笑顔が誰にだって出来るって本当ですか (コリブリ)
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第1話 煤塗れの手のひら

美城専務のウワサ
最近常務から専務になったらしい


 埃ひとつ落ちていない灰色のカーペット、日本標準時を正確に刻むデジタル時計、ドレープすら描かずに閉じられた遮光カーテン。

 いっそ清々しいまでの機能美で装飾された部屋に響くのはキーボードのタイプ音。パソコンのディスプレイだけが薄暗く照らす部屋の一角で彼女は苛立っていた。

 

 部下からは畏怖を篭めて美城専務と呼ばれる彼女は、画面に映し出されるカーソルを恨めしく見つめる。普段なら手が止まるはずもない程度の事務仕事が今日に限って全く捗っていない。

 たった一つ新プロジェクトを発足させる程度に何を手間取っているのかと、無表情でありながら隠せない怒りを和らげようとコーヒーの入ったカップへと手を伸ばした。冷めきった泥水をすすりながら思いを巡らせるのは先日の出来事、シンデレラの舞踏会だ。

 彼女が手ずからプロデュースしているプロジェクトクローネも参加した自社の一大イベントであるシンデレラの舞踏会は大成功のうちに幕を閉じた。企業として見れば入場チケットの売り上げは驚くほどの成果を上げており、芸能プロダクションである346プロを業界内でもより一層高みへと押し上げたであろう事は想像に難くない。

 つい最近に発足したアイドル部門がここまでの成果を出している事に喜ばないはずもなく、故に彼女の中に影を落としているのは全く別の要因であった。

 

『武内』

 

 企画書の裏隅に小さく、わざと見逃すようにその場所へ書き込んでいるのではないかと勘ぐってしまうほどに目立たないその名こそが彼女の作業を止めている原因である。

 彼女が想像するアイドル象とは真逆を行くプロデュースをする武内プロデューサーは、上司である美城と対立しながらもシンデレラの舞踏会を成功させたのだ。

 彼と彼女が平行線の道を歩いたように、彼が担当するシンデレラプロジェクトもまた、プロジェクトクローネとは違う道を辿った。

 

 ナンバーワンとオンリーワン。

 

 目指す場所は近しくとも同じではない彼は、彼女に対してアイドル達の全く別の可能性を見せたのだ。

 

 彼が有能な人材であることは、既に彼女の中で証明されている。気にくわないとは思いつつもその手腕は見事であると認めざるを得ないものであると評価している、だからこそ解せない。

 魔法が解けたシンデレラにまで手を伸ばし、被った灰を払いのけようとする事がどれほどの労力が必要か理解できぬはずもないのだ。大企業に属する者としての責任を放棄している彼の姿に苛立ちを覚えるのも無理はない。理解不能とまで言うつもりはなくとも費用対効果の面で見ればコストが勝ちすぎているのは明白なのだから。

 だからこそ、そんな理想を掲げたままで上げた成果を純粋に喜べはしないのだ。

 

 彼女はカップをマウスの横に置き、指をキーボードのホームポジションへと乗せた。止まっていたカーソルはいつまでも動かないまま、企画書とタイトルが書かれた作成中の書類へ視線を走らせる。

 プロジェクトクローネとシンデレラプロジェクトの対比、グラフ化された数値に、ふざけているのではないかと白い目で見ていたパワーオブスマイルと銘打たれた指針に、個性、笑顔と言ったシンデレラプロジェクトを取り巻く単語を見てやはり解せぬとひとりごちる。

 売り上げという面で見れば発足したばかりのプロジェクトクローネが劣っているのは致し方ないが、今も伸び続けているシンデレラプロジェクトの売り上げは留まる様子を見せていない。

 大企業の責任と彼女自らが考えているのだから、評価せざるを得ない成果を上げている笑顔とやらをあえて取り入れる方向で話を進める案も浮かんではいたが、数枚の企画書を書いた時点でデータの藻屑へと消え去った。既に方向性が示されている彼のプロジェクトがある限り、中途半端に取り入れたところで二番煎じの薄まったものでしかない故に。

 彼女はその時の事を思いだし、ついに焼きが回ったかと眼がしらを軽く揉みながらカップへと視線をやれば数滴のコーヒーが残るばかり。アシスタントがコーヒーを淹れた時に豆を切らしたので買い足しておくと言っていた事を思い出した彼女はデジタル時計を見ると0がやたらと並んでおり既に日付が変わる時間であった。日中であればアシスタントを呼びつけるがこの時間では廊下を歩く者もおらず、使い走りを頼む事も難しいであろう。

 そもそも彼女が遅くまで仕事を残すことは稀であり、このような時間まで社内に残る事は初めての事で、それもこれも奴が悪いと全く関係のない所で罵倒される武内であった。

 全く噛み合わない彼の言動をいちいち取り合っていては気が持たぬと思考の隅に追いやっても、舞踏会の舞台裏で交わした言葉が居場所を取り上手くいかない。彼女は城を、彼は灰被りの夢を追い求めるが故の平行線、そしてアイドル達はそんな二人の平行線すらも超えて行く存在だと断言した彼の言葉が、彼女の胸中に居座ったままなのだ。

 

 何にせよ現在進めている新たなプロジェクトはどうしても二つのプロジェクトを比較した上で、新たな戦略を打ち立てなければいけない。

 プロジェクトクローネを蔑ろにするつもりは毛頭なく、複数のプロジェクトを同時に舵取る事は可能であると、彼女自身の能力を客観視した上での判断だ。ならばなぜ今新たにと部下に問われれば彼女はこう答えるであろう、教える必要はない、と。

 彼女は分かっていたからだ、新たにプロジェクトを発足させる理由がただ――悔しかったから、などと言うふざけた理由であることに。オブラートに包めば、成果を上げている戦略の要素を新たに取り込むためだとも言えるが、これは彼女自身で却下している案だ。

 アイドルの笑顔を前面に押し出すと言った彼の言葉を馬鹿馬鹿しいと切り捨てているのにも拘わらず意識して怒気を強めている彼女は幾つかの建前でその思考を囲った。

 自己矛盾を解消するためにまずは笑顔の力とやらを理解しなければ先に進めない、そう思い込むことである程度ならば溜飲を下げる事が可能であった。

 あるいは彼の戦略を上回る策を捻出し346プロをより強固な城へと育て上げるため――要はあてつけであるのだが――とにかく調子に乗らせたままなのは癪であると誰にも言えぬ本音を隠しながら嘆息を一つ吐きだす。

 

 

 彼女は初めて当日の予定を次の日に繰り越すと言う屈辱的な決定をし、愛用のノートパソコンをカバンの中へと押し込めオフィスを閉じた。エレベーターの中で送り迎えをさせている専属の運転手へ今日は歩くと連絡を入れ、正面受付は既に開かない時間であるため裏口から城の外へと出た。

 初めて尽くしの一日ではあったが感慨など浮かぶはずもなく、性格を表すように吊り上がった目をそのままにしてハイヒールの音を鳴らす。彼女はいっそコンビニ弁当でも買って帰ってやろうかと血迷った行動の為に足を向けそうになるがそのまま素通りした、未婚アラサーのビニ弁は流石に不味いと思いとどまれる程度の気力は残っていた様子である。その代わりではないが普段車窓から眺めるばかりの光景に自分が映り込むことで無駄に疲れた頭脳を少しでも癒そうと寄り道を決意した。

 彼女が完全に気まぐれで行動する事などこの先二度とは訪れないであろう。プライベートですらありはしないのだから、色々と不幸やらが重なった結果の偶然と表現した方が正しい。

 

 彼女がふらと立ち寄ったそこは絶景百選に選ばれているわけでもなければ、知る人ぞ知る玄人好みの場所でもない、ただそこに入り口を見つけたから寄っただけの、市街地にぽつりとある変哲の無い公園だ。しかしこれ以上何かを考えたくはない彼女にとっては丁度良い場所であった。

 背の低い植え込みで覆われた人気の全くない夜の公園は、学生の時分であれば見慣れぬ光景に言い知れぬ高揚感を覚える事もあるかもしれないが、女性にとっては恐怖を感じる場合の方が多いだろう。しかし彼女はそんな様子すら見せずにゆっくりと歩きながら軽く首を上げる。

 立ち並ぶ木々はソメイヨシノ、風が吹けばすぐに散らしてしまう、日本に住むならばどこででもみられる光景。たった今も強くない風で花弁が舞い、彼女が伸ばした手のひらには落ちることなく散っていく。所在が無くなった手のひらを握り、気にした様子もなく再び歩みを進める彼女。

 

 そろそろ反対側の入り口に差し掛かろうとするところまで来てしまうが、一ヵ所だけ奥まった場所にある街灯がベンチを照らしていた。サンディング加工され人工的な光が反射するそこに近づくと、微かな声が聞こえてくる。一人の声しか聞こえぬ故に、電話か、独り言か。

 

「うん……うん……もうちょっとだけ……頑張って、みたい、けど……」

 

 立ち聞きなど趣味ではない美城は踵を返そうかと考えるが続く言葉に足を止める。

 

「アイドルって、難しいよ」

 

 聞こえてしまった少女の声は、美城にとって随分と聞きなれた単語であった。346プロの近くであるこの場所での話題であるならば、少女は関係者であろうか。しかし聞こえてくる言葉を咀嚼するに、魔法が解けてしまった灰被りであろうことは簡単に想像できた。

 美城は武内の言葉をして灰の掃除を怠るとは思えなかったが、あるいは彼女が、彼の手のひらから零れ落ちてしまった存在であるならば、やはりこの程度かとなじる事が出来る理由が増えるのみである。であるならば所属部署くらい聞いておくかと一歩歩みを進め、再び止まった。

 

「ごめんなさい……うん、774プロ、倒産しちゃったから、所属してた所……まだ頑張りたいけど、どこで頑張ればいいんだろう? 私の取柄は笑顔だって、笑顔が素敵って、みんなは言ってたけど、もう、笑えないよ……笑うって、どうすればよかったんだっけ……?」

 

 それは美城が切り捨てて来た者達の叫びだった。ガラスの靴の持ち主を選別する過程で試された者達の、灰被りの真実は美城の耳に届いた。思う所がないわけではない彼女にとって薔薇の棘に触れてしまったが如く刺すものはあったが、しかし、その程度で揺らぐならあの大企業で専務という職務を受け持ってはいない。

 

 だからこれは美城にとって人生で一度あるかないかの気まぐれの延長に過ぎない。

 

「――笑顔が誰にでも出来るって、本当なの?」

「それは君次第と言えよう」

「っ!?」

 

 ソメイヨシノの影から躍り出た美城をまるで化かされたかのような表情で見つめる少女。泣きはらした目元を見ても動じることなく言葉を続けた。

 

「君も知っているであろうがこの桜はソメイヨシノと言う。自家不和合性という遺伝子を持っていて手折られた別の枝から育つ以外に花を咲かせることは出来ない」

「あの……?」

 

 いきなり現れ唐突に植物の特徴を喋り出す目の前の女性に何と答えればいいのか分からない少女は持っていた電話のスイッチを切る事無くただただ美城の話を聞いた。

 

「君は灰被り……ソメイヨシノと同じく、アイドルと言う枝から育ち、灰被りのまま育ってしまったシンデレラだ。巨木になることも出来ず散っていく、多数ある木々のうちの一つでしかない」

「……何が、言いたいんでしょうか」

 

 例え話は少女の胸を抉るには十分だった。夢破れ、どうすればいいかすら分からなくなっていたそんな時に、お前はその他大勢の一人にすぎないと言われれば激情を感じずにはいられない。しかし少女は困惑気味に、その意図を聞くだけであった。怒る事にすら疲れたと表すればいいのか、その目には薄暗い光が灯っていた。

 

「アイドルに興味はないか」

「…………はへ?」

 

 たっぷりと数十秒固まった少女は美城が放った言葉の意味を嚥下しきれず、小首をかしげながら素っ頓狂な声を上げた。

 

「私はこういうものだ、君をスカウトしよう」

 

 美城が懐から名刺を出し、少女へと手渡す。たった今アイドルをやめて来たばかりであった少女にとって怒涛の展開に思考は追いつかず、喉の上辺から思った事がそのまま出てくる。

 

「なんで……私……スカウトなんて」

「笑顔だ」

「はいぃ!?」

 

 美城にとって灰被りは切り捨てるべき対象でしかなかった、だが武内の言葉がリフレインする今だからこそ、立ち聞きしていた少女の言葉に感じ入る事が出来たのだ。

 美城にとってそれが同情であるか憐憫であるかは分かりはしなかったが、もし笑顔を失った少女を自分自らの手で取り戻させたのならば、それは武内に対しての意趣返しにもなりえると同時に、胸のうちに抱えるイラつきも解消するのではないかと、その程度の打算であった。

 武内が数十人もの灰被りに魔法をかける事が出来るのならば、一人くらい造作もない事であると自信過剰な面もあるにはあるが、この誘いは少女にとっては天より続く蜘蛛の糸だ。

 それでも、たった今までアイドルという存在に裏切られた気持ちであった少女にとってこの名刺を受け取るには万感以上の勇気が必要で、見つめ合う事数分だろうか、少女はぎゅっと目を閉じながら恐る恐る名刺を受け取った。強い力が込められていたその手によって名刺は軽く折り曲がる。

 

「受け取ったからには責任が発生する。私には担当としてプロデュースを行う義務が、君には346を背負うに足るアイドルになる義務が。さて、今更だが名を聞いておこうか」

「私は、島村卯月で――ええっ!? 346ってあの……えぇ?」

 

 少しでもアイドルを齧っているのなら346の名に恐れおののくのは当たり前の事であり、美城は当然であると気にした様子もなく続けた。

 

「そうだ、島村。業界で知らぬ者はいない老舗芸能プロダクション、346プロだ。背負う責は大きいが、手にする栄光もまた大きい。悪い話ではないだろう」

 

 少女の手にはくしゃくしゃの名刺が、美城の空いた手にはソメイヨシノの花弁が収まっていた。本来であれば切り捨てられる者と切り捨てる者であるはずの関係は、気まぐれによって変わることとなる。

 

「……なんで、今更になって」

 

 俯いた少女のつぶやきは、花弁と共に地面へと沈んでいった。

 

 

 




島村卯月のウワサ
初めて所属したプロダクションは零細企業だったらしい


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第2話 壊れた時計の針

マスタートレーナーのウワサ
最近面倒を見ている新人アイドルに期待しているらしい


 346プロダクション本館地下の隅も隅にあるレッスンルームは大手のプロダクションが所有しているとは思えないほど小さな部屋であった。勿論バク転程度なら難なく出来る程度の余裕はあるが、それでも別館にある本格的な設備が整っているレッスンルームに比べればはるかに見劣りするだろう。

 だが幸いな事にそのレッスンルームは防音設備だけは他と比べても遜色のない機能を備えていた。それを知ってか知らずかトレーナーの怒号は十全に設備を使いこなしていた。

 

「ワンツー、ワンツー……島村、ステップが遅れているぞ!」

「は、はひぃ、ひぎぃ」

 

 返事なのか悲鳴なのか分からない声を上げる卯月に対して容赦のないリズムを刻む手拍子。フローリングワックスがムラなく塗られた床と、表面だけ見れば新品同然のシューズが摩擦によってスリップ音を響かせる。音の発信源である卯月は軽快な音楽に似合わないほど汗だくになりながらただひたすらに踊っていた。このレッスンが始まってから既に時計の針が二周しているのだ、休憩は脱水症状にならぬためのほんのわずかな水分補給と、息を整えるためだけの五分にも満たない時間のみ。

 

「腕の振りがワンテンポ遅いぞ! 膝が曲がっていない、脚に負担をかけるな! 指の先まで見せる事を意識しろ!」

「へごぉ!?」

 

 トレーナーの加速する指摘について行くことが出来なかった卯月はついに足をもつれさせ、おかしな悲鳴と共に頭から壁へ激突する。それを見たトレーナーはすぐさま卯月へと駆け寄り心配そうに声を掛けた。ひねってはいないかと足首を入念に触りつつ、赤くなったおでこをさすり、無事であることを確認し胸を撫で下ろす。

 

「わ、私がどんくさいだけですからっ」

「いや、ハードワークだったことに気づけずにすまない、クールダウンが終わったら本格的な休憩に入ってくれ。一時間後にはボイスレッスンに移るぞ……あと、私が言ってもしょうがないことではあるが、あまり根は詰めるなよ」

 

 トレーナーは、無理なら無理と言え、そう言いながらスポーツドリンクを手渡しつつ卯月の後ろへと位置どった。背中を押すストレッチから始まり、全身の筋肉を優しくほぐし終わると念を押すように無理はするなと言い残しレッスンルームから退出していく。

 

 一人取り残された卯月は胸の内を全て吐きだすかの様に深いため息をつきながら仰向けに倒れ、手の甲で両目を覆い全身の力を抜いた。

 

「島村卯月、頑張ります」

 

 第一声がこれかと、卯月は自分自身にあきれながらたった二時間、されど二時間少しのレッスンを思い起こす。日々厳しいダンスレッスンを行う様になってから三週間足らず、些細な誤差はあれど毎回二時間前後で切り上げていた。

 こんなに頑張っているのにちっとも体力がついている気がしないと心へ影を落とす卯月。今日は特に酷かったと感じているのだ。足をもつれさせ転ぶなど、実際のライブでは絶対にやってはいけない事であると断じているが故に。

 それは彼女自身怪我の怖れもあれば、ファンのみんなを心配させてしまい楽しい時間に水を差す形になってしまうから。

 先ほどのトレーナーがいい例であろう。稽古を途中で止め、資本である身体に傷がついていないか確かめさせてしまった、卯月はその事実だけで軽く絶望を覚えるほどに焦燥している。

 

 ハードワークだったな――お前にはまだ早いレッスンだったな。

 

 本格的な休憩に入ってくれ――もう体力がなくなったのか。

 

 根は詰めるなよー―自主練などして勝手に身体を壊すなよ。

 

「なんて、そんな意味じゃないんだろうけど……」

 

 卯月は自嘲するようにつぶやいた。トレーナーがそんなことを言う人物ではないことくらい分かってはいるのだ、だが日々続けているレッスンの手ごたえのなさが後ろ向きな考えを増幅させている。

 ダンスレッスンが終わった後の卯月はいつも同じことを考えていた。自分はどうしてこの場所に居るのか、どうやってたどり着いたのかすら定かではないほど、思考はまとまらないまま押し流されて、終着点へとたどり着く。

 それは卯月の駆け抜けた一年間。駆け抜けた、などと爽やかに表現するのはいささか間違いであるが、気づけばここにたどり着いていたのは確かだった。

 

 

 卯月はアイドルとして今までの活動に不満や後悔が無かったかと聞かれれば、無かったなどとは口が裂けようが言えるはずもなかった。

 

 

 彼女がちょうど一年前にスカウトされた元所属の774プロダクションは零細も零細、アイドルブームに乗っかろうと起業した芸能プロダクションである。アイドルに夢を見ていた当時の卯月は何も知らぬ無垢な少女で、自らを見出してくれた彼のプロダクションに感謝すらしていた。

 所属アイドルは数人でコネもなく、たった一人の営業が一月に二度ほど仕事を取ってくれば十分な成果と称えられる、そんな小さな小さな事務所。舞い込んでくる仕事はひたすら足で取ってくる遠方のステージで、十分も時間を貰えれば万々歳。それでも最初のうちは楽しいと感じられていた卯月。

 たった五分のステージに半日の移動を要することもあったし、観客が片手で数えられる程度しか入館出来ない箱での舞台もあった、だがそこには笑顔があったのだ。可愛いと言ってくれるファンや、たまたま見に来たであろう家族連れの小さな子供の笑顔が見れるだけで頑張れていた。

 いつも大変そうにしている営業に、ステージで失敗した時には一緒に謝りに行ってくれる社長、励まし合いながらトップアイドルになろうと誓い合った他のアイドル――思い描いたアイドルとは少し違うとは思いつつも、アイドルとしての成長を感じられる日々があった。

 大きな舞台の前座としてすら物足りないと偉そうな人にバッサリ斬られ、決してきらびやかなだけの世界ではないと時には痛みを知り、必ず巡業を見に来てくれる熱心なファンに励まされ温かみを感じ、それでも、それでもと、いつか大きな舞台で、大勢のファンの前で、自慢の笑顔で笑う事が出来ると信じて邁進した道だった。

 

 しかし半年と少し経った頃、兆候は訪れる。数人しかいなかった所属アイドルのうち一人が事務所に来なくなったのだ。最年長のまとめ役だった先輩が抜けた事実は、少なくない衝撃を受けた卯月含め所属アイドル達が社長と営業に理由を問い詰めるのには十分だ。

 社長と営業の返答は一身上の都合としか帰ってこず、納得出来るはずもなかったが都合があるのだろうと感情を押し込めた卯月と同様に他のアイドルもそれ以上つのっても教えてくれることはないと察してその場は収まった。

 

 問題は後日。その日、卯月はアイドルの研究をしようと事務所備え付けのブラウン管テレビを何気なく付けるとそこには事務所を抜けたはずの先輩が映っていた。テロップに表示されたのは中堅プロダクションと先輩の名前、楽しそうに笑い、踊り、若手の芸人たちに弄られてくすぐったそうにしている輝く先輩がそこにいる。

 ああそうか、と別世界を眺める卯月はそっとテレビを消す。たった一人で先に進んだ先輩に対して恨み言は無い。彼女は望んでいた世界に飛び込めたのだと、祝福すらしていた。なら次は私だと奮起して見せる気力が無ければこの世界は生きていけない、そう考えられるほどにはアイドルという世界に理解を深めていたからこそだろう。だがそう思える卯月の精神は同業界を見渡してもそうはいないほどの強靭さを持っていた事に気づけなかった。

 卯月がたまたま見つけられるくらいにはテレビ出演があるのだから、774プロの他アイドルが見つけるのに苦労があろうはずもない。一人が見つけ騒ぎ出し、どういう事だと社長へと詰め寄るのは当然と言えよう。今まで一緒に頑張って来たはずの人物が一人で出世しているのを見れば裏切られたと考えるのは容易い事だ。しかし彼女はヘッドハンティングを受け、火の車であったプロダクションの家計を移籍金で繋ぎ止めてくれたと説明されれば黙るしかなかった。結局のところ笑顔で送り出してあげるのが一番丸く収まるのだ。そんな表面上の笑顔を覚えてしまった彼女達は、だんだんと広がる薄氷上の亀裂に気が付きながらも、止める事は出来ない。次の一人が事務所を辞めるまでにそう時間はかからなかった。

 卯月は以前よりも大分広く感じる事務所を想いつつ、その日行う予定の舞台へと足を向ける。定期的に場所を確保できる小さな箱であるが、持ち回りでステージに立てるため774プロにとってはありがたい場所である。

 

(あれ……?)

 

 短い時間のステージでも目いっぱいファンに楽しんでもらえるようにと、全力の笑顔で舞台へと躍り出るが歓声がいつもよりも小さいと感じた卯月。事実、歌っている間の合いの手も心なし少なかった。自分の持ち時間が終わり、舞台袖から観客席を見ればいつも一番前で励ましてくれていたファンの人がいなかったのだ。予定が合わない日もあるかと動機が激しくなる胸を押さえつけても、浮かんだ一抹の不安は拭えない。結局そのファンはそれ以降現れる事は無かった。

 

「卯月さ、最近笑わなくなったよね……」

「えっ……そう、でしょうか」

 

 いつの間にか二人だけになった所属アイドルの片割れが卯月へ視線を向ける事無くぽそりと呟く。卯月はそんなはずはないと、いつだって最高の笑顔で舞台に立てていると信じているからこそ、自分の笑顔を疑わなかった。

 だが指摘されてしまえばそれは現実となり、違和感となる。鏡の前で笑顔の練習をしてから舞台に立つようになって、観客は目に見えて減るようになる。動員数は一見の客が一定いるため、ある程度は保たれるのだが、同じ顔を視る事は無く、その事実に気づいた卯月の背中に重い何かがずしりと伸し掛かった。

 

「潮時なのかなって」

「そんなっ……!」

「卯月も気づいてるでしょ? あの人が……先輩が抜けてったあの日からさ、あたしたちはもうダメなんだって。一つヒビが入っちゃえば脆いもんだったんだよ」

 

 結局あの人の一人勝ちかぁ、と何もない中空を見ながらうそぶく同僚に、卯月は何も言えない。

 

「卯月は天然だからねー、あの人に利用されてるって気づかなかった?」

「えっ?」

「先輩はいつだって自分の引き立て役をやらせる立ち位置を卯月に取らせてたんだよ。うちらの中で一番出世しそうなのは卯月だろうってみんな思ってただろうし、そんな卯月を侍らせることで付加価値として自分のアピール力を高めてたって事だね、結果は見事に成功」

 

 卯月は言葉を発する事が出来なかった。みんなで仲良くトップアイドルを目指そうと言っていたあの人が、みんながそんな事を考えていたなんて、気づきすらしなかった。背中に伸し掛かる重りに足枷の鉄球が加わる、息をすることすら難しくなり、そんな苦しさからか卯月の笑顔はより一層減る事となる。

 事務所が無くなる少し前、卯月以外のアイドルがいなくなり、事務所には沈黙だけが残った。社長と営業と卯月は、重苦しい空間の中で対面し、誰が口火を切ればいいのか分からないまま時間だけが過ぎて行く。そんな空気の中、最初に口を開いたのは社長だった。

 

「島村さん、これがラストチャンスになるかもしれません」

 

 そう言って差し出したのは一枚のポスター、アイドルを対象としたドラマのヒロインオーディションの告知。

 

「このヒロインは笑顔を売りにしている、悲しくても、辛くても笑っていられるのが特徴と設定されていて、島村さんにはぴったりだと思います」

「……やりますっ!」

 

 笑顔だけなら誰にも負けたくないと最後の殻を破られぬように、自分自身を守るために、抱いた思いを捨て去らぬように、オーディションへ挑んだ卯月。ラストチャンスを託してくれた社長と営業を裏切らないためにもと、何度も何度も鏡の前で笑顔の練習を繰り返して。

 その日が卯月にとっての分水嶺だったのだろう。滝の底へ突き落されるか、緩やかに海へと広がるか、どちらにせよここまで来てしまった卯月はもはやまともな行先など残っていない事に気づきはしない。

 

 当日、参加者の名前と番号が書かれた紙を受付で渡され待機室に通される、そこにはあの先輩がいた。ずきりと耳にすら聞こえそうな痛みを胸に抱えた卯月。

 アイドルを対象にしたオーディションなのだからここにいたとしても別段おかしくはない、卯月が肩を震わせながら何とか目を合わせると、微笑む彼女。卯月はその優しそうな笑顔を防衛本能からか好意的に捉えた。人間だれしもが物事を悪い方向へは考えたくないものである。ただでさえ弱っていた卯月の心はこれ以上の負荷を許容しない。張っていた肩を下げ喋りかけようとした瞬間スタッフに呼ばれ伸ばした手は所在なく下げられた。同時に一番から十番が別室へと移動を始める。

 

 先輩アイドルと卯月は二番と三番で隣同士だったためオーディション用に整えられた部屋で横の席へと座る。卯月は肩がぎりぎり触れ合わない程度の距離で、どうしても意識してしまう右隣から何とか三人の面接担当へと視線を絞った。受付で渡された紙には監督と助監督、メイン俳優と書かれていたか、真ん中にはセーターを羽織ったいかにも自信ありげな表情でふんぞり返る壮年の男性は監督だろう。助監督らしき人物が手を叩き注目させると、ドラマの概要説明から始まり求めるヒロイン象を語り、一人三分のアピールタイムを設けると宣言し、オーディションは始まった。

 卯月は自分が何をアピールすべきか、笑顔をどう表現すべきか、ただそれだけを考えていたため一番の子が何を喋っていたかすら頭には入らず終わっていた。二番手は先輩、流石に自分の事だけを構っている余裕はなくなり、椅子から立ち上がる先輩をじっとみつめる卯月。

 

「じゃあ早速アピールしてもらおうか!」

「はいっ!」

 

 凛としつつもどこか甘えられている様な感覚を覚える人を魅了する声。卯月は774プロで活動していた頃には聞いた事すらなかったその声色に驚いた。長いまつ毛に透き通った肌、伸びる腕はキッチリと揃えられていて、きっと一足先に入ったきらびやかな世界で身につけたのだろうとより一層高みへ上った彼女との差を感じる。

 

 一瞬の静寂のあと、アピールが始まった。

 

「笑顔は、自分と他人の壁を壊すためにあると考えています」

(――っ!?)

