一瞬で引いてくれた。冷静に考えればそんなことあるわけないってわかるのにね。僕もつい動揺して変な気分になっちゃったよ。

 優みたいに優しくていい子がそんなことするわけないじゃない。何度も言うように僕と優は姉と弟なのだから気にすること自体間違っている。

 きっと優は将来僕が男の人から酷い目に遭わないようにって、あえて自分を貶めることで僕を気遣ってくれているのだ。本当に優しい子だと思う。

 でも少し心配し過ぎだと思うんだ。仮に男の人が僕に何かしようとしても、僕の場合純粋な腕力で対処可能だもん。通常モードで握力二百キロあるからブチリと捩じ切ってお終いなのに。殴ってから何かしようとする輩の不意打ちだって神速のインパルス持ちの僕なら余裕で対処できる。そして万が一攻撃がヒットしても一瞬で治るから即対応可能だ。つまり僕に危害を加えることは不可能。

 それは優も見て知っているはずなのに。

 おそらく素手喧嘩(ステゴロ)で僕に勝てる人間はこの地球上に存在しない。僕とまともに戦いたいなら世紀末覇者でも連れて来いと言いたい。それで勝てるかは別問題だけどね。

 

「そんなに私のベッドで寝るの嫌?」

 

 そう、そこが一番肝心なところなのだ。僕の男性への対処とかは今この時はどうでもいいんだよ。優が僕を心配してくれるのは嬉しいけど、それは今度話し合うとして今は一緒に寝るのが嫌どうかが知りたいんだ。

 

「嫌って言うか、恥ずかしいと言うか……」

 

 布団の上で正座姿の優がもじもじと体を捩っている。何か言いたそうにしているのに中々それを言おうとしない。そんな優のはっきりしない態度を見て自分の目付きが鋭くなるのを感じた。

 

「何この子可愛い」

「その顔で出る台詞がそれって。知らない人が見たら怒ってるように見えるよ?」

 

 目つきが悪いのは気にしていることだ。元から冷たい印象を与えやすい千早の顔だけど、今の僕だと少し目つきを鋭くするだけで相手を威圧してしまう。優や春香は僕を理解してくれているからいいけど、僕を知らない人からすると怒っているように見えるらしい。

 一度コンビニに行く途中に僕の不注意から知らない女の子とぶつかってしまったことがある。僕は体幹をスポーツ選手並みに鍛えているためほとんどよろめかなかったけど、相手の子は足をもつれさせて転んでしまった。慌てて助け起こそうと手を伸ばしたものの相手の子が僕の顔を見るや泣き出してしまったのだ。

 差し出した手の行き先に困った僕が困っていると、どこからともなく現れた女性がやけに喧嘩腰で割り込んで来た。様子からして僕が少女をいじめていると勘違いしたらしい。言い訳をしようにも事実泣いている子が目の前に居るので信じて貰えない気がした。特攻服姿のくせに正義感の強そうな女性の剣幕に押されたというのもあって何も言えないでいると、当の泣いていた少女が僕と特攻服少女の間に入って事情を説明してくれたので事なきを得た。

 その時意外だったのは素直に特攻服さんが謝って来たことだ。てっきり誤解を受けるようなことをするなと言ってくるかと思っていた僕は驚かされた。失礼を承知で訊いてみると「誤解をされる辛さがわかるから」とのこと。見た目怖そうな女性だったのでこの人も見た目から色々と謂れのないことを言われてきたのだろうと察すると同時に、僕自身も相手を見た目で判断していた節があると自分を戒めた。

 特攻服さんが立ち去った後、改めてぶつかった少女に謝ると自分も前を見ていなかったからと謝って来たためその場はお互いの不注意ということで収まった。

 そこだけ見れば大団円に見えるのだけど、相手の子が最初から最後まで決して僕と目を合わせようとしなかったのは何でだろうね。地味に傷付いたんだけど。それ抜きに見れば庇護欲をそそられる大変可愛らしい子だったんだけど。

 そんな感じに、最近の僕は色々と誤解されがちなのだった。

 

「もー、じゃあ優は布団で寝ればいいでしょ!」

「最初からそのつもりだよ」

「で、私も布団で寝れば万事解決」

「何も解決してないじゃないか! 迷宮入りだよ!」

「大丈夫、私が優の布団入りするから」

「何も上手いこと言えてないからね」

 

 ベッドで寝るのが嫌なら布団で寝ればいい。とてもシンプルかつ最適な答えだと思ったのに、優にとってはよろしくなかったらしい。

 どうすれば優は僕と寝てくれるのだろう。

 何とか説得できないかと頭をフル回転させている僕の前で優はさっさと布団を被って寝に入ってしまった。

 こうなるとどうしようもない。優と寝るのを諦めた僕は仕方なく電気を消すとベッドに横になった。

 

「あー、優と寝たいなー! あーあーあー」

 

 優と寝たかったな。

 

「あー……優と寝たかった! 超寝たかった! あー優……あっあ~」

 

 この悲しみを歌に込めて歌うよ。急に歌うよ。せめてこの歌が優の安眠に繋がればいいなと思って。

 

「寝られないよ……」

 

 優の抗議が入った。ちょっと声が大きすぎたみたいだね。少し声量を落とそう。

 小声で歌うよ。

 

「あー、優、あっあっ優……あー優ーあっあ~」

「人の名前呼びながらあーあー言わないでよ」

 

 これは優の趣味に合わなかったか。歌に関して僕が外れを引くだなんて……。

 こっちはどうだろうか?

 

「ん、ん~……優、んっんっんー」

「わざと? わざとやってるのかな?」

「?」

「無自覚!?」

 

 がばりと布団を跳ね除けて優が上半身を起こす。せっかくの子守歌だったのだけど、優が起きたので無駄になってしまった。

 

「お姉ちゃんさ……」

 

 あ、子守歌はやり過ぎだったか。フェイバリット心が広い優でも幼児扱いされたらいい気分じゃないよね。

 失礼なことをしたと思い顔を伏せる。ごめんね、ここはアニソンだったね。

 

「ごめんね、子守歌は幼稚過ぎだよね」

「子守歌のつもりだったんだ……道理で無駄に上手かったわけだよ。そうじゃなくて、何かあった?」

「え?」

 

 唐突にこちらを慮る様な声で訊ねてくる優に顔を上げる。

 優の端整な顔がこちらに向けられている。その表情は心配そうにこちらを覗うもので、それを見た僕は喉が詰まりそうになった。

 心配させてしまっている。

 またやってしまった。

 

「お姉ちゃんがこうやって僕に構ってくる時ってさ、何かしら悩んでいる時が多いよね。別に僕の勘違いだったらいいんだけど、もし何か悩んでいるなら聞くよ?」

 

 好きだ!

 思わず叫びそうになるのをぐっと我慢する。素直に自分の欲望を口にして失敗して来たが、ここでそれは許されない。

 優は真面目に僕の悩みを聞いてくれようとしているのに、ふざけたことを言うわけにはいかなかった。いや、僕が優を好きだってのは本当のことなんだけどさ。

 

「悩み……聞いてくれる?」

 

 代わりに口から出たのは弱音だった。

 自覚はしていた。自分の中の不安定な感情が暴走しかけていることに。

 もしかしたら、今日優が泊まってくれたのも僕のそんな雰囲気を察したからなのかも知れない。優が言うには僕って凄くわかりやすい人間らしいから。

 

「もちろん」

 

 優から返って来た答えはとてもシンプルなものだった。

 だから僕は優が好きなんだよね。

 

「私が最近していることって知ってる……?」

「うん」

 

 話の切り出すにあたり、まずはここ最近の僕の話をすることにした。

 僕が何をしているか、それを把握しているかで話す内容が変わるのだけど、当然の様に優は知っていてくれた。説明が楽になる以上に知っていてくれたこと自体を嬉しく感じる。

 

「アイドルのオーディションにね、また落ちたの」

「……そっか」

 

 言葉にしてしまえば簡単な内容だった。オーディションに落ちた。それだけなのだから。

 でも内容自体は簡単な話ではない。オーディションに落ちたことが重要ではない。”また”落ちたということが重要だった。

 

「ようやくあの頃の心の傷も癒えて。アイドルを再び目指そうと思い立ったのに、結果はこの様だよ。悲惨過ぎて笑えないよね?」

 

 まだまだ完全とは言えないまでも、今の僕はあの頃と違って過剰な自信もプライドも無い。常に自分を底辺に据えオーディションを受ける時は、未だ見ぬライバル達を全員格上と考えて一切手を抜かないようにしている。それでも合格を貰えていないという事実に自分は無駄なことをしているんじゃないかと思いかけている。

 自分には才能が無いのではないか? まだ終わってもないのにそうやって諦めかけている自分が嫌だ。まだ僕は終わっていない。終わっていないのに、終わる理由を欲している自分が頭の片隅に居るのを自覚している。

 もう少し経ったら、今は存在を感じる程度の駄目な自分が完全に表に出てきてしまうのではないか。不安を感じ始めていた時に優が泊まってくれると言ってくれたのは本当に救いだった。救われるついでに現実逃避のため優に必要以上に絡んでしまったのは反省している。

 あれだけ頑張ると言ったのに、こんな風にやる気減衰中の僕を見たら優も呆れるだろうと思ったのだけど、返って来た反応は意外なものだった。

 

「僕にはオーディションのことはよくわからないけど。昔のお姉ちゃんならともかく、今のお姉ちゃんがオーディションに落ちるなんて信じられないんだよね。断然今のお姉ちゃんの方が凄いわけだし」

 

 優は心底不思議だという顔で首を傾げると信じられないと答えた。いやいや、信じられないと言われても事実こうして落ちているからね。

 あと昔の僕ってあの声も出なかった一番やばい時の僕のことだよね? それと比べて良いとか言われても自信持てないよ。

 それとも優には何かそう言うだけの確信があるとでもいうのだろうか?

 

「お姉ちゃんってさ、カラオケの点数って普段何点だっけ?」

 

 しかし優が重ねるように質問をして来たため確信について問い質すことはできなかった。

 訊かれたからには無視することはできず、意図がわからないまま答える。

 

「……初めて歌う曲以外は基本百点だけど」

「この間観た天海さん達のライブの踊りって、もう踊れる?」

「踊れるよ」

「全部?」

「うん。全部。全員分」

「……やっぱり、落ちる理由がわからないよ」

 

 そうだろうか。優の言葉に今度は僕の方が首を傾げる。

 カラオケでいい点を取れたとしても、それで相手を感動させられるかは別だ。心に響かせる技術は単純な点数で表すことはできない。

踊りだって真似ているだけで実際にライブで踊って盛り上がるかはわからないのだ。その場の空気を感じて合わせるにはライブの経験が必要になる。

 どちらも今の僕にあるのか自信がない。アクティブ系のチートを使えばできなくはないだろうけど。

 

「カラオケで百点とってもアイドルとして上手いかは別なんだよ。心に響かせることは点数で表せないから。踊りだって一回しか見れてないから、ただ再現しているだけのモノマネだし。盛り上がるとは思えない」

「前半は理解できなくもないけど、後半は明らかにおかしいこと言ってるからね?」

 

 僕の説明では優は納得しなかったようだ。

 おかしいな、優も一緒に観たからあのライブの凄さは理解できていると思っていたんだけど。あそこで見せた春香達765プロのパフォーマンスはこれは純粋に観客として観た優とアイドル志望者として観た僕の違いなのかな。

 

「審査員の人は何て言ってたの?」

「え?」

 

 優の言葉を咀嚼するのに少し時間がかかった。

 審査員が何と言っていたか……?

 あ、そういうことね。理解すると同時に優と僕で認識違いが起きていたことに気付いた。

 

「……」

 

 理解してしまえば話は単純だった。優の考える僕の問題は大したものではなかった。僕を過大評価している優にとって、今の僕の状況は想像の埒外に違いない。

 優がそう認識しているというならば、真実を語るのは憚られる。

 

「僕にも言えないこと?」

 

 そんな風に言われると困る。優に言えないことなんて前世の話くらいだと思っていたのに。それ以外は全て話したって良いと思っていたのに。今になって”話したくない”ことができるだなんて。

 悩みを聞いてくれると言った優に対して黙り込むのは気が重い。優には僕の全てを知って貰いたいから。でも、こればっかりは無理だ。申し訳無さに顔を優に向けられない。

 

「仕方ないね」

 

 僕が何も言わないでいると、優が痺れを切らしたらしく話を打ち切って来た。

 仕方ないね。こればっかりは僕が悪い。いくら天使の様に心が広い優でも聞いてとお願いしておいて黙るのは無しだよね。自分の不義理さに気落ちする。

 だが我が大天使の慈愛は僕の矮小な想像を遥かに超えていたのだった。

 

「今回は僕から何か言うことはやめておくよ。代わりに最近頑張ってるお姉ちゃんがもっと頑張れるようにご褒美をあげる」

「……ご褒美?」

 

 ご褒美と聞いて顔を上げる。

 何だろう。優からだったら何を貰っても嬉しいよ。

 意地汚いと思いつつ優の言う”ご褒美”にワクワクしていると、優は自分が寝ている布団を捲った。

 

「一緒に寝てあげる」

 

 想像を絶する破壊力だった。

 弟が、優が、一緒に寝てくれると言うのだ。心が歓喜に震える。それ以上に体が震えてしまう。

 拒む理由も断る意味もない。一も二もなくベッドから飛び降りると勢いのまま優の布団へと体を滑り込ませた。

 

「優の布団の中あったかいナリ~」

「喜んで貰えたなら良かった」

 

 喜ばないわけないでしょ。優と寝られるんだから満足しないわけがない。同じ布団で優と寝る。十年ぶりくらいの偉業達成に千早グランプリの審査員も満場一致で満点を提示したよ。これは殿堂入り確定ですわ。

 

「優の匂いがする。温かい。最高」

 

 すぐ傍に優を感じる。優の体温と匂いに包まれる感覚が心を落ち着かせてくれる。

 もっと優を感じようと思った僕は両手を優の首に回し、両足でしっかりと優の腰を挟み込んだ。これで一晩中優を感じていられるね。

 

「!? ……これは早まったかも。あの、お姉ちゃん悪いんだけど、もう少し離れてくれないかな?」

「お休みグッナイ」

「今までの流れを全て断ち切る程の寝つきの良さを見せないで」

 

 意識が闇へと沈んでいく。もう少しこの感触を楽しんでいたかったけど、眠気には勝てなかったよ。

 

「お姉ちゃん? あの、ねぇ……本当にこのまま朝まで? え? 嘘でしょ?」

 

 お休み、優……。

 

 

 ────────────

 

 次の日。

 優を抱き枕にしたためか、目覚めはとても良かった。こんな寝起きが良いのは優の小学校の入学式の朝以来じゃないだろうか。半ズボン姿の優が緊張した面差しで式場(体育館)を歩く姿を見た時は、そのあまりの尊さと可愛さに涙を流したものだ。周りからはドン引きされたけど。

 そんな爽やかな思い出と未だ感じる優の温もりに二度寝したくなる。今この時が最上なんだ。

 

「お姉ちゃん、起きたなら悪いんだけど放してくれないかな?」

 

 と思ったら優も起きていたようだ。若干眠そうな顔を僕へと向けてそうお願いして来た。

 

「だが断る」

「断らないで」

 

 こんな最高の環境をそう易々と手放せるわけがない。いくら積まれてもだ。

 

「ちょっと。僕トイレ行きたいから」

「あっ、それはごめん」

 

 さすがにトイレと言われたら離すしかない。優だって中学生でお漏らしなんてことになったら恥ずかしいもんね。

 素直に離すと優はのそのそと布団から這い出ると立ち上がり、若干猫背気味にお手洗いへと向かった。

 眠そうな顔といいダルそうな歩き方といい昨夜はあまり寝られなかったのかな。枕が変わると眠れないタイプとか? まさか僕の寝相が悪かったのか?

 うむむ、無理して一緒に寝て貰った身としては愛する弟を寝不足にしてしまったのは失態だった。これは何か別のことで挽回しなければ。

 そこでタイミング良くケータイが鳴ったので通知画面を見るとお母さんからのメールが入っていた。

 内容は『何か問題はなかった?』というものだった。問題は特になかったのでそのまま返そうとするが、そこで先程の挽回の機会がやって来たと気づいた。優が寝不足であるため実家に帰った時に気を遣ってもらおうと『夜に無理させ過ぎたせいで優が寝不足みたい』と返信した。

 お母さんからの返事は来なかった。

 

「うん……うん、大丈夫だから。何も無かったから。お母さん達はお姉ちゃんを誤解してるよ。そんな考えお姉ちゃんにあるわけないでしょ? あのお姉ちゃんだよ?」

 

 トイレから戻って来た優がお母さんと電話している。僕にはメールだけなのに優には電話するなんてお母さんは少し不公平じゃないかな。

 会話の内容はよくわからないけど、優が必死にお母さんを説得しているみたいだ。会話の端々に溢れる僕への信頼に心が温かくなるのを感じた。これからも優から信頼される自分であり続けようと密かに誓うのだった。

 しばらくお母さんと話していた優は通話を終わらせると大きく息を吐いた。

 

「僕に何か言うことはない?」

 

 優に言うこと? 何かあるだろうか……。

 

「優の抱き心地は最高でした!」

「それを誰かに言ったら二度と泊まりに来ないからね」

 

 そんな! 今すぐにでも全世界に自慢したいと思っていたところなのに。掲示板にスレ立て自慢したかったのに。タイトルは”【弟】一晩中弟を抱いてたけど何か質問ある?【最高】”とかで。

 でも優が秘密にして欲しいって言うなら仕方ないね。そういう二人だけの秘密とかって憧れてたから嬉しい。秘密基地みたいで童心に帰った気になるね。

 

「……うん、わかった。昨日の夜のことは二人だけの秘密だね。誰にも言えない弟との夜……」

「なんでだろう。内緒にして貰えたのに逆に泥沼に足を突っ込んでいる気分になる」

 

 その後は優が作ってくれた朝ご飯を二人で食べた。その間も昨夜の話について優は触れないようにしてくれている。僕が言うまでは待ってくれるということだろう。何年も僕を待ってくれていた優を再び待たせることに罪悪感を覚えるけど、もう少しだけ待っていて欲しい。これを乗り切れたら笑い話として話せるから。

 お昼前に優を家から送り出した僕はポストに封筒が一封入れられているのに気付いた。少しだけ期待してそれを手に取るも、その薄さに期待は霧散し代わりに溜息が漏れた。

 封筒には地味な色合いの文字で大きく『876プロダクション オーディション』と印字されている。その下に小さく企画の名前が書いてあったが今ではどうでもいいことなので意識しないことにした。

 この封筒はこの間僕が受けた876プロオーディションの結果が入っている。結果は確実に落選だった。封筒の薄さでわかってしまう自分が嫌になる。

 念のため中身を確認するとやはり落選と記載されていた。僕はその”一次選考”の結果を慣れた手つきで封筒にしまい直し部屋へと戻った。

 玄関で靴を脱ぐとそのままクローゼットへと近づき扉を開いた。中には手にある封筒と似たものが重ねて置いてある。どれも落選通知の入った封筒だった。

 その数およそ五十枚。

 あり得ない数だった。国内に存在する目ぼしいアイドル事務所のほとんどに応募したかもしれない。876プロもその中の一つだ。それでも合格が一つもないのはありえない。それ以上にこれだけの数落ちてまだアイドルを目指していることがありえないだろう。

 一次選考は書類審査のみで、そこで大多数が篩に掛けられ落とされる。百人受けたら残るのは十人も居ないだろう。分母はわからないが受験者の九割が写真の印象だけで落とされるのだ。一応履歴書の方も審査対象になるが、そんなもの二次選考以降の面接で聞く内容だろう。僕は履歴書も大真面目に書くタイプだった。写真に問題がある僕にとって履歴書の方で審査員の目に留まるように頑張るのは当然のことだった。

 しかし一次選考はあくまで第一印象だけが審査対象なのはどのプロダクションも変わりない。どれだけそれ以外を頑張っても意味はなかった。

 普通だったらアイドルになるのを諦めていてもおかしくない。実際僕も何度心折れかけたかわからない。でもアイドルになると決めたから。やれるところまでやり切りたい。

 これが優に言えなかったことだ。五十回以上オーディションに落ちているという事実を優に言うのが怖かった。そして五十回落ちてもアイドルを諦めていないことを知られたくなかった。これを知った優から「さすがに諦めたら」と言われるのが怖かったのだ。

 クローゼットの中に乱雑に重ねられた不合格通知の横に最近まで毎日のように書いていた履歴書用の証明写真の残りが散らばっている。その中の一枚を手に取り、写っている自分の顔を確認する。どれも全て同じ表情をしていた。

 

「不細工な顔……」

 

 自嘲を多分に込めて呟く。

 写真に写った僕の顔は笑顔を作ろうとして失敗した様な、酷く歪んだ表情をしていた。仮にもアイドルオーディションに使用していいものではない。

 笑顔が上手く作れない。

 そのことに気付いたのは春香の前で歌った翌朝のことだった。

 その時の僕は声が戻ったことに浮かれていた。夢も思い出し春香も助けられた。何一つ文句がない状況に小躍りしたくらいである。

 引きこもりニート時代は煩わしく感じていた陽の光も今だけは僕を祝福している気がした。締め切っていたカーテンを開けて太陽光を部屋に取り入れようとしたところ、それが目に入った。

 一切表情の変わらない自分の顔だった。

 あれだけ喜びに溢れていた心が一気に冷え込んだ僕は慌てて洗面所へと駆け込み鏡で顔を確認すると、やはりそこには無表情の僕が映っていた。

 震える手で顔を押さえ、無理やり笑顔を作る。むにょりと歪になった顔パーツの所為で奇怪な表情が出来上がったが今はそれどころではない。そのまま顔に力を入れ状態を維持しようとして恐る恐るその手を離す。しかし次の瞬間には形状記憶合金のように元の無表情に戻ってしまった。

 その後も何度か同じ行為を繰り返してみても無表情から変わらない。

 声は戻っても笑顔は戻らなかった。

 いや、薄く笑うことはできた。でもそれは笑顔とも呼べない程度の微笑でしかなかった。

 原因は今になっても不明のまま。笑顔の作り方だけがすっぽりと抜け落ちてしまっている。

 全てを取り戻したと思い込んでいた分この事実はショックが大きかった。

 一応感情が表にまったく出ないというわけではないのが救いだった。鉄面皮ではあっても表情が無いわけではない。優と春香が言うには嬉しい時に薄く笑っているらしい。あいにく僕はそれを確認できていないが二人が嘘を吐くわけがないので完全に無表情というわけではないらしい。笑えないわけではないということに希望を見出した僕はそれ以降笑顔を練習している。一度はできたアイドルらしい笑顔作りをもう一度習得するために日夜研鑽を欠かしていない。結果は芳しくないが。

 それと並行してのオーディション参加だったんだけども、書類審査すら通れない有様だ。

 僕が笑顔を取り戻すまでどれだけかかるか分からない。その間にも時間だけは過ぎ去って行く。そんな焦りから生まれた数撃てば当たる戦法は失敗に終わった。

 結局二次選考まで進めたのは一つだけ。優が出してくれた346プロのシンデレラプロジェクトのオーディションだけだ。それも時間切れで二次は受けられていない。もったいないことをしたと思うも嘆いたところで時間は元には戻らない。過去を振り返るのは無駄な時間だ。それよりも未来のことを考えよう。

 もしかしたら街を歩いているとアイドルプロダクションの社長に声を掛けられるとかあるかもしれないじゃないかとか夢見たり。

 部屋に置かれた姿見の前に立つ。

 両手の人差し指で口の端を持ち上げ、可能な限り目尻を下げる。最後に体を横に傾け体重をかけていない方の足を上げる。

 

「エヘ!」

 

 今できる渾身の笑顔とポーズをキメる。

 でも出来上がったのは顔面神経痛にでもなったのかと思うほど歪んだ笑顔だった。

 無理やり目尻を下げ、口角を上げたことで笑顔とも呼べない何とも不気味な顔が鏡に映っている。

 

「駄目だこりゃ」

 

 指を離すとすぐにいつもの無表情に戻った。

 何度練習しても上手く笑えない。

 三歳から毎日練習していた笑顔。年季だけで言えば歌以上に自信のあった笑顔は今では不気味な顔芸に成り下がっていた。

 何度試しても変わらない。

 しばらく手であれこれと顔をいじって笑顔の練習をしたものの、結果は顔芸のレパートリーが増えただけだった。

 今日の笑顔のレッスンはそれで終わった。

 

「もうこんな時間か」

 

 時計を確認するといい感じの時間になっていた。二時間以上顔をこねくり回していたらしい。集中すると時間の流れが早く感じる。

 僕は部屋の隅に雑に放置されていた荷物を持つとアパートを出た。

 

 

 夕方の街並みはどことなく寂しく見えるのは何でだろうね。

 行き交う人々が変わるわけでもないのに、何でこんなにも悲しくなるのだろう。などと無意味なノスタルジーを感じながら日の傾き掛けた道を歩く。

 今僕が歩いているのは最寄りの駅へと続く商店街の中だ。この時間帯は人通りが多い。手を繋ぎ歩く母子の姿や部活帰りの学生の姿をよく見かける。彼らまたは彼女らはこれから家へと帰るのだろう。逆に僕は今出かけ始めたばかりだ。一時期の昼夜逆転生活とはいかないまでも、世の中のほとんどの人と違う時間帯に活動をする自分が時折無性に寂しい存在に思える。僕だけが世の中の流れから取り残されたような錯覚を覚えるのだ。そして、それは遠くない将来錯覚ではなくなる。今だけが僕が他人と解離していると”錯覚”できる時間だ。いつかそれが”現実”になる前に僕は色々と折り合いをつけなければならない。

 これからやることを前に気分が暗くなりすぎてしまった。気分転換をしようと試しに周りを見渡す。

 視線を向けた先に大きな看板が見えた。

 看板には765プロの皆が赤で統一された衣装姿横一列に並んでいる写真が掲載されている。近々発売されるニューアルバムの宣伝広告だった。看板には大きく『765 PRO ALL STARS』と書かれている。

 しばらく発売されなかった765プロのアルバムとあって、765ファンどころか大勢のアイドルファンまでもが期待していると話題だ。

 あのアリーナライブのオープニング曲『M@STERPIECE』が収録されているということもあり、予約開始時点から売上一位を何週間もキープし続けている。僕も当然予約済みだ。

 最近までメンバー個々のシングルやアルバムは発売されていたが、765プロ全体となると本当に久しぶりになる。

 理由はメンバーの活動内容が増えたことで全体曲のレコーディングのスケジュールが合わなかったからだそうだ。今回全員のスケジュールを秋月律子が調整したことで全体曲のレコーディングができたらしい。

 というのを春香から聞いている。最近春香から765プロの情報が枝葉末節関係なく流れて来る。メンバーの個人情報に触れそうなものまで教えて来そうだったのでさすがにそれは止めた。僕にそれを聞かせてどうしようというのか。僕が悪人だったら記者なり出版社なりに情報を売ったかもしれないのに。

 その辺りの注意とともに個人情報保護の大切さを春香に説いたのだが、彼女からの返答は『千早ちゃんがそんなことするわけないって信じてる。それよりも私達のことを知って欲しかったから』という何とも反応に困るものだった。

 春香からの信頼は嬉しいが、それによって万が一でも彼女の立場が悪くなるのは避けたい。少なくとも765プロメンバーからの信頼を失うようなことにはなって欲しくはなかった。しかし真っ当に言いくるめようとしても聞く耳を持って貰えないため、せめて春香個人の情報だけにして欲しいと伝えたわけだが……そこは何故か二つ返事で了承が貰えた。どういう基準で素直になるのか僕わからないよ!

 それ以来メンバーの情報は当たり障りがない程度に抑えられ、代わりに春香本人の情報ががっつり送られて来るようになった。

「今日の朝ご飯は目玉焼きだよ」というメール文とともに目玉焼きが乗ったお皿を持ったパジャマ姿の春香写メとか。

「みんなと一緒にお昼ご飯」というメール文とともにお弁当箱を持ったジャージ姿の春香の写メとか。

「お仕事で失敗。少し落ち込んでます」というメール文とともに衣装姿の春香の写メとか。

「新しい下着買ったんだけど似合うかな?」というメール文とともにわりときわどい下着姿の春香写メとか。

 そんな風に事あるごとにメールを送ってくれるのは嬉しいけれど、ちょっと最近画像が危険だと思う。パジャマやジャージはともかく、発表前の衣装とかは拙いんじゃないかな。こういうのって守秘義務の範囲なんじゃないのかと春香の立場を心配する。

 ちなみに下着姿はもう何か送られ過ぎて逆に見慣れた。たぶんこの世界で春香本人の次に春香の下着を見た回数が多いんじゃないかな。将来彼氏か夫に追い抜かれるとはいえ、向こう数年は負ける気がしない。どんだけ下着買ってるのさ……。

 

 商店街を抜け駅近くの広場まで来た僕はすぐに適当な空きスペースを探し始めた。

 この辺りはストリートミュージシャンが通行人相手に歌を披露してることで有名なスポットだ。まだ初々しい少年が慣れないギター一本で歌う姿や青春よもう一度な中年男性のグループが懐メロをメドレーで流す姿など、音楽に携わる人間が多種多様に集まっている。

 その中でも人気のある者は固定ファンが付くらしく、前見た時は人垣を作っているスペースもあった。そういう人気者が芸能プロダクションからスカウトを受けるなどしてデビューしたという話をよく聞く。ここはそういったスカウト待ちの人間にとって登竜門的な場所だった。 お互いが同じ趣味を持つ仲間であるとともにライバルでもあるわけだ。切磋琢磨する相手がいると成長も見込める。特に同じレベルの相手ならばなおさらだろう。

 中には純粋に歌を聴かせたいだけの者もいるが、そういう人は端の方で歌っていたりする。ある意味一番歌を楽しんでいるのは彼らみたいな人達なのかもしれない。ちなみに僕の場合は前者の意味が強かった。モデル志望の人が渋谷や原宿を歩く感覚に近い。

 オーディションが駄目ならスカウトでのアイドルデビューも視野に入れるしかない。そもそも原作の千早もスカウト組だしね。もしかして僕にとってオーディションは鬼門なのかな。

 

 歌う場所はそれほど時間を掛けずに見つけることができた。今日はやけに人が少ないため選り取り見取りだ。

 ここで歌い始める前は毎日ところ狭しと歌う姿を見せていたストリートミュージシャン達だったが、最近はその姿がめっきり減ってしまった。

 僕がここを使い始めるまでは繁盛していたのにね。これでは人気者のお零れを頂こうという僕の計画が成り立たない。我ながら小物染みた考えだけど、僕みたいな無名の小娘には三下めいた策が必要なのだ。形振り構っていられる程の余裕なんて僕には無い。早く春香達に追いつくためにもこういうチャンスに賭けなければならない。

 居ないなら居ないで良い場所を貰おう。僕は良い場所から物色し始めていたのでこの場所はすぐに見つけることができた。この辺りは元は古参や人気者が独占していたスペースだった。早く場所をとるために場所取り役のパシリの人がお昼くらいから居座っていることもある人気の場所で、毎度人気者同士で激しい場所取り勝負が繰り広げられていた。たまにやり過ぎる人達もいたけれど、それも含めてここの名物だった。しかし今は歌う人間が居なければ場所取りの人もいない。ぶっちゃけ寂れている。

 しかし人通りは多いし、そこかしこにストリートミュージシャン待ちの人間の姿が確認できる。常連の誰か待ちみたいだけど、今日のところは僕の観客になってもらおう。

 持参したギターケースからクラシックギターを取り出す。このギターは昔お父さんが学生時代に使っていたものだ。僕が楽器が欲しいと言ったところ押入れから引っ張り出して来てこれをくれた。ギターの知識はないため良し悪しはわからない。お父さん曰く本来ガットギター(クラシックギター)は出さないメーカーのものらしいが、それが良いのか悪いのかは他のギターと聞き比べなければ判断できないだろう。

 軽く弾いてみて目立つ違和感もなかったので悪いものではないはずだ。年季が入っているがまだまだ現役で使えそうなのでありがたく使わせてもらうことにした。

 ちなみにその時お父さんから何時ギターを練習したのかと訊かれたので正直にしていないと答えたらしばらく反応がなくなった。

 ギター演奏が得意な”如月千早”が居たので練習時間は実質ゼロ秒だから正直に言ったのだけど失敗だった。今度聞かれた時はもう少し努力したアピールをしよう。

 

 ギターの弦を軽く弾きながらチューニングする。やはり古いためか少し弾かないだけで半音ずれてしまっていた。ペグを少しずついじりながらA=440ヘルツに調整する。お父さんはピアノと合わせていたらしいので442ヘルツにしていたらしいけど、僕はギターソロしかしないので440ヘルツにしていた。一度どちらがいいかお父さんに確認したけどまたもや絶句されて以来訊いていない。

 僕がチューニングを始めると何をやるのかと興味を引かれた人間が注目し始める。

 特に人が集まるまで待つような真似は常連くらいしかやらないので僕は構わず歌い始めた。

 

「 遠い音楽 」

 

 曲名を告げ、静かにギターを弾きだす。

 この曲は物静かな曲調がクラシックギターに良く合う。

 出来ればピアノの伴奏で歌いたいけどピアノを持ち運ぶわけにはいかないし、キーボードはお金が無いので買えない。バイトでもして購入してみようか。

 まあ、汎用性の高いギターがあればいいかな。それにギターは静かな曲に合う。今の僕にはアップテンポな曲や明るい歌は合わないからちょうどいいのだ。

 十秒ちょっとの伴奏が終わり僕は歌い始めた。

 その瞬間、僕は自分の世界へと入り込んだ。

 外界からシャットアウトされ自分だけで完結した世界に僕一人だけが立っている。

 そこで僕は音色に歌詞を乗せて歌として外に送り出す。送り出した後の結果を僕は知らない。手は勝手にギターを弾き続け、僕はただ歌うだけだ。

 そうやって自分だけの世界で歌うこと一曲分。数分の間だけ僕は歌うことに浸っていられる。この時だけは全てを忘れていられる。

 未来への不安を頭から追い出せる。

 何度もオーディションに落ちて自分を慰めるように街頭で好き勝手に歌う日々に対してこんなことを続けて果たしてアイドルになれるのだろうかと疑問を抱きつつ止められない。

 歌っていれば、歌ってる間だけは忘れられるから。

 

 やがて歌が終わり、自然と意識が現実へと戻って来る。

 何度体験しても歌っている間のこのトランスは良いものだ。やばい薬をキメているわけでもないのに完全にトリップする感覚が素晴らしい。まじオクレ兄さん状態で癖になる。

 そこで周囲を見回すと何時の間にか僕の周りに人垣ができていることに気付いた。

 拍手なり歓声なりの反応が貰えたら出来栄えを把握できるのだけど、そういったリアクションは周りからは一切上がらない。

 盛り上がらなかったということは、あまり良い評価は得られなかったということだ。聴衆からすれば他に歌う人間がいないから試しに聴いてみたが内容は……といったところだろうか。常連が普段使う場所だということで期待値だけは無駄に上がっていたみたい。

 笑顔一つない人々の顔を見てそう自己評価を下した僕はこっそりと溜息を吐いた。今日も歌で人を笑顔にすることはできなかった。

 聴衆の期待に沿えなかった人間が次にとるべき行動は一つだ。

 ギターをケースへとしまうとすぐにその場を離れる。つまり退場処分ということだ。この場合自主退場というやつだね。その日聴衆ウケが悪かった者は自主的にその場を立ち去る。ここでの暗黙のルールのようなものだ。そうやって順番待ちや場所取りをしている人間に席を譲るというお行儀のよいシステムだった。例に漏れず僕も自主退場というわけである。

 聴衆も慣れたもので、僕が通ろうとするとすぐに人垣が左右に割れてくれた。軽く頭を下げると逃げる様に僕はその場を立ち去るのだった。

 

「今日もだめだったかぁ……」

 

 帰り道を歩きながら僕は今日の結果を独り言ちる。

 自分として生きると決めてから二か月。その間色々なプロダクションのオーディションに応募して来た。大手から弱小と呼ばれる事務所まで新人アイドルを募集しているところは片っ端から受けた。

 そしてその全てに落ちている。

 毎日送られてくる不合格の通知。決まって書かれているのは「如月千早様のより一層のご活躍をお祈り申し上げます」という一文。活躍なんて本当に祈っているなら合格させてくれと思う。

 オーディションに落ちた日には街頭で歌う。そんなルーチンができたのは何時からだろうか。

 確かあの日も不合格の通知を貰ったっけ。気分転換に外を散歩できる程度には落ちた後の切り替えが上手くなっていたと思う。十回を超えたあたりからペラペラの不合格通知を貰ってもあまり気落ちしなくなったから。

 特に目的もなく歩いていた僕の耳に遠くから誰かが歌う声が聴こえた。こんな町中で映像や街頭CMでもない生歌が聴こえることに興味を引かれた僕は歌のする方に向かった。

 歌に導かれるように歩いて行くと駅から商店街へと続く道に面した広場に出た。

 そこで目にしたのは老若男女問わず色々な人達が好き勝手に歌や演奏をする姿だった。

 皆楽しそうに歌っている。上手い下手はあっても、皆思い思いに歌を口ずさみ、曲を奏でている。その姿が何だか自由で楽しそうに見えた僕は「これだ」と思った。

 ここならばスカウトし易いに違いない。

 謎の確信を持つに至った僕はこの集まりに参加することを決めた。

 その日はここの決まり事などを把握することに努め、次の日から歌を披露し始めた。

 最初は端の方でこっそりと歌っていた。誰も聴かなくても歌っている間は気が楽になったから。しかし慣れてくると今度は誰かに聴いて欲しいと思うようになり、ちょっと本気で歌うようになった。この時くらいにギターを取り入れたのだ。

 そうやってオーディションに落ちる度に歌いに通っていたのだけど、ある時期から段々と端のスペースに隙間ができるようになった。それまで近くで歌っていたギター歌手志望っぽいお兄さんや懸命に歌っていた女性とか、端のスペースを主に使用していた人達が居なくなり、やがて端からはごっそりと人が消えてしまった。

 最初僕は今がたまたま人が少ないだけで、すぐに皆戻ってくると思っていた。新参者の僕の知らない人の増減周期があるのだと。ここで下手に中央の人気スペース側に行こうものならどんな難癖をつけられるかわかったものじゃない。それだけスペース取りに皆必死だった。

 だから僕は一人ぽつんと誰もいないスペースに取り残されることになっても暫く端スペースを使っていた。

 しかし、いつまで経っても人が戻る気配はなかった。仕方なく消えた人達により空いたスペース分を詰めることにした。

 新しく訪れた中央寄りのスペースでは端の人達よりも明らかに上手い人達が集まっていた。皆歌い慣れている感じがして、中には固定ファンみたいな人達が付いている人もいる。そんな風に身内のような固定ファンを獲得している人の横で歌うことに多少気後れしつつ歌うことにした。

 数日するとそのスペースからも人が消えてしまった。明らかに異常事態なのだけど、残った人達はあまり深刻にとらえていないように見えた。たぶん広場を訪れる人間の数が前よりも増えたからだと思う。歌う人間が減ってもそれ以上に聴きに来る人間が増えれば寂れることがないという考えなのだろう。

 僕もその頃は良い場所を狙う人間の一人になっていたので人が減ったことは気にしなくなっていた。

 そして今日はとうとう僕以外誰も居なくなってしまった。それでいて観客は前より増えているんだから不思議である。

 この間まで一番いいスペースを陣取っていた人達はどうしたのだろうか。今日は見かけなかった。あれだけ固定ファンが居たのに急に来なくなったらファンが悲しむだろうに。何か退っ引きならない事情でもあったのかな。よくわからないけど。

 こういうのを栄枯盛衰というのだろうか? いかに人気のスポットでもいつかは廃れてしまうものだ。あれだけファンの多かった人気グループが消えるのだから世の中何があるかわからないね。

 そうなると固定ファンも居ない新参者でしかない僕があそこに通う意味はもはや無いだろう。

 せっかく見つけた場所だったのに残念だ。もう少し早く参加していればもっと長く歌っていられたのだろうか。まあ、ああいう場所は流行り廃りが激しいって言うし、今回は運が悪かったと思って別の場所を探すとしよう。しかしただ新しい歌い場に移るのは芸がないと思う。

 さて、次からはどうやってオーディション落選の気分転換をしようか。

 いや、そもそもオーディションを新たに受けるのも難しいか。もうほとんどのプロダクションを受け終えてしまっている。今後はプロダクションを探すことすら困難になってくるだろう。

 こんなことなら346プロの二次選考を受ければよかった。そう今になって後悔している自分を自覚して嫌になる。

 二次選考はどうやったって受けられる状況ではなかった。二次選考の期限は丁度僕が最大級に落ち込んでいる時だったのだから悔いる意味がなかった。

 

「こんなことなら……はぁ」

 

 こんなことなら?

 今自分が呟いた言葉に憤りを感じる。

 何を今更言っているのだろうか。僕が今こうしているのは自業自得だろう。僕が選んだのだ。今の状況は僕が作った。

 全てはあの日のスカウトが発端だ。

 あの日、春香達のアリーナライブの日に僕に声を掛けて来た男性は自身を346プロのプロデューサーと名乗った。しかもシンデレラプロジェクトのプロデューサーだと言う。出来過ぎな話過ぎて一瞬裏を疑うレベルだった。

 株式会社346プロダクションと言えば、美城の一族が経営する老舗の芸能プロダクションと聞いている。軽くネットで調べたところオフィス街の一画に馬鹿でかいビルを建てそこに丸々一個会社が入っている。社内自体に撮影設備やトレーニングルームが完備されているとかで、765プロとは比べるべくもないほどの巨大プロダクションである。

 そんな大手の346プロのプロデューサーがわざわざ自分で外回りしてスカウトするという話は正直言って信じ難い。もっと言うと胡散臭い。初対面では誠実そうな人に見えたけど、一般的な感性からすると怪しい風体の男が突然自分は大手芸能プロダクションのプロデューサーだけどアイドルに興味ない? とか話を持ちかけて来たら百パーセント怪しむ。僕は一般人なので当然怪しんだ。

 しかし差し出された名刺は本物に見えるのでとりあえず話半分に信じることにした。仮に本物であった場合、プロデューサーから直々にスカウトされたというのはチャンスに他ならない。その時の僕は素直に喜んだ。 後の話になるけど346プロの公式サイトにプロデューサーとして顔写真付きで登録されていた。

 一度は時間切れで受けられなかった346プロのオーディションだったけど、プロデューサー本人からのスカウトというショートカットに内心浮かれた。これで春香達を追い掛けられるとその時は無邪気に喜んだのだ。

 しかし、プロデューサーからの話を聞いている間に僕のテンションは下がって行った。下がったというかドン底に落ちたと言うべきか。それまでの熱に浮かされた頭に冷水を浴びせかけられた気分だった。それはプロデューサーの、あの男が放ったたった一つの言葉が原因だった。

 それが理由で僕は男の誘いを断った。一度は受け取った名刺も突き返した。

 最初は乗り気だった僕が突然断ったことに男は驚き、何で急に態度が変わったのかと訊かれたが僕はそれに答えず、遠目にこちらへと向かってくる優を理由にその場から立ち去った。

 良い話だと思った。僕みたいな人間をスカウトしてくれた男に感謝もしていた。

 でも、だからこそ、僕は彼の話を断った。

 だって──。

 

「え……」

 

 相手のことを考えたからだろうか。こんな偶然あり得るのだろうか。

 あの男が居た。相変わらず遠目からでもわかる高身長だ。僕もあのくらいの身長が欲しいと思う。もちろん男として生まれていたらだけど。

 横断歩道を渡った先、久しぶりに見た男は初めて会った時と同じ不器用な人間特有の無表情になり切れていない硬い動かない顔で歩道の上に立っている。

 彼の目はまっすぐにこちらへと向けられていた。

 ……何で渡らないんですかねぇ?

 まるで待ち構えるように立ち尽くす男に胡乱げな視線を向ける。

 

「……」

 

 いや、まだ僕に用があるとは限らない。たまたま歩道に立ちたいお年頃なのかも?

 どちらにせよもうすぐ信号が切り替わるので渡り切らないと。

 僕はそのまま歩みを進めると歩道を渡り切り、無視する形になるが何も言わずに男の横を素通りした。

 

「如月さん」

 

 やっぱり僕かい。

 呼び止められたからには立ち止まるしかない。甚だ不本意だが相手は大手プロダクションのプロデューサー。しかもそこそこ偉い人。アイドルを目指す人間にとってこれ以上にない肩書だ。そのまま無視するわけにはいかない。

 僕はさも今存在に気付きましたという態度で男へと顔を向けると軽く会釈をした。相手も釣られたように頭を下げて来る。こんな小娘に律儀なものだ。

 ついこの間まで毎日のように見た男の顔を改めて観察する。一度断った僕に対して何度もアプローチを繰り返し、出向く先で何度もスカウトを繰り返してきた男の顔は相変わらずの強面だった。

 最初の頃は男の顔に少しビビっていたのだけど、定期的に会っているうちに慣れてしまった。今では少しだけだが感情の波を読み取れるくらいになっている。

 最近ぱったりとスカウトに来ることがなくなったので不思議に思っていた。いや気にしていたわけじゃないんだけどね?

 

「……お久しぶりですね」

 

 前言撤回。わりと気にしていたらしい。我ながら寒々とした声が出たと思う。自分はこんなにも他人に冷めた態度をとる人間だっただろうか。今の自分の態度を省みながらそんな疑問を抱く。

 僕は基本的に誰にでも平等に接するタイプと思っている。優に対して我を忘れるのはノーカウントだ。身内は別腹。

 僕の平等は平等に無関心というものである。初対面の相手や好意を抱けないと感じた相手にはあっさりとした態度をとる。決してこの男に対するようなツンケンしたものは僕の中に無かったはずだ。

 

「何か私にご用でもありましたか?」

「いえ、本日は近くの養成所に顔を出す用事がありましたので」

 

 勘違い恥ずかしい!

 まるで自分を待っていたのではないかと勘違いした自分をこの場で十回シバキたい。

 羞恥のせいで顔が熱くなる。

 そんなはず無いのに。何を期待しているんだか。

 ……うん? 期待?

 はて、僕は何で期待していたのだろう。

 何を期待していたのだろう。

 そもそも期待をしていたのかすら曖昧なのに。何か、もやもやする。

 そんな僕の内心を知らない男はぎろりと目を僕が手に持つケースへと向ける。

 

「その手にあるものは……ギター、でしょうか?」

「そうですが」

「ギターを弾かれるのですね。もしや駅近くのストリートミュージシャンの方々が集まると言う場所で?」

 

 さすが大手芸能事務所のプロデューサー。こういう素人の集まるスポットの情報も持っているのかと感心する。

 だがすぐに何を好印象を持っているのかと自分を戒めた。危うく絆されそうになってしまった。

 

「そうですが、それが何か?」

 

 意識的に突き放した言い方をする。「貴方に何か関係がありますか」という皮肉を込めた拒絶だった。男にとってはまったくの八つ当たりでしかないのに。無駄に引かれてしまっただろうか。

 しかしこの男は僕が思っていたよりも数段図太い性格をしていたらしい。

 

「大変興味がありますので、一曲お願いできませんでしょうか?」

「はいぃ?」

 

 男の言葉に思わず素が出てしまった。

 この男は何を言ってるのだろうか?

 今さっきまで養成所に顔を出していたと言ったではないか。養成所と言うとアレでしょ、アイドルの卵がいる学校みたいなところでしょ。そこでアイドル発掘に勤しんでいたというならば、嫌ってほどアイドルの卵から歌と踊りを披露されただろうに。その後でまだ聴きたいと言うのか。

 僕の歌を。

 

「お断りします」

「そこを何とか」

 

 ぐいぐい来るなぁ!?

ちょっと第一印象にあった落ち着いた慎み深い一歩引いたスタンスの人はどこに行ったんですかね。僕の勝手な思い込みで最初からこういう強引な人だったのかも知れないけど。

 

「何故そこまで聴きたがるんですか……養成所にも通っていない、素人の曲ですよ?」

「貴女の才能を改めて見てみたい、と言ったら納得いただけますか?」

 

 力強い声だった。真っすぐ僕を見る目も一切揺らいでいない。この人から嘘が感じられない。

本気だ。この男は本気で僕の曲を聴きたがっている。リップサービスでも建前でも興味本位でもない、本当に僕を知りたがっている。

 何となくだけど、それが真理だと思えるくらい僕は目の前の人間から本気を感じた。

 

「……一曲だけですよ」

 

 その意気に負けたとでも言うのだろうか。

 気付いた時にはそんな妥協染みたことを言っていた。

 まあ、聴きたいというのなら聴かせればいいだけだ。それだけならば今の僕でも可能なのだから。

 

 曲を披露するのは近くの公園ということになったので二人して移動した。

 一時期に比べ日が長くなった気がする。西日が公園に残り、舞い散る桜を赤く染めていた。

 

「桜の花びらが散るのを見て、春が来たと思う人と春が終わると思う人の違いって何だろう」

 

 桜の散る姿を見て自然と言葉が零れた。

 

「……春を常に意識している方は桜の終わりと重ねて春が終わったと思い、意識していなかった方は桜の花びらで春を思い出しその到来を感じるのでしょう」

 

 別に答えを求めていたわけではないのに、男が自分なりの解釈を言って来た。

 僕の何気ない呟きに律儀に答えてくれたことがくすぐったく感じる。自分と似た解釈なことが少々癪だったけども。

 

「じ、時間が無いのでさっさと終わらせますよ」

 

 ちょっと気恥ずかしくなった僕は誤魔化す様にギターケースを広げる。

 その時ちょうど強く風が吹いた。

 

「っ」

 

 冬を思い出したかのような冷たいそれに体が震える。

 意識すれば暑さ寒さを感じなくできるとはいえ、常にそれでは人間性を失っていくと気付いてからできるだけ外部からの刺激を遮断しないようにしている。

 しかしずっと刺激に鈍感になっていたため、今の僕はふとした瞬間の刺激に弱くなっていた。

 もう一枚多く着てくるべきだったかな。

 つい昨日まではスプリングコートを着ていたのに、今日になってセーターに変えたのが裏目に出てしまった。風邪をひくことは無いにしても寒いという感覚はあるのでこの時間帯は少し辛い。

聴かせると言った手前帰るわけにもいかず、微妙な寒さの中で演奏することになる。

 寒さで指が悴んでしまわぬように手に息を吐きかけていると横の男が微妙に立ち位置をずらしたことを感じる。

 その位置が風から僕を守る位置になっていると気付いて顔が熱を持った。女の子扱いされている気がして恥ずかしくなってしまったのだ。

 こういう扱いを受けたことが少なかったので新鮮に感じる。記憶を辿っても優とお父さん以外の男性に優しくされた記憶が無かったからこういう時反応に困る。

 お礼を言えばいいのか、余計なお世話と怒ればいいのか、僕には判断がつかなかった。

 結局特に何も言わずにギターを取り出す。また勘違いかも知れないと自分に言い聞かせて。たまたま立ち位置を変えただけかもしれないのに。

 期待しちゃいけない。

 

「リクエストはありますか?」

「そうですね…………では、『蒼い鳥』をお願いしたいのですが」

 

 意外な選曲に何度か目を瞬かせる。

 男もそれは自覚しているらしく、右手で首の後ろを押さえながら眉をハの字に下げていた。

 

「変、でしょうか」

「ええ……いえ、ただ意外だなと思いました」

 

 確かに、どうにもこの目の前の男がリクエストするタイプの曲とは違う気がした。

 何か理由でもあるのだろうか。

 

「この曲に思い入れでもあるんですか?」

「いえ、ただ……その、何と言いますか」

 

 先程まで言いたいことを好きに言っていた男とは思えない歯切れの悪さに眉を寄せる。

 リクエストに意味が無ければ嫌と言うほど”芸術家”ぶるつもりはないけれど、はっきりしない態度をとられるのも何となく気持ちが良くない。無いならば無いでいいのに。変に気を遣われる方が困る。

 訊いておいて申し訳ないけど、質問を取りやめようと口を開きかけたところで男が突然答えを出した。

 

「貴女に合いそうだと、そう思ったもので」

「……」

 

 数秒だけ呼吸を忘れる。

 ジーンと耳の奥で低音の耳鳴りが響き、寒さ以上に指先を震えさせる。言葉一つでそれまで取り繕っていた仮面が剝がれかけた。

 ごくり、と喉が鳴った音が頭によく響く。この人は何も知らないはずだ……。なのにいつも僕の弱いところを的確に突いてくる。

 良い意味でも悪い意味でも。

 今回のこれがどちら側かはあえて言わないけど。

 

「お願いしておいて訊くのも失礼とは思いますが、この曲は問題ありませんか?」

「どういう意味でしょうか?」

「あまりメジャーな曲というわけでもありませんので。レパートリーの中に無ければ他のものにしますが?」

 

 そう言われて、この曲の知名度はリアルと違ってこの世界では微妙なことを思い出す。

 アイドルマスターという作品では有名だとしても、この世界の中ではまだ無名だった千早の持ち歌の一つでしかない。

 あれ、そう言えばこの歌ってこっちだとどういう扱いになっているんだろう。僕の持ち歌でないならばどうやって世の中に出たのか。

 

「如月さん?」

「あ……はい、初めて歌いますが問題ありません」

 

 思考が逸れてしまった。慌てて問題がないと答える。

 

「……そうですか」

 

 一瞬男の目が細められた気がしたが気のせいだろうか。

 まあ、どうでもいいことだ。

 無駄な思考はとりあえず排して今は歌に集中しよう。と言っても曲が曲だけに難しいが。

 蒼い鳥。

 それは初期の千早を象徴するような歌だ。

 アニメのエンディングと劇中歌として披露された、まだ765プロの皆と打ち解けていない時の歌だ。

 千早が作る他人との壁を意識させる描写に使われているため、千早にとってはマイナスなイメージを持たせる歌である。

 それが僕に合うと言われて正直複雑な気持ちになった。でも千早の歌だ。千早が歌っていた歌だ。

 何となく、嬉しいと思う自分がいるのも事実で……。それが未練だというのは理解している。

 大丈夫、僕は如月千早として歌える。

 

 ゆっくりと曲を弾き始める。

 物悲しい曲調は最初一人の寂しさや孤独に耐える小鳥の境遇を想起させる。だがそれを小鳥は強がりと虚勢で耐え続けるのだ。

 そしてサビでは一人で飛ぶことの覚悟と強さを聴く人間に伝える。

 それは僕にはない強さだ。僕は一人で飛べる人間ではないから。蒼い鳥に僕はなれない。

 僕はこの曲に共感はできない。一人の寂しさを耐えて飛び続けることはできない。だから共感はしない。

 でも、この鳥の強さを否定はしない。一人で飛び続けた鳥の強さを僕は尊敬する。そんな想いを込めて歌った。

 

「……ふぅ」

 

 あまり歌に集中できなかったけど、ちゃんと歌い切れたことに安堵の溜息を吐いた。

 

「どうでしたでしょうか?」

 

 歌い終わってからも何も言わない男に感想を求める。ちょっと緊張している自分がいた。

 ずっと黙って聴いていた男は丁寧に拍手を送ってくれた。相変わらずの落ち着いた表情で。

 

「大変お上手だと思います」

「……ありがとうございます」

「ギターの方はいつからお弾きに?」

 

 来たな、その質問。

 僕は二の轍は踏まないタイプの人間だ。お父さんには練習していないと答えて失敗したので、ちゃんと練習期間を設けていると思わせないと。

 

「一月ほど前からです」

 

 どうよ、完璧な回答でしょ。実際始めたのは一ヶ月前なので嘘じゃないしね。

 

「……これを……一月で?」

「え、はい」

 

 しかし返って来た反応は期待したものとは違っていたため内心首を傾げる。

 

「一日の練習量は? どなたかに師事を? 猛特訓の成果ということでしょうか?」

 

 男の矢継ぎ早に繰り出される質問に何か雲行きが怪しいと気づく。

 まさかこの人、僕がギター大好き少女で毎日ギター弾いていると勘違いしてる?

 ギターを毎日引く程ギター好きというのはキャラ付けとしては王道だが見栄えはいいだろう。

 しまったな、この人には変に興味を持たれたくなかったんだけど。ここは努力を匂わせつつ熱意は無い感じに訂正しておこう。下手にギターに全力だと思われても困る。

 

「特に毎日練習するようなことはしていません。弾きたい時に弾いているだけです。誰かに教えて貰ったことはありません。今の曲も勘でやっていただけですので」

 

 これで軌道修正できたかな?

 

「……」

 

 何か反応が悪い。顔が引き攣ってるけど大丈夫だろうか。

 大方ギター弾ける系のキャラかと思ったらにわかだったと知って落胆したってところか?

 残念でしたね、ギターキャラじゃなくて。にわかギタリストが調子に乗って街頭で弾いていたと知って驚いたでしょ。

 

「ご満足いただけましたか?」

「はい、改めて参考になりました」

「? そうですか」

 

 言い方に多少の引っ掛かりを覚えつつ、相手もこれで満足しただろうとギターをケースへとしまう。

 そう言えば気になっていたことを訊いてみることにした。

 

「蒼い鳥ですが、この歌ってどなたが歌っているんでしたっけ?」

 

 僕としては何となく口にした質問でしかなかった。

 質問内容もギターをしまう間のちょっとした世間話程度の認識でしかない。しかし、彼にとってはそれは意外な質問だったらしい。

 

「ご存知無かったのですか」

「え、はい。歌だけ知っていたので」

 

 男から意外……いや、異質な存在を見るような目を向けられてちょっと身を引いてしまった。どうやら僕のこの質問は相当ありえないものらしい。そうでなければ付き合いの短いながらも根っからの真面目人間だと確信できるこの男がこんな目で見てくるわけがない。

 それ程までに僕のこの質問はありえなかったようだ。

 

「この歌は”あの”渋谷凛さんの物です」

「──っ」

 

 渋谷凛。

 春香と僕の前に現れ、春香にリーダーの責任を問い質した少女。僕が居ない代わりに765プロに存在するアイドル。

 そうか、蒼い鳥は彼女の持ち歌だったのか……。

 僕の代わりに765プロに入った凛の持ち歌が蒼い鳥であることに少しも思うところがないと言えば嘘になる。でもそれは恨みだとか嫉妬だとか、そういう負の感情ではないはずだ。少なくとも凛に対して恨みがあるかと訊かれたら迷わず無いと答えられる。何と言えばいいのか、 たぶん僕が彼女の存在をいまいち認識し切れていないからだ。

 それに、あのメンバーの中で蒼い鳥を持ち歌にできるのは彼女しかいないというのも確かだしね。死蔵されるよりは世に広まってくれた方が嬉しい。

 だから彼女が765プロに居ることはどうでもよかった。

 もし彼女がいなければ僕が代わりに……なんて思考は無駄なものなのだ。

 

「……」

 

 ギターをしまう手を止めて黙っていると視線を感じたので顔を上げる。男がじっとこちらを見下ろしていた。真っ直ぐに僕を見つめる瞳に含まれた感情を読み取ることはできない。だけど、次に何を言われるのかは予想できた。

 

「如月さん、何度でも言います。今一度シンデレラプロジェクトに」

「私が了承したのは一曲お聴かせすることだけです」

 

 続きを言わせないように強い口調でばっさりと切り捨てる。

 

「如月さん、どうかもう一度お話だけでも聞いていただけませんでしょうか。それで考えが変わるかもしれません」

 

 考えが変わる?

 あは、何を言うかと思えば……変わるわけがないだろう。

 僕の考えは変わらない。変わるとすれば貴方の方だ。変わるなら貴方の方だ。僕の考えは変わらない。変えられない。

 今のままで僕をシンデレラプロジェクトに誘おうなんて無駄な努力でしかないのだから。

 

「私には貴方の求めるモノがありません。シンデレラプロジェクトに参加する資格がありません」

「如月さん」

「失礼いたします」

 

 それ以上男が言葉を重ねる前にその場を立ち去った。

 僕には参加資格がない。最初にそう言ったのは貴方だろう。だったらもう誘わないでよ。期待させないで。また駄目と言われた時に余計惨めになるから。

 惨めになるのはもう嫌だった。

 さすがにあんなはっきりと拒絶したためか、男が追ってくるようなことはなかった。

 ……なんだ。

 

 

 家への帰り道ではどうにも歩みに力が入らずゆったりとした足取りになった。歩き慣れた道だというのに何とも足元が覚束ない感じがしてなかなか前に進まない。

 手に馴染んだギターケースの取っ手が今日に限ってはよく滑る。何度持ち直してもすぐ手からするりと抜け落ちそうになって、その度に慌てて持ち直すというのを繰り返した。

 ふと目の端に入った道に落ちている空き缶を拾い上げる。近くにゴミ箱は見当たらない。周囲を見渡せば道路の反対側に自動販売機があり、その横の空き缶入れが見えた。わざわざ反対側まで渡ると拾った空き缶を捨てるとからんと缶同士のぶつかる音が虚しく響く。

 

「……」

 

 しばらく缶を捨てた姿勢でフリーズした。何故自分はこんなボランティアみたいなことをしているのだろうか?

 自分に問いかけるも答えは出ない。仕方なくその場を立ち去る。

 その後も目についた看板の文字を目で追ったり、目の前を横切った猫に触ろうとして逃げられたり、近所の子供が描いたたくさんの円でけんけんぱしたり。とにかく無駄な時間を使う。自分のこの衝動を名付けるどころか正確に把握することもせず、ただ時間を無駄に浪費した。

 そんなことをして時間を無駄にしたためか、アパートの前に着いた頃にはすっかり日が暮れていた。いつもならもう少し早くに家に辿り着くのに。あの人に歌を聴かせたことよりも、そこから家までの道を牛歩の如く時間を掛けて歩いたことが遅くなった原因だった。そう考えると夕闇以上に自分の心が暗くなるのを自覚した。

 自分の部屋のある階まで上り慣れた階段を一段一段ゆっくりと上がる。ゆらゆらと揺れるケースの底が何度も階段とぶつかりコツンコツンと音を立てた。

 階段を上りながら今日のことを考える。

 今日の僕は無駄な一日を過ごさなかっただろうかと。

 優が帰ってからオーディション用の履歴書を書いて、笑顔の練習をして、駅近くで歌って、あの男に曲を聴かせた。今日僕がやったことを挙げればこれだけしかない。

 履歴書を書いて別のオーディションの結果を見て落胆し、笑顔の練習をして落ち込み、何となく歌いに出る。それが最近の僕のルーチンワークだ。優とあの人の件は本当に特殊なイベントだっただけで、いつもの僕はこの繰り返しで一日を生きている。

 

 僕はギターを部屋の隅に適当に置くと、ケータイを取り出し短縮ダイヤルに登録した番号を呼び出した。

 数コールの後、相手が電話に出る。

 

『もしもし、お姉ちゃん?』

 

 電話の相手は優だった。

 今朝会ったばかりだというのに優と会話したのが遥か昔のように思える。

 

「優の声が聞きたくてぇ」

『そうだったんだ』

「今大丈夫? 忙しいなら後にするけど?」

『大丈夫だよ。ちょっと宿題してただけだから。夕ご飯も食べ終わったから時間もあるよ』

「そっかー、良かった。でも宿題があるならあんまり長引かせちゃ悪いよね! それにしても優はちゃんと宿題をやるなんて偉いなー!」

 

 僕なんて中学時代宿題を一度としてやって行かなかったからね。テストで満点取れば文句ないだろってスタンスだったから。我ながら舐めた態度だったと思う。

 授業もまともに聞いていなかったので一度数学教師にキレられたことがある。それでも態度を改めない僕に業を煮やした教師が「この問題が解けなかったら授業を真面目に受けろ」と言って数学の問題を黒板に書いたわけだけど。僕が最低限の途中式込みで三十秒くらいで答えを書いたところそれ以降何も言わなくなった。

 そんな僕は成績は優秀だが不真面目な奴として教師から扱われていたわけだけど。そんな黒歴史な僕の中学時代と比べて優はとても真面目に過ごしているようで感心する。

 

『そんなことないよ。普通だって』

「私と比べたら真面目だよ」

『……お姉ちゃんと比べたら誰でも真面目扱いになるよ』

「ん? よく聞こえないぞー。優の素敵な声が聞こえないよー?」

『ごめんね、電波が悪かったのかも』

「そっかー!」

 

 優の美声を妨げるなんて悪いケータイだな。後で電池パック抜いてやる。

 あ、そうすると優からのメールに気付かないかも知れないから止めておこう。命拾いしたな。

 

『最近はご飯ちゃんと食べてる? お母さんも心配してたよ。自分が行かない日はどうしてるのかなって』

「ちゃんと食べてるよー」

『本当? コンビニ弁当だけじゃだめだよ。昨日だって部屋にお弁当の箱がたくさん捨ててあったし』

 

 あちゃ、片づけたと思ってたのに優にはバレてたか。今度はちゃんとゴミ出しもしておこう。

 お母さんがご飯を作りに来ない日はだいたいお惣菜かコンビニ弁当だからゴミが溜まるんだよね。燃えないゴミの日に限って予定が入って捨てられないから余計溜まって困っている。

 だがそれも最近少しだけだが改善されて来た。当然僕が料理を覚えたとかそんな奇跡は起きていない。

 

「最近はねー、春香が泊まりに来た時に作ってくれるんだよ?」

『天海さんが?』

「うん。終電逃したーって言って765プロから家に来るんだよ。泊めて貰うだけじゃ悪いからって、その時ご飯作ってくれるんだ」

『……胃袋から攻めて来たかぁ』

「んっんっ? また聞こえないよ。電波?」

 

 そろそろケータイを買い替えようかな。最近はスマートフォンというのが主流らしいし。

 今僕が使っているケータイってガラパゴスケータイとか呼ばれているらしい。略してガラケー。そのガラケー全盛期でもあり得ないくらい古い型だったのでシーラカンスケータイと呼ぼうか。

 

『その料理変な味とかしてないよね?』

「大丈夫だよ、春香の料理は全部美味しいもん。それにせっかく春香が作ってくれた料理だから、多少おかしいくらいで残せないよ」

『一度信用したらとことん信じられるのはお姉ちゃんのいいところだよね』

「えへへ、優に褒められちゃった」

『とりあえず、天海さんが作った料理で変な味がしたものがあったら躊躇わず吐き出すこと』

「どういうアドバイス?」

『いいね?』

「あ、はい」

 

 ちょっと強めの念押しに思わず了承した。

 そんな感じに優との話が弾んだ。ところどころ電波が悪くなったり、優からの謎のアドバイスに戸惑ったりはしたけれどそれも含めて優との電話は僕にとって心休まる時間だった。

 本当ならもっと話したいし、できれば実際に会ってお話したい。でも今日のところは優も宿題があるからそんなに長話はできない。実際に会うにも優が学校があるからなかなか時間がとれないのだ。

 優不足が深刻化する前に何とか会えないかな。できれば休日にお出かけとかしたい。可能ならそのままお泊りしたいな。

 

「ありがとう。優と会話できたから元気でたよ!」

『そう、なら良かった。僕で良ければいつでも話し相手になるからね』

「優がぁ、優しくてぇ、生きるのが辛いぃぃびぇええん」

『唐突に泣くのはやめて欲しいかな』

「あい。ずびびっ」

『あと鼻も』

 

 最近優限定だけど涙脆い気がする。これは優の中学校の卒業式に参加したら涙と鼻水で脱水症状起こすレベルだわ。僕の目と鼻の穴は涙と鼻水でガバガバだわ。

 

「優のせいで私の両の穴はガバガバだよ~!」

『お願いだから、それをお母さん達に言うのだけは止めてよね。本気で』

「うん、よくわからないけどわかった」

『不安だ……』

 

 優は最近不安なことが多いよね。心配だな、僕でよければ力になるのに。でも優は僕に気を遣ってか何が不安なのか教えてくれない。お互いに世界で唯一の姉と弟なんだから、もっと頼って欲しい。

 

「優が不安になるなんて駄目だね。私に言ってくれたらその不安の原因をプチっと潰してあげるから、遠慮なく言ってね!」

『自殺教唆になるからいいよ』

「電波悪い?」

『……お姉ちゃんのことだから聞いてないふりとかできないだろうね。そろそろ本当に買い替え時じゃないかな。今時お年寄りでもそんな古いの使ってないよ』

 

 本当にねー。最近メールの受信もメールセンターに問い合わせしないと届かないし、電池の持ちも悪いから不便で困ってるんだよね。携帯充電器もこの型のとか存在しないし。

 

『何なら今度一緒にスマホ買いに行く? 僕も新型の見たいし』

 

 そ、それってもしかして!

 

「お泊りデート!?」

『お泊りでもないしデートでもないよ』

「うぇへへ、優とデートだぁ」

『くっ、本当にいい仕事するね電波!』

 

 その後はどこでスマホを買うか等の予定を話し合って優との会話を満喫した。

 通話を終えると早速春香にメールを送ることにした。この喜びを誰かに聞いて貰いたいという衝動が僕を突き動かしている。

 送るメールの内容は、昨日優が部屋に泊まってくれて色々してくれたことと、今度デートするというものだ。前々から春香には優とのことを相談に乗って貰っていたからその報告も兼ねている。

 

「……あれ」

 

 いつもなら送信して一分もしないうちに返信があるはずなのに、今日はいつまで経っても返事がない。

 普段僕からメールを始めることはないので春香は驚くかなとちょっと期待していたのだけど残念だ。ちなみに僕からメールをしないのは、春香が忙しい時にメールをして邪魔をしたくないからである。

 タイミングが悪かったのかも知れないね。最近の春香は人気が鰻登りなのである。一皮剝けたと言えばいいのだろうか、春香が見せる「私毎日楽しんでます」って顔で明るく仕事をする姿はお茶の間でも評判が良いらしい。

 そんな春香にメールをしてもすぐに返せるわけがないよね。つい何時もの感覚で送ったから戸惑っちゃった。

 まあ、後にでも読んだら反応を返してくれるだろう。僕は特に気にすることはせず、ケータイを枕元に放った。

 

 その日春香からメールが返って来ることはなかった。

 

 

 ────────────

 

 

 次の日のこと。

 コンビニにお昼を買いに行く僕の前にあの男が現れた。

 何時の間にそこに居たのか、僕の横に立った男の手にはシンデレラプロジェクトと書かれた封筒がある。男は無言でそれを僕に差し出した。

 一言あっても良いんじゃないかな。無言で突き付けられても反応に困るから。

 

「……何かご用でしょうか」

 

 理由なんて判り切ってるのにあえて皮肉を込めて男に問いかける。

 僕の態度から歓迎されていないのは理解できているだろうに、男は律儀にシンデレラプロジェクトと印字された分厚い封筒を僕の目に入りやすいように差し出して来るのだった。これワザとやってたらかなり大物だよね。もしくはこちらを舐めているか。この人の性格的に”絶対に”真面目に勧誘して来ているのだろうけど。だからこそ厄介な相手だった。

 僕は真面目に物事に当たる人間に強く出られないタイプの人間だ。これは僕がずっと不真面目な人間だったことの反動である。きっと僕の心の奥底では真面目に生きてこなかったことに罪悪感が根付いてしまっているのだろう。だから真面目な人を見ると申し訳ない気持ちになってしまうのだ。

 だからと言ってこの人の差し出す封筒を素直に受け取るかは別問題。断固とした態度で断るつもりであった。

 

「あの、私はお断りさせていただいたはずですが。何故今も勧誘されているのでしょうか?」

「せめて名刺だけでも受け取っていただけないかと」

 

 そう言って封筒の代わりに今度は名刺を取り出してきた。微妙に僕の質問からずれた回答だ。これこそあえてやっているんじゃないかと思う。今ので僕が断る対象が曖昧になってしまった。僕は勧誘について訊いたのに名刺を受け取れと言う。それにより『まあ、それくらいなら』ととりあえず受け取らせようという魂胆だろう。営業マンがよく使う手だ。さすが大手事務所のプロデューサー、何の策もない真っ向勝負で玉砕するほど馬鹿じゃないか。いくら実直そうな男でもこの手度の搦め手は使うか。

 多少の引っ掛かりを覚えつつ相手のやり方を冷静にそう分析した。

 

「何度も申し上げたように、私はシンデレラプロジェクトに参加するつもりはありません」

「……理由をお聞かせいただけませんか?」

 

 ここで答える義理はないと突っぱねることは簡単だ。でもそうすると今度は理由を聞くために付き纏われかねない。大の大人が子供みたいに「ねー、なんでー、なんでーねーねー?」と周りをうろちょろするのは嫌だった。

 どうせ話したところで問題にはならない。ここで完全に希望を断ち切るためにも説明しておいた方がいいだろう。

 

「私は──」

「君かね、少女に付き纏っているという不審者は」

 

 説明しようと男に顔を向けると、男は制服姿の警察官に腕を掴まれ職務質問を受けていた。

 なんでだよ!

 今僕が説明しようとしてたでしょ。それがたった数秒でお縄頂戴されかけているのさ。

 

「最近この辺りに不審者が出没するという通報があったんだよ」

「いえ、私はただ彼女に名刺と企画の書類を……」

「まあ、詳しくは署の方で聞かせて貰うので」

「ですから、私は」

「あの!」

 

 あれよあれよと言う間に警察官に連れて行かれそうになる男を見て思わず割って入ってしまった。

 その時彼の手にあった名刺を受け取ってしまう。これだけは受け取らないようにしようと思っていたのに……。

 

「この人は……その、知り合いです」

 

 だから、僕は真面目な人間が不遇な目に遭うのがダメなんだってば。同情心を誘うとかずるいだろ。

 

「知り合い、ですか?」

 

 警察官の視線が男と僕の間を行ったり来たりする。その目は「どんな知り合い?」という疑問が含まれていた。

 まあ、僕みたいな少女と強面の男が知り合い同士と言われても、まずどんな関係か察せる人間は居ないだろう。当の僕が男との関係を言い表せないのだから他人に察せという方が酷だ。

 

「……」

 

 とりあえず警察官の方もいきなり男に任意同行を求めるのは止めたらしい。しかし完全に納得したというわけでもないみたいだ。

 改めて僕と彼がどんな関係かと問われたらすぐに答えられそうにない。警察官に問われる前にここは戦略的撤退をするべきだ。

 何か手はないだろうか?

 まだこちらを疑っている警官の視線からどうやって逃げようかと視線を彷徨わせていると一件の喫茶店が目に入った。ここはあそこに逃げ込むしかない。僕は男の腕を掴むと喫茶店へと向かって歩き出した。

 

「あの、如月さん……手が」

 

 しかし男の方が何やら後ろでごちゃごちゃと言ってなかなか歩こうとしない。

 体格差から逆に引っ張られて後ろに倒れそうになった。

 

「あっ、大丈夫ですか?」

 

 倒れそうになった僕を男が慌てて抱き留める。僕の小柄な体躯がすっぽりと男の腕の中に納まってしまった。

 思っていた以上にたくましい胸板だと場違いな感想を持ってしまう。

 だがすぐに男の行動の所為で再び鋭くなる警官の視線に慌てた。

 仕方がない。僕は一時的に筋力を増強させると男の手から逃れ、引っ張られないように男の腕を抱え込んで無理やり男を歩かせた。僕の力の強さに驚いたのか男が一瞬体を硬直させていたが僕は気にせずに歩き続ける。

 

「き、如月さん、その……当たって」

「黙って付いてきてください!」

 

 もう男が寡黙なのか無駄口が多いのかわからん。

 僕はそのまま男を連れ喫茶店へと入った。

 

「いらっしゃいませ、何名様ですか?」

 

 喫茶店の中は僕一人では絶対に入らないであろうお洒落な造りをしていた。

 店員さんもアルバイトにしてはなかなかにあか抜けた感じである。近所にこんなところがあったのかと状況も忘れて少しの間店内を見回した。

 

「あの、如月さん……そろそろ離していただけると助かるのですが」

「あ、ごめんなさい」

 

 何故か非常に申し訳なさそうな声音で男が指摘して来たので慌てて腕を離す。さすがに警察官も店内まで追ってくることはないだろう。

 ようやく落ち着いたので僕はお暇したいところなのだけど、最後に男に皮肉の一つでも残してやろうかと我ながらいじわるな感情が芽生える。

 

「いえ、私の方こそ、ありがとうございます」

 

 律儀に感謝を述べて来る男に気勢がそがれる。

 別に助けたのは相手が貴方だからではなく、僕が誤解や勘違いで誰かが可哀想な目に遭うのが嫌いなだけだ。だからそんな風に感謝の念を込めた目で見ないで欲しい。

 そもそもこうして話を持ってくるのも、僕がいつまでも曖昧に断っている所為なのだから。男がしつこいという点を抜きにしても多少はこちらを責める姿勢を見せてもいいんじゃないかな。

 まあ、この人はそんなことを思いもしないのだろうけど。

 

「あの、お客様……」

 

 と、そこで店員さんを待たせていたことに気付く。

 男の方はともかく、僕は警察官をやり過ごす必要はない。この人を置いてお店から出ようと思い躊躇いがちに声を掛けて来た店員さんに連れではないと説明しようとする。

 

「二名で」

「ちょっ」

 

 だが僕が何かを言う前に男の方が答えてしまった。しかも二名って……。

 これは巻き込まれた感じ?

 若干胡散臭そうにこちらを見始めた店員さんの案内に従い、僕達は奥の方の席に腰かけた。

 

「申し訳ありませんでした」

 

 席に着くと開口一番先程の件の謝罪を受けることになった。

 今思えば律儀に同席する必要も無かったと今になって気付く。今更だけど。

 

「いえ、気にしないでください。私も無関係というわけではありませんでしたから」

 

 一応建前としては知人である男を助けるのは当然だろう。あのまま連れて行かれていたらどうなっていたかわからない。最悪大手プロダクションのプロデューサーが淫行疑惑で検挙なんてスクープが世をにぎわせかねないのだから。

 そうなったらアイドル業界の世間の風当たりが強くなる。こちらの世界でも芸能界というのは一般人からすると謎の多い世界だ。何が火付け役になるかわかったものではない。さすがの僕も大炎上している芸能界に飛び込みたいわけじゃないからね。

 だから別に貴方のためじゃないんだからね?

 

「先程もお尋ねいたしましたが、なぜお受けいただけないか理由をお聞かせいただけませんか」

 

 実はここまでの一連の流れが男の戦略なのではないかと思った僕は悪くない。先程までと違い喫茶店という逃げられない空間に誘い込むための巧妙な罠だったのではないか。

 さすがにあり得ないか。僕を追い込むためだけにそこまでの捨て身の攻撃をするわけがない。自分のプロデューサー人生を賭ける価値が僕にあるとは思えなかった。

 しかし男からは丁寧ながらも有無を言わせない迫力を感じる。少なくとも今この時は本気で僕に向き合ってくれているのは確かだ。

 一度スカウトした相手が断ったから躍起になっているという印象は受けない。相手もプロなのだからそんな理由でしつこく話を持って来たりはしないだろう。

 だったら何で僕に構い続けるのだろうか?

 

「あの、それにお答えする前に、改めて確認させていただきたいのですが」

「何でしょうか」

「どうして……私なんでしょうか。前にこのお話を頂いた時から時間が空いています。それが今になってまたお話を持って来ました。それをするだけの理由がそちらか私にあったということでしょうか?」

 

 初めてこの人にスカウトされた時は春香達のアリーナライブの日だった。その時に一応だが断っている。なのにしばらく男から勧誘を受け続けた。結構しつこかったのを覚えている。

 だがある日を境にぱったりと姿を見かけなくなった。さすがに諦めたかと思ったところで、また今になって現れたのだ。意味が解らない。男の行動の理由を知りたいと思うのは不思議ではないだろう。

 もしかしたら、もしかするのかも? そうやって期待する僕が居た。

 

「理由は幾つかあります。まず、シンデレラプロジェクトに欠員が出たため、その補充という意味です」

「欠員……」

 

 始まる前から欠員が出るとか大丈夫かその企画。大手プロダクションと言っても外れ企画というのはあるということだろうか。

 でもそのアイドルだって何か事情があったのかもしれないし。シンデレラプロジェクトの定員は十名以上らしいからその中の一人くらいならあり得るだろう。事故や家の事情ならば仕方がないことだ。

 ふと、空いた枠のおかげで僕にこうして話が貰えたことを喜ぶ自分が居た。浅ましい考えに顔も知らない相手に心の中で謝る。

 

「その補充として如月さん達にお声を──」

「ちょっと待って下さい」

 

 今聞き捨てならない言葉を聞いたぞ。

 

「はい? 何でしょうか」

「今、”達”と言われました?」

「はい」

 

 如月さん達──つまり、僕以外にも声を掛けていたということか。

 ちょっと上がりかけていたテンションが一気に萎んでいくのを感じる。

 なんだ、僕だけに声を掛けてくれたわけじゃないのか。

 

「あの、如月さん?」

 

 期待が大きかった分、気落ちする勢いも激しかった。何故だか男に裏切られた気分になる。完全に的外れな感情のはずなのに。

 僕以外に候補がいたことを残念に思っているわけではなかった。僕も補充……スペアの候補の一人でしかないことも納得しきれないけど呑み込むことはできる。

 でも僕以外にいるというならその人と比べられるということは拙い。それはどうしても許容しにくい。他の補充要員と何を比べ合うのかわからないけど、もしもそれが僕が危惧する物であった場合、僕は競い合うこともできずに敗北することになる。ならば予め確認しておかなければならない。

 わずかな希望を胸に問いを発した。

 

「……今回、私を補充要員として選んだ理由を聞かせていただけませんか?」

「ええ、もちろんです」

 

 唐突に話を振ったにも関わらず男は気分を害した様子もなく頷いてくれた。

 その態度が僕を安心させようとしてくれてるように見えて少しだけ心が落ち着く。期待が高まる。

 もし今度は違う選考理由だったならば、僕はこの人を信じてもいいと思った。

 

「笑顔です」

 

 その希望はたやすく手折られてしまったが。

 結局それだったか。

 僕は少しの失望を感じるとともに席を立ちあがった。

 

「……さようなら」

「っ、如月さん」

 

 何かを言いかける男を無視して僕は逃げる様に店を出た。まだ注文も何もしていないので別にいいだろう。

 

「何だよ。結局またそれかよ」

 

 また笑顔が理由か。

 笑顔。

 それは僕が失くしたものじゃないか。

 アイドルになるために練習した努力の結晶はあの日砕け散った。今この手には欠片しか残されていない。それは僕に残った千早の残滓だ。千早を目指していた時の僕が必死で磨いた自分だった。

 その笑顔を必要としていると言われて平常心を保てるわけがなかった。

 あの人は知らないのだ。僕が笑えないことを。だからあんな残酷なことを真っ正直に言えるのだ。

 店を出てからもしばらく走り続けていた足を止める。

 隣を見ればショーウィンドウに自分が映っていた。

 

「……」

 

 試しに笑ってみる。顔に力を入れると微かに目尻が下がり、心持ち口角が上がった気がした。

 だが出来上がったのはやはり不格好な、笑顔とも呼べない変な顔だった。

 笑顔が採用条件とあの男は言った。

 でも僕はその笑顔を彼に見せたことはない。あるとすれば優が出した一次選考の書類だけ。あれが世に出た唯一の僕の笑顔だ。プロジェクトのプロデューサーならば書類に目を通すくらいあるだろう。

 つまり、彼はたまたま目に止まった僕の中学時代の写真を見て笑顔を理由に話を持って来ただけなんだ。

 だから、彼が笑顔だと言った時に僕はシンデレラプロジェクトの誘いを断った。

 本当ならその時笑顔のことも言うべきだった。でも僕は正直に告げることができなかった。万が一にも彼の口からほかの事務所のプロデューサーに僕の話が行き、僕が笑顔が作れないと広まるのを恐れたからだ。誰彼構わず他人の事情を言いふらすタイプには見えなかったけど、業界の横の繋がりを侮ってはいけない。765プロの社長と961プロの社長に交流があるのだ。本来あり得ない繋がりというのはある。人同士の繋がりは常識では測れない。

 その結果ズルズルと時間ばかりを無駄にさせてしまった。欠員補充のためにも一日だって無駄にできないだろうに、こんな頻繁に僕のところに来る余裕があるはずがない。それでもこうして足を運んでくれている彼に申し訳なさと微かな喜びを感じている。

 

「……ん?」

 

 はて、僕は何を喜んでいるのだろうか?

 突然自覚した自分の心境に自分で首を傾げる。

 喜んでいる。何を僕は喜んだ。喜ぶ要素があっただろうか。しつこく付き纏われたことが嬉しいのか。何度もスカウトされたことで自分の才能を他人が認識していることが嬉しいのか。

 それとも期待されて嬉しいとでも言うのだろうか。

 ……馬鹿馬鹿しい。期待など受ける理由がない。仮に期待しているとしたら、その期待は相手の勘違いでしかないのに。裏切ることを前提とした期待を持たせるなんて不義理過ぎる。

 やっぱり理由をきちんと話して、絶対に僕はシンデレラプロジェクトに参加できないことを知ってもらおう。ずるずると無駄な時間を使わせるのは彼に悪い。大手事務所のプロデューサーをこんな小娘一人のために拘束するのはいけないことだ。何より彼が集めているという他のアイドルに悪い。

 欠員が補充されない限りプロジェクトは始動しないというならなおさらだ。参加する意思の無い僕が曖昧に断り続ければ、それだけ彼女達の活動開始時間が遅くなる。

 いつから止まっていたかは知らないけど、僕が最初に声を掛けられた時が二ヶ月前にと考えると最低でもそれだけの間待機させていることになる。そんな簡単なことすら気づかずにいた自分が嫌になった。

 名前も顔も知らないアイドル達に僕は心の中で盛大に頭を下げる。ごめんなさい、今すぐ君達のプロデューサーには理由をきちんと話して断るよ。

 気が変わらぬうちにすぐにでも男へと真実を告げようと踵を返す。

 だが、僕はそこから一歩目を踏み出すことができなかった。

 目の前に知った顔があったから。

 

「渋谷……凛」

 

 僕の前に凛が立っていた。

 オフの日なのか、私服らしい青のシャツと紺色のスラックス姿で足元には飼い犬だろうリードに繋がれた小型犬を連れている。

 奇遇というにはやけに凛の距離が近い。明らかに僕に用があるとしか思えない距離感だった。

 凛の顔からは春香相手に睨みを利かせていた時とは違い幾分険が取れているような気がする。ライブの時に遠目に見る機会があったけど、こうして普通の表情をしているとやはり綺麗な顔をしていると思った。

 

「貴女に呼び捨てにされる理由はないと思うけど?」

 

 しかし返される声は冷たい。見た目が穏やかな顔をした美少女である分、形の良い小さな口から放たれた言葉を一層冷たく響かせている。

 凛の僕に対する感情が冷めていることに嫌でも気付かされた。

 周りに人がいるから表面上そうやって取り繕っているだけなのだ。今も凛に気付いた通行人達が驚いた顔でこちらを振り返っている。

 

「失礼いたしました、渋谷さん」

 

 確かに言われてみれば僕は彼女と友達でもなんでもない。いきなり呼び捨ては失礼だった。

 あの時もまともに挨拶をしなかったし、もしかしたら僕の無礼な態度が彼女の冷たい態度の原因になっているのかと思った。

 

「っ……丁寧になる必要はないよ。別に後輩でもなければ……先輩でもないんだし」

 

 そう言ってくれるのは助かるけど。

 先輩でも後輩でもないと言った時、彼女が泣きそうになったのも、ギュッと拳を握った手が震えていたのを僕は見ないふりをした。

 

「春香が最近調子が悪いみたいなんだけど……」

 

 この話題は触れない方がいいみたいだ。凛自身も触れられたくないのか、別の話題を振って来る。もしかしたらこちらの方が本題だったのかな。

 それにしても春香が?

 何だろうか。ここ数日はメールと電話しかしてないから直接様子を見られたわけではないけど、文面や声から悩んでいる印象は受けなかった。

 春香は溜め込むタイプだから今度会った時にでも悩みが無いか聞いてみよう。

 

「そう」

 

 僕はあえて何でもないかのような反応を返した。

 765プロのメンバーで春香が思い悩み限界を迎えかけたことを把握していた人間は少ないそうだ。

 最初から知っていた者、後から知らされた者、事情を把握できていない者、年齢と性格を考慮して765プロ内で情報規制が施されているそうだ。

 誰がそれに該当するか僕は把握していないけど、凛が事情を知らないグループだった場合に余計な情報を伝えるのはよろしくないと思ったからだ。

 

「そうって……何その反応」

 

 でも凛にとっては僕の今の反応は望んだ物ではなかった。僕の考えや春香との付き合い方を知らない者からすれば今の僕は「自分には関係ない」と言っているように見えたことだろう。

 

「春香が悩んでいるのに、その態度はないんじゃない? 友達……なんでしょ?」

 

 ちょっと必死になり過ぎだ。一度クールダウンして欲しい。トップアイドルが往来で少女一人に声を荒げているというのはよろしくない状況だ。周りの目もある。

 自分が責められているというのに僕は凛の心配をしている。僕の言い方が悪かったとはいえ、理不尽に憤りをぶつけて来る凛に怒りを覚えない。

 たぶん僕は無意識に凛と自分を重ね合わせていたのだろう。それに気付いたのは結構後のことだけど、今この時は理由もわからずに凛の態度を許容しているのを自覚していただけだった。

 そんな風にどこか凛の態度を微笑ましく思ってしまったからだろうか、僕は凛に落ち着いて貰いたいがために無謀にも愛想笑いを浮かべようとした。

 

「何、その顔」

 

 当然愛想笑いなんて高等技術を今の僕ができるわけがない。結果として凛に変顔を晒すことになってしまった。

 やだ、こんな顔優にも見られたことないのに恥ずかしいわ。

 

「……笑顔、のつもり……ですけど、一応」

 

 自信がないため段々と声が小さくなっていく。自分でも今の顔はやばいってのは自覚していた。凛の瞳を鏡に自分の作り笑いが見えてしまったから。

 

「笑顔……? それが? 嘘でしょ?」

 

 当然凛から好意的な反応は返って来ない。むしろ馬鹿にされたとでも思ったのかこちらを睨んでくるありさまだ。

 そんな怖い顔をしないで欲しい。

 

「本当、ですけど……。私はこの笑顔しか作れません」

 

 必要性を感じないまでも、一応僕は嘘吐きだと思われたら回りまわって春香に迷惑がかかる可能性があるため、何とか凛に納得してもらえないかと言葉を探す。

 こういう時に口下手な自分が恨めしい。目の前の怒れる少女を納得させる言葉が浮かばない。結局事実をそのまま言うことしかできなかった。

 

「嘘だよ……嘘でしょ? 嘘だよね!?」

 

 何度も念を押すように凛が問いかけて来るが、本当に僕はこの笑顔しか作れないんだよ。そんな嘘嘘と言われても困る。

 そもそも凛の前で笑顔を見せたのはこれが初めてなんだから、何の証拠もなく嘘吐き扱いは止めて欲しい。必死すぎでしょ。さすがに抗議の一つくらい言ってもいいよね。

 実際に口にすることはできなかったけど。

 

「嘘だ!」

「ちょっ!?」

 

 突然凛が叫んだかと思うと両の肩を手で掴まれ、そのまま背後のショーウィンドウへと押し付けられる。その時凛が持っていたリードが手から落ちたが、凛の方はその事に気付いていない様子だ。

 僕の方もいきなりのことに反応が遅れてしまう。人間を超えた反応速度を持っていても、こうしてありえない行動をとられると精神が一般人の僕の場合対応が遅れるらしい。今知っても意味ないけど。

 と言うか何で凛はそんなに必死になっているの?

 今の彼女からは余裕が感じられない。先程まで取り繕っていた平静さが微塵も感じられない。こんな場所で、人通りのある場所で声を荒らげるなんて。

 周囲の人間が何事かとこちらを見ている。

 

「あの、落ち着いて……」

 

 僕は周囲を目で見回すことで周囲の目があることを凛に伝えようとする。頼むから気付いてくれと願いながら。

 でも今の凛にそんな余裕はなかった。

 

「私のことが気にくわないから笑わないだけだよね? そうでしょ?」

 

 周りの目など気にすることもせず、僕へと顔を寄せる凛。彼女の綺麗な顔が目の前まで迫り一瞬ドキリとする。思わず顔を逸らすと僕の目に凛が連れていた子犬が映った。突然の主人の豹変に戸惑ってるのか、リードが離されたというのに彼女の足元から離れようとしない。

 今は動かなくてもいずれ子犬が逃げ出すかも。場違いにも犬の心配をした僕は注意をするために凛へと向き直る。そして息を呑んだ。

 凛の両目の瞳孔が完全に開いていた。

 息が荒く、興奮しているはずなのに僕の肩を掴む両手は血の気が失せ逆に冷え切っていた。明らかに異常な状態と言える。

 何かに動揺している?

 何に? 僕が笑えないことに?

 それだけでこんな激しい反応を見せるなんて。疑問を込めて凛の瞳の中央、開ききった瑠璃色のそれを見返しても、こんな時でも無表情な僕の顔が映っているだけで思考までは読み取れない。

 

「この前春香に強く当たったのは謝るから……春香ともあの後和解したし、だから……ね?」

 

 明らかに様子のおかしい凛が的外れなことを言って来るも、僕は何も言い返せない。何故こんなことになっているのか理解できないから適切な対応がとれない。

 凛は何をそんなに動揺しているんだ。そして僕にどんな答えを期待している。

 笑えばいいのか?

 凛が望む笑顔を作れたら彼女は満足するとでもいうのだろうか。

 だったらすでに詰んでいる状態だった。僕に凛が望む笑顔は作れない。

 

「ごめんなさい……笑えません」

「っ!」

 

 だから僕は正直に言い続けるしかない。僕は笑えないと。

 それで納得してくれるわけがないと知っていても愛想笑いの一つもできない僕は真実を告げることしかできないのだ。

 

「なんで……貴女はそんな風に……」

 

 凛の口から漏れ出た言葉の意味はわからない。

 

「私の知っている如月千早はそんな笑顔じゃなかった!」

 

 凛は足元の子犬を乱暴に掴みあげると、初めて会った時と同じ様に僕に背中を向け走り去ってしまった。

 呼び止めることはできない。彼女に掛ける言葉が無かった。

 言いたいことだけを言って、逃げる様に去って行った凛。そのこと自体にはどうでも良かった。いや、どうでもいいと言うのは言い過ぎか。優先順位が低かったと言った方が正確だ。

 僕はただ、彼女が去り際に放った言葉が気になったていた。

 如月千早の笑顔って何だ?

 そんなもの凛に見せたことはないのに……。

 答えを知る本人の姿はすでに雑踏の中に消えていた。

 

 

 ────────────

 

 

 凛との一件は僕の中で後に引いた。

 とてもじゃないが男の元へ戻って説明する気力なんて湧くわけもなく、僕はそのまま家に帰ることにした。昨日と違い帰路を進む歩調は速い。余計な道草を食うこともせず真っすぐに家に帰る。

 僕は凛の期待を裏切ってしまったのだろうか。家に着くまでの短い間に何度も繰り返し考える。

 あの時の僕に正直に答える以外の選択肢はなかった。適当に誤魔化す術も無い。あるとすれば凛が嫌いだから笑顔を見せなかったという彼女の誤解を肯定することだけだった。そんな嘘で誤魔化せたとは到底思えないけど。

 家に帰ったところでそう言えば喫茶店にお弁当を置き忘れていたことを思い出した。

 わざわざもう一度買いに行くのも面倒だ。一食くらい抜いてもいいか。そう思うと同時にお腹の虫が鳴いた。

 ここ最近はまともな食生活を続けていたためお昼になると普通にお腹が空く。

 前みたいに一週間絶食なんて無茶は出来なくなっている。今でもやろうと思えばできなくもないのだけど、絶対に優から止められるのでやらない。そもそも絶食生活はゲームの課金代のために食費を削っていたからであり、ゲームをしなくなった僕にはそこまでする必要はない。

 そう言えば最近ゲームをしていない。昔は一日中パソコンの前に居たというのに、今ではプロダクション探しのために使っている程度だ。最新型のグラボを二枚刺ししておいて、やってることがネットサーフィンという無駄遣いっぷりである。

 久しぶりにゲームでもやろうかな?

 何となくご無沙汰だったネトゲをやってみようという気になった。

 パソコンの前に座って電源を入れる。SSD搭載のため起動は早い。二十秒ほどでデスクトップ画面が現れた。

 見慣れた優の顔の壁紙と目が合う。写真の中の優も格好いいよね。

 優の顔の左目の下あたりの配置されたゲームのショートカットアイコンをダブルクリックすると専用のランチャーが立ち上がり、すぐに別の小さな窓が表示された。

 

「そっか、アップデートかぁ……」

 

 長らく起動していなかったためにゲームのアップデートが掛かっていたらしい。公式サイトすら見ていなかった僕は知らなかったが、小窓にトピックとして大型アップデートがあったと記載されていた。

 残り時間を見ると軽く二時間は掛かりそうだった。完全に当てが外れた僕はゲームを放置しながら検索エンジンを別窓で開きネットサーフィンで時間を潰すことにした。

 何か面白い動画か記事はないだろうか、期待しながら動画サイトを物色する。

 そう言えばこういう動画を投稿できるところでは素人が自分の歌を投稿したりするんだよね。歌や演奏を録音して投稿し、それを視聴した人達がコメント付けたり評価したりするらしい。ある意味あの広場に集まっていた人達に近いわけだ。

 試しに僕もやってみようかな。顔出しでやる勇気はないから、歌だけ録音してそれを投稿してみるとかどうだろう。

 ネットならお世辞を言ったりすることもないだろうし、忌憚のない意見が貰えるはずだ。多少の酷評は今の僕ならば問題なく受け止められると思う。

 そうと決まれば録音機器を調達しよう。

 優にメールで家に録音に使える何かが無いか確認する。

 お父さんあたりが持ってたら借りたいところだ。

 優の返事を待つ間に近場で録音が可能な場所を探す。スタジオなんかを借りるお金も意味も無いから普通にカラオケ店でいいかな。一人で入っても恥ずかしく無い場所がいいなぁ。あと周りの音とかが入らないとこがいいけど、それは高望みしすぎか。とりあえず試しに録音して投稿できればいいだけだし。

 

「おっ、あったあった!」

 

 ちょうどいい事に駅前の近くに良さげなカラオケ店があった。値段も手頃だし、広さもなかなかだった。楽器の持ち込みがありなのも良い。

 録音場所はここで決定だな。

 と、そこでケータイにメールが届いた。送信元は優からで、今学校だから帰ったら確認してみると書いてある。そう言えば今日は平日だったなと曜日感覚の無くなっている自分に呆れる。前はネトゲの定期メンテで曜日を把握していたのに、今はゲームから離れているため完全に曜日感覚が狂っていた。

 そうなると優が泊まりに来たのは土日になるわけだ。今度から土日は泊まりに来てもらうとかどうだろう。後で提案しておこう。

 ゲームのアップデート状況を確認するとまだ二割も終わっていなかった。結構大きな仕様変更が入ったのかな。気になるけど公式サイトで確認するほどではない。ログインすれば必要な情報だけ表示されるしね。楽しみは後にとっておこう。

 アップデートまで時間が掛かるだろうし、その間にカラオケ店の下見でもして来るかな。お昼も割高だけどカラオケのメニューを適当に摘まむとしよう。

 こういうフットワークの軽さは昔から変わっていない気がする。引きニート時代前の僕は結構アグレッシブだったのだ。「よし、近所の暴走族潰そう」と思ったその日に族の集会に殴り込みを掛けるくらいにはアクティブでバイオレンスだった。碌な奴じゃないな、中学時代の僕って。それでも引きこもりに比べたら百倍ましだよね……?

 やんちゃしていた時代と比べて幾分丸くなった僕はカラオケに行くくらいが関の山だ。平穏って失ってみて初めてその大切さがわかるよね。

 被害者側の話だよ。

 アップデートを続けるためにパソコンは点けたままにサイフを手に取るとアパートから出た。

 

 

 

 ──────────

 

 

 どうしてこうなった。

 

「私、島村卯月っていいます!」

 

 眩しいくらいの笑顔を携えて現れた少女──島村卯月を前に僕は自分のタイミングの悪さを呪っていた。

 昼間の陰鬱な気持ちを払うためにカラオケ店で心行くまで歌った僕は意気揚々と帰路に就いた。帰った頃には放置していたゲームのアップデートも終わっているだろうし。今日は久しぶりに徹夜でゲームかな? なんて足取り軽く歩いていたのだけど、駅前から商店街に差し掛かった交差点で男と島村卯月に遭遇してしまった。

 彼女の背後には当たり前のようにあの男が立っている。一日二度の遭遇なんて今までになかったから完全に油断していた。

 まさか再アタックしてくるとは。しかも今度は第三者を使っての搦め手まで用意して来るなんて。あまり他人の助けを借りないタイプと思っていたので、こんな年端も行かない少女を連れて来たことに驚いた。

 

「こんな所で奇遇ですね」

 

 島村に対応するのを後回しにして僕は男へと声を掛ける。本当に奇遇なのか分からないけど、昨日の件があるので予防線を張る意味でも言い方が刺々しくなってしまった。

 結果として無視された形になった島村がしょんぼりとしているのが視界の片隅に映る。悪いことをしたと思ってもこの男と一緒に居たという時点で向こう側の人間だ。早々簡単に仲良くできるわけがなかった。

 自分が面倒臭い奴だというのは自覚している。こんな女と好き好んで付き合ってくれる人なんて普通はいない。優と春香が良い人だから僕はぼっちにならなくて済んでいるに過ぎないのだ。

 二人が良い人だから成り立っている関係に胡坐をかき続けていた僕に一般的なコミュニケーションは難しい。特に島村のような初対面から好感を示してくる相手への適当な返しが思い浮かばない。まだ凛の様な攻撃的な性格の方が受け止め易いとさえ言える。

 

「彼女は島村卯月さんです」

「はぁ」

 

 僕の皮肉に答えることはせず、男は僕に島村を紹介した。

 本人が名乗ったというのに、改めて紹介する意味がわからなかったので曖昧に頷く。しかし続く男の言葉を聞いて意図を察した。

 

「この度、島村さんにはシンデレラプロジェクトで出た欠員者の代わりにプロジェクトに参加して頂く予定です」

 

 そういうことかと男の話を聞いて理解する。

 なんだ、引導を渡そうとしていたのは僕だけじゃなかったのか……。

 

「島村さんは以前シンデレラオーディションをお受けになっていた方で、今回の再選考時に真っ先に名前が挙がりました」

 

 島村は僕とは違ってきちんとオーディションを受けた側の人間らしい。やはりスカウトよりもきちんとオーディションを受けた人の方が信用できるってことかな。確かにこうして見ると島村の容姿はそこいらの女の子よりも格段に良いことがわかる。養成所に通っていたということは歌と踊りも素人ってことはないだろうし。そうなれば僕みたいなぽっと出の奴と違い即戦力として採用されるのは当然と思えた。

 それ以上に僕は断っているのだから比較対象にすらならないんだけどね。

 

「そう言えば、昨日養成所に用があったと言われてましたが……もしかして」

「はい、彼女はそこの養成所に通っています」

 

 それって昨日の時点ですでに決まっていたってことじゃないか?

 いや、僕が昨日と今日に断ったことで島村に確定したという可能性もあるか。はたまた昨日聴かせた歌が最終判断の材料になったということもあり得なくはない。

 どちらにせよシンデレラプロジェクトの補充要員は島村で決定なのだ。今更僕の方から断る必要はない。笑顔のことを言わずに済んだと気が楽になる反面、やはり見限られたという事実は心に来るものがあった。自分で拒絶しておいて、いざ捨てられたら傷付くなんて僕は本当に自分勝手だ。

 

「……」

「……」

 

 しばらく無言が続く。お互いあまり口数が多いタイプではないので一度黙り込むと無言の時間が続いてしまうのだ。そうやって時間切れを起こし僕が立ち去るというのが最初の頃のお約束だった。

 

「あ、あの! ここで立ち話も何ですから、移動しませんか?」

 

 今回は島村という第三者が居たことで時間切れは免れた。

 だからどうしたって感じだけど。

 

 

 

 この時間はどのお店も混んでいるということで、近くの公園に移動することになった。ここは昨日男に歌を聴かせた公園である。昨日と違ってまだ日が出ているので少し暖かい。僕と男はともかく、制服姿の島村には夕方の寒さは辛かろう。何を話すことになるかはわからないけど、それまでには話を終わらせたいところだった。

 公園に着くと男はとりあえず僕と島村の二人っきりで話して欲しいと言った後に遠くのベンチの方へと去って行ってしまった。今更男と話すことなどないので構わない。でも初対面の島村と二人っきりというのも気まずい。

 

「あの、お名前を聞いてもいいですか?」

 

 二人っきりになると、卯月は名前を尋ねて来た。てっきり聞いているものだと思ったので少し戸惑ってしまう。

 

「えっと、駄目……でしょうか?」

 

 僕の戸惑いが渋っているように見えたのか、卯月が明らかに気落ちした顔をする。

 名前も教えない奴に見えたのかな。あ、しょっぱなに無視したね僕。なら仕方ないね。

 

「如月千早です」

「如月さんですかー!」

 

 名前を教えると島村はすぐに満面の笑みを浮かべた。立ち直りが早いのか計算なのか、表情がころころとよく変わる子だ。

 あと何となくだけど島村からリア充の空気を感じる。

 リア充だからなんだって話だけど、リア充が持つ独特の馴れ馴れしさはちょっと苦手だった。

 これが春香とかだったらまた違うのだろうけど。

 春香のそれが世の中の侘び寂びを知った後に掴んだ距離感だとすると、この島村という少女の距離感は子供が持つ好奇心の暴走によって偶発的に生まれた距離感だ。言うなれば春香がアウトレンジから様子を伺いつつ、ここぞで決めるフィニッシュブローで、島村がノーガードで殴り合いに来る感じに近い。

 これまで殴り返して来る相手が居なかったから何とかなっていただけで、一度でも相手がその気だったらこの少女の心は酷く傷つけられていただろう。

 彼女が何歳かは知らないけど、十代も半ばまで生きて来てこの性格を維持できるのは奇跡だ。いや、悪夢なのだろうか。

 この性格の子が果たしてアイドルの世界で輝きを保てるのか……。

 って、僕には関係のない話だった。どうせ僕はシンデレラプロジェクトに参加しない。その僕が彼女の未来を案じても無駄なことだ。

 

「あの! 如月さん!」

「はい?」

「あの……如月さんはアイドルになりたいとか……そういうの思ったことないですか?」

 

 アイドルになりたいと思ってるよ。何時だってね。

 でも今の僕にはそれが難しい。そんな簡単に笑える貴女にはわからないだろうけど。

 

「思っていたとしたら、どうなのかしら?」

「でしたら、一緒にアイドルやりませんか!」

「無理」

「ええー!?」

 

 いちいちリアクションが大きい。何かなこの子、実はアイドルじゃなくて芸人志望か何か?

 あと一緒にアイドルやらないかというのは皮肉か何かかな。僕の代わりに補充枠に収まった島村に言われると他所のアイドル志望の子に言われるよりキツいんだけど。

 今の会話だけでわかってしまう。僕と島村は致命的に噛み合わないって。

 相手に初手から深く踏み込めるのは島村の強みであると同時に弱点だ。こちらの都合なんてお構いなしに突撃するスタンスは奥手な人間には有効かもしれない。でも僕みたいな絶対に触れてほしくない物がある人間にはある種無遠慮とも言える島村の態度はよろしくないものに見える。無意識にこちらの急所を抉って来る感じは許容できない人間も少なくないだろう。

 僕と島村が表面上会話が成り立っているのは僕が抉られ慣れているからだ。それすら何とか取り繕えているだけに過ぎない。だから絶対にいつの日か島村のコレは火種になると思った。

 こうして偉そうに語ってる僕も無意識に他人を傷付けているのだろう。でもそれを僕は自覚している。自分が会う人間全員に好かれるなんて思っちゃいない。誰かしらの恨みを買ってるという覚悟はしている。それこそまったく自覚もないまま凛に嫌われている例があるのだから。

 でも島村はどうなのだろう。自分の存在が誰かを傷つけるという可能性を考えたことはあるのだろうか。

 まあ、それは島村本人の問題であって僕には関係がないことだ。いつか気付くかもしれないし、気づかずに生涯を終えるかもしれない。全ては島村次第だとその時の僕は他人事として考えていた。……後になってこの時島村に何かしら言っておくべきだったと後悔するのだけど、今の僕にはそこまで彼女を気遣う精神的余裕はなかった。

 

「せっかくアイドルになれるのに……」

 

 僕の考えていることなんてわからない島村は純粋に残念そうにしていた。

 

「貴女はどうしてアイドルになりたいと思ったの?」

 

 ふと気になった僕は島村へと質問を投げかけた。

 特に島村自身のことを知りたいと思ったわけではない。何となく他の人がアイドルになる理由が気になっただけだ。言ってしまえば誰でも良かった。

 

「アイドルって言ったら、ほら、アレですよ! キラキラした衣装を着て大勢のファンの前で歌って踊るんです!」

「知ってます」

「憧れませんか?」

「ええ、まあ……それなりに」

 

 そう言えばそっち方面でアイドルに憧れたことって無かったと島村に言われて気付く。僕はただ楽しく歌えればそれで良いかなと漠然と思っていたから、衣装とか大勢のファンとかの副次的な物は意識していなかった。

 今回島村に言われてその辺を考えるのも良いかもしれないと思った。やりたいことを考えるというのもモチベーションの維持に繋がるからね。

 

「それが貴女がアイドルを目指した理由?」

「えっと、それだけじゃないんですけど……でも、夢なんです」

 

 夢?

 島村の夢とは何だろう。今まで何となく上辺だけのやり取りを心掛けていた僕だったけど、彼女が言った夢という単語に思わず興味を引かれた。

 この少女にも夢というものはあるか。当然と言えば当然だけど、多くの人が各々夢を持っているということを僕は失念していた。それはまるで自分だけが夢を持ち、その夢の実現に苦労しているような悲劇のヒーローを気取っていたような、傲慢さがまだ僕の中にある証拠だろう。

 

「夢っていうのは……アイドルになること? それが貴女の夢?」

「はい!」

 

 アイドルになることが夢だと言う島村。その迷いない態度が僕には眩しく映った。僕の『春香達と楽しく歌う』という夢は叶わなかったから、今この時に夢を持っている島村はなおさら輝いて見えた。

 僕も新しい夢を持ちたいと思っている。アイドルになった後の夢を持ちたいと。……アイドルになることすらできていない僕が、その後を考えるというのもおかしな話だった。

 

「……ずっと私はキラキラした何かになりたいと思ってました。スクールに入って、同じ研究生の子達とレッスンを受けて。私以外の子達が皆辞めちゃって……私だけが残ったスクールで、一人レッスンを続けながら、それでも私は待っていました」

「……」

「そしたらプロデューサーさんが私に声を掛けてくれたんです」

 

 あの人が声を掛けた。

 そのフレーズを聞いた僕は、一人っきりで踊り続ける島村に声を掛ける彼の姿を夢想した。

 一体どんな態度で接したのだろうか。僕の時と同じ様に単刀直入にプロジェクトに誘ったのだろうか。それとも世間話から入って小粋なジョークの一つでも飛ばしたのか。それはないか。

 どっちでも良かった。ただ素直に島村の夢が叶う取っ掛かりができたことを喜ばしいと思う僕が居た。

 

「プロデューサーさんは私を見つけてくれたから。きっと私はこれから夢を叶えられるんだなって……それが嬉しくて!」

 

 キラキラと輝く彼女の笑顔にはたくさんの幸せな未来が見えた。それは卯月が持つ幸せが前面に出ているためだ。きっと彼女の笑顔を見た人は彼女を通して自分の幸せを見ることになるのだろう。だからこそ彼女の笑顔は不思議な説得力を持っているのだった。

 そしてその笑顔は昔僕が求めていたものだった。

 自分と相手を同時に幸せにする魔法の笑顔。ずっと練習して来たのに終ぞ習得ができなかった笑顔。”如月千早”が内包する可能性には存在しない笑顔。

 それを当たり前のように振りまく卯月の姿に僕は敗北感を覚えたのだった。

 

「私は貴女が羨ましいわ」

 

 自然と口を突いて出た言葉に自分で驚いた。

 でも同時に納得している自分が居た。

 そうか……僕は彼女が羨ましいのか。素直に笑える彼女が、アイドルになることが夢と言える彼女が、あの人に選んでもらえた彼女が羨ましかった。

 

「羨ましい、ですか?」

 

 コテンと首を傾げる島村。今のは僕がやっても似合わないだろう。そういうところも羨ましいと思う。

 

「アイドルになることが夢だと言える貴女が羨ましい。今もアイドルを目指しながら、その先にある何かを求めて必死にもがいている自分が情けなくなるくらいにね」

 

 僕はアイドルになって何をしたいのだろう。漠然と昔に思い描いていた夢は二度と手の届かない場所へと消えてしまった。

 765プロで叶えたかった夢は水泡に帰し、今更掴もうとしても指の隙間を擦り抜けて遥か彼方へと去っている。

 僕の中のキラキラとした何かは未だ新しい形を成してはいなかった。漠然とした”何か”は思い浮かんでも、それを具体的な形にできない。

 そんな状態でアイドルを目指したところで虚しいだけだった。

 僕にも欲しい、何か一つだけでもアイドルになった後に待っている光を信じたい。島村の夢を聞いてしまったことで、忘れていた気持ちが蘇ってしまった。

 僕がアイドルになる意味って何だろう?

 

「もしも──」

 

 声に振り替えると、男がいつの間にか僕達の近くまで来ていた。

 

「貴女がアイドルになった後の夢を持ちたいと思うなら……どうか、私にそのお手伝いをさせて下さい」

 

 素直に嬉しいと思った。

 僕が求める光をこの人なら一緒に探してくれるかもしれない。思っちゃいけないのに、彼の優しい声が僕の心を動かしてしまいそうになるのが怖い。

 手伝ってくれるという甘い言葉に乗るわけにはいかない。

 優しいこの人をこれ以上僕に関わらせてはいけないんだ。

 だって、僕は彼が望むアイドルになれないから。

 

「……笑えないんです」

 

 ようやく言うことができた。

 初めて彼のスカウトを断った時から二ヵ月経って、今ようやく告げることができた。

 肩から重しが取れたような感じがする。ずっと感じていた期待を裏切ることへの恐怖や苦しさから解放されたからだろう。

 

「笑えないとは、どういう意味でしょうか?」

「ある時期から私は笑顔が作れなくなったんです。どんなに練習しても、何をしても、笑えないんです……」

 

 男の問いに優とのことは言及せずに端的に答えた。

 目を見開く男と背後で息を呑む島村の気配が胸を締め付ける。余計な罪悪感だとわかっていても、わざわざ今日こうして時間を割いた二人にこの事実を告げるのは辛かった。

 特に男にとっては到底許容できる話ではないだろう。だって二ヵ月も僕のために時間を使ってくれたのだから。それが全て無駄だったと知ったならさすがに「そうですか」で済ませられるわけがない。

 

「私は貴方が求めるアイドルを持っていません。笑顔が作れませんから」

 

 そう、だって僕は──、

 

「欠陥品だから」

 

 ずっと見ないふりをしていた。たとえ笑えなくてもアイドルはできると。

 歌さえあれば、僕はアイドルとしてやっていけると思っていた。でも笑えないなんて致命的な欠陥を抱えた人間がアイドルをやろうだなんて土台無理な話だったのだ。

 何度誤魔化しただろうか。何度言い訳を繰り返しただろうか。

 笑えなくても大丈夫なんて、取り繕って自分を騙して、無駄な努力を続けていた。

 あの広場に通っていたのだって気分転換なんかじゃなかった。切り替えなんて出来ていなかった。僕はずっと待っていたのだ。目の前のこの人が僕の歌を聴いて笑顔以外を求めてくれるんじゃないかと期待していたのだ。

 期待したから笑えないことを黙っていた。

 でも、この人が僕を選んだ理由を笑顔だと言う度に心が悲鳴を上げた。笑顔なんて作れないのに、笑顔を求めてくるこの人を一時期は遠ざけようとした。でも、結局この人しか僕を求めてくれそうな人がいなかった。

 どんなオーディションに応募しても返って来るのは不採用だけ。町中を歩いていてもスカウトの一つも受けられない。

 この人だけだった。僕にアイドルをやらないかと言ってくれたのは。

 

「ごめんなさい。ずっと言おうと思ってました。でも、言ったら本当に終わってしまうと思ったら言えなくて……」

「如月さん……」

「貴方の時間を無駄にしているとわかっていながら、私は黙ったままでいました。貴方に失望されたくなかったから」

 

 笑えないと知られて見限られるのが嫌だった。

 他のプロダクションの一次審査に落ちても気にならなかったのに、この人に期待外れと思われるのは嫌だった。

 たぶん、それはつまらない相対評価の結果でしかないのだろう。

 僕が再びアイドルを目指してからこれまでの間、僕に声を掛けてくれたのはこの人だけだったから。

 これが未練だというなら正しくその通りだろうし、刷り込みと言われたら確かにと納得できる。

 だから僕は試していたのだ。本当にこの人だけなのか。この人だけが僕にアイドルとしての可能性を感じてくれたのか。だから僕は履歴書を書き続けたし、駅前の広場に通い続けた。ただ試したいがために。

 そうやって試し続けた結果が五十七回の落選だったわけだけど、その数がより一層彼に期待する結果に繋がってしまった。

 この人しかいない。僕に期待してくれるのは。

 この人しかいないのに、この人が求めるアイドルに僕はなれない。それが苦しくて申し訳なくてーー悲しかった。

 顔も知らない相手に何度落とされようと構わない。ただ一人僕に声を掛けてくれたこの人の期待を裏切り続けたことが悲しかった。

 でも、それも今日で終わりだ。

 彼が僕に付きまとう理由はなくなった。笑顔がない僕に拘る理由はないのだ。

 それにこの人は見つけてしまった。本物の笑顔を持った少女を見つけたのだから、僕は要らないだろう。

 この先僕に声を掛けてくれる人なんて現れはしないだろう。

 

「長い間、お時間を頂いてしまい申し訳ありませんでした」

 

 男に向け深々と頭を下げる。

 

「何を言ってーー」

 

 男の困惑混じりの声が聞こえるが僕はそれを意識的に聞こえないようにする。また何か話を聞いてしまったら躊躇ってしまうから。

 いつまでも引きずっては駄目だ。未練なんて持ってちゃいけない。

 

「また、何かの機会があれば……その時は」

 

 定型文の様なお決まりの台詞が寒々しく聞こた僕は最後まで言いかけた言葉を死ぬ気で飲み込んだ。これはもう必要ない。次の機会なんてない。

 

「さようなら」

 

 代わりに出たのは別れの言葉だった。

 また、なんて言わない。シンプルな言葉だ。

 

「如月さん!」

 

 何かを言われる前に走り出す。

 これ以上は要らない。期待したくない。

 僕は脚力を強化するとその場から一目散に立ち去った。

 背後で僕の名を呼ぶ男の声が完全に聞こえなくなるまで走り続けた。

 

 この人だけ、だったのになぁ……。

 

 

 

 ──────────

 

 

 

 今僕の目の前には二枚の履歴書が置いてあった。

 片方は近々行われるアイドルをメインに据えたオーディション番組の参加用の履歴書。そこそこ売れているお笑い芸人がMCを務め、素人からアイドルの卵を見つけ出そうとか、そういう企画だったと思う。

 ローカルテレビ局が企画する深夜帯の番組だが、審査員にはそこそこの事務所のプロデューサーが参加するらしい。まあ、一般的なアイドル事務所だけでなく所謂グラビアメインの事務所も参加するためかなりカオスな番組となるだろう。

 もはやこういうイロモノ企画に便乗するしか僕のアイドルの道は残されていないという現実に自嘲の笑みすら浮かばないよ。元から笑えないけど。

 もう片方はアイドルとは関係のない会場設営等の力仕事系のアルバイト応募用だ。

 ……別に、アイドルを諦めたわけではない。ただいつまでもこのままではいけないと思っただけだ。

 今の僕は世間一般では中卒のニートという大変不名誉な肩書きになっている。アイドルを目指していると言えば格好が付くかと言えばそんなわけもなく。どちらかと言えば現実を見ていない痛い奴に思われるだろう。

 現実……。やはり、どこかでこの世界をフィクションか何かと思っていた節があるのかもね。物事が勝手に良い方に流れると勘違いしていた。無駄な努力と意地を張り続けたために、もしかしたらそこらに落ちていたチャンスを幾つも取りこぼしていた可能性だってある。

 無駄な時間を過ごした。最初から高望みなんてせず手近な企画に参加していればよかった。そうしていれば、どんな形であっても今頃はアイドルをやれていたのだろうか。

 そんな下らないもしもを考える。

 アイドルになりたい。その気持ちは今も変わらず僕の心の中で生き続けている。

 でも今の僕にアイドルになる力はあるのだろうかとすぐに弱気になってしまう。

 歌には自信がある。歌だけならば現役アイドルの中でもトップレベルだと自負している。

 踊りも上手い方だと思う。一目見ればどんな踊りだって再現可能なのは強みだろう。盛り上がるかはともかくとして。

 容姿は……正直わからない。その辺りの正確な判定を貰ったことがないから。

 そして笑顔。これはまったく自信がなかった。

 もしも笑えていたら……。

 

「それこそ下らない話だ」

 

 笑えていたら。

 そうだね、簡単に笑顔が作れたならば今こんな惨めな思いをしなくても済んだよね。

 で? だから?

 そのもしもを考えることに意味ってあるの?

 

「意味はないよね」

 

 そう、意味なんてない。これが現実だ。

 笑えない僕が今の僕で、アイドルのオーディションに落ち続けたのも僕で、あの人から逃げたのも僕だった。

 最後なんて言うつもりだったのかな?

 とても良い言葉を貰えるとは思えなかった。無駄な時間だった。期待外れだった。そんな残酷な言葉を浴びせられたら僕は果たしてどうなってしまうだろう。

 想像しただけで寒気がする。失望されることがこれだけ恐ろしいものだったなんて知らなかった。期待も失望もなかった前世のツケが今になって回ってきた。

 誰かに期待されるってこんなに重いものだったんだ。だから失望された時にこんなにも胸が痛むのだ。

 こんなことなら知らなければよかった。期待されなければ失望されないから。

 この胸にぽっかりと空いた喪失感を埋める方法を僕は知らない。

 誰か教えて欲しい。僕はどうすれば良かったのかを。

 衝動的にケータイを手に取った。

 慣れた手つきで目当ての相手に電話を掛ける。求めた相手はすぐに出てくれた。

 

「優……今いいかな?」

『うん、大丈夫だよ』

 

 僕が頼った相手はやはり優だった。

 春香の方は何やら忙しそうなので今回は選択肢から外しておいた。こんな時に頼る相手の選択肢が限られているのは迷わなくて済む。

 

「あのね、この間のことなんだけど……」

『この間と言うと、僕が泊まった日に言いかけていたやつ?』

「うん」

 

 たったこれだけで伝わったことに驚く。そして覚えていてくれたことが嬉しい。優が僕との会話を大切にしてくれていたことに心から喜びが湧き立った。やっぱり優は天使なんだ。

 

「あのね、私ね……最近たくさんのオーディションを受けてたんだ。それで全部に落ちてるの」

『たくさんってどれくらい?』

「五十七」

『……』

 

 電話越しに優が絶句しているのがわかった。今更この反応に戸惑うことはない。あり得ない数字に絶句されるくらい予想の範疇だ。

 

『それは……この短い期間によく受けられたね。面接だけでも相当時間取られるでしょ?』

「ううん。全部一次選考の書類審査で落ちてるから面接は一つも受けてないよ。さすがに面接も受けてたら身体が足りな」

『ちょっと待って』

 

 珍しく僕の話に割り込んで来た。

 優はなんだかんだ僕の話を聞いてくれるから、途中で区切って来たのは意外だった。

 

『え、一次? 書類審査で落ちてるの? お姉ちゃんが?』

「そうだけど?」

 

 あんまり念押しされると情けなくて涙出ちゃうからやめて。うそー、全部一次落ちとかありえないわーとか優に言われたら僕は窓から飛び降りる。

 

『ありえないでしょ』

 

 よし飛び降りよう。

 

『お姉ちゃんが落ちるなんて』

 

 え、そっち?

 てっきり優に馬鹿にされたと思っちゃったよ。窓枠に掛けていた手を離す。

 

「でも落ちてるものは落ちてるもの」

『審査した人がよほど無能なのかな? それとも男性アイドル向けのオーディションに間違えて送ってたとか?』

 

 さすがの僕でも男性向けのオーディションに応募する程アホではない。優の中の僕はやるタイプに見えるのかな?

 

『僕はてっきり、いつものお姉ちゃんのキャラで面接を受けたから落ちたのかと思ってたよ』

「どういう意味それ」

『あれ、電波が仕事してくれてない?』

 

 何か聞いてはいけない優の本音を聞いてしまった気がする。小悪魔優が降臨してるのかな? 可愛いから何でもいいけどね。

 

『お姉ちゃんが一次で落ちるってどんなレベルのオーディションなんだろう。全国美少女コンテスト優勝者ばかり参加してるとか? それでも落ちるとは思えないけどね』

「それはどんな修羅のコンテストなのかな。私の容姿でそんな激戦に参加するわけないでしょ。私は分を弁えてるからね。仮にそんなオーディションに参加した場合……良くて中の下くらいだよ」

『いや、無いから』

「否定早すぎませんかね!?」

 

 僕は自分の力量もわからないような自信過剰野郎じゃないよ。優は僕を無謀な戦場に赴く猪武者だと思ってるの?

 

「昔ならともかく、今の私は自分の評価をちゃんと理解してるって。見た目だけじゃなく、歌も踊りも他人からどう映るのか自覚できてきたし」

 

 書類審査で自分の容姿の評価が悪いことは自覚できている。原作千早のようにもっとシュッとしてパッとした美人さんならよかったのに。

 歌と踊りの評価は例の広場のお通夜みたいな空気からだいたい察している。僕のパフォーマンスは盛り上がらない。これはクール系の歌ばかりを歌っているからだろう。

 もっとアイドルらしい曲を歌ってみたいところだけど、笑顔の無い僕には静かな曲かクールな曲しか歌えない。

 キャピキャピした曲は抵抗あるけど可愛い系の曲を歌えるアイドルは少し憧れる。765プロのビジョナリーとか歌ってみたい。

 

『……正直に言うとさ、中学時代のお姉ちゃんがアイドルを目指すと言って来た時、僕はちょっとだけ不安だったんだよね』

「不安?」

 

 中学時代のパーフェクトだった僕を優が不安に感じていた?

 どういう意味だろうか。

 

『お姉ちゃんはあの頃凄く自信家だったよね。自分は何でもできるって思ってて。実際何でもできちゃうから余計自信満々だった感じだね』

「それは……まあ、中学生特有のイタイ万能感って言うのかな。一過性の中二病みたいな?」

『今も中二病でしょ』

「はい」

 

 たまに右の魔眼が疼いたり、左手に封じられた暗黒龍がざわめくんだよね。あれ、僕中二病じゃなくて邪気眼系じゃないか。余計痛いぞ。

 

『あのね、僕が泊まった日に言った言葉覚えてる?』

「うん。全部覚えてるよ。一字一句間違えずにテンポまで復唱できるくらい」

『想像以上に凄くてちょっとびっくりした……まあ、覚えているならいいんだ。その時僕は前のお姉ちゃんよりも今のお姉ちゃんの方が凄いって言ったよね』

 

 言ってた。昔よりも良いって。でもそれは比べる対象が酷すぎるよ。引きニート時代の僕と比べたら何だって凄く感じるって。

 

『僕が言った前のお姉ちゃんっていうのはね、この間までのお姉ちゃんのことじゃないよ』

 

 へ? この間の僕じゃない?

 ちょっと優の言っていることが理解できなかった。

 

「え? でも、じゃあ前っていうのは」

『僕が言ったのは中学時代のお姉ちゃんだよ。僕は中学時代のお姉ちゃんよりも今のお姉ちゃんの方が断然良いと思う』

「嘘」

 

 嘘でしょ。あの完璧人間だった頃と比べて今の方がいいなんてありえない。あの頃の僕は完璧だった。歌も踊りも笑顔も、何一つ弱点がないパーフェクトな千早だった。

 

『嘘じゃないよ。さっきも言ったけど、あの頃のお姉ちゃんって自信家だったでしょ。何でもできる。全て簡単。自分最強って。……そういう考えが全部透けて見えてたよ』

「マジか」

 

 自分としては謙虚に振舞っていたつもりだったんだけど。やはり優には全てお見通しだったということか。さすが優だね。

 

『いや、たぶん周りの人皆気付いていたと思うよ? お姉ちゃんわかりやすい人だったから』

「マジでか!」

 

 中学時代の僕めちゃくちゃ痛い奴じゃん。

 

『それに、あの頃のお姉ちゃんの笑顔ってさ……』

「うん」

『胡散臭かったもの』

「はうあっ!?」

 

 ぐさっと来た。今物凄く心にダメージが来たよ。優に胡散臭いと言われるなんて本当にキツいわ。畳みかけるような優のダメ出しに僕の心はブレイク寸前です。

 と言うか胡散臭かったのか僕の笑顔は!

 

「う、胡散臭い……?」

『うん。胡散臭い。あ、僕に向けてくれる笑顔は別だよ? 余所行きの笑顔が作り笑いだなって感じがして、何となく怖かったかも』

「優に怖いとか言われたわ。よし死のう」

『死なないでね!』

 

 優に怖がられていたなんて知らなかったよ。優以外への笑顔が作り物めいていたと言われて凄くショックだ。自分としてはアイドル向けの謙虚かつ愛に溢れた笑顔だと思ってたのに。

 救いがあるとすれば、優に向けていたものは本物だったと言われたことか。

 

『お姉ちゃんって実は顔に思っていることが出やすいんだよ? あの状態のお姉ちゃんの笑顔なら自信満々の俺様笑顔だね』

 

 優の責めが強いよー。優に言葉攻めされるのは辛いよ。まだ殴られるほうがましだよ。僕はマゾじゃないんだぞ。

 

『だから僕は今のお姉ちゃんの笑顔が好きだよ』

 

 優の愛が強いよー。

 

『お姉ちゃんは作った笑顔じゃなくて、本当の笑顔だけ見せればいいと思う』

「本当の、笑顔?」

 

 優と春香が言っていた、たまに僕が浮かべるという笑みのことだろうか。

 

「でも、どうやれば本当の笑顔になるかわからないよ」

『それは……ごめん、具体的な方法となるとよくわからないかな』

「ううん、謝らないで。優が私の笑顔が好きって言ってくれただけで十分だから」

 

 昔の笑顔よりも今の笑顔の方が好き。優がそう言ってくれるならば、僕は今の僕の笑顔を探そう。

 

「ありがとう、優。まだ上手く笑顔が作れないけど、きっと私の笑顔を見つけてみせるから」

『うん。お姉ちゃんなら大丈夫だと思うよ。だって僕のお姉ちゃんは無駄に天才だからね』

 

 優の期待に応えたい。僕の中にある本物を見つけたい。

 未だ昔の笑顔より今の笑顔が良いと信じられない僕だけど、優が期待してくれるならいつかそれを手に入れようと思う。

 これからは笑顔の特訓内容も見直さないとね。

 

「優のおかげで元気出た! 今なら族の一つや二つ殲滅できる気分!」

『それはもう止めてね?』

 

 まあ、今の僕ならば軍隊の一つや二つ殲滅できちゃうんだけどね?

 どうやら僕は中学時代の僕を女々しくも引きずっていたようだ。笑顔一つで今よりも昔の方が勝っていると思い込んでいた。たった一つが上手くいかないだけで全てが駄目になったと勘違いしていたんだ。

 チートだけを見ても今の僕の方が昔の僕よりも勝っている。それに今の僕は友達もいるし、優とお泊りしたし……えーと、つまり最強ってことだよ。

 思ったよりも勝ってる項目が少なくてちょっと気弱になりかけた。

 

「ありがとね、優超愛してる」

『ふふ、ありがとう。僕もお姉ちゃんのこと愛してるよ』

 

 これは相思相愛だわ。僕達の姉弟の愛は本物だったんだ。もはやこのままエンディングに向かってもいいんじゃないかな。これ一つで中学の僕とか雑魚扱いしていいと思う。奴は千早四天王の中でも最弱。いや最弱は引きニート時代か。

 

「ああああ優がああああああ可愛いよおおお!?」

『いきなり発狂しないでよ』

 

 発狂してないよ。愛を叫んでいるだけだよ。

 優との電話は僕に新しい道を開いてくれた。昔を取り戻そうとしていた僕は無駄な努力をしていたんだ。

 これからは新しい僕を見つけていかなければいけないんだと気づかされた。

 本当に優には感謝してもしきれないね。

 

「また、今度……泊まりに来てね? その時には優の好きな笑顔を見せられるようにするから」

『うん。楽しみにしてるよ』

 

 優が楽しみにしていると言った。

 楽しみにしてくれるということは、つまり優は僕と寝たいと思ってくれていたということに等しいわけだ。

 そうか、そうか……。

 

「ぐへへ」

『その笑い顔は見せないでね?』

「優の寝顔……むふふ」

『感情が表に出やすいというのも考え物だよね』

 

 しばらく優との楽しい会話は続いた。

 

 

 

 ────────────

 

 

 

 優に言われて覚悟は決まった。やはり僕には選ぶべき道は一つしかないんだ。

 履歴書を郵便ポストに出すために駅前へと歩きながら自分の中で渦巻いていた思いを反芻する。

 あの人は言った。僕の可能性を信じていると。僕の中にある何かを信じたいと言ってくれた。

 果たして、僕はあの人を信じただろうか。

 勝手に『期待外れ』と見限らなかっただろうか。期待してくれたことを喜んでおきながら期待されることを重荷に感じて、それが嫌になったら勝手に投げ出してしまった。

 失望される前に自分から真実を告げたのはただの逃避じゃなかったか。期待されることよりも、彼に期待することが辛かったのではないか。

 きっと僕は期待されるよりも期待することに耐えられなかったのだ。

 裏切ってしまうことよりも裏切られることを恐れていたのだ。

 島村は言った。これから夢を叶えられると。自分が目指したキラキラした何かをあの人が与えてくれると。だから信じられると。

 どうして会って間もない相手をそこまで信じられるのか。島村の考えが僕にはわからなかった。盲目的に信じているだけではないのか。とりあえず差し伸べられた手を掴んで信じたつもりになっているだけではないか。そんな八つ当たりにも似た感情を島村へと向けてしまう。

 島村に羨ましいと言ったのはまさしくその通り、僕は彼女が羨ましかった。素直に笑えることが、アイドルになることが夢と言えることが、あの人に選んでもらえたことが。

 そして何よりも、あの人を信じられる彼女が──羨ましかった。

 

「本当の本当に八つ当たりだよね」

 

 島村は何一つ悪いことはしていない。むしろずっとこちらを気遣ってくれていたのに、僕はそれを頑なに無視し続けた。

 悪いことをしたと思う。子供じみた態度だった。今度何かで会う機会があれば謝ろう。通っているスクールがこの近くなら案外ばったり出会うかもね。

 少なくともあの人に会うよりはましだ。

 あの人とは最後までまともに会話をしてあげられなかった。相手は大手事務所のプロデューサーで僕はアイドル志望の娘でしかない。本来簡単に話ができる相手ではないのだ。それでも彼の方から歩み寄ろうとしてくれた。ただの子供だと侮らずに同じ目線に立とうとしてくれていた。

 

「もう少しだけ早く断っておけばよかったかな……?」

 

 その努力を無駄にしてしまったことが唯一の心残りだった。

 駅前のポスト前まで来た僕は手に持った封筒を投函しようとする。この行為も五十八回目にもなると最初の頃にあった期待などすでに抱くこともなく機械的な動作になる。

 そうだ、もう期待なんてするだけ無駄なんだから。

 この先あの人と会う機会はないだろう。万が一僕がアイドルになり、どこかの職場で顔を合わせることになったとしても、その時は簡単に声を掛けることはできない。それだけ僕とあの人の立場は違い過ぎる。

 一度だけでいいから呼んでみたかったな。

 

「如月さん!」

 

 ポストへと履歴書の入った封筒を投函する直前に声を掛けられ手を止める。

 まさか、という思いで胸が高鳴った。

 あり得ない。だって、僕は……。

 恐る恐る声の方を振り返る。

 目の前にあの男が居た。

 いつもの冷静な雰囲気の彼はそこには居らず、肩で息をして、顔中汗だらけで疲労困憊といった姿で僕を見ていた。

 

「なん、で……」

 

 終わったはずだ。笑えないと真実を伝えた。無駄な努力だったと切って捨てた。終わったはずなのに。だって、僕は。

 

「如月さん……貴女はまだ終わっていません」

「っ!」

 

 僕が自分に言い聞かせていた言葉を彼が否定する。心の中を読んだわけでもないのに、的確に否定された。

 終わったって思わせてよ……。もう期待させないでよ。

 辛いよ。貴方に期待することが辛い。

 

「これを」

 

 男の手には一枚の紙が握られていた。折れ曲がって、汗に濡れたそれはよく見ると履歴書だった。

 優が出した、中学時代の僕の写真が載った履歴書だった。

 何で今更そんなものを持っているのさ。

 

「これは、貴女の履歴書です」

 

 そんなことは知っている。中学時代の僕の写真を使ったイカサマの履歴書だ。

 

「これには貴女の写真が貼られています。今より少しだけ幼い、貴女の写真が」

「はい、それは……二年前の写真です。私がまだ笑えた頃の、写真です」

 

 自分の罪を突き付けられた気がして、僕はまともに彼の顔が見れなくなった。

 だってこんなズルは許されないから。優は今の笑顔が良いって言ってくれたけど、この人が選んだ笑顔はその写真のものなのだから。

 

「ごめんなさい。騙すつもりではなかったんです。その写真を見て私に声を掛けていただいたとわかっていたのに、なかなか言い出せなくて……その」

 

 それが無意味だと理解しながらも口から出るのは誠意の欠けた謝罪と虚しい言い訳だった。

 騙していた時点で何をどう取り繕っても無駄なのに。

 

「……」

 

 男からの言葉は無い。彼はただ無言で僕を見続ているだけだ。何も言わないこと、それが端的に答えを表しているように思えた。

 どう考えても好意的に思われているわけがない。そんなの当たり前じゃないか。

 視線に耐えられなくなった僕は少しでも男の目から隠れたいという衝動に駆られ、無駄な努力と知りつつ体を捩った。

 その時、体の後ろに隠していた封筒が男の目に止まってしまう。彼は無言のまま僕へと近づくと手から封筒を奪い取った。

 

「えっ?」

 

 本当に意外な行動だ。この人は間違ってもこういう強引な行動はとらないと思っていた。

 でも封筒に書かれている”テレビ番組の企画名”を見られたからにはその行動も納得できるというものだ。

 結局僕はオーディションを選んだ。目の前の安定ではなく、果ての無い届くかどうかもわからない光に手を伸ばし続けることを選んだ。

 彼からすれば自分のスカウトを蹴っておいて別の番組のオーディションを受けたというのは面白くないだろう。

 

「あ、それは……」

 

 何と言えばいいのかわからず最後まで言い切ることができない。

 これは何かと問われて答えられる気がしなかった。ただ申し訳なさと気まずさだけが僕の心を占めている。

 

「この番組は貴女向きではないと思います」

 

 しかし、男の口から出たのは意外な台詞だった。

 何でそんなことを言うのだろうか。自分のプロジェクトの方が勝っているから……という感じではないみたい。

 僕を責めるでもなく、ただ向いていないと、純粋にアドバイスみたいなことを言って来る男の真意がわからなかった。

 

「……貴方には関係のないことです」

 

 こんなことしか言えない自分が嫌になる。建前やお礼の一つでも言えたなら可愛げがあるというのに。口から出るのは突き放したような言葉だけだ。

 ぎょろりと男の目が僕へと向く。さすがに気に障ったか。すでにスカウト対象でもない少女相手に我慢する必要がないと思ったか。

 

「あの、ご、ごめんなさ──え」

 

 反射的に謝ろうとした僕は男に腕を掴まれ謝罪の言葉を途切れさせた。

 

「あの、え? え?」

「こちらへ来てください」

「あっ──」

 

 突然のことに混乱している僕に構わず男はそのままどこかへと歩き出した。

 力強く手を引かれた僕は筋力の強化も忘れて男のされるがままに付いて行くしかない。周りの人々が何事かという目で見てくるものの、男の鬼気迫る顔を見て完全に他人事を貫くつもりらしく全員顔を背けていた。僕の位置からは見えないけど、目の前の男は今どんな顔をしているのだろうか。通行人がモーゼの様に左右に分かれていくとかどんだけだ。

 

「ちょ、ちょっと離して下さい。何なんですか! もう放っておいて下さいよ!」

 

 僕がいくら抗議の声をあげても男は構わず歩き続ける。つい先ほどまでの一歩引いた態度が無い。これまでの二ヵ月間、本当に一瞬だけ見せた強引さ全力の姿を見せていた。

 何をそんなに必死になっているのさ。男の行動の意味がわからない僕はただ男のなすがままに歩き続けるしかなかった。

 やがて辿り着いたのは駅前に設置されている証明写真ボックスだった。ボックスの前まで来ると、男が入り口のカーテンを捲り中を示す。

 

「これで写真を撮って下さい」

「嫌です」

 

 有無を言わさない強い口調で写真を撮れと言われた僕は反射的に拒絶を返した。

 男の意図がわからない。分かりやすいと思っていた相手の気持ちが今はまったく理解できない。そのことが何だか怖かった。

 しばらく続く沈黙。

 いつもはここで僕が耐えられなくなって立ち去るのだが、今日はその前に男から動きがあった。

 

「如月さん。私は貴女に伝えていなかったことがあります」

「伝えていなかったこと?」

 

 何だろう。

 それを聞けば解放してくれるとでもいうのだろうか。放っておいてくれるのだろうか。僕に関わらず、こうして期待させないでいてくれるのだろうか。

 そんな”期待”を込めて男を見返せば、それ以上に強い視線でもって彼がこちらを見ていることに気付く。

 

 

 

 

「私には貴女が必要です」

 

 

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 ……。

 

 ────、は?

 

「は?」

 

 ちょっとの間だけ意識が飛んでしまっていた。

 今……この男は何と言った?

 僕が必要?

 え、はい、え?

 何言っちゃってるの。嘘を吐くにしても、もうちょっと現実味のあるものにしてよね。それとも誰かに唆されたとか?

 でもこんな真面目な人が誰かに言われたくらいでこんな恥ずかしい台詞を言うだろうか。仮に言うとしたら何か弱みを握られているとしか思えない。何故か胡散臭い笑みを浮かべた守銭奴そうな女性の顔が頭に浮かんだ。混乱の極みに至った僕が見た白昼夢だろうか。

 でも真っすぐに僕を見つめて恥ずかしい台詞を吐いた彼からはとてもではないが言わされているといった印象は受けない。言いそうにないってイメージを抜きに見れば彼の言葉は本心に思えた。

 と言うか、この台詞ってどちらかと言うとプロポーズのように聞こえるんだけど。実際はプロデューサーとしてってことだろうし、僕も誤解するようなタイプではないから問題ないけど。僕以外の女の子に言ったら勘違いするんじゃないかな。気を付けて欲しいものだ。男の僕ですらドキリとしのだから。

 周囲の通行人達が僕達をやけに微笑ましげに見ているのが視界の端に映る……深くは考えないことにした。

 

「私は今日初めて履歴書の写真を見ました」

「……え?」

 

 僕が脳内で大混乱を起こしていることなど気にもせずに男が話し始める。展開に追いつけないんですけど。

 と言うか今何て言った?

 初めてその写真を見たと言わなかっただろうか。

 

「え、だって、その写真を見たから、私の笑顔をって……?」

 

 僕はてっきりこの人は僕の履歴書の写真を見て僕をスカウトしたと思っていた。

 でもこの人の言うことが嘘じゃなかったら、その前提条件がおかしくなる。

 

「私は一次の書類審査に携わっていません。いえ、正確には参加できません。時間が取れませんので」

「嘘……」

 

 この人クラスになると一次選考は部下とかに任せて自分は二次や三次から参加するという感じなのか。確かに何百人といる人間を全員見られる程暇があるわけないよね。僕を追いかける時間はあるみたいだけど。

 でも、じゃあ何でこの人は僕を選んだ理由を笑顔だと言ったのだろう。

 

「嘘ではありません。私は写真に写っていた取り繕ったものではない、本当の貴女の笑顔を見てスカウトを決めました」

 

 嘘だ。だって僕は貴方の前で笑ったことがないよ。

 どうせ適当なことを言ってその気にさせるつもりなんでしょ?

 期待だけさせて、最後の最後でやっぱり駄目でしたって裏切るんでしょ?

