We, the Divided (Гарри)
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01.「領有宣言」

 その艦娘は、静かに、そして滑らかに夜のオホーツク海を走った。靴の形をした脚部艤装から発生した運動エネルギーは、海水を優しく押しのけるようにして彼女を前に進ませていたので、海につきものの波打つ音の他には、彼女が背負った艤装の機関部が立てる、小さな低い唸り声しか響かなかった。時々大きめの波で足元が少しぐらつくと、両肩に一つずつ掛けたドラムバッグのショルダーベルトが、その度に肌に食い込んで彼女の顔をしかめさせた。パッドのついているバッグにするべきだった、という後悔が、彼女を僅かながら苛立たせていた。

 

 それでも、彼女の紫の双眸は淀みなく夜の暗がりを見つめ続けていた。自身の目指している方角と針路が合致しているなら、視界の中にやがては黒い島影が見えてくる筈だったからだ。二十分もすると、果たしてその通りになった。月の光と海面の照り返しを受け、闇の中に微かに浮き上がるばかりではあったが、それは彼女にとって明確な目印になり得た。その島影の形を、昼に同じ場所を通った時の記憶と引き比べる。あれは計吐夷(ケトイ)島だ、と彼女は考えた。()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 第一戦速十八ノット、時速にして約三十キロで進み続ける。波がやや強くなり始め、飛沫が顔や胸元に散り、彼女の目と同じような深い紫の髪の毛を、白い肌にぴったりと吸いつかせた。彼女は左手を懐に伸ばし、ハンカチを取り出して片方ずつ目元を拭い、次いで額の汗を拭き取る。それから手首の腕時計のボタンを押し、文字盤の隅に表示された気温計を見て、溜息を吐いた。快適とは言いがたい低温。だが、幸いにして動き続けている今は気にならなかった。

 

 目的地に到着したのは二時間後だった。羅処和(らしょわ)島──彼女はもっぱら、ロシア名の「ラスシュア(Расшуа)島」で呼んでいたが──六十平方キロメートルほどの、小さな島だ。かつて何度か任務で上陸したこともあり、彼女は夜間でも迷わず島の西側、南北の合間にある小さな浜辺に近づくことができた。岩礁に全くかすりもしなかったことに、自尊心の高いこの艦娘は小さな満足を得た。それは彼女が秘めた意志を持って、古巣の単冠湾泊地を抜け出てきた時から数えて初めての満足だった。

 

 記憶を頼りに踏みならされた細い道を見つけ出し、生い茂った木々をかき分けて島の奥へと進む。足元でまだ乾いていない小枝を踏みしめながら、彼女は自分がかつて行かなければならなかった戦争の始まる前、まだ低木と草花の楽園だった頃のこの島を想像しようとした。しかし、それはどう頑張っても彼女の頭の中に浮かんではこなかった。余りにも現在の姿、島のほとんど全体を針葉樹林が覆い尽くしてしまった姿から、それがかけ離れていたせいだった。諦めて、彼女は足を速めた。空気が海のせいだけではない湿り気を帯び始めた為に、近い内に雨が来ると分かったのだ。艦娘は潮水に濡れることを避けられないものだが、それにしても不必要に濡れるつもりはなかった。

 

 その艦娘は小走りで道を進んだ。たまに行く手を塞ぐようにして枝が伸びていると、腰に差した得物を鞘から抜き、軽く振るって伐採した。彼女のもう存在しない姉が使っていた刀は、水気を含んだ生木をやすやすと切り裂いた。そのようにして急いだ甲斐もあり、彼女が目指した場所に到着するのと、雨が降り始めるのはほぼ同時と言ってもよいタイミングでだった。小走りで、コンクリート製の、よく擬装された古いトーチカに逃げ込む。鉄扉を開けるとかび臭い空気が押し寄せてきたが、彼女の鼻はもっと嫌な臭いを嗅いだことだってあった。濡れるのを厭って、真っ暗なトーチカの中へさっさと入っていく。

 

 内部に何が、何処にあるのかはよく了解していたので、彼女はすぐさま明かりをつけられた。空気の取入管は途中で湾曲しているし、トーチカの窓には鎧戸があったので、換気の為に開けている鉄扉さえ閉めてしまえば、外に光が漏れる心配はなかった。両肩のドラムバッグや手に持っていた武器をようやく下ろして、艦娘は大きく背伸びをした。腰や背中からぱきぱきと音がしたので、追加で軽いストレッチも行っておく。体がほぐれたところで、彼女は鉄扉を閉め、トーチカ内を見回した。埃の積もった丸椅子を見つけ、その汚れを払ってから腰掛ける。そうして、艤装の通信機を操作し、単冠湾泊地の通信室に繋いだ。

 

「こちら単冠湾泊地所属軽巡艦娘、龍田。認識番号MF71-5937693C。聞こえてる?」

 

 数秒遅れて、男の声で答えが返ってくる。

 

「こちら単冠湾泊地通信室、認識番号を確認。要件は何か、また、交信規則を守れ。送れ」

「お断りよ。そんなことより、よく聞きなさい。たった今から、ケトイ島、ラスシュア島、マトゥア(松輪)島を私のものにしたわぁ。欲しがりやの誰かさんは取り返しにくるでしょうけどぉ、近づいたりしたら、許さないからぁ」

「冗談は──」

「本気だって分からないかなぁ。じゃあ、教えてあげる。そこに時計があるといいんだけど、あと十五分で、そっちの物資集積所に火がつくのよねぇ。頑張って、消し止めてね?」

 

 通信機の向こう側にいた男は、言葉を失った。しかし、何か答えなければという刷り込まれた意志が、彼の重い口を動かした。彼は精一杯の力を振り絞って「了解しました」と通信を送った。龍田は先の形式ばった口調との落差に思わず吹き出してしまったが、その時には通信を切断していたので、不遜極まりない笑いを他人に聞かれるようなことにはならなかった。一通り笑ってから、龍田はトーチカの隅に移動した。そこにはトーチカそのものと同程度に古ぼけた機材が置いてあり、小さな駆動音がその中から漏れ出ていた。その音を聴いて、龍田はにこりと微笑んだ。

 

 ドラムバッグの中から一冊の冊子を取り出し、それを見ながら機材をいじり始める。彼女が機嫌よく鼻歌混じりに作業していると、艤装の通信機への入電があった。眉をひそめ、バッグから缶詰を取り出し、手で抑えていなくとも開いたページが分からなくなることのないよう、冊子の上にそれを置いてから、龍田はその呼びかけに答えた。彼女には相手が誰なのか、確信に近いものがあったからだ。少なくとも「彼」に対しては、それなりの礼を尽くすだけの恩もあった。

 

「もしもし、提督?」

「ああ、私だ。龍田」

 

 作業を続けながら、龍田は気兼ねのない質問を投げかけた。

 

「火は出たかしら? 気をつけて仕掛けたから、誰も死んでないとは思いますけど……」

「実に見事だったよ。君の連絡を受けた通信士が独断で避難命令を出してくれていなければ、大勢が怪我をしただろう。それを抜きにしても、単冠湾泊地には大打撃だ。大量の燃料と弾薬が失われた。ほんの少しの間、君を野放しにしておくことになる筈だ。全く、二年前に戦争が終わってなかったら、日本全体が危うくなるところだったんだぞ」

「あらぁ、思った以上に上手く行ったみたいねぇ」

 

 悪戯が成功した子供のように彼女はくすくすと笑った。提督はその笑い声が収まるまで黙っていたが、やがて重々しい口調で、断固とした決意を龍田に示した。

 

「だが、永遠にではないよ、龍田。私たちは君を捕まえにいく。君がどうしてこんなことをしたのか知らなくてはいけないし、問題を放置しておく訳にもいかない。君が何処に隠れても、私たちは見つけ出す。その時を楽しみに待っているといい」

 

 提督の言葉は、その立場に相応しい威厳を持っていた。龍田にもそれは分かっていた。彼が自分を放っておいたりなんてしない、そんなことはできないということも、完全に理解していた。今年は彼の艦隊に配属されてから七年目に当たり、であるからには龍田は既に新顔と呼べる存在ではなく、直属の上官にして指揮官たる提督を力強く支える、古参艦娘の一人だったからだ。提督は龍田のことを部下として気に入っており、龍田も提督のことを同じように気に入っていた。立場の差はあれども、二人は互いを認めていたのである。だからこそ、龍田は提督の間違いをそのまま見過ごして、後で彼に恥を掻かせるのを看過することはできなかった。彼女ははっきりと訂正した。

 

「それは違いますねぇ、提督」

「何がだ?」

()()()()()()私を見つけるんじゃあないの。()()あなたたちを見つけるのよ」

 

 そして龍田は、ずっとマニュアルを見ながらいじくり回していた機材──ラスシュア島に設置されたレーダーの制御盤を操作して、乗っ取りを完了させた。

 

*   *   *

 

 単冠湾泊地の小会議室は深夜であるにも関わらず、極めて緊張した雰囲気の下にあった。もちろん一番大きな、直接の原因は軽巡龍田の脱走と不法占拠なのだが、その次に大きな原因は、泊地総司令がその場にいたからである。彼は痩せて背の高い、老境半ばの男だったが、その場にいる誰よりも軍歴が長く、経験豊かで、巨大な権力の保有者であった。彼の目は鋭く、また老いたりと言えどその能力には衰えがなく、その場にいた他の日本海軍軍人たち、つまり龍田を指揮していた提督と彼が連れてきた数人の艦娘たちのほとんどは、総司令にちらりと見られるだけで我知らず背筋がぴんと伸びるほどだった。彼と彼女らは一人の例外を除いて完全に畏縮(いしゅく)状態にあり、総司令の言葉を待つばかりでいた。

 

 一方の泊地総司令は、彼らのその様子を見ながら心中で深い吐息を繰り返していた。彼の眠気がうっすら交じった意識は、自身の過去にあった。

 

 人の天敵として突如現れた怪物たち、『深海棲艦』との戦いは、彼の一生そのものと言っても過言ではない。今の役職に就く前には彼もまた、深海棲艦と同時に現れた謎の種族『妖精』の協力を得て、人類が生み出した戦力、()()深海棲艦と対等に戦うことのできた唯一の存在、『艦娘』を指揮していたのだ。彼の生涯は、祖国とその国民を防衛する為の絶え間ない試練に捧げられていた。

 

 無論彼は、人間として完璧な清廉さの持ち主という訳ではない。出世するに従って増えた政争を勝ち抜き生き残る為に、他人を犠牲にしたこともある。国家の防衛こそが己の使命である、などとは毛頭思っていない。実際的な利益が彼の動機だった。艦娘を指揮して深海棲艦を倒せば、国は力を取り戻し、豊かになり、己は相応の名誉や権力を手に入れられる。その為にこそ、彼は全身全霊で軍務に励み、成果を上げ、泊地総司令という立場にまでのし上がった。それは彼の目指し得る最高の高みではなかったが、彼は必要十分以上を望むことが危険であることを知っていた。大体にして、彼が政争の際に真っ先に処分したのは、そういう欲望が本人の能力以上に肥大化した、腐敗の温床とも言える連中だったのだ。

 

 それからも彼は労苦を重ね、危険を犯し、多大な重圧に耐え、奇跡的に彼と彼の属する世界は共に戦争を生き延びた。ただ人を殺すのみの生命と思われていた深海棲艦と意志を疎通し、互いにこれからも生存を続けていく為に、妥協するということを成し遂げたのである。人類史上最大の利益を、彼は手に入れることができたのだ。終戦の日ほど、彼が人生で喜んだことはなかった。それから二年が経っても、その喜びは一寸たりとも弱まっていない。日々復興していく故国、そこから自分が得ることのできる何もかもが、彼を海軍一幸福な老人にしていた。だからこそ、今回の龍田の脱走、満ち足りた幸せに波紋を生じさせる一石は、彼にとって許しがたいものであり、何としても解決せねばならない懸案事項だった。

 

「それで」

 

 長い沈黙を破って、総司令は呟くように言葉を始めた。

 

「結局、その龍田は何を要求しているのかね? 通信士は『島に近づくな』以外聞いていないという。彼女と親しくしていた君のところの艦娘も、手がかり一つ知らないと言っているそうじゃないか。となると、後は直接会話した最後の人間である君に聞くのがよさそうだと思うんだがね」

「いえ、閣下、彼女は自分にも一切要求してくることはありませんでした。私が訊ねる前に、彼女は通信を切ってしまいました。それ以降、応答はありません」

「逆探知を警戒しているのだろう。折角レーダーを乗っ取りまでしたのに、位置を知られては困るだろうからな。いやはや、それがロシア側との取り決めだったとはいえ、艦娘に定期点検をさせるようにしたのは間違いだった」

「話すことなどない、と考えているのかもしれません。彼女は戦後組ではなく戦中組ですから、戦闘ストレスが影響している可能性もあります。それと、戦争中の海上の安全度を考えると、艦娘たちに任せる他なかったかと」

 

 戦闘ストレスだとしたら面倒になるぞ、と総司令は苦々しく思った。精神に傷を負った兵士は、想像だにしないことを平気で実行する。艦娘であろうとも、それは変わらない。その上、彼女たちの武装は大抵の兵隊と比べて遥かに殺傷能力で勝るし、生存能力にしてもただの人間とは段違いだ。艦娘ではない単なる人間が腕を吹き飛ばされたら、その人間は一生を片腕で生きていくことになる。深海棲艦はそれよりもしぶといが、大きくは変わらない。が、艦娘はその二者とは違う。修復材と呼ばれる薬剤を用いればあっという間に傷は塞がり、血は止まり、失った腕は生えてくる。今から自分たちが相手にしなければならないのは、大砲を持った不死身の狂人かもしれないと考えると、総司令は「島そのものを吹き飛ばしてしまえれば」などと思うのをやめられなかった。

 

 実際、違う場所でなら日本海軍はそうしていただろう。そうできないのは、よりによって龍田が北方領土にいるからだった。深海棲艦との戦争が始まってから暫くして、領海という考え方はかなり形骸化していたが、既に戦争は終わっている。砲撃にせよミサイル攻撃にせよ、ロシア政府は自国領土への大規模な攻撃を絶対に許さないだろう。かと言って、ロシア側に対応を丸投げすれば軍の面子は潰れ、連中に借りを作ることにもなる。総司令は大規模に軍を動かすことなく、どうやって潜伏した一人の軽巡艦娘を処理するかを考え始めた。

 

 案は二つあった。一つは、「海上警備と設備点検」を名目に艦隊を送り込むこと。戦争は終わったとはいえ、深海棲艦の中にはまだ人間に攻撃を仕掛けてくるものもいる。そういう手合いが発見されたとでも言い訳して、現地に向かわせることは難しくない。二つ目は、海上保安庁にやらせること。海軍としては難色を示さざるを得ない選択だが、軍を動かすよりは余程ロシアを刺激せずに済む。国外に借りを作るより、国内に作った方がまだいい。問題は、前者が「資材の消費」、後者が「時間の消費」「戦力不足」にあった。せめて幌筵(ぱらむしる)泊地がまだ残っていれば、より素早い対応が可能だったものを、と総司令は終戦直後に当該泊地を解散させた海軍最上層部の判断を恨んだ。けれども、恨んだところで何がよくなる訳でもない。彼は迅速に判断し、提督に告げた。

 

「まず、海上保安庁とロシア政府に連絡しよう。海保とは繋がりも強いし、情報漏れの心配はないだろう。彼らに巡視船を回して貰い、件の海域の警備と封鎖に当たらせ、ロシアには事態を説明し、静観を求める。なに、連中も相手が艦娘だと知れば、わざわざ火中の栗を拾おうとは思うまい。まして旨みも特にないのではな」

「マスコミにはどう対応しますか? 現時点では、単冠湾泊地に対するテロ攻撃だとしか思われておりませんが、遅かれ早かれ感づかれる筈です」

「心配はいらない。報道規制を掛けておく……だが確かに、早く解決したいものだ。いつまでも黙っていてくれるとは限らんからな。それから海保とロシアからの返答を待つ間に、こちらから一度仕掛けるぞ」

「仕掛ける、ですか? 青森の大湊警備府から余剰資材を送るように頼んではいますが、届くのは早くとも明後日以降になるかと。それまではどうやりくりしても──」

「うん、君のところの水上打撃部隊は動かせないだろうな。だから、警戒艦隊を使う。丁度いいことに、輸送隊の護衛任務から戻っている艦隊が一つある。彼女たちを海上警備活動として龍田のところに送り込む。今すぐにでも」

 

 それを聞きながら、龍田をよく知る提督はその攻撃が失敗に終わることを予感した。彼も低燃費な軽巡と駆逐艦娘で編成された警戒艦隊が泊地にいることは知っていたのだ。しかしその艦隊にはどうしようもない問題が一つあった。その艦隊所属の六人は、艦娘になる為の訓練の最中に終戦を迎えたのである。それはつまり、戦後組と呼ばれる艦娘だということで、龍田と比べると圧倒的なまでに経験が少ないということでもあった。精々が駆逐イ級などの、深海棲艦の中でも弱い部類に位置する敵と、しかも数的優位を確保した状態でしか交戦したことがない艦隊が、どうしてそれより遥かに強い敵と、不利な状況下で戦って生き抜いてきた龍田に勝てるだろう? 数の優位を活かせば勝機はあるだろうが、それを活かす為の経験すら持っていないのでは話にならない。

 

 提督は意を決してその判断に疑問を呈そうとしたが、それよりも先に総司令は「大丈夫だ」と言った。

 

「ベテランの艦娘を相手に、新米同様の艦隊がどうにかできるとは思っていない。これは威力偵察だよ。どれくらい彼女が本気なのか、物資は豊富なのか僅少なのか、士気旺盛かそうでないか、正気なのか狂っているのか。一度交戦させれば、少なくとも多少は見えてくる筈だ。一当てしたら、ただちに撤退するように命じておくとも」

 

 ほっとして、提督は肩の力を抜く。安心したことで、頭が回り始めた。他に助力を求めることのできる相手はいないものかと、考えを巡らせる。すると彼の記憶に一つの手段が見つかった。まだ総司令も口にしていない案だ。これはお手柄かもしれないと勇んで彼は口にした。

 

「総司令、軍警察に協力を頼んでみてはいかがでしょう?」

 

 言いながら、提督はどうしてそれを思いつかなかったのか、と我ながら不思議に思った。軍警察は、深海棲艦との和平が成った後の社会において、艦娘や深海棲艦の関わる犯罪を取り締まる為に設立された警察組織である。艦娘ないし深海棲艦を相手取るその性質上、構成員として艦娘を保持することが認められており、除隊を決めた艦娘が人間に戻らずに働ける職場ということで、戦闘経験の豊富な戦中組の艦娘を多数抱えていた。

 

 軍警の主な活動範囲は陸上だが、所属艦娘たちのほぼ全員が、以前は海で戦っていた本物のベテランである。これなら龍田にも真っ向から対抗できると、提督は期待を寄せた。何より彼が期待したのは、つい最近までの艦隊員同士での交戦を避けられるかもしれない、という点だった。提督として失格だと思いもしたが、彼はこの場に連れてきた彼の艦娘四人、第一艦隊旗艦にして秘書艦の戦艦「陸奥」、彼女の旧友の一人にして第二艦隊旗艦でもある正規空母「天城」、駆逐艦ながら第三艦隊旗艦の座を占める「浦風」、龍田が旗艦だった第四艦隊でその補佐たる二番艦を務め、今この場でも泰然自若の様相を崩さないただ一人の駆逐艦娘「ヴェールヌイ(Верный)」や他の艦隊員たちが、龍田と砲を向け合うところを想像することさえ我慢できなかったのだ。

 

 が、提督の予想と異なり、泊地総司令は厳しい顔でその提案を退けた。経験を積んだ軍人らしくその道を全否定することはなかったが、現時点で軍警への応援要請を出すのは時期尚早であるとして、総司令は譲らなかった。提督は失望すると同時に、老練な総司令がこうも頑なになるのは何故なのだろうと不審に思った。とはいえ情報が少なすぎて疑問以上のものには発展しなかったが、軍警察司令官は海軍出身にして、戦争を終わらせた英雄としても知られる元提督の女傑であり、彼女の助力を受けることで海軍内の派閥争いに巻き込まれることを恐れているのかも、と提督は推察した。

 

 付け加えるような新しいアイデアが出なかったので、彼は天城を伝令に走らせた。警戒艦隊を指揮している別の提督に、今回の任務を伝えるのが彼女の役目だった。廊下を早足で行きながら、天城は貧乏くじを引いた自分を情けなく思った。警戒艦隊を指揮しているのは少佐で、彼女の提督は中佐だ。階級差は一つだが、政治的影響力はこちらの提督の方が上だから、この任務を伝達したからと言って嫌がらせを受けるようなことはないだろうが、素人同然の艦娘たちを危険な任務に送り込む手助けをするのはいい気分ではなかった。案の定、少佐は不愉快そうに顔を歪めた。彼が自制心を発揮して、不快感を表す以外の何かをしなかったことだけが、天城にとっての幸運だった。

 

 または、命令を受けた警戒艦隊の六人が、彼女たちの提督と違って悲壮感や怒りではなく、子供らしい好奇心で喜んで任務を受諾したことも、幸運だったのかもしれない。だが彼女たちのその様子を見て、天城はますます心を痛めた。彼女の知っている限り、その艦隊で最年長で旗艦を務めている軽巡「五十鈴」はもうすぐ次の誕生日を迎える十七歳だったのだ。他の艦隊員たちも似たり寄ったりだった。天城には彼女たちが小さな子供と何ら変わらないように思えた。そんな相手を、実力の確かな本物の艦娘に立ち向かわせようとしている。

 

 罪悪感から逃れようと、天城は工廠で出撃前の艤装点検を手伝ったが、五十鈴たちはまたそれを大いに喜んだ。違う提督の麾下ではあるが、先輩にして艦隊の花形である空母艦娘に手ずから見て貰えることが、彼女たちを奮い立たせたのである。「全力で任務を成功に導きます!」と五十鈴はきらきらとした瞳で天城に言った。天城は黙って頷くことしかできなかった。

 

*   *   *

 

 艤装を下ろし、薙刀だけを持った龍田は、“補給地点”を目指して走っていた。海軍による対応がこれから始まるであろう今、一分でも時間を無駄にしたくなかったのと、興奮が彼女をじっとさせておかなかったせいだ。木の肌を削ってつけられた目印とその記憶を辿って、龍田は息せき切って走った。彼女がその目印をつけたのは、もう数ヶ月も前のことだった。念の為に自作の地図にも場所は記してあったが、そんなものがなくとも龍田にはその場所を覚えておくことができた。

 

 最後の目印を目にして、龍田はようやく足を止めた。頬を赤くして、肩を大きく上下させながら、彼女は次の動きに取り掛かった。薙刀を地面に突き刺し、土をほじくり返す。たちまち、埋められていたものが顔を現した。陸軍用の携行糧食や水のペットボトル、カフェイン入りのステイアラート・ガムといった食品類もあれば、懐中電灯やフレアガン、ワイヤー、ナイフ、竹串、信号弾といったサバイバル用品もあった。龍田はその中から暗視機能付きの倍率可変式双眼鏡を取った。カバーを外し、充電池が生きていることを確かめるついでに、それを使って辺りを見回す。緑色に染まってはいるものの、かなりはっきりと視界が取れた。この手の装備が手に入らなかった戦時中のことを思い、便利になったものね、と龍田は一人ごちた。

 

 ナイフとワイヤー、それに竹串を取り、ステイアラート・ガムのパックを三つ懐に突っ込むと、龍田は再び動き始めた。十分ほど走った先にある、次の補給地点に行かなければならなかった。そこには折り畳み自転車が埋めてあった。静かで、走るより早く、燃料を必要としない。それは隠れながら素早く移動しなければいけない今の龍田にとって、ぴったりの乗り物だった。一つだけ言えば艤装を着用しての使用に不安が残ったが、それも緊急の場合には短時間の使用程度なら許容範囲だろうと彼女は考えていた。

 

 龍田がこの手の物資を島に埋め始めたのは、季節一つ分ほど前からのことになる。彼女はまず必要になるであろうものをリストアップし、それらを手早く集めていった。中には高価で手に入りにくいものもあったが、普段給金を何かにつぎ込むことのない生活を送っていたのと、妹艦(龍田)を置いて先に戦死した姉妹艦にして親友の「天龍」が彼女に遺してくれた現金が、まだ彼女の口座に丸々残っていたので問題にはならなかった。龍田はことあるごとに一人で任務を遂行する機会を作り、荷物を運んだ。一回一回が片道七時間ほどの大仕事だったが、苦にはならなかった。

 

 楽しかった、と地面を掘り返しながら、龍田は最近までの日常をそう評した。たった一人で大荷物を持ち、海に出ること。何をやっているのか、何をしようとしているのか悟られずに、物資を島に秘匿すること。まるでスパイか何かのようにこそこそとして、人目を避けて。子供のようにわくわくしながら、無邪気な気持ちで秘密の仕事に取り組んでいた。「物事を楽しむのは、その中で生きる一番賢い方法なんだぜ」と以前に知った風な顔で姉が言っていたのを思い出し、龍田は笑いを漏らした。()()()()()()()()()()()

 

 掘り出した自転車にまたがり、更に次の補給地点に移動を始める。今夜一晩で、できる限りの物資を回収するつもりだった。少なくとも、必要になった時にすぐ取り出せる状態にしておきたかったのだ。龍田の経験上、機に応じてすぐに使えないものは、永遠に使えないものと何ら違いがなかった。三つ目の拠点へは、走るよりもずっと早く着いた。龍田は汗だくになりながら、またしても地面を掘り始めた。埋めた時以来使っていなかったような筋肉が酷使され、彼女の華奢な体のあちこちが痛んだ。しかし、龍田にはその痛みも何だか楽しいものに感じられていた。早くそこに埋めてあるものを手に取りたかった。危ない橋を渡ってまで手に入れた、人間の悪意の結晶、それがたっぷり詰まった木の箱を。

 

 その木箱のふたが見え始める頃には、龍田の手はスコップ代わりの薙刀を握りしめた形のまま、凝り固まっていた。彼女は自分がスコップを泊地に忘れたことを深く悔い、自嘲した。物資を埋めた時、何を使ってその作業を行ったのか、考えもしなかったの? 誰にだって失敗はある、と己を慰めたかったが、そんなことをしても余計に惨めな気持ちになるだけだった。龍田は気を取り直し、ふたを開けて中で一番上に置かれていた手袋をはめ、それからメインとなるものを取り出した。簡便な鉄条網と、小型の対人地雷である。龍田はこれが艦娘に対してきっと有効だと信じていた。何故なら、艦娘の多くは海での戦いしか教わらないし、経験しないからだ。未知の脅威は、未知であるというだけで既知のそれより危険になり得る。

 

 ところが、龍田にとっては違った。正確には、龍田の訓練を担当した教官にとっては違っていた、とするべきだろう。彼女は前線に立てなくなったと見なされた艦娘だったが、龍田自身を含めたどんな訓練生が、どれだけ束になっても敵わないほど立派で強い艦娘だった。彼女は海での戦いを教えるだけでなく、地面の上でどう戦うかまでを龍田たち訓練生・候補生に教え込んだ。ナイフの扱い方、罠の作り方と張り方、隠れ方、食料や水の確保、その場にあるものでの武器製作のやり方、バリケードの作り方、その対処法。そのお陰で龍田は、片手で握りこめる程度の石を使って敵を殺す方法や、人目を盗む方法を何通りも知っていた。そして今、年月を掛けて磨いたその技を人々に披露するのを、彼女は今か今かと待ち望んでいた。

 

 鉄条網と地雷を持って、島の西側、上陸する時に使った浜辺に向かう。そして浜をぐるりと取り囲むように鉄条網を伸ばし、点々と地雷を仕掛けた。もちろん、わざと出口を作ることも忘れなかった。そこを目指してくれれば、固まったところを一網打尽にできる。もし敵が艦娘で(龍田にはその可能性が極大であるように思われた)、ここに上陸してきて鉄条網を見たとしても、いきなり砲撃で吹き飛ばしてから進むことを決断できる者は、そういないだろう。存在を明かさずに済ませる為に、迂回を試みて、そして罠に掛かる。島の支配者は、軽い口笛でも吹き鳴らしたい気分になった。

 

 鉄条網の設置と地雷の埋設という重労働を終えると、龍田は一度、レーダーサイトを兼ねるトーチカに戻った。その道すがら、あちこちの繁みや草むらに竹串を仕掛けた。何も知らずにそこへ踏み込んだり伏せたりすると、返しつきの串が突き刺さる仕組みだった。加えて足を引っかける為のワイヤーも仕掛けながら龍田は、この島に送り込まれてくる艦娘たちのことを哀れんだ。きっと針のむしろになるだろう。

 

 戻ってくると、龍田は艤装を背負った。乗っ取ったレーダーとリンクさせた電探をチェックし、こちらに接近してくるような敵がいるかどうかを確認する。

 

 レーダーに反応があった。龍田は背中がぞくぞくとするのを感じて、身を震わせた。それから、聞こえる訳もなかったが、二年ぶりの「敵」に向けて宣言した。

 

「欲しがりやさん、しっかり味わうといいわ」



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02.「夜の女王」

 五十鈴は静かに興奮していた。彼女にとって、天城は深海棲艦との血みどろの戦いを終わらせた立役者の一人である。より具体的に言えば、戦争が終わってから艦娘になった戦後組にとって、戦中に命がけで海を守っていた彼女たち戦中組は、誰であろうと英雄そのものだった。その英雄から、五十鈴たちに仕事が任された。それも、万が一に備えての護衛だとか、いるかどうかも分からない敵を警戒してのパトロールではなく、明確に存在する危険に対処する、という仕事だ。ただ戦争に間に合わなかった為に、何かと半人前扱いされ軽く見られてきた自分たちを認めてくれた、と五十鈴は感じていた。

 

 だが、戦後組で経験不足ではあるものの、五十鈴は無能ではない。相手は自分たちが英雄と信じていた先任艦娘だということや、それ以外に分かっていることがほぼ皆無であると聞いた彼女は、提督たちが警戒艦隊に何を期待しているのかをきちんと把握していた。あくまで自分たちは試金石、問題の解決までは求められていない、と。そのことを知っても、またしても蔑ろにされた、などと憤るほど五十鈴は傲慢ではなかった。そんなことよりも、自分たちの報告がこれからこの大問題に対処していく上での最も基本的な、最初の情報として扱われるのだということを思うと、むしろ自分でも危険だと思うほど強烈に自尊心が満たされるのを感じるのだった。

 

 現地へ向かうには輸送ヘリを使うことになった。一時間ほどで降下地点だと言われ、頭の中で地図を開いて、五十鈴は自分が恵まれていることを再確認した。ヘリなしなら四半日掛かるところを、一時間で到着できる。戦中は、撃墜の可能性が高い為にヘリを使うことはほぼ不可能だった。まだ幼い軽巡は、ますます先任艦娘たちへの敬意を膨らませると共に、今から自分たちがその中の一人を相手にして戦わなければならないということを思い出して、気を引き締めた。自分の提督から受け取ることのできた数少ない情報のメモを、服のポケットから取り出して読み直す。

 

 軽巡洋艦「龍田」。配属から七年目になる、中堅どころの艦娘。第四艦隊旗艦。砲雷撃に特段の技はないものの、艦娘らしからぬ戦術運用が特徴的。同じ訓練所を出た姉妹艦「天龍」と共に配属されたものの、彼女は終戦の数年前に戦死。遺品として、天龍の使っていた刀を保持している。龍田を担当した実技教官は、戦争末期の著名な艦娘を多数訓練したことでも有名な人物で、特異な戦術や技術は彼女の薫陶を受けたことによるものと考えられる──五十鈴は溜息を吐いた。つまり相手が何をしてくるか、自分には到底思いつきもしないということだ。そうとなれば、その場その場の判断で切り抜けるしかなくなる。それは、五十鈴が訓練所で避けるべきだとして学んだことだった。

 

 しかし逃げる訳にはいかなかった。もう乗り込んだヘリが飛び立って十分以上経っていたし、五十鈴は自分が何を成し遂げることができるか、確かめたい気持ちに抗えなかった。更に、龍田が第四艦隊所属だったということが、五十鈴に個人的な興味を持たせ始めていた。一人の提督の下で所有することができる艦隊は、通常は四個のみである。その内、第一、第二艦隊は戦闘任務を主眼に置いて運用される。一方で第三、第四艦隊は輸送艦隊の護衛など、後方支援を主な任務として運用される。けれども、それは第三、第四艦隊が第一、第二艦隊に比べて安全だという意味ではなかった。

 

 深海棲艦は人類と同程度の知能を有する。補給線の破壊は、連中の潜水艦の十八番だった。時には水上部隊も、輸送艦隊を狙って前線の警戒線を抜けてきた。それは、精鋭でなければできないことだ。龍田は軽巡の身で、そして僚艦たちは大抵の場合が全員駆逐艦という戦力的ハンディキャップ下で、その精鋭たちを相手にして生き延びてきたのである。五十鈴が貰った情報には、龍田の護衛した輸送任務の成功率までは書かれていなかったが、彼女が今日まで生き残っているということが、似た任務に就いている五十鈴には十分すぎるほど明らかな、相手の有能さの証明になった。

 

 龍田はどう動くだろうかと、五十鈴はそれが無駄に終わる可能性が高いということを知りつつも、考えずにはいられなかった。外に出てくるか、島にこもって迎え撃つか。六対一になる以上、まともに考えれば島の中に引きずり込むのが常道だ。海上では、数の差が陸地よりも如実に現れる。陸には木々があり、丘があり、建物がある。だが海では波以外に敵味方を遮るものは存在しない、と五十鈴は教わったし、これまで彼女が得てきた僅かばかりの経験の中にも、それを否定する事実は存在しなかった。

 

 私物のウェストポーチを探り、龍田がいると思われるラスシュア島近辺の地図を取り出す。五十鈴の警戒艦隊に下された命令は、龍田との接触。それが叶わなければ、ラスシュア島のレーダーサイトの無力化だった。航行・上陸経路を考えながら、五十鈴は彼女の提督の言葉を胸中で繰り返した。「夜陰に乗じて、手早くやれ。朝が近づくほど危険になる」と彼は言っていた。が、五十鈴はその言葉の正しさに疑問を覚えた。軽巡と駆逐艦にとって、夜の暗闇は親しみ深いものだ。夜の中でなら、戦艦だって空母だって狩ってみせる、というのが、軽巡・駆逐艦娘全体の誇りであり、それは五十鈴や彼女の僚艦にとってもその通りだった。でも、そこで敵として想定されていたのは深海棲艦であって、決して五十鈴と同じ軽巡艦娘ではなかったのだ。

 

 昼も夜も、龍田は自分たちより優位に戦える。五十鈴には悲観的な確信があった。それでも、任務を果たした後で撤退することはできると推し量ってもいた。カタログスペック上、警戒艦隊に所属する艦娘は全員が龍田より高速で航行できる。互いの全速を比べると僅か数ノット分の差ではあるが、艤装用の燃料が島から無限に湧いて出てくるのでもなければ、彼女が消費を度外視して全速で追跡してくるようなことはない、と五十鈴は推測した。経験を積んだ艦娘ほど、燃料弾薬の残量には神経質になるものだ。

 

 ヘリが高度を下げたので、もう降下の時間かと思って五十鈴は慌てた。すぐにパイロットから、龍田が乗っ取ったレーダーサイトによる追跡を避ける為に、ラスシュア島との間にある別の島を間に挟むのだと聞かされ、安心したが、そうすると次の心配事が現れた。ラスシュア島の固定レーダーサイトの探知範囲は、おおよそ四百五十キロだという。なら、ヘリの出動は既に知られている。もし待ち伏せられていたら? 龍田は降下地点を予測しているかもしれない。無防備にホバリングしているところを対空火砲でヘリごと落とされれば、何をすることもできずに死んでしまう。そう考えて、五十鈴は震えそうになった。ヘリの赤外線センサーで安全を確認してから降下するとは聞いていたが、それだけで十分なのか、不安に思われて仕方なかった。

 

 突然、横から肩に手を置かれて、五十鈴はこらえていた震えを抑え切れなかった。びくりとした後で、手の持ち主を見て、肩から力を抜く。それは彼女が個人的なパートナーとしても頼りにし、艦隊の二番艦を任せている駆逐艦「海風」だった。驚かされた仕返しに、五十鈴は彼女の薄い青紫色の髪の毛で作られた一本の長いお下げを、優しく引っ張った。彼女はくすぐったがるように身を軽くよじって笑うと、信頼を込めた暖かな声で「きっと大丈夫ですよ、五十鈴さん」と囁いた。五十鈴が彼女を重用する理由の一つがこれだった。百戦錬磨の古強者という訳でもないのに、誰もが海風の声を聞くと心を落ち着かせることができたのだ。五十鈴は以前、海上で思わぬ接敵を体験した時のことを思い出した。

 

 海上警備活動からの帰り道のことだ。時刻は夕暮れ時、珍しく警備中に敵艦隊と交戦した五十鈴たちは疲れ果て、燃料を切らしかけていた。どうにか泊地に帰投するだけの量はあったものの、再度の交戦となれば間違いなく戦闘中に航行不能となる程度の量でしかなかった。心もとなさに泣きたくなりながらも、五十鈴は懸命に指揮を行い、艦隊員たちの足がすくまぬよう気丈に振舞った。けれど、その偽りの姿も敵の艦載機を空に見つけるまでだった。五十鈴はその瞬間、旗艦として確かに一度は心折れたのだ。反射的に対空射撃を命じようとした五十鈴を、咄嗟に押し留めたのが海風だった。彼女は肩を掴み、静かだが有無を言わせぬ鋭い声で五十鈴へと呼びかけ、開きかけたその口を閉じさせた。そうして五十鈴が正気に戻る頃には、敵艦載機は姿を消していた。

 

 その後泊地に戻るまでに、航空攻撃を受けることはなかった。帰還して報告を済ませた後、提督も含めた皆が五十鈴がよくやったことを認めたが、この苦い経験を通して手に入れたもので彼女が最も嬉しかったのは、本当の窮地に陥った時に誰を頼れるかということを、知ることができたという点に尽きた。五十鈴は彼女に頼ること、弱みを見せることを恥とは思わなかった。肩に置かれたままだった彼女の手を握り締め、自分自身の決断が他人の命を左右する恐怖を胸に秘めながら、断固とした口調で命じた。

 

「海風、あんたはヘリに残りなさい」

 

 二番艦が全く驚いた素振りを見せなかったので、かえって五十鈴が面食らったほどだった。気を取り直し、了解の返事を待つが、海風はじっと五十鈴を見つめたまま何も言わなかった。任務を全うすべき旗艦が、危険な任務に親友を帯同させたくないという私情に邪魔をされて、正しくない判断をしたのではないかと疑っていたからだった。五十鈴にもそれは分かった。その嫌疑を晴らす為に、親友同士は視線を暫し交し合った。やがて、海風はにこりと笑みを浮かべた。彼女の旗艦が、その立場にいる者として考えた末にそう自分に命令したのだと、信じられたからだ。

 

 戦友からの信用を勝ち取ったことを感じた五十鈴は、それから他の艦隊員たちにも今の命令を教え、意図を説明した。

 

「海風がいないのは痛いけど、今回の任務は相手を倒して勝つことじゃない。対象と接触して、その上で生き延びることよ。駆逐艦は得意でしょ? 逃げるの」

 

 旗艦の軽口交じりの鼓舞に、若く血気盛んな他の艦隊員たち、四人の駆逐艦娘は笑いながら盛んに朗らかな罵声を飛ばして応えた。酒でも入っていなければとても口には出せないような乱暴な言葉が、次々と五十鈴に投げかけられる。だがそのどれ一つとして、彼女を傷つけることはなかった。それは彼女を奮い立たせた。三つ四つほど言い返しながら、「駆逐艦娘なら、誰にでも期待することができるものが一つあるとすれば」と五十鈴は考えた。それは危地にあって発揮される勇敢さに他ならないだろう。

 

 ヘリのパイロットが、五十鈴たちに降下地点への到着を知らせる。途端に彼女たちの口はぴたりと閉じ、表情は引き締まった。一秒でも早く機外へ飛び出せるよう、やや上体を前に傾けた姿勢を取る。ドア近くに座っていた五十鈴ともう一人の駆逐艦娘は、ロックを解除してドアを開放した。冷たい風が勢いよく吹き込んでくる。五十鈴は目を細め、手を風除けにして夜の海を見下ろす。数キロ先に、月明かりに照らされて島のシルエットが見えた。ヘリの飛行時間やぼんやりとした島の形を合わせて考えて、五十鈴はそれを宇志知(うししる)島だと判断した。そこからラスシュア島までは北に三十キロほどだ。警戒艦隊が全速で向かえば、半時間で着く距離だった。

 

 ホバリング状態を維持したまま、ヘリは高度を下げていく。夜間で海面がよく見えないということもあり、五十鈴はしっかりと安全な高度まで下りてから機外に出るつもりだったが、艦隊員の一人、駆逐艦娘「涼風」が逸った。「さ、行こっかぁ!」と一声あげるや、まだそれなりに高い位置にいたヘリからさっさと飛び降りてしまったのだ。たちまち五十鈴はさっきまでの安心と勇気を忘れ、血の気が引いた。居ても立ってもいられず、涼風の後を追って飛び出す。けれども残りの艦隊員たちには、もっと高度を下げてから出てくるように言い含めることを、彼女は忘れなかった。

 

 瞬間的な浮遊感と、不愉快な落下感で五十鈴は総毛立った。歯を食いしばり、空中で姿勢を崩さないように気を払いつつ、予測できない落着の衝撃に備える。それはすぐに彼女を襲った。思わずがくんと膝を海面につけそうになるが、どうにか体勢を立て直す。それから、涼風の姿を探した。夜の暗さに目は慣れていたが、見つからない。と、ヘリから通信が入った。パイロットは赤外線センサーで海をスキャンして、着水時に体勢を崩してしまった涼風が艤装の重みで溺れかけていることと、その位置を教えてくれた。そのナビゲーションに従って、五十鈴は急いで涼風の下へ向かった。海面下から突き出された腕を見つけ、それを掴み、渾身の力を振り絞って引き上げる。

 

 体が冷えたせいもあって、涼風は顔を真っ青にして、がちがちと歯を鳴らしていた。ちゃんと立ってはいられる様子だったので、五十鈴は一旦意識をパイロットとの通信に移し、礼を言った。通信を切ると、五十鈴はただちに涼風を締め上げに掛かった。

 

「何考えてんのあんたは、勝手なことをして!」

 

 旗艦に小声で怒鳴られて、濡れ鼠になった涼風は、機内での意気軒昂さと打って変わって肩を落とす。その姿を見て、十分に()()()()()ようだし、これ以上言っても別に何の得にもならないな、と五十鈴は怒りをこらえた。最後に「次また勝手したら、私があんたを沈めるからね!」とだけ言いつけておいて、残りの三人を待つ。彼女たちは揃って含み笑いを浮かべつつ、海に降りてきた。しょぼくれた涼風を乱雑に励まそうとする彼女たちに、周囲の警戒を怠らぬよう指示を飛ばしつつ、五十鈴はヘリが高度を再び上げ、西に飛び去っていくのを見送った。

 

 隊列を組み、五十鈴たちが航行を開始する。どう近づこうが、潜水艦でもない限りレーダーに写ることは避けられないと分かっていたので、五十鈴は最初から出せるだけの速力を出すことに決めた。時速六十キロのスピードで、まずは分かりやすい目印であるウシシル島を目指す。涼風や彼女を笑っていた他の艦娘たちも、既にその顔からは表情らしい表情が消え、任務を全うしようとする一人の艦娘の顔になっていた。海の上を五人の艦娘たちが滑る音と、のたうつ波の音が五十鈴の鼓膜をくすぐった。状況が状況でなければ眠気すらもたらすだろうそれに、警戒艦隊旗艦は耳を傾ける。並行して何かが不意に視界へ入ることがないかと、注視する点すら見つからない宵闇の中に目を凝らす。

 

 その中に、これから戦うことになる一人の艦娘が待ち構えているのだ。

 

*   *   *

 

 涼風は艦隊の母親とも言える二番艦、海風がいないのを本当に残念に思った。ずぶ濡れになって、叱責されても、彼女がいたなら何かとても意味のある深い言葉の一つでも掛けてくれて、それで単純なところのある涼風などはすっかり気分をよくすることができただろうからだ。涼風は暗闇を覗き込むのをやめ、足元を見た。黒々とした水が、降り注ぐ月光を万倍にも薄めて映し、彼女の網膜を撫でた。クソ泥水、と涼風は罵った。もちろん、足元の水に何が含まれているか、そして何が含まれていないか涼風は把握していたから、この罵り言葉は正確ではないとも分かっていた。それでも文句の一つでも言わずにはいられなかったのだ。

 

 水を見るのが嫌になって空を仰ぐと、雲を周囲にはべらせた月が、こうこうと輝いていた。それは不気味なほど明るく、見ていて気分が落ち着かないほど黄色かった。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。涼風は自分のその感想を面白く感じて、隣を走る相棒「深雪」に伝えたいと思い、「なあほら見ろよ、月が……」まで言ったが、自分の感想は別に面白くないんじゃないか、と考え直した。それで「綺麗だぜ」と続けると、深雪は胡散臭げに涼風を見やってから、溜息を吐いて答えた。

 

「あたしはとても上なんか見てらんないね。いつ何処から襲われるかも分かったもんじゃないってのに、ったく」

 

 深雪のその言葉に涼風は、自分が海面下から現れた龍田に水底へ引きずり込まれる姿を想像した。ぞっとしない想像だったが、そのナンセンスさには笑いどころがあった。肩をすくめ、皮肉っぽく喉を鳴らす。

 

「何でまた提督はあたいらに威力偵察なんかさせんのかねえ。適当にあちこちの艦隊からベテランの軽巡艦娘や駆逐艦娘を引っこ抜いて、臨時任務艦隊(タスクフォース)を作ればよかったのにさ、べらぼうめ」

「あたしが知る訳ないだろ」

 

 にべもない深雪の答えに涼風は黙り込んだが、内心で苛立ちをぶつけるのはやめなかった。ちぇっ、深雪の奴、がちがちに凝り固まりやがって。五十鈴が決めた組み合わせだってのは認めるけどよ、あたいはあんたの相棒なんだぜ? もうちょっと付き合いよくしてくれてもいいじゃんか。けれども、旗艦がさっきから自分たちを見ていたということに気づくと、ああそのせいかと納得して苛立ちを引っ込め、自分の勘違いを笑うまいとして、口角をぴくぴく痙攣させた。

 

 五十鈴から二度目の譴責(けんせき)を食らわないよう、前を向いて警戒を続ける。それは涼風にとって耐えがたいほど退屈な時間だったが、自分のミスが戦友たちの命を脅かす今の状況では、その退屈さに殺されそうだとしても、だらけることはできなかった。それでも思考を僅かばかりに割いて、考え事をする程度の逃避は涼風にもできた。今日という夜のこれは、一体全体何という皮肉だろう、と彼女はまたしても面白みを覚えた。

 

 涼風は沿岸からさほど離れていないところにある町で育った。海が近くとも、当時は海水浴ができるほど平和ではなかったが、代わりに彼女には川遊びという代替手段があったし、秋冬になれば自転車を漕いで、友達と一緒に温水プールを備えた屋内型遊戯施設を訪れることもできた。中学校でクラブを選ぶ時、水泳部以外に入ろうかと迷うこともなかった。彼女は水が好きだった。それが著しいので、母親が心配して何度も言ったほどだった。「プールならいいけど、海に近づいちゃいけないよ。深海棲艦がいるからね、危ないよ」

 

 深海棲艦がいなくたって、頭のおかしい艦娘がいるんじゃやっぱり同じさ、と涼風は今度こそ笑った。その時には五十鈴が涼風に注意を払っていなかったので、深雪はわざとらしい「気でも触れたのかよ」という表情で涼風が何故笑ったのか訊いた。気風のいい青髪の艦娘は、笑い声を殺しながら答えた。

 

「だってさ、艦娘になった時思ったんだよ。『ああ、あたいはその内、海で死ぬんだ。だって戦争なんだから』ってね。でも深海棲艦と講和して、戦争が終わって、平和になって、安心してた。なのに今日のこれだぜ。戦争のロスタイムってか?」

 

 この言葉には深雪も笑った。憂鬱さと純粋なおかしさが入り混じった、複雑な微笑みだった。深雪は微笑を浮かべたまま言った。「なあ、このまんまあたしら二人で反転して帰ろうぜ」「合点だ。頭のイカれた軽巡艦娘なんか放っとこう」涼風はもう、その小さな笑いを隠しもしていなかった。彼女はもっと笑っていたかったが、遠かった島影が近くなってくるのを見て、笑いと笑いの合間に大きく息を吸い込んで心を落ち着かせ、それから少しだけ息を吐き出すようにして最後の一笑いをすると、うんざりしたように呟いた。

 

「やんなるぜ、畜生め」

 

*   *   *

 

 ウシシル島の南島で木々の間に身を潜めて待ち構えていた龍田は、数秒前に自分が下した判断が、これまでの人生で行った中で最も正しいものの一つだったということを確認して、腰が抜けたかのようにその場にへたり込んだ。ほんの少し前まで、龍田はヘリを撃ち落としてやるつもりだった。距離はあったが射線を遮るものはなく、暗視装置付の双眼鏡で位置もはっきり確認できていたのだ。その上でホバリング状態のヘリなら、当てられたに違いなかった。そうしなかったのは、単に偶然ヘリの中に乗り込んでいるのが、艦娘の恰好をしただけの素人同然の連中だと分かったからだった。動悸が落ち着くと、龍田は自分の心の中に強い怒りが沸き上がるのを感じた。薙刀で地を突いて立ち上がると、「あんな子供を送り込んでくるなんて、海軍は何を考えてるの?」と口にした。誰が答える訳でもなかったが、言わずにはいられなかった。

 

 急いで岸壁へと走り、紐で首から下げた双眼鏡で夜の闇の中を見通す。目敏い龍田は、すぐに島へ近づいてくる警戒艦隊の姿を捉えた。僅かに、龍田は焦りを感じた。現在地が知られている? それはないだろう、と考え直して、艦隊員の数を数える。五人しかいない。一人は何処へ行ったのだろうと龍田はいぶかしんだ。定数割れしているだけかもしれないが、そうでないとしたら何かがあるに決まっていた。そして往々にしてこの場合は、何かがあるのが常だった。頭の片隅に定員に対して一人少ないという情報を残しておいて、追われる身の彼女は相手の心配を始めた。何歳だろうか? きっと二十歳にもなってはいまい。

 

 龍田は、今視界の中にいる艦娘たちが戦後組だということについて、全く疑っていなかった。その動きの一つ一つを見れば分かった。きびきびとはしていたが無駄が多く、周囲を見ずに僚艦と無駄話をしている。それを注意しようとする旗艦さえ、前を向くという基本を忘れている。どうしようもない焦燥感に、戦争を生き抜いたベテランの軽巡艦娘はぎりりと歯ぎしりを響かせた。眼下の艦隊には、戦火の中を潜り、敵と自分の血で洗礼されたことのない艦娘ならではの、民間人めいた雰囲気があった。龍田にはどうしても、彼女たちを同じ艦娘だとは思えなかった。女学生の集まりにしか見えなかった。それはつまり、標的として撃つことを、殺すことを彼女に躊躇わせたということでもあった。

 

 だが、放っておけば警戒艦隊はウシシル島を通り過ぎ、ラスシュア島に到着し、龍田と違って躊躇することのない罠に掛かって、死ぬだろう。龍田はそれを、眼前の敵よりもずっと老練な、本物の艦娘を仕留める為に仕掛けたのだ。素人が罠の全てを回避して生き延びることができるとは、どれだけ楽観的になろうとしても、思えなかった。龍田は自分が何を考えていたかに気づいて愕然とした──彼女は何とか力を尽くして、艦娘の恰好をした小さな子供たちを救おうとしていた。あの少女たちは運よく戦争に出なくて済んだのに、今になって戦争を思い知らされそうになっている。海軍が、情報を求めたからだ。よろしい、と龍田は心に呟いて決めた。情報は持ち帰って貰ってもいい。どうせ大したことは分かるまい。しかし今晩に限っては、何処の誰であろうと、殺しだけはなしだ。

 

 拡大された緑色の視界の中で、警戒艦隊が近づいてくる。ヘリのローター音は既に消えているが、戻ってこないとも限らない。無経験な艦娘の相手はどうとでもできる自信があったが、流石の龍田も縦横無尽に戦闘機動を繰り広げるヘリを正面から相手取って、無事でいられるとは考えていなかった。となると、ヘリを落とすか、回避するか、無力化するかだ。落とすのは論外だった。遠くから不意打ちで、無防備な瞬間を狙うのでもなければ、避けられて反撃を受ける。回避は難しい。ヘリは龍田の何倍もの速度があるから、追われれば逃げられない。そういう結論に達したので、龍田は無力化を選んだ。どんな理由であれ、ヘリが動けない状況にしてしまえば何の恐れるべき点も存在し得ない。

 

 問題は、そんな状況をどうやって作り出すか、だった。しかもそれは、誰一人殺さずに成し遂げられなければならないのだ。五十鈴と違って僚艦のいない龍田にとって、それは非常に厄介で困難な要求だったが、実現の目途は立っていた。五十鈴たちの航行方向を確認すると、龍田は踵を返してその場を走り去り、島の内湾へと降りた。双眼鏡の倍率を最低倍率にしたまま構え、音を聞かれる心配のない速度で湾内を断崖に沿って移動する。警戒艦隊の針路が何がしかの理由で変えられることがなければ、彼女たちは南島の西側を通ってラスシュア島に向かう筈だった。

 

 湾からの出口付近まで来たが、無論龍田はそこから出るつもりはなかった。五十鈴が電探を装備していないと確信できる理由がない以上、意味もなく姿を晒すことに意味を見いだせなかったし、龍田としてはできることなら背後から襲いたかった。彼女の経験では、艦娘の戦意を奪う最も単純な方法は、パニックに陥れることだった。龍田は一緒に何度も海へ出た、尊敬できる僚艦たちが恐慌の中で沈んでいくのを、一度ならず見たことがあったのだ。

 

 断崖に走った大きな亀裂を見つけると、彼女は迷わずにそこへ入った。暗視装置の加護があっても洞窟は暗かったが、少なくともここにいれば電探に捉えられるのは避けられた。それにこの洞窟は湾内から外へと通じてもいるのだ。運のいいことに繁殖期の始まりは数か月後だった為、海鳥の大群が洞窟から飛び立って五十鈴たちに位置を知られる、ということもなかった。龍田は洞窟の出口付近に身を潜めると、種々の道具を使って迎え撃つ準備をし、戦闘への興奮で乱れそうになる息を整え、立ったまま壁にぴたりとくっついて五十鈴たちが姿を見せるのを待った。航行音が小さく聞こえていたので、それは間もなくだと思われた。

 

 洞窟の壁に付着していた海水が服の中に染み込んでくるのを感じながら、龍田はぼんやりと昔のことを考えた。まだ彼女が、今相手にしている五十鈴たちと同じような新米艦娘だった時に、やはり新米艦娘だった姉と共にこの洞窟を通ったことがあった。その時の旗艦はもう沈んでしまったが、包容力のある優しい艦娘で、たまには絶景の一つでも見るといい、とわざわざ任務の間に時間を作ってくれたのだった。明るい時間に訪れたので、穴が開いて一部が吹き抜けのようになった天井から差し込む光の筋や、それを反射して()()()()と輝く壁、その浅さの為に透き通った青に見える水面を、新米艦娘たちはすっかり楽しむことができた。龍田はその日のことを思い返すのが好きだった。戦争が終わったら、きっと毎日がこんな日になる、と信じていた頃の思い出を。

 

 しかし、航行音が大きくなったので、龍田はそろそろ夢を忘れるべき時間だと悟った。薙刀を握り、砲撃の準備をして待ち構える。まず旗艦の五十鈴が、先頭で洞窟の出口から二百メートルのところを通過した。その後を追うように涼風や深雪などの僚艦が、間隔を密にして通っていく。私の艦隊であんな真似をしていたら、と龍田は小さく鼻を鳴らした。その日の内に矯正してあげるのに。間隔を開けていなければ、一網打尽にされる確率が飛躍的に上がる。旗艦がきちんと自信を持って指揮を執り、僚艦が自分の取っている針路や指揮官を信頼していれば、何十メートル間隔を開けていようと問題は起こらない筈なのだ。それができていないということは、艦娘それぞれが自分すら心から信頼できていない証に他ならなかった。これなら容易に動揺させられるだろう、と龍田は推測した。

 

 艦隊の後尾を行く二人の駆逐艦娘に狙いを定め、素早く続けざまに砲撃する。龍田の暗視装置越しの視界の中で、五十鈴は最も早く反応し、その驚愕と恐怖の表情をかなり正確に砲声の出所へと向けた。一つは褒められるところが見つかったことに、龍田の頬が軽く緩んだ。だが、狙われた駆逐艦娘二人にしてみれば災難もいいところだった。砲弾は狙い違わず、彼女たちの足を潰したのである。一人はあっという間に海に倒れ込んで溺れ始め、もう一人は片足で痛みと出血に耐えながら、転倒までの絶望的な時間稼ぎに全力を注いでいた。五十鈴の大声が、龍田の耳にまで届く。

 

「深雪、涼風、二人を救助! 済ませ次第私に続いて!」

 

 旗艦は一人で先に追いかけてくるつもりだ、と龍田は直感し、先ほど内心でのみとはいえ褒めた相手に失望しなければならない痛みに、顔をしかめた。旗艦の仕事は手足である艦隊員を動かすことであって、自ら動くことではないというのに、五十鈴は勇み足にもほどがある。それでも龍田は、彼女が経験不足さえ何とかすれば、立派な旗艦になれるだろうとも思った。奇襲の瞬間、彼女は恐れていたのに、即座に指示を出した。恐怖に囚われず、それを跳ねのけたのだ。

 

 恐怖を跳ねのけられること、それは旗艦だけでなく、あらゆる艦娘が有するべき才能だったが、龍田の知る限り大抵の艦娘は、跳ねつけるのではなく心という器に飲み込んでしまうので、その場では囚われることがなくとも、やがては限界を迎えた器からとめどない恐れが溢れ出してしまうのだった。五十鈴の秘めたる才を感じながら、龍田は洞窟の中へ戻ろうとした。その時、強い光が彼女の目を襲った。真っ白に染められた視界に、「探照灯」の一言が龍田の脳裏を過ぎった。自分に注意を向けさせて救助活動で身動きできない僚艦を守りつつ、龍田の位置を探り出した五十鈴に舌を巻きながら、記憶だけを使って洞窟の中を走り抜ける。

 

 暗視装置と双眼鏡に備わった二重の安全装置のお陰で、目を焼かれることにはならなかったが、小さな違和感が残った。舌打ちをして短く笑い、洞窟の壁に遮られて五十鈴の視界から自分の姿が消えたタイミングを見計らって、脇道に入る。五十鈴は頭に血が昇っていたのか、後続を待つのをすっかり忘れて、狭い洞窟の中だというのにかなりの速度を出していたので、危うく脇道に身を隠すのを見られるところだった。龍田はほっと息を吐いて暗視装置付双眼鏡を顔の前から下ろした後、自分の隠れた脇道の前を五十鈴が横切ろうとした瞬間、飛び出して体当たりをした。

 

 当たりにいった龍田すら、衝突の瞬間、意識が明滅するほどの衝撃だった。激突したのもされたのも頑丈な肉体を持つ艦娘でなければ、やわな方の肢体はばらばらになっていただろう。龍田は倒れそうになったものの壁に手を突いて持ち直したが、五十鈴は不意の衝突だったこともあって水面に倒れた。ぶつかった時に彼女の探照灯が壊れたのか、強い光が一度だけ(またた)いた後、辺りが闇に包まれる。こうなると、自分が水に沈みつつあることしか分からない五十鈴は、もがくしかなかった。自分がどちらを向いているのかも、どうすれば溺死を免れるかも分からず、ただ手足を駄々をこねる幼児のように振り動かす。

 

 まだ体がふらついていたが、龍田は暗視装置を付け直し、薙刀を壁の亀裂に差し込んでおくと、五十鈴の後ろから近づき、彼女の脇から片腕を通して体を引き上げた。水を飲み込んでしまったせいで咳き込む五十鈴の背中を、何度か軽く叩いてやる。少し落ち着いたところで、龍田は罠用のワイヤーを使って五十鈴を拘束した。所詮は細い鋼線でしかない以上、ワイヤーなど艦娘の力に掛かれば引きちぎることも不可能ではない。が、そうすれば鋼線は五十鈴の肉に食い込み、引き裂くことになる。その苦痛への恐怖は、龍田が五十鈴を制圧する上で十分な助けとなった。五十鈴は自分が後ろ手に縛られたと認識しても冷静で、暴れなかった。龍田は面倒を掛けず扱いやすい彼女に、場違いな好印象を抱いた。

 

 水を掻き分ける音と機関の駆動音が入り混じった航行音が洞窟の壁に反響して、龍田の耳朶を打つ。彼女は身を翻して薙刀を取ると、顔の前に構えていた双眼鏡から手を離して紐で首に掛かるままにし、五十鈴を背後から抱きしめるようにして盾にした。龍田のその動きで狙いを悟った五十鈴は、どうにかして戒めから逃れようとしたものの、手を縛られた上に薙刀の柄部で首元から腰に掛けて極められていたので、どうしようもなかった。救助を終えたのだろう涼風と深雪が近づいてくる音を聞きながら、龍田は五十鈴の耳元に口を寄せてゆっくりと尋ねる。

 

「ねえ、今日が何の日か知ってる?」

「私の人生最悪の日よ、イカれ女」

 

 真っ暗闇で、拘束され、命の危険さえある中で五十鈴がすかさず返答できたことに、“イカれ女”は今日何度目かになる感心を覚え、ますますこの若き艦娘の卵を死なせたくなくなった。隠すことのできない喜色が、彼女の間延びした「正解」という一言に濃くにじんだ。龍田はもっとこの軽巡艦娘と話してみたいという欲求を抱いたが、涼風と深雪がやってきたので一時中断するしかなかった。二人とも探照灯を装備しており、涼風は龍田の方に直射して視界を制限し、深雪は壁に光を当てて反射させ、自分たちの視野を確保していた。二人の駆逐艦娘は、無言で砲を構えた。発砲まではしなかったが、五十鈴を殺そうとしたり、致命的な隙を見せたなら、撃ってくるに違いない。龍田は、思っていた通りだと考えて微笑んだ。頭はそれなりに回るが、ただ経験が足りない。

 

「砲を捨ててこの場は退くというなら、見逃してあげる」

 

 場の流れをコントロールするべく、龍田は口を開いた。涼風と深雪の目に不信の気配が浮かぶが、彼女は気にしなかった。「洞窟内で発砲したら、どうなるかしらね?」と揺さぶりを掛け、幼い駆逐艦娘たちの心を攻める。二人は隠し事ができない性格らしく、傍目から見ても分かるほど明らかに、顔色を変えた。ごまかすように、深雪が「それはそっちだって同じじゃんか。薙刀だってここじゃ使いづらいだろ」と言い捨てる。その発言は正しかったが、龍田には長年の間に培った技術があったし、それに腰には天龍の刀を提げていたので、深雪の言葉は全く眼前の敵の心を揺るがせなかった。龍田は五十鈴をきつく締め付けながら、次の提案を口にした。

 

「じゃあ、こういうのはどうかしら。私の島に向かってるもう一人だけど、今のまま放っておいたら、罠に掛かって……死んじゃうわよ?」

 

 五十鈴の体が、ぴくりと反応する。やっぱりね、と龍田は彼女に囁いた。深雪たちには単なる鎌掛けだったことは伏せて、最初から見抜いていたという風を装う。

 

「五人だけで行動してたら、一人は別働隊ですって言ってるようなものじゃない。道中で私と遭遇したら、その一人を向かわせるつもりだったんでしょう? 早くやめさせないと、陸の上で轟沈なんて笑えないわぁ」

 

 忍び笑いを漏らしつつ、龍田は薙刀の柄で五十鈴の喉を更に強く締めつけた。ひよっこでも、五十鈴は資質のある艦娘だ。口を自由にさせていれば、何を吹き込んで艦隊員を発奮させるか、分かったものではなかった。狼狽が表情に表れていることに気づきもしない涼風たちの動揺を、龍田はなぶるように煽り立て続ける。涼風が言った。「罠があるってことを伝えりゃ、問題になんかなるもんか」「あらぁ、僚艦の命で賭け事をするつもり?」だが、こうもぴしゃりと言い返されて黙るしかなかった。

 

 最初に砲を捨てたのは深雪だった。後どれだけの時間で海風が島に着くか分からず、彼女が本当に死ぬ恐怖や、それを止めることができる方法があるのに選ばないという罪悪感に、彼女は耐えられなかったのだ。涼風は困惑で「おい!」と声を上げたが、深雪が涙目で「ごめん、涼風、五十鈴。でも、海風を見捨てられねえよ」と言うのを聞くと、諦めたように彼女に(なら)った。龍田はそれを確認してから、初めて余裕のない声で「早く行って」と二人に短く離脱を促した。彼女本人にも、いつ海風が死の島に足を踏み入れるか分からなかったからである。最悪の場合、既に手遅れということすら考えられた。

 

 小さな溜息を吐いて、そこで初めて龍田は五十鈴が自分を見ているということに気づいた。洞窟の天井の穴から差し込む月光が、五十鈴の目に反射してきらめいていた。思わず龍田は彼女の拘束を緩め、虚を突かれて怖気づいたかのように数歩分距離を取る。五十鈴は二度、三度咳をしてから、かすれた声で龍田に呼びかけようとした。けれども「あんた」まで言ったところで、薙刀の石突であごを横殴りに打たれ、意識を失った。



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03.「二人の艦娘」

 五十鈴が目を覚ますと、周囲は完全な闇に閉ざされていた。何も見えず、手は縛られたままで、何処かに転がされているようだった。ただ下が何やら柔らかい布地だったことから、少なくとも地面に投げ出されている訳ではないと分かった。だとしたら、今自分はどうなっているのだろう? 不安にざわめく心を落ち着かせる為に「ここが天国だとしたら落ち着かないし、地獄にしては(ぬる)すぎるわね」と呟くと、少し離れたところから聞き覚えのある笑い声がした。龍田だ。途端に五十鈴の体は硬直し、恐怖が全身を駆け巡った。悲鳴を上げなかったのはただ五十鈴の勝気な性格が、敵を前に怯える姿を見せることをよしとしなかったからだ。だがそれも足音が近づいてくるにつれ、揺らぎ始めた。泣けば許されたなら、五十鈴は恥も外聞もなく泣き出していたことだろう。

 

 足音が止まり、それから顔に巻きつけられた目隠しが引っ張られて外れた。光が五十鈴の目を眩ませる。彼女は数秒ほど目を細めていたが、やがてしっかりと見開くと、辺りを見回した。コンクリートの壁に、すえた臭い。部屋の一角には五十鈴にはよく分からない電子制御盤が設置してある。ここは破壊する予定だったレーダーサイトだ、と拉致された軽巡は悟った。と同時に、今の自分がやけに身軽だということに気づいた。艤装が何もかも剥ぎ取られていたのである。奪われた艤装は部屋の別の角にまとめて置かれていたが、離れたところから見ても明らかに破壊されていた。これで自力脱出は不可能に近くなった、と五十鈴は肩を落とした。

 

 龍田の姿を探す。彼女は床に布を敷いて座り、壁に背を預けて手元で何か作業をしていた。何をしているのかと思ったが、訊いても答えてはくれないだろうと考えて、五十鈴は黙っていた。それから十分ほど、二人はそれぞれの時間を無言で過ごした。音と言えば龍田の手の中から響くカチャカチャという何かが擦れ合う音と、五十鈴が手を縛られたまま、少しでも楽な姿勢を取ろうとして体を動かす際の衣擦れだけだった。囚われの軽巡は抜け目なく辺りを見て、脱出に使えるものはないか探した。何か武器になるものや、泊地と連絡が取れる通信機があれば、好機に乗じて龍田の監視下を逃れられるかもしれない。そこからのことは考えていなかったが、とにかく目の前の気が狂った軽巡に捕まっているより、罠の仕掛けられた島で一人さまよう方が五十鈴にはマシに思えた。

 

 その為にも、手のワイヤーを解かせなければいけない。まずやるべきことを決めたお陰で、五十鈴の気分はぐっと向上した。次に何をするべきか分からないという状況こそ、彼女が何よりも恐れるものだった。そんなシチュエーションでは、その場その場の瞬間的な判断でしか行動できなくなるからだ。そしてそういう判断で積み重ねた失敗は、得てしてボディブローのように後から効き目を発揮してくる。敵を追い払う為に弾薬を使いすぎたとか、逃げ切る為に燃料を使いすぎたとか、五十鈴に思いつく例えは少なかったが、それが意味するところが正しいという点については疑いがなかった。目標を定め、それに基づいて立てられた計画の実現に邁進(まいしん)するべきなのだ。意を決して、五十鈴は龍田に話しかけることにした。

 

「ねえ、ちょっと」

 

 龍田は手元から顔を上げて五十鈴の顔を見たが、またすぐに元の場所へ視線を戻した。龍田が友好的に振舞ってくれることを期待してはいなかったので、続けて呼びかける。「トイレに行きたいんだけど。手のワイヤー、外してくれない?」答えは返ってこないと踏んでいたが、龍田は嘲るように鼻を鳴らして言った。「定番の要求ね」立ち上がり、五十鈴に近づく。何をされるかと身を硬くしたが、龍田はそれが実に当然であるかのように、五十鈴の手を縛る鋼線を外した。驚きながら、今や虜囚の軽巡はずっと締め付けられていた手首を撫でさすった。あっさりと外して貰えたことで呆然としていると、龍田の視線を強く感じ、取り繕う。

 

「それで、トイレは何処なの?」

「あそこよ」

 

 指差された先にあったのは、大きめのバケツだった。その横にはポケットティッシュが転がっている。五十鈴の頬がさっと赤らみ、怒りの宿った目が龍田に向けられた。だが彼女が新米艦娘の視線など気にしていないのは、どう見てもはっきりしていた。五十鈴は今だけは耐えようと決めた。その時がきたら、このバケツに龍田の頭を突っ込んでやる。でも今は我慢の時だ。大したことじゃない。下着を下ろして、しゃがんで、用を足して、拭いて、おしまい。恥ずかしいことじゃないし、自ら望んで露出したって訳でもない。全部龍田に責任があるんだ。頭の中で何度もそういう言い訳を並べながら、五十鈴はバケツのところまでのろのろと歩いた。そして下着に手をかけたところで、背後の龍田が笑いをこらえようとしているのに気づいた。

 

 担がれたのだ、と分かって、先よりも強い羞恥の念と苛立ちが五十鈴を襲った。龍田がいつの間にか片手に薙刀を持っていなければ、バケツを掴んで投げつけていただろう。「まさか真に受けるとは思わなかったの、ごめんなさいね」と口では言いつつも、龍田には一切悪びれたところがなかった。今度こそ本当のトイレの場所を教えて貰い、そちらに向かう。この無人基地の片隅に個室の形で一応備えられていたそれは、大昔の汲み取り式便所だった。それを知って、かえって五十鈴は気分をよくした──こっちなら、龍田の頭だけじゃなく、体まで放り込めるわね。

 

 至急というほど催していなかったので、五十鈴はこの僅かな時間を使って考えをまとめることにした。しかし彼女が受けた教育は、何処までも艦娘を作り上げる為の教育でしかなかったから、捕虜に取られた場合の振舞い方など何一つ知らなかった。深海棲艦は誰一人捕虜など取らないというのが長年の戦訓であった以上、これは仕方のないこととも言えたが、現に捕虜になっているこの軽巡艦娘にとっては、そんな一言で済ませられない問題だった。何よりもよくないのは、と五十鈴は考えた。正しい情報を知られることだ。泊地の様子、次に龍田を始末しに来るのが誰か、世間の注目度、そういったことを知れば、龍田はそれを念頭において動くだろう。これは逆に、あえて情報を与えることで龍田の動きをある程度は制御可能である、という意味でもあった。

 

 けれど、これには避けがたい難点があった。五十鈴には、どんな情報を与えれば龍田が五十鈴にとって得になるように動いてくれるかなど、皆目分からなかったのである。そもそも、龍田が何を望んで今回の事態を引き起こしたのかさえ知らなかったのだ。それに思い当たったお陰で、龍田の動機を知ることが次の目標に決まった。動機なしの行為などあり得るだろうか? 五十鈴は哲学を一度たりとも学んだことがなかったが、それは不可能であるように思えた。こんな大事をやったからには、求めているものが必ずある筈なのだ。

 

 扉がノックされた。言葉は掛けられなかったが、五十鈴のトイレが長すぎると龍田が考えているのは分かっていたので、素直に音響的な偽装を済ませ、扉を開けた。龍田が待ち構えていたということもなく、五十鈴は何処に腰を落ち着けようかと迷って周囲を見回した。それを見た龍田はまた笑うと、土のついた空っぽの木箱を五十鈴の方に押しやった。椅子代わりに使っていい、と言われ、五十鈴は箱を引っくり返して土を払ってから、その上に腰掛けた。また誰も何も言わない時間が流れ始める。どう話を始めたものかと思案しながら龍田を見ていると、五十鈴の視線に気づいた彼女は「何?」とそっけなく尋ねた。答えるのも(しゃく)だったが、都合のいい質問ではある。五十鈴は聞きたかったことを口にした。

 

「一体ここで何をしてるの?」

「座って、通信を傍受しているの。あなたの通信機から抜き取った暗号装置を通してるから、今はまだ聞こえるわ。そうだ、いいこと教えてあげましょうか。あなた、殺されちゃったと思われてるみたいよ? ひどいわよねぇ」

 

 頭を殴られたような衝撃が五十鈴を襲った。『殺されたと考えられている』? それはつまり、救助は来ないというだけのことではなく、今後の鎮圧作戦において、五十鈴の存在は考慮されないという事実を意味していた。最悪の場合、龍田と間違えられて殺されるか、または龍田ごと殺される可能性もあるのだ。五十鈴は、これについてばかりは龍田に同意した。()()()()()()。死体も確認されていないのに、戦死するところを目撃されたのでもないのに、死亡扱いとするとは。意識をそちらに持っていかれそうになって、五十鈴は軽く頭を振った。違う、そんなことは後でいい。今は龍田という人物を解き明かそうとするべきなのだ。

 

「そういう意味じゃないわ。一体何があってこんなことをしたの? こんな、ちっぽけな島なんかを占拠して、あんたに何の得があるのかって訊きたいのよ」

「得? そうねぇ、島が手に入ったこと、とか? そうそういないと思うの、自分の島を持ってる艦娘なんて。来年は南の島でこれをやろうかと思うんだけど、あなたも一緒にどうかしら?」

「お断りだわ。そっちにとってはどうでもいいことかもしれないけど、あんたは私の艦隊員を撃ったのよ。南の島? 結構なことね。でも来年行くとしたら、骨壷に入って以外の道はないものと覚悟しておきなさい」

 

 五十鈴の敵愾心の強さに、龍田は思わず吹き出した。海の上では感心させられもしたし、起きてからは何度も笑わせられたので、龍田は段々五十鈴のことが好きになり始めていた。誰かと一緒に居てこんなに楽しい気分になったのは、一体全体いつぶりだろうかと考えながら、彼女は自分が新しい友人候補として見なすようになった少女に、落ち着かせようとして言った。

 

「足一本じゃない、大袈裟ねぇ」

「大袈裟ですって? 失血死してもおかしくないのよ?」

「でも、希釈修復材ぐらい持ってるでしょう?」

 

 互いに言葉が止まった。五十鈴は「希釈修復材?」という顔で、龍田は「まさか」という顔で。戦中組として悲惨な争いを戦い抜いた艦娘は、恐る恐る、無知な後輩に尋ねた。「『新時代のセロックス(止血剤)』よ。高速修復材を薄めた……誰にも教わらなかったの?」五十鈴はこくりと頷き、それを見て彼女の先任艦娘は全身の力が抜けるのを感じた。だとしたら、殺してしまったかもしれない。希釈修復材は非公式な装備ではあるが、その効果は身体欠損級の負傷者を戦闘に復帰させるほどで、戦中組の艦娘にとって常識だった。艦娘訓練所では教えないものの、新規着任した艦娘には先任が必ず教えるようにしていた。資材状況によっては使えないこともあったが、そもそもその存在を知らない艦娘なんて、精々が広報部隊の艦娘程度だというのが通説だったのだ。

 