 

 卯月は心臓を鷲掴みにされた痛みを感じた。比喩などではなく、動機が激しくなり油の様な汗が額から噴き出ていた。先輩が語るそれは――

 

「ファンの前に出るときは全力の笑顔を、ファンと触れ合う時は優しい笑顔を、ファンと一緒に笑いあえる舞台を、ファンと一緒に作り上げる……それこそが、私の描くアイドル像と、笑顔です」

 

 それはいつしか卯月が先輩に語った笑顔だった。卯月は笑顔だけが取り柄なのだからと、せめて最高の笑顔が出来るようにと、一生懸命に考えた笑顔だった。

 

「いいねっ、笑顔のバリエーションの中に綺麗な笑顔ってのも追加しておいてよ」

「ありがとうございます!」

 

 先輩のアピールタイムは既に終わり、いやに上機嫌な監督の声は耳障りな音を奏でていたにも関わらず、卯月は自分の名前が呼ばれている事に気づけないほどに狼狽していた。

 

「ちょっと……緊張するって言っても限度があるでしょうよ、そんな真顔になられたらこっちも恐縮しちゃうじゃない」

「ま、がお?」

 

 卯月は笑顔をしているつもりだった。日課にすらなってしまった笑顔の練習通りに表情筋を動かしているはずだった。今、卯月は笑えていない。

 

「んー……ま、今流行りのクールキャラってやつ?」

「アイドルならもうちょっと表情作れた方がいいと思いますが」

「笑顔なんて誰にだってできることすらできないなんてね」

 

 助監督と俳優が口を出す。沈黙してしまった卯月への手助けとも、見かねて呆れているともとれる言葉も、ひそひそと聞こえる周りの雑音も、卯月には届かない。

 結局言葉を発する事すらなく卯月を運命を決める三分間は幕を閉じた。その場にいた誰もが憐みの視線を彼女へと向け、次の瞬間には存在すらなかったかの様に振る舞う。演じられぬアイドルに価値はない、寄り添い耳元でそう囁くのは誰か。卯月は自分の身体が自分のものではない感覚を抱いて、動く事すら適わなかった。

 

 時計の針が半周する時間で全員のアピールが終わり即座に結果が発表された。第二面接へと進む者はその場に残るよう指示されたが、当然卯月の名前が呼ばれることはない。

 その日から数日の出来事は卯月の記憶からすっぽりと抜け落ちていた、いや、公園で時間を潰す以外の事をしていなかったのだから元から記憶すらないのだ。卯月の胸の内にただ鮮明に残っているのは、オーディション会場から抜け出るときに見えた心底馬鹿にする蔑みの笑顔に、774プロが倒産するときに言われた「すまなかった」の言葉だけ。

 

 

 卯月は気づけば城の中、地下牢に捕らわれている。346プロに所属できるだけでも他のアイドルよりは恵まれているのだと名もなきアイドルは言うだろう。それに気づけないほど愚かではない卯月はより一層頑張ろうとする。それが空回り、何も為せない感覚が虚無感だと言うのなら卯月はからっぽだった。もし何かが入っているのだとすれば、レッスンすらこなせないようなアイドルに価値がないとの思い込み。それだけが今の卯月を突き動かしていた。

 

「島村卯月、頑張ってます……」

 

 卯月の言葉は誰にも届かない。

 

 この城には魔法をかけてくれる魔女がいたとしても、助けてくれる王子様がいるはずもない。

 

 

 ここはシンデレラだけの世界なのだから。

 

 

 




島村卯月のウワサ
笑顔の練習は毎日欠かさないらしい


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第3話 最上階の真実

今西部長のウワサ
美城専務に良い兆候が表れていることが嬉しいらしい


「島村卯月には笑顔を取り戻してもらおうと考えています」

「それはそれは。ついに彼のことを認める、そういうことかい?」

 

 346プロダクションの本社は城の様な建築様相を見せる高層ビルだ。その最上階近くに位置する重要な会議を行う時のみ使用される会議室の一角で、美城専務と今西部長は対面していた。

 

「勘違いしないでいただきたい。確かに彼の手腕は評価をせざるを得ない部分があることは認めましょう。もし笑顔だけでこの業界に君臨し続けることができるのならばそれも是としますが、しかしそうではない」

 

 常務から専務へと昇格した美城は机の上で書類を正しながら言い捨てた。考慮に値する部分があったとして、片方面だけで物事の全てを理解した気になるのは愚の骨頂である、笑顔とやらに業績を上げる一因はあろう、逆に言えば一因でしかない。

 シンデレラの舞踏会が終わった後、美城の口から何度も聞かされている言葉を今西は苦笑しながらも聞いていた。

 

「しかしね、君はお城の様なきらびやかさを求めてプロジェクトクローネを立ち上げた。業績も順調に上げている、なのに次のプロジェクトを発足するなんて、それもたった一人に笑顔を取り戻してもらうためにと聞けば、彼の影がちらつくのは当然だよ。これは認めていると言われても仕方がないんじゃないかな」

「故に島村卯月です」

「ふむ?」

 

 今西は疑問を隠さない表情で美城へと説明を求める。十年来以上の付き合いがある二人だ、今西は理解が及ばないのではなく、その真意を問いただすための視線を向けている。

 

「笑顔こそがアイドルをアイドル足らしめ、346へと還元されるのであれば大いに結構なことですが、私が信用するのはそこに生まれる経済効果のみです」

「つまり笑顔がどれだけお金になるか、そういう事だね」

「対外的なイメージはプロジェクトクローネが一身に担っておりますので」

 

 つまり美城は笑顔を取り入れたならばどれほど業績へと還元されるのか、それを島村卯月を使って調べようとしているに過ぎない。更なる思惑として成功すれば武内プロデューサーを見返すことができ、失敗しても笑顔なんてそんなものだったと確認ができる、島村卯月は試金石でしかない。

 

「島村卯月君か……君が彼女をスカウトしてきた時はびっくりしたものだがなるほど、君の思惑からすればぴったりの役者と言うわけかい」

「採用にあたり島村卯月の事は調べました。元774プロダクション所属のアイドルランクF――最底辺アイドル」

 

 アイドルランクとは大手音楽レーベルが協賛し、ここ数年で築き上げた販促用ランキングだ。CDの売り上げを主な要因としてファンの数を調べ上げ、月一で更新されるアイドルの能力を測る指標である。FからAまでのランクがありBランクまで上がれば晴れてトップアイドルの仲間入りだが、並大抵の売り上げではCに辿りつく事すら難しい。

 346プロダクションですら顔役であると言える高垣楓と城ヶ崎美嘉の二人のみがAランクであり、他一部のアイドルがBランクにたどり着いていると言う状況、Fランクだった島村卯月のファン数など推して知るべしである。

 美城は手元の資料を今西へと渡しながらノートパソコンを操作しプロジェクターを起動させる。会議室前方の大スクリーンに映し出されたのは島村卯月の何回目かのライブ映像だ、木造のステージが軋みスポットライトは揺れている、客席には空席のパイプ椅子が立ち並びライブの質だけで言えば最低最悪だろう。

 

「それでも本当に楽しそうに踊っているね。一生懸命に笑顔を振りまいて、ライブを見てくれている人達も一緒に楽しんで貰おうという気概が見える。武内君が欲しがる人材だろう、だけど今は……」

「起業直後の零細プロダクションが一年持ったのならば快挙でしょう。半年過ぎた頃にユニットでリーダー格のアイドルがヘッドハンティングを受けて退社、その後は転げ落ちるように他のアイドル達も抜けていき、倒産直前に島村卯月がドラマのオーディションに落ちました。丁度リーダー格が抜けたあたりからのライブを順々に見ればわかりやすいでしょう」

 

 ホワイトボードに映し出された卯月のライブ映像、満開だった笑顔には影が差し始め、愛想笑いへと移り変わり、終期には媚びる様な笑顔、最期は見る者が見れば取り繕った笑顔だと分かる酷い表情。卯月が練習と称して鏡の前で続けていた笑顔で手に入れたのは笑顔の仮面だけだった。

 

「そして今は笑う事すらなく俯くだけ」

「入社時に受けさせたストレステストでは自信喪失状態と診断されています。アイドルという存在に対して軽いPTSDの兆候も見受けられますね」

「……僕から見れば、彼女は少しだけボタンを掛け違えてしまっているだけの様にも見える」

 

 弱みを見せないように頑張ることは一人で抱えることの裏返し、信じようとする正直な心は騙されやすいという弱さへと繋がり、謙虚さは自信のなさを押し上げてしまった。全ての物ごとに置いて負の側面を押し出させるに至った卯月のアイドルとしての活動に、今西は同情、憐憫の声色ながらもまだ未来は残されていると言う。

 卯月にとってアイドルとは希望であった、しかし現実を知り、裏切られ、見捨てられ、シンデレラとして輝くはずだった時間は彼女を縛る鎖へと変貌している。

 

「島村卯月にかけられたのは魔法ではなく呪いでした。灰被り(サンドリヨン)ではなく、いばら姫(スリーピングビューティー)とは、皮肉ですが」

「美城君、それはつまり卯月君にはプリンセスとしての素質があると考えているんだね」

「否定はしません。今西部長が仰られたようにボタンの掛け違いはあるでしょう、正してやれば素養は無くもない、そう考えています」

 

 美城は笑顔の力とやらを知る前であれば、卯月など取るに足らぬ小娘として見向きすらしなかったであろう。今西はこうしてスカウトから採用まで至ったのは偏に武内プロデューサーの影響がある事を感じ取っていた。

 

「少し安心したよ、しっかりと目にかけてあげているんだね」

「無駄なことが嫌いであることに変わりはありません」

 

 例えば今卯月が地下牢に押し込められていると感じている小さなレッスンルーム、そこは普段他のアイドルがレッスンする別館とは離れており、自信喪失状態にある卯月が他のアイドルと比べられない、接触を極力避けられるようにと美城の配慮であった。

 

「いずれは関わっていくことになるでしょうが、今は自分のことに集中させ少しでも早くアイドルとして確立してもらわない事には先に進みませんので」

「非効率を嫌うところは昔から相変わらず……これはトレーナーからの報告書かい」

 

 今西は美城から渡されていた資料を捲っていると数枚の束ねられた報告書に目を付けた。名前欄に青木麗と書かれている事を目ざとく見つけ、それを手に取り視線を上下させる。島村卯月育成計画と銘打たれたその書類には半月ほどの卯月のレッスン状況が事細かに書かれていた。

 

「マスタークラスのトレーナーを島村君一人に付けるとは、非効率は嫌いだと思っていたのだけれど、思い違いだったかな?」

「……専任にする価値があるとの判断です。その報告書を読めば分かるかと」

 

 今西のちょっとした皮肉に対して、美城は元々吊り上がっている目尻をさらに上げながらも毅然と答える。その事に意外そうな表情を隠さず書類へと視線を落とす今西。

 

「これは――記載ミスではないのかね?」

「マスタークラスのトレーナーがそんなミスをするわけもありません」

 

 その書類に書かれていたのは長年俳優やアイドルを見続けて来た今西を持ってして驚愕を隠せない事実であった。

 

「フィジカル面でウチの事務所最高と呼ばれる日野茜君、トップアイドルの城ヶ崎美嘉君に匹敵するレッスン量だよ、これは」

「彼女はこなしてしまうのですよ、それが普通でなければいけないと言わんばかりに。最初のうちは346基準で平均レベルのレッスンでしたが」

 

 美城は無駄を嫌う、故に体力が続く限りレッスンをさせるのではなく、ライブで踊り続ける時間である二時間と決められた時間を必ず踊らせるようにトレーナーに指示を出していたのだが、日を追うごとにその内容はオーバーワークと言ってギリギリ語弊がある濃い密度のレッスンへと昇華していた。

 卯月自身は346プロのアイドルならば二時間程度のレッスンでバテてしまっては駄目なのだろうと勝手に考えていたが、そもそもが二時間でバテさせるようにレッスンを行うような指示がなされているのだから当たり前のことなのだ、その事実に卯月が気づけるはずもなかったが。

 

「普通とは何だったかね」

「私には分かりかねますが、島村卯月がレッスンを完璧にこなさなければいけないと強迫観念に捕らわれている節があることは報告書にも書いてありますね。反面マスタークラスのトレーナーにも大きな期待を与えるほどに動けていることからも方針は現状維持を取る予定です」

「ふむ……」

 

 今西は美城の言葉を聞き思案する。なるほど確かに島村卯月と言う少女は、美城から期待を引き出すほどの能力――いわゆる輝きを持っているのだろう。現在はレッスン漬けで体力面での価値を見出されているのみではあるが、体力は実際のライブでも重要な要素だ。二時間から三時間のステージで全編を通して精彩を欠かないダンスを見せられるのならばそれだけで強みになりえるのだから、加えて体力があるということはそれだけレッスンの時間、質も幅が効く。

 トレーナーの報告書に記載されている限りではダンス、ボーカル共に現状の技術力で基準値を持っていて、ヴィジュアルに関して卯月の個性足りえる笑顔が無くなってしまっている面を加味しても中の上はある。

 

「ベースがしっかりとあるのは良い事だね、フィジカル面に関しては文句なしと言える」

「仰りたいことは分かります」

 

 美城は今西の手から数枚の紙を抜き対面している二人が共に見えるよう机の中央に置いた。

 

「問題はメンタル面。先ほど申し上げた通りカウンセラーの診断では自信喪失状態、PTSDの兆候、本人の気質から鬱状態への移行が見え隠れしている……端的に評して、人前に出れる状態ではないですね」

「うん、そんな状態の彼女をステージへ立たせようとするなら経営者としても、人としても失格の烙印を押されるだろう。だからフィジカル面をトレーナーに任せ、君はメンタル面でのバックアップを行う、それがプロデューサーとしての役割だ」

 

 美城は島村卯月をスカウトするにあたり346プロ会長とアイドル部門長である今西へ一つ宣言をしていた。プロデューサーの統括を行うのみであるプロジェクトクローネとは違い、島村卯月は美城が担当プロデューサーとなる事をだ。それを聞いた美城会長及び今西部長の表情は何があったのかと昨晩の食事内容まで聞き出す始末であることからも、珍しいを通り越してありえない域の出来事だった。

 

 美城専務からすればやりたいことは明白で、ただ武内と同じ土俵での勝負を内心で描いているだけである。自らの疑問を解決するのに必要であれば非効率ではないと思考した結果でしかない。

 ただ問題であったのはエリートコースを歩いてきた美城専務はプロデューサーの統括を行ったことはあっても直接の営業を行った実績が無いことだ。

 仕事を取ってくること自体は346の影響力や彼女のネームバリューを使えばいくらでも用意できるが、ことアイドルの育成やバックアップという面で見ればノウハウはゼロに等しかった。故に必然的にノウハウを得るのは今西部長からと言う事になる。いつもなら独断専行ともいえる企画の推し進め方をするが、今回に限り卯月の報告書を今西へと見せ相談を行っているのはそれが理由だ。

 

「出来る限りの事は尽くしましょう。そのために三週間仕事の引継ぎを行っていましたので大分時間が取れます」

「君の本気具合を見れて良かったよ。今の島村君を事務的にプロデュースさせたくはなかった……そう受け取っていいんだね?」

「ええ、私にとっても丁度いい機会です。実際の現場を目にすることは微々たるとはいえ私の成長にも繋がる部分があります。島村卯月のみならずプロジェクトクローネの面々とも接する時間が取れることはあなたからしても喜ばしい事なのでしょう」

 

 美城専務はプロデューサー業を下のやる事だと見切りをつけていたわけではない。単純に下の仕事を完璧に把握している時間があるのなら、上に立つ者として必要な技能を磨く時間を取ると選択したまでであった。エリートとして一足跳びに出世が可能な環境があったが故に、プロデューサーとしての仕事を書類上で把握していたに過ぎない。

 

「では時間が惜しいので失礼します」

「うん、君がさらに成長する事を楽しみにしているよ、島村君と一緒にね」

 

 今西は常に好々爺然とした笑顔を浮かべているが、今この時に限って言えば思春期の娘の思い付きに困ったような、それでいて成長を喜ぶような、何とも言えない笑顔を浮かべていた。

 

 

 美城は卯月がいるレッスンルームに向かうため重役会議室を出て一階フロントロビーまで降りる。メインエレベーターにはセキュリティの問題で地下へと繋がるボタンはないので、ロビーを経由して裏口付近の関係者用エレベーターまで移動する必要があった。

 凛とした歩調でロビーを歩くと美城に気づいた者達から声がかかる、そんな者達へご苦労とだけ声をかける美城はその者達の中にシンデレラプロジェクトのメンバーが混ざっているのを見つけた、勿論武内も一緒である。

 わざわざ態度を変える必要もないと他の者達と同じよう一声かけて横を通り抜けたが、聞こえて来た言葉に一瞬足を止めた。

 

「うっへぇ……やっぱり怖いねぇ」

「ちょっと未央、聞こえちゃうから」

「友達感覚では纏められる部分も纏められませんから、美城専務の接し方は私も見習わなければいけない部分があります」

「えー……プロデューサーがあんなんになっちゃったらあたしやだなー。ほらほら、いつもみたいに敬語抜きでさ!」

「今は衆人の目もありますので……本田さんはもう少し声のトーンを落としてください」

 

 幾分歩調を緩め思案するようなそぶりを見せ再び歩き始める美城専務。

 

「敬語……」

 

 そっと吐きだされた彼女の呟きは懐疑的なものを含んでいた。

 

 なお後日、美城の事を「あんなん」などと評したシンデレラプロジェクトの一員である本田未央は上からの意向により不細工な着ぐるみを着て街を歩く仕事が振られたのだが、今日の出来事が関係しているかは定かではなかった。

 

 

 




武内プロデューサーのウワサ
最近は敬語無しの会話も慣れてきているらしい


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第4話 地下牢の真実

美城専務のウワサ
スカウトしたアイドルが予想以上の逸材で実はびっくりしていたらしい


「口調は友人と話す場合のものでいい」

「は?」

「その調子だ、タメ口での会話で問題無い」

 

 卯月は汗でぐっしょりと萎れたタオルを肩にかけたままぽかんとした顔で美城を見上げた。無理もない、所属する事務所の上司及ばず二足飛んで実質的なトップからいきなりタメ口で話せなど言われて素直に従える者がどれほどの数いようか。

 反射的に出た疑問の声を好意的に捉えた美城はどことなく上機嫌に見えるが気のせいにしたい卯月は両手を前に出しぶんぶんと振った。

 

「いえいえいえ!? 専務にタメ口なんて無理ですよっ」

「私が重役であるからとの理由であればいらぬ遠慮だ、今はプロデューサーとしての君の前に立っているのだから問題は無い。専務として接する場で弁えさえすればな」

 

 そも卯月からすればこの小さなレッスンルームに美城が出向くこと自体驚愕に値した。レッスンが始まってから三週間、最初の一日覗いたきり顔を見せることが無かったのだから何をしに来たのかとの思いもありつつ、ようやく諸々が終わるのかと考えた。用事を聞くため余所余所しい様子で立ち上がろうとした所に静止をかけられ飛び出て来たのが先の発言である、驚愕を通り越して理解不能であった。

 

「では段階的に慣らせばいい。まずは……そうだな、美城と呼び捨てにするところからか」

「無理です」

 

 お役所仕事よろしくきっぱりとした口調で断る卯月。

 段階的にも何もあるわけがない。アイドルと所属事務所のトップ、何があろうと埋められぬ溝がそこにはあるのだから。卯月が元所属していた774プロであれば物理的な距離の近さも相まってある程度フレンドリーに接することはできたであろう、それでもタメ口などきけるはずもなかった。そしてここは天下の346プロ、何が発端となりクビを切られるか分からないまま短絡的な行動に出れるほどの胆力は持ち合わせていない。

 

「では美城さんと呼べ、これ以上の譲歩は無い」

「……美城さん」

「ああ」

 

 卯月は気づかないがこれも美城の手の上だ。美城は最初から呼び捨ては無理である事など把握しているがタメ口から呼び捨て、最終的な落としどころとして名前で呼ばせることを想定していた。譲歩と言葉にすることで相手に負い目を感じさせる、無理やりであるし一歩引いた目線で見れば何を勝手なと言われてもおかしくはないやり方だ。負い目の塊である卯月相手だからこそ取れる強硬手段であった。

 美城も上手いやり方ではない事を理解しつつも余所余所しいまま壁を作られ心の距離が離れていくことだけは避けたかったのだ。パーソナリティとはかすりもしていないことも承知しているがそれが逆に今後の心理的な壁を壊すのに一役買う、最初にこのような劇薬を投与されれば並大抵のことならば動じなくなるだろう。美城は心理学を専攻しているわけではないがヒトを扱う上で学んできた人心掌握術の一つであった。

 

「さて、本題はそこではない」

「もう十分以上にとんでもないお話を聞かされた気がするんですけど……?」

「今のはただの思い付きだ」

「私は思い付きで上司にタメ口を強要されかけたんですか!?」

 

 卯月の心底疲れた顔を見て美城は内心しめしめと言った所であろうか、立場が圧倒的に上である美城に突っ込みを入れられる時点で壁は大分薄くなったと見ている。事実卯月も数言交わしただけであった美城への警戒心を大分和らげていた。要は踏み込んでいい領域を示してやればいいのだ、扱いとしては警戒心の強い猫に対するそれであった。

 

「今日は今後の予定を伝えに来た」

「今後の予定……私の、アイドルとしての活動予定、ですよね」

 

 コミカルな雰囲気は美城の一言で吹き飛ぶ。卯月は自分の進退がこの場で決まるのだと黙して沙汰を待つがその表情はかんばしいものではない。レッスンすら満足にこなせず三週間で成長を示せていない状況で今後の予定と言われれば更に隅に追いやられるのか程度の想像は難くない。全くそんな事実はないのだが心が弱っている卯月はいつかのオーディションで監督に冷めた視線で見つめられた時と同じ感覚を抱いた。

 

「予定は今のところ一つだけだな」

「……はい」

 

 このまま使い物になるまでレッスンしていろとでも言い渡されるのは大穴、退社用の書類を書けと言われるのが本命であろうと卯月の思考は最悪を想定して動き出す。身構えをより一層固くして肩を抱いた腕に力が入り震えながら俯いた。

 

「とりあえず歓迎会でもしようと考えている」

「は?」

 

 本日二度目のため口であった。

 

「CDデビューもステージも全て企画検討中だ、もうしばらくはレッスンになるが、まぁ君であれば心配はしていない」

「えっ……あの、私、デビューしてもいいんですか……それに、心配はしてないって」

 

 今後の予定として括ればレッスンを続行しろとのお達しであるが、美城の口からCDデビューやステージの予定は検討していると出た瞬間、一瞬ではあったが期待に満ちた瞳を見せた卯月。

 それを見た美城はやはりまだ芽は残っていると確信した。完全に心が折れているわけではない、アイドルという存在にまだ希望を見出せるだけの余裕が残っているのならばやりようはあると思考の片隅で今後の予定を組み立てる。

 

「分かってはいたが随分と卑屈なことだ、それも含めて歓迎会で話そうと考えていたが少しだけ説明しよう。心配していないと言ったのも言葉通り、三週間のレッスンであれほどの成果を出した君には期待している」

「だって私は、二時間程度のレッスンもまともにこなせていなくて」

 

 自己評価が著しく低い卯月を見て、美城は仕方がないと腰に手を当てながら呆れた様子を見せた。

 

「レッスン内容で気づくとも考えていたがトレーナーの報告でそのような素振りは見られなかったのでな、説明も兼ねて歓迎会、話し合いの場を設けることにした」

 

 美城は言葉少なく状況を淡々と説明した。そもそも二時間でバテさせる様なレッスン内容を指示していたこと、それについてこれるフィジカルの強さを持っていること、この三週間顔を見せなかったのは担当プロデューサーとして動くために仕事の引継ぎを行うためであったこと。

 

「謙遜は過ぎれば嫌味だ。過剰な自信を持つことは身を亡ぼすこともあろうが、適度な自信は行動に火を灯す、憶えておくと良い」

「や、え、だって、私は……ずっと、レッスンだけしてて、四年も前から、ずっとそれだけ」

 

 卯月は眼頭が熱くなるのを止められなかった。レッスンとは卯月が自らを語る上で避けては通れないものである。アイドルを目指し始めて最初の三年間は養成所でひたすら基礎を学び続けた、その甲斐があったと前プロダクションへスカウトされた最後の一年であってもアイドルとしての活動なんて小指の先程度で、一週間まるまるレッスンの時間などザラであった。ファンに笑ってもらうために、自らが目指す場所の為に、光の当たらない場所でただひたすら踊り、歌い続けて歩んだ道だった。

 

 たった五分のライブの為に一週間のレッスンをする日々であっても辛くはないと当時の卯月は言うだろう。だが心は全く満ち足りていなかったのだ、ファンを笑顔にすることが第一であった卯月にとってそれを表に出すことは恥ずべきことだと無意識に捉え、考えすらしていなかったが全力を出し切ってなお有り余る体力は不満となって心の奥へと沈殿していた。

 

 そのようなフィジカルを持っていて萌芽することなく埋もれてしまったのは偏にライブの時間であろう。零細プロダクションが取ってこれる仕事など長くても十五分程度のものであり、長きにわたるレッスン生活でついた体力を活かしきる場が用意されたことが無かった。

 346プロに比べれば養成所も774プロもレッスン資材が整っているとは言えなかったが、それでも体力と言う面に限定すれば努力は裏切らない。歌や踊りのレッスンに限らず筋肉質にならない程度の筋トレ、休日の走り込みは確かな物を卯月にもたらしていたのだから。アイドルとして活動を始めた一年はより一層レッスンに意味を持たせ、合わせて四年という歳月は少女を昇華させるのに十分すぎる期間であった。

 

「ありがとう……ございますっ……!」

「…………正当な評価を下したまでだ」

 

 今にも泣きだしそうな勢いで感謝の言葉を述べる卯月だが、そんな彼女を正面から見た美城は一瞬言葉に詰まった。本来の彼女ならば満面の笑みであったのだろう、だがそこにあるのは笑顔であっても素顔とは言えない取り繕った表情だ。フィジカルを得る代わりに失った物は大きい、美城は感極まった場面ですら媚びた笑顔をするようになってしまった卯月から目をそらすようにレッスンルームの蛍光灯を仰ぎ一呼吸を置いて告げる。

 

「逆に言えば評価は正当に下す。346プロダクション所属のアイドルとして、デビュー前のアイドルを基準にするならば君のフィジカルは驚愕に値するが、ダンスもボーカルも並みだ。現状の評価に甘えて成長が見られなければ私は容易く切り捨てる用意がある」

 

 締めるところは締める、増長して貰っても困るのだ。しかし切り捨てるとは言うがアイドル部門に限れば卯月を受け入れる先はある。美城にとって必要でなくとも、武内にシンデレラとして輝きを取り戻させるプランをそっと思考の片隅に置く。

 美城にとって彼に頼る事は癪ではあるが少なくとも切り捨てた所で益があるわけでもない、かけた費用分の回収くらいはさせなければいけないのだから使えないからといってすぐさま捨てられるはずもない。

 安全弁の存在を知るが故に弛むことは良しとしないため、わざわざ説明はしないが――

 

「……むしろ私の手腕が試されるか」

 

 美城の手によって笑顔を取り戻した卯月が武内がなした以上の成果を上げる事で当てつけとするのが目的なのだ。企業として利益を上げ、プロデューサーとしての腕も上となれば彼も暫くはおとなしくなるだろうとの考えは、それもこれも卯月の成長に掛かっていた。

 殆ど書類上でしかアイドルを見ない美城にとって彼女のメンタルを支えるという経験は樹海の道を行くが如く手探りな部分が大きい。前途は多難であるが、そんなことは今の地位にたどり着くまでに何度もあった。

 

「島村卯月、頑張りますっ」

 

 前向きな言葉ではあるが、何も考えていない思考停止にも捉える事が出来る卯月のその言葉を聞いて、美城は道の険しさを思う。

 あるいは彼ならば、こんな状態である卯月ですらも笑顔に出来ると言うのであろうか。

 

 

 




島村卯月のウワサ
最近はレッスンにより一層力が入っているらしい


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第5話 捻くれ者のいばら姫

美城専務のウワサ
ファーストフード店には入ったことがないらしい


 島村卯月にとって美城専務は疑念を抱く相手でしかなかったが、それは既に過去だ。

 

 出会いはよくわからないことをのたまうおばさん程度の認識であり、夜の公園で母親に泣き言を漏らしている所に現れ灰被りだのソメイヨシノだのと心を抉った上にいきなり名刺を渡してアイドルにスカウトされたのだから驚愕こそすれ途轍もなく偉い人物であるなど分かるはずもなかった。

 本当に346プロの専務だと判明した時、卯月はスカウトされた嬉しさよりも今更と言う思いが強かった。アイドルに貴賤が無いと思い込んでいた時分、774プロにスカウトされた日は346プロのシンデレラプロジェクト選抜オーディションの落選通知が届いた日であったのだから。もしあの時346に入れていたのならこんな辛い思いをせずにすんだと恨み言が渦巻いた。

 

 774プロが悪い場所であったかと聞かれればそうではないと答えるが、それでもアイドルに対して抱いていた夢が破れることは無かったはずだ、故に今更という思いが強かった。

 

 とはいえ最大手プロダクションにスカウトされた事実に変わりはない、いきなり重責を背負うことになった卯月はFランクアイドルとして活動していた今までを振り返り、未来への希望よりも過去の枷を強く感じることとなる。今までの全てを持ってしても通用するのかと言う不安、失敗すれば失望され今度こそ再起不能になるであろうことは想像に難くなかった。

 

 契約にあたり卯月の家に訪れた美城と母親の話し合いは難航した。それもそうだろう、あれほど泣きはらしながら愚痴を零した娘をもう一度同じ道へ進めようとするほど卯月の母は放任主義ではない。最終的に判断は卯月へと任され、承諾する事となる。

 卯月にとってもういっそアイドルへの夢を木っ端みじんに砕いてほしいとの願いもあった。全てを諦めるにはまだアイドルとしてやりたいことが多すぎる、しかし346ほど大きなプロダクションであれば頑張ったところでどうにかなるとは思えなかったため、全てを諦めるために自らの手ではなく業界そのものに押しつぶされたと逃げ道を作ろうとした結果の承諾だった。

 

 そのような後ろ向きな考えであってもレッスンで手を抜く事はしない。卯月本人の、従来の気質もあったが346プロダクションで受けるレッスンはトレーナーの質も段違いであり、機材に至るまで今まで見たこともない高品質の物であったからだ。

 卯月はアイドルとして活動してきた一年間を思えば、そのような環境でレッスンを受けられるのが楽しかったのだ。例えそこが本来346所属のアイドルがレッスンする別館とは違う場所であり、狭い地下牢が如くと言った場所であってもだ。

 地下へ向かう際ロビーですれ違うテレビで見知ったアイドル達の楽しそうに喋る姿を見るたび嫉妬や劣等感に苛まれはするが、諦めの念が強い卯月にとっては最早それ以上に決着をつけたいとの思いが強かった。楽しさと悲観がせめぎ合い結局は何を考えるでもなく、空っぽな卯月だけが残る。

