赤い森のイリス (ぬまわに)
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一章 ひとつひとよのひとよぐさ
一話


現代異能ものを唐突に書きたくなった。


 苔の生えた墓がある。

 忘れ去られたような墓だった。

 何年も使われていないような花入れにはびっしりと泥のような埃が堆積している。

 除草をする者もいなかったのだろう、枯れ草が一面を覆い、風に吹かれて飛ばされていった。

 その風に舞うように淡い金色が交じる。

 儚い少女だった。

 夢幻をそのまま形にしたような。

 日本人とはとても思えない容姿をしている。

 肌は白磁、瞳は(みどり)がかり長く色素の薄い金髪は風に溶けるようだ。

 少女は無言でしばらく苔むした墓、堂平家と刻まれたそれを見ると、静かに手を合わせた。

 数分か数十分か。

 疲れたように手をおろした少女は墓石に近づき、傍らの墓誌を見る。

 掘られた文字に指をあて、一文字を確認するようにつぶやいた。

 

「のぞむ」

 

 望、そう刻まれた漢字を再び指でなぞり、もう一度つぶやく。

 そして大きく息を吐く。悲憤、喜楽、諦観、どの感情にも思える、あまりに感慨のこもった吐息だった。

 冬の冷気に吐息が白く浮かび、消えてゆく。

 

「享年……十二歳かぁ。そうか……でも、()()()()()()

 

 そして少女の指先は下がり、その視線は望という名の隣に移った。

 ああ、と今度は間違いのない、悲しみに染まった声音が漏れる。

 耕平、そして瑞希。その名前を認め、父さん、母さんと小さなつぶやきが漏れる。

 

「……泣ければ、なあ」

 

 少女は寂しげに言い、その命日に目を止める。

 二つ三つ瞬きをし、これは、と訝しげな声を発した。

 その二つの命日は同日となっている、望の命日のわずか数日後。

 

「そうだな……調べてみようか。どうせ時間は」

 

 そう言い、少女は自嘲にも見える乾いた笑みを浮かべた。

 

 ◆

 

 駒山と呼ばれる山を北に背負い、広く伸びる裾野とそれを横断するかのような久仁川、そして十字を描くようにそれと交差する山を源流とする酒見川。

 東西を流れる河川で北と南に別れ、おおむね南が発達し、北は土地が余っている。

 駒ケ岳市とはそんな日本のどこにでもあるような、片田舎と都市が合体しているような市だった。

 巳浦高校という公立学校は北側にある唯一の高校で、地元の生徒は特にこれといった理由がない限りここに進学する事が多い。近く、安く、設備も良く、特に進学率が悪いわけでもない。地方の公立高校としては及第点以上の学校ではあった。

 

 春も終わりに近づき、ソメイヨシノより遅咲きの八重桜もその花を散らす頃。

 花の香りは薄れ、来るべき夏に向かい、草木は我先にと枝葉を伸ばす。

 それとは正反対に、人は新年度の浮ついた気分も治まり、その反動か五月病とも言われる倦怠感に悩まされる季節でもあった。

 高校二年。大事な時期だ。子供から大人への転換期、おぼろげでも将来を見つめ、進路を決め、勉強、交友、あるいは年頃らしく恋心に揺られたりもする、とても忙しい時期だ。

 若芽が我先にと伸びるような一種の喧騒の中にあって、一人だけその中から取り残され、浮いている存在がいた。

 それも当然か。

 吉野イリスという少女はそう思い、自身が浮いているのを当然と思うのも多分本当は良くないのだろうな、と理性で考える。

 考えるが、やっぱり仕方がない事でもあるとは思うのだ。

 原因の一つに容姿はあるだろう、日本人離れをしている。かといって世界中のどこにも同じ特徴を持った人種は居ないだろうが、ぱっと見れば日本人が思い描く白人の姿だ。

 容姿だけで色々判断してしまう人は少ないようで多い。

 英語で話しかけられる事もあれば、街を歩けば日本へようこそなどと観光者扱いされる事も多々ある。

 イリスの英語能力なんてほぼゼロに近いというのにだ。

 もっとも、原因のうち半分以上を占めているのはきっとその性格だっただろう。

 小さな事を気に留めないのはいいが、それも程度問題だ。ささいなスレ違い、ちょっとしたニュアンスの違い、誤解があったと悟っても大した事ではないかと放置してしまう。その上女子達で作っているSNSのグループのようなコミュニケーションの場にも入らないのだから、それはもう小事を気に留めないのでなく、鈍感さと言っても良かったのだろう。

 そしてなにより一人で居る事に慣れすぎたのか、現状をそう悪くないと思ってしまうのが一番の問題であり――現状悪くないなら、それは問題ではないのだろう。

 イリスはそんな事をぐるぐると、漫然と考えながら、世界史の授業を受けていた。

 食後すぐの時間だということもあり、また今回、特集映像を流しているだけという事も手伝って睡魔に負けて舟をこいでいる生徒もいる。

 五人の賢帝の時代が終わり、六人目は賢帝にはなり得なかった。その辺りで切りが良しと見たのか、教師が映像を止める。賢帝が五代も続いたのか、五代しか続かなかったのか。

 

「敵……?」

 

 なのかな、とイリスは思った。

 六代目の皇帝は今まで戦い続けていた強大な敵を減らした。講和を行い、国と国の境を定め、財政を圧迫していた軍費を減らした。

 どうなるだろう? 余裕のできた貴族達は威勢を張り合い、贅を競い互いを謀り合う。

 皇帝が独裁に近い強権を奮っていた時代ならともかく、力ある権力者達の神輿に据えられているのなら――

 内心で笑った。

 彼女が大きな敵であった時、対峙していた国は一つにまとまり、紐帯が緩む事がなかった。

 彼女が敵でなくなると、国は分裂し、血で血を洗う動乱の時代が始まった。

 ふと馬鹿らしい気持ちになり、イリスは無意味にペンを回した。

 

 ◆

 

 太陽の高さも疲れたかのように下がり始め、まもなく西日が室内を染める。

 グラウンドでは野球部やサッカー部の掛け声が響き、奥のテニスコートでは何かトラブルでもあったのか数人が揉めていがみ合っていた。

 我関せずと陸上部の面々が黙々と走り、そんな人間たちを眼下に見下ろしあたかもお前たちは不自由だなと言わんばかりにツバメが行き交う。

 そんな放課後、やがて日が落ちるまでの短い時間がイリスは好きだった。

 ここのところ、もっぱらその時間を図書室で過ごす事が多い。

 姿形は整っている、所作さえ伴えば凛として美しいものを、椅子を引いて浅く座り、足を組んで本を読んでいる。いかにもだらしのない格好だ。

 図書室は借りていく人が主流なのか、室内で本を読んでいる者は少ない。

 静かな空間の中、ぱらりとページを捲る音、ノートに何ぞやを書く音が僅かに響く。

 一冊を読み終えたのか、イリスは本を閉じ、テーブルに置くと強ばった体をほぐすように体を伸ばした。

 

「ふむ」

 

 と満足げな吐息を一つ。

 椅子から立ち上がると、本を手に本棚に戻しに行く。

 

「ライトノベルがこんな流行ってるなんてなー」

 

 つぶやきながら文庫を元の場所に戻した。

 表紙の絵は何やら肌色の多いデフォルメ美少女が剣を構えている。

 続きの巻を引き出し、何とはなしに表紙を見ると、細身の金髪エルフの美少女が鎖に絡め取られ、かなり際どい格好で際どいポーズをしていた。

 イリスの顔が、まるでアイスクリームと思って食べたら梅干しの味がしたかのように渋い顔になった。

 次いで周囲を見回し、本棚の影になっている事を確かめると、こそこそとその場で座り込み、表紙にあった絵と同じような体勢をとる。

 

「両腕に鎖……となるとこんな感じか、真上で持ち上げられると肩外れるんだよねえ」

 

 絵と立体は違う、なんとか苦労しながらも似たようなポーズを取ると、ふむ、と一つ頷いた。

 

「……何やってんだろう私は」

 

 何でもないかのように立ち上がり、呟いた。馬鹿な事をしたと思っているのか顔が赤らんでいる。

 イリスは窓を覗き、映った自分の頬が赤い事を見て取ると、ぶんぶんと顔を振った。

 むう、と小さく呻き、次いでおっと声を上げる。

 窓の外、校門を出る生徒の中に知った顔があった。クラスメイトだ。ひどく慌てているようだった。

 

直人(なおと)め、あいつまた断れなかったな」

 

 スポーツバックの中には空手着が入っているのだろう、小学生になった頃からやっている空手だ、高校に入ってからはアルバイトを優先して道場にもあまり行かなくなったらしい。腕前は確かなようで、弱小と言われている空手部の助っ人でちょこちょこと手伝わされているようだった。

 

「今年の一年が六人も入ってきたんだっけ」

 

 頼みの三年が卒業して、空手部が存続できるぎりぎりの人数である五名に落ち込んでしまった事を考えればいきなり人数が倍だ。それはもう後輩に教えるだけでも大わらわかもしれない。

 

「くく、お人好しめ」

 

 そのコケティッシュと言っても良い容姿とは裏腹に彼女は女王のごとく笑い、腰の高さまである本棚に行儀悪く尻を乗せ、窓から外を見続けた。

 

 ◆

 

 金曜日の夜は酔っ払いの姿が多い。

 巳浦駅周辺は駒ケ岳市北部では一番発展している場所だ。というよりも駅周辺以外は農村や果樹園、畜舎や観光施設があるくらいで、数年前に地価の安さから大規模なショッピングモールが立てられるという噂が流れ、結局噂のままになっている。

 年ごとに様相を変える飲み屋街、テレビで見る都心部とはまったく違う。時代に取り残されたまま生きているような、そんな気分になり、それはそれで良いものなのかもしれないと、葉山直人という少年は朴訥な感想を抱いた。

 彼の仕事は週末にパーッと遊ぶつもりのサラリーマンを良い気分にさせ、高カロリーで塩分過多の食事をとらせる店にその主役を届ける仕事だ。平たくいえば酒屋のアルバイトであり、倉庫と軽トラックと居酒屋で荷物の上げ下げをする簡単な肉体労働者だった。

 ちなみに求人時の謳い文句は誰にでもできる簡単な仕事です、アットホームで楽しい人間関係です、だった。後者は当たっていたが前者は大外れだ。直人のような割と長い期間体を鍛えてるようなタイプでないと三日と保たない。相方の運転手が腰を壊していて、荷運びは結局一人でやることになるのだ。

 もっとも、これはこれで筋トレになるから良いかと考えてしまうあたり、ある意味適材適所ではあったかもしれない。

 彼の家は駅からは随分離れている、老朽化した古民家を買い、両親が自分の手で改装した家だ。壁一つとっても誰かの手触りを感じる事ができ、直人自身は気に入っていたが、その立地にはたまに文句をつけたい時もあった。

 

「やっぱ自転車買うかなあ」

 

 今更な言葉が口から漏れる。

 結局さほど必要でもないと感じて買わないのだ。

 直人は顔を上げた。五月の夜。涼しく、寒すぎはしない気持ちよい季節だ。

 目の端にふわりと揺れる金色、否、それよりも眩い色が入ってきた。

 視線を誘われ見ると、こんな繁華街には似合わない姿がある。

 美しい少女だった。

 陳腐な言葉こそが最も似合う、そんな姿だ。誰もが幼い時に思う、お城の姫様、あるいは悲劇にこそ似合いなヒロイン。そんな儚さが形になって表に出たような姿だった。

 直人はそんなふと湧いた一瞬の馬鹿らしい思いを頭を振って追い払う。どうかしている、と思った。

 そして数秒遅れて思い出す。思い出して自身の間抜けさに笑ってしまった。同級生だ、クラスメイトでその容姿から結構目立つ存在だった。付き合いのある友人も話題にしていて確か――

 

「吉野イリス?」

 

 こんな時間に、と思う。10時を過ぎ、そんな目立つ容姿で繁華街の一人歩きは危ないという思いもある。

 ストーキングとどう違うのだろうという思いを懐きつつ、直人は気になるがままにその後を追いかけていった。

 路地を曲がり、曲がり、曲がる。

 イリスの足取りは茫として掴めない、規則性もなく誘われたようにふらふらと角を曲がる。

 本当にどこに行くつもりなのだろう、そう直人が思った頃だった。

 角を曲がった途端姿が無くなった。

 

「……あれ?」

 

 どこかに行った場所があるかと思い視線を巡らせるもあいにく路地の一本道、曲がる場所はない。

 

「誰かと思えば」

 

 唐突に背後に出現したようだった。

 背中から声がかけられる。

 驚きながら振り向くと、直人が先程まで追っていたはずの少女がいた。

 

「やあ、こんばんわ。良い夜だね、葉山君」

 

 そう言い、少女は好意的としか思えない笑みを浮かべた。

 直人は頭を振った。昔読んだ吸血鬼カーミラを連想したからだ、それくらい少女と夜は似合っていた。

 

「あ、ああ、こんばんわ」

 

 そんなありきたりな挨拶をする。少女は直人の動揺を見透かすように、あるいはまったく気に留めぬように先を歩いた。

 釣られたように歩く直人にイリスは話しかける。

 

「女からすると追ってくれる男は貴重だけど、無言でただ追いかけるのは感心できないな、女の子を怖がらせてしまうと思うよ?」

 

 うぐ、と言葉に詰まる直人。

 色々と考え、言い訳を何通りか考えた末――

 

「見覚えのあるのがこんな時間一人でフラフラしてるんで気になって」

 

 イリスは小さく笑った。

 

「心配になってとかは言わないんだね」

 

 直人は困惑した様子で後ろ髪を掻いた。

 

「リアクションに困るよまじで」

 

 イリスは妙に楽しげな様子で手をひらひらと振った。

 信じなくても良いんだけど、と言う。

 

「この先悪いものが凝り固まってる、最近特に増えてきたんだけどね」

 

 直人は首を傾げた。オカルトの話だろうかと思う、同世代の少女たちがそういうのが好きなのはさすがに知っている。あるいはそれにかぶれているのかと。

 少女は頓着せずに歩き出した、直人はどうしようかと逡巡する。去年はクラスが違ったし、今年に入ってからも特に親しくしているわけでもない。迷っているとイリスが振り向いた。

 

「来ないのかい? やっぱり後ろからこっそりついてくるのが趣味だった?」

 

 んなわけあるか、と直人は走り寄る。

 横に並んで歩き出すとイリスは何が面白いのか、ふふと小さく笑った。

 最近のあの教師はどうだの、ネットで有名な誰それの話だのと他愛ない事を言いながら、夜歩きを続けていると、やがて路地裏の突き当りに出た。

 幅が二メートルあるかないかの薄暗い場所だ。通りから入る明かりがわずかばかり照らしている。どこかのビルの勝手口にあたるものなのか、簡易な下水溝と生ゴミを集めておくポリバケツがいくつも置いてあり、掃除などはろくにされないのか、目に染みるような()えた臭いが漂っていた。

 直人は顔をしかめる。

 

「ひでー臭いだ。悪いものってか普通に体に悪そうな場所だなあ」

 

 傍らの少女はその臭いにも動じないようで、んー、と迷うように口の中で声を出し、首を傾げた。

 地面にこびりついた得体の知れない汚物も気にせず踏み潰し、歩き出す。

 

「ここかな?」

 

 そう言い、躊躇もせずポリバケツの蓋を開け、両手を突っ込むと、夜目にはボロ雑巾のようにも見えるものを取り出し、抱え上げた。そのシルエットが不意にびくりと引きつるように動き、直人はようやくそれが動物だと認識する。

 

「おいおい……」

 

 言葉にならず、とりあえず確認しようと直人は近づこうとし、少女に身振りで止められた。

 

「明かりはあるかな?」

「お、おう、ちょっと待て」

 

 イリスは得体の知れないものを抱え込んだまま振り返り、スマートフォンの電灯を付けた直人の近くに寄る。

 

「こりゃひでえな」

 

 ()()を照らした瞬間、直人は唇を歪め、呻くように言った。

 抱えられているのは犬だった。大きさは小型の中型犬と言ったところだろうか、直人より頭一つ小さいイリスが両手で抱えられるほどなのだから。

 

「……生きてるのか?」

「うん、でももうすぐ死ぬ」

 

 照らされた犬の状態は酷いものだった。

 野良犬なのだろう、毛並みはところどころが禿げ、血や油でべたりと固まっている。眼球は無く、顎は潰れてそのわずかな空隙から擦過音のような呻きを発していた。

 

「交通事故……かな」

「んー、改造エアガン、だいぶいたぶってるね、穴だらけだ。それと棒かバットみたいなのかな。致命傷になってるのは多分顔より内臓破裂」

 

 な、と直人は絶句した。場違いなまでに冷静な少女に対してか、悲惨な暴力に晒された様子の動物にか、自身でも判断がつかない。

 力をうしなっているはずの犬がわずかにみじろぎをした。首を上げ、ひゅうひゅうと声を出そうとする。

 イリスは制服が汚れるのをまったく気にかけない様子で、犬を抱きしめ、耳元で囁いた。

 

「よくやった、お前はよく生きた。よくやった」

 

 ゆっくりと、赤子を寝かしつける子守唄のような調子で。

 尾がぴくりと動こうとし、そして動かなかった。

 

「死んだ」

 

 イリスは端的に事実を言い、抱えたままの犬をぽんぽんと叩く。

 

「人でも犬でも死ぬ間際は体温が欲しいものだからね」

 

 独り言のように言い、指をくるりと回して日本語ではない短い単語をつぶやいた。

 不思議そうに見る直人に、おまじないだよ、ちょっとしたねと言う。

 妙に現実味を欠いた空気に飲まれそうになり、直人は首を振った。

 スマートフォンを置き、まだイリスが抱えている犬の死体に向かい手を合わせ、数秒瞑目すると、向かい合う少女に声をかける。

 

「……えーと、ともかくあれだ。保健所とか役場に連絡して引き取って貰おうか」

「順当だけどね、葉山君、今日は何曜日か言ってみようか」

「……ああ」

 

 金曜日だった。それもそろそろ終電が出そうな時間帯だ。当然ながら業務はやっていないし、土曜も日曜も閉庁している。

 

「この時期だしね、二日も置いておくと結構酷いことになる。空気の良いところにでも埋めてやるか」

 

 そう言い、イリスは歩き出す。

 おいおい、とつぶやき直人もその後を追いかけた。

 横に並ぶと、少女はふふと小さく笑い、言う。

 

「夜歩きを案じてくれるのは嬉しいけどね、そこまで付き合ってくれなくても大丈夫だよ。そろそろ帰らないと家族が心配するんじゃないかい?」

「それを言うなら吉野さんもだろ、それに流れとはいえここまで付き合ったんだ、最後までやるさ」

「うん? 動物の遺体を勝手にそこらに埋めるのは確か罪に問われるはずだけど、共犯者になってくれるんだ」

「……マジで?」

「手元のピコピコで検索してみるといいよ」

 

 ピコピコってあんた、と言いつつ直人はスマートフォンを取り出すが、画面を見て、再び懐にしまう。どうもバッテリー残量があまりに心許ないようだった。

 

「いいやもう、あれだ。毒を喰らわば」

「ザラメ」

「皿までな、何で甘々になってんだよ」

 

 ふと笑うイリス。

 

「遠慮が無くなってきたな、その方が私も気持ちが良い。そのままで居て欲しいな」

「俺、今日一日で吉野さんの印象ものすごい変わっちまったんだが」

「お、興味深い、どんな風に見ていたのかな?」

「物静かでぼ……孤高というかな」

「素直にボッチって言ってくれて良いんだよ?」

 

 少女はそういう事にまったく頓着しないようだった。

 これはむしろ、色々ずれているというか、天然に近いのだろうかとも直人は思う。

 イリスが先導する形で繁華街を抜け、西側の田畑が多い方に歩いてゆく。

 高い建物というものもあまりない、二階建ての民家がせいぜいというところだった。街灯もカーブの場所にぽつぽつとあるぐらいで、月の見えない夜などは真っ暗になってしまうに違いない。

 歩道のフチにある防護柵、その途切れている部分から土が剥き出しの農道につながっており、イリスはその斜面を降りて行った。

 手を広げれば足りてしまうほど狭い道の両側面は畑となっているようだった。明かりは月明かりしかないものの、フキの葉が所狭しと広がり、夜風に揺れ、葉の触れ合う音がざあざあとざわめいているようだった。

 そこにラジオのノイズのごときケラの鳴き声も加わって、一層騒がしい事になる。

 

「もう少し行くとお米作ってるから、そろそろ田植えが始まってカエルの声も聞こえるようになってくるだろうね」

 

 イリスは畑の騒がしさを楽しむように言った。

 

「あーカエルの合唱か、そんな時期だよな。うちの方は田んぼが無いからあまり馴染みはないんだけどさ」

「あの辺りは山の斜面っていうのもあるけど、水を引くのが大変で昔から麦とか蕎麦を育ててたらしいよ」

 

 さりげなく返された返答に、直人はなるほど、と頷き、数秒後ふと不思議に思った。

 

「吉野さん、うち知ってたのか?」

 

 イリスは一瞬止まり、頬を掻いた。わずかな月の明かりの中ではそれを直人が確認する事はできなかったが。

 

「まあ、ね。ここに来た時、市内をあちこち周ってたから」

「あー、うちの家、変な意味で目立つもんな、ボロかったろ? あれでも内装は結構しっかりしてるんだぜ」

 

 直人は自分の家の外観を思い浮かべる。自分ではすっかり慣れてしまっているが、確かにあれは目立つだろうと。

 古い造りだ、昔からあった農家の家を買い取り、父と母が素人大工で直したものだった。壁の漆喰などはぼこぼこに歪んでいるし、長年の使用で傷んだ木を丈夫さだけで選んだ木に変えていたりするので、色の協調などあったものでなく、パッチワークのようになってしまっている。屋根瓦だって同じような状態だ。

 

「暖かそうな家だと思ったけどね、和風の家は憧れるものがあるよ」

 

 直人はその容姿から、何となく和風文化をエキゾチックだと喜ぶ西欧人を頭に描いてしまったが、確かイリスは英語は喋れないと言われていたような覚えがあった。見た目はともかく日本育ちなのだと。ならば言葉の通りの意味なのだろう。

 

「私の家なんてさ、ほら、こんなに無粋だよ」

 

 畑に囲まれ、埋没するように事務所のような四角い平屋の建物がぽんと無造作に建っていた。

 建物の周囲はそれなりに土地が整地されているようで、砕石が敷かれ、庭木が数本植わっているのが見える。畑との境界らしき場所は土が固められ、トラクターでも通ったのか大きなタイヤ跡が残されていた。

 

「なんというか、凄いとこ住んでんなあ……」

「あはは、何でもこの辺の地主さん、息子さんが結婚して住むっていうんで宅地転用して色々整備してたところで浮気が発覚、話が流れちゃったみたいでね。浮いた形になったここを貸してもらったんだ」

 

 イリスはちょっと道具を持ってくるよ、と言い、抱えていた犬の死体を下ろす。

 無骨な家の明かりが付き、やがて、五分も経たないうちに少女が荷物を持って表に出てきた。

 少女の背丈からすれば大きくも見えてしまうスコップを直人に預け、一緒に持ってきたタオルで犬の死体を包み、抱え上げた。それとこれをと懐中電灯を直人に渡し、自分でもペンライトを点ける。

 懐中電灯を点けると、暗さに慣らされていたためか、眩しく感じ、直人は目を細めた。

 

「んじゃ行こうか。あ、汚れるかもだしバッグはうち置いておこうか?」

「あー、いいよいいよ、大したもん入ってるわけじゃないし、大体汚れって言うなら今の吉野さんの格好の方がヤバイと思うぞ」

 

 犬を下ろした時に見えていた、血と毛が服に染み、それは酷い事になっていたのだ。

 巳浦高校の制服は他校とそう代わり映えのするものではない。ブラウスにチェックのスカート、そしてブレザー。暖かくなってくればベストに代わる。最近は暖かいからか、イリスの上着は後者だった。ベージュのベストにその下の白地も赤黒く汚れ、警察に見つかったら事情聴取は間違いない格好だった。

 

「ん……まあ、このぐらいだったら染み抜きして洗えば綺麗になるんじゃないかな」

「それ以前に家族にバレなかったのかよ、そんな派手な格好で」

「お父さんは自由人過ぎてあちこちに旅してるのが常でね、家に居る事はほとんどないよ。基本私一人なんだ」

「おいおい一人暮らし状態って……女一人で危なくね?」

 

 直人の言葉に何か感じるものがあったのか、イリスは目を大きく開いた。

 そしてほのかに笑い、歩き出す。

 後をついて行く直人からは夜闇にゆらゆら舞うような金色の髪が目に残った。

 

 酒見川から取水され再び合流する用水路、双子岩用水というらしい。その合流地付近はこんもりと小高い丘が有り、手入れのされない木々が茂り、小さな原生林化していた。

 日の差す時間帯ですら薄暗いに違いない場所だ。月が真上に上る深夜ともなれば光も届かない。人の踏み入る道もなく、シダや苔が岩や木の幹に纏い付くように密生している。わざわざこんな場所に来るとすればよほどのもの好きだけだっただろう。

 そんな場所をひょいひょいと、道筋を考えている様子も見せないのに迷いなく進む少女の背中を見ながら、直人は本当ナニモンなんだろうなあと思いつつ後をついて歩いていた。

 流れで来てしまったが、とても訳の分からない事になっているのは確かだ、と。

 それでも別に嫌な気分になるわけでもなく、むしろどこか小さな冒険を楽しむような、弾むような心持ちになってしまっているのもまた確かな事だった。

 

「あ、そこの木のウロ、蛇が寝てるからあまり近づかないでおいてね」

「……おう、というかすげーな、なんで分かるんだよ」

「むしろこういうとこ庭だし」

「なんつー手入れされてない庭なんだ」

「自然のままが良いんだ」

 

 こういうのは困りものだけどね、と枝から指で何かをつまみ上げ、ぽいと近くの茂みに放る。

 

「何かいたか?」

「ん、ムカデ。噛まれないようにキャッチアンドリリースするのは上級技だから君は真似しちゃ駄目だよ」

「……アレを平気でつまむとか」

「男のアレに比べれば幾分かかわいいかな」

 

 唐突な下ネタに直人はむせた。

 

「さらっとそういうネタをかますのは勘弁してくれ」

「ドロっとかました方が君好みだった?」

 

 見た目が綺麗なだけに非常に残念感がぬぐえない。

 ただこの精神的に随分タフらしい少女なら男のアレぐらいは性的な意味でなくいじって遊んでしまいそうでもある。

 本当に随分と見方が変わってしまった、と直人はため息を吐いた。

 クラスどころかおそらく学校で一番の高嶺の花、容姿は天使、理知的で物静かでミステリアス。所作は優美にしてコケティッシュ、孤立というより近寄りがたい。そう評していた吉野イリスの熱心なファンである友人。直人はそいつの耳に色々聞かせてやりたくなった。

 

「……っと、この辺でいいかな」

 

 ふと先導していた少女が止まる。

 そこは大きな木に囲まれて小さな空間が出来ているような場所だった。堆積した落ち葉がそのまま土になっているようだ。虫の音に混じり、水の流れる音もわずかに聞こえた。

 掘る穴は浅すぎず深すぎず、犬の大きさがさほどでもないため、そう時間がかかるものではなかった。

 タオルに包んだままの亡骸を横たえ、掘り出した土をかけて行く。膨らみ、土饅頭のようになった場所を見て、直人は一仕事終えた気分になり、息をついた。

 イリスは何やら周りの草をむしり集めていた。それを力を込めて握りしめ、潰している。水が垂れ、手の中にはくしゃくしゃに潰れた葉が残った。

 

「なんだそりゃ?」

 

 直人が聞くとヨモギ、と答える。スカートのポケットからライターを取り出すと、くしゃくしゃの葉に火を着けた。水分がまだ多いのか、煙ばかりが出る。お灸でもしているかのような臭いが鼻を付くようだった。

 煙を上らせるヨモギの葉をこんもりとした土の上に乗せ、これで良いかとでも言うように少女は頷く。

 

「焼香みたいなものだよ。形式には違いないけど、人は昔っから香りで死者を送ってきたからね」

 

 ヨモギからはもう煙も出ていない、多少着いた火もくすぶり消えてしまったようだった。

 

 ◆

 

「なあ、悪いものって何だ?」

 

 帰りがけ、直人は何となく気になっていた事を聞いてみた。占いや怪奇話は年頃の女性たちの大好物だ、その手のものと思って流していたが、実際に半死の犬がいた。偶然とかたまたまで片付けられるのならば片付けたいところだが、多分違うのだろう。少女は知っていたかのように迷わなかった。

 

「うん? あー。君がそういうのに興味があるとは思わなかったよ」

 

 イリスは向き直り、緑にも青にも見える瞳で直人を見る。そしてどう話そうかと考えるように、その視線が宙を揺らいだ。

 

「生き物の苦しみってのは場に影響を与えやすいんだ。特にああいった抜け場のない、流れのない場所だとそういうのが溜まったりしやすくて、それだけで呪いになっちゃう。それが『悪いもの』だよ。平たい言い方で悪霊とかだよね」

 

 と言っても普通はそんな風にはならない、と続ける。

 

「多少澱んだり溜まったりしても、よっぽどの時間が経つとかしなければね。ただここのところ、場の力が強すぎてあっさりと悪いものが出来かねない」

「んー、その悪いものってか悪霊って生まれるとよっぽど酷い事になるのか?」

 

 どうだろうね、とイリスは笑う。

 

「影響された人が暗い気持ちになったりとか、変な幻聴聞いたりするくらいかな。交通事故の方がずっと怖いよ」

 

 あまり大した事がなさそうだった。

 直人は拍子抜けし、なんだかなあとつぶやく。

 

「悪霊っつうくらいだから人に取り憑いてやばい事になるとか、災害起こしてくるとか」

「世の中広いしそういうのもあるかもしれないけど、この手のものって大体地味だからね」

「あー、しかし、それじゃあ吉野さんは、何でそこまでして何とかしようとしてるんだ?」

 

 少女はつかの間考える素振りを見せ、人差し指で顎をとんとん叩き、悪戯げな笑みを浮かべて言った。

 

「名前で呼んだら教えてあげよう、私は苗字より名前の方が好きなんだ」

「ぬ……」

 

 直人は妙な呻きを発して黙り込んだ。確かに今日は色々あった。半歩非日常に足を突っ込んだような不思議な気もしている。ただそれを除けば、昨日までは特に接点もなかった少女なわけで、いきなり名前を呼ぶというのは良いのだろうか。しかし日本的な名前ではないし、むしろこの場合名前呼びの方が自然なのだろうか。

 数秒葛藤が続き、やがて緊張が抜けない様子で少女から視線をそらしながら、名前を呼ぶ。

 イリスは笑い、頷いた。

 

「大した理由じゃないよ、私がそういう悪いものを嫌いだからね。やりたいからやってるだけなんだ」

「……そうか。んー、まあなんかまだ半信半疑っていうかさ」

「当たり前だよ、それでいい。こんな話を鵜呑みにされたって困るからね。とはいえ、君にまったくスルーされるというのもそれはそれで業腹だけど」

「……ごうはら?」

 

 会話ではあまり使われない言葉に直人の頭に疑問符が浮かぶ。

 そうこうしている間にイリスの家の前までたどり着いていたようだった。

 

「すっかり手伝ってもらっちゃったね、今日はありがとう」

 

 直人からスコップを渡してもらいながらイリスは言った。

 ふむ、と小さく首を傾げる。

 

「せっかくだから少し上がって行くかい? 私の生着替えぐらいなら見せてあげるよ」

 

 不意打ちに直人はまたもむせた。

 

「……だからそういうのをさらりと混ぜるのをやめてくれと」

「うん、すまない。あまりに反応が良いのでつい。もっとも、手伝ってくれたのだしお茶の一つも出したかったけど、これ以上帰りが遅くなるというのも良くないか」

「手伝ったって言っても大した事してないけどな。一応これでも体は鍛えてる方だからさ、あー、なんだ、今日みたいな力仕事でもありそうな時は呼んでくれてもいいぞ」

 

 若干の照れを隠しながら直人が言うと、イリスはなぜか安堵を含んだ、ひどく優しげな笑みを浮かべた。

 直人はその表情に思わず見いる。

 複雑なものを含んだ笑みは一秒にも満たぬ間に消えていた。今日、何度か浮かべた()()()笑みを見せて言う。

 

「いや、今日みたいなのはさすがに稀だよ、そう頻繁にある事じゃない」

 

 ただ、その気持は嬉しいな、と続けた。

 

「君が困らない程度に頼む事もあるかもしれない。その時は、よろしく頼むよ直人(なお)

「お、おお。えっと、な、名前知ってたのか」

 

 直人は動揺を完全には隠せなかった。接点の無かったはずのクラスメイトが自分のフルネームを覚えている事に、そして随分呼ばれた事のないあだ名を呼ばれた事にも。

 

「うん、『なおと』だから短くして『なお』だ。安直だけど呼びやすい……嫌だったかな?」

「あ、いや……別に嫌ってわけじゃない」

「うん、なら良かった」

 

 ほっとした顔を見せ、笑った。

 おやすみ、気をつけて、などとありきたりな挨拶を交わし、直人は帰路につく。

 冷たい夜風が妙に気持ちよく感じ、半月を描く月を見上げた。

 この出会いが良いものか悪いものかはまだ分からない。ただ一つだけはっきりと分かるのは、今日という時間が得難いものだったという事だ。

 直人はまだくすぶっているような昂揚のようなものを感じ、夜空に大きく息を吐く。

 よし、と声を出し、三キロほど離れた家まで走って帰る事に決めた。



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二話

 週明けの月曜日、この気だるさをどう表現したら良いだろう。

 早朝、とは言えない。一月も待たずに梅雨に入るこの時期だ、すでに日の入りは遅く、日の出は早い。ここの所の先取りしたとしか思えない暖かさ、否、これはもう暑さだろう。学校に登校する生徒たちもどこかげんなりとした表情だ。

 葉山直人という少年もまた、その中に混じり、疲れたような、重たげな息を吐いていた。

 

「よおおおおおおおっッス!」

 

 突如。

 ドバン、とすさまじい勢いで背中を叩かれ直人は悶絶した。

 

「……づぅ、うおぉ、道長ァ。てめぇええ」

 

 直人はホラー映画のゾンビか何かが蠢くように不自然な動きでぎしぎしと向き合い、恨みの目で睨む。

 道長と呼ばれた少年は垂れ目気味の目をにっこりと細めて笑った。

 

「んははは、その調子だとやっぱ師範にこってりやられてたな?」

「その通りだよ畜生! なんなんだよあの変態は、昨日は変な投技ばかりかけられて、聞いたら柔術の渋沢流もやっていた事があるとか言って、昔疑問に思わなかったのが運の尽きだ」

「あー、俺の聞いた話じゃボクシングとムエタイにカラリパヤットもやった事あるって」

 

 雑食過ぎる。直人は口の端をひきつらせ、低い呻きをあげた。

 幼い頃から通っている伝統派空手の道場だった。

 病んだ父がのこした遺言。遺言というよりただ子供にわかりやすいように道筋を示したかったのだろう。

 迷いに迷って結局『男の子なんだから強くなって家族を守れ』などという何番煎じだか分からないくらいよくある言葉になってしまったのは、後に母が苦笑していたところでもあった。あの人は考えすぎてありきたりな言葉に落ち着いてしまう、プロポーズだってそうだった、と。

 そんなありきたりだけど、しっかり頭を悩ませてくれた言葉に従って、直人は父が亡くなった次の月からは近所の小さな空手道場の門戸を叩いていた。その選択自体は間違ってなかったと今でも直人は思っている。体は丈夫になり、人並み以上の体力はできた。余裕のある家庭ではなかったため浮いていた時期もあったが、いじめだのと言った陰湿な事からは無縁でいられた。後から入ってきた目の前の同級生と知り合えた、というのもぎりぎり後悔はしていない。

 ただ――

 

「ほんとあの師範はどうにかならないのか……」

「無理だなー、あれは筋金入りだ。真面目な葉山の事はお気に入りだし、将来的に総合デビューするまで離さねーんじゃね?」

「そんな博打みたいな世界は勘弁してくれ、運送とか引っ越し業界で十分だから」

「枯れてんねえー、その気が無いなら俺みたいに辞めちゃえばいいのに」

 

 自由な時間はいいぞ、フリーダム万歳イエヤァ、などと言ってバッグを宙に放り、キャッチする。

 お前は色々自由すぎる、と直人は内心でつぶやく。

 三国道長、変わった苗字と時代がかった名前のこの友人は普段から『好きな事を好きなだけやりたい』と言っている通り、本当に好き放題に生きている。女の子が好きで、運動が好きで、アニメが好きで、ミリタリーが好きと、とにかく節操がない。空手のように飽きればさっさと辞めてしまうのだが、移り気が激しいのかと思いきやずっと続けている趣味も有り、単純にそうとも言えない。直人には理解しがたい部分の多い友人だったが、かえってそれが良いのかもしれなかった。

 

「んー、プロとかに興味無いのは確かだけど完全に辞めるってのは違うだろ」

「そうしてズルズルと空手の復権を目指す師範の生贄に……」

「怖いこと言わないでくれ……って叩くな!」

 

 直人は筋肉痛に痛む体を面白がっていじろうとする悪友から距離を取り、それはそれとして、アルバイトで時間を十分に取れない現状があり、そろそろ考えなくてはならないのかなと、漠然と思った。

 

 ◆

 

 変わり映えのないいつも通りの授業の時間が過ぎ、集中力もぽつぽつと続かなくなってきた生徒たちが増えた頃、数学の教師が、少し早いが、と授業を切り上げた。

 購買のパンと弁当は早いもの勝ちだ、人気のあるものは昼休み開始10分で売り切れてしまう。わずか数分の切り上げであってもこれを喜ぶ者は多く、露骨にガッツポーズを決めている者もいた。

 昼休みの時間、特に決まったルールは無いため、それぞれ思い思いの過ごし方をしている。教室で食事を取るのは大体半数くらいだろうか。椅子は半ば自由席のようになり、仲の良い者たちで集まり、多いと七人も八人も集まって話に興じる姿もよく見かける姿だった。

 直人の席は窓際の奥だ、周囲の席は昼休み中ほぼ空くため、いわば昼休みのたまり場として重宝され、このしばらくのところ友人達は直人の机の周りに集まるようになっている。

 

「よっし、俺も買いに行ってくるわ。なんか欲しいものあんならパシられてやんよ?」

 

 道長が軽い調子で言う。小柄な、見方によっては女性とも見えてしまうような中性的な容姿の少年がぱちんと指を弾く。

 

「マスター、いつものを二つ」

「かしこまりました、食パン二つでよろしゅうございますね」

「構わないよ、一ヶ月後、よく熟成されて青くなった食パン二つが衆人環視の中、道長の机から出てくる事になる」

「エグい! この子エグいよ!」

「というわけでカレーパン二つ」

 