 龍田はおもむろに立ち上がると、五十鈴の首に引っ掛かっていた目隠しを外し、抵抗する彼女の口にそれを噛ませた。もちろん五十鈴はそれでも暴れようとしたが、刀を喉元に押し付けられてまだもがけるほど、五十鈴は強靭ではなかった。彼女の動きが静まるのを待って、龍田は通信機を手にし、立ったまま数分ほど何もせずにいたが、やがて単冠湾泊地への呼びかけを始めた。応答した通信士は、偶然にも最初の交信時に龍田と話をしたあの通信士だった。彼は、龍田が何か言う前に彼女の提督へと回線を切り替えた。訊くべきことを頭の中で整理しながら、龍田はこの対応の速さから、提督が自分からのコンタクトを待っていたことを見抜いた。無論彼女の心の中に、彼が望むようなものをそう簡単に与えてやるつもりはなかった。

 

「提督、初めてのお使いは失敗でしたねぇ。私も心が痛んだわぁ」

「それを言う為に、わざわざ通信をしてきたのか。私はてっきり、何か要求があるのかと思っていたんだが」

「あはっ、まさかぁ。ただ、五人の可愛い子供たちは、無事におうちに帰れたかなぁ、って」

「……撃たれた二人は重傷だったが、命に別状はない。止血が早かったのが幸いした」

 

 龍田は息を漏らした。小さく「よかった」と呟き、その場に座り込む。戦闘の疲れが、何倍にもなって肩に圧し掛かってきたようだった。龍田は懐に手を伸ばしてステイアラート・ガムを取ると、片手でもどかしげに包み紙を開けて、一粒口に放り込んだ。余計なことは何も考えず、自分が“子供たち”を殺さずに済んだことを、大嫌いな運命や信じていない神に向かって感謝した。感謝しながら、龍田は複雑な気持ちになった。どうしてだろう? 確かに、子供を殺すのは最低だ。じゃあ大人は? 大人だったら、殺してもいいのだろうか? よしんばそうだとして、子供と大人の境目とは何なのか? 龍田には分からなかった。分からないなりに考えて、ふと、最高の可能性を思いついた。

 

 もしかしたら自分は、艦娘を殺せないのではないだろうか。艦娘の多くは、かつては肩を並べて戦った戦友たちだ。戦後組と共に海を駆けたことはないが、それでも同じ艦娘だという精神的な繋がりがある。自分の中に残っていた非常に純粋な部分が、そういう繋がりを前にして、「殺すな!」と心の中で喚き立てているとしたら──その考えはそこにこもった馬鹿馬鹿しさと全く同じ程度には、龍田にとって素晴らしいものに思われた。もし艦娘を殺すことに躊躇いを感じ、それを避けようとしているのなら、それはとても真っ当なことだ。そして真っ当さというのは、彼女が戦争の中で捨ててきたとばかり思っていたものの一つだったのである。

 

 龍田はすっかり嬉しくなった。誰かにこの考えを聞いて欲しくもなった。しかもそれは、同じ戦中組の艦娘で、龍田が心底誰よりも信じることのできる艦娘でなければいけなかった。そこで、彼女は提督に頼むことにした。

 

「提督、一つ要求を思いつきました。そこに、私の教官を連れてきてくれませんか? ……ええ、どうぞよろしくお願いします」

 

 通信を終えた後、龍田は食事を取ることにした。胃がきりきり痛むほどに空腹だったし、五十鈴の腹まで鳴ったからだ。でも何となく、龍田はその痛みをずっと感じていたいような気もしていた。それは幸せな痛みだった。

 

*   *   *

 

 戦争中、艦娘になった女性の大半が十五歳、中学卒業時点で志願して海軍に入隊した。それは艦娘になれる下限年齢であり、最低限の義務教育を終えただけの年若い少女たちは、自分たちの選択の先に何が待ち受けているかなどろくろく知りもせずに、各々の理由で志願した。思春期らしく家から逃げ出したいという理由の者もあれば、地元が『下限年齢に達した女性は志願すべし』という気風の土地だったからという者もあり、そもそも艦娘になるのが夢だったという人間もいた。彼女たちは十五歳でなければ、十八歳、高校卒業時点で志願した。十八を越えてから志願する者は、滅多にいなかった。

 

 だが、当然ながら例外というものは存在する。たとえば、龍田の教官を務めた艦娘は二十二歳、大学卒業時に志願した。彼女は前線に出て戦い、負傷し、右腕を失い、一線を退いて教官職に就いた。彼女が大学で在籍していたのは教育学部だったので、これは軍にしては論理的に正当性のある采配だった。彼女は少しの間、教官として辣腕を振るった後、教え子が旗艦を務める艦隊に二番艦として現役復帰し、終戦まで戦い抜いた。そして終戦から二年が経った今では、退役艦娘の為に特設された高校に、大学で取った教員免許を活かして教師として勤めており──その艦娘は、名前を「那智」と言った。

 

 龍田からの“要求”の後、昼から夕方へと変わる頃に彼女を訪ねて応接室に通された提督は、どうやって那智を単冠湾にまで連れていったものかと考えた。彼女は軍を退役した身ではあるが、勤務地が艦娘の為の特設高校ということもあって、特例として解体──艦娘の肉体を、通常の人間に戻すこと──を免れ、現役時代の艤装も軍預かりとなっている。けれど本人は、そのことを何とも思っていなかった。彼女にとって艦娘であるということは、肉体の問題ではなかったからである。龍田に要求されるより前に、対応策を練る為のアドバイザーとして、理由を伏せた上で那智を招こうと連絡し、解体の保留を撤回するという脅しを掛けてまですげなく断られていた提督には、これが龍田本人からの要求だと告げたところで、那智が単冠湾に来てくれるとは思えなかった。

 

 入室時に持って来られたお茶を飲みながら、男は那智を待つ。彼とて事前に連絡してはいたものの、正規の教師にして本人もまた艦娘だという稀有な存在である那智は、何かと頼られて多忙な身だった。特に生徒と教員間の摩擦の解消には、手を掛けられっぱなしだった。少なくない数の退役艦娘が、民間出身の教員たちを侮っていたのである。しかしそんな退役艦娘たちも、那智の言うことにだけは決して逆らわなかった。何しろ彼女は同じ艦隊の仲間ではなかったとしても、深海棲艦との戦争を一緒に戦った戦友だったし、現役時代の那智の業績は第一級の英雄とは言えずとも、元艦娘に敬意を惜しみなく払わせるだけのものがあった。

 

 ドアの向こうから声が聞こえてきたので、提督はそちらに意識を傾けた。明らかに興奮した大きな声と、落ち着いた、たしなめるような声。扉と床の間に隙間でもあるのか、その会話は提督の耳へと明瞭に届いた。

 

「僕は反対ですよ、教官。戦争は終わったし、第五艦隊は解散したんです。どうして今更、しかも理由も分からないのに引っ張り出されなくちゃいけないんですか?」

「おかしいな、今は授業時間中の筈なのに、私の横に生徒がいる気がするぞ。何だかそいつを留年させたくなってきた」

「つまり、もう一年教官と一緒にいられると。願ってもありませんが、今は別の話をしてるんです」

「貴様は馬鹿か? いや、馬鹿だったな……いいから戻れ。また後でな」

「ええ、まだ話は終わってませんからね」

 

 怒りに満ちた足音が遠ざかっていく。それが提督の耳にも聞こえなくなってから、ようやく応接室のドアが開いた。提督は礼儀として立ち上がって出迎えたが、入ってきた相手を一目見るなり、ぎょっとして動きが止まった。概ねの姿は確かに重巡「那智」だったが、顔の左側に大きな火傷痕が残っており、よく見れば右腕は義手だった。事前の情報で知ってはいたが、提督はこれまでそういった艦娘を見たことがなかった。実際に目の前にして動揺が出るのは、仕方のないことだとも言えるだろう。艦娘が欠損した四肢を回復できないままになることは、滅多にないからだ。通常は入渠で治癒してしまう。那智は気さくな笑いだと本人が信じているものを浮かべ、「気にしないでいい、そういう反応には慣れてる」と彼を慰めた。

 

 男は口の中でその配慮への礼をもごもご言ってから、この失態を挽回しようと自分から右手を差し出した。那智はごく自然にその手を握り、上下に軽く振ってから離し、応接室のソファーに腰を下ろした。彼女の握手がとても違和感のない行為だったので、提督は手を離して自分も腰掛けてから、彼女の手が温かかったということに気づいたほどだった。那智は自慢するかのように言った。「最新型なんだ。普通の義手の六倍は値が張るが、使い勝手は生身とそう変わらない。誕生日の贈り物に、昔の教え子たちが奮発してくれてね」那智の入室以来ずっとペースを握られている提督は、曖昧に微笑んで「それは素敵なプレゼントと言う以外にありませんね」と言った。実際、義手の良し悪しなどさっぱり分からない彼には、そういう感想しか出せなかった。那智は頷いた。

 

「全くだ。しかしわざわざここまで来たのは、私の義手を見物する為じゃないだろう。昨日の電話の続きだな? 何でも、私の教え子が北の島を楽しんでいるそうだが」

 

 まさにその話、龍田が今何をしているかという説明から説得を始めようとしていた提督は、言うまでもなく那智が知っていたということに驚きを覚えた。だがすぐに、彼女の経歴を頭の中で洗って答えにたどり着いた。彼女はそのキャリアの少なくない期間を、本土の基地で送っている。その間、彼女の直属の上官が誰だったかと言えば、それは現在の軍警司令官を務めているあの女傑であった。那智はきっと電話の後、その伝手(つて)を頼って調べさせたに違いない。提督は自分の過ちを腹立たしく思い、暗澹たる気持ちになった。まだ軍警には介入させない計画だったのに、妙に隠したりなんかしたせいで、目をつけられてしまった。泊地総司令はこの失敗を気に入らないだろう。

 

 感情を隠しつつ、頷いて那智の問いかけを肯定する。切り替えよう、と提督は自分に言い聞かせた。彼女がもう知っているなら、話が早いと思うべきだ。龍田を訓練し、その戦術の基礎を築いたのが那智ならば、有効な対応策が出せる筈なのだ。最悪でも、龍田についてより詳しく知ることができる。それだけでもありがたかった。加えて、今となっては龍田本人が那智を要求している。この要求を満たせば龍田が満足して島から出てくる、などとは提督も考えていなかったが、それに一歩近づくとは思っていた。彼は咳払いをして喉を整えると、なるべく真摯に聞こえるように心がけて、切り出した。

 

「仰る通りです。現在、龍田は私の指揮を独断で外れ、幾つかの島を不法に占拠しています。当初は、つまり昨日あなたに連絡した際には、ということですが、要求はありませんでした。しかし数時間前に本人から通信が入り、あなたと話したい、と」

「こういうのはどうだ? 来年の入学式で会おう、と龍田に伝えてくれ。……笑えなかったか? 冗談だよ。とにかく、今の私は艦娘ではあるが同時に民間人でもある。軍の手伝いをするつもりにはなれないな。()()を手伝うのとは訳が違う」

「それは、この件に軍警察を噛ませろと言っているのですか?」

 

 那智は肩をすくめるだけで、何も言わなかった。だがそれが立派な答えになった。提督には分かった。彼女がかつての上官を頼った時にでも、その借りをこうやって返すように言い含められたのだろう。相手は昔からの知り合いだし、今回のことが片付いてしまえば、何がどうなろうとも那智にとっては知らぬ顔で済ませられる。彼女は政治に関わる立場でもなければ、海軍軍人でもないのだから。なんて無責任な、と提督は怒りを感じた。しかし、協力して貰えなければ龍田の機嫌を損ねることになるかもしれない。それは避けるべきだと、彼は思った。

 

 電話を一本掛けさせてくれ、と頼んで、提督は応接室を出た。万が一にでも那智に会話を聞かれずに済むよう、少し歩いてから立ち止まり、携帯電話を服の内ポケットから取り出す。ひどく気が重かったが、しなければならないことだと自分を叱咤して、どうにか携帯を操作した。数度のコール音の後、泊地総司令の秘書が電話に出る。総司令に繋ぐように頼むと、秘書は少々お待ち下さい、と言って保留に切り替えた。無為に流れる時間に苛立ちながら、総司令が出るのを待ち続ける。やがてぶつりと音がして、求めていた人物が電話口に出た。提督は彼の怒りを必要以上に買わないように、言葉遣いと表現に気をつけながら、軍警の介入を避けられそうにないことを告げた。

 

 彼は叱責を避けられないものと思っていた。ところが総司令は、仕方ない、と溜息一つで済ませて、軍警にオブザーバーとして協力を要請することを承諾した。以前の意見との違いに、提督はいぶかしむ。それを電話越しに読み取った総司令は、疲れた声で言った。今ならこちらから協力を頼んで『意見は出して貰うが、手出しは結構』という形を取ることができる。そうすれば、事態解決の主導権はあくまで海軍側にあるのだ、と主張もできる。設立から間もない軍警も、こういった事件を解決したという実績や経験が手に入れば、それ以上は求めてこないだろう。しかし連中が自分たちで全部片付けるつもりで介入を始めれば、面倒なことになるのは目に見えている。先に譲歩することで、被害を抑えるのだ、と。

 

 軍警に関する失敗が責められないこととなり、提督の肩は軽くなった気がした。彼が応接室を出た時とは打って変わって穏やかな顔で戻ってきたので、那智は思わず笑ってしまうところだった。「問題はなくなりました」と提督は言った。「準備ができたら、すぐに出ましょう。荷物はありますか?」那智は首を横に振った。「ないよ、今からでも大丈夫だ」提督は彼女の態度を初めて好ましく思った。頷いて、彼は応接室のドアを開けようとした。その手を、那智の義手が掴んで止める。

 

「そっちはダメだ。見張られてる」

 

 提督は困惑に眉を寄せた。

 

「見張られている、とは?」

「“昔の教え子”の一人だよ。私の元旗艦でもある。ほら、部屋に入ってくる前に話してた奴だ。聞こえてたろう? あいつ、私が話を受けると分かってるのさ。説得できるとは思うが、時間が惜しい。窓から出よう」

 

 その言葉を、男は最初理解できなかった。理解してから、聞き間違えたのかと思った。それで聞き直した。答えは変わらなかった。彼は訊ねた。

 

「ここは二階だったと思うんですが?」

「ああ、三階じゃなくて本当によかったよ。私もそう思う。だが頭から落ちたら死ぬぞ、気をつけることだ」

 

 二十分後、二人は那智が運転する車の中にいた。このまま軍用空港に向かい、単冠湾に直行するという計画を聞かされて、那智は途中でほんの数分の寄り道をしてもいいかと訊ねた。助手席に座った男は渋ったが、機嫌を損ねられて「やっぱり協力しない」などということになったらと思うと、了承するしかなかった。答えを聞くと、那智はただちに車を路肩に寄せ、停車した。「これが寄り道ですか?」と提督が疑問を呈すると、那智は笑った。「人待ちだと言ったら、余計なことを聞かれると思ったんでね」その『余計なこと』とは何かと詰問しようとしたところで、後部座席のドアが突然開く。驚いて振り向く男と対照的に、運転手は気楽な表情のまま、新しい乗客に声を掛けた。

 

「久しぶりだな、吹雪秘書艦。軍警司令秘書の仕事はどうだ?」

「給料はいいです。さあ、出して下さい」

 

*   *   *

 

 夕方になって那智と吹雪が単冠湾に到着すると、二人には休む間もなく対策会議への出席が求められた。何を考えていようと顔には出ない吹雪はともかく、那智は彼女が作れる最高の渋面を浮かべてみせたが、那智を呼びに来た単冠湾所属の事務員は、そんなことを一顧だにしない鋼の精神の持ち主だった。仕方なく、先に出た吹雪の後を追って那智は廊下を進む。事務員は他に仕事があるとかで案内もせずに行ってしまったので、彼女たちは自分で会議室まで向かわなければならなかった。案内をつける余裕もないほどに、混迷した状態にあるのだろう、と那智は思った。単冠湾の事件についてはもう世間の知るところとなっている。情報統制を始めとして、やることは幾らでもあるだろう。

 

 彼女の知る限り、今のところ龍田が何をしているかを知っているのは、海軍でもごく一部の人間しかいない。ましてやマスコミなどには、決して伝えていないようだった。その方がいい、と引退した艦娘は海軍がまともな対応をしたことに満足を覚える。偉大な「知る権利」を制限したい訳ではないが、仕事の最中に横からああだこうだと素人に口出しされるのは、那智にとって最も腹に据えかねることだった。分別ある良識を持った大人の、敬意ある疑問や質問は構わないが、そうでないものに時間を取られたくなかった。

 

 歩きながら、那智は二歩前を行く吹雪秘書艦の頭を見下ろす。彼女はこの謎めいた艦娘と自分がまた顔を合わせることになったのを、面白く感じた。二人が初めて出会ったのは、戦争中、那智が当初所属していたパラオ泊地から、本土へと引き抜かれた際である。事務的な確認の為に短い会話を交わしただけだったが、それだけで那智は秘書艦がその地位に相応しい経験と技量を有していると理解した。そして彼女が配属された艦隊は第二艦隊だったので、戦場で直接行動を共にすることはそうなかったが、一度海に出れば吹雪は艦種をものともせずに猛威を発揮した。那智はたちまち彼女が好きになり、第一艦隊の艦隊員たちを羨ましく思った。吹雪の後ろにいれば、何処よりも安全だろうと思えたからである。

 

「何か?」

 

 振り返らないまま、何処か剣呑さのある声で吹雪が尋ねた。那智は不躾な視線を咎められた気がしたが、意に介さなかった。吹雪が実力行使に出るのはそれが必要な時と、彼女が従う提督に命じられた時ぐらいだと、経験から知っていたからだった。とはいえ無言を貫くのも彼女に対して非礼が過ぎるように思われて、那智は適当な答えを口にした。「いや、な。お前が出れば、軽巡一人ぐらい何とでもなるんじゃないかと思ってね」吹雪はそれについてコメントしなかったが、那智も答えが欲しかった訳ではなかったから、一向に気にしなかった。ただ、やはり立場のしがらみがあるのだろうな、と考えて、「この人が」と定めた提督が野心家だったせいで、可哀想にとは思った。

 

 会議室前まで着くと丁度、龍田の提督が中から出てくるところだった。彼は露骨にほっとした顔を見せた。「もう少しで捜索隊を組ませるところでしたよ」と彼は言った。促されて入室し、吹雪は急遽彼女の為に用意された席へと腰掛け、那智はその隣に座った。自分は軍警に協力するのであって、海軍にではない、というポーズだった。だが形式的に行われたことだというのは全員が理解していたので、そのことで場の空気が悪くなることはなかった。「それでは始めようか。中佐、ドアを閉めてくれ」上座で彫像のように微動だにせず座っていた泊地総司令が、億劫そうに宣言し、ついでに龍田の提督へ一つ指示を出す。彼は従い、それから会議が始まった。

 

 長い間、那智には誰も何も訊ねなかった。龍田にどのように対処するのかを決めて、それからその細かい運用における注意や助言などを求める筈が、まず龍田をどうするかという点で議論が紛糾した為に、運用云々のところまで到着しなかったのである。吹雪秘書艦の方がまだ、軍警の対応や立場について、表明を求められることがあった。那智は手持無沙汰を紛らわす為に、注意深く会議の参加者たちを観察した。泊地総司令を筆頭として、単冠湾泊地所属の有力な提督の多くが、会議室に集められていた。

 

 その内の三分の一ほどがこれ以上の流血を防ぐ為、説得によって解決するべきだと主張していた。説得の成功率を上げるファクターとして那智の名前も一度二度ほど出ることがあって、その度に彼女は「期待をするのは勝手だがな」などと頭の中で文句を言った。残りの三分の二は積極的な鎮圧を支持していたが、かといって説得を一考に値しないと切り捨てている訳でもなかった。いっそそうしていれば、那智に助言を求める段階まで足早に進めていただろう。血を流さない選択肢を残しておく判断に那智は好感を持ったが、それでいつまでも椅子に座らされていることを考えるとその好感も目減りするというものだった。

 

 とうとう、提督の一人が那智にも意見を求めたらどうだ、と言い出した。出席しているからには、出席者は意見を自由に論ずる自由があり、またそれは義務でもある、とその提督は言った。立派なお題目に那智は感心し、とうとうこの時が来たかと内心で笑った。彼女は堂々巡りの会議を見ていただけだったが、会議室に入ってくる前から「龍田をどうすればいいか」についての意見は持っていたのだ。自信を持って、那智は発言者としての儀礼に従い、立ち上がった。それを見た提督たちは、思わずそれまでの思考や行為を止め、彼女に注目した。那智は言った。

 

「放っておいたらどうだ?」

 

 吹雪秘書艦以外の全員が、その言葉を飲み込むまでに少々の時間を要した。その沈黙の時間を促しだと解釈して、那智は持論を展開した。

 

「あの島に龍田が引きこもっているからと言って、それが一体何の問題になる。漁業に大打撃を与えるような場所でもあるまい。放っておいて飢え死にでもするのを待つか、自分から降伏するのを待つかすればいいだろう。どうして藪をつつこうとするんだ?」

 

 最も素早く立ち直ったのは、少佐の階級章を付けた提督だった。彼は五十鈴率いる警戒艦隊を指揮下に入れていた提督であり、説得抜きでの積極的な鎮圧を強硬に唱えていた。

 

「我々にも面子がある。それに、龍田はこちらの艦娘を一人沈めたものと考えられる。野放しにはできない」

「ほう、時代も変わったな。私が海軍にいた頃には、誰かが一人沈んだぐらいでは面子だなんて言い出さなかったものだが」

「それは戦争中だったからだ。第一、君の意見は龍田が島に引きこもって動かないという予測に基づいているが、その正当性は何を根拠にしているんだ?」

「あちこち動くなら、島を占拠したりしない筈だ。拠点を構えたということは、活動はその近辺に限定されると見てもいいだろう。それに燃料補給の当てもないのに、無闇に動きはしない」

 

 本当に渋々ではあったが、提督たちは那智の意見にも幾許(いくばく)かの正しさがある、ということを認めざるを得なかった。それに彼女の意見に従うなら、北方領土という政治的な爆弾を抱えた地域で、軍事行動を取るという火遊びをしなくてもよくなる。精々が警戒網を張り、龍田が姿をくらますことのないようにがっちりと周囲を固めるぐらいで、その程度ならロシアを刺激したりすることなく実行できる。しかし泊地総司令は、今回の騒ぎを何としても短期間に収束させたかった。彼の平和を乱すどんなことをも、放置しておきたくはなかった。説得によってだろうが流血によってだろうが、とにかく短期間に問題を解決する。彼の基本方針はその方向で完全に定まっており、それは軍警の協力者によって持ち込まれた意見で今更変えられるようなものではなかったのである。

 

 結局、会議は積極的鎮圧論が勝利を収めた。那智は訓練教官だった頃を思い出しながら、その場にいる提督たち全員に、龍田を相手にする上での簡単な注意点を伝えた。実働する艦隊にはもっと詳細かつ実際的に教えるつもりだったが、提督にも多少の理解があって悪いことはない、と那智が判断したからだった。彼らは一様に真剣な表情で彼女の講義を聞いた。そこには軍隊的な、硬直したものの捉え方という悪癖は存在しなかった。那智の話が終わって、総司令が龍田鎮圧に向かわせる艦隊を選抜する作業に移る為、散会となる。が、むしろ那智にとっての仕事の始まりはそこからだった。

 

 龍田と那智の付き合いは短い。十五歳で志願して訓練所にやってきた、龍田になる前の少女を、那智は散々にしごき上げた。訓練の半分が終わって彼女が龍田になると、それに輪を掛けてしごいた。でもそれは那智の仕事だったし、他の誰に対しても同じようにしていた。時間にして数か月の速成教育だったこともあり、那智には優しくする余裕など一切なかった。だから厳しく教育した教え子たちの多くが『那智教官』を慕っていると知った時、彼女はかえって強く困惑したほどだった。憎まれたり嫌われたりこそすれども、愛されることなどないと信じ込んでいたからである。

 

 自分を呼んだのなら、龍田もそういう教え子の内の一人なのだろうか、と那智はぼんやり考えた。会議が終わった後、個室に案内された彼女の手の中には通信機があり、それは龍田が使った周波数に合わせてあった。また録音装置も装着されていて、龍田の発言を後で検討したり、必要になればその声を分析して精神状態を調査することができるようにもしてあった。だがそんな機器を手でもてあそびながら、何と声を掛ければいいものか、那智には分からなかった。仕方ないとはいえ、横に龍田の提督と吹雪秘書艦がいたのも、彼女の口を重くしていた。けれど、仕事は仕事だ。那智は結局、通信機のスイッチを入れて、口を開いた。

 

「北方でのバカンスはどうだ? 今朝は冷え込んだだろう。外を歩いて頭を冷やすにはぴったりだった筈だ。試したか?」

 

 返事は暫くなかった。横で提督が「どうして相手を刺激するようなことを言うんです!」という顔をしているのを見て、那智は久々に誰かをからかって遊ぶことの楽しさを思い出した。教官職に就く前、まだ単なる一人の艦娘で、若かった頃の思い出が胸に蘇る。ひと時だけでも胸を暖かくしたそれは、吹雪秘書艦の顔を見ることで霧のように消えてしまったが、お陰で那智は幾らかリラックスして龍田の応答を待つことができた。数分が経ち、そろそろ那智もじれったくなってきた頃に、返答があった。

 

「また会えて嬉しいわ、那智教官。覚えてるかしら? まだ艦娘にもなっていなかった私たちが運動場を走っていると、あなたが後ろから機銃で掃射してきて、みんな悲鳴を上げてうずくまって……」

「走っていたのは運動場じゃなくて丘で、機銃じゃなくて砲だった筈だが、まあ概ね私の記憶とも一致するな」

 

 再び返答が、今度は数秒だけ途絶えた。それから通信機の向こうから、女性的で上品な笑い声が聞こえてきた。

 

「それじゃ、教官、あなたなの? まさか本当に来るなんて!」

「ああ、私だとも。何だ、帰った方がいいか?」

「帰らないで、教官。暫く私と一緒に居て下さい。話をしたくてお呼びしたんですから。そこへは飛行機で? 周りに誰か人はいますか?」

「うん、飛行機だ。それに、ここにいるのは私とお前だけさ。でも逆探知はしていると思う。怒らないよな? 教官と教え子の間では、ちょっとした逆探知ぐらい挨拶みたいなものだろう」

 

 通信機から漏れ出てくる龍田の声が無邪気な喜びに満ちているのに、提督は気づいた。憧れの人を前にした少女を思わせる、浮ついた声。それが今の龍田の発する声だった。アドリブで同席者たちの存在を伏せた那智は、提督に目をやった。彼は頷き、引き続き黙っているようにと指を一本口の前に立て、『動機』と書いたメモを那智に見せた。彼女は視線を戻し、冗談めかした明るい声で言った。「それよりも教えてくれないか。お前は一体、どうしてしまったんだ? 何故そこにいる?」龍田は答えなかった。急に会話が途切れるのはおかしいと思って、那智は何度か彼女の名を呼んだ。それでも龍田は何も言わなかった。やがて吹雪秘書艦が「一回目の対話は成功したようですね」と評価し、提督はそれを皮肉だと感じた。



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04.「歌」

 蹴飛ばされたバケツが立てた耳障りな音は、疲れから寝入っていた五十鈴を叩き起こすには十分なほど大きく響いた。彼女は慌ててそれまで寝転んでいたスリーピングマットの上から飛び退くと、姿勢を低くして脅威に対しいつでも飛び掛かれるよう腰を低くした。音を立てることになった元凶を探して、寝起きのかすむ目が左右を泳ぐ。それはすぐに見つかった。龍田は何度も何度もバケツを蹴飛ばし、壁を蹴り、足を床に打ちつけるようにしてその場をぐるぐると歩き回った。知らない間に起こった何かについて感情を荒立たせているのは明らかだったので、五十鈴は声を掛けずに黙って見守った。自分の命は龍田の気分次第であることに、彼女は順応し始めていたのだ。

 

 龍田はバケツを何度も蹴りつけてから、引っくり返ったそれの前で両膝を折って跪いた。まるで、これから先どうすればいいのか分からない、というように顔を両手で覆っている。()()()()()()()()()。彼女はそれを見て、今なら龍田を仕留めるか、無力化できるかもしれない、と考えた。目を細めて、室内にある武器として使えそうなものを探す。薙刀は二人のいるレーダーサイト内で龍田を挟んで向こう側にあったし、艤装の残骸は五十鈴のいるところから離れた角に集められていた。それを掴んで龍田のところに駆け寄るよりも早く、彼女の薙刀か腰の刀、あるいは砲で殺されるだろうと五十鈴は推察した。

 

 仕方なく無手で挑むのを想像する。だが、彼女にはどうしても自分が勝つイメージができなかった。蹴られてへこんだバケツで殺される自分を想像した後、五十鈴は結論した。これはチャンスなどではなかったのだ。彼女は龍田を攻撃する代わりにどうするか、次の手を考えなければいけなかった。放っておくのも一つの手だったが、それでは何も変わらない。リスクはあるが、龍田と対話するべきだ。五十鈴は勇気を出して腰を上げ、ゆっくりと龍田に近づいた。驚かせないように、という配慮のつもりだったが、それは逆効果だった。戦争を通して鍛えられた龍田の耳は、背後からの足音を忍び寄るものだと判断したのである。先ほどまでの茫然自失の様相が嘘のように俊敏に、龍田は振り返った。その手は既に刀を振り抜こうとしており、刃は五十鈴の首へと走った。

 

 思わず身をすくめて目をつぶったが、数秒経ってもまだ死んでいないということを認識して、五十鈴は目を開いた。龍田はもう刀を鞘に戻しており、さっきより多少は落ち着いた様子で壁にもたれかかって座り、それでも俯いてかなり塞ぎこんでいた。寸前で思い留まってくれたのだ、と五十鈴は安心の息を吐き、今度は襲われずに済むよう、正面から近づいた。声を掛けようとしたが、喉がからからだった。声が出ないことに驚いた彼女が、奇妙な擦過音を喉から出すと、龍田はのろのろと首を上げて、微笑みが失敗した結果と思われる表情のまま、ぽつりと訊ねた。

 

「怖かったのね?」

 

 五十鈴は頷いた。だが何が怖かったのかについては言わなかったし、「怖かった」と発言することも避けた。それを実際に口にすることは彼女の心にとって苦痛だった。龍田はそんな五十鈴の心の機微にはお構いなしに、急に饒舌になって話し始めた。「そういうことがあるのよ。恐怖がどう作用するのかしら、唾液が止まるの。落ち着いてから友達に話しかけようとしても、みんな咳き込んでしまって話にならないなんてこと、よくあったわ。怖い、って感情は、本当に色々なことをするのね。時には頭から何もかも抜き取ってしまう。時にはすっかり人を幸せにして、それがなくなると寂しく感じさせる。敵に追われて、いつ背中を撃たれるか怯えきっていて、お漏らしにも気づかずに逃げ帰ってきたことだってあったわ。帰った直後は全然恥ずかしくなかったけど、落ち着くと部屋のベッドから出たくなくなったものよ。結局、その日は夕食も食べなかったっけ……」

 

 それから龍田は、恥じ入ったように顔を背けた。「楽しい話じゃなかったわね」突然五十鈴は、今の龍田が自分に向けて、僅かではあるが気を許していると直感した。何かがあって、それが彼女を打ちのめした。彼女はその傷にかさぶたができるまで、鎮痛剤の代わりに手近な話し相手と親しもうとしているのだ。これこそがチャンスだ、と五十鈴は思った。龍田に寄り添い、龍田を理解し、龍田と“友達”になることは、必ずや自分の生存という目的に対してプラスに働くと彼女は信じた。「何か、もっと話して」と五十鈴が頼むと、龍田は困った顔をして言った。

 

「何を?」

「あなたが体験したことよ」

 

 暫くの間、龍田は視線を宙に向けていた。時折口がぴくりぴくりと動いて言葉を発そうとしては、スピーチの原稿に重大なミスが見つかった演者のように、ぎゅっと唇を引き絞って発声を止めた。五十鈴はどれぐらい彼女が喋り始めるのを待つことになるか分からなかったが、真剣な表情のまま待ち続けた。やがてまず一言が、龍田の口から漏れ出た。「鯨がいたわ」その場の緊張にそぐわない、平和な一文だった。そこから龍田の口舌は滑らかになった。

 

「戦争中でも、海にはいいところがあった。輸送艦隊を中継地点まで護衛して、引継ぎを済ませて戻る最中に時々、鯨を見たのよ。そんな時はいつも、水中聴音機に耳を傾けてたわ。実際のところ、あの子たちはとっても叙情的な歌手なの。物悲しくて涙が浮かぶような、切なくて胸が痛くなるような歌が、ずっと聞こえてた。時間が夕方だと、余計に心に響くのよ。赤い夕暮れ。枝を掴んだ渡り鳥の声。明日の今頃まで生きていられるか分からない不安。夕方と夜が作るにじんだ境界。そのグラデーション。へとへとの体。鯨の歌声。私たちの沈黙。綺麗だったわ」

 

 龍田の熱に押されて、五十鈴は面食らってしまった。病的な気配が戦争を生き抜いた古参軽巡の瞳に写るのを見て、五十鈴の脳裏に幾つかの不穏な予測が浮かんだ。彼女は変に相手を刺激してしまわないよう、共感を込めた声音で「素敵ね」と言った。龍田は頷いたが、その首肯が何に対する肯定なのか五十鈴には分からなかった。ただの相槌とも思えた。

 

「一度でもあの歌を耳にした艦娘は、また聴きたいと思うようになって、気が向くと、心の中であの歌に浸るようになる。胸の痛みが癖になるのね。そういうの、何となく分かるでしょう? でも、彼女たちはもう二度とあの歌を聴くことができないの」

 

 初めて五十鈴は龍田の声に悪意を感じた。それは軽蔑か、嫉妬を感じさせる響きだった。今や龍田の顔は紅潮していた。自分の喋る言葉が彼女を興奮させていた。文節の合間と合間に、しきりに「そう、そうなのよ」と呟きながら、龍田は話を続けた。

 

()()()()戦争は終わってしまったから。あれは、あの歌は、あの感動は、リラックスして平和でいる艦娘が得られるものではないの。逆なのよ。開いたままの傷口がなければ、染み入ってこないわ。そして、もう終戦から二年も経ってしまった。ほとんどの人の傷口は閉じてしまった。そして私の知っている一番深い傷を負った人は、痛みから目をそらしている。それがどれだけ私を傷つけたか分かる? あの人が私を訓練したのよ? あの人が私と天龍ちゃんを艦娘なんかにして、海に送り込んだのよ? それで、天龍ちゃんはもう二度と痛みを感じないし、私は……私の耳にはまだ歌声が聞こえるし、胸がひどく痛むの」

 

 長い間、二人は黙っていた。五十鈴は目の前の軽巡が正気ではないことをほぼ確信していたが、それにしては龍田の話しぶりや態度は筋が通っていて、文章として意味するところが分からない箇所はあっても、言葉の一つ一つは違和感なく繋がっていた。新しい反応を引き出したくて、五十鈴は「私も聞いてみたいわ」と言った。それが間違いだったことには、言ってしまってから気付いた。龍田はバネが跳ねるような勢いで立ち上がると、五十鈴に詰め寄った。彼女の胸元を、龍田の力強い両手が掴んだ。

 

「聴きたいですって? あなたが? いいえ、あなたには本当に聴くことなんてできやしないわ。かわいそうに。あなたがこれを聴きたくなんてなる訳ないのよ。海の上がどんな場所だったかも知らない癖に」

 

 恐怖を感じるべきだったのだろうが、五十鈴はそれよりも強い怒りを感じた。自分が艦娘のまがい物だと言われたように思った。ここで龍田の侮辱に立ち向かわなければ、よしんば今度の事件を生き延びられたとしても、その後ずっと艦娘ではいられなくなってしまう。五十鈴は艦娘の自分が好きだった。龍田が戦中組と一括(ひとくく)りに呼ばれる名前のない英雄の一人だろうと、それを否定させるつもりにはなれなかった。これで殺されたって知ったことか、と心で叫ぶと、彼女は意志の力を総動員して、龍田を突き飛ばした。思いのほか、彼女はすんなり手を放して後ろに数歩下がった。「海が何だったって言うのよ!」そう喚いてから、五十鈴は龍田が自分に詰め寄ってきた時の、見る者全てを怯えさせる狂気の光が、その眼の中でやや柔らかな輝きへと弱まっていたのを見つけた。

 

 そしてそれと同じように、五十鈴の膨れ上がった勇気もあっという間にしぼんでしまった。殺されるかもしれないと思うと、足が震えるのを止められなかった。涙が目に溜まり始め、視界がにじんだ。それでもわっと泣き出したり、そこに尻もちをついたりしなかったのは、直前に自分がやったことを無意味にしたくないという一念が彼女を支えていたからだった。歯を食いしばり、よく見えない目で五十鈴は龍田の方を睨み続けた。すると不意に、龍田が身にまとっていた剣呑な空気が緩むのを感じた。「それでこそ軽巡艦娘、度胸満点ねぇ」とからかうように彼女は口にして、五十鈴の頬に手を沿わせ、親指で涙の溜まった目元を撫でた。五十鈴の頭が一言で一杯になった。()()()()

 

「無理しないで座りなさい。ほら、私の傍に来て、座って。話の続きをしましょう? 色々話してしまいたい気持ちなのよ」

 

 龍田の言葉に従い、五十鈴は彼女に近づいた。龍田は五十鈴を支えるようにしながら、一緒に座って、肩と肩を触れ合わせた。自分を死ぬほど怯えさせた人物の体温だったというのに、五十鈴は肩から伝わってくるその暖かみが自分を安心させるのを感じて、混乱した。「海の話だったわね?」と龍田は己に確認するように呟き、五十鈴は口を閉じたまま、首を縦に振った。龍田の手が、そっと五十鈴の頭の上に置かれる。龍田は「突き詰めれば、『行った艦娘にしか分からない』で済んでしまうのだけども」と前置きをした上で、話の続きを始めた。

 

「私のいた海は、シンプルなところだったわ。複雑ではいられないの。それは無駄ってことで、無駄を抱えていると沈んでしまうから。初めはもちろん、みんなそこに適応できなかったわ。私も、天龍ちゃんだって。でも段々とそぎ落とされて、私たちもシンプルになった。分かる?」

 

 分からなかったが、龍田の言う“海”という言葉が、その単語そのままの意味としての海ではないことは、五十鈴にも理解できた。「分からないわ」と彼女は告白した。それは本心だった。龍田はぱっと顔を明るくした。「そうでしょうね。でも、真実なのよ。あの頃の海では、何もかもに筋が通っていて、単純だった。私と、私たちと、敵がいて、後はたった一つ、やるべきことがあるだけだった」龍田のわざとはっきりさせない、匂わせるような言い方に、五十鈴は苛立ち始めていた。「暴力ね」と彼女は吐き捨てた。その言葉を艦娘の使命に当てはめるのは好きではなかったが、龍田に反抗する為に、あえてそれを選んだのだった。五十鈴は言ってしまってから、短期間で完璧に慣れ親しんだ後悔をまた感じたが、龍田は別段、怒った風には見えなかった。

 

 彼女は五十鈴の言葉を相槌として、話を続けようとした。けれどもその時、龍田の艤装に装備された電探が、反応音を発した。ラスシュア島のレーダーがこちらに近づいてくる船影を捉え、リンクされた龍田の艤装にそのデータを送信したのだ。龍田は最初こそ不機嫌そうに眉根を寄せたが、それはほんの数秒のことで、じきに『丁度よかった』という表情に変わった。「口で説明するより、やってみた方が分かることってよくあるでしょう?」と龍田は言い、五十鈴の頭から手を離して、彼女の無力化された艤装の方へと立ち上がって歩いていく。

 

 そしてその中から、辛うじて使えそうな単装砲を探し出すと、五十鈴に投げ渡した。反射的に、彼女はそれを龍田に向けて発砲しようとした。龍田はきょとんとして止めようともせずそれを見ていたが、弾薬は抜かれており、弾は出なかった。五十鈴は砲を下げ、龍田は励ますように彼女の肩を軽く叩いた。

 

「すぐに撃つ機会があるわ。約束してあげる。ついて来て」

 

 薙刀を持ち、腰にベルトを通してナイフと天龍の刀、小さな水筒を下げ、艤装を装着した状態の龍田を追って外に出る。空はもう暗くなり始めていた。周囲の針葉樹林の隙間から、月が顔を出していた。道を歩きながら、中断された話の分を取り返そうとするように、龍田が口を開く。「天龍ちゃんは花粉症でね、季節によってはここに来ると、ひっきりなしにくしゅん、くしゅんって、鼻を赤くしてくしゃみしながら怒ってたわ。ある時なんか、もう少しで島全体を焼き払うところだったの」五十鈴はそれを無視して、逃げ出す隙を探した。最初は龍田に合わせていた歩調を、緩やかに遅らせていく。龍田は話に夢中になっているようで、一向に制止や脅迫の言葉が掛けられることはなかった。だが、行けると踏んで五十鈴が道を右方向に駆け出そうとしたところで、龍田が言った。

 

「聞こえないのかしら。私は構わないけど、あなたの右手側にある罠は『ダメ』って言ってるわよ?」

 

 はったりだと信じて、五十鈴はそのまま駆けようとした。しかし龍田が薙刀を投げる方が早かった。柄が五十鈴の行く手を遮るように、その刃は一本の木に突き立った。急いでその下をくぐろうとしたところで、首を掴まれて後ろに引き倒される。逃げ出そうとしたにも関わらず、龍田は一切気にしていないようだった。右手で五十鈴を抑え、左手で薙刀を抜くと、それを使って首ほどの高さの宙を指した。五十鈴はそれまで暗さで気づいていなかったが、そこにはワイヤーが張ってあった。それがどういうことか、分からない訳がなかった。「ごめんなさい」とだけ五十鈴は呟いた。龍田に何か思惑があってのことだったかもしれなくても、命を救われたことは認めなくてはいけなかった。肩をすくめて、罠を仕掛けた張本人は言った。

 

「逃げるならその前に私に言いなさい? 失血でじわじわ死んでいきたくないなら、特にね」

「もうしないわ、逃げられそうにないもの。それにどうせ、あなただってこの島から逃げられやしないんだし……ねえ、聞かせて。ここにずっと居られると本気で思ってるの?」

「さあ? そんなに先のことなんて分からないもの。でもこれだけは言えるかしら。ここを出ていくのは、今日じゃないわ。絶対にね。さあ、立って」

 

 二人は再び歩き出したが、その時には五十鈴は龍田の後ろを離れなかった。暫く行くと、龍田は彼女が自転車を隠した場所まで着いた。「ナビゲートするから、あなたが前に乗って」と五十鈴に告げる。逆らう理由も気力もなかったので、彼女は言われた通りにした。単装砲を龍田に渡して、後ろから指示されたように走らせる。声に従って仕掛けられた罠を一つ回避する度に、五十鈴は龍田とその言葉を信頼し始めるようになった。一蓮托生だという気がしたのだ。心の隅では、それが危険なことだと警鐘を鳴らしていたが、その音は五十鈴に届いていないも同然だった。

 

 自転車を走らせながら、龍田と五十鈴は話を始めた。二人とも気が軽くなっていたのか、互いに軽口まで叩いた。「これまでに仕留めたので一番の大物は?」と五十鈴が尋ねると、龍田は「横鎮の艦隊で二番艦だった戦艦「霧島」かしら」ととぼけて、運転手を笑わせた。一方で龍田が同じ質問を返すと彼女は口ごもって、「昼戦で、艦隊からはぐれたらしい重巡リ級を」と答え、龍田が「戦後組にしては、確かに大物ね」と感心した声を出したのを聞いてから「……艦隊員五人と一緒に」と付け加え、オチをつけた。状況さえ無視すれば荷台に腰掛けた軽巡艦娘は憧れの戦中組であり、五十鈴が普段気さくに話すことなどとてもできない相手だったから、余計に話が弾んだ。友人同士であるかのように笑い合ってから数分後、龍田が言った。

 

「止まって」

 

 短いブレーキ音と共に、自転車が止まる。二人はそれぞれサドルと荷台から下りて、もう一度龍田の先導の下に歩き出した。数分ほど歩いたところにあった、茂みが特に深い場所で龍田が立ち止まり、二人はその中に入った。地面は座れば首元まで隠れるぐらいの深さに掘られており、シートで隠してあった。

 

 龍田は艤装を下ろすと、それをめくり、穴の中に腰を下ろすよう後輩の艦娘に指示した。本来は一人が余裕を持って入れるように作ったのだろう穴は、二人で入ると窮屈だったが、五十鈴も龍田も気にはしなかった。「シャベルか何かで掘ったの?」と五十鈴が訊ねると、龍田はにこりと微笑み、薙刀を示す。五十鈴は大胆にも「教訓を得たみたいね」と評し、ミスを犯したベテランの軽巡はこの生意気な新米の頭を指で弾いた。

 

 それっきり、あれをやれ、これをやれと言われることもなかったので、鳥の声と互いの息遣いに耳を澄ませながら、五十鈴はここ暫くのことを一からなぞってみた。任務を受けたこと。龍田と一戦交えたこと。捕まったこと。そうしてどうした訳か、今は二人で同じ穴に肩を並べて入っている。不思議極まりなかった。龍田という軽巡艦娘は、五十鈴に分からないことばかりで構成されていた。心の中で、彼女はこう考えた。「もし後で誰かが、『龍田は狂人だ』と言ったら、私は『龍田は謎だ』と言い返そう」それを龍田が喜ぶだろうか、嫌がるだろうか、何とも思わないだろうかということが気になって、横を見る。彼女は今まさに、口の中にガムを投げ入れるところだった。

 

「それは?」

「カフェインの補給。目を覚ましていなくちゃいけないから」

 

 それを聞いて、五十鈴の頭にまた一つ謎が浮かんだ。占拠以来、龍田は寝ているのだろうか? 気を失っていたり、疲れてうとうとしている時間が長かったことや、自分が捕まってからそう日が経っていないのを五十鈴は認識していたが、しかしそれにしても龍田は常に目を覚ましていた。若き軽巡にはそれが偶然だとは思えず、そして敵襲への警戒心から眠るのを避けているのだとも思えなかった。睡眠不足は体調を劇的に悪化させる原因になることから、軍では訓練期間中に睡眠について二つのことを教え込むからである。その二つとは「すぐ寝ること」並びに「何処ででも寝ること」であり、もちろんベテラン艦娘の龍田がそれらを身につけていない筈がなかった。

 

 詳しく聞きたかったが、それは叶わなかった。何処からともなく、特徴的な風切り音が聞こえてきたからだ。それは別の言い方をすればローター音であり、ヘリの接近を知らせていた。龍田は驚く様子もなく、目を閉じて音の方角を聞き定めようとしていた。五十鈴は落ち着かない気持ちになり、穴を飛び出して逃げたくなった。ヘリの音がどんどんと大きくなっていくということは、近づいているということだ。そして五十鈴は死んだものと見なされていたから、龍田と間違えられて撃たれる可能性は少なくなかった。彼女を自暴自棄な逃走に追い込まなかったのは、龍田に対する奇妙な信頼があったからだった。この状況では彼女の横が一番安全なのだと、五十鈴にはすんなり信じ込めたのである。

 

 ローター音の圧力に心を押し潰されそうになりながら、彼女は耐え続けた。今は夜だし、自分は穴の中に居て、上は木々の枝葉に覆われている。ヘリの赤外線センサーに捉えられることはない。それにもし危険なら、龍田は対処を始めるに決まっている。動きがないのは、動かない方が今はいいからなのだ。自分の生存率が低くないことを信じさせる為に、五十鈴はそういったことを頭に浮かべ続ける。座ったまま何もしない龍田をじれったく見つめるが、言葉は発さない。だが五十鈴は彼女に言いたかった──()()()()()()()()()()()()()()

 

 そこにいるのが友軍であるとは最早、五十鈴には思えなかった。そこにいたのは敵だった。自分を殺そうとする敵。昨日までと違うのは、深海棲艦の形をしていないという点だけで。ヘリはどんな武装を積んでいるのだろう、と彼女は恐ろしくなった。ロケットで吹き飛ばされたり、ミニガンで細切れにされる自分の姿を思うと、体全体が凍りついたようになってしまった。動かないまま、目だけを右へ左へと動かして、そこに映るものを焼きつける。湿った土と名前も知らない雑草、それから小さな枝の切れ端。五十鈴はショックを受けた。自分が死ぬ時のことを考えたことはこれまでに何度もあったが、彼女の想像の中で最後に視界に映るのは、命がけで救い出した戦友だとか、刺し違えた深海棲艦の苦痛と恐怖の表情だとか、そういった映画的な一シーンばかりだったからだ。

 

 ヘリのローター音はこれ以上ないほど近づいていた。耳元で鳴っているかのようだった。もう五十鈴は耐えられなかった。飛び出そうとする。撃たれることについては考えていなかった。とにかく、一か所に留まっているのが我慢できなかった。しかし、龍田が上から覆い被さるようにして彼女を地面に押しつけた。五十鈴は暴れようとしたが、狭い穴の中ではろくに体を動かすこともできなかった。もがいている内に、ヘリが二人の頭上を通過していく。眼下の標的を捉えたという様子は見られない。龍田が笑い、五十鈴はそれに噛みついた。

 

「何を笑ってんのよ」

「この島の針葉樹林は人工なの。レーダーサイトを隠して、爆撃から守る為のね。それがどれだけ役に立つのか、上に今いる連中は実感していることでしょうねぇ」

 

 標的を見つけられなかったヘリは、上空を低速で周回し始めた。深海棲艦との戦闘経験がないパイロットによる飛行だ、と五十鈴は見抜いた。もし一度でも経験があったならば、絶対に速度を落としたり、単調な機動を取ることはないからだ。とはいえ終戦直前に対深海棲艦用通常兵器が開発されるまで、艦娘によらない攻撃が深海棲艦に対して有効ではなかったことを考えると、戦争中からパイロットだったのだとしても、艦娘ではない普通の人間に対深海棲艦戦闘の経験を求めるのは酷な話だった。何にせよ、パイロットはその不手際の対価を払うことになった。

 

 龍田は五十鈴を足で押さえつけたまま、外した艤装を再度身に着けると、上を振り向いて一秒で狙いをつけた。木々の枝葉で空の多くが隠されていても、彼女の目と耳にはヘリのいる場所が分かっていた。それに、彼女の武装には対空砲弾が装填してあった。砲声に続いて空中で弾が炸裂する音がして、ヘリのローター音が明確にそうと分かるほど異音を交え始めた。テイルローターに不調をきたしたのか、緩慢に回転しながらヘリは高度を下げていく。龍田は呟いた。「平落としになりそうね、幸運じゃない」それから自分の下敷きになっている五十鈴を見て、足をどけ、手を差し出した。

 

「そろそろ出ましょう」

 

 その手を取って穴から這い上がり、土を服から払いながら歩く。時々向きを変えて、林を抜け、五十鈴がへとへとになった頃になってやっと崖に到着した。龍田は伏せるように指示して、自分もその場に身を投げ出した。土と草の匂いが鼻をくすぐって、五十鈴は小さなくしゃみをした。「お大事に!」と龍田が笑って言った。二人はじりじりと這って移動し、断崖から海を見渡した。目標はあっさりと見つかった。龍田が当てられるかどうか自信のなくなるギリギリの距離を、一隻の巡視船が航行していた。彼女は砲撃の構えをし、撃つ直前に五十鈴を振り返って言った。

 

「見ててね」

 

 発砲。赤い玉が巡視船の方に向かって飛んでいく。五十鈴はそれを息を呑んで見守った。それは飛んで、飛んで、巡視船の少し上空をかすめて、海に落ちた。外れたのだ。五十鈴の横にどさりと龍田が倒れ込み、退くように引っ張った。その瞬間巡視船からの応射が始まった。二人は大急ぎで這って移動し、崖から数メートルのところにある、地面が大きく盛り上がった場所の後ろに隠れ、仰向けになった。邪魔になったので解除された龍田の背部艤装が、五十鈴の横にごろりと転がってくる。頭上高くを、また時には手を伸ばせば触れそうな距離を、光を曳いて二十ミリや四十ミリの機銃弾が飛んでいく。その衝撃波さえ感じ取れそうだった。大迫力、と五十鈴は思った。()()()()()()()()

 

 弾丸は周囲の自然を切り裂いた。若き軽巡は初めて、木や地面に弾が当たると暫くの間、その箇所が光ったままになるということを知った。細い若木がなぎ倒され、枝が吹き飛んで五十鈴のところまで転がってきた。彼女はこれまで感じたことのない昂ぶりをどう表していいか分からず、とりあえず「これ、めちゃくちゃ興奮する」と言ってから、なんて頭の悪い感想だ、と顔を赤らめた。しかし実際、彼女はやけに高揚していた。二人は祭の花火を眺める気持ちで、夜空に描かれた火線のうねりを見物した。それは美しくて、五十鈴は自分がこんなに見事なものを知らず、人生を多少無駄に生きたことに涙を浮かべた。火線を形作る一発一発が、艦娘や深海棲艦さえ殺せるものだというのに、どうしてかそれらは彼女の心に感動として突き刺さった。

 

 五十鈴はずっとだってそれを眺めていたかったが、龍田にまた引っ張られて、仕方なくその場を移動した。あんなに壮麗なものを見た後では、地を這う自分が惨めに思えた。巡視船の見える、崖近くの別地点に行き、海を眺める。巡視船側はその場を離れたことに気づいていないのか、龍田たちの過去位置付近にまだ砲火を浴びせ続けていた。離れたところから第三者的に見ても、やはりそれは五十鈴の心を揺さぶった。撃たれるってこんな感じだったんだ、彼女はにやにやしながら思った。きっと、仲間のみんなは私を羨むだろう。だって、私だけ今は戦争の中にいる。戦後組の中で唯一私だけが、自分目掛けて無数の弾が飛んでくるのが、どんな気分なのかってことを知っているんだ。

 

 彼女は自分の血管が脈打つのが聞こえた。アドレナリンが神経を研ぎ澄ませるのを感じ、思考がクリアになる快感に身を委ねた。自分も何かをああも撃ち続けてみたいと、五十鈴は強く欲した。それから、違うわね、と訂正した。()()()()()()()()()()()()()。目を閉じると、林をなぎ払う砲火の赤っぽい線が思い出された。木がばらばらになり、鳥が逃げ出し、土がえぐれ、石が弾丸のように跳ねる音が、耳に残っていた。規模は先ほど見たものの百分の一程度でもいいから、彼女は自分の手で再現したかった。

 

 彼女が夢見心地で微笑みを浮かべていると、悪戯っぽい笑顔で龍田が五十鈴の頬をつつく。「子供には刺激が強すぎたかしら」と笑われて、龍田の見せたものに心奪われた少女は、素直に頷いた。「ありえないぐらい凄かった」と呟き、ぶるりと身を震わせる。龍田は幼い妹をあやす姉のような手つきで、五十鈴の頭を撫でた。彼女の手からは湿った土と汗の臭いが少しだけしたが、今の五十鈴にはそれもかぐわしく思えた。撫でられながら、熱に浮かされた口調で彼女は言おうとした。

 

「今夜のことは、私、一生忘れられそうに──」

 

 けれど、その言葉の終わりは龍田には聞こえなかった。島に仕掛けた罠の一つ、作動させた敵の大まかな位置を伝える為の信号弾が、空高く上がって弾けた。

 

*   *   *

 

 信号弾の光の下で、天龍は溜息を吐いた。彼女は戦中組の一人として、これまで色々なことを上手くこなしてきた。軽巡艦娘お定まりの輸送艦隊の護衛もやったし、水雷戦隊の一員として、敵の主力の横っ腹に食らいついたのだって二度や三度の話ではない。更に言えば、彼女が体験してきたのは勝利ばかりではなかった。敗北と、その中で生き抜くこともまた、彼女がやり遂げた種々のことの一つだったのだ。深海棲艦の艦載機に追われ、戦艦の長射程砲の追撃をかわし、同程度の航速を持つ巡洋艦や駆逐艦を追い払い、時には逆に相手の追撃隊を待ち伏せもして、天龍は常に生き延びてきた。深海棲艦が相手ならどんな状況下でも、世界水準以上にやり抜く自信が彼女にはあった。しかし、艦娘を相手にして戦うのは初めてだった。

 

 今すぐその場から離れたい気持ちを抑え、そろそろと用心して歩く。幸運だったのだ、と天龍は自分を慰めた。罠を作動させてしまったことは致命的なミスだったが、作動した罠は致命的なものではなかったのだから。地雷を踏んだ訳でも、落とし穴に掛かった訳でもない。天龍は繰り返し、頭の中でその言葉を繰り返した。だが、気分は余りよくならなかった。右手に持った刀で、前方を探りながら進む。と、切っ先が固い何かに触れて、乾いた音を立てた。天龍は全身の筋肉を硬直させて己の動きを止めると、刀をそっと持ち上げてから、音を立てた場所を指で撫で、土を払った。水筒のような形をした、金属の物体が現れる。

 

 天龍はまた溜息を吐いた。対人地雷だ。加えてそれは、明らかに日本陸海軍の制式装備品ではなかった。帰って、自分を送り出した連中に問い詰めたかった。全く、龍田はどうやってこんなものを手に入れたんだ? 掘り出すのも危ないので、踏まないように気をつけてまたぐ。もちろん、またいだ先を探ってからだ。天龍は自分にこういった罠に関する知識がある程度あったことを、心底呪った。彼女がここに来させられたのは、まさしくそのせいだったからだ。

 

 刀で地面を掘り返して歩きながら、彼女はここに来る前の短いブリーフィングを思い出していた。あろうことか天龍の提督は、出席した泊地総司令に対して今度の任務を彼女に「打ってつけ」だと請け負ったのである。大人数で上陸しても陸戦に不慣れな艦娘たちでは餌食になるだけだが、この天龍なら龍田を出し抜くことさえできるだろう、と。

 

 確かに、天龍には単独行動が可能なだけの練度がある。多勢に無勢な状況を、敵を陸地に誘き出すことで挽回したこともあった。その際の経験から、後で罠というものについて独学ながら学びもした。だがそれは彼女が深海棲艦によって追い込まれた状況を打開する為のものであって、自ら危地に飛び込む為のものではなかったのだ。龍田の島で一人きりというシチュエーションでなければ、天龍は怒鳴り散らしたかった。

 

 同じ単冠湾泊地所属の天龍・龍田という姉妹艦同士ではあるが、指揮する提督、配属された艦隊が違う二人の間に面識はない。無関係な艦娘が起こした、無関係な事件に、どうして自分が出向いて命を危険に晒さなければならないのか、天龍には寸毫(すんごう)たりとも分からなかった。この事件と天龍を結ぶ唯一にしてか細い糸は、海軍が『龍田に殺害された』と考えている五十鈴と天龍が、顔見知り程度の仲であるという些末な事実のみだった。現状を受け入れる為に、艦娘の仕事なんてこういうものだ、とは考えたが、それにしたってひどすぎる、とも感じられた。政治的に不安定な地域であることを理由にか、大してバックアップもないのだ。

 

 上空から支援してくれる筈だったヘリは撃墜され、その際に支給された個人携行装備は大半が失われてしまった。どうせ撃ったこともない突撃銃だとか拳銃だったから、きちんと扱えるとも思えず惜しくはなかったが、それにしても刀一本と希釈修復材程度しか持っていないのは心もとなかった。艤装を装備していたらなあ、と嘆く。島ないし島付近での活動中に電探やレーダーで居場所を探知されることを防ぐ為に、天龍は艤装を泊地に残してこなければならなかったのだ。だがそうすることによる隠密潜入のメリットも、さっき信号弾が上がったせいで、失われてしまった。

 

 どうせバレるなら、最初から艤装を着用した状態で来させてくれればよかったのに、と天龍は不愉快になった。探知されるだろうが、こっちだって探知してやることができた。または艤装を解除して、囮にすることもできたろう。一つでも多くの選択肢が欲しかったのに上からそれを奪われて、彼女の心は不平と怒りで荒れ狂っていた。天龍には龍田を訓練したという教官の那智のことも気に入らなかった。彼女から彼女が龍田に仕込んだ内容を教わった時、天龍は泊地にいるだけの那智を馬鹿にして笑った。「腑抜けが」と天龍が言うと、那智は片眉を動かして答えた。それだけだった。「お前が訓練した艦娘だろ? お前が行ってどうにかして来いよ」と言われても、彼女は淡々と罠について講義を続けた。

 

 ふと、彼女には悪いことをしたな、と天龍は思った。自分も彼女も、仕事をしているだけだ。しかも那智なんかは、本当は民間人みたいなものなのに、教え子が事件を起こしたからというだけの理由で本土から引きずり出されたんだ。罵るんじゃなく、哀れんでやるべきだった。馬鹿にするのではなく、敬意を払うべきだったのだ。しかし、もう過ぎたことだった。謝罪するにも、今度こそ正しい態度を取るにも、島から生きて帰らなければならなかった。

 

 さっきまで聞こえていた巡視船の発砲音は止んでいる。きっと、墜落したヘリの救助に向かっているのだろう、と天龍は推測し、乗員が無事であることを祈った。彼女の知る限り、今回の事件で五十鈴以外の被害者は出ていない。天龍が思うに、二人目が死ぬか傷つく必要があるとすれば、そうなるのは事件の主犯である龍田その人であるべきで、自分を含めた他の誰かではなかった。もう一度、今回は那智ではなく龍田に対して、天龍は胸中で「腑抜けが」と罵った。姉妹艦にそんな言葉を向けることへの抵抗感はあったが、天龍の聞いていた話では、龍田の戦争ストレスがこの事件の原因だったから、そう言わずにはいられなかった。面識のない妹に訊きたかった。戦争で傷ついたのは自分だけだとでも? 専門家に助けを求めることは恥だとでも?

 

 天龍の考えでは、きちんと龍田が軍の用意した専門家の下で受診していれば、せめて辛くなった段階でそのことだけでも明かしていれば、こんな事態を引き起こすほど壊れてしまわずに済んだことは違いなかった。風邪を引いた人間が病院に行くのが当然なように、ある種の強いストレスを覚えた艦娘が専門の医師に掛かるのは、何ら恥ずべきことではないのだ。だというのにそれを恥じ、怠り、挙句この事件を起こした──天龍には、龍田の中で膨張した問題を解決する手段は、最早一つしかないように思われて仕方なかった。

 

 立ち止まり、島に来る前に頭に入れた地図を呼び出して、天龍は自分の想定位置を確認する。残り僅かな道のりを行けば、レーダーサイトに到着しそうだった。頭の中の地図を閉じ、歩みを続ける。レーダーの無力化も任務の内だったが、彼女にはそれを果たす気がなかった。龍田を始末してしまえば、レーダーサイトのことはどうでもよくなるからだ。しかし、龍田はそのことを知らないから、サイトを守ろうと出先から戻ってくるか、または待ち構えている筈だった。

 

 巡視船が発砲を始める前に発砲音を一つ聞いていた天龍は、彼女の標的がまだサイトへ戻る最中であることを願った。待ち伏せできたなら、相手が砲を持っていたとしても十分に勝ち目がある。待ち構えられていたら、どちらかが痺れを切らして下手を打つまで、隠れて耐え続けることになる。天龍は自分を忍耐強い方ではないと認識していた。

 

 土を刺す刀の切っ先に意識を向けながら、音にも神経を尖らせる。天龍は自分の目を信用していなかった。片方が塞がれている上に、目は余りにも虚言癖が過ぎた。木の(うろ)が敵の顔に見えたり、逆に敵の姿が風景の一部だとしか映らなかったりして危うく死にかけてからというもの、もっぱら彼女は耳と鼻を信じていた。集中と共に、鳥の鳴き声が遠くなり、風にそよいだ木々のざわめく音、天龍が「草木の衣擦れ」と呼ぶ音もまた、耳に入らなくなっていく。それに代わって鳥の羽ばたきや、小動物が動いて立てるがさがさという音が、より大きく感じられるようになった。

 

 不気味な静寂だ、と天龍は思った。その中に、自分と、龍田がいる。両者ともよく訓練され、実戦経験を積み、狡猾さと凶暴さを備えた優秀な艦娘で、武装している。今夜が終わった後、二度と太陽を見ないのはどちらになるのか、天龍にも分からなかった。

 

 刀の先が、ワイヤーに触れた。天龍は即座に刀を引き、その鋼線が何に繋がっているか確かめた。前回は信号弾だったが、次に作動するのが爆弾ではないとは限らないのだ。しかも、爆弾ならまだいい方だった。死ぬとしても迅速な死を迎えることができるからだ。彼女の知識には、緩やかに失血死させる為の罠が複数個あった。このワイヤーに繋がっているのがそういう運命ではないと、確認もせずに否定できる材料は、一つもなかった。天龍はワイヤーを視線でたどり、両端を調べた。どちらも枝に縛りつけてあるだけで、特に何にも繋がっていなかった。転ばせる為だけのものだと安心して、一歩踏み出そうとし、そこで天龍は足を上げたまま固まった。それから自分の愚かさに向かって言った。そんな訳があるか!

 

 ワイヤーに足を掛けて転んだら、どの辺に手や足、体が触れるだろうかと想定し、その場所を刀で探る。天龍が思った通り、そこには竹串が仕掛けてあった。ワイヤーに気づいた者が、それを軽くまたいだ後で足を下ろすだろう場所にも、丁寧に竹串が刺さっていた。天龍は、自分の焦燥をごまかそうとして微笑んだ。どうやら龍田は基本をしっかり押さえているらしいと思って、苦々しく感じると同時に、同じ技術を修めている者として小さな親近感を覚え、きっと一緒に話して酒でも飲んだら楽しいだろうな、と想像した。そんな未来はあり得ないとも思えたが、しかし想像の世界は下らない現実に囚われず、自由だった。

 

 天龍は竹串を刀で払って地面に寝かせた。手でやらなかったのは、竹串の先に何か毒性のものが塗ってあることを警戒した為だ。仮に即効性の毒物ではなかったとしても、毒に触りたくなかった。そうしてその場を後にしようとして、天龍は考え直し、その罠のワイヤーと竹串を回収した。こんなに丁寧で心のこもった罠を仕掛けてくれた龍田に、お返しをしてやりたかった。巡視船が龍田の発砲に応射する形で攻撃を加えていたことから、彼女のいる方角は大体分かっていた。後は、彼女より先にサイトに到着し、彼女が通るだろう道に仕掛けてやればいいだけだった。

 

 自分が仕掛けた筈の罠が、本来とは違う場所に仕掛けてあるのを見つけた時、龍田がどんな顔をするか考えると、天龍は友人に悪戯を仕掛けようとしている時のように楽しい気持ちになった。にやにやと笑いながら、考える。龍田は罠を見抜くだろうか? 見抜くだろうな、きっと見抜くに決まってる。驚くだろうか? 当然、そうだろう。逃げ出すだろうか? いいや、龍田は絶対に逃げ出さない。その代わりに、ふざけた闖入(ちんにゅう)者を殺しに掛かるだろう。その為の誘いとして背を向けることはあっても、逃げようとはしない。天龍には分かった。罠の一つ一つに込められた折り目正しさが、龍田の非情さと熟練を代弁していた。そんな罠を仕掛ける艦娘が敵前逃亡をするとは、到底信じられなかった。

 

 木々の合間に、上部へとレーダーが据え付けられたトーチカが見えてくる。中に人の気配はない。天龍は、自分が最初のレースに勝ったことを認めた。だが本番は次であり、その結果次第では何もかも引っくり返されかねなかった。隠れる場所を探して、辺りを見回す。龍田の接近を監視できる都合のいい茂みがあり、天龍はそこに隠れようと決めた。それから彼女は標的が使うであろう道を見つけ、そこに罠を仕掛け直した。久しぶりに作ったにしては、期待よりも遥かに素晴らしく為された隠蔽に、天龍は満足しながら茂みへと身を潜めた。いつでも飛び出せるように姿勢を整え、龍田の足音を待つ。そうしながら、失敗した時の為に、逃げ道を見つけておくことも怠らない。

 

 二つほど撤退ルートを頭の中に作ると、天龍はいよいよひたすら待つ他にやることがなくなった。彼女はレーダーサイトを眺め、どうやって森林に遮られることなく周囲数百キロの様子を探査しているのだろう、と思った。でも、ほとんどの艦娘と同じで十五歳で軍に入った彼女には、その方法を想像するだけの知識がなかった。自分の無知を思い知らされるようで気に食わなくて、天龍はそれについて考えることをやめた。どうせ、思いを巡らせることは他にも沢山あったのだ。ふと天龍は、最後にこんな戦闘らしい戦闘に参加したのは、いつのことだったろうかと考えた。そして彼女が直面している、ぞくぞくするほどの命の危険を感じるような時間は、ここ二年ほど皆無だったことを思い出した。

 

 規模は小さく、かつ変則的ではあったが、これはかつてあらゆる天龍が「死ぬまで戦わせろ」と叫んだあの戦争の終結以来、初の戦闘任務だったのだ。それに思いが至った時、何となく天龍は龍田のことを責められないような気がした。何しろ、彼女自身も徐々に興奮し始めていたからだ。お前も()()が欲しかったのか? と天龍は想像の中の龍田に問い掛けた。彼女は笑い、天龍も歯をむき出しにして笑った。確信があったが、その確信が実際には外れていようと、当たっていようと、どっちだってよかった。天龍はその何処かに龍田が潜む闇に向かって、歌うように囁いた。いいぜ。お前にオレの命を、そうでなければ死をくれてやるよ、龍田。



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05.「沈め、姉妹艦、沈め」

 他に人のいない会議室の時計を信じる限り、時間は深夜になっていた。那智は椅子に深く腰を下ろし、右手で卓上に頬杖をついたまま、左手首の腕時計をちらりと見た。そしてその文字盤も同じ時刻を示しているのを確認し、息を吐いた。気分が沈んでいたが、その難問を解決する手段を思いつかないでいた。アルコールに逃げられたらよかったのに、と彼女は飲酒を禁止した吹雪を恨めしく思った。龍田からの連絡がいつ入るか分からないので、事件解決までは一切の飲酒を封じられてしまったのである。まさに今みたいな瞬間の為にこそ酒が必要なのに、信じられない暴虐だ、と那智は憤慨していた。

 

 彼女には気に食わないことが沢山あった。たとえば彼女は、とことん実利を追及するべき軍が、どうして面子などという益体もないものに囚われ、龍田を放っておいてやれないのか分からなかったし、放っておかないにしてもすぐに暴力で問題を解決しようとする姿勢には、全く賛同できなかった。那智は彼女が戦争中に友誼を結んだ艦娘たちを思い描いて、自分の周りの席に座らせた。そうそうたる面々が会議室に揃った。長門、加賀、古鷹、グラーフ・ツェッペリン、響、その他にも大勢……中にはまだ生きている者もいた。戦争の終わりを見ることなく、沈んでしまった者もいた。だがその瞬間には生死に関係なく、彼女たちは那智の傍にいた。

 

 退役艦娘の為の特設高校に残してきてしまった、教え子たちのことを思う。特に、訓練教官時代に教練を施してやった者たちのことを考えた。せめてその中から一人、ここに連れてくればよかったと、今になって那智は後悔した。しかしそんなことをすれば、知らなくてもいいことを知ることになるかもしれない。それが教え子たちのことを傷つけたり、彼女たちの人生を少しでも捻じ曲げてしまうかもしれないことを考慮すると、那智には連れてくるという選択肢をよしとすることはできなかった。彼女は今や教師であり、立場は違えど同じ戦争を生き抜き、現在は同じ学び舎に通う教え子たちの幸せを、心から願っていたのだ。

 

 那智の艦娘的な部分が、過度に感情移入するのはよくないぞ、と自身をたしなめた。それは人間としての美徳であり、教官としての大きな欠点だった。それがある故に、那智は彼女の訓練隊にいた多くの艦娘たちから慕われた。が、手塩に掛けて育てた艦娘たちが何処かの海で轟沈したと聞いた時には、耐えがたい苦痛となって彼女を責め苛んだ。今日、那智は久々にその苦痛を味わっていた。龍田は那智が鍛え上げた艦娘だ。彼女の個人的な一面までは知らなかったとしても、自分の手で育てたという事実だけで、那智には彼女を特別視する理由になった。その彼女を殺す為の刺客を、那智は教育しなければいけなかった。

 

 それも龍田の姉妹艦である天龍を。龍田との最初の対話が失敗に終わった直後に呼び出され、天龍を単独で送ると聞いた時、那智は思わずそこにいた泊地総司令に「正気か?」と発言し、彼の表情を固くさせた。説明は、まあ筋が通っていたと認めてもよかった。艦隊単位で攻めると動きが大きく、のろくなり、龍田を捉えることは難しくなる。だから、単独行動可能な熟練した艦娘を送る。その艦娘は龍田の電探を避ける為に艤装なしで上陸せねばならず、従って武装は対深海棲艦用の弾薬を装填した小火器と、本人が持っていくとして譲らなかった刀のみ。そんなことはどうでもよかった。那智が腹立たしかったのは、まず一つには天龍を送ることそのものだった。

 

 自分が鍛えた龍田の同期の中にも天龍がいたことを、那智はよく覚えていた。優秀な艦娘だった。軽巡ではなく戦艦、せめて重巡だったならどれほどの英雄になっていたかと、残念に思ったことさえあった。けれども、その天龍は結局、終戦前に戦死してしまったのである。そのことが龍田にとって小さくない傷であることは、容易に想像できた。その傷を刺激して、動揺を誘い、仕留めるつもりなのかもしれなかったが、那智にはどうしてもそれが成功するビジョンが見えてこなかった。むしろ龍田を怒らせ、より予測不可能にさせることで、海軍は墓穴を掘ることになるだろうと思えてならなかった。

 

 二つ目は、その天龍を那智が訓練しなければならなかったことだ。訓練自体はごく短時間だったが、それによってその天龍は那智の教え子の一人になってしまった。自分の教えた技術で、自分の教育した艦娘たちが、殺し合う──そんなことの為に教えたのではなかったのに。那智は初めて教官職に就き、艦娘訓練所に送られてきた子供たちを見た時、何よりも強く思ったのだ。彼女たちを一人でも多く、一日でも長く生き延びさせようと。ナイフの扱い方、罠の使い方、徒手格闘、サバイバル術、那智が教えた教典に載っていないことの全ては、その目的に根差していた。それが自分や、海軍に対して牙を剥くとは思ってもいなかった。

 

 昔はよかったなあ、と呟いてから、苦笑する。まるで六十、七十の老婆みたいなことを口走ってしまった。けれど苦笑の裏側で、自分の呟きにも僅かに正しいものが含まれているということを、那智は感じ取っていた。昔はよかった。戦争時代は、敵は深海棲艦、味方は艦娘で白黒はっきりしていた。世界は恐怖に包まれていたが、シンプル(・・・・)だった。敵との間には憎悪があり、味方との間には同胞愛とでも呼ぶべきものがあった。敵を殺し、敵に殺されないように気をつけてさえいればよかった。そうだ、あの頃は誰もが迷うことなく生きていられたのだ。それは単に、迷う余裕なんてなかったからなのだろうけれども。

 

 翻って、現在はどうだろう? 那智は考えようとしたが、酔っている訳でもないのに、頭の中にもやが掛かったようになってどうにも思考がまとまらなかった。でもこれだけは思った。戦後世界はよく分からなくなってしまった。深海棲艦と講和したことで、連中とは味方同士になった。そして今、島に引きこもった艦娘「龍田」を日本海軍は敵として殺そうとしている。那智は世界が狂ってるんじゃないかと感じて、その考えの下らなさに笑った。全く、世の中ってものは訳が分からない。

 

 今なら龍田とも少しは話ができる気がした。那智は持ってきた通信用の小型端末を手の中で弄び、龍田が回線を開いてくれないかと願ったりもした。作戦が順調に進んでいるとしたら、もう天龍は島に潜入した後だろうから、回線が開かれたとしたらそれは龍田が首尾よく侵入者を始末したということをも意味することになるのだが、那智はそれに気づかないふりをした。考えたくなかった。那智はあれこれと考えてしまう自分の気質をなじった。何を悩むこともなくぼんやりしていられたら、どれだけ楽だろう。あるいはもし、外から眺めていることしかできないような立場でなければ……。

 

 そう考えて、那智は気を動転させた。自分が信じられなかった。()()()()()()()()()()()()? ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()? それはあり得ない選択だった。少なくともさっきまではそうだったのだ。那智は、最も早期に退役した艦娘たちの内の一人だった。軍の用意したバスに乗って基地を出て、自身の旗艦を務めた艦娘と同じ場所に降り、その艦娘とそこで別れてそれぞれの家路を歩き始めた時に、もう二度と艤装なんか着用しないぞ、と心に決めた筈だったのである。那智は戦争に辟易(へきえき)していたから、それは当然の反応だった。

 