 

 そんな思いでレッスンを続ける中、美城専務は最初のレッスンを見た切りであったため、卯月からすれば他のアイドルの賑やかし程度に考えられているのだと感じていた。故に唐突にレッスンルームに現れた美城を見た卯月はやっと終わるのかとわずかに安堵すら覚えていた。

 そうして美城から出て来たのはタメ口で話せとの指示、身構えていた卯月は現実味の無さからとんでもなく失礼な口調で聞き返したがそれすらも受け入れられた。そこからは思考が追いつかないほど怒涛の展開だ。

 検討中とはいえCDデビューやライブの話が上がり、あまつさえ心配していないとまで言われたのだから、卯月の心は驚天動地であった。続けられた言葉を聞くたびに理想と幻想の世界が広がるのを感じる卯月。

 二時間でバテる体力しかないとの思い込みはそうなるようにレッスンしていたのだから当たり前だと、むしろ346プロダクションアイドル部門で言えばトップクラスの体力であり期待を寄せられていて、あまつさえ美城が直接プロデュースを行うために引継ぎを行っていたから顔を出せなかったと聞けば、卯月は今までの不安は何だったのかと自分自身のちっぽけさに自責すらした。

 

 卯月はそうして溢れ出した涙を止めることは出来なかった。

 

 驚きや嬉しさ、打ち砕かれた不安もごちゃ混ぜになり全てが流れ出て、気づけば漏れ出ていたのは感謝の言葉、その時ようやっと346プロ所属のアイドルとしてスタートラインに立てたのだ。

 スカウトされてからレッスン期間を経た一月足らずの不安はその全てが卯月の思い込みから生まれたものでしかなかったと、絶望を打ち砕いてくれた美城への感謝の念が尽きる事はない。

 

 

 卯月はそうして疑念を抱くだけだった美城への評価を百八十度変えてから初めての休日、スーツ姿で待ち合わせ場所である駅前広場の噴水で何度も手鏡を確認していた。

 

(美城さんは歓迎会って言ってたけど何をするんだろう……やっぱり料亭の一室とかなのかなぁ)

 

 卯月にとって歓迎会とは小さなオフィスビルの一角かカラオケ辺りで騒ぐイメージが強かったが、美城が言う歓迎会がそれに当てはまるとは考えられなかった。料亭で厳かにこれからについて話すか、あるいはお高めのレストランで優雅に食事をしながら、などの方が美城のイメージに合っているし、そうなるであろうと想定していたが故に私服でドレスコードに引っかかる事を避けようとわざわざスーツを着て来たのであった。

 美城が歓迎会とあえて柔らかな言葉を使ったのも生活レベルで言えば庶民である自分に合わせてだろう、そんな事を考えながら待つこと数十分、噴水の裏から声を掛けられる。

 

「待たせたか」

「いえ、美城さんをお待たせするわけにもいかないので私が早めに来ていただけです」

 

 待ち合わせの十五分前、キッチリとした灰色のレディーススーツに身を包む美城と、胸元がV字で大きめに開いたおしゃれさを意識した群青色をしたスーツの卯月が揃う。休日にスーツを着込み対面する二人は完全に周りから浮いていた。

 

「それはいい心がけだが……島村、君はなぜスーツなんだ」

「ええっ? そんなこと言ったら美城さんもスーツじゃないですか」

 

 歓迎会の体とはいえ上司と二人きりで食事に行くのだから、休日であっても仕事の延長だとスーツ姿で臨んだ卯月であったが、美城の思惑は全く別にあった。

 

「歓迎会だと伝えていただろう、堅苦しさを持ち込みたいのなら望みどおりに」

「それは遠慮したいです」

 

 ただでさえ吊り目とお堅い言動でキツいイメージを与える美城だ、そんな彼女と二人で堅苦しい話し合いをしたいと思えるアイドルは346プロダクションには存在していないだろう、勿論卯月も例に漏れるはずもない。

 

「私とて休日にまでとやかくは言わない――時間が惜しいな、速やかに向かうぞ」

 

 美城はハイヒールの音を鳴らしながら足早に歩きだした。歩く姿一つとっても気丈な態度が現れる彼女の後ろ姿をぼうと眺めて動き出さない卯月、この状況は一月前であれば死刑台へと連れ出される囚人の思いであっただろうが今はそうではない

 

卯月の瞳に映る美城の背中は頼もしかった。

 

 

 美城専務に付き従うこと十分程度、その間ずっとそわそわとしていた卯月であったが、今は視線を目下のポテトとハンバーガーとアイスティー、そして前に座った専務を交互に見ていた。

 

「カロリーとおいしさは比例するとどこかで聞いたが、まったくそんなことは無いようだな……島村、どうした?」

 

 そんな卯月を意に介さずハンバーガーを小さく齧りすぐに包みなおした美城。

 

「あの、料亭は?」

「君が何を考えているのかは理解できる。あえて言うなら、君の言う通りここを料亭というには聊か粗末だな」

 

 二人が訪れたのは卯月が考えていたような料亭ではなく、アメリカ発のどこにでもあるファーストフード店。それも卯月がいつも利用している店舗のいつも座っている端っこの席だった。

 

「……ドレスコードがあるお店に連れていかれるのかと思っていました」

「スーツからして察したが、だろうな、全くの見当違いだ。そもそも私たちは接待される側だぞ、自らセッティングして料亭に行くようなことは殆ど無い」

 

 なるほどと声に出ないほど小さく呟きポテトを摘まむ卯月であったが、ならば何故美城が言うところの粗末な店に来ているのかは謎のままだ。

 

「私に合わせた、とかでしょうか」

「ああ、歓迎会と銘打っているのだから無駄に緊張するような場所では歓迎も出来ないだろう、いくらか砕けた態度でなければ聞けないこともある」

 

 今西に相談した結果、二人きりならこのような場所、いわゆる今どきの女子高生が慣れていそうな場所の方が打ち解けられると言われたからであり、最初はもう少し格式高いレストランを予定していたことを美城はわざわざ言わない。

 

「そうだったんですか、ありがとうございます! 高級レストランとかだったら、きっと緊張しちゃって味とかわからなかったと思いますから」

「…………そうか」

 

 歳が親と子と程離れた相手と一対一の食事経験など皆無であった美城は、今西の言った通りだった事に少し焦りつつも、飲み物を一口、ハンバーガーの塩気で乾いた喉を潤す。

 対して卯月は怖そうな見た目をしていてもしっかり相手に合わせ、場所をセッティングする美城に大人を見てちょっとした尊敬と親しみを感じていた。

 

「んんっ、格式ばった場所での食事経験も君の成長に繋がるだろうから今度連れて行く。それはそれとして最近のレッスンに問題はないか?」

「ひえ……あ、二時間で倒れてしまうのは変わりませんが、トレーナーさんからは、ダンスについてだけはよい感触だと言われています」

 

 レッスンが始まってからひと月経とうとしている今、美城はトレーナーの報告書から、卯月がレッスンを始めてから極めて順調に能力を伸ばしていることを知っている。それはもちろん美城にとっても喜ばしい事であるが、知りたいことはその先にあるようで、更に問いかけた。

 

「それはトレーナーからも聞いている、よくやっているようだな。では……描く方向性はあるか? 持っているアイドル像と言い換えてもいい」

 

 ――美城からして、この質問は試金石でもあり、本来ならばあり得ない質問であった。

 

 方向性とはプロデュース側が本人の能力を見て決める事であり、本人の好きにさせるなどとんでもない事であると美城は考えるからだ。

 武内プロデューサーにしてもある程度の方向性は自分で決めてアイドルへの提案を行う、故にどれほどふざけた質問であるかなど美城の口からは説明すらしたくないレベルのものであるが、あえて聞いたその真意は彼女の心の内にのみあった。

 

「え、……と……」

 

 それを聞いた卯月の動きは止まる。それもそうであろう、アイドルとして道を歩んできてやりたいことはあれど、自らの方向性を自分で考えることはなかった、身を置いていた環境では成るようにしか成らなかったが故に口から出るのは「ただやりたいこと」のみである。

 

「CDは一応出したので、ラジオか、テレビに出たい、でしょうか……?」

「ふう…………」

 

 美城は予想していた範疇、どころか想定通りの答えを聞いて深いため息をついた。

 

「そ、そうですよね、無理ですよね、私なんかが烏滸がましいことを言いました」

「勘違いするな、君が言ったやりたいことはいずれ叶う。私が聞きたいのはやりたいことではなく、辿り着く場所……道半ばに見たい景色ではなく、目指すべき地を聞いているのだ」

 

 美城は口調を強めて語りかけた。卯月にとって「アイドルとは何か」、それは美城ですら持っている答えだ。

 美城にとってアイドルとは城を輝かせる存在、そして城と共に輝く存在である、どちらかが欠ければ成り立たず、故に彼女はアイドルをナンバーワンとして輝かせる為のプロデュースをする、自らの城がナンバーワンであることを誇示するために。武内にとってはみんなに笑顔を与えるオンリーワンの存在とでも言えばいいか、とにかく、卯月にとっての「アイドルとは何か」を知りたかった。

 しかし卯月の口から出てきたのはアイドルとしての矜持ですらなく、ただ自分が見たい景色のみ――それが悪いとは言えないが、美城からして、それはあまりに稚拙が過ぎた。

 

「砕けた会話が出来る様にこの場を選んだのは、私も直接的なことを聞くためだ、故に言わせてもらおう」

 

 美城に見据えられた卯月は蛇どころか大型の熊に見つかったかのように身を強張らせながらも聞く姿勢に入る。

 

「――島村、君にとってのアイドルとは、アイドルらしくなること、でしかない、違うか?」

「っ……それ、は」

 

 美城は卯月に息継ぎの暇すら与えずに次の句を放ち続ける。

 

「私から見た島村卯月という人物はアイドルに憧れ、夢を見て、そうなりたいと言う願望が詰め込まれた、自分が夢見たアイドルをトレースしてそうあろうとレッスンを続けてきただけの存在だ」

「…………」

「君の本質は、待つ、それに尽きる。指摘されるまで待ち、与えられるまで待ち、チャンスすらも待つ」

 

 美城の口から告げられる言葉は刺々しく突いてくる。卯月がそれに対して何も言い返せないのは考えれば考えるほどその通りで、どうしようもないほどの真実だったから。

 

「自分から動こうとしない者に、掴めるものは何もない」

「っ! そんなこと、分かって――」

 

 椅子から勢いよく立とうとした卯月は、中腰の状態まで上体を上げたが、発した語気の薄れと共に再び座る。

 

「分かって、いなかったんですね。だから、前のプロダクションではみんながいなくなるのも止められなくて、言われたままに歌って、踊って……自分からやったことは自主レッスンくらいでしょうか」

 

 卯月は自嘲するように呟いた。アイドルを目指し始めた当初、昔の彼女なら悲しく思いこそすれ、ここまで自虐めいた思いは持たず、彼女にとってのアイドルとは何かを真剣に考え始めただろう。

 しかし卯月は既にアイドルの裏側を知ってしまっていた。煌びやかなだけじゃない、ドロドロとした煮こごりのような、焦げ付きのような、渦巻く感情がそこには存在していることを。それは、他人を蹴落としてでものし上がる、そんな覚悟も含まれている。

 だからこそ自らを振り返り、どれほど彼女が盲目的にアイドルを追い求め、何もしてこなかったのかを理解できてしまった。

 

 それからたっぷりと数十分ほど、両者の間には一切の会話がなく、卯月は俯いたままだった。そんな陰気を切り裂くように、もう時間だと言いたげに、美城の眼光が卯月を貫き、言葉が発せられた。

 

「――もう一度問おう。島村卯月とってのアイドルとは何だ?」

「…………私にとってのアイドルは」

 

 卯月は一度言葉を切り、心の奥底に沈んだ何かを探すように、引っ張り上げるように、言い放つ。

 

「私にとってのアイドルは、みんなに笑顔を届けられるような存在です」

「ふむ、それは君にとっての理想が形を成した存在でしかないと指摘したつもりだったが、伝わっていなかったか、あるいはそれだけではないか」

「はい、それだけじゃないです」

 

 卯月はもう間違えない、美城によって掘り起こされたものではあったが、それは彼女の中でかっちりとはまったものだ。

 

「アイドルが、私にとってみんなを笑顔にする存在であることは変わりません……ですが、それは私の笑顔を届けるだけではなく、みんなが私の歌や踊りを見て、笑顔になってくれるような存在、だと思います」

「……ふむ」

 

 その結論は、卯月が笑顔だけでは成せないことがあると知ってしまったが故の結論でもある。それを聞いた美城は多少の方向転換は必要かと頭の中で計画をはじき出しつつ、概ね満足のいく答えを得れた。

 

「私の自慢は笑顔でした、事実、私が笑うのを苦手になってからファンは減っていきましたから……だから、私は笑顔を武器にして、歌も、踊りも、全部……上手くなりたいです、そんな私を見て、凄いって思ってもらって、笑顔にできたらなって思います。自分を見てもらいたいなんて、承認欲強すぎかもしれないですけど」

「そこまで考えられたのなら上出来だ」

「そ、そうですか?」

 

 卯月は照れ臭そうにするが、どこか卑屈な表情でもあった。

 専務からして、笑いたくても上手く笑えなくなってしまったのは環境からしてどうしようもない事だが、そのままにしておくべきことではない。

 そして、それを解消するためには、卯月一人ではどうしようもないことを理解していた。ならば誰がやる――プロデューサーである美城しかいないのだ。

 

「……私も伝えておくべきことがある、君にはトップアイドルになってもらう予定だ。それは私の為でもある、一人、見返してやりたい者がいてな」

 

 これは腹の奥底から言い放った卯月に対する敬意と、これからの関係を進めさせるために必要だから伝えたのだと美城は言うだろう。一蓮托生とまでは云わずとも、計画の要を意識してもらうことは重要であるがゆえに。

 

「――――」

 

 それを聞いた卯月はどう思うか、自分の為じゃなかったと憤慨するか、利用されているだけだと捻くれるか、あるいは。

 

「……美城さんも、結構子供っぽいところがあるんですね」

「憤慨だ」

 

 むしろ美城が気分を害するような返しをした卯月であった。それもこれも、アイドルの汚い部分を知ったため、人間には笑顔だけでは語れない部分があることを知ったためだ。

 卯月が美城の真意を許容できるようになってしまったのは成長と言っていいのか、大人になったと褒めるべきなのか、中々に難しい部分ではあったが、美城にとってこの距離感は今西との関係性よりも軽い何かを感じ、悪くない気分であった。

 

「笑顔を武器に、と言えたのは大きい事だと私は考えている、当面はそれ以外のアイドルとしての要素をひたすらに高めてもらうことになるがな」

「はい……私、笑うの苦手ですし」

 

 卯月はもはや自虐ネタに出来るほど、今の自分と向き合えていた。それほど美城の言葉は彼女にとって核心を突き、考えさせてくれるものだったのだ。

 

「笑顔は……今はちょっと、どうすればいいかわからないですけど、それ以外ならとにかくレッスンでどうにかして見せます」

「ふむ、見違えるようだな……歓迎会を開いてよかったと思えるほど、有意義なものになったよ」

 

 時間にすれば一時間ちょっと、関係性は大分変容していた。

 

「島村、君にとってアイドルとは目的であり、目標であり、到着地点であっただろう」

「――もう、違います。私にとって描くアイドルは、その先にありますから」

 

 笑顔を届けられるアイドル、そこは初めて夢見た時と変わりなく。

 だけれども、ちょっと捻くれてしまった島村卯月と、ちょっと優しさを感じる美城専務の、おとぎ話がそこにはある。

 

 

 

「さて、短くはあったが出るとしよう」

「え……まだ食べきってませんよ?」

「これは少々、脂っこすぎる。もっと良い物を食べに行くとしよう、ドレスコードがある場所へな」

「うぐっ、憶えていたんですか……」

 

 卯月の歓迎会は続くようで、美城が携帯を取り出しつつ席を立ったのに続いて卯月も急いでバッグを持ちかけだした。

 

 

 そんな二人を遠くから見つけたプロジェクトクローネの面々に、卯月と美城が気づくことは無かった。

 

「……あれってもしかして専務だよね?」

「うわーほんとだ、こんな場所くるんだ」

「スーツ姿で誰かと話し合い……もしかして秘書さんかしら」

「今まで専属の秘書はつけて無かったよねー、報告はあたしたちのプロデューサーから受けるだけだったし」

「あたし達と同じくらいに見えたけど、専務に目を付けられるって事は優秀なのかなー、いつかお話する機会はあるかな?」

 

 その日、美城がファーストフード店で不味そうにハンバーガーを食べつつ謎の少女と会話する姿の写真が、クローネメンバーが所属するLINEに張り付けられた事を美城と卯月はまだ知らない。

 

 

 




島村卯月のウワサ
最近は母親から逞しくなったと言われるらしい


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第6話 太陽に焼かれ

島村卯月のウワサ
ランニングシューズは既に十足以上潰してしまっているらしい


 島村卯月は笑わない。

 正確に表するなら、うまく笑えない。

 

 卯月がアイドルとして活動し始めた頃であれば、天然ゆえの上手い笑顔ができたであろうが、それは既に望めない。

 ならアイドルとして成長した今はどうだろうか、普通のアイドルなら一年も活動すればいわゆる営業スマイル、巧い笑顔くらいはできるようになる。

 しかし業界の汚い部分を一身に受け続け、重なり積もった結果、卯月はどこか卑屈で、陰気で、見る者に不快感や不信感を与える笑顔しか浮かべられなくなってしまったのだった。

 かと言って、卯月にとって笑顔とはアイドルの根源であり、願いであり、始まりであった、ゆえに捨てることなどできず、今日も自宅の洗面台に立ち、笑顔の練習をする。

 

「……えへっ」

 

 まさしくアイドルと言ったあざとさを含む声色が響き渡る、声だけを聴けばその辺りの男性はすぐさま魅了されてしまうことうけあいだろう。

 ただ、透き通った声と比べれば、鏡に映った卯月の笑顔は濁点まみれであったが。

 そもそも卯月の声色にあざとさが混ざるなど、アイドルを始めた当初からすればありえないことだ。表情だけでなく仕草、ふとした声、飾らぬ姿、全てを意識せず素を描き出していたからこそ、彼女の笑顔は魅力たりえていた、しかし仮面を被った今、同じ笑顔を描き出すことなどできるはずもない。

 

 なら、仮面を被った笑顔は魅力たりえないか、そうではないだろう。

 

 アイドルとは偶像であり、ファンたちが描き出すイメージに左右されることなど大いにあるのだから、仮面の笑顔――いわゆるクールな笑顔でも魅了することはできるはずであるとは、美城の言葉だ。

 故にその笑顔を何とか武器に出来ないかとちょっとした方向転換を試みているわけであるが。

 

「……きりっ」

 

 ぐにゃりと曲がる口元からして、卯月がクールな笑顔を取得するまでの道のりは長い。

 

「卯月ーもうすぐご飯できるわよー」

「はーい」

 

 母親に呼ばれた卯月はいそいそと髪を梳き整え始めた。

 本日は美城との歓迎会からちょうど一週間、世間一般で言えば休日であるため、予定は午後からのレッスンのみである。午前は丸々空いてるので自主レッスンの時間にしようと予定を頭の中で構築し始めた彼女は、髪を後ろでひとまとめにし、ポニーテールを作る。 

 

「…………」

 

 ヘアゴムからぱちんと小気味の良い音を鳴らしながら離した手はおもむろに鏡へと添えられ、顔の輪郭をなぞり、口角へとたどり着く。

 そこに映る自分を見た卯月は今日も思う。

 

 いっそ笑わない方がまだ見ていられる顔になると。

 

 

 朝食を食べ終わり346プロから無料で配られるピンクのジャージへと着替えた卯月はランニングシューズを履いて家を出る。公園まで軽いジョギング程度の速度を維持しつつ、到着してから柔軟を始めた。

 卯月にとって家を出てからここまでの行動はもはや生活習慣と言っていい程に馴染んだ行動だ。774プロに所属するよりも以前、養成所での三年間ですら風邪を引いた時以外は雨の日であろうとも続けてきたルーチンワーク。定位置である鉄棒の横に陣取り公園中央を見ると、開けた景色が卯月に安心感を与える。

 レッスンと違い指先まで意識する必要もなく同じ動きを繰り返すだけ、運動というのは行っている間は何も考えなくていいからストレス解消になり、合わせて体力作りも出来る、卯月にとって一石二鳥のお得な日課だった。

 

(今日はロングかな)

 

 卯月は腕を十字に組みながらランニングコースをどうするか思案する。

 平日は朝早くに出ても汗を流すためにお風呂に入る時間や、学校の準備の時間を考えるとどうしても短くなってしまうが、今日は休日、午後に予定が入っているとはいえ休む時間もあり長めのコースを選択した。

 卯月がじんわりと汗をかき始めたのを合図に柔軟が終わり、公園の中央から少しそれた場所にある時計で時間を確認すれば既に三十分ほど、いい塩梅に身体がほぐれていることを感じつつ軽く肩を回す。

 

(この走り出す瞬間の高揚感が好きだなぁ)

 

 何も考えなくていいから楽しいと、随分と後ろ向きな理由の高揚感である事実に気づきつつも目をそらし今日も走る。

 いざと構えた瞬間、自分の視界に小さな影が映り込んだ。鉄棒を使うのかと気にせず走り出した卯月であったが、数十メートルを走ったところで自らの足音に重なってもう一つの足音が聞こえるではないか。

 後ろに誰かの存在を感じたまま走るのはなんとなく気分が悪い。たまたま公園を出るまで道が同じである可能性もあるし、神聖な時間を邪魔されたくないとの思いもあり、少しスピードを速めて柵を越え舗装されたレンガ造りの道に出たが足音はついてくる。

 休日の朝で人通りが少ないとはいえここまで足音を垂れ流しながら追うストーカーもいない。そうなると明らかに彼女に付いてきている存在は何なのか。卯月からしても結構なスピードで走っているはずなのだがぴったりとついてくる存在は明らかに彼女を追っていた。

 流石に無視するわけにもいかなくなった卯月が顔だけで斜め後ろをちらりと見れば、そこには卯月と同じように髪をポニーテールにまとめた少女……いや、卯月よりも十センチほど背が低い女性が笑顔で走っていた。

 

「おはようございますっ! 気持ちの良い朝ですね!」

「おっ、おはようございますっ……?」

 

 卯月は謎の少女が発した快活な挨拶に釣られ咄嗟に挨拶を返してしまう。彼女はいったい誰だろうと知り合いの顔を思い浮かべたが、当てはまる名前は出てこない。

 

(……あれだ、体育会系的な、あれ)

 

 卯月がこうして話しかけられるのは稀ではあるが、ないわけではない。彼女が軽いランニング程度のスピードで流している時に追い越していくニイチャン、あるいはネエチャンに声をかけられる事はある。何故か運動をしている人というのは他人との繋がりが近くなる傾向があるらしい、何故か。卯月にはわからない理由がそこにはあるのだろう、いわゆる体育会系のノリというやつだ。

 卯月はそれが悪いとは言わない、他人との繋がりを重要視する時は彼女にだってある。ただ今回に限って言えば追い越すとかすれ違うとかではなく、追走されているのだ。

 卯月にとって一人のお楽しみタイムであるランニング中に、パーソナルスペースへするりと入り込んでくる者達はあまり好きになれない。ゆえに更にスピードを上げれば意図を察して自然と離れていくだろうと考え、ペースをいつもの倍ほどにした。

 

「おおおっ、丁度いいペースですよっ! 私もご一緒しますっ!」

(ええぇ…………)

 

 一定のペースで刻まれる二つの足音は離れるどころか近くなった、対角からむしろ並列になった。

 卯月が顔ではなく横目だけで見れる位置まで移動してきた謎の少女をちらりと見れば、オレンジのシュシュに赤いジャージ、ぱっちりと開かれた瞳はまるで「元気っ!」の言葉が体現したかのような印象を抱かせた。

 

「――あれ、そのジャージ」

 

 卯月が少女の顔から再び服装へと視線を落とした時、ふと気づく。

 

「はい! 346プロのジャージです! あなたもですねっ!」

 

 卯月が着ているジャージも、少女が着ているジャージも色は違えど同じ意匠、346プロから配布されるジャージである。つまり彼女も自主レッスンで走ろうとしていたところ、同僚を見かけて一緒に走っているということだ。

 

「朝早くからするランニングはいいですね! 実に健康的で、実に気持ちがいいですよ! そう思いませんか!」

 

 今にも覆いかぶさりそうな勢いで喋りかけてくる少女に引いた笑いでしか対応できない卯月は、ジャージに続いて更に気づく。少女のその顔、髪型はどこかで見たものだったからだ。それなりのスピードで走っているため思考が上手く回らなかったが、横断歩道で一瞬止まった時に思い出す。思い出してしまった。

 

 それはいつの日か、テレビで見かけた顔で、声で――笑顔で、横にいる。

 

「日野、茜ちゃん?」

「はいっ、いかにも、私が日野茜ですっ!」

 

 卯月は驚きの表情を隠せなかったが、無理もない。日野茜と言えば346プロでも売れっ子として名が通っている一人。アイドルランクにしてB、紛うことなきトップアイドルだ。売りは元気と元気と元気、そして元気と、太陽のような、笑顔。

 

 卯月の驚きはすぐに引っ込むこととなる、何故ならそれ以上の動悸が彼女を襲い始めていたからだ。

 

 アイドルとして底辺の活動をしてきた卯月からすれば、同じアイドルでも格が違いすぎるのも理由の一つであったが、それよりも、何よりも、屈託なく笑う茜は、彼女がいつしか夢見たアイドルそのものであり、ちっぽけな自分と比べてしまったから。

 舞台で踊る茜を直接見たわけではない、笑顔でたくさんのファンに祝福される姿をみたわけではない、だが、トップアイドルという存在そのものが、卯月にとっては恐怖、あるいは忌避の対象でしかないのだ。

 あの日、卯月を裏切った先輩のように本性がどこにあるかなど分かるはずもなく、例え彼女にとって茜が裏切る要素など皆無であっても、忌避感を覚える要素はいくらでも見つけられた。

 茜に、苦労はあっても苦痛はなかったのだろう、たくさんの仲間に支えられながら、その笑顔を曇らせることなくその高見まで上り詰めたのだろう――勝手な妄想でしかないと分かっていても、卯月の思考を埋め尽くす。

 卯月が卯月にしかわからない苦悩があったように、茜にも茜にしかわからない苦悩を持っているはずで、それでも、と。

 

「……っ」

 

 卯月から漏れた声にならない声が雑踏に消える瞬間、信号が青に変わり、今までとは比べ物にならない速さで駆けだした。ランニングシューズの底がすり減るたびに、卯月の心もすり減っていく。それは自分の弱さゆえに逃げ出してしまった事を感じているが故か。

 もしこれが美城の意向で出会ったのなら逃げ出すことはなかっただろう。そこには何かしらの意味があり、卯月自身の為だと考えられたからだ。いや、地下アイドルや名の通っていないアイドルなら普通に接していたはずだ。あるいは劣等感どころか親近感すら覚え、親しくできたかもしれない。

 卯月はそんな思いこそ醜い心象を映し出しているようで、茜よりも自らを嫌悪した。

 

「ハァ……ハァ……」

 

 市街地を抜け河川敷まで駆け抜けてきて、深海から這い上がるように息をする卯月。漏れ出す苦痛の声は、全力疾走後の肺の痛みだけでなく、言い知れぬ胸の痛みを吐き出すようであった。

 

「――――ボンバァァァアアアアッ!!」

 

 それも束の間、卯月の耳は後ろからの奇声を確かに捉えた。まさかと振り向けば追ってくる日野茜の姿が見える。

 

「かけっこなら負けませんよぉおおおおっっ!!」

(何で追ってくるんですかああああっ!)