 だったら最初から期待させないでよ。

 

「それを証明するために、写真を撮っていただきたいのです」

「写真を……」

「さあ、こちらに」

 

 再びボックスの中を示された僕は今度は素直にカーテンの中へと入ると備え付けの椅子に座った。

 男の言葉を信じたわけではない。写真を撮ることで何がわかるかなんて知らない。でも、その時の僕は男の”指示”に従うことが自然なことのように思えた。

 僕が椅子に座ると男は顔だけをボックス内へと入れカーテンを閉める。周囲からは大男が首だけ中に突っ込んでいる異様な光景があるのだろう。ちょっと想像して怖かった。

 僕の代わりに機械の操作をする男の顔を眺める。

 どうしてこの人は僕に構おうとするのだろう。もうプロジェクトメンバーの補充は終わっているのに。アイドルが集まったのなら本格的にプロジェクトが始動するはずだし、だったら今こうして僕のために無駄な時間を使う暇なんてないはずだ。

 

「準備ができました」

 

 僕の視線に気付いていただろうに、男はそれをまったく意に介さずに準備が終わったことを告げる。

 男が頭をひっこめてカーテンを閉める。

 聞き慣れた機械音が響くと写真撮影が始まった。

 撮れた写真を確認画面で見ると写った僕の顔は無表情になっている。今回変顔を作る暇すらなかったのでデフォルトの無表情になってしまった。

 

「どうでしょうか?」

「それが、その……」

 

 僕が言いにくそうしていると男は確認画面を覗き込んだ。

 

「……なるほど」

「すみません、こんな顔しかできなくて」

 

 変顔よりはましとはいえ、この無表情も結構やばい気がする。何を考えているのかわからない冷たい表情だ。少しでも目尻が上がれば不機嫌に見えるオプション付き。

 

「謝る必要はありません。……そうですね、今度は何か楽しいことを思い浮かべながら撮ってみましょうか」

「楽しいことですか?」

「はい。何でも良いので楽しいことを考えてみましょう」

 

 楽しいこと。

 僕が楽しいと思うこと……。

 それは歌を歌うこと。歌っている時間が僕は楽しくて好きだ。

 

「歌……歌を歌ってる時は楽しいです」

「でしたら、その時のことを想像してください。自分が歌っている時のことを」

 

 歌っている時の僕?

 歌っている時の僕ってどうしてたっけ。いつもトリップしてから実はよくわからない。自分の中に引き籠ってただ歌うだけの僕は外側の自分を意識したことがなかった。

 とにかく男の指示通りに歌っている時の自分を想像しようとするけど、なかなか上手くいかなかった。焦れば焦るほど”僕”がどうしていたかわからなくなる。

 

「あ、あの私歌っている時の自分がよくわからなくて、そもそも歌っているときはたぶん無表情で」

「落ち着いてください」

 

 てんぱってしまった僕は男の声ですぐに平静を取り戻した。二十七個に並列展開していた思考群が彼の一言で一斉に方向を揃える。こういうのを鶴の一声と言うのだろうか。

 

「一つ一つ順に思い浮かべましょう。まずは目を閉じて。私の声に耳を傾けてください」

「はい」

 

 言われた通りに目を閉じる。

 

「場所は……そうですね、昨日私に歌を聴かせてくれた公園にしましょうか」

「公園……」

「貴女は公園に立っています。桜の舞い散る春の公園です」

 

 真っ暗な視界の中で男の低く落ち着いた声が耳に入りこむ。すると彼が言った情景が頭に浮かんだ。

 想像の中の僕は公園に立っていた。桜がとめどなく舞い落ちる幻想的な世界に僕は居る。

 不思議と詳細にそれらが頭の中に思い浮かぶ。

 

「貴女の歌を聴く人間がいます。どなたか思い当たる方はいらっしゃいますか?」

「弟と……友達、あと……いえ、その二人だけです」

「……では、そのお二人が貴女の歌を聴くために公園のベンチに座っています。貴女はお二方の前で歌います」

 

 本当はこの人も思い浮かんだけどあえて言わないことにした。こっそり想像の中だけに追加する。

 優と春香が男を左右に挟んで狭いベンチに座っている情景が思い浮かぶ。二人とも男の強面にびびって顔が引き攣っていた。よく見ると愛嬌のある顔をしているのだけど、初対面ならそんなものだよね。

 

「貴女が歌い始めるとそれを聴いた方々は笑顔になります。貴女の歌がとても素晴らしいからです」

「っ」

 

 不意打ちで男から歌を褒められてどきっとする。想像の中の話なのに、褒められていると思うと嬉しいと思えた。

 言われた通りに歌っている自分を想像する。三人は僕の歌を笑顔で聴いてくれた。

 男の笑顔が想像できないので相変わらずの強面のままだけど、それでも楽しそうにしている姿を精一杯想像した。

 

「どうでしょうか。想像の中の貴女は楽しんでいますか?」

「楽しんでいます。凄く……楽しいです」

 

 たぶん、これが僕が一番楽しいと思うことだ。歌を歌い、誰かに聴いてもらう。ただそれだけのことが僕には何よりも楽しく感じられた。

 

「では、そのまま……合図とともに目を開けてください」

 

 サッと音がして男がカーテンを閉じたのがわかる。

 僕は言われた通り歌い続ける想像を続けた。

 やがて撮影開始の合図が流れるとゆっくりと目を開ける。その瞬間写真が撮られた。

 

「……」

 

 撮れた写真を確認画面で見る。

 これって……。

 

「如月さん」

 

 カーテンを開いて男が顔を出し。その手には今撮ったばかりの写真を持っていた。

 

「貴女は笑顔が作れないと言いました」

 

 男が履歴書から写真をはがす。優が言うところの胡散臭い笑みを浮かべた僕の写真が地面へと落ちた。

 次に彼は今撮った証明写真から一枚を剥がし、そのまま写真欄へと貼り付ける。

 

「私にはこの顔は笑顔に見えます。素直に楽しいものを楽しいと感じている、素敵な女の子の顔です」

 

 そう言って男が見せてくれた写真には、薄っすらと、本当に微かにだけど笑みを浮かべている僕が写っていた。

 

「……私は」

 

 笑っている。写真に写った僕はほんのちょっぴりだけど確かに笑っていた。

 ようやくそこで、この人はこれを見せたかったのだと理解した。

 

「笑顔を作る必要はありません。貴女には必要がありません。貴女には自分の感情を素直に表現する才能があるのですから。昨日、私に歌を聴かせてくれていた貴女は笑顔でしたよ」

 

 そうだったのか。

 言われるまで僕は気付かなかった。歌っている時の僕は笑えていたのか。

 

「私は笑えるんですね。歌だけじゃなかったんですね」

「その通りです。もちろん、歌も素晴らしいと思っています。是非シンデレラプロジェクトに参加して欲しいと思えるくらいに」

 

 今更言わないでよ。

 最初にそう言ってくれていたら、こんな風に悩む必要もなかったのに。

 だから凄く残念だった。もっと早くこうして笑えることを知りたかった。そうすれば貴方の手を取ることができたのにね。

 

「本当にありがとうございました。私でも笑えると知れたことはこれからの役に立つと思います。私なんかのためにお時間をいただいて、その……」

 

 何と言ってこの気持ちを伝えればいいだろう。無関係な相手のためにここまで尽力してくれた人に言うべき言葉が僕には見つからなかった。

 でもその言葉は不要だったらしい。

 

「まだご納得していただけませんか?」

「納得?」

「私は今でも貴女にシンデレラプロジェクトに参加していただきたいと思っています。その気持ちは最初から変わりありません」

「え、でも、もう島村さんで決まりでは?」

「はい、島村さんも再審査による補充要員の一人です」

「一人」

「補充枠は三名居るんです」

「……んへぁ」

 

 三人……だと?

 じゃあ何か、僕はずっと無駄に枠争いをしていたのか。無意味な一人相撲を演じていたのか。

 いや、でもまさか三人分も欠員が出ているなんて思わないじゃないか。普通こういうのって一人だろ。

 それよりも今度島村に謝らないと。勝手にライバル扱いして必要以上に冷たい態度をとってしまった。ライバルじゃなくて同期になるってことじゃん。ごめん、本当にごめんなさい。

 

「如月さん」

「あ、はい?」

「私と一緒に歩んではいただけませんか?」

「え」

「後悔は絶対にさせないと誓います」

「あ、いや」

「私は貴女が欲しい!」

「ちょ、ちょっと待って待って!」

 

 何かおかしい流れになって来たぞ。貴方そういうキャラじゃないだろ、いったい誰に吹き込まれた。本人はいたって真面目に言っているのがわかるから質が悪い。この人にこれを吹き込んだ人間は絶対に”ワルイヤツ”だ!

 

「如月さん、私は」

「わかりました! いいです、もう結構ですから!」

「受け入れていただけるまで私は何度でも貴女にこの想いを伝え続けます」

「ひいぃぃ! さらに重くなった!? いや、ちょっと、本当に入れ知恵した人後でひっぱたくわ!」

 

 傍から見ると十代の少女に強面の男が全力で愛の告白をしているように見える。

 事案だ。誰がどう見ても通報物である。その証拠に先程まで微笑ましい目をしていた人達が心配そうな顔でケータイを取り出している。

 あ、これ最初に会った時と同じパターンのやつだ。

 

「わかりました! OKです! 貴方に付いて行きます、これで満足ですか!?」

 

 これは受け入れるしか選択肢がないではないか。元より断る理由は無いけど。

 この人は僕を必要だと言ってくれたのだ。歌と拙い笑顔の僕を欲しいと言ってくれた。付いて行く理由はそれで充分だ。

 

「本当ですか。ありがとうございます!」

 

 くぅ、そんな無邪気に嬉しそうな顔で喜ばないでよ。変な台詞に聞こえている僕が汚れてるみたいじゃないか。

 証明写真ボックスに備え付けの鏡で顔を見れば僕の顔が真っ赤になっているのが見える。

 この程度のことで顔に出るだなんて。誰だ僕が無表情だなんて言った奴は。僕だったわ。

 

「この履歴書は私の方でお預かりさせていただきます。スカウト枠として私の方から上に提出いたしますので」

「あ、はい。よろしくお願いいたします」

 

 もう一度履歴書を書かずに済んで良かった。あ、でも、僕が自分で書いた履歴書の特技欄よりも内容が薄いかも?

 僕が書いた方の特技欄には握力が200kgとか神速のインパルスとかちゃんと書いてあるから、できればそっちを持って行って欲しかったけど。ま、いっか、受かれば何でもいいし。

 

「あの、最後にもう一度だけ訊いてもいいでしょうか?」

「はい、なんでしょうか」

「貴方にとって、私の良いところは何ですか?」

 

 ”昨日の歌は貴方の心に届きましたか?” 本当はそう訊きたかったけど、それはまた今度にしよう。

 男は僕の問い掛けに対して、あの時と同じくまっすぐな目を向けて言った。

 

「笑顔です」

 

 うん──。

 信じてみよう、この人を。

 僕を信じてくれたこの人を信じよう。この人が僕の良さを笑顔だと言ってくれるならば、僕はこの笑顔で頑張ろう。

 貴方が僕を必要だと言ってくれる限り僕は貴方のために笑おう。

 僕は姿勢を正すと手を両の太ももへと当て、上半身を傾けると深くお辞儀した。

 やはりここはあれを言うしかないだろう。

 ずっと呼んでみたかったんだよね。

 

「これからよろしくお願いします。プロデューサー」

 

 僕はこの日アイドルになった。




ああ、それと前話のあとがきで1話ごとの文章量を減らすと約束したな?

──アレは嘘だ。



まさかの3話よりも文字数多いという謎。7万文字って。これでも二万文字以上削ったのに・・・。
4話をお読みいただいた方々はお気づきかもしれませんが、今回は武内Pに「I need you」を言わせたかっただけです。その一言のためだけに7万文字があります。千早がぐだぐだ無駄に考えたり逃げたり寄り道した全てが「I need you」で解決しちゃったわけです。
4話なんてやろうと思えば3行でまとめられます。

千早「私は駄目人間なんです」
武P「I need you」
千早「はい」(トゥンク)

即落ち3コマ。最後千早が武内Pの言うことに素直だったのは落ちてるからです。昨今の少女漫画ですらもう少し頭の良いヒロインが出てくるでしょうよ。まじチョロイン。
あとは色々と千早の現状というか、どう環境と性格が改善&悪化してるか紹介しようとしたらこんなことに。
こうやってぐだぐだ1話を長くするよりはもっと展開を早めに流していきたいです。無理ですけどね!
1話を3万文字くらいに短くまとめられる人を尊敬します。
次こそは短くしようと思います。5万文字は切りたい。できれば半分くらいにしたいです。


以下あとがきという名の補足と雑記。あまり読む意味はありません。

さて、今回でようやく346編が始まりました。前回の引きでいきなりアイドルデビューするかと思っていた方々には申し訳ない思いです。本編始まってもまだニートだったという衝撃的事実。
スカウトされたんだからそのままアイドルやればいいのにね。そう思ってもこの千早は面倒臭い奴なので紆余曲折を経ないとゴールできません。
前回の主題が「今更なんてない」ならば今回は「無駄なものなんてない」でしょうか。千早とPの無駄な駆け引きを描いただけとも言えますが。これをやったことで千早がPに依存してくれました。やったね。美希とまゆと凛足して3で割らなかったら千早になるよ。
Pは本当に頑張ったと思います。死ぬほど面倒臭い女のために裏であれこれ頑張る姿は涙なくしては語れないでしょう。彼視点でのお話では是非「千早この野郎。めんどくせー女だなw」と思ってやってください。
今回のお話を書くにあたり、千早の心理描写と並行してPの心理描写(ただし三人称)を副音声で脳内再生していました。千早の態度や言葉がどうPに映っているかを想像しながら千早の行動を書くというのは苦労しました。
だって千早クソめんどくさい奴なんだもの。話聞いてないし。勝手に悪い方に解釈するし。豆腐メンタルだし。学校行ってないから行先読めないし。逃げ足だけは人外だし。歌と楽器演奏は他人の心をへし折るレベルなのに自己評価が低いとか予想できんわ。
Pからすればクール系の天才少女をスカウトしたつもりが、実際は精神パッションでチートにより自己評価が低い難聴系主人公なんだから悪夢です。
P本人としてはよかれと思ってやったことが全て裏目に出ていますので本当にかわいそう。笑えているのに本人が笑っていないと思い込んでるとかわかるわけがない。同じ再審査仲間の卯月を連れていってみたら逆効果とか予想できるか。
それでも千早の才能を諦めきれなかったPは7話の未央や24話の卯月にしたような積極性を見せます。一話目にして歯車やめちゃってるよこの男。千早大好き勢だからね。仕方ないね。二か月もストーキングしたからね。仕方ないね。仕事放棄し過ぎて部長とちひろさんからめちゃくちゃ怒られたからね。仕方ないね。
Pがなぜそこまで千早の”才能”と”笑顔”を確信していたかはデレアニを見ていた方なら予想できると思いますが、P視点までは一応内緒です。

千早大好き勢と言えば春香が何やら不穏に見えます。でも安心してください。ちゃんと不穏です。
本当は春香襲来シーンを一話目に入れる予定でしたが、今回の話の中で完全に浮いている上に一万文字プラスされるためばっさりカットしました。4話で時間飛んでる?と思ったシーンがそこに該当します。
まあ、春香襲来シーンなんてあっても意味ないので5話以降で適当に回収します。お風呂に二人で入ったり、そこでキャッキャウフフするだけです。

もう一人の千早大好き勢の優君ですが、前回から引き続き千早のサポートに回っています。姉への扱いがぞんざいになりつつありますが、最初からこんな感じです。千早フィルタが掛かっているから天使に見えるだけです。実際はわりと普通の男の子です。
ここに自分のことが大好きで言えば何でもしてくれるし何しても許してくれる上に超美人な姉と同じ布団に寝て、全身密着状態のまま一晩何もしないでいられる普通の中学二年生が居るぞー!
彼はこれからも千早のために動き回り、姉の意味深な台詞に悶々としてもらいます。胸以外ハイスペックな姉を持ったせいで同級生の女子のほとんどが芋女に見える。今作で二番目に不憫なキャラです。

876プロ等のほかの事務所のオーディションに落ちた理由は変顔の写真が主な理由ですが、特技の欄を素直に書きすぎたのも敗因です。嘘は書いていませんが嘘臭い内容に冷やかしと思われてます。神速のインパルスとか。握力200kgとか。本人は大まじめに書いていますが失敗ですね。
奇蹟が起きて二次審査に進んでいた場合、歌でも歌えば二次の時点で採用されていました。

次回は写真撮影。
・・・の前にまたもやひと悶着。だって千早ちゃんまだアイドルじゃいもんね。
「僕はこの日アイドルになった(キリ)」


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アルティメットなアイドルの卵その1

長らくお待たせいたしました。
今回はアニメの2話目くらいのお話です。
今まで切りのいい場面まで書いてから一気に投稿していましたが、投稿予定文字数が10万文字を超えてしまったため分割投稿する形にいたします。
一旦投稿終えた後に統合するなどの対応を考えております。(まだ書き途中ですが)

また、開始時点でとあるイベントの描写が飛んでおります。
そのため前の話から繋がらない箇所がありますが、そちらは後の話で描写いたします。
本来1話の中で描き切る予定でしたが、分割投稿のためこの話だけ見ると疑問点が少なからずあると思いますが、そういう構成ということで


 あるところに、一匹の怪物がいました。

 その怪物には名前がありません。

 世界でただ一匹だけのその怪物に人のように名前は必要なかったからです。

 怪物も自分に名前がないことを不思議に思いませんでした。

 

 その怪物はとても心優しい生物でした。

 自分よりも劣った生物がいたとしても、決して食べようなどとしませんでした。

 なぜなら怪物には食事が必要なかったからです。

 必要がないから怪物は他者を食べることはしませんでした。

 

 怪物はとても美しい生物でした。

 怪物ではあっても化物ではないからか、見た目も人とそう変わりありませんでした。

 だから自分と同じ姿をした人を怪物は愛しました。

 

 でも怪物は知りませんでした。

 人は自分と同じ姿をしているだけで、それ以外の全ては同じではないことを。

 怪物は自分が強いことを知りませんでした。

 それ以上に、人が弱いことを知りませんでした。

 自分の言葉が人にどれほど残酷に聞こえるか、怪物は理解することはできませんでした。

 

 怪物が見る世界は怪物が見たいものでできていました。

 その世界で怪物は独りよがりの愛を口にします。

 それは残酷な言葉として人には聞こえます。

 でも一番残酷なのは、怪物が自らを怪物と自覚していないことでした。

 

 怪物は自分を人だと思っていたのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──その日、一匹の怪物が生まれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今日僕はアイドルになった。

 目指した未来に少しだけ近付いた。

 自分が千早に転生したと知ってから、十年以上アイドルを目指して来た。苦しい時間が長く続いた分その嬉しさたるや言葉では表現し尽くせない。

 ずっとアイドルになるための努力はして来たつもりだった。自分ならば簡単にアイドルになれると思い込んでいた。でも765プロのオーディションに落ちたことで夢を見られなくなって、そうやって二年間も燻り続けた。

 色々な人に迷惑をかけた。心配して来た人を傷つけたりもした。

 不都合な現実から目を逸らし、聴きたくない言葉に対して耳を塞ぎ、自分の失言を理由に声を失った。

 辛くて惨めな日々が続いた。自分の求めていた未来が消え、自分自身すら消えてしまいたくなるような気持ちだった。

 でも、そうやって自分の殻に閉じこもってしまった僕を支え助けてくれた人達が居た。

 優が僕を支えてくれた。

 春香が僕を助けてくれた。

 一人でふさぎ込んでいた僕は再びアイドルを目指せるようになった。

 そして、そんな僕をプロデューサーが見つけてくれた。

 それは諦めかけていた夢が突然かなったようなものだ。

 だから、なのだろうか。

 アイドルになったことで心に余裕が生まれた今になって疑問を抱いてしまう。

 

「アイドルってなんだろう?」

 

 ……いきなり何を言っているのかと思うかもしれないけれど、何も哲学的な問いを投げかけているわけではない。

 ただ、アイドルになったのだと思った瞬間、アイドルになるというのはどういうことなのかと疑問に思ってしまった。

 もっと深く言うと、何をすればアイドルなのだろうかと考えてしまったわけだ。

 事務所に所属すればアイドルなのか。

 曲を出せばアイドルなのか。

 雑誌に載ればアイドルなのか。

 テレビに出演したらアイドルなのか。

 ライブに出ればアイドルなのか。

 僕の中にあるアイドルの定義があやふやなせいで、何をしたらアイドルなのかわからなかった。

 曖昧な定義は自分が立つ位置を不安定にさせる。確固とした自己の確立が人より不得手な僕にとってそれは出口の無い袋小路に迷い込んだのと同じだった。答えの出ない問答を延々と繰り返す壊れたパソコンみたいにアイドルとは何と問い続ける。

 そんな曖昧であやふやで不安定な自己分析にも似た問い掛けは、ふとした瞬間に終わりを迎えた。

 それはアイドルという存在を特別な生き物と考えていた僕には衝撃的な解だった。

 それはありふれたものだった。

 誰もが当たり前に持つ答えだった。

 アイドルも人だと思えばこそ、それを当たり前と言えるわけだ。

 でも、僕はアイドルを特別な存在と思っていたからそこに行き着かなかった。

 何度も答えは見えていたのに、それを答えと認識せずに、存在しない別の答えを求めてしまっていた。

 いや、きっと別の答えというものは存在するのだろう。それこそ人によってはもっと俗物的な理由だって答えに成り得るのだから。

 ……印税が貰えたらアイドルとか。

 まあ、そこまで俗っぽい物を言う人間はいないだろうけれど、世のアイドル達はきっと何かしらの答えを得ているのだ。

 そして僕の答えは()()だった。

 それだけだ。

 きっとその一つだけあれば僕は自身をアイドルと名乗ることができるだろう。

 たとえこの先どのような苦難が待ち受けていようとも、その一つがある限り、僕はアイドルとして立っていられる。

 

 だから、今回の話は僕がアイドルになった話ではない。

 これだけ語りはしても、それは蛇足でしかない。僕がアイドルになった話はおまけ程度に聞いてくれれば良いんだ。

 本題はそれからの話。

 僕がアイドルになった……そう錯覚していた日から数日後の、そのまた数日後からこの話は始まる。

 

 

 

 

 身体が重い。チートの反動が今も僕の身体を蝕んでいる。

 最終審査を終えた僕は今、家の帰り道を満身創痍で歩いている。

 上手く動かない手足を気力で無理やり動かしている状態だ。少しでも気を抜けば、一度でも立ち止まればもう二度と歩きだせないと思えるほどに全身が不調を訴えかけてくる。

 関節を動かすだけでザクザクと刃物が突き刺さってくる様な激痛が走り、一瞬意識が薄れかけのを歯を食いしばって耐える。そうやって何度も襲い来る激痛の波をやり過ごしながら歩き続ける。

 まさか”如月千早”との完全同期がここまで負担になるなんて……。

 確かに人間一人分の人生を背負うわけだから、その負担が大きいのはわかっていた。でも、まさかここまで酷い状態になるなんて思ってなかったんだ。

 反動で上手く動かない手足を必死に引きずる不便さと合わさって自分の考えの浅さに腹が立った。

 

「身体が重い……こんな気持ちで帰宅するなんて初めて。もう、何か全部怖い」

 

 これでもだいぶ良くなった方だろう。

 チートを使用してからまだ三時間程度しか経っていないけれど、ようやく人心地着いたと言った感じだ。

 使用直後は本当に辛かったからね。これに比べたら前に自分の喉を殴り潰した事なんてどうってことないと思える。

 今はまだ日も高い時間帯のため人の目がそこかしこにある。そんな中、ゾンビみたいなぎこちない歩き方をする女が居たら絶対変な目で見られる。これからデビューを控えている身で変な噂を立てられるわけにはいかない。

 だから僕はなけなしの気力を振り絞り「なんてことは無い」という顔を作り、精一杯の虚勢を張って歩いた。

 

 

 

 ようやくアパートまで辿り着けた。

 やはり自分の家が見えると幾分心に余裕が生まれるものだ。

 早く部屋に入ってベッドに横になって眠りたい……。

 プロデューサーは次の月曜日に346の事務所に来るように言っていた。その日が仕事始めとも教えてくれた。

 今日は金曜日だから、今から寝れば丸二日休める計算になる。それまでにはこの身体の不調も治っているはずだ。

 万が一治らなければ、本当は嫌だけれど、チートを使って乗り切るしかない。治り切っていない身体でチートを使用するのは身体への負担を考えると正直避けたいところだ。でも、ふらふらの身体で初仕事に臨むよりはマシだ。

 何せアイドルとして初仕事になるなのだから無様な姿は晒せない。プロデューサーだって見てくれているんだ。アイドルらしく振舞わなければならない。

 

「アイドル……」

 

 そう、だよね。

 僕はアイドルになったんだよね?

 今になってようやく実感が湧いてくる。

 僕でいいのかな?

 こんな欠陥品のなり損ないがアイドルになってよかったのかな?

 最終審査の問い掛けを思い返して胸へと手を添える。

 僕にアイドルをやる覚悟はあるのか。僕以外にもアイドルになりたい人はたくさん居る。今回のシンデレラオーディションだってたくさんの応募者が居たはずだ。

 その中から最終審査に残った人間は二人。その二人の内の片方が掴みかけた椅子を僕が横から奪った。

 その事実を聞いた僕は揺れた。765プロに落ちた僕と同じ絶望を今度は僕が与える側になるなんて。敗者になるのと同じくらいに勝者にも痛みが伴うなんて僕は知らなかった。

 でもプロデューサーは僕を選んだ。

 プロデューサーは僕をアイドルにしたいと思った。その誰かよりも僕を選んだんだ。

 プロデューサーが僕を選んでくれたから……。

 だから、今の僕はアイドルなのだろう。

 さっきは緊張とチートの反動で意識していなかったけれど、今になって自分が本当にアイドルになった実感で喜びが込み上げてくる。

 

「アイドル……アイドル!」

 

 ああ、なんて素晴らしい響きだろうか。

 自分がアイドルだと名乗れる日が来るなんて。諦めなくて良かった。足掻いてよかった。惨めでも、情けなくても、指一本分の希望が残っているならと絶望という名の谷に向かって落ちなくて良かった。

 今から月曜日が楽しみだ。

 浮ついた気分で家へと帰った僕は、しかし部屋の前にたどり着く前にその足を止めることになった。

 

 部屋の前に春香が立っていた。

 

 春香は眼鏡と帽子という、変装という言葉に真っ向から殴り合いを仕掛けて行く何時ものスタイルで薄く笑みを浮かべながら部屋の扉を見つめて居る。

 まだ夕方にもなっていない。いつもみたく終電を逃したから寄ったにしてはだいぶ早い時間だ。いつもの打ち合わせが長引いたパターンではないみたいだけど……何か用でもあるのかな?

 春香の予想外の訪問に暫く突っ立っていると、春香が部屋のインターホンを押した。

 小さくピンポーンという呼び出し音が聞こえる。当然僕は外に居るため部屋から誰かが出てくることはない。なるほど、ちょうど春香が来た時に僕は戻って来たわけだ。

 春香にインターホンを無駄押しさせたことに軽く罪悪感を覚えつつ、声を掛けようと口を開く。

 

「春……」

 

 春香がインターホンを押した。

 再び音が響く。

 春香は変わらぬ笑みを浮かべている。

 

「……」

 

 またインターホンが押される。

 音が響く。

 春香は笑っている。

 そうやって何度も春香はインターホンを鳴らしていた。

 いや、僕居ないからね。

 

「春香」

 

 ご近所迷惑になるので止めるためにも春香に声を掛ける。

 春香の反応は早かった。

 ぐるんと音が鳴るのではないかと思うくらい勢い良く頭を振りこちらへと振り返る春香。

 

「千早ちゃん!」

 

 僕に気付いた春香がこちらへと歩み寄ってくる。先程までの薄ら笑いではなく満面の笑みを顔に浮かべて。

 あのくらいの笑顔ができたら僕ももう少し歌のレパートリーが増えるのにな。

 

「部屋の中に居るのかと思ってピンポンし続けちゃった」

「ずっとインターホン鳴らしてたの? ケータイにメールくれればよかったのに」

「えー、ずっとメールしてたよ。電話もしてたし」

 

 うそん。春香に指摘されてケータイの着信履歴を確認する。

 だが履歴欄には新着情報はない。

 まさかと思いすぐにメールセンターに問い合わせをする。

 次の瞬間画面が大量の電話とメールの着信履歴で一杯になった。

 日付により五分ごとにメールと電話をかけ続けたことがわかる。なんと春香は二時間前から数分ごとにメールと電話をしていたらしい。

 

「……」

 

 着信メールの数に自然と背中を汗が流れた。

 恐る恐るケータイの画面から顔を上げる。

 すぐ目の前に笑顔の春香の顔があった。

 顔が近い。どちらかが微かにでも動けば鼻先がぶつかるくらいの距離だ。

 当然そんな近くに立たれたら嫌でも色々と情報が入ってくる。

 まずは匂い。今の僕の壊れた嗅覚でもわかる程の甘い香りが鼻孔へと入って来た。香水のような無機質な香りではなく、シャンプーと春香自身の体臭とかが混ざり合った匂いだ。

 僕はあまり制汗スプレーの臭いが好きではない。たまに居る逆にスプレー臭い女の子とかいると思わず顔を顰めてしまうくらいだ。そんな話を前にメールのやり取りの中で春香に言ったことがあるけれど、春香からそういった臭いがないということは彼女もあまり使用しないようだ。

 でもスプレー臭くない代わりに、春香の襟元から漂う汗の匂いは女性に慣れていない僕にとっては刺激が強い。それが春香みたいな可愛い子ならなおさらだ。興奮とまではいかないまでも、十分にドキリとさせられる。

 

「千早ちゃん」

 

 春香の声は優しい。

 とても二時間近く待たされた後に出せる声ではない。

 怒りや不満が見えない春香の笑みはまさしくアイドルとして完璧なものだと思った。

 春香、貴女って子は……。

 二時間待たせても笑って許してくれるだなんて、何ていい子なのだろう!

 春香の聖母のごとき優しさに涙が出そうになった。

 そんな心優しい友人の汗の匂いにドキドキした僕は一度死ねばいいと思うよ。

 

「ごめんなさい! メールセンターで止まってて、メールとあと電話に気づかなかったの……」

 

 春も終わりを迎えようという季節であっても、夕方頃になると少しだけ肌寒い。そんな中で待っていた春香に申し訳ない気持ちになる。

 

「もちろん私は信じてたよ? 千早ちゃんがわざと私を無視するわけないって」

「当たり前でしょ! 大好きな春香を無視なんてありえないもの」

 

 こんなに優しくて色々と僕を気に掛けてくれる春香を無視なんてするわけがない。

 

「えっ、大好き……?」

「ええ、大好きよ春香」

「えへへ、そっかー、大好きかー……うん、うん……良かった!」

 

 もちろん友達としての好きだけど。

 すでにこの人生で恋愛を諦めて居る僕には春香相手に友情以上の感情を持つことはないだろう。

 今でも僕の恋愛対象は女の子だと思うから、なおさら春香は友達だと思い込む必要があった。ほら、女の子同士のスキンシップって男からすると激しいからさ。女の子にとっては何気ないスキンシップでも、男にとってはドキドキさせられたりするでしょ。

 春香も何かあれば抱きついてくるし。お尻や胸に触って来るし。キスして来るし。

 一度やり過ぎではないかと言ったらこれくらい普通と言われてしまった。むしろこれくらいやらないと友達ではないらしい。強く言い聞かせるように言われたら、春香以外に友達がいない僕は納得するしかない。逆に春香から何でそんなこと訊くの? みたいな顔をされて慌てて誤魔化したくらいだ。

 まあ、僕が誰かを好きになったとして、その相手が女の子なら相手がレズでもない限り恋愛に発展することはないだろう。どこかその辺に居ないかな。

 

「とりあえず、部屋に上がった方がいいわ。いつまでも外に居たから冷えたでしょ?」

「そうだね。あ、でもさっきので熱くなったかも……」

 

 何気なく吐かれた春香の言葉にギョッとする。

 身体が熱いって……それは風邪じゃないか?

 僕が早く帰らなかった所為で春香が体調を崩したなんてことになったら大変だ。大切な友達を自分の不注意で辛い目に遭わせるなんて許されない。

 

「春香!」

 

 慌てた僕は春香の体温を確認しようと彼女の顔に両手で触れた。

 しかし僕の手に春香の体温が伝わることはない。今の僕は触覚が麻痺しているため、春香の体温が手で触れた程度ではわからないのだ。

 体温を感じ取るために自分と春香のおでこを合わせる。

 しかし、それでも春香から熱を感じることはできないため、他の部位——頬とか首で春香に触れる。

 

「え? えっ? えええ?」

 

 春香の方は状況がいまいち飲み込めないのか目を白黒させている。

 今この時にも春香の顔は赤くなり体温も上昇してしまっている。明らかに熱があるってわかるのに、ポンコツな僕の体はそれを感じ取れない。

 それにしても、春香は自分の不調に気付かないなんて……。

 僕は春香の忍耐力を友達として誇らしく思うとともに、その忍耐力が彼女を苦しめていることに心を痛めた。原作でも自分を拒絶した千早を見捨てず最後まで説得し続けた春香の根性はこの世界でも変わらないと知っていながら、こうして彼女が無理をする事態を回避できていない。

 せっかく春香が友達と呼んでくれているのに、これでは友達の意味がないじゃないか。僕は本当に春香を傷付けてばかりいる。それでも僕と友達を続けてくれる春香に今度何かお礼をしよう。日頃の感謝を込めるのだから、僕ができることなら何でもしてあげようと思った。

 っと、その前に春香を安静にさせなくちゃ。春香の様子を見ると、顔を真っ赤に染め息を荒くしていた。目を開けているのも辛いのか、両目を閉じている。足元も何かふらふらと揺れており、僕が手で頭を支えていなければこちら側に倒れ込みそうだ。

 

「春香、すぐに部屋に上がりましょう」

 

 とにかく部屋の中に居れて安静にさせなくては。

 

「え、へ、部屋?」

「そうよ。外じゃ何もできないでしょう?」

「ふあっ!? そ……そうだね! さすがに外じゃ無理だよね! 人の目もあるかも知れないし」

 

 病人が人目を気にする必要はないと思う。でもアイドルならば体調不良一つとっても、ニュースのネタにされることがあるのかもね。春香みたいなトップアイドルならばなおさらだ。

 アイドルに付き纏うパパラッチという存在を忘れていた僕は自分の失策に気付いた。今もこの瞬間に春香の特ダネを狙う記者が居るかもしれないのだ。僕は慌てて春香に覆いかぶさるようにして陰になりつつ、彼女を監視しているパパラッチが居ないかと周囲を確認する。原作で千早も世話になった、あの三下パパラッチ男が居たら大変だ。『体調管理もできないプロ意識の欠けたアイドル』などという記事を書かれかねない。まあ、そんなものを書いたら僕の秘密技”人だけコプター”で空を不自由に飛んで貰うつもりだけど。

 

「ち、千早ちゃん、お部屋に入ってからって話じゃ……」

 

 腕の中で春香が何か言っているが、今はちょっとそちらを聞いている余裕がない。

 僕は躊躇いなくチートを発動させた。と同時に再び身体を激痛が襲うが歯を食いしばって耐える。先程よりも痛みがましに感じるのは二回目だからなのか、そもそも痛覚が馬鹿になっているからなのか。後者でないことを祈りつつ知覚能力を上げる。

 僕が今やっているのは先程最終審査会場でやった様にチートによる聴覚強化だ。犬よりも鋭敏になった聴覚により半径五十メートル以内の音を無差別に拾い上げる。春香の声はカット。

 当然僕の平凡な脳では範囲内の音全てなんて処理しきれない。そもそも音が混ざって雑音に聞こえてしまう。そこで脳内で複数展開した”如月千早”にそれぞれ割り振った音だけをピックアップさせ必要な音だけを抽出する。その音を加算平均処理することで雑音を濾し取ることでようやく僕が理解できる音へと変換できた。

 

『おかーさんお腹すいたー』『膝に矢を受けてしまってな』『チェケラッイエェ』『さっき味噌食べたばかりでしょ』『私はまだアイドルを諦めたくない!』『青色サヴァン』『ばあさん、ワシのぶらじゃぁ知らんかね』『ちくわ大明神』『死ネ死ネ 死ネ死ネ 』『これが幻想の最果てだ!』『おじいさん、ぶらは今着けてるでしょ』

 

 ……どうやら知覚範囲内でそれらしき話声やシャッター音等の記者が発するような音は発生していないようだ。多少不穏な台詞が聴こえたような気がするけど、僕達には関係ないだろう。

 とりあえず安心できたのでチートを切る。一瞬だけとはいえチートを発動したため身体が痛んだが、春香の安全のためと思えば安い代償だった。

 改めて春香の様子を窺う。

 腕の中の春香は先程よりも顔が赤かった。耳どころか首の下の方まで真っ赤に染まってしまっている。

 

「あ、あの……私、どうせなら、その……はじめてなら千早ちゃんの部屋がいいなって。あっ、千早ちゃんがどうしてもって言うなら外でもいいけど……」

 

 しかも言ってることが支離滅裂になっているじゃないか。この短い間にこんなにも悪化しているなんて。春香を部屋に上げてから周囲を確認するべきだった。

 

「ごめんなさい。気が急いてしまって、春香のことを考えていなかったわ……」

「ううん! い、いいの、千早ちゃんも我慢できないことってあると思うし」

「そう言ってくれると助かるわ。改めて部屋に上がりましょう」

「うん。えっと、いいの?」

「もちろんよ。外よりも部屋の中の方が色々とできることがあるもの」

「色々っ!? そっ! ……うだね!」

 

 そうだ、中の方が看病しやすい。当たり前だよね。

 僕は突っ立ったままの春香を抱きしめたまま部屋の中へと入った。その時春香が「やった、勝った」と呟いていたけど意味はさっぱりわからなかった。病人の譫言だもんね。

 

「お、おじゃ、お邪魔しま~す!」

 

 部屋に上がる時に律儀にそんな挨拶を言う春香にこんな状況だというのに感心する。親御さんの教育が良いんだね。

 意識もしっかりしているみたいだし、案外大丈夫な気がして来た。

 

「いや、むしろただいまって言うべきなんじゃ。そしたら千早ちゃんがお帰りって」

 

 あ、やっぱり駄目だわ。自分が今どこに居るのかも曖昧になっているぞ。春香は熱の所為で僕の家を自分の家と勘違いしているんだ。

 

「春香、すぐにお布団を敷くわ」

「えっ、お風呂にする? ご飯にする? それとものくだりは!?」

 

 ちょっと何を言ってるかわからないですね。

 春香を一度ソファに座らせた後に布団を取り出すために押入れを開けて中を漁る。

 この間優が使ったのと同じ布団だが、きちんと干した後にケアしてあるから大丈夫だろう。

 

「あ、あと、ちょっと汗かいてるから先にシャワーに」

「シャワーなんてとんでもない!」

「えええええっ、いや、でも、汗とか流した方がいいと思うんだけど」

「私はそう思わないわ。むしろ浴びない方がいいくらい」

「マニアック!?」

 

 病人なのにちょっと騒ぎ過ぎである。これ以上騒いで悪化したらいけない。

 とにかく春香には安静にして貰わないと。

 布団を床に敷くと僕は春香へと近付いて行った。

 

「千早ちゃんになら何をどうされてもいいけど、できれば綺麗な私を見て欲しーー」

「まどろっこしい」

 

 ソファでモジモジと体を動かしている春香を横抱きに持ち上げる。所謂お姫様抱っこというやつだ。

 

「きゃっ。わ、わ、千早ちゃん力持ち!?」

「春香が軽いだけよ」

 

 驚く春香を適当にあやしつつ布団へと運ぶ。実際春香は軽い。ちゃんと食べているのか心配になるくらいに。

 腕の中で暴れる春香を宥めながら部屋を移動して布団まで辿り着くと、その上に春香を優しく下した。

 

「千早ちゃん、私こういうの慣れてなくて……」

 

 普段元気な春香のことだ、風邪を引いたこと自体少ないのだろう。だからこうして看病されることに慣れていないんだね。

 

「大丈夫、全部私に任せてくれたらいいわ。こう見えて私慣れてるの」

「え……慣れてる?」

「優相手に何度もしてるから」

「……ふぅん、へぇ」

 

 あれ、春香の目が据わった気がするぞ。さっきまであれだけ輝いていた瞳がドロドロに濁っているように見える。この風邪は長引きそうだ!

 

「優君とこういうことしているんだ?」

「そうね。弟のことだもの、当然だわ」

「当然って……こういうのって普通姉弟ではやらないよ」

 

 まあ、確かに普通は親がやるよね。でもうち共働きだからニートの僕がやるのは当然なんだよね。母親が専業主婦で一人っ子の春香には違和感あるのかもね。

 

「優もそう言っていたわ。でも、他に適任がいなければ私がやるしかないじゃない。あの子気を遣って断るのよ。終いには自分でやるからいいって言うの」

「自分で……そ、そう言ってくれるならお言葉に甘えてもいいんじゃないの?」

「まさか! 優が苦しそうにしているのに一人でさせるなんてできないわ。だからほとんど私が無理やりしている感じね」

「無理やり!? え、千早ちゃんの方からしてるってこと?」

 

 病人が自分で身の回りのことをするのは難しいことだ。 だから僕が代わりにしてあげるって言っているのに、それを優ってば断わるんだから困るよ。

 飲み物用意したり、冷却シート貼り替えたり、お手洗いに連れて行ったり、身体拭いたり……。僕ができる範囲でやってあげようとすると全力で嫌がるのだ。最後は力尽くでやるけれど。

 

「優も恥ずかしくて自分から言えないんでしょうね。もしくは気を遣ってくれているのかも……優しい子だから」

「優しいというか、自分から言い出したらやらしいと言うか」

「だから優もね、最初は何かと理由をつけて断って来るのだけれど、最後の方は諦めて抵抗せずにいてくれるわ」

「千早ちゃんに無理やり……抵抗心を奪われて……」

「あの子のお世話をしていると、凄く心が満たされる気がするの。いえ、これは不謹慎ね」

「お世話……千早ちゃんのご奉仕」

「でも遣り甲斐があるのは確かよ。いつも二人にはお世話になっているのだもの、春香の看病くらいどうってことないわ」

「千早ちゃんの看病…………かんびょう?」

「ええ、そうだけど」

「看病」

「看病」

「なんで看病?」

「何でって……風邪を引いたから私が看病するという話でしょう? さっきからずっと顔が赤いし、様子がおかしかったから……違うの?」

「………… …… 風邪じゃないよ」

「そうだったの? 私てっきり風邪だとばかり……」

「え、じゃ、じゃあ、無理やりっていうのは」

「看病のことだけど?」

「……」

「春香?」

「あふん」

 

 春香は後ろにばたりと倒れると布団を頭まで被ってしまった。

 布団の端から見える手は真っ赤で、激しく震えているのが布団を被っていてもわかる。

 

「ちょ、ちょっと春香? 本当に大丈夫?」

「うん……ちょっと、ごふんだけ……落チ込マセテクダサイ」

 

 何で最後ちょっとだけカタコトなんだ。

 風邪じゃないと言うならいいんだけど。先程までの挙動不審な態度はちょっと普通ではなかったと思う。アレで風邪ではないというならもっと別の病気なんじゃないかと不安になる。

 それ程までに春香は尋常じゃない様子だった。

 いったい何が原因だったのだろう……?

 

 

 それから、きっちり五分後に春香は復活した。

 気分はすっかり良くなったそうだ。

 むしろ元から何ともなかったから大丈夫と言われてしまった。気を遣われているのだろう。無理していないか心配だ。

 

「本当に調子が悪かったら遠慮なく言って? 私にできることなら何でもするから」

「何でも? ……ハッ、ううん! 大丈夫だよ!」

 

 先程から春香の挙動がおかしい。僕の言葉をいちいち繰り返したり、意味を一瞬理解できないような素振りを見せる。やはり熱で思考能力がおかしくなっているのではないだろうか。

 

「本当に風邪ではないのよね?」

「うん。本当に大丈夫だよ。ちょっと疲れが出ちゃってぼーっとしちゃっただけだから。あ、でも少し横になったからもう大丈夫だよ?」

「それならいいのだけど。春香が辛そうにしているのを見るのは私も凄く辛いから……。私は春香のことを本当に大切に思っているの。その春香が苦しんでいたら力になりたいと思うのは私の我儘かしら」

「ふぐっ!?」

 

 突如呻き声をあげて倒れる春香に慌てる。

 

「え、大丈夫!?」

 

 慌てる僕の前で春香はまたしても布団を被ってしまった。その姿は何かに耐えているように見える。その証拠を掴む指先が震えていた。

 やがて布団越しに春香の声が聞こえた。

 

「……罪悪感で死にそう」

 

 その声は病人のように弱々しいものだった。

 

 

 

 予想通り最近の春香は多忙だったそうだ。そのためメールもろくに返せなかったのだと説明を受けた。その際大袈裟に謝罪して来たので逆に慌ててしまった。アイドルとして忙しいことは良いことだ。それを喜びこそすれ、責めることなんてするわけがなかった。むしろ春香の頑張りが認められたように思えて嬉しい。

 そう伝えたところ突如春香が自らの胸を押さえて倒れてしまった。やはり何かしらの病気なのかと慌てた僕に春香は何ともないと言ったけれど、それにしては何かに耐えるようにプルプルと震えているのは見ていて不安になる。

 大丈夫と言われても、小声で「天使」とか「耐え」とか「尊い」とブツブツと呟いている姿はとても平気には見えない。本当に病気じゃないんだよね?

 

「春香に何かあったら耐えられないわ」

「大丈夫、私はまだ耐えられるから」

 

 会話になってないよね。

 

「貴女に何かあったらきっと泣いてしまうわ」

「千早ちゃんをなかせる……」

「これからも春香と付き合っていきたいと思っているもの」

「千早ちゃんとつきあう」

「春香が思っている以上に私は春香が好きだから」

「ハネムーン!」

 

 あの、聞いてくれてます?

 わりと真面目なシーンのはずなんだけど、物凄くギャグ空間が広がっている気がする。

 自分がシリアスになり切れないのは自覚している。さらに相手が春香ともなれば真面目な空気なんて長く維持できるわけがなかった。

 でも、それで良いと思う。張り詰めた空気の中で居るよりも、ほんわかとした空気の方が良い。

 本音を言えば身体の芯から訴えて来る疼痛のせいで今すぐにでも倒れてしまいたい気分ではあったけれど、春香と過ごす時間の方が優先された。

 

「あ、そうだ! 私千早ちゃんにお祝いがあるんだった!」

 

 意識がそれていた僕を春香の声が引き戻した。まあ、春香の方も何やら独り言でブツブツと呟いていたのでお互いに心ここにあらずという感じだったが……。

 やっぱり少しでも気を抜くと意識が薄れてしまう。千早の意識と混線……混戦したせいだ。今後このチートの使用は控えようと思う。下手をすると僕の自意識が死ぬ。

 それはともかく、春香の言うお祝いとは何だろうか。

 春香の誕生日はこの間祝ったばかりだし。……そもそも自分の誕生日祝いを他人に送ることはないか。

 

「お祝い? 何かあったかしら……」

 

 不思議に思って訊ねる。

 

「アイドルデビューのお祝いだよ。おめでとう、千早ちゃん!」

 

 笑顔で返された春香の答えに僕は目をしばたたかせた。

 はて、僕は春香に最終審査に受かったことを教えていただろうか。

 

「あ」

 

 と思ったけれど、よく思い返せば春香にアイドルになったと伝えていた事実に気付いた。しかし、それは今日のことではない。プロデューサーにアイドルになること告げた日のことで今日のことではない。

 あの時はまだアイドルではなかったのだけど、プロデューサーのスカウトを受けた時点でアイドルになったと勘違いして家族と春香にアイドルになったと連絡してしまった。あの時の僕は自分がアイドルになれたと舞い上がりテンション高くメールしていたと思う。

 その時期は春香からの連絡が一時途絶えていたので今まで忘れていたけれど、春香の方はそんな僕のテンションを見てわざわざ来てくれたのだ。

 僕が色々な事務所のオーディションを受けては落ちてを繰り返していた時期に相談に乗ってくれていたのも春香だった。僕の愚痴混じりの近況報告を嫌な顔せずに聞き、自分の体験談を交えたアドバイスをしてくれたのだ。春香自身も765プロに受かる前はたくさんの事務所のオーディションに落ちていたということもあり、共感性を持ったアドバイスはとてもためになったことを覚えている。

 アイドルのお仕事で忙しかっただろうに。最近だってメールする暇もない程に忙しかったはずだ。それでも僕の勘違いの結果を祝うために家に来てくれた春香の義理難さに涙が出そうになる。

 今日の最終審査に受かって良かった。これで落ちていたら忙しい中来てくれた春香に申し訳が立たなかった。

 

「ありがとう……春香に祝って貰えて嬉しい」

 

 勘違いの部分は説明せず、代わりに心からの感謝を述べた。

 改めて言うけれど、僕の表情は基本的に真顔だ。今の台詞も真顔で言っている。当然感謝の言葉を口にする時も真顔になってしまうため、知らない相手からは淡泊に見えてしまうのだった。

 一度お店の店員さんに同じように感謝を伝えたところ、泣きそうな顔で謝られた時は自分の感謝は一周回って怒っているように見えるのかと泣きそうになった。

 そんな感じに僕がどれだけ心を込めても相手に伝わらないことが多々ある中、きちんと真意を読み取ってくれる春香はストレートに気持ちを伝えられる相手だ。希少で貴重な大切な存在だった。

 

「本当はすぐにメールで返した方が良いかなって思ってたんだけど、やっぱりちゃんと向き合って言いたかったから……」

 

 春香のその言葉に目頭が熱くなった。気を抜くと泣いてしまいそうだ。友達の前で泣くのは恥ずかしいので必死で堪えたけど、嬉しいと感じた気持ちは本当だった。

 ずっと友達もできずにいた僕にここまで言ってくれる友達ができた。その相手が春香だというのは僕が千早だから……ではないと信じたい。運命であっても必然であって欲しくなかった。

 春香と千早だからという理由で僕達は友達になったのではない。もっと大きくて、純粋で、清らかな感情によって僕達は友達になったのだと信じたい。

 

「春香、私は春香のことが大好きよ。ずっと一緒に居たいくらいに」

 

 春香も同じ想いでいてくれたら嬉しい。

 

「……これが優君の言っていた千早トラップか」

「今何か言った?」

「何でもないよ! 私も千早ちゃんとずっと一緒に居たいと思ってるよ!」

 

 春香……。

 これはもう行けるんじゃないだろうか。

 春香の態度から「もしかしたら」と思っていたのだけれど、今の言葉で確信に変わった。

 僕達は友達を超えた関係になれる。

 

「私は春香とは友達を超えた関係になれると思ってる」

「唐突にチャンス到来」

「私達、親友になれないかしら」

「と思ったらこっちもトラップか」

「春香……駄目かしら?」

「そんなことないよ! 私も千早ちゃんと親友になりたい!」

 

 春香が僕と同じ気持ちだと言ってくれた。つまり僕達は今この時をもって親友になったのだ。

 友達ができただけでも幸せなだったのに、まさか親友まで持つことができるなんて……。

 こんな偉業は少し前の僕だったら考えもしなかったことだ。少し前の僕には親友どころか友達すらいなかったのだから。その僕が春香と親友になる。素敵な話だ。

 

「嬉しい。春香と親友になれるなんて、本当に嬉しいわ」

「千早ちゃん! 私も――」

「この友情は一生変わらないのね。何があろうとも親友という関係に罅が入らないように私頑張る」

「――涙が出そうだよ!」

 

 春香の目に涙が浮かんでいるのを見て今度は貰い泣きしそうになった。泣くくらい喜んでくれるなんて、親友になろうと言って良かった。

 あとで優に報告しないと。お姉ちゃんに初めての親友ができましたって言おう。きっと優も喜んでくれるよね?

 

「春香、改めてお礼を言わせて欲しいの」

 

 そして春香には改めて言わないといけないことがあった。

 本当ならばもっと前に、親友になろうと言う前に言わなければいけないことだった。春香に会うことができなかったというのは言い訳だ。言うだけなら何時だって言えたはずだ。それこそ親友になろうと提案する前に言ってもよかったんだ。

 でも、こうして順番が逆になってしまったのは僕に勇気が無かったから。拒絶されるという怖れは無い。拒絶されることを恐れるなら親友になることを拒絶される方を恐れるべきだ。

 ただ、僕はこの言葉を春香が重く受け止めてくれるだろうかということが不安だった。春香にとって何てことはない、どうでもいい事柄だと軽く受け止められないか、それが怖かった。

 居ずまいを正してまっすぐに春香に目を向ける。

 僕の本気さが伝わったのか、春香も布団から起き上がり対面へと座った。

 

「春香、ありがとう」

 

 春香に対して頭を下げる。感謝の言葉とともに、これが僕の精一杯の誠意なのだと伝わるように。

 

「今まで春香が支えてくれたから、私はアイドルになることができた。私が心を閉ざして殻に閉じこもっていた時、春香がここに来てくれて、助けてくれたから今があると思うの。だから、ありがとう……」

 

 僕は笑うことができない。喜びを表に出せない。見た目でそれを伝えられない。

 だから何度でも言葉を重ねるのだ。ありがとうの言葉を何度も口に出して、頭を下げることしか僕にはできないから。

 ありがとうよりもこの感謝の気持ちを伝えられる言葉があればどんなに良いことか。でもそんな言葉が存在しないというならば、せめて言い続けるしか僕にはできない。

 

「ありがとう、春香……アイドルになれたよ」

「千早ちゃん……」

 

 春香が僕へと腕を伸ばすのが気配でわかる。

 僕なそれに対して何もしない。この後春香がどうするのか半ば知っているとしても、結果が出る瞬間まで顔を上げることはしない。

 もしも、僕の勘違いだったら……。

 ふと湧き上がった怖れは、身体に回された春香の腕の感触により消し飛んだ。

 春香が優しく抱きしめてくれている。それが分かった瞬間、今度こそ涙が零れそうになった。

 良かった……。この気持ちが、感謝の言葉がきちんを受け止めて貰えた。

 何でも無いことだと言われてしまったら、これまでの僕の人生が全て軽くなってしまうのではないかという不安があった。だから春香には本当に感謝してるということを理解していて欲しかったのだ。それがどれだけ自分勝手な物なのだとしても。

 でも僕の不安は杞憂に終わったようだ。春香はきちんと僕の想いを理解してくれていた。

 さすが春香。伊達に主人公を張ってはいないね。

 

「私が千早ちゃんの力になれて良かった」

 

 耳元で聞こえた春香の言葉で流れそうになる涙を目を瞬かせて我慢をする。

 泣きたければ泣けばいいと思うかもしれない。でも、僕自身が春香の前で泣くことを拒絶している。男児たるもの……なんて古臭い理由ではなく、単純に僕の中の男の部分が女の子の前で泣くことが恥ずかしいと訴えかけるのだ。

 だから僕は春香の前では泣かないようにしようと思う。その分優の前で泣いてばかりいるけれども。そこは身内特権ということで。

 

「春香……」

 

 春香との熱い抱擁が続く。

 今日の朝から出かけて帰って来るまで締め切っていた室内は少しだけ暑い。春の陽気が差し込んでいるのも室温を上げている理由だろう。

 その中でこうして人間二人が抱き合っているとそこそこ温かくなる。しかも春香が僕に覆いかぶさるように抱き着いているため密着度は高い。

 

「……」

 

 抱擁自体に文句はない。春香からの思い遣りの証拠ということで感動すら覚える。

 

「あの、春香……?」

 

 抱き締めて貰っておいて何か言うのも心苦しいので極力待とうと思っていたのだけれど、かれこれ十五分近く抱き合っているのは少し長いんじゃないかなと思うわけで。

 

「あったかい、千早ちゃんあったかい……いい匂い」

 

 さらに僕の髪の毛に春香が顔を埋め何やらブツブツと言っている状態は何々なのだろうか。

 髪の毛を貫通した春香の鼻息が頭皮に当たっているのもくすぐったいので出来れば止めて欲しいところだ。

 

「春香、ねぇ、春香? もう、そろそろ……ね?」

「はぁぁ…………あっ」

 

 今度は僕が春香のことをあやす様に背中を軽く叩くことで、ようやく春香が気付いてくれた。

 それだけ気持ちが込められていたということなのだろう。春香の友を想う気持ちの強さを心の中で称賛するのだった。

 やがてどちらともなく離れ──何故か春香はとても渋っていたが──僕達は対面に座り直した。

 

「春香と親友になれて、その親友からお祝いの言葉を貰えるなんて思ってもみなかったわ。こうして祝われたことで改めて自分がアイドルになれたんだって実感できた。本当に今日はありがとう」

 

 改めて春香へと感謝を伝える。

 しつこいように思えるかもだけれど、僕としては春香にお祝いを言って貰えたことは最高のプレゼントだったから、何度言っても言い足りなかった。

 あまり言い過ぎてもしつこいかなと思い、とりあえずこの話はこれで終わりにするつもりだった。

 しかし春香の方ではまだ話は終わっていなかったらしい。

 

「実は言葉だけのお祝いだけじゃなくて、ちゃんとプレゼントを持って来たんだよ」

 

 そう言って春香は立ち上がると、ソファの上に置いてあった鞄へと近づき中を漁り出した。

 歩いている時の足取りは軽く、どうやら体調不良というのは本当に僕の勘違いだったのだと安堵する。春香の言葉を疑うわけではないけれど、僕に気を遣って体調不良を誤魔化しているという可能性もあったからだ。

 やがてお目当ての物が見つかったのか、春香がこちらへと振り返る。

 

「じゃじゃーん!」

 

 ジャジャーンという効果音が聞こえそうな勢い、と言うか実際に口で言いながら春香が取り出したのは一枚のチケットだった。

 

「……スイーツフェスタ?」

 

 ロゴや店名、吹き出しなどでごちゃごちゃとデコレーションされている上に遠いのでよくわからないけれど、チケットに書かれている情報を集約して言えばスイーツの食べ放題の前売り券とあった。

 春香がこれを僕に見せたということは、これがプレゼントということだろうか?

 

「春香、これは……?」

「今人気のスイーツ店の食べ放題チケットだよ。あまりの人気に完全予約制になったくらいで、チケットを買うところから競走が起きているくらいんだから」

 

 胸を張りながら「小鳥さんに無理言って取って貰ったの」と言う春香は一欠けらの邪気すら感じられないほどに爽やかな笑みを浮かべていた。しかし765プロの日常をアニメと春香からの雑談から間接的にとはいえ知っている僕には、その裏で繰り広げられたであろう春香と音無小鳥のやり取りがリアリティを持って想像できた。一体今度はどんなネタで釣られたんだろうね?

 まあ、いつものことだから良いのだろうけれども。

 それはともかく、チケットには一つ気になることが書かれていた。

 

「これ……指定した日付は土曜日なのね」

 

 チケットには予約日が記載されていた。それが土曜日、つまり明日になっている。

 

「うん。あっ、もしかして……明日から仕事始めだったりする?」

「いえ、そういうわけじゃないけれど……」

 

 仕事始めは来週の月曜日からだ。だから日付だけなら問題はない。

 しかし僕の今の体調でスイーツの食べ放題というのは些か辛いものがあった。元々省エネで少食のため食べ放題自体あまり向いていない。それに加えて今の僕の体調は最悪と言っていいだろう。明日になればいくらか復調している気はするものの、甘い物をたくさん食べられる気はしなかった。絶対吐く自信がある。

 でも、せっかく誘ってくれた手前、ケーキをひとつふたつ食べておしまいというわけにもいかないだろう。

 

「えっと、お祝いって名目で持って来たのは確かなんだけど、本当は前から千早ちゃんとこういうお店に行ってみたかったの……嫌、かな?」

「嫌じゃないわ。むしろ大歓迎よ」

 

 思わず頷いていた。上手い言い訳を考える暇すらない、まさにゼロタイムの即答。僕じゃなかったら見逃しちゃうね!

 いや、春香にこんな風に言われたらOKするしかないじゃないか!

 わざわざ僕のために苦労してチケットを取ってくれた春香の努力と気遣いを無駄にはできないでしょ。彼女の厚意を無下にしたら自分で自分を許せなくなる。

 ああ、それにしても……「嫌、かな」って訊く時に上目遣いで、不安そうな顔で言う春香の破壊力は凄まじかった。見慣れた顔のはずなのに思わずドキリとさせられた。まったく予期していなかったため衝撃度が尋常じゃない。例えるならドラゴンボールでラディッツの戦闘力が53万あるくらいの衝撃だ。想定外過ぎて死ぬ。

 この表情は媚びているというわけではないのだろうけど、とてもでないが男に見せてはいけないやつだ。僕が男だったら「実はこいつ僕のこと好きなんじゃね?」って勘違いするレベルだ。自分の性別が女ということが悔やまれる。いや、男だったら春香にこんな顔向けて貰えないか。

 とにかく、春香のこの誘いに乗るのは僕の中では確定事項だった。断る理由が無い。

 

「仕事始めは月曜日からだから、明日は一日空いているわ」

「本当!? やったー!」

 

 春香のこの笑顔を曇らせないためにも明日は死ぬ気でスイーツを食べよう。食べられないまでも、せめて楽しそうにしなくてはきっと春香が傷つく。

 死ぬ気で食べるのではなく、死ぬつもりで明日に臨む。それが僕の覚悟だ。

 覚悟はできているか?

 僕はできている!

 

 

 

 その後、明日の待ち合わせ時間と場所を決めると春香は帰って行った。まだ日も高いので泊まる程の時間ではないからだ。

 帰ったらすぐに明日の準備をするそうだ。そんな準備する必要があるのだろうかと訊ねると「だって、せっかくの千早ちゃんとデートだもん」と言われてしまった。

 たまに春香の冗談は心臓に悪いから困る。本人からすれば同性に対する気安さからなのだろうけれど、中身が男の僕からすれば十分動揺させられるのだ。

 それにしたって、デートって……。

 

「僕達は女同士だろうに」

 

 きっとそういうのを気にしているのは僕の方だけで、春香にそんなつもりは微塵も無いのはわかっている。

 千早である自分と春香である彼女が親友としていられるのは女同士だからだ。もし僕が男だったら今の関係は成り立っていなかった。そもそも出会ってすらいなかった。

 だから今の関係に不満はない。

 それでも──。

 

 

 

 

 自分が千早()であることを疎ましく思うのは我儘なのだろうか。




久しぶりの投稿です。
あれから一年以上空いての投稿とあって緊張とともにこのあとがきを書いています。
前話までの千早が見せた葛藤や見せ場は今回の話(アニメ2話時点)で描くことは正直難しい。
さらに序盤は導入部とあって盛り上がり要素はありません。
その状態で投稿して、果たして読者の方に楽しんでいただけるのか。
クオリティ不足という不安により長らく分割投稿に踏み切れておりませんでした。
今回評価の上下を無視して投稿に踏み切ったのは今も続きを待っていて下さる読者の方々の声でした。
良い物を投稿するというのは確かに大事ですが、そのせいで投稿間隔が空き、長い間何も成果を生まず、そのままエタってしまってはこれまでの千早の物語とそれを楽しんで下さった方々に申し訳ない。
そんな思いからの更新に踏み切りました。

時間をかけても良い物を、という意見は確かにあるとは思います。
しかし、作者は時間をかけても今書いた分のクオリティを上げられる程の腕は無く、ただただ量を書くだけが能の物書きが趣味なだけの人間です。
このお話を「この世界の千早がどんな奴なのか」を読者に紹介する物語だと思って読んでいただけると助かります。
もちろんクオリティの維持・向上は命題として毎話心掛けております。
それ以上に埋もれない忘れられないように続けていくことを心がけようと思います。

本当のあとがきは今回の話。もう本章と言った方がよいでしょうか…数話にわたって送る千早の初お仕事後に語ろうと思います。

ではまた次回。


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アルティメットなアイドルの卵その2

今回出て来る新キャラ二人の絡みがアルティメットなアイドルの卵編で一番悩みました。
正直なくてもいいシーンなので飛ばしてしまっても問題ありません。


 翌日の土曜日。

 僕は春香との待ち合わせ場所へと向かっていた。

 予報では一日中晴れとのことで天気は気にしなくて良さそうだ。気温も四月にしては暖かいとのこと。

 天気予報を信じた僕はいつもより薄着で家から出てきていた。チートの副作用で寒さに鈍感になっているとはいえ、あまり季節感に合わない服装をするのは周りから奇異な目を向けられることになるからね。今日が暖かいと言うならば薄着をする程度の常識はある。

 それに今日見て回る場所は流行の最先端と言えるお洒落な街ということもあってその辺りはいつもより気を遣ってしまう。道行く人々も地元と違いがっつりと着飾っているように見えるのは決して僕の思い違いではない。

 道行く人々が、買い物をする客が、カフェで語らうカップルが、皆お洒落に見えてしまう。流行に疎い僕でも彼ら彼女らが着る服がお洒落だというのはわかった。

 対して僕の恰好と言えば、いつも通りの地味なファッションだ。いや、これをファッションと呼んでいいのかと疑問を抱くレベルのアレさである。つまるところダサい。

 寒色系のパンツに七分丈のワイシャツ。そこに枯色のベストを着ている。原作でも千早が着ていたようなやつだ。

 今更千早を意識しているつもりはない。この服装を選んだのもスカート類やふりふりの服を避け続けた結果行き着いただけだから。元男としてはやはり女の子っぽい服を着ることに抵抗があるんだよね。むしろ最初から女であった原作の千早がこの服装をしていたということこそおかしいと思うわけで。

 つまるところ僕は悪くない。……なんて、どこぞの最弱少年めいたことを言ってみるけれど、他人どころか自分自身すら説得できる気がしなかった。そもそも言い訳できる程のファッションセンスも無い。

 だが、そうやって心の中で一人言い訳をしたのにも理由がある。

 それは周りからの視線だ。

 さっきから周りの人間の視線が気になって仕方がない。

 道行く人々が、買い物をする客が、カフェで語らうカップルが僕を見ている気がするのだ。

 今もすれ違ったサラリーマン風の男性がすれ違いざまにこちらを見て来た。

 これは僕が自意識過剰というわけではないはずだ。真正面から見返したわけではないけれど、横目で見ただけでも何人もの人間が僕へと目を向けているのがわかる。他人の視線に特に敏感な僕にとって隠す気もない視線は声を掛けられるよりも敏感に察知できる。

 やはりお洒落な街に僕みたいなダサい服装の女が居たら目立つよね?

 僕もね、自分のダサさは自覚してるんだよ。でも前世ですらお洒落に気を使うことなんてなかった僕が千早に似合う服装なんて分かりようがないじゃないか。ちなみに唯一のお洒落着の服はとある事情により今日着て来るわけにはいかなかった。

 それにしても僕がただ道を歩いているだけで、ここまで注目を集めるだなんて……。

 オシャレ街って僕みたいなダサい奴にはこんなにも居心地が悪い所だんだね。前世では特に用事がなければ来ない系統の街だから知らなかったよけれど、その場合もこんな風に居心地悪くなったのかな。

 こんなお洒落な奴らがいる場所に居られるか。僕は家に帰らせてもらう。そうやって回れ右して家に帰りたかった。春香が待っているからしないけどね。

 仕方なく周りの目から逃れるように早足で歩く。それしか今の僕にはできないから。

 少しでも早くこの場から去りたかった。

 

 

 

 待ち合わせ場所まで着くと春香の姿が見えた。

 早く来たつもりが待たせてしまったらしい。ここまで早足で来たのだけど、それでも春香より前に着くことはできなかった。

 貴重なオフの日に付き合ってくれた相手を待たせてしまったという罪悪感から足早に春香へと近づく。

 人混みで微妙に身体が隠れていて見えなかった春香の姿が近付くにつれて明らかになる。周りには春香同様に人待ちをしている人が結構な数が居た。その誰もがスマホの画面を覗き込んでいる中、春香は何も持たずにただそこに立っているだけだった。

 だからそれなりに遠くにいた僕にすぐに気付けたのだろう。

 

「あ、千早ちゃん!」

 

 春香が僕に気付き、名前を呼び手を振ってくれた。

 スマホ片手に待つことを特に悪い事だとは思わない。待つ間の時間潰しや、この後の話題作りのためにニュースを見ている人だっている。だから、それが悪い事だなんて思わないし、これからも思わないだろう。

 でも、逆にスマホを持たずに待っていてくれたらどうだろうか。

 持つことは悪いことではない。

 ならば持たないことは悪いことかと言われたらそんなことは絶対にない。

 そもそも善悪の区別をつける類の話ですらない。ただ持っているかいないかの違いだ。

 それだけだ。

 それだけのことで……。

 それだけのことが、とても嬉しかった。

 まるで僕を待つことは暇ではないのだと言われている気がしてしまう。もちろん春香にそんな意図なんて無いのだとしても、遠くから僕に気付き、満面の笑みで迎えてくれることを喜ぶのは間違っていないはずだ。

 自分の中で一つの価値観に結論付けると、弾む心を表すように春香へと小走りで駆け寄った。

 まずは遅れたことを謝らないと。

 

「遅れてごめんなさい!」

「ううん! 私も今来たところだから。それにまだ待ち合わせ時間前だよ」

 

 時間を確認するまでもなく、春香の言う通りまだ待ち合わせの時間にはなっていない。しかしこういうのは後に来た時点で申し訳ない気持ちになってしまう。

 

「くふふ」

「何かおかしかった?」

「ううん。ただ、今のやり取りって何だか恋人同士みたいだなって」

 

 あー、確かに台詞だけ抜き取ると待ち合わせ時の定番みたいに聞こえなくもないね。実際は女同士の会話なので色気もあったものじゃないけど。

 

「何でこういう時の台詞って決まっているのかしら。オリジナリティを求めているわけではないけれど、誰もかれもが同じやり取りっていうのも変よね」

「そこは、ほら、これを言っている自分達はデートをしていると思い込むためなんじゃないかな」

「なるほど。確かにそう言われるとデートしていると思えてくるわね」

 

 春香の言ったのは面白い見解だ。シチュエーションと台詞を使ってデートを疑似体験するなんて。つまりその気がない相手でもこのやり取りをさせることでデートだと思わせられるってことだよね。

 統計でもとってデータとして纏めればちょっとした論文になるんじゃないかな。

 本気でどうでも良かった。

 

「晴れてよかったねー」

「そうね、せっかくのお出かけだもの。雨だったら困るわ」

「違うよ千早ちゃん」

「ん? 何が違うのかしら」

「お出掛けじゃないよ、デートだよデート!」

 

 ぶっちゃけお出掛けもデートも同性なら同じな気がするんだけれど、春香にとってはその辺りの機微は重要な物であるらしく訂正が入ってしまった。

 僕の方は別にデートでもお出掛けでもどちらでもいい。だが、どちらでもいいということは、デートでもいいということだ。ここは春香に合わせてデートでも良いだろう。

 実際春香みたいな可愛い子とデートできるというのは中身が男の僕にとっては嬉しいことなのだから、わざわざ否定する理由はない。

 

「確かに……デートね」

「えへへー、だよね!?」

 

 二人して笑い合う。実際僕は笑えていないのだけど、心の中では笑えていた。

 

「まだ予定まで時間があるから、どこか見て回ろっか!」

「そうね、そうしましょうか」

 

 スイーツフェスタは予約制の上に時間指定まで必要な店だった。春香が予約したのは十二時からなので今はまだ一時間以上時間に余裕があった。

 実は今日出かけるにあたって、スイーツフェスタに行く以外何をするかはノープランだったりする。これは春香の希望だった。何でも、僕とウィンドウショッピングがしたかったのだとか。街をぶらぶらと目的もなく二人して歩き回る。なかなかにオツな時間の使い方に僕も乗っかった。

 普段買う物がある時は確実に売っている場所を決め打ちして、目的の物を買ったらすぐ帰るという”男の買い物”に慣れている僕には少しハードルが高い。

 でも、それ以上に春香と過ごす時間が持てると思えばどうってことはなかった。

 

「まずはどこから見て回る?」

 

 二人並んで歩き始めたところで、春香が要望を訊いて来た。目的は無いとは言っても、完全にノープランで歩き回るというわけにもいかないから何かしら指針があった方が良い。

 

「うーん、そうねぇ……」

 

 特に見て回りたい場所というのは無かった。あくまで僕の目的はこの場に辿り着くことだったのだから、現在進行形で叶っている今、別に目的と呼べる物はなかった。

 

「何か買いたいものとかあるかな?」

 

 何となく春香から気を遣われている気がする。

 ただ歩き回るだけの予定のはずが僕の買いたい物の話になってしまっていた。

 優先されるべきはチケットを用意して今日誘ってくれた春香の方なのに。

 でもここで僕が春香を優先させれば彼女は断る。それはこの短くない付き合いの中で知っていた。それは原作知識以上に信頼できる。

 この場合、僕がとるべき選択は自分の目的を早急に済ませて後の時間を春香に付き合うことだ。

 

「実はひとつだけ……」

「何かな? 売り切れちゃう物なら先に見に行く?」

「いいえ、売り切れることはないと思うわ。ジャージだもの」

「ジャージ? あ、もしかしてレッスンとかで着るトレーニングウェアかな?」

 

 えっ、ジャージとトレーニングウェアって違うの?

 春香の言い方からしてどうやらそれら二つは違う物のようだ。

 ジーパンとジーンズくらいの違いかと思ってたのに。確かプロデューサーさんからはトレーニング用の服を持ってくるように言われていたから、この場合はトレーニングウェアの方が正しいのかな?

 

「ジャージとトレーニングウェアって違う物なの?」

「え? えっと、ジャージって、ジャージ生地のことなんだよ。だから普通ジャージって言うとジャージ生地のトレーニングウェアってことになるのかな」

 

 なるほど、ジャージって生地の名前だったのか。と言うことは、トレーニングウェアではあるんだよね。だったらジャージでいいか。

 

「ジャージを買うわ」

 

 スポーツ用品店とかで売ってるやつでいいかな。

 

「ちょ、ちょ、ちょっと待って」

 

 予め予習しておいたこの辺りのお店情報を頭に思い描きながら歩きだしたすと慌てた様子の春香あら待ったが掛けられた。

 何だろう。

 いつもは僕のやることに対して謎の全肯定を見せる春香であったが、今回に限って言えば見過ごせないという顔で引き留めて来ていた。

 しかし、その顔は僕に対して不満があるという感じではない。どちらかと言うと「大丈夫?」とこちらを心配しているような表情だ。

 

「いやいや、千早ちゃん。そこはトレーニングウェアを買う流れじゃないのかな?」

「だからジャージを買うのよ」

「あれ、私今違いを説明したよね?」

「ええ、とても分かりやすかったわ。ジャージはジャージ生地のトレーニングウェアなのよね?」

「そうだよ」

「ならジャージを買うわ」

「なんでー!?」

 

 僕の見解に再び春香から待ったが掛かった。

 春香の様子からして、僕が間違った解釈をしているのは分かる。

 

「ごめんなさい、春香が何に慌てているのかわからないわ」

 

 ここは素直に理由を訊ねてみることにした。聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥って言うし。まあ、訊いたことで何年もネタにしていじって来る輩もいるので一概には言えないが。その点春香はそういう意地悪はしないタイプなので安心して訊けた。春香ならば馬鹿にせずに答えを教えてくれるに違いない。

 結果から言えば、僕の予想は半分正解し、半分間違っていた。

 

「千早ちゃんって……」

 

 言いかけた途中で言葉を区切った春香の顔を例えるならば、残念な子を見る時のそれだろうか。

 口を押さえ、言葉を最後まで続けなかったのは彼女なりの優しさと思っておく。だが続きは言わなくても理解できた。結構前からそうなんじゃないかなって思ってたんだよね。今の春香の顔と雰囲気から察した。

 何のことかと言うと、僕の服のセンスがダサいということだ。

 自分でも自覚はあったけど、こうして他者から改めて言われると結構ショックだったりする。

 原作の千早も芋い恰好が多かったと記憶している。それと比肩するレベルで今の僕もダサかった。

 今生では小学校まで母親が用意してくれていた服を着ていた。当然スカートである。中学に進んでからは優に選んで貰っていた。その頃からズボンを愛用するようになり、スカートを履くのは制服の時だけになった。

 それはアイドルになった今でも変わらず、外出の際はズボン姿が基本になっている。

 アイドルを目指すならばお洒落にも気を遣うべきだとは思う。でもセンスが無いので諦めている。早々に自分の分を理解したせいで女の子らしい服装という物が今でもよくわかっていない。

 外に出る様になって、周りの視線から何となく察していたのだけれど、今こうして春香から指摘されたため確信に変わった。

 僕はダサい!

 

「あっ……ご、ごめん、千早ちゃん!」

 

 はっとした顔をした春香が謝って来た。僕は特に気にしていないのだけれど、何故か言った春香の方が落ち込んでしまっている。

 直接言われたわけではなくても、春香からダサいと思われたのは結構ダメージがでかい。センスあると思われるなんてこれっぽっちも思ってないけれど、せめて一緒に歩いて恥ずかしくない程度にはお洒落というものを勉強しておくべきか。

 

「いえ、謝る必要はないわ。むしろ言ってくれて助かったくらい」

 

 実際僕がダサいのは言い訳の仕様もないほどに事実なのだから、春香が気にする必要はない。むしろ、こうして指摘してくれたことで自覚できたので感謝したいくらいだ。

 

「……この際、一度確認しておくけど、千早ちゃんは自分が、その……ってことは何となくわかってはいるんだよね?」

 

 ダサいってことは自覚している。と言うかさっきので自覚した。今までは心のどこかで「いや、でも、千早なら割とアリなのでは」なんて無謀な幻想を抱いていたのだけど、春香にダサいと指摘されたことで、その幻想はブチ殺された。

 あと気を遣ってくれるのは嬉しいけれど、わざわざ伏せて言わなくてもいいよ。逆に辛くなるから。

 

「何となくそうじゃないかって自覚はあったのだけれど、こうして誰かから指摘されることが無かったから。今こうして春香から指摘されてようやく自覚が持てたわ」

「そうなんだ……ちょっと意外かな。弟君がその辺言ってくれそうなイメージがあったから」

「優はそういうことは言わないわ。言って欲しいと思うのだけれど、言い辛いのかも」

「確かに、実の姉に言うのは勇気が必要かもしれないね。特に弟君の場合はもっと言い難いと思うし」

「今の私ならともかく、昔の私だったら優にそんなこと言われたら大変なことになっていたわ」

 

 仮に優からお姉ちゃんってダサいよねとか言われたらショックで首が取れる自信がある。

 

「でもね、やっぱり誰かが言わないといけなかったと思うよ? 今更言われても千早ちゃんは困っちゃうかもだけど、そういうのをきちんと自覚して、相応に振舞っていれば困ることもなかったと思うし」

 

 そうだったのか!

 ダサいことで損……たとえば、スカウトの目に留まる機会を逸したりとかしていたということか。

 うわ、それは確かに損したと言って良いかもしれない。

 どうしても千早はお洒落は二の次で歌が一番というイメージがあったため、お洒落をしていればもっと早くアイドルになれていたという春香の言葉は衝撃だった。

 もう少し僕が服装を気にしていればもう少し早くアイドルになれていたかもしれないわけだ。

 いや、もしかしたらあの時765プロにだって……。

 

「千早ちゃん?」

 

 春香のこちらを気遣う声を聞き、考えそうになったもしもを無理やり掻き消した。

 今更それに思い至ったからと言ってどうしろと言うのだろう。

 765プロが僕を選ばなかったのはお洒落がどうという話では無いのだ。

 きっと。

 そう思わねばやっていられない。

 

「……私の無自覚がこんな枷になっていたなんて」

「千早ちゃんが悪いわけじゃないよ。むしろ、私がもっと早く教えられていたら……ごめんなさい」

「そんな、謝らないで。春香は今こうして言ってくれたじゃない。誰も言わなかったことを言ってくれた。そのおかげで私は周りからどう見られているのか自覚できたんだもの。感謝こそすれ、春香が謝る必要なんてどこにもないわ」

 

 今まで両親や優を含め、誰からも指摘されなかった僕がダサいという事実を春香は言ってくれた。僕が怒ったりする可能性すらあったというのに、それでも僕のためを思って指摘してくれた春香の優しさと思い遣りに感動していた。

 春香にここまで言わせてしまったのならば、ここはジャージ改めトレーニングウェアはダサくない物を買わなければ。

 

「あの、春香……実はお願いがあって」

「うん! 任せて! 千早ちゃんに似合う物を選んであげるから!」

 

 打てば響くとは正にこのことだろう。

 僕が春香にトレーニングウェアを見繕ってくれるようお願いしようとしたら、全てを語る前に春香は内容を察して引き受けてくれた。

 これが親友力というやつなのか!

 

「じゃあ、さっそくお店に行こうか。実はお勧めの場所が近くにあるんだよ!」

「そうなの? それじゃ、そこに行ってみようかしら。案内をお願いしてもいいかしら?」

「もちろん、きっと千早ちゃんも気に入ると思うよ。付いて来て!」

 

 そう言って歩き出す春香。その淀みない無い歩みはこの辺りを熟知した者の足取りであった。

 さすが春香だ、頼りになるね。

 春香には悪いが、ここは下手に僕の意見を出さずに任せておくのが正解かもしれない。きっと僕に似合うトレーニングウェアを選んでくれるはずだ。

 本当、頼りになる親友である。

 

 

 

 そう思っていた時期が僕にもありました。

 

「これなんかどうかな? 千早ちゃんに似合うと思うんだけど」

「……」

「あ、それよりもこっちと合わせた方が良いかな?」

「……」

「今度はこっちも着てみて!」

「……」

 

 次々と手渡される服を僕は黙って受け取る。

 今の僕は全自動服受け取りマシーンだ。春香が渡してくる服を受け取るだけの機械。それが僕だ。

 おかしい、僕はトレーニングウェアを春香に見繕って貰うつもりだったのに、連れてこられたのは僕が普段絶対に入らないようなお洒落な服ばかりの洋服店だった。

 それでも最初はこういうところでトレーニングウェアも買えるのかと思っていたのだけれど、店の中にそれらしき服は見られなかった。

 店を間違えていると指摘しようとした僕だったが、春香は僕の言葉を聞かずに何やら服を物色し始めたので口を噤んだ。何か春香の方で気になる服があったのかもしれないと思ったからだ。だったら邪魔しては悪いと何も言わずに待っていると、春香は何着かの服を掴み試着室へと向かった。

 僕の手を引きながら。

 試着室に着くと春香から服を手渡され、これに着替えるように言われた。その時になって初めてこれが僕のために選んだ服だと気付いた。てっきり荷物持ち役かと思っていたので驚いてしまい、背中を押す春香にろくな抵抗もできずに試着室の中へと入ってしまった。

「着替えたら声掛けてね」と言うとカーテンを閉めた春香に何か言うべきなのだが、勢いに乗せられたとはいえここまで来てしまった手前、今更断れる気がしない。

 まあ、一着くらい良いかなと諦めた僕は渡された服に着替えるために服を脱いだ。

 渡された服は白を基調としたレースブラウスと水色のスカートだった。

 これを着る、だと……?

 露出過多と言うほど布面積が少ないわけではないけれど、普段着ている服に比べたら十分派手なデザインだ。今からこれを着るのかと思うと苦い顔にならざるを得ない。

 でも春香が選んだ服なのだから着ないわけにもいかない。

 親友からの期待と自分の中の羞恥を天秤に掛け、親友をとった僕は覚悟を決めお洒落着に袖を通すのだった。

 

 

 

 

 着替え終えるとすぐにカーテンを開いた。こういうのは溜めるよりも一気にやり終える方が傷は浅い。

 春香は試着室の前で出待ちをしていた。

 

「ど、どうかしら……」

 

 キラキラとした瞳でこちらを凝視する春香に感想を訊いてみる。自分では微妙な気がした。露出以上にこんな派手な服は僕に似合わない気がしたからだ。選んでくれた春香には苦笑いされそうだ。

 しかし、僕の自己評価の低さに反して春香の反応は劇的だった。

 

「可愛い!」

 

 店内に響く春香の声に何事かと店員と客の視線がこちらへと集まる。

 オシャレ街のメインストリートに面したお店とあって客の数は多い。そんな所で大声を出して注目を集めた春香が慌てて周囲の人に謝っているのを僕は現実味が無く見ていた。

 可愛いって言われた……。

 これまで容姿を褒められたことが無い僕には春香の言葉は衝撃的だった。

 可愛いだって?

 それは服のデザインがってことだろうか。

 確かに服は可愛い系のデザインと言えるけれど。

 

「こういう服って着たことが無いのだけれど……確かにとても可愛いデザインだわ」

 

 服の裾を軽く摘んで見せる。

 可愛いという表現から離れた容姿をしている僕が着ても可愛らしさを失わないデザインを褒めた。

 僕だったらこんな服を選んだりしない。下手すると男物を手に取ることさえある。

 

「服もって言うか……」

 

 春香の方は何か言いたげに身体を揺らしている。彼女にしては珍しく煮え切らない態度で言葉を途切れさせていた。

 しかし何かを決意したのか一度頷くとおもむろに僕へと近づいて来た。

 何事かと身構えるようなことはしない。

 彼女が僕に何かするわけがないと知っているため自然体で立ち続けた。

 僕の目の前まてやって来た春香は手を挙げると、少し躊躇うように空中で手を彷徨わせた後にそのまま僕の両肩へと手を置いた。

 

「千早ちゃんが可愛い」

 

 未だ嘗て、これ程までに真剣な顔の春香を見たことがあるだろうか。

 たぶん無い。

 アニメで引きこもった千早に放って置かないと啖呵切った時に勝るとも劣らない圧を今の春香からは感じる。

 そんな名シーンの再現をこんな場所でやる意義とは……!

 

「そ、そう、なの……?」

「そうだよ!」

 

 僕を可愛いと言う春香の言葉を否定しようにも、あまりにもガチな顔に春香の本気度が伝わって来るため否定の言葉が出せない。

 目は口ほどに物を言うとは言うものの、こんな自己主張の激しい目ってある?

 若干引いた僕だが、春香の押しは止まることはなかった。

 

「千早ちゃんは元が良いから何を着ても似合うんだけどそれでもやっぱり可愛い服を着ればそれだけもっと可愛くなるんだからもっと可愛い服を着て私に見せればいいんだよ」

 

 ごめん早口過ぎて何言ってるかわからない。巻き戻し再生してもいいけど、たぶん聞き直しても中身無さそうだから止めよう。

 

「とにかく、千早ちゃんはもっと可愛い服を着るべきなんだよ?」

「はい」

 

 結局纏めるとダサさを改善するにはとにかく色々と着てみてセンスを養うしかないってことらしい。

 本当にそんな話だっただろうか?

 まあ、春香の言うことだから間違いはないのだろう。少なくともダサい僕が下手に改善策を考えたとしても上手く行くはずもない。だったら春香に全幅の信頼を寄せて頼む方が良いはずだ。

 

「そうね、春香の言う通り色々と着てみてセンスを養うのが良さそう。これからもお願いできるかしら?」

「もちろん! 千早ちゃんのために色々選ぶね!」

 

 そう言って自信満々に笑う春香に頼もしさを感じる。

 しかし今後春香とでかける際はこうして服を見てもらえるとしても頼りっきりは良くない。自分でも勉強しなくては。

 これまでは一般人という言い訳をして目を背けてきたオシャレの世界に自ら飛び込む。その重圧に今から心が折れそうだ。でも僕はアイドルなのだから、嫌なことから逃げ続けるわけにはいかないんだ。

 そうやって自分を奮い立たせた僕であったが、目の前から春香が消えていることに気付く。

 

「あれ、春香? どこに……」

 

 視線を巡らせ春香を探すと、彼女は先程とは別の服のコーナーに居た。

 いつの間に移動したんだと自分の知覚能力を超えた隠密行動をした親友に心の中で冷や汗をかく。

 僕の目には春香が新しく服を選んでいるように見えた。

 

「……春香も何か試着するの? ここ使う?」

 

 もしかしたら春香も試着がしたかったのではという希望は無言で服をこちらへと差し出して来る春香によって断たれた。

 

「あの、春香……私」

「きっと似合うよ!」

「はい」

 

 その後は冒頭の通り春香から服を受け取っては試着するのを繰り返すことを強いられた。

 途中から自分が何を着せられているのか把握できていない。ただ渡された服を着て、それを春香に見せる。褒められる。それの繰り返し。

 やがて僕はそれだけに特化したナニカになった。

 

 

 そんな感じに春香の着せ替え人形と化していた僕の耳に、初めて春香以外の意味のある言葉が入って来た。

 

「お姉ちゃん、早く早くー!」

「もう、そんなに焦らなくても服は逃げないって」

 

 声の方に顔を向けると、中学生くらいの女の子が高校生の姉らしき女の子の手を引きながら店に入って来るのが見えた。

 どちらも派手な髪色をしており、妹の方は金色で姉の方はピンク色をしていた。二人とも最近の女子中高生って感じで垢抜けていて何だかキャピキャピ(死語)している。

 僕もあんな風にすればダサいと言われずに済むのかな?

 自分の青い髪を一束摘み、毛先を軽くいじりながら現実逃避気味に考える。

 

「どうかしたの?」

 

 あれからさらに何着か見繕ったのか、両手に服を抱え込んだ春香がやって来た。まさか、それ全部僕に着せるつもりじゃないよね?

 ファッションショーじゃないんだから試着するにしても二桁超えたら駄目なんじゃないかな。あと明らかにフリフリでシャラシャラな服も混ざっているように見えるのだけど。さすがにそこまで可愛い服は着られないかな。

 別に今更女の子の服に抵抗を覚えるほど前世の性別に拘りを持っているわけじゃない。でもフリフリはなぁ……今の僕としても着たくはない種類の服なんだよね。いや、だって、似合わないじゃない?

 菊池真ほどではないにしても、放送事故ってレベルじゃない何かになるだろこれ。

 

「ええと、新しく入って来た子達がお洒落だなーと思って見ていただけよ」

 

 何とか話題を逸らすためにもちょっと目の前の姉妹には話のネタになって貰おう。見ず知らずの他人を話題に挙げるのはあまり気が進まないのだけど、背に腹は代えられない。このままでは春香の謎のプッシュにより僕は延々と着せ替え人形にさせられてしまう。それは阻止したかった。

 ごめんね、名前も知らない君達。僕のためにちょっとの間だけネタなってくれ。少しだけでも春香の注意を引いてくれるだけでいい。その間に僕は撤退の道筋を考える。

 

「あれって……城ヶ崎美嘉ちゃんじゃないかな?」

 

 と思ったら予想以上に春香の食いつきが良いぞ。どうやら知っている相手のようだ。

 どちらが城ヶ崎美嘉かはわからないけど、春香の知り合いなら年齢が同じくくらいの姉の方かな?

 

「知り合い?」

「ううん。前に雑誌のモデルで現場が一緒になったことがあるだけだよ。話す機会も無かったし。……ちなみに、城ヶ崎さんは元はファッション雑誌のモデルだったんだけど、今はアイドルをやってるの」

「……知らなかったわ」

 

 ファッション雑誌なんて普段読まないから城ヶ崎なんて僕は知らない。でも春香の反応からしてそこそこ有名人のようだ。

 知らないのは拙いレベルで有名だったらどうしよう。

 今後は有名人の情報も少しずつ覚えていった方がいいのかな……。

 

「千早ちゃんはファッション雑誌とかは……」

「読まないわね」

「だよねー……」

 

 わかっていたけどね、という顔で項垂れる春香に少しだけ罪悪感を覚える。

 雑誌なんて、ゲーム情報誌しか買ったことがないよ。

 二年前に引き籠り始めてからゲームの情報が載っている雑誌を買うようになったのだけど、あの胡散臭い新作ゲームの点数とか毎度わくわくするよね。

 あと特典コードが付いてるのもグッド。最近ご無沙汰なFAQ2内で使用できるアイテムコード目的で雑誌を買うこともあった。対してファッション雑誌とか何が付いてるよ。鞄とか要らないからね。

 僕はこれまでファッション雑誌を買ったことがない。アイドルを目指しておきながら、ファッションをおざなりにしていたことに、今でこそ違和感を覚えるものの、昔の僕はそれをおかしなことだと思ってはいなかった。

 それは千早はお洒落に疎いという固定観念があったからだ。

 歌だけあればいいと千早が思っている。そう僕が思い込んでいたために、そういった雑誌を手に取ることすらしなかったのだ。あと未来のアイドル活動を妄想したり、その日優と何して遊ぶかを考えるので忙しかった。

 おかげで学校で女子生徒がするお洒落話にまったく付いて行けず、中学時代にクラスで孤立した過去がある。

 僕自身はお洒落に関心が無く、またクラスメイトにも毛程の興味も無かったので気にしていなかったのだが、僕の地味さと冷めた態度が生意気に映ったのか一部の女子から目を付けられることになった。

 そのグループはクラスでも流行に敏感な女子が集まった一団で、所謂クラスの中心グループと呼ばれる存在だった。

 当時の僕は髪は伸ばしっぱなしで目が隠れており、中学生がする程度の化粧っ気もなく、制服も規定通りに着ている様な地味な少女だった。

 そんな地味でクラスから孤立していた僕はその子達にとって恰好のいじり相手だったのだろう。何かあれば地味だ根暗だと揶揄され、クラスメイトからは笑われていた。

 今思えばいじめに発展してもおかしくない環境だった。興味が無かった僕が徹底的に無視していたのと、そのグループだけが盛り上がっていたため深刻な事態までは行かなかったのは不幸中の幸いだった。

 そんないじられ生活も、ある日を境にぴたりと収まった。受験を控えていたから彼女達も暇ではなくなったのだろう。

 僕も765プロのオーディションのために準備を始めていたので丁度良かった。

「前髪くらい切りなよ」と優に言われたので、どうせならと必死で頼み込んだ末に優に切って貰ったのは良い思い出だ。髪で隠れていた視界が晴れて見えた仕切りの無い世界はとても明るく見えたものだ。

 この明るい世界が僕の未来を暗示していると思い、晴れ晴れとした気分になったのを今でも覚えている。

 まあ、その後オーディションに落ちて見事に引き籠ったわけだが……。

 今でも化粧はしていないものの、髪の方は優に切って貰っているので前髪目隠しは卒業している。

 まあ、今でもファッション雑誌を買うくらいなゲーム雑誌買うと思うので、人間そうそう変わらないということだろう。

 

「じゃあ当然城ヶ崎さんのことは……」

「まったく知らないわね」

 

 当然僕は城ヶ崎なんて人間を知らない。

 ここ数年アイドルの情報を意識的にシャットアウトして来たためか、最近デビューしたアイドルを僕はよく知らない。

 たぶん僕の知ってるアイドルって日高愛が最新情報のまま止まってる気がする。

 そういうこともあり、春香には正直に知らないことを伝えたのだが……。

 

「あのね、千早ちゃん……城ヶ崎さんって346プロ所属だったはずだよ」

「え!?」

 

 衝撃の事実が返って来た。

 346プロ所属のアイドルとか、僕の先輩じゃないか。ファッション雑誌がどうとか以前に同じプロダクションの先輩を知らないのは拙いわ。と言うか何で僕知らないんだよ。あ、興味無かったからか。

 危ない危ない。失礼なことを言う前に城ヶ崎が有名だと知れて良かった。有益な情報をくれた春香には感謝だ。

 

「良い情報を聞けたわ。ありがとう、春香。そんな相手を知らないなんて大っぴらに言えないわね。危うく無知を晒すところだったわ」

「ち、千早ちゃん……」

「何かしら?」

 

 様子のおかしい春香に気付く。何かしまったって顔になっている。

 いや、まさか?

 嫌な予感を確かめるために春香の視線の先を追う。

 

「むー……」

 

 そこには先程の金髪の少女――城ヶ崎妹が頬を膨らませながらこちらを睨んでいる姿があった。

 どうやら今の会話を聞かれていたらしい。

 城ヶ崎がどの程度有名なのかはともかく、アイドルの姉なんて妹にとっては自慢のタネだろうし、その姉を知らないと堂々と言った僕は敵に見えても仕方ないね。

 ただし、睨んでいる顔が可愛いので威圧感はまったくと言っていい程無かった。

 と言うか本気で可愛いぞこの子。猫っていうか、子ライオンというか、小動物っぽい可愛さがある。精一杯の不機嫌顔を作っているつもりなのか、ふくらました頬を指で突きたくなる。

 金髪ツインテールとか、僕のツボを押さえた姿を晒すなんて僕をどうするつもりなのかと問い詰めたい。

 

「こーら、莉嘉! そんな顔しないの。相手の子が困ってるでしょ」

 

 慌てた様子の城ヶ崎がやって来て妹を嗜めている。

 金髪の方は莉嘉というらしい。やはりピンク髪の方が美嘉で合っていたか。

 城ヶ崎美嘉も妹に劣らず……ぶっちゃけ勝っているくらい今時の女子高生らしいオシャレな格好をしていた。

 髪の色はピンク色で奇抜な印象を受ける。しかし、それもまたオシャレに見え決して下品な感じがしない。上手くコーディネートに組み込んでいた。

 お洒落であっても派手派手しいという印象は受けず、どことなく上品さが細やかな所から受け取れるコーデ。これは何と言えばいいのか……そう、カリスマ性があった。

 僕なんて地味な上に男物ばかり着て、さらに髪が青色だぞ。戦隊物で言えば終盤くらいに死にそうな色だぞ。

 お弁当で例えると城ヶ崎姉はカラフルな色使いで男心と食欲を刺激するオシャレ弁当。対して僕は煮物とかでくすんだ色をした地味弁当だ。仮に頑張ってお洒落っても何故かキャラ弁になるタイプのお弁当だ。

 そう言えば中学時代に男子が僕のことを煮物女と呼んできたことがある。当時は意味がわからなかった上に男との接触を避けていたので無視したが、彼が言いたかったのはこういうことだったのか。

 てっきり校外学習や体育祭のお弁当が煮物ばかりだったからそう言ったのかと思っていた。

 まあ、中学の行事でお弁当なんて食べたことがないのであり得ないんだけどね。

 基本的に校外学習関連は欠席したし、体育祭のお昼の時間は校内を適当にぶらついて時間を潰すのが恒例だったし。

 ああ、一度でいいから優が作ってくれたお弁当食べたかったな……。

 

  「だって! あの人、お姉ちゃんのこと知らないって言うんだもん!」

 

 僕が過去へと意識を向けている間に姉妹の言い合いが始まっていた。

 突然知らない相手に絡み始めた妹を窘める城ヶ崎姉に対して城ヶ崎妹はよほど僕にご立腹なのか、姉を知らないと言った僕を指差し窘めた姉に抗議していた。

 こらこら、人を指さしちゃいけないんだぞ。間違って相手の秘孔を突いてしまったらどうするんだ。昼間のオシャレ街で突然人が「ひでぶ」と破裂したら大惨事だぞ。人体には無害な爆砕点穴ならセーフ。

 それにお姉ちゃんの方は気にしていないみたいだし、あまり大事にしない方がいいんじゃないかな。加害者の僕が言うのもアレだけども。

 これってある意味「私のために争わないで」ってやつだよね。違うか。

 

「だからって睨まないの。アタシだって皆が皆、アタシを知っているなんて思ってないんだから」

 

 自分は有名人なのだから皆が知っていて当然と勘違いする人間はいる。

 特にこの世界ではアイドルに多いパターンだった。デビューもろくにしていない若手が「私アイドルだから」といって無駄な自意識過剰さを見せる。そして謎の変装で街に繰り出すという光景は珍しくない。

 前世よりアイドルが巨大なムーブメントを起こしているこの世界で、ただデビューしただけのアイドルがそこいらを歩いていたところで話題になることはない。春香レベルのトップアイドルなら変装無しで歩き回るなど自殺行為でしかないが。

 城ヶ崎姉の有名度合いを知らないので何とも言えない。でも自分で自分が超有名人と思い込んでるタイプの人間ではないことは今までの様子でわかった。

 

「髪青いし」

 

 それ本題から逸れてない?

 順々に僕を責める言葉が出て来るかと少し身構えていたのに、二つ目にして髪の色と来た。

 悪口のボキャブラリー少ない良い子なのかな?

 

「それは個性でしょ。アタシはピンクだよ」

 

 でも貴女、それ染めてるでしょ?

 僕のこれは地毛だよ。

 終ぞ教師には地毛であることを信じて貰えなかったのも今では良い思い出だ。

 

「服だってダサいし」

「それは……そうだけど」

 

 そこは同意しちゃうのか。回数だけなら妹の方が失礼なこと言ってることになるんだけど、一発の威力は姉の方が高かった。同年代からダサいと言われると辛いってよくわかる。

 あとダサいのは放っておいてくれませんかね?

 

「千早ちゃんはダサくてもいいんだよ?」

 

 春香が城ヶ崎姉妹の視界から隠れるようにして話しかけて来る。さすがに正体がバレるのは拙いと思ったらしく小声だった。春香の摩訶不思議変装術なら知り合いでも無ければ正体がバレるなんてないと思うのだけど、用心深いのは決して悪いことではないので何も言うつもりはなかった。

 ただ……ちょっと春香の顔が近い気がする。軽く耳に唇が触れている程度なので特に注意するほどでもない。

 あとダサいことは全肯定なんだね。

 

「いや、ダサいのが良くないからここに来たわけだけど……」

「そ、そのダサさが千早ちゃんの良さなんだから」

 

 何時の間にか持っていた服を戻して、フリーになっていた手を僕の両肩に置く春香。

 先程と同じシチュエーションなのに、春香の顔が若干キョドってるせいで説得力はなかった。

 

「それフォローになってないわ」

「私はそんな千早ちゃんも好きだもん!」

「フォロー?」

 

 さっきから春香に名前を連呼されててヤバイ。城ヶ崎姉に名前覚えられたらどうしようか。あ、顔を見られた時点で遅いか。

 

「ゴメンね? 妹が絡んだみたいで」

 

 僕が先輩との関係悪化に悩んでいると、いつのまにかこちらへとやって来た城ヶ崎姉が謝って来た。

 両手を合わせてかわいくお祈りポーズ(?)をした謝罪スタイルはあざとさ増し増しで今時の女子高生っぽい気がした。

 僕もこれをやれば女子高生っぽくなるのかな。「ごめーんね!」とあざとく謝る千早の姿を想像して、誰がこんなんで許すんだと妄想をかき消した。

 しかし、見た感じ妹の方はともかく、城ヶ崎姉の方は今の話をあまり気にしてないようだ。

 城ヶ崎姉の纏う空気に怒りの要素は感じない。そのことに少しだけ安心した。

 

「それじゃ、改めて。アタシ、城ヶ崎美嘉! ヨロシク!」

 

 しかも知らないと言った僕に笑顔で自己紹介までしてくれた。良い人かよ。

 仮にも有名人の自分を知らないと言う相手だぞ。さらに城ヶ崎姉からすれば僕は名も知らぬ一般人でしかない。そんな相手にこうして笑顔を向けられる城ヶ崎姉はアイドルの鑑だと思った。アイドルの先輩としてそういう所を見習って行きたい。

 

「如月千早です」

 

 あちらから名乗られたからにはこちらも名乗るほかはない。

 僕からすれば相手は事務所の先輩なのだから礼儀正しくするのは当然のことだ。

 後々僕が後輩だと知られるのは避けられない未来なわけだし、今更だけど評価を下げないように対応するしかない。

 見習いたいと思った直後にこの打算めいた考えが我ながら醜く感じる。

 

「その、先程は失礼なことを言って申し訳ありませんでした」

「え? ああ、いいよー別に。妹にも言ったけど、アタシだって全員が全員自分のことを知っていると思ってたわけじゃないしね」

「いえ、単純に私がそういう物に疎いだけで……一般的には城ヶ崎さん程の著名人は知っていて当然の方のはずです」

「著名人って言われるほど立派なものでもないけど」

「いえ、城ヶ崎さんは立派な方だと思います」

 

 自分でもこれは無いなと思った。

 現役アイドルに向ける評価ではない。もっと言い方というか、アイドルらしいフォローの仕方というものがあったはずだ。これではアイドルとしてまったく評価していないのに等しい。その証拠に言われた当人である城ヶ崎姉も若干引き気味に見える。

 でも城ヶ崎姉が立派だと思ったのは本当だった。

 僕が城ヶ崎姉の立場で仮に誰だお前と言われたら穏やかでいられる自信はない。ましてや相手を気遣うなんて絶対に無理だ。そこまで僕は心が広くない。

 

「あはは……あ、ありがとう? 立派なんて言われ慣れてないから……既視感スゴいかも」

 

 逆に城ヶ崎姉に気を遣わせてしまったことに内心落ち込んだ。こういう時表情に申し訳なさが出ればもう少し人間関係が上手くいくと思うのだけど、よほど僕に詳しい人にしかその変化に気付けない。僕の表情筋は日本人特有のなあなあとした対応を取りたがらないらしい。

 笑えないくせに申し訳なさそうにもできない。できるのは怒った表情のみ。ポンコツ過ぎて泣きそうになる。泣けないけど。

 

「重ね重ね申し訳ありません。ちょっと、私は言動がアレで……自分で言っても嘘臭いとは思いますが、悪気は無いんです。本当です」

 

 無駄とは思ってはいても、何とか誤解されないように必死で言い繕う。

 

「大丈夫、知ってるから」

 

 意外にも城ヶ崎姉は信じてくれた。

 苦笑、というよりは若干呆れ顔に近い表情を浮かべた城ヶ崎姉は、こちらへの理解を口にすると僕の肩を軽く叩いて来た。その手の感触からこちらへの害意は感じないので安心した。

 この滲み出るダメ人間臭が僕に悪意が無いことを証明してくれた感じか。僕のポンコツ臭もやればできるじゃないか。

 城ヶ崎姉の好感度がこれ以上下がることはないだろう。

 

「うー……」

 

 対して、彼女の後ろで先程から威嚇するのを止めてくれない妹の方の好感度は今も降下中のようだ。下手に姉が友好的に接したことで不満が消化不良を起こしているのかな。

 一度こうして拗れてしまったのだ、ちょっとやそっとでは解消できそうにない。

 同じアイドルの姉はともかく、妹とは直接関わる機会もないだろうし別にいいだろう。城ヶ崎姉の方だけ相手しておけばいいよね。妹は無視しちゃおう。

 僕個人としては、こんな感じに解り易い子は嫌いではないので嫌われてしまったのは残念だけどね。でも、今みたいに素直過ぎてすぐに噛み付いてくるのは勘弁願いたい。こういう子供子供した性格の子ってどう扱えばいいのかわからないから困る。

 優なんてずっと素直で優しい良い子だったから、なおさら城ヶ崎妹の様に喧々諤々した態度を見せる子供は苦手に感じる。本当優は天使だわ。

 

「なんか、本当にごめん。普段はこんなに絡む子じゃないんだけど、今日は虫の居所が悪いみたいで」

「いえ、気にしていませんから」

 

 先に失礼を働いたのは僕の方だと言うのに、こうして逆に気を遣ったくれた城ヶ崎姉の優しさが心に沁みる。

 むしろこっちが謝りたいくらいだ。でも「知らなくてごめんなさい」と謝るのも何か違うと思い具体的に何と謝ればいいかわからない。

 すでに謝罪をしているため、これ以上何か言うことで藪蛇になるのが怖かった。

 中学時代は僕が何か言うだけで教室の空気が絶対零度まで下がり、いつの間にか僕が悪者にされてハブにされるなんてざらにあったからね。こうして他人から気を遣われるというのはひどく新鮮だった。

 だが待って欲しい。

 ふと気付いたのだけれど、僕の失礼な態度をスルーしてくれたのは僕のことを一般人だと思ったからじゃないかと気付く。後で僕が後輩だと知ったら妹と同じく攻撃的になるんじゃないか……?

 同じプロダクションの先輩からの不評を買わずに済んで良かったと思いきや、実は何の解決もしていないと気付き血の気が引く。

 

「え、ちょっと顔色悪いけど大丈夫?」

 

 突然顔色が悪くかった僕を城ヶ崎姉が心配してくれる。

 その優しさすら後の反動に繋がるんじゃないかと思うと素直に喜べない。人から優しくされるのって難しいんだね。優の無償の優しさが恋しいよ。

 

「えっ? 千早ちゃん気分悪いの……?」

 

 背中に春香の心配そうな声を受けた僕はすぐにチートを発動させ顔色を元に戻した。

 春香に心配させてしまうのが嫌だったからだ。

 彼女は今日を楽しみにしてくれていた。それなのに僕が体調不良と知ったことで気落ちして欲しくない。

 

「ええっ?」

 

 城ヶ崎姉が驚きの声をあげる。

 彼女から見たら突然僕の顔が別人に変わった様に見えたことだろう。それはある意味正しい認識だった。

 文字通り別人なのだから。

 

「いいえ、体はいたって健康よ」

 

 証拠を見せるために春香へと振り返る。今の僕の顔は十時間睡眠をした後みたいに晴れやかに見えるはずだ。まるで生まれ変わったかのように体の不調は消し飛んでいる。

 誰がどう見ても今の僕は健康体だ。身体の中身は悲惨なことになっているが。

 

「本当? 無理しないでね? 気分が悪いなら今日の予定だってキャンセルでいいんだから」

 

 こちらを気遣ってくれる春香のためにも決してボロは出せないな。

 僕は今健康だ。そうやって自分を騙してでも春香に何でもないことを見せなければならない。

 こんな時自分の無表情さがありがたい。

 

「えっと、実はこの後私達は予定がありまして……」

 

 僕の豹変を見られてしまった今、いつまでも城ヶ崎達の相手をするのは避けたい。後日この件が尾を引いたとしても、今この時は春香の追及をかわすことを優先したかった。

 実際スイーツフェスタまでは時間があるので当然ここから逃れるための方便でしかない。

 

「ん? うん、引き留めるようなことしちゃってごめん。莉嘉のことも改めて、ね?」

 

 空気を読んでくれた城ヶ崎姉はあまり追及することはなかった。

 しかも、律儀に妹のことで謝罪までされてしまい、城ヶ崎姉に対して罪悪感を覚えてしまう。

 本当はここで良好な関係を築いておきたかった。でも、春香を優先したい僕にはその選択肢をとることはできない。

 

「あの、失礼いたします」

 

 最後に頭を下げて逃げる様に城ヶ崎姉の前から立ち去る。

 

「あ、千早ちゃん! えっと、失礼します。千早ちゃん待ってー!」

 

 慌てた春香が追いかけて来るのを背中に感じながらも、僕は足を止めることはしなかった。

 後ろ髪引かれる思いとはまさにこのことだろう。

 少し話しただけでわかる。城ヶ崎姉はたぶん良い人だ。しかもかなり世話焼きで面倒見がいい。

 そんな人との繋がりをこの時点で作れる機会なんて早々ない。本来なら何を置いても城ヶ崎姉とのコネ作りを優先すべきだったろう。

 でも僕はそれをしなかった。同じ事務所の先輩でななく、違う事務所の春香を優先した。

 それは春香が親友だから……だと思いたい。765プロのアイドルだからなんて理由であって欲しくなかった。

 

 お店を出ると解放感があった。広い店内であっても閉鎖空間というのは気が滅入るものだ。

 春香が追いつくまでの残り少ない時間を使い、気分を落ち着かせるために空を見上げる。

 

「……あー」

 

 見上げた先には看板広告があった。

 おそらくこの街で最大の大きさを誇ると思われる大きさのそれには346プロ主催のライブ告知が掲げられていた。

 かなり大規模なライブなのだろう、煌びやかなステージ衣装を着た五人のアイドルがまっすぐ上へと指差してポーズをキメている。

 そのセンターポジションにはつい先ほど会話していた相手、城ヶ崎姉が写っていた。

 こんなでかでかと掲げられている看板に今まで気づかなかったなんて。しかも相手はセンターを務める程の実力と人気の持ち主なのだ。興味が無いでは言い訳が立たない。

 先程の会話を思い返す。少し話しただけで城ヶ崎姉のアイドルとしてのレベルは高いと感じられた。笑顔一つとっても、妹とのことで申し訳なさそうにする顔ですら僕とは違って”らしさ”があった。

「歌だけあればいい」と面接官の前で大見え切った手前、それで自分がアイドルとして不十分だと言うつもりはない。

 だけど、今の僕は765プロのメンバーや春香以前に、数多くのアイドル達よりも遅れていることを自覚するべきだと思った。

 看板との距離以上に城ヶ崎姉と自分に差を感じる。

 

「千早ちゃん」

 

 しばらく看板を見ていると、春香が僕の手を取った。

 

「うん、ごめんなさい……行きましょう」

 

 そのまま手を春香に引かれながら僕は自分の立場を改めて確認する。

 本当、僕って何も見えてないんだな……。




クラスメイトの女子の心「ベキッ!」

芋娘かと思ってからかっていたら、ある日超絶美少女になって登校して来るクラスメイトを見て心の折れる女子達。
「誰あれ!?」「転校生?」「え、如月さんの席に座った?」と教室が騒然とする中、まったく我関せずで優日記を書き続ける姿を見て「如月さんだと!?」と認識される。
男子はこれまでの態度から掌返しクルーだけど、これまで千早を相手にしてこなかったので会話のとっかかりがない。そして千早本人もクラスメイトと会話するつもりが無いので絶縁状態は変わらず。
担任教師は中学生がするにはやりすぎなメイクだと千早を注意しましたが、それがノーメイクだと知ってしまい心が折れました。年齢的にその担任は立ち直れませんでした。
二次元キャラ特有の真っ新な肌を現実に適用し、なおかつ少しでも荒れたら細胞レベルで自動修復するノーメイク美少女とか心折れますわ。
ちなみにいじって来た女子たちは直接手をだすようことはして来ませんでした。仮にやってたらもっと早く折れていたことでしょう。心以外が。
あと千早の髪色はゲームやアニメでは青色ですが、実際は黒髪って設定なのですよね。この世界の千早は青髪ですが。

今回登場した城ヶ崎姉妹のキャラは千早視点だとこんな感じになりました。
城ヶ崎姉から優しくされていると思っている千早ですが、姉妹の千早に対する第一印象はともに最低です。姉を知らなかったという一点のみの評価なので、妹の方が若干高めに見ているかも。と言うか実際そこまで千早に暗い感情は持っていない感じでしょうか。
姉の方が深刻です。
ただ姉の方も実際に千早と会話したことで彼女がどんな人間か察し始めたため評価が上がっています。それでも第一印象が最低過ぎて、まだまだアンチ側ですね。
というか武P関連のアイドルはほとんどが千早アンチ勢です。765プロのアイドルが黒井社長に対するくらいのアンチ姿勢です。
知らないところで先輩方から嫌われているとか、千早の対人関係ルナティック過ぎますね。
半分くらい千早の自業自得ですが。
もう半分は武Pのせい。
千早は初対面の相手からの友好度は最低値から始まります。最初から千早に好意的な人間は作品を通しておそらく三人しか出て来ません。(身内を除く)
武Pですら初対面時は「なんだこの妙に馴れ馴れしい幼女は」と千早を疎ましく思っていたので、この嫌われ体質はもはや呪いと言ってもいいでしょう。



次回もデート編です。


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アルティメットなアイドルの卵その3

今回はかなり短めです。
前話に追加しても良かったくらいですね。
相変わらずの蛇足回。


 空が青い。

 透き通るような青色が人口過多なこの街の上に広がっている。

 歪な四角形で縁取られた空の景色を僕は黙って見上げていた。

 春の陽気を感じるには少しばかり寒いのだろうか。道行く若者が時折吹き通る風に身をすくませているのが視界の端に映る。

 ほんの少しだけ、世界とも呼べない狭い範囲だとしても身の回りの物事を見回してみれば今まで見えなかったものが見えてくる。

 化粧品店の店頭に映るモデル。ファッション系アンテナショップの店内から漏れ出る曲。346プロのライブの宣伝看板。

 それら全てに城ヶ崎美嘉が存在した。

 

「あー」

 

 気付いてしまえば意識できてしまう。城ヶ崎美嘉という情報を少し探せば彼女関連の情報はそこかしこで確認することができた。

 どうしてこれまで気付かなかったのか。

 いや、気付けなかったのか。

 興味が無かったでは済まされない程に圧倒的な情報量だ。しかもこのお洒落の発信地のような街では城ヶ崎の情報はそれこそ溢れるほどにあったのに……。

 僕はそれに気付かなかった。

 同じ事務所の先輩という関係を抜きにしても、こんなにも広がっている城ヶ崎美嘉の情報をまったく意識できていなかったのは異常だ。

 まるで僕の何かが彼女の存在を意識から外れてしまっているかの様に、実際に出会うまで僕は彼女のことを認識できていなかった。

 どうやら城ヶ崎の芸歴はここ一、二年の間らしいので引き籠っている間意識的アイドル関連の情報をシャットアウトしていた時代に気付けないのはわかる。でも、その後にアイドルを再び目指してから今日まで城ヶ崎を知らずに来たのは変だ。

「僕だから」という理由だけでは納得しにくい──実は少し納得しかけた──事象だった。

 

「はぁ……」

 

 自分の新たなやらかし案件に溜息が出る。

 息が白くなる時期はとうに過ぎているため吐かれた息はただの雑音となって漏れただけになった。

 しかし、視覚情報としての吐息が見えなかったとしても音として聞こえたからだろう、隣に立つ春香には僕の心情を察することはできたようだ。

 

「千早ちゃん」

 

 透き通るような青空に引かれ、自意識を彼方へと飛ばしかけていた僕を春香の声が現実へと引き戻した。

 春香を見ればこちらを気遣うように、眉を八の字に曲げた顔をしている。

 こんな風に最近の僕は春香を心配させることが多い。

 これまで身内だからと放置されていた僕の悲惨な私生活がとうとう春香にバレたせいもある。

 つい最近まで僕の家の冷蔵庫には調味料すら無かったのだ。入っているのは何故かノート一冊とペン一本だけ。誰が見てもやばい光景である。

 再会直後は春香の方が精神的に追い詰められていたこともあり、その場での突っ込みはなかったのだけれど、後々振り返ってみたところ僕の環境が人間として終わっていることに気が付いた彼女がガサ入れしたことにより現状が発覚した。

 それ以来、春香が何かと世話を焼いてくれるようになったのだった。

 春香に負担を掛けてしまっているとわかりながらも、こうして春香に心配して貰えることが幸せで少し心が晴れた気がした。

 そんな僕の心情を察したらしい春香が拗ねたように口を尖らせる。

 

「ごめんなさい。少し落ち込んでしまっていたわ」

「城ヶ崎さんのこと?」

「そうね……」

 

 城ヶ崎姉妹のことはつい先ほどの出来事というのと、僕の新しい「やらかし案件」とあって記憶に焼き付いている。

 まさか事務所の先輩にあたる人を公然と知らないと宣ってしまうなんて、厳しい事務所だったらこの先やって行けないレベルの失態だ。

 幸いなことに、プロデューサーや千川さんを始めとしたシンデレラプロジェクト関連の人達は優しい人達が多かったので心配はしていない。

 城ヶ崎も僕が見る限り気にしている様子は見られなかった。

 問題があるとすれば、城ヶ崎と仲が良いアイドルからの不興を買うことだけど、そちらは城ヶ崎と仲が良いアイドルなんて僕が知るわけもないので気にしていない。

 と言うか、お手上げ状態だった。

 女性の噂に対する伝達速度が早いことを身を以て知っている僕には、今の時点で346プロ内のアイドル全員が僕のやらかしを共有済みと言われても驚かない。

 さすがにそこまで酷くはないにしても、僕の評判は最終審査の様子からしてもあまり良くないことは確かなので、これからは色々と言動に気を付けていきたい。

 まずは346プロの有名アイドルの顔と名前を覚えるところから始めよう。

 会う人全てにこいつ誰だという態度を見せるのは拙いと城ヶ崎の件で思い知ったからね。

 先程見かけた看板のアイドルくらいは知っておきたい。

 

「春香は城ヶ崎さんのことを知っていたのよね?」

「うん? ……うん、そうだね。…………知ってたよ」

「他に346プロのアイドルで有名な人って誰か知らないかしら」

 

 僕の問いに春香がコテンと首を傾げるのを見て自分の言葉が足りないことに気付いた。

 

「実は私、346プロのアイドルを誰も知らないのよ」

「え」

「ちなみに、さっき掲げられていた看板の人達とかは城ヶ崎さん含めて有名な人達なの?」

 

 僕の問いに春香の顔が「うわぁ」という感じに引かれたのがわかった。

 その反応を見てやっぱり有名な人達だったのかと改めて自分の知識不足を自覚する。

 それにしても春香のこの顔である。普段僕が何を言おうと軽く受け取ってくれる彼女が完全に引いてた。

 

「ごめんなさい。やっぱり自分で調べることにするわ」

 

 慌てて質問を取り下げる。

 春香の反応に怯んだからではない。彼女の様子から有名人の数とその度合いを語るだけで時間を必要とすることが察せられたからだ。

 そもそも346プロってどのくらいの規模なんだっけ。前にプロデューサーを調べるためにホームページに行ったことがあるけれど、概要以外の情報はほとんど調べていなかった。

 

「私は大丈夫だよ?」

 

 春香は何でもないように言ってくれたけれど、どうしてもお願いする気になれない。

 確かに彼女に教えて貰えれば346プロのアイドルについて楽に知ることはできるだろう。それこそ、一般人では知らないような詳しい話だって知ることができるかも知れない。

 でも、それは何となく反則な気がする。

 それに、ーーいや……。

 ふっと湧いて生まれた本心が明確に言語化される前に頭の端へと押し込める。危うく自分の中にブレが生まれるところだった。

 自制を心掛け、胸の内を春香に悟らせないようにする。

 

「いいえ、自分で調べないといけないって思い直しただけよ」

 

 本心の代わりに口を突いたのは聞こえだけは良いような薄っぺらい建前だった。

 

「そう? 千早ちゃんがそれで良いって言うならいいけれど……。でも、私にできることなら何でもするから、遠慮なく言ってね?」

 

 快く協力を申し出てくれた春香に心中で謝罪する。

 今僕が言った建前は未だに残る男心が見せた反発心だった。

 現在進行形でトップアイドルの位置に君臨していて、アイドル番組の司会の経験もある春香の知識量は僕がただ調べただけでは太刀打ちできないくらいに豊富だ。そんな春香に色々と教えて貰った方が良いなんて判り切っていることだ。

 でも、僕にはその選択肢を採ることができなかった。それは前述した情けない程にみすぼらしい見栄とプライドの表れだけれども、本当の本当はもっと利己的で浅ましい感情が理由だった。

 それこそ言ってしまえばなけなしの男心が砕け散ってしまう程に女々しい理由。

 

 せっかく一緒に居るのだから、別の人の話をするよりも貴女との話しをしていたい。

 

 ──などと……。

 

「言えるはずがないよね」

 

 口の中で転がすだけで実際に言葉にすることはなかったけれど、改めて理由を思い浮かべればそれが一番大きな理由だと自覚した。

 本当に最近の僕はどうかしているらしい。春香相手にあれこれと難しく考えてしまっている。一周どころか二周目の十七年目にしてこんな思春期を拗らせたようなことを考えているなんて。

 

「どうかしたの?」

 

 もごもごと口を動かすだけで何も返さない僕の様子を不思議に思ったのか、春香が首を傾げるようにこちらの顔を覗き込んで来る。

 その表情がこちらを心配するようなものではないことに、「心配する内容ではないこと」だと察せる彼女の洞察力に心臓が跳ねたような気がした。

 今の自分の内面までも見透かされているのではないか、そんな疑心暗鬼に近い考えに反射的に春香から顔を逸らしてしまう。

 

「あっ……!」

 

 でも、すぐに今の行動で春香を傷つけてしまったのではないかと気づいた。

 顔を覗き込んだ相手から顔を逸らされるなんて、春香に嫌な思いをさせてしまっただろうか。仮に僕が同じことをされたら心に尋常じゃないダメージを受ける。

 恐る恐る春香の方へと顔を向ける。でも、そこにあったのは僕の心配した傷付いた春香の顔ではなく、微笑ましいものを観るような温かい笑顔だった。

 

「ごめんなさい、これは別に春香を疎んでとかそういった意味はないの、ただ──」

「大丈夫」

 

 それでも釈明は必要だろうと思い、慌てて口を開いた僕の言葉に春香の柔らかな声が被さった。

 

「千早ちゃんが私との時間を大切に思ってくれて嬉しい」

 

 全て見透かされた様な、こちらを包み込むような声と笑顔に気付かないうちに強張っていた肩から力が抜けた。

 春香には全てお見通しらしい。僕の考えも、懸念も、ちっぽけなプライドも。

 

「……──うん」

 

「嬉しい」と言ってくれた春香の優しさと想いに、僕はただ頷き返すことしかできなかった。

 ああ、それでも僕の心の奥底にあった感情までは読み取れてはいないのだろう。

 僕の前世が男で、今も心が男であり続けているなんてさすがの春香でも気付こうはずもない。

 その事に深く安堵した。

 

「春香と一緒に居る時間は私にとって大切な時間よ」

 

 改めて僕は本心の表側を口に出した。そうする事で裏側の本音を隠すように。

 

「だから、他の人の話はしないわ」

 

 きっと、千早と同じくらい僕は春香のことを大切に思っている。

 すでに原作の千早とは大きくずれて別人と化してしまった僕だけれど、それだけは彼女と同じだと言えた。

 僕は春香が大好きなのだ。

 

「好きよ、春香」

 

 思わず言葉にしてしまうくらいには正直な気持ちだった。

 嘘偽りの無い想いを告げるのは気恥ずかしい。でも、伝えたい時に伝えなければ機会を永遠に失ってしまうから。

 それは二度とごめんだった。

 

「う、あ……う、千早ちゃん、好きって」

 

 顔を赤く染める春香。

 同性とはいえ面と向かって好きと言われて恥ずかしかったのだろうか。春香はごにょごにょと小声で言いながら俯いてしまった。

 この反応に困ったのは僕の方だった。

 わりと頻繁に好き好き言い合ってる気がするのだけれど……。どうしてか今回に限って春香の反応がおかしい。

 赤い顔で独り言を呟き、手をこねこねと動かしながら脚をモジモジさせている。

 まるで熱に浮かされたような様子に今度こそ風邪かと心配になってしまう。

 

「私も千早ちゃんのこと好き」

 

 しかし、春香のはっきりとした言葉と真っ直ぐに向けられた目力の強さに風邪の線は消えたことがわかった。

 春香が僕を見る目が微かに潤んでいるのがわかる。

 春香の瞳に映る僕が揺れる。

 僕の中の春香が揺れる。

 

「……行きましょうか」

 

 不思議とそれが当たり前だと思えるように、自然な形で春香へと手を差し出せた。

 春香は一瞬だけ戸惑いを見せた後、

 

「うん!」

 

 満面の笑みを浮かべてこの手を取ってくれたのだった。

 

 こうして僕達は友情の再確認を終えた。

 本当に僕達って相思相愛だよね!




千早に春香への恋愛感情はないよ。

今回千早の方が春香にフラグを立てているように見えますが、春香に対して恋愛感情を抱いたとかそういうことはありません。友情>恋愛になるように鋼の精神と思い込みで春香への愛情は湧かないようにしています。
仮にあっとしても小学生男子が抱くような思春期一歩手前の衝動程度です。
千早くんちゃん10歳(弟談)。


前回今回の千早の城ヶ崎美嘉に対する台詞は現実で例えると、某夢の国のお土産コーナーで買い物中にメインの鼠人間を知らないと言っちゃったようなものです。
周りからは目と頭を疑われるレベル。春香だから「千早ちゃんだししょうがないよねー」で許されていますが、他人や城ヶ崎妹からすれば「この人やばい」と思われます。
アイマス世界での城ヶ崎美嘉って若者全般の知名度高そうですし。そのメッカとも呼べる街で知らない発言はかなり酷い発言だと思います。
実は引き籠り時代に千早が意識的に無意識を操ってアイドルを認識できなくしていたとかなんとか。

ここ数話でまったく展開が進まずに申し訳ありません。
今回も蛇足と言っていいようなお話でした。しかも千早と春香が会話しているだけという。
続きを期待されていた方には申し訳ない思いです。
ただ、この物語は千早や他のキャラの内面を掘り下げていかないとただ千早が無双するだけのお話になるため、どうしてもその場その場で千早には立ち止まらせてしまっています。
千早が誰に対してどういう感情を抱くかその一つ一つに意味があり、相手を傷つけたり傷ついたりする理由や動機に重きを置いているためしばらくは展開が遅くなります。
などと供述しており。


早くお仕事初日を投稿したいです(だいたい書き終わっている件)


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アルティメットなアイドルの卵その4

スイーツフェスタ。
ビュッフェスタイルで移動を余儀なくされるため実質カロリーゼロ。
美味しいから大丈夫。


 スイーツフェスタの会場へとやって来た。

 ここまで僕と春香は手を繋いだままだった。

 秋月律子の前から春香に連れ去られた(?)時に腕を引かれた時以来だろうか。春香と手を繋ぐのは久しぶりだった。

 これまで何度も触れ合うことはあったのだけど、手を繋ぐという行為は極力避けるようになっていた気がする。

 それはきっと、あの時僕が春香の手をとることができず、春香が僕に手を取って貰えなかったことが互いに心に棘として残っていたからだと思う。

 それも先程の一件で解消された。

 ショック療法?

 怪我の功名?

 まあ、何でも良いか。春香とこうして手を繋げたことはお互いにとって大きな意味を持つことに変わりはないのだから。

 

 しかし、手を繋げるようになったのはいいとして、今度はこうして僕と春香が仲良く歩いていると周囲の人に気付かれたらと思うと気が気ではない。

 お互い一般人だったなら何も問題が無かったのだけど、春香は誰もが知るトップアイドルの天海春香なのだ。そんな人間が僕みたいな無名の新人と仲良く手を繋いで歩いていたなんて知られたらどうなるか……。

 うん、少し考えればわかる。トップアイドルに寄生する売名女くらいは言われるだろうね。非難メール、剃刀レター、ゴミの投げつけ、最後には闇討ちをされる。

 僕が何か言われるのはいいけれど、春香が悪く言われたり家族や事務所に迷惑がかかるのは絶対に避けたい。

 暫く、いや可能なら僕がトップアイドルに名を連ねるまで春香との関係は黙っておくのが吉だな。

 後で春香には伝えておかないと。

 

 さて、ようやくたどり着いたフェスタ会場なのだけど、会場と言いながら普通のスイーツ店に見えた。

 想像よりも小さい?

 もっと大きな場所を想像していたので少しだけ拍子抜けしてしまった。

 でも、この規模の店舗で完全予約制が成り立つとあって人気はあるようだ。その証拠に予約制にも関わらず入場待ちの客で長い列ができていた。

 予約しているならばわざわざ並ぶ必要はないと思うのだけど、春香が言うにはそれにも理由があるらしい。

 このフェスタは入場こそ予約制であるものの中に入ってから席を取るまでは早い者勝ちだ。だから今こうして並んでいる人達は少しでも良い席を取るために早くから来ていたガチ勢ってことになる。

 席取りと言ったって、あまり広くはない店だ。スイーツまで数歩違うだけで何が変わるというわけでも無いのに……。

 それだけ女性達のスイーツに掛ける情熱が凄いってことかな。皆まだ時間があるというのに即応体制でいつ入場が始まっても大丈夫という感じだ。中には徒競走のスタート準備のように前傾姿勢で待機している子もいる。……これはさすがにガチ過ぎるだろ。

 対して春香はそこまでがっついている様には見えない。むしろ行列を見て若干引いているくらいだ。彼女の場合、いざとなれば自分で作れるのだから、スイーツ食べ放題にそこまで必死になる必要がないのだろう。

 僕の方も食にこだわりというか頓着が無いので早くから並んでまで席を確保しようという気にはならない。いざとなれば春香か優が作ってくれるしね?

 この世界でも原作同様に春香のお菓子作りのスキルは高い。何度もご相伴にあずかっているためよく知っている。

 きっと春香くらいお菓子作りが得意なアイドルなんていないんじゃないかな。

 優も最近料理の腕を上げてきているみたいだし、誰かしら対戦相手でも想定しているのか静かに闘志を燃えているようにも見える。その様子が男の子していてカッコいいのだ。

 ……と思うのは身内贔屓だろうか?

 

 それから暫くて、予約した回の入場が始まり僕達は会場へと入った。

 

「へぇ……」

「わぁ〜!」

 

 店内は想像していたよりも広かった。

 この地域にこれだけの広さの店を構えるのは相当大変だっただろうに。それを考えると思わず感嘆の声が出てしまう。

 隣の春香も感心している。いつもの謎変装越しでも、それなりの付き合いの長さから春香の感動の程度はわかった。

 

「良い雰囲気のお店ね」

「そうだね。置いてあるお菓子もどれも可愛いし、種類もたくさんあるから迷っちゃいそう!」

「一種類ずつ食べたとしても、とても時間内に制覇できる気はしないわね……」

 

 何種類あるのだろう。

 ケーキ類だけでも何十種類とあるぞ。これを時間内にコンプリートするのは無理だ。明らかにリピーター狙いに思える。その割にはチケットの競争率が高すぎると思う。

 

「せっかく来たんだから食べないと損だよ、席を取ったらさっそく取りに行こうよ!」

「……そうね、少しでも時間を有効活用しないといけないものね」

 

 すでに食べる気満々な春香に内心苦笑しつつお腹の調子を確かめる。

 昨日の死にたくなるくらいの痛みほどはないが、まだまだ身体の方は本調子とは言えなかった。内臓全体が腐っているような、何とも言えない違和感が残っている。

 できるなら一度お腹を開いて中身を洗い流したくなる。僕の身体ならやれなくはないが、現場が血溜まりになるので場所の用意が必要だ。

 まあ、現状でも物を食べられないということはないので無理をすればおかしくない程度には食べられるかも?

 若干の不安を抱きながら、僕達は適当な席を確保すると早速お菓子を取りに向かった。

 ビュッフェ式のため好きなお菓子を取り放題だ。わーい、うれしいなー……。

 せめて注文式であったなら小さいケーキとかを頼んで「わー可愛いー食べるのがもったいなーい」とかアホな女のふりをして時間を稼ぐこともできたのに。

 見渡す限りのお菓子の群れはその存在に反して決して甘い存在ではなかった。普段は綺麗に見える色とりどりのお菓子が今は毒々しく見える。怪しい魔女がネルネルするお菓子の方がまだましに見えるくらいにギラギラした物もあり、今の僕には毒に見えてしまう。

 実際のお菓子を前にすると先程まで余裕があったことが嘘のように気持ち悪くなって来た。

 うん、これは吐く。

 そう確信するに足る程の不快感が胃を襲った。

 

「……うぐぅ」

 

 気力を振り絞り寸でのところで嘔吐を回避する。こんなところで吐いたりしたら大惨事な上に他のお客さんに迷惑がかかる。そして何よりもせっかく誘ってくれた春香に申し訳が立たない。

 幸い春香は少し離れた位置にいるため僕の異変に気付いてはいなかった。

 僕が体調を崩していると知れば、きっと春香は誘ったことを後悔してしまう。だから、僕は体調不良自体を春香に悟られない程度にお菓子を楽しんでいるふりをしなければならない。

 

「……よしっ」

 

 時間ごとに増す不快感を極力無視し、気合いを入れ直して再びお菓子の群れへと向き合う。

 

「はうぅ」

 

 だがすぐに暴力的なまでの甘い匂いと派手な色に心が折れ掛ける。

 いやいや、頑張れ僕。たかがお菓子風情に負けるんじゃない。たとえ今すぐトイレに駆け込みマーライオンしたくても我慢するんだ。と言うか、しそうなのは嘔吐ではなく吐血なんだよ。胃がムカムカするんじゃなくてズタズタなんだよ。たぶん、生命活動に不要な分の臓器はほとんど機能停止しているんじゃないかな。普通の人間なら十回は死んでいる。忍耐力の無い僕がこうして平常心を保てているのは一般人よりも耐久力が高いからだ。一般のそれならば僕は今頃「ちにゅ」とか言いつつ死んでいただろう。

 でも……僕は逃げない!

 強大な敵を前にして逃げるなんて駄目だ。敵前逃亡は銃殺だぞ。僕はようやく登り始めたばかりだからね。この果てしなく遠いお菓子坂をさ。

 ……自分がかなり錯乱している自覚はある。

 まるで自分が自分ではないような、自分が自分であることに違和感を覚える。

 このままでは色々と暴走してしまいそうだ。

 どんがどんが。

 人の域に留めておいた千早が本来の姿を取り戻していく……。

 

「大丈夫?」

 

 かなり末期な妄想を繰り広げていた僕の服の裾が引かれた。

 ハッとなって色々と拙い方向に飛んで行っていた意識が身体に戻って来た。

 危ないところだった。

 何やらねじり鉢巻きにサラシ姿の金髪の女性が和太鼓を叩いている光景を幻視していた気がする。

 僕を現実へと引き戻してくれた人にお礼を言わないと。

 こちらを気遣うように小声で話し掛けて来たのは見知らぬ少女だった。

 その少女は十代半ばといったところか、ショートヘアーの茶髪にヘアピン着けた少しぽっちゃりとした子だった。

 何というか、偏見だとは知りつつも、スイーツフェスタが似合う気がする。いや、決して体型が理由ではないよ?

 開店してからの短期間ですでに口元にクリームが付いているからでもない。

 そう、何となくそんな子に見えただけだ(自爆)。

 

「ご心配をお掛けして申し訳ありません。ちょっとぼーっとしただけですので、あまり気にしないで下さい」

 

 ちょっとつっけんどんな態度に思われたとしても、あまり他人に体調のことを知られたくなかったのでこんな言い方になってしまった。

 本当は見ず知らずの相手を心配してわざわざ声を掛けてくれた少女の優しさに感動しているんだよ。

 たとえ少女がお皿を片手に現在進行形でお菓子を食べ続けていたとしてもね。

 食べるのか心配するのかどっちかにして欲しい。あ、いや、食べるのに集中して下さい。と言うか放っておいて下さい。

 少女は辺りを気にしているのかキョロキョロと視線を移している。もう次のお菓子を見繕っているのかな?

 

「さっき一緒にいた子はいないの?」

「春……あの子は別の列に居るので今は私一人だけです」

 

 名前を呼び掛けて慌てて「あの子」と言い直す。

 何故かこの子は僕に連れがいる事を知っているらしい。そう広く無い店内だ。観察力のある人間なら客の情報を拾い上げるくらいできるだろう。僕だってすでに周囲の客の顔と身長、利き腕や声質、死角くらいは把握できているわけだし。この少女もそれくらいできる可能性はある。

 そこまでの力が無かったとしても、人並み以上の観察力があるならアイドルの春香に気付くかもしれない。少女の態度から春香が居るとバレてはいないとは思うとけれど……わざわざ名前を言ってリスクを冒す必要はない。

 春香の存在が知られた結果不利になる情報が流出する可能性だってあるのだ。

 こうして見ず知らずの僕を心配してくれている相手を疑うのは嫌だけれど、相手が良い子であるとは限らないのだ。

 この世界は不思議なことにアイドルをやっている人達は善良なことが多い。前世ならば考えられないような話だ。その反面、一般人の性格が前世に比べて悪いと感じることが多い。

 だからこの子がアイドルでもなんでもないなら悪意を警戒する必要があった。

 これはこの世界以外の一般人を知る弊害だった。どうしても前世基準で人の良し悪しを見てしまう。

 

「私のことは気にしないで下さい。本当に大丈夫ですので……」

 

 本当の本当は今にも顔中の穴という穴から血が逆流しそうなくらい不調なのだけれど、それをこの少女に伝えたところで仕方がない。仮に伝えたとして、救急車なんか呼ばれてしまったら大変だ。春香に僕の体調が悪いことがバレてしまう。

 それで「自分が誘ったから」なんて春香が自分を責めることになったら……。

 それは嫌だ。

 とにかくここから離れよう。たぶん心配をしてくれているのであろう少女の厚意を無下に扱う後ろめたさはあったが、春香のことを思えばここは撤退が最善だ。

 

「具合が悪そうな子を放っておけないよ」

 

 しかし、逃げるのを阻止するかの様に少女の手が僕の腕を掴んだ。

 チクショウ、こいつ良い子かよ。

 一般人だから性格が悪いとか勝手に思い込んでてごめんなさい。

 でも、普通は赤の他人のためにここまでしないものなんじゃないの?

 人気のスイーツ店に来てお菓子食べずに人助けとか奇特すぎるでしょ。

 菓子食べずに貸し作ってるんじゃないよ。もっとお互いに無関心で無関係で居続ければいいじゃない。

 とか頭の中で少女へ突っ込みを入れてみたけれど、よく見ると少女の僕の腕を掴む手の反対側、先程まで盛りに盛られたお菓子の山が消えていた。

 ……あの短時間の間に食べきっていただと? しかも僕と会話しながら?

 何だこいつ、能力者(アイドル)か?

 たまたま入ったお店で城ヶ崎と出くわしたことといい、能力者(アイドル)同士は引かれ合うとでも言うのか。

 

「あれ……千早ちゃん?」

 

 馬鹿なことを考えている間に春香に気付かれてしまった。

 時間切れだ。思わず舌打ちをしそうになる。すぐにアイドルがするものじゃないと寸でのところで止めたけど。

 

「どうしたの? 何か問題でもあった?」

 

 春香はすでに幾つか見繕ったのか、片手にお菓子の乗ったお皿を持っていた。そのそつの無さと今目の前で器用に人の隙間を縫って近づいて来る姿を見ると毎日のように転ぶのが信じられない。

 しかし、今はそんな春香の生態は無視しよう。見た目こそ変装で隠せているものの、声や雰囲気は春香のままなのだ。今こうして目立つ行動をとった春香に対してお菓子から意識を移す者が出てこないとも限らない。

 そして、元から僕に意識を向けている少女が春香の正体に気付く可能性が一番高いから、これ以上春香に近づかれるとまずい。

 僕と春香が知り合いだとバレるわけにはいかないんだ。

 だから、ごめんね?

 僕は少女に掴まれた腕と反対の手を掴まれた箇所へと伸ばし──躊躇いなくその部分を握り潰した。

 

「……えっ? ──キャ」

 

 少女が驚き手を緩めた瞬間、できた隙間からするりと自分の腕を引き抜く。

 今の僕には優しく振りほどくような繊細な力加減はできないから、こんな乱暴な方法をとってしまった。

 女の子に酷いことをしたくはないのだけど、僕はどこかの誰かと春香を天秤に掛けたら春香を取ると決めているんだ。

 

「連れが来たので……」

 

 呆然と自分の手を眺める少女に一言だけ残すと、もう一度だけ頭の中で「ごめん」と謝り春香が近付いて来る前にそちらへと向かう。

 

「ごめんなさい、何でも無いわ」

 

 何事もなかったように春香に近付くと誤魔化した。

 

「そう? 本当に何も無かった?」

「ええ、本当に何でも無かったわ。気にしないで。……私は、まだお菓子を選んでないから春香は先に席に戻ってて」

「……大丈夫?」

「ええ、問題ないわ。さ、ここ混んでるし席に戻っていて……ね?」

 

 何かを察しかけている春香を席へと促す。少し強引な気がするがお菓子選びを理由に春香には席に戻ってもらうことにした。

 後ろ髪引かれる様に、何度もこちらへと振り返る春香。

 チートの副作用のせいで潰れた手がなかなか治らない。いつもならこの程度すぐに元通りになるのに……。

 手のことを春香に知られたくない。注意深く観察する彼女の目から逃れるためにお菓子のケースへと向かった。これ以上は春香に悟られてしまいそうだ。

 

 

 適当なお菓子を乗せたトレイを持って席に戻ると春香がお菓子に手を付けずに待ってくれていた。

 今朝の待ち合わせの時といい、春香は僕の好感度を上げる天才なのではないかと感動したいところだが、僕を待っていた春香の目が怖いことになっていたので何も言わずに席に着いた。

 

「……」

「……」

 

 食べ始めてから会話一つない状態が続いているのですが。

 テーブルを挟んで対面に座る春香が無言でお菓子を食べ続けている。

 なんで僕は苦行のように甘いだけのお菓子を食べ続けているのだろう。無心でフォークを動かしながら味もわからないお菓子を食べ続ける。

 当初の計画では会話に花を咲かせて食べるペースを抑えるはずだったのに、お互いに無言のためペースが落とせない。

 だったら食べなければいいのだけど、食べない理由を訊かれる方が拙いので食べるしかない。

 先程から向けられる春香からの何か言いたそうな視線にどう対応すればいいのか。

 きっと先程の事を聞きたいのだろう。あの少女と何を話したのか、僕がその時何をしたのか、決して後ろめたい事ではないはずなのに春香に教えるのを躊躇わせる。

 手はすでに治っているのでしらばっくれる事は可能だ。でも、春香に嘘を吐いてしまうのは嫌だった。

 何も全てを教える必要はない。適当に答えてお茶を濁したっていい。でも、春香相手に適当な言葉を言いたくない。

 どこまで言っていいのか。どこまで言わなくていいのか。自分自身のことなのに境界線がわからない。

 

「千早ちゃん、さ。訊きたい事があるんだけど……いい?」

 

 だが、どちらにせよ、春香の方で均衡を崩せる時点で僕に選択肢は無かった。

 

「……何かしら」

 

 ここまで来たら腹を括ろう。

 良いよ春香。全部答えてあげるよ。

 覚悟を決めた僕はそれまで機械の如く動かしていたフォークを置くと、春香からの問い掛けに答えるため真っすぐ彼女を見据えた。

 しかし、こちらへと身を乗り出した春香の口から思わぬ言葉が飛び出して来た。

 

「さっきの子は誰? 知り合い? 友達とか?」

「はい?」

 

 予想外の春香の問いに一瞬思考が停止する。

 思わず彼女の顔を凝視してしまった。

 そこ?

 そこから聞きたいの?

 まずは事実関係を一から整理するタイプなのかな。

 いいさ、質問が何だろうと全部答えることに変わりはない。

 

「別に友達じゃないわ」

「じゃあ知り合い?」

「……名前も知らない赤の他人よ」

「赤の他人とわざわざお話したの?」

「……」

 

 何か会話の方向性が思っていたのと違う!?

 何これ?