 いつものじゃねーし! とオーバーな動きで頭を抱える道長。

 やがて脱力したように身を起こすと、直人と、その斜めに座る少女に目をやり、二人はどーする? と声をかけた。

 直人は無言でホイルの包みを持ち上げ、少女も大丈夫と答えた。

 道長はほいほい、と奇妙な返事を返し、軽い足取りで教室を出る。

 直人は斜め右と左に座る二人を見て、こいつらとも長いなとふと思う。

 岩木なんて苗字は普通だが飛鳥(あすか)というこれまた別の意味で時代がかった名前の少年、私服で歩くとよく性別を間違えられ、またそれを意図的に使って人を煙に巻く。変わり者といえば道長と同じくらいに変わり者だ。

 そして夏希、佐藤夏希という少女とはいつの間にか、本当にいつの間にか親しくなっていた。長身、そこらのグラビアモデル顔負けの体型に、可愛いというより美しいとも言える顔、その明るさとコロコロ変わる表情が無ければ冷たいとすら言われていたかもしれない。

 二人とも直人が中学時代からの友人だ。普通科が四クラスあるこの学校ではクラス替えがある。一年次はバラけた四人だったがどういう偶然か二年次は一緒になっていた。それぞれ別口の友人があるにせよ、昼休みはこうして何となく昔なじみで集まる事が多くなっていた。

 

「しかしなあ、直人ンもとうとう色気付くようになったか。なっちんという者がありながら」

 

 道長が購買から戻るのを待ち、昼食を食べ始めた所で早速といったように道長がサンドイッチを齧りながら飛ばしてきた。

 直人は自分で作った握り飯を口の中に入れた所で止まり、何を言っているんだこいつ、と言いたそうな目で見る。

 

「そうそう僕というものがありながら浮気なんて」

 

 飛鳥がカレーパンを口に放り込みながら続き、直人はとうとう頭が腐ってきたのかと言いたげな憐憫の目で見た。

 

「授業中、あれだけ吉野さんの方気にしていればねー。綺麗だから分かるけど」

 

 夏希が弁当のミニトマトにフォークを刺そうとし、逃げられては刺そうとし、また逃げられながら言った。

 直人は二つほどまばたきをすると、口の中のものを飲み下し、ついでに水筒の緑茶を飲む。水出しの緑茶は時間が経っても渋みが立たずに旨い。そんな事を思いつつ口内をすっきりとさせる。そして一つ頷いた。

 

「全然気にしてないぞ」

「ダウト」

 

 男二人が同時に言う。

 道長は続けて指を直人に向け、くいくいと振った。

 

「だがね君、彼女にアプローチをかけるつもりなら非公式ファンクラブ一番の僕に話を通してからにしてくれたまえ」

「一人しかいないファンクラブね」

「まー本当に作ろうと思えば作れそうだけどな。人気自体は結構高いんだぜ、男人気だけど」

「それは分かるよ、何というか普通の綺麗さじゃなくて……うーん、触ったら壊れそうな脆さというかそういうのがあるよね、歩く姿とかピンと決まってるし、お嬢様臭というかお姫様っぽいというか」

 

 直人は頭の中でイリスが蛇の尻尾をもってぐるんぐるん振り回す姿を想像し、そして全く違和感無く想像できてしまう事に内心ため息を吐く。世の中には知らないなら知らないでまあ幸せな事もあった。

 男二人がやいのやいのと言い合っていると、夏希が無念そうに口を出す。

 

「ぐぅー、海外の血は強い、おのれぇあたしにも血筋をぉ、ハーフになりたいー」

「いやいやなっちん、学校で一番日本人離れしたボディ持ってるやん、というか吉野さんより圧倒的に攻撃力高いだろ、ふじこプラス10」

「やめてそのあだ名まじでやめて、情報暴露というか公開処刑だからやめてほんと」

「98、65、98」

 

 うわああああ、と大声で道長の声を夏希は遮りにかかった。

 結局話はわきに逸れ、ぐだついた話のまま四人は食事を終えた。

 それを見計らったかのように、飛鳥は牛乳を一口飲むと、いかにも意地の悪そうな顔になり内緒話でもするように机に肘をつき、声を潜めて言った。

 

「まあ大きな声で言えないけどさ、彼女には悪い噂も結構あったりするんだよ」

「……ま、マジで? おいおい、どういうのだよというかこんな所で話して大丈夫なんかィ?」

 

 道長が少し慌てた様子で周囲を見る。教室は食事の後に出ていった人もいて、随分人数は減っている。

 飛鳥はひょいと肩をすくめた。

 

「こういうのは誰にも見えないところでヒソヒソやった方が逆に気持ち悪いだろうさ、ただの噂話もそれやると陰口になっちゃうからね」

「ん、おぉ……おお? なんか丸め込まれたような」

「気のせい気のせい、それに噂自体は女子の中から出てきたものっぽいし、こういうのだと大体九割根も葉もないんだよね」

 

 あー、と少し納得したような声を出した夏希に視線が集まる。夏希はしょうもないとでも言いたげにふっと天井を見、話した。

 

「聞いた事あるなーと思って。彼女SNSのクラスグループにも入らないし、お昼休みとか放課後はすぐ居なくなっちゃうからね」

 

 良い的になってるというかね、そう言いもごもご口を濁す。

 

「要するにイジメみたいなもんか?」

 

 直人が端的に言った。

 飛鳥はにやりと笑い、多分ね、と片目で一つウインクを送る。直人は精神的にげんなりとした。

 

売春(ウリ)をやってるんだってさ、一回諭吉一人っていう激安特価で」

「うわぁ……女子えっぐいなあ」

 

 道長はそう感想を漏らす、夏希は視線をそらし、言った。

 

「そういうの一部だから、きっと、うん、絶対多分」

「絶対多分ってもうわけわかんねえな」

 

 直人が言うと、夏希は逆側に目をそらした。

 飛鳥はあまり意味もなく小首を傾げ、顎に指を当て笑みを作った。

 

「なっちゃん割と当たり。僕が聞き出した感じだと噂の出どこはお隣のクラスのちょっと面倒臭いグループかな」

「相変わらずお前ってやたら女子から警戒されないよな」

「いいっしょ? ただみっちーには無理かな、そういうノリ解んなさそうだし、相手が引くって思わないで話しちゃうタイプには最初っから近づかないし」

 

 道長はそういうもんかー、と腕を組み、分かったような分からないような言葉を出す。

 そういうもんだよ、と飛鳥は言い、言葉を続ける。

 

「去年の秋くらいから流れてたみたいだね、それとゴミ漁りしてたとか、昔同級生虐めて自殺させたとか、ヤクザ絡みの人だとか、クスリに手出してるとか、色々ね」

「なんかそういうのはアレだなあ、ムカついてくんなあ」

 

 素直な怒りで口をへの字にする道長に、飛鳥は笑って言った。

 

「女子はそんなの信じないよ、出どこが良くないからね。ああまた適当な事言ってるよ、はいはい、面倒なのに睨まれた吉野さん気の毒に、でおしまい。ただ、結構長い時間悪口言いふらされてるし、吉野さん自身とっつきが良くない……というより噂とかどうでもいいみたいだし。色々相まって面倒臭いから触れないでおこうって感じになってるみたいだね」

 

 道長は、なるほどなーと頷く。

 

「しかしよく知ってんなあ飛鳥」

「みっちーが美人美人って騒いでたから僕もちょっと興味が沸いてね」

 

 飛鳥はそう言い、飲み終わったらしい牛乳パックを特に意味もなくペコペコと膨らませ、萎ませる。

 直人は、少なくとも噂のうちゴミ漁りはあながち嘘というわけでもない、と思ったがそれも心の中で言うにとどめておいた。

 

「んでも、葉山君も気になるにしては結構唐突だよね。吉野さんの話って結構してたけど先週まで全然興味なさそうだったのに」

 

 夏希はそう言い、不思議そうに小首をかしげる。

 

「そうそう、なっちんのいじましさときたら。目移りしそうな女子の話題ばかり直人ンの前で振って反応見るからなあ」

「三国さぁん? そういうイジり要らないからねー」

「ひぃ、聖母の優しさの声音が怖い」

「悔い改めなさい。大体そういう話は二人も一緒に聞いてるでしょ」

 

 道長は顎に手を当て、ロダンの考える人のごとく、あるいは死を思え(memento mori)の哲学的意味を思索するがごとく、深く、深く悩む者の顔になった。その顔のまま、夏希に向かい言う。

 

「なっちん、最初から4Pはハードル上げすぎじゃないか?」

「死ねばいいのに」

 

 表情を消し、怜悧な顔で放たれた言葉に道長は心臓を抑えのけぞり、おおうと呻いた。

 

「な、なっちんの女王様顔で言われると癖になりそうだ」

「女王様顔って……」

 

 クールとも言えそうな顔が自分ではあまり気に入っていないのか、夏希はむぅ、と不満げな声を出し、自らの頬を指でぐにぐにとマッサージでもするかのように押す。

 

「まあ確かに硬派のようなへたれのような直人にしては珍しいかもね、直人から女の子に興味持つってあんまないでしょ? 気軽に手を貸すから知り合う機会は多いけど」

 

 飛鳥の言葉に、そんなに自分は興味薄かっただろうかと直人は考える。

 

「いや割と……なんだ、性欲とか人並みだと思うんだが」

「んにゃ性欲の話じゃなくてね……というか駄目だこの大きい子、鈍いのか遅れてるのか」

「葉山君はいつも目の前に集中しちゃうから、やる事あるとそっち以外目が向かないんだよね」

「ほーぅ、つまるところ直人ンの今目の前の事ってのがイリス姫って事かぃ? なーにがあったのかなぁ?」

 

 道長が問い詰めるように立って近づき、机に手を付くと刑事モノのごとく、ネタは上がってんだよ、吐いちまいな、と言った。

 直人は観念し、両手を出す。

 

「……刑事さん、俺がやりました」

「よし、婦女暴行の容疑で逮捕する」

「道長、せめてもう少しマシな容疑にしてくれないか?」

「よし、未成年略取誘拐、及び強盗殺人、死体損壊の容疑で」

 

 極悪だね、と飛鳥が突っ込み、夏希もまた寸劇に乗り、目を伏せて涙を拭う振りをし、こんな事をするような人じゃなかったのに、と悲しげにつぶやいた。

 

「しかし自分で口にしておいてなんだけど、イリスって名前もなんか凄いよな、あんまり聞かなくね?」

 

 割とどうでもよくなったのか、道長は寸劇を止め、言った。

 ああ、それならと飛鳥が答える。

 

「アイリスと同じ意味だってさ、花の名前の。ドイツとかベルギーとかオランダとかあの辺りだとそういう発音なんだって、ひょっとすると親御さんがそっちの人だったのかもね」

「物知りだなあ、それも調べたのか?」

「そそ、なんかこういうのってほら、一度調べたらしっかり調べたくなるもんでしょ」

 

 そう言った飛鳥に道長はおっかねーとわざとらしげに震えた。

 

「飛鳥には調べられたくねーな、丸裸にされそうだぜ」

「ん? 僕に剥かれたいって?」

 

 ぞくりとするような流し目を向けられ、道長はガクガクと生まれたての子鹿のように震えた。

 

「そ、そっちの趣味ねーから! てか大丈夫だよな、俺はお前を信じていいんだよな!」

「大丈夫、僕もそっちの趣味はないよ。興味があるのは人妻くらいだから」

「何さらっと大変な事言ってんだよ!」

「みっちーが結婚するのが待ち遠しいよ」

「何をする気だやめろォォ!」

 

 結局グダグダになってくる会話を横に、夏希が普通に尋ねた。

 

「それで結局吉野さんとは何かあったの?」

「んー、何かあったというか、バイト帰りに見かけたんで……帰り道送ってったくらい、かな」

 

 あまり人には話せないような部分を除くとそうなった。

 夏希はふーんとつぶやき不思議そうに言う。

 

「知らない人に送ってって貰いたいって思うかな」

「あーいや、声かけてきたのは向こうからだよ」

「え、そうなんだ」

 

 夏希は意外そうに目を開く。

 

「人付き合いとかあまり好きじゃないんだと思ってたけど……クラスメイトの顔と名前覚えてるって事は、ほんとは仲良くしたいのかも。ちょっと今度声かけてみるかな」

 

 そこはどうなのだろう、と直人もまた首をひねる。

 そして何となくそうではない可能性であってほしいと思う自分に気づき、少々げんなりした。

 

 ◆

 

 一日の授業が終わり、開放されたような、どこか気怠いような不思議な感覚に包まれるわずかな合間。

 吉野イリスという少女はそのふとした間に既に教室から出ていってしまったらしい。

 直人も彼女に意識を向けていたのを友達に気づかれていた事が恥ずかしく感じてしまい、午後は意識して目をやらないようにし、授業に集中していた。授業が終わり、帰り支度をした所でふと目をやれば既に居なくなっていた、という状況だ。

 と言っても、姿があったらあったで、何か行動するのかといえばしないのだろうが。

 四人は昔からの付き合いがあるからといっていつでも一緒というわけでもない。仲間というにはゆるい関係であり、馴染みの友人というのがやはり一番しっくり来るものだっただろう。飛鳥は自分の所属している文学部の部室に行き、道長は本来関係ないはずなのだが、勝手に文学部の部室に出入りしているらしく、何とも厚かましい事に倉庫代わりにしているらしい。今日も何冊かの漫画を持ってきたようで、連れ立って行くようだった。

 校舎を出て、この時間日陰になる場所に自転車置き場と第二体育館がある。

 他愛のない雑談をしながら歩いてきた直人と夏希は立ち止まり、直人は少し考えるように視線を上に投げ、戻し、言った。

 

「一応言っとくけど、あんま激しい運動はすんなよ?」

「大丈夫大丈夫、そこは部長も分かってるからさ、それに三週間も柔軟くらいしかやってなかったからねえ、勘を取り戻すのが先かなー」

「夏希の大丈夫はあてにならないからなあ……」

「あはは……」

 

 夏希は我慢強い。いや、我慢強いというより直人の見るところ、自分に無頓着な所があり、それが我慢強く見せているのだろうと思っていた。

 体操部の練習で手首を捻挫し、にも関わらず練習を続けてしまい、結果的に治療時間が延びてしまったのもそれだ。それでも医者からすれば呆れるほど治りが早いという。若さだなと言われたのだとか。

 ともあれ、昔からそういう面を見ている直人からすれば一言釘を刺しておきたいところではあったのだ。

 

「まーまー、あたしもさすがに復帰初日で頑張りすぎるとかは無いって。葉山君はバイトでしょ? 時間は割と余裕なんだっけ」

「おう、シフトが夕方からの交代だしな」

「ふーん、何だったら練習でも見てく?」

「あー、えー、いや……遠慮するよ」

 

 以前練習の見学にと入った時の事を思い浮かべたのか、タジタジとなり唇の端をひくつかせた。

 夏希はその顔を見て吹き出し、直人はため息を吐く。

 この学校の体操部、男女比率が半端ない、というより女子しかいない。一応男女共に在籍できるようにはなっているらしいが、あの女の園に飛び込める男はよほどの勇者だろう、と直人は思った。

 

「んじゃ、ほどほどにな」

「ん、葉山君もバイト頑張ってー」

 

 挨拶を交わし、直人は校門に向かう。

 アルバイト先は駅近くの酒屋だ、学校は駅の北、山側に位置し、距離として二キロ以上は離れているものの、学校で何か用事があった時のためにアルバイトに入る時間には十分な余裕がとってある。のんびり歩いていっても問題はないし、それでもなおどこかで時間を潰さないといけないかもしれなかった。

 

「ん……?」

 

 校門を出てすぐの十字路で、目の端に金色が見えたような気がした。

 気がついたのは、先日の夜の一件から妙に気になっていたからか、あるいは今日一日気にしてしまったからか。

 吉野イリスその人だった。

 どうも年上らしき男子、同じ巳浦高校の制服を着ている誰かに連れられ、どこかに行こうとしているようだ。

 遠間であり、その表情までは見えないが、直人は何となく胸にもやもやとしたものを感じた。

 

「……いやいや。気にしすぎだろマジで」

 

 自分で自分にそんな突っ込みを入れつつ、腕を組み、空を眺めて二、三秒考える。

 

「まぁ、ちょっと遠回りになるだけだし、時間潰しになるしな」

 

 直人はうむ、とかなり苦しい言い訳をしつつ、角を曲がっていった二人の後を追った。

 

 ◆

 

 空気の綺麗な場所だった。

 木々の枝に切り取られた空にうっすらとした雲が筋状にたなびき、鳥のさえずりがそこらから聞こえる。

 五月晴れといっていい、穏やかな日差しとは裏腹に時折強い風が吹き、梢を揺らす。

 八房公園という、なかなか規模の大きな公園がある。

 ハーブ園やドッグレース場、池が幾つか有り、ボートで遊ぶ場所があれば、釣り人がのんびり糸を垂らす池もあった。イベント会場では毎月のように催事を行い、外周部の手入れされた雑木林では散歩を楽しんだり、夏ともなれば子供が昆虫採集に夢中になったりもする。

 そんな市民の憩いの場所で、直人は大きな木の陰に隠れ、自己嫌悪に陥っていた。

(ほんと、何やってんだ俺は……)

 やっている事といえば、覗き見だ。

 イリスと、彼女を連れてきた男子は、ベンチに座るでもなく、微妙な距離を保って池の水鳥を眺めている。ぽつぽつと会話があるものの、二つ三つ言葉が交わされると途切れる。

(というかこれってアレだよな)

 色恋沙汰に疎い直人とはいえ、さすがに判らざるを得ない。この場所、この雰囲気で今から決闘というわけでもないだろう。

 直人は頭を抱えた。

 だが半ば流れとはいえ、ここまで来てしまったのだ。振り向くそぶりを見せたので反射的に木の陰に入ったら、かえってこちらの方が景観が良いのか近づいてきてしまったのも運が悪かった。

 声もしっかり聞ける距離だ、今立ち去ろうとなんてすればすぐバレてしまう。にっちもさっちもいかない。

 

「それで、そろそろ話というのを聞きたいな」

 

 イリスの声が聞こえた。言葉だけとってみれば無駄がなさすぎて情緒もへったくれもないが、口調そのものはとても穏やかだ。何を言い出しても受け入れて貰えそうなほど。男もその口調に誘われたのか、二呼吸ほどの間を開け、告白した。よく考えたのだろう、短いながらも十分に伝わるだけの熱意はこもっている。

 そしてそんな所を出歯亀している自分、消え去りたい、と直人は思った。なんで人の告白をピーピングしているのかと。

 

「――うん、すまないけど断るよ」

 

 そしてイリスはあっさりと振ったようだった。声音に罪悪感が少し含まれている。

 

「……そ、そうか。あー、その。理由を聞いても?」

 

 呻きにも似た残念そうな声。希望を砕かれても見苦しいものは表に出すまいと努めているような気がして、直人は自分の事でもないのに胃が痛くなる気がした。

 

「うん。そういった男女の付き合いをするほど私は先輩と親しくないし、知らないからね」

「それは……そうだよね。なら友達になってくれないかな?」

 

 イリスは小さく笑った。嘲笑でも馬鹿にしたのでもなく、ただおかしいから笑ってしまったというような。

 

「順番が前後してるよ先輩。下心があるのを伝えてから友達になりたいと言っても友達には見れないかな、それでOKしたら準恋人という事になってしまうよ」

 

 ばっさりと。

 袈裟懸けに切り落とされたようだった。

 友達からというのも駄目なのかと直人は痛ましさに胸が痛くなった。

 ちらりと木陰から様子を見れば、男の方は言葉が出てこないのか、ただ立ち尽くしている。

 頭が真っ白になっているのか、あるいは悔しさからか、ぱくぱくと口を開き、そして絞り出すような声で言った。

 

「う、噂は本当なのか?」

 

 言ってからしまったと言うように顔が歪んだ。

 

「噂といっても色々あるだろうけどどの噂だろう?」

「金で体を売ってるとか、そういう噂だよ」

 

 いっぱいいっぱいになっているのか、口は止まらなかった。

 しかし、イリスはかえって面白そうに笑い、言う。

 

「本当だったらどうするのかな?」

「か、買うよ! 金なんかでいいなら」

 

 イリスはなるほど、と頷き、先程より幾分か柔らかい声音で答える。

 

「さっきの告白よりずっと良いと思う。何の飾りもない言葉でそっちの方が好きだよ」

 

 まともな女の子にはやめた方がいいけど、と続け、ぽかんとした顔になっている相手に向かって目を細めた。

 

「先輩、悪いけど噂は噂なんだ。金で自分をやりとりはしてないし、今後もその気はないよ」

 

 そう言うと、相手はどこか安心したような溜息を吐き、そうか、とつぶやいた。

 ただ、とイリスは続ける。

 

「さっきの言葉は良かったと思った。だからゲームでもしよう」

「……ゲームか?」

 

 少女は頷き、言う。

 

「鬼ごっこ、私を捕まえて組み伏せられたらイリスは君のものになる。逃げられたら諦めて、きっと縁が無かったんだ。やる?」

 

 不思議な言い回しをした。

 向かい合う男は目を大きく開き、呆れたような、重い物が取れたような、そんな笑いを浮かべた。

 

「まったくなんて子だよ。やるさ、そりゃあ」

「じゃあ、時間は今から始めて今日が終るまでにしよう」

 

 今から、という言葉に呆気にとられたものの、じわじわと理解すると、男は「やっぱ無し」は無しだぞと言って姿勢を低くし、飛びかかった。

 

 一連の話を聞いてしまい、何やってんだあいつは、と自分をさし置き、直人は呆れた。

 足音が離れていくのを感じ、はあと声を出して溜息をつき、木陰から出る。

 結局自分には最初から最後まで無関係な話であり、人だったのかもしれない。そんな、どことなく寂しいような、寂しさを感じるのもまた違うような、不思議な無聊感を感じ、直人は肩をすくめ、公園の出口に向かい歩き出した。

 風、そして目の前に人が落ちて来た。

 そう感じるしかない状況に、直人は、な、と口を開けて固まった。

 

「誰かと思えば、また君かい?」

 

 さっき離れていったはずのイリスが直人の前で悪戯気な笑みを浮かべていた。

 

 ◆

 

 全身が汗で濡れていた。

 肺は酸素を求めて喘ぎ、足はもはや感覚もない。脾臓の痛みはもう限界一杯だ。

 これほどまでに全力疾走をしたのは何時ぶりだろう、直人は軽くぼうっとする頭でそう思った。

 商店街のベンチから空を眺めれば日は落ち始め、夕日が雲を赤く染めはじめている。

 

「ほい」

 

 と横から手が延びてきた。

 スポーツドリンクの冷たい缶を受け取り、プルタブを開け、二つ三つ深呼吸をして息を整えると、それを呷った。

 喉を鳴らして飲む。

 体が水分を感じ取ったのか、なおさら汗が吹き出した。

 

「っふはぁ」

 

 缶から口を離し、数秒するとようやく体が落ち着き始め、直人は空手でやる息吹に近い呼吸で息を整える。

 ああ、とスポーツドリンクの代金を渡そうと財布を出そうとして、イリスに止められた。

 

「いいよ、奢り。この間は手伝ってもらったし、その一部と思って」

「ああ」

 

 頷く直人。実のところ財布を出すのもおっくうだった。

 それにしても、と隣に座ってちびちびと缶コーヒーを飲むイリスを見て思う。

 色々無茶苦茶だな、と。

 公園から駅前商店街まで、どのくらいの距離があるだろうか。

 三キロは優に超えるだろう。それをほぼ短距離走に近い走りで走ってきてしまった。記録を取っていないのが残念だ。寿命をすり減らした気分さえする直人とは裏腹に、先を走っていたイリスは汗一つかいていない。いや正確には、走っていくイリスの後を直人が必死で追いかけていたというだけだったのだろう。

 

「このくらい離れれば先輩も見失ったかな」

 

 そりゃ見失うだろう、と直人は心で突っ込んだ。直人とて別に足が遅いわけではない、走り込みは日課になっている、足の速さにも持久力にもそこそこ自信はあったし、陸上部から誘いが来た時もあった。それが何とか付いていくだけでやっとの有様だ。

 

「いろいろありえん」

 

 直人の心情を一言で表せばそれだった。

 

「ありえん、なのは直人(なお)の方だね。先輩は真面目に私に話そうとしてたんだし、覗きは良くないよ」

「……ぐ、すまん」

 

 素直に謝った。それは自身も悪いと思っていた事だ。

 

「にしてもいつから気づいてたんだ?」

「ん、学校出た辺りかな」

 

 最初からバレバレかよ、と直人は頭を抱えたくなった。

 何となくもう考えるのも面倒臭くなり、頭を振って色々な雑念を振り払う。元よりごちゃごちゃと考えるのは得意ではなかった。

 

「しかし、いつもあんな事やってんのか?」

「あんな事?」

「鬼ごっことか言う奴さ」

 

 ああ、とイリスが何でもないように頷いた。

 

「と言ってもああいう事自体がそんなに無かったからね、去年から数えて今日が三度目くらいかな。本気だったのは今日は初めてだね。あれは私なりの精一杯の誠意だよ、あの言葉は割と本当に気に入ったからね」

 

 む、と何故かイリスが固まった。緊張した面持ちで直人に向き直り、恐る恐る言った。

 

「えーと、まさか直人も鬼ごっことかに興味があるのかい?」

「いやいや、違う」

 

 直人が首を振ると、イリスは露骨に安堵した様子で息を吐いた。

 

「良かった、どうしようかと思ったよ。さすがにそれはねぇ」

「さ、さすがにそこまで嫌がられると俺もヘコむものがだな……」

 

 ずぅんと陰を背負う直人。

 イリスは慌ててぱたぱたと手を振る。

 

「違う違う、その、あれだよ。混乱するというか困惑するというか、別に嫌ってないって」

「お……おう」

 

 態度の豹変に直人の方が混乱させられそうだ。

 あー、と頭を掻き、話を変えるように言った。

 

「しかし、ああやって自分を賭けてとか安く扱うのはどうかって思うぞ」

「んー、そうかな?」

 

 イリスは不思議そうな面持ちになり、自分の体をぺたぺたと触りだした。

 

「背はちんまいし胸も尻も今ひとつだし、売りと言えば線の細さくらいだよね。女としては君の友達の佐藤さんの方がずっと凄いと思うよ」

「あー、そういう見方だとなあ」

 

 佐藤夏希の体は確かに凄い、中学三年のあたりで成長著しくなり、その頃は直人も密かに性欲と友情の間でグラグラと揺れていたものだった。顔だって悪くない、むしろモデル体型にモデル顔なのだからルックス的には完璧に近いかもしれない。もっとも本人がその顔を冷たいから嫌と言っているのが玉に瑕だが。

 対してイリスは一番しっくり来る言葉は儚いだろう、と直人は思った。背は直人より頭一つ小さく、女性らしい起伏はあるが全体的に華奢だ。そして小ぶりなその顔は冗談のように整っている。

 妖精じみた、と言えるのかもしれない。触れれば溶けてしまいそうな雪と、しっかり根付いた大樹のような矛盾した両面をあわせたような。

 

「ああ、洋ロリ好きには受けいいよねきっと」

「真面目な顔で洋ロリとか言わないでくれ」

 

 しかも鈴がなるような声で。

 あまりの残念さに直人は一気に現実に引き戻された気分だった。

 

「さて、私もやることがあるしそろそろ行かないと」

 

 イリスはそう言い、立つと、ベンチに座った直人の前に来て身をかがめた。

 間近に白皙の美しい顔を見て、直人の心臓が跳ねる。

 そんな事に気づいた様子も見せず、イリスは直人の額に指先をちょんと付けると、何語か分からない言葉を一言唱え、そして身を離す。

 

「……なんだ?」

「疲れの取れるおまじないだよ、いかにも乙女っぽいだろう?」

 

 ふふんと面白げに笑う。

 

「いや自分で言うのかそれを」

「言うさ、それじゃ私は行くね。またね直人(なお)

 

 そう言い、買い物のため人が増え始めた商店街、その人波の中に消えて行く。

 直人は、そろそろ自分もバイト先に向かうかと時間を確認し、ふと体の軽さに気づいた。虚脱感もなくなっている。

 

「……おまじない、なあ?」

 

 ベンチから立ち上がり首をひねる。

 一つだけ分かったのは、とりあえず今日のアルバイトに支障をきたす事はないだろう、という事だった。



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三話

 春にしては暑く、夏にしては涼しい。

 紫陽花(あじさい)が風景を彩るにはいささか早く、しかし雨は多くなってきた時節だった。

 ひどく人相の悪い男がワンボックスカーのドアを開け、いかにも気怠げな様子で車外に組んだ足を投げ出していた。収まりの悪い髪をオールバックにまとめ上げ、三白眼の鋭い瞳が薄いブラウンのサングラスから覗いている。顎髭を蓄え、額を真横に一筋、目を縦断して一筋、刃物で切ったような傷跡がただでさえ悪い人相をさらに壮絶なものに変えていた。

 男はおもむろにジャケットから煙草の箱を出し、開け、空なのを見て箱を握りつぶし、溜息を吐いた。

 

「よぉ摩周(ましゅう)、ちょっと煙草買ってきてくれね?」

 

 人相が悪い上に声も恐ろしくドスが聞いている。子供も大人も震え上がる事請け合いだ。

 

「えー、やですよ。もう少ししたら朱里さん戻りますから、そしたら道の駅にでも行ってお昼にしません? 煙草はそこで買いましょう」

 

 そんなドスの効いた声に返答したのはむしろ対照的に軽薄とも、優しげとも言える声だった。

 摩周と呼ばれた運転席の男だ、長髪を赤く染め、耳には幾つかのピアス、甘い顔をし、スーツを着崩す様はどこかのホストクラブから抜け出してきたかのようだ。

 人相の悪い男ははぁぁと声を溜息に乗せた。

 

「最近自販機でショッピ売ってねーんだよ、上司の機嫌取るのもできる部下の要素だぜ?」

「もういい機会だからそろそろ禁煙とかどうですか? 朱里さんが標津(しべつ)さんが近くで煙草吸うと仕事に支障が出るって言ってましたよ、鼻が効かなくて」

「ニコチンとタールから俺を取り上げたらあいつらが可哀想だ、死ぬまで一緒に添い遂げてやらねーと」

「アルコールはどうなんです?」

「あいつは愛人だ、たまに()りすぎて頭おかしくなるけどな」

「気が多いことですねー」

 

 車の通りもまばらな路上に停車された車で、二人はそんな力の抜ける会話をしていた。

 一台、地元の人らしき軽トラックがゆっくり通り過ぎて行く。

 ツバメが二羽絡み合うように空を飛び、どこかへ行った。

 

「暇っスねえ、やっぱこれ地域管理課の方でできません?」

「無理だろ……あっちが一杯一杯だから三課(うち)に回されて来たんだぜ」

「人が居ないって悲しい……」

「仕方ねーなあ、霊地管理はそういうのを感じ取れて動かせる奴でないと駄目だし、そりゃ限られる」

「うちも朱里さん以外駄目駄目ですしねー」

「うるせぇ」

 

 グダついたやりとりはコツコツと鳴る特徴的な足音で途切れた。ハイヒールの音だ。

 戻ったかという標津。摩周はいつでも出られるように車のエンジンをかける。

 足音は近くなり、途中で乱れ、きゃっ、という妙に可愛らしい悲鳴と共に鈍い音が聞こえた。

 やがて子供が欲しいものをねだるような「うー」という唸りに変わり、パタパタと服を叩くような音になる。

 車内の二人は目を合わせ言った。

 

「転んだな」

「転びましたね」

 

 標津は肩をすくめ、開きっぱなしのドアから出ると、ボブカットで幅広のメガネをかけた女性が指で触れば泣き出しそうな顔で服の埃を払っていた。しばらく観賞を楽しみたいような気分を抑え、軽く頭を振り、声をかける。

 

「平気か海別(うなべつ)?」

 

 声を聞くや、女性の表情は一瞬にして怜悧なものへ、背筋はぴしっと伸び、ヒールのかかとは合わされ、それまでの事がまるで夢か幻かであったかのように消え去り、耳にかかった髪をふと気になったように手で掻いて流す。

 

「……なんの事でしょう」

「いや、別にいいけどな……」

 

 いかにもできる秘書然とした女性は、ならいいですと言い、報告は移動しながらにしましょうと続けて、車の助手席に回った。

 

 ――秘跡というものがある。

 カトリックではサクラメントと呼ばれるその原型は、ラテン語ではサクラメントゥム、ギリシャ語ではミュステリオン、ロシア語ではタヤナ、英語ならもっと平たくミステリーになってしまう。

 古い言葉だけに意味合いは様々だ。聖別されたものを指す事があれば、特殊な意味を持つ儀式を指す事もある。

 そしてもっと曖昧に、ただ『不思議なもの』を指す言葉とし、未だ自然科学では解析されていない人類未踏の部分、そして理学ではどう捻ってもそうはならないはずの現象を指し、そう呼ぶ者達が居た。

 

「分析班の割り出した地点を巡った結果、やはり駒ケ岳市は非常に不安定な状況です。霊地化するかしないかの境を行ったり来たりしているような」

 

 車の助手席に、見本のように丁寧な座り方をしている女性が言った。

 後の座席に座っている男は煙草が切れて口寂しいのを誤魔化すように、ガムを五つまとめて口に放りこみ、事態を整理しているのかしばらく間を置き、口を開いた。

 

「霊地が新たにできる前例があったはずだな」

 

 すでに調べてあったのか、海別は間を置かずはい、と応え、バッグからタブレット端末を取り出した。

 

「確実な記録だけでも1900年から三件あります。一つは南米、チリ南西部のチロエ島、一つは北アフリカ、エチオピアのアクスム、一つは中央アジアのトルクメニスタンのアシガバートです。チリのものは地震による霊地の変動によるもの、エチオピアのものは反エリトリア武装勢力が引き起こしたものとされていますが、方法については検証中、トルクメニスタンのものは原因不明となっているようです」

 

 わお、と運転席の摩周が声を上げた。

 

「世界的っスね。日本だと初めてって事ですか?」

「いえ、確定されていないだけで、()()()()霊地でない場所が霊地になった場所というのは日本だけでも四十五ヶ所ありますね」

 

 ああな、と標津は声を出した。

 

「普通の土地か、元から霊地だったのかなんて何かの偶然でそこをよーく調べた事前情報でもなけりゃ比較できねーもんな」

「その通りです。元々霊地自体は緩やかな流動を繰り返すというのが協会本部のシェール派による仮説で、一応矛盾が無い事からこれが主流となっています」

 

 摩周は、どこまでわかっているのかほうほうと相槌を打ち、言う。

 

「んじゃー、今回のここもそのひとつって事で?」

「なり得るかもしれない、と言ったところです。少なくとも珍しい現象であるのは間違いがありません。経過を観測できれば貴重なデータとなるでしょう」

 

 どさりと音がする、海別が振り向き後を見ると、標津は大柄な体を伸ばし、シートに寝転がっていた。

 

「子供ですか上司」

「ママって呼んでやってもいいぜ部下。まあ後は報告書作って上にやるだけだなあ、学者さんの領分に俺らが立ち入っても仕方ねえ。牛丼でも食って帰るか」

「……また牛丼ですか?」

「大盛りトッピング三品まで許す」

「行きましょう」

 

 摩周はハンドルを握りながら「安上がりっスね」とつぶやき、隣からきつい視線を浴びた。

 ふっと思い出したように、海別は視線を外し、そういえば、と付け加えるように言う。

 

「もう一つだけ当たってみても良いでしょうか? 複数の地点から同一人物の臭いがあったので」

「おいおい、追跡者(トレーサー)の真似事か? 今日中に終るんだろうな」

「特徴的な人物だったので特定は既に」

 

 そう言い、手元の端末を操作し、後ろに渡した。

 標津はそれを受け取り、目を通すとなるほど、と頷く。

 

「確かに臭えな。一年以上前の経歴がない……つか無戸籍者か」

「はい、駒ケ岳市の異変を協会が認識したのは一ヶ月前ですが、少なくとも五年前に行われた調査の上では土地におかしな点は無かったようです」

「そんなら五年の間に居着いた奴を洗うか、シンプルでいいねえ。待ってんのも暇だし俺が出てやらあ」

「駄目です」

 

 部下からの駄目押しに標津はがくりと力が抜け、タブレットを落としそうになる。

 落としかけたタブレットを海別は絶妙な合いの手で受け取り、言った。

 

「対象の年齢と性別を見て下さい。標津さんの顔じゃ怖がられます」

「意外と子供受けは良いんだがなあ」

「怖いもの知らずの幼稚園児相手じゃないですか、相手は女子高生なんですから」

「まあなあ、とすれば」

 

 と標津は運転席に目を向けた。

 助手席の海別もはいと言い、隣に目をむける。

 

「な、なんスか?」

「聞き取り調査頼むぜ元ホスト」

「頑張って下さい元人間の屑」

「朱里さんの当たりが酷すぎる!?」

「ホストクラブは嫌いです」

 

 標津は豪快に笑い、言った。

 

「犬神使いは嘘が判るからな、ああいうおだてと嘘ばかり飛び交ってる場所はゴミ溜めみたいに感じちまうんだろう」

「臭いです」

 

 臭いスか、そうつぶやき情けなさそうな顔で脱力する摩周。

 標津は身を起こし、言った。

 

「まあ、決まりだな。摩周と海別で聞き取りだ、一応俺も後で待機。基本はCランクまでの情報開示に留めとけ、状況次第でこっちから指示を送る。調査対象は――」

 

 ◆

 

 子供の頃はただ飢えていた。

 痛みも苦しみも通り過ぎると、その先はただ寒い。

 それを知りたくなくて、触れたくなくて、食えるものなら何でも食った。

 物乞いをし、盗みをし、あげくには兄弟といつからか呼んでいた仲間を売り。

 日本という国の子どもたちを観察していると、ついそんな昔の事を思い出し、(ヤン)は苦笑した。

 

「どいつもこいつも楽しそうだ」

 

 実際にはそんな事はないのだろう、百人いれば百人の悩みと苦しみがある。

 しかしそれでも楊は思った。

 この当たり前に怒ったり悲しんだりできるような余裕ある奴らをめちゃくちゃにしてやったら、どれほどスカッとするだろうかと。

 八つ当たりだ。楊の、それも過去の不幸。目の前の子どもたちは無関係だ。

 ――それが何だというのか。

 憂さが溜まっている事を楊は感じていた。なにせ一つの仕事に半年もかけている。

(少し慎重になり過ぎたか)

 とも思った。

 しかしいやいや、と首を振る。

 今回の仕事は大きな仕事だ。相手は世界屈指の造形師。どんな罠があるかも分からない。物の真贋は元より、どんな仕掛けでも対応できる準備を整えておく事は必要不可欠だった。

 そしてお宝を無造作に放り出してある意図もまた分かっていない。

 

「天才の考える事ってな分かんねえなあ」

 

 低俗な人間は高尚な人間が理解できない、同時に高尚な人間も低俗な人間の事が理解できないのだろう。

 

「もっとも……」

 

 だからこそ俺のようなこそ泥に嗅ぎつけられる。

 そう心の中でつぶやくと、楊は腕時計に目を通し、まだ半分ほど残っている煙草を捨て、踏み潰した。

 市民の憩いの場となっている公園に、木々の香りにまじり、わずかな焦げ臭さが混じって消える。

 いつものように観察しようと学校へ足を向ける。

 中肉中背、悪人には見えそうもない朴訥な糸目という容姿を与えられた事に楊は神に感謝する時がある。シャツにチノパンでも履いて人波に混じれば、アジア圏なら大抵どこでも埋没してしまう。