 

 卯月からすればもはや理解不能であった。不意に走り出したのは彼女だったが、それを見てかけっこと勘違いして追いかけてくる人物がどれほどいるだろうか。現にいるのだから皆無ではない、それでも自分相手ではなくてもいいじゃないかと、愚痴を零さずにはいられない。

 ぐちゃぐちゃになった思考を抱えたまま再び走り出した卯月の足は自然と動いていた。毎日のように繰り返し走っていた道だから、一人になれる道だから、無心になるために駆けた道だったから、何を考えるでもなく身体が憶えているのだ。

 

「ハッ、ハッ、ハッ」

 

 卯月が普段走るペースに比べればかなり早くはあったが、この速さのリズムで吐く息に垂れ落ちる汗は、むしろ彼女の全身を覆っていた色々な痛みをも放出させた。

 茜と不意に出会い逃げ出してしまった卯月であったが、段々とどうでもよくなってきている。それは思考の放棄であるのだが、もう何でもいいと、自身に考える暇すら与えぬよう、走れなくなる手前の速度を維持して前だけを見続けた。彼女が今までで感じたことがない程に、走り続けていたいと思いを抱きつつ。

 

 だが、その道にも終わりは来る。

 いつもであれば一時間と少しかけて周る道を、半分以下の時間で最初の公園に戻ってきてしまった卯月はベンチへと腰掛けながら前傾姿勢となる。確実に筋肉痛になるであろう足を揉みながら見つめる地面に、零れ落ちた汗が黒いシミを作り出した。

 それから数十秒遅れ「うおおおおおおっ!」――奇声を発しながら茜も公園へ到着した。

 茜はきょろきょろと辺りを見渡し、奥まった場所のベンチに座る卯月を見つけると肩で息をしながら近づいてくる。

 

「ハァ……ハァ……」

 

 卯月はその足音を聞きながら、もはや動く元気はないと諦めて足を揉み地面を見続け、数歩離れた位置であろう場所で足音が止まった。

 卯月は自分に視線が降り注いでいるのを感じながらも、その発信元を見る気が無ければ、言葉をかける気もない。正確にはそんな気力すらないのだが、とにかく色々と疲れていたのだ、心も、身体も。

 茜は彼女のそんな様子を意に介さず、更に近づき、卯月の視界に赤い靴が写り込むと同時に、俯くその両肩に手が置かれた。

 

「凄いですっ!」

「…………はい?」

 

 卯月は茜が放った言葉の意味を正確に捉えられず、見る気がなかった彼女の顔をまじまじと見上げてしまう。そこにあったのは、キラキラと輝く目をした茜の顔だった。

 

「私が同い年くらいの女の子とかけっこをして、全力で追いつけなかったのは久々ですっ! もしかして陸上をやっていたんですか?」

「……運動部には、所属していませんよ。毎日、同じ道を走っていただけ、それだけです」

 

 自主レッスンと称して欠かしたことがない毎朝のランニングは、卯月にとって数少ない趣味であり、小さな自慢であった。

 そんな小さな自慢であっても、開口一番褒められたからなのか、卯月は毒気なく受け答えができた。よほど捻くれていなければ、認めてもらうという行為に不快感を感じる人間はいないであろう。なら卯月はそのよほどには当てはまらないかと聞かれれば、微妙なラインである。

 卯月はそれなりに活躍しているアイドル限定の対人恐怖症という、なんとも面倒くさい状況であるが、疲労困憊な状況と、追いかけっこを続けた結果クリアになった思考と視界、そして邪気を含まない茜の快活な口調と、色々な要素が重なった結果、なんとか会話を可能にしていた。

 

「毎日!? 毎日ですか! それは凄いです、凄い以外の言葉が出てきません、凄い! 私は運動が好きですが好きだからこそ好きな時に走ります! 私も毎日走りたいです! 凄い!」

「凄い走ればいいじゃないですか、毎日」

「そうですねっ、凄い毎日走りますっ!」

 

 何ともおざなりな返答を返す卯月であったが、何ともなのはお互い様であった。

 茜もまた全力疾走の疲れと、素直に凄いと思った興奮と、色々混ざりあってしまったが故に言いたいことが先行して何ともな言葉になってしまっていたのだ。

 

(……これは、何というか)

 

 自らが夢見たアイドルであるはずの日野茜、そんな大きな存在が島村卯月という一個人を認めて褒めたたえているという事実は、彼女の自尊心を大きくくすぐり、僅かな優越感を感じさせた。

 卯月とてここまで屈託なく褒められれば嫌悪よりも照れが先に来る。とはいえ真顔である事に変わりなく、目からキラキラ光線を発する茜と並んでしまうと、じゃれつく犬とやれやれと言わんばかりに相手をする飼い主のようであった。

 

「ええと、凄いお名前は?」

「凄くはないですけど、島村卯月です」

「凄くはない卯月ちゃんですね、憶えました!」

 

 ふんすと鼻息を荒くする茜を見た卯月は優越感を感じていた自分を恥じる。純粋に褒めてくれていた彼女の称賛が安っぽいものに感じられてしまうから、そうならぬよう努めて誠実に応えようとする。

 

「ありがとうございます」

 

 出てきたのは短い感謝の言葉。聞く人が聞けば冷たく感じるであろうそれは、褒めてくれたことと、名前を憶えてくれたこと、両方に対してであった。後者に関しては伝わるはずもなかったが。

 

「……ありがとう、ございます」

 

 卯月の口から続けざまに感謝の言葉が漏れ出たが、それは何に対しての感謝であるか――

 

「いえいえ、興奮して喋りすぎました! 卯月ちゃんは……あ」

 

 ぴぴぴと電子音が茜のポケットから響き渡り、彼女の言葉は途中で途切れてしまう。まだお昼前であるが何を知らせるアラーム音か、茜の表情が険しさに染まっていく。

 

「お、お昼前から演劇のお稽古でした……あと三十分しかありません……」

「それは……ここから346のビルまで、走っても三十分以上かかりますよ……?」

 

 卯月が同じ状況に陥れば死刑宣告にも近しいが、茜にとってはそうではないらしい。

 

「いえ、頑張ればきっと間に合います、間に合わせてみせますっ! 押してダメならさらに押せ! 気合を入れろ私いいいいいっ!!」

 

 茜の言葉はもはや何を言っても無駄なのだろうと感じさせるほど根拠がない自信だったが、彼女なら可能にしてしまうのではないかと思わせてくれるほど、勢いだけはあった。逆に言えば勢いだけしかない。

 茜は握りこぶしを天に掲げ、すぐさま走り出した――しかし背中が見えなくなるところで卯月の元まで引き返し、彼女に一言を残してまた走り出す。

 

「では明日から毎日よろしくお願いします!」

「へっ?」

 

 卯月は唐突な宣言に困惑するのみであったが、聞き返す相手は既にいない。

 まさか明日もここに来るという事かと、卯月は一抹の不安を覚えつつも、どこか安堵の気持ちもあった。それは茜が立ち去ってから静まり返ってしまった公園に感じる郷愁にも似た寂しさからくるものか、あるいはまた話せることへの期待からか。

 

(二度目の感謝の意味も、伝わっていないでしょうけど)

 

 二度目の感謝の意味、それは卯月自身でもはっきりとは理解していなかった。何となくと言えばそれまでだが、複雑な心情を読み解くとすればトップアイドルへの不信感を少しでも和らげてくれたことへの感謝であろう。

 表裏のない茜であったからこそ、一度は逃げ出した卯月も会話を続けられた、そして普通の受け答えをさせてくれた。そんな思いが渦巻いて出てきたのが、感謝なのだ。

 これが他の346プロ所属の高ランクアイドルであれば、疲れたきった足を押して再び逃げ出していた可能性すらある、そもそも逃げ出した段階で追いかけてこないだろうが。

 

 卯月にとって、明日から一人の空間がなくなってしまうことに関しては微妙な表情を浮かべるばかりであるが、今の彼女にとってはそれ以上に、茜と話せるかもしれないという事実が、嬉しいと思えていた。

 

 

 




日野茜のウワサ
最近演劇のお稽古に遅刻して怒られたらしい


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第7話 動き出す歯車

島村卯月のウワサ
ラグビーとアメフトの違いがわからなかったらしい


「そこでターン!」

「っ……ッ!!」

 

 卯月はトレーナーの指示により、前から後ろへ軸足の位置をずらさぬよう身体を半回転させた。スピーカーから流れるメトロノーム音が同時に鳴りやみ、顎を肩口へ近づけ両腕で胸を抱きつつも指先はピンと伸ばしポーズを決める。

 

「淀みはないようだな」

「ええ、リズムもばっちり、身体の軸がブレていないのもポイントです」

 

 卯月のレッスンを横で見ていた美城はトレーナーに報告を促した。

 美城はアイドルを統括する役職であるがゆえに、ダンスが上手いか下手か、その二択ならば評価できようが、それはダンス未経験者からしても見るに値しているかの評価に過ぎない。346プロのアイドルとして恥ずかしくないパフォーマンスを披露できているかを評価するのはトレーナーだ。

 結果は上々、トレーナーからの報告を聞いた美城も、卯月の決めポーズを見て悪くない出来だと感じていた。

 

「よし、島村、もう崩していいぞ」

「――ぷはっ!」

 

 残心していた卯月はトレーナーから良しの声を受け、膝に手を当てて中腰となり乱れた呼吸を整える。

 

「島村、まだ続けられそうか?」

「えっと、はい。ギリギリですけど一曲くらいならいけるかと思います」

 

 卯月からすればぎりぎり精一杯オーバー直前であるが、トレーナーは管理する者としてフィジカルの状態はしっかりと把握しており、本当に倒れてしまうラインを見定め最効率でレッスンを行うのが仕事である。オーバーワーク直前のハードワークをどれだけ維持できるかで効率は一回りも二回りも変わってくるのだが。

 

「と、このように、最近は私の方が驚かされっぱなしですよ」

 

 トレーナーは美城から二時間で倒れるようにレッスンを行うよう指示されていたが、全力疾走をさせるでもなければ卯月の体力では倒れるに至らないほどになっている。今の卯月の様子を見れば一目瞭然で、床に倒れ伏すことはなく、大きく呼吸を整えるだけだ。

 

「ふむ」

 

 美城は手に持ったクリップボードに挟まれているトレーナーからの報告書と、目の前の卯月を比べる。

 

「こちらには二時間を何とか踊り続けられる体力、と記載があるのだが」

「三週間ほど前でもここまでではなかったのですが……彼女がよい影響を与えているのかと」

「彼女というと、日野茜か……」

 

 美城は卯月とトレーナーの両方から、卯月にとっての日野茜について報告を受けていた。

 卯月曰く、怖くないから大丈夫とのことだが、美城からすれば想定外であり、たまたま関係が上手くいっているようであるから交友関係にまで口出しはすまいと、見守るにとどめているに過ぎない。

 

 一歩間違えば出会った瞬間、卯月が潰れていたであろうことは想像に難くないゆえに。

 

 それだけ慎重にことを運ばなければいけないほど、卯月にとって346のアイドルは毒物であり、あるいは薬でもあるのだ。

 元々卯月が持っていた自然な笑顔とは違う、太陽の笑顔を持つ日野茜は、劇物のたぐいであったと美城は考える。

 出会えば比べてしまうだろう、アイドルとして歩んだ道を、その笑顔を。

 美城は、今の卯月が心の内に誰かを住まわせるほど心理的なキャパシティがあるわけもなく、それをおもんばかれるほど茜が器用だとは想像できなかった――茜が偶然とはいえ、捻くれ卯月相手にパーフェクトコミュニケーションをかましていたとは、知るよしもない。

 

(まあ話を聞く限りでは、思う部分は残っているようだが)

 

 それは卯月にとって根源的な部分の話であり、今なお改善できそうにない心の傷。

 裏切り、奪われた想い、先輩として導いてくれていたはずの者から受けた所業は彼女の奥底に残り続けている。だから今はまだ仕方がないことなのだ、例え裏がなく仲良くしようとしているであろう茜にすら嫉妬の念や劣等感を抱いてしまったとしても。

 

「レッスンだからこそハードな指示をしてきましたが、実際のライブであれば三時間は固いでしょう。それにダンスは本当に目を見張るものがありますよ、バランス感覚もいいですし、軸がブレないほど体幹ががっちりしてきて、どうやって鍛えたのか聞いたのですが」

 

 美城は思考の海に沈みかけていたがトレーナーの声によって引き上げられる、ぱらりと報告書をめくった彼女は片目を吊り上げ、いぶかしむよう卯月を見た。

 

「……ラグビー?」

「案外楽しいんです、と言っても茜ちゃんとキャッチボールとか、隣り合ってラグビーのステップとかだけで、ぶつかり合うようなことはしてないです。まあ、その延長線上でシャトルランとかなんか運動部っぽいことはするんですが」

 

 茜がアイドルになる前、趣味のラグビー観戦が高じて、所属高校でラグビー部のマネージャーをしていたとプロフィールに書いてあったことを思い出す美城。

 

「やりすぎて腹筋が割れるなんてことにならないよう気をつけなさい、筋肉アイドルなど目指されても困る」

「あは、は……私、元々筋肉はつきにくい身体なんですけど、それでも肩の筋肉とか、少し……あと、太ももが……」

 

 卯月と茜の出会いから三週間、美城が話を聞く限り、二人の関係が上手く続いていることに一応は胸をなでおろしている。

 ある意味では爆弾を抱えてしまったようにもみえるが、以前よりもレッスンに力が入っているとトレーナーから報告があり、それも日野茜と卯月自身を比べた結果、彼女が上を見ることが出来たのだとすれば、一概に悪いことばかりではないのだ。

 

(どうせ最初から綱渡りであることに変わりなく、ならよりよい方向へ進める可能性があるこの偶然を利用しない手はない)

 

 美城は頭で描いていた卯月のロードマップへいくらかの修正を加える。本来であればあとひと月はレッスン漬けにする予定であったが、ちょっとした刺激も今の卯月であれば成長に繋がるはずとの考えがあった。

 

「それで、ダンスの話だったな。指示していた通りにはできているのか?」

「問題ありません、想像以上かと」

「……?」

 

 美城とトレーナーの言葉を聞いた卯月は首をかしげる。自らのレッスンにおいて美城から指示がされていたことは理解できたが、別段特別なことはしていなかったからだ。

 卯月がなにか違う事をやっていたのかと記憶からひねり出すならば、美城との歓迎会以来、基礎的なステップや振り付けだけでなく、346プロ所属のアイドルたちがそれぞれソロで歌っている、いわゆる持ち曲によるダンスレッスンを数曲にしぼってやっていたくらいか。

 

「であるならば、島村には次のステージへ移ってもらう」

「……はい!」

 

 卯月が346プロでレッスンを始めてから二か月足らず、元から期待されていた卯月の体力面は最高のできと評するまでに達しており、偶発的なことではあったが茜との出会いは彼女をよい方向へと進ませた。

 茜とのレッスン、運動といえばいいか、それに加えて日課のランニング、ハードレッスンと一日ずっと身体を動かし続けていれば慣れもするしさらに体力がつくのは当たり前だろう。流石にこれ以上は人間の限界に挑戦でもしないのであれば過剰すぎると、トレーナーから指導が入ったほどである。

 美城の予定からすれば少しばかり筋肉に傾いてはいたが、体力作りやメンタルケアと言った部分において予定よりも早い段階で次のステップへと進みだす。

 

「むろん、今までよりも密度、難易度ともに高くなるだろうが、レッスンにおいては心配していない」

「はいっ、レッスンは大好きですから」

 

 卯月本人の気質も状況にマッチしている。彼女にとってレッスンとは自らを高めるためだけでなく、頑張ると紡ぎだした言葉がそのまま形をなした結果でもある。

 そのレッスン量たるや、346プロの他のアイドルと――武内がプロデュースするシンデレラプロジェクトの面々と――比するまでもなく、勝っていた。アイドルとしての活動があるなしに関係なく、これからもレッスンにおいては他の追随を許すことは無いのだろうと美城にいわしめるほどである。

 卯月の一日を振り返れば現役女子高生にしてはストイックすぎるほどにつまっている。朝起きて登校、あるいは午後のレッスンまで走る、346のレッスンルームでは言わずもがな、夜寝る前はクールダウンのつもりであろうか公園かレッスンルームで当日のダンスレッスンのおさらい。さながらプロボクサーの減量とでもいえばいいのか。

 それが本人にとって逃げの代替行為であることは美城も気づいている。もし以前所属していた774プロで同じことをすれば、成長すら見込めず無駄なことを繰り返すだけとなっていたかもしれない、しかし美城がコントロールする以上無駄になることは絶対にさせない、させるはずもない。

 

「アイドルのこと、私のこと……美城さんはきっと私なんかよりよく知っています。時々何を考えているのかわからないこともありますけど、言われたことくらいできるように、私、頑張ります」

 

 最近の卯月に対して大分距離が近いように感じる美城だが、後ろを見続けているよりもよほどいいことだと受け入れていた。

 美城はふと、そんな状況と、半年前にプロジェクトクローネを立ち上げてからシンデレラの舞踏会までの彼女自身の振る舞いを比べ、なるほど、城の上からでは見えぬ景色だと、今西の言っていた言葉の意味を再確認した。

 

「では明日、このレッスンルームではなく私の執務室へ来なさい」

「…………」

 

 卯月はばつが悪そうに、トレーナーの方をちらりと見る。

 

「別に怖い事はなにもないはず……ああ、専務の部屋は最上階ホールの一つ下の階だ」

「ありがとうございます、早めに向かいますね」

 

 そう一言残し卯月は休憩のため退室、残された美城はどことなく居心地が悪そうである。

 

「専務……島村に伝えてなかったんですか?」

「元々アイドルが私の執務室に訪れるなどない。今回は特例だ」

 

 専属のプロデューサーが自身の居場所を伝えていないのは割とまずかったりするのだが、一人のアイドルを直接担当する経験が初めてゆえ伝え忘れていた美城であった。

 

「しかし、島村は大丈夫でしょうか。日野とのコミュニケーションを取れているのが奇跡なくらいですよ」

 

 トレーナーにも今後の予定は伝えられている、だから美城が何をしようとしているのかは察しがついていた。

 

「ダメで元々は許されない、しかし進まねばならぬのも事実。日野茜のような偶然がそう重なるはずもない、であれば動かすのは私だ」

 

 トレーナーは乗り気ではなかった。それこそ一年がかりでもいいからレッスンで自信をつけさせたほうがいい結果に繋がるのではないかと考えてしまうほどに、これから美城が行おうとしていることは失敗すれば大きく卯月を後退させてしまうであろうことを知っていたから。

 

「島村も難儀な子ですからね」

 

 売れっ子アイドルに対して嫉妬や劣等感を感じるというのに、そんな存在を目指している矛盾が卯月を苛みはしないか、ひやひやさせられるトレーナーであった。

 

「丁度いいウワサも流れているようだし、想定される中でも最悪のカバーは考えている」

 

 美城のそんな言葉を聞いたトレーナーは怪訝な表情をしていたが、美城はわざわざ教える必要もないと言わんばかりに地下牢から城へと戻ったのだった。

 

 

 次の日、卯月と美城は二人だけでレッスンルームにいた。地下牢ではなく、別棟のレッスンルームだ。

 

「島村は私の横で真顔のまま立っていればいい、言葉を交わす必要もない」

「…………」

「私とは交わせ」

「なら、あの、帰ってもいいですか」

「ダメに決まっているだろう」

 

 学校が終わりすぐさま美城の執務室に向かった卯月であったが、そこで伝えられたのはプロジェクトクローネのレッスン見学という苦々しい表情を隠せない予定であった。前日に言い放った言われたことくらいできるようにとの言葉を撤回できないかと思い始めている。

 卯月からして意図は分かる。交流を持たないにしても他のアイドルが346プロにおいてどのようなレッスンを行っているのか知ることは今後の自分にとって目指すべき場所の確認もできるし、慣れさせるつもりなのだろうと。しかし、しかしだ、普段卯月が着ているジャージとは違う、灰色と黒のジャージを手渡され着るよう追加で指示があったのだ。それが何を意味しているのか、薄々感じ取っていた卯月は今、猛烈に帰りたい衝動に駆られていた。

 

「君は今、私の秘書であるということを自覚する必要がある」

「いえ、それもどうなのかと思ってますけど、ならスーツでいいじゃないですか、何でジャージ着させられてるんですか」

 

 卯月はあわせて伝えられていた秘書のように振る舞うことという謎の指示については、自身を連れてくるため他のアイドルへの方便であるだろうと考えていた。実はクローネの面々において既に秘書として認知されていることをまだ知らない。

 

「おはようございま――」

「おはようございま……す?」

 

 まずレッスンルームに入ってきたのは橘ありすと鷺沢文香。いつもの吊り目で二人を見た美城と真顔のまま前を向き続けている卯月に気づき挨拶が中途半端なものになってしまっていた。誰もいないと思っていた部屋に妖怪を見つけてしまったが如くである。

 こそこそと部屋の隅へ移動して柔軟を始める両名、困惑しているのが見て取れる。美城は普段途中から入ってきてレッスンの確認をすることはあっても、最初から待機していたことなどなかったからだろう。

 卯月はそんな二人へ極力視線を向けないように、事前に美城から渡されていたクリップボード上の書類へと視線を落とす。

 

(この部屋の予約リスト……メンバーは橘ありすちゃんに、鷺沢文香さん……あとトライアドプリムスの三人……ううっ……)

 

 プロジェクトクローネのちょうど半分のメンバーがこの部屋に集結する事実に卯月は意気消沈する。もしアイドルを純粋に目指せていた時代であれば絶賛売り出し中な豪華メンバーのレッスンを見れるなどご褒美でしかなかったであろうが、今となっては胃痛すら覚えてしまう。だがメンバーが多く集結するので個人として向き合うわけではなく、劣等感よりは単純な緊張のほうが大きかった。

 

「おはようござぁああっ!?」

「ちょっと奈緒、どうしたの……おおう」

「奈緒、加蓮、ドアの前で止まらないで……うわ」

 

 ありすと文香が入室してから五分ほど、トライアドプリムスのメンバーである神谷奈緒、北条加蓮、渋谷凛がレッスンルームへと到着した。美城を見つけた三人はありす文香と同じように、いや、二人よりも大きなリアクションをしつつ、そちらへとこそこそ移動した。

 

「…………」

 

 そのリアクションを聞いた美城は身じろぎひとつせず、組んだ腕と吊られた目でクローネの面々を捉えるだけである。

 

(あの、美城さん、普段どんなコミュニケーションをとっているんですか)

 

 流石に聞くことははばかられたため思うだけにとどまったが、少なくともあまり歓迎されるような関係は築けていなさそうであることだけは理解した卯月であった。

 集まった五名はこそこそと柔軟をしつつ、こそこそと話を始める。部屋の隅っこに位置している卯月と専務からはギリギリ聞こえるくらいの声量だ。

 

「あれ、何で専務いるの! もしかして今日ずっと!?」

「いや、専務がいることはたまにあるじゃん、珍しいけど。それよりさ」

「あの横の……唯がLINEに張ってたやつ」

「秘書さん、でしたっけ」

「随分と、お若いですね……」

 

(あれ、私が秘書って設定なんで知ってるんだろう)

 

 卯月はまさか既に根回しが済んでいるのではと戦々恐々しつつもアイドルとして接しなくてよい分、少し楽かもと考え始めていた。本日の卯月は基本逃げ腰である。

 

「てか色合いがまんま専務だし、目元優しそうなのに真顔で威圧感あるぞ……!」

「あの歳で専務に見出されてるって事は相当できるんだろうしね、自分の後任を育ててるのかもよ」

「そうなると、私たちのプロデューサーを務めるかもしれないってこと?」

 

 トライアドプリムスが話す内容は全くの見当違いであったが、あの美城専務の横にいることを許されている同年代っぽい少女というだけで謎が深まり、どんどんと想像が膨らんでいく。

 わいわいと声量が大きくなっていることに気づかない五人であったが開かれたドアの音でそちらを見る。レッスンルームに入ってきたのはクラスがベテランであるトレーナー、そして今西部長。

 

「専務、おはようございます。さて、全員揃っているな……気づいているかと思うが、今日は一日専務と部長、そして、えー……まあ、視察にきているからな」

 

 ニコニコとしている今西は卯月の横へと陣取ると、やあと気軽に挨拶をする。卯月が346プロと契約を交わした際に一応言葉を交わしてはいるが、それ以来会う事もなかったため、彼女からは優しそうな偉い人、くらいの認識である。そんなことよりもレッスンが始まってしまうと頭が真っ白になりかけていた卯月は挨拶を返せなかった。

 

「……部長に一方的に挨拶させて、返事なしって、もしかしてかなり偉い人なんじゃ」

「専務の身内、姉妹とか、でしょうか」

「それにしては目の吊り具合とか……」

 

 いまだに卯月の考察が進むクローネたち、がちがちになった卯月、やれやれとでも言いたげな美城。レッスンルーム内は混沌とした状況が広がっていた。

 

 

 




渋谷凛のウワサ
ニュージェネレーションズとしての活動は少ないらしい


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第8話 得られたはずの未来

鷺沢文香のウワサ
最近は橘ありす以外にも新田美波と仲がいいらしい


 クローネの面々がダンスレッスンを開始してから時計の針が一周と半分回った。始まる前はどこか締まらない空気であったがレッスンが始まってしまえば許されるはずもなく、トレーナーの指導が部屋に響き渡る。

 この五人が集まって同時にレッスンを行うことはあまりない、というのもシンデレラプロジェクトと違いプロジェクトクローネにはメンバー十人全員の曲が無いからだ。しかし、近々プロジェクトクローネのメンバーのみで行われるミニライブのために合同レッスンが予定され、最近は集まることが多かった。

 具体的には集まっているクローネのメンバーがそれぞれユニットとして出番の際にバックダンサーを行う、今日のメンバーで言えばトライアドプリムスが普段踊っているダンスをありすと文香が、逆もまたしかりといった具合だ。

 だが同じプロジェクトのメンバーと言えどユニットごとの方向性は微妙に違う。シンデレラプロジェクトほどそれぞれの個性を際立たせた魅せ方ではないが、この場にいる二組のユニットの調整は中々難しい。

 トライアドプリムスはクローネに所属するユニットの中では最もダンスが激しいのだ、体力が必要であるとともに要求される難易度も高い。対してありすと文香のユニットは語りかけてくるようなボーカルと所作のひとつひとつを丁寧に魅せるゆったりとしたダンスが売りであり、二人のソロ曲も激しいダンスを必要としないがため、トライアドプリムスの動きについて行くことが難しかった。

 

「ふう……すみません……」

「文香さん、大丈夫ですか」

「少し休憩にするか」

 

 真っ先にバテてしまったのは文香。指先がブレていることを指摘され、正そうとすれば足先のステップが乱れと悪循環に陥っていた。並ぶありすもいっぱいいっぱいであったが文香を気遣うためか努めて表に出さないようにしているようである。

 

「私のせいでレッスンが遅れてしまうのは……」

「大丈夫だって、もうほとんど踊れてるし、最初に比べれば天と地の差だよ」

「まあ、最初はなあ」

 

 そうフォローしてくれる加蓮と奈緒、トレーナーも現状の完成度であれば本番までには間に合うと判断したようで一旦休憩となる。

 何度か行われている合同レッスンだが、第一回では足が絡まってずっこけるという文香にとって語りたくない一幕もあった。

 文香はアイドルとしてそれなりに活動してきたが体力面の問題はそうそう解決することではなく、元々運動が苦手なことも加わり伸び悩んでいる部分だ。もちろんプロとしてアイドル活動をしているがゆえ本番までにはきっちり仕上げるのだが、今回はいつもより完成が遅い。

 

(……失望、されてしまったでしょうか)

 

 文香は今日、美城が視察にきているため、いつもより所作に気を付けて踊っていたのだが予想以上に体力を使っていた。レッスンを眺めている三人――アイドルを評価するような立場の人たち――をちらりと覗けば美城と秘書がなにやら話しており、文香の隣で一緒になって座り込み手を添えているありすも美城たちを気にしているようで、どこか心あらずな視線の漂わせかたをしている。

 

「ありすちゃん、ありがとうございます」

「いえ……私もサビの部分のステップと指先の魅せ方が難しくて苦手ですから……」

 

 二人は似た曲調の曲を踊ることが多く、苦手な部分もまた似通っていた。上手く踊れないとはいいつつも一定の水準以上の、プロジェクトクローネとして恥ずかしくないレベルには既に達している、だがそれよりも更に上、トライアドプリムスと並んでも恥ずかしくないレベルかと聞かれれば、そうではない。

 トライアドプリムスの面々はダンス、ボーカルとハイレベルなものを持っており、ビジュアルと合わさりより一層高められた完成度はトップアイドル間近と称されるにふさわしいものである。

 そんな彼女たちと自らを比べた文香は、少しだけ悲しそうな表情を浮かべた。三人がありすと文香の持ち曲を早々に踊れるようになってしまったこともあるだろう、だがそれ以上に、ありすに気を使われてしまっている状況が嫌だった。

 

 これではどちらがお姉さんなのかわからないと、頬を軽く張った文香。

 

 アイドルになる前の文香であれば自分はこうだからと、比べることすらせずに大好きな読書を続け、本に視線を落としていただろう。だがアイドルの楽しさや苦悩を知り、その道を歩くと決めた今、同じプロジェクトのメンバーであっても負けたくないと、もう一度立ち上がれるのだ。

 

「一歩一歩、歩みは遅くても……歩き続ければたどり着ける、歩き続けなければ見れない景色がある……」

 

 文香の口から漏れ出たのは、アイドルとして失敗したとき自分を慰めるためにたまたま読んだ本に書いてあった一節だが、妙に心に響いてしまい、それ以来落ち込んでしまった際には鼓舞するように口にしていた言葉。

 

「あの」

「ひゃいっ!?」

 

 文香が休憩が終わる前にステップを一度確認しておこうと立ち上がりかけたところで頭上から声がして、驚愕で妙な返事をしてしまう。もしかして今の呟きも聞かれていたかと見上げれば、そこには前を向いたままの卯月がいた。

 

「あ、あの……秘書さん、でしたよね、何か御用でしょうか……?」

「あなたは、何を意識していますか」

「えっと……意識、ですか」

 

 文香は唐突に喋りかけられたかと思えば意味をくみ取りづらい問いかけをされたていた。一体何を指しているのかわからないのでそのまま聞き返してしまったが、ここで自らの失態に気づく。

 専務の秘書、笑わない怖そうな人、視察としてきているらしい、ここまで条件が揃うと本当はそうでなくてもかしこまってしまうものだ。そんな相手に座りながら質問へ質問で返すなど、失礼にもほどがあるとすぐさま佇まいを直し、卯月と向き合った文香。横にいたありすも慌てて立ち上がると、卯月は胸に手を置き意を決したように俯き気味の姿勢で言葉を紡ぎだす。

 

「――曲がスローテンポからハイテンポへ移調したとき意識だけでなく身体を切り替える必要があります。具体的には基本的に足をコンパクトにまとめてサビのワンフレーズ前でステップの位置を内また気味にしてください。それからサビは指先の動きが重要で波のように動かすにはそのまま指先を意識するのではなくむしろ手前の関節部分それも肩から肘手首と埃をはらうように動かす必要がありま、す……ハァ……ふう……」

 

 卯月は一呼吸すら置かずに言い切ると、息切れを隠すように浅い呼吸になる。

 

「えっ……あ……」

 

 文香の脳は卯月から一気呵成に放たれた言葉の意味を遅れて認識した、それは助言。

 

「えと、足をコンパクトにですか……?」

「……こうです」

 