 まるで浮気を疑うような台詞じゃないか。春香から畳みかけるようにして繰り出される質問にそんな感想抱いてしまう。

 いや、でも、女同士ということを抜きにすればそう聞こえなくもないのかな。その証拠に隣に座っていたお姉さんがちらちらと好奇の目を向けて来るのが視界の端に見える。

 違うんですよ。これは恋人に浮気がバレた修羅場とかじゃないんです。ただの事実確認なんです。そうお姉さんに心の中で言い訳をしておいた。

 ……うーん、春香の嫉妬を買ってしまったかな。友情的な意味で。

 僕の勝手な思い込みで春香はこういうことを気にするタイプだとは思っていなかったので意外だった。

 

「別に話したって言うほど話したわけじゃないわ……」

「話自体はしたんだ」

「そ、それは……」

 

 返す言葉の切れ味が鋭すぎて言葉に詰まってしまった。

 まさか深く問い詰められるとは思っていなかったので適当に答えたことを後悔する。

 春香のことだから相手側に直接乗り込むなんてことはしないにしても、何かの拍子に出会った時に嫌な空気になられても困る。

 もうこれはアレか。春香の顎を持ち上げてキスした後にキメ顔で「お前が一番だぜ」とか言えば良いのか?

 馬鹿か。今日日、少女漫画のビッチヒロインですらそんなアホな手で納得なんてしないっての。それに春香と僕は恋人同士でも何でもないのだから。

 と言うか、そもそも女同士だし……。

 そんなことをしようものなら僕の正気を疑われる。それ以上に春香に嫌われてしまう。

 

「あう、あ、あう……」

 

 何で僕は春香からこんな詰問を受けているんだ。僕が誰と話しても良くないかな。

 春香には関係がないと言ってしまえば楽なのだけど、僕の勘がそれを言った瞬間、色々と終わると告げていたので喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。

 そうなると返す言葉が何も浮かばない。

 

「どうして……そんなことを訊くの?」

 

 だから、答えの代わりに出たのは質問だった。一方的に訊かれる側から逆に訊き返す側に回った。

 それは春香からの回答を期待してものではなかった。苦肉の策とも言えない程度の、ただ間を置くためにだけに口から出たものだ。

 しかし、この質問は劇的な結果を齎すことになった。

 主に僕に対して。

 

「千早ちゃんが私以外の人と仲良くしているのを見るとチクチクするから」

 

 想定していなかった言葉に頭をガツンと殴られたような衝撃を受ける。

 何ですかその可愛いセリフは!

 そういうあざといこと春香が言ってくるなんて思ってなかったから動揺してしまった。

 隣を見ると僕達の会話を聞いていたお姉さんが両手で顔を押さえて震えている。小さい声で「エモい」とか言ってんなよ。

 

「春香……」

「チクチクするの。千早ちゃんが私の知らない人と……私の知らないところで仲良くしていると思うと、ここが凄く痛くなるの」

 

 自らの胸を押さえて呟くように告げられた春香の言葉は、彼女の本音を吐露したもので……。

 それは、僕に謎の罪悪感を抱かせるには十分なものだった。

 

「ごめんなさい、春香……!」

 

 反射的に僕は春香の手を掴んでいた。

 春香にこんなあざとい台詞を吐かせてしまった責任は僕にある。春香はあざとくなくていいんだ。そんなものは伊織か雪歩あたりがやってればいいんだよ。

 誰だよ、春香にこんなあざとい言葉を教えた奴は。ありがとう。

 

「私に……春香以外に友達が居るわけないでしょ!?」

「あ……っ」

 

 やけくそ気味に言ったはずなのだけれども、なぜか春香の顔色が目に見えて変わった。

 

「ごめん、千早ちゃん……本当に、ごめんね?」

 

 いや、そこまでガチで謝らなくていいからね?

 

「あの、春香? そんなに自分を責めなくても」

「本当にごめん」

 

 やめてよ。まるで僕が可哀想な奴みたいじゃないか。

 そんな両親を亡くしてまもない相手に「ご両親は普段何を?」とか話題振っちゃって身罷っていると本人の口から言わせてしまった人みたいな反応しないでよ。

 

「大丈夫よ。私は春香が居れば満ち足りているもの」

 

 これは決して春香に気を遣ったためではなく紛れもなく僕の本音だった。

 僕にはもったいくらい良い子の春香が親友として居てくれているのに、これ以上何を求めるというのだろうか。

 安心して欲しい春香。僕には春香以外の友達はいないけれど、春香が居てさえくれれば満足なのだから。

 だからそんな可哀想な生物を見る目は止めて。

 

「ごめんなさい。千早ちゃんがあまりに情感を込めて言うものだから」

「だからって、あそこまで落ち込む必要はないと思うのだけれど……。まるで私が可愛そうな子みたいじゃない。そこまで悲惨な境遇ではないわよ?」

「え?」

「え?」

 

 え?

 なんで今驚いた顔したの。

 春香の中で僕は可哀想な子扱いだったの?

 

「私は可哀想な子じゃないわ」

「そうだね」

 

 春香の声から感情の色が読み取れない。今の返事中身スッカスカだったわ。

 

「……違うもの」

「そうだね、千早ちゃんは可哀想な子じゃないよね」

 

 子供に言い聞かせるように優しい声音で僕を可哀想じゃないと言う春香。

 これも中身スッカスカですわ。

 

「ち、ちなみに……千早ちゃんって、今まで友達とかはいたりとかは」

「生まれてこの方、春香以外で友達が居たことはないわね。そもそも家族以外と会話する機会も無かったし」

「────」

 

 だからその顔止めてくれないかな。

 口を真一文字に結んで目からハイライトを消して遠くを見る程じゃないでしょ!?

 

「で、でも、ネットには話し相手くらいは居たのよ?」

 

 何に張り合っているというわけではないが、僕が真性ぼっちだと思われたままというのも困る。

 主に春香から可哀想な子扱いをさせるという意味で。

 あまりにも春香の反応が僕の心を抉るので、何か言わなければと思った僕は思わずキョウのことを口にしていた。

 

「ネットの……?」

「ええ、そうよ。相手の顔はわからないけれど、引きこもり時代に色々と遊ぶ仲だったわ」

 

 ネット仲間と聞いて春香に引かれるかと思ったが、特にそういう反応を示さなかったので安心する。

 これで春香に「えーっ、ネット? ウケるー。オタ臭すごーい!」とか言われたら僕はタ○リ神となっていたことだろう。「静まりたまえー」とか言われても呪いをまき散らして爆走すること間違いなしである。

 

「だから友達は春香しか居ないけれど、言うほどぼっちだったわけじゃないのよ?」

「ちなみに、そのネットでお話しする相手って何人くらいいるの?」

「一人よ」

「────」

 

 だからその顔は止めて。

 自分でもやばいのはわかっているから。

 

「だから、そう、春香が心配するようなことはないの。色々と」

「そうなんだ……じゃ、じゃあ、安心……なのかな? 色々と」

 

 たぶんね。

 最初は僕の交友関係を問い質す話だったはずなのに、いつの間にか僕がぼっちだったことに春香がショックを受ける流れになっているんだけど。

 どうしてこうなったのか。悲惨過ぎる僕の交友関係に春香の良心がこれ以上は死体叩きだと待ったを掛けたとでも言うのだろうか。

 幸い(?)なことにお互いそこそこ頭が冷えたらしく、僕が春香の手を放すと彼女の方も席に座ってくれた。

 

「その人とは今もお話しているの?」

 

 春香の質問にあの日のトラウマが蘇る。

 もっと上手くやれていたら、キョウと今でも友達でいられたのかな……。

 何度も何度も繰り返した自責の念が強くなる。

 もしも、キョウの成長を僕が受け入れていたら、今も付き合いは続いていたのかな。そうしたら、春香とも友達になっていたり、もしかしたら今回キョウも参加していた可能性だって……。

 いや、アイツおっさんだったわ。この店入ったら他の女性客から白い眼で見られるわ。

 別に男子禁制のお店じゃないみたいなけど、おっさんが入るには敷居が高い気がする。

 でも、彼がおっさんという情報は本人の言動から推測したものに過ぎないし、実は女という可能性もあるんじゃないかなって。

 キョウという名前だってゲーム内だけの偽名のようなものだから、本名がキョウコだったとしてもおかしくはない。

 そうか、キョウは女の子だったのか。

 ねーよ!

 あのニート志望の怠惰の権化が女の子のわけがない。仮にあいつが女の子だったら僕は大和撫子を自称するぞ。

 

「……ちょっと喧嘩別れをしてしまって。それ以来連絡もしなくなったわ」

 

 ちょっと変な妄想が入ってしまった。自覚はなくても僕はキョウを引き摺っていたらしい。

 でも、リアルの情報なんて何一つ知らない相手に今更連絡をとる方法なんて無い。

 ゲームの方で連絡をとろうにも、あんな別れ方をしたのだからもうログインして来ないだろうし。

 僕とキョウとの関係はあの日で完全に終わってしまったのだ。

 

「そうなんだ……」

 

 僕から漂う陰鬱な空気を感じとったのか、春香の方も落ち込んでしまっていた。

 

「千早ちゃんが誰かと喧嘩別れするって意外かも」

「私だって喧嘩くらいするわよ?」

「そうじゃなくて。千早ちゃんは誰かと喧嘩しても、自分が悪くないのに謝っちゃって無理やり仲直りしそうだから。喧嘩して別れるまで行くのが意外かなって」

「あれは喧嘩というよりは、私が一方的に悪かったから。私が謝るのは当然なのよ……謝る機会すら無くなってしまったけれど」

「それって、どういう……?」

「え? あ、ええ……そうね、あまり面白い話ではないけれども。まあ、私の数ある失敗談の一つとして聞いてくれるかしら」

 

 この時の僕は特に深く考えることをせず、春香相手にキョウの話をした。

 話している間は少女との関係を春香に問い質されず、またお菓子を食べなくて済むという理由もあり、結構長く話した気がする。

 喧嘩別れをしたと言っても、僕の中ではキョウとの思い出は楽しいものばかりだったので、本来語る必要の無いキョウとの思い出なども事細かに話した。

 それでも、僕が話したのがキョウと喧嘩別れするまでだったたならば問題は最小限で済んだはずだ。

 でも、僕は語りすぎてしまった。

 キョウと喧嘩別れをした……その後の話まで春香に語ってしまった。

 

 後に、僕は春香にキョウの話を語ってしまったことを後悔する。

 何となく終わった出来事という思いがあったのだ。

 僕の主観でも、客観的に見ても、誰がどう見ても、キョウとの決別は僕が悪い。

 僕が受け入れなかったために、キョウに呆れられたのだから。僕が悪者になるのは当然だった。

 だが、それは僕と他人の価値観から導き出される結論でしかなかった。

 

 春香の視点ではどう見えたのか、そのことを僕は事が起きるその時まで考えようとしなかった。




アイドル界でも上位の爆弾製造機──。それが千早。

自己評価が低く根が暗い千早は謎の気遣いで春香と知り合いなことを公表しないと決めています。自分と仲が良いと知られたら春香の評価が下がると思い込んでます。
今回も春香の身バレを厭うせいで今回やらかしてますね。
ちなみに、少女の手から腕を引き抜いた方法は、自分の掌を骨ごと握り潰し、掴まれている箇所から先を細く柔らかくした上で少女が驚いて手を緩めた瞬間に引き抜くというものです。
相手の手を強く振り払ったり、逆に相手の手を握り絞めるようなことは力加減をミスする可能性があったためやりませんでした。相手に痛い思いをさせるくらいなら自分の腕を握り潰す方を選びます。

特殊能力を持つ奴=アイドルという真理。
唐突に新キャラ登場。こんな感じに絡むことになりました。出会い方さえ違えばきっと良き友になれたものを……親切な少女も千早にとっては迷惑な存在にしかならないことがある。
誰も悪くないはずなのに、間の悪さと言葉選びのセンスの無さのせいで悪者になってしまうとか、千早は稀有な才能を持つ女ですね。
まあ、島村さんちの卯月さんですら初見で千早と仲良くなるのが無理なんだから最初から無理な話だったんじゃよ。
一人称視点のため千早の内面を知ることができる側からすると「千早可哀想」になるかもしれませんが、相手側からしたらただ感じ悪いだけの女ですからね。
千早がクソザコナメクジなメンタルなのと身内に対して献身的なのを知っているキャラ達は今後千早の言葉選びを見ては「そうはならんやろ」と突っ込みたくなることでしょう。
突っ込み役兼胃痛担当の方には今のうちに謝っておかないといけませんね。

ごめんね、ちひろさん。


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アルティメットなアイドルの卵その5

※注意
今回最後の方に微妙に下ネタ的な話があります。
そういうのが嫌いな方は今回の話を飛ばしていただくようお願いいたします。

今回も蛇足なので問題ないです。



 お出掛け──春香が言うところのデートを終えた僕達は一旦僕の家へと寄ることになった。

 思ったよりも時間が掛かってしまったこともあり、これから春香が家に帰ると夕飯の時間を大きく遅れることになるため僕の家で食べることになったのだ。

 ちょうど外で食べるには早すぎて春香が帰るには遅すぎる時間だったので、僕が誘ったところ春香が快諾したという形だ。

 まるで狙ったかのような時間に運命的な物を感じてしまう。いや、たまたま時間がそうなっただけなのに運命などと思ってしまうなんて案外自分は乙女なのかもしれない。

 男なのに乙女って……。

 思わぬ形でダメージを受け心に傷を負ってしまった。がくんと首が折れる勢いで項垂れる。

 今でも心は男のつもりなので乙女チックと評価されるのはたとえ自己評価だとしても辛いのだ。

 気持ちを浮上させるために何となく春香へと目を向けるとキッチンで夕飯を作っている春香が視界に入る。

 春香用のエプロン──いつの間にか置かれていた──を身に着けて鼻歌混じりに料理をする姿は新妻のようで、見ているだけで何だかドキドキしてしまった。

 良かった、恋愛対象はまだ女性のままなようだ。

 

「……ん?」

 

 何で今僕は春香を見て”恋愛対象(そんなこと)”を考えたんだ?

 頭に中に生まれた思考に顔が引き攣るのを感じた。

 彼女は親友だろう。初めて僕を親友と呼んでくれた彼女に対し恋愛対象に成り得るなんて、どうしてそんな失礼なことを思ってしまったのだろうか。

 強く頭を振って思い浮かんだ雑念を払い、こんな考えはいけないことだと自重(自制)する。

 

「どうかした?」

 

 料理の手を止めた春香が不思議そうな顔で訊いて来るので何でもないと答える。

 春香は僕に良くしてくれている。滅私奉公とまでは言わないけれど、かなり僕に気を遣ってくれていることがわかる。今も僕の挙動不審な態度に気付いてくれたのは、それだけ僕を気に掛けてくれているからだろう。

 それが春香の負担になっていないか心配だった。

 春香がまた無理をしてしまわないか心配だった。

 同時に、そんな春香をそういった対象に見てしまう自分の浅ましさに嫌悪するのだった。

 

「度し難いほど愚かしい」

 

 そして醜悪だ。

 自分を大切にしてくれてる相手に返す感情としては最低の部類だろう。

 春香は下心なく純粋な気持ちで接してくれているのに、僕は春香に不純な気持ちを抱こうとしていた。なんて悪いやつなのだろう。

 きっとこの感情は麻疹みたいなものだ。だから、いつか治って消えてしまう。そうすればまたこれまで通り親友として接することができる。

 でもその前に春香の気持ちを裏切るようなことを僕がしたらと思うと焦燥にかられるのだった。

 なんとかしてこの身体の奥底に眠るものを切り捨てる方法は無いだろうか……。

 

 結局、春香が料理を完成させるまで考えたが良い案が浮かぶことはなかった。

 

 

 

「私、春香の作るご飯好きよ」

「本当っ? 私も千早ちゃんのこと好きだよ!」

 

 春香が作ってくれた料理は今日も美味しそうだった。

 昼間にお菓子を爆食い(春香のみ)していたのでカロリーを気にしたメニューが胃に優しく見える。

 結局僕の方は自分の失敗談を語るのに夢中でそんなにお菓子を食べられなかった。別に元から体調不良だったので食べられなかったのは良いのだけれど、せっかく春香に誘って貰ったスイーツフェスタであまり食べられなかったことが心残りになっていた。

 お菓子が食べられなかったことよりも、誘ってくれた春香に申し訳ないと思う気持ちの方が強い。

 代わりと言って良いのかわからないけれど、春香が作ってくれた料理の方は美味しくいただくつもりだった。

 

「しばらく食べていないと無性に食べたくなるのよね。何でかしら……」

「私も食べたくなるよ」

 

 春香の料理って家庭の味なんだよね。派手でもなければプロ顔負けの美味しさってわけでもないのに、ふとした時に春香のご飯食べたいなと思うのだ。

 これがお袋の味ってやつなのかも知れない。ごめんねお母さん、貴女の娘は他所の女のご飯に母性を感じてるよ。

 

「毎日春香のご飯を食べられたらいいのに」

「千早ちゃんさえ良ければ毎日作ってもいいよ?」

「ううん、それはさすがに悪いわ。春香には仕事だってあるのだし。毎日ここに通うわけにもいかないでしょう?」

「だったら一緒に住めばいいんだよ。私も実家通いが辛くなって来たし、いっそのことルームシェアとかすれば家賃も浮くよ?」

 

 言われてなるほどと思った。確かに春香の言う通り一緒に住めば色々と都合がいい。春香も遠い距離を電車に揺られる必要もなくなるのは僕としても心配の種が無くなって助かる。

 

「……うん、でもやっぱり止めておくわ。優が来れなくなっちゃうもの。中学生とはいえ、さすがにアイドルの家に異性を入れるわけにはいかないでしょう?」

「……」

「春香?」

「まだ優君の方が上かー」

「春香、どうかした?」

「ううん、何でもないよ。本当に千早ちゃんは優君のことが好きなんだなって思って」

「うん……だって、弟だもの。好きじゃないわけないわ」

「本当に弟としてなのかな?」

「ごめん、春香。よく聞こえなかったわ。いま何て言ったの?」

「千早ちゃんは本当にブラコンだねって言ったんだよ」

「むむ、ブラコンで悪いかしら」

「まさか。ブラコンな千早ちゃんも可愛いよ!」

 

 ブラコンを可愛いと言われたのは初めてだった。

 中学時代はクラスメイトの女子から「如月さんっていつも弟さんの話しかしないから」とか言われて全てのグループからハブにされていた僕だけど、春香はブラコンの僕を気持ち悪がらずに相手してくれる。本当に稀有かつ得難い親友だ。

 そんな春香と今後はアイドル仲間として頑張れると思うと凄く心強い。

 できれば同じ事務所で……というのはさすがに尾を引きすぎか。

 もう僕は346プロのアイドルなのだから。いつまでも765プロのことを引きずるわけにはいかない。憧れは憧れのままに、執着心を捨てられるように頑張ろう。

 それに765プロの皆とは無理だったけれど、春香とはこうして仲良くなれたのだから、それだけでも良しとしよう。それ以上を今の僕が求めるのは欲張りだ。

 それに、765プロの代わりに346プロの人達と仲良くなればいいんだ。どんな人達が居るか知らないけれど、プロデューサーや千川さんみたいな良い人が居るのだから他の人達もきっと良い人達に違いない。

 最終面接の感じからして、各部門長と経営のトップ方からの僕の印象は最低だから、アイドルと現場スタッフから好かれるように心掛けよう。アイドル生活を有利にするため言うと利己的に思えるけど、味方が多いに越したことはないからね。頑張って仲良くなるぞ。

 プロデューサーが言うには僕の他にシンデレラプロジェクトのメンバーは十三人居るらしい。元からメンバーに選ばれていた十一人と補充枠として僕を含めた三人を足した十四人がメンバーになる。その中には島村も居るとのことなので、会った時にでもこの間のことは謝ろう。

 あとは補充枠の最後の一人についてはどう接したものか悩み中だ。

 面接官の人が言うにはオーディションの最終審査に残ったのは二人。その内一人は僕が追加されたことでギリギリで落とされたそうだ。最終審査まで残った者同士なら少なからず交流があっただろうし、もし二人でアイドルをやることを約束していたりしたら、僕のせいで約束を果たせなくなったことになる。

 そんな相手に仲良くして欲しいと言えるだろうか。ちょっとそこまで図々しくはできないかな。下手をするとお前のせいでと言って詰られる可能性すらある。

 今のうちに心の準備だけはしておかないといけない。

 でも大丈夫……。だって、僕ってばメンタル強いから!

 きっとその補充枠の人から何か言われたとしても耐えられるはずだ。無理そうなら他のメンバーと仲良くなろう。十二人もいるのだから、一人くらい僕と仲良くしてくれそうな子だって居るさ。

 この十七年間で鍛えたコミュ能力を見せてやる。

 

「ふんっ」

 

 意気込んだ拍子にぐっと握り込んだ箸が折れてしまったが気にしない。僕の箸は基本コンビニの割り箸だ。

 

「……お箸新しいの持ってくるね」

「ええ、ありがとう」

 

 慣れた様子の春香が替えのお箸を取ってきてくれたのでお礼を言う。

 

「今の私はやる気に満ち溢れているわ」

「そうなんだぁ……。はい、お箸」

「ありがとう」

 

 差し出されたお箸を礼を言って受け取る。

 今度は食べ終わるまで折らないように頑張ろう。

 

「やる気に満ち溢れているって、何にやる気になっているの?」

「それはもちろん……んっ」

 

 346プロのアイドル達と仲良くなること。

 そう言おうとしたところで、先程スイーツフェスタでの春香を思い出し言葉を飲み込んだ。

 

 ——千早ちゃんが私以外の人と仲良くしているのを見るとチクチクするから

 

 そう言った時の春香の表情が今の春香と重なってしまう。あんな顔……今にも泣き出してしまいそうな春香は見たくない。

 だから、意思確認が必要だった。その結果如何によっては、僕の346プロでのあり方が決まる。

 

「春香は……私が346プロで他のアイドルと仲良くなったらどう思う?」

 

 とても勇気が要る質問だった。

 何とか紡いだ言葉が、果たして春香にどんな影響を与えるのか予想できない。

 

「千早ちゃんが他のアイドルの子と仲良く……」

 

 僕の言葉を反芻するように繰り返す春香。

 

「千早ちゃんが……」

 

 僕にも僕の事情がある。

 孤独に慣れているとはいえ、所属事務所でぼっちになるのは避けたかった。誰かとユニットを組むとことだってあるだろう。

 何よりも、僕はシンデレラプロジェクトのメンバーなのだから、否が応でも他のメンバーとの付き合いはしなければならない。

 でも、そういった僕の事情を春香に伝えることで、春香の感情を押し殺すことを僕は望まない。

 

「…………もしも、私が」

 

 僕の投げたボールを果たして春香はどう受け取って、どう投げ返すのか。

 僕は春香が答えを口にするのを待った。

 

「……」

「……ううん。やっぱり止めた! これは違うもんね!」

 

 だが、春香は何も答えないことを選んだ。

 

「いいの……?」

「うん! 私ね、千早ちゃんとはちゃんと仲良くなりたいと思ったんだ。だから、これは違うなって。……こういうのは違うなって」

 

 それが何かは僕にはわからない。でも、春香が言うことを躊躇ったということは、少なからず良い話ではなかったということだろう。

 別に僕は春香が望むなら、346プロの人間と挨拶だけの関係になってもいいんだけどなぁ……。

 

「私はまっすぐ千早ちゃんと向き合うって決めているから。私は千早ちゃんを不幸にしてまで幸せになりたくないもん」

「今も十分に幸せよ? それに、私は春香が幸せになってくれるならちょっとやそっとの無理なんて苦でも無いわ」

「千早ちゃんは本当に優しいね……でも、違うんだ。私は幸せになりたいんじゃないんだよ」

 

 春香が僕の手を掴み、その両手で包み込んだ。

 彼女の手の温もりを感覚のほとんどを失った僕の手は確かに感じた。

 

「私は千早ちゃんと幸せになりたいの!」

 

 万感の想いを込めるような春香の声が僕の耳朶を打つ。

 

「だって、私は千早ちゃんが大好きだから!」

 

 春香からの「大好き」という言葉が僕の胸に突き刺さる。

 大好きだと言われたことは正直嬉しい。それが僕と幸せになりたいという意味なのも含めて、春香の言葉は僕を幸せな気分にしてくれた。

 

「私も好きよ……大好き」

 

 だから、春香からの想いを受け止めない理由にはならなかった。

 だって僕達は──、

 

「私達は最高の親友ね!」

 

 お互いに違う事務所だとしても、こうして友情を確信できるって良いよね。

 ズッ友万歳。

 

「……」

「……春香?」

「ンゥイウウウウヴァー!」

 

 春香が壊れた。

 

 

 

 

 

「はぁ~……」

 

 友情確認の後、夕食も恙無く終わり、洗い物を片付けてソファへと着いた春香が珍しく溜息を吐いていた。

 

「……何かあった?」

「え……なんで?」

 

 そんな盛大に溜息を吐いておいて何もないってことはないと思う。

 それに疲れた時の春香は甘えて来るようになるので、今みたいに溜息を吐く時は何か悩んでいることになる。

 

「何も無かったならいいの。でも何か悩みがあるなら私は何だって聞くわ。もうあの時とは違う。私はすぐに貴女の手を取れる」

「千早ちゃん……」

 

 今でもたまに思い出すことがある。あの日春香が僕に向けて差し出された手を僕は取ることができなかった。あの時の絶望に満ちた春香の顔がちらつく度に、彼女のために何かしてあげたいという衝動が生まれる。

 もしも、自分があの手をすぐに掴める強さを持っていたらと何度も考える。そんな強さが僕にあれば、僕の人生はもう少し順調だったのかなって夢想する。

 誰かを傷つけず、誰からも恨まれず、何も間違えない。そんな人間であれたなら僕はもっと幸せだったのだろうか。

 765プロのアイドルになれたのだろうか。

 そんな意味のないもしもを考える。

 でも、そんな考えも自分の人生の失敗を嘆いている行為でしかなく、そこに春香への思い遣りの心が欠落していたと気付いてからはしなくなった。 結局自分が一番可愛いだけじゃないかと自己嫌悪する。

 

「私と千早ちゃんって別の事務所なんだなって改めて思ったら何だか気落ちしちゃって」

「春香……」

 

 春香の表情は暗い。いつか見せた絶望に染まった暗さこそ無いものの、春香らしい晴れやかな顔とは程遠い。

 この目の前の少女が時折見せる負の面は僕を不安にさせる。

 これまでの会話の端々から予想するに、春香は765プロの皆に相談事というものをしたことがないように思える。

 それが彼女の遠慮の所為ならばそこまで心配することもないんだろうけど、もしそれが仲間への拒絶だったらと思うと心配になる。春香に限って仲間を拒絶するなんてあり得ないことだと思いたい。でも、彼女の口から765プロの話が出る度に、何か言葉にできないモヤモヤとした違和を感じてしまう。話を聞く限りでは仲が良いはずなのに、仲間のはずなのに、春香と765プロの間に何かある気がしてならないのだ。

 これが僕の勝手な妄想であって欲しいと思っている。

 

「千早ちゃんがアイドルになって、これまで以上にお互いの時間が合わなくなったりしたら、こうやってデートする時間もとれなくなるのかなって思ったら……あはは、駄目だなぁ私。せっかく今日は楽しい日にしようと思っていたのに、最後にこんな風に弱音を吐いて千早ちゃんを困らせちゃった」

 

 それは違うよ春香。

 このまま春香が何も言ってくれなかったら、僕はまた春香の抱える苦しみを見過ごしていた。春香が一人で悩んでいることを知らずに居たままだった。

 

「春香の悩みを全て取り除けるなんて傲慢なことを言うつもりはないわ。でも、春香が一人で抱え込まずに済むように、貴女の話を聞くことはできるのよ?」

 

 前にも言ったことだが、一人で溜め込み易い春香の話を聞くことで、少しでも力になれることがないか一緒に考えたい。

 僕程度でよければ何だってしてあげるから。

 なんて言っても迷惑かもしれないけれど。

 

「確かに春香が言う通り、今後私の方もアイドルの仕事で忙しくなると思う。……だから、春香とこうしてゆっくりとした時間を共有する機会も減ると思う」

「……」

 

 僕の言葉に春香は段々と表情を暗くしていく。

 その顔を見ると罪悪感を覚えてしまう。誰も悪くないはずなのに。ただ、お互いに活躍を望めばそれだけ二人の時間が減ることを疎んでいる。

 それ以上に僕が心配しているのは、この部屋を春香が避難所として使えなくなることだった。

 これまで僕が家に居ることが多かったので春香を迎え入れることができたのだが、今後僕が家を空けることが増えた時に春香の避難所として使えなくなってしまう。

 また春香が長い時間電車に揺られることを何とか回避できないかと、少し前から考えていたのだ。

 そして出した結論を今から春香に教えるつもりだった。

 

「春香、ちょっといいかしら」

「ん、なぁにぃ?」

 

 まるで単体生物の様に、でろーっとソファの背もたれに身体を預け首だけをこちらに向けて来る春香に内心で苦笑する。

 最近僕の部屋だとダレすぎじゃないですかね春香さん……。

 

「実は春香にあげたいものがあって」

「あげたいものー?」

 

 春香の疑問に答えずに、まだ垂れたままの春香の隣に座る。

 もったいぶるつもりはないけど、さらっと渡すのも何か味気ない気がするのでちょっとだけ焦らしてみる。

 

「突然だから春香も戸惑うかもしれないけど……前々から春香にあげたいものがあったの」

「……何、かな?」

 

 急に神妙な顔で居住まいを正す春香。

 

「今まで誰にもあげずにいたものなんだけど……」

「千早ちゃんが誰にもあげなかったもの」

「このままだと誰も貰ってくれないかなって……あ、押し付けるつもりじゃないのよ? でも、こういうのって仲の良い特別な相手にしかあげられないし」

「……それって」

「私が春香にあげられるもので、特別な物って言ったらこれくらいしか思いつかなくて……」

「千早ちゃん……!」

「だから、受け取って欲しいの」

 

 満面の笑みで両手を広げた春香へとそれを差し出した。

 アイドルとなった僕が家に帰る時間が遅くなることで春香が泊まりに来られないかもしれない。その解決方法というのがこれだ。

 

「……これは」

「合鍵」

 

 僕が取り出したのは僕の家の合鍵だった。この間優に頼んで持って来てもらった。

 これを春香が持っていれば、たとえ僕が部屋に居なくても帰りを待つ必要がない。これを使って中に入って貰えばいいわけだ。

 

「ほら、私がアイドルとして働き始めたら、どうしても遅くなる日があるかも知れないでしょう? そんな時に春香が泊まりに来てくれたりしたら締め出されると思って。良かったら持っていてほしいの」

「あい、かぎ……」

 

 合鍵さえあれば、もう春香が締め出されて寒い思いをすることがなくなるからね。

 

「これって……あいかぎ」

「ええ、そうよ。合鍵よ。家族以外では春香しか持ってないもの」

 

 ただの友達に合鍵を渡すなんて普通しないもの。それを渡すなら親友じゃないとね。

 

「合鍵……」

「ええ」

「……んんー! 残念バンザイ!」

 

 両手を上に挙げ春香が叫んだ。

 それは、残念なのか良かったのかどう受け取れば良いのだろう?

 

「えっと、喜んでもらえたのかしら……。それとも、迷惑だった?」

「まさか! すっごく嬉しいよ! こんな合法的に千早ちゃんの家に入れる物を貰えたんだもん!」

「そ、そう? 私が部屋に居なかったら遠慮なく入って構わないわ。昨日みたいに部屋の前で春香が待ちぼうけだなんて嫌だもの」

「ありがとう、千早ちゃん。合法的に千早ちゃんが不在の部屋に入れるようにしてくれて」

 

 言い方。

 さっきから言い方が何か引っかかるんだよなぁ。

 春香に限って変なことはしないだろうけど。きっと僕の脳が変な翻訳をしているだけに違いない。

 何にせよ、想像以上に喜んで貰えたようで良かった。最初は合鍵なんて渡しても喜ぶか不安だったけどこの様子なら問題なかったみたいだね。最悪面倒だと受け取って貰えない可能性だってあったから、こうして喜ぶ春香の姿を見て安心した。

 

「そ、それはそうと。合鍵が貰えたってことは……つまり、これって……そ、そういうことでいいんだよね?」

 

 そういうこと?

 自由に部屋に入っていいということだろうか。合鍵を渡したのだからそう受け取って貰って構わない。いちいち部屋に入るという連絡も要らないくらいだ。昨日みたいに何か僕が連絡に気付けないこともあるだろうし、その時入れないというのでは合鍵を渡す意味がない。

 

「そうね。そういう意味と受け取って貰って問題ないわ」

「わっほい!」

 

 大袈裟に喜ぶ春香の様子が微笑ましい。いや、ここは反省すべきだろうか。まさか締め出された反動でここまで喜ぶなんて……。

 ルームシェアができない代わりにこれで仮宿としてこの部屋を使って貰えたら良い。

 

「千早ちゃんの特別……」

 

 そうだね。親友というポジションは特別だよね。

 友達すらいない僕に親友というポジションは特別以外の何者でもないわけだ。

 春香の笑顔が太陽みたいなキラキラした誰かを照らすものならば、僕の笑顔は誰かの喜びを映して光る月だ。それでいいんじゃないかと思った。

 誰かの楽しいとか嬉しいという気持ちを大切にしよう。その気持ちを思い出せる、自覚させられる笑顔が僕の笑顔だ。

 

「いつも料理とかしてもらっている春香に何か返せるものが無いかと思って、鍵以外にも何かないか考えたのだけど……」

 

 これでも色々と考えていたのだ。

 でも服とかアクセサリは日々の食費にすら困っている貧乏人に買えるわけがないし、逆に料理を振る舞うにも”如月千早”に料理上手な奴が見つからなかった。

 

「でも、駄目ね。何も思いつかなくて……だから、何かして欲しいことってあるかしら? 何でもするわよ」

 

 最後の手段として「何でもする」を発動してみた。

 これって何でもって言われた側が困るやつだよね。春香も言われて困ると思うんだ。

 

「本当!?」

 

 だが春香の食い付きはとてもよかった。

 

「本当の本当に、何でもいいの?」

「え、ええ、私ができる範囲内ならばだけど」

 

 この念の押しようは何だ。春香から何やら鬼気迫るものを感じる。

 そんなに必死になって何でもを強調されると何を言われるのかと不安になるんだけど。

 

「私は! 千早ちゃんとお風呂に入りたい!」

 

 …………。

 うん。

 うん?

 お風呂に入りたい? 僕と?

 

「それだけ?」

「……うん」

 

 念のため確認してみると春香からは弱々しくもはっきりとした肯定が返って来た。

 ……えーと、よく意味がわからないけど、そこまで溜めて言うほどのことかな。

 そんな一世一代の覚悟みたいな顔をするから何を言われるのかと身構えちゃったよ。いまいち春香の中の友達との距離感が理解できないね。

 男と女の話でもないんだから気軽に言えばいいのに。

 

「別にいいけど?」

「本当!?」

 

 僕が了承した途端に春香がノータイムで迫って来た。だからそこまで喜ぶ感覚がわからんのだが。

 

「ええ、本当よ。お風呂に一緒に入るのよね?」

「うん、うん! 一緒に、入るよ、千早ちゃんと私が同じ湯船に! 念願の!」

 

 あ、もしかして友達とこういうイベントをしたことがないとか?

 765プロのメンバーと仕事先や合宿先の大浴場で裸の付き合いをするシーンが度々描かれていたけれど、プライベートの友達とこういうイベントをしたことがかったとか。これが春香式友情確認の儀式なのかも知れない。

 だったらなおさら断る理由はないね。

 問題は僕の中身が男ってことだけど。春香にそれを言うつもりもないのでやはり問題はないのだった。

 

 

 

 興奮した様子の春香に促され、さっそくお風呂に入ることになった。

 

「えへへ~千早ちゃんとお風呂だぁ」

 

 大して広くもない脱衣所で二人並んで服を脱いでいると、隣から嬉しそうな声が聞こえたので顔を向けるとニヤついた顔の春香が目に入った。

 

「そんなに喜ぶことかしら?」

「だって、千早ちゃんとお風呂に入れるんだもんっ。合法的に」

 

 その「合法的」って言うやつ、何か犯罪臭が凄いからやめて欲しいなぁ。

 そもそも合法的があるなら非合法なやつって何よ。青狸の秘密道具でお風呂に突撃するとか?

 友達との初イベントだから嬉しいというのはわからないでもないけど、ちょっとはしゃぎすぎに見える。

 いや、僕も初めての友達である春香との初イベントとあって嬉しい気持ちに変わりないんだけどさ。

 しかし、その喜びに浸っている余裕は僕になかった。意外にも春香が隣で服を脱いでいるという状況に今になって気恥ずかしさを感じ始めてたのだ。

 だってあの春香だよ。アイドルマスターのメインキャラでトップアイドルの春香が隣で脱いでいるんだよ。冷静でいられるわけがない。

 前にライブ衣装を見せてくれると言う春香が部屋で下着姿になったことはある。その時目にした彼女の下着姿に何も感じなかったので今回も大丈夫だろうと高を括っていたのにこの様である。そう言えば女性の下着姿なんて中学時代の体育の授業で何度も目にしていたから慣れていただけじゃないか。それだって慣れるまでは恥ずかしかったし、慣れた後もあまり見ないようにしていた。だからこんな風に真横で、しかも裸になる状況というのは初めての体験だった。

 ちらりと隣の春香を覗き見る。

 ちょうど上を脱ぐところだったらしく、シャツに頭を通している。両手を挙げて胸を強調する格好のため自然と胸に視線が行ってしまった。

 春香の年相応に育った胸とその下の綺麗にくびれたお腹が眩しい。

 なんとなく自分の胸を見下ろしてみると、何の苦労もなく爪先が見えた。これが春香ならやや前に頭を移動させなければいけないというのに、僕はデフォルトだった。

 

「……」

 

 別に胸の大きさを気にしたことはない。アイドルならもう少しあっていいとは思うけど、無いならば無いでいいと納得している。少なくとも他人のを羨ましがったりするようなことはなかった。

 早々に胸の成長は諦めていたからね。十二歳の時点で。

 

「千早ちゃんの肌ってスゴク綺麗だね。雪みたいに真っ白……」

 

 上を脱いだ状態で一旦脱ぐのを止めた春香が感嘆混じりに僕の肌を褒めて来た。確かに僕の肌は生まれてこの方日焼け一つしていないくらいに白い。きめの細かさは赤子と比べても遜色がないらしい。

 実は昔デパートの美容器コーナーで肌年齢を測定するサービスを受けたことがあり、その際肌年齢が一歳児と同じという結果が出たのだった。その時測定してくれたお姉さんにスキンケアの秘訣をしつこく訊かれた思い出が蘇る。あの時のお姉さんの鬼気迫る表情は今も覚えている。超怖かった。女性の美への執念は世界が変わっても強いのだと知った瞬間である。

 春香はまだ若いので件のお姉さんの様なことにはならないだろうけど、この反応からして僕の肌に興味深々なのは変わりないようだ。ケアのコツとか訊かれても困るんだよね。生まれた時からずっとこれなんだから。スキンケアなんてろくにやったことないよ。素直に言うとそれはそれでブチギレ案件なんだよね……。

 

「えっと、最初に言っておくけど特にケアとかは……」

「シミもないし。ほくろだって一つもない。……ほわ~、すべすべだー」

 

 あの、春香さん?

 肌の綺麗さに感嘆してくれるのは恥ずかしいけど嬉しいからいいよ。でも感想を言いながら触ってくるのはどういう了見だろうね。一応女同士とはいえ、そこは一言断りを入れるところじゃない?

 僕の無言の抗議に気付いていないのか、春香は肌の触感に執心中である。肩から背中、腰にかけて手を往復させている。指先でなぞるようにしたかと思えば、手のひら全体で肌の感触を確認するように触れてくる。

 

「千早ちゃんの肌……すごい……」

「あの、春香、そろそろ」

「美味しそう」

「え……ひゃっ!?」

 

 カプリ、と音がするくらいの勢いで春香が首筋を噛んで来た。

 さすがに触覚が死にかけているとはいえ、首筋に噛み付かれたら感覚が伝わるよ。

 

「なにするのっ? いきなり噛み付くなんて……」

 

 噛まれた首筋を押さえて春香から距離を取る。あまり取りすぎると傷つけるかもしれないので気持ち程度だけど。それに狭いしね。

 

「あっ……ご、ごめん! あまりにおいしそうに見えたから、ついっパクっと」

 

 申し訳なさそうに眉を下げる春香に逆に申し訳なくなる。驚きはしたけど怒るほどじゃないから。

 

「もう……褒めてくれるのは嬉しいけれど、噛み付かれるのは困るわ。食べ物か何かに見えたの?」

「え、千早ちゃんの肌に見えたけれど?」

「んっんー?」

 

 ちょっと日本語が通じ合ってない気がするぞい。

 食べ物か何かと錯覚したならともかく、ちゃんと僕に見えていたなら噛み付かないでしょ……。

 

「ちょっとこの話は置いておくとして……あまり裸でいても風邪をひくわ。先に入っててくれるかしら?」

 

 僕の肌を触りながら脱いでいたとでも言うのか、いつの間にか全裸になっていた春香にお風呂場へ行くように促す。

 

「うん、先に行ってるね。途中でやっぱり止めたとか嫌だよ?」

「そんなことしないわよ。すぐに行くわ」

 

 春香を押しやるようにして浴室へと向かわせた。その時裸を見ない様に気を遣うのが大変だった。

 無邪気にじゃれて来る春香には申し訳ないけれど、中身男の僕には少々刺激が強すぎた。思わず鼻血でも出てやしないかと鏡で確かめる。

 

「……赤くしすぎだろ」

 

 少し曇った鏡でもわかるほどに僕の顔は赤くなっていた。

 

 

 

 浴室へと入ると春香はシャワーを浴びているところだった。

 こちらに背を向けているため当然なのだが、春香のスキンケアを欠かしていない綺麗な背中とその下の形の良いお尻が視界にばっちり映ってしまう。

 

「……」

 

 いけないことだと重々承知しているのだが、男のサガと言うべきものか……意識して視線を外しても視界の端に春香を意識してしまう。

 って、何をしているんだ僕は!?

 春香は僕を親友として想ってくれているというのに、僕は不純な視線を春香に向けようとしているなんて……!

 親友と慕ってくれる相手に色のついた視線を向けるなんてゲスすぎるだろ。こんなゲスい奴は僕くらいしかいないんじゃないだろうか。もし僕以外にも居るなら侮蔑のそしりを受けてもらおう!

 

「お、お待たせ……春香」

 

 何と声を掛ければいいのかわからないので適当に口に出してはみたものの、何か変な感じに聞こえるぞこれ。

 理由はわからないけど。

 

「待ってたよー、千早ちゃん!」

 

 シャワーを浴びるのを止めた春香がこちらへと振り返ったので慌てて目を逸らす。

 さすがに前を見るのはアウトだろ。いや、女同士だからアウトもセーフも無いはずなんだけど……。いや、意識している時点でアウトか?

 

「千早ちゃんって……」

「な、何かしらっ?」

 

 こちらを見た春香が意外そうな声を上げるの慌てて聞き返す。

 何だ、僕は何かをしていまっただろうか?

 顔が赤いことがバレた?

 変な目で春香を見ていたことがバレた?

 

「千早ちゃんの髪の色って地毛だったんだ……」

「え?」

 

 今更何を、というか今なんでそれを春香が言ったのか不思議に思い、できるだけ下を見ないように横目で確かめると、春香の視線が僕の下半身に向いていることがわかった。

 

「……」

 

 その視線の意味──何を見て春香が僕の髪色が地毛だという結論に至ったのか気づいた僕は、持って来たタオルで春香の視線から体を隠したのだった。

 

 

 

 その後は変な空気になることもなく、いたって普通に体を洗い終えた僕達は一緒に湯船へと浸かっていた。

 洗っている間は目を瞑って誤魔化していたけれど、湯船に浸かるとなると色々と見えてしまうことに気付いた僕は、苦肉の策として入浴剤を湯船へとブチ撒けることで視覚的脅威を排除した。

 その際春香から残念そうな声が上がった気がするが、あまり入浴剤とか入れないタイプだったのかもしれない。悪いことをしたと思いつつ、僕の精神の平穏を保つためにも我慢して貰おう。

 

「ちょっと、狭いわね……」

「そうだね。キツキツってほどじゃないけど、足を伸ばせるって感じじゃないね」

 

 今の僕達はお互い向き合う形で湯船に入っている。足を伸ばすにはこの浴槽は小さ過ぎるため体育座りの形だ。

 せっかくお風呂に入ったというのに、足も伸ばせないとあっては片手落ちと言えるだろう。

 お風呂は足を伸ばしてゆっくり浸かりたいよね。ただでさえ今日は歩いたわけだし。春香にしても同じ気持ちのはずだ。

 

「春香も疲れているでしょう? 私は先に上がるから、春香はゆっくりしておいて」

「待って!」

 

 湯船から上がり、春香に独占させてあげようと思い立ち上がろうとすると春香に待ったをかけられた。

 

「えっ上がっちゃうの? まだ早くない!?」

「でも、二人だと足も伸ばせないし、ゆっくりできないでしょう?」

「大丈夫。私にイイ考えがあるから!」

「良い考え?」

 

 はて良い考えとは何だろうか。

 まさか対面のまま足を伸ばすとかじゃないよね。お互い足を横にずらしてもちょっと狭いと思うけど。

 

「じゃ、千早ちゃんこっちに来て」

「は? な」

 

 何を──と言う前に腕を引っ張られる。身構えていなかった僕はあっさりと春香の方へと体を引き寄せられてしまった。

 その際ぱしゃりとお湯が跳ね、僕の顔にかかったことで一瞬視界が塞がった。

 その一瞬だけで春香の行動は終わっていた。たぶん、感触こそないが、今の僕は春香に抱き着いてしまっている。

 

「は、春香っ!?」

 

 まさか良い考えってこれのこと?

 僕が春香に抱き着くのが良いこと?

 いや、確かに悪くはないけど……いや、駄目だろっ。

 タオルの一枚すら間に挟まず肌を触れ合わせている状況に頭が混乱する。感触が無いことが唯一の救いだった。

 

「で、こうして反対を向いて座ればいいんだよ!」

 

 僕の混乱をよそに余裕のある態度で春香は僕の肩を掴むと、僕の身体を反対側へと向けた。

 これは……僕が春香を椅子にして座っているってことになるのか?

 

「あ、あの、春香? これはさすがに」

「これなら二人とも足を伸ばせるよね?」

 

 確かにお互い足を伸ばせるけども!?

 そういう問題じゃない気がするんだけど。

 

「いや、その、これ」

 

 色々と当たってる、はず。

 僕のお尻には春香の太ももが、背中には春香の胸が当たっているはずだ。

 

 ──はずだ!

 

 感触が無くて助かった!

 今ほどチートの副作用に感謝をしたことはないね。と言うか、副作用に感謝する機会が来るとは予想していなかった。

 

「千早ちゃんかるーいっ! ぎゅー!」

 

 ぎゅうぎゅうと後ろから抱き着かれても何も感じないで済む。確かに、これなら視界に春香が入らない。感触は副作用で無くなっているから問題ない。

 ありがとう副作用。今後とも必要に応じて副作用を服用させて貰うね。

 

「重くない? 大丈夫?」

 

 視覚と感触からの脅威を感じなくなったため幾分平常心が戻って来たので春香を気遣う余裕もできた。

 いくら湯船の中とはいえ、僕を足の上に乗せている春香に負担はかかっていないだろうかと心配になる。

 

「全然! 軽いくらいだよ。と言うか、何を食べたらこんな軽くなるのかってくらい?」

 

 何を食べたらって言うか……何も食べなければこうなるってのが正解かな。

 春香と優が用意してくれない限り食べ物とか口にしてないから。

 

「まあ……春香が大丈夫ならいいけれど」

「うん! この体勢がたぶん一番いいと思うんだよね」

 

 春香が良いなら僕に否やは無い。自分で言うのも何だけど、僕は身長の割に体重が著しく軽いので湯船の中と相まって春香への負担は極小だろう。

 せっかく彼女が提案してくれたのだ、しばらくはこの体勢で浸かっておくことにしよう。

 

「……」

「……はぁはぁ」

 

 背中越しに春香の存在を感じるけれど、それ以外はよくわからない。下手に動くと春香に痛い思いをさせてしまうのが怖いので動けない。

 春香の方も何かを言って来ることがなくなったので、たぶん黙って湯船に浸かるつもりなのだろう。

 

 しばらく無言の時間が続いた。

 浴室には僕達二人の息遣いと、時折浴槽の縁から溢れたお湯が床へと落ちる音だけが聴こえる。

 時折僕の視点がズレることがあるが、これは春香が座り直すか何かしたことで僕も同様に動いてしまっているということか。

 まあ、こうして静かにいられるなら意識しないで済む。

 ちょっと耳元に聞こえる春香の鼻息が段々と音量を上げているのが気になるくらいか。

 僕は気にしてないけどお湯が熱いのかもしれない。

 とうとう春香が僕の肩に頭を乗せて来たのでこのあたりが潮時だろう。

 

「春香」

「えっ!? あ、い、嫌だった? あんまりこういうの慣れてなかったら……」

 

 ちょっと何を言っているかわからないが、春香が言っているのが頭を預けることだというのならどうってことない話だ。

 

「別にそれはいいのだけど、そろそろ上がった方がいいんじゃないかしら? これ以上は春香が逆上せそうよ」

「え、私は平気だけど……?」

「いやいや……」

 

 どう考えてもそんな鼻息を荒くした状態の人間が大丈夫だとは思えないんだよなー。

 

「そうは思えないから言っているのだけど。逆上せて倒れたりしたらどうするのよ」

「でも、今かなりいい感じだし。このままもありかなって」

 

 湯船の中でまったりというのも悪くはない。しかし、湯あたりを舐めてはいけない。その時は大丈夫に思えても、時間が経ってから体調が急変することだってあるのだから。

 僕は湯あたりどころか熱湯の中ですら問題なく活動できるけれど、春香は肉体的には一般人なのだから気を遣い過ぎということもないはずだ。

 この世界の人間は車に轢かれたり、高所から落下するだけで大怪我したり、下手をすると死ぬくらい脆いのだ。春香も例に漏れず脆いので心配してしまう。

 

「駄目よ、お風呂ならまた今度一緒に入ってあげるから。今日はこれくらいで終わりましょ」

「えー! 待って、もう少し……あと少しだけ堪能させてっ?」

 

 絶望した声音で拒否をする春香。

 どれだけお風呂好きなんだ。彼女の新たな属性を知れて嬉しいのだけど……お風呂好きを湯船から上がらせるのは骨が折れそうだ。

 

「あがるわよ」

「だめー! もう少しだけだからー!」

 

 湯船の縁に手を掛けて立ち上がると春香が腰に抱き着いて来て出ることを阻止して来た。

 体勢が悪かったために踏みとどまれずに再び春香の上に座り込んでしまった。

 

「ちょ、春香っ、お風呂の中ではしゃがないで!」

「もうちょっとだけだから! 少しコツを掴んで来たところだから! ねっ?」

 

 何のコツ?

 いや、だから逆上せたら危ないっての。それよりもお風呂の中で暴れると危険だってわかって欲しい。

 

「春香? ねぇ、お願いだからこれ以上は……」

「大丈夫だから! 私大分わかって来たから!」

「何がっ? ちょっ、春……」

「私に任せてくれたらいいんだよ?」

 

 ……。

 ……。

 ……。

 

 ちょっとのぼせた。さすがに長風呂が過ぎたようだ。

 僕がこれなのだから、春香の方は案の定逆上せてしまいダウンしてしまった。

 今春香は僕の膝を枕にバスタオル一枚を体に巻き、頭に氷を乗せた状態でソファの上で唸っている。

 氷を頭にバランスをとって乗せる気力も無さそうなので、僕がソファに座り春香の頭を膝に乗せ、手で氷を押さえる形で冷やしている。

 春香が思っていたよりも強情でなかなか出ててくれなかったので長風呂になってしまった。

 僕が湯船から出ようとしても離してくれず、ずっと僕を抱えたままお風呂を堪能し続けたのだった。

 案外春香にはサドっ気があるんじゃないか。僕は別にマゾではないのであんまり強く当たられると困る。

 本当なら春香に一言文句を言ってやろうと思ってたんだけど、僕以上にのぼせてダウンしてしまった春香に追い打ちを掛けるわけにもいかないので保留中だ。

 僕基準で耐久レースとか無謀過ぎるんだよ。文字通り命賭けになるから。

 まあ、死んだところで僕には勝てないだろうけど。

 

「うー……」

「お風呂で騒ぐから……」

「面目……ありません」

 

 今春香が巻いてるバスタオルだけど、それほど大きくないため体を全部隠し切れていない。辛うじて上下のキワドイ部分を隠せてはいるものの少しでも体を動かしたら見えてしまいそうだ。今更春香の裸を見たところで何だって感じだけど。

 何かお風呂の一件でいちいち気にするのがアホらしくなってしまった。他の女の子はともかくこの先春香相手に似た状況でドキドキすることはないだろう。これで一安心と言えるね。やっぱり友達相手にドキドキするとか不純だもの。僕は春香とは友達でいたいから今回の一件は怪我の功名的な意味でも良いイベントだったと言えよう。

 

「こんなことした手前言いにくいんだけど……また、一緒にお風呂入ってくれる?」

「私で良ければいつだっていいわよ」

「よかったー……今度はもう少し上手くやるね?」

 

 ……何を?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その日の夜、僕は珍しく夢を見た。しかもそれが夢だと自覚する、いわゆる明晰夢というものだった。

 その夢は僕が飼っている大型犬と戯れるというありきたりなものだ。

 前世も今世でもペットなんて飼ったことがない僕だけれど、犬とのやりとりがやかにリアルだった気がする。

 夢の中の犬がしっぽを振りながらじゃれついて来るので頭をよしよしと撫でるすると犬はしっぽを振りながらさらにじゃれついて来た。

 顔を舐めたり匂いを嗅いで来たり、僕が想像する犬っぽいことはだいたいされた気がする。さすがに口にむしゃぶり付かれた時は慌てたけど、すぐに夢だと思い直してされるがままになっていた。

 だが服の中に顔を突っ込んで来た時は夢の中と言えどさすがに止めざるを得なかった。やけにリアルな夢だったためにくすぐったくて止めたのだ。やけに興奮した犬が少し怖かったというのも理由だった。

 犬の方も僕が軽く顔を押しやると服に顔を入れるのは止めてくれた。聞き分けが良い子だと褒めるために頭を撫でるとまた口にむしゃぶりつかれた。

 夢とはいえ、これ僕のファーストキスなんですが……。

 そんな、ほのぼのとしつつもどこかモヤモヤを残す夢だった。




千早「春香を恋愛対象にしないと誓う」

千早が本能に従い欲望に負けることがきっと皆を幸せにする。皆が幸せになる。
元々アイマス好きというのもあり、千早は765プロアイドルが好きです(凛を除く)。
仮に今の時点で春香が千早に告白していた場合、よほどタイミングが悪くなければ千早は即OKを出していました。それくらいには千早の中身は男のままなのです。
ただし、この先キャラが増えてくると成功率は下がっていき、とあるキャラと千早が仲良くなった後は独力での春香ルートは無理ゲーになります。
つまり、この日で春香にとってのイージーモードは終了です。次回からハードモード開始。

今回は春香と千早に一緒に風呂に入ってもらい、春香に千早の髪の色が地毛であると知ってもらうためだけの回。この部分が4話目でカットされたというシーンです。それ以外は余分でしかありません。
そして一年近く筆が止まった原因でもあります。
最後のお風呂シーンにつなげるためだけに5-9話を書きました。まさしく蛇足。そして肝心のお風呂シーンも蛇足。

あと今回春香は特大の地雷を踏みかけました。「もしも…」の後を続けていたら千早がブチ切れています。
実はこの時点で春香側に千早に対する大きな認識のズレがあり、それを知らずに地雷を踏んだ場合修復不可能なレベルで二人の関係が崩壊していました。
その場合全てのアイドルを食い尽くす化物が生まれていたでしょうけど、寸でのところで春香が思いとどまったためアルティメットクリーチャーは卵のまま孵化しませんでした。

総括:千早の体毛は青い



次回は初お仕事編。
千早のチートが少しだけ開始です。


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アルティメットな初仕事その1

ようやく千早が出勤できました。
長かったですね……。


 今日は月曜日。アイドルのお仕事初日である。

 僕は朝から346プロダクションにやって来ていた。

 時刻は八時半。今日は初日のため九時に出社するように指示されていたので三十分早い出社になる。交通機関を使わずに通勤するつもりのため電車等の遅延を気にする必要はないけれど、悪天候や工事で遅くなることも考えたらもう少し早く家を出た方がいいかもしれない。せっかくのチート体質なのだから睡眠時間はもっと削っても構わないだろう。

 

 初出勤という記念すべき今日、346プロダクション前まで来た僕は少しだけ緊張していた。

 いや、アイドルの仕事自体はどうってことはない。決してリラックスしているわけではないけど、緊張を自覚する程の重圧は感じていなかった。

 では、僕が何に気後れしているかと言うと、目の前に広がる346プロの事務所──会社? まあ、事務所とは名ばかりのでかい建物にビビったというのが正解だ。

 正面玄関らしき洋風の建物は事務所と言うには洒落ており、モダンとも言えなくない煉瓦造りの見た目は一瞬お城に見えてしまう。その玄関部分の背景には前面のイメージとは異なり近代的かつ洗練されたデザインのビルが建っている。どちらも周囲の建物から色々な意味で浮いていた。

 建物自体も凄いのだが、その周りがさらに凄いことになっている。

 左右を見ればかなり遠くまで事務所の敷地を囲う様に柵が続いていた。柵の向こう側は全て美城グループの所有物である。

 その広い敷地内には前述した二つ以外にも大小様々な建物が多数混在し、入口からでは全て確認できないくらいだ。軽く調べた情報によると、広大な敷地面積を有するここにぎっしりと芸能関係の施設が設けられているとか。

 それでいて周囲の美城以外の建物とは著しく浮いているということもなく、決して下品さを感じさせない造りになっている。よく観察すると、周りの景観を損なわないように樹木を植えるような”余裕”さえ見て取れた。ただし、その余裕を含めた全てから美城グループの歴史と強さ、そして凄味を感じ取れてしまうため僕のは若干引いていた。

 今僕が立っている正門からまっすぐ進んだ先に見えるお城っぽい建物が一番目立つのだけれど、その周りを囲むように建つ何かしらの施設も十分な存在感を放っている。少なくとも346の建物一つで765プロの事務所が丸々入ってしまうくらいと言えば伝わるだろうか。

 僕の認識間違いでなければ、奥の方にカフェらしき物がまるまる一棟建っているように見えるんだけど……。

 事前情報で知ってはいたけど、やはり346プロダクションという所は大手なのだと改めて実感させられた。

 そんな大手事務所を前にして僕は今敷地内に入れずに右往左往している。

 実はここに来るのは初めてのため、どう入っていいかわからないのだ。

 見た目だけならどこかの一部上場している外資系企業に見えなくもない346プロの敷地だ。そこに普段着姿の僕が入るのは何だか躊躇われた。

 周りを見ても事務所に出入りしているのはスーツ姿の大人ばかりで、アイドルっぽい人間の姿は一人も見られない。アイドル事務所と看板があるわけでもなく、しばらく周りを見回してもアイドルの姿は見えないことで、ここまで来ると実は場所を間違っているんじゃないかと不安になってしまう。

 どうしようかな、誰かに「ここは346プロですか?」と訊ねてみようかな。でも僕コミュ障だから知らない人に話しかけるとか無理だ。一人で牛丼屋に入った時にトッピングは無料と書いてあっても、誰か他の人が自由に取るのを確認するまで取れないタイプだから、勝手に敷地内に入るのも躊躇っちゃう。

 誰か知ってる人でも居ないかな……。

 

「あ、如月さん!」

 

 門の前でキョドっていると僕の名前を呼ぶ声が聞こえた。

 この脳髄を抉るような甘ったるい声は!

 声の方に顔を向けるとこちらに小走りでやって来る女性が見えた。

 あの緑色の制服姿は千川ちひろさんじゃないか!

 この間の最終面接で着ていたやつと同じ制服だから遠目でもすぐにわかった。

 やった、知ってる人居た! これで勝つる!

 やっぱりここが346プロでいいんだ。良かった。九割九分大丈夫と思っていても、確実な情報がないと二の足を踏むのは僕の悪い癖だね。

 それにしても千川さんは走っている姿も可愛いな。一つにまとめられたお下げ髪が走る度にぴょこぴょこと跳ねるのをみているだけで一時間くらい時間を潰せる気がする。

 千川さんを初めて見た時は寡黙で真面目な人に見えたけれど、最終面接が終わってからは凄く饒舌で気遣いができて面白い人だとわかったので、今ではただ可愛い年上の女性って感じだ。前世から数えると年下だけど。

 何やら焦っている様子で走っていた千川さんは僕の前までやって来ると足を止めた。てっきり他所に目的地があり、このまま通り過ぎて行くものとばかり思っていので目の前に止まったことに少し驚いた。

 

「おはようございます、千川さん」

「おはようございます、如月さん」

 

 丁寧に頭を下げられたため釣られて頭をさげる。お互いにお辞儀をし合うかたちだ。顔を上げると千川さんと視線が合う。千川さんはすぐに笑顔を向けてくれた。

 今日の千川さんの笑顔は素敵スマイルだ。笑顔がスマイルとか意味が重複してるけど、何となく千川さん相手だとしっくりくる気がする。

 別に馬鹿にしているわけではない。ただ、この間見た千川さんの笑顔と今の笑顔が違ったから、どう形容すればいいか分からなかっただけだ。

 やはりこの間のは営業スマイルというやつだったのだろう。どことなく硬さのあった表情が今日はとても朗らかに見える。断然僕はこちらの笑顔の方が好きだ。僕が男だったら即告白して振られるくらいである。振られちゃうのかよ。

 

「どうして千川さんは門に? どなたかのお出迎えですか?」

 

 だったらその人に感謝だ。千川さんの登場は僕にとって渡りに船だった。千川さん程の人が出迎える相手なのだから、きっと大物アイドルとか会社の重役に違いない。間接的とはいえ、僕を助けてくれた相手に精一杯の感謝の念を送る。

 

「今日は如月さんが初めて出社するということで、上の者から迎えに上がるように仰せつかっていたんです」

 

 と思ったらまさかの僕を出迎えるためだった。感謝の念が急速旋回して戻ってきてしまった。

 僕を迎えに来てくれたのは非常に助かるのだけど、わざわざ僕なんかを迎えに来させられた千川さんには同情してしまう。

 いくら初めて来たとはいえ、僕みたいな新人アイドルにプロジェクトでも中心に近い立ち位置の千川さんが迎えに来てくれるのは仰々しい気がした。

 

「時間よりも随分早く来ていて驚いちゃいました」

 

 千川さんに言われ、そんなに早く来ただろうかとポケットからケータイを取り出し時間を確認する。

 現在の時刻は朝の八時半過ぎ。指定された時間は九時のため三十分近く早く来てしまったことになるが、そこまで早い時間だろうか?

 あれ、だったら何で千川さんは今ここに居るのだろう。予定よりも三十分早いというならこの時間に千川さんが来る必要はないのに。

 

「えーと、どこかから門を観察されてました?」

 

 建物内から門を見ており、万が一僕が早く来たら対応する予定だったとか?

 だったら僕がうろちょろと挙動不審にしていたのも見られていたということだ。恥ずかしい。

 この中で時間を潰せるとなるとカフェテラスあたりだろうか。でもさっき見た時は千川さんの姿は見えなかったけど……。

 

「いいえ。今来たところですよ」

「えっと……そうなると三十分も早くここに来たことになりますけど?」

「ええ、お待ちするつもりでしたので」

「え、三十分も前からですか?」

「はい」

 

 何てことはないと笑顔で答える千川さんだったが、三十分も前から待つのは変じゃないだろうか。僕の感覚からすると違和感がある。

 重要な取引先の社長とかならともかく、新人アイドルでしかない僕なんて待たせておけばいいだろうに。仮に入れ違いになるのを避けるためであったとしても、五分前くらいで十分じゃないのか。それが何で三十分も待つことに?

 上の者ってことはプロデューサーの指示ってことだろうけど、あの人にしては少し意外な指示に思えた。

 プロデューサーはたとえアシスタント相手と言えど、理不尽な指示は出さないと思う。何かほかに理由があるに違いない。

 

「それだけ期待されているということですよ」

「はぁ……? それならいいのですが」

 

 僕の心情を読んだかのように千川さんが励まし(?)の言葉をくれる。まあ、期待されているというなら素直に喜んでおこう。

 実際プロデューサーに期待されていると聞いて心が弾んだのは確かなのだから。

 

「まずは受付を済ませちゃいましょうか。付いてきて下さいね」

 

 そう言って正面に見える建物へと歩き出した千川さんの後に付いて行く。

 僕のアイドル生活の記念すべき一日目は快晴に恵まれたようで、朝から春の日差しが眩しく降り注いでいる。舞い散る桜とのコントラストが門から建物までの短い道程を花道の様に彩っていた。

 そこいらを歩く346プロの関係者っぽい人達がすれ違ったり近くを通る際に会釈をしてくるのも、なんだか自分が大物になった気がして気分が良くなる。実際は前を歩く千川さんに向けてだろうけど。今の僕は千川さんの後を付いて回るだけの金魚のフンの様なものだ。初日から態度が悪いと思われても嫌なので千川さんに倣って会釈を返しておく。

 と言うか、これだけの人に挨拶されるとか、実は千川さんって凄い人なのかな?

 会釈をして来る人の中には、わざわざ近付いて来たり、作業の手を止めてまで挨拶をして来る人までいた。ただの事務員だと思ってたけど、実際は偉いとか?

 だったら僕の態度って拙かったかな。タメ口こそ利いていないものの、愛想笑いの一つもせずにどうでもいい話しか振れてない。この間の最終審査に居た人達と違って、これからも顔を合わす機会が多いはずだし、これからはもっと丁寧な会話を心掛けよう。

 それから数十メートル歩き、お洒落な扉を潜り346プロダクションの建物の中に入った僕はその大きさに圧倒された。

 

「……大きい」

 

 そのまんまの感想が口から漏れ出てしまった。でも大きいのだから仕方ないじゃない。

 入ってすぐに見える大きな階段には赤い絨毯が敷かれていて、見上げる程に高い天井には見事なシャンデリアが飾られている。ここだけを切り取って見ると、まるで自分がどこかのお城に迷い込んだかのような錯覚を覚える。自分がシンデレラの名前を冠する企画に参加していることも相まって、この感覚は的確なのではないかと自画自賛してみる。実際そういう狙いがあってのネーミングなのだろうけど。とにかく346プロの資本力をまざまざと見せ付けられた気分だ。

 さらにこの建物以外にもスタジオや娯楽施設すら同じ敷地にあるというのだから、346プロ……美城の一族の力は凄いね。アイドルを完全バックアップ可能な設備とスタッフ数はアイドル育成において規模だけならば765プロとは雲泥の差だ。まあ、逆にそれでもあのメンツが育ってしまったからこそ765プロは伝説なんだけどね。

 

「こちらで受付をお願いします」

 

 エントランス横の受付を示しながら千川さんが入舘手続きについて説明してくれた。

 今日は初日ということで入館証無しで入れたのだが、明日からはそれを提示して入るように言われた。

 受付で記名するとすぐにカード型の入館証が手渡される。

 千川さんの説明によると、これはセキュリティカードの役割も担っているそうで、これがあればほとんどの建物に入れる上に無料で施設を利用できるのだとか。ジムに大浴場、果てはエステサロンまで無料なんて太っ腹すぎる。基本的に予約不要と言われているので好きなタイミングで利用できるというのは素晴らしい。気紛れな僕には打ってつけだね。急な仕事が入りやすいアイドルのためなのだろうけど、スタッフを常駐させるなんて本当に半端ないわ。

 千川さんが語る破格の待遇に内心慄いていると、受付の女性達の視線が僕に集まっているのに気付いた。皆さん何やら変な奴を見るような目を向けていらっしゃる。もしかして、過去他のアイドルがこの待遇を聞いた時はもっと良いリアクションを返していたとか。だというのに、僕だけ淡白だから肩透かしを食らった気分なのかな。

 まさか、感謝の言葉すらない新人の小娘として無礼者扱いとか?

 しまった、そういうパターンか。

 

「えっと、その、過分な配慮をして頂きありがとうございます」

 

 慌てて千川さんにお礼を言いながら頭を下げた。千川さんに言うのが正しいかはともかくとして、誰かしらにお礼を言わないと居た堪れないのだ。

 

「そんなに畏る必要はありませんよ? 如月さんのそれは当たり前の待遇ですから。ただし、他のアイドルの子達には内緒にして下さいね? もちろんできる限りで構いませんので」

「あ、はい? わかりました」

 

 他のアイドルって……まさか、この待遇って僕達シンデレラプロジェクトのメンバーだけ?

 メンバー以外には内緒ってことは、他のグループのアイドルはこれ以下の待遇なのかな。言われてみれば事務所に所属するアイドル全員がこれとか予算がいくらあっても足りないよね。

 確かに大っぴらには言えない。やはりシンデレラプロジェクトは凄い企画だったんだ。それを纏めているプロデューサーも凄い人ってことだよね。改めて彼の凄さを実感させられた。同時に自分のプロデューサーが凄い人なのだと知れて嬉しくなった。

 時間を置いたことと僕が感謝の気持ちを伝えたことでいつの間にか受付の人達の僕を見る目は変わっていた。やはり感謝を言葉にするって大事だね。

 何故か受付の全員が不自然に目を見開いていたけど。

 

「まだ予定まで時間があるので、少し施設を見て回りましょうか」

「いいんですか?」

 

 このいいのかというのは、千川さんの負担にならないのかという意味と僕みたいな新人が好き勝手に施設を見て回ってもいいのかという意味だ。

 時間があるとは言っても、僕は一応仕事として今日来たわけだから、そうやって自由時間を設けて貰うのは負担にならないかと不安になる。

 

「はい。お昼までは私が付きっ切りで案内することになっていますから。空いた時間の使い方は一任されているんです」

「なるほど。わかりました、是非宜しくお願いします」

「では行きましょうか」

 

 再び移動を開始した千川さんに付いて行く。背後の諸々の視線はあえて無視しよう。きっと千川さんほどの人が案内役をすることに驚いているってところかな。

 そしてそれを無表情に受け入れる僕の態度の悪さが際立つ。

 

 

 千川さんの案内でまず初めに訪れたのは食堂だった。

 建物から予想できたが食堂もお洒落だった。外にはテラス席もあるため、今日みたいな晴れの日には利用者が多そうだ。

 

「お洒落なところですね」

「そうでしょう。メニューも豊富で、お値段もリーズナブルとあって人気なんですよ。外部の方もよく足を運ばれますし。たまにですが私も利用するんです」

 

 この広さなら内部外部関係なく収容可能だろう。下手なレストランよりも大きいし綺麗だ。食堂一つとっても規模が違う。たるき亭のおうどん食べたい。

 

「安いのは助かりますね」

 

 貧乏人の僕には安いというフレーズだけで心躍るものがある。お弁当持参(当然コンビニ弁当)を覚悟していたため食堂の存在は渡りに船だった。

 

「まあ、如月さんの場合は関係ないんですけどね」

 

 何ですかそれ。新人アイドルが使うなんぞ十年早いとかそういう体育会系な感じですか。確かに僕みたいな子供が使うには敷居が高いけど……。

 

「如月さんは、今日はお昼は持参されましたか?」

「いえ、コンビニあたりで何か買おうと思っています」

「でしたら是非この食堂を使って下さい」

 

 んん? 何かさっきの言葉と食い違うぞ。僕もここを使っていいのだろうか。じゃあ何で関係ないなんて言ったのだろう。

 

「あの、私には関係ないということでしたので、てっきり利用できないのかと」

「ああ、違うんですよ。最初にすべての施設が無料と言ったでしょう? ですからこちらも無料なんです」

「無料って……まさか、食堂の料理がですか?」

「その通り」

 

 耳を疑う話だった。いくらお金があると言っても食堂の利用が無料なんて凄すぎないか。最悪ここで三食摂れば食費不要になるじゃないか。

 凄い。美城凄い。シンデレラプロジェクト凄い。プロデューサー凄い。

 

「ふふ、喜んでいただけたようで何よりです」

「お金に乏しいので、食費が浮くのは助かります。これで何とか人間らしい食事になると思います」

「? そうですか」

 

 首を傾げて不思議そうにしている千川さんにはわからないだろうけど、食事が不要なのに食事を摂らないといけないというのは結構辛いのだ。

 何でもいいから物を食べるように優からきつく言われていた僕は、いかに食費を掛けずに物を食べるかを突き詰めていた時期がある。僕の場合、「食べられれば何でもいい」が本当の意味で可能なので、食費を抑えることに執心したのだが、止め時がわからずに際限無く質を落として行ってしまった。

 最終的に街で配られるポケットティッシュを食べるようになったのだけど、運悪く食事時に優がアパートにやって来て食事シーンを見られてしまった。その結果優が泣き崩れるという大惨事が起きたので、それ以来最低でも人が食べられる物を食べることにしている。ティッシュだって慣れると食べられないこともないんだけどな。

 でも、優から「姉が無表情でティッシュ食べているシーンに出くわした弟の心境を考えて」と涙ながらに説得されたら従わざるを得ないよね。

 もしかして、優が僕の食べているものを執拗に気にしだしたのはこれが原因じゃないだろうか。春香が作ってくれる料理すら気にするからね。

 

「さ、次に行きましょうか」

「はい」

 

 弟にわりと重いトラウマを植え付けていたことに気付いたところで次の施設へと移動を開始する。

 こんな所で物を食べていれば優に心配されずに済むね。

 

 

 次に案内されたのは意外なことにエステルームだった。

 美容系の施設は精神科と産婦人科以外の病院と同じくらい僕と縁がない場所と思っていたので、千川さんに紹介されても食堂ほどの感動は覚えなかった。

 と言うか、エステルームがあるって何だよ。

 

「エステルームが事務所の敷地内にあるのって普通ないですよね」

「そうですね。346プロ以外だとあんまり聞いたことがないですね」

 

 あるとすれば961プロくらいか。あの事務所って社長が黒いだけでプロダクション自体はホワイトなイメージがするんだよね。逆に超絶ブラックなのが765プロと876プロ。昨今の流行り的には961プロの方が追い風吹いてるという説まであるレベル。

 どうしてこんなになるまで放置していたんだ。プロデューサー二人で捌けるアイドルの数じゃないだろ。ゲーム世界だと一人だぞ?

 こうして現実世界になってみると、765プロのプロデューサーって軽く人間辞めている気がする。同じ人間辞めている同士、仲良くなれた気がするんだよね。結局一度も会うことなくアメリカに行っちゃったみたいだけど。

 ということは、今の765プロって秋月律子単独で回しているってこと?

 しかもこの後スクールの子達も随時加わっていくって聞いてるよ。

 大丈夫? 死なない?

 秋月律子死なない?

 

「……ちなみに、このエステって部外者の方は」

「無理ですね」

「ですよね」

「このエステルームはただでさえ大人組のアイドルの方々で取り合いになっているんですから、よその方を入れる余裕なんてないですよ。ちなみに完全予約制です」

「そうですか」

 

 部外者も利用できるなら秋月律子に紹介してあげたかったのだが……。

 まあ、そりゃそうだよね。大人なアイドルにとって仕事の合間のエステなんて大切な回復要素だろう。それをよその人間に使わせることになったら経営側が恨まれても仕方がないって話だ。

 

「如月さんは予約なく使用可能ですけどね」

「……」

 

 大丈夫? 死なない?

 僕アイドルの大人組に殺されない?

 

 その後は浴場(やはり敷地内にある)や広報部の仕事スペースなど、346プロの施設を丁寧に紹介して貰った。

 千川さんのボイスを聞いているだけで満足できるのに、こうして各施設の説明まで受けられるなんて、今日のこの時間を指示してくれたプロデューサーには大感謝である。

 

「最後と言うか、本来の目的地に着きました。ここがレッスンルームです」

 

 最後に案内されたのはレッスンルームだった。

 レッスンルームと言いつつまだ廊下に居るのだけど。

 

「レッスンルーム……たくさんあるんですね」

 

 今僕が言った通りこの施設内に多種多様な部屋が設置されていた。途中で見た廊下の案内板によるとそれら全てがレッスンルームということらしい。

 部屋の前にはそれぞれダンスやボイス等のざっくりとした用途が書かれたプレートが掲げられている。さらに第一第二と各種類ごとに数部屋ずつあるため、かなりの人数が同時にレッスンが可能のようだ。346プロはアイドルの人数もさることながら、俳優や歌手が多く所属するとかでこういった施設には前から力を入れている。人材がそのまま資産に繋がるとあっては育成に注力するのは当然だね。このレッスンルームもそうした所属アイドル達が日夜特訓のために使用しているとか。当然僕もここには今後お世話になるのだから見学はしっかりとしておきたい。

 

「実はプロデューサーさんの指示で、如月さんにはダンスレッスンを受けていただくことになっています」

 

 突然レッスンを受けろと言われた僕は戸惑った。

 ジャージ持参と言われていたので着替えは問題はない。しかし今日やるのは体力作りのためのトレーニングくらいかと思っていたので、まさか初日からレッスンを受けることになるとは想定外だった。

 まあ、トレーニングがレッスンに変わったから何だって話だけど。

 でも純粋に体を動かすのと踊りは違うからなぁ。少し心配だ。

 

「レッスンですか……」

「今までダンスレッスンは受けたことはありますか?」

 

 何気なく呟いた言葉は千川さんには自信無さげに聞こえたようだ。確かに僕はダンスレッスンを受けたことはない。

 そもそも僕は生まれてこの方レッスンというものを一度も受けたことがなかった。小さい頃から独学でやって来たからだ。

 千早がそういう教室に通っていなかったから自分も必要ないと思い込んでいたのと、見ただけで動きを覚えてしまうので教室に通うという思考に至らなかったのだ。

 だからこそ、僕にとってダンスを始めとした何かのレッスンを受けるという感覚は完全に未知の領域になっている。

 

「ありません」

 

 色々と複雑な事情があるものの、それを馬鹿正直に言うわけにもいかないので端的に事実のみを伝えた。

 

「わかりました。トレーナーの方には初心者だと伝えておきますね」

「はい……よろしくお願いいたします」

 

 僕が初心者だとわかっても千川さんは笑顔を崩すことなく、むしろ気遣うような声で言ってくれた。

 僕は嘘を言ってはいない。

 しかし事実も言ってはいない。

 千川さんの気遣いを受け、今になって中途半端な回答をしたことを後悔している。

 でも嘘を吐いてレッスンを受けたことがあると言うことは果たして正しいことだろうか。もしくは、見ただけで覚えられると言うべきだったか。

 ま、結論から言えばそれらは全部間違いだったわけだけど。

 

 僕にダンスレッスンを付けてくれるというトレーナーはすでにレッスンルームに待機してくれていた。

 いかにもトレーナーという格好のやや目付きが鋭い女性だ。てっきりもう少し年上の人だと思っていたので相手の若さに驚いた。僕より年上なのは当たり前なのだけど、どう見ても二十代前半にしか見えない。

 見ても二十代前半にしか見えない。

 

「どうかしましたか?」

「いえ、想像していたよりも若い方だったので驚いてしまって……」

 

 言った後にこれだと若手トレーナーだと不満みたいに聞こえそうだと自分の失言に気付く。

 

「それは。まだ私はルーキーですから」

 

 予想通り、僕の言葉を悪い方に捉えたトレーナーの表情が目に見えて曇る。

 

「あ、いえ、不満ということではないんです。純粋にその若さで346プロでトレーナーをされていることが凄いと思いました」

 

 慌ててフォローを入れてみるも、それで相手の表情が晴れることはなかった。

 初対面でやらかしてしまった。

 隣の千川さんを盗み見ると困まり顔で僕とトレーナーさんを交互に見ている。千川さん的にも今のはマズかったようだ。第三者ということでフォローも入れられないだろうし。

 本当に僕はこういう対人スキルが低い。そのせいで今みたいに相手を不快にさせることが多かった。

 これから何度もお世話になる相手にこれはダメだよね……。

 

「とりあえず、時間までレッスンをしてみましょうか。それでお互いにわかることもあると思いますから」

 

 これ以上は痛い沈黙が流れるだけだと判断したのか、千川さんがレッスンを促してくれた。非常に助かった。

 さすが千川さん。容姿とも相まって女神に見える。

 

「それでは宜しくお願いします」

「はい。宜しくお願いします」

 

 千川さんの取り成しによりトレーナーさんと互いに頭を下げ合った。微妙なしこりを残しつつもお互い子供ではないので表面上は前向きな態度だ。

 

「それではトレーニングウェアに着替えて来て下さい」

 

 千川さんの指示により隣のロッカールームへと移動する。

 レッスンルームには千川さんとトレーナーさんが残るようだ。

 たぶん僕の居ないところで改めて千川さんからフォローを入れてくれるのだろう。本当に千川さんは女神のような人だ。

 ロッカールームに入ると適当なロッカーを選んで開ける。当然中身などなく空っぽだ。

 そこに持っていた荷物を入れると着ていた服を脱ぎはじめる。

 一気に下着姿になった僕は着ていた服をロッカーに入れると、今度はトレーニングウェアを鞄から取り出した。

 

「あれ?」

 

 ロッカーの扉に取り付けられた鏡に映る自分に違和感を覚え着替える手を止めた。

 何か肩から首にかけて赤い斑点がある。

 よく見ようと鏡で映すのだが、首の後ろというのと鏡自体が小さいとあってよく見えない。

 たぶん虫刺されか何かだとおもうんだけど、この時期に蚊なんていただろうか。

 まさかダニ?

 それなりに清潔にしているつもりでも湧いて出て来るのが害虫だ。寝ている間に刺された可能性が高い。

 となると同じベッドで寝ていた春香も刺されているかもしれない。

 あとで聞かなくては。

 原因はともかく、今はこの斑点をどうにか取らないと。アイドルがこんなもの付けているわけにもいかないよね。

 自然回復を待つのも億劫なので、僕は自分の左手の小指を右手で覆うように握ると躊躇いなくそれをへし折った。

 ベキリという乾いた音がしたので確実に骨が折れたことがわかる。

 当然痛みを感じない僕は顔色一つ変えることはない。こんな時は後遺症も便利に思える。

 折れた指を見ると逆方向に九十度以上曲がっていた。しかし次の瞬間には何事も無かったかのように折れた指は元どおりになっていた。折れた骨はもちろん、ひしゃげた関節と断裂した筋肉まで瞬間的に治癒している。

 鏡で確認すると赤い斑点は全て消えていた。

 結果に満足した僕は、あまり二人を待たせるわけにもいかないと思いレッスンルームへと戻った。

 

「お待たせいたしました」

 

 少し気後れしながらレッスンルームに戻るとトレーナーと千川さんの間に流れる空気は先程よりは幾分軽くなっていた。これで僕が戻ると同時に再び重苦しい空気になったら軽くショックを受けたところだが、幸にもそんなことはなく、和やかな雰囲気のまま迎え入れられた。

 どうやったのか不明だけど千川さんが何かしてくれたのだろう。やはり女神か。

 

「本日はご指導の程よろしくお願いします」

 

 気持ちを持ち直した僕は改めてトレーナーに深々と頭を下げた。

 言い方が悪く無表情の僕は人一倍態度で示さなければならない。今後はよほど砕けた関係の相手以外には丁寧過ぎるくらいの態度で接した方が良さそうだ。

 その考えは正しかったらしく、トレーナーと千川さんは顔を見合わせると笑顔で頷き合っていた。僕が居ない間にあったやりとりの関係だろうか。どうでもいいか。

 

「では、さっそくレッスンを始めましょうか。まずは私の動きを真似して下さい。これは準備体操のようなものなので丁寧に、しっかり身体を伸ばすように動かして下さい」

「はい」

 

 トレーナーが見本の動きを始めたところで千川さんが部屋の入り口に移動した。そのまま出て行くのかと思ったら扉の横辺りで立ち止まりこちらに振り返った。

 

「私は端の方で観ていますね」

 

 どうやら最初に言った付きっ切りで案内するという話は本当だったらしい。てっきり案内は施設見学とレッスンルームまでと思っていたけど、レッスン中もこうして近くで見ていて貰えるなんて想定していなかった。

 忙しいはずの千川さんがわざわざ見守ってくれているのだから格好悪いところは見せられないよね。歌を聴いてもらったことはあってもダンスを披露したことはない。

 初めてのレッスンということで文字通り様子見で留めようと思っていた予定を破棄して本気でレッスンを受けることにする。

 千川さん見てるー?

 僕張り切っちゃうよー!

 そうやってやる気を出してトレーナーのレッスンに臨んだわけだけど……。

 

 一時間しないうちにレッスンルームを追い出されてしまった。

 

「……」

 

 どうしてこうなった。

 固く閉ざされた扉を呆然と眺めながら自問するが答えなんて出るわけがなかった。

 同じく追い出される形になった千川さんを見ると、こちらはこちらで頭痛を堪えるように頭を抱えながら唸っていた。また発作だろうか?

 こうなると長くなることを知っているので再び扉へと視線を戻す。

 トレーナーが閉じこもってしまったレッスンルームの扉をしばらく眺めていた。

 僕はただ真面目にレッスンに取り組んだだけなのに……。

 トレーナーも途中までは普通にレッスンをしてくれていた。千川さんから僕がレッスン初心者だと知ったトレーナーは僕に笑顔を見せながら懇切丁寧に踊りを見せてくれた。

 初めてのレッスンというのと、誰かに教わるという行為がとても楽しかった僕はトレーナーの期待に応えるように本気でレッスンへと取り組んだ。

 しかし途中からトレーナーの表情が曇って行き、段々と動きがぎこちなくなっていった。最後の方は顔を引きつらせており、とてもではないが誰かに教えられる状態ではなくなってしまったのだ。

 何でそうなったのか、レッスンというものをこれまで受けてこなかった僕にはトレーナーの変化の理由を考察することすらできない。

 ただ、今も室内から聞こえてくる「私の努力」「これまでの時間」「無意味」というトレーナーの言葉が酷く物悲しく感じられただけだ。

 

「如月さん……」

 

 千川さんの声に顔を向けると、困り顔の千川さんが目に入った。もう頭は抱えていなかった。

 発作はいいのだろうか。

 

「レッスンを受けるのが初めてと仰いましたよね?」

「はい、今日が初めてです」

「それは、これが理由ですか?」

 

 千川さんが言うこれが何なのか、完全に把握していたわけではなかった。しかし、今の僕が理解している範囲で答えるのだとすれば、答えは一つだ。

 

「はい」

 

 僕の端的な答えを聞いた千川さんは、一言「そうですか」と言った。

 その時の千川さんが見ていたのは答えた僕ではなくトレーナー……正確にはトレーナーがいるであろう部屋の扉だった。

 今の千川さんからは感情の色が見て取れない。無表情ではないが、いつもの笑顔でもない。ただ何かを諦めたような、何かに疲れたような顔をしていた。

 その時の僕には千川さんの想いなんてわかるはずがなかった。だって、わかろうとしていなかったのだから。

 千川さんは一つ溜息を吐くと、僕に少し待つように告げどこかへと電話をかけたはじめた。

 相手は一コールで出た。

 

「プロデューサーさん、千川です。今少しよろしいでしょうか?」

 

 電話の相手はプロデューサーらしい。

 今あったことを報告してこれからのことを相談でもするのだろうか。そりゃあんな状態のトレーナーを放置なんてできないものね。

 

「実は少し問題が起きまして……あ、いえ、如月さんに何かあったというわけではないんです。ただ……」

 

 千川さんがこちらへと目を向ける。僕は気を遣って後ろを向くと少し離れた位置に移動した。

 その後千川さんは何事かをプロデューサーと小声で話していた。さすがの僕でもこういう時に聴力を上げるようなことはしなかった。

 

「……はい、わかりました。では、そのように対応します」

 

 話が終わったので振り返ると、千川さんが深く息を吐く姿が目に入った。先程の溜息とは纏う空気が違っている。先程のは疲労。今のは諦観だった。

 その二つの違いに気付くことはできても、その違いの意味を理解できない。それが僕だ。

 

「予定を変えて別の部屋に移動しましょうか」

 

 千川さんはいつもの笑顔に戻ると軽く手を叩いてから歩き出した。その足取りは少しだけ早く、まるでこの場から離れたがっているようにも見えた。

 

「あの、トレーナーのことは……」

 

 ズンズンという足音の幻聴が聞こえる勢いで歩く千川さんに今も部屋に籠っているトレーナーが気になった僕はどうするのかを尋ねた。

 千川さんが足を止める。少し先に立ち顔をこちらに向けないため表情を窺うことはできない。

 

「たぶん、もう駄目でしょうから」

 

 表面上変わらぬ声色でそう答えた千川さんは「さ、行きましょうか」と僕を促した。

 僕はそれに何も答えることができず、言われるがままに千川さんの後を付いて行くことしかできなかった。

 

 

 千川さんと供に移動した部屋は一見ではその用途がわからない部屋だった。

 その部屋はレッスンルームのある施設ではなく、中央の事務所の下に設けられた地下にある部屋だった。

 そこかしこに小道具や取材用の機材、中身不明の段ボールが所せましと置かれている。それを見た僕の第一印象は「物置みたいな部屋」だった。

 先程まで居たレッスンルームとは違いお洒落な壁ではなく、事務的な雰囲気のベージュの壁が逆に新鮮に見える。

 

「ここは一応企画部署の役割があった部屋なんですよ。……昔の話ですけど」

 

 千川さん曰く、この地下部屋は外からの音をほとんど遮断しているため昔はよく社外秘どころか部外秘レベルの会議を開く場所だったそうだ。

 よく見ると壁際にホワイトボードが置いてあり、天井からはプロジェクタスクリーンが下がっていた。たぶん探せばどこかにプロジェクターもあるのだろう。そう言われてみれば設置されている机や椅子が会議室にある物に見えなくもない。

 

「少しここで待っていて下さいね」

 

 ここで待つように言うと千川さんはどこかへと行ってしまった。待てと言われたならば待つほかにない。

 丁度いいことに会議用なのだろう、僕みたいな庶民からすればとても立派に見えるソファがあるのでそこに座って待つことにした。

 軽くソファを撫でてみる。革製品特有のツルツルとした感触があった。手に埃が付かなかったことから完全に死に部屋ではないのかもしれない。プロジェクターなんかが使える状態で置いてあるのだから当然か。

 こういう高級そうなソファって偉い人がよく座っているイメージがある。よくドラマとかで見る社長とかがそんな感じだ。

 765プロのオーディションの時に見た社長も似た椅子に座っていたけど、人柄のせいか似合わないと思った。逆に961プロの社長とかは似合うんだろうな……。

 そう言えば全国のプロダクションのオーディションを片っ端から受けた僕だけど、961プロだけは受けてなかったんだよね。今思えばあの事務所は元は四条貴音、我那覇響、星井美希が所属していたということもあって個性的な人間でも受け入れる意思はあったんだよね。まあ、ゲームの話なのでこちらでも同じかはわからないけれど。

 もし僕が961プロに入っていたらどうなっていただろうか。765プロに拘らなくなっていたのなら961プロも選択肢としてはありだったのではないかと今更ながらに考えた。

 たぶん、社長のやり方に付いて行けずにジュピターの様に途中で辞めていたと思う。

 だが逆に同調した場合はどうなっていただろう。きっと打倒765プロを掲げて黒井社長と協力関係になっていたはずだ。自分を選ばなかった765プロなんて消えてしまえばいいという暗い願望を抱いて。

 僕は765プロが抱える問題を知識として知っている。原作知識という武器を最大限に利用すれば変な新聞記者を雇わずとも簡単に不祥事を手に入れられる。

 原作知識という解答を元にチートを使用して裏付けをとる。彼女達が抱える問題は小さいものはともかく大きなものは結構スキャンダラスだ。アニメではその筆頭が千早だったわけだけど……。

 僕以外でも星井美希のプロデューサーへのアプローチや菊池真の大乱闘もアイドルとしては問題行為だ。事実を知ってさえいれば、あとは証拠さえ揃えてしまえば破滅まっしぐらだ。

 そうやって765プロの不祥事を暴露しまくって彼女達を破滅へと導くことに愉悦を覚える怪物が生まれるわけだ。

 ……なんて、ありえないけどね。

 僕が765プロを破滅へと追いやる?

 無いよ。

 あり得ない。それだけは絶対にやらない。

 確かに僕の765プロに対する感情が全て負へと反転した場合、それは決して妄想で終わらなかったはずだ。

 それは認めよう。僕は敵に対して容赦する人間ではない。この世界の人間特有の”甘さ”を僕は持ち合わせていない。リアルな人間が持つ非情さを僕は持っている。それこそ黒井社長が善人に見えるほどに。

 だから僕が本当に765プロを憎んでいたのならば、今頃あの事務所は土地ごと消えてなくなっている。

 それをしなかったのは、僕が今でも765プロのことが好きだからだ。

 たとえオーディションに落とされたとして、落とされた直後であっても、僕は765プロを憎みはしなかった。

 何故どうしてと疑問を抱いても、憎しみを抱くことは決してなかった。憎しみよりも戸惑いが、怒りよりも悲しみが勝った。そういった後ろ向きな理由だとしても結果として僕の中に負の感情は生まれなかったのだから、きっと僕は765プロが好きなんだ。

 だから僕は765プロの敵にはならない。同じアイドルである以上、何かしらの形で対決することになってもそこに憎しみは持ち込まない。

 それでいい。それさえできれば、僕は満足だ。……千早がそれで納得するかは別として。

 と言うかだよ。何となく765プロの暴露ネタって世間から取りざたされることはなく流されて終わるイメージしか浮かばないんだよね。普通なら大問題になるはずなのに、何事もなかったかのようにスルーされる不祥事の数々。それがアイマス世界。

 それでいて千早のネタはあんな大々的に取り扱うとか不公平じゃないかな?

 と言うか、黒井社長も調べればこういうネタはたくさん見つけられたはずだろう。でもそれをネタに何もしていないということは、単純に見つけられていないか世間と同じで問題ないと流していたかだ。

 そう思うと一周回って黒井社長の不公平さに腹が立ってきたぞ。改めて憎たらしく感じたと言った方が正解か。

 どちらにせよ961プロは選択肢としては無かったな。打倒765プロという精神が生まれない以上、黒井社長とやって行く自信なんてない。

 そもそも僕って黒井社長のこと好きじゃないしね。声が好きじゃないし。顔も腹も黒いし。やること小物過ぎるし。

 こっちのプロデューサーとは大違いだよ。プロデューサーは僕を見つけてくれた上にあそこまで必死にスカウトしてくれた。いつも真摯に僕の話を聞いてくれるし、何かと気に掛けてくれている。

 黒井社長はあの人の爪の垢を煎じて飲むべきだね。いや、黒井社長程度にプロデューサーの爪の垢はもったいないぞ。ポケットに入っている綿埃でも嗅いでおけばいいよ。そしてバッドトリップすればいいんだ。

 埃でキメるとか黒井社長最低だな(冤罪)。

 やっぱり黒井社長嫌いだわ。

 そしてプロデューサー最高。

 

「プロデューサー好き」

 

 ガタガタッと物が落ちるような音が聞こえたので顔を向けるといつの間にか千川さんが帰って来ていた。

 千川さんの足元を見ると何かケースみたいな物が散乱している。どうやらあれを落としてしまったみたいだ。顔色も何か悪いみたいだし、また発作を起こしたのだろうか。

 

「千川さん……?」

 

 心配になったのでソファから立ち上がり千川さんへと近づく。

 たまに挙動がおかしい千川さんだけど、今回のは物を落とす程に動揺している。まるで何か見てはいけないものを見てしまったかのようだ。

 それとも何か僕がしてしまった?

 あ、まさか勝手にソファに座ったことかな。千川さんはここで待つように言いはしたけれどソファに座るように言ったわけではない。だと言うのに勝手にソファに座った僕はマナー違反を犯したわけだ。もしかしたらこのソファは偉い人の私物とかで、使用してはいけなかったという可能性もある。

 前世でそれなりのマナーを学んでいたつもりだっけれど、こういう場面での気遣いは結構忘れてしまっている。そのせいで致命的なミスを犯してしまった。

 

「あ、あの……これはですね、何と言えば良いか」

 

 何とか取り繕うとしても、僕が勝手に座っていたことは誤魔化しようのない事実であった。

 ここは下手な嘘を吐くよりも素直に謝った方が良い場面だ。それにこれまで良くしてくれた千川さん相手に嘘を吐くのは躊躇われる。

 

「お恥ずかしいところをお見せいたしました……その、私こういうのに慣れていなくて」

 

 素直に社会人としてのマナー知識に欠けていることを告げる。

 

「え、あ、じゃあ……初めてなんですか?」

 

 千川さんは僕の告白に意外だという顔をしていた。中途半端に外面が良い分、こういうことに慣れていると思われているのかも知れない。実際はろくに社会を知らない精神年齢だけ高い輩です。

 

「はい、今まで自分とは無縁なことだと思っていたのですが、まさかこんなことを自分が体験するなんて思っていなくて。だから、今回のも特に意識せずに勝手に……」

「そうだったんですか……。もう少し経験豊富な子だと思っていたので意外でした」

「お恥ずかしい限りです」

 

 やはり知識が豊富だと思われていたらしい。でも実際は常識を知らない残念な女だったわけだ。

 これで千川さんに呆れられてしまったかな。格好つけるつもりはなかっけれど、呆れられても良いと思ってはいない。

 

「恥ずかしいなんてことはありませんよ」

「え?」

 

 と思ったら意外な言葉が返って来た。

 千川さんの顔を見れば僕に慈しみの心が見える様な優しい笑顔を向けていた。

 

「誰だって初めては戸惑うものですから。だから、そんな風に気にする必要はないんですよ?」

 

 これ新入社員の男性が言われたら一発で惚れるね。

 入社してすぐに仕事を失敗。打ちひしがれているところに千川さんみたいな可愛い先輩に優しく慰められるとかやばいでしょ。

 結構、と言うかかなり好きなシチュエーションだった。

 

「千川さん……」

「あ、そうでした」

「あ」

 

 年上の女性から受けた思わぬ優しさに思わず「これはもう女性相手でもいいのでは?」とトチ狂ったことを考えかけた僕だったが、千川さんがさらりと離れてしまったため正気へと戻った。

 うーん、この深くまで踏み込ませない感じはさすがだよね。さすが声が有名なだけはある(偏見)。

 

「プロデューサーさんからこちらを借りて来ましたよ」

 

 千川さんが取り出したのは何枚かのDVDだった。

 全て透明なケースに入れられ、手書きのタイトルがそのまま見えるようになっている。

 タイトルには『’12秋 346プロ主催 ライブ』とどれも簡潔なものが書かれているだけだった。

 これをどうすると言うのか。千川さんとDVDを交互に見やる。

 

「如月さんにはここで346プロに所属しているアイドルの子達のライブ映像を観て貰います」

 

 突然言われた指示内容に頭を傾げる。

 ライブ映像を観る?

 それをしてどうするのだろうか。と言うか、そんなものを観るならばわざわざこんな地下室でやることないのではないか。

 そんな僕の疑問が顔を出ていたのか、千川さんが事情を説明してくれた。

 

「実は本来如月さんを担当するトレーナーはベテラン以上の方を予定していたのですが、急遽代役の仕事が入ったグループのライブ用にレッスンをする必要があったためそちらに回りました」

「それは……当然の対応ですね」

 

 さすがに先輩アイドルを差し置いて新人の僕を優先しろとは言わない。というか言えないだろう。

 

「それで手の空いていたルーキーの方に如月さんのレッスン役が回ったわけですが……」

 

 そこで千川さんが一旦言葉を止める。

 

「申し訳ありません。誰が悪いというわけではないんですけど……ただ、彼女のことを責めないであげてほしいんです」

 

 彼女というのはトレーナーのことだろう。千川さんに言われずとも僕がトレーナーを責める理由はなかった。

 千川さんは誰が悪いわけではないと言ってくれてはいたけれど、たぶん今回の事態は僕が原因なのは確実だ。ならば悪いのは僕ということになる。

 それでも僕を責めずにいてくれる千川さんの気遣いを無駄にしないためにも話に乗るしかない。

 

「責めるも何も……元よりトレーナーに対して何か思うところがあるわけではありませんから。だから、その、お気になさらずに」

 

 結局気の利いたことなんて言えなかった。

 表面だけ擬えた定型文が言葉となって千川さんの気遣いを滑らせてしまった。

 気遣いに対して気遣いを返せない自分が嫌になる。

 これはプロデューサーの指示なのだから。プロデューサーがやれというなら何だってやるよ。それがライブ映像を観るという指示なら僕はいつだって何度だって観る。それが僕に必要なのだとあの人が出した結論なのだから、僕はそれを無条件に受け入れるだけだ。

 だからは千川さんも、そんな申し訳なさそうな顔をしないでほしい。

 それに前向きに考えてみれば、アイドルのライブ映像をこんな大画面で観られるなんて役得じゃないか。

 

「わかりました。私はここでライブ映像を観ればいいんですね?」

「はい、お願いします。いくつかこちらでピックアップしたものがあるので、それを観て346プロダクション所属のアイドルの実力を見て下さい。……本当はレッスン風景を見ていただけたら良かったんですけれど、都合がつかなくて」

「それは仕方がないと思います。346プロのアイドルの皆さんはとてもお忙しいというのは知っています」

 

 ちなみに映像で見るのは構わないけれど、相手のアイドルはこちらで選んでもいいのだろうか?

 

「あの、今回見ることになる映像はどのアイドルの方が映っているものでしょうか?」

「如月さんはどなたか希望のアイドルがいらっしゃいますか? 色々と持ってきているのでお好きな子を選び放題ですよ」

 

 その言い方はどうかと思うが、選べるというなら見たいアイドルがいる。

 城ヶ崎の時の二の轍を踏まないためにも、346プロ所属のアイドルの情報は軽く目を通していた。

 大手プロダクションとあって有名アイドルから新人アイドルまで数多く所属しているので全員目を通せたわけではないが、上位メンバーはある程度押さえていると思う。

 765プロの様な全員がトップアイドルという頭おかしい所属率ではないものの、346プロにもトップアイドルと呼ばれるアイドルは結構な数所属している。

 その中でも僕が注目したのは高垣楓というアイドルだった。

 彼女はモデルからアイドルに転向した経歴を持つ。天性の美貌とオッドアイという身体的特徴は神秘的な印象を彼女に与えていた。それまで特にレッスンを受けていたというわけでもないのに歌唱力も抜群とあって、まさに天は二物を与えずを否定する存在と言える。

 歌が上手いというところに一瞬目が行きかけたけれど、僕が高垣楓についてもっとも注目した点は、彼女が今年で二十五歳だということだった。

 アイドルでその年齢は些か年嵩に思える。アイドルマスターに出て来たアイドルで年上と言えば三浦あずさだった僕には高垣楓の年齢は衝撃的だった。と同時に、自分の中で勝手に決めていたタイムリミットが延びたことを喜んだ。

 そういうこともあり高垣楓には注目していたのだけれど……後になってそれ以上に年上のアイドルが数多く存在することを知って自分の悩みが馬鹿らしくなったのはまた別の話。

 そして高垣楓をはじめとした上位メンバーの中には城ヶ崎美嘉の名前もあった。カリスマギャルとして世の女子高生から絶大な人気を誇るトップアイドルに最も近いアイドルの一人である彼女を知らなかったのは拙い。本気で僕は失礼なことをしていたのだと今更ながら背筋を凍らせた。

 そんなわけで、色々と346プロ所属のアイドルを調べていた僕は彼女達の忙しさというのを理解している。だから僕一人のためにレッスンを見せられるわけがないのは分かっていた。

 

「では、高垣楓さんか城ヶ崎美嘉さんの映像があれば、そちらを見せていただきたいのですが」

 

 僕が挙げたのはその二人だった。色々調べた結果、その二人が特に印象深かったからだ。

 

「高垣さんと城ヶ崎さんですか、ちょっと待ってくださいね……あ、これですね」

 

 千川さんが見せてくれたDVDケースには「13年1月 346主催」と書かれていて、つい最近の物だとわかった。

 

「ちょうどその二人が出ているライブの映像なんですよ。冒頭からお二人を含めた人気アイドルの子達がグループでお願いシンデレラを披露しているんです。単独ライブの物は今手元にないので、新しい物となるとそれだけになりますね」

「いえ、これで十分です。単独ライブよりも今はグループでやっているものの方が勉強になると思いますので」

 

 まだデビューすらしていない僕が単独ライブの映像を見せられたところで得られるものは少ないだろう。最初はシンデレラプロジェクトの一人としてグループ単位での活動がメインになるはずだから、今の段階ならグループで映っているものを見た方が良い。

 

「わかりました。それじゃ、さっそくセットするので座っててください」

 

 そう言って千川さんがDVDをセットし始めたので先程まで座っていたソファへと腰を下ろす。今度は許可を貰ったので気兼ねなく座れた。

 

「お待たせしました」

 

 たかだかDVDをセットする程度、大して待ってはいないのだけど、そう言ってはにかむような笑みを向けられると反応に困る。

 僕もお返しに微笑んで見せられれば良かったが、それもできない僕は真顔で会釈するしかなかった。

 特に気にした様子もない千川さんが隣へと座る。

 僕が座っているのは長いソファのため千川さんと一緒に座ったところで狭くは感じない。でもだからと言って一緒に座る理由にはならないんじゃないかな?

 ほら、正面のソファ空いてますよ。

 

「あ、私も一緒にライブを観るようにとの指示は受けていますよ」

 

 視線で千川さんに空いているソファを勧めるも、上手く伝わらずに見当違いの話をされてしまった。

 いや、一緒に観ると言っても意味合いが違うと言うか、ある意味近いというか……。

 ぶっちゃけこんな可愛い人に隣に座られると緊張してしまうのですが。

 中学時代も席替えで可愛いクラスメイトと席が隣になると緊張してしまうくらいだ。千川さんみたいな人が隣に座って来た日には緊張のあまり死ぬ自信すらある。すぐ蘇生するけどね。

 

「この回、と言うか今年のライブは凄く盛り上がったんですよ」

 

 僕のライフゲージの急激な減少などお構いなしに千川さんはライブの解説をしてくれた。

 今は録画が始まった直後らしく、場内アナウンスや観客のざわめきだけが聞こえる。

 結構大きな会場だ。僕がこんなところで歌えるのはいつになるのか。

 すでに似た大きさの会場でステージを経験している春香との差に心の中だけで落ち込んでいるとステージが始まった。

 突然ライトアップされたステージに現れたのは高垣楓をセンターに置いた五人のアイドル達だ。

 それぞれお姫様をモチーフにした衣装を着込み各々ポージングをとっている。

 そして始まる一曲目は「お願いシンデレラ」という曲らしい。隣の千川さんが教えてくれた。

 この曲はオープニング曲というのもあってキャッチーなフレーズが目立つ。お願いシンデレラという言葉から続く歌詞は少女達の夢や希望に溢れた想いが綴られているような、それでいて崖際な人間の切羽詰まった感もありなんとも言えない曲だ。

 シンデレラプロジェクトに参加しているからというのもあって「シンデレラ」という言葉につい気が向いてしまうのを抑えつつ、各アイドルの動きを目に焼き付ける。

 やはり高垣楓は頭一つ飛びぬけているな。ヴィジュアルもさることながらパフォーマンスが素晴らしい。「お願いシンデレラ」はグループ曲であるにも関わらずつい彼女だけを目で追ってしまいたくなる。

 確かに城ヶ崎や他のアイドルも目を引くものがある。しかし高垣楓と比べると何かが足りないように見えてしまうのだ。それは高垣楓の持つ、世界から浮いている様な雰囲気がそう見せているのかもしれない。

 ただ僕にはそれ以外にも理由があるとしか思えなかった。そして、これは憶測でしかないのだけれど。

 たぶん彼女は見つけているのだろう。

 だから彼女はシンデレラなのだ。

 

 それからしばらくの間、千川さんからの注釈を頂きながらライブ映像を観て行った。

 グループ曲をはじめ、各アイドルのソロ曲も良いアングルから見ることができた。その中には城ヶ崎の代表曲らしい「TOKIMEKIエスカレート」もあった。やはり店頭に置いてあるような小さいテレビなどで見るよりも大画面で見る方が分りやすい。前回覚えきれなかった部分も今回ので補完できた。

 今回のライブ映像を観て学べたことと言えばそれくらいだろう。

 商業用にカット割りされていない生の映像なので全体の動きが見えたのは良い。かなりの収穫があった。

 

「どうでしたか?」

 

 テンションが上がったのか少し声を弾ませた千川さんが訊ねて来た。

 やっぱりこの人はアイドルの子達が活躍するのを見るのが好きなんだな……。

 

「とても勉強になりました。引きの映像で全体の構成が良く見えたので覚えるのが楽でした」

 

 765プロにおける音無小鳥に重ねたということもあるが、アイドルが輝く姿を見て顔を綻ばせた千川さんを僕は良い人だと思った。

 この可愛らしく頼り甲斐のある女性は信用できる。

 今日一番の収穫はライブ映像ではなく、千川さんと過ごしたこの時間だと断言しよう。

 

「え、今のだけで覚えたんですか?」

 

 心の中で千川さんへの好感度をぐんと上げていると、千川さんから驚きの声が上がった。

 

「はい、一度観ましたので」

 

 プロジェクターの映像のため細かい動きは脳内で補完するしかなかったが、全体的な動きは覚えた。

 ライブならともかくDVDの場合カット割りのせいで動きが繋がらなくて覚えるのに若干苦労するのだが、今回の映像は教材としてならほぼ満点と言えるものだ。

 そのお陰で一度だけで覚えることができた。これが商業用のDVDだったらこうも行かなかっただろう。

 

「……ちょっと踊ってみて頂いてもいいですか? 覚えた範囲内だけでいいので」

「はい」

 

 千川さんの意図はよくわからなかったけれど、踊れと言われたのだならば踊るだけである。

 ソファから立ち上がると空いたスペースへと移動する。

 少し動いてもぶつからないように位置を調整すると千川さんへと向き直った。

 千川さんは先程までとは違い、神妙な顔でこちらを見てきている。

 

「始めます」

 

 一言告げた僕はステップを開始した。ついでに歌も覚えたので歌ありだ。

 左右前後のコンビネーションステップ、それから上半身の軽快な振り付け。

 映像の中のアイドル達がしていた踊りをそのまま再現する。

 各アイドルごとに振り付けが違う箇所はその時のセンターポジションの人間のものを都度選んでミックスした。

 そうやって歌って踊りながらこんな感じでいいのかなと千川さんの様子を窺うと、彼女は目を見開いて固まっていた。

 千川さんの反応をシャットアウトした僕はパフォーマンスを続けた。

 

 

「そこまでで結構ですよ」

 

 三曲目が終わったところで千川さんがストップがかかったので踊るのを止める。

 まだ十曲以上残っているのだけれど、もういいのだろうか?

 疑問に思いながら千川さんの様子を窺えば、千川さんは先程までの固まった顔を止めて、今度は困惑した顔で僕をじっと見詰めていた。

 

「……今のは、ライブのダンスを再現したんですか?」

「はい。引きの画像だったので全員分踊れます」

 

 質問に答えると千川さんは目を見開いた状態で固まってしまった。

 

「全員分……全曲?」

「はい、一度見ましたので」

 

 今度は頬が引き攣ったのが見えた。

 

「本当に……見ただけで、覚えられるんですね」

「はい」

「それは……どの程度の範囲でしょうか?」

「と、おっしゃいますと?」

「一度見れば覚えられるというのは、一曲の範囲内なら何人分同時に再現可能なのか、時間で言えばどの程度の長さかという意味です」

「そういう意味でしたら……十三人構成までかつ基本的なライブ時間ならば最初から最後まで再現が可能です」

 

 僕の答えに今度こそ千川さんは絶句した。同時に千川さんから僕に向けられる目が完全に「変な物」を見る目になっている。

 その程度で傷付くことはない。昔からよくそういう目で見られていたからだ。

 僕の中では一度見れば再現可能というのは便利能力ではあるが、こうして変な目を向けられる程のものではないと思っている。

 言ってしまえば、これってただ単純に動きを覚えるだけなんだよね。それだけでも凄いと言えば凄いけれど、 世の中にはもっと異次元染みた能力を持った人間がいるのだから。僕のこれなんて控えめとさえ言える。

 それに覚えたとしても、実際に物にするには何度も踊って動きを体に染み込ませなければならない。また僕自身があまりダンスが上手いわけではないため結局練習を積まなければいけないわけだ。そのため僕の中ではあまり強い能力という認識はなかった。

 どうしても歌と比べると数段見劣りしてしまう。逆に言えば歌に関しては極まっているという意味でもある。だから僕はあの時歌が得意だと言ったのだ。

 僕の答えを聞いた千川さんは、

 

「本当に、貴方はなんてものを見つけてきたんですか……」

 

 どこか遠くを見つめるようにして呟いたのだった。




ちひろ「私の胃が無事なのは今日までです!」

一日どころか一話ももたなかった件。
千早係という猛獣使い役を進んで引き受ける菩薩のような優しさとブッダに出て来るウサギのような自己犠牲精神は全346プロスタッフの涙と尊敬、そして哀悼の意を受けるに値するのであった まる

だって最終面接で上の人間からそういう役目だって認識されちゃったんだから仕方ないじゃない。
千早が人間性を取り戻すのが先か、ちひろの胃が死ぬかが先か。
結果はわかりませんが、私はちひろの胃が死ぬことに花京院の魂を賭けるぜ!


次回もお仕事編




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アルティメットな初仕事その2

今回は会話回。
アイドルの卵編のようにちょくちょく蛇足部分を挟みますが、ダレないように気を付けます。

前回千早が攻めだったので今回は受けです。
特に言葉のチョイスに他意はありません。




 ライブ鑑賞を終えたところで千川さんとは別行動になった。

 この後の予定は千川さんも聞かされていなかったため、僕からプロデューサーに確認して欲しいと言われた。

 できれば最後まで見張っていたかったと名残惜しそうに去っていく千川さんを見送りながら、僕は千川さんの用事について考えていた。

 千川さんはこの後、僕と同じ補充組アイドル二人を迎えるための準備を始めるらしい。僕と同じく今日が出社初日なのだが、二人とも学校があるため僕とは時間がずれたらしい。

 二人のうち片方は島村だろう。あんな別れ方をしたものの、同期としてまた会えるのは素直に嬉しい。今から会うのが楽しみなくらいだ。

 もう片方はよく知らない。千川さんが言うには例の二次オーディションに合格した受験者の内の残った方らしい。凄く言い難そうに教えて貰った。

 別に僕はもうその事を気にしていないんだけどなぁ。だから、千川さんもそんな風に申し訳なさそうにしなくていいと言いたかった。言ったところで押し付けになるから言わなかったけど。

 それにしても、二次オーディションで残った方の合格者か……。

 二次オーディション組と聞くとギリギリの合格に聞こえるけれど、実際は二次オーディションの方が厳しく見られると思うからそっちで残れたというのは凄いことだと思う。シンデレラプロジェクトの一次オーディションの合格枠は最大で十四人であるのに対し、二次オーディションは二枠しかなかったのだ。合格枠が少なくなっている分、二次オーディションの方が難易度は高い。

 だから、結果として最終的にシンデレラプロジェクトに受かっているその子は相応の能力を持っていることになる。

 どんな能力者か楽しみだ。シンデレラプロジェクトの他メンバーのも気になる。

 今からシンデレラプロジェクトのメンバーと会うのが楽しみだ。

 しかし、千川さん曰く、僕がメンバーに会えるのは夕方以降になるそうだ。十八時に玄関ホールでプロデューサーと待ち合わせる予定になっているから、その後にご対面という感じかな。

 当初の予定では僕にベテランのトレーナーが付いて、時間までみっちりレッスンを受けることになっていたのだけれど、突如撮影の入ったグループ(ブルーナポレオンというらしい)の調整のためにトレーナーが急遽対応することになった。その代打として僕を担当してくれることになったのがルーキーのトレーナーだったのだが、そちらは僕を受け持って一時間しない間に「体調不良」で退場してしまった。

 代わりのトレーナーを用意することもできず、一度ベテラントレーナーをブルーナポレオンから外して僕に付けるという話が上から出たそうだ。そこは途中で止められたので結局ライブ鑑賞に落ち着いたというのが一連の事情らしい。

 それにしても、いくら最初の予定だったとはいえ、先輩グループに付くはずだったトレーナーを新人の僕につけようとするなんてプロデューサーも無理をしたものだ。それだけプロジェクトメンバー達に期待してくれていることだよね。

 

 千川さんに言われた通り、プロデューサーに連絡を入れて指示を貰うとしよう。

 携帯電話を取り出し、アドレス帳からプロデューサーを探す。

 

「どちらに掛けた方がいいのかな?」

 

 アドレス帳にはプロデューサーの名前で二種類連絡先が登録されていた。

 片方が仕事用のスマホの番号で、もう片方は彼のプライベート用スマホの番号とメールアドレスだった。

 あの人は仕事とプライベートを分けて考えるタイプらしく、仕事の話以外で何か用がある時はこちらを使うようにとプライベートの番号を教えてくれたのだ。

 彼のプライベート番号を教えられた時は内心喝采を上げたものだ。だって、これは所謂アイマスゲームでいうメールイベント用のアドレスってことでしょ?

 確か前世の記憶では、ゲーム版にはアイドルからの個人的なメールを受信できるという要素があったはずだ。

 つまり、これを貰った僕は正式にアイドルとして認められたということにほかならない。

 他のアイドル達からも来ると思うし、あまりプライベートメールを送らないつもりでいたのだけれど、意外にもプロデューサーからメールが来ることが多かった。

 アドレスを教えて貰い、僕からも番号を教えた日から、「今どうしているか」とか「体調に不安はないか」など、その日から決まった時間に他愛ない内容の連絡が来るようになった。

 こうしてアイドル皆の状態を把握しているのだろう。その仕事に対する真摯かつ熱い姿勢に改めてプロデューサーは有能な人なのだと感心した。

 でも、体調とかの確認は仕事の一環だろうから、プライベートではなく仕事用でするべきじゃないかなとは思う。プライベート用では通信量とか請求できないだろうし……。

 プロデューサーが何人のアイドルとやり取りをしているか知らないけれど、負担になっていないかが心配だ。

 ここは仕事用にしておこう。お昼休憩中とはいえ仕事場での連絡なわけだし。

 仕事用の番号にかけると一コール目で繋がった。

 

「如月です。おはようございます、プロデューサー」

 

 相手に繋がったと同時に挨拶を口にした。

 アドレスを教えて貰ってからプロデューサーと電話越しに話した回数はそれほど多くはない。元々家族と春香以外に電話を掛ける相手が居なかったのもあり未だに電話は緊張する。

 少し早口になっていた気がする。

 

『……如月さんですか。貴女から掛けて来られるのは珍しいですね。どうかなさいましたか?』

 

 プロデューサーの声音からは特に忙しそうという空気は感じなかった。少しでも忙しそうにしていたら挨拶だけして切ろうと思っていたので安心する。

 それにしても、相変わらず良い声をしている。僕が男だったらこういう声質で生まれたかった。

 

「先程、千川さんから午後の予定をプロデューサーから聞くようにとご指示いただきましたので、ご連絡いたしました。……今、お時間大丈夫でしょうか? お忙しいようでしたら後ほど掛け直しますが」

『いえ、丁度手が空いたところなので大丈夫です。それよりも、本来ならもっと早くにこちらから連絡を入れておくべきでしたね。気が利かず申し訳ありませんでした』

「いいえ、そんなことはありません。プロデューサーがお忙しいのは私も理解しております。こうしてお時間をいただけただけ幸いです」

 

 たまに電話やメールで交わされるプロデューサーとのやり取りの中で、彼が日々激務を熟していることは察していた。直接忙しいということを言われたことはないけれど、会話の端々に混じる仕事絡みの話から読み取れた。

 そうなると僕と話すのは負担にはならないかという罪悪感から、今後は連絡を控えた方が良いか訊いてみたことがある。すると、プロデューサーから至極当然という感じにアイドルとのコミュニケーションも大切な事だと返された。本人が問題ないと言うのだから良いのだろう。それでも、あまり負担にならないように僕の方から掛けることはあまりしないようにしていた。

 

『前にもお伝えしたと思いますが、私に対してそういった気遣いは不要です。私は貴女のプロデューサーとして、貴女をサポートする義務があります。ですので、如月さんが必要だと感じたならば、遠慮などせず電話なりメールなりしていただいて構いません。……ちなみに、義務といっても私自身がちゃんと如月さんとの会話を楽しんでいますので、そこは誤解されないように』

「あ、はい」

 

 この間の一件以来、プロデューサーが今みたいに自身の発言に対して注釈を入れることが増えた。今もプロデューサーが「義務」と言ったことに対して僕が気に病むと思ったのか、わざわざ訂正を入れてくれている。実際に義務=負担になっていると受け取りかけていたので適切な対応だったと思う。さすがプロデューサーだ。僕の考えを熟知し始めている……。

 

「それは良かったです。……私も、プロデューサーとお話しできるのは嬉しいですから」

『……』

 

 プロデューサーとの会話は凄く楽しい。

 優以外の同性の知り合いがいない僕には同性の話し相手がもっと必要だと思うんだ。

 ついこの間まで、異性との会話がコンビニの男性店員からの「レシートは要りますか」に対して「いいえ」と答えるくらいの会話しかしたことがなかった僕だ。それ以外の同性との会話となると、中学生時代に男性教師と一言二言会話した時にまで遡る。

 ……クラスメイトの男子? はて、そんな生物が居たかなぁ(目を逸らし)。

 だから、数少ない男の知人枠であるプロデューサーとは仲良く会話できる仲になりたかった。

 

「あ、申し訳ありません、それでこれからの予定についてなのですが……」

 

 手が空いたとはいえ仕事中なのは変わりないのだから、あまり雑談に興じるのも悪い。手早く予定を聞いておこう。

 

『……そうですね。ところで、今如月さんは昼食の方はもうお済みでしょうか』

「お昼ですか? ……まだですね」

 

 今はお昼時から少し遅れた時間だ。しかし、今さっきまでライブ鑑賞をしていた僕はまだお昼ご飯を食べていなかった。

 

『でしたら、まずは昼食を取って下さい』

「はい」

 

 そう言えば今日は何も食べていないことを思い出す。春香が収録のために朝早くから出て行ってしまったので、一緒に食べる相手もいないなら……と朝ご飯を食べなかった。

 お昼も面倒だから抜いてしまってもいいかな。

 

『くれぐれも、面倒だからと言って食事を抜くのは止めてくださいね』

「……はい」

 

 バレてる。

 この間会社のホームページに載せるプロフィールのためにプロデューサーから色々と訊かれたのだが、その時に僕の体重が四十kgも無いと知られてしまった。それ以来、プロデューサーはこうして僕の食事に口を出すようになってしまった。

 せっかく食べずとも死なない身なのだから、もっと有効活用して行きたかったのだけどプロデューサーから食べろという指示を受けたからには食べないといけない。残念だ。

 これでまた死にスキルが増えてしまった。使えないチートはあってないようなものだ。

 

『この間提出していただいた貴女がこれまでされていた自主練習の内容ですが……。正直目を疑いました。とても正気の人間がやるような物ではありません』

 

 まあ、チートを使っているからね。

 でも正気を疑われるレベルではなかったはずだけど。これでも中学時代より抑えた内容なのに……。

 

『そして同じく提出していただいた日々の食事内容についても、自主練習程ではないにしても酷い内容でした。私もアイドルに関わる身として、少しですが栄養学について学んでいますが……いえ、そんな知識がなくともわかります。どう考えても、貴女は栄養が足りていません。運動量に対して足りていないということではなく、人が生きていく上で必要な分すら足りていない』

 

 僕が嘘を吐いているという思考に彼が至らないことを恨む。

 

『で、あるならば、足りないエネルギーは他所から持って来るしかありません。常識では信じられませんが、貴女はそれができている』

「……」

 

 信じられないなら信じなければ良いだけなのに、この人は僕が嘘を吐いてないとわかっている。

 そして、プロデューサーから確信を突く問いが投げられた。

 

『……貴女は何を削ってそれを行っているのですか?』

 

 生まれて初めて、誰かにそれを言及された。

 プロデューサーが言う通り、僕の出せるパフォーマンスと摂取エネルギーは釣り合っていない。一の栄養補給に対して十の出力を行っている。本来そんなことは不可能なはずだ。一般人には当然できないことだろう。

 それはチートを持つ僕ですらできないことだった。

 さすがに体内で無限にエネルギーを創り出すようなチートは持っていない。僕は超能力染みた力こそ持ってはいるものの、超能力者でもなければ魔法使いというわけでもないのだ。ただ、汎用性と発展性が超仕様のチートを持っているだけに過ぎない。

 だから、本来僕が何かするためには、それに見合うだけのエネルギーが必要になる。だが、僕が求める出力に対して同等のエネルギーを補給するとなると、某野菜人間達のような爆食いが必要になってしまう。それはちょっと現実的ではない。

 しかし、栄養補給ができないからと言って、出力を諦めるのは僕にはできなかった。足りない物が多すぎる僕にはチートしか無いのだから。

 ……だったら削るしかないだろう。

 

「……お昼ご飯はちゃんと食べます」

『如月さん……』

 

 プロデューサーの問いに僕は答えることができなかった。

 親身に接してくれるプロデューサーに不義理な態度をとりたくない。あの頃の様にこの人を拒絶するのは今の僕にとって苦痛だ。それくらいにはプロデューサーに慣れてしまっていた。

 でも、どうやって削っているのか、それを知られることで彼に化物を見る様な目をされるのが怖かった。

 そして、それ以上に……何を削っているのかを知られたくなかった。

 

「ちゃんと、食べますから……」

 

 これ以上は聞かないで(踏み込まないで)欲しい。

 

『如月さん、私はプロデューサーとしてだけではなく、一人の人間として貴女を心配しています。これは、食事面だけの話ではありません』

 

 プロデューサーの声は優しいままだ。

 こんな態度をとる僕に変わらず接してくれることに安堵と申し訳なさと、喜びを感じる自分が浅ましく思える。それでも、この優しさに甘えてしまう。

 

『貴女のアイドルに対する想い入れや意気込みを、私は素晴らしいと思っています。ですが、貴女のそれは自身を蔑ろにし過ぎています。私は立場上それを看過することはできません。わかりますね?』

「はい……」

 

 本当はよくわかっていないのに有無を言わせないプロデューサーの声に反射的に答えてしまった。

 彼の言う「わかりますね」という言葉の意味はわかる。でも、それで僕はどうすればいいのか、それを考える力が僕には無い。

 僕にはこれしかないのに、これを取られたもう何も残っていないのに……。

 

 それとも、チートの無くなった僕でも貴方は必要としてくれるのですか?

 

 喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。

 訊いたところで意味はない。チートのことを知らないプロデューサーに訊けるわけがなかった。

 それに、もし訊いて、彼が意味を理解してくれて……拒絶されたら?

 それは嫌だなぁ。

 

『だから、まずは食事をきちんと取って下さい』

「……はい」

『待ち合わせは食堂です。午後の予定はその時にでもご説明いたします』

「……はい。………ん゛?」

 

 今何か変なセリフが聴こえた気がするのだけれど。

 待ち合わせ?

 

「あの、プロデューサー?」

『何でしょうか?』

「今……待ち合わせとか聞こえた気がしたのですが」

 

 電波が悪くて聞き間違えたのかもしれないと念のため聞き返す。

 

『今回は私がお目付け役として、きちんと如月さんが昼食を取ったか監視させていただきます』

「はぃー……」

 

 ヤダ、プロデューサーからの信用低すぎっ!?

 プロデューサーは僕が嘘を吐くと思っているのだろうか。さすがにご飯を食べる食べないで嘘を吐くような人間ではないぞ。

 ……優相手にやってたわ! 僕そういう人間だったわ!

 

「私は約束を守らないような人間ではないですが……」

 

 だよね?

 嘘はともかく、ちゃんと約束したことは守る人間だってわかってくれてますよね?

 

『……そうですね。貴女は昔から約束を守る方でした』

 

 そうでしょ?

 短い付き合いとはいえ僕が約束を守るタイプだとわかって貰えていて良かった。ただ、僕って何だかんだと約束を守れない状況に陥ってしまうだけなんだって。

 

『如月さんが約束を破ると思っているわけではありませんが、貴女の場合は外的要因で約束を守れないことが多い気がするので……』

 

 ヤダ、プロデューサーからの理解高すぎっ!?

 ちょっと僕のこと把握し過ぎじゃないですかね。これは誰かからタレコミがあったと見て間違いないな。

 親か?

 お母さんあたりからプロデューサーに僕の話が行っているのかも知れない。

 ありがとうと言うべきか恥ずかしいからやめてと怒るべきか迷うところだ。

 

『ご迷惑、でしたでしょうか?』

 

 心なしかトーンが下がったらしいプロデューサーの声に罪悪感を覚えるのは何でだろう。

 その訊き方は正直ずるいと思うんだよね。

 プロデューサーが僕のことを考えて申し出てくれたとわかっているから、余計罪悪感が湧いてしまうのだ。わざわざ僕を監視するためだけに使う時間があるのだろうか。

 電話越しに聞こえる音の感じからして、プロデューサーは結構高い場所──敷地内なら本社ビルの三十階くらい──に居るのだと思う。確かそこにプロデューサー室があると言っていた。そこから食堂までは来るのは負担にはならないのか。

 

「わかりました。元より嫌ということでは無かったので問題ありません……お手数をお掛けいたします」

『いえ、私の方もこれから昼食にしようと思っていたので丁度良かった』

 

 貴方も食べるんかい。

 ただプロデューサーが監視だけと言ったら断れたかも知れないのに、彼もこれから昼食なのだと言われたら断る理由がないじゃないか。最初からそう言ってよ。無駄に申し訳ない気持ちになったわ。

 いや、と言うかだよ?

 今回もこれからお昼だから一緒に飯行こうぜ。あ、ちゃんと食べるか見張ってるからな。とかにすれば僕も素直に頷いたよ。無駄な問答要らなかったよ。

 

「プロデューサー、こういう場合は監視とかそういう言葉を使うのではなく、もっと気の利いた言い回しがあると思うのですが?」

『そうでしょうか?』

「そうですよ。監視だなんて、たとえそれが主目的であったとしても言うべきではないです。もっとオブラートに包むなり、別の目的で隠すとかしないとダメですよ?」

『なるほど。大変参考になります』

 

 ……なんで僕はプロデューサー相手に言葉のチョイスの講義をやっているんだ?

 偉そうに講釈垂れるほど僕にコミュ力は無いぞ。まあ、それ以上にプロデューサーの言い方が悪いことが多いので、気が付いた時にこうして訂正を入れることがここ最近何度かあった。

 僕よりコミュ障とかやばいので。

 プロデューサーが言葉の選び方を改善してくれれば、今後誤解を受ける回数も減るだろうから、ウザくない程度に訂正して行こう。……それでも完全に誤解を受けなくなる気がしないのは何でだ。

 

『では、改めて。……如月さん、この後食事でもどうでしょうか? 貴女と二人の時間を過ごしたいのです』

「……」

 

 ……。

 いや、そうはならんやろ。

 何で余計酷くなってるの?

 どうして彼はその選択肢を選んでしまったのか。どうして選んだ結果が口説いているような台詞になってしまったのか。そもそも言ってておかしいと思わないのか。

 発想が理解できない。

 オブラートに包みすぎて口に入りきらないレベルだ。窒息不可避である。

 これも千川さんの教育の賜物ってやつだろうか。

 

『……いかがでしたでしょうか?』

 

 そんな採点を待つ生徒みたいに訊かれてもね。

 これ、僕がどう答えても変な感じになるやつじゃないかな。

 

『駄目、でしたか?』

「いえ……では、お昼行きましょうか……」

 

 結局どう答えても間違いだと思ったので昼食に行くという話の方で纏めた。

 

 

 

 

 食堂に着いた。

 時間的にお昼時を結構過ぎてしまっている。プロデューサーとの会話で想像以上に時間をとられた結果だった。

 プロデューサーとの会話はたまに心臓に悪い時があるから困る。

 胸のあたりを押さえると今も心臓がドキドキしているのがわかる。いや、ドキドキというかヒヤヒヤというか……。

 いつかあの人は誰か相手にやらかすと思うんだよね。それで逆上した相手に刺されて死にそう。

 何とか矯正して貰おうと色々言うのだけど、今のところ上手くいったためしがない。プロデューサーが天然過ぎて自分が何を言ったのか理解していないのが問題だった。

 これは最終的に千川さんに責任をとってもらうしかないな。代わりに刺されろとは言わないので、矯正役を代わって貰いたい。できないなら結婚しろ。

 

 さて、プロデューサーの方は少しだけ遅れて来るそうなので先に食券だけでも買っておくかな。

 食欲が無いのであまり気乗りしないものの、プロデューサーとの約束もあるので食べないわけにはいかない。いったいいつまでこの不調は続くのだろうか。

 さっそく貰ったカードを活用するとしよう。確か食堂のメニューがこれ一枚で食べ放題という話だったよね。食券式みたいなのでこのカードを券売機に使えばいいのかな?

 メニューの確認のために食堂前に設置されている券売機の前に立つ。

 この券売機なのだが、定食屋のチェーン店にあるような料理名だけのシンプルな物ではなく、液晶画面に料理の説明や使用している材料が画像付きで表示するようなハイテクなやつだった。

 しかもメニュー自体も結構色々と種類がある。麺類のようなオーソドックスなものから創作料理みたいな珍しいものまで取り揃えられている。下手なファミレスよりも種類が豊富なんじゃないかな。

 これはどれを食べるか迷ってしまう。

 安定の日替わり定食とかどうだろうか?

 それともこの「大和撫子48変化 下総国の風とともに豚の気持ちになる定食」というイギリス風牛料理なんて程よく狂っていて興味が湧く。豚要素ないじゃん!

 無料だからどんな冒険もし放題だ。

 メニューがありすぎて迷うなぁ……。

 

「ここの食堂はAランチがお勧めだよ」

 

 迷っているとどこかで聞いたことのある声でお勧めを言われた。

 Aランチ?

 また地味な名前のメニューを勧めるものだと思ったところで、自分がずっと券売機の前にいたことに気付いた。

 新人の僕が券売機と言えど一つの場所を占有するのは拙い。きっとこの声の主はあまりに時間を掛ける僕に業を煮やして「もうAランチにしておけよ」と言って来たに違いない。

 申し訳ないことをした。すぐに謝ろうとと慌てて振り返ると、何とそこに居たのは最終面接にいたナイスミドルさんだった。

 あの最終面接の場所で一人だけ纏う空気が違った人だ。他の人は僕に対して挑発的というか懐疑的な目を向けていたので余計印象に残っている。

 最終的には僕の歌を聴く流れにしてくれた人なので僕の中ではこの人は救世主扱いだ。

 

「申し訳ありません、今どきます!」

 

 慌てて場所を譲るために横に避けるとナイスミドルさんは人の良さそうな笑顔を浮かべて首を振った。

 

「いやいや、特に急いでいるわけではないから構わないよ。じっくり選ぶといい」

「ですが……」

「混雑する時間はとうに過ぎているからね。それによく周りを見てみなさい、券売機はそれ一つではないよ?」

 

 言われて気付いた。

 周りを見れば券売機の前に居るのは僕とナイスミドルさんだけで、その券売機もこれ一台だけではなく等間隔に何台も設置されていた。

 つまり、この人は本当におすすめのメニューを教えてくれていたということになる。

 顔が熱くなるのを感じる。悪意を向けられていると勘違いしてしまった。恥ずかしい。

 

「ハハハ。一直線なのは良いことだが、視野を狭くしてはいけないよ? ……面接の時みたいにね」

「その節はどうも……ご迷惑をお掛けいたしました」

 

 あの時の僕の態度は今思い出しても酷いものだった。面接の最初の方は緊張のし過ぎで自分でも何を言っているかわからなくなっていたし、最後は最後であの「いいから私の歌を聴け。それが答えだ」という啖呵である。いくら相手が喧嘩腰だったとしても、面接を受ける側がそれに応じてやり合うのは駄目だよね。最後は全力チートで歌ってからプロデューサーに交渉を丸投げするというクソっぷりである。我ながら酷いを通り越して気が狂っていたとしか思えない面接内容だった。

 普通なら落とされても文句は言えない。それでも今こうしてここに居るということは受かったからなんだけれど。それはそれで面接官が狂っているとしか思えないわけで。

 

「いいや、迷惑を掛けたのはこちらの方だよ。最後は面接官側が惚けて居るだけだったからね。……もちろん私もその一人だった」

「……」

 

 どこか遠くを見ながら染み染みと語るナイスミドルさんの顔には穏やかな笑みが絶えず浮かんでおり、面接時のあの険のある感じは嘘のように消えていた。本来の性格はこちらで、面接の時だけアレなのかもしれないね。

 最後に部屋の空気が一変していたことから、アレは一つの圧迫面接だったのではないかと思っている。

 これからの僕のアイドル人生を考えて、あえて厳しい態度で面接をすることでアイドル候補の覚悟を試すとかなんとか。

 だと言うのに勝手に覚悟を決めてイキったのが僕です。

 あー、これは黒歴史決定だ。何年後かに布団の中でバタバタ暴れる案件。また一つ、僕の黒歴史が増えた。やったね千早ちゃん!

 

「さて、私も食券を買うことにしよう」

 

 新たな黒歴史に脳内で暴れている僕をよそに、ナイスミドルさんが隣の券売機を操作し始めた。

 僕も何か選ばないと。

 ナイスミドルさんはAランチがお勧めだと言っていた。メニューの「Aランチ」という文字の下には品目が書かれており、Aランチのメインはハンバーグであることがわかった。

 正直ハンバーグを食べる気にはなれない。今肉類を食べたら胃もたれで死ぬ。文字通り死ぬ。

 でも明らかに目上の人間からお勧めと言われたからにはAランチを頼んでおいた方がいいのだろうけど……。

 そう言うナイスミドルさんは何を頼んでいるのか。横目で見てみるとBランチを選択しているのが見えた。

 手元の液晶でBランチの品目を確認すると野菜炒めとあった。

 

「……」

 

 格差凄っ!?

 Aランチはハンバーグなのに対してBランチは野菜炒めとか。しかもAランチはハンバーグのほかにグラタンも付いているぞ。Bランチはお新香だ。

 Bは何か悪いことでもしたのかと心配になる。

 思わずナイスミドルさんを見ると僕の視線に気づいたナイスミドルさんと目が合った。

 

「私は昔からBランチ……野菜炒めが好きでね」

 

 恥ずかしそうにナイスミドルさんはBランチを選んだ理由に言い訳をしていた。

 別に野菜炒めをディスるつもりなんて無いよ。僕だってハンバーグと野菜炒めなら野菜炒め食べたいもの。

 

「あー……何と言うかだね」

 

 何と答えたら良いかわからず答えに困っていると、ナイスミドルさんの方も続く言葉が思い浮かばなかったのか困った顔をしている。

 自分よりいくつも年上の人のこういう表情を見ると少し落ち着く。僕が何かをする度に大人達からは厳しい目で見られて来たので、こうして僕がしたことに対して優しい目を向けられるとむず痒くなる。

 ナイスミドルさんは何かを迷うように視線をさ迷わせ、目を閉じ、少しして目を開けるとこちらを真っすぐと見た。

 

「君は……アイドルになりたいからアイドルになったのかな?」

「えっ?」

 

 ナイスミドルさんからの突然の質問に思わず聞き返してしまう。

 僕の反応を予想していたのか、表情を変えることはせず、ナイスミドルさんが言葉を続ける。

 

「君の歌は素晴らしい。歌唱力だけで言えば、すでに行き着くところまで行き着いている。……人の持つ可能性の終着点に君はその若さで立っている。恐ろしいことにね」

 

 唐突に語り始めるナイスミドルさん。これは長くなるやつだ。

 

「君の歌は人の心を変える力を持つ。君が歌うだけで人は君を賞賛するだろう。人が持つ信念や覚悟、自信、自負……それら全てを駆逐して薙ぎ払うくらい鮮烈に君の歌は相手の心を揺り動かす。相手が望む望まないに関係なく、文字通り君の歌は心を、人を変える」

 

 どうしよう、この人いきなり人を自然災害みたいに呼び出したぞ。

 流石の僕でも天災扱いは御免なんだぜ。あと言葉のチョイス。

 

「私は……何だったんだろうね。それまで確固として持っていた、持っていたつもりだった何かが君の歌を聴いてから無くなってしまったよ」

「私の歌で……それは、その申し訳ありません」

「ああ、いや! 別に責めているわけではないよ。……これは、私の中にあった古くからある慣習と先人への間違った気遣いから出た膿のようなものだからね。逆に無くなったことでさっぱりした気分だよ」

 

 そう言って歯を見せて笑うナイスミドルさんの顔は確かに一片の曇りもないくらい澄んでいるように見えた。

 

「結局私の考えなんてものは、古臭い骨董品のようなものなのかもしれないね。良かれと思ってやって来たつもりだったが、君の歌を聴いたことで、それは私の独りよがりに過ぎなかったと思い知らされたよ」

 

 だが次の時には自嘲気味に目を伏せてしまった。過去の自分を振り返り、その在り方を自分自身で全否定するのは辛いことだ。この人の年齢になってからそれをするというのはどれ程の苦痛なのだろう。

 確かに歌に自信はあるとは言ったけれど、ここまで追い詰める程のことをしたつもりはない。

 ただ僕は歌っただけだなのに。

 全力で。

 それだけなのに……。

 

「私のやって来たことはこのBランチの様に古臭いものだった。新しい相手に端に端にと追いやられるだけの惨めなものだった」

「……」

「最後にはAランチの名前まで失った。君は知らないだろうが、元々BランチはAランチだったんだよ。それが今ではBランチと名前を変えてお情けで残っている状態だ」

 

 ナイスミドルさんは手に持ったBランチと書かれた食券を悲しそうな目で見ている。

 それがどういった理由からなのか、根本的なところで僕は理解できていない。僕はこの人をよく知らないし、この人の立場も知らない。この人の歩んだ道程を僕は知らない。

 きっと、この人自身と、この人と深く関わった人達にしかわからない何かがあったのだろう。それは良いことではなかったのかも知れない。

 僕にはこの人がBランチにどんな意味を込めているかなんてわからない。この人に何か救いになる言葉を掛けることはできないのだ。

 だから、僕が選ぶ選択肢は一つだった。

 ……使い方がシンプルで良かった。

 

「それは……」

 

 券売機のボタンを押して食券を取った僕の手元を見たナイスミドルさんが息を呑んだ。

 僕が買った食券はBランチだった。

 

「私はBランチを食べたいと思いました。Aランチではなく、Bランチが良いと思いました」

 

 僕にできるのは空気も読まずに自分の話をするだけだった。

 いつだって僕はそうして来た。相手の事情なんて気にしないで、自分の思ったことだけを語って来た。

 今回だってそうだ。ナイスミドルさんの事情なんて知ったことじゃないし、仮に知ったところで僕に何かができるとは思えなかった。

 だったらいつも通りやるだけだ。

 

「……」

 

 ナイスミドルさんは黙って僕が話すのを聞いてくれていた。

 

「確かに、Aランチが好きな人の方が多いのでしょう。でも、そうじゃない人も居ます」

 

 僕みたいにね。

 

「ここの人気メニューなんて知りません。皆さんがそれが良いと言っても、私にはそんなもの知らないし、関係がありません。そんな物で選ぶ物を変えるつもりはありません」

 

 人気メニューだからハンバーグを食べろなんて言われたら僕は嫌だ。ハンバーグは嫌いじゃないけど、今の僕は野菜炒めが食べたいのだ。

 

「それに、結局のところ美味しいからここにあるのでしょう」

「君は……」

「私はBランチが食堂に残っていてくれて良かったと思っています」

 

 ナイスミドルさんの目をまっすぐ見詰めながら言い切った。

 ゲテモノかハンバーグしか選択肢が無い食堂とか悪夢だろ。

 

「私、野菜炒め好きなんですよ」

 

 美味しいし。

 あと安いし。

 ナイスミドルさんが求める答えだったかはわからないけれど、あくまでBランチの話として語るならば、僕の考えは今言った通りだった。

 

「……そうか。……そうだな」

 

 でも、ナイスミドルさんにはそれで十分だったらしい。

 僕の言葉を聞いたナイスミドルさんは、何かを堪えるように上を向いた。そして、何かを噛み締める様に何度も頷いていた。

 

「確かにBランチとして居る間は、Bランチの仕事をしなければいけないよなぁ……」

 

 しみじみと呟いたナイスミドルさん。

 

「ありがとう、如月君。私は答えを得たよ」

 

 座に帰るんですかね。

 

「それに、Bランチだってこのまま終わっていいと思っているわけではないんだよ」

 

 どうでもいいけれど、もう少し良い例え先はなかったのでしょうか。

 僕は思ったことを言っただけで、貴方の事情なんて何も考慮してないですよ?

 それでも良いと仰るならば僕からは何もありませんけど。

 

「さて、いつまでも時間を取らせるのも悪いね。私はもう行くよ。久しぶりに後ろめたくない気分で野菜炒めを食べられる」

「あ、はい。……お疲れ様でした」

「お疲れ様。……本当にありがとう」

 

 最後に丁寧過ぎる程に頭を下げて来たナイスミドルさんに慌ててこちらも頭を下げる。

 今まであえて触れなかったけれど、明らかに偉い人っぽいし、そんな相手に一方的に頭を下げさせるとか拙い。

 爽やかな空気を纏ったナイスミドルさんが去っていくのを僕は頭を下げたまま送り出した。

 良かった、一緒にお昼を食べようとか言われなくて。断るにしても一緒するにしても面倒事になっただろう。

 

「お待たせいたしました」

 

 背後から声を掛けられたので振り返るとプロデューサーが立っていた。

 少し息が上がっているのを見ると急いで来てくれたのだろうか。そんな急がなくても幾らでも待つのに。

 

「先程まで何か話されていたようですが……一体何を?」

 

 ナイスミドルさんとのことを訊かれた。遠目に見えていたのかな?