 会議室のドアが開いた音がして、那智はびくりとした。そちらを向くと、吹雪が立っていた。短く「失礼」とだけ言って、吹雪は那智に近づくと、互いの間に一つ空席を挟んで腰を下ろした。那智はこの自分以上に長い時間を戦い、勝ち抜いてきた艦娘と大の仲良しという訳ではなかったが、この時は安心した。話し相手として最高ではないにせよ、一人きりで延々と煩悶するよりはマシに思えたのだ。何と話しかけたものか迷ったが、結局二人の間の共通項で、吹雪が最も食いつきそうな話題と言ったら、一つしかなかった。現在は軍警のトップに君臨する彼女の提督にして、以前の那智の提督でもある女性についてだ。

 

「ああ、吹雪秘書艦。最近の提督はどうだ? 軍警司令官の仕事は、きっと楽じゃないだろう」

「健康とは言えませんね、まあ不健康なのは海軍時代からですが。最近も、元部下たちからボトル四本と少額の現金が届いたとかで、痛飲しておられました」

 

 吹雪は自分の左手首を右手で撫でさすりながら答えた。やはり提督の話題にした甲斐あって、彼女にしては長く喋ったな、と那智は吹雪の顔を見て口の端を緩めた。「何か楽しいことでも?」という牽制と共に名前負けしない冷たい睥睨が投げ返されて、視線を軽く落とし、何の気なしに秘書艦の左手を見る。薬指に私物らしい簡素な指輪がはめられていた。思わず目を見開きそうになるのを、那智は意志の力で捻じ伏せた。彼女はもう一度、今度は少し暖かい感情を込めて微笑んだ。

 

「いや、何でもないさ、吹雪秘書艦。提督によろしく」

「ええ、伝えておきましょう」

 

 吹雪は実に素っ気なく答えたが、那智は前よりも更に彼女のことが好きになり始めていた。

 

*   *   *

 

 龍田は自分が死体のようになってしまった気がしていた。指の一本一本の動きが、腕や足の一振り一振りが不自然に思われた。彼女の心は、危機感によって支配されていた。誰かが、島にいる。一人か、二人か、もっといるのか、それは分からないが、誰かがいる。そこで生きている。信号弾の罠に掛かった後、次の罠に掛かった気配もないということは、自分と同じ技術を身につけた誰かだ。龍田がその代表として真っ先に思いついたのは、彼女の教官だった。那智が自分を殺しに来たのかもしれないと想像し、そうだといいなと願った。彼女と直接顔を合わせたかったのだ。

 

 でも、そうではないだろうとも思っていた。那智は姿だけ艦娘のまま民間人となり、変わってしまったからだ。今更、龍田のいる場所に足を踏み入れてくれるとは思えなかった。それが彼女には辛く、悲しかった。昔なら違ったでしょう、と龍田は聞こえる筈もない教官へ語り掛けた。あなたはきっと来てくれた。私を理解してくれた。胸襟を開いて、語り合うことだってできた。私が何を感じているか、聞かなくても分かったでしょうに。そしてそれこそ、私があなたに期待したことだったのに。

 

 一歩進む度に、龍田の胸は恐怖に張り裂けそうになった。巡視船を挑発した時の余裕は、もう存在しなかった。歩く速度を速める。でなければ、何処かで足を止めてしまいそうだった。そして一度止めれば、再び歩き始めることはできそうになかった。五十鈴は興奮が続いてその他に何も感じていないのか、速すぎると言って前を行く龍田の服の端を引っ張ったが、激しく振り払われて薙刀を構えられると、流石に手を放した。しかし、薙刀という形を持った暴力の象徴すら、彼女の興奮を払うことはできなかった。弛緩した顔で、五十鈴は言った。「何よ、そんなもの」顔つきが未だにぼうっとしており、龍田は彼女が何を思い出しているか悟った。五十鈴は馬鹿にしたように言い放った。

 

「脅かそうったって無駄よ。怖くなんてないもの」

 

 彼女の口を閉じるには息の根を止める以外に方法がなさそうで、自分にその手段を取るつもりがない以上、せめて自身の口は閉じておくべきなのだと龍田にも分かっていた。でも限界は誰にでもある。龍田は「怖くない? 怖くないですって?」と聞き返した。五十鈴のにやにやした表情が、彼女の問いに答えた。だが背中に薙刀を突きつけられて龍田の前を歩き始めた時には、そんなににやにやしていなかった。初めの十歩を歩くか歩かないかの内に、彼女の足は震え始めた。三十歩ほどで立ち止まろうとしたので、龍田は彼女の背中を軽く突いて、後ろから串刺しにされるのがどんな気分か、想像させてやらなければいけなかった。

 

 そんなことをしている時間はないのに、龍田は五十鈴を先に歩かせることをやめられなかった。いたぶる為ではない。彼女に教えたかったのだ。那智教官は熟練の艦娘だったが、民間人になってしまった。それなら、民間人とさして変わらない戦後組の艦娘だって、戦中組と同じようになれるのではないかと思ったのである。それには、自分が体験してきたものの一部を再現し、無理やりにでもその中を歩かせるのが手っ取り早いように龍田には思われた。それに付け加えて言うなら、さっきまで自信満々だった五十鈴が泣きながら歩くのを後ろから眺めることは、龍田を少しだけすっきりした気分にさせた。彼女は呻きながら言った。

 

「あんた、私を殺す気?」

「私にその気はないかなぁ。けど罠の方はどうかしら? ああ、気持ち自体がないから、聞くだけ無駄だったわねぇ」

 

 すとん、と音でも立てそうなほどあっさりと、五十鈴はその場に崩折れた。龍田はげんなりしながら少し強めに薙刀でつつき、刃を素肌に押しつけて、彼女を動かそうとした。五十鈴は俯いたまま、立ち上がろうともせずにされるがままになっていた。いらいらして、龍田は言った。「好きなだけ座ってたらいいわ。私がここを離れた後、一体どうやって移動するつもりなのか知らないけど」その言葉に反応して、五十鈴は顔を上げた。大きく歪んだ表情に、飛び出しそうな目がぎょろぎょろしている。龍田はその顔を何度も見てきた。恐怖を御しきれず、恐慌状態に陥った新米艦娘の顔だ。龍田自身も、出撃の度にそんな顔をしていた時代があった。

 

 どんな気持ちになるんだったかな、と龍田は思い出そうとした。だが思い出せなかった。それはもう遥かに過去のことで、恐怖に親しむようになってしまった龍田が思い起こせるものではなかったのだ。息を一つして薙刀を五十鈴の体から離し、普段のように己の肩に立てかけると、唐突に五十鈴がその場から逃げ出した。龍田は悲しみを覚えた。逃げる前には一言声を掛けて欲しかったし、逃げ出すタイミングが余りにも悪すぎた。低い姿勢から宙に飛びつくようにして走り出した五十鈴の背中に、後ろから覆いかぶさって地面に倒す。暴れるのを、力づくで抑え込む。泣きながら彼女は「嫌」と短く叫んだ。「怖いのはもう嫌なの!」それがおかしくて、先任の軽巡艦娘は笑った。

 

「あら、怖くなんてないんじゃなかったの?」

 

 パニックに襲われていても、五十鈴にはそれが皮肉だということが理解できた。彼女は混乱して疲弊した頭でそれに言い返す言葉を捜したが、見つからなかった。龍田は「すぐに怖くなくなるわ。私みたいに」と声を掛け、五十鈴の背中を撫でた。彼女の泣き声が段々と収まって、龍田は安心した。夜の静かな森の中で、もう既にかなり目立つような大声を上げている。この上、幼児に戻ったかのように振舞う軽巡艦娘を抱えて移動していたくなかった。そろそろ移動を再開しようと考えて立ち上がり、五十鈴にも早く立つよう声を掛ける。すると「なりたくない」と言葉が返ってきた。それがどういう意味か分からない龍田に、彼女は噛み砕いて繰り返した。

 

「あんたみたいになんかなりたくない。狂うのなんて絶対に嫌。そうよ、あんたは狂ってるんだわ。だから平気なのよ」

 

 龍田は愕然とした。最初に覚えた反感のままに反論しようとして、言葉が出なかった。それは勢いと感情に任せるには、難しい話題だった。龍田は五十鈴の体を引き起こすと地面に座らせて、その横に腰を下ろし、ぐすぐすと泣き続けている彼女を抱き寄せた。五十鈴の体温と熱いほどの涙を肌に感じながら、ゆっくりと囁く。「海で見たのは深海棲艦と鯨だけじゃなかった」五十鈴が聞いているようには思えなかったが、龍田は言葉を続けた。「イルカとか、シャチとかもいたの。私はシャチが好きだったわ。仲間だとでも思ってたのか、こっちに速度を合わせてきて、一緒に何キロも行ったことだってあった。命を救われたことも。重巡リ級の足に噛みついたのよ……想像できるかしら? その子はすぐに殺されてしまったけど、私は死なずに済んだ」言葉を切る。泣き声はもう聞こえなかった。

 

「何回か、長距離偵察作戦に私の艦隊が選ばれたことがあってね。ひどい任務なのよ? これって。私と、駆逐艦娘五人で何日も何日も泊地から離れて活動するの。頼れるのは自分と、艦隊員五人だけ。救援要請をしても届くかどうか分からない。寝るのだって交代制。おもちゃのゴムボートみたいなものを持って行って、膨らませて、寝る順番が回ってきたらその中に入るの。私の艦隊は二、三回ほど、運に恵まれたわ。敵にほとんど会わなかった。でも、四回目にとうとう運が尽きちゃった。交戦が終わった時、生きてたのは私と残り二人だけ。後はみんな死んじゃってた。私たちは呆然として、さっきまで一緒にいた友達がぐちゃぐちゃになってぷかぷか浮いてるのを眺めてた。そうしたら、シャチの群れが寄ってきた。心が洗われそうな話でしょう? 励ましに現れた、みたいな感じで。私たちもそう思った。けど違ったの。その動物たちは、死んだ艦娘の体に食いついた。引きちぎって、飲み込もうとした。次に私がどうしたか、分かるでしょう。ええ、そんなことは許さなかった。残ってた弾を掛け値なしに全弾、そのシャチの群れに撃ち込んだ。肉片が飛び散って、辺りの海面が真っ赤になった。生きていたのは私たちだけだった。そのことで途方に暮れていると、生き残った駆逐艦娘の一人が笑い出した。どうして笑ってるの? って私が聞くと、彼女はこう答えたわ。『じきにサメが来るだけじゃないか』」

 

 龍田は笑った。思わず薙刀を地面に投げ捨て、背部の艤装を解除してその場に放り、手の平で何度も土を叩き、罠があるかもしれないことを忘れて転がり回った。笑い声はどんどん大きくなっていったが、ある時を境にやがて小さくなり始め、それに伴って龍田も動きを止めた。静寂が戻ると、それを待っていたように彼女は再び口を開いた。

 

「艦娘になる時、最初に考えたのは退役の日のことだったわ。解体されたら家に帰ってこう言うの、『お母さん、私よ、ただいま!』そうしたらお母さんが『お帰り、ご飯の前にお風呂に入っといで!』って言ってくれる。十五歳の頃みたいにね。艦娘になる前の私と、艦娘になった後の私は、姿や表面的な性格が変わっても、本質的には一緒なんだ、って思ってた。だから退役して、解体を受けたら、普通の女の子になって、普通の女の子みたいなことをして生きていくんだって。でもその時に気づいたのよ。友達の血をすすったけだものを撃ち殺した時に、その後生き残った友達みんなで大笑いした後に、もう一緒じゃないんだと分かったの。私は変わった、変わってしまっていた。もう戻れないし、お母さんは『お帰り』なんて言ってくれないって気づいてしまった。だって、艦娘になる為に出ていった私は、もう何処にもいないんだから。たとえ私が『お母さん、ただいま!』って言っても、お母さんは昔のようには答えてくれないわ。だって彼女の知ってる私は、戦争を知らなかったんだもの。そして一度でも戦争を知ってしまったら、それを忘れることなんてできやしないのよ。そういうこと全部が、急に分かっちゃったの。それで、私がその時にどう感じたと思う? 『変わっちゃったわね』よ。本当に、たったそれだけだったの……」

 

 話し終わって、そのまま龍田は寝転がっていたかったが、そうは行かないことを認識していた。「私は狂ってる?」と五十鈴に訊ねたが、答えはなかった。その内に段々と、自分は訊ねたのか訊ねたつもりになっているだけなのかさえ分からなくなった。龍田は立ち上がり、背部艤装を拾って装着し直し、薙刀を拾った。五十鈴は膝を抱え込んで座っていたが、泣いてはいなかった。できる限りの力で笑いを形作って、龍田は言った。「さあ、歩きましょうか。今度は私が先頭に立つわ」五十鈴は従った。彼女の顔には涙の跡が残っていたが、目には力が戻っていた。龍田はその中に自分の姿を見つけた気がして、一歩のけぞった。だが気を取り直して道に戻り、歩き始めた。

 

 歩きながら、龍田は島にやってきた誰かのことを考えた。その誰かはレーダーの無力化を命じられているに違いない、と彼女は確信していた。けれども、彼女の艤装はまだレーダーからの情報を受信し続けていた。つまり、まだ刺客はサイトまで着いていないということだ、と彼女は判断した。もしかしたら音のしないタイプの罠に掛かって、死んでしまったという可能性もある。不意に龍田は、来たのは艤装を下ろした艦娘なのか、普通の人間なのかと迷った。それから、はにかみの笑みを一人で浮かべた。どっちでも同じじゃないの、何を気にしてたのかしら?

 

 それよりも気になったのは数と、島に侵入した方法だった。西の砂浜の罠が一つも作動することなく誰かを通すとは考えづらかったから、崖を何とかして上がったのかもしれないと考えて、そんなことのできる艦娘や人間がどれだけいるかと思い直した。仮にそうだったとしても、それだけの練度なら信号弾を作動させるような詰めの甘いことはしなかっただろう。そうとなると、龍田には一つしか思いつかなかった。ヘリだ。しかしヘリは撃墜した筈だった。その中から脱出して、作戦行動を遂行しようと試みる? どうやら来たのは艦娘らしい、と島の主は考えた。撃ち落としたヘリのサイズから、数は一人か二人だろう。

 

 次いで、相手の戦力評価に移る。レーダーに反応がないから艤装は持っていない、通常の小火器類は普段使わないので、持っていてもそこまで脅威にはならない。龍田は自分を含めて、白兵戦用武器を制式装備として採用している艦娘を、思い出せる限りリストアップした。伊勢型戦艦の二人は刀を、特型駆逐艦叢雲は槍を、球磨型軽巡の木曾はサーベルを、龍田は薙刀、天龍は刀を装備している。龍田はイギリスの戦艦「ウォースパイト」が杖だかメイスだかで深海棲艦を殴り殺した、という逸話を聞いたことがあったが、よもやイギリス海軍(ロイヤル・ネイビー)が出てくることはあるまいとその推測を退けた。

 

 道を行く内に、遠くにうっすらとレーダーサイトの影が見えてくる。龍田の背後の五十鈴は、それだけで表層的な元気を取り戻した。彼女は屋根と明かりのある場所に、戻りたがっていた。思わず彼女は小走りになって先導者の前に飛び出したが、龍田も止めはしなかった。彼女は現地点からサイトを結ぶ道には、罠を仕掛けていなかったからだ。ところが、たった三歩か四歩のところで、五十鈴は足を取られて前に倒れ込みそうになった。龍田が咄嗟に左手で彼女のセーラー服の襟を掴まなかったら、地面に倒れ込んで竹串に迎えられていただろう。五十鈴は先ほどの狂乱を思い出したように喚いた。

 

「止めなさいよ! 自分で仕掛けた罠でしょう!」

 

 違う、と答えようとしたが、龍田にはそれより差し迫った問題を解決する必要があった。右手に持った薙刀を、繁みから飛び出てきた何かに振るう。金属と金属が接触した際に立てる、耳障りな高い音がして、襲撃者は不意打ちで距離を詰めるのを諦めた。その相手をねめつけたまま、龍田は五十鈴を立たせ、道から少し出たところにある木の下に行くよう促した。五十鈴がそこに腰を下ろしてから、そのまま動かなければ安全だと言うと、彼女はぴたりと動きを止める。それがおかしくて龍田は笑いかけたが、すぐにそんな場合ではないと顔を引き締めた。

 

 薙刀を両手で保持し、油断なく対手の動向を観察しつつ、心の中だけで嘆息する。よりにもよって天龍とは、挑発してくれる。もちろん彼女は龍田が世界でたった一人()()()()()と呼んだあの天龍ではないが、容姿に関しては完全に同一であり、龍田は渋々ながら今は袂を分かった日本海軍に対して、この人選が自分の心をある程度波立たせたということを認めた。でも、負けず嫌いの龍田は、それは彼らが期待したほどではなかった、と付け加えることを忘れなかった。彼女にとって大切な『天龍ちゃん』は一人だけであり、後の天龍は外見が同じだけの別人でしかなかったのだ。

 

 五十鈴が巻き込まれないよう、龍田はじわりじわりと彼女から離れるように対峙する刺客から間合いを離した。天龍も五十鈴を巻き込むのは本意ではないのか、龍田に協力して間合いを調整する。龍田にとっては丁度よく、天龍にとってはやや遠い間合いで、二人は足を止めた。龍田は左半身を相手に向け、右手で薙刀の柄部を持ち、脇に挟んで刃を下に向ける。視線は相手の顔に向けられたまま、微塵もぶれない。対する天龍は特段の構えを見せることもなく、だらりと刀を垂らし、体から力を抜いている。龍田はその様子を一瞥し、誘われているのだと見て、それに答えてやることにした。二人目が潜んでいないとも限らないので、早めに倒してしまいたかった。

 

 腰の回転と腕の力を合わせ、踏み出しつつ脛を狙った一撃を放つ。天龍の刀が、すい、とそれに合わせて受けられた。相手が薙刀の刀身と柄を伝って龍田の側へ踏み込もうとしてくる動きを察知し、得物を上げて左手で柄を持ち、眼前で縦に構えて上段からの斬りつけを防ごうとする。間一髪、絶妙の間で手首を返した天龍の斬撃を、柄が受けた。

 

 すかさず龍田は得物を回転させつつ腰を落として柄を引き、刀身と柄の合間に設けられた隙間に天龍の刀を捕らえ、地面へと押さえつける。刀を手放そうとしなかった天龍は、自然膝を折る姿勢になった。そのまま梃子の原理を用いて刀を折ろうとするが、そこで天龍が手を離し、刀は龍田の後ろへと転がった。思惑の外れたことを気にせずに龍田は薙刀を縦に回し、左腕一本で石突を相手の頭へと振り下ろす。天龍は横を転がり抜けてそれをかわしながら刀を拾って、突きかかったが、龍田は前に出していた右足を軸にしてくるりと身を翻し、それについてきた薙刀の柄で切っ先を払うと、空いていた右の肘を天龍のあごへと横から打ち込んだ。

 

 だが入り方が浅かったのか、天龍には殴られた勢いを利用して、龍田の腹に後ろ回し蹴りを放つ余裕があった。まともにそれを食らって、二歩三歩とたたらを踏んで退く彼女に、天龍は笑って言った。「艤装背負ってよくやるよ。目ん玉が飛び出るかと思ったぜ……手癖の悪い妹は、姉貴がきちんと躾けてやんねえとなあ?」龍田は答えなかったが、艤装を解除し、地面にそれを落とした。今日何回目の艤装解除か疑問に思い、何度も何度も地面に落としていたら、必要な時に動かなくなって困るわよ、と自分をたしなめるが、顔には出さない。(天龍)は面白がるような顔をして、刀を中段に構えた。それに合わせて(龍田)も左半身を向け直し、両腕を軽く突き出すようにして、体の前で右斜めに薙刀を構える。

 

 今度は天龍が先制した。骨に阻まれることを避ける為に刃を寝かせた突きが、龍田の心臓を目掛けて放たれる。彼女は斜め下からすくい上げてそれを逸らしたが、天龍は妹のその動きを予測していた。逸らした時には刀の柄から離されていた右手が、龍田の頬を殴りつける。それだけに終わらず、天龍の右手は薙刀の柄を掴んで妹の動きを止めた。マズい、と龍田が考えた一拍後に、左の片手で握った刀が振り下ろされる。咄嗟に龍田も薙刀から右手を離して、天龍の刀の柄を手首で受け、斬られるのを防ぐ。それすら分かっていたのか、天龍は驚き一つもなしに龍田の前に出していた足を蹴って跪かせ、更にその鼻っ面に膝蹴りを入れた。勢いで天龍の手から薙刀が抜け、龍田は仰向けに倒れこむ。

 

 龍田は無我夢中で、追撃させない為に薙刀を短く持って突き出した。しかし本能的に突き出された速さだけの突きは、龍田と同じく熟練した艦娘である天龍には通用しなかった。腕を蹴られて、薙刀を手から落としてしまう。とどめの一刺しとして、逆手に持ち替えられた刀が、地面と龍田を縫いつけようとした。力を振り絞って身を捻り、刃を避け、天龍の胸倉、ネクタイを掴む。そして燃えるように熱くなった血の命じるままに、額を相手の顔へと二度三度と叩きつけた。それから体重を掛けて、横へ振り投げる。天龍が転がるのと一緒に、地面に刺さった彼女の刀が抜けた。荒い息を吐きながら、龍田は身を返してうつ伏せになり、転がった薙刀を取って立ち上がる。鼻血がべっとりと服に染み込んでいたが、どうでもよかった。

 

 演じているのが丸分かりのわざとらしさで、天龍がのろのろと身を起こす。龍田が性急に追い打ちを掛けてこないのを見ると、あっさりと()()をやめて立った。龍田の見る限り、形勢は彼女の方に不利だった。様々な苦境を乗り越えてきた戦中組艦娘の一人として、これまで己の武器の扱いにはそこそこの自信があったが、そう性能の変わらない同型の姉妹艦にこうもいいように打ちのめされて、そんな自信など砕け散ってしまっていた。左手で柄の前部、右手で後部を掴んで中段に構え、離れすぎた間合いを整えながら、左から右へと薙ぐ。天龍は半歩下がってからそれを刀で受け、龍田から見て反時計周りにぐるりと巻いて払った。薙刀を引き戻し、左右の手を入れ替えて攻めの方向を切り替える。

 

 脛、首、脛、突き。相手はどれにも対応し、突きに至っては下から刀身を押し上げられて巻き取られ、危うく頭を割られるところだった。もし龍田が咄嗟に足を引いて半身になり、石突側で払っていなければ、天龍の刀は血だけでなく脳漿にも濡れていたことだろう。再び脛への斬撃を放ち、受けられ、首を狙い、また受けられる。天龍の刀が突きに対応しようと動き始めたのを見てから、龍田は手首を返して相手の右小手を狙い、切り上げた。空を切る感触、飛び退り、仕切り直しに備える為に息を整えようとする。天龍は刀から手放した右手をわきわきと動かして、笑った。

 

「やらしいなあ、龍田。初デートでホテルに行こうとするようなもんだぜ、今のは。そんなの何処で習ったんだ?」

 

 初めて、龍田は彼女の言葉に答えようという気になった。同じ戦中組であり、今自分を追い詰めて殺すことに成功しつつある彼女に対して、敬意を払うべき気がしていた。警戒は解かないまま、口を開く。

 

「訓練所。あなたにはいい教官がいなかったみたいね」

「おいおい、天龍・龍田の間柄なのに、あなた、だって? 随分他人行儀じゃねえか、薙刀より傷つくぜ、全く。そりゃお前はオレの龍田じゃないし、お前の“天龍ちゃん”も別にいるんだってことは分かってるけどよ」

「私の天龍ちゃんはもういないわ。いるとしても私の頭の中にだけ」

「あー、地雷踏んだか? ごめんな、龍田。で、ごめんのついでなんだけどさ、降参する気とかないか?」

 

 龍田は少しだけ考えた。全身が倦怠感に包まれており、短時間ながら極度の緊張に苛まれた肉体は休息と絶念を推奨していた。が、ここで投降を決めたとしても、余り愉快そうな未来の展望は見えてこなかった。彼女が拒否の意思表示をすると、天龍は残念そうにかぶりを振って「そっか。じゃ、続きと行くか」と言った。これまでの中段ではなく、胸の高さで刃を寝かせて構えた彼女を見て、龍田は最初の構えに立ち戻る。片手で扱うことになるというデメリットはあったが、間合いを読まれずに済むその構えは、これから攻めかかってくる天龍を迎え撃つ上で唯一の選択肢だった。

 

 雷声(らいせい)とはこのようなものかと思わせる気合の掛け声と共に、天龍はまさに地面を蹴って踏み込んだ。龍田は完全にその速度を読み違えていた。彼女の動きは遅れ、刃を払うこともできず、ただ悲壮な覚悟を込めた両目で天龍の片眼を見つめていた。なので、どすん、と衝撃が走り、刀の切っ先が彼女のしなやかな肉体に沈み込む感触が指先から伝わってきた時、天龍は仕留めたと思った。そうしてから、どうして「どすん」などという揺れが自分を襲ったのだろうかと不思議になって、顔を下に向けた龍田から目を離して、突き刺した刀を見下ろした。それは確かに、狙いを真っ直ぐに貫いていた。だが、龍田が限界まで短く持った彼女の薙刀の刀身もまた、半分ほどまで天龍の腹に埋まっていた。

 

 その様子をちらりと見て、「なるほど」と天龍は呟いた。彼女が刀を龍田から引き抜いて下がると、彼女の薙刀は持ち主の手を離れてついてきた。「困ったな」と天龍は言い、それを自分で抜いて脇に投げ捨てた。そして二人は同時に同じ所作をし、違う結果を得た。天龍は水筒を手にして、龍田の手は空を切ったのである。姉は妹に「探し物はこれだろうな?」と言って、自分の足元に転がった彼女の水筒を見せつけた。その中身に何が入っているか、戦争を経験した天龍には聞かずとも分かっていたのだ。それ故に、彼女は刺された衝撃で虚ろになった龍田から離れる時、腰の水筒を盗んだのである。艦娘にとって生命線の一つとも言える希釈修復材を奪われ、ようやく正気に戻った龍田は、腹に小さくない穴が開いた状態で、何とか口を開いた。

 

「手癖が、悪いのは……どっちかしら、ね?」

 

 天龍は腹の傷に希釈修復材を掛けながら、その問いを聞いた。傷口の肉がどんどん盛り上がって、時間が巻き戻るように治癒していくのを確認してから、彼女は妹の皮肉な質問に返事をした。

 

「オレだよ。だからお前に勝てたんじゃねえか。なあ、悪いことは言わねえからさ、倒れちまえよ、龍田。楽になるぜ、マジで」

 

 本当にそうしてしまいたいほど、龍田は疲れていた。血は流れ続けていたし、蹴られて揺さぶられたことで脳が酔ってしまったのか、意識も朦朧として、視界はちかちかと点滅していた。手を再び腰へとやり、しかし今度は希釈修復材を詰めた水筒を求めてではなく、龍田が唯一にして真実姉と慕った軽巡「天龍」の、遺品である刀を求めてだった。龍田はそれを地面に刺して杖のようにし、倒れこみそうになる我が身を支えた。目前の天龍は軽く息をつくと、上段に構える。その顔や身のこなしからは何の感情も興奮も見て取れず、龍田は不愉快に思った。この刺客は、自分のことをもう終わった存在だと見なしているのだ。龍田の艦娘としての自尊心は、その侮辱に対して見て見ぬふりを決め込めるほど、軟弱ではなかった。

 

 掛け声もなく、鋭い太刀筋で天龍の刀が振り下ろされる。右足を一歩引いてそれを避けながら、龍田は刀を持ち上げ、天龍の振りが止まったタイミングで、引いた足を前に出して回り込みつつ、天龍の手首を目掛けて振るった。手が痺れるほど強く、天龍の防御と龍田の攻撃がぶつかる。けれども痛手を負った龍田の刀は、防御を破るほどの力を持っていなかった。天龍がにやりと笑い、押し返そうとする。彼女はそのまま胴を一薙ぎにして、龍田を始末するつもりだった。誤算だったのは、龍田にもうそれ以上立っているつもりがなかったということだ。彼女は自ら膝を折った。ずるりと刀が刀の上を滑り、天龍の防御を抜けて、彼女の右膝へと振り下ろされる。龍田の刃は膝を割り、脛を裂き、足首までを断った。

 

 初めて天龍は、怒りに任せて刀を振るった。それは龍田が地に転がった時、槍を掴んで放った一撃とよく似た、本能の支配した攻撃だった。であれば龍田にも、防ぐことができて当然だった。左手を峰にやって刀を持ち上げ、頭上で止める。蹴って防御を崩そうにも天龍の右足は深く斬られており、動かすことなどできなかった。とはいえ龍田は跪いた状態であり、天龍は立っている。体重を掛けることのできる天龍の方が優位であり、事実彼女の刀は少しずつ龍田の刀を押し下げていた。天龍には見えていた。龍田の頭部艤装を自分の刃が抜け、頭にゆっくりと沈み込み、龍田が鼻と口から血を流しながら震え出し、やがて倒れるところが、天龍の目にはしかと映っていた。だから龍田が左手を離し、右腰のナイフに手を伸ばした時、天龍の反応は少しだけ遅れた。それで十分だった。

 

 峰に添えられた左手がなくなったことで、龍田の刀は斜め下を向いた。力任せに押し付けていた天龍は、その力の流れる方向が変わったことに対応しきれず、刃を滑らせてしまった。龍田の頭部艤装が斬られ、刃が肩の上で止まる。顧みず、龍田はナイフを握った左手の手首を返し、天龍の左足に突き立て、捻ってから足首までを裂いた。獣のような叫び声が、先ほどまでは冷静沈着だった刺客の口から漏れ出たことに、龍田は深く満足した。天龍は立っていられなくなり、両膝を地面につける。刀を片手で押し上げると、天龍の刀は彼女の強張った手を連れて背中側へ回った。腹は無防備に晒されていた。それは、ナイフで刺すのに丁度いい間合いだった。腹を二度刺し、首を切りつけようと振るう。最後の一撃だけは天龍も必死だったのか、刀の柄から離した手を防御に差し出した。結果として指が二本取れたが、致命傷は避けられた。

 

 龍田はそれさえ面倒だったが、血のついたままのナイフを腰に戻した。それから手探りで天龍の腰から水筒を取り、中身を自分の傷口に流し込んだ。傷が塞がっていくのと共に、活力が僅かずつ戻ってくる。刀を杖代わりにして立ち上がり、投げ捨てられた自分の薙刀を拾った。天龍を殺すつもりだった。放っておいても死ぬのは分かっていたが、必要以上に苦しみを長引かせてやるほど、龍田はこの天龍を恨んではいなかった。薙刀を拾うまでの間に、天龍は這いずって木の近くまで行き、幹に背中をもたれかからせ、楽な姿勢を取っていた。彼女は笑おうとして、咳き込んだ。尋常ではない苦しみの中にいるのが、龍田には分かった。今や、彼女はこの刺客を哀れんでいた。

 

 しかし天龍の前に立ち、その哀れみに任せて薙刀を振るおうとした時、横から五十鈴が顔を出した。彼女の顔は嫌悪感を覚えさせる笑みに輝いていた。龍田は思わず渋面を浮かべ、それを自分が隠しきれなかったことに、ひどく驚いた。「私、すっかり見たわ。全部見ちゃった」と五十鈴は言った。龍田は彼女が言いつけを破って勝手に動いたことを叱ろうかと思ったが、そんな元気はなかった。「殺し合い」と五十鈴は呟き、目を閉じた。その音の一つ一つを自分の中で味わっているようだった。天龍がぎょっとして、咳をしながら言った。

 

「おい、龍田。お前こいつに何したんだ? たちの悪い薬でもやらせたのか?」

 

 龍田は答えなかった。天龍は語気を荒げた。「答えてくれ、こいつはオレの知り合いなんだ、頼むよ!」それで、龍田はやっと応じた。「何も。私たちが見てきたものを、ちょっと見せただけ」瀕死の刺客は、それ以上何も言えなかった。それよりも先に、五十鈴が喋り始めたからだ。彼女は、何かの切っ掛けで同世代の友人たちより一足早く大人の世界を知った子供の無邪気さと、落ち着きなく踊るような足取りでその場をうろうろしながら言った。「戦争ってこんな感じだったのね? 私、本当の戦争を知ったんだわ。こんな感じだったなんて!」その言葉が耳に届いた時、いきなり龍田の中で何かが爆発した。彼女は五十鈴に掴みかかると、矢継ぎ早に問いかけた。

 

「本当の戦争ですって、これが、こんなものが? あなたは一体何を見ていたの? あなたが一体何を見てきたって言うのよ、ねえ! あなたの艦隊は“後任の艦娘”なんて迎えたこともないでしょう。同期の艦娘が減ったことはある? 貴重な休みを使って、目の前でばらばらになった友達の葬式に出たことは? 釘付けされた棺をこじ開けようとして爪を立てる父親を、爪がはがれても指を掛けようとする母親を、羽交い絞めにして止めた経験があるの? 敵の海域で脚部艤装をやられた子が、どうしてもすがり付いてきて邪魔になるからって、残りの五人を生かす為にその場で処分されるのを見た? あなたが自分でその子の頭を撃ったことは? 泊地に戻ってからそれを褒められたことは? いつ自分にその順番が回ってくるのか怖くて、布団の中で震える夜を何回過ごした? 大体さっきあれだけ怖がってた癖に、もうあの気持ちを忘れたって言うの?」

 

 龍田が最後の一言を搾り出した時には、五十鈴はショックを受けた顔になっていた。それは龍田が自分に共感を示してくれると信じていたのに、裏切られたことへのショックであり、また自分が何か別のものに変わろうとしているのを自覚し始めたショックでもあった。溢れ出しそうになる感情を否定する為に、五十鈴は声を大きくして言い返した。「何よ、今更になってそんな泣き言」彼女は手に持った単装砲で龍田を殴ろうとしたが、避けられて転んだ。立ち上がりもせず、うずくまったまま、龍田を睨む。「私はただ、あんたの気持ちを理解しようとしただけよ」それが彼女に最後の一線を越えさせた。龍田は五十鈴の弾切れの単装砲を奪い取ると、乱暴に操作してから投げ返した。訳も分からずそれを受け取った彼女に、倒れた天龍を指差して示す。

 

「それでこの天龍を撃ちなさい」

「何ですって?」

「私を理解したいんでしょう? 友達の頭を吹き飛ばした瞬間に私が何を感じたのか、知りたいんでしょう? 撃ちなさい」

 

 突然、五十鈴の手の中で単装砲は何トンも重みを増した。砲身が地面を向くと、龍田が五十鈴の腕を後ろから掴んで立たせ、彼女の単装砲を強引に天龍へと向けさせた。だが引き金に掛かった彼女の指にだけは手出ししなかった。「撃ちなさい」と龍田は繰り返した。年若い軽巡の体はまさに石化していた。目だけがひっきりなしに上下左右へと動き、この状況を解決する何かを探していた。天龍はもう声を出す体力も残っていなかったが、首を振った。それが「やめろ」という意味のジェスチャーなのか、それとも「仕方ないんだ」「いいんだ」の意味を持つジェスチャーなのか、五十鈴には分からなかった。

 

 耳元で龍田がまた「撃ちなさい」と言った。その声の優しさが、五十鈴の心を恐怖で氷漬けにする。彼女は自分がどうしてその場にいるのかも分からなくなった。腕を前に突き出しているのか、それとも垂らしているのかも分からなかった。地面に立っている感触が失せ、世界が回転しているように感じた。目の前にいるのが天龍なのか、天龍がそこにいると自分が思っているだけなのかも分からなかった。龍田の声が全てだった。それだけが存在の明確なただ一つのものだった。五十鈴は叫んだ。叫んで、彼女の単装砲の引き金を引いた。

 

 強い力の掛かりすぎた引き金が、ばきりと音を立てて壊れた。龍田はいつの間にか五十鈴から離れていた。砲は沈黙していたし、天龍の頭はまだ肩の上に乗っていた。五十鈴は腰が抜けて、その場に倒れた。自分が今何をしたのか、彼女はこれ以上ないほど完璧に理解していた。五十鈴から弾切れのままの単装砲を取り、地面に捨てて、龍田が言った。

 

「戦争にようこそ。今ならあなたも、歌が聴こえるでしょう」



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06.「より大きな暴力で」

 龍田は天龍の体を西の砂浜に下ろした。うつ伏せになっていたので、仰向けにしてやり、顔から砂粒を払った。閉じられていた右のまぶたが上がり、隻眼が島の主を捉える。だが彼女にできることと言えばそれだけであり、また彼女自身それ以上のことを何かしようとは思っていなかった。龍田を殺そうと試み、それに失敗して、殺されずにいる。天龍は、敗者にしてはかなり恵まれた展開じゃないか、と考えたが、それをもたらしたのが五十鈴であることを思うと憂鬱になった。二人は特別親しい仲ではなかったが、顔を合わせれば挨拶をして雑談を交わす程度には互いを知る間柄だった。知人がほんの数日でああも変わってしまったことに、天龍は困惑を禁じ得なかった。

 

 しかし、龍田に詳しく尋ねることはできない。五十鈴の言葉に対応して起こった感情の爆発は、天龍も知っているものだった。戦闘ストレス反応、それも遅発性のものだ。それが龍田の起こしたこの事件の根底にあるんだ、と天龍は確信した。そして笑いそうになった。体の節々の痛みさえなければ、声を出していただろう。軍の情報が間違っていなかったなんて滅多にないことだ、と。鈍くうずく、龍田にナイフで刺された傷のあった場所を撫でる。島の主は五十鈴に天龍を撃たせるふりをした後、考えを変えて天龍の負傷を治療したのだった。血を流し過ぎて動けないだろうから、脅威ではないと判断されたのかもしれなかったが、生きているなら理由がなんだろうと天龍は甘んじて受け入れられた。

 

 彼女をそこに置き去りにして来た道を戻ろうとする龍田の背中に、発声で生まれる痛みを我慢できる最大限の大きさの声で、天龍は言った。

 

「そう急ぐなよ。少し話でもして行かねえか?」

 

 誘った当の本人も驚いたことに、龍田はその言葉を無視しなかった。足を止めて、「どうして?」と訊ね返したのだ。その四文字の言葉は、天龍には「どうして話をする必要があるのかしら?」と聞こえた。が、彼女は話せるとはいえ死に掛けた身であり、そのふてぶてしさは龍田を遥かに圧倒していた。

 

「いいから座れよ。お互い今更、どっちかを殺そうって話にはならねえだろ」

 

 数秒の沈黙の後に、龍田は迷いを払おうとするような大股で天龍の右に来ると、砂の上に腰を下ろした。薙刀を地面に突き立て、柄に腕を回して彼女は体を支えた。その顔を下から見た天龍は嬉しくなって、唇の端を吊り上げた。龍田の表情は、何故自分を殺しに来た相手の言うことを聞いてこうしているのか分からない、とはっきり語っていたからだ。殺し合いは面白くない結末に終わったが、普段いつも余裕綽綽の姉妹艦のこんな顔が見られるなら、そのことは我慢してもいいな、と天龍は思った。彼女にとってこの龍田は『自分の』という言葉を頭につけて呼べる相手ではなかったけれど、そのことは考えなかった。

 

 十秒か、二十秒か、話をしようと誘いを掛けた方も、それに乗った方も、空を眺めていた。何か面白いものが見える訳でもなければ、流れ星の一つもなかった。気の利かない空だ、と天龍は心の中で罵り、自分で話題を探し、見つけた。島に来てからというものの、彼女は是非龍田を殺す前か、自分が殺される前に、このことを聞いておこうと思っていたのだった。天龍は龍田の尻を指でつつくと、剣呑な視線を向けてきた彼女に平気な顔で尋ねた。

 

「なあ、一体何処から地雷だの何だの手に入れたんだ?」

「普段どんな任務をやってるの?」

「下手なごまかしだな。いや、違うのか? いつもは水上警戒任務だけどよ、それがどうした」

「私たちは輸送船団の護衛任務と、この島のレーダーサイトの保守点検だったの。民間の輸送船も、軍の輸送船も護衛したわ。日本の船も、外国船も」

 

 ああ、それでピンと来たぜ、と天龍は言った。彼女も噂に聞いたことがあったのだ。民間の輸送船、特に国外の民間船の中には、『公的には存在しない貨物』を運んでいるものがある、と。龍田が護衛した内の幾つかは、そういった貨物を載せていたに違いなかった。それを押収したのかと聞くと龍田は首を横に振り、黙っている代わりに金を要求し、その金で貨物の一部を買い取ったと告白した。天龍は思わず吹き出し、その行為は即座に痛みという結果になって彼女に跳ね返ってきた。けれどその痛みも、彼女の愉快な気持ちを萎えさせたり、表情を渋いものにはさせなかった。

 

「マジかよ、度胸あんなあ。地雷って一個何円ぐらいするんだ」

「種類によるけど、一万円から五千円ほどだって。私が買ったのは五千円だったけど、仕入れ値はその一割もしないそうなのよねぇ」

 

 驚きの表現として、天龍は目をぐっと見開いた。だが龍田に見て取れたとは思えなかったので、改めて言葉に感情を込めて答えた。

 

「ぼろ儲けだな。五千円か……この前買った空気清浄機がそれぐらいだったぜ」

 

 くすくすと抑え目の笑い声が、龍田の口から漏れる。彼女は左手で天龍の髪の毛をくい、と引っ張って、皮肉っぽい声で言った。

 

「ありがとう、あなたのお陰でこれから島の何処かで爆発音が聞こえる度に、炸裂する空気清浄機が私の脳裏に浮かぶわよ、きっと」

 

 それから話はここまで、という風に、彼女は立ち上がった。その動きが決然としていたので、天龍にもこれはもう止められそうにはないな、と分かった。でもそのまま行かせるには、二人は既に多くを話し合いすぎていた。天龍は目一杯背を反らし、首を曲げて後ろを見て、天地が逆転した視界に龍田の去り行く背中を捉えた。先ほど殺そうとした相手に抱くのが不思議なほど優しい気持ちになって、天龍は思わず声を発した。発さずにはいられなかった。

 

「どうせ次が来るんだ。その次も。そのまた次だって。ここから自分で出てくるか、無理やり引きずり出されるか。よく考えて、好きな方を選べよ、龍田」

 

 声を掛けられた彼女は一度だけ振り返ったが、言葉を返しはしなかった。龍田は夜の暗がりの中に姿を消し、天龍は体の痛みに向かって悪態を一つ吐いて、夜空を見上げた。星が綺麗で、一日の疲れですさんでしまった彼女の心を、その美しさが愛撫して安らがせてくれるのを感じた。負けて死にかけ、冷たい風の吹く砂浜に置き去りにされているというのに、何だか気分がよかった。「暖かい飲み物と鎮痛剤さえあれば、今日はよく眠れそうだ」と呟いて、天龍は救助が来るまで空を眺めて時間を潰すことにした。

 

*   *   *

 

「コーヒーと紅茶、どっちがいい?」

「コーヒーで。砂糖は結構」

 

 吹雪の注文を聞いて、那智はその通りに自動販売機のボタンを操作した。紙コップが落ちてきて、注文に従ったレシピのコーヒーを注ぎ始める。それは海上保安庁が急遽寄越した巡視船の援護の下、天龍を乗せたヘリが島に向かってからというもの、泊地司令部の休憩室で何度も繰り返された光景だった。注文した直後にヘリが撃墜されたと知らされた時には、動揺からコップを取り出す前に二杯目の注文をしてしまい、自販機の中をコーヒーまみれにしてしまったが、今は不安よりも焦燥が那智の心にくすぶっていた。墜落したヘリの乗員は巡視船が全員救助して無事を確認しているが、彼らの言によれば天龍はヘリから飛び降りたという。通信がないのは、通信機を失ってしまったからか、着地に失敗でもして死んだか──何も分からずに待つしかない状況は、那智に大きなストレスを与えていた。

 

 コップを取り出し、吹雪に渡す。そして自分の為に、砂糖をたっぷり入れたコーヒーを注文した。既に日が落ちて長いが、天龍がどうなったか分かるまで、那智は休む気になれなかった。その為に砂糖とカフェインで眠気を叩いておこうという訳である。気を抜くと眠ってしまいそうになるので、油断はできなかった。那智は吹雪の様子を見て、一体どのような人生を過ごしてくれば、ここまで鉄面皮になれるものなのだろうと考えた。概して「吹雪」という駆逐艦娘は、元気で明るくはきはきとした、付き合いやすい性格をしている。ところがこの吹雪は口数少なく表情の動きも小さいし、お世辞にも付き合いやすい人物ではなかった。

 

 敏感に視線へと反応し、無感情に那智の目をまっすぐ見つめ返してくるところも、駆逐艦らしからぬ態度である。面白くなって話しかけるのでもなく眺め続けていると、特に意味はないものと理解したのか、吹雪は目をそらした。「部屋に戻るか」と那智が言い、「そうしましょう」と吹雪は賛成した。龍田と通信する為の携帯端末は肌身離さず持っていたが、彼女は自販機前でコーヒーを飲みながら話せるような相手ではない。那智には何が龍田を爆発させるのか分からなかった。島を占拠して、泊地を攻撃するだけの理由があったのだろうが、前回の短い会話の間に龍田は一言だってそれについて自分から言おうとはしなかった。それどころか、聞こうとしたことが彼女に会話をやめさせたのだ。

 

 廊下を歩きながら、龍田の目的は何なのだろうかということについて、吹雪と話し合う。情報が少なすぎて、どんな意見も想像の範疇を出ないものにしかならなかった。ここ数時間での追加情報は「龍田の私室を調べた結果、彼女は暫く前から外部の心療内科を受診していたと見られることが分かった」というあやふやなものしかなく、それは彼女が起こしたこの騒ぎの根本的な原因を吹雪や那智に悟らせても、より具体的な動機までたどり着かせるものではなかった。無論二人はその話を聞くだけで何もしなかったのではない。龍田を診療したという医者に会おうとしたのだが、占拠事件を表沙汰にすることを避ける為に泊地総司令は許可を出さず、また龍田の行った病院の名を伏せたのである。

 

 那智は軍警に協力する民間人であるが故に、海軍内の力関係と無縁でいられるという点を利用し、「それでは今回の事件を解決したとしても、また似たようなことが起こるのは止められない」と指摘したが、「事件が終息していない状態で世間に知られれば、戦中組の現役艦娘や元艦娘への偏見を招く」と反論されると、黙るしかなかった。確かにその蓋然性(がいぜんせい)は否定できなかったからだ。そして那智は軍でも特設高校でも、数多くの教え子を抱える身だった。彼女たちが世間から色眼鏡で見られるなどという事態は、到底許しがたいことだった。会話が少し止まってから、彼女は吹雪に言った。

 

「昔と違って単純には行かないな、吹雪秘書艦」

「仕方ありません。戦後ですから」

 

 その言葉を聞いて、元教官は足を止める。秘書艦は二歩前で止まり、振り返った。那智は訊ねた。「龍田もこんな気持ちだったんだろうか?」吹雪は黙して、視線をかつての同僚に向けている。再度歩き始めながら、那智は考えに耽った。龍田は問題を抱えていた。()()()()()()()()()()()。それも以前からずっと、だ。民間の心療内科に掛かったのは、軍の専門家に診られたくなかったからかもしれない。民間でなら、どんな診断が下ろうとも自分の意志で結果を秘匿できる。軍のはそうは行かない。“傷病除隊”させられるのが嫌だったのだろうか? 艦隊員たちから離れるのが嫌だった?

 

 未だに全貌は見えなかったが、気づきもあった。龍田は艦娘であり続けたかったのだ。けれどもその精神は、彼女が艦娘である間に起こったことでずたずたになっていた。姉と慕った同期の天龍が戦死したことや、指揮下の艦隊員たちが沈んだこと、龍田自身が死に掛けたこともあっただろう。そういった出来事が、彼女をして艦娘であり続けることを難しくさせた。艦娘でありたいと欲する龍田の気持ちと、艦娘だったことで傷ついた龍田の気持ち。両者はぶつかり合い、龍田を疲弊させ、正気を失わせ、助けを求めて手を伸ばさせ──そうしてその手が届かなかった時、龍田は彼女がまともでいられた時まで時計の針を戻そうと思った。この考えは、那智をはっとさせた。つまり龍田は今、戦中にいるということなのだ。なら、彼女の戦争を終わらせてやれば、この事件も終わる。

 

 でも、どうやって? それはまたしても、那智には答えの出せない問いだった。部屋に戻るまで考え続けたが、進展はなかった。通信機器の前の椅子に腰を下ろし、コーヒーの入った紙コップを機器の上に置いて背伸びをする。ぽきぽきと軽快な音が鳴った。重力に逆らって立つのをやめると、途端に眠気が押し寄せてきた。ダメだとは思いつつも、まぶたが下りていく。視界が暗闇に覆われたところで力を入れて目を開き、コーヒーを喉に流し込んだ。まだ熱い液体が体を痛めつけながら通っていき、瞬間的に眠気を散らす。砂糖とカフェインの効果が切れればすぐに戻ってくるのは分かっていたが、今は起きていられる。那智は横目で部屋の隅の椅子に座って眠っている龍田の提督を見て、肝っ玉の太い男だ、と考える。

 

 その時、通信機器がノイズを発した。那智は慌てて通信機を操作し、誰かからの呼びかけに備えた。電波状況が悪いのか、声が聞き取れるようになるまでに数秒掛かった。「教官? 聞こえてますか?」それは龍田の声だった。那智は溜息を吐きそうになって、歯を噛み締めた。()()()()()()()()()。「ああ、よく聞こえているよ、龍田。どうした?」答えながら、教え子の死を思って左手で心臓の辺りをぎゅっと掴む。久しく感じていなかったその痛みは、那智の記憶の中にある同じものより何倍も身に堪えた。龍田は言い出すのを躊躇う風な息を漏らした後で、観念したように告げた。

 

「島の西部にある砂浜で、迎えを待ってる子がいるんです。彼女は生きてます。連れて帰ってあげて」

「分かった、そうしよう」

 

 応じながら、那智は痛みが和らいでいくのを感じた。龍田は天龍を殺さなかったのだ。いや、とそこで思考を止める。思えば、彼女はまだ一人も殺していないのではないか? 最初の泊地に対する攻撃でも、警戒艦隊への先制打撃でも、彼女は誰も殺さずに済ませている。五十鈴は拉致こそされたが、殺害は確認されていない。艦娘殺しができないのか、避けているだけなのか。どちらにせよ、那智は『何故』という疑問を持たずにはいられなかった。その謎を解き明かすには、龍田の頑なで、複雑に入り組んだ迷路のような心を和らげねばならない。その為にもまずは、彼女と対話する必要があった。

 

「船を送らせるから、撃たないでくれよ。他に何か必要なものはあるか? 風邪を引いても、そこでは医者にも掛かれないだろう」

「話を、話をしたいです」

 

 即答だった。それも、好都合な答えだ。那智は物事が一つ上手く転がり始めたことに気を良くした。「私もだ、龍田。お前と話をしたい。何について話そうか?」通信機の向こうにいる龍田は、今度は即答できなかった。荒い息遣いだけが聞こえてきていたが、那智は彼女に声を掛けなかった。何とかして相手に伝わるようにと言葉を選び、まとめようとしているのが分かったからだ。そういう時に余計な口を挟むと、相手を混乱させ、その頭の中をぐちゃぐちゃにしてしまうだけに終わるということを、教師としての経験から那智は学んでいた。やがて、龍田は言った。

 

「終戦の時から今まで、何処にいらしたんですか?」

「終戦時か? 私は解体待ちで、家にいたよ。退役艦娘向けの特設高校に教師として就職しようと思っていたから、その勉強をしていた。テレビの臨時ニュースで終戦を知ったのを覚えてる。その後に就職試験を受けて合格し、どういう訳か艦娘のまま教師をやってもいいということになった。それからは学校勤めだ。曇り一つない幸せって具合だな。お前はどうだった?」

「私は輸送隊の護衛艦隊として、海の上にいました。いきなり通信が飛んできて、『戦争が終わった』と。みんなお祭り騒ぎでも始めそうな調子でしたけど、私は、ここはまだ海だと艦隊に通達して大人しくさせました」

 

 自分が龍田だったとしても、同じことをやっただろう、と那智は思った。終戦とは言っても、世界全ての海のあらゆる場所から脅威が失せたという訳ではなかったからだ。融和派深海棲艦と人類は和平を結び、共に主戦派を滅ぼしたが、その残党はまだまだ残っていた。本土の民間人たちにとって戦争が終わったからと言って、海の上で気を抜いていられる時代は未だ遠かったのである。龍田は後悔の色を濃くにじませた息を吐くと、話を続けた。

 

「終戦前の最後の大規模作戦には参加しましたか? 敵性深海棲艦本拠地攻略戦、でしたか」

「ああ、したぞ。私のいたところの艦隊は、全員参加した筈だ。退役の少し前だった」

「私はその時も、護衛艦隊を指揮していました。作戦前に、執務室まで押しかけて参加したいと訴えたんですが、その場で却下されて」

 

 龍田がやけに悔しそうな声を出したので、那智は応じる言葉を失って口を閉じた。明らかに、龍田の口ぶりは彼女がその作戦に参加したがっていたことを示唆していた。しかし、大規模作戦には危険がつきものだ。スペックに特筆するところのない天龍型軽巡艦娘や、輸送艦隊護衛専門の駆逐隊には荷が重い。龍田の提督も、そういったことを考えて彼女の艦隊を作戦から外したのだろう。それは何らおかしなところのない采配であり、むしろ参加したかったと嘆く龍田の方が奇妙な存在だった。那智には、彼女が好んで戦闘に身を投じるタイプであるようには思えなかった。それはどちらかと言えば、天龍の言いそうなことだ。

 

 吹雪に肩を叩かれて、那智は視線だけ彼女にやった。ハンドサインを交えて、海保に天龍の回収を頼んでおいた、と伝えられる。頷いて謝意を表すと、吹雪は軽く頭を横に振って通信に戻るように示した。言われた通り、龍田の言葉に耳を傾ける。そこには彼女の感情が渦巻いていて、今にも荒れ狂いそうだというのが那智にも感じ取れた。「あれは、戦争を終わらせる為の作戦でした」と龍田は言い、那智はそれに賛成しながら、当時のことを思った。あの作戦は、融和派深海棲艦が人類と同盟した後も頑強に抵抗を続ける主戦派を、なるべく一つ所に集めて全力で叩くという、単純だが勝てれば効果絶大な作戦だった。そして人類と融和派が勝ち、主戦派が壊滅し、戦争は終わった。

 

「だから私も参加したかった。でも、それが終わらせたのは……誰の戦争だったんです?」

 

 その質問を発したところで龍田は、こらえられない、という風に笑い始めた。笑いながら、彼女は自分の質問に対する答えを一つ一つ潰していった。

 

「あなたのですか、那智教官? いいえ、違うでしょうね。あなたの右腕はもう元に戻らない。顔の火傷も戻らない。毎日鏡を見る度に、あなたはそこに戦争が続いているのを見つけられる。あるいはあなたの旗艦を務め、生き延びる為に天龍ちゃんを死なせたあの子の戦争は? これも違いそうです。だって、天龍ちゃんを見捨てた記憶が薄れるなんて、きっとあり得ない。亡くした戦友、傷ついた戦友、誰も元には戻らない。……じゃあ、私の戦争は? ええ、絶対に違うわ。天龍ちゃんを失った。沢山の僚艦を失った。なのに私はいつも生き延びた。陳腐な話でも、忘れられる訳がない。そうですよね、那智教官? あなたにも何か、魂に刻み込まれたように忘れられない記憶があるでしょう」

「さあね。教師として子供たちの面倒を見るのに精一杯で、最近は昔のことなんか思い出す暇もないんだ。全く、教師がこんなに忙しいと知っていたら、大学でもっと別のことを学んでいただろうに。私生活なんて存在しないようなものだぞ」

 

 そう答えながら、那智は龍田がまだ笑っていることに小さな怒りを覚えた。通信機の向こうの彼女は、かつての教官の言葉を自分が信じていないということを、あからさまにその態度で示していた。普段なら那智は、こういった押しつけがましい振る舞いに対しては断固とした反応を見せることにしていたが、今日だけは例外的な対応を余儀なくされた。まだ龍田は上機嫌だが、次の一言で最悪の精神状態に陥るかもしれないのだ。その結果としていらぬ血が流されるくらいなら、多少の我慢ぐらい安いものだった。忍耐の二文字を強く意識しながら、龍田との会話を続ける。

 

 島の主はおどけるような口調で訊ねた。「先生だなんてぴったりじゃないですか。教えて下さい、学校でどんなお仕事をしているか、聞いてみたいんです」那智が答え始めるまでには二秒掛かった。彼女の頭の中で職務上の秘密に当たらない喋ってもよいことと、規定上話すことの許されない情報が選り分けられるのに、それだけ要したからだ。返事の最初の言葉を口にしながら、那智は自分が軍人時代から相当様変わりしてしまったのを認めずにはいられなかった。彼女が軍の艦娘だった頃には、滅多なことでは機密情報を知らされることがなかったから、「何についてなら話してよいか」ということを考える必要性がそもそもなかったのである。

 

「色々だ。授業計画を立て、授業をし、テストを作り、採点し、問題のある生徒の話を聞き、特に重大な者はカウンセラーのところへ送り、規則違反者を叱り、進路相談に応じ、部活の顧問を務め、職員会議に出席し、時々喧嘩の仲裁をしたり、校門で朝の挨拶を担当することもある。家に帰っても学校で済ませられなかった書類仕事の続きや、進路相談の為の調査をする。休日も似たようなものだ。出会いもないし、この分だと生涯独身を貫くことになるかもしれんな。まあ、私はそれでも構わんが」

「でも、一人は寂しいですよ、教官。私も天龍ちゃんがいなくなってしまってから、それに慣れるのに随分掛かりました。私たち、艦娘用宿舎の同じ部屋で暮らしてたから……今でも朝、目が覚めた時、たまに天龍ちゃんを探してしまうんですよ。おはよう、って言おうとして。それで、本当に、本当に滅多にないんですが、天龍ちゃんが『おはよう』って言ってくれたのが聞こえたような気になることも、あるんです。そうすると決まって胸が痛んで、気が塞ぎます」

 

 医者には行ったのか、と答えが既に分かっていることを聞きそうになって、那智は口をつぐんだ。龍田はまた笑った。自嘲的な、乾いた笑いだった。

 

「何となく、教官が私に訊ねたい質問が分かる気がしますから、お答えしておきますが、ええ、病院には行きましたよ、もう何回も。この痛みを止める為に、自分にできる限りのことはしたつもりです。教官は病院には行きましたか? 痛みの調子はどうです?」

「入隊した時に比べてずっと年を取ったが、体に痛みが出るほどじゃない。病院は怪我もないし、定期健診を除いて行ってないな。毎回肝臓について小言を聞かされるから、それだってやめたいぐらいだ」

 

 返事が途切れ、那智は歯を強く噛み合わせた。まただんまりに戻るつもりなのか、と言いかけたが、それが龍田の舌を滑らかにするとは思えなかった。背後にいる吹雪の顔を見たくなくて、無駄だと思いながら通信機を睨み続ける。そうすることで龍田が返事をしてくれると思っていた訳ではなかったが、吹雪の無感動で棘のある一言を貰うよりは、無意味な時間を過ごす方が那智の好みに合っていた。だが予想を外して、通信機は龍田側の音声を伝え始めた。彼女の言葉はなかったが、環境音が聞こえていた。それは、龍田が何かを言おうとしているが、言い切れずにいるということだ。那智は彼女の言葉を聞き逃さぬよう、通信機を操作してボリュームを上げたが、すぐにそのことを後悔した。

 

「どうして、ちゃんと話してくれないんですか? あなたが私を訓練した。あなたが私を艦娘にした。あなたのお陰で私は戦争を生き延び、生き延びたから痛みを抱えることになった。でも、私はそれから逃げなかったのよ? ちゃんと立ち向かった。傷も痛みも受け入れて、まともになりたかった。だから直視しようとして、し続けているのに、あなたは目をそらしてる! 私は戦って、毎日死にそうなほどつらいのに、私をそうさせたあなたが逃げて、私を置き去りにして!」

 

 那智を一瞬恐怖させるほどの情感に満ちた絶叫の後に、龍田が急に落ち着きを取り戻し、囁き声になる。すがりつくようなその声を聞いて、那智は彼女の深奥を再び見た気がした。

 

「ごめんなさい、教官、すみません、私はただ、あなたときちんと話をして、私たちの痛みを分かち合いたいのよ。そうして、受け入れたいの。戦争が終わったということ、その戦争で私がしたこと、されたこと、してしまったこと、どれも、全部。それは私の一部になって、もう引き剥がせないんだもの。でも、それは一人じゃ無理なのよ……」

 

 言葉の尻が嗚咽に変わり、それも小さくなっていく。那智は何度か呼びかけたが、無駄だった。彼女は通信を切り、疲れた顔で吹雪の方を向いた。最後の会話で一歩前進した、という確信があったので、彼女から何を言われても気にならないと思えたのだ。だからこそなのか、吹雪はあごに手を当てて考えるような仕草をしながら、何も言わずにいるだけだった。意地の悪い気分になって、那智は尋ねた。「どうした、秘書艦? 何か言わないのか? 『今度は大成功ですね』とか何とか、あるだろう」吹雪は彼女を一瞥し、ぴしゃりと言った。

 

「疲れているようですね。幸運にも、この部屋にはベッドがあります。寝ておきなさい。私は思いついたことがあるので、あなたが休んでいる間に手配を済ませておきます」

「おい、言っておくがな、私はもう軍人じゃない。ついでに言えば軍警職員でもない。命令されるいわれはないぞ」

「だとしても、従った方が賢明だということは変わりません。自分でベッドに入るのと、私に寝かしつけられるの、どちらが好みです?」

 

 那智は考えた。泊地に連れてこられて以来、ストレスの連続だった。最後に判断してここに来ることを決めたのは那智自身だったから、文句は言えなかったが、それにしても汚泥めいた鬱屈が胸に溜まっていたのは確かだった。寝る前に吹雪と共に体を動かせたなら、少しはマシな夢も見られるかもしれない。彼女はかつて海の上で敵に向かって見せつけていた笑みを再び浮かべ、吹雪秘書艦に言った。

 

「子守唄も歌ってくれるんだろうな?」

 

*   *   *

 

 吹雪にとって、心労と睡眠不足で動きに精彩を欠いていた那智を絞め落とすことは、そう難しいことではなかった。その気になれば、相手の攻撃など一度も当てさせずに片付けられただろう。けれど、那智が床の上で安らかな寝息を立て始めた時、吹雪の唇はしたたかに打撃されて切れ、傷口から血をにじませていた。それを吹雪は人差し指で拭い、血が赤いことを確かめるように眺めると、親指とこすり合わせる。申し分のない交戦だった、と彼女は思った。那智に自分を殴らせることで、彼女により心地よい眠りを与えられたし、ついでに「軍警司令秘書を殴った」という、ささやかな弱味を握ることもできた。

 

 那智を部屋備え付けのベッドに寝かせると、吹雪は携帯電話を取り出して時間を見ながら、海軍の次の動きを推測しようとした。彼らは天龍を回収して、その報告を聞き、まとめ、会議して、三番手に誰が行くのかを決めなければならない。だが二度の失敗を経た後では、慎重にもなるだろう。加えて青森の大湊警備府からの燃料弾薬が到着することも考慮すると、次は龍田を物量で押し潰すような、大規模な攻勢になる筈だった。吹雪はさっきまで那智が座っていた椅子に腰掛け、誰が行くことになるかを考えた。

 

 通常兵器で武装した海軍歩兵を送るという手は、艦娘案に比べてのメリットがなかったので、最初から考えるに値しない。更にこれまでの原則通り、龍田の脱走を誰かに知らせるのをなるべく避けたいなら、既に知っている艦娘たちから選ばなければならない。なら、龍田の提督が有する四個艦隊から、第一・第二艦隊で構成された連合艦隊を送るのが最有力案だろう。これより多数の艦娘を送るとなると対外的に刺激的すぎ、また隠しきれないし、罠のある島という限られたフィールドで活動する人数が一定数を越えると、むしろ龍田にとっていいカモになってしまう。一人一人罠や待ち伏せで削られ、撤退に追い込まれることになるのが目に見えていた。

 

 考え続ける。龍田は今回の攻勢を跳ねのけられるだろうか? もし龍田の対応力がここで限界を迎えるのなら、吹雪は無理をせず「事態の解決に協力した」程度の功績を持って軍警に帰るつもりだった。小さな功だが、事態を悪化させたとか、何の役にも立たなかった、と言われて帰るよりはいい。しかし、もしそうならなかったら? 海軍が自分で作った縛りの中で捻出し得る最も大きな打撃を加え、龍田がそれを跳ね返し、その上で吹雪の案が龍田を叩き伏せたなら──組織として新参である軍警察の実力を海軍や関係組織に示し、その発言力を大きく増すことができる。

 

 そして吹雪には那智に言った通り、龍田を仕留める為のアイデアがあった。椅子から立ち上がり、部屋を出てトイレに向かう。途中で夜警の艦娘に出会ったが、吹雪のことは「泊地へのテロを捜査しに来た」ものとして話が通っていた為、形だけの敬礼と返礼ですれ違っただけだった。女性用トイレに入り、盗聴その他の危険を回避する為に室内の全てのコンセントをチェックしてから、吹雪は携帯電話を取り出した。頭の中に入っている番号を打ち込み、通話ボタンを押す。

 

 最初の一度は数回のコールの後、留守番電話に切り替わった。二度目も、三度目も結果は変わらなかった。四度目になると、電話線を引き抜きでもしたのか、「お客様の御都合により」というお決まりの文句が流れ始めた。吹雪は改めて別の番号を打ち込み、またしても発信した。今度は最初の一回で相手が出た。

 

「とっても奇妙なのです。携帯電話の番号を教えていない相手から、間違いじゃない電話が掛かってくるなんて。ところで、時計を見なかったのですか?」

「すみませんね、電。日本と時差があることを忘れていました」

「単冠湾泊地はギリギリ日本だと思いますが。ああ、ごまかさなくてもいいのです、もう知っていますから。それで、どういう用件なのです?」

 

 口を開きかけて、吹雪はやめた。直接会って話をしたい、と電話先の電に依頼する。彼女は驚いたように声のトーンを上げて「直接、ですか?」と訊ねてきた。そして吹雪の肯定の言葉を聞くと、ぐずる子供のような唸り声を上げた。迷っているのは明白だった。吹雪は電の返事を待ちながら、断られても仕方ないし、きっとそうなるだろうと考えていた。それ故に、電が「では、すぐにそちらに行きますから、適当に話せる場所を見繕っておいて下さいね」と言った時、「分かりました」と答えるのにごくごく短い遅れが生じた。それだけで電は自分が吹雪の予測を外したということを知って、溜飲が下がったという風に声を出して笑った。吹雪は面白くなかったが、彼女とのこういったやり取りはそれなりに回数を積み重ねていたので、不機嫌にはならなかった。

 

 二、三の細かい打ち合わせを済ませてから、電話を切る。電と会うのは気が進まなかったが、吹雪には彼女と会わずに目的を達することは不可能であるように思われた。溜息一つで気持ちを切り替え、違う相手へと次の電話を掛ける。結局、吹雪がトイレを出たのは入ってから二十分も経ってからだった。廊下を歩いて那智らのいる部屋に戻りながら、天龍が戻ってくるのはいつ頃になるだろうかと考える。最初の連絡を受けて迅速に巡視船を回してくれた海保のことだから、回収もそつなくやってくれるだろうという期待があったが、吹雪は戦中の経験からそういう期待を当てにしないことにしていた。

 

 海保が送ってくれた巡視船のスペックと装備を記憶から呼び出そうとする。吹雪にも疲れが溜まっていたのか細かい数字などは出てこなかったものの、最大速度が時速約四十キロ少々といった程度だったことと、ヘリ二機搭載型だったことは思い出せた。海保のヘリを落とされたらかなわないということで、現在巡視船に積まれているのは海軍所有の汎用ヘリとそのパイロットだが、それも僥倖だった。海保より海軍の機体の方が足が速いからだ。時速三百キロで島から基地へ飛ばしてくれれば、二時間と掛からない。吹雪は海保の巡視船側に天龍の情報を伝え、救出を提案しただけの自分を迂闊に思い、己を戒めた。救助方法やその後の動きを指定し、到着時刻も聞いておくべきだった。

 

 無論、オブザーバーでしかない吹雪が細かく天龍救出を取り仕切ろうとすれば、海軍に軍警の介入を跳ねつける格好の理由を与えてしまうことになるから、余り詳しく計画できなかったという仕方のない一面もある。そのことをきちんと認識していた吹雪は、いつまでも自責ばかりしていずに、想像力を働かせた。巡視船側はあの後、きっと海軍と改めて連絡を取り、泊地側に迎え入れの準備を始めさせたことだろう。天龍が負けたということは、止血などの治療がされているかいないかに関わらず、負傷したということも間違いあるまい。となれば、入渠は避けられない。話を聞くにしても何にしても、傷を治して天龍が話せるほどに回復するのを待つ筈である。

 

 しかし彼女が回復した後でも、吹雪は自分たちが天龍と直接話す機会を与えられるとは思えなかった。軍が聞き取り調査をして、その結果を渡されるだけだろう。そこには無意識なバイアスが掛けられていたりするかもしれないし、故意に情報が抜かれていることもあり得る。海軍の流れを汲む組織であるとはいえ、彼らと軍警は決して蜜月の時を過ごしている訳ではない。別々の組織として、手柄の奪い合いや多少の妨害があるのは当たり前だと吹雪は信じていた。だからこそ彼女は海軍よりも先に天龍と話したかった。そして今度も、吹雪はいい解決方法を思いつくことができた。

 

 部屋に戻り、那智と龍田の提督が寝ていることを確認してから、通信機の載せられた机の前にある椅子を少し引いてくるりと回し、座った者が机に対して右を向くようにした。そこに座って目を閉じる。寝つきのよい彼女は、たちまち浅い眠りの中に落ちていった。まどろみと大差ないそれは、ノックの後で部屋に入ってきた誰かが提督を起こし、小声で彼に天龍がもうすぐ帰還することを知らせるまで続いた。吹雪は寝ているふりをした。提督が自分を起こさずにそのまま行こうとすれば呼び止めて何があったのか聞けばいいし、情報を共有しようとしてくれるならそれはそれでよかった。提督は躊躇するように二歩三歩と足を進めたり戻ったりした後で、吹雪の右肩を揺すって起きるように促した。

 

 彼が十分に強く力を入れて揺さぶったのと同じタイミングで、目を閉じたまま背もたれから身を滑らせ、左手側の机に向かって倒れこむ。提督が短く大きな声を発した直後、吹雪は目を開いて、わざと自分の左目を机の角に強く叩きつけた。苦痛の声が漏れそうになるのを噛み殺しながらそのまま床に落ち、左手で潰れた目を押さえて右手で床を何度か殴る。後半は演技だが、気分はよくなかった。息を荒げて無事な右目で提督を見上げると、彼は硬直していた。己も寝起きだったことが、彼の判断力を鈍らせていたのかもしれない。そんな彼を相手に、痛みはあっても冷静な吹雪が、入渠施設利用許可を取り付けることに苦労する訳がなかった。

 

 いつの間にか起きていた那智の冷たい疑念の視線を背中に受けながら、吹雪は提督と共に部屋を出て、入渠施設へと向かった。施設に入ってドックへと向かう廊下を歩いている最中、後ろから天龍を載せた車輪付担架がやってきた。彼女の側にいた提督や医療班の会話に耳を澄ませ、天龍の肉体的疲労を考慮して高速修復材を使用しない、という判断を聞き取り、それは好都合、と吹雪は評した。担架の後に続いて入渠用ドックに入ろうとすると、医療班の一人に止められる。後で別のドックを準備するからそちらを、と言うその男の前で、吹雪は左目を覆っていた手をゆっくりと外した。

 

 彼は道を譲ってくれた。

 

*   *   *

 

 電が単冠湾泊地にほど近い場所にあるホテルに到着したのは、その日の正午を数時間ほど過ぎた頃だった。常日頃から身軽さを保つようにしている彼女の荷物は軽かったが、足取りは打って変わって重かった。それは疲れのせいもあったが、これから彼女が会うことになっている艦娘、吹雪のせいだという意見が本人の中では大勢を占めた。電にとってこの吹雪はどうしても好きになれない、数少ない人物の一人だったのである。それは二人の立場の違いや、辿ってきた道に起因する嫌悪だった。

 

 戦争中、内陸国でも島国でも、人間社会が致命的な患部として弾圧していた集団が存在した。俗に深海棲艦融和派と呼ばれたこのグループは、深海棲艦との長い戦争の間、政府が公的に表明していた見解、即ち、人類と深海棲艦は相容れない存在であり、どちらかがどちらかの最後の一人を地球上から排除するまでこの戦いは終わらない、とする意見に、強弱問わず反対する人々の集まりだった。彼らは戦争を止める為にビラを巻き、地下出版を行って言説に訴え、時には暴力を用いることもあった。彼らは戦争が続くに連れて緩やかに影響力を増して行き、終戦前には構成員に海軍から脱走した艦娘を含む軍人が混じっていることも、全く珍しくなかったほどである。

 

 電も脱走者であり、今も彼女が属しているグループに身を寄せてからは、一派の指導者である正規空母艦娘「赤城」の片腕を務めて生きてきた。融和派の“駆除”を専門とする海軍の刺客に殺されかけることも、彼女は片手で数えきれないほど経験している。それは電にとって、悪夢のような時代だった。戦争に終わりは見えず、厳しい弾圧が続き、グループが匿っていた僅か数人の、人類と和平を結びたいと訴える深海棲艦たちだけが、「人と深海棲艦は分かり合える」という信念の支えであり──端的に言えば、詰んでいた。

 

 それを救ったのが吹雪であり、彼女の提督である。彼女たちは終戦という共通の目的の為に電たちと手を組み、肩を並べて戦った。が、それは共通の理念に基づいたものではなかった。吹雪の提督は、あくまで終戦をもたらすことによって得られる個人的な栄誉や、物質的な利益のことしか考えていなかったのだ。電はそういう俗世的な価値観が、いかに容易く暴力と悲劇に結びつくかを知っていた。だから吹雪の提督のことも、それに付き従う吹雪のことも、好きにはなれなかった。だが終戦前はまだよかった。いつか破滅するに決まっている、と決めつけて、笑っていればよかったからだ。

 

 ところが破滅など訪れず、それどころか電たちと吹雪たちの協力体制は、数々の難局を切り抜けて本当に戦争を終わらせてしまった。吹雪と彼女の提督は海軍から艦娘と深海棲艦の犯罪を取り締まる警察組織に所属を変え、電と彼女の指導者は人類と講和した多くの深海棲艦たちの代弁者になった。今や彼女たちは、互いの利益が対立する間柄だった。しかも共闘関係を結んでいた関係上、電たちの手口も熟知している。腹芸や政治的思考の苦手な電には、やりにくい相手だった。電は己を励ます為に、自分がこれまでに数回ほど吹雪と暴力抜きで対立し、勝った時のことを思い出そうとしたが、よみがえるのは吹雪にやり込められた記憶ばかりだった。

 

 ホテルに着いた電は部屋に荷物を下ろすと、朝昼の食事を逃したせいでじくじくと痛む胃を慰めることにした。せめて何かおいしいものを食べて英気を養おうと心に決めた彼女は、部屋を出てホテル内のカフェへと歩き始めた。彼女のいつもの職場ではよく見かける深海棲艦が一人もいないという光景に、奇妙な違和感と快い非日常感を覚えながら歩を進める。カフェテリアに入り、店員の案内を受けて席に着き、メニューを上から下までじっくりと見つめた。空腹の電には、どの料理も天上の料理に思えた。その中でもこれはと思うものを見つけ、店員を呼ぶのに右手を上げようとする。

 

 が、電はその手を下ろしてテーブルの上に置いた。カフェの入り口前に、吹雪が立っているのを見つけたからだった。その後ろからは、彼女が直接会ったことのない那智もついて来ていた。吹雪は電のところまで来ると、手を差し出した。「来てくれてありがとうございます」電がその手を握ると、引っ張られて立ち上がらされる。そうなることを読めていた彼女は、今更吹雪に文句を言ったりしなかった。三人でホテルを出て、駐車場の車に乗り込む。那智が運転席に座り、走らせ始めた。彼女のことを吹雪の連れてきた運転手だと考えて気にしないようにしつつ、電は本題に入った。

 

「それで、どういう用件ですか?」

 

 吹雪が「実は」と言いかけたところで、ぐぐぐ、という音に邪魔されて口をつぐむ。吹雪は電を見た。電は吹雪を見た。那智が言った。「私じゃないぞ」気まずい空気の中で、鳴らした本人が短く釈明した。「ここに来る為に色々と仕事を片付けていたせいで、今日の電は朝昼抜きなのです」じゃあ軽食でも取りながら話しましょうか、ということになって、三人は手近なところにあった飲食店に向かった。電はそれが通常のレストランかカフェであることを祈ったが、その想いは吹雪の「人に聞かれたくないので」という真っ当な理由によって裏切られた。