 よくよく警戒し、遠間から観察する分にはまず気取られない自信があった。

 むろん情報量は少なくなる。

 それを数で補った。

 来る日も来る日も足を向け、観察し、その痕跡を辿り、あるいは、覗き屋が使うような小道具を使い。少しずつ集まる情報をパズルのように延々と組み上げる作業。

 経験則からその仕組を解析し、推測する。作る事などできはしないが、分析し、穴を突く事は楊の得意とする所だ。

 途中まで歩いたところで楊の足は止まった。

 顔が強張り、落ち着かない様子で自らの後頭部を撫でる。

 

「……なんだ?」

 

 悪い予感がしていた。

 予感は大切だ。彼のような一つ間違えれば地獄が口を開けているような小悪党にとっては特に。

 ちょっとした仕事ならこいつはヤバイと思い身を翻してしまうかもしれない。だが、何も確認せず逃げ帰るには、今回のヤマには時間も金もかかっていた。

 楊は頭を振り、足を進める。

 そして角を曲がり――自分の予感が正しかった事が分かった。

 一人の少女が大人二人と話している。

 目立つ三人だ、少女は巳浦高校の制服を着、染色や脱色ではない金色の長い髪が見える。

 大人の一人は一言で言えばチャラ男だろう、赤く染めた髪に着崩したスーツ、連れがいなければただのナンパに見えたかもしれない。

 そしてもう一人はボブカットの女性だ、見た目だけならひどくキツい印象がある。

 楊はひどく緊張しながら、それでいてその緊張をまったく表には出さず、何食わぬ顔で通り過ぎた。近くに止まっていたワンボックスカーの中の人間がちらりと見えた時は一瞬息を止めてしまったが、ほんの一瞬だ。

 角を二つ三つ曲がった所で、ようやく緊張が抜け、壁に背を預けてへたりこむ。汗が吹き出し、服を不快に濡らした。

 

(くそったれ)! (くそったれ)! なんでこんな所に協会の連中がいやがる、犬女に豪腕まで控えてやがった!」

 

 舗装された歩道を拳で叩く。

 異様な様子に人目が集まるが今の楊にとって知ったことではなかった。

 

「嗅ぎつけられたか? いや、それは考えても仕方ねえ」

 

 立ち上がり、ブツブツと独り言をしながら歩く。

 

「あいつらなら気づく、気づけば放っておくわけがねえ、どうする……どうする?」

 

 その顔は作りは温和ながら、鬼気迫り、凶相としか言いようのないものになっていた。

 

「どうする……くそっ、どうするもこうするも、やるかやらねえかだけか」

 

 足を止め、ああ、とやけっぱちにも溜息にも聞こえる声を発する。

 

「やってやる、畜生、やってやるぞ」

 

 そう言い、遠巻きにして見ている一般人に向かい、獣のように歯を見せ喚き威嚇すると、悪鬼の様相を呈した顔で走り出した。

 

 ◆

 

 よく晴れた日だった。

 空高くにある薄い雲が風に流されて形を変える。

 少し季節外れのウグイスがどこかで鳴き声を発し、車の通りがかった音でかき消された。

 そんないつも通りの日、いつも通りの学校からの帰り道で、吉野イリスは二人の大人に捕まっていた。

 捕まっていたといっても拘束されているわけでも何でもない。立ち話でいいので話を聞かせて欲しいというのでそれに応じている形だ。女性の方は公安調査官の手帳を見せ、ご協力下さいと言っていたが、男性の方は始めから軽妙な軽口で、情報調査というよりむしろイリスの個人情報を聞き出そうとしているようでもある。

(面白い)

 とイリスは感じていた。

 よく喋る男性については普通の人間だ、ただ横で一歩下がり立ち会っているだけに見える女性、こちらはどうも違うようだった。

 そして少し離れた電柱の近くに止まった車、その中の男はより()()

 組織めいている。イリスはそう感想を抱いた。

 世の中は結構色々あるものなんだな、とも。

 

「ああぁ、苦労してんだねえ……イリスちゃんは。結局そんな生活をずっと?」

「ええ、はい。一年前の冬頃に養父の、昔お世話になったという方が色々世話してくれて今は何とかなってるんですが」

 

 イリスの実父も実母も居ない。物心付く頃には揃って行方不明になってしまっていた。

 養父である吉野悟も実父も昔あった小さな暴力団の一員だった、当時の暴力団の統合の波に飲まれて消えてしまった組だ。実父の盃兄弟であった養父は幼いイリスを連れて各地を転々とした。破門回状を回され、いわば極道の世界から追放された身であり、日雇いなどで何とか生きていたが、若い時から極道に入り、他の生き方など知らない男だ。問題を起こす事も多く、その度に別の土地に行く事になった。

 イリスに戸籍はなかった。出生届を出されていなかったのだろう、養父もまたそれをあまり大した事に考えていなかった。小学校に入れない事が判ると自分でやれとどこからか手に入れてきた小学生用の教科書を渡した程度だ。

 そんな生活が続き、養父は精神的に疲れ、病み始めた。

 厭世的になり、働く事を止め、安い貸し部屋を追い出された。

 そんな時、窮状を知り助けになってくれたのが、六咬会という、かつて養父の居た組を奪った暴力団、そこの若頭になっていたかつての舎弟だ。

 養父はその助けを拒んだが、イリスを代わりにと託し、現在に至る。

 そんな話だった。

 

 身の上話を終え、同情たっぷりな顔をしているホスト風の男から、最近この辺りで変わった事がなかったかなどを尋ねられたが、それもイリスは男に心を許したかのようにさらさらと答えた。耳を澄ませれば入ってくるような高校生の噂話、まったく根も葉もない都市伝説じみた話などだ。

 男と女は目配せを交わし頷いた。

 

「うん、ありがとうイリスちゃん。時間をとらせてすまなかったね、個人情報に関しては秘匿の義務があるから心配しなくていいよ、仕事上口約束以上にできないのが残念なんだけどね」

 

 気をつけてと手を振る男に、にっこりと笑顔で手を振り返すイリス。

 妖精めいた少女が見えなくなると、男は力が抜けたようにがっくりと項垂れた。

 

「あああ、辛い、あんな可愛い子に探り入れるの辛い」

 

 隣の女はメガネをくいと上げ、答えた。

 

「その点は同意します、本当に持ち帰りして撫で撫でしたくなる可愛さですね。きっとテディベアの……ペッツィーが似合うに違いありません。甘ロリ系で、薄い青のドレスが……」

「朱里さん朱里さん、可愛いものに目がない朱里さん戻ってきて」

 

 海別朱里は硬直し、口を固く結ぶと頭を振った。もう一度ずれてもいないメガネをくいと上げ直す。

 

「話を散らかさないで下さい摩周さん」

「……ハイ俺ガ全部悪イデス」

 

 摩周はいじけるように屈み込み、無意味に歩道を指でつついた。

 わずかに右目を閉じ、言う。

 

「それで嘘の反応どうでした?」

「……嘘の臭いはしませんでした」

 

 海別はどこか困惑したような声で言う。

 少し迷ったように空を見上げる。

 

「摩周さんはどう思いましたか?」

「嘘付きッスね。それも相当慣れてる感じの」

「さっき探り入れるの辛いって言ってませんでした?」

「そりゃ女の子に嘘を付かれるのは好きでも俺が疑ってかかるのは嫌いですから」

 

 海別は目を大きくして驚くと、変わってますね、と言った。

 

「そうですか?」

「はい」

 

 真面目に頷く海別に、摩周は不思議そうに言った。

 

「標津さん、その辺どうっスか?」

 

 はっははと笑い声が響き、バァンと音を立てて摩周の肩が叩かれた。

 

「てめえはいい男だからな! ただちょっと自覚しろ、イラッと来る」

「ひでぇ! パワハラだ、訴えてやる。労働組合はどこだ!」

「ん、そんなんあるとでも思ったか」

「ブラックだ! とんでもない所に来てしまった!」

 

 むしろダークだから安心しろと標津は言い、顔を面白げに歪めた。

 

「嘘か本当かはともかく、あいつ俺を見てたな」

「……ッ、まじッスか?」

 

 全然気づかなかったと言う摩周に、標津は頬を掻く。

 

「いや……見てたっていうかな、意識をこっちにやってたというか、あれだ。めっちゃ強え異能者相手にバトってるとたまに全部こっち読まれてる気になるだろ、あれよ」

「いや全然分からないんですが」

「うるせぇ考えるな感じろ」

「この上司適当すぎる」

 

 標津はふん、と鼻を鳴らした。

 

「まああの娘に関しては『嘘つき』でいい。それ以下にもそれ以上にもするなよ、適度に警戒してる分には害にはならねえだろ」

「勘ですか」

「勘だが」

 

 標津はそこで間を置き、言った。

 

「当たる」

 

 ◆

 

 直人はアルバイト先に行きがてら夏希を送っていた。

 夏希には普段部活動があるだけにこうして時間が重なるのは珍しい。

 もちろん理由はあった。体操部の部長から今日は練習を休んで休養に当てるようにと釘を刺されてしまったのだ。夏希は勘を取り戻すために、と言っていたがどうもまたやりすぎてしまったらしい。

 そして部長から送りを頼まれたのが、直人だった。

 部長が言うには、それだったら大人しくするからだと言う。直人にはピンと来なかったが、そう言うからにはそういうものなのだろう。

 夏希の家は繁華街と高校から見て少し東側の住宅街にある。通り道としては先日直人が全力疾走した道だ、八房公園沿いを通り、なんたら街道というカーブの多い道を抜け、左側の高台になっている場所がそうだった。

 よく晴れてはいるが、時折強い風が吹く。

 その時も直人の目の前で、あまりにタチの悪い風か少々の悪戯をした。

 

「う……おぉ、パンチラった」

 

 そう言い夏希が自分の浮き上がったスカートを押さえる。

 こういう場合男はどう対応すればいいのだろうか、直人が難しい顔で悩んでいると、夏希は妙に楽しそうな表情で言う。

 

「で、葉山君、感想は?」

「……スパッツは無しだと思う」

「しっかり見てたねー葉山君にも人並みのエロ心があってあたしゃ安心したよ」

「というか尻でかいな」

「うああああー! 言うなああ! というか何でそういうのを平然と言うの、もう少し顔を赤くしてくれたりとかしても良いんだよ? ねえ」

「うーん。ちょっと今更すぎて、というか俺にどんな反応望んでるんだよ」

 

 確かに直人も中学生あたりは色々困る事もあったが、さすがに何年もツルんでいれば慣れもできる。もっとも、そのやたらスタイルの良い、長い足の白さは脳裏にきっちり残ってしまってもいるのだが。直人も年頃だ、表には出さない。

 

「そういえば葉山君、バイトの方はどう?」

「どうってもなあ、普通だよ普通。先輩が動いてくれないからやったら運ぶ量が増えちゃってるけどさ、まあ体鍛えてると思えばちょうど良いかな」

「お酒の配達でしょ?」

「卸しだからなあ、居酒屋に運ぶビールの量とか半端じゃないんだぜ。あの辺古いからエレベーターついてない店もあるしな」

 

 ふぅむ、と夏希は考える素振りを見せると、直人に右腕を出させ、曲げさせる。ビルダーがよくやる上腕二頭筋を強調させるようなポーズだ。

 

「ほうほう、これは確かに」

 

 夏希は直人より頭半分ほど低い、そうやって腕を曲げるとちょうど顔のあたりに腕が来る。

 両手を出して腕に触れ、自分にない筋肉の膨らみに感心したように揉む。

 かと思えば――

 

「よいしょお」

 

 いきなり体重がかかってきて、直人は慌ててぐっと力を入れ、バランスを崩さないように支えた。

 

「おおー、凄い凄い」

「お前なあ、子供か?」

 

 夏希が腕に手を回し、膝を曲げてぶらりとぶら下がっていた。

 

「あっはは、ちっからもちー」

「テンション高いな!」

「葉山君と帰るのも久しぶりだからねー」

 

 膝を伸ばし、とんと綺麗に地面に足を着く。何気ない動作でもさまになるのは部活のおかげか。

 確かに久しぶりなのだろう、直人は思った。

 中学生の時はたまたま道筋が同じだっただけだが、よく一緒に帰っていたものだった。高校になって、それぞれアルバイトや部活動を始め、時間が合わなくなっていったが。

 夏希もまた同じような事を考えていたのかもしれない。

 

「昔はさ、葉山君随分荒れてたよね」

「中学ん時か? 昔ってほど昔じゃないけどな。まーあんま思い出したくは……うん」

「道長君が言う黒歴史って奴だね、いやー、でも封じてもらいたくないかな、結構あたしからすると良い思い出もあるのに」

「あいつとも最初は喧嘩してたような気がするな」

 

 当たり前だが今仲の良い四人も最初から仲が良かったわけではない。

 夏希は何を思い出したのか、にこにこと微笑み、言った。

 

「それそれ、理由覚えてない?」

「さあ、なんだったかな」

 

 直人は誤魔化した。きっちり覚えている。当時夏希は今ほど明るくもなく、物静かだった。ただ容姿は当時から抜群に良く、大人びていて、興味のあるものを見つけたら全力で絡んで行く道長に目をつけられたのだ。

 道長は今でも十分にアレなキャラだが中学時はもっと歯止めが効かなった。困り果てた様子の夏希を見て、つい直人は道長に喧嘩を売ってしまったのだった。しかも言葉が奮っている。

 

「ほんとに覚えてない?」

「……覚えてる」

「お前の面が気に入らないって言っていきなり道長君を殴り飛ばすんだもんね、びっくりしたよ本当に」

「いや勘弁してくれ、ください。マジでどこのチンピラだよって話だよな……」

 

 その喧嘩が元で出席停止を食らい、親には泣かれ、姉からは殴られ、空手の師範からはみっちりしごかれた。直人にとっては忘れたい記憶の一つではあるが、結局それがきっかけで夏希と知り合い、道長とは友達となったのだから始まりはどうあれ結果が良ければというものかもしれない。

 再び風が吹いた。

 背中を押すような追い風。

 そしてゾクリと。

 背筋に氷柱でも打ち込まれたような気がした。

 

「な、んだ?」

「……えっ」

 

 突如、どこにでもあるようなコンパクトカーが迫り、咄嗟に直人は夏希をかばう。

 車は二人の目の前で、激しいブレーキ音を響かせ、止まり、ドアが開く。

 息を飲む二人の前に現れたのは、何の変哲もない、朴訥そうな顔の男だった。ただその表情は歪み、凶相といっても差し支えはない。

 男は夏希を後にかばう直人を見るとぴくぴくと眉を震わせ、言った。

 

「なんだァてめえ、時間がねえんだ、こっちにはよ!」

 

 黒い、妙に立体感を失ったモノが男の足元から広がった。

 ――蛇。

 それも無数の。

 現実味の無い光景、だが間違いなく、これは恐ろしい存在(もの)だ。

 

「つっ」

 

 あまりの異様さに硬直する夏希の手を取り、とにかく距離を置こうと引っ張る。

 

「逃げ」

「逃がすわけねえだろ」

 

 言葉をかぶせてきた男が一歩足を踏み出した。

 黒い蛇に見える、だが絶対に蛇ではない、数えるのも馬鹿らしいくらいの無数のそれが異様な速さで迫り、夏希を飲み込んだ。直人の掴んだ手だけがかろうじて突き出しているが、痙攣するように震えると、力を失う。

 

「夏希ぃッ!」

 

 直人は叫び、塊のごとき黒い蛇の中に腕を突き込み夏希を引っ張りだそうとした。

 塊はぬめり、蠢き、冷たい。生き物のようでそうではない。おぞましい感触に一瞬ひるみ、歯を食いしばり腕を深く突きこもうとする。

 

「鬱陶しい!」

 

 言葉と共に、直人の首筋に衝撃が走った。

 一瞬の空隙。

 

「クソが! クソが!」

 

 ガツ、ガツと鈍い音が響く。

 倒れた直人の後頭部を男は何度も踏みつけ、蹴りつけていた。

 やがて直人が動かなくなった事を確認すると、息を整え、車に戻る。

 あれだけあった黒い塊は冗談のように男の足元に収まり、消えていった。

 

 ◆

 

 血溜まりに伏す直人を通行人が見つけ、救急車を呼ぶ前に、一台のワンボックスカーが停車した。恐ろしく強面(こわもて)の男が降りて、こりゃまずいとつぶやき、担ぎ上げ、車内に引き入れる。

 

「おい死にかけだ、摩周、E-05の薬出せ、海別、俺が組織は繋ぐからお前は不自然な部分がないかチェック頼む」

 

 そう言い、標津は太く大きい手のひらで負傷している直人の首と後頭部付近を探るようになぞる。五分ほどもそんな動作をし、終わったのか、ふぅと息をつく。

 横から摩周が目当てのものを取り出したのか、ペンにも見える注射器を差し出した。

 海別は目を閉じ、何かに集中し、口を開く。

 

「問題ないようです。()()と比べ、不自然な臭いはありません」

「よし……脳味噌潰れてなくて助かったぜ。あればかりは手に負えねーしな」

「相変わらず標津さんのは無茶苦茶ですよね、医者要らずじゃないですか」

「馬鹿言え、病気の一つも治せねーし、肉と骨と神経継ぐくらいだ。実際の治癒はコレ頼みだしな」

 

 そう言い、プッシュ式の注射器を直人の肩に押し当てる。

 ひとまずの治療を終えたのか、標津は直人の顔についた血を拭い、後列シートに寝かせる。

 摩周は運転席に戻り、エンジンをかけた。

 

「とりあえず移動しますね。ってか渡しといてなんですけどあの薬使っちゃって良かったんですか?」

「あー、緊急事態だ。それに異能犯罪に巻き込まれた被害者だ、重要参考人と判断し救命措置を行った。これでいいだろ。海別、臭いはどうだ」

「消えました。かなり隠形に長けている相手のようです。現場に残った臭いも微少、あと数分も遅れていれば消えていたかもしれない所を見ると」

「お前が居ること前提で動いてやがるか、面倒臭ぇ相手だな、何より目的が分からねえ」

 

 標津は苛立たしげに顎髭を撫で、後部座席に横にした直人を見、溜息を吐く。

 

「状況報告はしておきました。応援要請はどうしますか?」

 

 海別が言うと、標津は首を振った。

 

「この不透明な状況じゃさすがに出してくれん、やるとしてもこいつから話を聞くのが先だ」

「標津さんと朱里さんのツートップですもんね、大体の事は解決できるって思われてますよ」

「買いかぶりも普段は楽だがこういう時ぁ面倒だな、摩周一人にすれば応援続々と来てくれるか?」

「無能力者一人置いてかないで下さいよ、死にますってば」

「摩周さんならできます、私が保証します」

「お願いですから朱里さん悪ノリだけで保証しないでください、騙されますよそのうち」

 

 私に嘘は効きません、と海別は薄い胸を張った。



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四話

 空が渦巻く。

 何もかもを飲み込み、何もかもを吐き出す。

 世界は朱に染まり、あるいは碧に染まり、あるいは翠に染まる。

 上も下も、右も左も判らず、ただ手を伸ばした。

 人が、飲み込まれかけているからだ。

 いけないと思った。あのままでは行ってしまう。戻れない場所に行ってしまう。

 初めてできたともだちが。

 いつだって一緒だった幼馴染が。

 

「のぞむ」

 

 呼びかける。

 ともだちは手を伸ばした。

 その姿は空に撒かれるように消えてゆく。

 伸ばした手は届かなかった。

 

 ◆

 

 目覚めた直人が一番最初に思った感情は、悔しさだった。

 状況の変化など忘れ、ただ悔しさに身を貫かれ叫んだ。

 

「ちくしょうが!」

 

 夢見が悪かった。

 同じだ、あの時と。

 強くなれと言われ、空手を始め、役には立たなかった。

 掴んだ手が力を失い、黒い塊に引き込まれて行く。

 また何もできなかった。

 直人は頭を振る。

 

「……また?」

 

 夢と現実を混同している。いや、あの黒いものはなんだったのか、どこからどこまでが現実なのか。

 直人は自分の頭が混乱しているのを感じ、頭を振った。

 そこでようやく今の自分の状況に気がつく。

 どうやら車内に居るようだった。

 前の座席に座っている男が振り向き言う。

 

「よう、起きたかい、まあ混乱すんのも判るがとりあえず落ち着け、あと飲んどけ」

 

 そう言い、スポーツドリンクを渡す。恐ろしく人相が悪い。

 直人は判断に迷うようにそれを見ているとさらに前の助手席から声がかかる。

 

「飲んでおいて下さい。かなりの重傷でしたので。治療自体は済みましたが、失った血液は戻るものでもありませんし、賦活剤の副作用で脱水症状が出やすくなっています」

 

 できる秘書然とした容姿の女性だ、言うべき事は言ったという感じで首を軽く傾げ、タブレット端末を操作し始めた。

 直人は肩の力を抜き。渡されたスポーツドリンクの蓋を開ける。口を付けると、実際脱水症状に近かったのかもしれない、ただの変哲もないスポーツドリンクが恐ろしく旨く感じた。

 水分を摂り、やっと人心地ついた気分の直人は一つ瞬きをし、息をつく。

 

「病院に運んでやっても良かったんだが、君の意識が戻ったらすぐ聞きたい事があってな」

標津(しべつ)さん、聞くより最低限の自己紹介なりはすべきでは」

 

 助手席からそんな言葉が飛ぶも、男は耳を貸さず、直人に向かって言った。

 

「君が巻き込まれたのは異能による犯罪だ、訳わからんだろうがそういうもんだと思ってくれ。それで聞いておきたいんだが、巻き込まれたのは君一人か?」

 

 直人は顔を歪め、首を振る。

 みっともなく喚いてしまいそうな自分を抑えるため、拳ダコが出来た拳を強く握り、それでも足らずに左手で潰すように握った。

 

「違う、友達が居た。あいつが目的みたいだった。連れ去られ――」

 

 ぎし、と音が出そうなくらい強く歯を噛みしめる。

 黒蛇が無数に集まったような塊に夏希は飲み込まれていた。あれは本当に連れ去るなんていう生易しいものなのだろうか、と思ってしまったのだ。

 爪が食い込むほど握り込んだ拳に、大きな手が重ねられた。

 傷が二条走った凶悪な顔を歪ませ、ニヤリと笑い、標津は言う。

 

「すぐに追って助ける、安心しな。ああいう奴が居るんだ、そういう奴を取り締まる俺たちみたいなのも居る」

 

 目の前の男は夏希を攫った男より、三倍は増して悪どそうにも見える。ただ、直人は、信用できると感じていた。

 

 ◆

 

 昼間吹いた風のせいか、空気は澄み渡り、冷え冷えとしている。

 寒暖差は激しい、冬が戻ってきたような寒さに精一杯葉を伸ばしていた木々もどこかしゅんとしているかのようだ。

 大きな月が地を照らし、寒さにうなだれたものたちに、精一杯のぬくもりを分け与えているかのようでもある。

 そんな白々とした光に照らされ、無骨な、剥き出しのコンクリート作りのビル。ヒビが入り、蔦が這う三階建てほどの小ぶりなものだったが、明かりも漏れず、シンと静まったその様相は、どこかテーマパークのお化け屋敷めいて見えた。

 

「……こんな場所が?」

 

 遠巻きにその建物を見ながら、直人がつぶやいた。

 

「普通過ぎて意外か? でもなあ、結構多いんだよこういうの。空き家空きビルは増えるばかりだしな」

 

 標津がそう答え、ビルの近くから戻ってきた海別に、どうだ? と聞く。

 海別は頷き、メガネを持ち上げた。

 

「間違いないようです。感知、遮音、それに珍しい特性ですがおそらく熱源探知の性質を備えた結界が張られています。葉山君からの情報を(かんが)みても、類型外のタイプでしょう。とはいえ」

「ああ。お前さんの敵じゃなさそうだ。が、どうも胡散臭くてな……お前さんが居るのは相手も折り込み済みな感じだ。ついでに言えばやっこさんは俺の事も確認してるかもしれん、その状態で待ちを選ぶ。考え過ぎならそれで良いが……万が一の引き際は誤るなよ」

 

 はい、と真面目な表情で答える海別。

 標津は、さて、とつぶやき直人を見た。どこか困った弟を見るような目だ。直人は歯を噛み締めた。

 

「君の役割もこれで終わりだ。協力を感謝する。でな、来れるギリギリの線はここまでだ。これ以上は命の保証なんぞしねぇし、むしろ足手まといだ。待ってろ」

 

 厳しい言葉に直人は予測していたかのように頷いた。

 

「でも、行く。知らない所で全部始まって終わってたなんて嫌だ、俺は」

 

 標津は後頭部をガシガシと掻いた。

 顔を歪め、考えあぐねるように額を拳で叩き、やがて肩を落とした。

 

「……仕方ねえ、絶対に俺の後から出んなよ、それは守れ、摩周、お前付いてな」

 

「標津さん、甘いです」

「いや……だってなあ、女目の前でかっ攫われたんだぜ? そりゃお前居てもたってもいられんだろう」

「む……ん? ……ああ、良いです、仕方ありません。クロにも叱られました。雄がつがいを思う気持ちを無碍にするなと」

 

 クロ? と直人が不思議そうに言うと、標津は『犬神(いぬがみ)』だ、と簡潔に答えた。

 

「あいつと常に一緒に居る。俺にも見えねーけどな」

「いや……えっと、つがいってわけじゃ」

「がっはは、若ぇな、照れんな照れんな! ここで助けて良い雰囲気になったらそのままラブホに連れ込んじまえ」

「標津さんそれ多分ハラスメントに当たります」

「えー」

 

 標津は面倒くさそうにつぶやき、世知辛ぇとぼやいた。

 緊張をほぐすためにわざとそうして剽げているのだろう。その目は直人の状態を測っているようだ。

 本当なら一般人を現場に参加させるなんて常識破りも甚だしいのだろう、あるいは何かがあったら全ての責任は誰かが取らなければならない。その辺りは直人にも理解できた、理解した上で直人は感情から我儘を申し立て、標津という男はそれを許してくれたのだ。

 直人は礼を言おうとし、次の瞬間、何も終わってないという事を思い、口を結んで何も言わなかった。

 目をつぶり、深呼吸をし、心を平常に、そして少しの緊張を持たせる。

 

 世の中には異能ってモンがある。

 直人が常識を覆されたのはその一言が始まりだ。

 目を覚まし、ざっとその時の状況を話し終えた後の事だった。

 異能? と直人がオウム返しに聞くと標津は腕を組んで答えた。

 

「ああ。別に超能力でも魔法でも何でもいいが、わかりやすく言えばそういうもんだ。もっとも俺も学者先生じゃねーから詳しい事は知らねーんだがよ」

 

 大雑把に言えば、と缶コーヒーを開ける。

 

「これから科学で解明される事になる現象、科学だと説明が付かない現象ってのがあってな、昔からそういうのを人間も利用してたんだよ。細かい事言えば人間だけじゃないんだが」

 

 超自然って奴なんだろうか、直人はふといつか道長が言っていた、科学者ほど神の実在を信じているという話を思い出した。ああ、ほれと標津は手を打つ。

 

「ゲームとかやるだろ? ああいうのでよくある奴だ」

 

 がくりと直人の肩が落ちた。

 

「いや、説明するのが楽でいいよな、もっと流行っていいぞ魔法とか超能力バンバン使う奴」

「良いんですか、えーと、あれだ、じゃあ、そういうのでよくある秘匿のために口封じとか」

 

 無い無い、と標津は手を振った。

 

「前提としてな、こういうのは――」

 

 指を一本立てると直人のバッグが前触れもなく()()()()

 呆気にとられる直人に、標津はコーヒーを一口含み言う。

 

「一人一能力、しかも遺伝しねえし誰がどういう基準で発現するかも分からん、ついでに数も少ない。異能者自体は見つけ次第囲ってる。たまたまそれを見た奴が何か言っても信じられんさ。記録も最近は手軽にイジれるしな」

「補足するなら、国際協定により定められたルールがあり、各国の政府と共同で情報の基本的な抑制はされています。無政府状態、あるいは極端に政府の力が弱い国では別ですが、日本においては十分に機能している状態です」

「いや、お前なあ、若いのにそういう言い方しても伝わらねえだろうよ」

「伝わるか伝わらないかはともかく、それなりに言っておかないと職務違反になりますよ、一応記録取ってますし」

 

 海別の言葉に、固い奴だ、と標津は肩をすくめた。浮かんだままのバッグが重力を思い出したかのようにシートに落ちる。

 

「もっとも、今回は君に協力を求めなきゃならんからな、さすがに口封じとかはないが、守秘義務の誓約書には後でサインしてもらう事になる。まあ破ったところで摩周が罰金払ってくれるから安心していいぞ」

「何でいきなり俺を犠牲にするんスか!」

 

 運転席から上がる悲鳴を他所に、標津は続ける。

 

「うちの海別は変わり種でな、まあ色々手立てがあるんだ、でな、その手立てのために手を貸して欲しいのさ」

 

 協力と聞き、直人は一も二もなく頷いた。自分にできる事があるならなんでもやるつもりだった。

 標津はよし、と頷き、行くかと言う。

 直人は即座の行動に驚きを顔に出すと、それを見越していたかのように助手席から声がかかる。

 

「葉山さんが回復するまでに打てる手は打ってあります。警察に呼びかけ主要道の交通規制、及び分析班により潜伏先と思われる拠点を八ヶ所まで絞り込みました。近い場所から回って行きます」

「異能とかって、警察の交通規制で何とかなるんですか?」

「なります。異能と言ってもピンからキリまでですが、例えばサイコメトリーや透視能力(クリアボヤンス)などは便利ですが直接の物理干渉力は持ちません、そのたぐいでない相手にも一定の牽制を期待できます、今回は私の能力を知っているふしがあるので、特に有効でしょう」

 

 私の能力、と聞いて直人は不思議そうな顔をした。

 それさえも見抜いているように、タブレット端末から目を離さず、何やら操作を続けて海別は言う。

 

「私の感知能力は駒ケ岳市全域にかけて有効です。遠くなれば分かりにくくはなりますが、異能が用いられればその地点が分かります」

「っていう馬鹿広い探索領域持ってるからついた名前が『犬女』だよ。過去大きな事件解決に持っていった事があってな。悪党連中に広まったらしい、言い得て妙というか、良いところをついてるっつーかな」

 

 標津が言葉を引き取りかき回す。海別は振り向き冷たい視線を後に送った。

 摩周がひええと声を出す。

 

「標津さん車内温度が低下するから勘弁して下さい、現場行く前に事故りますよ」

「その時は我が班の責任者、摩周春樹の渾身の土下座で何とかしてもらうさ、頼りがいのあるリーダーっていいなあ」

「話が進みません」

 

 ぴしゃりとやられて男二人はしゅんと黙り込んだ。

 海別は続けた。

 

「勝手に呼ばれている名前はともかく、私の能力は応用性が高く、感知はその一側面です。葉山さんに協力を求めたいのは、あなたを媒介とした能力行使による犯人の追跡です」

 

 海別は、これも言っておかなくてはいけないのですが、と前置きし、口を開く。

 

「あなたを媒介とする事で、葉山さんが敵対者から脅威と見られ、反撃を受ける可能性があります。サーチトラップ型の能力も、またそういう道具を作り出す異能者も存在しますから」

「朱里さんいつもあっさり探索(サーチ)してませんでした?」

「トラップが起動してもこちらに届く前に解体すれば問題ありません」

「なんか凄い事言ってません?」

「言いながら私もちょっとどうかと思いました」

 

 コホンと咳払いをし、海別は流れを戻すようにそれはともかく、と言った。

 

「極力危険は排除しますが、異能者相手にリスクが完全にゼロになるという事はありえません。それは承知していて貰いたいのです」

 

 その上で協力してくれますか、と聞き、直人は頷き、肯定の言葉を返した。

 標津が空になったコーヒーの缶を潰し、ゴミ袋に入れながら言う。

 

「長々となっちまって悪ぃなあ、うちの部下真面目でさあ」

「ほ、ん、ら、い、はリーダーのやる事なんですが、上司」

 

 言葉に込められた怒気に運転席の摩周が悲鳴を上げ、標津は柳に風と受け流した。

 走る車の中で、直人はまだ怠さを感じる体を起こし、聞いた。

 

「それで……俺は何をすれば、良いんでしょうか」

 

 海別は直人に向き直り、特には何もしなくて良い、と言う。

 

「地点到着後あなたの持つ(えにし)を通じて、力を周囲に向かって流します。犯人はおそらく結界を張って潜伏しているので、その場合特殊な反響になります。いわば潜水艦の探知機(ソナー)のようなものと考えてくれれば良いかと」

「……(えにし)?」

「何となくのニュアンスで捉えて貰えば良いです、あなたの知人友人家族につながる霊的な線のようなものだと考えて下さい」

 

 では、と海別はメガネを持ち上げ言った。

 

「第一地点到着までまだ間があります、蹴撃した犯人像の詳細、それと攫われた佐藤夏希さんの直前までの事で変わった事が無かったか、葉山さんからの視点で教えて下さい」

 

 ◆

 

 突入は無造作に行われた。

 遠慮の一欠片も、躊躇やためらいの一欠片もない歩みで標津が正面入口から堂々と入り、さすがに動きやすそうな靴に履き替えた海別がそれに続く。

 二人の姿が小さなビルに消えて数秒後、轟音が続けて響き、爆圧でもかかったかのように一階のフロアの窓ガラスが全て吹き飛んだ。

 そして三度の破砕音。

 静かになり、ややあって、渡されたインカムから「入ってきていいぞ」という声が届いた。

 

「ひとまずここは制圧した」

 

 標津が階段に腰を下ろし、煙草を吹かしている。

 周囲には瓦礫が散乱し、どういう事態があったのか、壁には大きな穴、そして天井に焦げ跡もあった。

 余裕っスね、と言う摩周に、そりゃな、と答える標津。

 

「とりあえず分かった事が一つ。ほぼ確定で相手は黒縄(こくじょう)(ヤン)だ。昔一度追っかけた事があるんだが(トラップ)の張り方が一緒だわ」

「げ、有名どころじゃないですか、俺と彼ここに居て大丈夫なんスか?」

「平気平気」

 

 そう言い、標津は手をひらひらと泳がせる。

 

「ガチ戦闘系ってわけでもないしな、罠も時間稼ぎに終始してその間に逃げる奴だ。今海別がかたっぱしから解体してるが、本人はとっくにここに居ないって可能性の方が高ぇや」

 

 その言葉に何もやり返せないのかと直人は歯噛みをし、いや、と首を振る。

 海別の話通りなら少なくとも夏希はここにいるのだ、ならそれで良いじゃないかとも。

 それでもやっぱり悔しさはこびりつくように残っていたが。

 黒縄の楊という名前は事前情報として知らされていた名前だった。

 直人がした話から割り出された異能者の名だ。その時点では確率が高いというだけだったが、確定らしい。

 世界を転々とする蒐集家(コレクター)であり盗人、異能者が作り出した特殊な道具、魔道具とも霊具とも呼ばれるそれを専門に狙い、売り払う。盗品を横流しするブローカーでもあるらしい。

 

「佐藤さん宅に護衛やっといて正解だったな。夏希ちゃんは人質に攫われた公算、大だ」

 

 そう言い、標津は中ほどまで吸った煙草を落とし、踏みにじって火を消す。

 ふっと訝しげな顔になると、おいおい、と言い身を翻そうとし、思い出したように振り向き、言った。

 

「お前らはそこで待機、いいな?」

 

 返事も聞かずに階段を駆け上がる。 

 何が、と追いかけそうになる直人を摩周は手で止めた。

 

「楊が居たんですよ、戦闘向きじゃないとはいえ僕や君みたいな一般人には危ないですねえ」

 

 直人以外にはインカムを通して通信が入っているようだった。

 摩周はジャケットの懐に手を入れると拳銃を取り出し、スライドを引き、上に向けて構える。

 

「……実銃ですか?」

「警察権は無いんスけどね、仕事が危ないもんで特例で認められてます。麻薬取締官(マトリ)みたいなもんですね」

 

 とはいえ、と摩周は肩をすくめる。

 

「9mmパラ程度じゃ驚かせるのがせいぜいっていう事も結構あるんで、こいつは当てにしないで、いざって時の、逃げるための牽制用と思っておいて下さい」

 

 にへら、と気を抜かせるような笑いを浮かべた直後だった。

 人の悲鳴が、響き渡った。

 

「な……つきッ」

 

 少女の声だ。

 何年も一緒に居て聞き慣れた声だ。

 同時に聞いた事もない。

 作り物(フィクション)でしかありえないような、断末魔のような叫びなんて、聞いた事もなかった。

 直人は指示も、摩周の存在も忘れて階段を駆け上がった。

 摩周は制止しようとしたが、すでに出遅れている事を感じ、その背中を追う。

 悲鳴は続いている。

 弱まっている。

 ところどころに傷が付き、瓦礫が落ち、明かりもない廊下を手に持ったわずかな光源で照らし、時折足を取られながらも、全力で走った。声の元へ、声の元へ。

 ――部屋から明かりが漏れていた。

 扉は獣が食い破ったように千切られ、開いている。

 もはやかすれたようなか細い声はその部屋の中から聞こえていた。

 見境もなしに飛び込むと、直人は何かに物凄い力で引っ張られ、そのまま床に叩きつけられる。

 

「がっ……」

「何で来たッ!」

 

 同時に標津の怒声が飛ぶ。

 次の瞬間、思い至ったのか、いや、と首を振り言った。

 

「あの悲鳴で来ねえわけがねえか……」

 

 声は止んでいた。

 床に押さえつけられたまま、直人は顔だけを動かし、それを見た。

 黒い蛇がのたうっている。それは文字にも絵にも見える不思議な模様を描き、流動し続けていた。

 魔法陣のようにも見えるその中心に、二人が居た。

 椅子に縛り付けられ、呆然の表情で天井を見上げる夏希、そして直人を襲った凶相の男。

 男と夏希の縛られている椅子からは、四隅に置かれた光源のせいか四方に影が伸び、その影から無数に黒い蛇が生まれ、沈んでゆく。

 何が起きているのかわからない。

 ただ、そのままにはしておけないはずだった。

 直人は全身の力を込めて身をよじり、視線を動かすと、標津と海別が険しい表情でそれを見ているのが分かった。

 

「なんで、だ。早く……止めてくれ!」

 

 標津は答えず、忌々しげに眉を寄せる。険しい顔がさらに険しくなった。

 口を開いたのは海別だった。

 

「現在、相当精密な仕掛けで佐藤夏希さんは内部干渉を受けている最中です。今私達が外部から破壊すれば、悪くすればどころではなく、逆流した力により確実に彼女を廃人にしてしまいます」

「……ああ、最悪だ。読み違えたぜ。佐藤夏希、彼女そのものにアイツは用事があったんだ」

 

 標津はそう、呻くように言った。

 

就是(その通り)。俺は時間を稼ぐだけで良かった、お前らに見つけられ、追い詰められても良かったのさ。手が合ったからな」

 

 蛇ののたうつ円環(サークル)の中心で男は口の端を上げ、勝ち誇った笑みを浮かべる。

 

「こいつはすげーぞ、目利きの俺が言うんだから間違いない。錬金術師の最高峰“ゾシモス”の名を冠したラファエロ・コーテッサ、稀代の人形師にして造形師、その作品だ。売れば千金、間違いないがここは一つ、単純な力として使うとするかァ?」