 

「特にどうということは話していませんよ。この間の最終面接の話くらいです」

「そうですか」

「あとは、えっと……」

「やはり、何か言われましたか?」

 

 え、何その言い方。僕ってばあの人から何か言われる可能性があったの?

 実は受からせる気なんてなかったのに受かるなんてとか?

 でも、何も言われなかったということはプロデューサーの考えすぎだったということだよね。あの人そんなこと言うタイプには見えなかったもの。

 

「いえ、好きなメニューについて語り合ったというか、私が一方的に語ったというか」

「はぁ、なるほど?」

 

 プロデューサーが不思議そうな顔をする。

 当然そういう反応になるよね。僕も意味わかんなかったもん。

 

「ところで、ナイスミ……先程の方はどういった立場に居る方なのでしょうか? 最終面接の時にもお聞きする機会がなくて……」

 

 良い機会だしプロデューサーにナイスミドルさんの事を訊いてみた。いつまでもナイスミドルさんと呼ぶわけにもいかないしね。

 僕がナイスミドルさんを知らなかったと知っても、プロデューサーは特に驚くことはなかった。

 むしろ知らなくて当然という感じで教えてくれた。

 

「今の方は、この346プロダクションの専務ですよ」

「……へ」

 

 専務相手に最終面接で啖呵切って、今度はお勧めメニュー蹴った挙句好き勝手に語ってしまった。

 

「……オッフ」

 

 僕終わったかも知れない。

 

 こうして、僕の黒歴史がまた一つ増えたのだった。




今回は会話回。
CPメンバーとの出会いは次回以降に持ち越しです。本当は一気に進めたかったのですが、今後の武Pとの絡みを薄めるためにここで会話させておく必要があったので会話パートを入れました。
千早の武Pに対する感情は70%がビジネスライクで残り30%は同性に対する気安さでできています。ホモじゃないので恋愛感情はありません。
中学時代に男子生徒と会話をしたことが絶無の千早は家族以外でまともに会話した相手が武Pが初めてになります。そのため武Pに懐いているのですが、これまで優や女性としか接してこなかったので同じ接し方をしてしまいます。
女子高出身の女の子が共学の大学に進学したようなものですかね。よく知りませんが。
対男性への接し方を知らない+元男+男に飢えている(意味違う)千早は無防備に武Pに接近するので、その言動の意味深さも合わさり目撃者(ちひろ)が「っべーぞ、これマジっべーぞ」と胃を痛めることになります。
今後さらに酷くなるので、ちひろの胃は常にオラオラッシュを受けている状態に……。
どうしてちひろさんだけがこんな酷い目にあうんだ!

あと、今回ちょっとだけ出て来たナイスミドルの専務さんは千早の最終面接時に居合わせた被災者の一人です。
たぶん最終面接回以降は常務が出て来るまで出番がないと思います。
彼が語ったBランチの話はよくある競走に負けて名ばかりの閑職に回された人間のあれこれだと思ってくだされば。武P視点で余裕があれば語られると思います。
色々燻っていた人間の膿を洗い流し再び熱を灯すことでシンパに作り直す千早。それが現体制に対する元対抗馬筆頭というところが天性の破壊者たる所以。別にアイドルに被害はないのでいいんですけどね。常務が可哀想になるだけですし。

次回は武Pとの昼食に続きます。
そしていよいよCPメンバーとの顔合わせ。
そしてそして、とうとう彼女の登場となります。
ある意味最も悪い意味で千早の影響を受けてしまった彼女ですが、果たして二人の邂逅はどのようなものとなるのか……。

千早「見ろ! 僕が作った最強の爆弾だ!」※ただし、前編に限る。


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アルティメットな初仕事その3

今回も会話メインで進行です。
ようやく出会えたCPメンバーと千早との掛け合いに注目してください。


 プロデューサーはAランチの食券を買っていた。

 

「ハンバーグ、お好きなんですか?」

「ええ、好物です」

 

 プロデューサーは主流派だったか……。

 いつの日か、ハンバーグVS野菜炒め戦争が起きた時、僕はどっちに着けばいいのか。

 

 

 

 

 食券のメニューを食堂のおばちゃんに渡すと時間を置かずに料理を出して貰えた。食券を使う機会が滅多に無いので少し緊張した。しかし、それ以上に料理をちゃんと出して貰えることに感動する。中学時代は給食を配膳係の人から貰えないなんてこともあったから、こんな風に料理を出して貰うことも新鮮に感じられた。

 料理が乗ったトレイを受け取るとプロデューサーと一緒にテーブルが並ぶ方へと向かった。

 千川さんに案内して貰った時は入り口までしか来なかったので、実際に中に入るとその広さに再び驚かされる。

 そして近くで見ると、その広さ以上に利用者のことをよく考えた作りになっているのがわかった。

 

 セルフサービスの給水機が幾つも設置されており、横にはコップが綺麗に並んでいる。

 各料理向けのソースやサラダドレッシングは利用者の好みで掛ける物を選べるようになっており、トレイを片手で持ったままでも掛けやすいように全てソースポットに入れられていた。

 掃除が行き届いた床とテーブルはピカピカに磨かれた窓から差し込む光が反射するくらい常に清潔に保たれていることを視覚で教えてくれる。

 先程使った券売機も英語表記が可能であったりと、多種多様な利用者に対応できるようになっていた。

 

 こんな行き届いたサービスを無料で受けられることに感動しプロデューサーへの感謝で胸がいっぱいになる。

 と言うことで、胸いっぱいになったからこの野菜炒めも食べなくても……駄目っすか。そっすか。

 プロデューサーからの無言の圧力に屈した僕だった。

 

 広い食堂にはあまり人が残って居なかった。もう少し早く来ていればもっと席が埋まっていたのだろうか。その中に現役アイドルが普通に混じっている光景がどうにも想像できない。何となく、画面の向こう側の世界というイメージが強く、生身のアイドルがすぐそこに居ることに実感が持てないでいた。

 

「せっかくですから、外のテラス席で食べませんか? お天気も良いみたいですし」

 

 テーブルが空いているのでそちらでも良いのだけど、せっかくこんな良い天気なのだ、テラス席で食べるのもありだろう。

 そう思って提案したものの、プロデューサーからは難色を示されてしまった。

 

「いけませんでしたか?」

「厳格に駄目と言うことはしませんが、あまり肌を焼くことはしないで欲しいですね」

 

 プロデューサーさんが言うには、アイドルたるもの必要以上に陽の下に出るべきではないということらしい。もちろん屋外でのロケともなればそういう場面も少なくないので、あくまで可能な範囲でということだが。

 少なくとも今みたいに選択肢がある中でわざわざ外に出ることは推奨していない。

 

「特に如月さんの場合、他のアイドルの方々よりも肌が白いので、いくら紫外線対策をしていてもよろしくないでしょう」

「え、特に対策とかはしていませんけど?」

 

 プロデューサーの発言を訂正することが多かったので条件反射的に訂正を入れてしまった。まあ、紫外線対策をしていないってだけなので致命的なものではなかったけど、今後は気をつけよう。

 

「紫外線対策を……されていない……?」

「はい。生まれてこの方、そういうものを塗ったことはないですね」

 

 日焼け止めクリームすら塗ったことがない。全て自前の肌で陽の光を受け止めていた。

 

「如月さん、失礼なことを訊くようですが、今メイクはどの程度されていますか?」

「今ですか? ……すっぴんです」

「っ!?」

 

 プロデューサーが愕然とした顔で僕の顔を見返す。

 そんなにも僕がすっぴんだったことがショックだったのか。特に化粧について指定が無かったので、これまですっぴんで来たけれど、今後はその辺も気にした方がいいのだろうか?

 プロデューサーが僕の発言に百面相──そこまで彼に表情の差分が無さそうなので十面相とする──を晒している間思案に耽る。

 化粧なんて中学時代に「メイクさんが来ないアクシデントに対処する」パターンを練習したのが最後だ。だからオーディション用の写真も最終面接もすっぴんのままだった。

 今まですっぴんであることを指摘される機会が無かったのも僕が現状に疑問を抱かなかった理由だ。まあ、すっぴんの相手に「貴女すっぴんですか?」なんて訊く物好きがいるとも思えないけど。

 そろそろプロデューサーも落ち着いたことだろう。

 彼に今後化粧はした方がいいのか訊こうと口を開いた僕は、いつの間にか真顔に戻ったプロデューサーがこちらに手を伸ばして来る姿を見て言葉を飲み込んだ。

 プロデューサーの手が僕の頬へと触れるのを触覚ではなく視覚で確認する。思ったよりもきめ細かな指先が、まるで割れ物を扱うかの様に繊細なタッチで肌の上を滑った。

 普段の僕ならば、すぐにでも意図を確認しようと口を開いたことだろう。しかし、突然の彼の奇行に対して僕が思ったことは、片手でトレイを持って溢したりしないかという至極どうでも良いことだった。

 一度、二度とプロデューサーの指が頬に触れるのをただ眺める。触覚のほとんどを失っている僕にはこの行為はただの視覚情報に過ぎない。

 しばらく彼の手の動きを目で追っていると、突然その手がピタリと止まった。

 

「……プロデューサー?」

 

 彼の意図のわからない行動に声を掛ける。

 触れた理由もわからければ、止めた理由もわからない。彼の中の行動理由の不明さに僕は自分から行動する機会を逸していた。

 

「……あ、ああっ、これ、これは失礼いたしました!」

 

 珍しく声を張ったプロデューサーが僕の頬から手を放し、勢い良く後退して行った。器用にトレイを保持したままなのを見るに彼はバランス感覚が良いらしい。

 挙動不審なプロデューサーを変な目で見ない様に意識するのは大変だった。普段落ち着いた態度が印象的な相手の謎行動ほど反応に困るものはない。しかし、反応に困っても対応ができないわけではないのだ。たまに優が同じ感じで挙動不審になるから。

 

「突然慌てだして、どうかされたんですか?」

 

 こういう時の経験則に従い、僕は努めて落ち着いた態度をプロデューサーに見せた。こちらまで慌てると相手がさらに慌ててしまい混乱が収まらなくなるなるからだ。

 

「……どこかに座りましょうか」

 

 たっぷり時間をとってから再起動を果たしたプロデューサーは何事も無かったみたいな態度で僕の横を通り過ぎて行った。

 その時仰ぎ見た彼の耳が真っ赤に染まっているのを見て、普段冷静な人でも挙動不審な態度を見られると恥ずかしいのだなと思った。

 

 

 窓から差し込む陽の光から逃れる様に奥側の客の少ないテーブルを選び向かい合う位置に座った。

 プロデューサーは席に着くやコップの水を煽る様に飲み始めた。少し荒々しい態度で喉を鳴らし水を飲む姿を黙って観察する。低い声だからというわけではないのだろうけど、きっちりと絞められたネクタイとワイシャツに隠れていてもわかる喉仏が水を嚥下する度によく動いた。僕には無い器官に自然と視線が向かってしまう。

 水を飲み終えてようやく人心地着いたのか息を大きく吐いたプロデューサーが口を開いた。

 

「改めて驚かせてしまい申し訳ありませんでした」

 

 頭を下げるプロデューサー。

 一旦トレイを横へと退かせてからテーブルに額が付くくらいに低く下げられた彼の後頭部を僕は困惑しながら見返した。

 何に対して謝罪されているのかまったくわからない。

 先程までの一連の出来事を振り返ってみても、僕の視点ではプロデューサーが謝らなければならない場面が思い浮かばないのだ。

 何か僕のあずかり知らない事情があり、それに先んじて謝罪したという可能性もある。この間の最終面接でまさにそんなやり取りがあったことは記憶に新しい。その時は僕の合格が無しになったのかと勘違いすることになったのだが、今回もそんな話の前振りだろうか。

 しかし、前回の教訓からこの人の口からきちんと語られるまで結論を出さないと決めたばかりである。プロデューサーが言ったことは信じると決めたのと同時に、この人が口にするまでは信じないと決めている。

 僕はプロデューサーが続きを話すのを待った。

 

「……」

「……」

 

 が、しかし、いくら続きを待ってもプロデューサーが話し始める気配がない。むしろいつまでも沈黙が続くのではと錯覚するくらいに無言を貫いている。

 息遣いすら押し殺す様に静かに頭を下げ続ける彼に、実は続きなんてないのではないかと思い始めるくらいだった。

 

「あの、プロデューサー……」

 

 椅子に座りながら頭だけを下げ続けるというのは案外辛い。ずっと頭を下げたままのプロデューサーの肩がプルプルと震え出したところで僕の方が限界に達してしまい声を掛けることになった。

 僕の呼びかけに一瞬頭を動かすプロデューサーにいよいよ続きを言うのかと身構えたが、どうやら僕の声に反応しただけで何か話すつもりはないらしい。

 だから、一体全体何をどうしたいのか教えて欲しいのですが。

 

「顔を上げてください」

 

 人が少ないとはいえ、傍から見れば今の僕は目上の男性にずっと頭を下げさせている女に見える。誤解されやすい僕にこれ以上変なキャラ付けをされても困る。

 プロデューサーに何とか顔を上げて貰おうと、身を乗り出して両手で彼の頭を挟み込み、そっと顔を上げるよう促した。

 特に抵抗することなく顔を上げた彼と間近で視線が合う。

 

「理由もわからないまま頭を下げられても困ります」

 

 僕が立ちプロデューサーが座っているために目線は僕の方が高い。そんな体勢も相まって弟を相手にしているような気持ちになる。

 

「……お怒りに、ならないんですか?」

 

 プロデューサーがその上背に似合わない縮こまった態度で訊いて来た。どこかしょんぼりとした空気を放っており、思わずいつものキャラどこ行ったと突っ込みたくなる。

 

「何に対して私が怒ると思ったんですか?」

「いえ、いきなり頬に触れたので。不快に思われたのではないかと」

 

 あー、そこを気にしていたのか。ちょっと納得いかないまでも一応話としてはプロデューサーが突然謝り出した理由は理解できた。

 まあ、いきなり触られたことに多少驚いたとは言え、相手は他でもないプロデューサーだ。文句も問題も何も無い。

 そりゃいきなら目潰しでもして来たら文句の一つも言っただろうけど、頬に触った程度で怒る理由にはならない。

 

「特には?」

 

 触りたければ好きに触ってどうぞといった感じだ。

 知らない相手ならともなく、プロデューサー相手なら別にいい。

 

「プロデューサーにならいくら触られても問題ないですよ?」

「……」

 

 この程度では怒らないという意味を込めて言ったのだけど、言われた側のプロデューサーは再び停止してしまった。

 ……346プロでは何か特殊な病気でも流行っているのだろうか。最終面接でも面接官が同様に停止することがあったので本当に奇病が蔓延している説。

 

「大丈夫ですか? 具合でも悪いとか……」

 

 プロジェクト開始前にプロデューサーが病に倒れるとか止めて欲しい。無理をして体を壊してしまうのは困るので、あまりに酷いようなら休養も視野に入れて欲しい。プロジェクトよりも貴方の身体の方が大事なんですよ。

 

「体は問題ありません」

「では心が」

「そちらはまだ大丈夫です」

 

 タイムリミットがあるような言い方である。

 

「そんな……! プロデューサーが心を病んでいるなんて……どうしてそんなことに」

「誤解です。心身共に健康です。それともし何かあったとしても原因は判明済みなので」

「あ、そうなんですね。良かった」

 

 健康ならば問題ない。それを聞いて安心する。他人の健康状態なんて言われなければわからないから、知らないうちにプロデューサーが手遅れなんてことになったらと思うと気が気ではなかった。

 

「そろそろ手を離していただけると……」

 

 遠慮がちな声でプロデューサーから言われ、先程からずっと彼の顔を持ったままだったと気付いた。

 両手を顔から離すとプロデューサーが自分の顔を触っていた。強く掴み過ぎたかもしれない。もっと強く掴んでいたらアンパン男みたいにプロデューサーの首が取れていたかもだ。

 

「コホン。……その、如月さんの許可なく頬に触れてしまったことに対する謝罪のつもりだったのですが、逆に貴女を困惑させてしまったようですね」

「それは、まあ」

 

 困惑気味に苦笑するプロデューサーに曖昧な同意を返す。

 

「しかし、やった私が言うのもおかしな話ですが。今後は今のように誰かが触れようとしたら避けるか、止めるよう口にするようにして下さい。アイドルのそういった光景をよく思わない方も少なからずいらっしゃいますので」

 

 アイドルの処女性を守るために異性からの接触を避ける風潮は前世のアイドルにもあった。男の影があるだけで露骨に叩くファンも居る。この世界でも前世ほど厳しくないとはいえまったく無いわけではないのだ。確かにプロデューサーが言う通り気を付けた方がいいだろう。

 しかし、その話について僕は確かめなくてはならないことがある。

 

「それは家族や同性も含めてでしょうか?」

「いいえ。ご家族はもちろん構いません。如月さんの場合はお父上と弟さん相手はこれまで通り接して貰っても問題ありません。もちろん同性の方も同様です」

「そうですか。それを聞いて安心しました。家族や友人と触れ合えないのは寂しいですから」

 

 よし、プロデューサーからの許可も貰ったことだし、さっそく今度の休みに優を構い倒しに行こう。アイドルになったんだから弟相手でも自重しなよとか言ってた優にプロデューサーから問題ないと言われたと教えないと!

 優解禁!

 待ってて優!

 これまで我慢した分たくさん構ってあげるからね!

 お母さんに邪魔されないように出掛けている日を狙って実家に行くことを決めた僕だった。

 

「それにしても、如月さんは家族仲がよろしいようで良かったです」

 

 少し安心した顔でプロデューサーが僕の家族仲について言及して来た。確かに家族仲は悪くはないと思う。両親とはここしばらくの間顔を合わせてもいないけれど、優とは頻繁に会うし、メールや電話だってするのだ。

 

「はい、私にとって無くてはならない存在です」

「ご友人も大切にされているようですね。アイドルの中にはデビュー後に友人と疎遠になる方も少なくありません。守秘義務に触れない程度ならば悩み事を相談するのも大切な気分転換になりますから、どうか今後も関係は切らないように心がけることをお勧めします」

 

 やはりデビューすると交友関係が変わったりするらしい。アイドルに数多く関わって来た彼はアイドルになって友達が減った人間を数多く見て来たに違いない。そして友達を減らして行った結果孤独になって潰れた人を何人も知っているのだろう。

 現状友人が春香一人の僕には、友達が減るイコール友達ゼロ確定なので死活問題だ。ここはプロデューサーの助言通り交友を続けるだけでなく、それを続けられるように意識する必要がありそうだ。

 春香と過ごす時間だけではなくどう過ごすかも考えて行きたい。

 試しに今度春香に「春香と末永く仲良くなりたいから触れ合いの時間を作りましょう」とでも提案してみようかな。

 

「家族も友人も大切な宝物です。たとえアイドルとしてどうなって行こうとも、関係を変えるつもりはありません」

「はい。それがよろしいかと思います」

 

 僕の意気込みを聞いたプロデューサーが口角を上げて薄く微笑んだ。

 僕も釣られて……は無理なので、心の中で笑っておく。

 デュフフ!

 

「それではお昼の方もいただきましょうか。冷めてしまってはもったいないですし」

「そうですね。野菜はともかくハンバーグは冷めたら可愛そうです」

 

 冷めたハンバーグなんて美味しさ半減だものね。

 プロデューサーがハンバーグに口を付けるのを確認してから僕も野菜炒めを食べ始める。

 対して野菜炒めは冷めても美味しいのだ。完璧な料理じゃないかな?

 

「如月さんは肉類があまりお好きではないのでしょうか?」

 

 僕の野菜炒めを見ながらプロデューサーが訊いて来た。

 

「? そう見えますか?」

「はい。少なくとも好んで食べるというイメージはありません。今も食べているのが野菜炒めですから」

 

 確かに野菜炒めは好きだけど、別に肉が嫌いなわけではない。どちらがより美味しいかという話であって、好き嫌いの問題ではないのだ。

 

「特にお肉が嫌いなわけではないですよ。ただ野菜炒めが好きなだけです」

「そうでしたか。失礼いたしました」

「いえ?」

 

 どこかほっとした様子を見せたプロデューサーの態度に首を傾げそうになるが、今は野菜炒めを処理する方を優先する。

 機械的に野菜を口に運び下品にならない程度に高速で咀嚼して飲み込む。お米とお味噌汁、たまに付け合わせのお新香を順番に偏りがでないように消費する。

 他人から見ると味気ない食べ方に見えるらしい。でもこれが僕の食べ方だ。物を食べるまではやるから、食べ方については口出しをしないで欲しい。あまりにマナー違反だったらこっそり教えて貰えれば直す意思はあるから。

 

「野菜炒めは美味しいですか?」

 

 今日のプロデューサーは僕の食事について興味ありすぎるよね。

 野菜炒めが美味しいか美味しくないかで言えば正直普通としか言いようがない。可もなく不可もなく。だって野菜炒めだし。

 

「好きです」

 

 味についてはノーコメントで。

 

「…………そうですか、野菜炒めが、お好きなんですね……?」

「はい」

 

 やけに僕が野菜炒めを好きか確認してくるなぁ。そんなに美味しそうに食べている自覚はないのだけど、プロデューサーから見たら僕は美味しそうに食べているように見えているのかもしれない。

 そして美味しいのか訊いて来たということはプロデューサーも野菜炒めに興味があるとか?

 だったら主流派を我々少数派に趣旨変えさせるためにもここで勧誘の手を伸ばしてみよう。

 

「良かったら一口いかがです?」

「なっ!」

 

 野菜炒めをお皿ごと持ち上げ、一口分を取るとプロデューサーの方がへと差し出す。

 

「ハンバーグも良いですが、野菜も食べないと健康に悪いですよ?」

 

 さも相手の健康を気遣うと見せかけてはいるが、これは相手を少数派閥へと引き摺り込むための方便に過ぎない。野菜炒めを食べさせその味に目覚めさせるのが本当の狙いだった。

 まあ、プロデューサーの健康を気遣うのは本当のことなんだけどね。

 

「い、いえ、私はその……」

「野菜を食べやさい」

「は……ほがっ?」

 

 小粋なジョークを挟みプロデューサーが呆けて口を開いた瞬間に野菜を放り込んだ。

 突然口の中に野菜をぶち込まれたプロデューサーが目を白黒させるも吐き出すことはせず普通に咀嚼してくれている。それでも何か言いたそうにこちらを見ているのは極力無視する方向です。

 

「確かに……美味しい、ですね」

「そうでしょう? 野菜は健康に良いんです」

「如月さんが私の健康を気にしてくれたことには感謝します。しかし、私は貴女のプロデューサーです」

「はい?」

 

 プロデューサーが何を言いたいのかわからず首を傾げる。

 何だ、この状況でそれを持ち出す意味がわからない。

 

「……はぁ。いえ、本当に他意がないようですので何も言いません」

 

 どこか疲れた様子で溜息を吐くプロデューサー。なんだかこの十数分の間に疲弊している気がしないでもない。何が原因かわからないけど心配だ。

 

「しかし、一方的に気にされるのも癪ですので、私の方からも如月さんの健康を気にさせていただきます」

「はぁ……それは、どういう」

 

 何が言いたいのかわからないままプロデューサーを見ていると、彼は食べていたハンバーグのうちまだ手を出していない側から一口大の肉片を切り出し、フォークで刺すと掛かっているホワイトソースを絡めてから僕の方へと差し出して来たのだった。

 

「あの、プロデューサー、これは」

 

 目の前の肉とプロデューサーの顔を交互に見やる。これが何を意味するのか察しの悪い僕でもわかった。

 プロデューサーは健康のために野菜を食べさせた僕に対抗して、今度は僕に肉を食えと言っているのだ。

 当然僕の健康云々の話は建前でしかなく、本当は主流派の彼を少数派にするための策でしかない。だからお返しにと肉を食わされるのは肉野菜戦争的には意味はあっても、健康面では無意味なのだ。

 だと言うのにプロデューサーはわざわざ僕の健康のために好物のハンバーグを分けてくれようとしている。僕の健康のために。

 

「ぁぅ」

 

 プロデューサーの気遣いと優しさ、そしてそれに対する自分の策の浅ましさに頬が熱くなるのを感じた。

 僕って本当に浅い奴だな。

 プロデューサーがこんなにも僕の健康を気にしてくれているのに、僕は主流派への妨害行為に感けていたなんて。

 これはけじめ案件だわ。大人しく罪を受け入れよう。

 

「いただきます」

 

 僕は躊躇うことなく肉の刺さったフォークに齧り付いた。

 もきゅもきゅと口の中でハンバーグを咀嚼する。歯で噛み砕くと中の肉汁がどろりと溶け出して来て、舌の上に甘辛い旨味が広がった。

 

「……美味しいです」

「それは良かった」

 

 やっぱりお肉には勝てなかったよ……。

 大変美味しゅうございました。

 

「あまりこういったことを気にされない方なのですね」

 

 プロデューサーが手に持ったフォークに視線を落としながらそんなことを訊いて来た。

 気にするというのはプロデューサーが使っているフォークに食いついたことだろう。差し出して来た本人がそれ言っちゃうのはマナー違反だと思うけど。

 ぶっちゃけ気にする方だった。「人が口を付けた物なんてばっちぃ!」みたいな潔癖まではいかずとも、躊躇う程度には気にするタイプだった。

 でも春香とやり合っているうちに慣れてしまったのだ。

 春香が家で料理を作ってくれる際に色々と小皿に種類多く作り分けてくれるのだが、一人一皿とはいかないためシェアすることになる。その時春香から食べさせて貰ったり、逆に僕が食べさせたりする。当然使うのはお互いが使用している食器になるので自然と口を付けた物をお互いの口にぶち込むことになる。

 最初僕も気にして別の食器を用意しようかと申し出たのだが、春香が食器を余分に出すのは洗うのが手間と言って却下された。じゃあ小皿に取り分けなくていいじゃんという突っ込みは春香の耳に届かなかった。

 そうやって春香とお互いに食べさせ合っていたため、まったく知らない相手や生理的に嫌悪感がある相手以外となら問題なくなった。

 

「ええ、プロデューサーのなので」

 

 唇についたホワイトソースを舌で舐めとりながら問題ないと答える。

 むしろ僕みたいな奴が口を付けた物を今度はプロデューサーが使うという方が申し訳ない気持ちになる。春香は同性だから気にしていないみたいだけど、これが優だと僕が口付けた物なんて頑なに拒否するから。

 

「それにしてもこのハンバーグ美味しいですね。人気メニューなのもよくわかります」

「え、ええ、聞いた話ではレシピから拘っているらしく、特にかかっているホワイトソースはわざわざレシピを有名レストランから買い取ったそうですよ」

「なるほど。その白いやつですね。とても濃いので喉に引っかかるくらいでした」

「あの、如月さん」

「あ、でもそれが嫌というわけではないんですよ? プロデューサーが(好物であるにも関わらず)出してくれたやつですし。ただ、初めて(食べる味)なのでびっくりしただけで……」

「……もしかして、わざとやってますか?」

「はい? 何がですか?」

「……」

 

 一瞬プロデューサーの目が遠くを見つめた気がした。

 どことなく草臥れた顔のプロデューサーと食事を続けた。

 

 

 

「ごちそうさまでした」

 

 一緒に食べ始めたのに食べ終わったのは僕の方が遅かった。

 やはり男の身体というのは凄いね。結構ボリュームがあったハンバーグが瞬く間に消えてしまった。僕の方は野菜炒め定食なのに時間が掛かりすぎだ。

 

「如月さんのこれからの活動についてご説明いたします」

 

 僕が食べ終わるのを待っていたプロデューサーが話を切り出した。

 たぶん先程電話で話していた午後の活動についてだろう。……それにしては言い方がどことなくおかしかったが。

 

「まず本日の予定についてですが、上の者と協議した結果、午後から予定していたレッスンは全てキャンセルということにしました」

「えっ……キャンセル、ですか」

 

 午後からの仕事に期待していた僕にはいきなり告げられたキャンセルという事実に動揺してしまった。

 予定がレッスンだったことはこの際置いておいて、予定自体がキャンセルされたことが問題だった。

 今日予定していた仕事の中で明確に指示されていたのは十八時からの仕事だけだ。午後の予定が無くなるということはそれまで時間が空いてしまうということになる。

 そもそも、今日僕がやったことなんて準備運動みたいなレッスンとライブ映像を千川さんと仲良く観ただけだぞ。その上この後の何もないなんて言われてもどう時間を潰せばいいのか。どこかレッスンルームでも借りて自主練習でもしようか。

 

「如月さんには十八時まで休息をとっていただきます。休憩と捉えていただいても構いません。何でもいいので”何もしない時間”を作って下さい」

「何もしない時間? あの、もしご許可いただけるのでしたら、どこか空いているレッスンルームを借りることはできませんか? そこで自主練習をしようかと思うんです」

「それは許可できません」

「何故でしょうか?」

「先程お話した件を覚えていますでしょうか」

「私の自主練習のことでしょうか?」

「そうです。あの内容を私だけでなく上の者も拝見されました。その時の様子を詳しく語ることは憚られるため詳細は省きますが、とても動揺していたとだけお伝えしておきます。中には泣き出す方もいらっしゃいました」

 

 泣く程か?

 アイドルになる前から自主練習を始めるなんて近頃の若い者んして偉い! ……みたいな肯定的な意味ではないんだろうなぁ。

 詳細を省くと言いながら泣いたことを伝えたということは、実際はもっと酷いことになっていたってことだ。

 そこまで驚かれる内容を書いたつもりはないだけどなぁ……。

 

「そこで如月さんには何もしない時間を今のうちに過ごしていただき、一度身体への負担をリセットしてただくということに決まりました」

「ちなみに、それに対する拒否権は……」

「346プロダクションの経営顧問兼社長補佐兼専務、芸能・歌手・アイドル部門部長三名、撮影部門長、施設管理部部長補佐、広報部部長、健康支援センター長、そしてシンデレラプロジェクトプロデューサーの私の連名による命令です。ちなみに、今言った方々は最終面接に参加されています」

 

 それ逆らえるアイドル居ないやつ。

 最終面接に居た人達ってことは……。え、あの人達全員部長クラスだったの?

 最終面接で専務が出て来るのは普通の会社の面接を考えたら理解できるとして、他部門の部長が出て来るとか意味がわからないよ。あと僕ってば歌手部門の部長の前で歌ったの? 何それ怖い。

 あと専務さんの肩書が改めてやばいことに胃が痛くなった。なんであの人野菜炒め食べているんだよ。ハンバーグ食えよ!

 どちらにせよ、プロデューサーも同意しているなら僕に否はない。この人が出した指示に疑問を挟む余地はない。

 

「わかりました……」

 

 渋々──その態度をとることすら許されないくらい偉い人達の命令に僕は従うことにした。

 午後は頑張って時間を潰そう。

 

「ご理解いただけたようで幸いです。あと、本日以降の貴女の活動に対してもご説明しておきます」

 

 まだあるのか。

 最初は聞きたかった話でも今の衝撃的な事実を聞いしまってはちょっと遠慮したいかも。

 しかし、僕の心の声が聴こえないプロデューサーは構わず続きを話し始めるのだった。

 

「貴女に枷をします」

「枷、ですか?」

 

 予想していた活動自体の自粛と言う最悪のシナリオではなかったことに安堵しつつ枷という言葉に疑問が浮かぶ。

 枷?

 亀仙琉か? それとも呪霊錠?

 765プロでは菊池と我那覇がダンス属性として有名だし、その二人の様にスポーツウーマン的技能を獲得しろってことをプロデューサーは言いたいのかも知れない。

 任せてよプロデューサー。こんな事もあろうかと「突然重力が倍になったステージでライブをするパターン」を想定して、重りを担いで踊りの練習をしたことがあるからさ。

 

「まずは両手両足それぞれ三十kgくらいでしょうか?」

「物理的にではないです」

 

 即答で否定されてしまった。

 

「では、美城一族に伝わる秘術か何かで?」

「美城にそういった方々はいらっしゃいません。と言うか、そもそも枷とはそういう意味で言ったわけではありませんので」

 

 なんだ、美城一族は普通の家だったか。地下に重力ルームとかあるんじゃないかと少し期待してしまったではないか。

 

「当初の予定では、如月さんにはデビューまでダンスレッスンを集中して受けていただき、一定の習熟までは歌特化のアイドルとして活動いただく予定でした。ですが、青木さんの件でダンスの習熟が必要無いことが判明しました」

 

 青木さんって誰?

 後で知ったが、青木さんとは先程僕に色々と教えてくれたルーキートレーナーのことだった。

 

「急遽上層部と私の方で会議を開き、貴女の今後の活動方針を修正することになりました」

 

 僕がレッスンを受けてからまだ数時間しか経っていない。その間に会議をしたとか緊急会議にも程がある。もしかして、プロデューサーと専務さんのお昼が遅くなった理由もそれとか?

 僕のせいで上司が苦労している件。胃が痛くなるわ。

 

「それは、お手数をお掛けいたしました……」

「いえ、あらかじめ貴女に確認をとらなかったこちらの責任です。……貴女の実力を我々は知らなかった。いいえ、今も知ったつもりになっているだけで、本当はまだポテンシャルを出し切れていないとさえ会議の中で意見が出たくらいです。それについては私も同意見でした」

 

 バレてーら。

 プロデューサーが言う通り、僕はまだ全力を出し切れていない。この間の最終面接でその一端を開示した程度で、僕が持つチートの本領というものは未だ発揮されたことはない。

 しかし、今のブランクのある状態で僕が全力全開でチートを使用したら僕は壊れてしまうだろう。ほんの少しギアを入れ替えただけで、こうして死に体になるくらいダメージを負ってしまったのだ。

 

「……」

「貴女の全力を我々は把握できていません。そして、それを把握する環境も場所も今の346プロでは用意できません」

「つまり、それは」

「ちなみに、用意できないだけでいずれは貴女に適した場所を用意するよう各部門長が相互協力することが決定しました。決して貴女を手放すための方便ではないのでご安心下さい」

「あ、はい」

 

 ほぼ一息で言い切ったプロデューサーの言葉で頭に浮かんだ”解雇”の文字が立ち消えた。

 まるで僕が何を考えるのか予想したかのような補足だった。この間からプロデューサーの台詞が僕の思考を先回りしているみたいに的確な物になっている気がする。的確過ぎて反応に困るけど。

 まあ、それでもあんな間近で『貴女を手放すつもりはありません』と言われた時に比べたらどうってことないが。

 

「そういうわけで、如月さんにはこちらの準備と環境作り、それから周りへの根回しが終わるまで力を抑えていただくという形になります」

「力を抑える、ですか?」

「はい、本日使用された様な物のことです」

「本日……?」

「……相手の動きを完全にトレースし、鏡写しの様に再現すること。本人も気付いていないような粗を指摘して瞬間的に修正した物を見せること。あとは相手の完成系を見せる事などです」

「はぁ……」

 

 今プロデューサーが挙げたものが僕の力ということらしいけど……。

 

「自覚がありませんでしたか? レッスン中にそれらを見せられた青木さんは──」

「それは、凄いことなんですか?」

「っ……」

 

 素朴な疑問を口にするとプロデューサーが顔を引き攣らせた。ついさっき千川さんが見せたものと似ている。

 僕にとって瞬間記憶も完全再現も児戯でしかない。こんなもの、僕の力でもなんでもないんだけれど……。

 記憶すること。

 動きを真似ること。

 それらは人が元々持っている能力だ。赤子だって周りの人間を真似ることで言葉を覚える。生まれたばかりの生命ですら持っているモノを僕の持つチート能力と同じにして欲しくはない。

 

「如月さん、貴女は……」

「ごめんなさい。私にはそれがどれだけ凄いことなのかわかりません」

「……いえ、私の方こそ酷なことを言いました。貴女がそういう方であるとずっと前から知っていたはずなのに、私はそれを忘れていたようです」

「プロデューサー……」

「でしたら、私からはこれ以上のことは申し上げません。これは貴女自身が周りと関わることで自ら気付くべきことなのだと私は思います。たとえそれで誰かが傷付いても……それが貴女自身であったとしても、私が先回りして予防線を張って誤魔化していいわけがない。貴女がそれを乗り越えられると私は信じます」

 

 プロデューサーは覚悟を決めた顔をしていた。

 勝手に一人で納得して、勝手に覚悟を決めてしまったこの人に僕は何も言ってあげられない。その覚悟がどれほどの物なのか僕には考えもつかない。もしかしたらただの言葉遊びの延長でしかない可能性だってある。

 でも、僕を信じると言ってくれたから。この人がそう言ってくれたのならば、僕はこの人が信じたという言葉を信じようと思った。

 

 意味はさっぱりわからんかったが。

 

「具体的には私はどうすればいいのでしょう? 枷と言われても何が枷になるのかもわからないです」

「そうですね。如月さんが予想外に自覚が無いために具体的に何をしていいか説明し切る自信が私にはありません」

 

 口下手ですもんね。

 

「でしたら、ユニットメンバーにレベルを合わせるというのはどうでしょうか?」

「レベルを合わせる?」

「はい。同じユニットを組む相手と同じレベルの動きを心掛けるということです。成長速度などをメンバーの方を参考にすれば自ずとご自分のレベルも把握できるかと」

「なるほど……」

 

 良いこと言った感を出しているところ申し訳ないのですが、今プロデューサーから結構重要な話が出た気がする。

 

「つまり、私はユニットを組むわけですか」

 

 ここ重要ね。

 ユニットメンバーに合わせるということは、そもそもユニットメンバーが居るのが前提となるわけで。それはつまり、僕が誰かとユニットを組むという意味になる。

 

「言っていませんでしたか」

 

 困り顔で首に手を置くプロデューサー。

 

「ないですねぇ」

 

 そういうところだぞ。

 肝心なところで言葉が抜けている所為で相手に正しく情報が伝わらないとか社会人としてどうなの。

 人のこと言えないけどさ。

 

「順番が逆になりましたが、如月さんにはユニットを組んでいただくことになりました」

「私がですか。自分で言うのも何ですが、私はあまりユニット向きの性格をしていませんから、てっきりソロデビューになると思っていました。やはりプロジェクトの方針としてユニット単位でデビューが望ましいということでしょうか」

 

 僕が誰かと組んでライブをしているシーンが思い浮かばない。実力云々ではなくキャラとして僕と合わせられる子が居るとは思えないからだ。原作でも千早が誰かと組んでやっているのは稀だ。全体曲やグループ単位で一曲なんてのはあるけれども、竜宮小町やプロジェクト・フェアリーみたいなユニットでの運用は無かったはずである。それくらい千早は765プロの中でも孤高なキャラだった。そこまで孤高キャラのつもりはないにしても、僕が顔を合わせても居ないプロジェクトクトメンバーの誰かとすでにユニットを組むことが決まっているのは意外だった。

 

「それが、お一人どうしてもソロでデビューしていただかないといけないくらい個性的な方がいらっしゃいまして」

「お、おー……」

 

 つまり僕をソロデビューさせるよりもそちらをソロにしないといけないわけね。自分で言っちゃいけないとわかりつつあえて言うけど、僕よりソロ向きってどんだけだけ!?

 方言が強すぎて何言ってるかわからないとか?

 もしかして常に眼帯しててその下に「邪王神眼」を隠しているとか言っちゃう子とか……。

 無いかぁ。

 

「そういう事情もあり、さすがに同プロジェクト内でソロを複数出すというわけにもいかず、如月さんにはユニットを組んでいただくことになりました」

「わかりました。そういう理由でしたらユニットの件、承りました。ちなみに、枷というのはいつまで続ければ良いのでしょうか? もしかしてプロジェクト参加中はずっとですか?」

「具体的な日付を申し上げることは現状出来かねます。しかし、どの様な条件で外すかで言えば、貴女がソロで歌うことになるまでとお答えいたします」

 

 少し引っかかる言い回しだったが、プロデューサー曰く僕の枷はソロデビューまでということらしい。

 ……枷を外すその時には「(アンテ)」とか言ってみてようか?

 それはともかく、そうか僕はユニットを組むのか……。

 組めるのか。

 

「嬉しそうですね」

「はい。だって、私はずっと誰かと一緒に歌ってみたかったから……」

「……そうでしたか。実はユニットを組むと聞いて難色を示されるかと思っていたので少し驚きました」

「ソロ専門が良いと言うと思われました?」

「はい」

「あまり他の人と一緒にという機会が無かっただけで、一人で良いと思っているわけではないんです」

 

 ユニットというか、誰かと何かをやるというのを僕はずっと夢見て来たのだ。嬉しくないわけがない。

 ずっと一人でやって来たのだから……。

 

 その昔、まだ僕が中学に入りたての頃の話だ。

 体育のソフトボールの時間に教師から「はい、二人組作ってー」と言われた。皆仲の良い相手と示し合わせたように二人組を作る中、僕は誰とも組むことができなかった。別に奇数人数のクラスでもないのに。

 その時は仕方なくそのまま一人で壁を相手にキャッチボールをすることになったっけ。

 次の授業でも二人組を作れと言われたが、その回でも僕は一人になってしまった。

 その次も、その次も僕は誰とも組まずに壁相手にキャッチボールをしていた。

 そうやって何度かキャッチボールならぬぼっちボールを続けていたら、教師から壁が痛むから今後壁の使用は禁止だと言われてしまった。しかし、相手の居ない僕には壁くらいしかボールを受け止めてくれるモノはいない。少し考えた僕は自分で投げたボールをそのボールより速く移動し軌道上に素早く回り込んで自分でキャッチすることを思いついた。

 実際にやってみると出来たので、これでどうですかと教師に訊くと教師は顔を押さえていた。

 期末のクラス対抗の試合ではチームに入れて貰えなかったので、仕方なく校庭の端で一人で試合を行った。ピッチャーとバッターと外野の一人三役で九回裏までやって0-0の引き分けだった。

 試合後にスコアを教師に見せに行ったところとうとう教師が泣き出してしまったのは謎である。

 さらに、それを見ていたクラスメイト達が僕が教師を泣かせるような奴だと吹聴したのには困った。

 その日のうちに校長室に呼び出された。校長と担任から事情を訊かれても教師が泣いた理由なんてわかるはずもないので「知らん」の一言で切って捨てた。

 しかし、僕が教師を泣かせたことは確かだったので特に事実の否定はしなかった。

 結局それ以降の体育に僕は参加せず、見学するだけということで落ちが付いた。

 その結果を聞いた僕は見学していれば参加しなくていいものだと理解し、体育祭や合唱際のような誰かと一緒に何かをやるイベントは全て見学で済ますようになった。

 でも、それで済まないイベントもある。

 体育祭や合唱祭は見ていればいいけれど、修学旅行は不参加の場合行き場所がない。学校に行くわけにもいかず、自宅待機するにしても親に事情を説明しなくてはならない。わざわざそんな事を共働きで忙しい両親に言うのも面倒だったので修学旅行中は町をぶらぶらすることで時間を潰した。制服姿をモロに晒すわけにもいかなかったので、道端で拾った僕の髪と同じ色のウィンドブレーカーを着て誤魔化した。少し大きめのウィンドブレーカーは制服の上から着てもキツくなく、数日も着ていればすっかり馴染んでしまった。そのウィンドブレーカーは今でも大切な思い出の品としてクローゼットの奥に保管してある。

 

 そうやって他人との関わりを排して来た結果、僕は誰かと何かを一緒にやるということができなくなってしまった。

 ただ、憧れを抱くだけだった。

 そんな僕が誰かとユニットを組んで、しかもアイドル活動ができるだなんて夢のようだ。

 だから僕は枷の話よりもユニットを組めるということに興味を持ったのだった。

 

「……そうでしたか。……では、今後、如月さんはソロ活動までユニットメンバーに合わせるということでよろしいですね?」

「はい。頑張ります」

 

 プロデューサーからの最終確認に僕は力強く頷いた。

 周りに合わせるなんて経験が無いから頑張らないと。

 ユニットでどんな相手と組むかわからないけれど、その相手に合わせるためにも、よく見て、よく考えて、相手の一挙手一投足を見逃さないように観察し尽くそう。

 久しぶりの努力を奮える矛先が見つかったのは嬉しいな。

 ああ、本当に嬉しい。

 これでまた如月千早の経験値が増える。

 

「ところで、最近は何か興味を持てたことはありますか?」

「そうですね……あ、そう言えばこの間」

 

 顔には出さずに喜びに打ち震える僕にプロデューサーが話しを雑談に変えて来たので最近あった出来事を話した。

 そんな風にプロデューサーとの他愛ない会話に花を咲かせたお昼の一時であった。

 

 

 

 食休みも済み、プロデューサーと別れた僕は言いつけ通りに何も無い時間を過ごすことになった。

 敷地内から出なければ基本的に何をしていてもいいとのこと。

 プロデューサーには「これを機会に休む練習をしてください」と言われてしまった。

 休む練習と言われても、引き篭もり時代にはだらだらした時間を過ごしていたので練習する必要性を感じない。そもそも僕が常に何かしているという認識は間違いだ。ちゃんと空いた時間には休んでいる。ダンスのステップ確認や負荷を掛けての体力作りをしているくらいで常に何かしているわけではない。

 今も足運びだけで分身の術が使えないか試しながらの休憩中だ。

 でも何もしなさ過ぎても身体が鈍ってしまう。ただでさえ二年間もの間惰眠を貪っていたスキル達を呼び覚まさないといけないのに、ただぼーっとしていてはいつまでも春香には追い付けない。

 少しでも「何もしない」の参考になるかもしれないし建物の外を歩いてみよう。ちょうどずっと室内に居たから外の空気が無性に吸いたくなっていたから。

 正面玄関とは違う出入り口から外に出ると広場に繋がっていた。芝生や木が植えてあり、ここだけ見ると公園に見えなくもない。

 僕も今後使用することがあるだろうし、ちょっと見ておこうかな。

 探索欲求を刺激された僕はそのまま広場を歩き回った。

 最新の設備が入った建物が立ち並ぶ346プロの敷地だけど、こうして至る所に緑があるので無機質な感じはしない。

 広場は社員やアイドルの休憩場所に使われているらしく、そこかしこにスタッフやアイドルの姿が見えた。

 こういう心休まる空間を広く作っているのはさすが老舗の美城と言えるね。アイドルプロダクションでは大手の961プロですらこういう場所は無かったんじゃないかな。765プロなんて言わずもがなだろう。

 

「目的もなく歩くのなんて久しぶりだ」

 

 いつも何かしら目的があって歩いていた気がする。

 今日だって家からここまで歩いて来たけれど、出勤という目的があって歩いて来た。しかし今の僕には歩く目的がない。

 無駄な行為と無駄な時間だ。無駄な時間を過ごすことに言い知れぬ焦燥感を覚える。この時間を自主練習に使えればどれだけレベルアップに繋がるだろう。

 でもプロデューサーと何もしないことを約束したばかりだ。何もしないことを頑張る。言うは易く行うは難しとはまさにこの事だ。

 ぐるぐる。

 広いとはいえ所詮会社の中庭でしかない。十数分も歩き続ければ一周くらいしてしまう。再び建物の入り口前まで戻ってきてしまった。

 どうしよう、もう「何もしない」のストックが切れてしまった。敷地外に出ていいならいくらでも歩き回れるのに……。

 困った。「何もしない」ができない。プロデューサーと約束したのだから何かしら「何もしない」をやらないと。

 

「もう一度歩いてみようかな?」

 

 仕方なくもう一周何もせず歩くことにした。

 ぐるぐる。

 一度通った道をもう一度歩く。

 草木の葉も花壇に植えられた花もすでに一度見ているので全部覚えてしまっているから二回目にしてすでに目新しさを感じない道を何もせず歩く。

 やっぱり飽きるよね。

 それでも歩く以外に「何もしない」が思い浮かばない僕は歩くしかなかった。

 ぐるぐる。

 何かをしないと落ち着かない。でも、何もしないと約束している。

 黙って練習をしてしまおうか。でも、何もしないと約束している。

 思考が巡る。

 ジレンマが僕の精神を焦がしていく。

 

「とにかく歩こう。とりあえず歩いていれば『何もしない』ができるはずだ」

 

 僕はそうやってぐるぐると回遊魚の様に346プロの敷地内をあてどなくさまよい続けたのだった。

 

 

 広場での回遊が二十周を超えたところで、そろそろ待ち合わせの時間になると気づいた僕は指定された時間の少し前にエントランスホールに着いた。

 そこにはすでにプロデューサーの姿があった。

 先に到着しているつもりだったのに待たせてしまったか。これだから無駄な行為というのは駄目だな。時間の正確性が無くなる。

 プロデューサーが頻りに腕時計を確認しているところを見るに結構な時間あそこで立っていた可能性がある。

 

「申しわけありません、お待たせしてしまいました」

 

 早足で歩きつつプロデューサーへと声を掛ける。本当はおはようございますとか業界的挨拶をするつもりだったけど、この状態で新人がそんなことやっても寒い上に気取って見えるだろう。そもそも遅れておいてその挨拶は無い。

 

「いえ、私も今来たところですので」

 

 期せずしてデートの待ち合わせみたいなやり取りになってしまった。

 春香との会話を思い出し変な感じになる。

 

「……あの、如月さん」

「あ、はい。……ええと、やはりこの時間に来るのは拙かったでしょうか?」

「いえ……予定よりも早い時間なので問題ありません。ただし、仕事として他所のスタジオに入る場合はもう少しだけ早めに到着すると良いでしょう」

「はい……」

 

 気にしないように言ってくれてはいても、やはりもう少し早く来ておくべきだった。大事な初日にプロデューサーからの心象が悪くなったのは拙い。それにこの人に悪い印象を持たれるのは嫌だから。

 今後はもう少し早く着くよう意識しよう。

 

「如月さん、今のは決して責めたわけではありませんので本当に気にしないで結構です」

「わかりました……ただ、プロデューサーを待たせてしまったことが心苦しくて」

「今回は私が早く来てしまっただけですので、如月さんは気にする必要はありません」

 

 念を押して気にするなと言ってくれるプロデューサーは優しくて気配りができる人だと思った。僕もこんな大人の男になりたかったな。

 立場もあるだろうに、一アイドルでしかない自分を気遣う態度に心が温かくなる気がした。

 

「それに、こういうのは男性が待つものと決まっていますので」

 

 それは違うやつじゃないかな。男が先に待ってるとかって、デートの待ち合わせとかの話でしょ。この場合は上司であるプロデューサーは待たせる側でいいはずだ。

 また千川さんから変な入れ知恵でもされたのかね。しかも使う場面間違ってるし。素直なのはいいけど、何でもかんでも鵜呑みにしちゃうのは問題だよね。

 春香の言葉を思い出した所為か変に意識してしまう。男相手に何を考えているのかと思うも、そう言えば春香相手だと女同士だったと今更ながら自分の性別の行方不明さに眉が下がってしまう。

 

「お気遣い、ありがとうございます」

「……あの、あまり悲しそうな顔をしないで下さい。貴女のその表情は……その、非常に困ります」

 

 プロデューサーを困らせてしまった。益々落ち込んでしまう。本当に僕はこの人に気遣われてばかりいる。

 そんな僕を見てプロデューサーの方も戸惑ったのか、困り顔で首に手を当てていた。僕相手に何と声を掛けて良いか悩んでいるようにも見える。

 

「如月さん、私は……」

 

 やがて何か良い台詞を思いついたのか、プロデューサーは軽く目を開くと「これだ」という感じで頷き言った。

 

「私は笑顔の貴女が好きですから」

「……」

 

 また千川さんの入れ知恵か。

 あの人には一度物申したほうが良い。絶対にだ。

 プロデューサーがアイドルに意味が違うとはいえ好きと告げるのは問題じゃないのか。

 と言うかよく僕の表情の変化がわかったね。僕って笑顔はともかく悲しいとかの感情は表に出やすいのかな。

 じゃなくて、こんな人が多い場所でそんなこと言って良いの?

 エントランスホールを見回して見るとそこそこ人の通りはあるものの、こちらを見ている人は居なかった。一応セーフなのかな?

 誰かに聞かれていたらアウトだったよね。まあ、仮に見られたとしても僕は無名の新人だから今のところプロデューサーが未成年に告白しているように見えるだけだ。

 十分アウトだ。

 これはプロデューサーに注意する必要があると思った僕は、彼に近寄ると顔を寄せた。一応大きな声でする話ではないという配慮からである。しかし僕とプロデューサーでは身長差があるため目いっぱい背伸びをしないと内緒話ができる距離に顔を近づけない。もっと身長が欲しい。

 僕が爪先立ちでぷるぷると震えていると事情を察してくれたのかプロデューサーの方も顔を寄せてくれたのですかさず耳打ちをする。

 

「あの、プロデューサー……そういうことはあまり言わない方が……」

 

 僕が耳元で囁くとプロデューサーが珍しくぽかーんとした表情へと変わった。自分の台詞がどういう意味に聞こえるか理解できていないらしい。彼が理解を示すまでこの珍しい表情を眺めておこう。

 しばらくの間無言でお互い見つめ合った。

 

「……あ」

 

 やがて自分の台詞がどう聞こえるのか理解を示したらしく、プロデューサーの顔から色が失くなった。

 次に瞳が左右に揺れ出し、汗が一筋頬を流れる。

 絶賛混乱中のプロデューサーには悪いが、こうして彼の意外な一面を見られたので何だか得した気分になった。

 

「あ、えっと、これはですね……違うんです」

 

 ようやく目に見えて慌てだしたプロデューサーを見て少し安心する。

 普段冷静に見えるからこそ、お茶目な様子を見せてくれるとぐっと距離が縮まった気がするのだ。

 前からどこか僕に対して距離を置いている気がして、それがずっと気になっていたのだ。でも今の感じからして絶対に内面を見せないというわけではないと知れた。

 

「わかってます。笑った方がいいと言いたかったんですよね?」

 

 彼と同じく誤解されやすい質の僕にはプロデューサーの言いたいことはわかっていた。口下手同士の意思疎通は多弁な人のそれよりも正確なことがある。

 

「あ、はい。まさしく……申し訳ありません」

 

 首を押さえながら頭を下げるプロデューサー。別に謝る必要なんてないのにね。

 

「謝らなくていいですよ」

 

 だから口に出して言ってあげたのだけど、プロデューサーは恐縮するばかりで聞き入れてくれなかった。

 これは困った。僕としては本心から謝る必要はないと思っているので、彼に謝罪されると逆に申し訳なくなってしまう。

 ここは何かウィットに富んだ切り返しでプロデューサーの心の曇りを晴らしてみよう。

 今回プロデューサーは真面目だけど茶目っ気がある人というのがわかったので、少しだけ茶目っ気を出せば聞き入れてくれそうだ。

 

「あまり困った顔をしないで下さい」

 

 先程プロデューサーが言った時の様に自分の首に手を当てる。こうして意図的に癖を真似することでこれが真似っこだと教えるためだ。

 そしてここからが本番。

 真似っこの次はオリジナリティだ。僕らしい動作──首に当てていた手を軽く上げて首筋に掛かった髪を軽く掻き上げ、指でくるくると髪を玩ぶ。こうすることで一つ前の真似が強調される。

 次にシンメトリー。上背のあるプロデューサーが僕を見下ろすならば、僕はあえて見上げることを意識する。気持ち顔を下げながら、上目遣いで彼の顔を覗き込む。

 そして最後にトドメの一言。

 

「私は笑顔の貴方が好きですから」

 

 本当は笑顔の一つでも浮かべられたらよりシンメトリーになるのだけど、そこは笑顔の不得意な僕なので真顔になってしまった。

 まあ、慣れない茶目っ気に恥ずかしくなって少し頬が赤くなっていると思うので対比はそれで良いだろう。

 これでプロデューサーは僕の「謝る必要がない」が自分の言った「謝る必要がない」と同じ気持ちだと気づくはずだ。僕も途中で気づいたけど、過剰な謝罪って逆に戸惑うんだよね。同じ思いをプロデューサーにさせてしまったことは申し訳ないと思う。

 でもこれでお互い様ってことでいいんじゃないかな。

 どうでしょうかという意味を込めてプロデューサーの顔を見続ける。

 

「…………あ、はい」

 

 だが返って来たのは淡泊な返事だった。いつの間にか平常運転に戻っていたらしい。平静になって貰えたならそれでいいけど何か釈然としない気分だ。

 醜態を晒したという負い目があるためか、プロデューサーは僕から目を逸らしている。少し耳が赤いのは僕みたいな小娘に窘められたからだろう。この人にも大人としてのプライドがあるのを失念していた。恥ずかしい思いをさせたのは失敗だったね。

 

「あの、プロ──」

「おはようございます」

 

 フォローを入れておこうと口を開いたところで、背後から声が掛けられたため口閉ざした。

 声の方に振り返ると、そこには二十代前半くらいの、ふんわりとしたボブカットの女性が立っていた。

 その人は僕が一方的にだがよく知る相手だった。

 高垣楓。

 現346プロにおいて最も有名なアイドル。そして、346プロ以外のアイドルと比較してもその実力は頭一つ抜きん出ている。名実ともにトップアイドルの一人に数えられる高垣楓本人が目の前に居た。

 

「おはようございます」

「お、おはようございます」

 

 プロデューサーが高垣に挨拶を返したので、慌てて僕も高垣に向け頭を下げた。

 346プロのトップアイドルが気になった僕はちらりと視線を高垣へと向ける。

 とても綺麗な人だと思った。髪型もそうだけど、服装とかもきっちりしていてまるでモデルさんみたいだ。左目の下にある泣きぼくろがとても色っぽい。

 表情は笑っているのか真顔なのか曖昧な感じがして、珍しいオッドアイの瞳と合わさってどこか浮世離れした雰囲気を醸し出している。

 

「……そちらの子は?」

「彼女は本日付けでシンデレラプロジェクトに配属になりました如月千早さんです」

「はじめまして。如月千早です」

 

 プロデューサーの紹介に乗る形で女性へと名前を告げる。

 

「そう、貴女が如月さんですか。……初めまして、高垣楓です」

 

 人当たりの良さそうな笑顔を僕に向ける高垣だったが、僕はその顔に違和感を覚えた。

 なんだろう、これは……。

 何か違う。

 

「初めまして……」

 

 その違和感の正体が掴めないまま挨拶を返した。ここで無視する程世間知らずでも無謀でも無い。相手はあの高垣楓なのだ。

 それに映像と実際の見た目では違いがあって当り前だ。こうして初対面でありながら僕に友好的に接してくれた先輩アイドルに失礼な態度をとるべきじゃないと考えを改める。

 

「それでは」

 

 もう一度頭を下げてから高垣は僕達の前から立ち去って行った。

 結局違和感の正体はわからなかったか……。

 

「プロデューサー!」

 

 と、そこでホールにプロデューサーを呼ぶ女の子の声が響いたことで僕は一旦この事について思考を中断させられた。

 声の方を見ると、制服姿の女の子がこちらに駆け寄って来るのが見えた。

 その隣には島村の姿がある。もしかしたらあの少女がオーディション組で残った子だろうか。

 

「ねぇねぇ! プロデューサーって高垣楓と知り合いなの!?」

 

 プロデューサーの前まで来た少女は挨拶も無しに高垣のことを彼に訊いていた。

 まあ、彼女がオーディション組なら僕と同じく新人ということになるだろうし、挨拶が無いくらいで何か言うことはない。先輩でも後輩でもないのだから。

 

「ええ」

 

 プロデューサーも注意をするつもりはないらしく、律儀にも少女の問いに答えてあげていた。

 それを聞いた少女と島村が喜色の笑みを浮かべる。自分のプロデューサーが有名人と知り合いだとわかって嬉しいということかな。僕からするとプロデューサーの立場の方が業界内では凄い人のイメージだから二人のテンションは少し理解できない。

 

「あの高垣楓と知り合いなんて……ひょっとして、プロデューサーって大物!?」

「いえ、ただ同じ事務所なだけです」

 

 大物でしょ。天下の346プロダクションの新プロジェクトのプロデューサーという地位がどれ程の物か、僕はそれを良く知っていた。

 ……実際は春香に教えて貰っただけです。

 春香が言うにはプロダクションによる力関係というのは結構大きいらしく、仕事の優先順位もプロダクションのネームバリューで決まることがあるらしい。プロダクションの優劣で撮影時間や待機時間の長さが変わったりと、差別が激しいと言う。まだ765プロが弱小の時は大手プロダクションのアイドルのために数時間待ちぼうけをしたこともあるんだとか。

 ちなみに秋月律子とプロデューサーが対面した場合、形式上対等に話をすることになるが、秋月律子側は決してプロデューサーに失礼な態度がとれないという具合らしい。簡単に言うと765プロ側がナメた態度を見せた瞬間芸能界から干されるレベル。

 確かに765プロはトップアイドルを世に送り出すなどしてここ数年爆発的な知名度と影響力を持つにまで至ってはいる。だが、346プロと違い一度に運用できるアイドルの数が十二人と少ない。秋月律子自身がアイドルとして自身を売り込んだとしても十三人だ。それに対して346プロはアイドル部門だけでも三桁に及ぶメンバーが所属している。さらに346プロは芸能関連全般で力を持つ最大手だ。そこに老舗という信用があるとあってはいくら765プロのプロデューサーといえど強く出ることは不可能なのだそうだ。

 その話を聞いて、周りがなんで未だに僕が765プロに拘るのか不思議に思っていた理由がわかった気がした。346プロに入れておいて765プロに固執する理由は無いよね。普通の人間は。

 そんなわけで、大物で当たり前のプロデューサーなのだった。

 しかし、さすがに高垣もプロデューサー相手とはいえ異性と噂が立ったら困るんじゃないかな。気分を害していないかと心配になり高垣の方を振り返る。

 

「──」

 

 その顔を見た僕は相手に気付かれる前に慌てて前に向き直った。振り返った先でまさか高垣もこちらを見ているなんて予想していたなかった。大丈夫だ、高垣は僕を見ていなかった。僕なんて見ていなかった。

 一瞬だけ見た高垣の顔、表情こそ確かに先程見せた柔らかな物のままだった。でも、その彼女の左右で色の違う瞳が宿す光が別物になっていた。

 プロデューサーを映す瞳……そこから相手を凍てつかせる程の冷たさを帯びながら、その温度の低さで相手の皮膚を火傷させるような陰湿さを感じた。

 恨みとも怒気とも違う。彼女が発するそれら矛盾した感情がプロデューサーの背中へと向けられていた。

 そこでようやく僕は違和感の正体に気付いた。

 千川さんと観た高垣の出ていたライブ映像。そこに映っていた彼女は確かにシンデレラだった。優しい笑顔で、裏の無い表情で、曇ることを知らない青空の様に澄んだ空気を纏っていた。

 でも、今の彼女からはそれを感じない。──を見つけたシンデレラの顔じゃない。

 しかし、僕はあの目を見たから気づいたのであって、先程までの笑顔だけを見ていたならこんな物気付けなかっただろう。それくらいには擬態ができていた。

 プロデューサーは彼女のこんな表情を知っているのだろうか。

 今度こそ高垣が立ち去るのを気配で感じながら隣の彼の真意を測った。

 

「それより、遅刻ですね」

 

 顔を戻した先では、プロデューサーが二人に遅れたことを注意していた。高垣のことなどもう気にも止めていない。当たり前だけど。

 それにしても、そっちは注意するんだ。僕の時は確かに時間内に来ていたし、二人は遅刻しているけど、ここまで対応が変わるものかね。

 たとえ数分と言えど遅刻は遅刻ということか。この辺りは社会人同様に厳しくしていくつもりなのだろう。アイドルとしての何かより、世の中に出る人間として時間は守らなくちゃいけないってことだよね。人のふり見て我がふり直せって感じに僕も気をつけよう。

 

「ところで、そっちの子は誰?」

 

 叱られた当人である少女にはプロデューサーの言葉に堪えた様子が見られない。

 

「彼女は如月千早さんです。シンデレラプロジェクトの欠員補充のためスカウト枠で採用されました」

 

 プロデューサーもプロデューサーで特に何か言うこともなく僕の説明をしている。

 そんなんでいいのか。結局甘い人なの?

 

「おおー! じゃあじゃあ! 貴女が最後の一人ってやつなんだ?」

 

 少女は僕へと近付きテンション高く話しかけてきた。初対面から距離感近いと思う。島村がリア充とか言ったのは訂正しよう。これの方がリア充っぽいわ。

 当の島村は隣で少女のテンションの高さに目を白黒させている。彼女にしても、この少女のテンションは付いて行けない領域なのか。新キャラの方が強いってよく聞くけど、まさに島村改みたいなテンションお化けが現れるとは思っていなかった。上には上がいるものなんだね。

 

「お……お、おお?」

 

 テンションの高い少女が僕の顔を見て慄いている。若干芝居がかった様子が見られるが驚いているのは確かなようで、若干瞳孔が開いていた。

 

「び、美少女だ……」

 

 その少女の口から出た「美少女」という言葉に一瞬誰のことを言っているのかと周りを見回してしまう。

 

「静かな雰囲気の中に大物の貫禄……そして何よりもその容姿。只者ではないと見た!」

 

 言い回しもちょっと芝居臭い。舞台のお仕事をさせたらいい感じになるんじゃないかな。今度プロデューサーに言ってみよう。

 あとさっきの美少女ってのは僕のことを言っていたらしい。

 そうか? 僕って美少女枠か?

 そう言う少女の方が美少女だと思う。明るい色のショートヘアと大きな瞳、そして愛嬌のある笑顔が万人受けしそうだ。

 

「あっと、自己紹介がまだだった。私は本田未央! よろしく!」

 

 まさに元気っ娘という形容詞がぴったりの自己紹介だ。

 

「如月千早です。宜しくお願いします」

 

 対して僕の方は無難と呼ぶにも硬すぎる挨拶だ。昔のはっちゃけていた頃の自分でも、挨拶に限っては真面目だった覚えがある。

 

「硬い硬い! これから同じシンデレラプロジェクトの仲間になるんだから、もっと気軽に行こうよ!」

「仲間……」

 

 本田が何気なく口にしたであろうその単語に僕は過剰に反応した。

 まさか。出会ってすぐの相手から仲間扱いをしてもらえるなんて夢にも思っていなかったので驚いた。それ以上に喜びの感情が強く心に広がった。

 これまで僕を仲間と呼んでくれた人間などいただろうか?

 春香ですら親友とか憧れとか自分のとか呼んでくれても、仲間として扱われたことはなかった。春香の場合は仲間になれなかった分余計にそう呼び辛かったのかもしれない。

 それ以外の人が僕を仲間扱いすることはなかったので、本田の態度に僕はいたく感激したのだった。

 

「私達って仲間ですか?」

「そうだよ! 当たり前じゃん! こらから一緒にアイドルやっていくんだし。それに同じプロジェクトのメンバーなんだから仲間でしょ!」

 

 何ということだ!

 こんなにも簡単に仲間が出来てしまった。

 あんなにも憧れていた仲間を仕事の初日に手に入れてしまったぞ。もっと時間がかかるものだと思っていた。

 

「そう、なら仲間ね」

「うんうん、仲間仲間! あっ、でもでも、仲間であると同時にライバルでもあるよね」

「ライバル……」

「トップアイドルを目指すライバル同士……うんうん、なんかそれらしくなって来た!」

 

 凄い。一日の間に仲間とライバルを同時に手に入れてしまった。これなら明日あたりに四天王とか魔王とか裏ボスも出てくるんじゃないかな。ワンクール持つか心配になるくらいの怒涛の展開に頭が追いつかないよ。

 

「久しぶり、島村さん」

 

 それまで黙っていた島村に話しかける。ずっと何か言いたそうにこちらを見ていたので仕方なく僕から声を掛けた。

 

「お、お久しぶりです!」

 

 なんで声が上ずってるんだい。

 目も左右を見るばかりでこちらを見てくれてないし。キョドってる感が凄い出ている。

 

「ちょーっと、しまむー! こっちこっち」

 

 見かねた本田が島村を引っ張り少し離れた位置まで移動した。

 どうでもいいけど「しまむー」って何。あだ名? もうそんな仲良しになってるの。ウラヤマ。

 

「いやいや、しまむー……何そんな緊張してるのさ? 知り合いなんでしょ?」

「う、それはそうなんですけど……前お会いした時に、ちょっと私の方が失礼なこと言っちゃってましてぇ」

「ええっ、それまずくない?」

「ど、どうしましょう……」

 

 顔を突き合わせて小声で会話する二人だが僕の耳はばっちりそれを聞きとっていた。僕相手に内緒話を本気でしたいなら四百メートルは離れた方がいいよ。

 あと島村は何も失礼なこと言ってないから。むしろ僕の方が失礼な態度だったから。あの態度見せた僕に申し訳ないという気持ちを抱く時点で島村はお人好し過ぎる。

 

「そろそろ行きましょうか。他のメンバーを紹介しますので」

 

 空気を読まずにプロデューサーが移動を呼び掛けて来た。まあ、今島村とどう会話したところで引かれるだろうから丁度いいか。

 それにしても、何かプロデューサーの声がいつもより硬い気がするのだけど気のせいかな。いつもはもっと柔らかい感じの声をしているから違和感がある。それとも、今は仕事用かな?

 

「はーい!」

「は、はい!」

 

 元気よく返事をした本田と島村と一緒にプロデューサーの後を付いて行く。これからシンデレラプロジェクトのメンバーと会うわけか。

 

「同時に、皆さんにとって初めての仕事を行ってもらいます」

「え!?」

「えっ!?」

 

 移動しながらついでのように仕事があると伝えられた。あらかじめ聞いていた僕と違い二人は初耳だったらしく驚いた顔をしていた。

 まさか教えていなかったとは思っていたなかった。そういう連絡って重要なことなんじゃないの?

 まあ、僕も実際何の仕事をするかは聞かされていないので似たようなものか。結局プロデューサーの言葉が足りないことに変わりはないのだった。

 

 案内された部屋に入るとまず目に入ったのは大きなハートマークだった。

 それは撮影用のキットのようで、白塗りの背景の中心にピンク色のハートマークが設置されている。その周りには小さなハートの小物が置かれていた。

 大きなハートは枠だけ残して切り抜かれているので中に座ることを想定しているのかも知れない。

 カメラさんや照明さんが色々と機材をいじっているところを見ると、誰かこれから撮影でもするみたいだ。

 ……まさか僕達がこれを使うってわけではないよね?

 

「これから皆さんには今後の宣材写真を撮影していただきます」

 

 僕の疑問に答える様にプロデューサーが仕事の内容が宣材写真の撮影だと教えてくれる。

 別に歌の仕事じゃなくてがっかりしたということはない……。ただ写真を撮られるのが苦手なので若干テンションが下がっただけである。

 この間はプロデューサーのおかげで少しだけど笑うことができた。でも、それをぶっつけ本番でできるかと訊かれたらできないと即答できる。

 そう言えば原作でそんな話があったな。765プロのメンバーの宣材写真が酷すぎるので、奮発して良い所で撮るという感じだったっけ。

 そこでメンバーが各々の個性を模索するわけだけど、年少組が個性の意味をはき違えて大変なことになった。無理に大人ぶろうとして似合わない服と化物みたいな化粧で現れたとかなんとか。

 

「あの、プロデューサー……もしかしてこれで撮るんですか?」

「いえ、如月さん達は別の場所での撮影です。……あちらは別の方用ですので」

 

 せめてあのハートだけは回避したいという願いを込めてプロデューサーに訊いてみると、幸いなことにハートマークの椅子で撮影という痛いことにはならないらしくほっとした。

 と言うか、あんな痛い椅子で撮影とか誰がやるんだよ。もし僕がそんな撮影セットで写真を撮れなんて言われたら「ハハ、ワロス」と言って破壊する自信があるね。

 

「こちらです。他のメンバーの方はすでに撮影を始めています」

 

 どうやらさらに奥に部屋があり、そちらで僕達は撮影をするらしい。

 撮影中ということは、この奥にプロジェクトメンバーがいるってことだよね!

 

「あれあれ?」

 

 奥の部屋に入ると休憩中のメンバーらしき人に気付かれた。明るい髪色をしたお洒落な女の人が部屋に入った僕達を見て声をあげる。

 

「あっ、残りのメンバー?」

 

 大学生くらいの女の人も僕達に気付き声を上げると、それに釣られて他のメンバーがこちらに注目を向けて来た。

 ここに居る全員がシンデレラプロジェクトのメンバーということもあって皆容姿に優れている。歌特化で容姿に自信の無い僕にはこの中に混じるのは勇気が必要だ。みんな顔面偏差値高いね。化粧もばっちしって感じじゃないか……。

 そんなアイドルの卵達から向けられる視線に少しだけ気後れしてしまう。

 

「あ」

 

 と、こちらに気付いたメンバーの中から聞き覚えのある声が聞こえた。

 どこかで聞いたことがある声だと目を向けると、なんとそこには一昨日のお出掛け(デート)中に会った城ヶ崎妹の姿があった。

 

「あ」

 

 僕の口からも同じ声が出てしまった。

 まさか姉だけでなく、妹の方までアイドルだったなんて。

 いや、少し考えれば予想できたことだ。大好きな姉がアイドルをやっているんだから、妹の自分もアイドルになろとするのは必然だ。

 春香が妹の方までアイドルと言わなかったのでその可能性に考えが至らなかった。新企画のシンデレラプロジェクトなら知らなくて当然だよね。

 

「あー!」

 

 突然立ち上がりこちらへと指を指す城ヶ崎妹。その拍子に金色のツインテールがぴょこりと跳ねるのが何か可愛い。

 おいおい、別に僕は転校初日に曲がり角でぶつかった拍子にラッキースケベをした末にクラスメイトと発覚した主人公じゃないんだぜ。

 だからここで会ったが百年目みたいな顔は止めろ。罷り間違ってラブコメが始まったらどうするつもりだ。

 全力で喜ぶぞ?

 

「莉嘉ちゃん知り合いなの?」

 

 城ヶ崎妹の反応に隣に座っていた小学生くらいの女の子が知り合いかと訊いていた。

 

「知り合いって言うか……知り合いなんだけど」

「? よくわからないけど、人に指差しちゃ駄目だよ?」

「うぅ〜」

 

 まだ小学生くらいなのに、やけにしっかりしている。転生している僕だって小学生時代はもっとちゃらんぽらんだったのに。やはりこの歳でシンデレラプロジェクトのメンバーに選ばれるというだけはあるね。逆にその小学生に嗜められている城ヶ崎妹の方が幼く感じられた。残酷な話だ。

 

「初めまして。私は新田美波といいます。宜しくお願いします。……貴女達はプロジェクトの最後のメンバーかな?」

「あ、はい。そうです」

 

 城ヶ崎妹の妹の相手をするか迷っていると大人びた少女ーーいや、大人な女性が声を掛けて来た。代表として本田が返事をしてくれている。やはりこういう時リア充が居るとコミュニケーションが捗って助かるわ。僕だったら絶対「あ、ど、どうも……」とかボソボソと何言っているかわからない返事になっていたと思う。

 こちらに話しかけて来てくれた新田は長い黒髪に柔和な笑みが清楚感を出しているお姉さんだった。それだけで近寄りがたい物を感じてしまう。

 これだけ正統派なアイドルというのは逆に珍しい。

 僕よりも年上って感じだし、大学生なのだろう。服装やメイクが大人びている。メイクの方はアイドルの特訓でしかメイクをしたことがない僕が良し悪しなんて判りはしないけれど、派手過ぎない感じが男ウケしそうに見えた。

 大学生のお姉さんか……。

 何かそのフレーズだけで世の青少年の心を鷲掴みにしそうだね。壁に立て掛けてあるのはラクロスのラケットかな?

 大学ではラクロス部かサークルをやってると……。

 どんな戦闘力だよ。あと一つで役満じゃないか。

 僕が男子高校生だったらヤバかったね。千川さんと合わせてお姉さんにしたくなっちゃうところだったよ。

 ここではこの人が最年長なのかな。

 新田の挨拶に便乗して他のメンバーもこちらへと近寄って来る。どうやらこれから挨拶と雑談の時間が始まるらしい。

 僕はそれを確認するとちょうど良いタイミングだと思いその場から離れることにした。皆の会話の邪魔をするのも悪いしね。島村と本田はコミュニケーション能力が高いしさぞや会話も弾むことだろう。

 如月千早はクールに去るぜ。

 てなわけで、僕の方は今のうちにプロデューサーから仕事の内容でも聞いておこう。プロデューサーは部屋に入ってすぐに部屋の傍に行ってしまい無言で佇んでいるだけで、他のアイドルと会話する様子は見られない。

 誰かしらと話し始めたら割り込めないので今がチャンスとばかりにプロデューサーの元へと向かった。その際、背後から「えっ」という声が聞こえた気がしたけれど、特に振り返ることはしなかった。呼ばれてもいないのに反応したことで「あいつ自分が呼ばれたと思ってるよ恥ずかしい奴」とか思われても嫌だからね。中学時代にそれで散々迷惑を掛けたのでもう失敗はしない。

 

「プロデューサー」

 

 プロデューサーに声を掛けながら近寄る。すっかりプロデューサー呼びにも慣れてしまった。名前で呼んでも良いかもだけど、やはり僕のプロデューサーはこの人だけだから、プロデューサーと呼びたかった。

 僕の呼び掛けに対し、プロデューサーの方は無言で特に反応らしきものはない。ただ僕のことを無言で見つめてくるのみだ。

 

「?」

 

 無言の彼に何事かと思いながら近づいて行く。

 

「プロデューサー?」

「皆さんとの交流はよろしいのですか?」

 

 プロデューサーの前まで着くと当のプロデューサーからそんな言葉を掛けられた。

 交流?

 誰と?

 他のメンバーとだろうか。

 でも他の人は本田と島村と会話中だ。わざわざ僕が割って入るような場面ではないし、邪魔するのも悪いと思う。

 そこまでして交流を持たずとも、後から時間を作って話せばいいと思った。仕事の説明を聞くことよりも優先させる程ではない。

 それはプロデューサーとてわかっているはずだ。

 

「それは必要があることでしょうか?」

 

 だから僕は単純に疑問を口にした。

 交流なら仕事の後に幾らでもできるからね。これから初仕事という時に誰かと話す余裕なんて僕には無い。だから本田と島村が積極的に他のメンバーと交流を開始した時は内心驚いた。さすがコミュ力オバケ、僕とは格が違うと。僕にはあんな器用な真似はできない。

 そういう意味もあって言ったのだけれども、どうやら単純と思っていたのは僕だけらしい。

 僕の言葉にプロデューサーは少し困った顔をしたのだった。

 その顔を見て僕はまた何かしでかしてしまったかと不安になる。

 しかし、何をしでかしたのかよくわからないため首を傾げるしかない。

 

「今日は初仕事ということもありますが、本筋で言えばプロジェクトメンバーの初顔合わせとなります」

「はい」

「……そのため、できれば皆さんと親交を深めることをお勧めいたします」

「なるほど、わかりました」

「それは良かった」

「仕事の後に時間があれば交流の時間を設けたいと思います」

「……」

 

 僕の答えにプロデューサーは首へと手を当て溜息を吐いた。

 何となく、プロデューサーの心の声が聞こえた気がする。彼の心情を一言で表すならば「駄目だこりゃ」だった。

 

「プロデューサー?」

 

 何でそんな顔をされるのか意味がわからない。

 あ、実はプロデューサーは仕事前に話し掛けられるのが嫌なタイプとか?

 うーん……だったら悪い事をしてしまったかな。

 誰しも話し掛けられたくないタイミングってあるよね。僕だってある。優にだってある。春香にだってあるのだろう。

 ならばプロデューサーが今そうだったとしても仕方がない。

 

「失礼いたしました。私は少し向こうに行ってますね」

「はい、よろしくお願いします」

 

 だから僕が部屋の隅、プロジェクトメンバーの向こう側に見える空いた席を指差して言うと、プロデューサーはホッとした顔で了承した。

 その安心した顔を見て、やはり話し掛けるタイミングではなかったと改めて自分の間の悪さに顔を顰めるのだった。

 謝罪の意味も込めて少し深めにお辞儀をするとプロデューサーの前から離れ部屋の隅へと向かう。

 その際プロジェクトメンバーの横を通り過ぎたが特に話し掛けられることはなかった。当たり前だが。

 部屋の隅へと着き椅子へと座ると荷物を備え付けのテーブルへと置く。

 仕事まで時間があるなら春香にメールでも送ってみるかな。初仕事とあって色々心配してくれていたし。

 その前に知らなかったとはいえ仕事前に嫌なことをしてしまったプロデューサーは気分を害してはいないかと様子を窺うと、彼は顔に手をやって肩を落としていた。

 やはり話し掛けるべきではなかったか。

 今後はプロデューサーには仕事前に自分から話し掛けるのは禁止だな。

 

 気を取り直して鞄からケータイを取り出してメールを確認すると、案の定春香からメールが山のように来ていた。

 どうやらお昼過ぎくらいから定期的に送ってくれていたらしく、新着は三分前になっていた。

 そのどれもがこちらを気遣う内容であったため心がほっこりとする。親友からこれほどまで気遣われるなんて僕は幸せ者だ。

 一人喜びに浸っている横ではシンデレラプロジェクトのメンバーがお互いの紹介をし合っている。

 僕も後で挨拶回りでもするかな。その時は頑張って愛想よく接してみよう。第一印象って大事だもんね!

 せっかく同じプロジェクトに参加するのだからできれば仲良くしておきたい。765プロのメンバーみたいに超絶仲良しは無理にしても、そこそこの仲にはなっておきたかった。せめて排斥されない程度には馴染みたい。僕VSプロジェクトメンバーとか嫌だなぁ。せっかく同じプロジェクトメンバーになったんだからできればそうはなって欲しくない。仮になったとしたら穏便に消えて欲しい。

 あとは、アイドルになったからにはコミュ障も治さないとね。

 そんな風に意気込んだ僕に冷ややかな声が浴びせられた。

 

 

 

 ──そういう生き方って楽そうでいいね。

 

 

 

 その声を耳にした瞬間、何故か僕の背筋が反射的に伸びた。それ程までにその声に温度が感じられなかったのだ。まるで気を抜いている時に背中に氷を放り込まれたような、そんな寒さを感じたのだった。

 慌ててプロジェクトメンバーの方を見るが誰もこちらに注目してはいないようで、先程の言葉を投げかけてきた様子は窺えない。

 いったい誰が……。

 声の主を捜して周りを見回しても誰も見えない。

 まさか幻聴?

 

「杏ちゃん発見!」

 

 と、その時、先程最初に僕達に気付いた──やけに背とテンションが高い──女性が僕の横に立てられた衝立を勢いよく捲った。

 

「っ!?」

 

 その時、僕に衝撃が走った。

 カーテンの向こう側は長机と椅子が多数置いてあり、椅子の方が数脚揃えて並べられている。

 そして、まるでベッドの様に椅子の上に寝転がる一人の少女。その姿を見た僕は動揺した。他のメンバーを見た時の比ではない。魂が揺さぶられるくらいの驚きだった。

 杏と呼ばれた少女が衝立の裏に隠れてゲーム機で遊んでいた。仮にも仕事中にゲームをしていることに言いたいことはあったものの、今はそれどころではない。

 金色の長い髪を二つに分けて縛っ髪の毛。気怠げな表情。ダサさとズボラさを示す様に着崩された謎Tと謎パンツ。

 そして世の中のほとんどをどうでもいいと捉えているかのような気怠げな表情。

 それらを僕は知っていた。すこし前まで毎日のように見ていた顔だからだ。

 チハヤ。

 僕がずっとやっていたゲームの自キャラにこの金髪ロリは似ていた。思わずチハヤと呼んでしまいそうになり寸でのところで堪える。そんなことしたら自分の名前を叫ぶ痛い奴と思われてしまうだろう。

 なんとかギリギリのところで口を閉ざした僕は改めて美少女金髪ロリを見た。

 やはりチハヤに似ている。いや、似ていると言うか瓜二つと言うか……。元から3Dのゲームなのでそこそこリアルではあったのだが、それがそのまま出て来た様なクオリティである。

 可愛いぞ。凄く可愛いぞ。思わずテンションの上がった外国人みたいにガッツポーズで立ち上がりかけそうになるくらいだ。

 

「双葉杏……よろしく」

 

 双葉杏ちゃんというのか。杏って名前も可愛いね。心の中では杏ちゃんと呼ぼう。あの背の高い人もそう呼んでたし。

 杏ちゃんは必要最低限の挨拶を済ませると、もう用はないとばかりにゲーム機に視線を戻した。一瞬だけ僕の方を見てくれた気がしたけど、特に何か言うことはなくゲームを始めてしまった。

 猫みたいなそっけない態度が可愛いなぁ。

 あとそのゲームは何かな。僕がやったことある奴だったら一緒にプレイしたい。長椅子に二人で座ってダラダラと一日中ゲームしていたい。

 後で絶対話しかけよう。僕の心の中のToDoメモに二重傍線込みで書いておく。

 

「シンデレラプロジェクト、遂に始動です」

 

 一人杏ちゃんへのアプローチ方法を考えていると、プロデューサーのプロジェクト始動の声と皆の喜ぶ声が衝立越しに聞こえた。

 すでにハブにされている、だと……?

 ま、まあ別に円陣を組んでやるタイプの掛け声ってわけでもないし、その輪の中に入れなかったと言っても気にすることはないよね!

 それに杏ちゃんも僕と同じでゲームしたまま我関せずで輪の中に加わってないし。似た物同士仲良くしたいのぜ。

 

 ……うん、コミュ障治そっと。

 

 そっと心の中で誓う僕であった。

 こうして僕達シンデレラガールズの活動が始まった。




総括:千早(7才)「つよいアイドルよわいアイドルそんなのひとのかって。ほんとうにつよいアイドルはわたしだけ」(ドヤ!

CPメンバーとの掛け合い?
ねーよ!千早だぞ!?
ハイ。


今回武Pと千早で認識の違いが発生しました。武Pと千早で同じ物を見ているのに違う視点を持っているので話が噛み合っていません。
武P:完全記憶に完全再現。その力を児戯のように語る如月さんはやばい。
千早:完全記憶と完全再現とか児戯だよね。本当のチート能力はもっとやばい。
今が上限だと思っている武P(と上層部)と上限とかまだ見せてねーよな千早。さらに進化を数回残している怪物に付け焼刃の対処でどうにかなると思っている346プロはどうなるのか。
そんな千早が今回ユニットを組むことになりましたが、まともに考えたらユニットなんて組ませません。メンバー側が折れるので。
つまり、この時点で上はユニットメンバーがここで折れてもいいと思っていることになります。それを必死で軌道修正かけようとしている武Pの図。
ただ武Pの誤算は「ユニットメンバーに合わせろ」とは言っても「手を抜け」と言っていないことです。
千早「つまり、全力でユニットメンバーに合わせればいいわけだ」


今回ようやくCPメンバーと合流できた千早。しかしどう見ても歓迎ムードではありません。自業自得。
中身はともかく、他人から見た千早は大人しい子に見えるので絡みづらいでしょう。実際根暗なので絡みづらいのは確か。

千早→メンバー
「誰か時間停止能力を持っていたりしないかな。瞬間移動はともかく、時間停止の方はまったくできる気がしないのでよければ教えて貰いたいなぁ」(おめめキラキラ)

メンバー→千早
CPメンバー「なんかめっちゃ冷めた子が来た」
ロック「ロックじゃん」
猫「クールキャラ?」
元ニート志望「ふーん」


仕事とプライベートは別物。
メリハリをつけよう。
真面目が一番。
その結果がこのファーストインプレッションだよ。
まさに未知との遭遇。

気をつけろCPメンバー。この新人、アイドルというだけでハードルを上げてくるぞ。具体的に言うと、アイドルの基準が765プロメンバーと日高愛(最終進化済み)である。
自分が簡単にできることだから、他の人間なら少し努力すればできる程度だろうくらいの認識。同じだけできるとは思っちゃいないが、自分に付いてこれるくらいには思ってる。


今回の武Pとの描写。
親子?兄妹?千早には男に対する恋愛感情が無いので甘い感じにはなりません。でも傍から見ると「ヤベー・・・まじっべーぞ」なくらい不穏な関係に見えます。本人に自覚はなくてもその気に見せる悪女。それが千早。前後の言葉を抜いて端的に「好きです」とかは普通に言ってきます。今回も頭の中で色々こねくり回した結果あんな台詞をPにぶつけていますし。しかも食堂とエントランスホールでやらかしてます。それでもスキャンダルにならないのはアイマス世界のいいところ。たぶん事あるごとに居合わせては二人の会話に胃を痛めるちひろさん。労災は下りない。


今回で爆弾持ちキャラが出揃いました。誰が該当者かは申しませんが。
現状明らかな爆弾持ちとして描写しているのは春香と凛だけです。春香の方は不穏になりやすくても千早が無意識にパーフェクトコミュニケーションするからしばらくは安全です。むしろ現状は不穏芸枠。一周回って安全牌。毎回何かしては千早のピュア(無頓着なだけ)な姿を見てしばらく良心の呵責に苛まれます。すぐに復活して今度はどこまでセーフか探り出す感じ。
どちらかと言えば凛の方が危ない状態でしょう。
しかし現状一番拗らせている人は別にいます。外見上平常運転に見えていても中身はほぼ発狂しています。いや、発狂は言い過ぎかもしれません。鬼隠し編のバット振り回し始めた頃の圭一君くらいじゃないかな。もしくは志乃が未帰還者になった後のハセヲ。

これから千早が本格的にCPメンバーと絡んでいきますが、本人の意図しない形でヘイトを溜める千早はCPメンバーと仲良くなれるのか。
卯月と未央で大切に囲ってくれませんかね。二人で交互に見ていれば大丈夫だから。でも両方とも目を放すとどっか行っちゃって被害出すから。


次回は撮影回か最終面接回を幕間として投稿することになると思います。


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アルティメットな初仕事その4

お仕事初日の最終回。
果たして、千早は無事に初日を乗り越えられるのでしょうか。

乗り越える(力技)


 プロジェクトメンバーが仲良さそうに賑わう中、僕はその隣の空間で一人で待機を続けていた。

 正確にはすぐ近くに杏ちゃんが居るので一人ではない。いや、一人と一人だからやっぱり一人か。

 皆仕事中なのにあんなに和気あいあいとコミュニケーションがとれるなんて凄いなー。あこがれちゃうなー。

 はぁ……。

 完全に出遅れたわ。今の時点でこの先自分がぼっちになるのを半分覚悟している。

 いや、まだだ……。まだ諦めるには早い。僕にもまだ会話できる相手が居る。こんなに嬉しいことはない。

 杏ちゃんならいける気がするんだよね。

 まず声を掛けるでしょ。次に何のゲームをしているのかって話を振る。そして興味を引いたらそこから会話を展開させる。

 完璧かよ。

 これで会話が成り立たなかったら人類に言葉なんて不要であることが立証されちゃうくらい完璧。

 自分でも怖くなるような完璧なコミュ二ケーションだ。コミュ障が治るのも早いかもしれないね。

 さっそく話しかけてみよう!

 そっと立ち上がり杏ちゃんがゲームをしているところにお邪魔しようと仕切りに手を掛ける。

 

「──チッ」

 

 すぐに仕切りから手を放して元の席に座り直した。

 これ無理だわ。ガチゲーマーがガチってる時のガチの「チッ」だったわ。この時話しかけたらリアルファイトに移行しても致し方ないやつだわこれ。

 やはり人類に言葉なんて不要だったんだね。心と心が触れ合うことが真のコミュニケーションなんだってわかった。

 速攻で杏ちゃんとのコミュニケーションを諦めた僕だった。

 紙一重か……。

 

「あれぇ、何だか賑やかだね~?」

 

 激戦の余韻に浸っていると誰かが部屋に入って来たらしい。これまた聞き覚えのある声である。

 

「か、カリスマJKモデル! 城ヶ崎美嘉ぁ!?」

 

 あ、やっぱり城ヶ崎姉か。本田の説明でわかった。

 本田はまるで暗闇を照らす月明かりの如く僕に状況を教えてくれるね。僕がクラスメイトの男子だったら思わず惚れて告白しちゃって「友達としか思えない」と断られるくらいだわ。……友達として扱ってくれる優しさに泣きそうだぁ。

 346プロでもトップに近いアイドルの登場とあって本田を始めとしたメンバーが色めき立つのが聴こえる。

 僕もこのタイミングで出て行ったら会話に参加できるかな?

 残された最後の希望。有名人に群がるミーハー女作戦を発揮するために席を立った。

 

「お姉ちゃん! あの人! あの青い髪の人ってシンデレラプロジェクトのメンバーだったんだって!」

「ふーん、そうだったんだ」

 

 はい、終わったー!

 僕の作戦は発動を待たずして無慈悲な妹の前に潰されてしまった。

 立ち上がった勢いと同じ速さで座り直すと頭を抱えた。

 嘘だろ。ここで姉にチクるとかどうしてそんなあくどいことができるんだ!?

 おのれ城ヶ崎妹めぇ。見た目がタイプじゃなかったら許さなかったぞ。

 

「しかもね? アタシのこと無視したんだよ!」

 

 血も涙も無いのかよ。

 ここでさらに追い打ちとか殺意高すぎるでしょ……。バーサーカーソウルかよ。ライフポイントがゼロの状態でモンスターカードドローかよ。

 これ本気でどうしようか。絡みに行くどころかブース裏から出ていくと城ヶ崎姉からのけじめ案件があるんじゃない?

 ここは身を潜めて嵐が去るのを待つしかない。いつかは顔を合わせることになろうとも、記憶が風化する前に再会では分が悪い。せめてもう少し時間を置いてからそれとなく関わって行きたいところだ。

 

「やっほ、一昨日ぶり!」

 

 とか思っていたら衝立の横から城ヶ崎姉が半分だけ顔を出した。わざわざ片目だけ覗かしている理由がわからない。半分見せているというよりは半分隠れていると言った方が近い。このニュアンス伝わるかな?

 とりあえす、出て来いよってことだよね……。

 

「どうも、ご無沙汰しております」

 

 諦めてブース裏から出ていく。期せずして皆に交ざれはしたけれど、こういう形は望んでいなかった。

 プロジェクトメンバーから集まる視線と先程の城ヶ崎妹の話で居た堪れなくなり身を縮こませる。

 

「やだなー、この間会ったばっかじゃん? ご無沙汰って言うほどじゃないでしょ!」

「ソウデスネ」

 

 笑顔で会話してくれているので今すぐぶっ飛ばされる心配はなさそうだ。でも、まだ安心はできない。

 でも、この間は一般人として相手してくれたに過ぎないことを僕は知っている。今この時は僕は城ヶ崎姉の後輩なのだ。失礼な態度をとった僕に、城ヶ崎姉がどんなことを言うか気が気でない。

 

「また妹が絡んじゃったみたいだね……迷惑掛けちゃったかな?」

「いえ、そんなことは……」

「ごめんね? 結構気にしていたみたいだから。家でもずっと怒りっぱなしで……」

 

 しかし、城ヶ崎姉から飛び出したのは、こちらを責める言葉などではなく、この間と同様に妹についての謝罪だった。妹本人には聞こえない様に小声だったけれど。

 本当に妹思いの良い姉に見える。

 

「そうだ、良かったらこの後今度のライブパンフ用の撮影があるから見てってよ。……それくらいの時間あるでしょ?」

 

 姉妹仲の良さを存分に見せつけたところで姉の方がそんなことを提案して来た。最後の方はプロデューサーへの確認である。

 

「ええ、それくらいでしたら……ですが、よろしいのですか? 撮影の邪魔にならないかと見学についてお願いしないことにしていたのですが」

「いいって別に。こっちから言い出したことなんだからさ! それにアタシにそういう気遣いは無用だって言ってるじゃん。……何ならお昼をすっぽかした埋め合わせってことにしていいから。ね?」

 

 最後に一瞬だけ城ヶ崎姉の目の色が変わった気がしたけど気のせいかな。

 それにしても、プロデューサーと城ヶ崎姉がお昼を一緒に食べる約束をしていたなんて知らなかった。城ヶ崎姉の方が忙しくて時間が合わなくなったとかかな。だからプロデューサーの方も僕とお昼を食べる時間ができたということだろう。

 トップアイドルの城ヶ崎姉と僕とじゃ優先度が違うだろうし、もし城ヶ崎姉の予定が狂わなければプロデューサーは城ヶ崎姉と食べていたということになるのか。

 当たり前か。

 

「そういうことでしたら、お願いします……」

「ヨーシ、決まり!」

 

 あれよあれよと言う間に城ヶ崎姉の撮影見学という話になった。

 まあ、あちらから見学させてくれるというのなら拝見させて貰おう。

 

 

 

 さすが、カリスマJKと呼ばれるだけあって城ヶ崎姉の撮影は堂が入ったものだった。

 ちなみに、さっきのハートマークのセットは城ヶ崎姉の撮影用だった。痛いセットとか声に出して言わなくてよかったー!

 

「当然と言えば当然ですが、城ヶ崎さんは撮影に慣れているんですね」

 

 プロジェクトメンバーと共に邪魔にならないよう端に集まって撮影風景を見学しながら僕はそんなことを口にした。

 当たり前の話だが、城ヶ崎姉は元モデルということもあり撮影に慣れている。カメラマンが求める要望に対して的確にポージングを決め、それと同時に自分の見せたい物を表現していた。

 歌や踊りといったステージ用の技量を磨いていた僕には被写体としての技量はそこまで無い。どうしてもカメラマンという相手役が必要な分野のため自主練では補えなかった。

 

「城ヶ崎さんはファッション雑誌のモデル出身ということもありますが、それ以上に撮られることを楽しんでいるように思えます。自らが楽しむと同時にカメラマンの方や周りのスタッフも楽しめる様に気を配っているのでしょう」

 

 隣に立つプロデューサーが訳知り顔で城ヶ崎の撮影風景を解説してくれた。彼の話になるほどと感心させられる。やはりカリスマJKアイドルの名は伊達ではないということか。さっきまでの僕はステージで歌い踊る城ヶ崎姉しか見たことがなかったので正直「名前負けしてるな」と感じていた。しかし、今目の前で展開されている城ヶ崎姉の撮影風景を見るに、確かにカリスマがあるように思えた。

 

「私もあんな風になれるでしょうか」

 

 僕には無い技量を持つ城ヶ崎姉の実力を間近で見たことで僕にあんなことができるだろうかと不安が過る。自分の実力が足りないことで誰かに迷惑が掛かるのは嫌だった。

 

「大丈夫です。如月さんには如月さんだけが持つ才能がありますから」

 

 そう励ましてくれるプロデューサーの言葉は真に迫る物があったが、それは同時に僕にはモデルとしての才能が無いと言われているように感じられて少しだけ心が痛んだ。

 自惚れと言われても構わない。僕はアイドルとしてパーフェクトでありたい。

 そんな想い胸に撮影風景を観察し続ける。

 やはりチートと言っても万能ではないか……。

 なかなか経験値が溜まらないことにもどかしさを感じる。焦らされる感覚。足元が覚束ない感じ……。背中から首にかけてチリチリとした熱さが心の表面を粟立たせる。

 

「そろそろ時間ですね」

 

 そこでプロデューサーから時間切れが知らされた。そろそろ僕達の方の撮影に移らないといけない。すでに撮影が終わっているメンバーを残して撮影ブースを移動した。

 結局必要最低限の要素しか参考にできなかったか……。

 

 

 

 他のメンバーが撮影をしている間、僕と島村と本田が撮影準備を各スタッフから受けることになっている。

 今の僕はスタイリストさんに肌の状態をチェックされていた。

 プロの目から見て僕のお肌環境はどんな感じなんだろう。お店の測定器では一歳相当と出たけれど、普段まったくお手入れをしていない影響がどれだけあるか心配になる。

 

「普段はどんなお手入れをされてますか? 丁寧にされているみたいなので気になるところがあれば言って下さいね」

 

 スタイリストさんが気を遣ってくれたのか、そんなことを訊いて来た。また、このやり取りが発生するのか。さすがに三度目になると少々うんざりするね。

 

「何もしていません」

「そうですか。じゃあ、普段のやり方とかで何か気になる点とかあります?」

 

 どうやら、スタイリストさんは僕が特殊なことはしていないという意味で言ったものと勘違いしたらしい。実際は本当に何もしていないのだけど。

 

「いえ、普段も何も、手入れ自体何もしていません」

「え? 全く……何も?」

「はい」

「あの、お顔は何で洗われてます?」

「水か石鹸ですね」

「ヒェッ」

 

 ヒェ?

 それは驚きの声ですか。驚きの場合、対象は何ですかね。

 

「化粧水くらいは使って……」

「いませんね」

「オイルクレンジングは」

「名前は聞いたことがあります」

「……」

「……」

「ちょっと。プロデューサーさん、ちょっと」

 

 スタイリストさんに我慢の限界が来たらしい。声と身振り両方でプロデューサーを呼び付けていた。

 ある程度予想していたのか、近くで待機していたプロデューサーがやって来る。

 

「世の女性を全員敵に回すような美肌の子が世の女性全員の心を折るようなことを言って来るんですけど?」

 

 近寄って来たプロデューサーにスタイリストさんが一息で捲し立てる。その瞳からは剣呑な輝きが見てとれた。

 

「と、言いますと?」

「今時あの歳で化粧水すら使ったことがない子が居るというのがまず信じられないです。それよりも何も使わずにあの肌を維持していることが異常なんですが。あれにメイクするのは宣材用で済みませんよ?」

「……なるほど。ちなみに、彼女用にメイクをした場合どうなりますか?」

「浮きます。他の子達を押し退けてまで目立たせたいならそれでいいですけど。ただ、その場合は衣装も合わせてあげてください。顔と服のアンバランスさに衣装さんが見たらキレますよ」

「仕方ありません。一応手入れだけしていただいて、今回はノーメイクでの撮影としましょう」

「スタイリストとしてはプライドが許さないけど、できないのを認めないのはプロ失格ですからね。……わかりました、やれるだけのことはやってみます」

「よろしくお願いします」

 

 結局ノーメイクってことでいいのか。

 プロデューサーとスタイリストさんの会話をただ聞いていることしかできない僕を他所に二人の話は「最低限」の化粧でいいと結論付いた。

 

「お化粧は面倒なのでやらなくて済むなら助かりますね」

「それ。絶対他の子の前で言わないでね? 泣くから」

「はい」

「私が」

「……」

「今もう泣きそう。なんで私ここに居るのかって疑問に思っちゃう」

 

 そう言われても仕事だからではとしか言えない。

 結局何もしてないけど。

 言ったら本当に泣きそうなので言わないけど。

 

「衣装はどうしましょうか? 他の子はみんなそのままで撮ってましたけど」

 

 スタイリストさんがまだ近くに残っているプロデューサーに衣装について訊いていた。

 僕はダサいからねぇ……!

 二人の視線が僕へと突き刺さる。正確には僕の着ている服にだが。

 今僕が着ているのは普段着と言ってもいいくらい何も着飾っていない服だ。

 白い七分丈のワイシャツの上にカーディガンを羽織り、下は青色のパンツルックである。

 春と言っても夕方以降はまだ冷えることがあるため諸々中途半端な組み合わせで来てしまった。宣材写真を撮られると知っていればもう少し服装を気にしたのに……。

 服なんてまともなもの持ってないから無理だったわ。

 

「このままで行っちゃいましょうか。他の子と、こういうところで差を付けるわけにもいきませんし」

「そうですね。そうして下さい」

「わかりました。では、こっちメイクオーケーです!」

「はーい、如月さん撮影入りまーす!」

 

 スタイリストさんがスタッフに声を掛けると丁度撮影が終わったメンバーに入れ替わる形で僕の撮影が始まった。

 

 

 

「目線ちょうだいねー!」

 

 カメラマンさんの言葉に目をカメラのレンズへと向ける。そのタイミングでシャッターが押される。その次の指示を受けて今度はポーズをとる。

 諸々省略して言うならば、僕の撮影は何の面白味も無く進んでいた。

 絶賛されることも駄目だしをされることもなく淡々とシャッターを切られている。

 目線をくれやポーズ変えてみてとは言われても、決して笑ってとは言われないことからプロデューサーがあらかじめ説明してくれていたのかな。正直笑顔を要望されたらどうしようとハラハラしていたところだから助かった。さすがプロデューサー。僕の弱いところをわかっている。

 撮影の間にカメラマンさんとアシスタントさんらしき男性がぼそぼそと会話しているのが気になる。何となく悪いことを言われているのはわかる。僕は勘がいいので。

 

「一旦ストップして、次の子の撮影に移ろうか」

「わかりました。……次、双葉さん入って下さい」

 

 しばらく撮って貰っていたけれど、手応えを得られないうちに次の子の撮影になってしまった。これは駄目だったパターンかな?

 

「やれやれ、時間が足りないよ」

「別の日に改めますか?」

 

 次の子が杏ちゃんというので見学して行きたかったけど、カメラマンさんとスタッフさんのどこか疲れた様子が窺える会話から逃げる様に待機スペースに帰った。

 

 やっぱり、さっきの時間が足りないって僕の所為だよなぁ。

 休憩スペースに戻り何が悪かったかを考える。自分の不出来な撮影結果に溜息が出そうだった。

 他の子は結構早く撮影が終わったっていうのに、僕の時だけ延々と撮り続けていたから、きっと何とか良い写真を撮ろうとして上手くいかなかったに違いない。

 僕が上手くできなかった所為で他の子に迷惑を掛けたことが辛い。きっとプロデューサーにも失望されたことだろう。

 

「っ……」

 

 プロデューサーに失望された。

 その言葉が頭を過っただけで心が軋んだ。拳を握り締めて顔にだけは出さないように必死で表情筋を引き締める。

 どうして僕は欲しい時に限って欲しい力が無いんだろう。

 自分の不甲斐なさが憎らしい。掌に爪が突き刺さるが気にせずさらに力を込める。握った拳の中に生温かい液体が満ちるのを感じる。

 おっと、いけないいけない。自傷行為で心を紛らわせるようになってはお終いだ。優にも叱られるのでこれはいけない。

 手から力を抜き爪を引き抜くと、すぐに流れ出た血液が皮膚内へと逆戻りして傷もすぐに塞がった。

 まだ挽回のチャンスはあるようなので、その時までに何とか打開策を考えないと……。

 

「私は大丈夫だったのかな……」

「智絵里ちゃんは可愛かったよ」

「え、ほんとっ?」

「ほんとほんと!」

 

 僕がひとり懊悩する近くではプロジェクトメンバー同士がお互いの出来栄えについて語り合っている声が聞こえた。僕は準備があったので彼女達の撮影を見られなかったけど、どちらの子も撮影映えしそうな容姿をしているのできっと上手く行ったのだろう。

 その隣のグループは新田を含めた年長組が集まり余裕の態度でファッション雑誌なんかを読んでいた。

 年少組の方は何故かしりとりをして遊んでいた。何それ超面白そう。僕も交ぜてくれないかな。

 現実逃避気味に年少組の遊びに突撃をかまそうとした僕だったが、杏ちゃんが戻って来たのを見て飛び出し掛けた足を止めた。

 やはり、杏ちゃんは可愛いな。今も気だるい顔に欠伸を交じらせながら歩いている姿もキュートだ。

 

「本番でもない宣材写真の撮影でみんなよく頑張れるよね。杏には無理かなぁ、利にならない頑張りとかさあ」

 

 他の子と比べても早いペースで撮影を終えた杏ちゃんは、近くの椅子に座ると同時に持っていたゲーム機の電源を入れ、そんな事を言っていた。

 聞きようによっては悪態とも取られかねない言葉に同じく撮影を終わらせて戻って来ていた何人かが眉を寄せている。不快に思っているというよりはそんな擦れた発言をする杏ちゃんの状態を心配しているように見えた。僕からすれば杏ちゃんは最初からこういうキャラだったので他の子が感じている違和がわからない。でも他の子達からすれば今の杏ちゃんは普通ではないということなのだろう。

 見たところ杏ちゃんは小学校高学年から中学校上がりたてくらいに見える。そんな小さな子が、こんな擦れたこと言うのは確かに心配になるなぁ。

 

「杏ちゃん、撮影おっつおっつ!」

 

 先程杏ちゃんに構っていた背の高い女性がどこからともなく現れ、杏ちゃんに労いの言葉を掛けていた。それにしても、身長以上にテンションが高い人だ。見上げるくらい背が高いのに、テンションが高すぎて思わず目を逸らしてしまいそうになる。

 ただ、とても可愛らしい人ではあった。今も遠巻きにされている杏ちゃんに積極的に話掛けに行っている。世話好きで優しい人なのだろう。僕も杏ちゃんをお世話したいなぁ!

 

「あー……うん。お疲れー……」

 

 しかし、杏ちゃんの方はテンション高子さんの相手もそこそこにゲームに集中してしまっている。

 わかる。ゲーム中に話しかけられるとそんな感じになるよね。それでも、返事をしているから杏ちゃんは偉いなー。僕だったら気付かない可能性すらあるよ。

 

「撮影は上手に出来たかな?」

 

 杏ちゃんの塩対応にもめげず高子さんが話しかけている。これは見ようによっては保母さんが園児に話しかけているようにも見えるな。

 園児服を着た杏ちゃんと保母さんの恰好をした高子さんがやる企画とかどうだろう。結構ありじゃない?

 

「まあまあかなー……」

「にょわ? 杏子ちゃんもしかしてお疲れ? おねむー?」

「……もういいかな?」

「あっ……えっと、お仕事中は、ぴこぴこしない方がいいなって……きらり思うなぁ」

「……」

「……邪魔、しちゃったにぃー。しつこくして、ごめんねぇ」

 

 杏ちゃんにすげなく扱われ、あえなく轟沈した高子さんが、しょぼくれた感じで戻って行った。

 さすがにこれには二人の様子を見ていたメンバー達も責める意味で眉を寄せていた。杏ちゃんは気にした様子も見せずにゲームに集中している。

 ……あ、一瞬だけ目の端で高子さんを見ていたかな。実は優しい子な気がする。

 高子さんの方を見ると年少組の居るスペースに合流していた。杏ちゃんの事もあり、小さい子が好きなのかも知れない。趣味が合いそうだ。

 高子さんを目で追っていると、年少組の片割れである城ヶ崎妹の姿が目に入った。どうやら今のやり取りを見ていたらしい。

 頬を膨らませているところを見ると今のやり取りに不満を持ったご様子。剣呑……と言う程、危ういものではないけれど、かなり険のある視線を杏ちゃんへと向けていた。

 城ヶ崎妹は結構素直な性格をしているイメージがある。そのため、高子さんを邪険に扱った杏ちゃんの態度が気に入らないのだろう。でも、素直だからこそ二人の間に流れる空気にまでは考えが及んでいないようだ。

 まあ、杏ちゃんも城ヶ崎妹も、まだまだ幼い少女なのだから仕方がないか。

 二人の少女の対照的な性格にほっこりしていると、こちらを見ていた城ヶ崎妹と目が合った。あちらは僕を見ようとして見たというよりは、今のやり取りを見ていた城ヶ崎妹が、たまたま僕を見たという感じだ。

 

「む……む~む~」

 

 おっと、不満の矛先が杏ちゃんから僕に移ってしまったか。

 頬を一回り大きく膨らませ、こちらを睨んでくる城ヶ崎妹の視線に曝された僕は、先程の衝立の裏側へと退散するのだった。

 ……逃げてばっかだなぁ僕って。

 

 逃げた先のスペースには当然ながら誰も居なかった。プロデューサーもプロジェクトメンバーも衝立の向こう側に居る。

 僕だけがこっち側だ。

 当初の予定では、プロジェクトメンバーの皆と一緒に和気あいあいとした空気の中で仕事について話し合っているはずだったのに……。

 それが蓋を開けてみれば、こうして薄暗い部屋の隅で独りぼっちで座っている。

 衝立の隙間から照明の光が薄暗い衝立の裏へと差し込んで来る。でも、その光は部屋の隅に座る僕までは決して届かない。その光景が、まるで僕には浴びるべき光なんて無いと言っているように思えた。

 

「はぁ~……」

 

 初日からこんなことで、今後の活動は大丈夫なのだろうか。突然膨れ上がった不安が溢れ出した様に溜息が漏れる。

 こんなことなら、最初からソロで活動した方が有意義だったのではないか?

 わざわざ僕をプロジェクト入りさせた意味とは?

 すでに何度も繰り返された何故を頭の中で繰り返す。

 

「独りの方が楽で良いのに……」

 

 独りの方が楽だってわかっているのに。

 それでも”みんな”が良いと思ってしまう。

 一人じゃ何もできない僕だから。

 

 ──やっぱり、似てるよね。

 

 僕以外に誰も居ないはずのスペースで聞こえた声に顔を向ける。そこには相変わらず眠そうで疲れた顔をしている杏ちゃんの姿があった。

 漏れ出る照明の光が後光の如く彼女を暗闇から浮かび上がらせている。

 それがとても眩しくて……同時に何故か、とても尊く感じられた。

 不思議な感覚だった。知らない光景のはずだった。僕はこんな光景を知らない。そのはずなのに、僕は目の前の光に既視感を覚えている。

 

「……」

 

 彼女は何も言わない。

 僕も何も言わない。

 言葉に詰まったわけじゃない。言葉が浮かばないわけでもない。何となく、だが確信めいた感覚として、この時の僕達に言葉は不要だと思えた。

 無言の空気が続く中で、ただ衝立の向こう側から撮影に勤しむ他人の声だけが聴こえる。

 

「……あっちは、うるさいから」

 

 先に静寂を破ったのは杏ちゃんだった。

 説明と言うよりは言い訳の様に聞こえる理由を口すると、近くにあった椅子を並べると先程と同じくベッド代わりにして寝転がった。

 

「ゲームしないとだし」

 

 こちらは完全に言い訳に聞こえた。何に対する言い訳なのかはわからないけど。

 口にした通り杏ちゃんはゲームを始めてしまった。僕と会話をしたいという意思は皆無のようだ。少なくとも、僕が何も答えなかったために対話を諦めたという感じではない。有言実行でゲームを始めるところは好感が持てた。

 

「……」

 

 他にやる事も無いので、暗いスペースでゲームをする杏ちゃんを眺め続けた。

 ゲーム機の液晶の光が、杏ちゃんの顔を照らしている。可愛らしい顔に、小さな唇、眠そうに細められた目が画面上の何かを追っているのか、微かに揺れている。少し気になるのは、目の下に若干のクマがあることか。コンシーラーで隠しているみたいだけど、僕の眼は本来隠しているモノでも微かな違和感があれば”加算平均処理”で浮彫にできるので判ってしまうのだった。

 クマの原因はゲームによる寝不足かな?

 まあ、良いんじゃないかな。ゲーマーアイドルというのもアリだと思うよ。双海姉妹もゲーム好きみたいだし。これは、コラボ企画のお話が来るかも?

 双葉に双海……。

 良き!

 

「……」

 

 杏ちゃんが着ているTシャツも、良いセンスをしている。「働いたら負け」なんて、どこで買ったのと思わず確認したくなるね。下に穿いているしましまの……それ何? まあ、ズボンみたいなのも可愛いと思う。

 幼い杏ちゃんが、全体的にダルダルな服装で、ダルダルな態度をしているのを、ただ眺めるこの時間……至高かな。

 

「……」

「……」

「……」

「逆に。逆に何か言ってくれないかな?」

 

 根負けした杏ちゃんが、ゲーム画面に顔を向けたまま言って来た。

 別に勝負をしていたつもりは無いのだけれど、お話をしてくれると言うならば、それに乗るまでだ。

 

「……椅子の上に寝ると、背中が痛くなりませんか?」

 

 杏ちゃんは小さくて薄いので、硬い椅子に寝そべったら痛いのではないかと思い、そんな疑問を投げかけてみた。

 

「溜めに溜めた結果、言った言葉がそれとか……」

 

 しかし、杏ちゃんからは呆れた声が返って来た。僕としては、気を遣ったつもりなのだけど……。

 

「寝る用のマットを用意するとか、どうでしょう? 椅子をベッド代わりにしても、それなら大丈夫ですよ」

「的確なアドバイス。肯定感出しすぎ……」

「双葉さん、女性の場合は女帝ですよ」

 

 小学校だと、その辺習ってないのかな?

 少しお姉さんぶって教えてあげよう。

 

「エンペラーの話はしてないけど……。普通、相手にエンペラー味を感じるとか言わないからね?」

「昔、クラスメイトから『如月さんって、自分のこと女王か何かと勘違いしているんじゃないの?』と言われたことがありまして……」

「それ、たぶん違う意味のやつだから。何? 言われるくらいの態度で接してたとか?」

「まさか、私は至って普通の女子生徒をやっていましたよ。それを言って来た子にも『貴女こそ、私達が知り合い同士だと勘違いしていませんか?』と丁寧に指摘してあげたくらいです」

「……嫌な奴だな」

「ええ、知り合いでも無い相手に、女王気取りかだなんて……」

「お前の事だよ!」

 

 なんだって?

 杏ちゃんから嫌な奴だと言われてしまった。ショックだ。

 でも、可愛いから許す。

 

「あー……如月さん、だっけ? あんまり杏に構わないでくれるかな」

 

 一瞬、目を細めた杏ちゃんが、思い出したかの様に拒絶の言葉をぶつけて来た。

 前振りも何も無い言葉に、僕はどう返したら良いのかを考え、すぐに適切な対応を思い付く。

 

「わかりました。任せてください」

「……何で、そんなに溌剌と答えたの?」

「フリ、ですね? わかります。アイドルですから」

「暗に構えと言ってるやつじゃないから。それ、杏が超面倒臭い奴になるでしょ?」

「……それくらい、どうってことないですよ」

「面倒臭い奴扱いするな。冤罪だー!」

 

 とうとう、杏ちゃんがゲーム画面から視線をこちらへと向けた。思わず、と言った態度であったとしても……ゲーム以上に僕に意識を向けてくれた、その事が嬉しい。

 

「……如月さんと話すと、何か調子狂う」

 

 ちょっとだけ意識を向けてくれただけだったようだ。杏ちゃんは、ゲームに戻ってしまった。

 その気まぐれさが良いと思う。

 

「誰かと付き合っていくということは、少なからず自分の自意識に波紋を齎す行為です」

 

 一度でも僕に意識を向けてくれたのだ。対話を続けていれば、いつか面と向かって会話をしてくれるかもしれない。そんな願いを持ちつつ、僕は杏ちゃんの台詞を拾い上げると勝手に話を続けた。

 

「双葉さんの調子を狂わせたということは、私の言葉が貴女に届いたということですね」

「変な事を言う相手に戸惑っただけだから……」

「そうですか」

「そうだよ」

 

 言葉自体は届いたみたいだ。今はそれで良い。

 

「……如月さんは戻らなくていいの? こんなところで杏に構ってないで、あっちに戻ればいいじゃん」

「戻っても話す相手も居ないですし」

「寂し」

「双葉さんは話し相手とかは、いらっしゃらないんですか?」

「いないよ」

「……寂し」

「おーん?」

 

 別に話し相手が居ないから戻らないわけではない。話したい相手が来たから、ここに残っているだけだ。

 その意図は杏ちゃんに知られるわけにはいかなかったので、適当な理由を言っただけである。

 それに戻っても仕方がないというのは本当のことだ。あちら側に僕の居場所は無い。

 

「色々とグループができているみたいですね。私みたいな出遅れ組が交ざるには敷居が高いです」

「原因は絶対そこじゃないと思う……」

「そうですね、話題とか無いですしね」

「自覚が無いコミュ障ほど厄介な奴はいないよね。……まあ、そういう、みんなでとか仲良くとか、面倒じゃない? いつも気を遣い合って関係を良くしようとしててもさぁ……たった一回の失敗で全部ご破算じゃ、割に合わないじゃん? だったら一人で居た方が良いって、杏は思うよ」

 

 杏ちゃんの言いたいことはわかる。どれだけ仲良くしようとしても、ほんの少しのボタンのかけ違いのような意見の不一致で仲違いしてしまうことはある。でも、それを理由に他者を遠ざけたら孤独になってしまう。

 

「あの背の高い方、あの人は双葉さんのことを気に掛けてくれているみたいですけど……そこから仲良くしてみても良いのではないでしょうか?」

「ああ、諸星さん……別に、最初はそうしようかなって思った時もあるけどさぁ……今は、もういいかなって」

「もういいとは?」

「どうせアイドルやってる間だけの関係なら、そんな仲良くならなくてもいいし……アイドルじゃなくなったら、もう他人なんだから。終わったらそれまでなんだから。だったら一人で良いじゃん、って思っただけ」

 

 それは自分に言い聞かせているように思えた。しかし、本心がどうであれ、杏ちゃんは一人で居ることを選んだ。あの高子さん……諸星さんと関わることを、杏ちゃんは諦めていた。

 

「杏はさ、別にアイドルがやりたくてやってるわけじゃないんだよ。本当は働きたくなんてない。将来の夢なんてどうでもいい。アイドルやってるのも印税生活のためだし」

「つまり、お金のためにアイドルをやっていると?」

「そうだけど? ……何、不純だって怒る? そんな理由でアイドルをやるのは間違っているって?」

 

 挑発的な声で言い募る杏ちゃん。

 

「煩わしんだよ、全部」

 

 皮肉げなはずなのにどこか疲れた表情で杏ちゃんは笑った。

 

「別にいいのでは?」

「……え?」

「お金のためでも良いと思いますよ。仕事なんですから、お金貰うことが駄目だなんて無いでしょう。世の中の仕事の中で賃金が発生しないものなんてないんです。もし、無償の仕事があるのだとすれば、それは只の奉仕です。施しです。アイドルを他者への施しでやる方が不純じゃないですか?」

 

 少なくとも、僕は奉仕の心でアイドルをやって行くつもりはない。

 僕にだって、人並みの欲はある。お金だって貰えるなら貰いたい。だから、それを貰うことに忌避感を覚えることはないのだ。

 でも、杏ちゃんのそれは、僕とは違う。

 

「だから、双葉さんがお金のためにアイドルをやることを私は否定しません。もし、仕事をする中で少しでも双葉さんがアイドルの仕事を楽しいと感じられたら、そうなってくれたら良いと思うだけです。……だから、私は、双葉さんの動機を否定しません」

 

 自分がアイドルをやる理由を他者に委ねるのは間違っている。誰かが言った理由を、自分の理由にしてはいけない。千早がアイドルだから、自分もアイドルをやる。そんな理由でアイドルを目指した僕だからわかる。それは駄目なんだ。

 だって、そんなの楽しくないから。

 

「杏は如月さんのこと結構嫌いかも」

「私は双葉さんのこと結構好きですよ」

 

 結構と言うか、めっちゃ好きだ。

 その背中を反らして横になっているせいで、ちらりと見えているお腹とか、特に好き。

 私は、それが、好きです。

 

「……変な人」

「よく言われます」

 

 変というのは、よく言われていた。

 気狂いとか、化物とかも。

 でも、良いのだ。誰に何と言われても、これが僕なのだから。

 たとえ今後、杏ちゃんに疎まれてしまったとしても、嫌われても、罵詈雑言を投げつけられたとしても……僕は構わないのだ。

 僕はそういう人間だから。

 

 さて、これ以上は杏ちゃんのゲームプレイの邪魔になるので退散しよう。そろそろ城ヶ崎妹のヘイトも別に逸れたことだろうしね。

 

「そろそろ、向こう側に戻ります。双葉さんも……」

「ゲームを止めて戻れって?」

「いえ、暗い所でゲームは目を悪くするので、ご許可頂いて電気を点けて貰った方がいいですよ。何でしたら、代わりに言って来ましょうか?」

「肯定感」

 

 せっかく裸眼で過ごせているのだし、進んで目を悪くする必要はないでしょ。

 眼鏡を掛けた杏ちゃんも悪くはないと思うけど。

 

「では、失礼いたします。……電気の方は」

「……要らない」

「わかりました」

 

 これ以上は、今は干渉しないことにした。

 子供相手のコミュニケーションは、まずは程々から始めるのがコツだ。あまり構い過ぎても拗ねられてしまう。ガッツリ突っ込んで行くのは慣れて来てからだ。

 行く行くは年少組三人と仲良くなりたい。しりとりとか、かくれんぼとか、僕は何でも付き合うよ。

 そう言えば、あの黒髪の子も杏ちゃんに負けず劣らずの可愛さだった。

 戻ったら次はあの子に話しかけてみようか……。

 

 そんな新たな野望を胸に、衝立の向こう側へと戻った僕だったのだが、壁際に並んで座る島村と本田の姿を見つけて足を止めた。

 二人とも暗い顔で落ち込んでいる。どう見ても「大成功! イエーイ!」という空気ではない。

 どうやら、島村と本田の撮影は、僕同様にあまり芳しい結果にはならなかったようだ。

 シンデレラプロジェクトの先輩方は皆それぞれ個性を出しながら順調に撮影を熟してしたというのに、後輩組の僕らは散々な結果となっている。

 これがメイン組と補欠組の実力差とでも言うのか……。

 

「なんか、ガチガチだったね……」

「うぅ……なんだか緊張して」

 

 二人が撮影を振り返り感想を漏らしていた。

 さて、どうしたものか。見て見ぬふりをしてもいいけど……。

 ん、あれは。

 

「私も似たような感じだったわ」

 

 仕方なく、話に加わることにした。それくらいのフォローは僕の方で受け持っておこう。

 

「あ、如月さん。おつかれー」

「お疲れ様です。……如月さんも、ですか?」

 

 僕に気付いた二人が顔を上げる。僕も駄目だったという話を聞いて少なからず驚いているらしい。そんなに僕は器用に熟すように見えるのかな。

 

「撮影なんて初めてでしたから、上手くカメラマンさんの要望に応えることができませんでした。上手くいかないものですね」

「それ以上に緊張で顔が引き攣ってしまいましたぁ」

「撮影って難しい~……」

 

 愚痴や泣き言は言い合える人数が増えると楽になるものだ。ずっと言い続けるなら問題だけれど、この場限りなら良いリフレッシュになる。それに付き合うくらいならいくらでも付き合おう。

 

「城ヶ崎さんは凄かったですよね……」

「うん。さすがカリスマJKって感じだった。私達とは大違いだよね」

 

 城ヶ崎姉が凄いのは当たり前だ。彼女は、ずっとモデルを続けてきて、今も流行の最先端を突き進む(ほぼ)トップアイドルの一人なのだから。今日からアイドルになった僕達と比べることすら烏滸がましい相手だ。

 ……と、一昨日まで城ヶ崎姉の存在をまったく知らなかった僕が指摘するわけにもいかんよなー。

 

「そう言えば……如月さんって、城ヶ崎美嘉と知り合いだったんだね」

 

 城ヶ崎姉の話題が出たから良い機会だと思ったのか、本田が話を振って来た。

 僕が城ヶ崎姉と知り合いなところを見て興味が湧いたのかな?

 

「ええ、まあ、知り合いと言うのも烏滸がましいと言うか……。たまたまお会いした時、お話しする機会があっただけです」

「それにしては仲良さそうに見えたけど?」

「相手はカリスマと呼ばれる人ですから、私相手でも分け隔てなく接して下さるだけですよ」

「そうかなぁ、なーんか特別構っているよう見えたけど。私なんて、さっき話しかけようとしたらスルーされちゃったもん。そのまま如月さんの居る方に行っちゃったし」

 

 それは買いかぶりというものだ。城ヶ崎姉が僕を特別扱いする理由なんて無いだろ。さっきのアレは「面貸せやオラ」という意味だと思う。

 

「やっぱり如月さんのその大物オーラが自然と相手を引き付けている、とか?」

 

 だが、城ヶ崎姉の態度の理由を知らないためか、本田の方は頓珍漢な推測を立てたようだ。

 

「大物って……私はそんな大それたものではないですよ」

 

 変な噂を流されても困るので、すぐさま訂正を入れる。

 これは決して謙遜ではない。事実、今の僕には誇れる物が歌しかないのだから。これしかない僕に他人から大物と呼ばれる価値は無い。

 まだ無い。

 でも、いつかは……。

 そんな風に未来の自分の成長に思いを馳せている僕だったのだけれど、隣の本田がこちらを見ていることに気付いて彼女へと意識を向けた。

 

「なって貰わないと困るかも……な、なんちゃって?」

 

 それは僕に大物になって欲しいということだろうか?

 

「あ、ご、ゴメン! いきなりだったよね? ……いやー私、何言っちゃってるんだろうね。唐突に意味わからないよね!」

 

 最後におちゃらけて誤魔化していたけど、その目は本気で言っているとわかるくらいに真剣だった。

 だったら僕も真剣に答えるしかない。

 

「なります。本田さんがそうなって欲しいと言うのならば、私は貴女が言う大物になります」

 

 本田がどんな想いで放った願いだとしても、それが本気の心からでた言葉ならば僕はそれを本気で受け止めるだけだ。

 だって、仲間の願いなのだから。

 

「本田さんのご期待に応えられるよう、全力を尽くします」

 

 まだ僕には歌しかない。だったらこれから増やして行こう。

 ファンができた。

 仲間ができた。

 ライバルができた。

 だったら、僕はそれに見合う努力をしよう。

 彼女達が僕に求めた偶像になろう。

 

「……うん! お願いね!」

 

 その時、初めて本田の本当の笑顔を見れたような気がした。

 

「わ、私も頑張ります!」

 

 突然、島村が意気込み出していた。何に対抗しての反応だそれは。

 

「おぉ〜! しまむーも、やる気になってて、偉い偉い!」

「わ、私は年上です〜……」

「そう言えば二人って何年生? 私は高校一年」

「あ。私は今年高校二年生になりました」

「私は高校に行ってないので……一応、通っていたら高校三年ですね」

 

 僕が高校に通っていないと聞いて、一瞬やっちまった感を顔に浮かべた本田と島村だったが、僕が特に気にしてないことを伝えるとすぐに笑顔に戻った。

 

「アイドルに全力投入かぁ……私にはそこまでの思い切りの良さはないかなー」

「私も、如月さんみたいに全力を出せるように頑張ります!」

 

 別にアイドルのために学校に通っていないわけじゃないんだけど、本当の理由を教える程でも無いか。僕が引き籠っていたなんて、そこまで重要な話ってわけじゃないし。

 高校か……。

 未練が無いという言えば嘘になるかな。

 ……でも、今更高校に通ったところでねぇ。街ミッション、武闘大会、学園パートは三大エター要素だし。下手に手を出すべきじゃないと思うんだよね。あっても、優の学校イベントに参加くらいじゃないかな?

 優の中学校の体育祭で保護者参加の競技に出て、優のクラスの優勝に貢献したい。綱引きなら、僕とその他保護者でやり合って勝つ自信あるし。綱が保てばだけど。

 

「おーっし、元気出た! まずは撮影のリベンジだねっ!」

「はい! 島村卯月、頑張ります!」

 

 二人とも気合十分といった感じだ。

 これなら大丈夫だろう。

 それを確認した僕は、遠くでこちらの様子を覗っていたプロデューサーに頷いて見せた。

 プロデューサーも頷き、スタッフさんへと指示を出す。

 機材とデータチェックをしていたスタッフさんが、プロデューサーの指示を受けてから周囲へと声を張った。

 

「如月さん、島村さん、本田さん、もう一度入りまーす!」

 

 あ、僕もなんだ?

 

 

 僕と本田と島村の三人での撮影となったのだが、何をどう撮ればいいかわからない。てっきり、島村と本田の二人だけ撮り直しだと思っていたので、これは想定外だった。

 いや、僕が撮り直しなのはわかっていた。あれでOKを貰えるとは思っていない。

 想定外なのは、僕達三人が一緒に扱われたことだった。僕はこの二人と組むほど仲良くないよ?

 それに、スマイルオブパワーファイター島村と、ポジティブパッションガンスリンガー本田と一緒に撮るとなると、僕はどういった立ち位置にすればよいだろうか。

 撮影ブースに移動した後も答えが浮かばない。一人の方がいいと言った杏ちゃんの言葉が蘇る。

 

「今度は三人一緒に撮ってみるから、普段通りワイワイやってみて」

 

 普段通りとな?

 僕達三人って「普段通り」が出来上がる程の長い付き合いじゃないはずなんだけど……。

 案外、島村と本田の方が前から知り合いという可能性が……あ、二人とも戸惑った顔してるわ。

 仲良くない相手と組を作って何かやる。学校行事でやらされたら暴れる自信がある。それくらいの無茶振りだった。

 

「自由に動いていいよ」

 

 しかし、教師と言う名の無能共と比べ、346プロのスタッフは一味違ったらしい。小道具として用意していたのか、ビニール製らしきボールをこちらへと放って来た。

 緩い放物線を描いて、こちらに落ちて来るボールを受け取ったのは島村だった。

 文字通りボールを渡された形の島村が、手に待ったボールと僕を交互に見ている。

 

「あ、あのっ、これどうすれば!?」

「とりあえず投げれば良いのでは?」

 

 テンパる島村にアドバイスにもならない言葉を投げ掛ける。こういう時は直感を信じて行動してみればいいんだ。

 僕の意を汲んだのか、島村は大きく頷き「島村卯月がんばります!」の掛け声とともに全力で——彼女にとっては——ボールを投げた。

 明後日の方向に。

 

「しまむーノーコン!?」

 

 おかしいな、僕の目には島村は真っ直ぐ前に投げたように見えたのに、実際は真横に飛んで行ってしまった。魔球かな?

 

「でも、この程度なら」

 

 普通なら大失敗の投球も僕にとっては絶対捕球の圏内だ。体重を後ろに掛けつつ片足で跳躍し、瞬間的に加速すると、ボールへと追い付き両手でキャッチした。

 その光景を見た周りから、どよめきの声が聞こえて来る。

 

「え、今のどうやったの?」

 

 本田から当然の様に疑問が投げかけられた。

 まるでジョセフの方にわざと飛んで行ったDIOみたいに……とまではいかずとも、低空をかなりの速度で飛んだ僕の動きを疑問に思うのは当然だ。

 説明の仕様はない。ただの力技である。

 

「単純に、即反応して、即動き出しただけですよ。あとは、脚力で無理やりです」

「いやいや、今の明らかに脚力でどうにかなる動きじゃなかったよね!? 飛んでたけどっ?」

「飛んでいません。かっこつけて落ちていただけです」

「バズ・ライ◯イヤーか!」

 

 宇宙の彼方に、さあ行くぞ!

 それ以上突っ込みを入れさせないために本田へとボールを放った。運動神経が良さそうな本田には普通に投げてもいいだろう。もちろん、力を込めてなんて投げてない。死んじゃうし。

 放物線を描いて本田の方に飛んで行ったボールは彼女がトスし易い位置に行った。

 

「釈然としないけど、お仕事中だもんね! ほら、しまむー!」

 

 イメージ通り運動神経の良さを見せた本田が危なげなくボールを受け、再び島村へとボールをでトスで押し出す。

 

「わっ、わ、ととっ……如月さん!」

 

 本田と違い、島村の方は結構危ない体勢でボールを弾いていた。と言うか、僕の方に飛んでいるのが奇跡かってくらい酷い軌道だ。

 あれはどうしようか……。

 また同じ様に飛んでもいいけれど、同じネタはセイント的にNGだよね。

 

「如月さん、スパイク!」

 

 あのクソボールをどうしてくれようかと考えていると、本田の方からスパイクのリクエストが来た。

 まあ、それもいいだろう。

 軽い素材のためか高い位置に飛んでいたボールが重力に引かれ落下を開始したところで、僕は両足に力を込めると跳んだ。

 しかし、思ったよりも高い位置にあるボールに届かせようと力を込めたため、高く跳びすぎてしまった。

 三メートルくらい。

 

「って、高っ!?」

 

 下から本田の驚いた声が聞こえる。

 その場跳びで三メートル程、宙へと舞い上がった僕は腕を振り上げてスパイクの体勢へと移る。

 

「あれっ、私、死んだ?」

 

 驚愕を顔に張り付けた本田が何かを悟ったように呟いている。

 

「本田さん」

 

 スパイクを本田に向けて放つ。

 打ち出されたボールが真っ直ぐに本田に向かう。……当然の様に本田はボールを受け止めていた。島村には厳しいだろうけど、本田なら余裕で受けられるだろうとは思っていた。

 ……いや、さすがに僕の全力スパイクを彼女に向けて放つ気はないよ?

 普通に死ぬだろ。

 常識の範囲内まで落とされた威力の参考元は、中学時代のクラスメイトの女子だ。

 

「威力は普通だった!」

 

 受け止めたボールを見ながら叫ぶ本田。

 どんな物を想定していたのか、ホッとした顔をしている。

 

「……一瞬だけ、戦闘力五十三万の悪の帝王が星を破壊する光景を幻視したよ」

 

 どういう意味だそれは。

 僕はあと二回の変身を残しているとでも言うのか。

 

「怪我をさせるような物は打ちませんよ?」

「う、うん。だよねー! もちろん、信じてたよ!」

 

 だったら、目を逸らすんじゃないよ。信じて無かったんだろ?

 まあ、別にいいけどさ。

 確かに、自分でも、ちょっと高く跳び過ぎたかも知れないとは思っていたところだか。

 その証拠に、周りのスタッフを見回してみると、カメラマンさんやアシスタントスタッフさん、あとはさっきのスタイリストさんまでが僕を驚きの目で見ていた。

 それが決して好意的な物ではない事は僕でもわかった。

 また、やってしまったか……。

 

「……」

 

 こういう目を向けられることは慣れている。

 異質な物を……化物を見る様な目を向けられるなんて、いつものことだ。

 この程度どうってことない。慣れているんだ。

 

 だから、いつも通り諦めかけた僕の手を取る人間が居るなんて予想していなかった。

 

「如月さん、凄く高く跳んでましたね。私、すごく驚きました!」

 

 島村が”いつも通り”の笑顔を浮かべて、無邪気に凄いと言って来た。

 

「運動神経が良いんですね。私は運動が得意じゃないので羨ましいです!」

「えっと……」

 

 今の光景を見て、まったく恐れた様子を見せない島村の態度に言葉が出てこない。

 隣では島村の呑気な感想を聞いた本田が「それで済むんだ!?」と驚いている。

 

「……怖くないですか?」

 

 三メートルも跳ぶ人間を怖がらないのか。

 そんな意味を込めて訊いたのだけど……。

 

「あ、はい! 私にはスパイクは打たないで下さい!」

 

 どこかズレた答えが返って来るのだった。

 ……そっちを怖がるかぁ。

 

「はぁ~……」

 

 一気に力が抜ける。

 別に島村が怖がらなくても、その他の人間は怖がっていることは変わらない。何も状況は変わっていないのに、何故だか救われた気がする。

 

「えっ、私は何か溜息を吐かれるような事を言ってしましたかっ!?」

「いえ……まあ、そうね。力が抜けたかしら?」

「それは、良いことですか……?」

「少なくとも、私にとっては良いことでした。ありがとう、島村さん」

「そうですか? じゃあ、良かったです!」

 

 良かったと言う島村の笑顔を見て、笑顔で返してあげられない事が悲しくなった。

 ほんの少しでも笑えたらと思ってしまう。

 

「あ、あははっ! し、しまむー! 大物過ぎぃ!」

 

 突然、隣の本田が突然笑い始めた。

 心底可笑しいと言う様に、お腹を抱えて笑っている。

 

「え、ええっ? 私、何か変な事言いました!?」

「い、いや、だって……普通、あんなの見た後に凄いで終わらせる人いないって……あはは!」

 

 目の端に涙を浮かべて笑う本田と、彼女の反応に戸惑い、オロオロする島村の姿を見ていた周りの人間達の空気が弛緩していくのがわかった。

 

「如月さんも、ナイススパイクだったよ!」

 

 緩んだ空気を馴染ませる様に、本田が僕のスパイクの方を褒めて来た。この切り替えの早さと、カラッとした態度が彼女の魅力なのだろう。

 

「……ごめんね?」

「大丈夫です」

 

 だから、その後に続いた謝罪が何に対して言われた物なのかは、あえて考えないことにした。お互いに無かったことにした方が良いと思ったから……。

 

「よーし! 気を取り直して、ボール回していくよー! 今度は逆回しで!」

「はい! あ、スパイクは無理ですよ?」

「……スパイクは打たないわ」

「問題そこっ?」

 

 とりあえず、ボール回しは続行ということで決まったらしい。

 

「いいねぇ、その笑顔!」

 

 すっかり空気が変わった撮影ブースで、カメラマンさんが嬉々としてシャッターを切っている。

 

「えへへ、合格理由が笑顔の私の本領発揮かな?」

 

 調子を取り戻した本田がボールを島村に投げながら合格理由を口にする。

 あ、それ本田にも言ってたのね。

 

「ふふ、私もです!」

 

 当然、島村にも言っているのだろう。逆に笑顔に言及されていない場合、彼女にどんな最終兵器が隠されているのかと慄くわ。

 島村からボールが回って来た。これは僕も言う流れかな?

 

「同じく、笑顔」

「いやいや」

「いやいや」

 

 本田と島村両方から同時に否定が入った。手を顔の前で振るジェスチャーまで合わせて来る息の合いぶりである。

 笑顔が理由だったはずなんだけど……。歌が決め手だったら、もっと早く僕はここに居たってば。

 

「笑顔……ですけど」

「いや、如月さんが笑ったところ見たことないんだけど」

「私も無いです……」

 

 それなぁ。

 今日一日で一回も笑ってないからね。本田が信じないのも納得である。島村にいたっては前回会った時に、にこりともしなかった僕に苦手意識持ってやしないかと不安になるくらいだ。

 

「てっきり、その容姿とミステリアスな雰囲気を売りにしているのかと」

「あ。それわかります! 綺麗で物静かな感じが、すっごく雰囲気が出ているなって、この間会った時から思ってました!」

「確か、しまむーと如月さんって知り合いだったんだっけ?」

「はい! と言っても、この間お会いしたばかりですけど……」

「キュートで可愛いしまむー、クールでミステリアスな如月さん、そして、パッションで元気な未央ちゃん……ん~! バランスがとれてますなぁ」

 

 さっきから人をクールだのミステリアスだのと評価しているけど、その道はかなり険しいんだぜ。

 それって同ジャンルに最強格(四条貴音)が居るってことだよ。あんなのに勝てるか。ミステリアスの化身だぞ!

 今のアイドル界でミステリアスで売るメリット無いからね。

 

「バランスはともかく、気楽さは確かに感じるわね……」

「確かに、そんな感じしますよね。撮影中なのに何だか自然体な感じがします」

「私達って、結構イイ相性なのかもっ」

 

 そう言えば今撮影中だったね。お仕事中に雑談始めちゃったけど大丈夫だったかな。

 怒ってはいないかとプロデューサーの方を見るが特に咎めている類の空気は感じなかった。その隣でカメラマンさんがシャッターを連続で押しているところを見るとこれが正解らしい。

 それなら、もう少し会話を続けてもいいだろう。僕自身彼女達との会話に微かにだが高揚感を得ている。何より会話の切り出し方に安心できる。失言を気にしないで話すなんて何時ぶりだろうか。

 うん、悪くない。

 

 その後、僕達三人はそれぞれ別撮りで宣材写真を撮ったのだが、最初と比べると見違えるくらい良い出来になっていた。

 本田は持ち前の明るさが全面に出ており、島村の方は笑顔がとても映える写りになっていた。

 僕は相変わらず無表情だったけど……それでも、アップデートが間に合ったため、無事に撮影を乗り切ることができた。

 

 

 全員が無事、宣材写真を撮り終えた後にシンデレラプロジェクトメンバー全員で写真撮影をすることになった。

 僕も交ざっていいのか不安だったけれど、本田と島村に挟まれる形で無理やり撮影に加わることになった。

 他のメンバーから──城ヶ崎妹含めて──特に拒否されることはなかったので安心した。杏ちゃんが面倒臭いと辞退するのを「これも仕事です」とプロデューサーが無理やり参加させたことが理由かも知れない。仕事なら僕が参加しても問題ないもんね!

 

「プロデューサーさんも、一緒にどうですか!」

「いえ、皆さんでどうぞ」

 

 しかし、当のプロデューサーと言えば、島村が参加しないかと誘うも辞退してしまうのだった。そのまま部屋を出て行こうとするプロデューサーにメンバー達から不満の声が上がった。

 やはり、仕事モードの時のプロデューサーは表情も声も硬いよね。真面目なのはいいけど、それだけでは疲れてしまわないか心配になる。

 それに、せっかくプロデューサーも居るのだから、一緒に写りたい。

 

「プロデューサー……」

 

 だから、思わず呼び止めてしまった。

 僕の声に気付いたプロデューサーが足を止め、振り返る。

 プロデューサーと僕の目が合う。……瞬間、好きだと気づいたということは無い。ただ、彼の瞳に憧憬の様な物を感じた。

 きっと、プロデューサーも本心では皆と一緒に写りたいと思っているのだろう。短い付き合いの中で少なからず彼の心情を読み取れるようになった僕にはそれがわかった。

 ならば、僕はそれを後押ししてあげたい。それくらいはしてあげたかった。

 

「……一緒に、写りませんか?」

「参加して宜しいのでしょうか?」

「もちろんだよ! 皆一緒に撮ろうよー!」

 

 城ケ崎妹がプロデューサーの所まで駆け寄り、その手を取ると二人して戻って来る。

 少し強引な感じだけど、特に抵抗することなくプロデューサーも撮影に加わることになった。温かく迎えられたのを見るに、やっぱり彼は皆から慕われていることがわかる。

 それでも遠慮して端に立つプロデューサーを横目で覗えば、彼もこちらを見ていることに気付いた。

 

「……?」

 

 だけど、その目の意味はわからなかった。

 

「撮るよー! 笑って!」

 

 だがそれも、カメラマンさんの掛け声に顔を戻すころには忘れてしまっていた。

 

 

 

 こうして、アイドルのお仕事初日は終了したのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……ということにはならなかったのさ!