 

 コンビニの駐車場に止めた車の中、ファストフードのドライブスルーで購入したハンバーガーの包みを開けながら、電は何処で歯車が狂ったのか考えようとした。そもそもここに来るべきではなかったのかもしれない、と感じたが、来てしまった以上は既に手遅れだった。今になって手を引こうとしても、吹雪から逃げられると彼女には思えなかった。どんな話だとしてもとっとと済ませて帰ろうと決心した電は、食事が終わるのを待たずに話を始めるよう、吹雪を促す。彼女はポテトをつまんでいたところだったが、指先についた塩の結晶をちろりと舐め取ると、切り出した。

 

「深海棲艦の艦隊を貸して下さい」

「あの、それは……問題、ないですか?」

 

 時間稼ぎの為に、問題がないからこそ吹雪がこう頼んできているのだという確信を無視して、電はそう訊ねる。彼女の頭の中では既に、その頼みに応じることが決まっていた。吹雪が「深海棲艦の艦隊」という表現を用いたからだ。それはとりもなおさず、彼女たちの血と暴力を必要としているという意味だと電は見抜いていた。これはただごとではない、と判断し、彼女は早速今度の取引で何をどれだけ軍警から搾り取れるか計算を始めた。政治的譲歩、資金、何らかのコネクション。思いつくどれを取っても、電たちが吹雪たちから手に入れたくて仕方ないものばかりだ。降って湧いたようなこの大口の取引に、電は先ほどまでの後悔を忘れ、口元がにやけそうになった。

 

 無論、危険はある。今回、電は独断で吹雪の呼び出しに応じていた。彼女が正式なルートを用いずに接触してきたことを、「今度のやり取りはお互い上に言わずに済ませよう」という意思表示だと考えた為である。つまり、この場にいるのは個人としての電であって、融和派としてではないのだ。その彼女が不用意に所属組織を動かすようなことをすれば、内部での立場の悪化に繋がる可能性もあった。深海棲艦の艦隊を彼女たちが必要な場所へ投入することはできる──しかしそれで一人でも沈んだら? 人間や艦娘には分かりづらいものの、あらゆる深海棲艦は同級・同型においても、それぞれが別々の個体であり、人類と同程度の知性を持つ人型深海棲艦であれば、個々に固有の思想・信条・性格を有する。姿だけ同じ誰かを補充して隠す、などということはできないのだ。

 

 そのようなリスクを承知の上でも、電の判断は揺るがなかった。彼女の信念はひたむきに、人と深海棲艦の調和を望んでいたからである。その為には社会に率先して関わり、それを主導していくことが不可欠であり、また主導する以上に血を流してでもそれを防衛しようとする態度が欠かせなかった。吹雪の誘いは、長年自分たちを世界の敵として弾圧してきた当人たちに向かって、()()()()()深海棲艦には人類とその世界を守るだけの能力と覚悟があり、決意があるということを示す絶好の機会だったのだ。電とてかつての宿敵に手を貸すことへの屈辱感を覚えないではなかったが、そのようなものに囚われずに正しい選択ができるということに、大きな誇りを感じもしていた。

 

 それに、と電は心の中だけで笑った。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。吹雪の「問題ありません」という無感情な返事を受けてからたっぷり十数秒のもったいぶった間を開けた後、電は声を落として囁いた。「都合のいい艦隊がいるのです。実力があって、危険で、消耗品の、少数」話し相手の眉がぴくりと動いて、彼女の感じた興味を示した。会話のイニシアチブを握った駆逐艦娘が、貼り付けた笑みを崩さないままに告げる。

 

「つい先日なのですが、各地から敵対的な深海棲艦の残党が投降してきています。投降したからには沈める訳にも行きませんし、かといって終戦から年単位で潜伏していたような相手を、そう簡単には信用できません。処分担当の電としては、どうしたものか困っているのです」

「今回の事件を解決すれば、信用してやる、という取引を持ちかけるのですね?」

 

 吹雪の質問を、電は鼻で笑った。秘書艦の口元が不快げに動いたが、彼女は自分の発言が下らないものだったということを認めて、電への仕返しはしないことにした。横で二人の会話を聞いていた那智は、なるべく電の口にした「簡単には信用できません」の「簡単」がどういう意味なのかを考えないように務めたが、海軍生活で鍛え上げた彼女の集中力を以ってしても、死ぬまで信用しないつもりだろうな、と考えてしまうのを止めることはできなかった。電は視線を上方にさ迷わせながら、気兼ねなく動かせる捨て駒の艦隊の構成を告げた。

 

「戦艦タ級、重巡リ級エリート、空母ヲ級フラッグシップ。過剰戦力ですけど、龍田さんには是非頑張ってあがいて欲しいのです」

「そうするだろうさ」

 

 那智が皮肉を含んだ声色で呟いたので、電はこの無礼な艦娘を睨みつけた。しかし彼女はすぐに相手への興味を失って、吹雪との折衝に戻っていった。



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07.「われら艤装を選ぶとき」

 戦争中、龍田と彼女の“天龍ちゃん”が顔を合わせて一緒にいられる時間は、そう長くなかった。二人は第三・第四艦隊の所属だった為、遠征任務を割り当てられ、所属泊地を長期に渡って離れていることが多かったからだ。天龍は平気だった──少なくとも龍田の目には、彼女がそのことを自分ほど寂しがっているという風には見えなかった。だからか、そのことを薄情に思った妹からいつもちくちくと責められていた天龍は、ある日何の前触れもなく「これ、やるよ」と言って一枚のメモリーカードを龍田へ渡した。中身は何だろうと彼女が泊地の共用コンピューターで調べてみると、そこにはデータ化された姉の声が幾つも保存されていた。

 

 その日から、龍田は姉との二人部屋に一人でいても、前ほど寂しくなくなった。夜、新しく買った目覚まし時計をセットすると、ややノイズの掛かった声で天龍が言った。「お休み、龍田。また明日な」朝起きると、それまで龍田を苛立たせながら目覚めさせていた電子音やベルの音の代わりに、彼女の姉が言った。「ほーら、とっとと起きろって。しゃんとして、顔洗ってこい!」工廠の明石に頼んでこっそり改造して貰ったドアベルを来客が押すと、天龍は呼び掛けた。「誰か来てるぜ、龍田」中からドアを開けるとセンサーが反応して「出るのか? 気をつけろよ」。本物の天龍と龍田が揃っている時には、その声は冗談の種にもなった。

 

 天龍が戦死してからも、彼女の声はそこに残っていた。任務からへとへとになって帰ってきた龍田が外からドアを開ければ、「お疲れさん。ベッドに入る前にシャワーぐらい浴びろよ」と彼女をいたわった。報告書の不備を訂正させる為に秘書艦がやって来てドアベルを鳴らせば、やっぱり「誰か来てるぜ、龍田」と教えた。そのまま二人がドアを開けっ放しで話を続けていると、「開けたら閉めとけってもう何回言ったよ、なあ?」と妹をたしなめた。寝る時間が来れば「お休み、龍田。また明日な」。朝が来れば「ほーら、とっとと起きろって」。「お休み、龍田。また明日な」。「ほーら、とっとと起きろって」。「お休み、龍田。また明日な」。「ほーら、とっとと起きろって」。

 

 その内、龍田は目覚ましに頼らずに起きるようになった。時計はただ時間を知る為のものとして置かれるようになった。安価な耳栓を買い、それを詰めてから部屋を出入りするようになった。来客たちはドアベルを押すのではなく、ノックをするようになった。だが龍田はセンサーを壊したり、それにガムテープを貼って使えなくしたりはしなかった。そこに天龍の声と共に込められていたあの当時の寂しさや、姉からの贈り物に感じた喜びを、汚すような真似はしたくなかったからだ。だからある日、天龍が龍田に音声データを渡したのと同じぐらい唐突にセンサーが壊れると、彼女はそれをそのままにした。自分の手では直せそうもないし、明石の技術や工廠の資材を私的な理由で使う訳には行かない、と龍田は己に言い聞かせた。

 

 今、泊地から遠く離れた小島に場違いな戦後組の艦娘と二人きりの世界で、龍田は思った。あの時、壊れたセンサーをそのままにすると決めた時にこそ、自分は、天龍の死を心に受け入れたのだ。そしてレーダーサイトの中、冷たい床の上に敷いたマットへ仰向けに寝転がって、疑問符を心に浮かべる。天龍の死もまた、自分が通り抜けてきた戦争の一コマなのに、どうして受け入れられたのだろう? どうして残りを受け入れられないでいるのだろう? それは彼女のお気に入りの、答えが出ない疑問だった。()()()()()()受け入れることができるか、龍田には既に答えが分かっていた。しかし、ここで重要なのは『どうやって』ではなく『何故』であり、それを考える為の手がかりは全くと言っていいほど存在しなかった。

 

 龍田が答えを探るのでもなく、ただただ疑問を胸に感じ続けるだけの無意味な時間を過ごしていると、彼女から離れたところに座り込んでいた五十鈴がぽつりと声を発する。「ねえ」という短い呼びかけだったが、それは龍田の集中をやすやすと途切れさせた。首だけを横に倒して、彼女は五十鈴を見やった。「これからどうなると思う?」龍田は彼女を殺しにきた天龍が言っていたことを思い出し、それを剽窃した。「次が来るわ」その言葉を発すると同時に、より現実的な問題の為に頭を働かせ始める。次にここに来るのは、どんな相手になるだろうか? この問いに対して龍田は、吹雪と違って直感的に、けれどもぴったり同じ答えを導き出した。

 

 連合艦隊。主に大規模作戦の際などに編成され、投入される、十二人の艦娘で構成された精鋭たち。龍田には分かった。次に来るのは、同じ提督の下、別の戦場であの戦争を戦い抜いた、顔馴染みの戦友たちだ。十二対一の戦いに身を投じなければならなくなると思うと、肩が重くなるような気がした。彼女が持っている武器は相手に比べてか弱く、数においては絶望的な開きがあり、彼我の戦闘経験の差は大きなもので、真っ向勝負となれば敵わないのが目に見えている。それでも、龍田は彼女のいるこの島から出て行くつもりはなかった。

 

 立ち上がり、龍田はもうその味に飽き飽きしているステイアラート・ガムを一つ、口に入れた。そしてレーダーサイト内に集積した物資の中から罠用の道具をかき集め、元々それらが入っていた木箱の中に、緩衝材として挟んでおいた布袋へと収納した。薙刀とそれを持ってサイトを出ようとすると、五十鈴も立とうとした。付いてこようとする彼女を、手振り一つで座らせる。「ごめんね」と龍田は形だけ謝った。「でも、邪魔になるから」本当は一人になりたかったからだった。たとえ五十鈴が残っていた物資を全部盗んで、海に投げ捨てようと企んでいたとしても、龍田は周囲数百メートルに人間がいない世界に行きたかった。

 

 外に出ると、澄んだ空気と木々の合間を縫って差し込んでくる日光が、龍田の目鼻に染みた。太陽の高さからもうお昼だと気づいて、仕方なく踵を返してサイトの入り口を開け、五十鈴に「お腹が空いたらそこに糧食があるわ」と教えておく。彼女は龍田が顔を見せた時に顔を明るくしたが、再び扉が閉まって島の主が行ってしまうと、またぼんやりと思案に暮れる時間へと戻った。

 

 道を歩きながら、龍田は孤独な人間の特権に耽った。彼女は考え続けた。自分が直面したもの、対面してきたもの、今なお彼女の前に寝そべっているもの、戦争について。しかしそれは哲学的思考だとか、政治的な思索ではなく、単なる回想に過ぎなかった。彼女は自分の心に刻まれた記憶を、一つ一つ指でなぞるようにして思い出していた。

 

 たとえば、一人の睦月がいた。彼女は龍田とほぼ同時期に同じ艦隊に配属された、駆逐艦娘だった。二人の間には先任と後任という立場の差があったが、それなりの時間を掛けることで仲良くなっていった。彼女たちは友人同士だった。ある激しい交戦の後、希釈修復材を切らしてしまった状態で、航行不能なほどの重傷を睦月が負うまでは。

 

 龍田は覚えている。当時の旗艦が睦月を救う手立てはないと判断したことを、彼女の耳と心は覚えている。龍田は傷ついた戦友を抱きかかえたまま猛反発して、迎えのヘリを寄越して回収させるよう、旗艦と泊地の提督に掛け合った。普段は落ち着いて物腰柔らかな軽巡艦娘が見せた激しい態度に、二人はとうとう折れた。ヘリが飛ぶことになって、龍田はほっとして睦月に呼びかけた。彼女の小さな友人は絶望的な苦痛の中、笑うことによって感謝を伝えた。そして血反吐を吐きながらもがき苦しんだ末に、ヘリが来る二十分前に死んだ。

 

 彼女を殺したのは深海棲艦の砲弾だと、龍田は知っていた。しかし、苦しめたのは何だっただろうかと考えると、彼女は答えを出しかねた。生き延びさせようと説得を続けた自分の行動が、睦月により長く苦痛を味わわせたのではないかと思えて、仕方なかった。だからと言って、旗艦がやろうとしたように苦しませずに睦月を死なせるのも、龍田には到底我慢できなかった。「目を逸らしていればよかったのよ」と、睦月が死んだのを確認した後で、旗艦は言った。その言葉が正しかったのかどうか、龍田は知りたかった。目を逸らすこと、現実を受け入れようとしないことは、彼女が訓練所で学んできた艦娘らしさから、かけ離れたものに感じられた。

 

 または、天龍が死んだ少し後のこと。手紙が届いた。天龍が死んだ時、その側にいた艦娘からの手紙だった。龍田の姉は、本来の所属とは別の艦隊と共に行動している最中に戦死したのだが、事態が最悪に陥るまでの全てがそこに書かれていた。龍田はそれを読んだ。読み返した。もう一度読み直した。そこから読み取れることを何もかも読み取ってしまってから、彼女はそれを何回も引き裂いた。そして封筒に入れ、親切な送り主に送り返した。封筒をポストに投函する時、その様子を目ざとく軽空母の龍驤が見ていた。二人は互いに見知らぬ者同士だったが、彼女は言った。「キミ、大丈夫か?」()()()。「ええ」「ホントに大丈夫なん?」()()()()()()()()()?「平気」「せやったらええねんけどな」()()()()()()()()()()。「ありがとう」

 

 龍田は口を閉じ、言うべきではないと彼女が信じたことを胸の中に押し込めた。その時には既に、彼女は艦隊旗艦を務める身になっていた。それは要するに、姉妹艦にして、訓練所で同じ教官から訓練された親友の天龍が死んだからと言って、塞ぎこんでいることが許される身分ではないということだった。龍田には彼女が命を預かっている五人の少女たちがいて、無責任な態度を取る訳にはいかなかった。龍田は彼女たちの一人一人が、誰かにとって掛け替えのない存在であることを知っていたし、艦隊員がいかに旗艦の影響を受けるかということも理解していたから、弱音を吐くことさえできなかった。

 

 あるいは、終戦直後。戦争中に比べると驚くほど簡単に数日の休みを取れるようになり、青森まで行って中学時代の友人と会った時のこと。艦娘に志願せず、海の上にどんな世界があったかを知らないその女性に、何とか自分の抱えているものの一欠けらでも理解して貰おうとして、龍田は懸命に考え、必死で話をした。彼女のたどたどしい言葉を全部聞き終わってしまう前に、かつての友人は龍田を遮って言った。

 

「でも、分かってたでしょ? 艦娘になれば戦争に行くんだってことぐらい。自分で選んだ結果じゃないの? 何をそんなにくよくよしてるのよ?」

 

 何かが、誰かが、もうちょっとだけ実際にあったことと違ったら、こういうことはしなかっただろうか? 龍田は歩きながらそう己に問い掛ける。島を乗っ取って軍と国に喧嘩を売り、結末の見えている戦いを挑むようなことをしなかっただろうか、と。これもまた、彼女の胸に残る他のどんな疑問とも同じように、分からなかった。だが、今、彼女は戦場にいた。戦争の中にいた。それで満足だった。そこでなら、どう振舞うのが正しいか、何をどんな風に感じるのが正しいか、彼女は余すことなく把握していたからだ。龍田は久しぶりに、随分と久しぶりに、自分が限りなくまともでいることを楽しんでいた。うきうきしていた。なので、石に蹴躓(けつまず)いた時もにっこり笑って、記憶の中でだけ会える天龍のように罵った。

 

「くそっ」

 

 普段から使い慣れている言葉ではなかったので、それは龍田自身の耳にも不自然に聞こえた。彼女の発音には力強さが足りず、苦々しさよりも中身のない寒々しさを感じさせた。何よりも、こういった卑語に絶対欠かせない怒りがそこには存在していなかった。けれどもその言葉は、龍田の気分をますます上向かせた。彼女のシンプルな一言は、戦争に付き物の汚らしさと、艦娘らしい雄々しさを内包していた。つまり、場に合っていたのだ。

 

 それに龍田は、()()のことを実によく知っていた。その臭いや色、温かみ、体にへばりついた時の吐き気を催す不快感、そこに含まれていることのあるもの、海水と混じった汚物がどのように広がって消えていくか、血と混じるとどれだけ手に負えない汚れになるか、話そうと思えば一日中だってそのことについて語れるかもしれないほど、彼女は深い知識を有しており、しかもそのことを自覚していた。龍田はそれを憎むのと同じぐらい、それに親しんでいた。歩いている最中、何処からか漂ってきたその臭いを嗅いで、思わずより深く呼吸をしそうになったほどだ。

 

 無論、龍田はすんでのところで思い留まった。彼女は鼻をぴくぴくと動かしつつ、臭いの発生源を探した。いつの間にか島の外縁部にかなり近づいていたので、汚臭は潮の匂いと混じり、加えて風に吹き散らされようとしていた。出所が気になっていた龍田は足早に探し回り、見つけた。狐と思しき小動物が、土の上に倒れていた。腹が切り裂かれ、臓物がでろりとその傷口から垂れ出ている。周囲の木々の多くがずたずたになっているのを見るに、巡視船からの射撃で飛び散った木か何かの鋭利な破片が、狐を殺したようだと龍田は判断した。ほとんど義務感に駆られるようにして、可哀想に、と彼女は思った。

 

 それで、薙刀に引っ掛けて狐を持ち上げ、この哀れな死骸をもっといい場所に動かしてやることにした。何十メートルか行ったところで死骸が薙刀から落ちそうになって、ひょい、と引っ掛け直すと、垂れていた腸から臭気を発する液体が飛び散って、薙刀の柄に付着した。もう一回だけ「くそっ」と龍田は言った。不自然さは相変わらず拭えなかったが、少なくとも今度は苦々しさと怒りが詰まっていた。

 

*   *   *

 

 天龍帰還の翌朝に開かれた単冠湾泊地での対策会議は、最初から極めて混乱した。吹雪が何の根回しもなしにいきなり、「深海棲艦を使う」という策を提示した為である。当然誰一人として表立って賛同することはなかったが、吹雪の「日本海軍と関係のない深海棲艦による被害なら、たとえ島が破壊しつくされたとしても、誰の責任にもなりません」という発言には、そこそこの魅力を感じているようだった。海軍は会議で吹雪に渡した天龍の報告のまとめから、五十鈴の生存を含む一部の情報を削っていたので、その点を突いて無差別な破壊をもたらすのを制止することもできなかった。結局彼らは論外であるとだけ述べて吹雪の意見を封じ、次に何かとんでもないことを言い出す前に決めてしまおうとするかのように急いで、連合艦隊派遣を決定した。

 

 情報の隠蔽に続いて、吹雪の予想は当たった。龍田の提督の麾下にある第一・第二艦隊それぞれの旗艦である「陸奥」「天城」は会議室に呼び寄せられ、つい先日までの戦友を殺害する任務を命じられた。陸奥は黙って敬礼を返し、天城は硬い声で「拝命いたしました」と答えた。那智による講習などに関する、ある程度の細かい指示を受けてから会議室を出ると、彼女たちは一斉に溜息を吐いた。任せられた任務の重大さと、その罪深さが二人の心を沈ませていた。「戦友殺しですって」と陸奥が呟くと、天城はそれに答えるようにして二回目の溜息を吐いた。初めての出撃の時に感じたような恐怖が、彼女たちの胸の中で渦巻いていた。

 

 陸奥も天城も、艦娘になったのは戦争真っ只中の頃である。彼女たちの単純な世界は、味方である人類と敵である深海棲艦の二種族で成り立っていた。戦争が終わり、人と深海棲艦が手を取り合ったことで世界が変わっても、それは今までの延長線上に過ぎなかった。敵が少し減り、味方が同様に少し増えただけ。あくまで陸奥の主砲や天城の艦載機は、己と己の所属する社会に敵対する深海棲艦に対して向けられるものだったのだ。それが今日になって急に同じ艦娘を殺せと言われて、簡単に受け入れられる筈がなかった。更に言うならば、その艦娘というのは長年の戦友である龍田なのだ。

 

 彼女の篭城を知らされて以来、事態が解決しなければいずれ自分たち第一・第二艦隊が呼び出されることになるだろうとは思っていたが、二人とも実際に「龍田を排除する」という任務を前にすると、どうしてもやりきれない思いを処理しかねた。だが彼女たちが身を置いていたのは軍隊で、そこでは命令は絶対だった。ああもう、とあらゆる状況に呪いを込めた一言を発してから、陸奥は言った。

 

「天城、まずは他の艦隊員たちを集めましょう。それと、第四艦隊の子も。私たちより標的を詳しく知っていることは間違いないでしょ」

 

 龍田の名を呼びたくなくて、陸奥は「標的」という言葉を使った。そのことがまた、彼女の胸を痛ませた。天城はこくりと頷くと「陸奥さんは第一・第二艦隊をお願いします。後は天城に任せて下さい」と一方的に告げ、第四艦隊の艦隊員たちに「これからあなたたちの旗艦を殺すつもりだが、それに協力して欲しい」と告げる気の重い役目を、陸奥から奪った。ビッグセブンと謳われた艦娘の一人であり、重荷を他人に背負わせることを憎む心優しい戦艦は、彼女と同じぐらい優しいこの空母を止めようかどうか迷った。彼女に傷ついて欲しくなかった。だが最終的に、天城が自分から言い出したということを尊重して、敬意と感謝を込めて「頼むわね」と端的に答えた。天城は嬉しそうに微笑んだ。

 

 つられて、陸奥も笑みを浮かべる。歴戦の艦娘である彼女にとっても非常に気の重い任務だったが、天城と一緒ならやり遂げられると思えた。海軍において、第一艦隊旗艦と第二艦隊旗艦が同格と見られることは少なかったが、陸奥は天城を一人の艦娘として、また旗艦としても対等な、頼れる存在だと信じていた。友人同士の気安さで、陸奥は天城の頬をつまんで引っ張った。「この仕事が終わったら一緒に休暇でも取らない?」そう持ちかけると、天城は頬をつままれたまま、一層笑みを大きくしてその誘いを了承した。それを見て、陸奥は救われた気がした。

 

 連れ立って、艦隊員たちの部屋がある宿舎へと向かう。玄関に入ったところで別れ、それぞれの務めに取り掛かった。陸奥が最初に声を掛けたのは、もちろん彼女の艦隊で二番艦を任されており、その信頼も厚い重巡艦娘「摩耶」だった。元を辿ればトラック泊地出身の彼女は、陸奥との付き合いこそ他の艦隊員たちよりも短かった。けれど初対面でお互いがお互いを奇妙なほど好きになってしまって以来、旗艦と艦隊員としてだけでなく、個人的にも親しくする間柄だった。これは多くの人々を不思議がらせた。この摩耶は他の重巡「摩耶」たちのように気が強いだけでなく、口を開けば罵り文句が溢れ出る、天性の兵隊らしい下劣さと非情さを身につけていたからだ。

 

 全く比べてみれば、彼女は陸奥の正反対と言ってもよい性格だった。だからこそ彼女たちは友人として親しくできたのかもしれなかった。陸奥は摩耶がこれまでに重ねてきた、ユーモアに満ちた悪行の話を繰り返し聞くのが好きだったし、摩耶は陸奥の女性的な傷つきやすさや、すれたところのない柔らかさを、何とも言えず気に入っていた。そういう訳で、陸奥が摩耶に龍田への次なる刺客が誰に決まったのかを告げた時、この口の悪い重巡がすっかり憤ってしまったのも仕方のないところだったと言えるだろう。思いつく限りの全存在に徹底的な呪詛を吐きつくした後で、摩耶はその最後の一滴を搾り出すように言った。

 

「クソが」

 

 すかさず陸奥は、今回の事件に関する第一艦隊の公式な見解として、この短い一言を採用した。摩耶は慰めるように彼女に笑いかけ、とんとん、と友人の背中を叩いた。不器用な彼女は、それ以外に相手を慰めるまともな方法を知らなかった。疲れた表情の戦艦は、友人の優しさに感謝しながら自分と天城で手分けして準備をしていることを告げ、摩耶に第二艦隊への連絡を頼んで、残りの艦隊員たちへの声掛けに戻った。葛城、秋雲、鬼怒、加古の四人はそれぞれの反応を見せた。任務は任務だとして受け入れる者もあれば、露骨に動揺する者もいた。最も平生(へいぜい)と変わらなかったのは加古で、寝ていたところを起こされてやや不機嫌な顔をしていたほどだった。

 

 四人を連れて、合流場所に指定しておいた宿舎前に行く。着いて数分もすると、摩耶が第二艦隊の五人を連れてやってきた。「天城たちは?」答えは分かっている、という顔で彼女は自分の旗艦に尋ね、陸奥は首を振って二番艦の予想通りの返事をした。このまま待つか、誰か行かせるか、それとも陸奥自身で第四艦隊を訪ねるか、決めかねて玄関先でたむろしているところに、声が掛かる。陸奥が首だけ回して見てみれば、顔の左側に火傷を負った那智が、数メートル離れたところに腕を組んで仏頂面で立っていた。しまった、と思って陸奥は時間を確かめた。講習の開始時刻を、既に十分以上過ぎていた。彼女は落胆を込めて息を吐いた。どんな事情があったにせよ、決められた時間を守れなかった咎は認めなくてはならない。

 

 那智に謝罪しようと、彼女の方に体を向ける。その脇を、小走りで摩耶が抜けた。眉をぴくりと動かして面食らった様子の那智をごく近くからしげしげと眺めると、質問した。

 

「あんた、戦争中にパラオ泊地の艦隊にいなかったか? 旗艦がすげえ古鷹でさ、グラーフもいたよな、そうだろ?」

 

 陸奥は那智の表情が目まぐるしく変わるのを見た。困惑、疑い、驚き、懐古、安らぎ、緊張。最後に彼女は一目瞭然の下手な無表情もどきの顔を作ると、ぶっきらぼうに「ああ」と答えた。我が意を得たり、という顔で摩耶は振り返って陸奥に言った。「なあ、先に講習を受けとこうぜ。他の艦娘だったら無視してもよかったんだけどよ、この那智はいい奴なんだ。昔の知り合いなんだよ」もっとも、その時には右腕は生身だったし、顔の左半分も()()だったけどな、と摩耶は付け加えた。己の隻腕と火傷顔への無遠慮な指摘にも関わらず、那智は気にしたところのない様子で「来い」と言い、それで決まりだった。宿舎玄関の番兵に、天城が来たら講習用に割り当てられた部屋に来るよう伝えてくれと頼んで、陸奥たちは移動した。

 

 先頭を行く那智に、ぞろぞろとついて歩く。先導者の発するぴりぴりとした空気に誰もが口を閉じる中、摩耶だけは盛んに彼女と話をしようとした。

 

「あたしのこと覚えてるだろ?」

 

 問われた方は答えなかったが、陸奥の目には那智が対処に困っているように見えた。知り合いだというのは本当なのだろう、と艦隊旗艦は思い、臨時教官のややとげとげしい態度も摩耶の知人だということを鑑みて、幾分かは割り引いて考えることにした。講習が本当に役に立つのかという疑問も、それで思い悩まずに済むようになった。残った目下の心配は、天城たちのことと、しつこく那智に絡む摩耶が相手を怒らせやしないかということの二つに尽きた。

 

「なあ、あたしがどうしてこんなところにいるか知りたくねえか?」

 

 一向に答えようとしないところから陸奥が察するに、那智は別段知りたくもないらしかった。

 

「いやこれが実はさ、あんたのいた艦隊と一緒にやった護衛任務──ほら、あたしが改二になった直後のさ──あの時のやらかしっぷりを補充の二人から提督に一部始終告げ口されちまってよ。あちこち飛ばされた挙句、ここに落ち着いたって訳だ。あ、他の三人か? 祥鳳は退役できたけど、後はダメだ。沈んじまった。ツイてねえよな」

 

 片腕の重巡は諦めたように顔を片手で覆い、うんざりだ、という感情が透けて見える、攻撃的な調子で言った。

 

「そうだな」

 

 しかしそれは摩耶を喜ばせ、懐かしい相手に出会って興奮している彼女の、完全に一方的な会話を余計に白熱させるだけに終わった。那智がこれを止めてくれとでも言うかのように首を回して陸奥を見たので、彼女は向けていた視線をそらした。摩耶はとうとう、講習が始まるまで那智に絡み続けた。お陰で陸奥は、ちょっとだけ溜飲を下げることができた。

 

 合間に小休止を挟みつつ四時間という長さではあったものの、講習はつつがなく終わった。天城は始まって数分で息せき切って飛び込んできたが、那智は別に咎めることもなかった。陸奥はもう一人の旗艦の後に続いて第四艦隊が入ってくることを願ったけれども、それは叶わなかった。ただ難航していた時点で望みを半分は捨てていたので、彼女は驚かなかった。

 

 講習が終わった後、陸奥は天城と話をした。彼女はまず請け負った任務を果たせなかったことを詫びてから、念の為に、提督に頼んで命令して貰おうか、と提案した。彼女たちが龍田の艦隊員たちに持っていった話は、上下関係のない艦娘同士の間で交わされる類の、拘束力のない頼みごとだ。しかしそれも一度提督の口から出た言葉となれば、強制力を持った命令となる。

 

 陸奥は天城のお芝居に付き合い、考えるふりをしてからその案を退けた。二人が第四艦隊に依頼という形で接触したのは、それを断る余地を与える為だったからだ。断固たる命令となれば、拒否はできなくなる。共に戦争を生き抜き、心底から親しんだ旗艦を殺す手伝いを強制するなど陸奥には到底できなかったし、天城にだって、そんなことをして平気でいられるような冷酷な精神は宿っていなかった。二人は第四艦隊が断ってくれたことに、むしろほっとしていたぐらいだったのだ。だが、単冠湾に来てからの龍田を最もよく知る艦娘たちの助力が望めないとなると、任務が更に困難なものになるのは確実だった。

 

 十二人の艦娘たちは、彼女たちに開放された作戦室の一つへと場所を変えた。そこには龍田の潜むラスシュア島や、その周辺の地図が用意されていた。大判のそれには、天龍の取った移動経路、彼女が発見した罠の位置やその種類、解除したか回避したか、龍田を奇襲した際に何処へ身を隠したかなども書き込まれていた。それを眺めて、陸奥は自分たちの前に島へ向かい、龍田と対峙したというその天龍の有能さに内心で舌を巻いた。経路には迷いが見られず、罠を作動させたのも一度限り。その上、龍田のフィールドの内で先手を取ったのだ。陸奥たちとしては第四艦隊が無理ならその天龍に手伝って欲しかったが、会議に出頭した際に彼女は傷口から感染症を起こして臥せっているということを聞かされていたので、諦めざるを得なかった。

 

 艦隊員たち全員で一つの地図を睨み、案を練る。難しい作戦だった。提督から、航空戦力を制限されていたのも痛かった。爆撃は対外的に刺激的すぎ、隠すことが難しいという理由で、艦上戦闘機と偵察機に限定されたのである。地上目標なら艦戦の機銃掃射も十二分に有効だと言われていたが、天城はその意見に懐疑的だった。空母艦娘による対艦攻撃は、いつでも爆撃と雷撃の二つの柱に支えられていた。艦戦の機銃掃射は牽制にはなっても、決定打となることは滅多になかったのだ。今回は割り切って、艦載機は上空からの監視と追跡に当てよう、と連合艦隊旗艦陸奥は判断し、空母を代表して天城がその意見を支持した。

 

 すると、その話を聞いていた第一艦隊の葛城が天城に訊ねた。「他に装備の制限とか、供与なんかはないの、天城姉(あまぎねえ)? 私の艦戦、三二型の零戦なんだけど」言いづらそうな顔で、滞空時間に不安がある、と主張する。偵察機は後部機銃以外の固定武装を持っていない彩雲を積んでいるというのも、彼女の不安を煽っていた。天城に代わり、陸奥が答える。「ないわね。だから、必要なら他の艦隊から個人的に融通して貰って。それと邪魔かもしれないけど、副砲も持っていくこと」葛城は不満そうだったが、了解の一声を返した。

 

 入れ替わりに摩耶が島への侵入ルートをどうするか問い掛けてくるが、陸奥はそれを決める前に龍田の目と耳、即ちラスシュア島のレーダーを潰す方法を考えたかった。破壊することは政治的な問題からできないにしても、ジャミングなら許されていい筈だ。が、陸奥の知っている艦娘用装備に、レーダー妨害を目的としたものは存在しなかった。専用装備のある海軍の通常の艦艇を動かすと、目立たずにことを収めるという目的が果たせなくなる。レーダーから逃れる方法を探るのをやめて、陸奥はむしろ龍田に自分たちの動きが知られることを利用できないか考え始めた。

 

 第一艦隊と第二艦隊、別々に行動すれば龍田はどちらか片方を見逃さざるを得ない。片方に掛かりきりになっている間にもう片方がレーダーサイトにたどり着き、一時的にでもその機能を無力化できれば、龍田の心理的な動揺も誘えるし、万が一撤退することになった際には追撃される恐れを減ずることだってできる。一方で、艦隊の戦力を分散することになることは大きなリスクに見えた。加えて二つ目の上陸地点を見つける必要もある。島の南端部から上るか、東部の岩礁地帯を抜けるか、悩ましいところだった。陸奥一人で考えていても()()が明かないので、彼女は自分の計画案を説明した上で、他の艦隊員たちにも意見を訊ねてみた。摩耶は言った。

 

「二手に分かれるのはいいんだけどよ、その後ちゃんと合流できるのか? あたしら、第三・第四艦隊の連中と違って、あの島に上陸したことなんてないんだぜ。しかも今はきっと、あちこち罠だらけになってる。よしんば()()()じゃなかったとしても、罠があるってのは事実だ。そこを警戒せずに進むなんてできねえ。視界の悪い針葉樹林の中で、とろとろ動く獲物が六人ずつ固まってるだけになっちまう気がするね。まだ十二人で一塊になる方がマシさ。で、これがあたしの意見として……天城、どう思う?」

「合流は上空からの誘導で可能だと思いますよ。それと、機銃掃射で罠の解除ができないか、艦載機妖精たちに話してみます。もし可能なら、行軍速度はそれなりに上がる筈です。後は……目標地点への到着時刻がいつになるか分かりませんが、夜偵を調達できないでしょうか? 標的がこちらに攻撃を仕掛けてくるとしたら、身を隠しやすい夜間になるでしょうから」

 

 陸奥は部屋の端にあったホワイトボードを引っ張ってきて、夜戦装備の用意、と書き込んだ。ついでにペンを各員に回し、思いついたことを書き込んでいくように告げる。言葉でやり取りをするよりも改善しやすいし、個々のアイデアを整然とまとめることができると考えてのことだった。が、彼女はその場に揃っているのが古参の艦娘たちであることをうっかり失念していた。あっという間にホワイトボードが大小粗細(そさい)の意見で埋め尽くされる。陸奥と摩耶は慌てて部屋を出ると、使われていない他の部屋から彼女たちの作戦室へとホワイトボードを運び入れ始めた。だが廊下を駆けて運んできたそれも、十人の艦娘たちによってどんどん白い部分を塗り潰されていく。

 

 三往復をこなしたところで艦隊員たちの筆が止まり、陸奥たちはやっと一息入れられた。小休止とも言えない休みだったが、数々の部屋から略奪してきたホワイトボードに山と積もった意見を前にして、余り長く休んでもいられなかった。ボードを並べ、そこに書かれたものを一つずつ精査していく。その内容に疑問を投じ、訂正を入れさせてより洗練した形にするか、一時破棄してしまうかを決める。時には議論が白熱して口論になりかけもしたが、陸奥はこの作業が好きだった。他人の意見を通じて、自分のものではない誰かの視点から物事を見ることができるからだ。それは単に新鮮であるというだけでなく、有用な発想を一部であるとしても含んでいることが多かった。例示するなら、加古の考えはこうだった。

 

「これ、あたしらが島に上陸する必要ってあんのかな? 現地に朝方到着の上で空母に艦戦ガン積みしといて、上空から見っけたら全力で機銃掃射しまくるだけで片付くんじゃないの? 少なくとも大破まで追い込めば、後は仕留めるだけって具合でさ。レーダーサイトに引きこもったら、その時は上陸してから砲撃して、建物ごと潰せば済むし」

 

 サイトへの直接砲撃が、提督たちの言っていた「対外的に刺激的すぎ」る行為であるかどうかは別として、この発言はその場にいた全員に根本的な発想の転換をもたらした。陸奥は言われるまでそんなことを思いもしなかった自分の脳みそを、小突いてやりたくなった。攻めかかる側としてはやりやすいことに、標的である龍田は摩耶などのような対空戦闘が得意なタイプの艦娘ではない。艦載機妖精たちに丸投げする形にはなるが、二手に分かれたり島の中で殺し合うよりも安全で、効果が見込める計画だった。さりとて、その一案のみに頼って動くほどそこにいる艦娘たちは素人ではない。当初の戦闘計画がまともに機能しなくなるという程度の事態なら、既に深海棲艦との戦いの中で何度となく経験していた。

 

 艦載機が龍田を発見できなかった、あるいは発見したが何らかの理由で逃すなどして、艦載機の運用できない夜戦にまで持ち込まれた場合を想定し、対策を練り直す。陸奥は自分たちが龍田の制圧に何日使えるかを推察しようとしたが、提督たちの様子から彼女が察したおおよその日数は、のんびりしていられるほどなかった。天城ともすりあわせをして、今日を入れて三日がいいところだろうと意見を合致させる。それで連合艦隊旗艦はこの度の作戦を決めた。まだ話し合いは終わっていなかったが、艦隊員たちは腕の確かな戦友であり、信頼できる旗艦の決定に異を唱えることなく従った。陸奥は微笑んで頷くと、命令を発する前の彼女の癖として、表情を消した。十一対のぎらぎらと輝く瞳が、陸奥に向けられる。

 

「連合艦隊旗艦として命令します。第二艦隊一番艦「天城」は第一艦隊三番艦「葛城」と協力し、夜戦装備を調達。方法は問わないわ。ただし、憲兵に捕まって出撃できないなんてことになったらお仕置きよ。後の子は全員、別命あるまで艤装調整か、自室待機。以上、解散!」

 

 最後の一言で、摩耶は真っ先に作戦室を出ようとした。その肩を陸奥の力強い手が掴み、引き寄せる。他の艦隊員たちはそれを見て、察したように急ぎ足で作戦室を出ていった。最後の一人がドアを閉め終わってから、痛みと圧力に顔を歪めた摩耶が、付き合いの短い親友に文句を言おうとすると、陸奥は命令前に見せた微笑みの何倍も大きく、ずっと危険な雰囲気の笑みを浮かべて言った。

 

「実は、泊地付きの憲兵さんたちからちょっと借りて来て欲しいものがあるの……お願いね?」



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08.「北緯47度46分、東経153度1分を目指して航行中」

 龍田がここ数日の宿であるレーダーサイトに戻ってきた時には、既に太陽に代わって月が空を支配していた。薙刀と、後の為に使わずに残しておいた分の罠用資材を持ち、空腹を感じながら、彼女は建物の中に入った。五十鈴は最後に見たのと同じ格好で、同じ場所に座っていた。違いと言えば、横に封の開いた携行糧食のパウチと、それに付属するプラスチックのスプーンが転がっていることだけだった。腰を下ろす場所を探して、龍田は視線を左右にやった。それが、五十鈴の視線とぴったり重なる。彼女は「お帰り」と言った。「ただいま」と答えてから龍田は、自分たちがそんな会話をする関係ではないことを思い出した。

 

 しかし、一度発した言葉をなかったことにはできない。奇妙なやり取りに違和感を覚えながら、龍田は五十鈴の近くに敷かれたスリーピングマットの上に座り込んだ。薙刀と資材を脇にやり、やや遠くに置かれた携行糧食の袋の山から、一つ取ろうとする。だがギリギリで手が届かず、仕方なく立ち上がろうとしたところで、五十鈴が動いた。反射的に目を彼女に向けるものの、龍田の抱き得た全ての予想を裏切って、彼女がしたのは代わりに食糧を取ってやることだった。困惑しつつも龍田が無言で受け取ると、五十鈴は両手を横に小さく広げてから言った。

 

「どういたしまして」

 

 率直に、懐かしい、と龍田は感じた。それは艦娘同士の、さばさばしたやりとりを彼女に思い出させた。かつて天龍と、あるいは他の艦娘たちと交わした軽口に宿っていた悪意のない毒が、五十鈴の言葉の中にもあったのだ。それは龍田の疲れた体に対して、清涼剤の役割を果たした。気分が楽になった龍田は、口角を僅かに上げて、「お話が聞きたくない?」と五十鈴に問う。彼女は胡乱げな目を相手に向けたが、髪留めを二つとも外すと、聞く姿勢を見せた。龍田は話を始めた。それはこういう話だった。

 

 それは、天龍がまだ生きていた頃の出来事だった。内地からの定期輸送船が、食料を含む大量の軍需物資を運んできた際に、望まれざる客人を乗せてきたことがあった。ネズミである。彼らは短いが快適な日々を過ごし、本来なら艦娘たちの口に入る筈だった食料を腹いっぱい味わいながら、単冠湾にやってきた。だから当然、彼らの大半は船から外に出るや否や、人か鳥獣の類に捕まった。丸々と肥え太った体で自然界を生き抜くことができるほど、ネズミは優れた種族ではなかったのだ。ところが、中にはげっ歯類ながら要領がいい者もあって、彼らは上手く食堂に拠点を構えて安定した食料供給を実現したり、暖かい工廠付近にねぐらを設けて寒さから身を守れた。そういう個体は他の同類よりも多少は長生きすることができたが、いずれは駆除される運命にあった。

 

 龍田が自室で出会ったのも、そんな過酷な運命に翻弄された内の一匹だった。彼は天龍の私物の革靴に身を投げ入れ、靴底をかじって命を繋いでいた。偶然その日泊地にいた天龍は、それを見つけると憤激してネズミを靴から追い出し、叩き殺そうとした。龍田はそれを止めた。どうやってか二人の部屋に入り込み、天龍の靴に隠れていたそのネズミの大胆さに、敬意を払いたくなったからである。靴をダメにされた天龍は納得が行かない様子だったが、最後には妹に負けた。それで二人はそのネズミを清潔にしてから飼うことに決め、彼の勇気を称える為に端切れで作ったマントを羽織らせることで、余人に対して彼の生存権を主張した。

 

 最初の内こそ警戒を露わにしていたが、ネズミはよく懐いた。自分たちにすがらねば生きていけないことを、獣なりに理解しているのだろうとある時天龍が言った。言われた方の龍田は、そんな打算的なネズミがあるかしら、と姉に反論した。そうやって二人がたまに会って部屋であれこれ話をしている時には決まって、ネズミは何処からともなく現れて、二人の間に座り込んだ。餌を余分に貰えることもあれば、特段何も貰えないこともあったが、彼は自分の定位置はそこであると信じているかのような態度で、龍田たちが何か別のことをする為に場所を移るまで、行儀よくそこにいた。

 

 ある夜のことである。龍田は任務を終えて泊地に帰ってきた。入れ替わりに天龍が出撃し、憂鬱な気分で龍田は一人、空っぽの部屋に戻った。ドアを開けると、マントを翻してネズミが駆け付けた。龍田はいつものように餌をやろうとして彼を見て、たちまち憤慨した。ネズミの頭に針金で作った輪っかが乗せられており、そのマントにはお粗末な手腕で「タツタ」と刺繍されていたからだ。もちろん龍田は誰がこの悪戯をしたのか理解していて、寝る前に仕返しをした。翌朝帰ってきた彼女の姉は、両耳に三角形の飾りを付けたネズミと、彼のマントの見事な「天龍」の刺繍を見て、非常に機嫌を悪くした。それから二人の姉妹は取っ組み合いをし、最後には大いに笑って()()をつけた。

 

 そこまで聞き終わると、五十鈴は「面白い話ね」と言った。龍田は頷いて微笑み、「何処まで本当だと思う?」と訊ねた。年若い軽巡はその言葉で、自分が耳を傾けていた話が相手のでっち上げだったということに気づいた。真面目に聞いていた自分が馬鹿みたいだと思って、彼女は溜息を吐いた。その様子に、龍田がますます笑みを深くする。目の前にいる艦娘が見せる素直な反応は、彼女を惹きつけてやまなかった。しかも、刺客としてやってきたあの天龍を撃たせた後でさえそれが失われていないことに対しては、ほとんど嫉妬にも近いものを感じずにはいられなかった。龍田は五十鈴が真剣に聞く気を完全に失うのを見計らってから、言葉を続けた。

 

「そう、今のはただの剽窃。何の意味もない話よ。大事なのは、あなたがそこに何を見つけられるかということなの。時には、本当の話からでは得られないような教訓を、フィクションが与えてくれる。そうだと思わない?」

「それじゃ聞かせて欲しいんだけど、今の話にどんな“教訓”が見つけられる訳?」

「あら、何が大切なのか、たった今言った筈よ? 私がどう答えたとしても、あなたの邪魔にしかならないわ。自分で考えて探しましょうね」

 

 諭すような物言いに、五十鈴ははっきりとした不快感を表した。彼女は長い間、考え込んでいた。龍田はそれを邪魔しない為に、なるべく音を立てずにゆっくり食事を取った。一つ目のパウチを食べ終わると、五十鈴は龍田に呼びかけた。丁度、次のメニューに移る前の小休止中に呼ばれたので、龍田は彼女が自分を待っていたことを悟った。ここ数日の出来事にひどく打ちのめされながらも、それを飲み下してしまおうとあがき続けているこの軽巡艦娘は、短い言葉で要求した。

 

「別の話が聞きたいわ」

 

 語り手は飲料水の入ったペットボトルを探して、手と目をさ迷わせた。今度も五十鈴がそれを龍田よりも早く手に入れ、彼女に差し出した。そしてまた龍田は無言でそれを受け取り、ふたを開けて長々とその中身を飲み込んだ。一息に三分の二も飲んでしまうと、彼女は細く、長く、滑らかに息を吐き出した。言葉は始まらなかったが、五十鈴は待ち続けた。それがいつ始まるのか彼女は知らなかったが、龍田がそんなに長く黙っていられるとは思えなかったから、待つのは苦にならなかった。予想していた通り、疲れ果てた熟練の艦娘はやがて口を開いた。ただし前回とは違い、それは語りではなく対話に近い形を取っていた。

 

「知り合いの艦娘がいたの。戦艦「扶桑」のね。面倒見のいい人で、私とは別の提督の下にいたんだけど、誰のこともよく気に掛けてくれる人だった。……粉末ジュースはどう? レモン味だけど」

「レモンなら貰おうかしら。その扶桑はどの艦隊に所属してたの? 艦隊内序列は?」

 

 質問に答えないまま、龍田は糧食のパックの中に入っていた粉末ジュースの小袋を、付属の薄いプラスチック製カップに入れ、そこに水を注ぐ。薄黄色の液体の底にはまだ粉が沈殿していたが、気にせずにそのまま五十鈴に渡した。彼女は埃のついた人差し指をスカートで拭ってから、カップの中に突っ込んでかき混ぜると、引き抜いた指先をぺろりと舐めた。一口目を彼女が飲み、強い酸味に眉を動かすのを見て、龍田は話を再開した。

 

「第二艦隊旗艦。立派なものよね? でも役職だけじゃないのよ、立派なのは。部屋も相応だった。広いとか、家具が豪華だってことじゃなくて、そこに彼女の人生があったのよ。考えてみたら、おかしなことじゃないけれど。だって彼女は最初の着任以来、ずっとその部屋にいたんだもの」

 

 五十鈴はカップをあおって、中身を全部胃に流し込んでしまった。そして空っぽになったそれを龍田に返したが、五十鈴の意図したところと違って、彼女はそれをおかわりの要求だと受け取ったようだった。龍田は自分の為に取っておいたオレンジ味の粉末ジュースを作り、話し相手に差し出した。彼女はそれを拒まなかったが、口はつけなかった。代わりに訊ねた。

 

「人生がある、ってどういうことなの?」

「そこが寝に帰るだけの場所じゃなくて、家になっていた、って言えば分かるかしら。ううん、いいのよ、分からなくても。私は彼女が好きだったから、よく部屋にお邪魔したわ。天龍ちゃんがいない日の夜なんか、同じベッドで眠ったこともあるぐらい。宿舎三階の長い廊下をずっと奥に行って、配電がおかしいのかいつも電球が点滅していたところの、向かって右側が彼女の部屋だった。宿舎の裏手に立っているエゾマツが窓を塞いでいて……」

「ねえ、実は話がしたくないって言うんなら、黙ってたっていいのよ」

 

 素っ気ない口調で、五十鈴は言った。本題にたどり着く前に、延々と回り道させられそうになっていることへの怒りが、彼女の語勢を強めていた。

 

「どうせ、私はここに捕まってて、あんたをどうこうすることなんてできないんだもの。ちゃんと話をするか、全然口を閉じたままでいるか、どっちかに決めましょうよ。つまり、あんたの意志でってことよ」

 

 語り手は殺意を込めて聞き手を見たが、そのことで五十鈴に何か感じさせることには失敗した。彼女の視線は睥睨(へいげい)と交わることなく、龍田の目に縫い付けられていた。助けを求めるように、龍田は宙を仰いで口をぎこちなく動かした。だがそこから漏れ出るのは息ばかりで、動かした本人も自分が本当は何を言いたかったのか、そもそも何か言いたかったのか、分からなかった。彼女は初めに宙へやった視線を俯いて床に向け、右左の壁にやり、五十鈴を見て、また下を見て、最後にもう一度五十鈴に向けた。その時には、もう龍田の視線に不穏な感情は含まれていなかった。彼女は囁き声で言った。

 

「春になった頃に、彼女の艦隊が壊滅したの。帰ってこれたのは旗艦だけ。後はみんな海の上で散り散りになって、とうとう誰も見つからなかった。あの人は戻って探そうとしたけれど、提督は彼女を死なせたくなかったから、絶対に許さなかった。艤装を取り上げ、倉庫にしまい込んで、艦娘の歩哨まで警備に当たらせた。それで片付くと思っていたのよ」

「要するに、片付かなかったってことね」

「ええ。彼女は夜になると、新品の服を着て部屋を出た。長い廊下をずっと行って、階段を降りて、玄関を抜けた。その辺を散歩するのと同じ足取りで、倉庫に近づいていった。歩哨の艦娘はすぐ気づいたわ。彼女は懐中電灯を向けて、部屋に戻るように呼びかけた。でもあの人は、歩哨のことなんか気にしなかった。何でもないことのように鍵を壊して、自分の艤装を取り戻して……その後彼女がどうなったかは、知らないわ。海には出たでしょうけど。軍は脱走として処理して、新しい六人の艦娘が着任して、おしまい」

 

 五十鈴は一口も飲まずにもてあそんでいたオレンジジュースのカップを、龍田に渡した。彼女は呆けた顔でそれを受け取って、手の中に握っていたが、少しすると舐めるように飲み始めた。聞き手の少女は座る位置をぐっと龍田に近づけると、「それで」と言った。言われた方は、驚いたように目を開いた。カップから唇を離し、「それで?」と聞き返す。透明な丸い水滴が、下唇に残っていた。五十鈴は手を伸ばして、その小さなしずくを指先で拭った。龍田は身じろぎもしなかった。

 

「あんたはどう思うの? その扶桑は艤装を取り戻して、艦隊員たちを見つけられたのかしら」

 

 この質問は、龍田を仰け反らせた。それだけではなく、彼女を笑わせもした。やれやれというように頭を横に振りながらカップの中のジュースを飲み干すと、龍田は身を横たえ、呆れ声で言った。

 

「私は、あの人が“探しに出た”なんて言わなかったわよね?」

 

 そうして、彼女は目を閉じた。五十鈴は暫く龍田に今の話の本質を、せめてそのヒントを話させようとして頑張った。だが返事はなかったので、やがて諦めた。

 

*   *   *

 

 深夜、大半の艦隊員たちと共に完全装備で工廠から直結の出撃用水路に立ったまま、作戦海域の気象情報の印刷された紙を見ながら、「よくないわね」と陸奥は呟いた。旗艦としては迂闊なことだったと気づいて辺りを見回すも、不幸中の幸いと言うべきか、誰も彼女の独り言を耳にはしていないらしかった。安堵して体から余計な力を抜き、艦隊員最後の一人を待つ。第一艦隊二番艦の摩耶は、集合時間を数分過ぎて未だ尚、水路に姿を現していなかった。何か、彼女単独では対処できないことでも起きたのだろうか? 陸奥の脳裏に、そんな懸念が浮かぶ。彼女はそうではないことを祈った。口は悪いが有能なベテランの副官なしで、龍田とやり合う気にはなれなかった。

 

 摩耶を待ちながら、連合艦隊旗艦は何度目か思い出せないほどの艤装点検を行う。艦隊員たちにも声を掛け、同じことをさせた。彼女たちも陸奥同様、艤装のチェックには飽き飽きしていたが、指示に逆らったり、怠ったりはしなかった。点検は何度繰り返してもいいものだということを、彼女たちは実戦を通して学んでいたからだ。その場にいる十一人全員で、形だけのおざなりなものではない、真剣な検査を反復する。艤装を装着したままでは見られない箇所は、戦友と確認し合う。陸奥のところには天城が来て、背部を点検してくれた。旗艦の艤装を直接触って確かめながら、天城は言った。

 

「天気、悪いみたいですね」

「ええ、向こうは雨になるみたいよ。このタイミングでなんて、自分の不運が恨めしくなるわ」

 

 陸奥が八つ当たりに手に持っていた紙を強く握ったので、それはくしゃりと音を立てて歪んだ。天城は旗艦の艤装の精査を終えると、彼女の手の中からくしゃくしゃになったその紙をつまんで抜き取った。広げてしわを伸ばし、情報を読み取っていく。印刷された文字と画像を追う目が進めば進むほど、天城の表情は曇っていった。彼女は互いの気分を晴らせないかと思って「天気はあっちの味方に付きましたか」と軽い口調で言ってみたが、陸奥はそれを冗談とは受け取らなかった。冗談にするには、事実性が強すぎた。

 

 紙切れに書かれた『現地への到着時には、激しい雨が予想される』という短いが旗艦を悩ませる一文を、天城は親の仇を見るような強い視線で睨んだ。だが、そうしたところで何の意味もなかった。天城にも、そして陸奥にもそんなことは分かり切っていたので、二人は一秒だけ目を閉じて気分を切り替えると、対策を考えることにした。「雨で困ることは何かしら?」と旗艦は問いを立てた。すかさず第二艦隊のリーダーにして、頼れるもう一人の副官は「航空機の能力が低下します」と答えた。他にも面倒は思いついたが、今回の作戦ではそれが一番の大問題だった。上手く型にはまれば労せずして龍田を無力化できた筈の航空戦力が、戦う前から減衰させられてしまったのだ。

 

 雨中では視界が悪化するし、飛行そのものにも悪影響が出る。同時に島の上空を飛ばすことのできる機体の最大数だって、減らさざるを得ない。致し方ないものではあるが、それは打撃力だけでなく、島中を逃げ潜む龍田を捉える為の目を失う選択でもあった。艦載機で攻めるにしても、上陸して島内で決戦を仕掛けるにしても、陸奥たちのアドバンテージは索敵における優位性に頼るところがあったのに、そこをピンポイントで減じられたのである。陸奥には残念でならなかったが、初日での事態解決は難しくなった、と考えざるを得なかった。

 

 また、気象情報によれば一日で雨は上がるとされていたが、それも極めて不都合だった。雨が上がった後には、霧が出てくることが予想できたからである。そうなれば、航空機は飛行こそ雨ほどには邪魔されないものの、地上の監視はほぼ不可能になる。ただでさえ防空目的の針葉樹林が空からの視界を大きく遮っているというのに、そこに霧まで加われば濃薄など些細な違いにしかならない。そんな気象条件下で航空機を使っての攻撃・索敵に可能性があるとすれば、それは龍田が島の外に出てきた時ぐらいのものだった。そして陸奥は、彼女が絶対にそうしないだろうと確信していた。

 

 それに航空戦力のことを忘れるとしても、雨・霧は攻め手である連合艦隊の艦娘たちには寄与しない。海戦ならともかく、森林内で良好な視界を保てない状態で連携する訓練など、陸奥たちは受けていなかった。冷たい雨は波の飛沫と同じく彼女たちの体温を奪うだろうし、無数の水たまりは歩く度に音を立てて隠伏を阻むだろう。ぬかるんだ土に足を取られることも想定できた。だが何よりも陸奥が恐れたのは、罠が見つけづらくなることだった。特に霧の中では、熟達した使い手によって隠された罠を素人同然の彼女たちが見つけることは、至難を極めるに違いない。龍田を見つけられても罠を気にして追跡・反撃できず、一方的になぶられるだけの展開になるかもしれなかった。

 

「どうにかして艦載機を森林内で運用できないかしら? ごく少数でもいいわ」

 

 ダメで元々、という気持ちで、陸奥は天城に問い掛けた。歴戦の空母は、彼女にしては珍しいことに顔をしかめて答えた。「失速速度ギリギリでも時速百キロ強ですよ。しかも人の手の入っていない森を、雨や霧の中で飛行させるだなんて、賛成できません」その上でやれと言うならやりますが、と付け加えたが、陸奥には最初の意見だけで十分だった。航空機の運用について天城が賛成できないと言うなら、そうなのだと納得できた。彼女のその様子を見て、天城はやや躊躇いがちに言い添えた。

 

「あの、艦戦妖精の中でも、最高の数人でしたら不可能ではないとは思います。個人の質に頼るような戦術は好ましくありませんが、本当にそれが必要な時には、いつでも指示をお願いします」

「ありがとう。可能な限り、そんな事態に陥らないように気をつけるわ。空母艦娘にとって優秀な艦載機妖精がどれだけ価値ある存在か、私も認識しているつもりだから、安心して」

「はい!」

 

 頼もしい返事に、陸奥は頷いた。先に自分の艤装を見て貰ったお返しに、彼女の艤装のチェックをしようとしていると、水路の入り口、泊地の工廠と繋がっている方から慌ただしい物音が聞こえてきた。見れば艤装を装着した摩耶が大きなドラムバッグを抱えて、げらげら笑いながら陸奥たちの方へと走ってきている。その後ろに人の姿はないが、明らかに追われている様子だった。戦闘前の緊張感を台無しにする摩耶の笑い声に、陸奥は思わず「あらあら」と感嘆めいた響きの言葉を漏らした。摩耶は足から水路へ飛び込み、最大船速で陸奥のところまで来るとバッグを天城に投げ渡して言った。

 

「行こうぜ、抜錨だ!」

 

 その頬には紅が差しており、瞳は興奮で濡れていた。陸奥は素早く周囲に目を配り、艦隊の全員が即座に出撃可能な姿勢にあることを確かめると、さっと手を高く上げて声を張り上げた。「連合艦隊、出撃よ!」旗艦の号令に従って、艦娘たちは外へ、海へと進んでいく。水路を出る直前になって陸奥が振り返ると、工廠と水路を繋ぐ扉をぶち破って、憲兵の一団がなだれ込んでくるのが見えた。周りには工廠勤務の明石や、偶然その場にいたのだろう一人、二人ほどの艦娘が押し潰されるようにして倒れている。彼女たちが摩耶を追ってきた憲兵隊を押し止めていたのだろうと見て、陸奥は帰ってからどうやって彼女たちに報いたものか、頭を悩ませることになった。

 

 しかしそのことも、冷たい潮風に顔を一撫でされると気にならなくなる。上空の雲はまだ薄く、星光は僚艦たちの姿を捉えるに不足のない視界を陸奥に与えてくれていた。陸奥は声を出して艦隊員に陣形を整えさせ、速度を合わせて進む。と、定位置を離れて摩耶と天城が陸奥の横に並んだ。天城は摩耶から渡されたバッグの中身が気になっているようだった。別に秘密にしておくことでもなかったので、陸奥は「上陸の時に脚部艤装だと歩くのに苦労するでしょう? それで、泊地付憲兵隊から摩耶にブーツを()()()きて貰ったの」と教えた。言外の意味を読み取れず、天城はその整った顔に疑問符を浮かべた。

 

「え、でも、追いかけられてませんでした? 摩耶さん」

 

 戦中組らしからぬ彼女の純粋さに摩耶が笑いを漏らす。ますます眉を寄せて、天城はこの笑い上戸な第一艦隊二番艦が実際に何をしたのか、考えようとした。けれども彼女が正しい答えを思いつくよりも先に、話題の本人が答えを出した。彼女は笑いで乱れた呼吸を整えながら、ピュアな心の持ち主に真実を教えた。

 

「そりゃ連中の備品倉庫に押し入って盗んできたんだから、追っかけられるのも当然だろうさ。全く、工廠の奴らが助けてくれて運が良かったよ。那智みたいには上手く行かねえなあ」

「那智って、どの那智よ?」

 

 今度は陸奥が訊ねた。「言ってなかったっけな、ごめんごめん」と軽く謝ってから、摩耶は彼女たちに罠や龍田が取ってくるだろう戦術などについて講義した、あの義手の那智について話した。彼女がパラオ泊地にいた頃、どんなに破天荒な艦娘だったか。何をして、どういう風に周りから見られていたか。天城は何度も吹き出し、陸奥は旗艦の威厳を保ちたい一心で、顔を真っ赤にして頬をぷるぷる震わせながら笑いの発作を乗り切った。摩耶に言わせれば、彼女があの那智について知っていることはかなり少ないらしかったが、それでも聞き手二人を楽しませるには足りていた。

 

「人は見かけによらない、ってことね」

 

 発作が落ち着いてから、陸奥が総括して述べる。天城は口の端を時折ぴくりぴくりと動かしながら、それに同意した。講義中の那智はとてもそんな風には見えず、むしろ堅物教官の見本みたいな態度だったからだ。だが摩耶の言葉を信じるなら、あの那智は交戦で腕を失った米海軍のアイオワに「(Arm)がないのに武装している(Armed)」と言い放って小規模な第三次世界大戦の引き金を引きかけたり、酔っ払ってホテルからテレビを盗み出したりして、憲兵隊からじきじきに二度とやってはいけないことのリストまで作られたという。それを聞いて陸奥は、今度の事件を終わらせて帰ってきたら、彼女を招いて何処かお酒が飲める店にでも行くか、それが無理なら泊地の食堂で小さなパーティでも開いて、那智に色々と話して貰おうと思った。

 

 ふと視線を感じて、陸奥たちはその出所に目をやった。前を行く葛城が、後ろを向いてじとりとした目で三人を眺めていた。まず姉妹艦である天城が居心地悪そうに咳払いをすると、「それでは」と言って定位置に戻っていった。それに続いて、摩耶がぼそぼそと言い訳をしながら、陸奥から離れた。その様子を確かめてから葛城は前を向く。一気に静かになり、退屈して、陸奥は一応の警戒をしながら機関の駆動音と波の音に耳を傾けた。もう何度も聞いてきたその音は、今日も彼女の耳に変わらないように聞こえた。海面は穏やかで、上下の揺れも少ない。賑やかな朝の前に来るのに相応しい、静かな夜だった。

 

 暗闇の向こう側にある水平線を見通そうとして、陸奥は目を細めた。だが薄雲を通して降り注ぐ星明りでは、海と空の境を見つけることは難しかった。無意味な努力を続けながら、龍田は今頃、何を考えているだろうか、と思いを馳せる。同一の提督の下で戦争を戦った者同士として、陸奥には龍田への親近感があった。立場や任務は全く違うし、戦場を共にしたこととなるとほぼ皆無だったが、龍田を傷つけなければならないことに憂いを覚えるほどには、彼女のことを知っていた。けれども、それでは足らなかったのかもしれない。もっと彼女のことを知るべきだったのかもしれない。陸奥はそう考えることを止められなかった。

 

 旗艦としてではなく、秘書艦としてでもなく、艦娘「陸奥」としてでもなく、一個人として、彼女は己に問うた。自分は、龍田という女性の何を知っているだろう? そうしてみると、驚くほど陸奥の龍田に関する知識は少なかった。摩耶が那智のことを知らないのと同じか、それ以上に、陸奥は龍田のことを知らなかった。連合艦隊旗艦は艦隊員たち一人ずつに、こっそりと通信を使って訊ねてみた。が、彼女たちの誰一人として、陸奥よりも深く知っているということはなかった。責任感の強い彼女は激しい自責の念を覚えた。龍田を知っていれば、実際に彼女を止められたかどうかは、問題ではなかった。止められたかもしれないのに、今回の事態を引き起こさないで済んだ未来があったかもしれないのに、気づいた時には既に自分がそれを投げ捨てていたということに、陸奥は悲しみと憤りを感じ、空を仰いだ。

 

 沈痛な面持ちの旗艦に影響されてか、誰も口を開くことなく航行を続ける。摩耶は波の音に隠れる程度の音で口笛を吹いて、倦怠感を紛らわせようとした。だが吹き付ける風が彼女の唇を乾かしてしまうので、どうにも高い音がかすれてしまい、様にならなかった。ちぇっ、と舌打ちして、葛城をちらりと見る。彼女は前に出ていて、陸奥との距離は先ほどよりも大幅に開いていた。しめた、これならさっきみたいに騒がない限り、話してたって睨まれずに済むぞ、と考えて、摩耶は少しずつ旗艦の近くへと寄っていった。彼女にとっては幸運にも、星との間に掛かった雲がその濃さを増したこともあって、彼女の移動が葛城に気づかれることはなかった。

 

 声を掛けるのに適切な距離にまで近づくと、摩耶は陸奥が空を眺めていることに気づいた。それは彼女の目に、幾らか滑稽に見えた。陸奥の顔が摩耶の攻撃的な語彙で表すなら「辛気臭い」ものであったのも、そのおかしさに手を貸していた。嘲笑の意図なくにやにやしながら、摩耶は友人に話しかけた。最初、彼女は取り合おうとしなかったが、摩耶にはこのよき友人の抵抗が形だけのものだということが分かっていた。摩耶に対して何回か返事をする頃には、陸奥の発する雰囲気は常通りの穏やかなものに戻っていた。その様子を見て、艦隊員たちはみんなほっとした。

 

 雨が降り始めたのは、陸奥たちのラスシュア島への旅路が半ばを過ぎて暫くした頃だった。悪天候になることは分かっていたので、連合艦隊の艦娘たちはそれぞれ準備していた雨合羽を身につけて、雨粒を凌いだ。憲兵からの逃亡に忙しかった摩耶だけは雨具の用意がなかったが、彼女が追いかけられる原因を作った陸奥がもう一着の合羽を親友の為に持ち運んでいたので、一人だけ凍えるということにはならなかった。とはいえ、時間と共に強さを緩やかに増してゆく雨の前で、艤装の動作を邪魔しないように作られた薄手の雨合羽は頼りなかった。陸奥は自分の体が冷え始めるのを感じた。

 

 風を伴って降り続く雨に、艦娘たちの足元の波が荒く、視界の上下は激しくなる。歴戦の旗艦に率いられた艦娘たちは酔いこそしないが、その揺れはアトラクションのように楽しめるようなものでもなかった。何しろ波に足を取られて転べば、海の底へと沈んでしまうことも考えられるのだ。昼の海ならすぐに見つけて引っ張り上げて貰えるが、現在の時刻は深夜であり、星月の光は真っ黒な雨雲に遮られている。発見が遅れれば、救助は絶望的になる。艤装を外して海面に逃れても、今度は任務の達成がおぼつかなくなる。陸奥は隷下の艦隊員たちに指示を出し、自分を含めた艦娘たちの相互の距離を思い切って近づけることにした。

 

 十二人が互いに手を伸ばせば触れそうな距離まで接近してから、安全な航行の為に必要な最小限度の間隔を取り直す。陸奥はそれを見てよしとした。これなら万が一にも誰かが体勢を崩した場合、近くの仲間が支えるなり海から引っ張り上げるなりできるし、少なくとも誰にも気付かれないまま戦友が海に沈むということは起こり得ないと安心できた。距離が近すぎて、前を行く艦隊員の脚部艤装が海水を跳ね散らし、後ろの艦娘たちにそれが引っ掛かるということはあったが、雨中で濡れることを気に掛けるほど、彼女たちは神経質ではなかった。

 

 追い風に背中を押されながら、彼女たちは進み続ける。何も起こらない、冷えと揺れが苦痛なだけの、退屈な時間が過ぎていく。とうとう、陸奥は艦娘になってからというもの一度も下したことのなかった類の指示を出した。雑談を許可したのである。これは十人の艦娘を驚かせ、摩耶の意識を夢の世界への道から引き戻した。これについて、艦隊員の中でも「お堅い」と評されている葛城が真っ先に異論を述べた。彼女は、陸奥の雑談許可と同じ程度には類を見ない内容ではあるが、それでも自分たちが任務中であることを示し、であるからには私語は慎むべきだと主張した。世界の海における深海棲艦の脅威が概ね去ったのは事実だったが、残党はまだいる。そして、連合艦隊がそういう連中に龍田のいる島に行くまでの道中で襲われない、と確信できる理由はなかった。

 

 それは、非の打ち所のない主張だった。陸奥も天城も摩耶にしても、そればかりは認めざるを得なかった。そこで旗艦は妥協案として交代制で私語禁止の見張り役を数人立てることにし、堅物ではあるが適度に気を抜くことの大切さをも知っている葛城は、陸奥に対して自分の意見を汲んでくれたことへの感謝こそあれど、不満を抱きはしなかった。彼女は最初の見張り役の一人として立候補し、隊列の端から視認できる限界の一歩手前まで移動した。摩耶はそれを見ながら「何処にでもいるよな、ああいう奴」と独り言を呟いたが、その言葉の表面的な意味に反して、そこに込められていたのは自ら率先して役割を引き受けようとする、自立的で責任感の強い友人への、暖かな同胞愛だった。

 

 よし、と一言発して、摩耶は葛城の後に続き、見張り役に進み出た。陸奥には彼女の気持ちが分かっていたが、敢えてとぼけた。

 

「あら、あらあら? 大変ね、私たち、間違えて違う艦隊の摩耶を連れてきてしまったみたいだわ。それとも、私が違う連合艦隊に混じりこんじゃったのかしら?」

 

 摩耶の返事は笑い交じりの「ぶっ殺されてえか?」だった。

 

*   *   *

 

 戦争は悲惨なものだ、と言われて、「そんなことはない」と言い返せる人間は少ない。龍田は戦争という状況に慣れ親しんでいたが、それを楽しんだことは一度もなかった。()()()()()()と龍田は思っているし、そう思わない人間や艦娘を密かに軽蔑していた。彼女の姉を含む天龍型一番艦は戦争を楽しむ傾向にあったが、大抵は彼女たちすら自分が放り込まれた海の上に広がる世界が、おぞましくむごたらしいものだったということについては妹艦と同意見だったし、その上でそれを楽しんでいる己の感性を、無闇やたらと誰かに押し付けたりはしなかったものだ。

 

 いわゆる戦争の悲惨さというものを龍田が最初に思い知ったのは、多くの艦娘と同じく訓練所でのことである。龍田たちを担当した前線帰りの実技教官だった艦娘は、およそ戦場における残酷さというものを、余すところなく熟知していた。そして彼女はそれを見事に訓練の中で再現し、軍法に触れることのない範囲で与えられる最大限の苦しみを、訓練生たちにもたらした。訓練生でなくなった者を待ち受ける、本物の体験に備えさせる為に。それは不寛容な温情であり、痛苦を伴う慈悲だった。故にこそ厳しい女教官の課した試練をやり抜き、深海棲艦との戦いを生き延びた元訓練生は、誰もが遅かれ早かれ理解した。自分たちは幸運にも、思いやりを持った最高の教官の一人に育て上げられたのだ、と。

 

 本人が元訓練生たちからのそういった賛辞をどう捉えるかは別としても、確かに彼女は教官として優れていた。僅か二ヶ月程度の短い期間の中で、他の者には一見不可能に思えるほど多くのことを彼女の訓練生に教え込んだ。艦娘としての動き方、砲の撃ち方、航空機の扱い方、一部の制式に則らない装備品の使い方。そういったものの中で、その頃の龍田にとって何よりも有用に思えたのは、恐怖という重圧に抗い、それを克服する方法だった。それは理論的に教育できるようなものではなく、教官が切っ掛けを与え、訓練生たちが個々のやり方で気づいていかなければならないものだったが、答えへと導かれた以上、龍田にとってそれを教えてくれたのは教官だったのである。

 

 以来、龍田が何かを恐れた際、たとえば海で燃料弾薬が少なくなった時や、自分の艦隊よりも有力な多数の敵に捕捉された時、彼女は必ずかつて自分を導いてくれた一人の女性を思い出した。その女性は龍田の中でほとんど神格化され、教育期間中に龍田の大切な“天龍ちゃん”を勝手な理由で殴ったりしたことさえ、幾分かは大目に見られた。この教官の存在は天龍と並んで龍田の心を支えるよすがになり、彼女の心の奥深くから湧き出てくる自信が、実態の伴わない空虚な思い込みでないことを保証するものにもなった。ただの人間だった龍田以前の少女を作り変え、艦娘龍田を初めに生み出した何か形のないものの全てが、この教官──那智に端を発していたのであるから、これは元少女本人にとって極めて合理的な成り行きだった。

 

 行き詰った時にも、龍田は常に自問した。「那智教官なら、どうするかしら?」その問いには、彼女が那智ではないが為に、捻り出した答えが実際の教官が出す答えと一致するものだったか、という疑いがいつも付いて回った。それでも龍田は彼女の作り上げた那智という神格に問いかけることをやめなかった。想像上の彼女が出す答えは、現実の龍田が出すそれよりも信用できたからだ。また仮にそれが苦痛に満ちたものだったとしても、龍田の造り主たる那智が歩むであろう道をなぞることは、彼女に傾倒する者であるこの軽巡艦娘の心に、抑えがたい喜びを生み出す行為だったのである。

 

 加えて彼女をいたく心酔せしめた理由は、那智が痛みを知っているという点にもあった。龍田の姉艦を狂乱した那智が殴るという事件が起きた直後、彼女がそんな凶行に及んだ理由が、教官職を辞し、教え子たちと共に戦地へ戻ろうとして上層部に嘆願し、それが叶わなかったからだということを知った瞬間に、龍田は初めて彼女に対して言葉や理屈では説明できない共感と、安堵と、崇敬に及ぶ愛情を感じたのだ。もし那智が天龍を殴らなければ、殴った理由を知らなければ、龍田の教官に対する感情は単純な敬意で止まっていたに違いなかった。見えない傷から血を流しつつ職務を果たし、日々を生き、抱え込んだ痛みを受け入れてそれに向き合い、それを解決していこうとする那智の姿勢は、ひたすら龍田を感動させた。あれが艦娘というものだ、自分もいずれそうなるべき、気高い艦娘の姿なのだ、と彼女は固く信じた。

 

 この信念があったから、龍田は多くのことを背負えた。友人だった睦月が腕の中で苦しんで死んでいったことへの後悔を背負った。たった一人の“天龍ちゃん”が死んだ悲しみを背負った。彼女がどんな風に死んでいったかを知らされた怒りを背負った。まだ死んではいない艦隊員を見捨てたことへの苦悩を背負った。深海棲艦との戦争における、最後の大規模作戦に参加できない悔しさを背負った。そのどれもが彼女の心をずたずたに引き裂いて、踏みにじり、焼き焦がしたが、それでも龍田は逃げなかった。眠れなくなれば薬を飲み、不健康なほど一つの考えに囚われれば、それを振り払おうと努めた。病院に行き、長い戦争の中で自分の受けた傷を告白するという恥からも逃げなかった。そういったもの全部に立ち向かい、打倒しなければ艦娘でなくなってしまうという思いが、彼女を縛りつけていた。

 