 

 その言葉にどんな意味があったのか――

 標津は目を見開き、おいおいとつぶやいた。

 自然体で立っていた姿が、両足を開き、両手を軽く持ち上げる。

 直人にはそれが一つの構えのようにも見えた。

 気づけば直人の体にかかっていた重圧はない。身を起こし、()()()()()()()()()に見入っていた。

 色が抜け落ちていく。

 人間であった事をやめるように、ぽつりぽつりと淡いものが体から浮かび、宙に消え、その度に色が抜けてゆく。

 髪が白く。

 眉も白く。

 肌も白く。

 透き通るような肌の下の血の色だけは変わらないのか、唇の赤さはより鮮明に見えた。

 その変化を見て、楊はたまらぬ、と言ったように首を振り、溜息を吐いた。

 

「……真白(しんぱく)のホムンクルス、はは。幻の一桁台か、お宝だと思ったが……これほどかよ。なんでこんな所で遊ばしてンだよ、ひひ、はは。天才の考える事はわけわからねえなホント」

 

 風が巻いた。

 不可視の力の奔流。

 直人にはそれを明確に感じる事はできなかったが、そういうものがあったのは分かった。

 楊と夏希を囲んでいた黒い蛇とも縄とも見えるものが散らされている。切れ切れに寸断され、元からそんなもの無かったとでも言うかのように、薄れていった。

 

「……こいつァ、聞いていた以上だな。意識無しでこれかい。オペラ座を抜ける時には一体で百人相手にしたらしいが、こりゃ半端ねーな」

 

 楊は声を立てずに引きつるような笑いを上げ、指を夏希の前で複雑に動かし、起きろ、と言った。

 白い夏希の目がゆっくりと、しかし無機質な動きで開き、紅い、紅玉(ルビー)のごとき瞳が男を写す。

 

「倒します、誰ヲ?」

「あ?」

 

 ぼん、とコミカルと言えなくもない、軽い音がした。

 コミカルなどとはとても言えない惨状が広がった。

 支えを失った、男の胸から上の体が重力に引かれ、立ったまま残っていた膝から下だけの足の上に落ちる。ぐしゃり、べちゃり、と鈍く、液体の散る音が聞こえた。

 

「え……?」

 

 最後まで事態を飲み込めていない、そんな疑問の一文字が楊の最後の言葉になった。

 夏希は軽く手を前に動かしただけだった。拘束具などは意味をなさずにちぎれている。

 爆弾でもそこにあったかのように楊の胴体が吹き飛ばされ、粉々になり、血飛沫となり背後の壁を赤く染めた。

 

「逃しますか?」

 

 呆然となる直人の近くに、いつの間にか駆けつけていた摩周が居た。

 標津は、いや、と言う。

 

「近場に居た方がまだマシかもしれねえ、俺と海別の後から出るなよ」

 

 手を前に出したまま動きを止めている夏希の様子を探りながら二人はじり、と距離を詰めた。

 

「佐藤夏希さん? 私達は敵ではありません。言葉の意味はわかりますか?」

 

 海別がそう呼びかけると、夏希はただ声が聞こえたから見た、というようにひどく無機質な動きでそちらに顔を向ける。

 

「私ハ、倒します?」

 

 不思議そうな声音と、体の動きがまるで噛み合わない。

 そんな様子で立ち上がり、夏希は手を持ち上げ、そして何も起こらなかった。

 一筋の風がそよぎ、海別の髪を揺らす。

 

「噛み千切りましたが、標津さん。底が知れません」

「威力のほどは?」

 

 夏希はそのままの状態で一回まばたきをした。

 何をしたのか風の渦が巻き、直人にすら感じられるほどの力が収束する。

 それが無造作に放たれ、海別の立っている場所の外が脆く崩れ、破壊され、瓦礫が散弾のごとく後の三人に向かい、それが全て弾かれる。

 こりゃまずいな、と標津がつぶやいた。

 

「葉山君よ、悪く思うなよ。ほっとくにゃマズい事になった」

 

 言葉と共に直人の意識が薄れる。強制的に眠りにつかされるような違和感に目を見開き、抵抗しようとする。

 しかし、どうにもならなかった。

 悔しげな表情で目を閉じる直人の体を親指で指し、標津が言う。

 

「運んどけ、お前もできるだけ離れて待機、報告も入れ――ッ!?」

 

 能動的な動きを見せなかった夏希が目前の海別を無視し、標津に攻撃を放っていた。

 受け止め、逸し、力を上に逃す。

 圧力に耐えきれなかった天井があっさりと撃ち抜かれた。

 

「本格的に……ヤバいなッ!」

 

 標津は豪腕とも呼ばれる事になった能力、捻りも、てらいもない、ただ出力だけが馬鹿高い念動力(サイコキネシス)を全開にし、あくまで無機質に攻撃を加える佐藤夏希に応戦した。

 

 ◆

 

 瓦礫を月明かりが照らし出していた。

 つい先日までは壁や床であったはずの砂礫が風に舞い、飛び散る。

 不自然なほどの静けさ。

 結界が未だ作用しているのだろう。

 小さなビルはもはや廃墟とすら呼べるものではなくなっていた。

 いかなる力を以てしたか、一階から天井に向かい放射状に穴が空いている。上から見ればすり鉢のようにも見えるかもしれない。倒壊していないのは外壁のみでも残っていたためか。

 静謐の中で、倒れている少年を労るように、ひどく寂しそうに、白い少女が膝を貸し、その寝顔を見続けていた。

 

「……く」

 

 少年が苦しそうな声を上げ、大きく息を吸い、目覚める。

 目覚めた直後、自身の状況がよくわからないのか、真上に見える少女の顔を見て呆けた表情を浮かべた。

 

「な、夏希? お前……」

「うん……」

 

 少女は悲しそうに笑うと、大事なものを扱うように少年の収まりの悪い髪に手ぐしを通す。

 数秒し、やっと自分が何をされているのか理解したのか、少年が軽く混乱した様子で起き上がった。

 動揺している場合じゃない、と言わんばかりに首を振り、少女を見、言った。

 

「お前、大丈夫か、意識は!?」

「うん。平気だよ。制御術式に自己修復があるのすら分かって無かったみたい。強制的に書き換えられそうになって自己防衛とちょっとの誤作動を起こしてただけ」

 

 それでは――

 それではまるで自分がモノのようではないか、と少年は思った。

 

「夏希……お前は」

「ごめん、葉山くん。あたしは全部思い出しちゃったから。そういう意味では……誤作動はまだ続いているのかもね」

 

 そう言い、少女は立ち上がる。

 何となく、嫌な予感がした少年は立ち上がり、一歩歩み寄った。

 

「わかんねえよ。夏希は何言ってんだよ」

「うん。ただ、これ以上居れないんだ。だからごめん」

 

 少女はそう言うと、とんと足元を蹴る。冗談のように少女の体が浮き上がり、二階の窓枠があった場所に足をかける。

 

 ――あたしを忘れて。

 

 そんな言葉を残し、白い姿は消え去った。

 少年は力尽きたように膝を突き、歯を噛みしめると、拳で床を叩いた。

 瓦礫だらけの床を、どれほどの力で叩いたのか、空手で鍛えたはずの拳から血が滲む。

 

「何が……忘れろだよ、冗談じゃねえ」

 

 少年は立ち上がり、周囲の惨状とは裏腹に、自分の体には傷一つ無い事にようやく気づく。

 ここに来る前渡されていたLEDのライトが転がっている事に気づくと、それを拾い、点灯する事を確認した。

 

「インカムはどっか行っちまったか」

 

 つぶやきながら周囲を照らすと、瓦礫から避けるように二人の男と一人の女が寝かせられている事に気づく。

 近寄り、傷だらけだったが、息がある事を確認して少年は安堵の溜息をついた。

 揺すり、声を掛けてみたが目覚める気配は無い。

 少年は数秒、悩むように夜空を見上げ、やがて視線を戻した。

 

「救急車は呼んでおきますから」

 

 そう言い、身を翻す。

 瓦礫を踏み散らす音は遠くなり、やがて再び不自然すぎる静寂に包まれた。

 

 唐突に空間に音が入ってきた。

 風の音、虫の音、街路樹の揺れる音、車のエンジン音、遠くで慣らされたクラクション。

 深夜であろうと人の街なら当たり前な雑多な音が静謐な空間を揺らす。

 ジャリジャリと無造作に瓦礫を踏む音がした。

 夜に溶けそうな少女だった。

 月明かりに照らされ、青くも見える金の髪を揺らせ、少女はつぶやいた。

 

「変な結界があると思ったら……死体ひとつに気失ってるのが三人か。やっぱ組織同士でドンパチ? やだねえ、どこの世界でも戦、戦って」

 

 少女は呆れたような達観したようなもの言いをし、体重を感じさせない歩みで倒れている三人の側に行き、その状態を見て、不思議そうに首を傾げた。

 

「……よく分からない状況だなあ」

 

 まあいいか、とつぶやく。

 

「一応知らない顔じゃないしね」

 

 少女はスマートフォンを取り出すと、知り合いに電話をかける。

 成人三人、ついでに瓦礫の下に死体が一体。何をするにせよ、少し人手が必要なようだった。

 



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五話

 駒ケ岳市は北と南で空気が違う。

 北は片田舎、南側は市が戦後行った学校への誘致政策により高校や大学が増え続け、一つの学術都市のようなものになっている。活気があるのは南側だろう、娯楽施設も、宿泊施設も多く、スポーツのための施設も揃っている。

 そして北でも南でもない東側、旧街道に沿った古い町並みがまだ残る場所にその小さな診療所はあった。

 外見はあまりパッとしない、少なくとも若い人は喜んで入りたがるような外見ではない、昔からある地域の小さな診療所という見た目だ。診療科目は外科を謳っているくせに、ついでのように脳神経外科や内科、整形外科とも看板にある。何とも怪しげな診療所でもあった。

 入院用に設けられた部屋もその規模に見合ったもので、そう多くはない。その数少ない病床に大柄な、ひどく顔つきの悪い男が寝かされていた。よほどあちらこちらが傷ついていたらしい、包帯が巻かれていない場所の方が少ない。

 隣のベッドに寝かされているボブカットの女性の方はそれから見ればまだ軽症のようだった。少なくとも男のように腕と足をグラスファイバー製のギプスで固められ、宙吊りにされてはいない。

 カラカラと、その部屋にストレッチャーに乗せられた男が新たに一人加わった。

 付き添っているのは返り血らしき血を浴びている初老の医者と、イリスだった。

 

「よーし、そっち引っ張れ、引っ張ったら患者転がしてマットを抜きな」

 

 乱暴な指示ながらもおおまかには判る。

 イリスは言う通りに患者をベッドに移し替え、タオルケットをかけて頷いた。

 医者もどっかと椅子に腰掛け、緊張を抜くように息を吐く。

 

「実際見てみりゃ、最後の若いのの方が危なかったな。失血性の昏倒とか結構危ねーんだよ、まったく、最初の奴はなんだありゃあ、重傷も重傷のくせに血圧低下も無し、おまけに大体の傷は縫合要らんぐらいにぴったり合ってやがる」

 

 あんな医者要らずの重傷者は初めてだ、とこぼした。

 

「で、だ、一応六咬会からの伝手ってこって受入れたが」

「どういう理由(ワケ)でとか?」

「いや報酬(カネ)はあるんだろうな中学生、保険なんて適用しねえぞ」

「残念、高校生で通ってる。というか見た目中学生からきっちり金取ろうってのも凄いね先生は」

 

 医者は肩をすくめて返す。

 

「こんな時間にヤクザの名前出して診させる奴に子供も大人も無いもんだ」

「ごもっとも。丸山名義で適当にそっちの方に請求だしておいてくれればいいよ」

「おいおい、若頭サンか? 騙りだったら大変な事になっちまうぞ」

「保証人だから大丈夫」

 

 イリスは手をひらひらと振る。

 カバーストーリーではあるもののまるきりの嘘というわけでもなかった。この辺り一帯を取り仕切る広域暴力団、六咬会とはそれなりに良好な関係を築いている。

 医者は大げさな身振りで両手を上げ、言った。

 

「まあ金が入るんだったらいいさ。とりあえず処置は終わったし俺は寝かせて貰うぜ、通用口は開けといてやっから出入りは勝手にしな。痛みが出たら薬を置いてある分だけ飲め、容態が急変したら救急車でも呼ぶんだな」

 

 冗談か本気か分からないような事を言って病室を出て行く。

 それを見計らったように、寝かされている大男が口を開いた。

 

「ちっと疑問もあるが、礼を言うぜ。吉野ちゃんだったか?」

「おぉ、起きてたのかい?」

「目覚めて150秒ってとこだ、カップラーメンならちょっと固めだな」

 

 そんな冗談を面白くなさそうな顔で言い、身を起こした。

 

「……一番重傷だって話だったけど?」

「覚えときな、世の中のおっさんはみんなタフガイなんだ。ところで、初めましての挨拶は省いていいな?」

 

 前日の接触の事を暗に言っていた。お前は俺に気づいていたのだろう、と。

 イリスは頷き、言った。

 

「私としてはあなた達の背景にも興味があるんだけど、とりあえずそっちの聞きたい事に答えるよ」

「そりゃありがたい」

 

 標津(しべつ)は頭を掻こうとし、右手に点滴、左手は固定され吊られているのに気づき、どうにも決まりの悪そうな顔をした。

 

「とりあえず、さっきの話でここがそれなりに秘密を守ってもらえる病院だってのは分かった、気を効かせてくれて助かる。金は後で払わせて貰うよ。聞きたいのは俺たちが助けられた状況だ、()()()()()()?」

「どうもこうも、空爆でも受けたような廃墟に三人揃って寝てたよ」

「……三人だけだったか?」

 

 イリスは頷き、少し首を傾げ、後は死体が一体、と指を上げる。

 普通の女子高生にはあり得ない話しぶりだ。標津も違和感を感じたがそれはひとまず置いておき、言った。

 

「詳細はこちらも把握しきれてねえんだが、あの場所には葉山直人ってのも俺たちと居たはずなのさ。それに佐藤夏希っていう……あー、なんだ、女子高生もな。学校同じだろ、知ってるかい?」

 

 イリスは表情を消した。

 標津はうっすらと寒気を感じ、内心で感じた動揺を表に出さぬよう押しとどめた。

 

「直人が? 佐藤さんも? どういう経緯かな?」

 

 標津は、下手を打ったかと一瞬思った。どうやら彼女は二人とそれなりに親しい間柄らしい、感情的に動かれてはさらに面倒になると。

 どう話すべきか悩み、それ以前に現状、当の二人の行方が知れていない事を思い出した。

 馬鹿か俺は、とつい口から漏れる。

 イリスは顔を近づけ、標津の目を真っ直ぐに見て言った。

 

「突拍子のない話でも良い、言えない事は言わないで良い。二人に何があってどうなっているのか教えて欲しい。私は二人の……いや、一人はあまり親しくないけど、うん。力になりたいんだ」

 

 標津は目を細め、諦めたように溜息をついた。

 

「俺ぁ動きが取れねえし、同僚はスヤスヤ寝たままだ。なのに事態は一刻を争うのかもしれねえ。全部話すってわけにもいかねえが」

 

 そう言い、細かい説明は省いたものの、一連の事情を話した。

 イリスは疑う顔も見せず、頷き、言う。

 

「わかった。直人の方は私で当ってみる」

「ああ、もし佐藤夏希を追っているんなら、引き止めてくれ、危ねえ。確率は低いとは思うが連れ攫われてた場合、絶対に近づくな。佐藤夏希についてはこっちの仕事だ、一応組織なもんでな、これから連絡してすぐ人員を出させる」

「ほいな」

「わかってんだろうな?」

「ほいさ」

 

 念押しにとても適当な声を返し、イリスは病室を出ようとし、寝ている男よりさらに大柄な人影に気づいて止まった。右手を上げ、お帰りと声をかける。

 

「オーナー、あの連中は目ぇ覚ましたかな?」

「ん、一人だけね」

「それは良かった」

 

 のっそりと病室に入ってきたのは2mにも届こうかという黒人だった。彫りの深い顔に細い目が覗き、整えた髭を蓄えている。分厚く、幅の広い体にかっちりとしたバーテン服を着込んでいた。

 不審げな顔になる標津に、イリスはあー、と声を出し男の肩にボディタッチしようとしたが、身長差が有りすぎ、仕方なく腰をポンと叩いた。

 

「私が持ってるバーの店長のロドリゴだよ。君たちを運ぶのを手伝って貰ったんだ、そっちと質は違うだろうけど裏社会にはどっぷりだから安心していいよ」

「お嬢ちゃんはホント何者なんだよ……」

 

 標津が疲れたような息を漏らす。

 ロドリゴと呼ばれた大男は実に同感だと言いたげに頷き、肩に担いでいた荷物、誰がどう見ても寝袋にしか見えないそれを床に下ろした。

 

「死体だ。必要かもしれないので一応保存処置を」

 

 そう言い、ジッパーを下ろすとビニール袋にくるまれ、氷に包まれた(ヤン)の顔が見える。

 む、と標津が目を見張り、ややあって礼を言う。

 

「おつかれ、んじゃ悪いけど私は行くよ、ロディも仕事に戻ってて」

 

 そう言い、身を翻す金髪の少女を見送り、居るだけで部屋を狭くしそうな二人の男は視線を交わしてどちらからともなく苦笑いを交わした。

 

「標津だ、標津正武。こんなザマ見せてすまないが、世話になったみたいだな」

「ロドリゴ・エンゾだ。あんたが友好的な限り美味い酒を出すバーの店主さ、ボンホアって所だ、恩に着て一杯()ってくれると嬉しいね」

「あの嬢ちゃんとの関係を聞いても?」

「シンデレラと魔女さ、ちなみに俺がシンデレラだ」

 

 そう言い、つるりと剃った頭を撫でる。

 標津は吹き出した。

 

「とんでもねえ灰被り姫が居たもんだ、WBCのヘビー級ランカーだったろ、世界王座挑戦(タイトルマッチ)は惜しかったな」

「日本人で知ってる奴が居るとは嬉しいね。十年も昔の話だが、ボクシングファンかい?」

「衛星放送契約するくらいには好きだな。それで――」

 

 何か聞こうとしたのを思い留めたように言葉を飲む。

 

「それで?」

「いや。童話の魔女とさっきの可愛いのと、どっちが滅茶苦茶かな?」

「そりゃ決まってる。美人の方だ」

 

 ◆

 

 月の明るい夜だった。

 午前二時、丑三つ時ともなり、一昔前なら妖怪や幽霊が出歩いているとも思われていた時分、夜の明るくなった現代でもさすがに人影は少ない。

 近隣の子どもたちが遊びに来るような、住宅地の中の小さな公園においては、なおさらだっただろう。むしろ昨今の風潮の中では深夜にそんな公園で徘徊する男でもいようものなら、一報され、事案になっていたかもしれなかった。

 街灯の下、置かれている素っ気もないベンチに座り、直人は溜息を吐き、スマートフォンを操作し、何か思い出す事はないかと地図を無闇にスクロールさせていた。

 一時的に通信状態が悪くなったのか、フリーズしたかのように止まる。

 衝動的にそれを投げ捨てたくなり、途中で思い直し、ベンチに置いた。

 両手で頭を抱え、目を閉じる。

 

「……くそ」

 

 弱い罵倒が漏れ出た。

 廃ビルから出た後、夏希の行方は杳として知れなかった。

 直人も思いつく限りは当たってみたのだ。夏希の家族は元より帰ってこない娘を探していたし、友人達とも連絡を取り、行き先と思える場所には行けるだけ行ってみた。

 しかしいない。

 見つからない。

 何とかしたいという思いは誰にも負けていない、だがそれだけだった。情報を集められる組織もなければ、海別のように特定の誰かを探し出せる非常識な手段もない。

 ただの高校生である直人の限界だった。

 くそ、と再度つぶやく。

 

「忘れろなんて、普通言わねえよな……」

 

 居なくなるつもりだ、と直感でなくとも分かった。

 精一杯やった、足が棒になるまで走った、一生懸命探した。

 もういいだろう、と弱音を吐く心があり、そんな自分に直人は、よくなんかねえ、と口に出し、拳を握りしめた。

 

「しかし……どうしろってんだ」

 

 力が抜け、明るい夜空を見上げる。再び溜息が出た。

 その視界の端に、いつかの焼き直しのように、金色の輝きがよぎった。

 

「やあ、こんばんわ。良い夜だね」

 

 そしていつかのような挨拶を投げかけてきた。

 

「……吉野……さん?」

「うん、私だよ。ただ、名前で呼んでほしいね、直人(なお)

 

 いつの間に来たのか、昼と変わらぬ制服姿のイリスがそこにいた。わずかな笑みを浮かべ、どこか人をからかうような悪戯そうな顔をして。

 直人は悪い、とつぶやいた。

 

「今はごめん、忙しいんだ。のんびり話してる余裕は」

「佐藤さんを探している?」

 

 その言葉に直人は血相を変え、思わず立ち上がりイリスに詰め寄った。

 

「知ってるのか!?」

「まずは落ち着いてね」

 

 いなすようにぽんと肩を叩くイリス。

 悪ぃ、と言い、気息を整えるように直人は息を深く吸い、吐いた。

 

「標津さんからは直人を止めてくれって頼まれたんだけどね」

「……もしかして知り合いだったのか?」

 

 直人の思考の中でつながって行く。イリスもあの夜の事といい不思議な部分があった。そして今日会った三人、異能者と呼ばれる人達、その背後にある協会という組織。

 

「いや、倒れてるのを拾ったんで診療所に放り込んできたんだよ」

 

 直人の頭がかくりと揺れた。つながった思考はあまり意味がなかった。

 とはいえと思い直し、言う。

 

「そっか、良かった。あの後俺も救急車は呼んだんだけどさ、詳しく説明する事もできねーし、あれで来てくれるのか不安だったんだ。その……容態は大丈夫だったか?」

「うん、とりあえずは問題ないみたい」

 

 そして目を覚ました標津から一通りのあらましは聞いた事を伝え、そして言った。

 

「止めてくれとは言われたけど、直人、君はどうしたい?」

「どうしたいもこうしたいも、俺は探すよ」

 

 そしてためらい、ややあって口を開いた。

 

「あいつ、隠そうとしてたけど、泣いてやがったんだ。それに、忘れてなんて言ってやがった」

 

 照れるように髪を掻き、どこか恥ずかしいように視線を外す。

 

「嘘つきなんだよアイツ。それも自分が我慢する方にばかり嘘つくんだ。怪我だって心配させたくないからって痛いのに表に出しやしない」

 

 そんな嘘が破れかけてる、無理もできなくなってる、そう続けた。

 

「そういうの知ってるからさ。俺が行かなくちゃなんだ。忘れろなんて言われたら、絶対に行ってやらなくちゃならないんだ」

 

 そこまで言って、直人は目の前のイリスの様子に気づいた。どこかぼうっとしている。

 イリスは、ああいや、と少し慌てたように首を振った。頬を掻き、溜めていた息を吐く。

 

「少しあてられて。いやあ、若いっていいよねえ」

 

 妙にしみじみとした様子で言うイリス、だが肝心の言った本人が直人より年下にしか見えない。

 羞恥よりも、どうも納得できない気持ちがしてむっすりと直人は顔を歪めた。

 イリスはまあまあ、となだめるように言った後、一歩近づき、下から見上げる。

 

「君の気持ちはよく解った。大丈夫だ、君も運は悪くない、こう見えて私はわりと何でも出来るんだ」

 

 そう言い、妙に頼もしげな笑みを浮かべてみせた。

 

 ◆

 

 直人は昔、空を飛ぶ夢をよく見ていた時期があった。

 何の影響だったかも分からない、もしかしたら勢い良く漕いだブランコから跳んでみたり、幼馴染と飛距離を競った鉄棒でのグライダー遊び、あるいはどこかで見たアニメか映画だったのかもしれない。

 夢の中では地面を蹴るとふわりと体が浮き、よくわからない不思議な力で綿菓子のような雲を突き抜け、その上で跳ね回り、何故か出てきたポップコーンを頬張ったりもしていた。

 高校生になった今でも、例えば真夏の暑い時期などは特に、歩くのもおっくうになり、追い抜いてゆく車を笑いながら空を飛べればなあ、などと妄想した事もある。

 そんな妄想がかなっていた。

 

「に、人間ってな生身で空飛んじゃいけねえな!」

 

 びゅうびゅうと音を立てる風に負けないよう、怒鳴るような声で言った。

 

「高所恐怖症だったかい?」

「違えし!」

 

 不思議とイリスの声はいつもの調子でも直人の耳に普通に届く。何かきっとまたよくわからない魔法でも使っているのだろう。そう思うことにした。

 魔法、そう魔法だろうこれは、と直人は思った。

 なにせ箒にまたがって飛んでいる。魔女の正式な飛び方だ。ゲームやアニメや映画でお馴染みだ。

 イリス自体は、いつも魔女扱いされるので作ってみた、などと言っていたが。

 実際、箒自体はどこにでもあるものだった。ホームセンターで見かけるし、学校の物置には置いてある、ただの竹箒だ。どこからか飛んできてフワフワ浮いたりなどしなければ。

 その箒に二人乗りでまたがり、空を飛んでいる。

 直人が内心ではしゃいでいたのは実際にそれが動き出すまでだった。

 ひどく落ち着かなかった。

 当たり前だったかもしれない。足場も何もない空中で、竹の柄一本のみで体を支えているのだ。おまけにどれだけスピードを出しているのか、うなりを上げるような風が直人の体にたたきつけてくる。イリスが気軽そうに落ちたら助けると言ったが、それと本能から来る恐怖心は別物だった。両手でしっかり握った竹箒の柄も手のひらから出た汗でぬめり、今にも滑ってしまいそうだ。

 

「顔色が悪いよ? だから遠慮せず私にしがみついていれば良かったのに」

 

 そんな事を言うイリスは直人の前、柄の先の方にちょこんと横座りをしている。いかにも不安定そうな座り方だったがまったくそんな事は無いようで、直人を見てくすくすと笑う余裕すらある。さすがにその長い髪は邪魔になると思ったのか、まとめて服の下に流していたが。

 

「仕方ない奴だなあ」

 

 そう言うとイリスは体をひねり、直人を正面から両手で抱きかかえるようにした。

 

「な……おい!?」

 

 驚きの声を上げる。恐怖心とは別の意味で心臓が悲鳴を上げた。

 次いで思ったよりしっかりと支えられ、体が安定している事に気付き、目をしばたかせる。

 

「箒はある意味飾りだからね、確かに箒を通して飛行の術をかけてるけど基点は私なんだ。だからこうして支えると座りが良くなるわけさ」

「な……なるほど、よく判らないけど分かった。ところで前見てないけど大丈夫か?」

「さっきのシルフがまだ残ってたから目の代わりになってもらってる。目閉じても見えるよ」

「そ、そうか!」

 

 至近距離というか、密着状態だ。

 直人が大柄というよりイリスが小柄なため、支えるといっても形としてはむしろイリスが身を預けているようになっている。ちょうど胸にイリスの金色の頭が来る形だ、先程とは別種の緊張に晒されていた。

 

「ほうほう、かなりの動悸。これから女の子を助けに行くのに私に抱きつかれて動揺してる気分はどうかな?」

 

 ぐひゅ、と息を飲んだ直人の喉から変な音が出た。

 

「お……お前なあ」

 

 やっと呻くような声を出すと、イリスがくふふと笑った。

 

「最初から私に背中からしがみつかれるか、私の背中にしがみつくかを選ばなかった直人が悪いんだ。まあ、妹がもう一人出来たと思ってしばらく我慢してほしい。というか本当はその箒を握ってる手で私にしがみついてもらえるともっと安定するんだけどね」

「おま……さすがにそれは!」

「んむ、やっぱり胸がないとなかなか役得とは思えないものかな」

「そうじゃなくてな!」

 

 そんな緊張感の欠けたやり取りを交わしている間にも箒は飛び続け、さほど時間がかかる事もなく、北にある駒山の上空で止まった。

 

「ここは……」

「覚えがある?」

 

 箒はゆっくりと高度を下げて行く。

 高い位置からは森が一部消え去り、ゴルフ場のようにも見えたその場所。

 近づくにつれ月に照らされ、どこか不気味にも見えるロッジや、コースごとに設置されたリフトが見え始め、山頂近くにあるスキー場である事が分かった。

 雪が溶けて牧場のようにも見える草原に着地し、直人は周囲を見回す。

 

「夏希は……」

 

 イリスは箒を手に持ち、空いた手で北側の斜面を指差した。

 

「あの丘を越えた先。ところで君は彼女をどうするか、どうしたいかって決めてあるのかい?」

 

 直人は首を振った。

 

「あいつ自身が何も教えちゃくれなかったし、事情も分かってねえ。もしかしたら俺がどうやった所でどうにもならない事情があるのかもしれない」

 

 でも、と直人は後頭部をガシガシと掻く。

 

「少なくとも『何も知らない間に全部終わってた』なんて事にはならねえ」

 

 そしてふと気づいたようにバツが悪そうな顔になって言った。

 

「あーワリ、考えたらほとんど自己満な事情に手貸してもらってたかも」

「いいさ、他ならぬ君の頼みだ」

 

 イリスははっとするような穏やかな顔で笑みを浮かべた。

 ありがとな、と直人は言うと身を翻し――

 

「あ、ちょっと待った」

 

 服を捕まれ止められた。

 訝しげに振り向いた直人の額にイリスの手が当たる。

 

「ディオ、アドセム、ルセル、シェリ、フェスラ、リー、ラーナ」

 

 直人に聞き取れたのはその辺りまでだった。

 二重にも三重にも聞こえる声音、どうやって発音しているのかまったく分からない。そして意味の分からない言葉が数秒続き、直人は、自分の中に()()が流れ込み、消えてゆくのを感じた。

 

「……なんだ?」

 

 何か変わった事でもあるのかと思い、直人は無意味に振ってみるが、特に何かが変化した様子はない。以前の時のように疲労感が無くなったという事でも無い様だった。

 イリスは出来を確認するように少し首を傾げ、そして頷いた。

 

「魔女のおまじないだよ、特に何かが悪くなるわけじゃないから安心して」

 

 直人は不思議そうに、そうかと言い、よく判らないながらも何か意味があるんだろうと思い、礼を言い、改めて丘に向かい走って行った。

 草原で鳴く虫達のざわめきの中、イリスはふう、と小さく溜息を付く。

 

「少しは頼るそぶりでも見せればいいのに。まったくあいつは」

 

 そう言い、星の海が広がる夜空を見上げ、もう一度、まったく、とつぶやいた。

 

 ◆

 

 中学生の行事、林間学校の時の事だ。

 直人の通っていた中学の林間学校はそう変わった場所ではなかった。むしろ予算の都合からか、地元も地元だ。北の駒山、その山頂にあるカルデラ湖、諫見湖の近くに大きなキャンプ場があり、そこを借りて行われたものだった。

 キャンプ場とはいえ広い。小川が流れ、釣りもできるし、家族向けにアスレチックもなかなか本格的なものが用意されている。自由時間の折には生徒に目を光らせる教師の心労も大変なものだっただろう。

 そしてその自由時間の時に、霧が出た。

 山の霧だ、雲にすっぽり覆われてしまったかのような濃霧で伸ばした手の先も見えない。教師たちは慌てて生徒達を集め、確認してみたが、一人の生徒がどうしても見当たらなかった。

 佐藤夏希だ。

 彼女はこの頃まだ大人しく、同性の友達からのイジりともイジメともつかない嫌がらせを受ける事があった。

 受けている当人以外はただの遊び、子供にはよくある事だった。

 そしてこの時、そんなただの遊びが佐藤夏希を迷子にしてしまっていた。班で一緒にいたところ、彼女がトイレに行った所で皆で姿を隠してしまおう、などという戯れともつかないものだった。

 日が暮れても彼女は見つからなかった。事が大きくなったとしても公的機関に連絡し、捜索隊を出してもらうか、そんな事を大人たちが相談していた時、やっと本人が見つかったのだ。

 迷子になった夏希を探し出したのは、自身もこっそりと抜け出して探していた直人だった。

 あの時なぜ探し出せたのかは、直人自身よく分かっていない。

 大人たちが探していない場所を探そうと思ったのと、ただの理由の無い勘だった。

 あの時も、月が明るく、雲もなく、満天の星空の下で、疲れたようにうずくまっていて――

 

「夏希」

 

 直人のかけた言葉に、白い少女は何かに怯えるようにびくりと震えた。

 おそるおそる、と振り向く姿に、直人は中学の時は髪が長かったな、と場違いな思いを抱く。

 体操を初めた頃からショートボブとも言えるくらいに短くなっている髪は、色という色が抜け落ちたように白い。月の光を浴びてどこか青く染まるその姿は、恐ろしく幻想的だった。

 やっと言うように振り向いた夏希の、赤い瞳が揺れ、蠱惑的なまでに赤い唇が震えた。

 

「……葉山くん」

 

 どうして、と続けようとして、堪えられなくなったのか、涙が一筋こぼれ落ちた。

 直人はどうしようか迷った。彼自身何も考えていなかったわけではない、少なくとも最初にどう接しようかくらいは考えてもいた。ただ、そのあまりに寂しそうな顔と涙を見て、頭から全部吹っ飛んでしまった。

 迷ったあげく、もう一度名前を呼びかけると、ゆっくり歩み寄った。今の彼女はどうにかするとすぐに逃げてしまいそうな気もしたのだ。

 

「全部話してくれないか?」

 

 情緒もへったくれもない、単刀直入な言葉。

 ただ、それは正解だったようだ。

 夏希は一瞬呆気にとられたようにぽかんとすると、徐々に笑みが浮かんできた。

 

「うん。葉山くんらしいね」

 

 そう言い、一歩直人に近づいた。

 頭半分ほど自分より高い直人の目を見つめ、そして瞑目した。

 数秒、何か大事なものを刻むように。

 そして目を開け、言った。

 

「全部話すよ。そう、まず――」

 

 私は人間じゃない、人間に似せた『フラスコの小人(ホムンクルス)』だと。

 

 ◆

 

 偉品(レリック)というものがあるのだという。

 どんな存在が作ったのかすら判らない、()()()()()()()()()()()()()

 いつの間にか消えている事もあれば、形を変えて再出現する事もある。

 総じて人の身に余るほどの力を、あるいは叡智を与える物品。超一流の錬金術師をもってしても一部を解析する事がやっとの程のもの。悪魔が姿を変えたものとすら言われている。

 夏希の作り主は一つの偉品(レリック)を保持し、長くそれの研究をしていた。

 

「二百年、造物主(クレアトゥーレ)はそんな時間、ずっとそれの研究をしていたの」

「な……長いな」

 

 うん、と頷く夏希。何となく、といったように空を見上げ、続ける。

 

「十七年前、転機が訪れた。研究していた偉品(レリック)の主が生まれた」

「十七……? ってそれ、同い年か」

「そう。葉山くん、あなたの事だよ」

 

 は? と直人は予想外の言葉に呆気に取られた。

 夏希は苦笑し、そうなるよねと言う。

 

「えーと、じゃあなんだ、もしかして夏希の作り主ってのにとって俺が邪魔にでもなったのか?」

 

 夏希は首を振る。

 

「逆だよ、葉山くんは絶対に必要だった」

 

 偉品(レリック)はその正当な主でない限りは用いる事が出来ない。ラファエロにとってはようやく待ち望んだ事態に恵まれたのだと言った。

 偉品(レリック)は因果律の一部を操り、人の手を渡り歩き、あるいは動物や海の流れさえ動かし、いつの間にか主の手に収まる。それを知っていたラファエロは偉品(レリック)そのものに細工を仕掛けた。ただその場所を知らせるだけの細工だ、ラファエロほどの錬金術師であってもその程度の細工しかできなかった。

 

「そしてそれが人の手から手へ渡り、葉山くんの手元に届いたのが五年前」

「五年……それは」

 

 直人はこめかみに鈍痛を感じた。思い出そうとすると苦痛を覚えるものがある。なるべく思い出したくはなく、そして誰からも幻覚を見ているなどと言われ信用されなかった、自身ですらそれは夢でも見ていたのではないかという穴だらけの記憶。

 頭を振る。

 今大事なのは夏希の事だった。それで、と夏希に話を促す。

 

偉品(レリック)は五年前を境に反応が消えてしまったの」

 

 ラファエロは当惑し、だが諦めなかった。当然だろう、二百年も待ったのだ。偉品(レリック)の力はなくなっても形骸のみは残っており、その復活を待つことにした。

 そして、と夏希は言葉を切り、息を吐く、胸に手を当てて言った。

 

「その監視と万が一の護衛のために作られたのがあたし。佐藤夏希、本当の佐藤夏希は五年前に(クレアトゥーレ)に殺されてあたしとすり替えられたんだ」

「ん……な」

 

 直人は絶句した。ラファエロという錬金術師は非道も辞さない者らしい。そしてある意味間接的に直人のために佐藤夏希という少女は殺されてしまったという事にもなる。

 

「本当の佐藤夏希は病弱で、自宅と病院を行き来してる子だった。表に出ないから記憶をいじるのは少人数で済む。殺された理由はそれだけなんだ。お父さんもお母さんも、たったそれだけの理由で娘が殺されて、あたしを娘と思い込んでる」

 

 夏希は疲れたような笑みを浮かべた。

 

「あたしはあたしで五年間、ずっと自分の事、人間だと思ってた。今だって、幼稚園で遊んだ子の名前も顔も出てくる。でもそれは調べて記憶した、本当の佐藤夏希さんの記録」

 

 それにそれだけじゃない、と言った。

 

「葉山くん、私の主が必要なのは葉山くんの魂と体だけで、人格は必要がないんだ」

「魂と体……だけ?」

「うん、(クレアトゥーレ)は葉山くんの人格を書き換えて、自分の人形として使うつもり。だから――」

 

 罪を告白するように、夏希は言った。

 

「そのための術式をあたしも無意識のうちに葉山くんに組み込んでた。会うたび、会うたび、あたしは」

 

 声が震える。

 枯れたと思っていた涙はまだ溢れてきた。

 

「どうすればいいの、どうすれば。あたしは葉山くんを壊したくない、でも壊さないといけないの。もうあなたの偉品(レリック)は再起動を始めているから。あたしは逆らえない、そんな風には出来てない」

 

 夏希は幼女のように慟哭した。

 どうしようもない事に、抗えない事に。

 

「感情なんて要らなかった、こんな、こんな思いをするなら」

 

 直人には何もできなかった。

 考えても考えても、できそうな事がなかった。

 与えられた命令と反する感情、それをどうにかする都合の良い手段なんて何一つ持ち合わせていなかった。

 だから、単純に、泣いて震える女の子を抱きしめた。そんな事しか出来なかったから。

 そして言う。

 

「ごめん。俺は壊されるわけにいかない」

 

 腕の中で夏希が頷く。甘えるように一瞬つよく直人を抱きしめると、分かってるとつぶやき、顔を上げ、直人の唇を奪った。

 驚き、腕を緩める直人から夏希は離れ、やっちゃった、とにへらと相好を崩す。直人が見たことも無いような一番の笑顔を浮かべ、言った。

 

「葉山くん、あなたが大好きです」

 