 

「私達がライブにっ!?」

 

 本田の大きな声が耳に突き刺さったことで、これが現実の話なのだと実感が湧いた。

 今現在、僕と島村と本田の三人は、プロデューサーの仕事部屋へと集められていた。撮影も終わったので各々帰ろうかというところで、プロデューサーから呼び出しを受けたのだ。

 また何かやらかしてしまったかと戦々恐々の体で部屋に赴いたのだけれど、待っていたのは叱責や注意などではなく、僕達がライブに出るというお話だった。

 部屋の中に居るのは僕達三人とプロデューサー、それと千川さんと知らないおじさん、それと城ヶ崎姉。そして、この話を持ってきたのは城ヶ崎姉である。

 何でだ!?

 認識が追いつかない。

 

「今度やるアタシのライブのバックで、ちょーどこんな感じの子達が欲しかったんだよね」

 

 と言うことらしい。いや、どういうことだ?

 わけがわからん。

 常識的に考えて、今日が仕事初日だった人間を、いきなりライブに起用するとかあり得ないでしょ。

 城ヶ崎姉が勝手に言ってるだけで、その担当が了承したとは思えないんだけど。

 

「美嘉ちゃんの担当からもOKを貰いましたが……どうしますか?」

 

 千川さんが、あっさりと言って来た。

 えー、OKが出ているのかぁ。城ヶ崎姉の担当、大丈夫か……?

 何か弱味でも握られてないか。

 

「自分としては……」

「いいんじゃないかな?」

 

 プロデューサーが意見を口にし掛けたところで、それまで黙って缶のコーヒー(微糖)を飲んでいたおじさんが口を挟んで来た。

 

「遅かれ早かれ、この子達もステージに立つんだ。こういう始まりも、また、ありなんじゃないかな……」

「ほら、部長さんもああ言ってることだし!」

 

 おじさんのアシストを受けた城ヶ崎が、我が意を得たりという感じで、さらにプロデューサーへと言い募る。

 隣で島村と本田が「部長!?」と驚いているけど、僕は相手の役職を気にしている余裕はなかった。

 ……この人、プロデューサーが反対意見を言いそうになったから割り込んで来たな?

 

「……」

 

 シンデレラプロジェクトは……プロデューサーのプロジェクトだ。他の誰の物でもない。それを分かって貰った──いや、僕が解らせたからこそ、僕は346プロに所属できている。

 上層部の、あの専務さんも理解してくれたからと安心し切っていた僕にとって部長さんの登場は、まさに青天の霹靂だった。

 でも、部長さんに何を言われたとしても、プロデューサーが意見を変えなければ問題はない。その権限を彼は貰っているのだから。

 そんな風に、僕は慢心していた。

 

「……皆さんは、どう思われますか?」

「えっ」

 

 だけど、プロデューサーが僕達に意見を求めて来たことでその慢心も潰えた。

 僕はてっきり、ここはプロデューサーがバッサリと切り捨てる物だと思っていた。それが蓋を開ければ僕達の意見を訊いて来ている。つまり、プロデューサーの中で判断がブレたということだ。

 その原因とは何か……。

 自然と部長を見る目が厳しくなるのを自覚する。昔ほど直情的に顔にも行動にも出さなくなったとはいえ、あまり感情を高ぶらせすぎるとバレる恐れがあるので、そっと部長から顔を背けた。

 

「えっと、私達が決めていいの……?」

「いえ、あくまで意見としてお聞かせ下さい。最終的な判断は私の方でしますが、貴女方の意見を聞かずに決めるのも問題ですから」

 

 本田が代表として訊くと、プロデューサーからそんな答えが返って来た。

 僕達には、できるかできないかを判断することはできない。でも、やりたいかやりたくないか、意見を言うことはできる。

 つまり、プロデューサーは僕達の意見を尊重してくれる気でいるということだ。

 それ自体は嬉しいのだけど……。

 

「私はプロデューサーの判断にお任せします」

 

 僕には意見を言うつもりはなかった。僕はプロデューサーの判断を全面的に受け入れるつもりだ。それを変える気はない。

 

「……わかりました。如月さんは保留で。お二人の方は、どうでしょうか?」

「え、あ、私達ですか? ……えっと、未央ちゃん、どうしましょうか?」

「あ、ウ、うーん! ……私は、やりたい、かな? しまむーは?」

「私もやりたいです……」

 

 本田と島村はライブに出たいようだ。まあ、当然か。

 

「では、ライブの資料をお願いします」

 

 二人の意見を聞いたプロデューサーは意外にも、あっさりと許可を出してしまった。

 すぐに千川さんにライブ資料を用意するようお願いしている。

 

「やったー! ライブ、楽しもうね!」

「はい! よろしくお願いします!」

「くぅ~っ! こんなに早くライブに出られるなんてぇ……」

 

 城ヶ崎姉と島村と本田の三人が喜びを露わにしている横で、僕は一人冷めた状態で立ったままだ。

 

「如月さんも、それでよろしいですか?」

「はい、もちろんです。プロデューサーが、そう判断されたのなら……」

 

 プロデューサーが許可を出してしまえば僕もそれに従うまでだ。その判断に逆らえば、それこそルール違反になる。

 

「ちょっと、ちょっと! 何後ろ向きになってんの。せっかくライブに出るんだから、もっと喜んだっていーんじゃない?」

 

 ともすれば、後ろ向きとも取れる僕の態度に城ヶ崎姉から突っ込みが入った。

 気楽なものだと切って捨てるのは簡単だ。しかし、どういう理由があるにせよ、先輩として後輩の僕達に機会を作ってくれたことには違わないのだから、きちんとした態度は心がけよう。

 

「そうですね。プロデューサーのご許可も出たことですし。私も精一杯、努めさせていただきます」

「硬っ!? もー、真面目だなぁ~」

「如月さんは硬いよねー!」

「でも、真面目なのは良いことだと思います」

「あ、しまむー! 自分だけ味方するとかズルいぞー」

「えええっ、そんなつもりじゃ……」

「裏切者のしまむーには、おしおきじゃー!」

「な、何を……き、きゃ~!?」

 

 謎のテンションに浮かされた本田と島村がじゃれ合っているのは、この際脇に置いておこう。

 問題は城ヶ崎姉の方だ。

 部屋中の注意が二人に向いている今、彼女だけが僕の方を向いている。

 

「……何か?」

「いや、別に~?」

 

 僕が訊ねると、声だけはいつも通りの城ヶ崎が、おどけた様子で答える。

 

「そんなにアタシのバックで踊るのは嫌?」

「別に、そういう意図があって難色を示したつもりはありませんが」

「ホント~? 初ライブはメインでやりたいとか思ってたりしない?」

「そういう思いがあることを、否定はしません。ですが、頂いたお仕事を蹴ってまで、それを貫くつもりもありません」

「でもさ、最初から乗り気じゃないみたいだったよね」

「それは、プロデューサーが許可を出されていなかったからです。あの瞬間、部長さんが割り込んで来られるまで、プロデューサーは断る方向でいました」

「それでも意見を求められたなら、ちゃんと自分の意見を言わないとダメでしょ」

「プロデューサーの判断に従う。それが私が示した答えです」

「でも、こっちはOK出してるんだからさ。問題無いでしょ?」

「私のプロデューサーは、あの人です。城ヶ崎さんの担当の許可は関係がありません」

「……そんなにアイツの許可が大事?」

「大事です。城ヶ崎さんには関係が無い話ですが、私にとって、あの人の判断は絶対なんです」

 

 最後の僕の言葉は、きっと城ヶ崎姉にとっては禁句だったのだと思う。

 その一言だけで、それまで余裕の態度を見せていた城ヶ崎の目の色が変わった。

 

「そうやってっ……!」

「アタシもやるー!」

 

 城ヶ崎が何かを言いかけると同時に、突然部屋の扉が開き城ヶ崎妹が駆け込んで来た。

 それだけで城ヶ崎姉の目が元に──表面上は──戻ったのが見えた。

 城ヶ崎妹が入って来た扉の方を見れば、聞き耳を立てていたプロジェクトメンバーの姿が見える。陰になっているみたいだけど、廊下のあちこちに皆の気配がした。

 ……みんな僕達の話が気になっていたのかな。

 

「ねぇ、いいでしょーお姉ちゃん!?」

「アンタは、また今度ね」

「えぇーっ、なんでー!?」

 

 城ヶ崎姉の方は纏わりついて来る妹に構うのに忙しいらしい。その姿からは、とても怒気を孕んでいるようには見えない。

 それは一過性の物だったから、すでに消えてしまっているためなのか。

 それとも、それだけ根深く、また用心深く隠して来たからか……。

 

「みくも早くステージに立ちたいにゃ~!」

 

 どちらにせよ、今のこのカオスな状況で続けるつもりは無いということは確かだ。

 

 

 本当に──。

 

 

 最後まで、猫被っていられたら見事だったのにね?

 

 

 

 

 

 オマケ

 

「うーん……恐ろしい程にカメラ映えする子だったね。正直素人が撮影したやつでも、ほとんどそのままで使えるよこれ」

「ノーメイクで衣装が普段着なんですよね? 何食べたらあんなのになるんでしょう。楽っちゃ楽でしたけど、人相手に撮影している気がしなかったです」

「ちゃんと別日に専用で撮ってあげたいね。でも、初日の初々しさも残してあげたい。この機会を逃したらもう彼女の素人臭さは見られないだろうし。それはそれで惜しい。……見てみなよ、最後に撮ったやつと最初の一枚目」

「……これって」

「最初は確かに素人だったけど、撮られ続けている間に目に見えて改善していってる。もはや最初とは別人だよ」

「天才ってやつですかね」

「天才で済めばいいね」




あらすじ「大天使ウヅキエルの浄化の光がスタッフ一同を照らし、恐怖心を浄化したのであった。めでたしめでたし」

卯月アゲ。
無邪気な称賛を浴びせることで周りの恐怖心を払拭した卯月のサポート力よ。
今後も千早の言葉足らずな物言いに対して、独自の解釈で良い方に捉えてくれることでしょう。天然のチハリンガル持ち。

ちゃんみおは千早の胸キュンワードを無意識に連発してますね。実は出会って初日にして春香よりも刺さってる言葉があるという。
さすが未央。ポジティブパッションガンスリンガーガール。チハリンガル持ちの優と卯月と違い数撃ちゃ当たる精神。

どんどんアイドルと絡んで行くよー!
そしてどんどんドブ沼に沈んで行くよー!

今回杏と絡んでましたが仲良くはなってないです。この杏ちゃんはデレステで言うところの、メインコミュ10話の回想シーンまでしか進めていない状態。それくらいしか他の子とコミュってません。
なんででしょうねぇ!
千早の杏に対する感情は「やばい、リアル俺の嫁おるやん。チハヤイコール俺やし。つまり杏は俺であり俺の嫁ってことやん」というぶっ飛んだものです。
たとえ面と向かって暴言を吐かれても好意的にしか受け取らないレベル。前からこの世界の人間をキャラクターと見ていた節があった千早がさらにゲームに近い容姿の杏から何言われても「そういうキャラ」としか見ないために怒ったりしません。アニメキャラの言動に本気で憤る人がいないのと一緒。
杏「変態」
千「(可愛い)」
杏「どっか行って」
千「(ツンデレ可愛い)」
無表情かつ丁寧に対応するのでそんな感じに見えませんが実態はヤバイ系の変態。


城ヶ崎妹はあまり千早を嫌ってません。「城ヶ崎美嘉の妹」が効かない相手に遭遇したことでアイデンティティが揺らいでます。と、同時に城ヶ崎美嘉の妹じゃなく自分を見てくれる千早をどう扱っていいか悩むまである。
エースにとってのロジャーが美嘉ならば、千早はルフィポジになるでしょう。白ひげきらりとサボみりあもおるでな。

城ヶ崎姉。
次回以降で語られるでしょう。

その他メンバー。
千早に対してマイナスだけに寄った評価はしてません。基本良い子達なので歩み寄りの姿勢を見せてくれます。
※ただし千早である。

今西部長。
きっと冤罪。良かれと思って口を出したら千早の地雷を盛大に踏み抜いた人。
千早「この如月千早の暗黒空間にバラまいてやる」
部長「3択。ひとつだけ選びなさい(略)」
たぶん③




次回はアルティメットな笑顔と卵を繋ぐお話。
最終面接に千早が単身挑みます。敵だらけの中、千早のチートが唸り声を上げます。


 ──その日、一匹の怪物が生まれた。


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アルティメットな最終面接

如月千早の覚醒回です。

武Pのやらかし案件の処理回でもあります。
そのあおりを受けた千早もかなり残酷なことを言います。

みんな違って

みんな下種


※今回は時系列的に「アルティメットなアイドルの卵その1」の前のお話になります。
時系列は以下の通りです。

金曜日
・アルティメットな最終面接(今回)
・アルティメットなアイドルの卵1
土曜日
・アルティメットなアイドルの卵2345
月曜日
・アルティメットな初仕事1234


 これは、僕がアイドルとは何かという答えを悟るに至った話。

 そして、プロデューサーの見方を大きく変えたイベントである。

 

 

 

 

「申し訳ありません」

 

 プロデューサーが開口一番、頭を下げて来る。謝罪と言うよりも、断罪を待つ咎人のような潔い平身低頭ぶりにちょっと引いてしまいそうになる。

 自分より一回り年上の男性から、こうした態度を見せられると逆に反応に困るよね……。

 それに謝られる意味がわからない。プロデューサーからこんな扱いを受ける理由を知らない僕は首を傾げた。

 そもそも、何故こんな状況に居るのかというと、まず僕が居るのは、とあるオフィス街の中にあるスタジオ施設だ。昨日の夜に突然プロデューサーから電話があり、翌日──つまり今日に、とあるスタジオに来るように言われたのだ。

 突然の呼び出しに戸惑いながらも僕は二つ返事で了承した。この人に呼び出されたからには行かざるを得ない。仕事用の番号からかかって来たのでアイドルの仕事関連だろう。

 本当はアイドルになった時のために色々と勉強をしようと思っていたのだけど予定が狂ってしまった。先輩アイドル達のプロフィールやプロモくらいは予習しておきたかったんたけどなー。

 しかし、仕事を断って仕事の勉強をするとか本末転倒なので、僕に断るという選択肢は無かった。

 そして僕は家から歩いて二時間という、都心に近い駅近くのとあるこのスタジオにやって来たわけだ。

 住所を調べる際に軽く確認したところ、ここは346プロが所持する多目的——スタジオもその一つ——な建物の一つだとか。本社以外にも各所にスタジオやビルを有しているなんて、346プロダクションは本当に凄い事務所なのだと思う。アイドル以外にも役者や歌手の人達も所属しているため、346本社だけでは場所が足りないのだろう。企画段階のプロモーションビデオの撮影なんかも、ここでしている可能性があるとか346プロ関連の掲示板には書いてあった。

 駆け出しアイドルの僕が、ここに来られるのは結構貴重な体験だ。時間に余裕があれば見学をして行きたいくらい。

 これを見る限り、そうも言ってられそうにないけど。

 

「謝罪を受ける理由がわかりませんが。……何か、ありましたでしょうか?」

 

 いきなりライブをするなんて思ってはいないけど、仕事で呼び出されたのだから何かしらアイドル関連の仕事を行うものと思っていた。念のため一張羅であるお母さんが買ってくれたお洒落着を着て来たのそもそのためだ。

 それがまさか、突然謝罪を受けるだなんて予想していなかったので不安になってしまう。

 はて、僕はこの人に謝罪されるようなことをされただろうか?

 しつこく勧誘されたとか、四六時中付き纏われたとか、警察官の誤解を解かさせられたとか。……めちゃくちゃ迷惑かけられてたわ。むしろ納得の謝罪だった。

 でも、わざわざ呼び出してまで謝罪をする理由とも思わないんだよね。一体全体何だろう。

 プロデューサーに事情を訊ねると、彼はいつものように困った顔で首に手を当てると、申し訳なさそうに事情を説明をし始めた。

 

「実は、上の者が如月さんの採用について待ったを掛けると言って来まして……」

「え……?」

 

 単刀直入に切り出されたプロデューサーの話に固まる。

 僕の採用に待ったが掛かった?

 上から?

 なんで……。

 呆然とする僕に、プロデューサーが続けて事情を説明してくれた。

 何でも、僕がシンデレラプロジェクトのオーディションの二次審査をすっぽかしていたことが事務所側に知られてしまったらしい。

 一度ドタキャンしておいて、オーディション再審査組を差し置いて今更スカウト枠で入るのはおかしいという話が昨日の会議で挙がったという。

 ……そう言えば、僕って一次審査受けてたよね。優が送ってくれたやつだけど。今更ながらにその事実を思い出した。

 あの時は色々と立て込んでいたから忘れてしまっていたのだ。その後プロデューサーにスカウトされたことですっかり頭の中から消えていた。本当に興味ないことになると途端にポンコツになるよね僕って。

 と言うか、今更それを蒸し返すかね?

 確認するまでもなく、シンデレラプロジェクトの責任者はこの目の前の男である。その彼のスカウト枠となれば、オーディションがどうとか関係なく採用でいいと思うんだけど。

 そう思っていると、補足として、ゴリ押しをすれば僕を通すことはできたことを教えられた。

 しかし、僕の採用に異議を唱えた一人がオーディションの運営に色々と力を貸した上に事務所でもかなり偉い人だったため、変にこじれると今後シンデレラプロジェクトの事務所内の立場が悪くなるとのことで、将来を考えてゴリ押しはしなかったそうだ。

 いや、そこはゴリ押ししてよ。今更駄目でしたとか言われても困るんだけど。プロジェクト全体と僕なら前者をとって当然とはいえ、もう少しだけでも頑張ってよ。

 と言うか、僕のアイドル人生は始まってすぐに終了?

 そもそもの話、始まってすらいないんだけどね。

 嘘でしょ。もう知り合いにアイドルデビューしたよ! って報告しちゃったのに。優と両親は当然として、春香にも滅多に使わない顔文字まで使ってデビューが決まったことを報告していた。

 そんな感じで周りにテンションアゲアゲで報告しておいて、今更駄目でしたとか言えないんですけど。

 両親と優は我がことのように喜んでくれた。意外にも家族の中では母が一番喜んでいた気がする。もちろん優も喜んでくれていたし、父親も喜んでいた。でも二人は僕の実力なら受かるだろうという予想をある程度していたらしい。だから僕の実力を知らない母にとっては僕のデビューは驚くべき内容だったのだろう。この時、母親にまともに歌ったところを聞かせたことがないことに気付いた僕だった。今度折を見て聴かせてあげるとしよう。

 そして春香からの返事だが、実は未だに無かった。

 忙しいのだろうか?

 

「即採用というお話でしたのに、誠に申し訳ありません」

 

 説明が終わると同時に、再び深々と頭を下げて謝罪するプロデューサー。

 その彼のまだまだ生い茂る頭頂部を見る僕は、きっと何とも言えない顔をしていたことだろう。

 あんなに情熱的に僕を誘ってくれたのに、あまりにあっさりとした男の態度に文句の一つでも言ってやるべきかどうか迷う。

 いきなり呼び出されて、そこで採用取り消しだなんて、いくらなんでも急展開すぎるよ。

 でも、この人に文句を言うことは躊躇われた。プロデューサーの表情がとても苦悶に満ちた顔だったから。決して簡単に出した答えだとは思えなかった。

 だったら、仕方無い、よね……。

 この人クラスの立場でも意見を押し通せないこともあるのかと、アイドルの道の険しさを改めて知った。

 きっと僕はこの先、他人を信じることができないだろう。それくらいプロデューサーへの信頼は厚かったと思う。その信頼の分、今回のことは心に突き刺さる。

 たとえ誠実でも結果が伴わないことがあるのだと知ってしまったから。

 失望とは少し違う。裏切られたという思いもない。

 ただ、結構簡単に手放すんだなと思っただけだった。

 

「えっと、不採用になったのなら仕方ないですね。今回は良い話をお持ちいただきありがとうございました。また何か縁がありましたら、どうぞ宜しくお願いいたします」

 

 プロデューサーといえど会社員の悲しい事情ってやつだろうし、僕にはこの人を責めるつもりはなかった。ただ縁が無かっただけだ。

 僕は社交辞令的挨拶を述べながら頭を下げた。最後までこの人には良い印象を残しておきたかったから。最初の方の印象最悪だから意味ないだろうけど。

 

「いえ、不採用になったということではありません」

「あ、そうなんですか。良かったです」

 

 どうやら僕の早合点だったらしい。

 もー驚かせないでよぉ……!

 ちょっとすでに涙出かけてたんだから。こういう時ばかりは自分の無表情に感謝だ。早とちりで大泣きとか黒歴史待った無しだもの。

 それに、僕は貴方に裏切られたら、もう立ち直れないからさ。本当に、これっきりという話だったら僕はアイドル諦めてたよ。真っ白に燃え尽きてたよ?

 まあ、誤解だったからいいけどね。僕も早とちりし過ぎだった。これまでプロデューサーの言葉を変に誤解することがあったから、今後はきちんと最後まで聞こうと決めた。少なくとも途中で逃げるような真似はしない。

 だからプロデューサー……。

 僕の両肩をがっしりと掴んで離さないようにするのはやめて欲しい。そんなことをしなくても逃げないからね?

 あと顔が近すぎる。目線を合わせてくれるのはいいけど、ほんの少し背中を押されただけで大惨事になる高さと距離だから。

 と思ったら、プロデューサーの顔がそこからさらに近づいて来たので一瞬どきりとしてしまう。この人に限ってそういうことをするとは思えないので避けずにいると、僕の顔の横を通り過ぎた。

 

「如月さん、たとえ上から何を言われようとも貴女を手放すつもりはありません。それだけは信じて下さい」

 

 耳元で念押しするように囁かないで。無駄に良い声なんだから。

 そんなことされたら背中がぞわぞわしてしまうではないか。あ、今何かピリリとした痺れみたいなものが頭から爪先まで通り過ぎた気がする。

 

「だっ、で、でしたら、私は何をすれば良いのでしょうか?」

 

 無意味に焦りながら今日呼ばれた理由を訊ねた。採用取り消しでないのなら、僕に何かをさせるつもりなのだろう。

 

「如月さんには最終面接として、上役からの面接を受けて貰います」

「面接、ですか……?」

 

 スカウト組の僕は面接を受けずにデビューできるものだと思っていたため、面接の練習はして来なかった。色々と応募していた時だってまずは一次審査に受かることだけを考えていたので、まさか今更面接を受けることになることは想定外だった。

 ただでさえ、コミュ障かつ口下手で人見知りする僕が、ぶっつけ本番で面接なんて無謀にも程があるって話だよ。僕のコミュ障っぷりはプロデューサーも知っているはずだよね。何でまた、一番難易度の高い物を選んだのか。いや、指定されただけか。

 

「おそらく相手方は面接だけ受けさせ、結果落とす心算だと思われます」

 

 プロデューサーの口から放たれる衝撃的な事実。どうやら僕は思っていた以上に上司さんに嫌われているようだ。

 面接を受けるだけ受けさせて落とすなんて、普通に不採用を言い渡すよりタチが悪い。あくまで検討はしたという建前が欲しいということか。

 

「これから、私は如月さんが来られたことを面接官の方々にお伝えするとともに、何とか公正に審査をしていただけるよう働きかけるつもりです」

「わかりました」

「それまでは、こちらの千川さんと部屋の外で待機をお願いします」

 

 プロデューサーの紹介を受け、側に控えていた緑色の事務員服の女性が会釈して来た。実は最初からずっとそこに居たのだけど、紹介されなかったため、どう扱えば良いかずっと悩んでたんだよね。

 でも紹介されたなら対応すれば良いのだから迷う必要はない。僕も千川さんに会釈を返した。

 

「千川ちひろ、と申します。本日は審査を受ける如月さんのサポート役として、側に控えさせていただきますね」

「あっ……は、い。よろしくおねがい……シマス」

 

 事務的な定型文と固い口調で挨拶をしてくれた千川さんに、僕もたどたどしく挨拶を返した。この日のためにコミュ障を治そうとして来たのだ。上手くはいかなかったが……。

 どうにも、僕は初対面の大人相手だと緊張で辿々しい言葉になってしまうらしい。何度か話せばましになるけれど、千川さんみたいに硬い対応をしてくる相手だとすぐに慣れることは難しい。じゃあ未成年なら大丈夫なのかと訊かれたら、それもノーと言える。この間会った島村みたいにインファイターかつパワーファイターみたいな相手なら、多少まともになる程度か。それでも愛想のいい会話なんて無理な話だった。

 そもそも、この数年で家族以外でまともに会話したことがあるのが春香とプロデューサーくらいなんだよね。

 そのプロデューサーくらいじゃないかな、最初から気楽に話ができたのは。やはり同じコミュ障同士、感じ入るものがあったのだろうか。

 千川さんは、いかにも出来る女性という印象の女性だった。落ち着いた茶色の髪を綺麗に三つ編みというアンバランスな姿が可愛らしくも見える。

 しかし、見た目は可愛いらしい人なのに、張り付いたような営業スマイルと固い声色の所為で歓迎されていないんじゃないかと一瞬勘違いしそうになってしまう。

 そんなわけないのにね。この人はプロデューサー側の人間なのだから。プロデューサーの味方なら僕の味方ってことだもんね。

 プロデューサー以外にも味方が居ると知った僕の心が幾分か軽くなった。

 

「それでは千川さん、後のことは宜しくお願いいたします」

「はい……頑張って下さいね?」

 

 千川さんと僕を残して、プロデューサーは廊下の少し先にある部屋へと入って行った。

 微力ながら僕も彼の背中に心の中で盛大にエールを送ろう。頑張れ、プロデューサー!

 今プロデューサーが入っていった部屋が審査室か……。廊下の壁に、シンデレラプロジェクトオーディション再審査と書かれた紙が貼られているから、たぶんそうなのだろう。

 

「あ、あの……私は、あそこで面接を受ける……ですよね?」

 

 念のため一緒に残っていた千川さんに確認する。間が持たないというのもある。

 

「はい。そうですよ?」

 

 ……うん、一応だけど千川さんから回答は得られた。

 かなり端的なので少し不安になったけど、どうせ後でわかるのだから、今はこれで十分と自分を納得させた。

 次に気になったのは今日審査員をするという人達のことだ。プロデューサーから何人居るのか等を聞き忘れていた。

 

「あの、今日の面接は――」

「あまり扉は厚くないので話すと声が中に聞こえてしまいますよ?」

「……申し訳……ありません」

 

 言い切る前に私語を窘められてしまった。千川さんから、暗に黙れと言われてしまった僕は口を噤んだ。

 確かに、今は無駄口を叩いていい場面ではなかった。千川さんの指摘に、自分の間違いに気づく。

 そうだった、今の僕は審査を受けるためにここに居るのだった。雑談の声が部屋の中にまで聞こえたら審査員の心象が悪くなる。ただでさえ上の人達からの評価は低いのだから、これ以上下げるわけにはいかなった。

 まあ、今の僕ならば本気で歌いさえすれば悪い結果にはならないと思うけどね。あとはプロデューサーが何とかしてくれるはずだ。

 問題があるとすれば、僕は何を歌えばいいかだけど……。

 って、そう言えばプロデューサーから何の指示も受けていないことを思い出した。普通こういう時って何を歌うのかとか、プロデューサーから指定されたりするんじゃないかな。プロデューサーのことだから指示をし忘れたってことはないだろうし。これは何を歌うのか僕に任せてくれたってことでいいのかな。

 ……信頼されてる?

 

「──っ」

 

 そう思った瞬間、ゾクゾクとした快感が僕の背筋を駆け抜け、言葉にならない感覚が全身を震わせる。プロデューサーから信頼されたと思っただけで、それだけの強い快感を覚えた。

 何だこれ。信頼されていると思っただけで、これ程までに不思議な充足感を得られるものだろうか。何か体の内から言葉にならない力が湧き上がるような感覚だ。

 これならいつも以上のパフォーマンスを発揮できる気がする!

 あとは歌う曲だけど、プロデューサーに聴かせたことがある歌は蒼い鳥だけだから、もう一回蒼い鳥でいいかな?

 あまり大衆受けする歌でもないと思うけど、審査員の好き嫌いを知らないから何を歌おうとも大差無いか。最強の歌って物があるならば別だけど。

 このまま、プロデューサーから曲の指定が無ければ蒼い鳥を歌おう。その後はプロデューサーに任せる感じで。

 今できることはそれくらいかな。

 プロデューサー任せになるけど、まあ、大丈夫だろう。そう高を括った僕はプロデューサーを待つことにした。

 その間は、この千川さんと並んで待機をするわけだね。ちょっとすでにこの沈黙が辛くなって来ているけど。

 前も言ったけど、僕は沈黙には慣れているし、それを辛いと感じることはない。沈黙こそ最近までの僕のデフォルトだったのだから当然だ。

 しかし、今感じている辛さは沈黙が直接の原因ではなかった。

 

「……」

 

 隣で同じように黙ったままの千川さんから放たれる不機嫌オーラが原因だった。

 千川さんは初対面時から変わらぬ営業スマイルを浮かべているものの、彼女本人から漂う雰囲気は表情とは裏腹によろしくない。

 僕とこの人は初対面のはずなんだけど、何か気に障ることでもしただろうか。思い返してみても、出会った瞬間からこれだったので思い当たらない。むしろ、これが千川さんの素というのもあり得る。もしくはこれが圧迫面接という可能性も微量にだけどあるのかも。

 どちらにせよ、初っ端から会話を封印されているので探ることはできない。そもそも僕の話術で相手の思惑を吐き出させるとか不可能だった。

 結局のところ、こうして息苦しい空気を耐える以外の選択肢はなかった。

 

 

 それから十分くらい経ち、ようやくプロデューサーが部屋から出て来た。

 たった数分間とはいえ、こちらに友好的とは言えない態度の女性と無言で立ち続けるというのは想像以上に体力を消耗させる。つい先ほどまであった、やる気元気勇気が若干萎んでしまった。

 

「これから貴女がお会いする方々は、決して貴女に好意的ではありません。対人能力が……若干難のある貴女には荷が重い話だと思います。それでも、ここは乗り切らなければならない場面だと、私は思います」

 

 プロデューサーからの淡白な状況説明もテンションを下げる原因となっていた。

 彼が言う通り、ここを乗り切れなければその先は無い。他のアイドルは書類審査からずっと審査を受け続け、その一つ一つに全力を投入して受かっている。対して僕は、プロデューサーからのスカウトでその前の審査をスキップして今ここに居る。それをズルと言うほど捻くれても自虐的でもないけれど、他の人達よりも楽をしているという自覚はあった。

 僕には、ここまでオーデイションを受かり続けて来たという自負も、受かる力があるという自信も無かった。僕にあるのは、プロデューサー直々にスカウトされたという事実のみ。

 そうだ、僕は彼に選ばれただけだ。それは自ら掴み取ったチャンスだけで最終面接を通過して行った他のプロジェクトメンバーと比べて、何とも薄っぺらい立場に思えて仕方が無かった。

 僕がアイドルとして立ち続けるには、それだけでは足りない気がする。

 僕に覚悟はあるのか?

 何か僕に誇れる物があれば……。

 絶対的な自信の根幹が──。

 

「そして、大変申しわけないのですが、私は一緒に中に入ることができません。付き添いは千川さんだけになります」

「え……」

 

 ただでさえ自分の立ち位置の不安定さに心細さを感じていたところで、プロデューサー不在の事実を聞かされた僕は一気に不安が膨れ上がった。突然、大きく高い壁が僕の前に立ちはだかったような錯覚を覚える。

 プロデューサーが傍に居ない……?

 最終審査と言っても、普通の会社のように審査とは名ばかりの最終確認的なものを想像していた。それもプロデューサー同伴という、かなり楽観的な方に。しかし、この展開は想定外だ。僕が単身で面接を受ける?

 プロデューサーが居ない状態で?

 ……ちょっと甘く考えていたかもしれない。

 

「……わかりました。ひとりでうけます」

「……よろしいんですか?」

 

 それでも、僕には首を縦に振ることしか選択肢がなかった。

 

「そういうこともあるでしょう。ここから先は私がやります」

「……申し訳ありません」

 

 プロデューサーが謝ることではない。その顔を見れば一緒に部屋に入ることを望んでくれたのはわかる。おそらく中の人達の誰かが僕側の人間であるプロデューサーを隔離するために何かを言ったのだろう。ここで僕が傍に居て欲しいと言えば、彼は無理やりにでも一緒に居てくれるだろう。でも、それでは上役達からの、プロデューサーの心象が悪くなる。何となく雰囲気から、今の彼の立場が良いものでないことはわかっていた。

 その原因を作ったのは他の誰でもない、僕自身なのだから。だったら、ここは僕だけでいい。プロデューサーまで泥をかぶる必要はない。本当は心細くて、一緒に来て欲しいという言葉が喉元まで出かけたが、僕はそれをなけなしの根性で飲み込んだ。

 

「今の私が、貴女にできるアドバイスは一つだけです」

 

 単身戦地へと赴く覚悟を固めようとする僕の耳元にプロデューサーが顔を近付けて来る。

 さすがに、本日二度目となると過剰な反応はしない。それにしても、その囁きスタイルが好きなの? ……今後やってあげようか?

 何を言われるのだろうと縋る思いで耳に意識を集中する僕に、彼が囁いた。

 

「歌って下さい」

 

 その声は近くに無言で控える千川さんにも聞こえないような、本当に小さな物だった。

 僕だけに聞こえるように、僕だけに伝えるために。

 

「それさえ出来れば、後は私がなんとしてでも、貴女を合格させてみせます」

「……わかりました」

 

 そっと離れていくプロデューサーの体温以上に、耳に熱を感じた。

 これから面接を受けるというのに、こんなんでいいのだろうか?

 

「プロデューサー、中に入る前に一つ謝っておかないといけないことがあります」

 

 せめてもの意趣返しにと、僕はプロデューサーへと一つだけ秘密を打ち明ける。

 

「なんでしょうか」

 

 特に急かすようなことはせず、プロデューサーは僕の言葉を聞いてくれた。

 今の内に正直に言っておこう。

 

「ごめんなさい、実はこの間の歌は全力ではありませんでした」

 

 僕の言葉に目を見開く彼を横目で確認しつつ、僕は扉を数回ノックした。

 

「入りなさい」

 

 扉の向こうからすぐに返事が返って来たので丁寧に扉を開く。

 何か言いたげな顔のプロデューサーを残し僕は部屋へと入った。

 

 

 室内の空気は思ったよりも悪いものではなかった。てっきり薄暗い室内で窓から差し込む陽の光を背景に、厳つい顔をした男達が某人型汎用決戦兵器のパイロットの父親がするようなポーズで出迎えて来るものだとばかり思っていた。しかし、蓋を開けてみれば、そこに居たのは普通のおじさん達だった。おじさんと呼ぶには上下に歳が振れていたし、女性の姿もあったので適切ではなかったが。

 この人達が僕の面接官になるわけか……。

 何か想像していたよりも人数が多い気がする。確か島村の時はプロデューサー含めて三人だったと聞いたぞ。それに比べて僕の場合は八人だ。

 それぞれ結構な肩書きを持っていそうな人達だ。部長とか普通に居そう。比較的若そうな人ですら、何かのリーダーみたいな貫禄を持っていた。

 そんな、お歴々が長机越しに八人も並んで座っているのだから、その圧は一般的な人生を送ったことしかない僕には凄まじく強く感じられた。

 今からこの人達の面接を受けると思うと気が重くなる。

 でも、やるだけのことはやらなくては。

 

「う、と……失礼いたします……如月千早です」

 

 部屋に入り、まずは礼をしながら名前を名乗る。面接と言えども未成年に対するものなので、社会人用の所作までは必要ないとは思う。面接官だって、僕のことはアイドル志望の少女としか見てないだろうし、そこまでガチガチのマナーは求めていないよね?

 そう思って十代の少女がやる程度の所作を演じてみたわけだけど、挨拶した僕に返って来た反応はまちまちだった。

 疑念、不審、戸惑い、困惑。

 およそ初対面の相手から向けられる感情ではない物が相手方の表情に浮かんでいた。

 何か僕は間違ってしまったのだろうか。もう少し違うキャラを演じた方が良かったかな。「にゃっほー! 千早だよぉ、みんな~元気してる~。ぶいぶいっ」とかいうキャラを期待されていたなら素直にごめんなさい。そのキャラは二年前に封印しているから。

 とりあえず相手の反応は置いておいて、面接を続けよう。

 部屋の中央に椅子が一脚配置されているので、その横まで進む。

 僕と面接官達までの席はだいたい三メートルほど離れている。少し声を張らないと聞こえ辛い距離だ。

 

「改めて、お名前と年齢を聞かせて下さい」

 

 面接官の一人、若い男性が柔和な笑みを浮かべながら名前と年齢を訊いて来た。おお、普通の面接っぽい。相手の人も何か優しそうに見えるし、ちょっと安心した。

 彼──彼らの手元には僕の履歴書のコピーが置かれていた。優が代わりに書いて出してくれた履歴書に、この間プロデューサーのアドバイス通りの笑顔で撮った写真が貼られているのがここからでも見える。

 

「如月千早。十七歳です」

 

 特に問題もないので普通に答えた。

 世の中には二十歳過ぎてからアイドルになる人もいるそうだ。その人達は、こういう時に実年齢を答えるのだろうか。少しくらいサバ読んでいる人もいるかもしれないね。その場合は何歳までセーフなんだろ。二、三歳ならともかく五歳以上はアウトだよね。十歳とかになったらもはや詐欺である。

 そういう意味では僕も詐欺になるのかな。実年齢でいえば十七歳ではないわけだし。でも戸籍上十七歳なのだから、十七歳と答えていいはずだ。詐欺ではない、はず。僕の場合は十年経っても十七歳で通用しちゃうだろうけど。

 

「まずは、アイドルになりたい動機を聞かせて貰えるかな?」

 

 続けて男性から志望動機を訊かれた。

 隣に置かれた椅子をチラ見する。椅子に座りはしないんだ。勝手に座るのは面接的にあり得ないので質問に答えることにする。

 

「えっと……」

 

 面接の練習なんてして来てないのだけど?

 こういうのって予め予習するもんじゃないかな。オーディションと言うか面接を受けたのが二年以上前とあって咄嗟に言葉が浮かばない。

 

「意気込みとかでもいいよ?」

「あ、はい……」

 

 ど、どうしようか……。

 慌てて目を左右に動かし、何か無いかと探す。すると、面接官が持っている履歴書が目に入った。

 そうだ、あそこに書いてある文字を読めばいいじゃないか。僕って冴えてる。

 ちょうど一人の面接官の前に見やすい位置で履歴書が置かれていたので、それを僕は読み上げることにした。

 

「私がアイドルを目指すようになったのは、幼い頃、泣いている弟に歌を聴かせたことが始まりです。私の歌を聴いた弟は泣き止み、とても喜んでくれました。そのことを私自身がとても嬉しく思い、また、自分の歌が誰かの喜びになる、その事に子供ながらに達成感を覚えた事が主な理由です。その経験から、自分の歌で誰かを幸せにできる、そんなアイドルになりたいと、いつしか思うようになっていました」

 

 ……これ、本当に優が書いたやつ?

 中学生が書いたにしては上出来過ぎな文章じゃないかな。少なくとも、僕にはこんな文章書けないよ……。

 僕が素直にアイドルになりたい理由を面接で言ったら、テンパった結果「歌、マジサイコー。誰かのために歌いたいイェー」とか言っちゃうかも。さすがにそこまでは酷くないけどね!

 まあ、優は名前の通り優秀だから、きっとこれくらい書くの朝飯前なんだろうね。さすが優!

 

「なるほど……」

 

 僕の志望動機を聞いた男性が見た目感心した様子で何度も頷いている。

 これは好感触か? 案外楽勝で合格貰えるのではないかと僕は思った。

 しかし、そんな甘い展開にはならなかった。

 

「それで?」

「……はい?」

 

 一瞬、何を訊かれたのか理解できなかったため、思わず聞き返してしまった。

 その反応がお気に召さなかったのか、男性は大きく溜息を吐いて肩を竦める。

 

「それで、続きは?」

「えっ、つ、続き……ですか?」

 

 え、続きとかってあるの?

 確かアイドルになった動機を訊かれたんだよね。で、僕はそれに答えた。うん、そこまでは間違っていないはずだ。

 何で続きを訊かれているんだ。

 

「今のは履歴書にも書いてある動機だね。僕が聞きたいのは、それ以外の事だよ」

 

 早く言えと、あごをしゃくって不機嫌そうに指示して来る態度からは、先程までの優しそうな雰囲気は感じられない。

 また僕は悪いことでも言ってしまったのだろうか。

 

「えっと……」

 

 相手にマイナス印象を与えないように控えめに何か言おうと心がけようとすると、逆に焦ってしまい言葉が出てこない。

 

「無いの?」

「いえ、その、私は自分の歌が誰かの心を動かすような、そんなアイドルになりたくて」

「それはさっき聞いたけど?」

「ぁぅ……」

 

 最後まで言い切る前に駄目だしをされてしまった。

 歌が得意だという僕の主張は、それを伝える事すらできずに見事に切り捨てられてしまった。

 

「面接の練習をろくにして来なかったんでしょ? 困るんだよねぇ。そういう軽い態度で来られると」

 

 面接があると知らされたのはついさっきだから、練習のしようがなかったんだけど……。

 たぶん、言ったところで「言い訳をするな」と、さらに心象を悪くするだけなので言わないことにした。

 

「たまにいるんだよね、アイドルのオーディションだからって愛想よく受け答えしていれば受かるって勘違いする人。まあ、君の場合、愛想笑いもできてないみたいだけど」

「……」

 

 笑顔について言われるのは辛い。こればっかりは、努力でどうにかできるものではなかったから。僕の努力不足で責められるのはいいけれど、努力でどうにもならない笑顔を貶されるのは辛い。

 また、笑えない所為で悪いことが起きている。愛想笑いの一つでもできれば、僕の人生もう少し楽になると思うんだけどな。

 

「即興でもいいから、ちゃんとした君の志望動機を聞かせてくれないかな?」

「……」

「どうしたの? 何もないの?」

 

 そんな数秒で動機をまとめるなんてできないよ……。

 こういうのって、簡単にハイと答えちゃいけないって言うし。当然、できませんとも言えない。それで沈黙になってしまったことは本末転倒だけど。

 オーディションを受けた人達は皆即興で答えられたのかな……。やっぱりアイドルを目指す人種って皆ハイスペックなんだね。

 

「アドリブもできないのに準備もして来なかったんだ。君、今日は何しにここに来たかわかってる? と言うか、何しに来たの?」

「……そ、それは、面接を……」

「なら何も準備して来なかったのはなんで?」

「……」

 

 面接を受けるために来たということになっている。僕はそれを知らなかったけど。

 僕の事情を知らない相手側からすれば、僕は面接を受けに来たのに練習をまったくして来ていない舐めた奴だと思われている。

 事実は違うのに。それが彼らにとっての真実なのだから、それを覆すことはできない。仮にできたとして、僕が受け答えをきちんとできていない以上、何の意味もないことだった。

 

「黙っていちゃ何も伝わらないけど?」

 

 僕に答えられるものは何もなかった。何を言っても言い訳にしからず、戯言にしかならないから。

 

「……はあ、仕方ない。次の質問に移ろうか」

 

 面接官がわざとらしく溜息を吐く。

 今の質問に僕は答えられなかった。次の質問には答えられるだろうか?

 

「これまでどんなレッスンを受けたことがあるかな? アイドルになるために、どんな練習をして来たかでもいいよ。面接はともかくとして、アイドルになるための努力はきちんとして来たよね?」

 

 努力というのは、どの程度のレベルから努力になるのだろうか。

 長年の引きこもり生活から社会復帰をしたばかりの僕が自主訓練を再開してからそれほど日は経っていない。精々が一月と言ったくらいか。その間に僕がした訓練なんて、全盛期の僕に比べるとまだまだお子様がやるような甘いものでしかなかった。

 まだ僕が引き籠る前、あの未来が輝きに満ちていると信じて疑っていなかった無知な自分を思い返す。

 千早に生まれ変わったのだから成功が約束されていると信じていながらも、僕は努力をせずに楽に生きる道を選ばなかった。胸を張って千早だと言えるように、千早と同じく「レッスンが趣味だ」と言えるように努力をした。身体に努力を覚え込ませるために。

 雨が降りしきる中、「雨の中でライブをやるパターン」として屋外でダンスと歌の自主訓練をした。自分の声が聞こえないくらいの勢いで地面を叩く雨粒をBGMに踊り、歌った。身体を打つ雨粒を歓声に見立て、全身ずぶ濡れになりがら、帰りの遅い僕を心配した優に見つかるまで一人のステージを続けた。

 雪の降る真冬に、ステージ衣装に見立てた薄着姿で「雪の中でライブをやるパターン」を自主訓練をした。足首以上に積もった雪が足を取り躓きながら、たまに転びもした。雪に触れ続けて霜焼けと低体温症で身体が動かなくなっても「体調不良の中でライブをやるパターン」だと自主訓練を続けた。

 最終的にエネルギー切れになって倒れて凍死しかけた。優が雪の中に埋まる僕を見つけてくれて事なきを得たが。

 日が昇ってから、また日が昇るまで踊り続けた結果、足の骨を疲労骨折したことがある。その時も「足が折れた状態でライブをやるパターン」の自主訓練をした。

 僕は小学校に入学してからの十年間、ずっと、そうやって努力をして過ごして来た。文字通り血を吐くような努力をした。

 それは全部千早になるための努力だったけれど……。

 死ぬような状況でも……死んでも、ライブに出るために、僕は努力をして来た。ただ、死にかけるくらいに追い込んでも、アイドルとしての才能はほとんど伸びなかったのは、765プロのオーディションに落ちたことが証明している。あの頃は何故かアイドルの才能ではなく戦闘系チートだけが鍛えられていた気がする。当時の僕なら初期の野菜人の王子くらい倒せたんじゃないかな……。

 まあ、僕の戦闘力の話はともかくとして、当時の努力に比べたら大した努力をしていない今の僕が「努力をしています」と答えることは憚られた。

 

「努力は……まだ十分にできているとは言えません」

「レッスンは受けたことはある?」

「ありません。全て独学でした」

「フンッ」

 

 質問をした男ではない誰かが鼻で笑った。

 独学だって言ったことが問題だったのかな。それとも努力不足だと言ったこと?

 

「今回オーディションを受けた子達は、全員が努力をして来ていたよ。皆それぞれ、自分がして来た事も言えたし、志望動機だってきちんと伝えられた。少なくとも、最終審査まで残った子達はどっちも優秀だったよ」

 

「君と違ってね」と締めくくられた男の言葉に、僕は何も言い返せなかった。

 僕には努力が足りなかった。アイドルを目指してがむしゃらに頑張るだけでは足りなかった。アイドルになるための努力だけじゃ足りなかった。

 もっと頑張らないと。今の努力だけじゃ全然足りないと気づかされた僕は、今後の自主訓練のメニューを大幅に書き換えることを決めた。

 今後があればだけど。

 

「横から失礼する。私からも質問をさせて貰うぞ」

 

 若い男の代わりに、今度は違う男性が口を挟んで来た。四、五十代くらいの、短い髪と髭が特徴的な少し怖い顔の男だった。プロデューサーも大概だけど、この人はそれ以上に悪人面である。

 若い男は特に不満を見せることなく髭の男に質問を譲った。

 

「如月千早、お前はアイドルになりにここに来たはずだ。だと言うのに、最初からやる気のない態度で適当な受け答えばかりしているな。どういうつもりだ、オイ?」

 

 髭男からのいきなりのダメ出しに泣きそうになる。

 あと語調が強い。威圧的過ぎて萎縮しそうになってしまう。悪人顔の人が強い口調で話し掛けて来るのは反則じゃないか。普通に怖いんだけど。思わず手が出たらどうする。

 

「やる気は、あります……。私はアイドルになる覚悟で今日ここに来ました」

 

 アイドルになる覚悟はある。アイドルとして生きる覚悟もある。

 

「アイドルになる覚悟なんてな、誰でも持ってここに来てんだよ。なければここに来ない」

「……そうですね」

「わかるだろ。お前のそれは、誰でも持ってる覚悟でしかないんだって。薄っぺらいんだよ、お前の口から出る覚悟は」

「薄っぺらい……」

 

 僕の覚悟は薄っぺらい覚悟だと言われてしまった。

 そうか、アイドルになる覚悟だけじゃ足りないのか……。

 僕がこれまで、アイドルになるために費やして来た物や、捧げて来た物は薄っぺらいのか。

 

「お前がどれだけやる気があるかわからないが、オーディションの最終選考まで残った奴ら全員やる気で来ていた。本気でアイドルになろうと思って今日まで努力して来た。……俺にはお前にアイツら程の覚悟があるとは思えないんだよ」

 

 アイドルをやる覚悟。

 それはどういった意味の覚悟なのか、僕にはすぐにはわからなかった。でも何となく、今アイドルをやっている人達が持つ何かが僕に足りていないのだと、ぼんやりとだが理解できた。それを持っていない僕は彼らにとってアイドルに適さないということなのだろう。

 髭の男以外の面接官達も同じ意見らしく、皆一様に納得顔で男性の言葉に頷いていた。

 そうやって、僕のアイドルに対する覚悟の有無を問いながら、その実最初から有ると信じていない男の態度に少し心が波立つのを感じた。

 皆が皆、敵意を込めた目で僕を見て来る。僕の粗を探して、僕にダメ出しをして、僕を落とそうとする。

 この部屋に入った時から言葉にならない悪意に晒され、僕の中で何かがじくじくと疼いている。

 部屋にいる人の数だけ、僕の中で何かが削れて行く。

 皆敵ばかりだ。

 いや、一人だけ違う人がいたか。

 面接官の中でも、一際年嵩のナイスミドルな男性が静かに僕を見詰めていた。一番年上に見えるのに一番目立たない端の席で静かに座っているだけなのに、不思議と存在感がある人だった。

 何となくだけど、その人の目を見ると問いかけられているような気持ちになる。自分がここに居る意味は何なのかを。それは否定から入った他の面接官よりも余程厳しい目に見えた。他が如月千早を見定めようとしている中で、その人だけは僕を見極めようとしている。何となく、それがわかってしまった。そういう意味ではこの人こそが一番の難敵だろう。及第点で許してくれる気がしなかった。

 歌さえ聴いて貰えれば納得するはずなんだ。プロデューサーがそう言っていたのだから。でも、このままだとそれすら叶わずに退出を言い渡されそう。その場限りのそれっぽい覚悟でも語れば納得するだろうか。この人達の態度から、上辺だけでも取り繕えばいきなり追い出されることはなさそうだけど……。

 

「それとも何だ、お前には誰かに誇れるだけの覚悟があるとでも言うのか? 他人蹴落としてまでアイドルになりたい覚悟があるって言うのか」

 

 覚悟と言われても、何を言えばいいのかわからない。

 僕がアイドルをやる覚悟って、他人と比べてどの程度の物なのだろう。ただでさえ薄っぺらいと思われているのだ。これ以上は何を言っても滑るだけじゃないか。

 自分の覚悟に自信が持てない僕は黙っていることしかできなかった。

 

「どうなんだよ、オイ!」

「っ」

 

 僕が何も答えないと見るや、髭の男が語気を強めテーブルを叩いた。突然大声を出されビクリと震えてしまう。

 この人怖い。顔が怖い上に声も大きい。苦手なタイプだ。

 それと、突然叫ぶのは止めて欲しい。本当に、思わず手が出てしまいそうになるから。

 

「部長、そういうのは……」

「チッ、わかってるよ! ……如月、少なくとも最終選考に残った奴は本物の覚悟を持っていたぞ」

 

 窘められた男は捨て台詞のような言葉を吐くと、そのまま黙ってしまった。言いたいことだけを言って満足したらしい。

 

「私からも良いでしょうか?」

 

 次に話を振ってきたのは面接官の中で一人だけ存在していた女性だった。紅一点と言うには少々年嵩に見えるが、他の面接官と比べると若い方に思えた。

 

「私はこちらのプロデューサーとはあまり面識が無いので深く理由を訊いたことがありませんが、私には如月さんが何をもってスカウトされたのか正直よくわかりません」

 

 いきなりぶっ放された質問──いや、これは質問じゃなくて感想か。女性の感想は、僕がここに居ることに疑問があるという内容だった。

 前提条件として、そもそも僕がスカウトされたこと自体おかしいという言い分に、僕の心臓がドクンと脈を打った。

 

「どういう意味でしょうか……」

 

 突然喉の渇きを覚え、生唾を飲み込もうとして口の中がカラカラになっていることに気付く。

 何とか口に出した言葉も、相手に聞こえるかどうか怪しいくらいの擦れたものになっている。

 

「どうもこうも、私には貴女がスカウトされた理由がよくわかりません。今のところ、優れた容姿くらいしか見せていただいていませんので。まさか、そんな理由でスカウトされたなんてことはないでしょう?」

「ッ……」

 

 その言葉は、まるでプロデューサーが適当な理由で僕を選んだのではないかと言われた気がした。

 そんなわけがない。プロデューサーはずっと真剣に僕を誘ってくれていた。その言葉には一遍の嘘も欺瞞は感じられなかった。ただ真摯に、僕にアイドルにならないかと言い続けてくれた。

 

「……」

 

 その結果がこれだった。

 僕に時間を使い過ぎた所為でプロデューサーの立場まで悪く言われてしまっている。

 僕に構っている間にもオーディションは続いていた。もっと早く、僕がプロデューサーの話を受けて居れば、こんなギリギリになって一枠削るなんてことにはならなかった。

 もっと早く……。

 

「笑顔が理由らしいぞ」

「はぁ……笑顔、ですか? えぇ……」

 

 僕が一人後悔の念を胸に抱いている間に面接官同士が話し合っている。

 スカウトされた理由は笑顔だ。プロデューサーがそう言ったんだ。でも、僕はこの部屋に足を踏み入れてから一度として笑っていない。

 笑顔を見せない僕のスカウト理由が笑顔と言われても、相手からしたら嘘だとしか思えないだろう。

 

「笑顔が理由というのが信じられませんが。まあ、常に笑っていればいいというわけでもないでしょう」

「……」

 

 常にも何も、一度も笑えないんですけど。

 

「アイドル部門の方々には申し訳ありませんが、私は笑顔を評価しません。笑顔以外の貴女の長所を聞かせていただけませんか?」

 

 笑顔を見せろと言われなくて良かった。

 もし言われていたら詰んでいた。相手が笑顔を重視しない人で良かった。アイドル部門の人じゃないのかな……。

 女性の求めに応じて、僕は頭に思い浮かんだ長所をそのまま口にした。

 

「私は歌が得意です」

 

 しかし、答えた僕に返って来たのは、僕を馬鹿にしたような面接官達の顔と目だった。

 質問をした女性自信も批判めいた目を僕へと向けている。

 

「今、歌が得意と言いましたね?」

「はい。私には歌しかありません」

「……アイドルのオーディションを受けた人達の中にも、たまに歌が得意だと言う子が少なからずいるそうですが。私に言わせれば、アイドルを目指す者の中に……いえ、アイドルに歌が上手い人は居ません」

「え……」

 

 女性の言葉に僕は自分の失言を悟った。気が急いたせいで打つ手を間違えた。

 

「アイドルとは、各分野で一流になれなかった者が落ち着く場所だと私は思っています。言うなれば、会社でいうところの総合職のようなものです。各分野の専門家には知識も技術も及ばない。そういう者達をアイドルと分類していると思っています」

 

 アイドルにも得意分野というものはある。

 ダンスが得意な者や、ヴィジュアルに自信がある者、僕みたいに歌が得意な者だっている。それを属性としてアイドルを振り分けるのだ。

 でも、得意なことと実際に上手いかは別の問題だ。

 女性はアイドルを目指す者に歌が上手い者は居ないと言った。相手の発言から、アイドル部門ではないと少し考えれば読み取れたはずなのに。

 きっと相手の女性は別部門、しかも歌手部門か何かの可能性があった。

 歌手部門の人なら、アイドルを目指す僕が歌が得意と言ったのは癇に障ったことだろう。

 歌が上手ければアイドルにはならない。何故なら純粋に歌が上手い者は歌手になるから。きっと、彼女はそういう考えを持っているに違いない。そうでなければ歌が得意なアイドルを否定しない。

 歌が得意だけど歌手になれない者がアイドルに落ち着く。一概に断定はできないけれど、相手が言いたいのはそういうことだろう。

 アイドルはアイドルである限り特化できない。どれだけ歌が得意だと言っても、それはアイドルの中での話なのだ。歌手にはなれないし、スーパーモデルにもなれないし、世界規模のダンサーにもなれない。そう言いたいらしい。少なくとも彼女の中ではそれが常識。だから僕もその例に漏れない「歌が得意な少女」でしかない。

 そんな相手の前で歌しかないと言うのは確かに良くないことだ。

 

「歌しかないと貴女は言いましたが、それは歌以外は駄目という、後ろ向きな考えから出た発言と受け取れますが?」

 

 言葉をそのまま受け取れば、相手の言う通り僕は歌以外自信が無いと言ったに等しい。普通ここは歌が得意とだけ言うべきだった。そうすれば僕は彼女にとってよく居る歌属性のアイドルとして扱って貰えた。

 でも僕は歌しかないと言ってしまった。それは先に述べた相手の持論からすれば、僕は歌が上手いわけでもないのに歌以外自信が無い人間だと自ら言ってしまったに外ならない。

 明らかに失言だった。

 己の失言と面接官達の視線に何も言えなくなる。しかし相手は続きを催促することはせず、ただ黙って僕の反応を待っている。これは善意からではなく、何も言えない僕を観察するためだろう。そしてあわよくば僕がここから逃げ去るのを期待しているのかも知れない。

 どうしよう。

 今更言ったことを取り消すことはできない。取り消すつもりもないけど。僕には歌しかないのは間違いないのだから。それを馬鹿正直に伝えたことは失敗だったとしても、それを無かったことにするのは駄目だ。

 実際に歌を聴いて貰えないか訊くという案が頭を過ったが、それは悪手だと取り下げる。

 では、どうしたらいいのだろう?

 わからない。

 

「アイドルを目指す方から、歌が得意という言葉が出たことには失望を禁じえません。……毎回こんな子ばかりなんですか?」

「そんなわけあるか。コイツがそういう奴なだけだ」

 

 隣同士というのもあり、女性と髭の男はよく話し合っている。

 この二人は厄介だ。女性はアイドルオーディションの最終面接のはずなのに、アイドル的なものを否定的に受け取っている。髭の男はそもそも僕のことが嫌いだ。

 そして、その二人の発言力はこの場で高い位置にある。最初に僕に質問をしていた若い男性ですら、二人の会話に割り込めずに手持無沙汰になっている光景がそれを証明している。

 ならば、僕がやることは……。

 

「私には、どうにも貴女がスカウトされたこと自体、何かの間違いだったのではないかと思っています」

「あ、う」

 

 呼吸が止まった。

 女性の放った言葉が容赦なく僕の心を抉る。

 僕がスカウトされた事が間違い?

 プロデューサーが間違えた……?

 僕はアイドルになるべきじゃなかったのだろうか。

 たった一言で、こんなにもあっさりと僕の中にあった自信が揺らいでしまった。

 良いタイミングだと分かったのか、最初の若い男性が話始めた。

 

「正直に言えば、我々は君の採用を受け入れる準備ができていないんだ。それは時期的な意味もあるし、気持ち的なものある。突然シンデレラプロジェクトのプロデューサー直々に、スカウトしたい子がいるから一枠欲しいと言って来られてね。こちらとしてもずっとオーディションの企画を進めて来たわけだから、それをいきなり一枠くれだなんてあんまりだろう?」

 

 改めて他人から言われると、自分の立ち位置がとても微妙だと気付く。オーディションと言っても色々と準備が必要なはずだ。参加者の募集に会場の確保、スタッフだって用意しなければならない。

 何百人という応募者を一人一人見ていき、篩にかける作業は僕が想像するよりも大変なはずだ。その作業の結果決まった、または決まりかけていた人間の代わりに、後からヒョイっと出て来た僕が簡単に受かってしまう。そんな理不尽は、これまでオーディションに尽力して来た彼らからすれば到底受け入れられるものではない。

 

「合格が決まりかけていたあの子に、不合格を伝えたのは僕だ」

 

 自分がその子に落選の結果を伝えたのだと、男は語った。

 

「落選の報告を聞いた彼女とても取り乱していたよ。当然だよね、半分合格が決まっていたようなものだったんだから。あとは正式に合格を伝えるだけ……そんなギリギリまで行って、突然落選なんて言われたんだ」

 

 合格だと思っていたところで、突然不合格だと言われる辛さを僕は知っている。だからよくわかると言いたい。

 でも、あの時の辛さを言葉にするのは難しい。きっと、どう言い表してもあの絶望は他人へは伝わらない。その落ちた子だって、きっと自分の絶望を簡単に他人からわかるなどと言われたくないだろう。

 

「それでも、君は彼女より自分がアイドルに相応しいって言うのか?」

 

 それは何かを押し殺したような低い声だった。

 他の面接官も沈痛な面持ちで男の言葉を聞いていた。誰もがその落ちた子のことを思い、落選の方を伝えることになった男に同情の視線を向けている。

 

「なあ、何とか言ってくれよ……君は一体、彼女より何ができるんだよ……」

 

 彼らは知っていた。僕も知っていた。オーディションに受かることの難しさを。落ちることの辛さを。それを理解していたから、僕の代わりに落ちた子のことを想って、僕に対してこれだけ怒りを抱いていたのだ。

 それがわかるからこそ、僕は何も言い返せなかった。

 

 その後、他の面接官達からも質問が投げかけられたが、僕はそのどれにもまともに答えることができなかった。

 いずれの質問も、最終的には落ちた子の話になり、その子と僕を比べて僕はどうなのかという話になったからだ。

 僕はその子を知らない。比べようがない。僕には僕の話しかできない。

 僅かな希望を持って何時の間にか壁際に移動していた千川さんに視線を向けてみる。しかし無表情で立っている千川さんは我関せずと言わんばかりに何もリアクションを示してはくれなかった。

 まあ、千川さんを頼るわけにはいかないか。千川さんの立ち位置が不明だけど、偉い人に物申せる立場であるとは思えなかった。それにここで僕を庇えばこの人の立場が悪くなる。

 何もできず、このまま面接が終わってしまえば、僕はまた落選してしまう。

 あの時のように……。

 僕は自分が765プロに落ちた日のことを思い返す。

 事務所から届いたオーディションの合否連絡が封筒で届いた時、僕はそれが合格通知だと信じて疑わなかった。

 その封筒の薄さに、何かを言いたげな両親の視線の意味に気付くことなんかなく、無邪気に封筒の中身を確認したのだ。

 中身は不合格通知だった。

 色褪せた安いB5のコピー用紙に不合格と大きくかかれ、その下に「如月千早さんの今後益々のご活躍をお祈り申し上げます。」と書かれた定型文を僕はしばらく呆然と眺めていた。

 何と声を掛けていいかわからないという表情の両親と、こちらを心配そうに見る優の前で僕は大声で絶叫を上げた。

 何で。どうして。何で僕が落ちているんだ。

 絶対に受かると思っていた。だって僕は千早なのだから。765プロに受かって当然なんだと、僕は手の中の不合格通知の存在が信じられなかった。

 何かの間違いだと765プロに連絡をとろうとするのを両親と優に止められた。暴れて泣き叫ぶ僕を必死で宥める家族の声に構わず僕は癇癪を起してただ泣き叫んだ。

 その時の辛さは今も覚えている。たぶん、一生消えない僕の心の傷だ。

 あの傷をもう一度受けて無事で済む自信が僕にはない。あんな想いは二度とごめんだ。でも、今の状況ではそうなってしまう。

 もし、プロデューサーがここに居てくれたら……。

 そんな考えが頭に浮かんでしまうくらいに僕の心は折れかけていた。

 嫌だ。

 もう失うのは嫌だ。

 先程から手の震えが止まらない。手で押さえても恐怖と緊張で言うことを聞いてくれない。きっと、面接官達も今の僕の醜態を見て内心喜んでいるのだろう。

 プロデューサー。

 どうして、ここに居てくれないの……。

 貴方がここに居てくれたら僕はもっと強く立っていられたのに。

 ここに居たらフォローはしてくれたのかな。面接官の発言の意図を僕に説明してくれて、歌を聴かせるところまで話を持って行ってくれたのかな。

 そんな甘ったれたことを考えてしまう。

 でもこの敵しかいない空間では、たとえ何も言ってくれなかったとしても、プロデューサーが居てくれるだけで僕は自信を持ち続けられただろう。

 プロデューサー。

 プロデューサー。

 プロデューサー。

 僕はここに居るよ。だから、助けてよ。また、あの時みたいに僕に言葉を掛けてよ。

 もう僕は一人で立っていられない。誰かに必要とされていたい。誰かに支えられたい。

 僕が僕として居られる言葉が欲しい。

 僕が僕を肯定できる何かが欲しい。

 アイドルになっていいんだと自信が持てる力が欲しい。

 心が折れる──。

 

「っ……!」

 

 少しでも彼を近くに感じたかった僕は、咄嗟と言うか発作的にと言うか、思わず耳に意識を集中させ聴力を上げた。

 常人の数十倍の聴力を得た僕の耳は、それまで耳に入らなかった環境音を拾うようになる。空調設備とそこを通る空気の流れが起こす音や建物の外を歩く通行人の足音、千川さんや面接官達のやけに遅い心臓の鼓動音。そういった僕の周囲で奏でられるあらゆる音を、距離や音量に関係なく均等に耳が拾い上げる。聴力を強化しただけではなし得ない、指向性を持った聞く力の強化である。理屈はよくわからない。

 僕も詳しい理論は理解してないので単純に聞く力の強化と呼んでいる。大事なのはこれによって色々と聞こえないものまで聞こえるようになるということだ。

 これで壁の向こうのプロデューサーの呼吸音でも聞こえたなら、少しは落ち着くだろうという考えだ。

 意識して壁向こうの音を聞くと思わぬ”音”を拾った。

 せめて、プロデューサーの存在を感じられたなら……。

 わずかな息遣いでも聞こえたら良い。少しは落ち着くだろう。

 僅かに残った僕の勇気が消えてしまわないうちに……。そんな願いを胸に、僕の耳は壁越しに”音”を拾った。

 

『――意外だな、お前が一人のアイドルに固執するなんて』

 

 ……。

 聞こえて来たのは、プロデューサーではない誰かの話声だった。若い男性らしく、声には張りが感じられる。穏やかに話すのが似合いそうな柔らかな声質をしている。でも、聞こえて来た声から焦りと、少しばかりの苛立ちが含まれていた。

 プロデューサーは……居ないの?

 少し焦る。これ以上、プロデューサーを捜して聞こえる範囲を広げると脳にダメージが負う可能性がある。でも、それくらい仕方ないかな……。

 

『……そう、思われますか?』

 

 良かった。プロデューサーも扉の向こう側にいるようだ。誰かと話しをしているらしく、声を聞きたいと思った僕には好都合である。

 プロデューサーの声を聞いたことで、少しだけだが精神的に落ち着けた。乱れていた呼吸と心拍が平時のそれに近づくのを感じる。

 ちなみに、話の内容の方は前部分を聞いていないのでよくわからない。たぶん、僕のことを言っているのだろうけど……。

 

『俺の勝手なイメージだけどな。あまり一人のアイドルに固執するタイプには思えない。元から居た三人が辞めて行った時も強くは引き留めなかったし……』

 

 元から居た三人というのは、僕が補充される前にシンデレラプロジェクトに居たアイドルのことか。相手の話から、プロデューサーはその人達がプロジェクトを去った時も引き留めなかった、と……。

 僕もそうなるのだろうか?

 僕がこの面接に落ちて不合格になったら、その時からプロデューサーにとって僕は他人だろうか。

 その考えは酷く僕の心を蝕んだ。

 他人になるのは嫌だ。失うのが怖い。プロデューサーと出会って、まだ日が浅いというのに僕の中で彼の存在が大きくなっていたことに今になって気付いた。

 僕を必要としてくれるプロデューサーを、僕は求めている。

 

『元担当だった彼女達だって、あっさり』

『──確かに貴方の仰る通りかもしれません。……これは、私らしくない。私自身、そう感じています』

 

 相手の言葉を遮り、プロデューサーが自分の普段の在り方を口にする。彼女達って誰だろう?

 と言うか、口下手だからって、そんな簡単に反対意見に同調しないでよ。その流れは、もしかして「じゃあ如月さんは諦めましょう」ということじゃないよね。

 反射的に聞き耳を止めそうになる。

 ……いや、待て。さっき彼の言葉を最後まで聞くと決めたじゃないか。盗み聞きとはいえ、それをいきなり反故にするわけにはいかない。続きを聞くのが怖いけど、それでも最後まで聞こう。

 

『だったら、お前もわかるだろう? ここで如月を取る必要はない。自分のキャリアに傷をつけてまで彼女を庇うなんて止めた方が良い。いつも言っている、パワーオブスマイルに彼女は相応しくない。お前のアイドルに相応しくない』

 

 その場に自分が居なくてよかったと思った。笑顔のことを言われると僕は何も言い返せない。

 プロデューサーは僕の笑顔を褒めてくれたけれど、決して一般受けしないことは僕自身、理解していた。

 僕の笑顔は誰かの心を動かす力を持っていない。

 春香や島村の笑顔──あの笑うだけで誰かを幸せにする才能が僕には無い。それでも、この笑顔でやって行こうと決めた僕だけれど、こうして別の人から笑顔を否定されると少なからず傷付く。

 プロデューサーは僕が話を聞いていることを知らない。だから、相手の言葉を肯定したのかな……。

 本心では僕の笑顔を駄目だと思っていたのかな……。それでも将来性を見込んで笑顔を褒めてくれた?

 だったら、今こうして盗み聴きをしているのは、プロデューサーの気遣いを無下に扱ったことになるのではないか?

 プロデューサーを頼った結果、彼の心遣いを無駄にしてしまったのではないだろうか。

 こんな風に、チートを持っていると、出来ることが多い反面やって良いことと悪いことの境目が曖昧になってしまう。僕だって普段は一般人が考える「やってはいけないお約束」はやらない。基本的には。

 しかし、一般人ができないことができてしまう僕は、あえて言わなくてもわかること、普通はできないからわざわざ「やる」「やらない」を考慮するまでもないことをやってしまう。これは僕にとって大いに反省すべき点である。その反省を活かせたことはないけど。

 できるということと、やっていいことは違う。今回のこれも、本来はやってはいけないことだった。

 だから、まだ引き返せる。これ以上は止めたほうがいい。聞きたくもない会話を聞く必要はない。

 それに、プロデューサーが仲間から責められ続けるのを聞くのは忍びない。仲間から糾弾される彼を知りたくない。

 中途半端な行為と知りつつも、僕は聴力の強化を解除しようとする。

 でも──。

 

『私は、そうは思いません』

 

 ……ギリギリで聞こえた、プロデューサーの否定の言葉に解除を止めてしまった。

 何が聞こえようとも、強化を切ることはできたはずだった。聞かないことを選べば、それで良かった。

 そのはずなのに……。

 僕はその続きを知りたくなってしまった。

 

『誰も──彼女自身ですら信じ切れていないようですが、彼女の笑顔はとても自然で素敵なものでした。彼女は本来なら、誰からも好かれるような、そんな笑顔を持つ少女です』

『……』

『自分自身を信じられない彼女は必死に足掻いています。誰かに信じて貰いたがって、努力をして、誰かのために己を蔑ろにして、自分を追い込む……そんな子です。私には、そう見えました』

『──お前……』

『私は彼女のプロデューサーです。その私が、彼女の可能性を信じずに、いったい誰が信じると言うのでしょうか。私はこの世界の誰よりも、彼女の可能性を信じています。他の誰が信じずとも、私だけは彼女を最後まで信じると決めました』

 

 ”信じている”。

 彼が口にしたその一言が、僕の中にある何かに火を灯した。

 

『彼女は輝きます。私が彼女を輝かせます』

 

 心が温かい。

 

『私が持つ全てを使って、彼女が本来持っていた光を取り戻してみせます』

 

 体が熱くなる。

 

『何で……そこまで彼女に拘るんだ? お前のことだ、愛だの恋だのと浮ついたことではないんだろ? それにしては彼女一人にかけるものが大き過ぎないか?』

『それは――』

 

 プロデューサーが言葉を止める。

 この時すでに僕は確信していた。その先を聞いたら僕は自重ができなくなると。

 それはきっと、プロデューサーが隠したかったかもしれない本音だったから。だから、本当ならば……僕は聞くべきではなかったのだ。

 でも、僕は聞いてしまいたかった。

 プロデューサーの言葉を聞きたかった。彼の本音を知りたかった。彼の心に触れたかった。

 たとえ、それが──、

 

『私が彼女の……如月千早の、『記念すべきファン第一号』だからです』

 

 

 

 

 ──今後出会う、全ての敵を屠る理由になってしまうとしても。

 

 

 

 

 魂が。

 震えた。

 

「あ……」

 

 自然と声が出ていた。

 室内の視線が突然声を発した僕に集まるのを感じたが、今の僕はそれどころではなかった。

 ファンだと、プロデューサーが言ったのだ。確かに、彼の口からその言葉を聞いた。

 プロデューサーが……僕の、ファン?

 プロデューサーなのに……。

 プロデューサーなのに?

 それって、プロデューサーだから信じたのではなく、ファンだから信じてくれていたってこと?

 ビジネスではなく、純粋に僕を好いてくれていたってことだよね?

 プロデューサーの性格なら、今の言葉は本来出てくることはなかったはずだ。立場として、役割として、責任感の強いあの人が決して口にすることはないだろう言葉だ。

 今話している相手にだって、本当なら適当に建前を告げていれば良かった。真面目な性格の彼ならば、そうするとはずだった。

 だけど、彼はそれをしなかった。建前でも責任でもなく、自分の願望を語った。

 今の言葉は彼にとって禁忌に近いだろうに。それを彼は口にした。そして僕は、それを聞いてしまった。

 彼に言わせてしまった。

 面接なんて僕が受けることになったから。受けなければならない状況に僕がしてしまったから。こんな機会は本来訪れなかったはずなのに……。

 僕が、弱いから。

 僕に、足りないから。

 力が──。

 そこで、僕は聴力を元に戻し、プロデューサー達の話を聞くのを止めた。

 

「何か言いたいことがあるなら聞くけど? ……この様子じゃ何もないか」

 

 身体の中に溜まった熱を追い出すために、深く息を吐き出す。

 でも、この胸の奥で燃え上がる熱い炎は、まったく衰えることなく燃え盛ったままだ。

 きっと、この炎は消えない。

 

「何もなければ、もう面接を終えてもいいと思うが?」

 

 プロデューサー。

 貴方が僕に求めるモノが何なのか、僕は知る権利が無かったし、この先も無い方が良かったのでしょう。

 心の内に留めて置くだけで、きっとその想いに僕は気付くことはありませんでした。

 貴方が言わなければ。

 貴方の言葉を聞かなければ。

 僕は貴方をプロデューサーとしてしか見なかったのに。

 ずっと貴方は、僕のファンで居てくれたんですね……。

 

「となると、その落ちた子に再度連絡をとる必要がありますね……まったく、無駄な時間を使いましたね」

 

 アイドルがアイドルとして、本当の意味で生まれる時はいつだろうか。それを僕はずっと考えていた。

 アイドルになる覚悟があるのかと面接官に問われた僕は、それがわからなくて、質問に答えられなかったけれど。

 でも、今はわかる。胸を張って答えられる。

 アイドルがアイドルになる瞬間は、きっと自分にファンが居てくれると知った時だ。僕は、そう思う。

 そして、アイドルがアイドルを続けるためには、ファンの期待に応えるという覚悟を持たなくてはならない。

 僕にはプロデューサーというファンが居る。

 そのファンが、僕に受かれと期待している。応えないわけにはいかなかった。死んでも、応えなければならなかった。

 その覚悟が僕にはある。今、それができた。

 だから、プロデューサーにあそこまで言わせておいて、結果が出ませんでしたなんて絶対に許されない。これは僕一人の問題でないんだ。僕の評価は、そのままプロデューサーの評価に繋がる。あの人の人生に傷をつけてはいけないんだ。

 万が一にも不合格などという結果にしてはいけない。さっきは結果は後で考えるなんて言ったけど、そんな甘い考えは捨てよう。

 だって……ファンが僕に期待してくれているんだ。応えなかったらアイドルじゃないでしょ?

 

「先程の、私の代わりに落ちた方の話になりますが……」

 

 それまで好き勝手に言葉を発していた面接官達に対して、僕は相手の言葉を遮るようにして口を挟んだ。蒸し返す形で語るのは、それまで何度も引き合いに出されていた、オーディションに落ちた子についてだ。

 僕が話し始めたことで、面接官達の意識が僕に向く。あと少し、僕の反応が遅れていたら面接は終わっていたことだろう。

 ちょっとだけ、面接中だということが頭からすっぽりと抜け落ちていたよ……。あまりに”些細”なことで忘れそうになってしまった。それ程までに、プロデューサーの言葉は僕にとって衝撃だった。

 落ちた子については、ずっと考えていたことがあった。

 

「申し訳ないという思いはありました」

 

 当然だと、面接官の誰かが首肯する。

 

「そう。ま、当然──」

「もっと早く、プロデューサーの話を私がお受けしていれば、その方はもっと早く諦めが付いて、次のオーディションに挑むことができたのに、と」

「はぁ?」

 

 僕の言葉に追従しかけた若い男の面接官が、続いた僕の言葉に信じられないという顔をする。

 他の面接官も同様に、こいつは何を言い出すのかという驚きの表情を浮かべていた。

 

「私がズルズルと回答を先延ばしにしてしまったせいで、その方には時間を無駄にさせてしまいました。落ちているなら、もっと早く知らせてあげられるようにするべきでした。その事を、とても申し訳なく思いました」

 

 精一杯申し訳なさそうな顔を作る。と言っても、僕の表情筋にそこまでの力は無いので、眉が若干下がった程度だが。しかし、その程度でも人を商品にする人間達にとっては十分伝わったようだ。

 

「今までの話を聞いて、その発言が出たことが信じられないんだけど……。君が選ばれたことで代わりに落ちた子がいる。その事に何も思わないのかって訊いてるんだけど?」

「そうですね、私が選ばれたことで、その方は落ちた……その事について、思うことがあるならば——」

 

 ぶっちゃけて言うと、罪悪感は——ある。僕の所為で、とは言わないまでも、僕が居なければ、とは思った。

 でも、それ以上に僕は思っているんだ。

 

「どうでもいいと思いました」

 

 これが僕の答えだった。

 それが僕の答えなのだと口にしたことで、ようやく自分の心と向き合えた。

 自分の手をもう一度見ると、震えは治まっていた。

 もう、一人でも怖くない。

 プロデューサーの心に触れたから。

 

「どうでもいいだって?」

 

 ずっとしゃべりっぱなしだった面接官が、僕の答えに不快げな反応を示す。

 その強まった視線に、先程までの僕だったら縮こまってしまっていたことだろう。でも、今の僕はもう、そういう視線は気にしないようになっている。どんな目を向けられても、何を言われたとしても、一歩も退かないと決めたんだ。

 だから、僕は言葉を続ける。後ろめたさなんて感じていないと証明するために。

 

「はい、どうでもいいです。落ちた人間のことなんて、私には関係がありません」

 

 吃ることもなく、声を震わせもせず、僕はありのままの気持ちを、ここに居る全員に伝えた。

 

「関係ないって……あんまりな言い方じゃない? 自分が蹴落としておいて、その言い草は無いと思わないの?」

「思いません」

「なっ……」

 

 僕の罪悪感に訴えかけたかったのだろうけど、もうそれは効かないよ。だって、僕は悪くないんだから。

 質問をした面接官の目を真っすぐに見返す。そこに嘘偽りは無いのだと、本心からそう思っているのだと、僕は胸を張って答えた。

 

「ちょっとちょっと。君さ、何いきなり勝手なことを言い出してるの?」

「……何か?」

「何か、じゃないよね。落ちた子にもっと早く教えるべきだったとか、どうでもいいと思ったとか、自分が言っていることおかしいと思わない?」

「私は受かり、その方は落ちました。それが結果です。それ以外に何があると言うのでしょうか? そもそも、この面接は私がシンデレラプロジェクトに……アイドルに相応しいかを問う場のはずです。落ちた方と比べて、どうこう言う場ではないはずですが」

「そういう話じゃないっての……。君が横から枠を掻っ攫った。その所為で代わりに落ちた人間がいる。ここまで進んで来たのに、そんな理由で落とされて納得いくわけがないだろう」

「納得するしないは関係がありません。結果は結果です。それとも、始めから居た人の方を優先するのがオーディションですか? それでしたら、そもそも二次オーディションをする前に一次の方を繰り上げ合格にするのが筋なのでは? よりアイドルに相応しい者が残る、そのための選考だったのでは?」

「そうだよ。だから彼女は最後まで残った。二枠ある二次オーディションの最終選考まで残れた。その事実以上に君がアイドルに相応しい理由って、じゃあ何?」

 

 語調を強めながら、僕に答える隙を与えないように質問を幾つも投げかて来る男の問いに、僕は特に焦ることもせず、ただ一言で答えた。

 

「私は選ばれました」

 

 僕はプロデューサーに選ばれた。

 その落ちた人は選ばれなかった。

 

「あの人が……プロデューサーが選んだのは、私です。プロデューサーは、その落ちた誰かではなく私を選びました。シンデレラプロジェクトのプロデューサーが、そう決めました」

 

 あの人が選んだのは僕なんだ。

 それを「ただ選ばれただけ」なんて言った自分は馬鹿だった。

 選んでくれたじゃないか……。

 何もなく。

 足りないものばかりで。

 失敗ばかりを繰り返して、後悔しかしてこなかった僕を、彼は選んでくれたじゃないか。

 この世界の中で、何十億といる人間の中から僕を見付けてくれた。

 僕がここにいるって、気付いてくれたじゃないか!

 それで十分だろ……。誰に憚ることもなく、胸を張って言えるじゃないか!

 

「私はその落ちた人よりも、オーディションに落ちた人達全員よりも、アイドルなんです。あの人の、アイドルなんです」

 

 だから、落ちた相手に同情はしても、決して申し訳ないなんて思わない。

 これが答えだ。文句あるか!

 

「……誰だ、こいつ」

 

 面接官の誰かが呟いた声が耳に入る。

 先程までの視線に震えるだけの女の子は、もう居ないよ……。

 ここに居るのは、ファンの期待を背負って立つアイドルだけだ。彼の期待を聞いてしまった僕には立ち止まる理由がない。

 もう、お前達の言葉では、僕の心は揺るがない。何を言われても止まらない。プロデューサーからの期待の声に、心が熱く滾って震えているから。

 

「その人には覚悟が足りなかった。努力が足りなかった。そして何よりも、実力が足りなかった」

 

 その落ちた子は、どれくらいの覚悟を持っていたのか。どれだけの努力を続けて来たのか。そして、どれだけ実力があると言うのだだろうか。

 僕よりもあったなら、なんでプロデューサーに選ばれなかったんだ?

 

「足りないものがあるくせに、受からなかった理由を誰かのせいにする。……そんな相手に掛ける言葉なんて、たった一つでしょう」

 

 僕はそこで一旦言葉を止めた。

 ずっと、言ってやりたかったんだ。

 

「甘ったれるな」

 

 誰かの所為になんかするな。

 落ちたのは足りなかったからだろう。

 覚悟が足りなかったから。

 努力が足りなかったから。

 実力が足りなかったから。

 僕よりも足りなかったから、落ちた。

 それだけだ。

 僕は765プロに落ちた時、誰も恨んだりしなかった。僕を落とした社長も秋月律子のことも、僕は恨んだりしていない。ただ、選ばれなかったことを嘆いて、765プロに落ちたことに絶望しただけだ。

 僕に足りなかったから落ちたとしか思わなかった。

 

「その人が落ちたのは、足りなかったからです。それとも、その人は受からなかった理由を他人の所為にするような人間ですか? あなた方に泣きついて来ましたか?」

「それは……」

 

 僕の問い掛けに、その面接官は答えることができなかった。何かを言いかけるのだが、くしゃくしゃの茶髪を掻き回すだけで続く言葉が出て来ない。

 何を言い返されても、さらに言い返すと決めていた僕は、その姿を冷めた目で見つめるだけだった。

 

「……随分、勝手なことを言うな」

 

 別の面接官が口を開く。先程、僕に覚悟を聞いて来た髭の男だった。その目は僕を射殺さんばかりに睨みつけている。

 その男だけではない、他の面接官達が僕を見る目は隠すつもりがまるでないくらい敵意が籠っていた。

 

「お前は今自分が言ったことが、どういう意味かわかっているのか?」

 

 重々しい声で、僕の言った言葉の真意に言及する。

 

「足りなかったと言ったよな? 彼女には足りなかった、と。……お前が彼女の覚悟の何を知っている」

 

 やけに近しい言い方に、この人は落ちた子に目を掛けていたのだと推測する。面接の中で聞いたのか、その他の場面で知る機会があったのか、男からは落ちた子の覚悟を知っている様子が窺えた。侮辱するような言葉を放った僕はかなり嫌な奴に見えたことだろう。

 どうでもいいことだが。

 覚悟……。僕の覚悟、か。

 

「私の覚悟、ですか」

「そうだ。お前にはアイドルになる覚悟があるのか? すべてを賭ける覚悟が。あの子にはあったぞ?」

 

 プロデューサーの期待に応えると、あの人のアイドルになると決めた、僕の覚悟。

 僕がアイドルに掛ける想い。アイドルになった先にある願い。それを相手にあるがまま伝える。

 

「……私には、友達が一人しかいません」

 

 何を言うのかと待ち構えて男性は、僕の言葉に気勢を削がれたのか一瞬、怪訝な表情を見せた。覚悟と友人の数に何の関係があるのかと訝しんでいるのだろう。

 友人の多い少ないでアイドルの覚悟と言われても困るという話だ。

 普通ならば。

 

「それがどう──」

「それ以外の他人と、これまでの人生の中で、私はまともに会話をしたことがありません」

「……は?」

 

 僕が言った言葉の意味が理解できないのか、男は間の抜けた顔を晒した。

 

「小学校に上がる前に、私はアイドルになることを決めました。その時から、私は全ての交友関係を断っています」

「はい……?」

 

 交友を断ったというか、最初から友達なんてできた試しが無かったというか。

 まあ、僕のコミュ障が原因なのだが。

 

「アイドルに男の影があってはいけないと知った後は、学校の男子生徒と男性教師とは会話を一切しませんでした。どこから情報が洩れるかわからないため、同性のクラスメイトとも極力会話をしませんでした」

 

 唯一、中学生の時に、とある女性教師がしつこく絡んで来たけれど、それも事務的な会話以外した記憶はない。

 

「出かけた先で、男性の店員が居れば店を変えました。女性専用車両が無い可能性を考えて移動は徒歩です」

 

 今日も家から歩いて来た。346プロの事務所にも歩いて通うつもりだ。朝四時起き確定で、通勤時間三時間である。

 

「プロデューサーのスカウトを受けると決めた日から、父親と弟とまともに顔を合わせていません」

 

 優とは、ずっと電話かメールでのやりとりしか出来ていない。アイドルである間は、実家に帰った時か母親同伴でしか優に会わないと決めた。

 それが僕にとって、どれだけのストレスか彼らにはわからないだろうけれど。

 

「今の私は、家族と過ごす時間も、たった一人の友達と会う時間も削って自主訓練をしています。これからもずっと、アイドルである限りそうするつもりです」

「ま、待て。ちょっと、待ってくれ!」

 

 覚悟を語る僕の言葉を男が止めた。

 

「はい、なんでしょうか?」

「何だ、お前……お前は、アイドルになるために人間関係を捨てて来たと言うのか? 友人も家族も? アイドルになるためだけに……?」

「はい、私には足りない物が多すぎるので、六歳から自主訓練の時間を捻出するために削れるものは削って来ました」

 

 無駄な時間を削って作った時間も、幼い頃は十全に使い切ることはできなかったが。

 始めた頃は本当に酷かった。一時間もすれば疲労で倒れて、骨が折れた程度で熱が出た。脆くて弱くて泣きそうになった。

 壊れては治してを何度も何度も繰り返しながら、僕は千早に相応しい身体を作っていったのだ。

 

「六歳………」

「こういうのは早いうちに始めた方がいいと言いますし」

 

 本当は小学校も通いたくなくて、休むことも多かったのだけど。優が一緒に行ってくれるようになってから通学自体はするようになった。

 

「……一日の自主訓練の時間は、どれくらいだ?」

 

 髭の人の語気が弱まった気がする。

 一日の練習時間か。全盛期ほどではないけど、最近は結構復調して来たんだよね。春香も最近は家に来てくれないし、時間だけはたくさんあった。

 

「ここ一月くらいは、一日で二十三時間ほど自主訓練を続けられるようになりました。どうしても一時間は疲れて気絶してしまいますが、少しずつ気絶時間を減らせるようにしています。今は気絶状態でもダンスくらいはできるように訓練中です」

「死ぬぞッ!?」

「はい」

「はい、ってお前……まさか、それを毎日ってわけじゃ」

「もちろん、毎日ですが?」

「……イカれてんのかお前」

「これくらいできなくては、とてもアイドルなんて名乗れません。違いますか?」

「……」

 

 男が僕を見る目は完全に狂人を見るそれだった。

 狂ってると思うだろうか?

 そうだよ、狂っているよ。生まれた時からな。真っ当に生まれて、真っ当に生きて来た人間が、イカれ具合で僕と競おうとするな。

 

「アイドルとして純粋であるために、私は全ての人間関係を捨てて来ました。アイドルになるためだけに、全てを捧げて来ました。アイドルになるために。アイドルとして上に行くために。人生の全てを。残りの人生を。全て賭しています。……それでも、私には覚悟が足りないと思いますか?」

「う……ぐぅ」

「私にはもう、アイドルしかないんです。これしかないんです。私が持っている全てをアイドルに捧げると誓ったから、私は今ここに、アイドルとして立っています」

 

 全てを捨ててアイドルをやると決めた。その覚悟が薄っぺらいと言うのなら、その落ちた人の覚悟の度合いを聞こうじゃないか。

 そいつは、アイドルに何を捧げられる?

 僕はすべてを捧げられるぞ。

 

「それでも、まだ私には覚悟が足りませんか? その方と比べて、私の覚悟は足りていませんでしたか? だったら、私はこれ以上、何を捨てれば良いですか?」

「……」

 

 髭の男性は無言で目を逸らし、それ以上口を開くことはなかった。

 正直に言うと、その落ちた子がどの程度の覚悟があったのか、どのくらい努力をして来たのか、聞いてみたいという気持ちはあった。もしかしたら、僕には想像できないくらいに本気でアイドルを目指しており、僕以上に何かを捨てて来た人だったのかも知れない、と……。

 まあ、黙ったってことは、大した覚悟はなかったってことだろう。

 じゃあ、そこまでだ。僕には届かない。

 

「貴女の覚悟は……よくわかりました。努力をされて来たこともわかりました。……しかし、努力など誰もがして来ています。覚悟も……まあ、人それぞれですが、人生を賭けているのは如月さんだけではありません。結局のところ、この業界では実力が物を言います」

 

 何も言わなくなった男に代わり、僕に実力があるのかと問うて来た女性が話を引き継いだ。

 隣の面接官(髭の人)から「お前まだやるの?」という目が女性に向くが、女性はそれを黙殺した。よく見ると、女性の頬に一筋の汗が垂れている。はて、空調は効いているはずだが?

 

「……実力ですか」

「貴女がどうでもいいと言った子よりも、他の落ちた子達よりも、貴女が実力で勝っていると胸を張って言えるは物は何がありますか?」

「……私には……歌しかありません」

 

 相手の問い掛けに対し、僕はもう一度、失言を口にした。

 女性の表情が明らかに変わった。こちらを品定めするものから、若干だが焦り含んだものに変わる。

 それでも僕は何度だって言うのだ。何度だって、この失言(覚悟)を言ってやる。

 

「歌しかありません。……歌があれば、それでいいんです」

 

 何がどう良いのかなんてわからない。上手く説明できない自分の語彙力の無さが嫌になるけれど、歌が僕の本質だってことはわかる。それさえあれば、僕は何でもできる気がするから。

 誰が相手でも、何が立ちはだかろうとも、僕はそれら全てを倒せる。

 殺せる。

 それだけの努力をして来た。

 その覚悟を抱いて生きて来た。

 僕には歌がある。

 

「歌が上手いアイドルは居ないと、私は言ましたよね? それを聞いておいて、そう言いますか」

「はい。ですが、私には歌しかありません」

 

 先程、アイドルに歌が上手い者は居ないという話をされたばかりだ。この人相手に歌が上手いというのは禁句だ。それをわかっていながら、また同じことを口にした僕は相手からしたら馬鹿にしか見えないだろう。

 しかし、僕は取り消すつもりはなかった。

 だって、僕には歌しかないから。

 模倣の踊りも、全自動の楽器も、付け焼き刃の笑顔だって、今の僕にとっては歌の前では添え物にしかなっていない。プロデューサーは僕の良さを笑顔だと言ってくれたけど、未だ僕は笑顔を武器にできるようになってはいなかった。

 今の僕には歌しかないのだ。

 だから、僕は歌しかないと胸を張って言い切った。誰に笑われようとも、馬鹿にされようとも、自分の本質だけは見誤ることはできない。

 それに、プロデューサーは信じてくれたから。

 僕の歌が、この人達を変えると彼は信じてくれた。僕の武器は歌だと認めてくれた。少なくとも、今回の面接で笑顔で受け答えしておけば受かるとは言われなかった。

 だから、僕は僕の歌を信じることにした。プロデューサーの判断を信じることにした。あの人の判断を信じることは、間接的に僕自身を信じることになるから。自分を信じられない弱い僕が、唯一自分を肯定できるとするならば、プロデューサーの判断が正しいと信じられることだから。

 僕はプロデューサーを信じる。

 あの人が信じた僕の歌を、僕は信じる。

 

「……話は聞いていたのですね? それでも、貴女が誇れる物は歌しかないと……そう、言うのですね? 努力や覚悟よりも、歌だと……」

「はい」

「……そう、ですか…………本物、ですか」

 

 僕が真っ直ぐに頷くと、女性は何かを諦めたような顔をして瞳を閉じた。もはや語ることがないと言外に示すように。

 自分の問いを理解してなお、答えを変えない僕は相手からすれば馬鹿に見えるのだろうね。

 でも、それでいい。

 それを誇れる自分で在れるように、僕の歌に賭ける気持ちは本物だと思うから。

 だから馬鹿でいい。馬鹿にしていればいい。

 

「私の歌を聴かずに、私を判断しないで下さい。私の……如月千早の歌は、あなた達程度が切り捨てていいものじゃない」

 

 ──程度、と言った。

 目上の相手で、なおかつ自分の面接を担当する相手に対して、この言い草は失礼だと自分でも思う。

 相手方は無礼だと怒ったに違いない。明らかに不機嫌になり、こちらを睨み出した人が何人か居た。

 中には逆に嬉しそうに口元を引き上げる人も居たけど……。きっと、追い詰められて化けの皮が剥がれたと思ったのだろう。

 それこそ、どうでもいい。

 有象無象の三下が、僕の歌を聴かずに僕を評価するんじゃない。

 僕を本当の意味で評価したいなら、僕の歌を聴いてからにしろ。

 だから、聴け。僕の歌を。

 

「私がアイドルに相応しくないかは私の歌を聴いてから判断しろ。それが、私の答えだ」

 

 言い切った。

 

 シン——と、耳に痛くなるような沈黙が部屋に流れる。

 誰も何も言わない。

 僕は言うべきことを言った。あとは相手がどう反応するかだけだ。

 そして、このまま沈黙を続けられたら僕の負けだ。

 その事を理解している人間がこの場に何人居るか。少なくとも、僕が面接官だったら絶対に二度と口を開かないだろう。僕相手にこれ以上何か言わせたら拙い流れになると知っているからだ。

 だから、僕は待った。自分から口を開かず、相手が逆転の一手を打つのを。

 僕にとっての起死回生の一手を。

 

 そして、その時はやって来た。

 それまでずっと黙っていた一人の男が口を開いた。

 

「正直驚いている。先程までの……部屋に入って来たばかりの君と、今の君はまったくの別人に見えるよ」

 

 ──来た。

 ぎゅっと心臓が締め付けられるような錯覚を覚える。ぶっつけ本番で考えた策──大博打が当たっている可能性を前に、心臓が早鐘を打つのを感じる。

 賭けに勝ったか確証が持てないのは、話掛けて来た相手が、それまでずっと面接を見ているだけで一言も話しかけて来なかったナイスミドルさんだったからだ。他の面接官の思考は面接の中である程度読み取れていたので何と返せばいいかわかった。しかし、ただこちらを観察するだけで何も語らないこの人だけは予想がつかない。

 でも、僕には別の確証があった。この確証が当たっていれば僕の勝ちだ。

 やっぱり、この人が鍵だった。

 

「ご不快に思われたのなら謝罪いたします。ですが、取り消すことはしません」

「いや、結構。君からすれば、ここに居る全員が敵に見えたことだろう。その相手に敬意を払い続けろと言うのは酷だ。私達は大人で、君はまだ子供なのだからね」

 

 そう言って他の面接官達を見回すナイスミドルさん。それだけで、今まで硬い表情をしてた面接官達の顔から険が薄れていった。まるでさざ波が引いていくような変わり様に、これは大きいのを引きすぎたかも知れないとちょっと焦ってしまう。

 その動揺を悟られないためにも、全力で無表情を貫くことに注力する。ここで引いたら終わるぞ。

 

「君の覚悟はわかった。賭ける物の大きさも、費やした時間も知ることができた。……ああ、君が嘘を吐いていると疑っている者も居るが、私を含め、この件に”決定権”を持つ者は皆、その辺りを見抜く目はあるので心配しなくていい。かなり現実味の無い内容だったが、『君の言葉に嘘はなかった』。この私がそれを保証しよう」

「はい、ありがとうございます?」

 

 現実味がないってなんだろう。まあ、嘘だと思われたわけじゃないなら良いか。

 ナイスミドルさんが保証? をすると、それまで胡散臭そうに僕を見ていた面接官数人が顔色を変えていた。いや、それは良いのだけど、今度は僕を見る目が化物を見る目になっていたのは解せない。

 それとは別に、覚悟を訊いて来た髭の人と、実力を問うて来た女性の面接官が疲れたように同時に目頭を押さえていたのが印象的だった。仲良いの?

 

「その上で、改めて君に訊こう。君が誇れるものは、全てを捧げられる覚悟でも、常軌を逸した自主訓練を続けて来た努力でもなく、歌だと言うんだね?」

「? はい」

「はじめに他の者が君の長所や誇れる物を訊いた時、君は歌だと答えた。先程、君が言った覚悟も努力も、その歌と比べたら下になるんだね?」

「はい。私が誇れるのは……私の誇りは、歌にあります。それ以外は関係がありません」

 

 僕の答えを聞くと、ナイスミドルさんは腕を組み静かに目を閉じた。

 

「……」

 

 何も言わず、同じ姿勢のまま沈黙を続けるナイスミドルさん。

 その姿に周りの面接官達も困惑したのか、お互いに顔を見合わせている。再び僕の中に焦りが生まれる。まさか、誘導が失敗した?

 ナイスミドルさんは苦渋な表情を浮かべている。組んでいる腕を掴む指には必要以上に力が籠り、眉間には皺が増え、唇は小さく震えていた。

 それはまるで、自身の葛藤と向き合うところまで来ているが、その結論を出していいのかと自問しているように見えた。

 そうやって一分もの間、沈黙を続けたナイスミドルさんがゆっくりと瞼を開いた。

 

「……わかった。そこまで自信があるのなら、君の歌を聴こう」

 

 絞り出すような声で出された結論は、僕が望んだ答えだった。

 

「納得させるだけの歌を君が聴かせてくれたなら、私は君を認めよう」

「いいんですかっ? ここで如月を認めたら、あの方の改革に真っ向から対立することになりますよ!?」

 

 突然僕を認めると言い出したナイスミドルさんの発言に面接官の一人が慌てたように立ち上がった。

 

「せっかくここまで来たのに、そんな簡単に」

「……簡単に、私が決めたと……そう、思うかね?」

 

 さらに言い募ろうとする面接官に、ナイスミドルさんが簡単に決めたことではないと答える。その声から彼にとっても断腸の思いだったということが窺えた。

 

「あっ……いえ、それは」

「違うと思うならば、黙ってくれないだろうか。私は今、面接官としてここに居る。そして、彼女の審査をしている。……それだけのことだ」

「……はい」

 

 何も言い返せなくなった面接官が消沈した様子で席に着いた。

 

「さて、少し話が脱線してしまったね……。先程、君の歌で納得させてくれたならば認めると言ったが、当然、それは君の歌に納得がいかなかった場合、君にはシンデレラプロジェクトを諦めて貰うということになる。……それは構わないね?」

 

 念を押すナイスミドルさん。

 僕が子供だからと、態度を改めるよう他の面接官を窘めてくれた人ではあるけれど、同時に僕が子供だからと一度口にしたことを反故にはしない事は何となく雰囲気から伝わって来た。

 

「…………はい」

 

 僕は万感の想いを込めて、ナイスミドルさんの言葉に頷いた。

 

 ようやく、ここまで来れたか……。

 

 ナイスミドルさんの言葉に、まず僕が思った事はそれだった。

 同時に「ありがとう」と言いたくなった。僕に歌う機会をくれて、ありがとう。

 最悪、歌う機会すら貰えずに退室になるのではないかと不安だった。

 そうだ、僕は最初からここに持って行きたかった。歌えと言われるために、相手からの心象が悪くなることも厭わずに、全てを賭けて喧嘩を売った。

 これしか僕には手が無かったから。

 実力を見せることが僕の唯一の勝機だった。努力も、覚悟も、言ってしまえば言葉に過ぎない。それだけで僕をアイドルたらしめる何かを持っていると証明し切ることはできない。

 だから、僕は見てもらうしかなかった。……認めてもらうしかなかった。

 僕の実力を分からせる事しか、僕の努力と覚悟を本当に理解させる手段が無かった。

 ただし、僕から歌うことを申し出ても相手はそれを許さない可能性があったので、あちらから歌えと言われる必要があった。たぶん、プロデューサーの方からも僕は歌特化だと説明がされていたのだろう。僕が最初、歌が得意だと言った時の反応からわかった。

 でも、これは僕が歌えば実力がわかるから聴かないようにしたのではない。彼らは、プロデューサーが僕は歌が得意だと言ったから歌わせたくなかったのだ。

 つまり、ただの嫌がらせだ。つまらない意趣返しだ。

 そんな物のために、プロデューサーは……。

 今になって、僕がこの人達に良い印象を持たなかった理由がわかった。

 この人達は、彼を──プロデューサーを信じていないと思ったからだ。

 プロデューサーがシンデレラプロジェクトの責任者ならば、その彼を信用するべきではないのか。何故彼を信じられない。自分達の仲間じゃないのか。仲間なら信じていいんじゃないのか。

 仲間を信用していない彼らの態度、それが僕には許せなかった。僕にとって、仲間とは絶対的な存在だから。

 そして、それ以上に、僕は自分が許せなかった。

 自分の所為でプロデューサーは仲間から不信感を持たれてしまった。そのために、プロデューサーは彼らに頭を下げることになった。今回の面接のように嫌味も言われたのかも知れない。……僕がズルズルと拒否し続けた二ヶ月間ずっと。

 そんなことをしたこの人達に腹が立った。

 ……それをさせてしまった自分に腹が立った。

 僕が一番何様なのかと責められるべきだった。

 どこかで、僕はまだ自分が特別だと思い込んでいたらしい。特別でありたいと願って、特別な自分に縋っていた。

 プロデューサーにチャンスを貰った側、恩を受けている側なのに……。

 それを自覚しないで、何度も話を持って来てくれた彼を邪険に扱った。これだけ大きな会社で起きたプロジェクトの責任者が、わざわざ自分の足で話を持って行くことが、どれだけ負担になっているかなんて考えていなかった。

 あの日、初めて声を掛けてくれた時から、いったい何度無駄な時間を使わせてしまったのだろうか。仕事の時間を削った分、その埋め合わせのために彼のプライベートな時間は減ったことだろう。休む暇なんて無かったのかもしれない。

 それをさせた自分は、よりにもよって「相手してやっている」なんて気持ちでいたのだ。

 本当に、何様なのか僕は。

 自然と両手の拳を握ってしまう。自分の考えの至らなさに怒りを覚える。

 不器用だけど誠実に僕を見てくれた彼をどう労えばいいのだろうか。どうすれば僕に使った時間を「無駄だった」と思わせないようにできるだろうか。

 ……それは考えるまでもないことだった。最初からわかっていた。

 歌えばいい。

 そのために僕は今日ここに来たのだから。

 歌うために。彼に僕の歌を求められて来たのだ。

 だったら、歌えばいいだけだ。僕を悪く思っている相手の前だったとしても、あの人に恩を返せるならば僕は歌おう。

 僕の武器はやっぱり歌なのだ。敵を倒すなら歌だけで勝負をしなくてはいけなかった。

 だからこそ、僕はこの流れに持って行った。歌だけで全てのカタが付くように。

 

「私の歌を聴いて下さい。それで、ご納得いただけます」

 

 僕の言葉に、ナイスミドルさんが頷く。

 この部屋に曲を流すような設備は無い。楽器も用意して来てなどいない。当然、アカペラで歌うことになる。

 さあ、始めようか……。

 今この瞬間、僕に自重という安全機構は働いていなかった。

 元より本気で歌うつもりだったけど、それでは足りないと思った。本気だけでは届かないと確信があった。きっと、本気の歌では相手を納得させられない。何だかんだと理由を付けて駄目だったと言われるのがオチだ。

 だから僕は全力で歌う必要があった。

 全力──チートを使って歌うと決めた。それがどれだけの負担になるかなんてわからない。でも、今ここで全力を出さなければ、きっと誰も納得させられないとわかっているから、僕は命を賭けると決めた。

 

「はぁ……ふぅ」

 

 呼吸を整えながら、これまで稼働していたパッシブチートを停止させる。途端に訪れる身体の変調。今までと違う自分に変質した違和感が僕を蝕んだ。

 パッシブチートを切っただけで、こんなにも不快な思いになるなんて……。

 身体から何かの器官がごっそりと失われたような感覚に脱力しそうになるが、それを意思の力で無理やり抑えむ。

 まだ、やらなくてはいけないことがある。ここで倒れるわけにはいかなかった。

 もうひと踏ん張りだと、僕はパッシブチートの代わりにアクティブチートを稼働させた。

 穏やかな負荷でしかなかったパッシブチートから、劇薬に等しいアクティブチートの発動により一気に身体への負担が増す。

 想像していたものより辛い。ちょっと自分でも楽にいけるんじゃないかなとか思っていたけれど、そんな甘い展開は無かったらしい。

 でも、途中でチートの発動を止めるわけにはいかない。ここで止めたら次はいつ使えるかわからない。

 今の僕が歌を上手く歌っただけでは面接官達に届かないとわかっているから。無理やりにでも届かせる必要があった。

 納得してもらうんじゃない。納得させろ。相手に刻め、僕の歌を。

 だから、僕は”如月千早”を本当の意味で使うと決めた。

 ”如月千早”の才能を借りて歌うのは春香に聴かせた時にやったことだけど、今回は”如月千早”を乗せて歌う。

 簡単に言うと、「僕自身が”如月千早”になることだ」というやつだ。

 素早く候補から今の状況に相応しい”如月千早”を探す。早く終わらせないと身体が持たない……。

 このチートを使用している今、僕の身体は一秒ごとに壊れ続けている。いつもの”超”能力ではなく、条理を超えた”超能力”を使うようには僕の身体は出来上がっていない。

 でも、僕に焦りはなかった。間に合わなければ死ぬだけだから。それ自体は怖くないから。

 必要な”如月千早”は歌が得意な者だ。

 歌が得意ではない”如月千早”なんて居ないので、必然的に全員が対象になる。僕はその中でも、さらに歌に特化した”如月千早”を探した。

 見つかったのはあの日約束を歌った時に見つけたものと同種だった。歌特化の”如月千早”。人生の全てを歌に捧げた”如月千早”。ぶっちゃけ僕もドン引くストイックな人生を送ったヤベー奴である。

 ──それを、そのまま自分の中へと呼んだ。

 瞬間、目の奥がカッと熱くなり、神経が暴走したみたいに激痛が全身を駆け巡った。才能だけではなく”如月千早” そのものを読み込むことでチートの許容量を超えてしまった所為だ。痛みで叫び声を上げそうになるのを必死で耐える。ここで叫んだら元も子もない。奥歯が割れるくらいに歯を食いしばり激痛が通り過ぎるのを耐え続けた。

 だがそれも一瞬のこと。数秒もしないうちに身体に”如月千早”が馴染んで行き激痛も段々と薄まっていった。前よりも許容量と慣れが進化している。やはり、あの時からチート能力が増しているらしい。使えば使うほど馴染む気がする。同時に、失うモノも色々と増えて行っているけど。

 これで準備は整った。

 僕の記憶から自分の歌を馬鹿にされたことを知ったためだろう、僕の中の“如月千早“が早く歌わせろと騒いでいる。完全に面接官達をヤル気でいるようだ。これまで ”如月千早”相手に脳内会話なんてしたことないけど、頭の中で”如月千早”にもう少し待つようにお願いする。

 もう少しだけ待って欲しい。流石にこのタイミングでいきなり歌い出すのは拙い。唐突に歌って許されるのはミュージカルと超銀河系ロボットアニメの中だけだ。あと聖遺物適合者くらい。

 

「歌います……」

 

 静かに告げ、歌う体勢に入る。室内の人間の注目が集まる。

 これでスポットライトでもあれば、まるでステージの上みたいじゃないか。ステージならば慣れた場所だと、“如月千早“が調子を上げ始める。本番に強いタイプなのは心強い。

 今から歌うこの歌を、僕は知らない。

 曲の名前も、歌詞も、メロディだって知らない。

 この“如月千早“がいつの時代の出身かは知らないけれど、どこからか連れて来てくれた、千早の歌だ。

 遥か未来か、すぐそこの明日か。どこかの千早が奏でた歌だ。

 それを僕は歌う。今僕が歌える曲では足りないと”如月千早”が判断したから。相手は大先輩だ。その予測を信じて、僕はチートに身を任せる。

 どんな歌を聴かせてくれるのかと、余裕と侮蔑の視線を向け、僕を品定めする面接官達に答えを魅せる。

 さあ、聴いてよ。アンタらが聴きたがっていた如月千早の歌を。

 全力の僕達(私達)の歌を。

 

 

「  」

 

 

 

 名前も知らないその歌を、僕達(私達)はアカペラで歌い始めた。

 曲も何も無いからこそ、歌だけに集中できる。

 身体全体で歌う感覚。自分が歌を奏でる一つの器官になったような感覚。歌だけに特化した何かになった全能感。それらが僕達(私達)の歌を昇華させる。

 チートが回る。

 ”如月千早()”が歌う。

 僕の中で”如月千早()”が「  」を歌う。それに乗った──乗せられた僕が、歌を奏でる。

 歌うことは楽しい。歌うことで誰かの心が動くのは楽しい。それが幸せな気持ちなら、もっと嬉しい。

 目の前のこの人達相手に歌うことは、僕のことを好いてくれる人に歌うよりも楽しくない。でも、どんな理由でも、僕の歌を聴きたいと言ってくれたことだけは感謝しよう。

 そしてプロデューサーへの感謝を込める。僕の手をとってくれた貴方のために僕達(私達)は歌を捧げる。この世界で、たった一人の僕を見つけてくれた貴方に、全力の歌を贈ります。──”如月千早()”には、そんな人間は終ぞ現れなかったから。

 そうやって、僕達(私達)は色々な感情を込めて今の自分達にできる最高の歌を歌い続けた。

 

 

 

「……」

 

 歌い終わると室内は静まり返っていた。誰一人声を上げることがない。

 静寂の中で空調の音だけが耳に入って来る。

 僕が歌を披露していた時は当然、面接官達も黙っていてくれていた。それが終わった今ならば、その必要もないので話し始めてもいいはずだ。それなのに、いまだ誰も口を開こうとしない。

 面接官達は全員、口を半開きにしながら固まっていた。何かを言いかけて、そのまま止まってしまったかのような姿だ。

 持っていたペンを手から取り落とした人。飲みかけていたお茶を傾けたまま足に注ぎ続けている人。ただただ呆然とした顔で固まっている人。多種多様なポージングを決めている彼らだったが、共通して誰もが指一つ動かさずに止まってしまっている。

 ちょっと変どころの話ではなく、言葉にしにくい怖さを感じる光景だ。今度こそ助けを求めようと、千川さんの方に顔を向けると、彼女も彼女で驚愕の表情で固まっていた。貴女もかぁ。

 

「あの……終わり、ましたけど」

 

 いつまでも止まったままでいられても困るので、躊躇いがちに終わったことを告げる。

 そこでようやく、止まっていた時間が動き出したかのように、室内に居る人間が動き出した。

 それまで自分がどうしていたのか理解できていないように焦った顔で周囲を見渡している。それが全員だ。全員同じ反応を見せていた。

 しかし、その後の行動は各々違った。

 両手で顔を覆って震えている人。眼鏡を拭こうとして、ハンカチを落としたのに気付かずに素手でレンズを拭いている人。ただ黙って目を瞑り動かなくなってしまった人。

 髭の人は元の悪人面をさらに悪そうな笑顔で塗り固めてこちらを見ていた。その隣の紅一点さんは一回り老けた顔で肩を落としている。

 そして、ナイスミドルさんは全ての憑き物が落ちたかのような、とても晴れやかな表情で笑っていた。

 各々が好き勝手に挙動不審になっている。何も知らずにこの部屋を見た人がいたら、精神病棟と間違えるのではないかというくらいの異様な光景だった。

 しかし、皆に共通していることもある。

 この部屋に居る人間全てから、先程まで感じていた威圧感が消えていた。

 僕に向けていた猜疑、不満、怒り、そういった負の感情がすっぽりと消えている気がする。

 まるでそんなもの最初からなかったかのように。

 

「えっと……?」

 

 歌っただけにしては異常な反応だ。何だこれ……。

 見事だと称賛くらいされると予想していただけに、こういった反応を見せられると反応に困るのだけど……。

 

「終わりましたけど」

 

 もう一度、終わったことを知らせる。これで駄目だったら外のプロデューサーを呼ぶしかない。ここでもまた彼に迷惑を掛けてしまうと暗い気持ちになる。

 その必要はなかったけど。

 

「あ、ああっ! ご、ご苦労様。審査は以上だから一旦退室してもらって構わないよ。控室の方で待っていて下さい」

 

 若い男性が慌てた様子で立ち上がると退室を促した。

 

「あの、今回控室は用意してありませんが……」

「えっ……」

 

 僕に聞こえて欲しくないのか、千川さんが声を控えめにして男に伝えると、彼は小さく声を上げ段々と顔色を悪くしていった。

 急病かな?

 まさか控え室が用意されていなかっただけで、こんな反応はあり得ないだろうし。

 

「で、では、歌って喉も乾いただろうし、販売機のある休憩所の方で休んでもらうということでどうだろうか? 千川君、すまないが彼女を見ててあげて」

「あ、はい。承知いたしました」

「頼んだよ?」

 

 若い男に代わって今度は初老の眼鏡を掛けた男性が休憩所の使用を提案して来た。

 良いこと言ってやったぜってドヤ顔なのはいいけど、貴方の眼鏡指紋でべったりと白く濁ってますよ。それだと前が見えないだろう。

 とにかく部屋から出ることになった。まだ結果を聞かされていないんだけど?

 僕は果たして面接官達を納得させされたのだろうか。結果が気になりつつも千川さんに促されてしまったので仕方なく部屋から出る。

 部屋を出ると廊下を挟んだ壁際にプロデューサーが直立不動で立っていた。扉側に立たなかったのは中の話を聞かないためだろうか。律儀なのか融通が利かないのかわかんないね。軽く見回してみても、さっきの話し相手の人の姿は見えなかった。

 僕と入れ違うように今度はプロデューサーが部屋へと入っていく。その際プロデューサーを見るとばっちり目が合った。僕と目が合ったプロデューサーがはっきりと首を縦に振った。ここからは任せろということらしい。

 後は頼みましたよ、プロデューサー。

 僕の仕事は終わった。後はプロデューサーの手腕に懸かっている。不思議と詰めの部分では、きっちり決めるタイプに思えた。

 とりあえず、僕の仕事は終わったと溜息を吐き、千川さんの後ろを付いて歩き出す。

 その瞬間、身体中に鋭い痛みが走った。

 

「っ──ぅ」

 

 小さく声が漏れる。思ったよりもチートの反動が大きい。今はまだアクティブチートが発動している状態なのでパッシブに切り替えられない。

 たぶん、今切り替えたら大変なことになる。本当なら一秒でも早くパッシブに戻したいけれど、切り替えの瞬間を千川さんに見られるわけにはいかないのでそれもできない。

 我慢するしかないか……。

 身体のあちこちから骨を数本ずつ抜き取られたような痛みが断続的に襲いかかる。すぐにでも叫びながら床を転げ回ってしまいたくなる。

 僕はその激痛を意思の力だけで抑え込んだ。 画竜点睛を欠くわけにはいかない。ここまでやっておいて突然絶叫を上げる変人と思われるわけにはいかなかった。

 休憩所まで僕は千川さんに気取られないように痛みに耐え続けるのだった。

 

 ようやく痛みに慣れて来たところで休憩所に辿り着いた。ここまでの道のりが酷く長く感じた。服の中は汗でびっしょりになっている。

 休憩所に着いた僕は千川さんに買ってもらったドリンク(経費で落とすらしい)を手にすると近くのベンチへと腰を下ろした。しばらくはまともに立ち上がれる気がしない。

 

「それにしても、凄かったですね!」

「……はい?」

 

 ドリンクを一口飲むと、千川さんが開口一番そんなことを言って来た。一瞬何を言われたのか理解できなかった僕は曖昧な反応を返す。

 

「歌ですよ! 私思わず聴き惚れちゃいました!」

 

 興奮した様子で詰め寄って来る千川さんにちょっと引いてしまう。あんまりこういう絡み方をしてくる人には見えなかったので意外だった。

 

「ありがとうございます。ご満足いただけたようで何よりです」

「あの歌、ずっと練習されていたんですか?」

「いえ、今日初めて歌いました」

「ええっ!?」

「何か?」

「……あのプロデューサーさんが珍しくゴリ押ししてくるから不思議に思っていましたけど、納得の人材といったところですね」

「はぁ、それはありがとうございます?」

 

 神妙な顔で僕を見つめる千川さん。

 何やら彼女の中で僕の評価が大きく変動したようだ。

 しばらくの間、千川さんはふむふむと何やら納得顔で頷いていた。こういう可愛らしい所作が似合う人だったんだな。うっかり惚れそうになる。声も可愛らしくて素敵だ。アイドルだったら電気系統の能力者になれただろう逸材だ。

 

「私もプロデューサーさんに色々入れ知恵した甲斐があったというものです」

「入れ知恵?」

「プロデューサーさんが如月さんのスカウトに手間取っていたみたいなので、そういう奥手な女の子にはストレートに畳みかけるように誘うのが一番効果があると教えたんですよ」

「……」

 

 あ、アンタが犯人かああああ!?

 あの公衆の面前で行われた公開処刑の黒幕が目の前に居た。えー、引っ叩くの? 僕はこれからこの人を叩かないといけないのん?

 まあ、叩かないけどね。この人の助言のおかげで僕はここに居られるわけだし。そういう意味では、千川さんには感謝している。

 でも、それでは拳の降り下ろし先が見つからない。叩きはしない代わりに、千川さんには台詞のチョイスに文句は言っておこう。

 

「やはり、女性視点から見たやつということなのでしょうか。それでも、あの恥ずかしい台詞は無いと思いますけど」

 

 中身男の僕にはあんな台詞思い浮かばないから、女の人が考えたのかなって思ってたけど千川さんなら納得だ。こんな可愛らしい人が、ああいう台詞を必死に考えている姿を想像すると萌えるね。

 

「台詞、ですか?」

 

 だが千川さんは不思議そうに顔を傾げるのだった。

 あれ、自分で吹き込んでおいて内容忘れてる?

 

「貴女が必要です。絶対後悔させません。貴女が欲しい……とかですよ。あまりに真剣に言うものですから、思わず頷いてしまいました」

 

 今思い出しても顔が火照ってしまう。

 

「……」

 

 ん? 何か千川さんが動きを止めているぞ。

 と思ったら目が凄く泳いでいる。顔色が悪くなっているし、表情も何か「やっちまった」って感じだ。

 

「あの、如月さん……一つ、いいでしょうか?」

「何でしょうか?」

「今の台詞をプロデューサーさんに言われて……その、どう思われました?」

 

 どう思ったか?

 前世含めて、誰かにあそこまで強く必要だと言われたことがなかったから、驚いたというのが率直な感想だ。

 あとは、あんな風に誰かに必要とされた事がなかったから嬉しかったのを覚えている。僕の人生において数少ない良い話の一つだから、死ぬまで覚えておくつもりだ。

 

「率直に言って、凄く嬉しかったです。情熱的で……あそこまで、まっすぐに求められたことがなかったので……とてもドキドキしました」

 

 同性からとはいえ必要とされるのは良いことだ。仕事ができる人間に必要と言われるのは何か良いよね。前世では出来る上司を持つ機会がなかったから余計新鮮に感じる。あんな人が上司だと仕事にもやる気が出るだろうね。

 こんな感じでいいだろうか?

 

「……」

 

 反応が無いと思ったら千川さんが小刻みに震えていた。

 大丈夫だろうかと心配になる。

 

「顔色が悪いようですけど大丈夫ですか?」

「大丈夫です……いえ、大丈夫じゃない?」

 

 どっちだよ。

 

「あの、気分が優れないようでしたら誰かお呼びしますけど?」

「いえ、本当に大丈夫です。大丈夫じゃなかったですが」

 

 だからどっちだよ。大丈夫なの? 大丈夫じゃないの?

 

「とにかく人を呼ぶ必要はありませんので」

「それならいいのですが」

「……むしろ誰か呼ばれて事情を訊かれても説明できません」

「? 何か言いました?」

「いえいえ」

 

 取り繕った笑みではぐらかされてしまった。まあ、問題ないのならいいんだけどさ。

 

 

 しばらくするとプロデューサーがやって来た。

 表情から察するに上手く纏まったようである。先程より幾分明るくなっているのがわかった。

 対して隣の千川さんが困った奴を見る目でプロデューサーを見ていたが、こちらは表情から理由を読み取ることはできなかった。

 

「全員が如月さんの採用に納得されました」

「それは良かったです」

 

 予想していたこととはいえ、こうしてきちんと言葉で聞くと安心する。

 これで晴れて僕はアイドルになったわけだ。

 そう思うとテンションが上がるというものだ。苦節十五年の苦労が報われたのだから当然である。色々な人に迷惑をかけ続けた分、これからは恩を返せるようになろうと僕は心の中で決意の炎を燃やすのだった。

 

「……」

 

 しかしそれも、プロデューサーの表情が少し硬いことに気付いたことで萎んでしまう。

 何その不安を煽るような顔は。普段から硬い人がより硬い顔をしていると不安しか湧かないんだけど。まだ何か僕に試練を与えるつもりですか。

 

「どうかしましたか?」

「……いえ、何も」

 

 恐る恐る訊ねてみるとはぐらかされてしまった。何か僕について言われたのだろうか。それは僕にとってあまりよろしくない類の話だったとしたら彼が黙っているのも仕方がない。こういう時に全部言って欲しいと思うのは僕の我儘だ。

 でも頼って欲しいと思う僕も確かにここに存在するのだ。それを否定するわけにはいかない。いつの日かこの人に頼られる人間になろうと密かに誓った。

 

「これをもって本日の審査は終了です」

「はい」

「そして、今この時から貴女はシンデレラプロジェクトのメンバー……アイドルになりました」

「アイドル……」

 

 改めて言われると感慨深いものがある。

 率直な感想は「嬉しい」だった。それ以外の感情もあったけれど、やっぱりこれまでの苦労が報われたら嬉しいんだ。それが一番だった。

 

「私を見付けてくれて本当にありがとうございました」

 

 万感の思いを込めて頭を下げる。

 見付けて貰って本当に良かった。この人で良かった。

 アイドルになれて良かった。

 

「ありがとうございます、プロデューサー」

 

 もう一度感謝の言葉を贈る。何度言っても足りないくらいにありがとうの気持ちが止まらない。

 ありがとうの言葉以上に、この気持ちを伝える言葉が存在しないことがもどかしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 オマケ

 

 プロデューサーと千川さんの見送りを受け、建物をあとにした僕は足早にその場を立ち去った。

 早く。

 早く、早く、早く。

 もうすぐチートが切れる。切り替わる。

 すれ違う通行人の間を擦り抜け、人通りの少ない路地裏を探す。

 

「あった! ──うぐっ?」

 

 都合の良さそうな路地裏を見つけて気を緩めた瞬間、チートの恩恵が切れた。

 ”如月千早”が身体から抜けていくのがわかる。一瞬だけ、こちらを心配する女性の気配を感じた。完全同調はこれが初めてだけど、今のが千早本人だったのかも知れない。

 だが、今はそのことに構っている暇はない。

 すでにチートは切れている。ここからパッシブチートに切り替わるまでの間を誰かに見られるわけにはいかない。

 ふらつく足に鞭打ち、最後の力を振り絞って路地裏へと駆け込んだ。

 

「つ……」

 

 ブツン、という何か太い物が千切れたような音が頭の中に響いた。

 

「あ……」

 

 瞬間、体から全ての力が抜け落ちる。

 ぎりぎりで路地裏に入った僕は、そのまま地面へと前のめりに倒れ込んだ。

 受け身を取る余裕すら無い。完全に体が脱力して、腕で体を庇うことすらできなかった。何とか顔面から着地することだけは回避する。

 

「あ……あ」

 

 体中が痛い。

 頭から爪先までが丁寧に摺り潰されるような感覚が途切れることなく襲う。

 崩れた細胞と、パッシブチートに切り替わったために新たに創られた細胞とが入れ替わる感覚。

 崩壊よりも再生の方が早いためか、細胞同士が押し合いになり身体を内側から弾き飛ばそうとする。

 

「……あ」

 

 叫ぶ力すら湧かない。

 ただ、激痛と不快感の波に魂ごと漂白される感覚に意識を飲み込まれないように耐えることしかできない。

 今意識を失えば、次はいつ目が覚めるかわからない。

 痛みすら気付けに利用して、必死で意識を繋ぎとめる。

 

「……う、う」

 

 必要なことだったから、後悔はしていない。

 でも、一つだけ気を付ければ良かったと思ったことがある。

 ろくに清掃もされていない路地裏の地面に倒れ込んだせいで、お母さんに買って貰った服が汚れてしまった。

 

「ふ……ふふ」

 

 この状況で服の心配をした自分に笑い声が出た。激痛の中でも笑い声って出るものなんだね。

 自分が笑っていることに気付かぬくらいに、今の僕は余裕が無かった。

 

「あ、は、はは」

 

 激痛と虚脱の中、僕は一人路地裏で笑い続けた。




三行あらすじ。

武P「どうも、ファン1号です」
千早「うおお、よろしくアルティメットバースト!」
面接官&ちひろ「ぐわああああ!」(心ボキッ)

以上。


ちひろが最初から仲間側だと思ったか!? そんなわけあるか、この馬鹿めー!
実は最初敵寄りだったちひろさん。でも黒幕ではない。中立寄りの敵側程度です。

?「千川ちひろが絆されたか。しかし、やつは如月千早アンチ四天王の中でも最弱。問題はない。小手調べとしては丁度良かったというもの」(精一杯のキャラ作り)
?「それってー、データとりってことですかー?」
?「捨て駒とも言うわね。わかるわ」
?「誰がとりをやるか、とりあいですね。ふふっ」
?「あの、四天王と言いながら五人以上いるんですけど……」

くっ…!
アンチ四天王(四人とは言ってない)だと?
いったいどこのどいつなんだ…!?
まったくわからない!

前のあとがきで千早がかなり嫌われているような事を書きましたが、全員が全員千早を殺したいほど憎いと思っているわけではありません。安心してください。
「なんかこいつ嫌な感じのやつだな」程度が大半です。まあ、第一印象でそれ以上の良評価が絶対貰えないというのも大概ですが。体質だから仕方がない。
しかし、良くないと言いつつ、そこまで黒くないのがアイマスクオリティ。
「こいつ(千早)さえ居なければ……」
みたいな病み〜な人はそんなに居ません。十人以上は居ないと思います。


第一回、チート覚醒回。

今回のチート覚醒により、千早の価値観変動が起きました。チート先の千早の価値観を僅かながら貰ってしまっているのである意味副作用。
それ以上にプロデューサーというファンを得たことで舞い上がっています。混乱してテンパってやらかし具合に拍車をかけています。詳細はアルティメットな初仕事参照。


面接官達は千早を追い込み過ぎましたね。
自己完結タイプの千早ならば、面接官から早々に諦める選択肢を提示されていたら終わっていました。しかし、駄目押しのつもりで追い込んだら逆に覚醒されたという展開。
メンタルクソザコナメクジの千早ですが、一人で抱えて耐えるのは得意です。二年どころか、生まれてから十数年も抱えて生きてきたくらいですから。
抱えている間に追い出せば良かったのに追い込んだことで千早が武Pに頼るという選択肢をとられました。一応武Pに頼るのを阻止するために彼を室外に待機させたわけですが、それもチート能力であっさり突破。
千早は自分を肯定されることの喜びを知ってしまいました。武Pからの信頼=自分への自信となり、自分がこれまで積み上げて来たことの強さに気付きました。そこからはもう「この程度の圧力がなんぼのもんじゃい」という感じです。
面接官達からすれば、それまでオドオドと視線も定まらず言動がふらふらしていた変な少女が、いきなり人が変わったように真顔で反論してきたわけですから本当に誰だコイツ状態だったでしょう。
努力も覚悟も実力も、プロデューサーというファンに選ばれた自分の方が落ちた相手より上だという自信を持ちました。
そこからは面接官達がなにを言っても「だからどうした?」と一ミリも揺るがない精神性を発揮したため、彼らには千早を自主的に辞めさせる選択肢がとれなくなりました。
面接官側としても強硬手段で無理やり不採用はできない状態になっており、あくまで千早本人が辞退したという体裁が必要でしたので、ナイスミドルさんが歌うことを許した時点で詰んでます。
で、実際歌を聴いてみたらイカれた努力に相応しい化物染みた実力者だったとわかり、その後武Pのダメ押しのポエムで満場一致で千早は採用となりました。

ちなみに、あれだけ最終選考に残った子を推していた面接官達が何で未央の方を採用したのかというと、単純に未央の方が優秀だっただけです。
未央は千早と違って面接官(審査員)達の価値観的に沿って勝ち進んで行った子なので、面接官達にも気に入られていました。
落ちた子は未央と同等の才能を持っていましたが、武P基準では落ちた子の方に魅力を感じなかったので不採用。スマイルオブパワーに相応しい未央が受かったというわけです。
卯月は最初からスカウト枠としてカウントされていたので対象外。オーディション枠を1枠削る原因かつ武Pの仕事放棄の原因かつ無駄に時間使うことになった原因の千早だけが嫌われてました。
今回審査ではなく面接を受けさせられたのも千早には不利になる要素でしたね。

後日、千早がどんな努力をして来たのか知った面接官達は「あ、こいつやばい方のやばい奴だった」と理解し、すぐに武Pを呼び出し千早の扱い方について会議を開きました。
雪の中ダンスレッスンするで→寒くて体動かないぜ→体が動かない場合の練習になるぜ→意識が朦朧としてきたぜ→限界に近い時でも動ける練習になるぜ→体が動かないし雪が積もって生き埋め状態だぜ→体力ゼロから復帰する練習になるぜ。
ダンスの練習するぜ→24時間ぶっ続けで踊ってたら足が折れたぜ→足が折れた状態でライブやる練習になるぜ。
そのほか、富士山往復ダッシュ、青森尻屋崎〜北海道稚内トライアスロン(自転車無し)、富士の樹海でのサバイバル、というお前本当にアイドルを目指しているんだよなという突っ込みが入る自主訓練内容を知った面接官達は頭を抱えました。
こんなイカれた練習をやっておいて自信を持つまで努力不足だと思っていた狂人の扱い方など一般人の彼らにわかるわけもなく、すぐに「手綱とってね? 頼んだよマジで」と武Pに一任してしまいました。

面接官「話がちげーじゃねーか! 誰だスカウトされて浮かれている世間知らずのガキだって言ったやつは! こっちは一般人なんだよバカヤロウ!」
未央「」←面接官のせいで無駄にハードルを上げられた人。


今回落ちた子に対して千早がどうでもいいと言っていますが、感情移入は結構しています。自分と同じ絶望を味わった仲間として。
卵編でも初仕事編でもたびたび相手のことに言及しています。が、具体的にどういう子だったのか教えて貰えてないので、どうしても扱いは軽くなってますね。面接官側には思い入れのある子だろうと、千早からすると顔も名前も知らない唐突に現れた他人なので。
今回千早の対比役として存在だけ示唆された落ちた子ですが、彼女も上げて落としてという絶望を味わっています。しかし、絶望具合で言えば落ちた子はオーディションに落ちただけです。千早の方は十五年の人生の全否定とアイデンティティの崩壊も同時に訪れたわけなので上な気がします。
それでもどうでもいい、甘ったれるなという言葉は強く厳しい言葉だったと思います。普通の人は相手が目の前にいなくても言いません。千早の場合は本人を前にしても言います。


普通に考えて今回のお話は武Pと千早の方が悪者ですよね。
ただ、そもそもオーディション枠がアニメと違い2枠になった理由まで遡ると武Pの方が被害者になります。じゃあ被害者なら何してもいいかというとそういうわけでもなく。じゃあ被害者は何してもいいわけじゃないとなれば、今回千早にヘイトが集まったのも筋違いになりますし・・・という、誰が悪いの論争。
まあ、誰が一番悪いかと言えば…専務じゃないかなー、とだけ。


アニメ2話目の時間軸で究極進化済みの歌唱力持ちがラスボスじゃなくて主人公という理不尽。被害を被るのは他事務所ではなく仲間の方。ジムバッヂ1個しかないのにレベル80のカメックス拾っちゃったような感じでしょうか。
しかも「この千早は覚醒するたびにチートがはるかに増す・・・その覚醒を2回も残している・・・その意味がわかるか?」という絶望。チートの方もまだまだ伸びしろがあります。

今回の一件で改めてプロデューサーは自分が釣った魚の大きさに驚いたことでしょう。正念場と言える最終面接を千早本人が自力で乗り切ってくれたので非常に助かったはずです。仮にこの面接が駄目だった場合、プロデューサーは最終兵器の発動を余儀なくされました。それが何かはプロデューサー視点で。
釣った魚の千早ですが、この魚はエサ代がほぼかからないくらい低燃費です。チョロインなので。笑顔で頭を撫でながら「君が必要だ」と言えば一生付いて来るレベル。本人には自覚がありませんが如月千早を必要とされることに飢えてます。そこを的確に突いた武Pはラスボス系チートアイドルが最初から味方状態。
ギャルゲで言えば幼馴染ヒロイン枠。簡単に個別ルートに入れる。しかしルート確定後は選択肢1個間違えると即バッドエンドみたいな面倒なチョロインです?



次回は初めてのライブに向けて千早達三人がレッスンを受けます。
卯月と未央という初心者と一緒に練習することになった千早ですが、誰かと一緒に何かをやるという経験が一度も無いという事実に気が付きます。
他人を排して来た千早に他人と合わせることができるのか。
毎回リズムが違う(ミリ秒単位で)。毎回振り付け位置が違う(ミリ単位で)。
そんなズレている二人を前に「ユニットメンバーに合わせる」ことの困難さを知った千早がとった行動とは。

千早「……投影 ( トレース )……開始 ( オン )」(言ってみたかっただけ)


次回「アルティメットな初ライブ」


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アルティメットな初ライブその1

 昔の……、少しだけ過去の記憶。

 

『あの……』

 

 初めて声を掛けられた時は、よくあるキャッチの類かと思った。

 

『──? ────?』

 

 その時の自分は何と言葉を返しただろうか。今ではよく思い出せない。

 あの子との待ち合わせの途中だというのに、邪魔をして来た相手を快く思わなかったのもあって邪険に扱った気がする。

 相手の顔も見ずに断った。これまでの相手なら、それだけで脈なしだと理解して引き下がるのに、その相手は違った。引き下がらず、むしろもっと積極的な姿勢で声を掛けて来たのだった。

 そこで初めて相手の顔を見て悲鳴を上げかけたのは内緒だ。だって、あんな顔で突然現れたら誰だって驚くって。

 あんな強面に突然声を掛けられて、まともに応対できる人間なんているはずがない。

 しかし、相手の何か切羽詰まったような、思いつめたような顔で一枚の名刺を差し出す相手の姿に無視するのも悪いと、つい名刺を受け取ってしまった。

 

 ──346プロダクション。

 

 自分でも聞いたことがある名前のアイドル事務所の名前がかかれた名刺(ソレ)に、思わず相手の顔と交互に見比べてしまう。

 この目の前の強面とアイドルという単語が上手く結びつかない。

 どう見てもその筋としか思えない顔の人間が、アイドルのプロダクションに所属しているという事実に頭が混乱する。

 

 と言うかだ。

 これを渡して来たということは、当然続く言葉はアレなのだろう。

 

『アイドルに興味はありませんか?』

 

 ほら、やっぱり。

 その言葉は聞き飽きている。

 そこらを歩いていれば嫌というほど掛けられた言葉だ。

 耳にタコができるくらいに聞いたセリフだった。

 しかし、その時の自分は、なぜだか相手の話を聞いてみようという気になった。

 不思議なことに。

 

 アイドルに興味があった──それもあるだろう。

 相手の態度が必死で見ていられなかった──それもあるだろう。

 

 ああ、でも、やっぱり。どれも違うのだ。

 

 我ながら女々しい──いや、乙女チックとでも呼べばいいのだろうか……。

 この時の自分は、この出会いに柄にもなく運命というものを感じていたのだ。

 

 そう気が付いたのは、全部終わった後だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 自分の中で設定した起床時間に目が覚めた。

 刹那のラグも無く、脳と体が覚醒する。パチリと開いた両の目が澱みも翳みも介さずに、いつも通りの天井を映す。

 睡眠中ですら“如月千早”が回り続けている僕の身体は、朝目が覚めた瞬間から万全な状態に整っている。起き抜けの気怠さなんて無い。やろうと思えば起き抜けに全力ダッシュをすることも可能だ。オンとオフの間が存在しない機械の様な覚醒……。いや、機械にすら存在する暖機すらないのだから機械以上に機械的だ。

 僕にとって、睡眠には脳と身体を休める以上の意味が無い。休憩はあっても休息は無い。僕の精神活動が続く限り休憩すら必要がないくらいだ。

 それでも、優やプロデューサーから十分な休息をとるようにと言われているため、こうして欠かさず睡眠をとっている。

 

「おはよう、千早」

 

 最近の僕の日課に、こうして千早に挨拶するというのが増えた。

 この行為に自己満足以上の意味はない。

 

 ベッドから身を起こし、枕元に置いてあったケータイの着信履歴を確認する。これも最近の日課だった。

 春香からのメールが十四件。

 優からのメールが一件。

 プロデューサーからのメールが一件。

 

「……んー」

 

 春香と優のメールを後回しにして、プロデューサーの仕事用スマホから送信されたメールを開く。

 そこには今日の予定が簡潔に記載されていた。

 今日は、先日決まった城ヶ崎姉のライブのバックダンサーをするにあたり、島村と本田とともにダンスレッスンを受けることになっている。

 その集合時間や集合場所などの情報が、プロデューサーらしい几帳面な文面で綴られていた。

 

「合同練習か……」

 

 初めての仕事の日、ライブへの参加が唐突に決まった。その話を持って来たのは、この間から何かと縁のある城ヶ崎姉だった。

 どういう意図でこんな真似をしたのかわからない。アイドルになりたての僕達を自分のバックで踊らせるリスクなんて城ヶ崎姉ならわかっているはずだ。

 当然それはプロデューサーも理解しているはずなのに……。

 それが僕達を信頼しての決断だというのなら絶対に期待に応えたい。でも、それが周りのゴリ押しの結果だとしたらどうしよう。

 明らかに力量が足りない中で初めてのライブに出る。新人の初ライブではないのだ。所属する事務所の大先輩のライブなのだから、失敗上等という気持ちでいたら火傷では済まない。

 そこで失敗した時に果たして本田と島村は耐えられるだろうか?

 僕は……。

 まあ、僕自身は絶対失敗しないからね。

 だから、同じバックダンサーに選ばれた二人の方を心配するのだ。

 

「でも、プロデューサーが決めたことだから」

 

 プロデューサーが最終的に僕達でも大丈夫だと判断したのならば、たとえそれがどう言う事情があったとしても、その判断を信じる。プロデューサーが信じてくれる限り、僕はプロデューサーの判断を信じよう。

 だから、プロデューサーが信じた二人を信じる。

 

「……頑張ろう」

 

 ライブへ向けて気合いを入れ直すと、他にも来ていたメールの確認をする。

 やはり春香のメールはバラエティに富んでいていいね。ちょっと肌色成分が高すぎて困るけど。

 寝起きの肌艶チェックとタイトル打ってきわどい写真が添付されていた。僕のケータイの画質が悪いのでよくわからないけど、着崩したパジャマの間から垣間見える下着が刺激的すぎて困る。

 何と返せばいいのかわからないので、とりあえず『色っぽい』とだけ返しておいた。

 優のメールを見ると、そちらは相変わらずお小言めいた内容だった。僕が仕事先でやらかしていないかと心配なのだろう。

 優は心配性だなぁ。

『何も問題ないよ』と返しておいた。

 今度家に遊びに行った時にでも僕の仕事ぶりを聞かせてあげよう。

 

 時間を確認すると、まだ出勤時間まで余裕があった。

 時間があるならば可能な限り趣味に使いたい。だから趣味の自主訓練をすることに決めた。

 ちょっとだけFAQ2にログインしようかなとも思ったけれど、貴重な余暇をゲームに使う気にはならなかった。

 できれば精神と時の部屋みたいな極端に時間の経過が遅い空間に日間で籠っていたいなぁ。

 

 レッスン用ではないジャージを着て、中学時代から使い続けている運動靴を履いて部屋を出る。

 まだ日の出前とあって外は暗かった。

 円く太った月が時間的にはまだ夜なのだと告げるように家々の隙間から覗いているのが見える。

 

「ん~……!」

 

 特に意味はないのだけれど、準備運動の代わりに背筋を思いっきり伸ばす。身体が凝り固まるなどの煩わしい現象とは無縁の身には、この動作すらそれっぽさを演出する以上の意味はない。

 着実に人から外れて行っているという自覚はあった。所詮この身は、如月千早という外殻に僕と言う魂が入り込んでいるだけに過ぎない。だから人間らしく振る舞う意味は無い。それでも僕がそれらを行うのは、まだ僕が自分を人間だと思っているからなのだろう。

 

 ——と、数年ぶりに再発した病気(中二病)を発揮させる僕であった。

 

 

 

 

 自主練から自宅へと戻って来たら予定していた出勤時間が迫っていた。

 現在時刻は午前九時三十分を回ったところだ。予定では十時前には出るつもりだったけど、ついつい気合いを入れて自主練に勤しんだことで時間が心許なくなってしまった。

 世の一般女性と違い、出掛ける前の化粧等が不要の僕であっても、さすがに朝から走り回った後にはシャワーのひとつでも浴びたくなる。やろうと思えば汗や汚れを綺麗に除去可能なのだけれど、服に付いた物まではその力も及ばないため着替えは必要だ。さすがに汗臭い服で出勤するのは良くないことくらい僕でもわかる。

 汗や皮脂の分泌を止める方法もある。しかし、その場合の身体への影響を考えて生理現象はあまり切らずに生活している。ただし、排泄行為全般は引き篭もり時代から不要にしているのは、アイドル的には正しいと思うのだった。

 しかし時間も無いことだし、今日のところは着替えだけして出るとしよう。

 

「ん?」

 

 着替える前に、ポケットに入れていたケータイを取り出すと新着メールが来ていた。

 プロデューサーのプライベートアドレスからだった。

 中身を確認する。

 

 件名:追伸。

 本文:お昼に時間がとれたので昼食は一緒に食べましょう。

 

「……なんでさ」

 

 最近、プロデューサーの食事管理がきっつい。

 何かあると食事の話を振ってくるようになった。それまで自主練の内容について口を出して来ることはあっても、こういう事には何も言わなかったのに。やっぱり、この間の栄養管理の話が原因だよね。

 彼が僕を心配するのはいいけれど、わざわざ一緒にお昼を食べようとしなくてもいいと思うんだ。ちゃんと食べろと言えば食べるのに……。

 食べたことないけど。

 

「となると、今日はこの後プロデューサーに会うのか……」

 

 先ほどのメールの内容を思い出す。時間の関係上、事務所へと着いたら、プロデューサーとお昼を一緒に食べることになるだろう。

 プロデューサーに会うのか。

 汗をかいた後の姿のままで?