 そうやって戦いながら、時々、龍田は海で死んでいった艦娘のことを羨ましく思った。誰も彼女たちのことを悪くは言わない。誰もが彼女たちを艦娘の中の艦娘、本物の艦娘だと認める。彼女たちの誰もが、今やちっとも苦しむことはない。最後の一つだけでも、龍田は妬まずにはいられなかった。しかし、その時には既に遅かった。戦争は龍田を置き去りにして先に終わっていて、海の上に敵はもういなかった。そこは戦場ではなくなってしまっていた。倒すべき敵も、自分を死した英雄の列に加えてくれる敵もおらず、彼女らと共にする最後の空間もなかったのだ。現実と内面の乖離に、龍田は考え込んだ。どうして戦争は終わったのに、私は戦い続けているの? 分からなかった時の習慣に従い、龍田は心内の那智に尋ねた。彼女は答えた。

 

「事象としての戦争が終わったからといって、体験としての戦争が終わる訳ではない」

 

 では、どうすれば『体験としての戦争』が終わるのだろう? 龍田の関心はそこに移った。それが終わる時が、彼女の戦いに終止符が打たれる時だと那智が答えたのだから、何としてでも終わらせたかった。艦娘であり続けたいと同時に、その為に彼女が耐え続けている苦しみから救われたかった。それも、艦娘でなくなる以外の方法で、だ。そうして龍田は考えを巡らせ、自分の、自分の為だけの戦争を始め、終えることによって、彼女固有の『体験としての戦争』を終戦に導くことができるのではないか、という仮説を立てた。

 

 言い訳のしようがない狂気の仮説に、龍田は限りない羞恥を覚えた。けれど考えれば考えるほど、それが自分に限っては効果的に作用するように思われてならなかった。彼女は随分前から、己の精神が均衡を失っていることを自覚していたからである。それは戦争を再現するもう一つの理由にもなった。彼女は病院に行き、海の上で見たものを他者と共有しようとする無意味な試みに失敗していたが、その原因を自身ではなく相手に見出していた。戦場を知りもしない、傷ついたことのない医者にどれだけ話をしても、龍田が言いたかったことが伝わったとは思えなかったのだ。でも、戦争になったら? 頭の回る誰かが、艦娘龍田のことを最も熟知する人物を呼び寄せるかもしれない。

 

 それに思い至った時、元少女は喜びに胸を躍らせた。恋をしたような気持ちで、那智の姿を脳裏に描いた。また彼女と会える、言葉を交わすことができる。傷を負った者同士で、今度こそ本当の意味で経験の共有が、話ができる。()だけのものではなく、()()だけのものでもない話。

 

 ()()()()()が。



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09.「一人だけの艦隊」

 雨は時間が経つにつれて激しくなっていった。その雨音で、ごく浅い眠りの中にいた龍田は目を覚ました。もぞもぞと起き上がり、伸びをしながら腕時計で時刻を確かめようとしたが、壊れて止まっていた。それを外して捨てると、彼女はレーダーサイトの時計を見た。早朝と言っていい時間帯だった。寝起きの倦怠感を引きずりながら、彼女は立ち上がり、持ち込んだ道具類の中から、フードの付いた暗い緑色の合羽を引っ張り出して着込んだ。外に出るつもりだった。艤装はどうしようかと迷ったが、ちょっと朝の散歩を楽しむだけだということで、薙刀と天龍の刀、私物のナイフと、希釈修復材の水筒だけを持って出ることにした。外に続くドアを開ける前に、振り返って五十鈴の様子を見る。彼女は壁にもたれ掛かり、すっかり寝入っていた。何となく微笑ましい気持ちになって、龍田はくすりと笑いを漏らした。

 

 普段ならもう明るい時間だったが、暗雲立ち込めた空は日の光をほとんど完全に遮っていた。龍田は暫くの間、湿った土と草の匂いを楽しみながら、目を閉じて雨に打たれ続けた。瞳孔が暗さに適応するのを待って、まぶたを開ける。明るくなった視界を確認してから、龍田は歩き出した。何処へという訳でもないが、寝転がっていたせいで固まった筋肉をほぐしておきたかった。撃退した天龍の言葉が確かなら、次が来る筈だったからだ。そして龍田は彼女の言葉が正しいものだということを直感していた。次に来るのが誰なのか確定はしていなかったが、誰であったとしても追い返してやる魂胆だった。

 

 自分が寝る前に比べていささか大胆な態度になっていることに、龍田は驚いた。そのせいか水溜りに足を突っ込んでしまい、音を立てて泥水が合羽の裾に跳ねかかった。立ち止まって形のよいあごを撫でつつ、睡眠がもたらしたものが体力の回復だけでなく、精神の復調にも及んだということを認識する。それは彼女が裾に泥の跳ねたことを、苛立たしく思うよりも何か愉快な出来事のように感じていることから導いた結論だった。カフェイン入りのガムで眠気をごまかすのは作戦行動中の癖だったが、もう少し控えるべきだろうか、などと考える。それから、いつまでも立っているだけでは何ら面白くないので、龍田は再び歩き出した。

 

 薄暗い森の中に龍田の足音と、雨粒が木々やその葉を叩く音だけが響く。合羽に守られていない指先や濡れそぼった地面に近い足先から、冷えが体の芯へと遡ってくるのを感じて、彼女は意識的に二度ほど体を震わせた。歩いている内に、その冷気も火照りに取って代わられる。そうすると今度は、合羽とその下の服の間に挟まった空気が、体温で暖められてじっとりとした不愉快なものになりつつあるのを感じた。ばさり、と合羽の裾をはためかせ、冷えた新鮮な空気と入れ替える。さっきくっついた泥の幾らかが、翻った勢いで何処かに飛んでいった。

 

 龍田は再度、立ち止まった。だがこの時には、水溜りに足を差し入れないようにする注意があった。彼女は歩いてきた道の真ん中に立ち、雨がフードの守りを抜けて目に当たらない程度に上を向いた。木と木に挟まれ、まばらに草が生えた細い道の中央にいると、彼女にはまるでそこがパレードの通り道のように見えた。龍田の頭上高くを巡る木々の枝は、凱旋門を形作る儀仗隊のライフルだ。時折葉っぱが落ちてくるのは、誰かが投げた花束からこぼれた花びら。耳には微かに旋律が聞こえた。龍田も知っている曲だった。艦娘たちの犠牲と勝利を称える内容の歌だ。背筋を伸ばし、行進気分で進む。その途中でどうしても気持ちが抑えられなくなって、龍田は耳の中のメロディに合わせて歌いだした。

 

 知っている歌とは言っても、よく口ずさんでいたという訳でもなかったから、龍田の歌はひどいものだった。順番に歌われるべき二つの旋律が、どう頑張っても繋がらず、繰り返し同じメロディに立ち戻ってくるということもあった。第一、龍田がその曲できちんと歌えるのは、サビの部分だけだったのだ。雨音がうるさいのもあって、自然と彼女の気と声は大きくなった。何度目か忘れるほどの繰り返しの後、龍田は腹の奥底から最後の一息までを押し出し、手に握った薙刀の切っ先を天に突き上げて、絶叫した。彼女には、雨の中での昂ぶりを表現するこれ以上の方法を思いつけなかった。残響が聞こえることもなく、叫びは何処かに吸い込まれて消えていった。

 

 叫び終わると、龍田は疲労を感じた。少し休めば済む程度のものだったので、彼女は道を離れたところで腰を下ろすことにした。自分が仕掛けた罠がないか確かめながら、低い位置の枝を押しのけて行くと、雨宿りに打ってつけのサイズの()()が開いた木があった。通常、うろというものは広葉樹で見られるものなので、これは僥倖だった。中に水が溜まっていたりしないことを見てから、龍田はそこに座り込み、ひっ、と小さな悲鳴を上げた。視界の端、別の木の陰に、彼女へと向けられた砲身が見えていた。硬直して、発砲を待つ。けれど、いつまで経ってもそれは来なかった。怪訝に思って龍田がその砲身をよく見てみると、それは実際には地面に突き立った金属製のパイプだった。焼けて黒ずんでいたせいで、砲身に見えたのだ。

 

 思わぬところで肝を冷やした彼女は、天龍と会う少し前にヘリを落としたことを思い出した。そのヘリの残骸の一部ということだろう、と合点して、自分の怯えぶりが恥ずかしくなる。それをかき消す為に、龍田はそのパイプを蹴飛ばしに行った。首尾よく怨敵を地面へと蹴り転がし、雪辱を果たす。そして何の気なしに足元を見ると、そこには突撃銃が落ちていた。銃身が折れ、機関部にも亀裂が走っている。熟達した銃手ではない龍田にも、壊れていると分かった。彼女はもちろん、それが天龍に渡され、ヘリの墜落時に失われたものだとは知らなかったが、直前のパイプと結びつけることは難しくなかった。拾い上げ、比較的損傷の少ない弾倉を取り外そうと試みる。留め金が動かなかったので、力を込めて引きちぎるような形になったが、どうにかできた。

 

 弾倉の表面にもひびが入っていたので、割れない内に合羽のポケットへと放り込んだ。ついでに蹴飛ばしたパイプも、天龍の刀を使って曲折した部分を切断し、回収した。これらにワイヤーや、資材を入れていた木箱に使われている釘などを組み合わせれば、簡便で効果的な罠を作ることができる。思わぬ収穫に、彼女の頬は緩んだ。

 

 うろのところまで戻って、腰を下ろす。高揚していた精神は急速に沈静し、穏やかな心地になっていた。体に宿った熱が引いて、丁度いい頃合になるまで待ち続ける。龍田はまばたきをしないまま、雨音に耳を澄ませた。初めの内はどれも同じ音に聞こえたが、やがてどれが木に降り注いだ雨粒の音で、どれが葉をかすった音なのか、何となく聞き分けられるようになった気がした。その中に混じって、また狐だろうか、小動物が泥の上を動き回る音も耳に届いてくる。鳥がよりよい雨宿りの場を求めて、木から木へと羽ばたく音も。寒さは厳しかったが、それを除けば平穏な時間だった。

 

 体が休まったところで、龍田はそこを立ち去ることに決めた。ずっと止まっていては体温は失われるばかりだし、気分転換にもならない。薙刀を杖代わりにして、森の中の道のない部分を行く。道に戻ってもよかったが、休憩所にしたうろのある木のような、見つけていなかった何かがあるかもしれないことに、龍田は心惹かれていた。自分にそんな子供っぽい冒険心があったことに、彼女は滑稽さと気恥ずかしさを感じた。「しょうがないじゃない? 十五歳で艦娘になって以来、戦争の勉強しかしてこなかったんだもの」と、誰が聞くという訳でもない弁解を声に出して、己の感情を正当化しようとする。だが馬鹿らしくなって、龍田はそれをやめ、その代わりとして素直に自分の新たな一面を認めることにした。

 

 手当たり次第に仕掛けて、忘れてしまった罠がないとは断言できなかったので、それにだけは気をつけながら、散策を続ける。途中で解除された罠があるのを見つけた時には警戒したが、調べた結果、これも天龍の手によるものだと判定できた。解除の鮮やかさだけでも、龍田を追い詰めたあの天龍だと推測することができたが、罠の近くに雨の当たりづらい茂みがあり、そこに足跡が残されていたことが決め手だった。奇しくも天龍が龍田に抱いていた類の、同種の技術を持つ者に対する尊敬の念が、龍田の中にも生起する。それに伴って、もったいないことをした、という気持ちも湧いた。負わせたのが重傷でさえなければ、話をしてもよかったかもしれない。しかし天龍は強く、手加減して勝てる相手ではなかったということを、対面した龍田は嫌というほど知っていた。

 

 足を休めて、空を見上げる。気づけば、防空目的で植林された地域の端まで来てしまっていた。空は暗いままだが、レーダーサイトを出た時よりは明るくなっていた。そろそろサイトに戻って朝食でも取ろう、と龍田は決めた。何を食べるか、残っていた糧食のメニューを頭の中で列挙しながら、踵を返して森の奥へと戻って行こうとする。その歩みが、ぴたりと止まった。フードの下の耳が、異音を聞きつけていた。雨にさらされることも構わず、龍田は合羽のフードを脱いだ。あっという間に、大粒の水滴が彼女の首から上をしとどに濡らしていく。たちどころに冷え切って、色を失い始めた龍田の唇から、呆れた、という響きの息が漏れ出た。

 

 艤装を装備して、レーダーからの情報を絶やすべきではなかった、と龍田は後悔した。唇を強く噛むと、血の味が口の中に広がった。無数のエンジン音とプロペラ音が、龍田のいる森の上空を通り過ぎていく。枝葉の天井の切れ目からは、ちらちらと航空機の姿が見えた。見えたと言っても、翼や胴体の一部らしきものがほんの一瞬、映るだけだ。立ちすくんだまま、龍田は頭を働かせた。

 

 彼女には上にいるのが戦闘機か、偵察機か、爆撃機か、区別が付かなかった。雨の音がエンジン音での区別を妨害していたし、機影を肉眼で捉えようとすれば森を出ねばならず、そうすると航空機側からも視認される危険があり、そのリスクの大きさから不可能だった。結局龍田は、不確実な類推から上空の敵機群を爆撃機である可能性が高いと見積もった。空母艦娘たちにとって、その島にいる敵性戦力は、軽巡たる龍田のみ。制空権を気にする必要がないから、対地攻撃が可能な爆撃機をありったけ積んで来るだろうと踏んだのだ。連合艦隊旗艦陸奥が政治的な介入を受けていなかった場合、これは正しい推察になっていただろう。敵機が爆撃機の大編隊だと誤解した龍田は、五十鈴をサイトから逃がさなければ巻き添えになるかもしれない、と焦り、その場から駆け出した。

 

 確信がなかった。五十鈴が生きていることは、天龍が伝えているだろう。でも、上層部がそのことを気にするかどうかは、分からなかった。一度は見捨てたのだ。生きていたということが明確になったとしても、報告を握り潰した上で証拠ごと爆撃してしまおうとするかもしれない。最悪の場合、五十鈴が龍田の影響を受けて仲間に加わった、なんてことにされていることもあり得る。龍田は自分が自身の行いの結果どうなろうと気にしなかったが、五十鈴がその巻き添えを食うというのはどうも気に入らなかった。

 

 と、破裂音が聞こえた。それは五千円が炸裂する音でもあり、空気清浄機が爆発する音でもあった。走っていた龍田は数秒の停止の間に考えをまとめ、五十鈴の下へ戻ることはやめた。上陸してきた何者かに攻撃を加えれば、五十鈴や彼女のいるサイトに向かう攻撃を手っ取り早く止めることができると結論したからだった。艤装を装備していないせいで砲撃できないという不利な点はあったが、機会を選べばどんな相手にも手傷の一つ程度、与えられるという自信が龍田にはあった。彼女は脱いだままだったフードを被ると、地面の泥を手に取り、顔や薙刀に塗りつけた。後者は雨でじきに流されてしまうことが分かっていたが、僅かにでも光の反射を減らし、自然の中に溶け込ませることができるようにしておきたかったのだ。

 

 音が聞こえてきたのはラスシュア島西側の、上陸に適した浜辺がある方からだった。そちらに急ぎながら龍田は、負傷した天龍をあそこに連れていったのは失敗だったかもしれないと思った。爆発音が一回しか聞こえてこなかったからである。浜に地雷が埋まっていることを知らずに来て踏んだというなら、今頃は砲撃で耕していて然るべきだというのに、砲声は全くしない。つまり、地雷を踏んだのは浜でではなく、そこを抜けた後だということだ。浜辺の地雷原を突破することができる、あるいは誰かがそこを突破する為の情報を用意できる相手を想像しようとすると、龍田には二人しか候補が浮かばなかった。那智と、天龍だ。そして那智がここに来ているなら、先ほどの地雷の爆発音が聞こえてくる筈がない、と彼女の元教え子は信じていた。

 

 夜間、重傷を負った状態で連れて行かれただけの浜辺の罠を、どうして天龍がそうも正確に見抜くことができたのか、龍田はさっぱり分からなかった。分からなかったから、ますます彼女は天龍を尊敬した。「やるじゃない」という素朴で飾らない表現で、彼女を称えた。合わせて、その天龍の観察眼をかいくぐった罠があったことを自慢に思い、彼女の顔を思い浮かべながら「私も結構、上手でしょ?」と語りかけた。

 

 暫く走り、説明のできない直感で、上陸してきた敵が近いことを悟る。龍田は走るのをやめて、低木と茂みに姿を隠しながら、敵へと近づいていった。雨で太陽は遮られ、薄く差し込む光も緑の天井で大半を防がれて、森は暗がりと陰に満ちている。何人いようとも、目にもの見せてやることができる。龍田にはその為の技術があり、経験があった。聞いたことのある声が耳に届き、龍田は一層用心して気配を消した。隠れた低木から道の様子を窺う。明るさが足りずに見えづらかったが、縦列を組んでこちらに進んでくるようだった。先頭は第一艦隊の秋雲が務めている。駆逐艦ということもあって視点が低く、足元の罠に気づきやすいことと、彼女の絵描き趣味から来る目のよさがその理由だろうと考えて、龍田はその不運さに同情した。

 

*   *   *

 

 出撃前に練った作戦案を変更し、最初から上陸するべきではないか、と最初に持ち出したのは、天城である。ラスシュア島への到着直前になっての提案だったが、陸奥らにはこれを本気で考える理由があった。雨の勢いが、想定されていたよりもずっと強かったのだ。天城を初めとした連合艦隊の空母艦娘たちは、実戦によって鍛え上げられた優秀な艦載機妖精を有していたが、森に潜むたった一人の敵を降りしきる雨の中で探し出せるほど妖精たちの感覚が優れているかと聞かれると、首を横に振らざるを得なかった。結局、陸奥は自分の責任の下で上陸を敢行した。摩耶だけは最後まで反対していたが、陸奥との友情に思い上がって、下された決定に逆らうような真似はしなかった。

 

 上陸は手際よく行われた。タイミングは前倒しになったものの、元より島に入ることは考慮されていた為、艦隊員たちが突然の変更に戸惑うことがなかった、というのがその一因である。また、天龍が持ち帰った情報のお陰で、浜に仕掛けられた罠をほぼ全て回避することができたのも大きかった。運悪く加古が地雷を踏んだものの、彼女は誰もが感心する冷静さを見せて足を動かさなかった。その落ち着きぶりたるや、摩耶が大きめの石を拾って戻ってくるまで、心配する僚艦たちを逆に励まし続けていたほどである。石の置き方が悪かったのか、それを身代わりに置いた摩耶と加古がその場を離れて数秒すると地雷は爆発したが、誰も怪我を負うことはなかった。

 

 見事な対処だ、と陸奥は思った。そしてこのことがかえって艦隊員たちの間に、龍田の罠を軽んずるような向きを生み出さないか不安に思ったが、その懸念は無用だった。彼女たちは皆、より気を引き締めたのである。一列縦隊を作った連行艦隊の艦娘たちは、秋雲を先頭にして左右を警戒しつつレーダーサイトに続くという道を進んだ。それが道であり、歩きやすい場所であるからには、罠が仕掛けられていることは明白だったが、土地勘のない者が、人間の手入れをほぼ受けなかった森林の中で道ではない場所を進むという行為は、たとえ上空からの情報支援があっても賢明には思えなかった。

 

 足を止めることなく、隊列中央の陸奥は上を一瞥した。森の中から見上げる空の狭さが、彼女を不安にする。だがそれも、前後を挟む艦隊員たちを思うとなだめられた。この子たちは精鋭だ、と陸奥は龍田に言ってやりたかった。あなたもそれは知っているでしょう、と。「私たちを見て、降参してくれればいいのに」溜息と共に、そんな望みが口から漏れた。しかし、そうはならないことを彼女は理解していた。そんなやわな艦娘なら、もうとっくに死んでいるか、こんな事件を起こしたりはしないかのどちらかだ。タフで賢く、覚悟のある敵──陸奥はそう龍田を評してから、ふと思った。()()()()()()()()

 

 すると、彼女の中に奇妙な感情が激しく湧き上がった。それは戦争の終わりを契機として長らく熱を失っていた、闘争心だった。自分がそんなものを以前の戦友に向けようとしていることを自覚して、陸奥は困惑する。そのままにしておくべきか、それとも強引にでもかき消してしまうべきか。単純に受容することは気が咎め、押し潰してしまうには、それは心地よすぎた。歴戦の大戦艦は、過去が蘇っていくのを感じた。砂浜で履き替えたブーツの下に土の感触を覚えていながら、彼女は己が今「海にいる」と錯覚した。土が足元でうねるように思われ、潮風がそれまでよりもずっと鮮烈に匂い、緊張感が肌をあわ立たせる。陸奥はそれら全てを微笑んで受け入れ、その渦中にいた時には忌まわしかったものが、今では恋しく思う対象であることも認めた。

 

 秋雲が足元に罠を見つけ、右の平手を挙げて後続に停止を指示する。先頭から三番目にいた天城が彼女の傍らへとやって来て、手際よく仕掛けの調査を始めた。一方で立ち止まった陸奥は地面をぼんやり眺め、胸の内でにわかに熱を持ち始めた感情をもてあそんでいたが、突然自分たちがどれだけいい的になっているかということに思い当たって、慌てて周囲を見回した。遮蔽物のない海における長年の戦闘経験が、彼女に停止することへの強迫的な忌避感を植えつけていた。木の後ろ、茂みの陰、樹上さえ疑わしく思えて、龍田がいないことを確認してしまう。

 

 中央から少し後方寄りの位置で警戒に当たっていた筈の摩耶が陸奥に声を掛けてきたのは、ようやくこの周囲に龍田がいないことが確からしく信じられてきた頃だった。彼女がまだブーツを入れていたバッグを持っていたので、脱いだ脚部艤装と一緒に砂浜に隠して置いてくるよう、きちんと命じておけばよかった、と陸奥は悔やんだ。荷物が増えれば、それだけ動きは鈍重になる。いざ龍田に襲われた時、これのせいで動きが阻害され、反撃できなかったせいで摩耶が傷ついたりするのではないかと考えると、ぞっとしなかった。だが旗艦の視線が荷物に注がれているのを見て、摩耶は言った。

 

「大丈夫だよ、中身はそんなに詰まってねえんだ。一番重くてかさばってたブーツは出したし、後はお前の言ってたものと……あたしの個人的な収穫ってとこだしな」

「個人的な収穫? もしかして、あそこまで憲兵隊が大勢で追いかけてきたのって、それのせいじゃないでしょうね」

「おい、あれをあたしだけのせいにすんなよな。で、見るか?」

「そうしようかしら。見ない方が怖いもの」

 

 そう来なくっちゃ、と摩耶は言って、バッグの口を開くと左手をその中に突っ込んだ。彼女が手探りで目当てを探すので、金属が擦れる音が響いて、罠の解除に踏み切った秋雲と天城が迷惑そうな顔で陸奥の方を見やる。溜息を吐いて、旗艦はこの子供っぽい重巡の手を掴んで言い聞かせた。「あなたねえ、もうちょっと静かにやりなさいな」「悪かったって。でも、これを見たらびっくりするぜ?」そう言って、摩耶は手を引き抜いた。そこに握られていたものを見て、普段そうそう動じることのない陸奥が、思わず天を仰いだ。真新しく、小火器について素人同然の陸奥にも未使用と分かる、黒光りした拳銃。それが摩耶の盗み出してきたものだったのだ。

 

 憲兵隊は陸軍に所属する組織であり、当然その装備には小銃や拳銃を含む。艦娘に対しては通常弾薬を用いた小火器による攻撃は効果が薄いものの、彼らの相手はそのような人間の枠を一歩出た存在のみならず、撃たれれば死ぬ者が大勢を占める、軍人全般に渡るからである。だから、拳銃が泊地付憲兵隊の物資倉庫に保管されていたことは、全くおかしくない。しかし摩耶がそれを持ち出してきたことは、陸奥にとって理解しがたかった。当たっても傷を負わせられない拳銃などより遥かに高威力で、使い慣れた砲が、艤装には取り付けられているのだ。摩耶の動機が少年めいた「それが面白そうだったから」というものでないことを願いつつ、陸奥はからかいの言葉を投げかけた。

 

「あらあら。そのおもちゃで誰を撃つの、摩耶?」

「そりゃ龍田だろ。クソ度肝抜かれるぜ、あのクソ軽巡」

 

 短い文章の中に二回も同一の品のない単語が出てきたことに、陸奥は感銘を受けた。彼女は笑って言った。

 

「軍隊暮らしが長くなると脳にダメージが蓄積していく、っていうのは本当みたいね。悪いことは言わないから、拳銃なんか捨てときなさい。通常弾薬じゃ艦娘を殺せないのは知ってるでしょう」

「誰が言ったんだよ、あたしが取ってきたのが通常弾だなんてさ」

 

 二人の視線が交わされ、陸奥は親友が自分の肝を冷やさせる為に嘘を言っているのではないことを知った。「なんてこと」思わぬ事態に表情が歪みそうになり、手の平で口元を覆う。摩耶がやったのは、それだけ重大な行為だった。主要諸国家の尽力の下、戦争末期に開発・実用化された対深海棲艦用弾薬は、終戦後の世界では極めて繊細な扱いを受けている。何故ならその特殊な弾薬は、深海棲艦に発揮するのと同じ効力を、艦娘にももたらすからだ。次の戦争が人類間のものであるかもしれないことを考慮すれば、艦娘を所有する国が持たざる国々に対して保持する優位性を崩壊させる技術など、広められる訳がなかった。故に対深海棲艦用兵器の技術の詳細は機密とされ、開発した諸国家のみが運用することを許されたのである。それは丁度、二十世紀における核兵器の扱いに似ていた。

 

 この巨大な爆弾をどうしたものか、陸奥は考えたくなかった。現実逃避気味に、彼女はまず龍田の問題を片付けることに決めた。けれど嬉しそうに拳銃をスカートと体の間に差し込む摩耶には、二言三言ばかり言ってやらなければ気が済まなかった。

 

「それを撃つ時は、できれば私よりも前に立って欲しいものね。拳銃なんか一回も撃ったことないでしょう。弾が前に飛んでくれればいいけど」

「ん、そうでもないぜ? 前に仲良くなったパラオ泊地のグラーフがドイツからこっそり持ち込んでた私物を、何発か撃たせて貰ったことがあるんだ。もうかなり前のことだから、細かい扱いは全然覚えてないけどな」

「それを聞いて安心したわ。今なら、絶対に私の後ろで撃たないでちょうだいって言えるから」

 

 摩耶は言い返そうとしたが、秋雲が罠の解除に成功した旨を隊に告げたので、前進の再開も間もなくと思って素直に後ろへ戻っていった。天城も元の位置に戻り、陸奥は顔をこちらに向けて指示を待つ秋雲に頷きかけた。同じ頷きが返ってきて、秋雲は前に向き直り、一歩を踏み出そうと右足を上げた。陸奥はそれをじっと見つめていた。その一歩が何事もなく踏まれれば、その後も無事でいられるような気がしていた。でも、そうならなかったら? 解除した筈の罠が作動して秋雲が傷を負う姿を幻視し、陸奥は心乱された。解除したのが相手を油断させる為の“見せ罠”だったら? 安心して進んだところに、地雷が埋められていたら? 秋雲が前に出した足は、既に地面に押し付けられようとしている。彼女の足が吹き飛ぶ様など、陸奥は見たくなかった。

 

 永遠にも思えた一瞬がようやく過ぎて、秋雲は無事に二歩目、三歩目を歩んでいた。ほっとして息を吐き出し、連合艦隊旗艦は自分が息を止めていたことを知った。歩みを止めないまま小さく指を鳴らし、僚艦たちの注目を集めてから人差し指と中指を立て、軽く振る。艦隊員が指示に従って、秋雲の後ろに前後が三メートル間隔の二列縦隊を作った。隊列が整うのを待たずに旗艦は続けて指を振り、それぞれの列に左右を警戒させる。陸奥の見立てでは、龍田は必ず道の脇から仕掛けてくる筈だった。そうでなければ道理に合わないからだ。真正面や背後からでは、先頭や最後尾の一人二人は撃ち倒せたとしても、残りには遮蔽物である木々の茂った両脇、射手に対して左右へと散開されてしまう。横から襲えば、そうはならない。それに、待ち伏せるにも道の上よりその脇の方が隠れやすいものだ。

 

 誰も口を開かず、緊張と用心でぎらついた目を森に向けながら、奥へ奥へと道を辿って分け入っていく。そうして、罠を解除して前進を始めてから五分ほど経った時、二列縦隊の最前列、秋雲の三メートル右後方を歩いていた第一艦隊の鬼怒が、バランスを崩して地面に倒れ込んだ。彼女の右足は膝下十センチのところまで、偽装された穴に埋まっていた。まともに受身もできずに身をしたたかに打ち付けた彼女の口が息を逃がす為に開かれる。それから歯を食いしばると、次の瞬間、彼女は痛みに絶叫しかけた。叫びが漏れたのは、ほんの一秒にも満たなかっただろう。鬼怒は咄嗟に自分の拳を口の中に突き入れ、己の声を殺したのだ。

 

 彼女の左を歩いていた第二艦隊の艦娘の一人がすぐさま鬼怒の側に寄り、光量を抑えた探照灯で足元を照らし出し、呻き声を上げた。穴の中には返しの付いた竹串が剣山のように密集して埋められており、幾本かは頑丈な軍用ブーツの底を貫通していた。鬼怒を助けようとした彼女は、それが鬼怒をどれだけ痛めつけることになるか分かっていたが、即座に引き抜くことを決めた。彼女が鬼怒の足を掴むと、やっと我に返った陸奥が声を発した。「円陣防御! 加古、救助を手伝って!」先ほどまでの慎重さをかなぐり捨てて、艦娘たちは二列縦隊から円陣を組もうと動き出す。加古は口の端からだらだらと涎と血の混じった粘性の液体を流しながら暴れる鬼怒を押さえつけ、串刺しにされた彼女の足を第二艦隊の艦娘が引き抜けるようにした。その甲斐あって、足は串から抜けた。

 

 そのまま穴から鬼怒の足を出して治療をしようとしたところで、加古に誰かが軽く体当たりをしてきた。予想していなかったその衝撃に倒れそうになるが、何とか踏ん張って耐え、当たってきた誰かに文句を言おうとして、口をつぐむ。鬼怒を助けようとしていた艦娘が意識を失い、ぐったりとして加古に寄りかかっていた。その上半身には薙刀が突き立っていたが、周囲に龍田の姿は見えなかった。急いで負傷した僚艦を地面に寝かせ、その凶器を抜き取り、希釈修復材を掛けて出血を止める。が、失われた意識までは戻せなかった。陸奥に指示を仰ごうとして顔を上げる。その視界の端で、何かが動いた気がした。加古は迷わなかった。右腕の砲を概ねの方角に向け、発射する。

 

 たちまちその場は蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。誰にも発砲を止められなかった。陸奥も、摩耶も、装備した主砲や副砲を目に付いた場所に撃ち込み続けた。上空にいた戦闘機隊の一部は、連合艦隊の周囲を機銃掃射した。天城はその騒乱の中、腰を屈めて鬼怒のところまで走った。彼女の足は、まだ傷ついたままになっていた。ブーツを脱がせようと天城がそれを掴むと、ぬるりと血で滑った。舌打ちして、編み紐を解いていく。その間ずっと、彼女は下を向いていなければならなかった。それは何と比べることもできない恐怖だったが、天城の心は震えていても、彼女の指捌きは滑らかだった。とうとう血塗れの半長靴を脱がせることに成功し、足の甲と脛の傷口が姿を現す。出血量から、脛部(けいぶ)の動脈が破れていることが見て取れた。すかさず希釈修復材を振り掛ける。

 

「撃ち方やめ」

 

 砲声を押しのけて、陸奥の声が響いた。しかし誰も撃つのをやめなかった。もう一度、今度は怒鳴ると、収まった。強張った顔で陸奥は言った。「天城、被害確認。後は周囲を警戒して!」了解、の返事もなしに、天城は命じられた任務に取り掛かった。十秒とせず、ひどい結果が分かった。鬼怒は出血と、恐らく竹串に塗られていた毒で痙攣を起こしていた。彼女を助けようとした時に、龍田から薙刀を投げつけられたと思われる第二艦隊の艦娘は、意識が戻っていなかった。第二艦隊所属艦娘ではもう一人が、円陣防御を築く為の移動中、枝のしなりを利用した罠で脇腹を杭に抉られ、治療を受けていた。そして秋雲は、艤装と砲を残して姿を消していた。

 

「誰も気づかなかったってのか? 誰一人も?」

 

 摩耶は怒気を込めて、先頭近くにいた僚艦たちを睨みつけた。相手が気まずそうに目を逸らすと、彼女は余計にいきり立ち、秋雲が何処に行ったかの手がかりを探して、罠の有無も調べずに周囲を漁って回った。一、二分して陸奥のところに戻ってきた摩耶は、手に茶色の細布を握っていた。彼女は信頼する旗艦に言った。「秋雲のリボンだ。連れ去られる時、わざと落としたに違いねえ」そこで摩耶は言葉を区切ったが、陸奥にはその続きが分かっていた。助けに行くように命令してくれ、と摩耶の目は訴えていた。しかし、秋雲一人の為に道から外れて森の中へ他の艦隊員たちを連れて行くことが、旗艦として正しい行為かどうか、陸奥には判断できなかった。けれど摩耶が親友の肩を掴み、「あたしは卑怯者になりたくない」と懇願すると、その首は縦に振られた。

 

 摩耶が単独で秋雲の手がかりを探している間に、陸奥は継戦不能な負傷者を護衛と共に砂浜に戻らせ、海域を警戒中の巡視船に収容させることを決めていた。怪我をした三人の内、脇に杭を打ち込まれた者は意識もはっきりしており、多少の血は流していたものの歩行に問題はなかったので、護衛役としてカウントし、他の負傷者の運搬役には第二艦隊から二人を抽出して充てた。ほんの数分で、連合艦隊が通常の一個艦隊まで人数を減らしてしまった、と陸奥は心の中で賛嘆と恐怖がない交ぜになった呟きを漏らした。今や、ここにいるのは第一艦隊の陸奥、摩耶、葛城、加古の四人と、天城を含む第二艦隊の二人だけだ。

 

 負傷者たちが砂浜への移動を始めるのと同時に、陸奥らは横列を組んで森へと入った。摩耶が秋雲のリボンを見つけた方角に進んでいく。秋雲の新たな痕跡を見つけやすいよう、艦隊員同士の間隔は四メートルまで開いた。罠に気をつけての進軍であるが為に、その歩みは遅々として進まなかったが、それでも気を抜くと横の戦友を見失いそうになる。陸奥は自分の横に張り出した形の艤装が邪魔で歩きづらいので、左半分をパージした。鉄の塊が、がしゃん、と音を立てて地面に落ちる。一斉に左右の艦隊員が音の発生源を振り向いたが、陸奥が落とした艤装のせいだと知るとまた前を向いた。

 

 これまでに体験したことのない形の交戦に、誰もが早くも疲れ始めていた。前に進むにも、後ろに戻るにも、次に足を置く場所を精査してからでなければ動けない。敵はそんな自分たちを、容易に引き裂いてしまえる。そんな状況は、陸奥にとっても初めてだった。彼女と彼女の戦友たちが海の上で潜り抜けてきたものは、このような形態ではなかったし、そこに渦巻いていた恐怖は、次の一歩が人生最後の一歩になるかもしれない、などという種類の、じめついた恐怖ではなかったのだ。陸奥は、艦娘になって海で戦うようになってからというもの、今日が自分の命日かもしれないと思いながら毎日を生きてきた。だがそれは兵士的な、からりとした恐怖であって、今彼女が感じているそれと違って、いつまでも心にへばりついてはいなかった。

 

 陸奥は、自分の視界に映っていない場所から、龍田が現れる妄想に囚われた。彼女は横列の中央にいたので、自分の見ていないところは艦隊員たちが見ていてくれると分かっていたが、その事実が彼女の心を捕まえた恐怖を拭い取ってくれることはなかった。あくまで彼女は、己の精神的な膂力(りょりょく)に基づいて、それを打ち払ったのである。彼女は自身の心と、きっと何処かで自分たちを監視して、好機を窺っている龍田に言った。()()()()()()()()()。そうすると、陸奥の自尊心が微かに反応した。()()()()()()()()()()()()()。その言葉を何度も口の中で繰り返す。()()()()()()()()()。萎縮していた自信が緩やかに回復していくのを感じて、彼女は拳を握った。

 

 が、それも砲声が後方で轟くまでのものだった。一瞬、陸奥は砂浜に戻った負傷者たちが襲われたのかと思った。けれども上から葉のついた枝や木の破片が落ちてきて、自分たちの頭上を砲弾が通り過ぎているのだと気づいた。六人の艦娘たちは、伏せられる者は伏せ、艤装の形状のせいで伏せられない者も、せめてしゃがんで太めの木の後ろに隠れた。摩耶が叫んだ。「あれは秋雲の砲だ」またミスを犯した、と陸奥は身を屈めたまま自責した。せめて砲だけでも、負傷者たちに託しておくべきだった。手持ち型である秋雲の砲は、拾いさえすれば、同じ艦娘なら扱うことができてもおかしくないではないか。海での戦いでは、手放したものは何もかも海へ沈んでいく為、拾うという発想自体が基本的に出てこないが、ここは地上だ。考えつくべきだった──しかし、もう遅かった。龍田は道側に回り込み、まんまと連合艦隊の退路を断って、攻撃を加えることに成功したのだ。

 

 陸奥の耳に、誰かの悲鳴が聞こえた。第二艦隊の二人がいる方からだったが、それが天城の声なのか、もう一人の艦娘の声なのか、陸奥には分からなかった。悲鳴自体もすぐ収まったので、負傷したが治療したのだろう、と彼女は考えた。ここでじっとしているだけではダメだと思い、顔を少しだけ上げて砲弾が飛来してくる方向を見たものの、龍田の姿はようとして見つからない。それでも大体の場所には当たりをつけて、陸奥は対抗砲撃を開始した。戦艦の巨砲から放たれた砲弾が、弾道上に立っていた木の幹を抉り取りながら飛翔し、やがて地面へと着弾、炸裂する。その爆風は湿った泥土を巻き上げ、草と砲弾の破片を飛散させた。また炸裂時の輝きは、暗い森の中にあって得がたい光源にもなった。狙われても構わないという覚悟で、陸奥は立ち上がった。

 

 その瞬間、彼女の側頭部近くを龍田の応射が掠めた。衝撃波に頭を揺らされ、ふらつきそうになるのを近くの木に手を突いて抑える。砲弾はまたしても後方からだった。再度回り込まれたのだ。遊んでいるかのような龍田のこの行いに、旗艦は我慢できなかった。振り向いて、ろくろく見もせずに怪しげに思えた場所へ発砲する。その中の一発が爆発した時、陸奥は見た。炸裂の光に背を照らされ、輪郭だけが木と木の合間に浮かび上がった龍田を、彼女と彼女の艦隊員たちは見た。「あそこだ!」と摩耶が声を張って彼女の旗艦同様に立ち上がり、駆け出した。龍田がそれを待っている理由もなく、彼女が身を翻して森の更に奥へと引いていくのが陸奥には分かった。ここで逃がしてしまえば、仕切り直される。機を逃す訳には行かなかった。

 

「追いかけるわよ! ほら、立って!」

 

 未だに身を低くしている加古や天城たちに声を掛けて、陸奥も摩耶の後を追った。なるべく摩耶が通ったのと同じ場所を走るようにして、罠を気にせずとも済むようにする。親友であり、信頼する二番艦でもある彼女を炭鉱のカナリア扱いすることに罪悪感を覚えたが、それが最も安全な移動ルートであることが分かっているのに、使わないという手はなかった。ともすれば見失いそうになる摩耶の背を視界に収め続け、その中に龍田を捉えようと走る。だが、急に摩耶が立ち止まった。罠を踏んだかと思い、近くまで寄ると、彼女は苦々しげな声で言った。「見失っちまった、クソが」そして振り返って陸奥の後ろを見て、「他の連中はどうしたんだ?」と皮肉っぽく訊ねた。陸奥は答えなかったし、その質問の意味を問うこともなかった。はぐれてしまったのだ。最悪だった。

 

「一緒に移動しましょう。まず天城たちを見つけて、それから秋雲を探すわ。いいわね?」

「おう、いいぜ。とっとと見つけようじゃねえか、二人だけってのはどうにも都合が悪いだろ」

 

 その時、森の何処かで叫び声が上がった。陸奥は全身の毛が逆立つような感覚を覚えた。その声が天城のものに聞こえたからだ。摩耶に向けているのと似た深い友愛の情を彼女に対しても抱いている陸奥は、いても立ってもいられなくなった。駆け出すことをしなかったのは、それをして自分まで悲鳴を上げることになっては意味がないと、本能が彼女の感情的な振る舞いを抑制した為である。今日まで未経験だったあらゆる重圧や逆境の中でも、陸奥は冷静さを完全に失ってはいなかった。通信機を操作し、はぐれてしまった艦隊員たちに呼びかける。まず加古が答え、次いで葛城が答えた。天城ともう一人の第二艦隊の艦娘、どちらを先に呼ぶか迷ったが、陸奥は天城を選んだ。一秒が実際の何倍にも感じられる沈黙の後で、返事があった。直前の叫びは“もう一人”の方だったのだ。連合艦隊旗艦は安堵の溜息を吐いたが、すぐにそれはよくないことだと自分を叱咤した。

 

 陸奥が叫びの聞こえてきた方向に進み、合流しようと持ちかけると、艦隊員たちはそれを了解した。天城と葛城に上空の航空機から誘導できないかと打診してみたものの、せめて雨が止まなければ無理だろうという答えしか返ってこなかった。陸奥は森を焼き払いたくなった。もちろん命令ではなるべく破壊を回避するようにということになっていたが、長い間軍隊に身を置き、艦娘として戦ってきた中で、彼女は一つの哲学を手に入れていた。それはシンプルなものであり、仲間や自分の命の方が、命令などよりも大切だという道徳的な信条だった。とはいえ、焼き払うにしても仲間が集まってもいない状況でそんなことをすれば、森ごと戦友を焼き殺してしまうことになるのは目に見えている。陸奥は機会があれば必ず龍田をいぶり出してやると誓いながら、摩耶と共に歩いた。

 

 七、八分ほど歩いたところで、木陰に人の姿を見つけた。すわ接敵かと構えかけたが、見ればそれは天城だった。陸奥たちに気づかない様子で、木に何かしている。不思議に思いつつ、陸奥は近くの木の幹を手で叩いて、天城に接近を知らせた。彼女を驚かせて、副砲で撃たれたくはなかった。天城は先ほどの陸奥らと同程度敏速に砲を向けたが、やはり相手を見て構えを解いた。代わりに緊迫の表情を浮かべ、「こっちへ、早く!」と二人を急かした。近づいていくと、彼女がそう言った理由が分かった。天城が触っていた木には、艦娘がワイヤーで縛り付けられていた。先だっての叫び声を上げた彼女だ。今は気を失っているのか、俯いたままぴくりともしない。生死を確認するべく、陸奥は指を彼女の鼻の下に差し出した。指先に息が掛かり、命が保たれていると明らかになる。

 

 摩耶は天城を手伝ってワイヤーを外し始めた。支えを失って地に倒れそうになるのを、陸奥が受け止めた。暗さで分からなかったが、彼女は腹部から出血していた。ぬめぬめとした赤い血が、陸奥の素肌にべとりと付着した。罵倒語が口から飛び出るが、それは血で汚れたことを罵ったものではなく、彼女の傷が浅くないことを悟った故のものだった。腰に提げた水筒を取り、中の希釈修復材を服の上から振り掛ける。めくり上げる手間も惜しかった。彼女の体を横にして、他に怪我がないか調べる。隅から隅まで見た訳ではなかったが、大きな傷はなさそうだった。

 

 天城とも合流できたので、一息入れようと陸奥はその場にしゃがみ込んだ。そこに砲声が響き渡る。秋雲の砲のものと考えるには、やや音が重かった。嫌気の差した顔で、陸奥は再び腰を上げた。立ち上がった時にはすっかりこの島が嫌いになっており、それに輪を掛けて龍田が憎らしかった。艦隊員であり戦友である艦娘たちを、こうも残虐に傷つけられる存在が、深海棲艦以外にいるとは信じられなかった。

 

「天城、その子を連れて砂浜に……巡視船に戻って。私たちは音を調べてくるわ」

「了解です。御武運を!」

 

 真面目な天城らしい、きっちりとした海軍式の敬礼で陸奥と摩耶を励ますと、彼女は部下を背負って道の方へと戻っていった。陸奥は彼女が無事に砂浜に着くことを祈り、通信機を操作しながら歩き出した。周波数を最初に離脱した負傷者たちのものに合わせて、呼びかける。護衛の艦娘を呼び戻すつもりだった。が、応答はなかった。やられたのだろうか? それとも、森の木々に遮られて電波が届かないとでも言うのだろうか? 分からなかったので、陸奥はこれから砂浜に向かう天城に知らせておいた。陸奥が前に立ち、摩耶が後方を警戒する形で、砲声の出所を探す。その途中で、摩耶が口を開いた。心底気に入らない、という口調で彼女は訊ねた。

 

「気づいてるか?」

「何によ?」

「誰も死んでねえってことにさ」

 

 陸奥は無意識の内に立ち止まり、摩耶の方に顔を向けていた。不機嫌そうな表情が、親友の顔に張り付いていた。それを見ながら、きっと今の自分もそんな顔をしているのだろう、と何処か他人事のように陸奥は考えた。摩耶は彼女の視線を、言葉の続きを促すものだと受け取って、言った。

 

「大怪我した奴はいる。地雷がマジだった時には驚いたよ。落とし穴の串には毒だって塗ってあったみたいだしな。でもそれなら何でまた、誰も死んでないんだ? 本気で殺す気なら、もう誰か死んでてもいいんじゃねえか? あたしや、天城や、陸奥、お前だって……龍田には殺すチャンスがあったんだ。なのにみんな生きてる。間違いなく、ひどい目には遭ってるけどよ、生きてるんだ。一体何のつもりだよ? 舐められてんのか、あたしらは?」

「どうでしょうね。龍田を捕まえれば、答えが分かると思うけど」

「それこそ、どうだかな、さ。とにかく気に入らねえ、馬鹿にされてる気分だ」

 

 ぶつくさと言いながら、捜索に戻る。百メートルほど進むと、物音が聞こえた。今度は砲声ではなく、誰かが動いている音だ。規則的ではないので、風に揺られて枝葉が立てる音ではあるまい、と陸奥は推測した。足音を立てないようにしながら、そろそろと音へ近づいていく。葛城か秋雲か、または加古であるようにと願いはしたが、陸奥はそこにいるのがその三者の内の誰でもないことを、何となく察していた。それは理性や理屈で説明のつかない、第六感そのものだった。近づいてみると、音の出所と二人の中間地点には太い木が一本あったので、それに身を隠して陸奥は音源の様子を窺う。

 

 息が出そうになって、ゆっくりと彼女は木陰に戻った。龍田がいた。これまでの被害者たちみたいに、意識を奪われている加古を木に縛りつけていた。犠牲者の両足は一見して折れていると分かるもので、艤装は取り外されていた。小声で摩耶に、龍田が加古を拘束していることを伝える。彼女は今にも飛び出しそうな顔になったが、陸奥がそうしない理由を分かっていたので、自分を押し留めた。陸奥はもう一度顔を出して、自分たちと、龍田と加古の位置を調べた。都合の悪いことに、三者の位置はほぼ一直線に結ばれるものだった。これでは撃った弾が加古をも傷つけてしまう。摩耶の重巡級の主砲でも、龍田の肉体を貫通するには足りるのだ。まして戦艦級の主砲では、加古ごと龍田を粉々にしてしまう。摩耶は雨具を脱いで、何でもないことのように言った。

 

「肉弾戦だな」

「それしかないわね」

 

 陸奥も合羽を脱ぎ捨て、艤装の残りを解除した。今度は音を立てなかった。手袋の手首を覆う部分を引っ張ってから、手を握っては開き、最後にぎゅっと力を込めて拳を作る。摩耶を見れば、彼女はバッグを下ろしていた。その中から、筒状のものを取り出す。それこそ、陸奥が摩耶に憲兵隊から持ち出してくるよう命じたものだった。「あるもんは使わなきゃな?」と摩耶は口の端を吊り上げ、制圧用の特殊音響閃光弾の安全レバーを、服の丁度胸の谷間部分に引っ掛けた。彼女の無意味に扇情的な行為に、陸奥は微笑んだ。自分も一つ手榴弾を取り、ピンを引き抜く。小さな金属音が鳴ったが、雨音と上空の戦闘機隊のエンジン音やプロペラ音に邪魔されて、龍田の耳には届いていないようだった。摩耶と陸奥は頷き合い、行動に移った。

 

 木陰から最小限身を乗り出して、陸奥が手榴弾を龍田に投げつける。落ちた先に小石でもあったのか、それは龍田の足元でかつんと音を立て、彼女の注意を惹いた。焦燥の呻き声が短く響き、殺傷力の小さい爆発が起こる。閃光と、音そのものが破裂したかのような衝撃が、遮蔽物に隠れていた二人の艦娘にも感じられた。その片割れ、陸奥が飛び出す。途端、彼女の視界は上下逆転した。細い鉄線が足首に食い込み、千切れそうなほど痛んで、そこから血がだらだらと流れ始めるのが分かった。吊るし罠だ、と思って顔が青ざめる。今の自分は的そのものだ。そして見れば龍田は、咄嗟に片目を手で覆って閃光から守っていたらしい。大音響で脳を揺すられて足取りが不確かになりつつも、陸奥の方を向き、熟練した艦娘の矜持か、腰の刀を抜こうとしている。

 

 そこに摩耶が襲い掛かった。



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10.「Warship Troopers」

 陸奥たちの無線交信を傍受した吹雪は、何の感情表現も交えることなく、ただ「いいですね」と呟いた。それまで龍田との連絡に使っていた無線機を彼女に横からいじられた那智は、「何がいいものか」と喉元まで反論が出掛かったが、それを口にしたところで吹雪が那智を満足させてくれるような返事をするとは思えなかった。それでも黙っているのは吹雪に対する敗北に感じられて、葛藤した末に那智は言った。「何がだ?」するとやはり吹雪は、つまらない質問はやめてくれませんか、とでも言いたげな目で那智を見つめると、「決まっているでしょう」とだけ応じた。苛立ち混じりに、もう一度那智は問い返す。

 

「だから、何がだと言っているんだ。無線を聴いた限り、連合艦隊は龍田に翻弄され通しだぞ。陸奥は艦隊員の所在も把握していない。たった一人を相手に易々と分断され、見事に各個撃破されているじゃないか。それが望みだったのか?」

 

 吹雪はその質問に答えて言った。「それが一番の、という訳ではありませんが、その一つではありましたよ」そしてそこで言葉を切ると、それが相手(那智)の心の奥に土足で入り込む発言になると確信した、わざとらしい口調で訊ねた。「あなたは随分と嬉しそうですね?」彼女の言葉に、那智は確かに自分が彼女の言葉通りの心境であったことに気づき、鼻白んだ。自らの手で育て上げた艦娘が、絶望的な状況と戦力差を物ともせずに戦い、勝利を収めつつある事実は、()()()()にとって誇らしく感じられるものだったのだ。しかしもちろんその感情は、この場において適切なものとは言えなかった。吹雪の視線による批判から逃避するように、那智は長らく思い返すことのなかった過去の記憶に意識を浸らせた。

 

 と言っても、那智にとって龍田は特別な訓練生ではない。彼女が教官時代に大勢育て、海へと送り出した軽巡「龍田」の内の一人に過ぎず、その後今日まで再会の機会にも恵まれなかった。覚えていることはそう多くなかった。彼女よりもむしろ、彼女の姉妹艦である天龍についてのことを多く覚えていたほどだ。那智は左手に意識を向けると、ゆっくり握り拳を作った。教え子(天龍)のみぞおちに沈む左手から伝わった、柔らかな感触が蘇る。あれはよくなかったな、と那智は自責した。右腕を失ったことなどが原因で前線での戦闘部隊から外され、教官職に任じられた那智は、何度も復帰の嘆願を出しては却下されていた。その度に彼女には鬱屈が溜まり、ある時とうとう爆発した。それが運悪く、天龍を含む当時の訓練生たちへの八つ当たりという形で現出したのである。

 

 目を閉じれば、その時のことが那智にはすっかり思い出せた。訓練生たちに向かって「伏せろ! 地面に伏せろ!」と怒鳴る自分の声。それに従う訓練生たち。その中で動かずにいた天龍の、見開かれた片目。沸き上がる激情。殴られてうずくまる天龍、今度は立つように命じる自分、龍田がさっと駆け寄って、天龍に肩を貸す。自らは荒れ狂うまま、訳の分からぬことを叫ぶ。龍田の顔は天龍に、だが目は姉を殴った教官へ向いている。と、そこで那智は混乱した。記憶の中の龍田の目は、那智への怒りや敵愾心に燃えていて然るべきであったのに、それとは別の輝きを放っていたからだ。那智にはそれが親しみや、憧憬のように感じられた。そんなことがある筈がないだろう、とよくよく思い出そうとしてみても、結果は変わらなかった。

 

 溜息を一つ吐き、那智は思考を目下の問題に切り替えた。連合艦隊が失敗したことは、今や明らかだ。その原因は幾つもある。政治的な事情で時間と適切な装備を与えなかった提督たち、悪天候、拙速な上陸の判断、陸戦経験の欠如。最後の一つはそもそも艦娘の根本的な運用法が対深海棲艦戦を目的として築かれてきた為、責めることはできない。陸戦に造詣の深い龍田や那智こそ異端であり、海軍的ではないのだ。けれど残りについては、避けられた筈だった。特に、上層部による制限がなければだ。那智は陸奥の戦場における指揮や、時期尚早な上陸などには批判的だったが、後方からの横槍を受けたことについては同情していた。それさえなければ、連合艦隊に現況のごとき敗北はなかったに違いないのだ。

 

 次の一手はどうなるのだろうか。そう考えて、ようやく那智は吹雪の発言の意図を理解した。連合艦隊が撃破されつつあることは、提督たちにも伝わっているだろう。彼らの間で、前回却下された吹雪の案、つまり深海棲艦の投入が現実味を帯び始めていることは、想像に難くなかった。だからこそ吹雪は「いいですね」と言ったのだ。一度は拒否した提案を海軍が受け入れ、あまつさえそれで事態が解決すれば、吹雪(軍警)は海軍に貸しを一つ作れる。それも大きなものをだ。よしんばそれで解決しなかったとしても、海軍が軍警のオブザーバーの意見を容れたという事実は、最終的な解決時に「海軍と軍警が協力して事態を収束させた」と発表する為の十二分な材料になる。そして血を流すのは融和派から借りてきた敵性深海棲艦だけであり、人や艦娘は傷一つ作ることがない。

 

 いい手だ。那智は素直にそう評価した。深海棲艦に、より限定するならば人類と和平を結ぼうという気のない深海棲艦に対して、彼女は一切の慈悲を持っていなかった。従って、彼女たちの血がどれだけ流れようと、憐れみを覚えることはなかった。海軍も損をする訳ではない。軍警も、死んでもいい駒を派遣しただけの融和派も、それぞれに得るものがある。龍田は死ぬかもしれないが、それを覚悟せずに今回の事件を起こしたのなら、それこそその愚かしさは死に値するというものだ。いい手だ、と那智は再び胸中で呟き、それに続けて「気に入らんな」と現実でも言葉にした。吹雪は目だけ動かして那智を見たが、まぶたを下ろした彼女にその所作は感知できなかったし、目を開いていても気づかなかったろう。那智が、それだけ己の独白に動揺していたからだ。

 

 考えることも、自問することも避けたかったが、那智にはそれを止められなかった。()()()()()()()()()()()()? 龍田が死ぬかもしれないから? その為に深海棲艦を使おうとしているから? これらの問いへの答えは、どちらも是であると同時に、非でもあった。那智は龍田が死ぬのを何とも思わないでいられるような、冷血な人間ではなかった。講和は成れども軍民問わずしこりの残る相手である深海棲艦の力を、海軍が借りようとしていることにも、やり切れない思いを抱かずにいられなかった。しかし龍田の死はどのような手段によっても事態解決の上で不可避に思えたし、必要なら何でも使うというのは、那智が戦争で学んだ道徳の一つでもあったのだ。そしてこの問いかけは、那智が吹雪の策を気に食わないでいる理由の、特定の側面にしか焦点を当てていなかった。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。那智の嫌悪感の出所は、まさしくこれだったのだ。自身が必死になって生き抜いた戦争の紛い物を、目の前で見せつけられることへの不満が彼女を苛立たせており、また那智はそのことに驚きもしていた。自分の中で戦争体験についてきちんと片をつけられていたなら、そんな不満が出てくる理由はなかったからだ。単なる味気ない過去として、あの深海棲艦との戦争を処理できていたのなら──そうして、那智は己にそれができていると信じていたのである。にも関わらず、吹雪の作戦に彼女が思ったのは、「許容しがたい」という感情的な一言だった。

 

「本気で深海棲艦を投入するつもりなのか?」

 

 那智は目を開くと、部屋の壁に寄りかかって考え事をしている様子の吹雪にそう訊ねる。返事は那智が予測した通りの、沈黙だった。それは単純な肯定だけでなく、「今更そんなことを言うのですか?」や「今になって撤回できるとでも?」、「愚問ですね」といった複数のニュアンスを含んだものだった。何とか彼女の意思を変えられないか、元教官は頭を回転させようとする。だが彼女の経験は、吹雪の意見を変えるには、彼女を意のままにすることのできるただ一人の人物、彼女の“司令官”を説得するしかないという解答を既に出していた。今は軍警を牛耳る立場に収まっているその女提督の顔と、吹雪と共に彼女の下にいた頃のことを思って、那智は顔をしかめそうになった。が、それを抑制し、無駄と知っている説得を試みた。

 

「奴らがどんな手合いか、私もお前もよく知っているだろう。深海棲艦は精強で、狡猾で、抜け目ない連中だ。もし奴らが龍田を上首尾に始末したとして、その後素直に投降なり撤退なりしてくれると思うのか? あの島に潜む敵が一人から三人に変わったら、軍警にとっても不利益になりかねないぞ」

「もしそうなったら、後はロシア側に任せるだけです。日本国民を彼らに始末させたら大問題ですが、深海棲艦なら新聞の片隅にも載りません」

「その深海棲艦を送り込んだのが日本だと知られたら、それこそ大問題だ。内々に済ませることなどできなくなるだろうな」

 

 初めて吹雪が退屈さ以外の感情を顔に浮かべた。感心したような表情で近づいてきて、那智の顔を覗き込む。無線機の前の椅子に腰掛けていた那智は、距離を取ろうとして椅子をがたがたと言わせながら後ずさった。「誰がそんなことを教えるんでしょうね?」と軍警司令秘書に問われて、彼女は自分の発言が相手にどう受け止められたかを理解した。しまったと思うと共に、那智は体が冷え込んでいくのを感じた。艦娘「那智」としての制服の下、背中にじとりとした汗がにじんで、シャツが素肌に張り付く違和感を覚える。吹雪の瞳から視線を外さないまま、彼女はどちらがいいか比較した。誤解させたままにしておくか、それを解くか。

 

 数々の決断を下してきた那智にも、即断はできなかった。深海棲艦の投入を阻止しようとするなら、誤解させたまま、脅しを掛けでもしなければ目的は果たせないだろう。けれど軍警司令秘書を脅すということは、彼女と個人的にも密接に繋がりのある軍警司令を脅すことと、ほぼ意味は変わらない、と那智は見ていた。しかもそうやって軍警を丸ごと敵に回しても、吹雪を翻意させられるという確証はないのだ。那智には誤解をそのままにしておくことが、分の悪い賭けとも言えない愚行のように思えた。言うことを決めて、吹雪の発する圧力を押しのけるように、固い声を出す。

 

「私が言っているのは、()()()()()()じゃない」

 

 すると、吹雪は身を引いた。圧力が消える。那智は緊張を解き、視線を床に落として、安堵の溜息を迂闊にも漏らした。はっとして目を上げると、吹雪の失望の表情が視界に映る。元いた壁際に戻って、彼女は軽蔑したように鼻を鳴らした。戦争中まで遡ってみても、那智には吹雪がこれほど露骨に感情を表現したことが他にあったか、見つけられなかった。彼女は自身のがっかりした気持ちをそのまま乗せたような、諭すようにさえ聞こえる口調で那智に言った。

 

「正直に言えば、私は期待していたんです。あなたが私を脅してくれるんじゃないか、って。教師らしく、自分の教え子を殺させない為に、手段を選ばずに私の邪魔をしてくるんじゃないかと。それは予想でもありました。でも、あなたはそうしなかった。とても残念です。あなたは教え子を殺させない為にではなく、あなた自身の為に私を止めようとしたんですから」

 

 那智は不可解に思い、吹雪に反論しようとした。龍田の教官を務めたことが、軍警司令秘書を脅してまでも彼女を守る理由になるとは思えなかった。訓練所を出てすぐの子供そのままの龍田ならともかく、既にその時期は終わって久しく、十五歳の龍田はいなくなってしまったのだ。最早彼女は、那智にとって庇護の対象ではなかった。自立した存在だった。そういうことを、つっかえつっかえに言い立てる。そうすると吹雪は、ますます落胆したようだった。

 

「それでも、あなたは彼女の教官でしょう。あなたには責任がある筈です、彼女の戦争を終わらせる責任が。全てではなくとも、その一端程度は。それを果たすなら、深海棲艦に任せる必要はありません」

「私の教え子だから、私が行って、殺すべきだと言っているのか? 当てにならない第三者に頼ったりせず、この手で教え子を殺せと」

「ええ。それが龍田を育て上げた人間としての、責任というものです。できないなら、あなたは教官など務めずに退役するか──いっそ、その右腕を失った時、死んでいた方がよかったんです」

 

 その挑発に思わずかっとなり掛けたものの、すんでのところで那智は思い留まった。それもまた、吹雪には気に入らない様子だった。

 

「有効な代案は出さない。私を脅してでも、という決意もないし、己の手を汚す気概もない。あなたには一体、何があるんです?」

 

 壁を離れ、吹雪は部屋の出入り口へと向かった。那智が追いすがってくるか確かめる為にか、彼女は戸口で立ち止まり、数秒ほど待った。しかし那智は一歩も動かなかった。椅子から立ち上がることさえしなかった。吹雪はゆっくりと右手で自身の顔を覆った。長い溜息を吐き、最後の最後まで彼女の期待を裏切り続けた昔の戦友を、(かえり)みる。以前は所属する艦隊のあらゆる構成員に頼られ、心の拠り所の一つとされる艦娘であった那智は、道を探すことを諦めた迷子のように俯いたまま、微動だにしていなかった。吹雪はぽつりと言った。

 

「あなたは、本当に、全く。他の教え子たちがこんな様子を見たら、何と言うでしょうね」

 

 疑問への返事を待たずに、吹雪は部屋を出る。ドアが音を立てて閉まると、那智にはその無慈悲な音が自分を責めているように聞こえた。頭の中でぐるぐると、吹雪の言葉が回る。龍田の命を救う為ではなく、己の不快感の為に止めようとしたことについて、動機がそんなに重要か、と那智は反論したかった。龍田のところに行き、直接手を下すのを忌避していることについて、危険を避けたいと思うのは当たり前じゃないか、とも。「私は民間人なんだぞ」と那智は開き直るように言った。「軍人じゃないんだ」聞かせる相手のいない言葉が、部屋の壁と床に染み込んで消える。

 

 けれども、彼女はそこでふと、吹雪の言葉にも考慮すべき面があることを認めた。教え子たち、それも艦娘訓練所で鍛え上げた教え子たちがこれを知ったら、どう思うだろう。今現在の『那智教官』の姿を見て、それを誇りに思うだろうか?

 

 言い訳や益体もない文句は、幾らでも出すことができた。吹雪に言ってやりたいことも、龍田に言ってやりたいこともその中には含まれていた。()()()()? ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。だが、教え子にして戦友の艦娘たちがどんな目でいつも自分を見ているかを思い出すと、その文句は心の中で途端に勢いを失った。那智は、手ずから鍛えた彼女たちに信じられる自分が好きだった。彼女たちから寄せられる信頼を失いたくなかったし、それに背きたくなかった。

 

 再び、那智は教官時代の記憶を呼び覚ます。国外の泊地から電話を掛けて、感謝を伝えてくれた艦娘がいた。配属されてから最初の休暇を使って、会いに来てくれた艦娘がいた。戦死した教え子の遺書を受け取った両親が、彼女がどれだけ教官を慕っていたか知って欲しいと、その遺書のコピーを渡してくれたこともあった。戦闘部隊に行く筈が広報に回されても、那智の励ましの言葉を胸に努力し、彼女に訓練されたお陰で、他の教官の下にいた訓練生たちよりも恵まれた時間を過ごすことができた、と手紙を送ってくれた艦娘もいた。那智は彼女たちが自分を見ている様子を思い浮かべた。彼女たちの瞳は、無邪気で純粋な信頼と崇拝に満たされていた。那智はそれを裏切ることができるほど、勇敢ではなかった。それに流されるほど、臆病でもなかった。

 

 吹雪を追いかけることに決め、那智は立ち上がった。足取りは重く、気分は悪かったが、しなければならないことが何なのか、分かっていた。龍田を止める。何としても。それが吹雪の言う「龍田を育て上げた人間としての責任」を果たすことになるかどうかは分からなかったが、彼女はその内容はどうあれ自身の意志で選択したということで、満足していた。扉を開き、廊下に出る。人の気配を感じて、右を見る。と、そこには彼女に背を向けた吹雪と、龍田の提督が立っていた。提督は渋面を隠そうともしていない。那智の顔が、後悔に染まる。

 

 吹雪はくるりと振り返り、言った。

 

「投入が決定されました。もう手遅れです」

 

*   *   *

 

 雨合羽を脱ぎ捨てた龍田は、口の中に広がった泥の味をたまらなく不愉快に思った。閃光を浴びた目の側の視界は、白いヴェールを被っているがごとくはっきりしないし、頭はがんがんと痛み、耳鳴りも鳴り止まない。その状態で摩耶の勢いづいた右拳の一撃を避けるには、地面を転がるしかなかったのだ。口中に入り込んだ異物を吐き出しながら、龍田は自分を仕留めようとした拳の持ち主を見た。躊躇いもなく放たれた摩耶の拳は、龍田の過去位置を殴りつけ、加古の縛りつけられていた木に当たっていた。右腕の艤装の重みが乗せられていたせいか、少し幹がへこんでいるように見えて、龍田は背筋をぞっとさせた。一度でもあんなものに当たったら、それで終わりだ。

 

 しかし距離を取る訳にも行かなかった。摩耶の砲撃から龍田を守ってくれていたのは、加古が龍田に近すぎるという一点のみだったからである。横っ跳びに避けたせいでその守りを失った今、逃げる為に背を向ければ、摩耶は大喜びで主砲を斉射するだろう。龍田は右手で腰の刀を抜き、腕を引き戻して構えつつある摩耶に斬りかかりながら、秋雲の艤装を回収した時に、薙刀も持ってくればよかった、と悔やんだ。刀の間合いは素手よりも遠いが、摩耶の踏み込みの速さを見た後では、龍田にとってその優位は存在しないものに思えた。

 

 危なげのない動きで、摩耶は刀を迎撃する。彼女の右腕の艤装に外へと刀身を払われて、龍田の体は左に流されそうになる。あえて止まらず、彼女は流されたその方向に突っ込んだ。摩耶の左舷側艤装から砲撃が行われ、一秒前に龍田の胸があった空間を抉り取って空へと飛んでいく。今ので上空の航空機にも、おおよその位置を掴まれてしまっただろう。龍田としては落ち着いて立て直したかったが、そんな時間はなさそうだった。

 

 身を返す勢いで刀を上段に構え、摩耶の首へと振り下ろす。彼女はこれを見て、またも右腕を使い、艤装で防ごうとした。加速が足りなかったせいか、受け切られる。だが龍田もそうなることは予想していた。左足を伸ばし、振り下ろされる刀にばかり気を取られていた摩耶の隙を突いて、彼女の膝の裏を蹴りつけようとする。それで体勢を崩せたなら、蹴り飛ばして土の上に転がし、その間に逃げるつもりだった。ところが摩耶は全く目をやりもせずに、龍田の蹴撃に同程度の力のこもった蹴りを合わせて、それをいなした。びり、と痺れたような痛みを感じて、龍田は足を引っ込める。上段を防いだ状態からの、体重を乗せられない蹴りでこの威力か──艦種の違いがあるとはいえ、龍田は彼我の身体能力の差を恨めしく思った。

 

 と、摩耶の体が沈んだ。右腕の防御も下がり、龍田の押し込む力が空滑りして、前につんのめりそうになる。己の不覚を罵る間もなく、不敵に笑った摩耶が一歩踏み出し、彼女の左腕が龍田の脇腹に刺さった。内臓を揺さぶられる痛みと、骨が軋み、折れる音。殴られた勢いで下がりたかったが、龍田は意志の力を総動員してその誘惑を跳ね除け、刀から手を放して摩耶の左腕を取りに行った。狙いに気づいたか、相手は腕を引こうとする。けれど盾にした右腕の艤装に視界を遮られていて、龍田の手の動きを読み取るのが遅かった分、対応も遅れた。彼女の両手から逃げ切れず、摩耶の左腕が取られる。何かされる前に頭を潰そうと、摩耶は右腕を振り上げた。

 

 どん、と衝撃が彼女の体に走った。上げた右腕の下をくぐられて、龍田に体当たりされたのだ。艤装をつけていない軽巡のタックルでも、その運動エネルギーは無視できない。摩耶は一歩下がって、姿勢を維持しようとした。その足に、龍田の足が絡む。その上、地面は降り注ぐ雨で最悪の泥濘と化していた。ずるりと滑り、二人して泥の中に倒れ込む。上を取った龍田はすかさず掴んでいた腕を放すと、ナイフを引き抜いて相手の左舷艤装の接続部を抉り、操作能力を奪った。噛みしめた歯の間から苦痛の声を漏らしながら、摩耶が右腕を乱暴に振り回す。それが龍田の横面に当たった。直撃した訳ではなく、かすったようなものだったが、それだけで龍田の体が大きく傾ぐ。ナイフが彼女の手から飛んで、陸奥のいる辺りへ転がる。

 

 摩耶はこれを好機と見て、馬乗りになろうとする相手を突き飛ばそうとした。もちろん龍田もそれをさせまいと、顔面を狙って突き出された右拳をいなして、反対に摩耶の首へ自分の右手をやり、絞めつける。窒息が始まり、摩耶は顔を真っ赤にして本能のままに暴れる。気を抜けば振り払われそうになるのを、龍田は全力を使ってしがみつき、絞め続ける。摩耶の顔色が鬱血して赤黒くなり始めた。大きく振り動かされていた腕が、動きを失ってくたりと倒れる。ぐりん、と目が裏返り、龍田は彼女が気絶したものと思って手を放し、気を抜いた。後は陸奥をどうにかするだけだ、と。

 

 だから何が起こったのか、地面に背中から落ちるまで龍田には分からなかった。だが何か大きな力が自分にぶつかり、暴走した車が子供を跳ね飛ばすように、宙を舞わせたということだけは分かっていた。受け身を取る余裕もなく、仰向けに叩きつけられ、したたかに後頭部を地面へとぶつける。そのせいで、意識が朦朧とした。誰かが咳き込み、吐くような音が聞こえて、龍田は身を横に転がして起き上がりながら、彼女の敵のいる方を見た。気絶したふりをしていた摩耶が、四つん這いになって喉に手をやり、胃の中のものを泥の上にぶちまけていた。大方吐き終わったか、顔を上げて龍田を見る。視線が交わされる。次の動きは、互いに全く同じタイミングで行われた。

 

 摩耶が右腕を上げ、発砲しようとする。地を蹴った龍田が、一直線にその砲口目掛けて飛びつく。発砲音。首を捻った龍田の頭のすぐ脇を、砲弾が通り過ぎる。頭の中を攪拌(かくはん)される感覚が、龍田を襲う。けれども、それで彼女の体が止まることはなかった。摩耶は再び組みつかれ、地面に押し倒される。ただし今度は彼女にも準備ができていた。倒された勢いを利用して、龍田の上を取る。そのまま摩耶は右腕を引き、拳を相手の顔がある場所へ叩き込んだが、払われて逸らされた。二発目を打とうとするが、その前に龍田の足が彼女の首に絡みつく。龍田の渾身の力で横へ投げられた摩耶は、軽く転がって距離を調節しようとした。けれどその首は龍田の足が執念深く押さえており、気づけば右腕も掴まれていた。

 

 この熟練の重巡艦娘が失敗を悟った時には、もう遅かった。龍田は足で彼女を押さえつけたまま半身を起こし、摩耶の右腕を強引に肘のところで捻じ折った。彼女は初めて、悲鳴を上げた。摩耶の左手が自分のスカートに伸ばされ、拳銃を掴み、撃鉄を起こしながら引き抜く。滑らかな動きだったが、速度が不足していた。彼女が引き金を引くよりも先に、龍田はそれが武器だと判断して奪い取った。右手の中の銃を見て、驚く。()()()()()()()? けれど状況から考えれば、それは艦娘を殺すことのできる弾薬を装填された、危険な武器に違いなかった。こんなものまで用意して殺しに来たのか、と半ば感心しつつ、龍田はそれを摩耶の頭に向けて、引き金を引こうとした。陸奥が叫んだ。

 

「やめて!」

 

 その声を無視し、陸奥を見ずに龍田は指に力を入れた。でも、何も起こらなかった。かちん、と音を立てて撃鉄が落ちただけだった。龍田も、摩耶自身も、どうして弾が出ないのかと思った。戦闘中の興奮で回転のよくなった龍田の頭が、瞬時に解答に辿り着く。彼女は拳銃の遊底を引き、初弾が装填されていなかったことを確かめた。手を離し、遊底が戻る。これで弾が薬室に送り込まれた。

 

 今度こそ摩耶の頭の中身を地面に広げてやろうとしたところで、泥の上に何かが落ちる音がした。そちらを見る。龍田のナイフを片手に持った陸奥が倒れていた。ナイフを拾い、吊り罠のワイヤーを切って脱出したのだ。彼女は身を起こし、ナイフを投げようとしていた。咄嗟に龍田は拳銃を彼女に向け、発砲しようとする。その腕が跳ね上げられた。摩耶が、折られたせいで警戒されていなかった右腕を使って、下から無理やり押し上げたのだ。放たれた弾丸は明後日の方向に飛んで行き、陸奥の投げたナイフは龍田の左肩に突き刺さった。龍田が鋭い痛みに思わず仰け反ると、仰向けのままの摩耶が追撃に蹴りを放つ。龍田は飛び退って、これを回避した。

 

 潮時だ、と傷ついた軽巡は判断した。陸奥と摩耶から目を離さず、瞳を動かすこともなく刀の落ちた場所を見やる。陸奥は両腕で頭と心臓を守りながら、突進の姿勢を見せていた。これでは拳銃を何発撃ったところで、致命傷を与える前に肉薄され、反撃で殺されるだけだろう。今なら、負傷した摩耶や加古を優先して、追いかけて来ない筈だ。頭の中でそう計算して、龍田は動き始めた。牽制に一発、陸奥に向けて射撃する。幾ら生存術に貪欲な龍田でも、拳銃射撃にまでは熟練していなかったので、命中は期待していなかった。ただ陸奥がそれで少しでも怯んでくれればいいと思ってのことだった。目論見通りになったかを確かめずに、龍田は刀のところまで走り、それを拾って駆け出す。ナイフが刺さったままの肩がひどく痛んだが、血を余計に流さないで済ませる為にも、安全な場所に戻るまで抜く気はなかった。

 

 摩耶に殴られた脇腹が痛んでも、龍田は速度を落とさなかった。だが息が切れ始めたので、集中力を途切れさせることを恐れて、彼女は立ち止まった。自分で仕掛けた罠だからこそ、彼女はその悪辣さをよく知っていた。間違ってもそんなものの犠牲になりたくはなかった。一本の手頃な、ごく細い木に背を任せ、手に持ったままだった刀を鞘に納める。それから肩に刺さったナイフを引き抜いてそれも鞘に戻すと、腰の水筒を取り、中の希釈修復材で応急処置をした。脇の傷に修復材を塗り込みながら、龍田は疑問を感じた。皮膚に塗っているのに、どうして骨折が治るのだろう? しかし考えてみても答えが出る訳がなかったので、やがてその問いは頭から消えた。

 

 代わって、敵のことを考える。陸奥と摩耶に散々な目に遭わされるまでに、彼女は初期に離脱しなかった連合艦隊の艦娘たちのほぼ全員を片付けていた。誰一人として殺しはしなかったが、龍田はそれを「殺せば彼女たち(連合艦隊)は後に退けなくなる、そうすれば数や能力で不利なこちらが負ける」からだと自分に説明した。それなりに筋は通っていたが、それが本当なのかどうなのかは考えなかった。彼女自身にも分からなかったし、とにかくそれで上首尾にことが運んでいたからだ。

 