 不意打ちの連続に呆ける直人からさらに一歩距離を取る。

 月の光のせいか、直人にはひどく白い少女が儚い存在に見えた。

 

「今度はちゃんと、わすれてね」

 

 そう言い、夏希はいつの間にか赤く揺らぐ手をかざし、己の胸に突き立てた。

 

「なっ……」

 

 夜目にも鮮やかな朱が舞った。 



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六話

 sosta、そんな声が夜に紛れたような気がした。

 時間が止まってしまったかのようだった。

 何かを感じ取ったのか、虫の音一つしない。

 流れ散る血が服を濡らし、滴り落ちた。

 白い少女の顔は苦悶に染まっている。

 自らの胸を貫く手、どんな威力があったものか、服の繊維をあっさりと切り破り、指の半ばまでが体に埋まっている。

 太い血管でも傷つけたのか、鮮やかな血が吹き出し、その手を斑に染める。

 

「ば……か、夏希!」

 

 血相を変え直人が少女に駆け寄り、自らを傷つけたその手をどうにかしようとするが、男の力であってもびくりともしない。

 

「な、んだよ、どうなってんだよ!」

 

 奇妙な状態だった。

 自らの胸に突きこんだ腕のみがぶるぶる震え、足も、もう片方の手も、石となってしまったかのように動いていない。

 

「――arresto(停まれ)

 

 夜風に混じり、そんな声がはっきりと聞こえた。

 夏希は悔しそうに顔を歪めた。

 

「葉山く……逃げ」

 

 その言葉を言うだけで力を使い果たしかのように。

 まるで生命など最初から持っていなかったかのように、表情が消え失せ、血に染まった腕は力が抜ける。

 傷口もまた服に空いた穴のみを残し、嘘のように消えていった。

 何も無かったかのように。

 服に染み付いた血の染みさえも薄れ、腕から垂れる血も霧散し消え失せる。

 直人は息を飲んだ。

 掴んでいた夏希の腕をおそるおそる放し、夏希、とつぶやく。

 

「我が命を重複させるか」

 

 声が聞こえた。

 低く、老人を思わせる錆びた声。だが、そこに弱々しさは欠片もなく、あるのは無機質さだけだ。

 声の出処が判らない。

 直人は周囲を見回し、次の瞬間驚愕にあえいだ。

 夏希のすぐ後ろに、老人とも壮年とも言える姿が居たのだ。

 瞬き一つの間に、そこに立っていた。

 服装には無頓着なのか、既成のものらしいスーツを着て、灰色の長い髪を乱暴に後ろに撫で付けている。その爬虫類のような、感情を感じさせない灰色の目でじっと夏希を見ていた。

 

「……なんだよアンタは」

 

 そう、言うだけ言ったが、直人も薄々は判っている。夏希を背中で庇うよう、前に出ようとし――

 庇おうとした夏希に腕を掴まれ、冗談のような力で無造作に放り投げられた。

 日頃の修練のたまものか、柔らかい草原だったのが幸いしたか、受け身を取った直人は擦り傷を頬にこしらえた程度で済み、すぐに立ち上がった。

 しかし体の傷は浅くても、心は大きく動揺していた。

 息が浅く、心臓は破鐘(われがね)を突くようだ、嫌な汗が額から流れ落ちた。

 

「なつ……き?」

 

 呼びかけには答えず、白い少女は無表情にただぼんやりと直人を見ている。

 判っている。直人にも判っているのだ。

 人の力ではなかった。そんな当たり前の力ではなかった。

 そして彼女は最後に逃げろと言いかけた。どういう事態になってしまうかなんて彼女自身が一番よく分かっていたのだろう。

 それでも、そうであっても直人は逃げるという選択だけは出来なかった。

 

「賢者の石の性質か。己にも可能性を導き出す――面白い結果になったものだ。要因は度し難いが」

 

 男は夏希を観察するように視、そう静かに話す。

 そして初めて直人に視線を移した。

 

「見ての通り、聞いての通りだ。ハヤマナオト、お前に感謝をする。お前の影響により我がネーヴェは主の意に背くほどの成長を得た」

 

 望外の成果だ、という男に、直人は何か引っかかる違和感を感じた、が、まずはと会話を優先させる。

 

「ネーヴェ?」

「雪という意味だ。緋石のごとく紛いものではない、賢者の石を核として用いると白、何にも成り得る真なる白が(あらわ)れる。ゆえに私はそれにちなんだ名前をつけているのだよ」

 

 敵だと内心で思ってしまっていたが、どうやら話をする気はあるらしい。

 直人はすぐに動けるようにだけ膝を柔らかく立つと、先程と変わらず何も表に出さない夏希を見て言った。

 

「夏希を……どうするつもりだよ」

「ハヤマナオト、お前の憂慮は理解しているつもりだ。人に向ける愛とは違いがあろうが、ネーヴェも我が娘に違いはなく、粗末に扱う事など有り得ん」

 

 そう言い、男は名乗った。

 ラファエロ・コーテッサと。まるで大した事もなさそうに、ただ口にした。

 その平凡さ、あまりに作り物じみた()()()()さに、かえって直人は戦慄した。

 

 ◆

 

「“ゲオルギウスの心臓”と呼ばれている」

 

 唐突に、ラファエロはそう言った。

 直人は突然出てきた名前に眉をひそめ、何だよそりゃ、とつぶやく。

 

「ネーヴェが話した、お前を主と定めた偉品(レリック)の事だ。四百年程前にプラハのオペラ座に安置され、二百年ほどは私が所有し、研究している」

 

 この男は、一体自分に何をさせたいのか、夏希をどうするつもりなのか。

 先の見えなさに直人は歯噛みをする。

 男は急ぐな、とでも言うかのように手を緩やかに振った。

 

「私はお前の疑問に答えるつもりがある。そしてお前は正確に自らの状況を知っておくべきなのだ」

「……それは」

 

 確かに何も知らないよりは、嘘か本当か判らない事でも知っておいた方がまだマシかもしれない。

 自分の理解を大幅に超えている話なのだ。

 直人は言葉が見つからず、押し黙る。

 男は肯定の意味と受け取ったか、一つ頷いた。

 

偉品(レリック)については太古より大勢の研究者が研究していたが、判っている事はひどく少ない。本来の機能と思われていた事が副次的な作用に過ぎなかったという事もままある」

 

 あまりにちぐはぐ。少なくとも用途を考えて作られた物、人の作る物とは根本的に異なる物なのだと言った。

 

「ただその“ゲオルギウスの心臓”については、強力ではあるが単純な効果ゆえ、多少の解析は進んだのだ」

 

 男は目を瞑り、感慨にひたるように数秒言葉を切った。やがて目を開き、言う。

 

「その名で知られるように、それはかつて聖人ゲオルギウスの所持していたもの。悪竜退治に赴く際に入手し、彼の不死性の(もとい)となった物だ。だが、調べを進めるとその不死性こそが副次的なものである事が分かった」

「不死が……副次的?」

「本来の機能は永久機関だ。熱力学を無視し、あらゆる理論、錬金術師の理学を無視する。有り得ぬはずの永久機関。概念としてのあらゆる力を供給する物であるという事だ。かの英雄はそれをただ個人の不死性に限定し、用いていたに過ぎない」

 

 直人は首を振る。

 スケールがよく判らなくなっていた。永久機関、聖人、単語としてだけなら聞かなくもない。現実感の薄い話がさらに無くなった気がする。

 ただ、不死なんて世の中の誰もが欲しがるようなものを、あっさりと、取るに足らないものであるかのように扱うほど、大きな話ではあるようだった。

 むろん、と男は続ける。

 

「今の段階ではまだ推定の部分も多い。私にはその力の発現を割り出し、計測し、推定を積み上げていったものに過ぎない。そして正確にそれを調べ、用いるには偉品(レリック)の主であるお前が必要なのだ」

 

 そして男は内懐から古めかしい、真鍮の首飾りを取り出した。

 ちゃら、と夜気に音が紛れる。

 さほど大きくはない、慣れた者ならピアスにもできるほどの大きさと重さの十字架(クロス)が先端についている。そして中心には瞳にも見える琥珀がはめ込まれていた。

 ()()()()()()()()

 だが、なぜそれなのか。

 直人は顔を歪め、動揺する自分を抑えようというかのように自分の肩に爪を立てた。

 それは形見だった。

 五年前、兄弟のようにして育った幼馴染が死ぬ直前にくれたもの。

 ――父さんから土産で貰ったけど、僕が持っててもって感じだし、直人(なお)のお姉さんにでもあげてよ。

 死んだ?

 直人はまた頭痛を感じる。本当に死んだのか。

 新聞に乗っていたように、交通事故で家族もろとも死んだのか。

 

「……それが偉品(レリック)だってんなら、アイツは、望も関わって?」

堂平望(ドウヒラノゾム)、あの少年もまた何らかの因子を持っていたのだろう、あるいは潜在的な異能者であったのかもしれない。偉品(レリック)そのものに干渉する可能性は低いが、初回の力の発現に干渉するというならば方法は少なくはない」

「お……教えてくれ。五年前、何が起こったんだ」

 

 直人に当時の記憶は無い、というより酷く曖昧で、夢を見ているような記憶しか残っていなかった。

 ラファエロはただ質問に答えを返す、というような無機質さで答えた。

 

「“ゲオルギウスの心臓”の不完全な発現、それによる暴走だ。無尽の力場が一点に溢れかえり、ある種の異界化を起こした。基点であるハヤマナオト、お前は助かったが最も近かったドウヒラノゾムは異界化した空間ごと世界から消失した」

 

 渦巻く空。

 歪む大気。

 変わる色。

 遠いはずなのに近い。

 空気のはずなのに固い。

 直人は人の認識をも超える光景が浮かび、あまりの理解のし得なさに呻きを上げる。

 ナイフで頭蓋を内側から掻きむしるような酷い頭痛が起こり、一瞬目の前が白くなった。

 

「異界化とは世界に規定された法則が修正不可能なまでに歪み、世界にもう一つの世界が出現する事を指す。法則の歪みきった世界の記憶は、フラッシュバックとして蘇るだけでも脳を()くだろう。過程は夢とし、結果のみを覚えると良い」

「ぐ……」

 

 結果のみ、そう。光景はどうでもいいものだった。ただ幼馴染が亡くなった時の曖昧だった事、それはようやく知れた。

 直人は胃の腑からせり上がったものを無理やり飲み下し、息吹を行い呼気を無理やり整える。

 目がくらむような感覚を表に出さぬよう抑え、言った。

 一つだけ、気になる事があった。

 

「あんた、望の家族に……手ぇ出したのか?」

 

 半分は勘だった。ただ、望がその時亡くなったとして、何故その父母まで共に死んだ事になったのか。

 ラファエロはわずかに顎を持ち上げ、感心したように、ほうと言う。

 

「まったく頭が働かぬというわけでもないか。答えよう」

 

 殺した、と端的に言った。

 直人は歯を噛み締め、くそ、と唸るような低い声で言う。

 

「なんで、なんで殺したんだよ……」

「念入りに調べる必要があった。異能は一般的には遺伝しないが、例外もある。また血筋を通し何者かを代々憑依させる者達もいる。結果的には父の方はただの運び手というだけであり、母の方はわずかに鬼道を受け継ぐ者との近似値があった、異能として発現する程ではなかったが」

「そんだけの理由で、ただ念のため調べるってだけで……」

「必要性があればやるというだけだ」

 

 直人はくそ、と内心で罵倒する。

 話が通じるから、何なのだと言うのか。

 ただ、単純に、ひどく単純な事に。せめて一発、殴ってやらないと腹の虫が収まりそうになかった。

 相手に知られぬよう、重心をかけようとし、固く、固く拘束されたかのように自分の体が動かない事に気が付き、愕然とする。

 ラファエロはやはり無感情に、ゆっくり歩を進め、直人の前に立つと言った。

 

「話に応じたのは偉品(レリック)の起動に必要かもしれぬのと、その主に対する礼意だ。質問が無いならば次の段階に移ろう」

 

 悔しさに歯噛みする直人の前でラファエロはゆっくりと十字架の首飾りを掲げ、儀式であるかのように直人の首にそれをかけた。

 どくん、と世界が鳴動するかのような衝撃。

 身動きできなかったはずなのに、揺れる視界。

 

「一年前、“ゲオルギウスの心臓”は再び動き出した。漏れ出した力のおかげで余計な者まで招いてしまったようだが、良い契機となったようだ。あるいは主たるお前の精神、その振れ幅に触発されたか、完全に復活したようだ」

 

 首飾りの十字架(クルス)から心臓へ、心臓から全身へ、得体の知れない力が脈動を続けながら大きくなって行くのを直人は感じた。

 唸る風は幻聴か、あるいは実際のものか。

 その中でラファエロの錆びた声だけが朗々と耳に入る。

 

「ネーヴェを通し、五年を掛けて呪をかけてある。“ゲオルギウスの心臓”の完全な起動と同時にお前の人格は私の精製した疑似人格に置き換わる事になる。安心せよ、記憶も引き継げるだろう。ネーヴェのようなものだ、否。それよりも完全に引き継げる事になろうか」

 

 白熱し、飛びそうになる意識の中で、そんな言葉が飛び込み、直人はそれの意味する事に思い至り、別の意味で真っ赤に頭が染まりそうになった。

 

「夏希……はどういう……」

「ネーヴェは佐藤夏希の肉を用い、創り出したものだ。記憶も一部残っているはず」

「あいつ……は、元の佐藤夏希の居場所を奪った事を……苦しんで、いたんだ!」

「それは興味深いな。役割上、特殊な作りにはしたが。ふむ……そろそろかな」

 

 もう直人には見えるものもなかった。

 過熱しきった力に耐えられなかったかのように視界は白く染まり、手足の感覚もない。

 苦痛は無かったが、ただ唸る風の音と、ラファエロの声が聞こえていた。

 

「あとわずかで私の術式は発動する。言い残した事があるなら言いたまえ」

「くた、ば、れ、ちき、しょ……」

「その憎しみは受け取ろう」

 

 そして直人の意識は、白く染まっていった。

 ただごうごうと唸る力の奔流がいつまでもうるさかった。

 

 ◆

 

 爆発が起こった。

 ただ、爆風も爆炎も爆圧も爆音も伴わないそれを爆発と言って良いものか。

 それを視ることができる者なら、無数の光の粒子が爆発的に渦を巻きながら広がる。星雲の誕生を早送りで見ているようだとも言ったかもしれない。

 広がった不可知の何かは、ある程度散った場所で空間の摩擦を受け、紫電を散らし、時には風を作り消えて行く。

 ある意味で台風のようでもあり、その台風の目は倒れ、弓なりに体をそらし、悶絶するように顔を歪めている一人の少年だった。

 

「……素晴らしい。漏れ出たものでさえここまでは。結界を張り直さねばならんな」

 

 男は感嘆を滲ませ、言う。

 その目は苦しみ悶える少年の姿を映して離さない。大事な実験の結果を見逃すまいとする学者の目だ。

 その後ろで、白い少女の様子が変化する。

 ただ無感情だった顔はゆっくりと歪み。涙が一筋頬を伝った。

 口が開き、声の出し方を思い出すかのように、ぱくぱくと動くとようやく、あ、と声が出る。

 

「ああぁ……」

 

 震えた手が持ち上がり、口元を覆った。

 

「葉山く……ん」

 

 やがて疲れように肩を落とし、罪人が牽かれるがごとき足取りで近づいた。

 

「……(クレアトゥーレ)

 

 その言葉にやっと男は少女が動き出したのに気づいたかのように言う。

 

「ネーヴェよ、かの力で命が解けたか。見よ、お前の成果よ。よくやった」

 

 男は目を少年から離さない。

 ネーヴェと呼ばれた少女はゆっくりと、疲れ果てたかのような足取りで進み、もう一度言った。

 

(クレアトゥーレ)

 

 そして朱に染まった手、手とさえ言えない、朱色の刃を形取るそれを男の背中から体ごと、ぶつかるように突きこんだ。

 

「ふむ」

 

 男は微動だにしなかった。

 髪一筋ほどの苦しみも見せず、血の一滴ほども流さず、何も無かったようにただ少年を観察している。

 興味深い、そう言うと腕が関節を無視し背中に動き、少女の首を掴むと、言った。

 

「私に害意を抱くほどになるとは。感情か。良い、育ててみよ」

 

 言うや、少年に向かって放るように投げる。

 それなりに勢いもあったのだろう、地面に落ちた時に草により小さな傷が無数に付くが、跡形もなく治っていく。

 そして本人もまるで気にしない。

 わななく手で苦しみ悶える少年の体を抱いて言った。

 

「葉山くん」

 

 ごめんなさい、ごめんなさい、と壊れたように、言っていた。

 

 ――力の奔流に抗う事も出来ず、ただ流されていた。

 力というのが判らない。それは風のように感じる事もあれば水のようにも感じる。火のように熱ければまとわりつく大量の泥のようでもあった。

 激流に飲まれた一枚の葉っぱのようにただ浮き沈み、回り、自分の意思でどうにかなる事が一つもない。

 感覚は薄れ、痛みも苦しみも、悲しみも怒りも感じない。ただぼんやりと、自分は消えるのだろうかという疑問が残っていた。

 

「ただの真っ直ぐ馬鹿がこうまでたらしになるとはねえ」

 

 聞こえるはずのない声が聞こえ、直人はぼんやりと他人というものを認識し、そして自分というものがあるのを認識した。

 こっち、と手を引かれる。

 そしてようやく手があるのを知る。

 手の先に相手の手があった。

 その先にあるはずの顔を見ようと思っても上手く認識ができず、もどかしい気持ちになる。

 ただ、どこか懐かしく、そして信頼できるという気分になった。

 男にも女にも、幼児にも大人の女性にも見えるそれは直人の腕を引っ張りながら言った。

 

「力に飲まれないで。君の人格は少しも崩れてなんかいない。経験したことの無い力に押し流されてわけが分からなくなってるだけだよ。力の使い方は教えてあげる」

 

 手を取られ、導かれる。

 むかし、同じ事があったような。そんな気もした。

 短気で考えなしの直人と、のんきで頭の回る幼馴染。

 二人は対照的で、表と裏のようで――

 

 風が止んだ。

 停まったような静寂の中、少年の目が開き、夜空の星々を映した。

 

「終わったか」

 

 男の錆びた声が響く。

 泣きそうな、泣き疲れたような顔の白い少女が覗き込んでいるのを少年はぼんやりと確認し、安心させるように、軽く肩を叩いた。

 

「……え?」

 

 ぽかんと、固まる少女をそのままに、少年はどこか体の確認をするかのように、ゆっくりと立ち上がり、腕の関節を曲げ、伸ばし、手のひらをじっと見て、首をかしげる。

 額にはいつの間にか蛇ののたうち回ったような模様が浮かび上がっていた。

 地面に向かい、裏拳を放つように軽く手を振る。

 ボン、と何かの冗談のように地面が穿たれ、やがて吹き飛ばされた土砂が落ち、鈍い音を響かせる。もろともに吹き飛ばされた雑多な草が文句を言うように風に舞っていた。

 

「葉山……くん?」

 

 おう、と答える少年。

 ただその()()に、男は気が付かなかった。

 

「力の検証か? ただ漏れ出る力に指向性を持たせて放ったのみでそれか。だが、真価はさらにその奥にある。超新星のごとき無尽の力そのものだ。そんなものではない。行くとしよう、お前には制御を覚えて貰わねばな。そして名か」

「いらねえよ」

 

 着いてくる事を疑わぬように、背を向けた男に少年は答えた。

 その答えに、一瞬呆けたように止まり、なにと疑問符を発した時、少年はすでに間近まで迫り――

 拳が男の肋に深々と入った。

 男は冗談のように吹き飛び三転、四転草むらを転がり、倒れ伏す。

 残心をとる少年は、少し困惑したように、う、と呻いた。

 

「……やり過ぎたか? 死んでねーよな」

 

 白い少女はふらつくように少年に近づいた。

 

「葉山くん……なの? 本当に?」

「おう、そうだよ夏希、詳しい事は判んねーけど、何とかなった。元のまんまさ」

 

 それを聞くと、少女は足の力が抜けたようにへたり込んだ。声にならない声が漏れ、大粒の涙が幾筋も流れる。

 

「今日は本当によく泣くな」

「……一生分、泣いちゃった、気分だよ、よか、った、よかったあ」

 

 少女は嗚咽が止まらず、途切れ途切れの声を出した。

 

「解せん」

 

 錆びた声が混じり、少年と少女に緊張が走る。

 男は痛痒などまるで感じなかったように立ち上がり、服の埃を払った。

 その灰色の瞳はわずかな警戒の色もなく、ただ実験対象を観察するかのごとく、見る。

 

「お前に施した呪法はかの暗殺集団を800年に渡り存続させ得た人格置換の法、私の研究でも100%の成功率だった。一体お前に何がある? まさか愛や絆の奇跡というわけではあるまい」

「……知らねーよ」

 

 少年は吐き捨てるように言った。

 男は、まあ良い、とつぶやき、venire(来い)とただ一言言った。

 少年は目を(みは)る。

 見ていなかったら、男に注視していなかったら何が起こったかまるでわからなかっただろう。

 瞬きする程の間に、いつの間にかそこに存在していた、と思ったかもしれない。

 それは男の体から飛び出した、薄い紙のようなものだった。

 折り畳まれたそれがぱたぱたと、あたかも折り紙が元の一枚の紙に戻るように広がり、あろうことか、立体となり、人の形となる。

 一瞬の間の事だった。

 現れた姿は十体、人の形ではあるが、人ではないのはすぐに分かった。

 一体を見れば、毛髪のない陶器のような顔にひどく端正な顔立ち、蛇腹のような首に胴、腕には関節が一つ多く有り、手も足も同じ長さだ。

 一体は人と同じシルエットをしながら、首から上だけが欠けている。

 一体はあろうことか蜘蛛のごとき八本の手足に人の胴体が乗っていた。

 それぞれがバラバラの違う姿を持っている。

 そして人の姿を模しながら決定的に人ではなかった。

 

「我が手による人形共よ。望まぬ形とはなったが、“ゲオルギウスの心臓”は機能しているようだ。古式ゆかしき力尽くというもので得るのも良いだろう」

 

 身構える少年と少女だったが、男はそれを一瞥すると「arresto(停まれ)」と言霊を放ち、白い少女はたったその一言だけで再び停止させられたのか、悲しげな、悔しそうな顔でわずかばかり動く体を震わせる。

 

「ネーヴェから隔離し、確保せよ。手足は無くとも構わん」

 

 やれ、という一声で人形達が動き出した。

 

 ◆

 

 長腕の一振りで、直人の体は丘を超え、斜面を転がり、ようやく止まった時には百メートル以上も離されていた。

 文字通り、離すだけが目的だったのだろう。受けた腕はさほどの衝撃もない。

 だが――と直人は右に体をよじり、即座にかけられた鉄槌のごとき追撃をかいくぐった。

 空振りした腕が地面を叩き、その衝撃が地面から伝わるより早く目前の蛇腹状の胴体に、十分に“力”を乗せた鉤突き。

 車にはねられたように人形が吹き飛び、踏み込みで足場の地面が崩れ、直人自身も転げてしまう。

 人蜘蛛(アラクネ)めいた人形の滑らかな、刀身のような足が上から迫り、とっさに肘で地面を叩きつけ、体を回転、肩口を狙った足は深々と地面を刺し貫いた。

 

「ぐッ」

 

 追撃は一度では終わらない。

 主の言う事は守るのだろう、胴体と頭は狙われず、執拗に腕と足を刺し貫こうと四本の鋭利な足が恐ろしい速さで幾度も刺そうと迫る。

 掌で逸し、足狙いを躱し、すかし、四度目で躱しきれず、右腕を貫かれた。

 電流のように走る痛みと痺れを無視し、呻きを噛み殺す。

 

「ぐぅああぁッ!」

 

 刺さったままの腕の肉を固め、無理やりそのまま押し返した。

 ぶちぶちと腕が裂ける感触、そのまま体軸をずらし、左の前蹴り。蜘蛛型の人形を蹴りつけ、吹き飛ばす。

 体を起こし、立ち上がると、そこでようやく大きく息をついた。

 

「……づ、痛ェ」

 

 右腕の痺れていた傷がようやく痛みを発し、だがそれだけの大きな傷にしては、感覚が有り、手も動く事――否、動くと自然と理解している事に直人は内心で驚いていた。

 先に攻撃した二体の人形はどうやら破損し、行動不能になっているようだった。

 他の人形も追いつき、様子を見ているのか、一定の距離を開けて止まっている。

 一秒も経たぬ間に右腕の傷は治ってきたようだった。肉が塞がり、血がまとわりつく気持ち悪さが残るのみだ。

 

「治った……か、ったく。とんでもねえ」

 

 ただ、やれる。

 これで、やれる。

 訳の分からない力に、得体の知れない相手に対して、自分だけが無力というわけではない。

 直人はその事が妙に嬉しくも感じていた。

 ただ嫌いなものを殴れるだけの力がついただけだ、相変わらず夏希をどうしたらいいのかなんて妙案は無い。それでも、ただ知るだけで何もできずにうなだれるよりは、ずっとマシだった。

 どこか獣じみた笑みを浮かべ、半身で立ち、腰を落とす。攻撃を受ける左手は前へゆるく構え、右手は腰に。

 何となくとった構えだったが、何をするか判らない相手にはこれが良いのかもしれないと思った。

 動きに対して反応したのか、人形の中では最も人間に近いシルエットのものが音も立てずに迫り、わずかな溜めの後、わずかに白い霧を吹き付けた。

 毒、という思考が働く前に右の掌底に大きく広げた“力”をそのまま突き出し、散らす。

 ただ人形は変わらずそのまま進み、あろうことか胴体が真ん中から縦に()()()。腰椎から上に伸びる内臓を模した触手じみた何かが鞭のようにしなり、直人を絡め取った。

 悪趣味な、と思う間もなく同時に重槌(ハンマー)のような両手を振り下ろしてくる人形、斧としか見えない装飾過剰な腕を打ち下ろす人形が左右から同時に迫る。

 受ければ連撃で詰められ、躱すには動きの自由が取れない。

 だから直人は前に出た。

 再び足場が崩れてしまう程の踏み込み。

 手を地に突き込み支えとし、体は凄まじい勢いで回転し、その踵が前方の上半身を割ったような人形を文字通りに真っ二つに割り砕く。

 人外の胴回し蹴りの勢いはそれで止まなかった。

 

「っと!? うぉっと!」

 

 直人自身も縦に二転三転しつつ進み、柔らかい地面に深く突き刺さった右足で、ようやく止まる。同時に背後から二体の人形の攻撃が大地を叩く轟音が響き、慌てて足を引き抜いて、振り向き、まだ身を縛っている硬質なのか軟質なのか判らない素材の束縛を引きちぎる。

 

bravo(素晴らしい)!」

 

 いつの間に来たのか、人形の間から割入るようにラファエロが姿を表し言った。

 どこか演劇めいた調子で手を叩いている。

 

「手に入れたばかりの力を、限定的とはいえよく操り、よく使う。なまじの者ならば身動きすらできず、通常と同じように体を動かすにも二日か三日は要るだろう、類稀なる感性(センス)だよ。偉品(レリック)に認められるだけの事はある」

 

 こんな相手に褒められても嬉しくはない。直人は構えを崩さず、無言で睨みつける。

 それにもまったく頓着せず、ラファエロはやはり演技めいた大げさな手振りで言った。

 

「お前は自身の価値を証明せしめた。ハヤマナオトよ、私は早計を認めよう。他の偉品(レリック)がそうであるからといってお前のソレが人格と無関係とは言い切れん。そのままで良い、お前に加工は加えまい、私の協力者となると言ってほしい」

「……冗談じゃねえよ、ここまでの事をやっておいて、手前ェはそんな事を言うのかよ」

「これは契約と言っても良い、対価は十分にやろう。あるいはネーヴェを望むのならばそれもまた良い、好みに合うよう手を加えてもやろう」

 

 その言葉に、直人の心が冷えた。

 怒りも、あまり続くと逆に怒れなくなるらしい。

 そんな事を思い、絶対的に感覚が隔絶しているこの相手に向かって、拳を突きつけ言う。

 

「クソ喰らえ、だ」

 

 ラファエロは演技めいた動きを辞め、元の無表情になると、残念だ、と言った。

 

「やはり力尽くという事になるか」

 

 残り七体、直人は冷めた心で現状を確認する。

 全能感、力の幾らでも湧き上がる感じは未だに途切れる事はない。

 致命傷に当たる傷を負っても無事だ、それは試していなかったがどこか確信を持っていた。

 残り七体。

 やれる、と思った。

 

「様子見は止めるとしよう」

 

 その言葉と共に、次々と雪のように畳まれた紙片のようなものが舞い、草原に人形があふれかえるまでは。

 

「百体用意した。私は人形師とも人形遣いとも呼ばれている、これがその所以(ゆえん)だが、別に操っているわけでもない。現代風に言えばロボットのようなものでな、自律起動をしている。錬金術師(アルケミスト)の端くれとしてはゴーレムと呼んで貰いたい所だ」

 

 直人の判断は早かった。

 舌打ちを一つ残し、開けた草原から右手の森に突っ込み、木々をなぎ倒し、派手な音を立てる後ろに気を取られながらも、木の幹を蹴り、あるいは枝から枝へと飛び移り、移動し、やがて目印としていたスキーリフトの支柱を見つけると、森を飛び出した。

 丘の上の平原だ。

 目的としていた夏希は居た。

 多数の人形に囲まれて。

 全ては読まれていた。

 背後からは追い立てるように木々をなぎ立てる爆砕音が聞こえる。

 

「くっ……そおおおおああああああッ!」

 

 考えを捨てた。

 人形達の群れに突っ込み、躱し、薙ぎ払い、突き、抉り、切り裂かれ、殴り抜く。

 蹴り払い、浮いた人形を掴み、ぶん回し、力任せに投げた。

 あと、八歩。

 虎爪で打ち、引っ掛け、どこでもいい、掛かった場所から力任せに下に崩す。

 あと、七歩。

 地面を抉るよう踏み込み、相手の足場を崩し、肘を入れた。

 あと、六歩。

 水平に打ち掛かってくる鋭利な何かを掻い潜り、足場代わりに蹴りつけ反動で前に出る。

 あと、五歩。

 幾筋ものワイヤーが腕に絡み、それを操る人形もろとも引き抜き、宙に飛ばした。

 そしてあと四歩。

 腕だけでなく絡みついてきたワイヤーに体を巻かれ、鋭利な槍が虫のように足を縫い付けた。

 

「は……っなせええええっ!」

 

 直人は全身の力を込めて暴れるが、さらに幾重も拘束が続き、両手両足を地面に縫い付けられ、弱らせるためか、機械のような無常さで打ち据えられた。

 身動きすらままならなくなり、怒りに燃える瞳にラファエロが映る。

 

「やはり毒は効かぬか。植物毒、動物毒、合成毒も含め二十一種ほど試してみたが。傷と同じく、傷病部位を極小単位で死滅させ、作り直しているようだな」

 

 ふむ、と頷き、言う。

 

「麻酔も効かんという事だ。これから苦労しよう。いや」

 

 やはり無機質に、ガラス玉のような感情を映さぬ目で直人を見る。

 

「かの騎士はいかなる拷問にも屈さなかったという。ただの不死性のみでなく、精神に対する強化、脳への作用も考えるべきか。限界を試してみるのもよいが」

 

 ラファエロは身動きの取れない直人の頭に腕を伸ばした。

 

「夜も更けた。人格置換は考慮せねばならんが、まずは幕としよう」

 

 直人はラファエロの伸ばした手に、何かの力が収束していくのを感じた。

 それが何かは判らない、ただ、きっと自分にとって悪いものには違いなかった。

 

「ここまで……かよ!」

「まさか」

 

 直人の言葉に、飄々とした、鈴のような声が答えた。

 場違いなほどのどかなそよ風が直人の頬を撫でた。

 目前まで迫っていたラファエロの腕は肘あたりで切断され、得体の知れない黒さと赤さが混じった液体を吐き出している。

 

「やっぱり人形か」

 

 イリスがラファエロの腕を手に持ち、淡々と言う。

 ふと、体の締め付けが無くなっている事に気付き、みじろぎをすると、それだけで全身を縛っていた無数のワイヤーが千切れ落ち、抑えていた人形もバラバラと崩れた。

 崩れ落ちたのは直人の周囲の人形だけではなかった。

 ガラガラと、ゴトゴトと、瓦礫が一斉に崩れるような音がし、あれほどひしめいていた人形が全て原型を留めないほど切り刻まれ、崩れ伏す。

 夜風に油とも血ともつかない臭気が漂い、散らされていく。

 

「な……え、おお?」

 

 あまりに突然の展開に直人は思考が真っ白に染まり、目を丸くさせた。

 そこにひどく不機嫌そうな顔をしたイリスがずかずかと歩み寄り、膝をついている形の直人の額を指で突く。

 つんつんと。結構な勢いで。

 

「なーんで、こんなギリギリになっても助けを呼ばないかなこの直情男は、ねえ? 私がこの手のマホーとかチョーノーリョクとかそっち系の専門ってのは何となく分かってたよね? 呼ばれてもないのにしゃしゃり出るのも何だし、直人(なお)に何か考えがあるのかと思って待ってたら単身特攻始めるし、忘れてた? 私もしかして忘れられてた?」

 

 つんつんつん、と突く勢いを五割増しにして、憤懣やるかたないように言う。

 

「あるいはあれかな、英雄願望とかそっち系? 私英雄とかすんごい嫌いだからイジめるよ、もう人生の素晴らしさを道端のカエルに説教するようになるまでイジめ抜いちゃうよ?」

「い、いだい、地味に痛いから! 悪い、いや、色々有りすぎて流されて助けとかまったく思いつかなかったんだって、おおお、二倍速で突くのやめて、ごめんなさい馬鹿でごめんなさい!」

 

 緊迫していた空気は一気に緩みそうになったが、直人はハッして言った。

 

「いや、こんな事やってる場合じゃ、というかラファエロは!?」

 

 視線を向けると、肘までになった腕を揺らし、数歩離れた距離でただ立ちすくんでいるようだった。

 見られた事に今気づいたかのようにラファエロは顔を向け、イリスを見る。

 イリスは仕方ないというように肩をすくめると、振り向いた。風で目の前に舞った金の髪を後ろになでつける。

 

「娘よ、この異能は。何者――いや、何なのだ?」

「んー、何なのって来たか。鋭いね、何だと思った?」

「力場の変動もなく、ただ現象のみを(あらわ)す。その上高次の霊的存在に役割を与え、それを用いるなどは、およそ有り得る事ではない。コーレスの世捨て人の類か?」

「その世捨て人さんには知らずに会ってるかもしれないけど、まず外れ。でもご明察、よく見てる。世界に有り得ない現象なら、それはやはり有り得ないんだ。私は部分的に違うのを持ち込んだからね」

 

 ラファエロが、ぞくりとするような、あまりに平坦な声を出した。

 

「まさか」

「ラファエロ・コーテッサ。あなたが“ゲオルギウスの心臓”と呼ぶアレだけど、無尽の力は()()()()来るんだろう?」

「まさか……なれば、あれは門? 貴様。外から帰還したと」

「流れ着いたっていうのが正しいね。私の因果は結局ここに繋がっている。そしてあなたとの因縁もどうやら浅くないみたいだ」

 

 そう言い、目を細めるイリスに、直人は困惑した表情で言い合う両者を見ながら声をかけた。

 

「な、なあ、話が見えないんだけどさ」

 

 半眼でそんな直人を見やるイリスだったが、それ自体が演技であったように、ふと相好を崩した。

 

「そうだね、君はそうだろうね、直人」

 

 そして自分を指差し、言う。

 

「つまり、五年前の事故で変な世界にぶっ飛んだ堂平望、その成れの果てって事さ」

「へ……は? 望?」

「そ、お久しぶり直人、ただいま」

「お、おお……おかえり?」

 

 いや待て、どういう事だ、わけ判らん、とひとしきり混乱した直人は、やはり今日一日の経験を活かし、()()()()()()()と思う事にした。そろそろ、その思考停止も一杯一杯になりつつ。



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七話

 高く登っていた月は傾き、夜風はわずかな湿り気を帯び、ひんやりとした空気が包む。

 どこか遠くで若いホトトギスが夜通し声の練習をしているのか、濁音の交じる鳴き声が響いた。

 深夜と早朝の入り交じる時間、山の清澄な空気に油のような、血のような、あまり気持ちの良いものではない臭いが入り混じり、それを嫌うように白く細い腕がふらりと揺れ、後を追うように風が吹き抜け、臭いを散らす。

 切り刻まれた無数の残骸はその風を受けると、何千倍もの早回しの映像を見ているかのようにひび割れ、粉々に朽ち、塵となり、風に吹かれて草原に飲み込まれるように消えてゆく。

 

「土は土に、灰は灰に、塵は塵に、だっけ?」

 

 キリスト教で有名な葬送の一文句を言うイリス。

 次いでふと思ったように続ける。

 

「不思議だよね、あの宗教って基本土葬なのに灰は灰にって言うし」

 

 昔は火葬もやってたんかなと、雑談でもするかのように傍らの直人に話しかけ、待て待てと頭を振られた。

 

「なんだ今の? なんかさらっと凄い事やってなかったか?」

「ふしぎな力で原子分解を」

「あー、えー、ああ。それでいいやもう」

「うん、大丈夫だと思うけど、今説明すると相手に読まれかねないからね、後で機会があったら説明するよ」

 

 相手? と直人はぎょっとしたように顔を歪めた。

 その顔が先程、あまりにも呆気なくイリスが倒してしまった灰色の髪の男、ラファエロに向く。

 男の姿には腕が一本無く、上半身と下半身が泣き別れしている。子供が見たらパニックを起こしそうな、ちょっとしたバラバラ死体だ。人間であったならば。

 よく見れば分かたれた腹の部分からはひしゃげた歯車(ギア)や千切れた鉄の繊維、割れたガラス片が散らばり、明らかに人間どころか生物のものではない。

 

「消えてないし、もしかしてまだ生きて?」

「人形の命を問うのは難しい問題だけどね、その一体は特殊だってのは確かだよ。ただそう警戒する事もないかな。少なくともどこかの液体金属みたいに復活して背中狙ってくるってのは無いと思うよ」

「お、おお。そうか」

 

 明らかにほっとした様子の直人に、イリスは笑いかけた。

 

「いや、死地に向かっていった時にはこれ以上ないくらい勇敢だったのにねえ」

「冗談じゃねえよ、あれはもう選択肢が無いって思ったから仕方なくって奴だし……というか夏希は?」

「ん……」

 

 と、二人はその白い姿に歩み寄った。ラファエロを倒した瞬間、糸が切れたように倒れてしまったのだ。

 直人が心配そうに見守る中、イリスが触診するように額、そして心臓部に指を触れると、微妙な顔をした。

 

「どうした?」

「ん……いや、ちょっと面倒かなーって。大丈夫だよ、彼女の命には別状はない。本来抗えないように出来てるのに無理してずっと抗ってたから無理が出ちゃったみたいだね」

 

 言ってみれば疲れから寝てしまっている状態だと説明すると、直人は気が抜けたように草原に座り込んだ。

 あぐらをかき、下を向いて大きく溜息を吐く。

 