 

「……」

 

 普段なら絶対にしないであろう逡巡。

 

「……シャワーだけでも浴びておこう」

 

 アイドルたるもの身嗜みは大切だよね。

 誰とも知れない相手に言い訳を口にしながら、僕は浴室へと向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「う~、事務所事務所」

 

 今、事務所を目指して全力疾走している僕は、アイドル事務所に所属する、ごく一般的な男の子。

 強いて違うところをあげるとすれば、神様チートTS転生をしたってことかな……。

 名前は如月千早。

 

 せっかくシャワーを浴びたのに、こうして全力で走っている僕である。

 汗を流すことで時間をロスしたことで汗をかくだなんて、僕ってもしかしなくてもアホなのだろうか?

 いやいや、それでも自主練でかいた汗に比べたらマシなはずだ。僕の自主練って汗で水溜りができるレベルだし。それに比べたら、ね?

 ……今度からはシャワーを浴びる時間も計算して起きる時間を調整しよう。

 

 朝の時間の使い方を考えながら走り続け、もう直ぐ346プロの建物が見えてくるというところで、少し先に車道を挟んで反対側の歩道に本田と島村の姿を発見した。後ろ姿からでもわかるくらいに特別なオーラを二人とも放っているので遠目からでもすぐにわかった。

 初対面の時から思っていたけど、二人ともモブポジにしては凄く可愛いんだよね。と言うか、シンデレラプロジェクトのメンバーが全員可愛い。シンデレラプロジェクトのメンバーが実はアイマス関連のキャラだと言われたら信じてしまうくらいだ。それくらい一般人と比べて容姿が整っていた。前世程の顔面格差こそ無いものの、この世界でもアイドルになれる人間とそうでない人間では顔の作りが違う。

 アニメやゲームで語られなかっただけで、他のアイドル事務所は存在していたわけだし、安易に続編の舞台などと考えるつもりはないけれど……、346プロは“それっぽい”人間が多かった。

 そんな際立った存在であるシンデレラプロジェクトのメンバー、その中でパッションとキュートを担うであろう二人は、今日のレッスンの話でもしているのだろうか、楽しそうにおしゃべりに興じながら並んで歩いていた。

 初対面からそう経っていないはずなのに、二人はすごく良好な関係を築いているらしい。その証拠に、ここからでも二人の楽し気な雰囲気が見てとれる。

 すでに二人行動が基本になりつつあるらしい。メールのやり取りの中でプロデューサーが教えてくれたことを思い出す。いや、それを聞かされたとして、僕にどうしろと?

 あの中に僕の居場所は無いと自覚させられただけだ。

 同期とも呼べる二人に対してですら、僕はどこか距離を置いてしまっている。それは言語化できないモノで、違和感が積み重った結果生じた心の隔たりと言えた。

 でも、それを僕は寂しいとは感じていない。もしかしたら、ほんの瞬きの時間、悲しいと感じたのかもしれないけれど……。それ以上に僕は、これまでの人生で他人と仲良くなれることに期待しなくなっていた。

 

「……ふふ」

 

 二人の関係に憧憬にも似た感情を覚えかけ……、それすら烏滸がましいものだと考え直す。この間の宣材写真の撮影時みたいに、時と場所が合った時に会話できるだけで満足しておくべきだろう。それ以上は高望みでしかない。下手に絡んで「うざい奴」と知られたくない。最悪(worst)よりは酷い(worse)方を選ぶ。それが、僕がこれまでに学んだ人間関係を壊さないための極意だ。

 二人に気付かれる前に通り過ぎてしまおう。幸い二人は僕に気付いていない様子。僕の方は事務所に行くために道路を渡る必要がないから、このまま僕が通り過ぎれば二人と合流せずに済む。こういうのを気遣いができるって言うんだよね。

 僕は素知らぬふりをして二人を追い抜いた。

 

「あっ、如月さんだ! おーい、おはよー!」

「え? 本当ですか? どこに……あ!」

 

 と思ったら、僕に気が付いた本田に声を掛けられてしまった。当然、本田の横を歩く島村にも気づかれてしまう。

 おかしい、決して存在をアピールしていたわけではないのに……。

 車道の反対側からでもよく通る声で呼ばれてしまっては無視もできないね。

 車の音を越えて本田の声が届いたのは僕の耳の良さだけが理由ではないのだろう。声の感じからして、本田はボイトレをしていないみたいだ。それでも、これだけ通る声が出せるのは正直羨ましい。アレなら舞台の仕事もできそうな気がする。肺活量があるならば激しい振付けの曲だっていけるだろう。その場合の曲調は……。いや、僕はプロデューサーでもなんでもないんだから考えても仕方がないか。

 それよりも、何か反応を返さなければ。挨拶ひとつで僕が他人の好感度を上げられるとはこれっぽっちも思わないけれど、無視をして悪印象を与えていいわけではない。しかし、声を張り上げて返事をするようなキャラではないと自覚しているので仕方なく本田に向けて会釈を返す。

 我ながらそっけない態度だと思う。こういう時、世の中のコミュニケーション強者はどういった反応を返しているのだろうか。少なくとも今の僕みたいな塩対応ではないんだろうけど。

 二人がイイ感じに消化してくれることを祈る。最悪、「愛想が悪い奴」くらいの印象ならセーフと思おう。

 本田の反応を顔を上げて確認する。……なぜか、笑顔を浮かべている彼女と目が合った。

 はて、僕は何か彼女を笑顔にするようなことをしただろうか?

 まあ、今回は無事に挨拶を返せたのだから良しとしよう。珍しく他人とコミュニケーションがとれたことを喜んでおけばいい。これでも僕にしてはまともな終わり方だった。

 満足した僕は本田から視線を外すと再び事務所に向かって歩き出した。ここで走り出すようなことはしない。さすがの僕でも、ここで走り出したら逃げるような態度に見られるくらいには客観性があるのだ。

 しかし、少しだけ早足で歩くことも忘れない。このまま二人と同じペースで歩いたら次の横断歩道で合流することになるからだ。僕が二人より早く歩けばその心配もなくなるってわけ。

 僕は気遣いができる男。

 自分の対人能力の成長率に満足する僕であった。

 

 ……が、横断歩道に差し掛かったところで、本田が島村を伴い、こちら側へと渡って来るのが見えた。

 せっかく気を遣ってペースをずらしたのに何で!?

 二人も事務所に急いでいたとか?

 ぐぐぐ、僕の方がペースを遅らせるべきだったか……。まだまだ相手への思いやり(ヂカラ)が足りないらしい。

 今からでも歩く速度を落とすべきかと考えていると、二人がこちらに近寄って来た。

 はて、何か用でもあるのだろうか?

 本田の顔からは何を読み取ることができない。

 島村もいるので、そちらの用事という可能性もある。島村の手を本田が掴んでいるのもそれっぽく見える。遠慮しがちな島村を本田が気にかけて、こうして僕の前に連れて来てあげたとかだろうか?

 こうして見ると、本田は島村のお姉さんポジになっているようだ。本田の方が島村より歳下なのにね。

 近くまで来てくれたのならば改めて挨拶をしておこう。本田ほどテンションもコミュ力も高くない僕なので、せめて挨拶だけはしっかりしておこうという思いだ。

 

「おはようございます、本田さん」

「おおっ、これが世に聞く業界の挨拶ってやつ?」

 

 僕が挨拶をすると、本田が大袈裟な態度で驚いている。いや、確かに業界特有の挨拶(いつでもおはようございます)だけども、そこまでのリアクションを返されると反応に困る。

 

「よーし。ここは未央ちゃんも張り切って挨拶し返すしかないよね!」

 

 しかも謎の気合を入れるのは何なんだ。

 

「おはようございます!」

 

 しかも凄くイイ挨拶だし。何だ、この言い知れぬ敗北感は……。

 

「うん、やっぱり挨拶は大事だよね。気が引き締まるっていうの? そんな感じがする」

 

 挨拶でそこまで感じ入る感性を羨ましく感じる。

 と言うか、島村の用事はいいのだろうか。ほっぽり出している当人が言うのもアレだけど、放置されて島村が気分を害していないかと心配になり彼女の様子を窺う。

 

「いいなぁ……」

 

 島村が物欲しそうな顔で僕達を見ていた。

 その顔は何だ。何が欲しいって言うんだ。

 島村は狙っていたお菓子を目の前で食べられた園児みたいな顔をしていた。嘘みたいだろ。これ、城ヶ崎姉と同い年なんだぜ……。

 この子、本当に僕の一つ下なのだろうか。それにしては、その年下ムーブが滅茶苦茶に似合ってしいる。これは本田のお姉さんムーブも納得だね。

 で、島村の用事についてなんだけども。これは僕の方から話を振った方が良い流れなのかな?

 コミュ障の僕が話の流れを作るなんて難易度高いよ。でも、一応最年長という自負はあるので頑張るしかない。

 

「島村さん」

「あ、はいっ」

 

 名前を呼ぶと、島村は少し慌てた様子で僕を見た。

 その顔は何かを期待しているように見える。はて、僕はこの子に期待されるようなものを匂わせていただろうか?

 自慢ではないが、僕は相手の期待に応える能力が低い。皆無と言っても過言では無い。それに基本的に貧乏なので物を期待されても困る。

 中学時代のクリスマスイベントで、クラスメイト同士でプレゼント交換をするというのをやったことがある。授業の枠を一コマ潰してのレクリエーションだからか、クラスメイト達は大層張り切り各々のプレゼントを用意していた、らしい。

 いつもイベント事はボイコットしていた僕も授業の一環ということで、この時ばかりは参加したのだった。

 当時の僕はお小遣いを全て優のために使っていたのでお金が無く、他の皆のような、まともなプレゼントを用意できなかった。せめて手作りでもプレゼントを用意しようと思い、当時注力していたステージ衣装作りの応用で手作りのレース付きシュシュや刺繍を入れたハンカチを用意していた。

 結論だけ言うと、僕のプレゼントは最終的に誰にも受け取られずに僕の手に戻って来た。プレゼントは一人一個ということもあり、クラスメイトからのプレゼントが僕に回ることもなく、僕は自分が用意したプレゼントを自分で貰うということになった。

 当時の担任が気を利かせ僕と交換してくれる人を捜そうとしたが、僕はそれを止めた。せっかく盛り上がっているイベントを僕のせいで台無しにすることに罪悪感を抱いたからだ。

 

「おはようございます」

 

 蘇ったトラウマによる精神的ダメージを無視して、とりあえず島村に挨拶をしておく。本田には挨拶して、島村にしないわけにもいくまい。

 

「お、おはようございます!」

 

 何が嬉しいのか、島村は満面の笑みで挨拶を返して来るのだった。横目で本田を見ると、なぜかホッとした様子で胸を撫でおろしている。

 どういう意味の反応だろうと心の中で首を傾げる。コミュ力オバケの本田のことだ、僕みたいに挨拶ができたこと自体にホッとしているわけではあるまい。

 ちなみに、これまでの人生において、僕が挨拶をした場合、挨拶が返される確率は超低確率だ。三パーセントくらいかな?

 

「いやー。やっぱり? こういう挨拶すると、アイドルになったって感じがするよね!」

「はい! なんだか、アイドルになったって実感が湧きました」

 

 どうやら僕が挨拶そのものに感動しているのに対し、二人はアイドルらしい挨拶ができたことにはしゃいでいたようだ。これでは挨拶できたことに感動していた僕がコミュ障みたいじゃないか。コミュ障だけども。

 ここは他人とのズレをごまかすためにも二人の感性に乗っかるか。

 

「そうね、挨拶するだけでも変わるものね……」

 

 口にしてみると、確かに二人の言う通りだと思えてくるから不思議だ。

 前に春香が言っていたように、挨拶一つとっても意識というものは変わるらしい。待ち合わせの常套句然りアイドルとしての自覚然りだ。

 自分がどの立場に居るのか言葉を発することで自覚する。

 僕はアイドルだ、と。

 これまで何度も噛み締めて来た、アイドルになったという事実。しかし、それは噛めば噛むほど味が無くなるガムの様に、僕の中で実感を薄れさせていった。

 確かに残る、プロデューサーへの感謝と彼からの言葉だけが自分の中のアイドルを形作っていると思っていた。

 でも、挨拶だけで再度認識を固められたのは驚きだった。

 同期の二人との挨拶。

 たったそれだけの行為が自分の中のあやふやな気持ちを固めてくれた。

 これは僕にとって幸運な出来事だった。

 幸運と言えば、小中学生時代は挨拶しても誰からも反応が返って来なかった僕が、こうして挨拶を返して貰えたことも幸せなことだ。挨拶にちゃんと挨拶を返してくれ、挨拶に新たな価値を見出してくれた二人は聖女であり哲学者なのではないかと思ってしまう。そんなことを真面目に考察するくらい僕は二人の反応に感動していた。

 だから、二人に感謝の言葉でも送ろうかと思ったのだが……。

 二人の視線が僕に向いていることに気付いて言葉を引っ込めた。

 あれ、もしかして、またやってしまったかも。

 

「えっと、その……?」

 

 自分の不用意な発言が相手を傷付けると自覚している僕は、先程の行為が二人の気に障ったのだと気付いた。

 小学生の頃、クラスメイトが優の話をしていたので試しに会話に加わろうとした。その年に一年生として入学した優は、その愛くるしさと溢れ出るカリスマのおかげで教師や上級生から人気があったのでよく話題に挙がるのだ。

 しかし、いざ僕が話しかけると、クラスメイト達はサッとどこかへと去ってしまったのだ。不思議に思った僕だったけど、その時クラスメイト同士が「なんで如月さんが入って来るんだろうね」「誰も話しかけてないのにね」と、僕が会話に参加したことに対して小声で非難しているのを聞いてしまった。

 それ以来、僕は会話の輪に加わることを避けるようになった。

 だから、今回のこれはきっと失敗だったのだ。

 本田と島村が目の前で会話していたとしても、こちらに話が振られるまで口を出すべきではなかった。

 失敗したなぁ。せっかく仲良くなれそうだと思ったのに、調子に乗った途端にこれだもん。

 

「ごめんなさい……。今のは聞かなかったことにして」

 

 まずは謝罪をしておかなくては。せっかく盛り上がっていた会話をぶった切ってしまったのだ、謝らないわけにはいかない。

 もし、まだ二人にその気があるなら適当に話を振ってくるだろうし、しばらく無視されるようなら、この場から立ち去ればいいだけだ。何も不安に思う必要は無い。いつも通りの人間関係を心掛ければいいのだから。

 誰かと仲良くなれなかったことを残念だなんて思っちゃ駄目だ。

 

「どうして、謝るの?」

「……え?」

 

 だが、本田から投げかけられた言葉は思っていたものと違った。

 

「いや、それは……」

「如月さんに謝られるようなこと、私はされてないよ?」

「……」

 

 不思議そうな声音で訊いて来る本田の視線に言葉が詰まる。

 何か、僕は間違ったのだろうか。

 悪いことをしたから、謝った。許して欲しいとか、やり直したいとか、そういう下心があるわけじゃない。ただ、申し訳ないと思ったから謝った。それだけだ。

 でも、本田は僕の謝罪を受け取らない。……受け取ってくれない。

 

「しまむーは何か思い当たること、ある?」

「いえ? 私も、思い当たるようなものはないです。……どうして、如月さんは謝ったんですか?」

 

 本田が島村に問いかけると、彼女も不思議そうな目で訊いて来るのだった。

 

「だって……」

 

 僕は二人からの問いかけに答えることができなかった。

 これまで、誰かにこんなことを訊かれたことがないから。だって、皆、僕が話しかけたら察してくれたから。僕が駄目なんだと、わかってくれたから。

 駄目なんだ、と──それすら理解されなくなったら。理解させてくれなくなったら。僕はどう他人と付き合っていけばいいんだ?

 誰かに教えて貰えなければ、僕は自分が駄目なことに気付けない。

 今は、それを伝える方法すらわからない。

 

「それは……」

 

 上手く言葉にできない。

 

「如月さん……それって」

 

 島村が気遣わしげな声音で口を開く。

 

「ああっと! もう、こんな時間じゃん!?」

 

 だが、それは本田の声に遮られた。

 凄くわざとらしい声のため、それがこの場の空気を変えるために空気を読んだ本田の捨て身のフォローだと僕は解釈した。

 

「午後のレッスン前にお昼一緒に食べようって話をしてたんだよね。ね、しまむー?」

「えっ、あっ! はい! お昼ですね! 食べますっ」

 

 二人は昼食の約束をしていたようだ。一緒にご飯とか、それ友達みたいじゃん。僕も交ぜてよ。……なんて、言えたらぼっちやってない。

 二人の関係に嫉妬するほど身の丈知らずではない。僕だって春香とご飯を一緒に食べたことあるもんね。ただ、ちょっと同じ事務所の人とご飯を食べるってシチュエーションに心ときめいただけだし。

 プロデューサーはノーカウントで。アイドルじゃないし。

 

「如月さんも……どう?」

 

 おっと、気を遣わせてしまったぞ。そんなに羨ましそうな顔をしていたかな……。

 社交辞令だろうけど、誘ってくれるのは純粋に嬉しかった。お礼の代りに今度は僕が空気を読んで、こちらから断ってあげよう。僕だって空気を読むくらいできるんだ。

 まあ、僕はこの後プロデューサーと約束があるから断らざるを得ないのだけど。

 理由なく断るならともかく、きちんとした理由があれば断ることに気後れする必要はないよね。

 

「ごめんなさい、この後プロデューサーのところに顔を出さないといけなくて……」

「あ……そ、そっか。それじゃ、仕方ないね……」

 

 上手く断れたことに満足する。

 社交辞令とはいえ、せっかくのお誘いを断るのはもったいなかった。いや、建前ではなく、僕は本心から二人とお昼を食べたいと思ったんだ。

 それでも、お昼をプロデューサーと食べると先約がある以上、そちらを優先する。プロデューサーとの約束は守らなくてはならないから。

 こう言うと、まるで僕がプロデューサー第一主義に聞こえるかもしれないけど、実際のところは少し違う。

 ただ、僕は、それがプロデューサーではなかったのだとしても約束したことは守りたいだけだ。

 約束を破られた者が深く傷つくことを知っているから。

 だから、僕は約束は絶対に守る。

 

「また、今度……誘ってくれたら、その……嬉しいわ」

 

 せっかく誘ってくれたのに即お断りを入れることが申し訳なかった。

 そして、断った側だというのに、こうして誘って欲しいと言ってしまえる己の厚かましさが嫌だった。

 もし断られたらどうしようという思いで本田を直視できず俯いてしまう。

 緊張からか手汗一つかかず、手がカサカサする。無意識に両手を擦り合わせる。

 

「もちろん。次も誘うよ! じゃんじゃん誘うよ!」

「っ、そ、そう? ……そう、嬉しいわ」

「むしろ誘っちゃって大丈夫? 気遣わせてない?」

「そんなことないわ。私は自分から誘うのが苦手だから、本田さんに誘って貰えたら助かるし、何より嬉しいことだわ」

「本当? よかったー。私ってグイグイいっちゃうタイプだから、それで引かれることもあってさ、今回も如月さんに引かれちゃったかなって心配してたんだよね。でも、引かれてないって聞いて凄く安心した」

 

 少し眉を下げた本田が言った言葉に僕は衝撃を受けた。

 まさか、本田のようなポジティブの権化のような人間が、そんなことで不安を抱くとは思っていなかったからだ。

 

「あの! わ、私も!」

「島村さん……?」

 

 突然、島村が意気込んだ様子で身を乗りだして来た。

 話に割り込む……と言うのは、三人で会話していたので正しくないが、こうして話半ばで話題を振ってくるイメージが無かったので少し驚く。

 むしろ、その後の彼女の言葉に驚いた。

 

「私も、如月さんのこと誘っていいですか?」

「え? ええ、もちろん。本田さんがよくて島村さんが駄目なんて理由は無いわ」

「本当ですか!」

「本当に、本心から嬉しいわ。ありがとう」

「良かったです!」

 

 僕が答えると、何が嬉しいのか島村は小躍りしそうな雰囲気で喜んでみせるのだった。

 二人からすれば僕なんてほぼ他人みたいなものだろうに。そんな僕に積極的に絡もうとするなんて……!

 本田と島村が見せる優しさに心が温かくなるのを感じる。

 

 その後、僕達は事務所まで一緒に向かった。何気に優以外と通学(通勤)した気がする。春香とは時間が合わないので未だ一緒になったことがなかった。

 食堂へと向かう二人の後ろ姿を見送りながら僕は考える。

 二人は仲間であっても、友達ではない。

 そこを勘違いしてはいけない。

 それでも、僕は、仲間である本田と島村と仲良くなりたいと思っていた。せめて仲間として不足が無いと認めて貰いたかった。

 

「頑張ろう」

 

 まずは、合同レッスンで良いところを見せなくては。歌に比べてダンスは苦手だけれど、精一杯やって二人の足を引っ張らないようにしよう。

 この後プロデューサーと会うのだから、その時に二人のDa(ダンス)値も聞いておこう。

 

 そんな風に予定を立てていると、ケータイの着信が届いた。

 プロデューサーからだった。

 

 件名:申しわ

 本文:会議が長引いているので昼食はご一緒できなくなりました。

 

 ……。

 

「お昼抜き、決定」

 




本田、島村、千早の同期三人のうち、仲良くなりたいと思っているのは千早だけ。

今回は初ライブ編の導入部ということで短めになりました。
このくらいの文量を適度に投下する方が投稿ペースが安定するかもしれません。

今回は同期三人組が通勤途中にばったり出会うだけのお話。
それをここまでややこしくできる千早。まるでナメック星が破壊される寸前のような引き延ばしである。
本田と島村からしたら千早の言動は宇宙人にしか見えなかったはずです。二人からの視点があるならば、ここの会話はホラー要素に見えるかもしれません。
ですが、その困難を超えてでも二人には千早と関わろうとする意思と理由があります。

千早は小中学生時代にぼっちをこじらせたせいでネームドキャラ(アイマスキャラ)以外からの好意を信じていません。
モブキャラ(デレマスキャラ)がどれだけ好意を示してもそれに気が付きにくい精神状態です。
さらにネームドキャラが好いてくれたと自覚しても、それは千早が好きなのであって自分を好きになったわけではないと無意識にフィルタをかけてしまいます。
ギャルゲーなどでヒロインとハッピーエンドを迎えても、それは主人公の話であり、プレイヤーである自分には関係がないという感覚が近いでしょうか。
まだまだ千早=自分という自覚を持てない千早が最終的にどうそこに決着をつけるのか……。その辺も本作千早の成長要素ですね。


次回はライブの練習回。完璧であるがゆえの千早の弱点が露呈します。



次回予告

前川みく、死す。


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アルティメットな初ライブその2

注:今回、本田が下なネタを言います。


 お昼ご飯を食べ逃した僕は目的もなく346プロの敷地内を歩いていた。

 つい先日、色々と歩き回る機会はあったが、それは時間を潰すためだったので広い範囲は見れていない。千川さんに案内して貰った場所も、トレーニング施設のようなアイドルが普段使用する場所だったので、やはり範囲が狭かった。結局、僕が行ったことのある施設は346の敷地全体からすれば微々たるものに過ぎなかった。

 いったい何に使用しているのか不明な建物群には今後立ち入る機会があるのだろうか……。

 

「765プロなら──」

 

 立ち入り禁止どころか、行ったことがない箇所がないなんてならないのに。

 ──なんて、今でも346プロ所属の自分の立場を無視し、765プロの自分を夢想する。

 

「ばかばかしい」

 

 そして、愚かしい。

 ここで頑張ると決めたんじゃないのか?

 だと言うのに、何で僕は未だにこんな女々しいことを考えてしまうのだろう。

 弱く脆い精神が憎い。確固たる自分が持てない心が疎ましい。

 何よりも、自分の吐いた言葉に責任を持てない自分が嫌いだ。

 

「強くなりたい」

 

 誰よりも、とまでは言わない。でも、今の自分よりは強くなりたい。過去の自分よりも自分に自信が持てたなら、僕はもっと強く在れる。

 きっと、そう、信じている。

 そのためには、目の前のやらなければいけないことを一つずつ頑張るしかない。少しでもいいから、自分の糧にするんだ。たとえささやかなものだとしても、積み重ねればいつか届くと信じて──。

 

 

 合同練習の時間が近づいて来たので更衣室へと向かう。

 346プロでも、主にアイドル関連の部門が密集した施設を抜け、その先のトレーニング施設へと進む。初日に貰った、どこでも入れるカードのおかげで回り道せずに施設間を移動できるのは楽で良いね。

 当然、施設は通り過ぎるだけで部屋に入ろうなどとは思わない。暗かったり変な音がする部屋には僕でも入ることを躊躇わせる。

 廊下を進むと健全な雰囲気の建物に到達した。こちらは広報などの外向けの企画を作る部がある施設だ。アイドルが直接関わる部署ではないものの、企業CM等の案件を取って来てくれることもあるので無下にはできない。むしろ、メディア展開を狙う子には重要な部署と言える。僕は歌特化だから、ここにお世話になる機会は少ないだろうけれど、346の全社員は大切な仕事相手と思っているので下に置くようなことはしない。

 それに、346の人達って何かと親切だから、こちらも態度を軟化させやすいんだよね。

 

「おはようございます」

「あっ、おはようございます!」

 

 廊下ですれ違った男性社員に挨拶をすると、相手からきっちりした挨拶が返って来た。こういう対応をされる度に、僕みたいな新人相手にすら丁寧に接してくれるなんて、と感動するのだった。

 346がそういう環境なのか、シンデレラプロジェクトがそれだけ期待されているのか、社内のそういった踏み込んだ事情を知る権限の無い僕にはわからないけれど、こうして挨拶してくれることに変わりはないのだから嬉しく思うのは僕の勝手だろう。それが打算の結果でも、僕は良くしてくれた相手には良くしたいと思っている。

 

 やがて更衣室へとたどり着いた僕は、そこで、はたと気が付いた。いつもと違い、今日は本田と島村も更衣室を使うということに。

 まだ二人がお昼ご飯を食べている──なんなら食後のティータイムも──という可能性もあるけれど、すでに着替えに来ていた場合……この扉を挟んだ向こう側に今まさに着替え中の二人がいるなんてこともあるわけだ。

 ……それは、非常にマズイんじゃなかろうか? いや、ヤバイでしょ。女子高生の着替えに乱入とか、どこのラブコメ漫画だって話だよ。二人とも違った意味で無防備そうだからなぁ。僕が来るなんて微塵も警戒していなさそうだ。距離感も微妙に近いし……。

 まあ、そんな態度が身近な異性には魅力的に映るのかもしれないけど。程度ってものがあるよね。特に二人はアイドルなのだから、異性との付き合い方は気にした方がいいと思う。

 これは僕の想像でしかないけれど、本田は男友達的なノリで接してクラスの男子を無意識に悶々とさせていそう。島村の方は特に何も考えずに笑顔を振り撒いて自分に好意を持っているんじゃないかと勘違いさせていそう。

 極悪だよね。

 僕がその男子だったら、本田の方はともかく、島村の方は自分に気があるんじゃないかと勘違いした末に告白くらいしちゃうね。そして「そんなつもりはありませんでした」とか言われて玉砕するんだ。

 逆に本田には告白しないで思い出として脳内アルバムにしまっておく感じ。十年くらいして卒業アルバムの中の本田を見て「あの時勇気があれば」とか無意味な後悔をするんだ。

 極悪だよね……。

 そんな、いたいけな男心を弄ぶ小悪魔二人がこの中に居るかもと思うだけで軽いはずの扉が何だか重く感じる。

 いや、と言うか実際これ重いぞ? 木製の扉は普段なら軽く押すだけで開くはずなのに……。

 試しに力を込めて押し込んでみてもやはり開かない。仕方なく、今度は対物最強とも呼べるチート能力を使用してドアノブを捻ると、バギャッという音を立てて扉が開いた。

 ……どうやら、内鍵が閉まっていたらしい。当然と言えば当然だよね。普通は鍵に思い当たるべきだよね。僕がここを使う時は鍵を閉めないから、事務所内とはいえ公共の場で鍵を閉めるという感覚が抜けていたのだ。そのせいで鍵の存在を忘れ扉ごと壊してしまった。むしろ扉の方が鍵の部分のみ欠けたと言った方が適切かもしれない。何にせよ器物破損である。後でプロデューサーに連絡しておこう。お、怒られないよね?

 ……そっと同じところに戻したら誤魔化せないかな?

 

「誰か……いるんですか?」

「346はいつからターミネーターが出るようになったんだ……」

 

 しかし、扉の向こう、部屋の中からこちらを伺う声が聞こえて隠蔽作戦は中止になった。

 よく考えたら鍵が閉まっているということは中に人が居るってことじゃん。つまり、今行われた僕の破壊行動も目撃されたということになる。

 ここは口封じだ!

 ──なんて、物騒な解決方法をとることはしない。実際ガチで僕が工作すれば証拠なんて残さずに隠蔽できるのだけど、もうそういうのからは足を洗ったから。

 代わりに扉の向こうへと声を掛ける。

 

「ごめんなさい、鍵が掛かっていると気付かなくて無理やり開けてしまったわ」

「如月さん……!?」

 

 扉がこれ以上壊れないように手で押さえながら、何とか開いて顔を出すと、中にいた本田と島村の怯えと驚愕の混ざった顔が見えた。

 突然扉が壊れて人が現れたら、それはびっくりしちゃうよね。二人は現れた相手が僕だったことで安心したかもしれないが、扉を壊した相手が僕だと知って驚いたようだ。知ってる? 扉って普通は壊れないんだぜ。これ豆知識ね。

 二人の格好を確認すると、すでにトレーニングウェアに着替えていた。ホッとしたような、残念なような……そんな不思議な気持ち。同期の仲間の着替えに期待していた自分を誤魔化すように、何でもないアピールとして扉については特に言及せずに更衣室内へと入った。

 しかし、幾分か顔から不安そうな色が抜けたとはいえ二人は未だ困惑した表情を続けている。これは扉について説明しなければならない流れか?

 

「建て付けが悪かったみたいね」

 

 とりあえず、最もポピュラーな言い訳を口にしてみる。試しに言ってみたものの、こんなのを信じる奴はいないだろうことは理解している。これに騙される奴がいたら指差して笑ってやる。

 

「わ、そうだったんですね! 私、突然扉が壊れるのが見えたからびっくりしました」

 

 居たよ、ここに。

 まさかの島村の納得に衝撃を受ける。これ、僕は島村にプギャーとやらなければいけない感じ?

 

「しまむー……」

 

 さすがに本田の方は騙されなかったようで、島村の方を「マジかよ」という顔で見ていた。

 僕も思ったよ。マジかよ。

 今の言い訳で通るのかよ。マジかよ。

 マジかよ。一勝しちゃうのかよ……。

 まさかの島村の純粋さに、本田への言い訳を考えることよりも島村が詐欺にでも引っかからないかと心配になってしまう。純粋だとしても少し、いやかなり度が過ぎてやしないか? この子は今までどうやって生きてきたのだろう。

 こんな騙され易いと、いつか壺を持って来て「開運の壺なんですけど、二百万円のところ百万円で買えました」とか笑顔で言いそうで怖い。もしくは、気が付いたら連帯保証人になっていて、借りた相手が失踪、借金のカタに島村が売られるパターンもあり得るぞ。

 僕は嫌だよ。知り合った相手が気付かないうちにお水に流れているなんて。この世界はもっと優しくて良いんだよ。

 島村の未来を守るためにも、ここは年長者である僕がきちんと伝える必要がある。僕は真面目な顔を意識して作り──いつもの顔である──ながら島村に近付いた。

 

「島村さん、大丈夫? 壺とか……買わされたりしてない?」

「直球で失礼なこと言い出したー!? そして元凶に心配されるしまむー」

 

 僕が島村を心配して訊ねると、本田がすかさずツッコミを入れて来る。いや、仲間が詐欺被害に遭っているかもしれないんだよ。心配になるじゃん。

 

「壺、ですか? うーん……特に買う予定ははないです」

「そう。でも、もしも美味しい話を持ちかけてくる人がいても、すぐに信用しては駄目よ? 印鑑を見るだけとか言われても危険だから頷いてはいけないわ」

「如月さんの中のしまむー像はどうなってんの」

「オレオレ詐欺からかかって来た電話で二時間くらい世間話するようなタイプ」

「わからなくもないけど、たぶん、そこはかとなく失礼なやつだよ、それ……」

 

 初対面、底辺メンタル時の僕相手にあそこまでコミュニケーションをとろうとする島村だよ?

 彼女の場合、たとえ詐欺師相手でも会話を試みるくらいしそうに見える。

 

「島村さん相手に詐欺をしようしても途中で世間話に方向転換されて詐欺れないかもしれない」

「あ、それはなんとなくわかる」

「私って、そんな感じに見えるんですか!?」

 

 僕の中のイメージを聞いた島村が眉をハの字に下げて落ち込んでしまった。

 

「あっ、いやいや、しまむーはそこまで騙されやすくはないと思うよ! ちょっと今のは如月さんも大袈裟に言っただけだろうし。ね?」

 

 必死でフォローをしてくれる本田には悪いが、僕は島村への言及を止めるつもりはなかった。もし、ここで言っておかなかったせいで、後で島村が酷い目に遭ったりしたら僕は後悔する。だったら、今ここで伝えておきたい。

 たとえ、この件で島村から決定的に嫌われたとしても。

 

「……連帯保証人にだけは絶対にならないように」

「火に油を注いでいくスタイル!」

「そんなぁ……私だって最近はしっかりして来たって言われてるのに……」

「……しまむー、それは」

「待って、本田さん。それ以上はいけないわ」

 

 島村の反論に、さらに反論しようとする本田を止める。それ以上、傷つけ合うのはよくない。仲間同士、せめて二人には仲良しのままでいて欲しい。嫌われる役目は僕だけでいいんだ。

 

「アイドルは人に夢を見させるもの……そうでしょう?」

「はっ! そ、そうだった。……大丈夫だよ、しまむー! 志は高くって言うしね!」

「もー! 二人とも失礼すぎます!」

 

 怒った島村が頬を膨らませながら、本田と僕の肩をポカポカと叩いてくる。

 

「あははっ。ごめんごめん。ちょっと悪ノリしちゃったね。しまむーは意外としっかりしてるってわかってるから、安心して」

「そうですか? なら、いいですけど……ん、あれ? 意外と?」

「あっ、と。……と、ところで、如月さんも冗談とか言うんだね! ちょっと意外だったかも」

 

 冗談?

 ……はて、僕は何か冗談を言っていただろうか。

 

「……そう、かしら?」

 

 訊ね返しながら少し考える……。うん、さっぱり思い付かない。

 本田が言う冗談が何を指すのかわからなかった僕は首を傾げるほかなかった。

 

「未央ちゃん、今、誤魔化しました? うん、でも、私もちょっと驚きました。如月さんはあんまりこういうこと言わないと思っていましたから。あ、悪い意味とかじゃないですよ?」

 

 島村も本田の言葉に乗っかって来たということは、冗談というのは本田の勘違いではないのだろう。

 そうなると、今のやり取りの中に冗談に聞こえた部分があったってことになるのだが……。

 この部屋に入った時から僕が言った言葉は全部本心なのだけれど。言ったとすれば、扉の建て付けが悪かったと嘘を吐いたくらいだ。じゃあ、それが冗談だと島村に理解されていたということになるのか。

 つまり、島村は詐欺に遭わないってことか!

 

「そう、理解してくれていたのなら安心だわ。結構……少し不安に思っていたから」

 

 島村が詐欺に遭わないか不安だったけれど、扉の建て付けが悪いと言ったことを冗談だと理解してくれているのならば不安に思う必要はないよね?

 良かった、誰の言葉でも信じる素直な子はいなかったんだ。……良いのか?

 とりあえず、誤解が解けたのは喜ばしいことだ。いや、僕が勝手に島村を誤解していただけなのだが。

 今のやり取りで島村にも普通の女の子な部分があると知った。真っ当で良心的な性格に育てた彼女のご両親には敬意を払いたい。まあ、僕相手に普通に接せられるというのは、それ自体が特殊な精神を持っていることの証拠なので、それはそれで不安になるのだが……。

 

「大丈夫だって。ちゃんと冗談だってわかるから」

「そうですよ。ああいうのは、よく友達からも言われますから。大丈夫です」

「よく言われちゃうんかーい!」

 

 本田と島村のやり取りを見て、自分の心配は杞憂だったとわかる。思ったよりも島村はしっかりしているらしい。という、それ自体が失礼な評価を下しながら、しばらくの間、僕は少女二人のジャレ合いを眺めていた。

 

 時間も押しているので僕も着替えることにする。

 適当なロッカーを選び中に荷物を放り込む。荷物と言っても小銭の入った財布とケータイしか所持品がない上に、季節的に厚着でもないので服がロッカーのスペースをとることもない。他の人はここを目一杯活用しているらしい。いつか僕もこのロッカーをぱんぱんにする日が来るのだろうか。今のところまったく想像ができない。

 

「如月さんって、あんまり物持ち歩かないタイプ?」

 

 本田が更衣室内に備わったベンチにラフに腰掛けながら聞いてくる。

 視線を少し移すと、島村も城ヶ崎姉が写っているポスターの前で立っている。

 ……なんで、この子達は更衣室に残っているのだろうか。

 着替えたのなら、さっさとレッスンルームに向かえばいいのに。いつまでも残る理由は無いだろう。

 もしかして僕が更衣室をさらに破壊しないか見張っているのかと思ったが、それにしては二人とも僕から視線を外している。見張る態度ではない。

 

「……そうね、必要最低限の物以外持ち歩かないわね」

「そうなんだ。私もそんなに多く持ち歩かない方だと思ってたけど、如月さんに比べたら多い方なのかも。でも、そんなに少ないと色々足りないんじゃない?」

「そうかしら。特に不便に思ったことはないけれど」

「いや、色々とあるじゃん。女の子なんだし」

「……」

 

 最初、僕は本田の言った「女の子」という意味がわからなかった。

 誰のことだろう、と。心の中で首を傾げた。

 だけど、すぐに思い当たる。いや、思い出したと言う方が正しいか。

 僕は女の子だったんだなって。

 ……でも、本田に言われずとも自覚はしていたのだ。自分が女の子(千早)だって。

 だから、自分と千早が別物だと考えるようになった今でも、こうして女の子(千早)の口調で話している。それが千早らしいからではなく、世間一般でいう女の子の言葉遣いだから。

 本音を言えば、今こうして心の中で話しているような、砕けた男言葉で話したいと思っている。でも、これまで積み重ねてきた千早としての演技を今でも続けてしまっている。

 未練、という感情は無いはずだ。

 では、何故今もこの言葉遣いなのか。

 それは、単純に期待を裏切りたくなかったからである。僕を千早だと思う人達の期待を……。

 

「必要になったのなら、その時にきちんと持ち歩くつもりだから」

 

 今のところ化粧品等を持ち歩く習慣はない。すっぴんだし。

 歯磨き用のブラシも裏技を使えば不要だから、本当に物を持ち歩く必要がないんだよね。でも、ポーズとして歯ブラシくらいは持った方が良いのかな?

 ちなみに家では歯磨きはちゃんとしてる。

 

「そう? でも突然来たら焦ったりしない?」

 

 来たらって、何が?

 

「未央ちゃん……」

 

 それまで口を挟まず、ずっとポスターを眺めていた島村が嗜めるような声で本田の名を呼ぶ。

 

「あ、今のはちょっとあけすけ過ぎたかな。……ごめんごめん」

「いいえ、気にしていないわ」

 

 これは嘘ではない。本田の言葉を僕は本当に気にしていないからだ。

 そもそも何が問題かわからないし。

 

「なんとなく、如月さんの感じがわかった気がする。思ったよりも気安い感じなんだね」

 

 生まれて初めて気安いなんて評価を貰った。これまで気難しいという評価を受けて来た。親、クラスメイト、教師、それらに言わせると、僕は生来の頑固者らしい。本当は他にも色々言われたけれど、覚えている限りはそんな感じの評価だった。だから間違っても気安いなんて評価を受けるわけがなかった。それなのに本田は僕を気安いと言う……。

 まさか、コミュニケーション能力が高いと相手の評価すら覆せるのか……!

 

「気安いなんて初めて言われたわ……」

「如月さんって見た目が引くくらい綺麗だし、パッと見てクールって印象を受けるから気難しく見えているだけで、実際は話してみると冗談も言えるし、色々と流せてるからちゃんと話しさえすれば見方が変わるって感じかなー?」

 

 意外にも、僕は本田から高評価を受けていたらしい。これまで周りから低評価しか受けて来なかったので新鮮だ。

 ただ惜しむらくは、具体的にどこを評価されたのかわからないってこと。

 

「そんな事を私に言うのは本田さんが初めてよ」

「そうなの? ……ねっ、しまむー。しまむーも如月さんは話しやすいって思うよね?」

「えっ。わ、私ですかっ?」

 

 突然話を振られた島村が慌てている。それは話を振られたから驚いたというよりも、振られた話そのものに慌てたように見えた。きっと本田の言う、僕が気安いという言葉を彼女は肯定し辛いのだろう。まあ、初対面がアレだからね。今でこそ話をする仲になったとはいえ、最初のあの塩対応を覚えている島村には、間違っても僕を気安いとは言えないはずだ。それは仕方がないことだから、島村からの評価は甘んじて受け入れる所存である。それが彼女を一時でも拒絶した僕の責任だ。

 

「私は……如月さんが気安く話しかけられる相手かどうかわかりません」

「しまむー……」

 

 島村は申し訳なさそうな顔でそう言うけれど、彼女がそんな顔をする必要はどこにもない。誰にでも合う合わないはある。人付き合いというものなら、なおさら合わないものは合わない。それを無理して合わせたところで辛いだけだ。誰かに好かれない、それを当たり前のこととして生きてきた僕にはどうってことない。だから、そんな顔はしないで欲しかった。僕は島村には笑顔でいて欲しい。

 

「でも、私は……如月さんは、すごく優しい人だと思います」

 

 無理して自分に関わる必要はないと言いかけた言葉を、島村の言葉がすんでのところで呑み込ませた。

 島村に優しいと言われた。他でもない、島村から。あれだけ邪見に扱った僕のどこを見て、彼女は僕を優しいと思ったのか。

 優しい、だろうか?

 僕は優しいのだろうか?

 島村が言った、優しいという評価と自分が上手く結びつかない。それは、本田が言った気安いという評価よりも違和感があった。

 

「そっか……それが、しまむーの如月さん像なんだね」

「はい。私が思う如月さんです」

 

 何か意味ありげに視線を交わらせる二人に、当事者であるはずの僕だけが蚊帳の外状態だった。中学時代はこれがデフォルトだったのに、なんだか今はこっちの方が違和感がある。この短期間にぼっち力が下がったのかもしれない。

 

「……」

 

 ところで、そろそろ着替えたいのだけれど、二人はいつまでここに居るんだ……。

 

 

 

 

 結局、着替え終わるまで居続けた本田と島村だった。

 本田はベンチに座りながら時折僕の方をチラチラと見ていた。僕が背中を向けていて気付かないと思っているのだろう。しかし、甘い。たとえ視界の外にいたとしても気配で動きくらい察知できる。本田から邪な感情を感じないので特に何か言うことはしない。何か言って春香みたいに触って来られても困るしね。

 

「私達がステージに立てるなんて……」

 

 ポスター前で呟く島村は未だライブに出るという実感が湧かないのか、喜びと不安が混ざったような顔をしている。ポスターに写る城ヶ崎姉をはじめとした346プロの上位アイドルの姿を見ることで無理やり実感を得ようとしているのかもしれない。

 

「入って早々の大抜擢! 何が起きるかわからない……。いやぁ、アイドルってすっごい楽しいよね!」

「はい!」

 

 本田の方は大して気負いを感じさせない明るい声で今回のライブへの起用を喜んでいる。島村に話を振る余裕すら見せる姿はさすがとしか言えない。

 

「如月さんはどうですか?」

 

 本田が視線をそらした隙に着替え終わった僕が笑い合う二人を眺めていると、島村から話を振って来た。何となく僕に話を振る役は本田がするものと思っていた。

 

「実感が湧かないわ」

 

 あれだけ焦がれたステージライブの出演が、こうも簡単に叶ってしまった。しかも先輩アイドルのバックダンサーとしての起用でだ。城ヶ崎姉にはああ言ったが、実際のところ、自分の力でステージの上に立ちたいという願望があった。

 仕事なので否やは無いのだけれど。ちょっとした願望を心に思い浮かべるくらいは大目に見てほしい。

 

「確かに、アイドルになってすぐにライブに出るなんて想像してなかったかなー。実感湧かないっていうのもわかる気がする。私だって実感湧かなくてふわふわしてるもん」

「私もです。ライブに出られて嬉しいって思う気持ちはあるんですけど、どうしても実感が……」

 

 二人とも唐突に決まったライブの出演に戸惑いを隠せていない様子だ。

 期せずして僕が言った言葉が二人の心情を吐露させることとなった。

 

「まあ、やってみなければわからないし。だったら精いっぱい楽しんじゃおうよ!」

 

 本田のポジティブに見せる姿は素直に尊敬する。僕は一度悩みはじめたらしばらく気分が乗らない方だから羨ましい。

 

「如月さんも着替えたことだし、そろそろ行こっか」

 

 本田に促され更衣室を後にする。

 ちなみに、更衣室の扉を壊してしまったことは更衣室から出る前にプロデューサーに連絡しておいた。反応が怖いので、返信はしばらく見ないでおこう。

 

 

 

 三人連れ立ってトレーニングルームへと向かう。場所は先日ダンスレッスンを受けた場所と同じだった。

 

「トレーナーさんって、どんな方なんでしょう」

「うーん、初日に教えてくれた人なら気が楽なんだけど。それはそれで緊張しそう」

 

 聞いた話では、二人は初日の宣材写真の撮影前にダンスレッスンを受けていたらしい。二人で。

 学校のある二人と違い、時間に余裕がある僕と入り時間をずらすのは理解できるけれど、なんだかハブられた気がして寂しいなぁ。

 

「そう言えば、如月さんってダンスやったことあるの? 私はレッスン受けるまでは授業と友達とやるくらいだったけど」

「私は養成所で練習してました。……346のレッスンで醜態を晒しましたけど」

「確か、しまむー転んでたよね」

「わー! それは言わないでください!」

 

 ナチュラルにじゃれ合う二人を見ていると、「僕必要ある?」と思ってしまう。なんならこのまま一時間くらい二人のやりとりを見ていたいまである。アニマルセラピーかな?

 

「私は独学だったわ。この間、初めてレッスンを受けさせてもらったけれど、途中で止めになってしまったから現状素人と言っていいわね」

「そうなんだ。そうなると、しまむーが一番経験者だね。今回も頼りにしてるよ!」

「はい! がんばります! ……転ばないように」

「志が低いよ。しまむー……」

 

 経験者の島村が転ぶほどのレッスンか。少し興味があるなぁ。いったいどれ程過酷なレッスンなのだろうか?

 まともなレッスンを受けたことがない素人の僕には想像できない。

 今回のトレーナーが二人を担当した人と同じだったら、是非ともご教授いただきたいものである。

 今からレッスンが楽しみだ。ここでテンション高く「レッスン? 凄いレッスンできるの? わーい!」とかはしゃぎたくなる。やらないけど。

 レッスンルームにたどり着いくまでの間、内心のワクワク感を抑え、表面だけでもいつも通りを心がける。

 レッスンルームに着いてもいの一番に部屋に飛び込むなんて真似はしない。こういうのは本田の役目だって知ってるから。中に誰か居たとしても、まず顔を見せるのが僕であるよりも本田の方が相手方も受ける印象が変わるだろう。彼女を矢面に立たせることになるが、僕が代わっても全員にマイナス印象を与えるだけだ。だから本田に任せるのがベスト。

 

「おはようございま──」

「遅いにゃ!」

「──す」

 

 元気よく挨拶をする本田の声を遮るようにして、室内に居た人物が声を張り上げる。

 何事かと、島村とともに本田の後ろから顔をだして中を覗くと、ラフなトレーニングウェアを着た少女が部屋の中心に仁王立ちで待ち構えているのが見えた。その後ろに少しぽっちゃりめの茶髪の少女と、気弱そうに目を伏せながらこちらを窺うツインテールの少女が付き従っている。

 真ん中に立つ少女の頭に猫耳が乗っているので、今のセリフはこの子から発せられたものとみていいだろう。

 猫キャラかぁ……。うん、嫌いではないかな。

 イロモノ枠に思えるけれど、一度固定ファンが付けば根強い人気が出そうだ。なんとなく根が真面目に見えるから、ギャップからの別系統ファン狙いもいけるかもしれない。

 

「遅れてきた新入りが先にステージに立つのは納得いかないにゃ」

 

 とかなんとか、相手の分析をしていると何を思ったのか猫耳少女がそんなことを言って来た。

 話の流れも切り口も唐突過ぎて意味がわからない。どういう理屈でそれを言って来たのかちゃんと説明して欲しい。納得ができない理由を納得させてくれ。

 今回のライブへの抜擢はプロデューサーが決めたことだ。それを同じ346プロのアイドルがケチ付けるとはどういう了見なのか。どこのチームに所属かは知らないが、それはそれは大層な理由があるからふっかけて来たってことだよね?

 是非とも聞かせてくれ。

 

「えっと、突然だね。みくにゃん」

 

 僕の代わりに本田が猫耳少女、改め、みくにゃんの対応に当たる。みくにゃんが納得できないと言った時、一瞬だが本田の肩が跳ねたのが気になったので、このまま出ないようなら僕が対処するつもりだったけれど、名乗り出たのなら僕が口を出すべきではないのだろう。しばらく本田に任せることにした。

 

「未央チャン」

 

 みくにゃんが本田を未央チャンと呼んだことから、二人が顔見知りなのだとわかる。みくにゃんに未央チャン。まさか、今回が初対面ですぐにそんな気安く呼び合える仲になるなんてファンタジーがあるわけないから昔からの知り合いなのだろう。いや、でも、それでも本田ならワンチャンあるかも?

 

「未央チャンならわかるでしょ。みく達がずっとデビューの機会を待っている中で、後から来た未央チャン達がいきなりライブに出るなんて、みくは納得できないって」

「それは、城ヶ崎さんとプロデューサーが……」

 

 その時、おやと思った。本田にしては切れが悪い返しだったからだ。勝手なイメージではあるが、本田ならもっと上手い返しができるはずだ。付き合いは短いけれど、彼女のコミュニケーション能力がこの程度の責めで早々衰えるのはおかしい。よほど相性が悪い相手か、後ろめたい感情がなければこうはならないだろう。

 実際、この件で本田が後ろめたさを感じる必要性はないのだ。後ろ向きな僕ですら何も思わないくらいだ。

 だから、本田は堂々と経緯を説明するだけでいい。きちんと説明すれば、それだけでみくにゃんは確実に引き下がる。初見の僕でもわかる程度に、みくにゃんはまともで平凡な常識人タイプだ。

 まあ、それでも突っかかるくらい我が強い場合は真っ向から潰せばいい。

 

「そんなこと、みくだってわかってる。でも、納得できない」

 

 案の定、みくにゃんは本田の言い方では納得してくれなかった。

 

「みくにゃん……」

「それに、ライブの話を受けたのは未央チャン達だよ。自分で決めたことを他の人のせいにするのは違うと思う」

「それは、そうだけど……」

「後から来て、チャンスを持っていかれたみく達の気持ちもわかってほしいにゃ!」

「あ……」

「でも、一度決まったことを後からあれこれ言うのも正しいとは思わないにゃ。だから、ここはあと腐れなく……あれ、未央チャン?」

 

 自分の指摘に対して本田が言葉を返さないことを疑問に思ったみくにゃんが、それまでの強い当たりから一変、心配そうに顔を覗き込んでいる。

 僕は背後からしか本田を見ていなかったので顔色を窺うことはできない。

 しかし、途中から彼女の肩が震えていたのはここからでもよく見えた。

 ……この辺りが介入時かな。

 

「ここからは、本田さんに代わって私が相手になるわ」

 

 言いつつ一歩踏み出して本田とみくにゃんの間に立つ。

 

「如月さん……」

 

 突然割り込んで来た僕に面食らったみくにゃんが僕の名を呼ぶ。

 何で僕の名前を知っているのかはひとまず置いておこう。

 僕は視線をそれまで不安そうな顔で成り行きを見守っていた島村へと向ける。それだけで僕の意図を察した島村が本田の腕を引いて後ろへと下がってくれた。奇跡と言ってもいいコミュニケーションの成立に状況も忘れて感動してしまう。本田の陰に隠れがちだが、島村もコミュニケーション能力が高い。

 

「どうも。はじめまして、如月千早です」

 

 感動を含めた諸々の感情を脇に置き、みくにゃんに向き直ると挨拶をした。

 喧嘩売って来た相手であっても、初対面なら挨拶は欠かせない。ドーモ。

 

「……」

 

 しかし、僕の挨拶にみくにゃんは反応を返さない。本田相手に絡んでいたら第三者がしゃしゃり出て来たのだから驚いて当然か。もしくは怒りで言葉を失っているか。

 だが僕が無関係だとしても、ここで本田に役割を返すつもりはなかった。

 本田の様子がおかしくなったのは確実に目の前の少女が原因である。しかし、その原因がみくにゃん本人にあるのか、彼女とのやり取りの中に混ざっていたのかはわからない。僕の中では、本田は苦手な相手にも普通に接するイメージがある。他でもない、僕自身が初対面の時に本田に普通にしてもらえたのだから、これ以上の根拠はない。

 そんな本田をコミュニケーション不全にまで追い込んだ何かがわからない以上、あのまま相手をさせることはできなかった。

 コミュニケーションは僕の不得意な分野だけれど、仲間が困っている時に動けないような人間になりたくなかった。だから、僕は介入を決めた。

 

「今回の件、私達がバックダンサーとして起用されたのは、城ヶ崎さんの発案があってのことです。そして、プロデューサーが私達に参加の意思を確認し、私達は受けると回答しています」

 

 みくにゃんがどれだけこちらの事情を知っているか確認の意味で、まずは状況を説明する。実際に僕は了承していないのだけれど、ここで言い出しても仕方ないし言い訳にしかならないので全員了承済みとする。

 みくにゃんの反応から、特にこの部分に疑問や意見はないようだ。

 話を続ける。

 

「その際、城ヶ崎さん側のプロデューサーおよび部長の許可……もとい、後押しを受けた結果、プロデューサーが私達全員の参加を決定しました」

 

 アイドル本人、相手側のプロデューサー、部長、そして私達シンデレラプロジェクトのプロデューサー。この案件において発言権と決定権を持つ人間が私達の起用を表面上とはいえ肯定している。その決定を覆す権利を有するとすればもっと上の人間だ。部長が絡んでいるので正当な理由がなければ同じ部長職ですら口を挟めないだろう。常務以上になってはじめて横槍を入れられる。

 それが会社というものであり、縦社会のルール。決して社員でもなんでもない僕達アイドルはどうこう言える立場ではないのだ。

 

「そういった方々が決めた仕事です。そして企画もスケジューリング済みで、今もその通りに各部門が動き始めています。それを貴女は納得できないと言う。……どの立場でその言葉を吐いたのでしょうか?」

「うぐっ!? ド正論過ぎて反論できないにゃ……。いや、でも! みくは自分を曲げないよ!」

 

 キャラはブレてるよ。

 

「如月さんの言ってることは正しいよ。……でも、ここで引いたら、みくは……だから、ここは無理をしてでも押し通すにゃ!」

「……」

 

 少しだけ、この少女のことを誤解していたらしい。

 僕はてっきり、納得できないからと駄々をこねるだけのモブだと思っていた。だから、少し正論をぶつければあっけなく引き下がると考え、こうして正論だけ垂れ流したわけなのだが……。なかなか侮れない気質を見せて来た。

 しかし、今は彼女に構っている時間はない。僕が先程自分で述べた通り、今からやるのはプロデューサー達が決めたスケジュールの一つだ。まだ時間に余裕があるとはいえ、それを蔑ろにしかねないみくにゃんの相手は早々に切り上げたかった。

 さて、次はどんな言葉で斬り付けようか?

 

「だから! みくとどっちが相応しいか、勝負にゃ!」

 

 ……。

 ……。

 ……なん、だとッ?

 勝負……?

 ……今、勝負と、言ったか!

 勝負ができるのかッ。

 勝負という単語に状況も忘れて一気にテンションが上がる。

 

 この僕を相手に勝負を挑んでくる存在が現れるなんて……。今まで僕に勝負を挑んで来た人間がどれだけいただろうか。その少なさを考えると、テンションくらい上がるに決まっている。

 勝負ができる。

 つまり、相手と優劣を競い合い、その結果で自分の力量がわかるということ。勉強に対するテストと同じ、相対評価による実力検査。それが勝負というものだ。

 嬉しいなぁ。まさか、こんなに早くアイドルと勝負できるなんて。ずっとこれまで、アイドルとしての自分の力を計る機会を探していたから、アイドルであるみくにゃんからの勝負の申し出は渡りに船だった。僕に勝負を挑んでくる輩って、毎回アイドル関係ないんだもん。暗殺拳の使い手とか、キリングマシーンとか、不死身の喧嘩屋とか、そんな奴らばかり相手にしたせいで戦闘力を競った記憶しかない。

 弱った本田には申し訳ないが、こんな美味しい機会を貰えたことに感謝してしまう。逃す手は無い。絶対逃がさない。もしも本田が勝負自体には乗り気だったら悪いけれど、この一戦は何としても僕が受ける。

 

「わかりました。その勝負、この私がお相手を務めさせていただきます。存分に雌雄を決しましょう」

「えぇぇ……意外に乗り気で驚きだにゃ……」

「如月さん、負けず嫌いそうだもんね」

 

 いや、そこ。みくにゃんはともかく、本田。君はこっち側だろ。何でみくにゃん側と意気投合しているのさ。仲良いのかよ。そんな相手に僕は言葉の暴力を振るったのかよ。ごめんよ。

 だが、そんな事実は今は蓋をして見ないことにする。現実逃避で目を逸らす。

 そんなことよりも、僕は目の前の勝負に夢中だった。

 さて、みくにゃん、勝負の種目は何かな?

 百メートル千本ダッシュ。片手腕立て伏せ耐久。重量空気椅子。いや、この流れならダンス対決か!

 なんでも来い。全て食い殺す。

 

「勝負方法はこれにゃ!」

 

 何やらヤケクソ気味にみくにゃんが叫び勢い良く取り出したのはどこかで見たことがある箱だった。

 

「え……」

 

 僕の口から気の抜けた声が漏れ出る。

 箱には大きく「ジェ◯ガ」と書かれていた。

 

 ……。

 

 いや、違う。そうじゃない。




本田「『仲良しだ』なら使ってもいいッ」

端から見ると三人でじゃれあいしているのに、実は一人だけガチで苦言を呈している千早。
嫌われる覚悟でダメ出ししても二人からは「如月さんは真顔で冗談言うタイプなんだな」と流されるので良好なコミュニケーションがとれてしまっている喜劇のような悲劇。
これが言葉を額面通り受け取る人間、深読みする人間ならば悪印象を受けたのでしょうが、二人が相手の感情を察せる人なので好感度だけが上がった感じです。または頭が良すぎて千早の足りない言葉を正しく補完できる人は千早の言葉を好意的に受け取れます。
765プロオーディション時の高木社長は察しすぎた上に深読みしすぎて悪意のみ読み取ってしまった感じです。逆に深読みしすぎて好意的に受け取る人もいるかもしれませんね。
モブ「今の如月さんの言葉って、悪口じゃない?」
本田「ふっふっふ、本当に如月さんがそんな意味で言ったと思っているのかい?」(無いグラサンを押し上げ)
モブ&千早「な、なんだって!?」
島村「その通りです。今の如月さんの言葉にはもっと別の意味があります」
千早「……さ、さすがCPメンバーでも随一のコミュニケーション能力を持つ本田さんね。私の言った言葉の意味を真に理解するとは」

今回本田は島村と千早の関係に気を遣っていました。攻めた発言で千早の反応を伺ってどこまで踏み込める相手なのか計っています。結果として千早は結構何を言っても大丈夫な相手だと判断されました。実際一度仲間と認定されたら地雷を踏まない限り好意的に接してくれます。本田の場合、キャラ的に千早の地雷を踏む機会がないので作中随一の安全圏に立つ女。ただ今後本田の周りが地雷原になるだけ。


今回の前川について。
アニメ本編では二話目で本田、島村、渋谷の三人と会話できていたので、3話目のレッスン前にああして絡んでいけました。しかし、この物語では千早が盛大にコミュニケーション拒否(前川視点)をしているので一歩引いています。それでも本田くらいならバチバチ絡めるかと思い、それを機会に千早ともコミュニケーションをとろうとした結果、想定外に本田がヘタれたのでいきなり魔王を引き出してしまいました。
千早「アイドルが会社に意見を言えるわけないじゃない」←言える立場の人

この魔王、これまで余波で相手をブチ殺すことはあっても真正面から敵対してくる人間とぶつかりあったことが稀なので加減を知りません。悟空が桃白白相手に「オラわくわくすっぞ! 超サイヤ人ゴッド超サイヤ人・10倍界王拳!」とかしちゃうレベルの加減知らず。前川の選んだ勝負方法がジェ〇ガだったから死ななかった。それだけです。    
あらゆる分野でプロを目指していた人間達が、千早が何か勝手にやってるのを見て心折れて撤退しています。残酷なのは千早本人はアイドルの練習の一貫としてやっていただけなのでプロを目指していないこと。
ちなみにシンプルに身体能力が高いと有利な分野の方が千早は得意です。100m走とか重量上げとか。または超絶技巧が必要な代わりに理論上これができれば勝ち確定みたいなものがある競技も得意です。ゴルフとかビリヤードとか。
だからこそ、力押しも最適解もないアイドルという競技に千早は本気を出せるわけですね。これがバトル物の世界にでも生まれていようものなら千早は挫折をせず初期の性格のままだったでしょう。


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アルティメットな初ライブその3

今回あとがきに本編の別のキャラ視点かつ三人称の記載があります。
本作の作風に対する説明として載せているものですが、ちょっとしたネタバレ的な要素も含まれるので、気にされる方はあとがきを読まないことをお勧めいたします。


 少し前まで存在を確立していたソレらが、今は無残にも骸を晒している。

 下手人は僕ではないが、相手に引き金を引かせた時点で主犯と名乗って差し支えないだろう。

 実際に手を下した相手は、目の前で起きた惨事を受け入れられないのか、呆然とした顔で自らが終わりを与えたモノを見下ろしている。

 

「終わりね……」

 

 相手の心情なんて知ったことかと、殊更冷たく聞こえるように決着を告げる。誰がどう見ても終わっているのに、あえて言葉にすることで勝鬨を上げるように自らの勝利を宣言する。それが勝者の権利であり、義務であった。

 

「未だかつて、ジェ◯ガでここまで白熱したバトルが繰り広げられたことがあっただろうか……」

 

 本田が顔だけは神妙にしつつ状況を的確に茶化して来る。

 んもー、せっかく人がモノローグだけでも真面目にしようとしたのに、そんなこと言われたら台無しじゃないか。

 

「いやー、すごく盛り上がったね。私、ジェ〇ガをこんな真面目に観戦したことないから良い勉強になったよ。……で、途中のアレって何てワザ?」

「よくわかりませんが、気付いたら如月さんの手にブロックが握られていたやつですか?」

「ナントカグッドスピードとか言ってたような……? ルールはわかるけど、さすがに技までは知らないかな……」

「速さこそが文化の基本法則なんだって」

「みくにゃんの堅実かつブレない手管は安定してたよねー。お手本? があるならまさにその通りって感じ!」

「途中で崩れかけたのを逆側から取ることで逆に攻撃に繋いでいましたね」

「まさか、あそこで抜いた一本が後々の布石になるなんて」

「中盤で片側を集中して抜きつつ途中から逆方向に積み上げるのは絶妙なバランス感覚でした」

「二人ともプレイスタイルが両極だから見応えあったね」

「ちなみに、途中で如月さんが二人に増えたように見えましたけど、あれは……」

「それは……さすがに目の錯覚じゃ?」

「えっと、その、二人とも、凄かった」

 

 完全にギャラリーと化した本田と島村、あとみくにゃんと一緒にいた二人が好き勝手言っている。最初は両方の陣営に分かれて観戦していたのに、色々な角度から眺めている間にポジションが変わり、いつの間にか彼女達は集まっていた。そして謎の団結力を見せながら実況と解説をしていた。

 完全に見せ物扱いじゃん。

 期待していたものとは違うけれど、こうして勝負事に誘われる機会がなかった僕は年甲斐もなくハッスルしてしまった。それに引きずられたのか、みくにゃんも謎なテンションの高さを見せ、最終的には少年漫画の様な熱いバトルを演じてしまった。

 僕はこんなことをするために介入したわけじゃないんだけどなぁ……。結局、自分の力量もわからなかったし。

 でも、勝負自体は楽しかった。

 

「良い勝負だったわ」

 

 口を突いて出た言葉に嘘やお為ごかしはなかった。本当に楽しかったし、良い勝負だったと思う。

 ただ、次は普通に潰し合える勝負がしたい。

 今回みたいのは楽しいだけで得るものが無い。それは時間の無駄だ。

 

「ま、まだみくは諦めない……」

「これって、アイドルに関係あるのかな」

「がはっ」

 

 何の気なしに呟かれた島村の言葉がみくにゃんの胸を抉っていた。胸を押さえて倒れるみくにゃん。僕よりは胸があるのだから、多少抉れても問題無いだろうに。いや、妬んでないけども。

 

「しまむー……残酷なことを言っちゃダメだって……」

「え、私何か酷いこと言ってました!?」

 

 島村の無自覚な疑問がみくにゃんを傷付ける。倒れながら悶えているみくにゃんに合掌する。

 ナムナム。

 

「勝敗が付いたことだし、準備運動でもしておきましょうか」

「如月さん切り替え早いね。まあ、時間もないし、やっておこうかな。柔軟からでいい?」

「……そうね。本格的なアップはトレーナーが来てから始めましょう。やり方もよくわからないし」

 

 ついこの間まで素人だった僕達はアップのやり方も独学だった。学校の体育でやるような形ばかりの準備運動に齧った程度の専門知識を合わせた不格好で効果の薄いものだ。今後のことを考えて、その辺りのやり方もトレーナーと相談しておいた方がいいと思い、今は身体をほぐす程度に留める。

 僕の場合、準備運動は必要ないのだけれど、ポーズとしてやっておかないと周りが心配するから……。

 

「あの、良かったらお手伝いしようか? 準備運動ならこれまでたくさん習って来たから、少しなら教えられるよ」

 

 それまで蚊帳の外にいたみくにゃん一行の一人、ぽっちゃりさんが手伝いを申し出て来た。置物かガヤをするところしか見ていなかったので、そんな申し出をしてくるとは意外だ。それに一応みくにゃんサイドの人間だったのだし、みくにゃんと戦ったこちら側を手伝うのは大丈夫なのだろうか。

 

「それは有難いですけど……」

「あ、みくちゃんのことは気にしないで。さっきはあんな風に絡んだけど、みんなのことを嫌ってるってわけじゃないから」

「そうですか」

 

 そう言われてしまえば、ぽっちゃりさんの申し出を断る理由はなかった。みくにゃんがこちらを嫌っていない云々はともかく、先輩にあたるこの少女が手伝ってくれるのは非常に助かるので受け入れたいところだが、僕はともかく本田と島村の方がどう受け取るかだ。

 

「やった! 色々教えて貰えると助かるよー」

「ありがとうございます!」

 

 非常に乗り気だった。先程までの蟠りとかは一切感じられない。むしろ引っかかりを覚えているのは僕だけか。僕だけがおかしい世界線なのか。

 

「よろしくお願いいたします」

 

 慇懃になり過ぎない程度に頭を下げ、僕もぽっちゃりさんへ教えを乞う。僕だって二人が問題ないなら是非とも参加したいからね。

 

「そ、そんな畏まる必要なんてないよ」

「いえ、こういう事はしっかりするべきと思いますから」

 

 教えを受けられるなら多少の違和感程度は飲み込もう。頭だって何だって下げられる。それで僕のアイドルとしての実力が上がるのならば何だってする。できないことと言えば、枕営業と悪魔に魂を売ることくらいだ。

 

「如月さんて、とても真面目なんだね」

 

 いや、不真面目代表みたいな奴だよ僕は。

 学校では授業は上の空、イベント事は欠席、最後は中学中退? だからね。真面目だなんて間違っても名乗れない。

 

「すごくしっかりしていて……大人の人に見えるかな」

 

 そして誰だ君は。いや、みくにゃんと一緒にいた二人組の片割れの子か……。気付けばいつの間にか近くにツインテールの少女が当たり前のように立っていた。

 突然会話に加わって来られると困る。そういう瞬間的な応対は苦手なんだから。反射的に失礼なことを言ったらどうするのかと。申し訳なくなるじゃないか。

 見た感じ大人しそうだし、上目遣いでこちらを覗き込む姿は見た者の庇護欲を刺激する。あざとさを感じないので天然モノっぽい。頭のツインテールも可愛さを引き立たせている。島村とは違ったタイプの正統派アイドルって印象だ。どうしてこんな子がみくにゃんと一緒に居たのかちょっと不思議である。

 

「ありがとうございます。……あまり真面目と言われたことがなかったので新鮮です」

「そうなの? みくちゃんに言ったことだって、会社のこととかしっかり考えてて偉いなって思ったんだよ」

「なるほど」

 

 偉いとわざわざ褒めるほどのことだろうか。普通に考えて、みくにゃんの発言はプロダクション所属のアイドルとして間違っていると思ったから指摘しただけだし。

 まあ、それを言っても仕方がないことだ。それに、今もこちらの話を聞き耳しているみくにゃんに追い討ちをかけるほど僕は残酷ではないので、ここはぽっちゃりさんの言葉を受け入れよう。

 

 

 

 組分けの結果、みくにゃんと本田。ツインテと島村。そして、ぽっちゃりさんと僕がペアになって準備運動をすることになった。

 ツインテと島村は相性が良さそうだから良いとして、本田とみくにゃんのペアは大丈夫だろうか。先程のやり取りを思い返し本田のことが心配になった僕は横目で二人を観察していた。

 

「じゃあ、みくにゃん、よろしくー!」

「うん、任せて! 先輩らしくちゃんと教えるにゃ!」

 

 ……これなら大丈夫そうかな?

 他人の悪意には敏感でも好意というものを感じ取れない僕は、二人の間に流れる空気が良好なのか判断が付かない。少なくとも悪感情をお互いが抱いていないことはわかるので心配する必要はないのかな。

 

「二人が心配?」

 

 ぽっちゃりさんが僕と同じく本田達を見ながら訊いて来る。

 

「ええ、少しだけ。私が割って入ったのは二人にとって良い事だったのか……もしも、余計なお世話だったら、と思うと気になってしまって」

「あの時は、ああするのが正解だったと思うよ。未央ちゃんの様子も少しおかしかったし。うん、あそこで如月さんが割って入らなかったら決定的に拗れていたかも」

 

 そうか。余計なことをしたと後悔していたので、ぽっちゃりさんの言葉を聞いて安心する。

 

「如月さんって友達想いなんだね。最初の印象だと、他人を拒絶するタイプなのかなって思ったから少し意外かなって」

「いえ、友達ではないですよ?」

 

 ぽっちゃりさんの発言を食い気味に否定する。

 

「え?」

「本田さんと島村さんは同じプロジェクトの仲間ですが、別に友達でもなんでもありません」

 

 危うく聞き流すところだった。知らないところで僕と友達などと思われていたら二人に迷惑がかかる。誤解はすぐに解かないと後で酷いことになると僕は知っていたので素早く否定した。

 

「え……でも、あんなに仲良しに見えるのに?」

「仲が良いかどうかなんて、他人から見てもよくわからないものですよ。仲が悪くないからといって、仲良しとは限りませんから。少し会話した程度で仲良しだなんて……ましてや、友達などと思われるのは困ります」

 

 中学生時代のことだ。とあるクラスメイトが、僕と友達だと勘違いされたことで仲良しグループからハブられるということがあった。

 当時の僕はクラスメイトを個人として認識していなかったので、友達というのは正真正銘勘違いだったのだけど、それを証明する人間もまた存在しなかった。孤立していたからこそ、それが証明できないという矛盾。今の僕とは違い、他者への気遣いができなかった僕は我関せずでろくなフォローも入れずにいた。

 その結果、そのクラスメイトは冤罪でハブられ続けることになった。

 他人に興味がなく、誰と誰が仲が良いかなんてどうでも良いと考えていた僕にはクラスメイトの一人が僕と同じくぼっちになったとしか思わなかった。

 だから、その相手から、教室で、クラスメイトの前で、ゴミを投げつけられた時も最初は理由がわからなかった。

 仲良くはなかったが、仲が悪くもない相手だ。恨みを買うことをした記憶もない。だと言うに、唐突にゴミを投げられる理由。

 それを僕は、ゴミを投げ付けて来た本人が「これで友達じゃないって証明できたよね!?」と必死に叫んでいる姿を見ることでようやく理解した。

 単純な話だった。

 僕と友達ではないことを証明するためにゴミを投げ付けただけだ。友達にそんなことはしない。だったらやれば友達ではない。そんな論理。

 とてもわかりやすい証明の仕方だった。

 しかし、そのクラスメイトが元のグループに戻ることはなかった。一度弾かれた者はもう戻れないのだ。

 確かにその子は僕と友達であることを否定できはした。しかし、同時に他人にゴミを平気で投げ付けられる人間であることも証明してしまった。そんな人間をグループに入れるメリットはグループメンバーにはなかった。

 彼女にそれだけの価値はなかった。

 それだけの話だ。

 

 その時の教訓から、僕はお互いが友達だと確認し合った相手としか友達と思わないようにし、また、他人からも思われないように努めることにしている。どうでも良い相手ならそれで周りから何を言われようがあまり気にしないが、本田と島村のことはそこそこ大切に思っている。何より仲間だから、大切にしたい。

 そんな二人が僕と友達と思われて周りからの評価を落とすことになったら申し訳が立たない。せっかく良好な関係を仲間と築けているのだから、それをわざわざ壊す必要はないんだ。

 

「彼女達は友達ではありませんし、友達だと思ったこともありません。発言には気を付けて下さい」

 

 友達になりたいとは思っている。

 しかし、この言葉は胸の内にしまった。表に出して得があるわけでもない。むしろ知られることで迷惑に思われる可能性が高い。

 だから、ぽっちゃりさんには不用意なことを言わないように注意した。他人から荒らされたらたまったものではない。

 

「あ、えっ、えっと……ご、ごめんね」

「いえ、気を付けていただければ、それ以上は何も言いません。私の方こそ先に言っておくべきでした、申し訳ありません」

 

 ぽっちゃりさんは僕の謝罪に何か言うことはせず、悲しそうに俯くだけだった。

 失敗したなぁ。今度からは相手に誤解される前に友達ではない宣言をしておいた方が良さそうだ。

 そうすれば相手が誤解をしたことを悔いる必要もなくなる。聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥と言うしね。違うか。

 

 お互い言葉少なげに準備運動を始める。自分から言い出すだけはあり、ぽっちゃりさんの教え方は解りやすかった。各動きがどういう効果があるのか一つ一つ丁寧に、それでいて端的な言葉で教えてくれた。少し脂肪燃焼効果に言及し過ぎな点を除けばとても満足できる内容だ。それまで力づくでやっていた前屈などの柔軟を意味のあるやり方に矯正していく。

 関節が固い時は砕くのではなく解すのが正解、と。

 

 程よく身体が温まって来たところでプロデューサーが顔を出しに来てくれた。

 ついこの間会ったばかりだというのに、何だか懐かしい顔に思えるのは不思議な感じがする。出逢ってから数ヶ月経っているとはいえ、過ごした時間は他人から抜け出した程度でしかないのに、なぜかとても長い時間、一緒に居た気がしてしまう。

 

「皆さん、おはようございます」

 

 いつもの重低音ボイスで発せられる挨拶を聞くと、仕事をしているという感覚が強くなる。この声を目覚ましにすれば起きた瞬間から仕事モードになるんじゃないか?

 今度お願いして声を録音させて貰おうかな。

 

「おはようございます」

 

 一旦ストレッチを止めてた僕達はプロデューサーの近くに集まった。その際、こちらも挨拶をするのは忘れない。

 

「本日、如月さん、本田さん、島村さんの三名は初めてダンスを合わせることになります。トレーナーはベテランの方なのでよく話を聞いてください」

 

 プロデューサーから改めて今日の予定が語られる。内容は事前に聞いていたものと同じなので特に注目すべき点はない。トレーナーがベテランということくらいか。

 

「はい! プロデューサー、今日のトレーナーって誰が担当?」

 

 本田も気になるのか質問を投げ掛けている。

 

「本日の担当は、先日にお二人にレッスンを付けていただいた青木さんです。今回、皆さんはバックダンサーとしてダンス中心のレッスンとなりますので、同じ方が教えます」

「なるほど、あのベテランって感じの人だね。確かに厳しかったけど、ダンス教えるの上手だったもんね」

「これまで養成所で習って来たものより格段にレベルが上で驚きましたけど、その分力になっているって実感できました」

 

 二人からの評価も高いので、そのトレーナーの人は信用できるのだろう。僕と二人にダンスの力量差がどれだけあるか知らないので何とも言えないが、同じくダンス初心者にもためになるレッスンをしてくれるらしい。誰かにダンスを教わるのは慣れていないので上手く立ち回れるように気を付けよう。

 

「前川さん、三村さん、緒方さんの三名は、スケジュールの問題で一緒にレッスンを受けることはできませんが、許可は得ていますのでここで見学をしていただいても問題ありません」

「わぁ! ありがとうございます! やったね、みくちゃん、智絵里ちゃん」

「う、うん。……あの、プロデューサー、ありがとうございます」

「Pチャン、ありがとうにゃ! みく達、たくさん勉強しておくね」

 

 気を利かせたプロデューサーがみくにゃん達に見学の許可を取って来てくれていた。この特別許可のおかげでみくにゃんの溜飲も下がったのか機嫌が良い。……さすがプロデューサー、アイドルをよく見ている。

 と言うか、薄らとそんな気がしていたのだけれど、この三人てもしかしてシンデレラプロジェクトのメンバーだったりするのだろうか?

 もしそうだった場合、僕はかなり失礼なことを言っていたことになる。一緒に写真撮った相手にはじめましてとか言ってるぞ。

 ……。

 まあ、いいか。写真に一緒に写ったくらいで顔馴染み扱いできるなら、クラスの集合写真で一緒に写ったクラスメイトも顔馴染みってことになるわけだし。そうはならなかったのだから、同様にみくにゃん達もまだ顔馴染みではないことになる。うん。証明終了。

 

「ところで、如月さん」

 

 自分の他人への興味の薄さに慄いていると、プロデューサーが話の矛先を僕へと向けて来た。

 なんだろう、僕も特別に何かあるの?

 

「昼食は食べましたか?」

「……ぷぇー」

 

 知らず気の抜けた声が口から漏れていた。

 お昼ご飯は食べていない。まさかその事を追及されるとは思っていなかった。

 そもそもお昼はプロデューサーと食べるつもりだったわけだし。そのプロデューサーが予定をキャンセルするのなら、僕も昼食をキャンセルしても特別おかしな話にはならないだろう。

 

「ちなみに、昼食をご一緒できないからと言って、貴女が昼食を食べなくていいということにはなりませんので」

 

 無作法を気にしなくて良ければ口笛でも吹きたい気分だった。

 完全に思考バレてるね、これ。

 

「……いえ。今回は私が予定をキャンセルしたことが原因とも言えるので大目に見ましょう」

 

 ホッ……。さすがプロデューサー。話がわかっていらっしゃる。そうだよね、僕だって好きで昼食を抜いたわけではないんですよ?

 

「それで、朝食は食べましたか?」

「ファー……」

 

 気を抜いた瞬間に返す刀で真っ二つにされた気分だ。

 食べたか食べていないかと問われたら、食べてないよ。と言うか、朝って食べないものじゃないの?

 

「その様子では食べていないようですね」

「……ヒ」

「もちろん、昨夜に夕食は食べましたよね?」

「……ァー」

「昨日の昼食は何をお食べになりましたか?」

「……ィー」

「昨日の朝食は?」

「……ゥー」

 

 どの質問にも答えられない。

 食べた物を思い出せないわけではなく、食べていないから言い出せないのだ。

 その事をプロデューサーは察しているのか、質問する毎に彼の顔の圧が増している気がする。

 少し気になったのは、アイドルのみんなの顔色が変わっていることだ。ドン引きと言うのだろうか、「信じられない」といった様子でこちらを見ている。これはプロデューサーの圧が強すぎて引いてしまっているってやつか。慣れていないと彼の顔って怖く見えるからね。仕方ないね。

 

「……最後に何か物を口にしたのはいつですか?」

 

 こ、怖くて答えられない……。

 もはや食事内容ではなく、物を口に入れたのがいつかまでレベルを落としていることがプロデューサーの本気さがわかって怖い。

 えっと、最後に物を口に入れたのは……。

 

「み……三日くらい前……です?」

 

 そのくらい前に水を飲んだ気がする!

 セーフ!

 

「アウトです」

 

 なんで!?

 人間は三日くらいなら水を飲まなくても生きていけると言われている。だから、三日前に水を飲んだ僕は人間の常識に照らし合わせたらセーフじゃないの?

 

「如月さん……、食べなくても大丈夫ということと食べなくても問題がないことは別問題です。貴女のそれは、死なないから大丈夫という考えであって、何も問題がないことにはならないのです。わかりますか?」

「お、ふ……」

 

 なんとなく言っていることはわかった。

 納得はできないが。

 

「納得されていない、という顔をされていますね」

「いえ、そんなことは……」

 

 だから、なんで分かるんだよ。僕の鉄面皮に隠された内心を的確に読み取ってくるのだけど、この有能プロデューサー。

 これであと少しだけでも愛想の良い表情ができたのなら、近付きやすい印象を持たれるのに……。って他人のことを言ってる余裕はないか。

 

「如月さん」

「ハイ」

「とりあえず、何か食べてください。何でも構いません。とにかく、栄養になる食べ物を摂取することを目標にしましょう」

「が、頑張ります」

 

 僕に新たな目標が生まれた。なんてやりがいのある目標なのだろうか!

 目標は高ければ高いほど燃えるとは言うけれど……、うん、ちょっと心が折れそうな高さだ。でも、頑張るよ。

 

「頑張らないといけないんだ……」

 

 一連のやり取りを見ていたぽっちゃりさんが慄いている。

 別に体格から推し量ったわけではないけれど……食べることが好きそうな彼女からすると、頑張らなければ物が食べられないという僕の発言は異質に映っただろう。

 

「……」

 

 プロデューサーが僕の顔をじっと見下ろしている。僕が本当に食事をするか顔から読み取ろうとしているのだろうか。真意を読み取られるほどの揺らぎは無いはずなのだが。

 さすがにそれだけで僕を読み切るのはプロデューサーとて不可能なようで、何かを指摘してくる気配はない。しかし、僕の方も下手なことを言って嘘を指摘されることを恐れて何も言えずにいる。

 しばし見つめ合いが続いた。

 

「はい、プロデューサー! その如月さんにご飯食べさせる役目、この未央ちゃんに任せて!」

 

 唐突に、プロデューサーと僕の前に躍り出た本田がそんなことを言って来た。

 何だ、その飼育委員みたいな役目は。僕はペットではないぞ。

 

「本田さんが、ですか……?」

「そうそう! これから一緒に居る機会が増えるわけだし? 三食全部は無理でも、ご飯を一緒に食べるようにすれば如月さんもご飯を食べるでしょ?」

「なるほど……」

 

 僕そっちのけで二人の中で話が纏まっていく……。僕の意見は? 意思は? 問答無用過ぎない?

 

「では、ステージまでの期間中、本田さんには積極的に如月さんを食事に誘っていただくということで」

「はーい! 任せてっ。この辺りのイイお店とか調べてあるから。如月さんも楽しみにしててね」

「ウッス……」

 

 一分もかからずに本田による僕の食事監修が決まってしまった。それでいいのか、本田未央。僕に拘う暇なんてあるのか、本田未央。島村とかの仲の良い相手との時間を削ってまで僕に関わる意味はないだろうに。これはお人好しというレベルじゃない。お節介体質と呼ぶべき癖なんじゃなかろうか?

 

「本来ならば、この後いらっしゃるトレーナーとの顔合わせを予定していたのですが……予定を変更して、如月さんには昼食を取っていただこうかと」

「それは困ります」

 

 プロデューサーが言い切る前に待ったを掛ける。

 危ない。もう少し止めるのが遅れていたら食堂送りにされているところだった。これから合同レッスンだというのに、食べるためだけにレッスンから抜けるなんてあり得ない。それが本田達を待たせるのか、僕抜きで始まるのかはわからないけれど、初めての合同レッスンで予定が狂うのは嫌だ。

 

「ですが、今の貴女にレッスンを……しかも、ダンスレッスンを受けさせるわけにはいきません」

「問題ありません」

「それを判断するのは私です」

 

 ふぇー、いつにも増して強固に止めて来るよー……!

 いつもなら何だかんだ言って折れてくれるのに、今日に限ってまるで退く気がない。

 ど、どうしよう? このまま僕だけレッスンを受けられないとか無いよね? それで二人から出遅れて、実力に隔たりが生じたら困る……!

 

「あ、あのっ」

 

 どうプロデューサーを説得しようかと頭を悩ませていると、今度はぽっちゃりさんが会話に入って来た。

 何の用だろう。この話し合いに関係する話だよね? 違うならちょっと後にして欲しいかなー。

 

「あの。私、みんながライブに出るって聞いて、お祝いにお菓子を焼いて来たんです。もしよければ、とりあえずそれを食べて貰えたら……お腹の足しになるんじゃないでしょうか?」

 

 そう言って差し出されたぽっちゃりさんの手には小ぶりの箱が載せられていた。

 ロゴも何も描かれていない白い箱は、市販のお菓子とは違う雰囲気を出している。

 

「お菓子、ですか……?」

「はい。甘いだけじゃなくて、お腹も膨れるマカロンです。あ、もちろん、後でちゃんとしたご飯を食べた方がいいと思いますけど……どうですか?」

 

 遠慮がちに言いながら、ぽっちゃりさんがお菓子の箱を開ける。

 中には焼き菓子か納められていた。料理関連のスキルが死んでいる僕でも一目でわかるくらいのクオリティの高さだ。これはかなりデキる人の料理!

 

「栄養価が高そうですね……」

 

 そこは美味しそうと言ってあげて。

 いや、もしかしたら、これをあわよくば食べようとしているぽっちゃりさんへの牽制ということもあるか? 暗にカロリーが高い物を食べるなと彼女に釘を刺したという可能性もある。

 確かに、アイドルの天敵みたいなお菓子ではある。甘い上にボリュームまであるのだから。いったい一つで何キロカロリーあるんだ……。

 

「では、こちらを如月さんに食べていただくということで。幾つか頂いてもよろしいですか?」

「あっ……は、はい! どうぞっ、たくさん食べさせてあげてください!」

 

 あ、なんか僕がそれを食べる流れになっている。プロデューサーが乗り気だし、ぽっちゃりさんも僕が食べるとわかった瞬間、物凄いテンションを上げているし。食べるしかない感じじゃん。

 突然重い物を食べるのは辛いのだけど……。いつかのスイーツフェスタでの地獄を思い出して、胃がギュッと縮こまる錯覚を覚える。

 そんな僕を余所に、プロデューサーは箱からお菓子を一つ手に取り出した。

 まずはプロデューサーが味見をするのかな? 毒味するようなものでもないはずだけど。

 そう思って見ていると、彼は自然な動作でそのお菓子をボクがの顔の前へと持って来たのだった。

 

「どうぞ」

「……」

 

 いや……どうぞ、じゃないが?

 てっきりプロデューサー自ら味見するのかと思っていたら、まさかのアーンである。この間の昼食アゲイン。強制的に物を食べさせる最強の技。その凶悪さたるや、周りの子達が「えー……」という顔でドン引きするレベルである。

 

「えーと?」

 

 しばらくお菓子とプロデューサーの顔を見比べる。

 お菓子。手作りとは思えないほど綺麗に焼けて美味しそうに見える。

 プロデューサー。カタギとは思えないほど眼光鋭くこちらを見てる。

 躊躇は一瞬だった。

 

「……あむ」

「あ、食べるんだ」

 

 根負けした僕は諦めてお菓子を食べた。それを見た誰かが余計なことを言っているが無視する。反応したら負けだ。

 お菓子自体の感想としては、すっかり感覚も戻り、身体の不調も治ったので普通に美味しく感じる。甘さ控えめで胃もたれしない。サクサクした外身としっとりとした中身が一つのお菓子にちゃんと同居している。

 一口サイズで食べやすいのも助かる。これが大きいサイズだったら僕の小さい口では食べられなかったところだ。

 

「ど、どうかな? あんまり甘くない方がいいかなって思って、普通よりも甘さ控えめで作ってみたんだけど」

「とても……美味しいです……」

 

 恐る恐るという態度で味の感想を求めて来たぽっちゃりさんに味の感想を伝える。

 

「あ……本当? よかったー……!」

 

 何をそんなに安心しているのか、ぽっちゃりさんは溜息交じりに安堵の表情を浮かべている。僕に美味しいと言われた程度で、そんな顔するぽっちゃりさんの意図がわからない。まあ、他人の心情なんて僕が推し量れる物でもないか。気にしたところで意味もないし、益もない。仮に察したところで、それが本当に相手の本心かなんてわからない。違った時のリスクを考えるならば、最初から慮る必要すらない。だから、僕は彼女の安堵の意味を考えることを止めた。

 ……さて、お菓子も食べたことだし、トレーナーが来るまでアップの続きでもするかな。新しい技術を取り入れたら試したくなるのが僕なのである。

 

「どうぞ」

 

 だがしかし、顔をプロデューサーへと戻すと、お菓子が目の前に差し出されていた。

 あれ、時間巻き戻ったりした? 今と同じ光景を直前に見た気するのだけれど……。

 

「……はむ」

「当たり前のように」

 

 試しにもう一度食べる。当然、味の方は同じだった。

 

「どうぞ」

 

 予想通り、またもお菓子が目の前に差し出された。

 泣きの一回でもう一度だけ食べてみる。

 

「どうぞ」

 

 三度、差し出されるお菓子──。

 む、無限スイーツだとオォォ!?

 食べても食べても追加されるお菓子を目にした僕の背に冷や汗が流れる。これは、いつまでも終わらない流れ?

 

「あの、プロデューサー、もう十分いただきましたが」

「栄養価と量を考えれば、これだけでは足りないと判断しました」

 

 いや、だからって多く食べれば良いってもんでもないでしょ。お菓子だよ。パンが無ければお菓子を食べればいいじゃないは嘘なんだよ。

 

「あの」

「美味しいから大丈夫だよ」

 

 ぽっちゃりからのフォローがフォローになっていない。美味しいから何が大丈夫なのか。仮にそれで大丈夫なのは飽きが来にくいってことだけで、僕の食べる量が減ることにはならないよね。むしろ追い討ちだよね。

 

「それでも、これ以上は……」

 

 満腹ですアピールをプロデューサーにしてみるも、彼の手にはすでに新たなお菓子が摘まれている。

 

「どうぞ」

「びゃー」

 

 強要されるお菓子の摂取。続くお菓子の輸送。終わらないお菓子地獄。

 でも、あと一つ食べれば箱の中身も空になる。終わる──。

 

「はい、プロデューサーさん。新しい箱です」

「ありがとうございます、三村さん」

「ひゃー」

 

 箱からお菓子が無くなるというところで、「プロデューサー新しい箱よ!」と言わんばかりに、ぽっちゃりがいつの間にか持って来ていた新たなお菓子の箱をプロデューサーへと手渡している。

 箱一つ分食べ終えれば終わると思っていたのに……。

 お、おのれぽっちゃりィィ。

 

「わ、私だけいただくのも悪いですから……」

「大丈夫! みんなの分もちゃんとあるよ」

 

 せめてもの抵抗として、僕が独り占めするのを遠慮するように言うと、ぽっちゃりがレッスンルーム備え付けの椅子の上に置いてある箱の山を指し示した。

 そんな、嘘でしょ? 倒したと思ったら復活した上に残機百倍菓子パンマンだなんて……。あの箱すべてを食べさせる気はないだろうけど、続く箱の中身だけでも僕をバイバイキーンするには申し分ない量を備えている。あの量を用意する努力と根性があるならダイエットくらいできるだろ、三村ァ!

 

「みんなもよかったら食べて?」

「わー、凄い美味しそう!」

「綺麗に焼けてます。これが手作り……」

 

 頼みの綱の本田と島村も、お菓子の誘惑を前に早々に懐柔されてしまった。

 この拷問は誰にも止めることができない。

 おごご。これ以上は入らないでぶー。

 これ以上は口からお菓子が逆流する。アイドルが嘔吐するのだけは……。アイドル的に嘔吐は駄目だと思うので死ぬ気で我慢する。しかし、それもいつまで続くかわからない。

 使うか? チートを……。こんな馬鹿みたいな事態に使うには過ぎた能力だぞ……。こういうのって、もっと危機的状況で使うものじゃないの? バトル漫画で言えば、最終回で主人公が大ピンチになるシーンまでとっておくやつでしょ。

 

「どうぞ」

「……」

「まだまだあるからね?」

「……」

「どうぞ」

「……」

「次の箱を持ってきますね」

「……」

 

 死ぬが?

 その昔、大福を死ぬまで食わせるという処刑方法があったらしいが、まさに今がそれ。

 確信する。今がその大ピンチの状況だった!

 くっ、背に腹は代えられないか……。アイドルというか、人としての尊厳を守るために、僕はチートを解放することを決めた。

 使うぞォ! 偽ダーティディーズ──。

 そんな、僕史上最もアホな理由でチートを使おうとしたところで、意外な所から僕のピンチを救う者が現れた。

 

「何やってんの?」

 

 扉の方、プロデューサーの身体で見えないので姿は見えないが、部屋に入って来た誰かが声を掛けて来たことでお菓子を輸送するプロデューサーの手が止まった。

 誰だかわからないけどナイスゥ。おかげでプロデューサーの手が止まった。終わらないと思っていた拷問が止まったことで、僕のテンションが上がる。

 

「あ、城ヶ崎さん」

 

 三村の口から出た相手の名前を聞いてテンションが急降下した。

 念のため、頭を傾けてプロデューサーの陰から顔を出すと、入口に立つ城ヶ崎姉の姿が目に入る。

 

「……楽しそうなことしてるじゃん」

 

 僕達のやり取りを見ていたらしい城ヶ崎が愉快そうに声を掛けて来る。

 

「城ヶ崎さんにしては珍しく時間に余裕がありませんでしたね」

 

 プロデューサーもプロデューサーで何事も無かったかのような態度で城ヶ崎に応対している。彼の中では今のやり取りは無かったことになっているらしい。

 

「ちょっと撮影が押しちゃってさ。ま、そっちも取り込み中だったみたいだし、問題ないでしょ?」

「……そう言えば、青木さんがまだ来ていらっしゃいませんね。時間には正確な方だと記憶していたのですが……」

「なんか妹さんのお見舞いで少し遅くなるって言ってたけど? 連絡済みだって聞いてたから私がまず指導するって話になってるはずだけど……聞いてなかった?」

「……」

 

 表面上、城ヶ崎の態度は普通に見えた。内心は知らないが。少なくともこの間見せた敵意を表に出すようなことはしていない。短い付き合いの中、あれだけ僕の心情を察したプロデューサーに気付かせないというのは流石と言える。アイドルであり女優でもあるのだろう、城ヶ崎という少女は。

 言葉はプロデューサーに向けてのものだったが、ちらちらと僕の方に向けて来るあたり意識されているのだろう。彼女の中の僕の立ち位置が読めないので何とも言えないが、あまり居心地の良いものではない。しかし、今の僕が彼女に何か言うのも違う気がする。それができるほど僕の立場は強くなく、また、彼女の方に隙が無かった。

 何かを言う意味が無い。

 何かを問う理由が無い。

 彼女の中の何かを引き出さない限り、僕は城ヶ崎を敵として見ることすらできない。

 定まらない立ち位置に居られることの厄介さ。これまで敵と味方と背景としかカテゴライズして来なかった人間に対し、城ヶ崎がどれに当て嵌まるのか決めかねている。

 即断即決。敵と見做したらすぐに処理をする。……それが出来ていた頃の僕はもう居ない。それを弱くなったと言うのは独善が過ぎるか。いや、孤独が過ぎると言えよう。

 どちらにせよ、相手の思惑を測れない現状で城ヶ崎に何かすることはない。少なくとも、このライブが終わるまでは大人しくしておこう……。

 

「大丈夫? 最近疲れてるんじゃない? ……目の下に薄らとだけどクマがあるけど」

「いえ、ご心配には及びません。少々仕事が立て込んでいただけですので」

「うっ。……それって、アタシが持って来た仕事も入ってるんだよね? ゴメン、ただでさえ疲れているのに、余計なことしちゃったかな……」

「いえ、それ自体は大した量ではありません。大体のことはそちらのスタッフが取り纏めていらっしゃるので」

「……なら、それ以外の仕事が大変なんだ?」

「いえ、まあ、確かに大変ではありますが、それがプロデューサーの仕事なので」

「それにしては他のプロデューサーよりも大変そうに見えるけど……?」

「お恥ずかしい話ですが、私用で仕事を滞らせてしまいまして。これはそのツケのようなものです」

「ふーん。私用かぁー……」

 

 一見和やかに見える会話なのに、不思議と居心地の悪さを感じるのは何でだろう。どちらも互いに悪感情なんて持っていないのはわかる。だと言うのに、この空気の淀んでいる中で呼吸するような苦しさは何が理由なんだ……?

 

「アンタ達、自分のプロデューサーにあんまり負担かけるんじゃないわよ。自分でできることは自分でやるのもアイドルの仕事だからね?」

 

 プロデューサーとの会話の間に、こちらへと声を掛けてくる城ヶ崎。一見、冗談めかして後輩へと発破を掛けているように見えるが、こちらを見る目は微妙に笑っていない。

 しかし、それに気付いた人間は僕以外に居ないらしい。城ヶ崎の対面に立つプロデューサーはもちろんのこと、声を掛けられた側のアイドル達も軽く受け止めているようだった。本田に至っては「はーい!」などと無邪気に返事までしてしまっている。

 一瞬とはいえ彼女の中身を垣間見た僕からすれば、城ヶ崎が冗談で言っているわけではないのがわかる。いや、それを見越した上で城ヶ崎は言葉を選んだ可能性もあるのか? その場合、今の言葉は僕だけに言っていたということになる。うーん、プロデューサーの疲労の原因に自覚がある分、何も言い返せない……。

 

「今日はアタシがレッスンを見ることになってるから。トレーナーが指導するのはある程度揃ってからね」

「あ、あの城ヶ崎美嘉に直接指導して貰えるなんて……!」

 

 どうやらトレーナーの代わりに城ヶ崎が指導を担当するらしい。プロデューサーがそれを知らなかったというのは不思議ではあるが、そういうこともあるのだろうと納得しておく。

 それにしても、トレーナーの前にアイドルの城ヶ崎が指導するってどうなんだろ? 僕個人としては、城ヶ崎と合わせるのは最終調整の段階で良い気がするんだよね。まずは僕達バックダンサー組の三人で合わせて、細かな修正をトレーナーに見て貰い、最後調整するっていうのが効率的な気がするのだが。まあ、そのトレーナー本人が居ないのだから城ヶ崎が見るのは仕方がないことか……。本田も感極まったという顔で喜んでいるようだし、とりあえずレッスンを受けるだけなら害もないし問題無いか。

 案外、今日の時点で動きを合わせられるかも知れないからね。そうしたら、余裕を持ってライブに臨める。余った時間を微調整に当てられれば、それだけクオリティが高いステージになるだろう。

 見せて恥ずかしくないデキならば、優と春香をライブに誘ってみようかな。チケットって優先的に買えたりするのか、後でプロデューサーに訊いてみよう。

 

 この時の僕は、合同レッスンがどういう物なのか……いや、自分にとって何を意味するのか考えが及んでいなかった。

 自分の能力を過信していたと言っていい。何だったらチートを使えばどうとでもなるとさえ考えていた。

 しかし、僕の自信と期待は裏切られることになる。

 

 

 僕は思っている以上に自分の能力に依存していたらしい。




前川みくは錆白兵だった。


次回、ようやく千早の弱点が露呈します。誰かと合わせることの難しさを知って挫折を味わいます。
どう壁を乗り越えるのか。
まあ、この手の問題で今の千早が人間的に成長することはありませんので、別方向で進化するしかないですね。技術的な問題に直面する度に人間らしさを捨てて行く……。
千早から人間らしい成長の機会を奪った武Pの罪は重い。武Pもそれを自覚しているので色々気にかけています。それがまた他者(特にちひろ)の誤解を生み胃を痛めつける。


中学時代の千早は、普通なら人間不信になるレベルで不遇な扱いを受けていましたが、千早本人が相手を人間と思っていないので気にしていませんでした。いじめレベルの行為、たとえば直接的な暴力などはされていませんので気にしなかった感じです。仮にしていたら、その人間はナイナイされていました。物を隠されても気にしないタイプなので気にしません。ただし、優がプレゼントした物を盗んでいたら匂いを辿られた上に敵として扱われていました。この時代の千早に敵と認識されるのは、スカイツリーの天辺から紐なしバンジーする方が生存率が高く、また、死に方としてもマシというレベルの自殺行為です。こちらを人間と思わないため容赦が皆無の化物が殺意ではなく害虫駆除の感覚で処理しに来るわけですから。千早から物を盗む場合は毎回ロシアンルーレット状態です。その恐怖を味わうことなく卒業できたクラスメイト達は幸運でしたね。

よくリアルのアイドル企画でもある、母校に挨拶がてらミニライブを学校で開催というのはありますが、そんな仕事が来た時に千早が参加するのかは不明。
少なくとも恩師登場なんてシーンは撮れないし、当時のクラスメイトと思い出を振り返るなんてものもできません。仮にクラスメイトが来たとしても、そこで悪意なくクラスメイトの所業を語って場を凍らせて全面カットがオチでしょうね。
クラスメイトの言動を気にしていないだけで、やったこと自体は全部把握している上に日付まで覚えています。ただ個として認識していないので誰がやったのかなどは気にしていません。



あまり意味がない設定。
ゲーム等ではセリフの中で表記される「☆」などは本作では書いていません。これが三人称視点で書くならともかく千早視点なので音声に則した文章となっています。
亜美真美の矢印とか佐藤の☆とかもないです。千早には聞こえていないので。
その他、三人称なら描かれる部分も千早主観だと描かれていなかったりと、叙述的な欠損が意図的に含まれているシーンもあります。
また、世界を千早視点で描いているので他キャラと認識の齟齬があります。今回の城ヶ崎のシーンもそれに当たります。本田達からすると今回城ヶ崎の態度はアニメと差がありません。頼れる先輩の姿で見えています。しかし、千早の視点だと終始不穏な態度に見えています。これは城ヶ崎の心中がどうかは別問題です。千早と本田達で見えているものが違うため、読み手(千早)と他キャラで受け取り方が違うということになります。
これまでもそういうシーンはありました。これからもそういうシーンがあります。それがどこのシーンかは今後別キャラ視点があればわかることでしょう。

千早が持っている情報は他のキャラと比べると少ないです。逆に千早の方が多く情報を持っていることもあります。
プロデューサーの印象も千早とその他で微妙に違います。千早自身の印象も違います。それが一人称と三人称の違いですね。

試しに今回のシーンの一部を別視点かつ三人称にするとこうなります。


※以下ネタバレ要素ありのため気になる方はここまで




「では、こちらを如月さんに食べていただくということで。幾つか頂いてもよろしいですか?」
「あっ……は、はい! どうぞっ、たくさん食べさせてあげてください!」

プロデューサーの確認に快く返事を返しながら、三村かな子は内心喜びを感じていた。
あの時の少女──千早が今目の前に居り、自分が焼いたお菓子を食べる。それは彼女にとって、とても喜ばしいことだからだ。

初めて彼女と出会った時のことは今でも鮮明に覚えている。あの時の衝撃を言葉にするならば、御伽噺に出てくる空想上のお菓子が実際に目の前に現れた……そんな奇跡を目の当たりにした気持ちであった。
それ程までに、とても──普段綺麗な人間を見慣れている自分であっても──美しいと思える容姿をした少女が一人、店内で立ち尽くす姿は印象的であった。
線の細い姿と粉砂糖の様な白い肌は病人にも見えるほどに儚げだったが、そこに病人特有の弱々しさは感じられない。体幹が非常に優れているらしく、微かな揺れも無く真っ直ぐと立っている姿から虚弱な印象は受けない。
すらりとした手足と、真っ直ぐ伸ばされた背筋。最高級の絹糸が如き艶やか髪は染められたにしては驚く程自然な青色をしていた。そして、それらの要素を些事と切って捨ててしまいたく程に整った顔。ともすれば現実には存在しないのではないかと疑うくらい非現実的な容姿をしていた。
その姿は周囲から浮いており、周りの人間も少女の美しさに引いているのか物理的に距離を置いてしまっている。中には少女の美しさに見惚れ、お菓子そっちのけで眺めている者も居たが、だいたいの人間は少女の容姿に引いていた。
それを見たかな子は、綺麗過ぎて怖いという感覚があることを初めて実感したのだった。
そんな色々な意味で浮きまくっている少女は、スイーツ食べ放題のお店にありながらお菓子を取りに行くこともせず、ただお菓子の並べられた棚を眺めているだけだった。
不思議に思ったかな子が少女をよく見ると、その顔色が悪いことがわかった。多くの者がその容姿に圧倒されて少女の顔色の悪さを見過ごす中、かな子が少女の不調に気付けたのは一般人よりも美しい物に耐性があった。それだけである。
その時は親切心から思わず声を掛けたが、残念なながらすぐに逃げられてしまった。

正直に言えば、千早に対する第一印象は良いものではなかった。
先程は親切心だなどと偽ったが、実際はお菓子好きを自任する自分が彼女の態度が許容できなかっただけである。あんな美味しそうなお菓子を前にして、幸せそうな顔ではなく、辛そうな顔をすることがもったいないと感じたのだ。
だから、何としてでも千早にはお菓子を食べて欲しい。そして、食べた後に幸せになって欲しい。そんなどこかズレた好意(プライド)を持っていた彼女にとって、これは好機以外の何物でもなかった。
しかし、一つ懸念点があった。それは、自分達シンデレラプロジェクトのメンバーを取り纏めるプロデューサーの存在だった。
公然の秘密であるが、彼はたった一人のためにプロジェクト始動を遅らせた事実がある。その件でCPのアシスタントプロデューサーとして彼の近くに居る千川ちひろが前に愚痴っていた。
346プロで行われたシンデレラプロジェクトの第一次選考にかな子が受かり、晴れてアイドルになってから数か月が経過している。その間、プロデューサーは基礎レッスンを自分達に言い渡すのみで一行にプロジェクトを進めることはしなかった。その理由が一人の少女のスカウトに拘っていたからと聞かされた時は、さすがの彼女も少なからず不信感を抱いたものである。
それが補充要員の未央、卯月、千早の三名の内の誰かなのだとすれば、彼女達に突っかかったみくの気持ちも十分理解できるものであった。みくだけではなく、その他の子達もみく程ではないが不満は持っていただろう。
かな子もそれは同じ思いであった。しかし、その相手が、仮に千早であったのだとしたら……。不思議と、それは納得のいく話だと思った。
初めて346プロへとやって来て、宣材写真の撮影のためにスタジオへと現れた千早を見た瞬間、かな子はプロデューサーの拘りを仕方がないことだと納得した。それまであった不満が、不信が、ストンと音を立てて心の内に収まった気がしたのだ。
だから、かな子は納得し千早への不満を飲み込んだ。プロデューサーの態度も理解した。
そして、現状を理解した。

──プロデューサーにとって、自分達よりも千早の方が価値がある。

自分達と千早、どちらを取るか。もしプロデューサーが選択を迫られたら、彼は間違いなく千早を取るだろう。それを一目見て納得させられてしまうくらいに、如月千早という少女は鮮烈だった。
聞いた話によると、千早の食事や個人レッスンにもプロデューサー自ら口を出し、あれこれと世話を焼いているらしい。その過干渉とも言うべき世話の焼き様は、それだけ彼が千早に入れ込んでいる証左と言えた。
だから、きっと、自分達からの干渉も制限されると思っていた。嫉妬で千早に何かをするというような人間はメンバーの中には居ないと思っているが、今回のみくのように三人纏めて絡むバーサーカーが自分が知るだけでも幾人か居る。その人間が下手なことをした場合どうなるのか……。最悪の事態もあり得る。
しかし、蓋を開けてみれば、こうして自分達の干渉にプロデューサーが何か苦言を呈することはせず、むしろ見学とはいえ参加を許したのは予想外だった。
てっきりお菓子を食べさせることにも否定的な態度をとられると思っていたので、自分の手に乗せられた箱からプロデューサーがマカロンを一つ摘み上げる光景は、かな子にとって意外だった。

(それも当然なのかな?)

プロデューサーと千早の会話から彼女の食生活を垣間見ることができた。信じられないことに、千早はこの三日間食事を取っていないらしい。かな子にとって拷問にも等しい苦行を千早は行っている。しかも、プロデューサーの口ぶりとして、それが慢性的に行われているのが窺える。
彼が是が非でも千早に食事をさせようとした理由がわかった。
だが、かな子にとって理由はどうでもよかった。今は千早がお菓子を食べてくれることが嬉しかった。

「はい、プロデューサーさん。新しい箱です」

だから、かな子は喜んでお菓子を提供するのだった。千早に食べる喜びを少しでも知ってくれるように、と。何度でも。
ちなみに千早本人は「おのれ三村ァ」と内心で気炎を吐いているのだが、かな子本人は善意でやっているので気付くことはない。



こんな感じになります。
短いシーンでも三人称(かな子)視点では千早とプロデューサーの印象ががらりと変わりますね。千早は得体の知れない謎キャラだし、武Pは千早至上主義に見えます。実際はネガティブアッパーヘッド少女と目が離せないやばい担当アイドルを心配するプロデューサーなのですが。
かな子はスイーツフェスタの件では千早が自分の好意を拒絶したことよりも、千早がお菓子を前に辛そうな顔をしていたことを気にしていました。彼女の価値観を否定するような千早の態度、というかそういう状況に千早が陥っている状況にこそ怒りを覚えたという感じです。今回千早が自分が焼いたお菓子を食べたことで千早への不信感はほとんど払拭されています。あとは武Pの”お気に入りアイドル”という勘違いを正せれば裏だけでなく表でも味方になってくれます。

三人称で書くと千早への好感度が秒でバレる。
かな子視点だから三人称で書けました。これがプロデューサーや未央だったらネタバレしかなくなります。
そのため今回描写の欠損について説明する上で、この先千早と敵対する理由が無いかな子視点を記載しました。
三村かな子は千早に良い意味でも悪い意味でもネガティブな感情を持たないキャラなので、例として挙げるのに適しています。アニメ一期の時間軸では希少キャラです。

千早はかな子ルートに行くのが一番イージーモードです。仮に何かの奇跡が起きてかな子ルートに進んだ場合、346プロの人間関係が全部解決するくらいイージーです。


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アルティメットな初ライブその4

ふと我に返る。
このエピソードは原作でも5分程度のエピソードでしかなく、延々こねくり回すような場面ではないと。
私は正気に戻った。


 まずはどの程度まで動けるか、バックダンサー組の習熟度を確認するためにいきなり踊ることになった。

 僕、本田、島村の三人が並び、前に立つ城ヶ崎の動きに合わせて踊る感じだ。この陣形が実際のステージでのスタンダードかつスタート位置になる。もちろん僕達バックダンサー組の適正を見た後でポジションチェンジをすることもあるらしい。

 てっきり僕達だけで踊り、それを城ヶ崎が見るのかと思っていたら合わせることになり少し焦る。こちらを見ることなく、前面を向いている様子から彼女にトレーナーとして教えるという気はないらしい。

 まあ、それならそれで構わないけど。とりあえず合わせてみて、そこから課題を探すというのがプロのやり方なのかな? 

 ずっと独学でやって来た僕にプロのやり方はわからない。それでもこんな風に僕が余裕を持てているのは、今の時点で自分のダンスが完璧に近いと確信しているからだ。今この瞬間にライブでステージをやれと言われても対応できる自信があった。

 物心ついた時から多くの時間を費やして来た独学の訓練。一時期トレーナーのようにあれこれと口を出してくれた人がいたので、ギリギリ格闘漫画みたいな内容からは離れられてはいる。それでもチートありきで形作られた練習メニューは他のアイドルからすると歪に見えることだろう。

 それでも結果は付いて来ているから何も問題はないと思う。今こそ僕の自主訓練の成果を見せる時が来たわけだ。

 

 

 

 

 

 そう思っていた時期が僕にもありました……。

 

 

 

 

 

 あれ? 

 

「ワン・ツー・スリー……そこ、動き遅れてるよ」

「はい」

 

 あれれ? 

 

「今度は速い。もっと二人に合わせる」

「はい」

 

 ちょっと待って欲しい。

 

「ズレてるズレてる!」

「はい」

 

 なーにーこれー? 

 

 

 それに気付いたのは、レッスンが始まってすぐの事だった。

 驚く程に僕は本田と島村に動きを合わせられなかったのだ。

 何をどうしても、二人の動きとズレてしまう。

 ダンスの内容自体に問題は無い。手本として観たライブ映像で動きは完全に覚えているし、曲の入りから終わりまで、どのポジションになっても大丈夫なくらい習熟済みである。

 だから、最初の頃は多少ズレていても、時間が経てば合わせられると思っていた。僕にはダンスの才能が無いとはいえ、幼い頃から積み重ねて来た物があると自負していたから。焦らずに踊り続けていればそのうち合わせられると思っていたのだけど……。

 

「……テンポが遅れてるよ!」

「はい」

 

 振り付けの中で全員と合わせるパートで動きのズレた僕に城ヶ崎姉のチェックが飛ぶ。

 僕はすぐに返事を返すが、何をどうすれば直るのかはわからない。だから何も改善できないまま躍り続けるしかない。

 

「ワン、ツー、スリー! っ……そこ、タイミングがズレてるよ!」

「はい」

 

 ……。

 

「今度は速い。もっと二人に合わせる」

「はい」

 

 ……。

 

「ズレてる!」

「はい」

 

 

 もう何度目になるのか数えるのも億劫になるほどのチェックに律儀に返事をしながら今の動きの悪いところを頭の中で反芻する。しかし、これと言ってダメなところがわからずに検索結果は該当無しで終わった。脳内で思考を分割し、それぞれに別視点から試行させてもそれは変わらなかった。つまり、僕の中では問題無しということになってしまう。これはおかしい。

 それでも、先程から僕ばかり注意を受けているし、実際ズレているのは僕なので一番注意を受けるのは当然と言えた。二人に比べて倍以上注意を受けている。

 どう直せば良いかわからず、あれこれと合わせようと努力することで余計動きが合わなくてなってしまった。

 本田と島村に合わせようとしても、頭に思い描いた動きと実際の動きに差異があるせいで合わせられない。その回で修正できたと思っても、次やってみると今度は別の箇所がズレてしまう。何度修正しても二人の動きに合わせられない……。

 何だこれ。どうして二人の動きに合わせられないんだ? 

 踊った後に動きを修正しても、次の回ではまたズレが生じてしまっている。

 何度繰り返しても、その度に修正箇所が見つかり満足に踊りきることすらできない状況に陥っていた。

 修正を繰り返すことだけに時間を費やした結果、レッスンが始まってからそれなりの時間が経った今でも満足に踊れていない。

 

「ちょっと休憩しよっか?」

 

 結局一度も合わせられないまま、城ヶ崎の提案により休憩を入れることになった。僕は一切疲れていないので続けて欲しいのだが、本田と島村の息が上がっているので仕方なく従う。僕と違って二人は体力に難ありみたいだ。……いや、これでは体力があるくらいで優越感に浸っているように聞こえるか。実際は体力なんて自主練習をしていれば自然とつくものだ。

 それに、二人がここまで疲弊しているのは僕に付き合ったからだし……。それで二人に対し上から目線で居るなんて性格が悪いにも程があるだろう。

 僕が合わせられないことで同じ箇所を何度もやるハメになり、そのせいで通してやる予定が何度もやり直しすることになってしまったのだから、レッスン時間が伸びたのは僕が原因だ。つまり二人が疲労しているのも僕のせいということになる。

 

「はぁ〜、疲れたぁ」

 

 本田が大袈裟なアクションとともにその場に倒れ込む。

 声の感じと無駄な動きをしていることから、まだ余裕があるように見えた。本当に疲れた時はしゃべる余裕もなく無言で倒れるものだ。意識を失うのは体の安全装置が働いているからで、本当の本当に疲れると疲労している自覚すらなくなる。疲れを感じていないのに身体に力が入らず、意識を失うことすらできずに倒れたまま硬直するのだ。こればっかりは体験しないと理解できないやーつ。

 だから声に出せている時点で本田はまだまだいけるというのがわかる。むしろ、本田の横で無言で突っ伏している島村の方が重症だ。何故かその横で同じくみくにゃんが倒れているのは知らん。たぶんレッスンの見学がてら同じ動きをしようとしてダウンしたとかだろう。今は島村ともども三村とツインテに介抱されている。

 

 ここで僕がコミュニケーション強者だったなら二人に声でも掛けるところなのだろうけれど、僕は自他ともに認めるコミュ障なのでそんな真似はしない。

 学生時代は下手に声を掛けて相手をイラつかせるなんてこと日常茶飯事だった。単純に間が悪かったのか、それとも僕の言葉のチョイスが悪かったのか……。その相手とは以後一度も会話をすることが無かったのでわからずじまいだ。

 今回は声を掛けて機嫌を損なわれてしまうのを避けるためにも話しかけるのはやめておこう。過去の経験をきちんと活かせる僕であった。

 

「大丈夫ですか?」

 

 自分のコミュ障が改善されつつあるのを自覚していると、プロデューサーが話し掛けて来た。その顔はいつにも増して険しく見える。

 何か懸念でもあるのだろうか? 

 やはり僕の動きが悪かったから、それを指摘しに来たとか? 

 やだなぁ……。何が嫌かって、プロデューサーに才能が無いところを見られるのが嫌だ。せっかく見出してくれた彼に申し訳なくなるから。

 

「えっと、あまり上手くできませんでした……それに改善点もわかりません」

 

 下手に誤魔化してもこの人には筒抜けだろうから正直に伝える。僕がダメダメなことは見ていてわかっているだろうし。さらに改善点もわからないと教えるのは心苦しかった。

 

「いえ、そういう意味ではなく……そうですね、如月さんの動きは悪くはありませんでした」

 

 しかし、プロデューサーから返って来た言葉は僕の予想とは違っていた。

 

「悪くなかった、ですか?」

「はい。きちんと振り付けを覚えていましたし、付け焼き刃ではないしっかりとした技術が動きの端々に見受けられました。これは一朝一夕の努力では身に付かないものでしょう」

「そんな……。私はただ足りない分を補おうとしていただけで……」

 

 予想外のプロデューサーからの高評価に謙遜じみたことを言う。どこかズレた答えだというのはわかっていたけれど、自分ではダメダメだと思っていたことを褒められるとこうなっちゃうと思うんだよね。それが他ならぬプロデューサーからだったからなおさら動揺してしまう。

 

「如月さんは私が見える範囲だけでも、とても努力されていることがわかります。その努力の量をここで言及はしませんが、その努力に見合った成果は確かに出せていると思います」

「はい……」

 

 プロデューサーの評価を素直に受け取りたい。でも、今日の自分の成果を思い返すとそれができない。

 プロデューサーのことを信じている。でも、自分の実力を信じることができない。

 だって、僕は才能に乏しいから。

 

「本田さんと島村さんに合わせるのは難しいですか?」

「はい。どうしても合わせられません」

 

 プロデューサーにメンバーに合わせるように言われてやってみたけれど、結果は散々だった。ここまでダメダメだといっそのことソロでやった方が良いんじゃないかとすら思えてくる。ソロなら誰かに合わせる必要が無いから楽だし、迷惑だってかけずに済む。

 

「今回は城ヶ崎さんにお任せしているので私から何かを伝えることはいたしませんが、近いうちに時間をいただければ、その時にでもアドバイスできたらと思います」

「ありがとうございます。プロデューサーのアドバイスというのはとても助かります」

 

 プロデューサーのアドバイスは凄い。僕が笑えると気付かせてくれたのもプロデューサーだ。彼の言葉だけは僕のアイドル道に波紋を来さない。

 これまで頑なに自己流を押し通してきた僕がプロデューサーの意見だけは素直に受け入れている。実際日々のトレーニングに彼の意見を取り入れた物もあるのだ。それくらい僕はプロデューサーの言葉を信頼していた。

 しかし、今回の彼の評価は努力に対する結果に対してである。それも完璧だとか、素晴らしいとかではなく「よくできている」である。努力に見合った程度の結果でしかない。

 だから僕の心が晴れることはない。

 努力をしなければ。

 努力をしなければ、努力をし続けなければすぐに周りから置いていかれてしまう。

 今日のレッスンだってなんとか形を取り繕っただけで、実際は本田と島村に必死に喰らい付いていただけだ。

 だから僕は努力する。泳ぎ続けなければ溺れて死んでしまう回遊魚のように……。そうしなければ死んでしまうと己に言い聞かせる。

 誰よりも才能に恵まれない僕だから、誰よりも努力をするべきなのだ。

 

「ありがとうございます。プロデューサーの言葉で自分が何をすべきかわかりました」

 

 彼の言葉で改めて自分に何が足りないかわかった。

 

「そうですか。何か気になる点があれば遠慮なく話してください」

「はい、その時になれば必ず」

「……私は島村さんの方を見に行きますね」

 

 やはり倒れているからか、プロデューサーは島村の方が気になるようだ。当然あちらを優先すべきというのは僕も理解しているので視線でプロデューサーを促す。と言うか真っ先にあちらを心配してあげて欲しい。

 島村を見ると、半目状態で床に倒れ込んでいる。耳をすませば小さな声で頑張りますと繰り返しているのが聞こえる。

 ホラーかな? 

 

 早足で島村の下へと向かうプロデューサーを見送っていると、交代するように城ヶ崎がやって来た。

 

「どうだった? 何か難しいところとかなかった?」

 

 他のみんなが居るからだろうか、今の城ヶ崎は気の良い姉ちゃんという態度を見せている。間違っても敵意を抱いているようには見えない。僕だってあんな姿を見ていなければ半信半疑のままだっただろう。

 

 本当に、最初から相手に悪意があると思って事に当たる癖をつけておいてよかった。

 

 そうじゃなければ今でも城ヶ崎の敵意に半信半疑だっただろう。それではここぞという時に一手後れをとったかもしれない。

 今だって城ヶ崎の立ち位置が本田達やプロデューサーから顔が見えない位置になっているのを気付くことができた。

 僕みたいな奴は相手の悪意に敏感でなければならない。そうしなければ詰む生き方をして来たから自然と身に付いた習性だ。最近まで忘れていたそれを思い出した僕は相手を警戒することを思い出した。

 

 さて、城ヶ崎の態度はともかく、彼女からの質問に答えないといけないだろう。相手は先輩で、今回の指導役でもあるのだから無視はいけない。現に僕の返答が遅いからなのか、城ヶ崎の表情から笑みが消えかけている。鍍金剥げるの早いね。敵意を抑えるの慣れてないの? 

 で、質問の答えだけれど……。

 

「いえ、特には」

 

 ダンス自体に特筆するような難しさは無かった。表現力や地力が必要な振り付けでもないし、この程度なら一発で覚えられるレベルだ。だから難しいという認識は無い。

 ただし、そこにソロ限定とだけ付け加えるならばだけど。

 

「そっか。特に無いなら良いんだけど……アタシも教え慣れているわけじゃないから、レッスン中に少しでも得られるものがあったなら良いんだけど」

「得られるものですか」

「……もしかして、あんまり無かった?」

 

 率直に言うと、今のレッスンの中で城ヶ崎から得られるものはなかった。

 別の言い方をすると、城ヶ崎から学ぶものが何もなかった。

 僕がレッスンで得た物と言えば、僕にはダンスの才能が本当に無いことが分かったくらいだ。それ以外は無い。

 

「レッスン受けておいて無いと言われちゃうと……」

 

 明確に答えたわけでもないのに僕の雰囲気から察したのか困ったように苦笑いを浮かべる城ヶ崎。他所から見ればやれやれ系のお姉さんキャラに見えなくもない。しかし、僕の角度からは彼女の目が微かに細まったのが見えていた。

 

「強いて言えば、私にはダンスの才能が無いことが分かりました。それが分かったことが得られたもの、と言ったところでしょうか」

 

 誤解のないように弁解しておくけど、僕は別に城ヶ崎を怒らせたいわけではない。敵意を持たれているのがわかった今でも敵対しようとは思っていない。

 だから城ヶ崎の質問に答えようとした。取ってつけたような物とはいえ、特に無しよりはましだろうという考えで。

 

「……ダンスの才能が……無い?」

 

 しかし、回答を聞いた城ヶ崎は怪訝な顔で僕の顔を穴が開くように見詰めて来るのだった。

 この顔はアレだ。自分の想定していた物とは違う答えを言われた時にするやつだ。学生時代によく教師が僕に向けた顔でもある。

 

「今……ダンスの才能が無いって言った?」

 

 城ヶ崎はそれまでの苦笑いを消すと、今度は真面目な顔をして訊いて来た。

 

「はい」

 

 実際その通りなので城ヶ崎の変化に疑問を持たずに素直に頷く。

 僕のステータスって歌特化だからね。次に高いのが耐久でその次が筋力だ。スタンドなら近接パワー型だし、念の系統なら強化系。だから他の才能と比べるとダンスの才能は無いと言えた。

 

「へぇ、そうなんだ……」

 

 いよいよもって城ヶ崎の表情が変わった。それまで取り繕っていた仮面に罅が入ったように見える。

 何がそんなに気に入らないのか。城ヶ崎の態度が明らかにおかしい。

 

「もう少し休憩したらレッスン再開するからね」

 

 その疑問が晴れることなく、城ヶ崎はそれだけを言い残すと島村達の方へと向かって行った。一応あちらにも何かしら声を掛けるつもりなのだろう。今はプロデューサーも付いていることだし、あちらはあちらで何かしらディスカッションでもするつもりなのかもしれない。

 そうなるとレッスン再開まで手持無沙汰になるなぁ。

 休憩も必要ないしやることがない。勝手に一人で練習を始めてしまうというのも考えたが、そうすると他のメンバーに圧が掛かるだろうから自重する。

 仕方なく時間を潰すために先程三村に教わった準備運動でもしておこうか。

 足回りから始めようかな。ステップの踏み過ぎで足首に少し負担をかけ過ぎたらしい。疲労骨折程度を恐れることはないけど、レッスン中にボキッとか音がしたら拙いものね。足回りは念入りにやっておこう。

 ストレッチのために壁際まで移動すると、そこには先客として本田が壁を背にして座っていた。

 僕はそれを見て一瞬だけ動きを止めてしまう。何か違和感がある光景に思えたからだ。

 本田は辛くも楽にも見えぬ真顔だった。片膝を立ててリラックスしているようにも見えるけれど、彼女の表情から余裕が欠けていることが読み取れた。

 これはコミュ障とか言って避けるわけにもいかないか……。これまでの人間とは違い本田は仲間なのだし、こういう時に声を掛けるのは当然の対応だった。

 

「大丈夫?」

 

 あちらの集団を横目に、本田へと社交辞令的な気遣いの言葉を投げかける。

 これでスルーされたら帰るわ。

 

「いやー、アイドルになったら厳しいレッスンが待っていると聞いてはいたけどさ、これだけキツいのは予想外だったかなって」

 

 ……良かった、無視されなかった。このパターンで無視されなかったのって生まれて初めてかもしれない。

 あと本田の言葉だけど、それはたぶん、何度もリテイクしたからだと思う。アイドルならばこれくらいのカロリー消費は当然なのだろうけど、まだデビューすらしていない新人に課すには少々飛ばし過ぎな気がしないでもない。当然僕はチートがあるので余裕だが。

 

「如月さん全然疲れてないように見えるけど、何かやってたりする?」

「そうね。毎朝少しだけ走っているわ」

 

 立ったまま見下ろして会話するのもおかしな話なので、本田から幾分か距離を取って床へと座る。当然ストレッチなんてやる暇はない。

 体力作りのためにやっているのは毎朝のランニングくらいだ。それ以外だと違うカテゴリのレッスンになる。運動していることには変わりないので、ある意味一日中体力作りをしていると言ってもいい。

 

「毎朝?」

「毎朝」

「うわ。それは体力付くね。私も走ろうかな……」

「体力があればとりあえずなんとかなるわ。アイドルは体力勝負なところがあるから」

「確かに……。レッスン内容を思えば体力が大事なことだって思えてくるよね!」

 

 わりと脳筋な僕の言葉にあっさりと納得するところを見ると、本田も脳筋なのかもしれない。物を考えられる脳筋とか強いな。

 

「よし、如月さんに負けないように私も体力作り頑張ろっと」

「それはとても良い考えね」

 

 今の会話だけで体力作りに意気込みを見せた本田の姿勢に素直に感心した。この子はアイドルというものに真摯に取り組んでいるんだね。

 そして、彼女の素直な反応にこれまで以上に好感を持つ。こういう気質が人に好かれる秘訣なのだろうか。見習いたいものだ。

 

「……」

 

 しかし、そうやって尊敬の眼差しを向けていると、ちらりとこちらを見た本田と目が合った。

 こちらを窺う視線。

 値踏みとは違う、相手の本質を見定めようとする鑑定の目。それを本田の視線から感じた。

 同時に、先程から覚えていた違和感の正体がわかった。

 僕のイメージする本田ならば、今頃は倒れている島村の介抱に加わっているはずである。それを三村達に任せて僕の方に来るのは不自然だ。それが違和感となっていた。

 

 なんだろう。彼女らしくない――と言うほど親しい間柄ではないにしても、この短い付き合いの中で彼女の人となりは把握していたつもりだった。しかし、今こうして僕の予想とは違う行動をとっている。

 まったくもって理解し難い状況だった。

 何か……彼女の中で優先すべきことがあるとでも言うのだろうか? 

 

「なかなか合わないね」

 

 僕から目を離し、居住まいを正した本田が呟いたであろう言葉が僕の胸に突き刺さった。

 まさに不意打ちと言うやつである。自分が悩んでいたことを本人から言われるとダメージって増すものだよね。

 もっと上手くやらなくちゃと思っても、どうすれば良いかわからない。合わせようとしても、二人の動きに僕が追い付かない。いくらダンスが素人だからって、養成所に通っていた島村どころか同じ素人の本田にダンスで明らかに劣っていたというのは衝撃だった。もう少し力量が近いと思っていた。あまりの事態に自分の中にあった自信がマッハで減少して行く。仮に自信メーターなるものがあったならば、ガリガリギュルギュルと音を立てて下降していることだろう。

 僕は自分の才能を過信していたのかもしれない。本当は才能なんかなくて、むしろ無能側の人間なのかもしれない。

 僕の実力はチートがあってもこの程度なのか……。

 

「ごめんなさい。どうしても動きを追えずに遅れてしまうわ」

「え? あ、別に如月さんを責めて言ったわけじゃないからっ。そんなこと言ったら私だってリズムが先走っちゃってたし!」

 

 僕のネガティブ発言を本田が慌てた様子で否定する。謝ったつもりが逆に気を遣わせてしまったようだ。

 わたわたと手を顔の前で振る本田を見て、自分の言葉選びの拙さを自覚する。

 いつもの僕ならば、ここでコミュ障を発揮してむにゃむにゃと言葉を濁して終わらせていたところだが、今回は本田相手ということでフォローをすることにした。

 

「いいえ、城ヶ崎さんから注意を受けた回数だけでも私の方が多かったわ。そのせいでアレだけやり直しをすることになったのだから、今の状況は私のせいと言っても過言ではないでしょ?」

「いや。過言じゃないかな……」

 

 せっかくのフォローが一秒で無駄になった。

 

「……回数が多いのは事実よ」

「それもなんだか不思議な話ではあるんだけどね」

「不思議?」

「いや、だって、如月さんへの注意ってさ」

「ハーイ、休憩おわり! 続きやるよ!」

 

 本田が何かを言いかけたタイミングで城ヶ崎がレッスン再開を告げたため話はそこで終了となった。

 ダンスのスタート位置へと移動する間、本田が何か言いたそうにしていたが、集合がかかっている中で話すのは無理だ。彼女もそれを理解しているのか無理に話しかけてくることはしてこない。微かなモヤモヤを抱えたまま僕達はレッスンを再開した。




千早「く(*'ω'*)へシュバッ」 本田「く(; ・`д・´)へ」 島村「く(;´・ω・)へガンバリマス」
千早「へ(*'ω'*)ノシュバッ」 本田「へ(; ・`д・´)ノ」 島村「へ(;´・ω・)ノガンバリマス」
千早「へ(*'ω'*)へバーンッ」 本田「へ(; ・`д・´)へ」 島村「へ(;´・ω・)へガンバリマス」
千早「(^▽^;)ダンスの才能無いんですぅ」 本田「(;´Д`)」 島村「_(:3」∠)_ガンバリマス」
美嘉「……」

城ヶ崎姉の内面が不明のため千早は今回何がバッドコミュニケーションだったのかわかっていません。この時点の千早に城ヶ崎の心情を慮ることは不可能です。原作の知識があれば城ヶ崎の立場などがわかりますが、千早側に原作知識がないため敵意の在り方が想像できていません。
相手の敵意に敏感でも、その理由まで考察する意欲が千早の方にないです。根本のところで対象に心があることを失念しています。正確には、親しい者以外の心にも多様性があるという考えが欠けています。己に敵意を向ける者がいる=自分にだけ問題があるという固定観念が考察を邪魔していて、敵意にも色々あるということがわかっていません。


次回は本田と約束?した食事回です。
物食うだけで一エピソードになる主人公。


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アルティメットな初ライブその5

飯を食う。それだけで話題を生む女。
しかし今回は食わない。

※もうしばらくはリハビリがてら日常シーンが続くと思います。


 休憩を終えた僕達は再び城ヶ崎指導の下、合同レッスンを受けることになった。

 先程と同様にステップを刻みながら先程プロデューサーに言われた言葉を思い返す。

 僕は自分が思っていたよりはプロデューサーに評価をされていたらしい。そして、そう言われたことを喜んでいるらしい。

 そうか、僕は駄目じゃないのか。

 駄目だと言われなかっただけで嬉しいと感じる自分の軽さが今は頼もしい。

 それでも城ヶ崎から指摘を受ける回数は、やはり僕が一番多かったが……。

 指摘の回数が増えるとそのパートをやり直すことになるため、その分レッスン時間が増える。そうすると、増えた分レッスンが遅れる。それが延々と繰り返される。

 その結果、当初予定していたレッスン時間を超過してしまった。たぶん倍は行っていたと思う。

 別案件で席を外していたプロデューサーが戻って来た時に、まだ僕達がレッスン中だと知り慌ててレッスンの中断を指示しなければ夜まで続いていたかもしれない。

 レッスンが終わると同時に本田と島村がその場に崩れ落ちるように倒れた。最後の方は気力のみで踊っていたように見えたので本当に限界だったのだろう。

 

「これが、アイドルの、レッスン……」

「島村卯月……がんばり……」

 

 二人とも完全に撃沈していた。みくにゃんは死んだままだった。

 二人ともよく最後まで持ち堪えられたなと感心する。みくにゃんはそろそろ生き返った方がいい。

 最初の休憩から休みなく行われたにも拘らず、初心者の二人が最後までやり切ったのは素直に凄いと思う。

 

「ヤバ……調子乗りすぎたかも……」

 

 だからこそ、先輩の城ヶ崎までもが疲れていたのはちょっと意外だった。

 城ヶ崎から普段の余裕な雰囲気は消えており、顔には隠しきれない疲れが出てしまっていた。まさか、プロのアイドルがこの程度で疲れたなんてことあるまいし……。午前中に疲れることでもしていたのだろうか? トップアイドルなのだし、スケジュール的に忙しいのかもしれない。

 対して、僕の方は今日のレッスンを通して一度として疲労を感じなかった。そりゃ普段の自主訓練の五分の一もやっていないのだから疲れるわけがないよ。息切れすらしていない。

 本田達と動きを合わせられないもどかしさを無視すれば普段の自主訓練よりも楽なくらいだ。もっとレッスンを受けたいとさえ思える。しかし、これ以上は二人がもたない。

 物足りないけど二人に合わせると決めているので我慢しよう。

 

 そんなことを皆から少し離れた位置で整理体操をしながら考える。皆からそれとなく距離を取ったのは、近い位置にいると色々とマズイことになるからだ。主に匂い的な意味で。

 僕の五感は常人と比べてとても鋭い。特に聴覚と嗅覚は優秀で、頑張れば人間の一万倍くらいにまで設定が可能だ。仮に最高性能を発揮する場合は犬の様に無差別なものではなく、指向性を持たせてピンポイントに臭いと音を拾い上げることでその精度を獲得している。通常の強化では精々百倍が関の山である。

 そんな僕がレッスンモードも抜けきらない今の状態で激しい運動をした彼女達に近付くとどうなるだろうか。それは推して知るべしとだけ言っておこう。身体が女ということで何か問題が起きるということはないものの、精神的安寧のためにも近づかないのが吉なのだ。

 

 ところで、全然まったく関係ない話なのだけれども……。杏ちゃんは、どこかでレッスンを受けていたりするのだろうか……? 

 いや、他意はないんだけどね? 

 

「少しよろしいでしょうか……」

 

 本当に他意はないんだけど、プロデューサーの声に肩を跳ねさせてしまった。いや、これは不可抗力です。

 声の方を見れば、彼は城ヶ崎へと声を掛けていた。良かった、本当に何を心配したわけではないけれど、僕の心情を察したプロデューサーが釘を刺しに来たのかと思った。

 いや、察せられて困ることを考えてはいないけどね? 

 

「この後も撮影があるんだけど?」

 

 プロデューサーに話しかけられた城ヶ崎はと言うと、先程彼に見せた馴れ馴れしさは鳴りを潜め、少し距離を空けた態度をとっている。

 僕ほどではないにしても、異性ということもありプロデューサーも女性のニオイには敏感だろう。プロのアイドルとはいえ、年頃の少女でしかない城ヶ崎としてはあまり近付かれたくないんじゃないかな。

 

「城ヶ崎さんがお忙しいのは私も重々承知しています……。しかし、今回のレッスンの意図と今後の指導方針を早急に確認しておきたく」

「それは今じゃなきゃいけない感じ?」

「ライブまであまり時間の余裕があるわけではありませんので。これから撮影ということでしたら、城ヶ崎さんさえよければ撮影の後にどこかで打ち合わせをさせていただければと思います」

「……ふーん。まっ、そういうことなら時間作るけど。……ふふっ」

「ありがとうございます」

 

 今までの不機嫌な態度から一変、城ヶ崎の機嫌が目に見えて良くなった。唐突な態度の軟化に、ここからでもプロデューサーの困惑がわかる。良いことではあるので彼も余計な口を挟む気はないらしい。そのままこの後の予定を城ヶ崎に訊いていた。

 しかし、僕はプロデューサーとは違い城ヶ崎の心情が手に取るようにわかった。きっと彼女も今回のレッスンには思うところがあったのだろう。上手くいかなかったレッスンの打ち合わせを、その道のプロである彼とできるのだ。何かしら学べる事もあるだろうし、機嫌が良くなってもおかしくはない。

 僕だってプロデューサーに付きっ切りでアイドルの相談ができる機会を貰えたら機嫌が良くなるもの。さすがはニアトップアイドルというだけある。仕事に対して真剣なところは素直に評価できるね。

 

「珍しくそっちから誘ってくれるじゃん。ちょっと意外だったかな」

「ええ、まあ……そんなに珍しいでしょうか?」

「昔はこっちから誘わないと絶対来なかったよ。むしろ誘っても来ないことだってあったし?」

「その件は大変申し訳ありませんでした」

「別にいいよ。こうして誘ってくれたんだから。……何か心境の変化でもあった?」

 

 プロデューサーと城ヶ崎は楽しそうに会話を続けている。強いて言えば城ヶ崎の方がご機嫌に見えなくもない。……これでプロデューサーの方もあからさまにご機嫌だったらちょっと問題だが。

 どちらにせよ、城ヶ崎の機嫌が良くなるというのなら好都合だ。この後も彼女主体で指導するかはわからないが、また今日みたいなレッスンが続くというならば色々と考えないといけないところだった。

 是非ともプロデューサーにはこのまま城ヶ崎のご機嫌取りに尽力して欲しい。

 

「彼女達のプロデューサーとして、必要なことだと思いましたので」

「……今回はレッスン前に言った通りまず合わせてみようって思ったからそうしただけだし。今後の指導方針はトレーナーが来た時にそっちでやればいいじゃん」

 

 プロデューサーの回答に、それまで緩んでいた城ヶ崎が顔を痙攣らせる。まさにテンションが急転直下。勢いが付き過ぎて床突き抜ける威力だね。

 これが俗にいうバッドコミュニケーションというやつだ。さすがプロデューサー。

 

「城ヶ崎さん」

「お疲れ様! あと、アタシの予定押さえたいならこっちのプロデューサーを通してね? じゃあね……CPのプロデューサー」

 

 捨て台詞のような挨拶だけを残し、城ヶ崎はレッスンルームから出て行ってしまった。

 残されたプロデューサーは所在なげに首に手を当てている。何と声を掛ければ良いのやら……。いや、僕が声を掛けて良いのかすらわからないか。

 これは次回のレッスンも同じ感じになりそうな予感がする……。果たしてこんなレッスンで上達するのだろうか? そんな疑問を抱いてしまう。

 何の進歩も見せていない僕が言うのも烏滸がましい話であるが、ただ漫然と動きをなぞるだけのレッスンに何の意味があるのだろうか。特に負荷を掛けているわけでもないので体力作りにすらならない。トレーナーの方も今日は顔見せができていない。

 突発的に始まったこととはいえ、もう少し纏まりが欲しいところだ。

 何が原因なのやら。

 

「ふぅ」

 

 鬱屈とした気持ちから知らず溜息が漏れる。

 これまで誰かと一緒に練習する機会がなかった僕は、誰かに合わせるということをしたことがない。いつだって一人でやって来たのだ。学校の授業だって二人組を作る必要があっても頑なに一人でやった。アイドルの練習だって一人だった。

 FAQ2でボスを倒すようになるまで、僕は誰かと一緒に何かを成し遂げたという経験がなかった。完全なるソロ志向の人間だ。いつかキョウに『チハヤはプログラム相手には強いけど、人間が相手だと途端にポンコツになるよね』と言われたことを思い出す。決められた動きをパターン化して覚えるのは秒でできる反面、人相手のランダム性がある事柄には滅法弱い僕は、ゲームのパーティ戦での動きはボロボロだった。ソロ時代にウェイウェイしていた僕が自分のダメさ加減に打ちひしがれているのを見かねたキョウが付きっきりで連携を教えてくれたおかげで段々と改善していったのだが……。

 

「お疲れ様。タオル、良かったら使って」

「三村さん……」

 

 一人過去の栄光に浸っていると、ぽっちゃり改め三村がタオルを差し出して来た。

 何を目的としているのか読み取れないが、断るのも悪いので受け取る。

 相手の意図が不明のままタオルで顔を拭く。拭いている間、三村の表情を窺えば、どうもプロデューサーの方を気にしているらしい。あっちは城ヶ崎の件でフリーズしてしまっていてしばらく帰って来ない気がする。こういう時頼りになる本田の方は復活にもう少しかかりそうだ。島村もダメっぽい。みくにゃんは死んでいる。

 とりあえず、この中でプロデューサーの方をどうにかできる人間が居ないことがわかった。

 

「ありがとうございます。洗って返しますね」

 

 タオルは可愛らしい花柄をしており、どう見ても彼女の私物にしか見えない。

 僕が普段使うタオルなんてお店の御中元の品だし。他はFAQ2の柄物とか。とてもアイドルが使う物ではない。小物一つにも可愛らしさを演出するのがアイドルってやつなのか。

 

「ううん、これくらいいいよ。私が勝手にやってることだから」

 

 僕が話しかけると三村はプロデューサーから視線を外し、タオルは洗わずに返しても良いと言って来た。

 そうは言うが、常識的に考えて借りたタオルは洗って返すものじゃないのかな。そのまま返すのって申し訳なくなるんだけど。

 と言っても僕が洗濯するわけではないが。昔は僕が出す衣類は優が洗濯してくれていたのだけれど、最近になって拒否されるようになった。まさかの反抗期? 

 ちなみに今は春香がやってくれているので洗濯物が溜まることはない。さすがに脱ぎっぱなしの衣類を放置する程僕は無精ではない。

 しかし改めて今の状態って料理だけではなく洗濯までしてもらっているわけだから春香には負担を掛けているなぁ。一度大変ではないかと訊いたことがあるが、春香曰く「実績作りだから問題ない」とのこと。

 花嫁修業ってやつかな。いつか春香が誰とも知らない男と結婚なんて日が来たら僕はどうするのだろうか……。

 まあ、相手が誰であっても、春香を幸せにしてくれるならそれでいい。もし不幸にするようなら、僕の抹殺のラストブリットが相手の顔面へと直走るだろう。

 

 春香への友情はさておき、三村のことをどう扱ったものかと、受け取ったタオルで顔を拭き続けながら考える。……汗をかいてないからここまで執拗に拭く意味もないけど。

 僕の中で三村に対するスタンスの結論が出せていない。

 直感と観察結果を信じるならば、三村からは少なくとも否定的な意思を感じない。表情もこちらを気遣う気持ちが浮かんでいるだけでそれ以外は見えて来ない。

 しかし、経験に従うならば彼女の内面は測れない。これまで何度も信じては否定されて来たのだ。今更笑顔一つで相手を信用するほど純粋ではない。

 

 ちなみに、このタオルを使ったら何度も次のタオルが手渡されるとかはないよね? 