 ありすも意図を察したのかその助言を聞く姿勢に入る。表情から怖い人なのではないかと若干びくびくしているようではあるが素直に質問をすると実演付きでかえってきたのであった。

 

「あの……肩から動かすというのは……」

「……意識の問題ですが、普段スローテンポで行っていることを早くするだけで全く別の振り付けと感じてしまうことは往々にしてあります。普段ハイテンポな曲を踊らないお二人はその部分のチューニングが上手くいかないのでしょう。なので――」

 

 少しだけといった風に灰色のジャージを着こんだ卯月が構えるが、スピーカーから音楽が流れだした。卯月がぎぎぎと首だけそちらに向ければ、とてもいい顔をしたトレーナーがサムズアップをしている。

 いいフォローだろとでもいいたげな顔を尻目に、より一層無表情になった卯月はサビ手前のフレーズが流れた瞬間からステップを刻みだす。

 踊る卯月を見る文香とありすの二人は言い知れぬ違和感を感じていた。目の前のそれはトライアドプリムスと確実に違っていたから。

 

「――ッ!」

 

 それはまるで叫んでいるようだった。この場所から抜け出したいと。ここから連れ出してくれと。この場所は私に相応しくないと。

 文香は鳥かごに囚われた文鳥が空を見上げるような儚さと、逃げ出そうとする意志の激しさを見せられている感覚を抱く。それは、三人とは違う完成形。力強さを感じさせるのに、うちに込められた柔らかな何かが見え隠れしていたのだ。

 文香の目の前で繰り広げられるダンスは完成度で言えばトライアドプリムスに匹敵するのではないかと思わせるほどに上手い。技術的なことをいうならば、ピンと伸びた指先に乱れのない足先、ブレることすらない腰、レッスンを積み上げ続ければこうなるであろう、基礎の塊。個性という名の贅肉がそぎ落とされ残った実力をまざまざと見せつけている。だけれども、そぎ落せなかった、染みついてしまった彼女自身の色が残っていて――

 

 気づけば曲はサビの中盤、それ以上は見せる必要がないと言わんばかりにぴたりと佇まいを直し、九十度のお辞儀をした卯月は美城の横へとつかつか足音を立てながら帰っていく。

 

「……へえ」

「すごっ……」

 

 トライアドプリムスの面々も見ていたらしく口々に感想を漏らしていた。ありすと文香は目の前で見せつけられ、惚けてしまっていたが、我に返り二人して卯月へとお辞儀を返した。

 同じ完成度でも、まったく違うものがある。それは偶然を運命と言い換えられるように、ダンスの魅せ方も一つではない、そう諭された気持ちであった。

 文香とありすは受け取った助言を反芻しながらトレーナーの元へと移動する。休憩時間はまだ残っているはずだったが、トライアドプリムスも同じ気持ちなのか、早く踊りたくてたまらないといった風だった。

 そこからレッスンが終わるまで、ありすと文香は言われたことをこなせるようにと踊り続けた。いつもなら挟むはずの休憩も取らず、身体に籠った熱を発散するかのごとく。

 それはトライアドプリムスも同じであり、自分たちの持ち曲に別の可能性があるといわれ黙ったままでいられるはずもなかったのだ。一年と少し346プロで活動して、アイドルとしてのプライド、自負くらいは持ち合わせていると一層レッスンに力が入る。

 気づけば二時間と少し、五名はトレーナーにレッスン終了を言い渡されるまでノンストップで踊り、歌い続けた。

 

「今日はいつにも増して頑張ったじゃないか。まあ、あんな発破をかけられれば無理もない話か」

「ハァ……ハァ……一日やそっとで、辿り着ける場所ではないでしょうけど、少しでも近づきたい……そう、思わされてしまいましたので……」

「凄かった、です……ふう」

 

 立つことすら難しいのか女の子座りでへたり込む文香と、滅多にあることではないが床へ全身を投げ出しているありす。トライアドプリムスは三人で背を預け合い呼吸を整えようと声を発せないでいた。

 

「三時間くらいほぼぶっ通しだ、クールダウンはしっかりとやるぞ」

 

 文香は鈍い熱を持ったふくらはぎをほぐすよう、ゆっくりと柔軟を始める。ありすは動く元気すらなかったようだがトレーナーに急かされて背中を押されていた。

 

「私と、いい?」

「ええ、ではお願いします、凛さん」

 

 いつもはありすとクールダウンを行っていた文香であったがトレーナーに相手を取られてしまい、トライアドプリムスであぶれた凛とお互いの背を押し始めた。

 

「ねえ、どう思った?」

「どう思う、とは……秘書さんのことですか」

 

 凛は答えず、卯月へと顔を向けた。それを肯定と受け取った文香は何と答えればいいか逡巡する。凄かったと一言でおさめることもできたし、情緒的に語ることもできた。それほど卯月のダンスに魅せられてしまっていたがゆえに。

 だがいざ言葉に出そうとすればなんと表現すればいいのか困ってしまうのだ。凄かったけれど、どこか教本に書いてる通りで突出しきらない。魅力的だったけれど、個性といった肉付けがない。

 ダンスとして見た時、卯月の動きは一種の完成形だった。しかしアイドルとして培ってきた視点から見ると明らかに足りないものがあるのだ。文香からしてそう思ってしまうのは決して貶める意味はなく、もったいないと考えてしまう。

 

 だから結論として導きだしたそれがしっくりときた。

 

「…………きっと、笑っていたのなら、もっと素敵だったのでしょう」

「……だね」

 

 文香の物腰柔らかな雰囲気にあてられ、凛も静かに同意する。

 

「でも私はそれだけじゃなくて、昔の自分がそのまま成長してたら……ああなってたのかなって思ってさ」

「昔の自分、ですか?」

 

 文香から見た凛の表情は複雑だった。誰かが公園に置き忘れてしまったおもちゃを見つめるようなもの悲しさと、ふと郷愁にかられ遠くへ思いをはせるような儚さでもって卯月を見つめている。

 

「私がアイドルになったきっかけはさ、笑顔なんだ」

 

 他人を引き付ける朗らかな笑顔はできない、周りを元気にするような満面の笑顔はできない、だが凛は儚さを纏った笑顔を持っていた。わかりやすく表に出ることは少ないが元来持ち合わせている優しさやアイドルが純粋に楽しいからこそできる笑顔であることを、文香は知っている。

 

「昔の私は全然笑わない子だったんだ。何やってもつまらなそうな顔してるっていわれて。でも私をアイドルの世界に導いてくれたプロデューサーは笑顔がスカウト理由だって……笑っちゃうよね」

「今の凛さんからは想像できませんが……」

 

 凛がその笑顔を最初から持っていたわけではないと言われ面食らう文香。彼女が知りえないことではあるが、昔の凛はむしろ無表情であることが多くそれのせいで何度かトラブルにも見舞われているほどだ。それでも笑顔を手に入れられたのは、仲間たちとぶつかり合って、アイドルとして成長してきたからこそ。

 

「プロデューサーに笑顔ですって言われた時、鼻で笑ってたんだ。笑顔なんて誰にでも言えるような理由でーって。でもね、それは全然違った」

 

 凛はそこで言葉を区切り、まるで自分に言い聞かせるようにぽそりとつぶやいた。

 

 

「笑顔は誰にだって出来るものじゃない」

 

 

 凛の真剣な表情と放った一言は、そこに万感の思いが込められていることを文香に伝えた。たった一言、されどこれまでのアイドルとしての道のりが、その一言に詰め込まれているのだろうと。

 凛は広げた手のひらに視線を落とし、強く握る。色褪せていく何かを掴むように。

 

「プロデューサーにスカウトされたあと、たまたま街頭からちょっとはずれた場所でアイドルのステージをみつけたんだ、今思うと駆けだしの下積みだったんだと思う。数人のグループで、その中でも微妙に目立たない位置に立ってた子がいて……凄い、楽しそうに踊ってた……笑顔って、あんなに人を引き付けられるんだって、価値観を変えられちゃうんだって」

 

 もう一年以上前だからねと、その時を思い出そうとして上手くいかないのか、微妙な顔をしながら手のひらの開き閉じを繰り返す凛を見た文香は、背負うものの違いをむき出しにされているようで、年下ではあるはずの凛にちょっとした嫉妬を感じていた。とはいってもそれは比べるようなものではなく、文香はむしろ糧としてよりいっそう頑張ろうと燃料にできる程度のものである。

 それに、文香にとって価値観を変えるほどのものは既に見つけられている。アイドルという存在そのものが自らを変えていってくれているのだと、なればこそ、今まで歩いてきた道に意味を見出せるのだから、一歩一歩小さくでも進むと決められたのだ。

 

「それが私のアイドルとしての始まり。あの時の笑顔に近づきたくて頑張ってるけど、上手くはいかないね。写メでもとっておけばよかったよ」

「たいへん、興味深いお話でした……そうすると今の秘書さんは、凛さんのように笑顔に出会えなかったということでしょうか」

 

 凛は昔の自分がそのまま成長したら今の秘書のようになると言った、つまり目指すべき笑顔に出会えなかったらああなっていたかもしれないということだろう。文香にとってのアイドルそのものを、凛にとってのとあるアイドルの笑顔を、卯月は見つけられなかった。

 

「うん、一番の理由はそれ。それ以外にも理由はあって、私ってさ、自覚はないけどオーバーワーク気味にレッスンしちゃうらしくて。それも基礎通りにやろうとするから教本みたいってトレーナーに言われて、ちょっと崩して自分らしさを押し出して踊ってみたらうまくはまったから……そういうのが全くないまま成長したらああなるのかなって」

「なるほど。なら、別の形ではありますが、凛さんと秘書さんは似てるのかもしれませんね」

「そうかもね……聞かれないように気を付けなよ、専務の秘書やってるくらいだし、多分怒ると怖いよ」

 

 くすくすと笑いあう二人。凜からでた冗談は自分の過去を話した気恥ずかしさを隠すためでもあったようだ。

 

「凛さんをこの道へ進ませたアイドルさんは、今もどこかで笑顔を振りまいているのでしょうね」

「そうだといいな……ううん、きっと、そうだよ」

 

 文香と凛がクールダウンを終えて立ち上がると他のクローネメンバーは既に終えていたようで、二人を何やらニヤニヤと見つめていた。

 

「ふーん、随分と仲がいいみたいだね?」

「凛さん、とてもやさしい表情をしています」

「あとで何喋ってたか聞かせてくれよなー」

 

 このあと色々聞かれるだろうと考えたのか面倒そうに嘆息する凛。それも愛おしい日常の一ページだとそっとありすの元まで歩きだした文香はふと今まで話題にしていた卯月を見る。

 

 そこには届かない場所へ手を伸ばすかのように、何かを羨む表情をした卯月がいた。

 

 それも一瞬で真顔に戻ったので気づいたのは文香だけ――いや、凛もまた卯月の方を見て怪訝な表情をしていた。

 

(秘書さん……あなたは、何を羨んで……?)

 

「ほら、レッスンは終わったからさっさと帰る、中々いい感じだったから次もこの調子でな」

 

 文香の思考はトレーナーの号令で振り払われる。卯月が見せた表情は間違いではなく、自分たちに何を見たのか、あれほどの動きを見せた彼女は何を羨んだのか。

 クローネの面々が美城たちに挨拶をしながらレッスンルームを退出するが、文香と凛は同じ思いを抱いていたようで、美城よりも卯月が気になってしょうがないのか、横目で見つめながらの退出だった。

 

 

 レッスンから数日、あの日に見事なダンスを披露した卯月であったが、クローネの面々には仕事が滅茶苦茶できる上にダンスまで上手いと瞬く間に広がっていた、そして無表情の威圧感からか美城隠し子説のおまけつきである。

 しかしクローネからすればなぜ秘書である彼女があんなにもダンスが上手いのか気になってくるのは当然である。アイドルを担当する以上ダンスにも精通している必要があるといわれればそこまでだが、346所属のプロデューサーにそんな技能が要求されるなど今まではなかった。

 アイドルにより近い位置でプロデュースをする武内にしてもダンスやボーカルの技能など専門外であり、そのためにトレーナーがいるのだから当たり前の話なのだが。

 不思議な点はそれだけではない。童顔というにはあまりに少女然としており、見た目から推測される年齢は高く見積もっても二十に届かない。そんな彼女があの美城専務の専属秘書をしているのはどうにも現実味がなく――隠し子説はおふざけが過ぎるため――裏があるのではと勘繰ってしまうのは仕方がないことであった。

 ゆえに年若くウワサ大好き花の乙女なクローネの一部面々が動き出すのは必然であったか、ただ周りからみれば意外なことに一番に動き出したのは凛であった。

 

 

 




渋谷凛のウワサ
いつかアイドルになるきっかけをくれた人と一緒にステージに立ちたいらしい


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第9話 太陽と月の道しるべ

日野茜のウワサ
友人が悩みを抱えているようだと城ヶ崎美嘉に相談したらしい


「いきますよー!」

 

 早朝の公園にてポニーテールに結んだ髪の毛を振りながらラグビーボールを構える快活な少女は、声をかけた相手に向かってボールを放る。

 放物線を描きながら落ちてくるボールをキャッチしたこれまたポニーテールの少女は危なげなくキャッチし、ともすれば不機嫌にも取れそうな微笑を浮かべながら投げ返す。

 

 キャッチボールを繰り返す茜と卯月の姿がそこにはあった。

 

 少女二人が野球のボールやゴムボールで身体を動かしているのならば微笑ましさもあっただろう、しかしラグビーボールを投げあっている絵面では微笑ましさどころか雄々しさすら感じよう。ただ一見すると少女たちには不釣り合いかと思われるボールでも、堂に入った構えとブレずに放られるボールをあわせて視界に入れれば感嘆を漏らしてしまう者もいるのではないだろうかと、それほどに手慣れた様子でキャッチボールは続く。

 

「せいっ!」

「っとと……ハッ!」

 

 放られるボールにあわせ掛け声はあれど会話はない。わざわざ会話をするような距離ではないだけなのだが、卯月の無表情は――微笑を浮かべているのだが――仲が悪いのではないかと勘繰らせるものであった。

 卯月を知らない者たちからすれば威圧感や不快感を覚えるそれもクールですね、クールに燃えているのですねなどと言ってのける茜の心中は中々に図太い。

 しかし茜の感覚は真正面から卯月を見た結果であり、ズレるどころか正当な評価とすらいえた、なぜなら今の卯月は楽しさを感じているのだから。

 

 その楽しさを感じられるようになるまで何があったのか。

 

 卯月にとって茜とのファーストコンタクトは勝手に内側に入りこんでくんじゃねぇと淑女にあるまじき口調になってしまいかねないものであったものの、次の日から始まった二人での走り込みや運動は悪くないと感じていた。あくまで悪くないだけで歓迎まではできていなかったのだが、一週間、二週間と続いていけば人は慣れる生き物であるがゆえ、段々と気にならなくなってくるものだ。

 また、茜と過ごす早朝の時間が非常に有意義な時間であったことも加味しなければならない。ラグビー部のマネージャーをやっていた経歴は伊達ではなく、何事にも全力前進猪突猛進な茜の運動に対する造詣はとても深かった。走る際に息が長く続く呼吸法、長時間の運動では使う筋肉を替えること、怪我の応急処置などなど、実にためになることを教えられたのだ。卯月が普段のレッスンにすら取り入れてみればその効果は一目瞭然であった。

 ただ卯月とてプロテインの効率的な摂取方法の話までされてしまえば渋い顔を隠せず、その際、茜に向かって体力づくりではなくて筋力づくりではないかと突っ込むとラグビー部男性用のメニューですねと返ってきたので無言で頬をむにゅむにゅとしたのは、つい先日の出来事であった。

 紆余曲折というほど何かあったわけではないが、何かあったわけではないからこそ、卯月は無駄に心を尖らせることもなく、出会った当初と変わらない関係――茜が一歩を踏み出し卯月が二歩下がれば茜が三歩進んで通り過ぎる、そんな関係を築けていた。

 そんな茜を見る卯月は意外だと思う。当初のイメージからして一歩を踏み出してくるどころか最初から全力トライを決め込んでくるような存在のはず、だった。だが三週間毎日顔をあわせて短いながらも会話を交わせば茜の気質も掴めてくる。

 

 本当に意外ではあるが、茜は大事な部分にまでは踏み込んでこないのだ。

 

 卯月は茜と出会ってから自分の部署すら紹介しておらず、同じ事務所であるのに通常のフロアやレッスンルームで出会うこともなく、公園だけで完結する関係でしかない。家はどこ、何歳か、趣味は――茜は何も聞こうとはしなかった。

 接しやすいその距離感を崩してしまうのが、嫉妬や劣等感という汚い感情を彼女に対して抱いてしまうのが、どうしようもないほど嫌だと感じてしまった。それから卯月は極力自らを語るのを避けるようになり、茜とともに行う運動においては何を憂慮するでもなく純粋に身体を動かす楽しみだけを感じられていた。

 そんな行き詰った関係でいいと前に進むことをやめた卯月は、ボールを投げ返す。それを受け取った茜は何かを確かめるようにボールをぺたぺたと触り、ふと卯月をみつめた。

 

「楽しいですか?」

「……? はい。身体を動かすのは好きですよ。ラグビーボールなんてこんな機会でもなければ触れませんしね」

「そうですか! 私も好きです!」

 

 茜からボールとともに投げられた質問の意図を掴み切れなかった卯月は、素直に思っていることをボールとともに投げ返した。

 

「何かいいことがあったんですか?」

「えっと、特には?」

「そうですか! 私はいいことありましたよ!」

 

 卯月はいつもと違うやり取りに違和感を感じる。普段はこの程度の会話であっても交わすことはなく、黙々とキャッチボールを続けるのみであったから。

 そんな違和感のせいか、卯月が投げたボールはすっぽ抜け茜の頭上を通り過ぎる軌道を描くが、少しだけかがみ膝に力を溜めた茜が大ジャンプで見事にキャッチする。

 

「とうっ!」

 

 茜は片手にボールを持ちながら広げた両腕でY字を作り着地し、軽く肩をまわすと、ぽんぽんとボールをもてあそびながら卯月へと喋りかける。

 

「こうしてお喋りするのは、本当は好きではないのでしょうか」

「えっ……と?」

「卯月ちゃんはお喋りが好きな子だと思っていました。ですが私がこうして喋りかけたとたんボールに迷いが生まれてすっぽ抜けてしまいました」

 

 卯月はその言葉の意味を咀嚼する。卯月がその問いに対して正直に答えるならお喋りが好きだ、それこそ一時間でも世間話をしていられるほどに。だがそれはアイドルと関係がない部分での話。

 卯月が放ったボールは今までにはなかった茜からのコンタクトに動揺してボールがあらぬ方向に飛んで行ったが、それを迷いと断じた彼女は何をもってそういっているのか。

 

「嫌いじゃ、ないですけど……それとボールに何の関係が?」

「キャッチボールは心と心の会話です!」

 

 卯月はええ、と小さく呟き怪訝な目を茜へと向ける。彼女からすれば何かを考えないために運動をしているのに、そこに会話が生まれるはずがなく、そもそも心の会話とはなんぞやと思い切り顔に出ていた。

 

「全部勘ですが!」

「あはは……」

 

 勢いだけしかない会話に少し引き気味に構える卯月はこういう子だからと最近は慣れ始めているが、ぐいぐい押し込んでくる部分は今でも少しだけ苦手意識があった。それはいつか心の内側に入り込まれてしまうのではないかと無意識のうちに遠ざけようとしているだけなのだが。

 

「……きっと卯月ちゃんは私にはわからない悩みを抱えていているのだと思います」

 

 茜には珍しく間を置いた語り出しだった、だからなのか、卯月はその先を聞きたくないと脳が警鐘を鳴らす。

 

 次にくる言葉はきっと今の卯月にとって望まぬ言葉。

 

 このままでいいじゃないか、今のままで、楽しく思えている今のままで立ち止まっていれば。

 

 境界線を越えて踏み込んでくるような、心の壁を削り取るような、今までならば越えなかった一線をなぜ今になってと思わずにはいられない卯月。やめてくれ、と声にならない叫びが喉元までせりあがり――もしかしたら彼女ならば、と水泡のような期待が押しとどめた。

 

 その瞬間、卯月は自らの叫びを止めた言い知れぬ感情を抱いていることに気づく。

 

 戸惑いは全身に伝播して声帯は固まり、叫びが出る前に茜の言葉が続いた。

 

「私は……目玉焼きには醤油なんです……」

「は?」

 

 コイツは何を言っているんだと、卯月は叫びを押しとどめるまでもなく絶句して声に出せなかった。

 

「言わなくても分かります! 卯月ちゃんはきっとケチャップとかそういうのでしょう……他人には分かってもらえない悩みですね……」

「普通に醤油ですよ!?」

 

 卯月の強張った全身から力が抜けていく、何が飛び出してくるかと思えばこんなことで、茜相手に身構えた自分が馬鹿らしくなってしまっていた。

 

「なんですと!? 読みが外れるなんて! ではお風呂で最初に洗う場所に悩んでいるとか?」

 

 茜はボールをわきに抱えたまま顎に手をやり真剣に考えているようであった。卯月の悩みが本当にそれらだと思っているのだろう。

 

「くすっ」

 

 とても小さな音であった。集中していなければ聞き取れないほど小さなそれが卯月の口から自然とこぼれでた。

 卯月は本気で悩む茜を見て、心を凍らせている自分が馬鹿らしくなって、一種の開き直りのような状態になっている。彼女相手に構えるほうが疲れてしまうから、適度に受けつつ、適度に受け流すくらいがちょうどいいのだろうと。

 それはここ半年の卯月にとっていつになく自然な態度であることには気づいていない。

 

「おお! 声に出して笑ってくれましたね」

「ええ……まぁ、茜ちゃんが面白かったので」

 

 どこか卑屈さがあった笑顔ではなく、何かをいつくしむような笑顔を茜に向ける卯月。本人に言えることではないが、大型犬がじゃれついてきたような感覚を抱き癒されていた。

 

「卯月ちゃんはもっと声を出して笑うといいですよ! いつもは声を出すのを我慢しているようだったのでそれでは気持ちよく笑えません!」

「……茜ちゃんの前で笑ったことなんてありましたっけ」

「いつも笑っているじゃないですか! 走り終わった後とか私よりシャトルランの回数が多い時とか身体を動かすのが好きなんだなーって思ってました!」

「…………」

「卯月ちゃん?」

 

 それは卯月をして驚愕に値することだ、茜に対して嫉妬や劣等感を感じていた心とは裏腹に運動をして疲れ切った身体は自然と笑みを作っていたのだろうか。

 

(ああ……)

 

 卯月は気づいた。

 自分は今でも誰かと一緒に何かをすることが好きなのだと。一人は寂しくて嫌だったのだと。だけれども、心はそれらを頑なに拒否する。好きなものがアレルギーで食べられなくなってしまった時、果たしてどうすればいいのか、卯月は解を持ちえない。

 

(私は……)

 

 どこまでも斜に構えてしまっていた自らを恥じいることしかできず、ふらふらとおぼつかない足取りで茜の元まで歩きだす卯月。

 あんなにもまっすぐに見てくれていた彼女に対して目をそらし続けていた卯月は何を言えばいいのかわからない。だからこそここから始めるのだと、一歩を踏み出せた。

 

「茜ちゃん……私は、島村卯月です。普段は346プロの地下レッスンルームで練習していて、プロジェクトには参加してないですし、アイドルランクもFで候補生のようなものですが……あと目玉焼きには醤油派です」

 

 出会ってから三週間、今までまともに自己紹介すらせずに付き合えていたのは豪放磊落ともとれる茜の気質からか、卯月の言葉を聞いた彼女は抱えたボールを地面へと置き、卯月と視線を交わす。

 

「私は日野茜です。アイドルランクはBですよ! 好きな食べ物はほかほかご飯! 好きな飲み物はお茶! 目玉焼きには同じく醤油っ! お風呂では胸から洗います! あと卯月ちゃんの友達ですっ!」

 

 茜は満面の笑顔で、卯月はわかりにくい笑顔で、笑いあう。卯月の表情がどれほど尊いものか理解はしていない茜であるが、だからこそ本来ありえないはずの笑顔を引き出せたのだろう。

 

「あとで、電話番号とかLINEとか……」

「いいですよっ!」

 

 卯月は自ら踏み出した。アイドルとしての格がどうとかそんな前提を無視して付き合える、友人といえる存在を得るために。

 

(眩しいなぁ……)

 

 ふとみた茜の笑顔は太陽の笑顔だった。

 先ほどやめてくれと叫ぶのを押しとどめた卯月が感じた感情は茜に対しての憧れだったのだろう。

 絶対に挫けないと思わせてくれる満面の笑みはまるで指標だ、迷い道にさしこむ一筋の光で、そんな彼女と大声で笑いあえたのなら、それはきっと凄い楽しくて、素敵なことなんじゃないかと卯月に思わせる。

 茜の笑顔は、卯月の凍った心を溶かす。それがたとえ氷山の一角だったとしても確かに溶かしてみせたのだ。

 

「そろそろ午前のレッスンが始まっちゃいますね」

「もうそんな時間ですか」

 

 二人は休憩と称してベンチに座り話していたが、気づけば早朝と呼べる時間は過ぎていた。

 

「……茜ちゃん、よければなんですけど――」

 

 卯月がいつも一人で辿るはずのお城へ向かう道には、二つの影があった。

 

 

 卯月が少しばかり晴れやかな気持ちで過ごせた次の日、そんなものはなかったと言わんばかりに無表情が極まっていた。

 隣には美城、その逆には今西、目の前にはクローネの面々、ここは別館のレッスンルーム。

 

(美城さん……これはちょっとハードル高いですって……!)