 激しい運動のせいで発生した熱が、雨で冷やされていくのを龍田は感じた。額から目に流れ込みそうになった水滴を、指で拭う。そろそろ動き始めなければ、体温の低下が運動力を奪い始めてしまうだろう。そう判断して、彼女は長く憂鬱な吐息を漏らした。雨風の防げる場所に戻りたかった。緑の屋根を見上げて、龍田は呟いた。

 

「そろそろサイトに戻ってもいいんじゃないかしら?」

「ダメよ」

 

 背後から声が響く。龍田は後ろ手に木を突いて、離れようとした。けれど、摩耶を残して追い続けてきた陸奥が、龍田のもたれていた木ごと彼女の細い首を右腕の中に抱え込む方が早かった。逃げられないと分かった時点で龍田が自分の右腕を陸奥の腕と自身の首の間に差し入れていなければ、彼女の首の骨は木と諸共に圧し折られていただろう。龍田は左手で腰の刀を鞘ごと掴み、木の後ろにいる陸奥の脇腹をそれで突いた。腹筋にめり込む感触はあったが、陸奥による拘束は緩まない。それどころか彼女はもう片腕を龍田の脇の下に差し入れ、鞘による殴打を防ぎながら、バックチョークをより堅固な形にした。先ほどの摩耶のように、足をばたつかせて龍田はもがく。こうしている内に、まだ動ける連合艦隊の艦娘たちがここに来れば、どうなるかは分かり切っていた。

 

 腕ごとの強い圧迫を受けて、龍田の意識がぼやけ始める。右手から拳銃が滑り落ちそうになって、彼女はその存在を思い出した。左手でそれを取り、木の後ろから回されている陸奥の右腕の、なるべく付け根に近いところを撃つ。二発撃つと、力が少し緩んだ。三発目で、龍田を絞めつけていた腕が離れる。それと同時に、龍田は左の側頭部を殴られた。よろめきながら振り返り、拳銃を撃とうとする。が、陸奥は戦艦の脚力を活かし、摩耶以上の踏み込みの速さを見せた。龍田は完全に後手に回った。陸奥の女性的な左手が龍田の胸倉を掴み、彼女を近くの木の幹に叩きつけた。これまで受けたことのない強さの衝撃に、龍田の肺から喉へと空気が抜け、意識が明滅する。右手から拳銃が落ちる。

 

 陸奥は至近距離から龍田を睨みつけながら、傷口から今も血をだらだらと流し続ける右腕を構えた。殴られることを覚悟して、龍田はあごを引き、目を固く閉じた。恐怖に荒く浅い息が出る。だが、数秒経っても殴打は来なかった。どういうことかと思って、彼女は目を開いた。陸奥はその瞬間を狙って、龍田を横殴りに打擲(ちょうちゃく)し始めた。筋肉を銃弾に食い荒らされていても、陸奥のパンチは強力だった。それは一発ごとに、龍田の気力を奪っていった。痛みも段々と感じなくなり始め、ただ揺さぶられるような鬱陶しさを覚えるだけだった。()()が止み、かすんだ視界一杯に陸奥の顔を捉える。紅潮はしていたが、無表情で、その目は龍田以外に何も映していなかった。陸奥は最後の一撃のつもりなのだろう、大きく腕を引き、勢いをつけて殴りつけた。骨が砕ける音が、龍田の耳元で響いた。

 

 けれどもその音の出所は龍田ではなかった。陸奥の握り締められた指が、パンチの軌道上に置かれた龍田の左肘に当たって立てた音だった。予期せぬ痛みに、陸奥の意識がそちらに割かれる。ごく短い時間だったが、龍田には十分だった。彼女は右手を伸ばして相手の頭部艤装、信号桁を模したような形のそれを掴んでもぎ取ると、尖ったそれを陸奥の左目に突き入れた。突き刺さる直前、ギリギリで反応した陸奥が上体を反らそうと試みた為に、それは脳にまでは達しなかったが、左目は潰れた。さしもの陸奥も、ほんの半秒ほど呆然とする。その間に、龍田は足元の拳銃を拾って逃げ出していた。彼女の頭にはサイトに戻ることしかなかった。何度も殴られたことによる鈍い痛みを抱えたまま、龍田は木々にすがりながら走った。それはどう見ても敗走の様子だったが、しかし彼女はまだ生きていた。

 

 何処をどう走っているのか本人にもよく分からないまま、龍田は走り続けた。やがて見えるのが通ったことのある景色になってきて、暫くすると五十鈴のいる建物が見えてきた。ほっとするのと足を速めるのを一緒にすると、龍田は半ば体当たりするようにしてサイトのドアを開け、頑丈な屋根の下、奇妙な同居人のいるところへと文字通りに転がり込んだ。その時の五十鈴は食事の最中で、ぽかんとしてレトルトパウチの中身をスプーンでかき混ぜていた手を止め、ぼろぼろの龍田を見た。彼女の顔は腫れ上がっていたし、胸元はボタンが取れて大きく開いており、体中に泥が付着していた。倒れ込んだ彼女に、五十鈴は肩をすくめて一言だけ言った。

 

「疲れてるみたいね」

 

 這いずるようにして、龍田は壁際へと移動する。そしてぴったり背中を壁にくっつけて座ると、腰の水筒を取ってその中身を頭から被った。顔から腫れが引いていき、体の細かな切り傷や擦り傷も消えていく。水筒が空になると、彼女はそれを脇に置いて息を長く吐いた。これからどうするか、考えなくてはならない。連合艦隊はあれで諦めるか? その答えは、龍田に優しいものではなさそうだった。最初に離脱した負傷者たちの護衛を戻せば、連合艦隊側は数の優位を保つことができる。分断を狙うのも、もう警戒されて無理だろう。そういった密接に連携した集団に無闇な攻撃を仕掛ければ、必ずや手痛い反撃を受けると龍田には思われた。

 

 五十鈴を見る。外では雨が降っているとしても、砲声や航空機のエンジン音が聞こえていなかった訳ではないだろうに、平然と食事を続けていた。龍田の視線に気づき、スプーンを口にくわえたまま見つめ返してくる。ここ暫くで随分と彼女は艦娘らしくなった、とぼんやり龍田は考えた。拉致されてきた初日なら、もっと取り乱していただろうに。まるで民間人か何かのように、発砲音に震え、プロペラ音に怯えていたことだろう。()()()()()()()()()()()()

 

 龍田は重い腰を上げ、置き去りにしていた艤装を身につけた。やるべきことを頭の中でリストアップしていく。まずは薙刀を回収して、それからまだ戦える連合艦隊の艦娘たちを迎え撃つ準備をしなくてはならない。入念に備えた上で不意を打てば、可能性はある筈だった。あちらこちらを引きずり回し、毒を食らわせ、疲労させ、判断力を奪えば、どんな相手にだって勝てる。龍田は訓練生の頃に那智から教わったことを一つ一つ思い返し、それを忠実に実行しようと決めた。

 

 希釈修復材を水筒に詰め直し、罠用の資材を幾らか持って、龍田は戸口に向かった。扉を開けようとしたところで艤装から、レーダーが何かをキャッチした、という警告音が鳴る。彼女は舌打ちして、レーダーが何に反応したのかを読み取った。その結果に思わず、口から言葉がこぼれる。

 

「冗談でしょう?」

 

 彼女の尋常でない様子に、五十鈴が反応した。龍田の背中に向かって、短くぶっきらぼうに「何よ?」と尋ねる。訊かれた彼女はゆっくりと向き直った。顔には笑いのような表情が貼りついていた。龍田は言った。「深海棲艦が来るみたい」五十鈴は、心底どうでもよさそうに「ふうん」と答えた。それからこれだけでは味気ないと思ったのか、「なら、次は陸軍かしらね」と付け足す。その冗談で、龍田の気分は少しよくなった。凝り固まり掛けていた表情筋を指でほぐし、囁くように同居人へ言う。「そろそろ帰りなさい」だが解放されるというのに、彼女は噛みつくような剣幕で言い返した。

 

「すっかりあんたの戦争に巻き込まれた後で、何処へ帰れるって言うのよ?」

「元いた場所へ。みんなきっと、あなたを待ってるわ。とても幸せね」

 

 彼女は空になっていたレトルトパウチを、龍田に向かって投げつけようとした。使用済みのスプーン以外に中身の入っていない袋は、大きく狙いを外れて床に落ちた。それを見て龍田は、罠用の資材から残り少なくなったワイヤーを取ると、五十鈴に近づいていった。

 

*   *   *

 

 陸奥が目を押さえながら摩耶のところに戻ると、彼女は既に応急処置を済ませていただけでなく、龍田に拘束された艦娘たちや、はぐれてしまっていたが襲われずに済んだ者を探し出し、合流していた。龍田に対する殺意が心の下層に沈み、ある程度は冷静に振舞える状態に戻っていた陸奥は、この得がたい二番艦の有能さに脱帽したい気分だった。驚かせないよう、がさがさと音を立てながら彼女の方に近づいていく。森の中から現れた女を見て摩耶は身構えたが、それが敵ではなく自分の旗艦であることを認めると、少し肩を落として言った。

 

「逃げられちまったか」

 

 そして陸奥の目と右腕を見るや、彼女は慌てて駆け寄った。陸奥は希釈修復材を持たずに龍田を追い掛けていたので、負傷の治療ができなかったのだ。傷を塞ぐのと並行して、摩耶は銃創を調べる。彼女の見立てでは、上腕の動脈が破れていた。しかも傷口のサイズからして、その傷を作ったのは艦娘用の銃砲ではなく、通常の人間用の拳銃だった。意気消沈して、摩耶は言葉少なに謝った。憲兵隊の物資からふざけ半分で持ち出してきた銃が親友を傷つけたことが悲しかったし、そんなものをみすみす龍田に奪われた自分の間抜けさが許せなかった。陸奥は痛みの残る右手で親友の頬を軽くぺしりと一度叩き、微笑んだ。「お望みなら、後で死ぬほどお説教してあげるわ。今は次のことを考えましょ」その暖かい言葉に、摩耶は何とか微笑み返すことができた。

 

 互いに意識を切り替え、達成しなければならない任務について話を始める。陸奥としては退くことは考えられなかった。結果論として誰も死んでいないとしても、龍田が摩耶を殺そうとするのを彼女は見たのだ。その時点で、陸奥の中で決定は下された。冷酷だとは思わなかった。確かに龍田は戦友の一人だが、それは摩耶も同じことだ。それに摩耶は陸奥にとって掛け替えのない人物だったが、龍田はそうではなかった。天秤に掛ければ、どちらに傾くかは明白だった。陸奥は任務の遂行を固く誓った。今日、彼女たちの来たこの島で龍田以外の艦娘が流したあらゆる血の復讐の為に、彼女は殺されなければならない。

 

 だが、それを止めたのは誰あろう摩耶だった。全ての艤装を下ろしていた陸奥に通信が繋がらなかったので、単冠湾泊地の提督たちは、彼女の二番艦である摩耶に連絡を寄越したのである。その内容は、龍田との交戦の間に感情が磨耗した陸奥をして、大いに驚かされるものだった。「撤退命令ですって?」と陸奥は思わず叫んだ。激しい雨の音さえはね付けるその大声に、周囲の艦娘たちがざわつくものの、摩耶がぐるりと見回すと静かになった。声を潜め、陸奥の耳元に口を寄せて、彼女にしか聞こえないようにして言う。

 

「そうだよ。でもただの撤退じゃねえ。いや、何も言われてねえけどよ、あたしには分かるんだ。泊地の連中は何か目論んでる」

「見当はついてるの? それとも、あなたがそう考えてるってだけ?」

「おい、あたしはただの艦娘だぜ。あいつらの考えることなんか分かるもんか。だけど、ここにいるのは多分マズい。本当にマズい。退こうぜ、陸奥。そうしたら、あたしらの誰もここで死ななくて済む。後がどうなろうと知ったことかよ、そうだろ?」

 

 陸奥は考えた。数秒だけだったが、それはとても深い思考だった。個人的な感情として、龍田を見逃したくはなかった。彼女に重い一撃を与えたという直感が、陸奥にはあったからだ。ここで追撃すれば、龍田を仕留めることができる。その確信があるにも関わらず退くなどということは、容赦も慈悲もなく艦隊員を傷つけられた旗艦にとって、小さくない苦痛だった。けれども命令は命令であり、それは彼女が従うべきものだったし、命令無視に戦友たちを付き合わせる気にはなれなかった。歯を食いしばり、端正な顔を悔しさに歪めながら、陸奥は艦隊員たちに撤退を命令することにした。

 

 隊列を組み、負傷者同士で支え合わせながら、のろのろと艦隊は移動を開始した。陸奥はそれを最後尾から見て、惨めな気持ちになった。己の指揮能力に疑問を感じ、自分が旗艦だったから彼女たちがこんな目に遭うことになってしまったのではないか、と恐れた。その肩を横に来た摩耶に叩かれて、陸奥は自分が隊に置いていかれそうになっていることを発見した。摩耶に手を引っ張られて、歩き出す。いい年をして同性の友人と手を繋いでいることに陸奥は羞恥を覚えたが、摩耶の手を握っていると不思議なほど安心できた。離さないように、繋いだ手に力を込める。すると摩耶は陸奥の方に顔を向け、何でもないことのように言った。

 

「あたしも、前にいた泊地で旗艦やってた時にさ。必死の思いで深海棲艦を追い出した海域、っていうか島だったけどな、それを命令一つで放棄させられたことがあったんだ。今のお前と同じ気持ちになったよ。いや、きっとお前よりひどかったね。信じられるか? 他の泊地の艦隊を捕まえて、そいつらと不正規な連合艦隊まで組んで、何度も何度も再出撃を繰り返して、ようやく奪った島だったんだぜ? その為に、艦隊員が二人も沈んじまった。あたしの戦友、あたしの家族……」

 

 摩耶は頭を振った。彼女は体温の低下で色の薄くなった唇を噛み、視線を下に落としていたが、少しすると陸奥の目をまっすぐに見て言った。

 

「分かるか? 二人も無駄に死なせたんだよ、あたしは。そりゃ獲った島が放棄されるだなんて思ってもみなかったけどさ、そんなことは言い訳になりゃしねえ。だろ? だけど陸奥、お前は違った。お前はこのクソったれな島でさえ、誰も死なせなかった。これは、マジで、すごい。誰にでもできることじゃねえ。それをやったんだ。だから、お前は自慢の旗艦さ、あたしたちみんなのな」

 

 彼女の突然の告白は、陸奥の耳には何となく嘘らしく聞こえた。けれどその嘘らしさには、摩耶の手から陸奥の濡れた手袋越しに伝わる熱のような、確かな温かみが込められていた。陸奥は親友と視線を絡め合い、無言の内に互いが互いにとって欠かせない存在であることを再確認した。落ち込んだ気分がいきなり上向きになるということはなかったが、それでも数分前と比べると、今の陸奥の心は落ち着いていた。どちらからということもなく、二人は手を離した。握るもののなくなった手はすぐに冷えたが、降り続ける雨の冷たさでは打ち消すことのできない温もりが、心に宿っていた。

 

 二人は、隊列の後方を警戒しながら、移動を続けた。森の中の道なき道を行き、地を這うほどの速度で襲撃を受けた地点にまで戻った。摩耶は目を皿のようにして調べたが、道端に転がされていた薙刀は消えていた。五分と休むこともなく、残っているであろう罠に注意を払いつつ、森を出たお陰で少々軽くなった足取りで、砂浜への撤退を始める。そうして十分ほど歩くと、隊の先頭に立つ艦娘──龍田の被害に遭った中では一番軽傷の艦隊員であり、陸奥が世界で最も勇敢な艦娘の一人だと考えている秋雲が、擦り傷だらけの右手を上げて停止を指示した。陸奥は最後尾から彼女の下へ小走りで向かい、何があったのか訊ねようとした。しかし秋雲が口元に指を立てたので、言葉を飲み込んで耳を澄ませた。

 

 最初は、雨音しか聞こえなかった。けれど集中すると、進行方向から人の呻き声のようなものが聞こえた。陸奥は「もしかしたら、通信が繋がらなかった護衛や、最初に退いた負傷者たち、あるいは天城たちも、龍田に襲われたのかもしれない」という最悪の予想を立てた。龍田の被害に遭わずに済んだ幸運な艦隊員を呼びつけ、天城や最初の離脱者たちに通信できるか試すように言う。少しの間を置いて、彼女は陸奥に両方と通信が繋がった旨を伝えた。

 

 それを聞いて「じゃあ、さっき繋がらなかったのはどうしてかしら」と旗艦は思ったが、それよりも先に声の主を特定するべきだと考え直し、声のする方向へ移動を命じた。連合艦隊の艦娘たちは傷つき、疲れていたが、それでもこの命令を受け入れた。艤装を身に着けた艦娘たちを先頭に変えて、声へと歩を進める。近づくにつれて、それは大きくなった。だがその一方でその声は、まるで口にものでも詰め込まれているかのような不明瞭さを保っていた。陸奥は龍田が拘束した艦隊員たちが、そのような処置をされていただろうかと思い、摩耶に尋ねた。答えは否だった。

 

 龍田が今度に限って声を封じようとした理由について考えを巡らせつつ、陸奥はぬかるんだ道を進んだ。やがて暗闇の先に、動くものが見えてきた。地面に転がされ、もがきながら何か喚こうとしているが、くぐもった呻き声にしかなっていない。陸奥は他の艦娘たちを止まらせると、慎重に近づいていった。その隣に、摩耶が並ぶ。陸奥は横目で彼女を見たが、戻らせはしなかった。二人はいつでも応戦できる姿勢で、それが誰なのか分かるところまでたどり着いた。立ち止まる際に、摩耶の足が小石を蹴飛ばす。それはじたばたと地面であがき続ける誰かの背中に当たった。

 

 泥まみれの五十鈴は縛られた体を捻って振り返ると、服を裂いて作ったらしい猿轡(さるぐつわ)を噛まされた口から、明らかに呪詛と分かる声にならない叫びを上げた。



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11.「深海から来た傭兵たち」

 ぶかぶかの雨合羽を身につけた電は、洋上で停止した小型船の縁にしゃがみこみ、海面を覗き込んだ。空の暗雲を映して黒く濁った海に吸い込まれそうな気持ちになって、金属製の手すりを両手で強く掴む。潮水と今も降り続ける雨に濡れたそれは、かじかみそうになるほど冷たかった。思わず片手を離し、懐に抱え込む。それなりの広さがあって暖かな船室に戻り、持ち込んだ折り畳みベッドでここ数日の疲れを癒すべきかと考えたが、自ら提示することのできるそうするべき理由全てに抗って、彼女はその場に後ほんのもう少し、いることを決めた。その注目は、黒と灰の間の色に塗られた水平線に注がれていた。

 

 彼女が調達したこの船に同乗していた、三隻の深海棲艦たちがその線の向こうへと消えていってから、暫くになる。今頃は龍田も気づいていることだろうと思い、その時の彼女の様子を脳裏に浮かべようとした電は、よく知りもしない相手のことを想像するのは難しいという事実に直面した。つまらない結果に、彼女は憮然として手すりの根元を軽く蹴りつける。それから、この後のことを考えた。後のない深海棲艦たちが龍田を始末するか、その逆か、あるいは相打つことになるか。深海棲艦の攻撃が成功しようと失敗しようと、電にとっては損のない結果になる。依頼者である吹雪にどんな対価を要求したものかと思って、彼女は口の端を緩めた。

 

 海に背を向けて手すりにもたれかかり、空を見上げる。雨粒が額を叩き、目に流れ込み、頬を濡らす。唇に垂れてきた水滴を舌で舐め取ると、ほのかに塩の味がした。途端に気分が落ち込んでしまう。()()()()、と電は心の中で呟いた。()()()()()()()()。立ち上がって、船室に入る。雨合羽を隅に投げ捨てると、組み立て済の折り畳みベッドに横になった。合羽の守りを抜けた水で服は湿ったままだったが、電は気にしなかった。もっと濡れた服を着て、ベッドなしに眠った経験さえあったからだ。それを思えば、上等でなくともきちんとした寝床があるだけ、マシというものだった。

 

 いい時代になったと、電は本心からそう思った。戦争は終わった。二十歳にもならない子供が毎日のように海で死んでいき、そのことがニュースにもならない日々は終わり、それがかつて存在したことさえ疑わしかった平和が訪れたのだ。自分がその時代を作る一助を果たしたことが誇らしく、それだけに龍田が過去をあの島で蘇らせたことが彼女には不可解だった。どうして好き好んで、殺し合いを始めたのだろう? 世界にはそれ以外にも、できることが幾らだってあるというのに。

 

 奇妙でならなかったが、だからと言って電は龍田を狂っているだとか、心を病んでしまっているのだと決めつけるほど狭量ではなかった。きっと彼女にも理由があって、それは自分には想像もつかないものなのだと考えるだけの素直さがあった。加えて電は、そんな龍田の抱えた事情を気にしないで済ませられる、成熟した精神の持ち主でもあった。島に潜む彼女の動機がどのようなものだったとしても、始末してしまえば何はともあれこの件の解決に至る。その後で龍田という人物を研究し、類似の事件が起こらないようにするのは、自分たちの仕事ではない。電と、彼女に依頼をした吹雪は、この点において認識を同じくしていた。

 

 一際大きな波が、船を揺らした。ベッドから転がり落ちそうになって、電は小さな子供っぽい唸り声を上げると、上等な寝床から飛び出して船室の出入り口まで行き、扉を開けて外に向かって叫んだ。「これだから海は嫌いなのです!」それが何かを変えるということはなかったが、特別の理由もなく海で叫ぶことができるというのは、電のような戦争を体験した艦娘には格別の贅沢のように思われた。彼女にとって海は概ね口を閉じているべき場所という印象が強く、そこにタブーを破る快感があったのである。すっきりした、と考えながら、彼女は船室の扉を閉めた。

 

 また大波が来てもベッドから落ちずに済むよう、寝そべるのではなく、長椅子のように腰掛ける。足をぷらぷらと振ると、爪先が床をこすって耳障りな音を立てた。電はこのまま何もない海の上、船の中で、無為な時間を過ごしていたかった。海軍時代の記憶とその後の経験で彼女は心底海が嫌いになっていたが、それでも不思議と、陸にいるよりも海にいる方が落ち着けた。それに、もう電の仕事は終わったのだ。上司である赤城にバレないように深海棲艦たちの装備を整え、出撃地点まで連れてきたし、ロシア海軍が周辺被害として龍田の死を正当化して出張ってくる前に終わらせろ、という警告もした。そして仮に彼女たちが龍田に勝てたとして、それを迎えに行くのは電でなくともいいのだ。

 

 つまり、単冠湾に彼女がいる理由はもうなかった。だが本土に戻れば、融和派の拠点に帰らなくてはならなくなる。拠点に帰れば、今もあれこれと案件を抱え込んで顔色を悪くし、気つけのハーブティー漬けになっている赤城に、仕事をたっぷりと押しつけられるに決まっていた。丁度、吹雪に呼び出される直前までそうだったように。

 

 そんなのは嫌だな、と電は考えた。それで、降って湧いた長期休暇だと思うことにしようと決めた。すると外見さながらの子供めいた喜びが、体一杯に広がった。相好を崩し、何をしようかな? と自問する。彼女は戦争が終わってからというものずっと、仕事のことを考えずに過ごす時間など取れないでいた。したいことは沢山あった。美味しいものを食べたり、映画を観たり、本を読んだり、目的もなく街を歩いたり、前後不覚になるまで酔っ払ったり、一日何もしないでごろごろしたり──それは彼女が、職務に疲れ果てて潜り込んだ冷たい寝床の中で繰り返し夢に見た、何でもない日常だった。

 

 気分が良くなって、電は歌い出した。船の操縦席に腰を下ろして、母港へ針路を取る。今や彼女の頭には、この休みを使って何をするかという考えしかなかった。深海棲艦たちのことも龍田のことも、消え失せていた。それは彼女にとって、どうでもいいことだった。

 

*   *   *

 

 崖の上で泥の中に寝そべり、倍率を調整した暗視装置付きの双眼鏡を覗き込むと、巡視船に回収される連合艦隊の姿が龍田の視界一杯に映った。疲労と負傷の大きな者から順番に、掛けられた梯子を上っていく。海軍と違い、艦娘の運用を考慮していない海保の巡視船らしい回収方法だった。梯子を上がる艦娘たちを無視して龍田は艦隊旗艦を探し、すぐに陸奥を見つけた。彼女が旗艦だと知っていた訳ではなかったが、明らかに自分よりも怪我の小さな者を先に上がらせていたり、手を振って指示を飛ばしたりしている姿を見れば、たちまちそれと知れた。彼女の艦隊員と同様に傷だらけで、疲れた顔をしている。

 

 だが龍田には、その立ち姿からまだくすぶっている戦意の熱を見て取れた。興味深く思って、ふうん、と小さく声を上げる。彼女が知る限り、そういう熱を持った艦娘を退かせることができるものは、二つしかない。助言か、命令だ。陸奥は素直に命令に従うタイプの艦娘だろうか? 龍田は首を動かすと、梯子の横にいる摩耶を見た。彼女は上がる者を下から支え、しきりに笑っては何か言って、励ましているようだった。彼女が陸奥と一緒に襲い掛かってきたことを思い出し、二人に骨を折られた軽巡艦娘は、脇がじくじくと痛むのを感じた。心の中で、陸奥に語りかける。()()()()()()()()()()()()()()()()? 答えはなくとも、分かっていた。もう一つ、返事を求めない質問を口にする。

 

「その子の助言を受けたから、撤退を選んだの? それとも、単冠湾のレーダーが深海棲艦を察知して、その情報が伝わったの?」

 

 連合艦隊旗艦が島の方を振り向いた。見つかったか、と考えてから、幾ら歴戦の艦娘でもそれは無理だろう、と龍田は考え直した。飛ぶだけ飛び回っていた上空の艦載機たちも、既に陸奥たちの撤退と共に退いている。島は再び龍田一人の王国に戻ったのだ。泥だらけで、水浸しの王国。けれども、体の下に土があるというのはいいものだった。艦娘らしくない考えに、小さな王国の主はもう抑える必要のない笑いを上げる。彼女を除いて誰もいない空間に、その声は寒々しく響いた。

 

 背負われたまま巡視船に上がっていく五十鈴を視界に捉え、笑いを止める。雨は龍田の体の上に降り続け、その水を吸った土は下から彼女の体を冷やしていたが、五十鈴を見ると僅かにその冷たさも和らいだ気がした。五十鈴。声にすることなく、その名を噛み締める。彼女と共に過ごした時間は短く、友情よりも敵意に満ち満ちていたが、であるにも関わらず龍田は彼女を好きになっていた。ワイヤーで拘束しようとした時も最後まで暴れ続け、手足が封じられれば口でとばかりに食って掛かった五十鈴の逞しさは、龍田の堪忍袋の緒や逆鱗よりも、彼女の心の琴線に触れたのだった。あれなら私の艦隊に来ても歓迎ね、と考えてから、龍田は自分が今となっては艦隊旗艦ではなかったことに気づいた。五十鈴を鍛え上げたらどんなに立派な艦娘になっていたかと、ほんの少しだけ残念に感じる。

 

 負われた五十鈴が船の中に姿を消すと、龍田が雨の中で連合艦隊を監視する理由もなくなった。レーダーは既に発進した深海棲艦の航空機を捉え、接近の警告を発している。まだ到達までには余裕があったが、龍田にその限られた時間を無駄にするつもりはなかった。レーダーサイトまで戻り、中の物資を建物から離れた場所へ持っていく作業を開始する。終戦後の世界においては、深海棲艦が彼女たちの行動に政治的配慮の介入を許す蓋然性(がいぜんせい)もあったものの、サイトを爆撃されてから瓦礫(がれき)の下で「まさか」と考えるよりは、無駄に汗を流す方が龍田の好みだった。

 

 資材や装備を一まとめにして、サイトから森に運び出していく。重みのある食料には手こずるかと龍田は思っていたが、どうやら五十鈴を放置して連合艦隊と戦っている間、彼女はストレス発散に食べられるだけ食べていたらしかった。()()()()()()()()()()()()()()()()! すっかり軽くなった糧食のケースを抱えながら、龍田はまた少し五十鈴を好きになっている自分を見つけた。彼女を逃がしたことを後悔してしまいそうなほどだった。こんなに誰かを好きになるのがいつぶりか、龍田自身にも分からなかった。

 

 作業を続けながら、敵艦隊の構成について考える。数は三つ。島のレーダーが捉えた敵航空機の数からしても、龍田の経験則から言っても、空母はその内の一隻だと思われた。軽空母の可能性を一瞬だけ考えてから、それはないと切って捨てる。そもそも人類に敵対的な深海棲艦の残党が、偶然この島に来るということが考えづらい。誰かが融和派と手を組んで、送り込んだのだ。とすると、目的は龍田の殺害になる。なら、島に上陸できない非人間型の深海棲艦ではなく、人間型で固めるだろう。ヲ級が一人と、重巡のリ級かネ級、あるいは戦艦ル級かタ級……そこで最悪の展開を思いつき、龍田は身を震わせた。

 

 戦艦レ級がいたとしたら? 人間型であり、砲戦力と航空戦力の両方を有している。鬼・姫級深海棲艦に迫るほど強力で希少だが、融和派なら用意できてもおかしくはなかった。たった一人の軽巡艦娘を相手に出してくるような戦力ではないが、そんなことを言い出せば連合艦隊を寄越したことだって、過剰も過剰なのだ。彼女たちを撃退することができたのは、その装備が制限されていたり、連合艦隊の艦娘たちに陸戦経験が欠けていたが故であり、二日目にもつれ込んで長引いていれば、相手もある程度の慣れを得て、戦いは違った結果になっていただろうと龍田は推察していた。

 

 レ級が出てきた場合の対処を考えつつ、荷を運び続ける。一抱えの箱を置いた戻り道、ふと立ち止まって空を見ると、分厚い雨雲の切れ目から紅色の光が漏れていた。次いで、いつの間にか静かになっていたレーダーを確認する。見て取れるのは三隻の深海棲艦たちの反応だけで、海保の巡視船と近づいていた航空機のそれは、影も形もなくなっていた。前者は連合艦隊の後送と深海棲艦の到着に合わせての退避。後者は夜が近いので、雨中の夜間戦闘を避ける為に帰投させたのだろう、と龍田は考えた。サイトに戻り、荷物最後の袋一つを肩に担ぐ。水のペットボトルが入った袋はずっしりと重く、肩に食い込んだ。

 

 戸口を出て、溜息を吐きながら一歩踏み出そうとして、足を止める。無能な空母艦娘が、戦闘空域への到着時刻の計算を誤ることは、起こり得る。だが深海棲艦は、先の戦争では人類をもう少しで壊滅させられたほどに有能だった。計算ミスなど、あり得ない。

 

 深海棲艦に対する彼女の強い信頼を裏付けするかのように、レーダーが再び騒ぎ始める。やがて、聞き覚えのある飛行音が聞こえてきた。それで龍田にもようやく理解できた。ある程度の距離から島までずっと、航空隊は島影と超低空飛行を用いて探知を避けてきたのだ。聞こえてくる音はあっという間に大きくなると、一気に発生源を上へと移した。思わず龍田は空を振り仰いだ。黒い雨雲を背負って、大量の航空機が飛んでいる。その一群は、龍田のいるレーダーサイトを目指していた。はっとして、彼女は駆け出した。森に入って二、三十メートル行ったところで、サイトへと爆弾が降り注いだ。

 

 爆風で龍田の背が押され、つんのめりそうになる。脇腹にごく小さな破片が刺さり、傷口が焼けるのが分かった。どうにか転ばずに済ませると、彼女は水の袋を投げ捨てて走る速度を上げた。母艦がレーダーを確実に使用不能にすることを望んでいたのか、爆撃は未だに続いている。突然の激しい運動と興奮に、龍田は頭がくらくらとした。冷静さを取り戻そうと、足を止めないまま、自分に語り掛ける。

 

「夜間攻撃が可能な練度の航空隊となると、ヲ級フラッグシップの線が濃厚ねえ」

 

 意識的に語尾を延ばし、平静を保とうとする。だがこれまで龍田が空母に対して持っていた、夜戦におけるアドバンテージが覆されたことは、小さくない動揺を彼女に与えていた。昼となく夜となく頭上を敵機が飛んでいては、余程上首尾にやらない限り、襲撃を掛けても捕捉されて辺り一帯ごと爆撃されるだけだ。航空戦力を叩き、それから残りの二隻を始末するのがいいだろう。そう考えはしてみたものの、どうすればそれが達成できるかとなると、龍田にも思いつかなかった。爆弾の炸裂音が遠のいたので、立ち止まって息を整えながら、思考を「まず行うべきことは何か」に切り替える。その答えはシンプルだった。何にしても、装備を整えなければいけない。荷運びに邪魔になる薙刀と刀を下ろしてきてしまっていた為、今の龍田の武装はナイフが一本あるばかりだった。

 

 上空の敵艦載機に見つからないように、道を外れて枝の屋根が厚いところを進み、薙刀やその他の役立つ物品をまとめて置いている場所まで戻っていく。その道中、龍田は何かを蹴飛ばした。よもや自分の仕掛けた罠を忘れていたかと思って、彼女はすぐさまその場に身を投げ出して伏せたが、何も起こらなかった。そろそろと顔を上げ、何を蹴ったのか見てみる。そこには持ち込んだ覚えのない、真新しいバッグが転がっていた。

 

 連合艦隊が持ち込んだものだろうと当たりをつけて、()()()()を警戒しつつ、慎重に中を探る。龍田の足に合わないサイズのブーツ、未使用の合羽、それと摩耶や陸奥が投げてきたのと同じ閃光手榴弾が、一つずつ残っていた。合羽を着込み、ブーツから紐を抜いて、それで手榴弾を足に括りつけると、龍田は思わぬ拾い物に微笑みながらその場を後にした。

 

 なるべく空の目から逃れることを優先してルートを決定したせいで、装備を置いた場所に着く頃には日が暮れていた。真夜中と大差ない暗さだったが、航空機は相変わらず飛び交っている。おまけに深海棲艦たちが海域に到着し、島に対する艦砲射撃まで始めたので、龍田としてはまぐれ当たりの起こらぬよう、念じて祈るしかなかった。諸々の装備を回収し、砲撃と爆撃から遠くへ離れる道を歩き、寝床にできそうな場所を探す。だが、何処も安全には思えなかった。木の下に雨を防ぐのに都合のよさそうな大きめの茂みを見つけ、その中に潜り込む。葉は濡れていたが、合羽の下はどうせ濡れ鼠だったので、気にならなかった。

 

 薙刀を抱え込んで、赤子のように身を丸めてうずくまる。動きを止めたことで、体が急速に熱を奪われていく。深海棲艦たちにどう立ち向かうか、考える気にもなれなかった。龍田は空母を恨めしく思った。自分が生き延びる為にやってきた全てのことを差し置いて、「フェアじゃないわ」と彼女は呟いた。それと同時に、心の中で那智教官がぴしゃりと言い放つ。「戦争に公平さなどない」この至極もっともな理屈は、教え子を実に納得させた。熱を失ったことによる眠気が忍び寄り、意識の明瞭さが失われ始める。眠るのが怖くて、龍田は彼女の教官に訊ねた。「じゃあ、私があなたの力を借りてもいいでしょう?」那智は凶暴に見えるだけの暖かな笑みを浮かべると、「もちろんだ」と答えた。教え子は丸めていた体を伸ばしてうつ伏せになり、横の那智教官を見た。

 

「どうすればいいと思いますか?」

 

 ぼんやりとした、しかし敬意を払ったこの質問に、那智が答えない訳がなかった。彼女は熟練した教師がよくやるように、方向性を示しつつも、答えの全てまでは言わなかった。

 

「まずは敵の情報を集めることだ。敵の位置、数、種類、練度。この中の全部は分からなくても、一部は分かるだろう?」

「音、ね」

 

 教官が頷くのを見て、龍田は迷いなく目を閉じ、意識を聴覚に集中させた。航空機の音はうるさかったが、発砲音を消すことができるほどではない。何度も砲声を聞いている内に、龍田にはそれらの違いが聞き取れるようになっていた。暫くして彼女は目を開くと、那智に対して答え合わせをするように、小さな声で言った。

 

「今のは八インチ砲、さっきのが十六インチ砲。つまり、重巡と戦艦が砲撃しているってことだわ。重巡は、八インチ砲に混じって六インチ速射砲の音も聞こえるから、リ級エリート。戦艦の方は、音だけじゃ無理。そうでしょう、教官」

「その通りだ。さて、これで敵の構成がおおよそ分かった。その他に分かったことは?」

「敵のいる大まかな方角と、陣形。リ級と戦艦はほとんど距離を取ってないみたい。きっと旗艦を護衛してるのよ。さっきから位置も移動していないようだもの」

 

 教官の質問に答えられるのが嬉しくて、龍田の声は弾んだ。教え子がよく学んでいることへの満足の笑いを那智が漏らすと、彼女はもっと教官を喜ばせたくなって、質問に先回りして答えを出そうとした。「だから、そう、やっぱりとにかくヲ級を真っ先に撃沈しないと勝ち目は薄い訳だけど、その為には、リ級と戦艦を彼女から引き剥がさないとダメで……」しかしそこまで考えて、どちらにも無理がある、と結論してしまう。ヲ級を先に潰すには、リ級たちをどうにかして誘引しなければいけない。しかしそうしようにも、ヲ級の艦載機が邪魔でろくろく誘き寄せることもできない。

 

 現況を打開することもできず、那智をこれ以上喜ばせることもできない自分にがっかりして、龍田はぼやいた。「完璧な手詰まりね」今こそ教官の助けを直接に借りる時だと決めて、隣を見ようとする。けれどその時、ヲ級の艦載機が落とした爆弾が何十メートルか離れたところで爆発した。熱風が茂みを通り抜けていき、龍田の目に水滴を飛ばした。教官との会話を邪魔された怒りが、彼女の体を突き動かした。激情のままに地面を殴って立ち上がり、茂みから出て空へと精一杯の罵声を浴びせ掛ける。姉と違い龍田はその手の語彙に欠けていたので、落ち着くのも早かった。感情を制御し損ねたことに肩を落とし、茂みへと戻ろうとするが、ふと周囲を取り巻く音の変化に気づいた。

 

「雨が止んでる……雨が、止んでるわ、教官!」

 

 飛び込むように茂みへと戻り、そこに那智を探すも、彼女の姿はもうなかった。突然一人ぼっちで放り出された気がして、龍田は言いようのない寂しさを覚えたが、再び丸まって熱を逃さないようにしながら目を閉じると、すぐに心地よい眠気がその気持ちを包んでくれた。

 

 朝方に目を覚ますと、またしても音に変化が出ていた。艦載機が空からいなくなり、砲声もまばらになっていたのである。それが響いてくる方角は龍田が眠る前と異なっていたが、リ級と戦艦が行動を共にしているのは変わりないようだった。龍田はもぞもぞと茂みから這い出して、凝り固まった筋肉をほぐしながら周囲を見た。眠る直前に彼女がかくあれと願った通り、雨は止んで雲は去り、代わって濃霧が発生していた。装備を持って、リ級たちのいる方角、東へ向かう。途中でごく近い位置に砲弾が降ってきたこともあったが、何とか無傷で森の切れ目、島の端まで到達した。

 

 木に身を隠したまま、島の周囲、広範囲に渡って白いもやに覆われた海を見下ろす。敵への肉薄が重要な課題となる軽巡艦娘にとって、理想的な煙幕だ。これなら、と思うと興奮が始まり、龍田は唾を飲み込んだ。さしものフラッグシップでも、この霧の中では航空機の運用は難しいに違いない。母艦が霧の外まで出ても、上空の艦載機から攻撃対象が視認できなければ意味はない。しかも砲戦能力のない空母が旗艦とあっては、護衛なしとは行かないだろうから、残った一隻は単独での霧中行動を余儀なくされることになってしまう。空母を霧の外に出す選択肢は、存在しないと龍田は踏んだ。

 

 戦闘前の興奮を御しながら、島の主は艤装のチェックを行い、各部の動作が正常か確かめる。機関、砲、機銃、魚雷、そして電探。電探で捉えられた敵の反応は一つしかなかったが、これは彼女たちが距離を非常に密に保っているせいだと龍田は判断した。もっと新型の、高性能な電探があればと思わないではいられなかったが、旧式でもないよりはいい。主砲の発射準備をし、敵の発砲に備える。運がよければ、霧のフィルターでも抑えきれなかった発砲炎の輝きが、彼女たちのより詳細な位置を教えてくれる筈だ。そこに撃ち込んで、重巡か戦艦のどちらかを釣って旗艦から引き剥がすのが、龍田の狙いだった。

 

 海は昨日までの荒れ具合が嘘のように()いでおり、岸壁を打つ白波は控えめな水音しか立てていない。静かな時間が流れた。朝の寒さは厳しかったが、龍田の額には汗が浮かんでいた。薙刀の柄を握る手に、力が加わる。痛いほど歯を噛み締め、砲撃を待ち続ける。唾液で歯と歯が滑って不快な音を立てるが、龍田の耳には入らなかった。なのに、心臓の鼓動はやけに大きく感じられた。砲撃はまだ来ない。「遅い」と彼女は呟いた。相手の発砲を待たず、電探を頼りに撃つべきか短く思考し、龍田は決断した。

 

 深海棲艦のものではない砲声が轟き、火の玉のような砲弾が霧の中に飛び込んでいく。射手は電探の情報を確認した。当たらないのは分かっていたが、一塊になっていた連中を散開させることぐらいはできると考えていた。思った通り、電探は一つだった反応が()()に分かれたことを示した。即座に薙刀を構え、踵を返す。背後では頭部の艤装を外したヲ級が、その金色の目を剣呑に光らせながら、今にも襲い掛からんと杖を振り上げていた。

 

 龍田は落ち着いて必殺の速度で振るわれた打擲を脇に避けた。旗艦は守るべきもの、という思い込みを突かれたことや、狙いが読まれていたことに驚きはなかった。敵が有能であるという事実が彼女の身に染みていたので、そんなこともある、という程度の感慨しかもたらさなかったのである。彼女は下段に構えると、ヲ級から目を離さぬまま、じりじりとすり足で森の外へと移動を始めた。ヲ級が追ってくれば、崖の上という不安な足場ではあるが開けた場所で、思うように薙刀を振り回すことができる。それを厭って追ってこなければ、砲撃してしまえばいい。霧は未だ濃く、海上に残った二人の深海棲艦たちが支援砲撃しようにも、狙いをつけることさえままなるまい。さしたる危険もなくヲ級を始末する絶好の機会に、龍田は含み笑いを漏らした。

 

 と、地面が大きく揺さぶられた。予期していなかったその揺れに、流石の龍田も足元が覚束なくなり、意識が敵から外れる。マズい、と彼女が思った時には、ヲ級はマントを翻し、森の奥へと走り出していた。咄嗟に、不安定な姿勢から龍田は薙刀を投げる。ヲ級には当たらなかったが、マントを木に縫いつけて彼女を転ばせることはできた。木に手を突いて身を支えながら、急いで立とうとしているヲ級へと近づいていく。しつこく続く地揺れの原因である崖への砲撃を忌々しく思って、島の主は舌打ちをした。同じような手管を使って生き抜いてきた艦娘として、妙手だと認めずにはいられなかった。

 

 顔を泥で汚したヲ級が立ち上がり、マントの縫い止められた部分を引き千切る。彼女はまだ逃げるつもりだったが、背後の龍田が腰の刀を抜く音を立てると、諦めたように向きを変えて一歩下がり、自分も杖を構えた。うねり尖った杖先が、龍田の目に向けられる。その圧迫感に彼女は顔をしかめ、杖先を逸らさせる為に様子見を兼ねて突き掛かった。次に感じたのは痺れだった。突き出した剣先を叩き落されたのだと気づいて、龍田は本能的に左手を柄から離して顔の前に掲げた。追撃が下膊(かはく)を叩く。龍田の食いしばった歯の隙間から声が出たが、それに構わずヲ級の細腕を打たれた左手で掴み、腰の捻りを利用して右に投げ飛ばす。彼女は木の一本に背をぶつけたものの、咳一つしなかった。

 

 ヲ級の手が体を支えようと左右に広げられ、体全体の守りが皆無である様子を見て、龍田は相手の首筋を斬りつけることを考える。しかしこれまで培ってきた経験が、杖で柄を受け止められ、ノーガードになった脇腹をヲ級に蹴り抜かれる未来の自分を見せた。拙速に攻め掛かることなく、構え直す。誘いに乗ってこなかったのが意外だったのか、ヲ級は片眉を上げると、両腕で杖の両端を持って、それを体の前にだらんと下げた。カウンター狙いの構えを取るというあからさまな挑発に、龍田の中で苛立ちが募った。嘲る時の声色で「乗る訳がないでしょう?」と囁き、右手を柄から離して、近くの木に刺さっていた薙刀を抜く。それでようやく、ヲ級は顔を歪めた。何の躊躇いもなく背を見せて逃げ出すが、龍田に発砲させずに済ませられるほど、彼女は足が速くなかった。

 

 だがあるいは、龍田が相手を直接狙っていたなら、避け切ることもできていたかもしれない。当の射手さえ、それは感じていた。だからこそ、彼女はそうしなかったのだ。龍田が撃ったのは、ヲ級の足元であり、その周囲の木々だった。龍田は逃げ回る獲物を追い、撃ち続けた。弾切れでようやく発砲が止まり、ヲ級は息を整える為に立ち止まる。飛び散った破片が作った傷からは血を流し、汗だくで息は荒いが、目は一定の距離を保っている敵に向けられたまま、逸らされていない。正規空母の睥睨を歯牙にも掛けず、龍田は重荷となる艤装を下ろし、天龍の刀を納めて、薙刀を構えた。砲撃のお陰で根元近くから折れた木が多く、ある程度なら振り回すことも可能になっていた。

 

 最早ヲ級の態度に、挑発を掛けてきた時の余裕はなかった。龍田は満足しながら、薙刀で打ち掛かった。下段への突きを放つと、ヲ級はサーベルのように右の片手で構えた杖でそれを払う。素早く薙刀を回し石突で横面を狙い、防がれては反動で下段、上段と攻撃のパターンを作る。そしてヲ級の動きがこなれたタイミングに合わせて、彼女の防御にわざと跳ね返されるのではなく、体の回転を利用してそれを突き放しながら横に薙いだ。致命傷にはならずとも切り傷の一つくらいは、と思っての一振りだったが、ヲ級の杖捌きは龍田の予想を上回っていた。彼女は杖を構えて刃を眼前で止めると、空いていた左手で薙刀の柄を握った。武器をもぎ取られる前に、龍田は身を捻って勢いをつけ、ヲ級を振り飛ばす。

 

 間合いを取られて仕切り直しにされるのを避ける為に、龍田は一歩踏み出した。途端にヲ級が杖を振るう。喉を打ち据えようとするそれを、龍田は易々と払いのけ、返す刃の中段も跳ね上げた。ヲ級の杖が構えに戻る間に薙刀を回転させ、遠心力を乗せた刃を相手の腿に目掛けて叩きつけようとする。すかさずヲ級は杖を手の中で滑らせ、杖先を掴んで持ち手側でその攻撃を防ぐ。そして龍田が踏み込みつつ薙刀を縦に持っていくと、杖を持ち直して後ずさりながら、続く斬り下ろしをことごとく打ち払った。薙刀が大振りになり始めたところで、一転して攻勢を掛ける。ヲ級は隙あらば柄を取って龍田の武器を奪おうとしてくるが、その度に紫の髪を振り乱した軽巡は、この手癖の悪い正規空母に手痛い反撃を食らわせた。何度目かの試みの後、取ろうとした柄でヲ級の鼻がしたたかに打たれ、間合いが開く。

 

 龍田は戦いの主導権を自分が握っていることを認めた。それを失わぬよう、果敢に攻撃を加える。けれどその内に、ヲ級の動きに変化が出てきた。刃の応酬を交わしながら、ぐるぐると龍田の周囲を回り始めたのだ。抜け目ないこの空母が消耗戦に持ち込もうとしているのだと見抜いた彼女は、勝負を決めに掛かった。上段に意識を向けさせておいて、足元を斬りつける。何度かは避けられたが、間もなく反応が遅れ始め、やがて龍田の刃がざっくりとヲ級の片方のすねを抉った。それで倒れるかと思いきや、逆に彼女は杖を振り上げ、倒れこむようにして最後の抵抗とばかりに襲い掛かってきた。力任せの、技術も何もない、横殴りの一発。龍田に掛かれば、余りにも容易く回避できる攻撃だった。彼女は苦もなく杖の下をくぐり、短く持った薙刀でヲ級の体を受け止めると、刃を滑らせた。

 

 肉の奥深くに刃が沈み込む感触を龍田は期待した。しかし、実際に握った柄から伝わってきたのは、皮膚の下一センチの浅いところを斬る感触だった。ヲ級は左腕で刃の根元、相手の武器を引っ掛けて奪う為の切れ込みに手を差し込み、薙刀を押し留めていたのだ。龍田はそれに気づいたが、ヲ級の次の動きを止めるには近づきすぎていた。彼女の懐に潜り込む為に姿勢を低くしていた龍田は、相手の皮膚以上のものを斬れないまま薙刀を受け流され、うつ伏せに地面へと倒される。ヲ級は杖を投げ捨ててその背に飛びつくと、龍田自身の武器で彼女の首を締め上げた。彼女は必死に身を右左に振って、ヲ級を背中から引き離そうとする。けれどここで離せば後がないと考えているかのように、彼女は力の限り龍田にしがみつき、息の根を止めようとしていた。

 

 龍田は何とか地面に肘を突いて横に転がると、上下の関係を反転させた。そうして頭を持ち上げては、後頭部を敵の顔面に何度も打ちつける。ヲ級の鼻が折れたのか、ぬるりとした液体が龍田のうなじや髪に付着したが、力は緩まなかった。右手で柄を押し返して絞めつけに抗いつつ、龍田は左手を自分の足に持っていく。縛りつけられた閃光手榴弾を抜き取ると、右手の指にピンを引っ掛けて抜く。安全レバーを離して頭の横に転がし、目を固く閉じて顔を逸らした。

 

 耳元で砲弾が炸裂したかのような衝撃と音、まぶたを貫く強い光が一瞬あって、龍田は甲高い金属音のような耳鳴りの他に、何も聞こえなくなった。でも彼女にとって、これは二度目だった。だから、ヲ級よりも冷静に動けた。薙刀から離した手で顔を覆ってのたうち回るヲ級の上から、転がり落ちるようにして離れる。彼女の隣で仰向けになったまま、息を浅く何度も吸って、体に酸素を取り込む。それから地面の上で手を動かして石を握り込むと、それでヲ級の額を殴りつけた。何度か殴ると、彼女は動かなくなった。一仕事を終えた兵士の安堵の息が、龍田の唇から吐き出された。

 

 希釈修復材を耳孔に振りかけると、音が戻ってくる。ごろりと転がり、手を突いて身を起こす。手強い敵との短い交戦を制した後では、歩く気になれなかった。四つん這いで下ろした艤装のところまでたどり着き、電探を調べる。二つの反応は消えていた。「あら、逃げたのかしら」と龍田は言ったが、もちろんそれは皮肉だった。艤装にもたれかかりながら、彼女たちは島に上がり、ヲ級の救援に向かっているのだろうと考え、ここからどう動くかの計画を組み立てようとする。ヲ級との交戦はそう長くなかったから、崖への砲撃を止めて移動を開始したのがどんなに早かったとしても、まだ島内には立ち入っていない確率が高かった。

 

 上陸地点を推測し、それに基づいて迎撃計画を立てなければいけない。龍田はそう決めて腰を上げ、艤装を背につけた。その場を去る前に薙刀を一振りして、ヲ級の死を確実にしておく。「上陸地点は何処になると思いますか、教官?」昨夜のように那智が現れることを期待して、龍田は誰もいない隣に問い掛けた。声は霧の中に溶けて、返事はなかった。肩をすくめ、自分で考えることにする。()()()? 罠を除いて足元の心配が要らず、広さも十分。連合艦隊も使った、理想的なポイントだ。「けど、理想的すぎるのよね。霧が出てるとは言っても、遮蔽物もないし」()()()()()()()()()()()()? 足場は最悪だが、遮蔽物はある。罠も仕掛けづらいから、その警戒もある程度省ける。霧と岩に身を隠して進めば、森林地帯まで安全に進める。

 

「援軍に来るつもりだったなら、そんな島の端まで行って余計な時間を掛けるとは思えないけど……いえ、何も本当に端まで行かなくても、少し岩場を登れば上陸はできるわね」

 

 だとすれば、戦艦はタ級だろうと龍田は思った。ル級はその艤装に、砲を内蔵した二つの盾を含んでいるからだ。深海棲艦は優秀な兵士だが、空を飛べるほどではない。それに高速戦艦のタ級なら、リ級と航行速度を合わせて移動できる。思いつきを得て、島の主は思案の溜息を吐いた。ヲ級が敗北したことは、彼女との通信が途絶えたことで伝わる筈である。タ級たちが次にすることは? 龍田は自答した。()()()()()。ヲ級は一蹴されたのかもしれないし、善戦して、敵と刺し違えたのかもしれないからだ。戦闘の現場を見ることで得られる敵の情報は、タ級らにとって貴重なものになる。

 

 待ち伏せ──使い慣れたアイデアが、龍田の心を揺さぶった。罠を張り、身を潜め、予想される接近ルートを監視して待つ。シンプルで、効果的な作戦だ。それはつまり、今回の深海棲艦たちのように何をしてくるか読み切れなかった相手に使うには、不安の残る手だということでもあった。彼女たちは当たり前に伏兵の存在を計算に入れるだろう、と龍田には思えた。大きく迂回して、待ち伏せを警戒しつつ静かに進んでくるか、手当たり次第に砲撃で進行方向の地面を耕しながら進んでくるか。最終的には敵の進み方次第だが、待ちの姿勢は悪手になる可能性が高い。「まあ、夜通し砲撃した後だから、無駄撃ちはできないでしょう」と彼女は一人ごち、深海棲艦たちが南から上陸してくるという判断の下、活動を再開することにした。



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12.「まれびとこぞりてみな底に坐し」

 朝早く、部屋の壁にもたれて床に座り込んだ那智は、つい一時間前に二十四時間営業の店で買い足してきた安酒のボトルを掴むと、既に残り少ないその中身を全て胃に流し込んだ。四十度の蒸留酒は彼女の喉を焼いたが、もう那智にはそれを感じられるだけの理性も、感覚も残っていなかった。空になった瓶を脇に放り捨て、次の一本に左手を伸ばす。ポケットボトルの粗悪なスクリューキャップを回そうとすると、指がじっとりとにじんだ汗で滑った。悪態を二つ三つこぼして、滑り止めに袖で包もうとする。と、その瓶を横から伸びてきた手に奪われた。那智は酒精の影響を受けていてなお青ざめた顔を持ち上げ、虚空を見つめるような目つきで、自分の前に立ったその手の持ち主を見た。それから、へらりと笑って訊いた。

 

「秘書艦のお戻りか。どうした、勤務中なのに飲みたくなったのか?」

「いえ、これ以上あなたに飲ませたくないのです」

 

 にべもなくそう答えて、吹雪はキャップを開けた。座ったまま瓶を取り返そうとする那智の腕をさっと避け、彼女に見せつけるように身を反らして、一気に琥珀色の液を飲み下していく。二百ミリの液体を嚥下(えんげ)すると、小さく吹雪は息を吐き、ボトルを掴んだままの拳で唇を拭った。「いいぞ!」と那智は血の気のないままに、顔に捨て鉢な喜びの気配をまとわせて一声上げた。「お前のそんな姿を見られるとは、全くここに来た甲斐があったな……大変な手土産というものじゃないか、え?」二度ばかり笑いを漏らすが、響きだけは陽気なそれも、最後には溜息に変わる。三本目を探して彼女は左腕を動かした。吹雪は床を足先で払い、空のものも中身のあるものも一緒くたに、那智の取れないところに転がした。それでやっと、彼女は吹雪をきちんと見た。

 

「随分なご挨拶だな。この部屋に私がいると迷惑なら、口でそう言えばいいだろう。どういうつもりだ」

 

 親近感を欠いた感情的な口ぶりで、那智は秘書艦に問いただす。酔ってはいたが、言葉に込めたその気迫は鈍っていない。凡百の艦娘やその他の軍人なら、気圧されて言い返すこともできなかっただろう。しかし、吹雪は普通の質問に普通の答えを返すのと同じように、滞りや戸惑いなく返事をした。「電が下手を打ちました」「下手?」「深海棲艦を急かしたんです。ロシアが出てくる前に片をつけろ、と。それで逸ったんでしょうね。奇襲を掛けて、失敗。ヲ級が撃破されたようです」那智は目元を左手で乱暴にこすると、苛立ちの呻き声を上げた。肘で壁を殴り、足で床を叩く。一度ずつそれをやってから、彼女は真面目な口調に戻って言った。

 

「どうやって知った」

「電から聞き出しました。嘘ではないでしょう。ああ、先に言っておきますが、『彼女がどうやって知ったか』までは聞かないで下さい。立ち上がるのに手を貸した方がよろしいですか?」

「いらん。この床の座り心地が最高なのでな。それより話の続きをしたらどうだ、それともさっきのが本題だったのか?」

 

 吹雪は首を横に振り、部屋の隅に転がっていた椅子を引っ張ってきて、それを那智の前に置いた。背もたれには彼女のものと分かる靴跡が薄くついていたので、吹雪は浅く腰を下ろし、背を汚さないようにしなければならなかった。一息挟んで、吹雪が話し始めようとしたところで、那智が投げ出した足で椅子を蹴ろうとする。それを秘書艦はやはり足で止めた。お互いにそのことには触れず、話を始める。

 

「さて、深海棲艦たちの方はそんな具合ですが、海軍は北方領土付近で発見された敵性深海棲艦と()()()()()の捜索・掃討を名目に、泊地総司令直下の艦娘で構成された連合艦隊と支援艦隊、計二十四隻を派遣する気のようです」

「それなら、どちらが生きていても口封じできるな。色々と隠し通せなくなるだろうし、物資の用意をどうするつもりかも知らないが」

「物資は大湊警備府から大量に到着していますから、足りないということはないでしょう。真実がある程度露見することも、このままこの事件をずるずると未解決な状態にしておくよりは望ましいことです……海軍にとっては、という一言が付きますけどね」

 

 言外に、吹雪は那智がそれを望んでいないだろう、ということを匂わせた。元教官は鼻を鳴らすと、片膝を立てる形に座り直した。那智には相手の持って回った話し方で、吹雪が何か企んでいることは分かっていたが、たとえ彼女に乗せられる形でその何かの片棒を担がされたとしても、部屋で飲んだくれているよりはマシだろうと思えた。

 

 那智は彼女が酒を買い足した時に、残っていた最後の良心でレジに通した、ミネラルウォーターのペットボトルを床から探し出し、手に取った。それを飲みながら、軍警秘書に話の続きをするよう促す。相変わらずの機械的な態度で、この無愛想な駆逐艦は口を開いた。

 

「軍預かりになっていたあなたの艤装を用意しています。もしそれを望むなら、あなたはそれを身に着けてここを出て行き、あなたの気の済むようにすることができる。龍田を生け捕りにするにせよ、殺すにせよ」

「私の体は艦娘だが、立場は軍警に協力している民間人だぞ。私がマズいことをやれば、軍警の責任になる。軍警秘書として、そのことが分かっていない訳でもないだろう。何が望みなんだ」

「事態の解決です。そして、あなたが起こした面倒の責任は、あなたが海軍にできなかったことを成し遂げたという事実で相殺します。心配する必要はありません。この件に片がつけば、追求する者もいないでしょう。そんなことをしたら単冠湾泊地どころか、日本海軍全体の面子が潰れます」

 

 もちろん、那智は軍警秘書の最初の言葉を信じなかった。けれども、それは彼女の意思決定に影響しなかった。那智は立ち上がると、右手で頭を押さえた。頭痛がしていた。アルコールの影響を受けた頭で、龍田のいるラスシュア島までの所要時間を計算する。約七時間か八時間といったところだろう、という答えを出した飲んだくれの元教官は、それなら酔いも抜けるな、と安堵した。吹雪を見下ろし、尋ねる。「連合艦隊と支援艦隊はいつ出るんだ」「準備が終わればすぐにでも。行きますか?」那智は頷き、飲んだ酒の量にしてはしっかりとした足運びで、部屋を一歩出た。そこで思わず足を止める。

 

 部屋の前には、龍田の艦隊で二番艦を務めていたヴェールヌイ(Верный)が立っていた。その立ち姿は明らかに、出てくる人物を待ち構えるものだった。海軍の監視が付いていたのか、と那智は判断し、咄嗟にその駆逐艦娘を制圧しようとして、吹雪の制止の声でそれを中断する。彼女は協力者で、歩哨の目をかいくぐって那智の艤装を用意した倉庫に行き、海に出るまでを手助けしてくれるのだ、と説明されて、那智は頭を下げた。「すまなかった、ヴェールヌイ」謝られた彼女は微笑んで「構わないよ」と言ってから、付け加えた。

 

「けど、響と呼んで欲しいな。私の本当の名だ……さ、行こうか」

 

 走るのは目立ちすぎるので、足早に廊下を歩く。時間が早朝であることもあって、人の姿はない。それでも用心しつつ、元教官は小声で協力者に質問をした。「どうして協力を?」「このまま行けば、私の友達が死ぬからさ。戦争は終わったんだ、死人は少ない方がいい」那智は、それには賛同した。しかしヴェールヌイの言葉には、聞き捨てられないところもあった。龍田を生きたまま連れて帰ってこられる自信は、彼女を教えた元教官にもなかったのだ。実戦を通して鍛えられた龍田の技は、退役して二年経つ那智のそれよりも鋭いままになっているだろうことは、簡単に想像できた。どちらかが死んで終わることになる可能性を那智が指摘すると、ヴェールヌイは「それならそれまでだよ」と言っただけだった。

 

 建物を出て、工廠近くの倉庫に向かう。歩哨の数は多かったが、ヴェールヌイは散歩をする人間のような足取りで道を進んだ。彼女の移動が巧みなことに、那智は大きな感銘を受けた。海の上でどんな経験をしたら、こんな風に歩けるようになるのだろう? 彼女はそれも訊ねたかったが、親しくもない相手にそんなプライベートな質問をすることは、酔いがあってもはばかられた。遠回しな聞き方をすれば無礼にならないかとも思ったけれど、工廠に近づいて機械音や人の声で騒がしくなったので、結局は諦めた。倉庫に着くと、三人は周囲を警戒しながら中に入った。明かりはつけられておらず、光源は窓から差し込む陽の光だけで薄暗かったが、那智はすぐに種々のコンテナの脇に置かれた、自分の艤装やナイフなどの個人携行品を見つけることができた。水上機だけは用意されていなかったが、古参の重巡艦娘は贅沢を言わないという美徳を知っていた。

 

 駆け寄って、点検を始める。海軍を離れて二年が経っていても、その為の手順は体が覚えていた。装着前の準備を終わらせ、那智は艤装を背負うと、続いて動作点検を始めた。そうしながらも、懐かしい重みに唇がだらしなく緩む。と、彼女の目は吹雪に注がれた。彼女も艤装を負い、動作点検をしていた。付いて来るとは聞いていなかった那智は、その様子をいぶかしんで言った。「どういうことだ?」吹雪は服のポケットから折り畳まれた紙切れを取り出し、那智に差し出しながら平然とした顔で答えた。

 

「基地のレーダーには手を回しておきました。一時的には誤魔化せるでしょう。でも連合艦隊と支援艦隊は、足止めしなくてはいけません。ああ、これについてもご心配なく。私は昨日深夜に軍警司令の呼び出しを受けて、今日はこの泊地にいないことになっていますから。準備は?」

 

 ぎこちない動きで那智が紙を受け取り、開いて見てみると、それはラスシュア島の地図だった。納得して彼女はそれを懐に入れ、吹雪の確認に答えた。

 

「いつでも行ける。それと、魚雷は全部、砲は一門残して後は艤装から外すぞ。半ノットでも速度を出したいからな」

「お好きに。ですが、よろしいのですか? その高級義手が壊れない保証はありませんよ」

 

 言われて、那智は己の右腕を見た。教え子たちからプレゼントされたそれは、日常生活を送るにはぴったりの義手だったが、龍田と荒っぽい交流をする上ではいささか柔な印象を受けるものだった。とはいえ代わりの義手があるでもないし、細心の注意を払うしかあるまい、などと彼女が考えていると、吹雪から布包みを投げ渡される。それを開いて見てみれば、中には海軍にいた頃那智が使っていた戦闘用の義手が入っていた。感心して、彼女は呟いた。「準備がいいな」そうして服を脱ぎ、義手の付け替えを始める。ヴェールヌイがきちんと保管しておくと請け負ってくれたので、那智は安心して高級義手を外すことができた。

 

 今度こそ準備が終わり、もう一度ヴェールヌイ先導の下に移動を始める。彼女は那智と吹雪をコンテナに詰め込むと、次の出撃で艦隊が使う資材の運搬を手伝っている風を装って工廠内に運び入れた。工廠では泊地付の明石を含めた二十五人の艦娘たちと整備士が慌しく動き回っていたので、三人は簡単に出撃用水路まで忍び込むことができた。間もなく連合艦隊たちが出撃する為だろう、水路の先、出入り口の門は開け放されている。那智は水路に立とうとしたが、その前に後ろにいたヴェールヌイを振り返って礼を言った。「ありがとう」「いいさ」短いやり取りだったが、それは元教官にとって重要な意味を持っていた。

 

 機関を始動させて水路に入り、「行こう」と吹雪に声を掛ける。仏頂面の駆逐艦娘は頷いてから、協力者に最低限の礼儀を尽くした。「それでは、響」すると言われた彼女は、にやりと笑って言った。「私の名前はヴェールヌイだ」那智は吹き出し、秘書艦は能面のごとき表情をより一層固くした。水路を出て、泊地を後にする。その途中で、那智は近海を警備する艦隊がいないことに気づいた。『テロ攻撃を受けた泊地』にしては奇妙な対応だが、総司令たちは犯人の所在や彼女に再襲撃の意思がないことを知っているので、資材の消費を少しでも避ける為にそうしているのだろう、と推測した。

 

 二人はラスシュア島へと針路を取り、燃料消費を度外視した速度で進んだ。海霧は泊地を離れても消えなかったが、彼女たちはどちらもベテランだったので、同行者を見失うようなミスはしなかった。出港から一時間が経ち、どれだけ騒いでも聞き咎められることがないと確信できるようになってから、那智は驚きを込めた大きな声で、意気揚々として叫んだ。「よもや海に戻る日が来るとはな!」それからボリュームをやや落とし、過去を懐かしむ声色で呟く。

 

「これで艦隊員が揃っていれば、言うことなしだった。だが、こんなことに私の旗艦を巻き込むのも気が引けるか。あいつはもう残りの一生、ゆっくり過ごす権利があるだろう。戦争を生き延びたんだからな」

 

 最後の一言を強調するようなイントネーションで言うと、那智は隣を航行する吹雪にすっきりとした表情で笑いかけた。今の言葉よりもずっと迂遠で悪意のこもった表現を、日夜駆使している軍警秘書は、この優しい嫌味を聞き流して返事をした。

 

「今の言葉を聞いたら、きっとあなたの親友の長門が妬きますよ。彼女はあなたの言う“旗艦”をまだ嫌っているみたいですし。まあ、あの人を好いている人の方が少なかったと思いますがね」

「おい、私の教え子だぞ。余り悪く言うのはやめて貰おう。それに少なくとも私や他の艦隊員はみんな、奴のことを好いていたさ。ところで、加賀が書いた本は読んだか? あの短編集」

 

 急に話が変わったので、吹雪は答えるのに一拍の間を置いた。その間に彼女は、これまでに出会った正規空母「加賀」たちの記憶を参照し、その中で文章を書く者を探した。吹雪の記憶は膨大だったが、文筆趣味を持つ艦娘はそう多くない。しかも那智が話題にする加賀となれば、以前に彼女や吹雪と同じ提督の下にいた一人しかいなかった。軍警秘書は、彼女が当たり前に覚えているだろうと那智が考えていた人物を、半分忘れていたことを悟られないよう、慎重に答えた。

 

「ええ、軍警にも献本が来たので。司令官もお読みになって、今は彼女に戦争中の司令官の功績を宣伝する本を書かせようとしていらっしゃいます。『船乗りは帰ってきた』なんてタイトルだそうですよ」

「確か、提督は元を辿ればフリゲート艦の乗員だったか。だから『船乗り』というのは分からんでもないが、加賀のセンスはやや十九世紀風だな」

「題をつけたのは司令官です。でも説得にひどく難航しているそうなので、出版されるまでには暫く掛かるでしょうから、その頃には一周回って新ロマン主義的な題名だって、受け入れられるようになっているかもしれませんよ」

「そうだな、そして中身は提督の望んでいたものとは全く別物になっているかもしれないぞ」

「否定はできませんね」

 

 那智の言葉をさらりとかわしてから、吹雪は速度を落とした。二人の距離が開いていくが、先を急ぐ重巡は振り返ることも、相手に合わせて足を止めようとすることもなかった。元教官は通信回線を戦友に繋ぐと「ここでお別れか、寂しくなるよ」と冗談混じりに言う。「一対二十四ではな」口調は明るかったけれども、その内容は深刻だった。正規空母や戦艦、重巡で固められているだろう精鋭たちを敵に回して、一人きりの駆逐艦娘が足止めを仕掛けようというのだ。那智は彼女がどれほどの練度を誇る艦娘なのか知っていたものの、流石に今度ばかりは、と思わずにはいられなかった。龍田と違って、吹雪は海の上で戦わねばならない。霧の加護が姿を隠してくれるとしても、頼りになる遮蔽物は皆無である。波はやや荒く、高いが、その程度だ。

 

 言葉の表面的な意味とは裏腹に自身を心配する那智にも、吹雪は素気(すげ)無さを崩さなかった。彼女はそれが那智の目に映っていないということを理解しつつも、軽く頷くような会釈をして、針路を反転させた。連合艦隊と支援艦隊が追いついてくる前に、待ち伏せるのに都合のいい場所に移動しなければならなかった。那智は吹雪から自分の姿が見えなくなったことに確信が持てるまでまっすぐに進み続けると、横を向いて胃の中のものを海面に戻した。アルコールと胃液が食道を焼いたが、波の揺れが出航以来彼女にずっともたらしていたひどい悪心は、少しマシになった。腰をかがめて海水を手にすくい、口をすすぐ。それを足元に吐き出してから、那智は人生で何度目かになる禁酒への挑戦を考え始めた。

 

*   *   *

 

 現況を評して、龍田は「最低ね」と独り言を口にした。奇襲を受けたり、敵の増援が到着したという訳ではなかったが、その表現以上に自分が直面しているものを的確に表せる単語を、彼女は知らなかった。ラスシュア島に立てこもる準備をした時、もっと沢山の弾薬を持ってきたと思っていたが、実際にはそうではなかったのだ。ヲ級を始末した後、レーダーサイトから持ち出せた物資を置いた場所まで戻ってきた彼女は、しゃがみこんで頭を抱えた。島は森林化されているが、部分部分では開けた場所もある。そういう地点に敵を追い込んだり、逆に追い込まれた際に何が頼りになるかと言えば、それは飛び道具だった。

 

 弾薬は僅少であって、皆無なのではない。そう自らを慰めるが、躊躇なく撃つということが重要な局面で、弾薬不足が頭を過ぎって撃てず、千載一遇のチャンスを逃す可能性があることを思うと、心は沈みそうになった。だが、落胆に身を任せている時間はなかった。龍田は残った僅かな弾薬を全て艤装に補給すると、次のポイントに向かって走った。以前は木箱が埋まっていたそこには、陸奥の連合艦隊から奪った、艤装や武装を含むあれこれのものが隠してあった。置いた当人もその品目までは一々覚えていなかったが、もしかしたらそれらの中から、彼女の砲に適合する弾薬を見つけられるかもしれない。仮に当てが外れても、飛び道具の足しを得られることは分かっていた。

 

 絶対確実な方から取り掛かろうと、龍田は負い紐付きの細長い布袋を取った。その口に手を突っ込んで中身を引き出すと、赤い梓弓が姿を現した。弦は張られていなかったが、袋の中に一緒に入れられていた。その見事な作りに、龍田は口笛を吹きたくなった。でもそうする代わりに、「さて、弦の張り方はどうだったかしらね」と囁いて、記憶の海から目当ての知識をサルベージする作業に取り掛かった。一つ一つの手順を思い出し、それに従って弦を張る。これでいいと思えるようになったので、龍田はそれを脇に置いて矢を探した。

 

 艦載機発進用のものが五、六本あるだけだったが、弾薬と違って矢はある程度再利用できる。回収する余裕があれば、という但し書きが付くのは避けられないけれども、音を立てず、残弾数を考えることなく使える飛び道具があるのは心強かった。しかし艦載機発進用の矢には敵を貫く為の矢じりがないので、弓を本格的に運用するにはそれをどうにかしなければならない。時間が掛かる作業になることが予想された為、龍田は矢じりの製作を後回しにした。矢を弓が入っていた布袋に収め、負い紐で背負う。更に弓を肩に掛けて邪魔にならないようにしてから、龍田は弾薬の捜索を始めた。

 

 結果はまずまずと言ったところだった。一、二回の砲戦の余裕ができたことに彼女はほっとして、捜索作業で額に浮いた汗を拭った。我知らず龍田は「お風呂」と呟いたが、その後に続くべき「に入りたい」は言葉にもならなかった。霧の湿り気と汗で、体全体にじっとりとした不快感がまといついていた。慣れたものではあるが、慣れはその耐えがたさを取り払いまではしていない。いい加減、龍田は体にこびりついた汚れの数々を落としたくなっていた。暖かいお湯に肩まで浸かり、浮力に身を支えられてぼんやりする自分を脳裏に描き、彼女は微笑もうとしたが、できなかった。

 

 頭蓋骨の内側にだけ存在する幻を振り捨て、歩き始める。荷物は増えていたものの、その歩みの速さや確からしさ、音の小ささは変わっていない。歩きながら、龍田は考えた。ヲ級が奇襲を仕掛けてきたのは、どうしてだろう? 待っていれば霧はその内に晴れていたのに、彼女はわざわざ攻め込んできた。しかも単独で。陽動に他の二隻を使いはしていたものの、実働部隊は彼女一人だった。()()()()

 

 考えても考えても否定しきれない説が二つ残り、龍田はそのどちらが正解なのだろうかと悩んだ。ロシア軍の介入を防ぐ為に、彼女たちは速攻を望み、賭けに出たのか。またはもっと単純に──ヲ級を含め、艦隊員たちが互いを信用していなかったのか。敵と戦うことになった時、横にいるのは信用できる戦友であって欲しいと思うのは、艦娘だけではない筈だ、と龍田には思えた。ヲ級と他の二隻が相互にそういった信頼で結ばれてない寄せ集めだったのなら、それぞれが別々に行動を取るのもおかしくはない。それに、寄せ集め説は彼女たちが三隻しかいないということの説明にもなる。「本当にそうだといいけど」心から願って、彼女は言った。「それなら、後は一対一を二回で済ませられるもの」

 

 ふと思い出したことがあって、足を止めないまま、龍田はずっと懐に収めていた自作の地図を開いた。何一つ見逃さない集中力で、彼女は隅から隅まで舐めるように確かめた。その地図には彼女が持ち込んだものを隠した場所や、それを回収したかどうかが記されていた。一つぐらいは取り残しがあるかもしれない。そんな淡い期待にすがって、龍田は地図を睨む。紙の上を指でなぞり、何度も繰り返し調べて、やっと一つ見つけた。島の中央からやや西側に寄ったポイントだ。そこには回収済みを意味するチェックがついていなかった。

 

 体に熱が戻ってきたような感触に襲われて、知らず歯を噛みしめていた力が緩んだ。地図を折りたたんで元の場所に戻し、残された最後の物資を回収しに向かう。龍田の気分は、急激に上向き始めていた。物資を掘り出し、補給を済ませて、深海棲艦を島から追い出してやることを考えると、彼女の胸は弾んだ。

 

 だが急に、龍田の心臓が大きな一拍を打った。()()()? ()()()()()()()()()? 彼女は落ち着いて物資の内容を頭の中から呼び出そうとしたが、できなかった。持ち込んでから日が経っていた上、島への立てこもりという高ストレスな状況や、その間に彼女が取った休息がごく僅かだったという事実が、龍田の記憶力を信頼できないものにしてしまっていた。彼女はそこに弾薬を隠した時の光景を思い出すことができたと同時に、その同じ場所に弾薬ではない物資を隠す己を思い出すこともできた。苛立ちが強まってきたので、龍田は考えることをやめた。行って、見てみれば分かることだ。

 