「……そうかあ。まったくなあ、ホント心配させやがって」

「安心したかい?」

 

 直人はがりがりと頭を掻いた。

 

「全部片付いたかっていうと全然なんだが、それでもまずは一安心したな、まったく……何とかこいつの話を聞いて力になれるならってはずが、色々話が膨らんで膨らんで」

 

 直人の言葉が止まる。

 困ったような目でイリスを見て、あー、うーと言い出しにくそうにし、ようやく口を開く。

 

「……(のぞむ)なのか?」

「ん、だからそうだよ。五年の間に忘れてしまったかい? 何だったら君の家族構成くらいなら覚えてるけど、当ててあげよっか?」

「いやむしろ、お前の方がそのくらいしか覚えてねーのかよ、他にもほら、色々あったろ?」

「んー、時間の流れが違うというか、私の方は私の方で色々あってね」

 

 見れば判るんだろうけど、とイリスは小さく笑む。

 それはまあ、と直人は頷き、疑問げに言った。

 

「あー、ええと。女なんだよな?」

「そりゃもう。間違いもなく性別女だけど、ふむ」

 

 と、何気なく直人の右手を取り、自分の胸に押し当てる。

 控えめだが柔らかい感触をしっかりと手のひらに感じ、直人は不意打ちにむせた。

 もにもにもに、と手の上から押さえた手が動き、必然的に――

 

「ほれほれ、一応しっかりあるでしょ。何だったら下も確認するかい?」

「……っ、待て待て待て! それは何だ、色々おかしいからな!」

 

 慌てて右手をイリスから離し、動揺を抑えるために頭を振る。

 

「うんうん、生唾飲み込む程度には私の体にも魅力があったようで何よりだよ」

 

 ニヤニヤと楽しげにイリスは言った。

 直人は頭を抱えた。

 

「俺の知ってる望はそんな事……ああ、結構悪戯モンだったなそう言えば」

 

 年の割に早熟だった望は直人を引っ張り、あれやこれやと奇抜な事をしでかしては大人に怒られる常習犯でもあった。一度などは二人で作った結構大掛かりなダンボールの船で、本当に川下りをやってしまい、浸水、二人だけでなく、集めた同い年の子供達もろとも流されて中々のおおごとになってしまった事もある。

 目を細め、ふふと口の中で笑うとイリスは言った。

 

「こんな風になっちゃったし、私の家族の事を調べるついでに遠くから見てるだけにしようと思ってたんだけどね」

「いや、お前そりゃあ……何だ、俺ぐらいにゃ話せよそういうの」

「言って信じたかな?」

「信じたさ」

 

 その言葉にイリスは驚いたように目を丸くし、そして頷いた。

 

直人(なお)ならそうかもしれないね」

 

 直人は照れたようにそっぽを向き、やや躊躇ってから言う。

 

「呼び方は、望でいいのか?」

「直人、言ったように私は成れの果てなんだ。堂平望は死んでイリスになった。記憶はあるけど結局私はイリスなんだよ」

「死んだ……のか?」

「んー、聞きたかったらそのうちゆっくり聞かせてあげるよ。異世界の変な食べ物とか飲み物とか、何しろ土産話には事欠かないからね」

 

 でも今は、とイリスは立ち、振り返った。

 直人も釣られるように後ろを見て、戦慄する。

 ラファエロが何事も無かったかのように立っていた。

 幻覚でも見せられていたのかと直人は一瞬思うも、その服の損傷が、決して幻覚などではなかった事を物語る。

 

「やるなあ、短時間のうちにもうつなぎ直しちゃったか」

「間に合わせに過ぎんという事は見抜かれているか」

「どうだろうね。遠隔から使うにしては随分精細だ、本体はどこかな、それとも本体なんてとっくに無い?」

 

 どういう事だよと顔に現れる直人に、イリスは何かを思い出しているのか、どことなく寂しそうな声で言った。

 

「たまにいるんだよ、極まっちゃった研究者にはさ、自分の複製作って延々研究してるとか、ほっぽっとかれた自動人形が周囲の意思取り込んで主の模倣してるとか、魔法の術式そのものに自分組み込んで幽霊じみた存在になってる奴とか」

「……ごめん、言ってる事がよくわからねえ」

「健全だって事さ、染められてあっち行っちゃ駄目だよ?」

 

 そんな二人をラファエロ――ラファエロの人形はただじっと見ている。

 やおら、足を少し上げ、とんと踏み降ろした。

 

「退こうかとも思ったが、興味深い。吉野イリス、素晴らしい未知だ」

「決めたかい?」

 

 ああ、と人形は頷き、alzare(起きろ)とつぶやく、同時に先程踏んだ地面がわずかに鳴動した。

 イリスは一瞬目を細め、その足元を見やったが唐突に「直人!」と叫び、手首を掴み、強く引っ張った。

 小柄な少女とは思えぬ力だ。

 直人は唐突な行動に驚いたが、その背中をかすめるように、何かが凄まじい勢いで通り過ぎた。

 たたらを踏み、転がる。受け身を取って振り向くと、夏希が表情を無くし、人形の側に在った。

 

「夏希!」

「――嫌な手を、でもそれで終わらないか」

 

 無論、と人形がつぶやくと、夏希の背中に手を押し当て、何か一言つぶやいた。

 赤い霧、と見まごうばかりの濃密な何かが一瞬現れた。

 瞬き一つの間にそれは形を変え、収束し、複雑な螺旋を描き、文字を描き、絵を空に描く。

 夏希の口が開き、ラテン語にも似た発音で、朗々と、聖歌じみた抑揚の乏しい歌を歌う。

 否、それは詠唱だった。

 唄と共に空に広がり続ける、薄明の空に広がる緋の絵。それを見てイリスは、うわぁ、とどこか引いたような声を出した。

 

「……直人、一旦距離を取るよ、巻き込まれそう」

「いやまて、あいつは大丈夫なのか!?」

「魔力源として使われてるだけみたいだ、大体読めた、安全だよ、今は一番ね」

 

 直人は分かったと言う代わりに頷き、傾斜の強い斜面を走って下る。

 体重を感じさせない、走るというより飛ぶようなイリスに追従しながら。

 

 ◆

 

 深夜から早朝に切り替わる狭間の時間。

 森が静まり返っていた。

 寝静まっているのとも違う、冬の静けさとも違う。

 息を潜めているかのような重苦しさ。

 鳥どころか、虫の音一つしない。時折吹いた風が木々を揺らし、ざわめいているようにも思えた。

 イリスは珍しく、面に険しさを表し言った。

 

「こりゃまた……大層な。空間の置換……じゃなくて連結か。漠然とした存在への対処に……って霊地干渉か、というかここまで複雑にごちゃごちゃとよくもまあ」

 

 うわぁ、と若干引いたように呻いた。

 よく判らないが、まずいのかと直人が聞くと、イリスは仏頂面で返す。

 

「まずいかまずくないかって言ったらまずいよ。少なくともこれ完成するまで手ぇ出せない」

「あのでっかい、なんだ、魔法陣?」

「そう、とにかく色々なものをかき集めてごっちゃ煮にしてるような奴。あんなのがリアルタイムで書き換えられてると下手に手出ししようものなら」

「ものなら?」

 

 ボン! だねとイリスは手を広げた。

 駒ケ岳市の北部全域吹っ飛ぶほどの爆発になると言う。土地を人質にされてるようなものだと。

 おいおい、と想像が追いつかないのか微妙な顔になる直人にイリスは言った。

 

「霊脈っていうかレイラインっていうか、世界を走ってる動脈みたいな気の流れがあってね、どうもこの一年で駒ケ岳市(ここ)がそれに接続しちゃいそうなくらい不安定な霊地になってたんだ」

「ここ一年って……そういえばラファエロ(あいつ)も言ってやがったけど……もしかしてこれか?」

 

 そう言い、直人は胸元から十字架(クルス)を持ち上げる。

 イリスは曖昧な顔になり首を傾げた。決まりが悪そうに頬を掻く。

 

「半分くらいは。もう半分は私かな」

「お前なのかよ」

「いや仕方なかったんだって、色々私にも事情があるんだよ」

「あっちもこっちも事情だらけで俺はさっぱりだよ」

「あはは……まあ、状況整理は後でじっくりやるとしてだね、それはちゃんと持っておきなよ、君にとっての切り札なんだから」

 

 直人は、む、と唸り、難しそうな顔になり言った。

 

「とはいえ、今は何も感じないんだが」

「やり方は体が覚えてるだろうけど、慣れてないしね。補助(アシスト)用の制御紋は刻んでおいたからそれさえ動かせれば結構簡単にいけるとは思うんだけど」

「……いつの間に?」

 

 おまじないだよ、と言うイリスに直人はあの時か、と額を押さえた。夏希の元に向かう直前だ。

 

「なんか精神干渉というか、内面作り変える系の呪詛があったからさ、ちょいちょいっとイジってね、それ自体を作り変えておいたんだ」

 

 ちょいちょいっと指を動かすイリス。

 直人は微妙な顔になり、溜息を吐く。

 

「なんかあっちにイジられこっちにイジられ、改造人間にでもなった気分だな」

「肉体的にはちょっとした超人なのは間違いないよ、十字架(それ)起動させてれば不老不死の上、ほぼ天井知らずのパワーアップが出来るわけだから。やったね特撮ヒーロー」

「不幸な過去とか倒すべき敵とか要らないからな!」

「訳ありの綺麗なお姫様は居るんだから」

 

 と、夏希が居る方を指差し、イリスは笑った。

 

「敵には不自由しなくなるよ」

 

 直人は渋い顔で、自らの額をごんごんと叩き、言う。

 

「だから夏希とはそういう関係じゃ……」

「あれだけ熱烈な告白されておいて逃げるのはちょっと感心しないね」

「ぐ……あ、あれも見てたのか」

「もち」

「いや……でもな、いきなりで、というか……いや、今そんな話してる場合じゃねーだろ!」

 

 ヘタレた、と楽しげにイリスは笑う。

 そして自らの髪を、あまり意味もなく指でくるくると巻きながら言った。

 

「ラファエロのやってる事は至極単純なんだ。霊脈を動脈に例えれば、それに連結する一つの人工血管を作ろうとしてるようなものでね、それもあまりに色々ごちゃごちゃとした術式なんで手出しのしようもない状態なんだよ。ちょっとバランスを崩せば霊脈から色々吹き出してきて、あっという間に地獄の出来上がり」

 

 そう言い肩をすくめる。そして少し機嫌の悪そうな顔になり、言った。

 

「ちょっと腹の立つのはね、()()()を見切られてるって事だよ。情報は決して多くなかったはずなのに、最低限、私があれの術式を見抜いて、それが終るまで傍観するだろうってね」

「足元見られてるって事か?」

「そう、だからまあ人質ってわけさ、頭の回る敵ってのはどうも……とか何とか言ってるうちに終わりそうだね」

 

 丘と森を挟み、ラファエロや夏希の様子をうかがい知ることはできない、ただ空に描かれた模様、蠢き、姿を変える巨大な魔法陣は回転を段々と早めながら収束し、小さくなってゆく。

 薄明の空を赤く染めていた魔法陣はふっと、何も無かったかのように消え、不気味な静けさだけが残った。

 直人は高まる緊張感の中、身構え、唾を飲み込む。

 ごくりという音が妙に大きく聞こえたような気がした。

 

「……お、終わったのか?」

「んー、多分。これで完了だろうね。ただ問題はこんな大規模な術式使って何をしたかったのかって事さ。不安定な霊地を一級霊地に変えたってだけだし」

 

 相変わらず緊張感の欠片もなく首をひねるイリス。

 そして、とっさに直人が動けたのは、いつも頼りにしている直感以外のなにものでもなかった。

 ただ、ヤバいと思った。

 そして何か頭で考える前に、イリスを庇い、覆いかぶさっていた。

 衝撃と轟音、背中を灼く熱さを感じると同時に、やっと直人は自分がイリスを攻撃から庇った事、そして今度は何とか()()()()()事に安堵し、力が抜けた。

 ――違った。力そのものが入らない。焦げた臭いが鼻をつき、自分は結構危ないのではないか、と直人は今更な思いを抱いた。

 

「――ばッ、直人! あほばか何やって」

 

 おう、大丈夫かと声を出したつもりになって、まったく声が出ていないことに気づく。

 イリスはひどく慌てた顔で直人の体を両手で抱きしめるように抱え、険しい顔で目を閉じ、集中した。

 

「ディ・イル・ル・クルス・ディ・ラーナ」

 

 直人の耳に聞き取れたのはそこまでで、その後は複雑な音韻が続く。

 背の熱さ、そして意識が明瞭としたものへ移ってゆく。

 

「直人」

 

 そう呼びかけたイリスの、小さく、儚げな、ひどく困ったような顔が間近にあり、直人は硬直した。

 

「平気か? 痛い所は? 痺れとかない?」

「……あ、ああ。うん、大丈夫みたいだ」

 

 イリスはあからさまにほっとした顔で大きく息をつく。

 呆れたように直人を見ると言った。

 

「その偉品(レリック)だっけ? それ使ってない限り普通の体なんだから無茶はやめてよ、背骨に内臓もごっそりやられてたよ? ちょっと治療遅れてたら即死間違いなしって感じで」

「……まじ?」

 

 まったく実感の沸かない直人、イリスはしがみつくように抱きしめていた手を緩め、ぽんぽんと直人の背中を叩いた。

 

「無事で良かったよホント、この馬鹿」

「え……ああ、いや。すまん」

 

 直人は謝った。イリスの表情が、泣きそうにも見えたからだ。

 イリスは気の抜けた顔で笑ったが、ふと気づいたように目を大きく開き、ありゃ、と間の抜けた声を出した。

 

「組み敷かれてしまったなあ……直人ならではこその油断か」

 

 そして仕方ないとも、やっと重荷を下ろしたような安堵とも見える、ひどく複雑な表情を顔に浮かべ、最後に穏やかな微笑になり、直人の耳元でささやいた。

 

イリスラティア(雨上がりの虹)フレス(赤い森)ラーナ(一族)・ダ・ルタ」

 

 知らない言葉なのに、なぜか直人には意味するものが理解できた。

 言葉のフレーズにイメージが追随してきたと言っても良い。

 なんだこりゃ、と戸惑い首を振る直人に、イリスは苦笑にも似た笑みを浮かべ、言った。

 

「一方的な誓いさ。君がどうこうなるってものじゃないし、私にとっても……まあ、別に悪くないよ、ちょっと複雑だけど」

 

 なおさら不思議そうな顔になる直人に、イリスは話を切り替えるように、さて、と切り出す。

 

「突き詰めたところ、君は今回の一件、何を目的にする?」

「それは……」

 

 夏希をどうにかしたい、と直人が答えると、イリスは分かったと頷き、満面の笑みで言った。

 

「力を尽くすよ」

 

 ◆

 

 日はまだ出ていない。

 ただその日差しの末端は空を照らし、何もなければ鳥が目覚め、朝一番の鳴き声を響かせていたかもしれない。

 春から秋にかけてのスキー場は広い草原になり、場所によっては放牧に使われる事もある。

 一面見晴らしの良い草原だ。

 その草むらに覆われているはずの草原が、今はどこか無機質な色合いに染まりっていた。無数の軍勢、先程の百体の人形が児戯に思える程、圧倒的な数だ。

 その先頭に立っている、白い少女を連れたスーツの男がまるで歌劇でもあるかのように、朗々と言った。

 

「どうだ。お前なら解るであろう、解るはずだ」

 

 佐藤さんみたいなのが何体か居る。そうイリスは言った。

 直人は頷いた。整然と並ぶ軍を率いるように白い人影が見える。

 

「五千、五千ってところだね、直人がやりあった人形だけの編成が半分、残りは生き物、人工生命(ホムンクルス)かな」

 

 一万という数は思ったよりずっと圧倒的なものだ、直人はそう思った。

 なだらかな斜面、こちらが低地にある分なおさら威圧感を感じてしまうのかもしれない。

 それにしても、だった。

 見渡す限りの敵。扇状に広がっている草原、その一面が敵で埋まっている。

 あっけらかんと、当然のように、絶望しか感じられない光景だった。

 

「大盤振る舞いだね、ラファエロ・コーテッサ。これだけの数を揃えるために霊脈を繋げたのかい?」

 

 イリスが話しかけると先頭に立つ男は頷き、どこか満足げに言った。

 

「その通りだ。霊脈上であるなら私の拠点と直接土地を結ぶ事が出来るからな」

 

 学者さんだなあ、とイリスはつぶやく。研究成果を見せたくて見せたくて仕方ないんだ、と。

 

「ただ、軍勢(レギオン)とのみ呼ばれている。我が人形(ドール)は兵士五人に、我が人工生命(ホムンクルス)は異能者五人に相応する。九体の我が子らはそれら百体にもな」

 

 さあ、と男は指揮者のように手を振った。

 

「少女よ、世界の外から持ち帰ったその“業”を存分に見せてくれ。少年よ、君がどこまで“ゲオルギウスの心臓”を用いられるか、限界を見定めよう」

 

 うねりを上げ、津波のごとく押し寄せる群れ、群れ、群れ。

 歯噛みをし、せめてもと前に立とうとする直人を手で制し、イリスはなにほどでもないように笑った。

 

「大丈夫、このままだとキツいけどね」

 

 そう言い、一歩を踏み出す。

 容姿がぼやけ、霞んだように見え、直人は見間違いかと目をまたたく。

 再度見ても同じだった。

 存在しているのに存在していないかのように輪郭がぼやけている。

 姿も変わっていた。妖精じみた容姿が妖精そのものになっている。

 耳は長く、瞳はこの世ならぬものを映し、髪は重さを感じていないかのようにふわりと揺れている。

 

「……エルフ?」

 

 日本文化(サブカルチャー)にどっぷりな現代人らしく、直人の口からそんな言葉が漏れた。

 

「それそれ、直人もさすがに知ってたね。ゲームでラノベでアニメでお馴染み、エルフさんですよ、と」

 

 何のつもりかひこひこと長い耳を動かしてみせる。

 あんまりにもあんまりなノリに、直人はひどく残念な気分になり、口の端を震わせた。

 

「お前……お前……見た目ファンタジーなのに、凄く現実離れしてるのに」

「ふふ、見た目が変わるだけで私が変わるわけじゃないよ」

 

 それともう終わった、という言葉に、直人はハッと状況を思い出し、見れば――

 

「……いない?」

 

 夢か幻か、というほどに何もいなかった。

 あれほどひしめいていた軍勢の姿が、影も形もない。

 踏み荒らされた草原の草が、抗議するように風に揺れた。

 

「送って来たなら送り返せる、道理だろう?」

 

 硬直したままの男に向かい、無造作に近づき、イリスは言う。

 ややあって、男はのろのろとした動きで首を動かし、呻くように言った。

 

「何が、道理なものか」

 

 地の底から漏れ出たような乾き、錆びた声。

 

「その術理を解明し、改変し、己が人形に写しとり、再現するまで何十年を費やしたと思っている。それをわずか……あのわずかな間で理解したというのか」

「残念だけど私は学者じゃないんだ。細かい部分はどうでもよく、ただ使えれば良い」

 

 研究者にとってはひどく無情な言葉を投げつける。

 

「さて、あなたとの話もそろそろ終わりにしたい。高校生が出歩くにしては遅いのを通り越して早すぎる時間になってしまったからね」

「――待」

「待たないよ。もう知りたい事は解ったから」

 

 そう言うと、前触れもなく、そして呆気なく、男――ラファエロと名乗っていた人形はぐしゃりと内側に丸め込まれるように潰れた。

 

 ◆

 

 白々とした日の光が照らし始め、山の稜線が見え始めた。

 何度見てもなお現実味を欠いた姿であるイリスに近づき、直人は言う。

 

「終わった……のか?」

「……ん、もう少しってところだね」

 

 そう言い、立ったままぼんやりしている夏希の側に寄る。

 直人の手を借り、そっと地面に寝かせると、再び触診するように、体を手でなぞった。

 胸のあたりで手を止め、その豊かな感触を確かめるようにぽんぽんと。

 

「なあ、それ必要なのか?」

「私にとっては重要なんだ、止めないでくれ、本物だし、本物だし。何食べたらこうなるんだ」

 

 イリスは目を落とし、ひどく無惨な比較をし、溜息を吐いた。

 

「直人、おっぱいが欲しい」

「いや、そういう滅茶苦茶答えづらいフリやめてくれよ、俺にどういうリアクション期待してるんだよ」

 

 とは言いつつ、大体お前は元男じゃなかったのか、とかまだ成長期じゃないんだろうとか、色々浮かびはしたのだが、どう答えても地雷を踏みそうな予感がし、数々の危機を救ってくれた直感に直人は素直に従う事にしたのだった。

 冗談はともかく、とイリスは振り返り、言う。

 

「ラファエロの本体はこの子だね」

 

 その言葉の意味がよく判らず、直人は硬直した。

 イリスはまばたきを一つし、淡々と続ける。

 

「違和感があったのは直人に仕込まれていた呪詛だ。年数をかけたとはいえ、とても精密、緻密な構成だった。あんなものを果たして遠隔から仕込めるのかってのが一点」

 

 イリスは指を立てて言う。

 

「もう一点はさっきの巨大な術式だ、流れを視れる私からすれば、あれは佐藤さんが基点でラファエロはむしろ使われているように見えた」

「使われる?」

「ん、私がここに直人を運んだ時を思い出して。あの時飛んでいるのはあくまで私が術の基点になっていて、箒はただの付随物だった。ああいう感じだね」

 

 イリスは視線を夏希に戻す、手をかざし、この辺かなと心臓の上あたりで止めた。

 

「佐藤さんが自殺を図ろうとした時、実は本当にラファエロは危なかったんだ。だから強引な方法で止めた、どうせなら状況を利用して直人を揺さぶってやろう、そんな思惑であのラファエロもどきの人形を出してきたんだろうね」

「……なら、夏希と、ラファエロの状態ってのはどうなってるんだ?」

「騙されてたーとか思わないのは直人の良いところだね」

 

 イリスは一拍置き、言った。

 

「佐藤さんが器で注がれてるのがラファエロって感じかな。いや、うーん、わかりにくいか。要するに佐藤さんは自我のある端末で……いや、んー、何というか例えるのに困るな」

「あー、いや分かるか分からないかはともかく、例えないで教えてくれるか」

「ん、それなら。まず前提で、ラファエロってのは既にもう実体とか無くしてて、亡霊とか怨念に近い存在になってるんだ」

「そ……そりゃ随分極まってるな」

「そう、錬金術師(アルケミスト)として極めすぎてしまった。だから動機は推測になるけど、研究さえ続けられれば人間としての自分もどうでもよくなったとかそんな所かな? 彼は自分の制作した人工生命(ホムンクルス)に意思を移して存在するようになったんだ」

 

 おそらく複数体、とイリスは思い出すように続ける。

 

「さっき見かけた中の佐藤さんと同型の九体、彼が我が子って言って特別扱いしているのは、子であると同時に自分の憑代(よりしろ)なんだろうね」

「……えーと、なんだ。じゃあ今もまだラファエロは夏希に取り憑いてるって事か?」

「うん、的確。今は私が囲い作って封じてるけど、夏希さんの精神も一緒くたに封じてしまってるし、これからその処置をしようって事さ」

 

 そう言い、イリスは仰向けに横たわっている夏希の側に座った。

 直人に手振りで来い来いと伝えると、自分の隣に座らせ、でっかい魔法を使うから手伝いよろしく、と言った。

 

「いや、手伝いって言っても俺に何かできるのか?」

 

 イリスはこくりと頷き、言った。

 

「これから行うのは直人の体を治したのと同系統の魔法だからね。賦活じゃなく、一からの復元。とんでもない量の魔力使うから、直人に賄ってほしいんだ。私は結構万能なんだけど直人ほど無尽蔵に力引き出せないからね」

「そりゃ……俺が役に立てるならいいが、どうやって使うんだこれ」

 

 直人が困惑げに胸元の十字架(クルス)をつまんだ。

 イリスは直人に向き直り、大丈夫だよ、と笑った。

 

「ちょっと言った通り、直人の深層には制御紋を刻んであるから、それを起動させるだけ。まあ慣れてないから私がきっちりリードするよ。大丈夫痛くしないから」

 

 壁の染みでも数えてて、とさらりと下ネタに走るイリス。

 

「……どこに壁があるんだよ」

「そういえば外だった、初体験が野外でとか刺激的だね」

「頼むからその見てくれで下ネタはやめてくれ空間が歪む」

 

 駄目だコイツ、どうにかしないと、と言わんばかりに直人は空を仰ぎ溜息をついた。



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八話

 深海とはどういう所だろう。

 もちろん人間が生身で潜れるような場所ではない。

 青い光しか届かない、もっと深くなればその光さえも届かない暗闇の世界。

 意識の世界で光が届くというのはいわば普通に思考できる部分という事だ。

 では思考できない部分は?

 自身ですら認識できない、意識の深海。

 自らという拠り所すらあやふやになってしまいかねない場所に、直人は居た。

 右手を繋いでいる。右手の先にはイリスの右手があり、妖精のような顔があり、華奢な体がある。

 綺麗だな、とただ単純にそう思うと、イリスはむやむやと口の中でつぶやき、やがて言った。

 

直人(なお)、ここだと意識の持ち主の思考とか結構だだ漏れになっちゃうから、あれだ、迂闊な事は思わない方が良い」

「……マジで?」

「マジで。いや不純物の混じってない褒める感情って中々気持ち良いんだけど、っておお凄い羞恥だ」

「おいやめろ一方的過ぎるだろなんでだよ」

 

 力の抜けるようなやり取りをしているうちにふわふわとした感覚も収まり、直人もまた自身が自身である事を気づかないうちに理解していた。

 他者の存在が自身を定める。

 自身の意識化ではそういうものなのだろう、と何となく思った。

 

「そう、瞑想とかして自我に埋没すれば良いかってーっとそうじゃないんだ。自分の中に飲まれつつ、自分を認識して形どっていないとただの夢に終わっちゃう。その感覚を忘れないでおいて」

 

 こっちだよ、と手を引かれる。

 その感覚にどこかで覚えがあり、直人は不思議に思った。

 それもまた伝わってしまったのか、イリスが手を引きつつ答える。

 

「私の分霊だね。おまじないをかけた時に私の血族名を定義付けて呪詛いじったから、縁深い私が召喚されて案内役(ナビ)になったんだと思うよ」

 

 わけわからん、と説明を聞いた直人は頭を抱えたい気持ちになる。

 それもまた見透かされたのか、くすくすとイリスは笑った。

 

「ちなみにこれに慣れれば念話とかも出来るようになる。同一線上の技術だからね」

「異能は一種類とか聞いたんだが」

「それはこっちの常識。魔力や霊力を通せば形になる、現象になる、そういう形質をたまたま生まれ持って備えてるのを異能って言ってるのだろうね。私が行った場所だとそれは個体の特殊技能(タレント)扱いだったよ。魔法は魔法、精霊は精霊で別にあるんだ」

「あー、念話ってのは魔法なのか?」

 

 どうだろう、とイリスは首をひねった。

 

「念話自体はただの限定的な意識の癒合というかくっつけてやり取りするだけのモノだからね、魔法っていう程複雑じゃないよ。ただ、こっちはこっちで別の呼び方があるかもしれないね」

 

 さ、着いた。その言葉が聞こえた時には周囲の光景もまた変わっていた。

 混沌とした青い風、その流れの中にいる。

 流れの中にいながら、錨でもかかっているかのように、流される事はなかった。

 

「直人が認識する光景と私が認識する光景は違うけど、()()を覚えておいて。覚えておくだけでそれがマーカーになる」

 

 そういうものなのか、と直人は思い、見回し、その青い風を心に刻んだ。

 それを見計らってか、イリスは言う。

 

「それじゃあ行こうか、外の時間とは速さが違うからここでの時間は外での一瞬だけど、あまり長居も良くない。あまり続けると互いの感情から記憶まで読めてしまうからね」

 

 それはそれでこの五年の間、望に何があったのかを知りたいような気がした。

 ただそれはばっちり伝わってしまったようで。

 

「おお、イリスの記憶を覗き見たいとは太い野郎だ、私がこの手の熟練者(エキスパート)だって事を忘れてるね、直人の自分ですら気付いてない潜在的な性癖を一から十まで暴き立てる事も出来るって証明した方が良いかな?」

「ごめんなさい」

 

 考えただけで伝わってしまう。

 なんて理不尽なのかと直人は思った。

 ひとしきりからかって満足したのか、イリスは直人の額に左手の指を当てる。

 

「ここはある意味で深層意識の中継点、ここから自我に潜る事も、集合無意識とか阿頼耶識とか量子知性とかその手のに行くこともできる。もっとも、そっちに何の準備もなく行っちゃうと戻ってこれない。その危険性だけは覚えておいてね、自己の中にこそ死はあるんだ」

「なんかさらっと凄い単語が出てきてるな、実は俺結構やばい事しようとしてるのか?」

「まさか、さ。私がついてる以上そんな事にはならないよ、ただ私がついてない時にふらふらっと危ない場所に行かないようにね」

「……俺は幼稚園児かよ」

 

 あんよはお上手、とからかうようにイリスが言うと、光景がブれた。

 どこか見覚えのある風景だ。

 古びた鳥居、苔の生えた狐の石像、樹齢何百年なのかわからない、巨大なブナの木。

 

「稲荷神社?」

「そう、昔はよくカブトムシとか採りに来てたよね」

 

 直人の家からほど近い、歴史だけは古い寂れた神社だった。

 足を踏み出すと、足元で砂利を踏む音、そして感触までも伝わる。

 

「深層意識にしちゃ、随分現実的というか……」

「そ、主観的な記憶だからね。その御神木の幹に制御紋(アルマス)を刻んでおいたよ、次からは中継点を踏んだ上でここの風景を思い出せば、簡単に来れる。今回は私が色々手を入れて実体に近い感じにしてるからちょっと感覚違うとは思うけどね」

「アルマス?」

「ああ、うん、そう呼ばれてたからね。ほらそれ」

 

 イリスが指差す場所を見ると、直人の胸あたりの位置に手の平ほどの大きさの複雑な図形が刻まれている。

 

「……こりゃ罰当たりな」

「あはは、まあ直人の記憶の中だけだし。ここならイメージしやすいかなーってね」

「それで……具体的にどうすればいいんだ?」

「手を触れて『動け』、とか『我が力を導け』とか、『唸れ我が深奥の黒き(ほむら)よ』とか思うだけでいいよ」

 

 直人はげんなりして言った。

 

「なんで段々痛々しくなるんだよ」

「起動ワードを設定して、物凄い詠唱唱えないと動かないようにしようかって一瞬思ったんだ」

「思いとどまってくれて助かったよ」

 

 心底からそう思い、左手をその紋章に当て、何となく目をつむり、動けと念じる。

 左手が熱くなり、その熱が一瞬で全身に巡る。体の奥底から迸るものを感じ、脈動が、自分のみならず空間全てを揺らし――

 

 ◆

 

 目の前に赤ら顔の少年がいた。

 年は14、5あたりだろうか。

 蜂蜜色の癖っ毛に、どんぐりまなこ、愛嬌のある顔立ちに緊張を走らせ、いっぱいいっぱいの眼差しで見ていた。

 そしてもじもじと何かを言い出そうとし、躊躇い、言い出そうとし、躊躇い、深呼吸を一つして、言った。

 

「お師匠さま、僕と結婚してください!」

 

 ぶは、と直人は突然の事に吹いた――が、どうも勝手が違う。

 体が動かないというより、体が無いような気がした。幻覚を見ているような、自らが幻覚であるような。

 

「ライール」

 

 聞き覚えのある声がした。ついさっきまで聞いていた声だ。透き通った、鈴のような声。

 体が動き、困ったように頬を掻く。

 

「ライール、それは何かの比喩でなく、男と女の関係になりたいという事で良いのかな?」

「あ、あけすけ過ぎです! でも、はい。お師匠様と、その、そういう関係になれればなあ、と」

「結婚の方がよほど重い事だろうに、そこに恥ずかしさを感じるとはね」

 

 くすくすと笑い声が響いた。

 一枚板で作られた素朴なテーブル、そこに置かれた湯気を立てるカップを一口。

 亜麻のカーテンが風に揺れた。

 答えをじっと待つ少年に、ゆっくりと、諭すように答えた。

 

「君の成長を、嬉しく思う。でも、君も一端は知っているように私は色々面倒臭い身の上だ。いや、面倒くさい事情しか無いと言ってもいい。一人前の女として君に応えてあげる事なんてできないんだ」

 

 そんな、と何か言いかけた少年の前に指を出し、続けた。

 

「だからね、賭けでもしよう。どんな形であっても私を組み敷いてみせれば君の勝ちだ。イリスは君のものになる」

「も、ものだなんて」

 

 言いかけた少年の口を指をつけて閉じさせると、ふふ、とおかしげに笑った。

 

「もう滅びた私の一族の婚礼の言葉なんだよ。『ダ・ルタ』『デ・ロテ』君のもの、私のもの、という古い言葉だ。これをフルネームの後に付けて交互に呼び合うのが習わしなのさ」

 

 お、おお、と少年は目を輝かせた。

 もっとも、と肩をすくめてイリスは言う。

 

「こんな事を始めたのは魔族たちが揃って追いかけてくる時期があってね、追い返すのに丁度良い方便として使い始めたのだけどね」

「……そんなこっちゃないかと思ってました」

 

 お師匠さまですもんね、と少年は深い溜息を吐く。

 イリスはくつくつとからかうように笑い、言った。

 

「そう言わない、ただの賭けとはいえ誓約の精霊まで使って百年近くも続けた事だ、高位悪魔でも縛れるほどの呪詛に近くなっている。とんでもない強制力だからね、勝てば私を得られるが、負ければ絶対に得る事は出来ないよ」

 

 つと何かを考えるように首を傾げた。

 

「君の器量はかのレオンハルトに勝るとも劣らないものだ。ただ、まだ力のピークではない、もう少し勝機を見てからにした方が良いんじゃないか?」

 

 少年は苦く笑った。

 

「リーダスが戦争の準備をしているようです。早ければ来春には来るだろうと」

 

 イリスは無言でカップを傾け、わずかに重くなった声音でそうか、と言った。

 

「国境は君の故郷だったね」

「はい」

「君が行かなくても国が軍を出す」

「僕が自分の手で守りたいんです、それに……」

「腑抜けた貴族達には期待できないか」

 

 イリスは何かを思い起こすかのように目を瞑り、小さく息を吐いた。

 そして目を開き、言った。

 

「分かったライール。賭けは賭けとして、最後に君を厳しく鍛えさせてもらおう」

 

 びくり、と少年が身を硬直させる。

 

「私は英雄なんて嫌いだ、他人の夢を背負い、他人のために自分を捨て去る。それを強いられ、利用され、しゃぶり尽くされ、本人が死してなお名前を使われる。君の曽祖父がまさにそうだった」

 

 だからね、とイリスは椅子から立ち上がり続けた。

 

「君を英雄になんてさせない、これまで教えなかった悪いやり方をたっぷり教えよう。人の悪意に負けないよう、謀略と暴力を。殺意に負けないよう、恐怖を」

 

 早まった、と顔に書いてある少年はガクガクとその身を震わせている。

 

「せ、戦場に行く前に心が死んでしまうような気がしてならないんですが」

「随分長い間、恐怖そのものとも言われた私だ、その味に慣れておけばどんな戦場でも乗り切れるよ」

 

 さあ、とイリスの華奢な手が、がっちりと少年の腕を掴む。

 少年は最初の勢いはどこに行ったのか、ひっと悲鳴を飲み込んだ。

 

 ◆

 

 夢を見ていたかのようだった。

 目を開けた時、一瞬今どこにいるのか、何をしているのかがすっぽり抜け落ち、ぶるぶると頭を振る。

 日の出直前の薄暗さ、騒ぎ始めた鳥の声、目の前に仰向けで寝ている真っ白な夏希の姿。

 

「無事動かせたみたいだね」

 

 イリスのその声に振り向き、そして先程見た光景を思い出し、直人は硬直した。

 数秒固まっている直人を見て、イリスは首をかしげる。

 

「どうしたんだい?」

「……あ、いや。なんだ、うん。あの空間に長居は確かに禁物だったな」

「ああ、酔ったかな? ああいう所だと時間の感覚も空間の感覚も実際と違いすぎるからね、そのズレで酔う事があるんだ」

「あー、まあその、そうだな」

 

 直人は髪をがしがしと掻いた。

 あれはきっとイリスの過去なのだろう。

 確かに何をやっていたか興味はあったが、本当に見てしまうとは思わなかったのだ。

 そして年数。

 あれが本当なら、こちらの五年の間、どれだけの時間を過ごしていたというのか。

 外見は確認できなかったが、きっと変わっていないのだろう。

(エルフだから長寿って事か?)