 

「如月さんって、今ノーメイク?」

 

 一通り顔を拭う──そもそも汗はかいていない──と、僕の顔を見ながら三村が訊いて来た。

 ノーメイクかって訊かれても……普通レッスンする時にメイクする奴居る? 

 

「そうですけど」

「そうなんだ。……良かった」

「良かった、ですか?」

「えっと、顔色が良いから良かったなって。もし体調が悪くて、それをメイクで隠していたのなら今みたいに顔を擦ったら落ちちゃうんじゃないかと思ったから」

「なるほど」

 

 わからん。

 三村が何を言いたいのか理解できない。僕が化粧しており、それが落ちることを懸念する理由がわからない。もし仮に化粧が落ちたとして、顔色が悪い云々に思考が至る理屈がわからない。

 これが世に言うガールズトークの謎会話というやつか。僕には一生理解できない気がする。

 

「ありがとうございます。タオル、本当に洗わずに良いんですか?」

 

 一通り顔を拭う所作を見せた後、タオルを返す前に三村へと確認をとる。

 

「うん、良いよ。わざわざ洗って持ってくるのも手間だと思うから」

「実は社交辞令的なアレで、実際は洗って返すのが常識とか」

「え? ううん、そんなこと無いから安心して」

「そうですか。私は昔からそういう暗黙のルールというのに疎いので、何かやらかしてはいないか心配なんですよね」

 

 暗黙またはローカルルールとでも言うべきか、言葉にせずとも伝わるべき事柄というものに僕は疎い。学生時代にクラスの暗黙の了解的な物を無自覚に破っていた実績があるので、三村の言葉に裏の意味があるんじゃないかと勘繰ってしまう。

 でも、本人にここまで確認したのだから七割くらい大丈夫だろうと思い三村へとタオルを畳んでから返した。

 

「……」

「どうかしましたか?」

「ううん。……ただ、きちんとできているのに心配するんだなって思っただけだよ」

「……できていますか」

 

 初めて言われたかもしれない。

 両親には常識がないと言われ、優には困った人扱いをされる。春香には言われたことはないけど、フォローされることが多いということは内心そう思っているのだろう。

 

「初めて言われたかもしれません」

「は、初めてなんだ……」

 

 しかし、三村は僕がきちんとできていると言ってくれた。

 それが何に対してなのかはわからないが。

 

「如月さんはそんな変なことするような人には見えないけど……?」

 

 三村がこう言うのもわからないでもない。今のところ僕は彼女に対して非常識な言動をとっていないから。

 

「明確に記されたルールなら問題ないんです。ですが、その場の空気と言うか、暗黙のルールのようなものがわからないことが多くて。指摘されてから気付くなんてことも少なくないんです」

「そっか、私もよく知らずにやっちゃうことがあるけど、神経質に気にすると疲れちゃうからあんまり考えないようにしているかな」

 

 人間的に真っ当な感性を持っているはずの三村ですらやらかすことがあるらしい。だったら僕ができないことがあっても仕方がないと言える。

 いやー、やらかし仲間がいると知って少しだけ気が楽になった気がする。今後三村のことはソウルブラザーとでも呼んでしまおうか。

 

「なるほど。三村さんの考え方、参考にさせていただきますね」

「うん!」

 

 笑顔で頷く三村にコミュニケーションが上手く取れたことに安堵する。良かった、これは大丈夫な会話なんだな。

 なんだ、僕もやればできるじゃないか。

 

「ちなみに、どんなことがわからなかったりするの?」

「私と話したらハブられるとか、私が使ったものはゴミ箱行きとかですね」

「……え?」

「私由来のルールですと、そもそも私のところまで話が来ないのでわからないんですけどね」

 

 たまたま話す機会があったクラスメイトからガチでコミュニケーションを拒否られた時にお情けで教えて貰うまで知らなかったルールだ。そもそも教えてくれる人が居なければわかりようがないルールだとしても、破ったというだけで罰せられるのが世の常だ。僕が悪いで済むならそれで済むのだけれど、僕のせいで無関係な相手が罰せられるのはよろしくない。

 知らずにやらかしてクラスメイトに迷惑をかけたことがあるんだよね。そういう理由もあってルールには少し神経質になっていた。

 まあ、もう学校も行ってないから関係ないんだけど。今更学校に行く気にもならないし。行く暇も無いし。行っても意味ないし。

 僕の居場所はこっち側なのだから。

 

 さて、三村との会話もこのくらいで切り上げて、この後は何をしようか考える。彼女の方も特に会話を続ける雰囲気でもないみたいだし、無理に相手をする必要性も感じない。

 とりあえず、家に帰ったら今日のレッスン内容を振り返りながら自主訓練でもするかな。今日はまだ日課の分を熟していないのでそちらもやっておきたい。

 自分の努力不足を今日のレッスンで把握した。これでは一人前のアイドルになろうなんて夢のまた夢だ。

 窓に目を向けると空はまだ茜色に染まり始めた程度で、夜になるまでは時間がある。つまり明日になるまで時間があるということだ。これなら今から訓練を始めたとしても日付が変わるまでには一通りの自主訓練はできるだろう。まずは日課の自主訓練のノルマを熟す。今日のレッスンで削れた自主訓練時間を回収するためにも、この後の訓練に力を入れなければならない。アイドルとしてレッスンや仕事をする中で自主訓練の時間をどう確保するかが今後の課題だ。それに加えてその時受けている仕事の内容に則した別訓練も都度取り入れなくてはならないのだから、今後も時間の捻出に頭を悩ませることになる。

 とりあえず今日のところは普段日中にやる自主訓練をこの後に回せばいいとして、夜にやっている分は夜中に回せばいいかな。そして夜中にやっている分は……。

 

「よしっ、休憩おわり! そろそろ行こっか」

「……はい?」

 

 この後の予定を組み立てていた僕の肩に復活した本田が手を置いて来た。

 肩越しに振り返れば笑顔の本田のアップが視界に入る。先程まで死にかけに見えていた顔も復活していた。これが若さゆえの回復力か。

 

「行くって、どこにかしら……? この後レッスンは入っていなかったと思うけれど。それとも居残りでレッスンをするつもり? それなら付き合うわ……」

「やだなー、さっきプロデューサーに言われてたじゃん? と言うか、もうこれ以上はレッスンは無理かな……」

 

 げんなりした顔をする本田。

 はて、プロデューサーに言われていたこと? 

 何かあっただろうか。

 

「ご飯食べに行くよ!」

「え」

 

 本田の言葉に思考が停止する。今まさに立てていた予定が助走付きタックルで吹っ飛ばされた気分だ。

 そう言えばレッスン前に本田がプロデューサーにそんなことを言っていた気がする。あれって社交辞令的なやつじゃなかったの!? 

 

「待って、本田さん。私はこの後」

「いいお店知ってるから。ほら、しまむーも行こう!」

「はい。確か未央ちゃんのオススメのお店って言ってましたよね?」

 

 島村も多少無理をした表情をしていているが復活していた。これが若さ──。

 

「そうそう。前から探しておいたんだよねー。如月さんも絶対気に入ると思うから期待しててね?」

「いや、あの、私は」

「あ、その前にシャワー浴びていきませんか? さすがにこのままだと……」

「確かに。汗だくで行くわけにもいかないしね」

「聞いて」

「じゃあ、まずはシャワー浴びに行こっか。荷物も取ってこないとだね。あ、プロデューサーお疲れ!」

「プロデューサーさん、お疲れ様でした!」

「はい、お疲れ様でした。……お二人とも、如月さんをよろしくお願いします」

「もちろん! まっかせて~!」

「はい、任せて下さい!」

 

 この場には難聴系主人公みたいな奴しかいないみたいだな。ふぅ、これなら唐突にラブコメが同時多発的に始まったとしても主人公不足にはならなそうだ。

 優……どうしたらいい? 皆が僕の言うことを無視するんだ。こんなの久しぶり過ぎて対処の仕方がわからないよ。

 鋭い系主人公を自負する僕には三人があえてやってるということがわかる。島村がこちらをチラチラ見ているせいで、今この場がそういう”空気”になっていることがわかる。

 つまり空気読みを強いられているんだ。

 

「……」

 

 僕に許された返答は一つだけだった。

 

「ハイ」

 

 

 

 

 シャワールームは当たり前だが男女で分かれていた。

 衝動的に男性用に逃げ込みたくなるも、さすがにそれをやったらアイドル的に大問題というのは理解しているのでやらない。と言うかこちら側に男性用のシャワー設備はない。

 当たり前のように一緒にシャワールームに入ろうとする本田と島村から何とかして逃げられないか試したものの二人に両側をがっちりガードされているため逃げられなかった。

 春香以外の女の子の着替えを見てしまうのは心苦しいというか……場所が場所だけに下手するとそれ以上が見えてしまう可能性がある。それは色々な意味で困る話だ。

 二人は僕を女だと思っているから気にしていないとだろうけど、僕は中身は男なわけで。

 だがしかし、それを理由に逃げるなんでできるわけもなく。さりとて受け入れたら立場を利用した変態になってしまう。

 こんなことなら春香でもっと慣れておけばよかった。今度女の子に慣れるために春香に裸を見せて欲しいと頼んでみるか? 

 無理だろうなぁ。春香が無意味に他人に裸を晒すとは思えない。何でもするからと頼み込んだところで頷くとは思えない。

 

「想像はしていたけど、それ以上にキツいレッスンだったね。初日に受けたトレーナーのも相当だったけど……。やっぱり、ライブに出るためのレッスンとなると違うもんなんだって思ったよ」

「はい……ヘトヘト、という感じです。あんなに大変だなんて想像していませんでした」

 

 シャワーを浴びながら二人は今日のレッスンの感想を言い合っている。

 個々に仕切りになっているのでシャワーを浴びている姿を見ることはない。しかし、両隣から女の子がシャワーを浴びている音が聞こえるこの状況は心臓によろしくない。く、止まれ、僕の心臓! 

 僕が下心満載の男のままだったら今の状況に喜んでいたのだろうけど、そんな心の余裕も体の機構もないので無理な話だ。それをもったいないと思うような未練も無い。

 

「それにしても、如月さんはすごく体力あるんですね」

 

 話の流れが僕の話に移った。

 

「毎朝走っているって言ってたけど、レッスン中ずっと疲れてなかったよね」

「私も走った方がいいのかな……」

「しまむーはもっと体力つけなきゃだね」

「うー……私が一番レッスン歴長いのに、一番体力がないなんて……。如月さんが体力あるのはわかりましたけど、未央ちゃんも最後まで付いて行ってましたよね」

「いや~、実はアイドルになるにあたって予行演習て言うか、色々と準備してたんだよね」

 

 どうやら本田は前々から準備をしていたらしい。だから体力面で島村を上回っていたのか。

 

「それでも如月さんには勝てなかったけど……」

 

 そういうのは勝ち負けではない気がするが。

 そもそもアイドルの勝ち負けってなんだろう? 

 ライブ対決とかだろうか。なぜかこの世界にはあるみたいだし、いつか出られたら出てみたいとは思う。

 

「みくちゃん大丈夫?」

「ひどい目に遭ったにゃー……」

「耳付けたままだよ」

 

 シャワールームに新たに人が入って来た。声から三村とみくにゃんとツインテだとわかる。

 おいおい、今でさえ肌面積が過剰で進行中なのに、これ以上増えたら僕はどうしたらいいって言うのさ。

 何もしないのが正解! 

 

「みくにゃん達もシャワー浴びに来たんだ?」

「うん。やっぱり汗かいたままだと帰ることすらできないし……って、未央ちゃん置いていくのは薄情過ぎない!? みく、あのあと暫く倒れたままだったよ」

 

 にゃ、はどうした。

 耳を外すと人間になるのか。ビジネス猫娘なのか。

 自分をガチの猫娘だと思い込んでいるやべー奴じゃなくて安心すればいいのか。

 

「如月さんを逃がさないためにも、みくにゃんには尊い犠牲になってもらったんだ」

 

 そう、みくにゃんは犠牲になったのだ。……つい先程交わされた本田とプロデューサー……その約束の犠牲にな。

 一番の犠牲者はここに居るが? 

 

「勝手に犠牲にしないでほしいにゃ!」

 

 みくにゃんが吠えているが、レッスンに参加していち早く脱落し、その後復活しなかった輩が何か言ってもさもしいだけだ。

 あと密閉空間で叫ばないで欲しい。耳が痛くてかなわない。

 

「ごめんごめん。今度はみくにゃんを引き摺ってでも連れていくから」

「それはやめて」

 

 ところで僕はいつまでシャワーを浴びていればいいのだろうか。会話に加わるでもなく、ただ頭からお湯を被り続けることに意味はあるのだろうか。それに広いシャワールームとはいえ、六人も使えばそこそこ埋まってしまう。追加で団体が追加されたらあぶれてしまう人が出て来るかもしれない。

 ここは僕が率先して場所を譲るべきだろう。元々汗を掻いていないので長く使い続ける必要もないしね。

 

「私は先に出ているわね」

 

 お湯を止め、一言断りを入れてからシャワールームを出ていこうとする。その際、みくにゃん達がバスタオルを巻いただけの姿で通路に居たので、可能な限り目を向けないようにする。

 本田と島村もそうだけど、この子達は同性とはいえ肌の露出に対して無防備過ぎない? 

 目のやり場に困るんだけど。自分の身体で見慣れているとはいえ、そこは他人と自分では裸の価値が違う。

 僕は目を背けたままみくにゃん達の隣を素通りすると脱衣所へと出た。

 

「はぁ……」

 

 シャワールームに充満していた水気と女の子のにおいが含まれた空気から脱したことで安心したのだろう、無意識に入っていた体の力を溜息とともに吐き出す。

 緊張した。

 凄く、凄く、緊張した。

 下手をすると春香とお風呂に入った時よりも緊張したと言っても過言ではないくらい心臓に悪い時間だった。友達でもなんでもない相手と裸の付き合いをするのは本当に負担でしかないわ。

 本音を言えばもったいないと思わなくもないけれども……。まあ、今の僕には分不相応な状況とだけ言っておこう。

 

 

 

 

 汗を流しさっぱりした後はお待ちかね(?)の食事タイムである。

 が、ここで少し予定が変わってしまった。

 当初は本田が言っていたおすすめのお店に行く予定だったのだが、急遽三村達三人も参加することになり、行く店を変えることになった。どうやら本田の言うお店は席数的に六人も入れない場所だったらしい。そんな狭い店この辺りにあるのかね? 

 では代わりにどこのお店にするかという話になり、手近な場所として346プロダクション敷地内の食堂が選ばれた。下手に外で騒ぐよりも敷地内の方が安心できるってわけだ。

 そうか頑張れ、という感じでどさくさ紛れに別行動をとろうとしたら再び本田と島村に両側を押さえられてしまった。しかも今度は三村が背後に陣取っている。……なにこれ。

 捕獲された宇宙人のごとく連れ歩かれながら、食堂への道をワイワイと雑談をしながら進む。もちろん僕がそれに混ざるなんてことはなく聞き専になっていた。話題の主軸は今日のレッスンについて。流れで各々が普段どんな練習をしているかという話にもなった。皆それぞれよく考えているんだなと感心する。その時知ったのは、みくにゃんが予想よりもガチめに自主トレをしていたことだった。ごめん、君はキャラのコンセプトに似合わず真面目だったんだね。

 

 そうやってお互いの情報を教え合っていると食堂へと着いた。

 夕方ということもあり席には結構な余裕があり、わざわざ探すまでもなく全員が座れる場所を確保できた。

 席に着くなり本田、島村、みくにゃんの三人は軟体動物の様にテーブルへと貼り付いている。若さとモチベーションでここまで来たのだろうけれど、シャワーを浴びた程度ではレッスンの疲労から回復しなかったらしい。擬音を文字にするならベチャリという感じだろうか。もう力が入りませんという空気が三人から伝わってくる。

 現役のアイドルが見せていい態度ではないが、これが僕が付き合わせた結果だと思うと申し訳ないという思いを抱いてしまう。

 

「皆はそのまま休んでいて。私は食べ物を買いに行ってくるから。ついでに飲みたいものを教えて貰えたら持ってくるけれど……」

 

 せめてこれくらいは謝罪の意味も込めてやらせてくれるようお願いした。最初は皆遠慮していたのだが、席取りに誰かしら残らねばならず、食事をする人間が僕しかいないとなれば僕が取りに行くのが自然だと半ば強引に納得させた。

 役割が決まると残った者達の会話を聞かないために早足でその場から離れる。友人同士の会話事情に疎い僕でも、この後展開される会話はある程度予想ができる。

 元から居た人間の内、一人がその場を離れたら後に残った側がどんな会話をするかを僕は知っている。

 まだ僕が学生だった頃にも、僕が教室から去った瞬間から一部の女子が僕の話をしていた。内容は当たり障りのない話から、明らかに僕を侮蔑する内容まで多岐に渡っていたが、どちらにせよその場を去った僕を話題にするものだった。本人達は聞かれていないと思っていたようだけど、僕の耳はその頃から良かったので丸聞こえだった。

 だから、僕について何か話し始める前にこの場を立ち去ったのだ。

 アイドルになる子って基本良い子が多いから、直球で僕の悪口を言うなんてないとは思うのだけれど、愚痴の一つくらいは吐いてしまうだろう。

 でも、それでいい。溜め込まれるよりも定期的に吐き出して貰った方が良い。何なら面と向かって言ってくれたって構わない。

 溜め込んだ末に爆発される方が嫌だ。それで「もういい」と切られる方が致命傷だから。

 

 やはり食堂の券売機前に人の姿はほとんど見られなかった。

 客が居なくても光を発し続ける券売機の姿に、観客ゼロの中でステージライブの練習をしていた頃の自分を姿を重ねる。あの頃は愚直に練習だけをしていられた。自分の才能を信じて、まっすぐに頑張れた。

 それが今では自信は揺らぎ、歪んだ思いだけが残っている。

 それに比べたら券売機の何と健気で真っ直ぐなことか。誰も用が無いのに常に準備万端で居るのだから。券売機師匠凄いわ。

 

 お昼も抜いているので色々と食べた方が良いのだろうけど、三村のお菓子攻めを受けたせいで結構お腹が一杯になっている。普段の食事量からすると爆食いと言ってもいい。そんなお腹事情でこれ以上食べるのはキツいんだけどなぁ……。でも、プロデューサーと約束しちゃったし、何か食べないといけないわけで。

 仕方なく無難に野菜炒めを選んだ。麺類で済ますという手もあったが、初対面の人間が居る中でズルズルと麺を啜る姿を見せる勇気が僕には無い。

 お金は当然入館証を兼ねた電子カードで支払った。敷地内の全ての施設で使用可能なこのカードは手持ちのお金が少ない僕には非常にありがたい存在だ。これがなければ野菜炒めすら買えないところだった。

 

「あ、如月さん。良かったら手伝うよ」

「三村さん……」

 

 あとは頼まれた飲み物を人数分買うだけとなったところで、料理の受け取りカウンター前で三村と鉢合わせた。

 

「一人だと皆の分の飲み物運ぶの大変だと思って」

 

 どうやら僕が六人分の飲み物を持てるか不安で様子を見に来たらしい。何だぁ良い子かぁ? 

 

「このくらい大丈夫ですよ」

「でも、トレイ使っても人数分持つの大変だと思うよ?」

 

 三村は当たり前のように手伝いを申し出て来る。やろうと思えば何人分でも運べるため、やんわりとお断りするのだが三村は納得しない様子だ。

 本当に問題ないんだけどなぁ。

 と言うか、そもそも何のために手伝おうなどと思ったのだろうか? 

 僕を手伝ったところで彼女にメリットなど一つもありはしないだろうに。手伝う私って良い子ムーブをするタイプにも見えないけど。

 

「……それじゃあ、お言葉に甘えて飲み物を幾つか持って貰えると助かります」

「うんっ、任せて」

 

 目的がわからない行為に警戒心を持つことは大切だ。それが悪意によって為されることなのか見極めないといけないから。そして、どの程度の悪意なのか、それの深度で対応を決めなくてはならない。

 わざわざここまで来たのだから手伝う気はあるのだろう。手伝うと言いつつ後で「手伝わされた」と事実と異なる報告をするとも考えにくい。こういう程度の低い嘘って、吐く者も大概だけど信じる方も信じる方でアレだよね。

 学生時代はそんな奴ばっかだったけど。

 

「とりあえず食券だけは買っておきますね」

 

 やりたいと言うのだからやらせてみることにした。

 とりあえず食券だけはまとめて買っておく。手分けして買うのも非効率的だからね。

 そちらも当然電子カード払いだ。ついこの間までゲームの課金以外でお金を使う機会がなかったような人間だ。貯金だってほとんど残っていない。そのお金だって、この間春香と一緒に夕食の食材を買う時に使い切ってしまっている。

 そんな僕が買い食いのためのお金を用意するわけがない。だからこのカードは僕にとって生命線と言える物だ。

 

「あれ? ……そのカードって」

 

 僕が食券を買っていると隣でそれを見ていた三村が電子カードについて訊いて来た。不思議そうな顔をして僕の持つカードを見つめる表情は、まるでこのカードのことを知らないみたいに見える

 もしかして、三村はカードのことを知らない? 

 ……いや、そんなことはないか。シンデレラプロジェクトのメンバーは皆これを貰っているはずだ。千川さんもそんなこと言ってたし。きっと三村は手作りのお菓子を持参するような子だから、カードを使う機会がないから知らなかっただけだろう。だからこれの仕様を知らないんだ。

 仕方ない、ここは僕がこのカードの仕様を教えてあげよう。

 

「……便利ですよね。346の施設の利用が全部無料になるなんて。私もついこの間教えて貰ったのですが、凄く驚きました。さすが346プロといった感じですね」

 

 ここで「えー! カードの使い方も知らないの? プークスクス!」みたいな回答をする程僕は性格が悪くない。もっとオブラートに包んで、相手も知っている体で話を持って行く。

 

「……」

 

 僕の答えに三村は絶句し、僕の顔とカードを交互に見ていた。驚愕という表情をしていることから本当に知らなかったのだということがわかる。

 皆の前で無知を晒さなくて良かったな。これでタオルの借りは返したことにしてね? 

 

「皆も待っているでしょうし、カウンターに貰いに行きましょう」

 

 相手が無知を晒したことを指摘せず、さも気付いていませんよという空気を出して移動を促す。

 

「如月さんは──」

 

 しかし、途中で三村に呼び止められ足を止める。

 何か言いたいことでもあるのだろうか。教えてくれてありがとう的なやつかな? できれば気遣いはさりげなく受け取って欲しいのだけど。

 

「はい? なんでしょうか」

「…………ううん。なんでもない! ……ただ、何て言うか、今までずっと疑問だったことが一つ解決したかな?」

 

 困ったように笑う三村に内心首を傾げる。

 疑問? ああ、カードの仕様のことね。どうして皆金払わないんだろうとか思ってたのかな? 

 自分だけが真実を知らなかったというのは結構来るものがあるよね。今更だけど知らなかったことを知れて良かったね。

 

「如月さんが言う通り皆が待っていると思うし、メニュー貰いに行こ? 私先に飲み物の方受け取って来るから食券貰っていいかな?」

「ええ、お願いしますね。戻るときは半分持ちます」

「大丈夫? 結構多くなっちゃうと思うけど……」

「問題ないですよ」

 

 疑問が晴れたからなのか、晴れやかな表情へと変わった三村と言葉を交わしながらカウンターへと向かう。

 何だかんだで今回は良いコミュニケーションがとれた気がする。相手の無知を指摘せず、さりげなく事実を伝えられた。これで僕もコミュニケーション強者へと少し近づけたね。

 

「そっかぁ……そういうレベルだったんだね」

 

 しかし、最後に三村が呟いた言葉の意味はよくわからなかったが。




三村ルートは無い。
三村ルートに進んだ千早は人間になってしまうから。
人間の千早はミリシタの千早になります。優が生きている上にミリシタ状態の千早とかいうぬるま湯精神では今のストイックさを維持できないので、ただのトップアイドルくらいまでしか育ちません。
千早に依存せず、千早を依存させず、千早を客観的に評価でき、千早に優位に立てる人間、三村かな子。
最強キャラが決まったかな?
唯一問題があるとすれば、三村には友情ルートしかないこと。千早が三村に惚れた場合は色々な意味で三村が大変なことになるかもしれません。

千早がクラスメイトと話さないのはアイドルになるために切り捨てていたというのもありますが、本話のような扱いを受けていたというのもあります。
そのこと自体を千早が気に病まなかったのは相手を人間だと思ってなかったからです。巣から落ちた雛鳥を助けてしまうと、人間の臭いが雛についてしまい親鳥がその雛の相手しなくなるという話を聞いて、人としての価値観では変だと思いつつ、獣とはそういう生き物なのだから仕方ないと納得するのと同じです。
暗黙のルールの存在を気にしつつ、クラスメイト相手には「自分(人間)未満の下等生物が自分達のルールで何かやってんな」程度にしか認識していないので気に病まなかっただけ。学生時代の千早が本当に狂っていたという証拠ですね。

雑談できる会話のネタがアイドル関連とゲームのみ、その中身もわかる人間にしかわからない内容というコミュ障陰キャの極みなので雑談に普通に混ざることができず雑談パートでは空気になる千早。
じゃれ合う少女たちに混ざる気概があればいいのですが、当たりの強さが0か100しかないので適度な会話ができません。今回の本田と前川のようなじゃれ合いの会話はキョウとしかできていません。







以下は今回の別視点
相変わらずネタバレ要素あり。そして安定の三村視点。


※本当に蛇足なので読まなくても問題ありません。
 三村達が一緒に食堂に行くことになった裏話なだけです。

 また、読むことで他キャラの心情が見えてしまい千早視点を純粋に楽しむことができなくなる恐れがあるため、それが嫌な方は19話はここまでにしてください。別視点以外書いてないです。






智絵里とともにみくを支え何とかレッスンルームからシャワールームの脱衣所まで到着した。
完全に脱力し切っている人間は想像していたよりもずっと重い。ここまで運ぶだけで、レッスンに参加しなかったというのに額に汗が滲む。意外にも智絵里の腕力が強いことは見て見ぬふりをした。

「ご、ごめんね」
「大丈夫だよ? みくちゃん軽いし」

レッスンルームを出た時からここまでずっと謝っていたみくに気にするなと答えながら、彼女がここまで疲労したことにかな子は内心驚いていた。
みくが倒れるほどに疲弊するのは本来ありえないことだった。アイドルになってから今日までまともなレッスンを受けられていないかな子達だが、それは今回のような本格的なレッスンであって、体力作りなどの基礎的なものはシンデレラプロジェクトのメンバーとして受けている。
本物のアイドル事務所で受ける本物のレッスンに当初プロジェクトメンバーは皆嬉々としていたが、それが数か月もの間延々と繰り返されると段々と嫌気がさしてくるのは当然である。サボる者こそ出ていないが、最近では皆のモチベーションが下がっているのをかな子は知っていた。まあ、それもプロジェクトがスタートしたことでとりあえずの解消を見せたが。もう少し遅ければ脱落者が出ていた可能性すらある。

そんな危うい状態だったプロジェクトメンバーの中で、ただ一人、みくだけは停滞期中も燃えていた。自主的に別メニューを組み、トレーナーに頼み込んであれほどやった基礎レッスンの復習までするなど、人一倍精力的に取り組む姿は彼女のアイドルにかける想いの表れだった。
みくはずっと腐らずに、いつか来るであろうデビューを深謀強く待ち続けていたのだ。
今日も未央達が来る前に一人で自主練をしていたことをかな子と智絵里の二人は知っている。それでせっかく受けられるようになったダンスレッスンを途中でリタイアしてしまったのは実に彼女らしいが……。

だから、上記の理由があるとはいえ、努力を積んで来たみくを超える結果を出した三人(卯月は微妙だが)にかな子は素直に称賛の念を送っていた。
千川ちひろに聞いた話では、三人のうち卯月以外はついこの間まで養成所にすら通っていなかった一般人だったと聞いた時は驚いた。未央のフィジカルは素人離れしていたし、千早にいたっては汗一つかかず涼しい顔で踊っていたからだ。
あれが補充要員だというなら納得である。体力面だけで言えばすでに自分達よりも上にいるだろう。
そんなに体力があるなら、できれば未央達にもみくを運ぶのを手伝って欲しかったと思わなくもなかったが……。すぐに出会って間もない相手に頼む勇気が自分にも智絵里にも無いと、シャワールームの中から聞こえて来る楽し気に会話の声に考えを霧散させる。

(それにしても、未央ちゃんと卯月ちゃんの声しか聞こえて来ないのはなんでだろう?)

シャワールームからは二人の声だけが聞こえて来る。
確か先ほど見た限りでは千早も二人に連れられてシャワールームに向かっていたはずだ。だと言うのに、彼女の声が中から聞こえないということに、かな子は内心で首を傾げる。

「一人で脱げる?」
「そ、それはさすがに大丈夫……」

智絵里が服を脱がすことまで手伝おうかと尋ねているのを止めるためかな子は意識をそちらへと向けた。





「ごめんごめん。今度はみくにゃんを引き摺ってでも連れていくから」
「それはやめて」

みく本人は軽い口調で言ってはいるが、あの時のみくは本気で気を失っていた。それを置いていくことを薄情とまでは言わないが、千早を連れていくのと比べてそちらを優先したと堂々と言われると、かな子は少しモヤモヤする気持ちが芽生えた。みく本人が気にしていないようなので自分から何か言うつもりはないが。

「私は先に出ているわね」

そこで初めて千早がシャワールームにいることに気付いた。
自分達が来るまで未央と卯月の会話しか聞こえなかったことから、ずっと千早が黙っていたことがわかる。そのため、千早が二人の会話に混ざれずに気まずい思いをしていたのではないかと心配になった。

「……」

千早は二人の返事も待たずにシャワールームを出て行こうとする。その際、みく達の横を通り過ぎたのだが、自分達に一瞥を寄越すこともなく素通りしていった。まるでお前たちに興味が無いと訴えるようなその態度にみくが傷ついた表情をしているのが視界に入る。
かな子は千早が他人を気遣える良い子なのだと思っているのだが、初めて顔合わせをした日のこともありいまいち確証が持てずにいた。あの時の態度は室内を凍り付かせるに足るほどの塩対応だった。あそこまでコミュニケーションを拒否されるとどうしたらいいのかわからない。コミュニケーション能力が高いきらりですら千早とどう接していいか計りかねている。
先程千早にタオルを貸した際のやり取りを思い出して、彼女が他者とコミュニケーションをとらない理由はなんとなく察していた。あんなルールを自分の知らないところで作られていたと知れば、他人との付き合いを断ち切ったとしても不思議ではない。もし自分がそんなことをされたらと考えると泣きそうになってしまう。それを実際されていた千早の心情を思うと胸が締め付けられそうな思いだ。
なんとかプロジェクトメンバーとだけでもコミュニケーションをとってくれるようになればいいと思う。
今日のレッスン内容を見ると、先輩アイドル相手には無理かも知れないが。

今日受けたレッスンは、かな子が想像していたアイドルのレッスンとは何か違う感じがした。そういうものだと言われてしまえば、未だまともなレッスンを受けていない自分が否定できるものではないが、どうしてもアレが本来のレッスンだということが信じられなかった。
先輩であり、346プロの誇るトップアイドルとして憧れていた城ヶ崎美嘉のレッスン。346プロに入った新人が夢にまでみた物である。それを受けられると知ったみくが天にも昇る気持ちでいたことはよくわかった。だから、今回は彼女のサポートに回ろうと思い自らは参加しなかったのだが、結果は前述した通り期待していた物とはかけ離れているものだった。
ほとんどが千早に対するダメ出しで構成されたレッスン。時折大きく動きを崩した未央と卯月にはアドバイスらしき物を送っていたが、千早には一つもなかった。
まあ、その理由もなんとなく想像がついたが。
何かアイドル間に嫌なものが蠢いている気がしてならない。

それに千早が語った過去の話も気になる。
千早は当たり前のように口にしていたが、普通あんなことをルールにするだろうか。千早と話をしたらハブる。彼女が使用した物は捨てるなど、かな子にはとても信じられないものだった。
そして、彼女の口ぶりからしてそれがまかり通る環境に居たということが窺える。

(もしかしたら、如月さんが皆を拒絶する理由って……)

長年他人からの悪意に晒されて来た環境のせいで、千早は他者とコミュニケーションをとることを拒絶しているのかもしれないとかな子は考えた。
未央と卯月の様子から、二人もあまり上手くコミュニケーションがとれているとは言えない状態に思える。
ならば、ここは自分が動こう。
何故か不思議とそんな考えが浮かんだ。

「あの、未央ちゃん。確かこの後如月さんとご飯を食べに行くって言ってたよね?」

まずは一緒にご飯を食べるところから始めてみよう。それでわかる物がきっとあるはずとかな子は思うのだった。




かな子はイイ女だよ。


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アルティメットな初ライブその6

 トレイを持って帰って来た僕を皆は笑顔で迎えてくれた。

 買い出しに行く前よりも明るい彼女達の顔を見て、席を外した甲斐があったと満足する。これは良いガス抜きができたみたいだね。良いことだとは思うが、買い出しに付き合ってくれた三村は機会が失われたことになる。そこだけが少し心配だった。

 

「待たせてしまったかしら。混んではいなかったのだけれど、作り置きがなくて料理を貰うまで時間がかかってしまったわ」

「ううん、そんなことないよ。むしろ早いくらい。そんな急がなくても良かったのに……」

 

 本田の答えにもう少し遅く戻れば良かったと後悔する。もしかしたらちょうど話が盛り上がっていたタイミングで帰って来てしまったのかもしれない。今度からもっと時間をかけて買い出しに出かけよう。

 三村が各々の飲み物を配るのを手伝いながら、自分のタイミングの悪さに昔の苦い思い出が蘇り顔をしかめそうになる。こういう時動かない表情筋は役に立つね。顔に出ないということは相手にこちらの心情がバレないから。

 

 席に座ると目の前の野菜炒めに目を落とす。作り置きではなくできたてのアツアツのそれは普通の人なら食欲をそそるのだろうけれど、僕にとってはただ胃袋の容量を圧迫する邪魔物でしかない。

 

「如月さんは本当にそれだけで足りるの?」

 

 この異物をどう処理しようかと思っていると、野菜炒めを見て本田が量が足りるのかと訊いてきた。

 足りるも何も、すでに溢れそうなんですが? それでも約束だから食べているのですが何か!?

 

「私はあまり量を食べられないから、これくらいで十分なのよ。むしろこれ以上食べるとお腹が張ってしまうわ」

 

 やろうと思えば一瞬で”何もお腹に入っていない状態”に身体を戻せるとはいえ、食べ物を無意味に無駄にする理由はない。

 

「でも、アイドルって体力勝負って言いますし、食べないと体がもたないと思います」

 

 今度は島村が食事量に言及して来た。確かにアイドルは体力勝負だ。食べないとやっていけないところもあるだろう。しかし、僕にはそれが当てはまらない。だって僕は完結しているから。

 

「それで足りるように鍛えているから大丈夫なんですよ」

 

 僕が当たり障りないように答えると、島村は少し寂しそうな顔をして「そうですか……」と言って口を閉ざした。

 あー、せっかくの助言を切って捨てたように聞こえたかな? 

 誰だって親切心を袖にされたら良い気分はしないだろう。島村とてそれは同じだ。ここは少しフォローを入れておいた方がいいのかな。

 

「でも、プロデューサーにも食べるように言われているし、島村さんの言うことも尤もだと思うから……少しずつ食べるようにしてみますね」

「あ……は、はいっ。がんばります!」

 

 何が? 

 頑張ってならともかく、頑張りますはちょっと意味がわからないのだけれど……。まあ、島村だしそんなものなのかもしれない。それよりも急にテンションが上がったことに驚く。何かこの一瞬の間に嬉しいことでもあったのかな。

 

「プロデューサーさんと言えば、如月さんはプロデューサーさんとよくお話ししているけど、普段どんなことを話しているのかな? あ、答え難いことなら無理に答える必要はないから」

 

 今度は三村がプロデューサーについて話を振って来たぞ。何だ、あの人のことを知りたいのかな。付き合いならそちらの方が長いと思うんだけど。期待されても僕もそこまで詳しくないんだけどなぁ……。

 

「プロデューサーとは普段はアイドルの仕事について話していますね。今後どんなことをするのか、具体的に教えていただけるわけではないけれど方向性などを聞いたりして自主訓練のメニュー作りの参考にしています」

「そうなんだ。如月さんは凄く勉強熱心なんだね」

 

 熱心というか、それくらいしかできることがないだけだ。熱量は確かにあるかもしれないけど、その熱のほとんどは現状に対する焦燥感が占めている。背中に火が付いた状態で熱い熱いと走り続けているだけだ。だから三村が想像しているような立派なものではない。

 

「えっと、あの、如月さんは……」

 

 え、ツインテも話に加わって来るの? 

 かなり気後れした様子でツインテが会話に参加して来た。あまりこの子との会話方法考えてなかったから戸惑う。

 

「あの、いえ、えっと……」

「頑張れー、ちえりんー」

 

 なかなか話を切り出さないツインテに見かねたのか本田が小さく声援を送っている。こういう小さいフォローの積み重ねがコミュ強を作るのかな。

 

「あのっ」

「はい」

「……しゅ、趣味は……何、かな?」

「いや、お見合いかーい!」

 

 何とか絞り出したという感じのツインテの質問はお見合いの席などで定番のやつだった。溜めに溜めて放ったのが気円斬だったくらい微妙だ。本田も思わず手をビシッと振ってツインテへとツッコミを入れている。

 しかし、当のツインテはやり切ったという顔で息を吐いていた。これがこの子の限界なのか……。

 と言うか、なんで皆、僕に質問して来るのだろうか? 

 雑談のネタが無いにしても、僕に質問するって自分で言うのもアレだけど時間の無駄遣いだと思う。時間はもっと有意義に使うべきだ。時間というのはそれだけ大切で替えが効かない物だから。

 まあ、今回は質問に答えるけれども。

 

「趣味は自主訓練ですね」

「自主……訓練?」

 

 こてんと音が聞こえそうな角度で首を傾げるツインテ。僕の答を上手く咀嚼できていないようだ。

 

「自分でトレーニング内容とか考えてやるのが好きなんです。暇な時はだいたいトレーニングをして過ごしていますね」

「えっと、でも、それだと疲れちゃうんじゃ……?」

「疲れたら、疲れた時用のトレーニングをやります」

「倒れちゃいそう……」

「倒れたら倒れた時用のトレーニングをやるんですよ」

 

 当たり前だろ。

 本番で倒れてからどうしようか考えても遅いんだから、倒れた時の訓練しておくのは当然だ。避難訓練だって何でも無い日にやるだろ。地震で逃げ惑う中「これから避難訓練します」とか言ってたら変でしょ? 

 

「それは……そうなの、かな?」

 

 いまいちツインテは納得していない様子だった。いつかわかるよ。

 

「いやいや。如月さん、ちえりんは素直だから信じちゃうって」

「え……? あ、冗談だったんだ……よかった、本当に倒れるまでトレーニングしているのかと思った」

 

 本田が苦笑いで的外れな訂正を入れると、ツインテが安心したようにホッと息を吐いていた。

 

「騙されるのはしまむーくらいだけかと思ってたけど、ちえりんもそっち系かぁ」

「う~……! それは言わないでください……!」

「如月さんの冗談は独特だからね」

 

 どうやら今の話は冗談と受け取られたらしい。心外だと不快に思うことはないが、何故信じて貰えなかったのかがわからない。僕は至極真面目に趣味を語っただけなんだが? 

 

「他に趣味と言える物と言えば……ゲームとか、でしょうか」

 

 その他に趣味と言えるものがあるとするならばゲームくらいか。その中でもFAQ2は色々な意味で僕の中で大きな存在になっている。

 

「ゲームが趣味なんだ。うちも兄弟がゲームやってる時にたまに交ざるけど、如月さんも兄弟とかいたりする感じ?」

 

 あれ、もしかしてゲームが趣味ってあんまり良くないイメージだったりする? 

 今のご時世ゲームする=オタクという考えも減っているはずなんだが。ちなみに僕はオタクである。

 

「え、ええ……弟が居るわ」

「やっぱり? 如月さんの弟かぁ。如月さん一人っ子っぽいイメージだったから、弟君がどんなのかちょっと想像しにくいかなぁ」

「とても良い子よ。……最近はあまり会えてないのだけれど」

 

 最近会ってなかったから今の会話で優に会いたくなってしまった。今度寝顔でも見に行ってみるかな。一晩中優の寝顔を眺めていれば、ここ最近下がりっぱなしだっなテンションも少しは上向きになることだろう。

 

「会えないってことは、如月さんって実家が遠いの? みくもアイドルするためにこっちに来てるから家族に会いたくなるのはわかるかも」

 

 ここぞとばかりにみくにゃんが話に加わって来た。食い気味に言って来たので謎の圧が凄い。隣の本田が「やった!」と拳を握っている。そうか、みくにゃんお前、声が出たんだな……。

 という茶番は置いといて。

 

「いいえ、今借りているアパートから実家はそれほど離れていないんですよ。歩いて三十分くらいです」

 

 隣町だからね。車ならもっと早く行き来ができるから、いつか車の免許を取得しようとか思っていたりする。

 走った方が早いけど。

 

「え? でも、だったらなんで……」

「それは……」

 

 ……なんでだっけ? 

 いや、家を出た理由は覚えている。765プロに落ちて塞ぎ込んで、見当違いの声援を送ってくる両親を疎んだ僕が彼らを拒絶したからだ。今でもその時の件から距離感が掴めずにいる。

 でも、それは当時の話で、今は問題がないのだから実家に帰っても良いはずなんだよね。そうすれば優に毎日会えるし。

 何故かその理由が一番厄ネタとして扱われて家に帰れないでいるわけだが……。

 だから、今でも一人暮らししている理由が何でと訊かれたら、

 

「親に、言われて」

 

 そう答えるしかないよね。

 

「親に言われてって、どういう……」

 

 流石に端的に言い過ぎたか? 

 でもオーディションに落ちて発狂したので家を出ましたとか、理由が謎過ぎて信じて貰える気がしないしなぁ。

 あ、家に帰れない状況を思い出して優に会えない寂しさが込み上げて来ちゃった。

 どれだけ求めても優との生活は遠い夢の彼方……。それでも、僕は他の”如月千早”に比べれば恵まれているんだけどさ。だって優は生きているのだから。これまでの優との思い出があるから今日も生きていけるのだ。

 ……でもやっぱり寂しいよー! 生の優じゃないと物足りない体なんだよね。……って、前に言ったら優にめっちゃ怒られたけど。

 もう一緒に住んじゃおうよー。優がしたいこと何でもしてあげるからさぁ。

 

「如月さん……!?」

 

 優への恋しさを脳内で叫んでいると慌てた様子の三村に名前を呼ばれた。

 

「え……?」

 

 そこで気付いたのだが、いつの間にか僕は泣いていたらしく、目の前が涙で滲んでいた。目の下に手を当てて確かめるとめちゃくちゃ湿った感触がする。結構大号泣じゃん!? 

 どうやら僕が優を求めたことで、僕の中の”如月千早”が記憶の中の優との思い出を見てしまったらしく、絶賛大発狂中らしい。優との楽しい思い出を自分のことのように無理やり追体験させられた上に、それが自分の思い出ではない自覚があるのだから辛いに決まっている。

 僕にとっては泣く程のことじゃないのに、”如月千早”のせいで僕まで涙が出てしまった。僕が泣いているのを見た皆が顔を硬らせている。質問したみくにゃんなんて顔色が悪いってレベルじゃないよ。

 

「今の話は忘れて下さい。ただの家族間の約束事ですから」

「……」

 

 上手いフォローが浮かばず適当な事を言うと場の空気がさらに重くなってしまった。皆の顔が明らかに暗い。もっと上手く言えたら良いのに。あいにく僕のコミュ力ではフォローし切れなかった。でも、どう取り繕ったところで僕は実家に住んでいないし、その原因は変えられない。嘘で蓋をしても、いつか何かの拍子に誰が開いてしまうかもしれない。そう考えれば、このタイミングでカミングアウトできたことは致命傷を避けられたとも考えられる。

 

「……ふぅ」

 

 まあ、遅かれ早かれこうするべきだったのだ。やはり僕にはこの空気は合わない。肌に合わないのではなく資格が足りない。僕の在り方が大勢と何かをするのに適していない。心も体も歪な存在だから。一対一ならば柔らかい面を見せれば済むのに、大勢が相手だとどうしても歪な面を晒さずにはいられない。会話一つとってもそれが顕著に現れる。

 本当に、ダメだなぁ。

 

「ごめんなさい、空気を悪くしてしまったわね……」

「そんな、元はと言えばみくが無神経に聞いたからだし……本当にごめんなさい」

「私も家族の話を考えなしに聞いちゃったから……ごめん!」

 

 みくにゃんと本田がガチガチの謝罪を入れて来る。二人の様子からかなり気に病ませてしまったことが伺えた。本当に君達が気にすることじゃないんだ。僕って言うか、頭の中の人が勝手に発狂しちゃっただけだから。

 と言うか、勝手に重い話にしないで欲しい。

 

「いえ、実際会おうと思えば会えるんですよ? ただ家から追い出されているだけで……」

「追い出されて!?」

 

 いや、そこだけ抜き出すと僕が凄く不憫な奴みたいになるじゃん。言い方が悪かったね。

 

「ごめんね……こんなこと、軽々しく聞いて良いことじゃないよね……」

 

 ツインテが言うとなんか本当にそれっぽくなるからやめてください。違うんだって、僕の家は普通なんだって。

 

「私は如月さんの味方だよ?」

 

 僕の手を両手で掴み力強く言う三村。その言葉は本当なら嬉しいはずなのに、どうしてかな……なんか素直に受け取れないわ。

 まるで意図せず詐欺行為を働いているような、そんなおかしな罪悪感が湧いて来る。

 皆良い子だから、僕の何気ない言葉でこんなにもショックを受けてしまっている。

 どうした。いつもなら悪い方に受け取られる言葉が今回に限って明後日の方向に飛んで行ってるぞ。コミュ障仕事しろ! ……したからこのザマなわけか! 

 

「よし! ……私、そこの売店でお菓子買って来るよ!」

 

 突然本田が立ち上がったと思ったらお菓子を買って来ると高らかに宣言した。

 

「未央ちゃん……うん、私も付き合うね!」

「かな子ちん!」

 

 息を合わせたように三村も立ち上がる。なんだ、その我が意を得たみたいな顔は。そして本田も百の仲間を得た元孤高の主人公みたいな顔で頷くの? 

 

「私はカフェの方でケーキとか買って来ます!」

「みくも行く!」

「あ、私も……」

 

 島村、みくにゃん、ツインテも続いて買い出しを宣言していた。

 決まればあとは早さ勝負と言わんばかりにダッシュで方々に散って行くみんなを僕は呆然と見送るしかなかった。

 なんだぁこのぉ展開はぁ? 

 

 結局ぼっち飯ってことですかね……。

 とりあえず冷めないうちに野菜炒めを食べる。

 

「……」

 

 相変わらず野菜炒めは安定した味をしている。昨日と変わらず、明日も変わらない、そんな味に安心感を覚える。

 

「……」

 

 食べるという行為は僕にとってただの栄養補給に過ぎない。食べる喜びというものを感じないわけではないが、普通の人が感じるほどの喜びは無い。今ではただの人間っぽさの延長線上にあるだけだ。

 

「……」

 

 だから、無理矢理食べさせようとする人達が苦手だ。

 春香の手料理だって、春香が作ってくれたから嬉しく食べているだけだ。その行為と好意を喜んでいるだけで、料理の味自体に感動を覚えることはない。

 

「……」

 

 砂を食べていると形容するほどの無味ではない。

 しかし、味に一喜一憂する程の味の違いを感じない。

 

「……」

 

 いつも何かを口にする度に覚える違和感。

 果たして、この行為に意味はあるのか。

 

「お待たせー!」

「美味しそうなお菓子たくさんあったよー」

 

 僕が思考の渦に囚われかけたタイミングで、本田と三村が帰って来た。その手には売店のらしきビニール袋が下がっている。

 本当に買い出しに行ってたのか……。ワンチャン買い出しと言ってそのまま帰った可能性も考えていた。いや、荷物は席に置いたままだったね。昔を思い出してつい疑ってしまった。

 

「たくさん買ったんですね」

 

 パンパンとまではいかずとも、二人が両手に持つ袋にはかなりのお菓子が詰め込まれているように見える。どれだけ食べるつもりだ。僕が食べているのを見てお腹減ったの? 

 

「まあねー。六人分としてもちょっと多めだけど、結構食べられるでしょ」

「なるほど……六人分?」

「ちゃんと如月さんの分もあるよ」

 

 僕には野菜炒めがあるよ。これで足りるよ。

 

「お待たせしましたー!」

 

 時をおかずして島村達三人も帰って来た。その手には各々持ち帰り用のケースを持っている。お菓子の上にケーキも食べるとか。

 

「如月さんの好みがわからなかったので色々買って来ちゃいました」

「イメージとしてはチョコレートだと思うよ」

「モンブランとか……似合いそうかな」

 

 何を当たり前のように僕の分まで買って来ているのかな……。

 いや、待って。この流れはもしかしなくてもアレか? 

 アレなのか? 

 

「あの、皆……気を遣って私の分まで買って来てくれたのは嬉しいのだけれど、私は野菜炒めもあるから……。よければお菓子とケーキは皆だけで」

「如月さん」

 

 僕がなんとかスイーツ地獄を回避するために、言葉を尽くして訴えてかけていると、三村が満面の笑みを浮かべた。

 

「美味しいから大丈夫だよ」

 

 やだああああ!! 

 

 

 

 

 

 なかなか上手くいかないものだ。一人家への帰り道を歩きながら今日一日の自分の活動を振り返る。

 初めての合同レッスンに最初は胸が躍った。蓋を開けてみればあまりの自分の情け無さに気落ちしてしまった。回復していた自信も吹き飛んだ。

 今回指導をしてくれた城ヶ崎的には僕のダンスはダメダメに見えたということなのだろう。自分としては結構頑張ったと思うんだけど、城ヶ崎から見たらまだまだ粗を見つけられるわけだ。

 プロデューサーが褒めてくれなかったらもっと沈んでいたことだろう。

 そんなプロデューサーと城ヶ崎が見せた不穏な空気も気になる。やっぱり過去二人には何かあったのだろうか……。

 あんまり興味がないので他所でやってくれという感じだが。

 

 それにしても、今日は爆食いしてしまったな……。あんなに食べたのなんて生まれて初めてかもしれない。ケーキとかチョコレートとかポテトチップスとか、お菓子と名の付く食べ物をかたっぱしから口に放り込まれた気がする。断っているのに皆次々に僕にお菓子を投入して来た。

 何で皆あんなにも僕に物を食べさせようとしたのだろうか?

 アレかな、食べて嫌なことを忘れようというやつだろうか。あとは贖罪の意味もあったのかもしれない。

 僕は食べ物で釣られるような人間ではないのだが? 

 まあ、本当に久しぶりに大勢の人と食事をしたのが楽しくなかったかと言えば嘘になるけど。いつも一対一か一人で食べるのが普通だったから皆と食べるというのはとても新鮮だった。

 だが量が多いのは何とかならなかったのだろうか。シェアしたから一つ分の量は減っていたけれど、種類が多いせいで最終的な量は何人分だよって感じだった。野菜炒めすら残っている状態であれらを食べ切った僕を誰か褒めてほしい。

 あの後も二次会みたいなノリで夕食に誘われたけれど、さすがにもう入らないので丁重にお断りを入れておいた。これ以上は本当に吐く。

 何だか今でもお腹が重い気がする……。

 食べた分動かないと太るなんてことは無いが、消化を助けるためにも運動はしておく必要がある。

 

「とりあえず、訓練でもして消化しようかな」

 

 家に着き時計を見ると、まだ七時を回った程度だった。日はすっかり落ちているが、今から訓練を始めたとしても日付が変わるまでには一通りの自主訓練はできると思う。

 家に帰ったのも束の間、僕は荷物を置くとトレーニングウェアに着替え、自主訓練をやりに外へと飛び出した。

 僕には努力が圧倒的に足りないという思いに突き動かされて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「やっちゃったにゃ……」

「仕方ない……って、言っていいかわからないけど……みくちゃんが気にし過ぎたら、如月さんも困っちゃうかも」

「確かに。如月さんは人を拒絶するタイプに見えるけど、実際は気遣いしいなところあるからね」

「はい。相手のことを気にし過ぎて空回りしちゃってるようにも見えました……」

「みく、最初如月さんに嫌われてると思ってたから、なんとか会話しようと思ったけど、逆に気を遣わせちゃった」

「そんなに自分を責めない方がいいと思うよ……」

「うーむ……謎多きアイドル如月千早か……どういう生活をしているか気になりますなぁ」

「未央ちゃん……」

「あ、いやいや、冗談だって。うん、さっきの話聞いて興味本位で聞いちゃいけないってわかったから」

「……」

「かな子ちゃん……どうかした?」

「そう言えばかな子ちゃんはいつの間にか如月さんと仲良くなってたよね」

「仲良く、と言えるかわからないけど。少しだけ如月さんが人と距離を置く理由を知っちゃったから……もし私が如月さんだったら、同じように相手との距離感がわからなくなるなぁって」

「かな子ちんがそこまで言うなんて、如月さんには何か事情があるってことなんだね。それは家族の話以外ってこと?」

「うん。私が勝手に言っていいことじゃないから言えないけど、如月さんは人と話すこと自体が緊張することなんだと思う。何が言っていいことで、何を言ったらダメなのか、それがわからなくなっちゃってるのかなって……そう、考えたらどう接すればいいか私もわからなくなっちゃいそう」

「どうするも何も、そんなの決まってるじゃん」

「え?」

「相手が嫌がるまで向き合う。それで怒られたら謝る。もういいって言われるまでぶつかりに行く。それしかないでしょ」

「未央チャンって結構怖いもの無しだよね……」

「いやー、それほどでも!」

「褒めてないにゃ」

「……そうだね。ぶつかっていくしかないよね。うん、怒られちゃうかもしれないけど、私は如月さんにぶつかっていくね」

「その意気だ、かな子ちん! ぶつかって行こう!」




珍しく会話回。

千早は生まれて初めて他者に囲まれた中で食事をしたはずです。春香や武Pと食事をしてもそれは1対1の話です。
今回大勢の中で食事をしたことで、自分がちゃんと大多数の中に存在するということを実感しました。同時に食事をするということの楽しさを思い出したことでしょう。
それがどういう意味を持つのか千早本人に自覚はないでしょうし、、他の子達もこれがどれだけ千早に影響を与えたのか知りません。
しかし、千早を人間へと近づけたのは確かです。



とても残酷な話ですね。


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アルティメットな初ライブその7

弟に会わないと、そろそろ四肢が腐り始める頃合いのため。


 円く太った月が中天にかかる頃、自主訓練を終えた僕は実家へと続く畦道を一人で歩いていた。

 特に実家に寄るつもりはない。ただ自主訓練の後になんとなく近くを通りかかっただけである。

 そりゃ実家には優が居るけどさ、この時間に会いに行って驚かれたり怖がられたりしたら心に消えない傷を負ってしまう。だからちょっと近くを通るだけに留めている。実は自主訓練を始めてから何度となくこうして近所を徘徊していたのは内緒だ。

 日本の首都とは名ばかりの田舎道ではあるが、ここから少しでも横に逸れたら首都の名に相応しい近代的な空間へと戻る。明かるさも安全面もそちらの方が何倍も良い。それなのに、僕はこうして旧い道を選んだ。

 歩く道先に見える光は、申し訳程度に設置された街灯のみ。時折、いつ補充しているのかも怪しい自動販売機が見えることで何とかここが現代日本なのだと認識できる。

 暗い以上に寂れている。土を盛って均しただけの田んぼ道。

 でも、僕はこの道を決して寂しい道だとは思わなかった。どこかノスタルジックな気分を感じるこの道は、僕と優の想い出の場所だから。

 まだ僕達が幼い頃、二人で手を繋いでこの道を歩いた記憶がある。僕が自主訓練に夢中になって帰りが遅くなると、決まって優が迎えに来てくれた。両親が呼んだくらいでは僕は訓練を止めないから、もっぱら迎えに来るのは優の仕事だった。幼い優が一人で車の通りが激しい道を通るわけにもいかず、自然とこの道を通るようになったのが始まりだ。

 日が暮れて、暗くなった空に見え始めた星の名前を言い合いながら、優と二人で歩いた思い出は僕の宝物だ。それを脳内で各々の場面を同時に再生させながら帰り道を歩くのが最近の僕のトレンドである。

 大好きな弟と二人だけの時間。かけがえのない、大切な記憶。 

 でも、その時間も終わってしまったわ。

 だって、その後すぐに優は……。

 

「っ……」

 

 突然、言葉にできない喪失感が僕の胸に押し寄せて来た。

 何だ、コレ。

 知らない記憶とともに、これまで感じたことがないくらいの衝撃が僕の感情を揺れ動かす。

 悲しい。苦しい。寂しい。悔しい。

 覚えのない過去の感情の爆発に目の前が一瞬だけ暗くなる。

 

 暗闇の先に薄っすらと見える血の海。

 広がる赤色はあの子の命が流れ出ている証拠。

 そして、動かない──。

 

「……ん?」

 

 あれ? 

 今、僕は何を考えていたのだったっけ? 

 凄く嫌な記憶が頭を過ったような気がした。何か、とても大切なモノを突然失ったような……。

 うーん、最近ろくに眠っていなかったから寝ぼけてしまったかな? でも、僕って別に脳を記憶媒体以外で使っていないから寝ぼけるなんてありえないんだけどなぁ。単純に脳にダメージが残っているだけかも。

 ま、どちらにせよ、すぐに忘れてしまったというのなら大したことではないのだろう。それよりも優先すべきことがあるのだから、自分の体調のことなど気にしている暇はない。

 

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 そうそう、せっかくこれから優に会いに行くのに情けない姿は見せられないよねー。

 ここは頭のクールダウンのためにも、最近会った人達のことでも考察してみようかな。一旦並列思考に割く力を抑えて、メインの思考に意識を向けた。

 

 まずは、何かとお世話になっている千川さん。

 あの人は第一印象こそ仕事人間というイメージだったけれど、よく話をしてみると柔らかな雰囲気の可愛いお姉さんだった。容姿も可愛い。声も可愛い。時折見せる暗黒微笑にヒェッとなるけど、それもまた可愛い。

 つまり可愛い。

 あんな人がこれからアシスタントプロデューサーとしてサポートしてくれるというのだから嬉しさ爆発である。

 765プロで言うところの音無小鳥枠なのかな。となると、何かしら濃い趣味を持っている可能性もあるね。要チェックだ。

 

 次はルーキートレーナーさん。

 ──は、よくわからん。

 

 次は色々と僕に対して思うところがあるらしい城ヶ崎姉妹か。

 姉の方は、何と言えば良いのか。敵意は……たぶん、あったと思う。悪意も少し感じた。でも、害意と言えば良いのか、こちらを具体的にどうにかしようという意思はまったくと言っていいほど感じなかった。

 物理的にどうこうする気がない。それは、これまで出会ってきた悪人の傾向から考えるに、本来、城ヶ崎姉という人間は他人に負の感情を持つタイプではないのだろう。

 これまでに遭遇した悪人達はこの世界でも珍しいくらいの悪人どもだった。それと比べると、少なくとも城ヶ崎姉に悪人の素養は無い。むしろ、悪人に利用されないかと心配になるレベルのお人好しに見えた。

 ならば、何故僕は敵意を向けられることになったのか? 

 あの時の表情の変化と反応から、城ヶ崎は初対面の時点で僕に敵意を持っていたことがわかった。あのまま猫を被られていたら決して気付けない、本当に些細な綻びを目印に、これまでの言動を逆に追っていったらわかった。

 出会ってすぐに悪印象を持たれるのはよくあることなので別に構わない。でも、城ヶ崎姉は出会った時点で僕に敵意を抱いていた。最初から僕を知っていた。

 その理由は、プロデューサー関連のような気がするんだけど……。

 いや、これ以上は判断材料が足りないか。下手に予想しても下衆の勘繰りになってしまう。

 

 そういう意味では、高垣楓も似たようなものだ。同じくプロデューサーと面識があるという意味で。

 しかし、こちらは城ヶ崎姉と違い僕への敵意は感じられない。これは未成年相手に本気で敵意を持つことに彼女が気後れしたというよりは、僕が相手にされていないという感じがする。

 その代わり彼女は害意を持っている。

 プロデューサー相手にだけど。

 僕には直接的な感情を向けている様子はなかった。まあ、僕の出方次第ではどう転ぶかわからないけど。

 高垣がプロデューサーとどういう関係だったのかは知らない。会話の様子から知り合いではあるのだろうけど、どこまで深いかは推し測れない距離感をお互いが持ってしまっている。

 こういう大人が持つ暗黙の了解みたいな空気を両者から出されると、人間観察は得意でも人間関係が不得意な僕にはわからなくなってしまうのだ。もう少し二人とも感情の振れ幅を広く持って欲しいなぁ。

 その点、城ヶ崎姉妹はわかりやすかった。

 反応が過剰演出過ぎて逆に微笑ましく思えてしまう。

 城ヶ崎妹とは姉の件を抜きにして仲良くしたいと思っている。同じプロジェクトメンバーだし。あと可愛いし。

 あんな女の子が同じクラスにいたら、僕の学校生活も潤いが出たのかな。同級生だったら絶対関わらないタイプだけど。オシャレ戦士とは相性が悪い僕であった。

 

 同じ垢抜けたタイプでも本田の方は相性が悪くないとは思うんだよね。

 いかにも僕が苦手なタイプのクラスの中心人物って子だけど、何故か変なところで親近感を覚えてしまう。

 案外豆腐メンタルだったりするのかもしれないね。そのあたりが滲み出る言動を僕が無意識に汲み取っている可能性もあった。

 今のところ、プロジェクト内で唯一の仲間なので大切にしておきたい相手だ。

 

 島村も本田と一緒に居ることが多いので付き合いが増えた気がする。

 出会った当初は絶対に反りが合わないと思っていたのに、あの時の僕に島村とユニットを組んでバックダンサーとしてライブに出るなんて言っても絶対信じなかっただろうね。

 

 あとは何かと構って来る三村についてだけど、その理由がさっぱりわからない。きっかけがあるはずなのだけど、今日のことを細かく思い返してもまったく正解に行きつかない。

 出会った瞬間から僕を心配し気遣う素振りを見せる彼女の態度に初対面の人間と仲良くできた試しがない僕には戸惑いしか無い。まあ、悪意が無いのなら好きにさせておけばいいという感じだ。

 

 その三村と一緒に居たツインテとみくにゃんはよくわからない。ツインテの方は自己主張が乏しいので個人として覚える段階にない。みくにゃんの方は期待していたものとは違うものの勝負をしてくれた子なので思ったよりも気になっている。

 

 そして最後を飾るのは杏ちゃんだね。

 あの子は最近出会った中でも別格だね。別格、いや格別に可愛い。

 髪とか目とか頬とか唇とか肩とか手とか腹とか太腿とか足とかがイイと思う。

 声も可愛くて耳に心地よい。服も良いセンスしている。ゲーム好きなのも好感が持てた。

 少し他人との距離を取りがちに見えるけど、そこがまた猫っぽくて可愛いんだぁ。

 つまり最強ってことだよ。

 まだ少ししかお話しできていないけど、今度会えたらもっとお話できたらいいなぁ。邪険に扱われない程度に積極的に絡んで行こう。

 まずは普段のスケジュールを把握するところからだね。

 残りのプロジェクトメンバーは……ぶっちゃけ、よく覚えてない。なんか小学生の子供と背の高い人が居たような気がする。

 まあ、覚えていないなら大したことではないんだろう。

 

 さて、頭の整理も済んだことだし、優のことを考えながら実家へと帰ろう。

 デュフフフ! 

 

 

 実家へと着いた。

 一戸建ての一般的な家を見上げ。懐かしさを感じる程度には久しぶりの帰省だった。

 僕が自暴自棄になり一人暮らしを始めてから二年余り。一度は実家に戻ろうとも考えたこともある。でも、色々あって今も僕はあのアパートに住んだままだ。

 いつかはここに戻って来るのだろうか。

 ……戻っても、良いのだろうか。

 

 四月の風に流れる雲が月を陰らせる。

 それまで僕を照らしていた月明かりが途絶えると、それに釣られるように僕の心も暗く沈んで行った。

 僕はここに居ても良いのだろうか。

 家の門に取り付いた如月と書かれた名札は暗さの所為でその輪郭をぼやかせている。

 如月──僕の、名前だ。

 

「はぁ」

 

 意を決して、家の扉へと手を掛ける。

 家の側面、二階にある優の部屋の下側まで回り込む。

 見上げた先に優の部屋がある。個人的な絶景スポットである。

 

「ほいっ、と」

 

 左足に力を込めて垂直に跳び上がり、二階のベランダの梁に右足を掛ける。軽く足を引いて身体を前へと押し出し、ベランダに滑り込んだ。

 このくらいの高さなら楽に侵入可能なのだった。

 部屋の窓に手を掛ける。

 

「閉まってるか」

 

 当然ながら窓には鍵が掛かっていた。横にスライドさせようとしてもビクともしない。もちろん力を込めれば開けられるけど、そうすると優の部屋が壊れるのでやらない。

 ならば、どうやって部屋に入り込むかという話になる。実は結構なパターンが存在するのだけど、今回は安全なやつで行こうか。

 拳を握り締め、息を吐きながら拳全体に力を込め続ける。

 過剰に加わった力の所為で腕全体の筋肉が痙攣を起こし、小刻みに震え始めた。

 そこからさらに力を込めながら振動を増幅、一定の法則を持たせる。そうやって力と振動が増して行くと、やがて拳の表面が黒く変色していった。振動により皮膚の組成が変わり始めた証拠だ。言うなれば運動エネルギーによる火傷である。

 見る見るうちに黒く変質する拳に頓着することなく、僕は拳の振動を増幅させていった。

 キイィィンという硬質な物体が奏でるような振動音が辺りに響き渡る。人の可聴領域から外れたそれは当然人間には聞こえないので部屋の中の優に聞こえることはない。せいぜい近所の犬が遠吠えをしたり、鳥がバサバサと飛び去っていくくらいだ。

 そして、振動がこれ以上ないというところまで高まったところで増幅をやめ、今度は状態を安定させる。

 これが僕が中二病発症時代に再現した必殺技の一つ。

 

嘆きの(スクリーミング)──」

「何やってるの」

 

 今まさに窓枠へと打ち込もうとしたところで、優の声が聞こえたので拳を止めた。

 部屋の明かりが点き、カーテンが引かれると優が姿を見せた。

 慌てることなく手を修復してから拳を解く。優にこんなもの見せられない。

 

「あ、優だ。わーい」

 

 少しでも早く優に会いたかった僕は、顔を出してくれた優の姿を見て嬉しくなってしまった。

 本当はこっそり入って寝顔を見たかったのだけど。残念。

 

「とりあえず入りなよ」

「うん」

 

 優が窓の鍵を開けてくれたので靴を脱いで部屋へと上り込む。

 優の部屋は当然ながら優の匂いがした。

 その事にひどく安堵する。

 

「今何時だと思ってるの」

「二十四時三分」

「真夜中だよね……」

 

 自主訓練のためにアパートを出て、いつも使っている訓練場所から実家に歩いて来たら結構時間がかかってしまった。

 さすがにこの距離を疑似飛雷神の術で移動するのは辛いので徒歩移動である。

 来年十八歳になったら車の免許でもとるかな。バイクでもいいかも。

 

「その時は真っ先に優を乗せてあげるね。初めてが優だなんて凄く嬉しい」

「……これは、車の免許の話とかかな」

 

 よくわかるね。さすが優である。僕の弟は察しが良いのだ。

 優が押入れからクッションを出してくれたので遠慮なく座る。丁度部屋の中央に座る形だ。

 優の方はベッドに座った。

 

「免許を取れば移動が楽になるからね。長距離移動の時間短縮になるかなって」

「まさか、まだ徒歩移動がメインなの? そんなだから一度も関東から出たことがない、なんてことになるんだよ」

「それは誤解よ。私だって関東から出たことあるわ」

 

 最近は家と訓練場所の往復しかしていなかったので行動範囲は狭いものの、引き篭もる前まではあちこちに遠征していた。ただ、家族には近場に作った秘密基地に泊まり込みで修行しに行ってると伝えているため、僕は関東地域から出たことがないと思われている。

 実は瀬戸内海で泳いだことだってあるんだぜ? 

 

「修学旅行ですら全部サボタージュした人が?」

「優の修学旅行の時に護衛として隠れて付いていったわ」

「修学旅行をなんだと思って……」

 

 優が修学旅行先で何か事件に巻き込まれたら大変だと思いこっそり付いていったことがある。もちろんアイドルを目指していた時期なので電車や新幹線に乗れず走って京都まで向かった。

 真冬の津軽海峡を越えて北海道の雪道を爆走した経験を持つ僕には陸続きの道を走るなんて造作もなく、結局は優より早く京都入りしたくらいである。

 でも肝心の優がどこにいるのかわからずに京都中を捜すことになり、その際起きた諸々のハプニングは今も都市伝説として関西地方に残っているらしい。

 

「金閣寺ならぬ朱閣寺」

「それ……お姉ちゃんが犯人だったの?」

「私だけの血じゃないわ」

「一人で賄える量じゃなかったからね。何があったのさ?」

「この世には知らなくていいことがたくさんあるのよ。たとえば、ある日を境に京都奈良の治安が劇的に良くなったのだとしても、それは良識のある人が増えたのであって、良識の無い人達が減ったわけではないの。そう思い込むことが幸せ思考のコツよ」

「いつから日本はアメコミの世界になったんだ」

「今度のヒーローはダークヒーロー。青い光を両手に燈し、悪人どもを滅多打ち」

「いや、ほぼ答え言ってるじゃん」

 

 なんてことだ。誘導尋問なんて、優は高度で知的な会話ができるんだね。感心しちゃう。

 

「あんまり危ないことはしないでね?」

「私を危険に陥らせたいなら、変身ヒーローを師団で連れて来なさい」

「真面目な話です」

「あい」

 

 優に凄まれてしまった。それだけで怖くて反論できなくなる。面接の髭の人より怖いよー。

 と、そこで優が眠そうに目でショボショボと瞬きをしていることに気付いた。

 

「もしかして……寝てた?」

 

 起こさないように静かに行動したつもりだけど、完全に無音だったわけではないから起こしてしまったのなら申し訳ない。

 

「ううん。もうそろそろ眠るつもりではあったけど、まだ普通に起きてたよ」

「そうなの? 夜更かしは体に良くないよ?」

「何となく、お姉ちゃんが今夜あたり来そうだなって思ってたからね」

「え」

 

 それって優が僕を待っていてくれたってこと? 

 僕が来るのを部屋で待っていてくれていたなんて嬉しいな! 

 

「優は待っていてくれていたんだね」

 

 僕にも帰る場所がある。こんなに嬉しいことはない。

 

「そりゃ……寝ている時に侵入されて、夜中にふと目が覚めたら目の前にお姉ちゃんが居るとか、軽く恐怖でしょ。それが嫌だっただけだよ」

「さすがに眠っている優を見続けるなんてしないよ。ちゃんとベッドに入るよ」

「それ、入るベッドは僕のだよね? 僕のベッドに入ることをセーフ扱いするのはやめて」

「じゃあ、押入れの中に待機は?」

「……なんで悪い方にシフトチェンジしたの」

 

 部屋にそのまま居るよりはマシかなって思ったから。優の反応を見るに、あまり良い案ではなかったらしい。

 青繋がりで某狸型万能ロボットをオマージュしたつもりなのだけど。

 

「大丈夫、優の私物を漁ったりなんかしないから」

「別に漁られて困るものはないけど」

「またまた。優も今年で十四歳。そろそろかなと私も思っているのよ」

「……何が?」

「私も今の優くらいだったかなー……ある日興味本位で」

「お、お姉ちゃん?」

「右手に包帯を巻いたり、眼帯着けたり」

「病気の方かぁ……」

 

 炎殺拳を習得するために、まずは封印の仕方から勉強する。安全第一で必殺技の習得が僕のモットーだから。結局習得できなかったけど。代わりにできたのが先程の技である。

 

「優が突然、間違っているのは世界の方だ、とか言いながらカラコンで片目を赤くしはじめても私は一向に構わないわよ?」

「僕は構うよ。嫌だよ」

「そうね、私の後を継ぐ必要はないわよね」

「やってたんだ……」

 

 げんなりとした顔をする優には二代目の重みが分かっているということだろう。

 継ぐだけならともかく、実際に先代に成り代わろうとすると辛いことは僕も知っている。それを優に押し付けてしまうのは僕の望むものではない。

 

「優には優の人生がある。優が望む道を歩けるように、私は精一杯応援するわ。もちろん協力も惜しまない」

「中二病にならないという話を無駄に壮大にしないでくれるかな」

「如月優先生の今後の活躍を期待して——」

「打ち切り漫画風味」

 

 それはいけない。

 優の人生が打ち切られるなんて駄目だ。

 

「新連載、ユウの奇妙な冒険 スターライトステージ」

「人を能力者の巣窟に送り出そうとしないで」

「巣窟じゃないわよ。すくつ、よ」

「巣窟で合ってるよ」

「優がリズムに合わせて踊ったり歌ったりするのね。アプリダウンロード数一位は固いわね」

「まさかの音ゲー? 誰がやるの、そんなニッチなゲーム」

「私が」

「ダウンロード数一回じゃん」

「——優の声当てをするわ」

「途端に一位が現実味を帯び始める成りすまし宣言」

 

 声変わりを迎えていない優は若干低い程度で僕と声質はほとんど同じである。僕が少し声を低くすれば優の声として十分通用するはずだ。

 

「逆に優が女装したら私になる……?」

「何で唐突に恐ろしいことを言い始めたのさ?」

「少し、お願いがあるんだけど……」

「嫌だ」

「まだ何も言っていないわ」

「言わなくてもわかるよ。どうせ僕に女装しろとか言うんでしょ?」

「……何を言うかと思えば。まったく」

「あれ、珍しく外れた?」

「わっっ私が優をじじじじ女装させたいだなんなんて、そん、そんなわけないじょないののの」

「だったら尋常じゃなく動揺しないでよ」

「……逆に考えてみて、優が女装するとするでしょ?」

「自分が女装しているところを想像する趣味はないよ」

「するとね?」

「あ、聞いてないやつだこれ」

「すごく可愛いのよ」

「……」

「ほら、ね?」

「何が!?」

 

 優が女装する→可愛い→やったー! 

 

「ソクラテスもびっくりの三段論法ね」

「ソクラテスもそんな酷い話に使われるとは思ってなかっただろうし、自分の名前をそんなことで引き合いに出されるなんて思ってなかっただろうね」

「じゃあ、奴もまだまだね」

「どこ目線で言ってるの。上から目線だし」

「奴はクソ論法使い四天王の中でも最弱。四天王の面汚しよ」

「泥パックか何かを顔に塗ってるようなものだよね。たぶん顔が綺麗になってそう。て言うかクソと認めちゃってるし」

「我ら四天王に弱者は要らぬ」

「お姉ちゃんも四天王入りしちゃってるんだ」

「私の必殺論法。録音していないことを理由に言った言わないの水掛け論を展開して相手に諦めさせる攻撃は最強よ」

「最強かはともかく、最低ではあるかもね」

「え、一緒に寝てくれるって?」

「言ってない」

「いいえ、今確かに言ったわ。私は記憶力がいいのよ。録音してないなら言ってないって証明のしようがないわよ?」

「最強って言うか、セコ過ぎるよ……」

「え、一緒にお風呂入ってくれるって?」

「もう論法とか以前に難聴を疑われるやつだよそれ」

 

 やはり優には効かないか。いけると思ったんだけどな。

 

「春香には効いたのに」

「あの人はお姉ちゃんに甘すぎると思うんだよね」

「代わりに何でも言うことを聞く約束をさせられたわ」

「見事にカウンター技キメられてるじゃん。対価が過分すぎるよ。その技は封印しよう。ね?」

 

 呆れ顔から一転、優に本気で心配される僕であった。

 必殺技には代償がつきものと相場は決まっている。それを心配してくれる優はとても優しい子だと思う。

 気遣いができて、優しくて、頭の回転も良い。

 

「何でも言うことを聞くって、春香は何を言ってくるかしら」

 

 春香のことだから、あまり無茶なお願いをしてくることはないだろうけど、いざ言われた時にできませんなんてなったら申し訳ない。僕の貧弱な想像力では想定を外される可能性があったので、頭の良い優にも考えて欲しいかな。

 

「あの人は、いざ相手を前にするとヘタレるから、それほど構える必要はないとは思うけど。土壇場で覚醒するタイプみたいだから気を付けた方がいいとは思うよ。具体的に言うと、精神的、肉体的な苦痛を伴う諸々の行為は禁止とかあらかじめ言っておくくらいはしないと」

「春香はそんな酷いことしないわよ」

「お姉ちゃんの信頼は、サンプル対象が少ないから過剰なのか誰にでもそうなのかわからないや」

 

 別に信じられる人間が少ないわけではないんだけどなー。

 ただ、相手が人間だと実感できる相手が少ないだけだし。

 

「私は誰のことも信じるような子供じゃないわ。この世界で信じているのは三人くらいよ」

「一人増えてるね」

「プロデューサーは信じられるわ」

「へぇ〜」

 

 僕が信じられる相手にプロデューサーを挙げると、優は意外という表情を作っていた。

 これまでの僕であったなら、信じられる対象として名前を出すのは優と春香だけだった。でも、この間の最終面接の一件──いや、これまでの時間全てで彼という人間を信頼するようになっていた。

 だって、あの人は僕を如月千早にしてくれた人だから。

 

 如月千早という名前。

 

 僕のカラダの名前。

 

 容れ物の名前。

 

 先程家の表札を見た時に覚えた違和感を思い出す。

 僕の身体を形作る全ての物は如月千早を元に作られている。そう僕を転生させた神が言っていた。だから僕の身体は如月千早であるのだ。

 だったら、僕のこの心はなんて名前なのだろうか。

 僕がなろうとした千早とは、果たしてどこまでを指す物だったのだろうか。

 身体まで? 能力まで? それとも魂? 

 何をどこまで近付けてみても、僕が千早に成ることはできない。僕は千早ではあるけれど、僕である限り千早には成りきれない。

 千早を演じる役者に成るのが精一杯だ。演者というよりも道化かな。

 ピエロみたいに笑われることすら許されない。憐れで寂しい、偽物の人間。

 それでも良いと、胸を張って生きられる何かが欲しくて……。

 それを手に入れるためにいつも虚空へと手を伸ばし続けた。

 それは、赤子が親を──自分を守ってくれる何かを求めて、泣き声を上げ、手を振り回すような、感情的で身勝手で無意味な行為だった。

 誰もが赤子がやることだから仕方ないと許しはしても、決してその手を取ることはない。

 承認欲求にも似たそれには名前は無いけれど、僕はずっとそれに飢餓感を覚えて来た。

 生まれてから、ずっと。

 これまでの人生の全てに。

 名前のないその生き物を、僕は心の奥の、さらに奥底に飼っていた。

 常に飢えた獣のように、そいつはお腹が空いたと訴えていた。

 日に日にその声は大きくなり、無視することすらできなくなった。

 いつか、それが我慢の限界を超えた時、それは自らに名前を付けて自分の意志で生まれるはずだった。

 

 でも、その生き物をプロデューサーが見つけてくれた。

 名前を付けてくれた。

 存在しても良いと教えてくれた。

 だから、その生き物は今だけは空腹を忘れていられるのだ。

 

「僕も少しだけ話す機会があったけれど、あの人は真面目で良い人そうだったね」

「少し口下手なところはあるけれど、その分行動が誠実なのよ。口下手だけど」

「お姉ちゃんにそこまで口下手と言われると、それはそれで心配になるんだけど。……プロデューサーなんだから口下手で仕事できるの?」

「それができるらしいのよ。この業界でもかなりのウデマエね。腕前じゃなくてウデマエ」

「ニュアンスは何となくわかるけど……」

 

 いつもの僕との会話とか今日の城ヶ崎との会話とか思い出すと、あの人どうやって仕事しているのだろうと疑問に思う。あれでプロデューサーとして業界でぶっちぎりに優秀なのだから不思議だ。表に大々的に出て来るタイプではないので一般人には知られていないのだが、芸能界の関係者にとっては知る人ぞ知るってレベルの有名人らしい。

 そんな凄い人にプロデュースされているのだから僕も頑張らないわけにはいけない。

 ちなみに765プロのプロデューサーも新進気鋭の凄腕プロデューサーとして有名だ。現在は海外研修中で、向こうでは無名の新人のはずなのに、すでに色々な重鎮の注目を集めているらしいと春香が教えてくれた。……化物かな? 

 

「そっか。お姉ちゃんが僕以外で信頼できる人ができて安心したよ……これなら僕が居なくてもお姉ちゃんも大丈夫そうだね」

「え?」

 

 え、何その不穏なセリフは。

 どういうこと? 

 

「いや、別に何って話じゃないけど、お姉ちゃんだってこれからアイドルとして忙しくなるわけだし。業界の人達との付き合いが増えたら今みたいに僕と会う時間ないんじゃないかなって。僕以外にも信頼できる人ができたんだし、僕が居なくても大丈夫かなって思って」

「そんなわけないでしょ!」

 

 思わず声を荒げてしまった。優相手に駄目だとわかっていても、優の言葉に冷静を保つことができなかった。

 

「お姉ちゃん……」

「優が居なくて大丈夫なわけないでしょ。優が居なくなっていい理由なんてどこにもない。アイドルの仕事が忙しいとか、新しい人間関係とか、そんな物で優が一番大事なことには変わりはないんだから!」

 

 優が居なくなるのは嫌だ。アイドルを続ける上で優との時間が減るのはわかっていたことなのに。覚悟していたはずなのに……。

 赤い血溜まりが脳裏にちらつく。

 見たこともない絶望が自分のことのように思い出される。僕が見たこともない絶望がまるで僕の記憶であるかのように鮮明に思い出される。

 地獄のような光景。”如月千早”が持ち込んだ優の居ない世界の記憶が僕の記憶を侵していることに気付く。

 いつの間にこんな……。

 意識した瞬間、自分の中に”如月千早”が存在することを自覚した。いつもなら軽く流せた優の言葉をその”如月千早”は看過できなかったらしい。

 

「優が居ない世界はもう嫌なの……ごめん。本当に私にとっても、嫌だから」

 

 千早。やっぱり貴女は強い人だ。

 こんなもの、僕には絶対に耐えられない。優が居ない世界で、それでも歌い続けようだなんて思えない。ほんの少し想像しただけで体の震えが止まらなくなる。

 こんな、砂を口いっぱいに詰め込んだような、不快で苦くて渇きを覚えるくらいの酷い世界で希望なんて持てないよ……。

 その世界に居たら、きっと僕の中の怪物は目覚めていた。世界に人間は自分だけだと、周りは全てニセモノだと思って、何も考えずに敵意と悪意をバラ撒いていた。

 優が居たから僕は人でいられた。

 如月千早と同調して、その半生を垣間見て、今の自分がどれだけ恵まれているのかがわかった。

 生きるだけで死にたくなるような世界を一人で生きるのは人間の僕には耐えられない。

 

「優が生きていてくれるなら、私は何でもするから。優がして欲しいことがあれば、何でもするから。どんなことだってするから。だから居なくても大丈夫なんて絶対に言わないで……お願いだから」

 

 優は何も一生居なくなると言ったわけではない。でも、今の僕にはその言葉だけでも震えるほどの恐怖を覚えてしまう。

 きっと明日になれば大丈夫のはずだ。明日になれば”如月千早”の発狂も治る。駄目でも無理やり鎮静化させる。

 でも、今は無理だ。今この時は優のことだけしか考えられない。

 優のことになると僕は冷静でいられない。千早を構成する上で優は絶対だから。僕の魂ではなく体が優の死を覚えているから。

 優の死を見た眼が覚えている。

 優の血を嗅いだ鼻が覚えている。

 優の事切れる音が聞いた耳が覚えている。

 僕の身体を構成するパーツが、優が死んだ当時の記録を各々持ち越して来たせいで、あらゆる角度からその瞬間を鮮明に思い出させて来る。

 この先も僕の身体は新しい優の死を覚えていくのだろう。その時の絶望を僕に押し付けて来るのだろう。

 そんな地獄を僕はこれからも生き続けるのだ。

 

「ごめんね、お姉ちゃん。僕はただ……お姉ちゃんが忙しくなった時に僕のことを負担に思わないで欲しいって言いたかっただけなんだ」

「優が負担になるなんてことない! ……そんなの負担じゃない。私は全部背負えるから。優のことなら全部」

「そうだね。……ありがとう」

 

 気遣うように優が頭を撫でて来る。その手の温もりが凍てつきそうな心に染み渡る。優の心の温かさがそのまま僕の心に伝わって来るようだった……。

 

「これからも僕はお姉ちゃんの傍に居るから。お姉ちゃんがどんなに大変なことに遭っても、どれだけ辛い思いをしたとしても。だから泣かないで?」

「……泣いてないし」

「鼻声で言っても説得力ないよ」

 

 兄としての威厳を保とうと僕が強がりを言うと、優は笑って頭をなで続けてくれた。

 その手の動きが先程までと違い、幼子をあやす様な柔らかさになっているのがわかる。たまに優は僕のことを子ども扱いするよね? 

 

「子供扱いして欲しくないならもう少し自重してね。……色々と」

「大人の魅力を身につけろ的なやーつ?」

「いや、それを備えられたらいよいよどうしようもなくなるから止めてね?」

 

 ただの記憶の逆流だとしても、僕は優が居ない人生を体験してしまった。それでわかったことは、僕にはこの子を失う覚悟は持てそうにないということだ。

 良かった。あの時、この子を諦めなくて良かった。

 

「優……」

「何? お姉ちゃん」

「ありがとう。生きていてくれて……」

 

 僕の優は生きている。それだけで、僕は他の千早よりも幸せなんだ。

 

 

 

 

 

 ……そうやって綺麗に終われば良かったんだけどね。

 その後すぐに両親が優の部屋から話し声が聞こえるというので何事かと様子を見に来たのだ。

 こんな夜更けに弟の部屋に忍び込んだことバレたら叱られると思った僕は慌てて部屋から逃げることにした。

 

 その日、夜の街をビルからビルへと跳び移る謎の人影がネット界隈を騒がせたとかなんとか。




完璧であることが正しいのか。
綻びがあってこそ人たらしめるのか。
個で完結していた千早に混ざりこむ千早達がどう影響を与えていくのか。


長らく優との触れ合いを禁じていた千早でしたが、プロデューサーから家族と同性は触れ合いOKと言われたので自重しなくなりました。夜中に弟の部屋に謎の技術で侵入しようとするヤベー姉です。


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アルティメットな初ライブその8

千早の理想の低さと実力の高低差


 初日から躓いた合同レッスンは数日経った今でも特に進歩は無かった。

 僕が本田と島村に合わせることができずに初歩の部分で足踏み状態になっている。

 何度か城ヶ崎の指導からベテラントレーナーの指導に移ろうという案がだされたのだが、城ヶ崎のプロデューサーが現状トレーナーの指導は不要と判断しているらしく、その言を鵜呑みにした運営側がトレーナーの召喚を後回しにしていた。ちなみにトレーナーが合流できていないのはお家の事情だとか。

 城ヶ崎の担当プロデューサーは担当アイドルを全面的に信頼するタイプのようで、城ヶ崎の大丈夫という言葉を信じて指導内容の修正に乗り気ではないらしい。

 自身はライブ会場の打ち合わせを優先して、城ヶ崎に丸投げしてしまっているそうだ。

 それでいいのか346プロ……。しかし、今の346プロの運営形態では、個々のプロデューサーの担当アイドルに対する権利が強く、プロデューサーといえど他担当のアイドルのことに口が出せない。

 さらに僕達はバックダンサーでの起用のため、運営方針に直接口を挟めず、今は部長経由で正式に指示を出すことも検討しているらしい。

 

 まだ企画は始まったばかりとはいえ、それはこちら側の事情だ。ライブの方はもっと前から準備を進めているのだから僕達の進捗如何によっては運営側に迷惑がかかってしまう。さらに悪いことに、どこからかバックダンサーの伸びが悪いという話が耳に入り、不安を抱いたスタッフから僕達の起用を見直してはどうかという声が上がっていると聞かされている。

 そんなこともあり、前回から遅々として進まないレッスンと合わせて、初めてのライブは前途多難と呼べる状況だった。

 

 でも、少しだけ前回から変わったこともある。

 

「はい、如月さん。タオル使ってね!」

「……ありがとうございます、三村さん」

 

 休憩に入るとすぐに三村が用意していたタオルを手渡して来る。

 前にも言ったように僕にタオルは必要無い。それでも受け取ってしまうのは、相手の好意を否定することを僕が忌避しているからだろう。

 

「栄養補給も大事にゃ! これ食べて。みくもトレーニングの合間に食べるオススメのお菓子だよ!」

「ええ、ありがとうございます。みくにゃ……前川さん」

 

 みくにゃん改め前川がオススメのお菓子をくれた。長いこと基礎トレーニングを積んで来た前川だが、合間の栄養補給に適したお菓子にも詳しくなったとかで色々と勧めてくれるのだ。

 正直ありがた迷惑なのだけど、断ると悲しませることになるのでありがたく頂いている。少なくともこれを食べさえすればプロデューサーが物を食べろとうるさくないので食べている。

 

「あの、これ、今皆が踊った時の映像……スマホで撮っておいたから見返してみると、その、いいかも……」

「本当に助かります。緒方さん」

 

 ツインテという名前ですら無い物で呼んでいた子は緒方智絵里というらしく、今は「緒方さん」と呼ばせて貰っている。

 皆からは一歩引いた位置にいることが多い分色々と気が付くのか、今の様に痒いところに手が届くサポートをしてくれている。

 

「皆さんもご自分のトレーニングがあるでしょうし、ここまで手間をかける必要はありませんよ?」

「如月さんは気にしなくていいよ? みく達がやりたいからやってるんだし」

「そうだよ。同じプロジェクトのメンバーがライブに出るんだから、応援するのは当然だよ」

「うん、好きでしていることだから。……気にしないで?」

「そうですか……」

 

 本当に、なんだこの状況。

 三村、前川、緒方の三人からのサポートが手厚すぎるのだが? 

 手伝ってくれるのはありがたいのだけど、それで当人達の邪魔をしていると思うと気になってしまう。それも今みたいに笑顔で否定されるので断り切れない。

 

「うんうん。すっかり如月さんも皆と打ち解けたようですなぁ」

 

 そして満足げな顔で何度も頷いている本田よ……。君はどうして後方プロデューサー面しているのかね。

 あと、これって打ち解けているって言うの? 正直サポートは助かっているし、その心遣いは嬉しい。でも、それが打ち解けたから云々に繋がっている気はしなかった。

 未だに誰とも連絡先すら交換してないしね。スマホのアプリじゃないとできないあれこれがあるのでガラケー使いの僕は連絡先の交換に二の足を踏んでしまっている。

 

 それ以外にも変わったものがあった。

 

「お疲れー! 今日もいい汗かいたー!」

「はいっ、へとへとですけど、なんだかやり切った感じがします」

 

 レッスンが終わっても本田と島村がダウンしなくなった。

 初日の休憩無しのレッスンが続いたならばそうはいかなかっただろうけど、二回目からは最低限の休憩を入れるようプロデューサーから運営を通して指示してくれたのだ。レッスン時間も昼の一時から五時までと定められている。これくらいは僕達の担当プロデューサーとしての権限の範疇ということらしい。

 おかげで二人ともレッスン後も余力を残しているように見える。さすがにまったく疲れていないということはなかったが。まあ、そこまで余力を残したら今度はレッスンの意味が無いので良いバランスと言える。

 指導方針への口出しに城ヶ崎側が難色を示すかと思っていたけれど、それも無かった。てっきりプロとして指導方針にケチをつけられることを嫌がると思っていたのに。何故なのだろう。

 

「城ヶ崎さん、この後なのですが……」

「確かに……前にこっちのプロデューサーに許可取れとは言ったけどさぁ……」

「ええ、ですので許可を取って来ました」

「その許可の取り方が『貴女のところのアイドルをこの後食事に誘ってもよろしいでしょうか?』ってのはおかしいでしょ! おかげであれこれ訊かれたんだけどっ?」

「……まずかったでしょうか?」

「逆に大丈夫だと思った理由がわからないって……まあ、許可を出すあの人もあの人だけどさ」

「城ヶ崎さんを信頼されてるのでしょうね」

「……ま、良い子でいるからね」

 

 指導方針にプロデューサーが関われるようになったのは喜ばしいことだから細かいことは気にしても仕方ないか。

 

「私達はもう上がるけど……如月さんはこの後どうする?」

 

 早々に帰り支度を済ませた本田が僕の予定を訊いて来る。他の皆も帰り支度をしているのでこのまま上がる予定なのだろう。プロデューサー達のやり取りは見て見ぬふりをするのが最近のルールだったりする。

 そのプロデューサー達は一足先にレッスンルームを出て行ってしまった。その際プロデューサーから視線を向けられたので目礼だけしておいた。

 本田がこうしてわざわざ訊いて来るのは誘ってくれているということもあるのだろう、しかし僕の答えは毎度同じであった。

 

「私はもう少しだけ練習してから帰るわ。……ありがとう」

「そう? それじゃ、また明日!」

 

 僕が断ると本田はあっさりと頷いてくれた。これも何度もやりとりした会話なのだけど、最初の頃は結構食い下がられた。僕が首を縦に振らないとわかるとそれ以降しつこく誘って来ることはなくなった。

 ……その代わり、レッスン前の食事会は半分強制参加になったが。

 

「お疲れ様です!」

「まったね~」

「あんまり無理しないでね?」

「えっと、気を付けてね……」

 

 きちんと挨拶残してから帰る皆を見送る。

 パタリと閉じられた扉により廊下の音は聞こえなくなった。完全なる無音というわけにはいかないけれど、外からの雑音の入らない環境になったことで自分だけの時間を確保できた。

 

「さて、やりますか」

 

 一言誰もいない部屋で呟き、課題曲のダンスを始める。

 これからやるのは今日のレッスンのおさらいだ。レッスン中は時間が無くてできなかった見直しをこの時間で徹底的にやる。

 一回目から順に踊り直し、その場で悪かった箇所を修正する。あとほんのコンマ一秒あれば本田に追い付けた振り付けに対しては動きの出だしを早める。島村を置いていってしまったステップに対してはディレイを入れてタイミングを合わせる。

 一度やったからわかる、自分のダンスのズレを一つ一つ修正して行く。

 それはつまり、今日のレッスンをもう一度やり直すということにほかならない。その時間を作るためにレッスンルームの使用申請をしていた。

 余談だが、レッスンルームの申請をする時に一悶着あった。管理課に行きレッスンルームの使用許可をとろうとしたところ、事務員さんに新人で無名の僕が個人名義で部屋を借りることを渋られてしまった。食い下がっても実績が無いと申請不可と言われてしまい一度は諦めかけたのだけど、丁度通りかかった課長さんが僕の顔を見るや慌てて駆け寄って来て事務員さんに事情を聞き始めたことで事態は急変。あっさりと使用許可が下りたのだった。しかも事務処理を課長さん直々にやってくれたので申請と受理が課長→課長となり一瞬で通ってしまった。それ社内ルール的に大丈夫なやつ? 

 何はともあれ、レッスンルームを無期限で借りられた僕はこうして一人居残り練習をしているというわけだ。

 

「ここはもう少し早く足を出したいけれど……」

 

 そうすると島村のステップとズレてしまうんだよね。

 

「こっちの手の動きは大きな円を描く感じで伸びやかに」

 

 今度は本田の振り付けに置いて行かれてしまう。

 

「えーい! まどろっこしい!」

 

 たまに癇癪を起してしまい記憶の中の二人を無視して動いてしまうこともあった。

 

 

 ……上手くいかないなぁ。

 何十回と繰り返した復習という名のアップデート作業を終えても満足な成果をあげられた気がしなかった。

 どうしても合わせようとする時に発生するラグを消しきれない。一つ一つの動きのラグはコンマ一秒程度に抑えられるのに、それが積み重なると致命的なズレとなってしまう。

 今は定期的にスタートタイミングをずらすことでズレをリセットしているが、端から見ると無理やりズレを修正しているように見えて酷く不格好に見えるらしい。これは緒方が録画してくれた動画を皆で見返した時に出た感想である。

 やっぱり皆もプロのアイドルということだけあって良く見えていると感心したものだ。僕が気付かなかった粗を指摘してくれるのは正直ありがたい。前川曰く「毎回同じ場所で大きくズレていれば誰でもわかる」とのこと。皆も同じ意見だったらしい。若干一名、三村だけがいくつか動画を見た後に何かに気付いたのか首をひねっていたが特に何か言って来なかったということは気のせいだったのだろう。

 

 一息ついた後にまた復習を開始する。今度はなぞるだけではなく一つ一つの初動のラグを無くすことを意識する。その分身体への負担は増すが泣き言を言う余裕なんて今の僕には無い。

 

「もっと」

 

 同じプロジェクトメンバーとやるレッスンは楽しい。僕がずっと求めていたアイドルらしい活動ができていることが嬉しい。

 でもそれと成果を出せないこととは別問題だ。楽しいことを優先して、結果を出せないなんていけない。僕が足を引っ張るのは嫌だ。これ以上遅れることが許せない。

 早く、速く、疾く、脳の処理と身体の反応を加速させる。

 

「もっと」

 

 踏み出した足が床に触れる────、

 

 

 と同時に────その感触を脳が受け取る、

 

 

       ────────前に腕の動きを始める、

 

 

 と同時に重心の移動を開始する。

 

 

 

 ……だけでは追いつけない速度の壁が立ち塞がる。

 

 すでに僕は人が出せる反射神経の限界値に達してしまっている。

 全てを最速かつ最大効率で動かしても届かない。

 歌の才能に匹敵する、ダンスの才能の極点に辿り着くには足りない。

 

「もっとっ」

 

 それでも足りないというのならば。

 

「もっと……!」

 

 超えるしかないではないか……。

 

「もっと、頑張らないと──!」

 

 そのためならば、人くらい幾らでも止めて──。

 

「もうほとんどの方が帰宅している時間ですよ」

「っ……!?」

 

 突然掛けられた聞き覚えのある声に動きと思考を止める。

 

「……プロデューサー」

 

 声の主はプロデューサーだった。

 確か城ヶ崎と用事があったはずだけど……。

 

「城ヶ崎さんとの用事はもう終わりました。今何時だと思っているのですか?」

 

 言われて壁掛けの時計を見れば夜の九時を過ぎていた。

 どうやら僕は四時間近く踊り続けていたらしい。

 

「夢中だったので、全然気が付きませんでした」

「あまり自分を追い詰め過ぎても結果は付いて来ません」

「はい……」

 

 最近は注意されていなかったから気が緩んでいたらしい。久しぶりに練習時間についてプロデューサーからお叱りを受けてしまった。前は毎日のように言われていたので進歩してはいるんだけどね? 

 

「ですが、私にはまだ努力が足りません。遅れた分を取り返すためにも、置いて行かれないためにも、まだまだ頑張らないといけないんです。……そうしないと追いつけないから」

 

 いつもなら素直に頷いて終わるのだが、今日に限っては素直に聞き入れるわけにもいかない。

 もう誰かに置いて行かれるのは嫌なんだ。今度こそ置いて行かれないように、僕は自分の全てを掛けるつもりでいる。

 

「追いつけない……、というのは本田さん達にということではありませんね?」

「……」

 

 調子に乗って少し失言をしてしまった。

 僕の過去をプロデューサーはほとんど知らない。話の流れで引き籠っていた時期があるのは教えているのだが、765プロのことや春香との関係については一切伝えていない。これは彼が知る必要がないことだから。

 そんなプロデューサー相手に口が滑って僕の根源に関わる話をしてしまった。いや、まだ本質的なことは口にしていないからセーフかな? 

 

「貴女は時折誰かを追い求めているようなことを口にする……それがずっと気になっていました」

 

 そんなに僕の口はガバガバですか。そうですか……。

 って、もしかしてプロデューサーってば僕に男の影があると心配している? 

 

「えっと、それは特に誰というわけではなくてですね? 何と言いますか、現実にいる誰というわけではないんです」

 

 色々な意味で慌てて取り繕うとしても語彙力が追いつかずに意味のない言い訳ばかり口から出て来る。

 こんな言葉でプロデューサーが納得するわけがないよなぁ……。

 ますます疑われてしまっただろうか。そう僕が内心やってしまったと落ち込んでいると、プロデューサーから意外な言葉が返って来た。

 

「私としては誰か特定の人間が対象であった方が良かった」

「え? なんで?」

 

 想像していなかった返しに思わず素で聞き返してしまった。

 特定の対象の方が良かった? 

 何で? 

 

「それが現実に存在する相手ならば実際に追いつくことは不可能ではありません。貴女の実力があれば誰が相手であろうと必ず追いつけると私は思っています。しかし、それが貴女の中にしか居ないのであれば、その理想は高いまま、ずっと追いつくことができなくなります」

「プロデューサーは私の中に居る存在が、私にとってアキレスと亀になると言いたいのですか?」

 

 ちなみにアキレスと亀というのはゼノンのパラドックスの一つで、どんなに遅い存在相手であっても先に行かれてしまってはどれだけ速く追いかけても永遠に追いつけないという理論をアキレスと亀に例えて説明したものだ。常識的に考えれば足の速いアキレスは足の遅い亀に追いつけるはずなのに、アキレスが進んだ分だけ亀も進むから永遠に追いつけないという……まあ、何かすごい矛盾話のことである。

 で、ここで言うアキレスはもちろん僕のことを意味する。そして亀とは僕が理想とする存在のことだ。

 プロデューサーからすれば僕は亀を追いかけるアキレスに見えるのだろう。そりゃ心配になるか。踵撃ち抜かれたら大変だし。

 

「はい。私はその可能性があると思っています」

 

 なるほど。プロデューサーの懸念はよくわかる。確かに僕の中で最高の存在と言えば千早だ。現にいくつかの”如月千早”は今の僕をもってして化物じみた才能の持ち主に感じる。それら全てを目標にした場合、僕一人の才能では全てに追いつくことなど不可能だ。彼の言葉を借りればそういうことになる。

 普通はそうなのだろう。一般人はプロデューサーが言うような理想の存在と自分との差に挫折してしまうのだろう。

 しかし、僕は違う。だって僕の才能はいつか必ず全”如月千早”を網羅するから。

 だから、それは理想ではない。

 僕にとって”如月千早”は目標であって理想ではない。

 僕の理想の先に”如月千早”は居ない。

 

「プロデューサー……少しだけ、私の理想を見ていただけませんか?」

「理想を……ですか? どうやって……いえ、それは構いませんが……」

 

 自分の話をぶった切って突然こんなことを言い出す僕に戸惑いの視線を向けるプロデューサー。ここで断ることをしないのが彼の人柄の良さが表している。

 

「実は私、立ってみたいステージがあるんです」

「それは……」

 

 僕がステージと言ったことで何かを察したのか、プロデューサーの顔が曇る。

 いや、違うんですよ。たぶん貴方が考えているような話にはならないから。

 

「仮に。ここがそのライブ会場だったとして……」

 

 レッスンルームの中を見回し、ここに架空のライブ会場を想像する。

 

「ここが上手で、ここから……ここまでがステージです」

 

 次に部屋の端から端、それよりも短い距離を歩きステージだの大きさをプロデューサーへと伝える

 

「……思っていたよりも手狭なステージなのですね」

 

 それまで黙って見ていてくれたプロデューサーが初めて口を開いた。

 彼の疑問はわかる。アイドルを目指すならば誰しもステージでのライブを夢想する。そして理想はドームやアリーナライブだ。

 しかし、僕が彼へと示したステージの大きさは五メートルも無い小さいスペースだ。ステージに喩えるならかなり小さいことになる。箱の大きさで言えば二、三十人が入れば満杯になる程度だ。

 

「はい。ステージは小さくてもいいんです」

 

 仮にこれがCDの販促のための路上ライブだろうが場末のスナックのお立ち台の上だろうが全然構わないのだ。

 

「誰かが私の歌を聴いてくれる場所があるのなら……そこがどこであっても、私は楽しく歌えるから」

 

 子供の頃は漠然とステージと連呼していただけだったけど、十代も中盤に差し掛かった頃には理想のステージは大きなステージになっていた。それが自分に相応しい場所だと勝手に思い込んでいた。

 夢破れ、地へと落ち、自分が青い鳥ではないと知ったことで、僕の中の理想は消えた。

 そして、あの日の夜……春香の前で歌った時から、僕の中の理想のステージはこれになった。

 

「私の歌を聴いてくれるファンが居る。たった一人だけだったとしても、その人のために歌える自分でいる……それが私の理想です」

 

 僕が恐れるのは、その機会が奪われることだ。アイドルとして二年も遅れた分、僕は原作の千早に比べて歌う機会が減っていることになる。

 だからこれ以上足踏みをしてその時間を奪われるわけにはいかないんだ。

 

「如月さん、貴女はあの日の──」

「今日は私のライブに来てくれてありがとう!」

 

 突然のライブ開演時の前口上に、何かを言いかけたプロデューサーは口を閉ざし目をぱちくりと瞬かせた。

 そんな彼の様子に構うことはせず、僕はライブを続ける。

 普段は出さないような明るい声で精一杯の前口上を演じる。昔だったらもっとエグいキャラができたんだけどさっ。

 

「私のライブに来てくれたみんなのために、今日は新曲をお披露目しますね!」

 

 ここまで来ればプロデューサーも事態を把握してくれたらしく、黙ってこのライブの観客になり切ってくれている。

 彼からすればまだメジャーデビューもしていないアイドルがごっこ遊びをしているように見えるだろう。しかし、僕からすればここは紛れもない本物のステージなのだ。

 

「聴いて下さい。今私が出せる最高の歌を」

 

 たった一人の貴方(ファン)のために僕は歌う。

 

 

 

「眠り姫」

 

 

 

 曲も無いアカペラ状態で歌い始めた。

 この曲は、もしも僕が765プロに居たならばすでに持ち歌として歌っていたはずの曲だ。

 765プロの皆の助けで取り戻した歌声で、今度は自分が皆を助けるのだと奮起した千早だが、この世界の僕はこれを歌うことはない。

 だから、プロデューサーのために歌うことにした。どうせ世に出る歌ではないのだから、ここで歌っても構わないだろう。

 最近誰かに合わせようとして窮屈なことばかりしていたから、自由に動けると思うと楽しくて仕方がない。誰かに合わせる必要がない。それがこんなにも楽なことだなんて……。

 頭の中の”如月千早”が「アカペラとはやるな」という感じでウンウン頷いている──気がする。まるでアカペラバージョンを知らないような言い方をして……あっ(察し)。

 気を取り直して僕は「眠り姫」を歌い続けた。

 身体全体で歌う感覚。自分が歌を奏でる一つの器官になったような感覚。歌だけに特化した何かになった全能感。

 前回よりもスムーズに、違和感なく、”如月千早”のアシストを受けた僕が歌を紡ぐ。

 観客はプロデューサーだけ。でも、ファンが一人でも居れば僕は百パーセントの実力で歌うことができる。一人でもファンが居れば、それだけでアイドルはライブで輝けるのだから。

 ここ最近の猛特訓のおかげか、それとも拘束が解けたためか、身体のキレがすこぶる良い気がする。

 身体の軽さに同調するように歌のレベルが上がっている。これは超絶至近距離で指導してくれる”如月千早”が居たからだろう。

 この歌なら任せろ! と言わんばかりにテンションを上げる先輩に心の中で苦笑する。まあ、それも伝わってしまうのだが。

 ああ、それにしても……。なんて……。

 

 ──楽しいのだろうか! 

 

 歌うことが楽しい。

 ファンの前で歌うことが楽しい。

 自分の歌が誰かに聴いて貰えることが楽しい。

 楽しくて、嬉しくて、幸せ過ぎるこの時間をずっと生きていたい。

 それが絶対に叶わないことなのだとわかっているけれど……。

 いつか終わってしまう日が来るけれど……。

 この時だけは、この幸せが永遠だと思って、僕は心のままに歌い続けた。

 

 

 楽しい時間はすぐに終わってしまった。

 歌った後の熱を冷ますように、長く長く息を吐き出す……。

 

「私の理想って、こんなものなんですよ……」

 

 小さい箱で小さいライブをする。それだけで僕は満足してしまうような小さい人間なのだ。そんな人間になってしまったのだ。それが悪いことだとは思わないが。

 

「それでも、私にとってはこれですら遠い場所でした。……一度は諦めたアイドルになってライブステージに立つ夢を、貴方は私にもう一度見せてくれると言ってくれました」

 

 あの公園でプロデューサーが言ってくれた言葉……一度は否定してしまったけれど、あの時の自分は確かに喜んでいたのだとわかる。

 捨てた。捨てたと思っていた夢を拾ってくれたプロデューサーには知っておいて欲しかったから。

 

「やはり……貴女を見つけられて良かった」

 

 それまでずっと口を閉ざしていたプロデューサーの第一声はそれだった。

 彼が僕を見るその目は、彼にしては珍しく優しいものだ。そのせいで、いつもは生真面目が服を着ているような彼が、今はただの大人の男性のように見える。

 

「申し訳ありません、如月さんにはどうしても負担を強いてしまっているようで……」

 

 そして本心から申し訳なさそうに謝罪をされてしまい僕は大いに慌てることになる。

 

「あの、謝罪は要りませんよ? と言うか、何も負担を感じていませんが……?」

 

 むしろ僕がプロデューサーの負担になってやしないかと不安になる今日この頃である。

 そこんところ大丈夫だろうか。最近は色々と自重しているからそんなでもなと思うんだけどなぁ? 

 

「……本当に、申し訳ありません」

 

 また謝られてしまった。何の謝罪なのかよくわからないけれど、ニュアンスからして先程とは違う意味のようだ。

 本当に何の謝罪なのだろうか。

 

「……はぁ」

 

 どちらにせよ、求めていない謝罪を受けても意味が無いし居心地が悪い。

 

「プロデューサー、私は貴方を信じています。私のプロデューサーである貴方が、きちんと私を導いてくれると信頼しています」

「如月さん……」

 

 顔を上げたプロデューサーだったが、腰は曲げたままのため丁度目線の高さが僕と同じくらいになる。

 いつも少しだけ遠い彼の瞳を間近で覗き込み言葉を続ける。

 

「今回の件にしてもそうです。どんな形であれ、アイドルとしてステージに立つ機会をくれた貴方だから、私は貴方を信じます。だからもっと自分のしていることに自信を持って下さい。これはアイドルのプロデューサーにしっかりして欲しいと言っているわけではありません。私の担当なのだから胸を張って下さいという意味です」

 

 プロデューサーが僕に謝る必要はない。それがプロデューサーがやることならば、僕は全幅の信頼を寄せて従う覚悟があるのだから。

 

「私は貴方を信じています」

 

 これが僕の嘘偽らざる気持ちだ。

 

「新人の私が生意気を言い過ぎましたね……」

「いいえ。決して、そのようなことはありません。……貴女の言葉は私に勇気を与えてくれています」

 

 僕を信頼するのがプロデューサーの義務だと言うのならば、その信頼に応えるのが僕の権利だ。

 

「絶対に後悔はさせません」

 

 貴方が僕をアイドル(人間)にしてくれたことを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ところで……ドームやアリーナでのライブに興味はありませんか?」

「? え、まあ、無いことはないですが……」

「でしたら」

「まあ、私には縁遠い物ですから。私は小さな場所でも歌えればそれで満足ですので」

「……」




豆知識。アキレスと千早が足の速さを競ったら千早が勝つ。



アイマス世界では基本的にアイドルのプロデューサーへの好感度って高いですよね。


面接時に覚醒済みのため、すでに歌フリーク千早レベルの歌唱力が出せる本作千早。
この時点でそこらの中堅アイドルプロダクションの上位アイドル程度では千早と勝負になりません。もしそのレベルのアイドルが歌番組のオーディションで千早と競うことになった場合、歌を聞いただけで実力差に心折れてそのまま帰ります。
春香ですら「今の千早ちゃんと競えるのはうちでは凛くらいかな…」と自身が歌で千早と競うことを諦めています。それでも総合的なアイドルの格はまだ春香の方が上ですが。



そんな超絶歌声持ちがミニライブで満足しようとしていることに気付いたプロデューサーがめっちゃ焦っていますが、それはまあいつか解決するでしょう。


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アルティメットな初ライブその9

千早「僕は人間を(定期的かつ段階的に)やめるぞ! 春香ーッ!」


 久しぶりのライブは楽しかった。

 思いっきり歌うと心が軽やかになる。生きている実感が湧く。

 今日プロデューサー相手に見せたライブはなかなかの出来栄えだったと思う。プロデューサーも満足してくれたみたいだし。

 確かな充足感を覚えた僕は足取り軽くアパートの階段を上る。

 

「ふんふん~」

 

 ライブの後、さすがにこれ以上は居残りは不可とプロデューサーに言われてしまい渋々帰らされた。

 帰りはプロデューサーが車で近くまで送ってくれることになり家の前まで送って貰うことになった。最初は僕一人で帰れると言ったのだけど、この時間に女の子一人で帰らせるわけにはいかないと無理矢理送られたのだ。

 そう言えば、車に乗るのって子供の頃以来じゃないかな? 

 車嫌いなんだよね……。

 

 カツカツと鳴る階段のリズムに合わせて鼻歌を歌う。

 未だに眠り姫の余韻は残っている。消えたと思っていた心の中の情熱は微かに燻火となって残っていた。それが今日新たな風を受けて再燃したのだ。

 この熱さはきっといつまでも忘れない。

 

 上がったテンションのまま部屋へと入る。

 

「あ、お帰り!」

 

 当たり前のようにエプロン姿の春香が出迎えてくれた。

 合鍵を渡した日から春香はたまにこうして部屋の雑事をしてくれるようになった。僕なんかとは別次元で忙しいはずの彼女にそこまでさせるのは悪いと思い、休憩所扱いで構わないと伝えたのだけど、使わせて貰っているならこれくらいやりたいと逆に説得されてしまった。きっと綺麗好きの春香には僕の部屋の汚さは許容できなかったのかもしれない。今度からもっと頻繁に掃除しておこうかな。中身が男のためどうしてもその辺がズボラになってしまう。春香が来てくれるのだからその辺も意識を改めるとしよう。

 

「ただいま」

 

 軽く挨拶をしながら靴を脱いでリビングへと向かう。

 今日は春香が来ているから自主訓練は無しかな。いや、春香が眠った後にロードワークに向かうのはアリかも? 

 

「今日も遅くまで掛かったんだね」

 

 夕食の準備をした後らしく、テーブルには料理が並べられていた。エプロンは洗い物をするために着けたままだったようだ。

 

「ええ、ライブまで時間もないからレッスンに力が入ってしまったわ」

 

 やけに手の込んだ料理を視界の端に捉えながら上着を脱ぐと、当たり前の様に春香が上着を受け取ってくれる。そのまま流れるようにクローゼットにしまうまでの動きが自然過ぎた。

 慣れすぎてやいないかね。させてしまっている僕が言うのもアレだけどさ。

 日に日にお嫁さん力が増している気がする……。いったい誰向けなんだ? 

 

「そうなんだ……新人アイドルにそんなに負担のかかるレッスンをやるなんて、思っていたよりもスパルタな事務所なんだね」

「ま、まあ、あくまでバックダンサーとはいえライブ自体は大きなところだし。それに……本番まで時間もないから」

 

 本当はもっと早く帰れるのに不可抗力とはいえ春香を待たせてしまうことが申し訳なく感じる。

 自分のエゴと実力不足ゆえに親友に迷惑をかけている。それを嘘を吐いてまでやっているとあれば自責の念を抱かざるを得ない。

 

「だったら、千早ちゃんには精が付くものを食べてもらわなくちゃ! 今日は自信作だから食べてね」

 

 今日は本田達とお昼を食べたので夕食を食べたら日に二食食べることになる。普通はそれでいいんだろうけど、僕にとっては食べ過ぎだ。でも、せっかく春香が僕のために作ってくれたご飯を食べないわけにはいかない。

 く、さすが春香だ。笑顔で飯食おうぜと誘ってくる姿勢は体育会系(?)のそれである。

 

「私、春香の、ご飯、好き」

「本当? よかった。たくさん作ったから遠慮しないで食べてね?」

 

 確かに、テーブルの上に並べられている料理は品数も量も多い気がする。大皿にドンと青椒肉絲があるかと思いきや、たくさんの小皿に色とりどりの旬の品を使った物がテーブル狭しと並べられている。

 

「お、オッス」

 

 どうやら僕の試練はこれから始まるようだ。

 

 

 もう入らないよー。

 春香が作ってくれた夕食をお腹の限界以上に食べた僕はベッドを背もたれにして床に座り込んでいた。

 ご飯を食べられることは幸せなことだ。しかし、幸せも過ぎれば苦痛となることがある。それを身をもって体験している僕であった。

 夕食を食べたら春香が用意してくれていたお風呂に入る予定だったが、このお腹具合だとお風呂の水圧でリバースしかねないので春香に先に入るようにお願いした。

 春香には一緒に入ろうと誘われたけれど断った。お風呂中にリバースしたらトラウマを与えかねないからね。

 それに、春香と一緒に入ると、つい春香を見てしまいそうになるから……。いや、たまに見ちゃってることあるけど……極たまにね。

 でも、視線を向けた時に限って春香がこちらを見ていて目が合ってしまうのだ。僕が裸を見ていたと知ったら春香も良い気分はしないと思って可能な限り視線は送らないようにしていた。

 本当下心は無いんだって。誰に言い訳しているんだ僕は。

 

「今のうちに自主訓練でも……うるさくなりそうだからダメか」

 

 お風呂に入っている春香が何事かと思って出て来たら悪いか。湯冷めなんてさせて風邪でも引いたら大変だ。

 大人しく何もしない時間を過ごそう。

 何もしない時間というのは暇である。普段は何かしらの訓練に時間を当てているから、今みたいに何もしない時間があると手持ち無沙汰になる。

 そういう時は春香が話を振ってくれるのだけど、その春香もお風呂に入っているから本当に今の時間は暇だった。

 

「そのうちFAQ2に復帰しようかな……」

 

 それもいいかもしれない。今みたいに何もしない時間ができた時用に携帯ゲーム機でも買っておこうかな。確かFAQ2対応の奴が出ているはずだし。

 PCでやるのは億劫でも、それなら気が向いた時にパッとできるからいいかもしれないな。

 あー、買うと言えば、スマホも買わないと。プロデューサーと連絡をとるのにもメールだと不便なことがあるから。優とお揃いのを買いたい。

 

「お風呂上がったよー」

 

 しばらく頭の中で買いたい物リストを作成していると春香がお風呂を終えて戻って来た。

 湯上がりの春香は直視し辛い。微かに水気を含んだ髪が赤く上気した肌に貼り付いているのもそうだし、少し弾んだ息遣いも妙な色気を感じさせる。

 親友相手にこういう感想を持ってしまうのはいけないことだとわかってはいても、男の本能が淡く蘇ったかのようにじわじわと心身を蝕む。

 

「それじゃ私もお風呂に入るわね」

 

 あまり春香を見ないようにしてお風呂場へと向かう。

 

「行ってらっしゃい」

 

 すれ違う瞬間に言われた言葉は何ということはない普通の言葉なのだけど、近付いたことで春香からかおるお風呂上り特有の匂いと合わさり、僕をいたたまれない気持ちにさせるのだった。

 

 お風呂場に入ると途端に鼻腔に広がる女の子の匂いに顔を顰めそうになる。

 つい先程まで春香が使用していたのだから匂いがするのは当然だった。決して不快ということはなく、むしろ良い匂いに感じるのだけど……先程すれ違う時に感じた物と同じだと思うと、先程までここを春香が使っていたのだと嫌でも実感してしまい色々と申し訳ない気持ちになるのでぶっちゃけ困っている。

 そもそも一緒にお風呂に入ったことがあるのに今更意識するも何もないだろうに。

 身体を一通り洗い湯舟へと浸かる。

 

「はぁ~……」

 

 特に疲れているわけでもないのに声が出てしまうのは僕が日本人だからだろうか。

 しかし、疲れを感じないからといって肉体にダメージが残っていないというわけではない。意識しない程度の筋肉の損傷は意外とパフォーマンスを下げる原因になり得る。そのため湯舟の中でしっかり揉み解しておく。こういう地味な努力の積み重ねが大事なのだ。

 やることをやったら後は逆上せない程度に湯舟で温まるだけ。あまり早風呂だと春香にちゃんとお風呂に入っていない汚い奴だと思われるかもしれないからね。

 

「……」

 

 それにしても、そこそこちゃんと入った後だというのに、浴室の春香の匂いが薄まる気配がない。自分のにおいというのはわかりにくいというのもあるのだろうけど、それにしては強すぎない? 

 まあ、臭いわけじゃないからいいんだけど。と言うか、僕が春香の匂いに敏感なだけかもしれない。僕が先に入れば万事解決なのだが、お客様でありお風呂の用意までしてくれている春香より先に入るわけにもいかない。だから可能な限り呼吸をしないように意識するしかなかった。

 

「上がったわ」

 

 まだ乾き切っていない髪をタオルで拭きつつリビングへと戻る。長い髪の毛はこういう時に不便に思う。いっそ短く切ってしまおうかと思ったこともあるのだが、その時の周りの反発が予想以上だったのでしばらく長さを変えるつもりはない。まさか春香のみならずプロデューサーや優まで止めてくるとは思ってなかったよ……。

 たまに短くして飽きたら戻せばいい話だしね。そこまで深刻な話でもない。

 

「おかえりー」

「お風呂上がりにも『おかえり』と声をかけるのね」

「えへへ、だって最近言えてなかったから、機会さえあれば言っておきたくて」

「不思議な考えね。ポイント制なのかしら」

「んー、なんとなく、おかえりと言われるのが当たり前だと思ってくれないかなーって」

「なるほど」

 

 普段おかえりと言われ慣れていない僕が寂しい思いをしてやいないかと心配してくれたのか。やはり春香は気遣いのできる優しい子だ。

 

 

 食事も終わり、お風呂も入り終えると寝るまでの時間を僕達は各々好きに過ごす。

 一緒の空間に居るからと言って四六時中話し続けるわけではない。時折思い出したかのように雑談を挟み、また各々の時間を過ごす。それがここ最近の僕達のあり方だった。この楽しいでも寂しいでもない、何とも不思議な空気感を僕は気に入っていた。

 そんな苦にならない沈黙が流れる部屋で、僕は今日やったレッスンをノートに書き込んでいた。

 僕が注意された箇所を細かく書き出す。その時の状況がどんな感じだったのか読めばわかるようにできるだけ事細かに描写する。後で見返す用と言うよりは、客観的に場面を思い浮かべるためだ。それに対する実際に行った対策と今になって改めて考えるアプローチ方法をそれぞれ書き加えておく。

 それを四時間分記すとなるととんでもなく長丁場になると思うかもしれない。でも通しての描写じゃなくて注意された箇所だけだから実際はそこまで書くことはないのだ。回数自体は多いので大変なことに変わりはないが。

 

「よし……完成」

 

 二時間ほどかけてノートを書き終え、その出来栄えを確認する。うん、今日の分も結構良くできていると自賛しよう。

 これならいつでも簡単に見返せる。このライブが終わった後にも使えるだろうクオリティになった。

 

「随分熱心に書いていたみたいだけど、それって今日のレッスンの復習を書いていたの?」

 

 書き終えたタイミングで春香が何を書いているのか尋ねて来た。ずっと気になっていたのに気を遣って終わるまで待っていてくれたようだ。

 

「ええ、そうよ。鉄は熱いうちに打てとも言うし、今日やったことは今日書いておきたかったの」

「そうなんだぁ。……あ、守秘義務とかに問題が無いなら書いたノート読んでみてもいいかな?」

「え? それは別に内容としてはレッスンの話だけだから問題は無いけれど……」

「千早ちゃんが普段どんなレッスンをしているか気になっちゃって……ね?」

 

 時計を見たらもう夜の十一時を回っている。春香が明日遅出とはいえ夜更かしは美容の大敵なのだからあまり付き合わせるのも悪い。そう思ってやんわり断ろうとしたのだけど、食い下がって来られたのでそこまで言うのなら……とノートを差し出す。

 

「わー、千早ちゃん字上手! あとこっちだと男の子みたいな言葉なんだね」

「それは、まあ……色々と」

 

 しまった。普段話す時やメールなんかでは女の子のふりをして書いているのがバレてしまった。

 いや、この場合ノートの方がイレギュラー扱いになるのかな? 

 

「どんなレッスンをしているのかな……」

 

 一瞬焦ったけど春香はそれ程気にした様子もなくノートを読み進めて行った。

 ここ数日分のレッスンが書かれているので全部読むとなると時間がかかる。

 

「……」

 

 春香は最初微笑ましい物を見るような目をしてノートを読んでいた。まるで子供の絵日記を読む母親のような慈愛に満ちた顔だ。

 謎の羞恥プレイにも感じる。

 だが、そんな春香の表情は数ページほど読んだところで徐々に変わって行った。

 たぶん僕の成長の無さに呆れてしまっているのだろう。

 

「春香、そこから先は代わり映えしないから読んでもあまり意味は」

「ちょっと待ってて」

 

 初日以降は内容に進歩が見えないため僕以外が読んでも意味はない。だから意味が無いと春香に伝えようとしたのだが、ぴしゃりと待てをされてしまい口を噤む。

 それからしばらく春香がペラペラとページをめくる音だけが室内に流れた。

 なんだこの空気……。

 

 今日の分まで読み終えた春香がノートを閉じるのを見て僕は息を吐き出した。張り詰めていた空気ごと体から追い出す。

 

「どうだったかしら。自分としてはきちんと書けていると思うのだけれど……春香的には何か付け加えた方が良い部分とか」

「千早ちゃん」

「……ひゃい」

 

 声が裏返ってしまった。それくらい春香から感じる圧が強かったからだ。

 春香の顔を見る。

 口元は笑っているのに、目が……笑っていない! 

 本来笑みとは攻撃的な感情の表れとはよく言ったものだ。確かにその通り。逆に笑顔の乏しい僕は昔ほど攻撃的な性格ではなくなったということか。

 いや、僕の話はどうでもいいか。

 こうして話を脱線させねばならない程に今の春香からは脅威を感じる。僕は何か春香をこうさせてしまうようなことをしたのだろうか……。

 やはりノートの中身が悪かったのかな。あまりに僕がダメダメだから春香が呆れてしまっても不思議ではない。せっかく一緒にアイドルをやろうと言ってくれたのに、僕がこんな体たらくなど申し訳ない。

 

「ごめんなさい、春香を不快にさせるつもりはなかったの……」

 

 親友にこんな顔をさせてしまった自分が嫌になる。

 

「えっ、違うよ! 千早ちゃんが謝ることじゃないって!」

 

 しかし、僕が謝ると春香から一瞬で圧が消え、慌てて否定して来るのだった。

 

「え? そう、なの……? 私はてっきり、あまりの私の駄目さ加減に呆れられたのかと」

「そんなことで怒ったりしないよ……」

 

 やっぱり怒っていたのか!? 

 あ、でも僕に対して怒っていたわけじゃないということになるのか。じゃあ、誰に……? 

 

「春香は……それを読んで、何にそんなに怒ったの?」

 

 気になったなら訊かずにはいられない。もしこれでやっぱり僕のせいだったなんてことになっても、知らずに怒らせたままでいるよりは真正面から詰ってくれた方が楽だから。

 

 ──チハヤなら解ってくれるかなって期待してたのにな。

 

 ……。

 ……。

 言ってくれないとわからないこともある。

 言ってくれさえすれば直すから。

 察してくれというのが困るのだ。

 

 僕のお願いを聞いて、春香は自分が怒った理由を教えてくれた。

 

「私が怒ったのは、この千早ちゃん達を指導した人が無理を言っていたからだよ」

「無理? 別に城ヶ崎さんは単純に私が他の二人とズレていたから指摘して来ただけで、それは無理でも何でもないことだわ」

「へぇ……、指導した人っていうのは、城ヶ崎さんだったんだ……」

「アッ」

 

 僕が城ヶ崎の名を出すと、再び春香の表情がスッと冷めるのがわかった。

 自分用とはいえ、一応個人情報なので個人名をノートに書いていなかったのに、こうして口に出してしまってはその意味がない。

 凄いよ春香。笑っているのに笑顔じゃないなんて。矛盾が顔面一杯に貼りついている。最強の矛と最強の盾? 知るか、両方でぶん殴れば勝つだろ的な理不尽の権化が生まれてしまった。

 もしかしなくても、僕は城ヶ崎に対してとんでもないキラーパスを出してしまったのではないだろうか? 

 ……怖いから深く考えるのは止めよう。

 

「そ、それでも、私が実際にズレていたのは確かなのだし、指導としては正しいと思うってわけよ」

 

 あまりの怖さに自分でも何を言っているのかよくわからない。キャラもブレてしまっている。

 

「これが千早ちゃんに対してじゃなければ順当な指導だったのかも知れないよ? ……まあ、相手が城ヶ崎さんってところで多少引っかかるけど」

「私じゃなければ?」

「うん。普通の子相手ならズレているって指摘は正しいかもしれない。少なくとも、正式なデビューもしていない新人の初ライブ、その最初のレッスンでズレていることを指摘しないことはあり得ないから」

「?」

 

 何か持って回ったような言い方だ。春香が何を言おうとしているのか僕にはわからない。

 

「でも、それは千早ちゃんには当てはまらない。だって、千早ちゃんは間違えないから」

 

 だから、春香が続けて放った言葉を僕はすぐには理解できなかった。

 僕が間違えないからズレることがおかしい? いや、ズレていると指摘することがおかしい? 

 

「それのどこがおかしいの? 現に私は二人とズレていたわ」

「二人とズレていた、それは正しい認識なのは変わらないよ。でも、ズレていることが悪いことだと思うのは間違っているんだよ」

「えーっと……?」

「……つまりね、千早ちゃんが間違えないということは、その動きが常に正しいってことだよ。だから、千早ちゃんが皆とズレているという指摘は正しくない」

「……」

 

 そこまで言われたらさすがに春香が言いたいことを理解する。

 つまり、春香が言いたいのは……。

 

「ズレているのは……間違っていたのは、その二人の方だったってこと。だから、千早ちゃんがズレているという指摘は間違っている」

 

 きっぱりと言い切る春香。

 確かに、僕は間違えない。何十回何百回何千回やろうとも同じ動きができる。だって僕には”如月千早”があるから。

 だから僕の動きが正しく、本田と島村の動きが間違っていた。

 それがズレの正体! 

 

 ……とはならないんだよなぁ、これが。

 

「あの春香……その、とてもドヤ顔で言わせてしまった後にこう言うのもアレなのだけど……」

 

 おかしいなぁ、僕ノートにもきちんと書いていたはずなんだけど。

 でも僕が間違えないということを前提に推理したわけだし、ミスリードに引っかかったと思えば。

 

「私は正しい動きをしていないわよ?」

「はえ?」

 

 最高のキメ顔で証明終了を確信していた春香だったが、その証明を真っ向から僕本人に否定されたことで変な声を出していた。

 

「ど、どういうこと? だって、千早ちゃんって生き方とか人との接し方とか以外は間違えないよね?」

「今さりげなく春香の私に対する人物評が聞こえた気がしたけど、とりあえず無視して……。あのね、私が正しい動きをしていたのではないわ。私は他の子に合わせようとして、それができなくてズレていると指摘されていたの」

「ん? え? えー……」

 

 僕の言葉を聞いた春香があんぐりと口を開け固まってしまった。

 その表情を見れば言いたいことはわかる。「なんでそんな無駄なことを?」と言いたいのだろう。

 

「……えっと、千早ちゃんの言ったことが本当なら、失敗の原因は他の子に合わせようようとしたことになるんだよね。気にせず正しい動きをしていれば良かったのに……」

「だって、プロデューサーが二人に合わせろって」

「そのプロデューサーさんの指示もどうかと思うけど……。そっか、千早ちゃんの場合は完璧だから合わせようとすると逆にズレちゃうのかぁ。うわぁ、そんなことあるんだ」

 

 カルチャーショックを受けたのか、春香が珍しくドン引きした顔で僕を見て来る。その顔は止めて欲しい、学生時代のアレコレを思い出すから。

 

「ようやく本当の意味で理解したよ。で、今回問題の解決方法はいくつかあるけど……」

「あるの!? すごい、さすが春香!」

 

 思わず「好き! 抱いて!」と優相手にするような冗談を言いそうになった。言わないけど。

 

「合わせるのを諦める」

「試合放棄ですやん」

 

 つまり、二人を気にせず正しい動きをすればいいってことだ。それは根本的な解決にはならない。

 僕は二人と合わせて踊りたいのだ。

 

「だよね。うーんと……じゃあ、その一緒に踊る子に千早ちゃんが普段やっている練習をやってもらって完璧にしてもらうとか?」

「死ぬんじゃない?」

 

 死ぬな。いや、死ぬね! 

 

「そんなあっさりと死ぬって言うような練習をしているの……!?」

「あ……。いえ、慣れてないと死ぬほど疲れるというだけよ?」

 

 春香が僕の自主訓練の内容に不安を抱いたので慌てて否定しておく。いや、心配しないで欲しい。僕は死なないからさ。

 普通の人がやると死ぬけど。

 

「そうなると、あとは千早ちゃんが頑張って合わせられるようにするしかないけど……」

 

 三つ目の方法は春香ですら自分で言いながらあまりおすすめしない方法だった。

 そしてそれ以外の案はもう無いらしい。

 結局そうするしかないのだ。合わせられないなら、合わせられるまで頑張るしかない。

 努力するしかないのならば、努力するしかないのだ。

 実にシンプル。僕はシンプルなのが大好きだ。

 

「ありがとう、春香……私は頑張ることにするわ」

「結局そこに落ち着いちゃうんだ。私としては気にせず正しい動きをするのをお勧めしたかったかな」

「それでも私は頑張りたいわ。プロデューサーに言われたからというのもあるけれど、ようやく立てるステージの上なのだから、最後まで頑張りたいのよ」

「……そっか」

 

 僕が頑張ることを渋る春香だったが、僕が頑張る意思が固いとわかると納得してくれた。本心は納得なんてしてないのかもしれないけれど、それでも僕を尊重してくれたことが凄く嬉しかった。

 

「それなら私も協力するね。そっちのダンスは知らないけれど、合わせる練習には付き合えると思うから」

「春香……ありがとう!」

「さっそくやってみようか? 千早ちゃん用の練習方法を考えてみたの」

「このわずかな時間に練習方法を?」

 

 さすが春香である。僕が考えつかないことをあっさりと思いつく。やはり春香も天才の部類だったのだ。

 

「私が動くから、それに追いつけるように頑張って!」

 

 ……思ったよりも脳筋な方法だった! 

 確かに正解に釣られないように合わせようとするなら、アドリブの対応力を鍛えるのが正解だ。

 でも力技すぎやしないかね。やはり春香は体育会系だと思うんだ。

 

「というか、今からやるの? いくら春香が明日オフだと言っても、もう夜中よ?」

「大丈夫だよ。ライブの本番前とか、このくらいまで起きてリハするなんてよくあることだから」

「そうなの? 凄く楽しそうね!」

「……それを嬉々として言えるのは凄いし、実際に楽しくやれちゃうのが千早ちゃんなんだろうなぁ……」

 

 だって、深夜までリハーサルするとか凄くアイドルっぽいじゃん。いつか僕もライブのために夜更かしとかするのかな? 

 楽しみだ。

 

「春香が付き合ってくれるのなら、私に否はないわ。春香が付き合うと言ってくれなければ一人でやっていたでしょうし」

 

 たとえば道行く人の動きを即興で真似するとか。これなら二十四時間練習が可能だ。

 

「うん、だから言ったんだよ」

「ん?」

「さ、はじめよっか。動きは事務所のトレーニングでやる練習メニューから出すからね」

 

 そう言って立ち上がった春香に促され僕も立ち上がった。

 

「それじゃ、いち、にー、さん、しー」

 

 春香が簡単なダンスを踊り出す。見たことが無い振り付けなのでライブ用ではないのだろう。765プロが過去ライブでやったダンスは全て頭に入っているので練習用というのは本当らしい。

 

「えっと、いち、にー、さん……しー?」

 

 春香の動きに合わせ、初見の動きを再現しようとするも当然上手くいかない。再現に慣れた僕には初見の動きに対応することができないからだ。

 

「ちょっと遅れちゃったね。たぶん、右足を出すタイミングが少し遅かったんだと思う。いち、にー、の時点で足を動かし始めるとタイミングが合うよ?」

「なるほど……」

「もう一度やろうか。いち、にー、さん、しー」

「いち、にー、さん、しー……できたわ」

「わー、凄い凄い! さすが千早ちゃん!」

 

 言われたとおりにやると、今度は問題なくできた。我がことのように喜んでくれる春香だが。しかし、これは……。

 

「次は別の動きね。いくよー……いち、にー、さん、しー」

「いち、にー……にー?」

「腰の動きが左右逆になっちゃったね。右手を上げるときは左に、左を上げる時は右に回すんだよ」

「なるほど」

「じゃあ、もう一度。いくよー……いち、にー、さん、しー」

「いち、にー、さん、しー……できたわね」

「うん、できてる!」

 

 今度も二回目には春香に合わせることができた。ほんの微かなズレを生じながらも、レッスンの時のような致命的なズレは生じていない。

 確かできている。

 できているのだけれど……。

 

「それじゃ、次ねー」

 

 そうやって三つ目、四つ目、五つ目と、春香が踊り、それを僕がその場で真似するという練習を行った。

 

「次は」

「あの、春香。とても言いにくいことなのだけど」

 

 六つ目の振り付けを開始しようとしたところで春香を止める。

 これはたぶん根本的に駄目な奴だ。

 

「どうしたの?」

「あのね、今の練習なのだけど、実はまったく成功していないわ」

「え? でも、二回目にはできて……」

「それは一度見たからだわ。二回目は動きを覚えているから合わせられただけ。それも春香が完璧に近い動きだからこそズレが目立たなかったのよ。だから一回目で合わせられていない時点で私は全敗中なのよ」

「今、さらりと凄いことを言ったよね……?」

 

 僕の言葉に春香の頬が引き攣ったのが見えた。

 いや、そんな反応されても。見ればわかるじゃないか。

 

「さすがに全敗は凄い酷いわよね……」

「いや、そうじゃなくてっ! 二回目からはすでに覚えちゃってるっていうのだよ。千早ちゃんは当たり前の様に言ってるけど、それってアイドルとして反則的な能力だよ?」

「そんな。反則と言われる程ではないわ。春香だってできるでしょ?」

「できないよ〜……それは特別なことだよ」

「そうなの……? アイドルなら誰もが持っている能力だと思っていたのだけど」

「……お願いだからアイドルのハードルを上げるのはやめてあげて? 普通のアイドルはそんなことできないから」

「えー……?」

 

 普通のアイドルはできないの!? 

 衝撃の事実だった。

 あまりの驚きに目を剥いてしまう。それくら春香の発言は信じられない内容だった。

 いや、まさか。それじゃあ、みんなどうやって振り付けを覚えているんだ? 

 

「あの、春香? ちょっと質問なのだけど、他のアイドル達はどうやって振り付けを覚えているのかしら? 観て覚えられないのでしょう?」

「その質問が出ちゃうのが千早ちゃんなんだろうね。……普通の人は練習しながら少しずつ覚えるんだよ。一回ごとに少しずつ、全部覚えるまで」

「……待って、春香。貴女が言う通り、一般的なアイドル達が振付けを覚えるのにとてつもない労力を割いているとして」

「さりげなく大多数のアイドルを敵に回すようなことを言わないで」

「そうすると、振り付けを覚え切るまでレッスンができないじゃない?」

「レッスンの中で段々と覚えるんだよ?」

「なんで? 振付けすら覚えてないのにレッスンをする意味ってあるの?」

「……千早ちゃん、絶対にその質問は他のアイドルの子にしちゃ駄目だからね?」

 

 何故か諭されてしまった。ただ疑問に思ったことを訊いただけなのに……解せぬ。

 

「春香もできない、のよね?」

「うん。私にはできないかな。たぶん、現役のトップアイドルの中でも、それができるのは美希とかの極々一部の天才と呼ばれる人達くらいだよ。その人達だって、千早ちゃんほどの完璧さは持ってない」

 

 春香が引き合いに出した美希とは765プロ所属のアイドル星井美希のことだ。

 星井はこの世界でも天才的な才能の持ち主で、そのルックスもさる事ながら、立居振る舞いが洗練されている。どう自分を見せればいいか、その最適解を理解しているのだ。しかもそれが考えてというよりは直感でやっているような節が見られる。

 まさにアイドルの天才。魅せることにかけては僕なんか足元にも及ばないくらい前に居る。

 そんな彼女が持つ一度見た振り付けを再現する能力は春香に言わせれば特別なものであるらしい。

 

 いや、そんな、待って欲しい。だって春香が言ったことが嘘じゃなければ……。

 

「本田さん達はレッスン中に振付けを覚えようとしていた……?」

 

 そういうことになるじゃないか。

 

「そういうことになるね」

「……」

 

 ……えっ! 

 えっえっえっ!? 

 嘘!? 

 本当にレッスン中に振付けを覚えようとしていたのかよ! 

 

「何のためにレッスンを受けていたのかしら……」

「覚えるためじゃないかなぁ。そのためのレッスンだろうし。あと、それは絶対に本人達に言っちゃダメだよ?」

「私はてっきり……レッスンでは合わせる練習をするのだと思っていたわ」

 

 本田達と動きがズレるのは僕が正しく、彼女達が間違っているからというのは春香の話を聞いて理解した。しかし、それは間違っているだけで、そもそも振付けを覚えていないというのは想像していなかった。

 だって、ゲームだといつもそうしてるじゃん。最初から振付けできてたじゃん。何でできないの? 

 

「となると、私がやろうとしていたのって」

「振付けを全部覚えきれていない人の動きに完璧に合わせようとして結果ズレちゃったとしか思えないね」

「ああああああ~……」

 

 あまりに残酷な真実を知ってしまった僕は床へと崩れ落ちた。

 何それ。絶対に合わせられるわけないじゃん。

 言ってしまえば、それって毎回オリジナルダンスを踊っているようなものでしょ。そんなものに初見で合わせるとか無理なんだけど。

 僕のこれはあくまで一度見たものを再現するものだから、リアルタイムで再現はできない。僕の感覚では能力ですらない普通の行為だったから逆に他人にはできないという発想がなかった。

 そうか、この間プロデューサーが言っていたのはこれのことだったのか……。それはあんな微妙な顔をされるわけだ。

 全部僕のせいじゃん。あとプロデューサーはやっぱり言葉が足りないと思う。

 

「成長する過程なんてわからないわ……」

「完璧なことが、ここまで足枷になる人がいるなんて」

 

 頭上から聞こえる春香の声には多分に憐憫が含まれているものだった。普通なら羨ましがられるものらしいのにね。憐れまれちゃったね。

 こうなると今のままでは僕にはどうすることもできない。ライブ本番までに本田達がダンスを完璧にしてくれでもしない限り、僕が彼女達に合わせることは不可能に近いとわかってしまったから。

 

「千早ちゃんがユニットに拘る理由は何となくわかるけど、そこまで追い込むことはないと思うよ? 最近の千早ちゃんを見ているといつか壊れちゃいそうで心配だよ」

 

 春香も同じ結論に至ったのだろう。これ以上は無駄な努力だと言外に伝えて来る。僕なんかの心配をしてくれる春香には申し訳ないけど、僕は立ち止まれない。

 だって、ずっと待っていたチャンスだから。求めていた未来が目の前にあるのに、中途半端なままで終わらせたくない。

 あの頃の僕は努力が足りなかった。身体は今よりも頑丈ではなかったけれど、精神的にも体力的にも余裕を残していた。それなのに、当時の僕は身体が壊れた程度で休もうなどと平気で考えるような甘ったれだった。

 もっと僕が頑張っていたら、そう思わなかったことはなかった。

 もっと頑張れていたら……。

 

「千早ちゃん……」

 

 僕の名を呼ぶ春香の声は僕を憐れむものだったけれど、同時に後悔に苛まれた声色をしている。

 春香が僕を憐れむ必要なんて無いのに。後悔なんてして欲しくないのに。

 でも、僕は、彼女が本質的に僕の何を憐れみ、何に後悔しているのかがわからなかった。

 他人の痛みがわからない、こんな奴が努力をした程度で”みんな”の中に入れただろうか? 

 入れるのだろうか? 

 努力すれば到達するのだろうか? 

 努力すれば報われるのだろうか? 

 努力すれば……。

 努力して、頑張って、足掻いて、縋っても手に入らなかった場所があった。

 

「それでも、私は……”みんな”とステージに立ちたいから。努力不足で駄目になるのは、もう嫌だから」

 

 ”如月千早”(先輩)、こういう時どうすればいいんですかね……?

 自然と脳内の彼女に縋ってしまう。そんなことをすれば自分にどんな影響があるかなんてわかっているのに、それでも縋るしかない。

 努力して、頑張って、足掻いて、縋って……這いずってでも守りたい場所ができたから。

 だから、諦めてなんてやるものか。

 もう何も諦めないと誓ったのだ。もういい、と……捨てるのも捨てられるのもたくさんだ! 