 頭を冷やすように、龍田は自分に言い聞かせた。「言うまでもないと思うけど、情緒不安定になってるわよ? 睡眠不足なのに、中途半端に寝たせいね、きっと」などと実際の言葉にして、そんな真似をしていることこそが今の発言を肯定している、という皮肉に、投げやりな笑いを浮かべる。今度は声を出さず、口の端を上げるだけだ。そうやって龍田が笑ってもくすりという吐息さえ出さず、ついでになるべく足音を消し、静かにしていたから──砲撃が始まった時、彼女は死なずに済んだ。

 

 近距離に着弾し、その爆風に突き飛ばされて龍田は前のめりに倒れた。突然のことだったが、彼女の意識は冴え渡っていた。泥がべったりと体に付着することを厭わず、倒れたまま手足を動かし、低木の茂みに這いずって逃げ込む。その間にも彼女の遠近に砲弾は落ち続けていたが、射手は発砲後の移動を欠かさず行っており、流石の龍田にもそうなると音だけで居場所を探ることは難しかった。小さなプライドを理由として、彼女は反撃を行うことを一度だけ考えた。そしてそれをすぐさま却下すると、離脱に移った。出し得る限りの速度で這って、現地点から離れようとする。自分から遠くない場所に砲撃が行われる度、龍田は身を縮め、仕返しをしてやりたい気持ちを押さえつけなければならなかった。

 

 逃げながら音に意識を向けて、射手の特定を試みる。砲声の特徴について訓練所で那智から嫌というほど叩き込まれた龍田には、これは難しくなかった。戦艦だ、と彼女は頭の中で呟き、二つ三つ罵った。砲音だけではル級の可能性も捨てられなかったが、彼女が地上を歩く時に立てがちな大盾と地面の接触音がしていなかったことから、龍田はタ級だと判断して唇を噛んだ。戦艦タ級。巡洋艦に迫る素早さと戦艦の打撃力を併せ持つ、厄介な相手。

 

 純粋な戦闘部隊として前線で戦う艦娘の中には、巡洋艦にしては鈍く、戦艦にしては軟弱である、とタ級を形容する者もいたが、駆逐隊を率いて護衛任務などに就くことの多かった龍田に言わせれば、彼女ほど面倒な敵もいなかった。巡洋艦はそれなりに機を見れば相手取って戦うこともできるし、ル級からは速度を活かして逃げ切ることができる。空母は夜であればほぼ無力で、潜水艦の対処は駆逐軽巡の独壇場だ。そしてレ級や鬼・姫級等に遭遇したら、運がひどく悪かったのだと諦めることができる。が、タ級を相手にする時には、これと言った対処がなかった。諦めるほどの敵ではなく、けれど逃げようにも逃げ切れず、戦うには艦種の違いから来る能力差が大きすぎた。

 

 でも、ここは海の上ではない。タ級の強みの一つである航速は潰されている。戦艦としての砲戦力も、視界の開けた海と違って遮蔽物の多い森の中で、加えて霧に包まれた状態でどれだけ発揮できるか、疑問符が付く。事実タ級は、先手を打ったのに龍田を仕留められていないのだ。砲撃されている区域を離れて仕切り直せば、軽巡にも逆襲の余地があった。問題は、それをいつ行うかだった。弾薬は欠乏気味ではあるものの、一発二発しか撃てないというほどではない。タ級一隻に使うなら、潤沢ではないにしても不足とは言えなかった。今ここでタ級を仕留め、それから補給に行く……それは龍田にとって魅力的であるのと同程度、危険な選択肢でもあった。

 

 今はタ級一隻だから何とかなるが、まだ姿を見せていない重巡までこちらに来たら、対処できるだろうか? 龍田は考えた。彼女の持つ艦娘としての誇り、子供っぽい反抗心にも似たそれは「できるに決まってるでしょう?」と頬を膨らませたが、彼女の冷徹な脳はそれと逆の答えを返した。この疲れた軽巡艦娘は感情よりも理性の判断を重視していたので、綱渡りになるかもしれない挑戦をやめ、当初の予定通りの行動を取ると決めた。悪罵を胸に押し込めて、落ちてくる砲弾から離れ続ける。三十分ほど地面と手足を擦り合わせて、ようやく龍田は移動を止めた。砲弾の落着音は遠くまばらになっていた。消耗した気力と体力を回復するついでに彼女は、タ級がヲ級の死体を調べに行くのではなく、龍田を探しに来たことの意味や理由を探ろうとした。

 

 また聞きつけられて撃たれるのを防ごうと、唇だけを動かす。「私の弾切れを読んで、補給する前に仕留めようとした? それとも、情報収集をしている時間的余裕がなかった? それは何故?」「それよりも、いいのか?」横から尋ねられて声を上げそうになり、龍田は歯を食いしばってそれを止めた。目を動かし、声で誰なのか分かってはいたが、問い掛けを発した者の顔を見る。木々のざわめく音に紛れる程度の声で、龍田は不満を込めて単語を一つ放った。

 

「教官」

「お前が今何処にいるのか、少し考えてみることだ」

 

 那智はそれだけ言って、さっさと何処かへ姿を消した。が、この言葉は教え子の耳に届くや否や、彼女の臆病な精神を半ば発狂させた。それは彼女が今いる場所が、龍田の選んで行った道の上ではなく、タ級たちが龍田に選ばせた道の上にあるからだった。彼女は身をよじって後ろを向き、それから右左を見た。何も怪しいものは見えなかったので、音を立てないように身を起こし、しゃがみ込んだ。来た道を戻ることはできなかった。タ級はそのルートを監視しているだろうから、たちまち見つかって撃たれてしまうに決まっていた。前と後ろ以外に活路を探そうとして、龍田は少しだけ右手側に進もうとした。立ち上がる時に、左腕に何かが触れた。反応する間もなく、低木のよくしなる枝が龍田の肩を打ち、その先にくくられた杭を彼女のしなやかな筋肉に突き立てた。

 

 今度も龍田は声を上げなかった。刺さったままの杭を肉から抜く時も、傷口に希釈修復材を振り掛ける時も、彼女は黙っていた。この手の罠は龍田自身の手で大量にラスシュア島の森へと仕掛けられていたが、今龍田のいる正確な地点には設置していない筈だった。なのに、罠の種類もその仕掛け自体も、彼女の手で作ったものとそっくり同じだった。ということは、誰かが罠を解除して、その仕掛けを盗み、ここに設置し直したということになる。それ自体は前に天龍がやったのと同じようなことだが、今回はもっと洗練されたやり方だった。先に砲撃することで注意力を削り、キルゾーンに追い込み、罠に掛けたのだ。

 

 龍田は顔にやせ我慢の作り笑いを貼りつけて、残り二隻の深海棲艦に対する意見を「協力関係なし」から「一定の関係あり」に変えた。深海棲艦は、罠を解除し、設置し直し、更に砲撃で龍田をそこに誘導した。それが単独での仕事とは思えなかった。リ級がキルゾーンを作り、タ級が追い立てたのだろう。そしてタ級には、龍田が戻ってくるのを監視する役目がある。ではリ級には? 熟練の軽巡は迷わず答えを出した。彼女は、罠を抜けて進んできた獲物を始末する役だ。「今回はしてやられたわ」と龍田(獲物)は心の中で言った。「でも、二度目はないから」

 

 赤いしずくをしたたらせる杭を手で押しやってから立つと、彼女は前進した。仕掛け直された罠を意識する必要はあったが、存在を承知していれば回避も解除も簡単だった。十数分ほど歩くと、龍田は止まって足元を見た。草や枝が踏み折られ、歩きやすくされていた。それは注意しなければ分からないほどさりげなく、森の歩き方を知る人間を、作られた“道”へと引きつけていた。腰を上げ、その道の先を視線で辿る。一見して罠はなさそうだったが、その判断が正しいかどうかを知る為にこのまま進むほど、龍田は破滅的な艦娘ではなかった。彼女は大きく脇に逸れ、弧を描くようにして目的地まで迂回していくことを選んだ。

 

 補給地点近くまで行くには、かなりの時間を要した。龍田が数分歩く度に足を止め、血走った両目で一帯を精査したせいだ。そうしている内に霧が晴れ始めていることに彼女は気づいたが、一つの気象現象が永遠に続くことなどあり得ないと承知していたので、焦りも驚きもしなかった。それに霧が重要だったのは、それが敵の航空戦力に対して好都合に働いていたからである。ヲ級が片付き、深海棲艦が艦載機を寄越してくる心配もなくなった今では、霧は必要ではなかった。むしろ敵を探すのには、晴れている方がずっとやりやすい。次に敵の空母が来たらどうするかなどということは、考えもしなかった。

 

 ある草むらの中で、龍田はまた停止した。膝を曲げて腰を落とした彼女の視線は、少し先にある、爆撃でできたクレーターに向けられていた。穴には水が溜まり、水面には木々の破片が浮かんでいる。クレーター付近の草木はなぎ倒されて、小さな空白地帯のような形になっていた。龍田は目を凝らして、それらを見た。彼女には水面下に潜む敵を見ることができた。倒木に身を隠した敵を見ることもできた。それは幻だったが、近づいても幻のままである保証はなかった。龍田は石を投げようかと思ったけれど、そうすると石の軌道から自分の位置を悟られて撃たれることになるかもしれなかった。短い時間で考えられるだけのことを考えて、彼女は決めた。

 

 膝を地面につけ、腹ばいになる。それから、クレーター付近を視界に捉えながらの迂回を始めた。そうしていれば、幻視が本当になった時にも即座に対応できる。それに龍田には、待ち伏せていた誰かが身じろぎの一つでもすれば、たちまち看破してやれる、という自信があった。水中で動けば波紋が生まれ、茂みの中で動けば葉音を立てる。深海棲艦もそんなことは分かっているから、回り込まれつつあることを察知したとしても、身動きは取れない。一か八かで姿を現せば、純粋な早撃ち勝負。回り込み終わったら、石でも投げて確認して、そこにいれば背中を撃ち抜いて片付ける。プランと呼ぶには杜撰だったが、疲労の蓄積した頭が捻り出したにしてはそれなりに筋の通った案に、龍田は悪くない気分になった。

 

 回り込む間ずっと、彼女は目を閉じずにいた。まばたきも慎重に、片方ずつ済ませた。一度だけ薙刀が石を擦り、小さく耳障りな音を立てた時には心臓が止まりそうになったが、砲撃はなかった。クレーターの迂回を終えると、彼女は薙刀から手を離して地面を撫で、大きめの石を何個か拾った。それを手に取りやすい位置に並べ、怪しいと龍田が感じた場所に次々と投げつけていく。水の跳ねる音や、湿った木を打つ音が聞こえたが、それだけだった。少し待ってみてもそれ以上の変化も動きもないので、龍田は彼女が見たような気になったものが、やはり非現実だったのだと判断した。息を吐き、起き上がって、本来の活動に戻る。

 

 リ級の罠が設置された域を抜けたのか、龍田の覚えがない場所に仕掛けられたトラップを見ることはなくなった。自然、彼女の移動速度は上がった。そのことを自覚していた龍田は慎重さを重視して速度を緩めるべきか考えたが、タ級が待ち伏せを諦めて追跡に移っているかもしれず、だとすればクレーターで時間を使ってしまった分、急がなければ追いつかれる可能性があった。音を立てて隠れているだろうリ級の先手を許すか、追ってきた戦艦と事前準備抜きで戦うかなら、龍田は前者を選びたかった。それにリ級がタ級と協同して、敵を挟み撃ちにしようとすることも考えられる。そうされない為には、逃げて仕切り直すか、挟撃が始まるより先に片方を始末しなければならない。急ぐ以外の選択肢は適切でないと、龍田は改めて認めた。

 

 継続的な運動で荒くなった息を飲み込んで進む。二百メートルほど向こうに一際太い幹の木が見えてきて、龍田は自分が目的地に到着したことを知った。樹皮には目印の傷がつけられており、土色の厚い皮の下に隠れた白色の木部を覗かせていた。物資を求めて、龍田は走り出した。でもただの数歩で、彼女は急に止まった。罠もなく、どの木陰にも待ち伏せる深海棲艦の姿はなかったが、ともあれ止まらなければならないと龍田の艦娘としての勘が叫び立てていた。何かが気に掛かった。何かが、おかしかった。それで龍田の足は、ぴくりとも前進しなくなったのである。彼女は一歩退くと、細い木の後ろに隠れて、寄り掛かりながら目印の木をよくよく見た。やはり、何も見つからなかった。なのに、足は動かないままだった。

 

 時間がなかった。幾ら気長だったとしても、もういい加減タ級も待ち伏せを諦めて、自分の後を追っている筈だと龍田は考えていた。理由もなく現在地で時間を無駄にすればするだけ、タ級との距離は縮まってしまう。決断しなければならなかった。いつでも龍田が、あらゆる艦娘たちが戦いの中でそうしてきたように。その決断が死という結末に己を連れてゆくものであるかもしれなくても、とにかくそれなしには最早どうしようもなかった。龍田は木の後ろから躍り出ると、薙刀を振ってぴたりと目印の木を指し、その枝葉に向けて一発撃ち込んだ。砲弾に押しのけられて緑の天井に一瞬だけ小さな穴が開くが、すぐに別の枝と葉で隠されてしまう。衝撃と爆風を伴う轟音が、龍田の全身に浴びせられる。彼女を取り囲む森は、その騒音を責めるようにざわざわと葉音を立てた。

 

 五秒が経った。何も起こらなかった。十秒、二十秒、三十秒が経ったが、森のざわめきが薄れて消えたことを除けば、何の変化もなかった。それでも龍田は待った。不動のまま、射抜くような視線を目印の木に向け、極限まで集中力を高めて、彼女は待った。やがて、小さな水音がした。規則正しいそれが何を意味するのか、頭で理解するよりも先に、龍田の体は動き始めていた。腰を落とし、大地を蹴って目印の木へと突進する。その樹上から発砲された砲弾が、龍田の頭の上を()ぎって地面に着弾し、泥を巻き上げる。木の上で待ち伏せていたリ級が、ちぎれかかった右腕を庇うように身をよじりながら、重力に引かれて落下を始める。彼女は体勢を整え切れず、仰向けに地面へ叩きつけられた。そこに止めを刺そうと、龍田が駆け寄っていく。

 

 もちろん、リ級は寝転がったままではいなかった。片腕にしては迅速に立ち上がり、左腕の砲を龍田に向けた。しかしその時既に、興奮に目を見開いた軽巡艦娘は標的に十分接近していた。下から斬り上げられた薙刀の刃がリ級の左腕艤装を弾き、それまで相手を捉えていた射線をズレさせる。足を止めないまま、龍田は柄ごと体当たりをするようにしてリ級を近くの木の幹に押しつけた。そして右手を薙刀の柄から離し、左腰の刀を鞘から抜く。リ級は暴れ、吠えようとする獣のように大口を開け、鋭い犬歯を剥き出しにした。その目は凶暴な戦意に輝き、追い詰められて尚も敵に立ち向かおうとしていた。だが龍田が一息に下腹部から頭頂部を刀で串刺しにすると、その輝きも消え、表情も曖昧になる。

 

 深海棲艦との戦闘を制した艦娘は、刀の柄から手を離した。リ級の亡骸が、ずるずると背中で木の表皮を擦りながら倒れていく。それを龍田は漫然と眺めていた。天龍の刀を回収する為にも、休憩の為にも、そして目的──補給の為にも腰を下ろすべきだったが、そうする気になれなかった。血を流して横たわる敵の姿を視界から外すことができなかった。交戦が一段落して戦闘の興奮が引いたせいだ、とベテランの艦娘は分析したが、原因が分かったところで何も変わらなかった。「早く補給しないと」そう呟こうとして、上下の唇が乾いた唾液で貼りつき、離れなくなっていることに気づく。指で唇を揉み解すと、刀を伝って龍田の手を汚していたリ級の血が彼女の口周りに付着し、舌に鉄の味を、鼻腔には嗅ぎ慣れた悪臭を届けた。

 

 舌打ちして、強引な精神力でリ級の死体から視線を引き剥がす。十歩ばかり歩いて、物資を埋めた場所の真上に立つ。左手で掴んでいる薙刀を逆さにして穴を掘ろうとしたが、手が柄から離れなかった。凍りついたように筋肉が凝固していて、右手で指を掴んでも、噛みついてあごの力を使ってみても、無駄だった。貴重な時間が無意味に流れていくことに苛立って、彼女は自分の頑固な左手を脅すように囁いた。

 

「ああもう、ナイフでこじ開けるか、指を切り落として修復材で再生させようかしら。分かってるの? あんまり手間を掛けさせると……」

 

 しかし脅迫の内容を実際に行う前に、彼女の耳に足音が響いてきた。盛大な溜息を吐き出して落胆を示してから、音の発生源を確かめる為に振り返る。そこには思った通り、タ級が立っていた。血で口元を赤くした艦娘の近くに転がる、同胞の無残な死体を見たせいなのか、彼女はやや腰が引けていた。龍田はその様子がおかしくなって笑うと、左手を開くことを諦め、薙刀を構え直して言った。

 

「ほらぁ、こういうことになっちゃうじゃない……」



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13.「お帰りなさい」

 昼を過ぎた頃にラスシュア島に到着した那智は、迷った末に西部の浜から上陸することにした。彼女は吹雪が「そんな分かりやすい場所を選んで、標的があなたを殺す気で待ち構えていたらどうするつもりですか」と自分に対して苦言を呈する姿を想像し、それに「うるさい」と言い返して笑った。上がってみると、真っ先に彼女の目に飛び込んできたのは浜辺に転がされた三体の深海棲艦の死体だった。ヲ級フラッグシップ、リ級エリート、タ級──那智は吹雪と以前に話した時に指摘されたような、不適切な誇らしさを感じた。艦種的に砲戦力に欠け、地上という環境に切り札である雷撃をも封じられた軽巡艦娘が、フラッグシップやエリートを含む敵の艦隊を撃破し、更に彼女にそのやり方を教えたのは、誰でもない那智自身だったのだ。状況さえ違えば、誇らしく思って当然のことだった。

 

 那智は深海棲艦たちから離れたまま、それらを調べた。決して近寄ろうとはしなかった。仕掛け爆弾に体をばらばらにされる危険性を冒してまで見るべきものが、そこに残っているとは思えなかったからだ。那智は死体をさっと一瞥すると、龍田が対処した順番をヲ級、リ級、タ級だろうと推測した。吹雪が電から聞き出した情報ではヲ級が最初にやられたということになっていたし、リ級には砲による負傷と刃による傷の両方があったが、横向きに転がったタ級の死体には刃の傷だけが、それも体の正面に集中してあったからだ。彼女はそのまま考えを深め、龍田がリ級を殺害した時点で弾薬を切らしてしまい、補給する前にタ級と遭遇、近接武器のみでどうにか仕留めたのだと判じた。

 

 ますます彼女の感じる誇らしさは強まったが、同時に厄介さも覚えるようになった。龍田と同じことが今の自分にもできるかと考えてみると、疑わしかった為である。彼女の腰にはナイフがあり、希釈された高速修復材の水筒がぶら下がっていたが、それだけで戦艦型の深海棲艦を一隻、正面から挑んで倒せるかとなれば、非常に難しいだろうと認めざるを得なかった。だが、龍田はそれをやったのだ。深海棲艦たちの体に残された傷の形やサイズから、龍田が主に振るった得物がナイフではなかったことは一目瞭然だったが、那智に言わせればそれは些末な違いに過ぎなかった。

 

 元教官は用心しつつ、道を辿って針葉樹林に入っていった。その道には砲戦の痕跡や血の染み込んだ土、艦娘たちの服の端切れなどが見つけられて、前にそこを通った陸奥ら連合艦隊がどんな目に遭わされたのか、言葉以上に雄弁に語っていた。陸奥たちが避けて進んだ為に作動していない罠もあったが、彼女らよりも遥かに深く龍田の戦い方に精通している那智が、それを見つけられない筈もなかった。懐かしいような気分になって、彼女の元教官は仕掛けられた時のままにされているその罠をよく観察した。ワイヤーと指向性地雷を使った単純な仕掛けだが、迂闊に解除すると連動した二つ目の罠が作動するようになっていた。不注意な犠牲者を痛めつける為の、基本に忠実で、悪辣な仕組みだ。

 

 陸奥たちがそうしたように、那智もそれには触れずに通り過ぎた。激烈な戦闘の跡が残されている場所まで来ると、彼女は止まって足元を調べた。誰かが足を踏み入れるまでは、入念に擬装されていたのだろう縦穴を見つけ、腰を下ろして中を覗き込む。折れた竹串が何本かあったので、彼女は血がついていないものを選んで拾い、その先端の臭いを嗅いだ。その途端、ひどい悪臭に唇を曲げる。「毒か」と那智は言うと、その串の先を一舐めして味を見てみたいという奇態な欲求を抑えて、元の穴の中に串を捨てて立ち上がった。

 

 懐に収めていた地図を開き、レーダーサイトの位置を調べる。方角を確認してから紙切れを元の場所に戻して、那智はそちらに歩き始めた。深海棲艦との戦いで負傷していなくとも、疲労したであろう龍田は拠点に戻ると踏んでのことだった。サイトは既にヲ級による爆撃を受けて破壊されていたのだが、那智はまだそれを知らなかったのである。ただ予想はしていたので、サイト前に着いた時もすんなりと受け入れられた。瓦礫の小山になったトーチカ様の建物の周囲を回り、罠などないか注意しながら、残骸の中を探ってみる。ごく浅い部分しか調べることはできなかったが、那智の知りたいことを知るにはそれでよかった。彼女は腕組みをして、記憶の中にメモをするように呟いた。

 

「爆撃前に根こそぎ物資を持ち出したな。だが急いでいただろうし、そう遠くまでは持っていかない筈だ。最低限爆撃に巻き込まれないだけの距離で、分散させてもいまい。一箇所(かしょ)か、精々二箇所。次の拠点があるなら、もうそちらに移動させているかもしれないが……」

 

 口ごもって、深海棲艦たちの死体を思い出す。那智の記憶の中では、タ級の傷から流れた血は、まだ固まってもいない真新しいものだった。なら龍田が彼女を片付けて浜辺に運んだのは、現在から見てそう遠い昔ではないということだ。物資の移動に龍田がどれだけ時間を使うか、那智には情報が少なすぎて推算もできなかったが、運搬を先にしていればタ級の血は古くなっていただろうということは分かった。

 

 レーダーサイト跡を中心にして、周囲を捜索する。那智の足跡が半円を描いた頃に、彼女が求めていたものが見つかった。踏み潰された草だ。爆撃から逃げようとする龍田の動転ぶりを示すかのように、それは隠されたり引き抜かれることもなく、その場に残されていた。潰れた草の辺りを更に入念に調べ、ヲ級によって落とされた爆弾の影響を受けていないことも確かにする。草の倒れた向きから龍田の移動した方角を割り出しながら、元教官は少し教え子に失望するのと、彼女への擁護を同時に行った。

 

「相次ぐ襲撃、不十分な休息。注意力の低下も仕方なし、か」

 

 肩をすくめて、追跡対象の過去の動きをなぞって歩いていく。と、那智の目は数メートル離れた地面に投げ捨てられた袋に向いた。龍田の罠の可能性を考えてから周りの爆撃痕を見て、まさに爆弾が自分のいる場所を目掛けて落とされている最中に、罠を仕掛けようとする者もいないだろう、と考えを変える。けれど爆撃の後で龍田が戻ってきて、己の後を追おうとしている者の為に土産を残していった、ということも否定できなかったので、那智は足元を探して手の平ほどの石を拾うと、袋に向かって投げつけた。

 

 石は的に当たり、袋は微動してくぐもった音を立てた。それで罠がないということと、中身が分かった。水を入れたペットボトルだ。袋の膨らみ方から見て、結構な本数のボトルが入っているようだった。歴戦の重巡艦娘は左手で己の頬を撫でた。罠としては餌が露骨すぎる。物資の運搬中に爆撃が始まり、逃げる為に投棄していったものだろう。そう考えて、那智はここにいない教え子をたしなめるように言った。

 

「命を失うよりはいいにしても、水を捨てるのは余り褒められたことではないぞ」

 

 ナイフを抜いて用心しつつ袋に近づくと、彼女は何度か袋越しに刃を中身へと突き立てた。とくとくと音を立てて水が流れ出していく。それを尻目に、那智は追跡を続けた。龍田の足跡は雨のせいで消されてしまっていたが、かき分けられた茂みの微妙な歪みや、龍田の足が巻き上げて飛び散らせた泥が、洗い流されることなく付着していた木の幹を見れば、彼女の通った道を特定できた。二十分ほど歩いてから、龍田が何度も進路を変えていることに気づいて、那智は頭の中で吹雪から貰った地図を開いた。そこに線を引いて、この蛇行の理由と本当に目指していたのであろう地点を探ろうとする。

 

 深海棲艦に追っ手を掛けられていて、それをどうにか撒こうとしていた、という仮説がまず出てきた。が、那智は自分でも余りそれを信じなかった。陸上、それも森林で逃亡者の追跡ができるほど陸戦に慣れた深海棲艦がいる、とは考えづらかった。この解釈を否定的に評価してから、那智は少し笑った。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()? おかしさを感じなくなるまで待って、彼女は龍田がこの蛇行の時どんな状況に置かれていたのかを、淡々と脳内で挙げていった。夕方から夜間に掛けて、爆撃、頭上には航空機の一群。リ級とタ級が砲撃を行い続けていたことまでは見抜けなかったが、それでも龍田の進路がしばしば変更されていた理由には見当が付いた。

 

「万に一つも見つかりたくなかったか、龍田? それで、空から少しでも見えづらくなるように動いた、と。慎重な奴だ、戦争を生き延びたのも頷ける」

 

 感心して、那智は片目をつぶった。特別探すものがあったのではなかったが、ゆっくりと辺りを見回しながら言う。

 

「このままお前の進路を追ってもいいが……時間がもったいない」

 

 そして、それまで彼女が歩いてきたルートを分析して割り出した、物資集積地点があると思われる方向へとまっすぐ歩き始めた。数分もしない内に、彼女は立ち止まらなければならなくなった。通ろうとした茂みの脇に、さっき見つけたのと同じような、ワイヤーに繋がれた指向性地雷が隠されていたからだ。那智はそれを三百六十度から見て二つ目の罠がないことを確認すると、地雷の向きを反対に変え、ワイヤーをまたいだ。もちろん彼女は足を完全に下ろす前に、またいだ先の地面をブーツのつま先で払うことを忘れなかった。泥で白い長靴(ちょうか)が汚れても、結局二段目の罠が見つからなくとも、那智は全く気にしなかった。

 

 意識を索敵と罠の検知に振り向けながら、龍田のことを思う。今彼女が何をしているのか、何を考えているのか、空腹か満腹かその中間か、喉は渇いているか潤っているか、戦意はあるのかないのか、負傷しているのかどうか。気になることは幾らでも浮かんだが、那智が一番知りたかったのは、彼女が何を求めているのかだった。謎めいた教え子の望みについて思う内、那智は「話がしたい」と繰り返し龍田が訴えていたことを思い出したが、まさか彼女がただの“話”をする為に命懸けで島一つを我が物にし、遂行する必要のない戦争を戦っているとは信じられなかった。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。根拠のない断言を、心で呟く。その意見に確証がないことを認めながら、それを信じようとする。でなければ、那智が今の自分のものであり、己がそこに身を置いていると信じている理性的な世界が、龍田の内面に潜んでいる明白な狂気に侵食されていくような気がして、耐え難かったのだ。特に龍田の孕んだ狂気が、決して彼女にだけ特別に宿り得る類のものではなく、戦争を海の上で経験した艦娘全員に起こる可能性のあるものだと思うと、那智は身の毛のよだつような思いがした。「戦争が終わってから、こんなに恐ろしいと思うなんてな」と皮肉りでもしなければ、我慢できなかったほどだった。

 

 しかしその感情も龍田の資材が無造作に積まれたところまで来ると、艦娘らしい任務への集中によって塗り潰された。那智は手早く資材を物色し、役立ちそうなものを二、三拝借すると、自分の艤装から燃料を抜いて掛けた。掛け終わると一歩引いて「ふうん」と声を上げる。それから「これでも足りるだろうが、もう少し念を入れておこうか」と言うと、おもむろに主砲用の装薬を砲塔から抜き取り、龍田の資材の山に放り込み始めた。燃料を吸って色の変わった木箱の隙間に装薬を押し込んでいると、那智は突然、自分が戦争時代、それもまだ新兵だった頃に戻ったような気持ちになった。

 

 小さく咳払いをして、彼女はナイフを抜いた。柄の下部をつまんで捻り、外す。中には金属の棒が入っていて、那智がナイフの背でそれを擦ると火花が散った。すぐさま燃料と装薬に引火し、着火した当人が思わず仰け反る大きさの火が上がる。服に燃え移ったりなどしないように下がってから、彼女は仕事の出来を評価するように頷いた。金属棒をナイフに戻して蓋をし、燃料と物の燃える香りを胸一杯に吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。それは彼女が長い間、忘れていた匂いだった。過去の記憶を呼び覚ましそうになるのを押し留め、次の動きを決めに掛かる。

 

「お前は賢い。異変を知ってすぐここに来るが、待ち伏せの危険を忘れはしない。遠くから身を隠して、眺めるだけにする。どうせ炎を消し止める方法もないからだ。でもお前は目敏いから、私に繋がるかもしれない手掛かりを見落とすことはない。必ずそれを取りに出てくる。私がそれを狙っていると知っていても」

 

 小声でそう言いながら、那智は燃える資材の中から空の木箱を取った。全体的に煤で黒く汚れ、火にあぶられていた箇所は炭化が進んでいる。蹴り壊すのは容易だった。釘が飛び出た大きめの破片を、熱を感じることのない義手で掴み、ナイフの先端で煤汚れを落とすようにして字を書く。それを近くに立っている木に、今度はナイフの柄で打ち付けて、那智は「これでいい」とまた頷いた。

 

*   *   *

 

 風が強く吹いた。先の雨で濡れていた草木から、露が散る。その優しい目覚ましを頬に受けて、木陰で横になって身を休めていた龍田は目を覚ました。緩慢な動きで、横に置いていた薙刀に手を伸ばす。だが柄は握らなかった。タ級との交戦の後、多大な苦労を掛けて指の筋肉をほぐして柄から引き剥がしたことが、彼女を用心させていた。半身を起こして顔に付いた水滴を拭おうとして、血が手にこびりついたままになっているのを見つける。休む前に死体を運んだ深海棲艦たちのものだろう、タ級のものか、リ級のものか……そんなことを思ったが、どちらにせよ血は血であり、清潔とは言えないものだった。

 

 こんな手で顔を触ったら、微細な傷や目の粘膜などから、どんなおぞましい雑菌が入って来るだろう? そう考えて龍田は顔の前から手を下ろしたものの、すぐに気を変えた。()()()()()()()()()()()()()()()()()()、と彼女は胸の中で呟いた。袖で顔を拭き、思考を切り替える。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。そっと薙刀の柄を握り、杖代わりに突いて起き上がる。その拍子によろめいて、木の幹に手を突いて体を支える。表情が歪み、厳しいものになるのが龍田自身にも分かった。休養の後だというのに、どうしようもない疲労感に苛まれていた。左手を上げ、脇腹を見る。上着の一部分が、その下の肌着諸共に裂けていた。初めの弱腰が嘘のように激しく抵抗し、龍田に少なくない出血を強いたタ級のことを思い返して、不機嫌さを示すように鼻を鳴らす。

 

 それでも奇妙なほど、深海棲艦である彼女たちに対しての個人的な復讐心は龍田の胸に見当たらなかった。死体をそのままにせずに浜辺まで持っていったのも、晒し者や罠の餌にしてやろうという魂胆ではなく、彼女らを送り込んだ者たちに後を任せる為だった。放っておいて腐るに任せるならそれでもよかったし、回収しに来るなら来るで、それを邪魔する気はなかった。「変よね」龍田は自嘲気味にそう言ったが、その言葉は彼女が意図しなかった鋭さを持って彼女自身の心に刺さり、くすぐった。龍田は何となく心が愉快になって、気力が回復するのを感じた。

 

 出発の前に、装備を点検する。龍田と共に戦争を生き抜いた頑丈な艤装は、砲が弾切れを起こし、機関も万全ではないが、不調らしい不調はない。それだけに、補給ができなかったのが残念に思われた。リ級が樹上で待ち伏せていたのは、その近くに隠された物資があると知ってのことだったのである。だから彼女は木に登る前に当然の行為として、それを龍田が利用できない状態に変えてしまっていた。従って、周りと比べてはっきりと柔らかさを増していた泥の下から龍田が回収できたのは、木片や弾薬を含む資材の残骸ばかりだった。彼女は心の片隅でこっそりと、これまで島にやってきた連中の()()度合いを比較し、序列化した。最初に来た天龍と深海棲艦たちのどちらを一位にするかで迷いつつ、個人携行品のチェックに移る。

 

 希釈された高速修復材や水の残量、次いでナイフから薙刀までの刀剣類の刃こぼれを調べ、気になるところは小さなシャープナーでその場凌ぎの補修を施していく。調達できる飲用水はともかく、希釈修復材の残りが少ないことが龍田の不安を煽った。新たな拠点に相応しい場所を探す前に、修復材の水筒を再び満杯にしておきたかった。ひとまずの目的地を決めて、早足で歩き出す。

 

 暫くは何の問題もなく、これからのことを思って憂鬱に浸っていられた。けれど龍田の鼻が何処からか流れてきた燃料の臭いを捉えると、彼女の憂鬱さはよく慣れ親しんだ恐怖に変わった。()()()()()()()。数も所属も分からなかったが、いるというだけで十分だった。()()()()()()()()()()()()()? 燃料漏れや艤装が破損したのでもなければ、通常それは工廠の外で嗅ぐことのない臭いである。いぶかしみながら、臭いが強くなる方向を探す。それは、龍田がまさに今目指して歩いていた方角と一致した。それで龍田は全部了解して、諦めを感じながら駆け出した。

 

 予感していた通り、物資は燃え盛っていた。離れたところにある茂みからそれを隠れ見て、龍田は歯軋りをしそうになった。彼女がどうにか自分を律して止めなかったなら、ぎりぎりという不快な音が数メートルに響いていただろう。持ち歩いている荷物から、双眼鏡を取り出す。激戦を経る中で付属の暗視装置は死んでいたが、本来の機能はまだ失われていなかった。初めは低倍率で周囲を索敵し、少しずつ倍率を上げながら、何か僅かでも敵の情報が見つからないか探す。間もなく、彼女の目は炎に照らされた一本の木の幹に打ち付けられた板に向けられた。じっくりと見て、そこに文字が書いてあることは分かったが、完全に読み取ることはできなかった。

 

 双眼鏡を下ろし、考える。あからさまな罠だった。何処かに隠れて、自分(標的)が姿を現すのを待っているに違いない、と龍田は確信した。もう一度、更に一度と索敵を繰り返す。だが、見つけられなかった。本当にいないのではないか、と考えそうになって、それを打ち消す。周囲一帯を焼き払って不在を確認したのでもない限り、そんな説は彼女にとって信じるに値しなかった。発見できなかったことへの敗北感を隠す為に、龍田は囁いた。「私に見つけられないほど上手に隠れたからって、勝っただなんて思わないことね」そうして、今やキャンプファイアのようになり始めた物資に目を戻した。罠用の資材や食料、希釈前の高速修復材を詰めた金属製の密閉容器など、彼女が持ち込んだもののほとんどがそこで燃え、灰になろうとしていた。

 

 でも、密閉容器はまだ生きているかもしれない。その可能性に思いを馳せて、龍田は己の肉体への慈悲や情けを省いた計算を行った。炎に腕を突っ込み、修復材の容器を取る。複数あるが、欲張らずに一つだけ。敵の砲撃があって、発砲炎を見たり射撃音を聞いた後でまだ生きていたら、反撃を加えて離脱する。それができるかどうかという問いに、確かな答えはなかった。しかしここでむざむざ失うには、高速修復材という装備の重要性は余りにも高かった。左手に薙刀の柄を握り締め、浅い呼吸を繰り返しながら、右手を開き、閉じ、また開く。地面を蹴り、飛び出す──直前に、龍田は重大なことに気づいた。燃やす前に物色されて、容器ごと奪取されるか、中身を捨てられていることもあり得るのだ。

 

 考えるにつけて、敵がそうしていないだろうという推測は不自然で危険なほど希望的に思えるようになった。そんな前提に基づいて出て行けば、無意味にリスクを負うことになる。己の選択が間違いではないことを祈りながら、龍田はプランを変更して板を取ることにした。そこにどんな内容の文章が書かれているのか、どうして残していくものが資材の一部などではなく、メッセージの書かれた板でなければならなかったのか、彼女は知りたかった。体勢を整え、再び浅い呼吸で勢いをつける。目を大きく開き、視界に映るどんな動きも見落とすまいとしながら、視線を目指す一点に向ける。微かでごく短い気合の掛け声と共に、龍田は隠れた茂みから駆け出した。

 

 耳元で風がごうごうと唸るのを彼女は感じた。運動の興奮と死の恐怖で、彼女の鼓動を刻む音はこれまでにないほどその間隔を狭めていた。冷たく湿った空気が眼球を撫で、まばたきをこらえる龍田の目を潤ませた。木がどんどん近づいてくる。板に手を伸ばし、強引にむしり取る。釘の刺さったところで板が折れて、べき、と音を立てた。砲撃は来ない。そのまま一直線に駆ける。この場に留まる理由はもうなかった。逃げて、逃げて、仕切り直す。龍田の頭はそのことで一杯になっていた。

 

 数十メートルは駆けた頃に砲声がして、空気を切り裂く瞬間的な飛翔音に続き、龍田の左手側、ごく近い場所で砲弾が炸裂する。飛び散った泥の塊がそこかしこに叩きつけられてばしりと鳴り、木がその太いと細いとを問わずに倒され、悲鳴のような破砕音も響いた。()()()()()! 速度を緩めぬまま瞬時に背後を振り返り、敵の姿を探す。見つからない。諦めて前を向き、もぎ取った板を握り締めて走り続ける。二発目が、今度は右手側に落ちた。一塊の泥が肩に当たり、バランスを崩しそうになる。大きく足を踏み出して何とか姿勢を保つが、スピードが落ちるのは避けられなかった。龍田は三発目が来ることを直感し、着地点に罠がないことを祈って横っ飛びに跳んだ。身を低くして泥の上を転がり、頭を抱えて砲弾の破片から守る。

 

 が、三発目は撃たれなかった。勘が外れただけなのか、行動を読まれていたのか考えそうになったものの、龍田は疑問を振り払って起き、足を動かすことを選んだ。スタミナ配分や走法を無視した、洗練されていない走行は彼女の体を急激に消耗させ始めていたが、襲撃者は今も自分に狙いを定めているのではないか、という強迫的な思考が、龍田を立ち止まらせようとしなかった。彼女がとうとう止まったのは、木の根に足をつまづかせてのことだった。うつ伏せに倒れ込み、それでも即座に身を返して薙刀を突き出し、敵の姿が見えればすぐさま砲撃を加えられるように構えた。数分の間、その構えを崩さないまま彼女は荒い息を整え、鼓動を落ち着かせようと努力した。

 

 数倍の長さにも感じられた数分の後、やっと脈拍が平常に近づいてから、そろそろと立ち上がり、適当な木の後ろに身を移す。砲撃からの遮蔽物としては全く頼りにならない程度のものだが、姿を隠せるだけでもありがたかった。龍田は砲声を思い出し、身を震わせた。彼女の記憶は、あの攻撃が二〇.三センチ連装砲──それも素の砲ではなく、改良された、いわゆる「二号砲」と呼ばれるタイプのもの──によって加えられたと告げていた。それは、熟練した重巡艦娘が装備していることの多い砲であるだけでなく、龍田に彼女の教官を想起させる兵装でもあった。「まさか」と彼女は口走り、自分をからかうように早口で言った。「せっかちさんにもほどがあるんじゃないかなあ?」

 

 無理やりに微笑を浮かべ、握ったままだった板を見る。汗ばんだ手の中にあったせいで煤が多少落ちていたが、書いてあったことは読み取れた。それは文章ではなく、数字の羅列だった。すぐに龍田はそれが無線の周波数を示すものだと悟った。そしてまた、ぞくりとした。()()()()()()()()()()()()()? ()()()()()()()()()()()()()? ()()()()()()()()? 小刻みに震える手で艤装の通信機を操作し、周波数を書かれていたものに合わせる。罠かもしれなかった。無線での通信は、機材さえあればその発信源を特定できる。上陸してきた誰かがそういったバックアップを受けていて、標的の位置をあぶり出そうとしているとしても、何らおかしな点はない。だとしても、龍田は信じてみたかった。

 

 どう声を掛けるべきか分からず、ビープ音を一度だけ鳴らす。吐き気に似たものがこみ上げてくるのを、擦り切れた意志の力で封じ込める。反応を待つことで無為に時を費やしていないで、木陰から出て何処かもっと落ち着ける場所を探すべきだと分かっていたが、動き出せなかった。そうすることは通信機の向こうにいるかもしれない女性への不敬に感じられたし、何かやっていたせいで返事を聞き落とすようなことがあれば、それこそ後悔では済まないと思った。龍田は固唾を呑んで待ち続けた。回線の繋がった先にいるのが望んだ通りの相手なら、この呼びかけが原因で殺されることになったとしても、不満はなかった。

 

 通信機が、龍田の送ったビープ音と同じものを発した。けれど今回は彼女の手によるものではなかった。龍田は、はっとして通信機のスピーカーを見た。今こそ声を掛けようと口を開きかけて、閉じる。先に聞こえたその音が現実なのか、龍田の心に泥のように堆積した狂気が、彼女の疲労や切望と結びついて生み出した妄想なのか、確かめずにはいられなかった。もう一度、信号を発して待つ。数秒と掛からず、信号が二度戻ってきた。それでようやく、彼女は現実を現実として認識することができた。

 

「教官」

 

 否定しがたい疑いと直感のせめぎ合った、揺れて歪んだ声色で龍田は言った。彼女の心のある一方では確たる証拠もなく那智の来訪を信じていたが、別の一方ではやはり論拠もなく、ただ願望と実際の乖離に傷つくことを避ける為だけに、ここに来たのは那智ではないと主張し続けていた。呼び掛けてから一秒一秒が過ぎていく度に、龍田の中で後者の勢力は勢いを増して行った。「ほうら」と落胆して彼女は肩を落とした。「期待なんかするから、裏切られちゃう」でもそこで唐突に、自分が通信機の送信ボタンを押していなかったことに気づいた。たちまち龍田は赤面し、数秒前の恥に満ちた発言を取り消した。ボタンを押し、送信状態にしてから同じ言葉を口にする。答えは那智の声で、あっさりと返ってきた。

 

「ああ」

 

 龍田が彼女を呼ぶ為に奮い立てなければならなかった勇気の大きさから比べると、短く無味乾燥とした味わいの、たった一言だけの返事だった。だというのに、その声を聞いた龍田は体の力が抜けるのを感じ、抗う気力も抜けて薙刀を手放した。泣きたかった。手で顔を覆ったが、押し殺したような泣き声が喉から出るだけで、涙は出なかった。当然ね、と龍田は思った。教官が島に来たのは、悲しいことではないのだから。そこで彼女は笑ってみることにした。声を上げて笑うと、気分がとてもよくなった。通信機に向けて、言葉を掛ける。

 

「最近の“民間人”は、挨拶代わりに砲撃するんですね、教官?」

「そうらしい。そして最近の艦娘は、自国領を占領するそうだ。戦争は終わったが、変な世の中になったな」

「もう、またそんなことを言って。あなたにとってあれが終わったことなら、どうしてあなたはこの島にまで来たんですか? ……艤装を着けて、私を撃ちまでしたじゃない。きっと、砲声が耳に心地よかったでしょう。発砲の反動が、何だかしっくり来たんじゃないかしら。ねえ、認めましょうよ、そういうことを、教官。民間人の振りをして、私に嘘を言うのをやめて。あなたの本当の気持ちを教えて欲しいんです。戦争が恋しくありませんか?」

 

 出し抜けに、龍田はその質問の答えをこんな形で聞くのが恐ろしくなった。でも聞かないでいれば、その恐ろしさを遥かに上回る苦痛を自分にもたらすだろうということが、彼女には分かっていた。それで、那智が何か言い始める前に「待って!」と言って彼女を遮った。回線の向こう側で那智が言葉を飲み込むのを感じた龍田は、己の礼儀を欠いた態度を恥じるような、自信のない声で頼んだ。

 

「直接会って話しませんか、教官。今度はお互いに艤装抜きで、小さな同窓会か何かみたいに」

 

 思考の為の短い静寂の後、那智はその申し出を受けた。

 

*   *   *

 

 簡単な会話から二時間後に、二人はレーダーサイト跡で落ち合った。合流地点を選んだのは那智である。深海棲艦による徹底的な爆撃の影響もあり、身を隠すことのできる木々が近くに少なくなったその場所は、不意打ちを受けたり罠に掛けられることを避けたい那智にとって、格好のポイントだった。今は瓦礫の山となったサイトの前で、緊迫した空気の中、彼女たちは五メートルほど離れて向かい合った。

 

 二人とも艤装こそ下ろしていたが、武装していない訳ではなかった。那智はナイフを腰のベルトで背後に吊り下げていたし、龍田は隠す素振りも見せずに薙刀を持ち、天龍の刀を提げていた。那智はそれを見て、特定の艦娘に支給される白兵戦用兵装を()()に含むか否かについて、日本海軍がどのような見解を有していたか思い出そうとした。だが、それが助けになるとも思えなかった。いつ薙刀で斬りつけられても身をかわすことができるように、右足を軽く前に出す。さりげない動きではあったけれども、龍田はそれに反応した。敵意はない、と意思表示をするかのように、薙刀を地面に横たえたのである。しかし那智はこれを形だけの行為であると判断した。心から敵意のないことを示すつもりなら、そもそも艤装と共に置いてくる筈だからだ。

 

 左手を腰に当て、自信に満ちた態度を装いつつ、龍田を見る。まずは彼女の顔に視線を向け、それから薙刀、次いで刀に目を落とした。両肩を軽く上げて、気負ったところのない声で訊ねる。「家に帰ってもいいか? 鎧を着てくるから」しかし龍田は答えなかった。絵画のように動かぬ微笑を浮かべたまま、彼女は那智の双眸(そうぼう)に見入っていた。その熱心な凝視に向けた皮肉を言おうとして、那智はそれが彼女の人生で見慣れたものだということに気づいた。

 

 それは崇拝や傾倒の気配をまとった視線だった。慕情にほど近い親愛が込められた視線だった。教官としての厳しさから憎まれさえした彼女の訓練を受けて艦娘となり、“鬼教官”がどれだけ自分たちのことを慮っていたか悟ったかつての訓練生たちが、こぞって投げかけてきた視線でもあった。それは教え子から恩師に向けられるものだった。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。那智は歯を噛み締め、自分の罪悪感と戦わなければならなかった。胸を貫くようなその感情を振り払う為に、龍田に向かって言う。

 

「訓練所以来となると、会うのは六、七年ぶりか。折角だから店に入って、何か飲みながらゆっくり話したいな。今からここを出て向かえば、夕食に間に合うぞ。あるいは朝食になるかもしれないが」

 

 無言を守る相手に、彼女は話し続ける。龍田の篭城をやめさせるのに一番単純な方法は、彼女の命を奪うことだ。那智はそうなるかもしれないということを自覚して、この島に来ていた。が、その選択肢を第一に選ぶつもりは皆無だった。対話で解決できるなら、殺さずに無力化できるなら、そうしたかった。そして対話とはまさに、龍田がこれまで繰り返し元教官に向けて求めてきたものだったのだ。会おうと持ちかけてきた当の彼女が、何故か那智の発言に答えないのは不可解だったものの、那智は今更そんなことを気に掛けなかった。

 

 どうせそもそも今回の龍田について、那智や海軍はほぼ全くと言っていいほど何も分かっていないのである。彼女の動機に関しても推測ばかりで、確定した事実はない。何がしたいのか探りだそうにも、要求らしい要求は那智を呼ぶように言った際の一度だけ。島に入ってきた者たちには攻撃するが、それだって殺しまでしたのは今のところ深海棲艦だけで、後は全員生かしたまま帰している。威力偵察にぶつけられた五十鈴たちも、もう一歩で龍田を殺すところだった天龍も、大勢で乗り込んできた連合艦隊の艦娘たちも、一人として死んでいない。今更彼女に謎の一つが増えたぐらいで、元教官の心は揺らがなかった。

 

「和食とロシア料理、どちらが好みだ? 言っておくがこれは重要な質問だぞ、その答えで真西に行くか南西に行くか変わるからな」

 

 返事はない。那智は大きく溜息を吐いた。声のトーンを落とし、より真摯で、真面目な口調に切り替えて告げる。

 

「ここでお前が何を、どうしてやっているのか、聞き出そうとするのはやめておく。何にせよ、お前はお前にとって最善の動機に基づいて行動しているんだろう。聞きたいのは、それが上手く行っているかどうかということだ。どうなんだ?」

 

 その言葉に、初めて龍田は反応した。「さあ……」囁きとも呟きともつかぬ声で、彼女は言った。意識して発したのではなく、那智の真剣な問いに応じた彼女の無意識が、発言者本人に感じさせることなく漏出させた言葉だった。それが口に出てしまったことに龍田自身驚いたようで、頬がびくりと震え、表情が強張る。しかしそれも数秒で収まり、観念した風に軽く空を仰ぐと、彼女はようやく答えた。

 

「本当に上手く行っていたら、こうして向かい合ってなんかいなかったでしょう、教官」

「そうだな」

 

 視線を交差させ、彼女たちは目の前の女がいかに疲れた顔をしているかを相互に発見した。それでどちらからともなく、座ろうということになった。数分前までの警戒を緩め、肩を並べて崩れた建物からその残骸を引っ張り出し、瓦礫を即席の椅子として設置する。ぼろぼろにはなっていたがスリーピングマットを取り出せたので、那智はそれを叩いて埃と粉塵を払い、裂け目の一つに力を入れて真っ二つに裂いた。片割れを龍田に渡し、もう片方を自分の椅子に掛けて腰を下ろす。教え子もそれに倣った。

 

 日差しを避ける為、なるべく太陽との間にサイト跡を挟んで座ったので、彼女たちの距離は自然と縮まった。肩と肩が触れ合うほどだった。那智は自分が逆手にナイフを抜いて振るうのと、左に座った龍田が提げている刀を抜きざまに斬りつけるのと、どちらが速いか想像してみようとした。が、握った刃が教え子の肉に沈んでいく様子を思い浮かべるのが余りに苦痛で、やめてしまった。ふう、と運動の後に息を整える為の一呼吸をして、彼女は「喉が渇いたな」と言った。希釈された高速修復材が入っているのとは別の水筒を取ろうとして、腰に手を伸ばす。すると脇から、龍田の手がおずおずと差し出された。そこには水筒が収められていた。

 

 ちらりと教え子の顔を見てから、那智はその水筒を受け取って蓋を開ける。金属の味がそこはかとなく移った水を一口飲んでから龍田に返すと、彼女はそれを一気にあおった。彼女の喉の動きを、那智はぼんやり横目に見ていた。一見すれば襲うのにいいタイミングだったが、龍田の右手だけが水筒を掴んでいて、左手は刀の柄の上に置かれているのを見てそれはやめた。彼女が飲み終わり、水筒を定位置に戻すのを待って、那智は切り出した。

 

「さあ、私はここにいる。お前のすぐ隣だから、遠すぎるということはないだろう。話をしよう。話題は何だ?」

「戦争の話を、教官。あなたの戦争の話を聞かせて欲しいんです」

 

 龍田は那智の質問にすかさず答えた。飢えた動物が餌に飛びつく時のような速度だった。「戦争だって?」と那智は冷笑的なからかいを含んだ表情で言った。「私もお前もそこにいたじゃないか。見てきたものは違うが、どうせどんな戦争も変わりはない」言いながら彼女は、自分が既に感情的になっていることに戸惑った。続きかけた言葉を強引に口の中に押し込めて、龍田の返答に耳を傾ける。教え子だった軽巡艦娘は、熱中した様子で元教官に詰め寄った。

 

「そうです。だからこそなんですよ、教官。私とあなたは同じ戦争を生き延びた。だから私もあなたも同じように傷つき、同じようにまだ、戦争を終わらせられていない」

「いいや終わったさ、私はとっくの昔に民間人になったんだ。艦娘の体なのは職務上、そっちの方が都合がいいからでしかない。前にも言わなかったか?」

「あなたと私の違いは一つだけ。あなたは終わったふりをしてる。だから戦争について話してくれないのよね? それでも私たちには、幾らでも()()の記憶がある。これまで黙っていた、告白することのできる記憶が……私はあなたに懺悔したいの、あなたに受け入れて、赦して欲しい、そうしてあなたの告白を聞きたいし、それを赦したい。私たち二人で救われたい、この傷の痛みを止めたいの、あなたみたいに目を逸らして生きていきたくないの!」

 

 突然、自暴自棄な敵意のこもった睥睨(へいげい)を受けて、那智は腰を軽く浮かせた。龍田は最早自制心を失ったようだった。彼女の右手は己の頭を掻きむしり、左手は那智の胸倉を掴んでいた。

 

「初めて海に出てからずっとその色は変わってなくても、私には分かる、海は本当は真っ赤だって。私たちみんなの血と錆で汚れてる。あなただって分かってたでしょう? 陸に戻れば、海から離れればそれを忘れられるとでも思ってたのかもしれないけど、それもここまでよ!」

 

 龍田の興奮に()てられて、那智の声も荒くなる。理解できない相手への恐怖に胸を締めつけられ、わななきながら、龍田の左腕を振り払うことも忘れて那智は叫んだ。

 

「分からない、何が望みなんだ? 私に何をしろと言うんだ、はっきりしてくれ!」

「過去に向き合って! そこであなたが受けた痛みを直視して、さらけ出して──死ぬほど苦しんで欲しいのよ、あなたが目を逸らしていた間、私がずっと、ずっと一人でそうしてきたみたいに!」

 

 ひゅっ、と音を立てて那智は息を吸い込んだ。ようやく彼女の論理で解することのできる要素が出現したことで、落ち着きが戻りかけていた。龍田の手を胸元から外させ、不足した休息と極度の緊張に開いた彼女の瞳孔を睨み返す。「復讐か、それがお前の“最善の動機”なんだな?」だが那智の予想と異なり、それを聞いた龍田は呆然とした様態で自らの顔を手で覆うと、疲弊しきった声を絞り出し、緩慢な口調で否定した。

 

「復讐ですって? そんなものは何の役にも立たないわ。よしんば復讐を果たしたとしても、それで私が傷ついたことや、私が苦しんだことが帳消しになる訳じゃないでしょう? 第一、誰に、何の名目で復讐をすればいいの? 今の私が望んでいるのは、それと全く逆のことよ。傷つけるのではなくて、癒したいの」

 

 俯いて手を顔から離し、体の横にだらんと垂らして、ぼそぼそと言い訳をするように龍田は続ける。

 

「今のは……あなたと何度も話す内に、私自身気付いたことだったけれど。でも、私は本当にそう願っているのよ。だってこの傷を、この痛みを受け入れていく為には、そうするしかないのだもの」

 

 那智は立ち上がった。彼女は内心で、この対話が完全に失敗しつつあるのを悟っていた。教え子の両の手に目を配り、それらが刀から離れていることを確かめると、質問を一つ発する。「しかしお前がやったことは、まさに誰かを傷つけること、暴力そのものだったじゃないか?」それがどんな結果を招くかは分かっていたが、ここで話し合うことで龍田を平静にし、単冠湾への帰還に同意させることはできない、という事実もまた、元教官の理解の範疇にあった。案の定龍田は顔を薄い紅色に染め、烈火のごとく言い返しに掛かった。

 

「分かってる! けどそれしか方法を知らないの! ほんの子供の十五歳で艦娘になって、それ以外よく分からないし、上手くもやれないのよ!」

 

 今度は予期していたこともあって、那智まで相手の感情の奔流に乗せられることはなかった。彼女は胸の内だけでほくそ笑み、()()()()()()()()()()()()()()()と囁きかける。この抜け目ない軽巡艦娘が、己の怒りを扱いきれない段階に成長させた時点で、不意を打って制圧するつもりだった。「そして今やそれすら危うくなっているぞ、龍田」と彼女は言った。

 

 そこでふと那智は自分の手法が、吹雪秘書艦や、己の軍歴の中で何度となく見たことがある、政治家としての側面を持つ軍人たちの手管に似通い始めていると感じた。それは那智が艦娘のものであるとは思っていないやり口であり、いかに自分が変化してしまったかを客観的に明白化する証拠でもあった。

 

 那智は体の内側で突発的に膨張を始めた自責の念と、恥の感情を押さえ込もうとした。「そうとは思えないわね、教官。あなたは結局ここに来たじゃない」それに掛かりっきりになったせいで、龍田の声が不自然に静かになったことに気づくのが遅れた。加えて、彼女の単純な質問にも答え損ねた。「私が望んだ通りになった、違う?」龍田はもう俯いてなどいなかった。彼女は己を育て上げた艦娘を見ていた。この期に及んで未だ、その目に崇拝の気配をまとわせたままで。

 

「さあ、話して、教官。痛みを直視して、私とそれを分かち合って。本当に忘れてしまったと言うのなら、思い出させてあげますから!」

 

 すんでのところで、那智は反応できた。素早く地を蹴って龍田との距離を縮め、彼女が鞘を払い切る前にナイフの間合いに入る。当然、龍田は那智がナイフで急所を狙いに来ると踏んで対応しようとした。首、心臓、肺──その三つを守る為に、龍田は精一杯の筋力を用いて身を捻り、背を反らす。そうすれば防御できるだけでなく、刀と那智の体との距離が僅かに、しかし抜刀に必要なだけ広がり、上半身への斬撃というカウンターも可能になるからだ。

 

 ところが、那智はナイフになど手を伸ばさなかった。視界がぐるりと一回転すると、龍田は地面に倒れていた。彼女が握っていた筈の刀は那智の左手にあり、教え子の腰には鞘だけが残っていた。立ち上がろうとした龍田の眼前に、切っ先が突きつけられる。彼女は頭を必死に働かせ、何度も反応を変えてシミュレーションを行った。けれど、どう動いても、斬られるか刺されるかのどちらかだった。仕方なく、龍田は覚悟を決めた。そうして息を吸い込むと、切っ先目掛けて突進した。刃が龍田の肉を切り裂いて体に埋まっていく。が、臓器には当たっていないのが刺した側にも刺された側にも感覚で分かった。龍田は右手を振るい、渾身の打撃を那智の横顔目掛けて放った。

 

 空手の義手と、刀を握った生身の手。那智の体で咄嗟に動いたのは、右の義手だった。彼女から見て左側から来る大振りの一撃を掴み、締めつけ、顔面間近で止めさせる。だが拳は止められても、指は無理だった。龍田の握り拳が開かれ、最も長い中指が勢いよく弾かれると、那智の左目を打った。おぞましい痛みに思わず目を閉じてしまい、視界が消失する。それは龍田を前にして、余りにも致命的な一瞬だった。那智はあごに固いものが触れるのを感じた。経験から拳だと分かった。後ろに倒れ、見えない中でどうにか尻餅をつく。次に那智が目を開くと、目前に鞘が迫っていた。

 

 龍田は鼻の骨が折れる音を聞き、その感触に細く長い官能的な呻き声を上げ、天を仰いだ。それから下を見て、弛緩した表情を浮かべる。心からの暖かな感情を込めて、龍田は足元に倒れている恩師に言った。

 

「現役復帰おめでとうございます、那智教官」

 

 答えは生まれては破裂して消える血の泡の、ぶくぶくという音だった。



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14.「And the Divided」

 夕方になって意識を取り戻してからも、那智は横になったまますぐに起き上がらず、薄く目を開いて慎重に周囲の気配を探り、現状の把握に努めた。目隠しの布はされていなかったが、装備は奪われ、両腕が後ろ手に縛られていた。その(いまし)めを無理やり引きちぎれるか試そうとしてみて、腕への食い込み方から鋼線であることを認め、諦める。強引に脱出できたとしても、ずたずたにされた左腕と義手で龍田と戦う破目になるのでは、勝ち目は薄い。

 

 何かが燃える匂いがして、那智は折られた筈の鼻が治療されていることに気づいた。舌には鉄の味が残っていたし、鼻の中は生乾きの血がこびりついたままで不愉快極まりなかったものの、これはありがたい話だった。戦う上で、嗅覚は決して無益なものではない。とはいえ今の状況から脱出できなければ、そもそも戦いにすらならないという点を考慮すれば、鼻の再生を無邪気に喜んでいる場合ではなかった。少なくとも見える範囲に龍田がいないことを確認して、那智は目をきちんと開いた。すると枝を編んで作られた簡易なドーム状シェルター(よう)の天井が視界に映り、元教官は暫くの間、これを龍田に教えたのは自分だったかどうかについて考えを巡らせた。

 

 気を取り直し、仰向けになってから首を左右に回して、組み合わされた枝と枝の隙間から外の様子を(うかが)おうとする。ほとんどが枝や被せられた葉に遮られていたが、限界まで左に向いて見れば、小さな隙間から何かが動いているのが分かった。それが龍田以外の誰かであるとは、那智には思えなかった。かつての教え子は火をいじっているらしく、彼女がいるのと同じ方向から、火の中で何かが弾けるぱちぱちという軽快な音が聞こえた。那智は自分の荷物を燃やされているのかもしれないと考えて、改めて周りを調べた。この島に持ってきた装備品は一つとして、彼女の手と目の届く範囲にはなかった。焦燥が一時的に那智の心を席巻するが、すぐにそれは()()()()()()()、という意見に駆逐された。

 

 何故なら、飲用水にせよ希釈修復材にせよ、龍田にとって無駄になるものではないからである。むしろ彼女が初めに持ち込んだ物資の大半を燃やされた今、少しでも多く欲しいに決まっている。ナイフだって、予備があって悪いということはない。だから、破壊や破棄をすることはない。那智の考えはそのようなものだった。火は単に暖を取る為のものだろうと結論し、息を吐く。その音が、彼女の思ったより大きく響いた。「あら、お目覚めですか?」龍田の声がして間もなく、シェルターの入り口に掛けられたぼろ布が持ち上げられた。那智はそれまでに姿勢を元に戻して寝たふりを決め込んでいたが、いきなり、彼女の足に覚えのある痛みが走った。焼ける痛みだ。

 

 それは瞬間的なものだったが、空寝(そらね)をやめさせるには十分だった。那智は目を開け、龍田が何をしたのか見た。彼女は断熱材代わりの枝に焼けた釘を挟んで、それを押し付けたようだった。「お目覚めですね」と龍田は言い、枝と釘を地面に捨てた。那智の後ろ襟を掴み、彼女の背中を支えつつ引っ張り起こす。彼女が半身を起こした形になると、教え子はそっと手を離した。龍田は立ったまま、膝に手を当てて腰を曲げ、那智の顔を覗き込んだ。そうされるのが無性に気に入らずに、那智は顔を背けようとする。だが龍田に乱暴な動きで髪を掴まれては、渋々ながら睨み返すしかなかった。すると、龍田はにっこりと笑った。

 

「その方がずっとマシですよ、教官。あなたに目を逸らされるのが、私には一番つらいんですから」

 

 掴んだ時の強引さとは逆の繊細な手つきで、彼女は那智の髪を手放した。どさりと音を立てて尻を地面に下ろし、元教官の横に立てた両膝を抱えて座り込む。背を曲げ、あごを膝と膝の間に乗せて、十年ぶりに親の顔を見た子供のように目をきらきらと輝かせて、那智を見る。いっそ不気味なまでのその態度に、義手をもぞもぞと動かしながら重巡艦娘は訊ねた。「どうしてそう楽しげなんだ?」「どうしてって、これからきっと私たち二人とも、とても楽になれるからですよ」きょとんとした表情で、那智が何故今更そんな質問をするのか分からない、という風に龍田が答える。彼女は言い終わってから、心配そうに眉根を寄せて訊ね返した。

 

「もしかして、さっき話したことを忘れてしまったんですか? 私が頭を殴ったせいかしら」

「傷がどうとか、痛みがどうとかいうあの話なら、まだ覚えている」

「よかった。それじゃあ、話して下さい。どんな内容でも、きちんと聞きますから」

 

 那智は口をつぐみ、何も言わなかった。彼女の無言を逡巡と誤解して、龍田は励ますような優しい声で言った。

 

「恥ずかしいことなんてありませんよ、教官。秘密を漏らそうにも、漏らす相手がいないんですからね。ええ、他の誰にこんな話ができます? みんな戦争を乗り越えて行ってしまった。私たちの話なんか、そんな連中にとっては泣き言に聞こえるでしょう」

 

 それでも元教官の沈黙は続いた。困り顔になった軽巡艦娘は、けれども「仕方ありませんね」と呟くと、溜息を吐いて那智の肩を軽く叩いた。「では、まず一つ、私の話をしましょう」龍田はそう言って、ある交戦中に彼女と彼女の戦友の身に起こったことについて、とつとつと話し始めた。彼女が当時命じられていた任務の性質上、回避するべき交戦が避けられなかった原因を、龍田はまず自分の中に主張した。それは那智に言わせてみれば、よくある“生存者の罪悪感”というものだったが、話の続きはそう単純に一言で片付けられなかった。

 

 交戦の最中、龍田は戦友の一人が至近弾を受けるのを見た。弾の破片が脚部艤装を破壊し、航行能力を失った彼女はたちまち沈み始めた。もちろん龍田は、水の中でもがく戦友を救いに走った。そして腕を掴み──引き上げるには力が足りないと理解した。彼女が重巡や戦艦であれば、彼女の肉体が長い任務で疲労していなければ、あるいは助けることもできたかもしれない。でも、そうではなかったのだ。龍田は必死に力を振り絞り、他の戦友たちに手助けを頼んだが、誰も手伝える状態にはなかった。その上、彼女は敵から狙われ始めていた。それに感づいた龍田の体は恐怖に犯され、力を失った。彼女の手から戦友の腕は抜け落ちていき、その肉体もまた海の底へ沈んだ。

 

「お前は全力を尽くした」

 

 那智は話がまだ終わっていないことを悟りつつも、かつての教え子にそう言った。話す内に龍田はその穏やかな声に混じって、意気消沈した様子を見せるようになっていたが、それを聞くと皮肉っぽく笑って言った。「()()生き延びる為にね」そして話の続き、沈む戦友の手が最後に掴んだものについて語った。

 

「彼女は私の足を強く強く握ったんです。あんまりきつく握られたから、入渠するまで痕が消えなかったくらい。……足を掴まれては動けません。そのままにしておいたら、私も沈むと思ったわ。だから蹴りつけたの。何度も、何度も。そうしたら彼女、手を離したんです、自分から」

 

 自慢げに「すごいですよね?」と言って、龍田は笑った。けれど、心から友人を誇りに思っていることが明らかな、力の込められた言葉はそこまでだった。彼女の声は打って変わってぼそぼそと、憂鬱な響きを含むようになった。「自らの命を犠牲にすることを決めた時、彼女はどんな気持ちだったんでしょう? 何を考えながら、彼女は手を離したんでしょうか?」その二つの問いを最後に、彼女は立てた膝の上に頭を寝かせて、口を閉じた。彼女の語りを失った空間に不穏な静けさが戻り、外で燃える焚き火の音や、時折吹きつける風が立てる甲高い音が、その場を満たす。不意に先ほどまでの語り手が、首をもたげて要求した。

 

「次は教官が話して下さい」

 

 だが、声を掛けられた那智は龍田を見ていなかった。その視線はぼんやりと地面に向けられており、彼女の教え子の呼びかけが無意味だったことは明白だった。溜息を短く吐き出して、龍田は元教官が従ってくれるように説き伏せようとした。「私は、あなたに話させたいのではなくて、話して欲しいんです」それが功を奏することはないとほとんど確信しつつも、説得を続ける。けれどやはり、彼女がどれだけ頭を深々と垂れ、伏して請い願っても、何ら那智の心には響かないようだった。のろのろと龍田は立ち上がり、シェルターを出た。出入り口の仕切り代わりの布を持ち上げる直前、彼女は僅かに願いを込めて振り返り、那智を見た。そして失望させられ、体を引きずるようにして外へ戻っていった。

 

 やがて戻ってきた龍田は、煤で汚れきった手袋を着けて、ふたの開いた水筒を手にしていた。水筒の細い口から立ち上る湯気を見て、その中に入れられているのが何か那智は感づいた。彼女の視線が手袋に向けられているのだと思って、龍田は「最近の耐火手袋って本当に高性能ですよね。あなたに燃やされた物資の中では、これがほぼ唯一の生き残りです」と感心した風に言った。彼女の言葉を無視して、那智は尋ねた。

 

「中身は熱湯か? 湯責めとは聞いたことがないが、水責めよりも非人道的だな」

 

 一言「失礼」と謝ってから、龍田が那智を蹴り倒す。と言っても、肩口に足を置いて蹴って押した、という方が正しい。そうしておいて彼女は上向けに倒れた元教官の頭を両膝で挟み込み、足と足の間、那智の胸元の上に尻を下ろした。水筒の飲み口辺りの匂いを嗅いで、先の質問に返答する。「いえ、もっとろくでもないものですよ」水筒を傾けて那智の額の上に数滴を垂らすと、彼女は痛みに顔を歪めた。だがすぐにその表情が変わる。瞬き一度分の時間は恐怖に、そしてそれ以降は恐れを覆い隠す為の怒りと敵意に。那智は犬歯を剥き出しにした獰猛な顔で龍田を睨み、噛み締めた歯の隙間から搾り出すような声で言った。

 

「高速修復材か……!」

「それも希釈前の、ね。あなたが盗んだものは返して貰いましたよ、教官」

 

 火傷をさせられ、変色した箇所が巻き戻されるように通常の皮膚へと再生されていくのを見て、龍田は笑いを漏らした。彼女を跳ね除けようと那智が両足を使って暴れ始めるが、気にせずに水筒を弄び、押し倒した恩師の顔を焼いては治していく。動かせる範囲で首を左右に振り、熱傷の激痛に耐えながら、那智は精一杯の強がりを言った。

 

「お前の足も火傷してるぞ」

「それでも構いません。私だって、心からあなたと同じ痛みに苦しみたいんですから。分かち合いたいんです、何もかも。だから、話して下さい、教官。あなたがあの戦争で何をやってしまったのか、私に教えて下さい。まだ覚えているでしょう? 忘れてなんかいない、ですよね?」

 

 何度となく龍田を阻んできた沈黙が、再び彼女の前に立ち塞がる。激昂して彼女は左手に水筒を掴むと、右手で那智のあごを締めつけ、口を強引に開かせた。やめろと言われる前に、飲み口を那智の口腔に突き入れる。これまでにない激しさで苦しみ悶え、水音交じりの叫び声を上げながら陸に揚げられた魚のように体を跳ねさせる那智に、龍田は怒鳴りつけた。

 

「あなたが私を艦娘にして、艦娘とはどうあるべきかを示した! 強くあれ、苦しみに立ち向かえって! あなたのせいで私はこのざまよ! だからその責任ぐらい、取ってくれたっていいじゃない! 話しなさい、打ち明けて、逃げないで!」

 

 水筒を脇に放り捨て、那智の髪を両手で掴んで地面に何度も叩きつける。息が切れ、腕の疲れが高ぶった感情を上回った頃になって、龍田はようやく手を離した。立ち上がり、足元に横たわる恩師を見下ろす。想像を絶する苦痛を与えられて尚、その目は彼女の要求を拒んでいた。絶望が龍田を襲った。そのまま倒れてしまいそうになる体を、どうやってか彼女本人も分からないままに動かし、シェルターを出た場所にある荷物のところまで歩く。そこに置かれていた摩耶の拳銃を拾うと、夢遊病患者の足取りで龍田は那智の傍に戻った。

 

 献身的な介護者の手つきで那智を引き起こし、後ろから力を込めて抱きしめる。数秒ほどそのままでいたが、やにわに左腕を那智の首に絡ませて拘束すると、甘えるように己のあごを彼女の右肩に乗せた。「それなら、こうするしかありません」囁きかけて拳銃を右手で抜き、那智に一度見せてから、自分のこめかみに突きつける。死の恐怖に、龍田の胸は締めつけられた。喉からぜいぜいと息が漏れた。それでも彼女の曖昧な望みが叶わないままにこのまま生きていくよりは、ここで那智と一緒に死にたかった。撃鉄を起こし、引き金に指を掛ける。目を閉じて息を吐き、吸い、また吐き出し、ぷちりという音を聞いて、引き金を引いた。

 

 爆発音がして、龍田は後ろに突き飛ばされたことと、自分の頭皮を何かが剥ぎ取っていったのを感じた。今や熱い血潮を流し始めた傷口に手を伸ばす。べっとりと血が付着し、目に流れ込んできた体液を拭えなくなってしまった。暫く呆然としていたが、はっとして那智の姿と拳銃を探す。後者は頭の横に落ちていたが、前者は影も形もなかった。シェルターの隅に転がっていた水筒を掴み、中に残っていた高速修復材を頭に浴びせる。首を振って髪の水気を切ると、龍田は警戒を途切れさせぬまま、シェルターを出ていった。

 

*   *   *

 

 逃げ出すことに成功した那智は、シェルターを出て自分が森の中にいるのを知ると、まず奪われたナイフや水筒などの装備を探した。龍田は発砲の衝撃で脳震盪(のうしんとう)を起こしたのか、すぐには追ってこなかったが、悠長にしている時間があるとは思えなかった。焚き火の近くに艤装と一緒にまとめて置かれているのを見つけて、手早く身につける。艤装はどうするか迷ったが、結局それも装着した。用意を進めながら手足を動かし、体の具合を確かめる。義手の関節に歪みでも出ていたか、それは軋んで不快な音を立て、那智の顔をしかめさせた。だが、仕方なかった。ワイヤーを切断するには、義手の関節部に巻き込んで押し切るしかなかったのだ。

 

 用意を終え、那智は動き出した。足に思ったより力が入らなかったせいで早歩き程度の速度しか出なかったが、一度龍田から距離を取って森の奥へと入ってしまえば、そこからは有利にことを運べる自信があった。転ばないように気をつけながら、これからの計画を組み立てようとする。頭を地面に叩きつけられたせいで眩暈(めまい)はあったが、意識そのものは明確だった。作戦立案の(かたわ)ら、龍田の言葉についても考えそうになってしまい、意図的に思考を遮断する。

 

 彼女が何を欲しているのか、那智は分かり始めていた。だが彼女はそれを認めたくなかったし、ましてや脅されて龍田に従うなどということは到底受け入れがたかった。「逃げないで」という教え子の言葉を思い出して、まさに今逃避行の最中である那智は鼻を鳴らした。()()()()()()()? けれどその疑問に誰も応じなかったので、彼女は自分の意見を続けて述べた。()()()()()()

 

 その時、何かが那智の横を掠めて飛んでいった。思わず足を止め、振り返る。少し遠く、木々の合間に、梓弓を構えた龍田が見えた。初めの一矢の狙いはそれなりによかったものの、彼女の体の方は依然脳震盪の影響を脱していないようで、揺らぎが激しい。また矢筒の矢玉の数は僅かで、薙刀や艤装を背負っているようには見えなかった。龍田が肉弾戦を避け、先んじて標的を負傷させることで戦闘能力を削ってから始末しようとしていると見た那智は、踵を返し、つまずきそうになりつつも一層速度を高めて逃げ始める。

 

 二射目が那智の前方、地面に刺さった。もう一度、今度は足を止めずに龍田の方を見やる。彼女はさっきいた場所からほぼ動いていなかったが、体を木にもたれ掛からせることによって狙いの安定性を増していた。那智の顔が前を向くのと同時に、弦が空気を切り裂く音がして、首を縮めた彼女の頭上を矢が飛んでいく。那智は必死に記憶を手繰り、龍田の矢筒に何本の矢が残っているのか特定しようとした。分析が正しければ、残りは一本の筈だった。遠くから微かに、ぎりぎり、という弦を引き絞る音が聞こえて、那智は身を隠せる木を探した。

 

 発射音を聞くや否や、射掛けられた那智は直ちに太めの木の後ろに身を投げ込んだ。それを予期していたのか、龍田の矢は木の幹の周縁部を抉って地面に落ちた。()()、と那智は小さく毒づいた。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。しかしそれは今更というものであり、彼女自身それは自覚していた。ともかく最後の矢を切り抜けたと思って、木の陰から飛び出る。直後、彼女はもう一度発射音を聞いた。悪寒がして、上半身を捻り、義手である右腕で首と頭を庇う。と、体の下の方に衝撃が走った。よろめいて転びそうになるが、足を大きく前に出してそれに耐える。

 