 直人の中のイリスの位置付け、とても複雑なそれがまた一つ難しくなってしまった。

 あの誓いの言葉の意味など考えると難解至極になりすぎ頭痛すら起こりそうだ。

 

「さて」

 

 イリスがぽんと直人の肩を叩いた。

 物思いにふけっていた直人は急に現実に戻され、少々の挙動不審を見せる。

 少し不思議そうにしたイリスだったが、まあいいかと言うように頷き、言った。

 

偉品(レリック)も動いてるみたいだけど、今のところは最低限なんだ。それをもう少し使ってもらわないといけない」

 

 直人の首から下がっている十字架(クルス)を持ち上げ、続ける。

 

「君はきっとこれを異物のように思ってしまっているだろうからね、力の大元として使うには自らの一部であるかのように思わないとなんだ。息を吸うように、腕を曲げるように、新しい一つの器官が出来たように思うと良い」

「ぬ……そりゃあ、なんだか難しそうだな」

「大丈夫、何のための制御紋だと思ってる? すでに無意識下では動かせているんだからそれをどうやって意識下に置くかって事さ」

 

 とにかくやってみる、とあぐらをかき、集中するように目を閉じる直人。

 イリスはふと思いついたように手をぽんと叩いた。

 

「直人、ラファエロはそれを“ゲオルギウスの心臓”と呼んでいたけど、最初に使った人がたまたまそういう名前だっただけなんだ」

 

 言葉を切り、どう言ったものかと悩むように視線を空で遊ばせ、続ける。

 

「私は精霊とか幽霊、怨霊、その手の感知できないはずの存在と相性が良い。感応しやすいのだけど、その直人の十字架(クルス)から読み取れたのは、豊穣と荒廃だった」

 

 砂漠の神、アシュ。

 イリスはそう言った。

 

偉品(レリック)っていうのはきっと本当にそういう高位存在が己の身を分けたものなんだと思うよ。だからそれは本当の名を呼ぶとするなら“アシュの半身”。本来の機能は多分、ただの力の流動」

 

 くすり、と小さくイリスは笑う。

 

「神とか悪魔っていう存在にはよくある事さ、人間とは尺度が違うだけにその性質もとんでもない事になる。それは力を流動させるためだけに、この世界と他の世界をつなげてしまったんだ。だからそれは『門』でもある、そして五年前に分かたれてしまった鍵は既に譲渡されてる、あとは直人がそれを開くだけでいい」

 

 ――門。扉。力の流動。

 イリスの言葉を聞きながら、直人は何となくイメージが固まってくるような気もした。

 それは丹田だろうか、心臓だろうか、頭だろうか。

 どれとも違う。体内ではない、体外にあるその扉。誰にも触れず、見えず、感じ取れないそれを、そっと押し開いた。

 

「お……おお!?」

 

 直人は目を開け、そのあまりの力強さ、湧き出る力に驚きの声を上げた。

 凄まじい全能感に身を灼かれ、やがてそれも感覚が慣れたのか、制御紋とやらが仕事をしたのか、感覚が落ち着いてくる。

 

「よくやった、直人」

 

 イリスは褒め、直人の手を掴んだ。

 

「力を貰うよ」

 

 そして次の瞬間、世界を掴めそうなほどの全能感もなんのその、凄まじい勢いで力が抜け、直人はへたりこんだ。

 

「ディ・イル・クルス・アズ・ディメン――」

 

 徐々にイリスの言葉に不思議な抑揚が混ざり込み、やがて何人もの人間が同時に別々の歌を奏でるような旋律へ続く。

 今度の詠唱は長かった。

 朗々と、そして子守唄のように続き、変化が起きる。

 風、と直人は思った。

 だがそれは風なんていうものではなかった。

 青白い光、蛍のようにも見えるそれが群れ、集まり、吸い込まれてゆく。

 渦を巻き、ただ一点に圧縮され、凝縮され、何かに姿を変えていった。

 とさ、と草原に体の落ちる音がする。

 その光の塊にも似た何かは、佐藤夏希と寸分違わぬ姿をしていた。

 

「へ?」

 

 直人は間の抜けた声を上げ、固まる。

 イリスは、一仕事終えたように、ふうと息をつくと直人に振り向き、頷く。

 

「直人、じっくり見るチャンスだよ。あれ佐藤さんとまったく同一の体だから」

「いや待てそうじゃない」

 

 全裸であることには違いないので、直人は目の毒だとばかりに傷だらけになってしまっているシャツを脱ぎ、かぶせた。先程の脱力感も忘れ、混乱した様子でイリスに聞く。

 

「なんで夏希が増えてるんだよ!?」

「ん、ラファエロ対策だよ。あれはもうホムンクルスにしか定着しないように魂を作り変えてるからね。佐藤さんと同質の人工生命(ホムンクルス)をそっくり複製して、そこに分離したラファエロを定着させたんだ」

 

 いわば専用の牢獄だね、とイリスは笑う。

 

「いや、複製って、ええ、そんな簡単にできちゃっていいのかおい!」

「そりゃまさか。核になってる賢者の石から髪の毛一本まで同量の複製だよ? エネルギー換算だけでもどこかの世界で小さい林の一個か二個は消滅してるんじゃないかな」

「……消滅?」

 

 物騒な言葉に直人の頬が引きつった。

 どういうこった、と言うと、イリスは不思議そうに首を傾げて言う。

 

「エネルギー保存の法則を覆すような法則もあるけど、君のそれは原則的に等価交換なんだ。豊穣と荒廃、別の世界から力を持ってくればそれだけその世界の力は失われる」

 

 それは……と絶句する直人。

 何となく都合よく力を供給するもののように思っていた。

 しかし、違った。

 イリスが言う“アシュの半身”はただ力の流動を主眼において行う、ではその対象は?

 神というのは尺度が違う、()()()()を対象にしてはいないだろうか。

 

「……まさか、人間とか消滅させてねえよな?」

「直人……そこに気づいちゃったかい?」

 

 イリスは視線を逸し言いよどむ。

 直人は答えを得た思いがした。

 重い。ひどく重い。

 自分の我儘のために犠牲を出したかもしれない。名も知れぬ、顔も知れぬ誰かもしれない。

 全ては仮定。ただその可能性はイリスの反応を見るにきっと少なくはないのだろう。

 苦いものを噛み締め、直人はうつむく。

 そしてイリスは言った。

 

「ないない」

「……あ?」

「動物は意識とかその手のが複雑なんで還元されにくいんだ、まずは純粋な力に最も近い精霊とか神霊とかが変換されて、次にそれが根付いてる土地、最後に生き物だろうね」

 

 いやお前、と直人は絶句する。

 

「……そういうもの?」

「そういうもの。考えてみなよ、五年前の暴走の時だって色々かき回されはしちゃったものの、私という動物の意識そのものは形を残したままだったんだ。世界をまるっと破壊とか、世界一個丸々創造してみる、なんて神様レベルの力でも使わない限りはそうそう動物の意識ってのは消化されないのさ」

「いやとんでもないスケールなんだが何それ」

「出来るか出来ないかで言ったら出来るよ、それ」

「そんなあっけらかんと……重荷が取れたかと思ったらとんでもねえ危険物持たされた気分なんだが」

「そりゃもう危険物度で言ったら水爆とかよりよっぽど……しかも起爆スイッチ持ってるのがただの高校生だもんね、私が権力者だったら即効で」

 

 首をちょんと切るジェスチャーをしてみせるイリス。

 勘弁してくれ、と髪をわしわしと掻く直人。

 もう疲れたと言いたげな溜息を吐き、静かに横たわっている二人の白い少女に目を向ける。

 

「ところでラファエロの方は大丈夫なんだろうな」

「一応閉じ込めてあるけど、解析するの大好きっぽいし、そのうち出てくるだろうね」

「……それやばくないか?」

「やばいね。だから閉じ込めている間に牢獄ごと殺す」

 

 あっさりと出た殺すという言葉。なんの気負いもなく、雑草を引き抜くような口調だった。

 直人は嫌な予感がし、イリスの肩を掴む。

 

「駄目だ」

 

 少し驚いたような様子で振り向き、イリスは困惑げに言った。

 

「何でだい? 言っておくけど、この体は夏希さんじゃないしただの肉、ラファエロはとっくに人間をやめているよ?」

「いや、そうじゃない」

 

 ラファエロがここで死んだとしたらどうなるのだろう。

 既に派手な事はいくつも起こっている。全てを隠し通すなんて事は不可能だ。

 調べられるだろう、直人の想像では思いもつかない方法で、何通りものやり方で調べられ、分かってしまうだろう。その手の世界では大物の錬金術師がここで死んでいた事に。

 ならばどうするか。

 

「直人も聞いていただろう。こいつは私個人としても親の仇だよ、邪魔はしないでほしいかな」

「お前、いなくなるつもりだろう」

 

 今度こそ、演技などではなく、イリスは驚きに目を丸くし、もごもごと口の中で何か言い、諦めたように溜息を吐く。

 

「また勘かい? 仕方ない奴だね、理屈もへったくれもない」

「やっぱそうか?」

「こうして複製品(ダミー)を用意したんだ。()()()()()()()()()()()ホムンクルスを作っていて、すり替えていたって事にすれば辻褄は合う。じゃあ誰がどうしてそんな事をしたかっていうと、ラファエロの弟子か同門が人知れず研究成果を持ち出していて、それを追ってきたラファエロとここで喧嘩になった」

 

 ドーン、と爆発するような身振りを加えてイリスは言った。

 

「残念、ラファエロは返り討ち。弟子か同門はそのままラファエロの研究をまるっと押さえて、裏社会に名乗りを上げるって寸法さ」

「それがイリスか」

「ん、幸いラファエロの隠蔽工作も結構なものだし、夏希さん自身は検査受けても大丈夫、偉品(レリック)に関しては例外中の例外みたいなもんだから、直人が人前でぽんぽん動かさなければ感知もされない。記憶の覗き込みやサイコメトリーに対しては私が対処できるし、良い手だと思うんだけどね」

 

 直人は呆れたように息を吐き、言った。

 

「まっぴらだ。確かに俺と夏希は平穏になるかも知れないけど、全部お前に押し付けてぬくぬく生きるとか冗談じゃねえよ」

 

 それに、と疲れのためか、あまり考えずに直人は言ってしまった。

 

「俺はお前に居てほしいんだよ」

 

 イリスはぱちくりと目を瞬かせると、思わず、と言わんばかりに吹き出した。

 

「そ、その台詞は色々まずい、悲劇のヒロイン助けに来ておいてそれは……君って奴は」

 

 くっく、と笑いを噛み殺すイリス。

 ようやく自分の言葉が言葉通りのもの以外にも取れることに気がついて、直人は渋い顔で眉間を揉んだ。

 笑いの発作が収まったイリスは、仕方がない、と穏やかな笑顔を向ける。

 

「直人には抗えないしね。ただそれだと立場をひっくり返すことになるよ?」

「ひっくり返す?」

「ん、ラファエロをこのまま協会に捕まえさせれば、それをやったのが誰かってのが出てくるからね、ならいっそ直人と佐藤さんはそっくり正体を明かして保護してもらった方が良い」

「それって……大丈夫なのか?」

 

 イリスは頷く。

 

「さっき言った通り、偉品(レリック)については例外中の例外だろうからね、それに“ゲオルギウスの心臓”については不死性くらいしか知られてないみたいだ、それでもラファエロ・コーテッサを倒せたって事は何かがある、っていう事になる。いくら佐藤さんが希少価値高くても、堂々と表に立った直人が庇えば手が出せなくなるよ」

 

 危険があるとすれば、と思考を遊ばせるように顎を叩き、言った。

 

「派閥争い、それと野良にいる鼻の効く連中かな。それについては私が二人に隠れて動く事で何とかする」

「立場をひっくり返すっていうのはそういう事か」

「私は融通が効くからね。だからそう、ラファエロについては――」

 

 こうしよう、と裸体のまま倒れている少女の側でとん、と足を踏むとその体の上に複雑精緻な絵とも模様とも付かない光で出来た模様が現れた。

 平面ではない。何層にもわたり増え続け、重なり続け、やがて球体のように膨れて行く。

 

「よし」

 

 イリスが頷くと同時に、その光の塊、絵と模様で構成された球体は少女の胸へと飛び込み、消えていった。

 何をやったんだと聞く直人に、イリスはニヤリと意地の悪い笑みを浮かべて答えた。

 

「無限に続くパズルみたいなものだよ。十二万通りの構成陣を同時に解かない限り復元修復する。復元の度に倍々ペースで構成陣は増殖する。そういった結界を作って閉じ込めてやった。昔魔神の封印用に考えた奴だったけど日の目を見たね」

「……なんかよく判らんけどすげーってのは分かった」

「そう、イリスは結構凄いんだよ」

 

 飄々と言うイリス。

 

「これでとりあえずラファエロは出てこれないし、外部からはよく判らない結界の中に引きこもっているようにしか見えない。後は細々とした細工だけやっておけばいいかな」

 

 ところで、と向き直り悪戯気な顔になる。

 

「眠りを目覚ますには眠れる森の美女方式が良いと思うんだけど一発佐藤さんにやってくれないかな? シチュエーション丁度いいし」

「ちょっ! 待っ……」

 

 慌てた声を出したのは直人ではなかった。

 イリスと直人は揃って声の出本である夏希を見る。

 身を起こしかけた夏希はその視線を浴びると、居心地悪そうに目を動かし、やがて再び横たわり、息を整えた。目を瞑り、言う。

 

「……どうぞ」

「起きてんじゃねーか」

 

 眠り姫は王子様のキスを待たずにさっさと目を覚ましていたようだった。

 近づいた二人に、どこかきまり悪そうに、若干赤みの残った顔でぺこりと頭を下げる。

 直人は身をかがめ、上半身を起こしている夏希を心配そうに見つめた。

 

「大丈夫か? 体の調子は?」

「……うん。多分大丈夫だと思うけど」

 

 そう答える夏希に、イリスは軽く首を傾げ、言った。

 

「実はあんまり大丈夫じゃないんだ。佐藤さんの体はラファエロが常に乗り移れるように造られてる」

 

 少女の心臓部分を指差し続ける。

 

「今はラファエロが乗り移るための基盤部分から引き剥がして、私の術でそこを塞いでる状態なんだ。定期的にそれを掛ければ問題無いと言えば無いんだけど、私と距離が開けば解けるし、時間経過でも解ける。その状態だと非常に霊体とかに憑かれやすくなるんだ」

 

 あるいは、と考えをめぐらし、思念を誤受信して挙動が変になる時があるかもしれない、と。

 

「んなラジオみたいな……」

「あはは……」

 

 致命的、とは言いにくいものの、地味に困る事態になっていた。

 日常生活の中で困り事が多くなりそうだ。

 さしものイリスもあれこれと考えているがぱっとした手段が浮かばない様子だった。

 

「やっぱりこればかりは協会の方に事情打ち明けて、良さそうな魔道具(マジックアイテム)でもあるのを願うかなあ」

 

 特殊な道具を作れる異能者が居るだろうという事はイリスにも予測がついている。街中でビルに仕掛けられた結界はそれによるものだったのだ。

 

「――あ」

 

 ふと思いついたようにイリスはぽんと手を叩いた。

 

「アレなら一石二鳥か。丁度いいかも」

「なんだ、何か良い手があったか?」

 

 うん、とイリスは頷き、言った。

 

「使い魔契約ってのがあった」

「……使い魔だ? えーと、なんだ、カラスとか、黒猫とか?」

「意外とその辺のセンスは昔風だね。私のやり方の一つに魂を繋ぐ事で従属対象にするっていうのがあるんだ」

 

 イリスは指を立て、続ける。

 

「佐藤さんの状況は魂が欠けてるって事、いわば凄い不安定な分子がそのままふわふわしてるような状況でね、酸素なり窒素なり、他のものを取り込んで安定しようとするんだ」

「お……おう、魔法とか魔術ってそんな感じでいいのか?」

「いいんだよ。で、それなら先に永続的な繋がりを作って安定させておけば良し、協会側にも直人の強い庇護下にあるって示せて、二度美味しい、直人はご主人様と呼ばれるようになって三度美味しいって事さ」

 

 ぶは、と直人は吹いた。

 夏希は驚くように目を丸くし、そしてもじもじそわそわと直人と自分の手元に視線を往復させる。

 

「……デ、デメリットとかはないのか?」

「んー、完全に魂としての主人と従者って形になるから、死が二人を分かつまでどころじゃなく、直人が死ぬと一緒に佐藤さんも死んじゃうくらいかな。あ、その逆はないよ?」

 

 夏希はどこか琴線に響いたのか、祈るように組んだ手を胸元に置き、じっと直人を見つめ、ご主人様? とつぶやいた。

 言われた本人はひどく動揺し、待て待て、と慌てて言う。

 

「そこまで夏希を拘束するのはアレだし、ご主人様とかあれだ、色々早いというかな、というか文字通り命預かるとかどんだけ俺は覚悟固めなきゃならないんだよそれ」

 

 イリスと夏希は視線を交わし、ヘタれた、ヘタれたね、と息の合ったコンビネーションで頷きあった。

 

「まあまあ、落ち着くんだ直人。覚悟を決めなくちゃならないのは佐藤さんだし、これほどの据え膳は滅多にないよ? あの時がっつり行っておけば良かったって後悔の涙を流すかもしれないんだよ」

「だ、大丈夫、あたしはいつでもOKだから」

 

 視線を外した直人は何かを言おうとして言葉にならず、口の中でむにゃむにゃと言い、やがて二人に向き直り、言った。

 

「夏希、えーっと、なんだ、ラファエロについてはあれで良かったのか? 生みの親なんだろ?」

「逃げたね」

「逃げちゃった」

 

 妙に息の合った二人の攻撃に、直人はなんだか目から塩気の効いた水が流れそうな気がした。

 

「頑張ったよな、俺今日超頑張ったよな、頑張ったはずだったよな」

 

 イリスはがっくりと肩を落とす直人の肩をぽんと叩き、取ってつけたような口調で、よくやったよくやった、と慰めた。そのまま夏希の方を向く。

 

「まあ、直人をイジるのはこの辺にして、その辺りは私も気になるね。恨みが残るなら全面的に引き受けるけど」

 

 とても男らしい台詞を言うと、夏希は苦笑し首を振った。

 

「あたしにとっては確かに造物主だし、親なのかもしれないけど。支配されるのが当たり前に造られてるから、好きとか嫌いとか思える存在じゃないかな。お父さん、お母さんは今の家族がそうだとしかやっぱり思えないし……それも、そういう役割だったんだけどね」

 

 寂しそうに、無理した笑みを浮かべる夏希に、イリスが何か言おうと口を開き、それよりも先に直人が言った。

 

「嘘じゃ無いんだろ?」

「え……」

「この五年間さ、色々あって、その時の感情は嘘じゃないんだろ? だからあんだけ悲しんで大泣きしてさ。ならそれで良いとは言わねーけど……その五年間の事は認めて大事にしてくれよ。俺だって一緒に過ごしたんだしさ」

「あ……」

 

 夏希の大きく開かれた目に涙が溜まり、一筋二筋と流れ落ちた。

 

「ちょ……あぁ、もう。は、葉山くん、胸貸して、駄目だよ。そんな事言われたら駄目、泣く」

 

 すがりつき、肩を震わせる夏希を、若干挙動不審になりながらも受け止め、あやすようにその背中を叩く直人。

 イリスは束の間二人を穏やかな顔で眺め、そして空を見上げ、息を吐いた。

 夜明けの透き通るような空に(トビ)が一羽、風に乗り、舞うように飛んでいた。



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九話

 そこは、霊廟にしてはきらびやかに過ぎ、仏堂にしては積み上げた時間が足らなかった。

 白木の床、白木の壁、大木を一本丸々使った柱は朱も新しく、堂に座す神仏を(かたど)る像は金と極彩の赤に彩られ、眩しさを通り越し目に痛みすら感じさせる。

 熊のような、と形容すれば丁度良いだろう、堂々とした体格の男がその中央に立ち、煙草の煙を口の中で揺らし、遊ぶように口を丸め、ふ、とドーナツ型の煙を吹いて見せた。

 

「……出ねーな」

 

 アナクロな携帯電話を耳に当て、そうぼやく。

 長くコールが続き、留守番電話サービスにつながってしまった所で通話を切り、再度かけ直すと、やがて通話がつながったのか、おっとつぶやく。

 

「よぉ摩周(ましゅう)、どうだ怪我の具合は」

「ああ、こんにちわ。まーまー順調ですよ、標津(しべつ)さんはオフですか?」

「いや仕事中よ、新興宗教の皮被った悪ぃーのが居てな、異能者としちゃ凄いぞ? 洗脳系でな、百人くらい一辺に操ってみせる」

「うわ、こわ! 絶対に僕は矢面に出たくないですね」

「大丈夫だ、お前が操られたら心からのお悔やみを込めて肝臓殺し(レバーブロー)から顎砕き(ガゼルパンチ)のコンボを決めてやるよ。今ならおまけで反則の肘打ちもプレゼントだ」

「殺しにかかってますよねそれ、朱里さんだったらもっと優しく膝枕からのニッコリ笑いで目を覚ませてくれるのに」

「この前の一件で頭ぁやられてるな……可哀想に、脳CTをとっといた方が良い。あいつは無言でハイヒールで踏む系だ」

「……えらい実感篭ってるッスね?」

 

 やられた事あるからな、と標津は電話をしながらへの字に口を歪め、額の傷を掻いた。咥えたショートピースの長さが短くなっていることに気付き、最後に一息吸うと、吐き出し、ごつい皮靴で踏み、火を消す。

 ふと一瞬動きを止め、思い出したように携帯灰皿を懐から出し、少々きまり悪げに吸い殻を拾って入れた。

 

「ところで、この間の一件は結局どうなったんだ?」

「あー、あのあと報告書は見てないッスか? 一応標津さんにも送っておいたんですけど」

「老眼で見えなかったんだ」

「お爺ちゃん無理しちゃ駄目ですよ」

 

 冴えないネタのやり取りに二人は一瞬押し黙り、無かった事にした。何しろ年齢的にはそろそろ本当に危ない。

 

「えーとまあ、どっから説明すればいいか、駒ケ岳市の霊地の不安定化自体が偉品(レリック)絡みの一件だったって事は聞きました?」

「……いんや。なんだよ、そんなでかい話になってたんか」

「なってたんスよ、引き継ぎの夕張さん最初半狂乱になってました。標津さんとっとと行っちゃったんで、小さい国の人口くらい死ねって言葉が出てましたね」

「仕方ねえだろ、代わり寄越すからお前動けるなら来いってんで早速駆り出されたんだ。信じられるか? 俺まだ包帯巻いてんだぜ?」

 

 そう言い、申し訳程度に巻かれた首の包帯を摘んだ。

 

「僕は入院中で、朱里さんも通院して自宅待機ッスけどね」

「若い奴は軟弱で困るぜ」

「『俺以外は』に訂正しといて下さい、若い奴がいなくなります。んで、まあざっくり話すと――」

 

 駒ケ岳市の霊地の不安定化は葉山直人に受け継がれた偉品(レリック)、“ゲオルギウスの心臓”である事、またそれを付け狙っていた『ゾシモス』の名を冠した稀代の錬金術師。ラファエロ・コーテッサが佐藤夏希を人工生命(ホムンクルス)として()()()()偉品(レリック)を押さえる為の手駒とした事。

 そして、嗅ぎ付けた黒縄(こくじょう)(ヤン)の襲撃をきっかけに、精神的な負荷からか、覚醒を始めた“ゲオルギウスの心臓”。それを確保するために現れたラファエロ。

 そして完全な覚醒を果たした“ゲオルギウスの心臓”の持ち主の前に、聖ジョージの竜殺しの逸話のごとくラファエロは討たれ、最後に逃げ込もうとした一体のホムンクルスの中で自らの術で自縄自縛に陥ってしまった事。

 摩周はそれを話し、説明を続けた。

 

「揉めたらしいですけど、結局葉山君と夏希ちゃんは日本支部(うち)での預かりになるみたいですよ、特務課に配属だそうです」

「あー、まあ妥当なとこだな。偉品(レリック)とかあの手のは色々尖りすぎて使いどころが難しいし、ラファエロのホムンクルスとか運用以前に泥棒を心配した方が良いだろうしな」

 

 秘跡協会日本支部、特務課は名前こそ厳しく、いかにも何か裏で動きそうでいて、まったく動かない課だった。飼い殺しであり保管庫扱いとして作られた課だ。多少の自由は制限されるが、所属と少々の義務を果たしていれば良い。

 いかにも日本らしい、とふと場違いな感想を標津は抱いた。

 触らぬ神に祟りなし、であり同時に臭いものに蓋というものでもある。

 

「アメリカさんみたいに暴走許す土地も無いってのはあるけどな」

 

 制すか制す事ができないか、ギリギリまで試す。時には倫理をかなぐりさって試す。

 そういう部分でのある種の潔さ。好き嫌いはともあれ、大したものではあるのかもしれない。

 標津の小さな独り言は相手に聞こえる事はなかったらしい、摩周は若い子増えるのは楽しみですねえ、とのんきな事を言っていた。

 標津はそういえば、ともう一人の関係人物を思い出した。

 

「あの金髪のお嬢ちゃんはどういう扱いになったんだ?」

「あー、イリスちゃんですか? 乙種協力者(サポーター)という事で収まりました、色々特殊な環境の子ですが、今回の重要人物二人に親しい人物という事で」

「んー、そうか。個人的にゃあの嬢ちゃんも怪しさ満点というか、こっち寄りの人間だと思うんだがなあ」

「ええ、これ以上なく怪しいんですが、検査しても聞き取りしても過去洗ってもおかしな点が無いらしいですよ、おかしいって言えばこれ以上なくおかしい経歴ですけど」

「判断保留って事か、まー、悪い事はしそうにねえから良いけどな」

 

 標津のその言葉に、摩周は不意に黙り込んだ。数秒し、どうでしょうね、と答える。

 

「色んな女の子に会ってきた感触なんですけど、あの子今思うとカモっぽい気もするんスよね」

「カモだぁ?」

「ええ、何というか、一度惚れさせちゃえば後は手間かからずに稼がせてくれるような」

「悪党だなあ、でそのネギ背負ったカモさんが何で危ないんだ?」

「んー、何というか、何でもしてお金を稼いでくれるんですよ。売春(ウリ)どころか親騙してもね。怖いですよ、迷わないでそういう事しちゃう女の子って」

 

 標津はふむ、と唸り煙草の箱を取り出し一本咥えた。

 火を付け、同時に何かに気づいたように顔を上げる。

 

「おう、まあ大体の顛末は分かった。あんがとよ、回収班も来た事だし、またな」

「回収班……って、もしかして現場で仕事中でした?」

「おお、もう後始末だけつけて帰るけどな」

 

 うわぁ、と若干引いたような声を聞き流し、標津は電話を切る。

 入ってきた数人に向かい、煙草を持った手を上げ、声を掛けた。

 堂は気絶した信徒達が無造作に寝かされていた。

 十人、二十人では足らない、所狭しと。死屍累々という言葉のように。

 

 ◆

 

 梅雨も中ほどへ差し掛かり、夏の訪れを前に紫陽花(アジサイ)が雨に映える紫とはまた別に葉を大きくし、蔓を伸ばす。

 先日まで降り続いた雨は止んだものの、立ち上るような湿気が包み、気温だけで言えば適温だと言うのに、じっとしているのが不快になるような教室で、何人かの生徒がどうにもやる気の無い様子で、これまてどうにも疲れた様子の教師から授業を受けていた。

 放課後の補習授業だ。

 いつもはうるさいぐらいのグラウンドも、雨上がりのぬかるみのためか活動している者はいない。

 ただテニス部は早速動き始めたのか、ボールを打ち、打ち返す音と、プロ選手を真似てか、やたらと気合の入った掛け声が開け放った窓から入ってきた。

 やがてチャイムが鳴り、教師も時間を見計らって早めに一区切りをつけていたのか、時間ぴったりに授業を終わらせる。

 ばらばらとそれぞれのペースで帰り支度を始め、教室を出る。

 直人もまた同じく補習を受けていた夏希を待ち、一緒に教室を出た。

 

「……あー、二週間休むだけで結構判らなくなるもんだな」

 

 あ、に濁点が入ったような発音で直人は疲れたような声を出した。

 あはは、とこちらはどことなく余裕そうな苦笑を漏らす夏希。

 身体検査、調査、あるいは現地での調査協力、手続き諸々、事態がひとまず収まってからもその後の始末が一段落するまで結局二週間ほど学校を休む事になってしまっていたのだ。二人とも一応はまっとうな学生をやっていたので、その分を取り戻すべく、補習授業をしばらく受ける事になりそうだった。

 もっとも、ことがことだけにまだ調整の進んでいない話もあるらしく、場合によっては日本から一時的に離れる事になるかもしれず、パスポートを作っておけとも言われている。

 協会側も接してみれば別にフィクションでありがちな人体実験も辞さない秘密結社じみたものではなく、半官半民の組織であり――表向きはNPO法人の一つという事にもなっていた。高校生という立場も考えてくれて、所属はしていても拘束時間は週に一日の定期講習、義務は定時連絡と緊急時の招集には応じる事、身分証明書の携帯義務程度のもので、非常にゆるい。これで支援金として一人月二十万が入金されるのだから、時給三桁でまともにバイトをしていた直人などは貰っても良いのかと躊躇さえ覚えてしまった程だった。

 当初の担当者だった夕張という職員が言うには、このぐらいゆるい首輪と、手放すのがちょっと惜しい程度の餌が丁度良いのだと、甘そうな名前とは逆にひどく苦みの入った言葉を聞かされ、直人の躊躇もどこかに行ってしまったのだったが。

 二人はいつもしているような、いつもできるような雑談を交わしながら階段を上がり、一年生の教室の前を通り、奥まった感のある場所にある図書室に足を伸ばす。向かいは屋上に向かう細い階段だ、場所柄もあって利用頻度はあまり高くない。三年生にもなると離れすぎて尚更だ。

 扉を開け入ると、蔵書を整理しているらしい図書室担当の定年間近の教師と、それを手伝いつつ、話し込んでいるイリスの姿が見えた。

 

「だからね鉢盛先生、今時の子っていう一括りで考えちゃ駄目なんだよ。揃える分野は幅広くだ、ボッカティオ、シェイクスピア、ゲーテからボードレール、ランボーみたいな鉄板は分かる。明治大正の文学に推理小説やSFもいい、それに加えて80年代から十年刻みで漫画やライトノベルも揃えれば比較にもなるし変遷も分かる。どう偏向するかは個人に任せて提供側は満遍なく与えるべきなんだよ」

「しかしな吉野君、個人個人の裁量に任せるにはまだまだ感性が子供なんだ高校生というのはね。ネット小説の普及で尚更その傾向は強くなっているし。子供も大人も楽な方へ楽な方へと向くから、ちょっと難解だけど奥深い、味わい深い文学が見過ごされるようになってきている、だからこそそれを目につく場所に多く配置し、一人でも多くの目に触れさせるというのは大切なんだ」

 

 直人と夏希はお互いに目配せをし、くるりと背を向け退室しようとし、そして上手く行かなかった。

 

「丁度いいところに来た、二人とも、現代高校生としての意見をこの先生に聞かせてあげてくれよ。このままじゃ図書室の品揃えが固いもの一辺倒になってしまう」

 

 イリスの言葉に、大体何が起こっているか把握した直人は溜息をついて答えた。

 

「悪い。道長から渡されたのを読むくらいなんだ……よく分かんねえや」

 

 そして夏希もまた誤魔化すような笑いを浮かべて言った。

 

「いやー、あはは。あたしは雑誌とマンガくらいで」

 

 まったく頼りにならない支援に、イリスはがっくりとうなだれ、長い髪が温州みかんのダンボールにかかり、金色の模様を描いた。

 

 三人は連れ立って学校を出て、駅の方に歩みを進める。

 途中の曲がり角で西側に曲がり、田や畑の多い方向へ。以前直人は来たこともある、イリスの住んでいる、工事現場の事務所を彷彿とさせるような家に来ていた。

 ただ、昼の明かりの下で見れば、その家の姿はすぐに見てとれた。

 船などに積む、貨物を運ぶ用のコンテナだ。

 屋根などもなく、四角い形状のまま敷地の真ん中にドンと置いてあるようにも見える。

 もっとも本当に持ってきてぽんと置いたというわけでもないらしい、電気も引かれていれば、エアコンの室外機も組み付けられ、ざっくりと切り取られたような窓からはレースのカーテンが覗いていた。

 夏希は物珍しげに見回し、言った。

 

「おおー、これがコンテナハウスって奴だね。なんだかカフェみたい。ペイントしたくなってくるよ」

「出来合いのものが安く出てたからね、外装はこのままでグリーンカーテンっぽくしようかとも最初は思ったんだけど、それはそれで面倒かと思ってさ、結局そのままになっちゃってるんだ」

 

 入って入って、と言うイリスに二人は続いた。直人は無骨な外装からすれば、意外なくらい普通な内装に少し落胆する。打ちっぱなしのコンクリートの部屋や、無機質な内装というのにはそこはかとないロマンも抱いていたのだ。

 

「適当にくつろいでてよ、飲み物でも持ってくるから」

 

 玄関から入ってすぐのダイニングキッチンに二人を通す。

 ダイニングと言っても、テーブルと椅子というものは置いてなく、なにやら通気性の良さそうな、麻を太く編み込んだようなラグ・マットの上にいかにも普通な四角い座卓が置かれている。

 間もなくイリスがグラスを持ってきて、ポットの中身を注いだ。グラスの中の氷がからりと涼やかな音をたてる。

 

「時期だし、麦茶でいいよね。ちゃんと煮出した奴だよ」

 

 そう言い、自分のグラスをぐいと飲み、半分を減らし、はー、と息をつく。

 

「いやー、しかしなんだ。普通だな」

 

 直人もまたグラスを傾け、氷の音をさせると、そう言った。

 イリスは長い髪が湿気で煩わしくなったかのように、頭を小さく振り、髪を後ろで結わえてポニーテール状にしていた。くつろいだ様子で足を崩し、後ろ手で体を支え、笑う。

 

「そりゃそうさ、私だって住処は普通に住みやすい方が良い。どんなのを想像していたんだい?」

「……えーと、こう大鍋でグツグツと頭蓋骨とかトカゲとかが、緑色の煮汁で煮られてな」

「んんー、そんなに魔女イメージかなあ」

 

 直人の言った冗談に、悩むように目を瞑り、額をこんこんと指で叩く。

 そんなイリスに夏希は首を振って言った。

 

「それはない、それはないよ、むしろこうね、イリスはお城に閉じ込められたお姫様とかそういうイメージがぴったり来るよ、可憐だし、細くて可愛いし」

「お、おう……お姫様かあ、いやあ……ええ? 夏希の方こそ、ねえ?」

 

 二人の間で互いの呼び方が変わっていた。

 それに直人が気づいたのはつい先日の事だ、何やら直人の見えない所で話し合いがあったらしく、イリスと夏希、二人の間にあったちょっとした距離は狭まり、結構親しくやっているようだった。

 イリスの前身が直人の幼馴染である堂平望である事を夏希もまた知っている。夏希の体の事情もイリスは知っている。互いに複雑な事情持ちなだけに、友達として打ち解けられたのは直人としてもまた嬉しい事だった。時にどうにも入れない話をしていて寂しい気分になったとしても。

 

「ね、ねえイリスは甘ロリ系の服とか着てみない? ん、でももしかしたらクラシカルな方が良いかな、ヴィクトリアンのしっとりしたのとか。今度そういうお店行ってみようよ」

「ま、ちょっと、夏希。服はいいから、私の服とか適当なので済ませてるから」

「駄目だよ! せっかくこんな良い素材なのに。人類の損失だよ?」

 

 本当に話に入れない。というかイリスも困っているのではないだろうか、ここは助け舟を出した方が良いのだろうか、夏希がここまで可愛い物好きとは思わなかった、いや、そういえばぬいぐるみ好きでもあったなあ、などと直人が散漫な思考を頭に巡らせつつ、グラスを傾ける。

 

「そういえば、うちの妹がそういうの好きでな」

 

 ぼそっと言うとなんやかんやと言っていた二人は止まった。

 いや、と直人はぼりぼりと後頭部を掻いて言う。

 

「丁度年頃ってのもあるんだけど、ゴスロリとかそういうのにハマってるらしくて、なまじ器用なもんでさ。自分で作っちまうんだよあいつ」

「それだ」

 

 夏希が反応して顔を近づける。

 

「は……直人(なおと)、くん、妹さんって体格どのくらいかな」

「……ああ、まあ、イリスと同じくらいだよ」

 

 よっし、勝った、とどこか照れ隠しを含めたようにハイテンションにガッツポーズを決める夏希。

 力なくうなだれるイリス。

 直人は、なあ、と夏希に言った。

 

「慣れなかったら無理して名前呼びしなくても」

「……やだ!」

「やだってお前なあ……」

「だってイリスだけ直人(なお)って呼んでてずるい」

「いやまあ、それはそれで子供っぽいから俺的にはどうかと思わないでも」

 

 そう言うとイリスは頬杖をついて、寂しそうな笑いを浮かべた。

 

「私のかろうじて残ってる繋がりなんだよ、あまり取り上げないでほしいかな」

 

 もっとも、と寂しそうな笑みがまるで嘘であるかのように悪戯げな顔になると言った。

 

「ご主人様、とか直人様、とか呼ぶのもそう悪くないね。私の奴隷根性がうずうずと疼くよ」

「変なモン疼かせんな」

 

 また唐突にギリギリのネタに走ってきたイリスにびしりと手の甲で突っ込みを入れる。

 二人の様子を少し羨ましそうに見ていた夏希はグラスの麦茶を一口飲み、あ、美味しいとつぶやいた。

 そしてイリスはそれまでのぐだついていた空気を払うように、穏やかな、ゆったりとした口調で、それで、と言った。

 

「どうするか決めたかい?」

 

 一息二息置いて、直人は答える。

 

「決めた。背負うよ」

 

 きっぱりとした端的な物言いに、イリスは微笑み、君らしいねと言った。色々言い分もあるだろう、理由もあるだろう。悩みもあっただろう。それを表に出さず、決めた事は決めた事とし、それのみを言う。

 次いでイリスはもう一人に視線を移すと夏希は嬉しそうに頷いた。

 イリスは分かった、と言い二人に手を出させる。

 二週間、引き伸ばしにしていた夏希の問題の事だった。

 結局協会側にも、少なくとも気軽に貸し出せるような範囲で都合よく夏希の魂の隙間を守れるような物は無く、イリスの術で応急処置的に塞いでおくのは安定しない。それを何とかするための使い魔契約の事だった。

 座卓の上に手を出した直人は、ふと思い付き、言った。

 

「なあ、背負うって言っといて今更だけどこれって俺じゃなくイリスだと機能しないのか?」

「……君ねえ、私で何とかなるなら最初に提案してるよ。ただそれだとずっと不幸な事になるよ?」

 

 まずは乙女心が、と夏希を指差すと背景にガーンと擬音が描かれでもしているかのようにショックを受けていて直人は慌てた。

 

「いや、別にそう嫌なわけじゃなくてな、俺みたいな素人だと逆に良くない事になっちまうんじゃないかって」

 

 言葉がだんだん勢いを無くす。直人が自分に言い訳をしていたから、というわけでもない。

 夏希の表情がだんだんおかしげに、笑みの形に崩れてきたからだった。

 はあ、と溜息をつき、呆れたように髪を掻いた。

 

「夏希まで俺を引っ掛けるとか……イリスに悪い影響でも貰ってんじゃねーか?」

「心外だな、女は天性の役者っていう言葉が使い古されるほど使われてるだろう?」

「そうそう、せっかくの一世一代の告白がうやむやにされかけてるからねー、このくらいやっても罰当たらないかなーって」

「ぐ……」

 

 ぐうの音はまだ出るんだね、もっとやれ、と夏希をけしかけ、弛緩した空気の中、不意にイリスは直人の出している手に触れる。

 人差し指にわずかな切り傷が付き、血が溢れた。

 そして垂れ落ちる前に吸い上げられるように空中に浮き上がり、小指の爪ほどの球体になる。

 イリスが直人の手を離すと、切り傷は無かったかのように塞がり、血は止まった。

 

「使い魔の術式は色々やり方があるけど、今回は血を媒介にする。これはどちらかというとこっちの世界の象徴的な意味合いが強いんだけどね」

 

 目を丸くする二人の前で、イリスは宙に浮かんだままの赤い球体の前で指を指揮棒(タクト)のように複雑に動かした。

 血の雫は指揮者に合わせて演奏でもするかのように動き、躍動し、形を変える。

 

「……魔法陣とかそんな感じでもねーな」

 

 直人がそうつぶやくと、イリスは頷いた。

 

「これは直人に使った制御紋とはまったく違うやり方だからね。こっちで言う異能者の仕事に近いんだ。分類の出来ないそれぞれの形質が持つ特性(タレント)。実は当然ながら人間だけが持ってるわけじゃない、時には亡霊も、神霊、悪魔みたいな高位存在も。果ては動物の思念が集まりたまたま織りなすなんて事もある」

 

 やがて雫は複雑な意匠を刻みながら、それでいて対照的な形へと変わる。

 それは雪の結晶、そのものの形だった。

 

「まあ形にはあまり意味はないよ、直人の思った夏希へのイメージとか印象が強く作用してるだけで」

 

 なるほど、と直人は微妙に気恥ずかしい感覚を覚える。

 夜の草原の中、目に焼き付いた真っ白な夏希の姿は確かに雪を感じさせるものだった。ラファエロを好きになる事はできないとはいえ、(ネーヴェ)というセンスだけは認めざるを得ないらしい。

 やがて指の動きにもその結晶の反応が見られなくなると、イリスはよし、とつぶやく。

 