 

 美城が次のステージと称したのはダンスレッスンではなくこのレッスン見学であった。

 卯月も部屋に入って最初の内は見るくらいならばと高を括っていたが、こうしてレッスンが始まるとお腹の奥底にぐるぐるした何かが渦巻いていた。いわゆる乙女的リバースだけは避けねばとより一層表情がなくなる。

 

「調子が悪そうだねぇ。本当に駄目だったら言うんだよ?」

「いえ、これもお仕事ですので」

「そうかい……強い子だ」

 

 話しかけてきたのは今西部長。卯月にとっては美城と同じく雲の上の存在であることに変わりはないがその口調は優しいものであり今の気遣いも本心からの言葉であることが伺える。

 しかしだ、左右を上司に囲まれながら、ではお言葉に甘えてなどと部屋を出ていく勇気が卯月にあるわけもない。

 

「彼女たちももうすぐ休憩だと思うけど、ここまでの感想はどうかな。正直な感想が聞きたい、忌憚のないね」

 

 卯月は今西の問いに言葉を詰まらせる。流石346プロのアイドルたちですと褒めればよいのか、しかし忌憚のない意見が欲しいと望まれてあからさまな賛辞を呈するのもまた失礼だろうと考えを巡らせ、結局は本心を語ることにした。

 

「皆さん他人の持ち曲とは思えないほど動けていますね……ただ随分とゆったりしたレッスンだと思いました。長く続けることを目的としたレッスン、なのでしょうか……この調子だとあと四時間ほどダンスレッスンをして、ボイストレーニングで……と、大分身体に負担をかけてしまうのではないかと」

「…………参考までに、どうしてゆったりとしたレッスンだと思ったのか聞いてもいいかい」

「えっ……数曲踊ってからまとめて指示を出さずに、大きな指摘ではない部分で曲が止まりますし、時間をかけて一つ一つ矯正していくゆったりしたレッスンでは……?」

 

 卯月の答えを聞いた今西は一つ息を吐くと美城へと視線をやる。

 

「これがひと月の成果であり、今の島村卯月です。マスタークラスのトレーナーによる指導で二時間でバテさせるようなレッスンが標準になれば通常のレッスンは物足りなく感じるでしょう」

「クローネたちが行う今日のレッスンは追い込みだと聞いていたからハードなもののはずなんだけどねえ」

 

 卯月は上司二人の会話からこれが標準よりもハードなレッスンだと知る。美城から卯月が行っているレッスンは専用のメニューでありそれだけで誇れる内容だと聞いてはいたが、本当にその通りだとは考えていなかったのだ。

 というのも、卯月は先日電話番号を交換した茜と夜に長電話をしていたのだが、その折に茜や、茜と仲がよいアイドル(城ヶ崎美嘉)は卯月とそう変わらないレッスン量であることを聞いていたからだ。なお、比べる相手がおかしいということには気づけていない。

 

「ふう……すみません……」

「文香さん、大丈夫ですか」

「少し休憩にするか」

 

 卯月は休憩に入ったアイドルたちに気づかれないよう視線を向けた。鷺沢文香、橘ありす、両名のダンスを見ていて気になった部分は多々あれど、それを指摘するような立場ではないため静かに目線をそらす。ただ目ざとくそれを見つけた美城によってあらぬ方向へ話が進んだ。

 

「君も含め、我々は視察にきているんだ、気になったのなら指摘しにいきたまえ」

「無理です」

「胃腸薬はいるか?」

「なんで指摘しに行く方向で進んでるんですかね」

「……半年ほど前から手放せなくてな」

「その情報は知りたくなかったです……」

 

 卯月は行くしかないようだと美城との会話を諦め、休憩中の文香とありすへと近寄っていく。

 一歩を踏み出すたびに鉄球を一つずつ飲み込むような感覚を受けつつも止まらずに進み続けた卯月。もし茜との交友関係を持てていなければ、踏み込む勇気を茜から分けて貰えていなければ絶対に出来なかったことだ。ひと月とちょっと前、見るだけでも嘔吐感を催していたことに鑑みれば進歩どころか進化の域だろう。

 そっと二人へ歩み寄るが何と声をかければいいのか準備をしていなかった卯月は無表情で文香の後ろに立つ。文香とありすが目立った活動を始めたのはクローネ入りしてからのためここ半年ほどの話だ。自らの一年と彼女たちの半年は時間にすればその程度、されど埋めるには深すぎる溝がある。

 卯月はここにきて底辺にいた自分が頂点すら目指せそうな位置にいるクローネのメンバーたちに指摘をするなどおこがましいことではないのかと固めたはずの決意が崩れそうになるが、その時文香がぽそりとつぶやいた。

 

「一歩一歩、歩みは遅くても……歩き続ければたどり着ける、歩き続けなければ見れない景色がある……」

 

 文香がどうしてその言葉を放ったのか卯月は知るよしもない。しかし、そのたった一節の言葉は卯月の内側へと入り込んでいく。一歩進むだけで一年もかかった、だがそれでも進んだのだ。もし立ち止まっていれば美城のちょっと面白い面を知れはしなかっただろう、茜と友人にはなれなかっただろう、今卯月が立っている場所は前へ進んだ証拠なのだ。

 

(……進もう、前へ)

 

 卯月は今更怖がって何になると、握った手のひらが熱を持つ。ただそこまでは気概にあふれていたものの、文香とありすへ勢いでまくしたてた内容は憶えておらず、気づけば激しい動悸を抱えて美城と今西の間に収まっていた。

 

「うん……頑張ったね」

「ベテランクラスのトレーナーが正さないということは問題のない指摘だったようだな」

 

 一歩どころか半歩進めたかも怪しい内容だったが、卯月自らの意思で今をときめくクローネの面々へ話しかけあまつさえ指導すらできたのは、内面がいい方向へ変化してきている証左だ。

 

「私、文香ちゃんとありすちゃんに指導なんてしてしまったんですね……」

「私がプロデュースするクローネへの貢献だ、ひいては346のためになる。そうかしこまることはない」

 

 美城は表情を変えずにクローネを見据えるが、意識は確実に卯月へと向けている。言葉ではクローネのほうを重視しているように聞こえるが、よくよく噛み砕けば卯月すらも褒めている内容なのだ。

 そんな遠回しの褒め方しかしない美城であるが、意図はしっかりと卯月へ届いている。

 

(美城さん……ありがとうございます。私は、あなたのおかげで頑張れています)

 

 卯月にとって美城とは月である。目立ちはしないが薄暗い夜道を切り裂くよう、照らしてくれる。静かにそこにあり、明確な指標とはならずとも、確実に助けてくれる存在。

 ひと月前の卯月が見る世界はまっくらだった。一筋の光すらない道を歩かされ、いつ崖下へ落ちてもおかしくはない状況。

 卯月はそれを、もう違うと力強く否定できる。

 まっくらな世界に色の違う光を灯してくれた人たち……太陽と月が導く先は違えど、もう前はみえる。

 

「ふーん、随分と仲がいいみたいだね?」

「凛さん、とてもやさしい表情をしています」

「あとで何喋ってたか聞かせてくれよなー」

 

 それでも卯月にとって羨むものはある。

 もし774プロで上手くいっていたのなら……と、卯月は目の前で繰り広げられる同年代の少女たちによる仲睦まじい姿を自らへと重ねた。全てを失った彼女には眩しすぎる宝石だ。自分には不釣り合い、それでもみすぼらしい自らを着飾れるような、手を伸ばしたくなるもの。

 

(なんて、贅沢にもほどがあるかな……)

 

 羨む瞳はクローネたちを捉えたが、美城と茜の存在を思い出し、深く息を吐きながら天井を見上げる卯月。レッスンは終わり、美城と今西に連れられて部屋を後にした。

 346プロに所属するアイドルにとって卯月が行ったことは取るに足らないことかもしれない、しかし彼女にとっては大きな大きな一歩なのだ。何日も準備をして、震える手を無理やり抑えてできること。理解はされないだろう、卯月だけがわかっていればいい――茜にだけは報告しようと、夜の予定を一つ埋めたのだった。

 

 

 遠く遠くの舞踏会、太陽と月が照らす部屋の中、見遣るばかりのいばら姫、その呪いを解くものは。

 

 

 




美城専務のウワサ
卯月のボイストレーニングの相方探しに難儀しているらしい


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第10話 おとぎ話に囚われて

渋谷凛のウワサ
最近もしかしたらと気になっていることがあるらしい


 卯月のレッスン見学から数日後、場所は美城の執務室、厳しい眼で視線を交差させる二人がいた。

 

「その問いには答えられないと言ったはずだがな、渋谷凛」

「そう、ですか……失礼しました」

 

 頑なな姿勢を崩さない美城に、凛が先に折れ部屋を出ていく。

 

(随分と、ウワサが出回ってしまったようだ)

 

 美城は目頭を揉みたい衝動に駆られるがアイシャドウが邪魔をする。卯月のことを調べるものが随分と増えていることからも、あのレッスンでの一件がきっかけとなっていることは明らかだった。美城をしてゴシップとは縁遠いはずの凛が動いているという事実は少なからず衝撃を受けていたが。

 だが必要なことだったのだ。卯月が安全に他のアイドルと交流を持てる機会は早々にない。茜との出会いで持った熱が冷めぬうち、次の刺激を取り入れるタイミングは先日しかなかったのだと美城は判断している。

 荒療治ではあっただろうが、美城は思惑通り卯月に文香とありすのフォローをさせ多少なりとも自信をつけさせた。そのためにあえて文香とありすをトライアドプリムスのバックダンサーに選出していたのだから。もちろんその五名なら最終的には上手くライブを成功させるであろう前提あってこそだが。

 そしてクローネの面々もそれに触発されるようレッスンへの取り組み度合いが上がる。美城が抱えるアイドルたちへのアプローチとしては上々だったが、卯月が上手くやりすぎてしまったためか、いらぬ問題もあわせてついてきていたのは誤算である。

 

 美城はパソコンのディスプレイに表示される文書を眺めコーヒーを手にする。そこにあるのは卯月のアイドルとしてのデータだ。ダンスやボーカル、ビジュアルといったアイドルとして必要な要素が数値化されていた。

 ダンスの数値こそ他のアイドルと比べれば飛びぬけているが、ボーカルは平均値、ビジュアル――アイドルとしての魅せ方、魅力といった部分については標準値を下回っており、美城の卯月プロデュースにおける今後の課題となっている。

 アイドルを始めた当初の笑顔があればビジュアルは平均に収まらなかったはずなのだが、その部分については気長に――といっても年スパンでは考えていられないが――やるしかなく、メンタルのケアさえ上手く回れば取り戻せる、取り戻させると、いつも首を弄っている能面な男の顔をコーヒーカップの中に思い浮かべ飲み干した美城。むしろ笑顔が必要なのはあの男なのではないかと無駄に罵るが聞くものはいない。

 残るボーカルの部分、ここさえ鍛えてしまえば卯月がステージに立つ日は近い、近いのだがそこが難しいのだ。現在に至るまでマスタークラスのトレーナーによるボイストレーニングを行っており、346プロに所属した当初に比べれば成長しているのは当然で、346プロのアイドル基準で並み……つまりステージに立つ最低基準値には達している。

 しかし笑顔がない卯月にとって武器はダンスとボーカルのみ。そう考えると、ボーカルもハイレベルなものを習得しなければ他ならぬ美城からオーケーは出せない。

 

(しかし現状頭打ち……島村の気質からして、ともにレッスンを行えるトレーナーとは違う近しい存在……他のアイドルとレッスンを行えれば、先に進む可能性はあるが……)

 

 そのために卯月のレッスン見学を行った面があったのだが、相方として選出するアイドルが決まらないのが問題であった。

 美城は幾人か候補を出していた。仲のよいらしい日野茜、クローネの中でも比較的落ち着いている速水奏、並びに渋谷凛、シンデレラプロジェクトのリーダー的側面を担ったらしい新田美波。

 いずれも卯月のメンタル面を最重要として選出された面々であるが、まず日野茜に関してはボーカルで魅せるタイプではないため却下、渋谷凛ならば歳も近く上手く導ける可能性があったのだが先ほどのやり取りから並々ならぬ興味を卯月へ抱いているようで却下、そうなると速水奏か新田美波……ならばシンデレラプロジェクトよりは自身がプロデュースするプロジェクトクローネのほうがよいと速水奏が第一候補として挙がっているのだが、それとなく新人アイドルの面倒を見ないかと聞いたところ他人に教えるよりも今は自分を優先したいと言われてしまえば無理強いをしようとは考えなかった美城。嫌々やらせてもしょうがない部分が大きいというのもある。

 第一条件に卯月のメンタルケアが来るのだ、興味がないものを選出してもいい結果にはならない、ならばやる気がありそうな日野茜に任せたほうがいいだろう。

 

「もしもの時は日野茜に……いや、やはりボーカルという面で見れば…………ん、入りたまえ」

 

 美城はドアをノックする音で漏れ出ていた独り言を中断し、外にいるであろう人物へ入るように促す。開かれたドアから入ってきたのは予想外の人物であった。

 

「高垣楓か、何の用だ?」

「少しお話したいことがありまして」

 

 美城と高垣楓、この二人は以前に決定的な仲違いと言える出来事があった。美城はトップアイドルである楓をリーダーに添えプロジェクトクローネを推し進めるはずだったが、美城の斬り捨てるようなやり方を許容できなかった楓は彼女の誘いを蹴っているのだ。それからはお互いにノータッチ……触れないように努めてきた節がある。今になって美城を訪ねてくる理由など、わかりはしない。

 

「君から話とはな。クローネの席はまだ空いているが?」

「今日お伺いさせていただいたのはそちらではなく……卯月ちゃんのほうですね」

 

 どこでその話をと言葉にはせず、片目を吊り上げて楓を見据える美城。確かに卯月についてはウワサになっているだろうが、名前やその他経歴に関してはトレーナーにも一部プロデューサーにも箝口令を敷いているのだ、漏れ出る可能性がゼロではないとはいえ名前を聞いただけでわざわざ美城を訪ねたりはしないだろう。

 

「まさかとは思うが、君もウワサ好きの類なのか」

「いえ、彼女たちが気にするよりもずっと前、一年ほど前でしょうか……ここで見つけたのはたまたまでしたが」

 

 美城は楓と卯月の共通項を頭で洗いだし、一つだけ繋ぐ線があることに至る。

 

「あの規模としては小さい箱か……」

 

 それは楓が美城の話を蹴った理由ともいえる場所。

 

 楓がモデルからアイドルに転向し、デビューライブを行った雑居ビルの上階にあるステージ。彼女にとってその場所はアイドルの始まりであり、トップアイドルとなった今でも定期的にミニライブを行っているほど思い入れの強いステージ。

 奇しくも卯月がデビューライブを行った場所と同じであった。

 

「粗末な小屋、とは言わないのですね」

「…………」

 

 美城が楓から事実上の対立を言い渡された時に言い放った言葉を突きつけられれば美城は押し黙るしかない。

 当時はなぜそのような小さなことにこだわるのかと怒りよりも先に不可解の念が強く湧いていた美城だが、武内との対立、シンデレラプロジェクトによる成果を経て、楓が言うところのファンとともに歩むの意味を許容はできずとも理解はした。

 煌びやかなお城ではなく、下町の小さな家を大事に思うものたちがいる。

 先に礼を失したのは美城であるが、あの時の言葉を取り下げはしない。プロデュースする側がアイドルの顔色を窺い続ければ主体が移ってしまう、それでは企業として成り立たないのだ。とはいえ重ねてなじればそれは子供のだだこねでしかなく、そもそも自らがプロデュースする卯月をも貶めることとなる。

 ゆえに美城は返す言葉がなく、楓を見据えることしかできなかった。そんな彼女の姿を見かえす楓は何を感じ取ったか柔らかな笑顔を向ける。

 

「卯月ちゃんのステージは何度も見ています。最初のうちはどのステージでも楽しそうに笑っていて、私もついつい一緒になって笑ってしまうほど、素敵な笑顔だったんです。ですが途中から表情は曇り、それ以降は見かけませんでした」

 

 卯月は笑顔が陰りファンが減っていったことでそのステージでの仕事が取れなくなってしまったのだ。もし、もう少しでもその場所でライブを続けられていたのなら、楓はきっと無理を押してでも手を差し伸べていた。他事務所のアイドルだとかそんなことはどうでもよくて、たった一人の女の子の笑顔を取り戻させるために。

 

「今のあの子に手を貸し、引っ張っているのは専務……あなたでは?」

 

 それは楓ができなかったこと。彼女に後悔の念はあれど、手を差し伸べる機会は訪れなかった、はずだった。

 

「確信を得ているからここに来ているのだろうに」

「ふふっ。いえいえ、私も確信とまでは……ただ、プロデューサーのどなたに聞いても知らないか、口をつぐんでいましたので、必然的にそんな指示を出せるのは美城さんだけです」

 

 美城はそれを確信というのだとは言わない。楓の真意は掴んだ、しかしそれを汲むかと聞かれればすぐに首を縦には振れない。

 知りたいは真意ではなく覚悟。

 

「もし島村に関わりたいというのならば、プロジェクトクローネに参加することが条件――」

「いいですよ」

「――だ」

 

 食い気味に放たれた楓の言葉は美城の言葉を一刀両断した。

 

「……いいのか。少なくとも、今持っているレギュラー番組や定期ライブのいくつかは方向性にそぐわないゆえに切るぞ」

 

 楓は事前に何ができなくなるのか、何をしなければならないのか、そんなことは些末でしかないと言外に言い切ったのだ。

 美城からすれば、彼女は今まで頑なだった部分を曲げあまつさえ一度蹴ったプロジェクトクローネに参加表明をだすことは、もはや理解不能だった。

 

「構いません。その代わり卯月ちゃんの全部を教えてください。彼女に呪いをかけた人は誰なのか、どんな道を辿ったのか、それと……専務との出会いを」

 

 交換条件というには緩いどころか、卯月と関わろうとするのならばもとより説明すべき部分でしかない。美城と卯月の出会いに関しては別だが、それでも楓にとって捨てさせられるものの比重が勝ちすぎる。

 

「まあ、いいだろう」

 

 美城は端的に事実だけを語る。卯月が所属していた零細プロダクションの顛末を、そこで奪われた笑顔のことを、美城との出会いを、そして346プロに所属してからの今を。

 楓は静かに聞いている、いや、感じている。卯月が辿った道を、何を感じて、何を奪われ、何を得たのかを。

 時間にすれば五分、美城に語らせた卯月の一年は淡々としていたが、何があったのかを知るには十分な時間だ。

 

「やはり、私の考えは間違っていないようですね」

「君の考えとはなんだ?」

 

 聞き終えた楓は吐息とともに緊張を吐き出した。真意も覚悟も見せた彼女の更なる考えとは、美城には見当がつかない。あるとすれば卯月が笑顔を失った経緯についてだろうが、774プロが倒産した経緯を追えばすぐにわかる程度のことだ。もちろん事前に島村卯月というパーソナルを知っていることが前提だが。

 

 間をおいて楓が浮かべた優しそうな笑顔は卯月を思ってではなく美城を見つめているのだとは、彼女からしてわかるはずもない。

 

「今の専務にならついて行ってもいいと思えます」

 

 楓がふいに紡いだ言葉は元々静かな美城の執務室を更なる静寂で包む。話しかけられたはずの美城が口元を抑え頬骨を手のひらで覆い懐疑的な視線を彼女に向けて一言も発さないからだ。

 美城がもしや馬鹿にされているのかと突飛な方向に思考がいくのは過去の出来事が大きな枷となっているためである。武内と直接的に対立していた折、彼ですら美城の目指す場所は平行線という言葉を否定しなかった、しかし楓に関していえば平行線どころか真逆をいくのだ。それはプロデューサー同士ではなく、プロデューサーとアイドルという立場だからこその対立で、武内とはまた違う。

 美城は結局理解に及ばず、一旦疑問を横へ置き話を進める事にした。

 

「……今の君の言動を理解するには時間が必要だがまず一つ、前言を撤回する。プロジェクトクローネに参加する必要はない、今更という側面もあるが、それよりも大きな仕事を君に任せたい」

 

 美城は元々楓の覚悟を見るためにプロジェクトクローネへの参加を条件にしただけであり、本気で参加させようなどとは考えていない。そもそも卯月を含めた新プロジェクトを立ち上げようとしている今、クローネに参加させるくらいなら新規プロジェクトへ組み込んだほうがやりやすいのだ。

 

「あら……ふふふ、やっぱり、間違っていませんでした」

 

 他人を見る目は培われていても、自らを評することは難しい。美城は自分自身の考えが少しずつではあるが変わってきていることに気づけていない。卯月と接する時のような気やすさこそ楓には向けられないが、彼女はしっかりと感じ取っているようだ。

 

「クローネに参加しないとはいえ、いくつかの仕事を諦めてもらうのは決定事項だ」

「はい、覚悟の上ですよ」

 

 美城はやはり解せない。今の美城の言動から大切なものであるはずの、始まりのステージから外される可能性すら臭っているはずなのにと。

 

「……今ある仕事は据え置きで、新規の仕事を減らす方向で進めてもらう」

「ではあのステージにはまだ立てるのですね……いつか、卯月ちゃんと一緒に歌いましょう。それと随分と難しい顔をされているようですが、どうしました?」

「今の君の言葉から大切なはずのステージすら降ろされることを覚悟していたように聞こえる。なぜそこまでして島村に関わろうとする」

 

 それは純粋な疑問だった。楓は普段から飄々としており掴みづらい部分があるものの、美城からすればここまで卯月に入れ込む理由がわからなかった。

 

「簡単な事です。私もただ一人の、卯月ちゃんの笑顔のファンってだけなんです」

 

(……あの高垣楓にここまで言わせたのが島村卯月という底辺をさまよっていた少女とはな)

 

 美城がもしその考えを言葉に出していたのなら、アイドルの真価とは直接見なければわからないものだと楓は諭しただろう、ファンとアイドルの一体感や、巻き起こる感動もあわせてアイドルなのだ。武内との一件でアイドルの違った一面を知った美城ではあるがしかし、アイドルの裏を、パーソナルを見続けた彼女にはまだ理解が困難な部分。

 美城が一度でも卯月が本来持つ本気の笑顔を見ていればその評価はまた変わったかもしれない。画面越しでしか彼女の笑顔を見たことがない彼女ではまだ理解できないことであった。

 

「まあ、いいだろう。君の当面の仕事は、島村のボイストレーニングの相方なのだが……」

 

 このタイミングでの楓参加は美城にとっても卯月にとっても僥倖であったといえるだろうが、ある意味で不幸ともとれた。

 美城が楓を候補から外していたのは単純に断られるであろう懸念があったためだが、それだけではない。

 

「言い出しておいてなのですが、私が会っても……?」

 

 楓の言葉は尻切れトンボであったが十分に伝わる。346プロのアイドル部門におけるトップアイドルは誰かと聞かれれば城ヶ崎美嘉と高垣楓が候補に挙がり、一人に絞るなら楓の名前が上にくるだろう。

 つまり卯月の発作がどうなるかわからないのだ。

 卯月はアイドルランクがほぼCからBで固められているクローネメンバーと出会って手が震えだす始末。とはいえランクBである茜とは普通に接している報告があがっている以上、一概にランクだけでどうこうというわけではないのだろうが、予想でしかない――茜のパーフェクトコミュニケーションを真似ろというほうが無理があることに気づけるはずもないが。

 

 ならばAである楓と出会えば……浄化されて灰にでもなるのか。

 

「……いっそ、化学反応でも期待してみるか」

「そこまでなのですね」

 

 ただその不安を除けば高垣楓はこれ以上ないほど適任だ。楓のアイドルとしての能力は、ダンスは並みであるが、元モデルであることからもわかるように突出したビジュアル、そしてそれ以上の、暴力的なまでの歌唱力。ファンの一部では346のラスボスとまで称されているらしい。

 それがそのままそっくり卯月に移るとは美城も考えてはいないが、先達に学ぶことは多いだろう。

 

「まだ島村には話していないが、彼女の持ち曲の候補が二曲ほどある」

「あら、本人より先に聞かせていただけるのでしょうか」

 

 美城は鍵がかかったデスクから二枚のCDを取り出した。両方のディスクは無地の表面に黒いマジックで曲名が書かれている。

 

「ええと……こちらは、すまいりんぐ、でしょうか」

「ああ。もし島村がデビューまでに笑顔を取り戻せたのならデビュー曲として使う予定の曲だ」

 

 美城はあわせてCDに重ねるよう一枚のA4用紙を差し出す。そこにはそれぞれの歌詞が綴られており楓はそれを食い入るように眺め、一呼吸をおいた。

 

「『S(mile)ING!』はとてもいい曲ですね、卯月ちゃんの笑顔をよく表していると思います――なら、こちらの……ふぇありーてーるかっこかり、という曲は……?」

 

 楓はわかっていた。一枚が笑顔を取り戻せた時に歌う曲ならば、もう片方が必然的に逆となることを。

 

「島村は、呪いにかけられたいばら姫だ。FairyTale(おとぎ話)から逃れられないのならば、これほど皮肉の効いたタイトルもないか」

 

 美城は作曲担当者へ卯月が笑顔を取り戻せなかった場合におけるアイドルの方向性に、いばら姫というアクセントをつけることを依頼した。そうして出来上がったのが後者の曲であった。

 

「これも島村には言っていないことだが、彼女は笑顔を武器にすると私に言い放った。それは何をおいてもアイドルとして確立する意志の表れであると私は評する。ならば……無表情もまた、武器になるのではないか?」

「……次善策としての立ち位置と取っていいでしょうか」

「あるいは、どちらをも使いこなせるのならば――」

 

 机上の空論でしかないそれを論ずるつもりはないのか、美城は小さく咳ばらいをして楓からCDと紙を受け取る。楓の表情は複雑であった。

 

「それもこれも、私の手腕と、君の対応次第であることは理解して接してほしい」

「もちろんです……卯月ちゃんと出会えることに、うづいちゃいます、なんて」

 

 楓のダジャレには気づかないふりをして席を立つ美城。ちょっと寂しそうな顔を見せた楓はであるが、気にした様子もなく連れ立って執務室を後にした。

 

 

 いばら姫を救うのは王子様だろう、しかし救ったところでそれはおとぎ話でしかない。

 ならば、おとぎ話から救い出すのは。

 

 

 




高垣楓のウワサ
専務と一緒にいるところを色んなアイドルに見られて驚かれているらしい


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第11話 いばらに覆われて

日野茜のウワサ
346プロでの思い出を卯月に教えるのが最近の日課らしい


「よっ、専務!」

「何だ日野茜、馴れ馴れしいぞ。新人でもあるまいに立場くらい弁えろ」

「はい、専務様……」

 

 心なししょんぼりした様子で卯月の元へ戻ってくる茜。最初の一言を放つことができた時点で永劫語り継がれてもおかしくはない快挙であった。

 卯月は午前のレッスンが終わったあとに話があると美城に呼ばれていたため敷地内にあるカフェへ向かっていたが、途中でたまたま茜と出会い同行していたのだ。

 テラス席の奥まった場所に座った美城を発見した二人だったが、茜が鼻息を荒くしてずんずんと彼女へ近づき先の言葉を放つ。昨夜に卯月がため口で話しかけていいと言われた話を茜にしていたからだろうが、それを実行に移せるのはきっと彼女だけであろう。

 

「もしや会話ができたことに驚くべきなのでは!」

「あの、美城さんって所属のアイドルたちからどう思われてるんですか」

 

 美城は少し離れた二人へ声をかけるつもりはないようで、一瞥だけしてトールサイズのコーヒーへと手を付ける。

 卯月が普段接する限りでは、美城は確かにキツめの性格ではあろうが、それは重役としての責務から態度を崩さないだけとのイメージが強い。いや、強かった、だろうか。以前プロジェクトクローネの反応を見ていた卯月はちょっと気難しい上司どころかお互いに接しづらい雰囲気だったことを思い出す。

 

「専務は半年ほど前に346プロのイメージにそぐわないという理由で現存プロジェクトの全てを解体にしようとしていましたね」

「……ええっ!?」

 

 美城が行おうとしたことは社内改善を通り越して改革だった。美城グループの対外的なイメージの確立が目的であり、その対外的なイメージとは美城本人が思い描くものでしかない。346プロ所属のアイドルたちは自らが持つ個性でもってファンを獲得していたのだが、それら全てを斬り捨てると言ってのけた。

 

「シンデレラプロジェクトの武内プロデューサーが一番に専務のやり方へ声を上げたんですよ」

 

 茜の話は直接的にシンデレラプロジェクトへ関わっていないがゆえ客観的なものであった。

 武内は表立って対美城専務への派閥を作ったりはしなかったが、それでも彼を応援するものは多数おり部門を越えてアイドルユニットを組むきっかけにもなったのだ。自分たちが築き上げた成果や努力を評価しないと言われたに等しいプロデューサーたちにとって、武内は自らの言葉を代弁してくれる存在。

 

「では、武内プロデューサーはもう……?」

「いえいえ元気にプロデューサーをしていますよ! 大きな成果を上げて専務に認めさせたから解体の話は半分お流れでむしろ色んなユニットを組めるようになって楽しい環境になったとも言われてますね!」

 

 武内の言葉に同調するものもいれば美城のやり方に付き従うものもいる。プロジェクトクローネに始まり美城グループのイメージを象徴しようとするプロジェクトも少ないながらも存在していて、逆に言えばそれら以外のプロジェクトはアイドル自身が持つ個性を伸ばす方針を取っているのが現状だ。プロダクションにアイドル部門が設立されてからかつてないほど横の繋がりが強い時期である。

 

「私もHappyPrincessのほかにポジティブパッションというユニットを組めてよりアイドルが楽しくなりました!」

 

 美城と武内の静かな戦いは結果的に346プロにとって大きな成長の一助となった。売り上げで見ればシンデレラの舞踏会以降上がり続けている。

 かといって美城が武内を憎々しく思う気持ちが薄れるわけではない、ないのだが。

 

(確かに美城さんからは武内プロデューサーに一泡吹かせるために私をプロデュースすると言われたっけ、でもあれ以来は特にそういった話を聞かないけどなぁ……)

 

 卯月は見えない部分で何かをやっているのだろうと対立に関しては気にする様子もなく茜の話を聞く。

 武内との話以外にもお堅い言動や強引な推し進め方など、中々に怖い話が続き褒められるような話が出てこないものだから今更ながらに畏怖を抱く卯月。ただ卯月と接している時は面白いおばさんなのだが、そういった姿はほかで一切見られないらしい。

 

「あとは最近だと武内プロデューサーと同じくらい対立していた楓さんと仲が良くなったとか……おおっと! もう午後のレッスンが始まってしまいますので私は行きますね! また夜に!」

「えっ、あ、また夜にー……」

 

 卯月はすでに後ろ姿が見えなくなった茜にすぼんだ声を投げかけながら、聞いた話を反芻する。シンデレラプロジェクトに直接関わっていなかった茜からあれだけ怪談話かと思うほどすくみ上る話が出てくるのだ、当事者だったものたちがどれほど恐怖に怯えていたのかは想像すらできないだろう。だが卯月にとっての美城は怖い人には分類されない。

 今後もし解雇の話を持ち出されたとして、感謝こそすれ恨みはおろか恐怖の対象にはなりえない。拾ってくれた恩もあるが、何より卯月は自分をよく見てくれていると感じているからだ。レッスンも今の彼女が自身では気づけない足りないものを補うように組まれ、時折話すことも進む道を教えてくれるような助言ばかりである。プロデューサーとして当たり前のことなのだろうが卯月という個人をしっかり把握して、それこそ専念しなければ分からないであろう機微すらフォローしてくれる存在。

 そんな美城からアイドルには向いていないと言われるのであれば、それは変えようのない事実で、いっそ諦めることに悔いは残らないだろうと思う卯月。

 

(なら、みんなは美城さんの優しい部分を知らないのかな……)

 

 346プロに所属しているアイドルやプロデューサーが美城に対して苦手意識を持つのは茜の話からして当然のことではあるだろうが、彼女の別の一面を知っているものは殆どいないのだろうと、卯月は少し悲しい気持ちに包まれる。

 

「いつものことだが、今日はいっそう暗い顔をしてどうした?」

 

 卯月が気落ちした様子で美城が座っているテラス席までくると気遣いの声がかけられる。やっぱりみんなが思っているほど怖い人じゃないんですと説明したくてたまらない卯月であるが、そんな話をできるような友達は現在事務所には茜以外はいなかった。

 

「少し誰かに優しくしたい気分なんです」

 

 美城の対面に座った卯月は店員を声で呼び、抹茶フラペチーノを頼む。

 

「ならその優しさは自分用に取っておくといい、君にとっては多少ショッキングな話題になる。あと悪ふざけができるほど日野と仲が良いのはよろしいことだが、私を対象にするのは今後禁止とする」

 

 悪ふざけではなく茜の暴走なのだがそれを説明したところで長電話の話題に美城を使ったことを言及される可能性もあったため大人しく頭を下げる卯月。茜の行動を思い出すだけで思考がそちらへ傾いてしまうほど衝撃的な行動力だが、それ以上に卯月にとって聞き流せない言葉を美城は発していた。

 

「ショッキング、ですか?」

「三点ほど連絡がある。君にとっては悪い話だと思われるが一般的には良い話と、普通に良い話と、とても良い話だ」

「私にとって悪い話からお願いします……」

 

 いつもならスパッと連絡事項を言い渡す美城だが、硬い話をする時は卯月にとって話しやすい、ちょっとしたカフェやファーストフード店に集合するようにしてくれているらしいことを卯月は知っている。

 だがわざわざカフェへ呼び出して前置きが長いことに卯月は多少不安を覚えた。呼び出された状況で言い渡される卯月にとってのみ都合が悪いことは想像に難くない、今度はクローネ全体のレッスン見学か、あるいはステップアップしてミニライブの見学とかだろうと構える卯月だが、そんな彼女に対して美城は今までにないほど優しい声色で話し出す。

 