 鋭い痛みが、臀部(でんぶ)から神経を駆け上がってきていた。那智はにやりと笑いそうになってから、刺激に顔を歪めて、苛立ちをぶつけるように大声で言った。

 

「またか!」

 

 上半身を捻っていたせいで、かなり遠くで龍田が首を傾げるのが分かった。それもまたおかしく思えて、ほんの少し前まで彼女に拷問されていたことも忘れ、那智は口角を上げた。逃走を再開するが、痛みで活が入ったのか、走れるようになっていた。地面を蹴る度にびりびりと伝わる苦痛を耐えながら走っていると、脳裏に現役の艦娘だった頃の思い出がよみがえる。若者らしい悪戯の結果、戦友だった正規空母艦娘の加賀に、仕返しとして尻を射られた記憶。それは今思い出すには余りにも場違いで、そのせいで余計におかしく感じられた。那智は耐え切れずに、とうとう声を上げて笑い出した。孤独で暗い笑い声だったが、それは夕暮れの森の中で大きく鳴り響いた。

 

 彼女の長く続いた笑いと足が止まった頃には、夜になり掛けていた。息を整えながら尻に刺さった矢を抜き、ナイフと一緒に回収した希釈修復材で治療を済ませる。それから那智は艤装をチェックした。一門だけ残しておいた砲が使えればと思ったが、龍田が無力化を忘れる訳もなく、弾薬が抜かれていた。落胆はせず、ひとまず重石にしかならない砲を艤装から外し、地面に置いてその上に腰掛ける。間近に迫った死から免れた後では、戦闘経験豊かな艦娘である那智と言えども、気を落ち着ける必要があった。

 

 座って考える。まず早急に対処しなければならない問題は、武器だった。ナイフ一本で弓や砲を持った龍田と戦うのは難しい。幸い、那智にはシンプルな解決法があった。ナイフと、義手に巻きついたままになっていた鋼線、また周囲に幾らでもある針葉樹を利用して、弓を自作するというものである。慣れた手つきでとは言えないが、彼女はそれなりに手際よくこの仕事をやり遂げた。矢は適当な枝をまっすぐに整形し、先端を削いで尖らせただけの低質なものを数本作った他、龍田が那智に命中させた矢も回収した。それらを腰のベルトに挟み、弓を肩に掛けると、ナイフ一本の時とは比べられない安心感が湧き上がってくる。

 

「お前は私を警戒しているだろうな、龍田」

 

 弓に張られたワイヤーを、痛みを感じない義手で引きながら、那智は呟いた。「だから夜の内には仕掛けてこない。大体、暗くては追跡も困難だ。場所を知られたから、前のシェルターは放棄するだろう。お前は今晩を新しい陣地の構築に費やす」スカートを払って、弓矢を作った際に出た木屑を落とす。「仕事が早いお前は夜明けまでに新しい寝屋を作るが、その頃には空腹になって、喉も乾いている。だが困ったな、水が切れそうだぞ。私が全部土に飲ませるか、焼き払うかしてしまったからな」那智は小さく咳払いをして、龍田を何処で待ち伏せるか決めた。淡水湖だ。

 

 ラスシュア島には複数の水源が島の南部にある程度まとまって存在するが、淡水湖は一つしかない。煮沸以外の何らかの処置なしに飲める水が欲しければ、必ずそこに行くことになる。でなければ気化した水を集めたり、朝露で布を湿らせたり、雨を期待するしかない。量や確実性に欠ける以上、龍田は絶対に湖に来る。那智は空を見上げた。雲はなく、月と星が輝いていた。北極星を探し、日の沈んだ方向と組み合わせて方位を知る。後は、自分の位置を大まかに推定しなければならなかった。腕組みをし、つま先で地面を叩いてリズムを取りつつ、一人ごちる。

 

「艤装をつけた私は軽くない。運ぶのにも一苦労だから、遠くへは行かなかっただろう。龍田は島中央のレーダーサイト跡からそう遠くない場所に、最初のシェルターを作ったに違いない。そこから更に移動した方向を考慮すれば……素直に南に歩くとしよう」

 

 先を見通そうとするように暗闇を睨みながら、那智は急ぎ足で歩いた。歩けばその内に、川を見つけられる筈だった。それを遡って行けば、目的の淡水湖の隣に連なっている、飲用に適さない水質の湖沼にたどり着く。後は簡単な調査と仕掛けをして、それが終わったら朝まで伏せて、龍田が水を汲みに来るのを待ち、そこを()()()()

 

 単冠湾泊地にいる間に那智が見たラスシュア島の衛星写真によれば、淡水湖の周囲は傾斜が急になっており、木々の本数も比較的少なかった。急勾配は接近・離脱ルートを限定し、まばらな木は龍田に姿を隠しづらくさせる。太陽が昇っているという条件さえ満たしていれば、近づいてくる艦娘を見つけることも可能だろう。那智はそう結論して、ますますこのプランへの信頼を高めた。

 

 時々見つかる龍田の罠を解除したり迂回しながら、南下を続ける。加害目的の罠は基本的に避けたが、照明弾を使った警報は欠かさず収集した。そうして那智が三つ目の警報装置を解除していると、艤装の通信機から、回線が繋がった際に発せられる短いノイズが聞こえた。装置をいじくる手を止めて、彼女は通信機のボリュームを操作し、那智が今使っている周波数を知る唯一の人物の言葉に備えた。それは数秒の間も置かずに流れ出した。

 

「教官、懐かしくなりませんか? あなたが右腕を失ったのも、こういう島で、敵に追われている時だったんですよね」

「全くならん。それに順番が逆だ。敵に追われて、島に逃げ込んだんだ。お前の情報源は同期の青葉だな? もっとちゃんと取材しろと言っておけ」

 

 龍田は喉を軽やかに鳴らすだけの、しとやかな笑いで答えた。そして落ち着いた声で、また一つ訊ねた。「あなたは私のことを愛してますか、教官?」これは内容的に脈絡も突拍子もない質問だったから、那智は答えに詰まった。彼女を軽く混乱させたことが嬉しかったのか、楽しげな声で龍田は断定的に言った。

 

「口に出して言えなくったって、分かってますよ。愛してるんです。私や、天龍ちゃんたち……つまり、あなたの子供たち(教え子)のことを。だから憎まれるのも覚悟の上で、必死に育て上げた。私たちが教官のように強く生きていけるように、()()()()生きていけるように。他でもない愛し子たちにならそれができると、信じていたんでしょう」

 

 暫し、二人は揃って口を閉じていた。互いの間に安らかに横たわった沈黙の他、彼女たちは何の音も欲さなかった。ところがそれを破って龍田がまた話し始めたので、那智は面食らって苛立たしく思い、舌打ちをした。だが彼女が通信機の送信ボタンを押していなかったから、それは龍田に届かなかった。

 

「まさか、まだそれを信じてやいないでしょうね? 私を見て、私が何をやったか思い出して下さい。それだけで十分でしょう。そうです、()()()()()()()()()。腕を失い、前線から退かされ、それでも自分の場所で、自分の戦いを遂行していた強いあなたと、そんなあなたに付いていける、幾十幾百の強い愛し子たちには完遂できたことが、私にはできなかった。それは教官、あなたが私に求めたものが、私には到底抱え切れないほど重すぎたからよ」

 

 唐突に、龍田の声に怒りの色が混じり始める。

 

「だけど、それが私のせいなの? 私はただの、十五歳の女の子だったのよ。そんな小さな子供に向かって、あなたは自分自身と同じような、鍛え上げられた艦娘であることを要求した。それでそのまま生きていける子たちは、好きにすればいいわ。でも、それでは生きていかれないほど弱い子供たちは、私はどうすればよかったのかしら? それともあなたにとって愛しかったのは、あなたに付き従えるような立派な子たちだけだったって言うの? だとしたらそれでも我慢するけれど、なら一層、あなたが受けた傷から目を逸らし続けて、過去や責任から逃げていることが、どうしても許せない」

 

 話す内に、龍田の怒声は泣き声に変わっていた。最初はそれを隠し、取り繕おうとする様子もあったが、そんな素振りはあっという間に彼女の中から消え去ったようだった。言葉の合間にしゃくり上げていたし、通信機からは荒い呼吸音も伝わっていた。ごくりと息を飲み込んで整え、龍田は変わらぬ悲痛な涙声で喚いた。「私と同じように苦しんでもくれなかったじゃない!」那智がそれに答えてくれるとは、龍田も思っていなかった。それを期待するには、彼女に裏切られすぎていた。だが那智は叫び返した。これまで言葉を避けてきた彼女の声は、二人のどちらが想像したよりも遥かに大きく轟き、響き渡った。

 

「ああそうだ、私のせいだよ! 私がお前たちを鍛え、お前たちを艦娘にして、戦争に送り込んで、私が死なせたんだ、そのことで礼まで言われたとも!」

 

 理性のない言葉だったが、それだけにその叫びには龍田を黙らせるだけの重みがあり、相手の不実にいきり立った彼女の心を安らがせるだけの、真実性と言うべきものが秘められていた。龍田が反応を返す前に、那智が言葉を重ねる。

 

「逃げる者は立ち向かう者より苦しまないとでも思っているのか? 私が何も感じずに、この二年間生きてきたと、本気でそう考えているのか?」

 

 気道にはめられた重いふたを持ち上げようとしているかのような震える声は、言葉そのものよりも雄弁に那智の心情を表現していた。気づくと那智は足を止めて、龍田の返事を待っていた。果たして彼女は興奮を明け透けにして、教官が遂に本心の片鱗を垣間見せてくれたことへの礼を言った。その終わりに付け加えて「頑張って下さい、もう少しです」と言った時の彼女の声は、まるで生まれたばかりの子供のように無邪気で、無思慮な喜びに満ち満ちていた。それが理解できず、那智はぽつりと一言で問い返す。

 

「何だと?」

「あなたが私を愛してくれているように、私もあなたを愛しているんですよ、教官。だから分かるんです。あなたは教官としての苦しみを告白してくれた。でも、ただの“那智”としての苦しみに、どうして触れようともしてくれなかったんですか? どうか話して下さい、私が私としての苦しみを告白したように、あなたにもそうして欲しい。そうすることで私はあなたを、あなたは私を赦し、癒して、あの戦争を受け入れていくことができる。そうではありませんか?」

 

 再び、那智は感情を抑えられなくなった。彼女はさっきの叫びに劣らぬ声量で、通信機に向かってがなりたてた。

 

「赦すだと? 笑わせるな! たとえお前にだって、私を無罪にはできないんだ! もしどうしてもそうしたいならお前の、お前だけが流した血と苦しみの分こそ、好きにするがいい──だが他の連中、他の私の教え子たち(子供たち)が受けた苦しみの分は、お前にだって手出しできないんだぞ! 仮に、仮にだ、死んだ者たちが海の底からよみがえって現れたとしたって、そして私の全てを赦すと言ったとしたって、やっぱり私は有罪なんだ! あの子らが既に流してしまった分の血や、彼女たちの父や母が受けた苦痛が、それであがなわれる訳ではないのだからな!」

 

 龍田は何も言わなかった。叩きつけられた言葉にショックを受けているのかもしれなかったし、返答を考えているだけかもしれなかったが、とにかく那智にはもうどうでもよかった。彼女は通信機の送信ボタンを押すと、擦り切れた平静さの宿った声で言った。

 

「私にはそれでいい。戦争を、あの時代や記憶を、受け入れたくなどない。それに苦しんで生きたいんだ」

「……一生の間、苦しみと共生できる人間なんていないわ。受け入れて生きていくか、抱え込んだまま死んでいくか、二つに一つよ。あなたは自虐的になってる。そうやって罪悪感に浸っていたいだけなんでしょう? 今だってこんなにお願いしているのに突っぱねて、私を見殺しにしようとして。今度は『教え子を救えなかった』って悔やんでるふりをするの?」

「いいや、見殺しになんかしないよ、龍田」

 

 やけに平坦で明瞭な声で、那智はそう請け負った。

 

「私がお前を殺してやる」

 

*   *   *

 

 艤装の通信機から聞こえてきた短い発言に、組み上がったシェルターの脇に立っていた龍田は、錆びたナイフで刺されたような激しい痛みを覚えた。手で胸を押さえて、まだ拍動が続いていることを確認する。激しい運動の後のような速度で脈打つ心臓は、彼女が心から愛した数少ない他者の一人である那智の言葉が、どれほどの衝撃を龍田に与えたかを示していた。

 

 彼女は即座に死を確信した。()()()()()()。龍田には、那智が仕損じるところを想像することができなかった。質量的な重みすら感じさせるほどの恐怖が、肉体と精神の両方を打ちのめす。悲鳴を上げて持ち物を全て放り出し、逃げ出さなかったのは、吐き気と眩暈が彼女の動きを封じていたからだった。

 

 心を落ち着かせる為に、那智の宣言に対する反応を考えようとする。だが龍田には、どんな言葉も応答として十分ではないように思われてならなかった。下手に何かを言うことで、那智に自分の恐れを知られたくなかった。それは恩師に対する教え子の些細な自尊心だったが、龍田はどうにかそれを自らの認識の中で捻じ曲げて、そうではないと己に信じ込ませた。そろそろと腰を下ろし、土の上に座り込むと、深呼吸を繰り返す。

 

 最低限の冷静さが戻るには数分掛かった。その間、一方的に会話を終わらせた形になったにも関わらず、通信機から那智の新しいメッセージが流れることはなかった。けれどそれが、かえってありがたかった。龍田は彼女が元教官の声に感じ取った、無感情な殺意を受け止める為の時間を必要としていたからである。結局何を言う気にもなれずに、龍田は返信を諦めた。

 

 座っていたくなくなって、腰を上げようとする。しかし立ちくらみがして、彼女は力なく笑った。那智のシンプルな脅迫にここまで心底脅かされるとは、思ってもみないことだった。完成させたシェルターに軽く手を突いて身を支え、車酔いのような悪心が去るのを待つ。が、動揺が収まっても、気分は悪いままだった。口の中に不快な鉄の味を感じて、龍田は腰の水筒を取った。残り僅かな飲用水だったが、それを全部一気に飲み干す。一息ついてからその愚かさに下唇を噛むが、後悔しても水は戻らない。補給が必要だった。

 

 地図を開き、月の光で淡水湖の位置を確認する。龍田の頭の片隅で、那智がこの動きを読んでいるのは間違いないと警鐘が鳴ったが、彼女はそれを無視した。位置を知られる危険を冒してでも、生存の為には飲用水を確保しなければならなかった。それに、と龍田は正当化を進めた。紙上のデータではあったが、湖はおおよそ南北に五百メートル、東西に四百メートルの広さがあり、全周は約千五百メートルに及ぶ。幾ら那智が熟練の艦娘であっても、そのような広範囲を警戒できるのは日中ぐらいだ。そして陰に身を潜めてじっとしているなら、一日ばかり水を抜いたところで健康上の問題は起こらない。夜になりさえすれば、湖に近づける。

 

 あるいは今から急げば、夜明け前に湖まで行けるかもしれなかった。そうなれば、喉の渇きに耐え、那智に見つからないように祈りながら隠れていないでもよくなる。魅力的な案だった。龍田は希望的観測を意識的に排除して思考し、その可能性や利点を探ったが、那智に狙われているという恐怖をはっきりと認めることだけはできなかった。彼女は急行を諦めて、並の速度での移動を採用した。

 

 装備をチェックし、持っていくものを選ぶ。まず、艤装は隠れるのに邪魔だったので下ろすことにした。那智が新たに呼びかけてくるとも思えなかった。ナイフや刀、二種類の水筒を定位置に吊るし、弓と矢筒を背負い、拳銃を左脇の下、破れた服の裂け目に突っ込むと、飲用水を入れる為の容器を一つ、音が出ないように工夫して足に縛りつけた。これには龍田の首元を飾っていたリボンが役に立った。そこまではすんなりと決まったが、薙刀をどうするかは最後まで迷った。森の中では、薙刀を思いのままに振るうことはできない。最悪、無用の長物となり得る。けれども薙刀は、最も使い慣れた武器でもあった。迷った末に、龍田はそれを持っていくことにした。

 

 無心に、ひたすら無心に歩き続ける。それでも時々、那智に関する思考は彼女の教え子の心をざわめかせた。龍田は那智個人の来歴などについて、多くを知っていた訳ではない。以前の彼女との会話で見抜かれた通り、訓練生時代に同期の青葉から聞いた噂話程度の情報を除けば、ほんの少ししか知らなかった。しかしそういった知識がなくとも、自分を作り上げた人物であるというだけで、教え子にとってこれほど恐ろしい敵もいなかった。海戦でなくてよかった、と龍田は慰めのように思い浮かべた。身を隠し、罠を張ることの容易な地上戦でなければ、精々が逃走しかできなかっただろう、と。

 

 歩く内に、彼女は疲れを感じ始めた。持っていたステイアラート・ガムを噛もうとすると、最後の一枚だった。乱暴に包装を破り、ガムを取り出すと、口に放り込む。ここ暫くの乱用のせいでカフェインの効果はほぼなかったが、あごの運動が眠気凌ぎにはなった。警戒を途切れさせることのないまま、水の補給が済んだ後のことを思案する。でも、どんなに努力しても、生き延びる道を見つけることはできなかった。那智を殺せば、彼女の告白を聞くことができなくなってしまう。それは龍田にとって、自分が死ぬのと変わりなかった。かと言って、捕えるのも難しいだろう。一度は捕まえられたものの、二度もそう都合よくことを運べる相手ではない。

 

 一当てすれば頭に昇った血が冷めて、那智と再び話し合えるようになるかもしれない、と想像してから、そんな妄想は何の役にも立たないと切り捨てる。龍田は彼女の教官の声を思い出すことができた。その響きは冷ややかで、それまでの荒々しい叫びとは全く違っていた。思い出してみると聞き覚えのある冷たさだったように感じて、龍田の歩く速度が緩む。それに気づいて、ん、と声を漏らし、歩調を調整し直した。

 

 そうして何処で触れた冷たさだったのか、今や随分と遠いものと思われるようになってしまった過去の記憶から、探り出そうと試みる。だが島に来る前の記憶を漁るときりがないので、まずは現在から遡ることにした。この選択は正解だった。そうしたお陰で、あっさりと見つけることができたのだ。連合艦隊を率いて島にやってきた、あの戦艦「陸奥」。逃げる龍田に追いすがった彼女と、意図せず僅かに交わしたやり取りの中で、同種の冷ややかさが確かに現れていた。それは言葉に込められた意志の温度であり、その強固さを表すものだった。

 

 龍田は肩に重いものがのしかかったような気分に捕らわれた。そこまでの頑なな殺意に狙われては逃げる術などなさそうだと思うと、歩くのもやめたくなった。けれど、彼女は止まらなかった。止まってしまえば、その先には死が待ち受けていると経験的に知っていたからだ。彼女はかつて緩やかに死んでいった、何人かの戦友を思い起こしていた。

 

 希釈修復材を切らし、近くに海軍の前進基地もないという状況下で負傷し、死を目前にした時、彼女たちは初めそれを確たる根拠もなく否定した。すぐにそれは「何故私が死ななければならないのか」という憤怒に変わり、やがて彼女たちは「何でもするから助けて欲しい」という交渉や、「できることは何もない」という抑うつ状態を経由して、最終的に死を受容した。龍田は正確に自己の状態を把握しており、抑うつ状態に足を踏み入れかけていると認めていた。つまりそれを受け入れれば、後は受容の段階が残るのみだった。そしてもちろん、龍田は生きていたかった。那智が言ったように苦しんで生きるのは耐えられなかったが、死ぬのも気に入らなかった。

 

 夜の寒さと共に忍び寄ってくる死の影を、頭の中から追い払いながら歩き続ける。空の端が白みを帯び始めた頃になってやっと一本の川を見つけ、地図の表記とその川の形を吟味して、湖から半キロほど離れたところまで来たと分かった。そのまま付近の茂みに隠れて眠ってしまいたかったが、どうせ五百メートルの距離なら、もう少し湖に近づいておこうと思い直す。足を引きずるようにして三百メートルほど歩いてから、適当な茂みを見つけた。その大きさは薙刀がすっかり入ってしまうほどではなかったので、これまでにも何度かやった通り、刃や柄に土を塗りつけて光の反射を防いだ後で、地面に寝かせる。

 

 茂みの中に入って体を丸め、目を閉じると、三つ数えるほどの間もなく龍田は眠り込んでしまった。夢を見ることもなく彼女は眠り続け、次に目を開いた時には既に空が赤く染まり始めていた。寝起きの頭は働きが悪く、怠惰にもう一眠りしようと考えたが、ひんやりとした風が吹き付けて茂みを揺らすと、その考えも変わった。龍田は完全に日が落ちる前に、湖を見ておきたくなったのだ。

 

 今夜も昨夜と同じく月が出ればいいが、もし空が曇れば全くの暗中模索で水場に近寄らなければならなくなる。何かの弾みにうっかり湖に落ちたりしようものなら、那智はたちまち見つけ出してしまうだろう。予め見ておけば、その危険を取り払うことはできずとも、減らすことができる。無論、湖に近づけば近づくほど那智に発見される確率も上がるだろうが、そのリスクを考慮しても、湖の偵察をせずに夜を待つという選択は取れなかった。龍田は薙刀と刀を置き、這い始めた。湖まではまだサッカーのフィールド二つ分の距離があったが、龍田は那智がその空間的隔絶をものともしないのではないか、と恐れていた。

 

 蓄積されていた肉体の疲労が解消されていた為に、龍田の移動速度はそれなりに敏速だった。夕陽がその輝きを最も強めたのと時を同じくして、彼女は森と湖を隔てる最後の関門、湖の手前十メートル地点に到着した。低速だが体力を消耗する匍匐(ほふく)前進を終えた龍田は、低木の後ろに隠れ、空とは違う理由で朱に染まった顔で長く静かに息をしながら、坂を見やった。下ることはできても登るのは困難そうだ、と分析して、なるべく登坂(とうはん)しやすいルートを探す。そうやって幾筋か候補を立てると、龍田は経路の分析をしながら夜が来るのを待った。

 

 空模様は龍田に味方をした。分厚くはなかったが、月光を遮り続けるに足りるだけの広がりを持つ雲が、大気に流されて島の上空を覆っていた。覚悟を決めて口の中に溜まった生唾を飲み込み、伏せたまま両手を前に出し、地面を掴んで引き寄せようとするかのような動きで前進する。それを何回か繰り返すと、彼女の体は低木の目隠しから抜け出て、坂に入った。体の向きを変えて、湖に足を向ける。自分の身を那智の目から隠してくれるものが何もないということに、龍田は言いようのない怖気を覚えた。それを意志の力で払いのけながら、音と転落に気をつけて坂を下っていく。

 

 十メートルが十キロにも感じられる時間が過ぎて、龍田の足が水に触れた。時計の長針と変わらない速度で再び湖に向き直り、まず水筒を取ってふたを開け、湖面に浸す。空気を吐き出すぷくぷくという音が途絶えるまで待ってから、封をする。次いで、足にくくりつけた容器を取った。以前には高速修復材が入れられていたその金属容器に、水が流れ込んでいく。重みが増していくのを龍田は感じて、中身が満たされたそれを足に縛りつけることができるかどうか、懸念した。その憂慮の通り、水で一杯になった容器はずしりと重く、抱えていくしかなさそうだった。

 

 ともかく、これで水の心配はなくなった。そう考えて、龍田は気持ちを切り替える。後は離脱を済ませるだけだった。目を大きく開いて、夜の暗闇にぼうっと浮き上がる、坂に生えた一本の木のシルエットを捉える。彼女はまずそこを目指すつもりだった。左手に金属容器を抱え込み、右手で地面にしっかりとしがみついて、足を用いて体を坂の上へと押し上げる。その一セットの動きでの移動量は多くなかったが、今夜の龍田は速度よりも隠密性を重視していた。上首尾に木まで着くと、彼女は幹を掴んで一休みしてから、次の中継地点である別の木に近づいていった。

 

 それを繰り返し、坂の七割を上ったところで、地面に伸ばした手が何かを握った。それが細すぎ、また龍田の手のひらが土に散々擦れて感覚を失っていた為に、気づくのが一拍遅れた。ぐい、と引っ張ってしまい、それでようやく龍田は己が致命的な失敗を犯したことを知覚した。ぱん、と音がして、照明弾が昇っていく。龍田は仕掛けのワイヤーから手を離し、身をよじって空を仰ぐと、まばゆい光が自分の姿をさらけ出させているのを呆然と見守った。

 

 まばたきで我に返り、隠密性などかなぐり捨てて、坂を強引に駆け上がる。森に入り、二十メートルと行かない内に風切り音がして、右からの矢が走る龍田の背を掠めた。思わず水入りの金属容器を落としてしまう。が、あれだけ苦労して水を入れたにも関わらず、彼女はそれを拾おうとは思わなかった。悲鳴を上げるとすれば今こそまさにその時だった。龍田は何も分からないままに、本能的に足を動かした。口と喉も彼女の意識的な制御を離れ、恐怖に声を上げさせた。

 

 彼女にとって運がよかったのは、吸い込んだ空気の大半が運動の為に割り当てられ、発声の為にはごく少量しか費やされなかったという点に尽きる。もしもっと多量に用いられていれば、那智は龍田の悲鳴を聞くだけで容易く彼女の位置を知ることができただろう。とはいえそれは、那智が龍田の位置を掴んでいないということではなかった。矢こそ飛んでこなかったが、時折握り拳ほどの大きさの石が重巡艦娘の膂力(りょりょく)で勢いづいて飛来し、土を抉り泥を跳ね上げ、木に当たれば枝をへし折るか幹にへこみ傷をつけるかした。

 

 龍田は逃げ続けた。反撃など思いもよらなかった。弓を引くにもナイフを抜いて挑みかかるにも、那智の姿を見つけなければならない。だがその為に立ち止まれば、即座に急所を射抜かれるのが分かっていた。彼女は刀と薙刀を置いた場所を目指して走った。武器を回収し、森の中を逃げて那智との間に距離を開け、対応と索敵の為の時間を稼がねば、逆襲などできよう筈もなかった。

 

 記憶にある茂みを見つけ、そこから刀と薙刀を拾い上げる準備をする。龍田は姿勢をやや前傾させ、握っていた両拳を開いた。速度が少し下がったが、こればかりは仕方がなかった。まばたきをこらえ、接近と回収のタイミングを合わせようと努力する。十メートルが五メートルになり、五メートルが三メートルになって、彼我の距離がゼロになる直前、彼女は腰を落として手で地面をすくい上げた。右手が薙刀を、左手が刀の鞘を掴む。地面を蹴り、再度全速力で駆け出そうとしたところで、那智の二射目が龍田の右肩を貫いた。

 

 出鼻をくじかれ、龍田は姿勢を崩して転びそうになる。立ち直るまでに那智が近づいてくるという未来が、彼女の心を恐怖と共に席巻した。足を前に出して、転ぶまでの数秒を稼ぎ、矢の来た方向に首を捻って那智を探す。見つけるのに苦労はなかった。彼女は隠れることをやめて、倒れゆく龍田に向かって駆けていた。歯を食いしばり、その彼女目掛け、薙刀を投擲する。暗さのせいで龍田には那智の顔が見えなかったが、その行為が彼女を煩わせたのは短い罵声と、途切れた駆け足の音で分かった。土の上を転がるが、龍田は受身を忘れなかった。

 

 地に手を突いて立ち上がる。逃げ出そうとして、横からの、ぶん、という音に反応して龍田は刀を抜き、振り下ろされた薙刀を受け止めた。矢が刺さったままの肩に痛みが走るが、頭を割られるよりは痛くない筈だった。峰に鞘を掴んだままの左手を添え、掛けられた力の流れを右に逸らす。那智は引くことを知らずに刃先を地面にめり込ませる、といった失敗はせず、受け流される前に自ら一歩下がって構え直した。龍田には()()()()()()()()()と彼女の目が言っている気がした。

 

 その目が恐ろしくて、龍田は土を蹴り上げて那智の視界を塞ぐと、踵を返して脱兎のごとく逃げ出した。那智は教え子の行動に目を剥き、そのせいで制止の一撃が間に合わなかった。薙刀の刃は空を切り、那智がそれを引き戻す間に相手は数メートルの余裕を得ていた。走りながら、龍田は驚きの気持ちで胸を満たした。整然とした戦術的撤退ではなく、衝動的な逃走だったのに、那智がそれを止められなかったことが信じられなかった。

 

 二人の距離は少しずつ開いていった。龍田と違って、那智は罠を警戒しなければならないのが足枷になっていた。彼女はこれまで島に来た誰よりも素早く罠を看破することができたが、見抜けたからと言って回避の手間がなくなる訳ではなかった。逃げる龍田に追い掛ける那智。二人は息を吸い、吐き、腕を振り、足を動かし、走り続ける。彼女たちの闘争は段々と純粋な体力勝負の様相を呈しつつあり、現役艦娘である龍田がそれに勝利し始めていた。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()、と、龍田は他人事のような沈着さで思った。



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15.「home from the sea.」

 龍田は木に背を預け、咳混じりの弾む息を整えようと努力した。右手を膝につけて身を折り、今にも破裂しそうな肺を、肌の上から左手で押さえる。汗と涙が混じったものが赤らんだ頬を伝ってあごに集まって、ぽたぽたと足元に落ち、地面を湿らせる。その様子を彼女は呆けたように数秒の間見つめていたが、不意に背後から微かに枝を払う音が聞こえたように思って、ぎこちない動きで振り返った。涙で僅かににじんだ彼女の視界には何の異常も人影も映らなかったが、龍田はまだ自分が追われているということを疑いなく認めた。

 

 背を伸ばし、逃走を再開する。けれど走るには疲れすぎていたし、那智との距離は数時間ほど伸びても縮まってもいなかったので、歩くことにした。早歩き程度の歩調を取って、彼女は上を見た。いつの間にか枝の天井からは光が差し込んでくるようになっており、それは龍田を長い間那智の目から隠していた夜が明けたことを、率直に示していた。小休止を挟みながらだったが、それでもそんなに長い間移動し続けていられたことに、龍田は自棄気味な感動を得た。

 

 歩きながら、疲れのせいで思考が霧散しそうになるのをどうにか留めて、次にどうするかを決めようとする。逃げているだけでは那智のもたらす確実な結末を回避できないという事実は、彼女の教え子たる龍田が一番よく理解していた。立ち向かうか、死ぬか。奇妙にも、これまでの那智との対話でも姿を見せたようなフレーズが頭を過ぎって、龍田は唇を歪めた。笑おうとしたのか、不愉快になったのか、自分でも分からなかった。その無意味さ故に、己の感情について考えるのをやめて、那智の狙いを探る。

 

 彼女は重石になっていた艤装を下ろし、追いつくことを諦めて、彼我の距離を保つことにしたようだった。龍田が百メートル進めば、那智も同じペースで百メートル進んだ。龍田が立ち止まれば、那智もまた立ち止まって休憩をした。けれど休憩時間が三分を越えると、今度はじりじりと近づき始めて、龍田を追い立てるのだった。近づく際には必ずわざとらしく音を立てて来るので、ただちにそれと分かった。

 

 その故意性に那智の狙いを読み解く鍵がある気がして、意識を思考に集中させる。その甲斐あって、すぐに思いつくことがあった。()()()()()()()()()()()。疲れきって何もできなくなるまで追い回し、へたばった獲物を仕留める、という狩りのやり方があることを、龍田は知っていた。しかしまさか、自分がその獲物役にされる日が来るとは思っていなかった。彼女は軽い苛立ちを覚えた。それは那智から、「こいつは追われれば逃げるだけだ」と評価されていると思ったからだった。そうでなければ、こんな手法は使わない筈だった。

 

 疲れと苛立ちが合わさり、彼女の中で捨て鉢な敵意として結実する。どうしても那智に一泡吹かせてやりたくなって、たちまち龍田の脳と肉体は、今までの疲労を忘れたかのように動き始めた。思考を覆っていたもやが晴れていくような感覚に、彼女は言い知れぬ快感を覚えた。けれどもそれで彼女の冷静さが失われることはなく、経験深い元教官が、依然として打倒しがたい強敵であることも忘れていなかった。

 

 消耗させ、罠に掛け、意表を突き、混乱させなければ、勝ち目は薄い──龍田はそのように決めつけた。那智が現場を離れてからは二年も経っており、一方で自分は現役であるということは、龍田にとって何のアドバンテージにも思えなかった。事実として、最初に交戦した時、那智は白兵戦で龍田を無力化することに半ば成功していたのだ。それを無視して真っ向から戦いを挑めば、同じことの繰り返しになるだけだと彼女は信じていた。それは単純な経験的判断というだけでなく、恩師にはそうあって欲しいという教え子の願望でもあった。

 

 順番に考えていく。消耗は、朝まで獲物を追い続けていたのだから、それなりに疲労を蓄積していると思われた。意表を突くのは、罠に掛ければ達成できることだ。最後の一つが中々の難題だった。混乱させられれば、ごく短時間でもいいから判断力を奪うことができれば、那智とて無敵ではない。返り討ちにもし得る。でも、どうやったら彼女を混乱させることができる? 龍田は自問し、即座にそれは無理だと自答した。だとすれば混乱ではない別の要因を以って、那智から敵の行動に対応する時間を奪わなければならなかった。

 

 那智の顔に土を掛けて逃げ出した時のことを思い返す。冷えた頭で分析してみれば、何故彼女があの時隙だらけだった自分を仕留め損なったのか、龍田にも分かった。那智は、龍田が彼女のことを愛し、崇拝してその能力を絶対的に信用しているのと同様に、龍田のことを鍛え上げられた一人前の兵士として、砲火の下を潜って生き抜いた本物の艦娘として見ていたのだ。だから那智が教え子を追い詰めた時、彼女が予測した龍田の反応は、打ち倒す為に向かってくるか、逃げ延びて仕切り直す為に向かってくるかの二つだった。単に背を向けて逃げ出すとは、考えていなかったのである。

 

 そのせいで那智を失望させたとしたら、現在こうして龍田が狩りの標的扱いをされているのも、納得の行く話だった。龍田は深く恥じ入って、消えてしまいたい気分になった。けれどじきに彼女の冷徹な部分が「それはつまり、教官は今、意識的にか無意識的にかは別として、私のことを侮ってるってことよね?」と鋭い指摘を放って、恥辱を丸っきり忘れさせた。

 

 移動速度を落とさずに、龍田は自分の装備を調べた。逃げる内に拳銃を落としてしまい、矢は残り二本しかなかった。水は水筒一つ分で、希釈した高速修復材に至っては水筒に半分もない。右肩の矢傷を治すのに使うのも、躊躇いながらというほどだった。武器は弓、天龍の刀、ナイフ、それから両手両足。久方ぶりに龍田は口を開いて、独り言を言った。「前近代的ねえ」だがその程度のものしかないからには、それでどうにかするしかなかった。

 

 龍田は休憩を取らずに歩き続けた。那智の疲労の度合いを知る術がなかったのと、自分が休むことで彼女を休ませたくなかったからだった。傷つき、酷使された体に無休が堪えたが、龍田は小声で機械的に罵声をぶつぶつと呟きながら歩き通した。頭の中で何度も地図を開き、目指す場所を脳裏に描く。島の東端、森の外縁部に那智を連れていくつもりだった。そこで彼女を罠に掛けるのだ。

 

 罠に掛け、首尾よく那智を仕留められたとして、その後で彼女をどうしたいのかについては考えないようにした。どんな拷問を加えたとしても、龍田には那智が口を割ってくれるとは思えなかった。話すとすれば、それは彼女が自分の意思でそうしたいと思った時だけだろう。でも、那智は戦争のことを話すのを拒んでいた。話すことによって、苦しみを取り去るのを嫌がっていた。それから救われたいと願った教え子とは逆に、苦しんで生きたいと望んでいたのだ。

 

「分からない人」

 

 諦念を声に乗せて、龍田は言った。那智を理解しきれない己を不甲斐なく感じて、溜息を吐く。それは傲慢な考えであると分かってはいたが、心から愛した恩師のことを何も分かってやれていないという悲しみは、龍田の胸を締めつけた。自分が彼女をもっと理解できる他の誰かだったら、こうはならなかったのではないか、という疑問が、繰り返し繰り返し胸の奥底から湧いては消えていった。

 

 無性に那智と話したかった。これから殺すか殺されるかする相手と話したいというのは異常な欲求であるようにも思われたが、たとえそうだったとしても、半径数十キロ圏内に龍田を糾弾できる者などいないのだ。彼女は罪のない妄想を楽しんだ。那智にどういった言葉を掛ければ殺意ではなく、より暖かな感情のこもった返事をしてくれるか、考えてみたりもした。通信機の付いている艤装を持ってこなかったのは、大きな間違いだったと龍田は悔やんだ。立ち止まって那智が自分の息の根を止めに来るのを待てば、最後に二分か三分程度はお喋りができるかもしれないという希望的観測を、鼻でせせら笑う。

 

「あなたはきっと、私の言うことなんてまともに取り合わないでしょう」

「どうかな。内容次第じゃないか」

 

 教官の声が聞こえて龍田はびくりと震えたが、直感的に幻聴だと理解して、むしろ気を楽にした。

 

「じゃあ、やっぱり無理よ。私は救われたい。あなたにも苦しんで欲しくない。だけど、あなたは傷を癒したくない。上手く行く筈がないじゃない」

「そうとも限らないだろう。お前の最大の目的は何なんだ、救世主気取りで私を救うことか?」

 

 姿は見えなかったが、龍田は彼女の不安定な心の中にだけ存在する那智が、「救う」の部分で両手の人差し指と中指を使って宙を掻いたのが分かった。その滑稽な様子と当該部をわざとらしく強調した声に、龍田は忍び笑いを漏らした。「そういうのじゃないけど。私とあなた、二人で痛みを分かち合って、お互いに問題を抱えてるってことを認め合えたら、それでもいいんだって言い合えたら、楽になれると思ったの」話しながら、ふと龍田は疑問に思った。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「それが救世主気取りだと言っているんだよ、龍田。私は私、お前はお前だ。なのに、どうして私にまで構う? 私を“救う”ことで、お前は何を得るんだ?」

「得るだなんて、それじゃあ取引みたいで、潔白じゃないわ。あなたが苦しんでいるのは、私にとってもつらいことなのよ」

「いいぞ、遂に本音が出たな。つまりお前は、実際のところ自分の為に私を救おうとしている訳だ」

 

 龍田は視線を鋭くして、そこに幻の那智がいるかのように虚空を睨んだ。彼女の口から攻撃的で刺々しい声が出て、森の中に響いて消えていった。

 

「ひどい言い方ね。私はあなたを助けたいと思っただけなのに、それが悪いことだったって言いたいの?」

「気にすることはない、利己的なのは別に恥じゃないんだ。もちろん、チャームポイントとも言い難いがね。なあ、龍田、お前は今のところ非常に悪い子だ。いい子は自国領を占領したりしないし、人の心に土足で踏み入るような真似はしないものだぞ。ましてお前は、それを何だかんだと理屈付けて正当化したんだ。どうして素直に、自分の傷を癒したいだけだと認められなかった? 苦しんでいる時、その苦痛を取り去りたいと思うのは、ごく自然な心の働きだ。苦しみが大きければ、どうにかしようとして必死にもがくだろう。その為に誰かを傷つけることになったとしても、それは至って普通のことでしかない。なのにお前は自分が、自分だけが救われていくことが何かとんでもない悪事のようなものだと思って、釣り合いの取れる善行をしようとした。その結果を見てみろ。もう頃合いだから、よく見てみるがいい。お前は私を救おうとして、かえってずたずたにしたんだぞ」

 

 発作的に言い返そうとして、龍田は言葉に詰まった。彼女は幻聴の言葉を認めそうになっていたのである。何故那智の告白が必要なのか語った時、彼女は「()()()の傷を癒す為」に必要なのだと主張することはあっても、「()()の傷を癒す為」とは言わなかった。それは、那智の救済が龍田の快癒に要求される段階の一つであって、それそのものとして独立した目的ではないことを示唆していた。認めればそのことへの罪悪感までを背負い込むことになるという恐れだけが、あわやというところで龍田の認容を押し止めていた。

 

 潮の匂いが強くなってきて、目的地に近づいていることが分かった。もう少しだと自分に言い聞かせ、幻聴を気にしないように努めながら、龍田は棒のようになった足を動かし続けた。存在しない那智は、そんな教え子の様子を察してか哀れみを多分に含んだ声で言った。「私はそんなに頼りないか? 何故、純粋に助けを求めようとしてくれないんだ」これには龍田も反論した。本物の那智に聞かれることを恐れて、声を小さく、低くしてだったが、心の生み出した幻には声の大小は関係なかった。

 

「じゃあどうしろと? あなたの足元にすがり付いて泣きながらこう言えばいいの? あなたがどれだけ傷ついたってどうでもいい、私は救われたい、生きていたい、死にたくない、何でもいいから助けて、って」

 

 皮肉っぽく大袈裟な抑揚をつけ、否定されることを前提としてそう訊ねる。けれども那智の声が即座にそれを肯定したので、龍田は束の間の精神的な空白の後、羞恥と嫌悪感を露にしてやっと言い放った。「そんなこと!」彼女の背後で、姿なき那智は押し殺した笑い声を上げた。幼児のあどけない振る舞いを見た母親が漏らすようなその笑いは、彼女の教え子の感情をひどく逆撫でしたが、龍田が更に言葉を重ねる前に那智の方から口を開いた。

 

「ああ、死ぬほど恥ずかしいだろうよ。お前はプライドが高そうだから、余計にそうかもしれないな。だができないとは言わせないぞ。お前だって、恥を晒せと私に要求したじゃないか。こっちが同じことを求めないなんて、都合のいい思い込みだ」

 

 応酬の前に森林地帯の切れ目が見えて、龍田は口を閉じた。もう数十メートルも行けば、目標地点だ。仕掛けようとしていることが成功するにせよ、失敗するにせよ、一つの大きな区切りが訪れる筈だった。恐れに指先が冷やされ、感覚が失われそうになって、龍田はしきりに手を擦り合わせた。後ろに那智がいるのを、彼女はまだ感じていた。でもそれが本物なのか、自分で作り上げた虚像の那智なのか、自信が持てなかった。話しかけても答えてくれるとは限らないし、答えたのが本物という保証もない。木々に隠れた那智を見つけ出せるほどの眼力があるのでもなければ、手は一つしかなかった。

 

 目標の数メートル手前で立ち止まり、やにわに振り返って弓を構え、矢を(つが)えて放つ。那智がいるであろう方角へ向けたものであって、彼女の姿を捉えて射たものではなかったので、当然この矢は遠くで木に命中する軽い音を立てるだけに終わった。その音を聞くか聞かないかの内に第二の矢を矢筒から抜き、息すら止まりそうな緊張に耐えながら“その時”を待つ。集中した意識の中で、視界に動くものが映った。輪郭すら明確に捉えられないそれが何なのか確認するよりも先に、龍田は覚悟を決めて目を見開き、歯を食いしばって両腕を体に引きつけ、盾にした。

 

 ひゅう、と音がして、左腿に一本の矢が突き立つ。その出所は、龍田が矢を放った方角と概ね一致していた。木を削っただけの雑な作りの矢じりに肉を抉られる感覚に、彼女は自分でもぞっとするような呻き声を上げ、足を滑らせた風に見える動きで後方に倒れ込んだ。すぐに半身を起こし、那智の影を見た辺りに射掛けようとする。けれども狙いをつけていると、姿を隠したままの那智が放った二射目が、龍田の脇腹に突き刺さった。その痛みで腹筋に力を込めるのが難しくなって、思わず矢から指を離してしまい、末の一矢は見当違いの方に飛んでいった。

 

 弓を捨て、右腕が下になるように身を捻ると、龍田は地面を這ってさっきまでの進行方向に進んだ。少しも行かない内に、三射目が彼女の左肩に命中した。龍田は我慢するのをやめて、痛みに叫びを上げた。右腕だけで土を掴み、体を引き寄せ、右足で地面を押して進む。伏せている龍田には姿こそ見えなかったが、那智は標的のその様子を見て隠れるのをやめたようだった。しかし、がさがさと音まで立てながら近づいてくるので、彼女の教え子にはただちにこれが誘いだと分かった。彼女はまだ、敵が反撃の余力を残していると考えている。三本も矢を当てておきながら臆病なまでの警戒に、龍田は改めて彼女を尊敬した。

 

 痛む左腕で音を立てないように刀を半分ほど鞘から抜く。茂みや低木の向こうから、那智の足音が近づいてくる。彼女は自分にとどめを刺しに来ているのだという考えが、龍田の頭にぐるぐると渦を巻いて恐怖を煽る。地を掴む右腕を止めて、刀の柄を握る。音に耳を澄ませ、那智の場所を想像し、特定する。そして彼女との間に存在する最後の茂みが揺れ、那智の姿を草木越しに捉えた途端、龍田は激痛を無視してもう一度身を捻り、刀を投擲しようとした。

 

 突き飛ばされたような衝撃で、失敗を知覚する。今度は右肩に矢が刺さっており、刀は龍田を離れて脇に転がっていた。柄に手を伸ばすと、その腕を射抜かれる。なので彼女は刀を諦め、足の動きだけで体をひっくり返し、那智が追いつくまでの絶望的な時間稼ぎを続けた。下半身が血で濡れて不快だったが、地面との摩擦係数が減ったのか、這って進みやすくなっていた。失血で酩酊じみた状態に陥った脳で、怪我の功名とはこのことかしら、と考える。

 

「終わりだ」

 

 那智が静かに言った。距離はまだほんの少しあったが、彼女の声を邪魔できるものは二人の間に存在していなかった。龍田はそれを無視して這い続けた。彼女が地面を引き寄せる度に、体の矢の刺さった箇所から血が染み出て、土や彼女の服を赤く汚した。血みどろの芋虫、と龍田は自嘲的な言葉を思い浮かべた。土の上を泳ぐようにして進む。ぼろぼろの手袋が擦り切れ、爪が割れて指からも出血が始まったところで、辺りを見回し、今自分が寝そべっている場所こそが終着点だと確かめる。

 

 肘を地に突いて支えながら、彼女は体を返した。それから少し後ろに下がり、追跡者を見やる。五メートル離れたところで、那智は既に姿をさらけ出していた。目をしばたかせて己の視線を隠しながら、教え子は瞬時に元教官の武装を調べた。残っている矢は下ろした弓に軽く番えている一本きりで、後はナイフが一本。それが彼女の持つ全部だった。魂まで吐き出しそうな深い溜息を済ませてから、龍田ははにかむような上目遣いで呼びかけた。

 

「教官」

 

 彼女の予想通り、その呼びかけに答える者はいなかった。那智はかつての教え子を、感情の読み取れない目で見下ろしていた。その顔は、敵が未だに反撃を試みようとしていることを確信している兵士の、硬い表情以外を浮かべていなかった。龍田は彼女自身でもどうやったか理解できないまま、笑みを見せて言った。「こうなると、あなたを呼んだのは」そこまでで咳き込んでしまうが、吐血はしなかった。脇に刺さった矢じりのせいで肺が圧迫でもされたのだろうかと思いながら、龍田は先を続けた。

 

「失敗だったかもしれませんね。まさかここまで頑固だとは、思いもしませんでしたよ」

 

 那智は微動だにしなかった。何を言われても考えないようにしているのか、平静そのものだ。それが龍田にはさっぱり気に食わなかった。鏡で見ずとも分かるほど顔を醜悪に歪めて、最後の最後まで彼女の頼みをはねつけ続けた元教官に言い放つ。「そうよね、どうせ私を今日殺したところで、あなたが死なせた教え子がまた一人増えるだけ。今更一人増えたからって何てことない、そうでしょう?」それまで龍田の目を見つめ返していた那智の視線が、心なしか下がった。自分の言葉が彼女の心の傷に触れていることを疑いなく信じて、龍田はいかにも哀れらしい声を出した。

 

「それに最初に手を出したのは私だもの、良心の心配も要らないわね。でも少しは、少しぐらいは自分だって悪かったんじゃないかとは思わない? だって私はあなたの失敗なのよ、那智教官。あなたが私をこんな風にしてしまったんだから」

「その責任を取りにここに来た」

 

 断固たるその言葉に、しかし龍田が返したのは品のない大笑だった。彼女の何処までも滑稽そうな笑い声は、何本もの矢で体を貫かれているという事実を加味すると、極めて違和感のあるものだった。何の事前動作も吐き捨てる言葉もなく、龍田はナイフを抜いて振りかぶる。そして当たり前のように反撃の矢を受けて、投げる前に手からそれを落とした。龍田はゆっくりと起こしていた背を土の上に横たえると、腹に新しく刺さった一本を見下ろして言った。

 

「なら、さっさと終わらせてもいいんじゃない? まさか苦しんで死んでいく私の姿を見ておいて、後でまた自虐に耽るの? 悪趣味ねえ」

 

 この発言で初めて那智が感情らしいものを見せた。それが逡巡だったので、龍田は笑った。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。再度激しく咳き込んでしまい、ぜいぜいと喘ぎ声が出る。掠れた声で、教え子は元教官に言った。「早くして」おぼろげな意識のお陰か、痛みはなかった。龍田がまぶたを下ろすと、耳に遠くから鞘と刃の擦れる音が聞こえた。那智がナイフを抜いたのだと知って、弱まっていた脈が残っていた気力の全てを体から搾り出し、ペースを取り戻す。

 

 土を靴底が撫でる、ざり、という音で、龍田は改めて目を開いた。彼女を育てた女が横に立っており、左の逆手に抜き身のナイフを持っていた。「終わりにしましょう」と教え子が言うと、那智は微かな動きで頷いた。緩やかにナイフを握った手が持ち上げられていく。漠然とした意識の中、龍田の胸には何の恐怖もなかった。那智の手の動きが止まったところで、彼女はにこりと微笑んで口を開いた。

 

「ねえ、教官」

 

 そうして、那智が教え子の遺す言葉に注意を向けるのを感じ取った次の瞬間、龍田はごろりと横に転がって逃げた。ぽん、と間抜けな炸裂音がして、地面から金属缶じみたものが跳び上がる。龍田は光と音と破片を防ぐ為に強い力を込めて目を閉じたが、その前に那智が唖然とした表情で「やられた」と言わんばかりの大口を開けていたのを見逃さなかった。

 

 先の炸裂音を何倍にもした破裂音が響き、ばら撒かれた時速百キロの金属片が木々や地面に突き刺さる打擲(ちょうちゃく)音がそれに次いで龍田の耳朶(じだ)を打った。小さな耳鳴りだけを残して、しんとした静寂が戻る。満身創痍の龍田は、那智が平気な顔をして立ったままでいるのではないかと思うと、目が開けられなかった。通常の小火器で傷つけることのできない艦娘の肉体に、何処まで小型対人地雷が通用するか、彼女にも詳細は掴めていなかったのである。だが倒れたままでいればいずれ失血が死を招くことは避けられない。遅かれ早かれ現実を認めなければならなくなるのだと言い聞かせて、龍田はまぶたを上げた。

 

 少なくとも、那智がきょとんとした顔をしていた、ということはなかった。やけに安心して、彼女はよろよろと身を起こし、希釈修復材の水筒を取った。矢傷を治療しつつ、那智の姿を探すが、見つからない。どうやら思ったより長い間目をつむっていたようで、龍田のものではない血の跡と、ベルトに引っ掛ける為の止め具が壊れた水筒が残っていた。水筒を拾い、匂いと味を見て中身が修復材だと知る。容器に穴が開いていたので、龍田は中身を自分の水筒に移し変えた。その作業を終えて、血痕を見る。それは茂みに向かって消えていた。出血のせいで言うことを中々聞いてくれない体に文句を言いながら、龍田は那智の後を追った。手傷は負わせたし、治療もできなくなっているようだが、それだけでは安心できなかった。

 

 那智はじきに見つかった。彼女は茂みを通った後で森を抜け、崖に行こうとしていたが、そこで力尽きたのか動けなくなってしまったようだった。壊れた義手を横に投げ出し、仰向けになって髪を振り乱し、苦しそうに悶えるばかりの姿は、彼女の絶対的な強さを信奉していた教え子に落胆さえ感じさせた。とはいえ、龍田も同じようなことを偽装して反撃をした身である。いっそ期待に近しいものを抱えながら、彼女は那智に近づいていった。そうして、彼女の煩悶が見せかけのものでないことを発見した。那智は、己の血で溺れ掛けていたのである。けれど、体には目立った傷がなかった。

 

 それで龍田は跳躍地雷の威力を把握した。やはり不足していたのだ。義手を破壊し、水筒を壊しはしたが、艦娘の肉体、その表皮を貫くことはできなかった。だから那智の体の見える場所は傷つかず──爆発の時に開けていた口の中が傷ついた。龍田は倒れるように那智の側に横になると、肘を突いて身を起こし、那智の口を覗き込んだ。そこには小さな血溜りがあったが、吐き出すことも首を回して口に溜まらないようにすることもできない様子だった。あごを掴み、横を向かせて血を吐かせる。酸欠寸前だった那智は荒い息をするばかりだった。龍田が彼女に上を向かせると、またもや溺れ始める。

 

「麻痺してるわ」

 

 と龍田は診断した。吐いた血が流れ込み、涙と混じって赤く染まった眼球で、那智は彼女を見つめた。生死を完全に敵の制御下に置かれているにも関わらず、その目つきからは険が抜けていた。「破片が口腔内を通って、脊椎か何処かを撫でていったみたい」だとすればどうやって那智が地雷の爆発したところからここまで這ってくることができたのか、上向きに倒れていたのは何故かという疑問は残ったが、それが龍田の見立てだった。「多分、動いたせいで損傷が大きくなって、完璧に麻痺したんでしょう」再び那智の顔を横にし、血を吐かせる。が、その時ぴくりと那智の首が動いた。反射的なものだと考える余地はあったが、龍田はそう思わなかった。彼女は穏やかに言った。

 

「首から上は麻痺してない……死のうとしてたのね」

 

 那智が言葉で答えることはなかったが、赤色を洗い落とそうとして涙を流し続ける彼女の双眸は、龍田にとって十二分に答えと成り得た。起き上がり、伸ばされた那智の足の上に膝を開いて座る。彼女の胸元を掴んで引っ張り上げると、首が下がり、唇を伝って血が流れた。「どうして?」と龍田は尋ねた。那智が口から垂らす血が手に掛かるのにも構わず、詰問する。

 

「苦しんで生きたいって言ったじゃない。なのにそれも諦めて逃げようとするなんて! 私はどうなるの? あなたが死んだら私がどうなるか考えなかった? 私は生きていたいのよ、でもそれは、あなたなしにはできないことなのに!」

 

 彼女の教官を抱きしめた龍田は、両目から涙を溢れさせながら那智の胸に顔を(うず)めて、何度も頬を(こす)りつけた。暖かな液体が龍田の後頭部に降り注いでいたが、それを苦にも思わずに彼女は那智を抱いた。泣いてはいたが、それは悲しみからこぼれたものではなく、むしろ彼女が那智に向ける純真な愛情がそうさせていたものだった。

 

 涙が止まるのを待って、龍田は自分の水筒を取り、その中身を那智の口腔へと注いだ。麻痺の治癒には時間が掛かりそうだったが、出血は止まった。それは那智の自殺が失敗に終わり、彼女の命を彼女自身から守ることに龍田が成功したという意味だった。空になった水筒を捨てて、彼女は抱擁をし直した。回した腕と腕の間に確かな体温を感じて、安堵する。と、緊張と共に涙腺が緩んで視界がにじんだ。片手で目元を拭いつつ、那智の体を横たわらせ、龍田もその左隣に寝転がり、昼の曇り空を見上げる。

 

 那智が死なずに済んだとはいえ、これからどうすればいいのか、もう龍田には分からなかった。凄惨な最期すら厭わないほど強固な那智の拒絶を前にして、龍田には打つ手もなければ気力もなかった。ずっとこうして横になっていられればいい、とは思ったが、そんな馬鹿な話が実現する訳もないということは承知していた。来るべきものが来るまで、那智と一緒にいたい。ただそう感じて、その欲求に身を委ねる。すると、思いのほかに気が楽になった。来るべきものというのが何なのか分かっていたのに、それは龍田にとって驚くべき変化だった。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。その驚きに任せて、彼女は那智に言った。

 

「あなたは私を殺せた」

 

 言葉ではなく、弱々しい呼吸音が返ってくる。龍田は苛立たなかった。那智が耳を傾けてくれているのは感じていた。「何度もその機会はあったのに、あなたは私を殺さなかった。さっきだって、私の目や頭や喉を射抜いてしまうこともできたでしょう」しかし実際に射られたのは腕、肩、脇や腹であって、即死するような箇所ではなかった。標的が通常の人間ならそれでも殺意を否定するには足りないが、相手は方法次第では瞬時に負傷を回復させることのできる艦娘である。龍田を長く苦しめる為にそうしたのでもなければ、これは歴然たる手加減だった。そこが彼女には理解できなかったのだ。

 

 殺すという那智の宣言を聞いた際に、龍田は取り違えなどできないほどの殺意を感じ取った。つまりその時点では、那智は教え子を手に掛ける覚悟をしていたということになる。それなのに、実際に交戦した時には既にその決心を失っていた。「どうして?」と龍田は同じ質問を繰り返したが、その意味や込められた感情は先ほどとは変わっていた。首を右に回し、那智の横顔を覗く。昼の明るい太陽に照らされた彼女の顔は、血と涙と唾液の混合液の痕で汚れていたが、龍田には美しく輝いているようにさえ見えた。

 

 その輝きに触れたいという欲望を押し込めて首を戻し、代わりに那智の左手を握る。麻痺のこともあり、握り返されはしないだろうと思っていたが、希釈された高速修復材は龍田の予想を上回ってその効力を発揮していたらしかった。軽く握り返されて、思わず彼女は那智の方を向いた。傷が障って動かしづらいのか、那智の首は龍田の側を向こうとして半端なところで止まっていたが、目は意思の光を点したまま、教え子を見つめていた。彼女は血の塩気にやられた聞き苦しい声で、ぽつりと言った。

 

「殺そうと思った」

 

 龍田の手を握る那智の左手に力が込められる。その力は龍田に小さな痛みすら感じさせられなかった。でもそれには、那智の言葉の重みを証明する働きがあった。彼女は浅い呼吸で一言一言を区切りながら、続けた。「苦しんだままでは、生きられないと、お前は、そう考えていた」龍田は那智の一方的な断定を、正しいものとして認めた。シェルターで那智との心中を図ったのは、その考えに基づいての行動だったから、見抜かれていたことを意外には思わなかった。「けれど、自ら死ぬことは恐ろしい」那智はそう言って、麻痺の影響が抜けてきたのだろう、大きく息を吸い込んだ。

 

「生きることも死ぬことも選べないまま、命だけ永らえるというのは、つらいものだ。お前はそれを一番恐れていた。それで私と取引をして、生きる上で邪魔な苦痛に対処しようと試みて、失敗した。私が取引を拒み続けたからだ。私のせいでお前は苦しみ、その苦しみから逃れる術もまた、私のせいで失ったから、せめてその責任を取ろうと思った」

 

 那智は咳き込み、その顔が上を向く。涙が一筋、重力に引かれて顔を伝っていき、耳から粒になって滴り落ちた。「だが、私には無理だ」涙声で那智はそう言った。「たとえどれだけその手で痛めつけられたとしても、どんなに変わってしまったとしても、何をやってしまったとしても、それでも貴様は、私の教え子なんだ。私が愛した、生きて欲しいと願って鍛えた」弓なりに背を反らせ、わなわなと唇を震わせながら、噛み締めた歯をこじ開けるようにして那智が叫ぶ。「殺すなんて、できない……!」

 

 尾を引くような長い叫びの後には、岸壁に打ち寄せる波の音だけが残った。龍田は自分の声に動揺が含まれているのに気づきながら、那智に確かめた。「だから、一緒に死のうとした?」彼女は上を向いたまま僅かに首を動かして頷くと、「お前の為にこの那智ができることなど、それくらいしかなかったからな」と乾いた声で答えた。“それくらい”にも失敗したことへの悲観を感じ取り、言い返そうとして龍田は口を閉じる。脳内に火花が走ったようだった。

 

 それは、意識的なものではなかっただろう。けれども那智は、確かに人称を変えていた。「貴様は、私の教え子なんだ」と彼女は言い、その後には「お前の為にこの那智が」と言った。龍田には分かった──そこには確固たる区別があった。人称の違いは、単なる愛情を示す為だけの変化ではなかったのだ。幻の那智が話していたことも、とうとう龍田はその正しさを理解した。現実には存在しない那智の声が、心の中でからかうように言った。

 

「お前は()()()()と取引をするつもりで、()()と交渉していたんだよ。そうなるのも当たり前だろう、何処の軍隊に教官と対等に取引できる訓練生がいる?」

 

 龍田がその冗談に笑うと、幻聴の那智は相槌めいた含み笑いを漏らして、トーンを変えて諭すような声色で囁き掛けてきた。「訓練生はみんな教官を憎むか、頼るか、あるいは泣きつくかするものだ。そして教官は、そんな訓練生を助けるんだ」そう言い切ってから、彼女は気恥ずかしげに付け加えた。「その為になら、何だってするさ……」

 

 それきり、龍田の心は静かになった。何を促されたのか自覚して、彼女は口を開けようとした。だが、どう言えばいいか分からなかった。声帯を震わせただけの、意味を持たない喘ぎ声が喉から漏れる。恥の感情が毛細血管の一本ずつまでを駆け巡り行き渡って、開けた口を閉じ、出そうとした声を飲み込むよう、龍田の意思を無視して肉体に命令しようとする。それに従うのは楽な選択だった。逆らえば今後の一生、思い出す度に忸怩(じくじ)たる思いに心乱され、身悶えして苦しむことになるに決まっていた。でも龍田は、そうなりたかった。

 

「た、助けて」

 

 言い慣れていない単語を使おうとした為に、舌を噛みそうになってしまう。決まりが悪かったが、一度(ひとたび)恥を受けたなら、重ね塗りしたところでどうだというのだ、と考える厚顔さが龍田には備わっていた。「私は、苦しんで生きたくなんかないの」その厚かましさを以ってしても、出せたのはこの二言三言だけだった。龍田はこの島に来てから感じた中で最も大きな恐怖に押し潰されながら、那智の反応を待った。その間、怒らせるかもしれない、無視されるかもしれない、そんなことを恐れてばかりいたので、那智がどう切り出すかを考えているのに気づかなかった。「親友がいるんだ」と彼女は言った。

 

「え?」

「親友だよ。こいつの為なら、深海棲艦の口にだって頭を突っ込んでやる、なんて風に思える相手だ。私の場合、それは戦艦「長門」だった。奴とは色々とやったものだ。教官になってからの私しか知らない連中が、到底想像できないようなことも含めてな」

 

 乏しい想像力で、かつての那智がどんなことをしたのか龍田は思い描こうとしてみた。けれども彼女が脳裏に描く那智の顔は、何をしていても、教官としての彼女が見せる仏頂面がほとんどだった。那智は教え子の罪のない空想に気づかず、話を続けた。

 

「私たちは、互いが自分よりも相手のことを優先し合うと信じていた。どんな状況でも、どんな困難の中でも、こいつだけは私の側にいて、逃げたり裏切ったりしない、と。敵に追われて、私と長門の二人だけで小島に逃げ込んだ時もそうだった」

 

 右腕を失くした際の話をしているのだと龍田は直感して、ごくりと喉を鳴らした。

 

「長門はそれなりに元気だったが私は右腕がめちゃくちゃで、顔の半分には火傷を負っていた。希釈修復材も切らしていて、通常の医薬品で止血はできたが、それでその備蓄も尽きた。私たちは身を潜め、長いこと捜索隊を待ったが、来なかった。すると何日目だったか、私の右腕が感染症に(かか)って、壊死を始めたんだ。長門は私の右腕をナイフで切断すると、火を使って血止めをした。そうして私の艤装から燃料を抜き取り、ありったけの食料を持って、敵がまだそこらにうようよいる中、一人で救助を呼びに行った」

 

 那智は溜息を吐いて言った。「そう言えば聞こえはいいがな。あいつは私を一人にしたんだ。重傷でろくろく体も動かせず、食料や水の確保すらままならない私をな」でもそれは仕方ないことだったでしょう、と龍田の口から出そうになったが、彼女はそれを飲み下して封じ込んだ。那智がそんな類の相槌を求めていないことは明白だったからだ。望まれてもいない言葉が彼女の邪魔をすることを、龍田は心から忌避していた。

 

「まあ、それ自体はいい。立場が逆なら、私も同じことをしただろう。二人で確実な死を待つよりはマシだ。でもある時、私はあいつが書いた報告書を読んだんだ。私を置いて島を脱出したのは、『事前に二人で取り決めていたことだった』と書いてあった。ところが、私にはそんな記憶がない」

 

 言葉を切ると、それまで喋り続けていた彼女は暫く黙っていた。その姿は、胸中で伝えようとしていることを整理しようとしているかのようだった。空の明るさが目に痛くなってきたのか、まぶたを閉じると那智は語りを再開した。

 

「唯一確かだと言えるのは、朝目を覚ますと隣にいた親友が姿を消し、食料と艤装の燃料がなくなっていたということだけだ。急ごしらえのシェルターで倒れたまま、私は猛烈にあいつのことを憎んだ。裏切られたと思った。なのに長門が私を助けに戻ってきた時には、全く……心底、恥じたとも」

 

 己の勘違いを彼女は冗談めかして笑い交じりに口にしたが、その陽気さも長くは続かなかった。不意に声の調子が、平坦で落ち着いたものになる。

 

「だけど、こうも思ったんだ。私の気持ちが憎悪から恥に変わったように、あいつの気持ちも変わっていたとしたら? 最初は本当に、足手まといの私を置き去りにして、戦死したとでも報告するつもりだった。だが敵の手を逃れ、落ち着いてきたら良心の呵責に耐えられなくなって、それで救助要請の為の脱出だったと偽装して、何食わぬ顔で戻ってきたんだとしたらどうだ? そうでなかったら、どうして食料も全部持っていった? 私が飢えると分かっていた筈だ。私は……」

 

 話していて興奮してきたのだろう、那智は早口に言い立てた。「真実なんてどうせ分かりはしない。私は失血で朦朧としていた。約束したことも忘れていたのかもしれない。実際のところ、真実など知りたくもない。知ったって救いにはならないんだ」那智が身じろぎをして目を開き、宙に視線を這わせる。何をしているのか、龍田には最初不可解だったが、よく観察すると分かった。那智は失った右手を見ていたのだ。あたかもそれがそこに残っているかのように、それが動いているのを眺めるような目つきで、彼女は何もない空間を見ていた。視線を落とし、呟く。

 

「私は切り落とした腕を食ったんだ」

 

 腐った腕をだぞ、と那智は言った。笑い飛ばしてしまおうとして、彼女はその発言に続けて「猛烈に腹を壊したよ」と付け加えたが、その声の内面には見せ掛けではない明るさが欠如していた為に、かえって彼女の苦痛を浮かび上がらせる結果になっていた。

 

「今でも何かの折に肉を食べたり、その()()()を嗅いだりすると、ふっとその瞬間に戻ってしまうんだ。私は島にいて、土の上に転がり、黒く変色した自分の右腕に、必死で噛みついている。どろりとした血の塊の味、肉から溶け出した液体の臭み、崩れる脂肪の感触、そんなものがどっと押し寄せる。それから立ち直ると、私は過去を思い返して、こう考える。結局、長門は私を裏切ったんだろうか?」

 

 頭をゆっくりと左右に振り、那智は呻くように言った。「答えは永遠に出ないだろう。私はずっと彼女を愛し、また疑い続けるだろう」口を閉じ、彼女は浅く息を吐いた。それは、全部言ってしまったことを示すサインだった。それでも念の為に続きがないことを見極めようと、龍田は何も言わずに黙っていた。五分以上が過ぎてようやく、彼女は話が終わったことを認めた。

 

 龍田は不思議な気分を味わっていた。那智が抱えていた苦しみを聞き、分かち合うことで何かが劇的に変わり、それまで龍田を苦しめていた過去の記憶や、感情から解放されるものだと想像していた。けれど実際にはそうではなく、彼女はそれがまだ心の奥底にへばりついているのを感じていた。違いと言えば、それが以前ほど気にならなくなったという点だった。生きていける、と死にかけの軽巡艦娘は思った。そう感じるのがいつぶりなのか、彼女にも分からなかった。でもとにかく、生きていけるのが嬉しかった。今更投降しても海軍が死刑以外を宣告しないであろうということは、些細な事実だった。

 

「私たちの戦争は、終わるでしょうか?」

 

 希望を声に込めて、龍田は那智にそう尋ねた。那智は力を抜いて首を教え子の方に回すと、「もう終わってるさ」と答えた。「後はそれを受け入れていくだけだ。時間を掛けて、少しずつ」首を戻し、昼の空を見上げて、透明感のある青さに目を細める。やがて二人の間で、「帰ろう」という声が出た。

 

*   *   *

 

 早くに目覚めた五十鈴は遮光カーテンの裏側にもぐって、単冠湾泊地の医務室の窓から朝の泊地の景色を見ていた。比較的高層階に部屋があったので、眺めは非常によかった。カーテンの隙間を通って光が差し込み、周りで怨嗟の唸り声が上がる。陸奥と摩耶、それに天龍だ。負傷や疲労が激しかった彼女たちは、入渠後に感染症やその他の不調を起こす可能性があったので、まだベッドから出して貰えないでいたのである。強い光で目覚めさせられた三人は、三者三様の言い方で五十鈴を批判した。それにはラスシュア島に行く前の五十鈴が聞けば泣き出してしまったかもしれないような、手ひどいものも含まれていたが、今の彼女にはそれも艦娘同士のじゃれ合いにしか感じられなくなっていた。

 

 適当に返事をするばかりの五十鈴に、三人はじき興味を失くした。陸奥と摩耶は、島で艦隊員たちと一時通信が繋がらなくなった理由が、実はとても下らないものだったという話で盛り上がり始め、天龍は二度寝に入った。島で経験したことが嘘のような平和な様子の病室に、五十鈴は我知らず微笑んでいた。だが、泊地の方はこの部屋ほど安穏とはしていなかった。ひっきりなしに入渠施設と工廠を人が行き交い、艤装を装着した艦娘たちが点々と歩哨に立っている。前日の夜に五十鈴の見舞いに来た海風の言によれば、龍田を処理する為に送られた二十四人の艦娘たちが道中で攻撃を受け、それによる負傷と弾薬の消費を理由に引き返してきたとのことだった。

 

 その艦娘たちに罪悪感を覚えつつ、五十鈴は彼女らが島に到着しなかったことを喜んだ。龍田が死ななかったことを喜んだのか、彼女たちが悲惨な戦いに知らずして身を投じずに済んだことが嬉しかったのか、判断はできなかった。なので五十鈴は、きっと両方だと信じることにした。出会いと別れのどちらもが、彼女に龍田を憎むように仕向けていたが、奇妙なほど彼女はあの無謀で熟練した軽巡のことを嫌いになれないでいた。

 

 龍田と過ごした数日のことを思っていると、窓の外、眼下で人の動きが前にも増して慌しくなった。今度は何があったのかと見てみれば、武装した艦娘たちがこぞって工廠へと駆けて行くのが見えた。工廠には何があったかしら、と考え、即座にぴんと来る。()()()。龍田がとうとう帰ってきたのかもしれないと思うと、いても立ってもいられなくなって、五十鈴はベッドから転がり落ちるようにして降りると、病室から飛び出した。後にはぽかんとした様子の陸奥たちと、高いびきの天龍が残された。

 

 結論から言えば、五十鈴の推測は当たっていた。帰ってきたのではなく、連れ帰られてきたという箇所だけが彼女の考えと反していたところだったが、大筋では正しかった。那智と龍田は艤装を回収し、二人で支え合いながら、島から何時間も掛けて航行してきたのだった。水路に入った二人を出迎えたのは、十数人の完全武装した艦娘だった。龍田に肩を貸された状態で水路の端、上陸用ステップの前に立った那智は、麻痺の抜けた体を見せつけるように左腕を広げると言った。

 

「上がっていいか?」

 

 許可が出るには十分ほど掛かった。そして上がって工廠に入るや否や、二人は引き離された。だが那智の予想と異なり、龍田を護送しようとしているのは泊地付の憲兵ではなく、軍警所属の人員だった。その中には艦娘もちらほらと含まれており、戦闘艦ではない明石までいた。龍田の健康状態を調べているようで、それには時間が掛かりそうだった。場の注目が今回の事件の犯人に集まっているのを感じ、那智はそそくさとその場を後にした。工廠を出たところで、後ろから声を掛けられる。振り返れば、吹雪がいた。怪我もなく、いつもの無表情を顔に貼り付けている。

 

 那智は「生きていたのか?」という無駄な問いかけを省いて、より有益な質問をした。

 

「軍警が龍田を捕まえたのはお前の差し金か、吹雪秘書艦?」

「意外ですね、先にどうやって生き延びたのか訊ねると思っていました」

「どうせ実は一対二十四じゃなかったとか、そんなところだろう」

 

 吹雪は肩をすくめてから、「電と彼女の部下たちは極めて優秀でした。足止めの援護を条件に交わした契約を無視して、本件について彼女の上司に知らせなければならないのは、実に残念です」と応じた。電をやり込めたことに満足しているのか、腕を組んで背を軽く反らし、相手を見下したような冷たい声音で那智に言う。

 

「質問の答えですが、概ねその通りです。あなたは軍警の協力者ですから、あなたが捕まえた犯人は私たちが預かるのが筋でしょう。事態解決の手柄と世間の注目も、私たちで引き受けてあげましょう」

「恩着せがましい言い方はやめろ。……龍田は死刑になるか?」

「私には理解できないのですが、死体からどんな利益が得られます?」

 

 じろりと那智を睨んで、物分りの悪い相手に話すのは苦痛だと言外に表しつつ、彼女はそう質問をし返した。

 

「手は幾つかあります。死刑は避けられるでしょう。あなたはそれを恩に着る。そしていつか、その恩を返す」

「多分、(あだ)でな」

「だとしても、そうと分かっていれば利用できます」

 

 那智は言い込められたような不快感を覚えて、悔し紛れに鼻を鳴らした。軍警の護送車が、うるさいエンジン音を鳴らしながらやってくる。その車が工廠の前で止まったので、那智と吹雪は排ガスを吸い込まないでいいように、位置を変えなければならなかった。護送車の後部が開かれ、乗っていた見張りの軍警察官が降りる。那智はそれを見守っていたが、吹雪が横で「ヴェールヌイ」と声を上げたのでそちらに顔を向けた。

 

 間髪入れず、目を離せなくなるような柔らかな微笑みが那智の視界に入った。ヴェールヌイは工廠前の人だかりを早足で抜けて近づいてくると、まず那智と、次に吹雪と握手をした。「Спасибо(ありがとう)! Большое(本当に) спасибо(ありがとう)!」静かだが強く感情のこもった声で、彼女は礼を言った。那智はさっきの吹雪を真似て肩をすくめ、微笑み返した。その吹雪がヴェールヌイに言った。

 

「もしお望みなら、護送に付き添いますか? 安全の為、その場合は私も同行しますが」

「いいのかい?」

「知り合いがいた方が、護送される側も気が楽でしょう。ただ、言っておきます。護送車の乗り心地は最低ですよ」

 

 ヴェールヌイは笑って頷くと、さっさと車の後部に乗り込んでいってしまった。軍警察官の一人が止めようとしたが、吹雪に制止と説明を受けて退く。戻ってきた軍警秘書に、那智は大きな不信感を前面に押し出した態度で接した。彼女には、吹雪が他人に対して利益抜きで親切にする理由が分からなかった。それを知ってか知らずか、吹雪は那智の視線に背を向け、診断と簡単な治療を終えて工廠を出てきた龍田を指差して言った。

 

「ほら、来ましたよ」

 

 龍田は服を新品に替え、周囲を軍警察官たちに囲まれながら、顔を俯けさせることなく、足取り確かに護送車へ歩いていった。その途中で、那智と目が合う。その時ばかりは龍田も少しの間、首を回して教官の姿を捉え続けようとしていたが、護送車に向かって進むにつれてそれも難しくなり、結局は前を向いた。

 

 彼女が車の後ろに立つと、中でヴェールヌイが普段と同じ微笑を浮かべて待っていた。恐れることなく、龍田は足を上げて乗り込もうとする。その時、「どいて、どいて!」と騒ぎながら誰彼なく押しのけて、五十鈴が現れた。彼女は護送車と野次馬たちの間に、無意識的に作られていた空間にずかずかと入り込んでいくと、龍田の目の前に立った。声を掛けたかったが、いざ去りゆく彼女の前に立つと、何も出てこなかった。それを見て龍田は、五十鈴の耳元に口を寄せてゆっくり訊ねた。

 

「ねえ、今日が何の日か知ってる?」

 

 そして彼女が答える前に、龍田は笑って自分で言った。

 

「私の終戦記念日よ!」



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