「安定した。夏希、胸元の服が邪魔になるから前をはだけて、ブラはいいから。直人はせっかくの脱衣シーンを目に焼き付けるように」

 

 その言葉に直人は慌てて目をそむけた。窓の外ののどかな畑の風景を見ながら、少し乱れてしまった動悸を静めるためグラスの氷を口に含む。きんと冷える感覚が思いのほか気持ちが良かった。

 

「残念だったね、でもまあチャンスはこれからも結構あるだろうから。あいつの記憶見た事もあるけど結構釘付けだったから強調すると良いと思うよ」

「……うん! あたし、頑張るよ」

 

 直人は意識を向けないように頑張った。

 旬の時期は過ぎたのか青々とした(ふき)が伸び放題に伸びている。その大きな葉っぱの上をカエルがのそのそと這い出て跳ねるのが見えた。雨のためか、低い場所を飛ぶ燕が横切り、何の鳥の声かも分からないが、チチチと楽しげな鳴き声も聞こえる。空はあいにくの曇り空だが雨に育まれた緑は今にも飛び上がりそうなほど力を溜め込んでいるようで、ああ夏になるんだなあ、という予感をひしひしと感じさせるものだった。

 

「直人ー、もう大丈夫だよ直人ー」

 

 そんなイリスの声にはっとして振り返ると、服を直し、不思議そうな顔をする夏希と、喉を湿らせるように麦茶を飲むイリスの姿があった。

 

「もう済んだのか?」

「ん、問題なく処置できたよ。まだ実感も何もないだろうけどね」

 

 直人は意味もなく首筋を掻き、そうだなあとつぶやく。

 何か変わったようなところもなければ、変化したと思うようなところもない。

 イリスはそういうものだよ、と言った。

 

「魂魄を接合したわけだから、あるとすれば無意識下での意識の結合、夢を一緒に見るとか。何となく同じ方向向くとかそのくらいかな。それと訓練するとよくある念話とかその手のが出来るようになるから後で教えるよ」

 

 日常生活を送る分には問題ない、と太鼓判を押す。

 ただ、とイリスはとても複雑な思いの混じった目で直人を見た。

 一瞬の事だ、気のせいだったのかと思ってしまいかねない須臾の間だった。

 

「前言っておいた通り、君の生死に彼女も左右される事になる。その偉品(レリック)のおかげで滅多に死ぬこともないだろうけど、気をつけなよ」

「お、おう」

 

 言っている事と思っている事は違う。

 直人はそう感じ、しかしどう言って良いものか判らず、口を閉ざした。

 

 ◆

 

 フランスの北東部、アルザス地方、子供に読み聞かせるようなおとぎ話に出てきそうな町並みがある場所だ。

 ただし当然ながらそんな観光に適した場所ばかりではない。街から離れれば田園風景が広がり、山にゆけば草原と岩原が視界いっぱいに広がっている。

 ヴォージュ山脈の麓、人の手もほとんど及ばなくなった、忘れ去られて原生林のようになった木々に隠れるように、緑に飲み込まれるようにその修道院跡はあった。

 新月に近い月は夜を(ひら)いてはくれない。

 鬱蒼とした森に覆い尽くされた修道院跡は、闇に閉ざされている。

 何の前ぶれもなく、青白く揺らめく光が灯った。

 

松明持ちのウィリアム(ウィル・オ・ウィスプ)ね、こっちだと随分ホラーに見られてるなあ」

 

 苦笑じみた言葉が廃墟に響き、消える。

 揺らめく青白い光に照らされ、どこか幽玄じみた色合いを見せるイリスが何かを探るように手をゆらゆらと揺らせると緩やかな風が吹いた。

 

「ん、そこか」

 

 躊躇いもなく、知っている場所であるかのように廃墟を歩く。

 人の気配に怯えたのか、崩れた石壁の下からトカゲが這い出し、音も無く逃げて行った。

 やがてかつては礼拝堂だったらしい場所に来ると、祭壇の、打ち棄てられ、朽ちて滅びようとする修道院を見守るようなキリスト像の近くまで歩き、足を止めた。

 

「なるほどね、こっちの魔法とか魔術ってのも味がある。特性(タレント)のみで突き詰めるとこういうのも出来るんだ」

 

 経年劣化もものともしない、とつぶやき、目を閉じ、幾つかの単語を唱えて足を一つ踏むと、それまであったはずの石の床が消え、突如として穴が開いた。

 

「無秩序、無意味に見えて象徴や概念で縛るか。トライアンドエラーをどれだけ繰り返したんだか……」

 

 闇に閉ざされたそこは地下への入り口であるようだった。

 青い光を伴い、イリスは無造作に階段を降りて行く。

 岩盤をそのまま削り、支えを作っただけの簡素な階段だ。ゆるやかな螺旋状に渦を巻き、地下へ地下へと伸びている。

 やがて階段を降りた場所に小さな部屋があった。

 雑多な道具、ロープだのカンテラだのが無造作に置かれている。ただの倉庫らしい。

 それを通り抜けた先、円形状に掘り抜かれたフロアの中心に人影があった。

 白い髪、白い肌。赤い瞳を持つ姿。滑らかな絹のような髪をゆるりと後ろで結んでいる女性だった。

 服装にこだわりというものがないのか、男性用の黒のスーツを着込み、ただ立っている。

 イリスが近づくと、女性は見本のような一礼をし、言った。

 

「ただいま主は不在にしております。急な来客には応じる事ができません。伝言でよろしければ承ります。それ以外はどうかお引き取りくださいませ」

 

 イリスは、知っている、と言い頷いた。

 

「ラファエロは既に協会に収容されたよ。私は痕跡から辿ってここを見つけたけど、協会だってそういう事のできる人材はいるだろう。じきにここも発見され、君たちも収容されてしまうはずだ」

 

 女性は数秒、思考するようにわずかに視線を下げ、やはり無感動に言う。

 

「そうですか。お伝え頂きありがとうございます」

「協会は、きっと君たちを放っておかない。少し探っただけでも分かった。その心臓の賢者の石だけでも非常に価値が高い。場合によっては君たちは解体され、サンプルとして保管されるだけになるかもしれない。嫌じゃないかい?」

「……嫌、ですか?」

 

 初めて不思議そうな顔色を見せる彼女に、イリスは微笑を向けた。

 

「そうじゃないかと思ってた。夏希は確かに特殊だけど、きっと夏希だけじゃないだろうなって。それなら君たちも――」

 

 言い出しかけた言葉を切り、小さく笑う。

 なんか違うな、と首を振り言った。

 

「私もかつてただの器にされていた事があるからね。勝手に同情してしまっている。ついでにちょっとの感傷もね。だから、そう。押し付けがましい話で恐縮だけど、君たちにはラファエロの代わりに私に従ってもらおうと思う」

 

 言葉の終わりと同時に、イリスの瞳がこの世のものならざる何かを映した。

 

 ◆

 

 駒ケ岳市巳浦町、駅の北口、目抜き通りからは外れた、少しばかり入るのを躊躇してしまうような路地裏に、そのバーはひっそりとある。

 80年代アメリカをイメージしたのか、裏路地にそぐわない鮮やかで少し下品な色合いの看板がかかっており、そこにはBOM HUMOR(よい気分)と太いゴシック体で書かれている。ポルトガル語だ、聞きようによってはボンホアとも聞こえるだろう。

 地下一階にある、いかにも常連しか入らなさそうなバーは、ここ数日のところ今までとは違った客層が増えてしまって対応に少々苦慮しているらしい。

 同じビルの一階、つまりすぐ上に何か魔法でも使ったかのように急ピッチでオープンした喫茶、ジュントスの人気の煽りを受けてのものだった。

 なにせその喫茶、内装は急ごしらえ、料理や飲み物に際立った特色はないものの、ウェイトレス、ウェイターの容姿が飛び抜けている。

 日本人離れ、というより日本人ではないのだろう。ラテン系が中心だが北欧系の顔立ちや中東のエキゾチックな容姿の店員も居る。共通しているのは、造ったものであるかのように、誰もがおそろしく容姿が整っているだった。

 開店から一ヶ月しか経っていないというのに、見ごたえのある店員というだけで口コミで広がりを始めている。九人の店員では十分な対応が出来なくなる日も近いのかもしれない。

 

 喫茶、ジュントスの一日の営業も終了し、店員のあらかたが勤務時間を終えて店から出た時間。

 店内のテーブル席にイリスは座っていた。

 出されたグラスのアイスコーヒーを傾け、かろころ、と氷が転がる音を響かせる。

 やがて髪を後ろでまとめた黒髪(ブルネット)の女性がバックヤードから出てきた。着ていた衣服を畳み、大きなスポーツバッグに詰め込みファスナーを閉じる。小規模なのでユニフォームのクリーニングも持ち込みだ。

 

「お疲れさま、カレン」

 

 イリスが声をかけると女性ははい、と無表情に返事をし、軽く一礼をした。

 印刷したものらしい、一枚の紙を手に持ち、イリスの横に付き人のように控え、差し出す。

 

「今月の損益計算報告です、ご確認ください」

「……ん、てかすごいな。初月で黒字出すとか君たちスペック高すぎだよね」

「基本的な人とのコミュニケーションについては教育されておりました、またロドリゴ様のお助けも大きかったと感じております」

「あいつ意外と世話焼きだしなあ、良かったらで良いんだけど、あいつが困ってたら助けに行ってやってくれよ。命令じゃないよ、本当に君の気がむいたらね」

 

 イリスは不思議な言い回しをし、コーヒーを一口すする。

 カレンと呼ばれた女性は少し戸惑うような色を表に浮かべていたが、やがて、あの、と口を開いた。

 

「疑問があります、オーナー」

「ん、なんだろう?」

 

 イリスが聞くと、胸のポケットからメモを取り出し、イリスに見せ、言った。

 先日、何度も顔を見せていた客から渡され、どんな意味なのか計りかねているのだと。

 目をやり、なるほどとイリスは頷いた。そこには名前とSNSのアドレスが書かれている。

 

「カレンを好きになった客が、客と店員じゃなくもっとプライベートな関係になりたがっているんだよ」

 

 カレンはそれを聞くとしばし黙り込み、考えるように二つ三つ瞬きをした。

 これでいいのか、と言うように小首を傾げる。

 

「私と繁殖したいという事でしょうか?」

 

 直人がいれば吹き出していたかもしれない言葉に、イリスは動じることもなくうん、と頷いた。

 

「根底にはそれがあるんだけど、人の感性は複雑に出来ているからね、そこに至るまでの経緯、それを過ぎてからの事に色々な遊びをもたせるんだ。そして感情を大きく揺らせる。その振幅が多様性を生む」

 

 カレンは困惑したように眉尻を下げた。

 

「どのように対応すれば良いでしょうか」

「カレンが不快に思わない人物なら、不快に思わない程度まで話してみると良いよ、情報漏れとかは気にしなくていい、私が何とかする。不快な人物だったり一足飛びに性交しようとする短気な奴だったらゴミ箱に物理的にポイで。でも殺しちゃ駄目だよ?」

 

 承知しました。と頷くカレンに、イリスは笑顔を向けて言った。

 

「最近疑問が多くて嬉しいね。他の子達は?」

「疑問とは違いますが……」

 

 一拍置いて続ける。

 

「カーリサとローザが店内の飾り付けの花の事で意見が違い、言い合いになりました」

「最初から性格がちょっと違うっぽかったしね、好みも別れて来たんだ」

「また、スヴェン、ベルティーナはもう少し体を動かしたいようです」

「……身体能力高いからなあ、後でどこか暴れても良さそうな場所を探しておくよ」

 

 一通りの事を聞き、イリスは穏やかな表情で目を瞑り、開いた。

 ラファエロの拠点から九人のホムンクルスを引き取り、偽装させ人として暮らさせてひと月と少し。

 たったそれだけの期間だったが、少しずつ変化が現れ始めている。

 

「マスター」

 

 カレンがそう呼んだ。『主人』の事を人口に膾炙(かいしゃ)された言葉で何と呼ぶのがふさわしいのか、それを聞かれた時に教えた言葉だ。

 

「私は、私達があなたに連れて来られた事を、未だ良くも悪くも思えません。理解の外にあります。ただ、あなたがそれを理解させたがっているのは知っているつもりです」

 

 そしてカレンはやや躊躇ったように口をつぐみ、本人は気づいているのかいないのか、おずおずと、怖がるように口にした。

 

「それを理解した時、もしかしたら私はあなたを恨みに思う時が来るのかもしれません」

「うん」

 

 イリスは頷く。そして思った、カレンは本当に賢いと。

 賢者の石を核に、一番最初に造られたホムンクルスなのだと言っていた。それゆえなのだろうか。

 そうではないだろう、造られた生命といえど、存在を始めた瞬間からそれは一つの個性と揺らぎを備えている。

 知らない事を、知らなくとも知識の積み重ねで推察出来る。

 もしかしたらカレンは彼女たちの中ではもっとも臆病な性格になってしまうのかもしれない。

 それも良いのだろう、臆病は決して悪い事でも良い事でもない。

 

「その時は存分に恨んで殴りかかっておいで。私は私の我儘で連れ出したんだ、それはしっかりと受けるよ」

 

 ラファエロ・コーテッサは夏希の感情を見て驚き、成長だと言った。

 きっと娘と言いながら、やはり道具にしか思っていなかったのだろう。

 だからこそ驚く、自分に歯向かった程度で驚く。

 しかし、錬金術師としての腕は、創り手としてはやはり超一流だったのは間違いないようだった。わずかな期間でこうまで感情を育て上げられるのだから。

 ラファエロは残した道具たち、道具だと思っていた最高傑作が人間により近づいているのを見たらどう思うだろうか。

 ふふ、とイリスは含み笑いをこぼす。

 堂平望、その父母の敵討ち――というには強弁に過ぎる。

 既にイリスは違う存在であるし、年月の無情な重みでそんな記憶もかすれがちだ。結局イリスがやりたいからやってるという部分が多いのだろう。

 ただそれでも――

 

「何も知らない間に全部終わってたなんて嫌だ、みたいな事言ってたな」

 

 以前、直人が漏らした一言を思い出す。

 ほんとに君は勘所だけで要所を押さえてしまう、イリスはそう思い、あまり意味もなくテーブルにつっぷした。

 何もできなくても、あるいはもう終わった事でさえも。

 自分がこの世界から流出した原因、父母の事、大切な幼馴染、新しい友人、面倒を見ようと思ったホムンクルス達。その全てについて、知る事ができて良かったと感じた。

 

「ああ、なんだ」

 

 私は帰ってきて良かったと思ったんだな。

 イリスはすとんと、心の中で何かが落ち着く感覚を覚える。

 テーブルの冷たさが、頬に気持ちよく沁みた。



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番外 良い気分で一杯を

 人には誰しも過去の栄光ってものがある。

 大事だ。

 ちょっとしたものでいい、ペーパーテストの点数を褒められた、初めて作った魚鍋(ムケッカ)を食べた時の母の顔、一回りも大きな近所の悪ガキ達相手にサッカーボールを一度も取らせなかった事。

 誇らしい気分になった。

 どれもが生きる糧になる。ぎりぎりの時、辛い時、きつい時、寂しくて泣きたい時、何とかやっていくだけのエネルギーをくれる。

 より大きな栄光を、より誇らしい気分になりたいがために。

 こぎつけ、そして破れた。ぜんぶ手からこぼれ落ちた。

 今の自分は、何をして、何を欲しく、何を誇りたいのだろうか。

 

 ロドリゴはそんなとめどもなくたゆたうような思考を頭に遊ばせ、汚く、狭い路地裏の壁に背を預け、雨に打たれていた。

 巨体の黒人だ、分厚い胸板は樽のようで、上腕の太さといったら頭蓋の大きさと変わらない。

 そんな悠々とした巨体も今や力を失い、立つこともままならぬ体で地べたに尻をつき、細い息を喘がせていた。

 雨の冷たさがかえって生き長らえさせているのかもしれない。

 流れる血は肺を鉛玉が貫通したとは思えないほどに少なく、それでも止まる様相ではない。

 いずれ死ぬ。

 ロドリゴは思う、それもまた良いだろうと。

 故郷から遠く離れたこの地で、意味もなく死ぬ。

 自分はちょっと油断しただけだ、いつもどおり泥酔しすぎ、いつもどおり警戒を怠っていた。ヤクザの雇われとしてそうしたちょっとばかりの油断に付け込まれて銃弾を撃ち込まれただけだ。

 かふ、と呻きが出た。

 笑いの衝動だったが血を伴っていた。

 何もかも失った今となっては丁度いい死に様だった。

 

「こりゃまた、行き倒れかな」

 

 耳が澄むような美しい声だった。

 女性――もう少し小さい、少女のものだ。

 疲れを覚えながら視線を向けると、夜に溶けるような金の色。

 艶やかなはずのその色がなぜかか細く、消え去りそうな弱々しさにも見えた。

 

「……あっち、行きな」

 

 ロドリゴは最近随分馴染んでしまった日本語でごくごく簡単な言葉を発した。

 少女は肩をすくめ、死ぬぞ、と言う。

 ロドリゴはおかしみを心の中に感じた。

 死神はこんなきれいな少女の姿を取るのかと。

 命を狩られるのもそれなら惜しくないのかもしれないと。

 

「バカだなあ、どこぞの映画のラストじゃあるまいし。銃弾食らっておだやかな顔で死ぬとか流行らないよ」

 

 流行りすたりの問題なのか、とも頭の片隅に浮かんだが、既にまともに考えるだけの余裕はない。

 ただ、今の自分はおだやかな顔をしているのか、という静かな感慨だけが残った。

 

 ◆

 

 むき出しのコンクリートに山間から飛んできた砂塵が溜まり、風が吹くとまたどこかへ飛んで行く。

 暑く、空気に漂う湿気にむせるようだった夏と違い、冬は乾きすぎている。

 もうひと月も雨が降っていない。

 入れ替わりの激しいお隣さんの部屋に置き去りになっている、古くてでかいラジオが陽気な音楽を垂れ流し、その合間にニュースを挟む。

 乾燥しすぎて喉を痛める人が多くなります、水をこまめに飲み、部屋に水を張ったバケツを置くなど対策を――

 隙間風だらけの部屋でも多少は効果があるだろうか?

 貧民街(ファベーラ)の風景。

 表の大通りにはロドリゴのように住む場所さえ無い棄てられた子供がたむろし、虱で一杯のもじゃもじゃの頭を掻きながら、食いかけの肉を捨ててくれる、ヘロインで良い気分になったギャングの通りを待つ。

 その風景を撮影しながらチップをはずむ身なりの良い客が来た日は運が良い。

 悲惨な風景かもしれない、ただ結局それも一面だ。彼らは目立つ場所目立つ場所に行くのだから。

 ダイスを転がせば別の一面になる、ちょっと路地の裏に入れば水道と電気コードがこじれたパスタのように絡み合い、階段ばかりの道をサッカーボールをリフティングしながら遊ぶ子どもたちが普通に居る。ひよこ豆をより分け、天日干しするためにザルにまとめているでっぷりと太った婆さんが、うるさいと癇癪を飛ばす。

 今にも柱が倒れそうになっている家の上で、総白髪の爺さんが煙草を吹かし、夜にならないと仕事にならない年季の入った売春婦(プッタ)が今のうちに寝ておこうと度の強い蒸留酒(ピンガ)を飲み、あくびをする。

 遠くの風景はよく変わる。

 でかいビルが次々と出来て、濛々と煙を吐いていた工場は一時増え、最近では少しづつ減っている。

 ただ、ここは時間が止まったように変わり映えがしない。少し変わってきた事といえば逆らうと痛い目を見る警察とギャングの銃がモデルチェンジしていた事と、新聞の一面に良く見るおエライさんの髪が減っている事くらいだ。

 ロドリゴの育った世界はそんな世界だった。

 運良く電線技師の父の元に生まれた彼は、そこそこの教育をマフィアの資金を受けた教会で受け、空いた時間は衆に漏れずサッカーに明け暮れ、ラジオや街灯テレビで見るハットトリックを決める英雄(アルトゥール)に憧れる、普通の少年だった。

 食べるものは他と大して差は無かったが、体だけは他を置いていくように大きくなっていった。

 残念ながらロドリゴにサッカーでボールをキープする器用さはなく、その代わりというわけではないものの、子どもたちの喧嘩では負け無しだった。

 この国では決してボクシングはメジャースポーツではない。格闘技だけでもカポエイラや柔術の方が知られているし、人気だ。そんな中でロドリゴがボクシングをやりだしたのは、たまたまだ。どこかで喧嘩の様子でも見ていたのか、路上でボクサーのトレーニングを行っている変わり者、貧乏ジムのトレーナー、リカルド・イコマに熱心にスカウトをされ、ひどく軽い気持ちでその道に入り、そしてリカルドの目は確かだった事が判った。

 ボクシングは殴る格闘技ではなく躱す格闘技だ。それがリカルドの持論であり、ロドリゴはそれを完璧に行えるだけの目と足があった。

 ヘビー級にあっても高い上背、とんでもない存在感のくせに打ち合えば掴みどころがなく、一発一発はひどく重い。アマチュアで戦績を重ね、プロへ。機会を求め、世界のあちこちに飛び、勝利を重ね続けた。

 いつしかロドリゴは黒い蜃気楼(プレト・マイラージェ)などとも呼ばれるようになり、名誉も、冨も、プライベートでは妻や子も得て、さらには王座戦(タイトルマッチ)の機会も回ってきて、人生の絶頂に至る、あと一歩を踏み出すのみ、という所まで来ていた。

 しかしその一歩を踏み出す事は出来なかった。

 原因はつまらない事だ、さして大きくもない十代ばかりのギャング同士の揉め事、次のタイトルマッチのオッズがロドリゴに優勢になっていた事が原因で起こった事だった。

 試合前の控室、体を温めていた時に、その知らせはもたらされた。

 家族ともう一度会いたければ次の試合は負けろと。

 ご丁寧に切り取られた耳が同封されていた。つけているピアスはまだ彼女を妻と呼ぶ前に選び、贈ったものだった。

 あえて負けようとしなくとも、負けていただろう。その時点でロドリゴの精神状態はボロボロだったのだから。

 彼が焦燥に身を悶え、ひどく遅く感じる空港の手続きを終え、ボロ負けしてしまった彼の姿を撮ろうとフラッシュを焚く記者達を押しのけ、外に出ると、普段あまり働かないはずの警察が車を回し、彼を迎えに来ていた。

 何もかもが終わっていた。

 廃屋で見つかったズタズタにされた大きな死体と小さな死体は何の冗談か、飾り付けのリボンのように、互いの腸を引きずり出して結んであった。

 ロドリゴは叫び、沸騰したのか凍りついたのか分からない感情に揉みくちゃにされ、何もかも判らなくなった。

 

 山の頂きで足を滑らせ転がれば、落ち続けるしかない。

 もうボクシングなんて真っ当な事をやり続ける事はできなかった。

 幸いな事に犯人たちの目星は付いている。必要なのはグローブとマウスピースではなく、(アールマ)山刀(マチェーテ)だった。

 あるギャングの仲間になり、一通りの事をした。

 やらなかったのは麻薬ぐらいだっただろう、薬で浮ついた心で復讐相手を殺したくなかった。

 そして二年が経った頃には間違っても教会に足を踏み入れられない、立派な悪党になっていた。

 復讐を終え、妻子を殺した男たちにはこの世の地獄を見せた。

 その過程でやり返され、老いた父と母もこの世の地獄を見た。

 目的のためだけに近づいたギャングくらいしか、もう彼につながりを持つ人は居ない。

 相変わらず麻薬だけはやらなかったが酒に溺れた。

 連日連夜泥酔し、もうあれは使い物にならない、とギャング仲間にすら言われていた。

 

「おい、なんちゅう(ざま)を晒してんだよ、ロディ」

 

 懐しい呼び名に久しぶりに脳味噌が動く。

 リカルド、とかつて自分を見出してくれた恩師の名前を呼んだ。

 随分老けた、と思い、遥か彼方のようにも思える昔を思い出す。

 リカルドはここで腐り果てるくらいなら何も、誰も知らない所にでも行け、と言いパスポートとどんな伝手を使ったのか、日本での就労ビザをテーブルに置く。

 

「日本には俺の遠い親戚が住んでてな、しばらくそこにでも置いてもらうがいいさ。なあロディ、お前生きれる限りは生きとけよ、親父さんやお袋さんの血も思いも、俺が仕込んでやったボクシングも、お前が生きてる限りはとりあえず残るんだからよ」

 

 その時ロドリゴは何と答えたのか。

 本人も覚えていなかった。ただ、何か喚き散らしたのだろう。

 ただ、その後ぽつりと言った、老いた恩師の言葉は覚えていた。

 

「酒と音楽、そんで面白い出会いがあれば意外と満足なもんだぜ」

 

 ◆

 

 ロドリゴは汚泥に浸かった体を引き上げるように、眠りから覚めた。

 夢を見ていたような気もする、懐かしく、辛く、悲しく、暖かい夢。

 自分は誰か、ここはどこか、そういった事を考える事が出来ず、もどかしさに頭を振る。

 引き攣るような痛みで、ショック療法にでもなったのか唐突に見当識が戻った。

 天井は高い。

 否、寝ていた位置が低い。

 床に直接マットと布団が敷かれ、清潔な白いシーツが掛けられている。

 窓が開けられているのか、白のレースのカーテンがふわりと揺れ、初秋の爽やかな風が流れ込んだ。

 明かりは点けられてない。時間はそう遅くはないようだ、日の明かりで室内は十分に明るい。

 

aqui(ここは)……」

 

 普段の倍にも重く感じる体を動かし、体を起こした。

 自らの右胸から腕にかけて包帯が巻かれている事を確認し、助かったのか、とただそう思った。

 息を吸い、吐く、生きる事に必要なそれさえ苦痛を伴う。

 当たり前だろう、誰だって肺に風穴を開けられればそれは苦しい。撃たれても立ち上がって撃ち返す西部劇の無法者(アウトロー)は遠い夢だ。

 

「や、起きたかい?」

 

 意識が途切れる前に聞いた声だった。

 死ぬ間際の幻聴ではなかったのかとロドリゴは皮肉げに唇を歪める。

 湯気の立つカップを手にした少女が当たり前のように寝ているロドリゴの横に座り、カップの中身を一口すする。

 熱そうに舌を出し、ふうふうと吹いてもう一口。

 アールグレイのようだった、ベルガモットの香りがふわりと漂う。

 一体この少女はなんだろう、とロドリゴは思った。

 自分の娘ほどの年齢のようだ、日本人ではないようだが、それにしても恐れげというものがなさすぎる。

 どうにも得体の知れない、しかし警戒心を抱くのも難しいほど可愛らしい容姿だ。子供の絵本から飛び出てきたような。

 少女はことりと床にカップを置き、言った。

 

「とりあえず傷は手当しておいたから死ぬことはないと思うよ、弾も外に抜けてたし運が良かったね。えーとなんだっけ、貫通力が高いテッポー、マカロン? あれで撃たれたんじゃないかな」

 

 それは随分甘くてサクサクフワフワとした夢のような鉄砲のようだった。

 ロドリゴは笑いの衝動に傷口が痛み、妙な呻きを上げる。

 ただそれでも静かになら声も出せそうだと感じ、ひとまずその勘違いを正しておいてやろうと口を開く。

 

「お嬢ちゃんが勘違いしたのはマカロフだ、ただ貫通力の高いのはトカレフの方だな、ソ連の骨董品さ」

 

 言いながら左手で包帯の上から傷を撫でる、触れる分には痛みもない。少女はあたかも自分で全部やったかのように言っていたが、多分医者に見せてくれたのだろうと当たりを付け、立ち上がろうとし、失敗した。力を入れたそばから抜けてゆく。穴の開いた風船に空気を入れている気分だった。

 

「無茶しない」

 

 少女が肩に手をかけ、押さえる。

 思いのほか力は強く、起き上がる事は難しそうだった。

 

「血を流しすぎだよ、多分普通ならくたばってたんじゃないかな、そんな図体で立ち上がって倒れてなんてやられたらそれこそ迷惑だ。まず食塩水、その次に食べ物だね、胃は動きそう?」

 

 ロドリゴの体は他人からもタフだタフだと言われており、自負するところでもあったが、自分で思っているよりさらに丈夫だったらしい。食べ物という言葉に反応し、ぐうと胃が鳴った。

 思わず真顔になったロドリゴの様子に少女は笑った。

 

「大丈夫みたいだね、リクエストはある? なければ塩粥になるけど」

Canja de galinha(鳥肉の雑炊)

「カンジャデガリーニャ? ちょっと待って調べる」

 

 言うやポケットからスマートフォンを取り出し文字を打ち始める少女。

 

「冗談だ、子供には無理だよ。適当に何でも食えりゃいい」

「……む、いや、これでも高校に通っているんだけどね」

 

 機嫌を損ねてしまったようだった。

 ロドリゴはしまったと言うように自らの額を手で押さえる。難しい年頃だったかと。

 

「そりゃすまんねシニョリータ」

「いいさ、ちみっこいのは分かってるから」

 

 そう言い、見っけ、とつぶやく。しばらく画面を見て頷いた。

 

「なんだ、難しくなさそうじゃないか。ちょっと待ってなよ、これなら材料がある」

 

 ロドリゴはいや、いい、と頭を振った。

 

「俺みたいなのに親切にするなって親から教わらなかったか? お嬢ちゃんがする事は警察に一報入れる事だよ」

 

 その言葉を聞くと、少女はどこか面白いものを見た様子で目を細め、言った。

 

「思ったよりずっと人が良い奴だね、岳龍会の用心棒には向いてないと思うよ」

 

 その言葉にロドリゴは目を丸くした。警戒感が湧き上がり、次の瞬間それも霧散する。自分をどうにかするつもりなら、いくらでもどうにでも出来たからだ。ついでに吐くような情報の持ち合わせも無かったし、仲の良い友人の一人も居なかった。平たく言ってロドリゴは生きる事が半ばどうでもよくなっていた。

 そんな気の抜けたような顔になったロドリゴの側にグラスが置かれる。

 

「生理食塩水だよ、自分で飲めるかい?」

「ああ」

 

 のろのろと手を伸ばすロドリゴを後ろに、キッチンに歩こうとした少女だったが、ふと何かに気づいたように振り向き言った。

 

「うち尿瓶とか無いから催したら言ってね、トイレまで肩貸すから」

「……ああ、そんときゃ頼むよ」

 

 ロドリゴはそう言い、グラスの中身を口に含み、飲み下す。

 恐ろしく体が乾いていたようだった。

 全身に染みるような旨さを感じ、息を飲む。

 そしてごくりごくりと喉を動かし、残りを一気に飲み干した。

 大きく息を吐き、グラスを置く。

 そして少しだけ曇りの晴れた頭はようやく気づいた。

 

「……うち?」

 

 ややあって、少女はたっぷりの大きさの椀を持ってきた。

 ホカホカと立ち上る湯気で香りが広がり、月桂樹(ローレル)とセロリ、そしてトマトの甘酸っぱさが入り交じった複雑な香味が鼻孔を刺激した。

 

「これは……旨そうだな」

「ん、味見した感じではなかなかのお味。さすがに鶏ガラでスープ取るのは時間かかるからチキンコンソメだけどね、ラタトゥイユみたいに炒め煮にするから油は多くなるけど、これはこれで。あ、そのパセリは自家栽培だよ」

 

 ロドリゴは椀を手にスプーンで一口食べる。

 香りが口から広がる、こってりとした味付けのスープで柔らかくなった米を軽く噛み潰し、汁気と共に飲み込んだ。後味は酸味が効き、後を引かない。

 

「むう……」

 

 唸り、もう一口。さらにもう一口。

 黙々と食べ、あっという間に空にしてしまった。

 中身の無くなった椀を少しもの寂しそうに見るロドリゴの手から取り、言った。

 

「雑炊とはいえ一気に食べるのは良くないだろうからね、お代わりはもう少し時間が経ってからだ。ところで味はどうだったかな?」

 

 ロドリゴはむう、とまた唸り、顎に手をやり、悩むように眉間に皺を寄せる。

 そして低い声で言った。

 

「上品過ぎる。この手の雑炊(カンジャ)は、もっと下品でいい」

 

 そしてまた悩むように天井を見上げ、溜息をついて続けた。

 

「だが、母ちゃんのより旨かった。参ったよ」

「よっしゃ」

 

 少女はガッツポーズを決め、言う。

 

「暇を持て余して料理ばかりしていた甲斐があったね」

 

 どうにもこの少女と話していると毒気を抜かれる。ロドリゴはそう感じ、剃り上げた頭を撫でる。

 そう、気を取り直して聞かないといけない。状況も何もわかっていないのだから。

 食後の眠気を噛み殺し、口を開いた。

 

「とりあえず、アンタは何者なんだ? どうして俺を助けた?」

 

 少女は答えた、そう難しい話じゃない、と。

 

「そうだね、まず自己紹介でもしておくよ。私は吉野イリス。ただの普通の女子高生だ」

 

 ツッコミ待ち、という奴なのだろう。ロドリゴはあえてそこに触れず、頷いた。

 二秒、三秒そのまま沈黙が続き、少女はつまらなさそうに唇を尖らせる。

 

「ノリが悪いなあロドリゴ・エンゾ。私はちょっとしたアルバイトをしててね、依頼で岳龍会の裏帳簿だの何だのって大事なものをガサッと頂きに行った帰り、たまたま君を拾っただけだよ」

 

 その言葉にロドリゴは顔をしかめた、驚いて良いのかすら分からない。言葉の意味は分かっても到底信じられるものではなかった。

 そんな大男の困惑を置き去りにして少女は続ける。

 

「岳龍会に昔ながらの腕っ節にモノを言わせる用心棒が居るって聞いてちょっとワクワクしてたからね。どんなものかと思ってたら留守だし、それどころか誰かに既に撃たれてるしでねえ」

 

 おまけに話してみればそう悪党ってわけでもない、と少女はぼやく。

 ロドリゴは肩をすくめて言った。

 

「俺はもう何人も殺してるぜ?」

「私もさ」

 

 少女はあっさりと、何でもない事のように答えた。

 ロドリゴは困ったように唇を歪め、何かを言い出そうとし、結局溜息をついた。

 

「……それで、全部それを信じるとして、うちのヤサとボスはどうなったんだい?」

「さあ? とりあえず資金繰り関係の情報あらかた六咬会に渡しておいたからろくな事にはなってないんじゃないかな」

 

 ロドリゴは脱力する思いで頭を掻いた。

 六咬会の話は聞いた事がある。地方によくある暴力団だ、暴対法施行後、弱体化した小さい組がまとまった寄り合い所帯、のはずだった。

 ここ数年の間に急激に勢力を拡大している。それもここ半年というもの異常だった。まずシノギの筋がことごとく握られ、にっちもさっちも行かなくなった所を構成員ごと丸ごと取り込む、という札束で頬をはたくような強引なやり方だ。しかも盃親の方ですらその所業に手をこまねいている。あまりの不気味な変わり様に裏で海外のでかいマフィアとでも繋がったんじゃないかとも噂されていた。

 

「……お嬢ちゃん、そのアルバイトを始めてどのくらいだい?」

「半年くらい?」

 

 わけが判らん、と言うようにロドリゴは目を瞑り、額を押さえる。

 まず、肉体的にも、そして精神的にも休息が必要だということは確かなようだった。

 

 ◆

 

「まあ、その後も色々あってね、彼女の仕事も何度か手伝ったよ」

 

 眩しすぎない照明の中で、煙草の紫煙がゆっくりと上がり、天井のシーリングファンに撹拌され、消えてゆく。

 ジャズの名盤がうるさくない程度に流され、その曲に合わせるように、グラスの氷がからりと音を鳴らした。

 ロドリゴはその大きな手からするとひどく小さくも見える皿をカウンターに置いた。

 

「ミナスのチーズだ、軽く炙ってオイルとハーブを散らしてある」

「へえ……結構洒落てるな」

 

 カウンター席に座った標津は丁度吸い終わった煙草を灰皿に押し付け消すと、出されたチーズを一切れフォークで刺し、一口で頬張る。

 

「こりゃあっさりしてるな、面白い」

「だろう? 俺は料理にこれを突っ込んだのが好きだけどね」

 

 ゆったりとした時間を楽しむように標津はグラスを傾ける。

 空になったグラスをカウンターに置くと、ロドリゴは、お代わりはどうするね、と聞いた。

 

「そうだな、次はアイラをロックで」

「スコッチ、バーボンと続いて取り留めがないね」

「初めて来たバーじゃ色々頼む事に決めてんのさ」

「オーケー、良いのがある、丁度チーズに合うだろう」

 

 様々な酒瓶の並ぶ棚から緑色のボトルを選ぶロドリゴの背を見ながら、標津は頬杖を突いて言う。

 

「彼女の仕事っぷりはどうだった?」

「ハリウッド・スターさ。どこぞで隠し倉庫のM82を見つけ出して面白そうに片手打ちした時は腰が抜けたぜ、俺のね」

「おいおい、抗争なんて最近ねーだろうにそんなん持ってんのか」

「無いからそんなキワモノ手に入れて腐らせてるのだろう」

 

 ロドリゴはロックグラスにボウル状の氷を入れ、琥珀の液体を注ぎ、標津の前に置きながら言った。

 

「こんな荒唐無稽な話が面白いかね?」

「面白いよ、とっておきの美少女の話題だ」

「そんなシベツさんにオーナーから伝言を預かってる」

 

 そして胸のポケットから一枚の名刺を出し、標津の前に置いた。

 

「立場上動きにくい時なんかは呼んで貰えれば『アルバイト』しても良いそうだ。出張料は本州だったら一人頭三千円らしい」

「……そりゃあまた結構なこって」

 

 標津は固まった顔のまま、名刺を取る。そこには簡素に吉野イリスの名前と連絡先が書かれていた。

 ロドリゴは困ったような笑みを浮かべ、ほらな、と言うように肩をすくめる。

 

「あんたがたが探りを入れてくるのも折り込み済み。むしろ利用する気満々ってところだな。俺が知ってる事なら全部教えちまって構わないってさ」

 

 標津はごつい顔つきに苦笑いを浮かべて、ショートピースを一本咥え、火をつけた。

 深々と吸い、呆れたようにぷかぁと煙を吐き、言う。

 

「なるほど、魔女だ」

「だろう?」

 

 二人の大男はそう言い頷き合った。

 しかし、と標津は手に持った煙草をぶらぶらと揺らし言う。

 

「あんたがバーやってるのは何かのカモフラージュなのかい?」

 

 ロドリゴは心外なと目を大きくし、首を振った。

 

「カボチャの馬車さ。そんなに酒が好きならバーの店主でもやってみれば、と言った三日後には用意されていた」

「ははあ、乗り心地の方はどうだい?」

「悪くない。面白い事に酒を扱い始めたら自分で深酒する事が無くなった。世の中のアル中はバーテンをすると良い」

「そうするとバーが増えてアル中が増えて、それがまたバーをやってアル中を増やす事になるな」

「Love And Peaceだ、素晴らしいね」

 

 そりゃいい、とつぶやき、ロドリゴの言葉に標津はグラスを持ち上げ、言った。

 

「大儲けする医者と坊主に乾杯だ」




二章目のプロットと一緒に書いてたらこっちの方が早くできてしまったので


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