「そんなにかしこまることはない。普段のボイストレーニングに追加事項があるだけだ」

 

 普段とは違う場所に呼び出した割には変哲のない連絡、それならそれで追加事項とやらが曲者なのかもしれないが、卯月にとってレッスンを厳しくされることは苦ではなく、むしろ喜ばしいことだ。

 美城の言った通りかしこまることはなく、安堵し一つ息を吐く卯月。

 

「はぁ……よかったです。今までよりボイストレーニングが厳しくなるとかそういうの――」

「高垣楓が君のボイストレーニングに参加する。では二点目だが」

「ちょっと、まって、ください」

 

 さらりと流して次に行こうとする美城に向かって両の手を向けてストップさせる卯月。聞き流そうにも投下された爆弾があまりに大きすぎてとぼけることすら難しい。

 

「た、高垣楓さんと言えば今のアイドル業界を代表するようなアイドルですよ!?」

「ああ、そして346プロ所属のアイドル、君と同じ事務所の先輩だ、後進を見ることに何の不都合がある」

 

 卯月は今更ながらに346プロのネームバリューに足がすくみ始める。高垣楓はアイドルに興味がない人でも名前くらいは聞いたことがあるほどに国民的なアイドルの一人。

 卯月が養成所に入ってから何度彼女の姿をテレビで見ただろうか、何度彼女の曲をカラオケで歌っただろうか、何度彼女が踊るダンスの振り付けをトレースしただろうか、アイドルを目指す女の子にとってそれほどまでに憧れであり目標となる存在だ。

 それがどこをどうとち狂ったら同じレッスンルームでボイストレーニングをする状況になるのか、混乱する頭をかかえる卯月。

 

「島村、君はまだ他のアイドルを目標と仰ぎ立ち止まるのか?」

「それは、ずるい言い方ですよ……」

 

 卯月にとってアイドルとは目標地点ではなくなった。

 他のアイドルがどうあれ関係ないと、自分自身のアイドルとしての道を歩むと美城に叩きつけたあの日から今なお原動力となり続けている言葉。それがあるからこそ苦手とする売れっ子アイドルたちのレッスン見学だって震える足を抑えつけられた、厳しいレッスンだって自ら進んでできる。

 

「アイドルとして高みを目指すのなら、高垣楓すらも飛び越えて自分なりの笑顔をファンに届ける覚悟を持つことだな」

「……私にできる、でしょうか」

「君も知っているとは思うが彼女の歌唱力は抜きんでている。天性のものはあろうが、そこに努力がなかったわけもない。努力は君の領分だろう?」

 

 美城の言葉にとりあえずといった様子であるが承諾する卯月。乗り気でないのは俯いた顔の角度から誰もが察するが彼女にとっては乗り越えなければいけない壁でもある。美城にはレッスン当日に楓を直接連れてくる案もあったが、今の卯月をして事前に連絡を行って正解だっただろう。

 茜とのふれあいやクローネメンバーのレッスン見学を経て鳴りを潜めていた卯月の本質である待つことが再び表面化しようとしている。今でなくてもいい、このままレッスンを続けていればアイドルとしてある程度のものになる――美城はそんな思いを再び卯月に抱かせるわけにはいかないからこそキツい言葉だとは分かっていて発破をかける。

 楓とのレッスンは刺激的というには生ぬるいだろうが、必ず通らなければならない道だ。

 卯月とて理解はしているだろう、それでも未だに奪われた笑顔の傷は塞がらない、呪いは解けない。

 

「君にならできる、などと無責任なことは言わない。辛くても進まなければ始まらない……が、もし無理だと後退するくらいなら別の道を用意する準備はある」

 

 美城が逃げ道があることを卯月へ伝えるのはこれが始めてだ。逃げ道を用意することは彼女にとってなんの益もないことである、だが今回ばかりはメンタル面を優先し伝えざるを得なかった。

 

「戸惑いの方が大きい……とは言えないんです。怖い……楓さんすらも、私を利用するだけの存在なんじゃないかって……ありえないはず、なんですけどね」

 

 卯月にとってのトラウマは、裏切られるのが怖い、ただその一点に集約する。

 楽しいからアイドルをやっているはずなのに、アイドルという存在は他者を踏み台にして利用する……そんなアイドルへの不信感が卯月を縛り付けている。そんな不信感の中核が奪われた笑顔であった。

 

「……高垣楓には経緯をある程度伝えてある。もし音を上げるなら彼女でも、トレーナーでも、私でも伝えればいい」

「はい……」

 

 静まったテラスにお待たせしましたと間延びした声が響く。卯月が頼んでいた抹茶フラペチーノが届き、弱々しい様子でストローへと口をつける。幸いなことに空気をかえるにはちょうどよかった。

 

「では二点目、普通に良い話だが、君の曲が完成している」

「私の曲、私だけの曲……ついに346プロからデビュー、ですか」

 

 卯月の声は小さかったがどこか喜色を含み、しみじみとつぶやかれた。アイドルとして活動するならば外せないCDデビューの話は単純に嬉しいものだ。特にデビュー曲など、本人を象徴する曲として今後のアイドル活動において常に付きまとうこととなる。卯月は774プロにおいて予算の関係でユニット曲のみであったため個人のために作られた曲を持つのは初めてであることも嬉しそうな声に関係しているだろう。

 

「二曲用意してあるが、君と楓のレッスン如何で採用する曲を決める予定だ」

「にきょく……」

 

 美城は椅子の横に置いてある鞄から封筒を取り出し、卯月の前へ角度をきっちりと揃えて置く。その封筒の片隅には淡い青色でロゴがおされていた。

 

「これってクローネのロゴじゃないですよね」

 

 プロジェクトクローネのロゴは中央に宝石とその周りは百合の紋章に似た装飾が描かれている。しかし今美城が取り出した封筒にあるロゴは意匠が違う。

 中央に宝石があしらわれているのは同じだが宝石を締め付けるように茨が覆っており、宝石の右上にはその茨から花が咲いていた。

 

「目ざといな、それは君が参加する予定のプロジェクトロゴになる」

「……これ、346プロでは見たことがないロゴです」

 

 346プロのアイドル部門にあるプロジェクトではそれぞれ象徴するロゴを持っている。それはメンバー全体を表すためのものであるがゆえ非常に大きな意味を持つのだが、卯月は差し出された封筒に描かれたロゴを346プロ内では見たことがなかった。

 

「島村、君が参加する部門はクローネと同じになるが、プロジェクトとしては別。そのロゴは新設プロジェクトの象徴となり、そのプロジェクトへの参加メンバーは君と、高垣楓だ」

 

 卯月は言葉を発せなかった。

 

 クローネのレッスンを見学した時から卯月はクローネへ参加するものだと思い込んでいたのだ。慣らしの意味も込めて今後も定期的に関わっていくのだと勝手に覚悟していたが、ここにきて全く別方向へのアプローチ、それも高垣楓とたった二人のプロジェクト。

 デビューができる期待よりも、どうなってしまうのかという不安が卯月の胸へ棘のように突き刺さる。

 

「先に話してしまったが三点目のとても良い話とはこのプロジェクト発足についてになる。その封筒の中にはサンプル曲と歌詞が入っているから目を通しておくように……ただ、片方は仮の曲となる」

「…………仮ですか?」

 

 卯月は次々と伝えられた事実を上手く飲み込めておらず、声量も段々と小さくなり気落ちしている様子が見て取れた。

 デビューが近づけば卯月の中のアイドルは現実味を増していく。レッスンを行っているだけの日々では感じ取れないリアルがすぐそばにまで近寄ってきたのだ、ただただアイドルを夢見ていたころであれば緊張こそすれ楽しい毎日を思い浮かべ幸せそうな表情を浮かべていただろう。

 卯月が振り返れば、待ち続け、逃げ続けた道が広がっている。散々な道のりだ、だがそれすらもアイドルの業界からすればよくあることなのかもしれない。夢破れかけたどこにでもいるような女の子、それが卯月が自身に下す評価であり事実である。

 そんな卯月がトップアイドルを象徴する高垣楓と同じレッスンを受け、同じステージに立ち、同じように笑うなど、あまりにリアリティがなさ過ぎて、まるでおとぎ話の中に迷い込んでしまったような感覚すら抱いてしまう。

 

「君の成果次第では歌詞が変わる可能性がある」

「まだ未完成の曲なんですね」

 

 卯月は封筒を大事そうに抱きしめる、たったそれだけが今の卯月を支えているとでも言いたげに。

 

「連絡は以上だ。……最後に一つ、これは私個人の言葉だが――」

 

 美城はそこで言葉を止め一瞬だけ何かに悩む素振りを見せると、手帳を取り出し素早く書き込み丁寧に切り取った。

 

「登録しておくように。個人端末のものだから他人に漏らすのは避けろ」

「へ……あ、はい」

 

 卯月は美城から手帳の一ページを受け取り視線を落とす、そこに書かれていたのはLINEのIDだった。普段の連絡は社用の端末で電話番号によるメッセージのみを利用していたのだが、いったいどういうことか。

 最後の言葉はどこへ行ったのかと突っ込めるわけもなく唐突に渡された個人情報に困惑しつつ美城を見る。

 

「明日はレッスンが休みだったな。一日で覚悟を決めろとは言わないが、ひと月も待ってやる余裕はないぞ」

 

 そう言い残し卯月が頼んだ伝票もあわせて持っていく美城。

 一人残された卯月は椅子に深くもたれかかりながら両手で抹茶フラペチーノの容器を包み口をつけた。甘いはずのそれは卯月へ苦みを感じさせる。

 卯月にとってこれはチャンスなのだろう。美城にスカウトされたことも自ら動いて得たわけではないものだが、アイドルを目指すものが聞けばこれ以上ないほどに羨まれる状況に置かれている。

 いつか美城が言っていたように、卯月の本質は待つことだ。

 この状況すら自分から動いて掴んだ機会ではない。何千、何万というアイドル候補生が喉から手が出るほどに欲しいものを何もせず掴んだ卯月に不満を漏らすことは許されない。卯月にとっては、だから頑張ると、決意する理由にはなりえないが結局美城の言った通りになっていることに心へ靄がかかる。

 このままでいいのか、今の自分には何ができているのか、卯月の頭の中ではそんな思考が渦巻いては流れていく。

 渇く喉を潤すためだけにストローへ口をつけ、ふと美城から貰ったIDを登録しておこうと携帯を取り出し無心で友人登録のアイコンをタッチし操作を進める。

 

「ひゃうっ」

 

 卯月が友人登録を済ませプロフィール画像すら載せていない美城へよろしくお願いしますとトークを打ち込み終わると、片手で持っていた抹茶フラペチーノの容器が揺られた衝撃で、結露していた水滴が膝の上に落ち突然の出来事に声が漏れて出てしまう。

 

「随分と可愛い声出すんだね」

 

「っ……」

 

 卯月は後ろからかけられた声で今の一幕を見られたことに気づき羞恥に染まるが、それとは違う理由で心臓が跳ねる。一度は生で聞いた透き通った声、それが誰であるのかを一瞬で理解してしまった。

 

「……渋谷凛ちゃん、ですよね」

 

 卯月は確認するまでもないと振り向かずに告げるが、単純に振り向く勇気がなかっただけだ。

 凛は先ほどまで美城が座っていた席の後ろまでくると、背もたれへ手をかけ申し訳なさそうな表情で改めて卯月へと話しかけた。

 

「ここ、いいかな?」

「――はい」

 

 卯月は断ることもできたが凛の同席を許可した。この程度で音を上げていたら楓とのレッスンなどできるはずもないと考えたからだ。しかし同席することと話をすることは全くの別問題である。なんて間の悪い時にと思わずにはいられない卯月。美城から言い渡されたレッスンやデビューのことで頭がパンクしそうになっている今、凛と言葉を交わす余裕はなかった。

 卯月は座った凛の胸元に輝くシルバーアクセだけを見て視線を合わせない。弱々しい表情はなくなり能面のような表情で軽く目をつぶる。凛は凛で座ったまま何をするでもなくチョコレートがまぶされたカフェモカを飲むだけ。

 

 沈黙が続き気づけば五分ほどお互いちびちびとストローへ口をつけるだけの時間が流れた。そんな静寂を破ったのは凛だ。

 

「……あのさ、秘書じゃなくてアイドル、なんだね。悪いとは思ったんだけど、そこの窓から途切れ途切れ聞こえちゃって」

 

 二人が座るテラス席のすぐ横には開け放たれた窓があった、凜は丁度死角になっているシートに座っていたらしい。

 五分間でなんとか呼吸を整えた卯月は努めて冷静に受け答えができるように冷たく言葉を放つ。

 

「できれば、他の人には」

「うん、もちろん……専務も隠してるみたいだし、何か理由があるんだよね」

 

 美城がデビューまで自身の存在を社内で隠そうとしているのを卯月は知っていたが、本人は別に隠そうとは思っていない、わざわざ挨拶にまわることもしないが。

 

「――ごめん、実は聞こえたからってだけじゃなくて、ずっと調べてたんだ」

 

 再び黙り込む二人であったがその空気を続けさせまいと凛は逡巡するそぶりを見せたあとすぐに話しかけた。その表情は眉を下げ困ったような面持ちで卯月を見つめている。

 

「私の事をですか?」

「よくないことなのは分かってた、でもどうしても気になることがあって…………元774プロの、島村卯月、さん?」

 

 

 ずしりと、卯月の心臓が重くなる。

 

 

「どうして……」

「やっぱり、そうなんだ」

 

 卯月はまずいと思ったがもう遅い。半信半疑で話しかけていた凛は卯月の答えでもって既に確信へと至った。自らの失策を悟る卯月だが、凛の言葉は止まらない。

 

「ちょっとしたことだったんだ、レッスンであなたのことを見て自分がアイドルになったきっかけを思い出してさ……当時の会場とかネットで検索したらね、ほんの少しだけライブの映像とかがあって……その、そこにいたのは」

 

 まだ卯月がアイドルを信じ切っていたころ、笑顔が奪われる前、なりたかったアイドルだった時、凛が見たのはそんな卯月の映像だけだった。それも仕方がないことなのだ、ネットに残っているのは卯月が笑顔でいられたとき熱心なファンがいた当時の映像だけだから。

 

「……専務のさ、アイドルの売り方にまでは口出しできないけど、あなたには笑っていてほしいって、私は勝手に思ってる。私がアイドルを目指せたきっかけはあなたの笑顔だったから」

「っ……ぁ……」

 

 卯月は言葉を発せない。

 

 凛がもし、卯月が774プロで活動する後期の映像を見れていたのなら、こんな悲劇にも似た勘違いは起こらなかっただろう。

 

 卯月が無表情のクールキャラとして売り出そうとしているなどと、卯月の心を抉るような勘違いを起こしはしなかっただろう。

 

 卯月は思い切り歯を食いしばり口元は横一文字になる、それが余計に無表情を強調した。

 

「これ、よかったら見に来てほしいな」

 

 照れ臭そうに話す凛から差し出されたのは一枚のチケット、日付は明日でプロジェクトクローネのミニライブのものだった。以前に卯月が見学を行ったレッスンの成果を披露するライブだろう。

 

「あなたの笑顔で私はアイドルを始められた、だから今までの私の成果を……アイドルとして成長した姿と、笑顔を、卯月に見て欲しいんだ」

 

 笑顔で語る凛には一切の悪気などあろうはずもない。ただただ純粋に、自らの成長を、笑顔でもって卯月に伝えたかった一心なのだ。

 だが、その真っ白な、屈託のない心は、濁ったフィルターを通せばたちまち汚れてしまう。

 

 

「――あなたも、私から奪ったんですか」

 

 

 卯月がもし、凛に話しかけられる前に美城からの話ではなく茜と単純にお喋りをしているだけであったら、多少は受け入れられる余地があったのかもしれない。あははと困りながらもどこか嬉しそうな声を上げられたのかもしれない。そんな未来は既に訪れない。

 

「……え、な、何?」

 

 凛にはその言葉が聞こえたのだろうか、戸惑いが強く見られた。

 

「いえ、受け取るだけ、受け取っておきます」

「そ、そうだよね、急すぎたかな……明日もレッスン?」

 

 卯月が感情をうつさない声色で答えたにもかかわらずどこか安堵した様子で聞き返してくる凛。そんな彼女へのさらなる返答はなく、卯月は受け取ったチケットへぼうと視線を落とすだけだ。

 

「休憩してるとこ押しかけてごめん。もし、時間が空いたらでいいから」

 

 そう言い残して凛は椅子から立ち上がる。どこか名残惜しそうな表情で卯月の横を通り過ぎる際、一瞥だけして何も言わずに去っていった。

 

(…………なんで)

 

 それから三十分ほどだろうか、卯月は動けずにいた。

 

 卯月は分かっているのだ、凛がそんな薄汚い子ではないことを、楓もだが自分から何かを奪うような人たちではないことを分かっているのに、心は痛みを発し続ける。本当に汚いのは、他人を、他のアイドルを疑う事しかできない自分自身だと、内罰的なことだけを考えて落ち着けようとした。

 

(わかってる、わかってるよ……でもっ)

 

 凛に対して言い放ってしまった言葉はどうしても抑えられなかった感情の爆発だ。たった一言、それだけに今までの薄暗い感情を乗せて吐き出された恨み言。理解されるはずもない、卯月だけが感じてきた枷の重さがそこには込められていた。

 

(綺麗な場所だけを見続けてきた人たちにっ、私のこれまでを語られたくなんかないっ……!)

 

 卯月は滅多にしない貧乏ゆすりが止まらなかった。

 手に持ったままのチケットには輝く宝石のロゴがあしらわれている。凛はきっとライブでこの宝石のようにきらきらと輝くのだろう。卯月はそう考えた瞬間、自らが参加するプロジェクトのロゴの意味を理解した。あの茨は、自分に絡みつくこの黒い感情だと。花の意味こそ理解できなかったが、なんと醜いことかと渇いた笑いが漏れ出てくる。

 いっそのことチケットを破り捨ててしまおうかという衝動に駆られるが、その瞬間テーブルに置いた卯月の携帯がバイブレーションする。画面に表示されたLINEの通知バナーを見ればそこには美城の名前があった。

 卯月はよれよれとした動作でアプリを起動させ、そこに表示される文章を読む。

 

 

『先ほど言いかけた私個人の言葉だが、君には期待していることを伝えたかった』

 

 

 それを見た瞬間、自らの胸に手を置き拳を握りしめた。矢継ぎ早に送られてくるメッセージに次々と既読の文字がつき、流れ落ちそうになった涙をこらえる。

 

 

『島村の歓迎会で私に対して見せた覚悟、放った言葉、嘘ではないことを証明したまえ』

「っ……ぁ……」

 

 

 改めて覚悟ができたら連絡をしなさいと、そこで締めくくられた美城のメッセージ。携帯を胸へと抱き込み背もたれへだらんと身体を投げ出して見えるテラスの天井。

 

(……どうせこの人は、直接言うのはキャラじゃないからとか、思ってるんでしょうね)

 

 このタイミングで送ってきてくれたことに卯月は感謝をするしかなかった。消えかけていた彼女の心に再び火が灯る。

 待つだけだった自分をどうにかしたいと、凛に出会う前まで考えていたことを思い出した卯月。このチケットこそ、まさしくそのチャンスだろう。

 

(私がこのライブを見に行けばきっとまた、ひどいことを考える。それでも……この機会で動けなきゃ、同じことを繰り返しつづけちゃうんだ……そんなことをつづけるくらいなら……)

 

 

 卯月の、休日の予定が埋まった。

 

 

 




美城専務のウワサ
最近クローネの大槻唯にLINEの使い方を教わったらしい


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第12話 いばら姫はガラスの靴を履かない

美城専務のウワサ
シンデレラの舞踏会以来は都合がつけばプロジェクトクローネのライブは必ず見に来ているらしい


『それでですね――卯月ちゃん大丈夫ですか?』

「えっ、うん……へーきだよ」

 

 プロジェクトクローネによるミニライブの前日、卯月は日付が変わろうかという時間まで茜と電話をしていたのだが明日に気が行っている彼女の受け答えには精彩はなかった。

 細かい事をあえて気にはしない茜が指摘するほどと言えば程度が分かるだろうか。

 

『ならいいのですが、まだ先の話にはなりますが楽しみですね! 今から燃えてきましたっ!』

「う、うん」

 

 卯月は茜の言葉が何も聞こえてなどいなかったが平気と答えてしまったがため、とりあえず返事をして抱いているハート型のクッションへやんわりと体を預けながらどうしようと思案する。

 

「え、っと、茜ちゃんはアイドル、楽しい?」

 

 無理やりではあるが聞いていなかったことを察されないよう話題を変える卯月。しかし咄嗟に思い付いた言葉は、咄嗟だったからこそ普段から彼女が押しとどめている言葉だった。

 しまったと気づいても遅い。

 

『楽しいですよ! 舞台に立つまでの緊張感、ライブが始まってからの仲間やファンとの一体感、終わった後の高揚感、全部が楽しいです!』

 

 当然と言わんばかりにあらんかぎりの楽しい思いを伝えてくる茜、それは卯月も知っているはずの感覚。規模は違うだろうが、いつだか卯月が少なかれ抱いた感覚なのだから。

 茜の言葉を聞いた彼女は天井へと手を伸ばす。

 

(ああ、まだ……私は、まだ、羨むほどに、アイドルに焦がれているんだ)

 

 太陽と月は卯月が辿り着くべき場所を照らし続けている。

 だからこそ卯月は、辿り着いた先に星があると信じて枷のはまった足を一歩前へ進めた。

 

 

 映画館のように段々と座席が組まれている中規模ホールの最後列よりも後方、客席とは鉄柵で阻まれた通路の壁に背を預けてステージを見下ろす卯月がそこにいた。

 

『みんなー! 見に来てくれてありがとねー!』

 

 ミニライブの開演から既に数曲を披露し終え、次の出番である大槻唯がバックダンサーである鷺沢文香と橘ありすをつれて舞台下手から登場するとともに感謝の言葉がファンに向けて放たれ盛り上がっている。

 楽しそうに笑うクローネのメンバーを、ステージを、卯月はきりきりとした痛みを胸に抱えながらただただ見つめた。

 沸いている客席とは真逆に黙りこくる卯月だったが心が乱れているかと聞かれればそうではない。

 開演してから一曲目、アナスタシアのステージが始まった瞬間に踵を返して帰ろうとしたのだが、ふと見えたステージの中央で踊るアナスタシアの姿が目に焼き付いて離れなかったのだ。それはアナスタシアの美しさに見惚れただとか単純ことではない。

 ファンたちの怒号ともとれる声援、後方に位置するはずの卯月ですら感じる地響き、そこへ鳴り渡るアイドルの声――これが、本当のアイドルのステージなのだと、思わずにはいられなかったから。

 

(プロジェクトクローネ)

 

 美城専務が推し進める、今やシンデレラプロジェクトに並び346プロにとって花形ともいえるプロジェクト。

 リーダーの速水奏を筆頭として、塩見周子、宮本フレデリカ、アナスタシア、大槻唯、以前にレッスンを見た五人――誰を切り取っても346プロという大きなお城を象徴する存在だ。シンデレラプロジェクトの面々のように一人一人の強烈な個性とはまた違うアイドルの形。

 

 卯月はレッスンとは全く違うアイドルたちの姿に呑まれた。

 

(私は、あんな風に、なれる?)

 

 その後も続くライブ。レッスンの見学をしたときに指摘した文香とありすでさえ、今の卯月とはまるで違う場所、遥か高みにいる存在に見えていた。

 卯月は今までの自分ではなく、今の自分を見て考えてしまう。

 今までを比べる事は詮無きことだ、だからこそ今を比べなければならず、なればこそあまりに遠かった。ステージで踊るアイドルたちは全員、卯月よりもアイドル歴で見れば短い、それでいて今の彼女よりもよほど輝いている。

 努力の差がないとするならば、あまりに、あまりにも残酷な真実。

 卯月の心が凪いでいるのは、ただ受け入れがたい事実を受け入れてしまいそうだったから。怒りでも嘆きでもない、諦めという名の行き止まりで立ち尽くす。

 

(私の四年間は、彼女たちの一年間にも足りないのかな)

 

 それは才能の壁だと、卯月は真っ先にその結論に至ってしまった。

 プロジェクトクローネという巨大な城の壁を見上げれば、ぎちぎちと、聞こえるはずのない音が卯月の耳に届いた、彼女を縛る鎖は今をもって足を、腕を、胸を、首を、締め付けにかかる。

 

(私の今までは、なんだったんだろう)

 

 卯月の首にかかった鎖は、彼女が憧れたアイドルたちの手によって、ゆっくりと音を上げて巻き上げられていく。

 

『見に来てくれて、ありがとう』

「――っ」

 

 月の明かりも太陽の光も届かぬ真っ暗闇へと響き渡る透き通った声。

 不意に会場の音が止まり――一つのユニット曲が終わり――この場にいるファンたちは新たに現れたステージ上の人影を見つめる。

 先に放たれた言葉はこの場にいる全員に向けてられていたはずの言葉。聞く者が聞けばおこがましいと言うかもしれない、だが卯月だけは違う意味で受け止めた。

 なぜならステージの上に立つ存在、渋谷凛の視線ははっきりと、卯月を捉えていたのだから。

 

『今日はミニライブだけど……私にとってはちょっと特別。伝えたいこと、全力で歌に乗せるよ――最高の笑顔で!』

 

 普段多くを語らない、ある種ミステリアスな凛がマイクパフォーマンスを披露したことによる興奮が次々にファンへと伝播する、曲のイントロが流れた瞬間、既に最高潮へと達したステージで凛は舞い始める。

 卯月は――目をそらさなかった。いや、そらせなかった、が正しいのだろう。

 渋谷凛と共に舞台で舞う神谷奈緒、北条加蓮、三人のダンスは素晴らしいの一言に尽きる。一糸乱れぬと言葉通りの完成度、激しいダンスの最中つま先から指先までブレることがなく、同じく歌声も淀みなく響き渡り会場全体が熱気で包まれていく。

 だが卯月はそんなダンスやボーカルのレベルの高さではなく、奈緒の、加蓮の、渋谷凛の表情にこそ目を奪われた。

 ダンスの技術に目を奪われたのも事実だ、ボーカルに聞き惚れてしまったのも事実だ。でもそんな事は今の卯月にとっては些事でしかない。

 

 笑顔があった。

 

 ステージの上で輝く宝石、ダンスやボーカルは装飾品でしかなく、本当に輝いているのは渋谷凛の笑顔。

 そんな凛の笑顔を見たファンたちが湧かないわけがなく、いつしかステージと客席は垣根を超え一体となり一つの舞台を作り上げる。シンデレラだけが踊る事を許されたステージは、周りを巻き込んで一つの作品となった。

 

 そこには笑顔が溢れていた。

 

 それこそ卯月がいつしか夢見たもの、自分と他人の壁を笑顔でもって壊したその先。

 早く終わってほしい、まだ終わらないでほしい、矛盾した感情は卯月を心を空にしていくが、それも凛が天高く指先を掲げポーズをとると同時に音楽が止まり一瞬、鳴りやまぬ歓声に包まれる。

 

 その歓声を後ろ手に卯月は駆けだしていた。

 

 まるで魔法が解けたシンデレラが薄汚い服を、自分を見せぬようにと必死に舞踏会から逃げ出すように。

 考えるまえに身体が動いたのか、感情がそうさせたのか、逃げ出した理由すらわからないままひた走る卯月は気づけば誰もいない廊下で壁にぶつかるようもたれかかった。

 

「ハァ、ハァ、ハァ……」

 

 卯月の体力をすれば息切れすることは無いはずのなんてことはない距離、ここまで呼吸を乱したのは慣れ親しんだ走り方すらできないほどに身体も心も彼女の制御を離れたから。ほとんど過呼吸のような息をして、どうにか脳に酸素を送ろうとしてもお腹から込み上げる何かがせき止め邪魔をする。

 暗い廊下の突き当り、非常出口の電灯から漏れ出る緑色の光が、うつろな卯月の瞳を照らした。

 五分、十分、ゼンマイが切れた人形のようにだらしなくへたり込んだ卯月は動かない。何を考えられるでもない、かといって動けるわけでもないその姿はまさしく人形か。

 

(は、はは……)

 

 逃げ出してきた場所であってもステージの振動は届いた。

 

(なんだ……私が、私だけのものだって思ってた笑顔……そうじゃなかったんだ……)

 

 ようやく動き出した卯月の思考はぼうとしていたが、奥底から引っ張り上げるよう次々と湧きあがる。

 

(ううん、知ってたはずなのに。あの時先輩に奪われた笑顔は、ちゃんとあの人のものになっていたから)

 

 笑顔だけが取り柄、だからこそ誰よりも良い笑顔を持っていたかった。

 

(特別なんかじゃない……私の笑顔は……)

 

 それは事実でもあり、事実ではないこと。

 

(笑顔が取り柄だって、笑顔だけは負けないって……ああ……)

 

 振り返った道には何もない、そうではないとしても、そうなってしまう。

 

(私には何もなかったんだ)

 

 そう思ってしまえばそれは真実になる。

 

(だから笑顔だけは、って)

 

「――笑顔なんて、誰にだってできるもん」

 

 自分にはできないのに、あいつらはできる。だから笑えすらしない自分には何もないのだと、卯月が自嘲を込めたその言葉が廊下に響く。

 かつての先輩、先ほどの渋谷凛、そして卯月自身、誰が一番良い笑顔だったか、考えれば考えるほど自らの笑顔は道化のそれであったと、彼女の心から何かが漏れ出ていく――はずだった。

 

「本当にそう思うのか」

 

 誰もいないはずの暗い廊下に聞きなれた声、卯月はその声が聞こえた瞬間、はっと顔を上げる。甲高いヒールの音とともに影を裂くよう現れたのは美城だった。

 

「美城さん……」

「随分と、面白い事を言うようになったな」

 