 そんな僕の願いに応えたわけではないのだろうけれど、脳内の”如月千早”(先輩)が他人事のように、それでいて実感を込めながら答えてくれた。

 

 ――私達に人と合わせるとか、できるわけないじゃない!!

 

 ……まったくもって、おっしゃる通りだわ。

 否定しようもない正論に頭をガツンと殴られたような錯覚を覚える。だが、それは僕が目を覚ますには十分な衝撃だった。やはり眠った人間を起こすのはとりあえず殴るのが正解なのだ。

 

 そもそも、人と合わせようと思うなんて──僕程度が誰かに合わせられるだなんて、それこそが間違いであったのだ。

 見てから動き始めるのでは追いつけない。極小のズレが生じる限り、僕の動きは本田と島村の動きに追いつくことはない。頭の中の亀はいつだって僕よりも前を歩いているのだから。亀が自分よりも前に居る前提を覆す必要がある。どれだけ速く追いかけようとも、相手が先に動いたのなら、どうしても相手にアドバンテージがある。

 速さの壁が存在するのならば、その壁を超えるしかない。

 

 ”如月千早”を発動させる。

 

 聴覚を最大まで上げる──室内の音響の響きを耳で聴き取る。

 触覚を最大まで上げる──室内の空気の流れを肌で感じ取る。

 味覚を最大まで上げる──室内の成分を舌を使って取り込む。

 

 この部屋の全てをデータとして数値化する。

 目の前の春香ですら数値化の対象にして、全ての情報を脳内に取り込む。

 春香の鼓動が聞こえる。彼女の血管に流れる血の音をはっきりと耳が捉える。筋肉の動き、関節と骨の軋みすら聴き取る。

 春香が動く度に発生する筋電位……筋肉を動かす際に発する数十マイクロボルト程度の極小の電圧を僕の肌は感じ取り、それを表面筋電図として脳内でパターン化する。

 天海春香というパーソナルデータを数値化する。

 

「千早ちゃん……?」

 

 突然黙り込んだ僕に春香が心配そうに声を掛けて来るが、それに応えることはせず、僕はゆっくりと立ち上がった。

 

「どうしたの? やっぱり疲れて……」

「もう一度だけ、付き合ってくれないかしら。それで駄目だったら……そこまででいいから」

「え……う、うん。それは良いけれど……大丈夫?」

 

 こちらを気遣う春香の鼓動が早まっているのがわかる。肌を流れる汗は運動をしたからだけではないようだ。呼吸が荒いのは緊張のためだろうか。

 僕を見る彼女の目、その黒目部分が眩しい物を見たかのように広がっている。揺れる髪の本数すら瞬時に数えられる程の空間把握能力により、僕は春香の全てを知覚する。

 

「それじゃ、行くね?」

 

 最後の一回となる春香のダンスが始まった。

 ──と、同時に、僕は彼女が動こうとする意思と、そこから実際に動き出す際に発生する情報から次の行動を予測する。

 小数点が幾つも並ぶほどの極わずかな近未来を、脳内で鮮明に思い描く。

 それは”今”から算出された未来の映像だ。

 だから──、

 

「──視えた」

 

 春香が右手を上げると同時に、僕の右手も同じ動き、同じ速さで上がった。

 

「え……?」

 

 自分の動きにぴったりと付いてきたからだろう。春香が驚きと戸惑いの混ざった声を上げる。

 次に春香は左手を上げた。──それを知っていた僕は遅れることなく同じ動きで合わせた。

 右手を左右に振る──当然のように僕はそれに合わせてみせる。

 

 だって、知っているから。

 

「千早ちゃん……これって……」

 

 顔を強張らせ、戸惑いながらも春香はダンスを止めずに踊り続けてくれる。

 ありがたいことだ。僕がお願いしたことを嫌な顔もせず付き合ってくれる春香には感謝するしかない。

 春香の左右へのステップ──これも知っているので遅れずに付いていける。

 前への踏み込みからのターン──後ろ向きになった瞬間ですらズレることなく動きを合わせられる。

 今までの苦戦が嘘だったかのように、いともたやすく春香の動きに僕は付いて行った。

 

 ……。

 一通り踊り終えた後、僕はすぐに春香の手を取った。

 

「ありがとう、春香……。おかげで、また私は強くなれた」

 

 心からの感謝を春香へと贈り、掴んだ手にもう片方の手を重ねた。どうかこの気持ちが春香にズレなく伝わるように願いながら。

 きっと春香相手でなければこの能力は手に入らなかったから。

 春香の匂いも、音も、感触も、なぜか味も? 彼女と過ごした時間の中でデータを蓄積できていたからこそ習得できたのだ。これが他の相手だったらこうはいかなかった。唯一、優相手ならワンチャンあったかも知れないけど、味のデータが無いんだよね。

 まあ、人に合わせる能力が手に入ったのだから良しとしよう。

 

「千早ちゃんは、それでいいの……?」

 

 喜ぶ僕に対して、何故か春香は泣きそうな顔をしていた。そんな顔をさせたくて強くなったわけじゃないのに……。

 

「私にはこういうやり方しかできないみたい……不器用だから、不器用なりに頑張らないとね」

 

 普通の人なら誰かに合わせるのにこんな苦労はしない。誰しもが当たり前のようにできることが、僕には途方もなく難しく感じるのだから。

 だから、これでいい。望んだ未来とは違うけれど、望まない未来に行くことはなくなったのだから。

 普通で届かないならば、普通でなくなっていい。

 王道なんて要らない。

 裏道だって構わない。

 ”それ”が手に入るなら、僕は何度だって捨ててやろう。

 

「私じゃ今の千早ちゃんに何も言ってあげられないね。正解を教えてあげられたら良いのに……そんなことすら私じゃできない。それがとてももどかしい」

 

 泣きそうな顔で薄く笑いそう言う彼女に、僕は何も答えを返せない。

 きっと僕は間違っている。この答えは間違っている。

 それでも。

 

「一緒に居てくれるだけで十分よ。それだけで私はどこまでも強くなれるから」

 

 大切な親友を泣かせてしまった、その罪を背負うことになろうとも、僕はこれで良いと言うのだった。




今回の一番の被害者は一文字も登場してないのに業界最強格に目をつけられた城ヶ崎姉。
もしくは千早とプロデューサーがこっそり会っていたと耳にしたちひろの胃。


予知能力でも無ければ越えられない速さの壁を文字通り予知能力を獲得することで超えた千早であった。

「人と合わせる」ことを諦めることで「人に合わせる」能力を得た千早。再現、怪力、超スピードを持っている中、とうとう予知能力まで手に入れてしまいました。また一歩人外に……。
ちなみに、この能力は超能力ではなく”超”能力なので普段使いが可能です。よく知った相手ならば動きを見て覚える必要すらなく、同時進行で動きの再現が可能になりました。
化物に予知能力を与えた──”予知能力を取得する大義名分”を与えた武Pの業は深い。「人に合わせろ」と千早に言ったことが彼の最大の”やらかし”でした。
シンデレラを灰被りから少女へと戻すのが魔法使いの役目ならば、魔法をかけるのもまた魔法使いの仕事です。
千早を人間にできる武Pは同時に千早を化物に変えることもできます。たった一言、ある言葉を伝えるだけで自重も何もない化物が生まれます。

千早の弱点。それは初見で動きが完璧になってしまうので「完璧になるまで成長する過程」が自分の中にないこと。一度でも見た動きは再現可能ですが、他人と練習する時は毎回他人の動きが「初見」の動きになってしまうため再現ができません。そもそもこの場合は再現するという考えが間違いですが、千早は再現に意識が行きそのことに気付けていませんでした。
千早の正しい運用方法は、手本となる動きを見せたら洗練するまで放置する、です。
見ればトレースできるので動きを覚える過程は不要。あとは自分の身体に合った動きに筋繊維単位で修正するだけです。ソロでやる限り最初の一回以外指導者は不要となります。仮に最初から千早にとっての最終系の動きを見せられれば、その後の練習すら不要になるわけですね。
千早の再現能力は人のそれではなくゲーム基準なので、何万回繰り返してもズレることはありません。そういう次元に居る千早に「人に合わせて動け」というのは「相手の動きを未来予知しろ」と言っているのと同じことになります。この指示は周りのアイドルを守るという面では武Pのファインプレーでしたが、千早の精神や人間らしさを守るという意味では最悪の手になりました。

春香は千早の弱点にいち早く気付きました。それを指摘できたことは春香の功績です。しかし、それの解決方法を天才ではない春香では教えることができませんでした。結果千早が「何かしら」をして乗り越えたことで、千早が本来望んでいた「誰かと一緒にライブをやる」こととズレたことに気付き、答えを教えてあげられなかった自分の無力さと親友が普通を諦めたその心情を思い心を痛めた感じです。
現状千早が本質的に脆いことを知っているのは優と春香だけで、本田達をはじめ武Pも千早は精神的には結構タフだと勘違いしています。タフに見えるのは壊れることに慣れているだけです。丈夫であっても頑丈ではない。ひきこもり時代の千早を知っているかどうかの違いですね。

千早と本田達の関係は、皆が千早を気遣い、千早が皆に気を遣っている感じです。
悪口を言われるとまでは思っていませんが、自分が居ない時に自分への愚痴くらい溢し合うとは思っています。これでも他人からの好意を信じていない千早にしては、かなり好意的な見方をしています。本田達の善性は信じても、それを自分に向けるかどうかは別という感じです。

化物に人の気持ちなんてわかるわきゃねぇんですよ。


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アルティメットな初ライブその10

千早「演算による疑似的な未来予知能力……僕はこれを【零落全知(ルーサー)】と名付ける!!」


 翌日のレッスン開始前のこと、いつものメンバーでお昼ご飯を食べることになった。

 いつの間にかそういう流れになっていた。決まった後にそうなったと伝えられるのは学生時代からよく経験していたのだが、僕が参加するパターンは初めてだった。いつも僕が参加しない方向で決まっていたからね。

 おかげでここ数日はお昼を欠かさず食べるようになった。優や春香がそれを聞いて安心した顔をしていたので、まあ、良かったのだろう。

 

 昨日取得した能力の影響で五感がやけに鋭くなっている。おかげで食べ物の味が良くわかるようになった。今食べている野菜炒めが普段食べている物と別物でないならば、いつもより美味しく感じるのが証拠だろう。

 野菜を噛み砕く時に広がる旨味をいつも以上に細かく味わう。シャキシャキとしたレタスの甘みと硬いピーマンの苦みが口の中に広がる。それを美味しいと感じる。おかげで食事は栄養補給以外にも意味があるのだと思い出せた。食べ物には不味いと美味い以外の味の指標があるのだ。

 そして、誰かと食べるご飯は美味しい。

 

「本当に如月さんって野菜炒めが好きだよね」

 

 対面に座る本田が、野菜炒めを夢中で食べている僕を眺めながら言う。言葉に揶揄する気配を感じないので、思ったことを口にしただけみたいだ。

 

「ええ、野菜の味をとても良く感じられるし、歯応えも良いから好きなのよ」

 

 昨日までの僕だったら食べやすいから食べていると答えていた。それが食事に対する冒涜だと気づかずに平気な顔で言ってのけていたはずだ。もしこの場でそんなことを言っていれば、一緒に食事会に参加している皆の顔を曇らせることになっていただろう。

 

「そうなんだ~。好きな物を食べるのが一番だよね!」

 

 嬉しそうな声を上げる隣の三村の顔を横目で見れば、声と同じくらいテンションが高い笑顔を浮かべている。僕が具体的に何かを美味しいと言ったことが嬉しかったのかもしれない。彼女の食事に対する熱意と真摯さは人並み以上にある。ここ数日の付き合いでそれを把握した。

 

「他の物も食べたほうがいいと思うんですが、あまり食べられる方じゃないので。他の物を頼んだ結果、口に合わなかったらと思うと……」

「じゃあ、私が食べてるオムライスをひと口食べてみる? それで美味しかったら今度は頼んでみればいいじゃん」

 

 本田が言うなり、それまで自分が食べていたオムライスからスプーンでひと口分掬い、僕の顔先へと差し出して来た。

 ……陽キャ怖っ!? 

 当たり前の様にひと口シェアを申し出て来る本田に僕は戦慄するのだった。しかも、アーンのオプション付きですよ。やっぱり本物は違うわ。

 

「えっと……」

「あれ? オムライス苦手だった?」

「いえ、別にそういうわけではないけれど……えーっと?」

「どうかした?」

「……いえ、はい、いただきます」

 

 観念してオムライスを食べる。オムライス自体は美味しかった。美味しかったのだけど……。

 当然ながらこのスプーンは今の今まで本田が使用していた物だったわけで、そうなるとどうなるかと言うとだ。

 ……期せずして本田のパーソナルデータが揃ってしまった。

 

「ありがとう、オムライス美味しかったわ」

「本当? 良かった! ここのオムライス美味しいんだよね~。如月さんと好みが合って安心した~。今度は私のおすすめのお店紹介するから」

「ありがとう」

 

 無邪気に食べ物の好みが合ったことを喜ぶ本田に無難に返しながら、先ほどから気になる存在の方へと目を向ける。

 

「ハイ、如月さん! あーん!」

 

 次は我ぞという感じで順番待ちをしていた三村に春巻きを差し出された。

 ここで油物、だと? 

 そして当たり前の様に構えていた理由を知りたい。あと僕へのシェアは順番制ではない。

 

「……」

「……あ、あーん」

 

 無言の笑顔の圧に負けて食べた。この子、食べ物に関することになると豹変しない? 

 

「たくさん食べてね?」

「もごもご」

 

 ひと口にしてはやけにでかい。一本丸ごと口の中にぶち込まれてしまった。春巻き定食の春巻きを一本寄越すって結構な大盤振る舞いじゃないかなと思っていると、三村のトレイに春巻きが山盛りになっているお皿が載っているのが目に入った。

 あ、単品でたくさん買ったのね。じゃあ僕に一本あげても問題ないね。

 

「んぐ……春巻きも美味しかったわ」

 

 元から野菜炒めを食べていたのだ。そこにオムライスと春巻き一本を食べたことでお腹がイイ感じに膨らんで来た。この後レッスンがあるのにまずいなぁ。レッスン開始まで時間があるしそれまでには少し消化しているだろうけど……。

 そんな甘い考えでいた僕は正しく現状を理解していなかったと言える。

 

「どうぞ、如月さん。ハムサラダです!」

「みくのハンバーグをひと口あげる。あーん、してにゃ?」

「ど、どうぞ……パスタだけど」

 

 島村、前川、緒方の三人から同時に食べ物が差し出されている。

 

「……」

 

 へっへっへ、もう慣れてしまったよ。この理不尽なまでの仕打ちにはな。

 ……ヤダー! 

 

 ちなみに、僕がお返しに野菜炒めをひと口ずつ返そうかと申し出たところ、全員から「ちゃんと食べなさい」とお叱りを受けたのだった。解せぬ。

 

 

 

 結局お昼の時間だけで全員分のデータ取得が完了してしまった。

 今後あのメンバーとじゃんけんをしたら僕は全勝できるだろう。

 

 それはともかく、午後からレッスンが始まるのだが、その前に朗報が一つ入った。

 トレーナーが今日からレッスンに合流することになったのだ。これでこれまで停滞していたレッスンも進められる。ライブまで日数に余裕はないものの、僕達の参加が中止になることは無くなったと思っていいだろう。

 どうやら、プロデューサーが上手く動いてくれていたらしい。結構無茶をしたと千川さんがこっそりと教えてくれた。

 一体何をしたのか。トレーナーが参加してくれたのは嬉しいけれど、それでプロデューサーの立場が悪くなるのは本意ではない。いざとなったら専務さんにでも直談判しに行く所存である。僕なんかが何を言ったところで焼け石に水だろうけど。

 

「本田と島村は知っているだろうが、改めて、トレーナーの青木聖だ。昨日までは城ヶ崎がお前たちを指導していたが、今日からは私が指導することになる」

 

 トレーナーは青木聖さんというらしい。硬い口調と吊り目が特徴的な大人の女性だ。苗字が青木ということは、この間のルーキートレーナーの身内なのかも。

 本田達が言っていたベテラントレーナーとはこの人のことみたい。千川さんからも、厳しいけれど指導内容は本物と聞いているので安心している。

 

「まずはこれまでの成果を見させて貰う。進捗によっては個人レッスンからやり直すから、そのつもりで居るように。……城ヶ崎は慣れた曲だろうから自由にやれ。三人の方を私は見ておく」

「はい」

 

 まずはこれまでの進捗確認からすることになった。とりあえず合同でやるというのは城ヶ崎と同じ方針だけど、パフォーマンスに参加する城ヶ崎と違いトレーナーは見ることに専念できるから色々教えて貰えそうだ。

 この数日で何度も立ったポジションに着く。日によって僕達バックダンサー組のポジションは変わるのだが、今のところ一番多いのはセンターが本田で左右が島村と僕という形だった。途中の振付けで位置が変わるので、あくまでスタート位置だけという話だが。性格的にも見栄えとしてもこれが一番しっくり来る。後は最後の振付けを誰を中心とするか調整中といったところか。あくまで城ヶ崎がメインのステージなので、僕達のポジションなぞあまり考えても仕方がない。とは言っても、バックダンサーといえどセンターはセンターだ。多少そちらを意識してしまうのは仕方がない。

 

「それじゃ、始めるよー!」

 

 城ヶ崎の合図とともに僕は演算を開始する。

 疑似的な未来予知とも呼べるこの能力は、昨日の春香とのレッスン時に手に入れたものだ。

 つい先ほどコンプリートした本田と島村のパーソナルデータを参照し、二人が動き出そうと思った時に発する生体情報を強化した知覚能力で取得。そこから自らの脳を演算装置として代用し、さらに演算に特化した”如月千早”を並列接続する。自分の脳と”如月千早”の演算により導き出された二人の行動を未来予知として扱う。これによりタイムラグ無しで二人の動きをトレースできるようになった。後は動きをトレースしつつ、最適な動きをするだけ。実に簡単な作業である。

 これだけの事ができる僕はやはりチートなのだろう。しかし、ここまでしなければ人に合わせられない僕は結局才能が無いのだ。

 それでも、これがあれば”みんな”と同じステージに立てるというのならばそれで構わない。すでに王道は捨てた僕には関係が無い話だった。

 

「ワン、ツー、スリー、フォー、ファイブ、シックス、セブン!」

 

 今日はトレーナーがいるので城ヶ崎もこちらを見ようとせず、踊りに専念している。

 城ヶ崎の掛け声に合わせて僕達バックダンサー組もステップを刻む。腕の振りと脚の運び、腰の捻り方まで二人の動きが手に取るようにわかる。しかも動き出す前にだ。

 正解の動きだと本田の動きに置いて行かれる。そんな時は正解の動きを意識しつつ、本田に合わせて少し早めに動き出すことでズレを無くす。

 今度は遅れそうになっている島村をカバーするように、やや大きめの振り付けをすることで違和感が出ないように着地タイミングを合わせた。

 

「ふむ、それなりに出来ているようだな」

 

 ダンスを観察しているトレーナーの呟きと表情から、口出しする程の大ミスは犯していないみたいだ。

 こんな風にトレーナーの様子を窺えるくらい今の僕はダンス以外に気を配る余裕があった。

 

 そのまま特に問題無く僕達のダンスは終了した。

 

「如月さんいつの間にそんなに踊れるようになってたの!? 凄いじゃん!」

「本当です! 今日の如月さんの動き、とっても綺麗でした!」

 

 踊り終わると、すぐに本田と島村から僕の動きが見違えたことを褒められた。

 ズルをしているようで素直に喜べないけど、二人が自分のことのように喜んでくれた事は嬉しかった。

 

「あ、ありがとう。二人の方も、かなり完成に近づいているみたいだったわ……」

「本当っ? 実は如月さんに倣って自主練してたんだよねー! 場所が無いから近所の河原まで行ってさ」

「私も誰も居ない空き地を見つけて、そこで踊ってました!」

「二人とも、とても頑張っていたのね。凄いわ」

 

 二人ともこの短期間で急成長をしていた。過去のレッスン風景を脳内で再生すると日ごとに動きが洗練されていっているのがよくわかった。

 どうやら僕は自分のことばかりに必死で、ユニットメンバーである二人の成長に目が行っていなかったらしい。

 もしかしたら、このまま自然とズレは無くなっていたのかもしれない……。ま、今更か。その選択肢を捨てた僕には惜しむ権利はない。

 

「終わった瞬間に雑談を始めるな。評価を伝えるから集まれ」

「申し訳ありません」

 

 トレーナーに叱られてしまった。

 即座に謝罪をしてトレーナーの感想を聞くために集合する。

 

「はぁ。良くできていたと褒めようと思ったらこれだ……まあ、その様子ではようやく上手くいったというところか」

 

 呆れた様子のトレーナーに指摘された通り、今回僕達は初めて通して踊り切ることができた。所々危ない箇所があったけれど、これまでの停滞と比べたら大成功と言っていい。

 

「気を取り直して、今回お前達の出来を見た評価を伝える。まず、本田」

「はい!」

「全体的にテンポが速い。振り付けを意識するあまり先走って動いているところがあるな。そのせいで一つ一つの動きが雑になっている」

「は、はいっ」

「動きに緩急を付けようとしているようだが、基本もできていないうちに応用をしようとするな。関節の動きも硬いせいで動き自体も硬くなっている。それから」

「はい……」

 

 トレーナーの口から本田への駄目だしが湯水のように飛び出して来る。今言った内容以外にトレーナーから見て本田には直すべき箇所があったようで、しばらく修正箇所が挙げられていくと、段々本田の顔から彩りが消えて行った。最後の方なんて目が完全に虚ろになってしまっている。大丈夫だろうか。

 

「とまあ、こんなところだな。……次は島村」

「は、はいいっ!」

 

 だいたい言い終えたという感じで本田へのアドバイスを終えたトレーナーは今度は島村へと顔を向ける。それだけで本田の惨状を間近で見ていたためか、島村がビクっと震え上がっていた。完全にビビってしまっているね。その隣では本田がいつかの前川のように死んでいた。

 

「お前の場合、本田とは逆にテンポが遅い。一つ一つの動きを考えてから動き始めようとしているせいか、すべての動きが若干遅れている」

「はい……」

「手足の動きを意識し過ぎて身体全体の動きが疎かになっている。さらに腕の振付けの時はステップが、ステップの時は腕の振りから意識が逸れていたぞ」

「ひええそんなにあるんですか~」

「まだあるぞ」

 

 実は本田に比べて島村の方が基本ができている。これは長い間養成所に通っていた島村の努力の結果だった。だからこそ、トレーナーとしては直して欲しい箇所が目に付いてしまうのだろう。

 こうして自分の頭の中にある動きが正解だと思って二人を見てみると、その動きが荒いということに気付かされた。

 今回はそんな二人の動きに対して、僕の動きと一緒に見ると実は合っているんじゃないかと錯覚するように動いてみたのだった。素人相手なら騙せる自信があったのだけど、さすがにプロのトレーナー相手には無理だったらしい。幻の六人目になるのは遠そうだ。

 

「こんなものか」

「島村卯月、頑張ります」

 

 頑張れ。超がんばれ。

 一通りトレーナーがアドバイスを言い終えると、島村はがくりと腰を折っていた。それでも本田よりはダメージが少ないのは挫折し慣れているからだろうか。確か島村は僕達補充組の中で唯一の再審査組だったはずだ。つまり一度はシンデレラプロジェクトに落ちていることになる。その他にもオーディションに落ちていると言っていたし、逆境には強いのだろう。逆に本田はついこの間までアイドルにまったく触れてこなかった人種だ。挫折し慣れていなくても仕方がないと思う。

 この程度で崩れているようでは、いつか大きい逆境を前に折れてしまわないか心配だ。

 

「最後に如月」

「はい」

 

 いよいよ僕の番になった。何と言われるのだろうかと少し緊張する。

 まあ、これまでの人生で色々言われて来た僕だ。ただでさえ皆の足を引っ張って来たのだから多少の酷評は甘んじて受け入れよう。

 

「如月は……そのままの調子で行け。今はまだ踊りにくいところがあると思うが、他二人が仕上がれば楽になるだろう」

「えっ?」

 

 ボロクソに言われると思っていたのに、意外にも高評価を受けてしまい動揺してしまった。

 

「あ、その……」

「どうした?」

「改善点とかは」

「無いな。お前はそのままでいい」

「ソデスカ」

 

 ならば改善点を聞こうと食い下がるも一言で切って捨てられてしまった。取り付く島もない感じ。いや、改善点が無いというのは良い事なのかもしれないけどさ、伸びしろがないと言われた気がして不安になる。

 

「もう一度最初からやるぞ。今度は都度私から指摘するから意識して踊るように……いつまで落ち込んでいる。本番まで時間がないぞ!」

「はい!」

「はい!」

「ハイ」

 

 何か思っていた展開と違う。トレーナーが来たらもっと駄目だしとかちゃんとして貰えるのかと思ってたのに、何も言われずに終わってしまった。他の二人はアドバイス的な物を言って貰えてたのに……。

 釈然としないものを感じながら位置に着く。

 

「……やるじゃん」

 

 城ヶ崎とすれ違う際に声を掛けられた。これまでの強い口調とは違い、少し跳ねた感じの……なんとなく面白がっているような声色に感じた。

 

 

 

 

 その後のレッスンでも僕はトレーナーから特に指摘を受けることはなかった。

 そしてそのままレッスンは何事も無く終わってしまった。

 レッスン終了後、クールタイム中の本田と島村がトレーナーにそれぞれ課題を告げられていた。二人ともトレーナーの話を真剣な顔で聞いており、やる気に満ちているといった様子だった。

 その時も僕は自分にも何かアドバイスは無いかとトレーナーに訊いたのだが、返って来たのは「お前には何も言うことはない」という突き放した言葉だった。そう言われても納得できなかった僕はなおも食い下がった。何か粗の一つくらいあるはずだと縋る気持ちで訊ねてみたのだけど、やはり返って来たのは「完璧に出来ている」という無意味な言葉だけだった。

 それならば自主練でもしておこうかと思ったらトレーナーから過度のトレーニングの禁止を言い渡されてしまった。せっかく押さえていたレッスンルームも没収である。代わりにそこを本田と島村の居残りレッスンに使用している。今頃二人はトレーナー付きっ切りで指導を受けているのだろう。

 居残りレッスンとか羨ましいわぁ。

 

「……」

 

 虚しい。

 沈む夕日を眺めながら、頭に浮かんだ言葉を口の中で遊ばせる。

 普段のルーチンワークを取り上げられ、何をしていいかわからなくなった僕は、シンデレラプロジェクトの担当ルームに一人で居た。今の時間無人となっている部屋で、備え付けのソファに座りながら無為な時間を過ごしているわけだ。レッスンルームに居場所がない僕にはここくらいしか来る場所が無かった。いつもなら居残りレッスンかロードワークに勤しんでいるはずなのに、今はそれすらできずに居る。

 考えるのは先ほどのレッスンのこと。

 何だか思っていたのと違った。もっとビシバシと指摘を受けて、ヒーヒー言いながら頑張るのだと思っていたのに、蓋を開けてみれば指摘もアドバイスも何も無い無味のレッスンだ。これでは城ヶ崎が指導していた時の方がまだ遣り甲斐を感じたと言える。少なくとも、城ヶ崎は僕から頑張ることを奪いはしなかった。

 

「レッスンを受ける意義がわからなくなった」

 

 とうとう口から出てしまった。言わないように気を付けていたのに、抑えが利かなかった。

 

 ──そんなものあるわけないじゃん。

 

 ふわりと風が髪を揺らした。

 

「え……?」

 

 室内の空気が動くのを感じる。

 風の行先を目で追って行くと、扉の前に杏ちゃんが立っていた。どうやら今まさに部屋に入って来たところのようだ。

 

「双葉さん?」

「レッスンなんて受ける意味ないと杏は思うよ。疲れるし」

 

 何故ここに? 

 そんな意味を込めて名前を呼ぶも、杏ちゃんは答えることはせず、レッスンを受ける意味なんてないと告げて来た。その断定口調は僕への意見というよりも自論を語ったように見える。

 杏ちゃんは僕の対面まで来ると、ソファに寝転がった。本人的にはどかりと乱暴にしたつもりかもしれないけれど、僕から見るところんという可愛い擬音が見えた気がする。雑な動きすら可愛いとか反則かよ。

 そのままゲームを始めた杏ちゃんだった。

 

「でも、レッスンを受けないと良いパフォーマンスが出せませんよ?」

 

 無視されるかなと思いつつダメ元で話し掛けてみる。相手にしてくれなかったら飽きるまで杏ちゃんを眺めよう。

 

「杏は省エネだから、少しのレッスンで問題ないんだよね。それなのにプロデューサーもトレーナーもレッスンしろってうるさくて。だから逃げて来たんだよね」

 

 意外にも杏ちゃんは対話に応じてくれた。ゲームの起動中だからかな? 

 この時間はこの部屋を使う人が少ないからここに逃げ込んできたという感じだろうか。確かに杏ちゃんが来るまで誰も来なかった。

 あと、自分を省エネと言う杏ちゃんは天才側の人間なんだね! 

 

「なるほど、双葉さんもそういうタイプですか」

 

 僕が感心したように言うと、ゲーム機越しに杏ちゃんはちらりとこちらへと視線を向けて来た。だがそれも一瞬で逸らされてしまった。

 もっと僕を見てくれてもいいんだぜ? 

 その分僕も杏ちゃんのこと見てるからさ。

 

「如月さんもレッスンあんまり要らないタイプなんだ」

 

 今日はやけに会話を続けてくれるなぁ。なんでだろう。これがFAQ2なら緊急クエスト待ちなんだろうけど。FAQ2は時間ごとに緊急クエストが発生するのだけど、ゲーム全体に緊急クエストのアナウンスが出てから実際にクエストが発生するまで十数分のラグがあるため、どうしても待ち時間ができてしまうのだ。その微妙な待ち時間にキョウとよく無駄話に花を咲かせていたのを思い出し胸が痛くなった。

 ……。

 

「ええ、この間までは本田さん達に合わせられなかったのですが、昨夜認識に変革がありまして、合わせられるようになりました」

「認識一つでそんな劇的に変わるの?」

「はい、私の場合はそうなりますね。私はてっきり自分が合わせられないのは自分の動きが悪いからだと思っていたんですよ。でも、それは間違いで、実際に私の動きは完璧で、間違っていたのは二人の方だった。そう指摘されたことで、間違った動きに合わせるのではなく、間違った動きに合う動きをすることができるようになったわけです」

「……自分を完璧と言っちゃうんだ?」

「はい。それは確かなことなので」

「あ、本気のやつだこれ」

 

 本気も何も僕が完璧なのは確定事項だ。僕は間違えない。春香もそう言っていたし、証拠として僕がダンスを踊るところを春香に録画して貰って確認したら寸分違わず同じ動きで踊れていたから確かである。この動画機能のためだけにスマホが欲しいと思ってしまった。

 

「ふーん、如月さんも省エネタイプなんだ」

「私は作りは省エネタイプですが、稼働時間が火力発電タイプなんですよ」

「火消さないやつじゃん。しかも発電側だし」

「一度燃え尽きると、しばらく稼働できないので燃やし続けます」

「燃費悪そうだね。省エネって話どこに行ったの?」

「食費は安いですよ」

「杏も飴くらいしか食べないよ」

 

 そう言って口の中の飴をコロリと鳴らす杏ちゃん。その可愛らしいお口からはほんのりとオレンジの香りがした。柑橘類特有の薄い酸味と無機質な甘味料の味しかしないであろうそれが、杏ちゃんが舐めていると思うととても美味しそうに思えてしまう。

 

「双葉さんが舐めている飴は美味しそうですね」

 

 杏ちゃんが舐めている飴は美味しそうだなぁ。

 

「色々と拘ってるからね。あげないけど」

「残念ですが、仕方ないですね」

 

 杏ちゃんが舐めている飴欲しかった。

 でも無理強いはできない。僕は特に気にしていない風を装いながら、ソファに倒れ込むと体をズルリと床へと滑り落とした。

 

「……残念ですが」

「めちゃくちゃ残念がってる!?」

 

 そんなことはない。子供からお菓子を奪おうだなんてそんな……。

 

「いえ、そこまででは」

「体全部使って残念がっておいて、それは説得力がないって。そんなに欲しかったの?」

「そんな。私はただ、双葉さんが舐めている飴の味に興味があっただけで、それを強請ろうなんて……そんな。飴舐めたい」

「強請ってるじゃん。直球で飴舐めたいって言ってるじゃん。せめて一ターンは我慢できなかったの?」

「ふん……、ふん……、飴舐めたい」

「二ターン我慢した!? ……ことにはならない!」

 

 一呼吸一ターンとすれば二呼吸は二ターンになる。常識だよね。

 

「……そんなに欲しいならあげるって。だから床から起きなよ」

「ありがとうございます」

 

 杏ちゃんは優しいなぁ。僕は大して欲しがっていないのに飴をくれるって言うんだもの。

 すぐに床から起き上がると飴を貰いに行く。いや、たかだか飴一つにテンションを上げたわけではない。ただ、せっかくくれるって言うから嬉しそうにしているだけだ。

 うっひょー! 

 

「はい、コレ」

 

 杏ちゃんがたくさん飴が入っている袋から小袋に包まれた状態の飴を一つ差し出して来た。

 袋には林檎の絵がプリントされている。

 

「……」

 

 僕はその飴と杏ちゃんの顔を交互に見るだけで受け取ることはしない。

 うん……。

 

「どうしたの?」

「いえ、双葉さんが舐めている飴が」

「あー、今舐めてるのは、これが最後の一個だから……」

「そうですか。いえ、ありがとうございます」

 

 差し出された飴を受け取る。

 ……まあ、そうだよね。最後の一個なら仕方ないよね。うん、仕方ない。

 

「……そんなに舐めたかったの?」

「え? ……まあ、どんな味なのか気になりましたので」

「ふーん。今度また同じの買ったらその時あげるよ」

「いいんですか?」

「別にいいけど。その代わり如月さんも今度飴ちょうだい」

「もちろん。喜んで」

 

 杏ちゃんと飴の交換とか、テンション上がるじゃん。今年一番のビッグイベントと言っても過言ではない。

 気合を入れて美味しい飴を探しておこう。

 

「省エネという話ですが」

「あ、その話まだ続くんだ」

「双葉さんは普段レッスンとかされないんですか?」

 

 貰った飴の袋を破り、口へと放り込むと途端に甘い林檎の味が広がった。鼻腔まで突き抜ける甘味の香りで嗅覚が満たされる。

 これはこれで……。

 

「杏はレッスンしなくても結果を出しているからねー。何回かやってだいたい覚えちゃえば後は適当でいいやって感じ」

「己の出来得る限り最大の結果を出すと」

「軍隊用語の方じゃないよ。テキトーテキトー」

「ああ、俗語の方」

「一般的な方、だよ。世の中の適当人間を完璧人間にしないで」

「双葉さんは適当なんですか? 完璧じゃないと不安になりません? むしろ完璧になってもまだ不安になると思いますけど」

「自分の不安を他人と共有したいなら他当たってよ」

「はい……」

 

 叱られてしまった。確かに価値観の共有を図ってしまっていた。人によってはこれを押し付けと捉えることもあるって教えられていたのにね。またやっちゃった。

 

「杏は完璧なんて求めてないしね。アイドルデビューして、CD出して、あとは印税生活ができたらそれでって感じ」

「なるほど、具体的な展望があるのですね」

 

 杏ちゃんが不安そうにしていない理由がわかった気がする。やはり目標が明確にある人間は強いと思った。

 

「……普通、こんなこと言ったら否定するものだと思うけど」

「否定することなんて何もないですよ。前にも言いましたが、お金のためというのも立派な理由です」

 

 僕に比べたら、大多数のアイドルの志望動機は健全だ。あくまで僕と比べたらなので、僕くらい不健全な輩も居るだろうけど。

 

「少なくとも、私は双葉さんのアイドルの姿勢を否定しません」

「ホント、調子狂うなぁ」

 

 不貞腐れた顔をしてゲーム機をいじる杏ちゃんだったが、機嫌を損ねたという感じはしなかった。良くも悪くも僕の言葉は無意識に相手の急所を突く。それで関係が悪化するなんていつものことだけど、もう慣れてしまったことだけれど、杏ちゃんとのこの関係は壊れて欲しくないと思った。

 

「如月さんは……」

「ん?」

「限界まで頑張っちゃうタイプ? 完璧とか言いながら不安になるとか、止め時がわからなくなっているのかなってさ。違ったら別にどうでもいいけど」

 

 心配……してくれているのかな? 

 全てに興味無さそうにしつつ、実際はこちらを気にしてくれているのがわかる。杏ちゃんの興味の有無は実はわかりやすい。

 今杏ちゃんはゲーム機をいじっていない。

 

「はい。止め時がわからない、と言っていいのかわかりませんが……目標となる場所が遠過ぎて、頑張らなくなった瞬間、また手が届かなくなるんじゃないかと不安になるんです」

「完璧なのに?」

 

 完璧を強調して訊いて来るなんて、そんなに僕が完璧だって信じられないみたいだ。

 まあ、完璧だからって十分なわけではないからね。

 

「完璧でも、それが魅力的かは別の話ですから」

「完璧ならそれでいいんじゃない? まあ、トレーナーが完璧だと言うならだけど」

「ええ、確かに言って貰えてますが、結局のところアドバイスは貰えてないので」

「……」

「なにか?」

「いや、ただ……本当にトレーナーから完璧って言われてたんだなって。やる気のない杏が言うのもアレだけど、あのトレーナーの人達って皆厳しいからさ。完璧なんて言われるのは素直に凄いことじゃない? アドバイスが貰えてないからって不満に思うことなくない?」

「だって、アドバイスがあればもっと成長できるじゃないですか。努力できる余地があれば、それだけ伸び代があるんですから。それが無いってことは停滞するってことです。私はそれが嫌なんです」

「ダメ出しされたいなんて変わってるね。杏なら何も言われないならラッキーって思うよ」

「何か言って貰えるならそっちの方がいいんです。何も言われずに、察しろと言われる方がキツいですから」

「……」

「わかってくれると思ってたと言われたら、もう何も言えませんから」

 

 それまで何度も指摘されて来た僕の悪癖。それに対するキョウの最後通牒。

 もういい、と。切られた関係が、切られた心は今も傷んでいる。

 

「……なんて、レッスンの話なのに脱線してしまいましたね。今のは気にしないで下さい」

 

 唐突に話を脱線させた僕に呆れてはいないだろうか? 

 杏ちゃんの機嫌を損ねてはいないかとつい顔色を窺ってしまう。

 

もしも

 

 それは本当に杏ちゃんが発した言葉なのか。そう疑いたくなるくらい酷く掠れた声だった。

 今まで聞いていた声は頑張って出していたのではないかと勘違いしてしまうような重く低い声。とても小さな子供が出しているとは思えない、まるで疲れ果てた旅人がいつまでも目的地に着かないことを嘆くかのような、ざらざらとした音だった。

 それが杏ちゃんの口から出た事が信じられない。

 

もしも……例えば、如月さんが、仮に、とても大切にしていた友達に同じことを言われたら…………どう思う?

「私が言われたら、ですか……」

うん。もういいって。突き放されたらどう思うかなって、思って

 

 それは何か恐ろしい物を見ようとしているような、自分にとって決定的な傷を負おうとしているような、ともすれば精神的自傷行為にも似た自暴自棄の質問だった。

 しかし、これは後になってから僕が思い至ったことだ。今この質問を杏ちゃんからされた僕は、質問の意図を正しく理解していなかった。ただ杏ちゃんの質問に正しく答えようと思っただけだった。

 何も考えずに。

 何も疑問に思わずに。

 

「私が大切な人に、もういいと言われたら……」

 

 目を閉じて、あの時の言葉を思い出す。パソコンのモニターに映された終わりの言葉。

 あの時感じた自分の絶望はどれほどだっただろうか。今でも思い出すだけで胸を掻きむしりたくなる程の後悔が胸を過る。自らのガラクタ具合に本当の意味で絶望した瞬間だった。延々と続く地獄の日々に唯一残された安住の地が目の前でスッと消えて無くなってしまったのだ。唐突に奈落の底へと叩き落されたかのような……いや、自分が地獄の中にまだいるのだと思い出させられた絶望感は筆舌に尽くし難い。

 ただ、あの時感じた思いを率直に言葉にするならば──、

 

「きっと……生きていることが、生きている今が、地獄だと思うくらいに絶望した……すると思います」

 

 素直に思ったことを告げる。ある意味この時の僕は無邪気だったのだろう。杏ちゃんとお話しできたことにテンションを高くして、なんとか彼女の期待に応えようと、一生懸命当時の自分の心境を思い出していた。実感を込めるために、きちんと伝わるように、絶望を伝えたのだった。

 

ああ……そっかぁ

 

 僕の答えを聞いた杏ちゃんは何か納得がいったように呟くとそのままゲーム機へと視線を向けた。

 どうやら会話タイムは終了らしい。

 

「双葉さん、これはあくまで私の考えであって」

「うん、わかってるよ。別にそんなことわかってるって」

 

 最後に補足を追加しようとしても杏ちゃんはゲームを優先してろくに話を聞こうとはしてくれなかった。いつの間にか声も元の可愛らしいものに戻っていた。

 時計を見ると針は五時を指している。どうやらボーナスタイムは終わりらしい。

 まあ、仕方ない。今度また話しかけよう。その時には飴を用意しなくては。

 

「それでは、私は隠れレッスンをしに行きますね」

「ん」

 

 退室することを告げると一応返事が返って来たので嫌われたわけではないのだろうけど、それにしては先程の質問から杏ちゃんの纏う空気が重くなっているように見える。あの質問には一体どんな意味があったのだろうか。

 言葉を濁してお為ごかしで流すべきだっただろうか? 

 でも、僕は杏ちゃんへの答えを嘘で誤魔化したくなかったんだ。それをしたら、杏ちゃんの信頼を裏切ってしまうような気がしたから。

 何とも言えない気分のまま部屋の扉はと手を掛ける。

 

「ま、頑張ってよ」

「えっ!? 頑張って!?」

 

 杏ちゃんから掛けられた言葉に勢いよく振り返る。

 

「え、何?」

 

 僕の反応に戸惑いの表情を浮かべ──しかし、ゲーム機から顔を上げることはせず──戸惑う杏ちゃん。

 今の言葉は聞き捨てならなかった。

 

「今頑張れって……言ってくれましたよね!? ね!?」

「言ったけど。……何? 気に障った?」

「いいえ、むしろ嬉しいです。初めて言われたかもしれません」

「嘘ぉ」

 

 嘘ではない。少なくともここ最近掛け声的な意味で頑張れと言われることはあっても、僕のやっていることに応援の言葉を投げてくれる人はいなかった。

 頑張りすぎるな。

 無理をするな。

 心配になる。

 誰も彼もが僕に頑張るなと言う。僕は頑張りたいのに……それを否定する。

 頑張っている僕を見て、まるで痛々しいものを見るような眼を向ける者までいるのだ。

 そんなものは求めていないから。頑張るななんて言わないで欲しい。僕は頑張らないといけないのだから、頑張りたいだけだ。

 でも、今杏ちゃんは頑張れと言ってくれた。

 僕が頑張ると言ったことに対して頑張れと言ってくれた。

 肯定してくれた。

 

「ありがとう、双葉さん。頑張るわ。頑張ることを肯定してくれた貴女のために」

「勝手に頑張る理由を人に委ねないでよね」

「そうね、自分のために頑張るわ。頑張れと言ってくれた双葉さんに私が報いたいと思ったから、だから頑張るの」

「勝手にすればいいんじゃない?」

「ありがとう!」

「……そんなに拗れるまで、よく頑張れたね」

 

 おっと、杏ちゃんの声に憐れみが混じり始めてしまった。この辺りで退散しておこう。

 僕は感謝の気持ちを込めて一礼すると、今度こそ部屋から出て行った。

 

「やった」

 

 頑張れと言って貰えた! 

 それも杏ちゃんに言って貰えた! 

 嬉しい。何か自分のやっていることを肯定された気がする。頑張っていいのだと許された気になる。ずっと頑張って来たのに、誰にもその頑張りを認められて来なかったから……。

 だから先程杏ちゃんに頑張れと言われて、それが認められた気がして、それが嬉しくて、誇らしい気持ちになったのだ。

 

「頑張って良いんだ……」

 

 頑張って良いのだ。

 たとえトレーナーから完璧と言われようが、アドバイスが貰えなかろうが、それは僕が頑張らなくていい理由にはならないから。この先もまだ頑張って良いのだと、自分の在り方を自分で承認する。

 さて、この後からさっそく頑張るかな。まずはレッスンルームを押さえるところから始めよう。346プロの屋上って鍵開いてたかな? 

 

「如月千早、頑張ります!」

 

 なんつってな! 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………ちはや?」




く(*≧∀≦*)/ワーイ
   ΠΠ
ドー【地雷】ーン!!

地雷を全力で踏み抜くスタイル。



【零落全知(ルーサー)】
千早が手に入れた予測演算能力の名前。中二病が再発しかけている上に深夜テンションで名付けたためにこんな名前になった。
全知と言いつつルーサーなのは元ネタが原因だが、全知に頼るのは千早にとって敗北を意味するため敗者と名付けている。
※作中ではたぶん能力名は出てこない。


ルーサーの力で無事トレーナーから合格を貰えた千早ですが、達成感は得られなくなりました。

演算中の千早はただ相手に合わせるのではなく、その相手の間違いすら予測して動き、カバーできるようになっています。あらかじめ春香に本田達の動きが間違いだと教えられていたので真似するだけではなくなりました。

あと2話くらいでライブになります。
アイドル的な意味でのウジウジが今回の一件でだいたい終わりました。
後は人間関係をなんとかできればいいのですが・・・千早なので。







たぶんレッスン後にあったであろう会話。

「色々とお忙しいのにありがとうございました」
「千川か……そろそろ出て来ないといけないと思っていたから丁度良かった。妹も近々復帰する予定だ」
「それは良かったです。妹さんのことは私がお願いしたことが原因だったので……」
「それはプロデューサーの指示だろう? それにアイドルに教えるのが私達の仕事だ。それで自分を見失う方が悪い」
「青木さん……」
「そう思って妹を叱咤していたんだが……」
「実際に青木さんから見て如月さんはどうでした?」
「すでにアイドルとして……いや、ステージに立つ者として完成している」
「わ、そこまで言うくらい如月さんに才能を感じたんですね!」
「才能? ……アレを才能とは言わん。鳥が空を飛べるのを才能と言わないのと同じだ」
「そこまで如月さんは突出していると?」
「見て覚えるなら理解できる。見てから反応するのでも、まだ納得できる。しかし、見る前から合わせに行ってるのは何なんだ……相手がその瞬間に間違うことを前提にして先に動いていたぞ? 未来でも見えているのかアイツは」
「さすがに如月さんでもそこまでは……」
「どちらにせよ、如月は紛う事なき化物だよ。アレに何かを教えるのは私には無理だ。私は人間だぞ」
「……」


すでにベテラントレーナーですら教えられるレベルにありません。
ゲームで言えばある一定以下の経験値は0EXPになるみたいな感じでしょうか。
無理に教えようとすると逆に千早から「そこ間違っていますよ」と言われます。
それでも、それでもまだ日高舞なら・・・!


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アルティメットな初ライブその11

やらかしの権化


「……よく頑張った。及第点、と言ったところだが、合格だ。仮だがな」

「わぁ……! やったね!」

「はい!」

 

 連日のレッスンとその後の居残りレッスンを経て、今日ついに本田と島村の二人がトレーナーから合格を貰えた。まだ城ヶ崎と合わせていないので本当の最終合格は別になるが、僕達だけなら十分合格の動きだった。これも二人が頑張ったからだろう。

 喜ぶ二人がハイタッチしているのを見ながらここ最近の出来事を振り返る。

 トレーナーから面と向かって修正箇所を指摘された後、しばらく気落ちしていた二人だったが、そこで終わることはなく、逆に奮起することで劇的に動きを良くして行った。城ヶ崎の指導の下、同じ曲を何度も繰り返し踊ったことで習熟したと言えなくもないけけど。ここまで慣熟したのはトレーナーの指導の賜物だろう。僕の目でなくともその動きが確実に前より良くなっていることがわかる。

 頑張ったのは二人だけではない。

 僕と違い、二人は学生という身分があるため平日昼間にレッスン時間を取ることができない。

 本田と島村が学校からそのまま346プロまで来たとしても、レッスンを始める頃には日が沈みかけている。

 さらに、学校の用事なんかでレッスン開始に間に合わないなんてこともあった。

 そんな時に前川が足りないメンバーの空いたポジションの代役を申し出てくれた。ずっと基礎を学んで来た前川は完全とは言えないまでも振り付けをある程度覚えており、立ち位置程度ならほとんど把握していた。そのため、前川を代理とすることでメンバーが欠けた状態でレッスンという事態は回避できたのだった。

 また、レッスンが遅くまでズレ込んだ時には、食事に行く時間すら惜しいだろうと三村と緒方が差し入れを持って来てくれた。若さとエネルギー消費を考慮しても、ちょっとカロリー馬鹿高いメニューだったけど。

 こうして知り合った皆がフォローしてくれたこともあり、結果が出せたと言える。

 そうやって結果を出すと他のプロジェクトメンバーも感化されるのか、レッスンルームを覗き込むメンバーがちょくちょく現れた。三村が言うには、僕達の影響で皆がまたやる気を出し始めたのだとか。

 ……こういう生活がしたかったんだよね。

 夢にまで見た――一度は諦めていた――みんなと織りなすアイドル生活。それを僕は体験できている。そう思うだけで、アイドルをもう一度目指して良かったと思えた。

 

「まだまだ危ない箇所があることを忘れるなよ? 正式な合格はあとで城ヶ崎と合わせたものを見て判定する。それまで各自調整しておくように。それ以外でもわからないところがあれば遠慮なく聞きに来い」

「はい! ありがとうございました!」

「がんばります!」

「はい」

 

 トレーナーの檄に元気よく返事を返す本田と島村に対し、僕はいまいち覇気のない声を返した。いや、ライブ自体にやる気はあるのだけど、このトレーナーに対して元気よく返事をする気にならないだけだ。

 二人は毎日親身に指導して貰えてたから慕っているのかもしれないけどさ、僕にとってはトレーナーであっても指導者ではないから。ただそこで自分ではない誰かを教えているだけの人間に敬意を払うのは難しい。

 しかも、この人、僕を避けているように思えるんだよね。何か教えてくれないかと近付くと、サッと逃げて行ってしまうのだ。

 教えられないならダンスのレパートリーを一通り見せてくれるだけでも良いのに。そうすればもう用はないから。

 

「二人とも、お疲れ様。これまでの頑張りが実ったわね」

「ありがとう! 私も如月さんに負けてられないからね。頑張りましたとも!」

「すっごく大変でしたけど、とっても達成感があります!」

「……そう、それは良かったわ」

 

 表情が顔に出にくいことがありがたい。僕の表情筋がまだ生存していたら、きっと引き攣った顔をしていただろうから……。

 これまで頑張って来た二人に羨ましいなどという感情を向けることに罪悪感を覚える。頑張った者は報われるべきなのだから。この醜く濁った、汚泥のような、黒い感情を持ち込むべきではない。

 

「そう言えば、衣装ってどうなっているんだっけ? 予定では、もう少し早く教えて貰えるって聞いてたけど……」

 

 ダンスの方が一段落着いたからか、ふと思い出した様子で本田が衣装の話を切り出して来た。その言葉で僕も意識を切り替える。暗い気持ちに蓋をするのは得意だ。

 確かに、僕達のステージ衣装をまだ教えて貰ってなかったことも気になって居た。やはり僕達のライブ出演の可否について揉めていたことで発注と納入が遅れてしまったのだろうか。今更、衣装がありませんという理由で出演中止なんて言われても困るぞ。

 

「プロデューサーに訊いてみる? 案外忘れているだけかも知れないし」

「今回のライブの運営はこちらではないから、プロデューサーは知らない可能性もあるわよ。城ヶ崎さん側のプロデューサーか、それこそ運営チームに確認を取る方が早そうだけど」

「すまないが、衣装については私の方でも聞かされていないな。こういうのは妹の方が詳しいんだが……確かに今の時点で衣装が無いのは変だな。確認した方が良いかもしれない」

 

 話を聞いていたトレーナーも衣装については聞かされていないらしい。まあ、ダンスのトレーナーがライブの衣装に詳しいというのも変な話だからね。妹さんが療養していなければ、また話が違ったんだろうけど、居ないのなら仕方がない。

 

「私達って、プロジェクト外の人に相談する手段って無いのよね」

「新人の辛いところだよね~」

 

 自分で言ったことだが、僕達って346プロ所属としてまだまだ新参者なんだよね。こういう時の相談相手が少ないことで実感させられる。

 僕の346プロの知り合いで連絡を取れる相手って、シンデレラプロジェクト陣営以外だと専務さんくらいなんだよね。

 

「専務さんとかに相談してみようかしら」

「いや、上の人過ぎるでしょっ。私達みたいな新人が話せる立場の人じゃないって」

「そうですよ。下手にお仕事の邪魔をしたら怒られちゃいますって」

「そうかしら……?」

 

 定期的に専務さんから何か困っていることや要望がないか訊かれる。もちろん直接ではなく、千川さん伝いでだけど。要望を聞きに来る千川さんに「新人が持っていいコネじゃないですよ」と言われてしまった。

 あの感じなら専務さんに衣装の件を伝えれば動いてくれそうだけど……さすがに、こんなことで偉い人に手間を掛けさせるわけにはいかないよなぁ。

 

「それじゃ、私がダメ元でプロデューサーとちひろさんに訊いてみるね」

「私はスタッフさんに当たってみます」

 

 どうやら本田と島村は衣装の状況を確認に向かうつもりのようだ。確かに自分達の着る衣装なのだから気になって当然か。僕も衣装は気になっている。

 

「私は……」

「如月さんは、城ヶ崎さん経由であっちのプロデューサーに確認して貰っていい? 合同レッスンの時に訊いてもいいけど、始まったらゆっくり話せないだろうからさ」

「いいわよ」

 

 本田に言われ即答したが……うん、よりにもよって僕が城ヶ崎担当か。

 僕が適任に思えたのだろうか。同じ陽キャ同士、本田の方が相性良さそうだけど、陽キャは陽キャで何かあるのかね。

 

「私の方でも確認しておこう」

 

 トレーナーも確認してくれるみたいだ。何だかんだ、この人も面倒見が良いよね。まあ、面倒見が悪かったらトレーナーなんてやらないか。

 実際はこんなこと僕達がやる必要はないと思う。衣装の準備とか僕達がどうこうできる話じゃないからだ。しかし、こうして動いたのは、曲がりなりにも合格を貰えたことで浮かれたからだろう。つまり、何となくノリで始めてしまったのだ。

 それに付き合ってくれるトレーナーは実は良い人だよね。

 こうして僕達は休憩の時間を使って、ぞれぞれ衣装について聞き込みに回ることになった。

 

 

 

 冷静に考えるとさ、僕に何かを確認させるって無茶だと思うんだよね。僕は小学校時代の宿題で「両親に自分の名付け理由を確認してみよう」という課題を未提出にするような奴だぞ? 

 ……自分が千早だから千早なのだと確認しなかっただけだが。

 

 城ヶ崎どこかな。この後予定があるのだし、事務所に来ていないわけはないから、捜せばいつか見つかるとは思う。しかし、この広い敷地内で人一人を捜し出すのって厳しいよね。プロデューサーやスタッフは自分の部屋なりデスクなりあるから場所の特定に困らない。対して城ヶ崎をはじめとしたアイドルにそういったものはない。強いて挙げれば、担当プロデューサーの部屋くらいかな。ただ、仮に城ヶ崎がそこに居たとして、他所のプロデューサーの部屋に許可なく訪れるのはよろしくないだろう。そうなると、残された手段は当て所なく敷地内を捜し回るだけだ。

 

「本命は本田達がなんとかしてくれるでしょ」

 

 あくまで城ヶ崎を捜すのは今回のミッションではサブ目標みたいなものだ。本筋ならプロデューサーに確認するのが正しいのだから、本田の持ち帰る情報に期待しておこう。

 

 そんな気楽な気持ちでいたからだろうか、運良く城ヶ崎を見付けられてしまった。これが物欲センサーというやつか。

 しかし、城ヶ崎は一人で居るわけではなかった。誰かと会話しているところだった。

 

「最近、あの人と仲が良いみたいですね?」

「別にそんなんじゃないって……楓さん」

 

 会話の相手とは、高垣楓だった。

 二人は人気の少ない場所に設けられた休憩エリアで対面していた。いや、城ヶ崎の方は気持ち後ろめたそうな表情で高垣から顔を背けている。

 

「期待しているんですか? 未だに?」

「期待なんてしてないって。今更でしょ」

「そうですか。それならいいですが……」

 

 話の内容が掴めない。期待とは何のことだろうか。

 ……って、盗み聞きしてまで詳しく二人の会話を知る必要はないか。

 

「どうせ私達は、あの人にとってスペアでしかないんですから。あまり期待すると……また、裏切られた時に辛くなるだけですよ?」

「……」

「私からはそれだけです。それでは……」

 

 それだけ告げると満足したのか、高垣は何も言い返さない城ヶ崎を置いて、その場を去って行った。やはりその後ろ姿は、いつかのライブ映像で見たものと変わっていた。彼女の中で何があったのだろうか、それはわからないけれど、己の在り方すら変えてしまった何かがあったのだろう。

 残された城ヶ崎の方を見ると、彼女は何か痛みに耐えるように、自分の二の腕を強く握りしめていた。傷付いた顔、ではない。今の高垣の言葉に傷付いたにしては表情から滲み出る痛みが古すぎるように見える。高垣の言葉はただ彼女の古傷を抉っただけだ。ということは、その傷を付けた相手が別に存在することになる。

 それは誰か……? 

 

 ──。

 

 まあ、どうでもいい話だ。僕には関係が無いのだから。

 そろそろ、良いだろうか? 

 

「お疲れ様です、城ヶ崎さん」

「アンタ……こんなところまでよく来る気になったね。結構遠いでしょ」

「同じくここに居た城ヶ崎さんに言われても」

「へへっ、確かにね……」

 

 軽そうに笑う城ヶ崎の姿に、僕は何とも言えない気分になった。この笑い方は良くないやつだと知っていたから。笑い方を忘れた人間がよく浮かべるモノだから。いつかの春香が見せた笑顔だから。

 僕が捨てた笑顔だから。

 前ほど、城ヶ崎の考えがわからなくなった。レッスンを始めて暫くは何だかんだと声を掛けて来たのに、今では挨拶程度しかしなくなった。上手くやれば褒めることさえあるのだから、その変化に戸惑うばかりだ。

 

「……」

「……」

 

 だから、こうして二人っきりになると会話が無くなり気まずい空気になる。だから城ヶ崎担当になりたくなかったんだよなぁ。

 

「もしかして、今の会話、聞いてた?」

 

 沈黙に耐えかねたのか、城ヶ崎の方から話を振って来た。内容はあえて触れようとしなかった先程の高垣との会話についてだった。

 まあ、こんなところまで来ておいて何も知りませんは違和感あるよね。でも、城ヶ崎を捜してはいたけれど、ここを通りかかったのは本当に偶然なんだけど。こういうイベントの回収率は僕は高いのだ。千早も歩けばマフィアの抗争に当たるってね。

 

「はい」

「……普通、そこは嘘でも聞いていないって言うところじゃない?」

「嘘吐いても本当のことを言っても、私には関係のない話ですから」

「おもいっきり当事者なんだけどなぁ……」

 

 怒る気力も無いといった顔で溜息を吐く城ヶ崎。当然、怒られる理由に思い当たる節がない僕は今は我関せずでいるつもりだ。下手に地雷を掘り起こす趣味は無い。

 

「で、そっちからアタシに話しかけて来るなんて珍しいじゃん。何か用?」

「実は私達の衣装についてなのですが……」

 

 僕は衣装について城ヶ崎に話を聞かせた。衣装についてはステージに立つ城ヶ崎にとっても他人事ではないだろうから教えておくのは必要だし。

 

「あちゃー、あの人もしかして運営に丸投げしてた?」

 

 どうやら城ヶ崎の方で何か思い当たったらしい。

 気まずい空気も忘れる勢いで城ヶ崎がウンウンと呻いている。その姿だけを見ると年相応の女の子なんだけど……。

 

「ごめん……それ、こっちのプロデューサーのミスかも知れない」

 

 やがて城ヶ崎が答えてくれたのは意外な事実だった。

 

「手抜き……ですか?」

「うん。こっちの人……プロデューサーは企画はできるんだけど、細かいところの指示がたまに雑なんだよね。特に担当アイドル以外が関わる部分が、さ……だから、今回もそっちの衣装まで手が回り切っていなかったんだと思う」

 

 それ、前も思ったけど大丈夫な人なの? 

 自分の担当アイドルさえよければ後はどうでもいいってスタンスは、プロダクション所属のプロデューサーとしては駄目なんじゃないかな。

 

「……で、今回アンタ達の衣装とかって、こっちで発注していたんだけど、納期の方の調整がたぶん適当だった……の、かも?」

「それは……」

 

 当てずっぽうのように言っているけど、結構確信を持っている顔で城ヶ崎が担当プロデューサーの実態を教えてくれる。

 346プロのプロデューサーって優秀な人が多いイメージだったんだけど、たった一人のせいで信用がガタ落ちなんですが? 

 これで発注すらしていないとかなら殴り込みを掛けるレベルだ。発注済みという情報を城ヶ崎の方で持っていてくれたから助かった。

 

「城ヶ崎さんが謝る事ではないですが……そうなると、私達の衣装が間に合わないことになるかもしれないということですよね?」

「たぶん、プロデューサーの方も、ライブまでに間に合うように指定はしていたはずだけど……リハーサルまでに間に合うかは微妙だね」

「……」

 

 リハーサルから本番までの期間は思ったよりも短い。そのリハーサルまでに衣装が入らないとなると、衣装合わせの時間すらとれるか怪しい。それを着てのリハーサルなんて無理だ。

 

「衣装無しのリハって、どう思われます?」

「アタシは衣装一つでブレるほど不慣れじゃないけど、新人の子には厳しいかもしれない。似た服でやって慣らしておくしかないかな……本当にごめん」

「そうですか……」

 

 担当プロデューサーの代わりに謝る城ヶ崎に言葉を掛ける言葉が思いつかない。二人はこの話を聞いてどう思うだろうか。無茶だと驚くか、どうしてそうなったのかと怒るか、もう無理だと嘆くか……。

 いずれにせよ、彼女達のケアが必要になるだろう。その役目は僕ではないけど。

 やはりプロデューサーにポエムの一つでも処方して貰うしか……。

 

「ねぇ、アンタってさ」

 

 処方箋を考えている僕に城ヶ崎が声を掛けて来る。なんだろう、今ちょっと処方箋を脳内で書いているから待って欲しいのだが。

 

「あいつ……CPプロデューサーとは結構仲良いの?」

「はい?」

 

 それ、今訊く必要あるやつですか? 

 思わずそう聞き返しそうになるのをグッと我慢する。先輩アイドル相手に生意気な態度をとるわけにはいかないから……などという殊勝な気持ちで止めたわけではない。ただ、それを訊いて来た城ヶ崎の顔がとても必死に見えたから……。

 

「プロデューサーとの仲は……特段仲良いかと言われると首を傾げる感じですが、さりとて悪いとは絶対言わないような感じです」

「いや、わからないって。曖昧な言い方じゃなくて……たとえば、普段どんな話してるのかとか、具体的に説明された方がわかりやすいかも」

 

 本当に聞きたいのだろうか。最後の方は尻すぼみになるような声量だったので本気具合がわからず、教えていいものか迷う。まあ、プロデューサーのプライベートな話以外なら良いのかな。

 僕は望み通りプロデューサーとの普段のやりとりを彼女に教えてあげたのだった。

 最初は興味深そうに聞いていた城ヶ崎だったが、話が続くに連れてその顔が曇って行った。

 

「……もう、いいかな。これ以上は、ちょっと、聞いてられない、かも」

 

 最後には話の途中で止められてしまった。

 何が気に入らなかったのか……僕は、ただ、本当にいつも通りを話して聞かせただけなのに。それに最初に興味を持ったのは城ヶ崎の方じゃないかとも思う。

 

「私はそろそろプロデューサーのところに行かないといけないので、これで失礼いたしますね。では、後ほどレッスンで」

「……」

 

 そこはかとなく理不尽なものを感じながら、話が終わったということもあり、僕はプロデューサーに衣装の報告をするためにその場を後にした。

 黙り込んだ城ヶ崎を置いて。

 

 ちなみに、後で確認したところ、こちらのプロデューサーの方で衣装の件は納期調整してくれていたらしく、リハーサルには間に合うことを教えられた。

 良かったと胸を撫で下ろす。城ヶ崎との会話が完全に蛇足になってしまったが、それは結果論だ。何かマイナスになるわけではないのだから構わないだろう。

 本番まで残り日数は少ない。時間を無駄にせず頑張って行こう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……やるしかないよね

 




地雷を掘り起こす趣味はない千早。
しかし特技は地雷の起爆であった。

専務に問い合わせしていた場合の未来。

専務「アイドル(如月千早)の衣装の納入が遅れていると耳にしたのだが?」
各部門長「何やってんの? 死ぬの?」
運営&美嘉P「ヒエッ」

経営者の一族かつ専務(副社長)に問い合わせができる新人アイドル。最強の手札を使わないのはリスペクトデュエルとも言える・・・。
施設管理部の課長さんは命拾いしてましたね。千早から専務宛にレッスンルームが借りられないのですが、とか訴えられていたら、たぶん上記のように呼び出しされていました。
さらにアイドル部門で千早が冷遇されている(誇張)と噂を聞いた他部署の部長が「じゃあ、こっちの部屋使っていいよ。あと演劇(または歌手)に興味ない?」と全力で引き抜きに来るパターン。
千早の演技の実力は現状未知数ですが、演技力が高い”如月千早”は存在するでしょうし、ずっと他人を演じて来た千早自身も演技が苦手というわけではないです。いつか演劇かドラマ仕事が来た時にその実力がわかるでしょう。
将来ハリウッドでアクション映画に出ることがあれば話題になりそうですね。強いって。
過去に銃弾の雨を高速機動で避けた実績があるので、アクション系の仕事でも活躍できるはずです。
純粋なアイドル活動から遠ざかれば遠ざかる程才能があるのが千早なので。

しばらく前から城ヶ崎のプロデューサーがとんでもない無能に描かれていますが、冷静に考えるとプロデューサーも結構厳しい立場でした。
まず、押していたスケジュールが何とか計画内に収まるというところで、急遽担当アイドルがバックダンサーを起用して来る。(とある事情で断れない)
武Pの担当アイドルは基本ができているし実力もあるから、トレーナーがちゃんと教えるなら…と起用を了承したら、トレーナー不在な上に新人アイドル三人が起用されていて、城ヶ崎自身が直接教えることになる。そのせいでライブのスケジュールの修正、指導役をしている城ヶ崎の仕事のスケジュールの修正が発生。
CP側である千早達を起用するために武pと契約と打ち合わせ、他出演アイドル4人とその担当Pへの説明、契約見直しからのスポンサーへの説明、社内社外向け仕様書と見積書再提出、要領書修正、衣装のデザイン発注、振り付け一新のせいでステージのライティングや足りない機材があるかのチェック、などなど。
さらに普段やっている、城ヶ崎以外の担当アイドル達の契約取り、送り迎え、オーディション探し、事務仕事。
……を一人でやっています。
つまり、死ぬ。
それで他プロジェクトのアイドルにまで目を向けるのは正直無理かと思います。あと、CPってアイドル部門内に所属するアイドルをユニット単位でその場管理しているのではなく、プロジェクトとして完全に別枠で長期計画として扱っているから扱い辛いでしょうし。それを一存で決めちゃった城ヶ崎の意思を尊重してなんとかやり切った彼女はよくやったと思います。
が、上に挙げた物ができてもまだ抜けている奴扱いされるのがアイマス世界のプロデューサー業界でしてー。
つまるところ、武pがパナイだけ。
アニメでよく城ヶ崎側のプロデューサーがok出したなと思います。さすがに本作ほど時期的に絶望感はないでしょうが、アニメでも最終調整に入る時期だったでしょうし、そのタイミングでの仕様変更とか関係者の血管ブチ切れ案件ですよね。


次回、いよいよ千早達三人の初ライブです。
アニメでは15分程度で迎えたライブシーンですが、こちらでは10話以上かかりました。そんな濃密な時間の中で繰り広げられる千早の人間関係のあれこれをどうぞこれからもよろしくお願いします。


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アルティメットな初ライブその12

ようやく千早をステージに立たせてあげられました。


 今日はライブ当日だ。

 いよいよ……いや、ようやくこの日が来たのだと思うと、不思議な高揚感を覚える。

 これまでの努力の成果──結果が出る日だから。僕がこれまでやって来たことは無駄では無かったのか、その答えがわかる。

 昨日の時点で、僕達バックダンサーは城ヶ崎と合わせての調整を問題無く終わっており、全員トレーナーから合格が貰えている。僕達の準備は万全、あとはライブの開始を待つだけだ。

 今は昼の十二時を少し回ったくらいで、ライブまではまだ時間があった。僕達が出演する城ヶ崎のライブは他のアイドル達の後になるから、さらに後の出番となる。

 

「今日は本番ですが、皆さんは勉強だと思って先輩達から色々学んでください。今日の全てが皆さんにとって貴重な体験になります」

 

 楽屋に向かう前に、スタッフの控室でプロデューサーと最終打ち合わせをする。打ち合わせという名の気合入れみたいなものだけど。

 なるほど、本番すら新人の僕達にとっては勉強になるわけだ。良い言葉である。

 当然だが、この程度の規模のライブは慣れているのであろう、プロデューサーに緊張している気配はない。いつもの鉄面皮に覆われた表情の奥は今日も隠されたままだ。

 

「プロデューサー……もっと景気の良い言葉はないの? こう……例えば、お前達のライブをしっかり目に焼き付けておくぜ、とかさ!」

「未央ちゃん、プロデューサーさんはそんな高度な言い方しないですよ」

 

 プロデューサーの言葉が物足りなかったのか、ダメ出しをする本田。その本田に島村が微妙に失礼なフォローを入れている。

 

「申し訳ありません。あまり、こういった時に良い言葉が思い浮かばなくて」

 

 本田の無茶ぶりを生真面目に受け取ったプロデューサーは申し訳なさそうに首に手を当てていた。あ、これ本当に困っているやつだ。

 プロデューサーに気の利いたセリフはハードルが高いだろう。やり過ぎるとアレなセリフになるし、言葉一つに調整が必要とか生きるの難しくないのかな。

 ここは僕もフォローくらいしておくべき? 

 

「では、私からもう一つだけ」

 

 と思ったら、意外にも彼には言葉を続ける気があるらしい。真っ直ぐにこちらを見ると、彼なりの激励を言葉にして送ってくれた。

 

「皆さんの頑張りを私はきちんと見て来たつもりです。今日までよく頑張りました……今日のライブは是非楽しんでください」

「お、お~!? プロデューサーにしてはイイ感じのセリフだぁ! プロデューサーっぽい」

「は、はい。何だかプロデューサーみたいです」

 

 いや、プロデューサーだが? 

 当の本人もらしくないと思ったのか、珍しく困った表情をしていた。いや、これは照れているのか? 

 先程の台詞といい、何とも珍しい物を見た気がする。プロデューサーの場合、求められてもあんな事言わないと思っていたから正直意外だった。何か彼の心境を変えるような良い事でもあったのだろうか? 

 まあ、悪い事では無いのだから、深く考える必要は無いか。

 二人もプロデューサーから期待通りの言葉を貰えたことで嬉しそうにしているし、これは幸先が良さそうだ。

 

「みくが応援に来たにゃ!」

 

 前振りも無く、突然入口に設置されている仕切りから前川が顔を出して来た。ザ・オフの格好という感じの普通のファッションをしている。常識的に考えて、こんな所にまで猫耳つけてやって来たらヤバイ奴だ。しかし、そこまで突き抜けられたら大成するとも思う。やはりビジネスか……。

 出演者でも無いのにここまで応援に来てくれるなんて、最初のいざこざからは考えられないくらい仲良くなった気がする。

 僕以外と。

 

「良かった、まだここに居てくれて。みくちゃんがどうしても本番前に声を掛けたいって言ってたから。もちろん、私も応援しに来たからね」

「えっと、ずっとがんばって来たみんなに……一言だけでも声をかけたくて」

 

 三村と緒方も応援に来てくれたらしい。

 最後まで練習に付き合ってくれた彼女達の登場は素直に嬉しいと感じた。実はバックダンサーに選ばれた時に他のプロジェクトメンバーからすれば僕達は抜け駆けしたように思われているんじゃないかと思っていたから。実際、前川が絡んで来たのもその辺りが原因なのだから、他のメンバーからの心証は良くないものと覚悟していた。

 しかし、前川をはじめ、今回のライブにプロジェクトメンバーが観客として観に来てくれていると事前に知らされた時は肩の力が少しだけ抜けた。そして、こうやって目の前に来てくれたことでライブに参加することへの後ろめたさはほとんど払拭されたと言っても良い。

 残念ながら春香や優のチケットをバックダンサーでしかない僕では用意することができなかった。二人に僕の晴れ舞台を見て貰えなかったのだけが残念である。

 

「みくにゃん達、応援に来てくれたんだ!」

「ま、あれだけ練習に付き合ったんだから応援くらいしに来て当然! 本番も頑張ってにゃ!」

「みんなの踊る姿、楽しみにしているね」

「みんなと一緒に、観てるから」

 

 三人からの激励を受け、僕の中のやる気がぐんぐん上がっていく。同じプロジェクトメンバーからの祝福を受けるなんて、アイドル冥利に尽きるってやつだ。

 この調子でライブの方も上手く行くと良いなぁ。

 

 

 控室を出ると、そのままバックダンサーの楽屋に僕達三人だけで向かった。

 すぐにプロデューサーと合流する手筈だけど、今だけは僕達だけで他のバックダンサー達に挨拶をすることになる。これも経験というやつなのだろう。

 楽屋入り口の表札にバックダンサー控室とポップな文字で印刷された貼り紙がされている。この中に今日出演のバックダンサーが詰めているのか……。

 実は今日の今日まで他のバックダンサーと顔合わせをしたことがなかったりする。そんなことをする時間の余裕なんて僕達には無かったし、お互いに所属も違うから機会がなかった。

 僕達346プロ所属のアイドルと違い、今回バックダンサーとして参加している人達は、バックダンサー専門で雇われた外部の人だったり、正規のアイドルを目指して経験を積むために参加しているアイドル候補生なんかが大半だ。昨年765プロでやった大規模なライブの時にバックダンサーをしていた子達も養成所に通うアイドルの卵だったので、僕達みたいな新人とはいえ正式にアイドル事務所所属のアイドルがバックダンサーだけをするのは珍しいことになる。

 すでにアイドルとしての道が約束されている僕達は、果たしてバックダンサーの彼女達に受け入れられるのだろうか? 

 正直不安だ。こういう場面で排斥されるのがいつもの僕のパターンだから。何だか、ライブ本番よりも気合いが入ってしまう。ヘラヘラするタイプではないが、普段にも増して気合を入れて挨拶に臨もう。

 

「よろしくお願いします!」

 

 やはりこういう時、先陣を着るのは本田だった。当たり前のように楽屋に突貫して行く。コミュ力ある人って本当羨ましいよね。本田の物怖じしない態度に一段と尊敬の念を抱いた。

 

「よ、よろしくお願いします」

 

 本田に続いて島村も楽屋へと入って挨拶をしていた。確か島村は前に手伝いで似たような楽屋に入ったことがあると言っていたのを思い出す。そのアドバンテージがここで活きた感じだ。

 最後に僕が楽屋へと入る。三人目ならもう恐れるものは無いよね? 

 先に入った二人を盾にした感じがして嫌な気分になるが、こんな時の僕はポンコツの極みに立っているから前に出るのは拙いのだ。

 室内の様子を探ると、場の空気は悪くなさそうに感じる。本田達の挨拶にきちんと返事があった。これなら僕も流れで行ける気がするね。

 そう思って楽屋へと入ったのだが、中に詰めていたバックダンサー達の反応は僕が期待していたものとは違っていた。

 僕が楽屋に入った瞬間、室内がザワ付いたのだ。本田と島村の時は何もなかったのに、僕の番になってこの反応はどういうことだろう? 

 と思ったら、次の瞬間にはサッと波が引くように一気に室内が静まり返った。

 

「皆さん、こちらに」

 

 何かリアクションでも返した方が良いのかと考えを巡らせていると、入り口に現れたプロデューサーに呼ばれてしまった。

 挨拶もまともにできないうちに楽屋を後にする。呼ばれはしたけれど、どこに向かおうと言うのだろうか。

 その疑問はずらりと並ぶ寄贈品の花々で埋め尽くされた廊下を通ったことでほとんど晴れたと言える。

 辿り着いたのは、今回の出演アイドル達の楽屋だった。

 楽屋には一方的にだが知っている顔が揃っていた。今回のライブのメインキャストであるアイドル達が四人、ライブ前の準備を始めているところだった。

 

「わぁっ……プロデューサーさん、来てくれたんですか!?」

 

 その中の一人、黒髪の少女がプロデューサーが来たのに気づくと、満面の笑みで彼へと駆け寄って行った。

 

「プロデューサーっ! お久しぶりですね!」

「あら、貴方がライブ前に顔を見せにくるなんて珍しいわね」

 

 他のアイドル達もプロデューサーの到来に嬉しそうにしていた。各々好き勝手にプロデューサーへと話しかけている。一人だけ我関せずという感じの子もいるが……。

 

「ど、どうしようか?」

「とても邪魔できる空気じゃないですよね……」

「待つしかない感じね」

 

 プロデューサーと彼女達の会話に、僕達はすっかり置いてけぼりを食らってしまった。

 見た感じ、プロデューサーと彼女らアイドルは旧知の仲のようだし、久しぶりに会ったのなら積もる話もあるだろう。それを邪魔するほど無粋ではないつもりだ。

 ちなみに、城ヶ崎の姿は見当たらなかった。

 

「失礼、今日は皆さんの応援というよりも、彼女達を紹介しに伺いました……出演者の方々にご挨拶を」

 

 心の準備もなく、唐突に大先輩の楽屋に通され、前置きもなく挨拶しろと言われ戸惑う。他の二人を見ると、目の前の人達のことをよく知っているらしく、緊張した顔をしつつ喜色に溢れた表情を浮かべ、キラキラとした目で彼女達を見ていた。

 そんなに嬉しいのか……つい今しがたまでガン無視されていた相手だけど? 

 確かに、憧れのアイドルと間近で会える機会って同じ事務所に入らない限りそうそう無いからね。役得だと喜んでも不思議ではないか。

 僕だって765プロのメンバーに会ったら感動するだろうし、目をキラキラさせる自信はある。でも、目の前の人達のことはよく知らないから、そこまで感動はしなかった。当然ライブ映像で顔と実力程度は知っていたけど。

 

「今回バックダンサーとして出演させていただきます、島村卯月です!」

「本田未央です! 本日はよろしくお願いします!」

「如月千早です。よろしくお願いいたします」

 

 控室に居る先輩アイドル達が挨拶をする僕達に注目する。

 最初に島村、次に本田を見る。興味深そうにしている人もいれば、微笑ましそうな目を向けている人もいた。

 皆輝いた顔をしており、これが346プロのエース達なのかと思うと僕も負けていられないと奮起する思いだった。

 しかし、最後に僕を見た先輩方の目は、前二人の時と違っていた。

 

『これが如月千早か』

 

 全員の目が語っている。

 値踏み、とは違う。この目は、すでに値段がわかっている物に対して興味を持っている人間がする目だ。僕の情報をある程度知っているからできる目だ。値段に価値が釣り合っているか探っている。

 で、誰から僕の値を聞いた? 

 先輩アイドル達からの注目を浴びて委縮する程ヤワではないので、特に何かリアクションを返すことはしない。もしかしたら今のだって僕の勘違いの妄想の可能性だってあるのだから。相手が何かしてこない限り僕は何もしないつもりだ。

 だって、先手を譲らなければ不公平でしょ。

 

「はじめまして! 日野茜っていいます!」

 

 おっと、このまま挨拶だけで終わるかと思いきや、絡め手とか何それって感じの人が目の前に現れたぞ。纏う空気が陽の者のそれだ。つまり、僕の天敵。

 確か今回の出演者である日野茜だったか。誰が見てもパッション属性のアイドルである。その彼女が他のアイドルを置いてけぼりにし、本田と島村を無視する形で僕の前で堂々と名乗りを上げて来た。

 その意味するところは正直わからない。

 

「初めまして、本日はよろしくお願いいたします」

「はいっ、よろしくお願いします! ずっと貴女には会いたいと思ってました! 握手しましょう!」

 

 わぁ……こ、こわーい! 

 こちらが一つ返事をする度に、二つ話を進めてくるんだけどぉ……。

 とりあえず、勢いよく差し出された手を握る。すると日野は「よろしくお願いします!」と言いながら力強く手を握るとブンブンと手を振り回した。どんだけテンションが高い人なんだ。僕はこの人と同じ空間に閉じ込められたら、一分も経過しないうちにその部屋を爆砕するだろう。あと僕じゃなかったら腕痛めると思うから本田達には止めてあげてね? 

 

「やりますね!」

 

 ……何が? 

 僕は一体何を仕掛けられて何に感心されたんだ。バトル漫画の序盤に意味深なセリフとともに出て来たキャラが最終回になっても出てこなかったくらい釈然としない物を感じるぞ。

 もういっそのこと拳で語り合わないか? 

 

「茜ちゃん、新人の子に急に絡みに行ったらびっくりしちゃうよ?」

 

 日野の扱いに困っていると、横から黒髪ショートの女の子が日野を窘めるように割って入ってくれた。

 確か名前は小日向美穂とかいったはずだ。日野とは違って大人しいイメージの、これがキュートのお手本ですよといった感じの子だ。

 オールドタイプ……失礼、オーソドックスタイプなアイドルだ。こういう子は地味ながら根強い人気が出るタイプだよね。僕にはあまり無い魅力を持っている。

 

「ごめんなさい、如月さん。ライブ前ということもあって、茜ちゃん少しテンションが高いみたいで……いきなりで驚かせちゃいましたよね?」

「なるほど。いえ、気にしないでください」

 

 日野のことをフォローしている姿は気遣いのできる良い人という印象を与えるだろう。たぶん本田や島村も同様の印象を小日向から受けたに違いない。

 しかし、僕には今のやり取りに違和感を覚えるのだった。何か僕は見落としていないだろうか? 

 

「美穂ちゃん! まだ私が話しているんですよ!?」

「今は他の皆が居る場所だから……」

「くぅ~っ……仕方ないです。美穂ちゃんがそう言うのならば」

 

 まだ絡み足りないのか、小日向に抗議の大声を上げる日野だったが、再度小日向に窘められると渋々引き下がって行った。

 危なかった。もう少し意味不明なテンションで絡まれていたら、日野の顔面にマッハ突きをお見舞いするところだった。

 

「今日が初めてのライブなんですか?」

「は、はい!」

 

 日野を遠ざけた小日向は僕から視線を外すと、島村達の方へと話しかけていた。実に当たり障りのない会話だ。普通の人に見える。とても。

 

「実際に見ると、とても存在感のある子なんですね……」

 

 小日向達のやり取りに参加するか迷っていると、別の方向から声を掛けられた。

 

「あ、初めまして。佐久間まゆっていいます。如月千早さん、ですよね?」

 

 ゆるふわなセミロングの髪をした少女が椅子に座り、ふわふわとした笑顔を浮かべこちらを見上げていた。

 名前は本人も名乗った通り、佐久間まゆという。何だか独特な雰囲気を持っている子だ。ぱっと見ると小日向同様にスタンダードなキュートアイドルなんだけど、皮一枚めくるとヤバイ何かが出て来そうだと僕の直感が告げていた。しかし、他の子と違い、僕に対する悪意はまったくと言っていいほど感じられないので、それは気にしなくていい属性だろう。

 今問題にすべきは何故僕に話しかけて来たのかということだ。

 

「はい、如月千早といいます。本日は城ヶ崎さんのバックダンサーとして出演させていただきます。よろしくお願いいたします」

「そんなに畏まって話さなくてもいいですよ?」

「いや、ですが……」

 

 硬い口調の僕に佐久間は畏まらなくていいと言ってくれたが、新人の僕が先輩アイドルに砕けた口調を使うわけにもいかない。相手が良くても周りが許さないだろう。

 

「大丈夫ですよ。そういうの、あまり気にしない人が多いですから……それに、如月さんと私は同じ、ですから」

「同じ……?」

 

 はて、何が同じだと言うのか。言っちゃ悪いが、この人と同類だと思われるのは凄く名誉棄損な気がする。お互いにとって。

 

「私は如月さんの事を直接応援はできませんが、同じ立場の人間として応援はしていますからね?」

「え、はい? え?」

「うふふ……私もプロデューサーさんと……」

 

 いや、もう、この時点で僕の会話用のスタミナポイントは底を尽きた……。

 駄目だ。この子とは会話が成立する気がしない。

 例えるなら、ラーメン屋に入ってラーメンを頼んでおきながら、麺を食べずにスープだけ飲んで帰るみたいな……。

 僕とは根本的に価値観が違う気がする。言語として理解はしても、文化として理解できない。

 だから、この子とは一生、利害が不一致する気がしない。利害が一致するのではなく、お互いの利にまったく干渉し合わないという意味で不一致しないのである。

 しかし、この中では唯一僕に対してノーマルな感情を持っているのであまり無碍にもできない。

 

「そ、そうですね。同じですね。ハハハ」

「はい、同じです。うふふ」

 

 しばらく佐久間と二人でうふふあははと笑い合う。

 地獄かな? 

 誰か助けてくれないかな? 

 

「それでは、そろそろ時間となりますのでお暇させていただきましょう」

 

 心から助けを求める僕には、プロデューサーのその言葉が福音に聞こえた。さすがプロデューサー、欲しい言葉を欲しいタイミングでくれるなんて。

 よ、大将。日本一! 

 

「えー! もっと居て下さいよ!」

「そうですよ、最近のお話とかもっと聞かせてください」

 

 不満をあらわにするアイドル達にプロデューサーが困り顔で首に手を当てている。

 別にいいよ、どうせ時間はあるのだから彼女達が満足するまで相手をしてやって欲しい。

 

「ですが、私は彼女達のプロデューサーとして仕事がありますので……」

 

 前言撤回。この人は駄目な言葉を最悪のタイミングでよこしやがる人だ。

 プロデューサーの言葉を聞いた先輩アイドル達の視線が、スッと音を立てるように彼から僕へとスライドする。

 いや、だから、どうしてそこで僕にだけ視線が集まるのかと。僕が何をしたって言うんすかねぇ!? 

 

 その後は、城ヶ崎がやって来て室内の空気に「何事?!」と驚いていたり、部長さんが偉そうな人を連れて来て場の空気がピリッとしたりしたが、一応関係者との顔合わせは終わった。

 ちなみに、偉そうな人は僕の事を知っていたらしい。何で? 

 あと、未来の四文字目ってどう言う意味だろう……。

 

 

 ライブ開始まで入念に準備とチェックを進めるスタッフ達を横目に、ジャージに着替えた僕達三人は舞台裏で進行表を手に打ち合わせをしていた。

 打ち合わせと言っても僕達に何かを決定する権限は無いため、書いてあるプログラムの意味を確認するだけだが。

 

「えっと、上手と下手って、どっちがどっちでしたっけ?」

「上手がステージから見て左、下手が右ですよ」

「右手が上手で、左手が下手……」

「それは観客席から見た場合ね」

 

 今はこの後のステージ上での最終リハーサルの段取りを覚えている。僕達は踊りは憶えていても、入退場などの細かな立ち回りの方をまったく知らなかった。こればっかりは経験が物を言うだろう。慣れたら進行表だけで全て理解できるようになるのだろうか? 

 一応子供のころからアイドルになる勉強をして来ているので、基本的な知識はあるつもりだ。実際にステージに立っての動きを経験していないが、それでも二人に基礎を教えるくらいはできる。

 こういう時、一緒にステージに立つ城ヶ崎に色々教えて貰いたいけれど、彼女は彼女で曲のメインを張るわけだから僕達を教える余裕なんてないだろう。なんとか僕達だけで乗り切る必要があった。

 それよりも、先ほどから本田の顔色が悪い気がする。アイドルの楽屋に行くまでは結構平気そうな顔をしていたのに、今では先程までの覇気を感じられなくなっていた。

 

「……本田さん、どうかした?」

「え? いやっ、なんでもないよ?」

 

 様子のおかしい本田に声を掛けてみるも、何でもないとはぐらかされてしまう。明らかに何かあるって顔で言われても説得力がない。

 

「如月さんは、緊張とかしないの?」

「緊張?」

 

 なんで緊張の話が今出て来るのだろうか。

 

「もうすぐライブ本番だと思うと緊張とかしないかなって、さ」

「はぁ……なる、ほど?」

 

 客観的に自分の精神状態を考えても、今の僕はこれっぽっちも緊張していない。最終面接を乗り切った僕には、パフォーマンスを見せる状況で緊張するなんてことは今後起きないだろう。

 失敗を絶対にしないという自信がある限り、ステージ上で不安を抱く理由は僕には無かった。

 

「特に緊張することはないわね。楽しみ、という感情はもちろんあるけれど」

「如月さん凄いですね……」

 

 素直に精神状態を伝えたら島村に感心されてしまった。ただの経験値の違いだと思うけどなぁ。

 

「さっすが如月さん、色々と図太いね!」

「未央ちゃん……」

 

 僕の答えに表面上明るく答える本田だったが、顔色が悪いことに変わりはなかった。今の話の流れからすると、もしかして本田は今緊張しているのだろうか? 

 コミュ強で陽キャなのに? 

 どうやって? 

 

「ありがとう」

 

 ここで素直に「何で緊張してんの?」とか訊いたら拙いことくらいわかる。だから適当にお茶を濁してその場での会話を終わらせたのだった。

 

 

 実際にステージに立ってのリハーサルに入っても本田と、あと島村の顔色は優れなかった。音響スタッフと城ヶ崎のやり取りを見て余計緊張してしまっているように見える。

 ステージの装置を使って通しのリハーサルをするためにブーツのみ衣装の物へと履き替えた時には悲壮感すら漂わせている二人にさすがに何か声を掛けた方が良いかと思い始めた。しかし、こういう場面で緊張する人間ではないと思われている僕が余計な一言を言って怒らせてしまわないか不安だ。だから今は静観することしかできない。

 

「頭、気を付けて」

 

 一瞬ディスられたかと思ったら、ステージの奈落から飛び出す昇降装置の柵にぶつからないよう島村が注意されていただけだった。注意された当の島村は、いつもだったら大げさに慌ててみせるところを返事も無く言われるままに迫の上にスタンバっただけだった。本田の方もいつものおちゃらけた雰囲気が完全になくなっている。

 うーん……。

 

「結構勢いがあるんで、着地の時は気を付けてください……さん、に、いち!」

 

 スタッフのカウントダウンで僕達の乗った迫が昇降装置からステージまで跳び上がる。

 ほぼ人力のはずなのに結構勢いがあるね。上まで上り切ったら、その勢いのままステージに放り出されてしまった。僕は勢いをそのままに空中でバランスを取ると、そのまま足場へと危なげなく着地する。

 ……何これ、凄く楽しいんだけど。爆風で舞い上がったコンテナの蓋を足場に戦った思い出が蘇る。あの時は落ちたら死ぬと思って攻撃の手を緩めていたけれど、今なら死ぬ心配をしなくていいから決着をつけられるかも知れない。劈け僕の”嘆きの拳(スクリーミング・フィスト)”。

 

「きゃっ」

「わっ?」

 

 さて、文字通りステージに上がったことだし、ダンスをはじめよう……そう思った時に、隣から小さな悲鳴と戸惑いの声が聞こえたので顔を向けると、島村と本田が尻もちを突いている姿が目に入った。どうやら姿勢の制御が上手くいかず転んでしまったらしい。

 二人は自分達の失敗に呆然とした顔をしている。

 ……そう言えば、これの練習って僕達してなかったよね。する環境も時間も無かったけど。

 

「一旦ストップ!」

 

 僕達が入りを失敗したことで曲が止まってしまった。

 城ヶ崎を見ると僕達のハプニングを気にすることなく、きちんと自分の振付けを続けられていた。

 本当ならば僕も二人を心配する前に踊り始めなければいけなかったのだろう。リハーサルなのだから動きの確認を優先するべきだった。しかし、二人に気を取られて動き出せなかったのは完全に僕の落ち度だった。

 

「もう一回行っとこうかー!」

 

 スタッフのリテイクの声が掛かり、もう一度始めからとなった。たぶん、ここが一番練習のしどころだとわかった。

 しかしながら、その後のリハーサルでも僕達は上手く登場することができなかった。まあ、僕はできていたのだけど、二人の方が体幹をブレさせてしまい踊り始めることができなかったのだ。さすがにそれに合わせるのが間違いであるのはわかるし、ダンスと違い錯覚を利用して誤魔化すこともできない。完全に詰んでいた。

 

「もう一回できませんか……?」

「これ以上は厳しいですね」

 

 何回かリハを試みたが、何度も同じ登場シーンで失敗してしまい最後は時間切れとなってしまった。島村がスタッフにもう一度できないかとお願いするも、スタッフ側はにべもなく断り別の場所へと行ってしまう。

 後には海底よりも重く息苦しい空間だけが残された。(体験からの比較)

 

「……どうしましょうか。如月さん、こういう時ってどうしたら?」

 

 不安そうな顔をしている島村がどうしようかと話を持ち振って来る。

 

「んー、そうですね。とりあえず、この後どうにか時間を作って貰えるようお願いしつつ、私達はダンスの方だけでも合わせておくしかないでしょうね」

 

 実は僕の方はあまり深刻に考えていなかった。

 できない物はできないのだから仕方がないではないか。迫から昇降装置を使っての登場なんて普通素人がやるようなことではない。こんなライブ当日のリハーサルの僅かな時間で練習するようなものではない。

 ……というのは、自分がちゃんとできているから言えることなのかも。僕が逆の立場だったら焦っていたかもしれない。いや、それでも、この状況すら楽しんでいただろうか……? 

 アニメでも、春香達が竜宮小町がライブに間に合わない時に皆で力を合わせて乗り切ったことを思い出し、こういうのをいかに乗り越えようか考えるとワクワクしてしまう。それに、ライブ直前でのハプニングとかアイドルっぽい、などと思っている自分は不謹慎な奴なのだろう。

 

「そう、ですね。ダンスだけでも、もう一度練習しておきましょうか……」

 

 納得はしていなくても、何かしら具体的な案を提示されると幾らか安心するものである。それを狙って言ってみたのだが、島村の表情が少し和らいだのを見るにどうやら成功したらしい。

 本田の方はと言うと、会話に加わることはなく下を向いてしまっている。こちらの方が重症かもしれない。

 

「本田さんも、ダンスの練習をしておきましょう?」

「そう、だね……」

 

 返事はできる分、末期まではいっていない感じだ。

 しかし、このままでは拙いよね。ムードメーカーの本田がこれでは島村まで引っ張られてテンションが下向きになるばかりだ。

 

「如月さんはあんまり不安そうに見えませんね」

「……私は昔に似たような体験をしたことがあったから」

 

 あの体験がこんなところで役に立つとは思っていなかった。何事も経験とはよく言ったものだ。よければ今度二人も経験してみるといい。失敗すると数十トンの火薬の爆発に巻き込まれることになるけど。

 などと言える空気ではない。

 

「良いよね、自分は上手くできてるからって余裕があって」

「み、未央ちゃんっ?」

 

 ぼそりと本田の口から漏れ出た言葉はあえて聞かなかったことにした。

 こういう時にコミュニケーションの無さが悔やまれる。僕が今何か言うと絶対余計なことを言って拗れるに決まっているからだ。

 

「ゴメン、ちょっと頭冷やして来るねっ」

 

 本田はそれだけ言い残すとどこかへと立ち去って行ってしまった。たぶんトイレかな? 

 島村と二人で残されてしまった。

 何だか島村と二人っきりになるの久しぶりな気がする。初めて会った時以来だろうか。

 

「あの、未央ちゃんのことですけど……」

「ん? 本田さんがどうかしましたか?」

「……えっと、そのぉ~……怒ってないですか?」

「怒る理由がないですね」

 

 これは本音だ。僕が本田に怒る理由はない。

 本田は不安のせいで色々頭の中がこんがらがっているだけだ。だから、少し何か言葉が漏れた出た程度でそれに怒るのは間違っている。それに仲間とのぶつかり合いとかテンション上がるし。

 それすらできない相手がいるのだから。

 ぶつかり合えることは幸せなことなのだから。

 

「如月さんって、大人ですよね……」

「……そう、見えますか?」

 

 優から十歳の少女扱いされたことがあるのに? 

 なんだか最近は春香からも年下の子供扱いされている気がするのだけど、気のせいだよね……? 

 実際僕の方が一年弱年下ではあるけども、同い年ではあるんだよ。なのに春香の僕の扱いは子供のそれなのである。さすがの僕でもご飯は自分で食べられるし、体だって自分で拭けるのだ。

 

「私がそういう感情に疎いだけですよ……。それに、本田さんってまだ十五歳でしょう? ついこの間まで中学生だった子の言葉で怒るのも大人げないと思うんですよ」

「そういうところが大人だと思います。私はあまりそういうことありませんでしたけれど、もし言われたらきっと困っちゃうと思いますから」

 

 そう言えば、島村と僕も同年代だった気がする。僕が早生まれなので来年の二月までは十七歳で、島村がたぶん今年十七歳だから同い年になるのかな? 

 だから、三人の中で本田だけが十五歳で年下と考えると、余計に彼女に怒る気にならないだろう。だって双海姉妹と同い年で、高槻より年下なんだから……。

 ……え、待って、双海って中学三年生なの? 高槻が高校生ってまじで? 

 言って僕も学生だったら高校三年生だ。来年は大学生の年齢である。

 時の流れって怖い! 

 

「それに、仲間の言葉に怒っても良くないですから」

「未央ちゃんが仲間だから、ですか……」

「はい。仲間の言葉にあれこれ騒ぐのは好きじゃないんです」

 

 よく春香から765プロのメンバー同士がじゃれ合ったり喧嘩したりしていると聞かされては羨ましいと思っていたのだ。喧嘩をしたいとは思わないが、じゃれ合いとかは仲間っぽくて凄く憧れる。

 僕も346プロで本田とそういう関係が築けるだろうか。まだまだ心に壁があるので気長に仲良くなって行けばいいと思っている。

 

「あの、私は……!」

「はい?」

 

 唐突に声のトーンを上げる島村。もじもじと落ち着かない様子で体を揺らし、指を何度も組み替えている。何か言いたげな様子に、しかし内容が思い至らず首を傾げるしかない。

 あ、トイレ? 行ってどうぞ。

 

「私は、如月さんの……仲間、ですか?」

「えっ?」

 

 想定していなかった質問に言葉に思わず聞き返してしまった。あんまりこういう繊細な質問は受け付けたくないのだが。「私達友達だよね?」みたいな質問をクラスメイトがしているのを見て冷めた思い出があるから余計そう思ってしまう。

 端的に答えると、仲間ではない。

 と言うか、島村と仲間かどうかなんて考えたこともなかった。僕にとって仲間って本田くらいしか居ないから。島村を頭数に入れるという発想がそもそもなかった。

 しかし、この質問が出るということは、島村はそれを疑問に思う程度には仲間意識があったということだろうか? 

 

「……仲間、なのでしょうか?」

 

 僕は判断できない。だから、逆に訊ねてみた。島村に判断を委ねたと言ってもいい。僕はどちらでも良いから……。

 期待しないことには慣れている。

 

「私は……如月さんも、未央ちゃんのことも……仲間だと思っています。違いましたか……?」

 

 それが島村の答えだった。

 さらに違うかと訊かれてしまえば、僕は答えなければならないだろう。

 

「そう……なら、私達は仲間ね」

 

 つまり、そういうことである。

 仲間かと問い、仲間だと頷いて貰い、そこで初めて仲間だと思える関係を健全とは言わない。でも、仲間だと思った相手が実は仲間じゃなかったと知ってしまうよりは、僕の心は傷付かないで済む。

 

「は、はいっ……! 仲間です!」

 

 ただの確認行為に、大げさなくらいに島村は喜んでみせた。腹芸ができないタイプに見えるから、本心で喜んでいるのだろう。

 ……そんなに、僕と仲間になったことが嬉しいのか。

 

「未央ちゃんが戻ったら、ダンスの練習頑張りましょうね!」

「ええ、まだ直せる場所があるものね」

「前から思ってましたけど、如月さんって凄くよく見てますよね。自分でもわかっていなかった動きとか的確に指摘してくれますし。まるでトレーナーさんみたいでした」

「誰かに習うことがなかったから、見て覚えるしかなくて、それでよく見えるようになったのよ」

 

 二人っきりになったことで気まずい空気になるかと思いきや、こうして島村とアイドルの話ができるようになっていた。出会った当初のぎこちなさに比べれば驚くほどスムーズな会話ができたと思う。

 

「なるほどっ。あ、あと、ダンスの動きなんですけど──」

「ああ、そこは──」

 

 本田が戻るまでの間、僕達はアイドル話に花を咲かせたのだった。

 

 

 

 ライブが始まった。

 楽屋備え付けのモニターからライブの映像が流れているのを僕は椅子に座りながら眺めている。

 あの後、若干気まずそうな顔をした本田が戻って来たので、僕達は何でもないという顔でダンスレッスンに誘った。何もしないでいるよりはマシと思ったのか、ノリ気の本田を伴い、空きスペースでダンスレッスンを続けていた。おかげで細かい修正ができたけれど、結局本番まで登場シーンの練習をすることはできなかった。

 今はこうして楽屋でいつ呼ばれてもいいように待機状態である。

 モニターの中では城ヶ崎を筆頭に、アイドル達が晴れやかなステージを演じていた。改めて見ると、346プロのアイドルって、他所のプロダクションよりも優秀なアイドルが多いような気がする。実は765プロの続編の舞台が346プロだったと言われても信じられるくらい粒揃いだ。

 そう思えてしまうくらい、今ステージの上にいるアイドル達は皆一流としての風格と輝きを持っている。

 そんな人達のバックダンサーを今回やるわけだけど……。

 今ちょっとだけピンチだったりする。

 ずっと緊張しっぱなしの本田がライブが始まってから完全に沈黙してしまっているのだ。顔は引き攣る余裕すらなくずっと無表情になっており、顔色も心配になるくらい白く血の気が引いている。

 さすがに呆然自失となる程の緊張ではないみたいだけれど、それでも本番のステージに支障を来すレベルで重圧を感じてしまっているようだ。

 

「ライブ、始まっちゃいましたね」

 

 何の気なしに呟かれた島村の言葉を聞いて本田の肩がぴくりと動く。動くだけで何も言おうとしない。いつもの彼女なら「いよいよ本番かぁ!」なんて顔を輝かせていてもおかしくはないのに、今はそれがない。

 

「未央ちゃん、大丈夫ですか……?」

「え……? そう、かなぁ?」

 

 あまり本田の状態を理解していないらしい島村が声を掛けて、ようやく口を開いても心ここに在らずといった調子だ。それくらいしか反応を返せないところを見ると、いよいよやばいのかもしれない。

 本当は彼女のメンタルが弱いことを僕は知っていた。最後の最後に踏ん張れる程の何かを、本田が持っていないことを知っていた。だから、本来は僕や島村が本田を支えてあげるべきだったのだ。しかし、島村の方にその余裕はなく、僕の方は能天気にライブに浮かれているばかりで、本田のフォローができないままここまで来てしまった。

 今更何か言ったところで、この状況を変える言葉を僕は持っていない。逆に何かを言うことで事態を悪化させてしまうかもしれない恐れすらある。

 だから、僕は何も言わない。

 また、何も言わない。春香に何も言わなかった弱い僕が再び顔を出して来た。

 

 ──でも、仕方ないよね? 

 

 そう、仕方ない。

 だって僕は一言余計なことを言ってしまうから。それでキョウは離れて行った。言わない方が良いことだってあるんだって教えられた。

 

 ──嫌われたくないもんね? 

 

 そう、嫌われたくないから。

 何も言わなければ、本田はただ緊張しているだけで済む。ここで僕が何かを言って険悪なムードになったら、それこそライブどころではなくなってしまうかもしれない。

 

 ──痛いのは嫌だもんね? 

 

 そう、痛いのは嫌だ。

 心の痛みはずっと残る。何十年先になっても消えないことだってあるんだ。何百年後かに、今日の日を後悔する日が来て欲しくない。

 

 だから、これでいい。ある程度は未来予知の力で本田をカバーできるのだから。ライブ中は常に全力で予知し続ければハプニングにだって対応できる。そうすれば本田が不調のままでも問題ない。

 

 ──そう、問題ない。

 

 本田にとっての初めてのライブが、そんな紛い物で良いわけがないだろ? 

 

 ──。

 

 黙ってろ。今日のライブにお前の居場所なんてない。

 それまで僕の頭の中で甘い言葉を囁いていた奴を意識の底へと押し込む。ちょっと油断すると、すぐ弱い僕が出て来てしまうなぁ。

 いけないことだ。仲間の晴れの舞台を汚してしまうところだった。

 せっかくの初ライブなのだから、本当の実力で勝負させてあげたいじゃないか。それができるのは年上の僕の仕事だ。同じ年上組の島村は……今度頑張ってくれればいい。

 とは言っても、僕自身に現状の解決案は無い。どれだけ頭を捻っても何も浮かびやしないのだ。だって僕ってコミュ障だから。余計なことを言ってしまうから。

 こういう時、”如月千早”は役に立たない。全員技能特化型だからコミュニケーション能力無いんだよね……。

「お前よりはマシだ」と抗議が入った気がしたけど無視する。お前らも大概なんだよ! 

 能力で解決できないことになると、途端にポンコツになる僕である。でも、そこで諦めるわけにはいかない。駄目で終わらせたくないから。

 

「少し、席を外すわね」

 

 二人に言い残して楽屋を出ていく。

 別に逃げたとかじゃない。ちょっと電話をするだけだ。

 楽屋から出ると人の通りがない廊下の奥へと移動し、持ちだしたケータイで相手へと通話を掛ける。

 

『……もしもし、お姉ちゃん?』

 

 通話を掛けたのは優だった。

 こんな時、頼れる相手って僕には優しか居ないんだよね。コミュ強の春香に頼ると力技勧められるし……。

 

「ごめんね、ちょ~……っと、ピンチでぇ」

『うん、凄くピンチなことは伝わったよ』

 

 嘘っ? これで伝わるの? 

 流石は優だ。僕のことを何でもわかってくれる。

 

『今ライブ中じゃないの?』

「私の出番は後の方だから。それで、ちょっと本番前に問題が発生しちゃって……」

『僕で解決できるようなことかわからないけれど、お姉ちゃんが解決できないってことは、どうせ人間関係の話だろうから聞くだけ聞いてみるよ』

 

 本当に僕のことを理解してくれているね。若干引っかかる言い方なのはたぶんケータイの電波が悪いからだろう。

 

「実は……」

 

 僕が優に事情を説明しようとすると、廊下の向こう側から城ヶ崎がやって来るのが見えた。

 はて、今はライブ中では。まあ、次の出番までステージに上がらないのだから自由にするのは問題ないのか。

 城ヶ崎は僕が廊下に居るのに気付くと、笑顔で手を振って来た。慣れているのか緊張した様子は見られない。

 電話中ということもあり、深めに会釈だけ返す。

 そのままこちらに来るかと思いきや、彼女は本田達の居る楽屋の中へと入って行ってしまった。

 僕達に何か用でもあるのだろうか? 案外、激励でもしに来てくれたのかも知れない。あれで本田達には後輩想いの先輩としての姿を見せているからね。

 

『お姉ちゃん?』

「あ、ごめんなさい。ちょっと先輩の方が通ったから。で、事情なのだけど……」

 

 待たせてしまった優へと謝ると、改めて事情を説明した。

 リハーサルで迫を使っての登場が上手くいかなかったこと。本番前にバックダンサーの一人が緊張で不調になっていること。その相手と少しぎこちなくなってしまったこと。あまり上手く説明できた自信はないけれど、可能な限り優に詳細を伝えた。

 僕から事情を聞きながら、優は合間に幾つか質問を挟んで来た。僕にはその質問の意味がわからなかったけれど、優の方が人間関係の性能は良いので素直に答えた。

 やがて事情を説明し終わると、優は何か納得がいった感じで「なるほど」と呟く。

 

『解決方法だけど……』

「うん、うん。何があるかな? 私は何をすればいい? なんて言えばいい?」

 

 もう答えが出ちゃったの? 

 凄いなぁ優は。僕なら千年あっても無理だわ。

 焦る気持ちを抑えて優の答えを待つ。

 

『解決方法は無いよ』

「え゛」

 

 予想外の答えに喉から変な音が出てしまった。

 

「待って、解決できないくらい絶望的な状況なの? 本当に、何もないの?」

『無いよ』

 

 優なら何か良い案があると思っていたから、何も無いという答えに何かないかと食い下がるも、優から出たのは同じく無いという絶望的な物だけだった。

 

「そう……何もない、のね」

 

 優への失望感は無い。元から当事者の僕に解決できない事態を部外者の優に頼ることが反則だったのだ。それで解決方法が無いと言われて失望するなんて理不尽過ぎる。

 むしろこんな話を根気よく聞いてくれただけでも大助かりだ。

 

「ごめんね、変な質問しちゃって。話を聞いてくれてありがとう。それじゃ、もうそろそろ時間だから──」

 

 最後に優の言葉が聞けてよかったと思う。それだけでも電話した甲斐はあった。本田の方は島村と二人で何とかフォローしよう。

 失意を抱いたまま、優との通話を終えようとする。

 

『僕に解決策は無いけれど、お姉ちゃんにはあるんじゃないの?』

「──え?」

 

 通話を終えるぎりぎりで耳に届いた優の言葉──、それはまさに想定外のものだった。

 問題の根底として、僕に解決策は無い。だってコミュニケーションの話だから。その分野に僕が活躍する余地はない。

 ずっとそうだった。これまでも、そしてこれからも、ずっと……それが現実だと思っていた。

 

「だって、私には何もしてあげられないわ」

『何もしなくていいよ』

「何もしなくていいって、解決策は私にあるんでしょう? でも、何もしなくていいって、どういうこと?」

『お姉ちゃんは何もしなくていいんだよ。ただ、今の気持ちを伝えるだけでいいはずだよ。きっと、それだけでその人は大丈夫になると思う。たぶんだけど……』

「伝えるって……」

 

 気持ちを? 

 どうしてそんなことをする必要があるのだろうか。いや、それをしてどうなるのだろうか。

 よく意味がわからない。

 

『その人はきっと不安に思っている。でも、それってライブに対してだけなのかな?』

「それは、そうなんじゃないの? ライブで緊張しているから、あんなに不調になっているのだろうし……実際、ガチガチだし、いつもと様子も違うし」

『お姉ちゃんが言うなら、そうなのかもしれないね。でもね、きっとそれだけじゃないよ。その人は、今、ライブを一人でやろうとしているんじゃないかな』

「一人でライブを?」

『なんだか、その緊張しちゃってる人って、一人で背負いすぎている気がするんだよね。それでいてお姉ちゃんに刺々しい態度見せているみたいだし?』

 

 今の説明でそこまでわかるの凄すぎひん? 

 

『だから、お姉ちゃんがその人をどう思っているのか、きちんと言葉で伝えるべきだと思う。あと、もう一人の人にもね。そうすれば、その人はお姉ちゃんをちゃんと見てくれるから。一人じゃないと理解すれば緊張もましになるんじゃないかな?』

「そんなこと……」

『できない?』

 

 できないかと訊かれたら……できないと思う。

 

「だって、私の言葉は相手を怒らせちゃうから」

『……』

「余計なことを言っちゃって、相手を怒らせるのが私だから。一言多い私は、いつだって失敗して来たから。だから言えないわ」

 

 余計なことを言って、「もういい」と切り捨てられることが怖い。

 

『伝えたいの? 伝えたくないの?』

「伝えたいけど。それは今でもなくていいというかぁ。いつかどこかで、言葉を勉強してからでも遅くないと思うんだよねぇ」

『明日やるって言ってやらないタイプでしょ、お姉ちゃんは』

「明日やるとすら言わないタイプよ」

『駄目さを上乗せしないでよ……』

「それに、私が何か言っても、でしょ? 伝わるかわからないし、伝わっても仕方ないし……だし」

 

 伝えたところで何になると言うのだろう。

 

『言いたいことを言わないと、伝えたいことが伝わらないよ。言わなくても伝わるだなんて、甘えなんだから』

「……でも、だってぇ」

 

 わかってあげられなかった僕が、言わないと伝わらないなんて言ったらズルいじゃないか。

 言わなかったことが悪いなんて思ってしまったら、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

『それにさ、お姉ちゃんは一言多いって言っているけどさ……』

 

 うじうじと悩む僕に、電話の向こう側の優が若干呆れが混じった声で告げた。

 

『お姉ちゃんは一言多いんじゃないよ。一言足りないんだよ』

 

 ……ほわっと? 

 

「一言……足りない?」

『そう、一言……二言、三言かもしれないけど。とにかく、お姉ちゃんは言葉が足りないと思う』

 

 ずっと僕は一言多いのだと思っていた。だから余計なことを言って相手を怒らせていたのだと、そう思っていたのに……。

 今、優から認識外の言葉を告げられた。

 

「足りない……」

『うん、足りてないね。余計なことも言うけれど、根本的に足りてないよ。それじゃあ、相手に正しく伝わらないって』

 

 ……。

 ……。

 ……そう、だったのか。

 

「私は……一言足りていなかったのか……!」

 

 僕は一言足りなかった。

 ずっと一言多いと思っていたから。余計なことを言って、相手を怒らせて来たのだと思って来たから。だから、何も言わないことを選んで来たのだから。

 前に優に何をして欲しいのか言って欲しいと言われた事を思い出す。言わなければ伝わらないって、あの時わかっていたはずなのに……。

 優に言われて気付かされた。

 

「衝撃の事実だ」

『僕としては、自覚が無かったことの方に衝撃だけど。でも、そっかぁ……一言多いと思ってたのかぁ』

「……また、優に教えられちゃったわね」

『お姉ちゃんは人間関係の学が浅いからね』

「ふ……マグル学、落第しているから」

『いつ魔法学校に通っていたのさ』

「スリザリンは嫌だ、スリザリンは嫌だ、スリザリンは嫌だ……”ハッフルパフ”!」

『その組み分け帽子、不良品だよ。寮生が可愛そうだから、大人しくグリフィンドールに行ってなよ』

 

 僕がグリフィンドールに行ったら一年目でスリザリン生が全員失踪ルートだよ。逆もまた然り。

 

「私……伝えたいことを伝えることにするわ。それで怒られたら、その時は言葉を尽くして謝る」

『うん、それがいいよ。怒られちゃうこともあるだろうけど、伝えられないまま終わるよりは良いと思うから』

 

 伝えられずに終わるのは辛い。あと一言、それだけでも相手に伝わっていたら……変わっていたのだろうか? 

 キョウは今も友達で居てくれただろうか。

 

「ありがとう。私は今まで言えなかった一言を伝えることにするわ」

『うん』

「さすがは優ね! 私のことを何でも知っていると言っても過言ではないわ。大好き、抱いて!」

『一言余計だよ』

 

 優に通話を切られてしまった。何でだい!? 

 ちょっとしたジョークじゃないか。一言多すぎたとしても謝る余地すらないとか、今までのやり取り全部台無しじゃないか! 

 でも、好き! 

 

「……ありがとう、優」

 

 もしも、優が居なければ僕が足りない言葉のせいで伝えられないままだっただろう。それで失う関係があっただろうし、修復できない亀裂を生んだかもしれない。

 でも、僕は一言を伝えることを知った。一言多いせいで怒られるんじゃなくて、一言足りなくて伝わらなかったことを自覚した。それでも余計な一言を言っているのは先程のやり取りでわかったが……。

 とにかく、本田と島村には、今伝えないといけないことができた。

 

 楽屋へと戻ると城ヶ崎の姿はすでになく、不安そうな表情を浮かべた本田達が居るだけだった。

 

「あ、如月さん……」

「お待たせ、二人とも」

 

 心なしか不安度が増している気がする。何かあったのだろうか? 

 

「どうかしたのかしら?」

「いや、ただ……どうしようかなって」

 

 本田の表情は暗い。まだライブの不安は払拭できていないようだ。

 当然か……迫の問題もあるし、それ以外にも初めてのライブということもあって緊張しないわけがない。

 

「スタンバイお願いします!」

 

 スタッフからそろそろ城ヶ崎のソロ曲が始まると告げられる。僕達も舞台の方に行かなければ。

 でも、その前に伝えないといけない一言があった。

 

「あの、二人とも……少しだけ、聞いて貰えないかしら?」

「えっと、でも、スタンバイ掛かってるけど……」

 

 僕が話を切り出すと、本田が戸惑った声を上げる。このタイミングで話とか言われても困るだろう。

 

「…………でも、これだけは伝えておきたいから」

 

 いつもの僕だったら、ここで「じゃあ、いいわ」と終わらせていたことだろう。また余計なことを言ってしまったと後悔して。

 でも、今は違う。ここで怖気づいてしまったら何も変わらない。

 伝えたい一言があるから。

 

「ごめん……私は今、それを聞く余裕がないや。如月さんと……違うから」

 

 申し訳なさそうな顔をしながらも、本田は僕の願いを断った。

 余裕がないから、と。

 僕と違うから、と。

 

 やっぱり、駄目なのかな……。

 もう伝えることすら叶わないのかな。伝える機会すら失った時はどうすればいいのだろうか? 

 

 それ以上言葉を紡げない僕から視線を外した本田が楽屋から出て行こうとする。

 

「如月さんの話を聞きませんか? まだ、少しなら時間がありますから」

 

 しかし、それを島村が止めた。そっと本田の前に立つようにして行く手を遮るように立ち塞がった。

 

「しまむー……」

「それに、私は如月さんが何を言いたいのか知りたいです」

 

 島村は僕の話を聞く言ってくれた。さらに、本田の説得もしてくれた。

 良い子だと思う。本当に。

 出会った時から知っていたことなのにね。

 

「如月さんは、私達に何を伝えたいんですか?」

 

 いつものと違い真剣な顔の島村に問われたことで、僕も覚悟を決めることにした。

 ここまでお膳立てしてくれたのに退くわけにはいかない。

 

「もしかしたら、今から言うことは……二人にとって大きなお世話かも知れないけれど……」

 

 これは、もしかしたら余計な一言かもしれない。

 

「ずっと言いたかったことがあったの。前から伝えたくて、でも、ずっと言えなくて今日まで来てしまったわ」

 

 今更言う言葉でもないし、今言う言葉でもないし、わざわざ言う言葉でもないのだけれど……。

 

「それでも、今聞いてほしいから」

 

 僕は今、伝えたかった。

 

「ありがとう」

 

 これが、僕が二人に伝えたかった言葉だ。

 

「私の話を聞こうとしてくれてありがとう。一緒にご飯を食べてくれてありがとう。気遣ってくれてありがとう」

 

 この短い付き合いの中で、たくさんのありがとうの気持ちができた。

 

「仲間だって、言ってくれて……ありがとう」

 

 ずっと、仲間が欲しかった。自分と一緒に歩める──歩んでくれる人が欲しかった。

 アイドルになって、仲間を作って、一緒に歩いて、一緒のステージに立つことが夢だったから。

 だから、

 

「二人のおかげで、夢が、叶いました……」

 

 だから、ありがとう──。

 

「……」

「……」

「それだけ、伝えたくて……」

 

 沈黙する二人に申し訳ない気持ちになる。きっと、二人には唐突に感謝を告げて来た僕の心の中身は理解できないだろう。

 でも、伝えたい言葉が伝えられた。それだけで僕は満足だった。

 言えてよかった。

 

「ごめん、如月さん」

 

 やがて、沈黙を破ったのは本田の謝罪の言葉だった。

 謝罪の言葉の意味はわからない。でも、やはり余計な一言だったか……。

 顔を俯け、手を強く握りしめる。

 

「ずっと、如月さんのこと誤解してた」

 

 その手を温かい感触が包み込んだ。

 

「え……」

 

 顔を上げると、目の前に本田の顔があった。その顔は、今さっきまでの緊張に強張った物と違い、申し訳なさそうに眉を傾け、薄っすらと涙を浮かべて瞳を揺らしている。

 その本田が僕の手を握ってくれていた。

 

「緊張していた私より手冷たいじゃん……私、結構嫌なこと言ってたよね……緊張とかもあったけどさ、ずっと如月さんは自分一人だけでアイドルをやれると思っているんだって、そう思ってた。だから、変な所で突っかかってたんだ……でも、違ったんだね。ちゃんと、仲間だって思ってくれてたんだ」

 

 昔の僕はそうだったかも知れない。765プロの皆を仲間だなんだと言いながら、本心では一人でどこまでも行けるものだと勘違いしていたから。

 でも、今は違う。僕には仲間が必要なんだ。色々と失ったことで、そう強く思うようになった。

 

「私は……如月さんは凄く強い人だと思ってました」

 

 今度は島村が、本田の手に合わせる形で僕の手を握る。

 

「いつもどこか遠くを見ている気がして。それが私達が見ているものより遠いものに感じて……きっと、如月さんに私達は必要ないんじゃないかって思ってました。でも、話している時とかに、凄く心細そうな顔をしていて、どうしてだろうって思っていたんです。そしたら、さっき私に仲間かどうかわざわざ訊いて来たから、この子は人との付き合い方が不安なんだってわかりました」

 

 やはりバレていたらしい。

 というか、島村からも「この子」扱いなんだね僕って。一応学年としては僕の方が年上よ? 

 

「だから、聞けて良かったです。今まで如月さんにして来たことが、如月さんにとって良い事なんだって知れて良かった!」

「島村さん……本田さんも……ありがとう」

 

 伝わった。

 まだ、一つの言葉だけだけれど、僕の言いたいことが二人に伝わってくれたことが嬉しかった。

 

「っ~~──よーし!! 気合入って来たっ!」

 

 本田が元気よく腕を上げた。声の感じからして、まだ空元気っぽくも感じるけれど、いつものテンションに戻ったようだ。

 

「はい! 島村卯月、頑張ります!」

 

 負けじと島村の方も気合を入れている。

 

「私も、最善を尽くすわ」

 

 僕だって、二人と一緒に頑張るんだ。

 

 

 

 何とか本番前の緊張を解いた二人を伴い、ステージ裏へと向かう。

 

「お、来た来た……。どう、緊張はとれた?」

 

 そこで待っていた城ヶ崎が声を掛けて来る。どこまでも他人事な言い方だ。

 

「ええ、おかげさまで」

「はいっ、ばっちりです!」

「ご心配をお掛けしました!」

 

 僕はともかく、二人は城ヶ崎を慕っている気があるから、今は城ヶ崎の態度がありがたく思える。

 

「みなさーんっ、どうですかっ!? 元気ですかーっ?」

 

 ただでさえ響く場所で大声がさらに耳に突き刺さる。こんな時と場所を考慮しない声量の奴というだけで相手が誰かわかる。

 見れば、日野と小日向がこちらに駆け寄って来るのが見えた。どうやらステージの合間を縫って来てくれたらしい。

 一応先輩としてフォロー入れてくれる気はあるんだよね。

 

「出る時の掛け声は決まっていますか?」

 

 小日向がアドバイスなのか何なのかよくわからないことを言って来た。

 

「か、掛け声ですか……?」

「あった方がいいですよ!」

「好きな食べ物とかどうですっ?」

 

 やけに掛け声を推して来るなぁ。ライブ前に掛け声が必要という文化はアイドル界隈で共通の文化なのだろうか。

 そんなもの決めるなんて聞いてないのだが。あと、食べ物の掛け声ってどうよ。外と中を同時に攻撃しないといけないの? 

 もっと普通のにしようよ。

 

「生ハムメロン!」

 

 と思ったら島村が速攻で食べ物を叫んでいる。そして生ハムメロン!? 

 

「ふ、フライドチキン!」

 

 本田もか。さっきまでのガクブルが嘘みたいにノリノリじゃないか。

 そして二人が僕の方を期待を込めて目で見て来る。やれってことか……。

 

「野菜炒め」

「うん、知ってた」

「あはは……本当に好きなんですね」

 

 言えって言うから言ったんだがぁ? 

 そんなこと言ったら君達のフライドチキンも生ハムメロンも大概だからね? 

 野菜炒め馬鹿にするなよ。凄く美味しいんだぞ。

 

「それじゃ、ここは公平に、ジャンケンで勝った人のを掛け声にするっていうのはどう?」

「あっ、それ良いですね!」

「ソウネ、コウヘイネ」

 

 ジャンケン……。

 昔なら、ジャンケンと言えど勝負事にテンションを上げていただろう。しかし、今ではジャンケンはボーナスステージでしかない。勝率百パーセントの勝負に熱くなれない。

 これが強き者の孤独というやつか……。

 なんて、ジャンケン相手に強者の孤独を感じる程度には余裕がある僕であった。

 

「ふーん、さっき楽屋に顔出した時とは全然違うじゃん」

 

 僕達のやり取りを見ていた城ヶ崎が感心半分、戸惑い半分で口を挟んで来た。

 そう言えば何でさっき楽屋に来たのか聞きそびれていたことを思い出す。

 

「そう言えばさっき……」

「ねっ、何か緊張を解すきっかけでもあったの?」

 

 何をしに来たのか訊ねようしたら、逆に質問を被されてしまった。

 まあ、大して知りたいわけでもないからいいけど。

 

「ええ、ただちょっと……」

 

 何と言えばいいのか迷う……。

 僕達が軽くギスっていたことを伝えるわけにもいかないので、そこははぐらかして適当に教えておこう。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()……色々と、伝えただけです」

 

 こんな感じで納得してくれないだろうか? 

 

「……」

「……」

「……」

 

 僕の答えを聞いた城ヶ崎が黙り込む。

 なぜか彼女だけではなく、近くで話を聞いていた日野と小日向も口を閉ざしてしまった。

 

「じゃ、いくよー……じゃんけん!」

 

 空気にそぐわぬ明るい本田の掛け声が静寂の中響いた。

 勝負の結果は言うまでもないだろう。

 

 

 

 

 

 

 ステージ下まで来た僕達は迫の上にスタンバイするとお互いに視線を交わした。

 先程までの不安な顔は二人には見られない。僕だって無表情ながらやる気に満ちている。

 

「行けるわね」

「もちろん」

「はい、大丈夫です」

 

 やる気は十分。気力も充電済み。

 あとは勢いで押し切るのみだ。

 

「いきます! 五秒前、よん、さん……」

 

 スタッフのカウントダウンが始まる。

 

「「「野菜──」」」

 

 残り二秒というところで、僕達は先程決めた掛け声を合わせて口にする。一回目なのに不思議とタイミングが合った。

 そして、昇降装置から一気に上昇する。

 

「「「炒め!」」」

 

 迫から飛び出すタイミングで、先程決まった掛け声を三人で叫ぶ。

 

「なんだこの掛け声はー!」

 

 しかし、それが野菜炒めなのは正直ダサい。僕が言う権利はないけど。

 とりあえず、隣の本田が自分の掛け声にセルフ突っ込みを入れているのは無視をして、初めて見るステージからの光景へと目を向けた。

 

「へぁ……!」

 

 それは、想像していたものよりも、とても輝いて見えた。

 たくさんの客が一人一人ペンライトを持っており、その光が目の前一面に広がっている。

 目を凝らせば全員の顔を識別できる僕だけど、今は彼または彼女らを全体として見ることを選んだ。

 

「あ……」

 

 声も出ないくらいの衝撃。息ができないくらいの感動。涙が出そうになるくらいの喜び。僕が長い間忘れていた、心の底から溢れて来るような熱い気持ちが身体を満たす。そう錯覚してしまうくらい、この光景は鮮烈かつ衝撃的だった。

 

「わあっ……」

「すっごい」

 

 二人も目の前の光景に魅入っている。

 一度目にしてしまえば誰だって焦がれるようになる。これ以上の価値ある景色があるだろうか。そんな疑問を挟む余地がない程に、この景色は黄金色に輝いて見えた。

 枯れた涙腺から涙が滲み出そうになり、慌てて情動ごと飲み込んだ。せっかくの晴れ舞台を涙で汚すわけにはいけないから。

 

 春香や他のアイドル達はみんなこの光景を見ていたのだろうか? 

 バックダンサーの身ですら震える程の感動を覚えるというのに、この歓声を、この視線を、全て自分に集められたらどれだけ感極まるのだろうか。想像しただけで……想像できないくらいに心が震えるはずだ。

 頭の中の如月千早が、自分のライブはもっと凄かったとドヤっているのは無視をする。

 

 着地はそれまでの失敗が嘘の様に危なげなく成功した。

 

 そして──、

 

 曲が始まる。

 

 初めてのライブが始まる。

 

 僕のアイドルが始まる。

 

 

 曲の開始とともに城ヶ崎がステップを踏み始める。

 今回僕達がバックダンサーを務めることになった曲は、城ヶ崎の代表曲である『TOKIMEKIエスカレート』だ。ポップな曲調にモテ系女子特有の面倒くさい上から目線の恋心を綴った歌詞がキャッチーで城ヶ崎ファンは当然、世の女の子にも人気の曲だ。僕だったら絶対歌えないであろうスウィートな歌を城ヶ崎は可愛く、時に格好良く歌えている。こうして見ると、パッション属性ってキュートもクールも行けるから歌の幅が広いよね。歌を武器にする者としては意識してしまう。同じパッション属性として城ヶ崎は参考になった。

 

 城ヶ崎の歌ばかりではなく、僕達バックダンサー組にも意識を向けよう。

 曲の出だしは、メインである城ヶ崎を目立たせるためにでしゃばらず、それでいてスタートダッシュを決めるように勢いよく始まる。

 躍動的な体の動きと流動的な手足の振り付けは、綺麗に合わせるとそれだけで見栄えが良くなる。僕達が一番気を遣い、一番苦しんだパートだ。新人というのもあるが、僕達の纏う空気は各々違う。それを違和感なく合わせるのは動きを合わせるよりも難しい。誰かが突出して目立ってもダメなのだ。

 シンクロパートから個別パートへと移動する。センター役の島村が城ヶ崎と動きをシンクロさせながらダンスを魅せ、左右の僕と本田がポージングを決めて、ダンスの動きを際立たせる役を熟す。

 そこから順繰りに城ヶ崎と動き合わせて踊る人数を増やしていき、最後は全員同じ振付けになってから最初のBメロへと移行する。

 ここまでくれば後は大丈夫だ。何度も練習した馴染みのステップを仲間と一緒に踊るだけである。

 ちらりと舞台袖を見れば、プロデューサーが安堵の溜息を吐いているのが見えた。うん、やっぱり出だし部分のデキを心配していたらしい。これで上手くいかなかったらプロデューサーの責任になっていたかもしれないと思うと上手くできてよかったと思う。

 改めて観客席の方に目を向けると、シンデレラプロジェクトのメンバーの姿が見えた。前川達をはじめ、あまり話したことがないメンバーも全員駆けつけてくれたらしい。

 杏ちゃんも居るじゃん! 

 いえーい、杏ちゃん見てるー? 来てくれるなんて意外だったよー。

 ぜっったい来ないと思ってたわ。

 

 ああー、楽しいなぁ。ライブが楽しくて仕方がない。仲間と一緒に立つステージが、こんなに気持ちがいいものなんて、体験しなければ知りようが無かった。

 ステージに立つアイドルと、それを支えるスタッフ達、ライブの計画を進めた運営や、協力会社の人……そして、ライブを楽しむ観客達。みんなが作った今日のライブだから、僕は最後まで気を抜かずに、そして精一杯楽しむことにした。

 

 

 

 それは最後のサビの後、コール直前で起こった。

 

 全員で体を使って、”TOKIMEKI”のアルファベットを観客のコールとともに順番に作って行くパートなのだが、そこで本田の足の運びと島村の立ち位置が予定と違ったのだ。

 だが、これは別に間違いというわけではない。あくまで今回決めたパターンから外れているだけで、振付自体は合っている。ただ最終的にこれにしようと決めたものと違うだけだ。

 最終チェックでは別の動きにすると決めていたはずなのに、いつの間にこっちのパターンに変更になっていたんだ……。まさか、さっき城ヶ崎が楽屋に来た時に? 

 問題は、二人の方の動きがきちんと合っているということだ。つまり、僕だけが違う振り付けを踊っていることになる。

 

 僕だけが動きが違う。

 

 観客からは僕がミスしたように見えるだろう。

 

 ……このまま踊ればだけど。

 僕は二人の振り付けが違うことを予測していた。ほんの数秒先で二人が違う動きをするとわかっているので、それに合わせて踊ればいいだけだ。

 パターン……この場合パターンBと呼ぼうか、予定とは違う動きに合わせて僕も立ち位置をパターンBにして踊った。

 何も問題はない。

 ステージ上の僕にイレギュラーは存在しない。全ては予定通りだ。

 ターンで戻って来る本田と危なげなくすれ違う。これがもしパターンAのままだったら正面からぶつかっていただろう。

 目だけで本田を見ると必死ながらも心から楽しそうな顔で踊っている。

 島村も同様だった。

 ……ならば、何も問題はない。

 だから城ヶ崎、貴女はライブに集中してくれ。

 こちらを驚愕の表情で見ている彼女へ視線を送る。

 

「……っ」

 

 まだライブ中であることを思い出したのか、城ヶ崎はハッとした顔でライブへの集中を取り戻していた。今がコール中で良かったね。

 

 その後は特に問題もなく無事に踊り切る事が出来た。

 途中ヒヤリとした場面はあったけれど、僕達の初めてのライブは大成功に終わったと言って良いだろう。

 

 

 

 

「全プログラム終了でーす!」

 

 スタッフの合図とともに関係者一同が集まった控室で歓声が上がった。

 今回ライブのために尽力した人間全員での打ち上げである。もちろんバックダンサーである僕達も参加することになった。まあ、メインは城ヶ崎達アイドルとスタッフの方々だけど。それでも今日のライブに参加した一員として気兼ねなく打ち上げに参加することができた。

 

「やったね! 初ライブ、大成功!」

「はいっ。やりました! みんなで力を合わせた結果ですね!」

 

 本田と島村はライブが終わって緊張から解放されたためか、テンションが高い。かく言う僕もテンションが上がっていた。だって、ライブの打ち上げとか初めての体験だし。

 

「本当に良かったわ。二人と踊ったライブ、ずっと忘れないから」

「最終回みたいな言い方しないでよ。これからもっと一緒にステージに立つんだからさ!」

「そうですよ。色々なライブに出ましょう。今度は私達がメインので」

「おおっ、バックダンサーの次はメインとか、しまむーは野望持ちですなぁ」

「ええっ!? 違いますよ、ただ二人とまたライブに出るならって思っただけですってば~」

 

 じゃれ合う本田と島村を眺めながら、今回の二人の頑張りを思い返す。

 素人同然だったところから始めたダンスを、この僅かな期間できちんと踊り切るまでに習熟してみせたのは二人が頑張ったからだ。僕みたいな一度見た動きを再現できるなんてズルを二人は使えないから、この結果は純然たる努力によるものだ。

 

「ありがとう」

「えっ、それは何の感謝?」

「いえ、ただ、頑張った二人が凄く尊くて……」

「あはは、なんですかそれ」

 

 つい口を突いた感謝の言葉に耳ざとく反応されてしまい困ってしまった。別に深い意味があったわけではない。単純に今の気持ちを素直に表現しただけだから。

 

「お疲れさまでした」

 

 ずっと挨拶回りをしていたプロデューサーがやって来た。途中アイドル達に捕まっていて大変そうだったけど、何とか振り切ってここまで来てくれたようである。

 何でわかるかと言うと、彼の背後に不満そうな顔のアイドル達が並んでいるからだ。そこから少し離れた場所から佐久間が手を振っているのが見えた。意味は不明だ。

 

「プロデューサー、ライブに出させてくれてありがとうございました」

「今回、如月さんの出演は私の方で決めてしまったようなものでしたので……もしかしたら不本意だったのではないかと思っていました」

 

 僕のライブ参加はプロデューサーの判断に一任してしまっていたから、もしかしたら彼が気にしているんじゃないかと思っていたのだけど、案の定、僕が不満に思っているのではないかと気にしていたらしい。だから、そんなことはないときちんと伝えることにした。

 

「いいえ、プロデューサー……私はライブに出られてとても嬉しかったです。だから、ありがとうございました。私の夢を叶えてくれて……」

 

 夢を叶えてくれたプロデューサーには感謝しかない。

 

「そう、ですか……よかった。……いえ、とてもいいステージでした」

「プロデューサー?」

 

 一瞬だけプロデューサーの鉄面皮がズレたように見えたが、次の瞬間にはいつも通りの強面に戻っていた。

 少しだけ見えた彼の素顔に、僕の記憶の奥底の何かに引っかかる気がした。

 

「如月さん!」

「え、何事!?」

 

 記憶を引き出そうとしたら後ろから本田と島村に抱き着かれてしまい記憶が霧散してしまう。

 

「やりました! 私達初ステージ無事成功しました!」

「なんかもう、全部がキラキラしてたっ。アイドルってやっぱり最高!」

 

 二人とも今になってから感極まってしまったらしい。僕はステージの上でテンションの最高潮に達してしまっていたので今はわりと平常運転である。

 やはり陽キャの二人のテンションには僕みたいな奴は付いていけないらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 さて、ライブの本番は終わった。後片づけも、反省会も、皆と喜びを分かち合うのも終わった。

 

 だから、こっちの本番も始めよう。

 

 すっかり撤収作業も終了し、誰も居なくなったステージ会場に僕はやって来ていた。

 本来会場内は照明が落とされているはずだというのに、ステージの上だけがライトアップされている。

 

「やっぱり、来ちゃったか……」

 

 スポットライトの当たるステージ、その中心に、いつも通りの笑顔を浮かべた城ヶ崎が立っていた。




千早「真のアイドルは眼で殺す!」

コミュ障を理由に言わないことを選んでいた千早が、今回伝えることを覚えました。それでもある程度心を許した相手にしか言えませんが、一言足りないことを自覚したのは大きな前進ですね。
一言余計な方はいつか直るといいですね。
アルティメットなアイドルの卵編から一言足りないせいで周りを振り回していた千早ですが、足りていたらもう少し人間関係拗れなかったかもしれません。

今回のMVPも優が持って行きました。大概彼も万能ですよね。コミュ障の姉と生まれた時から付き合い続けているため、生来の高スペックと合わさりコミュニケーション魔人になっています。安楽椅子探偵ならぬ安楽椅子コミュアドバイザー。
困った時に頼る相手がいることがこちらの千早の強みです。原作千早は765プロのアイドル達と打ち解けるまで一人でしたから、こちらの千早は誰かに頼る思考があります。
仲間になったと思った千早と、仲間だったと確認できた島村。凄く危険な綱渡りの言葉の応酬。ここは一言追加していたら破綻していたかもしれません。
傷付け合わなければ直す仲すらありませんから、千早の言葉が相手に届くようになったことがどう人間関係に影響するか、見どころです。


ライブシーンでは予知能力がなければ千早は失敗していました。
本当に千早のルーサーは使い勝手が良い能力ですね。一番アイドル向けです。この先、ダブルやペルソナが活躍することはあるのでしょうか。
エルダーとアプレンティスはすでに使用中。






日野茜について。
なんでしょうね。たぶん城ヶ崎や高垣ほど拗れてないです。その分直接的な対応を求められます。陽キャな時点で千早には毒なのである意味一番厄介なタイプでしょう。
早く本田と高森と組めばよいよ。

小日向美穂について。
えー、四天王!?
早く島村と五十嵐とよいよ。

川島瑞樹について。
オイオイオイ、あいつ四天王だわ。
早く高垣とよいよ……オイオイオイ。

佐久間まゆについて。
作中で千早が評したままです。佐久間にまゆPが居る時点で千早と佐久間は争いません。互いに相手の大事なものに触れないため争いが生まれません。その代わり仲良くもなりません。
あと、佐久間は千早を同士だと勘違いしています。城ヶ崎達はちょっと佐久間の価値観的に相容れない感じです。罪悪感を抱いている時点で同士足りえない。
千早の強みはアニメやゲームの原作知識のおかげでPの視点を理解していることでしょうか。「Pが好きなアイドルがいてもいい」という価値観があるため、佐久間からは罪悪感の無いように見えています。「Pを好きになるアイドルがいてもいいが、自分はそういう気持ちは持ってないよ」が伝わっていない悲劇。

バックダンサー「なんか人間離れした容姿の子がバックダンサーとして現れた件」
今回のバックダンサー達はプロのダンサーやダンサー志望者もいれば、アイドルの経験値稼ぎとして参加したダンス特化アイドルでした。そんな中に現役のアイドルが現れたら受け入れる人が大半の一方で、微妙な空気になる人もいます。しかし、千早の登場でそんな空気もぶっ壊れました。致命的に引き立て役に向かない容姿に、バックダンサー陣はなんでこんなの採用したんだと思ったことでしょう。こんなのが自分達と同じバックダンサーとして参加するのですから、本田や島村のことを気にしている余裕なんかありません。

偉そうな人
たぶん偉い人。千早の話を聞かされている人。つまり千早側の人。



次回、アルティメットな初ライブ最終回。

ライブなんてものは前哨戦でしかありません。積み上げた努力と能力をフルに使えば千早に物理的な障害は問題ありませんから。
だからこの後の城ヶ崎との決着こそが、この章の本番です。
誰かと真っ向から向き合うことの難しさを千早は知ることになります。
殴り合いでどうにかなる世界に生まれてさえいれば……!





以下、もしも千早が一言多く(言い方を変えて)言葉にしていた場合のルート分岐パターン

アルティメットなアイドルの卵その1
ルートA
千早「春香、すぐに部屋に上がりましょう」

ルートB
千早「春香、体調が悪いように見えるわ。すぐに部屋に上がって休んだ方がいいわよ」
春香「ううん、体調は悪くないよ」



アルティメットなアイドルの卵その2
ルートA
春香「じゃあ当然城ヶ崎さんのことは……」
千早「まったく知らないわね」

ルートB
春香「じゃあ当然城ヶ崎さんのことは……」
千早「私はずっとアイドルの情報が入らないような生活をしていたから、どれだけ有名な人でも知らないのよ」
莉嘉「(えっ、入院とかしてたのかな……じゃあ、仕方ないのかも)」



アルティメットな初仕事その1
ルートA
ルキトレ「どうかしましたか?」
千早「いえ、想像していたよりも若い方だったので驚いてしまって……」

ルートB
ルキトレ「どうかしましたか?」
千早「いえ、トレーナーの方ってもっと年配の方をイメージしていたので。凄く若い人が現れて驚きました」
千川「ああ、他のプロダクションだと現役を引退した方が務められていることもありますけど、うちなんかはトレーナー専門の人を雇っているんですよ」




アルティメットな初仕事その2
「プロデューサー好き」→「プロデューサー好き」



アルティメットな初仕事その3
ルートA
武P「皆さんとの交流はよろしいのですか?」
千早「それは必要があることでしょうか?」

ルートB
武P「皆さんとの交流はよろしいのですか?」
千早「今は仕事中なので仕事を優先しようかと思いまして。あとできちんとご挨拶するつもりです」
本田「いやいや、今やろうよ……。ほら、こっち来なって!」



アルティメットな初仕事その4
ルートA
美嘉「……そんなにアイツの許可が大事?」
千早「大事です。城ヶ崎さんには関係が無い話ですが、私にとって、あの人の判断は絶対なんです」
美嘉「そうやってっ……!」

ルートB
美嘉「……そんなにアイツの許可が大事?」
千早「大事ですよ。私にとって、あの人の判断は絶対なんです。城ヶ崎さんもプロデューサー(美嘉P)にやれと言われたらやるし、駄目と言われたらやらないでしょう?」
美嘉「えっ、そりゃプロデューサー(武P)に言われたら何でもやっちゃうかもしんないけどさ……」
千早「でしょう?」
美嘉「うん……」



アルティメットな初ライブその3
ルートA
三村「如月さんって友達想いなんだね。最初の印象だと、他人を拒絶するタイプなのかなって思ったから少し意外かなって」
千早「いえ、友達ではないですよ?」
三村「え?」
千早「本田さんと島村さんは同じプロジェクトの仲間ですが、別に友達でもなんでもありません」
三村「え……でも、あんなに仲良しに見えるのに?」
千早「仲が良いかどうかなんて、他人から見てもよくわからないものですよ。仲が悪くないからといって、仲良しとは限りませんから。少し会話した程度で仲良しだなんて……ましてや、友達などと思われるのは困ります」

ルートB
三村「如月さんって友達想いなんだね。最初の印象だと、他人を拒絶するタイプなのかなって思ったから少し意外かなって」
千早「いえ、友達ではないですよ?」
三村「え?」
千早「本田さんと島村さんは同じプロジェクトの仲間ですが、別に友達でもなんでもありません」
三村「え……でも、あんなに仲良しに見えるのに?」
千早「仲が良いかどうかなんて、他人から見てもよくわからないものですよ。仲が悪くないからといって、仲良しとは限りませんから。少し会話した程度で仲良しだなんて……ましてや、友達などと思われるのは困ります。そうやって、期待して裏切られて来ましたから……」
三村「あっ……(なんとかしてあげよう)」


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