 美城は怒っているような、ともすればいつも通りのような声色で卯月へと詰め寄る。

 

「なぜ君がここにいるのかは問うまい。大方誰かに誘われたか、自らの意志で足を運べただけでも前進したと見るべきか……まあ、今の姿を見るに、前進よりも後退の方が大きいようだが」

「私は……凛ちゃんに……」

 

 美城は分かっていたとでも言いたげな表情をしてへたり込む卯月を目の前で見下ろした。

 

「――君が思ったことを素直に話しなさい、彼女たちに何を見て、何を感じて、どうしたいのか」

 

 美城はどこか諦観めいた雰囲気を見せて目を閉じた。それもまた、美城にとっては答えが分かっている問いだったのだろう。

 一息を置き、卯月はぽつりとつぶやき始める。

 

「私の笑顔は、どこにでもある笑顔でした。少し前までは、武器にできるくらいには自分の笑顔に価値があると思っていて……でも、違うんです……凛ちゃんの笑顔……あれが、本物なんだって」

「…………」

 

 美城は何かを言いたげに、しかし語ろうとせず無言で続きを促す。

 

「プロジェクトクローネは凄いです。ダンスも、ボーカルも、笑顔も輝いていて……私なんかじゃ太刀打ちできそうにないな、って」

 

 卯月の脳裏にはつい昨日の、美城の激励が思い起こされている。この人に認めて貰えているのだと、それはまさしく自負にもなりえるほど卯月を支えている。それでもなお、今の卯月にはプロジェクトクローネが天上の星にすら思えた。

 小汚い服を着た小娘と、お城に住むお姫様のように、どうしようもない差があるのだと。

 

「それが君の出した結論か、島村卯月」

「……っ」

 

 卯月は美城の顔を見上げることができなかった。

 ただ、怖かったのだ――諦めの言葉をかけられることが、失望の眼差しを向けられることが、そして、ここでアイドルが終わってしまうことが。

 卑しいと思う気持ちが卯月の心に沈殿していた。あれほどやめたいと言っていたアイドルを再び目指すきっかけをもらい、道を示してもらい、今またやめたいと口にした上で、終わってしまうのが怖いなどと――どこまで甘えれば気が済むのか、卯月は惨めな自分を張り倒したかった。

 

「自分から諦めるような言葉を言っておいて、終わるのが怖いか」

 

 まるで心の内を読まれたかのような言葉に卯月は瞠目した。なぜ分かったのかと、ゆっくりと顔を上げれば、そこには思いもよらない、悲しそうに目元を垂らした美城がいたのだ。

 

「私は今の君のような顔をした者達を何人も、何十人も見てきた。揃って同じことを言う。自分には荷が重かっただの、才能には勝てなかっただの――そうだ、人には持って生まれた才能がある。なぜ当たり前の事を理由に挫折する」

「そう言えるのは、美城さんが持っている人だから、です……私には、何も、ない……っ」

 

 奪われたから、そんな理由で逃げる必要すらなく、最初から何もなかった自分には輝く権利すらなかったのだと、卯月はやけっぱちに答えた。

 

「そうだ、私には才能があった。人を扱う才能、同時に商才も持ち合わせた。だが、今の私はそれだけで成り立っているような人間に見えるのか?」

「……」

 

 詭弁だ、とは卯月は言えなかった。美城を見て、大企業に上り詰めるだけの才能があったのは事実であろう。しかしそれだけが彼女を構成する全てではないことを卯月は知っている。悪い言い方をすれば美城社長の血縁というコネが無ければ傲慢なだけの無能に成り下がる可能性もあった。それを補完しているのは、周りを認めさせる彼女自身の努力がなかったなどと、言えるはずもない。

 

「今の島村は、立ち止まったままだな。いつしか言った、待つという君の根底が出てしまっているのだろう。諦めて見せることでその場から動こうとしない――反吐が出る」

 

 本当に吐き捨てるように言った美城の表情は変わらず悲しそうなままで。

 

「努力すれば報われるのか、頑張れば成果は得られるのか、必ずしもそうではない。だが私は知っている。努力すらしない者は何も掴めない、頑張りすらしない者には何も変化などない」

 

 この業界では当たり前のことだ、と一息置き、美城は続けた。

 

「聞け、島村」

 

 美城の言葉は、卯月の心へと突き刺さる糸車の針。一節続けばそのたびに、卯月の意識は真っ暗闇へと落ちていく。一拍置いて、最後の一言になるのかと安堵すら覚えた卯月。

 ここに来てようやっと、卯月と美城の視線が交差する。

 

「――傷ついて得た笑顔が、無邪気な笑顔に劣るなんてことを。努力した微笑みが、天然の微笑みに負けるなんてことを。努力が才能に負けるなんてことを。私は許しはしない」

「あ、え……?」

 

 不甲斐ない卯月を叱責する言葉が続き、ようやっとアイドルとしての卯月が終わる時が訪れたのだと思っていた。あれほど目をかけていた者に全てを諦めると同義のことを言われれば見限るのは当たり前だろう。ゆえに卯月は美城の言葉を上手く噛み砕けなかった。

 

「君が努力を怠らず進み続けるのならばという前提の上で、だがな」

 

 美城の言とは裏腹に、努力は才能に負ける、そんなことは二人とも分かっていた。だが美城が言いたいことはそうではないと卯月はおぼろげな思考で理解する。

 そこで卯月はやっと分かったのだ。美城がプロデュースする卯月が努力でのし上がろうとするのなら、才能に負けることは許されない――ただ、それだけだ。

 

「いつしか言ったな、私は君をトップアイドルにすると。その言葉に嘘偽りなどない、ゆえに君も応えたのだと思っていたのだが」

 

 卯月は細く開けた目で美城を見上げる。

 

 だらんと力が抜けたままの卯月は思う、この人はいつだってそうだったと、合理主義で、現実だけを見続けて、利益と損失が全てで、今だってきっと自分を立ち上がらせることにこそ利を見ているのだと。

 だが美城がそれだけではない事を卯月は知っている。

 美城は現実的に考えているからこそ、簡単に人を切り捨てたりはしない、少し気が緩むことがあるほどには人間味を帯びていて、少しお茶目なところもある。

 だからこそ、卯月はこの人を信じてみようと思えたはずなのだ。先ほどの言葉も、卯月だからこそ美城の表情を見て分かった。利だけじゃなく、ほんの僅か、本当に少しだけ、卯月を励まそうとしている部分があったと分かったのだ。

 

 卯月はかすれた声で、しかしはっきりと応えた。

 

「私は……私には何も、ない。仮に持っていたはずの笑顔を無くして……その笑顔すら、誰かに負けてしまうようなものだった」

「今日のライブを見てそう思ったか」

 

 ゆっくりと卯月は立ち上がろうとするが、美城は手を差し伸べない。

 

「だって、わかるんです、わかってしまったんです」

「…………」

 

 卯月の震える足を見て、力の入らない腕を見て、美城は手を差し伸べない。

 

「凛ちゃんの……あれはいつかの私、あの笑顔は、心底楽しいから出来る笑顔だってことが、アイドルが楽しいからこそ出来る笑顔だって、わかるんです……っ!」

 

 卯月の瞳からぽたりぽたりと零れ落ちる涙が足元にシミを作り上げていく。一言一言が弱々しく、か細い声で叫び続けた。

 

「羨ましい」

 

 壁に手を付けていない片方の手のひらが強く握りしめられる。

 

「羨ましい、羨ましい、私には出来なくなってしまった笑顔が出来るあの子が、羨ましくて仕方がないんですっ!」

 

 卯月は目じりに溜まった涙を握りこぶしで拭い去った。

 卯月を奮い立たせたのは羨望だった。茜に語られた夢のようなステージで、凛が描いた現実のステージを、自分自身で描いて見せたいと。

 それは卯月が子供の頃に夢見たアイドルそのものだ。

 

「ならばどうする、島村卯月。その思いを抱えたまま傷つかぬよう立ち止まるのか、それとも」

「――もう、あんなみじめな思いはしたくない。この道を進めば阻む壁がきっとある……それでも私は、この身が、想いが、果ててしまったとしても掴みたい。燃え尽きても、今この想いを、夢を、もう一度、掴みたいんですっ……!」

「――出来るのか?」

 

 美城は既に普段の表情へと戻っていたが、普段よりも幾分喜色が混じっているような声色で挑発する。

 だから卯月も同じように喜色が混じった声色で返すのだ。

 

「トップアイドルにしてくれる、でしたね?」

 

 美城は得心したとばかりに、頷き、身を翻し歩き出す。そこが定位置だと言わんばかりに、卯月も無言で美城の後に続き、暗い廊下には涙の跡だけが残っていた。

 

 

 いばら姫は素足で棘の森を走り出した。ガラスの靴などありはしない。足の裏に突き刺さる痛みは上へと突き抜けていき胸へと痛みを告げてくる。だが、おとぎ話ではありえるはずのなかった未来。

 

 いばら姫は呪いをまといながら、自らの意思で走り出した――魔女とともに

 




島村卯月のウワサ
最近は秘書も悪くないなと思っているらしい


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第13話 魔女の憂鬱

推奨BGM
「FairyTaleじゃいられない」


 美城はオフィスのブラインドを上げ高層階から米粒のようなアイドルたちを見下ろす。島村卯月はそのアイドルたちの一人でしかなかった。

 

『シンデレラが履くようなハイヒールはいりません。そんな靴じゃ走れないんです』

 

 美城がこの言葉を卯月の口から聞いてから早二か月ほど、クローネのミニライブ会場での出来事は彼女をもってヒヤリとさせるものであった。

 もし美城がクローネのライブへ来ていなかったら、偶然にも走り去る場面を視認できなかったら、既に島村卯月というアイドルはいなくなっていたことは想像に難くない。

 美城はその場での会話内容を今でも一字一句憶えている。島村卯月という少女の、思春期の癇癪のような言葉が美城を大層イラつかせたからか、表現できぬ感情を美城に抱かせていたのは事実だ。

 

 努力は才能に負ける。分かっていてなお、人間はその壁を前にして苦しむのだろう。

 

 それは卯月も、もちろん美城も理解していることだ。だが、ほんの少し、一さじ程度、美城は卯月がアイドル業界に潰されてしまうことを良しとは言えなかった。半年ほど前の美城であれば生気を失った卯月に興味はなくなっていただろう。だが切り捨てるには、卯月を知りすぎていた。

 

(手ずから育てたアイドルだからこそ情が移ったのは否定できないだろうな……だがそれ以上に――)

 

 卯月が美城へと叩きつけた言葉が頭の片隅から離れずにいる。

 

 薄暗い廊下で美城へと放たれた卯月の言葉は痛烈だった。立ちふさがる者を蹴散らして、自らの価値を証明して見せるとのたまったのだ。結果卯月自身が潰れてしまっても、それでもなお歩き続けてやると――あの底辺をさまよっていた少女があの美城専務へと宣言した。

 

 灰被りが自らにかかる魔法を、眠り姫がまとわりつく呪いを、関係ないと自分の意志で歩みを進めた。それは美城をして初めて出会った存在だった。

 

 それもそうだろう。美城という巨大な城に入れる者はみな何かしら輝かしい才能を持っていた。それこそが美しい城をより輝かせるための星なのだから、当たり前のことではある。

 ならば才能を持った者達は挫折しないのか、輝き続けることが出来るのか。そうではないだろう。集まってしまえばそれは普遍となり土台となる。集団の中で優劣は発生し、輝き切れない才能も出てくる――才能とは得てして折れやすい。才持たぬ者達と比べられ今まで目の前に壁などなかったのだから、現れたる困難に心を折られ道半ばで立ち止まる。

 美城は芸能業界で多くの才ある者達を見てきたが、その中でも立ち止まった者達が行き着く先は二つであった。一つは分相応な横道を見つけ、先を見ることをやめた者、一つはその道から逃げ、まったく別の道で再起を図ろうとする者。そのどちらにも共通して言えることは、自らより才ある者達には勝てなかったという事実。

 もちろんだがそれらに当てはまらない者達が全くいないわけではない。だが少なくとも、今まで美城が認識している者達に限定すれば、その二つの道を選ぶ存在しかいなかった。それも仕方のない事だ、美城プロダクションとは芸能事務所の中でも最大にして頂点ともいえる事務所、集まる才もまたトップクラスばかり。

 そして大きいという事はそれだけ取れる手段も膨大にあり、いくつもの道があるがゆえに壁を無理に乗り越える必要もない、という状況を生み出しているのも一助であるだろう。

 島村卯月という少女をその認識に当てはめるのならば、武内プロデューサーの元へ異動するはずであったが、そうはならなかった。

 道逸れる事を良しとせず、さりとて後ろへと逃げ出さず、その壁を見上げて乗り越える選択をした。

 公私混同はよろしくないと自制を利かせてなお美城は見たいと、一瞬でも思ってしまったのだ。アイドル業界という卯月にとって憎むべき場所で、夢がある場所で、頂点へとたどり着くさまを。

 

(いかんな……これでは私が夢見がちな少女のようではないか)

 

 今まで見たことがないタイプ――底辺アイドルが美城の目に留まること自体あり得ない――が、いくつもの偶然の果て眠っていた才能を開花させるなど、それこそ武内が描いたシンデレラストーリーのようで、なんとも複雑な感情を抱きつつも、美城は卯月へと寄せる期待を否定できずにいる。

 

 カタリとキーボードが押される。ディスプレイに映し出されたのはひと月ほど前のライブ映像。映る二つの影の片割れ、高垣楓の単体ライブとしてみれば多少不相応な規模の箱だったが、そこには全く無名と言っていいFランクアイドルの影もあった。

 音楽番組の収録も兼ねており、テレビ放映を加味すれば宣伝効果はそれなりといったところで、高垣楓のネームバリューを考えれば少なくとも無名のアイドルが出ていいライブではない。

 

 当時の事を思い起こせば未だに驚愕の念を禁じ得ない美城。

 

 番組のプロデューサーには高垣楓を出すから一人無名のアイドルをあわせて出演させてくれと依頼した形になり、渋い顔はされつつも高垣楓という名の効果は大きく問題なく承諾された。当然無名アイドルは前座的な扱いだろうと考えていた番組側だが、美城が提案した企画書では二人がメインで、見るものが見れば高垣楓が前座としての構成になっているものだった。もちろん渋られはしたがそこは346プロの名前でどうにかなるものだ。そうしてほぼごり押しではあったものの収録は進められる。

 

 結果――無名アイドルは、島村卯月として認知される。

 

 ライブの内容は殆どが高垣楓の持ち曲を歌い、バックダンサーとして卯月が踊るというものであったが、収録終了間際、最後のトリは卯月であったのだ。

 ざわつく客席、興味深そうに見る者もいれば少し残念そうにステージを見上げる者と、反応は概ねマイナス方向に強かっただろう。

 それもそうだ、ほとんどの観客が高垣楓を見に来ているのだから、最後まで期待されているのは高垣楓というトップアイドルの姿だ。

 

 悪感情とまでは言わないまでも、歓迎されていない雰囲気の中、島村卯月は臆することなく、気負う事なく――笑った。

 

『島村卯月、頑張ります!』

 

 にこりと前を見据えた卯月の表情で観客は呑まれる。つられて笑顔になるような類ではなく、思わず見惚れてしまうクールな笑顔。

 卯月の笑顔とともに紡ぎだされた言葉の意味を理解できる者は限られていただろう。誰に向けた言葉なのか、あるいは自分自身への戒めであったのか、その場で気にできる者はいない。

 表情一つで観客の期待を水準以上まで高めてしまったのだ。それは表情だけでなく所作も整っていたからだろうか、静まった会場でそれは始まる。

 イントロと同時に響き渡る卯月の歌声。合いの手はない。初めて披露する曲なのだから当然だろう。だから観客は静かに卯月の曲を聞くしかなかった。

 どこか挑戦的で不敵な笑みをして、見せつけてやると言わんばかりに叩きつけられる彼女の歌声。それはただひたすらに気持ちを伝えようともがく少女の姿で、まるでついてこれるかと試されているかのような感情を抱かされた観客たち。歌声だけではない、ダンスも歌詞も、ひたすらに届かない何かを掴もうと進み続けるよう前を見据えていて、これは卯月自身の思いそのものなのだと理解する。

 だが合いの手すら出来ずに窮屈な思いのまま曲は進んでいく。卯月は止まらずに進み続け――置いて行かれるという焦燥感すら場を満たそうとし始めた時、4分にすら満たない曲は終わりを迎えた。

 あまりにあっけない幕切れに、抑え込まれていた感情は爆発する。声援は楓が登場した時と同等ほどにも鳴り響いた。

 

『ありがとうございましたっ!』

 

 ぺこりとお辞儀をする卯月にどことなく笑みが込み上げる客たち。あんなにも熱狂させておいて、その態度が不釣り合いだったからか、それを表すかのように含み笑いをしながら舞台袖から楓が登場し、マイクを受け取った。

 

『はーい、みなさん物足りない感じのようですけど卯月ちゃんのデビューライブ、どうでしたー?』

 

 客席からは思い思いの言葉が飛んでくる、そのどれもが新しいアイドルの誕生を歓迎するものだ。

 

『卯月ちゃんと私はユニットではないですけど、同じプロジェクトのメンバーなので、二人とも、応援してくださいねー。……卯月ちゃんはライブを楽しめましたか?』

『はいっ、みなさんも楽しんでくれたみたいで、一緒に楽しめてよかったですっ!』

 

 卯月は微笑といった感じの笑顔ではあったが、隠しきれない喜びの色が浮かんでいた。ライブの時に浮かべた笑顔とは少し違う表情のギャップもまた観客に受ける。可憐な少女と夢へ向かって進み続ける少女が同居したその姿は、まるでおとぎ話の主人公のようで、憧憬を抱かせるものだった。

 

『楽しむ……島村、しまむー……楽しまむー……』

『はい、楽しまむーですよ!』

 

 卯月は楓の少しズレたボケも律義に返して、二人の仲の良さが伺える姿もまたファンから喜ばれつつ、収録時間が押しているとスタッフに言われるまで漫才にも似たやり取りが続けられた。

 

『最後になりますけど、物販のほうでは卯月ちゃんのCD買ってあげてくださいねー。たまーに私のサインつきが紛れているかも?』

『ええっ、いつのまに書いてたんですか!?』

 

 

 ――大盛況のうちに終わった卯月のデビューライブ。漫才の一部はしっかりとテレビで放映されキャラ付けに悩まされることになった美城であった。

 ライブ当日は発作で倒れる事すら想定に入れていたのだがそんな素振りは見せず、見事に高垣楓とのライブをやりきったのだ。美城から見た卯月のライブは想定を通り越して非の打ちどころがなかったといえよう。

美城と楓だけは理解していた。あの時見せた笑顔は卯月が本来持っていた笑顔ではないと。

 

 卯月が手に入れたのは仮面の笑顔。

 

 だがそれがどうしたと美城は言う。人を魅了する笑顔は天然でなくてはいけないのか、ならばアイドルなんて誰もかれもが偽物だ。楓は少し残念そうにはしていたが、美城が卯月へフォローを入れようとした時に言い放った言葉で納得する。

 

「確かに仮面なのかもしれません。でもこれはみんなが、大切な人たちが私のために作ってくれた特注品なんです。素顔を偽るためのものでなく、自分を飾るための、素敵な仮面です!」

 

 そうしてCランクアイドル、島村卯月は産声を上げた。

 

 卯月がデビューしてからひと月、たったその期間でCランクまで駆け上がったのはもはや異例の出来事である。例を挙げれば高垣楓をして同じ期間でCランクになっていはいるが、それは元々モデルをやっていた時のファンと彼女の歌唱力があってこそ、それを成し遂げた卯月はまさしく才能の塊と評していいのかもしれない。

 だが卯月を知る者はそれを否定するだろう。以前にもましてレッスン量が増え、ライブ直前ついにはトレーナーから自主レッスンのストップがかかるほどと言えばどれだけの時間をレッスンに費やしたか、まさしく全てを捧げたと言って過言ではなかった。ゆえに才能が彼女を支えているなど口が裂けても言えない。

 もちろん才能はあった。例えれば笑顔の才能、努力の才能――一目見てただ凡庸な少女とすら見紛うことがあるかもしれない、その程度のありきたりで普遍的な才能。

 

 昇華させたのは、卯月の努力であり、美城の手腕であり、偶然の産物でもある。

 

 結果として島村卯月というアイドルはひたすら運に味方されたアイドルかもしれない。それでも掴んだ現実は本物であり、話題性に富む今だからこそという側面は否めないものの、今現在346プロを象徴する一人と言って過言ではない立ち位置であった。

 プロジェクトアフターストーリーと書かれた書類をバッグへとしまい込み、現状の卯月を取り巻く環境を簡素に報告書然とまとめていく美城。

 卯月と楓が参加するそのプロジェクトアフターストーリーのテーマ、それはクローネが持つお城の煌びやかさと、シンデレラが持つ個性を合わせたものだ。たった一つの、ファンを導くに足る個性でもって輝くため。城の一部であり、登場人物であり、そのどちらにも属さない輝きを発揮するための、試験的なプロジェクトである。

 楓はどちらかといえばシンデレラ寄りなのだが、どうも美城の言う事はしっかりと聞くのだ。城の一員としての自覚を持ち合わせてはいるかと美城はそこまで気にするのをやめたのだが解せない部分は多少残る。

 しかしこのプロジェクトのメインはあくまで島村卯月に絞られている。笑顔が生み出す経済効果、それは数値化するにはあまりにもおかしなものではあるが、今の美城にとって焦点にせざるを得ないのだから仕方がない。

 現状、卯月が稼ぎ出した数字を笑顔が生み出す利益と直接換算するならば、なるほど、馬鹿にできない数字が出ているなと感心する美城。しかしそれが笑顔だけかと言われれば、卯月本人の努力も加味せねばならず、必ずしも数字通りとはいかない。

 

 ならばどうするか――卯月に笑顔を取り戻させるしかない。

 

 そう、今の卯月は仮面の笑顔を手に入れアイドルとして活動できるまでには至った。しかし、アイドルとして活動している時以外は以前のまま無表情が極まっている。ふとした時笑う事くらいは可能だがそれも美城と楓から見れば営業スマイルで、周りに合わせるかのように紡がれる笑顔だ。

 美城が懸念していたことが現実となっている。アイドルとしての笑顔を手に入れた代わりに、自然体で笑う事がなくなった、要はふとした時に自然と笑みがこぼれない、覚えてしまった仮面の笑顔で事足りてしまうから。

 卯月自身意図しての事ではなく笑う時にそうなってしまうのだ。

 卯月本来の笑顔に蓋をしている状況で、元々の状態よりも更に厄介な可能性すらある。トラウマも関係しているのか、卯月本人もどうしましょうと真顔で言うものだから処置無しである。

 楓もこれには困った顔を見せつつ、変に笑えない状況よりは良いと今のところは動けない状況。

 つまるところ、卯月が本来の笑顔を取り戻した時に生み出される、仮面の笑顔との差分がそのまま経済効果になるのだろう。美城はこの状況から卯月に本来の笑顔を取り戻させることで目的が達成される。

 

(…………日野茜にまた突撃させてみるか?)

 

 美城が現実逃避を始めるくらいには絶望的なのかもしれない。

 その後、美城は本来の笑顔を取り戻させるための案をひねり出そうとキーボードを叩くが書き出しては没を繰り返し気づけば小一時間、ふとドアがノックされる。

 

「入りたまえ」

「失礼します」

 

 ピンクブロンドの髪をなびかせながら現れたのは城ヶ崎美嘉だ。カリスマギャルを売りにしたAランクアイドルで、半年前は美城の方針と対立したこともあり、オフィスに訪れるなどあり得ない事であったが、最近は度々訪れるようになっている。

 

「彼女はどうだ」

 

 無駄話はする気がないとも取れるほど簡素に問う美城。その質問を言葉通りなぞれば全く意味は通らないが、美嘉がこのオフィスを訪れる理由に直結しているため彼女は正しく意図を受け取った。

 

「いつも通り楽しく遊んでますよ」

 

 美嘉もまた、言外に変化なしと簡素に返すのみである。

 この報告は島村卯月の笑顔を取り戻すためのものであり、美城から美嘉へと依頼されたものであった。

 そもそも卯月と美嘉の接点は何か――卯月がデビュー後の宣伝も兼ねて定期的な企画が必要だった。テレビ番組のレギュラーは流石に荷が重く、とりあえずラジオという方向性だけ決まり、346プロが持つ既存のラジオ番組では高森藍子がパーソナリティを務めるものだけ。卯月の気質からして藍子とはどうにも合わないということ、そしてパーソナリティを急に増やすのも憚られるため新番組という立ち位置を取るに至り、結果、城ヶ崎美嘉、島村卯月、そして渋谷凛という三人がパーソナリティとなる番組が組まれた。

 

「そうか」

「卯月と凛は相変わらずですけどね」

 

 卯月はともかくとしてなぜ残りの二人が抜擢されたのか。

 

 まず、美城から見た城ヶ崎美嘉というアイドルはカリスマギャルというキャラを持ち、本人の気質としても日本における一般的なギャルのそれである。クローネにいる大槻唯もギャルという枠組みにあたるだろう。ノリは軽く、何はともあれカラオケに行くと、もはや偏見ともいえる見方をしていたのだが唯と美嘉のやり取りを知り評価を百八十度変えた。

 美城は以前LINEの使い方をあろうことか唯に習いに行ったのだ。今西部長に相談した結果――携帯の使い方ならギャルだろうと今西も大分偏見――だったのだが、まあまず色々と間違えていた。唯は口が軽く、美城にLINEの使い方を教えたことをクローネメンバーに言おうとし、それを止めたのが美嘉である。もしそれを広めたらどうなるか、美城から怖いお仕置きがあるとかそれはもう懇々と説明し、顔を青くした唯から感謝されつつ惨事を食い止めたのだ。

 あとから唯に美嘉に止められたからやめておきましたと報告された美城は今更ながらに人選ミスを悟りそれ以来美嘉から教わるようになる。

 その出来事から何度か話すうちに美城から美嘉に対するイメージは変わっていき、現状はしっかりとした常識を持った社会人という評価に落ち着いている。シンデレラプロジェクトの一件では高級志向へと方向転換を行うよう指示し、従わないという結果ではあったものの、成果は出しているから放置していた。

 社交性もあり、常識も持ち得ている美嘉を卯月と接させて日常でも笑うようにならないかというアプローチをするためまずラジオのパーソナリティに選んだのだ。ギャルという点はむしろ卯月にとって未知との遭遇で化学反応でも起こさないかと期待している部分もあった。

 

 そして渋谷凛。最近卯月を嗅ぎまわっていたことと、ミニライブの一件で完全に引き離す予定であったのだが、どうも卯月自身かなり凛を気にしているのだ。それは今までのようなトラウマに類する部分ではなく、純粋にアイドルとしてライバル視しているようであり、理由は言わずもがなミニライブで凛が見せた笑顔が関係しているのであろう。わざわざ指摘はしていない美城だが、日野茜から劇物の役目を受け継いだ凛をわざわざパーソナリティに抜擢した。

 

 それは卯月の心理状況が劇的に改善されているからである。

 

 凛を劇物と称したのは比喩でなく、卯月にとってはまさしく猛毒だった。ミニライブでの事件は卯月の進退に大きく関わり、結果として前へと進み、毒よりは薬となりえた。

 それ以来卯月のアイドルに対する忌避感は、どちらかと言えば敵視――言い方は悪いがみなライバルのようなもの――となり、おどおどした態度は皮肉屋のようになった。既に何度か放送されたラジオでは少し毒舌な卯月が見れると何故か好評だったりする。

 ゆえに美城は、卯月に変化をもたらす存在として凛をもパーソナリティに選出しており、行き過ぎないように美嘉が間に入りやり取りを重ねているといった状況であった。

 美嘉は面倒見もよく、ラジオの仕事以外に私的な遊びでも卯月と凛を誘ってはちょっとした報告を美城にしていた。

 

「卯月の何気ない毒舌コメント面白いし、凛も凛で弄られ慣れてないから反応面白いし、遊んでるのは私の意思ですけどね」

 

 美嘉はあくまで美城の指示があったからではなく、自らの意思で二人と遊んでいるのだ。ただ卯月の事情はある程度知っており、普段の様子を多少美城に伝える事は卯月のためであると考えたから足を運んでいるだけだ。

 

「それで構わない」

 

 少なくとも状況は好転しており、美城はその実感と共に島村の育成計画を進めている。

 とはいえ卯月だけに構っていられない時もあり、近々開催される企画の準備も進めなければならなかった。

 

「ところで、もう一つの件は進んでいるのか」

「ああ……茜ちゃんが燃えてたやつ。企画名アイドルバトルって、よく専務は企画通しましたね」

「主導は武内だったか。なに、舞踏会の功績も踏まえて褒美のようなものだ」

 

 美城は舞踏会以来、自らの視点とは別の視点を持つ武内の企画を一存で落とす事はしなくなった。結果として346プロダクションの売り上げを伸ばす事には成功しており、企業に属する者としての役目は果たしているがゆえ、と言いつつ方針の違いにまだ歯がゆい思いはしているのだが。

 

「あれ、確か武内プロデューサー主導というか、元々はみくちゃんと李衣菜ちゃんの喧嘩が発端なんだけどね……」

 

 美嘉の口からぽそりと呟かれた言葉は思考を始めた美城には聞こえない程度の声量だった。

 

 卯月は仮面を被り、改めてアイドルとして歩み始めた。ようやくトラウマも薄れスタートラインを越えた程度であり、他部署のアイドルとの接点も増えると同時に気苦労も増えそうだと、美城は新たな悩みを抱えながらも悪い気分ではなかった。

 

 

 




城ヶ崎美嘉のウワサ
卯月と凛は案外いいコンビなんじゃないかと思い始めているらしい


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